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発動機メーカーとしての出発
第 1 章 発動機メーカーとしての出発 1912(明治45)年 ~ 1930(昭和5)年 第1節 ■ 山岡発動機工作所の創業 第 2 節 ■「ヤンマー」商品の誕生 第1章 発動機メーカーとしての出発 1912(明治45)年∼ 1930(昭和5)年 沿革編 第 1節 逆境を好機に変えて商売の礎を築く 山岡発動機工作所の創業 山岡発動機工作所は滑り出しこそ順調であったが、創 業してまもなく厳しい状況に直面する。電気モーターの 普及である。 明治末期から大正初期にかけて電力供給のインフラ整 1. ヤンマー 100年の第一歩 山岡発動機工作所の前で年始の記念撮影 (1921.1) た。これは各地に水力発電所が建設され、高圧遠距離送 電により安価な電力の供給が可能になったからである。 ガス発動機の修理・販売に本格着手 これによって電気モーターを利用する事業者が急増した。 1912(明治 45) 年 3 月 22 日、山岡孫吉は山岡発動機 大阪では大阪電燈(現・関西電力)が電灯用の電力を供 工作所を創業し、ヤンマー 100 年の歴史の第一歩を踏 給していたが、1913(大正 2) 年、淀川上流の宇治川で み出した。 安価な水力発電を開発した宇治川電気が、大阪電燈と提 これより先、孫吉が営んでいた山岡瓦斯商会では、ガ 携して動力用送電を開始した。 ス器具類販売から中古ガス発動機の修理・販売へと仕事 電気モーターは宇治川電気がその貸し付けも行ったこ の主力が移っていた。そして、中古ガス発動機の評判が とからまたたく間に普及し、ガス発動機はたちまち時代 高まり、売れ行きが伸びるとともに、自前の修理工場を 遅れの動力装置として駆逐された。ガスから電力への動 構えたいという孫吉の思いは募った。そこで、いまだ個 力革命であった。ガス発動機に見切りをつける販売業者 人経営ではあったが、大阪市北区北野西之町 259 番地 や職工が相次いだ。市内のいたるところでガス発動機が (現・茶屋町 1 番 32 号)に約 吸入式ガス発動機 (40馬力) 備が進み、都市部を中心に動力用電気の供給が開始され 230㎡(70 坪)の土地を借り受け、 大阪市電 (大正初期の四ツ橋交差点) 宇治川電気・宇治発電所 (1913.6竣工) 放置されていた。 旋盤5台をそろえて小さな修理工場兼事務所を開設し、 山岡孫吉はむしろこの逆風を好機ととらえ、不用と 山岡発動機工作所と命名したのである。創業の日は孫吉 なった中古品を精力的に入手するために奔走した。そし の 24 歳の誕生日であった。 て、本格的な整備を施し、電力が供給されていない関西 事業内容は山岡瓦斯商会から引き継いだ中古ガス発動 各地や西日本、北陸、中部などの事業者に販売した。電 機および吸入式ガス発動機の販売が中心であったが、自 力の供給地域はまだ都市部だけであることを孫吉は知っ 工場でガス発動機の修理および改造に精力的に取り組ん ていたのである。 だ。従業員は7、8名で、孫吉が自ら油にまみれて作業 「私は学歴がなく、十分の学問を積むことができなかっ に当たった。吸入式への改造は工作の名にふさわしい作 たので、実地の見聞でそれをカバーしようと機会あるご 業であり、この小さな工作所の設置によって、孫吉は後 とに積極的に各地を歩き回っていたので、かなり地方の に本人が述懐したように「一種の技術屋兼ブローカー」と 事情に詳しかった。それがこの際大いに役立ち、電力モー なり、その後、販売業から製造業へと軸足を移していく ターの登場で、ほかのブローカーのように廃業するどこ ことになる。