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ティ ベリ ウス政権の成立とその性格

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ティ ベリ ウス政権の成立とその性格
ティベリウス政権の成立とその性格
島田 誠
はじめに
後14年8月19日,南イタリア,カンパニア地方の都市ノラにおいて,
ローマの初代皇帝とされるアウグストゥスが亡くなった。彼は,公式に
は神(であるユーリウス)の息子インペラートル・カエサル・アウグス
トゥスImperator Caesar divi(luli)創ius Augustusと名乗り,44年間に
わたってローマと地中海世界の最高権力者であった。前63年9月23日
に生まれたアウグストゥスは,死亡時には満76歳の誕生日まで余すと
ころ35日であった。伝記作家スエトニウスによれば,彼の亡くなった
部屋は73年前に彼の実父ガーイウス・オクタウィウスが亡くなったの
と同じ部屋であったと伝えられている(1)。
アウグストゥスの没後,直ちに養子のティベリウス・カエサルが帝国
の事実上の支配者となった〔2)。歴史家タキトゥスによれば,首都ローマ
では共和政以来の最高公職者である両コーンスル(執政官)が最初にテ
ィベリウス・カエサルに忠誠を誓い,次に首都の治安と食糧供給の実質
的責任者である2人のローマ騎士,皇帝護衛隊司令と食糧管理長官が誓
約し,元老院・兵士たち・市民たちが続いたという。Symeは,その古
典的な研究書『ローマ革命』の中で,新しい政権は既に存在し,元首の
地位の平和的な移行のための十分な準備がなされていたとした上で,タ
キトゥスの伝える忠誠の誓いがアクティウムの海戦前にアウグストゥス
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
に対して行われた誓約を更新するものであり「元首政の本質(the
essence of the Principate)」であったとする。
一見したところ,帝政ローマにおける最初の権力継承は,特に問題も
なく,平穏に行われたかのように思われる。実際,ティベリウスがアウ
グストゥスの跡を継ぐ市民の第1人者(元首)Princepsであることは,
衆目の一致するところであり,そのこと自体に公然と異論を唱える余地
はなかったと考えられる。しかしながら,同時に,この一連の出来事が,
ティベリウス本人のみならずローマ元老院と市民たちにとっても初めて
の経験最初の皇帝位の継承であったことを忘れるべきではない。亡き
アウグストゥスが,10年間あまりの熾烈な内乱の勝利の結果,獲得し,
44年間にわたる長い支配の問に基盤を固めて,その圧倒的な業績と影
響力の下に保持してきたローマと地中海世界の最高権力者の地位が,は
じめて受け継がれることになったのである。
ティベリウスは,確かにアウグストゥスを除くローマ市民中では,ず
ば抜けた実力者であったが,その声望や権威はアウグストゥスにはおよ
ばなかったと考えられる。同時代の証言は,アウグストゥス没時のロー
マ市の状況を「その時,何が人々を恐怖させたのか,何が元老院の戦懐
だったのか,何が市民たちの不安だったのか,何が世界の脅威だったの
か,安寧と破滅とのどれほど細い狭間に我々があったのかを,先を急ぐ
私にも述べる余裕はないし,誰にもその余裕はあり得ない」と伝えてい
る③。また同じ史料は,続けて「父(アウグストゥス)の地位を継承す
るように」と求める元老院およびローマ市民たちと,「傑出した第1人
者であるよりも,むしろ平等な市民として振る舞うことを許されたい」
と望むティベリウスとの間に謹いが生じたことを伝えている(4)。
ローマ市民たちは不安を胸に状況を見守っていた。有力元老院議員た
ちは,それぞれの思惑を秘めつつ,ティベリウスの意図を探ろうとして
いた。ティベリウスも,慎重に情勢を見極めつつ,手に入れたばかりの
最高権力の安定を図っていたと考えられよう。
不安と恐れの中で実現した最初の帝位継承によって,アウグストゥス
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
の創設した帝政は,初めてその継続性を証明することができたのである。
ティベリウスの帝位継承は,帝政が真の安定を得るために通らねばなら
ない関門であったと考えられよう。
さて本稿では,このローマ帝政最初の帝位継承によって誕生したティ
ベリウス政権に注目して,アウグストゥスの確立した帝政の権力構造を
検討することを目的とする。以下では,まずティベリウス政権誕生の状
況を検討し,次いでアウグストゥス政権下において,ティベリウスが後
継者の地位を獲得した経過を跡付け,その過程で「アウグストゥスの家
(ドムス・アウグスティー)」と呼ばれる集団が大きな意義を持ったこと
を論じる。その上で,帝政成立期における親族集団としてのドムスの意
義と皇帝の称号とされることの多い「アウグストゥス」の呼称の意義を
再検討したい。
1ティベリウス政権の成立
1 ティベリウス政権誕生の状況
まず「初代皇帝」アウグストゥスが病床につく前後から後継者ティベ
リウスの権限が一般的に承認されるまでの経過を概ね時系列に従ってま
とめ,そこに見出される問題点について検討してみたい。
後14年夏,アウグストゥスはカプリ島の別荘での休息やネアーポリ
ス(現在のナポリ)での競技祭の観戦など,風光明媚なカンパーニアの
海岸地域で日を過ごしていた。彼は,ティベリウスが属州行政の監督の
ためにイッリュリクム地方(ドナウ河方面)に旅立つのを見送ったが,
体調を崩してノラで病床に伏し,8月19日に没した。アウグストゥス
が亡くなった際に,彼の妻であり,ティベリウスの母でもあるリーウィ
アは付き添っていたが,急遽呼び戻されたティベリウスと面会するまで
皇帝が生存していたかどうかについては,史料の証言が一致していない
‘5)
Bなおアウグストゥスの死の直後に,彼の孫の中で唯一生存していた
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
アグリッパ・ポストゥムスが殺害されたことが知られている(6)。
アウグストゥスの遺体は,イタリア諸都市の参事会員やローマ騎士た
ちの手で運ばれてローマ市に到着した(7)。遺体と共にローマに戻ったテ
ィベリウスは元老院の会議を招集し,その席上でアウグストゥスの遺言
状が朗読された。この遺言状によって,ティベリウスは,アウグストゥ
スの未亡人でもある母のリーウィアと共に第1位相続人に指名されて彼
の名前(アウグストゥス)を用いることを命じられた。以後,両名は,
それぞれティベリウス・カエサル・アウグストゥスTiberius Caesar
Augustusおよびユーリア・アウグスタIulia Augustaと名乗ることとな
った。続いて,ローマ市の中央広場Forum Romanumと「マルスの野
Campus Martius」を主な舞台として,盛大な葬礼が挙行された(8)。
アウグストゥスの没後,約1カ月後の9月17日に再び元老院の会議
が開かれた。この会議では,最初にアウグストゥスの神格化が決定され,
故人のために神殿が建立されて神として礼拝することが決定された。次
にアウグストゥス没後の帝国統治に関する討議が行われた。古代の著作
家たちは,一様にティベリウスが,元老院(と市民たち)の強い求めに
もかかわらず,最初は支配権(帝権)をアウグストゥスから引き継ぐこ
とを辞退する態度を表明し,最終的に懇請に負けた形で支配権を受諾し
たことを伝えている(9)。
またアウグストゥスの死の知らせと共に,ドナウ川とライン川沿いに
駐屯していたローマの諸軍団が暴動を起こした。辺境の地に駐屯してい
たローマ市民から成る正規軍団の兵士たちが,勤務年限の短縮や給与の
増額を要求し,総督に反抗して平素から恨みを抱いていた百人隊長たち
centurionesを殺害したのである(’°}。ドナウ川沿いの属州パンノニアに
