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ピッチサイドで檄を飛ばす専任監督 東京都選抜になって精進を決意した
ピッチサイドで檄を飛ばす専任監督 それは、シニアサツカーではあまりお目に掛からない光景だった。 茶のダウンジャケットに帽子をかぶった男性が、メンバーのフォーメーション図が描かれたボードを片手に、ビッチサイドで立った ままじつと試合を見ている。まるで監督のようだ。いや、はっきり監督である。 「タナカアー ゴール前にもっと早く入れ―」 「展開を大きくやってほしいんだよ!」 時折、大声で指示を飛ばしている。 「トップでちゃんと相手を追ってプレスをかけているので、これを続けてほしい。バテたら代えるから」 「試合に出ていない人間は、自分のポジションでどうするべきか、外からよく見てほしい」 試合の合間の時間も、戦術的な注意点や、取り組む姿勢などを説いている。 東京都の50歳以上のチーム、セレクシオン・トキオ・SCの監督を務める石田治さん(61歳)。日本サッカー協会のC級コーチライセ ンスを持っている。セレクシオン・トキオは全国有数のシニアチームだ。04年から06年にかけて、50歳以上の全国市シニア大会 で3連覇を果たした。07年は東京都予選で敗退し、08年は王者奪還を至上命題としている。3月上旬のこの日は、そのシーズン前 の大事な練習試合だった。 日本サッカー協会に登録するシニアチームは制度上監督はいるが、通常は自分もプレーを楽しんでいる。年齢を重ねても、プレー を楽しめるのがシニアサッカーだ。専任監督をやりたがる人はいないのだが、石川さんはこの08年から、専任監督となった。このチ ームには専任監督が必要だった。 ここに至るまでには紆余山折があった。 東京都選抜になって精進を決意した 石田さんは、東京学芸大学附属高校でサッカー部に入っていた。レベルは、「東京都でベスト16にいけるかいけないかくらい」。慶 大に進んだが、1年時の夏にサッカー部はやめた。 大手不動産会社に就職した。徹夜と泊まり込み。仕事ばかりの暮らしが続き、胃潰瘍を患った。そして胃を半分以上切除する手術。 「このままでは体がボロボロになる」と思い、仕事以外に打ち込むものを求め始めたのが、40歳の時だった。 幸、会社にはサッカー部があった。20代、30代の仲間に交じってサッカーを再開。不動産会社のり―グなどでプレーを楽しんでい た。 ただ40代も後半に入ると、若手とのプレーはどうしても無理が生じる。ある時、レイトタックルを受け、右肩鎖骨と肩胛骨部分の靱 帯を断裂。骨が浮き出てしまい、筋を移植してボルトで留める手術を受けた。 これだけで終わらない。ジャンプした時に足をすくわれて倒れ、背中を強打したこともあった。この時は、肋骨に2ヵ所ひびが入った。 さすがに家族から、「もう若い人とやるのはやめなさい」とたしなめられた。 53歳の時、ようやくシニアのカテゴリーに入った。知人を通じてその存在を知った東京都選抜のセレクションに挑戦したところ、見事 受かった。当時、東京都では50歳以上の最強チームを結成しようとしていた。 このチームは強かった。自分は若手とやってきたからと自信満々だったが、他のメンバーはもっと激しく動いていた。 たちがいる」と石田さんは精進を決意した。 「すごい人 03年。東京都選抜は初めて全国シニア大会に出場し、ベスト4まで進んだ。 石田さんがチームの全国制覇を強く望むきっかけとなったのは、0‐1で敗退したこの大会の準決勝だった。失点は、相手のシュート がGKの胸に当たった後にDFがクリアしきれず、結果的にオウンゴールになったものだった。試合後、オウンゴールを与えた選手 1 が年甲斐もなく、トイレの洗面台の前で悔し涙を流す光景が胸に突き刺さった。 勝つために、監督に ここからの経緯は、シニアサッカーが真に勝つことを目的とした時、それぞれのサッカー観を持つ大人たちがまとまっていく難しさの 一端を示しているかもしれない。全国優勝が視野に入るところまで勝ち進んだチームは方針の違いから、メンバー間に対立が生ま れた。 「全国優勝を目指すなら、チームをガラリと変えなければ不可能だ」という派と、「若干の補強をし、今のチームを母体にチームカを 高めていこう」という派。根幹に関わる問題だった。感情的なもつれも生じ、チームは一つになれず事実上解散した。 