これがエンジンメーカーとしてのヤンマー (山岡孫吉『私の履歴書』) ろか、むしろ張りきった」 の原点であり、当社の創業は山岡発動機工作所の開設と こうして山岡発動機工作所は、中古品の修理・改造と 定められている。 いう独自の技術を生かし、商売の礎を力強く固めていっ た。この後、さらに時代の追い風が吹くことになる。 52 53 第1章 発動機メーカーとしての出発 1912(明治45)年∼ 1930(昭和5)年 沿革編 2. 大戦ブームと反動不況のなかで 第1次世界大戦勃発 (東京朝日新聞 1914.7.30) 県魚津で端を発した米騒動が全国に拡大し、海運・造船 不況などにより労働争議も頻発した。工場の閉鎖が相次 ぎ、ガス発動機の需要は一気に減少した。 第1次世界大戦の特需景気に乗って 山岡孫吉は 1919 年 4 月に東京府東京市本所区永倉町 山岡発動機工作所の創業から2年余を経た 1914(大正 1(現・東京都墨田区緑 4 丁目)に東京出張所を開設するなど、 3) 年 7 月、ヨーロッパを主戦場として第1次世界大戦 積極的に巻き返しを図った。しかし、落ち込んだ業績を が勃発した。戦地から遠く離れた日本では軍需品の輸出 回復させることはできず、かえって損失を増やすばかり などが一挙に増大し、未曾有の好景気に沸いた。繊維産 であった。 業などをはじめとして産業界が活気に満ちたことで、ガ 不況が深刻さを増すなか、孫吉は事業の一時中断を決 ス発動機に対する引き合いも増加した。山岡孫吉はこの 心した。 「もとから生涯をかける気のなかったブローカー 好機を逃すことなく、中古ガス発動機の販売に力を注ぎ、 商売にこの辺で見切りをつけ、旗をまいて故郷に帰り、 大きな利益を上げていった。 しばらく景気の模様をながめながら休養することに決め その象徴的なエピソードが、ドイツ製高級吸入式ガス (『私の履歴書』) た」 発動機の販売である。神戸にある商社が多数の発動機を 1920 年 5 月、孫吉は妻子を連れて生まれ故郷の滋賀 輸入したが、ドイツ人の支配人が大戦勃発によって帰国 県伊香郡南富永村字東阿閉に帰郷した。しかし、そこで したため、大阪の空き地でトタン屋根の下に積まれてい の生活は長くは続かなかった。 た。この情報を入手した孫吉は、素早く商社の代理人と 交渉、1台 80 円の輸入簿価で 30 台を買い取った。 孫吉は『大阪朝日新聞』など全国の有力新聞 10 紙に1 カ月間連日、この発動機の広告を掲載した。孫吉が企図 したのは、商品の販売を促進するとともに中古品売買の 情報を得ることであった。広告の効果により「発動機の 山岡」として全国に知られるようになり、中古品に関す る情報も自然に集まってきた。 ガス発動機の広告 (大阪朝日新聞 1919.12.8) 戦争特需で発動機の価格が高騰していたこともあり、 ドイツ製高級発動機は1台 450 円で完売した。 特需景気に乗って事業を拡大した孫吉は、大戦終戦時 までに現在の数億円に当たる 30 万円以上の利益を上げ ている。 事業からの一時撤退 1918(大正 7)年 11 月、ドイツと連合国軍の間で休戦 協定が結ばれると、軍需品をはじめとして物資の需要が 激減した。好景気から一転、日本の貿易は再び輸入超過 に転じ、日本は反動不況に陥った。1918 年8月に富山 54 55 第1章 発動機メーカーとしての出発 1912(明治45)年∼ 1930(昭和5)年 沿革編 第 2節 農家出身の孫吉は、農作業がいかに重労働であるかを 「ヤンマー」商品の誕生 骨身にしみてわかっていた。そのため、軽量で持ち運び に便利な石油発動機を開発して、農家の負担を軽くする ことができれば、新しい商売になると考えたのである。 