駐屯する3個軍団の暴動は,急遽,皇帝護衛隊2個大隊と共にローマか
ら派遣されたティベリウスの実子小ドゥルーススの説得が功を奏して鎮
まった。ライン方面では,駐屯している軍団の数も多く,暴動も長期間
にわたったが,この方面の最高責任者であったティベリウスの養子ゲル
マーニクスが何とか鎮定することに成功した。
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
全体としては,順調に行われた帝位の継承,ティベリウス政権の誕生
過程の中で問題となるのは次の3点であろう。第1に,アウグストゥス
の死直後のアグリッパ・ポストゥムスの殺害,第2にティベリウスの
「帝権の辞退」,第3に北方辺境に駐屯していた軍隊の暴動である。これ
らの3つの事件にティベリウス政権が置かれていた状況と抱えていた問
題とを窺い見ることができる。
2 ティベリウス政権誕生時の諸問題
アグリッパ・ポストゥムスは,アウグストゥスの娘ユーリアと側近マ
ルクス・アグリッパとの間に生まれた末の息子であり,2人の兄ガーイ
ウス・カエサルとルーキウス・カエサルの天折後,後4年にティベリウ
スと並んでアウグストゥスの養子とされた(11}。ところが,ティベリウス
が様々な権限や任務を与えられて皇帝の片腕として活躍していたのに対
し,アグリッパには重要な任務は与えられず,ほぼ同年輩のティベリウ
スの養子ゲルマーニクスにも公職では先を越されていた(12)。3世紀初め
の歴史家カッシウス・ディオは,彼が奴隷に相応しい性格δOVλOTP∈π6S
であり,海神ポセイドンを気取って釣りで大半の時間を費やしていたた
めとする。養子になって問もない後6年,アグリッパは粗野で残酷な性
格,具体的には短気でアウグストゥスの妻リーウィアやアウグストゥス
自身に対しても反抗したために勘当され,まずカンパーニア地方の都市
スッレントゥムに追放され,翌7年にはイルウァ島(現在のエルバ島)
南西に位置する孤島プラーナーシアPlanasiaに配流されて兵士たちの監
視下に置かれた(13)。
アグリッパ・ポストゥムスの失脚の原因としては彼個人の性格もある
であろうが,決定的な要因は別にあったと考えられる。歴史家タキトゥ
スは,この追放劇をアウグストゥスの妻リーウィアの企てになるとして
「彼女(リーウィア)は,ただ一人の孫アグリッパ・ポストゥムスをプ
ラーナーシア島に放逐させるほど,老いたアウグストゥスを牛耳ってい
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
た」と述べている(14)。アグリッパの母(アウグストゥスの娘)ユーリア
が息子に先立って追放されていたことを考えると㈹,ユーリアとティベ
リウスの母(アウグストゥスの妻)リーウィアをそれぞれ中心としてい
た勢力間の権力闘争において後者が決定的に優位に立ったことが,アグ
リッパ失脚の最大の原因であろう。
アウグストゥスは,死の数ヶ月前に側近を連れて密かにプラーナーシ
ア島を訪れて孫と面会していたことが伝えられている㈹。その後,アグ
リッパはアウグストゥスの死の直後に監視役の兵士によって殺害され
た。ただし,誰がアグリッパ殺害の命令を出したかについては,ティベ
リウス,その母リーウィア,新旧皇帝側近の騎士サルスティウス・クリ
スプス,さらには祖父アウグストゥスその人であるとの諸説が,古代の
著作家のみならず現代の研究者の間でも対立している(1η。なおユーリア
は,最後の希望(息子アグリッパ)を奪われて,長い窮乏と衰弱によっ
て亡くなったと伝えられている(「8)。
ティベリウスによる支配権の辞退と元老院(と市民たち)の懇請は,
事前のシナリオ通りに,あるいは暗黙の了解の下に行われた儀式である
と見ることも可能である。彼は,すでに10年間にわたってアウグスト
ゥスを補佐し,帝国各地での行政責任者や軍司令官としての責務を果た
していた帝国の共同統治者であった㈹。彼の皇帝就任とそれに伴う元老
院での議論は,既定方針通りに行われたと考えることもできる。しかし
ながら筆者は,このエピソードは初めての皇帝位継承という前例のない
状況に遭遇したローマ市民,元老院の困惑,そして新皇帝ティベリウス
自身の決定的な行動への躊躇を示すものであると考える。帝位継承の具
体的手順は,未だ定まっていなかったと考えられよう。その中で有力元
老院議員たちと新皇帝ティベリウスとの間で権力の継承をめぐる駆け引
きが演じられたのである。
さて北方辺境に駐屯する正規軍団での暴動は,誕生したばかりの新政
権にとって重大な脅威であると認識されたに違いない。この暴動の背景
には,帝政の成立後,特にアウグストゥスの晩年から正規軍団の兵士た
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
ちの勤務条件が悪化し,皇帝の護衛隊と比較すると劣悪となっていたこ
とへの兵士たちの不満がある(2°)。内乱に勝利したアウグストゥスは,多
数の軍団を解体して軍縮を断行したが,同時に個々の兵士たちの勤務期
間は飛躍的に長くなった。共和政期には,末期の内乱時代においても,
6年間程度であったローマ市民の軍団勤務の期間は16年以上に延長さ
れ,勤務地もラインやドナウ,さらにはユーフラテス川などローマから
見れば遠隔の辺境の地にほぼ固定されることとなった。共和政期の市民
兵から帝政期の職業兵士への過渡期の矛盾が暴動の形で爆発したと考え
られよう。
さらに新設された皇帝の護衛隊の兵士たちは,勤務地もローマやイタ
リアであり,勤務年限も短く給与や退役時の特別手当(現金もしくは農
地の分与)においても軍団兵よりも優遇されていた。加えてアウグスト
ゥスの晩年,後6∼8年にドナウ方面のパンノニア・ダルマティアにお
いて勃発した大叛乱や後9年ゲルマーニアにおける3箇軍団の喪失な
ど,北方辺境での軍事情勢が悪化していたため,後14年に暴動を起こ
した兵士たちの中には既に30∼40年間も勤務している老兵たちも混じ
っていたω。ライン方面の最高責任者であったティベリウスの養子ゲル
マーニクスは,皇帝の名前で勤務年限を20年間(その内、現役は16年
間)と定め,倍額の賞与を直ちに払うことを約束して暴動を鎮めた後に,
軍を率いてライン川を渡ってゲルマーニアに進攻して戦果をあげると共
に,兵士たちの規律を回復した〔22)。ゲルマーニクスによる兵士の待遇改
善は,ティベリウスの命令でドナウ方面の兵士たちにも適用を認められ
た(23)。
以上の検討してきた諸事件から,ティベリウス政権の誕生前後の皇帝
権力に関して次の事実が確認できるだろう。まずアウグストゥスの後継
者をめぐって,彼の娘ユーリアを中心とする勢力と妻リーウィアを中心
とする勢力との問に激しい権力闘争が行われていたことが推測でき,ア
ウグストゥス没時にはリーウィアとその息子ティベリウスの陣営の優位
がほぼ確定していたことである。次にアウグストゥスの後継者としての
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
ティベリウスの地位は確立していたが、権力の継承の手続きそのものは,
この段階では確定していなかったこと。最後にティベリウス政権誕生の
直後に,すでに次代の支配をになうティベリウスの養子ゲルマーニクス
と実子小ドゥルースス(いずれもリーウィアの孫)が存在しており,暴
動を起こした軍団兵の鎮圧などに活躍していたことである。
ここで章を改めて,ティベリウスの政権獲得,アウグストゥスの後継
者となるまでの政治状況を,ティベリウス出生時とアウグストゥス時代
まで遡って検討してみたい。
li アウグストゥス政権下のティベリウス
1 ティベリウスの出自と「ドムス・アウグスティー」の形成
後の第2代皇帝ティベリウスは,前42年11月16日に父ティベリウ
ス・クラウディウス・ネローTiberius Claudius Neroと母リーウィア
(・ドゥルーシッラ)Livia(Drusilla)との間に生を受け,当初は父と同
