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友希子 - Kyushu University Library

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友希子 - Kyushu University Library
九大法学89号(2004年)508 (1)
15世紀後半から16世紀前半イングランド
における大法官府裁判所の役割
エクイティによるコモン・ロー・システム
拡充プロセスに関する法制史的研究
古
同
友希子
目次
はじめに
序章 課題の設定
裁判史料の特徴と限界
第1章 新しい救済の要求と大法官府裁判所
第1節 大法官の見解
第2節 コモン・ロー法曹の見解
第3節 小括
第2章 大法官府裁判所における訴状の分析
第1節 訴訟件数の推移とコモン・ロー裁判所との関係
第2節 訴訟の内容:「主たる事実」と「訴訟原因」
第3節 訴訟当事者の階層的差異
第3章 大法官府裁判所における救済の手続
第1節 罰金付召喚令状の成立と発給に際してなされた二つの議論
第2節 訴訟維持保証人
第3節 小括
むすび
(2) 50715世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
はじめに
本論文の課題は、15世紀後半から16世紀前半の時期に、大法官府裁判
くの
所(Court of Chancery)がイングランドの法体系(legal systenユ)全体
の発展過程において担っていた固有の歴史的な役割を解明することであ
る。
そもそもこのような課題が成立しうる理由は、一つには、わが国で大
法官府裁判所の本格的な法制史的研究がなされてこなかったという事実
もあるが、それ以上に、イングランド法におけるコモン・ローとエクイ
ティの関係、言いi換えれば、コモン・ロー裁判所と大法官府裁判所の関
係について、わが国ではきわめてあいまいな、誤解を生みやすい解説・,
理解がなされてきたという事実に負うところが大きい。たとえば、『英
米法辞典』は、コモン・ローとエクイティについて、以下のように説明
している。
まず、コモン・ローについてみると、教会法との区別という点を別と
すれば、「制定法」や「成文法」と異なるという意味での「判例法」、さ
らに「Civil law(大陸法)と対比される用法、判例法だけでなく制定法
も含めた英米法」という説明が与えられたあとで、以下のような解説が
なされている。
Equity 2と対比される用法で、中世以来国王のcommon−law court
(コモン・ロー裁判所)が発展させてきた法分野。Norman Conquest(ノ
ルマン人の征服)により成立したノルマン王朝のもとで、統治に当たっては
古来のイングランドの慣習を尊重するというたてまえをとりながら、王国
全体に関する事柄についてはgeneral custom of the realm(王国の一般
的慣習)を適用するものであるとして、漸次形成された。▲この辞典で「コ
モン・ロー」 と表記するのは、この意味のcommon lawのことである。
なお、「普通法」という訳語は、ドイツのgemeines Rechtと混同するお
く う
それがある。
九大法学89号(2004年)506 (3)
要するに『英米法辞典』では、「中世以来国王のcommon−law court
(コモン・ロー裁判所)が発展させてきた法分野」を意味するとされ、
「王国の一般的慣習を適用するもの」として、「漸次形成された」ことが
指摘されている。しかも、「エクイティ」と「対比される用法」である
ということが強調されていることからわかるように、この説明では、コ
モン・ロー裁判所が発展させてきた「判例法」の「体系」であり、しか
も、これが大陸法などと違って英米法の基本的特徴であることが、改め
て強調されている。結局それは、コモン・ロー裁判所が中世以降発展さ
せてきた慣習法の体系である、という説明になるであろう。
他方、エクイティは、「衡平;公正」「担保物件受戻権」「純資産」「持
分(権)」などと並んで、次のように比較的詳しく説明されている。
英米法の歴史的淵源のうちコモン・ローと並ぶ重要なもの。中世におい
て、国王裁判所が運用したコモン・ローでは救済が与えられないタイプの
事件であっても、正義と衡平の見地からは当然自分に救済が与えられて然
るべきであると考えた者は、正義の源泉である国王にその旨の請願を提出
した。これらの請願は、国王のもとで統治作用の全面にわたって関与して
いたcuria regisの重要メンバーであったLord Chancellor(大法官)に
送付されるのが通例となり、さらに後には直接大法官に提出されるように
なった。このような請願を受けた大法官は、事件ごとに裁量で救済を与え
ていたが、そのような例が増加すると、人びとの間に、ある事実関係があ
れば大法官ないしそのもとにあるChancery(大法官府)に行けば救済が
得られるという期待が生じる。こうしてエクイティは、コモン・ローと並
ぶ一つの独立の法体系とみられるようになった。そして18世紀には、エク
イティもコモン・ローと同じように先例を尊重して裁判するものであり、
その技術性においてもコモン・ローと変りのないものになっていたとされ
る。エクイティの分野として発達したものとしては、trust(信託)、 spe−
cific performance(特定履行)、 injunction(差止命令)などがある。
イギリスでは、長い間コモン・ローとエクイティとは別々の裁判所で運
用されてきた。アメリカでも一部の州はそのような制度を採っていた。ま
た、(裁判所が同じときでも)手続法が異なっていた。しかし、イギリスで
は1875年に、アメリカではニュー・ヨーク州の1848年を初めとして、「コモ
(4) 505 15世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
ン・ローとエクイティの融合」(merger of law and equity)が行われた
結果、現在ではほとんどの法域で裁判所は1つに統合され、さらに多くの
法域では手続も一本化されている。しかし、英米法が長年にわたってこの
ような2つの流れで発展してきたことは、現行法にもその濃い影を落とし
ている。テクニカル・タームがコモン・ローとエクイティとで違っだため、
日本語では一つの言葉でよいものに、それぞれ別の言葉が用いられている
こともあり、さらに1egal interest(コモン・ロー上の財産権)、 equitable
interest(エクイティ上の財産権)、 legal remedy(コモン・ロー上の救済
手段)、equitable remedy(エクイティ上の救済手段)などの表現を用いて
法の準則が説明されることも少なくない。▲この辞典で「エクイティ」と
(3)
表記するのは、この意味のequityのことである。
エクイティは、「英米法の歴史的淵源のうちコモン・ローと並ぶ重要
なもの」であり、「コモン・ローと並ぶ一つの独立の法体系とみられる
ようになった」が、「18世紀には、エクイティもコモン・ローと同じよ
うに先例を尊重して裁判するものであり、その技術性においてもコモン・
ローと変りのないものになっていた」と説明されている。要するに、
「中世において、国王裁判所が運用したコモン・ローでは救済が与えら
れないタイプの事件」が、大法官府裁判所に持ち込まれ、「事件ごとに
裁量で救済を与える」という事例が次第に「増加すると、人びとの問に、
ある事実関係があれば大法官ないしそのもとにあるChancery(大法官
府)に行けば救済が得られるという期待が生じ」、「コモン・ローと並ぶ
一つの独立の法体系とみられるようになった」ものだが、「18世紀には、
エクイティもコモン・ローと同じように先例を尊重して裁判するもので
あり、その技術性においてもコモン・ローと変りのないものになってい
た」という説明である。
限られたスペースで解説するという辞典に特有な限界を持つとはいえ、
以上の説明を読むかぎり、即座にいくつかの疑問がわいてくるだろう。
まず指摘できる大きな疑問は、コモン・ローとエクイティとがそれぞ
れ独立の法体系であるとされているにもかかわらず、ユ8世紀になるとエ
九大法学89号(2004年)504 (5)
クイティもコモン・ローと同様に「先例を尊重する」ようになり、「技
術性においてもコモン・ローと同じようになっていた」という指摘のも
つ意味である。これは、18世紀になるとエクイティも慣習法=判例法と
して機能し始めた、という意味であろうか。もしそうであれば、ユ8世紀
になるとエクイティとコモン・ローとの違いは、単に管轄する裁判所が
違うという形式的なものになり、したがって、1875年になると、すでに
二つの裁判所を統一しても、イングランドの法体系は慣習法=判例法の
体系として何の混乱も生じなかったのだ、ということになるであろう。
だがそうだとすれば、そもそもコモン・ローとエクイティはいったい
どのような意味で「独立の法体系」であったのか、という点が逆に疑問
になる。それぞれ歴史的に独立して発展した法体系であったというのに、
くの
最高法院法(Supreme Court of Judicature Acts)の制定によって裁
判所制度を改正し組織および手続面の統合がされたとしても、それによっ
てエクイティとコモン・ローはどのように統一されたことになるのであ
くらう
ろうか。
したがって第二の疑問は、慣習法=判例法の体系では、法というもの
はどのように変化・発展するのかということが、先の説明にしたがう限
りまったく理解できないということである。コモン・ローの説明におい
ては、この点はまったく触れられておらず、エクイティの場合には、最
初は国王の正義の判断、次には、国王の意を受けた大法官の正義つまり
「裁量」次第で裁判の結果、次第に「法」が変化していったように説明
されている。だが、そうだとすればなぜ18世紀になると、エクイティも
コモン・ローと同様に、慣習法=判例法になり、内容的・技術的な違い
がなくなったのか、この明確な原因・理由の指摘が必要であろう。
第三に、コモン・ローにおける「慣習」とエクイティにおける「事実
関係」との問の関連性がまったく不明確にとどまっている。コモン・ロー
裁判所が判決の基礎にもちいた「先例」が厳密に「先に出された判決」
であるのなら、およそ慣習法の体系では、「慣習」でないものは法とは
(6) 50315世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
認められず、したがって、コモン・ローの体系では、「慣習」が変化し
ないかぎり法は変化せず、「慣習」の変化とともに法が変化する、と説
明せざるを得ないはずである。にもかかわらず、エクイティという独自
の法体系が発展した理由は、「コモン・ローでは救済が与えられないタ
イプの事件」が増加し、大法官府でそのような救済が得られるという期
待が社会的に定着していった、と理解できる説明が与えられている。も
し指摘された「事件」が、まだ慣習として社会的に認められていなかっ
た類の新しい性質のものであったとすれば、国王の正義、大法官の裁量
により、新しい社会慣習を法として認知し、イングランドの法体系を時
代の要求に合わせて拡充していく役割を担ったのがエクイティつまり大
法官府裁判所固有の役割・意義であった、という意味になるはずである。
だが、そう理解できるような説明ではない。あまりにも「独立の法体系」
という点が強調されているからである。
もっとも、わが国におけるこのような通説的理解とは違って、そもそ
もエクイティとコモン・ローとは対立するものではなく、相互に補完的
なものとして、イングランドの法システムを支えていたのだ、という理
解もある。たとえば、W.H. Brysonは次のように主張している。
エクイティはコモン・ローを補完し、補足するものであった。エクイティ
はコモン・ローに対抗するようなものではなく、それをさらに精密で整っ
たものにしたのである。理論的に見ると、コモン・ローはひとつの完結す
るシステムであるが、エクイティは、それ自体として完結するようなシス
テムではなく、コモン・ローと結合し、コモン・ローを補助するようなも
のである。イギリスの司法はコモン・ローとエクイティとから構成される
ようになったのであり、両方がなければ不完全なものになっていたであろ
う。これは早くも15世紀には確認されていたことであって、弁護士と裁判
官は、個別の訴訟における審判がコモン・ロー裁判所でなされようとエク
イティ裁判所でなされようと、訴訟における訴答の段階で達成しなければ
ならなかったのである。大法官は、しばしば法律にかかわる点に関してコ
モン・ロー裁判官に助言を求めた。つまり、エクイティ訴訟はまた、コモ
九大法学89号(2004年)502 (7)
ン・ロー裁判官や弁護士と議論するために財務府会議室(the Exchequer
(6)
Chamber)に持ち越されていたのである。
とすれば、コモン・ローとエクイティとの関係は、むしろ次のように
考える方が整合的なのではないかという疑問がわくだろう。
すなわち、15世紀後半から16世紀前半のイングランドでは、コモン・
ロー裁判所が、既存の訴訟手続の形式的な側面を重視し続けた結果、古
くからの形式を超える新しい社会的要求に応えられなくなっていた。か
つてStonor裁判官(d.1354>が述べたように、「訴訟開始令状は法の
くの
根拠」であった。それゆえ、基本的に既存の訴訟開始令状がカバーし得
ない事例は、コモン・ロー裁判所で救済を得る方途が存在しなかったの
である。さらに、コモン・ローのもとでは、訴訟開始令状の選択によっ
て訴訟手続から判決執行までの訴訟の全過程が決定されたから、訴えの
内容がたとえ正当なものであっても、令状の選択を間違えてしまえば敗
訴する原因となった。訴訟手続は既定の手順に厳格に従って行われなけ
ればならなかったから、形式に適っていない場合もまた、敗訴の原因に
なっていたのである。そして、このようなコモン・ロー裁判所が抱え込
んでいた状態を打開しようとしたのが、ローマ・カノン両法の訴訟手続
や知識に基づいて救済を提供する新たな裁判所、すなわちエクイティ裁
判所であり、その中心が大法官府裁判所であった。
このようなエクイティの発展を担ってきた大法官府裁判所における新
しい「救済」は、「良心」を根拠に、大法官の裁量に基づいて提供され
てきたと言われてきた。聖職者であった大法官が、ローマ・カノン法の
相当な知識を持っていたことは間違いないだろう。しかし大法官は、こ
の時期のコモン・ロー裁判所を担っていたコモン・ロー法曹とは異なつ
く う
て、インズ・オブ・コートでコモン・ロー教育を受けておらず、コモン・
ローに精通しているはずがない。コモン・ローの知識を欠いておりなが
ら、なお、コモン・ローを補足し、補完するエクイティをイングランド
(8) 50115世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
の法システムの中に組み込んでいった大法官府裁判所とは、いったいど
のようなものであったのだろうか。
本論文は、わが国における従来の研究ではまだ十分解明されていなかっ
たコモン・ロー法曹と大法官府裁判所との関係に着目し、エクイティの
発展のプロセスにおける大法官府裁判所の役割を検討しようというもの
であるが、以上の説明ではまだ問題あるいは通説に対する疑問の提出と
いう域を超えていない。もう少し具体的なレベルで、すなわち研究史を
踏まえ.た形で、より具体的な形で、問題の提起と課題の設定を行うこと
にしよう。
注
(1)大法官府裁判所(the Court of Chancery)とは大法官府(Chancery)
が裁判を行う場合をいうが、実際のところ、大法官府裁判所と大法官府を
区別することは難しく、不正確な理解を導きかねない。したがって、本論
文では特に大法官府だけを意味する場合および翻訳部分を除いて、大法官
府裁判所と表記する。
(2) 田中英夫(編集代表)『英米法辞典』(東京大学出版会、1991)、165頁。
(3) 『英米法辞典』、302−3頁。
(4) 36−7Victoria, c.66,77んεゐαωR¢ρor亡ε’オ1乙θ1)訪Zピ。 GθηθrαZ 8むα刻むθs,
vol.8, pp.306−60.38−9 Victoria, c.77,晒ピ(Z., vol.10, pp.759−896。
(5) 最高法院法以降の史的展開を示したものとして浅野氏の論文があるが、
氏が衡平法と規定するものが何を指すのか、必ずしも判然としなかった。
浅野裕司「衡平法における普通法との融合と将来」『東洋法学』23巻2号
(1980)、31−55頁。
(6) W.H. Bryson(ed.), Cα8θs coηcθrη1πg Eq読ッαπ4亡んθOo鷹s(ゾ
E磁妙エ550−1660(v・1.1),7んθPμb伽亡ε・ηsoゾSθZ伽Soc吻, v・1.
117(London:Selden Society,2001),p, xli.財務府会議室については、
後掲注(66)および後述第3章第1節を参照。
(7) ylθαr Boo1己80ゾE4ωαr(1π(ひ。乙19),9五7(ゼωαr4」Z A.D.1315−13エ6, G.J。
Turner&W.C, Bolland(eds.), Tんe pぬZ‘cα亡‘o几s o∫Sε14eπSoc‘eむッ,
vol.45 (London:Selden Society,1929),P.5。 yθαr Booん8 qノ五74ωαr(メ
∬ (ひ。乙 27),14五ldlωαr4∬Mど。んαθZηzα8 1320, S.J. Stoljar& L.J,
Downer(eds.),7んθ.ρμ6Z6cα翻。η80ゾS2Z4θη80c‘θ古)7, vol.104(Londo11:
Selden SQciety,1988),P.142.
九大法学89号(2004年)500 (9)
(8) インズ・オブ・コートについては、特に以下文献が詳しい。J.H.
Baker,7んθLθgαZ Pr(:ゾを88‘oη,απ(1古ん2001γzη乙。ηゐαω (London:The
Hambledon Press,1986).小山貞夫「シェイクスピア時代のインズ・オ
ヴ・コートー貴紳子弟教育機関としての一」『絶対王政期イングラン
ド法制史町回』(創文社、1992)。深尾裕造「チューダ一期イングランド法
学の形成とその展開過程(1)(2)(3)(4・完)」、『法学論叢』第105巻第1号、
79−106頁、第105巻第3号、15−43頁、第105巻第6号、23−51頁、第106第
1号、66−90頁(1979)。
序章 課題の設定
15世紀後半から16世紀前半の間に大法官府裁判所に提起された訴訟件
数は、増加傾向を示している。ヨーク王朝期開始後の最初の5年間、す
なわち1460年代前半にはそれまでの2倍となる年間243件に増加し、さ
らに1475年目ら1485年にはその2倍となる年間553件に、その後も年間
のう
100件ずつ増加したとN.Pronayは指摘している。1485年から1500年
には1年間に平均571件、1500年号ら1515年には年間約605件、そして
Wolseyが大法官制職掌の1515年から29年には年間770件程度の訴訟が
あったというのである。
これに対して、大法官府裁判所において救済を得るための手続の過程
で提出された訴状などの書類を収録したEarly Chancery Proceedings
(PRO=Public Record Officeの分類番号はC1)に含まれる史料の
うち、Wolseyが大法官に在職中の事例約7,500件を分析したF.
Metzgerよれば、1515年から1529年にかけては1年間に500件程度の訴
ロの
えが提起されており、Moreの大法官在職期間(1529−32)には、1年
ロユラ
あたり912件の訴訟が残されている、とGuyは指摘している。以上の訴
訟件数の推移から、この時期に大法官府裁判所における訴訟件数が増加
くユ 傾向にあったと推測しても大きな間違いではないと思われる。E.W.
Ivesによれば、コモン・ロー裁判所の事例が大法官府裁判所へ流入し
くユヨ たため、大法官府裁判所の事例が増加した可能性があるのとはいえ。
(10) 49915世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
数の増加が以上のとおりだったとして、内容はどのようであったのだ
ろうか。
1960年代に、はじめてEarly Chancery Proceedingsを用いて考察
を行ったのはM.E. Averyであり、PRO分類番号C1/3−26のうち、エ
セックスとケントにおける判例を選び出して分析し、ユースに関係する
訴訟が1424年までは全体の28%、1432年までには70%、1450年までには
65%、そして1460年までには90%を占めるまでに増加していることを明
らかにした。大法官府裁判所の職務の大半は、15世紀の半ばまでに、ユー
ロの
スに関する事例の処理を行うことであったと言うのである。
Thon:1as Rotherhamが大法官を務めた1474年から1483年のうち、
1480年から1483年の間の史料が集められたPRO分類番号C1/59を分析
したN.Pronayによれば、全210件の事例のうち分類可能であった202
件の詳細は、書類の留置に関する訴訟が11件(5%)、ユースに直接関
係するものが13件(6%)、騒擾や脅迫など暴力による裁判手続の腐敗
が13件(6%)、偽証や誰弁、濫用的訴訟など非暴力的な裁判手続の腐敗
が14件(7%)、外国人とのあるいはカレーを含む諸外国において行われ
た取引に関係するものが30件(15%)、後見権や婚姻あるいは遺言に関す
る事柄が11件(5%)、仲裁人による裁定の執行を請求したものが10件
(5%)、商業上の金銭債務訴訟(merchant−debt)に関する事柄が38件
(19%)、コモン・ローでは技術的に救済が難しい請願を含むエクイティ
上の金銭債務訴訟あるいは動産返還請求訴訟に関するものが55件(27%)
である。この分析から彼は、15世紀後半のヨーク王朝期(1461−85)に
おける大法官府裁判所の発展は、商業取引に関係する事例の増加に起因
するという主張を展開している。
E.G. Hendersonは、1475−83年の間に発給された大法官Thomas
Rotherham宛ての文書のうち、 PRO分類番号C1/59の他にC1/58、
John Russell宛てのCl/63(1480−83)を分析した結果、全776件のう
ち15%にあたる117件が捺印証書の留置、33%にあたる258件がユースに
九大法学89号(2004年)498 (11)
関するものであると分類した。すなわちC1/58は、全381件中100件
(26%)が捺印証書の留置、ユースが210件(55%)であり、C1/59は全
255件のうち11件(4%)が捺印証書の留置、24件(9%)がユース、
そしてC1/63については全140件中6件(4%)が捺印証書の留置、24
件(17%)がユースであったと言う。John Mortonが大法官であった
1493年から1500年についても、部分的ではあるがEarly Chancery
Proceedingsを用い、 PRO分類番号C1/183−91の史料のうち、原告の
名字がAあるいはBで始まる事例を取り上げて分析したE.G.
Hendersonによれば、全629件のうち20%にあたる136件が捺印証書の
ロの
留置に関する事柄であったという。
加えてE.G. Hendersonは、1530年から1544年の問に、大法官府裁
判所に訴えられた事例のうち、原告の名字がAあるいはBで始まる事例
400件の分析も行っている。これはMoreが大法官であった時期の訴訟
全体の5%、Thomas Audleyが大法官であった時期(1532−44)の訴
訟全体の2∼3%にあたる部分だけを析出したものと言われているが、こ
くユ う
のうちの218件が土地の権原に関する事柄であったと結論している。
Wolseyの大法官在職期間中(1515−29)に処理された大法官府裁判
所における事例7,476件の分析を行ったのはF.Metzgerであるが、こ
れは個人で行った分析の中では最大規模のものであり、F. Metzgerが
博士論文の中で示した統計の内容がJ.A. Guyによって紹介されている。
それによれば、46%は捺印証書の留置あるいはユースに関わるものであっ
くユ たらしい。
1529年から1532年にかけて大法官を務めたThomas Moreの在職期
間について分析を行ったJ.A. Guyによれば、全2,356件のうち1,122件
(47.6%)が物的財産あるいは不動産に関する人的財産について論じた
ものであり、363件(15.4%)が商業上の金銭債務証書やエクイティ上
の金銭債務訴訟あるいは動産返還請求訴訟、捺印金銭債務証書や正式誓
く 約書に関係する商業上の事柄であった。
(12) 49715世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
要するに15世紀後半から16世紀前半にかけて大法官府裁判所における
訴えの多くを占めたのは土地に関する事柄、ユースや捺印証書に関する
く の
事柄、商業に関する事柄であったと理解してよいのである。
このように大法官府裁判所における訴訟が増加した原因のひとつに、
大法官府裁判所における訴訟手続が、コモン・ロー裁判所における手続
に比べて形式的なものではなかった点が指摘されている。つまり大法官
府裁判所は、開廷期や令状の復命提出期に束縛されることなく、コモン・
ロー裁判所に比べて安上がりの救済手段を提供していたからであると
く J.H. Bakerは指摘しているが、これはそもそも同一内容の訴訟を両方
で起こすことが可能である、という前提が満たされた場合にしか成り立
たないため、あくまでも一般的な観察であると見るべきであろう。むし
ろ問題は、なぜ当時大法官府裁判所での訴訟が増加したか、という点に
あるからである。
そもそも大法官府裁判所への訴えの提起は、国王への直訴としての国
く 王評議i会に対する請願に由来していた。そのような大法官府における救
済は、国王評議会が元来受け付けてきた請願に属するものであり、次第
く に大法官個人に対してなされるようになったものである。また本来国王
評議会の一員にすぎなかった大法官に対してこのような請願がなされる
く ようになった理由は、大法官が高位の聖職者であったという事実のほか、
大法官のみならず大法官府裁判所そのものが聖職者集団によって構成さ
く れていた点にあるといわれてきた。15世紀後半の大法官府上層部は、ロー
く の
マ法やカノン法の学位を得た者であったからである。中世の大法官はカ
く ラ
ノン法における福音書的告発をモデルに救済を与えていたし、14世紀か
ら15世紀にローマ法に精通した聖職者が大法官府におけるエクイティ裁
く 判権を発展させてきた、という理解である。
そうであるかぎり、大法官ないし大法官府は、国王の権威を背景に、
ローマ・カノン両法の知識を援用することによって、コモン・ロー裁判
所が与え得なかった新しい救済を、良心と裁量によって与えることが可
九大法学89号(2004年)496 (13)
能であった、と解釈することが可能であり、適切であるように見えよう。
しかし大法官が聖職者であったからこそ「司牧的な(pastora1)」良心
く う
に基づく救済が可能であり、しかもそれが求められていた、というT.S.
