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物質文化研究 - 城西国際大学
ISSN 1349-2691 物質文化研究 城西国際大学 物質文化研究センター 第5 号 2008年3月 ─────────────────────────────────────────────── ●〈研究ノート〉 アイヌの〈太陽〉に関する信仰について 内山 達也 ─────────────────────────────────────────────── ● プロジェクト教育に参加して 小山 有香 ─────────────────────────────────────────────── ● 2007年度活動報告 ─────────────────────────────────────────────── 物質文化研究 第 5 号 2008年3月 城西国際大学 物質文化研究センター 表 紙 絵:イクパスイ【iku-pasuy】(棒酒箸) カムイノミ(神への祈り)に用いられる儀礼用具(内山画) 表紙イラスト:蓄音機(内山画) 物質文化研究 第5号 2008年3月 目 次 〈研究ノート〉 アイヌの〈太陽〉に関する信仰について 内山 達也 ・・・・・・・・・・ 1 プロジェクト教育に参加して ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 26 〈レポート〉 2007年度の活動報告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 31 〈研究ノート〉 アイヌの〈太陽〉に関する信仰について 内 山 達 也 1.はじめに 太陽信仰とは、太陽に対する〈直接的〉あるいは〈間接的〉な崇拝や伝承によって形づくら れてきたもので、世界各地の民族文化において見受けられる信仰である。たとえば、太陽に対 する〈直接的〉な崇拝としては、シベリア北東端のチュコート半島(ツンドラ地帯)に住む チュクチの例をあげることができる。チュクチは、 〈太陽神〉を至上神として認めており、主 な供犠は太陽光線に捧げられるのだという(エリアーデ 1974:210) 。また、同じくシベリア に住むエヴェンキでは、天上界の住人のなかで重要なのは、熱と光の主である太陽神=デリ チャであるという。エヴェンキは、自分たちを暖め、照らし出す日の光は、デリチャとその息 子によって焚きつけられる白樺樹皮の松明によるものと考えている(萩原 1985:121) 。 一方、 〈間接的〉な崇拝としては、太陽という自然物としてではなく、その運行という自然 現象に対する信仰を取り上げることができる。エリアーデは、太陽の運行にともなう役割とし て、 〈死をもたらす霊魂導師〉としての役割をあげている。すなわち、太陽の運行という現象 において〈日没〉が意味するところは、太陽の〈死〉ではなく、太陽が、毎晩、死者の国へ降 りていくことであるという。そして、その運行という現象は、人間の同伴を可能とし、 〈日没〉 時には人間に死をもたらすのだという観念を生成するのだという(註1) (エリアーデ 1974: 219-22) 。 以上のように、太陽に関する信仰には、太陽という自然物(神体)に対する〈直接的〉崇拝 と、その運行という現象にともなう〈間接的〉崇拝が見てとれる。そこで本稿では、その2点 に留意し、アイヌが〈太陽〉をどのように捉えていたか、その信仰を形成していた崇拝や伝承 について取り上げることとする。 2.カムイとしての太陽 アイヌは、太陽を日の神= tokap-chup-kamui(昼・輝る・神) 、あるいは日の神= cup- kamuy などと称し(金田一 1993b:207、萱野 1996:316)、そこに神性を認めている。とこ ろが、必ずしも日常的に拝している神ではないようだ。金田一京助は、アイヌが日常的に礼拝 ─1─ するのは火の神、水の神、木の神、狩の神であったと述べている(金田一 1993b:210) 。い ずれの神=カムイも、日常生活を送るうえでは不可欠の存在であり、 「イナウを捧げ御酒を献 じて礼拝を怠らない」 (金田一 1993b:210)カムイであるという。では、アイヌにとって太 陽神=チュプ・カムイへの信仰とは、どのような意義を有していたのであろうか。 ジョン・バチェラーによれば、アイヌの大多数は太陽を女性原理、月を男性原理と捉えてい たという。そして、実際には、太陽は女神自身というよりも、太陽の支配者である一人の女神 の乗り物であったと述べている。それゆえに、アイヌが崇拝しているのは太陽自身ではなく、 太陽のなかに住んでいる女神であり、太陽が発する光は、なかに住んでいる女神の明るさが、 太陽という乗り物を通して輝くのだとも指摘している(バチラー 1995:72) 。 また、次のような太陽神をモチーフとした伝承もみられる。 原文 「雲井の神が、姉を蒼空の神へととつがせようと、大事に育てていると、妹に子供ができる。雲井 の神が怒ってわけを尋ねるが、妹もどうしたわけか全くわからないので、泣いて、「知らない」と 言う。蒼空の神は、自分の嫁になる女神が子供を孕んでいるのを見て、腹をたててもどるが、神力 でも何神が夫になったか見破ることはできない。雲井の神も妹の夫を見極めることができないの で、妹を人間世界へ降ろしてしまう。妹は仕方なく草小屋を結んで、木の実や草の根を食べて命を つなぎ、二つの糸玉を生む。妹が糸玉を錦の布に包んで大事にしていると、山へ行った留守に二 人の子供になっている。子供は大きくなると、鹿でも熊でも見つけしだい手取りで打ち殺し、皮も 肉も食べるので、アイヌラックルは腹をたてて技くらべをする。アイヌラックルが立ち木によりか かって立ち、子供たちが刀で切ると、アイヌラックルの体は幾度も元にもどる。今度はアイヌラッ クルが刀で子供を一人ずつ切るが、子供の体も元にもどる。アイヌラックルが、「どこから来た子 供であろうか」と案じてみると、日の神が雲井の神の妹を一目ぼれした思いが妹の体に入って、懐 妊した子供とわかる。アイヌラックルが「熊や鹿を殺したら刃物で肉と皮を切り離して背負っても どり、削り花を作って送ってやると、熊や鹿の霊は満足する。海の毛物は矛をもって突き、舟に取 り入れて肉と皮を離し、持って帰って食べると喜ぶ。これからは兄弟になって力を合わせて助け あおう」と言う。子供たちはアイヌラックルの教えを守り、アイヌの始祖となった」(稲田・小澤 1989:555-6)。 上掲した伝承は、 (Ⅰ)雲の神が空の神にその妹神を嫁がせようとする、 (Ⅱ)妹神が懐妊す る、 (Ⅲ)妹神が人間界へと降り、子供を生む、 (Ⅳ)子供の異常な能力の発露と文化神アイ ヌラックルとの対決、 (Ⅴ)父親(太陽神)の発覚、 (Ⅵ)文化の伝授、といった構成をとる。 この太陽神の落胤をモチーフとした〈日の神の子〉伝承の類話には、 (Ⅰ)年老いて子のない ─2─ 夫婦が日の神に祈ることで娘が授かる、 (Ⅱ)年頃になっても婿をもらおうとしない娘、 (Ⅲ) 結婚に反対する娘は山に入り沼に飛び込む、 (Ⅳ)沼の神に助けられた娘は、日の神の子供で あることを伝える、 (Ⅴ)沼の神との結婚、という構成の話もみられる(稲田・小澤 1989: 556) 。いずれの伝承においても、太陽神が人間の〈生誕〉に関わる存在として描かれている という点で興味深い。このことは、後述する〈太陽方位観〉との関連性を示唆するものであ る。 また、ここで登場する文化神アイヌラックル(註2)は、 『カムイ・ユーカラ』 (山本 1993)で はカンナ・カムイ=雷神とチキサニ媛=ハルニレ媛の子として登場するが、 〈日の神〉自身と して、あるいは〈日の神の子〉であるとの伝承も存在する。 たとえば、 「神伝=カムイ・オイナ」 (金田一 1993a)では、 「トカプチュプ カムイ アル ルエネ ワ=我は日の神なり」との描写がみられる。 「我」とはアイヌラックルのことであ り、自らが日の神であることを宣言し、人間の世界を光で被いつくす役割を帯びるものだとも 述べている(金田一 1993a:39-40) 。また、 「アイヌの神典」 (金田一 1993a)には以下のよ うなアイヌラックルの出自が記されている。 原 文 「昔、火の神が天から始めてこの土へ天降る時に、チキサニ媛とラルマニ媛とが左右のお伴をして 降った。即ちラルマニ媛は火の女神の左手を執り、チキサニ媛はその右手を取って下った。その時 に日の神が遥にチキサニ媛の並び無き美しさをめでて一寸振り返って見た。美しいとただ思っただ けなれど、神慮はそのままになってしまうのが勿体ないので、チキサニ媛は、そのときから妊娠し た。そして生まれたのがオイナカムイのアイヌラックルである」 (金田一 1993a:292) 。 以上のように、 〈日の神〉を父とする者は、人間とは画する、半神半人ともいうべき能力者 であり、または人間の始祖となる存在ともみなされていた。あるいはまた、 〈日の神〉自身が、 人間に文化を伝授する存在としての文化英雄とも目されていたのである。その意味では、太陽 神は、 〈文化起源〉のメタファーとしてのカムイであったと捉えることができるだろう。 その一方で、次に示すような太陽の危難をモチーフとした伝承もみられる。 「神が世界を創造したとき、悪魔は人間が光と熱がなくては生きていけないと知り、太陽を破壊し て人間を困らしてやろうとし、朝、太陽を飲もうとする。神が鳥を作り、悪魔が太陽を飲もうと 口を開いたとき、鳥がとびこんで太陽を助けた。それで鳥は、好き勝手にふるまうことができる」 (稲田・小澤 1989:233) 「太陽がこの世に昇ろうとしたとき、悪魔が口を開いて太陽を飲もうとする。そのとき一群の鳥が ─3─ 悪魔ののどにとびこんで、悪魔が狼狽しているうちに太陽は昇った。それで、鳥が傍若無人のふる まいをしても我慢するのだ」(稲田・小澤 1989:233) 「魔神が日の女神をねらって、飲みこもうと朝な夕な大口を開けていた。神神が相談して朝に日が 東の山から出ようとするとき、魔神の口へ二、三匹の狐を投げ入れ、夕方日が西の山の端に入ろう とするとき、鳥を二、三羽魔神の口へ投げ入れる。日は東天に昇り、西の山へ沈むことができた」 (稲田・小澤 1989:233) 上掲した伝承は、 〈魔神に飲み込まれそうになる太陽を救う〉という形式の話であるが、そ の話の主体となるのは鳥や狐であり、とくに前二者の伝承では、現実の鳥の行動に対する〈解 釈〉が示されている。