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はじめに ルネサンス社会と戦争 1 フランチェスコ・ディ・ジョルジョの築城
ルネサンス期イタリアの築城術と理想都市計画―15-16 世紀シエナの建築家を中心に― 2010 年 8 月 27 日 於:東北学院大学 発表者: 白幡俊輔 《発表目次》 はじめに ルネサンス社会と戦争 1 フランチェスコ・ディ・ジョルジョの築城術と戦術思想 1-1 擬人論的城砦の戦術的特徴 1-2 擬人論的城砦を選択した理由 2 古典再解釈と稜堡式築城の誕生 2-1 ウィトルーウィウスの再解釈と「角型稜堡」成立過程 2-2 「稜堡式築城」と「近代化」-カターネオの『建築』 3 国防戦略と建築家 3-1 1494 年フランス侵攻とイタリアの築城術 3-2 ペルッツィ、カターネオの国防思想 おわりに はじめに ルネサンス社会と戦争 * 「ルネサンス期のイタリアにおける戦争」を研究する意味 ◎ 火器:新しい武器の登場 →軍隊や軍事技術に変化をもたらしただけでなく、人々の技術や戦争に対する認識までも変化 させる一因 1 フランチェスコ・ディ・ジョルジョの築城術と戦術思想 フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ Francesco di Giorgio Martini(1439-1501) シエナ出身の画家・彫刻家・建築家。ウルビーノ公フェデリーコおよびカラブリア公アルフォン ソに仕える。絵画作品のほか、シエナの大聖堂やウルビーノのドゥカーレ宮殿建設、各地の教会・ 宮殿・城砦の建設にも携わる。その建築および機械に対する考えは Trattati di Architettura『建 築論』によって知ることが出来る。 Trattati di Architettura『建築論』とは フランチェスコ・ディ・ジョルジョがウルビーノ公の宮廷で働き始めた 1477 年以降に書き始め た書物。1480-90 年ごろ執筆されたとみられる『建築論Ⅰ』と 1490 年以降から晩年にかけて執筆 された『建築論Ⅱ』の二種類が知られている。 『建築論Ⅰ』はサルツィアーノ Saluzziano148 写本 (トリノ王立図書館所蔵)とアシュバーナム Ashburnham361 写本(フィレンツェ、メディチェア・ ラウレンツィアーナ図書館所蔵)があり、 『建築論Ⅱ』はマリアベッキアーノ Magliabechiano141 写本(フィレンツェ国立図書館所蔵)とシエナ Siena Ⅳ4写本(シエナ市立図書館所蔵)が現存し ている。ふたつの『建築論』は主張においてはほとんど変化がないが、雑多な記述が羅列されてい た『建築論Ⅰ』に対して、 『建築論Ⅱ』ではテーマごとに章にわけられ、記述が体系的に整理されて いる。 1-1 擬人論的城砦の戦術的特徴 ◎ フランチェスコ・ディ・ジョルジョの築城術を形成するふたつの原則 1、擬人論的城砦→【図1】 『建築論Ⅰ』 (サルツィアーノ 148)f.1r 「都市、城塞、城郭は人体に倣って作るべきである」 «Parmi di formare la città, rocca e castello guissa del corpo umano.» (sic.) 「すべての技芸と理法はよい姿態と比例をもつ人体から導かれる」 «Tutta la arte e’lla ragione tratta essare del corpo umano ben conposto, e proporzionato» (sic.) 「頭が人体すべての中で最も重要な部分であるのと同様、都市という体の中で最も重要な部分 は城塞である」 «Adunque la rocca de’ essare principale membro del corpo de la città siccome el corpo è principale membro di tutto el corpo.» (sic.) 2、大砲・火器の脅威の認識 『建築論Ⅰ』 (サルツィアーノ 148) 「大きな軍事力をもってしても、大砲の激烈な威力に対して防御を行うことはきわめて困難であ り、まさにこの大砲に対する防御をなしうる者は、人間の知恵というよりは神の知恵を持つと 言われる」 «Molestia de le macchine delle bonbarde, a la cui rabiosa furia assai dificilmente, né senza grande industria di potenzia a essa ripar puossi e’ccerto chi a’ttale macchine riparar potesse certo divino ingegnio più che umano dir aver potersi.»