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1910年代三菱の鉱業投資

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1910年代三菱の鉱業投資
追手門経営論集,
Vol.4, No、2
pp. 85-132, December,
1998
Received Sept. 20 lタタS
1910年代三菱の鉱業投資
畠 山 秀 樹
目 次
I.はじめに
n.三菱の鉱区投資
(1)石炭鉱区
(2)金屑鉱区
ffl.三菱の起業費データ
(I)起業費データの検討
(2)年度起業費の試算
IV.総起業費予算の動向
(1)第1次大戦以前の状況
(2)第1次大戦期の状況
(3)第1次大戦後の状況
V.おわりに
I
周知のように,
は じ め に
1910年代の日本経済は第I次世界大戦とそれに続く戦
後のブームに乗って異常なまでに急激な膨張を遂げ,また産業構造の高度
化も顕著に進行する時期にあたっていた。
ところで,もちろんわが国の鉱業もこのブームに乗って急激な発展をみ
−85−
畠 山 秀 樹
追手門経営論簒yoi.4
No,l
せたが,これを石炭鉱業と金属鉱業を代表する銅鉱業との2つに分けて観
察するとき,わが国や世界の産業構造,あるいは市場構造等の変化に規定
されつつ,両鉱業は大きく異なる軌跡を描くこととなった。
すなわち,簡略化していえば,石炭鉱業は銅に遅れて大戦ブームに乗り,
戦後反動恐慌の打撃を受けつつも,また1920年代の連続不況期において,
炭況の不振に喘ぎつつも比較的安定した生産の拡大をみせた。これに対し,
銅鉱業は大戦ブームの到来は急激であったが,大戦終結後からアメリカ銅
の圧迫を受けて銅況は不振に陥り,
1920年代後半に至るまで生産も減少
あるいは低迷を続けることとなったのである。
本稿は,以上のような1910年代において,y石炭と銅の両部門にまたが
る総合型鉱業経営であった三菱が,どのような投資行動を行ったかを考察
しようとするものである。そして,その際には両部門に対する投資の比較
分析という視点から照明をあてることとしたい。それは,総合型鉱業経営
としての三菱の投資の動向と特質を,より明瞭にできるのではないかと考
えたからである。しかしながら,本稿では,両部門に対する具体的な投資
の内容にまで立ち入ることは避け,もっぱら鉱区と起業費にしぼって検討
を試みた。また,有価証券投資についても検討課題の外におくこととした。
これらについては,現在準備中の別橋の課題に譲ることとしたい。
なお,三菱合資会社は1918年に傘下の鉱業部門と営業部門をそれぞれ
三菱鉱業と三菱商事というふたつの株式会社として分離・独立させるので
あるが,本稿では株式会社化の独自的意義は認識しつつも,原則として
“三菱”という表現で行論を進めたことをおことわりしておきたい。
1)
1)三菱に関する主要文献については,三島康雄編『三菱財閥J
1981年,およ
び三島他『第二次大戦と三菱財閥』1987年,に詳細な参考文献の目録かおり,
また,麻島昭一『三菱財閥の金融構造』1986年,にも研究史の整理かおるの
で,参照されたい。なお,本稿は私の三菱鉱業史研究の一環をなすものであ
り,畠山秀樹「三菱合資会社設立後の新入炭礦」(『追手門経済論集』第27巻/
−86−
December
り夕ぶ
1910年代三菱の鉱業投資
n.三菱の鉱区投資
(1)石炭鉱区
鉱業経営の基礎となるべきものは,いうまでもなく鉱区所有であり,ま
た資源の埋蔵が見込める土地に対して試掘鉱区を設定して探鉱活動を行う
ことは,長期点視点から経営の維持と発展をはかるうえで不可欠なことで
ある。とりわけ,試掘鉱区の設定は戦略的方向性を示す羅針盤として重要
2)
X第1号,
1992年),「1920年代三菱炭の流通」(同,第29巻第3号,
1994年),
「1910年代の銅市場と三菱の売銅活動」(I)・(2)・(3)・(4・完)(『追手門経営
論集』第1巻第1号,第2巻第1・第2号,第3巻第1号,
1995∼97年),
「1910年代三菱の非鉄金属販売制度」(作道洋太郎編著『近代大阪の企業者活
動』1997年),等と関連するものである。三菱の産出額や収支,損益につい
ては,以上を参照されたい。なお,武田時人『日本産銅業史』1987年,およ
び丁振聾「1920年代の目本における炭鉱企業経営」(経営史学会編『経営史
学J Vol.27, No. 3, 1992年』は,本稿と関連する労作である。なお,本稿
では日本の鉱業企業のタイプを以下の5つに分類して叙述を進める。すなわ
ち,第1は,炭破経営にほぼ専業化した炭礦専業型,第2は金属鉱業にほぼ
専業化した金属専業型,第3は炭価・金属両部門にわたって均衡的な投資を
行った総合型,第4は炭価経営を中心として,合わせて有力金属鉱山を兼営
する金属兼営型炭価企業,そして第5は炭礦謝営型金属鉱業企業である。詳
しくは,前掲「1910年代三菱炭の流通」75頁,参照。
2)鉱区所有の意義については,隅谷三喜男『日本石炭産業分析』1968年,第
2部第1章第4節「鉱区所有と資本」に尽くされている。ただし,金属鉱業
の場合には,製煉部門の意義が加わろう。 なお,武田晴人『日本産銅業史』
(1987年)は,その「はじめに」において,産銅業では「採取産業としての
性格をもつ採掘と,装置産業としての特性を強める製煉という二つの異質の
生産過程を内包する産銅業の特殊性」が,製鉄業を例示しつつ強調されてい
る。私は,その主張に対し一般論として異論はない。そして,それは第2次
大戦後の産銅業を考察するうえで重要であるとしても,第2次大戦以前のよ
うに優良鉱区所有を有力な競争手段としている場合には,採掘と製煉の両部
門の相互規定的関連を分析していくことが,より重要な視点ではないかと考
えている。
−87−
畠 山 秀 樹
追手門経St-j楽Vol.
4
であるが,従来の鉱業史研究ではほとんど空白に近い状況におかれてきた。
ここでは三菱の動向について,石炭,および金属鉱区の順で採掘・試掘鉱
区の取得状況について簡単な考察を試みることとしたい。
表1は,三菱所有石炭鉱区を地域別に,採掘・試掘に分けて一覧表に整
理したものである。
同表によれば,
1912年において三菱は九州に採掘鉱区約2,270万坪(計
の93.0%),試掘鉱区約113万坪(計の100%)を有し,北海道には未所有,
その他に採掘鉱区172万坪(同7.0%)を有していた。ここからは,三菱の
炭礦経営はほぼ九州に偏在しており,また試掘鉱区面積も余り広いもので
はなく,炭礦経営に対する積極性に乏しかったように見受けられる。とこ
ろが,翌13年になると,九州では採掘鉱区約2,339万坪,試掘鉱区約113
万坪とほぼ横ばいであったのに対し,北海道には採掘鉱区約2,262万坪。
3)
試掘鉱区約8,633万坪という巨大鉱区が突然出現したのである。 これに伴
い,採掘面積計に占める九州の割合は49.0%,北海道のそれは47.4%と
わずかに九州が上回っているが,試掘面積計では九州のそれが1.3%,北
海道のそれは98.7%となって,北海道が圧倒的な割合を占めるように
なった。三菱の関心が,北海道鉱区にしぼられたかのような印象さえ受け
るほどである。
しかしながら,このような三菱の北海道進出が一朝にして実現された訳
3)ただし,
1913年の北海道鉱区の数字は表1の(注)3に示したように,『三
菱社誌』と『三菱合資会社年報』(以下『合資年報』と略)とは異なる数値を
掲げている。 しかしながら,両書の採掘と試掘面積の和は,ほぼ一致する。
したがって,両書の相違は,調査時期の相違に起因するものであり,試掘か
ら採掘鉱区への振り替えが進んでいたものと解して,『合資年報』のほうの数
値を表1には掲げた。しかしながら,両書ともに年末現在の数値としており,
数値として検討の余地を残すものである。
−88−
No. 2
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1910年代三菱の鉱業投資
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畠 山 秀 樹
追手門経甘論集yoi、4
No.I
ではなかった。三菱はすでに,鉄道国有化を北海道石炭鉱区進出の大きな
4) :
ビジネスチャンスとして捉え,三菱合資会社本社に1911年8月臨時北海
道調査課を設けて北海道進出の好機を窺っていた。同年,三菱は大夕張炭
坑株式会社の出炭の一手販売権を得,翌々年には小樽支店を開設,そして
5)
さらにその翌13年に芦別石炭鉱区を確保したのである。このようにみて
くると,
1911年に始まる三菱の北海道進出への布石が,
1913年における
巨大鉱区の出現として結実したものであることが知られよう。なお,
1911
4)従来,北海道炭礦鉄道株式会社か有力炭田と積出港を結ぶ鉄道網を所有し
ていたため,同社所有炭礦と他社所有炭礦どの間に差別的取引条件を設定し
ていた。 そのため,それが北炭以外の企業が北海道石炭鉱区に進出するため
の重大な障害となっていたが,日露戦後同社の鉄道部門が国有化の対象と
なったため,北海道進出が容易となった。 この点については,鉄道院編『本
邦鉄道の社会及経済に及ぼせる影響』(中巻),
5)以上のような三菱の北海道への進出は,
1916年,第8章第3節参照。
1911年8月の臨時北海道調査課の
設置をもって本格化すると解せよう。この点について,三菱鉱業セメント㈱
刊『三菱鉱業社史』(1976年)は「三菱の北海道進出も,鉄道国有化以降の
明治40年代からであった。明治42年には三菱は既に試掘権の設定を行って
おり,北海道各地に試掘出願をしていたと思われる。 これらの促進機関とし
て44年8月三菱合資本社内に臨時北海道調査課が設けられた」(214頁)と
記している。そして,1911年12月23日に三菱は大夕張炭坑株式会社に資金
を貸付け,その見返りに同社の一手販売権を取得したのである。『三菱社誌』
(21)(1980年,復刻,本稿で使用する『三菱社誌』はすべて復刻版であり,以
下すべて復刻版の巻数で表示し,刊年を略す)によってその内容を要約すれ
ば,同社所有鉱区等を担保として28万円を大夕張炭坑㈱に貸与し,
5年間
で返済するものとして,「同炭坑出炭山許一噸二付金七拾銭ヲ支彿ハシメ,尚
同炭坑會社ヲシテ我社二満五ヶ年間石炭ノ一手販責榴ヲ委託セシム」(同書,
1386頁)としていた。おそらく,負債は販売代金から控除的返済という形を
とったものと想像されるが,三菱は同年九州炭破汽船株式会社に対し,さら
に1914年には美唄炭坑主に対し融資を行って委託販売権や一手販売権を取得
し,その後三菱がこれら炭坑の買収を行っている。美唄炭坑は,
−90−
1915年4月,
/
December
1910年代三菱の鉱業投資
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年は三井が登川炭礦を買収して北海道進出を果たした年でもあり,奇しく
も三井・三菱がそろって北海道に進出した年にあたっていた。
そして,
1914年は第1次大戦の勃発した年であるが,九州では採掘・
試掘面積ともに若干増加したが,北海道では採掘面積が約100万坪減少し,
試掘面積は半分以下の激減となった。これは,採試掘の結果,思わしくな