じ名前を名乗っていた(24)。バトリキー(貴族)系クラウディウス氏に属
するネロー家は共和政ローマ有数の名門であった。母のリーウィアの属
するリーウィウス氏ドゥルースス家は平民(プレープス)系の有力家門
であり,彼女の父はクラウデ辱ウス氏の別流プルケル家の出身であった。
クラウディウス氏は,伝えられる家柄の古さではユーリウス氏に劣るか
もしれないが,共和政期を通じて強大な勢力と高い声望を維持した点で
はるかに勝っていた。地方出身の新興家系であるアウグストゥスの実家
オクターウィウス氏と比べると,クラウディウス氏は比較を絶する権門
であった(25)。
この名門の後商である父ティベリウス・ネローは,独裁官カエサル暗
殺(前44年3月15日)後の内乱に巻き込まれて苦境に立った(26)。前43
ないし42年にプラエトル(法務官)を務めたネローは,前43年に成立
した第2回三頭政治の一員オクターウィアーヌス(後のアウグストゥス)
との対立の結果,妻子を連れてイタリアから逃れて亡命生活をおくるこ
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
ととなり,前39年春以降にマールクス・アントーニウスのとりなしで
ローマに帰還できた。
帰国したローマにおいてティベリウスの人生での最初の転換点が訪れ
た(27)。2人目の子供を妊娠していた母リーウィアが,父と離婚してオク
ターウィアーヌスと再婚することとなったのである。弟(大ドゥルース
ス)が生まれると間もなく,父はオクターウィアーヌスを息子たちの後
見人に指名して亡くなった。
かくしてティベリウスと弟の大ドゥルーススはオクターウィアーヌス
の継子privigniとして彼の家,後の「アウグストゥスの家(ドムス・ア
ウグスティーdomus Augusti)」の一員となり(28),母リーウィアの膝下
で養育されることとなった。この出来事は,共和政ローマの最大の名門
の一つであるバトリキー系クラウディウス氏が実力者オクターウィアー
ヌスを頂く新興政治勢力に加わることを意味していた(29)。その勢力の中
でクラウディウス氏(そしてリーウィウス氏ドゥルースス家)を代表し
ていたのは,今やオクターウィアーヌスの妻となったリーウィアであっ
た。
オクターウィアーヌスの下では,ティベリウスと弟大ドゥルースス以
外にも多くの子供たちが養われていた。オクターウィアーヌスと先妻ス
クリボーニアとの問の1人娘ユーリア,オクターウィアーヌスの姉オク
ターウィアが最初の夫との間にもうけた息子マールクス・クラウディウ
ス・マルケルスMarcus Claudius Marcellusと娘2人は(3°),ティベリウ
スたちよりも早くからこの家の住人であっただろう。前30年8月1日
エジプトのアレクサンドリアが陥落してマールクス・アントーニウスが
自殺すると,彼の遺児6人がアントーニウスの妻となっていたオクター
ウィアの保護下に新たに加わった(31)。
さて,前27年1月16日に元老院からオクターウィアーヌスに対して
アウグストゥスの名前が与えられた(32)。この時点の「アウグストゥスの
家」には,バトリキー(貴族)系のユーリウス氏カエサル家,クラウデ
ィウス氏ネロー家,そしてプレープス(平民)系のアントーニウス氏,
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
クラウディウス氏マルケルス家という共和政ローマを代表する名門出身
の子供たちが養育されていた。これらの子供たちを,この家(ドムス)
とその主アウグストゥスとに結び付けていたのは,アウグストゥスの姉
オクターウィアと妻リーウィアとの2人の女性であった。ローマ帝国を
支配する「アウグストゥスの家」を構成する複数の名門家系の結節点に
2人の女性が位置していたのである。
2 「ドムス・アウグスティー」の拡大とティベリウスの台頭
アントーニウスに勝利して東方より帰還したオクターウィアーヌス
は,盛大な凱旋式を挙行し(前29年8月13∼15日)(33),市民の人口・
財産調査と元老院議員名簿の改定を実施し(前29∼28年)(34),その上で
帝国(属州)の統治を元老院と分担することを定めた(前27年1月13
日)(35)。このこと(同時代では「国家(共和政)の復興restitutio rei
publicae」と称される)への感謝として,アウグストゥスの名前が与え
られた(同年1月16日)。こうして国政上の地位を固めたアウグストゥ
スは,政権の基盤を強化し支持を拡大するために,自らの家(ドムス)
で養育していた子供たちを積極的に利用するようになった。
まず前28年にオクターウィアの娘クラウディア・マルケッラとアウ
グストゥス側近の実力者マールクス・アグリッパとが,前25年にはユ
ーリアとマールクス・クラウディウス・マルケルスとが結婚した。と
ころが,前21年にマルケルスが亡くなると,アウグストゥスとオクタ
ーウィアは,アグリッパをマルケッラと離婚させ,ユーリアと再婚させ
た㈹。この結果,アグリッパは,アウグストゥスの娘婿として「アウグ
ストゥスの家」の中心に位置することとなった。さらに彼とユーリアと
の間には3人の息子と2人の娘が生まれ(3η,家(ドムス)の成員は増え
た。彼らの中から,上の2人の男の子は前17年にアウグストゥスの養
子とされ,それぞれガーイウス(・ユーリウス)・カエサル,ルーキウ
ス(・ユーリウス)・カエサルと名乗ることとなった。このことは,直
接にはアウグストゥスが孫2人をユーリウス氏カエサル家の相続人に指
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
名したことを意味している。
家(ドムス)の他の成員も,アウグストゥスの下で一定の役割を果た
すことを期待されていた。ティベリウスは,アグリッパと最初の妻の問
の娘ウィプサニア・アグリッピーナと,弟大ドゥルーススもオクターウ
ィァとアントーニウスとの下の娘小アントーニアと結婚した(38}。アント
ーニウスと先妻との間の遺児ユッルス・アントーニウスも,マルケッラ
(アグリッパの前妻)と結婚した(39)。アントーニウスとオクターウィア
とのもう一人の娘大アントーニアも,プレープス(平民)系の名門出身
のルーキウス・ドミティウス・アヘーノバルブスと結婚してアウグスト
ゥスの支持基盤の拡大に貢献した(4°)。
恐らく,この段階のアウグストゥスの家の実情に基づいて,伝記作家
プルタルコスは,カエサルの下(家)では(παρa Kα‘σαρし)アグリッ
パが第一の地位を,リーウィアの子供たちが第2位,アントーニウスが
第3位を占めていたと述べる(4’)。皇帝の家(ドムス)において第1位を
占めるアグリッパは,帝国の政治・行政においても当時の皇帝権力の中
核であるプローコーンスル(属州総督)命令権・護民官職権を相次いで1
授けられるなどアウグストゥスに次ぐ枢要な地位を占め,事実上の帝国
の共同統治者となった(42)。
アグリッパ以外の「アウグストゥスの家」の者たちも帝国の公的分野
で活躍することが多くなった。とりわけティベリウスと弟の大ドゥルー
ススは軍事面で功績を次々に挙げて頭角を現した㈹。前20年,ティベ
リウスは東方に遠征してパルティアとの緩衝地域であるアルメニアに親
ローマ派の王を擁立した(44〕。さらに前16年には,彼はアウグストゥス
と共にゲルマン諸部族の侵入で動揺していたガリア・コマータ(長髪の
ガリア)に赴き,翌15年には弟大ドゥルーススと手分けをしてアルプ
スの北,ドナウ川の南の地域に侵入・征服した㈹。前12年からはティ
ベリウスはドナウ川方面を,大ドゥルーススはライン川方面を担当して,
弟はガリアを脅かしていたゲルマン諸族を撃退し,兄はドナウ中流域パ
ンノニア地方の諸族の征服に従事した㈹。前11年以降,大ドゥルース
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
スは連年ライン川を越えてゲルマーニアへ侵入してゲルマン諸族を制圧
した。前9年,大ドゥルーススはアルビス(エルベ)川に到達したが,
