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ハプスブルグ帝国の再編とスラブ民族問題

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ハプスブルグ帝国の再編とスラブ民族問題
『束・中欧連邦化』構想とスラブ民族の「共存」の試み
ハプスブルグ帝国の再編とスラブ民族問題
問題設定
場久泥子
た。逆に、独立・分離宣言後の人為的国境画定が、戦後新たな民族対立を生むこととなったのである。
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
四五
においては、各民族の「分離・独立」自体が、「|民族.|国家」というZ目・ロの[gのの形成には結びつき得なかっ
歴史的に、民族とその境界線が複雑に交錯し、社会階層のあり方にも、かかる民族の繭層関係が反映していた東欧
に、一九仙紀後半から帝国解体に至るまでの、束・中欧述邦化構想と比族迦励とを検討してゆく。
大戦末期の帝国の解体と諸民族の分離・独立の意味を、歴史的な連続性の中で問い直すということである。そのため
ク帝国の再編、あるいは東・中欧の再編という問題を考察するものである。本論文の問題関心の中心は、第一次世界
、アチア人、ヴォイヴォディナのセルビァ人)の動向に焦点をあて、ルーマニア人の動向と比較しつつ、ハプスプル
においても論じられることの少なかったハンガリー王国内の小規模のスラヴ民族(具体的には、スロヴァキア人、ク
本論文は、東欧の多くの民族を包挟し、支配していたハプスブルグ帝国内のスラヴ民族、中でも、従来、研究書等
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Mamateyan(lRa(lonlirL1I2a,PrincetonUluiv、Press,NewJersey,
1973.P、40.CIlarlesWajatsek,Fro"lTriqjlo〃ノ0ノハeノリWSノwe)lM
AyOjlmノ。(('ロM,TノIC〃/イノノ“rmjIノVillorilyi〃〃ICバパノC2ecノICSノoUaA
RClノイクノIC,1918-l938Molltl.C【11,1980.P,47
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ氏族側題
計
1表継承諸国の民族構成
れ
クuアチ人F七 ドイシ人三そ
四
六
表より明らかな如く、ユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキアという第一次世界大戦後の独立国家は、例え自ら
「民族国家」を標傍したにせよ、現実には、多民族国家として、国内に、二大民族の対立、あるいはドイツ人、ハン
ガリー人等周辺諸民族の不満と額上修正要求を包摂しつつ、出発することとなった。これらの氏族は、両大戦間期の
新国家において、国内における民族対立と対外的領土問題に苦しめられ、蛾終的には民族対立に乗じたナチス・ドイ
ツの介入と国家の解体を招くことになる。かかる第一次世界大戦後の東欧の実状を踏まえつつ、束・中欧の国家形成
の在り方を、よりグローバルな視角で考察すべく、ハプスブルク帝国解体期の民族問題解決の選択肢を洗い直してみ
ることは、甑要な作業であろうと思われる。
そうした検討により、地理的に、西にフランス、ドイツ、東にロシア、トルコという大国に囲まれている束・中欧
にあって、彼ら〆
にあって、彼らがヨーぃシバ国際政治の中で生き抜く妓善の国家形態はいかなるものであると考えられていたのかを、
明らかにしたい。
歴史的に形成された多民族捉住地域を杯編するにあたって、述邦制、即ち識民族の緩やかな統合が、必ずしも理想
主義的、例外的でないことは、今Ⅱ、アメリカ合衆国、ソ連州という超大国がいずれも(その形態、統治構造が異な
るとはいえ)述邦制をとっているという事実に限らず、昨今の地域主義の潮流が、いわゆる貞目○コの日[の3の矛盾
(1)
をついて現れてきている事実を見ても明らかである。東・中欧の再編は、単にハンス・コーンの言うように、「国境
線を氏族集団の境界線に従ってひきなおす」ことを目的とした氏族対立としてあらわれたのみならず、大国に挟まれ
四七
た諸氏族がいかに平和的な緩衝地帯を自民族地域とその周辺につくっていくかという「共存」の試みとして行われた
のである。
ハプスプルグ帝国の秤編とスラヴ氏族問題
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《オーストリア=ハンガリー帝国、1867-1918》
ハプスブルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
一般に知られており、かかるスラヴ主義の影響の存在ゆえ
に、彼らの「連邦」に対する考え方は当然、ハンガリー人、
ルーマーーア人とは異なっていると考えられてきた。例えば、
スロヴァキァは、その言語的・地理的位置から、「文化的
スラヴ主義」の理念が最も花開いた地域であると言われる。
しかし、現実の政治改革の運動には、この理念はいかに反
映しえたであろうか。また、国家建設の問題として、この
理念はどこまで有効性を持ちえたであろうか。また、南ス
ラヴに関しては、ヴォイヴォディナのセルビア人地域は、
ハプスブルク帝国の外のセルピア人による、いわゆる「大
セルビァ」主義と、クロァチァ人の「三重王国化」構想の
狭間に位潰し、歴史的に民族運動の活発な地域であった。
このヴォイヴォディナのセルビア人及びクロアチア人の動
向を考察することにより、他民族との現実的妥協の方向が
探れるのではないかと考える。
このようにいわゆる「スラヴ」民族であるといっても、
それぞれの民族・階層が異なる以上、解決すべき課題・方
四九
ハプスプルグ帝旧の再編とスラヴ民放柵地
兀○
法は、多械であった。彼らの個々の述勅、方針をより克明に迫っていくと、彼らは独自の要求を禍げ、氏族としての
統一より、地域における自民族の役削をより虹祝していたことがわかる。彼らは、異氏族との共存の中で、西欧、ド
イツ、Ⅷシア、トルコの識大国にⅢまれている自他城をいかに緩衝地粥、平和地域とするかに腐心していたのであ
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ーシ、マッカートニーをはじめとして、主として帝国維持・解体と氏族対立に鵬点をあてた砿たの研究がなされてき
旧来、ハプスブルク帝国の解体と、諸民族の独立は、東欧の近・現代にとって根本的なテーマであり、カーン、ヤ
次に、.研究史について簡単に触れておきたい。
族の災祇的研究により、明らかにするものである!
以上の問題側心にそって、木論文は、ハプスブルク帝Ⅲ氷期における束・中欧の旧家再編の在り力を、スラヴ洲民
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(5)
ルパチア・ウクライナ人)に関する研究は、旧来きわめて不充分であった。彼らスラヴ諸民族は、ルーマニア人と共
に、帝国の最下層の諸民族を形成していたにもかかわらず、彼らの民族運動は、帝国内のチェコ人、ポーランド人の
独立連動の研究の陰にかくれてきた。彼らは、また、社会主義連動の側からは、旧来、マルクス・エンゲルスによっ
て、「歴史なき民」、あるいは、一八四八年ドイツ、ハンガリーにおける「ブルジョワ」雄命に対抗する「反動的」な
民と規定された存在として、軽視されてきた。欧米あるいは現地においてさえ、かかる「小規模」なスラヴ民族の体
系的研究は、未だしの感がある。
以上の研究状況の中で、ハプスプルク帝国の解体と諸民族の「独立」が、束・巾‐欧再編のメイン・テーマになって
きたのは当然であったと一言えよう。
しかし、かかる小規模の東欧諸民族にとっては、むしろ周辺諸民族といかに共存しつつ、自民族を平等・対等な地
位にひきあげるかという問題こそ、’九世紀後半から二○世紀初頭における彼らの運動のスローガンとしては実態に
即したものであった。第二次世界大戦後、特にスターリン批判以後、一九六○年代後半より、來西の緊張緩和の兆し
と、ヨーuシバ統合の可能性の下で、徐々に、東欧諸地域の共存のあり方がⅢわれ始め、述邦櫛想の械極的評価が誠
みられ始めたのである。
本論文において、最も有用であったのは、目38穴四口の白いのは脇、一穴円忌めび『厭口の筋冒い菖口、百『・『の日、○二回目農‐
㈱日ロの丙・39コ(二砿王国期におけるハンガリーの民族問題の歴史に関する史料)である。ここには、一八六七年以
(6)
後、一九一三年までのハンガリー王国内諾民族(ス、ヴァキァ人、ルーマニア人、セルビア人、ルテニア人)の民族
五一
運動の諸史料(集会のスローガン、決議、参加者等)が、詳細にわたり編纂されている。またニーーフルハウザーが
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
(7)
五二
編災した、【の]の[両P3Bご]‐の切一の召]):鼻・域の巴の〔の日のい&愚口の〔}⑪ぐ。ぐの恩冨]〔の日目『.(束ョ1回ッ。〈亜近現代史
史料災)も那実確認に役立った。
(8)
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ついては、膨大な史料災の一部しか入手しえていないが、利川し・えた限りにおいて有川であった。
(9)
またここでは使川しなかったが、ルーマニア民族主義者ヴァイダとフランッ・フェルディナン卜の譜筋災に見られ
(Ⅲ)
る、帝国を多一氏族的立恋国家に改造し「近代」的国家Ⅳ雌を試みようとする述川榊旭汁阿は一不唆的である。
その他、ホッジャの凹想録が小氏族の共存のあり方を一水し、興味深かった。
(Ⅲ)
研究書については、既にかなり出されているので個別の説明は行わないが、特に連邦制の問題については、ヴィー
ラー、メーレイ、ケーヴァーゴIらの研究が批放であった。
本納文は、かかる研究の流れにそう形で、Ⅲ来兇過ごされてきた小川桃かスラヴ氏族の励向に無点を鵬えつつ、帝
国の解体と民族の国家再編に際し、諸民族の共存、柵互協力関係の試みを明らかにしようとするものである。それに
より、現代の東欧関係に、若干なりとも新しい見方を呈示したいと考える。
(注)
(1)餌目⑭【・ロPu》貝鳥。Q』冒尊Q房言上切賃骨幹腓。、封苛“§旦陣円3m5§且Z:ペ。『六・』①臼・℃.②8.
(2)羽場久梶子「ハプスプルク帝国末期のハンガリーにおける氏族と旧家-1『ドナウ述邦』構旭による中・東欧W細の
睡族地域における祉会主義遮邦化の試みと破綻l」『共潅主義と国際政論』、’九八四年、節九巻、繍二殿、七‐九川’汝
試みl」『史学雑誌』、一九八四埖第九三縄鯆二場.同「ハンガリー社会主義における雌臓と同家-‐ドナウ縦域謝
び、「ハンガリーにおけるルーマーーァ人少数民族問題」『国際関係学研究』津川塾大学、一九八四年三月、第一○号。
』b員ZGぐく・制云・】①の一・○のC日]胖陰・『鳶口§』ミごヨミ蔦迺8唇8麓碕冒:a句ご・○嵐8頭○・s9.,.シ・三目:。①『》
(3)宛○ヶの『[シ・【ロロP自琴Qミ没ミ誌貝ご蜀貝同営豆、冥之貝ご毬貝冴爵ロョ且」く向§苫ロ』、§)、萱笥忌⑯速目吻冒愚ミミミ句ご局邑I
垣§頃s]§且琴q賢§§爵。。×【Caロ日く・勺月脇・PC目・ロ『ご弓。N・少・国・㈱の日:.どの匂曾訪‐§旦暮免迺88員困同蒼、鳶.
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ご量Iご鼻シ切冒s旨」ペミご菖旦目旦の。□ミ句ご・(員3嵩.Zの乏忌・具.ご『『・ロ苛邑舞蔑い§哨烏切逗88ミ遍甸ミミ図昏目,
冨:穴.ご氏①P』①『○・トsoへ貰困鼠、貝ご麓§(ロミミミ息討』怠いへ、C-画目恥、○苫Q・S8l』巴、.⑫。P⑪伝胤:C【】。□月、.。28ぐ局旨
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丙;ご$・吊嵜》ご鴬吻忌ミミ瀞。、園sご§、局8-』⑩壇・㈲:『の▽・]@の⑪.シ日ペの】m・旨、『穴Ca[:且旬日具向.、厨百・』くミミ○員.
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ハプスブルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
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ハプスプルグ帝国の阿編とスラヴ氏族問題
(8)□・曹司§ご詠い§§爵§ミー嵐、&3回‐す§鷺。8万.3.s$‐S国・国日己の一句く“.ご目.