Haskettの主張が成立するかどうかについては、なお疑問が残るのであ
る。
というのは、いかにローマ・カノン両法の知識が十分あったとしても、
インズ・オブ・コートで教育されていたコモン・ロー法曹とちがって、
実務的な法や裁判手続に精通していたはずのない大法官が、広く社会に
受け入れられるような内容の救済を、なぜ、どのような手続によって与
えていたのか、という疑問が残るからである。
要するに、以上に概観してきた大法官府裁判所における救済に関する
先行研究に関する限り、以下のいくつかの疑問がたちどころにわいてく
るのである。
第一に、大法官府裁判所への訴えの増加に対して、コモン・ロー法’曹
が不満を持っていたという主張が、ほとんど無批判的に受け入れられて
くヨの
いること。
第二に、大法官府裁判所における訴訟増加が生じた反面でコモン・ロー
裁判所における訴訟が減少した原因として、コモン・ロー裁判所におけ
くヨの
る訴訟が大法官府裁判所へ流出した可能性が示唆されてきたが、この主
張は具体的な資料の考察に基づいたものとは言えないこと。
第三に、大法官府裁判所への訴えの内容を考察した先行研究は、研究
者によって分類項目が異なり、同一史料を用いたにもかかわらず、分析
の結果に大きな隔たりが見られる。これは、大法官府裁判所の歴史的な
役割を理解しようとするなら、従来検討されてこなかった訴訟当事者の
詳細を含めた具体的かつ包括的な考察が必要である、ということを物語
るものではないか。
第四に、大法官府裁判所は安価な手続を提供したと言われてきたが、
必ずしも具体的な証拠が示されたわけではなかったこと。
(14) 495 15世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
第五に、大法官府裁判所は、ローマ・カノン両法の知識を援用するこ
とによって救済を提供してきたと言われるが、インズ・オブ・コートで
教育されたコモン・ロー法曹と違って、実務的な法や裁判手続に精通し
ていない大法官がどのような方法で救済を提供していたのか、裁判史料
を用いた具体的な証拠が示されてこなかったこと。救済のプロセスを具
体的に検討することが不可欠である。
したがって第六に、全体を通じた疑問であるが、コモン・ロー法曹は
大法官府裁判所における救済に不満を抱き、その結果、コモン・ロー裁
判所と大法官府裁判所は対立関係にあったという半ば通説的な見解と、
大法官府裁判所はコモン・ロー裁判所において救済を欠く事例に救済を
提供し、補足的な役割を担っていたというW。H, Brysonによって提出
された見解との間の関係についてである。いずれが正しいのであろうか。
以上の疑問に答え、コモン・ロー・システムの拡充プロセスにおいて
担った大法官府裁判所の役割を明らかにすること、これが本論文に固有
の課題であるが、しかし、課題遂行に先立ち、考察の基礎として利用し
た資料について、あらかじめその特徴や限界を確認しておく必要があろ
う。本論文の考察が、可能な限り実証的な方法でなされているとはいえ、
利用した資料的な制約からして、あくまでも「一考察」にとどまらざる
をえないからである。
裁判史料の特徴と限界
大法官府裁判所における救済に関する研究が十分に行われてこなかっ
た理由のひとつには、この時期の裁判史料が、現在の判例集とは著しく
異なる特徴をもち、そもそも史料上の制約を持つという事実を付言して
おかなければならない。
16世紀前半までのイングランドにおける裁判史料の特徴は、正式裁判
記録(records)と判例集(reports)という2種類の史料が並存してい
たことにある。正式裁判記録とは、「裁判所の任務、処理された事件の
九大法学89号(2004年)494 (15)
く 種類、そして関係当事者に関する唯一の正式な記録」であり、その目的
は、決定された事柄を明らかにすることである。コモン・ロー裁判所に
おける正式裁判記録は、訴訟記録集(plea rolls)と呼ばれ、1194年置
く ら19世紀まで、ほとんど中断することなく書き続けられた。訴訟記録集
は、開廷期ごとに、羊皮紙にラテン語で書かれたが、その数は開廷期ご
とに異なっていたようである。たとえば16世紀前半の王座裁判所は、1
年間にそれぞれ70∼100葉の羊皮紙からなる訴訟記録集を開廷期ごとに
年間4つ、人民訴訟裁判所は、それぞれ500∼1000葉の羊皮紙からなる
く 4つの訴訟記録集を作成していたと言われている。
他方、大法官府裁判所で裁判に関する正式な記録が作成されるように
なったのは、16世紀半ばになってからである。すなわち、一定の形式を
もった判決録(formal decree rolls)が最初に現れるのは1534年であ
り、判決および命令に関わる記録集(decree and order book)が書か
れるようになるのは、ようやくユ544年のことである。前者は1534年から
1903年までの記録を含むDecree roUs−main series(PROの分類番号
はC78)とその補足として編集されたDecree rolls−supPlementary se−
ries(PROの分類番号はC79)の中に含まれており、これらの判決記録
には、大法官府裁判所における判決や命令の他、棄却に関する事柄が記
くヨ ラ
録されている。ただし16世紀前半については1534−5年のものしか残って
く いないようであるが。後者は1544年から1875年までの記録を含むOrder
books(PROの分類番号はC33)の中に含まれており、この記録は大法
官府裁判所における登記官(Registrar)によって維持された記入帳簿
く (Entry Book)である。16世紀前半については、1544−5年のものが残っ
く ているにすぎない。
このように、大法官府裁判所の場合、裁判に関する記録が残され始め
る時期は遅いのだが、それ以前の訴状や答弁の他に宣誓供述書など、つ
まり大法官府裁判所において救済を得るための手続の過程で提出された
書類は、Early Chancery Proceedingsの中に多く残されている。この
(16) 49315世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
Early Chancery Proceedingsに含まれる文書は、リチャード2世治世
(1377−99)からフィリップ&メアリー治世(1554−8)の間に提出され
く たもので、名宛人別に分類されている。多くの場合、名宛人は大法官で
あるが、たとえば15世紀前半のJohn Frankや15世紀後半のRobert
く ユラ
Kirkehamのように、中には記録長官宛のものもある。したがって論理
的には、大法官が大法官府裁判所への請願すべてに目を通していたとい
うことになるが、記録長官宛ての請願が出されている事実を考慮すれば、
実際には、記録長官が請願を受け付けて分類し、処理することもしばし
く ばであったと推測できるだろう。
J.A. Guyによれば、これらに含まれる文書のうち約3分の2は訴状
く ヨ であったと言うが、T.S. Haskettによれば、1386−1532年の問でみると、
く ラ
約61,000通の訴状が残されているようである。Early Chancery
Proceedingsに含まれる文書は、コモン・ロー裁判所における訴訟記録
集のように、裁判の進行状況が詳細に示されているわけではないから、
判決も、訴状に裏書されない限り知るすべはない。さらに大法官府裁判
所の救済を求めた訴状は、イングランド全土から提出されており、訴状
く う
は、ヘンリー5世治世下に英語で書くことが慣習化したという。
これに対して判例集は、実際の裁判における議論や判断の過程、すな
わち令状の適否や訴答の作法や議論など、争点決定に至るまでの過程を
記録したものである。「判例集は、いずれの事件についても、たいてい
く の
の場合、結論の背後にある思考過程の一部を示した」ものであるが、逆
に事実に関する記述や結論の省略が見られることも多い。中世の判例集
であるYear Bookは、訴答の過程を、ロー・フレンチを用いて逐語形
く の ロ ラ
式で、開廷期を単位として編集している。もっともこれは何らかの一貫
した方針に沿って生み出されたのではなく、もともと開廷期ごとに作成
されたものを、後に編集したものにすぎない。それゆえ、これを「1つ
の連続した判例集」と理解することは必ずしも正しくないことになる。
印刷業者が異なる書体の写本をまぜて印刷した結果、1つの連続した判
九大法学89号(2004年)492 (17)
の 国辱であるかのような外観が生じたからである。しかも、たとえば、16
世紀前半に広く流布していたDoc亡orαηd 8加4ε舵の中で、 anni
く terminorurnあるいはyers of termesと記されているように、必ずし
も当時の人々はこの判例集をYear Bookと呼んでいたわけではないと
くらの
いう事実もある。
さらにYear Bookは、実際の判例を書き記しているだけでなく、イ
ンズ・オブ・コートに在籍する法律の学習者が、法に関する知識を獲得
していくための教育的な機能も担っていた。それは、インズ・オブ・コー
くら トの評議員やバリスタらの間で「我々の書」と認められ、裁判官の問で
共有する知識として、コモン・ロー法曹の間で普及していたと見なされ
う
ている。
Year Bookと異なる様式の判例集が編集されるようになるのは、印
刷術の導入によって、ユ480年代にコモン・ローに関する書籍の出版が開
始され始めてからである。Year Bookに特徴的な匿名による判例集の
編集が中止され、代わりに、編集者個人の名を付した判例集が編集され
く るようになった。たとえばJohn Caryll(d.!523)やJohn Port(c.
1472−1540)、John Spelman(c.1480−1546)によるものがその初期段階
における代表的な判例集である。
以上に指摘した2種類の裁判史料がもつ特徴をまとめれば、こういえ
るだろう。すなわち、正式裁判記録が裁判所ごとに作成されていたのに
対して、Year Bookや私選判例集などいわゆる判例集に含まれる裁判
記録は、特定の裁判所に限られることなく、人民訴訟裁判所や王座裁判
所などのコモン・ロー裁判所における事例に加え、財務府会議室や大法
官府裁判所におけるものも含んでいたということ、これである。しかも
「既判力の確保のためには、判断された結果〔記録集〕の保存のみで十
分野あるが、法学の発展にとっては、〔判例集の中に散見する〕判断の
く 過程であらわれる種々の議論、理由付けの保存が不可欠」と言われるよ
うに、各々の裁判史料の役割は異なる。つまり正式裁判記録だけを用い
(18) 49115世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
た場合には、事件の概要を把握することはできるが、実際の裁判の中で
の訴答の内容を知ることはできない。他方、判例集だけを用いるなら、
裁判の過程で現れてくる様々な議論は理解可能になるが、当該の裁判の
全体像を描き出すことは難しくなる。このような裁判史料の特徴を考慮
すれば、当時の裁判を可能な限り再構成するためには、あくまでも正式
裁判記録と判例集の両方を用いる必要があるといえよう。
先行研究の検討でも明らかにしてきたように、大法官府裁判所につい
て言えば、従来の研究では、正式裁判記録が主要な考察の対象とされて
きたが、大法官府裁判所における正式裁判記録のうち現存しているもの
の大半が訴状であるため、コモン・ロー裁判所における正式裁判記録の
ように、大法官府裁判所における正式裁判記録から裁判のプロセス全体
を理解することは不可能と言ってよい。これが正式裁判記録と判例集を
ともに用いる理由だが、たとえ裁判史料から具体的な実務の実態が解明
されたとしても、大法官府裁判所における救済がイングランド法や社会
の中で、どのような役割を担っていたのかは必ずしも明らかにされるわ
けではない。したがってこの点については、大法官府裁判所における救
済について記した裁判史料にとどまることなく、他の史料や先行研究の
成果をも用いることによって、補充されるほかにないのである。
注
(9) N.Pronay,‘The Chancellor, the Chancery, and the Council at the
End of the Fifteenth Century’, in H. Hearder&H,R. Loyn(eds.),
βrlあ8んGoひθrπηZθη亡α1Z(メ.Adηzl痂8診rα亡10η’8む雄距θ81:)rθ8θ漉θ(∫古。 SB.
0んrεηLθs(Cardiff:University of Wales Press,1974), p.89.
(10) F.Metzger,‘The Last Phase of the Medieval Chancery’, in A.
Harding (ed,),ゐαω一Mα勉π9αη,d五αω一.Mαんers‘η. Br読s1L H‘s60r:y,
Royal Historical Society Studies in History Series, no.22(London:
Royal Historical Society,1980), p.80,
(11) J。A. Guy,‘The Development of Equitable Jurisdictions,1450−1550’,
in Po砺C8,ゐαωα認00μη8θZ加7認orα認Eαr砂8鶴αr亡翫gZα認
(Aldershot:Ashgate Variorum),1, p.82,
九大法学89号(2004年)490 (19)
(12)口頭による訴えを含めると実際の件数は、先行研究が示した数よりも多
い可能性はあるが、史料が残っていないので数値に反映させることはでき
ない。
(13)E.W. Ives,‘The Common Lawyers in Pre−Reformation England’,
7rαノτ8αo琵。アz8 q! 古んe 」配。∠yα♂ 1五8孟orど。αZ Soc‘θむ二y, fifth series, vo1. 18
(1968),p.170.
(14) M.E. Avery,‘The History of the Equitable Jurisdiction of
Chancery before 1460’, ・BμZZeあπ cゾ むんe Z1τ8翻亡μ亡ε qプ 11‘sむor‘cα♂
Rεseαrcんゴvo1.42 (1969), PP.129−44.
(15) N.Pronay,‘The Chance110r, the Chancery, and the Council at the
End of the Fifteenth Century’, p.92.
(16) E.G. Henderson,‘Legal Rights to Land in the Early Chancery’,
7んθAzηer‘cα1τJioμrπαZ(ゾ、乙θ9αZ H‘8む。πy, vo1.26 (1982), P.101.
(17) E.G. Henderson,‘Legal Rights to Land in the Early Chancery’,
pp.101−2.
(18) E.G. Henderson,‘Legal Rights to Land in the Early Chancery’, p.
103.
(19) J。A. Guy,‘The Development of Equitable Jurisdictioエ1s,1450−1550’,1,
P.83.
(20) J.A. Guy,跣εP面♂‘cσαrεεr oゾ8‘r 7んorηαsハ4bre(New Haven:
Yale University Press,1980), p.50.
(21) だが、厳密に考えれば、以上の統計的・実証的な研究には、次のような
問題が残っている。第一に、研究者によって分類項目が全く異なることで
ある。分類項目の不統一は、各々の研究結果の比較を難しくするだけでな
く、N. PronayとE.G. Hendersonの分析のように同じ史料を用いてい
るにもかかわらず、結果に大きな違いをもたらしてしまうこと。第二に、
M.E. Averyの統計には偏りが見られることである。なぜなら、エセック
スとケントの判例は、当時の大法官府における裁判のごく一部でしかなく、
地域を限定した統計としては有効であるが、それ以上のものではないと思
われるからである。この点についてはJ。A. Guyも批判を展開している。
それによれば、M.E. Averyが分析に用いた文書の束の1つには333件の
事例が掲載されていたが、そのうちエセックスとケントからの訴訟は25件
にすぎないだけでなく、別の束では、ロンドンが52件であるのに対して、
エセックスが6件、ケントが14件にすぎない。またケントには、ガヴェル
カインド保有という土地の遺贈を認める当地に特有の土地保有形態が、地
方的な慣習として既に存在していたことも当地におけるユースの事例が早
くから訴訟の対象となった原因と考えられる。それゆえ、M.E. Averyの
(20) 48915世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
見解は、地域を限定した分析としては有効だが、それ以上のものではない
と思われる。第三に、E,G, Hendersonが行ったPRO分類番号C1/183−
91の分析は、事例全体の数が記載されていないから、原告の名字がAある
いはBで始まる事例がどの程度の割合を占めていたのかは分からない。し
たがって、この分析は一定の示唆を与えるものではあるが、それ以上では
ないと思われる。第四に、訴訟当事者が明らかにされてこなかったことが、
訴えの内容の不明瞭さを助長する結果となっていることである。
(22) J。H. Baker,/1η1ηヶod勉。亡め7τ60五lrLg麗sん五θgαZ H‘sむor:y(fourth edi−
tion, London:Bu七terworths,2002),pp. IO3−4,
(23) GB. Adams,‘The Origin of English Equity’, Oo伽ηz6‘αLαω
Rθひどθω,vol.16 (1916), PP.87−98。
この点についてStubbsもまた、非常に重要でありまた慈悲を必要する
事件は、国王の面前に持ちこまれるように命じられたが、いかなる請願も、
大法官の手を経ることなく国王やその評議絵に持ち込まれることはなかっ
たことから、大法官府におけるエクイティ裁判権は、国王評議会の歴史と
直接結びつくものであると述べている。W. Stubbs,7舵Ooη8一期。πα♂
π6sむozツ。ゾE7zgZαπ4 (1874−5, reprinted in l979), P.314.
(24)W.P. Baildon(ed.),8θZθcオ0αsθ8加0んαηcerッ’A五).1364亡0147エ,
TlzθPμわあ。α麗01z80リドSθZ〔1επSodθめ二y, vo1.10 (London:Selden Society,
1896),pp. xvi−xxi.
(25) G.Spence,7んθ五7g協亡αわ♂θ」μrピs読。亡‘ozL oゾ6んθσoμrむ。ゾ0んαπcθr:y,
vo1.1(Philadelphia:Lea and Blanchard,1846, reprinted by William
S.Hein&Co., Inc。 in 1981), P.338.
(26)W.Barbourは、大法官府における救済の特徴は個別的な事例かつコモ
ン・ローが救済を与えない事例に対して救済を提供し、その救済は大法官
だけでなく大法官府の役人を含めた大法官府によって与えられたと主張し
た。W. Barbour,‘Some Aspects of Fifteenth−Century Chancery’,
παrひαr4、乙αωRθひ‘θω, vo1.31 (1918),PP.834−59,
(27) N.Pronay,‘The Chancellor, the Chancery, and the Council at the
End of the Fifteenth Century’, p.91.
(28) H.Coing,‘English Equity and the Denunciatio Evangelica of the
Canon Law’,77んe五αωQμαrむεr砂Reひ‘eω, vol.71(1955),p.225.
福音書的告発とは、12世紀以降カノン法において発展した手続であり、も
ともとは純粋に改俊のことであったが、後に不正行為に対する救済を得る
ために用いられて法的な性格をもつようになったものである(♂6‘♂,p。225)。
H.Coingが、中世の大法官はカノン法における福音書的告発をモデルに
救済を提供していたと主張した根拠は、a)大法官による救済が、習慣的
九大法学89号(2004年)488 (21)
に使われてきた法にとって代わることなく、主として補足的なものであっ
たこと、b)実際に用いられた(substantive)ルールは、理性や良心を根
拠としていること、c)裁判官は法的な主張と同様に訴訟当事者の誠実さ
に注目していること、d)訴訟手続が似ていることであった(‘わ‘4., p.231)。
(29)M.Beilby,‘The Profits of Expertise:The Rise of the Civil Lawyers
and Chancery Equity’, in M. Hicks,(ed.), Prqが亡, P6θ砂α掘亡んε
Prq和8s‘oηs‘πLα古θr娩(漉ひαZ EηgZ侃(1(Gloucester:Alan Sutton,
1990),pp.72−90.
(30) T.S. Haskett,℃onscience, Justice and Authority in the Late−
Medieval English Court of Chancery’, in A. Musson(ed.),翫pθc古αむ‘oπ8
qμんθ五αω加工んθ遡翻♂θ.4gθ8(Woodbridge:The Boydell Press,
2001),pp.159−61.
(31) コモン・ロー法曹の不満の原因は、大法官府裁判所への訴えの増加によ
り、コモン・ロー裁判所が管轄する事件が減少し、その結果、裁判によっ
て得られる手数料収入が減少したこと(J.ベイカー〔小山貞夫訳〕『イン
グランド法制史概説』(創文社、1975、77頁))、すなわち職業権益を奪わ
れかけたからであると考えられてきた(小山貞夫「イングランド法とルネ
サンス」考一イングランドにおけるローマ法継受の可能性とコモン・ロー
の近代化一」『絶対王政期イングランド法制史総説』(白文社、1992、92
頁))。
(32)E.W. Ives,‘The Common Lawyers in Pre−Reformation England’,
p,170.
(33)J.H. Baker,‘Why the History of English Law has not been Fin−
ished’,7んεCαm6r認geゐαωJb召rηαZ, vol.59(2000), p.70. J.H.ベ
イカー〔葛西康徳訳〕「何故イングランド法制史はまだ書き上げられてい
ないのか」『法制史研究』第49号(1999)、114頁。
(34) J.H. Baker,‘Records, Reports and the Origins of Case−Law in
England’, in J.H。 Baker(ed.),」μ(オ‘c‘α♂Rθcor(1s,ゐαωR¢por亡s,αη4抗θ
Groω亡1L qブ 0αsθ 五αω, Vergleichende Untersuchungen zur
kontinentaleuropaischen und anglo−amerikanischen Rechtsgeschichte,
Bd.5(Berlin:Duncker&Humblot,1989),pp.15−6.
(35) E.G. Henderson,‘Legal Rights to Land in the Early Chancery’,
p.104.
(36) G碗(1θむ。むんθOoηオαz古s qゾ古んθ1)μわ麗。 Rθoor(1(聯諺。ε, vol.1:Legal
Records, etc.(London:Her Majesty’s Stationery Office,1963),p。30.
H.Horwitz,0んαπcεπy Egμ‘砂R2cor(1sαπ(1 Procθεd‘ηgs 1600−1800’A
g碗(1θ 亡。 (10c召ητθ1z亡s ‘π むんθ Pμ配εc .Rεcor(1 (冴Zcθ (London: Her
(22) 48715世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
Majesty’s Stationery Office,1995),PP.51−2.
(37) H.Horwitz, Cんαηoθ耽y Eg熱砂Rθcor4sαη(Z Procθθ読ηg81600−1800,
P,2.
(38) Gμ‘(Ze亡。亡んe Coη,亡εrL亡s(ゾ亡1Le P%bZ‘c Recor(1(≧がZcε, vol,1, p.30. H.
Horwitz, 0んαηcθr:y Eg厩亡:y Rθcor(18 α醐 /)rocθθ読πg8 1600−1800,
pp。51−2.
(39) H.Horwitz, CILαηcε削Eαぬ亡:y Rθcor(!sαπ(ε1)rocθθd乏ηgsエ600一エ80a
P.2.
(40) Gμ♂olθ亡。亡んθCoηεθη乙8(ゾ孟んθPμ6距。 Rθcor(Z(聯。θ, vo1.1, P.33.
(41) 15世紀前半には、1432−43年に大法官を務めたバース&ウェルズ司教
John Staffordに対する1,502通の請願のうち259通が、大法官の留守中に
国璽を保管していた記録長官John Frankに対して出されていた(N。
Pronay,‘The Chancellor, the Chancery, and the Council at the End
of the Fifteenth Century’, p.89)。また15世紀後半においても、1463−7
年分については、記録長官Robert Kirkeham宛ての請願が58通残ってい
る(乙‘8ε(ゾEαr♂:y(フんα1τCε7ツProceθd加98 prθSθrびθ(1加亡んθPω配‘C
Rθcord qが乞。θ(New York:Kraus Reprint Corporation,1963),vo正.1,
pp.318−21)。
(42) M.Richardson,‘Early Equity Judges:Keepers of the.Rolls of
Chancery,1415−1447’,:Z7んθ/玉柵θr‘oαzτJbμrπα♂cゾゐθ9αZ正五sεo耽y, vo1.
36 (1992),pp.445,447.
(43)J.A. Guy,‘The Development of Equitable Jurisdictions,1450−1550’,1,
P.82.
(44)T.S. Haskett,‘The Medieval English Court of Chancery’,ゐαωα認
π‘8古orツRθひ‘θω, vol.14 (1996), P.282.
(45)W.P. Baildon(ed.),SeZec亡Cαses語Cん侃cerッ, p. xiii.
(46)J.H. Baker,‘Why the History of English Law has not been Fln−
ished’p.73.
(47) ラテン語で書かれた正式裁判記録とは異なり、当時の判例集はロー・フ
レンチで書かれた。ロー・フレンチとは、イングランド法が用いた3つの
言語のうち最も重要な位置を占めると言われ、18世紀までイングランドの
裁判所の訴答や判例集において、またインズ・オブ・コートにおける言語
として用いられたものである。言語学的には14世紀半ば以降は衰退し、フ
ランスで用いられるフランス語からは遠:く隔たったものとなってしまった
が、コモン・ローの基本的な用語の多くはこれをもとに定着・発展してお
り、また法曹が法的な議論を書きとめるのに有益な速記法を提供し得たの
で、あらゆるコモン・ロー法曹によって学ばれた。J,H. Baker,‘The
九大法学89号(2004年)486 (23)
Three Languages of the Common Law’in :τ先θOoη3ηzoη五αω
7rα読む‘oπ’Lαω:yθrs, Booんsαπ4亡んθ五αω(London:The Hambledon
Press), pp.225−46.ジョン・ベイカー〔朝治啓三・直江真一訳〕「コモン・
ローの三つの言語」『法政研究』第65巻第2号(1998)、579−612頁。
(48)Year Bookについては、セルデン協会を中心とした編集刊行作業が行
われているが、主に14世紀に関する作業が終了しただけである(D.E,C.
Yale&J.H. Baker,、4 Ceπ古θπαr:y Gμε(♂eむ。む1LθP酌Z‘cα麗。η,s(ゾ亡んθ
Sθ♂4eηSoclθ砂(London:Selden Society,1987), pp.19−32)。そこで本
稿では、初めて全巻そろった状態で印刷され、いわゆる標準版として普及
した五e8 R¢ρor亡s 4εs Cαs召s(1678−90)を用いる (J.H. Baker,且π
1椛ro伽。古‘oπめEηgZ‘8ん乙θgα♂研s古orッ, p.181[n.19])Qただし他の
版と比較検討済みの史料が、他の刊行史料集に含まれている場合には、そ
ちらを優先的に用いることにする。
(49) J.H. Baker,‘The Books of the Common Law’, in L. Hellinga&
JB. Trapp (eds.),7「んθCαηz6r6(オgθHεs亡。耽y(ゾめんθBooん‘πβr誌α‘η,
ひ。乙3,1400−1557(Cambridge:Cambridge University Press,1999),
pp.431−2.
(50) 8‘.Gθrη3απ’8 Doc亡orαη(1 S施(Zθ碗, T.ET. Plucknett&J.L. Barton
(eds.),7んθpμ6あ。α亡‘oηs oゾ亡んθSeZ(12ηSoc‘ε亡:y, vol.91(London:Selden
Society,1975),pp.68−9.これは1520−30年代にChristopher St。 German
が書いた2部構成の著作である。第1部は1523年ないし1528年にラテン語
版1)‘αZogμ2s 4θルπ4αmεη亡‘s Z2gμ配、4πg漉θむ4θcoη8c‘θ漉α、1531
年に英語版、第2部は1530年置DεαZog麗」ηEπgZ‘sんBe亡ωε鉱α1)ooむor
cゾD‘o画派α屈αS翻漉η亡qμ舵ゐαωsqプEηgJαπdとして出版され
た。さらに第2部の物論として1531年に.4五‘観ε7rεα亡6sθcα♂Zθ6腕2
飽ω孟翻読。η8が出版されている。SE. Thorneは1543年と指摘してい
たが(SE. Thorne,‘St. Germain’s I)ocめrαη48むμ4eηガ, in E88αy8読
Eηg♂ピsん五θgα」研sむor:y(London:The Hambledon Press,1985), p.
211.J,H. Baker,1)oc亡or侃d S鶴{メθπ亡」0んrεs古qpんθr Sαぢπ亡GεrηLαεπ
(Alabama:The Legal Classics Library,1988), p.25)、 Bakerによれ
ば、1541年以降には基本的に第1部英語版と第2部を合わせたものが出版
されるようになったということである。
(51)我が国では類書と訳されることもあるが、本論文では混乱を避けるため
Year Bookで統一する。
(52) 7んθ1Vb亡θわooん。ゾS‘r JbんηPorむ, J.H。 Baker(ed.),7んθpω配‘cα古‘oηs
6ゾオんθSθZdθηSo厩θオニy, vo1.ユ02 (London:Selden Society,ユ986), P.47.
