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前嶋英輝先生講演 - 岡山大学大学院教育学研究科・教育学部
1(3)[1]前嶋英輝先生講演「こころの育つ場 ―幼年造形表現の援助方法―」 ※敬称略 前嶋英輝:それでは皆さん、改めまして、前嶋英輝といいます。 よろしくお願いいたします。少しでも皆さんの心に残る話ができ ればと思いますので、今日は「こころの育つ場 ―幼年造形表現 の援助方法―」という題名をつけまして、話をさせていただきた いと思います。 もともと、ここにお招きいただいたのは、岡山大学教育学部の 美術棟にある彫塑教室で、彫刻を1年間、高橋敏之先生と一緒に させていただいて、そのときにご縁ができたというのが1つの理由かと思います。まずは 私の作品を少し自己紹介代わりに見ていただいてから、始めようと思います。一番上の写 真は、岡山市の文化体育館にあります『未来』という作品です。真ん中の写真は、地元の 中学校の卒業生がよく一緒に並んで写真を撮ってくれるそうなのですが、若葉の広場の『少 女像』という名前の記念碑ですね。石を広くとっているので、卒業記念写真スポットナン バー1とのことです。そして一番下は、文化センターのロビーに ある作品『慶子』。このように、ブロンズ彫刻を基本にやってき ています。 今日は、キーワードを「リンク」としたいと思います。今日こ うやってお話しさせてもらうのも、初めてつながりができるとい う意味でリンクですよね。それから「身体性」。今見てきていた だいたように、私がやっているのは人体彫刻が主ですので、そう いった体、自分が自分の体を感じるということです。そして「粘 土場」。粘土という言葉と砂場という言葉を合わせて、造語した のですが、粘土場というのを日本に広めようという考えを、今日 のキーワードにして話をしていきたいと思います。 1.『美術による人間形成』 幼児教育関係の勉強をされている皆さんには、釈迦に説法のよ うな話になるので簡単にお話ししますが、幼児教育は、今の時代、 社会的に非常に着目されています。例えば、新聞に載るような事 件について「中学生が悪い」「高校生が悪い」と言うことがあっ たり、殺人事件や暗い話もあったりします。そういったときに担 当している部署の人に聞くと、「中学校では最善を尽くしている けど、小学校の時点できちんとしつけができていないから」とい う話が出ます。それで小学校の先生に聞くと、「小学校では頑張 っているけど、もう就学前が問題なんですよ」と言います。就学 前というのは、我々が担当し、皆さんがこれから直面する、幼稚 園や保育所。もっと言えば、いろいろな意味での子育て支援。そ れから障害児教育。それらが全て含まれてきます。 - 57 - それらを含めて、ローウェンフェルドが、 1961 年に『美術による人間形成』を出しま した。ここに載せたのは、その表紙に描い てある絵です。この作品は「私の床屋さん」。 14 歳の男子が描いたものですね。この本で 一番有名なのが、「人間には2通りのタイ プがある」。1つは、目で見て視覚的にも のを捉える人。もう1つは、触覚的に捉え る人です。触覚的に捉えるというのは、触 「私の床屋さん」 (14才・男) 非視覚的傾向の 子どもは、環境と の主観的関係を 表現するために 色彩を用いる。 V.ローウェンフェルド って硬い、柔らかいなどというだけではな く、人生経験の中に照らして触覚的にものを捉えるということも含みます。 「非視覚的傾向 の子どもは、環境との主観的関係を表現するために色彩を用いる」と書いているのですね。 つまり、この床屋さんを見ても分かりますが、非常に鮮やかな配色ですよね。服や顔、後 ろの背景など、ある程度は元からこういう色だったのかもしれませんが、知覚的に本来的 なものを描こうとしているのではなく、人的環境・物的環境も含め、環境に対する自分の 主観的関係を表現するために色彩を用いている例であると、ローウェンフェルドは言って います。このことをある程度基盤にしながら、今我々がやっている図工の勉強が成り立っ てきた部分があると思います。よく言われるように、あらゆる分野において、目で見える ものが全てではないと皆さんも感じますよね。ですが、その見えるものではないものって 何なの? という疑問への明確な答えは誰も出しません。それは心にあるとか、愛である とかいろいろなことを言いますけれども、明確に「それは何々である」とは言えないわけ です。ですから、では「美術で人間形成する」というときには何を基準に、一番根っこに もってきたらいいのかという話を、拙いながらもしていきたいと思います。 2.教育基本法改正 ―「適切」と「適当」、「芸」と「藝」― そもそもここに私が呼ばれている1つの理由は、岡山大学 Good Practice の文部科学省 の補助金を取得されたことです。このGP主催で、第1回子育て親育ちフォーラム・地域 大学間連携シンポジウムをしたときに、小田豊先生が招聘されました。そこで、小田先生 が教育基本法の改正についての解説をしてくださったのです。特に教育基本法の第 11 条、 幼児期の教育についてのお話が心に残ったので、ここで繰り返したいと思います。 中でも、「適当な方法によって」という 箇所について先生がおっしゃったのが非常 に心に残っています。資料に挙げましたが、 第 11 条には「適当な方法」という言葉が 出てきます。それから、第5条。同じく新 法ですけれども、3項には「適切な役割分 担」とあります。この「適当」と「適切」 がどう違うかについて、小田先生がお話し くださったのですが、第5条は義務教育で すから小学校以上ですよね。そこでは、い - 58 - 教育基本法の改正 平成18年12月15日 教育基本法 (幼児期の教育) 第11条 幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の 基礎を培う重要なものであることにかんがみ、 国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成 長に資する良好な環境の整備その他適当な 方法によって、その振興に努めなければなら ない。 