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昭 和 4 0年 4月
秋田県文化財調査報告 書第 5集
脇本埋没家 屋第一次調 査概報
.
.
秋田県教育委員 管
序
昭 和3
9年 9月 か ら 1
0月 に か け て
の的であった男鹿市脇
でも;極めてめずらしい遺跡として注目
谷地所在の
のもとに千子ないまして一応の
グコ日三ι
3
を匡!の助成
升とミ
をおさめ、その ~&:ì品をこの
にまとめ
た次第であります。
この j
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fは、 日
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4年 4 月、
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のきい発見されたもので¥
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与にかかっていることから緊急、的に
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.をお=ることカ f ていきました。
は、第一 次 的 調 査 の 概 要 で あ り 、 未
、
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主江
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竹
制叫ヱ→
規のの
奈氏
井介筒
、水修木
向良
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げれ
内理三博士、京都大学赤松俊秀博士、また発掘作
の各位、多大の御援助を l
貰いた男
及ぴ発掘関係者御一一 i
可に終りに深く感謝し、たします。
昭和
士、男
↑
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! i hμ
に協力された外飯
f
li寸 円 什 H
鑑定に当たられた東
本
住氏並びに木簡の赤外線撮影に当られた秋田
七川川立口
男、秋田県文化財専門
ま男君谷
μ
パ
なお、
じ政蕗
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おりませんがこの資料が研究者の参考になれ
にはi
主して
4
0年 2 月 末 日
秋田県教育庁社会教育課長
川哲
」合、
コ
ス
序 文
寒風山の麓に、古代の家屋が埋没されていることが発見されたのは、昭和
34年 の 耕 地 整 理 の と き で あ っ た 。 従 来 ラ 古 代 住 居 跡 は , 各 地 に 数 多 く 検 出 さ
れているが,
これらは,殆んど床面のみの痕跡をとどめるに過ぎない。本遺
跡のように,家屋そのものが保存されヲ或いは遺材の多くがそのまま残存す
ることは稀有の例であり
この顕現が古代の生活の実態を明かにする上にも
きわめて意義深いものであることはいうまでもない。地元関係の学者も,こ
の調査の実現に熱心であったがヲ機熟さず,荏存時日の経過とともに,
な地下遺構も次第に荒廃しヲ特に用水掘の中に露呈していた屋根らしい一部
は洗濯出の足場として利用されている状況であった。
今回,秋田県教育委員会が調査を計画しラ幸に男鹿市の協力のもとに,
の補助によりラこの実現を見ることができた。調査は,昭和的年号月に,県
文化財専門委員奈良修介氏を中心として行われ,京都大学建築学教室の;福山
敏男博士及ぴ永井規男氏の指導協力があった。私も,数日現地に滞在し,遺
構の調査に力を合せるとともにラつ~'さに調査員諸氏の労苦に接することが
できた。期間中,悪天候の日が多く,特に豪雨のこの発掘現場には,またたく間
に水がたまり
9
プールの如き状況を呈することもあったがヲ調査員諸氏は,雨
中にもかかわらず自ら進んで排水作業をも行い,泥棒にまみれながら苦腐を
つづけラこの熱意に深く感銘されるものがあった。
この調査の成果がラいち早く関係者の努力によってまとめられヲ上持の運
ぴに至ったことは慶賀に堪えない。成果の内容は本書に詳かに記されているがヲ
脇本の地帯に,古代の集落がありヲしかも比較的高度の生活内容を有しており
古代秋田城と何等かの連繋のあることも考慮されるに至った。このことは,
本遺跡が,単に考古学ヲ建築史上に価値あるは、かりでなく東北古代史の解明
の上にも直接に寄与することも知るのであり,今回の調査の意義のまことに
大なるものがある。
調査関係者各位の熱意に心からの敬意を表して,序文の責を果すことに
したい。
斉
藤
中
Jじれ
脇本埋没家屋第一次調査概報目次
序 .
.
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・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・ 石
川
序
文・・…・・・・・……・・・…................一……・・・………・……………・・・…・斎
藤
1.発掘調査に至る経過・・………・・…・…・……・・…・・…・・…・・・………奈
良
1
2
.発
掘
調
3..遺
哲
一
忠
修
介・ー 1
査
・
・
・
・
・
…
・
・
・
・
・
・
・
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・
・
・
・
・
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・
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・
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・
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・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・2
跡一..一一・・一........…』…・・・・・・…………・・一-……・…一磯
村
朝次郎・・・ 4
4
. 飯森発掘地の地層について…....…・・…・・・・ー…一…・・・……………赤
尾
孝太郎一 .5
5
. 家
屋
遺
構・…・…・…・一……・・・一…・一.,.…・・…..・…一一一・・…福 山 敏 男 … 8
永井 規男
6
. 出 土 遺 物
・
-1
6
(
1
) ヲ
頁
器・・……一一・・・…・….....…・・…一一...…・…・…・・・ー・鍋
倉
勝
夫 … 20
(
2
) 墨書須恵器・・….....一・…・・…・・・……一-……・・・・….....……ー鍋
倉
勝
夫 …2
2
(
3
) 木
器一・…・・…・……一一一…一...…一-一一一一・…一……富
樫
泰
時 …2
3
(
4
) キ
直
物 ・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
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・
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・
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ー
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・
・
・
・
・
・
加
藤
君
雄.
.
.
2
6
(
5
) 獣
骨・………-一……・…・………………・・……・・……橋本光正一 .
2
7
A
言~、
6
(
6
) 其の他の出土品・…………・・・…・・…・回・・・・・・・…一一………………・富
(
7
) 井
7
. 結
後:
樫
泰
時一 .28
戸・…一.......一..…… …一一一-………豊島昂富樫泰時一 .29
び・…….,.・ ・-…・…...……一一-…-一……………一 -一奈良修介一 .
3
0
a
言
己
.
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一
一
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・
・
・ 30
挿 図 目 次
第 1図
飯 森 五 万 分 一 地 形 図 ( 国 土 地 理 院 ) …一-一……一-一-一…… a
a
.
a
.一-…ー・・・・…・・・・・・ 3
第 2図
発掘地域断面図
第 2図 2
貝
第 3図
家
第 4図
断
面
図
N 区 南 北 断 面 図 ・ N 区東西断面図・・….... (永井図)・・…・ 1
1
第 S図
断
面
図
V
I区部分図…・…-…-…..…………一-一一.,. (永井図)一一 .
.
1
2
第 5図
須
恵
器
(
1
)…・・…一一…・・・…一...…...….........・・・・・….... (富樫図)・・・・・・ 17
地層断面図,粘土層組成表・…・……・・・…-一. (富樫図)・・・齢 ・6
E
写
屋
真………・…一……・一一‘…ー・ー…・・……・…・・・…一.... (赤尾).
.
.
.
.
.
・7
遺
構ー…・……ー・…・・・…・…..一・・岡一・・… .
.
.
a
.
.
.
.
.一-…ー・(永井二図)……・ 10
第 7図
(
2
)・・……一一・・・・……・…・・・・・…… a
.
.
.
.…一・…… (富樫悶) … … 18
第 8図
(
3
)
'
" 一…・・一…....…..…・・……・………・・…-… (富樫図) 一.
.
.
.
1
9
第 9図
墨
第1
0図
木
書
須恵、器・・……ー・…・一-……-…-…・・・…………・…一….... (鍋倉図)・・・・・・ 2
1
器
第1
1図
(2) …ー…・ー・・・・・…ー…・・‘・~ .
.
.
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.~ .
.
一
.
.
一
一
一
第1
2図 槌
第1
3図
(
1
)ー……・・・…ー…・…-…-一…一-一一……(富樫・鍋倉図)・・・・・ .
2
3
(富樫・主f
r
h合 図 ) 一
一
・
物一-….......…ー…一......…ー・・……-一ー..… .
.
.
.
.
.
.
a
.
a
.
.
.
