Comments
Description
Transcript
Title 日中の音楽教育における文化の交流史( fulltext )
Title Author(s) Citation Issue Date 日中の音楽教育における文化の交流史( fulltext ) 許, 燕; 筒石, 賢昭; 衣, 犁 東京学芸大学紀要. 芸術・スポーツ科学系, 59: 1-10 2007-10-00 URL http://hdl.handle.net/2309/70608 Publisher 東京学芸大学紀要出版委員会 Rights 東京学芸大学紀要 芸術・スポーツ科学系 59 pp.1 ∼ 10, 2007 日中の音楽教育における文化の交流史 許燕 * 筒石賢昭 ** 衣犁 *** 音楽科教育学 (2007 年 6 月 18 日受理) 音楽教育は人類文化の教育である。本論は日本と中国(以下日中)教育文化交流史の視点から、日 中両国の音楽教育における審美、人文の精神、民族音楽の教育および西洋音楽の教育などの面につい ての相違点を分析し、日中音楽教育の特徴を比較する。 キーワード 音楽教育 日本中国の音楽教育 日中の文化 日中文化交流 1 日中音楽教育は相互学習の歴史がある。 1.1 日本は中国に学ぶ。 日本語の「音楽」という言葉は中国から伝来したものである。中国語では、音 (yīnyuè)であり、春秋時 1 から漢(前漢、BC206 ∼ 8, 後漢 25 ∼ 220)にかけて儒学者(儒 代(BC770 ∼ BC403)の孔子(BC551 ∼ BC479) 者)がまとめた礼に関する書物「礼記」の「楽記」に音楽のことが書かれている。 「音楽:音を美的に調和、統合して、ある情感を表現する技術。楽器に対するものを器楽、肉声によるもの を声楽という。」2 これは唐代以降、五経の 1 つとして尊重された。また「楽記・楽象章」には次のように述べ てある。 「楽者,心之動也。聲者,楽之象也。文采節奏,聲之飾也。君子動其本,楽其象,然後治其飾。」楽は心の動 きであり,声は楽の象であり,文采節奏は声を整える飾りであり,羽籥干戚は楽を載せる器である。君子はそ の根本(心)を感動させてその象(声)を楽しみ,その後,装飾を整えて羽籥干戚を用いる3。 音楽を含む、日中両国の文化は明らかな共通点を持っている。遣使の派遣により、日本は隋(581 ∼ 618) や唐(618 ∼ 907)の先進文化を導入し、音楽領域の並行的な成長および総合的な発展を促進することができ、 音楽芸術を受容し自国のものとする過程において、独特な文化的空間を生んだ。 5 ∼ 8 世紀は、中国の隋や唐の盛世であり、中国の古代音楽が大きな成果を挙げた。雅楽(宮廷の祭祀楽と 朝会 4 の礼儀楽を指す)舞踊音楽、散楽(民間の俗楽)および仏教音楽などが盛んであった。その中の多くは 日本に導入され、日本に大きな影響を及ぼした。 隋や唐では、日中両国間に多数の遣使をお互いに派遣した。文化交流を図り、日本から遣隋使が 5 回、遣唐 使が 19 回 5 実施された。遣唐使の人数は 200 ∼ 600 人位 6 であり、毎回音声長(おんじょうちょう)7 と音声生(お * 広西師範大学音楽学院副教授(2007.9 ∼ 2008.4 人材派遣事業として、東京学芸大学筒石研究室に 日中の音楽教育比較研究のため留学) ** 東京学芸大学音楽・演劇講座 *** 東京学芸大学連合大学院博士課程 −1− 東 京 学 芸 大 学 紀 要 芸術・スポーツ科学系 第 59 集(2007) 8 んじょうせい) がいた。日本は高度に発展した中国を中心とする様々な外来音楽文化をできるだけ受容し学ぼ うとしたが、外来音楽を完全に消化し、日本の伝統音楽と完全に融和するまでにいかなく、伝統音楽と外来音 楽が共存するようになった 9。 音楽教育において、中国から伝来した音楽は外来音楽の中で最も尊重され、中国音楽の「三分損益法」10 や 「十二律」11 の音楽理論や孔子の「礼楽」12 の音楽思想は高度に発達していたので、日本の模範となった。歴史 的にも中国音楽は日本で変容されて、「雅楽」や「俗楽」といった考え方はその後の日本音楽に深く根づいた。 1.2 中国は日本に学ぶ。 中国の清朝(1636 ∼ 1912)末期に起こった封建統治階級のヨーロッパ近代文明の科学技術を導入すること で中国の国力増強を図ることを意図した「洋務運動」13 が失敗した後、康有為(1858 ∼ 1927)14、梁啓超(1873 ∼ 1929)15 をはじめ、資産階級の改良派は日本の明治維新(1868)を範にすると主張し、中国において日本の ように政治面にも西洋の制度をとりいれ、立憲体制を樹立すべきであると主張する一派が「変法維新」16 の運 動を起こした。そこでは西洋の科学文化を導入し、資本主義経済の発展を強調し、各種の新式文化教育を積極 的に取り入れた。また、日本の明治維新の成功に誘発され、多くの有志の若者たちは日本を学んだり真似した りするようになり、近隣であり、留学しやすい日本に留学するようになった。 「戊戌の変法」 (ぼじゅつのへんぽ う)17 の失敗後、梁啓超が代表とする改良派は、音楽の啓蒙に対する重大な教育的役割を提唱し、学校に「楽歌」 の課程を設置し、学校音楽教育を発展させることを積極的に唱えた 18。いわゆる「学堂楽歌」である。当時中 国での「新式学堂」で歌われるために作られたおびただしい「学堂楽歌」には、海外の歌に対する替え歌と創 作が混在した。そして、最も取り上げられやすい旋律は当時の日本の唱歌、並びに軍歌だった 19。 当時は、日本の明治維新を模範とし、西洋音楽の導入により中国国民の進取の精神を鼓吹する意見があり、 音楽学校を開設し、一般教育学校に音楽科目を加えたりコンサートを行ったりするように呼びかけもあった。 