みじくも「適切な」という言い回しをして います。つまり、あらゆる国民は義務教育 (義務教育) を受ける権利を持ち、保護者はそれに対す 第5条 2 義務教育として行われる普通教育は、各個 人の有する能力を伸ばしつつ社会において 自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び 社会の形成者として必要とされる基本的な資 質を養うことを目的として行われるものとする。 3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会 を保障し、その水準を確保するため、適切な 役割分担及び相互の協力の下、その実施に 責任を負う。 る責任を持っている。それに対して、子ど も達には同じように、「適切」に教育を受 けさせなければならない。A君、B君、C 君の3人に、「A君とB君はこういう子で すから、この段階まで伸ばしましょう。C 君はこういう子ですから、この段階で止め ましょう」という発想ではいけない。みん な適切に、一定の水準までいきなさいということです。基本的な考え方ですね。それに対 して、幼児期の教育の 11 条の方は、文脈や前後の言葉は違うにしろ、その子どもに合っ た「適当」なやり方をしなさいとあります。ですから、A君、B君、C君がいたら、 「A君 はこういう子ですから、こういうことに注意してあげましょう。C君は、こういう子だけ れども、その人に合った適当なやり方がきっとある、だからそれを探しましょう」という わけです。ちなみに、教育基本法というのは戦後すぐできて、そのときはこの 11 条の幼 児期の教育はありませんでした。新旧対照表では、幼児期の教育は過去の分にはありませ んから、初めてできたものです。皆さんがこれから岡山大学で勉強をして、社会に出て行 く根拠になる法律が、ここで初めてできた、という記念すべき法律だということになりま す。ですから、 「適当」と「適切」、こだわりすぎるとうるさい感じがしますけれども、キー ワードとして覚えておいてください。 一度、整理します。 「適切」とはよくあてはまる様子。この「あてはまる」は、ある意味 では、子どもにあてはまっているのではなく、社会にあてはまっているという意味ですよ ね。それから、 「適当」というのは性質、状態、要求などにちょうどよく合うことという意 味です。このように微妙に違っています。 では、ここで一息入れつつ、下の「芸」という字を眺めてみましょう。今の言葉の意味 の違いについて、芸術というものも絡めて記憶してほしいと思います。適切の「切」は「切 る」で、適当の「当」は「当たる」ですよね。そして、芸術の「芸」と「藝」。「芸」は当 用漢字になって省略されたもので、草冠に云です。云は、元々字解としては、雲がわき出 る様子の雲の形なのですが、鎌のような形にも見えます。農耕的なものを元の意味にして いて、字解としては「草切る」と読みます。 一方「藝」は、草冠以外が1つの文字にな っていて、勢いよく育つという意味です。 別に国語学者に文句を言うつもりはありま せんが、つまり芸術とは、元々「草が元気 よく育つ様子」であったのに、当用漢字に 直したときに「草切る」という真反対の意 味になってしまったということがあります。 ですから、某芸術大学では、出版物では全 部「藝」を使っています。本質を大事にす - 59 - 適切 よくあてはまる様子 適当 ある性質・状態・要求などに ちょうどよく合うこと 芸 藝 草切る 草が元気よく育つ るというこだわりがあるのですね。「適切」「適当」という意味についても、こういう芸術 の意味を根拠として、同じように考えるべきだとこだわりました。 それでは、文字つながりの最後にします。私は農業をしていまして、耕耘機などを使い ます。それで、皆さんは耕耘機の「耘」という字を書けますか? 「耕」と「耘」の違い が分かります? 「耘」は左上の部分が「ノ」と右からちょんとはらってあって、 「耕」は 左からになっています。先程の芸術の「芸」にしても、耕耘の「耘」にしても、このよう に文字の字義が違っています。詳しく言うと長くなるので省略しますが、耘はノ木偏の仲 間です。 「ノ」は、いろいろな穀物がたくさん生えるようにという願いがこもった字です。 そして、それを収穫するときにはコンバインという道具を使います。ここでこじつけにな るのですが、こうやって文字の話をしてみても、気付くことがあります。幼児教育と農耕 や人類が辿ってきた歴史。また、子どもが生まれて大きくなっていく様子と、大きく言え ばビッグバンで宇宙ができ、星が生まれてきたという話。あるいは魚が両生類になって進 化していくのと、人間がお母さんのおなかの中で、分裂して最初はメダカのような形だっ たものがだんだん赤ちゃんになっていく過程。そういう流れが、それぞれ非常によく似て います。これもこじつけですが、耕耘機やコンバインという道具もよくよく考えてみると、 幼児教育でやっている仕事と似ていると思うわけです。奇しくも、 「コンバイン」という言 葉は、幼児が描く絵画の中の、初めて統合する絵画という意味を持ちます。ぐじゃぐじゃ 描きの「スクリブル」 「なぐり描き」と言ったりするものが、○×のような始点や終点が定 まったような絵画になっていく。その初めて○と×を組み合わせた形のことを「コンバイ ン」と呼びますね。そういうふうに、種を蒔く、育てる、それが複合する、そしてまたそ れを育てるという、その中に出てくるものが、農業をやっていると子どもを育てることと 非常によく似ていると感じます。 3.粘土場 ―場(トポス)― ここからは、映像なども見ていただきながら話します。先程言った粘土場について、高 梁中央保育園の園長先生といろいろ話をしている中で、粘土場を作ろうという話になった のです。粘土場とは何かということですが、砂場なら想像しやすいですよね。