これは中間利潤を得るだけのブローカーではなく、価値 1. 石油発動機メーカーとして始動 ブローカーからメーカーへ あるものを創造して社会に役立てるメーカーになりたい という孫吉のかねてからの希望とも合致していた。 石油発動機のメーカーへ、孫吉の進むべき道は定まっ た。 山岡孫吉は故郷に約3カ月滞在した後、1920(大正 9) 年 8 月に大阪に戻ってきた。景気が回復の兆しを見せ 石油発動機の試作 たわけではなく、 「いなかでぶらぶらしていると体をもて 石油発動機の製造を決断してから、山岡孫吉の行動は ( 『私の履歴書』 )からであった。 あましだした」 迅速であった。帰阪すると直ちに石油発動機の試作を開 しかし、修理工場内には販売先の決まらないガス発動 始した。孫吉は自ら率先して発動機のアイデアを出して、 機が 30 台もほこりを被っていた。事務所に電話が1本 丈夫で軽量の石油発動機の開発に取り組んだ。開発の原 もかかってこないことが何日も続くという有様で、もは 形となったのは、軽量であることに着目した羊毛刈取用 やガス発動機の修理・販売業を継続していくのは困難で の輸入石油発動機であった。クランク周りやピストンに あった。何か新しい仕事を見つけ出さねばならないと、 ついては、住友私立職工養成所に部品の製作などを依頼 孫吉は思案を重ねた。 した。 大阪に戻った 8 月のうちに、孫吉は香川県丸亀市に 丸亀での見学からわずか3カ月後の 1920(大正9)年 赴いた。そこでは大阪瓦斯時代にガス工事の作業員とし 11 月、孫吉は農用立形3馬力の石油発動機の試作に成 て一緒に働いた人物が、鉄工所を経営していた。彼はこ 功した。丸亀で使用されていた発動機は約 150 貫(約 れまで山岡発動機工作所から3馬力のガス発動機を何度 560kg) を超える大形のものであったが、試作品は約 か購入していたが、それらを石油発動機に改造して籾す 貫(約 110kg)と大幅な軽量化を実現した。 30 り臼の動力用として農家に販売すると語っていた。この ことに以前から興味を抱いていた孫吉は、農村で石油発 動機が実働する現場を見学した。孫吉の脳裏には、閃く ものがあった。 「土うすを下側が回るように造り、これに改造石油エン お ジンを太い苧(麻)のロープで連結して回している。こ 56 2. 石油発動機と作業機の開発 初めての 「ヤンマー」 商品 1921(大正 10) 年 3 月、山岡発動機工作所は前年 11 うすると、手回しなら五人がかりで一時間に五俵分くら 月の立形試作機に続いて、横形の石油発動機を完成させ いしかすれなかったもみが、六倍の三十俵はすれるとい た。これが商品名に初めて 「ヤンマー」 を冠した 「ヤンマー う。これはイケル! 百姓生まれの私には、この“動力 変量式石油発動機」である。これを機に、山岡発動機工 もみすり”がどんなにすばらしいものであるかがすぐわ 作所は名実ともに山岡孫吉の念願であったメーカーとし ( 『私の履歴書』 ) かった」 ての道を歩んでいくことになる。 変量式石油発動機 (1921) 57 第1章 発動機メーカーとしての出発 1912(明治45)年∼ 1930(昭和5)年 沿革編 変量式は、作業の前後などあまり出力が必要ないとき 伝したところ、北陸から九州に及ぶ各地から 80 台もの にはガバナ(調速機)を回転数の遅いところにセットして 注文が一度に舞い込んだ。山岡発動機工作所の月産能力 おき、出力を大きくしたいときにはガバナを締めること は 10 〜 20 台であったため、十数名の従業員は昼夜を で回転を速くする方式である。回転数を変えることで燃 問わず生産に取り組んだ。一時は生産が追いつかず、注 料の節約に配慮した、当時としてはユニークな設計で 文から1、2カ月待ちの状態となり、しびれを切らした あった。 