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ハワイの再異教化

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ハワイの再異教化
広島経済大学研究論集
第2
6
巻第 2
号
2
0
0
3
年 9月
広島経済大学経済学会
2
0
0
3年 度 第 2回研究集会 [
2
0
0
3年 5月2
2日(木)]報告要旨
ハワイの再異教化
一一プロテスタント対カトリックモルモン教徒仏教徒一一
山 本 貴 裕 *
はじめに
2
0
0
1年 9月1
1日の米国同時多発テロから 2
0
0
3年のイラク戦争に至るまで,ブッシ
ュ大統領の演説のクライマックスでは必ずといってよいほど. r
神 j=r自由 j=r
文
明j=rアメリカ j
.r
悪 j=r
恐怖 j=r
野蛮 j=rアメリカの敵」という図式が強調され
てきた
O
この二分法は.
r
ミレニアム j (千年王国)実現のために「異教」
(
P
a
g
a
n
i
s
m
) の蔓延る世界をキリスト教化しようと世界伝道に打って出た 1
9
世紀ア
メリカのプロテスタントの思考様式にすでに表れていた。
私が 1年間留学していたハワイも,かつては彼らの壮大なビジョンの重要な一角
に位置付けられていた
o
1820年 , ボ ス ト ン か ら や っ て 来 た 「 会 衆 派 」
(
C
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o
n
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i
s
t
s
) の宣教師たちはハワイに上陸,短期間のうちに異教徒のハワ
r
イ人を「文明化 j
. キリスト教化」し,ハワイの教育や政治,経済,法律などの諸
制度の基盤を築いていった。しかしその一方で,彼らは常に「異教 j=r
悪Jの諸勢
力との闘いを強いられていたのである。最初はカトリック,次にモルモン教徒,そ
して仏教徒との闘いを。その結果. 1
9
世紀末にはハワイにおいてプロテスタントは
数の上では少数派の地位にまで転落していた。今回の発表では. 1
9世紀ハワイにお
けるこれら 4つの宗教のせめぎ合いによりいかに現在のハワイが誕生したかを考察
してみたい。
*広島経済大学経済学部助教授
広島経済大学研究論集第2
6
巻 第 2号
3
4
1.最近のハワイ州の宗教事情
現在のハワイナ1
'における教会員の分布は,ローマ・カトリック教会が2
15,
000人
で 1位,その後に仏教会の 1
00,
000人
,
I
末日聖徒イエス・キリスト教会 J (Church
o
fJesusC
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i
s
to
fLatter-DayS
a
i
n
t
s,通称「モルモン教会J
) の56,
000人と続いて
いる。 4位以降は合同キリスト教会(会衆派が中心)が 1
9,
000人,南部パプテスト
教 会 17,
000人,アセンブリー・オブ・ゴッド 1
,
1000人,ユダヤ教 10,
000人,聖公会
1
0,
000人,メソジスト派教会7,
000人,ルーテル派教会6,
000人となっており,ユダヤ
教以外はすべてプロテスタント諸教派が並んで、いる C
これらプロテスタント諸教派の会員数を合計しでも 70,
000人に過ぎず,カトリッ
クや仏教徒の会員数には遠く及ばず
3位のモルモン教会の会員数をかろうじて上
回っているのみである。その一方で,上位 3位まではかつてプロテスタントから
「異教徒 J“
(pagans" または“ heathens") と呼ばれ迫害された人々からなってお
り,ハワイ州は異教徒の地と化しているといえる O この点はアメリカ合衆国全体の
データと比較するとさらに明らかとなる。全米各地のユダヤ・キリスト教信者数を
調 べ て い る 「 グ レ ン マ リ ー 調 査 セ ン タ ー」の出版した ChurchesαndChurch
Membershipi
nt
h
eUnitedSt
αt
e
s1990 に基づき,ハワイ州の総人口またはユダ
ヤ・キリスト教信者総数に占める各教派の信者の割合を,それぞれ合衆国全体のデ
ータと比較してみると,以下のような表になる。
総人口に占める割合
教派名
ユダヤ・キリスト教信者総数に占める割合
ハワイ州
アメリカ合衆国
ローマ・カトリック
21
.
0%
21
.
5%
LDS
3
.5%
1
.
4%
ぢ
;
8
銘
2
.
6
%
合同キリスト教会
2
.1%
0
.