では、 「粘土 で遊ぶ」と言ったとき、どういった場面が頭に浮かびますか? 皆さんも保育所や幼稚園、 小学校、あるいは、中学・高校でも美術で選択したという人もあるかもしれませんが、粘 土で遊ぶというとき、どういうものを思い浮かべます? 大抵、幼稚園や保育所で常備し ているのは、1㎏パッケージの油粘土です。本来、油粘土はオリーブ油で練るのですが、 保育所でそれをやるとべちゃべちゃになるので、石油製品で、安全に石の粉などを練り込 んで作っているプラスチック粘土を使用しています。多分保育所では、1㎏程度の箱で、 これはA君の分、これはB君の分、と美術セットのようなものに入れていますよね。つま り、粘土遊びで大抵想像するのは、手遊びなわけです。小さい、指で使えるもの。それに 対して、体ごと遊べるものがありますね。砂場で思い浮かぶのは、山作りましょう、トン ネル掘りましょう、水流してたくさんの大きな町を作りましょうという遊びです。粘土を そういったものにできないかと思ったわけです。 その根拠は、「場(トポス)」です。トポスというのは、元々詩を作るときや言葉を使っ て文を編み出すときの、フィールドのことを言います。粘土で遊ぶ、あるいは砂場で遊ぶ - 60 - ときは、仮に何かを思い描いて作っている はずですよね。これは絵や音楽なども同じ 場(TOPOS) で、ある程度イメージというものに、逃れ ○ 一定の観念 表現の型の集積 ○ 集団的無意識にもとづく「始源的原像」 られない制約をもって何かをしているはず です。風の音を意識して作曲した、などで すね。そのときに関わってくるのが、「話し 手の語論(ロゴス)」、「聞き手の感情(パト ス)」。一般的にロゴス、パトスというと、 理性や感性という言葉を思い浮かべる場合 固有のトポス 話し手の語論(ロゴス) 話し手の人柄(エートス) 聞き手の感情(パトス) が多いと思いますが、ここでは話し手の好 みと、聞き手の感情に限定します。つまり、例えば「あなたのことが好きです」と言うと きに、 「あなたが美しく、話し声まで美しいので、私はあなたが好きです」という言い方を するのは、ロゴスの1つです。一方、聞き手の感情はそれに対して、大きく多岐にわたり ます。同じ言葉を言っても、聞き手は、 「そう言われてもあなたのことは好きにはなれない」 と言う人もあろうし、 「この言葉は私には魅力的だ」と感じる人もある。語論と感情が上手 く組み合えば1つのコミュニケーションになるのですが、それを操作しているのが「話し 手の人柄(エートス)」です。つまり、なんだかんだ言っても前嶋という人が発した言葉だ から意味があるんでしょう、ということですね。いくらいいことを言われても、言った人 次第というところがあります。 特に言葉として面白いのは、バベルの塔の話で、神様が「同じ言葉を喋っていたら、ろ くなことを思いつかない。いろいろな言葉に分けてしまおう」と言語を分けてしまいます よね。ヘブライ語やラテン語に。それで、その頃、強いという意味の「ケン」という言葉 があったようなのですが、それが強さの程度を表していたらしいのです。すると、 「ケン」 という言葉が、強いという言葉を示したり、弱いという言葉を示したりするように分かれ たという話があります。こういう話は今でもありまして、携帯電話などは、まさにそうい うことがあると思います。携帯電話で「あなたのことが好きです」と書くときに、 「好き」 の後ろにハートの絵文字をつけた場合と感嘆符をつけた場合、あるいは疑問符をつけた場 合で意味が変わるというのは、よく分かりますよね。好きという言葉がいろいろな意味を 持つようになるわけです。それから「馬鹿」という言葉も分かりやすいですね。 「バカ」と 発したときに、言われた側が「何、バカって嫌だわ」というのと、 「バカって言われてなん か嬉しい」というのと、馬鹿という言葉に、2通り幅が出てくるのが分かります? そう いう言葉がたくさんあります。 ここで言っている場というのは、例えば、保育所に粘土を使って砂場みたいなところで 遊ぶという遊びをいつでもできるようにしておいたとします。そのときに、保育士さんが 何かを話して、それを子ども達が聞く。その話し手の人柄、生き方や生き様とまで言って もいいかもしれませんが、そういうエートスと呼ばれるものが、粘土場のフィールドによ って、言葉のフィールドと同じように、子ども達に上手く捉えられ、多様化していくので はないか。そういう仮説に基づいてやっているという話なのです。言葉と粘土で作るもの というのは非常に似ていて、可塑性が高いのですね。そういう幅を持っているものが、場 の中にまずあって、それがどう決まっていくかということです。 - 61 - 4.粘土場 ―実践教育目標― こちらの写真をご覧ください。こういう形で、保育所で粘土遊 び教室をやっています。全国でもいくらかやっているところがあ ると思います。これはまだ試作品ですが、下にブルーシートを敷 いて、粘土を 300kg くらい持って行っています。1人平均 15kg 程 度の粘土で、自由に遊んでもらいました。高梁中央保育園で部屋 1個を丸々使って、年中粘土を置いておいて、こうやって遊べる 場所を作ろうということをしています。 この実践をどのように行っているかについて、実践教育目標を 「①立つことという彫刻的な構築性を基本にした教育」、「②空間 に対する自己の身体からの量的パースフェクティブを引き出す教育」、「③動勢に対する身 体の運動感覚を伸ばす教育」と考えています。 まず①について解説します。幼児教育の場合、子どもがちゃんと立っているという状態、 それから水平状態を保つということ、それらの感覚は子どものときにきちんと身に付ける 必要があると私は思っています。具象彫刻でも、まず立つということをベースに考えます。 自分の感覚で、普通に立っている状態から体重を前にずらしたら、つま先に体重が乗って いると意識できますよね。逆に後ろに体重をずらすと、かかとに体重が乗っていると思え ます。