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新生の明日を求めて-交わり証しする教会

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新生の明日を求めて-交わり証しする教会
今後求めていく教会像
① 「谷間」に置かれた人々の心を生きる教会へ
こ の 方 針 は 、「 貧 し い 人 の 優 先 的 遺 択 ( Opt ion f or th e Poor)」 と し て 、 世 界 中 の 教 会
が目指しているもので、社会正義の実現を求めることにつながっています。自由がどれ
ほど大切なものであるかを私たちは知っていますが、他者の自由を否定するような自由
の 逸 脱 や 乱 用 が あ ち こ ち に 見 ら れ ま す 。そ の よ う な 逸 脱 し た 自 由 の 行 使 は 、
「 自 由 の 限 界」
を超えていますが、様々な口実のもとに公然と、他者の権利を踏みにじりながら現に行
われているのです。個人の横暴という以上に、社会的、組織的、社会構造的に人問らし
く生きる権利への侵害が見受けられます。そうした基本的人権を踏みにじる理不尽な有
り様を是正することを、私たちは「信仰の要請」と受け止めて行動を起こしたいと思い
ま す。
「 信 仰 の 要請 」 を さ ら に 考 え て みま す と 、 Ⅰ.神 は こ の「 谷 間 」 に 置 か れ た 人々 を 通 し
て人類の救いのわざをなしとげることを望まれたのであり、この人々とともに新生に生
き る こ と は 福 音 宣 教 の 核 心 を な す も の で あ る こ と 、 Ⅱ .「 谷 間 」 に 置 か れ た 人 々 は 杜 会 を
構成する私たち一人ひとりが生み出している不正と咎を身に帯びて、私たちの回心を絶
え 間 な く 呼 び か け て い る こ と 、Ⅲ .だ か ら 、
「 谷 間 」に 置 か れ た 人 々 を 中 心 に し た 社 会 の 仕
組 みを つ く り 出し て い かね ば な ら ない こ と 、 など に 気 づ かさ れ ま す 。
ま た 、「 谷 間 」 は キ リ ス ト が い ら っ し ゃ る と こ ろ で も あ り ま す 。 弟 子 と な る に は 、 私 た
ち自身がキリストのおられる場所へ出向かねばなりません。キリストに派遣されるとと
もに、キリストが出迎えて下さるのです。そして「谷間」に置かれた人々との出会いと
交 わ り に よ る 共 感 が 、「 い や し 」 と 「 喜 び 」 を 生 み 出 し 、 そ れ が 周 囲 に 溢 れ 出 て い く こ と
に 福音 宣 教 の 本来 の 姿 があ り ま す 。
日 本 の キ リ ス ト 教 史 は 迫 害 の 歴 史 で あ り 、「 谷 間 」 は 日 本 の 教 会 の 原 体 験 で す 。差 別 と
迫害の中を私たちの先祖は歩みました。太平洋戦争の時のように挫折と迷いの中で十分
に主から受けた使命に応えられなかったこともありました。そうした挫折や迷いを乗り
越えて、信仰の遺産を今に伝えていただいた歴史を真正面から受け止めるならば、私た
ちの立場がどこにあるかは明瞭となります。かつて私たちの信仰の先輩たちがそうであ
ったように、信仰をかたくし、痛みのあるところ、悩みと苦しみのあるところにともに
い るこ と を 目 指す の で す。
日本でも世界でも数多くの人々が人間らしく生きることを阻害されています。基本的
人権や生命そのものが脅かされている多くの人々がいるのです。その人々が苦しんでい
ることを知っているにもかかわらず、何もせずに平然としていられるならば、私たちは
キリストの弟子ではあり得ません。教会の社会教説は、福音的な社会の実現に向かうた
めの信仰者の貢献を種々の具体例を挙げて力説しています。苦しんでいる人たちと出会
い 、交 わ り 、 友と な っ て、 一 緒 に この 社 会 を 福音 的 な あ り方 へ と 変 革し て い くの で す 。
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身近な人を大切にすることはとても大事なことです。ただし、身近であるとは、意識