(53)A.W.B. Simpson,‘The Circulation of Yearbooks in the Fifteenth
(24) 48515世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
Century’,7んθゐαω QμαrむθrZly」Rθひ‘θω, vo1.73 (1957), pp.492−505,
深尾裕造「中世末イングランドにおける判例法主義の成立過程(1)(2・完)
一日本中世における判例法的発展の問題と関連して一」『法学論叢』
第107巻第5号(1980)、25−49頁、第108巻第4号(1981)、77頁。J.H.
Baker,‘Records, Reports and the Origins of Case−Law in England’,
P.33。
(54)L.W, Abbott,ゐαωR¢por伽g加翫gZαηd,1485−1585(London:The
Athlone Press,1973),pp.306−13. J.H. Baker,‘Records, Reports and
the Origins of Case−Law in England’, pp。44−6.
(55) 深尾裕造「中世末イングランドにおける判例法主義の成立過程(1)一
日本中世における判例法的発展の問題と関連して一」『法学論叢』第107
巻第5号、36頁。
第1章 新しい救済の要求と大法官府裁判所
裁判史料の具体的な検討に入る前に、大法官府裁判所における救済の
特徴や役割、とくに訴訟手続に関する事柄や、救済を与える根拠および
コモン・ロー裁判所における救済との関係について、当時の大法官およ
びコモン・ロー法曹自身がどのような考え方をしていたかという点を、
まず明らかにしておこう。
第1節大法官の見解
以下では大法官の見解を見ていくことにするわけだが、考察の対象と
なるのは、大法官職に1467年6月20日から1473年6月18日まで就いてい
くらの
たRobert Stillington(d.1491)、1515年12月24日から1529年10月18日
まで就いていたThomas Wolsey(c.1475−1530)、1529年10月26日から
1532年5月16日まで就いていたThomas More(1478−1535)の3人で
ある。
九大法学89号(2004年)484 (25)
(1)Robert Stillington(d.1491)
Stillingtonは、1467年6月20日から1473年6月18日まで大法官を務
めたバース&ウェルズ司教であるが、彼は、1469年と1473年の事例の中
で大法官府裁判所における救済について、以下のような二つの見解を
Year Bookの中で表明している。まず、1469年の事例について。
人は不当な訴答や形式上の不備によって損害を被るべきではないのであっ
て、我々は、主張された〔事柄〕ではなく、事件の真相に基づいて、良心
に従って判断することを誓うのである。というのは、ある人が他者に対す
る不法行為を行ったと訴状を通じて推測された場合、被告が何も言わない
ことはないであろうし、我々が彼〔被告〕は原告に対して不法行為を行っ
ていないという認識を明らかにするなら、彼〔原告〕は何も回復すること
ができなくなるからである。
さらに2つの権限(power)と訴訟手続がある。すなわち、命じられた
力(potentia ordinata)と無条件的な力(potentia absoluta)である。
命じられた力とは、ある種の定められた命令が遵守される、実定法のよう
なものである。これに対して、自然法は一定の規則を持たず、事件の真相
(le verity)が認識されうるあらゆる手段によって〔成り立っている〕。ゆ
えに、無条件的な訴訟手続と呼ばれる。自然法においては、当事者が出廷
することが求められる。そうでなければ、彼らは欠席して裁判所命令不服
く 従になる。すなわち、彼らが召喚され、また不出廷のために敗訴するとい
う事実から見れば、〔自然法においては〕事実の審問(examinatio
く veritatis)が行われることが求められている。
Stillingtonは、そもそも野趣における形式的な欠陥によって敗訴す
るなどという事態は好ましいことではないのであって、事件の真相に従っ
て裁判を行うことが必要である、と主張している。しかも、大法官が良
心に従って救済を提供する方法は、事実の審問を旨とする自然法に従っ
た手続であるという。もちろん、この自然法に従った手続とは別に、
Stillingtonはある種の定められた命令が遵守されるものとして実定法
をも提示しており、彼の見解によれば、そのような実定法に従った裁判
とは、事実問題に関する審問を行うのではなく、法律問題の枠組みの中
(26) 48315世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
で既存の方法・手順で対応するという方法のことである。Stillington
自身が明言しているわけではないが、彼が実定法に従った手続として念
頭においていたのは、その内容からして、間違いなくコモン・ロー裁判
所における救済の手続であろう。
さて、星室庁において開催された国王評議会において示された1473年
の事例は、ある者が、染料である大青その他の品物をサザンプトンに運
ぶという取引を交わしたが、実際には別の場所に運び、そこで荷物をこ
じ開けて自分のものにして隠した、というものであった。これに対して
この行為は重罪であるか否かが議論されたわけだが、その際に大法官
Stillingtonが述べた見解は、次のようなものである。
この事例は、保護通行証のもとでやってきた外国人商人によって提起さ
く れたものである。外国人の商人は、国法(le ley del terre)にしたがって
12人の陪審による審理や国法に従った他の手続を待たずに、ここ〔大法官
府裁判所〕に訴えを提起するべきである。大法官府裁判所では、それ〔外
国人の商人による訴え〕は自然法によって判断されなければならない。と
いうのは、商人の流動性の速さの故であり、そこでは時間ごとに日ごとに
く 訴えがなされるはずだからである。そして彼〔大法官〕はさらに、商人は、
新しい法の導入ではあるが古き自然法の解釈にすぎない、我々の制定法に
く 拘束されるべきでないと指摘した。
この見解によれば、たとえ当事者が外国人商人であるという理由があっ
たとしても、大法官府裁判所というものはあくまで自然法にしたがって
判断を下すべきである、とされている。自然法が用いられる理由は、そ
もそも制定法は自然法が解釈されたものにすぎない、というわけである。
彼の場合、自然法は制定法の上位概念として理念的に存在する法である
だけでなく、実際に救済を与える際に依拠しうる法でもある、と理解し
く ていたということになる。したがって、Stillingtonの見解にしたがう
限り、大法官府裁判所における救済というものは、形式的な欠陥にとら
われることなく斗制定法よりも上位概念として存在し、事実審問を旨と
九大法学89号(2004年)482 (27)
する自然法に従って行われるものなのだ、 と理解されていたことになる
だろう。
(2)Thomas Wolsey(c.1475−1530)
Wolseyは1515−29年に大法官を務めたが、1514年にはリンカン司教
を務めたばかりか、ヨーク大司教(在職1514−30)でもあった。しかも
彼は大法官在職中の1515年に枢機i卿に、1518年5月17日から教皇特使、
1518−24年にはバース&ウェルズの司教、1524−9年にはダーラム司教も
務めるなど多くの要職を兼任し、1529年にヘンリー8世の離婚問題の対
応に失敗して失脚するまで、国王につぐ権力を握っていたと評されてい
る。
以下に示す見解は、Wolseyの伝記作家George Cavendish(1500−
61?)が彼の発言として書き残したものであるが、実際にいつ頃述べら
れたものか、明確な日付は確定できない。しかし1557年にこれを著した
Ca▽endishが、王室案内役を務める貴族(gentleman−usher)として
Wolseyに仕え始めたのが1526年あるいは1527年であること、さらには、
以下に示す見解の中でWolseyが呼びかけている裁判官William
Shelley(1480−1549)が人民訴訟裁判所の裁判官に就任したのが1527年
置あることから推測すれば、おそらく大法官在職中の1527−30年の問で
あったであろう。Wolseyは、人民訴訟裁判所の裁判官Shelleyにむかっ
て、次のように告げたという。
国王は、その本性として高貴な心を持っており、しかも〔彼は〕正義が
法によって彼を導く以上のことを望んでいない、ということを私は知って
いる。それゆえ私は、あなた〔William Shelley〕やその他法曹界の長老た
ちや彼〔国王〕の法律顧問である識者に対し、法がよき良心と両立しうる
ものであるということだけは忠告しておきたい。というのは、良心を持た
ない法を、合法的な権利のために用いるように、評議会における国王に対
して求めることは適切なことではなく、コモン・ローの厳格さ〔に従う〕
よりもむしろ良心に敬意をはらうことの方が、常によいことだからである。
(28) 48115世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
というのは、「賞賛に値することとは、許されていることを許すのではなく、
適切なことをすることである」からである。良心が最大の拘束力をもつと
ころでは、国王はその威厳や大権のゆえに、法の厳格さを緩和しなければ
ならない。国王は、王として衡平な正義を実現する立場にあるがゆえに、
大法零すなわち慈悲心をもって正義を遂行する役人を任命するのである。
そのため大法官府裁判所は、一般に、良心の裁判所と呼ばれている。とい
うのは、良心の裁判所は、良心が最も強く作用している場合には、コモン・
ローの上級の判事たちが執行や判決をひかえるように命じる管轄権を持つ
く ていたからである。
Wolseyの主張によれば、法の厳格さに従って形どおりに事柄を進め
るよりも、良心に従って適切な事柄を行うことこそ、賞賛に値すること
である。国王は自らの威厳や大権のゆえに、良心によって法の厳格さを
緩和する必要があり、王として正義を実現する立場から、正義を遂行す
る役人である大法官を任命する。それゆえ大法官府裁判所は良心の裁判
所と呼ばれており、大法官府裁判所が、場合によってコモン・ロー裁判
所に対して執行や判決を控えるように命じる権限を持つのは、ここに基
づいているという理解である。
(3)Thomas More(1478−1535)
Wolseyの後継者として大法官の職務を担ったのが、リンカンズ・イ
ン所属のコモン・ロー法曹Thomas Moreである。大法官府裁判所に
おける救済の必要性を力説した前任者Wolseyは、多くの差止命令を発
給して、コモン・ロー裁判所における訴訟手続に干渉していたと言われ
ている。いったん差止命令が発せられれば、コモン・ロー裁判所で進行
中の裁判は停止され、その状態は、大法官府裁判所における判断が下さ
く の
れるまで継続する。この差止命令について、Moreがどのように考えて
いたかは、彼の伝記作家であり娘婿であったWilliam Roper(1496−
1578)が、次のように伝えている。
九大法学89号(2004年)480 (29)
もしあらゆる裁判所の裁判官一職務本来の性質からして、彼らこそ法
の厳格さを改善するのにもつとも相応しい一が、理に適つた配慮に基づ
き、自らの裁量によって、つまり彼らが良心にしたがってそう義務づけら
れていると考えるように、法そのものの厳格さを緩和・改善するのであれ
ば、その時以降、彼〔大法官〕によって差止命令が寵せられることはなく
く らう
なるであろう。
この見解は、Moreがコモン・ロー裁判所の全裁判官と差止命令につ
いて議論した際に、彼らに対して述べたものであるが、少なくとも当時
の状況では、大法官による差止命令がまだ必要であるとMoreが認めて
いたことは明らかである。コモン・ロー裁判官が、法の厳格な執行だけ
に固執せず、理に上った配慮にしたがって「法そのものの厳格さを緩和・
改善する」ようになれば、差止命令は不要となるが、実際はそうでない
と言っているからである。言い換えれば、当時コモン・ロー裁判所が抱
えていた根本問題、つまりコモン・ロー裁判所の裁判官が、その職務本
来の性質に反して、法の厳格さを改善する努力をしてこなかったからこ
そ、大法官府裁判所による差止命令が必要なのだという問題の本質を、
Moreが明確に自覚していたことになる。
では、Moreによってこのように批判されたコモン・ロー裁判所の裁
判官たち、つまりコモン・ロー・システムを担っていた当時のコモン・
ロー法曹たちは、大法官府裁判所における救済をどのように捉えていた
のであろうか。
第2節 コモン・ロー法曹の見解
大法官府裁判所における救済の方法および特徴に関するコモン・ロー
法曹の見解として、1474年春Year Bookに記された財務府会議室にお
ける事例を取り上げよう。この史料は、大法官府における異議申立に対
する、財務府会議室(The Charnber of the Exchequer)における議
論を記録したものであるが、Year Bookには論者が明示されていない
(30) 47915世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
ため、具体的に誰が述べたものかを特定することはできない。しかし、
Year Bookには「コモン・ローの全裁判官の面前で」と記述されてい
るから、これをコモン・ロー法曹の見解と理解しても、まったく問題は
ない。というのは、そもそも財務府会議室における法的な議論は、コモ
く ン・ロー裁判所の裁判官が集まって行うものであったからである。
Year Bookによれば、このような異議申立は、王座裁判所において、
陪審審理に付すための争点が少しでも自らの主張に都合よく決定される
ように、争点決定を回避するために行われたものである。王座裁判所で
は審問の写しを提出することによってしか異議申立ができなかったが、
大法官府裁判所では訴答不十分の抗弁を申し立てるだけで可能であった。
その理由は以下のとおりである。
いかなる事例においても、大法官府では形式に関して、すなわち被告が
誤った下等によって損害を被ることはない。また訴答において、大法官府
における書記の行為が訴訟当事者に損害を生じさせるなら、それは良心の
く 裁判所とは呼ばれ得ない。
ここから分かることは、大法官府裁判所では、たとえ訴答において形
式的な誤りが見出されたとしても、コモン・ロー裁判所における手続と
は異なり、それが当事者に不利に働くことはないということである。こ
れが良心の裁判所と言われる所以であろう。
つぎに、1475年からド一寸ットの治安判事を務め、1483−5年のリチャー
ド3世治世下で法務長官(Attorney−General)を務めたコモン・ロー
法曹Morgan Kydwelly(d.1505)の見解を紹介しよう。1483年にイン
く ナー・テンプルで制定法の講義を行った際に、彼は大法官府裁判所につ
いて次のように述べている。
大法官府は良心に従った国王の裁判所であり、罰金付召喚令状は審問を
必要とする事柄に対して与えられるものである。〔罰金付召喚令状は〕、信
頼に基づく封の譲渡を理由として、信頼あるいはコモン・ローが救済しな
く い事柄に対して作成されるものである。
九大法学89号(2004年)478 (31)
ここには、大法官府は良心に基づいて救済を与える国王の裁判所であ
ること、さらに、大法官府裁判所における救済にとって不可欠な罰金付
召喚令状は、審問を必要とする事例に対して与えられ、コモン・ローが
救済を与えない事例に対して発給されるものであるということが、明確
に指摘されている。
グレイズ・イン所属のコモン・ロー法曹John Hales(d.1540?)は、
1522−39年に財務府裁判所のバロンを務めたが、1514年の秋と1520年の
レソト期にグレイズ・インにおいて行った制定法講義のなかで、彼は罰
金付召喚令状について、次のように述べている。
大法官府において罰金付召喚令状を求め、得られるとしても、大法官府
は良心にかかわるものにすぎないのであるから、記録裁判所とはいえない。
そのため、このような良心に関してそこで与えられた判決は、誤審を理由
に破棄されるはずがない。誰も記録事項以外のものによって論じられるべ
きではない、という制定法がある。したがって、コモン・ロー上の訴訟が
成立する場合、どんな人が罰金付召喚令状を提示しても、制定法に基づく
訴権が成立するし、それ〔罰金付召喚令状〕を持ってきた者に対抗しうる
く ように主張することが可能である。
Halesもまた、大法官府裁判所は良心にかかわるものであるから、コ
モン・ロー裁判所のように記録事項に左右されず、したがって、そこで
は誤審を理由に判決が破棄されることはありえないという。つまり、訴
答やその他判決に至る手続における脚下、すなわち正式裁判記録上明ら
かな法的判断の誤りがあったことを理由に、そこでの判決が破棄される
ことはない。なぜなら制定法によれば、コモン・ロー上の訴権がある場
合にはコモン・ロー上の救済が成立するからであり、これは罰金付召喚
令状に対抗しうるものだからである。したがって、良心に基づいて与え
られる大法官府裁判所における救済は、コモン・ロー上の訴権が成立す
る場合には与えられない、ということになる。
また、『裁判所とその裁判権の多様性について(D‘ひθrs舵dθOoμr亡
(32) 477 15世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
く ラ
ε亡ZOαr‘αrど8d‘C伽ηS)』には、以下のような大法官府裁判所における
救済の特徴および役割に関する見解が述べられている。本書の著者は不
明だが、先述のKydwellyあるいは1522年から人民訴訟裁判所の裁判官
を務め、かつ多くの法律書を残したAnthony Fitzherbert(1470−1538)
う
であった可能性が指摘されているが、この著作の中では、大法官府裁判
所は次のように説明されている。
大法官府裁判所は上位の性質の裁判所であり…中略…その裁判所では、
コモン・ロー上の救済を持たない場合、そして良心という裁判所において
口頭で訴える場合に、救済が与えられる。
大法官府裁判所は、書面を用いない口頭での訴えに対して救済を与え
る機関であることが分かる。しかもその場合、コモン・ロー上の救済の
ない場合に救済を提供する上位の裁判所であると理解されている。
以上、大法官府裁判所の役割や機能について、当時の数名のコモン・
ロー法曹による比較的短いコメントを中心に検討してきたが、次に、大
法官府裁判所における救済の必要性を主張し、イングランドにおけるエ
クイティの発展に大きく貢献したミドル・テンプル所属のコモン・ロー
くアらう
法曹Christopher St. German(c.1460−1541)が、主著Poc加rαηd
8加dθ鷹と、大法官府裁判所における救済に焦点をしぼってその正当性
を主張した.4五‘観ε7rθαオ♂8εCOηCθrη翻g 1π漉S q!S酌pOθηαで展開
した主張と、St. Germanの主張に対する匿名の上級法廷弁護士の反論
を、多少詳しく検討することにしよう。
St. Germanは、「人間の行為は、様々な習慣(manner)によって無
限に生ずる。そのため、いかなる事件にも対応可能なルールなど作るこ
とはできないし、それが〔作られたとしたら〕不十分なものとなる場合
くアの
があるに違いない」という前提のもとで、大法官府裁判所における救済
を可能にした罰金付召喚令状について、次のように言う。
九大法学89号(2004年)476 (33)
王国の法に精通した者によって、日常的に、訴状が、罰金付召喚令状を
得るために作成されてきた。しかもこのことは、法によって禁じられてい
るわけではない。彼らはそれを作成しようとすればできたが、彼らは〔そ
れらを作成することに関する〕特定の法を作り出さなかった。大法官が
〔この令状を〕作成しなければならない場合、当事者の悩み(vexatione)
くアの
に従うのではなく、事件の真相に従って〔作成しなければならない〕。
St. Germanも大法官Stillingtonと同様に、罰金付召喚令状は事件
の真相に従って作成されるべきであると主張している。さらに彼は、罰
金付召喚令状が王国の法に精通した者によって日常的に利用されてきた
にもかかわらず、罰金付召喚令状の作成について規定した特定の法が存
在しない点について、次のように言うのである。
〔罰金付召喚令状の成立・発給が〕そのように十分な権威に基づくもので
なければ、それは時間の経過とともに完全に無効とされ、放棄されるはず
である。なぜなら、それらは長い間継続することを許されてきたのであり、
このことからそれらが合法的に与えられてきた、と考えることができるか
く らである。
罰金付召喚令状の成立・発給は、長い間継続することを許されてきた
がゆえに十分な根拠に基づくものなのだ、と指摘している。要するに、
そのような罰金付召喚令状の成立・発給は、「いかなる制定法にも制限
されない古くからの慣習であり、彼〔大法官〕の職務のゆえに一定の根
ラ
拠や習慣のもとで彼〔大法官〕がそうすることを正当であるとしている」
ということなのである。つまり彼の主張によれば、慣習として長期間存
在してきたという事実そのものによって、さらには、制定法によって認
められこそすれ禁止されなかったという事実によって、その合法性は十
分に証明されていることになる。
だが、たとえ制定法上の訴権が成立しても、マキシムや慣習が禁じて
いるなら救済を得ることはできない。たとえば彼自身がA五‘観θ
7rθ磁SθCOηC2rη‘ηg Wr‘亡S(ゾ8酌pO侃αの中で地代の例を挙げて示し
(34) 47515世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
ているように、捺印証書を欠いた状態でコモン・ロー裁判所において救
済を得ることができなかった無体物の売買については、それによって生
く じる対価が証明されれば、その取引は成立したとみなされる。このこと
からSt. Germanは、無体物に対する大法官府裁判所における救済は、
制定法やマキシム、慣習が禁じていない場合において、しかもそれらの
く 条件を満たした上でなお対価が存在する場合のみ可能である、と判断し
ていたことが分かる。
さらに彼は、「過去において、罰金付召喚令状は、訴権を有する者の
ために成立すべきことが理に適っていたと考えられてきたため、あらゆ
る場所において救済手段を持たない者に対して成立するというよりはむ
く しろ、彼にそこでの訴権を認めることを意味した」と述べ、まさに罰金
付召喚令状こそ特別に訴権を認めるための手段であったことを明瞭に指
摘している。というのも、彼自身、「法の正当性は、大法官府における
救済が当該のルールや根拠を破るというよりはむしろ、それ〔大法官府
う
における救済〕を受け、原告が訴権を持つことを許すこと」と考えてい
たからである。
要するにSt. Germanは、コモン・ロー上の救済がないことが、た
だちに法的救済がないということを意味するのではなく、コモン・ロー
裁判所における救済がない場合であっても、そのような事例に対する法
的救済は、制定法やマキシムおよび慣習が禁じていない場合に限って可
能である、と指摘していることになる。つまり彼の主張は、コモン・ロー
上の救済の有無とイングランドの法による救済の有無は別の次元のこと
がらである、という認識に基づいていると理解できるのである。
では、罰金付召喚令状というコモン・ロー裁判所には存在しない方法
が大法官府裁判所において用いられた理由は、いったい何であったのか。
St. Germanの説明はおおよそ次のとおりである。
〔削除部分:王座裁判所、人民訴訟裁判所、財務府裁判所などのコモン・
く の
ロー裁判所において〕、証書を欠いた状態で捺印金銭債務証書に対する訴答
九大法学89号(2004年)474 (35)
を行うことはコモン・ローでは禁じられているとしても、大法官府では可
能である。どの裁判所であれ、金銭債務の正当性に関する法は、そもそも
1つである。というのは、コモン・ロー裁判官は、大法官府が行ったよう
に、当該の支払が理性や良心において債務を免責するに十分であるという
ことを、裁判官として法を根拠に知っているからである。しかしながら、
彼らはマキシムや慣習を根拠に、彼らの面前でなされた回答のゆえにその
支払が十分であると認めたりすることはない。というのは、彼らが理性や
良心において債務を免責することは適切でないと考えているからではなく、
訴権が認められる裁判所〔コモン・ロー裁判所〕では、古き時代から用い
られてきた根拠や原因、原則といったものは破りえない、と考えているか
らである。〔削除部分:その訴答にもかかわらず、言うなれば、捺印金銭債
務証書に対する支払に関する訴答を行うことは、こうして他の裁判所にお
いて認められる〕。しかしコモン・ローでは、マキシムはすべての裁判所や
すべてのコモン・ローに対して及ぶものではなく、以前から用いられてき
た慣習に従って特定の裁判所に対して及ぶものである、と言われている。
したがって今日では、ハンドレッド裁判所あるいはバロン裁判所において、
40シリング以下の捺印金銭債務証書に関する金銭債務訴訟が提:起されると、
被告は自らの免責について宣誓する必要がある。他方ロンドンの裁判所で
は、被告は捺印証書を承認した上で当該債務に関する審問がなされるよう
に、請求を申立てなければならない。このように個々の裁判所がそれぞれ
の慣習を持っていることはしばしば目につくことであり、〔イングランド〕
法はそれら全てを許容しているのである。
大法官府裁判所が罰金付召喚令状を用いた理由に関するSt. German.