もっと動きを入れると、例えば、足を横に上げたときに反対側の手を上げたくなる というのは普通の動きですよね。これは重心が真ん中にあることを保とうとしているわけ です。それが具象彫刻を作るときに大事なことなのですね。例えば、私の好きなイタリア 彫刻の作家にマリノ・マリーニという人やペリクレ・ファッツィーニという人がいます。 ああいう人達は、わざとバランスの崩れた彫刻を作ったりします。動くというか、むしろ 崩れそうな形なのですが、それが崩れないように見える一番の理由は、 「重心をどこに落と してどこで支えているか」という問題なわけです。ですから、 「立つことという彫刻的な構 築性を基本にした教育」とは、ものを足下から順にくみ上げて、一番てっぺんまできちん と作っているということです。ただ最初にお断りしますが、私は保育所でこれを教えろと は一切言っていません。それを頭に入れているかどうかの話をしているだけで、それは勘 違いのないように。皆さんには、このことを知っておいていただきたいということです。 次に②の「量的パースペクティブ」。パースペクティブ、いわゆるパースのことで、深さ の問題です。つい最近テレビ番組でやっていましたが、人は、生まれてすぐの瞬間は目が 見えません。それが2、3か月でだんだん見え始め、ハイハイができ出して、半年ぐらい すると膝をついてトコトコ歩くようになります。そこで、テーブルを用意して、その上に ガラスの透明の台をかぶせるように置いておくと、ハイハイしてすぐの頃は、下にテーブ ルがあろうとなかろうとガラスの上を進んでいく。ガラスの板の下に何もないところまで も平気で行くわけです。ですが、視覚的に深さが読めるようになる月齢になると、ガラス の下に何もないのが見えると怖い。下にテーブルがないところになると、そこから先には 行けなくなる、という月齢があるらしいのですね。つまり、生まれて何か月かの段階の中 で深さが読めるようになる。これは一般的には空間パースぺクティブを意識している話な のですが、今回粘土場に絡めてお話ししているのは、量的パースぺクティブ、コップなら - 62 - コップの中に空間を見つけるといった能力を身に付ける必要があるということです。 ③の「動勢に対する身体の運動感覚を伸ばす教育」も併せて言います。動勢に対する身 体の運動感覚について説明すると、コップを使ったことがある人は、それに液体を入れる 道具だということを知っていますよね。裏返して、底の薄い凹みにお酒を注いで飲もうと いう人はあまりいません。普通、大きい空間に液体を注ぐというふうに認識するわけで、 そうなると当然コップの置き方も認識しています。洗うときに逆さに向けるかもしれませ んが、使うときはどう置くかということが分かっています。であれば、このコップの延直 線上の構築性はどう動いているかというと、底を下に置いて、そこから上向きに動いてい るという構造になっていることが分かります。絵を描くのが好きではない人がいますが、 その一番の理由は、多分物の輪郭線が上手に描けないためだと思います。それを一旦打ち 壊して、これはそういう姿・形を持っているものではなくて、底を下にして置いて中に液 体を注ぐ形、物体であると考えればいいわけです。それによって何が変わるかというと、 これの輪郭線を見るのではなく、基底線があって上に向いて矢印がある、そういう図にな るわけです。それなら誰でも描けますよね。でもそれでは絵と言わないのではないか、と 思われるかもしれませんが、それについては、これから見ていく話になるかと思います。 5.粘土場 ―研究方法― 粘土場の研究方法について説明します。まず環境として、皆さんも含めて、いろいろな 幼児教育に関心のある人を人的環境とし、粘土や粘土場といったものを物的環境とし、そ れから美術的なものの技術全て、準備できる限りの技術を準備し、それを学び合いの場と してやっていこうということです。具体的 研究方法 には、粘土遊び教室を去年1年やって、今 人的環境 年は先程言ったような粘土場を整備してや ろうとしているわけです。 保育士 幼稚園教諭 やっている内容について、右下の資料を 短期大学教員 学生 ご覧ください。上の枠が順正短大での専攻 学びあいの「場」 科の授業の題目です。下の枠が幼稚園、保 造形遊び 大量の粘土 育所でやっている、卒園制作として今取り 上げてる陶芸教室と、それから造形表現は 粘土場 彫刻 陶芸 描画 デザイン 技術的環境 物的環境 絵画と粘土遊びをやっています。それを粘 土遊び教室という形で結んでいるわけです。 幼児や学生が学び合える「場」の創造 順正短期大学 専攻科 プログラムとしては、「A:大量の粘土 による粘土遊び」、「B:量塊を認識するた 修了研究 造形表現特論 造形技法演習ⅠⅡ めの描画遊び」、「C:量の空間認識のため の描画遊び」、 「D:粘土による陶皿づくり」 粘土遊び教室 としています。Dは先程の卒園制作で、現 場からの要請に添ってやっているのですが、 これにも割と影響を与えているというのが 見えてきています。 では、次から具体的に見ていきます。 - 63 - 保育所・幼稚園 卒園制作 造形表現 6.粘土場 ―大量の粘土による粘土遊び― この写真は、先程の粘土遊びの図です。こういう、ある程度大 きい粘土を与えると、子ども達はどんどん大きいものを作ろうと します。上から2つ目の写真は恐竜で、子どもが作っている最中 です。首長竜みたいなものを作ると、その首が重いからどうして もへたりますよね。へたるとかわいそうなので、私があごの下に 粘土をつっかえ棒みたいに置きました。すると子どもは拒否した わけです。別に怒りもしないのですが、すっとどけてしまう。「こ れはいらない」という態度を示すわけです。それでどうなったか というと、その下の写真を見てください。つまり、首が垂れるの なら、それはそれでいいじゃないかということですね。周りに池 を作って、その子は「水を飲む恐竜」だと言ってくれました。 ここで着目すべき点は、先程から言ってきている、ある程度大 きい粘土を与えることで次々と粘土を足していけるというのがま ず1つ。