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アメリカン・ポップスの創始者たち
アメリカン・ポップスの創始者たち 3.フィル・スペクター 2015.7.25 中野 101 (音楽プロデューサ:レコーディング・サウンド) 終身刑:牢獄中 ビートルズ襲来前夜の米ポップス界を彩った様々なガール・グループたちの歴史を綴る音楽ドキュメント・ヴイデオ 『ガール・グループス』。 その中に、フィルニスペクターにスポットを当てたセグメントがある。導入部が特にいかしていた。 彼がプロデュースを手掛けたロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」のイントロでおなじみ、“ドッ・ドドッ・ドッ・ドドッ”というベー ス・ドラムをバックに、ジェリー・リーバー&マイク・ストラー、エリー・グリニツチ、ダーレン・ラヴ、ロニー・スペクターらがスペ クターに関する印象を一言ずつ、モンタージュ形式で語る。映像を見返していないので記憶があやふやだが、“奇人”だ の“才人”だの“パワフル”だの“わがまま”だの“ビリヤードの達人”だの、たぶんそんな愛憎混交、誉め言葉と非難とが交 錯する内容だった。 コメントしているのは 60 年代のある時期、スペクターとともに黄金時代を築いた者ばかり。 彼らの心 の中からけっして消え去ることのないフィル・スペクターという存在を慈しんでいるような、もてあましているような、複雑な気 分がよく表われていた。 フィル・スペクターというのは、そういうものなのだろう。ジャック・ニツチェ、ラリー・レヴィン、ハル・プレイン、キヤロル・ キング、バリー・マン、エリー・グリニツチなど、卓抜した才能の大群が、60 年代半ばのほんの一瞬、一丸となって突進した ときの扇の要。あるいはこの壮大なプロジェクト全体を形容する“象徴”。スペクターの業績を振り返るとき、70 年代以降に 彼がプロデュースを手掛けた ジョン・レノン も レナード・コーエン も ラモーンズもいらない。 62 年から 67 年まで、フィ レス・レコードを設立して、有能なスタッフとタッグを組んで鮮烈な音作りをしていた時期の活動こそがすべてだ。 スタッフを含めて“フィル・スペクター”という金字塔は打ち立てられた。ポップ・ヒストリーに刻まれたスペクターの名は個人 名であって、しかし同時に個人ではない、と。このことを再確認したうえでスペクター本人の歩みを駆け足でたどる。 1940 年 12 月 26 日、ニューヨークのブロンクス生まれ。ユダヤ系白人だ。49 年に父親が死去。53 年からは家族で親 戚が多く暮らすロサンゼルスへ移り住んだ。ジャズ・ギタリストになることを夢見ていたらしく、夜中、黒人専門ラジオ局から 流れてくるジャズや R&B に合わせてギターを弾いて過ごしていたという。 クラシックにも親しみ、バッハ、ベートーヴェン、 ワグナーなどを好んだ。このクラシックの素養がのちのスペクター流“ティーンエイジ・シンフォニー”の形成に大きな影響 を与えたという通説もある。地元のフェアファックス・ハイスクールに入学したのが 54 年。ハイスクール時代にロックンロー ルの爆発を体験した。当時、白人のロックンロールにはほとんど興味がなかったそうだが、それでもティーンエイジャー相 手に開拓されたこの新鮮なマーケットには大いに惹かれたようだ。 卒業するころには自ら曲作りも開始。ジャズではなく、ポップ・フィールドで何がしかの成果を上げようと目論むようになっ た。中学時代からの友人、マーシャル・リーブらとともにバンドを結成し演奏活動も行なった。 卒業後、スペクターとリープはロサンゼルス・シティ・カレッジへ進学。彼らは日頃から家庭用のテープレコーダーを使 って、録音に関する試行錯誤をあれこれ繰り返していたが、そのとき思い付いた斬新なダビング方法、つまり、前に録音し た音をヘッドフォンで聞きながら新たな音を重ねるのではなく、前に録音した音をスピーカーで鳴らし、その音もろともマイ クで拾いながら新たに音を重ねて録音するというやり方を本格的なスタジオで試してみたくてうずうずしていた。