注文客が怒って警察に訴え出るといった一幕もあった。 ほどなく従業員も 50 ~ 60 名に増員され、生産体制は 「ヤンマー」 を商標登録 安定した。 滋賀県改良農具実演競技会(変量式石油発動 機と籾すり機 1921ごろ) 現在の社名である 「ヤンマー」 の商標登録は 1920(大正 9)年 豊作の象徴トンボ 12 月に出願していたが、1921 年3月、変量式石 揚水ポンプの爆発的ヒット 油発動機の完成に先立って認可された。 1921(大正 10)年、山岡発動機工作所が動力籾すり機 「ヤンマー」の由来は次のとおりである。 に続いて開発したのが、 「ヤンマーバーチカルポンプ」で 当初、山岡孫吉は豊作を象徴する「トンボ」を商標とす ある。これは用水路などから田地に水を汲み上げるポン る予定であった。ところが、静岡県のメーカーがすでに プで、 「バーチカル」とは水が「垂直に」上昇することを表 商標登録を済ませており、一時は商標権の買い取りを検 している。変量式石油発動機とセットで販売した。揚水 討した。 は農家にとって重労働の一つであり、大きな需要が見込 そのようななかで、ある営業担当者が「トンボもいいが、 まれた。 いっそトンボの王様であるヤンマとすればよい」と孫吉 このバーチカルポンプの売れ行きに火が付いたのは、 に提案した。孫吉はこの意見を取り入れ、 「ヤンマ・トン 1923 年、1924 年と連続した干魃によってであった。 「大 ボ」と山岡の「ヤマ」を結びつけ、最終的にはいいやすい 正十二年、十三年と二年続いた大干ばつでものすごく売 音引きを付けて「ヤンマー」と決定したのである。 れたのである。この二年間は、夏ともなれば早朝からポ かんばつ ( 『私の履歴 ンプを求める客で、文字通り門前市をなした」 大阪朝日新聞に掲載した広告(1921.9.10) 日本初の動力籾すり機を販売 書』 )と、山岡孫吉は回顧している。 独自で石油発動機を商品化したのに続いて、山岡発動 山岡発動機工作所では全力で製造に当たるとともに、 機工作所は発動機を農業用として普及させるために、発 ポンプと石油発動機を現場に設置するために、従業員を 動機を農作業の現場で役立つ作業機などと組み合わせて 総動員して各地に派遣した。この干魃時のポンプによる 販売することに取り組んだ。その第1号として 1921(大 儲けは 70 万円に達し、これによって山岡発動機工作所 正 10)年 では輸入自動旋盤など、最新鋭の設備を整えることがで 9 月に販売を開始したのが、動力籾すり機であっ た。これは農機具メーカーに依頼して製作させたもので、 実演場で稼働するバーチカルポンプ きた。 日本初の動力籾すり機といわれている。 58 山岡孫吉は故郷である滋賀県の長浜駅前などに動力籾 農作業の動力化 すり機を運び、籾すりの実演を行ったところ、農家の注 大正後期から昭和初期にかけて、石油発動機を動力と 目の的となった。その際、1俵につき米5合の「すり賃」 した籾すり機、脱こく機、精米機や水揚げポンプなどを で籾すりの代行も行っている。 中心として、農作業の動力化がようやく本格的に進行し さらには、新聞で「賃ずりで一秋に千円は儲かる」と宣 はじめた。 59 第1章 発動機メーカーとしての出発 1912(明治45)年∼ 1930(昭和5)年 沿革編 水田作業の所用労働と収量 年 一反当たりの 所要労働(人) 一反当たりの 1920 23.10 2.40 1936 10.13 3.08 収量(石) 当時の農作業についての資料を見ると、人力・畜力中 トルバルブにより振動も軽減された。 