Comments
Description
Transcript
故郷と色彩 - 大阪市立大学文学研究科・文学部
故郷と色彩 ―魯迅の『故郷』と太宰治の『津軽』における自と他― 李 瑞芳 大阪市立大学大学院文学研究科言語情報学専修 1 あいまいな都市と故郷 2003年の秋に二日にわたって行われた大阪市立大学文学研究科COE国際シンポジウム「都市 とフィクション」において、ゲスト・スピーカーとして招聘されたロンドン大学 SOAS 日本・ 韓国言語文化学科のスティーヴン・ドッド氏は、初日(9月30日)最後の報告者として、「あい まいな都市―梶井基次郎の作品における自己と他者」 というタイトルを冠した興味深い研究 報告を行った。中でも私の印象に強く残ったのは、次に引用する発言である。 いかにして人間の主観性が外界の環境、とりわけ都会の環境との接触をはかるか。多くの近代文学は この質問に向けられています。梶井の作品もこうした問題を反映しています。そこで、私が指摘した い最後のポイントは次のとおりです。内面に秘められた自己と外界で起こる事象との境界は明確だとは とても言えないのではないか、そういう可能性を梶井は見出そうとしていた、ということです。 (大阪 市立大学文学研究科COE国際シンポジウム報告書『都市とフィクション』、p. 158) ドッド氏は、上のように述べたあと、八百屋の店頭に並べられた色とりどりの果物を見て「何 か華やかな美しい音楽のアッレグロの流れ」が「あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まっ たという風に果物は並んでいる」と考えた梶井を引用して、 「語り手の想像力に外界の要素を変 形させるだけの力がある」ことを作家は示していると主張した。さらに氏は、 「裸の電燈が細長 い螺旋棒をきりきり眼の中へ差し込んでくる」と書いた梶井の「常識を越えた詩的ロジック」 に言及して、 「自己と他者の明確な境界線を破るということの効果」と、当時の文学が目指した こと、すなわち、 「独立した『外界』現実の輪郭を形作ったり変形したりする力を想像力という 内面に与え」ようとしたことについて述べ、梶井の作品はあらゆる方法で「この新しい境地を 表している」と論じた。ドッド氏の結論は次のとおりである。 『檸檬』の場合、この事実が、近代的でテクノロジーの発達した都市空間の媒体として働いていると いうことは、疑いの余地がないと私は考えます。(報告書『都市とフィクション』、p. 160) 人間の把握する世界がドッド氏のいわゆる「外界」と人間との相互作用によるものである以 上、 「想像力という内面」が「『外界』現実」の輪郭を形作ったり変形したりすることがあって 13 も、不思議ではないだろう。本論文では、都市ではなく故郷に焦点を当て、 「自己」の心境の変 化によって「外界」がどのように様相を変えるかを、また、 「外界」によって「自己」がどのよ うに影響されるかを、生きていた時代が梶井(1901-1932)とある程度重なる魯迅(1881-1936) と太宰治(1909-1948)の作品における、色彩語の使用を通して考えてみたいと思う。 魯迅にも太宰にも、故郷について書いた作品がある。魯迅の場合は雑誌『新青年』に掲載さ れた「故郷」(1921)であり、太宰の場合は小山書店の依頼を受けて書いた『津軽』 (1944)で ある。太宰が帰郷を扱った作品としては、ほかに、『八雲』に掲載された『帰去来』 (1942)と 『新潮』に掲載された『帰郷』 (1943)があるが、興味深い色彩表現を数多く含む作品として、 ここでは『津軽』を取り上げる。 