帰途に病に倒れ(一説では落馬により負傷し),駆けつけたティベリウ
スに見取られつつ亡くなった{‘n。
これらの戦功によって,兄弟は凱旋式顕章,小凱旋式などの栄誉を授
けられた(48)。また彼らは,共和政以来の公職においても順調に昇進し,
ティベリウスは前16年プラエトル(法務官)職に,前13年コーンスル
(執政官)職に就任した。大ドゥルーススは,それぞれを前11年と前9
年に経験した㈹。なおユッルス・アントーニウスも前10年にコーンス
ルに就任していた。
ところが,この間に「アウグストゥスの家」を大きく揺るがし,ティ
ベリウスの運命にも大きな影響を与える出来事が起こった。アウグスト
ゥスの娘婿アグリッパと姉オクターウィアが相次いで亡くなったのであ
る。前者は前12年3月のことであり,後者は前11年のことであった(5°)。
3 「ドムス・アウグスティー」の変容と後継者争い
「アウグストゥスの家(ドムス・アウグスティー)」と帝国において,
皇帝本人を除けば第1の実力者であったアグリッパの死は,ティベリウ
スの地位を向上させることになった。ティベリウスは,家(ドムス)の
内外においてアグリッパの占めていた地位を襲った。彼は,皇帝の命令
で妻と離婚して前11年にユーリアと再婚し(51),前7年正式の凱旋式を
挙行して2回目のコーンスル職に就任し,翌6年には5年間有効の護民
官職権を授けられた(52)。ティベリウスは亡きアグリッパにほぼ比肩でき
る地位を得たのである。
このティベリウスの地位については,アウグストゥスが自らの後継者
と考えていた2人の孫ガーイウス・カエサルとルーキウス・カエサルの
ため,彼らの成人までの後見役あるいは「摂政」として選んだとされる
ことが多い㈹。アウグストゥスが,2人の孫を公私両面にわたる後継者
とすることを望んでいたのは,恐らく事実であろう。しかし,前11年
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
の段階において,この願望が実現するかどうかは未知数であった。すで
にLeVickの指摘するところであるが(M},この頃の皇帝の地位は期間を限
定して後見人(摂政)に委ねることのできる性質のものではなかった。
さらに彼らが,ユーリウス氏カエサル家の相続人であることは自明の事
実であったが,カエサル家を含む複数の家系から構成される「アウグス
トゥスの家」の後継者であるかどうかは確定していなかった,と筆者は
考えている。
ティベリウスは,すでに多くの功績を挙げたアウグストゥスの補佐役
であり,前6年には実質的な共同統治者の地位についた。両者の年齢差
(約20歳)を考えると,ティベリウスがアウグストゥス死後もその地位
を保つ可能性は高く,家(ドムス)の後継者としても最有力の候補と目
されていたと考えられる。しかし,このようなティベリウスに対して,
未だ年少のガーイウス・カエサルを後継候補とする勢力も根強く存在し
たと考えられる。そして,その勢力の中心に今やティベリウスの妻とな
ったアウグストゥスの1人娘ユーリアが存在したと思われる(ss)。
ユーリアは,前11年以降,亡くなったオクターウィアの役割を継ぎ,
リーウィアと並んで「アウグストゥスの家」の新しい結節点となってい
た。彼女とティベリウスとの関係は,歴史家タキトゥスがユーリアが夫
を誹誇する書簡を父アウグストゥスに送ったことを伝えるなど険悪なも
のであったと考えられている(56)。
そのような情勢の中,護民官職権を与えられたのと同じ前6年にティ
ベリウスは「突然引退し,表舞台から出来るだけ遠くに退くことを決意
し」エーゲ海のロドス島に引き籠った(5”。この突然の引退の直接の動機
(原因)を特定することは難しい。ただし,その背景には,同じ年の選
挙において,14歳のガーイウス・カエサルが翌年のコーンスル職に当
選したことがあるだろう㈹。アウグストゥスの孫ガーイウスは成人服
(toga Virilis【pura】)を着用する16歳を迎えていない,兵役義務すら未だ
ない少年であった。カッシウス・ディオは,この選出はアウグストゥス
にとっても予想外であり,20歳以下の者がコーンスルとなるべきでは
一41一
ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
ないと,ガーイウスのコーンスル就任を延期させたと伝える(59)。
この出来事は,カエサル家の相続人であるガーイウス・カエサルに
「アウグストゥスの家」における競争相手であるティベリウスに対抗し
うる国政上の地位と権威を与えるべく企てられたものであろう。一種の
クーデタとも言えるこの事件の背後にいた勢力の中心にはユーリアが存
在し,前10年のコーンスルであったユッルス・アントーニウスなどの
かつてオクターウィアに連なっていた者たちの多くも加担していたと考
えられる。
ロドス島でのティベリウスの隠遁生活は,前後8年あまり続いた。彼
は,当初は護民官職権を有しており,その任期が切れた後には母リーウ
ィアのとりなしで「アウグストゥスの代理(legatUs Augsti)」の地位を
与えられていた㈹。その間,ガーイウスは,プローコーンスル(属州総
督)命令権を与えられて東方諸属州に赴き(前1年),コーンスル職を
務めて(後1年),アウグストゥスの後継者としての地位を固めつつあ
った(61)。
ところが,前2年に突然,ユーリアが失脚する。その事件は,ウェッ
レイユス・パテルクルスが「口に出すだに恥ずかしく,思い出すだに恐
ろしい嵐が,皇帝自身の家(ドムス)に起こった」と伝える醜聞であっ
た(62)。ユーリアが仲間たちと潔夜にローマ市の中央広場とその演壇で酒
盛りをして乱痴気騒ぎをしたことが発覚し,その結果、彼女と多数の名
門有力者たちとの不行状が露見したと伝えられる(63)。ユーリアは,ティ
ベリウスと離婚させられ,カンパニア地方沖の孤島パンダーテーリアに
配流された。なおユーリアと共に失脚した有力者の中にユッルス・アン
トーニウスも含まれ,彼は自ら命を絶った。
ユーリアとその取り巻きの失脚後も,アウグストゥスの後継者として
のガーイウス・カエサルの地位は揺るがなかったように思われた。一方
ティベリウスは,ユーリアの失脚後もロドス島に留まっていたが,母リ
ーウィアと共にアウグストゥスに嘆願して,後2年にはローマへの帰国
を許されていた(en)。ところが,後2年にルーキウス・カエサルが,後4
一42一
ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
年にガーイウス・カエサルが,相次いで病没した(65)。この結果,アウグ
ストゥスは,彼に残された最後の選択肢を選ばざるをえなくなった。
後4年にティベリウスは,再び護民官職権を授けられ,同じ年の6月
に彼はアウグストゥスの養子とされ,ユーリウス氏カエサル家の相続人
ともなった㈹。同時にティベリウスは,アウグストゥスの命で亡き弟大
ドゥルーススの上の息子ゲルマーニクスを自らの養子とした。ここにテ
ィベリウスがアウグストゥスの後継者であることが確定した。
以上、検討してきたティベリウスがアウグストゥスの後継者となるま
での経過から,次の諸点が確認できる。内乱の勝利者としてローマと地
中海世界の支配者の地位を獲得したアウグストゥスは,姉オクターウィ
アと妻リーウィアを通して結びつけられた名門の子弟や側近の実力者か
らなる自らの家(ドムス)の構成員を帝国の行政・軍事や権力基盤の拡
大に利用した。その「アウグストゥスの家(ドムス・アウグスティー)」
の第1位にあった者,最初はアグリッパ,次いでティベリウスが護民官
職権・プローコーンスル命令権など国政面でのアウグストゥスの共同統
治者となった。前6年からアウグストゥスの孫であり,ユーリウス氏カ
エサル家の相続人であるガーイウス・カエサルと「アウグストゥスの家」
の第1位にあったティベリウスとの間に激しい後継者争いが生じ,その
争いには両者の母親であるユーリアとリーウィアが大きな役割を果たし