また、この〈日の神を救う〉というテーマは、カムイ・ユーカラにも登 場する題材である。 「ポロ・オイナ=大伝」 (金田一 1993a)は、アイヌラックルが、日の神 を呑み込み、幽閉したモシレチクチク・コタネチクチク・モシロアシタ・コタノアシタという 大悪神と戦い、かの大悪神を地下の国=ポクナ・モシリへ蹴落とし、日の神を救うという内容 が主題となっている。 そして、このような〈太陽が呑み込まれる〉 、あるいは〈太陽が捉えられる〉という表現は、 〈日蝕〉現象を擬人的に表現したものと考えられる。この〈日蝕〉に関するアイヌの反応は、 非常な恐怖心をもって語られている。バチェラーは、1887年に起こった日蝕について、次の ように報告している(バチラー 1995:74) 。 日蝕が始まると、アイヌは「チュプ・ライ= Chup rai、チュプ・ライ= Chup rai」 「太陽が 死にかけている、太陽が死にかけている」という叫び声を発する。そして実際に、死にかけて いるか、あるいは気絶している人間にするように、太陽を救おうとする。すなわち、アイヌは 一人の人間が死にそうになると、水を口に含み、それを苦しんでいる人の顔と胸に吹きかける か、あるいは容器に満たした水を手でかけるかし、その人を蘇らせようとする。これと同じよ うに、日蝕が起こると人々は水を運び、太陽を目指して上方に向けて水をかけ、 「カムイアテ ムカ= Kamui-atemka、カムイアテムカ= Kamui-atemka」 「おお、神よ、我らは汝をよみがえ らす、おお、神よ、我らは汝をよみがえらす」と叫ぶのだという。 この〈水をかける〉という行為は日高地方の特徴であり、更科源蔵によれば、十勝地方ではヨ モギの矢で太陽を射かけ、板や樽を叩きながら「陽の神よ あなたは死ぬよ 息吹を吹き返せ」 と日の神を元気づけるのだという(更科 1982:108-9) 。このような〈日蝕〉現象に対する行 動の相違は、その現象を起こす原因にある。すなわち、日高地方では太陽自身の状態がその要 因となっているのに対し、十勝地方ではオキナという巨鯨が太陽を呑み込むためだと考えられ ているからである。また、阿寒地方では、その原因は〈悪い黒狐〉であるといい、日蝕時には ─4─ その原因となるものに対する攻撃をおこなうとも報告されている(更科 1982:109-10) 。こ のような攻撃的行動は、上掲した伝承のように、日蝕の原因に対して、害意をもった存在(魔 神、悪神など)を意識しているという点にあるといえよう。 以上のように、アイヌの太陽に関する信仰の一端は、太陽をカムイとして捉えているという 点をあげることができる。とくに、 〈日の神の子〉伝承でみたように、アイヌラックルの誕生 に際して、雷神とともに日の神が関与しているというのは興味深い。チキサニ(ハルニレ)= ci-kisa-ni とは、 〈我ら穿つ木〉の意味である。すなわち、ハルニレの枯れた部分に穴を穿って 火種をこしらえたことから称されたものであり(萱野 1996:303) 、火の起源を象徴する神と 考えられている。一方、雷神=カンナカムイは、神駕=シンタに乗って人間の世界=アイヌ・ モシリを巡り、人間などの無礼な振る舞いに対しては火焔を吹き出して神罰をくだす様子が伝 承されている(稲田・小澤 1989:372-6) 。すなわち、稲光である。金田一京助によれば、ア イヌラックルは〈火〉の威力を象徴するような文化神であり、 〈火の木〉である春楡を母とし、 その父を日の神あるいは雷神にするという伝承は、地上の火の起源を理解するに十分な神々で あろうとも述べている(金田一 1993a:293) 。また、日の神が人間の〈生誕〉と関連してい るというのは、太陽の運行経路を方位的原理とする〈太陽方位〉の観念を想起させるうえでも 興味深い。 さて、 〈太陽〉に関する信仰は、伝承や日蝕という現象によって抽出することができた。 もっとも、この〈太陽を崇拝する〉という点に関しては、アイヌの民族文化研究の黎明期より 記録されてきたことでもある。そこで次項では、太陽信仰に関する民族誌学的調査事例につい て取り上げることにする。 3. 〈太陽信仰〉に関する民族誌学的調査事例 前項で示したように、アイヌの信仰体系のなかで、 〈太陽〉に関する崇拝や伝承を確認する ことができた。そこで本項では、先行研究によって〈太陽信仰〉がどのように認識されていた のかという点について指摘したい。 ⒜ 「此の国民はデウスを知らず、太陽を拝せりといふ(ガスパル・ヴィレラ)」 (日本学士院内明治 前日本科学史刊行会 1971:184) ⒝ 「かれらは霊魂の救済については何も知らない。太陽と月とを礼拝するが、これは救霊の目的で はなく、それらのものが人間生活に有用なものだから礼拝するのである。かれらは日本のいろいろ な神や仏を嫌っている。(ジロラモ・デ・アンジェリス) 」(日本学士院内明治前日本科学史刊行会 1971:220) ─5─ ⒞ 「蝦夷人は未来の生活についてもまた未来の世界に関しても、ほとんどあるいは全然知識をもっ ていない。もっともかれらは太陽と月に対しては、これらは人間にとって非常に有用なものなるが ゆえに、ある尊崇の念を持っている。また同様に二、三のカミ Cami すなわち山の神、海の神に対 して尊崇の念を持っている。なぜかというに、かれらは山の近くに住み、かつ海において漁猟に従 事するがゆえに、これらの神々の恵により、多くの魚を取り、また薪や家を建てる材木をうること ができると考えているからである。(ジロラモ・デ・アンジェリス)」(日本学士院内明治前日本科 学史刊行会 1971:250-1) ⒟ 「彼らの説によると太陽が最上神で次は火の神である。これは明らかに彼らが最も恩恵を蒙って いる者を神としていることを示している。一種の謝恩的な思想が彼らの素朴な観念に侵みこんでい る。」(バード 1977:106) ⒠ 「あいぬノ教法ハ英語デ「ぽりせいすちつく」ト云ヒマス、ぽりせいすちつくト申シマスノハ大 勢ノ神ヲ拝ム教法デゴザイマス、天然ヲ拝ムモノデゴザイマス、併シ単ニ天然ト云ッテハ能クゴザ イマセヌ、天然ノ命ヲ入レテ其レヲ拝ムノデゴザイマス、例ヘテ申シマスレバ、太陽ト云フモノハ 天然ノ道理ニシテ運行致シマス、只天然ナラバ一部分デゴザイマスルカラ何ニモ命ノナイモノ、併 シナガラあいぬノ云フニハ斯ノ如キ天然デナイ、其太陽ノ中ニ存スル所ノ活ケル所ノ魂ヒ、太陽ヲ 治メル……日月星辰ヲ治メル所ノ霊其レヲ天然ト云フ、其レデスカラ太陽ヲ拝ム人ハ幾ラモゴザイ マス、あいぬガ小屋ヲ拵ヘマスレバ何時デモ其小屋ハ東ノ方ニ向イテアリマス、此方ノ窓ヲ見テモ 東……毎日デハナイケレドモ度々東ノ方ニ向キテ神ヲ拝ムコトガゴザイマス、其意味ハ何デゴザイ マセウ、只想像バカリデアリマスカラ言ヒマセヌ、只或土人ガ話シマシタ、或時日蝕ガゴザイマシ タ、あいぬガ其日蝕ヲ見マシテ大層恐レマシタ、水ヲ口ノ中ニ入レテ、プット吹出シマシタ、サウ シテカラ外ノモノヲ持ッテ水ヲ太陽ニ吹カケヨウト致シマシタ、或人ハ小サイ刷毛ヲ以ッテ水ヲカ ケマシテ「カムイアテムカ、カムイアテムカ」ト申シマシタ、其レハ即「神様蘇生レヘ」ト云フ意 味デゴザイマス、今其人ノ言フニ「カムイチカイアヌ、カムイチカイアヌ」ト云ヒマシタ、其レ ハ「今太陽ガ死ヌ、太陽ガ死ヌ」ト云フ意味デゴザイマス、人ガ死ニ掛リマストあいぬハ其上ニ水 ヲ掛ケマス、サスレバ癒ルカト思ヒマス、其レト同ジコトデ太陽ニ水ヲ掛ケマスレバ蘇生ヘラウト 思ヒマシタカラ、ソンナコトヲ致シマシタ、 其レデスカラ一ツノ神ハ太陽ノ神デゴザイマス」(バ チェラー 1892:203) ⒡ 「 「アイヌ」の神として祭る者極めて多し凡神霊ありと認むる者は勿論畏懼すべき者は皆之を神と して祭る其最も神威ありとする者は太陽なり然れども之を尊敬するのは極自身に祭ることなく神使 をして太陽を祭らしむ神使を「カムイウイテクペ」と云ふ即ち服労鳥を云ふなり「アイヌ」は此鳥 を神使と守護神として頗る尊敬す。また火神を「カムイフチ」と云ひ「アペカムイ」とも云ふ水神 を「ワクカウシュカムイ」國作神を「コタンカラカムイ」山神を「キムウンカムイ」と云ひ其他 ─6─ 熊、蛇、等を「カムイ」と云ふは其猛毒を畏懼して神とする者なり」 (村尾 1892:142-3) ⒢ 「パセカムイ pase kamuy とは、火の神、穀物の神、水の神、太陽の神など自分に一番直接に関 係する神だ。 」葛野辰次郎、静内(渡辺他 1992:61) ⒣ 「太陽の神を日常語ではチュプカムイ cup kamuy、またはリコマカムイ rikoma kamuy という。 祭りの時使う尊称は、ピンネアイハシナウコロオイナマツ pinne ay hasnaw kor oyna mat という。 太陽の神は女だが、月は男。月が兄だ。一番尊敬する神が太陽の神。人間がすべて恩恵を受けてい るから。太陽に旦那がいる話は聞いたことがない。 」葛野辰次郎、静内(渡辺他 1992:72-3) 原 文 ⒤ 「トカプチュプカムイ tokapcupkamuy(火の神)、シリコロカムイ sirkorkamuy(木の神) 、ワク カウシカムイ wakkauska(水の神) 、ヌプリコロカムイ nupuri kor kamuy(山の神)へイナウを作 り、家の外の祭壇に立てた。その他、ナイプッペケッチュカシエアカムイ ア ノミ ナ nayput peketcup kasi ea kamuy a=nomi na(ナイプツの日の神の上にいる神に祈ります)、と言っているのは 聞いた。ペケッチュプ peketcup は東の方ということ。」白沢ナベ、千歳(渡辺他 1994:48) ⒥ 「日の神(トカプ チュプ カムイ tokap cup kamuy)。イナウをこしらえて別に立てるし、御神 酒もあげた。この世を明るくする一番根性の良い神様で、土をあたためて、草でも木でもおがらせ る(育てる)一番の神様だと言っていた。」白沢ナベ、千歳(渡辺他 1994:49) ⒦ 「神々の中で一番偉いのは太陽の神様だ。その次に偉いのがフクロウの神様だ。熊祭りでもなん でも、お祭りの場合は、太陽にあげるヌサ nusa(祭壇)とフクロウのヌサ nusa(祭壇)は作 るけれど、あとは特に取り立てて何の神様と言うことはないようだった。」島直、標茶(渡辺他 1995:33) ⒧ 「イナウ inaw(御幣)は丸いので、太陽の神の印をマキリ(小刀)で彫るのには、うまく回し てカスが残らないようにしなければならない。