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アメリカ合衆国の人口政策

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アメリカ合衆国の人口政策
アメリカ合衆国の人口政策
アメリカ合衆国の人口政策
WASPと﹁合州国﹂
アメリカ人は、三つの母国を持っていると言えるかもしれない。
吉
田
雄
は、もちろん英語だが、州によってアクセントや表現も異なり、かつて言語統一運動があったほどである。法律も州によ
第二の母国は、州または郡である。現在のアメリカは、五〇の州が合体した連合国家だと言えるかもしれない。公用語
豊かな生活ではないにしても、歴史上、最も豊かな生活をいとなんでいる。
第一の母国は、言うまでもなく、アメリカ合衆国である。広大で肥沃なこの土地に住む二億にのぼる人々は、外見ほど
忠
って異なり、アメリカ人の多くには、州ナショナリズムと表現できるようなものが根強く住民の心に横たわっている。
(171)
171
1
アメリカ合衆国の人口政策
第三の母国は、旧出身母国である。多くのアメリカ人は、旧母国出身者が寄りそって生き、旧出身国の風俗習慣の多く
をそのまま移入している。ニュi・イングランドにはイギリス人が、東海岸中部にはオランダ人が、東海岸南部にはフラ
ンス人が、中部にはドイツ人が、西部海岸には東洋人が多く住んでいる。旧母国に、一歩でも近く、しかも気候条件の似
ているところに住んでいるのは、生物の帰巣本能と言ってよいかもしれない。アメリカは、ミニ・旧母国の寄合世帯なの
である。
これら三つの母国のうち、一番根強いのは第二のもののようである。第二と第三の母国観は、多くの場合、重複してお
り、それが一層、州ナショナリズムを強くしていると表現できるかもしれない。アメリカは、 ﹁合衆国﹂というよりも、
﹁合州国﹂と訳すことが、その実体にもあうし、原語にも忠実であると言えよう。
ただ、旧母国に対する郷愁という点で例外と言えるのは、日系アメリカ人であるかもしれない。イギリス系、フランス
系、ドイッ系は、それぞれ同じ地域に住み、同じ食べものを求め、交流をし、旧母国語を語る場合が多いが、日系アメリ
カ人は、外観はほとんど変りはないが、どこか違うのである。たとえば、旧母国語の習得という点をみよう。大学生が外
国語を履習しようとする場合、たいていの学生は旧母国語を、第一もしくは第二外国語として履習する。しかし、日系ア
メリカ人大学生は、ほとんど日本語をとらない。大学での日本語コースには、むしろ旧ヨーロッパ系の学生が多い。
おそらく、日系アメリカ人一世は、日本に対する望郷の念を忘れがたい思いで生きてきたのだろうが、二世の多くは、
日本を憎んだことがあったのかもしれない。日本は、父母になんら暖かな手を差し伸ばさず、逆に、第二次世界大戦の時
には、日系アメリカ人の全財産を没収し、強制収容所に入れさせるほど、闇打ちのひどいことをやったという怨みを持っ
172
(172)
アメリカ合衆国の人口政策
た。闇打ちが、連絡不十分のゆえに起きた悲劇だということが戦後わかり、財産も返却されたが、二世の多くは、それま
で、旧母国を怨みつづけてきたのは、自然かもしれない。しかし、三世の多くは、日本に対して、怨みも、特殊な郷愁も
感じなかったようである。したがって、日系アメリカ人一世は親日的であり、二世は反日的、三世は非日的だと↓般に言
われているのも、こうした歴史的背景があるからであろう。
日系アメリカ人が、旧母国に対して複雑な感情を持ちあわせているのに反して、特に、旧母国人同士でがっちり固まろ
うとしているのは、アングロ・サクソン系であろう。彼らの多くは、ニュi・イングランドに住み、政界、学界、産業界
に大きな力を持った。よく知られているように、アメリカには、WASPという言葉がある。白人、アングロ・サクソン、
ホワイト
プロテスタントが、指導者の要件だというのである。
てよいし、それだけに、アメリカの人口に与えた移民の要因は大きい。
は、アメリカを除いて、あまり見られないといってよいであろう。したがって、アメリカの歴史は、移民の歴史だといっ
が交わりあうという特殊な社会を形成している。このように、社会全体の中で移民の占めるウェイトの大きな国というの
こうして、合衆国というよりも、合州国の観のある現代アメリカで、その紐帯は徐々に崩れつつあるが、旧母国民同士
Pの神話は、いぜんとして大きな力を持っていることは否定できない。
最近、このWASPの伝統がくずれ、カトリック系の大統領や、黒人市長、日系学長もいないわけではないが、WAS
(173)
173
アメリカ合衆国の人口政策
アメリカの移民と人口の推移
アメリカの人口の歴史は、ごく最近にいたるまで、移民とその子孫の歴史である。
アメリカにも、原住民はいた。言うまでもなく、アメリカ・インディアンである。この原住民が、いつ、どのようにア
メリカ大陸に住むようになったかは定かではないが、仮説として、太古の昔、北極が陸続きで、しかも酷寒ではない時期
に︵おそらく、地軸が現在の位置ではなく、たとえば、赤道が北極と南極を結ぶような状態のとき︶、 ユーラシア大陸に
住む人類が、食べものを求めて移住したのではなかろうかと推定される。
このアメリカ・インディアンは、ここに生活の根をおろし、文化を築いていった。
しかし、十五世紀末、コロンブスのアメリカ大陸発見以来、アメリカは、ヨーロッパ諸国の植民地として築かれた。ヨ
ーロッパで勢力をふるった国が、アメリカ大陸にも進出し、ここでもヨーロッパ諸国民同士で争い、勝利をえた国が自国
民を大量に導き入れた。そして、アメリカで支配的であった国民は、ヨーロッパにおける勢力の盛衰と共に盛衰し、運命
を共にした。そして、十七世紀以降、イギリスの興隆と共に、イギリス系移民が勢力を占めるようになった。
こうした中で、イギリス系以外のヨーロッパ人移民も少なくなかったし、黒人、アジア系移民、さらに戦争に敗れて土
地を奪われ、故郷に止まっているメキシコ人、さらに、ヨーロッパ諸国やロシアから移住してきたユダヤ人など、アメリ
カは、移民とその子孫による人種の博覧会の観を呈してきたし、今もアメリカ社会が多人種社会である点に変りはない。
移民が見られはじめた当時のアメリカにおいて、アメリカ・インディアンの人口は、およそ百万といわれているが、そ
174
(174)
2
アメリカ合衆国の人口政策
第1表 合衆国の人ロの推移,1790∼1950年
口
1850,6。
1860.6.