(sic.) 1-2 擬人論的城砦を選択した理由 ◎ 擬人論的城砦にこめられた軍事上の目的 「重点防御」…城砦の「頭」を最大の脅威に対して指向する。→【図2】~【図6】 外敵の攻撃(カーリ、ガリーポリ)⇔市民蜂起(フォッソンブローネ、フロントーネ) * フランチェスコ・ディ・ジョルジョは①城砦の全方位を等分に防御する「円形プラン」を否 定し、②大規模な城砦は小規模な城砦に防御力で劣ると考えていた。 →都市の重点のみを小規模な砦で防御すれば、二つの条件をクリアしたうえで、堅固な城砦を 築くことが可能 「擬人論的城砦=重点防御」は戦術上の必要と、フランチェスコ・ディ・ジョルジョの築城に対 する思想を同時にみたす「最適解」 2 古典再解釈と稜堡式築城の誕生 2-1 ウィトルーウィウスの再解釈と「角型稜堡」成立過程 ◎フランチェスコ・ディ・ジョルジョによる『建築十書』の翻訳 再解釈によって考案された二つの城砦設計 →①城壁の鋭角によって攻撃をそらす(capannato) 。②「側面射撃」 (fiancheggiamento) * 従来①の capannato を着想したことによってのみ、フランチェスコ・ディ・ジョルジョは「角 型稜堡」の発明者のひとりとされてきた。→【図7】 →実際は、上記二つの要素が 16 世紀に結びつくことによって「角型稜堡」が誕生した。 ◎ サン・レオ砦の、攻撃をそらすための屈曲した城壁→【図8】 この城壁の形状には「側面射撃」の死角をなくす効果もあった。→【図9】 同様の設計はバルダッサーレ・ペルッツィやレオナルド・ダ・ヴィンチの素描にもみられる。 →【図10】 ◎ 城壁屈曲部の分離と「半月堡」の成立 ロッカ・シニバルダ(→【図11】 )やサルザネッロ砦(→【図12】 )にみられる、二つの 塔に挟まれ、 「側面射撃」によって援護される「半月堡」 。 「半月堡」を両脇からの「側面射撃」で援護するという着想はレオナルドの素描でも明示さ れている。→【図13】 ◎ 屈曲した城壁→半月堡→角型稜堡の成立 従来の説では「城壁の鋭角」と「側面射撃による援護」が結びつく過程が明らかではなかっ た。また、このふたつが「古典の再解釈」によって着想されたことも見逃されていた→【図 14】 2-2 「稜堡式築城」と「近代化」 * フランチェスコ・ディ・ジョルジョの築城術と稜堡式築城の大きな相違点 →フランチェスコ・ディ・ジョルジョが全周囲防御を否定したのに対して、稜堡式築城は多 角形プラン(全周囲防御)を採用。 ◎ バルダッサーレ・ペルッツィ(1481-1536)による多角形プランの採用 大規模な城砦についてどのような平面プランがふさわしいか…フランチェスコ・ディ・ジョルジョ の考察に上っていなかった問題。 →ペルッツィは、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ同様「大規模な城壁に古代人の推奨した円形 は不適切」としたうえで、五角形、六角形といった多角形プランを推奨する。 ◎ ピエトロ・カターネオ(d. 1569?)の築城術に表れた「近代性」 1、 「城壁の鋭角による防護」と「側面射撃」の融合 2、規模が大きくなるに従って四角形から十角形まで次第に頂点を増やしていく設計→【図15】 カターネオが城砦の平面プランを決定する上で重視した要素…①多角形プランを採る根拠は大砲の 射程距離のみ。②ウィトルーウィウス以来、城壁の形状を決めるうえで重視された風の八方位に対 応した「八角形都市」の欠如。城砦は近代的砲兵 moderna artiglieria に対抗することが目的。 →客観的なデータに基づく設計、古代との決別、合目的性などカターネオの「近代的」なメンタリ ティの表明。 3 国防戦略と建築家 ◎ 実際の戦争での築城術の影響力 1、個々の戦闘の結果をもって単純に築城術の優劣を語ることの難しさ(ex. G・Parker に対す る批判) 2、同じ城砦に対しても立場に拠って評価が逆転する。 サン・レオ砦に対するマキァヴェッリの評価 『戦争の技術』第 7 巻 「領国や城塞都市は自然によって、あるいは人為によって堅固となりうることを諸君は知っておか ねばならない。[中略]また断崖や険しい山の上にある城塞都市、たとえばモナコやサント・レオが その例だ。だが、山頂に位置する都市は攻め登るのにさほど難儀でもないから、今日では大砲や地 雷坑に対して実に脆いものとなっている」 教皇レオ十世によるサン・レオ攻略(1516 年)を評価→【図16】 サン・レオ砦に対するカターネオの評価 『建築』第 1 書 8 章 「さて、次に難攻不落とみなされる、高所にある地形について論じる。