「ガラリと変えたい」と望んでいた石田さんたちは、新チーム結成を目指した。チームは東京の精鋭で作りたいと、スペイン語で「東 京選抜」を意味するセレクシオン・トキオに変更した。 まず人材を集めた。数人の元日本代表に、旧日本リーグや大学の監督経験者もいた。「『昔取った杵柄』の人々と、うまくはなくても よく走れる『水を運ぶ人』の両方が集まった」と石田さん。 豊富な指導経験を持つメンバーも有したから、的を射た指導も受けることができた。 「パスを受ける時に、相手とボールの間に体を入れて止める技術や、スペースで球を受ける時に中途半端に開くのではなく、ワイド に開く個人戦術などの指導を受けた。現在は当然のことととられるかもしれないが、今の50歳は若い頃にそうした理論的な指導を 受けてこなかった世代。みんな、薄皮を剥がすように進歩していた」という。 レギュラー争いは厳しい。それぞれが自主的なトレーニングを積んだ。 選手補強も、戦カアップのためなら徹底的にやった。加入希早者は数度の練習試合がテストになる。採用されるのは半分程度とい う狭き門だ。全国シニア大会の関東予選に臨むにあたっては、東京都予選で戦った相手チームから、目を付けた人材を新たに入 れることもチームの了解事項になっていた。毎年、関東大会から加わったメンバーが3人前後はいた。 こうして04年から、セレクシオン・トキオは全国3連覇を遂げたのだった。 しかし、チーム内の空気は順風満帆とはいかなかった。実績のあるメンバーがいれば、プライドとプライドがぶつかる。 特に、メンバーを誰がどう決めるかは、常に大きな問題だった。 基本的にメンバー決定の権限は監督にある。しかし、プレーヤーとしてはメンバーたちから全面的な信頼を得ていない中で、監督 が自分も試合に出てしまうことが、時に不信感を生んだ。戦術的な理由から先発をはずされた人が、やっていられないとベンチを 離れ、スタンドに上がってしまったこともあった。 「プレーイングマネージヤーはカリスマ的に飛び抜けている人以外、ありえない。全国優勝を目指すなら、選手ではない人間が監 督をやった方がいいという意見があった。でも、みんな自分もプレーしたいからこそチームに入ってきたわけで、専任監督をやるよ うな奇特な人はいなかった」 全国4連覇が途切れた07年の東京都予選が、転機になった。敗れた試合では、選手交代が十分にできなかったことがチーム内で 問題視された。シニアサッカーは自由交代制だから、無制限に選手交代ができる。だが、監督がプレーをしながら選手交代まで百 パーセントの目配りをすることは難しかった。 プレーイングマネージャー体制そのものの限界論が大勢を占めた。求められた石田さんは、チーム最年長でもある自分が専任監 督になる、と決断したのだった。08年からは健康維持のために練習だけは一緒にやるが、試合にはまったく出ていない。 日本一だからこそ得ることができるもの 見せてもらった練習試合は、セレクシオン・トキオの強さが際だった。まず、前線から相手にプレスをかける意識が高い。少しでもサ ボる人間は代えられてしまうという危機感がにじみ出ていた。 攻めも、ワンタッチプレーと速攻への共通意識がある。白髪の選手が、相手守備陣の裏にガンガン走り込むのが妙に迫力があった。 2 中盤には、苦行に耐えるかのように顔をゆがめて走り回る選手がいて、その息づかいがピッチ脇に聞こえてくる。 第1章で登場した07年全国シニア大会優勝チームの兵庫県選抜が、ボールをよく動かすことで、自分たちの体力の消耗を防ごうと する年齢相応の省エネサッカーを志すのに対し、セレクシオン・トキオは、若い世代のサッカーをできる限り体現することを一義的に 目指すスタイルだ。 「技術が飛び抜けているわけではないので、前からプレスをかけることを指針としている。実は、07年の全国大会は長野県まで見 に行きましたが、プレスと運動量ではうちが日本一ではないか」というのが、石田さんの見立てだ。 前線からのプレスとスピード、そして運動量で圧倒する。全国制覇に向け、監督としての石田さんが立てた方針だ。 「何やってんだ―」 「すいません、じゃねえだろ―」 DFラインには、ミスした味方に過激なまでの指示を飛ばす選手もいた。07年までは、もっと激しく罵声が飛んでいたそうで、石田 さんもこれに関しては、苦笑する。 「罵倒されてまでサッカーをやり、それで勝って何が得られるのか。