の説明は、それが大法官府裁判所の慣習であったから、という点に尽き
ている。もちろん彼には、イングランド法は個々の裁判所が各々の慣習
を持つことを認めており、それら全てを許容してきたという基本認識が
貫いている。実際、マキシムはあらゆる裁判所において適用されるわけ
ではなかったし、慣習についても、その慣習が存在していた地域に限定
されることがあった。つまり、彼の理解では、裁判所ごとに異なる裁判
手続やルールが存在するということは、イングランド法がすべて許容す
るごく普通のことであり、同じ論理で、大法官府裁判所が罰金付召喚令
(36) 47315世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
状を用いて救済を行うことも、大法官府裁判所固有の慣習とされたので
ある。
最後に、St. Germanの主張に対して反論を展開した匿名の上級法廷
弁護士の見解を紹介しよう。反論の書である7舵Rの鷹α伽η(ゾα
く Sθがθα碗α興趣五αω8q!EηgZ侃dを書いた人物の詳細は不明だが、
本書は、St. Germanが大法官府裁判所における救済を「イングランド
く 法の第7番目の根拠と特定」する際に例示した債務消滅証書あるいはそ
の他法的要件を満たす書面など、当人が債務の支払いを行ったことを証
く 明するものを持っていない事例を取り上げて、次のような批判を展開し
ているる
コモン・ローに全く反することであるにもかかわらず、大法官府では、
債務者が書面を持っていない場合であっても、無条件債務証書に含まれる
金銭債務の支払に答弁することが認められている。そのようなことが法で
あると認められるなら、それに反するコモン・ローは、法である必要性が
消失するはずである。というのは、これら2つの法は、相反しているため
両立しうるはずがなく、一方が無効とされなければならないからである。
それゆえ、この法が罰金付召喚令状によって大法官府で保持されるなら、
それに反するコモン・ローは無効であり、したがっていかなる効力をも持
く つ必要がなくなるはずである、と言われなければならない。
匿名の上級法廷弁護士による批判の要点は、コモン・ロー上の救済を
得るにあたって不可欠であった債務消滅証書を欠いた状態であっても、
大法官府では債務者が債務の履行を答弁できるようになっており、この
慣行は書面化された記録に厳密に従うというコモン・ローに反したもの
である、と指摘されている。大法官府における法が、このようにコモン・
ローに従わず、そこではまったく得られるはずがない救済を可能にして
しまうという事態のもつ意味は、同一の事例についてまったく違った結
論が合法的に導かれるということ、つまり、これら2つの法は、一方が
無効とならない限り、他方が効力をもつはずがないような関係にあると
九大法学89号(2004年)472 (37)
考えるべきだ、という主張である。
もちろん、厳密に考えれば、この匿名の上級法廷弁護士の主張には重
大な誤認がある。コモン・ロー上の救済を得るためには債務消滅証書を
所持していなければならないということが意味することは、過失などに
よって債務消滅証書を紛失してしまった者は、実際にはすでに支払いを
済ませていたという事実があった場合でも、コモン・ロー裁判所でその
事実を認めてもらえず、法に従って債務の二重払いを余儀なくされる可
能性があるということである。大法官府裁判所は、むしろ債務の消滅と
いう事実そのものについて審議し、事実であれば債務の二重払をする義
務から解放するという救済を可能にした。つまり、コモン・ロー裁判所
の手続は、事実の審問ではなく、形式要件を満たしていないといういわ
ば門前払いの形での法の遂行であるのに対し、大法官府裁判所の場合は、
実際に事実について審議を行って判決を下すという形での法の遂行であ
る。それゆえ、たとえ同一の事例について異なった法律上の結論が導か
れたとしても、それぞれの手続における根拠が異なっているだけのこと
であり、匿名の上級法廷弁護士のように、単純に「一方が無効とならな
いかぎり、他方が効力を持つはずがない」などという事態が発生してい
ることにはならない。
では、なぜ大法官は、匿名の上級法廷弁護士の言う王国の法、すなわ
ちコモン・ローと同時に両立し得ないような法を行使しえたのであろう
か。匿名の上級法廷弁護士の理解はこうであった。
ごく一般的には、イングランドの大法官は聖職者であって、彼らは王国
の法に関する表面的な知識以外には、何も持っていなかったからである。
そのため、ある者が1つの債務に対して2度支払うという不当な行為を強
いられている旨記した訴状が大法官のもとにやってくると、コモン・ロー
がもつ長所も、罰金付召喚令状による訴えによって生じる不都合も知らな
い大法官は、無謀にも国王の名において〔既にコモン・ロー裁判所で行わ
れている裁判における〕原告〔債権者〕に対して罰金付召喚令状を発給す
るのである。罰金付召喚令状は、その原告が国王の裁判官の面前で行って
(38) 47115世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
いる訴訟を中止し、大法官府において彼〔大法官〕の面前で答弁すること
を命じる。大法官は、法に依拠して考えるよりも自らの知性や知識を信じ
ることによって、彼自身が満足するような判決を与えるばかりか、そのよ
うな権威のもとにある彼の判決は、王国のコモン・ローに従って国王の裁
判官によって与えられた判決よりも遥かに理に適っている、と考えるので
く ある。 ,
匿名の上級法廷弁護士が大法官府裁判所における救済を批判した理由
は、聖職者である大法官が、自らの知性や知識だけに従って裁量的な判
決を行っているのは、ただひとえに彼がコモン・ローの知識を欠いてい
ること、すなわちその持つ長所にまったく気づいていないからである、
と指摘している。というのは、大法官は、コモン・ロー裁判所における
手続を差止命令の発給によって停止させることがコモン・ロー・システ
ムに対して及ぼす影響、すなわち罰金付召喚令状によって生じるコモン・
ロー裁判所としての完結性が破られるという不都合が生じることを考慮
することなく、単に大法官個人の良心に従って新しい救済を提供してい
るからである。それゆえ匿名の上級法廷弁護士は、罰金付召喚令状の性
質について次のように主張することになる。
『令状論1次序rα一Brθ伽m』に記載されたあらゆる令状を見る限り、罰
金付召喚令状と呼ばれる令状は、その書物に明記されたあらゆる令状の中
に含まれていないだけでなく、彼〔大法官〕がそこで明らかにしたような
〔不当な行為を救済するための〕性質のものも含まれていない。…中略…罰
金付召喚令状が、不正な行為を改善するために王国の法によって命じられ
た令状であるとすれば、他の令状と同様に『令状論』の中に含まれている
はずであり、その書物に含まれる〔他の〕令状のように、それ〔罰金付召
喚令状〕についてもまた、『令状論』の中で示されているはずである。…中
略… 〔しかし〕罰金付召喚令状は『令状論』に含まれていないから、悪用
された令状であり、王国のコモン・ローに反するだけでなく、理性やあら
く ユ ゆるよき良心にも反するものである、と思われる。
九大法学89号(2004年)470 (39)
ここにいう『令状論』とは、訴訟開始令状を抜粋し、註釈を付した書
物のことである。コモン・ロー裁判所における訴訟手続では、訴訟開始
令状の選択によって、訴訟手続から判決執行までの訴訟の全過程があら
かじめすべて厳密に決まっていた。このためコモン・ロー法曹は、標準
的な方式が抜粋された『令状方式書(Rθg‘s亡θroゾW漉s)』や『令状論』
を手元に置き、そこに記載された既定の形式から、原告の主張に適合す
るコモン・ロー上の救済方法・手続を探ったと言われている。したがっ
て、これらの書物に記載された令状であればコモン・ロー上の訴権を生
ずるものであることは間違いないが、ここに記載されていなければ、理
由のいかんにかかわらず、コモン・ロー上の訴権を持ちえなかった。つ
まり「罰金付召喚令状は『令状論』に含まれていない」という事実から、
罰金付召喚令状そのもののコモン・ロー上の合法性に疑問を投げかけて
いることになるが、「罰金付召喚令状が、不正な行為を改善するために
王国の法によって命じられた令状であるとすれば、他の令状と同様に
『令状論』の中に含まれているはずである」という主張には、少し論理
の飛躍がある。「不正な行為を改善する」といっても、先の例で指摘した
ように偶然「債務消滅証書」を紛失してしまったような場合に、なお二
重払いを求める行為が不正であるのか、それとも、「債務消滅証書」を紛
失したという行為そのものが不正であるのか、さらには「債務消滅証書」
を紛失した場合には、二重払いを回避する手段を提供し得ないコモン・
ロー裁判所の側に不十分な点があるのか、まったく不明確なまま議論さ
れているからである。
以上、匿名の上級法廷弁護i士の主張をまとめれば、大法官府裁判所に
おける救済は、コモン・ロー裁判所における訴訟を停止させうるもので
あり、したがってコモン・ローを無視しかねぬものであった。にもかか
わらず、そのような救済を与える大法官はコモン・ロー裁判所の裁判官
でなかったばかりか、大法官が発給する罰金付召喚令状は、匿名の上級
法廷弁護士が批判するように、『令状論』に記載されていないため、お
(40) 46915世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
よそコモン・ロー上の訴権を生ずるものではなかった。このような理由
に基づいて、匿名の上級法廷弁護士は、大法官府裁判所において用いら
れる法は、コモン・ロー裁判所で運用されている法とは相容れない、と
強く主張したわけである。
第3節小車
以上、大法官府裁判所における救済に対する当時の法曹界の理解をま
とめると次のようになる。
まず当事者である大法官の見解は次の3点にまとめられるだろう。第
一に、大法官府裁判所は既存のコモン・ロー裁判所における救済の厳格
な形式に従う必要はなく、したがってその形式的な欠陥に陥ることを回
避できるから、必要に応じて適切な救済を提供しうる法的機関であるこ
と。第二に、大法官府裁判所は良心あるいは自然法に基づいて事実の審
問を行っていたこと。第三に、大法官は衡平な正義を実現する立場にあ
る国王によって、慈悲心をもって正義を遂行するために任命されていた
こと、これである。つまり大法官府の長である大法官は、大法官府裁判
所における救済とは、自然法あるいは良心に従って事件の真相の解明=
事実の審問を行った結果であり、事実の審問を行わないコモン・ロー裁
判所とはおのずと異なった種類の社会的な「正義を実現する」ものと理
解していたのである。
コモン・ロー法曹はどうだったか。匿名の上級法廷弁護士の厳しい反
論から明らかなように、コモン・ロー法曹の中に、コモン・ローに精通
していない聖職者が独自の判断に従って救済を提供する大法官府裁判所
における法は、コモン・ロー裁判所における法と両立しうるはずがない、
という批判があったであろうことに疑問の余地がない。事実、1529年に
コモン・ロー法曹Thomas Moreが就任するまで、大法官はコモン・
ローの教育を受けていない聖職者であった。だが、史料の検討を通じて
明らかになったように、大法官府裁判所は形式的な欠陥に賜われること
九大法学89号(2004年)468 (41)
なく、良心あるいは自然法に従って救済を提供する国王の裁判所として
上位の性質を持つ機関であり、しかもコモン・ロー裁判所が救済を提供
し得ない事例を、罰金付召喚令状を用いて処理する機関であるという事
実の認識は、コモン・ロー法曹の大半に共通していたように思われる。
とすれば、従来通説的に受容されてきた理解、つまり、コモン・ロー
法曹は大法官府裁判所における救済に不満を持っていたという解釈は、
その妥当性をひとまず疑ってみる必要があるのではなかろうか。この疑
問に答えるためには、なぜ、どのような理由で大法官府裁判所への訴え
が増加したかという点を知る必要があろう。「事実の審問」によってし
か救済が得られない事例が増加したということは確かだが、それはいっ
たいどのような事例であったのだろうか。まず、大法官府裁判所におけ
る訴状の内容を確かめてみよう。
注
(56) 1470年10月から1471年4月までは、ランカスター王朝最後の王であった
ヘンリー6世が、再び王位についたことにともない、ヨーク王朝側につい
ていたStillingtonはこの職務を追われた。この間、大法官の職務を担っ
たのは、Stillingtonの前任者George Nevi11であった。 E,B. Fryde,
D.E. Greenway, S. Porter and I. Roy(eds,),∬αη,d600ん。ゾBr‘亡‘8ん
0んroηo♂08ツ (third edition,ユ986), P.87.
(57)本論文で用いたYear Book(1680)では、 coutumacieとなっていたが、
これはcontumacieのことと思われる。
(58) Year Book, Trinity term,9Edward IV, plea 9, folioユ4.
(59)ヘンリー6世治世31年法律第4号(1452−3)によれば、保護通行証とは次
のような性質をもつものであった。「我々の国王は、先述の権威によって、
次のことを命じそして定めた。すなわち、彼の臣下が海上あるいは王国内
の港において、襲われたりあるいは傷つけられたなら、国王に敬意を表し
て、いかなるよそ者に対しても、海上あるいはその他の港において、友好
や同盟、休戦によって、あるいは国王による保護通行心あるいは保護によっ
て、とりわけ王のもの〔船〕やその他動産を、あるいは国王の臣下の者た
ちに対する盗みや略奪を行ったよそ者を捕らえられること。この場合、イ
ングランドの大法官は、捕らえられた人の引渡、船や動産を盗まれたり略
奪された者の損害を回復するために、次のような権限を持っているはずで
(42) 46715世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
ある。裁判官を彼のもとに呼び、そのことに関して提出された訴状に基づ
いた令状を大法官府から発給することにより、そのように罪を犯した者を
国王の大法官府に召喚する。すなわち損害を被った当事者に罪の償いをす
るために召喚する」(S亡α厩θ80ノ乙んθRθαZ濡,vo1.2, pp.363−4)。
(60)大法官の言葉として書かれている箇所ではあるが、本来引用のはずであ
り、大法官自身のことであると思われる。
(61)SθZ2c亡Cαsεs厩亡んεEκc吻ωεr Cんαπ}bθrわげor2α硯んθJus伽s(ゾ
翫g♂αη4(voL 2),M. Hemmant(ed.),7んθpμ侃。α伽η80弗んθSε♂4θη
80c‘θむly, vol.64 (London:Selden Society,1948), P.32.
(62) 自然法や良心に従った判断は、当時、コモン・ロー裁判所において用い
られる法よりも上位の概念として理解されていたようである。当時、自然
法と良心の関係ついて、一般的な共通の理解が存在していたのかは分から
ない。しかしそれぞれの特徴を理解しておくことは重要であろう。自然法
については、すでにStillingtonの説明があるので、以下では良心につい
ての1つの理解を示すことにしよう。
「博士たちが良心に関して様々に叙述していることを知っておく必要が
ある。そのうちの1つについてある教父ダマスカスのヨハネは、良心を、
我々の知性に関わる法であると言っている。他の博士によれば、良心は、
善と悪を見分ける思考習慣であると言っている。また他の博:士は、良心を、
思考をめぐらすことによって確認されるある事柄をしょうとする意図に関
する同意あるいは信念である、としている。さらに別の博士は、良心とは、
人間の個々の行為を判断する実践的な理性の判断であるとしている。すべ
てこのような言い回しは、それぞれを弁別して理解すれば、1つのもので
あり同じ趣旨のものであると同意できることになる。すなわち、良心とは、
そのようになされた事柄に対して実際にあてはめられた知あるいは知識な
のである。ゆえに、良心は、法あるいは知識に関わる最も完全な知に基づ
き、それに従う。したがって、人間の個別の行為に対する、その法あるい
は知の最も完全で最も正しい適用については、最も完全で最も純粋で最も
よき良心に従うのである」(Doc亡or αη(1 Sホzzdeη亡, p.89)。 St. German
によれば、良心とは善と悪を識別する思考習慣であり、それによって確認
されるある事柄をしょうとする意図に関する同意や信念であり、なされた
行為を判断する実践的な理性の判断ということである。
(63) G.Cavendish,7んe五‘ルαη4 Z)εα〃L oゾ0αr読ηαZレ仏。♂sθ:y, in R.S.
Sylvester&D.P. Harding (eds.),7ωo EαrZ:y 7Tμ(10r五ピ。θ8 (New
Haven:Yale University Press,1962),p.121,
(64) 1)ooごorαrL48亡μ4θ几6, P.105.
(65)W.RQper,7んθ五趣。/8か7ん。ηταs Morθ, in R.S. Sylvester&D,P,
九大法学89号(2004年)466 (43)
Harding (eds。), 7ωo Eαr砂 7認or 五加θ8 (New Haven: Yale
University Press,1962), pp.221−2.
(66) もともと財務府会議室とは、部屋の名前にすぎず、そこではシェリフの
選任や治安判事の任命がなされることもあれば、国王評議i会が開かれるこ
ともあった。さらに、大陪審に食事が与えられることもあったようである
(Sθ♂εC亡Cαses‘η亡んε翫Cんε9μεrσんα〃しわθrδ⑳rθむんθαZZ古んθ」μ8亡εces
oゾ翫gZ侃d(vo1.1), M. Hemmant(ed.),7んθpω捌。α亡ど。ηs oゾめんe
S2Zdlθπ80cεθ亡:y, vol.51 (London:Selden Society,1933),P. xx [n.2])o
またSpelmanが編集した判例集によれば、1533年にヘンリー8世の王
妃で、エリザベス1世の母となるAnneの戴冠式が行われた際、ウェスト
ミンスター・ホール全体がその準備に使われたため、財務府会議室は王座
裁判所を開廷するために用いられた。その間、人民訴訟裁判所はウェスト
ミンスター大修道院において、大法官府裁判所はホワイト・ホールにおい
て開廷されたようである(7んθ地por乙8(ゾ8かJoんηβρθ伽αη(vol.1),
J.H. Baker (ed.),7んεpμ6あ。α亡‘oアz8 0ゾ亡んθSθZ4θη80c詑亡:y, vo1.93
(London:Selden Society,1977), PP.68−9)。
もちろんここで財務府会議室が意味していることは、部屋の名前ではな
く、そこで行われた議論のこと、すなわち裁判官たちが集まって重要な事
件について討議を行う場であった(Sε♂θC古0αSθ8喪亡舵EκC舵g麗r
c勧舵bθr(vol.1), pp. xiv, xviii−xix)。しかしこの財務府会議室が法的
な議論を行うための場所であったこと自体は、制定法にその足跡をたどる
ことができないため、これは制定法によって規定されたものではない
(SθZθcε 0αsθs‘π むんeEκcんeαμθr Clんαηz62r (vol.1), P. xxxv)。
なおこれは、バロンとよばれる財務府裁判所裁判官(3名ないし4名)
の元で通常の司法業務を遂行していた財務府裁判所とは、別のものである。
財務府裁判所の活動全体について詳しくは、J.H. Baker,7んe Oがbr4
H説。汐qμんθ五αω8q!EηgZαηd, PP,159−70を参照。
(67) Year Book, Trinity term,14 Edward IV, plea 8, folio 6.
(68) J.H. Baker, Reα(∫θr8αη(1 Rθα(1加gs加印1乙e Iηηs q!Ooαr亡αη(1
0んαzzcery, 8e♂4θノz 8006θ6y sz6PP♂θηzθπむαry sεr‘θ8, vo1. 13 (London:
Selden Society,2001), P.68.
(69) J.H. Baker(ed.), ZんθR(㌍orε8 q!8かJbんzzερθZηzαπ(vo1.2),7んθ
Pμう麗。α蕊。ηscゾ亡んθSθ♂dlθ1τSoc三目ly, vol.94 (London:Selden Society,
1979),p.75 [n.6]。
(70) J,H. Baker(ed.),Rθα(♂εrs侃(オRθαd励g8加亡1Lθ1πηs qズOoμr‘αηdl
Oんα1zoθ7=ソ, pp.30−2.
(71) J.H. Baker(ed.),7んθRθporε80ゾSケJoんη. SρεZηzαπ(vo1.2),p.75
(44) 465 15世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
(72) 正式な書名は、D漉r訪θ4θOo観θ古Zoμr‘ωr‘s4‘c伽πsθε.αZ‘α
η召。θ8sαr‘αθ亡ひ翻αであり、本論文では、 J.H. Baker(ed.), Eηg始ん
Lθ9αZ80μrCθ8’θ88θ漉αZ OO肌mOηゐαωrθ8θαrCんε00Z8αηd r醜rθπ0θ
ωorんS, eκc鰯‘πg LαωR¢porむS, Leg‘sZα亡‘on, rεZα亡‘π9む0亡んe per‘od
わφbrθ1800(Leiden:Inter Documentation Company)所収の.D‘ひθr8‘詑
4θCoμr亡θ古Zoμr諺r‘84‘c亡‘o几s(London, prinもed by R. Pynson),in A
8んor亡一7泥ZθC伽Zo9μθ(ゾ召ooんs加η亡θ硯η翫8♂α属8co亡Z侃4,α認
ZrθZα1zd,αη(オq!Eπg泥8んBooんs pr‘η6θ(Zα6roα(オ,1475−1640 (2),10946
を用いた。
(73) 特に.48んorか7薦θ0砿αZog麗q/Booん8 pr‘η古θ4‘ηEηgZαη4,
Sco認αη(メ, απd〃θZαη4, απoi(ゾ五11τ9麗sん Booんs pr〃z亡θ(メ αうroα4, 1475−
1642は、作者欄を匿名としつつなおFitzherbertの名前を併記しており、
Fitzherbert説が有力であることは確かである。しかし、特殊主張訴訟に
関するこの著作の主張とFitzherbertの見解が異なるという事実だけでな
く、この時期の著作家のほとんどがFitzherbertの考えに依存していたと
いうJ.H. Bakerの指摘を考慮するなら、 Fitzherbertが作者でない可能
性も十分考えられる(J.H. Baker(ed.),7マ舵Rεpor古s q!S‘r Jbんη
βρθZ舵侃(vo1.2), p.59)。加えて、本書の第1版とされるRedman出
版の著作には、1523年という日付が印刷されているが、J。H. Bakerによ
れば、1523年という日付は間違いであり、おそらくPynson出版の1526年
版が初版であるということである。というのは、王座裁判所首席裁判官を
任命する文書に1526年1月に任命されたJohn Fitzjamesの名前が書かれ
ているからである(J.H. Baker(ed。),%θRεpor亡s qブ8‘r Joんη
疎)θ〃ηα7z (vo1.2), p.58[n.3])o
(74) 1)加θr8記θdθOoμrむεむZo召r彪r‘sピ。乙εoη8, signature, A5v.
(75) ミドル・テンプルの記録によると、St。 Germanの名前が登録されたの
は、1501年7月7日以前であるが(HAC. Sturgess, Rθg競θr qブ
胴而SS‘0η8亡0亡んe llbπ0ひrαb♂ε80C‘θ砂(ゾ亡んθM‘劒θ7鋤pZθ’∬ro加
亡んθFゲεθ2励ん σθη加7ッ 亡。 乙1ze Yθαrエ944, vol.1 (1.ondon:Butter−
worth,1949), p.3)、 R.J. Schoeckによれば、 St. Germanの名前が初
めて出てきたのは1502年であり、それ以降1511年まで名前が確認できると
いう (R.J. Schoeck,‘That Most Erudite of Tudor Lawyers,
Christopher St. German’, JoωrηαZ qμんθRocんy Mo膿亡α‘π.Mθ4εθひαZ
α1τ4」Rθηαε88α1zcεノ18800‘αむめπ, vo1.4 (1983), PP.122−4)。
(76) 1)oc亡orαπゴ8亡μdθπむ, P,97.
(77) 1)oc60rαη(オ8むμdlθπ亡, P.105.
(78) AL‘亡麗ε 7reα蕊se co几cerη‘ηg Wr詫s(ゾSuわpoeπα, in Cんr‘s亡oPんer S亡
九大法学89号(2004年)464 (45)
Gθr配απoη01乙αηcθrッαηdl S古α亡μ亡ε, J.A. Guy(ed.),8θ♂(メeπSoc‘θ亡y
sμPpZ2meπむαrツsθr‘θs, vol。6 (London:Selden Society,1985), P.107.
(79)A五批Zε7rθα亡‘8θcoπcεrη‘πg 1乃ケ‘亡s(ゾS酌poθηα, p.108,
(80) 「ある者が金銭を受領して、他の者に、彼の土地Dからあがる年40ポン
ドの地代を売った。こうして取引が完了したと考えた買主は、他の保証人
を求めなかった。その後買主が当該地代を要求したが、〔売主に〕拒否さ
れた場合、彼〔買主〕は証書を欠いているのでコモン・ローによって救済
されない。〔削除:契約が十分である場合、彼は理性の法によって〕地代の
売主は対価を得ているから、買主は罰金付召喚令状によって救済される。
しかしその譲渡がいかなる報酬をも欠いた単なる申立によってなされてい
たなら、地代を譲渡された者は、コモン・ローにおいても、罰金付召喚令
状によっても救済を得られるはずがない。しかしもし地代の売買を行った
者が、それ以前に当該地代に関わる完全な譲渡を行う旨述べていたにもか
かわらず、その後にそれを拒否したなら、コモン・ローにおいて訴権が成
即するはずである。しかし契約時にそのような約束をしていない場合、先
に述べたように、地代の買主は〔コモン・ロー上の〕救済を得られないが、
罰金付召喚令状によって救済される。〔今は〕無体だが、売買によって新
たに生ずる地代として売られる地代に関する法と、以前から有体として存
在するが、一定の賠償を伴った証書を欠いた状態で売られる地代に関する
法は、同じ法なのである」(、4一肥州θ7ケθα亡雄θ稀碗おq!8μ6poθπα, pp.
108−9)。
(81) 「先の制定法〔1290年不動産譲渡法〕におけるように、法においては、
地代の保有によって不動産復帰権を有するのでなければ、あるいは土地が
当該土地の地代保有によって保有されなければ、〔地代の保有は〕有効で
はない、というマキシムが存在する。…中略…つまり彼が不動産復帰権を
持たない限り、当該保有について、彼は王座裁判所や人民訴訟裁判所、そ
の他それらよりも下位の権威ある裁判所などのコモン・ロー裁判所と呼ば
れる裁判所では、いかなる救済も得ることができないのである。その最大
の理由は、マキシムや慣習がそのような事例に対していかなる救済も与え
ていないからである」(。AE観θ77rθα亡ε8εCOηCθrη洗gWrε亡SOゾ8酌pOθπα,
P.ユ09)。
(82) ノ4 五,‘亡亡♂θ 71reα亡‘sθ coηcerη〃zg HZrε亡s oゾ8μわpoε1τα, P.108.
(83) 乃‘(孟
(84) 〔削除〕としている箇所については、実際の史料において削除された跡
が見られると編集者J.A. Guyが示しているものである。
(85) 〆1五,泥〃θ 7rθα麗3θcoηcθr/z‘η8 Wr♂オ8(ゾ8μZ4)oθηα, P.1ユユ.
(86)次の3つの説がある。第一に、債務不履行あるいは裁判所侮辱のゆえに
(46) 46315世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
Wolseyによってしばらくの間フリート監獄へ送られた上級法廷弁護士
Rooとする説(RJ。 Schoeck,‘The Da七e of the Replication of a Ser−
jeant−at−1aw’,7んθLαωQωαrむθrZ:y Rθひどθω, vol.76(1960), p.503)。
第二に、具体的な名前は挙げていないが、そもそも彼が本当に上級法廷弁
護士であったかどうかさえ明らかでないとする説(J.H. Baker,.4π
Zπ亡ro(1μc亡‘on 亡。 Eηg麗sんLegαZ II‘sむorly, P,1Q7 [n.54])、 第三に、 St.
German自身であったのではないかという説である(J.A. Guy(ed.),
0んrεs亡OPんεr S亡.Gεr∼ηαπoπCんαηceryαπd Sむα幅e, Sε娩πSocε⑳
sωρρZθηzθη亡α死ソ8θr‘εs,vol.6 (London:Selden Socie七y,1985), p,57)o
St. Germanは上級法廷弁護士ではなかったから、第二番目の説と第三番
目の説はかさなる部分もあるが、J.H, Baker自身は、 St. Germanの可
能性を示唆しているわけではなく、むしろ、Audleyの主張と部分的に重
なることを指摘している(J.H. Baker,%θ0:がbrd研鉱or:y q!亡んθ五αω8
q!27ηgZαη4, p.43 [n.225])。
(87) 1)ocむorα1zo18亡ω(1θηむ, P,105。
(88) 1)ocむorα1τ(186ω(メθ几ε, PP.77,79.
(89) 7んθ R隊)あ。αあ01z qブ α 8θ7プθα几6 α亡 むんθ jLαω8 q! 」9π9♂αηd1, in
Cんr‘8亡qρんθrSむGθrηταηoπ0んαηcθπyαη48むα乙撹θ, J.A。 Guy(ed.),
SθZdθη80c‘θ乙:y sμp∫)♂θηzθ几乙αr:y 8θr‘召s, vol,6 (London:Selden Society,
1985),p,100,
(90) 71んθR印)あ。α亡‘oπ q!α Sθ7ブθαη6 αむ 診んθZ,αω8 (ゾ五7η8・Zα1z(1, PP.101−2.
(91) 71乙θR啄)Z‘oα翻07zcゾαSθれノθαπ亡α亡孟んθ五,αω8q!Eη9♂αη(1,P.102.