また、日本に留学してきた知識人たちは最初に音楽団体を発足し(例えば梁啓超たちが横浜大同学校 20 で成立 した「大同音楽会」や、沈心工 21 が先頭となる東京の留学生たちが 1902 年に成立した「音楽講習会」など)、 音楽や劇の学習や演出を行い、日本や欧米の流行歌に新しい歌詞を入れ替えて新しい歌曲を編曲した。1904 年から、様々な歌唱本は中国と日本で続々と発行され、中国の新式学校で「楽歌」課程も段々普及されてきた。 その同時に、蕭友梅 22 や李叔同 23 など、音楽や芸術を専門的に学ぶために日本やヨーロッパに留学する人もい るようになった。1905 年以降、学校唱歌は当時の社会の文化的生活の新風潮のひとつとなった。 これらの新しい歌曲は当時「楽歌」と呼ばれ、その後に「学堂楽歌」と統一的に名づけられた。「学堂楽歌」 の内容の殆どは当時中国の資産階級およびその知識人の欧米の科学文明を学び、外国列強の圧迫から脱するた めに「富国強兵」を実現しようとする資産階級の民主主義思想と愛国主義思想を反映するものであったので、 当時の民衆の反帝国主義・反封建制という革命的な要求を表した。「学堂楽歌」のメロディーの大多数は欧米 や日本の歌曲のメロディーであり、歌詞は中国人の作詞したものであった。陳捷(1996)は、日本の唱歌と中 国近代の学堂楽歌の比較研究を行っている 24。 2 日中音楽教育における美学の相違 2. 1 音楽美学 音楽教育における美学は抽象的な概念であるが、具体的な教育文化の実践を通して実現できるものである。 教育の美学は文化社会学の背景において分析されれば、美学の現代的特徴をより明白に掲示される。西洋美学 では芸術の自律性概念がある。例えば音楽において、ドイツの音楽学家・音楽理論家・美学家のハンスリック (Eduard Hanslick, 1825 ∼ 1904)の書いた『音楽美論』(1854)は音楽の自律性を語る代表作であり、啓蒙運 動の核心的人物の一人であるカント(Immanuel Kant, 1724 ∼ 1804)の書いた『判断力批判』 (1790)の中でも、 美学における芸術の自律性の立場を確立し、特に美的判断の無功利性についてカントの観点を反映した 25。 中国の教育史上において、音楽教育が美的教育であると提唱した人は 1912 年に中華民国(1912 ∼ 1949)政 府の初代教育総長となった蔡元培(1868 ∼ 1940)26 である。彼はドイツに留学した経験があり、彼の理念はカ ントとシラーの影響を受けてあり、芸術が宗教の変わりになる観念を含んでいるとした。1923 年 6 月に当時 −2− 許・筒石・衣:日中の音楽教育における文化の交流史 の教育部が公布した『小学校音楽課程綱要』と『初級中学校音楽課程綱要』では、美的情感教育の重要さを強 調し、「美的情感、融和的、集団的精神を修養する」と述べていた。中国の音楽教育はマクロ的な教育環境に おいて、その審美観は初めから儒学、礼教、天下一統の美的哲学に基礎を置き、東洋の美的哲学を反映してき たが、蔡がヨーロッパに留学して持ち帰ってきた観念は日本の近現代音楽教育における審美観に似ていた。 2.2 日中音楽教育における美学の比較 日中両国が近現代における西洋の模倣をしたり社会変革を行ったりしてきた歴史的背景もそれぞれの音楽の 発展の相違をもたらした。 まず両国の似た点は、近代において西洋の資本主義勢力の侵略に直面し、西洋の列強から不平等条約を強い られ、列強と不平等な関係となっていたことである。強烈な民族の危機感に立ち、国家の独立と民族の振興を 目指すために、「洋務運動」や「明治維新」を遂げ、中国では「中体西用」27、日本では「和魂洋才」28 などの 教育思想を展開した。西洋を学ぶ世論は文化界と音楽界にも影響を与え、20 世紀日中両国における音楽文化 の発展に対する主な推進力となった。 20 世紀における日中文化の歴史的発展過程から見ると、両国はそれぞれ違うことを視点にしていた。20 世 紀後半、日本の音楽教育において全面的に西洋音楽を導入し、和洋音楽を折衷して新音楽を創成することを自 国音楽の発展目標として目指していた。音楽の創作は日本の伝統文学と同様に叙情的な美学を主流とした。当 時に大量に現した新曲の曲名とその文学の関わりから、文学や芸術を政治と関連させる、或いは作品の思想性 を重視することは低俗と思われていたことが分かる。日本では古来から脱俗を図り、音楽教育が社会伝統の論 理文化や政治的理想などと分けられており、音楽教育の自然美が強調されていた29。このような文化理念と日 本の政体の「二元離散構造」における精神の象徴と実際の政治の分離は、ヨーロッパにおける教権と王権の分 離に似たようなものである。 一方、20 世紀前半の中国は国の滅亡に瀕していた時代にあり、生存の危機から救うことが社会の課題であっ た。従って、「五四運動」30 時期の音楽、工農革命歌曲、革命根拠地の音楽、および聶耳 31、冼星海 32 などの作 曲家の歌曲作品は知識人や農民を含む社会のすべての民衆が推奨する教育的音楽である。20 世紀後半の中国 は自身の鎖国政策と外国の資本主義勢力に封鎖、包囲されており、80 年代の開放期の到来までに西洋との音 楽交流がなかった。中国の伝統的音楽文化教育の一元整合構造の特徴も見られる。80 年代の改革開放の政策 に伴い、中国の音楽文化における「百花斉放、百家争鳴」33 の局面が再び現してきた。日本の音楽教育は自然 美に傾きがちな傾向があるのに対し、中国の音楽教育は理想的社会美および道徳・礼儀的社会美を重視してい るといえる。 