この印は太陽の光を表しているらしい。表に彫る。 裏には島家の印を彫る。このイナウは太陽への祈りを届けるものではないかと思う。」島直、標茶 (渡辺他 1995:58) 以上、12の事例について検討していこう。⒜∼⒡の資料は、16世紀後半から19世紀後半に かけて記録された外国人研究者らによる情報である。これらの情報には、 〈太陽〉を拝する慣 習が存在していたことが、簡潔にだが明瞭に述べられている。 ガスパル・ヴィレラ⒜の知識は、主に和人を介した知識であり、アイヌからの直接的見聞で はないという。しかしこの記録は、その当時のアイヌに対する日本人の知識を代表するような もの、あるいはアイヌに直接的に接した和人からの伝聞であるため、単なる作り話ではないと 考えられている(日本学士院内明治前日本科学史刊行会 1971:200-1) 。その意味では、ヴィ レラの時代(16世紀半ば)において、太陽に関するなんらかの信仰が一般的知識として認識 ─7─ されていたといえるだろう。 その一方で、ジロラモ・デ・アンジェリスの記録⒝⒞は、アイヌの信仰をよく表していると いえる。デ・アンジェリスの報告は、17世紀初頭に、実際に蝦夷地(北海道)に渡航し、直 接的間接的にアイヌから見聞した情報を記したものである(日本学士院内明治前日本科学史刊 行会 1971:220) 。それゆえに、前者よりもその報告の信憑性は高いと考えられている。そこ で、デ・アンジェリスの記録をみると「太陽と月、山の神、海の神に対して尊崇の念を持つ」 と、その信仰体系の一端を記述している。そしてそれらを尊崇する理由として、 「それらの恩 恵によって生活するから」と述べている。この描写は、一面では真実を伝えているといえるだ ろう。イオマンテ=クマ送り儀礼を例にとって考えてみると、その本質的要素は、 〈感謝と再 生〉の観念にあると考えられる。すなわちそれは、獲物の獲得によって、人間に有用となる肉 や毛皮などをもたらしてくれたカムイへの〈感謝〉を示す儀礼であり、そして再び、そのよう な恩恵をもたらしてくれるように獲物の〈再生〉を願う儀礼でもある。それゆえに、人間に 〈食糧〉などの恩恵を与えてくれる山の神や海の神に対して、尊崇の念を持つのである。また、 太陽や月も人間の生活にとって必要不可欠なものであるから、尊崇の念をもっていたと考えら れる。しかし、デ・アンジェリスは、太陽や月を特記するほどの儀礼ないし慣習についてはふ れていない。 イサベラ・L・バードの記録⒟では、カムイの観念には「謝恩的な思想」が存在すると認め ている。これは、デ・アンジェリスのいう「恩恵」をもたらしてくれるというカムイと表裏一 体の考えであるとみて問題ないだろう。そしてより興味深い点は、 〈太陽神〉が最上の神とし て認識されている点である。バードが北海道を旅行したのは1878年8月17日から9月11日で あり、函館から海路を室蘭に渡り、幌別∼白老∼苫小牧∼富川を経て平取へと訪ねた。そし て、 「ピラトリではペンリウク酋長の家に四日間滞在し、アイヌたちの衣、食、住の生活、行 動、出来事を詳しく観察して記載し、できるだけ多くのアイヌ語を収録し、また体質的調査も 行なった」 (児玉 1970:58)という。帰路は門別∼室蘭から陸路で有珠∼虻田∼長万部∼函 館とたどり、約25日間の踏査を終えている(バード 1973:245-355) 。もっとも、バードの記 録からも、太陽神が最高位の神として崇拝の対象となっていたということ以上の情報を引き出 すことはできない。 資料⒠は、ジョン・バチェラーの報告である。この資料には、 「太陽を拝む人は多くいる」 、 「アイヌの家屋は神窓を東に向けている」 、 「東に向いて神を拝むことがある」といったように、 太陽に対する礼拝の様子が記されている。そして太陽を崇拝する実態の一つとして、 〈日蝕〉 の事例をあげている。この記述でバチェラーが示したことは、太陽がカムイの一つとして認 められていたという事実である。しかし、神窓の外部に設けられる祭壇=ヌササンについて、 ─8─ 「太陽の昇る方角に設けられた大きな祭壇」 (バチェラー 1999:144)などと記していること などから考えると、バチェラーは東窓における礼拝と太陽に対する神性、そして太陽の死=日 蝕に対する非常な恐怖心というものを結びつけ、東方(=日の上昇方位)への神聖視観の存在 を示唆していたように考えることができる。 資料⒡では、太陽神が「最も神威」あるカムイであることが記されているとともに、その信 仰は直接的に崇拝するのではなく、カムイウイテクペ=フクロウ神を太陽神の神使とみなして 礼拝の対象とする、という記述がみられる。この資料にしたがうのであれば、太陽神に対する 礼拝は、フクロウ神への礼拝によって表象されるということを意味する。 フクロウ、とくにシマフクロウに関しては、クマよりも高位の存在と考えられることもあ る。それは、一説にはクマの居所を知らせてくれるからといい、あるいはその鳴き声で危険 を知らせてくれる存在だからだという(宇田川 2004a:173-4、渡辺他 1986:38、渡辺他 1992:30) 。また、クマ送り儀礼=イオマンテ同様に、シマフクロウの送り儀礼=モシリコロ カムイ・オプニレも重要な儀礼と認識されていた。 大塚和義によれば(大塚 1995:109-20) 、フクロウの送り儀礼はクマ送り儀礼よりも盛大 な儀礼であったと語られることが多いという。しかし、それを裏づける具体的根拠は示されて こなかったとも指摘する。フクロウを飼育する様子や送り儀礼の様子は、松浦武四郎の『蝦夷 漫画(1859年) 』や西川北洋の『アイヌ風俗絵巻(1800年代末) 』によって記されている。ま た、1937年には、すでに忘れ去られていたフクロウ送りの儀礼を、犬飼哲雄・名取武光の依 頼により、アイヌの古老が再現した記録が残されている。さらに、佐藤直太朗が『釧路アイヌ の縞梟送り』で、その儀礼の全体像を報告している。これらの記録により、フクロウ送りがイ オマンテ(厳密には仔クマ飼育型の送り儀礼)と酷似していることがわかると大塚はいう。そ の一方で、フクロウの送り儀礼の成立は、本州和人たちとの交易がその大きな要因になるとも 指摘している。すなわち、本州の和人たちが競ってもとめた矢羽用のワシ・タカ類の羽根と同 じく、フクロウの羽にもその需要がおよんだ結果、飼養と儀礼を行なうようになったというの である。それゆえに、19世紀後半の武士社会の崩壊と共に矢羽の需要も激減し、結果として フクロウの送り儀礼も喪失していったものと考察している。 一方、シマフクロウの表象に関しては、山田孝子が〈空〉を象徴するカムイであるとも論じ ている。山田によれば(山田 1994:66-79、228-30) 、アイヌの世界観の特徴の一つは、特定 の動物と神格の役割、および空間との象徴的等式が認められることであるという。たとえば、 ヒグマが〈ヌプリ・コロ・カムイ=山岳を領有する神〉と称され、山岳の支配的領有者と認識 されていたように、コタン・コロ・カムイ(モシリ・コロ・カムイ)=国/村を領有する神と 称されるシマフクロウは、人間世界(国/村)を領有する神として崇拝されていると同時に、 ─9─ 〈トリ〉カテゴリーが属する〈空〉を象徴する存在として認識されていたと論じている。その 意味では、シマフクロウが象徴する〈空〉という空間カテゴリーは、 〈太陽〉が属す天空の領 域でもあり、その関係性を示唆することもできよう。 さて、資料⒢∼⒧は、1981年度から1998年度までの18年間に、渡辺仁を中心に実施された アイヌ民俗調査の成果報告書である『アイヌ民俗文化財調査報告書・アイヌ民俗調査』Ⅰ∼ (渡辺他 1982∼1999)で報告された情報である。いずれの資料においても、太陽神が重要 なカムイであると述べられている。 資料⒢では、太陽神はパセカムイ=位の高い神として認識されており、⒤はヌササン=祭 壇で祀るカムイとして、⒥ではイナウ(註4)を立てるカムイと位置づけられている。また、⒦ では太陽神が最高位の神であり、その 次がフクロウ神であるとし、上述した 太陽とフクロウの関係性を想起させる。 さらに⒧では、太陽神に捧げるイナウ には、太陽神の印=イトクパとともに、 送り主の祖印=エカシイトクパが刻ま れると報告している。この事例のみで は判断できないが、このことは、渡辺 仁が「北方狩猟採集民の聖山信仰」 (渡 辺 1990)で論じた川筋を基軸とするア 図1:太陽神のイナウ(概念図) (渡辺他 1995:58より) イヌとカムイの社会的連帯性を想起させる(註3)。 上掲した資料により、アイヌの民族文化研究の初期段階より、太陽に関する信仰が認識され ていたことを再確認することができた。さらに、太陽神がパセカムイ=位の高い神として認識 されていたという事実は興味深い。これは、更科源蔵が指摘するような、太陽は重要なカムイ ではあったが、現実的生活においては「それほど重要な存在ではない。魚狩猟の民にとっては 太陽や月は、空気と同じように、当然あるものという程度」 (更科 1981:41-2)という認識 とは相反するものといえる。そして、資料⒤では、ヌササンで祀られるカムイとして、太陽信 仰が外形化された要素として表出していることが認められた。そこで次項では、太陽信仰の外 形化という観点から、祭壇=ヌササンに祀られるカムイについて取り上げることにする。 4.ヌササンのイナウ 祭壇=ヌササン(註5)とは、 「その家々で信仰する神々を祭ったもので、神々に捧げられたイ ナウが立ち並び、イオマンテ(iomante)やオプニレ(opunire)等で送られた動物の頭骨等が ─ 10 ─ 納められている」 (内田 1989:20)ものであり、アイヌにとっては神聖な斎場、祭壇である。 このヌササンは、一般的には、住居=チセの奥壁に設けられた神聖な窓である神窓=ロルンプ ヤラから4∼10mほど離れた屋外に設置されているという。なお、神窓から祭壇までの間は エソパウンといわれ、イオマンテなどの送り儀礼や神への祈り=カムイノミが執り行なわれる 神聖な空間となる(内田 1989:20) 。 さて、このヌササンに捧げられるイナウの例では、たとえば、金田一京助らが報告する日高 二風谷のクマ送り儀礼におけるイナウの配列(金田一・杉山 1993:288-9)の一例は、以下 のとおりである。向って左から、次のように配列されている。 [1] [2] [3] [4] [5] [6] ヌサコロカムイ:大幣の神・氏神・農業神 シランバカムイ:森の神 ハシナウカムイ:狩猟の神 メトツシカムイ:熊の神(クマの頭骨を飾るイナウ) ワツカウシカムイ:水の神 シンヌラッパウシ:祖霊祭壇 図2:熊祭に於けるイナウの配列順序 於日高国沙流郡平取村二風谷(金田一・杉山 1993:288-9より) 同じく、日高二風谷でクマ送り儀礼を調査した伊福部宗夫の報告(伊福部 1969:20-2)に よれば、ヌササンは以下のように配列されている。 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] シンヌラッパヌサ:先祖を祭るヌサ ヌサコロカムイ:幣所の神・大幣の神・農業を司る神・食物を司る神 シランパカムイ:木の神・鳥や獣の棲家や森林を支配する神 ハシナウカムイ:狩猟の神・狩猟を司る神で鳥類の王ともいわれる メトツシカムイ:熊の神 ワッカウシカムイ:水の神 コタンコロカムイ:コタンを守る神 ─ 11 ─ 静内でおこなわれるカムイノミでは、以下のような神々がヌササンに祀られている(渡辺他 1984:84) 。 リーヌサ ri nusa のイナウ(左端から右端へ)※中央のヌサ [1] ハシナウ サン カ オインカル 太陽神 [2] シベチャリ コタン コル カムイ 静内コタンの守り神 [3] シンプトウ コタン コル カムイ うぐいす谷コタンの守り神 [4] ヌプリ ケシ アン オランケ チカプ カムイ 山奥の頂上の守り神 [5] ペッ オインカル ハッタル パケ アン オランケ カムイ 静内川源流の守り神 [6] ピスン ピラ カムイ 不動坂崖の神 [7] チワシ コル カムイ 静内川河口の神 [8] ホイナ シル ヌタプ トマリ コル カムイ 入舟の神 [9] カイペ リリカ カムイ 波うちぎわの神 [10] ピスン ヌプリ タプカ アン オランケ アエタンネ カムイ 入舟沖岩の神 [11] レプン シル カタ シアムペ タンネ カムイ シャチ神 [12] キムン カムイ 熊神 hasinaw san ka oinkar sipecari kotan kor kamuy sinputu kotan kor kamuy nupuri kes an oranke cikap kamuy pet oinkar hattar pake an oranke kamuy pisun pira kamuy ciwas kor kamuy hoyna sir nutap tomari kor kamui kaype ririka kamuy pisun nupuri tap ka an oranke aetanne kamuy repun sir kata siampe tanne kamuy kimun kamuy ヌサパ nusa pa のラム ヌサ ram nusa のイナウ(左から右へ)※向って左のヌサ [1] ヌサ コル フチ [2] シル コル カムイ [3] キナスッ カムイ nusa kor huci sir kor kamuy kinasut kamuy 祭壇の神 大地の神 竜神 ヌサ ケシ nusa kes のラム ヌサ ramu nusa のイナウ(左から右ヘ)※向って右のヌサ [1] パーセ オンカミ [2] ワクカ ウシ シー ペッ カムイ pase onkami wakka us si pet kamuy 図3:ヌサの構造(渡辺他 1984:83より) ─ 12 ─ 先祖 水の神 また、胆振白老(熊坂家)のヌササン(満岡 1987:92)は以下に示すとおりである。 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] トマレコロカムイ:海の神 マシャレコロカムイ:海岸の神 チワシコロカムイ:川尻の神 ワツカウシカムイ:川の神 チロンヌップカムイ:狐の神(熊坂家のチャシコソを守る神) シュルクカムイ(モノシルカムイ):毒草の神 イヌイナカムイ:隠れ処の神(白老山奥に疫病を避けて隠れた岩穴) ベンテンシャマ:弁天様(内地の神なるも白老漁場請負人当時から氏神として祈り今で も神社に合祈している) [9] ヌプルペッカムイタップカシエヌプルカムイ:登別温泉の神 [10] シランバカムイ(カムイカライオンノシキエヌプルカムイ):山の中腹の神 [11] ハシシナウッカムイ:熊の神(猟の神) 上川旭川のヌササン(倉光 1953:26)は次のとおりである。 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] コタンコロカムイ:国土の神 シランパカムイ:その土地の神 ホロケウカムイ:武勇の神 ヒトウンペカムイ:幸運の神 イソアニカムイ:猟の神 キムンカムイ:山の神 クツコロカムイ:涯路の神 ヌサコロカムイ:神事を受け持つ神 チヤツチクカムイ:幸を教える神 ラパシチロンノツプカムイ:危難救の神 カツケウカムイ:水猟の神 ワツカウシカムイ:水の神 石狩浜益のクマ送り儀礼(金田一・杉山 1993:290)では以下のような配列を示す。 [7] [8] [9] [10] [11] (右) [12] (中央) [1] (左) [2] [3] [4] [5] [6] シリコロカムイ:海岸の崖の神 レプンカムイ:海の神 ソツキコロカムイ:海の底の神 トマリコロカムイ:港の神 チシユウランベカムイ:浜益村の川の神 モイペツ:浜益の別名川の神 キラウンサバニ:頭木(クマの頭骨を飾るイナウ) コタンコロカムイ:村の神 カムイチカップ:フール鳥の神 ヒンネタヨルベ・マシネタヨルベ:上男浜益黄金山・下黄金山・下女摺鉢山 ウキランベナイ:黄金山麓を流れる川の神 ヒシクシサヨシ:熊を追い込む沢の下 キングスサヨシ:熊を追い込む沢の奥 ─ 13 ─ 以上は日高二風谷、静内、胆振白老、上川旭川、石狩浜益という道央∼道南西部にかけての ヌササンの事例である。一方、道東∼道東北部にかけては以下に示すとおりである。 十勝地方の帯広伏古(古川家)の例(犬飼・名取 1970:554)では、ヌサに向って左が上 座(ヌサパ)で右が下座(ヌサケシ)になり、その配列は次のようになる。 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] カムイヌサ:クマの頭骨を飾るイナウ イナウネトパ(ポロヌプリの神):カンナカムイ(雷神)の住むポロヌプリに捧げるイナウ コタンコロカムイ:部落の守り神であるシマフクロウに捧げるイナウ ニアシコロカムイ:山全体の神 チップタチカップカムイ:くまげらの神 ホロケウカムイ:おおかみの神 ワッカウシカムイ:水の神 同様に、十勝帯広伏古(山川家)の例(内田 1989:22、31)では以下のようになる。ヌサ の上手=ヌサパは向って左手であり、 「ヌサパにその家で拝する山の神を祭り、ヌサケスには 川の神を祭る」 (内田 1989:20)のだという。 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ポロシリカムイ(porosir kamuy) :ポロシリ岳の神 ニヤシコロカムイ(niyas kor kamuy):不明(鳥の一種らしい) コタンコロカムイ(kotan kor kamuy):エゾシマフクロウ チプタチカプ(cipta cikap):クマゲラ シペッカムイ(sipet kamuy):十勝川の神 コムニシリコロカムイ(komni sir kor kamuy):カシワの木 シランパカムイ(siranpa kamuy) :ヘビ チャクチャクカムイ(cakcak kamuy) :不明(鳥の一種らしい) サチリカムイ(sacir kamuy) :不明(20㎝くらいの白い動物) チロンヌプ(cironnup) :キツネ また、釧路春採コタンのヌササン(佐藤 1958:34-5)では、以下のようになる。 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] ワツカウシカムイ:水の神 ピンネシリ:雄阿寒岳 マツネシリ:雌阿寒岳 チュプカムイ:日神 レプンカムイ:沖の神 モシリコロカムイ:縞梟 カムイシユマ:知人の神石 カンナカムイ:龍神・雷神 ─ 14 ─ 釧路白糠のカムイノミ(渡辺他 1986:85-6)では、以下のような神々にイナウを捧げる。 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] ピンネシリカムイ(pinne sir kamuy):雄阿寒 アトウサヌプリ(atusa nupuri):硫黄山 マッネシリ(matne sir):雌阿寒 ワクカウシカムイ(wakka us kamuy):水の神(一番大事) キムンカムイ(kimun kamuy) :熊の神 トマリコロカムイ(tomari kor kamuy):港の神 チャシコッカムイ(cas kot kamuy) オンロプスカムイ(onropusu kamuy):オオカミの神 チャランケチャシカムイ(caranke cas kamuy):昔の裁判したところ カムイトカムイ(kamuy to kamuy):春採湖 カムイシマカムイ(kamuy sima kamuy):知人岬 ニマンカムイ(niman kamuy):舟の神 道東北部にあたる網走美幌(渡辺他 1986:86)では、以下の神々にカムイノミが捧げら れ、イナウが祀られるという。 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] チュクカムイ(cuk kamuy):日の神 カントコロカムイ(kanto kor kamuy):天の神 クンネチュクカムイ(kunne cuk kamuy):月の神 ヌプリシクカマカムイ(nupuri sikukana kamuy) ・モトコ山(モコッ ヌプリ mokot nupuri)・雄阿寒(ピンネシリ pinnesir) ・雌阿寒(マッネシリ matnesir) リピラコロカムイ(ripirakorkamuy) :ベンケイ岩(津別と活汲の中間) ペッコロカムイ(pet kor kamuy):川の神 ワクカウシカムイ(wakka us kamuy):水の神 ルチシコロカムイ:屈斜路・美幌間の峠の神 ヌササンシクカマカムイ(nusa san sikkama kamuy) :ヌサを守る神 キムンコロカムイ(kimun kor kamuy):イセポ isepo・モユク moyuk などの山の神々 以上、上掲したヌササンは日高二風谷(2例) 、日高静内、胆振白老、上川旭川、石狩浜益、 帯広伏古(2例) 、釧路春採、釧路白糠、網走美幌の9地域11例である。