やがて、 57 年 5 月、フェアファックス仲間だったハーヴェイ・ゴールドスタインと、紅一点のアネット・クラインバード(のちのキャロル・ コナーズ)を誘い、4 人で 10 ドルずつ出し合ってシングル「ドント・ユー・ウォリー・マイ・リトル・ペット」を自主制作。 自作の他愛ないロックンロールだった。が、その録音方式は前述の一風変わったオーヴァーダビングを多用したもの。 のちのちスペクターの本拠地となるハリウッドのゴールド・スター・スタジオで、やはりフェアファックス卒業生だったエンジ ニア、スタン・ロスの協力を得てレコードが完成した。ドラムを担当したのはこちらもフェアファックス仲間のサンディ・ネルソ ンだった。 スペクターは L.A.のローカル・レーベル、エラ/ドレ・レコードにこの曲を持ち込み、契約。テディ・ペアーズ 名義でレコード・デビューを飾った。A 面曲は大した話題を引き起こすことなく埋もれていったが、やがて地元の DJ たちは B 面のバラード「逢ったとたんに一目惚れ(To Know Him Is To Love Him)」をオンエアするようになった。こちらもまたダビ ングにダビングを繰り返したため音質は最悪。黒人のドウーワップの影響をたたえた曲だが、レコーディング時、ベース・ ヴオーカル担当のゴールドスタインが不在だったことが功を奏し、不思議な浮遊感をたたえた独創的なサウンドが生まれ ていた。奥行きを感じさせるエコーたっぷりの演奏とコーラスをバックにアネットのソプラノが淡々と舞い、泥臭さと賛美歌 のような敬虔さとが交錯する。この曲はスペクターの父親の墓碑銘にインスパイアされたものだった。 スペクター自身は無自覚だったにせよ、そんな意味でも「逢ったとたんに…」は確実にある種の精神性をあらかじめはらん 1 だロヅクンロールに仕上がっていた。 「逢ったとたんに…」は 57 年 9 月、全米チャート初登場。テディ・ベアーズはディック・クラークの TV 番組『アメリカン・ バンド・スタンド』にも出演し、11 月にはついに全米ナンバーワンに。すっかり自信をつけたスパクターは即座にエラ/ドレ を離れ、L.A.の大手レーベル、インペリアルに移籍。ジョージ・チヤンドラー、アール・パーマーら、同レーベル所属のフ ァッ・ドミノのバックをつとめていたニューオリンズ系ミュージシャンを使ってアルバムのレコーディングを開始した。が、繰り 返し々、ダビングを続けるスペクターの作業の進展の遅さに業を煮やしたインペリアル側は、途中からプロデューサ/ア レンジャーとしてジミー・ハスケルを投入。こうしたゴタゴタを反映して、彼らのファースト・アルバム『ザ・テデイ・ベアーズ・ シング!』はすっかり中途半端な仕上がりとなってしまった。後続シングルもヒットせず、59 年、テディ・ベアーズは解散。ス ペクターは新たな道を歩き始める。 結局、若き日のスペクターは“いかに録るか”についての激しい試行錯誤ばかりに徹していたということだ。 “何を歌 うか”というテーマはスペクターにとってあまり意味のないものだったのたろう。59年、彼はテディ・ベアーズのアルバム録 音中に知り合ったベテラン・プロデューサー/マネージャー、レスター・シルのもとに出向き、ソロで契約。シンガー/ソン グライターとしてだけでなく、プロデューサーとしての契約も交わした。このときから“いかに録るか”というスペクターにとっ て最大の興味を満たすための本格的活動が始まる。シルがリー・ヘイズルウッドと組んでプロデュースしていたデュアン・ エディのレコーディングを見学し、エディのトワンギー・ギターに隠された深いエコーの秘密を体得したりしたのち、いよい よ自らプロデュースを開始。テディ・ペアーズで果たせなかった男女混声ポップスの理想形を作り上げようと“スペクター ズ・スリー”なる架空のバンドをでっちあげた。自分の声と女性セッション・シンガーの声でダビングを繰り返し、数曲を完成。 プロモーションのために男女 3 人のメンバーをかき集め、テレビなどで口パクさせた。一説によればデエアン・エディのレ コードの中にも、名手、アル・ケイシーが代役ギタリストをつとめたものがあるとか。