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第 一 次世界大戦前のイギリス炭鉱業における 賃金決定機構と労働組合

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第 一 次世界大戦前のイギリス炭鉱業における 賃金決定機構と労働組合
1論
第一
文一
次世界大戦前のイギリス炭鉱業における
相
沢
賃金決定機構と労働組合運動
次
序論 研究の対象と課題
一総括と展望一
調停委員会協約体制の諸矛盾と職場賃金問題の先鋭化
調停委員会協約の展開
連合地域調停委員会協約の成立
M.F・G・Bの成立
販売価格スライディング・スケール協約の成立と展開
プロローダー坑夫組合の成立
研究の対象と課題
六五四三二一序
論目
与
四六
イギリス炭鉱業は、第一次世界大戦直前を頂点として、国内需要を排他的に充足するとともに、非常に大量の石炭
を輸出し︵最盛時、生産高の約三分の一︶、イギリス資本主義の再生産構造においてきわめて高い地位をしめた。ま
た、この産業は資本の有機的構成が低かったので、なおさら、イギリス炭鉱労働者がこの国の労働者階級のなかで非
常に大きな比重をしめた。とくに第一次世界大戦前後には、かれらが非農林業労働者のなかで最大の産業別集団であ
った。そのうえ、かれらの労働組合運動は、主体的力量を増すことによって、一九世紀末から両大戦間にかけて、イ
ギリス労働組合運動のなかでますます決定的な役割をはたすことになった。
本稿は、一九世紀の﹁大不況﹂期から二〇世紀初頭にわたる帝国主義の形成・確立期におけるイギリス炭鉱業の、
労働組合運動、労資関係および国家の炭鉱労働政策を、とくに賃金協約と調停仲裁の史的展開に結節させて、歴史的
に考察しようとするものである。具体的には、一八七〇年代からの石炭販売価格スライディング.スケール賃金協約
の普及、それに反対し﹁生活賃金﹂を要求する統一賃金闘争を通じてのグレイト・ブリテン坑夫連合︵竃ぎRω.問巴・
Rooユ990話讐野晒9一⇒・以下M・F・G・Bと略記する︶の成立︵一八八九年︶、 一八九三年の大争議を通じて
の連合地域調停委員会︵↓証印8三鑑OO8臣讐一9賄9些OOO巴↓欝39什げO悶a霧讐&9の三9ω︶の成立、
それをこう矢とする諸地区調停委員会協約の成立・展開が、それにかかわる諸関係との関連において考察される。た
だし、一九一〇年以降の、一九一二年の全国炭鉱ストライキと炭鉱最低賃金法成立に結節する展開の分析は、本稿の
あとに接続する。本稿は、一九一二年の大闘争の歴史的前提諸条件の形成過程を分析するものでもある。
イギリス資本主義史の時期区分としては、 ﹁大不況﹂期とその後の帝国主義的繁栄期に大きく分けられるであろう
が、労働組合運動史の時期区分としては、一八八九年の新組合主義︵Zo毛d鉱〇三ωヨ︶高揚とその後におけるブルジ
一第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 四七
一論 文− 四八
ヨアジーの反攻が重視されなければならない。地方・分散的で不均等発展のいちじるしかったイギリス炭鉱業の労働
組合運動史を総括的に時期区分することは容易でないが、イギリス労働組合運動史の全体的流れに目をくばりながら
本稿の主題に沿って考えれば、前述の諸展開がおもな指標となるであろう。
本稿の特殊的研究課題は、その研究対象に照応して、前述のとおりである。解題のために、イギリス労働組合運動
史の一般的流れに言及しておこう。 ﹁世界の工場﹂としてのイギリス資本主義の独占的地位に支えられたヴィクトリ
ア黄金時代の労資関係は、一八七〇年代の労働組合立法を生みおとし、その過程で自由主義的労資協調主義も爛熟し
た。しかし、七〇年代から九〇年代におよぶ﹁大不況﹂は、イギリス資本主義の独占的地位とともにイギリス労働者
階級の特権的地位をもゆるがし、社会主義運動を復活させ、窮乏した労働者大衆のなかに急進的傾向を醸成し、自由
主義的労資協調主義を動揺させた。高揚した新組合主義は、旧組合主義との激突を通じてイギリス労働組合の変革を
うながしたが、頑強な労働組合主義の伝統を突破できず、やがて旧組合主義と相互に浸透しあって体制内に吸収され
たかにみえる。ブルジョアジーは、産業独占形成の脆弱性に制約されながら反攻を展開し、急進的新組合に大打撃を
与えたが、強固な旧組合集団を紛砕できなかった。そこでかれらは、ついで訪れた世紀末以降の帝国主義的繁栄を基
盤として、すでに普及していた自主的な労働協約と調停仲裁の機構を再編・拡充しながら、これに労働組合の指導部
を結合し埋没させ、それによって組合員大衆を統制し産業平和と賃金統制をはかる労資関係を推進し、定着させた。
しかし、この帝国主義的な労資同盟は反労働者的な諸矛盾をつよめることになり、一九一〇年以降、大衆的な労働組
合運動の大攻勢に転ずるのである。この間、歴代政府の基本政策は、急進的労働運動をたたきながら運動を労資協調
主義と改良主義に誘導し、自主的な労働協約と調停仲裁の拡充によって産業平和と賃金抑制をはかる労資関係を助成
することであった。しかし、司法機関は伝統的により反動的で強硬な抑圧的規制を追求し、かえって労働者と労働運
動の政治的結集︵とくに労働党の成立・発展︶を触発・促進し、議会制定法によってその強権的介入を抑制されるこ
とになる。このような流れのなかで、炭鉱業の労資関係と労働組合運動、賃金H労働政策はどのような展開形態をた
どったか。本稿の主題に限定してこれを明らかにしなければならない。
本稿は、同時に、つぎのようなより一般的な諸関係の析出と例証を課題とする。労働者と労働組合は、労働者間およ
び資本間の競争に制約され、それに従属するかぎりでは、分散的、セクト的、労資協調的または隷属的になるが、労
働者の窮乏状態をばねとする労資間の闘争における利害統一を契機として統一行動が実現され強化されるとき、統一
行動を通じて労働者の統一と団結、労働組合の統一と階級的強化が発展する。労働組合の端初H基本機能たる賃金闘
争においてこの傾向を析出し例証すること、これが第一の課題である。
労働組合は、自然成長的には、資本の蓄積要求が命ずる﹁支払能力﹂による賃金決定の政策堅思想的にも実践的
にも屈服しがちであり、それを通じて去勢、分断、ないし解体をしいられる.しかし、その結果、賃金低下をはじめ
として労働者の窮乏が深まると、自然成長的にも﹁生活賃金﹂確保の要求がつよまり、ぞの要求が運動のなかで最低
賃金保障の思想と政策に具体化される。しかし、自然成長的な労働組合主義の枠内では、この﹁生活賃金﹂政策も
﹁支払能力﹂賃金政策︵生産性賃金はその主要な一形態である︶に従属し、その浸透をうけ、反労働者的な矛盾が累
増する。そしてこの矛盾累増がそれを克服するための最低賃金政策の発展をうながす。自然成長的には、この両者の
闘争と統一・相互浸透のなかで、現実の賃金闘争と賃金決定機構が構成される。このような傾向を析出し例証するこ
と、これが第二の課題である。
1第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 四九
一論 文一 、 五〇
資本の規模と蓄積条件が近似的であり、資本および労働力が自由に移動し競争しあうとすれば、賃率は平準化する。
しかし、現実には初発からこれらの条件がととのわず、しかも構造的または摩擦的な失業が再生産される。したがっ
て、資本の競争条件は不均等であり、労働市場は地方別および職業別などに分断され、賃率は広域的平準化をはばま
れ、労働力価値以下への分断的引き下げをヶけやすい。労働組合はこの傾向に対抗してできるだけ広域的な賃率のレ
ベル・アップをはかる。こうして標準賃率が成立すれば、それは逆に資本間の競争条件を均等化する役立ちをもつも
のとして資本蓄積機構にビルトインされうる。標準賃率は、資本間および労働者間競争の反労働者的作用に対抗して
労働力の標準的再生産費を確保するとともに、労働者と労働組合の統一を促進すべきものとして労働組合運動の基本
的課題となる。生産の集積・集中の不均等発展と独占の形成は、企業の生産様式と蓄積.競争条件ロ﹁支払能力﹂の
不均等化をつよめ、労働市場と賃金交渉目決定の企業別分断化の傾向をもちこみ、標準賃率の解体か、またはその極
端な引き下げのうえに、独占企業の誘惑的﹁高賃金﹂を上のせする。労働組合は、これに対抗しながら適応し、産業
別全国協約において標準賃率の機能を分化させ、一般的最低賃率によって最低生活費を確保するとともに、そのうえ
にのせる熟練度別・職種別の最低賃率によって同一労働同一賃金を確保しようとし、その枠ぐみのなかで企業.経営
別の賃金交渉をはかる.しかし、時間単位または出来高単位の最低賃率保障は、職場での就業や労働強度の変動、労
働編成の資本主導的改編によって最低賃金所得保障の意義をますます失うので、労働協約または立法によって日.週
・月単位の最低賃金所得を保障させることが不可欠となる。
炭鉱業は、特殊な産業である。たとえば、生産も鉱山地代や利潤も第一に炭層の賦存状態によって規定され、した
がって企業分布は地方的であり、企業の規模も蓄積条件も不均等である。それらの条件とともに、生産様式の特殊性
が、労働の特異性と労働市場の地方性等を規定する。したがってまた、賃金決定は、炭田別、企業別および坑・切羽
別に分断される。しかも、そのうえで炭田内と炭田間での資本問競争および労働者間競争によって、賃金水準変動が
波及する関係にある。それゆえ、ここでは本来の標準賃率が成立しがたく、最低賃金と同一労働同一賃金の成立も困
難である。先取りして附言すれば、炭価変動と炭田間競争の圧力による賃金変動の波及傾向によって、﹁生活賃金﹂
確保のための地区間統一賃金闘争が触発され、賃金変動率に下限を設定する統一的なミニマム条項が成立する。それ
によっては解決されない職場︵切羽ないし坑︶における賃金問題の先鋭化を契機として、統一最低賃金闘争が起動す
る。 ﹁生活賃金﹂確保のための統一協約闘争は、坑夫組合の全国的統一を促進し、主体的力量の増大によって全国的
炭鉱最低賃金のための統一闘争へ発展するのである。炭鉱業の特殊的諸条件のもとで標準賃率H最低賃率をめぐるい
かなる展開がみられたか。これを明らかにするのが、第三の課題である。
イギリスでは、しばしば自主的な団体交渉機構と調停仲裁機構が統合されていた。以上三つの論点にかかわって、
この調停仲裁がいかなる諸機能をはたしたか。これもまた明らかにされなければならない。
これらの課題にとりくむためには、イギリス炭鉱業の経済構造が把握されなければならないのであるが、他の機会
に論じた諸論点のうちからさしあたり不可欠な二論点だけを概括的に指示しておこう。
イギリスでは、石炭資源の地域的集中が欠如し、石炭賦存状態の多様な諸炭田が全国に分散した。鉱山地代が地表
地主に帰属する関係に規定されながら諸炭田に分散的に群在した企業・炭鉱は、いちじるしく地方・分散的で、存立
諸条件が多様であり、各地区内および地区間ではげしく競争しあいながら再生産された。したがって、独占の形成は
おくれた。採炭過程の機械化がおくれたことなどのため、イギリス炭鉱資本はいちじるしく有機的構成が低く、生産
一第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動: 五.一
一論 文− 五二
費のなかで賃金がしめる比重が異常に高く、賃金圧下、労働日の延長、労働強化への衝動がつよかった。炭鉱労働は
採炭過程を中心として危険な重筋的手労働が大きな比重をしめ、経験的熟練を要する採炭先山などを頂点として階層
序列的に編成された。しかし、労働過程の自然的、技術的および社会的諸条件は各炭田内でも多様であったが、地区
間、炭田間でははなはだしく多様であった。したがってまた、世代的に再生産されながら地方.分散的に群在した炭
鉱労働者の存在形態と労働諸条件は、とくに炭田・地区間で多様であり、炭田・地区間の労働者移動は困難であっ
た。このような資本と賃労働の存在形態に規定されて、雇主団体と労働組合は地方・分散的に形成され、炭鉱資本は
地方・分断的な賃金・労働諸条件の決定と労働支配を追求した。
イギリス炭鉱業は、世界市場への依存度がとくに高かったため、とくに炭価変動がはげしく、それによって資本蓄
積行程が撹乱された。炭鉱資本は、はげしい炭価・市況の変動に対して労働需要と賃金の調整によって適応したた
め、賃金争議が頻発した。炭鉱資本は、この矛盾を緩和させながら、地方・分断的な労働支配と賃金統制をはかるた
め、生産費中に決定的な比重をしめる賃金を地方・分断的に炭価にスライドさせる政策を、しつように追求した。こ
の傾向は、とくに輸出依存度が高く炭価変動がはげしい炭田.地区において強烈であった。
プ・・ーグー坑夫組合の成立
本稿の主題を考察するためには、労働協約・調停仲裁機構形成の歴史的および論理的前提として、イギリス炭鉱業
における労働組合の成立過程を確定しなければならない。ただし、ここでは、本稿の主題考察のためのプロローグに
とどめ、おもに賃労働の変遷にかかわらせて最小限の概観を行うことにする。
先進的発展をとげたイギリス炭鉱業において、ダラムとノーサンバランドは、すくなくとも一八世紀末までは独占
的地位をしめ、その後もしばらく優位をしめた。この地方の坑夫組合運動が一九世紀の七〇年代まで主導的地位をし
めたおもな根拠の一つは、そこにある。ロンドン市場への石炭供給を独占したニューキャスルの商業資本が炭鉱の所
有と経営に進出することによって、この地方で生産と資本の集積が先進的に発展した。資本家的石炭生産の発展にと
もない、炭鉱労働力確保の困難がまし、経済外的強制を附加して劣悪な労働諸条件のもとで坑夫を確保し炭鉱所有者
の専制支配を強化する制度がひろく行われた。この地方ではその一形態である一年契約制度︵鴫。貰ξωo且ω鴇・
什。ヨ︶が一七世紀に生成し、一八世紀に支配的になり、それがノーサンバランドでは一八四四年頃まで、ダラムでは
一八七二年まで残存した。ボンド・システムは、基本的には資本による前期的な拘束雇用と労働支配の手段でありな
ハ ロ
がら、他面では拘束の代償として一定の保障を伴わざるをえなかった。タインおよびウェア沿岸の炭鉱資本の独占的
地位は、ボンドの条件のなかにわずかながら賃金と就業の最低保障を規定することを可能にした。その結果、一般に炭
坑夫が異種族とみなされたほど劣悪な状態にあったなかで、この地方の坑夫は比較的良い状態にあった。しかし、一
九世紀にはいって同地方の独占的地位が失われるにつれて、ボンドは、その賃金・・就業保障的諸条件を撤回され、否
定的側面をつよめた。
パ ロ
とはいえ、なおしばらく維持された同地方石炭産業の相対的優位は、とくに採炭夫が労働貴族的地位を形成するの
を容易にした。それを媒介したのは、生産過程におけるかれらの特権的地位の形成である。古くは坑内運搬に従事し
たバロウマン︵σ巽3妻Bき︶の稼得高が、採炭夫のそれをはるかにこえていた。しかし、やがて坑内に木製軌道と馬
が導入され、一七五〇年頃には少年運搬夫が一般的に雇用され、かれらによるバロウマンの代替がすすめられた。さ
−第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 五三
1論 文− 五四
らに、一七八○年に坑内運搬に蒸気機関が使用されはじめた。この頃にじゅうらい運搬に従事した婦人の坑内就業が
消滅した。また、換気扉による換気がしだいに発展し、その開閉のために年少児童がひろく雇用されるにいたった。さ
らに重要なのは、採炭方式の変化である。一九世紀第三・四半期頃までは、支配的に残柱式採炭が行われたが、一八
世紀には、竪坑から鉱区境界に向けて狭い切羽を掘進し、それに交叉する坑道を採炭し、炭層の残柱を残したが、一
大世紀にはいって残柱も撤去し採炭するようになる。このばあい、切羽が狭く、一人または二人一組で採炭夫が掘進
した。しかも、残柱撤去はきわめて危険な労働であった。出来高労働を行うこのような採炭夫の労働形態は、かれら
が作業段取りの自律性と熟練を発展させ、自恃を高めるのを容易にした。かれらは年四回のくじ引きで自律的に就業
切羽を分配して企業の介入を排除し、かれらの地位を他の諸職種から切り離して強化するために分業を発展させた。
かれらは、最初、運搬夫等とほぼ同じ時間就業したが、やがて採炭労働を二交代制に分割し、運搬夫等にかれらの二
方にまたがる長時間の労働日を課した。こうして採炭夫のもとに少年運搬夫その他の補助労働者を従属させ、入職少
