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西行と明恵

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西行と明恵
西行と明恵
明恵上人の歌として『続後撰集』に収められた歌は、
松が下 巌の上に墨染の
袖の霰(あられ)や かけし白玉
であります。この歌は高山寺華宮殿(けくうでん)の西の谷にある大きな石、定心石(じょう
しんせき)のそばの大きな松、縄床樹という松の根方に坐禅していた時のこと、正月12
日の暁で、風烈しく雪霰がおびただしく降り、袖に霰がたまったので詠まれたもので
す。
明恵上人の歌は、詩歌というよりも道歌でありまして、修行に関わりのあるものばか
りでした。たとえば『伝記』巻上に、
此の定心石の奥に大盤石(ばんじゃく)あり、其の石の上に仏の御足の跡を彫付け
て供養をなし給ふ。仍って(よって)遺跡窟(いせきくつ)と名づく。
満月の 面(おもて)を見ざる 悲しさに
巌(いわお)の上に 足をこそすれ
上人、或時読み給ひける、
生死海に 慈悲の釣舟 出でにけり
漕ぎゆく音は 弱吽鑁斛(じゃくうんばんこく)
又或時、仏性上人、楞伽山の草庵に来臨してよめる、
諸行をば 無常なりとて 身を捨つる
人の心に なるよしもがな
上人御返歌、
常ならぬ 世を捨つるとは 君ぞ見る
物くるはしと 人はいふ身を
跡をくらふして 入りにし山の 奥なれど
君には見せよ 峰の白雲
此の上人の前栽に(ぜんざいに)くさぐさの華を植ゑて侍りける。其の華の盛りに、
華にそへて読みて奉りけり。
植ゑをきて 三世の仏に 手向け(たむけ)けり
華の旬も 法(のり)と思へば
上人御返歌、
法の為に 植ゑをく草の 種よりぞ
妙法蓮華も 開けしくべき
松葉の禅門行円関東より上りて、在洛の間、常に詣でて法談ありけり。或時読
みて奉りけり。
尋ね来て 実の(まことの)道に 入る人は
此より(これより)深く 奥を尋ねよ
上人、或時読み給ひける、
夢の世の うつつなりせば いかがせん
さめゆく程を 待てばこそあれ
上人の読み給へるを聞きて、同(おなじ)禅門、又或時よみて奉りけり。
世の中は まどろまで見る 夢なれや
いかにさめてか うつつなるべき
此等(これら)皆世に聞き伝へて、『続後撰集』『続拾遺集』に入れられけり。又なく
なりたりける人の手跡の(しゅせきの)裏に、光明真言を書き給ひて、奥に書付け給
ひける。
書つくる 跡に光の かがやけば
くらき闇にも 人は迷はじ
又或時、物の端に書付け給ひける、
いつまでか 明けぬ暮れぬと 営まん
身は限(かぎり)あり 事は尽きせず
と記してあるような歌ばかりであります。
こういう歌を作る明恵上人のところへ足繁く西行法師が訪ねて来たという話があり
ます。西行は、どうしてそんなに明恵にひかれたのでしょうか。『伝記』の記すところ
によるとそれはこうなのです。
西行法師、常に来りて物語りして云はく、「我が歌を読むは、遥かに尋常に異
なり。華・郭公(ほととぎす)・月・雪、都て(すべて)万物の興に(きょうに)向ひても、凡
そ(およそ)所有(あらゆる)相皆是れ虚妄なる事、眼に遮り(さえぎり)耳に満てり。又
読み出す所の言句は、皆是れ真言にあらずや。華を読むとも、実に(まことに)華
と思ふ事なく、月を詠ずれどむ、実に月とも思はず、只此の如くして、縁に随
ひ、興に随ひ、読み置く処なり。紅虹(こうこう)たなびけば、虚空いろどれるに似
たり。白日かがやけば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は本(もと)明かなる