第2章大法官府裁判所における訴状の分析
大法官府裁判所へ訴えを提起しようとする場合、はじめに訴状(bill)
が提出されるかあるいは口頭による請願(petition)が行われた。訴状
は主として4つの部分、すなわち、書き出しの語句、事実の説明、解決
(92)
すべき問題、結語部分から成り立つ。たいていの場合訴状は大法官を名
宛人にし、請願者の置かれた状況、すなわち訴状を作成した経緯となる
事実が記載された。その上で、原告が大法官に望む救済の方法、すなわ
ち、原告の訴えに答弁させるために被告を特定の期日に大法官府裁判所
九大法学89号(2004年)462 (47)
に出廷させる手続の遂行が求められた。訴状によれば、大法官府裁判所
への訴えは、通常、良心(conscience)、信義誠実(good faith;bone
く foy)、道理(right;droit)、理性(reason;reson)に基づいていた。
たいていの場合、訴状は、「請願者は大法官による加護を神に請う」と
いう句によって締め括られ、最後に訴訟維持保証人(pledge of prose−
cution)の名前が付記されている。
もともとロー・フレンチで書かれていた訴状は、ヘンリー5世治世下
に英語で書く慣習が成立したが、この場合に用いられた英語は、15世紀
前半以降に、標準的な英語として文書において利用されるようになった
大法官府標準の英語(Chancery English)とは異なるものであった。
く の
訴状に用いられた英語は、それぞれ地域独自の特徴を反映しており、こ
の点から訴状がイングランド全土から提出されていた事実が明白になつ
く てくる。
まず訴状数から推測される訴訟件数の推移を探り、次に大法官府裁判
所への訴えの内容の具体的な検討を行うことにしよう。
第1節 訴訟件数の推移とコモン・ロー裁判所との関係
先行研究が明らかにしたように、この時期における大法官府裁判所に
おける訴訟件数が増加傾向にあったことは間違いない。だが、たとえば
同一の史料を分析したN.PronayとE.G. HendersonによるPRO分
類番号Cユ/59の分析に明瞭に窺われるように、母体となる件数全体の数
値が、各々の研究者により異なってカウントされるという問題もあった。
おそらくこれは、Early Chancery Proceedingsが訴状だけで構成され
たものではないことに起因するもので、同一事件について複数の文書が
残されたことから生じたものであろう。このことは逆に、複数の文書が
同一事件に属するか否かの判断が容易ではないことを意味する。つまり
く J.A. Guyが指摘するように、この史料全体の3分の2が訴状、残りの
3分の1が答弁など訴状以外の阿智文書であることを考慮すれば、残存
(48) 46115世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
する文書数と当時の訴訟の数がEarly Chancery Proceedingsに含ま
れる文書の合計数と一致しないのは、当然のことなのである。加えて、
訴状を用いない口頭による訴えや残存しない訴状が存在していたという
く の
事実も、あらかじめ指摘しておく必要があろう。
そうであるかぎり、当時の大法官府裁判所における訴訟件数そのもの
を正確に割り出すことは不可能であるといわざるを得ない。しかし同一
の史料を用いたにもかかわらず、研究者ごとに異なった数値が挙がって
いる点については、それぞれ分析に用いた史料全体の数を確認すれば、
その差がどの程度のものであったかは、ある程度まで理解できるはずで
ある。
そこで以下本論文では、五‘S亡(ゾEαr砂0んαηCθrツ1)rOCεed加9S
.ρrθsθrひθ(メ‘ηむんθPμ6Z♂c Rθoor4(塀。θ(New York:Kraus Reprint
Corporation,1963)を用いて確認作業を行うことにする。これは20世
紀初頭にH.C. Maxwe11−Lyteを中心に編集されたEarly Chancery
Proceedingsのリストであり、PROの分類番号、原告と被告の名前と
職業または身分(occupation)、争点となっている主要な問題の簡潔な
説明、訴えが提起された地域を一覧の形にまとめたものである。
L‘8ε(ゾEαrZッ0んαπcθrッProcεθd♂ηg8に分類番号がふってある項目
の合計に着目すると、文書数は、1460−5年にはユ年に平均218件であっ
く く の
たのに対して、1475−85年については年間の平均が501件であった。1500一
ロ 15年には!年あたり470件と減少傾向を呈するが、1515−29年には1年に
ロ つき平均538件と再び増加している。1529−32年になると1年間に平均
くユ ラ ロ 900件であり、1533−8年には1年につき1,700件を超えるている。
訴状が大法官宛に提出され、Early Chancery Proceedingsもそれに
従って大法官ごとに史料の分類がなされてきたため、訴訟件数について
は大法官僧早期間中など一定の期間における平均値しか分からず、1年
ごとの推移を知ることはできないが、先行研究による分析と五経。ゾ
EαrZッCん侃。θrッ.Procθed‘ηgsの残存件数から推定する限り、先行研究
九大法学89号(2004年)460 (49)
が解明してきたように、少なくとも16世紀前半までに増加の傾向が見ら
れるようになっていた、ということは確かだと思われる。
これに対してコモン・ロー裁判所における訴訟件数の推移はどうであっ
たか。この点もまた厳密にカウントすることは困難であるが、財務府に
残された会計簿をもとに、王座裁判所と人民訴訟裁判所における印璽に
よる手数料収入を明らかにしたM.Blatcherの研究がおおよそ満足し
くユ うる手がかりを与えている。印璽による手数料収入とは、訴訟進行令状
の発給に際して、王座裁判所や人民訴訟裁判所が徴収した通常1通につ
き7ペンスのことであるから、その増減から、訴訟件数それ自体の推移
がある程度推測可能と考えられる。とはいえ、発給される訴訟進行令状
の量が、事例ごとに異なる可能性があるから、この収入額が直ちに正確
な訴訟件数を示すわけではなく、あくまでも近似に過ぎないことに留意
する必要がある。M. Blatcherが示したコモン・ロー裁判所における
手数料収入の推移と、大法官府裁判所におけるおおよその訴訟件数の推
移をグラフ化したのが図1である。
大法官府裁判所における訴訟件数のデータについては、先述のような
史料上の問題があるため、N. Pronay、 F. Metzger、 J.A. Guyによ
る先行研究と五‘8亡q!EαrZッσんαηcerッ.PrOCθθd‘η8Sのデータをそれぞ
れ記載している。しかし、いずれのデータも1年間の平均件数を示した
ものにすぎず、ここからわかることは、全体としてみれば増加傾向にあっ
た、ということにとどまる。
コモン・ロー裁判所における訴訟件数の推移を裁判所ごとに見ると、
以下のようである。
王座裁判所における手数料収入は、エドワード4世治世8−9年(1468−9)
以前には、50ポンドを超えていた。しかし1470年代以降、ヘンリー8世
治世7−8年(1515−16)を除いて50ポンドを割りつづけ、ヘンリー8世治
世35−6年(1543−4)以降に、ようやく50ポンドを超えるようになるまで
ほぼ横ばい状態であった。
(50) 45915世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
図1 印璽による手数料収入と大法官府における訴訟件数
ポンド
件数:
400
1800
350
1600
300
1400
1200
250
1000
200
800
150
600
100
400
50
200
0
0
一 r→ r−1 F「
口囲圏囲王座裁判所の手数料収入
人民訴訟裁判所の手数料収入
大法官府における訴訟件数(Early Chancery Proceedings)
一←大法官府における訴訟件数(N.Pronay)
一大法官府における訴訟件数(F.Metzger)
一大法官府における訴訟件数(J.A. Guy)
出典:M.Blatcher.77んθCoμr齪ゾ型ηg’8 Bθπcんエ450−155αp.16ff.
List of Early Chancery Proceedings preserved in the Public Record Office,
vols, 1−2,4−7.
N.Pronay,‘The Chancellor, the Chancery, and the Counci正at the End of the
Fifteenth Century’,p.89.
F,Metzger,‘The Last Phase of the Medieval Chancery’, p.80.
J.A, Guy,‘The Development of Equitable Jurisdictions,1450−1550’, p.82.
人民訴訟裁判所の手数料収入は平均195ポンドであり、王座裁判所の
5倍以上であった。この違いは、人民訴訟裁判所における正式訴訟記録
が王座裁判所における正式訴訟記録の5∼10倍にも達することにも現れ
ている。
人民訴訟裁判所の推移に目を移すと、エドワード4世治世16−7年
(1476−7)までは250ポンドを超えることが多かったが、それ以降16世紀
初頭まではほとんど200ポンドを割っている。しかし1490年代以降、明
らかに増加傾向が現れる。ヘンリー8世治世16−7年(1524−5)や同王治世
18−9年(1526−7)のように100ポンド以下の場合もあるが、1528−9年に
九大法学89号(2004年)458 (51)
は200ポンドを超え、16世紀半ばには400ポンドを超えるようになる。
したがって、次のように言えるだろう。第一に、王座裁判所は1450年
代後半から1540年代まで、その収入総額は50ポンド以下であり、ほぼ一
定の数値を示していた。第二に、王座裁判所とは異なり、人民訴訟裁判
所は大きな変動を示したとはいえ、国王交代の時期に合わせるかのよう
に、増減を繰り返していること。それゆえ、Wolseyが大法官在職中
(1515−29)に人民訴訟裁判所における手数料が減少している点に着目す
るなら、コモン・ロー裁判所から大法官府裁判所への訴訟の流入があっ
た可能性がある、と推定することが可能かもしれない。しかし、1490年
代から1510年代にかけての時期には人民訴訟裁判所における手数料も増
加しているのであるから、当然人民訴訟裁判所における訴訟も増加した
くユ と考えるべきであろう。したがって、大法官府裁判所への訴えの増加は
コモン・ロー裁判所から事件が流入した結果であった可能性を示唆した
く E.W. Ivesの主張は、必ずしも支持できないといわざるを得ないのであ
る。
さらに大法官府は、コモン・ロー裁判所において訴訟を開始するため
に必要な訴訟開始令状を発給していた。令状発給によって得られる手数
料収入を管理していた整理筐局(Hanaper)において、1509年7月12
日から1510年9月29日までの期間について報告されている会計簿によれ
ば、訴訟開始令状によって大法官府が得た収入は318ポンド10シリング
くユ であった。当時、訴訟開始令状は1坪あたり6ペンスで発給されていた
から、単純計算すれば、12,740通発給されていたことになる。
加えて、きわめて大雑把な推測ではあるが、Early Chancery
Proceedingsに従ってカウントする限り、大法官府裁判所への訴えは16
世紀になってようやく1年間に1,000件を越えるものであったことが分
かる。大法官府裁判所への訴えが全体として増加傾向にあったとはいえ、
コモン・ロー裁判所における訴訟件数との問には、依然として大きな隔
たりがあったのである。
(52) 45715世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
さて、大法官府裁判所では、誰が何を訴えたのであろうか。以下、訴
状の考察を通じて大法官府裁判所への訴えの内容の検討を試みよう。
第2節 訴訟の内容:「主たる事実」と「訴訟原因」
すでに指摘したように、N. Pronay、 E.G. Henderson、 F. Metzger
やJ.A. Guyなどの先行研究の成果が利用可能であるし、窮saゾ
EαrlッC肋πcθrッProcθθ4‘ηg8は、 Early Chancery Proceedingsに含
まれる史料に関する多くの情報を含んでいる。しかしL競。ゾEαr砂
0ん侃。θrツ.Procθθd‘ηgs}こは若干の問題があった。たとえば、 PRO分類
番号C1/9/152について、ゐ鋭q/1ヲαrZッ0んαηcθr:y.Procθθdlηgsの記載
を見ると、訴えの内容は「BartonやWhitiwellにおける家屋敷および
土地の持分について」であり、地域は「ケムブリッジ」と表記されてい
く う
るが、Haskettによれば、この記述は地域(ケムブリッジ)や占有形態
は正確であったとしても、主たる事実は2つの要素から構成されたもの
であった。すなわち第一に、被告は、原告が限嗣不動産権回復訴訟を提
起するために必要な書類、つまりユースが設定された限嗣不動産権に関
する特定の書類を留置していること。第二に、不動産権の不適切な譲渡
とそれ,に伴う不動産権設定、すなわちユースの設定目的の中で要求され
く う
た不動産権の設定が拒否(refusa1)されたことである。さらに争点に
ついては、少なくともユースと法律文書の留置という2点が書かれるべ
きところであるにもかかわらず、そのような具体的な内容についての言
及がなされていない。つまり石S亡(ゾEαr砂0んαηCθr:yPrOCθθ読ηg8が
示す「家屋敷および土地の持分について」という項目からは、物的財産
に関する事柄であることは推測できても、この事例が法律文書の留置に
関するものであるのか、ユースに関するものであるのかを弁別すること
はできないのである。言い換えれば、石s亡(ゾEαr砂σんαηcθrッ
PrOCθθ読η9Sには、訴えの内容が具体的に示されていない事例が含まれ
ている、ということである。
九大法学89号(2004年)456 (53)
加え.て、多くの先行研究では、五競(ゾEαr砂σんαηCθrッ.PrOCθθd説9S
のように主たる事実が2つ以上ある場合、どのように整理したのかにつ
いて、明確な判断の基準や仕方を明らかにしておらず、研究者ごとに分
類項目が異なるため、各々の研究結果を比較することが難しいだけでな
く、同じ項目であっても項目の括り方に違いが見られることも多かった。
たとえばN.PronayとE.G. Hendersonの分析を比べれば分かるよう
に、同一史料を用いても、結果に大きな差が生した理由は、おそらくこ
のような事情であったに違いない。
このような問題を解消するために1990年代にThe Early Court of
Chancery in England Project(以下ECCEプロジェクトと表記する)
が採用した方法は、主たる事実とそれを修正する要素、および訴状を提
く の
起するための訴訟原因という2つのカテゴリーに分けることであった。
T.S. Haskettによれば、 ECCEフ.ロジェクトが取り扱った時期には、
く う
およそ61,000件の事例が存在しており、このうちECCEプロジェクト
が実際に分析の対象にしたのは、6,850件である。その方法は、3∼11
年の期間で区切りうる文書を選び出し、選択された7つの時期を分析す
るというものであった。第1期は1417−24年忌7年間に生じた362件、第
H期は1432−43年の11年間に生じた1,480件、第m期は1456−66年の10年
間に生じた1,562件、第W期は1475−85年の10年間に生じた1,500件、第V
期は1493−1500年の7年間に生じた1,046件、第VI期は1515−8年の3年間
に生じた450件、そして第病期は1529−32年の3年間に生じた450件であ
く う
る。
以上のようにECCEプロジェクトは、20世紀初めに行われた五麟q〆
EαrZッσんαηcerッProcεθd‘ηg8の編集作業以降に行われたEarly
Chancery Proceedingsの分類作業の中で、最も多くの史料の分析を行っ
た共同作業であるが、そもそもEsむ(ゾEαrZッCんαηcεrッProcθθ4‘ηg8
には、先述のような問題が含まれているから、ここではECGEプロジェ
クトの分析結果を、特に15世紀後半から16世紀前半、すなわち盛期から
(54) 45515世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
VI期を中心に詳しく紹介しながら、訴状の内容の分析をすすめることに
したい。
さて「主たる事実」とは、捺印証書や不動産果実あるいはユースが設
定された封の譲渡というような、訴えの具体的な内容を簡潔に示すもの
である。他方「訴訟原因」とは、訴状を提出するに至った理由であり、
事例の核心部分である。つまり「主たる事実」が事実の概要を示したも
のであるのに対して、「訴訟原因」はその事実をもとになされた訴えの
内容ということになる。まず、「主たる事実」についてみていこう。
図2は年代別に主題の変化を示したものである。年代別の特徴を述べ
ると、1450年代から1480年代にかけて、主たる事実の約半分が物的財産
に関することであり、次いで法律文書や金銭に関する事柄が10∼20%を
占めている。ところが1490年置以降になると、法律文書に関する事柄の
割合が全体の約半分を占めはじめ、物的財産に関する事柄は20∼30%、
次いで金銭に関する事柄となる。侵害や人的財産、訴訟手続そして引受
に関する事柄は、いずれも2∼5%にとどまっている。
図2 主たる事実
年
1432−43
1456−66
1475−85
1493−1500
1515−18
1529−32
20
0
40
60
80
翻物的財産
麟法律文書
□金銭に関する事柄
□侵害
■人的財産
睡訴訟手続
醗引受
慶その他
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval English Court of Chancery’, p.296.
100%
九大法学89号(2004年)454 (55)
図3 訴訟原因
年
1432−43
1456−66
1475−85
1493−1500
1515−18
1529−32
20
0
40
60
80
翻物的財産
國法律文書 ロコモン・ロー上の訴訟
□金銭に関する事柄
■侵害 騒人的財産
100%
璽その他
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval English Court of Chancery’, p.301.
く ラ
図3は「訴訟原因」の推移を、年代別にまとめたものである。先に示
した「主たる事実」との違いに注目しながら見ていこう。
「訴訟原因」の内訳を見ると、1450年代から1480年代にかけて、物的
財産に関することが40∼60%を占め、次いで法律文書やコモン・ロー上
の訴訟、金銭に関する事柄、侵害がそれぞれ10%前後∼20%を占めてい
る。これに対して、1490年代以降は、法律文書に関する事柄が4割を占
め、物的財産に関する事柄は10∼20%を占めるに留まっている。それゆ
え、物的財産と法律文書、金銭に関する事柄の推移、および侵害や人的
く の
財産の割合は「主たる事実」とほぼ一致していることが分かる。
次に、各々の項目の詳細について確かめよう。図2aは、1450年代か
ら80年代にかけて、主たる事実の約半分を占めていた物的財産の内訳と
その推移の状態を示している。図の中でユースと示した項目は、ユース
が設定された封の譲渡が拒否されたことに起因する事柄であり、保有財
産とは保有財産に関する何らかの意思を履行しなかったことに関する事
く 柄である。15世紀半ばに物的財産の8割を占めていたユースに関する事
(56) 45315世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
柄は、1490年代に減少し始め、15
世紀末までに全体の約半分まで減
図2a 物的財産(主たる事実)
年
1456−66
少している。これに対して、16世
紀初頭以降の時期には、保有財産
に関する事柄が、全体の約半分を
占めるようになっていることが分
かる。
図3aは、訴訟原因の内訳であ
る。15世紀後半の間の変化につい
1475−85
1493−1500
1515−18
1529−32
0 20
40
60 80 100%
睡ユース 圏保有財産□その他
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval English
Court of Chancery’, P,298.
ては図2aとほとんど同様である
が、16世紀になると保有財産に関
図3a
する事柄が急増していることが特
年
物的財産(訴訟原因)
1456−66
徴的である。
1475−85
これらの2つの図からは、物的
1493−1500
財産に関する事柄についてみると、
1515−18
「主たる事実」と「訴訟原因」と
がほぼ一致しており、15世紀後半
について多かったユースに関する
1529−32
0
20 40 60 80 100%
翻ユース 閣保有財産□その他
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval English
事柄は1490年代に減少し始め、16
Court of Chancery’, P.305.
世紀になると、保有財産に関する
事柄が増加したことが分かる。15世紀末から16世紀初頭にユースと保有
財産の占める割合が、入れ替わった点に着目すれば、この間にユースに
関する事柄を取り巻く状況に何らかの変化が生じた可能性が高いといっ
てよい。また16世紀以降の保有財産の変化に着目すれば、「主たる事実」
に比べて「訴訟原因」が著しく増加していることが明らかであり、本来、
保有財産そのものに関する事柄とは分類されない事例が、保有財産に関
する事柄を根拠に訴えられるようになった、と推測できるように思われ
るのである。
九大法学89号(2004年)452 (57)
1490年前から物的財産に関する
図2b
事柄に代わって増加傾向を示し、
年
「主たる事実」のほぼ半分を占め
法律文書(主たる事実)
1456−66
1475−85
るにいたった法律文書に関する事
1493−1500
柄の詳細を示したのが、図2bで
1515−18
ある。これを見ると、1450−60年
1529−32
0 20 40 60 80 100%
代には、捺印金銭債務証書に関す
躍捺印証書 圃捺印金銭債務証書
る事柄が法律文書に関する事柄の
半分を占めていたが、1470年代以
降は、捺印証書に関する事柄が増
目違約罰付金銭債務証書 E]その他
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval English
Court of Chancery’, P.298,
加し、1490年代以降は実に9割を
占めるほどに増加していることが
分かる。図2で見てきたように、
1490年代以降に法律文書に関する
図3b 法律文書(訴訟原因)
年
1456−66
1475−85
事柄が増加し、主たる事実の半分
1493−1500
を占めるようになったことと合わ
1515−18
せて考えるなら、大法官府裁判所
1529−32
では、この時期に捺印証書に関す
0 20
40
60 80 100%
翻法律文書の留置 翻法律文書に基づく訴訟原因
る事柄が問題となる事例が増加し
た、とみなすことができる。
他方、図3bの「訴訟原因」を
□文書偽造 □その他
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval English
Court of Chancery’, P.305.
見てみると、法律文書に関する事
柄の中で訴訟を引き起こす原因となっている要因は、法律文書の留置が
圧倒的に多い。比率は小さいが、文書偽造など、現在なら刑事事件に含
まれるものも大法官府裁判所で処理されてきたことが分かる。
以上のECCEプロジェクトの分析結果をまとめれば、次のように言
えるだろう。すなわち、1430年代から1480年代にかけての時期には、ユー
スや保有財産に関する事柄によって構成される物的財産に関する訴えが
(58) 45115世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
全体の約半分を、次いで全体の10∼20%を法律文書に関する事柄が占め
ていたが、1490年代以降になると、法律文書に関する事柄が全体の約半
分を占め、物的財産に関する事柄が全体の10∼30%を占めるようになっ
たということである。
物的財産に関する事柄の減少と法律文書に関する事柄の増加という変
化は、決して偶然の一致ではない。というのも、このような変化は、物
的財産に関する合法的でありうる行為を不適切な仕方で行う失当な行為
については、財産権それ自体に関係する直接的な訴訟よりも、証書とい
う記録を用いるというより簡単な方法の利用が普及しはじめた結果であ
る、と理解できるからである。換言するなら、請願者は暴力的な占有侵
奪や家屋への侵入、留置を通じてよりも、捺印証書による契約を欠くこ
とによって物的財産権を失うことが、社会的な懸念として大きくなった
く ということである。このように理解すれば、すでに紹介した先行研究の
中に、ユースなど物的財産に関する事柄と法律文書に関する事柄を同一
項目で扱ったものがあった理由も、了解可能なことになるだろう。
第3節 訴訟当事者の階層的差異
訴状には当事者に関する記述が多く見られるが、網羅的な研究がなさ
れたのはECCEプロジェクトが初めてであり、それ以前は、個々の研
究者がそれぞれの主張を支えるような事実だけに注目が集まりがちであっ
た。あらかじめ、いくつか紹介しておこう。
たとえば、大法官府裁判所の発展要因をユースに関する事例への対応
であると主張したM.E. Averyのように、大法官府裁判所がユースに
関する事柄を処理するようになった理由は、大土地所有者の要望に応え
るためであり、したがって大法官府裁判所は有産階級のための裁判所と
して機能した、などという主張がそれである。つまり彼女は、大土地所
有者が、封建的付随負担や私権剥奪などコモン・ローが規定する厄介な
事柄を回避するために、大法官府裁判所へ訴えを提起したという解釈を
九大法学89号(2004年)450 (59)
く の
提起したのである。
これに対して、大法官府裁判所の発展要因は商業事例の増加であり、
商業従事者が大法官府裁判所を利用したと主張したのがN.Pronayで
く ラ
ある。さらに、大法官Wolseyが、放牧地の荒廃や人口減少を促進する
囲い込みに対する政策として、謄本保有権者の保護を行ったというF.
Metzgerに見られるように、大法官府裁判所の発展を支えたのは謄本
く ラ
保有権者の利用増加であった、という主張もなされた。
しかし上記の先行研究は、いずれの見解も、ECCEプロジェクトのよ
うに、Early Chancery Proceedingsに含まれる非常に膨大な量の史料
における訴訟当事者の具体的な職業あるいは身分について網羅的な調査・
考察を行った上で主張が展開されていたわけではない。そこで、ECCE
プロジェクトの成果に依拠しつつ、この点を確認しておこう。
T.S. Haskettによれば、 ECCE
プロジェクトには、訴訟当事者に
ついてユ8,173人分のデータが含ま
図4
訴訟当事者の男女比
2%
13鋸
く れている。図4で示したように、
このうちの85%が男性であり、13
%が女性、残りの2%がいわゆる
法人(corporate person)であ
る。原告の内訳を見ると、法人を
85%
田男性 図女性 □法人
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval English
Court of Chancery’, p.286。
除けば、79%が男性、21%が女性
である。被告の内訳を見ると、法人を除けば93%が男性、7%が女性で
ある。また女性に限ってみると、その73%が原告として登場し、27%が
被告として登場していた。
次に訴訟当事者の男女比の年代別の推移であるが、T.S. Haskettに
よれば、1430年から1510年代までの間に、男性が11%減少したのに対し
て、女性は55%増加しているという。より詳しく見れば、男性を原告と
する事例が20%増加し、被告となる事例が14%減少している。これに対
(60) 44915世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
して、女性が原告となる事例は30%減少しているのに、被告となる事例
く は実に140%も増加していることがわかる。
この変化は、T.S. Haskettによれば、女性の役割が転換期にあった
当時の社会的変化を反映するものであった。すなわち、遺言執行者が原
告である割合は男性が41%、女性が33%であるのに対して、相続人が原
告である割合は男性が37%、女性が55%という事実が物語ることは、多
くの女性が大法官府裁判所に登場し始めた理由は、亡夫の遺言執行者と
してよりもむしろ、彼女たちの両親あるいはそれ以外の家族の相続人と
してある、という事実にあったという解釈である。過大評価は禁物であ
るが、妻が夫の「動産」に過ぎなかった時代から、独立した財産所有者
に移行し始めた証拠であることは間違いない。
次に、男女別に職業または身分の詳細を見よう。ECCEプロジェクト
によれば、約8,000件のデータが明確な職業または身分を明かしており、
くユ の
そのうちの80%が男性、16%が女性、残りの4%が法人であった。
図5から分かるように、サンプ
ル全体の8割余占める男性の内訳
図5 職業または身分(男性)
は、俗人が43%、聖職位に就いて
8%
いる者が28%、商業に従事してい
21%
る者が21%、世俗の役人が8%で
ある。ECCEプロジェクトは、俗
人と聖職者という区分けをしてい
ないが、世俗の役人や商業従事者
を含めて考えると、俗人が全体の
43%
28%
羅俗人 ■聖職位に就いている者
□商業従事三園世俗の役人
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval English
Court of Chancery’, P.290.