年が高給採炭夫に達するまでに多数の段階を経由し少数の者だけがそこに昇進する厳格な昇進制度と職能序列を発展
させた。とうぜん、昇進ルートにのらない低賃金補助労働者の数も増大した。その結果、職種間に顕著な賃金・労働
諸条件の格差が形成された。採炭夫の地位は、その性格からしてクラフトマンよりオペラティブとしての紡績工に類
パ ロ
似した。もちろん、このような諸関係の形成は、労働生産性と分断的労働支配・労資協調を発展させ、賃金コストの
増大を抑制するものとして、同地方の炭鉱資本の肯定するところであったであろう。このような関係を支えた残柱式
︵4︶
採炭は、同炭田では第一次大戦にいたるまで支配的に維持された。同大戦直後でも同炭田の採炭夫は、 ﹁他の諸地区
の坑夫を正式の坑夫としてよりはむしろ土方とみなしがちである﹂といわれた。イギリス坑夫組合運動のなかで、か
ハ レ
れらがもっともはやく安定的な労働組合組織を成立させることができ、しかもかれらの組合運動がクラフトユニオン
に類似する排他性と労働貴族的な日和見主義の傾向をもったのは、このような諸関係とかかわりがあったのである。
︵6︶
一八世紀末まで大地主の炭鉱主に労働者を隷属させる生涯拘束制度が法制的に強制されたスコットランドの諸炭田
や、産業革命以後急速に発展したイングランド中央部の諸炭田と南ウェールズ炭田では、北東部の炭田のような関係
は形成されなかった。生産と資本の集積度が低かったイングランド中央部と南ウェールズでは、やはり残柱式採炭が
行われたが、分業が発展せず、採炭夫さえ不熟練労働者群に埋没した。これらの地方では、産業革命期に労働力不足
に対応して婦人・児童労働が増加した。
がいして企業規模が小さかったこれらの地方では、タイン沿岸では一七世紀はじめにほぼ消滅したといわれる坑夫
による採炭団体請負制度が存続し、産業革命後にはいわゆるバッティ・システム︵σ耳芝亀ω霊ヨ︶に変質し、それが
普及していった。バッテイ・システムは、資金を確保した採炭夫が単独または二∼三人共同で炭鉱所有者から採炭を
下請し、みずからかなりの採炭夫などを雇用し、野蛮な監督によって採炭させ、炭鉱所有者による出来高払いと輩下
の坑夫への日給支払いとの差額を搾取するものであった。バッティは、初期には坑全体の採炭を請負う場合が多かっ
たようであるが、のちには長壁式炭鉱の一定の長さの切羽を請負い、炭鉱所有者の支持をうけて一九世紀なかば頃普
及し、やがてしだいに衰退し消滅していったようである。これらの地方では、残柱式から長壁式への部分的移行が比
ハマロ
較的はやくはじまったようである。長壁式採炭では残柱式と異なり切羽がながく、多数の坑夫の協業が可能であり、
監督も比較的容易である。このような条件が、バッティ・システムの普及を容易にしたであろう。また、小さな炭鉱
所有者が、困難で費用を要する労働力確保と坑内労働監督を代行するバッテイ・システムを歓迎.支持し、その導入
一第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 五五
1論 文一 五六
と維持をはかったのは、とうぜんである。
一八世紀の暴動的一揆的性格をおびた諸闘争、団結禁止法下の抑圧、同法撤廃後の坑夫組合運動の勃興とそれに対
する治安判事制度を駆使しての迫害、一八四〇年代におけるダラムとノーサンバランドを中心とする全国的な坑夫組
合組織の生成、一八四四年の大罷業の敗北とその後の坑夫組合消滅など、残酷な迫害とそれに対する戦闘的闘争に彩
パ ロ
られ浮沈にとんだ坑夫労働運動の史的展開はきわめて興味深いものではあるが、論述を割愛する。
パ ロ
さて、五〇年代末から一八七三年におよぶ炭価上昇傾向が、坑夫組合の確立を容易にした。たたかいのなかから一八
五八年に南ヨークシア坑夫組合︵ω霊9属。詩ω匡お蜜ぎ段ω.︾ω80置菖8︶が成立し︵一八六四年確立説も有力︶、
ハリロ
六〇年代に恒久的な諸地区組合と全国組織が成立した。一八六三年に、衰退したボンド.システムの再強制に抵抗す
るたたかいのなかから、ダラムとノーサンバランドにまたがる組合が誕生した。しかし、ダラム地区がボンド.シス
テムに屈服したため、ノーサンバランドの坑夫たちはそれから分離して独自の組合をつくった。屈服したダラムでは
組合が消滅し、 一八六九年にいたってようやく組合が復活した。この両組合︵20誹言BσR寅&客ぎ段ω、匡5轟一
炭鉱所有者による組合承認を求めた。この二組合は、同地方の四〇年代までの組合とは異なり、採炭夫中心の排他的
〇〇旨薗。導>霧8壁ユ8旧Uロ旨四目言置Rω.>の80置ユ8︶の指導部は、 ストライキを嫌って労資協調につとめ、
ハれロ
な組合であり、クラフト・ユニオンと類似の政策をとり、炭鉱資本との協調によって未熟練労働者の犠牲のうえに採
せロ
炭夫の特権的地位を維持しようとした。かれらの組織が中心となって、 ﹁全国坑夫組合﹂︵Z緯一8巴>ωの9一〇〇二目9
00鼻=ヨ。き鳥マ9竃冒oHω90お讐卑置ぎ︶という連合組織が一八六三年のリーズ大会で実質的に確立された
のであるが、この大会で、後年のダラムの指導者クロフォード︵妻屋富BO鍔毛8&︶は、 ﹁かれの地区では八時間
ハむロ
法案を実施できない。かれは少年に一日一〇時間、成人に六時間労働させることを欲した﹂と議事録に記された発一言
を行った。二〇世紀初頭まで北東部二組合が頑強に八時間労働日法案に反対しつづけたのは、法定八時間労働日が、
坑内労働における採炭夫の特権的地位を少年の長時間労働によって支え労資協調をはかる組合の排他的政策を、根底
からくつがえすものであったからである。
別稿で分析されたように、イギリス炭鉱業では、一般に採炭夫の出来高賃金の決定を中心として、賃金.労働諸条
件が坑別または切羽別に交渉され決定されたため、坑夫たちは採炭夫を中心として坑レベルの職場組織である坑支部
︵且二&鴨︶に結集する傾向にあった。超経営的な坑夫組合は、この坑支部を基礎組織とすることになる。坑夫組合
は、この国のこの産業の地方・分散的な再生産構造と労働市場に規定されて、地方.分散的に、不均等に、多様な過
程をたど2て形成されることになった。それらの地区組合は、炭鉱所有者の迫害、バッティの妨害、排他的労働貴族的
バッテイ制度廃絶のためにストライキをもってたたかうとともに、坑夫代表が採炭出来高の坑口査定に立ち合い不
ハせレ
な北東部の坑夫組合による坑夫組合運動支配に制約されて、弱小かつ分散的であった。しかし、それらの地区組合は、
ハじロ
正をチェックする制度の確立につとめた。この坑夫代表の坑口重量照査係︵O訂畠毛虫讐。弓90げ①。犀毛ユ讐日。。ロ︶
制度は、一八六〇年法をはじめとする数度の立法と、山元における迫害との頑強なたたかいのなかで獲得され、かつ
て広範に行われた坑口での不正検量の廃絶に貢献し、坑夫組合に多くのすぐれた職場活動家と組合幹部候補を供給す
ることに瓜額。坑夫たちは、じりじりとこれらのたたかいをすすめることによって、職場における資本の恣意的専断
的な搾取と分断的な専制支配をつきくずし、坑支部を強化・拡大し、そのうえに坑夫組合を強化.拡大していったの
である。
1第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 五七
;論 文− 五八
労働諸条件に対する自律的規制力を有しないそれらの組合は、鉱山保安取締り強化のみならず、法定八時間労働日、
坑口重量照査係制度など、法的規制による労働諸条件の改善と資本の専制支配排除のために積極的に活動した。ゆる
い連合組織である全国坑夫組合はもっぱら議会運動に偏り、卓越せる創立者A・マクドナルド︵︾一〇首邑R匡8&・
冨匡︶亡きあとは、セクト的な北東部の二組合の支配があらわになった。市況変動はげしく、資本がとくに保守的な
炭鉱業では、争議が頻発し、全国坑夫組合が争議支援を忌避したため、それに対抗して争議支援と共闘を中心的目的
とする中央集権的組織﹁合同坑夫組合﹂︵>ヨ巴鴨日2&>器09讐一89三日震ω︶がランカシアを中心として創設
され、おもに同地方以南の諸地方に支部を拡大した。しかし、それは、大不況のもとで、南ウェールズの争議を支援
したために受けた打撃を契機にして、急速に衰退するにいたる。
ともあれ、以下にみるように、大不況による苛烈な試練をくぐって八○年代後半に坑夫組合運動が高揚し、反動化
した全国坑夫組合に対抗してM・F・G・Bが成立し発展してゆくが、それは北東部二組合による坑夫組合運動支配
の崩壊過程であり、ランカシアとヨークシアの組合などへの主導権の移行過程である。この北東部坑夫組合運動の地
位の凋落と孤立化は、不均等発展による同地方炭田の優位の喪失と、採炭方式の残柱式から長壁式へのぜんじ的移行
を背景としたのである。
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@﹃一∼ooN⋮いq一Zo許庁罷こ<〇一・目一℃P一㎝O∼0き。“国、娼。>﹃ロ05>国富8り団。一什ゴ。ωoo拝一ωけロ竃ぎ。目㎝・一〇㎝ヌ︵>︻コo1
︵6︶ スコットランドのいわゆる炭鉱奴隷制度については、次のものを参照されたい。↓.oゆ、>ω拝8きα匂.嫁ぎ㎝腎一げ一ユ・唱マ
︵5︶国名。ぎ。目口﹂三江‘℃一S
︵4︶甲。。﹂Φ<。量穿・田け一ωゴ。。巴ギ銭ρ一8。も論。9
け偉材鴫︸ 一〇㎝ω暫 ℃唱・ 刈O∼﹃一●
@>ωぎ。帥巳いω旨。ω㍉甕・扇﹄.>旨。“円げ。蚕昌。話1>ぎ8昌。=冨峯震の.問注。§一8。一9婁望砕身
︵8︶ たとえば次の文献参照。冒野田mB目8ユ彗αω胃σ貰m=四目ヨ8阜↓訂の匠貸巴ピ帥げ。彗R旨。。O一一〇。8レ80旧θψ
什げO OO”一 H昌α信ωけ同属︸ 一〇Nω幅 ℃℃‘Oω∼0“●
︵7︶↓●幹>畳。言温いω青ω葛一αも■一一ω一=■ψず。β喜も℃・ωω?ωF験ふ9い揖間男薯。慧御職。のぎ
ωoo三号三 ぎ 。 冨 と 略 記 ︶ O マ ω ∼ 一 〇 〇 、
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︵10︶ ゆ。四目αo臨月﹁斡血。︵いmげ。ロ﹃Uo唱四耳目。⇒けy 国。℃o旨σ網什﹃oO琢。︷■mげ。β﹁Oo﹃﹃o¢℃◎昌匹。コけoh什﹃o切。ロ︻ユ。賄↓り口αoo昌
一〇〇僻︸ O。 一q.
︵9︶串︾9。寮≧彗ぎ葦&︾和字。言。・8レ諄弩鴫。3珪昌々§qぎ諺ωぎ8奮。モ。=し。。。。㌣§ρ
ギリスにおける労働者階級の状態﹄。
1第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 五九
(“
一論 文1 . 六〇
︵12︶ 鼻糞↓ξ ロ R ﹂ 三 α ・ 唱 り 一 〇 〇 〇 ∼ O O ●
︵13︶ 宅。σσしσ置こマωO“●
︵14︶ ﹁この時期の炭鉱業労働組合運動のより一般的な不安定性は、北東地方の坑夫たちの貴族的な諸傾向と結びついている。﹂
鍔>●↓ロヨR﹂獣α‘℃.HooO●
︵15︶ ﹁それは一連のストライキによって廃止された。﹂甲ω●蜜<8ω﹂寓εマ器“・
︵16︶ 採炭夫の出来高を認定するための会社代理人による坑口での採掘炭検量は、罰金制度と結合して恣意的な搾取強化と専制
支配の槓杆として運用された。ウェッブは、それに対する一八五九年の南ヨークシア坑夫組合の闘い、一八六〇年法による
チェックウェイアー︵Oぎ臭毛色讐R︶制度の不十分な法認とそれに対する資本の頑強な抵抗、全国坑夫組合による議会運
動、一八七二年法による改善と一八八七年法による確立と一九一一年法による確認を指摘し、そしてその制度が一方的恣意
的検量を規制し、分断的専制支配を制限し、坑支部に常任の組合の活動家を提供してその強化・確立を促進し、有能な組合
活動家の潤沢な補給源、その訓練所として機能し、坑夫組合運動の強化・発展に測りしれぬ貢献をなしたことを指摘してい
る。︵R・≦害ダま一α・署・ωO躯∼ω8︶典型的な南ヨークシアの歴史的事例について、宰彗犀言8露P↓ぼ嘱95げ冒。
蜜ぎ。田1>霞幕gざ ぎド一”這㎝oo、℃Pω8∼器Oを参照。
二 販売価格スライディング・スケール協約の成立と展開
世界市場独占の基礎上で、イギリス労働組合は組織力をますとともに資本によって肯定されるべき性格をまし、六
〇年代以降使用者たちによってひろく労資協調的団体交渉の相手として承認される。炭鉱業では、まず南ヨークシア
坑夫組合が、書記長ノーマンセル︵甘﹃29葺き器εの指導と掌握のもとに一八六六年以降炭鉱所有者側と団体交
渉関係に入った。所有者たちがこの組合を承認むたのは、この組合が組織的に定着し交渉力をまし、しかもノーマン
セルの指導のもとに中央集権的労資協調的交渉が可能となっていたからである。ここでは、一般的賃金を協議し規
制するとともに個々の炭坑の紛争を処理する労資の﹁合同委員会﹂︵喜8。§蜂。。︶、菱.び苦情﹁付託制度﹂
︵毯き。寒畳。§︸︸︶が用竃敷・イサンバランドのfト︵ぎヨ四ω穿け︶とダラムのクロフオト
は、労資協調的政策によって組合の承認を求めていたが、ノーサンバランドの組合は一八七一年に、ダラムの組合は
翌年に承認された。ここでは、より明確な仲裁機能をもつ﹁合同委員会﹂が、労資協調的な団体交渉ロ調停仲裁機関
として活動しはじめた。
ハ ロ
イギリス炭鉱資本は、販売価格スライディング・スケールによる賃金水準規制を基本的な賃金政策とした。その原
因としてつぎのような関係があげられるであろう。イギリス炭鉱業では、資本の有機的構成がとくに低く、生産費に
しめる賃金コストの比重がきわめて高かったため、賃金をめぐる労資対抗関係が鋭かった。そのうえ、イギリス炭鉱
業は、輸出炭田を中心に世界市場に決定的に依存したので、輸出炭田を中心に市場の諸条件の変動と石炭価格の変動
がはげしく、はげしい炭価変動が資本蓄積行程を撹乱し、とくに投下可変資本量の変動をはげしくし、その結果とし
てひんぱんにはげしい賃金闘争を誘発した。このような事情のもとで、炭鉱資本は、輸出炭田を中心に、労資協調的
に賃金水準の調整と抑制をはかるために、販売価格スライディング・スケールによる賃金規制を頑強に追求すること
になる。しかも、分数的で集団的統制力にとぼしい炭鉱資本は、この賃金政策課題を坑夫組合組織をとりこんで追求
するために販売価格スライディング・スケール協約の締結と強制をはかり、それによってあわせて幼弱な諸坑夫組合
の去勢・御用組合化をはかることになる。
一第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 六一
1論 文− 六二
︵3︶
販売価格スライディング・スケール協約は、一八七三年にはじまり一八七九年に底をついた大不況による石炭価格
暴落の時期に、地区別にほぼ一般的に導入される。同協約展開の全過程をいち目すれば、主要な諸炭田中ダラム、ノ
ーサンバランド、南ウェールズにおいてそれがもっともながく行われたことが明らかである。南ウェールズでは一九
〇三年まで行われた。世界市場に決定的に依存するこれら輸出地区において石炭価格がもっとも激動し、同協約が導
入・維持されるべき経済的必然性がもっとも強力に作用したのである。
ノーサンバランドとダラムでは、組合指導部が価格下落による賃金下落にもかかわらずスライディング・スケール
パ レ
の導入を歓迎し、所有者側と協調して最低賃金に反対した。
定着しつつあった合同坑夫組合の南ウェールズ支部を粉砕しようとした一八七四年の賃下げを要求してのロックア
ウトは、坑夫たちの抵抗の敗北に帰し、坑夫側がスライディング・スケールの導入と一二・五。ハセント賃下げを申し
出たことにより、五ケ月後に妥結した。この過程で指導権を握るにいたった自由主義的労資協調派は、熱烈に﹁労資
間の利害一致﹂を説き、所有者側に自発的に同調して最低賃金に反対し、販売価格スライディング・スケールを擁護
した。
︵田︶
ハ ロ
例示のために、一八七五年に締結された第一次南ウェールズ・スライディング・スケール協約を抄訳して紹介すれ
ば、つぎのとおりである。
南ウェールズ炭坑協会評議会と協会内の炭坑の労働者側代表団とのあいだで一八七五年五月二八日に締結され、一八七五年一
〇月二八日付で他の協約によって修正された協約にもとづき、つぎのことが同意された。五月三一日以降九ケ月経過後、前記諸
炭坑における賃率のいかなる変更も、石炭の販売価格によって規制される賃金のスライディング・スケールに従うべきである。
そのスケール計画は一〇人の合同委員会によって協定されるべきである。同委員会は賃上げ、賃下げの通告がなされる前に会合