もしかしたらスペクターはそんな代役レ コーディング光景を目撃したのかもしれない。自らのめざすサウンドさえ構築できるならばアーティスト名などどうでもいい … というフィレス設立後のスペクター流のやり口の原型が、すでにこの段階でできあがったわけだ。 当時スペクターは まだ十代だった。 さらにこの時期、レスター・シルとともに何度もニューヨークへ行き来したこともスペクターにとって大きな影響を与えた。 キー・ノマレソンは、50 年代初期、シルによってソングライター/プロデューサー・チームとして世に送り出され、ニューヨ ークを本拠に大活躍していたジェリー・リーバー&マイク・ストラーだ。彼らはスペクターと同じ、フェアファックス・ハイ出身。 シルとスペクターはニューヨークに行くたび、彼らと会った。さらに“黄金の耳を持つ男’’と異名をとるドン・カーシュナーが 経営するアルドン音楽出版を訪ね、楽曲選びをした。当時、アルドンにはキャロル・キング、ジェリー・ゴフイン、バリー・マ ン、シンシア・ウェイルら、のちのフイレスの主力ソングライターたちが所属。 ロックンロール以降の新しい若者市場で巧妙な楽曲提供ビジネスを行なっていた。本場の音楽ビジネスを目の当たりにし たスペクターはシルに頼み込み、リーバー&ストラーのもとへ雑用係として派遣してもらった。リーバー&ストラーのオフィ スに居候を決め込んだスペクターはニューヨークの音楽関係者の溜り場に足しげく適い、多くの有能な裏方たちと知り合 った。売れっ子女性ソングライターのベヴァリー・ロス、彼女のパートナーだったジェフ・バリー、ドリフターズやディオンや エルヴィス・プレスリーに曲提供していたドク・ポウマス、のちにカーマ・ストラ・プロダクションを設立するアーテイ・リップ、ヒ ット歌手だったレイ・ピーターソンのマネージャー、スタン・シュルマン…など。こうした人脈を得、60 年から 61 年にかけて、 スペクターはレイ・ピーターソンをプロデュースしてジョー・ターナーの R&B ヒット「コリーナ・コリーナ」を甘く歌わせたり、 ベン lE・キングにリーバー&ストラーとともに書いた「スパニッシュ・ハーレム」を提供したり、ポウマスとともに書いた「ヤン グ・ボ⊥ィ・ブルース」を提供したり、ジョニー・ナッシュの「サム・オヴ・ユア・ラヴィン」をプロデュースしたり、カーティス・リー の「プリテイ・リトル・エンジェル・アイズ」をプロデュースしたり。次々とチャートを賑わし、徐々に足場を固めていった。やが てリーバー&ストラーの口利きでアトランティツク・レコードに A&R マンとして入社。アーメット・アーティガン、ジェリー・ウェ クスラー、トム・ダウドらアトランティツクの重要人物たちと仕事をともにした。ミュージコー・レーベルのジーン・ピットニーの 「エヴリ・プレス・アイ・テイク」(キング&ゴフィン作)をプロデュースし、当時としては破格の制作費 1 万 3000 ドルを使ってス トリングスやコーラスを配した分厚く深いサウンドを作り上げたのもこのころのことだ。 L.A.でも、レスター・シルの依頼で、パリス・シスターズに名バラード「忘れたいのに(I Love How You Love Me)」(バ リー・マン&ラリー・コルバー作)を歌わせ、ヒットに結び付けた。スペクターはこの曲のレコーディングで再びゴールド・スタ ー・スタジオに戻り、スタン・ロスと組んで繊細で奥行きのある、より成長したテディ・ベアーズ・サウンドを作り上げた。レス 2 ター・シルはスペクターの成長ぶりに感銘を受け、彼への信頼度をより堅固にしていった。とともに、それまでシルと共同 で様々なプロデュース活動を行なってきたリー・ヘイズルウッドとパートナー解消。スペクターはヘイズルウッドの穴を埋め る形で自分を共同経営者にしないかとシルに持ち掛け、いよいよ 61 年、新たなレコード会社と出版社が誕生した。レコー ド会社は二人のファースト・ネームを合体し“フィレス”と名付けられた。 