2 魯迅の故郷と色彩 同じふるさとの空について、魯迅の『故郷』では、「苍黄的天底下」(蒼く黄ばんだ空の下) と「深蓝的天空中」(深い藍色の空に)という表現が使われている。「蒼く黄ばんだ空」は現実 の故郷の空であり、 「深い藍色の空」は記憶に残っている昔の故郷の空である。特定日時に見た 現実の空の色と、記憶に焼き付いている空の色が異なるのは、不思議でも奇妙でもない。むし ろ、それは当然とも言えることである。しかし、小説中の主人公は次のように述べている。 于是我自己解释说:故乡本也如此,——虽然没有进步,也未必犹如我所感的悲哀,这只是我自己的改 变罢了,因为我这次回乡,本没有什么好心绪。 もともと故郷はこんなふうなのだ――進歩もないかわりに、わたしが感じるような寂寥もありはしな い。そう感じるのは、自分の心境が変わっただけだ。なぜなら、今度の帰郷は決して楽しいものでは ないのだから。(竹内好 訳) ここには、 「あいまいな都市」ならぬ「あいまいな故郷」がある。空の変化は心境の変化と連動 しているのである。そのように考えると、作家による色彩語の使い方が新しい意味を帯びて見 えてくる。ドッド論説との接点も見えてくる。 2.1 現実風景の色彩 魯迅の故郷は、紹興酒の産地、紹興である。その紹興へ、小説中の「私」は 20 年ぶりに帰 った。 「故郷へ錦を飾る」ためではなく、没落した家を売り渡して故郷と別れるための帰郷だっ た。魯迅は、そのときの「私」の心情を表すのに、「苍黄的天底下」という表現を使っている。 (1) 从蓬隙向外一望,苍黄的天底下,远近横着几个萧索的荒村,没有一些活气。 (魯迅『故郷』) 苫の隙間から外を眺めると、蒼く黄ばんだ空の下に、遠く近く幾つも寂しそうな寒村が 横たわっていて、一点の活気もない。(増田渉 訳) 「苍」(日本語では「蒼」)は、現代中国語では、枯れた草の色を表すことが多い。昔は濃い 14 青色を表すときにも使われたが、現在では、多くの場合、くすんだ青色、生気のない青色を表 す文字として使われる。(1)の「苍」も同じ意味である。 (中国語には、 「苍白」 、 「苍黒」などの 言葉もある。前者は灰色がかった白、後者は灰色がかった黒の意味である。)日本語でも「古色 . 蒼然」と言う。この「蒼」が表す色も、晴天の青空とは異なる色であろう。 20 年ぶりの故郷は「蒼く黄ばんだ空の下」にあった。別れるために訪れる故郷を目の前にし 1 て、その空は虚しさを一層増したであろう。 2.2 幻想風景の色彩 久方ぶりに会った母は、引っ越しの話が終わると、「私」の少年時代の友達、閏土のことを 話す。それを聞くと、突然、幻想的な故郷が「私」の目に前に浮かんできた。 (2) 这时候,我的脑里忽然闪出一幅神异的图画来:深蓝的天空中挂着一轮金黄的圆月,下面是 海的沙地,都种着一望无际的碧绿的西瓜,其间有一个十一二岁的少年,项带银圈… その時、私の頭の中にはたちまち一枚の神秘な絵図がひらめいてきた、深い藍色の空にか かった一輪の黄金色のまんまるい月、下の方は海辺の砂浜で、そこには見わたす限り果て しない碧緑の西瓜、その間に一人の十一、二歳の少年がいる、首には銀の輪をかけ……(増 田渉 訳) この文では、「深蓝」(深い藍色)、「金黄」(黄金色)、「碧緑」、「銀」と、四つの色彩語が使 われている。このうち、まず注目したいのは、 「深蓝」である。中国語では、海や空の色は日本 語の「藍」に相当する「蓝」で表現する。深蓝的天空(深い藍色の空)は、昼の空ではなく、 穏やかで、落ち着いていて、綺麗な夜の空である。少し神秘的な空でもある。 「金黄」は、やわ らかい太陽の光や月の光などを表す時に使う。日本語では「黄金色」と言うが、中国語では「金 黄色」である。「碧绿」はきらきら輝いている様を表す。 