い鉱区が大量に整理されたことを意味するとともに,炭況の下降に対応し
て経営姿勢が消極化したことにもよろう。
人戦開始2年目の1915年に移ろう。九州では,採掘面積において変化
がないが,同計の44.4%と半分を割った。試掘面積では,
536万坪と前年
比3.8倍となって戦時ブームに備え始めたようにみえる。一方,北海道で
は,推定採掘鉱区約2,805万坪,同試掘鉱区約9,672万坪と再び大きく増
X大夕張炭坑は1916年1月の買収であった。このように,融資と販売権をセッ
トにして支配下においた炭坑を,その後買収するという方法が,三菱の北海
道進出にあたってとられた主要な方法の一つであった。 もう一つは,北海道
には広大な未開発の地域が残っていたことから,試掘鉱区を設定して,試
錐・探鉱を行って資源を把握したうえで本格的・大規模開発をスタートさせ
るという新規開発型の方法であった。芦別炭坑がこの事例に該当する。 ただ
し,『三菱鉱業社史』の「資料編」では,
を買収」(有書,資料編,
1913年3月12日に「芦別石炭鉱区
90頁)と記して,芦別炭坑が買収型進出であるか
のような印象を与えている。 しかし,『三菱社誌』剛の同年の同じ日付の記
事によれば,空知郡所在の淡中孝八郎名儀の11試掘鉱区計約6,955千坪,お
よび空知郡所在干頭清巨名儀10試掘鉱区約8,799千坪をいずれも「社名二変
更ス」(1666∼68頁)と記載されていることから知られるように,単なる名
儀の変更であったと考えられる。『三菱社誌』の前後を照合するとき,名儀を
借用して試掘鉱区の設定を進め,一定の鉱区設定が終った段階で,本来の取
得者であった三菱に名儀を書き換えたものであろうと推測される。その際に,
一部買収もあったと思われる。三菱では,このような形で鉱区取得を進めた
事例は,多数見受けられるからである。
−91−
畠 山 秀 樹
追手門経営論集Vol.4
No. 2
加した。 この結果,北海道の採掘鉱区面積は同計の52.4%となり,はじ
6)
めて九州を上回った。また,試掘鉱区が前年比約2.3倍となったことは,
再び三菱の北海道石炭鉱区進出への意欲が強まったことを物語るものであ
る。なお,同年は三菱全体の試掘鉱区も1億坪を突破しており,これは
1918年まで続くこととなった。
次に, 1916年をみると,同年は本格的大戦ブームが炭礦業に訪れた年
にあたるだけに,鉱区拡大が積極的に進められた。九州では,採掘鉱区が
約2,674万坪(計の44.0%)と前年比約300万坪も増加し,試掘鉱区も約
2,550万if.(同23.0%)と約2,000万坪もの激増となった。そして,北海道
では採掘鉱区はさらに増大して約3,400
フブ坪(同56.0%)とはじめて3,000
万坪を突破し,試掘鉱区も約8,544万坪(同77.0%)に達した。
そして,翌1917年にはいると,九州においても採掘鉱区は約3,305万
坪(計の45.0%)と北海道に続いて3,000万坪台に乗せた。瞳目すべきは試
掘鉱区で,これは1億709万坪(同54.8%)と前年比約4.2倍にものばっ
た。北海道でも採掘鉱区は約3,874万坪(同卵。7%)に増加したが,これ
は1919年まで同一面積であったので,北海道での新規鉱区取得もそろそ
ろ限界に近付いた感があろう。試掘鉱区も約8,851万坪(同45.2%)と増
加しており,この年三菱全体の試掘鉱区は2億坪弱という空前のスケール
に達した。巨大鉱業資本にしてはじめて可能な雄大な探査活動と評価でき
6)表1の(注)3に記したように,
1915年の北海道地区の石炭鉱区の面積は
推定値である。推定の理由を簡単に示しておけば,『合資年報』(1915年度)
においては,美唄炭坑において採掘鉱区8,304千坪,試掘鉱区7,044千坪,お
よび大夕張炭坑試掘鉱区772千坪が計上されている(同書,炭坑の部,
1頁)。
ところが,『三菱社誌』(24)では,臨時北海道調査課所属として採掘鉱区
19,741千坪,試掘鉱区88.903千坪が計上されているのである(同書,
2714∼
15頁)。そして,『年報』と『三菱社誌』掲載の鉱区名・炭坑名は重複してい
ないことから,三菱合資所有北海道石炭鉱区は,両者の合計,すなわち採掘
鉱区28,045千坪,試掘鉱区96,719千坪と推定されるのである。
−92−
December
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1910年代三菱の鉱業投資
よう。
1918年は大戦終結の年にあたる。九州における採掘鉱区は約3,279万坪
(計の44.8%)と微減であったが,試掘鉱区は約4,157
久J坪(同30.3%)と前
年比約6割減となった。一方,北海道では採掘鉱区は前述したように不変
であったが,試掘鉱区は約9,443万坪(同68.7%)と前年比60万坪弱の増
大を示し,表1におけるピークに達した。ここからは,三菱の炭礦業に対
する微妙な姿勢を窺知できるようで興味深いものがある。なぜならば,三
菱は大戦終結とその後の反動恐慌の襲来に備えてはやくから警戒態勢を
とっており,すでに老境にはいっていた九州では採掘鉱区はほぼ横這いで
あったが,試掘鉱区は思い切って削減したことである。そして,北海道で
は採掘鉱区面積に変わりはなかったが,試掘鉱区を拡大して,有望鉱区の
開拓には強い積極性をみせたからである。優良鉱区の先行的取得こそが,
有力企業間の競争力における優位性保持の鍵であったことを示すものであ
ろう。
ところで,翌1919年は三菱の予想に反して反動恐慌は起きず,石炭
ブームはさらに拡大した。三菱は,九州における採掘鉱区を若干増加させ
て約3,512万坪(計の45.9%)とし,試掘鉱区はさらに思い切って663万坪
までに削減して,以後ほぼ変化がなかった。北海道では,採掘鉱区を現状
維持とし,試掘鉱区は約1,403万坪を減じて,約8,040万坪(同83.2%)と
なった。ところで,同年においてなお留意しておくべきことは,同表の
(注)4において示されるように,樺太に採掘・試掘の鉱区を設定したこと
である。三菱鉱業会社は,
1919年12月本店内に臨時樺太調査部を設置し
T)
ており,以後しだいに樺太における鉱業経営を拡大していった。
7)三菱の樺太鉱区経営は必ずしも順調ではなかったが,その後三菱合資会社
が三菱鉱業会社に代わって調査活動を展開したところに特色がある。『三菱鉱
業社史』326∼330頁,参照。おそらく,三菱合資が三菱鉱業のリスクを肩
代わりしたものであろう。
−93−
畠 山 秀 樹
追手門経甘論集Vol.
4
No. 2
1920年代にはいると,採掘鉱区は九州・北海道ともにほぼ横這いで推
移するようになり,一方試掘鉱区は北海道では増減が繰り返されているよ
うに,依然活発な試掘活動が展開されていたと推察できよう。
さて,最後に表1から三菱が全国の鉱区面積に占めた位置をみて,次に
進むこととしたい。
全国の採掘鉱区面積に占めた三菱の割合②は,
たのが,
1913, 14年と8%台に上界し,
1912年に4.6%であっ
1916年以降10∼11%台で推移し
ている。この上昇が,北海道鉱区の拡大によってもたらされたことは,前
述したとおりである。そして,その割合は,三菱の石炭生産シェアにほぼ
対応する割合といえよう。他方,企国試掘鉱区面積に占めた三菱の割合は,
1912年には0.2%ときわめて低いものであった。そして,
1913∼17年と,
14年を除いて10%台に急上昇するが,以後急速に低下している。この急
上昇は,やはり北海道での試掘面積の急増によって生じたものである。い
ずれにせよ,
1910年代において三菱が北海道に進出したことは,三菱の
石炭産業における地位を支えるうえできわめて重要であったことが知られ
るが,またそれが京浜市場をターゲットとしていたことは明らかであって,
その順調な成長が三菱の北海道鉱区への投資を持続的なものとしたといえ
よう。
(2)金屑鉱区
三菱は,金属鉱業においても産銅大手5社の一角を占める有力企業で
あったが,表2を利用して三菱の鉱区投資の動向を概観することとしたい。
同表によれば,三菱の1912年における採掘鉱区は約3,634万坪,試掘
鉱区はその10%強の約373万坪にすぎなかった。
ところで,以下同年をそれぞれ100とする指数で,鉱区面積の推移を
追っていくと,採掘鉱区は1913年の108
以降22年の146に至るまで,ほ
ぼ一貫して毎年着実に増大していることが知られる。これは,三菱の銅産
−94−
December /夕夕ぷ
1910年代三菱の鉱業投資
表2 三菱所有金属鉱区面積推移
各年末
採 掘
(A)
試 掘
(B)
(単位:千坪)
全国鉱区面積
合 計
採 掘
(C)
試 掘
(D)
立
B
−
C D
(%) (%)
1912年
36,343(100)
3,731(100)
41,789
550,127
996,821
6.6
0.4
13
39,073(108)
6,357(170)
47,145
557,362 1,128,859
7,0
0.6
14
41,489(114)
8,109(217)
51,313
571,165 1,233,321
7.3
0.7
15
43,724(120) 11.759(315)
57,198
16
45,321(125) 22,696(608)
68,017
517,587 2,297,644
8.8
1.0
17
47,850(132) 33,832(907)
81,682
637,244 3,861,665
7.5
0.9
18
48,966(135) 27,495(737)
76,461
677,594 5,752,692
7.2
0.5
19
51,663(142) 27,706(743)
79,368
690,065 5,545,858
7.5
0.5
20
52,506(144) 26,877(720)
79,383
722,727 4,093,019
7.3
0.7
21
52,314(144) 25,387(680)
77,700
726,692 3,123,773
7.2
0.8
22
53,205(146) 22,639(607)
75,844
591,385 1,803,093
9.0
1.3
(注)全国鉱区は金属のみ。
〔出典〕『合資年報』各年度,および前掲『商工政策史』第23巻,62頁,より作成。
出高が1917年をピークとして急減するという,生産の推移とは必ずしも
一致するものではなく,とりわけ1918年以降の銅価低迷期にも採掘鉱区
が増加し続けたという事実は,やや意外な印象を受ける。その点について,
あえて推測を行えば次のような事情が指摘できるであろう。
まずmiは,
1910年代に低品位鉱の選鉱技術が格段に発展したため,
鉱区の優劣にかかわらずより広い鉱区を積極的に採掘鉱区として設定する
ようになったのではあるまいか。そのように考えれば,採掘鉱区の着実な
増大が,産銅高の増加に直接結びつかなかったとしても,必ずしも矛盾す
るものではなかろう。 :
第2は,大戦ブーム期に溶鉱炉や電気精錬の処理能力の拡張が進められ
たために,戦後の銅況不振期においても,その経済的操業のためには,一
定の処理鉱量の確保が必要であり,それを三菱は社外買鉱(買銅)ではな
く,社内鉱山産出鉱で充当しようとしたからではなかろうか。三菱は,
1918∼20年と三菱産出銅に占める社内鉱山の割合を飛躍的に高めており。
−95−
畠 山 秀 樹
追手西経官設恥Vo/.