.…(加藤) …・・・ 26
井戸実測図……ー……・一一-…........…-……ー……一一(豊島、富樫図)
….
.
.
2
9
国 版 目 次
第 1悶 版
遠望、木器、土器出土状態写真
第 2図 版
家屋遺構遺 材写真・・ … ・・……......…・・一一'"………・一.,….....岡・ー・(永井)
一-… 3
2
一…・ー・・ー・・・ー・………"...一.,.….(富樫) .
.
….
3
1
u
第 3図版木器写真……ー・…一.....….........…-……ー………一..,…一…
(;富樫) .
.
.
.
.
.
3
3
第 4図 版
船型木器、 植
物
・
・
・
・
・
・
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・
・
・
・
・
・
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・
・ (高際) ・
・
・
・
・
・ 34
第 5図 版
木
簡
写
真………ー……-一…・…一'"… ・
・
・
・
・
・
・
…
.
.
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.
一
…
.
.
.
.
.
. (山谷) .…ー 35
υ
1. 発 掘 調 査 に 至 る 経 過
昭 和 34
年 2月 、 男 鹿 市 脇 本 富 永 小 谷 地 に お い て 耕 地 整 理 の 為 、 排 水 路 隠 さ く 工 事 中 、
多数の木村や陶器等が発見された。この報らせが、同村加藤監悦氏によって磯村朝次郎に
連絡され、磯村は小玉昌友と共に現場を訪れ、埋没家屋の一部であることを確認し、これ
らの一帯の地域を調査した。この遺跡は大倉口大排水路の東西両岸にその一端を叱らわし、
巾 2 m 深 さ 1 . 4m の 水 路 中 に も 2本 の 杭 が 見 ら れ 、 東 岸 側 面 に は 長 さ 8m に 亘 っ て 板
材の端がならんであらわれ軒先のように見えた。この水路中から採集し r
:陶器は小玉ー品友
が 保 管 し た が そ の 中 に 縁 軸 の 陶 片 、 木 製 の 周2り 込 の あ る 田 下 駄
大
回
広
ト十ネ等があった。
昭 和 36
年 4丹 、 磯 村 の 連 絡 に よ り 、 県 文 化 財 専 門 委 員 奈 良 修 介
は男鹿市教育委員会と共に現地を視察し対策を研究すると共に、
博士、
須恵器の墨書
県社会教育課藤田幸雄
7月 に は 文 部 技 官 斎 藤 忠
8月 に 京 都 大 学 教 授 福 山 敏 男 博 士 の 現 場 視 察 を i
頁き、その結果平安時代の埋没家屋
であることが次第に想定されるに至り、県、市は現場の保存につとめて来た。磯村は更に
この遺跡周辺の調査を続け、脇本駅附近の野田及ぴ浦田小坪尻においても杉割板の出土を
知 り 昭 和 36年 6月 秋 田 考 古 学 誌 上 に 「 脇 本 飯 森 家 屋 埋 没 遺 跡 調 査 概 報 」 を 発 表 し た 。
(奈良修介)
2
.発
掘
調
査
調査員の構成
1
.発掘調査員
イ
発摺調査顧問
東京大学・文学博士
ロ
発掘調査員
総括責任者
斎藤
忠
秋田県文化財専門委員
奈 良 修 介
京都大学教授工学博士
福
京都大学助手
永 井 規 男
男鹿市船川中学校教諭
磯村朝次郎
敬愛学園高校教諭
敬愛学園高校教諭
1
'
コ
昂
全 ・
2
古
品
山 敏 男
煙 泰 時
倉 勝 夫
ノ¥
専門調査委員
i
W
J
主主
県立金足農業高校教諭
文
書
秋田県文化財専門委員
半
男鹿市船越中学校教諭
小 五
秋田県文化財ー専門委員
加 藤 君 雄
男麗市船川第一小学校教諭
刀t
田
剥:
j 造
秋田県文化財専門委員
赤尾
孝太郎
秋田大学学生
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夏
子
高
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長i
:
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質
士
官
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.幸野敏夫
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市太郎
~三ヨ玉
友
発掘補助員及び作業員
イ
発掘補助員
男
ほかに、秋田大学学生、ならびに金足農業高校
敬愛学園高校生徒。
量
ロ
金足農業高校農林土木科生徒3
5名
発掘作業員
一
発掘事務局
L
宗教育委員会教育長
{安藤忠
男鹿市教育委員会教育長
角
局
県教育庁社会教育課長
ー
ヲ
吃
ー1
ー )
1
1 哲
発掘経理
県教育庁社会教育課庶務係長北村精治
発掘事務
県教育庁文化係長
間
夜
寝
1
1
"
"
"
"
"
ヨ
三
)
1
1 !
政
:
佐々木
I
!
i
司
有二二品主
加賀谷辰雄
県教育庁社会教育主事
1
/
1
奇
ー
1
1
1
仁l
哲男
男鹿市教委社会教育主事
1
~J-
田
ーコ
男鹿市脇本支所長
今 泉 市 助
男鹿市脇本公民館主事;
児玉
一-
2
ミ
定
子
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司
九
Eザ
F
3
3
1
3
J
台
良
日
小谷地遺跡附近地形図
-
3 -
口止
小
↑
.
3
飯森遺跡は国鉄船川線脇本駅を下車し寒風山パノラマラインへ通ずる舗装道路を北へ徒
0分 、 男 鹿 市 脇 本 富 永 に あ る 。
歩約1
この辺一帯は数年前、耕地整理が行なわれた、豊かな水田地帯を形成している。
遺跡はこの水田を貫いて琴浜村払戸へ至る農道と大倉口大排水路の直交する付近の水田
!IJり、東方の八郎潟湖岸へ緩傾斜する。
i
!