を開くべきであり、そしてもしも合同委員会がかかる賃金のスライディング・スケール計画の基礎またはその細則に関して決定
することができないならば、解決を仲裁者に付託すべきであり、かれの裁定は最終的なものとされる。いずれかの側の六ケ月前
の解約予告によってスライディング・スケール協約が終結されることが、この計画の一条件とされる。
︵合同委員会一〇名の氏名、中略︶
われわれ合同委員会は、われわれに付託された諸問題に関連し、それにもとづいてわれわれが決定すべきである事実と事情を
十分に調査・検討し、かかる諸協定およびわれわれに付与された権限に従って、基礎、計画またはスケール、および後記のその
細則に関して全会一致で協定に達したので、ここに最終的決定として公表する。
ω 若干の炭坑で支払われるべき最低賃金は、一八六九年に同炭坑で支払われた価格の五パーセント増とする。なお、それは
イギリス・トンで調整され、つぎのように決定される。
スチーム炭炭坑については、アバデア谿谷の上四フィート炭層の採炭価格を基準とする。
マンマスシアとカェアピリ地区の瀝青炭炭坑についてはミニディスルインおよびティラリ炭層の採炭価格を基準とする。
クロスハンド、カリフォアニア、カウダおよびヘンダフォガンの炭坑を除き、ニースおよびスウォンシー地区の全炭坑をふく
むグラマガンシアの瀝青炭炭鉱に関しては、第三ローンダ炭層の採炭価格を基準とする。
ω 若干の炭層⋮⋮すなわちアバデア谿谷の上四フィート炭層、ミニディスルインおよびティラリ炭層、第三ローンダ炭層に
おいて支払われる賃金の最低基準は、前述のように、一八六九年にそれらについて支払われた諸採炭価格に五パーセントを加え
たものであり、それらは、カーディフ、ニューポート、スウォンシーの諸港から積出される数銘柄の炭坑選炭済塊炭のつぎの最
低正販売価格に対応する賃金とする。
スチーム炭 一 ト ン 当 り 二 一 シ リ ン ダ
ー第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動一■ 六三
1論 文1 . 六四
密旨三会ωξ旨の且目一げ↓網Oo巴一トン当り一一シリング
Z900閃ぎ且鼠Oo巴一トン当り一一シリング
③ 前記の最低販売価格、および最低採炭価格と最低賃金は、臨時的生計費、屋賃等に関する労働者たちの全要求も、炭鉱規
制法による採炭費増加に関する所有者たちの諸要求をもふくむものとする。
㈲ 下記のごとく決定される一八七六年一月一日以後支払われる賃金は、つぎのスケールによって規制される。すなわち、カ
ーディフ、スウォンシー、ニューポートの諸港から積み出される炭坑選炭済塊炭にたいして得られた諸平均正価格が第二条にお
けるそれぞれの最低価格を一トン当り一シリング越えるとただちに、その後の六ケ月間労働者たちに支払われる賃金は、最低賃
金の七・五パーセントひき上げられ、最高限二]シリングまで販売価格が各一シリング騰貴するごとに同じように七・五パーセ
ントひき上げられる。⋮⋮そしてさきに第二項で述べられたニヲリング・ネットおよび一一シリングの最低まで、賃金はまた
同じスケールに従ってひき下げられることが了解された。
㈲ 一八七五年の一一月と一二月にカーディフ、スウォンシー、ニューポートで積み出される数銘柄の炭坑選炭済塊炭の平均
販売価格は、一八七六年一月一日に始まり六月三日に終る六ケ月間、前記のスケールに従って支払賃金を決定するものとする。
その期間の終り、および一二月一三日と六月三〇日で終るその後の各半年間の終りに、所有者たちの帳簿は、所有者たちと労働
者たちによって任命される会計士たちによって監査されるものとする。そして先行する六ケ月間に⋮⋮船積み価格として得られ
た平均正価格は、つぎの六ケ月間の賃金を決定するものとする。
⑥ 前記の諸炭層を採炭する諸炭坑において、指示された若干の基準によっていかなる賃下げまたは賃上げがなされまうと
も、⋮−若干の炭層において現存するものと同じ相対的賃金が維持されるように、それらの炭坑が属するグループに応じて同じ
百分率の賃下げまたは賃上げが協会内の他のすべての炭坑に適用される、ということが了解された。
︵署名者名略︶
この協約は、船積み価格を販売価格とし、特定の最低販売価格に対応させて最低の採炭賃率を特定し、横断的協約
賃率︵一般的賃金頭。口R鉱名品。︶の水準を販売価格の騰落に協定スケールに従って自動的にスライドさせ、一八六
九年に各炭坑で支払われた賃率を基準賃率とし、それに附加されるその百分率の変動によって協約賃率水準の変動を
表現するものであった。合同委員会は炭価と百分率の変動を確認するにとどまり、団体交渉の余地はほとんどなかっ
た。各合同委員会の調停仲裁機構によって争議防止をはかり、坑夫組合の賃金闘争機能をその自動的賃金決定機能に
吸収して坑夫組合の去勢と解体をはかっている。持続的な価格下落を特徴とする大不況期に販売価格スライディング
・スケールを採用したことは、賃下げを保障するものであった。ここに規定された最低採炭価格はほとんど最低賃金
としての機能をはたしえず、大不況下における﹁底なし﹂の賃下げが制度的に用意されたのである。
パフロ
南ウェールズの協約は、さらに一八八○年に改悪され、一八六九年賃率より低い一八七九年賃率を基準賃率とされ、
基準以下への賃下げが承認された。また、 ﹁ダラムの最初のスケールが最低を有したことは事実であるが、第二のも
ハ ロ
のは有しなかったし、ヨークシアとミッドランドのそれらも大部分有しなかった﹂といわれる。たしかに、ダラムの
一八七七年のスケールは最低をそなえたが、不況のなかでその最低さえ破られた。一八七九年所有者側が最低のない
新スケールを提案したとき、坑夫たちはそれにストライキで抵抗したが、クロフォードは最低のないスケールを呑ま
せ、その後も最低賃金原則を放棄しつづけた。 ﹁これらのスケールには、賃金がそれをこえて下落しえない限界がな
ハ ロ
かっ船団と、ローが正当に総括したが、この点に炭鉱資本の要求のもっともあらわな貫徹形態がみられ、生活賃金”
最低賃金原則に対立する販売価格スライディング・スケール協約の決定的な特徴がある。
大不況期におけるこれらの協約の実施は、諸坑夫組合の勢力弱化に依拠して行われ、やがてそれらの組合をほとん
−第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 六五
一論 文一 六六
ど壊滅状態に追いやり、底なしの賃下げによって坑夫たちを飢餓的窮乏に追いやった。南ウェールズでは、一八八七年
末までに賃率が一八六九年のそれの七・五。パーセント減となり、坑夫側の組織的活動としては、スライディング.ス
ケール委員会の坑夫代表を選出し、その費用を組合費として会社を通じて強制的に控除するだけとなり、坑夫組合の
︵n︶
組織と活動は実質的に消滅した。一八七三年に通常一日九シリンダー・五ペンス稼いだノーサンバランドの坑夫の賃
金は一八八○年に一日四シリング九ペンスに低下し、組合員数も七五年の一七、五六一人から八O年の一〇、七〇七人
に減少し、ダラムでは、組合員が三万八千人から三万人に減少した。同地方では、失業増大と労働組合弱化のもとで、
ハレロ
協約を無視した個別的賃下げが進められ、引き下げられた協約賃率さえ事実上最高賃率に転化された。この傾向は、
他の諸地方でも同様であったであろう。他の諸炭田の組合弱化ははるかに深刻であり、たとえばヨークシアでは、就
業者六万人中組合員は二八○○人に減退した。一八七九年には合同坑夫組合が消滅した。ランカシアのごときは、当
時約二〇の小組合に分裂していた。
ハロロ
このような労働者状態の悪化は、必然的に不満と批判を増大させた。間接的に確認できる批判の一つは、これらの
パせロ
協約による賃金の暴落に対する坑夫達の﹁底なしだ!﹂という批判である。また、販売価格が﹁炭鉱所有者の賃金支
払能力﹂の唯一の指標ではなく、販売量の増加によって、さらに南ウェールズでは協約から除外された粉炭の価格騰
ヤ ヤ
貴によって利得をえているという批判、またこれらの協約によって容易にされた賃下げをてことして低価格販売、販
︵15︶
売量増加がはかられているという批判、が行われた。
一八八○年代初頭の短い市況好転期に、輸出価格変動の影響がすくなく、労働諸条件が輸出炭田ほど極端に多様で
ないという条件をもつイングランド中央部において、わずかながら坑夫組合運動の前進がみられた。一八八O年にダ
ービとノッチンガムに新しい州組合が結成され、翌年ストライキの波のなかからランカシア坑夫連合が誕生した。そ
の年、ヨークシア坑夫組合が新スケール協約の締結を拒否し、スライディング・スケール反対でそのあとに続いたラ
ンカシアと提携して周辺の諸州組合を賃上げのための統一闘争に組織し、全般的賃上げを獲得した。
しかし、ふたたび市況が悪化し、賃下げと組織破壊の攻撃がすすみ、それに抵抗しようとする坑夫たちの統一闘争
の試みはつぎつぎと挫折した。組織弱化のもとで、.労働日短縮による石炭供給の制限によって利潤と賃金の増加をは
︵16︶
かるかれらの政策も、成果がなかった。坑夫たちは、極度の窮乏のうちに苦難の数年を過した。
窮乏化のもとで、スライディング・スケールに対する反対がいっそう増大した。一八八五年にスライディング.ス
ケール反対、八時間労働日の確立を目的として、 ミッドランド坑夫連合︵蜜窪きα蜜ぎ。お.国a忠讐一8︶が結成さ
ハルロ
れた。W・アブラハム︵≦∈壁目︾σ睡冨ヨ︶らの協力に支えられて、 スライディング.スケール協約が維持された
ルロ
南ウェールズでも、それに対する反対と統一の要求が増大していった。ノーサンバランドとダラムでも、最初からス
六七
ライディング・スケールに不満をもったといわれる坑夫たちの同密約と組合指導部の労資協調的政策に対する反対が
蜀寓即。臣Pま盈G廿Poo“O∼ω㎝一■
パのロ
ますます増大し、抑えがたくなっていった。
︵1︶
︵2︶ 国・譲。一σo仁構Pま置昌唱マ旨㎝∼ω9一“㎝∼㎝P
︵4︶ 譲。げダ一玄ユ‘Pω“O一国●名〇一σo¢旨、等箆‘Ob.一ミ∼oo一.
︵3︶ ≦o喜﹂獣8℃マお㎝∼8の一覧表参照。
︵5︶ Z,国α箋貰αω、一σ一α‘℃P①oo∼謡階噴9000∼ooS
1第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動1
文一
同協約全文 @2。臣器三ωし琶・もマ謬∼曾>ヨ。こ甕■モ。=”℃℃・。。。。もρ
国α類国包ωし露α‘℃Pミ●
@ 1論
︵6︶
︵7︶
︵8︶
︵10︶
︵9︶
@ ω鼠三亀一。<。β日箒甲淳一跨Oo包⇒呂。し8ρo●&“。・
零〇一σO信目口層一げ一αこ ℃℃、 一〇一∼一〇僻、
髯男■国。毒、項諾窃ぎ菩。Oo四二且島貫ざ一。卜。ω、マωρ
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≦。き2旨し玄負箸﹂OどNω癖・
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︵12︶
@一。。。。。ム。一合目。。刈も﹄﹂ω、曾蝉壽びダぎα・の三巴u昏8§ざ一8。も℃・馨ム一・
閃。αo田鼠◎ロ
︵n︶
izい顕界客
地方・分散的に生成した諸地方組合を個別的に分断的にとらえた販売価格スライディング.スケール協約は、大不
況下に石炭価格暴落の重圧を坑夫に転嫁し、坑夫組合の去勢・解体を促進して資本の分断的専制支配を強め、坑夫の
窮乏化を促進した。このような現実は、スライディング・スケール協約の廃棄、分散.弱化した坑夫組合運動の再建
と統一強化・全国的組織結成の欲求を増大させた。しかし、一八八五∼八七年にくり返された試みは成功しなかった。
ダラムとノーサンバランドを拠点とした全国坑夫組合の指導部は、とくに八時間労働法の要求に反対し、スライディ
ング・スケールを固執して、イングランド中央部の諸組合と対立した。窮乏にあえぐ坑夫大衆の状態を改善するため
には、自由主義的労資協調体制とその一環たるスライディング・スケールに反対し統一闘争を遂行する統一行動組織
の確立が、不可欠であった。その条件はイングランド中央部の諸炭田においてもっとも成熟しつつあった。この地方
の諸組合は、バッティ・システムとたたかってそれを後退させていた。ここでは国内市場への依存度が高いため、輸
出依存度の高い炭田より炭価変動が小さく、スライディング・スケール協約の廃棄がより容易であり、坑内諸条件が
比較的類似し、地理的に近接したため、統一行動を組織しやすかった。さらに、工業地帯と隣接したため、工業労働
ハエロ
者の新組合主義的動向の影響をうけやすかったであろう。
一八八八年夏以降、急速な石炭価格の騰貴、生産増加、労働力需要の増加、失業減少、炭鉱への農村労働力の殺到
が生じた。同年八月、賃上げを拒否されたヨークシアの坑夫たちは統一闘争を決意し、ヨークシア坑夫組合の書記長
ベン・ピッカード︵初雪=oざ旨︶が一〇。パーセント賃上げのための統一闘争を準備する会議を、 ﹁現在スライディ
ング・スケールから解放されている全坑夫﹂に呼びかけた。ランカシア、ダービ、ノッチンガム、レスタシア、スタ
tリングシアの諸組合とミッドランドの五小組合の参加をえた大会は、一〇パーセント賃上げ要求を提出すること、
1第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動t 六九
1論 文− 七〇
拒否に対するストライキを全体で支援することを決定した。デンビとヨークシアのストライキをへて、全般的に一〇
パーセント賃上げが獲得された。この最初の画期的な統一闘争は、ピツカードが、 ﹁われわれは統一によって賃上げ
をえた。われわれは統一によってそれを維持するだろう﹂と総括したように、統一の重要性を認識させ、統一組織の
礎石を築いた。ランカシアの提案で開かれ、ダラムをのぞくすべての地区代表が参加した翌年三月の坑夫全国大会
は、一〇。パーセントの賃上げを要求する闘争を決定した。要求を拒否されたランカシア、サマセットなどは、非組合
員にも争議手当を支給してストライキをたたかった。その結果、大部分が二回分割払いではあるが、全地区が一〇。ハ
ハ ロ
ーセント賃上げを獲得した。
このような統一行動の発展を基礎として、一八八九年二月二六目開催の大会は、 ﹁本大会はここにグレイト.ブ
リテン坑夫連合︵寓言Rω、閃8R跨一990話髪切ユ壁貫︶の結成に同意する﹂、という歴史的決議を採択し、全会一
致でつぎの七項目の目的を決定した。①基金の設置。⑧職業と賃金の検討、坑夫全般の擁護。⑥鉱山立法の確保。㈹
職業・賃金および立法問題に関する大会の召集。⑤入坑から出坑まで八時間の坑内労働日の要求と獲得。⑥三名以上
の災害死亡事故に際し審問を扱い監視すること。①三人以上の死傷に対する補償獲得。この結成に参加したのが大部
分イングランド中央部の諸組合であったのは、とうぜんである。
さらに、同大会は、参加したすべての地区において一律一〇パーセントの賃上げを要求し、拒否されたばあいスト
ライキに入ることを決定した。その結果、二週間以内に三小地区をのぞくすべての地区で要求が達成された。同年一
二月に全国坑夫組合と訣別したM・F・G・Bは、翌年一月の第一回年次大会をへて、二月一五日に全坑内労働者に
ついて一〇パーセントの賃上げを獲得するための統一闘争を決定した。交渉決裂にともない、ヨークシア、ランカシ
第 1 表
s驚援瀦叢揚幕㌶霧鍛矧鍛㌶懇
設珊珊場2・珊ぽ珊2・3・曙眠僻甥珊3・珊6・6・珊穿珊6・兄
H℃
弩2・舞2・2・珊巽藩論叢叢修講舞舞鍔元
才蜀劣劣悪鐙甥垢珊珊珊珊隅隅鰐弱甥瑚弼6・甥
ーラ
ンド
サン
ぎ委孤段兜珊。・兜舞舞講話釜講乃
ノバ
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コン
ツ 一
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スラ西
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離調
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1第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動−
縷羅羅驚灘難器棚繍罷
年
m2・舶㈹犯菊月3・3・3・賜菊覧6・兜菊船舶菊男男児知和男あ茄
Colliery Year Book,1926,pp.665,712.