ていたと考えられる。最終的には,ユーリアの失脚,ガーイウス・カエ
サルと弟の夫折によって,リーウィアに助けられたティベリウスが勝利
したのである。
Ill ドムス・アウグスタと「アウグストゥス」
1 ドムス・アウグスタの意義
II章の検討からわかるように,アウグストゥスの後継者候補としては
ユーリウス氏カエサル家の相続人だけではなく,「アウグストゥスの家」
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
の第1位にあり,国政上の諸権限の同僚が存在した。最終的には,ティ
ベリウスが勝利して「アウグストゥスの家」のみならずカエサル家の後
継者となり,アウグストゥスの真の後継者となった。このように皇帝の
「家(ドムス)」は,帝政成立期の権力構造を理解する上で決定的な重要
性を有している。初代皇帝アウグストゥスの権力はあくまで熾烈な内乱
に勝利した結果として獲得されたものであったが,彼は支配の基盤を拡
大強化するために「家(ドムス)」の構成員を積極的に利用した。一方,
第2代皇帝ティベリウスは,母リーウィアの再婚によって「アウグスト
ゥスの家」に迎えられ,その中で頭角を現し,「家(ドムス)」内の競争
相手に勝利して権力を獲得したのである。ドムスこそが,ティベリウス
の権力獲得にとって不可欠の前提条件であった。
アウグストゥスが,彼の家(ドムス)から後継者を選んだことは,ロ
ーマ人たちにとって強い印象を与えたと考えられる。歴史家タキトゥス
は,後68年に帝位についたガルバに次のような発言をさせている。「彼
(アウグストゥス)は姉の息子マルケルスを,次いで婿アグリッパを,
さらに自分の孫たちを,最後に継子のティベリウス・ネローを自分の次
に高い地位につけた。しかしアウグストゥスは家(ドムス)の中で後継
者を探したが,私は国家の中で探した」と(6n。
この「皇帝の家(ドムス・アウグスタdomus Augusta)」(68)の意義は,
ティベリウス政権の成立直後から強く意識されていたと考えられる。
1982年にスペイン南部で発見された,いわゆる「シアールム青銅板」
の記述から,恐らくアウグストゥスの死の翌15年に,コーンスルのノ
ルバーヌス・フラックスがローマ市のフラーミニウス戦車競技場に「神
であるアウグストゥスdivus AugustUs」と並んで「ドムス・アウグスタ」
の像を建てたことが知られる(69)。同じ年,黒海に面した辺境の地に配流
されていたローマの騎士であり,当代随一の詩人であったオウィディウ
スは,詩の中で,すでに神となったアウグストゥスの像を妻リーウィア
と現皇帝ティベリウスの像と共に安置し,孫のゲルマーニクスと小ドル
ーススを含むドムスが欠けることのないようにと願っていた㈹。また後
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
19年10月10日,皇帝ティベリウスの養子であり,次代皇帝の最有力候
補であったゲルマーニクスが東方の属州シリアで亡くなると,故人のた
めに多くの元老院決議や法律が発布されたが,それらの中でも「皇帝の
家の尊厳maiestas domus Augustae」や「全身分の皇帝の家に対する忠
誠pietas omnium ordinum erga domum Augtistam」などの表現が見られ
るのである㈹。
2 ドムスの性質と役割
ここまで単に「家」と訳してきたドムスdomusとは,どうような存
在であったのだろうか。特にふつうファミリアfamiliaの語が用いられ
るユーリウス氏カエサル家やクラウディウス氏ネロー家という場合の
「家」とはどのように異なるのだろうか。現在,我々の利用できる大半
のラテン語辞典類,例えばオックスフォード大学出版局の新旧の羅英大
辞典や1900年に刊行が開始されて未だに進行中のThesaur”s Linguae
Latinaeでは㈹,親族集団に用いた場合の両語の違いには十分な注意は
払われていない。この2つの言葉の用法の差や意義の広さの違いを最初
に指摘したのは,米国の研究者サッラーが1984年に公表した論文であ
った㈹。筆者も,この論文に刺激されてドムスとファミリアの問題につ
いて論じたことがある㈹。
ファミリアについては3世紀の法学者ウルピアーヌスによる有名な定
義がある〔75)。親族集団としてのファミリアは,1人の家父長pater
familiasとその権限(家父長権patria potestas)の下にある子供以下の直
系卑属からなる人間集団,あるいはかつて単一の家父長権の下にあった
者たちとされる。妻は夫権(手権manus)に服する形式の結婚をしてい
た場合にのみファミリアの一員となり,娘の地位にある者として家産の
相続に与るとされていた。クラウディウス氏ネロー家やユーリウス氏カ
エサル家のような共和政以来の名門は,皆,このような父系親族集団で
あるファミリアであった。
一方,サッラーによれば,本来建造物としての家屋を指していたドム
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
スが人間集団として用いられる場合㈹,父系親族のみならず母系親族や
姻戚を含む広範囲な親族集団を指し,共和政以来の名門のように父系フ
ァミリアの古い家系を誇れない帝政期の元老院議員たちがしばしば用い
たとされる。さらに,皇帝の家(「カエサルたちのドムスdomus Ca−
esarum」という表現が用いられている)が,結婚の絆によって指導的
な貴族家門を結び付けたものであってその中核にユーリウスとクラウデ
ィウスの2つのファミリアが存在したことも指摘される(77)。
これらのサッラーの指摘は卓抜なものであるが,彼の関心は古代ロー
マの家族構造や親族名称の全体像にあり,「皇帝の家(ドムス)」に関す
る指摘には不十分な点がある。特に複数のファミリアを含むドムスにお
ける女性の役割の重大さが十分に検討されていない。II章で見たように
「アウグストゥスの家」では,ドムスを構成する諸ファミリアは,アウ
グストゥスの姉オクターウィア,妻リーウィア等を通して結びつけられ
ていた。さらにティベリウスが母リーウィアを介して「皇帝の家」に加
わり,結果としてアウグストゥスの後継者となったことは,次代以降の
権力継承のモデルの一つとなった考えられる。
この事実が皇帝ティベリウス本人にも強く意識されていたことを,タ
キトゥスが伝えるゲルマーニクスの未亡人であるアグリッピ’ナと皇帝
との逸話が示している㈹。彼女はユーリアとアグリッパの娘(すなわち
アウグストゥスの孫娘)であったが,病気となったアグリッピーナは,
見舞に訪れたティベリウスに「市民たちの中にはゲルマーニクスの妻と
子供たちを迎え入れるに相応しいだろう者がいる」と再婚を懇願した。
この再婚が国政に与える危険を知っていた皇帝は無言で立ち去ったと言
っ。ティベリウスは,アグリッピーナを通して新たな実力者が「ドム
ス・アウグスタ」に加わることを恐れたのである。その後,アグリッピ
ーナはパンダーテーリア島に配流され,その地で亡くなった㈹。
ティベリウスの恐れた危険は,「皇帝の家」の外の実力者にとっては,
最高権力に接近する道を得る好機であった。ティベリウス側近の実力者
である護衛隊司令セイヤーヌスは,ティベリウスの弟大ドゥルーススの
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
娘であり,皇帝の息子小ドゥルーススの未亡人であるリーウィッラとの
再婚を皇帝に懇願していた㈹。後31年,彼が失脚すると,連座したあ
るローマ騎士は,「自分たちが敬意を表していたのは,婚姻関係によっ
て占めることのできたクラウディウスとユーリウスのドムスの一員」と
してのセイヤーヌスであったと弁明したと伝えられている〔81)。
複数のファミリアをその内部に包含することができるというドムスの
性質と,母リーウィアに連れられて「アウグストゥスの家(ドムス・ア
ウグスティー)」に加わったティベリウスが後継者となった歴史的経過