3 日中音楽教育における人文の精神の相違 3.1 音楽における人文の精神 現代社会において、科学技術の発展は人々の物的欲望と現実的需要に応えていっていると同時に、人類にそ の代価を支払わせていっている。科学技術の権威の下において、人々の自主性は減っていっている。多くの人 は科学だけに着目し、人文の面を見ない。人間という言葉は抽象した概念となり、情感や意志などの人文の精 神を失った。今道友信(1973)34 は『美について』において、芸術は人間の希望であり、芸術は技術社会に破 壊されずに、技術の発展により、その発展の非人間化に抗する、と述べた。科学技術は人文の精神に導かれて 昇格させることによってこそ、健康な発展と完全な応用ができ、人類のために真の幸せで明るい前途を創造で きるのである。従って、人文の精神の育成は当面の教育の発展の必然的な趨勢であり、世界諸国の教育改革の 方向である。 音楽教育は人文の精神を育成する一つの重要な手段として、狭義上の「技芸的」教育ではない。音楽教育は 児童 ・ 生徒の音楽的才能と技術を育成するに限らず、少人数の演奏家を養成する目標のみではなく、社会のた めにより多くの人文の精神をもち、調和のとれた健全な人間の育成を最終目標とするものである。 −3− 東 京 学 芸 大 学 紀 要 芸術・スポーツ科学系 第 59 集(2007) 3.2 日中音楽教育における人文の精神の比較 日本の音楽教育は「真善美」に立脚し、人間を全面的に発達させることを目的とし、真から美しさを引き出し、 美から善への発達の段階を形成しており、音楽の授業、教材の採用、教員の養成などの面において人文の精神 の育成を最終目標としている。民主的、開放的、積極的、向上的、かつ健康的なゆとりのある学習の雰囲気は、 児童 ・ 生徒の潜在能力を開発し、彼らの個性的な意識および創造的意識を育成することに優位である。このよ うな雰囲気は児童 ・ 生徒に知らずのうちに感化される効果がある。日本の音楽教育では、教師が児童 ・ 生徒に 平等な態度で接し、芸術的な教授法を生かしており、教師と児童 ・ 生徒に、教えることと教わることにおいて 平和的、民主的な学習環境を作り出し、児童 ・ 生徒の音楽活動へ能動的、創造的に参与することを導き、彼ら の主体的意識を引き出し、自尊・自粛・自立の理念を成立させ、人文の精神を育成する目的を実現する35。日 本の学校では法令に従い、学習指導要領の教育方針を貫徹し、教師の質を維持し、児童 ・ 生徒の主体的地位を 確保し、多種多様な音楽授業法を採用し、人文の精神の発展によいベースを提供している。この点について、 中国の音楽教育はこのような教育から学ぶべきである。 中国の音楽教育は教育内容において、今までの楽典などの理論的知識の教授を中心とした授業法を改め、音 楽授業の活動内容を拡大し多様化し、児童 ・ 生徒の人類社会に対する関心・意識を培うべきである。多様化し た授業方法と授業形態を生かし、児童 ・ 生徒の創造的意識および協力の精神を発揮させる。また、教師は児童 ・ 生徒の個人差に応じて教育すべきであり、彼らの独特な良好な個性的な品質を育成する。教育部が制定した現 行の『全日制義務教育音楽課程標準』36 は人文の精神を育成する面において大きい進歩を遂げている。美的教育 を核心にし、音楽に対する愛好・興味を学習の動力にし、すべての児童 ・ 生徒を対象とし、個性の発展を重視 し、音楽的創造を奨励し、教科の総合を提唱する理念を提出した。小中(高)学校における音楽教育改革の深化、 資質教育の推進に対して良い指導的役割を果たしている。 しかし、当面中国の音楽教育には音楽技能を重視し、人文の精神の育成を見落とす現象をまだ残している。 多くの音楽教員や保護者たちは音楽を学習することを学生の進学の周辺的なもののように扱い、児童 ・ 生徒主 体に対する全面的な育成を重視していない。この現象に対して、中国の音楽教育界は従来の教育観念から、人 間をもとにし、人文の精神を全面的に発達させる理念に転換すべきである。 1970 年代以来、中国の音楽教育は教育体系の全体及び国の経済・社会環境に影響され、小学校から大学ま でにおいて理工系教育を重視し、文系、特に芸術系の音楽教育が重視されておらず、音楽教育の意義をよく分 からない音楽教員も少なくなかった。音楽教育において音楽そのものの社会的機能および文化教育的機能が見 落とされ、享楽主義の文化、経済発展の付属の文化として認識されていた。国の経済の発展、国力の強盛は音 楽を含む文化・芸術の盛隆に至ることは必然である。 日本の音楽教育と比べて、現代中国の音楽教育は経済より遅れており、経済が良くなってから音楽教育が発 展する順に立っている。一方日本の音楽教育は国、社会から家庭までに非常に重視され、文化資質の重要な一 部として認識されている。中国の音楽教育には日本の音楽教育に重視されている個性の育成が欠如している。 4 日中における西洋音楽教育および民族音楽教育の相違 現代社会における文化の多元化に対応し、音楽教育は西洋音楽を中心とした従来の観念から抜け出し、多元 的音楽文化へ発展すべきである。以下では日中における西洋音楽教育および民族音楽教育を比較する。 4.1 日中における西洋音楽教育の比較 明治5年(1872)から始まった日本の近代化教育は、日本を急速に近代化にした基礎である。その中では小 中学校の音楽教育に対しても規定があった。中国は 1904 年に「奏定学堂章程」37 が公布されて以降、全国的に 日本を範とした教育改革が始まったのである。この改革では音楽科が学校必修科目になった。当時、日本に留 学してきた李叔同らは日本の唱歌から「学堂楽歌」を生み出した。しかし、中国の近代的教育体制の確立後に は、政治、社会情勢の変化により、日本の教育や音楽教育との交流が段々少なくなってきた。