七
船 積
蜀15019439096692706108
(R.P.Arnot,The Miners,vo11,P・303より転載)
トン
ーノレズ
ダラム
南ウェ
100万
百 分 率
1879年をこえる百分率
畦畔をこえる
1
採炭夫 の 賃金
価
炭
一論 文− 七二
ア、ダービシア、レスタシアの一一万人弱の坑夫が統一ストライキを決行した。所有者側の申し入れにより、三月二
〇日、M・F・G・Bと関係全地区の所有者側代表団とのあいだで初の統一交渉が開かれ、即時五。パーセント賃上
げ、八月第一週に五パーセン賃上げという分割賃上げの条件で妥結した。M・F・G・Bを成立させた積極的な統一
賃金闘争の発展は、第一に四〇パーセントという大幅賃上げを実現した。ちなみに、炭価、採炭夫賃率、生産高の推
移を概括的に示す第1表を転載する。さらに、積極的な統一賃金闘争の推進は、M・F・G・Bに結集したイングラ
を規制する統一交渉の当事者として、M・F・G・Bを承認させたのである。
ンド中央部の、のちに﹁連合地域﹂︵勺。αR讐a湊8帥︶とよばれた広い地域における一般的賃金︵鴨目窪巴名品。︶
パ ロ
統一闘争を通じて統一行動のための連合組織としてM・F・G・Bが確立する過程は、同時にそれに参加した諸地
区坑夫組合の確立と強化を可能にした。とくに、それまで坑支部という職場組織が稀薄で弱体であった地域で、その確
立をうながした。たとえば、ダービシアでは、それまで大部分の炭坑で団体交渉による出来高単価表の協定が行われ
ておらず、切羽労働者さえ大部分が恣意的搾取をうけていた。ダービシア坑夫組合︵ORσ窃窪お寓冒。お、︾ω80壁ー
ユ8︶は、一八八九年からすべての炭坑に協定単価表を導入するキャンペーンをはじめ、しだいにそれを拡大してい
つた。また、一八八九年以前には、どの地区でも、坑支部と坑夫組合が切羽労働者しか組織しておらず、他の坑内労
ハィロ
働者とほとんどすべての坑外労働者が未組織のままであり、したがってまた炭鉱所有者の恣意的搾取にさらされてき
ハ り
た。ところが、後述の一八九四年協約締結時には、M・F・G・B傘下諸地区組合が多くの坑外労働者を組織してい
た。それゆえ、M・F・G・Bの成立は、諸地方組合の産業別連合という方向においてばかりでなく、それを通じて
全職種包括的な産業別組織化という方向においても、イギリス炭鉱業における産業別組合成立の端初を成したのであ
る。
M・F・G・Bの生成・確立期は、大不況のもとでのイギリス労働者階級の特権的地位の動揺と窮乏化、社会主義
の復活と一八八九年を画期とする新組合主義運動の発展の時期にあたり、この頃、自由主義的労資協調政策に対する
ロ
批判と新組合主義的気運が高まっていた。 ﹁社会主義団体に参加した坑夫の数は少数にすぎなかった﹂が、組合組織
の解体がもっとも深刻な諸州でその影響がもっとも大きく、組合員大衆の絶望的な状態と変革を求める気分の増大が
組合指導者たちにも影響したというアーノットの論述は、納得的である。このよゲな基盤のうえで、ブルジョア的な
パマロ
思想と政策に埋没した旧組合主義者の政策に反対し、統一闘争をもって生活賃金をかちとるM.F.G.Bが成立し
たのである。それゆえ、M・F・G・Bの成立は、部分的には社会主義の復活や新組合主義に影響されたのではある
が、その直接的結果ではなく、むしろそれらの土台となった労働者状態の悪化と自由主義的労資協調主義への不満.
反発、具体的にはスライディング・スケールに対する反対などを基盤とする多分に自然成長的な闘争発展の成果であ
ったであろう。とはいえ、M・F・G・Bの成立は、深刻な窮乏状態にあった坑夫大衆の切実な諸要求を出発点と
し、ピッカード会長の熟練坑夫だけを擁護するセクト的姿勢にもかかわらず、客観的には全炭鉱労働者の統一を指向
ハ ロ
したのであるから、すくなくとも客観的には新組合主義と共通の階級的契機を有し、両者の結合は比較的容易であっ
た。しかし、M・F・G・Bが新組合主義に合流するには法定八時間労働日問題という政治的契機を媒介にしなけれ
ばならなかった。
地主的土地所有によって制約され、有機的構成が低く絶対的剰余価値生産の要求がしれつな炭鉱資本が、長時間労
働日を強制しつづけ、さらに坑内労働がもっとも危険かつ肉体消磨的であるため、坑夫の労働日短縮要求はとくに強
一第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動一 七三
1論 文− 七四
かっ︵混。そして社会的には不熟練労働者とみなされたかれらの組合組織はながく苛酷な抑圧のもとにあり、組合運動
が定着したのちも極度に分散的であったため、おのずから立法による労働日短縮を要求する運動に傾斜した。歴史の
古い坑夫組合運動の法定八時間労働日運動も、ながく自由主義の呪縛から脱脚しえなかった。すなわち、婦人.児童
ハゆロ
労働日の法的規制要求を決定した一八六三年の全国坑夫組合大会の討論にあらわれた路線は、七〇年代にはいってい
っそう明確に需給論を根拠とする供給制限手段としての八時間労働日要求運動に継承・純化され、八○年代にいた
る。ケア・ハーディ︵囚。雪国四巳δ︶の八時間労働法運動は、このような自由主義的運動に対抗するものであった。
戦闘的な統一賃金闘争の発展は、四〇。パーセントもの賃上げとM・F・G・Bの生成・確立という画期的な成果をあ
げ、こうした画期的な統一の前進を体現し坑内八時間労働法獲得を中心スローガンとするM・F.G.Bが活動しは
じめ、運動は新たな飛躍を迎えた。M・F・G・Bは、当初ストライキと立法によってそれを獲得しようとしたが、
そのための統一ストライキはダラム、ノーサンバランドの反対と南ウェールズの消極的態度によって、すなわちま
だ克服しえなかった坑夫組合運動の分裂によって不可能となり、議会運動が中心になった。T.U・C内では、社会
主義者グループが法定八時間労働日問題をめぐって旧組合主義派に対する攻撃を強化し、一八八九年大会で全般的法
定八時間労働日を主張したが、惨敗した。そのとき、M・F・G・B加盟諸組合代表は社会主義者グループに反対
し、ブロードハースト︵=9受卑。区言誘け︶議長と議会委員会を支持し、炭鉱労働の特殊性を強調して炭鉱八時間
労働法案制定の動議を可決させた。法案準備を指示された議会委員会は、ダラムの組合指導者らの旧組合主義者たち
が占拠していたため、それを怠った。翌一八九〇年四月の坑夫連合大会は議会委員会を非難した。同年九月のT.U
・C大会において、じゅうらい地方組合が個別的に参加していたのを改め、M・F・G・Bが全体としてまとまって
参加kその議会委員会批判の動議が完敗したのを契機にして全般的法定八時間労働日の要求に賛成投票した。その
ハれロ ヤ
結果、史上有名な八時間法制定要求決議が成立した。このようにしてM・F.G.Bは新組合主義を支持する最大の
組織となり、新組合主義の発展に貢献した。マルクスが﹁一般的な政治行動﹂によってのみ達成できるとのべ そし
て新組合主義の中心ス・ーガンであった全般的八時間労働法を、M・F・G.Bが支持するにいたったことは、坑夫
大衆の意識の変化を反映するものではあったであろうが、それはただちにM.F.G.Bが自由主義の呪縛から解放
されたことを意味しない。その指導者たちがいぜん自由党に参加しつづけたことに注目しなければならない。こうし
た坑夫組合運動の自然成長性と理論性の欠如は、イギリス労働運動一般に固有の特徴を分有するものである。
ともあれ、創立を一八八八年とするウェッブによれば、M・F・G・Bは一八八八年三万六千人、翌年九万六千人、
い国、白⋮帥暴’↓琴uRξの耳。峯器量一8ρ℃﹄㎝P甲︾Ω。oq幹≧目切。図師区>・男用ロ。田富。p>田曾。﹃嘱
働組織を凌駕した﹂といわれた。
一八九一年一四万七千人、一八九三年二〇万人以上と組合員数を増加させ、 ﹁その強大さにおいて現存のすべての労
ハど
︵1︶
ohωユけ拡げ↓冨αoO旨。昌のω冒8一〇〇QoP<oピど一8♪℃■一〇ρ
︵2 ︶ 以上の経過はおもに>ヨ。什﹂三“ぎ一、ど℃PooOtooど8∼O♪3∼一宮による。
︵3 ︶ おもにHσすも。﹂2∼嵩Oによった。
︵4 ︶ 匂.国譲三富目ω﹂三α4一8鉾マω8.
たとえばン野寓。旨8m昌αP↓舞9↓ぽ切葺冨げピ筈。畦寓。括目。旨旨一890ダ<︸<5℃戸一㎝㎝∼一〇〇“参照。
︵5 ︶ 鼻︾9品幹≧m昌閏。×国&>・国↓ぎヨ楊g﹂匡αこ署・嵩O∼ニド
七五
︵6︶
−第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動1
1論 文一 七六
︵7︶︾ヨoρ登山も︿o一■H幅唱pお∼o。O■
︵8︶R憲⋮奮。=冨。。鼠一算一。ロ国。巽α﹄一>轟﹂。。。ごぎΩ。器﹄。図の且醤§℃㎝。昌﹂三α‘戸旨ρ
︵9︶ 各地区の炭鉱労働日の多様な実態とその歴史的推移については、戸国8a日ざ弩αト国≦臣一四ヨρ月げ。竃一コ。誘きα
90同苗鐸■=o霞U塁︸一〇〇8∼這一9↓富国8昌。日8鵠置8豊国。≦oヨωgoロαoD震8ρ<9‘図FZgN参照。
︵10︶ Oh譲 。 σ σ ﹂ び 箆 ‘ 唱 や ω O ω ∼ O 野
︵n︶R>旨。“一匿‘︿。一・一もマ旨。ふご閑ε。旨。=訂↓妻。昌昌ω。8注>9琶⇒毘窃qロ一90。品﹃。ωのし。。。。。一
幻80旨。団坐。↓妻窪昌・↓げ一包>コ昌巴↓貝器。のご菖808讐窃ωしooOρ
︵12︶ 名。σ豆ま箆‘PωO介
四 連合地域調停委員会協約の成立
スライディング・スケールによる組織破壊と窮乏化を克服するための統一賃金闘争のなかから誕生したM.F.G
・Bは、スライディング・スケールに反対してストライキを武器とする統一闘争によって積極的に賃上げをはかる政
策をとり、まだ明示的に最低賃金要求を綱領に掲げなかったとはいえ、生活賃金政策を政策基調とした。騰貴しつづ
けた石炭価格が一八九一年以降下降に転じたとき、M・F・G・Bは最初のおおきな試練に遭遇した。一八九〇年に
第四次のスライディング・スケールを締結したばかりの南ウェールズの坑夫たちは、翌年、所有者側の改悪的な改訂
ハェロ
要求をうけ、M・F・G・Bの拒否勧告にさからって新スケールを受諾し、炭価下落を転嫁されて持続的な賃下げを
うけた。一八八七年にスライディング・スケール協約を廃棄したノーサンバランドの組合も、五パーセント賃下げを
認めた・い等価雫蓬論拠とする賃下げ要求の受蓼批判し蒙ら、M・F・G.Bの生活賃金政策をより明確
に提起しなければならなかった。一八九二年一月のM・F,・G・Bの年次大会で、副会長S・ウッヅ︵ω節目譲。。αω︶
は、南ウェールズをきびしく批判し、スライディング・スケールに絶対反対し、いかなる商況においても生活保障の
パ ロ
ために自力でたたかう旨の原則的立場を明らかにした。
とはいえ・炭鉱資本の分断的攻撃に連合内外のすべての地区の統一行動をもって対決しようとしたM.G.F.B
が、未加盟地区不参加のまま単独でとった最初の戦術は、一週間の統一休業によってストックを一掃し、価格と賃金
の下落を阻止しようとする戦術であった。ブルジョア的需給論の影響をうけた戦術ではあったが、九二年三月一二日
以降一週間の完ぺきな統一行動は、M・F・G・Bの団結と組織力を示威することになり、所有者たちを激怒させ、
畏怖さ迩琴。これと同時にはじまった所有者側の一〇。パーセント賃下げ要求によるダラムのロックアウトは、M.F
・G・Bが賦課金を徴収し争議費の三分の二以上を送って支援したにもかかわらず、一二週間後に坑夫たちの敗北に
帰し.規。これを契機にダラムはM・F・G・Bに加盟した。しかし、その指導者は、M.F.G.Bの政策に反対し
つづけた。ほどなくノーサンバランドも加盟した。連合地域をのぞくすべての地区が賃下げをうけた。いまや、M.
F・G・Bの賃金政策に沿って全国的統一をはかることが緊急の課題となり、全国的統一がはかられたが、ダラムの
指導部の反対がそれをさまたげた。連合地域内でも、賃下げとロックアウトが各個撃破的にすすめられた。M.F.