文全体から得られるのは、「首に銀の輪をかけた」閏土が、神秘的な空の下で、幻想的な月 2 の光を浴びながら、無限に広がる、美しい西瓜の田園を見守っているという光景である。 2.3 記憶上の「閏土」の色 閏土との再開を心待ちにしている「私」は、はじめて閏土に会った場面を次のように書いて いる。 (幼かった「私」は閏土が来るのを指折り数えて待っていた。その閏土をはじめて見る場 面である。) (3) 他正在厨房里,紫色的圆脸,头戴一顶小毡帽,颈上套一个明晃晃的银项圈,… 彼はその時台所にいたが、紫色の丸顔で、頭には小さなフェルト帽をかぶり、首にはキラ キラ光った銀の首輪をかけていた。(増田渉 訳) 15 紫色は赤と青の混色によってできている色である。大きく分けると、赤紫と青紫の二つがあ る。日本語では、顔や唇或いは身体のどこかが紫色だと言うと、怒っている状態、腫れている 状態、寒さや恐怖のために顔色が変わっている状態など、マイナスの状態を表すことが多い。 中国語にも日本語と同じような使い方があるが、健康で丈夫な状態を表すプラスの使い方もこ の言語にはある。ただし、マイナスの使い方をするときは、ほとんど「暗い紫」や、 「黒い紫」 という言い方をし、プラスの使い方をするときは、「薄い紫色」、或いは、そのまま「紫色」と 言う傾向がある。 日本の江戸紫は青みがかった紫、京紫は赤みがかった紫である(福田邦夫 1988:216)。し かし、単に「紫」と言えば、日本では青紫であるかもしれない。顔や唇や身体に使う「紫」が それを示唆している。中国では、単に「紫」と言うと、赤紫である場合が多い。例文(3)の「紫 色」も赤紫である。 「紫色の丸顔」という表現は、海辺に住んでいて、日焼けしていて、健康的 3 な男の子の丸顔を想像させる。 2.4 幼馴染の「閏土」の現実の色 20 年ぶりに会った閏土は、すっかり面変わりしていた。 (4) 先前的紫色的圆脸,已经变作灰黄,而且加上了很深的皱纹;眼睛也像他父亲一样,周围都 肿得通红, (中略)那手也不是我所记得的红活圆实的手,却又粗又笨而且开裂,像是松树皮 了。 以前の紫色の丸顔は、もう灰黄色に変わり、そのうえ大変深い皺が加わっていた。眼も彼 (中略)その手も私の記憶している赤い の父親と同じように周囲が真赤に腫上がっていた。 ぴちぴちしたハチ切れそうな手ではなく、粗野で鈍重な、そしてひびのできた、まるで松 の木の皮のような手であった。 (増田渉 訳) 「灰黄」は灰色がかった黄色である。中国語では、枯れ草や砂にも使う表現だから、 「灰黄」 色の顔色というのは、元気のない、表情の暗い顔である。きわめて不健康な顔色である。 「周围都肿得通红」は、眼の周囲が真赤に腫れ上がってしまった様子を表現している。これ はずっと海の風に当たっている人の眼で、それもまた不健康な印象を与えている。( 「红」は、 もともと、太陽、炎、生命などと関連のある文脈において使用された文字であり、それ自身は マイナスの意味をほとんどもたない。 「腫れる」という意味を表すマイナスの言葉と一緒に使わ れると、連結全体がマイナスの意味になる。 ) 手も、「红活圆实的手」という語句が表す手、すなわち記憶上の「赤いぴちぴちしたハチ切 れそうな手」ではなく、 「松皮」のような手になっていた。昔の閏土の手は、生命力のあった手 であった。今は、 「ひびのできた、まるで松の木の皮のような手」である。20 年ぶりに見る閏 土は、とてつもなく変わっていた。 16 2.5 希望の色彩 母と甥を連れて船に乗り込むと、たそがれの中で、古い家も、故郷の山も水も消えてゆき、 鮮明だった昔の閏土の面影も、ぼんやりしてしまう。そこへ浮かんくるのが次の情景である。 (5) 我在朦胧中,眼前展开一片海边碧绿的沙地来,上面深蓝的天空中挂着一轮金黄的圆月。