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望まぬ不死の冒険者 - タテ書き小説ネット

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望まぬ不死の冒険者 - タテ書き小説ネット
望まぬ不死の冒険者
丘/丘野 優
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
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このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
望まぬ不死の冒険者
︻Nコード︼
N8577DN
︻作者名︼
丘/丘野 優
︻あらすじ︼
スケルトン
辺境で万年銅級冒険者をしていた主人公、レント。彼は運悪く、
迷宮の奥で強大な魔物に出会い、敗北し、そして気づくと骨人にな
っていた。このままで街にすら入れないと苦悩した結果、彼は魔物
の存在進化の事を思い出し、とりあえず肉のある体を手に入れるこ
とを目指して、迷宮で魔物を倒していく。
1
第1話 プロローグ
︱︱やばい、死ぬ。
俺がそう思ったのは、目の前に迫る巨大な魔物の真っ赤な口がぱ
かりと開いて俺に向かって突進してきたのを確認した、その時だっ
た。
大陸の端っこに位置する辺境国家、ヤーラン王国の端っこにある
小さな都市マルト。
その近くにある低位迷宮︽水月の迷宮︾で、しょぼい魔物を狩り
ながら日銭を稼いでいた俺こと、銅級下位冒険者、レント・ファイ
スケルトン
ナは、その日もまた、いつもと同じように迷宮の浅い層で、ひたす
ら、骨人やらゴブリンやらを狩って、素材やら小さな魔石やらを収
集していた。
それが毎日の日課で、今日もいつもと同様に夕方ごろになったら
街に戻り、冒険者組合に素材を納めて数日暮らせる程度の賃金をも
らう。
そのつもりだった。
それなのに、だ。
そいつは唐突に出現したのだ。
毎日歩いている迷宮だから、俺はまず、この迷宮の中で迷うこと
は無かったのだが、その日はなぜか、いつも歩いている通路に、普
段とは異なる通路があることを発見してしまった。
これが、運が悪かった。
そう、悪かったのだ。
2
本来なら、そんなものは無視すべきだ。
冒険者は、冒険をする者のことを言うが、それは何の計画性もな
く無謀に突き進む者のことではない、とされている。
しかし現実には、何も考えずに突っ込む人間の方が多く、俺もま
た、その例に漏れない愚か者だった。
なにせ、かなり昔に発見され、探索されつくした、と言われてい
た迷宮である︽水月の迷宮︾に、新たな通路や部屋が見つかったと
なれば、これは大発見である。
もしかしたら高位魔導具や魔武具の類もあるかもしれないし、ま
たそうでなくとも、ある程度探索してマッピングしておけば一稼ぎ
することもできるだろう。
そんな、ありがちな馬鹿な考えを持って、俺はその通路に足を踏
み入れてしまったのだ。
結果として、しばらく歩いていったところにあった広場のような
空間で、巨大な魔物と相対することになった。
プラチナ
それは、俺の見間違いでなければ、龍であった。
ミスリル
龍、それは魔物の最高位であり、一般的には白金級のさらに上、
神銀級の冒険者が数人でかかっても敵わないと言われる化け物だ。
その見た目は様々で、一般的な竜を巨大化させたようなタイプも
いれば、細長い蛇のような形態のもの、また蛙を巨大化させたよう
なものもいるらしい。
らしい、というのはそれと遭遇した者は、よほど運が良くなけれ
ば生き残ることなどできず、また滅多に人前に姿を現すことがない
ので、遭遇することそれ自体が珍しいため、はっきりとそれと分か
って確認できたものが歴史上、数えるほどしかいないからだ。
その強さは、世界に四体しかいないと言われる魔王に匹敵し、ま
3
たその存在は生き物よりもむしろ神に近いとまで言われる化け物で
ある。
つまり、俺のような万年銅級冒険者がかかっていったところで、
小指一本すら使われずに敗北するのが確定している相手であるとい
うことだ。
そんなものが目の前に現れて、驚かないわけがない。
また、まともに戦おうとも思う訳がなかった。
だから、俺は即座に逃げよう、逃げなければ死ぬ、と考えて足を
動かそうとした。
︱︱けれど。
相手は流石に化け物だった、というべきか。
俺は逃げようとしたところで気づいた。
気づいてしまった。
︱︱足が、動かない。
いや、体中、どこを動かそうとしても動かないのだ。
どういうことだ、と一般人なら思うだろう。
しかし、俺にはこの現象に覚えがあった。
あまりにも実力差がある者同士が対峙すると、このような状態に
なる、と学んだことがあるからだ。
強大な魔力が威圧によって、体の自由が全く利かなくなる。
そのようなことが、ごくまれにだがあるのだ、と。
これは、まさにそれだった。
4
俺は龍の圧力に耐え切れず、完全に身動きが取れない状態になっ
ていたのだ。
それを理解したとき、心の底から、勘弁してくれ、と思ったが、
そんなことを考えたところでどうにもならない。
そのときの俺にできたのは、ただただ、目の前にいる魔物を見つ
めながら、どうか俺のことを食わないでくださいと心の中でお願い
することだけだった。
しかし、現実は甘くはなかった。
その龍は、俺を確認するとその口を大きく開き、そしてそのまま
の勢いで向かってきたのだ。
︱︱あぁ、食べる気だな。
命の危機に瀕していながら、俺はのんきにそんなことも考えた。
ミスリル
やばい、死ぬ、とも考えたのだが、どちらにしろ、この状況はも
はや、俺にはどうにもできない。
なにせ、身動きがとれないのだ。
プラチナ
十五のとき、冒険者になって、十年。
いつの日にか白金級を越え、数えるほどしかいない神銀級まで上
り詰めることを夢見ながら冒険者を続けてきた。
しょぼい依頼で日銭を稼ぎながら、それでも夢を見ることは今で
もやめておらず、毎日依頼が終わった後は、訓練を続けてきたのだ。
それなのに、こんなところで終わるのか。
あっけないものだな。
5
酷く悔しい気持ちと、ここで終われるのかという解放されたよう
な気持ちの両方が俺の心に満ちてきて︱︱
そして、俺の体は、龍の口の中に収まったのだった。
◆◇◆◇◆
・・・・
それからしばらくして、奇妙なことに、俺は目覚めた。
・・・・
そう、目覚めたのだ。
龍に食われ、間違いなく死んだと認識したのにも関わらず、俺は
目覚めた。
そして、気づいた。
︱︱いやいやいや。これは、ありえないだろう?
俺は目が覚めた直後、状況を確認して、心の底からそう思った。
何があり得ないか。
それは、俺の体の話だ。
手を見てみる。
すると、そこに、かつてあったはずの肉がない。
皮膚がない。
そこにあるのは、白くて細い骸骨のみ。
それだけなのだ。
6
そしてそれは俺の手だけに限らず、体全体がそうだった。
足は、肉も皮膚もない骨。
ふとももも、同様。
二の腕も、おんなじ。
顔は⋮⋮顔は分からないが、たぶんこの調子だときっと同じなの
だろう。
スケルトン
つまり、俺、銅級下位冒険者、レント・ファイナは、いつの間に
か冒険者から、骨人へとクラスチェンジしていた、ということだ。
︱︱ありえない、よな?
◆◇◆◇◆
それにしても、これからどうしたらいんだろう。
俺がまず、一番最初に考えるべきはそれだった。
とりあえず、龍に食われたのは間違いないとして、それでもこう
して生きているだけ、僥倖だろう。
スケルトン
いや、生きてるのか?
骨人と言えば、不死系の魔物の一種だが、すでに死んでいると言
われている魔物だ。
教会の司教とか、神官なんかの浄化系魔術で消滅させるのが最も
スケルトン
簡単だと言われる、非常に弱い魔物である。
死んだもの
浄化魔術で消滅させられるのは、骨人が神の摂理に反した邪悪な
というものである。
魔物であるから、とされていて、その神の摂理とは、
はこの世に存在してはならない
その摂理に反抗して現世に残っているから、浄化魔術で消滅させ
られる、というのが一応の理屈らしい。
7
スケルトン
これが正しいのかどうかは別に神官でも司教でもない俺には分か
らないが、一応、この理屈の中では骨人は死んだもの、とされてい
るということが俺にとっては重要な事実だろう。
俺は、死んでいるのだ。
死んでいる状態で、この世に存在している、ということだ。
これは、非常に、まずい。
というのも、先ほども言ったが、死んでいるのにこの世に存在し
ている、というのは神の摂理に反しているらしいからだ。
このまま街に戻ってしまうと、いくら喋って俺はレント・ファイ
ナだと主張しても、とりあえず浄化、ということになってしまうだ
ろう。
それでは俺の存在は完全に消滅してしまう。
それは、絶対に嫌だった。
スケルトン
骨骨の状態とは言え、俺はまだ、生きている。
たとえ骨人だとしても、死んでいるのだと定義される存在なのだ
としても、俺の意識の上では、俺は生きているのだ。
だから、みすみす殺されに街に戻ることは出来ない。
しかし、ではどうするのか。
それが問題だった。
ずっとここに住み続けるのか。
しかし、ここは迷宮である。
魔物を討伐するために冒険者がやってくるし、いくら辺境の迷宮
とは言え、俺よりも強い奴もそれなりに入るのだ。
彷徨っていたら普通に退治されてしまう。
8
どうすれば⋮⋮。
と、考え込んだところで、そういえば、と思うことがあった。
俺は、今、魔物なのである。
魔物というのには不思議な性質があって、年や経験を経た魔物は、
徐々に上位の存在へと進化していく、というのがあった。
スケルトン
俺が果たして魔物なのかどうか、それははっきりとは分からない
が、とにかく見た目上は、魔物の骨人と全く同じなのだ。
となると、俺にも出来るんじゃないか?
存在進化。
と、ふと思ってしまった。
スケルトン
グール
魔物の研究書は職業柄、それなりに読んだりしてきたが、その中
グール
で、骨人は存在進化すると、屍食鬼になる、と言う記述を読んだこ
とがある。
スケルトン
もちろん、屍食鬼も不死系の魔物、いわゆるアンデッドモンスタ
ーであるわけだが、骨人よりは人間に近い容姿をしている。
肉もついていて、まぁ、ローブとかマスクとかで隠せば、なんと
か人間と強弁できなくもないんじゃないかな、と思う。
そうすれば、街にも行けるし、色々と知り合いに説明できる機会
を得ることも出来るかもしれない。
かなり荒唐無稽な思い付きであることは分かっているが、しかし、
今の俺に出来ることはそれくらいしかなかった。
だから、俺は、よし、と思った。
9
とりあえず、存在進化を目指そう、と。
グール
この迷宮で、屍食鬼になろう、と。
10
グール
第2話 骨人の実力に関する考察
スケルトン
︱︱骨人から屍食鬼への存在進化を目指す。
とりあえずの方針として、そう決めたのはいいが、問題は一体、
ギルド
今の俺にどれくらいの戦闘能力があるのか、ということだろう。
もともと冒険者組合の末席に身を置く者として、銅級下位冒険者
スケルトン
をやっていたので、本当に新人の新人、鉄級冒険者よりかはいくら
かマシ、くらいの実力はあった。
具体的にどれくらいか、と言えば、骨人やゴブリンの一体や二体
なら、十分に安全マージンをとって戦い、勝利を収めることが出来
る。
それくらいの実力である。
三匹以上になってくると正直厳しくなってくるが、勝てないこと
もない。
四匹を超えると逃げる。
五匹以上いたら詰む。
そんなところだろう。
︱︱弱い。
って言うなよ?
仕方ないじゃないか。
これでも冒険者になって十年間、いや冒険者になる前をいれたら
二十年くらい、ずっと一生懸命修行を続けてきたんだ。
それでもこれくらいにしかなれなかった俺を誰か憐れんでほしい。
どうして真面目に修行していたのにこれくらいにしかなれなかっ
11
たのか、と言えば、それは非常に簡単な話で、魔力も気力も聖気も
俺は大して持っていなかったからだ。
その上、その少ない力の制御力すらしょぼいことこの上なかった
となれば、もうこれは冒険者になれたことがむしろ僥倖であったと
すら言えるほどだ。
むしろ褒めてほしいくらいである。
ちなみに魔力とか気力とか聖気が何かというと、まず魔力は魔術
や魔法を使うために必要な、それほど多くない人間が生まれながら
に持っている不思議な力の源のことだ。
分かりやすく言うなら、魔力を持っていれば、火を出したり風を
起こしたり出来るし、水を生み出したり土を動かしたりも出来る。
力のある魔術師になれば、もっと色々と複雑なことも出来る。
非常に便利な力だ。
これは、大体五十人に一人くらいの確率で生まれ持っている能力
だ。少なくはないな。
ただ、本当の魔術師として大成出来るレベルにまでなれるほどの
フォティア・ボリヴ
ギァ
・ス
ヴェロス
魔力となると、大まかに言って千人に一人持っているかいないか、
という程度だと言われている。
ある程度の魔力があれば、小さな火弾とか土の矢と言った低位魔
術を使えるのだが、それ以上のものを身に着けるためには千人に一
人の才能が必要という訳だ。
ちなみに、俺の場合は一応、魔力はあったのだが、魔術師として
大成できるかと言われると首を傾げざるを得ないくらいのレベルで
しかなかった。
攻撃魔術の類は、低位魔術でも一切使えはしなかったくらいだ。
才能のなさが分かるだろう。
ただ、、それでも、飲料用などのためにちょろちょろと水を出し
たり火種を作ったりするくらいはなんとか出来たから、まぁ、恵ま
れた方だったとは思う。
12
ただ残念ながら戦闘で使えるほどではなかったわけだ。
次に気力、であるが、これは他にもいろいろ言い方があって、気
とかチャクラとかプラーナとか言ったりする、概ね生き物の生命力
を起源とする力のことだ。
生き物の生命力が元なのだから、これは魔力と違って本来、誰で
も持っている力でもある。
活用することが出来れば、身体能力を強化して、強い力を出した
り、人並み外れたスタミナを得たりすることが出来る。
ただし、普段の人は、これを無意識に使って生命を維持している
ため、この力を自覚することがそもそも難しい。
そして仮に自覚出来たとしても、それを活用するためにはかなり
の修行が必要で、さらにそのためにはそれなりの才能が必要だと言
われている。
俺はこの力の自覚するところまではいけたが、活用のところで才
能不足により十分に使いこなすことが出来なかった。
それでも切り札として、一日に一度だけ、一撃の攻撃力を1.5
倍程度にするくらいのことは出来たのだから、素晴らしい力ではあ
ったのだが、それでも結局本来の使い手から見れば児戯もいいとこ
ろであったのは間違いない。
最後の一つ、聖気であるが、これはもう、一般人にはまず、縁の
ない能力と言っていいだろう。
神や精霊の加護により得られるかなりレアな特殊能力と認識され
ていて、それを持つ者はほとんどが聖職者であると言われている。
使い方としては、主に治癒・浄化能力としてのそれが有名だろう。
基本的な能力としては、人の傷や病気を治したり、不死系の魔物
をかき消してしまったりと言ったことが出来、強大な力を持つ者で
は、広大な土地すらをも浄化したりすることも出来るとされている。
また、加護により得られる力であることから、神や精霊との交信
13
能力も得られ、それによって祭り上げられる者もいる。
普通に生活していれば、まず、得られることはない力だ。
しかし、実のところ、俺はこの力もわずかながらに持っている。
と言っても、やはり大して使えないものでしかないのは言うまで
もないことだ。
経緯としては、昔、故郷の村にある小さな打ち捨てられた祠を、
なんとなく気が向いて修理したことがあったのだが、その際にその
祠に祭られていたらしい精霊が小さな加護をくれたことがあったの
だ。
以来、俺は少しだけ聖気が使えるのだが、俺が出来ることなどせ
いぜいが、どんなに汚れた水でも飲めるように綺麗にしたり、傷口
が化膿しないように浄化するくらいのもので、傷を一瞬で消したり、
土地全体を浄化したりなんてことは全くできなかった。
それでも、それなりに有用だったし、この十年、十分に役に立っ
てくれた力であるから、あのとき加護をくれた精霊には心からお礼
を言いたい。
ただ、これ一本で冒険者をやっていくには厳しい、そんなものだ
った。
と、言うことで、俺には魔力も気力も聖気も大してない、という
のはそういう意味である。
つまり、身も蓋もないことを言えば、俺はそもそも冒険者には向
いてなかったのだ。
まぁ、この三つの能力をすべて持っている人間というのは、非常
に少ないらしく、俺も俺以外のそんな存在には会ったことは無い。
ただ、重要なのは数ではなく、質なのだ。
そして質の面で、俺は全く恵まれていなかったとうわけだ。
その証拠に、冒険者になる人間というのは、このいずれかについ
て、それなりの素養を持っている者が大半で、俺のようにどれも中
途半端かつ矮小、と言う者はまずいなかった。
14
そう言う人間は、普通に村や町で戦うことのない職業につき、一
生を終えるもので、本来なら俺もそうすべきであったのは言うまで
もない。
ミスリル
だが、俺には困ったことに、大きな夢があった。
どうしても、神銀級冒険者になりたかった。
小さなころに憧れて以来、ずっと、その夢を追い続けた。
諦めることなんて、出来なかった。
スケルトン
その結果が、骨人なのは何とも言えないが、まぁ、夢に殉じたと
思えば悪くもないだろう。
それに、完全に死んでしまったわけではなく、生きているかどう
かは謎にしても、まだ動ける体があるのだから、むしろそこまで運
は悪くない方だろう。
人間、生きていれば何とかなる。
何かが出来る。
スケルトン
そう思って今まで生きてきた。
骨人になってしまったとは言え、これからもそう思って何が悪い。
まぁ、根本的な問題として、正確には今は生きているかどうかは
全く分からないが、それでも動けるし、出来ることがありそうなの
は確かだ。
そのために頑張ろうと思うのは悪いことではない。
ためしに、生前持っていた力、魔力、気力、聖気が使えるかを実
験してみた結果、どれも問題なく使えた。
・・・
スケルトン
これだけで、十分に何とかなりそうな気がする。
少なくとも、普通の魔物の骨人はそんなことは出来ない。
戦えると思った。
15
グール
ちなみに、屍食鬼を目指す、という目的も、それだけ聞くとちょ
っと罰当たりな気がしないでもないが、別に俺は人の腐肉を食べた
いからそうするわけではなく、ただもう少し、人に近づいた見た目
グール
がほしくてそれを目指すのである。
それに屍食鬼とは言うが、そうなったとしても必ずしも人の肉を
食わなければならないわけではないだろう。
もしかしたらそうなったら本能とかが人を食らえと命じるのかも
しれないが、そうなったときはそうなったときだ。
出来るだけこそこそどうにかすることにしたいと思う。
さて、自分の能力の確認と、そして決心は概ね決まった。
グール
あとは、当面、屍食鬼を目指して頑張るだけだ。
そのために必要なことは、迷宮の魔物を倒すことだろう。
なぜ、そうすればいいのかと言えば、それは、魔物というのは、
年月や経験を積むことによって、存在を上位のものへと引き上げる
ことが出来るからだ、というのは説明した。
エンシェントドラゴン
年月を経ることによって上位存在になるもので代表的なものは、
竜など、幼体から成体になり、最終的に千年竜とまで呼ばれるよう
スケルトン スケルトン
になるような、そもそも潜在的能力が相当に高い魔物などであるこ
スケルトン
とが基本だ。
この点、骨人はどうかと言えば、何年経とうが骨人は骨人に過ぎ
ない。
不死系の魔物というだけあって、ただ存在しているだけなら何千
年でもそのままでいられるらしいが、ただ年月を経れば強くなる、
ということはないと言われている。
なにせ、骨なのである。成長はない。
となると、どうするか。
経験を積むのだ。
16
経験を積むとは、とにかく戦うということである。
魔物は、他の魔物を倒せば、その相手の魔物の持つ力を自らに吸
収することが出来ると言われている。
これは必ずしも魔物だけではなく、人も同じだ。
だから、長年戦い続けた戦士や冒険者は強力な力が振るえること
が多いわけだが、人と魔物で根本的に違うのは、人はどれだけ魔物
の力を吸収しても、基本的には人のままだ、ということだ。
それとは異なり、魔物はある一定の経験を積むと、上位存在へと
進化することが出来る場合がある。
俺は、これを目指そうと思っているのだ。
もちろん、俺がそもそも魔物なのかという問題もあるのだが、そ
れは実際にやってみれば確認できることなので、存在進化出来ると
言う前提で頑張りたいと思っている。
だから、これから俺がやらなければならないことが、まず、手近
スケルトン
な魔物を倒すことなのだ。
スケルトン
そして、骨人でも倒せるレベルの魔物と言えば⋮⋮この迷宮なら、
スライムか、ゴブリン、もしくは同族の骨人ということになるだろ
う。
俺は今、低位迷宮︽水月の迷宮︾の未踏破区画にいるが、ここに
来るまでの道のりの中で、いずれの魔物も見たし、倒した記憶があ
る。
迷宮の魔物は、その詳しい理屈についてはいくつかの説があるが、
リポップ
事実として一定の時間を経過すると復活することが確認されている。
再湧出とか、復元とか言われているその現象は短いもので三十分、
長ければ数日から数年かかると言うが、この迷宮の大して強くない
魔物については、一時間もせずに復活することが確認されている。
俺が龍に殺されてから一体どれくらいの時間が経過したのかは分
17
リポップ
からないが、すでに再湧出に必要な時間は過ぎているだろう。
となれば、道を戻るのが一番手っ取り早い、俺の出会いたい魔物
に遭遇できる方法、ということになる。
スケルトン
そう考えた俺は、骨人の体を動かして、一歩一歩、道を戻ること
にした。
実際に動いてみると、ひどく体が重く、やはり今までのようには
戦える感じはしないが、それでもそれなりには動くようで、一応安
心する。
武器については、俺が生前から愛用していた片手剣と鎧を最初か
ら身に着けていたので、問題はない。
その他の事はもう、実戦の中で確認していくしかないだろう。
そして、道を歩き始めて五分も経った頃。
俺は最初の魔物に出会った。
スケルトン
その相手は︱︱俺の同族、武器も防具も何も持たない、骨人だっ
た。
18
第3話 骨人VS骨人
スケルトン
ノーマルスケルトン
迷宮の薄暗い通路で、俺を心待ちにしていたかのように立ってい
たのは、いわゆる普通の骨人、という奴であった。
魔術も使えず、気力も持たず、聖気も帯びていない、通常骨人。
スケルトン
俺が剣を構えて相対すると、その骨人は、俺の存在を認識したよ
うに、
︱︱カタカタカッ!