それから、この恐竜は後ろ足が大きくて、上に上に積み 上げて首が垂れてこういう形になったわけですが、基礎になって いる腰から下、先程言った彫刻的な意味での足腰をしっかり作っ ているのが非常によく分かります。 さらにまた違うのを見ますと、右の写真はカキベラを使わせて みたときのものです。カキベラというのは、まゆみたいな形で先 に板のような物が付いていて、それで粘土をひっかいて取るもの です。これを何も言わずに、バサッと置いてみたのですね。そう したら、子どもは珍しい物好きですから、すぐに取りに来て、何 も説明を受けなくても普通に道具として使い始めるということも 起こります。さすがに怖くてできませんが、のみやナイフのよう な刃物でも同様に、決して刃の部分を手に持つようなことは、こ のくらいの年齢になればしませんね。 では子どもが実際に作ったものを見てみます。この写真はティ ラノサウルスを作りました。やはり先程と共通に見られるのは、 足下がしっかりどっしり作られているということ。それに加えて、 カキベラを使った効果があって、粘土を削り取っているわけです。 最初にどすっと作ってそこから削り取ることで、おなかや背中に かけての輪郭の線が、ふくらんで雪だるまみたいになるだけでは なく、鋭い線が生まれてくる。それを子どもは非常に敏感に察知 して、そのことで下のどっしりした足下とは対照的に、歯や頭を 鋭い線で仕上げようという意識が非常に強くなっていることが分かります。 よく子どもが作ってる造形を眺めると分かりますが、こちらが何も言わないと、アンパ ンマンとか花びらとか、ケーキとかそういうものを作ります。特に、女子に多い傾向は若 干あると思いますが、男子にしても線路のようなペタンとしたものをずーっと造っていく - 64 - ようなことが多いです。それに対して、こういう大きな固まりを渡すと、女子にしても割 と大きく力強いものを作りたがる傾向があります。しかも、砂場の場合はこういう形に作 ることは難しいのですが、粘土というのは、1㎏粘土の経験も助けてくれて、造形をして いくときに大きな粘土があることによって、また削り取る効果というのも有効になって、 どっしりしたものと鋭いものという対比が見られるということですね。 7.粘土場 ―量塊を認識するための描画遊び― 次に、デッサンの話題に移ります。これも「卵デッサン」と勝 手に名前をつけています。まだ保育所の先生と折り合ってない指 導方法ではあるのですが。今、○○方式という絵画が非常に多い ですよね。本屋にもたくさん出ています。あれは要するに、ある 程度保育者が言葉かけをすることによって、子ども達がのびのび と元気な絵が描けるという描画法だと思います。確かにそうやっ て描いたものは、活き活きと大きな絵で、コンクールなどで一等 賞や金賞になるような絵画がたくさん出てくるわけですが、ただ、 あの言葉かけは言葉が多いように感じます。つまり、「顔描きま しょう」と言ったときに、まず「目の中には何があるかな」と聞くわけです。子ども達は 本当に一生懸命お互いの顔を見合わせて、 「目の真ん中に黒い点があるよ」などと言ってく れます。すると「じゃあその点々をまず描いてみよう」と言って、小さい点をグルグルっ と描かせる。瞳孔ですね。「じゃあその周りは? よーく見てみよう」と言ったら、「線が ある」「丸の中にもなんか光ってるところがある」と言ってくれて、「じゃあそれを描いて みよう」と言う。 「周りにまつげもあるね」と、そういうことをずっと言っていって、真ん 中から描いて広げていくというやり方をします。すると、非常に忠実な、ある意味元気の いい絵が描けます。 卵デッサンは、それとの対極にあるやり方ですね。つまり、いきなり木炭やコンテの、 もそもそっとした、ある意味粘土のような可塑性のある素材を使って、最初に卵みたいな 形を描いてみようというところだけやってみます。それで、縦長の卵のようなものを描き ます。その濃くも薄くもない灰色の卵形を基本にして、そこから練りゴムで白く描いたり、 木炭で黒く描いたりすることで、顔の明度差を作っていくという遊びが、この卵デッサン です。 「デッサンという名前がよくない」という批評を受けたこともあるのですが、名前はま た考えるとしても、保育所の先生と折り合っていない部分は、 「これをやると子どもの絵が 荒れるんじゃないですか」 「子どもは形を認識できても明度差に対してはそんな細かい判断 はできないんじゃないですか」と言われることです。私としては、発見することに意味が あるのであって、教えてはいけないと思っています。先程の○○式のような「目の周りよ く見てごらん」 「毛が生えてるね」というのは確かに発見ですが、発見させるというより、 「まつげがあるね」と言わせているように私には感じられるのです。 「目の周りに何がある かな」と言った時点で。そうではなく、最初に基本の卵形を作って、そこから明るい・暗 いをつけてみようという、単なる遊びで始める。 「お友達の顔描いてみよう」という程度の 話しかけしかしないのですが、子ども達は、木炭やコンテの物珍しさも手伝って、描いた - 65 - り消したりしながら、30 分以上これで遊びます。その 中で、よく言われるように、壊すことが作ること、作 ることが壊すことといったようなことが自然と発見さ れてくる部分があります。言葉での誘導でなく、何か を見つけさせる遊びとしてやっているということです。 8.粘土場 ―量の空間認識のための描画遊び― それでは、ここからは皆さんにも参加型でやっていただきます。紙をお配りしますので、 まず表に象を描いてみるということをやってみましょう。縦でも横でもご自由に描いてみ てください。しばらく、見せてもらいます。気楽に描いてくださいね。ただ、今描いてい る最中に言うのもなんですけど、誰かに「絵は好きですか」と聞いたとしますよね。本当 は「好きですか」という言葉は言うべきでないし、聞くようなことではないんでしょうけ ど、あえて聞いてみたとします。