8
%
5
.
8
%
1
.5%
南部パプテスト教会
1
.8%
7
.
6
%
5
.
2
%
1
3
.
8
%
アセンブリー・オブ・ゴッド
1
.2%
0
.
9
%
3
.
3
%
1
.6%
ユダヤ教
ハワイ州
:一ぬる%
アメリカ合衆国
3
8
.
9
%
NA
2
.4%
NA
4.4%
聖公会
0
.
9
%
1
.
0
%
2
.
7
%
1
.
8%
メソジスト派教会
0.8%
4.5%
2
.1%
8
.1%
ルーテル派教会
0
.2%
1
.
0%
0
.
5
%
1
.
9%
ユダヤ・キリスト教信者総数
3
5
.3%
5
5
.1%
100%
100%
この表の中でコントラストをつけてある箇所は,全米と比較してハワイ州の特徴
が際立つ部分である
O
まず第一に,ハワイ州においてはそもそも総人口に占めるユ
ハワイの再異教化
3
5
ダヤ・キリスト教信者数が少ない。その原因の一つは,全米では 1 %にも満たない
仏教徒の人口がハワイ州においては総人口の約 7 %を占めているからであるが,そ
の仏教徒人口を加えても 42.3%と,全米の 55.1%とはかなりの聞きがあり,ハワイ
州では全般的に宗教組織離れが進んでいる様子が窺える O 第二に,ユダヤ・キリス
ト教信者の内訳をハワイ州と全米とで比較してみると,合衆国全体では 40%に満た
ないカトリックの信者がハワイ州の場合60%近くいる O 第三に,ハワイ州において
は総人口またはユダヤ・キリスト教信者総数に占めるモルモン教会の信者の割合が
それぞれ全米の 2
.
5倍
, 3
.
8
倍と高くなっている。やはり,このデータ比較によって
もハワイにおいては全米よりも異教化が進んでいるという事実が裏付けられる
O
2
.異教国ハワイのキリスト教化
こうした現状は歴史的に見ればハワイの「再」異教化と呼ぶことができる o 1
7
7
8
年のキャプテン・クックの上陸時,ハワイは「カプ J(タブー)制度に基づく「異
教国」であった。しかしそれ以降,西洋人との接触によりこの制度は崩壊の一途を
たどり,ついには 1
8
1
9
年,当時,実質上の権力の座にあったカアフマヌ女王自らの
手によって,カプ制度は公式に撤廃されるに至った。こうして生じた一種の「宗教
的空白」を埋めるかのように,その翌年,ボストンの会衆派の宣教師団がハワイに
上陸した。
「アンドーヴァー神学校」を卒業したばかりの若者を核とするこの一団をハワイ
9世紀前半にアメリカのプロテスタント
の地まで駆り立てる原動力となったのが, 1
の間で起こった宗教的熱狂の副産物である「後千年王国説 J(
p
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s
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n
n
i
a
l
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m
)
と呼ばれる一種の終末論であった。この説によれば,人間の改革努力を通じて近い
将来,恐らくアメリカの地で千年王国が設立され,その「後 J
,キリストの再臨が
起こるとされた。この楽観的終末論は 1
9世紀前半のアメリカのプロテスタントをし
て,反奴隷制,反売春,反安息日破り,反暴飲,反カトリック,反モルモン教など,
彼らが悪魔の勢力の残党であると考えていた諸分子の撲滅運動へと駆り立てていっ
た。ハワイにまで宣教師を送り出した海外伝道運動も,国内伝道運動と並んで,こ
うした千年王国運動の表れであった。
ハワイでは親プロテスタント的カアフマヌの統治下(1 819年 ~1832年)
,会衆派
の宣教師たちのもたらしたキリスト教は,崩壊したハワイ土着の宗教に取って代わ
り事実上の国教となった。海外伝道運動は一般的に大した成果を生み出さなかった
が,その中にあってハワイ伝道は「サクセス・ストーリー Jとして語られ,アメリ
カのプロテスタントの千年王国的希望を煽った。 1
8
6
3年には「全米海外伝道委員会」
3
6
広島経済大学研究論集第2
6
巻 第 2号
C
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s
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s,以後, ABCFMと省略。)
はハワイを「キリスト教国」と宣言,ハワイを「外国」伝道から「園内」伝道の管
轄に移し,ハワイの教会の運営は「ハワイ伝道協会 J C
H
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c
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n
) に委譲するに至った。
3.ハワイの「再 j異教化
このようにハワイは一見まさに海外伝道のサクセス・スト」リーのようである。
事実, 1
8
5
0
年代まではハワイ総人口(その大半がハワイ人)が激減していく中にあ
って,プロテスタント教会員数は驚くべき成長を遂げ, 1
8
5
6年のピーク時には
2
3,
6
5
2名,すなわちハワイ総人口の 3
2
.