また、一部の日 本の私立学校は利潤目あてに多数により短期教育を行ったことが原因で、中国の留学生は日本で受けた教育の 質が保証できなかった。従って、1920 年代後に、音楽教育を含む中国教育の体制は欧米への模倣に移行した。 −4− 許・筒石・衣:日中の音楽教育における文化の交流史 1950 年代から、音楽教育は旧ソ連を範とし、各地の師範学校で音楽学部の設置が普及になったが、その教材、 授業法、課程の設置などが薄弱で単一的であった。1980 年代の改革開放期の到来から、音楽教育の不足問題 を解消するために、一部の音楽大学では音楽教員養成学部を設置し、ダルクローズ、コーダイ、オルフなどの 音楽教育法を導入するようになった。 音楽創作の面では、日中両国とも発足期と初期において西洋音楽の古典派とロマン派を主な参照先としてお り、西洋音楽の受容についての論議もあった。例えば中国の趙元任 38 や日本の山田耕筰(1886-1965)は、芸 術歌曲と和声の自民族化の面において積極的な試みを行っていた。しかし、日中両国は専門的音楽創作の発展 39 のような歴史あ の過程に相違がある。1 つは、ロシア 5 人組のようなものである。新興作曲家連盟(1930) る組織が中国には少ない。音楽的組織は異なる経済・文化の発展においてその運営形態も異なるのであろう。 もう一つは、中国の近代音楽教育が日本の近代音楽教育より 30 ∼ 40 年間遅れて確立したと同じように、中国 における西洋の専門的音楽作曲を模倣し始める時間は日本より 30 ∼ 40 年間遅れた。1950 年代に日本では実 験工房やミュージックコンクレートの実験も始まっていた。一方、中国の専門的音楽作曲は 1980 年代までに おいて西洋のロマン派を主な参照元としていた。1950 ∼ 1960 年代では、旧ソ連の音楽文化と思想の影響を受 けて、中国では西洋の現代的音楽とその作曲技法を退廃的なブルジョアジーなものとして見なし排斥していた。 文化大革命 40 の期間では、西洋の絶対音楽や印象派音楽に対しても徹底的に批判し否定していた。80 年代の 改革開放期の始まったごろに、ケンブリッジ大学の Alexander Goehr 教授 41、華系アメリカ人の周文中 42 が中 央音楽学院に講演のために招聘されてから、中国の専門的音楽作曲において西洋の現代的音楽技法と個性化し た作曲は形成し普及し始まったのである。90 年代に入り、ポップ音楽のジャンルは中国で流行になった。 日中両国の近現代史を見れば、日本の学校音楽教育は中国の学校音楽教育より全体のレベルが高いといえる。 例えば一般音楽教育の教員の質は中国より高い。日本では音楽教育の発展の初期から多くの外国籍教員を導入 したが、中国では殆どの外国籍教員が専門的音楽教育にしか導入していないし、その数も少ない。また、日本 と西洋の音楽文化の活発な交流があるので、日本の音楽教育の基礎は西洋との差があまりない。日本の鈴木メ ソードは 20 世紀の 50 ∼ 60 年代にも国際的な教育方法として広く知られている。 音楽の学術的な情報の面においても、中国は日本より遅れている。例えば中国の音楽教育学者は ISME な どの国際的音楽教育の学術会議に参加することがあまり見られない 43。これらの点について、中国の音楽教育 界は日本の音楽教育界を学ぶべきである。 4.2 日中における民族音楽教育の比較 西洋音楽の受容に関して、日本は中国より時間が早く、程度が深く、範囲が広い。また、日本は中国より先 に多元的音楽文化を発展させる重要性を覚悟し、世界音楽文化を基にして民族音楽文化の発展に力を入れてい る。1950 年、日本では「文化財保護法」が公布・施行された。日本の代表的な伝統音楽家が重要無形文化財 の保持者として認定できるようになった。日本古来の伝統的芸術を保存し伝承するために、日本政府は大部分 の経費を負担しており、伝統音楽の内容を中小学校の音楽教育に導入した 44。日本を参考して、中国は歴史の 長い国として、単一的な西洋的音楽文化観から、中国の伝統音楽を発揚し、多文化の優位を生かし、多元化し た音楽観を確立する必要がある。これは時代の要求であり、当面中国の音楽教育に実際的な問題を解決する有 効な道でもある。 1992 年に開かれた第 20 回世界音楽教育会議(ISME)ソウル大会は、 「世界の音楽の共有」をテーマとした。 この大会では、大多数の日本人が西洋音楽をきっかけにして音楽に触れ合うようになったので、日本において 西洋音楽が世界の音楽として認識されていると日本の音楽教育家が指摘した。この大会で三好恒明は、「日本 の音楽教育」を次のように述べた。 ・・・日本音楽の要素と性格は西洋音楽と完全に異なっており、二者の間に直接な関係はないが、日本の音 楽教員はやむを得ず二者の融和をさせている。西洋音楽の和声は管弦楽の形態に基づき、学校における適当な 練習方法が作られている。西洋音楽に対して大量な聴衆の社会的基礎がある。日本の学校音楽教育は最初から 五線譜、ピアノなどの西洋の楽器を用いている。19 世紀日本の新音楽の発足から、西洋音楽は学校に深く入っ ている。日本の伝統音楽の教育は今後の強い課題である。・・・(原文英語) 中国では、民族音楽学に関する研究や教育の開始は日本より数十年も遅れている。20 世紀初期の蕭友梅、 −5− 東 京 学 芸 大 学 紀 要 芸術・スポーツ科学系 第 59 集(2007) 王光祈 45 らは東・西洋音楽の比較の視点から検討を行ったことがあるが、民族音楽学の発足は 80 年代であった。 当時では日本と西洋の概念と方法論を翻訳し導入した。楊民康 46 は「日本民族音楽学が大陸中国の音楽学術界 に与える影響」 (2003)において中国の民族音楽学の発展の歩みおよび日本の民族音楽学がその発展に及ぼし た影響を述べた。