まず手始めに、ブルックリン出身の黒人ガール・グループ、クリスタルズのヒット・シングルを何枚かリリースする中で、ス ペクターは、リー・ヘイズルウッドのオフィスで働いていたアレンジャー、ジャック・ニッチェを引き抜き、スタン・ロスの従兄 弟で、トニ・フィツシヤーの「ザ・ビッグ・ハート」でテープのダビングによる画期的なフェイズ効果を編み出した辣腕エンジ ニア、ラリー・レヴィンと組み、ハイスクール時代からの知人だったスティーヴ・ダグラスや、ダグラスが呼び集めたハル・プ レイン、トミー・テデスコ、ジミー・ボイド、アル・デロイら腕ききミュージシャンの集団を率い、壮大で強靭な独自のロックンロ ール・サウンドを構築していった。 このプロジェクトが充実した形で結実した最初の曲が、クリスタルズ名義で62年にリリ ースされたフィレス 7 枚日のシングル「ヒーズ・ア・レベル」だ。 ジーン・ピットニーが作曲、当時多くのセッション・コーラス・ ワークを手掛けていたブロッサムズのダーレン・ラヴの強力なヴォーカルをフィーチャーしたこの曲は、音響特性のすぐれ たゴールド・スター・スタジオに詰め込まれた大編成のバンドから繰り出される楽器の音それぞれが分離することなく絶妙 のバランスで絡み合い、溶け合い、ひとつのカタマリとなって響いてくる、ブルージィでファンキーなロックンロールだった。 スペクターにとって、クリスタルズのメンバーが参加していないことなど問題外。彼はクリスタルズの歌を聞かせるレコードを 作ったのではなく、彼自身の頭の中に渦巻くサウンド全体をまるごと盤面にぶちまけてみせたのだ。まさに“音の壁=ウォ ール・オヴ・サウンド”の完成だった。 62年暮れには恩人とも言うべきレスター・シルを会社から追い出し、スペクターの独裁体制はすっかり整った。キング &ゴフィン、グリニツチ&バリー、マン&ウェイルら優れたソングライター・チームを起用し、ラリー・ネクテル、リオン・ラッセ ル、ニノ・テンポ、ビリー・ストレンジら優秀なセッション・ミュージシャンを呼び集め、自分が満足できる音像がつかめるまで 過酷な長時間演奏を命じ、のちのスペクタ夫人でもあるヴェロニカ・ベネット(ロニー・スペクター)をフィーチャーしたロネッ ツ、ボブ・B・ソックス&ブルー・ジーンズ、ライチャス・プラザーズ、アイク&ティナ・ターナーなど、壮大な音の壁を作り上 げるのに適した“厚い”声を持ったシンガーたちを見出し、時にはスタジオで天井に向けて実弾をぶっぱなし、平気で契約 違反を繰り返し…。スペクターは自らの頭の中に鳴り響く音像を完璧な形で盤面に刻みこむため、あらゆる手段を講じた。 フィレス時代のキー・ポイントとなる作品としては、前述「ヒーズ・ア・レベル」と、キャッチーなイントロのドラム、流麗な間 奏のストリングス、甘く切ない楽曲、ファンキーなヴォーカル…すべてが一体となった63年の「ビー・マイ・ベイビー」(ロネ ッツ)、深いエコーと執拗なダビングがピークに達した64年の「ふられた気持ち(You’ve Lost That Lovin’ Feelin’)」(ライ チャス・プラザーズ)、そして自らの存在をあからさまに全面に押し立てた 63 年のアルバム『クリスマス・ギフト・トウ・ユー・フ ロム・フィル・スペクター』だろう。 スペクターはけっして前人未踏の新しい何かを生み出した男というわけじゃなさそうだ。クラシック、ジャズ、R&B、ハリウ ッド音楽、ロックンロール、ガレージ・ミュージックなど、子供のころから偏愛してきた既存の偉大な音楽たちを、徹底した録 音技術と人一倍のこだわりとをもって完璧に磨き上げ、優れたスタッフを駆使しながら融合した男。これこそがフィル・スペ クターだ。そういう意味では、前述したキーになる作品こそ、60 年代半ばまでのポップ・ミュージックの総括だったと言うこと もできる。が、同時にそこでピークを実現し、目的を達成してしまったスペクターは、以降、時代遅れの存在になっていく しかなかったとも言える。 特に64年、スペクターの作り出した音にも強く影響を受けた4人のイギリスの若者たち、ビートルズが世界中を席巻し、 “自作自演”という美学をポップ・シーンの新たな常識にしてしまってからというもの、スペクターの出番はなくなった。 ビートルズがアメリカに初上陸する際、ロネッツのイギリス公演のためにたまたま渡英していたスペクターに電話で連絡を 取り同行を申し出たというエピソードは、今から振り返るとやけに興味深い。 