. 8臨 を '
2
下に埋蔵され、現水田聞は海抜1
遺跡地の北西は鮮新世後期鮪川層、第四紀潟西層からなる低位丘陵で、この上に噴出し
. 7m ) が そ び え て い る 。
4
5
たコニトロイデ式火山である寒風山( 3
寒風山東麓に展開する段丘はいくつかの侵蝕谷をつくり末端で断崖をなして低地に移る
が、断崖にしばしば土砂崩れの現象をみる。
石川、樽沢、浦田、飯森、大倉の各集落は古くからこれら侵蝕谷を利用し、これを壌と
めて溜池をつくり濯慨に利用してきた。
ま た 遺 跡 地 の 西 40m の 地 点 に 孤 立 し 延 録 年 間 安 藤 修 季 一 族 の 居 館 と 伝 え る と こ ろ が あ り
、飯森部落はこの縁辺に立地する。
南は生鼻岬を起点とし海岸に沿って放射状にのびる中細粘砂からなる砂丘がみとめられ
。
る
飯森周辺の地形は概略以上の如きものであるが、この地域は本遺跡のみならず各種の考
古学的資料の存在する点で注目に値する。
ち な み に 本 遺 跡 か ら 半 経 1kmの 範 囲 に つ い て み る と 、 北 西 の 浦 田 宗 泉 寺 内 に 貞 和 2年 2
月在銘の名号板碑、マンダラ堂の鎌倉末期と推定される五輪塔及び板碑群が存在する。
年銘を有する金銅製経簡の出土
年 、 同 20
ま た 、 西 南 大 倉 の 丘 陸 、 長 者 森 に お い て 天 文 15
が あ り 、 さ ら に 続 縄 文 土 器 出 土 地 を 2カ 所 に 指 摘 す る こ と が で き る 。
一 方 、 南 東 部 の 砂 丘 上 に 立 地 す る 飯 村 か ら は 昭 和 8年 、 道 路 聞 き く 中 に 蕨 手 万 の 出 土 が
あり、この砂丘一帯は縄文後期から土師、須恵期に至る遺物の包含地域であることが知ら
れている。({磯村朝次郎)
- 4
4
.小 谷 地 発 掘 地 の 地 層 に つ い て
男 鹿 市 脇 本 飯 森 所 在 、 埋 蔵 家 屋 発 掘 地 域 の 地 層 は 、 断 面 図 ( 第 2図 ) に 示 さ れ る 通 り
であって、沖積層i
胡嵐堆積物たる砂、粘土、有機質等の含まれる瓦層である。
西側断面中、層序の乱れの少い部分から採られた試料(金足農高奈良委員採取)は、ーと
か ら 表 土 (a) ( 耕 作 土 ) 、 表 土 (b) 、 第 2層 、 第 3層 、 第 4層 、 第 5層 、 第 6層 、 の
層 に 分 け ら れ 、 各 層 の 厚 さ は 15-20cmで、あるが、最 下部の第 6層 に つ い て は 、 そ の 厚 き は
不明である。この試料について行った沈降試験等の結果は粘土層組成表の通りである。
表 中 組 成 欄 の 砂 は 0 ・ o5mm以 上 の も の 、 泥 及 粘 土 は 0 ・ o5mm以 下 の も の を 言 い 檀
微 粒 は 1ミクロン以下のものを言う。粒子の大きさは顕微鏡下,観測し、%は試験管内に
沈積した厚きから計算したものである。
こ の 表 に 見 る よ う に 、 い ず れ の 層 に も 植 物 質 が 含 ま れ て い る が 第 4、 第 5層 が 最 も 多 い
特 に 第 5層 は い わ ゆ る ヘ ド ロ 層 で 多 く の 植 物 質 を 含 み 、 コ ロ イ ド 状 で あ っ て 水 が き れ な
し
、
。
植 物 は 顕 微 鏡 下 で は 霞 芦 な ど の 茎 葉 の 繊 維 が 見 ら れ る 。 第 6層 の 砂 は 色 が 淡 色 で 粘 り 気
なくサラサラし、顕微鏡下でこれを見ると各砂粒は多孔質で浮石質の砂であることがわか
る。このことは特に注目すべき点である。
従来、潟西の地層は地質学上、次のような層序になっていることが一般に認められてい
る
。
{現世沖積層(砂、 J
灘、粘土)
第 4 紀~
f摩 当 層 ( 浮 石 費 砂 )
i更 新 世 {
i潟 西 層 ( 砂 、 瞭 )
{鮪川層(砂岩、離岩)
i鮮 新 世 {
第 3紀 {
l脇 本 層 ( 砂 岩 )
従 っ て 今 回 発 掘 の 最 下 層 た る 第 6層 は 、 沖 積 層 以 前 の 更 新 世 の 摩 当 層 上 部 に 当 る も の と
推定される。ただし地層名の決定には尚今後の専門的調査によらなければならない。
発掘地の東に隣接する濯収用水路の対岸に見えを地層は、青灰色の一様な粘土層である
の に 対 し て 、 家 屋 理 蔵 地 域 は 表 土 を 併 せ て 下 記 7層 か ら 成 っ て い る 。 こ の こ と は 、 こ の 発
5
一
一
2図
発掘地域断面図
l
i
'
析由 l
I
U
南m
悶耕作ゴコ
-入
国 褐 色 半 此 ) 語 、 川l
巴褐色料出品;
古川多い)
回 附 色 ゴJ
図 f山粘土 J~~i
111';:灰色粘土 Jr~;
---←
-
一一'
合む)
t
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i(有機 '
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黒色粘土.lI
ldJN ( 木 村 多 に 合 )
;褐 (
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1 (砂含む)
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:)
1
二
二色村i
言
)
L
2樗褐色粘 :
ゆ合む)
o
3. 褐色粘ごL!習
4. '1奇色砂層
5
T多し)
l (有機 T
育成砂W
1
1
6. iß行I~ 粘ゴ二!百
7.黄抹粘土防(砂含む)
8. 主主if~fr 粘土層
粘 土 層 組 成 表
組
色
層
序
)
a
表土 (
)
b
表土 (
第二層
第三層
第四層
ニ
土H
第五層
第六層
蕊
!
及粘土 極 微 粒 植 物 質
e
.
i
J
乾
皇
1
%
% 色
%
% 色
色
0
灰褐 3
0
i炎奇.~ 1
5
炎褐 5
灰
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褐 灰
5
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0
1
品
f
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炎
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褐 灰
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1
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黒褐 3
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5
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臼
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i炎奇~ 6
ミ,
,
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、
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災才存 2
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ìß~ 黄潟 {
0
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盟
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UI~ 灰 65
灰
ネ
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- 7 -
多くて掘り下げができなかったため、鮪川層の存主位置を確かめることはできなかった。
建造物埋没の原因は静かな地盤沈下によるものと考えられる。その理由は次の通りであ
る
。
(
1
) 前記の地層試料の組成に見るように、この沈積物は極めて細粒のものが多く、殊に第
第 3、 4、 5層 に お い て は 粘 土 質 の み で あ る か ら 、 急 激 な 山 崖 れ な ど が あ っ た と は 認
められない。
(
2
) 同様に不時の出水や洪水があったとも蓄えない。
(
3
) 既に潟化していると言っても外措には通じているのであるから、どんな出水があっ
たとしても、長期に亘って湖水面が上昇するとは考えられない。
(
4
) 地震などのために急激な地盤変動があったとすると、建物は破壊散逸してしまう筈
である。
(
5
)
どの試料試料にも植物質が含まれていることは、その層が植物の生育できる浅い湖底