そこで、イナウとし て祀られる神々を分類すると、以下のように表化することができる。 ─ 15 ─ 天体 二風谷 静内 地 形 村 祭壇 水 村 祭壇 水 クマ 狩猟・祖霊神 山奥頂上・静内川源流・不 動坂崖・静内川河口・入舟・ 村 波打ち際・入舟沖岩 祭壇 水 クマ・シャチ 大地の神・竜神・ 祖先 クマ・キツネ 毒草・弁天 オオカミ 猟・水猟・幸運・ 涯路・幸を教え る・危難救 フール鳥 森・木 太陽 白老 山の中腹・川尻・川・海・ 海岸・岩穴・登別温泉 旭川 山・森 浜益 黄金山・摺鉢山・川・浜益 村の川・黄金山麓の川・海 村 岸の崖・海・海の底・港・ 熊を追込む沢 伏古 ポロシリ岳・山全体・十勝 川 春採 日 白糠 美幌 日・月 村 祭壇 水 動 物 その他 水 オオカミ・クマゲラ・ キツネ・ヘビ・シマ カシワの木 フクロウ 雄阿寒岳・雌阿寒岳・沖・ 知人岬 水 シマフクロウ 竜神・雷神 雄阿寒・雌阿寒・硫黄山・ 港・知人岬・春採湖・昔の 裁判した所 水 クマ・オオカミ 船 水 天 村 山・雄阿寒・雌阿寒・モコ ト山・川・ベンケイ岩・峠 祭壇 表1 ヌササンに祀られる神々 表1をみると、信仰に対する地域性という ものが如実に現れているといえる。たとえ ば、内陸に位置する二風谷、旭川、伏古、美 幌などでは、海に関係するカムイはイナウと して祀られていない。白老、浜益、春採、白 糠などの海岸部ではその逆である。また、山 に関するカムイは、二風谷以外の地域ですべ て祀られていることがわかる。もっとも、二 風谷のシランバカムイ(森の神)とは「鳥獣 の住処、山地の森林を支配する神」 (金田一 1993b:231)であり、その意味では〈山岳〉 図4:北海道略図 に関する崇拝というのは、アイヌ社会の共通 した観念であったといえそうだ。とくに、道東∼東北部地域にかけては、具体的な山岳名や地 名が現れているのは特徴的である。 ─ 16 ─ その一方で、天体に関するカムイが祀られているのは、静内と春採、美幌の事例だけであっ た。前項までにみてきたように、 〈太陽神〉は高位のカムイとして、あるいは人間の生誕や文 化起源のメタファーとして認識されていたにも関わらず、具体的なイナウや儀礼として表象さ れていたと報告する資料は少ない。このような太陽信仰の実体は、太陽神が実際の信仰生活の なかで現実性を強く保持できなかったということを意味すると考えられる。すなわち、上述し た〈太陽神〉の神性は、山田孝子のいう神話的時間(註6)において発揮されていたことであり、 歴史的時間においては、人間と関係性の深いクマやオオカミ、シャチ、シマフクロウなどに顕 現されるカムイに、より信仰の現実性を認めていたと考えられる。その意味では、多くの地域 で〈村=コタン・コロ・カムイ〉のイナウが祀られているという点は意味深い。すなわち、コ タン・コロ・カムイとはシマフクロウに顕現されるカムイであり、そのシマフクロウは太陽神 との関係性を示唆できるからである。 このように、ヌササンにおいては、 〈太陽神〉としての信仰の現実性については希薄性がう かがえるが、その一方で、より現実性を保持している要素も存在する。すなわち、 〈太陽方位 観〉に基づいた東方位神聖視の観念である。次項では、この〈太陽方位観〉について取り上げ ることにする。 5.太陽方位観について アイヌの太陽信仰を考えるうえで忘れてはならないのは、 〈東〉方位神聖視ともいうべき観 念であろう。この観念は、太陽神自身に対する崇拝というよりも、 〈太陽方位〉という方位観 によって表象された観念として知られている。 〈太陽方位〉とは、東から昇り西に沈むという太陽の運行経路を方位的原理とする方位観の ことである。そして、アイヌの世界観の一側面においては、この太陽方位が基軸となり、その 世界観を構成する一つの要素としてみなされていた。そのような世界観では、 〈太陽方位〉に よって示される〈東と西〉という二つの方位は、異なる二つの〈世界〉を象徴する方位として 認識されている。すなわちそれは、東は〈カムイ・モシリ=神の世界〉を象徴する方位であ り、西は〈ポクナ・モシリ=死者の世界〉を象徴する方位であるという観念である。たとえ ば、このような認識は、金田一京助採録の「神伝=カムイ・オイナ」 (金田一 1993a)によっ ても示されている。 ─ 17 ─ 永い間 奮ひ闘ひて、 甦る死霊は 此国土の東に 音を飛ばし、 戻ってくる 時に 戦の 上へ 向って 来る 神の 如く 音を飛ばし、 新しき神となりて、 刀の動くにつれて 閃々と光渡れり。 全く 死にきたる神は 真西の下へ 音ひくく 沈みゆき 悲しみ嘆く神 となり 引き返して 此国土の 表に 音をよこしたりしき。 aukotuima shiarikiki Tusa raikamui imoshitchupka kohumterkere hetopo otta urike kurka piuki kamui ne piuki kamui ne ashir pito ne tamoun kuni chishikaipare. Oan raikamui shiahunchuppok kohumerauta rorihitara, shiyokkamui ne hetopohorka imoshirso ka kohumarkire. 「カムイ・オイナ」とは、文化神アイヌラックルの出自と天界の神々の系統を物語る伝承で ある。そして、その一節であるアイヌラックルとシノッペ姫の戦いの場面に、その方位観が描 かれている。 上記に引用した部分(金田一 1993a:76-7)は、文化神アイヌラックルの刀に何度切られ ながらも再生するシノッペ姫が、遂には再生のできない世界へと追いやられていく場面の一部 である。そして、ここでの注目すべき点は、 「甦る死霊は 此国土の東に 音を飛ばし」 、 「全 く 死にきたる神は 真西の下へ 音ひくく 沈みゆき」という表現である。アイヌの考えに は、死霊が天へ赴くとき、再び生き返る場合は東の方へ向かい、永久に還らぬ場合は西の方へ と向かう、という観念が存在するという(金田一 1993a:63、76-7) 。 すなわち、このような方位観が示す観念は、 〈chupka =東・日の上〉が再生可能な世界であ り、それゆえに〈生〉を象徴する世界として認識されていたことを意味するのであり、なおか つ、その対極に位置する〈chuppok =西・日の下〉は再生不可能な世界であり、 〈死〉を象徴 する世界として位置づけられていたことを意味するのである。 また、太陽方位が世界観を構成する要素として認識されていたという点では、久保寺逸彦採 録の神謡64「フーリ鳥の自叙」 (久保寺 1977)を取り上げることもできる。この神謡=カム イ・ユーカラでは、地下世界であるポクナ・モシリの位置に関して、 「moshit chup-poki =国 土の西の果て」と表現されている(久保寺 1977:303) 。 人間の国土の 国土の果てなる西の果てに 行きつき ainu-moshir moshit chup-poki a-o-arpa-wa 谷地の国 鳥も棲まぬ国に 行くようにと yachi-ne moshir chikap-sak moshir a-o-arpa-wa この伝承では、文化神アイヌラックルによって怪鳥フーリが追いやられる世界は、人間の ─ 18 ─ 世界の果てに位置する〈西=チュプ・ポク〉の果てとして登場している。 〈チュプ・ポク= chup-poki〉とは〈太陽・の下〉、転じて〈西〉を意味する言葉である。 このような、 〈東と西〉という方位観を基軸として世界が構築されているという観念につい ては、松居友が千歳地方の事例として、次のように報告している(松居 1993:47-8) 。 アイヌにとって〈東〉という方位は、魂の生まれる方位であると考えられている。それゆえ に、神=カムイを迎える〈神窓=ロルンプヤラ〉は、カムイの生まれる東に向かって開くので ある。おなじく、カムイの霊魂を〈神の国=カムイ・モシリ〉に送り返す場所である〈祭壇= ヌササン〉が東に設置されているのは、カムイの再生を願うためである。すなわち、 〈東〉と いう方位は魂の復活する方位として認識されていたのである(図5) 。この東方神聖視ともい うべき観念は、 〈イオマンテ=クマ送り儀礼〉においても具現化されている観念であると松居 はいう。たとえば、儀礼の終盤、儀礼対象であるクマの神をカムイ・モシリへと送り返す際に 射たれる花矢=ヘペレアイは、 東の空に向かって放たれる。そ れは、神々が復活する方向は東 ࣑࣓࢜ࢨࣛ ているからであるという(松 居 1993:47-8) 。その一方で、 け =ライを象徴する方位だとも松 ࣎ࢠࢻ࣓ࢨࣛ ࢽ࣓ࢨࣛ ♼✾ ⚅ቨ ࣑࢜ࡡ᪁ྡྷ 上の国へと昇るとも考えられ ࣚࢠࣜࡡ᪁ྡྷ であり、太陽のごとく東から天 ᮶ 〈西〉は死者=ライクルや、死 ࣑࢜ࡡ㐠➵ 居は報告している。人間の魂 や、死後、すぐによみがえらな 図5:太陽方位による世界観のイメージ い魂は、 〈ポクナ・モシリ=下 方の国〉や〈テイネ・ポクナシリ=谷地原の国〉のある〈西〉に向かっていくのだという。テ イネ・ポクナシリは腐った地獄のような場所で、そこに行った魂は人間でも神でも再生しない といわれるが、通常、人間の魂が向うのは、 〈西方〉に存在するポクナ・モシリだと考えられ ている(松居 1993:48) 。 以上のように、松居の報告する太陽方位を方位的原理とした世界観では、神は〈東〉に向 かい、死者は〈西〉に向かうという水平的な方位観が意識されていた。そして、この太陽方 位は、観念的な認識としてだけではなく、 〈神窓〉と〈埋葬〉という外形化された物質的要 素(註7)によっても表象されているという。とくに、神窓が示す単一的な方位規則に対しては、 渡辺仁が「北方狩猟採集民の聖山信仰」 (渡辺 1990)により、 〈川上〉方向を方位的原理とす ─ 19 ─ る聖山信仰が外形的に表出された方位であると論じている。ところが、松居が示したように、 神窓の方位は太陽方位との関係性も指摘されているのである。 