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アラビアンナイト・カルカッタ アラビアンナイト・カルカッタ アラビアンナイト
Vol.2011-CH-89 No.1
2011/1/22
情報処理学会研究報告
IPSJ SIG Technical Report
1. はじめに
『アラビアンナイト・カルカッタ第
アラビアンナイト・カルカッタ第 2 版』
アラビア語
アラビア語テキストデータベースの
テキストデータベースの構築
データベースの構築と
構築と
その利用
その利用
中道静香†
『アラビアンナイト・カルカッタ第 2 版』
(原題:ʾAlf layla wa-layla(千夜一夜)) は,
ジョン・ペイン,リチャード・バートンらによる英訳によってよく知られ,アラビア
ンナイト研究において重要な刊本(印刷本)の一つとみなされている.同版は,アラ
ビア語原典からの初の邦訳である,平凡社東洋文庫版『アラビアン・ナイト』
(前嶋信
次・池田修訳)の底本として使用されたため,日本でも学術的な目的で参照・引用さ
れることが多い.
国立民族学博物館の西尾哲夫教授は,これまでに複数のアラビアンナイト研究プロ
ジェクトを主宰してきたが,その中の企画の一つとして「カルカッタ第 2 版」の全文
テキストデータベースの構築が進められてきた[a].本稿では,報告者らが最終的なデ
ータの整備とシステム構築の作業を担当した立場から,データベース構築の方法論お
よび内容について報告する.また,本データベース利用の一事例として,これに基づ
いたカルカッタ第 2 版のアラビア語分析を行う.
永崎研宣††
『アラビアンナイト・カルカッタ第 2 版』(1839-1842)は,アラビアンナイト研
究・翻訳史において非常に重要な役割を果たしてきたアラビア語原典の一つであ
る.本報告では,これまでに構築を進めてきた同版の全文テキストデータベース
について紹介し,またこれを利用した研究事例として「カルカッタ第 2 版」の言
語学的分析を行う.
Full-Text Database of
the Arabian Nights, the second Calcutta edition:
Its Construction and application
Shizuka Nakamichi†
2. 『 アラビアンナイト』
アラビアンナイト 』 の 系統とカルカッタ
系統 とカルカッタ第
とカルカッタ 第 2 版
『アラビアンナイト』のアラビア語原典としては,これまでにいくつかの刊本が出
版されている.学術研究および翻訳史の観点から重要なものはおよそ次の 5 点に集約
される.
and Kiyonori Nagasaki††
This paper shows the way to construct a full-text database of the Arabian Nights, the
second Calcutta edtion and also presents a linguistic analysis of the Arabic text based on
this database.
カルカッタ第 1 版 (1814-1818)
ブレスラウ版 (1824-1842) [1]
ブーラーク版 (1835) [2]
カルカッタ第 2 版 (1839-1842) [3]
ライデン版 (1984) [4]
最後のライデン版は後ほど言及することになるため,ここではまずカルカッタ第 2
版以前の 4 つの刊本の諸情報を表1にまとめておく.
†
日本学術振興会特別研究員 (RPD)・国立民族学博物館外来研究員
JSPS Research Fellow, National Museum of Ethnology
一般財団法人人文情報学研究所主席研究員/所長
International Institute for Digital Humanities
a) 現在進行中の研究プロジェクト名は,
「アラビアンナイトの形成過程とオリエンタリズム的文学空間創出メ
カニズムの解明」(基盤研究(S)課題番号:18102001,研究代表者:西尾哲夫)である.
††
1
ⓒ 2011 Information Processing Society of Japan
Vol.2011-CH-89 No.1
2011/1/22
情報処理学会研究報告
IPSJ SIG Technical Report
表1
版名
巻
編者
発行年
主な『アラビアンナイト』刊本
(英)John Payne (tr.), The Book of the Thousand Nights and One Night: Now First Completely Done
カルカッタ第
ブレスラウ版
ブーラーク版
カルカッタ第 2
into English Prose and Verse, from the Original Arabic, 9 vols., 1882-1884, London, Villon
1版
Breslau ed. (H)
Bulaq ed. (Q)
版
Society.