スケルトン
と笑っているかのように骨を鳴らした。
骨人。
何度となく戦ったことのある魔物とはいえ、改めてまじまじと見
ると恐ろしく、気味が悪い存在だった。
生き物は骨だけになれば、普通はもう二度と立ち上がらない。
だというのに、その摂理に反して生前のように行動し続けるそれ
は、見れば見るほど、なるほど確かに何かを愚弄しているような存
在のような気がしてくる。
俺は、他人からこんな風に見えるものになってしまったわけだ。
これはどう考えても、このままでは街に行くことなどできないな。
そう再認識させられ、ため息をつきたくなった。
しかし、俺にはその、ため息を吐くための器官である肺がない。
骨だけになってしまっているのだから、当然だ。
その事実に、俺はがっかりとした気分になる。
俺はもう、人間ではないと強く突き付けられている気がして。 19
スケルトン
骨人になった、という事実についてはもう十分に冷静に咀嚼しき
ったと思っていたが、客観的に見せつけられるとやはり色々と感じ
るところがあるあたり、俺も優柔不断らしい。
しかしそれでも、俺は前に進まなければならないのだ。
グール
目の前の、おそらくは同族と思しき存在を倒して、俺は屍食鬼に
なる!
スケルトン
そう決意して、俺は足を動かし、骨人のもとへと走り出した。
︱︱つもりだったのだが。
その速度は正直、微妙に遅かった。
まぁ、走っている、と言われればそうだろうな、と頷ける程度の
速度は確かに出ているのだが、本気?と尋ねられかねない微妙な速
度なのもまた、間違いない。
やはり、身体能力が相当落ちているらしかった。
スケルトン
考えてみれば、当たり前の話かも知れない。
骨人は骨だけの存在。
スケルトン
もともと、動物は体を筋肉によって動かしているのであるから、
スケルトン
それがなくなった状態である骨人がうまく体を動かせないのは至極
当然だろう。
ノーマルスケルトン
その証拠に、向こうの骨人の速度も非常に遅い。
そして、通常骨人は、俺の今までの経験に照らしても、みんなこ
んなものである。
だからこそ、俺のような銅級冒険者向けの魔物だったわけで、あ
る意味では彼らがいたからこそ俺は今まで生き残り続けられた。
20
しかし、銅級冒険者にとっては大して強くない魔物でも、同族同
スケルトン
士となると、やはり厳しい戦いになりそうだということは、目の前
の骨人に剣を振った時に理解できた。
俺の剣速はひどく遅いのはもちろんだが、今まで身に着けた剣術
がなくなったわけでもなく、基本的なことしっかりと覚えている。
だから、その知識から、力がない以上、剣速を上げるには振り下
ろしが一番だ、と合理的に考えられるため、実際にそうしてみたの
だが、これが酷かった。
まず、持ち上げるのが難しかった。
力がないのだから当然である。
それでも頑張って持ち上げてみても、今度は、剣に加える力の方
向を反転させて振り下ろしに移るのが難しかった。
これもまた、非力ゆえの出来事だ。
つまり、身に着けた剣術理論がまるで役に立っていない。
まぁ、それもまた、考えてみれば当たり前なのかもしれない。
スケルトン
なにせ、俺の身に着けた剣術は、人間用である。
骨人が振るうことを念頭に置いて設計された体系ではないのだ。
しかしそれにしてももう少しどうにかならないのか。
スケ
このままでは向こうに攻撃されて死んでしまうだろう、と思った
ルトン
のだが、幸いというべきか、向こうも向こうで非力かつスローな骨
人だった。
俺が剣の重さに振り回されている間に、俺に攻撃を加えようとど
たどたと向かってきていたのだが、足を滑らせてこけていた。
しかもそのせいで、右足部分の骨が外れてしまって、胡坐のよう
な体勢で焦って足を拾い、自分の足の付け根に取りつけようとして
いた。
21
まるで喜劇俳優のような動きに笑いたくなるが、どうにも俺には
スケルトン
音を出すべき声帯もないのである。
骨人の出せる音は、どうやら骨を鳴らす音、カタカタっ、だけら
しく、仕方なく俺は最初に向こうが俺を見つけた時にやったように、
カタカタっ、と音を鳴らして笑ってやった。
すると、向こうは少し腹が立ったようで、急いで外れた足を取り
付けて、それから先ほどより少し早い速度でこちらに向かって来た。
どうやら、本気になったらしい。
これはまずい、と俺も思った。
スケルトン
実際、向こうの突進はそのまま俺に命中し、俺はどたり、と倒れ
てしまう。
そして、倒れた体勢で俺は、このままでは、骨人になってそうそ
う、殺されておしまいだ、何か反撃しなければ、と思って焦った。
しかし、そんな必要はどうやら必要なさそうだった。
スケルトン
なぜと言って、向こうの骨人は追撃をしてこなかったからだ。
その理由は、俺が握ったはいいがその重みに振り回されていた剣、
スケルトン
それがどんな経緯をたどったのか分からないが、いつの間にか向こ
うの骨人の頭部にうまいこと突き刺さっていたからだ。
しかし、さすがは向こうも不死系の魔物である。
ただ頭に剣が刺さった程度では死なないようで、不思議そうな顔
スケルトン
で視界が若干悪くなったことに困惑するようなそぶりをしている。
今までにも結構、人間的な動きを繰り返してきた骨人だが、どう
やら知能はそれほど高くないようで、刺さった剣にどう対応してい
いのか即座に判断できないようだった。
その間を、俺は好機ととらえ、刺さった剣の柄を急いで掴み、そ
れからなけなしの力を籠める。
ちょうど刺さっているのだから、そのまま叩き切ってしまおう、
22
そう思ったのだ。
スケルトン
しかし、やはり俺は非力な骨人に過ぎないようだ。
スケルトン
骨は防具の素材に使われるくらいのものだから、まぁまぁ固く、
骨人の非力な力で割れるようなものではないらしかったからだ。
これには困った俺である。
どうにか、もっと力を籠められないか⋮⋮。
これでは、永遠に泥仕合を続けることになってしまうではないか。
百年こいつと争い続けるなんて嫌だぞ、俺は。
スケルトン
と虚しい未来に思いを馳せたところで、俺は、先ほど試した能力
のことを思い出した。
スケルトン
そうだった、俺は普通の骨人ではないのだった、と。
自分が骨人だという自己認識が強い余り、すっかり頭から抜け落
ちていたが、俺には魔力、気、そして聖気があるのだ。
この三つの中でも、気の力は単純な身体能力上昇効果を簡単に望
めるもので、今の俺に最も使いやすそうなものである。
俺は思いついて直後、気の力を体全体に張り巡らせることにした。
うまく使えるかどうかは、正直微妙だとは思っていた。
けれど、一応発動すること自体はすでに試していたし、もし仮に
出来なければ他の力を使ってもいいのだ。
ダメでもともと、という奴である。
そして、その賭けは、運のいいことに成功することになった。
スケルトン
あれだけ一生懸命力を込めても動かなかった剣が、ががっ、と動
き出し、そして相手の骨人の頭をついに、叩き割ったのである。
頭だけにとどまらず、ばきばきっ、と嫌な音が響き、体を構成す
る骨のいくつかも叩き割った。
23
スケルトン
スケルトン
それから、骨人の体が、支えを失ったかのように、バラバラと崩
れ落ちた。
今まで、しっかりと接合され、一体のものとして動いていた骨人
の体。
スケルトン
しかし、頭を完全に破壊された骨人はその不死性を失うらしい。
転がっているその亡骸は、もはや、ただの骨に過ぎないようだっ
た。
︱︱どうにか、勝ったか。
極めて無様かつ滑稽な初戦闘だったわけだが、それでもなんとか
勝てたらしい。
能力の実戦での運用も出来た。
最初でこれは、まぁまぁな戦果なのではないだろうか。
そう思って、俺はなんとかやっていけそうなことに安堵したのだ
った。
24
第4話 骨人の寂しさ
スケルトン
さて、骨人を倒したはいいが、これで俺は存在進化へと一歩でも
スケルトン
道を進めたのだろうか?
落ちている骨人の骨の中をかき分けつつ、魔石を拾ってから体を
確認してみるが⋮⋮何か変わっただろうか?
実感がまるでないのだが⋮⋮。
スケルトン
と思っていると、突然、倒した骨人の亡骸から、ふっとぼんやり
とした光のようなものが噴き出てきて、俺の体に向かってきた。
まだ生きていたか!?
一瞬、焦って構えるが、何も攻撃的な雰囲気のしない光で、しか
も避けようとする間もなく体に命中してしまったので、どうしよう
もなかった。
しかし、そんな懸念とは裏腹に、俺の体がその光によって傷つけ
られる、ということは全くなく、むしろ、何か力が湧いてくるよう
な、そんな感じがした。
光が俺の体にどんどん吸収されるにしたがって、先ほど消費した
はずの気の力も満ちていくし、魔力や聖気もなんだかほんの少しだ
けだが、増えたような気さえする。
もしや、これが︽魔物の存在進化︾という奴なのか。
そう察するのに、それほど時間はかからなかった。
グール
とは言え、力は確かにあふれてくるが、屍食鬼になれた、という
訳ではなさそうだった。
むしろ、見た目はまるで変わっていないと思われる。
鏡がないため、顔面周辺についてはよくわからないが、手足や体
25
の見える部分を見てみても、何も変わっていないのだから、おそら
く顔もそうだろう。
しかし、 これじゃあ、何の意味もないじゃないか!
とは思わなかった。
なぜなら、存在進化というのはそんな、たった一匹、同族の魔物
を倒したくらいで出来るようなものではないと予想していたからだ。
これも、魔物の研究書を読んで得た知識なのだが、その書物の中
で推測としてそう書いてあったのだ。
これは納得できる話で、もし仮に、魔物が同族を一匹倒せばそれ
だけで存在進化が可能だと言うのなら、上位の魔物がどんどん生ま
れて、この世は人族にとって地獄もかくやという状態になってなけ
ればおかしいからだ。
もちろん、今でも魔物はたくさんいて、人族にとって脅威となる
魔物も多く存在しているが、それでも基本的には討伐出来る魔物が
大半であり、街や村を作って生活できる程度の平穏は維持できるの
だ。
そんな大量の魔物が存在進化しているはずがない、というのが俺
が読んだ研究書の推測だった。
つまり、存在進化、というのはそう簡単に出来るものではなく、
相応の数、もしくはそれなりに強い存在を倒さなければ出来ないも
のであろう、ということだ。
その意味で、俺はまだ、弱い魔物を一匹倒したに過ぎない状態な
のだから、進化出来ずとも当然の話だ、ということである。
それでいて、少し強くなったかも、と思えるくらいの能力の上昇
を感じ取れるのだから、これはむしろ僥倖だと言えるだろう。
26
一匹魔物を倒すごとに、少しずつ強くなれる。
つまり、戦うごとに戦闘が楽になっていくということが確定した
からだ。
もちろん、毎回必ずこうなるわけではなく、一匹目だったからた
またまそういうことが起こった、という可能性もあるが⋮⋮。
まぁ、こればっかりは何回か魔物を倒していかなければ分からな
い。
まずは、やってみよう。
そう思って俺は迷宮の探索を続行することにした。
◆◇◆◇◆
結論として、やはり魔物を倒すごとに、俺は少しずつ、強くなれ
ることは事実のようだった。
スケルトン
というのも、あれから数体の魔物、骨人に出会い、倒したのだが、
倒しきった後に、最初のときのような力の吸収が同じように起こっ
たからだ。
そして、その力の吸収により、能力が上昇したということが気の
スケルトン
せいではないことは、体の動きが初めよりもかなり良くなってきた
ことからも明らかだった。
気を使った一撃も、少し威力が上昇していて、最初の骨人のとき
は、ぎりぎり頭をかち割れるくらいの威力だったそれが、今では本
気でやれば頭の骨をばらばらに砕けるくらいまでになっていた。
もしかしたら、もうそろそろ、スライムも行けるかもしれない。
そう思うくらいには強くなれたような気がする。
ノーマルスケルトン
スライム、というのも、通常骨人と並ぶ弱い魔物の代表格だが、
27
それでも決して侮れないのは、彼らが不定形の液体の魔物だからだ。
その性質上、物理攻撃というのが効きにくく、倒すためには魔術
を使うのがもっとも簡単だと言われている。
とは言え、それだけしか攻略方法がないわけではなく、物理攻撃
で倒すことも可能だ。
主に二つの倒し方があって、スライムには核という、動物で言う
臓器にあたる部分があるのだが、そこを的確に潰すと、全体が瓦解
して魔石だけを残して死ぬ。
しかしこれはそう簡単でなく、常に動き回る核の部分を的確に射
貫く剣術や槍術のスキルが必要で、そこまでの技術は銅級中位を越
える程度の実力がなければ身に着けられない。
俺は銅級下位の冒険者であったのであり、当然のこと、そんなこ
とは出来なかった。
したがって、もう一つの方法である、スライムを構成する液体状
の体を、再生できないほどにバラバラに散らす、というのをとるこ
とでしか倒せなかった。
これは、非常に簡単で、俺にも可能なほどだったが、その代わり
として、少しばかり時間がかかる。
スライムは体が液体状で、たとえ散らされてもすぐにもぞもぞと
動いてもっとも大きな塊にくっつき、再生してしまうからだ。
それをさせないためには、かなりの力で一気に散らすか、高速度
で遠くに散らしていくかしかなく、それほど速度に自信があったわ
けではない俺としては、気の一撃で一気に散らす方を選択するしか
なかった。
つまり、スライムを狩るのは一日一匹が限界だったわけだ。
弱い。
まぁ、銅級下位冒険者なんてそんなものだ。
しかも、俺はパーティなんて組まずにソロでやっていた。
スライムなんて、普通なら、パーティに一人、本職の魔術師ほど
28
フォティア・ボリヴァスギ・ヴェロス
とは言わないまでも、火弾や土の矢と言った低位魔術を使えるくら
いの魔力量を持つ者がいて、簡単に倒す魔物である。
俺のように不効率なことをしている冒険者は少数派というわけだ。
スケルトン
その代わり、骨人やゴブリンについては結構な数、倒せていたか
ら、稼ぎは銅級下位としてはそれほど悪くなかったのだが。
さて、そんな俺の宿敵であるスライムであるが、今の俺の状態な
ら、結構簡単に倒せるかもしれない。
気の力を使わずともそれなりの腕力が出るようになってきている
し、これならスライムの体を散らすのに気を使う必要がなさそうだ。
︱︱行ってみるか?