の距離において近いことを意味しており、アジアの別の国の人であってもアフリカに住
む人であっても単なる距離の遠近が身近さの基準になるのではありません。毎日顔を合
わせる人たちのことだけを最優先にしなさいと考えるのは誤りです。また、遠くの人と
いうのが、実は家族や友人のことであってはなりません。日常の場を軽視して顧みなか
っ たり 、 そ こ にあ る 問 題か ら 逃 避 した り す る こと も 誤 り です 。
生活の振り返りと識別(聖霊の導きを祈りのうちに見分けて選び取ること)を通して
苦しむ人たちの友となり、隣人を愛しなさいという「愛の掟」の意味を歪めてはならな
い ので す 。
② 「交わり」の教会へ
「交わりの使徒」の生き方は私たちの課題であると述べましたが、その実現に向けて
歩む教会を目指します。現状において私たちの交わりはどのような状態にあるのでしょ
う か。 現 実 を 確か め る こと か ら 始 めて い き ま しょ う 。
小教区の中で信徒同士、司祭と信徒の交わりはどのようになっていますか。各会の連
携や意志の疎通は円滑ですか。洗礼志願者や新受洗者、転入者は気持ちよく受け入れら
れていますか。お互いに名前や家族のことを知り、生活環境を理解し合っているでしょ
う か。
小教区での典礼は特に重要です。毎週のミサは共同体の要です。喜びを分かち合う実
感がありますか。大きな声で賛美の歌が歌われていますか。皆が喜んで「平和のあいさ
つ」をしていますか。みことばと生活がつながった説教が行われていますか。公会議の
精神に従ったミサ、神の民の「ともにささげる」ミサであることは、共同体となるため
に 欠か せ な い こと で す 。
神とのつながりとやすらぎを求めているのであって、人間とは関わりたくないという
人もいるかもしれません。無論、ここでいう交わりとは、いつでも誰とでもベタベタと
付き合うことではありません。私たちが大切にしたい「分かち合い」とは、相手に心を
開くこと、相手の身に起こる様々な出来事に関心を持ち、共感する心で聴くことから始
まります。各自の生活やみことばを分かち合い、さらには物心両面での分かち合いにま
で至ります。生きる場を共有するところにまで分かち合いは発展していくものです。目
に見える兄弟姉妹との分かち合いこそ、共同体の意味を知る原体験となります。そのよ
う な「 分 か ち 合う 教 会 」を 実 現 し たい と 願 っ てい ま す 。
そうした交わりが現実のものとなり、共同体が真剣に信仰を深めて社会に向かって生
き て い く と き に 、 次 代 を 担 う 青 少 年 に 信 仰 が 伝 達 さ れ て い き ま す 。 知 り 合 っ て 10 年 に
もなるのに、ほとんど他人のような関係のままであったり、行事以外のことを話し合う
ことがなかったりする姿、お互いや主任司祭に関するうわさ話ばかりしながら、ほとん
ど信仰について語り合うこともない姿、意地を張り合ってお互いに交わりを拒否してい
る大人の信仰者の姿を見せ付けられていて、子どもたちや青年が教会に魅力を感じるわ
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けがありません。青少年の信仰育成が真に課題であるのならば、大人の信仰者の根本的
な 反 省 こ そ 、そ の 取 り 組 み へ の 出 発 点 と な る は ず で す 。交 わ り を 生 き て い る か ど う か が 、
こ こで も 鍵 と なっ て い るの で す 。
さ ら に 、小 教 区 同 士 、地 区 と の 関 係 、地 区 同 士 の 関 係 や 教 区 レ ベ ル で の 関 わ り な ど も 、
そ れぞ れ 見 直 して い く こと が 必 要 です 。
基 本方 針 の 3 にも あ る よう に 、 諸 事業 体 、 修 道会 な ど と の関 係 も よ り深 い も のと し て
いかねばなりません。お互いに尊重し合ってきたことは確かですが、相互に閉鎖的な側
面を持っていたようにも思います。新たな協働へとどのように進んでいくことが出来る
か は、 私 た ち のチ ャ レ ンジ す べ き 課題 で す 。
信者の拠点としての教会ではあっても、これからの教会はすべての人に開かれた場と