Culcatta I ed.
Culcatta II ed.
(C1)
(C2)
2 vols.
12 vols.
Shīrwānī
C. M. Habicht
al-Yamanī
H. L. Fleischer
2 vols.
(英)Richard F. Burton (tr.), The Book of the Thousand Nights and a Night: With Introduction,
Explanatory Notes on the Manners and Customs of Moslem Men and a Terminal Essay upon the
History of the Nights, 10 vols., 1885, Benares, Kamashastra Society.
4 vols.
(独)Enno Littman (tr.), Die Erzählungen aus den tausendundein Nächten: zum ersten Mal nach dem
W. H. MacNahten
arabischen Urtext der Calcuttaer Ausgabe von Jahre 1839 übertragen von Enno Littmann, 6 vols.,
1921-1928, Leipzig, Insel-Verlag.
vol.1-2 (1835)
(露)M. A. Sal'e (Михаилом Александровичем Салье) (tr.), Tysyacha i odna noch (Тысяча и одна
vol.1-2 (1839)
vol.1 (1814)
vol.1 (1824/5)
vol.2 (1818)
vol.2 (1825/6)
vol.3 (1840)
vol.3 (1827)
vol.4 (1842)
ночь), 8 vols., 1929-1939; 2nd edition 1958-1959.
(チェコ)Felix Tauer (tr.), Kniha Tisíce a jedné noci , 6 vols., 1928-1934; 2nd, complete edition, 8
vols., 1958-1963.
vol.4 (1828)
(日)前嶋信次・池田修(訳)
『アラビアン・ナイト』全 18 巻,1966-92,東京,平凡社(東
vol.5 (1831)
洋文庫).
vol.6 (1833/4)
(仏)Jamel Eddine Bencheikh et André Miquel (tr.), Les mille et une nuits, 3 vols., 2005-2006, Paris,
vol.7 (1837)
Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard.
vol.8 (1838)
(英)Malcolm C. Lyons and Ursula Lyons (tr.), The Arabian nights: Tales of 1001 Nights, 3 vols.,
vol.9(1842)
2008, London, Penguin.
vol.10-12 (1843)
写本系統
シリア系
夜の数
200
1001
後期エジプト系
後期エジプト系
1001
1001(1000)
これまでの『アラビアンナイト』研究・翻訳史から見ても,カルカッタ第 2 版の資
料的価値は十分に高く,その全文テキストデータベース化は『アラビアンナイト』研
究に新たな知見をもたらす重要な試みであるといえる.
『アラビアンナイト』の写本系統は,300 夜弱を含むシリア系写本(14-16 世紀)と
1001 夜をもって物語を終える後期エジプト系写本(18-19 世紀)に分類される[b].カ
ルカッタ第 1 版はシリア系写本をもとに編纂された、200 夜のみを含む刊本である.
一方、ブーラーク版とカルカッタ第 2 版は,後期エジプト系写本に拠った刊本とされ,
ともに話数が多く 1001 夜で物語が完結する.また,含まれている物語の数,その順番,
夜の区切りがおおむね同じであるなど,両版は非常に似通った内容をもつ.原題の『千
夜一夜』を体現していることから,後期エジプト系に属するこれらの刊本は,より完
全な『アラビアンナイト』とみなされ,翻訳の底本として好まれるところとなった.
以下のように,カルカッタ第 2 版の翻訳は 6 ヶ国語にのぼり、またごく最近出版され
た仏・英訳にもこの版が使用されている.
3. データベース構築
データベース 構築の
構築 の 方法論
3.1 テキストデータ
データ 作成の
作成 の 経緯
テキスト データ作成
カルカッタ第 2 版のテキストは,2 名のアラビア語専門家によって入力された.そ
の際,アラビア文字を直接入力するのではなく,アラビア文字を汎用性の高い ASCII
に転写した上で入力する方法がとられた.これは,作業が開始された当時(1998 年頃),
OS ごとに異なるアラビア文字コードが使用されており,互換性が十分でなかったと
いう事情による.その後,Unicode 環境が整備され,これが一般ユーザにとっても実
用的になった状況をふまえ,ASCII での入力が完了したテキストを報告者らが UTF-8
のアラビア文字コードへ変換し,OS 環境を問わずに適切に文字表示可能なアラビア
文字テキストが完成した.
b) このほかに初期エジプト系写本と分類されるものがある.これらは 17 世紀頃,原題に合わせて物語を増や
し,1001 夜を完備する意図をもって作られた写本群を指す.