心の重労働が動力化によって軽減されていったことが理 翌 1925 年4月には、スロットル式に改良を加えた「ヤ 解できる(岡村俊民『農業機械化の基礎』北海道大学図書刊行会)。 ンマーオフセット式石油発動機」を発売した。これはピ 岡山県における調査で 1920(大正9) 年と 1936(昭和 ストンの中心線からフライホイールの中心位置を下げて )当 11) 年の水田作業を比較すると、1反(10a[アール] ピストンの側圧を弱め、シリンダの摩滅を防ぐ構造を持 たりの所要労働は、23.10 人から 10.13 人へと半分以 つもので、爆発時の振動を大きく軽減するという特徴が 下に減少している。その一方で、1反当たりの収量は あった。オフセット式石油発動機はまたたく間にヒット 2.40 石(433L[リットル]) から 3.08 石(556L) へと増加 商品となり、以後、長期間にわたって山岡発動機工作所 した。これによって、単位労働当たりの収量は約 3 倍 の主力商品となった。 に増加したことになる。 また、同じ 1925 年には農業に続く新たな市場の開拓 所要労働の内訳を見ると、籾すりの場合は 1920 年に を意図して、漁船用石油発動機「ヤンマーホード」を発売 は畜力による土臼を用いて 2.50 人であったのに対して、 した。ホードの名称は自動車メーカーの Ford 社にちな 1936 年には動力ロール籾すり機を用いて 1.20 人に減 んだものである。 少した。揚水の場合は、人力による足踏み水車で 5.50 その後、1927 年には農業用の 「ヤンマー渦巻きポンプ」 人を要していたのが、揚水ポンプの導入によって 0.10 を発売している。 人にまで激減した。人力による揚水は水田作業全体の約 人力による足踏み水車 4分の1を占める重労働であっただけに、揚水ポンプの 販売組織化の端緒と博覧会への出展 普及は農家に歓迎された。 山岡発動機工作所の商品が全国に浸透していくと、そ 山岡発動機工作所は石油発動機、動力籾すり機、バー の販売を希望する石油発動機の利用者が多数現れるよう チカルポンプなどによって、このような農作業の動力化 になった。商品のユーザーとして取り扱いに長じた人物 の一翼を担っていった。 も多く、山岡孫吉はこのような人たちのなかから販売を オフセット式石油発動機 (1925) 漁船用石油発動機 「ヤンマーホード」 (1925) 委託する人を選定していった。これが後の特販店組織の 3. 商品の充実と積極的な販売活動 石油発動機組立工場での作業風景 (1929ごろ) 60 母体となったのである。 また、販路が一気に広がったことを受けて、孫吉は各 地の販売やサービスの拠点となる出張所の整備にも力を 石油発動機時代の主力商品 入れた。1923(大正 12)年に東京市京橋区本材木町(現・ ヤンマー変量式石油発動機およびヤンマーバーチカル 東京都中央区銀座 1 丁目)に東京出張所を移転、同年6月に ポンプの成功で、山岡発動機工作所は石油発動機メー は福岡市上祇園町に九州出張所を開設した。1927(昭和 2) カーとして全国的に知られるようになった。 年2月には北海道出張所(旭川市常盤通 3 丁目)を開設して 山岡孫吉は継続して商品の開発に力を注ぎ、1924(大 いる。 正 13) 年には農用横形の 「ヤンマースロットル式石油発 孫吉は新聞広告を活用した宣伝や博覧会への出品など 動機」を開発した。これはスロットルバルブ(絞り弁)に に積極的に取り組んだ。中古ガス発動機の販売を手がけ より燃焼効率を向上させたもので、始動も容易になって ていたころから、自社の知名度を高めることの重要性を いる。当時、石油発動機といえば「ダンス・エンジン」と 認識していたからである。 