[中略]たとえ地雷坑や大砲 によって平野部から(山頂にある)城砦が攻撃されたとしても、それらは危険や損害なしに攻め登 ることは出来ないので、カストロやイスキア、サン・レオ、オリヴィエート、カッターロ、その他 同様の城砦は、堅固で安全とみなされている」 «Discorrendo or sopra quei luoghi posti ne l’alto che si possono giudicatre inespugnabili. [中 略]Altri sono che, ancor che dalle mine o artiglierie fusser battute o mandate a terra parte delle lor mura, non vi si potria salire senza manifesto pericolo o danno, e di qui è che Castro, Ischia, San Leo, Orivieto, Cattaro et altri simili son giudicati forti e sicuri.» (sic.) * 築城術は必ずしも実戦での経験や知見が直接反映されるわけではない。 3-1 1494年フランス侵攻とイタリアの築城術 ◎ 1494 年、フランス王シャルル八世がナポリの王位継承を主張してイタリアに侵入。 →イタリアの政治、軍事環境を揺るがした「チョーク戦争」……? *マキァヴェッリ、グィッチャルディーニら、イタリア人文思想家による評価 ……「遅れたイタリアの軍事制度・組織・技術が原因」 フランスの大砲に「イタリアの中世城郭」は対抗できなかったのか? →すでに見てきたとおり、 大砲への防御を念頭に置いた築城術はイタリアで考案・実施されていた。 1、フィレンツェの防衛線としてサルザーナ(→【図17】 )およびサルザネッロという優れた城 砦があったが、メディチ家の降伏で活用されなかった。 2、ローマの防衛線としてグロッタ・フェッラータ(→【図18】 ) 、チヴィタ・カステッラーナ (→【図19】 ) 、ブラッチャーノ(→【図20】 )などの優れた城砦があったが、ローマの 豪族たちに抵抗の意思がなかった。 3、ナポリまでの道中における攻城戦およびナポリ攻略は、フランス側のいくつかの幸運による (S・Pepper の説) 。 3-2 ペルッツィ、カターネオの国防思想 16 世紀に流行した「城砦不要論」にたいして、建築家側からの国防戦略プランの提示 「城砦不要論」……城砦は君主を慢心させ、民心を失わせるので建設すべきでない(統治の観点) 、 さらに城砦は敵軍によって容易に迂回されうるので防衛手段として機動的な軍隊に劣る(軍事戦略 の観点)とする考え方。 ◎ 15 世紀の建築家(フランチェスコ・ディ・ジョルジョなど)にとって、城壁・城砦の防衛の範 囲は「都市」に限定されている。 →16 世紀にはいると、より広い観点から城砦と築城術が考察されるようになる。 ◎ ペルッツィの建築家=「国家の医者」論 ペルッツィ『軍事建築論』 「建築家の才知は、忍耐強い医者が病や伝染病、あるいは肉体の状態や体質にあわせて、薬を処方 するように用いられなければならない。それゆえ我々はあらゆる薬効を知りたいと望むのである。 そんなわけで、城砦や堡塁は医術のように、学究をとおして整理・構成されねばならないのだ」 «La inteligientia dello architetto dia fare chome el prudente fisicho de’ apricare le medicine sicondo le matatie, conpresione, natura e qualità del corpo, imperò che ancho noi vediamo hogni veneno vole sua natura di triacha. Così le forteze e ripari d’esse dieno esare in tal modo conposte e ordenate sicondo che a quele si ricercha.» →国家は肉体であり、それを守る築城術は医術。 「君主・国家の salute(安全/健康)のために、建築家と築城術はいかにあるべきか」という視点。 ◎ カターネオの政体にもとづく要塞化計画 カターネオ『建築』第 1 書 21 章 「領土に城砦を建築しようと考える君主や共和国には、どれほどの有益性がありうるのか。