6
%に達した。ところが,その後は下降の一
途をたどることとなる O こうしたプロテスタンテイズム衰退の背景にはいくつかの
要因が絡んでいた。
まず, 1
8
3
7
年の不況により伝道プログラムの財政的援助が困難になったという苦
しい台所事情が存在した。 1
8
6
3年に ABCFMがハワイから引き上げたのもそれと
8
5
0年代頃からハワイの政権トップにおいてプロテ
無関係ではなかった。第二に, 1
スタント宣教師の影響力増大に対する反感が高まった。 1874年 ~1891 年のカラカウ
ア政権や 1891 年 ~1893年のリリウオカラニ政権はあからさまに反キリスト教的であ
った。第三に,ハワイの政治経済におけるビジネス界の影響力の増大も宣教師の影
響力の低下の原因となった。皮肉な事に,ハワイのビジネス・リーダーの多くは
ABCFM所属宣教師の息子たちであった。彼らの多くは教会との関係を名目上維
持したものの,彼らにとって宗教的関心は二の次であった。
第四に, 1
8
7
6年の合衆国との「互恵条約」締結により合衆国に輸入されるハワイ
産砂糖に対する関税が撤廃された結果,ハワイの砂糖産業が発達するにつれ,サト
ウキピ畑で働く労働者を海外から大量に輸入する必要が生じた。このことはプロテ
スタント教会に対して直接の影響を及ぼした。 1
8
9
6年の国勢調査時,ハワイ人約 4
万人の半数がプロテスタントだったのに対して,
i
非」ハワイ人約 7万人のうち
2
2,
0
0
0人は母国の伝統的な諸宗教を信じる中国人, 1
5,
0
0
0人は大半がカトリック系
のポルトガル人, 2
4,
0
0
0人は大部分が仏教または神道を信じる日本人であり,プロ
テスタントである可能性のあったアメリカ人またはヨーロッパ人(ポルトガル人を
除く)は 7
,
0
0
0人程度に過ぎなかった。つまり,少なくとも人口統計上,ハワイは
もはやプロテスタントの国ではなくなっていた。
非プロテスタント系移民の流入とも部分的に関連しているが,カトリック,モル
モン教,仏教などの他宗教の流入もプロテスタンテイズムの衰退の原因となった。
ハワイの再異教化
37
世界のキリスト教化,そして千年王国の設立を目論むプロテスタントにとって,こ
れらの宗教は戦わなければならない「異教徒J
=r
悪魔の残党」の勢力であった。
8
2
7
年,フランスのカトリック神父がハワイに上陸した。 1
9世紀プロテス
まず, 1
タントの伝統的解釈に拠れば,ローマ教皇は反キリストであり,その信者であるカ
トリック教徒は悪魔の手先だとされていた。ハワイのプロテスタントも例外ではな
く,カトリックは「異教徒と同類の偶像崇拝主義者」であると非難した。このよう
な反カトリック感情は 1
8
3
1年,カトリック神父追放という事件を引き起こし,その
後しばらくカトリック迫害の時代が続いた。しかし, 1
8
3
9年,フランス軍艦の砲撃
の脅しにより,カトリックにもようやく宗教の自由が認められるようになった。以
降,カトリック教会はハワイにおいて確実に信者層を伸ばしていき, 1
8
9
6年の国勢
調査時にはカトリック人口はプロテスタント人口を凌ぐまでになっていた。
カトリックの次にモルモン教がやってきた。モルモン教の正式名称,
r
末日聖徒
イエス・キリスト教会」は,この宗教運動がその形成期,すなわち 1
8
2
0
年代のアメ
リカに拡がっていた終末論的雰囲気の副産物で、あったことを示している。その意味
では, 1
8
2
0年にハワイ上陸した会衆派の宣教師と共通点を持っていた。モルモン教
徒のハワイ布教も彼らなりの千年王国建設の一部だったのである o (ただし,彼ら
の千年王国説は「前千年王国説」と呼ばれ,当時の主流派プロテスタントの「後」
千年王国説とは区別される。)モルモン教徒がハワイに初めて到着したのは 1
8
5
0年
のことであった。モルモン教はその神学において,一種の先祖供養を認めたり,ポ
リネシア人を失われたイスラエル人と解釈していたために,ハワイ人にアピールし
た。モルモン教徒はハワイのプロテスタントからカトリックと同類の「異教主義」
だとか「偽りの宗教」として非難を受けたものの, 1
8
6
5
年にオアフ島北東部のライ
エに建設した宗教・農業共同体を中心として,ハワイ人の間で着実に信者を増やし
ていった o 1850年の時点ではハワイ人のほとんどがプロテスタントであったが,
1
8
9
6
年の国勢調査によれば,ハワイ人のうちプロテスタントの割合は 50%にまで減
少していたのに対して,カトリックが35%,それに引き続きモルモン教が 15%まで
勢力を伸ばしていた。
最後に,日本人移民の流入に伴い,さらなる異教勢力である仏教徒が大量にハワ
イに押し寄せてきた。ハワイへの日本人移民史は 1
8