スケルトン
そう思って俺は骨人になる前に、スライムがいた区画を目指すこ
とにする。
リポップ
すでに来るとき倒してしまっていたが、十分な時間が経っている
と思われる今なら、おそらくは再湧出している可能性が高い。
それを、誰かほかの冒険者が狩ってない限りはまだいるはずだっ
た。
迷宮に潜り続けると、迷宮内の空気でなんとなく時間帯が分かる
ものだ。
人が多い迷宮には血と鉄の匂いが強くするし、壁を振動が伝わっ
てくる感覚が多くしたりする。
特に俺はこの迷宮にばかり潜っていたから、かなり正確に時間帯
が分かる。
そしてその感覚から導き出した時間からして、この迷宮で今この
時間帯に狩りをしている物好きはそれほどいないと思われた。
都市マルトの周辺にある迷宮はここだけではなく、もう一つ、メ
ジャーな迷宮︽新月の迷宮︾があるからだ。
29
向こうの迷宮はまだすべて探索されておらず、未踏破階層がある。
したがって、マルトの冒険者のほとんどは向こうに行き、こちら
で狩りをするのはよほど偏屈か、パーティを組んで迷宮に挑めない
ソロ冒険者のどちらかだった。
俺は後者である。
本当なら︽新月の迷宮︾に挑戦したかったが、あっちはここの迷
宮と違って魔物が多く、複数体で襲ってくることが少なくない。
ソロで、しかも銅級下位冒険者の俺にとって、それは即座に死を
意味するため、どうしてもこちらで狩りをするしかなかったのだ。
改めて考えると寂しくてこの上ない話だ。
なぜ俺がソロだったかというと、それも寂しい話で、単純に俺と
組んでくれる冒険者などいなかったからだ。
冒険者になって十年、それでも銅級下位でしかないというのは落
ちこぼれの証拠だから。
どんなに才能がなくとも、十年もやれば銅級中位から上位くらい
になれるものだ。
しかし俺は⋮⋮。
まぁ、考えれば考えるほど悲しくなるそんな話はとりあえず置い
ておこう。
それよりも、今はスライムだ。
ちょうど、目的の場所についたようで、目の前にもぞもぞと動く
水晶のように透き通った不定形の魔物がいた。
スライムである。
俺は剣を構えて、じりじりとスライムに近寄った。
30
第5話 骨人VSスライム
・・・
そのスライムは、比較的、きれいなもので、俺は少しほっとする。
ポップ
真水がそのまま粘液へと形成されたような透き通った透明な個体
で、おそらくはまだ、この迷宮において湧出してそれほどの時間が
経っていないのだろう。
これが、数日経つとどうなるか、というと、迷宮内に生息する他
・・
の魔物や、もしくは運悪く入り込んでしまった小動物などを自らの
・
栄養として捕獲、消化するという行動を始めるため、こんなにきれ
いな状態であることは稀だ。
そう言った場合、体内に消化途中の生き物のどろどろの死骸や、
骨などが浮いている状態であることが多く、慣れていない新人冒険
者などはあまりのグロさに吐いてしまうものすらいるくらいだ。
もちろん、動物に近い魔物とかネズミとかの死骸なら大抵がなん
とか平静でいられるのだが、これが人型の魔物︱︱ゴブリンとか、
もしくは迷宮で死んだ他の冒険者などを消化している途中だった場
合には、結構な割合でその日の探索が出来なくなる。
当然、そんなことでは冒険者などやっていられないから、徐々に
慣れていくのだが、それでも嫌悪感は多少は残る。
俺のように十年もやっていればもはや何も感じなくなるが、一年
はその嫌悪感と付き合っていく覚悟が冒険者には必要だ。
そう言ったことを考えると、目の前のスライムは、非常にきれい
スケルトン
でありがたい状態である。
いくら今の俺が骨人で、消化中のスライムより場合によっては恐
ろしい容姿をしているにしても、感覚としては人だったときのまま
なのだ。
わざわざ死骸と一緒にスライムの体液を跳び散らす作業をやりた
31
いとは思えない。
ポップ
しかし、この状態のスライムなら、むしろその体液は清浄である。
ギルド
このような、湧出から間もない状態のスライムの体液は、容器さ
えあればそれに入れて保存して、冒険者組合やら錬金術師やらにそ
のまま卸せる素材として珍重されている代物だ。
ポーション
清浄でないスライムの体液も、煮沸したり他の薬剤を混ぜたりな
ど様々な加工をすれば低位回復水薬を作り出せるため、悪くない素
材であるが、清浄なスライムの体液は他にも様々な使い方が出来る
スケルトン
ために多少高価なのである。
俺は今、一応、骨人になる前の道具袋も腰に下げており、その中
にはこういうときのための保存容器がいくつか入っているので、倒
したら体液をしっかり回収しようと心に決める。
それから、ぽよぽよと不規則に動くスライムに近づいた。
すると、スライムは俺に気づいたらしく、ぶるぶる、と震えて、
ぽんっ、と水の塊のようなものを俺に向かって射出してきた。
俺はそれを予想していたので、しっかりと避ける。
アシッド・ブリッツ
俺が避けたその水の塊は、地面にぼたり、と命中し、その地面は
煙を立てて若干融解した。
これが、スライムの主な攻撃方法のひとつ、酸弾である。
その名の通り、酸性の物質を体内で生成し、射出するという攻撃
方法であり、命中すると酸によって融かされてしまうというものだ。
単純であり、酸性を帯びた攻撃といっても、一撃で致命傷になる
ような強力な酸性を帯びたものではないが、それでも当たり所が悪
ければかなりのダメージを負う。
少なくとも顔の周辺は絶対に守らなくてはならないだろう。
⋮⋮まぁ、今の俺が顔の辺りを少し融かされたところで、視界が
なくなるとかそういう被害は負わないだろうが、その場合、俺は骨
32
を直接融かされることになってしまう。
そうなると、視界を失うよりももっと死に直結する被害を負うと
いうことになってしまうのではないだろうか。
意地でも攻撃はすべて避ける必要がありそうだ。
しかし、スライムの攻撃がいくら危険だとはいっても、その速度
ノーマルスライム
は非常に遅い。
通常スライムの移動速度はなべて非常に遅く、また動きそれ自体
もワンパターンであり、注意して挑めばさほどの脅威ではないのだ。
スケルトン
ただ、手持ちの攻撃手段の数によっては、倒しにくい、というだ
けで。
それに加えて俺の身体能力はさきほど骨人たちと戦ってその力を
ある程度吸収したこともあって、上昇している。
少なくとも、生前のときと同じくらいの速度は出せるようになっ
てきたような気がしている。
たった一匹のスライムに負けるとは思わなかった。
ゆっくりと近づくとまた、酸弾を放たれる。
俺は、今度は剣を振り上げながら速度を上げて近づき、スライム
が酸弾を放とうとする前に振り下ろして、即座に後退した。
びちゃり、とした感触が手に伝わったが、一撃では倒せないはず
だ。
そう思っての行動だった。
けれど。
意外なことに、スライムは攻撃した俺を追いかけて来ようとはせ
ず、その場で欠けた体をぶるぶるっと震わせ、そして一瞬停止する
と、まるで今までそこにあった魂が抜けるかのようにだらしなく崩
れ落ちてしまった。
33
これは、スライムがその命を失ったときに見られる現象で、その
体を支える力をなくしたがために液体状の体がまとまりをなくして
しまったがために起こることだ。
つまり、こうなった、ということはあのスライムは死んだという
ことに他ならない。
あまりにもあっけない終幕に俺は驚いた。
なにせ、以前の、銅級下位冒険者だった俺には、スライムを一撃
で倒せるような力はなかったからだ。
しかし、今回は⋮⋮。
必死だったので確認できなかったが、もしかしたら、たまたま運
よく、スライムの核に攻撃が命中したのかもしれない。
そうだとしたら、今回のこれは納得の結果だ。
むしろ、次にスライムと戦うときは、やはり一撃では倒せないと
いう前提のもと、注意して戦おうと思った。
⋮⋮と、それよりもスライムの素材だ。
スライムの体液は地面に接触してしまった部分は使い物にならな
くなってしまうため、倒したら直後にスライムの体に容器を突っ込
んで回収しなければならない。
生きているときのスライムの体の中に何かを差し入れようとして
も、ぼよん、とした感触と共に跳ね返されてしまうのだが、死んで
しまったスライムはそういうことなく、ただゼリーの中に手を入れ
たような感触とともに、すっと差し入れることができるのだ。
俺は道具袋からフラスコ状の容器を取り出し、それを溶けかかっ
アシッド・ブリッツ
たスライムの体にいれて、満たす。
スライムは酸弾を放ったりする危険な魔物だが、その体は意外な
ことに強力な酸性を帯びてはおらず、よくスライムの体の中に手を
差し入れる冒険者の手がすべすべになったりすることから、むしろ
女性用の化粧品に使われることもあるほどだ。
34
きれいなスライムの体液の用途のうち、多くをその化粧品用途が
回復水薬用途よりも高価であるのもそのような使い
ポーション
占めているのは、スライムの体液のそのような効果によるものであ
る。
通常の低位
方があるからであり、女性の美に対する追求心はすごいものだ、と
思ってしまう。
別に魔物から化粧品を作らなくても⋮⋮と。
まぁ、しかし魔物からとれる素材は人の体に大きな影響を与える
ものが多く、若返りとか、伝説まで行けば不老不死まで可能とする
素材まで存在すると言われている以上、そういう用途に使おうと思
うのはむしろ自然なのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は、ぼこぼこ空気を外に排出しなが
ら満たされていく容器を見つめていた。
そして、それが満タンになったのを確認してスライムの体だった
ものの外に出す。
⋮⋮うん。これだけあれば、そこそこの値段になるだろう。
大体、数日分の宿代になる。
きれいなスライムとは、それだけ遭遇することが少なく、また遭
遇したときはいい稼ぎになるのだ。
とは言え、今の俺には販売できるところ、宿泊できる宿のあても
グール
ないことから、何の意味もなさそうだが⋮⋮。
いや。
早晩、俺は屍食鬼になるのだ。
そうなれば、街にも行けるはずだし、素材を販売することも可能
なはずである。
宿については⋮⋮まぁ、泊めてくれるところがあるかどうかは謎
だが、納屋くらいなら貸してくれるかもしれない。
35
俺はそのときのことを夢想しながら、次の魔物を狩るため、その
場を後にした。
36
第6話 屍食鬼の覗き
体に違和感を感じたのは、その日、五体目のスライムを倒したそ
のときだった。
あれから何度も迷宮の魔物と戦った俺であるが、スライムについ
て、一撃で倒せたことはどうやら運が良かったと言うだけではなか
ったらしく、その後出遭った個体についてもどれも一撃で倒すこと
が出来てしまっていた。
実力が、生きていた時よりだいぶ上昇しているらしい。
銅級下位冒険者だったときはどれだけ修行しても実力が上がった
という実感を得たことは無く、そして実際にまるで実力が上昇して
いなかったのだが、死んでからこんなことが起こるなんて喜べばい
いのか悔しがればいいのかわからない。
まぁ、それでも、強くならないよりはずっといいのは間違いない。
今後もこの調子で強くなれるのか、それともどこかで打ち止めに
なるのかは不確定だが、とりあえず頑張ろうと思い、俺は戦い続け
た。
それから、十数体の魔物を倒したところで、俺は体に今までとは
異なる感覚を覚えたのである。
それは、嫌なものではなく、むしろ、何かが体の奥底から湧き出
してくるような不思議な感覚だった。
とは言え、何かおかしなことになっても困るから、一応、抗おう
とはしてみたのだが、その努力は無駄に終わった。
そして、びきびきと体中が音を立て、ほんわりとした光に覆われ
37
た。
︱︱一体、何が起ころうとしているんだ?
そう思ったのもつかの間、突然、俺の体、白い骨の周りを覆うよ
うに枯れたような肉が浮き出てきた。
それは俺の骨を、その白い色を隠すように包み込んでいく。
そこまで至って、俺は直感した。
これは、念願のあれではないか。
︱︱存在進化。
それが今、起ころうとしているのではないか。
そう思った。
実際、その現象はしばらく続き、俺の体中に広がっていった。
腕を肉が包み、また足や体も同じように包まれていく。
今まで骨だけだった俺の体に、肉が⋮⋮!
そして、しばらくしてその現象が止まった。
改めて、俺は自分の体を観察する。
確かに、そこには肉がついていた。
今までなかった、肉が。
しかし、そこには人間だった時のような、綺麗な肌があるわけで
はなく、何かひどく枯れた感じの、筋張った肉がくっついている、
というような印象だった。
体中がそうで、顔も、鏡がないからよくわからないが、それでも
大体想像はついた。
38
そもそも、こういう肌質というか、骨に枯れた肉がただ引っ付い
たような形をした存在を、俺は良く知っていた
グール
︱︱屍食鬼。
グール
それはまさに、俺が存在進化を目指していた対象である。
俺が覚えている屍食鬼の容姿は、人間の体から皮膚を全部剥がし、
そしてある程度、皮膚の下の肉をちぎった上で、よく乾燥させたよ
うな感じ、と言えば大体想像していただけると思う。
つまりは、非常に気味の悪い⋮⋮そう、乾いた死体、という雰囲
気の不死系の魔物であった。
こんなものに好んでなりたいというものがこの世に存在しないだ
ろうことは明白である。
が、俺にとっては今までと比べるとかなりの前進のように思えた。
なにせ、体に肉がついているのだから。
そして、魔物の存在進化をこの身で体験できたわけで、それはつ
まり、これからも頑張っていけばもっと上位の存在になれる可能性
も生まれてきたと言うことだからだ。
ヴァンパイア
不死系の魔物は、上位の存在になればなるほど、容姿が人間に近
グール
づく。
屍食鬼の上位の存在、吸血鬼にでもなれれば、もう見た目の上で
は人間と区別できなくなる。
そこまで至れば俺も問題なく街中で活動できるようになれるはず
だ。
今のままだと、何かで隠せば街の中に入れる可能性があるくらい
で、好きに活動できるというほどではないからなぁ。
まぁ、門番たちとは顔見知りだったし、うまくやれば普通に出入
りは出来るかもしれない⋮⋮。
あぁ、そうだ。
39
枯れているとはいえ、一応、肉の体を得たのだ。
こうなると試したいことも出てくる。
﹁︱︱ヴぁ⋮⋮ヴぁー⋮⋮﹂
喉に力を入れて、声が出るかどうかを試してみる。
どうやら、音は出るようだ。
﹁こ、こんにぢヴぁ⋮⋮こんに、ぢ、ヴぁー⋮⋮おヴぁ、ようごじ
ぇ、まづ⋮⋮ご、ごんにぢヴぁ⋮⋮﹂
⋮⋮。
うーん。
どうなんだろうな。
一応喋れはするのだが、流暢には話せない。
練習が必要なようだった。
スケルトン
とは言え、何も話すことが出来なかった骨人時代とは全然ましで
ある。
これならもし、迷宮に人が入って来たとしてもなんとか意思疎通
が図れそうだ。
まぁ、向こうがこんな俺でも怯まずに話してくれるのなら、とい
う前提があっての話だが⋮⋮。
そんなことを考えていると、
︱︱ぎぃん!
と、遠くから、誰かが魔物と戦っている音が聞こえてきた。
剣が何かにぶつかる音だ。
40
この階層の俺が先ほどから倒してきたような、弱い魔物しかいな
いから、そんな金属の立てるような音を鳴らす魔物などいない。
つまり、金属が何かとぶつかるような音がしている以上、よっぽ
どのイレギュラーがなければ、それは冒険者の戦う音だ、というこ
とだ。
それを聞いた俺は、人がいる!