G・Bの指導部は、石炭供給制限政策を追求した。さきの九二年三月の統一休業完了直後の大会は、週五日労働制
の採用を勧告した。しかし、この戦術は実行が困難ということで、八月二七日に放棄された。M.F.G.B執行部
パ レ
は、九三年二月一〇日に再度供給制限のための全国統一休業を課題とする全国大会の開催を提案したが、M.F.G
−第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 七七
1論 文− 七八
・B内でもこの戦術に反対する組合が多く、二月二八目から二日間の臨時全国大会において、週四目労働という代替
︵6︶
案ともども否決された。供給制限政策の破産である。
個別的攻撃がますます増大したのち、六月三〇日の交渉会議で連合地域の所有者連合は、炭価の三五パーセント下
落を理由に二五パーセントの全般的賃下げを要求し、仲裁付託を提案した。なお、所有者側代表はその際、連合地域
外の賃下げが連合地域の競争条件を悪化させ、連合地域外の諸地区の生産が増加し市場を侵食している、とのべた。
賃金切り下げの地区間波及傾向として注目すべきである。M・F・G・Bは、賃下げ要求に対する態度決定を組合員
投票にかけ、ダラムとノーサンバランドをのぞく全地区が拒否を表明したので、七月一二目に正式の拒否回答を行い、
開戦の決意を示した。七月二六日に連合地域のロックアウトが開始され、それに応じて約三〇万人の炭鉱労働者を包
︵t︶
合する統一ストライキが開始され、坑夫組合運動史上かつてない大争議に発展した。
賃下げ要求拒否を決定した臨時大会︵七月一九、二〇日︶は、すでに賃下げをうけた地区は過去二年間の賃下げ分
の賃上げを要求するストライキのための組合員投票を行うべしとする決議を採択した。八月二二、二三目の臨時大会
までにノーサンバランドやスコットランドなどはすでに戦線から離脱していた。この臨時大会は、決議不履行のダラ
ム坑夫組合の除名を決定し、 ﹁炭鉱所有者たちが二五パーセント賃下げ通告を撤回するならば、われわれはただちに
ハ レ
就業を再開し、価格が一八九〇年水準に達するまでは賃上げを要求しないことを誓約する﹂という最初の譲歩条件を
明らかにする決議を採択した。所有者団体はこれを拒否したが、かれらの一部は旧賃率での就業を申し出た。M・F
・G・Bは、九月なかばの大会でこれを拒否したが、二週間後に旧賃率での就業を認め、就業者への賦課金を罷業者
支援にあてることにした。ヨークシアのフェザストンの一炭坑で組合支部との協定を破って積出しを継続したため九
月七日に衝突が生じた。支配人の警官派遣要請をうけた治安判事は軍隊出動を決定し、その進駐に憤激した群衆に対
ハ ロ
し一七一四年暴動取締法の適用を宣言して発砲させ、二人を射殺、六人を負傷させた。議会内外で政府の責任が追及
され、坑夫たちへの同情が強まった。いたる所に進駐した警察・軍隊と対峙して坑夫たちはたたかいつづけた。
ニケ月経過しても交渉が開かれず、石炭不足が深刻に感じられ、坑夫家族の窮迫が深まった。労働組合運動と協同
組合運動の坑夫支持麦援運動がひろがつ︵解?クシアと隣接諸州の市長たちのあっ旋疑るδ月九目の労資合
同会議は、妥結に達しなかった。一〇月三日に坑夫連合は、 ﹁われわれはここに旧条件での就業再開に同意し、そし
パれレ
て復職後ただちに炭鉱所有者たちと会合し、現存するような産業の混乱を防止する手段を試み考察する用意がある﹂
と決議し、調停委員会設置に道を開くにいたる第二の譲歩を申し出た。
マンデラ︵︾い冨巨富ま︶商務相のあっ旋で開かれた一一月三、四目の労資合同会議において、すでに譲歩を用
意していた所有者側は、まず賃金の一五。パーセント控除分を銀行に預託し、争議解決を仲裁に委ね、その裁定によっ
て預託金をも処理することを提案した。坑夫側は、それを拒否し、一八九四年四月一目まで旧賃率を維持すること、
一八八八年一月一目の賃率の三〇パーセント増の最低賃金率を設けること、一八九四年四月一日以降賃率の決定にあ
たる調停委員会を設置することを提案した。所有者側は、坑夫連合が創立後はじめて明確に提起したこの最低賃金要
求にたいし、前例がないとして拒否したうえで、労資同数の代表と両者から独立の決定投票権をもつ議長によって構
成され、就業再開後の賃率と一般的賃金問題を扱う調停委員会の設置を提案した。坑夫側はこのような仲裁制に反対
ロロ
し、交渉がゆき詰まった。組合員投票も所有者側提案を拒否した。
商務相のその後の折衝によって調停の成立が確実になったので、グラドストン︵ミ・国O一器ωε器︶首相は、ロー
−第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 七九
一論 文− 八○
ズベリ卿︵ぎ&幻。絡げR蔓︶を議長とする会合への代表派遣を労資双方に要請した。史上前例のない政府の調停介
入であった。一一月一七日に外務省で開かれた会議で、労資双方はローズベリ卿のつぎのような解決案に同意し、署
パむロ
名した。翌日のM・F・G・B大会がこれを承認し、四ケ月にわたった歴史的大争議が終結した。
一、同数の炭鉱所有者代表および坑夫代表各一四人によって構成され、最低一年間継続する調停委員会をただちに設置する。か
れらはかれらの会合において外部から議長を選出することに努力し、もしそれに失敗すれぱ下院議長に指名を依頼する。
議長は決定投票権を有するものとする。
設置されたとき、委員会は、一八九四年二月一日以降時どき賃率を決定する権限をもつ。
第一回の会合は、一八九三年二一月ニ二日水曜日にウェストミンスター・パレス.ホテルで開かれる。
二、坑夫たちは、一八九四年二月一日まで旧賃率でただちに就業を再開する。可能なかぎりすべての炭鉱がただちに操業を再開
すること、そして可能なかぎり人びとの労働復帰にいっさい障害を設けないことが同意される。
パせロ
このローズベリ協定に沿って交渉が重ねられ、意見不一致のため下院議長が指名した議長、シャンド卿︵ぎ邑
ω冨巳︶のもとで翌一八九四年四月三目に開かれた第四回会議において、つぎのような﹁連合地域石炭業調停委員会﹂
︵↓訂閃8&亀Oo琴巨象一〇ロh2夢oOo巴円建号9些。閃a震緯&9の鼠。誘︶の規約を決定した。同規約を抄
︵15︶
訳して紹介しておこう。
一、委員会は、﹁連合地域石炭業調停委員会﹂と称する。
二、委員会は、一八九四年二月一日以降賃率を時どき決定する。
三、委員会は、同数の炭鉱所有者たち、または連合炭鉱所有者︵局&霞緯豊Oo巴6譲幕議︶によって選出される炭鉱所有者代
表、および坑夫たちまたはM・F・G・Bによって選出される坑夫代表によって、すなわちそれぞれ一四人によって、それに
決定投票権を有する外部からの議長を加えて、構成される。 ︵中略︶
一一、生じうるあらゆる困難または対立をもし可能ならば協調的な会合によって解決することが当事者たちの希望であり意図で
あるので、あらゆる問題は、まず第一に、委員会に提出され、委員会によって検討される。もし委員会の当事者たちが同意に
達しない場合は、会合を一二日間をこえない期間休会にし、係争中の問題を当事者双方の選挙人たちの討議に付す。そして問
題が再討議されるとき再会された会合に双方の書記によって議長が召喚される。そして委員会で当事者たちによる協定が成立
しない場合、議長はその会合においてその問題に対して最終的かつ拘束的なかれの決定投票をなすものとする。 ︵二一∼一四
省略︶
連合地域調停委員会は、炭価下落のもとで協約賃率の引き下げを審議させようとする所有者側と開催手続違反を主
張する坑夫側とのやりとりをへて、妥結協約案をまとめ、双方の下部討議に付したうえで、九四年七月一九目の会議
で正式に議題とし決定した。ダービシアの組合員投票では半数近くが反対票を投じ、M.F.G.B大会でいくつか
の地区が反対投票を行ったことから明らかなように、炭価下落のもとで賃下げをもたらすつぎの協約は、労働者たち
が満足して受諾したものではなかった。成立した協約は、つぎのとおりである。これで一八九三年争議は正式に妥結
︵16︶
した。
一、一八九四年八月一日から、最近の各五。パーセントの二度の賃上げを取り去ることによって、現在の賃金率が引き下げられ
る。そして、一八九六年一月一日まで賃金はその賃率にとどまる。
二、一八九四年八月一日から二年間、賃金率は一八八八年の賃金率の三〇パーセント増を下まわってはならないし、その四五パ
ーセント増を超過してもならない。
三、一八九六年一月一日から一八九六年八月一日まで、賃金率は、上述の限界内で、調停委員会によって決定される。
一第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 八一
1論 文一 八二
四、調停委員会は、一八九四年八月一日から二年間、この目的のために継続する。
一八九三年の大争議におけるM・F・G・Bのたたかいとその妥結協約は、大局的にはつぎのように評価できるで
あろう。
一八九三年闘争においてその組織と政策をかけてたたかったM・F・G・Bは、所有者側のスライディング.スケ
ール的賃下げ攻撃を打破して画期的な勝利を収めた。それは、当時、坑夫連合の強化、坑夫の全国的統一の前進に貢
献し、最低賃金原則を具体化し、かつてドック・ストライキに示された労働者階級の団結のいっそう完全な再現であ
りコ九世紀最大の重大事件である﹂と評価されたものである。たしかに、社会的には不熟練階層とみなされた労働
パルレ
者の組織であるM・F・G・Bは、競争領域を可能な限りひろく統一するストライキをもって生活賃金確保のために
たたかい、炭鉱業における労働者状態と階級関係をひろく認識させて労働運動の広範な支持を獲得し、坑夫大衆の生
活擁護と組織的統一の前進に大きく貢献した。この点において、かれらのたたかいは新組合主義運動を継承し、後退
期のイギリス労働組合運動を支えたのである。さらに、M・F・G・Bは、この闘争によって労資協調的スライディ
ング・スケール政策に決定的な打撃を与え、戦闘的な統一闘争によって生活賃金H最低賃金を獲得する政策が労働者
階級の生活擁護と統一の強化のために不可欠であることを示した。それは、ダラム、ノーサンバランドと南ウェール
ズの組合指導部の日和見主義的政策の破産を事実をもって証明し、M・F・G・Bのもとへの坑夫の全国的な結集.
統一を準備し、イギリス労働組合運動の成長とその賃金政策の発展に貢献したのである。
M・F・G・Bが一八九三年闘争を通じて獲得した一八八八年基準賃率の三〇パーセント増という形態での炭鉱業
協約史上画期的な最低賃金条項は、それ以下に協約百分率が低下するのを阻止するものであった。それによってかつ
てスライディング.スケール協約のもとで分断的に決定されたイングランド中央部の広範な領域の賃金を統一的に防
衛する手段が確保された。事実、その後二年間の炭価下落期にも、他の諸炭田におけるあいつぐ賃下げにもかかわら
ず、連合地域ではこの最低賃金水準が維持されたのである。
とはいえ、このような賃金防衛機構を包含しながらも、仲裁制をともなった調停委員会は、前述のように、資本の
要求によって導入されたものである。調停委員会とその協約によってM・F・G・Bをそれに緊縛し、平和義務を課
してその最大の武器である統一賃金闘争を一定期間不可能にし、その指導部を坑夫大衆からひきはなして調停委員会
におけるかけひきに埋没させ、このようにして坑夫たちを資本の分断支配のもとに隷属させ、加盟諸組合を分散させ
てM.F.G・Bの統一を破壊し、その去勢・弱化をはかるものであった。調停仲裁機構としての調停委員会は、こ
のように資本主義の一般的環境のもとでは、労資協調と資本の労働者支配を促進するとともに、同時に資本による賃
金統制機構となる傾向がある。協約の最高賃金規定に端的にあらわれた資本の賃金統制的意図は、具体的なスケール
の欠如と最低賃金規定をのぞけば、販売価格スライディング・スケール賃金決定機構とほとんど同じである調停委員
会とその協約のシステムに体現されている。このような協約賃金規制は、当時の資本の集積・集中の程度とその形態
のもとで、大企業の小企業に対する寄生と規制を強めることによって、超過利潤取得の強化をはかる大資本の志向を
貫徹するものでもあった。
さらに、この調停委員会とその協約が、自由主義段階における政府の最初の調停介入を媒介として成立したことに
も注目しなければならない。自由党政府は、坑夫組合運動史上かつてなく大規模な一八九三年闘争によってブルジョ
ア的経済社会秩序を撹乱されるにいたったとき、そのうちにM・F・G・Bの要求を抱合させながら自主的調停仲裁
−第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 八三
1論 文一 八四
機構によって産業平和と賃金統制をはかる炭鉱資本の計画の導入を援助し、もって争議妥結と炭鉱資本の労働支配の
回復・補強、自由主義的支配体制のもとへの炭坑夫とその組合の緊縛をはかったのである。このような炭鉱労働政策
は、イギリスにおける労働政策の一般的発展傾向の個別的表現であった。原則として賃金決定の領域に直接介入する
ことをしない自由放任主義をとってきたイギリスの国家権力は、大不況のもとで、その特権的地位の経済的基礎を奪
われ窮乏化した労働者階級の反抗が増大し、争議がますます大規模化したとき、その政策の部分的修正をよぎなくさ
パハロ
れた。すなわち、諸産業における三者構成の調停仲裁委員会の形態をとる自主的団体交渉.賃金規制機構の発展に依
拠して産業平和を支持し促進するため、一八九一年に王立委員会を任命し、その報告にもとづいて﹁一八九六年調停
法﹂︵Oo蓉ま&8>o什﹂o。OO︶を成立させるにいたる。同法は、自主的調停仲裁機構を積極的に支持.助成し、それ
を補うものとして国家の任意的調停仲裁を導入せんとするものであった。このような労資協調促進政策が第一次大戦
にいたるまで追求されるのである。一八九三年炭鉱業大争議によって最初の機会を与えられた国家の労働争議に対す
ハぬロ
る調停介入は、その後しだいに増加した。労資関係に対する国家の役割は、なお自由主義的な調停介入の形態を保持
しながらも、増大していったのである。 .
︵1︶ >︻ロ。“ωo葺ゴ≦巴。ω︼≦冒Rの辱℃P団oo∼NO・
︵2︶ >﹃poρま達こく。一、朗唱●8μ
>ヨ
“一三α‘<oピ朗℃℃●田ω∼一〇〇・
国巽〇一げ。ロHp9ヲ崔こoF図<H、℃マNOO∼o
o。㎝
︵3︶ >︻目oρ一σ崔4<o一。H層づ唱‘曽一∼一ド
︵4︶
︵5︶ い国譲崔匿ヨ即3往こ℃℃・ω一〇∼ミ・
>旨。け﹂げ達こ<o一、一一〇ワ器Nヒ8。
一
次
世
界
大
戦
前
の
イ
ギ
リ
ス
炭
鉱
業
に
お
け
る
賃
金
決
定
機
構
と
労
働
組
合
運
動
1
八五
一第
五 調停委員会協約の展開
い㎝O俸OO≦oけこoFωO.“o#aぎ名・鼠=記出口一一〇ざ↓旨Oo¢旨8Uoeヨ8β同旨P℃P卜09∼㎝8
〇〇
8o“
O︷●ω彗<o網。賄Hロα拐一員口口α↓旨号”ω畦<o鴇oh宮山拐什二巴国。富国。ロ9一89℃七■謡“∼㎝3、Oopo臣餌ユ。一目
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O目。毛夢。団団ユニゆげHpα仁ω賃一匹国色緯一〇pω一一〇㎝PoF白。
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毛Oロ、
い口σo仁冨、↓ロ目p冒に勺。﹃“マ旨oo。
経緯と妥結協約案についてはい鼻≦三訂日の﹂瓢8℃ロ●ωま∼畠を見よ。
規約全文、>旨。叶﹂玄α。ぎピど℃℃・8ω∼①伊
第一回から第三回までの会談の経過については、卜国名産すヨμま達‘℃Pω&∼aを見よ。
>︻⇒o“一玄α‘<〇一.ど℃℃。N蟄∼㎝鉾
>旨。け﹂σ達‘<o一.H、℃PRO∼お一一・国●≦幽一=節目のしげ孟‘℃コきω零∼oo¢・
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>ヨ。戸ま置こ<〇一﹂㌧唱㌘器①∼酷一この事件は長く語りつがれ、第二次大戦後も坑夫たちによって追憶された。
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一論 文− 八六
一八九四年以降の調停委員会とその協約の展開史を坑夫組合運動史にかかわらしめて考察するとき、三つの時期に
区分されるであろう。まず、ピッカード会長死去︵一九〇四年二月︶頃までを第一期とする。M.F.G.Bは生活
賃金政策を追求した。その後、一九一〇年頃までを第二期とする。M・F・G・Bはスライディング.スケール政策
に屈服していった。その後は、一九一二年炭鉱全国ストライキを頂点とする大攻勢期であり、この第三期に先行する
調停委員会協約体制による労資協調、資本の支配強化と賃金統制,搾取強化の矛盾が爆発し、その敵対的矛盾のあら
われ日貧困化を克服しようとする大統一闘争によってM・F・G・Bが飛躍的に前進する時期である。ここでは、第
二期までが扱われる。
M・F・G・Bは、一方で炭鉱八時間労働法の制定運動をしつようにつづけながら、二〇世紀初頭までは生活賃金
政策を追求し、販売価格スライディング・スケールに反対し生活賃金の確保をはかるとともに、未加盟地方組織の賃
金闘争を支援して坑夫組合運動の統一を前進させた。まず、統一協約地域である連合地域の調停委員会と協約の動向
から見ておこう。一八九四年協約によって協約賃金が決定されたのち、九六年まで調停委員会が開かれなかった。協
約期間終了を前にして、坑夫側を代表してピッカードが、九四年協約と同じ条件でさらに二、三年間調停委員会と協
約を継続することを提案したのに対し、所有者側は、協約なしで、つまり最低賃金条項を協定せずに、調停委員会を
更新し、ただちに賃金を一〇パーセント引き下げることを要求した。賃下げ要求の論拠は、連合地域外の賃下げであ
った。これに対し、M・F・G・B執行部は、 ﹁所有者側の提案は実際上も論理的にも調停的スライディング.スケ
ールを意味する﹂とし、 ﹁われわれは連合地域内の坑夫たちに生活賃金のためにたたかうために一人のように団結す
るように訴える﹂という言葉で結ぶ断固たる拒否回答を行った。一八九三年の大闘争の記憶が生なましいなかで脅威
パよ
を感じたであろう所有者たちは、その要求をくり返さなかった。その結果、一八九八年まで調停委員会は設置され
ず、協約賃金は引き下げられなかった。
M・F・G・Bは、同時に未加盟地域の闘争を支援して生活賃金のための共闘を拡大しながら、組織的統一を前進
させた。M・F・G・Bは、一八九三年闘争に刺激され鼓舞されたスコットランドの坑夫たちが一八九四年にスコッ
トランド坑夫連合︵oD8葺筈蜜ぎ。お.問&R讐ごβ︶を創立して同地方坑夫組合運動の統一と組織強化をはかりM.