五四
(9)司鳶之貝§Q冒臣、§す菖母エミョ§‐範§沼q》司奇勾包・司物a崔狩首斡鳥、『ミミ・どg§訂。.§晒崗、§§且.ぃ
S§R鳥q・巴・耳尻巳B閨R亘づめ.F§のPS三・
(Ⅲ)冗且・』冷蔓の§・Dq、圏国・屏冒属笥b・斡目日§・の:‐恩]PBS・罵司の一○百一P、g:恐い§…P簾鳥(
(、)冒匠口出・&“・尊鳥§s寓曾pミミ同置息、局員83:乱司腎笥時§§卜・目・P屡砲・
臼の函:めぴ貝碩曾菖・月月嵐のごQの。]:『の口桿忠千$辰菖・」さ§烏辱め黛員図嵜辻・島:い・戻し丙且の目巴・国巨8℃の⑫〆』bのm・
恩&蔵』§冴口望己8漢碕営・ヨミ3骨・閂段2℃昆国且§の異.ご$・菖酔の】の百一四・園恩ロ・日毎・口の:ロの》ロ圏Q2の日・日:q
no目の[局員・】⑩忠・丙・砕匡2口月『・淳鳥目房爵曽、§:(§回向§Q3n槌日鷺・P・ロロ・口・】遭い・をも参照した。
恩くい、。屈圏ぴ・』』合国ミミ胤飼武騨“§・訪巳局‐ご‐』§・m88の⑩〆ご段・他に、F・⑫。⑭曰く:ロ8口Q諒目訂鳥目曾劃・
-ハプスプルク帝国におけるスラヴ比族間脳
〈-〉一八四八年砧命期
東欧では、一八四八年革命は、封建的諸制度に対するいわゆる「ブルジョワ殖命」としての社会変革の特徴に加え、
その社会榊造の多民族的性格故に、「氏族革命」としての特徴を濃坪に示していた⑪即ち、この時期は、ハプスプル
ク帝国内の各民族の解放遮動が、それぞれ自民族の利害を掲げつつ、妓初に、かつ広範な地域にわたって高揚した時
期であった。
すでにこの時期、スラヴ氏族による帝国の枠内での束・中欧再編の試みが見うけられる。
その代表的な者が、チェコ人。ハラッキー(勺、]月ご》司日口蔚の丙)であった。彼は、ドイツ革命派によって召集され
たフランクフルト国民議会への参加呼びかけに対しては、敢然とこれを拒否し、nらがスラヴ腿族の一員たることを
強調した。但し、彼は、そこで、単にスラヴ氏族の統一を主張しているのではなく、むしろuシアに対抗し、ウィー
(1)
ンと結ぶことがチェコ人の利益であること、スラヴ人のみならず、ドナウ河によって結ばれる諸民族の平等に艦づく
(2)
共存こそが、彼らを解放する道であること、を主張したのである。彼は、既にこの時期、オーストリアを、平等の樵
利を持った八民族地域に分割し、連邦制に韮づく国家形態に移行することを要求していた。
ここに見られるように、既に一八四八年革命の段階で、スラヴ民族の側から「帝国内の諸民族の平等」による共存
が要求されていたのであり、オーストリア皇帝側による「クレムジール恋法」も、ハンガリー革命政府によるルーマ
ニア人への講和案(ロ『・]のRQのppQm8感・ロ)」も、かかる氏族迎勅への調歩の産物として現れてきたのである。特に
(3)
ハンガリー人が、日民族を主導とした強力な「国民国家」の形成こそ、芯命を成功させ東・中欧を安定させる、僻幹で
あるとして、紺氏族の平等の解放に無M》心であったことを考えれば、マルクス、エンゲルスの評価とは異なり、典に
被抑圧民衆を解放しようとする「拡命的な」比族は帝川内の「反勅」といわれた小スラヴ民族であったのではないだ
ろうか。
同時期に附催された「スラヴ会議」についても、若干の考慮が必要であろう。
「スラヴ会議」の召災と開催が、現実には東欧におけるスラブ誌氏族の文化的・思想的・政冷的扣違を示すもので
あったことはよく知られていることである。いわゆる「文化的パン・スラヴ主義」を代表していたハンガリー内ス皿
ヴァキァ人ら、「オースト匝・スラヴ主義」を代表するスⅧヴェーーア人・チェコ人ら、「メシア的スラヴ主義」を代表
五五
するポーランド人らによる巡動は、必ずしも共通の基盤を持つものではなかった。スラヴ会議の中で主張された戦術、
ハプスプルグ帝側の再編とスラヴ比族問題
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
及び敵とする相手は、統一的なものではありえなかつ(樫。
五六
しかし、大会で採択された「ヨー四ッ。ハ諸民族への宜言(『ず①三目篇⑪[・[・島のZ目・ロ⑪。【同月・ロの)」において、
彼らは、次のように「帝国内スラブ民族」の理念を示している。
「スラヴ民族は、征服されることをも支配することをも欲せず、自らとあらゆる他の人々の自由を要求する。……
ドイツ人は力を持って、幾多のスラヴ人を脅かし、……ハンガリー人は、ハンガリーにおける、氏族の排他的権利を
主眼してはばからない。仇々スラヴ氏族は、これらすべての労え方を非難する。……この図は、根本的にⅣ編されな
(5)
ければならない。たとえ新しい(地理的)国境に雑づかないにせよ、少なくとも新しい原則に蛾づいて。その脈川と
いをも如実に示すものでもあった。
貴族層の当時の限界を示す問題でもあり、また、クロアチア人とスロヴァキア人の帝国内における社会的な地位の違
ンガリー民族に対する行動において、相違が現れてくる。それは、現実には、ハンガリー輔命を担った人々、特に小
しかし、革命の進展の中で、ハンガリー玉川内のスラヴ諸氏族、特に、ク、アチア人、スuヴァキア人の側に、ハ
あると把えていたのである。
の多くは、帝国内での諸民族の共存こそ政治的・軍事的にも、かつ経済的にも、周辺強国に対抗しうる最善の方策で
この時点では、帝川からの分離はハンガリー人あるいはポーランド人以外、Ⅱ腿にのぼっておらず、スラヴ縦氏族
〔
ここでも、スラヴ諸氏族が、市川の改編による東・中欧紺民族との平竿に蛾づく共作を求めていることが砿認でき
は、帝国を、すべてが平等の椛利を持った諸民族の述邦(8口[のQの『ロロ・口)に改組することである。」
る
まず、クロアチア人のハンガリー革命に対する態度についてみよう。七○○年に亙り、自治的地域たることを享受
してきたク回アチァでは、一八四八年革命に際し、ハンガリー鹸命政府の指導者コッシュート(【。⑪⑫貝戸口)。⑪)が、
(6)
独立ハンガリー国家においてハンガリー語のみを公用語とし、ハンガリー国内における異民族の存在を認めなかった
(ハンガリーにはハンガリー国民のみが存在すると公一言した)ことについての不満が、特にイリリア運動と農奴解放
運動を刺激し、反ハンガリーを掲げさせた。しかしかかるクぃアチアの「反ハンガリー革命」が、必ずしも臓接に
(7)
「反茄命」とはいえず、民族解放、農奴解放革命としての性格をも攻複して備えていたことは、黒住氏によっても弧
調されている。この場合、クロアチァの民族運動の指導者ガイ(○口].□且のぐ岸)、クロアチァ総督となったイェラチ
ッチ(〕の冒陸口]・の》ロ)、「マティッァ・フルヴァッカ(三面は8旨くい8百)」は、大スラヴの統一をその妓終理念とし
(8)
ながらも、反ハンガリーとしてのク、アチアの自治を守るために帝国の枠内での同民族解放をクロアチアにとっての
当面の最大の課題ととらえたのである。
他方、ス回ヴァキア人の氏族迎励は、クⅦアチア人の迎励とは若干異なっていた。スWヴァキア人は、一八四八年
五月に、リプトフスキ・スヴェティ・ミクラーシュ(ロロ[ぐ⑪嵐⑪ぐ・亘罵画凹ハンガリー名リプトー・セント・ミク、
(9)
-シュEb8の㈹8[且丙ざの)における民族集会に際しては、ハンガリー化を批判し、スロヴァキアの自治を要求しっ
(皿)
つも、躯木的には「血目.旧」を掲げるハンガリー革命との友好と「ハンガリー王冠」の下での忠誠を拒否せず、帝国の
民主主義的改編を主張していくこととなったのである。
スロヴァキア人民族運動指導者で、スラヴ会議においても積極的に文化的パン・スラヴ主義を主張した、コラール
五七
(【○辰『・〕:)シャファーリク。(の具獣涛》‐勺口ぐ。}」◎㈱の【)らの流れを継ぐスラヴィストであるシュトゥール。(の已司》
ハプスブルグ帝国の再編とスラヴ氏族問題
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ氏族問題
五八
[』Q○ぐ】[)》及びルター派のフルパン(四日dpP]○いの瑞冨】}。⑪一口ぐ)・ホッジャ(函。息口..富月日の一言一一・の-煙く)らは、イェラ
チッチと同様、オーストリア皇帝派と結んで民族顕をハンガリーにさしむけようとするが、スロヴァキァ人民衆の多
くはこれに従わなかったので延型・
この違いはどこからきたのかを論ずることは川難であるが、少なくともク回アチアが、長期に-且る自治権を享受し
ていたが故に、これを犯すハンガリー砧命の行為に対しては、貴族のみならずク⑪アチァ民衆(農民)においてさえ
共同で対抗できるだけの運動の基盤、自治意識をもっていたという意義は大きい。他方、スロヴァキァでは、「文化
的スラヴ主義」が未だ知識人を中心とする啓蒙活動であったことから、現ス何ヴァキァの首都、ブラチスラヴァを根
拠地とするハンガリー革命政府の政簸に、ス回ヴァキァ氏族迎勅桁尊者が、クロァチァの民族主義肴とは異なる期待
をよせていたことも事実であろう。
’八四八年革命が、かかる諸民族の相互対立の中で挫折していくことにより、この時期にめざされたスラヴ人の民
族解放と帝国改編の課題も、結局、実を結ぶことはなかった。しかし以上の経過にも示される如く、帝国内「スラヴ
氏族」は、一八四八年革命の段階では、汎スラヴ、大スラヴを理念としている氏族迦勅も含め「諸民族の平等を腿礎
とした共存」を旨とする帝国の再編が、かれらの民族利害を代表する最善のスm1ガンであったのであり、一八五○
年代に始まる種々の「連邦制」構想の基盤も、この革命と抗争の中で形づくられていったといえよう。
(注)
mm-mmD
(1)囚伊ロ⑩【○ケPエョー切行ご掛曹・愚切迫騨裂ミゼロ誌回苞、○一。m】。ご日ぐ.。{zo可のC包日の勺靴の脇・zoRのロ日ロの.H口臼回口P巳田・ロロ・
(2)”且○一【弓】のH9bq、目ミミ『さ§§□§§日穗司・の日佃l恩一P】(説P⑭・いや上C・八地域とは、川ドイツ人オーストリア、
マルクのス四ヴェニア人地域)、⑤イタリア(南チ皿ル、仰ンパルディア、ベネチア)、佃南スラヴ(ダルマチア、ク皿アチ
②チェコ(スロヴァキアを含む)、③ポーランド(ガリッィァ、ハンガリー領ルテニァを含む)、側イリリァ(シュタイャー
ア、スラヴォニア、ヴオイヴオディ十)、mハンガリー、⑧ルーマニア(トランシルヴァニア、プコヴィナ)。
(3)この問題については、旧代文雄.八四八年ハンガリー革命における少数民族問題」『史潮』五号、一九八○年。黒住
のハンガリ|
のハンガリーにおける氏族と旧家」『史学雑詠筐第九三編第二号、一九八川年。を参照
宏「一八四八年砧命期のクⅢアチア間脳の一拷察」『東欧史研究』六号、一九八三年・羽場久汎子「ハプスプルク帝阿末期
『。【六・s『⑪。
(4)F②ロー記『
(4)F:§のロ、のC・○別。□・旦句、日四《⑯いほ己DC月忌風a国蒟・嗣儲[、日・C8ppB:島・no旨3ヶ甘口己ぐ・印⑩脇・z2
(5)s蔵;DP臼I恩.
(6)宍『○畷技忌トミ。“口吻恩畷営鍾蔦旦旨恩R[・国且②ロの⑪〔・巳⑭】・『い⑭。】P
(7)黒住氏前掲論文。
(8)妙」く口偽)守司C汀・いS筒へCごqaQg何試さ、日:』貿駒句恩R屋畠Iも-。§》賃貸館)ミミ周月昼8罫ミ』&「尽蔦註誌鳥ご「己吻鳳・
国のI屋』・丘・厄⑫忌口の曰の.『鳶沁且§R農莇旨葛③虻§、§目勾§◎(§ごヨミ局あ.一mm⑩【同日・ロの:CPH[月々・○・一口日:
唾のいいの、怠]3月の⑪いいの鼻の⑫牌の月鈩pB8m且ワの〔自召[のこ〉貝・寿・己曲司島・斡吻』軌I』⑪も§、§ぃ公・mBgmの【.こいP・】gいぶ・
ロ曰く・で月いい。zの君『○門戸・巳『9℃・の⑭.