1870.6.
1880.6.
1890.6.
1900.6.
1920.1.
1930.4.
1940.4.
1950.4。
864,746
1,716,003
1,681,828
1,788,006
1,749,462
1,788,006
1,749,462
1,788,006
1,749,462
2,992,747
2,940,042
3,022,387
2,969,640
3,022,387
2,969,640
3,022,387
2,969,640
’3,022,387
2,969,640
3,022,387
2,969,834
3,022,387
2,969,565
3,022,387
2,969,451
3,022,387
2,977,128
3,022,387 2,977,128
3,022,387
2,974,726
資料:U.S. Bureau of the Census,
Washington D. C.,1956, p.5.
175
5,308,483
7,239,831
9,638,453
12,866,020
17,069,453
23,191,876
31,443,321
39,818,449
50,155,783
62,947,714
75,994,575
91,972,266
105,710,620
122,775,046
131,669,275
150,697,361
人
釧百分率
1,379,269
1,931,398
2,398,572
3,227,567
4,203,433
6,122,423
8,251,445
8,375,128
10,337,334
12,791,931
13,046,861
15,977,691
13,738,354
17,064,426
8,894,229
19,028,086
Statistical /lbstrac彦 げ the こfnited s’α≠θε9
1
4
1
5
7
93
62
62
02
52
72
014
9
1
5
5
5
6
6
5
0
1
36
33
33
32
33
16
1840.6.
888,811
3,929,214
増
1830.6.
864,746
加
561
694
916
−61
952
056
4
43
57
78
10
31
24
12
36
13
42
1
1820.8.
888,811
人 数
鰯鰯恥狸謝膨鵬”町””鵬躍鰯励珊肥
1810.8.
水
陸 地
傷瓜
a&
a寓
a5
島Z5
ZZ
◎5
乳5554
2
2鴫3
3亀3
3
5島5
5
1800.8.
246711111111511
1790.8.
計
人
地方ル
平イり
陸ーマ当
面積(平方マイル)
調 査
年月 日
(175)
アメリカ合衆国の人口政策
こに、一九〇〇年以降だけでも、二千万人の外国人が移住し、その子孫が増加したのである。たとえば、二十世紀の最初
の一〇年間の人口増加に占める移民の率は、約四〇%であったし、一九六〇年代においても、人口増加の約一六%は、移
民によるものであった。
まず、一七九〇年以降のアメリカの人口の推移をみることにしよう。
十九世紀はじめ、T.R.マルサスは、人口の幾何級数的増加傾向の例証を、アメリカに求めているが、それをほぼ裏
書きするように、第1表は、人口の激増を示している。年平均三・五%前後の増加率で、まさに、二十五年ごとに倍増す
る勢いであった。
だが、こうした人口の激増は、移民による比重が大きいことが明らかで、マルサスの例証は妥当ではない。しかし、た
とえ移民の比重が大きかったにしろ、アメリカの人口が激増しつづけ、人口増加を規制する社会的要因は、ほとんどなか
ったことは否定できない。大量に移住してきた人口は、かなり高い出生率で次の世代の人口を膨張させた。
アメリカの人口総数の推移は、第1表から知ることが出来るが、そのうち移民数と移民の子孫の人口数を調査すること
は、ほとんど不可能である。というのは、移民の記録は古くからなかったわけではないが、これらは不正確で、しかも黒
人を奴隷として連れてきたことが例示しているように、密入国の人口も少なくなかったからである。
黒人奴隷がはじめてバージニアに連れてこられたのは、一六一九年のことであると伝えられているが、この年から十九
世紀初頭まで連れこまれたアフリカの奴隷は・三七∼四〇万人と推測されてい弔その後・奴隷の士冗買は禁止されてアフ
リカから連れてくることは法律上はなくなったが、密入国させられたものもあったと思われる。
176
(176)
アメリカ合衆国の人口政策
第2表 大陸別移民数,1819∼1954年(単位 千人)
8
1821∼1830
143
99
12
1831∼1840
599
496
33
1841∼1850
1,713
1,598
62
1851∼1860
2,598
2,453
75
41
1861∼1870
2,315
2, 065
167
U5
1871∼1880
2,812
2,272
404
1881∼1890
4,737
427
3,559
39
鯉⋮
362
1911∼1920
5,736
4,377
1,144
1921∼1930
4,107
2,478
1,517
1931∼1940
528
348
160
1941∼1950
1,035
622
355
1951∼1954
850
518
282
10
7 8 ρ0 2 7 4
8,136
c
⋮⋮53
8,795
38
20
71
@⋮ ⋮ ⋮
1901∼1910
陸、1
アジア諸国からの移民も多
Q銘71脳鵬971532大3
@88
1891∼1900
47
5,038
太平洋
アフリカ
諸島
− ⋮
8
オーストラ
リアとニュ
ージーラン
− ρ0 1 1 1
1819∼1820
アジア
V312 12821
42
間、ヨーロッパを中心に、大量の
33,764
ツノ、
アメリカ
ド
40,173
全 期 間
(1819∼1954年)
︻D り0
ヨーロ
ββ
間
期
合計
資料:C.Taeuber I. B. Taeuber, The Changing Population of the United States,
New York 1958. p.53.