そして その政体の性質の違いによって、こうした城砦建設を推進するのが適切かどうかも異なる」 «Di quanta utilità sia a qual si voglia prencipe, o republica, fortificare i domini loro; e come secondo la diversa qualità de’ potentati si convenga anco in tali fortificazioni diversamente procedere.» →国家を政体によって三種類に分類し、それぞれ城砦建設をすべきか否か論じる *こうした分類は、マキァヴェッリ『君主論』に従ったものである(ただし結論は異なる) 1、古い王政国家(フランス、スペイン)……封建領主の集合体であるため、城砦は不要 2、独裁国家(トルコ)……反乱がおこりにくい性質であるため、城砦は不要 3、小さな君主国や共和国……たとえ領民・家臣から愛されていようとも城砦を建設すべき 3、に関連して……「敵の交通を遮断し、住民および食料源を防衛するのに城砦は有効である」と する→城砦単体の価値ではなく「領土全体の安全」という観点。 16 世紀の建築家……人文主義者たちと同じレトリックを用いて「城砦不要論」に反対 おわりに 火器のもたらした軍事技術の変革とは、単なる技術競争(攻撃と防御のシーソーゲーム)なのか? 《参考文献》 -Alberti, L. B., L’architettura [De re aedificatoria] (a cura di Orlandi, G.), Milano, Polifilo, 1966.(アルベルティ、 レオン・バッティスタ、 『建築論』相川浩訳、中央公論美術出版、1982 年。 ) -Cataneo, P., I Quattro Primi Libri di Architettura, Ridgewood, The Gregg Press, 1964(first ed. 1554). -Cataneo, P., L’architettura, in. Pietro Cataneo, Giacomo Barozzi da Vignora TRATTATI (a cura di Bassi, E., Benedetti, S., Bonelli, R., Magagnato L., Marini, P., Scalesse, T., Semenzato, C., Casotti, M. W.), Milano, Polifilo, 1985 (first. ed. 1567). -Martini, Francesco di Giorgio, Trattati di Architettura ingegneria e arte militari (a cura di Maltese, C.), I-II, Milano, Polifilo, 1967.(マルティ-ニ、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ、 『建築論』日高健一郎訳、中央公論美術 出版、1991 年。 (Ashburnham 写本のみの翻訳) ) -Peruzzi, B., Trattati di Architettura militare (a cura di Parronchi, A.), Firenze, Gonnelli, 1982. -Sanudo, M., Commentari della guerra di Ferrara tra li viniziani ed il duca Ercore di Este nel MCCCCLXXXII, Venezia, Giuseppe Picotti, 1829. -Vitruvio, De Architectura Libri X (a cura di salino, F.), Roma, Kappa, 2002.(ウィトルーウィウス、 『ウィトル- ウィウス建築書』 、森田慶一訳、東海大学出版会、1979 年。 ) 二次文献 -Adams, N., L’architettura militare di Francesco di Giorgio, in. Francesco di Giorgio architetto (a cura di Fiore, F. P. & Tafuri, A.), Milano, Electa, 1993. (Adams, 1993a) - Adams, N. & Pepper, S., Firearms & Fortifications: Military Architecture and Siege Warfare in Sixteenth-Century Siena, Chicago, The University of Chicago Press, 1986. -Armati, C., Influenze martiniane nell’architettura militare di