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3.2 テキストデータの
データの特徴
テキスト データの特徴
本データベースのテキストデータは以下のような特徴をもっている.
ASCII および UTF-8 アラビア文字による 2 種類のデータを備える:
主に ASCII テキストは処理用,アラビア文字テキストは表示用に使用される
原典テキストは行単位で入力し,行頭に7桁の数字で「巻,頁,行」を明示する:
刊本の該当箇所へのアクセスを容易にする
原典を忠実に再現する:
一般的なアラビア語テキストでは省略される母音記号などの補助記号,変則的
な表記,誤植なども,原典通りに入力する
図 2
ASCII テキスト(第 1 巻 211 頁部分)
例えば,図 1 のような原典の各頁は,図 2 のように該当部分の巻・頁・行の数字[c]
を示した後,ASCII による転写文字で入力された.これらの ASCII テキストが全巻分
そろった段階で,図 3 のような UTF-8 アラビア文字コードによるアラビア文字テキス
トへと変換された.原典の本文 4 行目(図 1 の上から 5 行目.1 行目はヘッダ部で左
端に頁番号,中央に物語の題名)のセンタリングや,本文 3, 16 行目に見られる長い
横線(両端揃えのためのアラビア語組版独特の文字配置)など,レイアウトまで再現
することは現時点ではできていないが,文字情報については本文 17-18 行の文字の上
下に付された補助記号を含め,全ての情報が図 3 のアラビア文字テキストに含まれて
いる.なお、題名等のマークアップについては、枠物語としてのアラビアンナイトの
構造を提示することとも関わるものであり、それも含めた上で現在検討中である。
図 1
カルカッタ第 2 版原典 第 1 巻 211 頁
c) 例えば,"0121103"は 1 巻(01),211 頁(211),3 行(03)を表す.
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データベースの機能
機能
3.3 Web データベースの
本データベースは Web データベースとしても公開する予定だが、それに関しては、
『アラビアンナイト』という書物の独自性を考慮して,データベースに以下の機能を
取り入れることを目指している.
『アラビアンナイト』テキストの特徴ともいえる,「夜の区切り」および「夜の
番号」を明示する
同じく『アラビアンナイト』の特徴である枠物語の構造と各物語の題名を示す
テキストデータの任意の部分を選択することで,原典頁のデジタル画像を呼び出
し,並置する
人名・地名などのインデックスを作成し,テキストの該当箇所を明示する
テキスト中の語を選択することによって,テキスト全体からその語を検索し、該
当行を一覧表示する
民族誌的キーワード(例えば民族楽器の名称など)のインデックスを作成し、画
像とリンクさせる
これらは,
『アラビアンナイト』そのものだけでなく,アラブ文化に関心をもつより広
い範囲のユーザを想定した機能である.
4. データベースの
データベースの利用
利用:
利用 : カルカッタ第
カルカッタ 第 2 版 の 言語的特徴を
言語的特徴 を 探 る
4.1 カルカッタ第
カルカッタ 第 2 版 の 複合性
本節では,上記データベースのテキストデータを使用することで,カルカッタ第 2
版のアラビア語に見られる言語的特徴を分析する試みを行う.この分析により,同版
の典拠や形成過程の解明に寄与するであろう,いくつかの事実を提示したい.まず,
カルカッタ第 2 版とそれが依拠したマカン写本との関係について確認しておこう.