(9)狐イシュトヴアーンの王冠(の〔・『の[乱口宍C8B)」の洲伽州をさす。一八九六年畑イシュトヴァーンの一、○○○年衆の
2
際における領土規定では、東経一一一三度三九分’四四度一○と二分の一分、北緯Ⅶ五度二五分’四七度三七と一一分の一分の側
に位慨する、然囚境(山脈及び河川)にⅢまれた一一七九、七正九mの地域。即ち、呪ハンガリー価土の他、スuヴァキァ、
五九
トランシルヴァーーア、パナト、ヴォイヴォディナ、クロアチア、スラヴォーーア、プルゲンラント、及びフィウメ港が含まれ
る。』、口冒こぐロ肉豈ト灸軋寿目・〆臣召[、[・切目伊ロ硯〆]$の...g、、百8励圃ぬ弓・『』I目○区・
(川)三回咽ゼミミ周回鞘&司尽斡貝の-口目丙。[・面ロユロロの②[。]Cの】・いつ←。]□・ロのロ】P○つ。⑪一Fロ・の『・
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ瓜族問題
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ氏族問題
。E・御3.目歸。【・国■□いつの⑩〆巳紹・⑬唇Iい〕や○一P
六○
(皿)、円・SNO]&口・島尻。いい口[ゲ肝回口のョいの回脇風窓a肝届盗-局s-ヶのロ圏壹圃可廷舞蔑ご口帛【自切貝》[Q2・駒員⑮尽愚蔦秀.Hg⑨こす、‐
〈Ⅱ〉一八五○’一八六○年代
この時期は、一八四八年革命の挫折後、新絶対主誰(zの。シワ⑩・旨は、日ロの)と呼ばれる帝国再建と民族抑圧政蛾に対
抗して、束・中欧の諸民族が、再び民族の共存と税極的な「述邦」構想を掲げて迎動を商揚させる時期である。また、
束・中欧のみならず束・中・南欧規模で、「連邦」構想が論じられた時期でもあった。
一八四八年革命後、帝国の多民族平等による改編の試みは一時頓挫したが、一八五○年代に入ると、諾民族は、冊
諮の使川椎、自民族の信仰の自由、文化・行政の自治を要求して再び述勅を開始した。かかる迎励を指導したのは、
セルピア人の東方教会他侶ラャチッチ(同四〕ロαか》]。⑪篤)・スロヴァキア人のシュトゥール、フルバン、ルーマニア人の
パルヌチゥ(思司目鼻旨》の圓○ロ)、ヤンク(閂目8)しご日日)、ギリシャ東方教会僧侶シャグーナ(mmmpp伊鈩且『の甘)、
(1)
バルチェスク(w」8HP屋8厨の)らであった。特に、パルチュスクは、赦命後のルーマニアと周辺洲氏族の述邦化
公と軌く主張していた。
ここに至って、民族迎動指導者の目は、帝国内の民主的改編からヨーロッパ規棋での束・中欧再編榊想へと転じら
れてゆくのである。
他力、これに対し、一八六○年代始め、ハンガリー人日山主瀧世族たるテレキ(日の』の冠・[し⑫頃一o)、クラプヵ(臼口‐
□}固の忌引四「)、コッシュートらは、ハンガリーの側からの「述邦」化柵想をうち出した。コシュートの「ドナウ述
(2)
邦」構想は、人民投票によって少数民族の帰帆を決定した上で、ルーマニア、ク四アチア、セルビアと連邦関係を結
ぷことを規定したものであった。しかし、この構想は、彼自身の手紙にも一赤されているように、「連邦化して、一挙
にヨーロッ.ハの大国に成長」することを目した、当時のヨーロッパの勢力均衡(国口一目8.{勺○三の『)の現実の中でハ
ンガリーのとるべき道を権力政治の一環として示したものであり、東・中欧においてトルコ撤退後の対面シア勢力を
(3)
結集するため、ハンガリーが中心となって、諾民族図家の迦邦(の8く①[協四【・ロ市8の日二目)を実現することを目的
(4)
としたものであった。従って、この段階でも、やはり、一八町八年革命当時と同じよ》フに、国内の諸民族は無視され
たのである。
しかし、かかるハンガリーの宍・口【のqの日蝕○口の構想が、イリリァ(E『1口)をも含むことが明らかとなると、
一想が、イリリァ(E『1口)をj、含むことが明らかとなると、まず
リスティッチ(四のばか]oぐ回口)、ついでヴォイヴォディナのセル
セルビァの外扣ガラシャニン(○四3忽日ロム屋口)、リスティッチ(四のばか]oぐ:)、ついでヴォイヴォディナ|
のパルチェスク、亡命革命家ギカ(の豆8.]g)らが、このコツ
ビア人ラャチッチ、及び、ルーマニア人連邦主義者のパルチェスク、亡命革命家ギカ(の豆8.]g)らが、こ(
シュートの構想に関心を示し始めた。
この問題に閲し、若干具体的に考察してみよう。
セルピアの外相ガラシャニンの構想の基本は、オーストリア及びトルコ帝国支配下での、南スラヴ人の統一-
及びトルコ帝国支配下での、南スラヴ人の統一であっ
(5)
クロアチア、スラヴォニァをセルピアヘ割譲し、他方、
た。ガラシャニンとコッシュートらとの接触の結果、彼らは、クロアチア、スラヴォニァをセルピアヘ割譲し、
連邦化に関し、くい意を見た。
ヴォイヴォディナはハンガリーへ残すことを取り決めた上で、連邦化に関し、くい意を見た。
一ハー
-プルへ亡命して活動を継続した人物であるが、彼は、
氏族主義者ギカはワラキアで活動し、その後コンスタンチノーブルへ亡命して活動を継続した人物であるが、
b発想の特徴は、以下の点にあった。
「アメリカ型」の連邦をうち出した最初の人物でもあった。ギカの発想の特徴は、以下の点にあった。
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ氏族問題
ハプスプルグ帝伺の押細とスラヴ氏族川胆
(6)
(1)セルビア、ルーマニア、ハンガリー、可能ならばポーランドが、連邦の柵成囚となるべきである。
(2)特に、ハンガリーとルーマニアが軸となって「汎スーフヴ主義」に対抗するべきである。
一ハーー
ここには、Ⅷシアの棚威からの防術に対し、スラヴ人をこえて、なおかつ一八四八年革命期に見られた帝国の枠組
みをこえて、束・中欧の民族を川結させようとする発想がみられる。もう一つの特徴は当時のアメリカの国家形態に
対する評価の刑さである。以後、束・中欧における一九世紀後半から二○世紀初頭の述州化構想には、アメリカ型あ
るいは「合衆国」型の連邦化構想が次々と現れることとなるのである。
ギカの構想と平行して、ルーマニアにおける一八四八年革命指導者の一人バルチェスクは、回ンドンでハンガリー
人テレキ、クラプカと会い、具体的に連邦化構想を推し進めようと試みた。ここでパルチェスクがコッシュートをと
びこえて、テレキ、クラプカと交渉しようとした背般には、ハンガリー王国内の諸民族とは妥協しようとしないコッ
シュートヘの反発と、国内諸民族への譲歩姿勢をも示すテレキ、クラプカに対する期待が存在していた。パルチェス
クはここで、ハンガリー、ルーマニア、南スラヴによる「ドナウ合衆国」の構想を示した。その骨子は、以一下の如く
であった。
(1)ハンガリー、セルピア、モルダヴィァ、ワラキア、ブコヴィナ、ペヅサラビアの統合。
(2)述邦の鎚本は、地方分権(oの8日日冒口口○口)にある。
(3)共同の大腿は、戦争・外交及び商業・述輸の三点のみとする。
(7)
その他の点については、この「合衆凶」榊想は、その後一八六七年に締結されたオーストリアとハンガリーの「妥
協(シP⑪阻一の】、冨尻局巴の枡の)に緬似していた。
コッシュートは、このパルチェスクの榊旭に反対した。彼の反対の第一の理山は、ハンガリーにおけるトランシル
ヴァニァの分割が、「ハンガリー王冠の領土」の一体性を危うくし、北のス画ヴァキア、南の南スラヴ、北東のルテ
ニア、西のオーストリア(プルゲンラント)の喪失につながる、ということであった。このことは、ハンガリーの解
体を意味するものであったのである。
しかしコッシュートは、テレキの説得と、ハンガリー国内及びヨーuシバ全休の怖勢を券血した紡采、彼が一八六
二年にうちだした「ドナウ連邦」構想では、パルチェスクの要求をも一定極度受け入れる方向に変化していった。
こうして、一八五○1上ハ○年代のヨーmシバ全体を視野に入れた束・中欧の迎邦榊旭の発展は、川内紺民族に対す
る帝国内支配民族の譲歩も引き出してくることとなったのである。
但し、コッシュートの「ドナウ連邦」構想は、離水的に、ハンガリー旧家がN際的な権力政給の下で生き残ること
を原則としたものであり、諸民族の解放と平等な自治の獲得への譲歩を砿ねればハンガリー自体が弱体化するという
ジレンマを内包したものであった。そうであればこそ、コッシュートの「ドナウ連邦」案は、ハン〃リー国内紙氏族
との共存をも考慮しようとしたまさにその時点で、ハンガリー国内大・中貴族の反対にあい、葬り去られてしまうの
である。
八六○年代半ばに入ると、束・中・南欧レヴェルでの連邦化構想の拡がりの中で、諾Ⅸ族の要求はより具体的な
tのとなっていった。
その第一は、ハプスプルク帝国、ハンガリー王国を、平等権を持つ民族の述邦国家に再編すべしというものである。
一〈一一一
第二は、洲氏族に、領土的・立迩的、袖を保脈せよというものであった。中でも、セルピア人、ミレティッチ
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ氏族問題
めリ族に配てヴハ邦ン義
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六Ⅲ
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ハプスプルグ市川の再編とスラヴ氏族問題
の王な族リカlとのとげ文シ領の
(旨菖の〔厨のくの〔阯円)は、ク卿アチァ、スラヴォニァ、ダルマチァの三位一体王囚(ぼ『・日卍巴嵐団々協い)を主眼し、
j1rWⅦMililllR9Iiil
M;施鯏;1,i,鯰ザゴザiii
陞’と1tを等欧国掲’ツ1編
ハンガリー王冠の下での立悲的自給権を要求した。
、ノ’せが|る点弱が来月長要
-1、て逆政illiで体リ、~と求
I
しluらとりめ’'6F、ン結局(llIIljリ
一八六○年前半期は、まさに束・中欧の述州制を要求する助きが帝国内部の体制をも変航しうる州に成災しっつあ
'''1蕊;;鰍識
ったのである‐
の合えつ域戦政示ク民
(川)
よって反古となった。一八六八年、「婆艫協」後、採択された「氏族法」は、二年前の「少数民族法」に比し著しく後
過したものであり、母語は、下級行政機関、司法、教会及び教育・文化のみに限定されていたのである。
こうして第二段階の氏族嬰求は、上からの「妥協」によって帝瓜からの脚民族の解放をも棚上げすることにより、
自国内諾民族運動の抑制をめざした、デアークらハンガリー政府指導層によって、再び却下されてしまったのである。
(注)
のご一目の一口⑫ロロ○のバーのロ『oHgQsの四号⑫ワ自滅の『菖。□日、嵐⑩旨:口〕ロ汗目】⑫$-】①】←...」く。:烏辱め野種旦腐注吋ご飢口鳥物・罠・
(1)罠回国33協月&、尽蔦(、・臼(勗溢‐扇のC)l岸(』⑪ちI届の『)・面目§の⑪〔.ご『Pお]-念の○一○・の忌司巳)涼『の)・貢忍Qの『目・ゴー
ロィロ列ご(日誌日》己へ④‐田園・函聞く口aロ日『・勺別のいい。、ロョワユロ、の。ごゴマロロ・局・I』圏.
鳶四息a】口】・切目ロロ①の〔・Sam・』ぃ・屍の曾冨円冒口⑭.。§。§u§巳く目。:(ご》』且、圏勿口肉忌戴。§S訂、§圏§尊いミ
畠困I】、①のぐ周一頭.B)a・厚『の:8月宍。⑪2S司国のロ日・切目§の⑫[・】②の、・し‐]蛸・一。・また、羽鳴『史学雑誌』前掲論文をJb参
。
へ】
含む。。シュー
〈両ひ。。シュートの文脈では、ク、アチァ及びセルピァを含む南スラヴー締と解しうる。
(、)い【口ぐユ固口。⑫
(5)⑫白くユ固口8.F。、.ご『》、、口雰ロ誌、吋旦ミミご毬・noゴロの(】n日.』し、や。□・団・
(6)匂武・も。$.