が,帝政初期の権力構造とその継承に大きな影響を与えることになった
のである。
3 「アウグストゥス」の名前の意義
「皇帝の家(ドムス・アウグスタ)」にその名称を与えた「アウグス
トゥス」とは,言うまでもなく前27年1月16日に元老院によって権力
者オクターウィアーヌスに授けられた名前である。この「アウグストゥ
ス」は,本来はローマ人が通常持っている3つの名前,個人名(前名)
praenomen,氏族名nomen gentile,添え名cognomenの中,最後の添え
名の一つである。添え名とは,ある人物の特徴や挙げた功績によって名
付けられる異名である。例えば北アフリカのカルタゴとの戦争に勝利し
た有名な大・小スキーピオーはアーフリカーヌスAfricanusと名乗って
いた。この異名が代々受け継がれるとユーリウス氏カエサル家やクラウ
ディウス氏ネロー家のカエサルやネローの如く家名となる。
ティベリウスも,元老院によってドナウ方面の勝利を称えて様々な添
え名(例えばパンノニクスPannonicus)を送ることが提案されたこと
がある。その際に,アウグストゥスは「彼は,自分が死んだ際に受け継
ぐ名前(アウグストゥス)で満足していると繰り返し述べて,添え名に
ついては拒否した」と伝えられている(82)。基本的には「アウグストゥス」
も他の添え名と同様な性格のものであったと見なすことができる。
一方,アウグストゥスという名前が,初代皇帝以来,皇帝本人と特定
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
の近親者に限定された特別な呼称であることも明らかである。後代には,
アウグストゥスが正皇帝(正帝)の称号,カエサルが皇帝後継者もしく
は副皇帝(副帝)の称号という使い分けも生まれる。初代アウグストゥ
スからティベリウスへの継承に関しても,公式の称号として元老院から
授与されたとする見解がある㈹。しかし史料によれば{S‘),ティベリウス
とリーウィアがアウグストゥスの名前を受け継いだのは,財産の相続や
遺贈を定めたのと同じ亡き皇帝の遺言によってである。さらにタキトゥ
スの伝えるところでは〔85》,ティベリウスは,アウグストゥスの没後に
元老院議員たちがアウグスタ(リーウィア)に阿って与えた様々な名誉
ある称号を拒否したとされるが,「アウグスタ」の名前については何ら
問題としていない。
アウグストゥスないしその女性形アウグスタという名前の継承は,あ
くまで私的領域に属する問題であったと考えられる。しかし,同時にユ
ーリウス氏カエサル家の構成員(相続人)にも,アウグストゥスの生前
には,その名を用いることが認められていなかったことも確かである。
「アウグストゥス」という名前は,国政上の権限や称号など公的領域に
属するのでも,共和政以来の「家(ファミリア)」に関わるものでもな
かった。
「アウグストゥス」の名前は私的領域の中でもドムスに関わるもので
あったと筆者は考えている。この推測は,ティベリウスと並んで,リー
ウィアが「アウグストゥス」の名前を受け継いだことにより補強される。
アウグストゥスは,母リーウィアの存在によってティベリウスが「アウ
グストゥスの家(ドムス)」の一員となり,さらにアウグストゥスの後
継者となることができたことを熟知して,両者にアウグストゥスの名前
を継がせることを命じたのであろう。初代アウグストゥスは,彼の家
(ドムス)の上に超然と君臨していたが,ティベリウスとリーウィアは
「ドムス・アウグスタ」の共同の長として「アウグストゥス」の名前を
継いだと考えられる。
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
おわりに
以上、アウグストゥスからティベリウスへの権力の移行,帝政最初の
帝位継承の経過の検討から,帝政成立期の権力構造において複数の名門
ファミリアからなる家(ドムス)が大きな意義を持っていたことが判明
した。
初代皇帝アウグストゥスは内乱に勝利した圧倒的な勢力と声望でその
地位を獲得したが,権力獲得後は姉オクターウィアと妻リーウィアを通
じて自らの「家(ドムス)」に迎え入れた共和政以来の名門の子弟や側
近の有力者を用いて,権力基盤の強化・拡大を図った。その「家(ドム
ス)」の中で,クラウディウス氏ネロー家出身のティベリウスは,母リ
ーウィアと共にユーリウス氏カエサル家の相続人を含む競争相手に勝利
して,アウグストゥスの後継者となり,第2代皇帝となった。
ティベリウスの権力獲得によって,女性を通じて「皇帝の家(ドム
ス・アウグスタ)」に加わり,最高権力に与ることは,帝位継承の一つ
のモデルとなったと考えられる。このことは,一面では政治的混乱の原
因ともなっていた。また初代アウグストゥスが,その遺言でティベリウ
スとリーウィアに自らの名前(アウグストゥス)を用いるように命じた
ことから,その名前は「皇帝の家(ドムス)」の長たる男女の呼称とな
ったのである。
さて,このような「皇帝の家(ドムス)」については,解き明かすべ
き未解決の問題が残っている。1つは「皇帝の家(ドムス)」の物質的
基盤は何であり,どのようにして管理されていたかの問題である。この
家(ドムス)の構成員たちは,若くして軍隊を指揮し輝かしい功績を挙
げていた。共和政の市民兵から職業的兵士に変貌しつつあったローマの
正規軍団を維持し,その忠誠を確保するためには,莫大な財政支出が必
要であったと考えられる。「皇帝の家(ドムス)」が,如何にしてその財
源と,それを管理する人材を確保していたかが解明される必要がある。
また本稿において判明した「皇帝の家(ドムス)」の意義と帝政の権
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
力構造とが何時まで継続したかも重大な問題である。筆者の見通しでは,
第5代皇帝ネローとその母小アグリッピーナの時代までは,基本的な構
造は変化していなかったと思われるが,その後,皇帝権力の在り方がど
のように変化したのか,あるいは変化しなかったのかが解明されねばな
らないだろう。
以上の問題が解決して,初めて帝政成立期(1世紀)のローマ皇帝の
支配構造が明らかとなると,筆者は考えている。
註
(1)Cassius Dio,56.30;Suetonius,Augustus,97−100;Tacitus, Annales,ユ.5;Velleius Patercultts,
123.
(2)Tacitus, Annales,1.7.1.Ronald Syme,7)ie Roman Revolution, Oxford,1939, p.437L
(3)Velleius Paterculus,124.1:唱’Quid tunc homines timuerit, quae senatus trepidatio, quae
populi confusio, quis orbis metlis, in quam arto salutis exitiique fuerimus confinio, neque
mihi festinanti exprimere vacat neque cui vacat potest”.歴史家Velleius Paterculllsは,テ
ィベリウス鷹下の部隊に勤務した経験を有する軍人であった。彼の作品は,30年に公刊
されたものであると考えられている。AJ. Woodman, ’Questions of Date, Genre and Style
in Velleius’,Classical Quarters, 25, 19. 75, pp.272−306を参照。なお, Syme, op.cit., p.437は
この箇所に関して,「誇張は明白かつ恥知らずである」と酷評する。アウグストゥスから
ティベリウスへの政権移行が万全の準備の上で平穏に行われたとするSymeの立場から
すれば当然の評価であるが,筆者はこの文章が当時の情況の一面をよく伝えていると考
えている。
(4)Velleius Paterculus,124,2.