『アイヌ民族誌』 (アイヌ文化保存対策協議会 1970)における神窓の項では、 「付近を流れ る川の上流という事もあるが、多くは東を向いた」 (アイヌ文化保存対策協議会 1970:181) 窓として認識されていた。また、前述した松居友によると、千歳地方では、千歳川の上流に支 笏湖と呼ばれるカルデラ湖があり、恵庭岳という神々の集うとされる聖域も存在するため、神 窓方位の方位的原理を〈川上聖山信仰〉に求めるには理想的な場所であるという。しかし実 際には、千歳地方の神窓は川下に向けられており、この地域で発掘調査された16世紀頃のア イヌ住居址のほとんどすべてが、神窓方位を川下に向けて建てられていたと松居は報告してい る。そして、千歳地方の川下方位とは、 〈東〉方位を示す(松居 1993:51)のであるという。 すなわち、千歳地方の神窓方位は、川上方向の、その先に聳える山岳にカムイ・モシリが存在 するという〈川上聖山信仰〉を方位的原理とする方位観とは符合しないのである。 このようにみてくると、神窓方位に関する渡辺の〈川上聖山信仰〉は、その方位的原理の一 側面を表しているに過ぎないともいえる。つまり、以下の資料が示すとおりに、神窓方位は、 必ずしも川上・山岳方向のみに向けられていたというわけではない、という事実も存在するか らである。 ① 「カムイウシプヤラ(カムイプヤル)…家の東端と、東の窓は神聖なところとされている。日 の出と、太陽礼拝から来たものである。そして彼等は神々は東に住むと、かたく信じている。 ここは、神々の出入の窓である。従って、窓から物を投げ入れたり、外部からのぞくことはか たくいましめられている。」(畑中 1949:122-3)、胆振地方(白老) ② 「窓は全部で三つあって、南側にはイトムンプヤル、ポンプヤルの二つがあり、東側には神聖 な窓という意味のロルンプヤルがある。このロルンプヤルは元来窓というよりも神聖な入口と もいうべきもので、平常ここから内を覗くことは神聖を冒すものとして固く禁じられている。 この窓は神やイナウを出し入れするときに用いられるのである。一般に原始民族が太陽に限り ない尊厳を感じたように、アイヌもまた太陽を敬い、東という方位を重視したのである。 」(伊 福部 1969:15)、日高地方(二風谷) ③ 「昔の家にはロルンプライ rorunpuray「上座の窓」があり、外にはヌサ nusa「祭壇」があっ た。熊をとる人は熊の頭が祭ってあった。ロルンプライは東の方を向き、 「東」は室蘭の方の こと。山の方に向いていたのではない。ミズキのイナウ inaw が祭ってあった。ロルンプライ rorunpuray(神窓)の方、東の方は、神様がいるところ。」(渡辺他 1989:118)、堀崎さく、胆 振地方(有珠) ─ 20 ─ ④ 「ロルンプヤル rorunpuyar(神窓)とイトムンプヤル itomunpuyar でイトムンプヤルは、南を向 く。家は日の出る方に向ける。神窓は、日の出る方に向けるものだ。千歳川の下流に神窓が向 くと父が言っていた。いま住んでいる家もそのとおりに建てたから格好わるい。戸口(アパ apa)は雪が解けやすいように日の出る方(南?)へ向ける。朝日が出る方に神窓も祭壇(イ ナウチパ inawcipa)も向ける。クマの肉は神窓から入れる。」(渡辺他 1990:71) 、白沢ナベ、 石狩地方(千歳) ⑤ 「西向きや北向きの家はだめだと言われていた。日の出る方に家のロルンプヤル rorunpuyar(神 窓)を向けなければならないと言われていた。朝、太陽が出たら、窓から見える。」 (渡辺他 1994:59) 、白沢ナベ、石狩地方(千歳) ⑥ 「神窓(ロルンプヤラ rorunpuyar)は、「お日様の出る方」にある。その外の空間は、イナウ チパ inaw cipa と呼ばれる。神窓は、拝む(ノミ nomi)神が出入りするところだ。 」(渡辺他 1994:60) 、山川キク、石狩地方(千歳) 上掲した神窓方位に関する事例では、①「日の出と太陽礼拝から来たものである。そして 彼等は神々は東に住むと、かたく信じている」 、②「アイヌもまた太陽を敬い、東という方 位を重視したのである」 、③「ロルンプライ rorunpuray(神窓)の方、東の方は、神様がい るところ」 、④「神窓は、日の出る方に向けるものだ」 、⑤「日の出る方に家のロルンプヤル rorunpuyar(神窓)を向けなければならない」、⑥「神窓(ロルンプヤラ rorunpuyar)は、 「お 日様の出る方」にある」 、という記述から明らかなように、その方位的原理を太陽方位に求め る事例も存在するのである。そして、この方位的原理は、 「カムイ・オイナ」 (金田一 1993a) や神謡64「フーリ鳥の自叙」 (久保寺 1977)によって示された観念の外形化、すなわち、東 方神聖視という観念的要素の外形化として捉えることができないだろうか。 6.まとめ 以上、アイヌの太陽に関する信仰を、 〈直接的〉崇拝と〈間接的〉崇拝という観点から取り 上げてきた。前者においては、 〈太陽神=チュプ・カムイ〉としての崇拝をあげることができ る。この太陽神は、人間の〈生誕〉との関係を示すとともに、文化起源のメタファーとしても 認識されていた。また、事例は少ないながらも、信仰を外形的に表出する物質的要素として、 〈太陽のイナウ〉が祀られている事実も確認することができた。さらに、 〈シマフクロウ〉が有 する神性は、太陽神との関係性を示唆するものでもあった。 このような事例が示すことは、太陽神信仰に対する〈現実性の保持〉という観点から捉える ことができるだろう。文化神アイヌラックルの天上世界への帰還を区切りとする〈神話的時間 ─ 21 ─ の時代〉から〈歴史的時間の時代〉への移行は、カムイの役割に変化をもたらした。いわゆる 天上界のカムイに対する信仰よりも、地上の人間生活に直接的に関わる鳥・動物・植物・海 獣・魚介に顕現されるカムイを直接的な信仰の対象として重要視していた。すなわちそれは、 生業という現実生活との関わりにおいて必要とされるカムイであり、その意味では、太陽神信 仰はより強い現実性を有していなかったと考えられるのである。 その一方で、太陽の運行現象に対する信仰は、太陽方位という観念により表出されており、 〈東と西〉が〈生と死〉を象徴する方位として認識されていたという点をあげることができる。 そして、この太陽方位観は、神話や伝承に描かれているような観念的な認識というだけではな く、 〈神窓方位〉という外形化された文化要素として物質的に認識されていたという可能性も 指摘できた。もっとも、神窓方位に関しては、必ずしも太陽方位が主体的ではなく、川上方位 が主体的である地域も存在するため、太陽方位の外形化という点では一部地域の特徴という可 能性も否定できない。しかし、太陽神が〈生誕〉を象徴する神として認識されていたという観 念は、太陽の運行経路に基づく東方神聖視観との関係性を示すものと考えることもできるので ある。 以上のように、アイヌの太陽信仰は、神話的世界のなかで、より実在性を保持していたと捉 えることができる。その一方で、事例数はわずかであるが、信仰の外形化という観点からみる と、イナウや神窓方位に太陽信仰が表出されていた。その意味で、この太陽信仰の外形化とい う問題は、地域的特徴という視点をもって、今後さらに追及していく必要があるだろう。 【註】 1)ミルチャ・エリアーデによれば(エリアーデ 1974:220-1) 、オセアニア地域では、太陽は死者 の魂を西方へ導くという俗信が信じられているという。すなわち、霊魂は太陽とともに大海に 入り、「太陽の舟」にのせられ、日の沈むところにある死者の国へと導かれるのだという。また、 ポリネシアの一部の島々では、その土地で一番西の地点は「魂が跳び立つ所」と呼ばれていると いう。 2)金田一京助によれば(金田一 1993b:291-301)、アイヌラックル(ainu rak kuru =人・匂・人) とは、〈われわれアイヌに近い神〉という意味であり、オキクルミの別名である。オキクルミと は、カント・モシリ=上の世界から降り、アイヌ・モシリ=人間の世界を教化した神である。す なわち、アイヌの「国土創業の神で、今日彼らの有するいっさいの文化の基を開いた神」である という。 3)渡辺仁は(渡辺 1990:237-302)、神窓=ロルンプヤラが示す規則的な方位的原理は、川の上流 方向、あるいはその源となる高山の頂に〈カムイ・モシリ=神の世界〉が存在するという観念の ─ 22 ─ 表出であるととらえた。そして、川上方向に神窓が向けられるという理由は、山岳はパセカムイ であるクマ(パセオンカミ=重要礼拝では Metot-ush kamui =クマの大王神と称する)が棲む領 域であるという経験的知覚を表象すると同時に、アイヌとカムイとの社会的連帯関係を体現化 する要素にあったと指摘している。すなわちそれは、「彼等のカムイノミ儀礼に欠かすことので きない inau(カムイへの最重要供献物)に刻むしるし」(渡辺 1990:263)としての祖印(ekasi itokpa)の存在であるという。そして、この祖印が刻まれたイナウがイオマンテの主体であるク マの神へと捧げられるという行為によって、その関係性が決定づけられるのだという。 4)イナウとは神を祀るときには必ず作られるものである。一般的には「削り掛け」などと訳されて おり、ヤナギやミズキなどの木を削って作られる。イナウは、酒とともにカムイが最も好む贈り 物と考えられており、人間と神々の仲介役を担うといい、イナウそのものが神となることもある という(アイヌ文化保存対策協議会 1970:634、野本 2004:46)。 5)ヌササン(祭壇)とは、家単位のものが一般的であるが、コタン共同のものも存在するという。 これらは家単位のもののように家の直ぐ裏手に作られていたというわけではなく、およそ30mも 離れた大木の下に作られていたり、あるいは川辺、湖の岸辺などに設けられていたといわれてい る(宇田川 1989:43-5)。また、樺太アイヌの場合には①家の裏のヌサ場、②浜のヌサ場、③山 の幤場、④野のヌサ場といったようなヌササンがあったようである(知里 1973:169)。 6)山田孝子によれば(山田 1994:55-7)、 〈神話的時間〉とは文化神アイヌラックルが活躍した時 代(カムイ・ユーカラやオイナ・カムイで描かれる)であり、そこでは地上と天界が一体化され ていた世界として認識されていた。