(7)即ち、行政、司法、その他の執行に際しては、船水的に行地域の日胎に委ねるというもの。
アルパニア存」
函3局ロの可のい、..届B呑口目⑪9-日面。.□&か論、§日守困胤巨凰Q》&涛穴。[の【.。⑫gの巴口)&耳の尿。回国言:9口目§の⑫[ご】し9.
●、
”)ドナウ述邦構想作成にあたってのⅡ的・意義を綴ったコシュートの手紙は、富沢。いいPSE)Cい」のくの一の恩【・言の瑁牙巴口の
0
苧
(4)バルカン半島西部のアドリア海に面した領域。現在のユーゴスラヴィアのほぼ全域及びイタリア北東部、
。。
ハプスプルグ帝図の秤編とスラヴ氏族問題
六
五
/戸、
(2)コシュートのドナウ述州構想の全文は、』〈。いい貝守トミ。いざ§・出貰。□涛窓[の〔・目.。『[目の]2日目一ヨ:『・穴・囚&詠いH
JIl((
ハプスブルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
一ハーハ
忍[》】の①『l』$画.α協瞬の巴ごa庁斤ののい]の、百⑪[の算の一息§》尻のョ曾忌○・○』▽・『.、且ロロの⑩[』・日←⑪田・田‐]①。]ロ・]恩『『息『n・扇.
(8)『胃蔦・§曽閏畷舟忌鄭忌吻‐&、忌蔦鳶周量、ごロミ鷺月目・§ロ博爵忌切‐計ミg§》‐再思7冒由.(以下、皀丙『ミと略)、閂
迂貝鳥菖冴口肝&野忌蔦苛.m且目の⑰【・』し①心・扇山I』震○区・
(9)の園:且Q芹巳・ヨヱロQ・ロロ]尉日ロの肝ロロ〔1.骨ヨロの寿・口要六月四口:すい㈱・一目§ロ、丙・乱9.葛.L:四s目§:瀞:吻
(皿)民族法の全文(隠干g⑰)は、拾三房目頁員貸盆いい・扇四‐』①『・一。・屋9月。①.
〈Ⅲ〉一八七○年件f川阯伽匹蛎換期。受動的抵抗迦動と「ハンガリー化」の時代
「好協」は、オーストリア帝囚政府にとっては、ハンガリー人以外の回内諾氏族への溌歩をも必然的なものとした
が、日川内氏族をおさえて「妥協」をかちとったハンガリ1政府にとっては、囚内諦民族への支配をより強化する傾
向を生み川した。その結來、オーストリア側では一定の連邦制的日附機榊がその政体の弱体化故に導入されることと
なったが、ハンガリーでは逆に「妥協」以降、一八六○年代において燃え上がった民族述助は抑圧され、識氏族は受
動的な運動へと転換を余儀なくされることとなった。その結果、この時期の氏族遮勅は、国家地域阿縞よりも、自治、
言語・教育権などの妓小限要求に砿点が移らざるを得なかった。
かかる運動の転換に際し、最も成功したのがクロアチア人である。クロアチア人は、一八六八年に、一八六七年の
(1)
「妥協」にならった、ハンガリーとクロアチアとの「妥協」により、ハンガリー王冠の下に、制限つきではあるが一
定の自治を認められることとなった。
「妥協」、三重、四亜王国化の試みは、チェコ人、ポーランド人によってもなされたが、ハンガリー人の強い反対
と、帝国政府のロシアに対する脅威によりいずれも実現されなかった。
他力、ヴォイヴォディナのセルピア人は、一八六六年にミレティッチにより、ブダ。ヘシュトの耐人、都市の知識人
の側に「セルビア人民族、川党(の月『ワヱの日局〔一ロワ①団一厨思風)」を形成し、またノーヴィサド(z・ぐ一の:叩ウーイ
(2)
ヴイデークgくぼ鼻)に氏族組織「青年(○日一目一目)」を形成して、ハンガリー内野党と結び、ハンガリーの改革と
民族の独立を要求することによって、自民族の発一一言権を維持しようとした。
(2)
一八八○年代に入ると、セルピア人氏族n山党内部の急進派トミッチ(弓○目口]口囲)が『旗(鱒閉口く四)』を、ポリ
卜・デサンチソチ(勺○一一[‐□限価口図か昌忌口]一・)が『砦(、日日屍)』を発行し、氏族散会の脚祐を要求した。この時期
における彼らの要求の雅本ラインは、一八五OTLハ○年代からは大きく後退し、一八六八年の民族法を守れというも
のであり、既にこの法律に定められている地域での少数民族の詩語的・文化的諸権利すら守られなくなっている実態
を示していた。「妥協」以後、諸民族の述動を抑圧し脂導考を一掃する中でのハンガリー政体の中央災権化、ズンガ
リー化(日ロ喝日・轡日の)」政策は、諸民族にとっての抑圧的状況を呈示していたのである。
次にス⑪ヴァキア人を兇てみよう。
スW〃/γ匹
スⅦヴアキア人は、知識人、新川ブルジョアジーを中心に、一八六○年代には前納椎、散布樅を要求する闘いを洲
始していた。
一八六一年に卜ウルチアンスキ・スヴェティ・マルティン(日日か一四コ⑫穴】⑪く凰菖mapmトゥ皿-シ・セントマール
トンBPa8隙のロ[日時8口)の民族大会で「覚諜(頁の曰・Bp8g)」が採択され、以後「ハンガリー人と連合して」氏
族の解放と市民権を獲得しようとする運動が拡がった。
六七
この「ハンガリー人との連合」のスローガンは、ス回ヴアキア民族のみの運動ではあまりにも脆弱で危険が伴うが
ハプスプルグ帝旧の再編とスラヴ氏族間脳
ハプスプルグ帝国のⅣ編とスラヴ氏族問題
故の一灘協であったともいえよう。
六八
これに対し、地域において実践的影響力を持ったのが、マティッァ・スロヴェンスカ(冨目8⑩一○ぐのロ⑪面)や。ハラ
1リク(㈲口尽吋涛・湿口)の『新学派(z○ぐ与騨○一口)』の動きであった。彼は、民族自治と、スロヴァキァ各地における
ス価ヴァキァ語の公用化を要求し連動を発展させた。また、一八六八年には、建築家ポプラ(囚〕g一口・面ロ)を中心に、
ペシュトの民主主義打により『ス皿ヴァキァ新級(の一・ぐ目の窓口・ぐ{巳)』が刊行され、民族法の修正を訴えた。
しかし、一八七○年代に入ると、ヌンガリー化」の波の巾で、スぃヴァキアのギムナジウムは次々と閉鎖され、
(5)
また『新学派』の運動や、『ス口ヴァキァ新報』の記事まで弾圧されることとなった。スロヴァキァの氏族迦勅指導
者は、『人民新報(z口H(己已のzCく旨昌)』を先頭に、一斉に「ハンガリー化」政策を批判したが、既に「ハンガリー
化」の波を押しとどめることはできなかったのである。
こうして、一八七〔YI八○年代に、スラヴ諸民族をはじめとするハンガリー内民族述動は、政府の「ハンガリー
化」政簸の強行の下で後退していかざるをえなくなる。
行き場をうしなった民族通勤は、議会内改革、即ち、緋通選挙権の導入に望みを託し、一八九五年、ノーヴィサド
(6)
やプダペシュトで少数民族大会を開催し、ルーマニア人、セルピァ人、スロヴァキア人の参加により「県レヴェルで
の民族自治の実現」を要求していくが、かかる運動は世紀転換期を迎えても具体的な要求獲得の成果は兄られなかつ
たのである。
このようなハンガリー政府の政策は、オーストリア側スラヴ民族の運動の高まりと対象的にハンガリー王国側スラ
ヴ民族の述動の鎮静化を促したが、この時期におけるハンガリー人の(社会主義者をも含む)少数民族迎動への無理
解が、第一次世界大戦の時期における諸民族の「共存」の試みに大きな障害となったことは事実であると言えよう。
(注)
(2)いわゆる「ノヴィサド問題」{ミバ『ご》[召[・農闇・・し1句..、『1℃の。]。.』の$ずロ・ヨー⑪8[.①.
(1)ク⑭アチアとの妥協の全文(品I『昂)は、』ご【『ミマ閂丙。[.S鷺・]】】‐]⑭】○一・・局gpoく・』『.
I
(3)(之宍弓学『》再穴○戸衿①、恩・》の、四l①、←。]g】⑪⑪←日野一・『・
(4)」【三句茸ご昼へ司蒼」○図きいへ。烏蔦曹款&息荷溌営・口日は⑩両ぐ酔乞『、。⑩角・心」①1噌いつ.
