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正 し い 環 境 で 育 っ て

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正 し い 環 境 で 育 っ て
第 1 章 正しい環境で育って
第
章
第
部 行動︑
姿勢︑そして環境
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正しい環 境で育って
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祖父には生まれながらにしてものを売る才能があり︑幼い私にはそれが魔術のようだった︒
私自身がセールスマンとして生まれたかは分からないが︑少年時代︑祖父をはじめとする近所
の男たちに魅了されていたことをよく覚えている︒生きることが困難な時代にあって︑祖父た
ちは自分たちの商才だけで生計を立てていたのである︒
祖父は︑フォード・モデルTのトラックの助手席に私を乗せて︑近所の通りをガタゴトと車
を走らせたものである︒荷台には早朝︑農家から仕入れた野菜や果物が満載になっている︒こ
れらを一戸ずつ売っていくのである︒祖父には人を惹きつける力があった︒祖父のトラックの
クラクションが聞こえると︑主婦たちは料理や掃除の手を休めて︑エプロンやふきんで手を拭
きながら戸外に出てくる︒野菜の色や鮮度と同じくらい︑祖父のユーモアや偉ぶらない様子︑
話しぶりに惹かれているようだった︒
馴染みになっていたルートで︑祖父は私に初めて売るという体験をさせてくれた︒稼ぎはわ
ずか数ペニーだったが︑その忘れられない達成感が︑大人として成長していくべき道を決定づ
けたと言っていいだろう︒
私のルーツは︑大恐慌時代をアメリカ中西部ミシガン州グランドラピッズという︑ありふれ
た町で過ごしたことと切り離せない︒金銭的にはギリギリの生活だったものの︑私の少年時代
はいろいろな経験に恵まれた幸福な時間として︑鮮やかに記憶されている︒友達に囲まれ︑心
配事もなく︑快適な毎日だった︒子供でさえ労働や犠牲が強いられるという苦しい時代だった
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第 1 章 正しい環境で育って
が︑それが私を強くして︑人生の大事な教訓を教えてくれたのである︒正しい環境で育つこと
ができた私は︑ラッキーだった︒
私自身の基礎は︑自分や友人の家庭︑路上や遊び場︑教室や教会の信者席などさまざまな場
所で︑両親や祖父母︑教師や牧師など多くの人々によって作られた︒また︑自分自身のビジネ
スをどのように実行していけばいいかは︑新聞配達から学んだ︒前述のように︑祖父と戸口に
野菜などを行商する中で︑生まれて初めての報酬を得た︒また︑高校最上級年の代表として人
生初のスピーチを行った︒家庭での祈りや日曜学校によって︑キリスト教に対する信仰の芽が
育まれた︒夫婦仲が良かった両親からは安心できる環境を与えられた︒父が絶えず励ましてく
れたおかげで自信と楽天さを持つことができたし︑優れた教師の導きによって自分にはリー
1926年
月
日︑家具の産地として知られるグランドラピッズという︑ごく普通のアメ
ダーの素質があるかもしれないと考えるようになった︒
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﹂など各メーカーの看板が掛かっていた︒モンロー通りやフルトン通りなど︑町の中
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の 家 具 工 場 が 立 ち 並 び︑ そ の 煙 突 に は︑﹁
書かれた絵葉書が残っている︒グランドラピッズを流れるグランド川の両岸には︑れんが造り
リカの都市で私は生まれた︒幼少の記憶に︑﹁ようこそ"家具の都"グランドラピッズへ﹂と
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心部のメインストリートではゴトゴトと路面電車が走っていた︒道路を行き交う車はモデルT
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世 代 の 移 民 は︑﹁ 故 国︵
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ばかりで︑川に架かるトレッスル橋を列車が轟音を立てて渡っていた︒
階建て3LDKの家々が立ち並び︑ところどころに夫婦で経営するお店が
私の家は︑町の中心部からフルトン通りを数キロメートル東に行った静かな並木通りにあっ
た︒その辺りには
て い た 強 い オ ラ ン ダ 語 な ま り が 今 も 耳 に 残 っ て い る︒ 第
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が︑そこにはアメリカで享受している自由についての自慢話が記されている︒それは︑パン屋
自由を手にしたかったからである︒オランダ系移民らが故国に送った手紙が今も残っている
アメリカへの移住は︑経済的な必要性に迫られたからというよりも︑自分の夢を叶えるための
だのである︒彼らは誰もが勤勉でつましく︑現実的で︑しかも熱心なプロテスタントだった︒
その後︑さらに大きなチャンスを求めて︑グランドラピッズという近くの大都市に移り住ん
と木靴を身につける習慣が残っている︒
め︑今でも毎年チューリップ祭りのころにはオランダの伝統をたたえて︑住民たちが民族衣装
﹂となってしまった︶
︒初期のオランダ系移民はミシガン州ホランドに入植した︒そのた
︵シンクにお皿を置いておいて︶﹂は﹁