3分の2以上を占めるとはいえ、
聖職位にある者が約3割も占めていることが分かる。
図5aは、男性の43%を占める俗人の内訳を示したものである。エス
クワイアが34%、ナイトが23%、ジェントルマンが18%、ヨーマンが7
%、ハズバンドマンが5%、都市に住む資格を得た市民が5%、奉公人
九大法学89号(2004年)448 (61)
と領主がともに4%となっている。
図5a 俗人(男性)
この時期の領主が、イングランド
4% 4%
社会でどの程度の位置を占めてい
5%
5%
34%
たかは不明であるが、貴族より下
の階層に属する人々が大法官府裁
18%
23%
判所における訴訟当事者の大部分
ロエスクワイア 國ナイト
を占めていたことは明らかである。
■ハズバンドマン n都市在住の市民
囲奉公人 圃領主
男性のサンプルのうち8%を占
める世俗の役人については、図5b
E]ジェントルマン 圏 ヨーマン
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval English
Court of Chancery’, P.290.
が示すように、メイヤーが48%、
ベイリフが26%、エァルドルマン
図5b 世俗の役人(男性)
が16%、ワーゲンが10%であった。
10%
図5cは男性の28%を占めた聖
職位に就いている者の内訳である。
それによれば、clerkと記載され
た聖職者が34%、司祭(priest)
が14%、主任司祭(parson)が12
%、礼拝堂付司祭(chaplain)が
雛灘
16% 雛
48%
26%
圏メイヤー ■ベイリフ
ロエァルドルマン 騒ワーゲン
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval English
Court of Chancery’, P.290.
11%、プリオル(prior)が10%、
大修道院長(abbot)が9%、助
任司祭(vicar)が7%、司教が
3%である。大修道院長や司教が
含まれているとはいえ、全体とし
ては中程度あるいはそれよりも下
位の聖職者の割合が高いことが、
その特徴として挙げられるであろ
う。
図5dに示したグラフは、男性
図5c 聖職位に就いている者(男性)
3%
9%7を
lll。 34%
10%
11%
12% 14%
睡Clerkと記載された聖職者曲司祭
口礼拝堂付司祭
□主任司祭
圖大修道院長
■プリオル
図助任司祭
圏司教
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval Enghsh
Court of Chancery’, P.291.
(62) 44715世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
の21%を占める商業従事者の内
図5d 商業従事者(男性)
訳である。それによれば、織物
6%3%
商が22%、服地屋が18%、食料
至難2%
ぜウ きけビ く
雑貨商が12%、仕立屋が10%、
干物屋(stockfishmonger)が
9%、金細工商と魚屋がともに
7%ずつ、肉屋と醸造者がとも
に6%、皮加工人(skinner)
7% 獅副・、=
“騰 18%
9%
10%1;%
圏織物商 囲服地屋
■干物屋 國金細工商
團醸造者 圏皮下工人
[コ食料雑貨商 □仕立屋
田□魚屋 目肉屋
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval English
Court of Chancery’, P.291.
が3%である。織物商や服地屋
という比較的規模の大きな取引に従事するものの比率が高いといってよ
いだろう。
ところで、1476年に大法官Stillingtonが、外国人商人は大法官府裁
くユ 判所に訴えを提起するべき旨述べた事実が示すように、裁判史料の中に
ユ の
は、外国人の商人が当事者となる事例だけでなく、市場の紛争処理機関
であった埃足裁判所(Court of Piepoudre)から大法官府裁判所へ移
く 送された事例も含まれているが、具体的にどの程度であったかを突き止
めることはできなかった。
訴訟当事者が女性の場合はどうであったか。図5eが示すように、95
%は寡婦、4%がたとえば女子大修道院長や女公爵など高位の階層に属
する者であり、残りの1%が修道女や使用人、絹製品の製造に従事する
者(silkwomen)などである。
図5e 女性
したがって、女性が訴訟当事者
95%
までの間に女性が被告になる事
[]寡婦目高位の階層に属する者□その他
例が140%も増加しているとい
出典:T.S. Haskett,‘The Medieval English
う事実と合わせて考えるなら、 C。u。t。f Chancery’, p.289.
九大法学89号(2004年)446 (63)
女性が訴訟当事者である場合には、寡婦権に関わる事柄をめぐる争いが
増加した、と見てよいだろう。
以上の訴状の分析によって分かったことは、四点に集約できるだろう。
第一に、大法官府裁判所における訴訟当事者は、俗人だけでなく聖職者
も含まれていたこと。第二に、俗人であれば貴族よりも下の階層に相当
する階層、聖職者でいえば司祭を中心とした階層が大法官府裁判所にお
ける主要な訴訟当事者であったこと。第三に、女性が訴訟当事者として
登場する事例の増大が物語るように、いわゆる「寡婦権」の中身・解釈
が社会的に変化しつつあったこと。第四に、大法官府裁判所における訴
訟当事者には、外国人を含む商業従事者も含まれていたことである。要
するに、大法官府裁判所を利用した人々とは、「イングランド社会にお
ロ ける中層階層(middle rank)に属する人々」、つまり、中世から近世
への移行期に、新たに富と力を蓄えつつあった階層であったと理解でき
るのである。
このような人々からの訴えに対して、大法官府裁判所は「新しい」救
済つまりコモン・ロー裁判所では得られなかった救済を提供してきたわ
けだが、それは、ローマ・カノン両法に精通していたとはいえ、法慣習
や判例の集大成であり、イングランドの法体系の中核であるコモン・ロー
に基づいてなされる法の解釈や裁判手続に精通していない大法官が、そ
の「良心」にもとつく「裁量」によって与えたものであった。形式的に
は、そのとおりである。だが、ここで考えなければならないことは、法
律家養成機関であるインズ・オブ・コートにおいて正規の法曹教育を受
けていなかった大法官であるにもかかわらず、彼らが、社会の人々が必
要とし、社会の大部分の人によって受け入れられるような「新しい」救
済を提供しえた理由は、いったいどのようなものであったかという問題
である。大法官府裁判所は、どのような救済のプロセスを用意していた
のであろうか。言いi換えれば、コモン・ロー法曹の大半がもっともであ
ると納得し、さらに必要であると判断するような大法官府裁判所による
(64) 44515世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
救済は、どのように提供されたのであろうかという問題であり、大法官
府裁判所によるエクイティとコモン・ロー裁判所におけるコモン・ロー
とは、いったいどのような形で調和するように工夫されていたか、とい
う点の理解にかかわる問題でもある。
注
(92)T.S. H:askett,‘The Presentation of Cases in Medieval Chancery
Bills’, in W.M. Gordon&T.D, Fergus(eds。),五θgα♂Hlsむ07ッ加むんθ
ル俊zん加g(London:The Hambledon Press,1991), p。12.
(93)W.P, Baildon(ed.), SθZθc60α8εs lη0ん侃。θrッ, pp. xxix−xxx.
(94)J.H. Fisher,℃hancery and the Elnergence of Standard Written
English in the Fifteenth Century’,ερθcμ如1η」/1 Jbμrηα♂cゾ伽読θひαZ
S亡認1θ8,vol.52(1977), pp.870−99. M. Richardson,‘Henry V, the
Enghsh Chancery, and Chancery English’, Sρεc厩ωηL∴A JbμrπαZ oノ
四脚ひαZS翻伽s, vol.55(1980), pp.726−50. A. Mclntosh, M.L,
Samuels and M. Benskin (eds.), A五‘ηg協亡‘c A亡Zαs(ゾ五αむθ
Mθ読αωαZEπgZ‘sん, vol.1 (Aberdeen:Aberdeen University Press,
19$6),pp.49−50.
(95) T.S. H:askett,℃ountry Lawyers?The Composers of English
Chancery Bills’, P. Birks (ed.),7んθゐ漉(ゾ腕θ五αω(London:.The
Hambledon Press,1993),』pp.12−4.
(96) J.A. Guy,‘The Development of Equitable Jurisdictions,1450−1550’,1,
P.82.
(97) P.Tucker,‘The Early History of the Court of Chancery:A
Comparative Study’, Tんe Eηgご‘sんH‘s亡or‘cαZ Rω‘εω, vo1,115(2000),
P.794.
(98)石8亡q!EαrZッ0んαηcθrッ.Procθθ読ηg8, vol,1, pp。263−318. PRO分類
番号ではC1/27−9。ただしC/1/30−1にも1465年分が含まれているので、
実際にはもう少し多いと思われる。
(99)五‘s古q!EαrZッ0んαηcεrッProcθθ4♂πgs, vo1.2, pp.169−480. PROの分
類番号ではC1/50−67。
(100)斑晶q!EαrZyσんαηcθrッProcθε4‘ηgs, vo1。4, pp.1・459. PROの分類
番号ではC1/236−377。
(101)E8亡(ゾEαrZッσんαηcθ削Procεθd‘ηg8, vol.5, pp.1−612, PROの分類
番号ではC1/378−600。
(102)L‘s亡qブEαrZッCん侃。εrッProceed‘ηgs, vol.6, pp.1−199. PROの分類
九大法学89号(2004年)444 (65)
番号ではC1/601−94。
(103) 五‘s亡 (ゾjE7αrZy eんαηcθrツ Proce(∼6泥π98, vol. 6, PP. 241−364. 五,‘8オ oゾ
EαrZy Oん侃。θrッProcθ認ピπg8, vo1。7, pp.1−101, PROの分類番号では
C1/713−823。ただし1533−8回すべてについては、 PRO分類番号C1/713−
934であり、本統計はその半分から推定した。
(104)この手数料収入の起源については、以下のM.Blatcherの文献を参照。
M.Blatcher, Tんθ0ωrオ(ゾ」κ読8冶Bθπoん1450−1550(London:The
Athlone Press,1978), p.16ff.
(ユ05)J.H. Bakerは、人民訴訟裁判所の仕事は「1490年からユ560年までの問
にほぼ倍増した」と推定している(J.H, Baker,%ε0#br4研sωrッ。ゾ
むんθLαωscゾEη8Zαη(ろp.143)o
(106)E.W. Ives,‘The Common Lawyers in Pre−Reforma七ion England’,
p.170.
(107) 五θむむers αη(1 Pαpθrs, Forθ‘g7τ απ4.Z:)oη3θs蕊。 oゾ亡んθrθ‘91z cゾーπθη「=y
㎜(second edition), vo1,1(London:Her Majesty’s Stationary
Office,1920, reprinted by Kraus Reprint Ltd. in 1965), no.579.
(108) 五εs亡 oノ●五1αrらノCんαηcerツ1⊃rocθθ(Zεπgs, vol.1, P,59.
(109)T.S. Haskett,‘The Medieval English Court of Chancery’, p.284.
(110)T.S. Haskett,‘The Medieval English Court of Chancery’, pp.291−
2.ECCEプロジェクトは、1991年にカナダのヴィクトリア大学において
編成されたプロジェクトであり(‘玩d.,p.281)、1417−1532年の期間につ
いて、Early Chancery Proceedingsに含まれる事例の詳細かつ広範な分
析を行った。
(111)T.S. Haske七t,‘The Medieval English Court of Chancery’, p.282,
(112)T.S. Haskett,‘The Medieval English Court of Chancery’, p.283.
(113)1475−85年のグラフの合計が100%を超えていることに、’注意を喚起して
おかねばならない。この原因は、おそらくECCEプロジェクトがデータ
の記載を間違ったか、あるいはT.S. Haskettが論文にデータを記載する
際に問違ったかであろうと思われるが、筆者はどの数値が間違っているの
か確定できなかったので、とりあえずT.S. Haskettが記したデータの数
値をそのまま引用していることを、お断りしておく。
(114)なお、訴訟原因の方だけに見られるコモン・ロー上の訴訟(action at
law)という項目は、 T.S. Haskettによれば、たとえば適切な手続がさ
またげられていることによって、コモン・ローでは正義に闘った救済を得
られないことを理由とするものを意味している。
(115)T.S. Haskett,‘The Medieval English Court of Chancery’, p.305.
(116)以上の点については、T.S. Haskett,‘The Medieval English Court of
(66) 44315世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
Chancery’, p.297を参照。
(117)M.E. Avery,‘The History of the Equitable Jurisdiction of
Chancery before l460’, P.139.
(118)N.Pronay,‘The Chance11Qr, the Chancery, and the Council at the
End of the Fifteenth Century’, p.96.
(119)F.Metzger,‘The Last Phase of the Medieval Chancery’, p.85.
もっともこの政策は、小土地保有者が囲い込みの方を選んだ結果から分か
るように、囲い込みの抑止にはならなかったようである。
(120)T.S. Haskett,‘The Medieval English Court of Chancery’, p.286.
(121)T.S. Haskett,‘The Medieval English Court of Chancery’, p.287.
(122)T.S. Haskett,‘The Medieval English Court of Chancery’, p.289.
(123) 8θZθc亡 Cα8θ8 〃z 孟んθEっσcんθg召θr σんαmわθr (vo1.2), p.32.
(124)たとえば、ヘンリー8世治世4年(1512)トゥリニティ開廷期に、ジェ
ノヴァの商人から訴えは、次のようなものであった。
「正しく慈悲深い閣下(1Qrdship)に恐れながら申し上げます。慎み深
い請願者ジェノヴァの〔商人〕Baptist Grelleは、ロンドンの織物商
William Lambertの代理人であり問屋(factor)であるThomas Baker
と、1510年11月6日に、特定の商品に関して、請願者は〔それが〕William
Lambertの利用と利益に関わることを知りながら、先のThomasによっ
て彼の主人の名で書かれ、彼の商業上の署名(marchantes signe)が付
された証書を受領しました。その証書によれば、〔彼は〕164ポンド15シリ
ング4ペンスをフランドルで通用する貨幣(Flemmysche)で、請願者に
支払うか、あるいは1511年のカレーの市場に同じ証書を持ってくる人に支
払うかでありました。そしてその市場において、William Lambertも先
の問屋その他誰も、164ポンド15シリング4ペンスを、その一部でさえも、
請願者に支払わなかったし、それ以降も支払っていません。そして請願者
は幾度もWilliam Lambertに164ポンド15シリング4ペンスの支払を請求
しましたが、いつも彼は正義とよき良心に反して、それを拒否しました。
そしてそれに関して請願者は、この地におけるコモン・ローによる救済を
持ちません。というのは、その契約は海を越えた場所で当事者によって締
結されたものであり、その金銭はそこで支払われるべきだからであります。
したがって、あなたの慈悲によって、William Lambert宛てに、彼に
特定の期日に、そしてあなたの慈悲によって定められる罰を加えるという
条件で、国王の大法官府における国王陛下の面前に出廷し、訴えの事実に
答弁し、正義とよき良心に従って定められることを命じる罰金付召喚令状
を発給して下さい」(Baptist Grelle v. William Lambert, in SθZθc亡
σαses coπcerη,‘ηg醜e Lαω!晩rcんαrしむAD.1239−1663(vo1.2),H. Hall
九大法学89号(2004年)442 (67)
(ed.), Tんθ pμうZ‘cα亡‘01τs oゾ 古んθ 8θZ(オθη Socεθ亡:y, vol. 46 (London:
Selden Society,1930), P.139)。
(125)8εZθc古Cαsθscoπcεr痂1zgむんθLαωMθrcんαπ亡(vol.2),pp.113−21,134−5。
(126)T.S. Haskett,℃onscience, Justice and Authority in the Late−
Medieval English Court of Chancery’, p.162.
第3章 大法官府裁判所における救済の手続
「良心」を根拠に大法官の「裁量」に依拠してなされた大法官府裁判
所における救済の手続のなかで、もっとも特徴的で重要なものは「罰金
付召喚令状」の交付である。
罰金付召喚令状とは、もし命令に従わなければ、通常罰金100ポンド
くユ を科すという条件を付して、被告あるいはその弁護士に対し特定期日に
裁判所に出廷するように要求する令状のことである。この令状について
は、1508年に大法官府裁判所において、「大法官府において始審令状
(originall)なしに与えられた判断、たとえば罰金付召喚令状を欠いた
判断は、訴訟開始令状を欠いた人民訴訟裁判所における判断と同様に無
ロ ラ
効である」と表明されたことから分かることだが、訴訟開始令状がコモ
ン・ロー裁判所における救済手続の開始にとって不可欠であったように、
罰金付召喚令状は、大法官府裁判所における救済手続の開始にとって不
可欠なものであった。したがって、罰金付召喚令状が成立すると判断さ
れない限り、大法官府裁判所における救済はありえないことになるが、
コモン・ロー法曹St. Germanは、罰金付召喚令状の特徴を次のよう
に解説している。
大法官府において用いられる罰金付召喚令状によって、人は身柄を拘束
されるわけではなく、出廷を警告されるだけである。…中略…罰金付召喚
令状によって身柄を拘束されるわけではないが、彼が最終的に出廷しない
場合、謀反と見なされ、身柄を拘束されることになる。さらにまた、罰金
(68) 44115世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
付召喚令状に基づく判決に従わない場合、大法官府では、それに従うまで
(129)
彼を収監する以外の執行方法は存在しなかった。
罰金付召喚令状そのものは、人の身柄を拘束するわけではなかったが、
この令状によって召喚された者が召喚に応じなかった場合には、身柄が
く ヨの
拘束されることになるから、この令状によっていったん訴訟が開始され
れば、被告は実質的に拘束され続けるというわけである。
さらに、コモン・ロー訴訟手続の際に用いられる訴訟開始令状とは異
なり、この罰金付召喚令状に召喚理由が記載されることはなかったから、
被告は出廷するまで召喚された理由を知り得なかった。コモン・ロー訴
訟手続に従って救済を得ようとする場合、自らの主張に適合する訴訟方
式を選択し損なえば敗訴しかありえなかったという事実を想起すれば、
この令状はどのような訴訟にも用いることができた点で、有用性が著し
く高かったはずである。
罰金付召喚令状の起源は、W.M. Ormrodの研究によれば、14世紀
半ばまで遡るという。すなわち、彼によれば、すでに1353年には出廷し
なければ「罰金を科す(sub pena)」という文言が移送令状に記されて
おり、1354年になると、従わない場合には「罰金を科す」という文言を
記した令状が発給されていた。さらに、1367年には、財務府裁判所が罰
く ラ
金付召喚令状を裁判手続として用いていた、というのである。
このように、大法官府裁判所における救済が求められるようになった
理由として、罰金付召喚令状がもつ強制力の利用が可能であったことと
並んで、従来の研究では、費用が安いという点が指摘されることが多かっ
く う
た。つまり、コモン・ロー裁判所へ訴えを提起するよりも、大法官府裁
判所へ訴える方が安価であったというのである。
だが、大法官府における国璽の捺印による手数料収入を担当した整理
箇局の会計簿を見る限り、16世紀前半にコモン・ロー裁判所における訴
くユ 訟開始令状は、1通あたり6ペンスで発給されていた。これに対して罰
九大法学89号(2004年)440 (69)
金付召喚令状の費用は、16世紀前半の場合、1通あたり2シリング6ぺ
くユ ンスであった。もとより訴訟全体にかかる費用は、1通あたり7ペンス
で発給されていた訴訟進行令状がどの程度必要になるか次第で変わって
くるとはいえ、少なくとも始審令状として見る限り、罰金付召喚令状を
もちいた方が安かったと結論することはできないのであって、もう少し
立ち入った考察が必要であるように思われるのである。
第1節 罰金付召喚令状の成立と発給に際してなされた二つの議論
すでに指摘したように、この時期には、Early Chancery Proceedings
以外に大法官府裁判所の正式裁判記録は残されていないのだが、Year
Bookや私選判例集の中には、数こそ多いとは言えないが、大法官府裁
判所における裁判に関する記録が残されており、その検討を進めるうち
に、従来の研究では注目されてこなかった事実が判明した。すなわち、
第一に、罰金付召喚令状の成立・発給をめぐって大法官府裁判所内部で
議論が展開されていたこと、さらに第二に、この議論は、大法官府裁判
く 所だけでなく財務府会議室でも行われていたという事実である。大法官
府裁判所における救済手続開始の発端となる罰金付召喚令状の成立と発
給は一人大法官が裁量で決定していたわけではなく、大法官府裁判所内
部の議論によって決定されていたこと、しかも同様の議論が、コモン・
ロー裁判所の裁判官が参加した財務府会議室においてもまたなされてい
たという事実が意味することは、いったい何であろうか。大法官府裁判
所における救済手続の中身を確かめるために、以下まずいくつかの事例
に基づいて具体的に検討しながら、大法官府裁判所および財務府会議室
のそれぞれにおける罰金付召喚令状の成立・発給をめぐる議論を再構成
することにしよう。
大法官府裁判所における議論
くユ 1468年の事例
(70) 43915世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
被告が原告に封(benefice)の獲得を信頼によって約束したにもかか
わらず、被告が原告の知らないうちに当該封を他者に譲渡してしまった
から、これに対して原告が罰金付召喚令状の発給を求めた、というのが
本事件の概要である。被告が原告に行った信頼に基づく約束が有効であ
るかどうかをめぐって、約束の性質をめぐり、次のような議論が行われ
ている。
〔上級法廷弁護士〕Genny:信頼に反することについては、教会裁判所へ
訴えるべきであると思われる。このことは、ちょうど私がひとりの女性に
結婚の約束をし、私がそれを果さなかった場合に、この裁判所〔大法官府
裁判所〕ではなく教会裁判所に訴えるように〔なされるべきである〕。
大法官〔Stillington〕:信頼に反すること〔に関して〕、カノン法上の不
正による訴えなら、彼はそこ〔教会裁判所〕に訴える義務があるが、しか
しこの事例においては、彼は約束の不履行によって損害を被っているので、
彼はここ〔大法官府裁判所〕で救済される。
〔上級法廷弁護士〕Genny:約束が捺印契約である場合に、彼が捺印証書
を欲しないのは彼が愚かだからである。このため〔約束が捺印契約である
場合に〕、彼は我々の法によって救済されうる。というのは、もし私があな
たに家を建てる約束をし、それを実行しなかったら、あなたは罰金付召喚
令状によって救済を得るからである。
大法官〔Stillington〕:もし私がある者に信頼に基づいて封の譲渡を行い、
彼が私の意図に反するように行為したなら、私はあなた方〔コモン・ロー
法曹〕によって救済されない。というのは、それは私の意図に反する行為
を行う者に封を譲渡した私の愚かさだからである。しかし私はこの裁判所
〔大法官府裁判所〕において救済される。というのは、神は愚か者の保護者
(137)
だからである。
本件に関する記録をたどるかぎり、大法官Robert Stillington
(d.1491)と、後に王座裁判所の裁判官になる上級法廷弁護士William
くユ Genny(d.1483)を除いて、議論の参加者の身元は不明であるが、大法
官府裁判所において、大法官が上級法廷弁護士と議論をしていることは、
否定すべくもない。
九大法学89号(2004年)438 (71)
次に議論の内容であるが、大法官府裁判所における救済は聖職者であ
る大法官によってなされてきたというG.Spenceなどによる指摘を想
くユ 起すれば、本件はさらに興味深いものとなろう。というのは、この事例
は大法官府裁判所と教会裁判所とコモン・ロー裁判所との関係について
の言及を含んでいるからである。つまり、約束が捺印証書に基づく場合
には、捺印証書がありさえずればコモン・ロー裁判所において救済され
るのだから、そもそも捺印証書を入手しなかったことが愚かなことなの
である。だが大法官Stillingtonによれば、この捺印証書を受領しなかっ
た者を保護するのが大法官府裁判所なのであって、神はコモン・ロー上
の救済手段である捺印証書を入手し忘れた「愚か者」を保護する、とい
う根拠に基づくとされている。
もちろん、単なる信頼だけに基づく約束といっても、たとえば神への
誓約のようなものもあるから、この点を考慮するなら、上級法廷弁護士
のGennyが上の引用の中で指摘しているように、教会裁判所が管轄す
ることも可能であったはずである。ところが本件では、大法官は、カノ
ン法上の不正ではなく、約束の不履行によって損害を被ったような場合
には、教会裁判所ではなく大法官府裁判所が管轄すると述べている。教
会裁判所が扱う約束と大法官府裁判所が扱う約束の性質の違いは、この
点の指摘の中に明確に示されている、と理解できるだろう。そうである
かぎり、この判例は、教会裁判所と大法官府裁判所対コモン・ロー裁判
所というP.Vinogradoffが主張した対立図式に反する事例であるとい
く ラ
うことができる。むしろ、この事例から分かることは、約束の扱い方だ
けを取り上げたにしても、コモン・ロー裁判所と教会裁判所、さらに大
法官府裁判所という三つの裁判所が、それぞれのルールにしたがって対
応していたということなのである。すなわち、コモン・ロー裁判所では
捺印証書に基づいた救済が、大法官府裁判所では約束に存する信頼に基
づいた救済が可能であったが、教会裁判所では信頼に基づくだけでなく
カノン法に抵触するような行為が裁かれていた、ということである。
(72) 43715世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
くユ エ 1478年の事例
ある女性が未婚時に信頼に基づく封の譲渡を行い、その後結婚した。
彼女は婚姻中に、封の譲受人が彼女の夫およびその相続人に対して不動
産権を設定する旨記した遺言を作成した。彼女の死後、夫は当該遺言の
有効性を主張して罰金付召喚令状の成立を訴え、この遺言が有効である
かどうか議論されたのであるが、本件についてのYear Bookの記録は
次のようなものである。
〔上級法廷弁護士〕Tremayle:それ〔遺言〕は有効であると思われるか