4
No. 2
そのためにも採掘鉱区の拡大を必要とした可能性があろう。これは,慎重
な分析を要する問題であるが,コスト的にみたとき,社外買鉱(買銅)の
ほうが社内産出鉱よりも1910年代において不利であったように考えられ
るのである。以上は,いずれも推測の域を出るものではないが,採掘鉱区
の持続的増加の事情として考慮されてもよいであろう。
次に,試掘鉱区のほうに移ると,
1913年の170から17年の907に達す
るまで激増していたことが知られる。 1913年は第1次大戦以前であるが,
順調に世界的需要が拡人していた時期にあたっており,またとりわけ,
1916, 17年の伸びは,戦時ブームに乗ってすさまじいものがあった。そし
て, 1918∼20年と700台に低下し,
21, 22年はさらに600台で低下を続
けた。以上からは,試掘鉱区面積の推移のほうが,やはり採掘鉱区面積よ
りもより鉱業投資への意欲を反映していることが窺知できるのではあるま
いか。
さて,最後に三菱の金属鉱区が全国金属鉱区に占めた地位をみておこう。
まず採掘鉱区の割合⑩では,
1912年に6.6%であったのが,
8.8%に達するまで漸増している。そして,
1916年に
1917∼21年と7%台で推移し,
22年に9.0%と上昇した。ここから知られるように,採掘鉱区の占有率は,
三菱の産銅高シェアに比較して低くなっていた。おそらくこれは,一つに
大阪製煉所における社外産の大規模な買銅精錬,あるいは各鉱山における
買鉱製錬,もう一つは,優良鉱区を三菱が相対的に多く所有していたこと,
これらの事情に基くものであろう。 :
次に,試掘鉱区の割合⑩をみると,
1912年の0.4%から16年の1.0%
までやはり漸増している。そして,以後低下して1918,
なり,
1920年以降上昇に転じている。 1918,
鉱区が50億坪台と投機的に激増したためであり,
19年には0.5%と
19年の低下は,全国の試掘
1920年以降の上昇は,
それが急速に縮減したためといえよう。
ところで,三菱の金属鉱区面積は,石炭鉱区ほどには拡大しなかったと
−96−
December /タタ4タ
1910年代三菱の鉱業投資
いえるが,これは銅価不振が1918年からと石炭よりもはやく始まったこ
とと,北海道石炭鉱区のようなフロンティア的地域が余り残されていな
かったこと,これら2つの事情が指摘できよう。とりわけ,後者の理由が
重要であるように思われる。
なお,表3は参考として,三菱所有鉱区鉱山別面積を1918年10月末現
表3 三菱所有金属鉱区鉱山別面積
(1918年10月末)
(単位:干坪)
鉱 山 名
採 掘
試 掘
尾去滓(秋 田)
5,391
18,734
荒川( // )
3,603
651
綱 取(岩 手)
1,590
0
佐 渡(新 潟)
6,205
1,110
高 取(茨 城)
729
0
宝 (山 梨)
50
0
210
9,081
2,283
1,929
北 湧(北海道)
491
1,607
石 崎(北海道)
0
742
富 来(石 川)
2,573
836
面 谷(福 井)
2,928
540
生 野(兵 庫)
6,700
0
明 延(同 上)
8,120
220
吉 岡(岡 山)
2,753
1,037
金 山(愛 媛)
538
869
龍 王(同 上)
1,124
2,481
0
806
大利根(群馬)
奥 山(静 岡)
龍 川(同 上)
高 知(高 知)
損峰(1
f 崎)
合 計
対同年4月末増減
北海道鉱区計の割合
1,677
0
48,966
40,643
十1,681
十3,893
1.0%
(注)各鉱山の名称については,名称のみ表示。表8も
同じ。また,( )内は所在する県名。
〔出典〕三菱鉱業(株)『事業報告』mi期,より作成。
−qn
5.8%
畠 山 秀 樹
追手・門経営論集Vol.4
在で示したものである。これは,鋼ブームの頂上期にあたっており,表2
よりもはるかに試掘面積が増大していたことを示している。
ところで,同表によれば,北海道における鉱区は,採掘ではわずかに
1.0%,試掘で5.8%を占めるにすぎない。三菱は,試掘鉱区としては,秋
田県の尾去凧群馬県の大利根,静岡県の奥山,愛媛県の龍王の各鉱山に
より巨大な面積を設定しており,北海道における金属鉱区に対する関心は
比較的薄かったといえよう。しかしながら,同年10月末に約4,064万坪
あった試掘鉱区が,同年末には表2にしたがえば,約2,750万坪と1,314
万坪も減少したことになり,金属鉱業に限っていえば,三菱の反動恐慌に
対する警戒感が如何に強かったか,また新規有望鉱区の発掘が如何に困難
であったかを読みとることができよう。
ni.三菱の起業費データ
(1)起業費データの検討
三菱の鉱業経営に関する起業費についてのデータは,『三菱合資会社年
報』に「起業工事費認許表」あるいは「起業費認許表」等の名称で掲載さ
れており,従来の研究においても若干利用されてきた。また,『三菱社誌』
にもきわめて断片的ではあるが,しばしば起業費に関する記述をみること
ができる。
ところで,『合資年報』のデータについていえば,各場所ごとの年間の
集計数値と,鉱山および炭坑の毎月ごとの集計数値とが記載されているの
であるが,後者のデータを直重に読むならば,そのまま利用するには疑問
を呈せざるをえない動きを示しており,さらに『合資年報』と『三菱社
誌』の数値にも不整合がみられるのである。しかしながら,従来の研究で
は,これらについて顧慮することなく数値の引用がなされてきた。私か,
不完全ながら『合資年報』のデータを知ったのは10年以上も前のことで
−98−
No。2
December
・夕9&
1910年代三菱の鉱業投資
あるが,以後これらに関する,データの諸表を幾度も作成しつつ,結局は疑
問符がついたままの利用に躊躇せざるをえなかったのである。そして,最
終的には私自身の疑問とそのデータの試論的利用法を示すほうが,むしろ
鉱業史ならびに財閥史研究の進展に役立つのではないかと考えるに至った。
そこで以下,まことに煩瓊であることは承知のうえで,『合資年報』の起
業費データについて1912∼22年度を対象として検討を加え,私の試論的
解釈を呈示していくこととしたい。
さて,『合資年報』の起業費に関する表現は,
ては「起業工事費認許表」,
1912, 13, 14年度につい
1915, 16, 17年度は「起業費認許表」,そして
1918年度以降は「起業費支出及取消承認高表」と記されている。 これら
の表現は,
1912∼15年度に関していうならば,当該年度における起業費
予算を「認許」し,
1918年度以降はその「支出」の執行または取消を
「承認」したかのような印象を与,えるものとなっている。 しかし後述する
ような理由から,これらは当該年度の期間中に「認許」・「承認」された起
業費予算を単純に計上したものと理解することが正しいように思われる。
まず,問題の所在を明らかにするために,
1912年度『合資年報』に掲
載された起業工事費認許表を表4と七て示した。 これは,
(甲)月別表と,
(乙)場所別表から成っている。
さて, (甲)表には鉱山と炭坑における起業工事費の月別の認許件数お
よび金額が記載されている。同表にしたがえば,鉱山部門の合計の件数と
金額は,順に175件・
123万1000円となり,炭坑部門のそれは130件・
119万4000円ということになる。そして,それらのうち12月において鉱
山部門で114件・103万8000円,炭坑部門では130件・89万円が認許さ
れたことになるのである。金額の割合でいえば,
12月に鉱山部門では同
年度の84.3%,炭坑部門では74.5%が集中的に認許されたのである。こ
のような起業工事費の12月への集中は一体何を意味するのであろうか。
同年12月に,急拠大量に起業工事費を追加的に認許したとの解釈もあり
−99−
畠 山 秀 樹
追手門経営綸槃 Vol.4 No. 2
表4 1912年度起業工事費認許表(単位:千円)
(甲)月別表
月 別
一 月
二月
三月
四 月
五 月
六 月
七 月
八 月
九 月
十 月
十一月
十二月
鎬 山
件数
炭 坑
金 額
件数
1
●●● 丿丿● 5
6
49
4
22
40
114
1,038
130
890
175
1,231
181
1,194
356
1
6
7
6
70
1
1
11
19
11
3
2
5
7
●●● ●●● 8
5
6
1
2
1
4
4
件数
23
5
10
13
9
8
6
18
8
6
6
244
2
合計
合 計
金 額
37
14
155
18
4
9
11
19
5
25
金 額
44
37
64
156
25
74
10
30
20
12
26
1,928
2,426
(乙)場所別表
場 所 別
鎬 山
吉 岡 鎬 山
面 谷 鎬 山
樹 峰 鍍 山
尾去滓鍍山
荒 川 鎬 山
佐 渡 鍍 山
生 野 鎬 山
皆 鎬 山
富 来 鍍 山
高 取 鎬 山
大阪製煉所
件 数
22
20
5
16
28
13
32
3
10
24
2
小 計
炭 坑
高 島 炭 坑
鯨 田 炭 坑
新 入 炭 坑
方 拭 炭 坑
金 田 炭 坑
相 知 炭 坑
芳 谷 炭 坑
小 計
合 計
金 額
42
56
7
306
310
152
205
1
22
39
92
175
1,231
39
47
32
22
337
164
166
154
9
29
11
21
134
210
181
1,194
356
2,426
(注)原則として千円未満四捨五入。以下の表も同じ。
〔出典〕『合資年報』1912年度,鉱業の部,より作成。
−100−
December
1910年代三菱の鉱業投資
i夕夕召
えるだろうが,しかしそのような事態を迫るような歴史的出来事を同年下
半期に見出すことは困難であろう。そこで,私は認許額の各月への分散具
合を斟酌して,おそらく12月に翌1913年度の当初起業工事費予算なるも
のが一括認許され,これをこの12月分として計上したものではないかと
考えるようになったのである。以上のような私の推測が正しければ,
(甲)
表における1∼11月の件数・金額は,すでに1912年度当初起業工事費予
算が前年に認許されており,基本的にはそれに対する追加額を計上したも
のであって,
12月分には追加額と,翌1913年度の当初の予算認許額とが
合算されて計上されていることになる。 したがって,
(乙)表に表示され
ている場所別の起業工事費認許額をもってして1912年度の場所別起業工
事費認許額とは解せないということになる。 このように理解すれば,(乙)
表の場所別に示された金額には,当該年度内における追加的予算と,次年
度一括認許予算とが混在していることになり,場所別の当該年度予算を推
測するためには,何らかの処理が必要とされることになろう。
ところで,
1912年度の一つの事例から1913年度以降も同じ計上方法で
あると推測することには若干の無理を伴うので,念のために翌1913年度
について表5を利用して検討しておきたい。
同表の(甲)表にしたがえば,鉱山部門の合計の件数と金額は順に240
件・202万2000円となり,炭坑部門では222件・147万2000円となって
いる。そして,それらのうち前者では12月に160件・163万7000円,後
者では11月に128件・96万円が集中している。私の理解によれば,やは
りそれぞれの月に翌年度の当初起業工事費予算を一括認許したことになる
が,幸いなことに『三菱社誌』剛には,これらを裏付ける記述が掲載さ
れている。 すなわち,同書によれば,
1913年12月1日に1914年度鉱山
8)
の「起業費予算」として163万5000円を,そして同年11月28日には同
8)『三菱社誌』(22),
1853頁。
−101−
畠 山 秀 樹
追手門経営綸集 Vol.4 No. 2
表5 1913年度起業工事費認許表
(甲)月別表
鎬 山
炭 坑
月別
件数
一 月
二月
三月
四 月
五 月
六 月
七 月
八 月
九 月
十 月
十一月
十二月
合計
1
7
6
6
14
11
8
金額
件数
金額
97
6
19
H
46
97
50
26
25
合 計
件数
1
4
2
11
12
63
18
2
1
8
5
11
19
0.2
1
12
8
42
16
12
4
62
16
7
9
82
16
8
8
17
51
25
128
960
128
●●●
160 丿●●
1,637
32
198
192
240
2,022
1,472
222
462
金額
97
8
81
12
57
97
92
88
107
59
960
1,836
3,493
(乙)場所別表
場 所 別
鎬
山
吉 岡 鎬 山
西 谷 鍍 山
根 峰 鎬 山
尾去渾鎬山
荒 川 鎬 山
佐 渡 鎬 山
生 野 鎬 山
賓 鎬 山
富 来 鎬 山
高 取 鎬 山
高 根 鎬 山
兼二浦鎬山
大阪製煉所
件 数
19
12
6
22
25
45
2
15
25
12
23
3
小 計
坑
億 田 炭 坑
新 入 炭 坑
方 城 炭 坑
金 田 炭 坑
相 知 炭 坑
芳 谷 炭 坑
臨時北海道調査課
小 計
合 計
106
27
16
31
434
99
159
469
0.4
31
32
74
546
28
240
2,022
28
99
17
13
568
317
高 島 炭 坑
炭
金 額
6
24
21
14
222
462
〔出典〕『合資年報』1913年度,鉱業の部.