我 想:希望本是无所谓有,无所谓无的。这正如地上的路;其实地上本没有路,走的人多了, 也便成了路。 ぼんやりした気持ちになっている私の眼の前に、一きわ海辺の碧緑色の砂地が展開してき た。上空の深い藍色の天には一輪の黄金色の円い月がかかっていた。私は思った、希望と いうものはもともと、いわゆる有ともいえないし、いわゆる無ともいえないのだと。それ はちょうど地上の路のようなものだ、実際は地上にはもともと、路というものはなかった のを、歩く人が多くなって、そこが路になったのである。 (増田渉 訳) 希望の空の色は、前に述べた幻想の空の色と同じく、「深い藍色」である。その幻想的な風 景の中に、ほのぼの希望が芽生えていく展開になっている。それゆえ、故郷の空の色は「深い 藍色」なのである。 こうして、現実の風景と人間の色、および、幻想の、或いは記憶上の、風景と人間の色を脳 裏で交錯させながら、魯迅は故郷と別れていく。「色彩モンタージュ」という言葉があるなら、 4 それがぴったり当てはまるような演出である。 3 太宰治の故郷と色彩 『津軽』は紀行文であるから、魯迅の『故郷』のようなモンタージュ効果は期待しないが、 それでも興味深い色彩表現がここにはある。本節では、とくに紫色に注意しながら、周囲の色 についても考えてみたい。 3.1 昔の故郷の色彩 太宰治の故郷と言えるのは、本人が生まれた町=金木、生みの母よりも近しい存在だった叔 母のいた町=五所川原、中学校時代を過ごした青森市、および旧制弘前高等学校のあった弘前 市であろう。ひっくるめて言えば、津軽である。 金木と五所川原については、太宰の記憶に残る色は『津軽』の「序編」に記されていない。 記されているのは、青森と弘前の色である。青森では、登校する道に「朱で染めた橋」がかか っており、中学校の校舎は「しろいペンキ」で塗られていて、海岸づたいに家路を急ぐと「鼠 色」の大きい帆が眼の前を「よろよろととおって行く」こともあった。弟と二人で「赤い糸」 で結ばれた未来の妻について語っているときに、海峡を渡る連絡船が「黄色いあかり」をとも 17 して水平線から現れることもあった。弘前市については、 「陽春には桜花につつまれる」弘前城 と、 「白壁の天守閣」が読者の目を引く。 しかし、現実の色を見て、昔の故郷はこんなではなかったと太宰が魯迅のように嘆くことは ない。それどころか、次の小節で引用する文章では、太宰は岩木山の美しさを賛美している。 3.2 現実の故郷の色彩 生家に着いて兄たちへの挨拶も無事にすませた太宰は、翌々日、妹婿といっしょに、金木町 から1里ほど東にある高流と呼ばれる小山へ向かう。前方に見える「薄みどり色の丘陵」がそ れだと分かっているにもかかわらず、どの道をたどって行けばよいのか分からないまま二人で うろうろしていると、「満目の水田」が尽きるところに岩木山が浮かんでいた。 (6) したたるほど真蒼で、富士山よりもつと女らしく、十二単の裾を、銀杏の葉をかさ立てた やうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでゐる。決して高い山 ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟たる美女ではある。 (本編「四 津軽平野」) 「真蒼」の「蒼」は、中国語のような、くすんだ色、生気の無い色ではない。 「真蒼」は青々 とした青である。太宰は、故郷を、 「薄みどり」、 「真蒼」、 「青空」などの色彩語で謳歌している。 実際、太宰は、岩木山を見て、 「金木も、どうも、わるくないじゃないか」、 「わるくないよ」と 口をとがらせて言うのである。 3.3 昔の自分の色 中学校の入学試験を受けるために青森市へ出かけたときの服装を、太宰は次のように表現し ている。 (7) 久留米絣に、白つぽい縞の、短い袴をはいて、それから長い靴下、編上のピカピカ光る黒 い靴。(序編) 久留米絣は日本の伝統的な織物である。複雑な柄と、美しく深い色を特徴とする。ジャパニ ーズブルーと言われるほどの深い藍色は、今でも品のある色として、落ち着きを感じさせる。 藍と白が構成する模様は、 「白っぽい縞の、短い袴」によく合ったことであろう。黒い靴もぴか 5 ぴかで、少年の意気込みと緊張をいっそう引き立てていた。 3.4 現実の自分の色 小山書店の依嘱を受けて昭和の津軽風土記を書くために太宰が帰郷するときの服装と、その 18 服装についての太宰の思いは、次の二つの文章から想像することができる。 (8) 津軽のことを書いてみないか、と或る出版社の親しい編輯者に前から言われていたし、私 も生きているうちに、いちど、自分の生まれた地方の隅々まで見て置きたくて、或る年の 春、乞食のような姿で東京を出版した。(本編「一 巡礼」) (9) 有り合せの木綿の布切を、家の者が紺色に染めて、ジャンパーみたいなものとズボンみた いなものにでっち上げた何だか合点のゆかない見馴れぬ型の作業服なのである。染めた直 後は、布地の色もたしかに紺であつた筈だが、一、二度着て外へ出たら、たちまち変色し て、紫みたいな妙な色になつた。紫の洋装は、女でも、よほどの美人でなければ似合わな い。私はその紫の作業服に緑色のスフのゲートルをつけて、ゴム底の白いズツクの靴をは いた。(本編「一 巡礼」 帰郷のために身に着けた作業服は、あるべき「紺色」から、あるべきでない「紫みたいな妙 な色」になっていた。日本人の色の好みについて調査すると、 「嫌な色」のベスト3には、必ず といっていいほど「紫」が登場するという(日立グループホームページ「ナビパラ.コム」)。 現在では、ファッションの色として、少しずつ取り入れられる傾向があるにしても、太宰は、 「妙な色」の作業服を着た自分を「紫色の乞食にも似ている」と書いている(本編「一 3.5 巡礼」) 育ての親「たけ」の色 序編と本編で構成される『津軽』の最後を飾るのは、本編第五章の「西海岸」である。こ .. の章で、太宰は、たけとの再会を語る。たけは太宰が三つのときに子守として生家に雇われ、 八つのときに「或漁村」へ嫁に行った。太宰にとっては育ての親である。 「私はその人を、自分 の母だと思っているのだ。三十年ちかく逢わないでいるのだが、私は、そのひとの顔を忘れな い。私の一生は、その人に依って確定されたといっていいかも知れない。」―こう、太宰は、 第五章の「西海岸」で書いている。 「故郷といえば、たけを思い出す」 (「西海岸」)と言う太宰は、 「こんどの津軽旅行に出発す る当初から」 「たけにひとめ逢いたいと切に念願をしていた」。 「いいところは後廻しという、自 制をひそかに楽しむ趣味」があるので、 「たけのいる小泊の湊へ行く」のを、太宰は「旅行の最 .. 後に残して置いたのである」。そのたけとの再会シーンは感動的だが、主題からはずれるので、 ここでは取り上げない。取り上げて考察したいのは、たけの色である。 たけの頬は「やっぱり赤」く、右の眼蓋の上には、「赤い」ほくらがちゃんとあった。のみ ならず、たけの服装も、思い出のたけと変わっていなかった。 (10)これもあとで、たけから聞いたことだが、その日、たけの締めてゐたアヤメの模様の 紺色の帯は、私の家に奉公してゐた頃にも締めてゐたもので、また、薄い紫色の半襟も、 19 やはり同じ頃、私の家からもらつたものだといふことである。そのせいもあったのかも 知れないが、たけは私の思い出とそっくり同じ匂いで坐っている。(本編『五 津軽』) 太宰にとって紫色の作業服は苦痛の種であった。