(5)lbid.,123;Suetonius,/Attgustus,98.5は,ティベリウスがアウグストゥスと面会できたと
伝える。Tacitus,、Annales, L 5は,面会できたかどうかについては確証はないとする。
Cassius Dio,56.31,1は両方の伝えがあることを記した上で,面会できなかったとの伝え
がより信頼できると述べる。
(6)Cassius Dio,57.3.5−6;Tacitus, Annales,1.6;Suetonius, Tiberius,22.
(7)Suetonius, Augusttts,100.2,
(8)Cassius Dio,56.31,2−42;Suetonius, Attgustus,100.2−101;Tacitus,.Annales,1.7−10.アウ
グストゥスの死から9月17日の元老院会議までの出来事の日時については,B. Levick,
Ti−berius the Politician, London,1976, pp.69f.の推測を参照のこと。ティベリウス,リーウ
ィア両人の相続人としての指命とアウグストゥス,アウグスタと名乗るようになったこ
とについては,Cassius Dio,56.32.1;Suetonius, Augustus,1012;Tacitus, Annate∫,1.8を
参照。なおCassius Dio,56.35−41に所載のティベリウスの弔辞の内容は史実とは考えら
れない。B. Manuwald,(]assius 1)io und.Augustus, Wiesbaden,1979, p.133を参照。
(9)Cassius Dio,57.2.4−7;Suetonius, Tiberius,24−25;Tacitus, Annales,1.11−13;Velleius Pa−
terculus,124.2.
(10)Cassius Dio,57.4−6;Suetonius, Tiberius,25;Tacitus, Ahnales,1.16−49;Velleius
Paterculus,125,
(11)アグリッパ・ポストゥムスは,前12年の後半に生まれた。彼の父Marcus Vipsanius
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ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
Agrippaは,アウグストゥスの少年時代からの友人であり,三頭政治時代の内乱では有能
な将軍として,アウグストゥスの権力確立後は皇帝の代理として活躍したが,前12年3
月に病没した。アグリッパ父子の経歴に関してはD,Kienast, Rb’m ische Kaisetabelle,
Grundidie einer rb’mischen Kaiserchronologie 2. Aufl., Darmstadt,1996, pp.71f.;75f.を参照。
(12)ゲルマーニクスは,ティベリウスの弟大ドルースス(DecimusP Nero Claudius Drusus)
と三頭政治で有名なMarcus Antoniusの下の娘アントーニアの間に,前15年5月24日に
生まれた。後4年にはアウグストゥスの命令で伯父ティベリウスの養子となり.
Germanicus(lulius)Caesarと名乗っていた。彼の息子の一人が第3代皇帝ガーイウス
(カリグラ)であり,弟が第4代皇帝クラウディウスである。また第5代皇帝ネローの母
小アグリッピーナは彼の娘である。Kienast, op.cit., pp. 79−82;94f.を参照。
(13)Cassius Dio,55. 32. lf.;Suetonius, Augustus,65.1−4..なお,アグリッパの「勘当」の持つ
法的な意義についてはS. Jamson, tAugustus and Agrippa Postumus’, Historia, 24,1975, pp.
287−314を参照されたい。
(14)Tacitus, Annales,1.3;“(Livia)senem Augustum devinxerat adeo, uti nepotem unicum AgTrip
pam Postumum, in insulam Planasiam proiecerit.
(15)Kienast, oP.cit., PP,70f.
(16)Cassius Dio,56.30.1;Tacitus, Annales,1.5.両者は共に,このアウグストゥスとアグリッ
パとの面会を和解の前兆であったととらえ,アグリッパの復権を恐れたリーウィアがア
ウグストゥスの死に関与したことを示唆する。Cassius Dio,56.30.2は,リーウィアによ
るアウグストゥス毒殺の生々しい状況を伝えるが,この記事に信愚性はない。
(17)アグリッパ殺害の命令はサルスティウス・クリスプスの発した文書codicillusで伝えられ
ている(Tacitu g. , Annates,1.6)。この命令について, Jamson, op.cit, p.314はサルスティ
ウス・クリスプスの独断であると主張し,Levick, op.cit., pp.65f.は円滑な帝位の継承を実
現するために,亡きアウグストゥス自身が自分の死と共に効力を発するように残してい
た指示であるとの推測を述べる。
(18)Cassius Dio,57.18.1a;Tacitus, Annales,1.53.なお,タキトゥスはユーリアの死をアウグ
ストゥスの死とティベリウスの帝位継承と同じ後14年のこととする。
(19)Levick, op.cit., P,75.
(20)LKeppie,7he Making Ofthe Roman、Army f動om RePubtic to Empire, London,1984, pp,146−
148;163−171.
(21)Tacitus, Annales, L 17.
(22)Ibid.,1.36f.;49−51.
(23)Ibid.,1.52.
(24)Suetonius, Tiberius,3.1;5;Velleius Paterculus,2.75.1,
(25)Suetonius, Tiberius,1−2;Tacitus, Annates,1,51.
(26)lbid.,4;6.1−3;Cassius Dio, 48,15.3−4;Velleius Paterculus,2.75.3.なお父ティベリウス・
不ローのプラエトル職就任について,Levick, op. cit., p.14は前43年とするが, T. R. S.
Broughton,71te Magistrates Of the Roman Republic, vol.2 99B. C.−31B.(:1, Atlanta,1952, p.
359は前42年とする。彼らの帰国の年代については,Levick, loc. cit.を参照。
(27)Cassius Dio,48.44.1−2;Suetonius, Tiberius,4.3;Tacitus, Annales,1.10.結婚の日時(前
38年1月17日)については,VEhrenberg and A H, M.Jones, Document lllustrating the
reigns ofAorgustus and Tiben’us 2nd Ed., Oxford,1976, p.48を参照。後見人指命については,
Cassius Dio, 48. 44. 5.に言及されている。
(28)Tacitus, Annales,6,51.
(29)Syme, op.cit., pp.340f.
一51一
ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
(30)Kienast, op.cit, pp.70f.;Prosopographia Jmperii Romani, Saec. L ll・Ill., editio altera, Berlin
/Leipzig,1933−1998(以下PIR2と省略)066(Pars V, fasc.3., p,430).
(31)Plutarchus, Antonius,87.
(32)Cassius Dio,53,16.6−8;Res gestae divi Attgsutae,33;Suetonius, Augustus,7.2.
(33)Cassius Dio,51。21,5−9;Ehrenberg andJones, op.cit., p.50,
(34)Cassius Dio,52.42.1;Res gestae divi/Augsutae,8
(35)Cassius Dio,53,12−6;Strabo,17.3.25;Suetonius, Augustus,47;Ehrenberg and Jones, op.
cit, p.45,前30∼23年頃に形成されたアウグストゥスの国政上の諸権限については,弓
削達rローマ帝国の国家と社会』岩波書店,1964年98−147頁,A. H. M. Jones,」The
Irnperium of Augustus’,in: idem, Studies in Roman Goveniment and law, Oxford,1960, pp.
1−17を参照されたい。また最近の文献としてはP.Southern, Acr.gustus, London and New
York,1998, pp.111−123を参照のこと。
(36)Ca.ssius Dio,53.1.2;54.6.5;Plutarchus, loc. cit.;Suetonius, Augusttts,63.1.
(37)Kienast, op.cit.,PP.70−72.
(38)Ibid., pp.68f.;76.
(39)Plutarchus,10c. cit.;Velleius Paterculus,2.100.4.
(40)Plutarchus, loc. cit.;Suetonius, Nero,5.1.なお,第5代皇帝ネローは,大アントーニアと
ドミティウス・アヘーノバルブスの孫である。
(41)Plutarchus, loc. cit
(42)Kienast, op.cit., pp.72f.;Cassius Dio,54.12;Velleius Paterculus,2.90.1.