(5)(『こ【閂冒》戸忍〆』&闇・・い、『1mmの○一口.]⑪目。【[・呂・
匹ゆくいつ」①司いい司⑪。。》の〔『・画『『I⑭、]・[之雫【ロ辺学〔回汽。[。揖函①い-]①CPm』⑰い・ついmml山mPmmのい・口傘つぃl←ついCの】⑫N・・一円②I傘檮の。』ロ。
(6)[)○奇ミ君§ご訪いご己目切詐甸営貸嵐、&息冒漬嵜討員骨已『Cざ3門②おl』①屡壱国【.』mmm-】@s・侭。⑰日ぐ』一句日日滋⑰片口○戸の⑪。、3回-
〈Ⅳ〉’九○五年
一八七○年代から世紀転換期に至る、かかる受動的民族述勅に新たな転機を呈示したのが一九○五年であった。こ
の時期、Ⅶシア革命の反響も功を奏し、民主主義的国家秤編の動きがⅣび活発化することとなり、スラヴ主義者の迎
(1)
動も新たに嘘り上がることとなった。また、ハンガリー王国内部でも、「妥協」派に対する批判が議会内野党や知識
人の間で一局まり、彼らの間から諸民族の連邦化に理解を一示すヤーシのような人物が登場してきた。
こうした中で、まず、ル1マニア人の間に、オーストリア内改革派、ルエーガー(PP侭閂・【ロュ)、次期皇帝フラ
ンッ・フェルディナン卜(即自い句のa甘口且)大公と結び、ハンガリーを抑えて帝国内の諸民族地域を連邦化しよう
九
と試みる動きが拡がっていた。
ハプスブルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
六
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ氏族問題
七○
この首謀者は、ポポヴィッチ(勺・ロ。く〕◎し日の])、ヴァイダーヴォエヴォド(ぐ巴8-く・のぐ。gシーの〆口且日)であった。
その構想はポポヴィッチの籍替、『大オーストリア合衆国(ロのくのHの甘碕[のpmBp[のロぐ○口の『○冊-○⑪(のqの】9)』にま
とめられている。彼の構想は、当初、クロァチァ人のラゥホ(”:nヶ観くロ・)、スぃヴァキァのホッジャ(四○忌口〕
菖】一口ロ)を北
菖忌ロ)をもひきつけた。ポポヴィッチの構想は以下のごとき竹子を持っていた。
(1)二取卿
(1)二取制は、蛾終的にハンガリーの独立と帝国の川壊を州くものである。述邦化こそハプスプルク帝国安定化の
基礎である。
(2)迎邦は、次の一五州からなる。①オーストリア(四二離席巾七雛心U、②ドイツ人ボヘミア(二)、③ドイツ人
モラヴィア(一)、④ハプスプルク帝国(七)、⑤トランシルヴZ一アのセーヶイ人地域(一)、⑥チェコ人ボヘミア・モ
ラヴィア(五)、⑦スⅦヴγキア人(二)、③クⅦアチア(三)、⑨ス回ヴェニア(一)、⑩ヴォイヴォディナ(一)、⑪ポー
(2)
ランド人西ガリッィァ(三)、⑫ルテニァ人來ガリッィァ(カルパチァ、シァを含む)(三)、⑬トランシルヴアーーァの
ルーマニア人地域(四)、⑭トリエステ(|)、⑮トレンチノ(|)。
(3)迎邦国家は、鴨通過準椛と自淌を韮礎とし、立懲湫主図の形態をとる。
ポポヴィッチの述邦構想は、かなり地域的にも具体性をもっており、また、その名のとおりアメリカ合衆国の州自
治を韮礎とした地域自治の上に成り立つ緩やかな述邦制という点でも、現体制の国家機榊を大きく改編することなく
実現しうる構想であった。かかるオーストリア戸台衆国」榊恕は、当初、オーストリア内政華派と、カトリック系の
南スラヴ民族(ク、アチァ人、スロヴェニァ人)の支持を得た。しかし彼の構想の弱点は、所詮、立溌君主制とウィ
ーンへの中央災椛制を川すものではなかったという点であり、このことがより広範な自決術を要求するチェコ人、ポ
1ランド人の抗議をひきおこし、セルビア人も一九○六年からハプスブルク帝国との交渉を中断する事となった。ス
Wヴアキア人ホッジャらもやがてポポヴィッチの立悲沿主的中央集権主義に反対し、後に見るように、自治、共同の
利益を掲げて新たな構想をうち出すこととなる。
以下、セルビア人、スロヴァキア人の動きを追ってみよう。
世紀賑換期以降、南スラヴ氏族の自桁の拡大を要求するセルピア人、ク価アチア人の側には、「クmアチア・セル
ビァ連合」の動きが徐々に高まっていた。一九○五年一○Nには、「進歩党(z四℃【巴目の[3口百)」指導部及びスプ
リットの市長トルムビッチ(日日曰亘ロシロ〔の)、「農民党(の①]]月百⑪耳目百)」のラディッチ(恩&〈》の〔のロ:)らによ
り開催されたフィウメ大会で、フィウメ決議が採択された(艇民党は織成しなかった)。そこでは、「クⅢアチアとハ
(3)
プスブルク帝国内ハンガリー人野党との扣互協力の下に」、ダルマチアとクロァチァの統一、「妥協」で保証された脚
治権の維持と拡大、経済的独立等が要求された。これは、「ハンガリー化」支配に対する具体的牽制でもあった。
これに船づき、〃血アチァ権利党(黒く口[⑪訂の月:百℃曰く口)、進歩党、社会民主党及びセルピァ氏族独立党
(の『ロ⑫百口日。§口の口日。⑪B一目の[『目薗)、セルピァ民族急進党(のB⑪穴PppH・ロロ日日百一目の[H:丙口)により、クロア
(4)
チア・セルビアの共同、南スラヴの民族的・国家的独立を原則とした「クロアチア・セルピア連合(四コg⑫序。‐
⑫『b⑭百丙・P一一口]ロ)」が確立されたのである。これを機に、迎励はWび、帝国の枠組みにとどまらない南スラヴ氏族解
放の運動が目指されることとなるのである。
他方、スロヴァキア人の間でも、’九○五年の転換の中で、フリンヵ(巴冒百・シ且吋の〕)が、カトリックのスロヴ
七一
ァキア「人民党(z日.。:の)⑪再口昌)」の左派として現れ、また、マサリクを支持する『プラス臣ロ⑪“声)』派が怡頭
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ氏族問題
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
(5)
七二
してきていた。また社会主義者の側でも、ようやく、民族解放を階級抑圧からの解放と別個に、独自に追求しようと
する動きが現れ始め、スロヴァキアの民族的自立を主張するレホッキー(炉gooご》向日四目の一)のグループが『スロ
ヴァキア労働新報(の一○ぐ目の窓幻○頁)[an窓z・ぐ】こ)』を発行しつつ、スロヴアキァ人労働者の組織化を開始してい
嫁』しかし、こうした中で、帝国全体の再編を見通していたのは、特に、西スロヴァキアを基盤に活動していた「人
氏的農民迦励(」goぐの四m3日のロ自身)」を脂導するホッジャであった。
ホッジャは、当初、ポポヴィッチの「合衆国」榊想にはかなり共感を示していた。しかし、彼は、一八四九年、及
び一八六七年の経験から、大オ1ストリア議会内部での改良を信じることができなかったため、肢終的にはこれを拒
否し、「ドナウ流域諸民族の共通の利害に基づく帝国2魁編」、即ち、帝国の枠組みをも越えたドナウ流域諸民族の連
共通性の中で生きることが自民族にとって最善の道であると考えたのである。
彼は、スラヴ民族が一民族では弱体であるが故に、ドナウ河を中心とする河川経済、及び政治的・軍事的な利害の
闘いの保証は、唯一、帝国内部における民族の共同行動である。
(7)
ァニアのルーマニア人、クロアチア人のように、外部に依るべき民族を持たない。かかるス面ヴァキア人にとっての
層を持たず、殆どが農民によって構成されていることからも立証される。]また、ス、ヴァキァ人は、トランシルヴ
彼は一高う。スロヴァキア人は、小さいが、完醗に民主主義的な氏族である。[このことは、ス皿ヴァキァ人が徴族
○
ホッジャの要求は、『諸民族の中欧連邦(共和国)(、のロ[日」何日・ロBpOoBB・口弓の口一日・命z口〔】・ロ⑩)』に集約でき
邦化、を徐とに要求していくこととなる。
る
それ故、ホッジャは一時、オーストリア社会民主党、アードラー(し日日・ぐ房〔・円)、レンナー(幻の目の『.【ロュ)、
パウアー(厩ロ日。〔[・)らの文化的自治案にも接近するが、最終的にはより民主主義的かつ緩やかな地域連合をめざ
し、チェコ及びハンガリー民主主義者と結ぶ方向にすすんでいく。
以上の如く見てくると、一九世紀半ばの民族覚醒の時期から、二○世紀初頭に至る時期におけるスラヴ民族の連動
は、全体として次のように特徴づけられよう。
(1)一八W八年畝命期においては、[スラヴ民族]が強調されつつも、民族の解放は帝国の枠内での改編として論
じられた。しかし、ハンガリー革命、オーストリア革命共に、革命をめざす支配民族の側には、諾民族平等の理念は
未だなく、それ故、それぞれの民族解放の試みが民族間の敵対を産み、革命の挫折と、国家再編の挫折を導いた。
(2)一八五○I上ハ○年代は、諸氏族が赦命挫折を経験した後、述邦化の要求が帝国の枠組みをこえ、ヨーロッパ国
際政治を視野に入れて東・中・南欧規模で論じられ、そのもとで各民族の連帯と共存がみられた。しかし、この構想
が、ハプスプルク帝国、ハンガリー王国の東・中欧支配の枠組みを崩すものであるが故に、最終的には上からの「妥
協」によって再び挫折を余儀なくされた。
(3)「妥協」後は、ハンガリー政府は、オーストリアに対し強い立場で妥協を結びえたが故に、衰退しつつあるオ
ーストリア側のような諸民族への譲歩と緩やかな自治は導入せず、積極的な中央集権的「国民国家」形成に尽力した
が、このことがハンガリー内スラヴ民族迦動を、一八四八年革命以前の文化的諸権利独得迎動の段陪にまで後退させ
るとともに、その弾圧政策は、従来より周辺諸民族との「共存」「連合」によってのみ自民族の安寧がありうるとし
七三
ていた小スラヴ民族のハンガリー人不信と離反を強めていき、第一次世界大戦末期における諸民族の分離・独立への
ハプスプルグ帝旧の再編とスラヴ氏族問題
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ民族川腿
基樅を準附した。
一-
七四
(4)世紀転換期以後、民主化要求の中で出された連合案、諸民族の共存案は、帝国解体後の東・中欧諸民族の国家
形態の一つの基礎を呈示した。
これが大戦の中でどのように変森していったのかを次に凡てみよう。
(注)
(1)これについては、羽場『史学雑誌』論文参照。
bq、璽回ミミ酵戴種へ⑭等誌DC誌②ミロ鍾営・口・脚・○・・⑩.】』の-口『.
(2)C剤・昌匠口国CQ綴・殉国⑲、§§賛o⑩ミミ同sgn勾凰§§い§且勾国員蔦召§(図伊・目・Pご虞□・恩・河口△・]図「】閂2
(3)鈴ン弓六句』【すRく丙。[・巳9-届。m・切巨。仰己のい[・巳のP3⑪N・・シ・国・の㈲、-の巳。]ロ.
t
(4)■ン弓【曰】三([ぐ〆・〆のいいい』の.$←1mい、。]○・帛黒)鼠司麗誕ふき貝⑭嵜○因斡3○回nm・凶山国。-円い円心。N“、、の戸巳の、勺のロ・阻P
(5)碆穴dへ、寿舜ごQ興亜劃]C図秀○m(C⑤Q科②呑口ごmの○ヨいへの其]画⑪ロ。⑱←。。
(7)旨』]凹口餌○○開凹・砧甸鳥、貝ご社欝(討剴ゴミ同ミロごゆ○℃・日〔・・bb.⑭『-笛.
(6)門の乱の湿口。⑪.』旨貝堕ミミ鬮月(切純・向鷺へ昼s鳶&「貝n拍)感、見社§届(鷲憲冨、。冒罫ご口Hbg1H田b》、且目の⑫〔.]の『四・m『・$○一P
Ⅲ第一次世界大戦下のスラヴ民族問題
以上の如く分析してきた民族の「連邦制」模索の方向は、第一次世界大戦の勃発以降、大きく変化していくことと
なる。何よりも第一次世界大戦の勃発、より直接的には、次期皇帝フランッ・フェルディナン卜大公の暗殺により、
フランッ・フェルディナン卜と結んだオーストリア内改革派による、帝国の立悲的再編をめざす助きは、一時途絶え
表2戦争中の非ハンガリー人に対する裁判
一般裁判件数徴罰瀞議未了
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
スロヴァキア人
セルピア人
ルーマニア人
ウクライナ人
イタリア人
全体
Li1llilll
ilI事裁判
【】
1661
5477
件数
コロジュヴァール国防裁 判所
(クルジュ)
セゲド"
プダペシュトIlj央栽判所
プダペシュト国防地方裁判所
カツシャ
、
ポジヨニ
〃
(コシッツェ)
(プラチスラヴァ)
ザグレプ’
全体
273
徴罰審議未了
Ulj露11リ
15583
754
6274
出典:KendeJAI1os,AM7gyDrors2dgjSzocWde"loAr(W〃,Wjel"zFlisigi
力0ノi/ilMjDI903-I919,Budapest,1973.82old.