金城厚 47 は「現代社会における『民俗音楽』概念」において民族・民俗音楽の関係を論述し、 民族音楽と民俗音楽は、相違し相互に浸透している 2 つの概念であると唱えた。 結論として、日本の音楽教育と比べて、中国の音楽教育は歴史的な優位点を持っているが、日本の音楽教 育を参考にし、学ばなければならないところがある。世界における多文化的音楽教育(Multi Cultural Music Education)の潮流に面して、悠久の歴史文化と独特な音楽文化の伝統を持つ中国は、グローバル音楽文化の 視点に立脚し、潮流に沿って、民族音楽を発揚しながら、世界諸国と諸民族の音楽文化を理解し学習すること は将来の課題として検討して実施しなければならないことである。 1 孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、 一つの道徳・思想に昇華させた。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることによ り、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道 の側面と礼という家父長体制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。 2 鎌田正、米山寅太郎(1992).『大漢和林』大修館 p.1518 3 兒玉憲明、新潟大学人文学部による。 4 「朝会」とは朝廷に謁見する儀式である。 5 日本では遣唐使の回数について、中止、送唐客使などの数え方により、12 回説、14 回説、15 回説、16 回説、 18 回説、20 回説など、諸説があるが、中国では 19 回説が一般的であり、その中では迎入唐使 1 回、送唐客 使 3 回、中止 2 回が含まれている。 6 遣唐使の派遣人数は数十人から 651 人であったが、海難などの事故により、実際に唐に到着した人数は不確 定である。 7 音声長(おんじょうちょう)とは唐の宮廷で日本の音楽を演じる日本の音楽者である。 8 音声生(おんじょうしょう)とは唐で音楽を学ぶ日本の留学生である。 9 王超慧(2003).「中日音楽文化交流の歴史的なつながり」『黒竜江民族叢刊』 第 2 期、pp.119 ∼ 124。 10 三分損一と三分益一を組み合わせて音階を得る方法のこと。弦楽器または管楽器の基本となる管または弦の 長さを、その三分の一の長さだけ短くすると、最初の音より完全五度高い音になる。これを、三分損一と(近 代邦楽では、三分一損とも、順八とも)言う。逆に三分の一の長さを足した場合、完全四度低い音が得られる。 これを三分益一と言う(近代邦楽で言うところの逆六)。この二つを組み合わせた形で音階を得る方法である。 11 律とは本来、音を定める竹の管であり、その長さの違いによって 12 の音の高さを定めた。十二律は、もと もと中国で生まれて日本の伝統音楽でも用いられる 12 種類の標準的な高さの音。前項の三分損益法によっ て 1 オクターブ間に平均律でない半音の間隔で配された 12 の音である。周代において確立した。中国の律 を低いものから高いものへと並べ、西洋音楽の音名と対照すると以下のようになる。黄鐘(こうしょう) 、 大呂(たいりょ)、太簇(たいそう)、夾鐘(きょうしょう)、姑洗(こせん)、仲呂(ちゅうりょ)、 賓(す いひん)、林鐘(りんしょう)、夷則(いそく)、南呂(なんりょ)、無射(ぶえき)、応鐘(おうしょう)。こ こから十二律は陰陽に分けられ、奇数の各律は陽律であり、律と呼ばれ、六律(りくりつ)と総称される。 偶数の各律は陰律であり、呂と呼ばれ、六呂(りくりょ)と総称される。よって律呂の名がうまれた。 日本では、壱越(いちこつ)・断金(たんぎん)・平調(ひようじよう)・勝絶(しようせつ)・下無(しも む)・双調(そうじよう)・鳧鐘(ふしよう)・黄鐘(おうしき)・鸞鏡(らんけい)・盤渉(ばんしき)・神仙 (しんせん)・上無(かみむ)とよばれ、現在でも尺八に使われている。 12 日本の他、韓国にも影響を及ぼした。 −6− 許・筒石・衣:日中の音楽教育における文化の交流史 13 中国の清朝末期に起こった、ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入することで中国の国力増強を図ることを 意図した運動。清朝の高級官僚であった曽国藩、李鴻章、左宗棠、劉銘伝、張之洞らがこの運動の推進者と して知られる。 14 清朝末期から中華民国にかけての思想家・政治家・書家。明治日本やロシアをはじめとする西欧各国の現状 についての理解が深まるにつれ、それまでの改革、すなわち李鴻章や曽国藩らの主導のもとで行なわれてい た洋務運動を形式的だと非難して、徹底した内政改革による洋務運動、つまり「戊戌の変法」による改革を 主張するようになった。 15 清朝末期・中華民国初期の政治改革家・ジャーナリスト・歴史学者。康有為と出会って以後、その片腕とし て活動していくことになる。しばしば北京に遊学する間に譚嗣同と知り合い、大同思想や王夫之の学問につ いて意見を交換した。京師大学堂を創立(後の北京大学)を創立。 16 欧化、近代化の改革運動の政治運動。その由来は、アヘン戦争後、国威の衰頽が顕在化し、やがて、日清戦 争後、日本の欧化の優越性を目の当たりにしすることで、自国の後進性の改革の必要性と、西欧列強の対清 朝という現実に直面して、危機感を持った先覚者が、政治の改革と軍備の改善を図り、日本の明治維新後の 政府と帝政をモデルにした救国改良運動。 