(177)
黒人の奴隷移民が禁止される
と、次に、世界諸国からの移民が
歓迎されるようになる。特に、 一
八四〇年代からおよそ一世紀の
移民がみられた。他に、アメリカ
かった。
特に多かったのはヨーロッパか
らの移民であるが、]八一九∼一
九五四年までの国別移民数では、
ドイツ︵六五〇万人︶、イタリア
︵四八二万人︶、アイルランド︵四
六四万入︶、イギリス ︵四四六万
人︶、 オーストリー・ハンガリー
︵四一=万人︶、 ロシア︵三三四
177
アメリカ合衆国の人口政策
万人︶、デンマーク、ノールウェイ、スウェーデン︵二四一万人︶などがめだつ。
ト 唱 − ︵2︶
移民統計で注意しなければならない点は、入移民だけではなく、出移民もあったということである。アメリカの場合、
入移民が多く、出移民が少なかったことは言うまでもないが、それでも出移民の数は無視できるような程度ではない。た
とえば、一九〇七∼五五年の入移民は、一、五〇七万人であるのに対して、出移民は四七七万人となっており、そして、
この期間の社会的純増は、一、〇三〇万人となっている。特に不況に見まわれた一九三一∼三五年は、入移民二二万に対
︵3︶
し、出移民は三二万で、およそ一〇万人の減となっている。
このように、特定の一時期を除くと、アメリカの人口増加に占める移民のウェイトは、きわめて大きく、アメリカの人
口問題と人口政策は、移民問題と、その移民が定着するまでの国内移動を焦点としてきた感がある。そして、多くの国民
がそうであるように、アメリカの人口専門家も、自国の尺度で他国を見る傾向があった。そのため、国際的人口移動を焦
W・S・タムソン︵芝9罠Φ昌ω・↓げo§噂ωoPHG。G。刈∼HO刈ω︶は、その代表的論客の一人であったであろう。
点として世界の人口問題を扱い、国際的人口移動の源泉になる人口過剰を抑制しようとする発想で人口対策を考えた。
︵4︶
そうした中で、異色と思われる人口政策論を説いたのは、F・W・ノートスタイン︵句脱拶口閃 ぐ﹃°ΣO梓OωけO一旨︶であった。
一九四四年、彼は、 ﹁人口重圧地域に関する政策問題﹂と題する論稿をまとめ、社会の近代化が人口を抑制するのであ
って、人口抑制が近代化をもたらすと考えてはならないと戒め、迂遠であろうとも、過渡的人口増加を恐れず、社会の近
︵5︶
代化のための重点政策を遂行すべきだと説いた。ノートスタインのこの説は、第二次大戦後において注目され、アメリカ
の後進国援助の際の人口政策に、大きな影響を与えたといわれる。
178
(178)
アメリカ合衆国の人ロ政策
こうして、アメリカの人口政策の焦点は移民問題から、後進国開発と人口問題に移っていった。
第二次大戦後のアメリカの人口論議
第二次世界大戦が終了してみると、世界の地図は大きく変り、自由主義陣営のリーダーはアメリカとなり、共産主義陣
営はソ連を中心として東欧、中国などに拡大されつつあった。
アメリカは、自由主義陣営の安定と拡大のために、経済開発を急ぎ、そのために、安直で効果の大きい方策を考えた。
その具体的なあらわれが、DDTを先頭とする医学、衛生の援助であり、それに加えて、食糧や技術援助であった。だ
が、その結果、死亡率の激減によって、人口は爆発的な増加を示すようになった。アジア、アフリカ、ラテン・アメリカ
の人口増加は、史上、未曽有の規模で膨張し、自由主義陣営の盟主であることを自任していたアメリカをおどろかせた。
多くの経済投資は、人口を増加させたにすぎなかった。こうした人口激増が、貧困を生み出し、その貧困が、自由主義
陣営から共産主義陣営へと走らせる可能性がある、と警鐘を鳴らすものもいた。人口危機が深刻に受けとめられ、その対
策の急務が訴えられた。
けれども、アメリカ国内には、いま一つの人口問題をかかえていた。有色人種、とりわけ黒人問題である。アメリカに
住む有色人種は、有色人同士で住む傾向がある。黒人もまた、その例外ではない。白人と黒人は、居住地域と職業を、ほ
ぼ異にした中で﹁協調﹂している。きれいな頭脳的仕事を白人が受け持ち、人の嫌がる肉体労働は、主として黒人が受け
持つという﹁分業﹂である。特に、こうした規定が明文化しているわけではなく、黒人の弁護士や頭脳労働者もいる。し
(179)
179
3
アメリカ合衆国の人口政策
かし、不文律として、人種的差別が厳存し、その中で﹁協調﹂がある。黄色人種は、概して、白人と黒人の中間領域の仕
事、たとえば、洗濯屋、庭師、ガソリン。スタンド。マンなどがめだつ。
こうした中で、アメリカの人口統計は、白人と非白人の統計を区別して明確にしてつくられている。それによると、白
人の出生率・死亡率は、ともに非白人よりも低く、人口増加率も小さい。もし、このまま推移するなら、現在、総人口の
一割ほどの非白人人口は、高い出生率によって、やがて白人と同数になり、ついには、白人を上まわる人口になる可能性
があるかもしれない。そこで、白人は、アメリカの国内の有色人種の出生率を、せめて白人並みに抑制したいという潜在
的願望を持っていると、予想されてもいる。
国際的にみて、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの人口激増がみられるが、そのほとんど大部分は有色人種であ