カルカッタ第 2 版(全 4 巻)は,英国のターナー・マカン少佐という人物がカルカ
ッタにもたらしたエジプトの写本に基づき編纂されたとされ,刊本の表紙にもその旨
明記されている.しかし,マカン写本と同定できる写本は見つかっておらず(編纂作
業過程で写本の状態が悪くなり,破棄されたともいわれる),この刊本の起源について
はまだ謎の部分が多い.第 2 節で述べたように,カルカッタ第 2 版は 18 世紀後半に成
立したとされる後期エジプト系写本群(『アラビアンナイト』写本を分類したゾータン
ベールの名をとって Zotenberg's Egyptian Recension (ZER) とも呼ばれる)に属するこ
とは疑いなく,マカン写本自体もその流れをくむ写本と考えられる.しかし同時に,
カルカッタ第 2 版で使用されているアラビア語の特徴には一貫性がないことや,含ま
れている物語やモチーフが後期エジプト系以外の要素,すなわちシリア系写本の要素
を含むことが指摘されている.これらは,言語や物語構成に一貫性をもち,それゆえ
図 3
アラビア文字テキスト(第 1 巻 211 頁部分)
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巻前半部分にカルカッタ第 1 版およびブレスラウ版からの混入があるという.このよ
うに,カルカッタ第 2 版はきわめて複合的な様相を呈しており,様々な典拠の存在を
示唆していることがわかる.以上の原典の特徴をふまえ,次にテキストデータベース
を用いて数量的にこの複合性を検証してみたい.
一人の人物が作成した写本に基づくと考えられているブーラーク版と大きく異なる点
である.
たとえば,著名なアラビアンナイト研究者であるグロツフェルト[7]は,マカン写本
が完全な ZER の写しかどうかは疑わしいと考えている.彼の見立てはこうである.カ
ルカッタ第 2 版の最初の 4 分の 1(第 1 巻)は、ブーラーク版とは異なる.この部分
は ZER の他の写本と同様、散文箇所の「中間アラビア語(Middle Arabic)」[d]が修正
されずに残っている。一方,残りの 4 分の 3(第 2~4 巻)については、カルカッタ第
2 版とブーラーク版のテキストはほぼ同じであり,カルカッタ第 2 版のアラビア語は
ブーラーク版と同様洗練されたもの(正則アラビア語の文法規範に沿ったもの)とな
っている.これらをふまえ,グロツフェルトはカルカッタ第 2 版の第 2~4 巻部分がブ
ーラーク版テキストを直接的あるいは間接的に写して印刷された可能性がある,とや
や控えめに述べている。
一方,『アラビアンナイト』の写本と刊本を網羅的に調べ,写本の系統関係につい
て数々の発見を行ってきたムフスィン・マフディ[11][12]は,カルカッタ第 2 版は後期
エジプト系に属するものでありながら,その中にはすでに出版されていたカルカッタ
第 1 版とブレスラウ版(第 2 巻まで)の内容が含まれると指摘する。その根拠として,
次の 4 点をあげている[e].
4.2 正書法および
正書法および言語
および言語的特徴
言語的特徴からみたテキストの
的特徴からみたテキストの複合
からみたテキストの 複合性
複合 性
カルカッタ第 2 版の第 1 巻に中間アラビア語が含まれている,とのグロツフェルト
の説はすでに紹介した.グロツフェルトは具体的な例示はせず,全体的な特徴として
述べているのだが,実際カルカッタ第 2 版には正書法からの逸脱や口語の影響と思わ
れる語彙が散見される.ここでは,いわゆる「正則アラビア語(Standard Arabic, SA)」
の文法規範から逸脱している以下の 10 の形式について,分布を調べることにする.
正書法からの逸脱
(1) 行末に ‫ و‬wa (and)があらわれる
(2) šayʾan (thing, accusative) に 3 種類の表記がある(以下の 2a が逸脱した形式)
(2a) fٔde , (2b) fhde , (2c) ide
(3) bukāʾan (crying, accusative) に 2 種類の表記がある(以下の 3a が逸脱した形式)
(3a) ‫ءا‬flm , (3b) ‫ء‬flm
(4) hamza の支えの yā の下に点がある(cf. に示した点のない形が正しい)
rٔ‫ی‬fopoq
cf. r‫ﺉ‬fopoq
(5) 2 人称女性単数の接尾代名詞に yā が付加されている(cf. に示した形が正しい)
tlduv ʿalay-ky
cf. wduv ʿalay-ki (on you (f.))
tlu‫ وی‬wayla-ky
cf. wu‫ وی‬wayla-ki (woe unto you (f.))