と、心が躍ってしまった。
まだ、俺がこの迷宮で生活し始めてから一日くらいしか経っては
いない。
しかしそれでも、夜通し、一人ぼっちでこの迷宮の中で戦い続け
てきたのだから、そう思うのは当然であった。
スケルトン
いつもなら朝から夕方くらいまで戦って、街に戻って食事してい
るところ、いつの間にか骨人になって、将来の全く見えない状態の
中、人通りの少ない真夜中に、迷宮で一人だったのだから、たった
一日くらいでも人恋しくなるのは当然である。
誰でもいい、冒険者がいるのなら、一言でもいいから会話できな
いものか。
そうも思った。
グール
けれど、それがかなり厳しいことであるということは流石に興奮
スケルトン
状態の俺にも理解できていた。
なにせ、今の俺は骨人は脱したとはいえ、屍食鬼なのである。
枯れきった死体が、唐突に近づいて来たら、まっとうな冒険者で
あれば警戒して身構えたうえ、倒すべく武器を振るうだろう。
話し合いの余地などあるはずがない。
だから、俺が今採るべき選択肢は、この戦闘音が聞こえる方角か
ら出来るだけ離れて、冒険者と接触しないように、隠れることなの
だ。
41
けれど。
俺はどうしても、気になってしまった。
こんなに近くに人がいるのに、見に行かないということが出来る
だろうか。
いや、できない。
そう言い切れるくらいに、人恋しい気分になっていたのだ。
そして、俺は選択してしまった。
ちょっと近づいて、ばれそうになったら逃げればいい。
物陰から少しだけ覗くくらいなら、大丈夫だろう、とそう思って。
それから、出来るだけ気配を隠しつつ、ゆっくりと音の聞こえる
方へと進んでいった。
音が大きくなるにつれて、俺の心の中のわくわくは増していく。
もう少し。
もう少しで、久しぶりの人間に会えるのだ、と。
そして、俺はとうとう、たどり着いた。
あの角の向こう側から、戦闘音が聞こえてきている。
俺はそちらにゆっくりと近づき、そしてそうっと、角の向こうに
続く通路を覗いた。
すると、案の定、そこには魔物と戦う一人の冒険者がいたのだっ
た。
42
第7話 屍食鬼の実力
﹁⋮⋮やぁっ!!﹂
スケルトン
そんな声を上げながら気勢を示しつつ、骨人に飛び掛かってるの
は、一人の若い少女だった。
身に着けているもの︱︱安物の皮鎧、安物の片手剣などからして、
おそらくは鉄級になりたての駆け出し冒険者なのだろう。
都市マルトにいる冒険者のうち多くの顔と名前を知っている俺を
して、見覚えのない顔ということは、つまりそういうことに他なら
ない。
鉄級冒険者なんて俺からすればそのうち抜かれていくだろう忌々
しいライバル冒険者に過ぎないのに、なぜ顔を覚えているかと言え
ば、俺の才能のなさを知って馬鹿にする奴や、何かしらの濡れ衣を
被せようとする奴が後を絶たないからだ。
そういうとき、しっかり顔と名前、それに立ち位置やら交友関係
やらを覚えておくと後々、色々と生きてくるのである。
冒険者として、腕っぷしの方ではあまり才能のなかった俺だが、
そういう記憶力とか作戦の立案とかの方向ではむしろ才能がある方
だったらしく、鉄級程度の奴が組み立てる陰謀など簡単に叩き潰す
ことが出来た。
マルトにおいて俺よりも上位の冒険者というのは、そういう、俺
の狡猾な部分を知っているため、おかしな手出しをしたりはしない
し、まともな奴ばかりだ。
結果として俺はマルトの冒険者の質の向上にそれなりに寄与して
ギルド
いたので、十年という長い期間低位冒険者をやってもやめろともお
荷物だとも冒険者組合からは言われずに済んだ。
持つべきは計画性である、というわけだ。
43
それで、戦っている少女冒険者のことだ。
見るからに駆け出し、という装備通り、その実力もかなりしょぼ
い。
正直に言えば、生前の俺よりも弱いのではないか、と思われるほ
どだ。
まぁ、いくら俺が銅級下位冒険者だったとはいえ、鉄級と比べれ
スケルトン
ば実力者である。
骨人を簡単に、とは言わないまでも危なげなく倒せる実力という
スケルトン
のは伊達ではないのだ。
一般人なら骨人に遭遇したら死を覚悟しなければならないし、鉄
級なら二、三人がかりでないと余裕を持ったり倒したりは出来ない
のである。
ソロで頑張ってた俺が、まぁまぁの実力者だということが分かる
だろう。
スケルトン
そして、そんな俺の目から見て、目の前の少女冒険者は弱いので
ある。
つまり、頑張って骨人と戦ってはいるが、このままだと一歩間違
えれば負けてしまう。
そんな程度でしかないのだ。
まぁ、しかし、駆け出しとは言っても、腐っても冒険者なのであ
る。
いざとなれば逃げの一手で退却をするという方法もあるだろう。
だから、俺はそこまで心配していなかった。
けれど。
︱︱おいおい。
44
しばらく見ていると、少女の立ち回りのまずさが分かってくる。
彼女はいざというときのことをまるで考えずに、ただひたすら前
に出て押しまくる、という戦法をとっていた。
しかし、それには地力が足りず、徐々に少女の方が押されつつあ
る。
そして、この狭い通路しかない迷宮の中では致命的だ。
少女は押されに押され、そして、
﹁⋮⋮っ!?﹂
どんっ、と背中が壁にぶつかったことに気づいた。
そりゃあ、こんなところで回りも見ずに戦っていたらどんな風に
やってもいずれああなるだろう。
そして、彼女のような剣士ならばある程度、剣を振るうために体
を動かせる余裕が必要である。
スケルトン
それを失ってしまった以上、彼女の先行きはこの時点で決まって
しまったようなものだ。
事実、彼女が戦っていた骨人が嬉しそうに彼女に向かって手を掲
げる。
武器は何も持っていないから、単純に腕力で敵を攻撃しようとし
スケルトン
ているのだろう。 しかし、骨人も腐っても魔物である。
その腕力は、大した防御力を持たない駆け出し冒険者ならば一撃
で昏倒、当たり所が悪ければ死に直結するような一撃を放つことが
出来るほどのものだ。
つまり、あれが命中すれば、少女は死んでしまうだろう。
45
ここまで考えて、俺は、仕方ないかな、と思った。
もちろん、このまま少女が死んでも仕方ないか、ということでは
ない。
手を出さないで、黙って見ていた俺が、リスクを冒して彼女の前
に姿を現すほかないな、と言う意味である。
俺とて、ここに来るまでは結構興奮していたが、実際に生きてい
る人間を見て、頭は冷えてきていたのだ。
このまま目の前に俺が現れても、やっぱり魔物としてしか捉えら
れないだろうし、会話などきっとできないだろうと判断できるくら
いには。
けれど、だからと言って人間を見殺しにする、というのは俺には
出来る気がしなかった。
いくら体が魔物になってしまっているのだとしても、俺の心はや
っぱり人間のものだ。
よほど嫌いな奴でない限りは、命の危機に陥っている人は助けな
ければと思ってしまう。
それは、俺の後輩ともいえる駆け出し冒険者なら尚のことだ。
そう、だから。
﹁⋮⋮うがぁぁぁっぁ!!!!﹂
スケルトン
俺は骨人の注意を少女から引き離そうと、大声を上げながら姿を
現す。
グール
これが意味があるのかどうかは一種の賭けではあった。
なにせ、俺は見るからに屍食鬼なのだ。
魔物にとって、魔物の大声がどれだけの注意に値するものなのか
スケルトン
は微妙なところである。
ただ、今まで俺が骨人の体で魔物と戦ってきたときは、敵の魔物
46
は皆、俺を見つけると攻撃すべく向かって来た。
魔物同士であってもそういう対象なのか、それとも俺が異質なの
スケルトン
かはともかくとして、この試みが成功する確率は高いと思ってやっ
てみた。
そして、俺は賭けに勝ったようだ。
少女冒険者に今にも攻撃を加えようとしていた骨人だったが、俺
の方を振り向いて向かってきたのだ。
スケルトン
その行動に、少女冒険者は驚いて目を見開く。
骨人が後ろを見せているのだから、そのまま切りかかれよ、と思
スケルトン
うのだが、あまりの驚きで体の動きが止まってしまっていた。
仕方なく、俺は自分の剣を振り上げ、骨人に向かっていく。
さっさと決着をつけてしまいたかったので、温存気味の気の力を
グール
使って攻撃力を上昇させた。
まぁ、屍食鬼になって、自分の体の中にある気の量は結構増えて
いる感覚もあるから、一度や二度使ったくらいでは切れないと分か
っていたというのもある。
スケルトン
振り上げた剣を、今まで何度となく修行で繰り返して身に付いた
動きに沿って振り下ろすと、骨人の体には一直線に切れ目が入り、
そして一瞬のあと、バラバラと、それぞれのパーツが二つになって
別れたのだった。
﹁⋮⋮すごい⋮⋮﹂
スケルトン
少女冒険者が茫然としたようにそう言って、骨人の末路を見届け
る。
スケルトン
それはそうだろう。
骨人がいくら総合的には弱い魔物の分類に入るとはいえ、完全に
47
真っ二つにしてしまえるほどの剣士など、そうそういないのだ。
誰だって見たら驚く。
そう。
俺だって。
なにこれ凄い。
えっ。
俺ってこんなに強くなってたの?
スケルトン
骨人を切った直後、自分がやったことだというのにそんな気持ち
になってしまった。
ヴァンパイア
力がついたとは思ってはいたが、ここまでとは。
この調子なら、吸血鬼になれる日も近いのではないだろうか?
希望が見えてきた気がした。
そして、ふっと思い出す。
そうだった、今はそんなことより、少女冒険者の方だった。
大丈夫だったか⋮⋮。
グール
と、言おうとして喉に色々な突っ掛りを覚え、そう言えば俺は今
は屍食鬼だったっけ、と改めて思い出す。
下手に近づくと、飛び掛かられてしまうだろう。
それはいけない。
どうしたら⋮⋮。
と思って少女の方を見てみると、少女は案の定、剣を構えて、こ
ちらを見つめていた。
48
第8話 屍食鬼のお願い
﹁ち、近づかないで!﹂
俺がゆっくりと、﹁ヴぁ︱⋮⋮﹂とつぶやきつつ手を伸ばすと、
少女はそう叫んで後ずさった。
グール
当たり前だろう。
迷宮の中で、屍食鬼がうめき声を上げながら近づいてきて警戒し
ない人間など、この世にいるはずがない。
グール
しかも、よくよく考えてみれば、この迷宮≪水月の迷宮≫のこの
グール
スケルトン
くらいの階層に屍食鬼がいるというのは極めておかしい。
屍食鬼は骨人よりも上位の魔物であり、鉄級冒険者が狩場にする
ようなところには滅多に出てこない。
出てくる場合は、下の階層から何かの間違いで登ってきたような
グール
ときか、もしくは迷宮のルールに支配されにくい特殊個体であるか
のどちらかだ。
そして、どちらの場合であるにしろ、その屍食鬼の強さは通常の
それよりも上であることが多い。
駆け出しがそんなものにいきなり出遭えば、それこそ死を覚悟し
なければならないレベルだ。
警戒して当たり前だった。
じゃあお前はそれが分かっていてうめき声を上げながら少女冒険
者に近づいたのか、と言われてしまいそうだが、俺としてはそんな
つもりはなかった。
むしろ普通に挨拶しようと思って声を出したつもりだったのだが、
やはりまだこの体になれておらず、特にただ戦うのならともかく、
声を出す、というのは非常に難しかったのだ。
49
戦い方、体の動かし方については、昔から修行を欠かさなかった
こともあって、自分のどの動きがどんな風に悪く、どう直せばいい
のか客観的に理解出来たため、修正も容易だったので早い段階でど
うにかなった。
けれど、喋り方については改めて考えてみた経験などあるはずが
なく、これについては非常に苦戦しているのである。
その結果として、ヴぁ︱、といううめき声になってしまったわけ
で、これはもう仕方がないだろう。
それに加え、こんな体になって、初めて出遭った人間、それも若
い女の子に、近付かないでと叫ばれる、というのは結構なショック
だったが、それもまた仕方あるまい。
グール
別に俺という存在が気持ち悪いとかそういうわけではなく、ただ
屍食鬼だから、という理由なのだから気にする必要もないだろう。
たぶん。
しかし、そうであるとしても俺としてはどうにかコミュニケーシ
ョンをとりたかった。
だから、俺は少女の言葉にぴたりと止まり、とりあえず何か言葉
として聞こえる声を出そうと努力した。
﹁ヴぁ、ヴぁ︱⋮⋮ご、ごんにぢヴぁっ。お、おで、ヴぁ、れん、
れんど。れんどぉー!﹂
﹁ひぃっ!﹂
いきなりわけのわからない声を出し始めた俺に、少女は怯えたよ
うな声を上げる。
しかし俺はひるまない。
ここで諦めることは良くない気がしたからだ。
たとえば、もし仮に、ここでダメだと諦め、そして少女がここか
50
ら逃げ帰ったとする。
ギルド
すると、どうなるかというと、迷宮に特殊な魔物が出現した、と
いう報告が冒険者組合にされることになり、そしてそれなりの腕を
持つ強力な冒険者がやってくることになるだろう。
そうなれば、流石にまずい。
色々な魔物と戦い、存在進化を経た俺が、多少は強くなっている
とはいえ、それでもまだまだ及ばない人間など死ぬほどたくさんい
るのだ。
この状態でそんな奴らに来られると終わる。
だから、どうにかして少女とコミュニケーションをとる必要があ
った。
最後の手段として、一応、少女を殺してしまう、というのもない
ではないが、俺は人間だ。
そんなこと、出来る気がしなかった。
まぁ、少女が盗賊だとか犯罪者だとか言うならまた別だが、見る
限り一生懸命頑張っている若い冒険者、という感じなのだ。
そんな人間の未来を自分のために無残に奪う気になど慣れるはず
がなかった。
だから俺は、必死に喋った。
﹁だ、だのむぅっ! ⋮⋮ぎ、ぎいで、ぐでっ⋮⋮おぉ、お、では
っ、でぎじゃ、ないっ﹂
そんなことをしばらく話し続けた。
すると、少女の方も、相対しているのにまるで襲い掛かってこな
いことを奇妙に思ったのか、声に耳を傾けるようになってきた。
﹁⋮⋮? なにか⋮⋮喋ってる⋮⋮?﹂
51
﹁ぞう、ぞうだっ⋮⋮おではっ、れんどっ! ぼ、ぼうけんしゃ⋮
⋮だ⋮⋮﹂
やっぱり相手がいると違うのか、俺も少しずつ喋るのに慣れてく
る。
最初よりは若干クリアになってきた声に、少女も意味を掴めるよ
うになってきた。
﹁⋮⋮ぼうけんしゃ⋮⋮ぼうけんしゃ、冒険者!? もしかして、
あなたは⋮⋮あの、冒険者なの、ですか⋮⋮?﹂
﹁ぞう! おでは、ぼうけん、しゃ! なまえは⋮⋮れんどっ!﹂
﹁⋮⋮レンドさん?﹂
﹁れんど⋮⋮れん、ど⋮⋮れんとっ!﹂
﹁あぁ、レントさん⋮⋮﹂
ここまで来ると、少女も慣れてきたらしい。
グール
思ったよりもこの少女、図太いのかもしれない。
武器は構えたままだが、屍食鬼である俺と、普通に話している。
﹁それで、そのレントさんがどうして⋮⋮そんな見た目を⋮⋮何か
の擬態とか?﹂
﹁ぢ、ぢがう⋮⋮おで⋮⋮しんだ⋮⋮⋮﹂
がっくりとしながら、改めて自分の置かれた状況を説明すると、
少女は申し訳なさそうな顔で、
52
グール
﹁あっ、そ、そうですよね⋮⋮屍食鬼ですもんね⋮⋮え、でも、確
かに不死系の魔物の一部は人が死んだ後に変化するとは言われてい
ますが⋮⋮生前の意識とかは殆ど残らずに、全く別の存在になると
いう話を聞いたんですが⋮⋮﹂
少女の口にした言葉は正しい。
生前の記憶の一部を保持していたりする場合が全くない場合では
ないが、それはその生前の記憶が本能に組み込まれたような形にな
っているだけで、生きている人のように明確な記憶と意思がある状
態とは別だ。
高位のアンデッドの中には、極めて高度な魔術により人から転生
してそうなった、という場合もあるにはあるが、それはほとんど伝
グール
説的な話であり、お目にかかれることなどまずないと言っていい。
つまり、こんな状態の屍食鬼が、人のような意志と記憶を持って
いるというのは、珍しいを通り越してありえないと言ってもいいこ
となのである。
それについては俺もうまく説明できないが、なんとなくその理由
は予想していないでもなかった。
たぶん、俺が出遭った︽龍︾、あれのせいだろう。
どんな理屈なのか、どんな現象なのか、その詳しいことはわから
ないが、あの︽龍︾が何かをしたからこそ、こうなっているのだと
思う。
それ以外に、俺には特別なところなどなにもないのだから当然の
結論だった。
しかしそれを説明しても仕方がない。
それよりも、まずは、少女に俺がしっかりとした固有の意識を持
っていることを分かってもらい、色々と協力してもらうことが先決
だった。
とにかく、俺は街に行きたいのだ。
53
そのためには少女の協力が必要なのである。
﹁⋮⋮そでは、お、おでにも、わから、ない⋮⋮でもっ、おでは⋮
⋮いぎでるっ!﹂
﹁そ、そうなんですか? 生きて⋮⋮生きていると言われると妙な
感じがしますが⋮⋮確かに、普通の魔物とは違うみたいですし、私、
助けてもらっちゃいましたし⋮⋮そうでした。その節はどうもあり
がとうございます﹂
喋りながら思い出したのか、少女は剣を構えたままそう言って、
会釈をする。
俺もそれに答えた。
﹁い、いい⋮⋮ぎに、じないで⋮⋮。ぼうげん、じゃは、⋮⋮だ、
だずげ、あい⋮⋮﹂
﹁そう言っていただけると⋮⋮あの、それで、つかぬ事をお聞きし
ますが、私、このまま戻ってもいいですか? 殺されはしないでし
ょうか?﹂
少女がそう尋ねてきたので、俺は慌てて答える。
﹁ご、ごろじだりなんかっ、じないっ⋮⋮で、でも⋮⋮ずごじ、だ
のみが、あるっ⋮⋮﹂
﹁よ、よかった。安心しました。それにしても、頼み、ですか⋮⋮
? 命の恩人⋮⋮恩魔物の方ですし、聞けることなら⋮⋮血をくれ
とか、肉をくれとかでないならば﹂
54
﹁もぢろん、だ⋮⋮ぞれで、たのみ、だがっ⋮⋮お、おでにっ、ふ、
ふぐをっ、がってぎで、ぼじいっ﹂
﹁服ですか? あー⋮⋮あー、なるほど⋮⋮﹂
少女は中々察しもいいようで、俺の全身を見て、理解したように
頷き、続けた。
﹁このままだと、誰か他の冒険者とかが来たら、魔物だってことで
攻撃されてしまいますもんね⋮⋮うーん、体が隠れるようなローブ
とかだといいでしょうか?﹂
﹁で、でぎれば、ぞうじでくれるどっ、ありが、だい⋮⋮あ、おが、
おがね⋮⋮﹂
少女冒険者はおそらく、鉄級冒険者である。
その稼ぎは微々たるもののはずだ。
その点、俺は一応そこそこ稼いでいたし、生前の持ち物やらお金
やらはしっかり持っていた。
なぜか、変わらずに身に付けていたり、近くに落ちていたりした
からだ。
それを俺はしっかりと拾ったわけだ。
布袋に入った金貨や銀貨の詰まった袋を、地面に置き、俺が後ず
さり、取る様に少女に言うと、少女はまだ少し警戒しながら、しか
しゆっくりと近づいて、袋を取った。
そして中身を見て、
﹁こ、これはっ⋮⋮随分といい稼ぎをしていらっしゃったんですね
⋮⋮? 生前はさぞかし名のある冒険者だったのでは?﹂
55
と驚いたように尋ねてきた。
しかし、俺が結構な金を持っているのは、一稼ぎが大きいからで
はなく、こつこつ貯金してきたからだ。
そのほぼ全額が、そこにあるだけである。
ただ、少女にそこまで説明することもない。
というか、説明してさもしい気持ちにはなりたくなかったので、
その辺は誤魔化しつつ、別のことを言った。