る。その抑制に取り組まねばならないという使命観は、同時に、国内の有色人種の人口激増を抑制しなければならないと
いう発想に連動したかどうかは判明しない。なぜなら、アメリカ国内で、公式の席上、有色人種問題を口にすることはタ
ブーだからである。こうして、国際的人口政策は、国内の人口政策へと飛び火していった感がある。
アメリカは、移民の歴史で明らかなように、主としてヨーロッパσ人口過剰を緩和させる役割をになわされてきた。率
直に表現するなら、アメリカは、全世界から、人口過少国として認識され、社会増であれ自然増であれ、人口増加はアメ
リカの経済、社会を発展させるという暗黙の前提があった。したがって、アメリカの自然増加率は、ヨーロッパ諸国のそ
れよりも高かったものと予想されるし、こうした傾向は、第二次大戦後においても変りはなかった。
第3表は、かつてアメリカに多数の移民を送りこんだヨーロッパ諸国の出生率を、アメリカのそれと比較したものであ
180
(180)
アメリカ合衆国の人口政策
の出生率(%)
名
16.9
16.1
13.0
17.0
21.1
18.4
22.5
21.4
18.3
15.9
16.7
15.0
ハンガリー
19. 9
21.1
アンマーク
21.6
17.9
ノールウェイ
20.8
18.7
スウェーデン
19.0
15.5
イ 一
束 イ ァ イ オ
ドタルギス
ン リ
イ リ ラ リ ト
ツ ア ド ス 一
24.5
資料:United Nations, Z)emographic
Yearboole 1962. New York 1962.
pp.479, 481.
るが、いずれも、アメリカよりも低いことを示して
いる。アメリカに、人口抑制の動きがなかったわけ
ではないが、ヨーロッパ諸国と比較して、比較的高
い出生水準を受けいれる余地があるものと判断され
てきたようである。
こうして、人口増加問題を、さほど深刻に受けと
めてきたとは思われないアメリカで、人口問題がク
ローズ・アップされてきた。その直接の動機となっ
たものは、後進国にみられる人口激増であろうが、
もともと、アメリカには、モンロー主義でみられる
アメリカ国内では、第二次大戦後から、後進国の人口激増傾向を﹁人口爆弾﹂もしくは﹁人口爆発﹂と呼んでいた。
アメリカ国内の人口抑制で、まず、衝撃的に出現したのは、ZPG運動である。
な
い
O
加えて、国内の有色人種の人口抑制を、もたらそうとする動機もかくさ
れ て い た か も しれ
問題がさほど深刻だとは思っていなかったにもかかわらず、みずから範を
と い う 動 機 も あ っ た ので
示
そ
う あ
ろ
う
。
それに
の復興援助計画と、後進国開発援助となってあらわれたが、宗教的伝道 者 がそ
う
で
あ
る
よ
う
に
、
アメリカは、自国の人口
孤立主義の伝統があると同時に、世界十字軍的な発想とが共存している、
と考えられよう。後者の発想は、第二次大戦後
それが一転して、アメリカの人口も抑制しようという動きに変った。
国
23.4
アメリカ
西ドイツ
1950∼54年
1945∼49年
(181)
181
第3表 アメリカを中心とする主要諸国
アメリカ合衆国の入ロ政策
﹁人口爆弾﹂という用語は、一九五四年、ヒュi・ムア財団︵↓冨=ロ讐竃oo﹃閃ロロ山︶によって初めて用いられたとい
うが、以来、人口激増傾向が憂いられ、さまざまな著書やパンフレットが公刊されていた。こうした状況の中で、スタン
フォード大学の生物学教授工iリック︵℃鋤⊆一 幻゜国Wげ﹁=O﹃︶は、 ﹃人口爆弾﹂を公刊した。初版は、一九六八年であるが、
この本はベスト・セラーになり、一九七一年には改訂版を出した。アメリカのテレビも、この問題をとりあげ、アメリカ
国民の人口問題への関心をたかめようとした。
論は、人口は、少なければ少ないほどよいという発想に通じ、この論理は、人口は多ければ多いほどよいというポピュi
そうなると、ZPGは、最大限がゼロで、それ以下となることは少しもかまわないという論理構成となる。その基礎理
思われるし、そうなると、ZPGは、その理論を破碇させることになろう。
に低く抑えた場合、人口の老齢化がみられ、それは、やがて高まる死亡率に応ずる出生率の上昇をも不可能とするように
出生率を死亡率の水準にするということは、出生水準を従来の約三分の一にすることとなる。仮に、出生水準をこのよう
ろうか。そうなると、自然増加率は、確かにゼロとなり、ZPGがすぐに達成される。しかし死亡率の低いアメリカで、
だ。なぜなら、その意味が不明でもあったからである。人ロゼロ成長とは、出生率と死亡率を同じ水準にせよというのだ
だが、アメリカの人口専門家たちは、人ロゼロ成長には賛成しながらも、このZPG運動には、冷やかであったよう
設けられ、一時、数万の会員を擁する組織にまで高まった。
の行動に移そうということを訴えたもので、このシンプルな発想が、アメリカ人大衆に受けたようである。ZPG本部が
エーリックのこの著書は、ZPG、つまりN臼o勺8巳oまロ08類匹︵人ロゼロ成長︶と直結させ、ただちに人口抑制
182
(182)