(湿地又は谷地)で生成せられたことを示すものであって、一時に深く水没したもの
のではない。(赤尾孝太郎)
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5
.家
飯森遺跡は、八郎潟西岸の沖積層平地から発見された低地性遺跡である。そういう関
係で、発拙作業は、湧水や流入水のために屡々妨げられ、家屋の床面の状態についての精
しい調査は始んど出来ず、調査の方向を主として家屋遺構材の出土状況と、その形態とに
重点をおいた。以下に、発掘で得られた事実を記し、若干の考察を加えておく。
1
. 家屋遺構の状態
家屋遺構の発掘は、既に用水路の西岸に露出していた遺構群の内側の水田を、一称に掘
り 下 げ て 行 な わ れ た 。 説 明 の 便 宜 上 、 調 査 区 域 を Iから V
Iま で の 6区 に 分 け た 。 ( 第 3図)
発掘は当初、 I
Iか ' NkIを中心に行なわれた 。 W 区からは、棟桁とおほ、 しき、一線上に並
ん だ 2本 の 丸 太 材
(N-2) (N-3) と 、 そ の 西 側 か ら 棟 桁 の 上 に の る 様 に し て 、 約 30
0
の 傾 斜 を も ち 、 板 同 土 を 突 付 け に 並 べ た 20枚 あ ま り の 屋 根 板
CN-1Jと 、 そ れ を 覆 う 杉
皮が見出された。屋根板 の北端のところで、頂部 の仕口に棟桁を11): :め込んだ柱、
が、完形で発掘されたのが特に注自された。その外、
(N-4)
2 ・3 の 種 村 (N-8 ・9 ) や 、 屋
根 板 と は 異 な る 板 (N-5 ・6) な ど も 出 て い る 。
I区 か ら は 、 家 屋 遺 材 の 並 び と 平 行 し て 、 南 北 に 列 を な し て 、 打 ち 込 ん だ 矢 板 様 の 材 群
8 -
が で た [II-1J。 そ の 北 端 に 近 く 、 矢 板 列 の 東 側 に 直 立 す る 柱 根 (II-2) があった。
こ れ ら の 遺 材 は 、 地 表 下 約 30cmか ら 1 mの 間 に 包 含 さ れ 、 包 含 層 の 凡 そ の 地 層 は 、 上 か
ら第 4層 腐 埴 土 と 砂 泥 、 第 5層 黒 褐 色 粘 土 、 第 6層 青 嵐 色 砂 、 と な っ て い た 。 矢 板 や 柱 根
は 第 5膚 の 土 中 に 下 端 が あ り 、 N 区 に 埋 没 す る 遺 材 の 最 下 部 は 、 第 6層 に あ っ た が 、 両 者
は、材質、加工の点から、同一時期のものと考えられる。
W区 の 家 屋 遺 材 を 除 去 し た 下 の 青 鼠 色 砂 層 に は 、 須 恵 器 と 挙 大 の 砂 岩 礁 が 点 在 し て い た
この状況から見て、家屋の床面になるものと考えられ、この面の拡がりを求れば、床面が
現れて来るのでないかと期待したが、その作業途中で豪雨に見舞われ、遺跡が水没し、泥
棒化した、め、結局作業を放棄せねばならなかった。
第 4 、 5層 の 地 層 は 、 矢 板 列 の 両 側 に お い て 、 家 屋 遺 構 部 分 よ り 約 20cm低 く な っ て 窪 ん
でおり、そこには木片が不規則に散らばっていた。従ってこ冶には溝があったと考えら
れる。その方向は、南北の壁断面から考えて、矢板列と大体並行しているようである。 但
し、溝の成立は、層位的に見て、家崖の成立より時間的に遅れるかも知れない
I区 か ら は 、 方 形 に 近 い 断 面 の 、 直 立 し た 2本 の 柾 様 の も の (1
の材の形態は、
1、 2) が 出 た 。 そ
1 .NIKで 出 た 柱 と は 断 面 形 も 異 り 、 ず っ と 太 い 。 そ れ 故 、 こ れ か ら は W
区の家屋の部分に属するものでなく、且つ年代差もあるのではないかと考えられるが、そ
の 性 質 は よ く 解 ら な い 。 な お 、 こ の 2本 の 材 だ け は 、 第 6層 の 青 砂 層 を 突 抜 け 、 そ の 下 の
粘土層中に深にその下端があった。
I区 に は 、 大 き な 技 (III-1) や 、 樹 根 (III-2) が 残 り 、 巨 樹 が 生 え て い た も の ら し
I
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い。これ以外は、始んど白ほ、しい建築遺材は出土しなかったから、家屋部分はこの区にま
では及んでいなかったと思われる。
羽 区 で は 、 覆 土 を 除 く と 、 非 常 に 脆 く な っ た 直 経 7_ 8cmの 長 い 丸 太 が 2段 に 重 な っ て
I- 1J。 こ れ ら を 除 く と 、 W 区 と 同 様 の 罷 根 板 の 並 び
V
用水路に並行して数本現われた [
が あ り 、 そ れ が 2層 か ら 数 層 に な っ て 堆 積 し て お り 、 そ の 問 に は 小 屋 組 な ど に 用 い ら れ た
と思われる材がはさまっていた。屋根板の一部は、断面が台形で長さ約
4 mの 直 材 (VI-
3) の 上 に 、 直 角 し て 突 付 け に 並 ん で お り 、 こ の 直 材 は 木 舞 の よ う な も の と 認 め ら れ た 。
な お 、 こ の 外 に も 屋 根 板 と 屋 根 下 地 と の 関 係 を 示 す よ う な 状 況 で 出 土 し た も の が 3、 4
I区 の 北 側 部 分 は 特 に 深 く 在 ん で い て 、 最 も 厚 く 屋 根 板 が 堆 し て い た が 、 そ の 最 下
ある。 V
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部 に は 、 上 側 が 焼 け 焦 げ た 、 人 工 が 加 え ら れ た と 認 め ら れ る 長 さ 約 1.7 m の 木 村 (V
11) が 、 横 た わ っ て 出 た 。 そ の 出 土 レ ベ ル が 、 NIKで 床 面 と 推 定 し た 地 層 の レ ベ ル と 等 し
く、土器も出土しているので、床面がこ、まで拡がっていたという推定も成り立つ。
J性 が 観 察 さ れ 、 方 向 も 一 致 し て い て 、
I区 の 遺 材 群 の 出 土 状 況 に は 、 同 ー の 規 W
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両 者 の 関 連 性 は 疑 う 余 地 は な い が 、 に も 拘 わ ら ず 、 同 ー 家 屋 の 部 材 がj
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たものか、或は夫々が別の家屋の部材であるのかということを断定できる極めては、遂に
見出せなかった。
V区では、 W 区 の 家 屋 遺 構 に 接 し て 、 や 、 異 な る 方 位 を も っ て 、
支えた堪のようなもの
2、 3枚 の 横 板 を 杭 で
[V-1Jが 出 土 し て い た 。 家 屋 遺 構 と の 関 連 が 不 明 で あ り 、 土 産 そ
の も の 、 機 能 も 解 ら な い の で 、 も う 一 つ は I区 の 矢 板 列 の 延 長 部 分 を 知 る た め に 、 農 道 に
まで入って北方にトレンチを拡げてみた。すると、矢板列は、この部分では曲線を闘いて
多少東の方に曲っており、
[V-4] 、 な お 北 方 に 続 く ら し い こ と 、 矢 板 列 の 東 側 か ら 更 に
1本 の 柱 根 ( V -3) が 現 わ れ 、 そ れ は I
I区 の 北 端 に あ る 柱 根 (I
I
2)
と矢板との関
係 に お い て 類 似 し て い る こ と 、 当 初 に 見 出 さ れ た 堰 の 1 .6m西 側 か ら 同 様 の 増 が 並 行 し て
出 土 し [V
2] 、 両 者 と も そ の 長 さ は l
:
I
W板 一 枚 分 の 長 さ で し か な い こ と の 三 つ の 事 柄 が
知られた。尤も、これらが示す意味は不明であるが、た吋匿根の方伎と大体一致する方{立
を も っ 出 土 物 、 即 ち I区 に あ る 2本 の 柱 様 材 ー の 並 び 、 及 び 矢 板 到 に 接 し て 出 た 2本 の t
i
:
根
の並び、があることが注意されよう。
用水路の東岸、 V
I区 と 対 応 す る 場 所 に も 建 築 用 材 と 思 わ れ る も の が 露 出 し て い た の で
培 を 崩 し て 2.3c
m
' 程度発掘したが、単に遺跡が更に東方にも拡がっていることを確めた
に終った。
2
.建 築 遺 材
建築に直接関係すると考えられる遺材に限って、各部材ごとに説明する。
卜ì~