6
8
年の「元年者」の到来ととも
に始まり,その後 1
8
8
5
年の第 1回官約移民の到着とともに全盛期を迎え,前述した
とおり 1
8
9
6
年の国勢調査の時には既にハワイ最大のエスニック・宗教集団を形成す
るまでになっていた。とはいえ,本派本願寺による本格的な伝道活動が始まったの
は,国勢調査の翌年 1
8
9
7
年のことであった。これ以降,日本人移民キ仏教人口はさ
3
8
広島経済大学研究論集第 26
巻 第 2号
らに数を伸ばし, 1896年の 25.000人から 1900年には 61
.000人へと成長した。プロテ
スタントにとって仏教徒もまたカトリックやモルモン教徒と同様に悪魔の手先であ
り,偶像崇拝を行う異教徒であった。そればかりか,その数からしてカトリックや
モルモン教徒以上に脅威となっていった。
かくして「ハワイの再異教化」は完成し,現在我々の知っているハワイが出現し
たのである O
おわりに
ハワイの再異教化は一見,プロテスタンテイズムの敗北のように見えるが,見方
を変えればそれはプロテスタント自身が招いた歴史の皮肉とも言える。第一に,プ
ロテスタントはカトリシズムが良心の自由,言論の自由,政教分離などのアメリカ
的根本原理と相容れないシステムであると批判していた以上,少なくとも「理念上J
,
自らが「カトリック化 J(普遍化)することはできなかった。第二に,ハワイの再
異教化において重要な役割を果たしたモルモン教は元を辿れば, 19世紀前半アメリ
カのプロテスタントの間で広まった宗教的熱狂そしてそれが生み出した終末論の副
産物であった。最後に,世紀転換期にカトリック教徒のポルトガル人やフィリピン
人,仏教徒の日本人の大流入を引き起こしたのは, 1876年の互恵条約以降,ハワイ
で発展した砂糖産業であったが,その砂糖産業を取り仕切っていたのはプロテスタ
ント宣教師の息子たちであった。
注
(
1
) TheH
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9
9
9
. この調査で言うところの「教会員 J
(members) とは,以下で扱う「グレンマリー調査センター」のデータにおける「信者」
(
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h
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r
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s
) というカテゴリーに近いと考えられる。参考までに. 2
0
0
0年現在のハワイの
総人口は1.21
1
.
5
3
7人である。 w
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) とは,完全な教会員資格をもっメンバー (communicants,f
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members) にその子供やその他の定期的教会出席者を加えたすべてのメンバーのことを指
す
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ChurchesαndChurchMembership,
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(
7
) 以下でのプロテスタンテイズム衰退の原因の分析については, G
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nNation,
"26-55.を参照。
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(
9
) ちなみに現在でもライエはハワイにおけるモルモン教の一大拠点であり, 1
960年代モル
モン教徒によって当地に建設された「ボリネシア文化センター Jは年間約 100
万人の観光
客,収益にして 4,
000万ドルを集めている o T
.D
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9
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.各宗教の人口に関するデータは, Gallagher,
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"38-40.を参照 o
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