アメリカ合衆国の人口政策
レーショニズムと同じような性格の極論となろう。
アメリカの人口専門家は、これらの極論に対して冷やかであった。人口は、社会、経済、政治、教育と深くかかわりあ
いを持ち、連動しているのであるから、単純な、自然科学的発想による論理や推定で、発言すべきではないということで
あったものと思われる。後に、 ﹁人口増加とアメリカの将来委員会﹂がっくられ、報告書の中で、これを戒めていること
からみても、アメリカの人口研究者の問でのZPG運動に対する評価が推測できよう。
しかし、たとえそうではあっても、一方において、アジア、アフリカ、ラテンア・メリカの人口激増をかかえ、他方に
おいて、ZPG運動などの人口抑制のための直接行動という大衆運動にはさまれて、アメリカは、世界とアメリカの人口
政策の決定をせまられた。
こうして、有史以来はじめて、人口抑制をねらいとするアメリカの人口政策がつくられることとなった。
アメリカの将来委員会の人口構想
一九六九年七月十八日、ニクソン大統領は、﹃人口教書︵勺おω践Φ昌鉱巴・冨Φω・。騨oq①8℃ob巳卑δづ︶﹂を発表した。世界の
人口激増の中で、アメリカは、どのような選択をなすべきかを説いたものである。
﹁一八三〇年、この地上には一〇億の人々がいた。一九三〇年には、二〇億、一九六〇年には三〇億となった。今日、
︵6︶
世界の人口は三五億人となっている﹂とのべた﹃教書﹂は、世界の人口の加速化の傾向を指摘し、一〇億人つつふえる時
間は、三〇年、一五年、一〇年、五年と短縮されつつある、と訴えている。
(183)
183
4
アメリカ合衆国の人口政策
﹁今日、世界で人口が激増している国は、開発途上国である。これらの地域では史上未曽有の高い自然増加率となって
いる。出生率はいぜんとして高いのに、死亡牽は激減し、ラテン・アメリカ、アジアおよびアフリカの多くの国々では、
今、一世紀前の一〇倍の速度で増加している。現在の率のままなら、西暦二〇〇〇年以前に、多くの国々で人口は倍増
︵7︶
し、ある国々では三倍にさえなるかもしれない。﹂﹁国連、その専門機関およびその他の国際団体は、世界の人口増加に対
して指導権をとるべきであるというのが、われわれの確信である。合衆国は、それらのプログラムに全面的に協力するで
あろ鴇雑﹂﹁現在のわれわれの社会問題の多くは・アメリカの合が一億から二億になるのに・わずか五〇年しかかかぞ
千万人の赤ちゃんが生まれてきている。﹂
いないという事実に関連しているかもしれない、と私は信ずる。事実、 一九四五年以降だけでも、この国には、およそ九
︵9︶
その上、さらに一億の人口が加わろうとする勢いであるが、その一億は、どの都市に住み、どの家に住もうというのか。
天然資源や環境の質はどうか。教育や雇用は準備できているのか。さらに、輸送機関、保健、公共施設はどうかi。
ニクソン大統領は、こうした疑問を提示した後、 ﹁人口増加とアメリカの将来委員会﹂を設置し、次の三点についての
調査と勧告をすることを提案した。
1 現在と西暦二千年にいたる間に予想される人口増加、国内移動および関連する人口学的発展の経過
2 予想される人口増加にともなって必要となる経済の公的部門の資源
︵10︶
3 人口増加が、連邦、州および地方政府に影響を与えてゆく過程
そして、しめくくりとして、ニクソン大統領は、次のように記している。
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アメリカ合衆国の人口政策
今世紀の残る三分の一の人類の運命に対する最も深刻な挑戦の一つは、人口の増加であろう。西暦二千年において、
この挑戦に対する人間の反応が、希望に満ちたものになるのか、絶望の淵に立たされたものになるのかは、今日、われ
われが何をなすかに、大きくかかっている。もしもわれわれが、適切な方法で活動をはじめ、そして、この問題のため
に多大な注意と精力を傾け続けたとするなら、その結果、人類は、長い文明の前進の中で幾多の挑戦にうちかってきた
ように、この挑戦にうちかつことができよう。
将来の子孫が、現代の記録を評価するとき、彼らの判断の中で最も璽大な要因となっているものの一つは、われわれ
が人口増加に対する反応で示した手段であろう。後に来るものたちがー彼らの眼は、地の涯をこえたところにあるか
もしれないけれどもー目分の住む遊星に誇りをもち、過去においてここに住んだ人々に感謝の気持をもち、そして確
信を持って未来に生きつづけるようにするために、行動をおこそうではない翰四
この﹃人口教書﹄にもとついて、 ﹁人口増加とアメリカの将来委員会﹂が設置された。議長は、J・D・ロックフェラ
i三世が就任し、副議長二名、委員ニエ名、他に、研究スタッフ、補助スタッフなど、およそ五〇名によって動きはじめ
た。
それからおよそ二年後の一九七一年三月十六日、 ﹃人口増加とアメリカの将来﹂と題する中間報告が、委員会の手によ
って公表された。
アメリカの議会は、前年の一九七〇年、 コ九七〇年の家族計画サービスおよび人口研究法﹂を上下両院の圧倒的多数
の賛成をえて可決し、この年の十二月の大統領の署名によって発動していた。これは﹁欲する子供の出生を奨励し、欲し