中間アラビア語 (Middle Arabic) 的語彙 ("<" の右側は,正則アラビア語の形式)
(6) x‫ ای‬ʾayš (what)
< zde ‫ أي‬ʾayy šayʾin
x‫ }ی‬liʾayš (why) < zde ‫ ~ي‬li-ʾayy šayʾin
(7) d€ fēn (where)
< ‫ أی‬t€ fī ʾayna
(8) ‫ع‬f‚m bitāʿ (of, belonging to)
(9) ‫ب‬f„ jāb (bring)
< ‫ء ب‬f„ jāʾa bi(10) ‫وز‬fv ʿāwiz (want)
後期エジプト系に見られる「シンディバード王の話」(第 5 夜)を含む
→マカン写本が後期エジプト系写本に属することの証左
シリア系の「嫉み男と嫉まれ男の話」(第 13 夜~)を含む
→ブレスラウ版からの引用
「大臣ヌールッ・ディーンとシャムスッ・ディーンの物語」
(第 20 夜~)の結末
が通常と異なり,長いバージョンである
→カルカッタ第 1 版からの引用
「裁縫師の話」
(第 29 夜~)の中で言及される日付が,シリア系写本と同じアレ
キサンドリア歴を含む
→ブレスラウ版から引用
なおブーラーク版との関係に関するマフディの見解は,グロツフェルトとは異なり,
カルカッタ第 2 版編纂作業において,ブーラーク版の参照はなかったとみている。
まとめると,グロツフェルトは第 1 巻と第 2~4 巻との間に性格の違いを見出し,し
かも第 2~4 巻についてはブーラーク版との共通性を指摘する.一方マフディは,第 1
まず,これらの特徴の分布を巻ごとに見てみよう.表 2 を参照されたい.
表の SA の列は,各言語形式が正則アラビア語の文法規範に沿うものかどうかを示
している.規範通りの形式には○,規範と異なるものには×を記入してある.この×
の印をついた形式をみていくと,第 1 巻にはいくつかの例が見つかるのに対し,第 2
巻以降はほぼ 0 に近いことがわかる.(1)の行末の"wa"については,第 1~4 巻の全て
d) 口語の影響により、正則アラビア語からの文法的逸脱や口語的語彙を含むアラビア語.
e) 以下,各物語の題名は東洋文庫版『アラビアン・ナイト』[6]に従うことにする.
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グロツフェルトの指摘した通り,第 1 巻は中間アラビア語を含むことによって特徴
づけられ,第 2 巻以降はおおむね正則アラビア語の規範に則った形式のみが用いられ
ているということが,生起数の巻別比較によって明らかになった.
ただし,第 1 巻における「正書法からの逸脱」や「中間アラビア語的語彙」の生起
数は,それほど多いものではない.そこで,次に第 1 巻をより詳しくみていくことに
する.表 3 は,第 1 巻を 50 頁ごとに区切って,上記形式の分布を示したものである.
網掛けの部分が当該形式が使用された箇所である.この表より,正則アラビア語の規
範からはずれた形式は,前半の約 3 割の部分に集中していることがわかる.351 頁以
降にも生起例をもつ箇所が 5 つあるが,このうち 4 つは 1 例,残りの 1 つが 3 例と数
が少ない.
に見られるが,それでも第 1 巻における生起数は他巻に比べて圧倒的に多い.一方,
正則アラビア語の規範に沿った形式は,どの巻も生起数が多く,4 つの巻の間に特別
な差を見出すことはできない((2b)を除く).