な っ て い く 覚 悟 が 必 要 で し ょ う 。多 く の 人 た ち が 望 ん で い る「 出 会 い の 場 」
「 交 わ り の 場」
の提供は、地域社会との結びつきという課題から考えても、私たちの使命となってきま
す。
国際化していく日本において、外国人の信徒が増えていることは日本の国際化に率先
して取り組むこととなり、民族を超えての交わりの先取りとなることでしょう。文化や
国 籍 を 超 え て 人 間 同 士 の 交 わ り を 生 み 出 し 、お 互 い の 関 わ り が 絆 に ま で 深 め ら れ て い く 、
思 えば こ れ は 外国 人 宣 教師 が し て 下さ っ た こ とで も あ り ます 。
「 交 わ り の 教 会 」 へ の 挑 戦 は 、 「交 わ り」の 原 点 が 三 位 一 体 の 神 の 愛 の 交 わ り に あ る こ
とを思うとき、少し想像するだけでも多くの実りを生むことになるでしょう。是非その
た めに 皆 で 力 を尽 く し たい と 望 み ます 。
③ 「共同責任」を担い合い、協働する教会へ
第 二 バ チ カ ン 公 会 議 の 中 心 思 想 は「 共 同 責 任 」で あ る と ス ー ネ ン ス 枢 機 卿 は そ の 著『 今
日 の教 会 に お ける 共 同 責任 』 の 中 で述 べ て お られ ま す 。 とも に 協 働 しな が ら 、使 命 を 実
現 す る 責 任 を 一 緒 に 担 っ て い く こ と が 公 会 議 後 の 教 会 の 課 題 だ と い う 訳 で す 。責 任 と は 、
使 命の 認 識 の こと で す 。ま ず 、 そ れぞ れ が 召 され た 立 場 に応 じ た 使 命を 受 け 止め る こ と
が 第一 で あ り 、さ ら に 相互 の 違 い 、多 様 性 を 認め 合 う 必 要も あ り ま す。 そ の 基礎 に は 、
す べて の キ リ スト 者 に とっ て の 共 通の 使 命 で ある 教 会 の 使命 が あ り ます 。 教 会の 普 遍 的
な 使命 で あ る 福音 を 宣 べ伝 え る こ とは 、 ま さ に共 同 責 任 であ り 、 そ のた め の 協働 が さ ら
に 意識 的 に 行 われ ね ば なり ま せ ん 。
司教には司教としての責任があり、また司教団としての共同責任があります。これは
司祭も信徒も同じです。個人としての責任とそれぞれの共同責任、また相互に全体とし
ての共同責任を担っています。私たちは、協働しながら、共同責任を引き受ける共同体
と なる こ と を 目指 し ま す。
この共同責任の認識は教会がほんものの共同体となるための試金石です。福音宣教へ
の取り組み、青少年の信仰育成、弱い立場に置かれている人たちとともに生きること、
共同体の一致を表し、信仰の喜びを共有する典礼を行うこと、信仰を通して神とのつな
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がりを深める、つまり霊性の深まりを求めること、社会に開かれた教会となること、司
祭も信徒も一緒に識別しながら共同体の運営に協力することなど、多くの取り組みが共
同 責任 の 認 識 のも と に 、協 働 し て 推進 さ れ ね ばな り ま せ ん。
私たちは観念的にではなく、実際の生き方を通して「証し」することを求められてい
ま す。神 か らの 使 命 をそ れ ぞ れ の人 が い た だい て い る こと を 認 め 合う「 多様 性 の 豊 か さ」
と、それぞれの現場に生きつつ共同責任を引き受け合う「多様性の一致」を通して、教
会 の証 し が 行 われ て い くの で す 。
④ 聖霊の導きを識別しながらともに歩む教会へ
私たちキリストを信じる者は、生きとし生けるものすべてが神によって創造され、人
間 を 神 と の 親 し い 交 わ り に 招 か れ て い る こ と を 信 じ て い ま す 。神 が 人 間 の 歴 史 に 関 わ り 、
真に人間らしい社会を実現するように導かれていることを確信しています。それゆえ信
仰者は、生き生きとした神との交わりを心から大切にします。それが霊性であり、多く