そこで「好きです」と言う人は多分、先程言ったように、 形に対して絵を描くことに抵抗が少ない人だと思いますね。 「苦手です」と言う人は何を指 してるかと言うと、やはり形・輪郭を作るのが苦手ということなのだろうと思うわけです。 そうなると、今描いてもらってる絵も、大きく分けて2通りになることが多いです。まず 1つは記号型ですね。つまり「兎を描いてください」と言ったら、ミッフィーみたいな兎 の耳が立ってて丸い顔、目がチョンチョンとあって、鼻がペケみたいな形。記号的な兎を 描く人と、それから兎といっても、生の、煮て食えるような体としての兎を作る人と、大 きく分けて2通り。記号的なものと、写実的とも言えるような、そういったものを作る人 と2通りあります。 それから、ついでに右・左という概念も言ってしまうと、多くの人が、今の象でも左向 きに描く場合が多いですよね。魚を食べるときに左に頭が向いてないと気持ちが悪いとい うのと一緒です。皆さんの家庭ではどうですか? きますよね? 秋刀魚を食べるとき頭は左に向けて置 人間というのは頭を左に向けると安心する。これは、右利きの人が多いと いうのも理由の1つだと思います。輪郭を形作るときに、右利きで描くのであれば、左を 鼻に向けて描く方が描きやすい。右に鼻を向けようとすると、逆手で描くような感じにな ります。左利きの人も、生活習慣で左に頭が向く方が安心すると思うのですが、そのよう に人間の意識というのは、割と左向きに顔を向けた方が安心するわけです。そういう生活 習慣に基づいて象を肉体的に描こうとすれば、横向きの象を描く人が多く、左向きに描い ている人が多いと思います。また、先程言ったように、記号的にものを描こうとする人は、 まず象の頭が丸くて耳、耳、鼻で、鼻を曲げて描いている人が多いと思いますね。ですか ら、真横に向いた象を描く人と、顔だけ前に向いている記号的な象を描く人の2通りに分 かれている。さらに横に向いている人にも、また記号的に描いている人と写実的に描いて いる人の2通りに分かれていると思います。そうやって最小化していけば、足の長さや頭 と胴体の比率などいろいろ言っていくとどんどん分析できますが、基本は記号的か写実的 かというところに分かれると思います。 では、続きまして、紙を裏返して、今度は縦に向けてください。条件を2つだけ言いま す。①前に向いている、②重たそうな象を描いてください。前向きに四つんばいになって いる、真正面から見た象を、重たそうに描いてください。これは、保育所では「重たい象 - 66 - 競争」と言っています。 「みんなで重たい象を描こう。重たい象を描いてみんなで競争しよ う。あとから2人ずつ前へ出て、みんなでどっちが重いか手を挙げてもらうよ」と言って やると、みんな一生懸命重たい象を描きます。そのときに子ども達が、重たいとはどうい う意味かと、頭を働かせて努力するわけですね。大きいのが重いのか、黒いのが重いのか、 丸っこいのが重いのか、いろいろな条件を、多分頭の中で整理していくのだろうと思いま す。この重たい、前に向いているという条件をつけることで、皆さんの絵がどのように変 わるのかという体験をしていただくというのが、これの目的です。 …大体の人が描けてきたようですね。これは重たいとはどういう概念かということです よね。絵に描いたら、質量としては、ピラピラの紙1枚分ですから。太った象を描いてく れてる人もありますね。それから、とにかく大きいのがいいと、隅々まで広がるような象 を描いてくれている人もいます。別にこれに答えがあるわけではありませんが、1つの例 として考えてみましょう。言葉で「象ってどんな動物?」と言ったら、 「鼻の長い動物」と みんな言ってくれます。これは言葉で言っているだけなのですが、それが特徴だと思って いるわけですから、象を重たく描こうと思えば鼻を大きく描けばいいというのが1つの考 え方ですよね。それで、他に「象さんってどんな動物?」と言うと、 「耳が大きい動物」と 子どもは言ったりします。それで、耳も大きく描いてみる。「他には?」と言うと、「大き な牙があるよ、マンモスみたい」と言う子もいます。ということで、牙も大きく描く。そ れから足も大きくして、頭も大きく発達して、目を描く。これで重たい象の完成といった 感じでしょうか。 要するに、最初にトポスを言葉の「場」と言いましたが、 「兎を描いて」と言ったらミッ フィーなどの印象で記号的に描く人が多いですよね。この記号化されているものが一方に あって、人間はそれを1つの概念として持っているわけです。そこで「はい、どうぞ、描 いて」と言うと、多くの人がその記号通りに描いていく。一方で、今のように「前に向い てるのを描いて」と言い、それ以上何も言わなかったら記号的な象になるときに、それを 「重たい象にして」と、もう一言付け加えて言葉を2つ並べると印象が変わってくる、と いうことがあります。 ここで現実にやっているのを見ていただきます。上 の絵では、「重たい」ということを考えたときに、と りあえず鼻はやはり意識して、ぐりぐりっと重く描い ています。それから、質量として主体になる部分はや はり胴体ですから、おなかや頭。そういったところを 重くするにはどうしたらいいかということですね。こ れは、多くの子どもがこういう形になっています。た だ、この遊びというのは、粘土遊びをして、先程の卵 デッサンをして、その後の延長上にこれを行うからこ ういう部分が出てくるということであって、そうでは なかったら、やはり今皆さんが描いたような絵の方が 多くなってきます。 下側の絵は幼稚園でやったときのものですが、足が たくさん出ています。4本足の鶏の論争が 1997 年頃 - 67 - に再燃焼した時期がありましたね。4本足の鶏論争というのは、子ども、あるいは大学生 に「鶏を描いてください」と言ったら、特に大学生なのですが、鶏の胴体と鶏冠(とさか) をつけて足を4本描く人がいた。つまり、これは自然教育、環境教育の欠落によって生ま れてきた学生達ではないのかという論争が出てきたわけです。