ものにもあらず、又色どれるにもあらず。我又此の虚空の如くなる心の上にを
いて、種々の風情を色どると雖も、更に蹤跡(しょうせき)なし。此の歌、即ち是れ
如来の真の(まことの) 形体なり。されば一首読み出でては、一体の仏像を造る
思ひをなし、一句を思ひ続けては、秘密の真言を唱ふるに同じ。我れ此の歌
によりて法を得る事あり。若しここに至らずして、妄りに(みだりに)此の道を学ば
ば、邪路に(じゃろに)入るベし」と云々。さて読みける、
山深く さこそ心の かよふとも
すまで哀は(あわれは) しらんものかは
喜海、其の座の末に在りて聞き及びしまま、之を注す(しるす)。
〔現代語訳〕
西行法師がいつも来て物語していわれるには、「私が歌を詠むのは、はるかに
普通の人が詠むのとは違っている。花・郭公(ほととぎす)・月・雪、すべて風情あっ
て心ひかれるものに相対しても、すべての姿は真実でないということをいやとい
うほど見たり聞いたりしている。また詠む和歌はすべて真言である。花を詠んで
もほんとうに花とは思わず、月を詠んでもほんとうに月だとも思わず、ただその
折にふれ、心が動くままに和歌を詠んでいるのである。これは、くれないの虹が
空にかかれば大空は色どられたように赤くなり、太陽が輝けば大空は明々白々
になるようなもので、本来虚空は決して白いものでも、また色の付いたものでも
ない。自分もまたこの虚空のような心の上に、いろいろと風情を彩ってはゆくも
のの、少しも跡を残さないのだ。この和歌は、そのままこれが釈迦如来のほんと
うの姿である。だから和歌一首をつくるたびに、仏像一体を造る気持でする。一
句の和歌を口ずさみ心にあれこれ思う間は、秘密の尊い真言を唱えるのと同じ
気持である。私はこの和歌のお蔭で、仏法を会得するところがあった。もしここ
までの境地に入ることなしに、かってにこの和歌の道を学べば、間違った道に
入り込んでしまうだろう」そういって詠んだ歌は、
奥山の生活の哀れさは、どんなに同感はしても、住んで体験しない者には、
また心を澄ませていない者にはただ想像するだけで、その実体はわかるも
のではない。
であった。
喜海はその場にあって、聞いたままをここに書きつけておく。
西行法師はたびたび神護寺を訪れていますが西行は文覚に会いに行ったのでは
ありません。そのころ恐らく14∼15歳であった明恵上人に会うのが楽しみで出かけ
て行ったのです。
明恵上人も父方は藤原秀郷の子孫、西行法師ももちろん藤原秀郷の直系の子孫
です。同族であるという意識と天賦の才能に恵まれたこの少年に様々なことを教える
楽しみから、西行はたびたび神護寺に足を運んだものと思われます。
明恵上人は西行法師によって歌の道に眼を開かれたのです。月に溺れ、花に酔
うているかに見えた西行法師が実は「月を詠ずれども、実に月とも思はず」といい、
「華を読むとも実に華と思ふ事なく」といい、結局、「我又此の虚空の如くなる心の上
にをいて、種々の風情を色どると雖も、更に蹤跡なし」といったこと、また、歌一首ごと
に一体の仏像を造る思いをなし、一句を唱えるのは秘密の真言を唱えるのと同じと
いう考えに立っていたことに深く感銘したのです。
私はこの西行の言葉の中の、
われまたこの虚空の如くなる心の上において、種々の風情をいろどると雖もさら
に蹤跡なし。
の「虚空」について、さまざまな想いを抱いているのです。『法華経』の「従地涌出品
(じゅうじゆじゅつぼん)」にこんな文章がのっています。
阿逸多(あいった)、このもろもろの大菩薩摩詞薩の無量無数阿僧祇にして地より
涌出せる、汝等昔より未だ見ざる所の者は、我この娑婆世界において阿耨多
羅三藐三菩提を得おわって、このもろもろの菩薩を教化示道し、その心を調伏