F・G・Bに加盟するのを援助し、その年の賃下げ攻撃に反対する同地のストライキを連合地域の賃金水準で全国の
炭鉱賃金を標準化し防衛するために支援した。このストライキは敗北し、M.F.G.B執行部が連合地域の一〇。パ
ーセント賃下げ協定に見合う賃下げで妥協するよう指示したことが激しい批判と分裂をひきおこし、闘争の敗北を促
進したといわれるが、このたたかいをとおしてスコットランドの坑夫は統一闘争の経験を得、M.F.G.Bへの統
一を確定したので劾都。また、M・F・G・Bは、ながくスライディング・スケールのもとに坑夫組合運動を圧殺さ
れ劣悪な賃金・労働諸条件に呻吟してきた南ウェールズの坑夫たちがスライディング.スケールの廃止と賃上げを
した南ウェールズ坑夫連合︵ω2チ妻巴8蜜ぎRω.男巴R魯一8︶をその翌年に加盟させた。なお、ケア.ハーディ
要求して立ちあがった一八九八年の闘争を支援し、その争議には敗れながらたたかいのなかから統一組織として誕生
ハ ロ
︵宣旨露訳Φマ=四三一〇︶は、エアシアを中心にスコットランドの坑夫組合づくりとその統一のために大きな貢献をな
パ や
し、また南ウェールズの一八九七年闘争に招かれて参加し、これらの地方に団結と階級思想の種子をまいた。
M・F・G・Bは、八時間法制定等のためにも、生活賃金の獲得と防衛のためにも、このように連合地域外の諸炭田
に坑夫組合を確立し、M・F・G・Bのもとに統一しなければならなかった。イギリス炭鉱業において顕著な地区間
一第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動一 八七
−論 文− 八八
競争が競争しあう全国の諸炭田に局地的な賃下げを波及させ、競争的な賃下げを誘発する関係にあったからである。
それゆえ、生活賃金の獲得と防衛、標準賃金確保のためには、まず未組織か組織弱体な地方の坑夫組合を確立.強化
し、M・F・G・Bへの統一をはかり、賃金闘争において支援と共闘を強化しなければならなかったのである。そし
てそのうえで、団体交渉・団体協約による規制を坑内夫全体と坑外夫に拡大しながら、全国に拡大し、統一協約闘争
をはかり、さらに産業別全国統一協約と統一最低賃金の確立をめざすことになる。その端初はこの時期にあらわれた。
くめられ、協約による賃上げが適用された。しかし、坑内に働く少年と坑夫外はともに協約百分率の基礎とされた基
一九〇一年一月一日から三ケ年有効の連合地域の新協約において、はじめて坑外夫がとくにとりあげられて協約にふ
ハ じ
礎賃率︵σ器8霜囲。︶がなく、 一八九四年協約段階からかれらの賃金規制が係争問題となっていたのであり、かれ
ソ
らの基礎賃率確定の課題は一九一二年ストライキののちに実現されることになる。もう一つの動きは、諸協約を同時
期に満期解約し統一的協約交渉を実現せんとする試みである。M・F・G・Bは、一九〇一年の年次大会︵エジンバ
ラ︶においてスコットランド坑夫連合の提案でこの問題をとりあげ、翌年一〇月の年次大会︵サウスポート︶におい
て、連合地域の現行協約が満期となる一九〇三年末以後にわたる賃金協約の締結を拒否することによって﹁全地区に
対する最低賃金﹂の獲得と既存の最低賃金の改善のために統一行動をとることを勧告する決議を採択した。勧告形式
自体のうちにその困難があらわれていたのであるが、とくに南ウェールズ坑夫連合はスライディング.スケールを廃
止したばかりで、組織力と交渉力が弱かったし、その指導部の政策も妥協的であったため、所有者側からの三ケ年期
間の新協約締結要求に対してたたかわずに屈服してしまい、このもっとも弱い環での挫折によってM.F.G.B全
体の協約交渉を統一しようとする政策は挫折した。この不均等発展と地方.分散性というイギリス炭坑夫組合運動の
ハマロ
決定的特徴を克服しようとする方向での統一交渉の具体化は、一九一〇年以降の大攻勢期をまたなければならなかっ
た。
M・F・G・Bの生活賃金政策は、この組織の生誕を決定づけその規約第二〇条に表現された全国的統一闘争を決
定的な武器とした。ところが、地方分断的な調停委員会とその協約は、団体交渉を地方別に分断し、室内の平和的協
議にとじこめ、やがてその仲裁機能の強化によってストライキを阻止し、統一的ストライキなどまったく不可能にす
る。この傾向は一九世紀末からあらわれはじめ、やがてM・F・G・B指導部の政策を変質させ、生活賃金政策の放
棄にみちびく。この傾向は、一般的な流れの特殊な表現でもあった。大不況脱出後のイギリス資本主義の帝国主義的
な発展と繁栄は、ブルジョアジーと国家の労資協調政策を促進した。大不況末期の労組破壊の企図をふくむ大資本中
心の労組攻撃は、新組合主義的傾向に大打撃を与えたが、イギリス資本の分散性と労組の伝統的抵抗力に制約され、
労資関係はさしあたり労働協約による承認・統制関係の拡充・整備に妥協的な解決形態を見いだした。大不況脱出後
における自主的な労働協約と調停仲裁の推進は、労資関係と労組指導部の労資協調化、労組指導部をとりこむ労資同
盟による労働者大衆の統制と賃金統制にみちびき、物価騰貴と結合した実質賃金水準の低下、職場での抑圧と搾取の
強化、失業増大などを促進し、労働者大衆の不満を累増させ、一九一〇年以降の大攻勢の大衆的基盤を準備する。例
外的に資本集中度が高く労組が相対的に弱い産業類型における労資関係と労働政策を代表した鉄道業の係争事件に対
して行われ争議権一般の重大な侵害にみちびいたタッフ・ヴェイル判決を契機として、イギリス労働者階級は労働者
代表委員会ロ労働党に政治的に結集したが、その労働党はいまふたたび﹁自由党のしっぽ﹂と化しつつあった。レー
ニンが﹁ロイド・ジョージ主義﹂と名づけた自由党政府の画期的な社会改良政策の推進は、 コ九〇九年賃金委員会
−第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動一 八九
1論 文− 九〇
法﹂︵↓冨8閃8包の>呂お8︶などとともに、一九〇八年の炭鉱八時間労働法︵Oo包寓言8閑£玉鉾一8︾o“
ハ ロ
一80。︶の成立を容易にし、労資関係と労働運動のこのような傾向を促進した。
炭鉱業においても、イギリス帝国主義の発展はイギリス炭の市場、とくに輸出市場を急速に拡大し、それによって一
九世紀末以降炭鉱労働者一人当り生産の低下をもたらしていたイギリス炭鉱業の構造的矛盾が緩和.いんぺいされ、
炭鉱資本の政策貫徹が支えられた。すなわち、炭鉱資本は、好況下に調停委員会協約体制を推進することによって、
大不況期に比べれば賃金水準を高位に保ちながら、M・F・G・Bの統一賃金闘争機能の停止・剥奪、その分散化と
去勢・弱化、炭鉱資本の分断的労働支配の再建・強化のもとでの労資協調と賃金統制を追求した。調停委員会とその
協約に託されたこのような諸課題は、第二期においてとりわけ坑夫組合指導部が労資協調化し、調停委員会の調停仲
裁機能が拡充され、調停委員会とその協約がスライディング・スケール的賃金決定機構に転化することによって実現
されていく。
ピッカード会長死去にともない。一九〇四年にE・エドワーヅ︵国ぎ島国α毛国乱ω︶が会長に、W.アブラハムが
財政係に任ぜられ、病身で活動不能のS・ウッヅが出身組合が推薦しないにもかかわらず﹁社会主義者﹂R.スマイ
リー︵勾。σo詳ooヨ⋮o︶の就任を阻止するために副会長に留任させられたのちはとくに、M・F・G・B執行部は組
合員大衆から遊離して調停委員会に埋没し、労資協調と産業平和につとめた。
一九〇二年以降調停委員会議長による決定投票制が実際に導入され、一定の裁定原則︵初期には利潤と支払能力の
指標として炭価と産出高が採られた︶にもとづいて決定投票がくり返された。さらに、一九〇四年に所有者側の要求
パ ロ
によって議長にさしもどし権が与えられることによって議長の仲裁機能がいっそう強化された。
すでに一九〇三年一一月に連合地域調停委員会の炭鉱所有者代表が手続規則改訂をともなう五年間の新調停委員会
を提案したとき、その規則案のなかに議長のさしもどし権とともに賃金と炭価を相関させることを明記しており、こ
れに対し労働者側代表が合意を与えたが、各地区の組合員討議によって反対され、未成立に終った。しかし、一九〇
四年一月一日から三年間の新調停委員会協約においては、議長にさしもどし権が付与されるとともに、所有者側の厳
密な販売価格スライディング・スケール導入の主張を緩和させ、 ﹁委員会が継続するあいだ販売価格は賃率に照応さ
せられる。ただし、販売価格の変動は委員会の決定にとって唯一の要因ではなく、一つの要因にすぎない。どちらの
側も・販売価格の変動があっても賃金率を改めるべきでないとするいかなる理由をも提起することができる﹂、と協
定され︵姻・なるほど・一九〇七年一二月の五パーセント賃上げ裁定に際して、議長はなおも、生産増加が﹁問題の決
りれり
定において−石炭の販売価格とともに1非常に重要な要因﹂である、と説明している。
いっそうの展開は、スコットランドの一九〇九年争議を媒介にして行われた。スコットランドでは、一八九四年争
議の敗北ののち、組合員数と組織率が激減し、賃金が大幅に切り下げられた。スコットランドの所有者たちは、よう
やく一八九九年にいたってスコットランド坑夫連合︵S・M・F︶との統一交渉に応じ、その年の一〇月に連合地域
の調停委員会とほぼ同じ手続規則をもつ調停委員会の開設が協定され、一八八八年の賃率を基礎賃率としそのω一駅パ
ーセント増︵一日当り五シリング三ペンス︶を最低賃金、七五パーセント増を最高賃金とした。その最低賃金は連合
地域のそれよりかなり低く、同水準にするにはおよそ五〇パーセント増︵六シリング︶にしなければならなかった。
所有者側は、一九〇二年の新協約交渉においてスライディング・スケール化を要求し、五月二六日締結の新協約にお
いて・一部あいまいさを残しながらもスライドのスケールを明記させ、同年一二月の同協約﹁解釈覚書﹂では算術的
一第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 九一
1論 文1 九二
に厳格な炭価スライディング・スケールを規定させた。所有者側が一九〇四年六月に賃下げと最低賃金引き下げを要
求する協約解約・ロックアウト予告を行ったとき、危機はS・M・Fの提起によってM・F.G.B全体に波及し
た。M・F・G・B首脳部は、スマイリーらの規約第二〇条発動による全国ストライキの要請に反対し、M.F.、G
・B代表団によるスコットランド所有者団体との会談をとおして賃下げ撤回とスライディング.スケール条件の改悪
を主内容とする条件で妥結させた。
パリレ
S・M・F会長R・スマイリーは、ケア・ハーディの親友であり、かれらを育てたスコットランド西南部で多数の
若い活動家がかれらを支持して活動していた。生活賃金政策の後退期にこの政策を推進しようとしたのは、社会主義
的なかれらであった。S・M・Fは、一九〇七年四月にスコットランドの最低賃金を連合地域のそれに接近させるこ
とになる基礎賃率の五〇パーセント増、一日六シリングに最低賃金を引き上げる新協約を要求し、所有者側はこれを
拒否し、協定不成立の場合の議長の自動的仲裁を提案し、その後の炭価崩落とともに賃下げを要求し、一九〇九年五
月に協約破棄・ロックアウトの予告を発するにいたった。M・F・G・Bの執行委員会と連続的な諸大会はスコット
ランドの最低賃金政策を支持し、ロックアウトを目前にして大会決定によって行われたM・F・G・Bの組合員投票
は、規約第二〇条による全国ストライキ賛成五一八、三六一、反対六二、九八○となり、六対一をこえる比率で圧倒的
にたたかう意志を表明した。後述のような調停委員会協約体制のもとでの搾取と抑圧の強化、実質賃金の低下は、労
働者大衆の不満とたたかう意欲をつのらせていた。しかし、E・エドワーヅらM・F・G・Bの首脳は、大争議の回
避につとめた。全国ストライキの脅威にふれて商務相チャーチル︵霜■Oげ震9竃︶が公的に介入し、アスキス︵ピ。乱
︾葵&爵︶を調停者とする政労資合同の小委員会が設置され、チャーチルの強制仲裁立法制定の示唆をめぐるやりと
りをふくむ二日間の折衝のすえ、七月三〇日に、アスキス︵ピ。&︾鴇署号︶の調停案で妥結した。 その妥結協定の
おもな論点は、一八八八年基準σ五〇パーセント増の最低賃金︵すなわち一日六シリングの最低賃金︶を承認し、そ
の最低賃金に照応する炭価を仲裁者の仲裁にゆだね、もしも炭価が六シリング最低賃金に照応する炭価を下まわると
きはそれと同じ月数のあいだその後の炭価上昇による賃金百分率上昇をO嵐パーセント削減するものとし、調停委員
会議長による仲裁を義務化する、というものであった。スマイリーだけが署名を拒否した。たしかに、S.M.Fの
積極的政策にうながされた全国ストライキの脅威を背景に、スコットランドの最低賃金を連合地域という統一協約地
域の統一最低賃金の水準に高めることは容認されたが、最低賃金標準化のための積極的な統一闘争によって生活賃金
と組織統一を追求する政策は挫折させられた。とくに、M・F・G・B指導部の労資協調的妥協を通じて炭鉱資本の
ハほレ
要求する仲裁の強化と炭価を唯一の基準とする賃金統制の実現されたことが、重要である。
この一九〇八∼九年の不況のもとで、炭価下落と失業増大がイングランドでも進行し、連合地域調停委員会議長が
あいついで二回五パーセント賃下げに賛成する裁定を行ってからほどなく、スコットランド争議のさなかの一九〇九
年七月に、所有者側が三度目の五パーセント賃下げを要求したとき、スコットランドでの最新の経験である炭価上昇
期の賃上げを炭価を基準として抑制する﹁補償原則﹂が、もっと反労働者的な形で導入された。八月一二日に調停委
員会の席上、M・F・G・B会長エドワーヅは、調停制度の利益を強調して闘争を非難し、賃下げの実施は坑夫たち
の﹁現在の気分状態﹂からみて危険であり、 ﹁調停の原則を破壊する﹂ことになり、 ﹁しばしば労働者たちとの関係
で厄介な困難に直面させられている﹂自分たちを窮境におとしいれると訴えた。そのうえでかれは、所有者側に対
し、 ﹁商況が好転したとき、あなたがたが現在の損失を償われるまで、われわれは賃上げを求めることができない﹂
−第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動i 九三
1論 文− 九四
員︶
という条件を申しでた。この訴えと提案は、炭鉱労働者たちが調停委員会と組合指導部に対して不満をつのらせてい
るなかで、E・エドワーヅらは組合員大衆から遊離し、将来の賃上げ要求を放棄してまで炭鉱資本の協力をえて労資
協調的調停委員会を保持しようとしたことを立証するものである。その結果、九月三目に、五。パーセント賃下げ撤回
の代償として販売価格が七シリンダー〇・二一ペンスを所有者たちの損失を補償するだけ超過するまで賃上げ申請を
ハ ぬ ロ
禁ずる旨の委員会決議が採択された。いまや、石炭の販売価格だけが協約賃金を自動的に支配することになり、賃金
が凍結され、賃上げ要求さえ禁圧された。スライディング・スケールの再確立である。その後、売上高と産出高が増
大したにもかかわらず、販売価格だけが低迷して規定額以下にとどめられ、その結果約三年間も協約賃金が凍結され
つづけた。
カンバランド、ラドストック、ブリストルなどの諸小地区の調停委員会協約賃金は、おおかれすくなかれ連合地域
ハおロ
のそれに従って変動し、炭価を基準にして規制された。
調停委員会議長の権限についてみると、連合地域とラ下ストックと南ウェールズでは、委員会議長に決定投票権だ
︵ロ︶
けが与えられたのに対し、他の七地区の委員会議長は、労資間の協定不成立の場合自由に仲裁裁定を行うことができ
た。
炭鉱資本の販売価格スライディング・スケール要求がとくに強く、まだ労働組合運動が弱い輸出地区において、販
売価格スライディング・スケールがより端的に行われたのは、とうぜんである。南ウェールズの調停委員会協約は、
最低賃金条項をのぞけば、最初から販売価格スライディング・スケール協約とほとんど同じであった。最初の一九〇
三年協約︵一九一〇年まで施行︶は、議長裁定によって一八七九年賃金を基準とし、その三〇パーセント増の最低賃
︵18︶
金をF・0・B販売価格トン当り一一シリング三ペンス以上一ニシリング三ペンス以下に対応するものとし、協約百
分率がF・0・B価格にスライドされるものとした。その後一九一五年三月末まで実施された一九一〇年協約は、そ
ハゆソ
の第一〇条⑥において基準賃率の三五パーセント増を最低、その六〇パーセント増を最高とし、塊炭のF.0.B販
売価格が一ニシリング五ペンス以下のとき最低賃率が支払われ、それが一四シリング以上一四シリング九ペンス以下
のとき基準賃率の五〇パーセント増とし、一四シリング九ペンスをこえるとき基準の五〇パーセント増以上最高賃率
の六Q。パーセント増まで協約賃率の引き上げを要求できることなどを規定した。
ダラムとノーサンバランドは伝統的な輸出地区であり、炭価変動がはげしく、坑夫組合は定着していたが生活賃金
政策が未確立であったため、連合地区のそれにならって一八九四年にノーサンバランドで、翌年ダラムで調停委員会
が開設されたとき、それらの協約は最低賃金条項をそなえなかった。不況下の炭価下落とこもに、調停委員会は連続
的な賃下げを決定し強制した。 ﹁調停︵委員会︶は憎まれたスライディング・スケールを維持するための計略にすぎ
パぶロ
ない﹂との批判が強まり、調停委員会は九六年に打ち切られ、景気が回復した九九年に再設置された。
以上明らかにされた調停委員会のスライディング・スケール賃金決定機構への転化または再生は、明らかにはげし
く競争しあい利潤いんべいにっとめる炭鉱資本の﹁支払い能力﹂による分断的な賃金統制の機能を貫徹させたはずで
ある。さらに、調停委員会協約は、連合地域においてさえ、炭鉱資本の側からはほんらい統一賃金闘争”ストライキ
を防止し賃金統制をはかるものとして企図されたのであり、とくに最高賃金の制度に端的な統制的用意がみられた。
たとえば連合地域では、一八九九年から一九〇九年まで、協約賃金がつねに最低賃金水準をかなり上まわり、炭価上
おり
昇期には最高賃金水準で頭打ちとなった。このような最高賃金の統制的機能は、どの地区でもおおかれすくなかれ貫
−第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働総合運動一 九五
一論 文−
徹したであろう。
︵1︶ >ヨ。“ぎ箆4<o一。H”℃■ωOoo“︵一=置目仰ぎ置●一灼Pω田辺㎝ド
︵2︶Oい>ヨ。“ω8注昌寓言R即署、目∼o。o。。
九六
㎝ω∼冷ジョン・コックバーン著︵永田・宇
>.