︶
﹂ に残してきた家族について語り︑J をY︑SをZのように発音した︵そのため︑﹁
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グランドラピッズの多くの家庭と同じく︑私の家族もオランダ系だった︒近所の人々が話し
公園もたくさんあった︒
出ていた︒また︑近くには木々に覆われたアクィナス大学のキャンパスがあり︑遊び場となる
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第 1 章 正しい環境で育って
の 息 子 に 生 ま れ れ ば パ ン 屋 に な る の が 当 然 だ っ た 当 時 の オ ラ ン ダ で は︑ 思 い も よ ら な い も の
だったのである︒
ミシガン州ホランドは︑1800年代中ごろにアルベルツス・バン・ラルティー牧師によっ
て開かれている︒師は︑故国オランダに宛てた手紙の中で︑仕事を求めてグランドラピッズに
向かうオランダ人は概して技術訓練や教育が欠けていると述べたが︑幸いにも男性の多くは家
具工場で腕を磨いて職人になり︑また若い女性は裕福な家庭のメイドになることができた︒
社は︑グランドラピッズのオランダ系アメリカ人が創業し
一方で︑オランダ人のもう一つの特性である起業家精神を発揮した者も多かった︒例えば︑
アメリカの宗教出版社のうち大手
たものである︒また︑グランドラピッズにキリスト改革協会の本部やカルヴァン大学を設立し
たのもオランダ系アメリカ人だった︒キーブラー社の前身であるヘックマン・ビスケット・カ
ンパニーもグランドラピッズで創業した︒有名な中西部のスーパーマーケットチェーンのマイ
ヤーや︑国際的に名を知られることになるダイレクト・セリング会社の我らアムウェイも同様
である︒ そんな私自身もオランダ人の遺産を数多く受け継いでいる︒ 例えば︑ 自由を愛する
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年代﹂とも称される時代に産まれたが︑アメリカが急速に発展し︑繁栄の
心︑ゆるぎない勤労精神︑起業家精神︑強い信仰心などだ︒
私は︑﹁狂騒の
歳のと
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一途をたどっていた姿の記憶はない︒少年期で覚えているのは大恐慌である︒私が
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稼ぎ手が
分の
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が失業していた︒電気
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年間は単発の仕事で何とかやりくりしていた︒
人しかいなかった当時であり︑しかもアメリカ人の
工として働いていた私の父も失業中で︑
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番目の家はワーリンウッド通りで︑私はその家
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く思っていたものである︒
階には寝室が
つあり︑
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つあった︒こうし
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ドルで貸
階に引っ越すことにした︒そこでは︑屋根裏の梁を見上
げながら寝起きしていた覚えがある︒それまで住んでいたワーリンウッドの家は月
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もども暮らし向きが裕福になったときに︑心から感謝の気持ちを持つことができた︒
た︒当時は気づいていなかったが︑その頃の体験が私の価値観を形成し︑後に成功して家族と
自身は︑ある種冒険のように感じていた︒また︑祖父母とともに過ごす時間がとても楽しかっ
していた︒この引っ越しは︑両親には辛かったようだが︑屋根裏で寝起きすることになった私
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れてヘレン通りに戻り︑祖父の家の
ばらしい少年時代を過ごした家を去ることになる︒父は︑母のエセルと私と妹のバーニスを連
父のサイモンが失業したことで︑私たち一家は自分で建てた家に住み続けられなくなり︑す
階にバスルームが
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た造りは︑その近所では当時ごく一般的なものだった︒
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の床磨きを手伝うのが好きだった︒フローリングは白木ではなく堅木で︑それをとても誇らし
家庭は病院で出産する余裕がなかったのだ︒
私たち一家の最初の家はヘレン通りにあり︑母はその家で私を出産した︒当時︑ほとんどの
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期目の当選を果たしたフランクリン・D・ルーズベルト大統領は︑就任演説で国民の
き︑
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がいまだ衣食住に事欠いていると警鐘を鳴らした︒共働きがまだ一般的でなく︑一家の
分の
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