64年2月、スペクターとビートルズはともにジ ョン・F・ケネディ空港に降り立った。不安と喜びが共存する表情を浮かべた4人のイギリス青年がタラップを降りていく映像 は今でもよく見かけるが、その傍らに帽子をかぶりサングラスをかけたスペクターがいる。ポップ・ミュージックの時代が移り 変わる瞬間をこれほど見事に象徴するシーンは他にないだろう。 こうして 60 年代半ば以降、スペクターは一気に輝きを失っていく。そんな彼がシーン最前線にふたたび蘇るのは、彼を 葬ったはずのビートルズの“解散アルバム”とも言うべき『レット・イット・ビー』のプロデューサ としてだった。なんとも皮肉な 成り行きではある。順序としては、弁護士のアラン・クレインを通してジョン・レノンのソロ・シングル「インスタント・カーマ」の 3 プロデュースを依頼されたのが先だ 0 ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、クラウス・ヴアマン、アラン・ホワイトからなる最小限 のコンボ・バンドを最大限に活用し、何度もオーヴァーダブを繰り返しつつ音圧たっぷりのロックンロールを作り上げたス ペクターの手腕に感服したレノンが、当時誰の手にも負えなくなっていた『レット・イット・ビー』をなんとか形にするため、ス ペクターに手直しを依頼したと言われている。この作業に関しては今なお賛否が渦巻いている。レノンとハリスンはスペク ターの仕事ぶりに賛辞を送ったものの、ポール・マッカートニーは大いに不満を訴えた。プロデューサーとしてのスペクタ ーに不満を訴えることはもはや大して勇気のいる行動ではなかった。本人の思いはどうあれ、当時のシーンにおいて、ス ペクターにはかつての専制君主としてのカリスマ的オーラはなくなっていた。 とはいえ、『レット・イット・ビー』は売れに売れた。仕上がりに満足したレノンとハリスンは、以降もスペクターにソロ作品 のプロデュースを依頼した。『レット・イット・ビー』の手直し作業中、スタジオに何度か顔を出したハリスンは、スペクターの 音の構築法に感銘を受け、確信を持って『オール・シングス・マスト・パス』の音作りをスペクターに委ねたという。リマスタ ー版『オール・シングス…』のハリスン本人のライナーによれば、今となっては少々音作りが大げさすぎたと感じているよう だが。ともあれ、壮大なウォール・オヴ・サウンドで透明感に満ちたジョージ・ハリスンの宗教的な愛の世界をバックアップ するというコンセプトは、まさにスペクターにとって初の成功作となったテディ・ペァーズの幻想的な名バラード「トゥ・ノウ・ヒ ム・イズ・トゥ・ラヴ・ヒム」(57年)の味に直結するものだった。こうして、スペクターにとってもハリスンにとっても、キャリアを 代表する大傑作が完成した。 が、意地の悪い見方をすれば、過去レノンとマッカートニーの細かい指示を受けながら活動することに慣らされていた ハリスンだったからこそ…なのかもしれない。ボスがレノン&マッカートニーからスペクターに代わっただけのこと。もちろん、 ジョン・レノンもスペクターと組んでアルバム『ジョンの魂』や『イマジン』、あるいはシングル「パワー・トゥ・ザ・ピープル」「ハ ッピー・クリスマス」など、ぐっとシンプルな演奏によってかってのスペクター流ウォール・オヴ・サウンドに匹敵する太い音 圧を実現した名盤を残しはしたが、75年、アルバム『ロックンロール』をリリースするころには、悲惨な破局を迎えていた。 レノンとスペクターのスタジオでの激しい衝突ぶりの一部は4枚組の『ジョン・レノン・アンソロジー』で聞くことができるが、 両者ともに当時ひどい酒浸り状態だったことも拍車をかけ、スタジオに漂う緊張感はただならぬものになっていたそうだ。 スペクターによる伝説的な発砲事件が起きたのはこのセッションでのこと。スペクターの自動車事故や離婚をめぐる養育 権裁判などでレコーディングが中断すると、彼はこのアルバムのマスター・テープを奪い取るように持ち去って雲隠れして しまった。 時代が変わり、強い自我をもったアーティストがシーンの主役になった 70 年代。