età laurenziana, in. Francesco di Giorgio Martini rocche, città, paesaggi (a cura di Nazzaro, B. & Villa, G.), Roma, Kappa, 2004. -Biffi, M., La traduzione del De Architectura di Vitruvio, Pisa, Scuola Normale Superiore, 2003. -Costantini, A. & Paone, M., Guida di Gallipoli, Galatina, Congedo, 1992. -Dechert, M., City and Fortress in the Works of Francesco di Giorgio:The Theory and Practice of Difensive Architecture and Town Planning, Ph.D diss., The Catholic University of America, 1984. -Dechert, M., Il sistema difensivo di San Leo: Studio della sua architettura, in. Federico di Montefeltro lo stato le arti la cultura (a cura di Baiardi, G. 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Contributi e ricerche su Francesco di Giorgio nell’ Italia centrale (a cura di Colocci, F.), Urbania, Comune di Urbino, 2006. -Scaglia, G., Il Vitruvio magliabechiano/di Francesco di Giorgio Martini, Firenze, Gonnelli, 1985. -Tessari, C., Baldassare Peruzzi: Il progetto dell’antico, Milano, Electa, 1995. -Volpe, G & Savelli, R, La rocca di Fossombrone: una applicazione della teoria delle fortificazioni di Francesco di Giorgio Martini, Fossombrone, Banca popolare del Montefeltro e del Metauro, 1978. 《 図 版 》 【図1】 【図2】 フランチェスコ・ディ・ジョルジョ、 フランチェスコ・ディ・ジョルジョ 『建築論』の擬人論的城砦図 の擬人論的城砦:カーリ砦 【図3】フランチェスコ・ディ・ジョルジョの擬人論的城砦:ガリーポリ砦 【図4】ガリーポリ港と砦の位置関係を示した地図(図中の矢印は【図3】の撮影地点) 【図5】 【図6】 フランチェスコ・ディ・ジョルジョの フロントーネ砦 擬人論的城砦:フォッソンブローネ砦 【図7】 【図8】 capannato と角型稜堡の形態的類似 サン・レオ砦の塔と屈曲した城壁 【図9】サン・レオ砦の平面図と「側面射撃」の射線 【図10】屈曲した城壁の両脇を塔で挟む城砦プラン(下:バルダッサーレ・ペルッツィ。次頁: レオナルド・ダ・ヴィンチ) 【図11】ロッカ・シニバルダ(バルダッサーレ・ペルッツィ改築)の平面プラン(推定) 【図12】サルザネッロ砦(ダ・サンガッロ兄弟改築)の「半月堡」 【図13】レオナルド・ダ・ヴィンチの、両脇の塔で「半月堡」を援護する城砦プラン 【図14】 「城壁の鋭角」から「稜堡式築城」への発展過程 解説:直線の城壁(左上)では①塔からの側面射撃は、②隣接する塔を傷つける。そこで城壁を屈 曲させた場合(右上) 、①城壁が曲がっているため、②城壁に沿って側面射撃を行っても損害が発生 しない。同様に城壁から半月堡が分離した場合(左下)も、①半月堡は、②壁面に沿って側面射撃 の援護を受けられる。この半月堡と側面射撃の関係を城砦全体に拡張すれば(右下) 、①角型稜堡で 囲まれ、②側面射撃で死角なく防衛される「稜堡式築城」が成立する。 【図15】ピエトロ・カターネオの城砦プラン(七角形の場合) 【図16】サン・レオの包囲(G・ヴァザーリ画 フィレンツェ・ヴェッキオ宮) 【図17】サルザーナ城 【図19】チヴィタ・カステッラーナ 【図18】グロッタ・フェッラータ(サン・ニーロ修道院) 【図20】ブラッチャーノ城