一方の〈歴史的時間〉とは、文化神アイヌラックルが天上へ と帰り、〈天空〉がもはや現象的な意味しかもたなくなった時代の世界であり、そこでは人間と 地上のアイヌ・モシリに誕生した神々(動物神や火の神、水の神など)との関係性が主要な関心 事であった。そして、イオマンテなどの儀礼において重要視される神々は地上起源の神々であっ て、天界の神々(日の神や雷神)ではなかったと指摘している。 7)太陽方位を方位的原理とした物質的文化要素としては、神窓方位と埋葬頭位を取り上げることが できる。神窓方位とは、住居に設けられた神窓の向き(方位)のことである。一方、埋葬頭位と は、遺骸の埋葬にあたって向けられる頭の方位のことである。アイヌの埋葬形態は、一般的に、 東頭位伸展葬とされている。そしてそれは、「アイヌの死者の国は、下方の国といって、陽の落 ちる西の方にある。それで、死んだ人が立ち上がったとき、まっすぐ西の方に向いていけるよう に、顔を上に向け、頭を東にして埋葬する」 (藤本 1971:14)という観念の表出と考えられて いる。実際に、宇田川洋によれば、埋葬頭位が確認できるアイヌ墓640基を地域別に集計すると、 「全道的には東頭位(30.3%)、南東頭位(25.2%) 、東南東頭位(17.5%)で圧倒的に他より多い 数値を示している。それらは全体の73.0%である」 (宇田川 2004b:183)と報告している。 ─ 23 ─ 【引用・参考文献】 アイヌ文化保存対策協議会 1970 『アイヌ民族誌』 第一法規出版 イサベラ・L・バード/高梨健吉(訳) 1973 『日本奥地紀行』東洋文庫240 平凡社 イサベラ・L・バード/神成利男(訳) 1977 『コタン探訪記』北海道ライブラリー7 北海道出版 企画センター 稲田浩二・小澤俊夫 1989 『日本昔話通観』第1巻 北海道(アイヌ) 同朋舎出版 伊福部宗夫 1969 『沙流アイヌの熊祭』 みやま書房 犬飼哲夫・名取武光 1970 「イオマンテ(くま送り)」 『アイヌ民族誌』 第一法規出版 宇田川洋 1989 『イオマンテの考古学』UP 考古学選書8 東京大学出版会 宇田川洋 2004a 『クマとフクロウのイオマンテ』アイヌの民族考古学 ものが語る歴史9 同成社 宇田川洋 2004b 「チャシ跡とアイヌ墓」『擦文・アイヌ文化』新北海道の古代3 北海道新聞社 内田祐一 1989 「帯広・伏古におけるチセと附属施設について」『アイヌ民族博物館研究報告』第2 号 財団法人アイヌ民族博物館 大塚和義 1995 『アイヌ 海浜と水辺の民』 新宿書房 萱野 茂 1996 『萱野茂のアイヌ語辞典』 三省堂 金田一京助 1993a 『金田一京助全集』第11巻アイヌ文学Ⅴ 三省堂 金田一京助 1993b 『金田一京助全集』第12巻アイヌ文化・民俗学 三省堂 金田一京助・杉山寿栄男 1993 『アイヌ芸術』 北海道出版企画センター 倉光秀明 1953 『上川アイヌの熊祭り』 アイヌ祭祀研究会 児玉作左衛門 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1992 『平成3年度アイヌ民俗文化財調査報告書』アイヌ民俗調査11 北海道教育委員会 渡辺 仁他 1994 『平成5年度アイヌ民俗文化財調査報告書』アイヌ民俗調査13 北海道教育委員会 渡辺 仁他 1995 『平成6年度アイヌ民俗文化財調査報告書』アイヌ民俗調査14 北海道教育委員会 ─ 25 ─ 〈レポート〉 プロジェクト教育に参加して 小 山 有 香 (人文学部国際文化学科) 大学に入学してから4年が過ぎました。大学生活では色々と学ぶことが多くありました。プ ロジェクト教育もその一つで、多くの学生が幅広い分野で学べる大学において、プロジェクト 教育は教室での講義という形式をとった科目ではなく、地域研修や職場研修のように、事前指 導などを受けて学外に出て学ぶものでした。プロジェクト教育は未来講座とも呼ばれており、 私が入学した年には「藍を育てる」と「絵馬プロジェクト」が行われることになっており、同 じ学芸員課程を履修している友人らと共に、物質文化研究センターで行われている「絵馬プロ ジェクト」に参加しました。 絵馬プロジェクトは私が入学する前年よりスタートしたプロジェクトで、主に絵馬の収集と それに付随して、神社の調査なども行いました。絵馬の収集では主に、大学近辺の東京・千 葉・茨城にある神社のものを収集し、大小様々な絵柄の絵馬が集まりました。その昔、絵馬と いえばその形状は大きく、神社の神殿内に飾られていました。現在では小型化し、形も様々 で、表には絵柄、裏には受験の合格祈願や、縁結び、家内安全、安産祈願など、人々の願いが 書かれ、神殿の外に紐で吊るされています。絵馬の絵柄についていえば、干支や七福神・矢と 的・招き猫・神様など、その年を表すものや、各神社の神様に関係するものが多く描かれてい ました。他にも、表に文字が書かれているものもあり、絵馬によっては、黒字の文字に対して 絵柄の色には原色が使われており、彩りが鮮やかなものも多く見受けられました。形状につい ていえば、一般的に思い浮かぶのが家型をした絵馬であり、収集したものにおいても、それら の型の物が多く見られました。しかしながら、なかには通常サイズより大きい物、横長の家型 の物、丸型の物などがあり、丸型の絵馬を見たのは初めてだったので、新しい発見ができてよ かったと思いました。絵馬の収集は、ただ集めるだけでなく、その形状・大きさ・絵柄の種 類・収集先などを記入・データ化し、分類の仕方やデータの打ち込み方・各人の作業分担など を通して学ぶこともあったと思いました。 絵馬プロジェクトでは、絵馬の収集を兼ねて神社の調査も行いました。1年を通して行われ るこのプロジェクトでは、それぞれ3∼4人ずつに分かれて前期は東京の神社を2回、後期は 千葉・茨城の神社を1回、それぞれ先生方と巡り、事前に渡された分類の用紙を基に、各自分 ─ 26 ─ 担して、鳥居・狛犬・神殿の形の種類や神社の配置図などを調査票へ記入し、写真撮影などを 行いました。調査するなかで、鳥居については、色が石本来のものや、朱色のものがあり、両 サイドの柱の形は円筒形であることがわかりました。神殿についても、屋根の造りには違いが 見られるものの、拝殿と本殿の配置などについては同じでした。また、狛犬については、口の 形などが、阿吽で一対になっており、神社の参道の両サイドに向かい合う形で置かれているこ とがわかりました。狛犬は、雄・雌や、髪型の違い・目の彫り方の違い・抱えている物の違い など観察する点が多く、調査においては一番苦労した部分だったと思います。神社の調査にお いて、私は中央区の水天宮に始まり、台東区の榊神社・鳥越神社・浅草神社・今戸神社、茨城 県鹿島市の鹿島神宮他、多くの神社を巡りましたが、神社によって、宮司さんがいるところ、 いないところがあり、宮司さんがいるところでは神社の歴史や、その神社の絵馬についてのお 話などを伺い、建物や、配置されているものからだけでは判らないことも聞くことができて、 大変勉強になりました。ただ一方で、神社に連絡を入れてから行ったわけではなかったため、 格式を重んじている神社などによっては、神社のことについて聞いた際に注意を受けることも あり、そういった面は考慮するべき反省点だったかと思いました。絵馬プロジェクトは、学芸 員課程を履修している私にとって、ただ単位を取るというだけではなく、実際の調査とその後 のデータ整理などによって、知らなかった多くの知識を得る機会となり、参加して本当によ かったと思いました。 物質文化研究センターで行われているプロジェクト教育では、翌年には「先史文化を実体 験」ということで、土器作りを行いました。土器づくりでは、粘土・砂・砕いた貝殻を混ぜ て練り上げたものを、手で細長く伸ばし、丸く模った底となる土台の上に周囲を囲むようにし て積み上げていき、形を形成していきました。その後で、土器表面に縄目模様や貝殻模様をつ け、数日おいて土器を乾かしたあと、土器焼きに移りました。出来上がった土器を見ると、焼 く前には不鮮明だった模様がはっきりとし、土器の強度も増しており、古代の人々が実際に 使っていた物を見るだけではなく、自分でも作ってみた事によって、こんな風に苦労して作っ たのかな…と、当時の人々の暮らしの大変さや、そのなかで試行錯誤して暮らした人たちのす ごさなどを考える良い機会と、経験になったと思いました。 プロジェクト教育は、学芸員課程という幅広い専門知識が求められる分野を履修する学生に とって、利にかなった教育だと思います。私自身、学芸員課程の授業を受けるなかで、学芸員 には多くの知識が必要だと感じました。学芸員課程は必修・選択科目があり、必修科目におい ては1年生の頃から順に科目を履修してきました。そのなかには、博物館実習Ⅰ・Ⅱがあり、 1・2年で学んできた、博物館法や概論・各論とは異なり、実践的なことを学びました。博物 館実習Ⅰでは、土器の修復作業や、小冊子の作成、展示の仕方、測量などを学び、4年生で博 ─ 27 ─ 物館実習Ⅱの実務実習を行いました。 私は8月末から9月初めにかけて、岩手県にある陸前高田市立博物館で10日間の実習を 行ってきました。実習にあたっては、事前に博物館へ実習の依頼をし、訪問しました。 実習は火曜から土曜の毎朝8時30分から夕方5時15分まで行い、朝は研修室や館内などの 掃除に始まり、その後職員の方々と一緒に朝礼に参加し、その日一日の予定確認と、館長から お話を聞きました。初日はいよいよ実習が始まるということで、かなり緊張してのぞみまし た。午前は館長より施設概要や、博物館で行っている教育普及活動・館内の危機管理などにつ いて説明を受けました。その際には、大学の博物館概論で習った博物館の役割についてなど、 いくつかの質問を受けましたが、忘れている部分も多く実習前に復習しておけばよかったと後 悔しました。館長の話の中には、その時期博物館で展示していた「オシラサマ」と呼ばれる人 形についての話と関連して、柳田國男の『遠野物語』についても話して下さいました。それに よると、柳田國男は遠野出身の若者に話を聞いてこの物語を書いたため、現在ではオシラサマ といえば遠野といわれていますが、調査した際には、実習先の博物館がある市の方がオシラサ マを持っている世帯数が多く、話をした人が違う人だったら、また話も変わっていたのかもし れませんね…という話を聞き、民俗学や考古学など多くの人々が研究・調査することの重要性 を感じました。