約二には三種のものが認められた。いづれも先端を尖らせた堀立柱である。
①細長方形断面柱
この種の柱は、一一応家屋部材に属するものと考えられる。始んど、
1
2 一一
、( i
似 を 残 す だ け で あ っ た が 、 W区 北 端 か ら 出 土 し た も の だ け は 完 全 な も の で あ っ た 。 こ の
十H N - 4)関版第
2図 は 長 さ 1 .55m、i
断 而 は ほ ゾ 17cmに 7cmの 長 方 形 で 、 下 端 は 年 で 尖 ら せ 、
頂 部 は U字 形 に う が ち 、 棟 桁 を 車 内 め る よ う に 加 工 し で あ る 。 れ ー の 中 間 に は 、 村 表 面 で 9X
5cmの 角 形 を し た 深 さ る cmG
乃穴が二つ!むってあった。どんな意味があるのかちょっと見当
がつかないか、仕口とも思えず、或は何かの符牒ででもあろうか。この村は、
I
度制
考」にある丈化1
4年 (1817 ) に 北 秋 田 群 比 内 脇 神 社 村 小 勝 目 か ら 出 土 し た 家 屋 遺 構 の 1
、
:
iの
間と(註)、
スケーノレの点と性根が尖っていないということを除けは・、非常に似ていると
いうことが注目される。脇神発見の遺材が失なわれてしまっている現在、この
1
+は 貴 重 な
資料ーである。
なお柱根だけのものは
4本 (I
I- 2) (V- 3) (
V
I- 7
. 8)
図版第
2図あるが、
動いているのもあって、あまり参考にはならない。
②三角形断面柱
当該家患に属するものと考えられるが、柱であるかどうかは明らかで
な く 、 従 っ て 用 途 も 不 明 で あ る 。 2本 (N-7)
間!日記第 2図 (V
6)出 た が 、 ど ち ら も 一 端 が 尖
っており、朽壊している他端よりもキ寸前の侵蝕が少いという観察から、元は土中から立っ
ていたものらしいと考え、一応柱に擬した。
③ 略 方 形 断 面 柱 、 I区 出 土 の 2本 の 柱 様 材 ( I
1
)図 版 第 2図 (1
れたように、 W 区 を 中 心 と す る 家 屋 遺 材 と は 別 種 の も の で あ ろ う 。
2) で あ る が 、 前 に 触
H二様材といったのは、
直立する材の頂部(発掘時の)が、普通なら腐蝕して丸くなっているのに、
2本 と も あ た
かも斧で削ったように鋭く尖っていたことで、建物の柱と断定するのには鵠跨を感じたか
らで、ある。
屋根板
巾 15-25cm、 原 さ 2.3cmの 割 板 で 長 さ は 2 mを 越 え な い で あ ろ う 。 多 く は 片 面
に樹皮が附いたま、で、中には断面がや、弧をなすものもあるので、巨木の外局から年輪
に沿って、模などを用いて打ち裂いて採ったものであると考えられる。始んど皮付の面を
下にして出土したから、屋根板を葺く場合、皮付面を下にすることを原則としたらしい。
又 2 ・ 3を 除 い て 他 の 全 部 、 一 端 が 尖 っ て い る が 、 木 取 り の 時 の や り 方 な の か 、 或 は 葺 板
材として特に目的をもって加工されたものか、その辺はよく解らない。
板類
数 は 少 い が 、 屋 根 板 材 と は 出 土 状 況 が 異 な り 、 板 厚 1 . 2却 と 薄 く 、 或 い は 端 部 が
直角に切断されている、というような板がある(
N--5、6等 ) 図 版 第 2図 一 般 に 、 屋 根 板 よ り
表面の仕上げが丁寧で、錨を用いたらしきものもあった。
木舞或は母麗称材
すべてV
I区 か ら 出 土 し た 。 完 形 と 考 え ら れ る も の は 1本 の み で あ る
が 、 そ れ は 断 面 は 台 形 な い し 長 押 形 で 巾 16cm、 厚 き は 厚 い 方 で 4cm、 長 き 4.02m の 通 直
材 で あ る (V
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2国 製 材 加 工 の 程 度 は 相 当 立 派 で 、 錨 で 仕 上 げ て あ る 。 屋 根 板 を の
13 -
せていたから、軒先祖りの村-と考えられるが、何ら仕口の跡を持っていない。その他、出土
)
状 況 か ら 木 捧 と 思 わ れ る も の 、 断 片 が 2 ・ 3認 め ら れ た (VI-4、
0
J
日記第
2図
梁 機 材 長 さ 2.55m、断面 6 X 12cmの 材 (VI-2)図 版 第 2図 堆 積 す る 屋 根 板 の 上 か ら 出 た
が、出土状況からして屋根部材とは考え難く、むしろ軸組材ーとする方が適当と思われた。
杭であれば残存する確率が大きい尖った端部が見られず、巾も村:にしてはかなり狭い点か
ら、梁と見倣すのが適当と考えられる。
権桁
V
I区 か ら 、 一 線 上 に 2本 (N-2、 3) 、 木 元 を 家 の 内 側 に し て 出 土 し た 。 長 き
は (N-2)材 が 2
. 35m、 (N-3 ) 材 が 2.60m で 、 材 経 約 8cm、 技 を 払 っ た 程 度 の
杉の丸太である。
棒悼と思われる様な材はかなりあったが、始んど長さ 20~30cml 程度の破片であった。
幸 い 、 比 較 的 保 存 の よ い も の が 野 区 か ら 2本 南 側 棟 桁 に ほ ゾ 直 交 し て 出 土 ゾ 直 交 し て 出 土
した (N-8、9)。凶!日記第 2図 2本 の 種 の 間 隔 は 約 1m、種の材経は 7cm、 そ の l本 は 折 れ て い
る が 約 2mの 長 さ が あ る 。 加 工 は 丸 木 の 樹 皮 を 剥 い だ 程 度 の も の 。
杉鹿
屋根板の上に敷かれていたもの、外に、断片が各所に散乱していた。葺材として
使われたものが主体であろうと思われる。
麓・賀
N区 の 北 側 棟 桁 の 南 端 部 分 に 藁 が 堆 積 し て い た 。 却 が つ い て い た か ら 稲 葉 で あ
る。又羽区の中央ゃ、南より辺には萱が茎を南北方向にして堆積していた。これらが家出
の一部に用いられていた可能性もある訳である。
その他遺材に関する限り、釘・鑓等の金物が使用されていた形跡は全く認められなか
った。材問土の緊結は恐らく植物繊維材料を用いたものだろう。
3. 発 掘 家 麗 に 関 す る 考 察
今回の発掘では、得られた資料が大部文断片的であったので、家屋の全貌を云々するこ
とは悶難であり、以下に述べることも推定の域を出ないが、-Ti5、考えられる範囲の考察を
しておこう。
家屋規模
どの位の大きさの家であるかという事に最も関心が寄せられたが、それを明
:配 置 も 分 ら ず 仕 舞 で あ っ た 。 矢 板 列 が 家 屋 遺 構 に 接 し 、 原 、 位 置 を
らかにする家屋平稲川、I
I
動 い て い ま い と 思 わ れ る 2本 の 柾 根 (I
2) 図、
(V
3) が 約 70cm内 側 に 矢 板 列 と 並
行 に 位 寵 し て い る よ う に 見 え る の で 、 矢 板 亨J
Iも 家 屋 の 外 関 を 極 め る 要 素 に な る の で は な い
かと考えられる。しかし、これまでの状況では、矢板列が家屋遺構よりも吏に北方に延び
ているような感じで、';~板亨IJ を家屋部分に含めてしまえるかどうかは問題として残される。
結局、規模の推定は部材す法に頼る他はないのである。
a
桁 行 寸 法 の 推i
W
J
(イ)棟桁から
2本 の 棟 桁 で 、 桁 行 全 体 に 渡 さ れ て い た も の と 考 え ら れ る 。
- 14
2本 の 長 さ
を合せると、
4
. 95m と な る 。 柱 は 北 側 棟 桁 の 場 合 、 先 端 よ り 80cmの 位 置 に あ る か ら 、 南 側
でも同じとすると桁行の桂問長さは 3
・ 30~40m となる。材の腐朽など考慮すれば\多少こ
れより大きい数値になろう。
(ロ)屋根板から
N 区 の 屋 根 板 (N-1) t
i, 部 乱 れ て い た が 、 こ れ ら す べ て を 隙
間 な く 突 付 に 並 べ る と 、 屋 根 の 側 か ら 側 ま で の 長 さ は ほ ぼ 4 mとなる。 V
I区 の 屋 根 板 亨J
Iも
層によっては、両者端の間が、
4 m位 の 長 き に な っ て い る 。
( ハ ) 木 舞 ? か ら 、 前 述 の よ う に 完 形 材 で は 4m 強 の 長 さ を も っ て い る 。
(イ) ・(ロ) ・ ( ハ ) か ら 桁 行 長 さ は 4 m弱 と 推 定 さ れ る 。
b
梁行寸法の推測
梁と推定したもの冶寸法の外、頼るものがない。従ってその寸法 2
. 55聞 か ら 2
. 5m
{立と推定。
. 5m 桁行 4m 弱という一つの推 ~ftりが成
従って、この家屋の軸組部の規模は、梁間約 2
り立つ。しかし、床平面の規模は水浸のため調査末了である。