罵声を浴びせられると、ミスを減らそうという気持ちが筋肉を硬 直させてしまい、ミスがミスを生む。結果を非難するより、チームメートの特長を引き出すこと。だから、言い方も含め今年からはギ スギスしないようにしていきたいんです」 厳しい基準のセレクションがあって、試合中はサボることが許されず、時々罵声も浴びせられる。50歳にもなって、こんな雰囲気で やりたくないと、セレクシオン・トキオのサッカーに明確に拒否感を覚えるシエア世代も少なくないだろう。 それでも、これまで3連覇という実績を体験してきたからこそ、基本的には厳しさの中に真の楽しみを覚えている。 「日本一になることの感動と喜びが、この年齢になっても味わえる。それは試合に出ないメンバーも共有できる気持ちです」 専任監督の意味 メンバーにも聞いてみた。 「全国制覇に向け、大の大人が邁進する。外からは滑稽に映るかもしれないけど、やっている方はこれに勝るものはない」と話すの は、MF高橋団吉さん(53歳)だ。 情報関係の会社を経営。よく走るだけではない。ボールタッチが柔らかく、意外性のあるプレーが随所に飛び出していた。聞けば 高校時代、ある県選抜に入ったことがあるという。ただ、高校3年時に右膝の内側靱帯を切ってサッカーをやめた。 その後はテレビでも見ないほどきっぱりとサッカーから縁を切っていたが、40歳の時に再開した。子どもが入っていた小学校チー ムで、高校時代の仲間がコーチをやっていたのがきっかけだった。世田谷区のチームでやっていた時、石田さんの目に留まり、セ レクシオン・トキオ人りを誘われた。 「シニアの世代って、サッカーを本気でやりたいという気持ちをどこかで持っているのに、『まあまあ、年寄りだから』とか、『楽しみの 幅が必要だから』と言って、本気になれない言い訳を持っている。その点、このチームは勝つことが目的だとはっきりしていておもし ろい。日本リーグ経験者だって、動けなくなれば試合に出られないチームなんです」 全国一を目指すなら、それ相応の意識があってこそなのは、確かに年代を問わない。体力が衰えるシニア向きの戦術の必要性も、 高橋さんは感じていないという。「サッカーは走るスポーツだから、シニアだって同じ。いくつになっても、サッカーはそこをやらな いとね」 みんな本気印なのだ。こうした人々が集まれば、当然サッカー観の違いがぶつかる。特に、シニア世代にはそれぞれのサツカー人 生の歴史があるから、妥協できない部分も多くなる。シニアサッカーが難しいのは、そこをどう解決するかだ。 「ゲーム中、もう侃々諤々の議論になる。去年までは『サッカーやめろ―』とかね、かなりすごかったですよ」 そこで、専任監督の待望論が起こり、石田さんがそれを受けた。高橋さんには「石田さんは総意を平均化するのではなく、こうすると 3 いう指針をはっきりさせてみんなをまとめている」と見える。 それが、プレス、スピードと運動量。 専任監督が指針を明示し、それに合ったメンバーを決めるという部分では、プロと同じ姿勢に立っている。立場がぶつかりやすいシ ニア世代の面々だからこそ、選手ではない第三者が方針をはっきりさせることはぶつかり合いを避ける意味では効果的でもある。 MF深澤光賢さん(55歳)は「本当に勝利を目指す中でプレーイングマネージャーが試合に出てしまうと、出られないメンバーから はどうしても、『あんたは動いていないじゃないか』『あんただってミスしているじゃないか』と不満が出る」という。 不動産関係の会社で働く一方、東京都シニアサッカー連盟の広報担当の常任委員を務めている。練習試合で苦行のように中盤を 走り回っていた人だ。 「でも、360度を外から見ている専任監督から的確に指摘されれば、『その通りだ』となる。試合に出られない不満も、『すべてを見 たうえで判断されたのならしょうがない』と思える」 ベンチワークに徹している石田さんは、きめ細かい。1人が複数の位置をこなせるよう、練習試合の途中でもポジションを変える。 「全国大会は3日間で5試合。ハムストリング(ふくらはぎ)を痛める選手が必ずいる。その時のことを考えておかなければ」 ほとんど過去に例のない立場に挑戦している石田さんは、「今のところ、客観的にチームを見られ、バランスのいい選手起用ができ ていると思う」と話す。 シニアチームの専任監督は、新しい分野として開拓されていくかもしれない。 4