して道の(どうの)意を(こころを)発さしめ(おこさしめ)たり。このもろもろの菩薩は皆、こ
の娑婆世界の下、この界の虚空の中において住せり。
釈尊は晩年に、「私の滅後にこの娑婆世界(苦しみ多き現実の世界)に『法華経』を
伝道する者は誰か?」と訊かれます。
言下に、大勢の者たちが「私です」と言うのですが、釈尊は「止みね、善男子」と言
われました。「止めなさい、おまえたちではない」というわけです。そして、昔私が教え
た者たちが地下の虚空界に時の来るのを待っているのだ、その者たちが『法華経』
の伝道をするだろうと予言されると、言下に、地下の虚空界から無数の菩薩たちが
大地を突き破って姿を現わし、大地の上の「虚空界」に立つという、絢爛豪華なドラ
マが展開してくるのです。
西行が言った「虚空の如くなる心」は、この「アーカーシャ」のような心という意味で
はなかったでしょうか。アーカーシャは特別な言葉で、普通いう虚空と言う時には、
梵語ではアンタリークシャ(中空)というのです。「虚空」に特別な意味があったらしい
ことは、弘法大師空海や、円仁や、日蓮上人が修行した、記憶に関する修行法が
「虚空蔵求聞持法」と呼ばれていたことからも知られます。現在この「虚空蔵求聞持
法」の具体的な内容は知られません。色々いう人はありますが、本当のところはよく
分らないのではないでしょうか。
「虚空の如くなる心」というのは、人類始まって以来の記憶が記録されているアー
カーシャ、そしてそのアーカーシャは人間の大脳のイメージ脳(右脳)の中にすべて
インプットされているといいますから、そういうすさまじい記憶の大海である心であるこ
とはよく分っている、そういうことを知っての上で、さまざまな悲しみや、喜びや、恋や、
心の駈け引きを歌に歌うけれども、本当は捉えようがないのだ。そういう本地の心の
上に立っての歌なら、それは仏の真の形体とでもいうべきものだと西行は言いたかっ
たのでしょうか。
西行の歌の本音ともいうべきものはこうではなかったでしょうか。
人間の心のどんな奥深いところへ分け入ってみても、それはあくまで「心」であっ
て「こころ」ではない。「こころ」つまり「仏の真実の形」を知るのには、心を澄ますしか
ない。人間の理非善悪を超えた、「しいん」としたところ、そこまで行かなくては、人の
哀れというものは分らないのだよ、ということでしょうか。
明恵上人は叔父の上覚に導かれて和歌の道に入りました。
我れ先師の命に依りて、18歳まで詩賦を稽古して風月に嘯きしに(うそぶきしに)、
其の興味深くして他事を忘るる程なりき。
というほど溺れこんでいたのに、18歳に至ってピタリと作歌を止めたのは、その年、
建久元年(1190)に西行法師が死んだからです。歌の世界に透徹した眼を持って
いた西行法師が死んでしまった以上、彼の歌の良し悪しを見極めてくれる師のない
歌の道にそれ以上入ってゆく気は明恵上人にはなくなったのです。明恵上人という
人は18歳の頃、すでにこのような徹底した境地にいたわけで、何事にも徹底せずに
はおかぬ明恵上人の風格が良く窺われる話です。
明恵上人の作った歌を一首だけあげるとすれば、
あかあかや あかあかあかや
あかあかや あかあかあかや あかあかや月
があげられるでしょう。これはもう歌というよりも、「あっあっあっ」という人間の原始感
情をそのままぶっつけたもので、「歌は真言なり」と言った西行の考えを地でいった
歌です。歌というよりも「叫び」、何ものかへの「呼びかけ」です。真言とは「呼びかけ」
なのです。人間から永遠なるものへの切なる呼びかけなのであります。(紀野一義)
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