家屋形態竪穴式家屋と考えられるが、それは
1 総 高 1 . 6m に 満 た な い 柱 を 堀 立 に し て 立 て る と 、 地 上 に 立 つ 高 き は 1m前 後 と な
り、平地家屋としては低すぎて、内部を堀り込まなければ実際の用に立つ空間は得られな
いだろうということ。
2
推定床面が、柾の下端と同じか或はそれよりも下にある。
と い う こ と の 2,点からで、ある。
麗根の形は、出土した屋根板材群が東西方向にのみ偏っていたことから、切妻でないか
と思うが、楕円形のような屋根形も想像きれない訳でもない。
麗根板は権と木舞の下地の上に、流れ方向に突付けに並べられ、その上を杉皮で葺き、
丸太などで押えたものであろう。
家屋の性格
結局、当遺跡、の家屋は、かなり少さいものであることは確実で、ある。しか
し、これが、集落のー部である可能性は、野井戸とは思えない立派な対二戸が、近くから発
掘されたことを見ても、充分に大きいといえる。
4. 結 び
当遺跡の家屋が、果して何であるのか、即ち住居なのか、 i
前属小屋なのか、或はそれ以
外のものか、という判断も、比較できる家屋遺構が泣くから
J
'
Hす る 時 ま で 延 ば き れ ね ば 、 な
らない。その外、多くの問題と疑問が残された訳であるが、それはこれから継続される発
J
屈によって順次解き明かされて行くものと期待している。
(註)
附
(福山敏男・永井規男)
i皇 国 度 制 考 」 は 日 本 経 済 大 典 第 15に所収。
文 中 ( )C )は掲載図中の遺材ーのあり場所を示す。)は単一村ーを、
15 一一
C Jは 群 材 で あ る 。
物
十出
器
1.~頁
(第 6[
:
2
{
J
・
第 7図 ・ 第 8図 )
漫3"
、
1
1
'
:
"
本 遺 跡 か ら 出 土 し た 土 器 類 は 、 お お む ね 建 築 物 直 下 の 北 東 部 に 密 集 し 、 地 表 か ら 1m -
1
. 5m
前後から出土したものである。
井 戸 ー か ら 出 戸 し た 須 恵 大 瓶 の 破 片 2 ・ 3 を始め須忠:の碗、
J
I
I
Lそして土高杯、凱等であ
る 。 完 成 品 並 び に 復 元 可 能 な 土 器 は 60数 例 あ り 、 こ れ 等 の 大 部 分 に は ロ ク ロ の 跡 が 見 ら れ 底
部には糸切りの跡をみせ、外面は平均された焼き具合ではあるが、内面は和雑な様相を呈し
ている。
そ し て 、 こ れ 等 の 土 器 類 は 大 体 7穂 類 に 大 別 さ れ る 。
即ち、①器台付碗、皿②台付碗、③底部がと底になっている④ロクロ跡の明瞭な件、⑤
ロクロ跡の明瞭な腕、血⑤薄干の土師皿、⑦杉恵の荒、その他の各種である。これらを頃
目別に簡潔に述べてみよう。
① 時 台 付 碗 、 血 (1- 9)
底部に糸切り痕を残し、三角状に近い張付器台を持つ須恵製の碗である。特に③は、くの
字 状 の 器 台 で 中 央 部 に は ロ ク ロ に よ る 突 起 を 持 つ 。 又 こ の 類 群 に は 、 高 さ 3cm前 後 の 低 い
皿1
があり、内面には漆をほどこし口縁部は、若干外反していて碗形のものよりも厚みの
ある器である。
台 付 碗 ( 10-29)
この類群は、本遺跡中もっとも多くあるもので、農部より胴部にかけて自然の曲がりを呈
しているものが大部分であるが、 1
31
6等 の 様 に 霊 了 直 に 近 い 状 態 で せ り あ が っ て い る も の も
ある。
③ 底 部 上 り 土 氏 に な っ て い る (30-42)
O
. 5cm - O
. 8,cm 前後の比較的、厚手 のご!二器で底部に 特徴が見られる。. E!p
ち、底部がロ
ク ロ 使 用 の 為 にO.2cm-O.5cm程 の く ぼ み が 見 ら れ 若 干 不 安 定 な 感 じ を 受 け る も の で あ る 。
④ロクロ跡、の明瞭な鉢 (
43)
赤褐色を皇し外国には、
高さがある。
5条 の 比 較 的 深 味 の あ る ロ ク ロ 跡 が 明 僚 に み え 、 他 の 土 器 よ り も
5
.5cm
⑤ ロ ク ロ 跡 の 明 瞭 な 碗 、 皿 (44-49)
糸切りが見られるのは④群と同様、であるが、底部から胴部に主つての変化は、それよりも
極単に見られず、厚みのある、くの宇状の形を呈している。
⑥ 薄 手 の 須 恵 器 (51-67)
16
第
ら
図
須 恵 器
(
1
)
¥
¥
S=3
1
1
7-
信用
図
7
S=3
須恵器
1
一
一
18 -
(
2
)
信用
8
図
須恵器
(
3
)
8
1
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7
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ヴ
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} 髄輔 93
S=3
9
6
1
一
一 1
9一
一
器 の 高 き が 略 々 一 定 し て い る (3- 3
.5cm) 撰 恵 器 の 皿 で ロ ク ロ 跡 は 、 あ ま り 見 ら れ ず あ
ったとしてもさほどの深みはない。しかし、底部の内面には凸状のロクロ跡が
みられ、全
散 に 厚 み は な く 特 に 56646667は焼きが粗雑 で、ある。又 、 57の 器 は 底 部 が 長 く 、
口縁部が霊長
寵がかっている所に特徴がある。
⑦須恵葦 (
9
6
)
中央のつまみの部分に小さな突起がみえ、ふちの部分は太い線がある。
そ の 他 、 復 元 不 可 能 で 、 は あ る が 器 台 の あ る も の に 68-80の 器 が あ る 。 特 に 68-71
の 4偶
は、くの字状をもち、しかもその高きが 2
.5cm
前後の高さをもっ典型的な高い張付器台で
あ る と 考 え ら れ る 。 69は 特 異 な も の で 底 部 に は 、 更 に 小 さ な 突 起 を も っ て い る 。
その他、
器 台 が 丸 い も の 、 三 角 状 の も の 、 垂 直 な も の と 多 種 な 内 容 を も っ 。 81-86は 底
部のみの土
師で箆状のもので整形し、相当な厚みをもっ
0
8788は 、 粗 製 な 坑 ) 立 器 杯 で あ り 、 後 者 は 特 に 上 部 と の 結 が り に 興 味 が あ
る
。 8993は 、 口 縁
部が丹、反 Lて い る 坑 1
!
.
:
/碗 、 査 で あ っ て 数 条 の 痕 跡 が 見 ら れ る 。 又 、 9495の 2個 は 、 井 戸 中
から出土した須恵大瓶の破片であって外面はへら状の痕が見られ、内部はうず
様がある。
仁i
縁部は、略々垂直になっており胴部につながりを見せている
まさ状の文
。
更 に 97t
土、底部の内側に数条の深みをもった痕跡をつけ特異な土問]器である。
(
第 9図)
本 遺 跡 に 於 い て 墨 書 が 見 ら れ る 土 器 は 、 保 存 状 態 が 良 好 な 為 、 総 数4
7個 を 数 え
る。
須恵器の碗、蓋が多くその他土器にも若干みられる。
ここでこれら墨書土器に関して 2
0
3の 分 類 方 法 を 試 み て み よ う 。
長J
Iち 、 そ の 一 つ は 書 か れ て い る 器 の 場 所 に l
唱して、そして他の一
つは、その書き示きれ
ている文字に関してのそれについてである。
示されている場所に関して
その j詰所
J
r
i
J
その総数
2
9
〈
ヲ
σ
1
5
. 6
. 7. 8
.1
0
.1
1
.1
3
.
2
9
.3
0
.3
3
.3
4
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.
1
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3
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一
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番
つ
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3
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.
9
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2
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.2
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. 21
.2
5
.2
8
. 31
.3
2
.3
5
.