作成。
−102 −
80
78
14
113
93
209
1,472
3,493
15頁, より
December
1910年代三菱の鉱業投資
,夕夕S
じく炭坑の1914年度分起業費予算として102万9000円を一括認許してい
9)
たのである。『合資年報』と『三菱社誌』の金額の相違は,鉱山では2000
円,炭坑ではマイナスの6万9000円であって,両者はほぼ近似した金額
10)
を計上しており,私の推測の妥当性を示すものとなっている。
なお, (甲)表の炭坑の12月には19万8000円か計上されているが,
『三菱社誌』㈹には,
1913年12月12日の記事に,
1914年度芦別炭坑試
錐起業費予算として18万4000円の認許を伝えており,ほぼこの予算に該
11)
当するものと考えてよいであろう。したがって,若干一括認許されなかっ
た次年度予算が各月に一部計上されている可能性かおることをこの事例が
示している。
(2)年度起業費の試算
以上のように考察を進めてくれば,当該年度の起業費予算あるいは場所
別の起業費予算として,表4や表5に掲げられた数値をそのまま利用する
ことには無理があることが明らかとなろう。したがって,当該年度起業費
予算を推測するためには,前述したように何らかの処理を行って試算値を
求める必要が生じる。そこで,その方法として余りにも大雑把な方法では
あるが,次のような処理を試みることとしたい。
9)同,1842頁。
10)炭坑の予算において,『合資年報』のほうが『三菱社誌』より少なく計上さ
れているのは,当該年度に認許された起業費予算が同年度内に取消・減額さ
れた場合には差引金額を計上することになっていたためと考えられる。
1913
年度の『合資年報』には「本年度二認許アリシ起業費ニシテ本年度中減額ア
リシモノハ潮及差引シテ計上セリ」(『合資年報』1913年度,鉱業の部,
頁)と記されており,前年以前の起業費予算の取消・減額についてのみ別に
計上している。
11)r三菱社誌』(22),
1869頁。 したがって, 1914年度当初炭坑起業費予算は,
ほぼ114万4000円,あるいは121万3000円と推測されよう。
−103−
15
追手門経営論集Vol.4
畠 山 秀 樹
No. 2
すなわち,具体的な例をあげると,表4に掲げた1912年度のデータの
なかで,翌1913年度当初起業費予算と推測される金額を,同表掲載の各
場所起業費で比例配分して1913年度当初場所別起業費予算と仮定する。
そして,
1913年度についていえば,
1914年度分起業予算と推測される金
額を,先ほどと同じ手順で1913年度場所別起業費割合で比例配分して,
翌1914年度分場所別当初予算とみなし,
1913年度場所別起業費から控除
すれば,その残額は1913年度中における追加的起業費予算とみなすこと
ができる。これを先述した1913年度場所別当初起業費予算の試算値に加
えれば,一応1913年度場所別起業費予算の総額の試算値がえられること
となる。この処理方法では,当初予算額としてはかなり信頼できる推定額
を用いることができるが,各年度当初場所別起業費予算の試算値としては
まさしく趨勢を示す程度の意味しか有していないことになろう。
ところで,同様にして『合資年報』のデータを利用して1914年度以降
の場所別起業費予算の試算値を算出していくことが可能となるが,翌年度
当初起業費予算の計上月はしばしば変更されているので,それを一覧表に
示すと表6のごとくとなる。なお,同表において注意すべきは,
1913, 14,
15年については『三菱社誌』に北海道の炭坑における翌年度予算が計上
されているので補足したことである。さらに,
1917年度『合資年報』は,
同年度中における追加額のみしか計上していないと推測されることに注意
を払う必要かおる。これは,
1918年1月に同年度当初起業費予算を一括
計上したと推測されるためであるが,これは当該年度『合資年報』に翌年
度予算を,追加予算とともに掲載してきた弊害を解消するための措置で
あったと解することができる。 そして,
1918年度は,今述べたように同
年1月に同年度当初予算を一括計上したと推測されるのである。そして,
1919年度以降は,三菱鉱業会社の設立に伴い,各決算期間の開始月に一
括当該半期分の起業費予算を承認・計上するように改められている。した
がって,
1918年度以降は,『合資年報』のデータよりただちに当該年度
−104−
1910年代三菱の鉱業投資
December /夕夕8
表6 三菱鉱山・炭坑年度当初起業費予算計上月一覧表(単位:千円)
年次
鉱 山
1912年
12月 1,038
12月 890
13
12月 1,637
11月 960,
12月 184
同上, 12月は芦別試錐起業
14
12月 187
12月 523,
12月 134
同上, 12月は臨時北海道調査課
15
12月 776
16
12月 2,125
17
18
1月 1,719
炭 坑
備 考
翌年度分予算
8月 1,413, 12月 156
12月 2,049
1月 3,496
同上, 12月は芦別起業費
同上
同年度追加額のみ計上
同年度分当初予算
19
5月 480 5月 2,567
11月 620
11月 1,321
三菱鉱業会社の決算期間
20
5月 565 5月 3,278
11月 290
11月 1,234
同上
21
22
4月 278
9月 399
4月 1,032
9月 1,252
4月 253 4月 619
10月 471
10月 997
同上
同上
〔出典〕「合資年報」各年度,および『三二菱社誌』(22)(23)(24),より作成
(会計年度)の起業費予算を推測することが可能となったのである。
なお,『三菱社誌』にはしばしば起業費予算に関する記述がみうけられ
るが,同書(26)には, 1916年度の各場所起業費データが,また1917年度
起業費予算も掲載されており,これらから1916,17年度についてはかな
り信頼性の高い起業費に関するデータを得ることができるので,後に『合
資年報』と照合しつつ,検討を行う予定である。
さて,次に年度起業費予算の場所別試算値を求める作業に移ることとし
たいが,ここでは1913∼15年度および17年度の起業費試算の基礎デー
タをまず掲げて,ついで試算値の算出過程を示すこととしたい。
表7は,『三菱合資会社年報』掲載の炭坑起業費承認高,推定次年度当
初予算,および当該年度場所別起業費試算値を一覧表に整理したものであ
る。計算上の統一性を保持するために,前掲表6で示したような,
∼15年度の北海道関係の予算は度外視して,推定次年度予算を利用して
−105−
1913
畠 山 秀 樹
いる。なお,
追手門経営B禦yoi.4 No,2
1917年度について次年度当初予算を掲げていないのは,前
述したように同年度の数値は,同年度中における追加額のみを表示してい
ると考えられるからである。
表8は,表7と同じ処理方法で,鉱山部門の各年度起業費予算の総額を
試算値として示したものである。
表7・表8から受ける印象として,当該年度起業費承認高合計に占める
推定次年度最初予算の割合の高さが強調されねばならないであろう。した
がって,当該年度承認高を同年度予算と理解七だ場合には大きな史実誤認
を導くこととなる。とりわけ1917年度は同年度中の追加額のみと推測さ
12)
12)なお,この点について武田昭人『日本産鋼業史』は,同書208頁の表123
において,『合資年報』の起業費承認高をそのまま鉱山別投資額と理解して掲
載しており,私の指摘した問題を含んでいる。なお,同表123には,それ以
外に次のような問題があるため,私の作成した表8とは大きく数値が乖離し
ていることを指摘しておく必要かおる。
まず第1点として,表123で1913年の投資額として掲げている金額は,実
は1914年度のものからの引用となっていることである。そのため,同表が以
下1914∼19年の投資額として示している金額は,基本的に1年ずつずれて,
1915∼20年度の数値を示すことになっている。 そのため1913年分か同表で
は金額として最初から欠落している。
第2点として,表123では「製煉」として大阪製煉所及び直島製煉所の合
計を掲載したと述べているのであるが,その合計値は,私か表8で示したも
のとは1912年を除いて全く異なる金額を掲げていることである。おそらく,
事実誤認があるのではなかろうか。
第3点として,表123の1917,
18, 19年(これらは本来順に1918,
19, 20
年度の金額)の合計には,牧山骸炭製造所の起業費予算を合算していること
である。 これは明らかに,鉱山の投資額とみなすべきものではなく,私の作
成する表では,同製造所は炭坑部門に計上している。
第4点として,表123が1913,
14年として掲げる合計には,兼二浦鉱山を
含めた金額を計上していることである。 これは,それ以外の年との質的連続
性を無視することになろう。私の表8では,兼二浦鉱山は,参考として,別
の欄で表示した。
−106−
December i夕夕8
1910年代三菱の鉱業投資
表7『三菱合資年報』掲載炭坑部門起業費承認高および年度起業費予算試算表
(単位:千円)
炭 坑 名
1912年
337
〈251〉
高 島
1913年
1914年
36
〈16〉
その他
長 崎 小計
449
164
〈122〉
億 田
1915年
1916年
317
232
〈207〉
20
10
〈6〉
642
128
〈57〉
278
20
504
252
〈162〉
147
945
no
77
146
62
28
134
285
206
〈180〉
131
311
28
83
168
〈106〉
新 人
166
〈124〉
80
〈52〉
152
53
〈24〉
方 城
154
〈U5〉
78
〈51〉
142
93
〈41〉
103
29
〈22〉
14
〈9〉
27
21
〈9〉
21
相 知
134
〈100〉
113
〈74〉
139
53
〈24〉
芳 谷
210
〈157〉
93
〈61〉
189
48
〈21〉
筑豊 小計
553
唐 津 小計
328
臨時北海述m査課
209
〈136〉
73
81 157
〈101〉
483
103
88
263
35
〈22〉
31
414
765
30
138
200
〈129〉
92
154
〈97〉
186
57
154
154
130
102
320
508
〈320〉
176
〈m〉
大夕張
346
〈218〉
汁
373
275
595
65
76
187
128
11
229
73
299
232
566
1,011
1,615
1,304
2,596
3,885
35
〈22〉
十 1,194
292
1,403
牧山骸炭製造所
炭坑部門
704
134
芦 別
炭坑の部
30
172
〈108〉
287
〈185〉
北海道 小計
8
62
299
美 唄
19
88
〈55〉
108
〈70〉
191
293
〈130〉
80
357
!68
〈230〉
28
〈18〉
1,878
203
〈69〉
上山田
金 田
1917年
568
449
453
622
795
484 1,172
945 1,139 1,878
〈370〉
〈201〉
〈512〉
〈739〉
13
91
113
1,'172 1,403 1,178 1,615 2,192 1,304 3,249 2,609 1,951 3,998
推定次年度当初予算 890
960
523
1,413
2,049
-
(注)1.1916年の推定次年度予算は,r三菱社誌』(26)によれば.
2 ,022千円である(岡書,3352∼53頁)o
2.各年度左端の上段は,(乙)の蝸所別に掲載されている金額である。そして,下段の〈 〉は,推定
次年度予鉢を,当該年の各炭坑別金額の計に対する割合で比例配分した金額である。したがって,
〈 〉は,当該年の翌年度推定当初起業費予算となる。
3.各年度右桐の金額は,左欄の上段の金額から下段〈 〉の金額を控除し,前年度の〈 〉の金額を加
えたもので,当該年度の起業費予算の総額の試算値である。
4, 1917年の推定次年度当初予算欄に金額表示がないのは,同年度の金額が,すべて追加予算額と推定
されるからである。
5.各炭坑の名称のみ掲げた。
〔出典〕『合資年報』各年度,より作成。
107
畠 山 秀 樹
追手門経営論集Vol.
4 No.2
表8『三菱合資年報』掲載鉱山部門起業費承認高および年度起業費予算試算表
(単位:千円)
鉱 山 名
1912年度
1913年度
1915年度
1914年度
1916年度
1917年度
尾去洋(秋田)
306
〈258〉
434
〈352〉
340
74
〈48〉
378
372
〈200〉
220
578
404
〈374〉
71
465
荒川(・・)
310
〈261〉
99
〈80〉
280
21
〈13〉
88
109
〈59〉
63
421
208
〈272〉
37
309
12
12
佐 渡(新潟)
152
〈128〉
159
〈129〉
158
27
〈17〉
139
50
〈27〉
40
109
〈70〉
66
93
163
高 取(茨城)
39
〈33〉
32
〈26〉
39
10
〈6〉
30
25
〈13〉
18 18
〈12〉
19
26
38
4
〈3〉
1
9
〈5〉
9
〈6〉
8
9
15
13
〈8〉
5
50
〈32〉
42
52
84
網 取(岩手)
宝 (山梨)
l
〈1〉
0.4
〈0.3〉
1
奥 山(静岡)
45
29
〈2-1〉
21
〈u〉
前川(・・)
7
10
11
富 来(石川)
22
〈19〉
31
〈25〉
25
14
〈9〉
30
16
〈9〉
16
27
〈17〉
19
2
17
面谷(柵井)
56
〈47〉
27
〈22〉
52
23
〈15〉
30
40
〈22〉
33
92
〈59〉
55
63
122
74
〈60〉
14
7
〈7〉
60
9
〈5〉
11
412
高 根(岐阜)
生 野(兵庫)
205
〈173〉
469
〈380〉
262
89
〈57〉
古 岡(岡山)
42
〈35〉
106
〈86〉
55
9
〈6〉
7
〈6〉
16
〈13〉
5
309
200 1,330
636
〈166〉
〈860〉
305 1,165
89 194
〈104〉
96
210
〈136〉
178
244
380
13
15
120
〈78〉
59
12
90
金 山(愛媛)
龍王(・・)
棋 峰(宮崎)
9 0.1
〈0.1〉
32
〈17〉
鉱山部
4
鉱山の部 計
大阪製煉所(大阪)
鉱山部門 計
1,235
92
〈78〉
28
〈23〉
83
1,275
0
23
758
211
〈114〉
97
1,710
321
〈208〉
227
200
1,231
1,475
291
1,298 1,441
推定次年度当初予算
1,038
1,195
187
776
2,125
-
546
188
329
8,742
-
兼二浦鉱山
-
1,318
4
2,864
408
855 3,287 1,937 1,151 3,272
(注)u.兼二浦鉱山は1915年より臨時製鉄所建設部となり,1917年10月三菱製鉄㈱として分離・独立。同
鉱山は,鉱山部門としてみなすには不適当であり,参考として別捌で表示。
1.本表の様式は前掲表7に同じ。各年度右欄の金額は,当該年度の起業費予算の総額の試鉢値。
3.1914年の推定次年度予算は】87千円となっているが,r三菱社誌』(23)では116千円である(同書,
2269頁)。 また.