七五
ハプスプルグ市川の廊細とスラヴ民族問題
七六
ることとなる。このことは、ク回アチア人、ルーマニア人輔、帝国内胴導村と結んで述那化、三取、四砿王国化をⅡ
指す動きに、一定の影響を及ぼした。
第二に、戦争そのものは、民主主義的諾権利と氏族日愉に大きな制約を加えることとなった。
特に、同じ「スラグ」氏族であるセルピァ、「汎スラヴ主義」M主である皿シァヘの宜戦布告以降、帝国内のセル
ビァ人、ウクライナ人への弾圧が、特に砿部のレヴェルで独化された.スパイ、反国家的祈勁の約目で、多くの民族
運動活動家及び一般市民が逮捕・投獄され、軍事裁判にかけられた。(表参照)このことが、帝国政府に対するスラ
ヴ諸民族の期待を当然弱める結果を招いた。
こうした巾で、一九一七年、脈戦気分と講和要求の商まりの中で起こったいシアのツァーリ体制の崩壊と民主主義
イ三のたこの一
ツの枠アの’11の
依変組メ変手変
存化みり化迩化
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ら化独線文民
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立離援族
諸Wlが脱を解
1(白、し求放
族に
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帝り内シいりIi
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兇|族力、こい
|Hlスのわとた
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めア、参るが
』
、卜たソシ後、
スリ向ンア三ツ
ラト立大社lIjア
(1)
とスっル11のア
政府の樹立、続く社会主義革命の勃発と講和・民族自決の呼びかけは、ハプスプルク帝国内の諸氏族迦動に根本的な
帝)iUilril
l$第国し第肌第
変化全と引き起こした’
0)
たことである。
これらの変化は、一九一八年春から夏にかけて起こった。かかる状況の中で、チェコ人、ク、アチア人、ポーラン
ド人ら、亡命政治活動家による独立要求は、列強の対ドイツ、対ロシア、及び戦後のヨーロッパ秤編の政策と一致す
ることによって急速に浮上してきたのであった。
(2)
このような国際状況の変化を反映して、帝国内のスラヴ識氏族の述励も、帝国解体の方向へ、分離・独立の力向へ
と短期間で急激な展開を見せることとなる。
即ち、帝国内部の民族運動が、分離・独立を表明していくのは、’九一八年春以降、中欧の強国としての帝国の存
在がもはや不可能になってからであったのである。
最初に、独立の表明を行ったのは、ク回アチア人であった。
’九一八年五月一日、彼らは独立ユーゴスラヴィア国家の要求を大会で提出した。これに先立つ一九一八年四月、
(3)
Mlマにおいてハプスブルク帝側内の氏族大会が開かれ、ここでは帝国から分離して独立旧家を要求することが主張
された。イタリアの領土要求に対抗しつつ、この主張を推進したのはトルムビッチ(BBB耳か)しロ【の)であった。
一九一八年九月には、ロンドンにおいて、被抑圧民族の社会主義者国際大会が開催され、ここに参加したルーマニ
(4)
ア人ポルテシュ(、○円の翅)閂・ロ)は、被抑圧氏族の労働者が資本家と異氏族との二政の抑圧の下にあることを蚊調し、
その後、トランシルヴアニアの民族党と結んで民族会議を形成し、分離を準備していくこととなる。社会主義者と民
族主義者の共同による分離・独立への方向が、これによって開かれたのである。
七七
一九一八年一○月には、ザグレプで、南スラヴ民族主義者大会が附かれ、ここで新しい南スラヴ国家の臨時政府形
ハプスブルグ帝国の再編とスラヴ氏族問題
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ脆族問題
八
但し、かかる分離宣言は、その民族の最終的な帰属のあり方、国家形態をも決定した訳ではなかった、という点は、
との〈、同を提案し、採択された。
(6)
BHoB防同且回)」が樹立されて、ス四ヴァキアの分離・自決を立言した。三一Ⅱ、大会に参加したホッジャはチェコ
またス画ヴァキアでも、一九一八年一○月一一一○Ⅱ、マルティンにおいて「スロヴァキア民族会議(の一○ぐ目⑪颪
亜っ(樫。
○月二日、スポティッァ(の8.回8》サパトカのB・且百)において、クロアチア人、セルピア人の自決を主張するに
他力、ヴォイヴォディナでは、土地・経済の社会化が社会主義者によって叫ばれていたが、彼らも、一九一八年一
成の要求が出され、独立は直接のH秘にのぼることとなる。
七
まずクuアチァ人に関して言えば、亡命政桁家トルムビッチはセルビアとの同椛を銚礎とした南スラヴ国家形成を
その後、彼は連邦化構想に関心を抱くこととなるが、彼の、した連邦国家は、トルムピッチの如く、西欧列強と結
の生派向上、それを咄樅とした膿木的な既かなクⅦアチア社会が彼のⅡ脂十ものであった。
もクロァチァの経済・社会改良に関心を払っていた。特に、大上地所右制の解体と、土地改革によるクロァチァ農民
就中、ラディッチは、第一次世界大戦期まで、三甑王国化を要求していた人物であり、「バルカンとの同盟」より
ツチ(刃勘、Z房○一回)との川には、大きなくい述いが存在していた、
(7)
目指していたが、いかなる連邦国家を形成するかに閲しては、ク回アチア農民党のラディッチとセルピアの外柵パシ
い
弧調されねばなるまいそれぞれの氏族内部にも、分離後の自民族の国家形態については、航北の選択肢が存在して
。
た
ぶことによってヨーロッパ国際政治の中に一定の外交的役割をもって位置付けられた南スラヴ連邦国家ではなく、農
民リーダーに導かれ、それぞれが自治単位をもった南スラヴ連邦国家であった。この「南スラヴ」連邦国家には、セ
(8)
ルビア、クロアチア、スロヴェニア、モンテネグロのみならず、ブルガリアも包摂される予定であり、また将来的に
は、エーゲ海、パルト海にも拡げられる構想を示していた。
かかる点では、ラディッチの述邦構想は、国際政冷との側係において南スラヴがいかなる位世を占めるかというこ
とよりも、「農民党」的国家の机互協力関係という形で内に向けられていたのであり、その点で、国際政治をにらん
で歴史の動静を見抜き、列強の支持を取り付けた亡命政治家の実行力を凌ぐことはできなかったと言える。しかし他
力で、この「農民的統一性」の視角は、亡命政胎家のナショナリズムやスラヴ民族主義をこえて、まさにのHのg
】日のHgは○日]として拡がる可能性をも示していたのである。
一九一八年一一月二四日、ラディッチはザグレブの民族議会において、平等に基づく連邦制の保証のないセルピア
との統一に、唯一人反対の表明を行った。同時期に柵樅された、三○○○人のクⅦアチア農民党代表の集会において
も、セルピアとの統一を採択した氏族議会の決定は否決された。
最終的に、「コルフ宣言」を基礎とした、パシッチⅡトルムピッチの妥協に基づき、カラジョルジェヴィッチ王朝
の下、セルポ・クⅣアート・ス卿ヴェーヌ王国樹立が立言されて以一降も、ラディッチを中心とするクロアチア農阯党
(9)
Iも
は、南スラヴ連邦と独立クロアチア(スロヴェニアを含む)の綱領を採択し、独立の憲法、議会を持つ「中立のクロ
アチア農民共和国」を掲げて、協商国にも要求を提出して行くこととなるのである。
七九
同様のことがス、ヴァキア人の川にも見られた。即ち、チェコとの完全な〈川同を望むシュⅦバール(の【○ヶロ『〉
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ氏族問題
ハプスブルグ帝国の両編とスラヴ民族問題
八○
ぐロく1口の。)派に対し、より妥協的で、ハンガリー側からの譲歩に対しても関心を払い続けていたのはやはり農民党
くロく1月。)派に対し、
のホッジャであった。
ホッジャは、先にも述ぺた『諸民族の連邦(noBBop三の口」so席Z目○口⑪)』の理念に船づき、「独立」宣言以後も、
旧帝国内の周辺諸民族との共同(8-8の3口・ロ)による国家建設が必要であると考えていた。彼は、小国が勢力均衡
(川)
(g]:、の。【【・『8の)の叩で無視できない存在となるためには、小国が共同してあたる必喚がある、と考え、その限
リでは、チェコのみならず、ハンガリーとも、此加の利諜に挑づき共同十る可能性を券雌していたのである。
ルーマニア人についても、氏族党のボブⅡチチオ(勺・ロ‐QBC》い[瓜:)らと、社会民主主義打のイサク(門田n.
岡目一)、ワルエラシュ(国口の日や》閂。。)との川には、ルーマニア王脚との完全な無条件合同か、ルーマニアの政体の尺
兆兆錠化という条件の下での合同か、という、決定的な違いが存在し続けていた。しかし、トランシルヴア一一γのル
(Ⅱ)
ーマニア人民衆の統一要求及び反ハンガリー氏族愈識の刑まりの中で、社会氏兆兆挺打ちは、雌終的には、氏族党に
率いられる乢衆の流れに仰されて、仙州条件統一を支持してゆくのである。
以上見てきた如く、第一次世界大戦末期、一九一八年春l夏以降にかけて、帝国内諾民族は、急速に諸民族の連邦
制から分離・独立の方向に移っていくが、分離宣言以降も、新国家の方針は極々の対立と問題を孕んでいたと同時に、
必ずしも現在見られる側境線と国家形態が予想されていたのではないことを強調しておかねばならない。即ち、ク、
アチア人についても、ス皿ヴァキア人についても、セルピア人あるいはチェコ人以外の諾氏族との共存・連合の下に、
日民族の安定化をはかろうとしていたのであり、ハンガリ1人、ルーマニア人らとの共存も未だ模索され続けていた
のである。これを妓終的に不可能にしたのは、ハンガリー人の領土保全の固執、世紀転換期の「ハンガリー化」政策
からくる諸民族のハンガリー人に対する不信、加えて、周辺諸民族の軍事的介入と列強の圧力であったと言える。そ
の点について、最後に考察を行っておきたい。
(注)
富どの『・刀)辱§(○弐喧慧駒旦暮Eこ§bはご)§Q》ごヨー』b局・5-のご日ぐ・勺思いの.』①$・『ウィルソン対レー一一ン、新外交の政
(1)一九一七’一八年における国際政治の転換と、それがハプスブルク帝国内諾民族に及ぼした影響については、シ日・]・
治的起源、一九一七’一九一八』瑞波現代選蒋、-1Ⅱ、一九八三。)及び、、。曾厨§且口蔦:Ca刀自§百迂菖囚
noミミミ鳥ミ目旦、。§肴鄭§。(貝ご韓ミマ、q吻旦辱め・』巴⑪l】①】や.zg向く○『〆』⑪の『.と参照。
司奇、『§か-§旦暮⑮画88§『両、§:Hb属‐ご昌聾切曾ら(ミくミミロ(Q員切・§(罰8.(員ざ菖.Zの一どく。『宍・」し『『・を参照。
(2)この過腿についての国内・国外の識氏族述動の(チェコ中心ではあるが)詳細な研究については、凶・少・国・院3目・
(3)口日一q】)のC)。&)のぐ】C『鳶○日ミョミミ虞、。:ご旨・巳』令Iご』四・口日く.。【n口]59-..C凹罵・日一P巳司のもつ・SIB.
『貝員斡口(一目貝『s討身》ロ斡等“ロロィ●p輔い轌旨斡民軋貝鳥38宛s凰試Qご叩巨ロ・別の□口。》旨冨]『opnop⑫日日ざ①叩の色や一m[の甘口勺口いnF
(4)少一・勺・列》8目》属目〕濡口n8gロゴQ8H8②8や{⑰。Q四一厨&□】ロ弓『:⑫一一く目厨b2pP目月忌.ご□②鳳葛『}鷺ロミョ&べ斡骨,
mpnp『⑮稗〕)〕CのPD・心①四・
く
(5)尻α
(5)尻αくい晩。P勝瞭ざ・』ミロ嫡冨ミミ周回廻回』(鷺へ8号。ご局I』や-。§。、宮・弾勺の⑪[.この吟31つ一○一Q・
】C]o-QD
(6)爽。
(6)」豆鳥S烏}§。§&§3百鳶:庶愛貧⑳[『・廸忠・冒廻ロミ蔚持ごく§§》ぐ臼息[.】①]、‐〕むち国口目□のの[・】c『⑪.
乳ごミミ旨」畠○駒-8§いぎ今州口:.ご局・国の○日目・』の①一・⑭q・」ヨーー』『、.いい⑪I困少四℃い‐患の・凸い‐と、・を参照。
八
(7)一九一八年燕~秋にかけてのラディッチ、パシッチの国家構想の違いについては、C・]:穴・ぐ一Cl国・尻『唇日:.Q8画・
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ氏族問題
一
ハプスプルグ帝側の阿編とスラヴ氏族問題
(8)r、。⑫厨く臥口口○い・ロロ辱口誌困甸旦国貝ご誌・。ご・q詮・・ロ・巴傘.
八
国解体寸前に、「ハンガリーの将来とドナウ合衆国」というタイトルの箸作において、帝囚の民主主義的再編のアゥ
ハンガリー新政府は、民族杣にブルジョワ急進党党廿のヤーシをすえ、諸氏族との折衝を附始した。ヤーシは、帝
る民主主義球命が勝利した。
一九一八年一○几三○Ⅱ、ハプスプルク帝国は解体し、ハンガリーでは、カーMイ(鼠日冒・冨房叫々)を甘班とす
〈l〉ハンガリー民主主義赦命政権と識民族
妓後に、帝囚解体後、革命政権が樹立されたハンガリーと識民族との関係を考察しておきたい。
一九一八年・秋’一九一九年・券
Ⅳハンガリー赦命期における国家再編の妓後の試み
おけるルーマーーァ人少数民族間脳」『川際側係学研究』(沌川塾大学)、一九八四年、三川、第一○吟、七一’七三両参照。
⑭ooEIb・』嵐:ロのロ㈹冒囲pn・巳勺・○”・・ぐ○一・砂・ロロn日のや【】・】①曰・ロロ・『、-『の。この側脳に附しては、拙稿「ハンガリーに
14
(Ⅲ)冨吋。。n・ロ⑩Bpppの⑭8・ヨシ2口一目】臥浄・胃:、の3ヶ己の』巴囚..ご□恩sゴミ・§鷺&「錘吻ミミミ目へ》§貝『s罰§8.(旨
I←】⑭。《し□のご坤日]》日ロm一句ロロ伊臥の巳】C》、式(場ロョ§&ヘミ③88鷺物Ca貝轡&且旨宛s菖鼠圓冒⑩口日日一月⑭日昌三⑪81,の辺
(皿)三】街口餌。。暦。、付回国日s討(凶、、貫日(向鍾、。ごQ壱○℃・ロペ・・ロロ・『←1乱.
(9)C】曰】a]のO)○且のく行・目⑩Q§8蔑旦唇、。:§.。、.○詮・・つつ.】沼1局⑩.F・⑫.、B『凶:。⑫.8.2.6℃。⑬】f巴、.