(43)Kienast, op.ciし, pp.68f.;p.76;PIR2 C 857(Pars II, pp.196£);C941(ibid.,pp.22(>f.)
(44)Cassius Dio,54.9.4−5;Suetonius, Tiberius,9,1;Velleius Paterculus,2.94,4.
(45)Cassius Dio,54.22;Suetonius, Tiberius,9.1・2;Velleius Paterculus,2,95.2.
(46)Cassius Dio,54.31.2;34.3;Suetonius,10c, cit.;Velleius Paterculus,2.96.2.
(47)Cassius Dio, 54.32−33;55.1−2;Suetonius, Cta%dius,1.2;Livius, P厩oc加θ,142.
(48)両者(特に大ドゥルースス)の軍功による栄誉の政治的・制度的な意義については,
Levick, op.cit., pp.34f.を参照されたい。
(49)Cas’sius Dio,54.19.6;25.1;32.3;34.1;Velleius Patercukus,2.97.3.
(50)Cassius Dio,54.28.2−3;35.4.
(51)Ibid.,54.3L 1;Suetonius, Augecstus,63.2;idem, Tiberius,7.2;Velleius Paterculus,96.1.な
お古代の史料は,異口同音にこの結婚はアウグストゥスの強制によるものでティベリウ
スにとっては不本意なものであったと伝える。
(52)Cassius Dio,55.6.5;82;Suetonius,πδ8ガ駕s,9.2;Velleius Paterculus,2.97.4.
(53)例えば、D. Potter, Tiberius Caesar, London,1992, p.10.
(54)Levick, oP. cit. PP.31f.
(55)Ibid., p. 37においてLevickは,「ユーリアが第1人者(元首)たちの娘,妻,そして母と
して政治的権力を求めていた」とする。
(56)Tacitus,/Annales,1.53. Levick,10c. cit.は,両者の不和の原因を厳格な性格のティベリウ
スが女性の政治的活動を認めていなかったことと,それぞれの以前の結婚によって生ま
れた子供たちの利害の対立の2つだとしている。これらの原因中,女性の政治活動につ
いてLevickは国政面での政治活動と「家(ドムス)」での役割を混同しており,支持で
きない。
(57)Suetonius, Tiberius,10.1:(Tiberius)statuit repente secedere seque e medio quam
longissime amovere. Cassius Dio,55.9,5;Suetonius, op. cit,10−11,1;Velleius Paterculus,
2,99.
一52 一
ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
(58)Cassius Dio,55.9.2. Levick, op. cit., pp.37−39.
(59)Ibid.,55.9.3. Tacitus, Annales, L 3は,表面的には拒絶しながら実は熱望していたとす
る。
(60)Suetonius, Tibe7ius,12.1.
(61)Kienast, oP. cit., P.74.
(62)Velleius Paterculus,2.100.2:“foeda dictu memoriaque horrenda in ipsius domo
tempestas erupit”,
(63)Cassius Dio,55.10.12−17;Suetonius, Tiben−us,11.4;Velleius Paterculus,2,100.2−5.
(64)Suetonius, Tiberius,13.2
(65>Cassius Dio,55,10a,8・9;Suetonius, Tiberius,15,2;Tacitus, Annales,1,3;Velleius Pater・
culus, 2.103.3. Cassius Dio, 55,10a,10とTacitus, loc. cit.は,ガーイウスとルーキウスの
死へのリーウィアの関与の疑惑に言及しているが,確証はない。
(66)Cassius Dio,55.13.2;Suetonius, loc.cit.;Velleius Paterculus,10c. ciし
(67)Tacitus, Historiae,1.15:qui(=Augustus)sororis filium Marcellum, dein generum
Agrippam, mox nepotes suos, postremo Tiberium Neronem privignum in proximo sibi
fastigio conlocaVit. sed Augustus in domo successorem quaesivit, ego in re publica_.
(68)domus Augsutiとdomus Augustaは,共に史料上に見られる表現である。前者は個人名
であるアウグストゥスの属格形を用いており,彼個人の家の意味合いが強く感じられる
が,後者はアウグストゥスを形容詞的に用いており,一般的な「皇帝の家」の意味合い
が強いと思われる。本稿ではアウグストゥスの死,ティベリウス政権誕生の時点からは
ドムス・アウグスタの語を用いることとする。
(69)M. H. Crawford(ed.),1∼oman Statutes, no.37,11.10f.(vol. 1., p.515).なお,この金石文は, J.
Gonzalez and Javier Arce(ed.), Estzadios sobre la tabula Siarensis, Madrid,1988, pp.307ff.お
よびL伽瘤麗忽πψん加8,1984,no.508にも収録されている。
(70)Ovidius, Ex Ponto, 4. 9.105−110..F. Millar,‘Ovid and the Domus Augusta:Rome seen from
Tomoi’,7)ze Jour?:al Of1∼oman Studies,83,1993, pp.1−17を参照のこと。
(71)Senatus Consultum de Cn. Pisone patre,11.32f.(D. S. Potter(ed.),‘The Senatus Consulturn
de cn. Pisone patre’, American Journal of Phitology,120,1999, p.18;);Crawford,!oc..cit., L
22(vo1.1. P.518). ’
(72)C.T. Lewis and C. Short, A Latin Dictionary, OXtord,1879;P. G. W. Glare, OOford Latin
Dictionaηy, Oxford,1984;1)iesaurus Linguae hαtinae, Leipzig,1900 一.
(73)RD. Saller, Tamilia, Domus, and the Roman Conception of the Family’, PhoeniX,38,1984,
pp.336−355.なお,この論文は若干手を加えてSallerの論文集idem, Patriarchy,.Property
and 1)eath in the Roman」Family, Cambridge, 1994, pp.74−101に再録されている。
(74)拙稿「ローマ市民団」,弓削達・伊藤貞夫編『ギリシアとローマー古典古代の比較史的考
察j河出書房新社,1988年,53−77頁。なお,familiaとdomusについては,樋脇博敏
「古代ローマの親族集団一familiaとdomusを中心に一」『西洋古典学研究」XL,1992
年,68−77頁も参照されたい。
(75)Ulpianus, Digesta,50.16,195.1−4.
(76)Saller, op. cit., pp.342・349(pp.80・88), ・
(77)Ibid., pp. 346f.(pp.85f.).なおSallerは、このdomusをlmperial dynastyと呼んでいる。
(78)Tacitus,/Annales,4.53:esse in civitate,★★★Germanici coniugem ac liberos eius recipere
dignarentur.
(79)Suetonius, Tiben’us,53;Tacitus, Annales,5.5.
(80)Cassius D童o,57.22.4b;Tacitus, Annales,4.39.
一53一
ティベリウス政権の成立とその性格(島田)
(81)Tacitus, Annales,6.8:Claudiae et Iuliae domus pars, quas adfinitate occupaverat_
colebamus,
(82)Suetonius, Tiberi’us,17.2:de cognomine intercessit Augustus, eo contentum repromittens,
quod se defdncto suscepturus esset.
(83)T.E.J. Wiedmann,‘Tiberius to Nero’, in:A. K Bowman, E. Champlin and A. Lintott(eds.),
The Cα〃lbri’dge/lncient Histo町y Se‘ond edition,レbJ. X. The Augustan E〃lp〃召,43 B. C.−
A1).69, Cambridge,1996, p.206;D. Timpe, Untersuchungen zur Kontinuit註t des fr廿hen
Prinzipats, Wiesbaden,1962, p.55.
(84)Cassius Dio,56.32.1;Suetonius,!lugustus,101.2;Tacitus,Annales,1.8.
(85)Ibid.,1.14. ,
(史学科 教授)
一54一
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