1915年の推定次年度予算は776千円となっているが,r三菱社誌」(26)によれば
1916年度当初予算は909千円である(同欝,3429∼30頁)。したがって,
1915年度の計1,441千円
中に,蓬額分133千円が含まれていることになる。 これは,同年12月よりも前に,
133千円分の次
年度起業費が承認されていたことを意味しよう。
4.各鉱山の名称のみ掲げた。
〔出典〕前掲表7に同じ。
−108
−
December
り夕ぶ
1910年代三菱の鉱業投資
れるのであるが,そのため『合資年報』掲載の起業費認許額が115万円で
あるのに対し,試算値は327万円と約2.8倍も上回ることとなったのであ
る。
以上で,一応三菱の起業費データの重要な問題点の検討を終ることとし,
次に表7・8を利用して,起業費予算の分析に進むこととしたい。
IV.総起業費予算の動向
(1)第1次大戦以前の状況
三菱の起業投資を考察するにあたって,ここでは大きく炭坑部門と鉱山
部門に分けるとともに,時期的には第1次大戦以前,第1次大戦期,大戦
後に区分して叙述を進めていくことにしたい。 なお,三菱は1910年代に
鉱山部の傘下に兼二浦鉱山(製鉄所)の建設を進めており,起業費のなか
には同鉱山の予算も計上されている。しかし,同鉱山は1917年10月に三
菱製鉄株式会社として分離・独立するものであり,またここでは非鉄金属
鉱山部門を主たる分析対象としていることもあって,基本的には兼二浦鉱
山を除いて分析を進めていくこととしたい。
ところで,三菱合資会社の鉱業経営は,周知のように1911年1月に従
来の鉱業部が鉱山部と営業部に分割され,さらに翌12年10月鉱山部から
炭坑部を分離して,これら3部体制によって担われていた。そして,この
体制は1918年に鉱山部・炭坑部を継承した三菱鉱業株式会社と,営業部
を継承した三菱商事株式会社として発展していくのであるが,以下の考察
では炭坑と鉱山の両部門を対象としたい。
さて,表9は前述したような方法で試算した三菱合資の炭坑・鉱山両部
門における総起業費予算の動向を示したものである。
同表によれば,
1913年度における起業費実承認高合計は265万8000円
となっており,これを炭坑部門に135万8000円筒。1%),鉱山部門に
−109−
畠 山 秀 樹
追手門経営論集 Vol. 4 No, 2
表9 三菱傘下炭坑・鉱山総起業費承認高推移(1913,
14年度)
(単位:千円)
部 門
1913 年度
承認高
取消高
実承認高
1914 年度
承
証
取消高
実承認高
1913 ・ 14年
平均実承認高
炭坑部円 十 1,403 45〈3.2〉1,358 (51.1) 1,615 46〈2.8〉1,569 (55,5) 1,464 (53.4)
鉱山部門 十 1,318 18〈1.4〉1,300 (48.9) 1,298 42〈3.2〉1,256 (44.5) 1,278 (46.6)
合 計
2,721 63〈2.3〉2,658(100)
2,913 88〈3.0〉2,825(100)
2,742(100)
(注)1.起業費には,他に兼二浦鉱山が掲載されており,本表では除外した(前掲表8,參
照)。三菱合資は1915年5月本社内に臨時製鉄所建設部を設け,つづいて同年8月
浦二浦鉱山を兼二mm鉄所と改称。 1917年5月三菱製鉄株式会社(資本金3,000万
円)を設立。
2.取消高には,減額を含む。取消高欄の〈 〉内は,取消高の承認高に対する割合で
承認高取消率(%)を示している。以下同様。
3.実承認高は,承認高より取消高を控除した金額。
〔出典〕前掲表7, 8および「合資年報」1913,14年度,より作成。
130万円(48.9%)と,両部門に対しほぼ均衡するように配分していた。承
認高に対する取消高の割合を承認高取消率とよぶこととすれば,これは炭
坑部門3.2%,鉱山部門1.4%となっている。この割合をどう評価するか
については,経済的・技術的諸事情が存するので,非常に困難を伴うと考
えられる。例えば,
1913年は炭況は比較的良好であったから,炭坑部門
で4万5000円もの取消が生じたのは,経済的事情以外のものがあったの
ではないかと想像される程度のことしかいえないであろう。
1914年度に移ると,実承認高合計は前年度比6.4%増の282万5000円
となった。このうち,炭坑部門に156万9000円(55.5%),鉱山部門に
125万6000円(44.5%)が配分されており,やや前者の比重が増したので
あるが,これは三菱の北海道石炭鉱区開発が本格化したためである。
なお,取消率は炭坑部門が2.8%,鉱山部門が3.2%となって後者が少
し上昇しているが,これは第1次大戦勃発後の銅市況の悪化に対する対応
とも考えられよう。ただし,一般的にいえば,景況の下降に対する起業費
支出の抑制方法としては,第1に実施の先送り,第2に承認高の取消(減
額),第3に承認高の抑制,等いくつかが想定されるし,また技術的ある
−110−
December
1910年代三菱の鉱業投資
tタS
いは資源賦存状況等からも取消が行われる場合もあるので,取消率の上昇
をただちに当時の銅市況と結びつけて説明することにも慎重であるべきか
もしれないであろう。
ところで,起業費に関するデータについては1913,
14年度について
『三菱社誌』にも断片的に記すところかおり,それを前掲表9との整合性
を考慮して作成したものが表10である。
表9と表10の1913年度炭坑・鉱山両部門の起業費承認高は,きわめて
近似した金額を示しており,表7・8の試算方法が限界はあれ,一定の有
効性を有していることが裏付けられたとみてよいであろう。
さて,表10から,予算総額と起業費支出額とが判明する。そして,そ
の差額が次年度繰越となるのであるが,
1913, 14年度ともに多額の繰越が
みられる。これは,一般的にいえば,鉱山経営の特質の一つを反映するも
のであって,試錐や坑道開盤等,建設期間か数年以上にわたる事例は珍し
くない。ただし,
1914年度鉱山部の次年度繰越高は60
ノ5円弱もの巨額に
13)
達しているが,この事情について『三菱社誌』は次のように記している。
「是欧洲戦争ノ鍋機械材料等輸入不可能ニョルコト寧少クシテ欧洲戦
乱並鍍業ノ前途ヲ懸念シテエ事ノ進捗ヲ手控ヘタルニ因ル」
13)同書(23), 2304頁。因に、三菱は1914年8月4日イギリスの対独宣戦から
3日後の8月7日には起業工事の中停止に関する調査を三菱合資傘下5部に
次のように通達している。
「8月7日 欧洲戦乱ノ勃機ハエ業上並経済上其波及スル處甚大ニシテ埓替
拒絶輸送杜絶ノ錫彼我ノ取引全然停止ノ有様トナ'Ji附来ノ成行寒心二堪ヘ
ズトシ燥メ最悪ノ場合ヲ慮り之二處スルノ手段ヲ講究セントシ銚山部鼓炭
坑部、苦業部、造船部、地所部二對シ次ノ通起業工事中停止シ得べキ費目
其他ノ取調ヲ命ジ至急回答セシム」 (『三菱社誌』&,
2169頁)
これより判断すれば、大戦開始直後に起業費支出の見直しについて「取調」
を開始していたことが知られる。
−111−
畠 山 秀 樹
追手門経鸞綸集 Vol.
4 No. 2
表10 1913・14年度炭坑部・鉱山部起業費予算・支出額
(単位:刊i)
部門
内 訳
1913年度
1914年度
炭
坑
部
鉱
山
部
年度予算
追 加
承 認 高
城 額
実承認高①
前年度繰越
予算総額
起業費支出額 ②
年度予算
追 加
承 認 高
城 額
実承認高③
前年度繰越
予算総額
起業費支出額 ④
1,072
302
1,374
64
1,310
495
447
1,806
1,348
1,769
1,285
951
344
1,295
19
1,276
113
223
1,389
1,163
実承認高合計 ①十③
2,586
起業費支出合計 ②十④
2,511
1,993
1,395
2,680
(注)1914年度は,繰越・予算総額,起業費支出額のみ判明。
〔出典〕『三菱社誌』(22),
1898頁,
1917頁,同書(23),
2303頁,
2316頁,より作成。
すなわち,三菱の鉱山部では第1次大戦勃発時の対応として,起業実施
の先送りを行っており,また炭坑部においても同年度繰越高は約48万円
と増加していたから,同様の事情を察知できよう。なお,表10の鉱山部
の起業費予算には,その金額から判断して,兼二浦鉱山分か含まれていな
いようである。
ところで,『三菱社誌』mには,
1913年度における炭坑部,鉱山部の損
益が掲載されており,同年度の消却額と消却後純益が掲載されている。そ
れによれば,炭坑部は原価消却65万2000円,特別消却30万円,純益71
万5000円,また鉱山部では順に原価消却41万6000円,特別消却39万
3000円,純益181万7000円となっており,以上の合計は393万3000円
−112−
December
i夕夕S
1910年代三菱の鉱業投資
14)
に達していた。これは,表10の同年度起業費支出合計251万1000円をは
るかに超えており,消却・純益合計で起業費支出を……│一分│こ充当できるもの
となっていたのである。
(2)第1次大戦期の状況
第1次大戦の勃発は,予想外の経済的混乱と貿易の途絶のため,石炭産
業と産銅業はともに景況の悪化を免れなかった。前者は,
1916年の半ば
頃から急速に好況に向かい,大戦ブームに乗じた石炭の黄金時代は1920
年3月の反動恐慌に至るまで続いた。一方,後者は1915年にはいると軍
需の急増に押し上げられてブームとなり,それは大戦終結まで続いたが,
1919年以降世界的な供給過剰から長期の低迷期に移行するのである。三
菱は,このように異なる位相を示した雨部門に対し,どのような起業費投
資を行ったのであろうか。
表11はレ前掲表9に連続するように作成した三菱の総起業費予算推移
表である。 なお,同表に注記しているように,
1916年以降はほぼ実数値
と考えてよいであろう。
まず1915年度からみると,起業費実承認高合計は198万8000円と,前
年度比約3割の大幅な減少となった。これは,景況の見通しがたちにく
かったという事情に加えて,おそらく前述したような巨額の繰越高をかか
えている状況では,とりあえず1915年度の承認高を圧縮する必要があっ
たと考えられよう。さてそのうち,炭坑部門に前年度比25.2%減の17万
3000円(59.0%),鉱山部門に前年度比35.3%減の81万5000円(41,0%)
が配分されており,炭坑部門の優位がさらに強まったようにみえる。とは
いえ,取消率は炭坑部門で10.0%にも達しており,石炭産業の苦境がし
のばれよう。それはまた,鉱山部門においても4.3%と上昇しており,同
14)同書剛,
1898頁および1915頁。なお,表現は同書に従った。
一113
−
畠 山 秀 樹
追手門経営論集 Voi 4 No.2
裴11 三菱傘下炭坑・総起業
1915 年度
部 門
承認高
取消高
1916 年度
実辰 忍高
承認高
取消高
1917
実承認高
承認高
本 店
鉱業研究所
161
計
炭坑部門計
161
1,304
鉱山部門計
852
合 計
2,156
131〈10.0〉 1,173 (59.0) 2,902
37〈4.3〉
815 (41.0) 2,101
168〈7.8〉 1,988 (100)
5,003
256〈8.8〉 2,646 (56.3) 3,973
46〈2.2〉 2,055 (43.7) 3,903
302〈6.0〉 4,701(100)
8,037
(注)1.兼二浦鉱山の起業費は除外(前掲表8,参照)。
2.1916 ・ 18年度は実数値とみてよい。1916年度は『三菱社誌』(26)より作成したも
3. 1917年度の炭坑部門,鉱山部門は,『三菱社誌』(26)に掲載されている各部門1917
〔出典〕『合資年報』各年度,および「三菱社誌」(26),
3352∼53頁,3359∼60頁,より作成。
年はすでに銅ブームが訪れていたにもかかわらず,鉱山部門の起業費を厳
しく抑制したと評価できるであろう。
このように,
1915年度の起業費実承認高は全体として大きく抑制され
たのであるが,前掲表1・2で検討したように,戦時ブームに備えて同年
度において石炭・金属両試掘鉱区は顕著な拡大をみせていたのであって,
15)
ここにはより長期的展望に立つ鉱区取得戦略の特徴か対照的に浮き出され
ていたといえよう。
さて,
1916年度に移ると,実承認高合計は470万1000円と,実に前年
度比2.4倍と様変わりの激増となった。そのうち,炭坑部門が前年度比