館長さんのガイダンスでは様々な話を聞きましたが、最も記憶に残っているの が、博物館の運営に関する話でした。日本には県立・市立・私立など多種多様な博物館が存在 していますが、私が実習した博物館は県内の登録博物館としては最も古く、移転してからもす でに28年が経過しており、施設の老朽化という問題が1つには挙げられるそうで、バリアフ リーの社会になりつつある現代において、2階の展示室にいくエレベータが無いために車椅子 の方が来館した際には、職員の方が数人がかりで上げ下ろしするということもあるそうです。 この話には続きがあり、博物館の施設をよくするためには多くの来場者に来てもらうことが重 要で、そのためには多くの人が関心を持つ様な展示をする必要があり、それは必ずしも学芸員 の方々が、展示から知って考えてほしいと思う価値のある展示とは一致しないというジレンマ があるそうで、博物館の展示にはその運営状態が大きく関係し、来館者数にも影響を与えると いうことで、様々な面を考慮にする必要があることを知り、これから展示を見るときには、少 し視点を変えてしっかり見ようと思いました。 実習初日は、ガイダンスに続いて館内の展示を見て回り、午後に化石観察と教育普及活動の 事前調査に同行した後、終了しました。1日目を終え、博物館では収蔵品を守るためにガスボ ンベを置いていないということや、展示ケースのガラスの特性・湿度管理など、学ぶことが多 い1日でした。私は他の人より実習日が遅かったこともあり、1人での実習でしたが、中学時 代の先輩が学芸員として働いており、指導にあたって下さった為、色々と聞くことができてよ ─ 28 ─ かったと思います。 2日目は実習を終えている学生さんも参加し、職員の方々と一丸となって収蔵庫整理を行い ました。寄贈されたものには、昔使っていた農具が多く、千歯こき・とうみ・油しめ機の他、 機織り機や亡くなった人を乗せるのに使っていたというかごや、ミシンなどもあり、重い物や 特に農具は大きい物がおおく、運ぶのに苦労しました。収蔵庫整理を通して、博物館の資料を 分類・整理して、いつでも活用しやすいようにするには、とても手間と時間、そして人手がか かることが判りました。学芸員の方のお話の中で、10年・15年たって別の学芸員の方が来た 場合でも、すぐに活用しやすい収蔵庫づくりと、それに加えて登録台帳作りをしていきたいと いうのを聞き、収集・整理・保存などについて、将来を考えて行うことが大事だということに 気付かされ、翌日筋肉痛になったものの、よい体験ができたと思いました。 私の実習中は、台風の影響で予定していた日程が大分変わり、教育普及活動では、市内の中 学校の総合学習で行うはずだった化石採集や、市内の文化財めぐりなどが中止・延期され、参 加できなかったのが残念でした。代わりに、3日目から4日間はさく葉標本(押し葉標本)を 製作しました。標本はあらかじめ乾燥させ、押し葉の状態で新聞紙に挟んだものが送られてき ていました。植物が乾燥して、脆くなっているので壊れないように取り出し、A 4サイズ程の 台紙(ケント紙)に、直接ではなく、障子紙の様な和紙を細く切って、でんぷんのりを付けた もので固定しました。標本を作る前に読んだ本によれば、今回標本にした植物は維管束植物と 言う、根・茎・葉を持つ植物で、乾燥標本・液浸標本・プレパラート標本があるなかで、今回 の乾燥標本は保存の手間がかからず、大量に標本を保存できるという利点があり、保存スペー スが限られている場所では有効的な保存方法とされているそうです。植物を貼る作業が終わ ると、台紙にその植物の学名・和名・同定者名・同定年月日・産地・標高・採集日・採集者・ ノートの項目があるラベルを貼る作業をしました。標本が完成すると、次に標本の台紙へ登録 番号を記入し、植物標本登録台帳への記入とパソコンのデータベースへの登録のために、写真 の撮影を行いました。4日間をかけて標本の作製から、整理・登録・保存の作業を通して、多 くの学芸員が自分の専門以外の知識も必要とされている理由がわかった気がしました。また、 博物館の展示などに加え、これらの作業をするとなると、相当の時間が必要だと考えられ、学 芸員の人数が少ない博物館ではとても大変な仕事だと感じました。 博物館実習も残り4日間となり、展示について学びました。展示にあたっては、何を展示す るか決めるまでに時間がかかりました。季節が十五夜の頃ということで、当初お月見に関連し たものを考えましたが、収蔵品の関係でとりやめ、学芸員のアドバイスをうけて、普段展示さ れていないものを展示することにしました。収蔵庫整理の時に気になっていた蓄音機を展示す ることにしました。展示にあたっては、蓄音器とレコード盤について図書館などで調べて解説 ─ 29 ─ パネルを製作し、展示品も台に乗せてからケースの中に飾る様にしました。 実習最終日、何事もなく無事に実習が終わるかに見えた最後の展示作業中、展示ケースのガ ラスが外れて割れるトラブルが起きてしまいました。実習始めの頃、学芸員の方からガラスの 特性を聞いていた為、怪我はありませんでしたが、落ち着いた対応という面では、1人でいた ために、呆然としてしまい迅速な対応をとることができませんでした。いつも博物館に来てい る方が助けてくださり、一緒に床に飛び散ったガラスを片付ける作業を行いました。来館者の いない時で幸いでしたが、これが来客中だと考えると、予期せぬトラブルに対しても、落ち着 いて、慎重・迅速な対応ができるように、普段から心がけていることが大切だと思いました。 最終日は展示の後に化石クリーニングをしているところで実習が時間切れとなってしまいまし た。 10日間の実習では多くの方々にお世話になり、また、反省すべきこともたくさんありまし た。博物館実習で得た実務経験はどんな職業に就いたとしても活かすことのできる体験である と思います。館長・学芸員をはじめ、忙しい館運営にもかかわらず、実習を受け入れてくださ り、指導してくださった方々に大変感謝しています。 教室でおこなわれる授業と異なり、プロジェクト教育や博物館実習をうけたことによって、 新しい発見や人間関係ができ、充実した大学生活を送ることができました。参加して本当によ かったと思います。 ─ 30 ─ 2007 年度の活動報告 1.第4回鴨川塾“先史文化を実体験-土器と製塩-” 4回目の開催となった当講座では、土器製塩と炊飯実験に取り組んだ。昨年度の実験では、 煎熬過程において土器の器壁内部にまで海水が浸透してしまい、結果的に塩分抽出以前に土器 が破損してしまう現象が多くみられた。その理由の一つとして、焼成段階において十分に土器 を焼き締めることができなかったという点が考えられる。実際に、焼成された土器に水を入れ た段階で、水の浸透による破損が生じている。そこで今年度は、より火力を高め、焼成温度を 上げることを目標として「焼成実験」に臨んだ。その結果、土器の赤化現象がみられるほどの 好条件で焼成することができた。 「製塩実験」では、海水(2.5%塩分濃度)と鹹水(6%塩分濃度)の2種類による製塩実験 をおこなった。海水直煮実験では、およそ1ℓか ら2ℓ弱の海水を煎熬したが、塩分の析出はほと んど認められなかった。一方の6%鹹水では、1 ℓほどの鹹水を煎熬した結果、土器内面全体に、 少量ではあるが塩分が析出された。しかし、煎熬 過程で破損する土器も多くみられ、その破損箇所 (底部)が同じであることから、 「土器成形」に問 題があると思われる。なお、炊飯実験では「美味 しいご飯」を炊くことができ、大成功であった。 製塩・炊飯実験(鴨川青年の家にて) また、プロジェクト教育発表会(国際文化学科基礎ゼミ;10月24日)では、3名の登録学生 (国際文化学科3年)がパワーポイントを使用し、当講座の模様を土器資料とともに解説した。 2.物質文化研究センター写真展 鴨川塾で実施した土器成形、焼成実験、製塩・炊飯実験の実施内容をパネル展示にまとめ、 JOSAI 安房ラーニングセンター(2月24日∼3月4日)において公開した。また、本学観光 学部の「教育的取り組み」についても同時展示した。 3.学生指導 学生に情報機器の操作とデータ集積などを学ばせるために、当センターに寄贈された遺跡 報告書のデータを記録し、遺跡データベースの作成をおこなった。 (文責:内山達也) ─ 31 ─ 編集後記 2007年度で第4回目を向える〈鴨川塾〉であるが、講座開講時に入学した学生の卒業年度 でもある。当該号には、入学時より鴨川塾をはじめ、当センターのプログラムに参加した学生 の体験記を記載した。実社会においても、本学で身につけた能力を存分に発揮してもらいた い。 (記 倉林眞砂斗) 物質文化研究センター所員 倉林 眞砂斗(所長) 教授 観光学部ウェルネスツーリズム学科 専門分野:東アジア考古学 担当科目:遺跡と文化遺産Ⅰ、史跡と観光、キャリア形成演習など 丸山 清志(研究員・助手) 専門分野:太平洋考古学 担当科目:博物館概論、博物館実習Ⅰなど 内山 達也(研究員・副手) 専門分野:アイヌ文化史 ─ 32 ─ 発 行 日 2008年3月28日 物質文化研究 第5号 発 行 所 〒283-8555 千 葉 県 東 金 市 求 名 1 番 地 城西国際大学 物質文化研究センター TEL 0475−55−8800 編 集 『物質文化研究』編集委員会 (倉林眞砂斗・丸山清志・内山達也) 発 行 者 水 田 宗 子 印 刷 所 株式会社 正 文 社 〒260-0001 千 葉 市 中 央 区 都 町1-10-6 TEL 043−233−2235 MATERIAL CULTURE STUDIES No. 5 March 2008 CONTENTS Research Note On the Ainu’s Biliefs on the Sun ────────────────────── 1 Tatsuya Uchiyama Report Report on the Participation in Projects Education ───────────────────── 26 Yuka Oyama Miscellanea ───────────────────────────────────────── 31 Center for Material Culture Studies Josai International University