何人もの旧友と再会して津軽人としての自 分を確認し、緊張していた心がほぐれていくにもかかわらずである。 (11) 「和服でおいでになると思っていました」 「そんな時代じゃありません」私は努めて冗談めかしてそう言った。(「一 巡礼」) (12) 乞食姿の貧しい旅人(「二 蟹田」) (13) 紫色のジャンパーを着たにやけた男(「三 外ケ浜」 (14) 私はジャンパー姿のままで二階に上がって行った。 (「四 津軽平野」) (14)は、近寄りがたい兄たちが食事をしている生家で一番立派な金襖の日本間へ、ひるむ心 を抑えて太宰が上がって行くシーンを描いた文章の一部である。背負ってきたリュックサック には和服一式を忍ばせてあるのだが、それに着替えることなくジャンパーのまま二階へ上がっ ていったところに、こだわりも隠れている。 繰り返すが、ジャンパーの紫色は、あるべき紺色からはずれてしまった色である。しかし、 昔のままのたけは、紺色と紫色を自然な態度で身につけていた。自分が自分である安心感を太 宰が最高に味わうことができた大きな理由はこれであると推測しても、 間違いではないだろう。 4 自然な変化 典型的なミュージカル映画では、俳優たちが歌って踊る。踊りはともかく、歌が入らなけれ ばミュージカル映画とは言えない。しかし、話の流れや感情の流れを無視するようにしてスタ ーたちがいきなり歌いだすと、昔の観客は抵抗を覚えた。実際、『ウェストサイド物語』(West Side Story) では私も多少の抵抗を感じた。不自然な歌の出だしがあったからである。とくに、 恋人の死を嘆き悲しむヒロインの唐突な独唱は、感情移入を妨げた。 このような抵抗感が生まれるのを防ぐためにある時期のミュージカル映画制作者が選ん だのは、 「劇中劇」を入れる方法であった。映画の中で、ショーなどの練習をしているヒーロー やヒロインが歌い初めても、不自然には感じられない。 『サウンド・オブ・ミュージック』では、 父親の婚約者に聞かせるためにトラップ家の子供たちが歌いだし、それを外で聞いた父親が合 唱に加わった。また、成り行きで音楽祭に出演したトラップ一家が、心にしみ入る歌を大聴衆 6 に聞かせた。ショーの練習ではないが、同種の工夫と言ってよいであろう。 魯迅の「故郷」では、一時期の劇中劇に相当する工夫が、過去であり、幻想である。心境の 変化によって外界が変わるとしても、極端な変わり方をすれば不自然になる。しかし、現在か ら記憶の中の過去へ、あるいは現実から幻想へ記述を切り替えるなら、極端な変化も不自然と 20 は思われないであろう。 太宰の工夫は少し違う。 『津軽』では、紫色のジャンパーは最後まで紫色のままである。かつ ては確かに紺色だったが、幻想の中で昔の紺色に変わるというようなことはない。太宰が選ん だのは、最も安心感を与える人に、昔のまま、 「紺色の帯」と「薄い紫色の半襟」を身に着けさ せるという工夫である。 「工夫」と言うのは言い過ぎではないかと思われそうだが、描写できる ものはほかにもいっぱいあるのに、太宰は紺の帯と紫の半襟に注目した。それを同一人物が身 につけていることを記述することにより、紺と紫の距離を一挙に縮めたのである。これもまた 昔の劇中劇に対応する工夫と言えるであろう。 注 1 黄色は中国で、かつて皇帝しか身につけることができなかった高貴な色であった。現代ではセクシー、 或いは魅惑的な色で、 「黄色い映画」は成人映画を示す。冴えた黄色や、白っぽい明るい黄色は明るさ、 柔らかさ、優しさなどの性格を持っているが、黄ばんだ色は汚れや価値のありそうな古本などのイメ ージが強い。濁った黄色は怠惰の状態などネガティブな感情を表す。 