の聖人が霊性に生きる道を私たちに残してくれています。それらすべての聖人は「教会
の聖人」であって、彼らの遺産を狭い縄張り意識で「∼会のもの」などとせずに、私た
ち の共 有 財 産 とし て 大 切に し た い と考 え ま す 。
神の導きを求めながら歩む生き方が信仰者の生き方です。自分が自分の思い通りに自
己 中 心 的 に 生 き て 、 そ こ に 神 の 特 別 な 保 護 を 要 求 す る こ と は 誤 り で す 。「 き ょ う 、 神 の 声
を聴くなら、神に心を閉じてはならない」とあるように、神の呼びかけに耳を傾け、神
が お望 み に な るよ う に 生き た い と 私た ち は 願 って い ま す 。
個人のレベルで聖霊の導きを選び取って生きるとともに、共同体としても神のお望み
を識別して歩むことが必要です。個人も教会も、すべての選択や決定は霊的な識別によ
っ てな さ れ る こと が 基 本で す 。
しかし一方で、そうした信仰に支えられた生き方を忘れて、社会一般での常識や回り
の人々の反応に過度に気を取られてしまい、安全や保身を優先させて神を自分たちに服
従させようとしてしまう過ちを犯す危険性が絶えずあります。そのようにならないため
に、個人や使徒職のグループにおいて、また小教区・地区・教区においても、霊的識別
に 生き る 決 意 を新 た に する こ と は 欠か せ ま せ ん。
私 た ちの 願 い は 「 私 の 思い で は な く 、 あ なた の み 旨 が 成 就 しま す よ う に!」 と いう こ と
ですから、社会の中で生きていくに当たって、それぞれの現場での生き方を支える識別
の 重要 性 は い くら 強 調 して も し 過 ぎる こ と は あり ま せ ん 。
生活を「識別→派遣→現場→振り返り→新たな識別→さらなる派遣」の繰り返しに生
きるように、誰もが求められています。共同体の意志決定は、共同識別によってなされ
ることが本来であり、これからは教会での意志決定をともに識別することによって行う
方 向を 目 指 し ます 。
そのためには、主の導きを敏感に感じ取り、勇気をもってそれに従っていく訓練が必
要です。信仰のさらなる深まりが課題であり、識別できる個人となることが目標になり
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ま す 。や さ し い こ と で は あ り ま せ ん が 、信 仰 の 確 信 を 支 え る 信 仰 体 験 を 掘 り 起 こ し 、「 あ
な た の 信 仰 の 上 に か た く 立 ち な さ い !」と の 呼 び か け に 信 頼 し て 進 ん で い く こ と と し ま す 。
⑤ 司 祭 ・ 修 道 者 と の 協 力 を 重 視 し な が ら 、信 徒 の 役 割 と 責 任( 使 命 )を
前面に出す教会へ
こ こ で は ま ず 、 第 ニ バ チ カ ン 公 会 議 が 強 調 し た こ と を 確 認 し ま す 。「 信 徒 は 福 音 の 宣 布
や人々の聖化に尽くすとき、また福音の精神を世間に浸透させ、その秩序を完成するよ
...
う に 働 く と き 、使 徒 職 を 行 う 。こ う し て 、そ の 働 き は キ リ ス ト の 明 ら か な あ か し と な り 、
人 々 の 救 い に 奉 仕 す る も の と な る 」(『 信 徒 使 徒 職 に 関 す る 教 令 』2 項 ) 、ま た 、信 徒 は「 福
音の精神に導かれて、世の聖化ために、あたかもパン種のように内部から働きかけ、こ
...
うして信仰・希望・愛の輝きをもって、特に自分の生活のあかしを通して、キリストを
...
他 の 人 々 に 現 わ す よ う 召 さ れ て い る 」(『 教 会 憲 章 』 3 1 項 ) と 書 か れ て お り 、「 あ か し 」
に つな が る 生 活を 、 杜 会の 中 で 生 きる 使 命 を 明言 し て い ます 。
さ らに ヨ ハ ネ ・パ ウ ロ 2 世 は 『 信 徒の 召 命 と 使命 』 で 「 これ は 今 日 、急 務 と して 感 じ
...