二
(1)
トラインを明らかにしたが、解体後は、ハンガリーを東欧のスイスとする、という「束のスイス」構想により、地域
自治を基盤とした民主国家の実現をめざして諸民族との交渉に当たることとなった。ここにも東欧の民主主義者によ
る、アメリカ型、スイス型連邦制への高い評価が窺えるが、実際には、この計画が、一、○○○年続いたハンガリー
王国領土の枠組みを崩すものではなかったことから、諸民族との歩み寄りは極めて困難であった。
まず、ス脚ヴァキア
まず、ス脚ヴァキア人から見てみよう。
(1)スロヴァキア人
一九一八年一○月三○日’三一日に設立されたス血ヴァキア民族会議は、チェコの民族会議にならって分離の宣言
をおこなったが、それ以一降も、彼らは、スロヴァキァにおける秩序回復と私的所有を守るため、ハンガリー革命政権
の行政組織を支持し、連動しつつ活動していた。スロヴァキア民族会議の活動は、雑木的には、チェコと結んで国家
を形成するという方向をとっていたが、一部[特に束スロヴァキア]では、ハンガリーの政府筋の支援の下に、独立
したスロヴアキア及びスロヴアキア人氏共和国の構想が宣伝されていた。これに対し、スロヴァキア民族会議のプラ
ハ在住メンバーは脅威を感じ、プラハの民族委員会に対し、兵をスロヴァキアに送り、スロヴァキア人の住む傲士を
.占領するよう訴えた。その結果、ソコル(陣)百])のメンバーらからなる碓隊が、スuヴァキアに派兵され、一九一
八年一一月五日、シュロパールの指導の下に、チェコとの国境都市であるスカリッァ(の穴農8》サコルッァの日穴?
』8)に、臨時スロヴアキア政府が樹立された。
=
臨時スロヴァキア政府は、国境問題をめぐって、ハンガリー革命政府と対立したが、他方、ホッジャは、これとは
 ̄
若干異なった行動をとった。
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ比族問題
八
ハプスプルグ帝国の祁編とスラヴ民族問題
八四
一一Ⅱ終わり、ホッジャ、続いてス回ヴァキア氏族会議の代表が、ブダペシュトに到諦し、かれらはハンガリー革
命政府に対し、スロヴァキァにおけるハンガリー行政官の解任、ハンガリー軍の撤退、食糧供給、スロヴァキァ領士
の秩序回復、等について、提案を行った。
ホッジャは、民主主義革命政府民族机のヤーシとの会談の中で、スロヴァキア領土における広大な自胎樅、行政・
(2)
秩序維持の国民防衛隊を含む主権をスロヴァキァ民族会議に与えること、自治地域では、独自の民族議会を選出し、
共側の問題については、スぃヴァキア人とハンガリー人の民族議会及び国民議会の代表が話し〈、うことを要求した。
これはホッジャが、チェコス、ヴアキァ躯のスロヴァキァ地域における影響力の不砿定さから、独自に、ハンガリー
のカーロイ政権との交渉によって、スロヴァキァを保証しようと試みたものであった。ホッジャの考えでは、スロヴ
ァキァにとって、チェコおよびハンガリーとの「共存」は、同程度ではないにしろ、いずれも必要なものであると忠
われたのである。
しかし交渉は、最終段階で決裂した。
一九一八年一一月三○日、チェコ政府はホッジャの行為を批判し、公式の行動として認知しないことを主張した。
これは、協商脚によっても支持され、一二月三Hには、ヴィクスは、ハンガリー球命政府は、緑蒋なく叩をスⅦヴァ
(3)
キァから撤退させるべし、という、フランシェⅡデス.ヘレの覚書の実行を迫った。ハンガリー政府は、これを承認せ
ざるをえず、一二月六日、スロヴァキァ代表ホッジャとハンガリー代表パルタ(因ロ瓜口・シーワの『〔)軍事大臣は、臨時中
立地域設定について協定を締結した。しかしプラハのチェコ政府は、これをも無効と見なし、一二月二三Ⅱ、やハリで
はチェコの要請に基づき、より南部に国境線が決定されることとなったのである。(これにより、新スロヴァキァ領
士内には、余人川の一一七’八%(一九一○、及び一九年人Ⅱ統計)を●占めるハンガリー人が残されることとなっ(樫。
以上の如く、スuヴァキァでは分離宜一高後もハンガリーとの共存が試みられていたことは興味深い。そしてこの試
みはまさに、協商国とより弧力な近隣氏族、チェコ人によって、肋されたのであった。
一九一八年二一几’一九一九年一几におけるハンガリー躯のス回ヴァキアからの撤退、チェコ班の進入と平行する
形で、一九一八年一二月一○Ⅱ、マルティンの北の都市、ジリナ(目ごロ叩ジョルナ臼⑪。一目)において、スⅦヴァキ
ァ政府が、シュ、ヴァールの脂郵下に樹立された。この政府は、一九一九年二川四Ⅱ、プラチスラヴァに遜都した。
シュロヴアールは、スロヴァキァ政府を、チェコスぃヴァキア政府樹立の礎打、ス皿ヴァキアの秩序回復を保障する
ものとして樹立したのである。
(2)セルピア人
次にセルビァ人の動向を概観しておこう。ヴォイヴォディナは、カー回イ政権が分離を認めなかった地域であった
が、ここでは、ハンガリー人の国民会議、セルピァ人、ドイツ人の民族会議は協力して秩序回復、「生活と財灘の保
障」にあたり、革命運動の鎮圧に尽力した。しかし、一九一八年二月七日’’六日にかけて、セルピア軍がヴォイ
ヴォディナに侵入して以降は、この地域は、セルビァ班によって秩序回復がⅡ脂されることとなった。「白い鷲
(句:町田⑫)」を掲げたセルビァ叩の兵士途はまた、ハン〃リー行政向の追放、駆逐をも附始したため、ハン〃リー
政府と敵対することとなった、
カー回イ政府は、二Ⅱ二一日、フランシェⅡデス.ヘレに、セルビア脈の行為を抑劾したが、サロニカのフランス
八瓦
班司令部からは返梓がなく、セルピァ政府は、休戦協定以前にセルビァ氷が占領を行ったヴォイヴォディナ地域はセ
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ圧族間脳
(5)
ハプスブルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
ルピアの行政領域に含まれることを宣言した。
八六
一九一八年一一月二五日、ウーイヴィデークにおいて、ウーイヴィデークのセルピア民族委員会を中心に、ヴォイ
ヴォディナの民族集会(の丙戸℃の[旨口)が開かれた。トミッチ(弓・日獄.]口田)を指導者とし、七五七名の代表が集まっ
たこの集会では、次の一一つの決議がなされた。
(1)人民の自決権に基づき、パナート、パーチカ、バラニャはハンガリーから分離する。
(2)セルビア王国と合同する。
(6)
これを遂行するため、彼らは五○名からなる民族会議(z日・ロ日田ぐの【)を選出し、行政管理は、民族執行委員会
(z日o95PbH四ぐ口)が行うこととなった。
これによって、セルピアの民族運動を二分していた民族主義グループと民主主義グループの間において、前者の方
針が受諾されることとなり、民主主義者が主張していたヴォイヴォディナのより広範な自治、そこに住む人々の平和
的共同生活の方針はしりぞけられた。ヴオイヴオディナのセルピア人地域では、ヤーシの「東のスイス」構想との話
し合いが行われる前に、彼らは分離という結論を出したのである。
(3)ルテニア人、ドイツ人の動き
(7)
カーロイ政権下でのヤーシの民族政策は、カルパチア・ウクライナと西部ハンガリーのドイツ人の間には一定の成
果をjbたらした。
ガリッィァには西ウクライナ共和国(z冒循貝lご穴3口【9s『⑪回凪、)が樹立され、ウクライナの国境を越えようと
するポーランド軍、ルーマニア軍、後にロシア軍と戦い、ハンガリー政府を防衛した。ウクライナの一部は、チェコ
とルーマニアに削譲の約束がなされていたが、両国とJb、スロヴアキア、トランシルヴァニア微の化財処、分割が当而
の目標であったので、ウクライナの指導者、特に、個侶、法曹家、教師、官吏等は、ハンガリーに友好的方針を保ち
続けることとなった。
かかる姿勢を代表したのは、一九一八年一一月九日にウングヴァールに形成された、三五名からなるハンガリー・
ルテニァ国民会議(日ロ日日‐日筋ゴロのbBB8)であった。議長はサポー(の8{己の目・ロ)、書記はヴォ、シン
(く。』。⑫頁シくい5昌口)からなる国民会議は、一一Ⅱ一九Ⅱ、一連の要求をハンガリー政府に提出した。そこでは、
ルテニア人民衆と接触をもつ知小を、マーラマuシュ(ご尿日日日8)、ペレグ(、の『のい)、ウング(ロ。m)、ウゴチャ
(8)
(pm5間)の紺映に配価すること、宗教行にルテニア支部を慨くこと、大学にルテニァ学科を樅くこと弊が要求され
ていた・
一九一八年一二月一○日には、ハンガリー政府の主催で、ルテニァ人指導者の大会がプダ.ヘシュトで開催され、こ
れに躯づき、一二Ⅱ一一五Ⅱには、「ハンガリーに住むルテニア氏族のn桁」に関する法祁が採択された。即ち、一九
一八年第一○蹄法では、ルテーーァ人の行政、司法、教育、文化、宗教、一百荊仙川に関する同流樅力が保障され、マー
ラマⅦシュ、ウゴチャ、ベレグ、ウング諦肌のルテニァ入居化地域において、ルテニア人地区(河口関百-【日)目)と
いう自治権領域(g88B-さ、[の己一の〔)が設置される事となった。第一○号法第四、五項では、自治領の法的日輪の
(9)
問題に閲しては、ルテーーア民族議会、共同の問題[外交、躯事、司法、その他〕に関しては、ハンガリーの共同国民
識〈琴が特鞘すること、が記されている。
八七
この法令の下に、ルテニア地域議会とルテニァ地域内側が確立された。首都はムカチェヴォー(冨口丙呂のぐR・ムンカ
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ氏族問題
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
lチ菖目江、⑪)におかれ、議促には、シュテファーン(の[の畝P‐シ、・の8口)‐が任命された。
八八
その後、自治地域の国有地、鉱山、森林は、「ルテニア民族法に代表される」所有地域とされ、ルテニァ地域に住
む非ルテニア人の居住権、文化的自胎権は保護されることとなった。
ウングヴァールの民族会議と併存する形で、プレショフ(勺『尻・ぐ⑪エ。ヘリエシュ何℃のユ研)、マーラマuシュシゲト
(シ忌日日日。⑪§ぬの〔)でもルテーーァ民族会議が機能していた。地域組織としては、前者はチェコスロヴァキア、後者
はウクライナへの併合を虹んでいた。
マーラマ口シュシゲトの民族会縦は、フスト(国厨風)に民族大会を冊架した。大会は、一七五の町村から一四二
○妬の代表が参加し、一九一九年一Ⅱ二一Ⅱに、ルテニァの民族会議との新しい統一体を形成することを直言した。
ウングヴァールの氏族会鍍の立場も未確定で、ハンガリーとの共同か分離かの川で決断しきれず勅帰していた。
「ルテニア地域」に川する川民法の設悩に側し、一二几二六Ⅱに「謝意」を示すためプダプシュトを訪れたヴォuシ
ンの脂導する委員会は、同時に秘密裏にスⅢヴァキアのホッジャと会談し、チェコスⅣヴァキアとの統一の可能性に
ついて話し合った。分離要求の背跳には、ルーマニア獺とチェコ服が、マーラマロシュに接近しつつあるという問題
が存在していた。(珈突、チェコ服は、一九一九年一几一二Ⅱにはウングヴァールに入城した。)しかし、かかるチェ
コ軍とルーマニア軍の進撃も、一九一九年一月下旬には一応集結し、ハンガリー人の行政下にある「ルテニァ人地
域」のかなりの部分が、以後、社会主義政権に至るまで機能し続けることとなった。
ルテニァがn桁を確立し得たのは、分離要求が当而現実的でなく、ハンガリーにも耶嚇的脅威を直接与える地域で
はなかった、という、きわめて消極的な理由といえるかもしれない。しかし少なくとも一九一八年二月の時点では
小民族がいかなる国家領域に帰帆するかはきわめて不確定的であったということは明らかであろう。
〈2〉ハンガリー社会主義革命政権と諸民族
(皿)
ハンガリー社会主義革命政権がプロレタリア国際主義を掲げていかなる民族政策をとったかについては、別稿でも
既に論じているので、ここではその根幹だけを示しておきたい。
(Ⅲ)
ハンガリー社会主義政権は、「社会主義連邦共和国(の8:一一のBm8くの鳳悶のの弓四日8忍臥司協3m)」をうち出し、
「向山な民族の自由な連邦」を主根することによって、一九一八年一○几以降の民族主義的同家形成を批判する形で
束・中欧の抜本的Ⅳ編をめざそうとした。
これにのっとって、一九一九年六Ⅱ一六Ⅱ、ハンガリー赤耶と束xぃヴアキア民衆のラダ(『且円ソヴェト)の迦
動によって形成されたのがス川ヴァキァ・ラダ共和国(の一・ぐ目⑰巨肉8口目戸口鼠q)であった。ホッジャは、これを
共産主義将の陰謀ときめつけているが、現実にはス回ヴァキア・ラダ雛災兼外務人氏委ロャノウシェク(]目・息の丙》
し貝・日ロ)がチェコス卿ヴァキァ政府に訴えているように、「チェコとの迎合を第一雑的としつつⅧシア、ハン〃リ
ーとも共存することを瓢む」、スⅢヴアキア氏族迎励の歴史的性絡を反映したものであった。
スⅦヴァキア・ラダは、結局、社会主雑革命の西への拡がりを恐れる迎合囚政府によるハンガリー政府への撤退要
通牒と、チェ
求の妓後通牒と、チェコ耶の杯侵入によって崩れさったが、社会主義体制を基盤とした連邦化の試みは、戦側期から
界大戦後の車
第二次世界大戦後の東欧を歴史的に経験した現代から見て、やはり当時においても有力な一つの選択肢であったとい
ではないだろ
いうるのではないだろうか。
八九
世紀転換期の
但し、世紀転換期の「ハンガリー化」政策と民族の弾圧の記憶が鮮明であった当時において、ハンガリー革命政権、
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ氏族悶題
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
九○
赤軍そのものが極めて民族的色彩の強いものにみえ、諸民族の反発を引き起こしたことは事実であろう。
、
ロシアとは異なり、束・中欧においては帝国解体後、雄命政権による帝国の述邦的再編は実現されず、小民族が近
隣民族とむすびついて小多民族国家を形成した声)とにより、国家再再編の問題は戦側期に持ち越される一」ととなるの
である。
(注)
(1)羽場『史学雑
羽場『史学雑誌』論文参照。「束のスイス」構想は、後にチェコス仰ヴγキァのベネシュも一時主張することになる。
ごロ円・巳李ISmo丘.