﹁ふ、ふぐを、かってきてぐれだら⋮⋮のごりは、づがっでも、い
いっ⋮⋮だがら、だの、む⋮⋮﹂
俺の言葉に、少女は、
﹁⋮⋮分かりました。いろいろと思うところはありますが⋮⋮貴方
は、悪い魔物ではなさそうですし⋮⋮そもそも、私は貴方がいなけ
ればすでに死んでいるわけですから。このリナ・ルパージュ、騎士
として、恩には報います。待っててください⋮⋮レントさん﹂
そう言って、少女は剣を構えたまま、後ずさりするようにその場
から去っていった。
なんだかんだ言って、まだ俺には完全に心を許せないらしい。
まぁ、当然だ。
むしろ冒険者であるならばそれで正しいし、そうしない奴なら今
後も伸びないだろう。
いつか、いい冒険者になりそうだな、と思った。
問題は、俺との約束を守るのか、そのまま金を持ち逃げするので
はないか、ということだが、十年、色々な新人を見てきた俺の眼力
からすると、あの少女は裏切らないだろう、という気がした。
56
生真面目というか⋮⋮。
まぁ、仮に裏切られたとしても、そのときはその時だろう。
俺は俺で、そのときのことを考えて、少しでも力をつけておかな
ければならない。
俺は改めてそう思い、他の魔物を討伐するべく、迷宮を再度、徘
徊し始めた。
57
第9話 冒険者リナ・ルパージュ
冒険者、リナ・ルパージュは駆け出しの冒険者だ。
まだ十七になったばかりの、年若い少女。
身に付けている武具が安物であり、また容姿について手入れもそ
れほどしていないからか、貧相に見える。
しかし、よくよく見てみれば、梳かせば美しいだろう金色の髪に、
夢見るような水色の瞳を持った、冒険者などではなく、ドレスなど
の方がよほど似合いそうな華やかな容姿をしている。
そんな彼女が都市マルトに来たのは簡単な理由で、駆け出し冒険
者向けの低位迷宮が二つ存在し、おすすめだという情報を王都で得
たからに他ならない。
王都では、冒険者の数が多く、腕のいい者もたくさんいるため、
何一つコネのない駆け出し冒険者が活動するには中々に厳しいとこ
ギルド
ろがあり、リナはもっと居心地のいい場所を探していた。
そんな中、冒険者組合職員から、辺境の街や村では駆け出し冒険
者であっても十分需要があるし、腕を上げながら稼ぎたい、という
のであればいくつかの都市は紹介できる、と言われたのだ。
リナはその紹介に迷わず飛びつき、そして都市マルトへとやって
きた。
本来、いくら仕事が少ないと言っても、王都で冒険者になった者
は辺境へと拠点を移すことは嫌がる。
なぜなら、いずれ華やかな依頼を受けてトップ冒険者へ、と考え
都落ち
と言うこともあり、王都の一般的
ている者が大半で、そんな者たちからすると、王都は離れがたい土
地に思えるからだ。
辺境へ向かうことを
な冒険者の感覚がそれでよくわかる。
58
しかし、リナにはそう言った感覚はまるでなかった。
ギルド
むしろ、王都から出来る限り早く離れたいと願っており、そんな
リナにとって、冒険者組合職員の紹介は渡りに船だったと言っても
過言ではなかった。
そうして、リナが辺境都市マルトについたのは、つい先日のこと
である。
ある意味で夢と希望を胸に都市マルトにやってきたリナだったが、
そんな希望は早々に打ち破られた。
というのも、マルト周辺の迷宮というのはどちらも本当の駆け出
しの駆け出しであるリナにとって、単独で探索するのは厳しいレベ
ルであり、パーティを組む必要があったのだが、誰もリナとは組ん
でくれようとしなかったからだ。
その理由は、リナの性別と、容姿、そして経歴にあった。
まず、女である時点で冒険者として一段落ちるとみなされ、見た
目があまりにも華奢に見えるし武具も貧相であることから、ろくに
戦えないだろうと考えられ、最後にまだ冒険者になって一月も経っ
ていないと言うと、これは道楽だなと決めつけられて、その時点で
はい、さようなら、となってしまうのだった。
酷い話である。
実際には、リナの実力は都市マルトにいる駆け出し冒険者たちと
比べると、むしろ一段上にあるし、武具もよく手入れされていてそ
の誠実な性格が分かる。
冒険者になって一月も経っていないというのに、それだけの力と
心持を手に入れているのは珍しく、むしろお買い得な物件であると
言ってよかった。
しかし、リナにとって運の悪いことに、リナがパーティを組んで
くれる者を探しているとき、リナの実力を適切に判断し、正しい評
59
価をくれる存在がいなかった。
ギルド
ギルド
本来、この役目を担う者はそれぞれの都市の冒険者組合には必ず
ギルド
数人いて、常時、冒険者組合に付設された酒場で管を撒きつつ新人
を観察しているものだ。
そして、都市マルトの冒険者組合においてはレント・ファイナが
担当しており、彼がいないときはそのときいる高位冒険者の誰かが
やるのだが、リナがパーティメンバーを探していた時は、運悪くど
ちらも不在だったのだ。
そのため、リナは自分とパーティを組むのに適切な実力を持った
者と出会うことが出来ずに終わり、たった一人で食い扶持を稼ぐた
ギルド
めに迷宮に潜ることを決断せざるを得なかった。
ギルド
これには冒険者組合職員も問題を感じないではなかったが、リナ
の実力については王都の冒険者組合から送られてきた資料を見て知
っており、迷宮をある程度探索しても死亡する確率は低いと判断で
きたため、依頼を受ける際に注意するにとどめた。
いずれ、レントか誰か、リナとパーティを組む者を探す冒険者が
やってくるだろうし、それまでの場繫ぎと考えればそれほどの問題
もないだろう、という判断でもあった。
実際、それは一般的にはそれほど間違ってはいない判断だったの
だが、リナが思いのほか世間知らずであることを知ればまた、別の
判断がなされただろう。
そう、リナは、かなりの世間知らずだった。
剣技に関しては駆け出しにしてはそれなりの技術を持ってはいる
ギルド
が、それはあくまで模擬戦闘用の演武的な技術であって、実戦に関
しては経験がかなり浅かった。
そのため、彼女はソロ冒険者向けと冒険者組合で紹介された迷宮
≪水月の迷宮≫に潜って戦い続け、そして最後には窮地に陥った。
はじめ、数体の魔物を倒すことは出来ていたので、そこで戻って
素材や魔石を換金すれば良かったのだが、リナは自分の調子が良く、
60
もう少し行けるだろう、と判断してしまったのだ。
これは初心者が陥りがちの間違いで、王都にいたときはパーティ
を組んでいるメンバーがいて、その中でも経験豊かな者が注意して
いた。
しかし、そう言った人間がいなくなり、リナの判断はひどく甘く
なってしまったのだ。
スケルトン
その結果として、骨人に殺される一歩手前までいったわけだ。
いや、そのままなら間違いなく殺されていただろう。
しかし、リナは運が良かった。
彼女は、彼女を助けてくれる実力者に出会うことが出来たからだ。
スケルトン
骨人がリナを殺そうと腕を上げたそのとき、
﹁⋮⋮うがぁぁぁっぁ!!!!﹂
そんな声を上げて、何者かがやってきた。
グール
リナは一体だれが、と思ったのだが、それが何なのかが明らかに
なったそのとき、絶句した。
スケルトン
なぜなら、それは、骨人などよりも数倍恐ろしい屍食鬼だったの
だから。
しかも、顔の部分に複雑な刺青が刻まれていて、それが淡い青色
に発光している。
リナはさして沢山の種類の魔物に出会ってきたわけではないが、
レア
それでもその魔物が特別な存在︱︱おそらくは特殊個体、と言われ
ネームド
る魔物なのだろうと即座に察した。
魔物の特殊個体とは、︽名付き魔物︾とか︽希少魔物︾とか言わ
れる、非常に珍しい魔物のことで、たとえば迷宮だと、その階層に
61
本来出現しない魔物だったり、また通常個体とは特徴の異なる魔物
のことを言う。
そして、それらはほとんどの場合、通常個体とは格が違うと言っ
ていいほど強力であり、出遭えば死を覚悟しなければならないほど
のものであることも少なくない。
グール
リナの目の前に現れた屍食鬼は確実にその特殊個体であることは、
スケルトン
その容姿から明らかで、しかも出ている雰囲気からして何だか強そ
うなのである。
これは、まずい。
そうリナが思うのも当然だった。
グール
さらに、その屍食鬼はリナを殺そうとしていた骨人に向かってそ
の持っている剣を一閃させ、軽々と真っ二つにしてしまったのだ。
その動きは余りにも美しく、一瞬魔物であることを忘れてただた
だ綺麗だと思ってしまったほどである。
しかし、冷静になると、その事実はさらにリナを硬直させる。
なぜと言って、リナには絶対に勝てない、とそういうことにしか
ならないからだ。
ここで、自分の冒険者人生は終わりか。
そのとき、リナはそう覚悟したくらいだった。
しかし、奇妙なことに、リナがそこでその魔物に会ったことは、
むしろ幸運だったらしい。
リナの前に現れたその魔物は、なんと喋り出し、リナと会話をし
たのだ。
そして、リナに頼みごとをした。
62
それは、服を買ってきてほしい、ということ。
リナはそれを快諾し、街へと走った。
騎士として、命の恩には報いなければならないと思った。
なぜなら、リナは、今は冒険者をしているが、もともとは騎士の
家の娘なのだから。
63
第10話 冒険者組合職員 シェイラ・イバルス
︱︱レント・ファイナが戻ってこない。
ギルド
冒険者組合職員シェイラ・イバルスは、そのことを不思議に思っ
ていた。
ギルド
シェイラは、冒険者組合職員として五年目の、比較的若い女性組
ギルド
合職員だが、レントとの付き合いは長い。
というか、冒険者組合職員になって、最初の冒険者がレント・フ
ァイナだった。
レントは当時、二十歳の若者で、ただ、その時点で冒険者として
は五年の経験を積み、それでもまだ銅級にとどまっているという、
分かりやすい低級冒険者だった。
冒険者として数年働き、そのくらいまでにしかなれていないとな
ると、大抵の人間は自分の才能を見限り、故郷に戻ったり、他の仕
事を探して冒険者を引退するものだ。
それは別に恥ではないし、そういう選択をする者は大勢いる。
まぁ、それでも命が惜しくなったのか、とか、努力が足りないか
らだ、とか言って馬鹿にする者もいないではないが、冒険者という
職業はそんなに簡単なものでないことは誰もが知っているので、そ
う言ったことをいう奴こそが馬鹿なのだとみんな心の中で思ってい
る。
つまり、当時のレントは、そろそろ引退を考えてもおかしくはな
い年頃と経験で、そんな中、彼の担当になったのがシェイラ・イバ
ルスということになる。
シェイラは、当時、そんなレントの担当になったことが、嫌だっ
64
た。
ルド
ギ
というのは、別にレントが嫌いだったというわけではなく、冒険
者組合職員の仕事には、冒険者たちに最後の引導を渡すことも含ま
れていて、レントは年齢と経験から見れば、シェイラが彼にもう冒
険者は諦めた方がいい、と告げなければならなそうだったからだ。
誰かがやらなければならない仕事だが、出来ることならやりたく
ない仕事である。
それも、一番最初の仕事でそんな冒険者を振り分けられるなんて、
と当時のシェイラの心には暗雲が立ち込めていた。
しかし、結果を言えば、そんなシェイラの心配は取り越し苦労だ
ギルド
ったと言える。
なぜなら、冒険者組合において、そもそもレントはそう言う対象
ではなかったからだ。
ギル
確かに、レントの経験と、冒険者になってからの年数だけ見れば
ギルド
もう冒険者などやめた方が良さそうなものだった。
ド
けれど、レントが冒険者組合内外でやっていることは、冒険者組
合の運営を非常に円滑にしていて、むしろ、ランクなど上げなくと
ギルド
もそのまま冒険者でいてくれた方がずっといい、と言いたくなるよ
うなものだったからだ。
ギルドマスター
というか、むしろ冒険者をやめるんだったら冒険者組合職員に転
ギルド
ギルド
職したらどうかと冒険者組合長がスカウトに走りそうなくらいだっ
た。
レントの冒険者組合での役割は多岐にわたり、まず、冒険者組合
に来た駆け出しの実力の見極めから始まり、それに見合った適切な
パーティメンバーの選定・紹介、それに基本的な戦闘の知識や迷宮
でのマナーについての解説・講習も行い、さらには心根の曲がった
冒険者たちの陰謀を潰したりまでしていた。
65
ギルド
しかも、それら全てについて冒険者組合からの依頼だと言うのな
ギルド
らともかく、多くはレントが無償でやっていることばかりなのだ。
たまに冒険者組合から報酬を出して依頼することもあったにはあ
ったが、微々たるものでしかなかった。
それなのに、レントは楽しそうにそう言った雑務を行っていた。
ギルド
それも、彼のそう言った活動にはかなりの効果があって、駆け出
し冒険者たちの死亡率は他の地域の冒険者組合と比べて驚くほど低
く、また冒険者たちの綱紀も保たれていて、街の人間たちも冒険者
たちと気さくに交流していた。
当たり前だが、これは、かなり珍しいことだ。
ギルド
シェイラは、もともと都市マルトに住んでいたわけではなく、自
分の生まれ故郷を離れて、王都でヤーラン王国冒険者組合の職員採
ギルド
用試験を受け、それに受かってここに配属された者だ。
ギルド
そのため、冒険者組合と言えば、自分の故郷のそれしか知らず、
そしてその故郷の冒険者組合の冒険者と言えば、端的に言って、も
っと柄の悪い者たちばかりだった。
もちろん、いい人たちもいて、そういう人たちは街人にも邪険に
されたり、怯えられたりと言ったことはなかった。
ただ、かなりの数の冒険者が、はみ出し者として嫌われていたの
も事実で、それなりに罪を犯したりもしていたのだ。
なのに、この街マルトでは、そう言ったことがない。
冒険者は信頼されているし、一部の悪徳冒険者が何かをやらかし
そうな時はむしろ冒険者たち自身の手で迅速に粛清される。
その理由こそが、低級冒険者レント・ファイナであるということ
を、シェイラは彼を担当しているうちに知った。
新人であるシェイラに彼が任されたのは、シェイラに低級冒険者
ギルド
を相手に経験を積ませよう、というわけではなく、レントにシェイ
ラの教育をしてもらえないかという冒険者組合の配慮だったわけだ。
66
ギルド
そして、実際にシェイラはレントに冒険者組合職員として必要な
心得を多く教わり、今ではいっぱしの職員として毎日精力的に仕事
をしている。
彼にそんな風に育てられた職員や冒険者は少なくなく、今、この
ミスリル
街で頭角を現しつつある新人たちは大体レントの指導を受けたもの
だ。
いずれそこから最上位冒険者である神銀級が現れても何一つおか
しくはないし、むしろその日が来るのが楽しみであった。
本当は、レント自身がそうなりたいと考えていて、毎日欠かさず
修行をしていることをシェイラも、他の冒険者たちもよく知ってい
たが、しかし、彼自身の冒険者としての才能ではそうなるのは難し
そうだと言うのも知っていた。
彼に才能さえあれば、と誰もが思わずにはいられなかったが、現
実は現実である。
仕方がなかった。
とは言え、彼と実力者がパーティを組んで、パーティとして有名
になる、という手もないではなかった。
しかし、マルトの冒険者たちは、その多くがレントの目標を知っ
ミスリル
ていた。
神銀級冒険者になること。
ミスリル
それは、別に有名になりたいということと同義ではない。
彼は、自分の力で神銀級冒険者になりたいのであって、誰かの力
で有名になりたいわけではないのだ。
そしてそのためには、どんなに可能性が低いとしても、ひたすら
に実力をつけるしか道はない。
ソロで戦い続けることが、魔物の力を吸収するのに最も効率がい
いことは明らかで、だからこそ、彼とは誰もパーティを組もうとは
しなかった。
67
彼のために、と思って。
事実として、彼はあまり強くはない。
だから、どこかである日死んでしまう可能性もないではなかった。
けれど、シェイラも、他の冒険者もその可能性はかなり低いと思
っていた。
だからこそ、ソロでも誰も何も言わなかった。
なにせ、レントは単純な腕っぷしこそ銅級に見合う程度のもので
しかないが、その知識や経験は十分に高位冒険者に匹敵するものだ
った。
ギルド
危険なものに対する判断力や冷静さを、彼は確かに持っている、
そう信頼するに足りる冒険者だった。
なのに。
レント・ファイナが帰ってこない。
彼は、毎日同じ時間に迷宮に潜り、そして同じ時間に冒険者組合
ギ
に戻ってきて、素材を納入したり依頼完遂の報告をして帰り、それ
から自分の修行を始める。
それが日課。
それが彼の日々。
それなのに。
彼は一体どこに行ってしまったのか。
彼を心配する者は、シェイラを初め、たくさんいる。
レント。
レント・ファイナ。
ルド
どうか、無事でありますように、とシェイラが祈りつつ、冒険者
組合の仕事をこなしていると、
68
﹁⋮⋮あのー⋮⋮﹂
一人の少女から、そう声をかけられた。
シェイラがふと顔を上げて、その少女を見る。
その顔には見覚えがあった。
つい先日、王都から移ってきたと言う駆け出し冒険者だ。
運悪く、レントがいないときに来てしまったがためにとりあえず
ソロでやっている︱︱たしか、名前はリナ・ルパージュだったか。
69
第11話 屍食鬼の気づき
スケルトン
スケルトン
剣を振るって、何体目になるかもう数えていない、目の前の骨人
を倒す。
生前の戦いの厳しさが嘘のように、軽々と骨人の背後を取り、真
っ二つに出来てしまう。
信じられない。
別に、剣術の腕が変わった、という訳ではない。
ただ、身に宿る力︱︱魔力や気、聖気の量が魔物を倒すごとに増
していっている。
それらを使って体を強化すると、今まで重たかった体が、俺の意
思通りに綺麗に動いてくれるのだ。
生きていたころは、頭にどう体を動かすか、よくイメージをしな
がら素振りをしていた。
血豆が出来、つぶれ、それでもなお素振りを続けて、けれど俺の
体は俺の思考通りに動いたことなどなかった。
なのに、今はどうだ。
イメージすれば体はその通りに動いてくれる。
体がぶれることも少ない。
相手の動きもよく見えるし、感覚も鋭く働く。
きっと、俺よりも上に行くような奴らは、こんな風な世界が見え
ていたのだろう。
生きているときの俺には一切見えなかった世界が、今の俺には見
えていた。
出来ることなら生きているときにこんな風になりたかったものだ
が、結局それは無理だったわけで⋮⋮。
70
まぁ、それでも、死んでもこうやって意思を持って戦えているの
だから良しとしよう。
ミスリル
これなら、いずれ神銀級冒険者になれるかも知れないし⋮⋮。
と、そこまで考えたところで、今更ながらに、ふと思った。
俺って、冒険者稼業を続けられるのだろうか、と。
冒険者と言うものは、基本的にどんな人間でもなれる。
もちろん、これはなるだけなら、という意味で、俺のようにクラ
スを上げられずに辞めていく者も多いわけだが、ただ冒険者として
登録するだけならそれこそ年齢が十五になれば誰でもなれるのであ
る。
けれど⋮⋮。
果たして、魔物が冒険者になれるのか?