2 金色も銀色も、色の三原色の赤、青、緑を混色しても出てこないから、厳密に言うと色彩とは言えな いかもしれない。金色は本来、金という金属だけが持つ光、銀色は銀やプラチナなどの銀色を発する 金属だけが持つ光である。だから、この色を得るには、その金属から採るしかないわけである。昔も 今も、金や銀などは貴重な金属だったため、金色、銀色に対する人々の憧れは、古来よりつのるばか りである。「黄金色」は霊的知性の象徴で、太陽の光や仏像、神殿、宗教画や稲穂などを想起させる。 「碧緑」は鮮やかな青と緑である。「天の川」は中国語では銀色の川、「銀河」という。月の放つ光も 銀色と表現できる。銀河も月も人間にとって憧れである。 3 古代中国で、紫は正色の朱と青の混色から生まれる間色である。朱と紫は、大昔から、正と邪のこと であったり、善人と悪人の象徴であったりした。この場合の紫は、紛らわしく不純な色とされている のである。孔子と孟子の時代には、だんだん高貴な色とされはじめた。古代日本も、紫は高貴な色、 貴重な色として存在していた。貴重な人しか使えない禁色にまでなっていた。 (『赤橙黄緑青藍紫』p. 79、 『日本の色』の水尾比呂志 p. 164) 4 幻想(記憶)と現実の色彩モンタージュの構成をわかりやすく示すと、次のようになる。 記憶上 風景 閏土 5 二十年後の現実 深い藍色の空 蒼く黄ばんだ空 黄金色のまんまるい月 両岸の青い山々は黄昏の中で、すっ 碧緑の西瓜 かり青黒い色に装いされた 紫色の丸顔 灰黄色 少年時代の(生き生きした)眼 真赤に腫れ上がっていた 赤いピチピチしたハチ切れそうな 粗野で鈍重な、そしてひびのでき 手 た、まるで松の木の皮のような手 久留米絣は、天明 8 年(1788)に久留米に生まれた井上伝女の創始したもので、江戸時代の終わり頃 から筑後地方の農家の副業として織られ、明治以降庶民の衣服として広く愛用されるに至った。織物 の小巾着尺としては、全国において最も有名なものの 1 つに数えられる。 21 6 俳優がいきなり歌いだし、踊りだしても、不自然に思われないこともあった。たとえば、『雨に唄えば』(Singing in the Rain) では、主演のジーン・ケリーがいきなり雨の中で唄い踊ったが、観客は違和感を覚えなか った。喜びの極端な表現として、歌と踊りは素直に受け入れられるからであろう。最近の作品だが、インド映 画の『踊るマハラジャ』は、出演者がいきなり踊り出す映画と言われた。しかし、観客はそれでも大喜びした。 ストーリーから踊りへの移行が、それなりに自然だったのであろう。 参考文献 大岡信(編)(1986).『日本の色』.朝日選書. 竹内好(訳)(年不詳)「故郷」.インターネット配信(2004 年 11 月 3 日ダウンロード). http://www.asahi-net.or.jp/~ft7n-tnmt/hometown.html 太宰治(1944).『津軽』.小山書店. ―――(1990). 『津軽』 『太宰治全集第六巻』所収 筑摩書房. (本文中の引用はこの電子 テキスト版から.http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card2282.html) 日立グループホームページ「ナビパラ.コム」 http://www.navipara.com/column_r2/backnum/clmr2024_1.php 福田邦夫(1988).『赤橙黄緑青藍紫』、青娥書房. 増田渉(訳)(1989).『故郷』.角川文庫. 魯迅(1921).『故郷』.『新青年』第九巻一号 所収.(本論文中の引用は http://wfbz.wcedu.net/netbook/book/xian1.htm から。) 22