ら、封の譲受人は当該遺言に従って不動産権を設定しなければならない。
というのは、それは妻が夫の同意を得て遺言執行者を指名するのと同様で
あるからであり、彼女は夫の同意によって封の譲受人が夫に対して不動産
権を設定すべきであるという遺言をなしうるからである。したがって良心
は、これが実行されるということを十分に命じうる。
〔上級法廷弁護士〕Vavasour:あなたの言っている事例と本件とは大い
に異なる。妻が夫の同意を得て遺言執行者を指名する事例は多い。たとえ
ば、彼女が未婚時に捺印金銭債務証書を作成していたら、彼女は婚姻中に
夫の同意を得て遺言執行者を指名するであろう。そしてこの場合、遺言執
行者は捺印金銭債務証書に基づく訴権を有するはずである。というのは、
夫は彼女の死後、それに関する訴権を全く持たないからであり、彼の利害
関係は彼女の死によって消滅するからである。彼女は人的財産に関する遺
言も美の同意を得て作成するであろう。というのは、我々の法において妻
の特有調度品と呼ばれる衣服についても、たとえそれが夫の動産であると
しても、夫の同意を得て遺言を作成しうるはずだからである。しかし本件
における法はそうではない。というのは、法は婚姻中に彼女によってなさ
れた事柄が有効であると認めないからである。もし彼女が婚姻中に彼女の
土地に関して封の譲渡を行うなら、それは無効である。これによって明ら
かなことは、婚姻中に彼女によってなされた法定不動産相続に関わること
は、すべて無効だということである。なぜなら寡婦立入令状は「生きてい
る問は、彼女は誰とも論争しえない」と述べているからであり、このこと
は、婚姻中における彼女の行為や遺言が無効であることを証明するに十分
である。
九大法学89号(2004年)436 (73)
同様の趣旨の見解〔を述べる〕Jay:仮に遺言が有効だとすれば、妻の
法定不動産相続は、婚姻中の夫によって移転される恐れが生じるであろう。
なぜなら、婚姻以前に譲渡された封については、夫による移転はいかなる
効果も持たない、という意図のもとでなされているからである。加えて、
もし遺言が有効であるとすると、相続人は不利益を被ることになってしま
うだろう。
〔上級法廷弁護士〕Sulyardはこれを認める。
大法官〔Rotherham〕:その遺言は有効でありえない。というのは、彼
女は婚姻中に夫を伴わずに土地を得たり、あるいは失ったりしていないか
らである。コモン・ロー上、彼女はそのようになしえず、しかも彼女によっ
てなされたすべての行為は完全に無効であるから、良心という法(1aw of
conscience)’においても同様にまた、彼女の遺言は無効でありいかなる効
(142)
果も持たない。
この議論においては、Trernayleを除いて全員、遺言は無効であると
いう見解であったことをまず確認しておこう。
さらに資料から分かる範囲で討論者の経歴を確認すると、大法官
ロ Thomas Rotherharn(1423−1500)はりンカン司教であったが、それ以
ロ の ロお 外のThomas Tremayle、 John Vavasour(d.1506?)、 John Sulyard
く (d.1488)は上級法廷弁護士である。Richard Jay(d.14930r 94)に
ついては、この事件が生じた時点での詳細は不明だが、1486年に上級法
廷弁護士となっていることから推察するに、当時はグレイズ・インで学
ロ んでいたコモン・ロー法曹であったと思われる。また本件における発言
者のその後の経歴を見てみると、Vavasourは1490年に人民訴訟裁判所
の裁判官に、Sulyardは1484年に王座裁判所の裁判官になっており、
Trernayleは1481年に上級法廷弁護士よりは上位にあり、その後コモン・
ロー裁判所の裁判官になることが多い勅撰上級法廷弁護士になっている。
したがってこの事例から判明することは、大法官府裁判所では、罰金
付召喚令状が成立するかどうかの判断をめぐる議論が、大法官と上級法
廷弁護士すなわちコモン・ロー法曹の中でも比較的上層に位置する人々
(74) 43515世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
との問でなされていた、ということである。
議論の内容に着目すると、主要な論点はユースの設定を意図した遺言
の有効性についてであり、本件では既婚女性による行為の法的有効性が
議論の対象になっている。上級法廷弁護士Vavasourが主張するよう
に、当時、既婚女性によって行われた行為は、コモン・ロー上は無効で
あるとされていた。つまり上級法廷弁護士Jayが述べているように、
女性が婚姻中に行った行為はすべて夫の意図によるものである、と判断
されていた。このことから、妻の地位にある者は、コモン・ロー上その
法的な存在を夫のもとに統合されていたのであり、その間、彼女は法的
には無能力であるとみなされていた、ということが分かる。
このようなコモン・ロー上の原則が、大法官府裁判所ではどのように
処理されたかが問題であるが、残念なことに、この史料には議論の末に
どのように決定したかは記載されていない。しかし議論の中で大法官が、
良心という法もまた本件において争点となっている遺言を有効と認めて
いない、と述べている事実に注目すれば、コモン・ロー上の原則が大法
官府裁判所でも承認されたことが推測できるだろう。しかしその場合で
も、そもそも大法官が、法というものをコモン・ローと良心という2つ
の次元で捉え、それぞれにおいて判断されるものと理解していることだ
けは確かなことである。
ラ
1493年頃の事例
1493年頃、ある者が罰金付召喚令状に従って大法官府裁判所に出廷し
てきた。訴状によれば、受益者と結婚した原告は、婚姻の際に妻の父親
と、父親の死後、彼が収益取得権を得ることで合意していたが、父親の
死後も、その収益は父親のかつての妻であり、遺言執行者である女性と
彼女の現在の夫が継続して得ていた。これに対して父親のかつての妻と
彼女の現在の夫である被告らは、父親の最終遺言を根拠にその権限の正
当性を主張した。本件に関して、Cary11が判例集の中に残した大法官
九大法学89号(2004年)434 (75)
府裁判所における議論は以下のとおりである。
被告の弁護士である〔上級法廷弁護士〕Rede:訴状に含まれている事実
に基づけば、罰金付召喚令状は被告らに対して成立しない。というのは第
一に、彼〔原告〕は、我々を自由土地保有権の保有者であるとは主張して
いないからである。つまり〔原告は我々被告を〕利益収得者と主張してい
るにすぎず、したがって我々は彼に当該土地における不動産権を譲渡でき
ないからである。さらに言えば、たとえ我々が当該土地の不動産権者
(tenants of soil)であったとしても、依然として彼〔原告〕は、我々が、
彼〔原告〕の封の譲渡人のユースが設定された封の譲受人であるために、
彼〔原告〕のように、父親のユースが設定された封の譲受人を通じて〔そ
れを〕有してきたことを明示しているわけではない。というのは、そうで
なければ、売買を行った当事者のユースが設定された封の譲受人によって
なされた売買に基づいて、私が不利になる罰金付召喚令状は成立しないか
らである。
同意見の〔上級法廷弁護士〕Jay:不動産権者でない大修道院長に対し
て、とりわけ彼が譲渡した後であれば、持ち戻しの方式に対する(contra
formam collationis)訴権が成立するが、これは制定法の中で示された文
(149)
言による。そして寡婦産権者が自らの不動産権を賃貸した場合、コモン・
ローにおいては、不動産殿損に関わる令状が当該の女性に対して成立する。
これらの事例において、告知令状は最初の訴えに関与した出たちに対する
判決を執行するために、現実の占有者に対抗するように成立する。しかし
ながら本法廷では、そのような訴訟手続上の令状(process)は、ここ〔大
法官府裁判所〕では被告である利益収得者が不利になる決定を根拠に、現
実の占有者に対抗するようには、成立しないのである。
〔上級法廷弁護i士〕Kebell:あなた方の議論はすべて間違った考えに基づ
いている。というのは、あなた方の議論によれば、罰金付召喚令状は現実
の占有者以外に対して成立しないということであり、その理由は、土地の
保有者でない者はいかなる不動産権も譲渡できない、ということにある。
しかし、もし私が私のユースを設定した封の譲受人に封を譲渡し、彼らが
当該土地を〔さらに〕譲渡するのであれば、たとえ彼らが土地に関して何
も有していないとしても、私あるいは私の相続人が、譲渡を行った者に対
して罰金付召喚令状を入手することは疑いのないことである。
Redeが彼の話を遮って言う:あなたはその事例において、土地以外につ
(76) 433 15世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
いてのあらゆることを、金銭で回復するべきである。
Kebell:私はあなたに、譲渡は判決を変更しないと言っているのである。
というのは、譲渡を行った者に対する判決は、土地の回復であるはずであ
り、彼らが合法的な不動産権を譲渡するまで彼らは収監されるべきだ、と
いうものだからである。さらに言えば、もし自らのユースを設定した封を
譲受人に譲渡した者が、私に土地を売ったなら、私は、当該の不動産権が
私に渡るように、彼が不利になるような、彼の封の譲受人を参加させるた
めの罰金付召喚令状を手に入れることになろう。
大法官〔Morton〕は両方の事例を承認した。
Kebe11:あなたが受益者によって作成された遺言によって土地を請求し、
同時に我々が、彼が我々と行った売買によってそれを請求した場合、我々
の間にある主張と証拠の食い違いはすべて、他でもなくこの場において解
決できる。もし私が信頼に基づく封の譲受人に対して土地を請求し、誰か
が当該土地を保有しているとか、当該土地における特別な利益を有するな
どと主張するなら、私は彼の主張〔に基づく手続を〕停止させるために、
彼が不利になるように罰金付召喚令状を入手することになろう。とはいえ、
彼は今のところはまだ自由土地保有権者ではない〔ので罰金付召喚令状は
入手しない〕。さらに言えば、罰金付召喚令状は信頼に基づく封の譲受人の
不動産占有侵洋帆が不利になるように成立するし、同様にまた完全な譲渡
を行ったところでは、封の譲受人が不利になるように成立する。
(150)
大法官は同意した。
くユうユ この事例で登場する発言者は、大法官John Morton(c.1420−1500)、
上級法廷弁護士のRobert Rede(d.1519)、上級法廷弁護士Richard
くユらの
Jayや上級法廷弁護士Thomas Kebellである。 Redeが被告側の弁護
士であったのに対して、原告側の弁護士が誰であったかについて、資料
には何も書かれていない。したがってJayあるいは:Kebe11、発言の内
容から推測する限りKebellが原告側の弁護士として出廷していたとい
う可能性も否定できないが、いずれにしても上級法廷弁護士が当事者の
弁護士として出廷していたことは確かである。このことから、この時期
の大法官府裁判所における裁判には、コモン・ロー法曹が参加していた
ことは間違いない、と判断してよいことになろう。
九大法学89号(2004年)432 (77)
次に議論の内容を見ていこう。本件では、罰金付召喚令状は誰に対し
て成立するのか、という点をめぐって討論が行われている。罰金付召喚
令状は現実の土地の占有者以外の者に対しても成立するか否か、これを
めぐって議論が展開されているのである。被告側の弁護士であった上級
法廷弁護士Redeや上級法廷弁護士Jayは、罰金付召喚令状は土地の現
実の占有者以外に対しては成立しないという見解を提示しており、特に
Redeの場合、訴状の中で原告は、被告が自由土地保有者ではなく利益
の取得者であるとしか言っていない点を理由に、被告は土地における不
動産権を彼に譲渡することができない、と主張している。
ところがこれに対して上級法廷弁護士:Kebe11は、罰金付召喚令状は
土地の現実の占有者以外にも成立する、とRedeやJayの見解に異議を
唱えている。というのも、Kebe11によれば、自らとその相続人のため
のユースを設定した封の譲渡を行った後に、譲受人が当該土地の権利を
移転してしまった場合、封の譲渡人およびその相続人が移転を行った譲
受人に対して、罰金付召喚令状を入手しうることは疑問の余地がないこ
とだったからである。さらに彼によれば、罰金付召喚令状は、信頼に基
づく封の譲受人の不動産権の占有を侵奪した者や、信頼に基づいて完全
な封の譲渡を行った譲受人に対しても成立するから、罰金付召喚令状は
土地の現実の占有者以外に対しても成立する、と理解されていた。
結局のところ大法官は、上級法廷弁護士Kebellの見解に同意したわ
けだが、この事例に関して言えば、大法官は上級法廷弁護士の主張を聞
き、それに同意を与えているだけであって、実質的な議論は、コモン・
ロー法曹である上級法廷弁護士同士の間でなされていることが明らかで
ある。
財務府会議室における議論
この時期の財務府会議室は、制定法によって規定されたものではなかっ
たから、その意味では非公式のものであった。そのせいであろうか、財
(78) 43115世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
務府会議i室において全裁判官の面前で(touts les iustices)、という記
述が多く見られる一方で、判例によっては、単に裁判官らが集められて、
ヨラ
とだけ書かれたものもあるし、全裁判官ただしRede裁判官は除く、と
く 但書付のものも存在する。さらに、王座裁判所と人民訴訟裁判所のそれ
くユ それの首席裁判官だけという事例もあれば、全裁判官と上級法廷弁護
くユ の ロ 士、あるいは全裁判官と財務府裁判所の首席バロン、全裁判官と上級法
くユ 廷弁護士と財務府裁判所の全バロン、全裁判官と上級法廷弁護士とアプ
レンティスという場合も見受けられる。
このことから推測する限り、財務府会議室での議論という場合には、
コモン・ロー裁判所の全裁判官によるものであるという基本形がおそら
く存在したが、必ずしも決まった形態はなく、その時に応じて参加者が
異なるものであった、と思われる。
く ラ
1467年の事例
本件はもともと大法官府裁判所において訴えられたものであり、事実
の概要は次のようなものであった。ある男性が未婚女性のユースが設定
された封を譲渡されたが、その後、女性は結婚し夫を得た。女性とその
夫は金銭を得るために、当該土地を第三者に売り、女性が金銭を受け取っ
た。またこの夫妻は、ユースが設定された封の譲受人に、第三者に対し
て当該土地に不動産権を設定するように求め、そして彼は第三者に譲渡
した。その後、夫が死亡し、夫の死後、妻は彼女のユースが設定された
封の譲受人に対して、罰金付召喚令状の発給を求めて訴えを提起した。
これに対して封の譲受人はこれまでに生じた事柄をすべて明らかにした。
しかしこの彼の主張に対して、彼女は訴答不十分の答弁を行った。こう
してこの事件は、財務府会議室において、大法官や両裁判所の裁判官の
面前で申し立てられることになった。そこでの議論は次のとおりである。
九大法学89号(2004年)430 (79)
原告の〔弁護士〕Starkey:この答弁は十分ではない。というのは、〔コ
モン・ロー上〕妻が行ったことは無効だからである。彼女が土地を占有し、
しかも夫妻が封の譲渡を行ったのであれば、彼女は夫の死後、寡婦立入令
状を入手することになる。なぜなら、婚姻中に妻によって行われた封の譲
渡は無効だからである。同様に本件では、良心にかんがみて、夫妻による
この売買は完全に夫の行為であって、妻の行為ではない。
法廷にいた者全員が同意した。
それから大法官は言う:妻は婚姻中に同意(consent)を与えることがで
きない。恐れや強制の下で何かがなされたとしても、それを同意と呼ぶこ
とはできない。既婚女性が行うことはすべて、彼女が夫を恐れて行ったも
のであると言われる。そして妻が売買の代金を受領したことは配慮されな
い。なぜなら彼女はそれから利益を得ることができないからであり、利益
を得るのは夫だけだからである。
大法官は〔原告の弁護士〕Starkeyに聞く:あなたは何を求めているの
か。
Starkey:我々は、当該土地に関して我々の要求が満たされるまで、被
告が収監されることを望む。
大法官:あなたは当該土地を占有している買主に対する罰金付召喚令状
を入手しているから、彼から土地を回復できるはずである。
Yelverton〔王座裁判所裁判官〕:彼〔被告〕が妻に対して詐欺や不法行
為を行ったことを意識しているなら、彼に対する罰金付召喚令状は成立す
る。しかし、そうでなければ成立しない。
(160)
大法官:彼〔被告〕は女性が結婚していることを知っていたのだ。
大法官府裁判所での議論の詳細は分からないが、この事例が、大法官
府裁判所における訴えが財務府会議室に移送された事例であることは明
らかである。このように、もともと大法官府裁判所で処理中の事件が、
財務府会議室に移送されたという点に注目すれば、両者の関係は、財務
府会議室が大法官府裁判所のいわば上訴機関のような役割を果たしてい
たということもできるであろうが、ここで確認しておかねばならないこ
とは、罰金付召喚令状の成立・発給をめぐる議論は、大法官府裁判所以
外の場所、つまり財務府会議室でも行われていたという事実である。
(80) 42915世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
この議論の参加者については、法廷にいた者全員の身元は分からない
が、大法官の他に、後に上級法廷弁護士となるHulnfrey Starkey、王
座裁判所の裁判官William Yelvertonが議論に参加していることが分
くユ かる。原告側の弁護士であったStarkeyは、この事件の後の1478年に
上級法廷弁護i士に、そして1483年には財務府裁判所の裁判官であるバロ
ンに任命されていることから、事件当時は、インナー・テンプルあるい
くユ くユ う
はグレイズ・インに所属するコモン・ロー法曹であったと思われる。
本件で議論されていることは、妻が婚姻中に行った行為が有効である
か否かである。弁護士Starkeyや大法官が述べたように、コモン・ロー
上は妻が行った行為は、夫に対する恐れのもとで行われたことであるか
ら、妻自身の行為とは言えず、それゆえ無効であった。すでに見てきた
事例のうち、本件と同様に既婚女性の行為について議論した大法官府裁
判所における1478年の事例では、結論が書かれていなかった。この史料
でも、罰金付召喚令状を用いた大法官府裁判所における救済は可能であ
るかどうか、という問題に対する結論は書かれていないのだが、同じ点
をめぐる議論はYear Bookの中に事例として収録されているので、紹
くユ 介しておこう。
〔1467年の〕財務府会議室において、大法官の面前で、人民訴訟裁判所の
首席裁判官Danby、人民訴訟裁判所裁判官Chokke、王座裁判所の
Yelvertonによって、次のことが認められた。ある男性が自らとその相続
人のためのユースを設定した封を譲渡し、娘を得た後に死亡した。その後
その娘は結婚し、彼女は夫の同意のもとで、当該土地を他者に売り、不動
産権を設定した。この場合、彼女は夫の死後、罰金付召喚令状を入手でき
る。というのは、既婚女性は婚姻期間中、自由ではないので、彼女は同意
を与えることはできないからである。つまり自由のないところに同意はな
いというわけであり、しかも彼女はその売買によっていかなる収益も得て
いないからである。というのは、金銭が受領された時、それは完全に夫に
帰属していたことになるからである。そのため、女性が自らのユースを設
定した封を譲渡した後に結婚して子どもを得、譲受人に、自らが死んだ後
九大法学89号(2004年)428 (81)
には、夫に生涯不動産権が設定される旨伝えた後に死亡した場合、夫はこ
の遺言を理由に罰金付召喚令状を得られない。もし彼女が結婚前に第三者
に債務を負い、封の譲受人にその収益から債務の弁済を依頼していたら、
罰金付召喚令状は成立するであろうか。
Danbyは言う:成立する。
さらに彼らは言う:私が自分のユースを設定した封を他者に譲渡し、さ
らにその者が別の者に一定の金額でそれを譲渡した場合に、この第三者が
譲渡された当該の封に私のユースが設定されていたことを知っているなら、
私は間違いなく第三者に対する罰金付召喚令状を入手する。
〔上級法廷弁護士〕Catesby:もし妻が〔他者である〕私に、〔彼女の〕
夫の動産を与え、そして遺言執行者を設定するなら、彼女は依然として当
該動産に対する侵害に関わる訴権を持っていることになる。〔このことは〕
く 遺言者の存命中であれば、彼の権利に反していることになるのだが。
本件で議論に参加しているのは、人民訴訟裁判所の首席裁判官
くユ ラ くユ の
Robert Danby、人民訴訟裁判所の裁判官Richard Chokke、王座裁判
所の裁判官Humfrey Yelverton、上級法廷弁護士のJohn Catesbyで
ロ ある。この事例では、財務府会議室でなされた議論にコモン・ロー裁判
所の裁判官が参加していることが、先の事例よりもさらに明瞭に窺われ
る。
この1467年の事例は既婚女性の権利について論じているわけだが、大
法官府裁判所における議論のうち、1478年の事例も既婚女性の権利につ
いて論じたものであったことを想起すれば、本件の議論は、大法官府裁
判所における先の事例をめぐる議論に先行して行われたものであったと
いう点が、さらに注目に値する。先述の大法官府裁判所の事例の検討か
ら明らかなように、妻の行為は夫に対する恐れのもとで行われたもので
あるがゆえに既婚女性は法的に無能力とされていたコモン・ロー上の理
解が、大法官府裁判所でもそのまま踏襲されていた。だがこの事例から
わかるように、大法官府裁判所でも同意されたこのようなコモン・ロー
上のルールは、じつは財務府会議室において、コモン・ロー裁判所の裁
(82) 42715世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
判官を交えた議論を通じて形成されていた、という事実が存在していた
のである。
くユ 1482年の事例
1482年の財務府会議室における事例に関する記録は、大法官による次
の発言から始まる。
財務府会議室において、両裁判所の全ての裁判官、そして数人の上級法
廷弁護士やアプレンティスも出廷していた面前で、イングランドの大法官
であるヨーク大司教は、罰金付召喚令状の発給に関する助言を求めた。そ
して彼は、商人法上の捺印金銭債務証書において、人はいかに他者を義務
づけるものなのか、という訴えがなされたと述べた。〔金銭の支払を約束し
た〕誓約者〔原告〕が金銭を支払ったにもかかわらず、彼にはいかなる免
責も〔なされ〕ないばかりか、受約者〔被告〕は〔商人法上の捺印金銭債
務証書に基づく〕執行を求めた、というのである。さらに〔大法官は〕言
う。盟約者〔被告〕は、すでに彼に支払われたものについて審理されても、
拒まないであろう。〔この場合〕私は罰金付召喚令状を発給するべきであろ
(170)
うか。
これは大法官Thomas Rotherhamが、財務府会議室において、王
座裁判所と人民訴訟裁判所の全裁判官、上級法廷弁護士やアプレンティ
スなどコモン・ロー法曹の中でも、とりわけ最上位に位置する者たちの
面前で発した問いである。驚いたことに大法官は、大法官府裁判所にお
ける良心に基づく救済を可能にする罰金付召喚令状を発給するべきか否
かの助言を、コモン・ロー裁判官や上級法廷弁護士らコモン・ロー法曹
に求めていたのである。そしてこの問いに対して、コモン・ロー法曹は
次のように対応している。
(171)
〔王座裁判所裁判官〕Fairfax:罰金付召喚令状を発給し、2人の証言に
よって記録事項を無効とするのは理性に反すると思われる。というのは、
捺印金銭債務証書という形式のもとで債務を負った者は、債権者による債
務消滅証書の作成、あるいは債務の免責がない限り、債務から解放されな
九大法学89号(2004年)426 (83)
いからである。たとえば、〔債務者が〕捺印金銭債務証書によって〔支払を〕
義務づけられた場合でも、債権者に債務消滅証書を作成してもらってはじ
めて債務であることがはっきりするから、実際には、この債務の支払に拘
束されないのである。したがって、それ〔債権者に債務消滅証書を作成さ
せないこと〕は彼の愚かさであると思われる。
大法官は次のように言う:捺印金銭債務証書に反する罰金付召喚令状を
発給することは、大法官府における習慣的な行為であり、さらにまた、無
遺言不動産相続によるにせよ、そうでないにせよ、信頼に基づく封の譲渡
における譲受人の相続人が存在する信頼に基づく封の譲渡を理由に、罰金
付召喚令状を発給することは、慣例になっていることである。というのは、
我々はそのような事例を、大法官府における記録の中に見出すからである。
(172)
王座裁判所首席裁判官Huse:私が最初に裁判所にやってきたとき、それ
は30年近く前のことになるが、ある者が信頼に基づいて他者に対して封を
譲渡し、〔その後〕彼が当地を占有したまま死亡し、その相続人が無遺言相
続を行った場合、罰金付召喚令状は成立しないというのが、裁判所におけ
る一般的な慣行であった。そうであるべき理由はたくさんあった。という
のは、罰金付召喚令状によって、無遺言相続が大法官府において2人の証
言によって否定されえたからであり、同時に、理性や良心に反するこのよ
うな無遺言相続や多くの無遺言相続を無効にすることが可能であったから
である。大法官府における証人の証言によって数人の者から相続権を剥奪
するよりも、自らの封の譲受人が当該土地を保有したまま死亡することを
許容する者〔封の譲渡人〕に当該土地を失わせる方が、より害悪が少ない
と思われる。商人法上の捺印金銭債務証書や捺印証書の事例において、彼
自身がネグリジェンスを行い、しかも彼が原告の債務消滅証書を得るかあ
るいは彼〔原告〕によって免責される以前に支払を強要されない場合には、
大法官府における2人の証人の証言によって記録事項や捺印証書契約に記
された事項を無効にするよりも、ネグリジェンスによって生じたものを払
い戻させることの方が、より害悪が少ない。これは法に旧ったことであり、
(173)
これこそが法である。
この事例から分かることは、大法官府裁判所における救済の可否を大
法官が独自に単独で決定しているというよりはむしろ、コモン・ロー法
曹の助言を得て行っていることである。このような大法官による罰金付
(84) 42515世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
召喚令状発給の可否をめぐる問いかけに対して、王座裁判所の裁判官
Guy Fairfax、王座裁判所の首席裁判官Wi11iam Huseは、コモン・
ローの知識をもとに助言を与えている。大法官の問いかけに対して最初
に発言をしたFairfaxは、捺印金銭債務証書だけが債務を免責できる、
とコモン・ローに基づく見解を示しただけだが、王座裁判所の首席裁判
官であるHuseによる助言は、それだけには留まっていない。というの
は、Huseは、彼がこれまで見てきた法の変遷を示しながら、記録事項
や捺印証書に示された事柄を無効にすることよりも、要求された債務を
再び支払った後でそれを払い戻させる方が害悪は少ないと主張し、これ
こそが法であると主張しているからである。つまり彼は、法のあるべき
姿、何が法に適つたものであるか、究極的には何が法であるのか、とい
うことの判断をも含めた広い助言を大法官に与えている、と理解できる
のである。
第2節 訴訟維持保証人
大法官府裁判所における救済に不可欠であった罰金付召喚令状の成立・
発給をめぐる議論にコモン・ロー法曹が参加していた事実が明らかになっ
たが、そうであるなら、大法官府裁判所へ訴えを提起する準備段階です
でにコモン・ロー法曹が参画していたのではないか、という疑問がわく
であろう。これを確かめるため、15世紀以降の多くの訴状に記載されて
いる訴訟維持保証人の職業または身分に着目してみよう。
訴訟維持保証人とは、当該訴訟の維持に関する原告の保証人のことで
あり、通常、訴状の最後に2人の人物の名前が職業または身分とともに
記載されている。たとえば、J.H. Bakerによれば、 PRO分類番号C1
/50に記載された史料に記載された訴訟維持保証人のうち、史料分類番
号の若い順から登場する最初の100人の内訳は、32人がロンドンのジェ
ントルマン、34人がロンドンのヨーマン、25人がロンドンの商人、エス
クワイアが2人、ロンドン以外の地域のジェントルマンが5人、そして
九大法学89号(2004年)424 (85)
ロブの
2人が記載なしであった。
図6
訴訟維持保証人(ロンドン
この1474−85年前間に提出され
のジェントルマン)
た訴状のうちの約3分の1を占め
17%
たロンドンのジェントルマンの詳
細を明らかにしたJ.H. Bakerの
分析をグラフにしたのが、図6で
46% ≡≡≡… 10%
一≡≡ 9%
18%
口1480年のアトーこのリストに記載
ある。全391人の訴訟維持保証人
のうち、66人(17%)が1480年の
アト口口のリストに記載された者
麟リストには記載されていないが明らかにアトー二
□法律にかかわる役職
國インズとの関わりあり Eヨその他
出典:J.H. Baker,‘Lawyers practising in
Chancery,1474−1486’, p.57 [n.10].