揶揄されたほど、運転時の振動が大きかったが、スロッ この時期、出品した主要な博覧会には、1922 年 3 月 東京朝日新聞に掲載した広告 (1931.5.25) 61 第1章 発動機メーカーとしての出発 1912(明治45)年∼ 1930(昭和5)年 沿革編 の平和記念東京博覧会(東京・上野公園)、同年 7 月の中国 四国物産博覧会(姫路)、1926 年 8 月の国産振興大博覧 会(札幌)などがある。 5. ディーゼルエンジンへの着目 農業恐慌の発生 平和記念東京博覧会のポスター 朝鮮出張所陳列室のオフセット式石油発動機 4. 海外市場の開拓に着手 激動の昭和は金融恐慌で幕を開けた。1927(昭和2) 年3月、片岡直温蔵相の失言を引き金に金融恐慌が発生 し、全国の銀行に取り付け騒ぎが広がった。1929 年 10 アジア市場を開拓 月にはニューヨークの株価暴落に端を発した世界恐慌が 山岡発動機工作所は 1920 年代からアジア各地を中心 発生し、日本の不況は一層深刻化した。この恐慌の影響 として積極的に海外進出を果たしていった。国内での石 が 1930 年1月に実施された金解禁と重なって物価が暴 油発動機の売れ行きは好調だったが、第1次世界大戦の 落し、製造業はじめあらゆる業種で業績が大幅に悪化し 反動不況以降、日本では長期にわたって不況が続いてお た。これによって大量の失業者が生み出され、労働争議 り、安定した需要を確保するため、海外に販路を見出そ が各地で頻発した。 うと考えたのである。 なかでも特に深刻だったのは、農業恐慌の様相を呈し 1924(大正 13) 年 10 月、朝鮮京城府(現・韓国ソウル) た農業の不振であった。当時の二大生産物であった米と に朝鮮出張所を開設した。翌 1925 年には中国南部に石 繭を中心に農産物価格が急速に下落し、農家の収入は激 油発動機の輸出を開始している。1927(昭和 2) 年2月、 減した。それを補うために増産すると、さらに価格は暴 フィリピンの現地工場と提携しフィリピンに進出し、石 落するという悪循環に陥った。農産物価格は 1926 年を 油発動機の生産を開始した。翌 1928 年2月には同国ダ 100 とすると、1931 年には 52 まで低下し、農業所得 バオの鉄工所とも提携している。 は 同 期 間 に 1,374 円 か ら 541 円 へ と 減 少 し た。 特 に 1928 年1月には、台湾に台北出張所を開設した。翌 1931 年は東北地方を中心に凶作となり、極度の栄養失 1929 年5月には上海の北四川路に上海出張所を開設。 調や一家離散など深刻な問題が数多く発生した。 ここを中国進出の拠点として、 「洋馬牌」の商号で江蘇省、 山岡発動機工作所もこのような不況の波を受け、特に 浙江省、山東省へと販路を広げていった。 農業市場の不振が響いて、業績が悪化した。 銀行の取り付け騒ぎで長蛇の列 (1927) しかし、1929 年 10 月に発生した世界恐慌の影響を フィリピン・ダバオでヤンマーオフセット式石 油発動機を使用した麻引き 受け、また日中関係の悪化から日貨排斥運動が激しくな 相次ぐ石油発動機の事故 り、中国大陸での市場開拓は困難を極めた。 業績悪化の一方で、山岡孫吉を悩ませるもう一つの懸 なお 1928 年 2 月には、山岡孫吉は市場調査のため、 案があった。石油発動機による事故の多発である。 シンガポールおよび南洋諸島(赤道以北にあるミクロネシアの 石油発動機の販売台数が伸長するとともに、事故の発 旧日本委任統治領の島々の総称)を視察した。 生件数も増加し、山岡発動機工作所ではその対応に追わ れた。事故の内容は、発動機からの油漏れによる火災や クランク軸の折損による故障などであった。