(2)国。『○の可の『の□
国。『・の可の州のロ。.ごロー巴ミー。』§胸へ8罵宵、§頁・計・巳BIB臼‐すのロ・ロ日ロロのいが】①『P命l念・]Q・罠両国。§周月&、§§.
(3)アルヒーフ、富】ロ】⑰【①『BBB.。『叩臥、。⑩いの乱]は円・宍・日.』巴、○の。①ヨワ閂酉。
(4)』〔貝ごミペ蔚月&莨鳶時・く員S『・丘。
(5)言口堕S3関舟&、§:ン「員】g・』□。
(6)恩乱、○い“のい]g聾ミロ巴。§蔚持抽魯筒与・蒜と隼‐⑪、。』。.
(7)○の8円]囚の旦沁§。(員s君§回(〉:試庶。§。(貝ご毬冒国謹討mpq・Zの乏邑○鳥.ご$6.8.
(8)員貸ごロミ簡持ご愚菖、・ぐ員屋や‐岸g・]。。
□巳
ロピロ』のN[の射つ》園口〕いい[の『0
(9)アルヒーフ、シ届ぬ瑁閏。『⑪働預○口日ロロの日いの〔の丙○日のロ:]汚の胤禺I)。、口の]②歸肝岸府のくの]曰の堀はい。[【日目
8]8戸鵬召炉の忍』日H・○句の乱、。①Pのぐの一は【逼宍・←P巳届〆河口蔽口・
j
11J
(川)羽場久泥子「ハンガリー社会主義における氏族と国家」『共産主義と国際政論』、一九八四年、第九巻、 第二号、七’九
(、)アルヒーフ、シ言い巴日・厨臥、】⑩8口ロー》の日の8くの[冊いの⑭弓回且8召鳳曰吋8段函ご界・〔『己旦口.シ弓:少8.穴。乱の臥晒。⑩
の怠]肝曾の丙昌の⑫gの岸)の巴『&恩ごくの..①C頁・桿、ぃ。の.‐己巳・甘口旨の圏I目・銘.
結びにかえて
本論文で見てきた如く、一九世紀半ば以降、ハプスブルク帝国内の民族運動は、埜木的には「諸民族の共存」とい
う形で、帝国の再編と種だの自治、迎合、連邦化を要求してきた。その端的なものは、ルーマニア人ギカ、パルチェ
スク、ポポヴィッチに見られた「合衆国」的連邦化、あるいはラディッチの「農民共和国連邦」、ホッジャの「諸民
族の中欧述邦」に梨約されるであろう。
かかる「諸民族の共存」は、理念的・理想主義的なものでもなければ、第三者が現実をふまえずに提起した命題で
もない。その場において氏族巡励を闘っている人々nらの内側から川された、極めて呪災的な命題であった。「合衆
凶」型迎邦構想は、呪災には束・中欧の各「州」の利禅対立があまりに強力であったが故に、不可能であったにせよ、
例えば、経済(貿易側係)、耶酬、外交レヴェルにおける利害に船づいた結束を要とし、その他の問題においては広
範な自給を認める、という、いわば囚家迎合的な共存形態は、可能であり、几っ岐も必喚とされていたところであろ
う。(その一部は、限界を有しつつも、第二次世界大戦後の東欧にとり入れられている。)
実際には、第一次世界大戦後、Ⅲ帝川内諸民族は、分離・独立し、肌つその結果、扣互対立関係を形成することと
なるが、その後も、諸民族共存の力向は、’九三○年代、及び、第二次世界大戦に至るまで、引き続き模索されて行
くこととなるのである。
しかし、当時の連邦構想が、はたして当時の民衆とどこまでむすびついていたかと問われれば、それは必ずしも民
九
衆運動内部から出てきた理念であったとは言いがたい。連邦化要求に関しては、’八四八年革命、’八六(Y-一八九
ハプスプルグ帝国の秤編とスラグ於族問題
一
ハプスプルグ帝国の再編とスラヴ民族問題
九二
○年代、世紀転換期、二○世紀初頭において、繰り返し、民衆集会、請願迦動等が存在したものの、連邦構想は、基
本的には、民族運動指導者による理念であった。しかし、独立自体が、必ずしも民衆的レヴェルの決定でなく、基本
的には、亡命政沿家と連合国とにより、国内の氏族運動とは次元の異なったところで行われた(特にスロヴァキァ人、
クロァチア人にとってはそうであった)ことも事実である。「民衆による変革」は、ロシア革命と連動した一連の社
会主義運動を除き、国家形成のレヴェルではこの時期においては、未だ充分雁附されていなかったといえよう。
最後に、何故連邦制出
何故連邦制は、実現されなかったのかについて、考えておきたい⑪
来・中欧において、【
において、最も特徴的なものとしてあげられるのは、やはりその顕事的・地理的敢要性故の、 周辺諾列強
の干渉と脅威であろう。
一九世紀半ば以降、いわば帝国内部からの諸民族の連邦化要求に呼応する形で、これを取り込もうとする汎スラヴ
主義、汎ゲルマン主義の運動が成長していった。これらが逆に、連邦制要求の発展を妨げることとなった。特に、汎
スラヴ主義の脅威は、諸民族の側にもりあがっていたスラヴ諸民族の連邦制に対する帝国支配屑の危機意識を高めさ
せ、彼らに非スラヴたるハンガリーと「妥協」する方向を選択させることによって、一挙に帝国における連邦制の実
現可能性を遠のかせたことは事実であろう。
このことは特に、東欧諸民族が望んだ「アメリカ」と「スイス」が何故、それぞれの連邦制を実現し得、東欧は実
現し得なかったのかを考える上でも迩要である。近代における諸列強の播頭の中で、軍事的・政胎的に国際政桁の力
関係を左右しうる地理的立場にある東欧は、周辺諸列強の思惑に逆らって独自の国家形成を行うことは不可能であっ
たのである。[特に机対立するドイツ、回シアの狭側にあっては、現状の力関係を崩す国家構想は、いずれの側から
も容認され得なかった。]
第二には、内部の問題点、即ち、「共存」を志向したにもかかわらず当時の束・中欧紺氏族及び識階肘において思
惑及び利害の対立が歴史的に恒常化していたことがあげられる。
(1)まず帝国内オーストリア人においては、西欧紺列仙及びスラヴに対抗するための帝国の近代的・ゲルマン的再
編と維持が岐大の課脳であった。ここから立悲刈主的述邦制を考えるポポヴィッチの案が意味を持つこととなる。
(2)次に、帝国で第二の地位を占めるハンガリー人においては、自民族の地位・特権の優位性を維持しつつ、より強
力な国家がめざされた。(その点においては、コシュートもデアークも同様であった。しかしコシュートの彼支配氏
族への岐終的譲歩は、ハンガリ1氏族の支配的地位を結果的に弱めるものとして国内ハンガリー支配屑に抓否された
のである。)
(3)蛾後にスラヴ諸氏族においては、一方では、①回シアに依拠したスラヴ的統一と解放をめざすグループと、
他力では、②帝国内部諸民族の被支配的地位からの解放による諾氏族平等の連邦N家をめざすグループとが併存し
ていた・
即ち、(1)(2)の支配民族、オーストリア人、ハンガリー人は、雌本的に向らの傾士・支配的地位を維持するため
の迎邦化を要求し、保守的・現状維持的立場にたっていたのであり、他力、(3)の被支配氏族は、①では大凶依仔的
だが、②では被支配的地位からの解放による述邦化を主張しており、彼らはすべて共に「連邦化」を掲げながらもこ
三
の時期においては合意に達するところがなかったのである。
ハプスプルグ帝掴の祁編とスラヴ氏族問題
九
鴇ii捌測;1世iliIゼゼ無リ際
い'#'''課い'''肝多係と@M$M
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桁述め.左立のるえへに11ゲIl1欧’1
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そつはのだ狐がなるクIIJ離
兄つな解と立解政分「’のI1IL
irI三】〈決諦が決治離|民、
がな、にら民つためさか}、
あ社ラ求で族いしたれ諸フ
る会デめ}よのててマて民ス
の主イたな平はいり.〈族ク
で義ツのく等考たりるの識
九四
さ’、法め禍で的・ズ主ブ
オLIH水をてげき役リ11(.的し
るツツ迎いらる割立ア連ス
必パジ邦たれかををツ邦ト
要的ヤIlilIかずに果求プ化リ
ハプスブルグ帝国の再編とスラヴ氏族問題
綱繊縣鮒触稀wKi
歴史の流れに即して考えれば、(1)(2)および(3)‐-①は、二○世紀における第一次世界大戦末期の東欧識民族の
zii支畠ぞ'1M},WlI;$$
洲MIi舳靭w`鮎$'iiw
自覚の高揚と運動の成長の中では、既に時代遅れのものとなりつつあった。そこでは(3)l②がいかに実現可能かが
ヒ:孵膿囎納繊迩か欧況
問題であったのである。
かかる状況の下で、》
難そ鮒|fきしliL“iM11'か
1M代うる゜るれかい亡あ・東か
し炎い、JIll述てしえ命るりⅢ(・る
てさうと立邦い彼、政.立1111ハ
はないだろうか。
(注)
西欧列独廿麟は、チェコ亡命政治家輔の熱心な独立要求を承認する形であったのであって、彼らの側からの東欧再編計画は
、、
(1)周辺諸大国の彫騨力の「過大」評価については、フランス史研究者Ⅱ氏から償虹な御批判を受けた。仏をはじめとする
たが西欧諸列撤はこれを無視し、まさに画シァ革命とブレスト講和以降、彼らの肛接利害が來欧の再編と裕接に結び付いて
当初待っていなかったというものである。事実はその通りであるが、第一に、チェコの独立要求は職争当初から行われてい
きた時点で急速に亡命政治家の要求を認める方向に転換していること、第二に、ロシアの社会主義政府、ハンガリー社会主
義政府、オーストリアの革命政府等が熱心に協獅図に対し、独自の、かつ東欧共同の講和交渉をはたらきかけても完全に黙
の意向を反映して受け身的に承認したわけではないことがいえるのではないかと思われる。
殺しきったこと、の二点において、協商国は、自国の利害関心を東欧の再編に貫徹させたのであって、決して東欧の諸民族
九五
〔付記》本論文は、一九八四年秋の史学会報告、及び一九八五年の近現代史サマー・セミナー報告を基礎に、加繁・修正
したものである。〕
ハプスプルグ帝国の再編とスラグ氏族間脳
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