- 20-
告
書
斗
3
9翠麓盤璽撃事
- 2
1 一一
②文字に関して
その文字
その総数
そ の 土 器 番 号
その文字
その総数
十
8
7
.1
2
.2
9
.3
4
.4
2
.4
3
.4
4
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{
半
1
4
大
4
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8
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1
1
0
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3
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山
1
1
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2
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. 6
1
9
田
2
1
3
.2
2
1
3
1
その他、
「衣 J
秋田
その土器番号
I
帯J I
女 │ が 各 l個 づ つ あ り 判 読 が 困 難 な も の が 20
個ある。
以 上 2つ の 問 題 に 関 し て 、 そ の 分 類 を 試 み た わ け で あ る が ① に か ん し て は 、 そ の 書 か れ
ている場所は腕部に多いことが明瞭であることがわかり、しかもその大部分は、
I+J を
始めとして判読ができかねるが簡単な数字を表わしたものが多い感じを受けるのである。
又、底部に示きれているものは、明瞭でかつまた力強い筆のはこぴが見受けられる。
② に か ん す る 字l
l
l
jは 、 圧 倒 的 に
「失 J
I+J が 多 く 、 そ の 他 、
f
大 」 の 4個、
「主」の 31
問
、
I田 」 が 各 々 2個という}Ii貰になっ ている。これら字形から それぞれの意味、内容を
検討すれば地名、職業名、人名の頭文宰と多種多様に考えられるがこうした問題について
ほ更に研究する余地があると思われるのである。
特 に 9の 「 穐J3
1の 「 秋 田 Jの 2つ は 、 本 遺 跡 の 内 容 、 性 質 を 考 え て ゆ く 過 程 に お い て
重要なる出土品と思われる。(鍋倉勝夫)
3. 木
者
雲
(第 1
0図・ 1
1図)
この飯森遺跡は八郎潟沿岸に位置し、水団地帯で、あるため、木製品の保存が良く、多く
の出土を見た。その主なものは舟形木器、碗皿、蓋、織機具の一部と思われるものである。
これらを留によって説明しておこう。
1、 (
第 10図 ) 、 田 下 駄 で あ る 。 そ の 大 き さ は た て 2
9cm、 よ こ は 左 側 欠 損 し て 居 り は つ
りしたいが約3
0cm前 後 を 計 る も の と 予 想 さ れ 、 ほ ぽ 正 方 形 を 呈 す る 。 表 は 足 を 入 れ る 部
分(内側)と外側との間を土手のよう楕円形に高く残している。そして鼻緒の代りをなす
ものと思われるものが
その土手の先の左右両方に子しがある。(側面図斜線部)その他鼻
緒らしきものは見あたらない。裏は四つの櫓がある。尚この田下駄は今回の調査で出土し
たものではない。
2、 自 然 に 曲 っ た 木 の 先 端 に 長 方 形 の 孔 を あ け た 木 器 で あ る 。
3、 棒 状 を 皇 し 表 面 は ま る く 製 形 さ れ て い る 。
4 、 舟 形 を 呈 し た 木 器 で あ る 。 そ の 大 き さ は 長 き 28
側 、 巾 3c
mで 、 中 を く り ぬ い て い る 。
一 22 一
第
0
1
図
木
器
)
1
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一
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側
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一
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.
.
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"
その両側面には不規則に子しがあけられている。
5、 曲 げ 物 の 側 を な す も の で 図 は そ れ の 内 側 で あ る 。
6~ 9、 箸 状 木 器 で 、 本 遺 跡 か ら 数 十 本 出 土 し て い る 。
10、 う す い 板 を 使 っ て 図 の よ う な 形 に し 、 上 の 方 に 小 き い 孔 が あ る 。 綱 を 縫 う 持 の 針 の
ような気もするがはっきりした用途は不明。
1、 表 裏 と も 全 く 整 形 さ れ て い な い 。 そ し て 小 さ な 貫 孔 さ れ た 孔 が 不 規 則 に あ け ら れ て
1
いる。
2、 平 な 板 を 用 い 、 そ の 片 側 だ け を 等 間 隠 に 三 角 状 の 切 込 み が あ る 。 織 機 の 一 部 で あ ろ
1
。
つ
1図 ) 、 口 縁 部 は 不 明 で あ る が 盆 と 思 わ れ る 。 断 面 の 如 く 腕 部 に 張 り が 見 ら れ
第1
13、 (
。
る
14、 15、 器 台 の つ い た 血 で あ ろ う 。 14、 15と も に ろ く ろ の 使 用 が は っ き り 認 め る こ と が
できる。 14は 井 戸 の 中 よ り 出 土 し た も の で あ る 。
16、 17、 19、 血 で あ る 。 非 常 に う す い 。 こ れ で も ろ く ろ が 美 し く 整 形 さ れ て い る 。 17の
血 に は 小 さ な 孔 が 5偲 あ け ら れ て い る 。
18、llJlのようにも見られるが、小きなつまみがあり室長ではないか と思っている。
20、 21、 い づ れ も 曲 げ 物 の 底 部 で あ る 。
5の よ う な う す い 側 が こ れ に つ く の で あ る 。 そ
してこれらの底部及び側等を結んでいるものは桜の皮である。この底部にもそれがついて
残っている。(図の黒い部分がそれである。)
22、 器 台 の つ い た か な り 大 き な 木 器 で あ る 。 血 で は な い ら し く 盆 の よ う な も の で あ ろ う
23、 栓 の よ う な 木 器 で あ る 。 頭 部 上 端 は 三 角 錘 の 形 を な し そ の 下 は 円 形 に 近 い 多 角 形 を
なす。胴部は頭部よりーまわり細く先端に行くにしたがって細くなっている。
.5cmを 計 る 。 中 に 円
24、 こ の 木 器 だ け 縮 尺 が 異 る 。 大 き さ は 長 さ 36cm、r!1 5cm、 厚 き O
形の干しが 3個 、 両 端 に 四 角 の 孔 が あ け ら れ て い る 。 織 機 の 一 部 で あ ろ う か 。
25、 一 本 の 木 材 ー を た ん ね ん に 削 っ て 作 ら れ た 木 器 で あ る 。 図
t部 は 板 状 に 加 工 さ れ 、 そ
の端に近い所に孔があけられている。そして面白いことに、この孔と交又して木の中
に図点線のように孔があけられている。下部も上部の部分を似た加工がなされている。こ
ここは表面だけが平らに削られており、その部分だけの断面は半円をなす。平に削られた部
分 に は 溝 が 1本 つ け ら れ て い る 。 又
k部 の 場 合 と 同 様 に 木 の 中 に 子 し が あ り 、 そ れ は ち ょ う
ど曲っている部分で外に出ている。織機の一部かと考えているがはっきりしない。
聞の穴があけられている。
1
26、 か な り 厚 い 板 を 図 の よ う に 削 り 、 中 に 大 き な 3
27~33 、これらの木器はいづれも井戸の中より出戸したものである。これらの土器は頭
司じ中に
部に特徴がある。頭部は全て山形に削られ、その下が少しくびれて、次に頭部と i
- 25-
1
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' ? 、 ぞ れ か ら 自 重 量 に 紹 〈 な う て 先 錨 国 製 〈 と が 。 て い る . この よ う 巳 全 長 3
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前 後 の も 町 と が 品 る . 井 戸 内 ゆ だ け で な 〈 家 屋遺骨車両 あ 今 立 地 点
か ら も 出 土 し て 腐 今 、金調3
で 十数 術 数 え る .
34、 先 鴻 に 織 り の あ る 木 絡 で あ ゐ . 織 織的一 郎 て
・あ ろ う.