特に漁船の 場合、発動機の故障は生死を左右する事故につながる可 能性もあった。 事故の多くは発動機の取り扱いに起因していたが、な 62 63 第1章 発動機メーカーとしての出発 1912(明治45)年∼ 1930(昭和5)年 沿革編 かにはメーカーとしての責任を免れないものもあった。 「他社が造れなければ自分たちが造ろう」と、孫吉はコー 商品の改良には不断に取り組んでいたものの、当時は素 ルドスタートのできる小形ディーゼルエンジンを構想し、 材・加工技術が十分ではなく、品質のばらつきが避けら その試作に取り組む決意を固めた。 れなかったからである。 孫吉はこうした事態に心を痛めた。一時はエンジンの ディーゼルエンジンの試作に成功 製造に対して自信を喪失し、商品の生産中止を真剣に検 早速、山岡孫吉は若手の技術者を博覧会に日参させ、 討したこともあった。 展示品を細部にわたって調べさせた。ポンプやノズルを くまなく観察して、それぞれの機能を判断するという手 三菱造船の国産ディーゼル1号機 ディーゼルエンジンとの出会い 探りの状態から取り組んだ。 1929(昭和 4) 年3月、大阪市の天王寺で原動機博覧 試作に際しては、燃料噴射弁など重要部品をすべて手 会が開催された。会場を訪れた山岡孫吉はここに展示さ 作りし、金属部品の表面を磨くラッピング・パウダー(研 れたディーゼルエンジンに強い関心を抱いた。 磨材)には歯磨き粉を用いた。 第一にディーゼルエンジンはこれまで大きな事故の報 また、京都大学の浜部源次郎工学部長から吸入角度や 告がない安全なエンジンであること、第二に燃料に低質 噴射などについて指導を受け、1930(昭和 5) 年、ほぼ 油が使えて経済的であること。この2点の特長が孫吉を 1 年 が か り で 立 形 2 サ イ ク ル 5 馬 力( 完 成 時 は 6 馬 力 ) 強烈に惹きつけた。農業用に活用するにはうってつけの ディーゼルエンジン試作機を完成した。1号機は快調に エンジンであると孫吉は直感した。 始動し、回転数は毎分 250 〜 260 回転であった。 日本におけるディーゼルエンジンの利用はまだ日が浅 孫吉はこの試作機を農林省の比較審査に出品した。当 く、一般的には馴染みが薄い存在であった。1907(明治 時、国内には比較対照できるエンジンが存在しなかった 40)年、日本石油株式会社(現・JX 日鉱日石エネルギー株式会 ことから、無審査で研究品として農林省に買い上げられ 社) が た。その後、試作機は静岡県三方原の農事試験場に貸し 33 馬力のディーゼルエンジンを初輸入するとと もに、横須賀海軍工廠でディーゼルエンジンの試作が行 付けられた。 われた。ドイツでディーゼルエンジンが実用化されてか この試作機は、ヤンマーのディーゼルエンジン第1号 ら 11 年後のことである。1916(大正5)年には、三菱造 機であり、ディーゼルエンジン事業の原点である。この 船株式会社神戸造船所(現・三菱重工業株式会社) がディー ときの進取の取り組みが後の世界初となる小形ディーゼ ゼルエンジン国産1号機(250 馬力)を発電用として完成、 ルエンジンの開発につながっていくのである。 ヤンマー製ディーゼルエンジン1号機(1930) これに新潟鉄工所や池貝鉄工所が続いて、ようやく国産 化がスタートを切った。 孫吉が博覧会で目にしたのは 10 馬力以上の大形の ディーゼルエンジンで、重量があって持ち運びに適さず、 始動には着火紙が必要であった。ディーゼルエンジンは 石油発動機に比べてシリンダ内の圧縮比が高く、小形で は大形とは燃焼条件も異なるため、小形・小馬力のエン ジンを開発することは構造的に難しいというのが当時の 常識であった。 64 65