17 「戊戌の変法」(ぼじゅつのへんぽう)とは、清において、光緒 24 年(1898 年、戊戌の年)の 4 月 23 日(太 陽暦 6 月 11 日)から 8 月 6 日(太陽暦 9 月 21 日)にかけて、光緒帝の全面的な支持の下、若い士大夫層で ある康有為、梁啓超、譚嗣同らの変法派によって行われた、日本の明治維新に範を取って上からの改革によ り清朝を強国にするという、政治改革運動である。「百日維新」とも呼ばれる。変法の具体的な措置は科挙 の改革、近代的な学制の整備、新式陸軍の創設、訳書局・制度局の設置、懋勤殿の開設(議会制度の導入) などがある。 18 張小梅(2005) . 「中日音楽文化交流の背景および音楽形態の比較」 『文芸研究』2005 年第 7 期、pp.83 ∼ 87。 19 高女爭(2003) 「中国近代学校音楽教育の源流̶清末における . 「学堂楽歌」運動興起の思想的土壌について̶」 (『慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要』第 56 号参照。 20 1898 年に創立された。横浜大同学校は孫文の提唱により、康有為、梁啓超などの協力を得て、横浜の華僑 が自ら創立した全日制の学校で、校長と教員をすべて中国国内から招聘し、その教学カリキュラムの内容と 男女共学という環境は、当時の海外華僑社会において先駆的・画期的なものであり、まさに「世界初の近代 的華僑学校」といえるものであった。一貫して在日華僑華人子弟に中華文化を伝え、中日両国の友好促進に 努め、時代の要請に適した人材養成に励み、中華学校の100余年の歴史を築いている。 21 沈心工(1870 ∼ 1947)、中国の音楽教育家、楽堂楽歌の代表的人物である。1902 年に東京弘文学院に留学し、 中国人留学生等と「音楽講習会」を成立した。日本童謡のメロディーを用い、中国最初の楽歌である「男児 第一志気高」を創作した。1903 年帰国後に南洋公学(現在の上海交通大学)の附属小学校に就職し、唱歌 科を開設した。これは中国の小学校における最初の唱歌科であった。1904 年から沈は 『学校唱歌集』 (全 3 巻、 1904、1906、1907) 、 『重編学校唱歌集』(全 6 巻、1912)、 『民国唱歌集』(全 4 巻、1913)、 『心工唱歌集』(1936) などを編集・出版した。彼は近代中国の学校音楽教育の発足期における最初の音楽教員の 1 人であった。 22 蕭友梅(1884 ∼ 1940)、中国の音楽教育家・作曲家。1901 年に日本に留学し、東京音楽学校、東京帝国大 学文科大学などで声楽、ピアノ、教育学を専攻した。帰国後、ドイツのライプツィヒ大学とライプツィヒ音 楽院で留学し、哲学博士号を取得した。1921 年に北京大学音楽研究会の講師となり、1923 年に北京国立芸 術専門学校(現在の中央美術学院)の音楽科の主任となった。1927 年、蔡元培の支持のもとに上海で国立 音楽院(現在の上海音楽学院)を成立した。 23 李叔同(1880 ∼ 1942 年)、法号弘一、中国の画家・音楽家・教育家・書道家・名僧。1901 年に南洋公学(現 在の上海交通大学)に入学し、蔡元培を師従した。1905 年に日本に留学し、上野美術学校、東京音楽学校 などで美術、ピアノ、作曲を専攻し、川上音二郎と藤沢浅二郎を師従し新派劇を研究していた。1906 年に 彼が創立した中国人留学生劇団の「春柳社」は中国最初の話劇団(新劇の劇団)であった。同年、彼により 創刊した『音楽小雑誌』は中国最初の音楽雑誌であった。1910 年に帰国後、李は天津北洋高等工業学堂(現 在の河北工業大学)の図案科主任教員、上海城東女学(日本に留学した楊白民が設立した私学であり、当時 有名な新式学校であった)の音楽教員、浙江両級師範学堂(現在の杭州師範大学)の音楽・図画教員、南京 −7− 東 京 学 芸 大 学 紀 要 芸術・スポーツ科学系 第 59 集(2007) 高等師範学校(現在の東南大学)の美術科主任などを就いていた。1918 年に出家し、南山律宗の再興を求 めて力を尽くした。1942 年に病死後、 「重興南山律宗第 11 代祖師」と崇められた。画家の豊子愷、音楽家 の劉質平など、多くの名芸術家は彼の学生であった。彼の「旅愁」(犬童球渓が 1907 に訳詞した翻訳唱歌) のメロディーを用いて新しい歌詞を入れ替わった「送別」という歌は、中国において現在でも広く歌い継が れている。 24 陳捷(1996)「日本明治時代の学校唱歌と中国近代の学堂楽歌の比較」 『東京学芸大学修士論文』. 25 管建華(2005).「美的教育を核心とする音楽教育:哲学批判と音楽教育の文化哲学建構」 『中国音楽』2005 年第 4 期、pp.6 ∼ 17。 26 蔡元培(1868 ∼ 1940)、中国の民主主義革命家・教育家・思想家・科学者。1901 年に南洋公学(現在の上 海交通大学)の教員を務め、1902 年に中国教育会を創立し、1904 年に光復会を設立し、1905 年に孫文の中 国同盟会に加盟した。1907 ∼ 1911 年にドイツに留学し、1912 年に中華民国初代教育総長に就任し、西洋 教育制度の導入を主張した。同年、フランスに留学し、1916 年に帰国し、翌年に北京大学の学長に就いた。 民主と科学を標榜し、平民教育、男女共学を提唱する彼の支持により、北京大学は当時の「新文化運動」の 中心となった。1923 年にヨーロッパに再び留学し、1926 年帰国後に交通大学(元「南洋公学」、現在の上海 交通大学)学長、中法大学(現在の北京理工大学)学長、国立芸術院(現在の中国美術学院)院長、中央研 究院(現在の中国科学院、中国社会科学院および台湾の中央研究院に相当する)院長、故宮博物館理事長、 国立北平図書館(現在の中国国家図書館)館長などの職を経た。