2.3倍増の264万6000円(56.3%),鉱山部門が2.5倍増の205万5000円
15)ここで,「戦時ブーム4こ備えて」と表現したのは,次のような点からである。
すなわち,ブームが生じると鉱区投機が生じ,鉱区買収価格が騰貴すること
が第1点。第2点は,ブームに乗って産出量を増加させれば,鉱区の消耗が
急速化するので,その対応として周辺鉱区の拡大が必要であったことである。
そして,第3点として,新規鉱区の取得とその開発があげられる。 しかし,
これは,ブーム時に開発した場合,建設期間の長期性から採掘開始時には
ブームが終息しているという大きなリ。スクが予想される。
−114
−
1910年代三菱の鉱業投資
December・ ノタタぶ
費承認高推移(1915∼18年度)
(単位:千円)
年度
取消高
1918年度
実承認高
承認高
取消高
実承認高
1915 ・ 16年
平均実承認高
1917 ・ 18年
平均実承認高
4
4
161
173
173
87
161 (2.0)
177
177 (2.0)
89 (1.1)
105〈2.6〉 3,868 (48.8) 5,717
6〈0.2〉 3,897 (49.2) 3,029
Ill〈1.4〉 7,926 (100)
8,923
2 (0.0)
(□)
158〈2.8〉 5,559 (64.0)1,910 (57、1)4,726 (59.6)
77〈2.5〉 2,952 (34.0)1,435 (42.9) 3,110 (39.2)
235〈2.6〉 8,688 (100)
3,345 (100)
7,925 (100)
のであり, 1918年度以降は三菱鉱業会社としての金額となる。
年度起業費承認額に,前掲表7・8の1917年度起業費追加額を加えた推定額。
(43.7%)を占めた乙取消率は,前者が8.8%と依然高水準であるが,これ
はおそらく炭況が同年前半において予想外に低迷を続けたからであろう。
そして,後者が2.2%に低下しだのは,銅価が上昇を続けていたからと思
われる。金属ブームの到来が,起業活動を一挙に活性化させたのである。
そして,
1917年度は石炭・銅ともにブームがさらに大型化したために,
実承認高合計は前年度比1.7倍増の792万6000円と記録的な金額となっ
た。 これは, 1916年度のそれが,その前年の厳しい抑制型予算に対する
伸びであったのとは意味を異にするといわねばなるまい。そのうち。炭坑
部門に前年度比L5倍増の386万8000円(48.8%)を,鉱山部門に1.9倍
増の389万7000円(49.2%)を配分したので,久しぶりに両部門の実承認
高はほぼ均衡化することとなった。 同年は,三菱の産銅高が1万7000ト
ンと未曾有の激増を記録した年でもあった。このようなブームをうけて,
炭坑・鉱山両部門ともに取消率は低下し,とりわけ後者は0.2%と,取消
は無きも同然となっていた。
なお,同年度起業費予算において注目すべきことは,鉱業研究所として
16万1000円か計上されていることである。 これは,従来の鉱業技術が基
本的には欧米先進国からの輸入に依存してきたものであるが,大戦ブーム
−115
−
畠 山 秀 樹
追手門経甘論集Vol.4
No. 2
の留保利潤を投下して,三菱の独自的技術開発体制を構築しようとしたも
のである。三菱のような巨大鉱業資本にしてはじめて可能な,超長期的展
望にたつプロジェクトとなるべきものであった。
最後に,
1918年度をみておこう。起業費実承認高合計は,前年度より
さらに1割近く伸びて868万8000円に達した。 これは実に,
1915年度の
4.4倍にあたる予算であった。そのうち,炭坑部門に前年度比1.4倍の555
万9000円(64.0%),そして鉱山部門には前年比24.2%減の295万2000
円(34.0%)を配分した。 ここからは,三菱,は炭坑部門に対する強力な成
長戦略を維持する一方で,鉱山部門に対してはすでに慎重な抑制的予算を
16)
承認したことが知られる。この点については,取消率において炭坑部門が
2.8%に対し,鉱山部門がそれよりも若干低い2.5%となっている。後者
16)なお,
1918年度鉱山部門の当初起業費予算は,
1917年11月29日に総額
258万1000円の認許伺をなし,翌18年1月17日に認許されている(『三菱
社誌』(28), 4029頁,および同書(29),
4327∼28頁)。 しかし,実承認高は追
加によって295万2000円にふくらんだことになる。したがって,三菱は
1917年段階ですでに鉱山部門の次年度鉱山起業費予算の抑制を意図していた
ことになる。因に,この1918年1月17剛寸認許予算に対し,三菱合資社長
岩崎小弥太は特に次のような注意を行った。
「1月17日 各鍍山起業費採算認許二付注意
前年11月29日伺出ノ各鍍山起業費採算金貳百五拾八萬壹千貳百七拾六回
六拾鏡ヲ認許ス
右起業採算ヲ認許スルニ富り社長ヨリ次ノ趣旨ノ注意アリ
宮部昨年度利益ノ大部分ヲ翠ゲテ右起業費二注入ノ事卜相成候處一面我
が祗全般ノ起業トシテハ製餓其他巨額ノ資金ヲ要スルモノ尚他二多々有
之候次第ニテ右ノ如ク利益ノ幾ンド全部ヲ起業二投ズルハ困難ノ事情ナ
キニ非ルモ左リトテ事業ノ登展上必要ナル新規ノ起業ハ之亦等閑二附ス
ベカラザルニ由り特二認許アリタル次第二付能ク其迫ノ事情ヲ諒察ノ上
事ノ緩急ヲ慮り施工上萬遺憾無キヲ期スル様セラレ度」
(『三菱社誌』倒,4327∼28頁)/
−U6−
December
l夕gS
1910年代三菱の鉱業投資
においては大戦終結をみて予算を削減したというよりは,当初から鉱山部
門の予算を抑制していたことが重要である。ところで,もしこれが大戦後
の日本産銅業の世界市場における地位について,すでに1918年において
消極的な展望を有していたことを物語るものであるとすれば,その判断力
は驚くべきものであったといえよう。
なお,表11の最後に示した1915
・ 16年と1917 ・ 18年の平均実承認高
では,後者が前者の2.4倍となっており,大戦ブーム期の起業活動のピー
クは1917 ・ 18年であったことも知られよう。
(3)第1次大戦後の状況
周知のように,大戦終結の翌1919年は日本経済全体として戦時ブーム
を上回るブームを現出したのであるが,前述したように石炭と銅では対照
X しかしながら,鉱山部門利益合計は,
1916年度474万5000円,
17年度
399万4000円に達しているべ前掲『三菱鉱業社史』208∼209頁)。しかも,
1917年度の利益算出過程を検討すると,鉱山部の利益は原価消却および特別
消却後のものと考えられるので,消却後利益399万4000円に対する当初予算
が258万1000円,すなわち純益の64.6%ということとなり,「富部昨年度利
益ノ大部分ヲ畢ゲテ右起業費二注入」とする表現は,鉱山部に関する限りい
ささかオーバーにすぎると考えられる。なぜならば,
1917年度の消却額は不
詳であるが, 1916年度の消却額は原価消却54万1000円,特別消却186万円,
合計240万1000円にも達しており,
1917年度鉱山部消却合計が同程度の水
準にあるとするならば,むしろ当初予算のほとんどが,消却によって充当可
能と想定できるからである。あえてこのような「注意」を与・えた理由として
想像しえることは,鉱山部利益を他部門に「注入」しようと企図していたと
ころが,鉱山部の起業費予算が累増したために,他部門への資金「注入」が
圧迫されるようになっていたためではなかろうか。 そして,その他部門とは
「注意」において指摘されている「製鉄」であると容易に察せよう。因に,前
掲表8によれば,
1916年度中における臨時製鉄所建設部の起業費予算認許額
だけでも874万円にものぼっていた。 土
−U7−
畠 山 秀 樹
追手門経営論集 Vol. 4 No. 2
表12 三菱傘下炭坑・鉱山総起業
部 門
本 店
鉱業研究所
計
炭坑部門計
鉱山部門計
合
け
1919 年度
承’ 忍高
取消高
1,441
1920 年度
実承認高
承認高
1,441
98
88
12
88
no
1,529
1,529 (14.6)
6,225 118〈1.9〉
6,106 (58.2) 5,135
2,878
2,843 (27.2)
10,633
36〈1.3〉
154〈1.4〉 10,479(100)
956
6,200
取消高
1921
実承 吃高
承認高
98
2
10
2
108
(1.9)
339〈6.6〉 4,796 (82.2) 1,601
22〈2.3〉
934 (16.0)
363〈5.9〉 5,837(100)
1,076
2,677
〔出典〕「合資年報」各年度,より作成。
的な軌跡を描くこととなった。ここでは,三菱がこれに対しどのような起
業費配分を行ったかを検討して,総合型鉱業経営における投資行動の特質
の一斑を窺うこととしたい。
表12は,表11に連続するように作成した大戦後の総起業費予算推移表
である。
まず, 1919年度の起業費実承認高合計は前年度比2割増の1047万9000
円と, 1000万円を突破してさらに記録を更新することとなった。そのう
ち,炭坑部門に前年度比9.8%増の610万6000円(58.3%),鉱山部門に
3.7%減の284万3000円(27.1%)を配分した。炭坑部門は1915年以降連
年増加してきているのに対し,鉱山部門は1917年をピークとして漸減し
ており,両産業の盛衰を浮き彫りにしたものとなっている。取消率は両部
門平均1.4%ときわめて低い水準となっていた。
なお,この年本店が144万1000円という起業費実承認高を計上してい
ることは,新しい勤きとして注目に値する。同年度において,三菱は本店
所管のもとに多数の石炭・金属両鉱区を採試掘しており,独立場所を形成
するまでに至らない鉱区を,本店のリスク負担のもとに戦略的視点から経
営を試みたものと考えられる。 この点については,さらに表13の本店所
管鉱区面積から少し検討を加えておきたい。
同表によれば,石炭鉱区においては三菱鉱業会社所有全鉱区合計のうち
−118−
1910年代三菱の鉱業投資
December i夕夕8
費承認高推移(1919∼22年度)
(単位:千円)
年度
1922 年度
取消高
実承認高
承’
忍高
取消高
実承
乱Mi
1919 ・ 20年
平均実承認高
1921 ・ 22年
平均実承認高
770 (9.4)
264〈16.5〉
7〈0.7〉
271〈10.1〉
9
9
9
9 (0.3)
1,337 (55.5) 1,950
5 (0.2)
242〈12.4〉 1,708 (59.9)5,452 (66.8) 1,523 (57.9)
1,069 (44.4) 1,147
2,407 (100)
49 (0.6)
819 (10.0)
13〈1.1〉 1,134 (39.8)1,888 (23.1) 1,102 (41.9)
3,106
355〈8.2〉 2,851 (100)
8,159 (100)
2,630 (100)
表13 1919年末三菱鉱業会社本店所管採試掘鉱区
(単位:千坪)
地 区
採 絹
試 掘
祐】本 北海道地
炭
鉱
区
X 4,760
58,545
長崎地
X
502
4,388
店
樺太地
X 1,000
8,743
所
そ の
也 1,715
903
管 本店所管小 汁 7,977 (10.4) 72,579 (75.1)
三菱鉱区合t
金
属
鉱
区
十 76,575(100)
台湾地l§
湊そ の ft
−
j
本店所管小a
三菱全鉱区合F
j
F
96,674(100)
1,800
0
5,224
5,689
7,024 (13.6) 5,689 (20.5)
51,663(100)
27,706(100)
(注)本店所管小計までが本店分,全鉱区合計は三菱鉱業傘下
鉱区合計。
〔出典〕「合資年報」1919年度,鉱業の部,I∼2頁,より作成。
同社本店所管鉱区割合は採掘で10.4%に対し,試掘では実に75.1%に達
する。金属鉱区では,それが採掘で13.6%,試掘において20.5%を占め
ている。したがって,本店は主として試掘鉱区の担当を行うことによって
各独立場所の調査リスクを肩代わりしていたということができよう。
ところで表14は,
1919年度の月別起業費承認高を示したものである。
同表によれば,同年度における起業費承認高合計は,同年度前半期で
64.4%を占めており,炭坑部門では62,4%,鉱山部門で55.5%となって
いる。これは,同年度後半期に実承認高を急速に抑制したことを意味する
−119−
畠 山 秀 樹
追手門経鸞綸集 Vol.