初 、 よ 札 も 織 徴的 ー 艇 と 忠 わ れ ゐ . 関」己慨を 4酬 はど由。づ て い る ホ 絡 で み る .(,昔懐務時 )
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お
5. 獣
用電
再
1、 考 古 班 の 埋 没 家 屋 等 の 発 掘 に よ り 知 っ た 事 項
イ、飯森に於て理没家屋が発掘された土器、獣骨、種子等が出た
口、家屋の状況等より考察して年代は大体平安中期(約千年位以前)と推定
2、 以 上 の 事 項 を 参 考 に し て 獣 類 の 種 類 、 獣 骨 の 部 位 等 に つ き 次 の 如 く 鑑 定 す 。
(大学の藤岡、高安の両博士も同意見)
1、 獣 矧 は 馬
現在の馬の大きさに比して幾分小きい。
2、 I
F
E
I骨 一 上 顎 の も の か ! て の も の か は 不 明 。
3、 9/20、2T2層 の ビ ニ ー ノ レ 袋 に 入 っ て い る も の は 後 肢 の 附 前 骨 ( 人 間 の 足 市 骨 に 相
当 ?) に 思 わ れ る が 後 者 の 下 腿 骨 と す る と 少 し 細 い よ う に も 思 わ れ る 。
4、 10/4、 1
3区 3層 記 入 の ビ ニ ー ル に 入 っ て い る 骨 は 腕 前 骨 ( 人 間 の 掌 骨 ) の 一 部
カ
ミ0
5、 黒 青 粘 土
9/23 1
3区 記 入 の ビ ニ ー ル 袋 の 中 の 骨 は 腕 前 骨 の 上 部 の 関 節 の と こ
ち力、。
6 、 綿 に 包 ん で あ る 2個 の 少 し 巾 広 い 骨 9/20-2T 2及 9/20-272は 何 れ も 前 肢
の 前 時 骨 ( 人 間 の 椛 骨 、 尺 骨 か ?) の 上 部 の 辺 の 骨 の よ う だ 。
7、 ビ ニ ー ル 袋 に 入 っ て い る 小 さ く こ わ れ た 屑 も の も 大 体 右 記 し た 骨 の か け ら と 患 わ
れる。
8、 10/7
井戸ノ中と記入の試験管在中のものですがこれらに類する骨片と思いま
すが確とわかりません、不明。
要約
1、 獣 骨 は 馬 と 判 定 ( 歯 型 よ り 判 断 し て 間 違 な し )
2、 長 い 骨 の 状 態 か ら 勝 手 に 前 肢 の も の だ ろ う と か 後 肢 の も の ら し い と か 記 し た が も と よ
り不確実。専門家の鑑定を乞わねは、はっきりしたことは不明。
上馬の大きさは現在の馬より多少小さくあったように推定される。
以上の如く鑑定す。
秋田大学
橋 本 光 正
一
一
27 一一
6. を
!
.
の
他
図 版 第 5図 の よ う に 木 簡 が 2種 出 土 し て い る 。 こ れ ら の 出 土 し た 層 位 は 家 屋 遺 構 の あ っ
た地層より上層であって、福山博士によれば家屋遺構の年代よりいく分下り鎌倉一室町と
考えられる。文字は下に記した如くである。
1.
i赤(花)餅壱(五)斗六チート入_j
(両面共)。東京大学竹内理三博士。花餅五斗・・・は
京都大学赤松、福山博士解説。
2.
i大 は ゐ か く J
7
.井
は赤松、福山博士に依る。
F
井戸は家屋遺構の発見された地点より、北々東約 30.m~の地点に、数年前原油輸送管を理め
る時に発見され、東南限の上部を除いでほぼ完全な状態で発見された。
井戸は厚板 7 枚を横に組合せたもので、所謂井桁積重ねたものである。板の厚さは 4~
5cm 、巾 15cm~25cm 、長さ1. 3cm~ 1.4mの 材 を 用 い て い る 。 大 き さ は 上 の 下 で は 少 し 異
) は 90cmX84cm、下で、 71cmX68
側 、 深 さ 1 .8 mである。
る。上縁の内ノ 1
こ の 井 戸 の 構 造 は 前 記 し た よ う に 摩 板 を 7枚 横 に 組 合 せ 、 そ の 内 側 に 図 ( 井 戸 内 側 々 面
図)のように先端を尖らせた割矢板を四方に立てている。そしてこの矢板を保護するため矢
板の内側に角材を帯状に互に組合されている。矢板の大きさは巾 10cm~ 15cm
、 浮 き 1 .5cm
~ 2cm 、長さ 75cm~82cm である。
井戸の中からこぶし大の石が数個発見された。又外側には平面図、断面図の如く、砂が
井戸を中心に円形にしかれてあった。
遺物は須恵器、木器等が出土した。これらについては前記(木器の項)した通りである。
た だ ー 第 13図 ( ) 下 に 記 し た よ う な 木 器 も 出 土 し た 。 左 右 欠 損 し て い る 。 う す い 板 を 両
側から三角状に切込んで作っている。
なお、この井戸と家屋遺構との関係については、これらの間がかなりあるため、直接結
びつけることはできないが、出土遺物、その他から考えでほぼ向時代のものと考えている。
一
一 28 一
一
第
図
井戸実測図
(附井戸中の木片)
レ
レ
西
A-
iJ~r 面図
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O
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0
1
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L一 個d 鋤 醐 桃 山 』 同J 鴨 協 品 目 問 団 必 働 側 鳩 山 ー 日4 馳 拙 白 』 ー ー 匂 誠 臨 雌 幽
7
.結
ぴ
小谷地遺跡の第一次調査は雨天の為、調査地域が再三水没するという悪状件の下に続け
られ、一棟の簡易な構造の作業小鹿とその西側から北東に廻ぐる低い障壁様の構造物、住居
の 内 外 の 床 面 か ら 100ヶ 内 外 の 須 恵 器 、 木 器 を 発 見 し た 。 こ の 陶 器 の 形 式 は 秋 田 城 、 払 回
槻等の出土当に類似しその形状は原型が大部分であり、また墨書銘の
仙、主、玉等は払
田棚祉にも見られる。又穐は秋の異字であり、これらの出土品から秋田城治下の宮営の施
設 で あ ろ う と 推 測 Rさ れ る 。 木 簡 や 馬 歯 、 械 が ら の 出 土 も あ っ た が こ れ ら は 倒 状 家 屋 の 上 土
層に発見きれ、や、年代は新しく木簡の書体等からも鎌倉一室町の項かと考えられる。ま
たこの建造物が孤立したものか東落をなしていたかは全く今後の調査によらなければなら
ないが、北東にある井戸構造の立派なことからもこの附近に今少し本格的な建物の存在を
想像したくなる。いづれにしても、この建造物が自然発生的な農村的集落でないこと、む
しろ屯田的な出作りの田小屋であることは、この建物の立地するヘドロ状態と墨書銘の陶
器、以前に出土した田下駄の存在等から考えられよう。(奈良修介)
レ
﹂
8. あ
カf
き
この発掘調査は、第一次調査としての性格から、遺跡の全ぽうを解明したものではなく
一部分の資料の収集にとどまったが、この報告書のために発摺された家屋や土器などの実
測図の作成にあたり調査員諸氏がご多忙のところ献身的に尽力された。また、このまとめ
に当つては、男鹿市教育委員会薄田社会教育主事の努力によって円滑に作業がすすめられ
た。関係者の一員として深謝する次第である。
また、この資料をもとに第二次調査へと発掘がすすめられることを期待したい。
昭 和 40
年 2月末日
秋田県教育庁社会教育課文化係
一
一
30 -
叫刊謡曲申 ν肯
山岡M
葉 桜ud£区比慢還曲面ゾ官使
撚剛容図
器 等 宮 詮 鰻 制 MW
15 1
時綜叫謙吾主判事手畢1
図
図版第 2図
章材
家屋遺械j
2
-1
V[
3
5
6
唱 -6
粧材
-4
V
.1
1
V-1
.1
2
. Vl-6
3
4 明ー 7
l-S
.V
5
本書聖惨材
. V[-5
6
梁餓村
7. V[-2
紙付
8
.9
8
9
2-3
1
図版第 3図
木
手
苦
3-3
函版第 4図
木様及 び樹枚
5 ~ 2 :1
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図版第 5図
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月陸汚水筒
簡{葬外写真快調幌曹司
事舗・山荘和男氏撮影}
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