蔡は中国における資本主義教育制度の創始 者である。1927 年に上海で成立した国立音楽院(現在の上海音楽学院)、1928 年に杭州で成立した国立芸術 院などの学校の設立は、彼の支持をもとにしたものであった。 27 中体西用とは中国の伝統や学問を本体とし、西洋の科学や技術を応用するという意味である。洋務運動の推 進者たちは「中体西用」をスローガンとした。 28 日本古来の精神世界を大切にしつつ西洋の技術を受け入れ、両者を調和させ発展させていくという意味の言 葉である。これに対して、西洋の技術を受け入れるにはやはり西洋の考え方を基盤とする必要がある、とい う意味の洋魂洋才という言葉もある。古くから使われていた和魂漢才をもとに作られた用語。 「中体西用論」との比較については、平川祐弘(1971).『和魂洋才の系譜』河出書房新社に詳しい。 29 沈瑤(2001) . 「日本教育の得失および我が国教育発展への啓示」 『煤炭高等教育』2001 年第 1 期、pp.33 ∼ 36。 30 五四運動は 1919 年のベルサイユ講和条約の結果に不満を抱き発生した中華民国時の北京から全国に広がっ た反日、反帝国主義を掲げる大衆運動。5 月 4 日に発生したのでこの名で呼ばれ、五・四運動、5・4 運動と も表記される。 31 聶耳は 1912 年雲南省に生まれ優れた天性と音楽教育によって前途有望な音楽家となった。16 歳で入党し音 楽によって党活動に専念し亡くなる年の 4 月に抗日映画「風雲児女」の主題歌として作曲された義勇軍行進 曲は 1949 年全人代で正式に中国国歌になった。 32 短い一生の間に、数百曲の音楽作品と多数の論文を書いた。主要な作品は、交響楽《民族を解放する》、管 弦楽《中国狂想曲》、《黄河大合唱》。 33 「百花斉放、百家争鳴」とは、1956 年に毛沢東が提唱した芸術と学術を発展させるための方針である。 「百 花斉放」は芸術分野で様々な作品を自由に発表させることであり、「百家争鳴」は学術分野で多くの学者や 専門家が自由に論争させることである。 34 今道友信(1973).『美について』講談社現代新書 p.324 35 張燕燕、李占紅(2005).「日本音楽教育における人文の精神の育成についての分析」『楽府新声』(瀋陽音楽 学院学報)2005 年第 4 期、pp.68 ∼ 70。 36 中華人民共和国では、2001 年6月に教育部によって 21 世紀初頭の基礎教育課程の指標となる「基礎教育課 程改革綱案」が公布され、続いて7月従来の「課程計画」に代わって新しい教育課程の全体計画を示した「義 務教育課程設置実験方案」が示された。これと並行して、拘束力の強いかつての「教学大綱」から、地域や 学校の実態に応じて弾力的運営が可能な「課程標準」へと移行する作業が進んでおり、初等教育(小学)及 び前期中等教育(初級中学)については 2005 年度より全国で完全実施されている。 37 「奏定学堂章程」は当時日本で実施されていた近代学制に模倣したものであり、日本の「学制」にあたる。 −8− 許・筒石・衣:日中の音楽教育における文化の交流史 張百熙、張之洞などが推定し、清の光緒帝が 1904 年に公布し、 「癸卯学制」とも呼ばれている。これにより、 中国における近代的学制が提起され、近代的学校体系の構築が本格的に始められた。 38 趙元任(1892 ∼ 1982)、中国の言語学者・哲学者・作曲家。「中国語学の父」とも呼ばれている。1910 年に アメリカに留学し、数学、物理、音楽を学んでいた。1918 年にハーバード大学の哲学博士号を取得した。 1920 年に帰国後、清華大学に就き、梁啓超と一緒に清華国学研究院の指導教員として勤めていた。1940 年 代前後からアメリカのイェール大学、ミシガン大学、ハーバード大学、コーネル大学、カリフォルニア大学 などで勤めており、1982 年にアメリカでなくなった。彼は音楽論文を執筆しながら、 『新詩歌集』(1928)、 『児 童節(子どもの日)歌曲集』(1934)、 『暁荘歌曲』(1936)、 『民衆教育歌曲集』(1936)、 『行知歌曲集』(1981)、 『趙元任歌曲集』(1981)などの音楽作品も出版した。民謡の収集、編曲を重視し、民謡にピアノ伴奏曲をつ けた作品が見られる。彼の歌曲作品は西洋の作曲技法を用いながら、中国の民族音楽のメロディーや歌詞を 受け入れてある。趙の作曲した「平和行進曲」(1914)は、中国最初のピアノ作品であった。 39 現在、日本現代音楽協会で昭和 5 年(1930 年)4 月 28 日新興作曲家連盟と称し、発起人小松平五郎・箕作 秋吉両名のもとに発足した。 40 文化大革命は、中華人民共和国で 1966 ∼ 1976 年にわたり、全国における長期間の混乱を招いた権力闘争で あった。 41 Alexander Goehr(1932 ∼) 、ドイツ生まれのイギリスの作曲家・音楽教育者。1933 年にイギリスに移住し、 1976 年からケンブリッジ大学の音楽教授として勤めている。1980 年に中央音楽学院学長、作曲家の呉祖強 に招聘され、当学院で西洋の現代音楽について講座を開いていた。 42 周文中(Chou Wen-Chung、1923 ∼)、中国生まれのアメリカ作曲家。1946 年にアメリカに留学し、1958 年 にアメリカに移籍した。コロンビア大学の音楽教授、当校の米中芸術交流センターの主任などとして勤めて いた。彼の学生は作曲家譚盾(Tan Dun) 、陳怡(Chen Yi)などが挙げられる。 43 しかし近年では、若い人を中心に中国人の国際会議等の参加が顕著である。