4 No. 2
表14 1919年度月別三菱傘下炭
1月
2月
3月
4月
5月
6月
小 計
本 店
2
研 究 所
13
20
0.1
15
20
8
1,316(29.6)
1,359
[88.9]
44
2,578 (58.0)
3,812
21
〈0.04〉 [62.4]
123
157
〈2〉
550 (12.4)
32
〈27〉
1,583
[55.5]
4,444 (100)
54
〈2〉
6,754
[64.4]
計
炭坑部門計
鉱山部門計
合 計
67
〈20〉
0
8
816
286
〈26〉 〈12〉
721
82
1,557
409
〈20〉 〈26〉 〈13〉
1,302
208
14
(注)u.各月の下段〈 〉内は取消高。
2.小計の[ ]内は,各欄合計を100とした割合
〔出典〕「合資年報」1919年度,鉱業の部,5∼6頁,より作成。
が,とりわけ炭坑部門において後半期の実承認高は前半期の6割水準に落
ち込んでいた。三菱は石炭ブームの頂点の時期において,すでに反動恐慌
に備えて警戒体制にはいっていたことを物語るものであろう。
ところで,なお同表からは,実承認高が5月と11月に2つのピークを
有していることを読みとることができるが,順に三菱鉱業会社の第2期,
第3期の期首に該当しており,各期の起業費予算が期首月に計上されるよ
うになったことを示すものとして興味深いものがある。
さて, 1920年度にはいると反動恐慌襲来の打撃から実承認高合計は前
年度比44.4%減の583万7000円と激減した。そして,そのうち炭坑部門
に前年度比21.5%減の479万6000円(82.2%)を,これに対し鉱山部門に
は前年度比67.3%減の93万4000円(16.0%)しか振り向けなかった。炭
坑部門は減少したとはいえ,1917年度水準を超えているのに対し,鉱山
部門は大戦前の水準を大きく下回るようになっていたのである。ところで,
取消率は前者で6.6%ときわめて高く,後者では2.3%と相対的に低く
なっていたが,これは鉱山部門が当初から緊縮予算を組んでいたので,取
消の余地に乏しかったといえるかもしれない。
−120
−
1910年代三菱の鉱業投資
December リ。μ
坑・鉱山起業費承認高表
7月
8月
9月
(単位:千円)
10月
11月
12月
5
124
23
23
7
〈2〉
42
15
15
48
505
18
15
55
〈2〉
546
33
〈9〉
53
小 i十
合 計
1,441
18
88
142 (6.7)
1,323
(62.7)
643 (31.5)
2,109
(100)
〈22〉
5
892
〈59〉
170
[11.1]
2,294
[37.6]
1,529
(14.6)
6,106
(58.2)
〈118〉
41
2,853
1,269
[44.5] 〈36〉
(27.2)
939
〈59〉
10,489
3,733
[35.5] 〈154〉
(100)
次に1921年度に移ると,実承認高合計はさらに前年比約6割減の240
万7000円まで減少した。そのうち炭坑部門は前年度約7割減の133万
7000円(55.5%)となり,鉱山部門は逆に14.5%増の106万9000円
(44.4%)と少し回復した。これは,鉱山部門で不況合理化投資が進められ
るようになったからかと想像される。取消率は,炭坑部門で16.5%と急
上昇しており,起業費節減が強力に実施されたことが看取できよう。
そして,1922年度は実承認高合計は意外にも前年度比18.4%増の285
万1000円となった。そのうち,炭坑部門に前年度比27.7%増の170万
8000円(59.9%),鉱山部門に前年度比6.1%増の113万4000円(39.8%)
が配分されており,石炭需要の増加基調を背景として,再び前者により大
きな比重がおかれるようになったことが知られる。また,鉱山部門も
1921, 22年度と連続して増加しており,それが深刻な銅市況の低迷期にお
いて行われたことが重視されねばなるまい。産銅業にほぼ専業化した金属
専業型鉱業企業の多くが,事業の再編・整理を余儀なくされていた状況と
は対照的である。なお,取消率は炭坑部門12.4%,鉱山部門1.1%となっ
ており,炭況の累積的悪化が反映されたものといえよう。
−121
一
畠 山 秀 樹
追手門緩営論集 Vol. 4 No. 2
以上,三菱の投資活動を鉱
表15 炭価・鉱区・起業費指数
区と起業費の側面から考察を
年次
行ってきたのであるが,最後
炭価
石炭鉱区
採掘 試掘
1912
94
51
1
13
100
100
100
14
109
98
49
15
97
112
94
ついて検討を加え,また三井
16
106
127
127
鉱山の起業費投資とも簡単な
17
161
154
18
21
309
430
433
264
153
160
163
164
224
157
Ill
110
81
22
276
164
86
に1910年代の両者の趨勢を
炭価・銅価の動向との関連に
比較を試みておくこととした
19
いO
20
表15は, 1913年の炭価・
三菱石炭鉱区・炭坑部門起業
費実承認高を100とする指数
として一覧表に整理したもの
炭 坑 部 門
起業費実承認高
-
100
116
86
195
285
409
450
353
98
126
(注)1913年を100とした指数。炭価は全国平均。
〔出典〕通産省編『商工政策史』第23巻,1980年,
64∼70頁,および前掲表1,表2,表9,
表11,襄12,より作成。
である。
同表によれば,炭価は1912∼14年と堅調な上昇をみせ,
と下落したが,
1915年に97
1916年には106と回復しレ翌17年に161と急上昇して
ブームの到来を告げている。 1918∼20年は300∼400台と暴騰した水準
を維持したが,
1921, 22年には264,
276と急落することとなった。
一方,鉱区面積の指数は,どのように推移したであろうか。まず採掘面
積は,1912年の51から13∼15年と100,
98,112と倍増以上の伸びを示
した。これは,北海道石炭鉱区への進出によってもたらされたものであっ
て,炭価の変動という短期的視点とは一定の距離をおいた,長期的戦略に
発するものであったと評価できよう。そして,
1916年の半ば頃には石炭
ブームが見通されるようになり,同年秋から1920年の反動恐慌に至るま
で,石炭は黄金時代を迎えるのであるが,採掘面積は1916∼20年と127,
154, 153, 160, 163と大幅な上昇を示した。 これは,ブームに乗って急拡
大したものではあるが,炭価指数よりは大きく抑制されていた。そして。
−122 −
)ecember
1910年代三菱の鉱業投資
り夕∂
1921, 22年と炭価の急落期にも164と横ばいとなっている。採掘面積は,
炭価の変動に比例して伸縮さ甘うるほどには弾力的ではなかったので,
ブーム期にあってもその拡大には自ずから抑制力が働いていたと理解でき
よう。次に試掘面積は,
ぐるしい変動をみせたが,
1912 心15年にかけて1,
100, 49, 94というめま
1912年からみれば激増している。 これも,基
本的には北海道石炭鉱区開発に伴うものである。そして,
かけて127,
1916∼18年に
224, 157と大幅に拡大しているのは,ブームに乗って有望鉱
区の獲得に力を傾注したからである。しかし,
1919∼22年にかけては
HI, no, 81, 86と低下しており,急速に取捨選択が進められていること
が知られる。三菱のような巨大鉱業資本にとっては,それに適合的な巨大
優良鉱区が望ましかったから。九州地区の試掘鉱区は三菱の場合1917年
にピークに達した後,その後ほとんどが放棄されており,それがこの指数
の低下をもたらしたのである。なお,
1917, 18年と試掘面積の指数が採掘
のそれを超えているが,これは試掘の場合,結果が良くなければ撤退し易
いという事情があったからであろう。しかし,試掘面積の指数の動向全体
としてみれば,
1916∼18年を除けば,炭価指数との関連は採掘のそれよ
りもより薄れるといえよう。 =
次に,起業費実承認高の指数(以下,起業費指数と略)をみることにしよ
う。 1913∼15年とそれは,
そして,
100, 116, 86と炭価指数とよく対応している。
1916∼19年にかけて,
195, 285, 409, 450と炭価指数をはるか
に上回って急上昇している。そして,
1920∼22年においては,
353, 98,
126と顕著に低下している。炭価,いいかえれば炭況に対して,起業費指
数が鉱区のそれよりも鋭く,かつ過剰なまでに反応していたと評価できよ
う。例えば,
1916年の起業費指数は195と炭価に比して過剰な上昇であ
るが,北海道開発という事情があるにせよ,ブームを予測して起業活動を
活発化していたことが重要な要因であろう。また,
1920年の炭価指数は
前年に比し若干上昇しているが,反動恐慌の襲来とともに炭価は急落を続
−123−
畠 山 秀 樹
追手門経鸞論集Vol. 4 No.2
けており,起業費指数が前年
表16=銅価・鉱区・起業費指数
の450から353と激しく下降
金属鉱区
金 属 部 門
起業費実承認高
年次
銅価
1912
102
93
59
13
100
100
100
100
14
88
106
128
97
15
113
Ill
186
63
価・三菱金属鉱区・金属部門
16
173
116
358
158
起業費実承認高を,1913年
17
174
122
534
300
18
158
125
434
227
19
136
132
437
219
20
Ill
133
424
72
21
95
133
400
82
22
109
135
357
87
したのは,それに対応してい
たからであった。
表16は,表15と同様に銅
を100とする指数で整理した
ものである。
さて,銅価指数は1912∼
14年と102,
100, 88と下降
試掘
-
(注)・〔出典〕ともに表15に同じ。
しており,
1915年から急上
昇に転じ,
1916, 17年と173,
して, 1918∼21年と158,
採掘
174でブームのピークを形成している。そ
136,111, 95と連年下降を続け,
1922年に109
と回復をみせたのである。
これに対し,採掘面積の指数は,
1912年から19年まで,
93から132と
銅価指数の動向とは余り関係なく,ほぼ一定の調子で上昇を続けている。
そして,
1920∼22年と133∼135でピークごを形成している。 これから判
断する限り,意外にも三菱は銅価の変動とは一応切り離す形で,採掘面積
の安定的・持続的拡大につとめていた姿が浮かび上がってこよう。一方,
試掘面積指数は,
1912年から17年まで,
59, 100, 128, 186, 358, 534と
いうハイペースの上昇を続けた。とりわけ,:1916,
17年は猛烈な急昇で,
戦時ブームに乗ったものと評価できよう。とりあえず,試掘鉱区として権
利を確保しておこうとしたものである。そして,
と大きく下降し,
1920∼22年と424,
1918, 19年と434,
437
400, 357とさらに下降し続けるこ
ととなった。この局面では,1922年を除いて銅価指数の下降に対応して
いるように思われる。 しかし,
1922年において357という指数は,
−124−
1912
December t卯S
1910年代三菱の鉱業投資
年の6倍の水準にあるのであって,鉱業経営における鉱区権の重要性を,
鍋価との対比においてあらためて認識させる結果となっている。
次に,起業費指数に移ると,
している。そして,
1913年から15年まで100,
97, 63と低下
1916年に158,翌17年には銅価指数をはるかに上
回って300と急激な上昇を示し,
1918, 19年と大きく低下しつつも227,
219と銅価指数よりも高水準にある。 しかし,
1920∼22年については,
72, 82, 87 と銅価指数よりもはるかに下方で推移しており,銅鉱業の苦境
がかいまみれるが,また1917∼19年の起業費の増大が,ここで下方圧迫
要因として作用しているように考えることも可能であろう。
さて,表17は三菱と三井鉱山の起業費を比較するために作成したもの
であり,参考として筑豊御三家と称された貝島鉱業のデータも掲げている。
同表の検討にあたって留意しておくべきことは,三菱は起業費実承認高で
あって支出額ではないのに対し,三井鉱山は「注入高」と表現されている
ことから支出額と解される点てある。
ところで,三菱と三井は鉱業企業のなかでも突出した巨人経営であって,
鉱産額合計の首位を争っていたのであるが,起業費では両者にはかなりの
相違がみられた。三菱は,大戦前小計(1913,
14年),大戦期小計(1915∼
18年),そして大戦後小計(1919∼22年)のすべての時期において三井を
上回っていた。そして,
1913∼22年に至る11年間の合計をみておくと,
三菱が5,037万3000円,三井が3,388万1000円となり,実に三菱は三井
の約1.5倍にも達していたのである。ここからは,まず第1に,三菱が三
井よりもはるかに起業費投資意欲が高かったとの指摘が可能であろう。第
2に,三菱と三井の鉱業経営のタイプの相違が,起業費に反映していたこ
とが想定できよう。 11年間という長期間において,三井が三菱を上回る
のは, 1916年と22年のわずか2年間だけであるのだから,ある程度構造
的に違いがあったとみることも合理的である。三菱はいうまでもなぐ総合
型鉱業企業であって,金属鉱業部門には製錬部門があり,ここに多額の起
−125一
畠 山 秀 樹
追手門経鸞論集 Vol. 4 No. 2
表17 巨大鉱業経営の起業費比較
三 井 鉱 山
年 度
三菱起業費
起業費注入高 償却
実承認高
1912年
(19,206)
(単位:千円)
貝 島 鉱 業
残高 起業費
償 却
(A)
起梨t 鉱区
計
鉱区及起業費-A
B
(B)
564 18,643 -
41
146
187
3,062
6.1
13
2,658(100) 2,578 (100)
728 20,493 -
45
165
210
2,939
7.0
14
小計
2,828(106) 1,403