と聞かれると⋮⋮。
ギルド
なれるわけないだろ、という常識的な答えが俺の頭の中に浮かん
できた。
考えてみれば分かる。
グール
ある日、一匹の屍食鬼がとことこと、冒険者組合に入ってくる。
そして受付まで足を引きずるように進み、それから受付嬢に枯れ
た肉をつけた腕を伸ばし、呻くような声で言うのだ。
﹁お、おでを⋮⋮ぼう、げんじゃに、じで、ぐだ⋮⋮ざいっ!﹂
71
⋮⋮ホラーだ。
絶対に受付嬢は、はい、とは言わないだろう。
ギルドマスター
グール
受付の机裏にある緊急連絡装置のボタンを押して、強力な冒険者、
もしくは冒険者組合長を呼び、そのまま、はい屍食鬼一体討伐しま
した、となって終了というのが目に見える。
しかし、だからといって、
なんだよ⋮⋮俺、冒険者続けられないのかよ⋮⋮。
とか考えるのはやめておこうと思う。
ミスリル
それよりも、続けられる方法を考えるべきだ。
なぜなら、俺は絶対に神銀級冒険者になるのだから。
せっかく、最もネックだった才能の方について、魔物になったら
しいことで解決の目途が立ってきたのだ。
それなのにそれが原因で冒険者を続けられないなんてことは困る。
ギルド
ただ、やっぱりすぐにはこの状態で冒険者を続ける方法を思いつ
くことはできない。
何度も言うようだが、冒険者組合は確かに誰に対しても冒険者の
道への門戸を開いているが、魔物相手に開いているわけがない。
あの少女冒険者リナに体を隠す服を頼んだが、実際に彼女が俺に
ローブなりなんなりを買ってきてくれて、この枯れ切った体の大半
を隠せたとしても、近づけば明確に顔が見えてしまうだろうし、書
類を書いたり金銭や素材のやりとりをするときにはどうしても腕が
見えてしまう。
今の俺の腕を見てみた。
⋮⋮枯れている。
72
どうしようもないほど、枯れている。
少し前までちょっと色が茶色な感じの枯れた肉だったが、今では
何だか黒みを帯びていて怖い。
こんな腕が目の前に差し出されて、特に何の反応もしない人間な
んていないだろう。
もしかしたら、色々と考えたうえで配慮して触れないでいてくれ
る人はいるかもしれないが⋮⋮。
いや、ダメだ。
俺、レント・ファイナという名前の冒険者は大した腕を持ってい
なかったが、それでも結構顔は広かった。
万年銅級冒険者として生きていても、すぐにやめろと言われない
ギルド
ように色々と俺は努力していた関係で、知らない顔は少ないのであ
る。
つまり、俺の容姿は冒険者組合に所属する人間の大半が知ってい
る。
そんな俺がある日突然、こんな腕を見せたら、絶対に色々と尋ね
られるに決まっている。
別に興味本意というだけではなく、心配して、とか、迷宮で何か
危険な魔物が蠢いている可能性なども考えて、情報収集のためにも
尋ねられるはずだ。
そうなるともう⋮⋮ローブは剥ぎ取られる可能性が高い。
腕だけならまだなんとか言い訳はつくかもしれない。
グール
ちょっと変な魔物に生気を吸われて枯れてしまったんだとかなん
とか。
しかし、顔を見られたら終わりだ。
鏡がないから分からないが、触り心地からして確実に屍食鬼のそ
れになっているのだ。
どうやっても、何らかの理由で俺が魔物へと堕ちた、討伐しなけ
れば、という話になってしまうだろう。
73
考えれば考えるほど詰んでいるな⋮⋮。
そう思わずにはいられない状況である。
改めて決意が揺らぎそうだ。
しかし、一度決めたのだ。
とりあえず問題は見た目だけだし⋮⋮見た目をどうにかすればま
だ、何か開ける気もする。
やはり、当初の予定通り、存在進化を目指していこう、というと
ころに落ち着く。
ギルド
街に行っても、見た目がどうにかなるまでは、冒険者組合には近
寄らない方がいいかもしれないな⋮⋮いや、しかしそうすると稼ぎ
の方がなぁ⋮⋮。
色々難しい問題について思いを馳せていると、ふと、遠くから声
が聞こえてきた。
﹁⋮⋮レントさーん! ⋮⋮レントさーん! どこですかー!?﹂
それは、昨日、服を購入してくれるように頼んだ、あの少女冒険
者リナの声に間違いなかった。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮ひっ!?﹂
俺が近づくと同時にそんな声を上げたのは、やはり紛うことなき、
あの少女冒険者リナである。
74
出会い頭に口にするものとしては酷い気がする飲み込んだような
悲鳴であるが、今の俺の容姿を考えれば仕方がないだろう。
そもそも、リナは恐る恐るこう尋ねたくらいなのだから。
グール
﹁⋮⋮あ、あの⋮⋮れ、レントさんで、よろしいでしょうか⋮⋮?
それとも、別の、屍食鬼の方だったりします⋮⋮?﹂
もちろん、剣を構えながらである。
グール
まぁ、無理もないだろう。
屍食鬼の個体差を見かけで判断しろと言われても普通に考えて無
理なのだから。
同じような色の同じような枯れた死体のどれが誰だか判別しろと
言われても無理に決まっている。
だから、俺はリナの質問に答えた。
﹁⋮⋮そ、そうだ。おれが、レントだ⋮⋮﹂
若干、喋りがうまくなっているのは、あれから練習を重ねたため
だ。
ちょっとだけ音声がクリアになっていて、聞き取りやすくなって
いるような気がする。
気がする、というのは実際に人に対して話していたわけではなく、
独り言をぶつぶつ言っていただけだから、客観的にどうなのかが分
からないからこその評価である。
しかし、リナは、
﹁⋮⋮あ、よかった⋮⋮。違ったらどうしようかと⋮⋮ん? なん
だか、お喋り、少し上手になったような⋮⋮﹂
そう言ってくれたので、俺の感覚は間違いではなかったようだ。
75
﹁⋮⋮れ、れんしゅう、した⋮⋮もっと、はなせるように、なり、
たい⋮⋮から﹂
﹁そうなんですか! それはいいことですね。これから、街にも入
られる予定なんでしょうし⋮⋮あっと、そうだった。こちら、ご注
文のお品と、お釣りです!﹂
そう言って、リナは足元に置いていた荷物を差し出してきた。
色々なものの入ってそうな袋だ。
もちろん、俺の注文の品ということは、そこには服が入っている
のだろう。
俺はわくわくしながら、リナの方に近づこうとしたら、リナは袋
を置いて若干下がった。
少しショックを受けたように俺が止まる。
すると、リナは、
﹁す、すみません⋮⋮あの、まだ、ちょっと怖くて⋮⋮慣れるまで、
もう少し、もう少し時間を下さい!﹂
そんなことを言う。
⋮⋮いや。
まぁ、仕方あるまい。
そもそも、こんな風に魔物にしか見えない俺とコミュニケーショ
ンをとってくれるだけで十分にありがたいのだ。
俺は、
﹁⋮⋮い、いや⋮⋮きに、しなくて、いい⋮⋮それより、ふく、か
くにんして、も⋮⋮?﹂
76
そう言うとリナは、
﹁ええ! どうぞどうぞ! 服以外にも色々必要そうなものも購入
してきたので、ご確認ください!﹂
そう言ったので、俺は袋に近づき、その口を開いた。
77
第12話 屍食鬼のフィッティング
ごそごそと袋の中を覗くと、まず、目的のもの︱︱つまりは、俺
の体全体を隠すためのローブがそこにあるのが見えたので引き出す。
たたまれて収納されていたらしいそれを広げてみると、色合いは
完全な漆黒で、フードまでついたタイプのものであるようだった。
主に魔術師などが好んで着ることの多いもので、以前の俺であれ
ば、まず、店に置いてあっても手に取ることはないような品だ。
ただ、今の俺にとってはその誰も目を向けないような地味な色合
いと、体全体を頭のてっぺんから爪先まで隠せる形状が素晴らしく、
金貨を出しても問題ないなと思ってしまうほどに魅力的だった。
服を買ってきてくれ、の一言でこれを選べる少女冒険者リナの確
かなファッションセンスに拍手を送りたい気分である。
⋮⋮ともあれ、とりあえず着てみることにしよう。
実際に袖に腕を通してみると、中々にいい生地を使っているらし
く、触り心地が結構良かった。
こんな枯れ切った肉しかない体で触覚が生前と変わらず働くこと
は極めて不思議なのだが、冷静に考えなくても俺は魔物なのだ。
きっとそういうものだと思っておこう。
また、着心地以外にも、一応冒険者としてまだまだやっていくつ
もりの俺としては、動きなどを阻害しないかが問題である。
確認してみると、確かに頭まですっぽり覆ってしまうと視界が少
し悪くなったが、それでも十分に前方は見えるし、周囲もある程度
は確認できる。
78
流石に敵に囲まれてしまっているような場合には、フードはどう
しても取らざるを得ないだろうが、魔物の一匹や二匹とならこの状
態でも十分に相対できそうだった。
﹁⋮⋮どうですか? お気に召していただけましたか?﹂
﹁⋮⋮おぉっ⋮⋮び、びっくりした⋮⋮﹂
いつの間にやら近くにやってきていたリナが、俺にそう尋ねる。
さっきまで俺の容姿に大分怯えていた割に、距離がかなり近かっ
た。
構えていた剣も一応持ってはいるが、今は俺に向けていない。
もう慣れたのだろうか?
そう思って、
﹁⋮⋮き、きにいった⋮⋮それにし、ても、おれの、こと⋮⋮こわ
く、ない、のか⋮⋮?﹂
﹁いや、まだまだ全然怖いですよ。ただ、色々人間っぽくない部分
が隠れましたからね⋮⋮なんとかこれくらいの距離には近づいても
大丈夫です﹂
まぁ、近くと言ってもまだ三歩ほどの距離はある。
リナの剣の間合いのぎりぎり外側、くらいな感じだろうか。
スケルトン
何かがあっても対応できるくらいの距離をとっているあたり、警
戒心は薄れていないのは間違いない。
それでもかなりの進歩ではあった。
そんなリナの行動を見るたび、思う。
龍に突然遭遇したり、食われたりした上、骨人にまでなった、客
79
観的に見て極めて運のよくない俺だが、リナにあったのは本当に僥
倖だったなと思わずにはいられない。
確かに命は救ったかもしれないが、それでもここまで先入感なく
魔物とコミュニケーションをとる人間など、普通いないのだ。
未だにこの少女がなぜ俺にここまで協力してくれているのかは謎
だが、ありがたいことこの上ない話である。
﹁あっ、そうそう。まだまだ色々買って来たものがあるんですよ⋮
⋮ほら、靴とか手袋とか。やっぱり街に行くとなると、その手足を
見せびらかしてしまうとまずそうですもんね?﹂
リナはそう言って、袋から靴と手袋を取り出し、迷宮の地面に置
く。
どちらも革製の仕立てのいいものだ。
色合いは両方ともやはり地味なもので、目立たないようにと選ん
でくれたことが分かる。
これは、非常にうれしいことである。
なにせ、そもそも俺はリナに服を買ってきてくれとしか頼んでい
ない。
だからローブだけを買ってくるのだろうな、と思っていたのだ。
それなのに、リナは俺の意図を汲んでくれ、色々なことを考えて
こうして他にも必要そうなものを買ってきてくれたのだ。
どこの世界に魔物のために服を選んでくれる年頃の女の子がいる
というのだろうか⋮⋮。
魔物になってから初めて受けた親切に、涙が出てきそうな気分に
なる⋮⋮いや、この体じゃ無理か。
ともあれ、靴と手袋もしっかりと装着する。
手も足も正直、生身と違って完全に乾いているので、通常の人間
用に仕立てられたそれらがしっかりと嵌るのかどうか微妙だった。
80
しかし、最終的にはどちらも一応、身に着けることは出来たので
良しとする。
ただ、靴については紐でぎっちりと結ぶことで無理やりフィット
させたが、手袋の方はぶかぶかである。
ワ
これでは剣を握るのは難しそうであり、少し悩むが、まぁ、街に
行くときだけ着けることにすればいいだろう。
イト
﹁おぉ、中々⋮⋮迫力がありますね。なんだかそうしていると、塚
人みたいですよ? ⋮⋮あっ、鏡もあるんですけど、どうですか?﹂
どこかの店の店員のような台詞をリナが言い︵塚人みたいですよ、
が褒め言葉になるかどうかはあれだが︶、それから鏡を袋から取り
出し、地面に置いて少し下がった。
⋮⋮それにしても、これだけフランクに接しておきながら手渡し
はしてくれないらしいことに若干傷つくが、仕方ないか⋮⋮。
スケルトン
しかし、鏡まで持ってきてくれるとは本当に気が利くな。
骨人になってからずっと、自分の顔がどうなっているのかは触っ
て確認することしかできなかったから、気になっていた。
もちろん、元々の生身のときの、二十五にもなって十代に間違わ
れてしまうような童顔ではないことは分かっていたし、かつての顔
にそれほどの未練もない。
恐ろしげな顔貌になっていたとしても問題はなかった。
そう考えながら、俺はその金属を磨いた鏡を手に取って、見てみ
る。
すると、そこに映っていたのは⋮⋮。
﹁⋮⋮こ、これ、は⋮⋮﹂
まぁ、概ね、想像通りと言っていい。
81
枯れた死体の顔だ。
目が落ちくぼんでいて、眼球が片方しかないのが少し予想外だっ
たくらいだろうか。
それでいて俺の主観からは両目でものを見ているように見えてい
るのだから謎だが、まぁ、こんな容姿なら両目か片目かなんて大し
た問題ではない。
どっちにしろ、死体面である。
ただ、もう一つ予想外だったのは、その顔に奇妙かつ複雑な刺青
が刻まれていることだった。
しかも、それはなぜか淡い青色に発光している。
ぼんやりとした光は美しく、見ていると何か不思議な感覚を覚え
るものであった。
神秘的な感じがしないでもないし、これが俺を魔物に変化させた
理由と関係しているのかもと思わないではなかった。
けれど、それ以上に、まず、これは非常に困る。
なぜなら、こんなものがあったらせっかくの俺の変装が台無しだ
からだ。
端的に言って、目立ちすぎる。
ただ単純に刺青があるだけならそれでも別に気にしなくてもよか
ったかもしれないが、ここまで派手に発光しているのは流石に⋮⋮。
フードを深くかぶってどうにか見えないように出来ないかと鏡越
しにしばらく努力してみたが、まるで改善できない。
ワイト
結果どうなったかと言えば、フードの中が青色に明滅する恐ろし
げな塚人が誕生したに過ぎなかった。
⋮⋮いやいや。
困るんだけど。
どうすりゃいいのさ!
82
俺がそんな気持ちになって頭を抱え始めた時、
﹁あっ、そうそう。これ、頼まれてないんですけど、ちょっといい
かなと思って買ってきちゃったんです⋮⋮どうですかね?﹂
リナがそう言って、袋からまた何か取り出してきた。
次々に袋から色々なものを出しているが、そんなにものが入りそ
うな袋に見えないのだが⋮⋮。
魔法の袋なのかな?
いや、今はそれはいいか。
それよりもリナが取り出したものだ。
それは、仮面だった。
顔全体が隠れそうな、骸骨を象ったおどろおどろしい感じの、仮
面だ。
﹁⋮⋮そ、それ、は⋮⋮?﹂
それは、どんな意図で買って来たのか、という意味での質問だっ
たが、リナはこれに明快に答える。
﹁レントさん、そのうち街にも入りたいでしょうし、そうしたら、
その顔は隠したいんじゃないかと思って⋮⋮流石に顔が光る人は街
には入れてくれなさそうですもんね?﹂
まさにその通りである。
本当に気が利くな、この子は、と再度目頭が熱くなりかけたが⋮
⋮やっぱり涙は出ない。
頑張れば泣けるのか、それともなんとなく泣けそうな気がしてい
るだけなのかは謎だった。
83
ともかく、俺は、例によってリナの気遣いによって購入されたそ
の仮面を、置かれた地面から拾い、そして顔に近づける。
目の部分と口の部分にはしっかり穴が開いており、視界で困りそ
うな感じはしない。
これなら、被ってもいいかな⋮⋮。
そう思ったところで、なぜか、仮面から物凄い吸引力を感じ、顔
がぎゅぎゅっと引っ張られた。
﹁⋮⋮うぁっ!﹂
妙な声が口から出る。
そして、気づいた時には、仮面は俺の顔に張り付いていた。
﹁わぁ∼。似合いますね?﹂
リナの、妙に能天気な褒め言葉が聞こえて、俺も鏡を見てみた。
鏡には、骸骨の仮面を被った、怪しげな魔術師が映っていた。
⋮⋮確かに、似合ってはいるような気がする。
まぁ、つい先日まで、俺は実際に骨だったのだ。
骨の仮面が似合わないはずがないだろう。
そう思う。
しかし、それにしても随分とすっぽり嵌ったな?
外せるのかな?