(185)
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アメリカ合衆国の人口政策
ない妊娠の防止のため夫婦に援助す亟ことをねらいにしていたが、この方針は、中間報告においても堅持されていた。
︵13︶
そして、 ﹁最善の人口政策は、十分に知識を与えられた個人がなす選択が、一般福祉を増進するというものであろう﹂と
述べている。
この中間報告のねらいは、平均二児制と平均三児制とを比較して、その差が時間の経過と共に、いかに大きなものにな
るかを示し、その結果、アメリカの生活の質を落とさないためには、平均二児制によって、人口増加を食いとめねばなら
ないという点にある。
そのための政策上の戦略は、希望もせず、計画もしない出産を防止することにある。そして、個人の望む子供数と、社
会全体の福祉を合致させることである。一九六五年の調査によれば、完全に計画出産に成功した親は、わずか四分の一に
すぎず、一九六〇∼六五年の全出生のおよそ二〇%が望まれない出生であったと報告されている。もしも、望まれない出
生を完全に抑制することができれば、アメリカの人口増加は、ほぼゼロに近いものとなる、と考えた。
このような趣旨の簡潔な中間報告が出され、専門家や世論の批判を十分に吟味した上で、やがて一九七二年三月二十七
日、本報告書が公表された。
そのねらいと結論は、委員会議長ロックフェラ⊥二世が、次のように答申していることからも、明白に理解できよう。
私たちは、二年間に及ぶ集中的な努力の結果、次の結論に達しました。長期的に見た場合、わが国の人口のこれ以上
の増加によって、なんらの実質的利益をえられず、むしろ人口を徐々に安定化することが、わが国のかかえている諸問
題を解決する上で、はるかに有益でありましょう。私たちはまた経済的見地からみて、継続的な人口増加をよしとする
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アメリカ合衆国の人口政策
︵14︶
何の説得的論拠も見い出せませんでした。
この報告書およびそれが勧告しているプログラムの一つの目的は、アメリカ人が、再生産の世代交替水準を歓迎し、
たとえば、第十二章の﹁人口の安定化﹂において、次のように記している。
ル以下に下がることも覚悟し、さらに歓迎するような心がまえがあって、はじめて静止人口が達成できると考えている。
いたりしてはならないと戒め、それと同時に、そうした世代交替のレベルまで引き下げるため、過渡期においては、レベ
は世代交替レベルより大きくなったり、小さくなったりすることがあるが、長期的に見ることが大切で、小さな活動で驚
という言葉を使ってはいないが、純再生産率を一とするということである。そして、そこに至る過程の中で、現実の人口
を死亡卒の水準に引き下げるZPGではなく、世代交替レベルの出生率である。換言するならば、委員会は、純再生産率
委員会の目標とするところは、日本的な表現で言うなら、静止人口を達成することにあると思われる。それは、出生率
うえで助けにすらならない﹂と主張する。
︵15︶
のどちらであれ、それによって包摂されるような問題ではない。どちらの極論も適切でないばかりか問題を明らかにする
ど”または“より大きいほどよい”とするものであり、他方は”危機はすぐ目の前に迫っている”とするものであるー
対応が必要である。この問題は簡単なものではなく、一般に流布されている両極のスローガンー一方は、 “より多いほ
する両極論を排除する。たとえば、 ﹁”人口問題”は長期にわたるものであるから、それに対してはやはり長期にわたる
った。したがって、人口増加をうながそうすとるポピュレーショニズムにも、危機をあおって、人口減少にみちびこうと
このように、アメリカの人口政策は、徐々に人口を安定化させる︵oq冨9巴の冨ぴ監鑓二80ho霞喝8E巴8︶ことにあ
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アメリカ合衆国の人口政策
さらに一定期間、世代交替以下の再生産になることを歓迎するような心構えを持っようにすることである。人口の安定
化をなるべく早めに達成するためには、年間の出生力が世代交替以下になる時期を必要とするという事実を、国民は直
視しなければならない。人口安定化への過渡期には、出産を延期することで、年間の出生率を世代交替の水準以下にす
ヘ ヘ ヘ へ
ることができよう。ただし、一生を通じてみれば、両親の出産は世代交替水準に達するものではあるが。
長期展望で将来を見ると、安定した人口とは、平均したゼロ成長を意味し、人口の大きさが縮少する時もあろうとい
うことを理解すべきである。実際、ゼロ成長は、現実には二っの方向への変動をもって、はじめて達成されうる。ある
︵16︶
国々が最近とったことだが、入口減退が遠い先にほの見えた時、あわてふためいて反動にでたりしないよう自戒すべき
である。
このような論旨の報告書は、入口をめぐる諸問題を掘り下げ、さまざまな疑問を提起しているという点では、見事な体
系となっている。以下、章ごとに、その内容を紹介してみよう。