914 20,981 -
74
96
170
3,270
6.4
119
261
380
(54)
5,486
3,981
15
1,988 (75)
2,541 (99) 1,013 22,509 一
87
179
3,505
6.4
16
4,701(177)
5,793 (225) 1,981 26,321 一
112
102
214
3,749
7.0
17
7,926(298)
4,399 (171) 2,817 27,903 一
128
301
8,688(327)
△406(△16) 2,414 25,083 一
Ill
4,446
6,056
6.3
18
小計
173
252
629
290
23,303
12,327
1,642
-
8,225
-
19
10,489(395)
20
5,837(220)
4,447 (172) 2,883 26,647 5,047(196) 1,299 30,396 -
21
2,407 (91)
2,317 (90) 1,192 31,521 -
22
小計
2,851(107)
5,762(224) 1,302 35,982
21,584
17,573
合 計 50,373
33,881
6,676
16,543 -
-
92
363
428 1,057
4.1
193 483
4,389
6.1
403
682 1,085
5.5
365
369 734
5,556
-
7.6
408 455 863
1,466 1,699 3,165
4,720
-
2,214 2,388 4,602
-
(注)1.各企業により,起業費・償却の内容に相違があると想像されるので,正確に比較可
能な数値とは評価できない。おおよその概数,あるいは趨勢を示すものと解すべき
であろう。
2. 1912年の三井鉱山の起業費注入高は前年度末残高で,参考として( )で示したも
のである。
3.三井鉱山の「起業費注入高」の意味は,償却を実施していることから,支出金額と
解してよさそうである。しかし,
1918年に△,(マイナス)となっている意味は不詳で
ある。
4.貝島鉱業の償却は損益計算の損失の部計上額,鉱区及起業費は貸借対照表の資産の
部計上額。
5.小計は,1913∼14年,
分である。
1915∼18年,
1919∼22年である。合計は,
1913∼22年
〔出典〕前掲表9,表11,表12,『三井鉱山五十年史稿』巻4,付表,および『貝島七十年誌
資料』(A8,5−1)。
業費を必要としていたのである。 しかも,
1910年代においても,製錬の
技術革新は顕著であり,また製錬設備の大型化が進行していた。一方,三
井鉱山は金属兼営型炭礦企業であって,その中心は炭礦経営におかれてい
た。しかも,そこにおいてはブーム期にはむしろ労働力の大量投入により
増産を図る傾向が強かったといえよう。
ここでは,起業費額の大きな相違についてはとりあえず,以上のような
−126
December
りμ
1910年代三菱の鉱業投資
事情をあげておくことにとどめるが,大戦後の1922年に三井が三菱の約
2イ音もの起業費を注人したことは,三井が不況過程において大規模な合理
化投資を行ったことを窺わせるものとして注目に値しよう。なお,三菱と
三井で起業費の増減の傾向が必ずしも一致しないが,ここにも鉱業企業の
タイプの違いが反映しているように思われて興味深いものがある。
ところで,表17には参考として貝島鉱業の起業費と鉱区の償却,およ
び貸借対照表資産の部に計上されている「鉱区起業費」勘定の金額が掲載
されている。これは,現在のところ起業費が審らかでないために,そめ代
わりにこれらの数値を利用して,三井鉱山のイ賞却および起業費残高の金額
との比較を通じて貝島の起業費の水準を推測しようとするものである。貝
島鉱業は,周知のごとく地方大手の炭礦企業であり,典型的な炭礦専業型
鉱業経営であった。
さて,ここでその作業にはいる前に,表17に掲げた金額に関する若干
の問題点をあげておきたい。
まず第1点は,三井鉱山の「償却」の意味するところである。表17で
は,「起業費」・「償却」・「残高」の順で表示しているが,これは原史料の
表示に従って同じ様式で示したものである。これらが対応する形で表示さ
れていることから素直に判断すれば,「償却」は,「起業費」に対する償却
額と理解することが妥当と思われる。鉱業経営には,特有の「鉱区」に対
する償却を伴うが,これは通常「鉱区」勘定から控除するものであり,し
たがってここではとりあえず,一定の留保付きで「償却」を「起業費」に
ついてのものと解しておきたい。 このような理解に立てば,「残高」は当
17)
然「起業費」の償却後の金額ということになる。表18は,三井鉱山と貝
17)三井鉱山の「償却」について,「起業費」に対する償去│]であるかどうかをあ
えて問題としたのは,この「償却」について「会社全体」の「減価償却」と
解釈する説かおるからである。前掲,丁振聾「1920年代の日本における炭鉱
企業経営」(以下,丁論文と略)は,「会社全体」の「減価償却」として分析/
−127−
畠 山 秀 樹
追手門経営綸集 Vol. 4 No. 2
表18 三井鉱山・貝島鉱業償却費比較
期 間
1913∼14年小゛
1915∼18年 小1
1919∼22年 小t
1913∼22年 合7
三井鉱山償却
(A)
十 1,642
十 8,225
十 6,676
十
16,543
(単位:千円)
貝 島 鉱 業 償 却
起業費(B)
119
629
1,466
2,214
起業費・鉱区計(C)
380
1,057
3,165
4,602
A
-B
13.8
13.1
4.6
7.5
A
-C
4.3
7.8
2.1
3.6
〔出典〕前掲表17,より作成。
島鉱業の比較を容易にするために表17を利用して作成したものであって,
同表川会)は三井鉱山の「償却」を「起業費」に対するものと解して算出
したものである。 また,(合)は「鉱区」の償却を含む場合を想定したもの
である。
第2点は,表17の貝島鉱業の「鉱区及起業費」の内容にっいてである。
これは,同社の貸借対照表借方の部に計上されているのであるが,両者合
計の金額で表示されているために,「鉱区」と「起業費」との勘定に分離
して把握できないことである。とはいえ,「鉱区及起業費」勘定は,「起業
費」単独勘定以上の金額となるので,表17に示した(i)の数値は,三井鉱
山対員島鉱業の資産勘定としての起業費「残高」の推定最小格差を示すも
のとなろう。実際には,員島では償却金額において「鉱区」が「起業費」
を上回ることも多いのであるから,三井対貝島の起業費残高の数値は,㈲
をはるかに上回ることになる。
Xを展開している(同論文,37∼39頁,表4参照)。 もし,「鉱区」を含む償
却であるとしても,私の行論からすれば,同表の「残高」が起業費の「残高」
より過少表示となるが,分析を根本的に変える必要はないように思われる。
なお,丁論文では,「起業費」をもっぱら「設備投資」と理解して分析を進め
られているが,三菱鉱業の事例では時期によっては「坑夫住宅」や福利施設
としての「鉱夫娯楽場」の建築費がかなりこの比重を占めることがあるので注
意する必要があろう。
−128
December
1910年代三菱の鉱業投資
l夕夕S
さて,以上述べてきたようなことについて留意しつつ,まず表17で示
した㈲の数値についての検討に移ることとしたい。
この亦は,
1912∼22年を通じて,
1918年と20年を除いて6∼7倍で
推移している。この格差は,当然ながら起業費支出格差に結びついて生じ
てきているものであって,三井鉱山が金属兼営型炭礦企業,貝島鉱業が炭
礦専業型鉱業企業というタイプの相違があるにせよ,後述するように鉱産
額での比較を考慮した企業規模格差の視点からみれば,むしろ財閥系の資
本集約的経営という性格が貝島との対照で浮かび上がってくるように思わ
れる。
次に,表18の亦についてみておこう。これは,償却額の比較を通じて
間接的に起業費投資水準の比較を行おうとするものであるが,
1913∼18
年にかけて三井は貝島の13倍を超えており,大戦後の1919∼22年にか
けて4.6倍にまで急激に差が縮まっている。 これは,ブーム期の利潤を貝
島が大規模に起業費投資に振り向けたことを示唆するものであろう。
∼22年の合計では,
1913
7.5倍に達している。この格差は,両社の起業費支出
18)
の水準の格差を示唆するものと解してよいであろう。
さて,そこで次に,表19を利用して三菱,三井,貝島3社の鉱産額を
19)
比較し,起業費との関連について簡単な考察を行っておこう。
18)ここでは,表18の㈲の比較を行った。もし.
吻でみるならば,
1913∼
22年の合計で三井は貝島の3.6倍となり,格差は大幅に縮小していたことに
なる。しかしながら,前掲表17の起業費の「残高」の比較と,表18のA/B
は一定の対応を示しており,三井鉱山の「償却」額はやはり起業費に対応す
るものとみなすほうが合理的であることを示している。 なお,丁論文では,
貝島の償却額について1918∼20年合計を223万1000円としているが(丁論
文,
38頁の表4),前掲表17での合計は193万1000円となり一致しない。
丁論文に,ミスプリあるいは計算ミスがあるように思われる。
19)ここで“鉱産額”というのは,農商務省調査による。各社別鉱産量を市価
を考慮して金額表示したものと考えられる。各社の売上額ではない。
−129−
畠 山 秀 樹
追手門経営綸集 Vol. 4 No、2
表19 三菱・三井・貝島鉱産額合計比較
年 度
1910
1914
1916
1918
1920
(単位
三菱(A)
三井(B)
貝島(C)
A/B
10.960
10,651
3,008
1.0
17,072
17,156
5,223
1.0
25,268
22,007
4,599
1.1
43,435
45,951
15,694
0.9
63,842
66,644
21,840
1.0
B/C
3.5
3.3
4.8
2.9
3.1
〔出典〕畠山秀樹「1910年代三菱炭の流通」(『追手門経済論集J
Vol。
26,No. 3,1994年』,74頁,より作成。
同表によれば,三菱と三井の鉱産額の格差を示す(A)は,
1910∼20年
に至る間において,ほぼ1倍であって,鉱産額において両社は均衡してい
たことが知られる。したがって,いいかえれば同水準の鉱産額を維持する
ために,三菱は三井の1.5倍もの起業費支出を必要としていたことになる。
一方,三井と貝島の比較を示した鼎では,ほぼ3倍を超える格差があっ
た。 しかしながら,三井はそのために7.5倍前後の起業費支出を行ったこ
とになる。以上の意味するところを分析するためには,労働者数,設備の
内容,自然的諸条件等も考慮する必要があるが,ここでは前述したように,
財閥系鉱業企業と地方大手炭礦企業との間には,この時期においても起業
費投資における質的差異が残っており,やはり財閥系鉱業経営の資本集約
的傾向を指摘できるように思われる。
V。お わ り に
第1次世界大戦を間にはさむ1910年代は,日本の経済や産業構造など
のうえに急激な変動をもたらした。量的にも質的にも大きな変貌を遂げた
のである。そのため,石炭鉱業や銅鉱業を資本蓄積の基盤としてきた諸鉱
業経営にとっても,従来の経験に照らしてこれらの部門に対する投資をど
のように進めていくかという見通しをたてることについては,きわめて困
難な状況におかれていたであろうと容易に推察することができる。
−130
December
1910年代三菱の鉱業投資
り夕&
ところで,鉱業経営はいうまでもなく,鉱区取得にはじまって,起業計
画を立案し,新坑道の開盤,そして機械設備の装備を経て生産開始に至る
ものである。したがって,建設投資に長期帽かつ大規模資金を必要とする
産業の典型的な事例にあてはまる。このような産業部門では,景気循環や
一時のブームだけではなく,資源量や長期的・中期的・短期的な諸条件が
考慮されて投資が進められる必要がある。起業費として計上される金額に
は,これらがすべて含まれているのであって,実際に行われた投資内容に
まで立ち入って検討することにより,それぞれの時期の起業費投資の特質
を具体的に明らかにできるといえよう。また,巨額の資金をどのように調
20)
達したかも検討されるべき重要な問題である。
しかしながら,研究史の蓄積がきわめて手薄い現段階においては,
1910
年代についてもとりあえず三菱の鉱業経営の全体的な投資行動の素描を
行っておく必要があったといえよう。残されている課題については,今後
順次果たせるようにつとめたい。
〔付記〕
1.本稿作成にあたり,奈良県立商科大学学長三島康雄氏,京都産業大学教
授柴孝夫,三菱史料館曽我部健氏,および元三菱鉱業セメント㈱,坂本豊
氏,の各位には史料利用上,格別の御配慮を賜わった。
また,本稿で利用した『三井鉱山五十年史稿』は三井文庫に所蔵されて
おり,『貝島七十年誌資料』は福岡県の宮田町石炭記念館に所蔵されてい
る。閲覧に際し,関係各位に大変御世話になった。
さらに,九州大学工学部,九州工業大学,大阪大学工学部,京都大学工
学部,東京大学工学部,秋田大学鉱山学部の所蔵になる実習報告書関係史
20)三菱合資会社の時代であれば,合資本社が資金を供給していたのであり,
償却と利益で1910年代には十分に賄いえたと想像可能である。三菱鉱業㈱
として分則・独立後も,
1920年代の不況の長期化までは,おそらく同様では
なかったかと思われる。今後の課題としたい。
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畠 山 秀 樹
追手門経官船業Vol.
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料,ならびに旧蔵文献の閲覧にあたり,関係機関の各位には常に大変御世
話になった6
記して,厚く感謝の意を表したい。
2.本稿は,
1996年度文部省科学研究費一般研究(C)(課題番号07630115)
による研究成果の一部である。
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No. 2
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