急にそんな不安が襲ってきて、俺は仮面に手をかけて外そうとし
た。
そうしたら⋮⋮。
84
﹁⋮⋮は、はずれ⋮⋮ない⋮⋮﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
俺の言葉に、リナの唖然とした声が響いた。
85
第13話 屍食鬼の仮面
﹁⋮⋮やっぱり、ダメですか?﹂
ぎりぎりと顔面に張り付いた仮面と格闘する俺に、リナが気遣う
ような口調でそう言った。
仮面が顔に張り付いてから、大体、半刻は頑張っている。
が、いくら努力しても外れない。
まるで皮膚か何かのようで、外そうとしても顔ごと持っていかれ
る始末だ。
﹁だ⋮⋮だめ、だ⋮⋮﹂
そう答えると、リナは、
﹁⋮⋮すみません、私のせいです⋮⋮実は、今考えてみると、それ、
売っていた人、怪しかったんですよね⋮⋮露店で買ったんですけど、
今なら安くしておくよって驚くほどの値段で⋮⋮﹂
と聞き捨てならないことを言う。
売り文句だけなら普通の商人の台詞だが、それに怪しいほどの低
額な値段設定となると⋮⋮。
どう聞いても詐欺師の手口のようにしか聞こえない。
まぁ、詐欺師まがいではあるが、普通の商人、ということもなく
はないだろうが⋮⋮。
﹁ちな、み⋮⋮に、いくら、だった⋮⋮?﹂
86
﹁銅貨三枚でした。金属製の丈夫そうな仮面にしては、いくらなん
でも安すぎますよね⋮⋮? でも、一目見た時からなんだか気に入
っちゃって⋮⋮﹂
リナの趣味か。
まぁそれなら仕方がない⋮⋮とはならないだろう。
当然だ。
というか、銅貨三枚って。
冒険者向けの仮面、というのは意外に珍しいものではない。
なぜなら、長年冒険者をしている中で、低位の回復魔術では回復
しきれない大きな傷を負ってしまったりすることが多々あるからだ。
腕や足など、身体の大きな欠損は教会などの宗教団体で認定され
る聖女クラスでなければ回復することは出来ないし、それを望むの
であれば寄進という名の多大なる治療費がかかる。
それが払えないものは、残念ながら諦めてそのまま生活するか、
義手や義肢をつけたりして何とか頑張るしかない。
アシッド・ブリッツ
顔が大きく傷つけられたり、見るも無残な火傷跡が治せない、と
いう場合には仮面をつけるわけだ。
低級な魔物の中にも、スライムの放つ酸弾など、顔が融けるよう
な攻撃をしてくる魔物は少なくなく、避け損ねるとそういうことに
なってしまう。
そういうわけで、仮面は意外と俺たち冒険者にとって身近な品物
の一つだった。
だからこそ、出来れば使うことのない人生を、と思いつつも、相
場はなんとなく知っている。
その感覚からすると、今の俺が身に付けているような金属製の仮
面は銀貨を出さないと買えないだろう。
銅貨は一枚二枚でパンが一つ買えるかどうか、くらいの金額であ
る。
87
つまり、この仮面は、加工費は言わずもがな、材料費だけで銅貨
三枚など越えているだろうと突っ込みたくなる品なのだ。
それなのに、リナは購入してしまった。
若干怪しいかもと思っていた節はあるが、安さに負けたのかもし
れない。
﹁⋮⋮﹂
じとっとした目でリナを見つめる。
眼球は一つ足りないけど。
するとリナは慌てたように手を顔の前で振って、
﹁あ、あのっ、いえ、大丈夫そうだなって思ったんですよ! 呪い
の気配もなかったですし⋮⋮ほら、私、普通に手で持ちましたけど、
ピンピンしてるじゃないですか! もしかしたら何か訳ありかなと
は思いましたけど、呪われてないなら別にいいかなって⋮⋮﹂
まぁ確かに、言われてみるとそうだ。
リナは特に警戒することなく自分で袋からこの仮面を取り出して
地面に置いている。
つまり、呪いがかかっているわけではない⋮⋮?
いや。
顔に張り付いた仮面に意識を集中してみると、若干、邪悪な気配
を感じる。
これは間違いなく呪いだろう。
リナに影響がなかったのは⋮⋮おそらく、彼女は自分の顔につけ
ようとはしなかったから、ではないだろうか。
なにせ、俺も手で持っただけの段階では何ともなかったからな。
つけた途端に発動する呪いだった、というわけだ。
88
全く、ついていない。
しかし、呪いか⋮⋮。
それなら、何とかなるかもしれないな。
ふと、そう思って俺は体の中にある力に意識を集中する。
すると、ぼんやりと淡く青い光が俺の体から噴き出ていた。
﹁こ、これはっ!? まさか、聖気ですか⋮⋮!?﹂
リナが驚いた様子でそう言った。
その反応は理解できる。
なにせ、聖気など滅多に見ることがない力だ。
祭りなどで聖職者たちがごくまれに使っているところを見る機会
はあっても、これほど近くでそれの発動を見ることは無いのが普通
だ。
そんな力を俺が今使った理由、それは、聖気には浄化の力がある
からだ。
呪いを払ったり、解除したりするのは、神聖魔術でも可能なのだ
が、それに関しては聖職者たちが使い方を独占しているため一般に
流れることはほとんどない。
俺も使い方は知らない。
ただ、聖気であれば、その詳しい使い方を知らずとも、放出だけ
で呪いを消去することも可能であると聞いたことがあった。
以前の俺であれば、そんなことは不可能だっただろう。
なにせ、水の浄化が限界だったのだから。
呪いなど、どう頑張っても払ったりは出来ない。
しかし、魔物を倒し、︽存在進化︾を経た今の俺ならば⋮⋮。
89
そう思っての行動だった。
実際、効果はあった。
先ほどまで一切何の反応もなく、俺の顔に張り付き続けた仮面が、
俺の聖気の放出にともない、カタカタと動き出したのだ。
これは⋮⋮外れる!?
と、期待したのだが。
﹁⋮⋮あ、あれっ? レントさん、青白いオーラ、なんだかさっき
より、少なくなってってません?﹂
俺を観察していたリナが、心配そうにそう呟いた。
事実、彼女の言う通りで、俺の体から放出されている聖気は減っ
てきている。
というか、もう燃料切れだ。
いくら聖気が増した気がするといっても、やはり微々たるものだ
ったようだ。
先ほどまで、仮面を押しているような感覚があったのに、今では
もう、聖気を押し返されているような感じしかしない。
こりゃ、ダメだ。
諦めた俺が、聖気の放出を徐々に辞めていくと、仮面の震えも同
様に収まっていく。
そして完全にやめたそのとき、仮面はしっかりと俺の顔に張り付
いていた。
もう、外れそうな雰囲気などまるでない。
やはり、俺の力では不足だったようだ⋮⋮。
﹁⋮⋮ダメでしたか﹂
90
﹁だめ、だった⋮⋮な⋮⋮﹂
ショックと疲労で俺が座り込むと、リナは、
﹁申し訳ないです⋮⋮そんな呪いの品なんか買ってきてしまって⋮
⋮﹂
と謝りだした。
よほど俺ががっかりして見えたのかもしれない。
リナの目には涙が浮かんでおり、本当に申し訳なく思っているよ
うであった。
確かに、あぁ、外せなかったな、残念だな、と思ったには思った。
しかし、よくよく考えてみれば、別に彼女の行動はそれほど責め
られたことでもないだろう。
だから俺はリナに言う。
﹁きに、しなくて、いい⋮⋮どう、せ、いまの、おれには、かおを、
かくすしかな、い⋮⋮しば、らくは、このままでも、いい⋮⋮﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁さっき、とけそうな、けはいはあった⋮⋮つよくなれ、ば、はず
れるかも、しれないし⋮⋮おかねをためて、せいしょく、しゃに、
はずしてもらっても、いい⋮⋮﹂
言い募るリナに、俺はそう言って慰めようとした。
そして、肩に手を伸ばそうとして⋮⋮彼女に触れる直前で引く。
グール
そうだった、俺は屍食鬼で、彼女は俺にまだ、慣れていないのだ
91
った、と思い出したからだ。
しかし、そんな俺の手を引き止めるように、彼女の手が伸びて、
手袋越しに包んだ。
﹁な、なに、を⋮⋮﹂
驚く俺に、リナは言う。
﹁私、分かりました。レントさんは、悪い人⋮⋮魔物?じゃありま
せん! だから、もう、怖くないんです。怖く、ないんです⋮⋮﹂
言いながら、手は若干震えていた。
分かる。
怖くないとか言いながらも、まだ、怖いんだろう。
ただ、そんな状態でありつつも、俺を慰めるためにわざわざ手を
取ってくれたらしい、ということもわかった。
だから、俺は彼女に、
﹁ありが、とう⋮⋮ただ⋮⋮いつか、ほんとう、に、なれるまでは、
むりしなくて、いい⋮⋮﹂
そう言って、彼女の手を傷つけないように、ゆっくりと外す。
リナはそんな俺に、
﹁すぐに慣れます! すぐです! きっと﹂
根拠なくそう言って笑う。
他愛もないやり取りだ。
どこにでもあるような。
ただ、俺はあぁ、やっぱり、俺は生きているなと思った。
92
人間と人間らしく話すこと、それが、ひどく幸せに感じた。
93
第14話 都市マルトの検査
﹁⋮⋮ところで、街に行ってみます?﹂
一通りリナの購入してきたものを身に付けて落ち着いてから、リ
ナが俺にそう言った。
この言葉に俺は一瞬面食らう。
なぜと言って、果たしてそれが可能なのかどうか、不安だったか
らだ。
もちろん、もとから街に行けるようになるために存在進化を目指
していたわけだし、今なら頑張れば行けるのではないかと考えてい
る。
しかし現実に実行に移せそう、となるとやっぱり不安だ。
﹁⋮⋮いけ、るとおもう⋮⋮か?﹂
だから端的にリナにそう、尋ねる。
人間から見て、ローブを被って手袋を身に着け剣を腰に下げた俺
は、果たして街に入っても大丈夫なのかどうか。
その判別を頼めるのはリナしかいないからだ。
これにリナは口元に手を当てて、
﹁うーん⋮⋮ちょっと怪しい感じはしますけど、でもそんな人、い
っぱいいますからね。顔を見せろ、とか言われる可能性もあります
が、不幸中の幸いというか、その仮面、どう頑張っても外れないじ
ゃないですか。いっそ、街に入るときに留められたら正直に外れな
いんだって言ってしまえばいいのでは。仮面を引っ張らせてみれば
本当に外れないと分かるでしょうし﹂
94
﹁だけ、ど⋮⋮そうし、たら、はだが⋮⋮﹂
﹁そこは押し切るんですよ。魔物に生気を吸われたとか、その辺り
で。確かに真実を知っていれば見るからにアンデッドそのものです
けど、一般常識的に考えるとアンデッドとまともな会話なんて成立
しませんからね。ちょっと喋りにくそうですが、間違いなく意思疎
通が出来ている以上、アンデッドだ、って言われるより、魔物によ
って満身創痍な冒険者だ、と言われた方が納得できますよ。顔が見
えてればそれも微妙でしたが、今は顔は見えません。行けます!﹂
リナはそう言って太鼓判を押してくれた。
実際のところどうなのかと言えば、彼女の分析は概ね正しいだろ
うと思う。
アンデッドは余程高位のものでなければまともな意思疎通などで
きないし、そう言ったものは近づいてきただけで分かる強大な存在
感があるわけだが、今の俺にそんなものがあるとは思えない。
そもそも、それだけの力があったら街に入る入らないで悩む必要
なんてなさそうだしな。
ともかく、怪しまれたらひたすらに押し切る、そうすればきっと
大丈夫、とそんな感じな訳だ。
あとは俺の頑張りにかかっていると言えるだろう。
﹁わかった⋮⋮じゃあ、がんばって、みる⋮⋮﹂
﹁ええ! 行きましょう!﹂
リナがそう言ったので、俺は首を傾げる。
95
﹁⋮⋮? どうい、う、ことだ?﹂
﹁え? 一緒に行くのでは?﹂
俺の質問に、リナはきょとんとした顔で答える。
俺はこれに驚く。
まさか一緒に行ってくれる気があるとは思ってもみなかったから
だ。
なにせ、今の俺はアンデッドだ。
こんな俺と、街に入ろうとするのはリスクが大きすぎる。
ばれたら魔物の仲間扱いをされ、追われる可能性すらあるのであ
る。
もしかして何も考えていないのじゃないか?
と思い、聞いてみる。
﹁⋮⋮いっしょに、いったら⋮⋮りなは、きけんじゃ、ないか⋮⋮
?﹂
﹁あー⋮⋮まぁ、そうかもしれませんけど、一人で行くよりかは成
功率が高いと思いますよ。人間が太鼓判を押してこの人は人間なん
ですって言っていれば、まさか魔物だとはあんまり考えないでしょ
うし﹂
﹁それは、そうだが⋮⋮いい、のか? もし、ものとき、がある⋮
⋮﹂
﹁そのときはそのときです。そもそも、私はレントさんに会ってな
ければ死んでましたからね。一度くらいはレントさんのために命を
賭けてもいいのでは?﹂
96
首を傾げてそんなことを言われたが、普通ならそこまでしないだ
ろう。
分かってはいたが、リナは相当なお人好しらしい。
ありがたい話だ。
俺としては、彼女のことを考えるのであれば断るべきだ、と頭に
過った。
けれど、街にはどうしても入りたい。
それに、彼女の言うことはもっともなのだ。
この人は大丈夫だと言ってくれる人間がいれば、確実に成功率は
増す。
そして一度入れれば、次からは比較的すんなり通れるようになる
はずだ。
顔見知りになれば、検査は緩くなるからな。
だから、俺はリナに頼むことにした。
﹁⋮⋮では、たの、む⋮⋮でも、いのちは、かけ、なくて、いい⋮
⋮。もしものとき、は、だまされて、いた、といえばいい⋮⋮﹂
もしも俺の正体がばれても、最悪そう言えば、リナは無事で済む
はずだ。
まぁ、それなりに疑われるだろうが、常識的に言って普通に話せ
るアンデッドという存在の方がおかしいのだ。
自分は冒険者で怪我をしたからこんな体なのだと言われて信じた、
というのは明らかにおかしいとは言えない話である。
リナは俺の言葉に少し首を傾げて、
﹁そうしなくて済むといいのですが⋮⋮いざというときは何か考え
97
てみますよ﹂
そう言ってにこりと笑ったのだった。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮次!﹂
都市マルト西門で、門番をしている兵士の声が響いた。
リナがそれを聞き、
﹁⋮⋮行きましょう、レントさん﹂
そう言って胸を張って歩き出す。
なんだかすごい頼りになるな、この子⋮⋮。
他人事のようにそう思いながら、俺はリナの後に続く。
﹁⋮⋮女と⋮⋮男が一人ずつ、か? では、身分証を出してくれ﹂
若干間があったが、兵士は俺のことを男だと判断してくれたらし
い。
見たことのない兵士だ。
顔見知りの少ない門を選んだことは、どうやら成功だったらしい。
俺の名前と顔が一致する兵士に当たると、少し面倒くさそうだか
らな。
反対に良い方向に作用する可能性もあったが⋮⋮難しいところだ。
ともかく、兵士の言葉の後に、リナは懐から冒険者証である鈍色
のカードを差し出す。
俺もまた、道具袋から銅の冒険者証を差し出して、素早く兵士に
98
手渡した。
﹁⋮⋮リナ・ルパージュと⋮⋮レント・ファイナ、か。どちらも正
規の冒険者証だな。問題ないだろう⋮⋮で、お前?﹂
問題ないだろう、で安心して冒険者証を受け取り、街に入ろうと
したら、案の定止められた。
くそ、やっぱりか、と思いつつも慌てずに対応する。
﹁⋮⋮はい。なん、で、しょう?﹂
﹁⋮⋮変わった喋り方をする奴だな? できれば、その仮面は取っ
てほしいんだが⋮⋮﹂
兵士がそう言うと、リナが、
﹁すみません。その人の仮面、呪われているらしくて、どうやって
も外れないんですよ。喋り方は、喉の方、というか、顔周辺全体を
魔物にやられてしまってて⋮⋮﹂
そう説明した。
兵士は怪訝そうな顔でリナの説明を聞いていたが、俺が、
﹁⋮⋮ひっぱって、みて、ください⋮⋮﹂
と仮面のついた顔を差し出すと頷いて、仮面のふちに手をかけて
引いた。
﹁⋮⋮うぐぐっ⋮⋮は、外れん⋮⋮本当に呪われているのか﹂
99
﹁こんなことで嘘はつきませんよ⋮⋮もともと、さっきも言った通
り、顔周辺を魔物にやられてしまったので仮面を購入して身に着け
たみたいなんですけど、運悪く⋮⋮。普通に触っても呪いは発動し
ないみたいですが、顔に近づけると発動して外れなくなるものだっ
たみたいで﹂
﹁あぁ⋮⋮そういう特殊な条件で発動する品もあるらしいな。しか
し、聖職者に頼めば外せるのではないか?﹂
﹁かなり強い呪いみたいで、普通の聖職者の方には厳しいらしいで
す。高位の方に頼むとなると⋮⋮﹂
﹁金もかかる、ということか。確かに鉄級や銅級では厳しいな。だ
から傷もそのままというわけだ。なるほど⋮⋮﹂
リナは兵士に淀みなく説明していく。
兵士も特に怪しんでいる様子もなく、最後には、
﹁よし、分かった。通ってよし!﹂
そう言ってくれたのだった。
リナはそれを聞いた時、俺に小さく目配せをして、微笑んだのだ
った。
100
第15話 都市マルトの友人
﹁まち、だ⋮⋮﹂
俺は辺りを見回しながら、そう呟いた。
そこには、活気あふれる都市マルトの姿があった。
たった数日、しかし俺にとっては永遠にも感じる隔たりのある、
長い時間だった。
もうずっと、ここに戻ってくることは出来ないのではないか。
そう思っていたくらいだ。
けれど、今、俺はここにいる。
マルトに、都市マルトに!
興奮して飛び上がってしまいそうだが、しかし、街の入り口から
少し入ったくらいのところでそんなことをしていたらいかにも怪し
い。
それに、やることもそれなりにあるのだ。
心の底から喜んで万歳するのは今でなくてもいいだろう。
﹁とうとう入れましたね。よかったですね、レントさん!﹂
リナが横でそう言って笑いかけてくれる。
本当にいい娘だ。
アンデッドの俺に本気でそんなことを言ってくれるのだから。
しかもここまで協力してくれて⋮⋮。
でも、ここまでだろう。
これ以上は迷惑が掛かりすぎる。
101
だから俺はリナに言う。
﹁ほんとう、に⋮⋮ぜん、ぶ、リナのおかげ、だ⋮⋮。これ、で、
おれも、ひとり、で、やってけ、そうだ⋮⋮﹂
﹁え?﹂
﹁⋮⋮リナ。リナとは、もう、おわかれ、だ⋮⋮これいじょう、お
れ、といっしょに、いたら、きっと、めいわくが、かか、る、から、
な⋮⋮﹂
そんな俺の言葉にリナは、心外そうな顔をして、
﹁レントさん⋮⋮そんな、私は﹂
何かを言いかけた。
けれど俺はそれを最後まで聞かずに、
﹁リナ⋮⋮いま、まで、ありがとう、な⋮⋮また、おれ、が、もっ
と、にんげん、みたいになれた、ら⋮⋮あいに、いく、よ⋮⋮﹂
グール
そう言って、走り出した。
俺は屍食鬼である。
その身体能力は人間を遥かに凌駕する上、リナはまだ鉄級冒険者
に過ぎない。
真剣に走り出した俺に、彼女が追いつけるわけがないと分かって
の行動だった。
後ろから声が聞こえていた。
呼び止める声だ。
102
けれど、止まってはダメだ。
彼女とは、ほんの短い付き合いだが、それでも冒険者として、十
分な才能があることは分かっていた。
俺みたいな、わけのわからない存在と一緒にいて、その未来をこ
れ以上危険にさらすのはどうしようもなく申し訳ない気がした。
街に入るまで、散々頼っておいて、いざ入れたら、はい、さよう
なら、というのも中々に酷い人間だなという気がするが、そればっ
かりは仕方がない。
そうしなければ入れそうもなかったし、ここで別れれば彼女の人
生も傷つかないはずだ。
それに、今の俺では彼女の近くにいるべきではないけれど、その
うち、もっとマシな見た目になれば、また会いに行けるはずだ。
そのときこそ、謝罪に行こうと思う。
それまでは⋮⋮遠くで見守るくらいにしておこう。
それが、彼女のためだ。
そう、思った。
◇◆◇◆◇
ギルド
しかし、そうは言っても、俺にはまだ、人間の協力者が必要なの
は間違いなかった。
なにせ、この見た目で冒険者組合に入るのは怖い。
それでも、小さなころから冒険者になるための努力しかしていな
い俺には、稼ぐ手段は冒険者として働くことしかないのだ。
もちろん、この見た目である。
受けられる依頼は魔物の討伐や素材集めなどに限られるだろうが、
ギルド
それでも十分に生きていけるくらいには稼げるのだ。
ギルド
ただ、どうしても自分で冒険者組合に入るのは厳しい。
なにせ、冒険者組合の人間は基本的に全員、魔物についての専門
103
家である。
いくらローブやら手袋やら仮面やらで体中を隠していても、ひょ
んなことから気づかれて、服をすべて剥ぎ取られる可能性はなくは
ない。
そんな危険を冒す気にはまるでなれなかった。
では、どうするのか。
そこで、人間の協力者だ。
それも、リナのような純粋なタイプではなく、もっと後ろ暗いと
ころがあって、人に隠しごとが出来るような者の方がいい。
そうでなければ俺もまた負い目を感じてしまう。これ以上、純粋
な善意に頼るのは申し訳ない。
しかし、そんな人間がいるのか。
実のところ、俺にはまさにそう言った人物に心当りがあった。
この都市マルトにおいて、俺の友人とも言える人物である。
今まで、俺はその人物の自宅に向かって歩いていたのだ。
そして、たった今、俺は辿り着いた。
◇◆◇◆◇
︱︱ガンッ、ガンッ!