第一章は、 ﹁人口問題の概観﹂を扱ったもので、人口問題が微妙かつ複雑であることを訴え、二つの極論を抑えなが
ら、アメリカの生活における基本的価値と完全に調和する人口政策の目標を追求しようとしている。
第二章の﹁人口増加﹂は、アメリカの人口増加の歴史をたどりながら、一九七一年よりみられる﹁過少出産﹂の現象に
ふれている。しかし、ベビー・ブーム期に生まれたものが、近く再生産年齢に達するため、アメリカの人口増加が、今後
も続くことはたしかで、その時、平均して子供を二人にするか、三人にするかによって、将来人口は大きく変ってくる。
一家族で子供が平均一人ちがうだけで、総人口は、三〇年後には五、一〇〇万、百年後には六億五、○○○万人もちがっ
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てくる、と指摘する。
第三章は﹁人口分布﹂を扱ったもので、大都市人口は膨張傾向があり、アメリカにおいて、人口増加と同じくらい分布
問題は重大であるとし、第四章﹁経済﹂は、人口増加率の減少によってもたらされる経済的利益は大きく、平均子供三人
より、二人の方が、経済指標の点でみるかぎり声いちじるしく豊かな生活になると説いている。第五章﹁資源と環境﹂
は、鉱物、エネルギi、水などの資源と人口増加との関連を追求し、人口増加がゆるやかであれば、緊急性から解放され
て選択の余地が大きく生まれてくる、と説いている。
第六章﹁政府﹂、第七章﹁社会的局面﹂は、人口増加が与えてきた政治的・社会的諸影響を観察し、その問題点を描き
出している。
第八章﹁人口と公共政策﹂、第九章﹁教育﹂、第十章﹁婦人と子供の地位﹂、第十一章﹁人間の生殖﹂は、そうした人口
の影響が、政策に対してもつ意味を追求したものである。
﹁最も広い意味において、われわれが勧告する人口政策の目標は、個人、家族および社会が念願している価値が実現さ
れるような社会状況をつくり、女性および不利な立場にかかれている人種的少数派の人々に対して社会的・経済的に平等
︵17︶
な機会を与えること、そして生活の質を改善する可能性を高めることにある﹂とし、そのための人口教育を、まず訴えて
いる。これには、親になるための教育から性教育までを含み、十歳代の妊娠や私生児の防止、性別による差別の解消、望
まない妊娠を防ぐための避妊の普及などを訴え、さらに、委員会内部において意見のある人工妊娠中絶について次のよう
に勧告し、提案している。
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人工妊娠中絶を出生調節の主な手段と考えてはならないという警告をしながらも、委員会は、現在、人工妊娠中絶を
制限している州法をニューヨーク州法の考え方にそって自由化を行ない、中絶が医学的に安全な状況で、公式に認可さ
れた医師によって行なわれるよう勧告する。
この政策を実行するにあたって、本委員会は、次のことを勧告する。
連邦政府、州政府および地方行政府は、中絶の自由化にともない、州内の中絶業務を支援するための基金を提供する
こと。
︵18︶
人工妊娠中絶は公、私両方の総合健康保険給付に、明確に組みこまれるようにすること。
こうして、受胎調節の研究の奨励と家族計画の普及とを提案している。
第十二章﹁人口の安定化﹂は、人口が無限に増えてはならないことを認識し、人口安定化の利点を理解して、これを歓
迎し、この計画を推進することを訴えている。
第十三章﹁移民﹂と、第十四章﹁入口分布と移住に関する政策﹂は、移民は増加さるべきではないこと、国内の人口移
動も、一定のガイド・ラインを設定することを提案している。
第十五章は﹁人口に関する統計と研究﹂、第十六章は﹁機構の変革﹂が収められており、人口研究の奨励と、国立人口
科学研究所の設立の勧告がめだっている。
このように、 ﹁人口増加とアメリカの将来委員会﹂の報告書は、広汎かつ深い洞察によつて出来上っている。これま
で、スウェーデン、イギリスなどの諸国でも、人口政策の指針を示す﹁白書﹂が提出されたが、本報告書は、それらと共
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に注目すべきもので、これからのアメリカの人口政策を決定する上で重大な意味をもつものとなろう。
本書の趣旨については、委員会内部においてさえ異見があり、報告書は、正直に、個人意見書を巻末に掲載している。
中絶に対する異見や、本報告書が前提にしているアメリカの高い生活水準の維持の妥当性にたいするものが目だっが、報
告書の大意は、委員会の多数の意見のみならず、アメリカの国民の多数によっても支持されているとみてよいであろう。
これまで、人口増加を歓迎してきた歴史的伝統を持つアメリカが、安定した生活を望み、そのための安定した人口政策
を打ち出し、一時的には、人口減退もやむをえないという態度を、はっきりと打ち出したことは注目に値しよう。人口政
策の目標となっているものは、いわゆる静止人口で、入口増加でも、人口減少でもなく、純再生産率一をめざす静止人口
であろう。そして、そこに至るための過渡期として、入口減少も止むをえないし、その覚悟なしには、安定した人口は達