表2
10 の形式の生起数:巻別
SA
vol.1 vol.2
vol.3
vol.4
(1)
行末の"wa"
×
302
36
41
47
(2a)
šayʾan の表記 a
×
13
0
0
0
(2b)
šayʾan の表記 b
○
65
0
0
0
(2c)
šayʾan の表記 c
○
154
136
204
190
(3a)
bukāʾan の表記 a
×
7
0
0
0
(3b)
bukāʾan の表記 b
○
31
38
20
47
(4)
hamza の支えの yā に
×
48
0
1
1
×
5
0
0
0
×
57
1
0
0
○
74
67
109
95
表3
第 1 巻における正則アラビア語からの逸脱形式の分布
点がある
(5)
2.f.sg.の接尾代名詞
に yā が付加される
(6a)
ʾayš,
liʾayš
(6b)
ʾayy šayʾin,
li-ʾayy šayʾin
(7)
fēn
×
2
0
0
0
(8)
bitāʿ
×
2
0
0
0
(9)
jāb
×
12
1
0
2
(10)
9āwiz
×
4
1
0
0
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便宜上 50 頁を 1 単位とした表 3 によれば,正書法からの逸脱((2a), (3a), (4), (5))
は冒頭から 150 頁までに集中し,中間アラビア語的要素((6a), (7), (8), (9), (10))は 350
頁までとより広い範囲にわたって生起していることがわかる.また,351 頁以降のテ
キストにはこれらの特徴がほとんどみられない.
きた.しかし,1835 年エジプトの国立印刷所初の出版物として世に出されたブーラー
ク版は,正則アラビア語(文語)の形に整えられたものだった.一方,ほぼ同時期に
非アラビア語圏のインドで,しかもイギリス人の手によって編纂・出版されたカルカ
ッタ第 2 版は,基本的には正則アラビア語で書かれているものの,少なくとも第 1 巻
の前半部分ではアラビア語の校訂や組版の正確さが十分でなかったらしく,正則アラ
ビア語とは異なる書法や語形が痕跡のような形で残ることとなった.しかしこの痕跡
こそが,マカン写本ひいては後期エジプト系写本の源流をたどる手掛かりとなる可能
性は十分にある.具体的な写本や刊本との照合が今後の課題となるだろう.
最後に,今回のデータベース構築において,原典に忠実なテキスト作成を行ったこ
とが,このような痕跡を集めるのに非常に有益に働いたことを付言しておきたい.
4.3 シリア
シリア系
系 および初期
および 初期エジプト
初期 エジプト系写本
エジプト系写本との
系写本との関連
との 関連
では,これらの正書法および言語的特徴の分布は,
『アラビアンナイト』に含まれる
物語とどのように結びついているだろうか.
カルカッタ第 2 版の 1-150 頁付近までは,冒頭の「シャハリヤール王とその弟君の
話」に始まり,
「商人と魔王との物語」
「漁夫と魔王との物語」
「荷担ぎやと三人の娘の
物語」そして「三つの林檎の物語」(148 頁まで)が含まれる.その後 350 頁までは,
「大臣ヌールッ・ディーンとシャムスッ・ディーンの物語」「せむしの物語」「ヌール
ッ・ディーン・アリーとアニースッ・ジャリースの物語」(320 頁まで)「狂恋の奴隷
ガーニム・イブン・アイユーブの物語」(350 頁まで)と物語が続く.
先述のライデン版[4]は,ムフスィン・マフディがシリア系のガラン写本(アントワ
ーヌ・ガランが仏訳[5]の際に使用した写本)を校訂したものである.この刊本におけ
る(完結部をもつ)最後の物語が,
「ヌールッ・ディーン・アリーとアニースッ・ジャ
リースの物語」である.その後の「カマル・ウッ・ザマーンの物語」は序盤だけで中
断し,
「狂恋の奴隷ガーニム・イブン・アイユーブの物語」もライデン版には存在しな
い.カルカッタ第 2 版の中間アラビア語的語彙は,301-350 頁に生起しているものの,
その多くは 320 頁までであり,
「ヌールッ・ディーン・アリーとアニースッ・ジャリー
スの物語」の終了部を一つの区切りとみることもできる.つまり,カルカッタ第 2 版
において「正則アラビア語からの逸脱」の多い 320 頁までの部分は,ちょうどシリア
系写本の全体と重なるのである.