旨。“ωo昌﹃譲巴。ω]≦ぎ巽ω一〇P&∼紐,
︵3︶9、客田語言ω﹂σ達。幅箸、o。o。∼一〇﹃旧>ヨ。什﹂玄α‘<o一﹂も℃﹄o。﹃∼o。O
︵4︶>旨。什﹃ω8注ωゴ霞目。量箸・甥。ヒ刈ご>ヨ。“ω。舞ロ類巴密旨口角ωもマ
佐美訳︶﹃ケア・ハーディの小説風伝記﹄参照。
︵5︶
ゑ崖一口ヨω幅び置‘戸oo器,
︵6 ︶ 重三﹃ヨω﹂σ箆4℃Pω8∼窪●
︵7 ︶ >旨ofωoβ9譲艶。ω蜜冒。﹃即℃Pミ∼刈。。⋮=■>●9詔暇,≧弩閃ox帥区>■男↓﹃o田富。ロ﹂玄α4マωGooo・
︵8 ︶ 拙稿﹁イギリスにおける一九一八年賃金委員会法の成立﹂、﹃城西経済雑誌﹄第一巻第一号、八三∼八八頁参照。
︵9 ︶ >旨Oけ﹂げ箆‘<〇一。どOPoo旨∼一9器O≧認.
︵10
︶>旨。什﹂玄α‘ぎ一﹂”bO,認O∼卜。ン認“∼謡⋮ω8三〇胤↓弓呂ρ勾80旨300一一g什貯。>曽oo日。彗ωげ。什毒。窪両目豆。宰
。誘四目α名。穿冨8一〇言些。¢三け&間ぎのαo日−這一ρ℃・曽●
︵n ︶ Ωo器一国。×四&↓ぽヨ冨。ロ一葦α‘p&一●
︶>弓po“ω8洋風げ蜜﹃o窃”℃PooO∼一〇ド
︵12
一九〇九年争議の経過と妥結協約、および翌年五月の調停委員会議長の裁定について、>ヨ。“ω8注昌蜜ぎ。βOO﹄9
︵13︶
∼昌ご9。器島。区彗α自。日暢。p薫α、も■&ごい。旨>鴇急けFH註舅ユ巴ギ。げ一昏昏註u暮暮。ω幅這卜。。もマ一ω一
∼器刷閃60昌800一一〇9貯。>磯器。ヨ。旨ρぢδ”℃マωω卍3を参照した。
︶
>︻ロ。“ぎ置こ<〇一・一︸唱.認N、
︵14
︵15︶ ﹁現在の五パーセント賃下げ申請が強制されないのを考慮して、委員会はつぎのことに同意する。
一、販売価格が七シリンダー〇・二一ペンス以下のあいだ現在の賃金率を支払うことによってこうむるであろう不利益を
所有者たちに補償してしまうであろう額だけ販売価格がニシリング一〇・二一ペンスを超過するまで、いかなる賃上げ申請
も行ってはならない。
二、委員会または不一致の場合は外部の議長が第一項で述べられたように所有者たちに補償するに十分であると決定する
であろう額まで販売価格が回復し、そしてその水準を継続するまで、調停委員会を終止させる予告を行ってはならない。﹂
>目昌。什・曲げ置こ<o一・トOPooミ∼Noo、
︵16︶ 閃80昌800一ぎ9貯。>磯﹃9ヨ8箪一白ρ℃マ田∼ωO・
︵17︶ 国名。誘800一一〇〇ユ<o>oq一〇〇ヨ。旨ωしO一ρ唱・卜09
︵18︶幻︾9寄αヨ旨旨9↓ロ。ゆ降一号087寓三品目呂島け蔓身ユ品け冨零鐸ぢト。鯉マ㎝8
︵19︶ 一九一〇年協約の全文は岩ぎ諺﹂げ箆こ箸.oo8∼含にある。なお、同協約の第一〇条はつぎのとおりである。
﹁一〇、委員会は、手続規則に関する規約の第六条にもとづいて開かれる諸会合において、その会合の期日につづく月の最
初の日にはじまる三ケ月のあいだ支払われるべき一般的賃金率を決定するものとする。ただし、どちらの側も賃金率の改訂
を欲しないならば、そのとき行われる賃金率が手続規則に従って改訂されるまで継続するものとする。
@ すべての基準賃率と基準価格は、萎れぞれ一八七九年と一八七七年の二一月の基準︵ω3且胃αω︶として知られる基
準とする。
⑤ 労働者たちに支払われる賃金は、それが引き上げもしくは引き下げられるまで、一八七九年一二月の基準としてそれ
ぞれの炭坑で実際に支払われた若干の賃率の五〇パーセント増とする。
◎ この協約の継続中、賃金率は、それぞれの炭坑で支払われた一八七九年一二月の基準賃金の三五パーセント増を下ま
一第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動一 九七
一論
文1 九八
わってはならないし、その六〇パーセント増をこえてもならない。一八七九年二一月の基準賃金の三五パーセント増の
最低賃金は、塊炭の平均販売正価格が∼・o・bトン当り一ニシリング五ペンス以下のとき支払われるものとする。塊
炭の正販売価格が一四シリングに達し、しかもf・o・bトン当り一四シリング九ペンスをこえないとき、賃金率は、
一八七九年一二月の基準として支払われる賃率の五〇パーセント増とする。さらに正販売価格がf・o・bトン当り一
四シリング九ペンスをこえるとき、労働者たちは、五〇パーセント以上から六〇パーセントの最高賃金まで一般的賃金
率の引き上げを主張する権利を有する。ただし、五〇パーセントをこえる引き上げを要求するばあいは、五〇パーセン
トがf・o・bトン当り一四シリング九ペンスに相当するものとし、引き下げを要求するばあいは、五〇パーセントが
f・o・bトン当り一四シリングに相当するものとする。平均正価格は、カーディフ、パリー、ニューポート、スウォ
ンシー、ポート・タルボトおよびレンリーにおいて船積みされる炭坑選炭済塊炭に関するものとする。
支払われる百分率は、一八七九年基準が行われる炭坑より一五パーセント低いものとする⋮⋮。
⑥ 現在賃金がその上で規制される基準または基礎︵σ器冨︶が一八七七年に支払われた賃金率である炭坑では、そこで
︵20︶≦〇一σ◎gヨ。﹂玄α;PN8h︸O一〇〇q鮮明oN帥コα↓げoB陽oP幽ご一匹‘唱戸一語∼83
宅崖置目 ω ﹂ 三 身 P ω 脇 の 図 を み ら れ た い 。
︵21︶
調停委員会協約体制の諸矛盾と職場賃金問題の先鋭化
総括と展望
調停委員会とその協約の展開は、 労資協調“産業平和を促進した。ちなみに、一九〇〇∼一九〇九年の各年に賃金
口
一』
ノ¥
採炭夫の協約賃金
Colliery Year Book,1926,p.712;Seventeenth
エズ
22量
25
20
25
21垂
15
12垂
12青
15
10
17垂
11}
25
20
12量
30
12垂
73薯
30
66}
48}
43薯
30
23妥
38}
47量
30
37垂
23書
60
47垂
60
41}
51乏
31辛
T0
50
27善
T0
57垂
38}
60
52量
U5
50
50
56}
50
00
60
50
King(10m,PP.71パ2.
Abstract of Labour Stadstics of the United
!第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 九九
徹が、協約賃率の低迷をもたらした。採炭夫の協約賃金の推移傾向は、第2表によって明らかである。
後退、そのもとでの販売価格スライディング・スケール的協約賃金統制の再強化、および好況下の最高賃金統制の貫
調停委員会体制への分断的埋没による統一ストライキ戦術の放棄をはじめとするこのような坑夫組合の闘争機能の
れたもの、とくに調停によるものが激増している。
改訂をうけた人数を改訂手続別に分類した表を見ると、罷業をへて行われた数が激減傾向を示し、罷業をへずに行わ
U5
エヨ マ
T5
ユヰ せ を 瀦駐ク菊男55
50
ゐ ぼ ゑ 15
3 τ 3τ 工4 3τ
3T i4 工2 ⊥4 秀 垂 3τ 券 50
棚晒説劉脱腸脳筋跳餅脇膨蜘鋤贈螂兜蛎螂蜥螂卿胸囲兜兜兜
50
弗37373743訂56505050砧8775
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40
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上サ一 上4 垂 垂 i4 3丁﹁ 3τ 工4 3丁﹁ 工4
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25
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トド部
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連 合地 域
8番
10
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コ
25
Q0
1879年基準をこえる百分率
1888年基準を
こえる百分率
ハ ロ
第2表
一論 文一 一〇〇
なるほど、基準賃率に附加される百分率の変動は、採炭夫の場合とその他の職階︵クラスまたはグレイド︶の場合
とはかならずしも一致せず、坑外夫などの百分率を採炭夫の百分率の変動に一定の修正条件を附してスライドさせる
パ り
場合もあった。しかし、調停委員会とその協約は採炭夫の一般賃金︵の窪R巴毒囲。基準のうえに附加される百分率
の増減で表示される横断的な協約賃金︶の規制をおもな機能とし、 ﹁ほとんどすべての場合﹂他のすべての職階が採
パヨロ
炭夫の附加百分率によって支配され、 ﹁通常それはすべての坑内労働者と大部分の坑外労働者に適用される﹂といわ
れたのであるから、調停委員会決定の採炭夫協約賃金の推移は、炭鉱労働者の全階層の賃金の推移を代表するもので
あったといえよう。
パ り
他の資料によっても、炭鉱賃金の低迷は明らかである。すなわち、一九〇〇∼一九〇九年のあいだに、炭鉱業全体
の賃金支払総額は三年だけ増大し、他の七年は減少し、この一〇年間の差引増加額は約五万四千ポンドにすぎなかっ
た。これを、一九二一年炭鉱最低賃金法︹∩o巴竃ぎ窃︵蜜巨BロB要因。︶>皇道旨︺の実施が南ウェールズ炭田
ズ ロ
だけで年間賃金支払総額を四〇万ポンド以上も増加させたといわれたのにくらべれば、ネグリジブルである。
第3表の①欄は、主要な諸地区における採炭夫賃金の協約百分率の加重値であるが、一般的傾向をより鮮明に示し
ている。なるほど、協約賃金は基準年度の各炭坑の採炭価格を基準として表示されるのに対し、後述のように基準年
度の支払賃金を目安としながらも採炭価格H出来高単価は坑支部と経営者間の個別的交渉によって決定されたので、
就業日数・時間数の変化などを無視しても、実際の稼高はかならずしも個別的には協約賃金と一致せず、多少ともか
い離した。しかし、両者の推移は傾向的には並行関係にあったはずである。ボーリとウッド︵>●rωoミ一〇ざρ=・
名ooα︶によった第3表②欄の﹁通常の一週当り平均稼高指数﹂の推移は、前記①の推移とほぼ一致している。
1890
1891
80.4
76.1
1895
72.5
1896
7!.9
1897
72.6
1898
78.6
1899
83.5
1900
100.0
16
94.0
87.5
1903 84.9
1904 82.3
1905 81.0
1906 83.4
1907 96.3
1908 93.3
909 89.2
910 89.6
911 88.8
912 93.8
O9
1901
1902
913
100.1
914
83
W8
92
X1
88
96
X5
X3
X5
X8
O1
6 ﹁フ 8 1 1 6
9
9 9 0 0 0
1894
給付を考慮)(3
105
生計費指数
(4)
98
1 4 5 5 6 7 0 0
%躬
95009300
0
㎝
湯j9392
0 00 0 0 0 0 1
1893
86.5
78.9
(失業,社保
拠出金,失保
8687例
89
82%970098
1892
平均貨幣賃金
4 7 7 8
9 9 9 9
75.8
85.9
82
6 3
6 1 8 3 4 3朗91% O1、9895
召8799009c
18
93
9 1
9
4 0 0 0 00 1 1
64.8
1889
の当指
1888
常平 ③
通り数
率 (1〕
業週高
鉱一稼
炭の均
他方、生計費は、二〇世紀にはいると一九世紀と異なり明らかに上昇傾向をたどった。第3表において平均貨幣賃
金水準の推移︵㈹︶を生計費指数の推移︵㈹︶と対比すると、実質賃金指数が二〇世紀にはいって顕著な低下傾向を
−第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 一〇一
第3表
主要な諸地区
における採炭
夫の協約賃金
〔、)Annua1Abslract・fLab・urStatistics・ftheUnitedKingd・叫
17th,1915, p.66.
〔2)B.R.Mitchell,Abstract of British Historical Statistics,1962,
pp.350−51.
(3),〔4〕J廿rgen Kuczynski,Die Geschichte der Lage der Arbe−
iter:in England seit1832,1955,S.132,23絃
一論 文一 ﹃ 一〇ニ
ハ ロ
たどったことが分る。第3表の①・⑧欄が表示する炭鉱賃金は⑥欄の一般平均賃金よりはげしく変動しており、この
点が炭鉱賃金の一大特徴をなすのであるが、①と⑧の数値を年度別に④の生計費指数で除して炭鉱業における実質賃
金の推移傾向を求めると、それは一般より変動がはげしく、二〇世紀にはいると一般よりはげしく低下し低迷した。
パマロ
とうぜん、労働者たちの不満が増大した。
調停委員会協約は、各炭坑・切羽の価格表H出来高単価表をあるがままに前提してこれを規制せず、したがって同
一の調停委員会地区内においてさえ賃金の平準化をもたらさず、個別資本による分断的支配を支える坑.切羽間の賃
金格差を再生産した。大戦前ダラムとノーサンバランドの一部職種をのぞいて﹁標準地区賃率﹂︵ω冨巳的呂象の鼠9
レ
β8の︶さえ成立しなかったのである。
第4表によって明らかなように、調停委員会は大小一〇を数え、連合地域をのぞいて極度に地方・分散的であった。
このように分散的な調停委員会協約は顕著な地区間賃金格差を縮小しうるはずがなく、炭田間の不均等発展とあいま
パ り
って賃金格差を拡大する傾向さえあったと推定される。事実、採炭夫賃金の地区間格差は拡大傾向にあったようであ
る。このような地区間賃金格差の再生産は、炭鉱資本の地方・分断的労働支配を容易にした。
調停委員会とその協約は、その地方・分散性に加えて、その機能の多様性によってもその統一を阻害した。すべて
の調停委員会が一般的賃金率を扱ったが、連合地域、ノーサンバランド、スコットランドのそれがこの機能にかぎら
れたのに対し、ダラム、カンバランド、南ウェールズでは、労働時間、交替数、採炭量検査などの賃金以外の炭鉱労
働の一般的諸問題をも、それらの問題が地区内の炭鉱の全部または大部分に関係するかぎり扱った。調停委員会が個
個の炭鉱の争議をも扱ったのは、南ウェールズ、フォレスト・オブ・ディーン、ラドストックだけである。調停委員
一第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動!
第4表調停委員会地区
映定によって、
包含される諸州 皮配される労
調停委員会地区
1働者概数
ド
ヨークシア・ランカシア・チェッシl l
ア,フリント・デンビ・シュロップ… 1
シア,ダービシア(南ダーピシァ2 1 t
連合地域
ヒ つの別組合),ノッチンガムシァ, i l
リンカンシア・スタッフダドシアリ i
ウースタシア・ウォリクシア,レス 1
@1
タシア 一 589,900
ラナークシア・ファイフ・リンリス A・
ゴウ,ロシアンズ,エアシァ 140,0001
スコットランド
ダラム
ダラム 116・,…
ノーサンノくランド
ノーサンバランド i 60,000
カンバランド
カンノくランド i
モンマスシア,グラマガン,ブレク
南ウェールズ
ノク,カーマーセン,ペンブルク ; 230,000
フオレスト・オブ・ディーン
グロスタシア 1 8,gOO
ラドストック
l三1諜懸委員会に1}一
ブリストル
ケント i 1,100
ケント
H.S.Jevons,ibid.,p。506、
会が一般的賃金率だけを扱った多くの
地区では、局地的争議を扱う合同委員
会が活動したが、ランカシア、ノッチ
ンガムシア、スコットランドやその他
の地区には、こうした調停機構が存在
しなかった。
パぬロ
さらに重大なことは、MボF.G.
Bが連合地域の調停委員会にしか参加
できず、その他の諸調停委員会がM.