成されないと考えたのである。
おそらく、アメリカの指導者の中には、十字軍的な発想で、人口静止もしくは減少にみずから行動に示すから、世界の
入々、とりわけ、人口激増に苦しむアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの人々はついてきてほしい、という自負心があ
るのかもしれないが、はたしてその心情が理解されるかどうか。
こうして、アメリカの人口は、従来の増加一途の道から、静止もしくは減少に向かって、カジを変えたのである。一九
七三年のアメリカの純再生産率が一を割ったと伝えられているのも、アメリカの人口政策の転換に、国民が、いち早く反
応を示したのかもしれない。
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世界人口会議とアメリカの立場
一九七四年八月、ルーマニアの首都ブカレストで、国連主催の世界人口会議が開催された。
ここでアメリカは、イギリス、オランダ、スウェーデン、タイ、インドネシア、日本などの国々と共に、人ロゼロ成長
という入口静止を提案したが、ラテン・アメリカ、アフリカの一部、さらに中国によって反対され、世界の人口行動計画
は、坐折し、最終的にはどのようにでも解釈できる案が採択された。
はじめ、アメリカ代表の考えていたものは、西暦二〇〇〇年までに、一家族平均ご人という世代交替の置き換え出産水
準に達することを目標に行動しようというものであった。そして、このままでは、西暦二〇〇〇年に六四億となる世界人
口を五十九億に、二〇五〇年に=○億に達すると推定される人口を八二億に抑えて、世界の食糧の自給を行おうとする
ことにあった。
アメリカは、みずから行いはじめた静止人口の人口政策を、他の先進国もすみやかに見習ってついてきてほしいし、開
発途上国も、世紀末までには達成してほしいとねがったのであろう。殉教者が、みずから身を投げ出して教義のために犠
牲になるように、まだそれほど大きな問題をかかえているとは思われないアメリカは、みずから範を示したのである。
アメリカの広大なフロンティアや、豊富な資源、さらに、浪費と映ずる消費生活をみると、人口抑制を訴える必要性
は、さほど切実であるとは思われないが、みずから殉教者となろうという意識と伝統は、まだ消えてはいないのであろ
、つ。
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デメリカ合衆国の人口政策
「界人口会議で、アメリカの人口行動案は敗れたが、 アメリカは、おそらく、人口静止への行動計画をみずから実行
M信昌山ρ⊆胃富ユざト⊃卜⊃”Oo8び魯HO潰︶”貯ミミミ軌o蕊↓詳oこ匙器匙ぎミ勘㌦⑦ミ象、ミ沁ミミミ騰・。伍・び団旨・匂・ω唱Φコαq一㊦﹁山づユ
︵5︶団゜≦°z°塁・旦.ぎげぎ・。串。冒凶島・一き茸。︾§・・。;婁昆。や質一ロ什δロ℃﹃①ωω¢戦①、︵雷Φζまp昌評竃①ヨ。﹃一国一
卜⊃一∼悼Q。に、掲載されている。
︵4︶ タムソンの追悼と業績については、Ω旨Φ<°図一ωΦ目によって書かれ、§ミミ㍉。§N蕊蹴鴨聴u<。一﹄ρZ。°ド一卿づ自四﹃嘱Hり置も戸
︵3︶ 、尊帖α二燭゜α昏゜
︵2︶ N守軌駄こ娼.α①’
注︵1︶ O°↓国o雌ぴ興雪αHじd°目pΦロσΦび↓譜G趣§晦き鴫、oミミ馬§ミミ笥qミ譜織勲亀∼鳴吻・2①芝嘱。﹁閃お㎝c。・7お・
し、世界の範となろうとするにちがいあるまい。
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、袋ミ、“.芝餌ωゴ一コ瞬けO昌一〇刈目゜b°邸oQ°
︵31︶ N魎篤職こ℃°卜⊃り゜
Zo≦︾巳oユ8コζげ轟蔓這刈卜。°邦訳﹃人口の危機と対策﹄ドメス出版、昭和四十八年、八ページ。
︵14︶ ミミミき§黛隷風ミ鳴﹄ミミ帖昏蟄§、ミ袋ミ辱↓ミ肉愚ミ妹駄、隷鳴Goミ§ぴ笥o蕊o遷、。㌧ミ㍉黛篭。遷O、o§ミ 匙ミ風導鳴
﹄§笥、篤ら匙蕊 、ミ、ミ、笥.
黛醤織 帖隷鴨 \F§鳴、帖ら織蕊
x謡寒、ミ帖§肉鳴辱ミ、琶暮鳴、、題ミ“蕊咋寝遣職暮鳴 Go醤晦、題恥為oミ き鳴 Ooミミ詠亀o蕊 o§ ミミ、ミ皆こ Oミミ
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ドリ①O°国Φロユ昌けび矯℃O”O億一9臨O昌Oユω凶ωOO昌P旨一暮Φ①二℃・刈・
︵6︶、§ミミミ§謹・§ミミミ§°録ミ§謹・g墨§ミミ≧§尋鳴曇醤ミ導帖§、馬窺、亀、鳴吻こロ三・。・
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アメリカ合衆国の人口政策
Nミ3戸ピ 邦 訳 、 二 七 ペ ー ジ 。
Nミ30﹂㊤。。°邦訳、
二九〇∼一ページ。
二六六ページ。
194
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Nミ3戸這P 邦訳、 一九四ページ。
奪ミ”層゜ミ。。°邦訳、
18 A A A
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