時代を代表するプロデューサーといえ ば、ルー・アドラーやピーター・アッシヤー、テッド・テンプルマンなど、アーティストの持ち味を見極め、それを効果的に増 幅してみせる者たちになった。対象アーティストが誰であろうとかまわず自分の世界観を押しつけるスペクターのやり方は、 確実に時代遅れになってしまった。もはや独裁者としてすべてをコントロールすることができなくなった彼は、そうした思い 通りにならないスタジオワークに苛立ちながら、徐々に自らの身の置き所を見失ってしまった。自らアーティスト/パフォー マーとして再出発でもしない限り、スペクターがこの時代の移り変わりを乗り切ることはできなかったのではないだろうか。 が、スペクターはその後もあくまでプロデューサとして復権を狙った。76年、かつて配下にいたシェールや、同輩として アメリカン・ロックンロールの黄金期を築いたディオンを素材に得意の専制レコーディングを行ない、しかしセールス的に 惨敗。77年、レナード・コーエンの『ある女たらしの死』のプロデュースを手がけた際も、最終的にはコーエン自身さえもス タジオから縮め出し、すべて仮歌のままトラックダウン。ジャーナリズムから酷評された。80年、ラモーンズの『エンド・オヴ・ ザ・センチュリー』を制作したときも、リリース直後、ジョーイ・ラモーンを除くメンバーから「あんなやつとはもう二度と一緒に 仕事はしない」と吐き捨てられた。音楽的な内容に関して彼らなりに満足のいく曲も少なからずあったようだが、そんな喜 びも、スペクターの日常的な奇行や独善的なレコーディングの進め方に対する怒りがすべて消し去ってしまった。 時代が変わっても、60 年代に生み出されたスペクター・サウンドはけっして輝きを失いはしなかった。それは今も変わ らない。が、それを新時代に受け継いだのはスペクター自身ではなく、ディオンのレコーディング・セッションにもゲスト参 加したブルース・スプリングスティーンや、あるいはシンセサイザーという新たな武器を操るジェフ・リンのような新世代のア ーティストたちだった。時代の流れとともに自分のやり方を変えることもできず、かつてと同じ夢を同じ情熱をもって追いか けたがゆえに孤立してしまったフィル・スペクター。これもまた、どうしようもなくロックンロールな生き方だな、と思う。 4 01.The Teddy Bears/Don’t You Worry My Little Pet 02.The Teddy Bears/To’Know Him Is To Love Him 03.The Teddy Bears/Oh Why 04.Spector’s Three/I Really Do 05.Ray Peterson/Corrine,Corrina 06.Ben E.King/Young Boy Blues 07.Johnny Nash/Some・Of Your Lovin’ 08.Curtis Lee/Pretty Little Angel Eyes 09.Gene Pitney/Every Breath I Take 10.The Paris Sisters/I Love How You Love Me 11.The Crystals/He’s A Rebel 12.The Ronettes/Be My Baby 13.Darlene Love/Christmas(Baby Please Come Home) 14.The Righteous Brothers/You’ve Lost That Lovin’Feelin’ 15.Sonny Charles&The Checkmates/Black Pear1 16.Ike&Tina Turner/River Deep,Mountain High 17.The Beatles/The Long And Winding Road 18.John Lennon,Yoko Ono,The Plastic Ono Band/Instant Karma 19.George Harrison/My Sweet Lord 20.Leonard Cohen/Memories 21.Ramones/Do You Remember Rock’N’Roll Radio 5