られることですが、信徒は政治活動に密接に結びついた人間的、福音的価値のあかしを
しなければなりません。それはたとえば、自由と正義、連帯、共益に対する忠実で私心
の な い 献 身 、簡 素 な 生 活 様 式 、貧 し い 人 や 弱 者 を 優 先 す る 愛 な ど で す 。… … 暴 力 と 戦 争 、
拷問とテロリズム、強制収容所、軍国主義化、軍備競争、核威嚇といった平和を否定し
たり危うくすることがらをまえにして、無関心であったり第三者的な傍観者ではありえ
ません。反対に……イエス・キリストの弟子として……心からの回心と、平和を実現す
る 基 礎 と な る 真 理 、 自 由 、 正 義 、 愛 の た め の 活 動 を 通 し て そ の 任 務 を 担 う の で す 」( 同 書
42項)と、信徒の社会での「あかし」が聖なる義務であることを強調しています。平
和や社会正義の実現への貢献は、私たちの日常生活から始まっていきます。教育の中に
見られる歪みが、学校現場で改善されてきているとどこまで言えるでしょうか。外国人
への排他性などの社会の歪みは制度的に改められていると断言できるような状況になっ
て い る で し ょ う か 。ま だ ま だ 真 剣 に 取 り 組 ま な け れ ば な ら な い こ と は 数 多 く あ る の で す 。
信徒が社会での召命を生きるためには、深い霊性と実際的な識別力を身につけていく
養成が欠かせないと教皇は言われます。そしてその養成の実りは、何もかも司祭や修道
者 に依 存 す る 傾向 が 強 かっ た 過 去 の信 徒 像 を 根本 的 に 変 革し 、
「 す べ ての キ リ スト 信 者 は、
キ リ ス ト に お け る 新 生 の ゆ え に 、尊 厳 性 に お い て も 行 為 に お い て も 真 に 平 等 で あ る か ら 、
み な 、そ れ ぞ れ 固 有 の 立 場 と 任 務 に 応 じ て 、 キ リ ス ト の 体 の 建 設 に 協 働 す る 」( 教 会 法 2
0 8条 ) た め の積 極 的 な貢 献 に 向 かう こ と で 活か さ れ る ので す 。
こ れ か ら の 教 会 を 考 え る と 、カ ト リ ッ ク 信 者 の 9 8 % を 占 め る と さ れ る 信 徒 が 、0 .5 %
の 司 祭 と 1 .5 % の 修 道 者 に い つ ま で も 依 存 し て い て よ い は ず が あ り ま せ ん 。小 教 区 で の
主任司祭の多忙さを補うための協力や教会行事の運営、教会学校の手伝い、典礼奉仕な
ど、いくつもの信徒による奉仕が続けられてきました。しかし、さらに大きな使命に召
されていることを思うとき、教会における信徒の位置を中心的なものと考えていく必要
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を 感じ ま す 。
これからは「谷間に置かれている人々」を生み出し、無視し、切り捨てる社会構造自
体に立ち向かっていくことが求められます。今までは概して、福祉活動的である傾向が
強かったかも知れません。社会の仕組みとなっている悪の部分に対して、社会の真っ只
中で生きている信徒の出来ること、せねばならないことはどれほどあることでしょう。
地域杜会の善意の人々との協働、エキュメニカルな交わりによる協働、またそうした結
びつきによってつくりあげられる共同体的拡がりを通して、一歩ずつ前進していくこと
が でき る の で はな い で しょ う か 。
小教区という社会から離れたオアシスで憩う信徒のイメージはすでに払拭されつつあ
りますが、さらにガソリンスタンドでエネルギーを補給して社会の現場へ派遣されてい
く 信徒 像 へ と 向か う の です 。
信徒が本来の召命と使命に、今まで以上に献身する時です。もっともっと前面に出て
教会活動をリードすることを望みます。そうすることで、司祭、修道者との関係や協働
は さら に 進 み 、よ り 力 強く 社 会 に 対す る 証 し がな さ れ て いく は ず で す。
「新生 の 明日 を 求 め て」p4 7 ∼ p 57 よ り 抜 粋
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