鶏なんて写真見たら、足は 2本ですねと言って終わる話ですし、それをああだこうだ言うほどのことでもないのでは ないかと私は思っています。むしろ大学生の問題ではなくて、子どもの時代に4本足の鶏 を描いたり、ここに見ているような8本足を描いたりというときに見られる、その上に大 きくて重い体があって「重いからたくさん足がないと支えにくい」という感覚ですね。子 どもに聞いても明確な答えは返ってこないのですが、象の鼻でも継ぎ足し継ぎ足しして大 きくして、足が8本くらいないと上に描いた質量が支えきれないという考えがあったので はないかという気がします。逆に、あれから2本間引いて4本にしたら、寂しい絵になる と思いますね。ですから、子ども達が8本の足を描いたら、 「しっかり大きいの描いたね、 重たい象描けたね」と言ってあげればいいと思うわけです。それを、4本足の鶏の絵を見 て「やはり鶏の足は2本ということをきちんと教えないとろくな子にならないから、知的 な教育という以前に常識として教えるべきでしょう」と言う保育者の先生もいますし、こ の例のような象を描いたときに「そんなぐるぐる描きなんかしたら象さんとは分からない でしょう。ちゃんとよく見て。絵本にも象さんいるよね。見てちゃんと描きましょうね」 と言う人も多いですよね。だけど、どうでしょう、というのが今日の1つの締めくくりで す。子どもが自分の身体でもって、重心の釣り合いや自分の重さといったものを、絵画遊 びなどを通して学んでいく中で、自分の体で感じたことを表現できるということは非常に 重要なことだと思います。再確認するということも重要ですし、改めて自分の体を感じる ことになりますよね。こうやって足をたくさん描くということも、まさにその現れだと思 います。 9.頭足人型図形に見る身体感覚 右のような頭足人的な絵は、おそらく、あらゆる世 界中の子どもが通り抜ける絵ですね。先程も言ったコ ンバインのようなものが出てきて、それがどんどん変 化していく中で、人間を描いてみたい、人間存在を描 いてみたいといったときに、初めて出てくるのが丸に 足が2本という頭足人です。この丸が、発達段階の意 味で言えば、始点から終点に達する丸い線が描けるよ うになり、足がくっつけられるコンバインの最終状態とも言えるわけです。 しかし、今まで言ってきたような、立つこと、重さを感じることという視点で言えば、 あれは円ではなくて球だとも考えられますよね。重さを持っている球になる。線に重さは ないのかもしれませんが、球は重さを感じられる形ですね。ですから、これを円だと言う 保育士であるのか、球であると感じる保育士であるのか、ということで、既に足の生え方 の方向に意識が向くはずなのです。この絵も、私に言わせると、勝手な解釈かもしれませ んが、どの絵も足がきちんと彫刻的に立っているのですね。1つとして、転げそうな絵が ない。一番右上の長いのが右に傾いているのですが、ちゃんと左手が踏ん張って支えてい - 68 - ますよね。つまり、子どもには立つことという認識がしっかりあるのではないかと、私は 思うわけです。 やりすぎでしょうという反感もあるでしょうが、先程の象の絵にしろ、こういう頭足人 の絵にしろ、子どもの描く絵というのは、自然の身体感覚でもって描いているはずです。 それを記号化していくことで、人間は知識で絵を描こうとし始めるので、9∼ 10 歳くら いの時に危機を迎え、中学校のときの写生で「写実的な電信柱や 瓦屋根のある風景画を描きなさい」なんて言われた日には、「絵 は嫌いです」と、はっきり言う人になりますよね。ですから、そ うならないためには、皆さんが担当する幼児期に、しっかりと子 どもの絵を大事にしてあげるということが、とても重要になるの ではないかということを思います。 10.粘土場 ―粘土による陶皿づくり― 一番上の写真はお皿を親子教室で作ったときのものです。先程 の粘土遊びで作っていた竜なども一緒に焼いています。この竜に は、背中に子どもの竜が乗っています。これも非常に足がドスン と重い。わざとそうした部分もあるとは思うのですが、作ってる うちに、重力の関係で放っていてもこうなります。重力の関係と、 それから動きを保つように子どもはリズムを作りますよね。そう いったものが、1㎏の粘土だと細く重さも少ないので、いい意味 でまっすぐに作ることができるのですが、悪い意味で自重を持た ない作品になってしまう。こういう問題があるわけです。 その下の写真2枚は恐竜で、トリケラトプスですね。これは私 がトリケラトプスを作っていたとき、同じものを作りたいと子ど もが言うので、「じゃあこんなのでいい?」と頭だけ渡して、後 ろを子どもが作ったものです。後から見ると、私が作った頭の部 分が最悪にしょうもない作品だなと思いますね。つまり、のっぺ りしてて意味がない。これは後ろから見ると、非常に動きがあっ て、子どもの作品の方が勝ってますよね。幼児教育を目指してる 皆さんにはそれがなんとなく分かるはずです。前から見たのはつ るっとしてて、トリケラトプスの顔には見えるんだけど、後ろか ら見た方が、粘土に動きがありますね。こういうことが幼児教育 の造形における魅力だろうと思います。 その下の写真は、親子教室でやったときのものです。お父さん がかなり関わったので、非常にペッタリして、装飾的になってる 例ですね。確かに上手だとは感じますが、先程見たような粘土の 力強い動きというのが既になくなっているのが分かります。 そして、下の写真2枚は、日本の土で作る芸術の最高峰です。 桃山期の終わり頃になりますか、初代長次郎の作品、黒楽茶碗で す。こういうものが、実は裏から見ると、幼児の作る先程の粘土 - 69 - と非常によく似た質感を持っている。ですから、始めに言ったように、地球ができて人類 が生まれるまでの歴史と、子どもがおなかにできて生まれて育っていく過程などが非常に 似ているように、子どもの作る造形と、人類が最終的に目指す芸術というものもまた、非 常に似ているのではないのでしょうか。これはとても重要なことではないかと私は思って います。