であり、別の40人(10%)は1480年
のアトー二のリストには記載され
ていないが、アトー二であることが明らかな者であった。つまりJ。H.
Bakerが示したサンプルの約4分の1が、コモン・ロー裁判所におけ
るアトー二であったというわけである。さらに別の35人は、リンカンズ・
インの書記を含む、ある種の法律にかかわる役職についていた。残りの
者を確定するのは難しいが、70人近くの者が、インズ・オブ・コートや
インズ・オブ・チャンセリと何らかの関わりを持っていたようである。
もちろんこのことだけから、彼らがコモン・ローに精通していたという
ことはできない。しかし、インズ・オブ・コートにおける講義経験者を
含む専門的な法知識を有する者が26人も含まれていたことを考慮すれば、
当時、大法官府裁判所に訴えを提起しようとする者が、コモン・ローの
知識のある者を訴訟維持保証人にすることは珍しいことではなかった、
と言うことができるであろう。
さらに、1486年にイリー司教John Alcock宛に提出された訴状
(PROの分類番号はC1/79−82)361通の中に記載された訴訟維持保証人
く の職業または身分を分析した結果は、次のとおりである。ロンドンのジェ
ントルマン31人の詳細をを見る限り、後に上級法廷弁護士になった
John Yaxleyの他、8人ないし9人が人民訴訟裁判所や王座裁判所に
(86) 423 15世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
く う
おけるアト一二、少なくとも他の4人はインズ・オブ・コートのいずれ
くユ の
かに所属していた。この事実から、訴訟維持保証人を務めたロンドンの
ジェントルマンのうちの約半分の人物が、コモン・ロー法曹ないしイン
グランドの法曹界と関係のある人物であったことが分かる。
以上、訴状に記載された訴訟維持保証人の職業または身分の詳細から、
多くの場合、人民訴訟裁判所や王座裁判所におけるアトー二、あるいは
いずれかのインズ・オブ・コートないしインズ・オブ・チャンセリと何
らかの関わりを持つ者、すなわちコモン・ローに関する専門的知識を有
する者が、大法官府裁判所における救済の手続に関わっていたと結論す
ぐ う
ることができるだろう。
第3節小括
以上の分析から明らかになったことは、次のとおりである。第一に、
罰金付召喚令状は必ずしも安価であったとは言えないこと。第二に、大
法官府裁判所では、上級法廷弁護士が訴訟当事者の弁護士として出廷し
ていただけでなく、大法官は、被告の弁護士である上級法廷弁護士を相
手に罰金付召喚令状の成立・発給をめぐる議論を展開していたこと。第
三に、大法官府裁判所での議論が移送された先の財務府会議室では、コ
モン・ロー裁判所の裁判官が罰金付召喚令状の成立・発給をめぐる議論
を行っているばかりか、大法官は、罰金付召喚令状の成立・発給に関す
る助言を、上級法廷弁護士やコモン・ロー裁判所の裁判官に求めている、
という事実である。このように、上級法廷弁護士やコモン・ロー裁判所
の裁判官などコモン・ロー法曹の中でも最上位に位置する人々が、大法
官の面前で、罰金付召喚令状の成立・発給をめぐる議論を展開していた
という事実から分かることは、大法官府裁判所における救済を可能にす
る罰金付召喚令状の成立・発給の決定に、最上位のコモン・ロー法曹が
間接的ではあれ関わっていたという事実なのである。
もちろん上述の事例だけから、大法官府裁判所における罰金付召喚令
九大法学89号(2004年)422 (87)
状の成立・発給の可否をめぐる議論がつねにコモン・ロー法曹とともに
なされ、彼らの助言を受けて大法官によって決定されていた、と一般化
することは性急にすぎる可能性を否定できない。しかしこれらの事例か
ら分かることは、大法官だけ、あるいは大法官を中心とした大法官府の
役人だけが罰金付召喚令状の発給に関わっていたのではなく、罰金付召
喚令状の成立・発給をめぐる議論にコモン・ロー法曹が関わっていた、
という事実の存在は否定しようがない、ということである。
さらに、訴状に記された訴訟維持保証人の職業または身分を調べた結
果、多くの場合、人民訴訟裁判所や王座裁判所のアトー二、あるいはイ
ンズ・オブ・コートやインズ・オブ・チャンセリと何らかの関係を持つ
者であったことが明らかになった。このことから、ある程度のコモン・
ローの知識を有する者が、大法官府裁判所における救済の手続に訴状作
成の段階から関わっていたと判断できることになる。
以上の点を考慮するなら、大法官府裁判所における良心に基づく救済
は、大法官が一人で行っていたわけでも、あるいはW.BarbourやN.
Pronayが指摘したように、大法官を中心とする聖職者たちによって独
自になされてきたわけでもなく、むしろコモン・ロー法曹が深く関わり、
コモン・ローのルールとの一定の整合性を保つ努力を経ていたからこそ、
大法官の「裁量」にもとつく判決であっても広く社会的に受け入れられ
た、という可能性を指摘できることになる。大法官府裁判所は、そのか
ぎりでは先例や判例に厳格に従うことによって法を維持しようとしたコ
モン・ロー裁判所よりも「裁量」の余地が広かった分だけ、新しく成立
した社会慣行や慣習を大法官の「良心」にもとづいて正義として認めや
すかったに違いない。大法官府裁判所は、そのかぎりでは、歴史的な変
化・発展の過程で、厳格な慣習にもとつく規範・手続を遵守し続けるコ
モン・ロー裁判所を補い、こうして、イングランド独自の慣習法の体系、
つまり広義の「コモン・ロー・システム」を支えるエクイティ裁判所と
して独自の歴史的役割・機能を遂行したのである。
(88) 42115世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
注
(127)訴状には、大法官が定めたと書かれており、この点からは金額は必ずし
も決まっていたわけではなかったと思われる。というのは、第一に、ラン
カスター王朝下では、40ポンド、60ポンド、100ポンドのいずれかであっ
たからである(M.E. Avery,‘An Evaluation of the Effectiveness of
the Court of Chancery under the Lancastrian Kings’, 7んθ 五αω
@鋭θrZッRω‘θω, vol.86(1970), p.87)。第二に、 Wolseyの時代に
は、200ポンドを課すことさえあったからである(J.A, Guy(ed.),
0んr‘s亡opんθr8亡 Gθ7’ηzα7zo7z Oんαηcεrッα7z(1S亡α乙μむθ, p.68)。
(128)R隊)or6s(ゾ(フαsθ8う:y Jbんη0α7ッZZ(voL 2), J.H. Baker (ed。),7んθ
pμうあ。α亡め7z8 q!亡んθ8θ♂(1θ7z 80cεθ亡:y, voL l16 (London:Selden Society,
2000),p.578.
(129) エ)ocむorα1z48亡μolθ7z古, P.326.
(130)「エクイティは対人的に働く」というエクイティ上の格言は、もともと
この罰金付召喚令状の性質に由来すると思われる。このようなエクイティ
上の格言は、R. Francisの著作によって知られている。 R. Francis,
,Mακ伽S(ゾEの砂,00♂ZθC古θ4加m渦編proひθ4うッσα8θ8,幅(ゾ亡んθ
BoOん8(ゾ亡んeうθ8む加伽r‘亡ッ,加亡んθHピ9ん00晒(ゾ0んαηCθ削
(London,1728), in J.H. Baker(ed.), EηgZゴsんゐθgαZ 80%rcεs,θs8θη一
磁♂00ητπ∼0η五αωrθ8θαro勧ooZSαηd r乖rεηCεωorんS,θりσC媚加9乙αω
R印)orむ8, Lθ9‘8♂α亡‘oη, rθZα翻7zg 亡。 むんθ Pθr‘o(1 Z)(プbrθ 1800 (Leiden:
Inter Documentation Company),なお、この著作に含まれる格言の一
部は、大阪谷公雄監修・植田淳著『エクイティの法格言と基本原理』(晃
洋書房、1996)の中に訳出されている。
(131)W.M. Ormrod,‘The Origihs of the S酌1⊃θηαWrit’, B協θ伽(ゾ
亡んθZη8乙記μ亡θ(ゾ11‘sむor‘cαZ 2究θ8θαz℃ん, vo1.61 (1988),PP.11−20.
Ormrodの研究以前は、次の2つの説が有力であった。第一は、 John
Walthamによる考案であるとする説である。 Walthamとは1381年忌ら
1386年まで大法官府主事を務めた人物であるので、この説に従うなら罰金
付召喚令状は1381年以前に作られたということになる(G.Spence,77んθ
E(1個口αうZθ」μr‘84‘cむε01z〔ゾ診んθOo%r乙qノ(フんαπcθr:y, vo1.1, P.338[n. b])。
これに対して第二は、Palgraveのいう1364年という日付の罰金付召喚令
状の存在である (W.P. Baildon(ed,), SεZecむCαsεs‘ηCん侃。εry,
P.xiv)。
(132)たとえば、J.H。 Baker,.4η∫鷹ro4μo古‘oπめEη8’Zおん五θgαZ H68亡07ッ,
pp.103−4を参照。
(133) 、乙ε亡むθrs α1z4∫)αPθrs, jFbrθ‘9π αη(9 Doηzθ8翻。(ゾ亡んθrθ‘97z oノ’2艶ηry
九大法学89号(2004年)420 (89)
㎜(second edition), vol.1, nos.109,579, and 3315.
(134)小山貞夫「請願裁判所素描一絶対王政期イングランドにおける『貧者
のための裁判所』一」『絶対王政期イングランド法制史抄説』(創文社、
1992)、148頁。
(135) 82Zθc古 0α8θs‘η 亡んθ五1κcんθ(∼μεrσんα7ηわθr (vol.1),p. xiv.
(136)Year Book, Paschal term,8Edward IV, plea 11, folio 4.
(137)Year Bookには、 Deus est procurator futurorumと書かれている
が、文意から考えると、P. Vinogradoffの主張するように、 Deus est
procurator faturorumの間違いであると解する方が適切であろう。Year
Book, Paschal term,8Edward IV, plea 11, folio 4.
(138)Gennyとは、1463年に上級法廷弁護士に、その後、1481年のイースター
開廷期までに、王座裁判所の裁判官に任命された人物である。
(139)G。Spence,71乙e E(1認亡αわZθ」μrεs(1‘c亡めη,(ゾ仇e Oαzr亡(ゾ0んαπcθry,
p.338.
(140)P.Vinogradoff,‘Reason and Conscience in Sixteenth.Century
Jurisprudence’,71ze.乙αω Qααr古erZッ」Rθひεεω, vo1.24 (1908), p.377.
(141)Soμrcθs cゾE1τgZ‘sんLθgαZ H‘sむor:y’1)rピびα亡θ.乙αω古01750, J.H. Baker
&S.F.C Milsom(eds.)(London:Butterworth,1986), pp.99−100.
(142) 1’b‘(1.
(143)Thomas Rotherhamは、この事例の後の1480年から1500年の間ヨーク
大司教を務めている。
(144)Thomas Tremayleはミドル・テンプルに所属し、1478年のトゥリニティ
開廷期に上級法廷弁護士に任命され、1481年に勅撰上級法廷弁護士に任命
された。
(145)John Vavasourは、インナー・テンプル所属のコモン・ロー法曹で、
1487年6月に上級法廷弁護士、1490年に人民訴訟裁判所の裁判官になった
人物である。
(146)John Sulyardは、リンカンズ・インに所属し、1477年に上級法廷弁護
士、1484年に王座裁判所の裁判官に任命された。
(147)Richard Jayはグレイズ・インに所属し、1486年に上級法廷弁護士に
任命された。
(148)E叩or68 cゾ0α8θ8わッ,ノbhη0αrlyZ♂(vo1。1), J.H. Baker (ed.),7んθ
PμうZ‘cα亡‘oηsq!むんe SθZ(オθη80c‘θ亡y, vo1.115 (London:Selden Society,
ユ999),pp.ユ32−3,
(149)持ち戻しの訴権を定めた制定法によれば、国王やその祖先によって創設
された大修道院長、小修道院長、慈善施設やその他修道院の保管者が、彼
あるいはその祖先によって与えられた土地を譲渡するなら、当該土地は国
(90) 41915世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
王の手中に収まることになる。つまり土地は国王の手中にあり、彼の命令
によって保有されるべきであるので、当該土地を買った者は、財産を回復
しえなくなるばかりか、当該土地と彼が支払った金銭を失うことになる。
さらに修道院が、伯やバロンなどの貴族によって創設され、譲渡された土
地であれば、持ち戻しの方式に対する令状によって、当該土地の占有
(1and in demesne)を回復することになる。翫α亡碗θs(ゾ亡んθRθα伽, vo1.
1,P.91.
(150) R昭)or亡s oゾσα8θ8 6ツ Jbんπ 0αr:y〃 (vol.1), PP.132−3.
(151)Mortonとは、ヘンリー7世のもとで、カンタベリー大司教、大法官、
枢機卿など要職を歴任した人物である。Thomas Moreが若い頃、彼につ
かえていたこともあり、『ユートピア』の中にも度々登場する。
(152)Kebe11とは、インナー・テンプル所属のコモン・ロー法曹であり、1486
年に上級法廷弁護士に任命されている。
(153) 『んθRqρor乙s(ゾS‘r Joんηβk)θZzηα1τ (vo1.1), PP.226−7.
(154)Rθpor診80ゾCαsθsわ:y JoんηCαr:y〃 (vol.2), p.721.
(155) Rqっor亡8 q!σα8θ8 ど)y Joん7z Cαr=yZZ (vol.2), PP.537−8.
(156) RθPor診s oゾ●Cαsθ8 ど)ツ Jloん1z Oαry〃 (vol. 1),P.10.
(157) 771Leノ>b亡e600んq/SかJloん几」Por亡, P.74.
(158) ∫ヒθPorむ8 qブCαsθ8 う二y Jbん7z Oαrツπ (vol.2), P.696.
(159) 80%rcθε(ゾEπ9あsん五θ9αZ 1五860rツ’。Pr加αεθゐαω亡01750, PP.98−9.
(160)二七.
(161)Yelvertonは、1439年に上級法廷弁護士に、1443年に王座裁判所の裁判
官になったが、1461年のエドワード4世の即位によって政権を握ったヨー
ク王朝下では、裁判官の名簿からはずされた。
(162)J.H. Baker,7■んθOr4θr cゾSθがθαπ古8αむ,Z:,αω,ノ1 cんroη‘cZθqブcrθα一
乙ε0π8,ω励rεZαむθ4古θκ亡Sα認αんど8亡orεCαZ厩ro伽0亡‘0η,8θZ4θη
80c‘e亡ニソszzp∫)Zθηzθη古αr:y 8θr‘θ8, vo1.5 (London:Selden Society,1984),
p。164 [n.5].
(163)Starkeyのように上級法廷弁護士になる以前の段階で、大法官府におい
て弁護士活動を行っている者も多かったようである(J.H. Baker,‘Law−
yers practising in Chancery 1474−1486’, 7んθ Jloμr7zαZ oゾ .Z:’θ9α♂
Hε860rツ, vol.4 (1983), P.54)。
(164) 8θZθcむ 0α8εs ε1z 古んθEっσcんθ9μθr σんαηzわθr (vo正。2), PP.12−3。
(165) ∫6ピ。τ.
(166)Danbyとは、1443年に上級法廷弁護士に、1452年に人民訴訟裁判所の
裁判官に、そして1461年にエドワード4世が即位するとすぐに人民訴訟裁
判所の首席裁判官に任命された人物である。
九大法学89号(2004年)418 (91)
(ユ67)Chokkeは、1453年に上級法廷弁護士に任命され、エドワード4世の即
位から6ヶ月後の1461年に、人民訴訟裁判所の裁判官に任命された人物で
ある。
(168)Catesbyはインナー・テンプル所属で、1463年11月に上級法廷弁護士
になり、1469年に勅撰上級法廷弁護士に、1481年に人民訴訟裁判所の裁判
官になった人物である。
(169) Sθ♂θc亡 Cα8θ8 εη 亡んθEκcんθ(1ωεrσんαηzわθr (vol.2), PP.53−4.
(170) S〔∼♂θcむ Cαsθ8 〃τ 古んθEκcんθ(1z4er Oんαη36θr (vo1.2), P.53.
(171)Fairfaxとは、1463年に上級法廷弁護士になり、いつ裁判官になったの
かについての正確な記録はないが、Year Bookに初めて王座裁判所の裁
判官として記録されたのは、1477年ということである。
(172)グレイズ・イン所属のWilliam Huse(d.1495)は、1478年に上級法廷
弁護士に、1481年に王座裁判所の首席裁判官となった人物である。
(173) 8θZεc亡 Cαses ‘π 古んθEκcん2gzんεr Oんα7γz6θr (vol.2), pp.53−4.
(174)J,H. Baker,‘Lawyers practising in Chancery 1474−1486’, p。57[n.10].
(175)すでに指摘したことだが、この史料は名宛人ごとに編集したものである。
(176)John Botelerについては、人民訴訟裁判所のアトー二であった人物の
可能性と後に人民訴訟裁判所の裁判官になった人物の2つの可能性がある。
現段階ではどちらに該当するか判断することはできないが、いずれであっ
たとしても、少なくともコモン・ロー法曹である点に変わりはない。
(177)J.H. Baker,‘Lawyers practising in Chancery 1474−1486’, pp.75−6.
(178)上級法廷弁護士が大法官府裁判所において弁護士活動を行っていたこと
からも分かるように、この時期にはまだ大法官府裁判所独自のアトー二は
いなかったようである。実際、G,W. Sandersが、「大法官府においての
みアト一二」(G.W. Sanders, Or伽r8 q!亡舵HlgんCo厩(ゾCん侃。θrッ
αηdSむα魏εSqμんθRθα♂肌rθ♂α伽泥む0σんαπC2rッ,〃0配むんεEα漉θS亡
Pθrど。(1 亡。 古んθPresε鷹 丁‘配θ, vo1.1 (1845), in J.H. Baker (ed.),
翫9♂」8ん五ε9α♂80αrcθS’θ8Sθ漉α♂σ0πmOη五αωrθ8θαroん亡00♂8α掘
r〔卿rθηCθωorんS,θκc鋸‘π9五αωR¢por‘S,五ε9‘sZα亡ε0η, rθZα伽9亡0むんε
ρθr‘odδ⑳rd800(Leiden), p.10)であったという六書記が、国王の
特許状によっていわば法人格を与えられた法曹団体としての地位を承認さ
れ、自由土地保有権も獲得したのは、1539年の制定法によってであった。
(92) 41715世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
むすび
以上、本論文でおこなってきた考察の結果は、おおよそ以下のように
整理できるであろう。
大法官府裁判所が行ってきた救済について、コモン・ローに精通して
いない聖職者が独自の判断に従って救済を提供する大法官府裁判所にお
ける法はコモン・ロー裁判所における法と相容れない、と述べるコモン・
ロー法曹が当時いたことは確かである。しかし史料を丹念にフォローし
た結果、大法官府裁判所は形式的な欠陥に比われることなく、良心や自
然法に従って救済を提供する国王の裁判所として上位の性質を持つ機関
であり、しかもコモン・ロー裁判所が救済を提供し得ない事例を、罰金
付召喚令状を用いて処理する機関であるという見解が、大法官とコモン・
ロー法曹の大半に共通した認識であったことも明らかになった。それゆ
え、コモン・ロー法曹による大法官府裁判所の救済に対する批判が一般
的であった、という通説的な理解は再考される必要がある。
また、コモン・ロー法曹が大法官府裁判所における救済に対して不満
を抱いた要因として指摘されてきた、コモン・ロー裁判所の事例の大法
官府裁判所への流入について言えば、特に15世紀後半については、大法
官府裁判所も人民訴訟裁判所も増加傾向を示していることが明らかであ
るから、コモン・ロー裁判所の事例が大法官府裁判所へ流入した結果と
して大法官府裁判所の事例が増加したのだ、という可能性を指摘してき
た先行研究は必ずしも支持できない。
増加の要因となった新しい救済を求めた訴えの内容の多くを占めたの
は物的財産と法律文書に関する事柄であった。さらに1480−90年代にな
ると、法律文書に関する訴えが物的財産に関する訴えを上回りはじめる
から、財産権それ自体に関する直接的な訴訟よりも、証書を用いるとい
うより簡単な方法が利用され始めたことが推測される。訴訟当事者の職
業または身分を見ると、俗人ではエスクワイアやナイト、商人など貴族
九大法学89号(2004年)416 (93)
より下の階層、聖職者であれば司祭を中心とした階層の人々、すなわち
イングランド社会において中層階層に属する人々であった。
大法官府裁判所が救済を提供するプロセスの解明を試みた結果判明し
たことは、大法官府裁判所における救済の提供に不可欠な罰金付召喚令
状を用いた手続は必ずしも安価ではなかったこと、さらに、罰金付召喚
令状の成立・発給をめぐって大法官とコモン・ロー法曹の間で議論が行
われていたという事実である。しかも、大法官府裁判所では上級法廷弁
護士、財務府会議室ではコモン・ロー裁判所の裁判官というように、コ
モン・ロー法曹の中でも最上位に位置する人々がそれぞれ議論に参加し
ていただけでなく、王座裁判所首席裁判官Huseのように、法のあるべ
き姿、何が法に適うか、究極的には何が法であるのかなどをめぐって大
法官に助言を与えていた。さらに、大法官府裁判所における訴訟維持保
証人の多くは、人民訴訟裁判所のアトー二をはじめコモン・ローの教育
を受けた者が多いという事実もあった。要するに、大法官府裁判所にお
ける救済のプロセスでは、コモン・ロー法曹が極めて多くの関与をして
おり、彼らもまた重要な役割を担っていたということである。
とすれば、15世紀後半から16世紀前半の時期におけるコモン・ロー裁
判所と大法官府裁判所の関係は、大法官府裁判所に多くの訴えがなされ、
1502年までにイングランドの土地の大部分に設定されていたと言われ
るユースに関する事例の具体的な考察の結果をも織り込んでまとめなお
く せば、以下のようになるだろう。
もともとユースは、コモン・ロー上の権利を生じえないものであった
から、これを保護した大法官府裁判所における救済は、人民訴訟裁判所
の裁判官Moyleが述べたように、コモン・ロー裁判所における土地に
対する法とは異なるものであった。しかし15世紀末になるとコモン・ロー
裁判所は、ユースに関する事例を、リチャード3世治世1年法律第1号
(1484年)に解釈を施すことによって処理し始めた結果、1522年になる
と、ユースはもはや制定法を伴わなくともコモン・ロー上の性質をもつ
(94) 41515世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官府裁判所の役割(高友希子)
ていると人民訴訟裁判所の裁判官が主張するほど、それはイングランド
の法や社会に深く浸透したようである。
だが、その場合、先行研究が指摘してきたように、もしユースがコモ
の
ン・ロー上の脱法行為を行うために設定・利用されていたとすれば、コ
モン・ロー裁判所がユースに関する事例を処理し始めたという事実は、
脱法行為に正当性を付与するためということになりかねない。そうでは
なく、むしろユースを設定・利用する理由が変化したと考えるべきでは
なかろうか。すでに15世紀末になると、ユースは売買取引の担保として
利用され始めていたからである。ユースの設定によって生ずる受益権が、
商人への債務弁済手段として用いられていた事実から分かることは、そ
れが実質的に財産権として機能しはじめていたということである。
以上の点を考慮すれば、大法官府裁判所が、イングランドの中層階層
に属する人々が当事者となることが多かった物的財産や法律文書に関す
る事例を処理してきた理由が、安価な手段を用いていたからだという従
来からの通説は必ずしも正しくない。さらに、聖職者であった大法官が
ローマ・カノン両法の知識を援用しながら良心や自然法に従って「裁量」
的に裁いたとはいえ、そこでの救済のプロセスに、上級法廷弁護士やコ
モン・ロー裁判所の裁判官をはじめアトニーにいたるまで、あらゆる階
層のコモン・ロー法曹が深く関与していたという事実から分かるように、
大法官府裁判所とコモン・ロー裁判所の関係は、分業的かつ共働的な側
面を有していたということである。それゆえ、大法官府裁判所がエクイ
ティとして発展させたこのような機能的構造・プロセスが慣習法の体系
としての「コモン・ロー」全体の一層の発展と拡充をもたらし、15世紀
後半から16世紀前半の時期のイングランド社会が求めた法の新しい発展
を担っていた、と結論できることになる。
注
(179)この点に関する詳しい考察は、高友希子「裁判史料を通じてみたユース
の利用に関する一考察一Capell v. ScQtt(1493−4)を手がかりに一」
九大法学89号(2004年)414 (95)
『ヨーロッパ中世世界の動態像』(九州大学出版会、2004)、569−87頁を参
照のこと。
(180)A.W.B. Simpson,孟研8亡orッqμんθ五α雇五αω(second edition,
Oxford:Clarendon Press,1986),pp.174−5. J.H. Baker,、4rL Zηかα加。む‘oπ
.ぬ翫g♂‘sんLθgα♂研治亡orッ, p.252.戒能通厚『イギリス土地所有権法研
究』(岩波書店、1980)、90頁。小山貞夫「判例を通して見たイングランド
絶対王政期法思想の一断面一ウィムビッシュ対テイルポイズ事件(1550
年)を中心にして一」『イングランド法の形成と近代的変容』(創文社、
1983)、154頁。
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