例えばマレーシアで開かれた ISME の 2006 年大会では、グループ研究で中国の民族音楽の教育と実際の研究発表があった。(筒石注) 44 楊民康(2003).「日本民族音楽学が大陸中国の音楽学術界に与える影響」、『中央音楽学院学報』2003 年第 4 期 1、pp.13 ∼ 20。 45 王光祈(1891 ∼ 1936) 、中国の音楽学者・社会活動家。1920 年ドイツに留学し、政治経済学を専攻してい たが、1922 年に音楽専攻に変更し、1927 年からベルリン大学で音楽学を専攻し、1934 年に博士号を取得した。 1936 年ドイツでなくなった。彼は外国語で中国の音楽を紹介する第一人であり、中国において比較音楽学 の方法を用いて中国の音楽、東洋の民族音楽と西洋音楽を比較する第一人者でもある。中国の現代的音楽学 の創立者である。 46 楊民康(1955 ∼)、中国の民族音楽学者、 中央音楽学院音楽学部教授、 中央音楽学院学報副編集長。 (2007.4 現在) 47 金城厚、沖縄県立芸術大学民族音楽学教授。(2007.4 現在) −9− Bulletin of Tokyo Gakugei University, Arts and Sports Sciences, Vol.59(2007) A Historical Study of Cultural Exchange Between China and Japan in Music Education Xu Yan*, Kensho TAKESHI**, Yi Li*** Abstract The primary purpose of this study was to examine the changes and differences the sense of aesthetics, spirit of liberal arts, multicultural music, local traditional music and Western music in a historical study of cultural exchange between China and Japan. To accomplish this purpose the following research questions were investigated: 1. What Japanese and Chinese have learned from each other's countries from the viewpoint of historical changes; 2. Differences in the sense of aesthetics between Japanese and Chinese music education; 3. Differences in the concept of liberal arts in these two systems of music education; and 4. Differences in the use of Western music education and multicultural music education. As a result of this study the following conclusions were reached: (a) Japanese and Chinese music education has been strongly influenced by each other's countries. Chinese court music was imported in the 5th to 8th century to Japan. Musical thought and theory contributed to Japanese music and music education. After the start of the Meiji period (1868), many Chinese music educators studied abroad to learn Western music for importation to Japan, and learned Japanese school songs; (b) Compared with Japanese music education, Chinese music education has a longer history, but Chinese music educators may have much to learn from Japanese music education in terms of the genres of music and multicultural music education. The balance of songs and recordings in music textbooks has improved, but still has problems. It will be important for Chinese music education to understand world music and study it. * Department of Music, Guangxi Normal University ** Department of Music and Drama, Tokyo Gakugei University *** Doctoral Course of United School of Tokyo Gakugei University − 10 −