この作品は、おそらく多くの日本人が陶器の中で最高峰に位置づけるであろう作 品なのですが、この足のぐにゅっとした感触というのは、幼児が作るものから学ぶべきこ とが非常に多いと思います。あとはこの腰になっている張りのある部分ですね。これはい わゆる、軒から落ちる雫の一番張った部分です。張りを意識して作られるものですが、そ の張りというのは、やはり子どもが作る造形の、先程のティラノサウルスの腰の部分のよ うなものと非常に質的に似ている部分があります。 11.粘土遊びプログラムの成果 成果として、大量の粘土で遊ぶことで満 足感が得られる。描画の中に量感を表現で 粘土遊びプログラムの成果 きるようになる。それから動勢、先程言っ • 大量の粘土で遊ぶことによって、全身で遊ぶ 満足感が得られる。 た動きですね。リンゴが上に向いていると 感じること、横に向いていると感じること。 そういう動きを心の中にしっかり刻むこと で、身体性が量的な空間につながっていく • 重たいゾウを描く競争によって、描画の中に 量感を表現できる。 • 量感を意識させることで動勢が表現される。 のではないかと思います。 広い意味で言えば、子ども達が大人にな 身体性が量的な空間認識につながる。 るにつれて忘れてしまう幻想、空想のよう なものがあると思うのです。子どものときに森を見て「なんかお化けがいるんじゃないか」 「まっくろくろすけみたいなのがいるんじゃないか」といった想像をすること。そのこと が、大人になるにつれて理論化し、兎といえば「ミッフィーみたいな形でいいんじゃな い?」と記号化していく部分が多くなって、想像力がなくなってしまう。それを、身体性 を身に付けることで、生涯にわたって幻想的なものを大切にできるという。言ってみれば、 ずっと「サンタさんはいるんだよ」と言えるようなことですね。理論上と心の問題という のは違いますし、一方では一緒だと思いますので、そのことをずっと持ち続けることが大 事なのではないかということです。 それでは最後に、 『ゲド戦記』の扉を読んで終わりにしたいと思います。映画になった『ゲ ド戦記』の最初の扉に書いてある言葉です。 「ことばは沈黙に こそ輝ける如くに 光は闇に 生は死の中にこそあるものなれ 飛翔せる鷹の 虚空に ―『エアの創造』―」 以上でした。ありがとうございました。《拍手》 司会:前嶋英輝先生、ありがとうございました。ここで、前嶋先生に質問がある人は挙手 してください。 質問者:幼稚園の先生というのは、やはり子どもへの配慮が必要だと思います。その中で、 - 70 - 子どもに声をかけるときに、その子ども自身の力を引き出したり、また逆に子どもを自分 の思う方向に誘導してしまったりということがあると思うのですが、そういう中で「失敗 したな」とか「ここは駄目だったな」という経験がもしあったら教えてください。 前嶋英輝:はい、ありがとうございます。いい質問ですね。先程の例で言えば、子どもに 「トリケラトプス作って」と言われて、自分で作って渡してしまうようなこと。軽率とい えば軽率なのですが。そういう出来合のものではなく、ということがありますね。 それから、例えば皆さんも指導案を一生懸命作りますよね。ああいう指導案を見ても、 やはりどこかに典拠がある方が作りやすいため、雑誌にある指導案を参考にしたものを持 ってきていたりします。その中には、言葉かけの例などいろいろなものがありますので。 ですが、それが自分の日頃気にしていること、大事に思っていることと離れることがある わけです。自分の中では大きな粘土で遊ぶことが大事だと思っていても、本には「小麦粉 粘土はこうやって使いなさい」と書いてあることもあります。そうしたら、その小麦粉粘 土の使い方をそのままやってしまう。子ども達は、もちろん素材には反応し、とても喜ん で小麦粉粘土で遊んでくれます。ですが、そこで実際に体験が終わった後に、自分の中で 「何か違う」という思いが残るというのは、やはり小麦粉粘土そのものを子ども達と共有 できなかったという思いがあるからだろうと思います。 もっと具体的に言うと、赤と黄色と緑の小麦粉粘土を、A君、B君、C君に配る。それ で自分の中で、今日は色をいろいろ準備したし、いい保育案の通りに保育ができるなと思 って行って、子ども達も自分達でどんどん話にのってくれて発展していくのですが、自分 の中で思っているものと違うものになることがよくあります。今聞いていただいている中 に4年生がいらっしゃれば、実習でそういう経験もあったと思います。そのときに、結局 自分が日頃大事にしているものを出せるかどうかですね。 これについては、正解や間違いといったものはないと思います。ですから、失敗談とい う質問を今お受けしたのですが、結局、幼児教育に失敗は、ほぼないと思いますので、一 生懸命やるという吟味、自分が日頃大事にしているものが入れられたかどうかではないか と。ついつい忙しさにかまけて、 「今日はこの程度でいいや」ということでやってしまうと、 自分が思っているのとずれた指導をしてしまって、なんとなく反省することになる。それ は失敗だろうと思います。自分の大事にしているものを常に大事にするということ。そう しないと子ども達はすぐ見破りますから。 「先生、今日は手抜きでしょ」といったことを平 気で言いますからね。ということです。 司会:他に質問がある方はいらっしゃいますか。…前嶋先生ありがとうございました。 前嶋英輝:『ゲド戦記』ですが、6巻プラス番外編で、全部で7巻が出ています。好みの人 は一度読んでみてください。ファンタジーの中でも非常に読みにくい本で、2巻に至って は洞窟の中を延々歩くだけという内容で、読んでいる自分が悲しい挫折をする本ではある のですが。でも一生懸命読みふけって、最後まで読み通すと、とても心に残りました。光 と闇の戦いを共に語り合いましょう。 以上です。ありがとうございました。《拍手》 (順正短期大学:前嶋英輝) - 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