シリア系写本の物語が後期エジプト系写本の前半部分に含まれていることは周知の
事実であり,シリア系写本の物語を核とし,数世紀をかけて様々な物語が付け加えら
れ,まとめられたのがエジプト系写本である,という説が広く受け入れられている.
マフディの校訂した「ガラン写本」は全体を通して正則アラビア語とは大きく異なる
中間アラビア語で書かれているのだが[8][9],ここでとりあげた言語的特徴の分布は,
シリア系写本部分とほぼ一致することが明らかになった.
付記 本研究は,平成 22 年科学研究費補助金・基盤研究(S)
(課題番号:18102001,
研究代表者:西尾哲夫),特別研究員奨励費(課題番号:20・40040,研究代表者:中
道静香),若手研究(B)(課題番号: 22700255, 研究代表者:永崎研宣)による研究
成果の一部である.
参考文献
一次文献:『アラビアンナイト』
1) Tausend und eine Nacht: Arabische. (1824/25-1843) edited by M. Habicht (vol.1-8) and H. L.
Fleischer (vol.9-12). 12 vols. Breslau.
2) ʾAlf layla wa-layla. (1835) edited by Muḥammad Qiṭṭa al-ʿAdwā. 2 vols. Bulaq (Cairo).
3) The Alif Laila or Book of the Thousand Nights and One Night. (1839-1842) edited by W. H.
Macnaghten. 4 vols. Calcutta, W. Thacker & Co. St. Andrew’s Library.
4) The Thousand and One Nights (Alf Layla wa-Layla) from the Earliest Known Sources, Part 1: Arabic
Text. (1984) edited by Muhsin Mahdi. Leiden, E. J. Brill.
5) Les Mille et une nuits, contes arabes, Nouv. éd. (1747 [1704-1717]) translated by Antoine Galland. 6
vols. Paris. Chez David Jeune.
6) 『アラビアン・ナイト』(1966-92) 前嶋信次・池田修(訳)全 18 巻,平凡社(東洋文庫).
二次文献
7) Grotzfeld, Heinz (1985) Neglected Conclusions of the Arabian Nights: Gleanings in Forgotten and
Overlooked Recensions. Journal of Arabic Literature 16, 73-87.
8) Grotzfeld, Heinz (2004) The Manuscript Tradition of the Arabian Nights. In Marzolph and Leeuwen
(ed.) The Arabian Nights Encyclopedia, 17-21.
9) Halflants, Bruno (2007) Le Conte du Portefaix et des Trois Juenes Femmes dans le manuscrit de
Galland (XIVe-XVe siècles): Édition, traduction et étude du Moyen Arabe d'un conte des Mille et Une
5. おわりに
もともと民衆の間で口承によって語り伝えられた『アラビアンナイト』は,それが
文字で記されるようになってからも,口語の影響を強く受けたアラビア語で書かれて
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Vol.2011-CH-89 No.1
2011/1/22
情報処理学会研究報告
IPSJ SIG Technical Report
Nuits. Peeters Press.
10) Lentin, Jerome (2004) La langue des manuscrits de Galland et la typologie du moyen arabe. In
Chraibi, A. (dir.) Les Mille et Une Nuits en partage. Actes Sud., 434-455.
11) Mahdi, Muhsin (1984) The Thousand and One Nights (Alf Layla wa-Layla) from the Earliest Known
Sources, Part 2: Critical Apparatus, Description of Manuscripts. E. J. Brill.
12) Mahdi, Muhsin (1994) The Thousand and One Nights (Alf Layla wa-Layla) from the Earliest Known
Sources, Part 3: Introduction and Indexes. E. J. Brill.
13) Marzolph, Ulrich and Leeuwen, Richard van (ed.) (2004) The Arabian Nights Encyclopedia, 2 vols.
ABC-Clio.
14) 青柳悦子 (2009) 『デリダで読む『千夜一夜』』新曜社.
15) 西尾哲夫 (1007) 『アラビアンナイト―文明のはざまに生まれた物語』岩波書店..
16) ロバート・アーウィン(西尾哲夫訳)(1998) 『必携アラビアン・ナイト―物語の迷宮へ』
平凡社.
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