F・G・Bを排除して当該地区組合だ
けを当事者としたことであり、それに
よって産業別統一交渉と統一協約の締
結が端的に否定されたことである。
M・F・G・Bは、前述のようにス
コットランドと南ウェールズの両坑夫
連合を加盟させ、やがて一九〇八年炭
鉱八時間労働法の成立が必至となった
一〇三
1論 文一 一〇四
とき、指導部の反対を突破して再加盟を決定したノーサンバランドの組合を一九〇七年に、ダラム坑夫組合を翌年一
︵U︶
月に加盟させることを決定し、いまや真に全国的な産業別連合組織に発展し、登録人員数も一八九四年の一八五、一
二六人から一九〇九年の六〇三、一四三人まで絶対的に増大した。これは明らかに、炭鉱労働者の組織化、しかも産
業別的な統一の大きな前進である。しかし、それはさしあたりは、形式的なものであった。内容的にはむしろ、調停
委員会体制への埋没を通じて分散・弱化が進行したのである。すなわち、M・F・G・Bおよびそれに加盟する一四
組合と三連合が大小一〇を数える調停委員会とその協約に分断的に繋縛されることによって、その統一ストライキを
はじめとする闘争機能を吸収・剥奪され、地区別および企業・炭鉱別の資本による労働の分断的な支配と搾取を再生
産せしめられ、M・F・G・Bの産業別全国組合的な統一協約交渉の形成の端初的な試みが否定されたうえに、その
連合体的分散性を強められ、坑夫組合運動の去勢と分断を促進され、加盟各組合の力も弱められた。M・F.G.B
の登録人員数が一九〇〇年以降ノーサンバランドの加盟暮で減少したという事実は、坑夫組合運動の分散化.弱化の
組織的あらわれであったであろう。
また、このなかでかつては統一ストライキによって生活賃金のためにたたかい、八時間労働法の要求で新組合主義
に同調したM・F・G・Bは、二〇世紀にはいると、内在していた自由主義的および職業セクト的な傾向を強めた。M
・F・G・Bの指導者たちの多くは自由党員であり︹ただしアシュトン︵↓ぎヨ器曽冥9︶書記長は保守党支持︺、
かれらは全労働組合中最大の議会代表を有するM・F・G・Bが労働代表委員会巨労働党に加盟することに反対し、
職業別の議会代表を主張しつづけた。しかし、一方における労働党の自由党追随の強まりと他方における政治的統一
の要求の強まりのなかで、加盟賛成派が一九〇七年年次大会で過半を制し、翌年はじめの組合員投票で勝利し、一九
ハロロ
M・F・G・Bの形式的な産業別全国連合組織への成長を階級的民主的な産業別全国組合の形成に転化させ、M.
〇九年にいたってM・F・G・Bの労働党加盟が実現された。
勿
F・G・Bを飛躍的に発展させる展望は、搾取と抑圧を強めた職場目山元での大衆闘争を発展させ、坑支部を核とす
る山元から坑夫組合を変革し、さらに全国組合指導部を変革し、全国統一闘争に発展させることによってM.F.G
・Bのもとへの全炭鉱労働者と全坑夫組合の結集・統一を実現することであった。この発展は、より具体的には、超
経営的な協約賃金規制によって規制されず職場での資本の搾取と抑圧の強化セ集約した職場での賃金決定における生
活賃金保障のたたかいにおいて起動的契機を与えられ、、全般的な実質賃金の低下.低迷の克服および産業別全国統一
交渉・統一協約締結の要求・課題と結合して全国的最低賃金保障をめざす全国統一闘争の政策が形成され、この生活
賃金政策の発展に沿って拠点的地方組合の指導が変革され、組織内の路線闘争を通じて、M.F.G.Bの指導も変
革され、一九一二年全国炭鉱ストライキにおいて産業別全国統一交渉と史上最大の統一ストライキが遂行され、政府
の制度的譲歩は改良をおりこんで炭鉱資本の労働政策を補強しようとするものであったとはいえ、M.F.G.Bそ
のものの飛躍的発展という決定的な成果を収める、というものであった。ここでは、このような展望において起動的
契機をなした職場賃金問題の先鋭化を明らかにしておきたい。
調停委員会体制は、M・F・G・B傘下の各地区組合の交渉u闘争力をも弱め、職場目山元での資本による労働の
掬圧と搾取の強化を容易にした。チェックウェイマン制度によって制約されながらではあるが、採炭出来高の没収や
ハき
罰金という伝統的な方法も用いられた。しかし、最大の問題は、炭鉱労働者全階層の賃金︵大部分が日給︶の決定を
i第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 一〇五
1論 文− 一〇六
リードするとともに、それ自体としてもっとも組織的な交渉H闘争の焦点をなしてきた採炭夫賃金の出来高単価表を
めぐる抗争の激化であり、その出来高単価切り下げ攻撃の強化である。
採炭夫出来高給の単価は、採掘炭一トン当り価格“採炭価格である。その採炭価格を表示するのが価格表︵勺二8
=馨︶であり、その価格表は採炭労働を構成する諸作業の労働単価を列挙し合成しており、その構成内容ははなはだ
しく多様である。採炭の自然的・技術的および社会的諸条件は切羽ごとに異なり、同一炭鉱ないし同一炭層において
パねヒ
あるていど共通性があるだけであり、しかも時とともに変化した。各地域で普通の労働が普通の出来高稼高をもたら
すようにするには、採炭諸条件の多様性と変化に合わせてそれぞれ個別的に出来高単価が決定・協定されなければな
らないのであるが、その決定と協定は技術的にも容易でないうえに、労資間の根本的な利害対立がからんで摩擦が大
きく、ひんぱんに争議をひきおこした。通常、新炭層の採炭開始に際しては、テストする坑夫たちが日給でかなりの
期間試掘を行い、その結果えられる実績にもとづいて労資がはげしく論争し、しばしばストライキをともなうドラマ
ハおロ
チックな団体交渉のすえ価格表が協定された。価格表の改訂についても同様である。その団体交渉は、それをおもな
機能として形成・強化されてきた坑支部と経営者とのあいだで行われた。こうして決定・協定される単価を基準とし
て、それに採炭出来高トン数を乗じた金額に協約の附加百分率分を加えた金額が一日の支払金額となる。賃金協約は
基準単価を基準年度のまま不変と想定して附加百分率を協定し改訂したのであるが、出来高単価は前述の過程で基準
からは多少ともずれ、とくに山元での力関係の変化によってずれることになり、坑支部の強化とともに支払賃金が協
約賃金を上まわることにもなりえたのである。たとえば連合地域で一九〇〇年頃、調停委員会協約の最高賃金条項が
炭価上昇に見合う賃金上昇を阻止したとき、山元の労働者は、作業条件も異なり交渉力も弱かった一八八八年当時の
る経営者と対立した。
基礎価格表を改善するのはとうぜんであると主張し、その改善によって賃上げを獲得しようとし、協約違反を主張す
ヨレ
さて、山元での価格表をめぐる争議に新たな諸要因が加わりつつあった。その一つは労働手段の改変強要による採
炭価格の調整”切り下げと労働強化である。炭車充填にシャベルの代わりに粉炭を梳き落とすフォークを使用させる
こζあるいはまた採炭用の新機械の導入が争議をひきおこした。しかし、職場賃金問題の当時の焦点は、採炭諸条
ロロ
件が異常に悪い﹁異常切羽﹂︵接目9ヨ巴三碧。︶の賃金切り下げ問題であった。炭層が薄く多量の石を除去する必要
がある場合、逆に炭層が厚すぎて足場を必要とする場合、砕けやすくて過半が粉炭になる︵その分が出来高から除外
される︶場合、天盤が軟弱で危険な場合、水やガスが多い場合には、出来高が激減する。また、設備の悪い場合、炭
ハねロ
車や諸資材の供給が不足したり、切羽への坑夫配置が過剰な場合など、経営側の欠陥によっても出来高が激減する。
これらの坑夫がコントロールできない諸条件のために異常切羽における出来高賃金が低下するのに対し、調停委員会
協約の最低賃金は基準に附加される百分率変動に下限をもうけるものであって、採炭価格を放任するものであるか
ら、調停委員会協約は異常切羽賃金問題をまったく規制できず、山元の職場交渉に委ねたのである。この問題を中心
として職場賃金問題を解決するためには、まず出来高給の一日当り稼高について最低賃金額の保障が必要であった
が、前述のとおり日給労働者をふくめて地区標準賃率はほとんど存在しなかった。
もちろん、協約によって組織された坑夫の一日当り稼高を標準化することは坑夫組合の追求すべき課題であり、他
方資本にとっては、それが競争条件の均等化、ダンピング防止、大企業の優位確保の手段として、かつまた労資協調確
保の手段として、坑夫組合が定着しその指導路線が労資協調的である場合には受けいれられるものであった。ダラム
一第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 一〇七
1論 文1 一〇八
とノーサンバランドでは、労資代表が構成する合同委員会が一八七九年に﹁州平均制﹂︵Oo巨蔓><R囲。ω鴇冨日︶
を協定した。それは、出来高給採炭夫以下主要な諸職階の基礎賃率の標準を協定し、それにその時どきの協定百分率を
乗じたものを附加して得られる標準日収を﹁州標準賃率﹂とし、各職階ごとに労働者が平均してそれから五パーセン
パロソ
ト以上下まわる日収となるときは、申請により標準賃率を保障するものである。この場合には問題が緩和されたが、
解決はされなかった。スコットランドで一九〇〇年に協定され成立した共通価格︵、.Oo3目8、.o㌧、固①置”.勺ユ8︶
パめり
制はもっとゆるい標準賃率であり、あまり効果はなかったであろう。なお、これらの協約規制は、坑夫組合のストラ
イキによって獲得され、他方﹁炭鉱所有者たちは一般に新開発の炭鉱または炭層がより安い労働を入手することによ
︵21︶
って市場でかれらより安く販売するのをそれが阻止するのを認めて支持する﹂、といわれた。
異常切羽問題は、ながく坑夫たちを苦しめ、ひんぱんな紛争の種となってきた。ダラムとノーサンバランドでは各
四半期ごとに切羽のくじを引く慣行が行われたが、そこをのぞいてほぼ共通の慣行として8拐置。壁菖8とよばれ
パざり
︵23︶
る異常切羽手当が出来高賃率に附加されて支払われ、しばしば価格表にも規定された。しかし、 ﹁これらの手当は団
体交渉の保護なしで不規則に与えられ﹂、大部分個々の採炭夫と経営者側との個別的交渉に依存した。すなわち、﹁あ
︵24︺
らゆる炭田に共通なこの慣行は経営者またはかれの代理人の同情と善意に依存し﹂、 ﹁まれなばあいをのぞいては協
︹25︶
定された最低賃金も、切羽が﹃異常﹄かいなかを決定する機関もなかった﹂ので、経営者側による手当の不払いや恣
意的な削減をこうむりやすかったのである。
一九一〇年頃までに、異常切羽問題をめぐる緊張が急速にみらゆる炭田にひろがった。イギリス炭鉱業では、一九
世紀末以降全炭鉱労働者一人当りでも坑内夫一人当りでも産出高が低下しつつあったうえ、二〇世紀にはいって石炭
の坑口価格も変動しながら波動の各頂点は低下しつつあった。利潤率を圧迫された炭鉱資本と採炭出来高が低下傾向
にあった坑夫たちのあいだで、価格表をめぐる交渉が先鋭化した。炭鉱八時間法の実施は、これらの問題と傾向を促
進した。技術的停滞のもとで坑内労働を追加投入して増産をはかる動きが切羽の.。<。.。.。ξ島コ㎎、による稼高減収
をもたらしたり、交替制の改編・複数化が強要されたりして、紛争とストライキを続発させた。八時間法実施による
おロ
残業廃止と割増手当の喪失も問題となった。このような一般的事情のもとで、一般的な搾取強化傾向の一環として異
常切羽の価格表改悪と手当削減が強められたのである。それは、とくに資本の集積.集中の発展のうえに経営.搾取
方法の近代化“﹁合理化﹂をすすめた大企業においてするどく現われたようである。ダービシアの事例も例証するよ
うに、山元の坑夫たちは自主的に異常切羽の手当を要求してたたかい、これを調停機構に封じこめて処理しようとす
る坑夫組合幹部に対して大衆的批判を強めた。
リロ
異常切羽問題がもっとも先鋭化し、一九一〇年に発火しやがて全国的闘争へと導火したのは、南ウェールズ炭田で
あった。ここでは出来高給がとくにひろく採用されたので、異常切羽による採炭出来高の低下が採炭夫のみならず広
ハぞ
範な労働者の賃金を低下させたであろう。また、 ﹁南ウェールズでは、価格表が特定の炭層に対してひとたび定めら
れるや、労働の諸条件がたとえ変ってもめったに改訂されない。このことは賃金率の一般的改訂とはまったくかかわ
りなしに炭鉱による稼ぎ高の差をはなはだしくする﹂といわれた。それゆえ、ここでは、ひとたび異常切羽の価格表が
パおロ
決定されるや、あるいは普通の切羽の諸条件が悪化して異常となっても、価格表の改訂が容易でなく、低賃金が維持
されるため、異常切羽で働く坑夫の窮乏化はとくに深刻となるのであった。今世紀初頭以降、とくに南ウェールズにお
いて、原価計算を開始した若干の大企業が、直接的には一部の個々人だけが対象となる異常切羽手当から賃下げをは
−第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動− 一〇九
1論 文− 一一〇
︹30︶
じめるほうが抵抗がすくないという事情を利用して、コスト切り下げのために手当削減を強行しはじめた。生産の集
積・集中・独占化過程における大企業の経営近代化“搾取強化の一環をなすものである。一九〇二∼〇四年のデプレ
ッション期に手当削減が促進され、この問題をとりあげざるをえなくなった南ウェールズ坑夫連合︵S・W・M・F︶
の費用で、一九〇七年九月に一採炭夫が会社を相手どって、手当は慣習的なのでそれを受けとる資格があると州裁判
所に訴えたとき、担当判事は前任者の判例に反し、価格表に明記されない手当は恩恵であり法的救済を与えることが
できない旨の判決を行い、手当削減に拍車をかけた。一九〇八年の八時間法は、南ウェールズではそれまで全国の炭
︹31︶
田のなかでもっとも長い労働日が行われていたので、もっとも大きな影響をあたえた。炭鉱所有者たちは、一九〇九
年に調停委員会協約を解約し、二交代制の一般的導入、日給労働者の賃金切り下げ、八時間法が許容した残業六〇時
︵著
聞の実施などを協約条件として要求し、結局二交代制をのぞいて要求の多くをうけいれさせるとともに、山元では個
別的に賃下げをはかり、異常切羽手当の削減に狂奔した。炭鉱所有者たちは、副支配人や監督に異常切羽採炭のコス
びとにポストを明け渡さなければならない﹂ようにした。異常切羽の坑夫たちは、これまで一〇時間をこえる長時間
ト削減で競争させ、手当支払総額の枠を低く定めて手当の削減や廃止を強行させ、 ﹁それに失敗した人びとは他の人
︹詔︶
の過度労働によって所得の不足をわずかに補なってきたのであるが、労働日の強制的短縮によって﹁悪い切羽で働か
︵34︺
なければならない坑夫が過度労働によって稼ぎを埋め合わせることが事実上不可能になった﹂ので、なおさらたたか
わざるをえなくなった。
異常切羽手当の削減攻撃は、前述のように全般的な搾取と抑圧の強化過程の一環をなしながら、当面職場闘争の一
焦点をなしたが、それは同時に、イギリス炭鉱業において普遍的な切羽別、坑別、炭鉱別、地区別の分断的賃金決定
と顕著な賃金格差構造をてことする分断的搾取関係を集約的に表現するものであった.それゆえ、異常切羽問題を解
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決するための一日当り稼高の最低賃金保障の要求が提起されるとき、その要求は、全般的な最低賃金保障をめざす
統一行動、しかも全国炭鉱統一ストライキによってそれをかちとろうとするたたかいに発展すべきものであった。事
実、南ウェールズ坑夫連合が一九〇九年末に起草した協約修正要求のなかで、異常切羽の全労働者に対する四シリン
グ、炭田内全労働者に対する一日三シリング四ペンスの全般的最低賃金の保障をうち出したとき、それは、一九一二
年の全国炭鉱ストライキにおける全国炭鉱最低賃金要求への発展の出発点となった。南ウェ.ールズ坑夫連合における
最低賃金政策の確立と推進は、プレブス・リーグに結集した若い社会主義者たちやサンジカリストたちの思想的影響
をうけた。
︵鵠︶
労働協約と調停仲裁への繋縛と埋没による賃金H労働統制と労組指導部の協調主義強化は、そのもとで実質賃金低
下と抑圧・搾取の強化に苦しむ労働者大衆の不満と批判をつのらせた。しかも、自由党に追随する労働党指導部に対
する幻滅と批判が増大した。このような環境は社会主義やサンジカリズムの浸透を容易にした。炭鉱業ではとくに南
ウェールズ炭田が強い影響をうけ、それらの主要な根拠地となった。一九一〇年以降、イギリス労働組合運動は﹁大
︵訪︺
攻勢﹂に転じ、炭鉱労働組合運動はその主力となる。
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ン研究﹄一九六六年九月号︶二二頁の第3表参照。
ノッチンガム、南ウェー
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1第一次世界大戦前のイギリス炭鉱業における賃金決定機構と労働組合運動一
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