と、扉につけられた不気味な意匠のノッカーを叩く。
しかし、しーんとして、誰の反応もない。
仕方なくもう一度叩くも、やはり、誰の反応もない。
これで、普通なら諦めて帰るところだろう。
104
けれど、俺にはそういう訳にはいかない事情がある。
この家の住人を訪ねなければ今日の生活すら厳しいのだ。
どうしてもこの家の中に入らなければならなかった。
だから、俺はノッカーを諦め、扉のノブを回す。
正直なところ、最初からこうするつもりだった。
この家の住人はこうして真面目に訪問したところで普通に応対す
ることなどあまりない。
むしろ、昔から勝手に中に入って来いと言うスタンスで、俺も基
本的にはいつもそうしていた。
にもかかわらず、今日に限ってどうしてノッカーで行儀よくノッ
クなどしたのかと言えば、こんな姿の俺がいきなり訪ねてきたら流
石に面食らうだろう、という配慮である。
せめてドア越しなら、まだ安心して話せるだろう。
そういう気遣いであった。
けれど、それもこれもすべて無駄にしてくれたのは、向こうの方
だ。
もうこれ以上我慢する必要はない以上、勝手に入ることに俺は決
めた。
案の定、というべきか、ドアにはカギがかかっておらず、ノブは
素直に回った。
そして俺は、がちゃり、と開いたドアの中に俺遠慮なく足を踏み
入れる。
◇◆◇◆◇
︱︱相変わらずだな。
105
部屋の中に入って、まず、俺はそう思った。
埃っぽい部屋の中に、いくつもうずたかく積まれた本があるのが
見える。
足の踏み場もなく書類が落ちていたり、用途の良く分からない道
具類が転がっている。
家具類も一応あるにはあるが、ほぼすべての家具の上に本かガラ
クタが設置してあり、本来の用途をなしていなかった。
そして、唯一、本やがらくたの置いていない場所には、その代わ
りに、部屋の主が横になって眠っていた。
野暮ったいローブに、長い髪がぼさぼさのその人物こそ、俺が訪
ねてきた相手に他ならない。
俺は彼女に近づき、そして体を揺する。
﹁⋮⋮おい⋮⋮おい、おきろ﹂
﹁ん⋮⋮んん⋮⋮もう少し、寝かせてくれ⋮⋮﹂
眠そうな声と吐息が漏れるも、俺は手を止めたりはしなかった。
その上、
﹁⋮⋮もういちど、おなじ、ことをいったら、あたま、のうえに、
ほん、をふら、すぞ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮それは勘弁してほしいところだな⋮⋮ふあぁぁ⋮⋮なんだ、
レントか? 一体こんな時間に何のようだ? お前、いつもなら今
106
くらいは迷宮に潜ってるはずなんじゃあ⋮⋮!?﹂
俺の言葉にはっきりと言葉を返し、それから伸びをしながら起き
上がりつつ、俺に話しかけてきたその女性は、目をゆっくりと開け、
それから俺の顔を確認した瞬間、びくりとして体を引いた。
そして、
﹁お前っ⋮⋮て、なんだ、ただの仮面か⋮⋮びっくりさせるな﹂
と、よく見て俺の仮面を確認し、安心した彼女の前に、俺は、手
袋を取って、右手を見せる。
もちろん、枯れ切った肉のついた腕だ。
こんなもの、突然見せられれば普通面食らう。
しかし、
﹁⋮⋮何があった?﹂
途端に真面目な表情になってそう尋ねてきた彼女に、話が早そう
だな、と妙な安心感を覚えた俺は、改めて、彼女にここ数日間の状
況を話すべく、口を開いた。
107
龍
とは。実に嘘くさい話だ、と言ってやりたいところだ
第16話 都市マルトの学者
﹁⋮⋮
が⋮⋮﹂
そこで言葉を切って俺を見、それから首を振って、
アンデッド
﹁その見た目ではな。信じざるを得まい。しかしまさか昔からの知
り合いが不死者になるとは⋮⋮思ってもみなかったぞ﹂
しみじみとした目でローブを脱いだ俺の全体像を見ながらそう言
ったのは、俺の昔からの知り合い︱︱学者のロレーヌ・ヴィヴィエ
だ。
野暮ったいローブに適当にまとめられた長い髪、全体に気だるげ
な雰囲気が満ちている彼女だが、妙に蠱惑的なところもある。
彼女との付き合いは長く、俺がこの街マルトにやってきてからだ
から、もう十年になるだろうか。
最近ではほとんど腐れ縁に近い仲になりつつあるが、彼女の学識
はいつも俺を助けてくれたし、今回のことについて相談する相手と
して、彼女以外に適当な人物を思い浮かべることが俺には出来なか
った。
実際、彼女は俺の話を聞いても、また俺の今の状況を見ても、驚
きはしたが頭から否定したりはしなかった。
それどころか、おそらくは事実であろう、と考えたうえで、色々
と考察してくれている。
﹁おれ、のほうが、しんじられない、けど、な⋮⋮こん、なもの、
になる、なん、て⋮⋮﹂
108
龍
龍
か⋮⋮あの迷宮にそん
に食われればアンデッドになれる
俺がそう言うと、ロレーヌは頷いて、
﹁それはそうだろうな⋮⋮
などと、誰が考えるものか。しかし、
なものがな。今もいるのか?﹂
﹁い、や⋮⋮おれ、が、めざめ、たときに、は、もう⋮⋮いなかっ
た⋮⋮。けは、いも、なかった、から、たぶん、いまは、いな、い
だろ、う⋮⋮﹂
ギルド
もしも未だにいるとしたら冒険者組合に早急に報告することが必
要だろうが、あれだけ強大な気配が、俺が目覚めたそのときにはす
でになかった。
まるで夢か霞のように、完全に消えてしまっていたのだ。
どうやってあの龍が現れ、また消えたのか。
その理由は分からないが、仮に自由に現れ、また消えることが出
来るとなると、注意するだけ無駄だろう。
一応の調査はした方がいいかもしれないが、証拠もなく報告した
ところで嘘扱いされるだけだと言うのも分かっている。
俺の姿を見せて、龍に会ってこうなった、と言えば多少の証拠に
もなるのかもしれないが、それをするとなると俺は身の危険を覚悟
しなければならないし、そもそもなぜ龍に出会ったらアンデッドに
なるのかと聞かれると俺にも答えようがない。
つまりは、結局大した根拠にもならない可能性が高く、身を危険
にさらしてまですべきことには思えない。
したがって、今のところは放置するしかないだろう、と思ってい
る。
そう言ったことをロレーヌに言うと、彼女も頷いて、
109
﹁正しい推測だろうな。龍が現れたと言われて信じる者など、まず
いない。私はお前とは長い付き合いになるからそんな嘘は言わない
と分かっているが⋮⋮他の者たちからするとな。信じてやりたいと
は思うが、流石にないだろう、という話になってしまうだろう。そ
もそもその姿をさらせば討伐対象まっしぐらだ。やめとけやめとけ﹂
ひらひらと手を振ってロレーヌは笑う。
それにしてもロレーヌの振る舞いは、アンデッドでしかない俺を
目の前にして相当に図太いわけだが、どうして彼女がこんな風でい
られるかというと、そもそもロレーヌが図太いと言うか、細かいこ
とは気にしない性格をしているというのがまず一つ。
そしてもう一つが、彼女の主な研究対象が魔物や魔術などに向い
ているからだと言うのが大きい。
人間がこんな風に変わってしまった、その原因や理屈には深い関
心があるらしく、先ほどから色々と考えてくれているのは必ずしも
俺だけのためでもないとうことだ。
﹁しかし、見れば見るほどにアンデッドだな、レント。こう聞いて
は何だが⋮⋮お前は以前のレントと同じなのか? 同じようで、似
て非なるもの、だったりはしないのか?﹂
この質問には、俺としてもなんとも答え難かった。
なにせ、俺には分からない。
俺にはレントだと言う自覚があるが、おそらく俺が一度生物とし
ては死んでいるというのも間違いないだろう。
なにせ、最初は骨だけだったのだから。
にもかかわらず、以前と同じ記憶と意識がある。
今の俺と、以前の俺と、全く同一の存在なのかと聞かれればその
記憶と意識が証明だと言いたいところだが、そもそもアンデッドと
110
はそういうもので、しかし別の存在なのだと言われればそうなのか
もしれないという気もしてくる。
だから、分からないとしか言えない。
ロレーヌにそんな話をすれば、彼女も納得したような表情で、
﹁たしかに真実はただ考えるだけではわかりそうもない、な。私か
らするとその返答は間違いなくレントのもののようにも感じられる
が、記憶や性格が同じだから、同一の存在だと言えるかと言われる
と⋮⋮違うかもしれないという話になってしまう。うむ、分からん。
この問題はとりあえず置いておこう。あとで考えておく。それより、
レント。お前、これからどうするつもりだ? 今一番大事なのはそ
れだろう?﹂
分からないとなるとさっさと話を進める辺り、頓着がなくて楽な
相手である。
そして彼女の言うことは、まさに俺が彼女のもとを訪ねてきた理
由だ。
俺は言う。
﹁ぼう、けんしゃとして、やっていき、たいとおもって、る⋮⋮で
も、ぼうけんしゃ、くみ、あいには、いけ、ない⋮⋮﹂
﹁討伐されてしまうものな⋮⋮ならば、私が代わりに依頼を受け、
素材を収めればいいか? そのために来たのだろう?﹂
たったこれだけで俺の言いたいことを理解してしまえるほど、彼
女と俺の付き合いは長い。
しかし、こんな簡単に受け入れられてしまうと、若干申し訳なく
なって、
111
﹁⋮⋮いい、のか?﹂
そう尋ねてしまう。
これにロレーヌは、
﹁別に構わん構わん。大した手間ではないしな。しかし、ただで、
と言えばお前ももやもやするだろう⋮⋮という訳で、お前、私の研
究に協力しろ﹂
﹁けんきゅ、う?﹂
﹁なに、簡単な話だ。私が何について研究しているかは、お前も知
っているだろう?﹂
﹁ま、もの、や、まじゅ、つ、だろ、う?﹂
﹁その通りだ。その中には当然、魔物の進化についてのそれも含ま
れる。実のところ、私に限らず魔物の存在進化についての研究はあ
まり進んでいなくてな。しかしレント、お前がいれば色々と分かる
ことも多そうだ﹂
﹁⋮⋮べつに、いいが、かい、ぼうとか、は、むり、だぞ?﹂
﹁流石にいかに私と言えどもそこまでマッドサイエンティストはし
ていないぞ? まぁ、皮膚くれとか肉くれとかは言うかもしれんが﹂
﹁⋮⋮﹂
十分にマッドではないか、と思ったが言うのはやめておいた。
そんなの嫌だと言ってじゃあこの話は無しな、と言われても困る。
112
しかし魔物の存在進化がそこまで研究不足だったとは知らなかっ
た。
俺もあまり詳しいわけではないが、それなりに知っていることも
あるし、専門家の間ではもっと色々分かっているものだと思ってい
た。
そう言うと、ロレーヌは、
モンスターテイマー
モンスターテイマー
﹁従魔師の協力を得て、限定的ながら分かっていることもある、と
いうのが実際のところだ。しかし、そもそも従魔師は特殊技能だし、
数も少ない。それに彼らに従えられた魔物は大抵なぜか存在進化を
しなくなる。だから専門技能を活かして出来る限り傷の少ない魔物
の捕獲を頼める程度だ。そこから先は、学者の領分になってしまっ
て、中々いろいろと難しいと、そういう感じだな﹂
思った以上に難航しているらしい。
そんな状況で俺に出来ることが何かあるのか、と思うが、ロレー
ヌは、
﹁魔物本人の協力が得られる機会などまず、ありえんぞ。それに、
お前はすでに一度、存在進化を経ているというではないか。つまり、
これから先も存在進化出来る可能性が高い。そうなったときのこと
をわたしに報告してくれれば、それでいいのだ。まぁ⋮⋮事情が事
情だから、どこかに発表するというのも難しいだろうが、理屈が分
かる糸口にはなるだろうし、お前自身のためにもなるだろうしな﹂
﹁おれ、の、ため?﹂
﹁そうだ。お前がこれからどういう進化が出来るか、それをわたし
も一緒になって考えてやれる。お前もここにある本をそれなりに読
んで魔物については普通の冒険者より詳しいだろうが、私はこれで
113
飯を食っているんだ。出来る助言も多いと思うぞ?﹂
114
第17話 学者ロレーヌ・ヴィヴィエ︵前︶
十四で大博士の号を帝都で得たとき、ロレーヌ・ヴィヴィエはこ
の世のつまらなさを心の底から感じた。
小さなころから神童と呼ばれ、成長してもその評価は変わらず、
十歳でとある国における最高学府に入学し、十二のときには博士の
号を、そして十四で大博士の号まで得てしまったロレーヌ。
彼女にとって理解できないことはこの世にはあまりなく、知らな
いことはあっても少し学べば専門家よりも深く理解してしまえるつ
まらない世界が、この世の中だった。
だからかもしれない。
ある日、ロレーヌはすべてを放り出して、大陸でも最も端にある
といってもいい、辺境国家ヤーラン王国の、さらに辺境にある都市
マルトにまで誰にも何も言わずにやってきてしまった。
もちろん、建前としての理由はそれなりにある。
都市マルトの周辺でしか採取できないある植物が欲しくなり、そ
れを自ら取りにきた、という理由が。
当然、そんなことは誰かに頼むなり冒険者に依頼するなりすれば
いいのだが、ロレーヌは本当に退屈していた。
刺激が欲しかったのだ。
だから、自分で取りに行く、という暴挙にでた。
そう、暴挙だ。
あれから十年経った今では、当時の自分が如何に子供じみた感覚
で動いていたかが分かる。
勉強は出来たかもしれないが、結局のところ当時のロレーヌは子
115
供で、何も分かっていなかった。
そのことを教えてくれた人物が、いた。
それこそが、当時、都市マルトで冒険者をしていた少年、レント・
ファイナである。
ロレーヌは、ひょんなことから彼と共に都市マルト周辺に存在す
る森林の奥地を探索することになったのだ。
◇◆◇◆◇
当時のロレーヌは十四にして既に大博士の号を持っている一端の
学者だったわけだが、その称号をとるためには魔術についてそれな
りに詳しくなければならない。
ギルド
そしてそのためにはある程度の魔術を扱える必要があり、そのあ
る程度、とは、冒険者組合におけるランク評価によれば、銀級相当
の魔術師として認められるほどのものである。
しかし、それはあくまで、銀級相当の魔術を使える魔術師、とい
う意味合いであって、実際に冒険者として銀級程度の実力がある、
ということを意味しない。
それでも通常ならそれなりに実戦経験は積むものだが、ロレーヌ
はただひたすらに学問の道に邁進していたため、時間のかかる魔術
師としての実戦などしたことがなかった。
普通であれば、そんなことでは魔術師としての技能はそれほど身
に付かないものなのだが、ロレーヌは不運にも魔術師としての才能
に恵まれていた。
実戦経験などなくとも、魔術を使いこなす多大なるセンスがあり、
それのみで銀級相当の魔術を身に付けてしまっていた。
116
ギルド
ギルド
当時、ロレーヌは冒険者組合の許可がなければ入ることのできな
ギルド
い地域で素材の採取を行いたい事情があったため、冒険者組合に登
ギルド
録をしに来ていたわけだが、彼女の細かい事情を、冒険者組合が把
握しているはずもなく、普通に冒険者組合に彼女が登録しにきた際
に、大博士の称号を持っているということのみで、流れ作業的に銀
級として登録してしまった。
そしてロレーヌは銀色に輝く冒険者証を持ち、気分よく自分の目
的地に向かおうとした。
小遣い稼ぎにと、ついでに目的地周囲に生育しているという薬草
の採取依頼も受けて。
ギルド
しかし、冒険者組合を出ようとしたロレーヌにふと、後ろから声
がかかった。
何かと思って後ろを振り返ってみると、そこには巨体を持った剣
士がいて、
﹁嬢ちゃん、さっきアズールの森に行く依頼を受けたな? それな
ら荷物持ちついでにこいつを連れていけ﹂
そう言って、一人の少年の背中を押した。
なんてことのない出来事だが、今にして思うとロレーヌのターニ
ングポイントがここであった様な気がする。
つまり、その少年こそが、レント・ファイナであった。
もちろん、ロレーヌは唐突に何を言ってるんだ、このおっさんは、
と思った。
いきなりそんなことを言われる理由がまるで分からなかった。
そんなロレーヌの心の内を理解してか、その中年の男は言った。
﹁こいつはまだ駆け出しで、色々と経験を積ませてやりたくて、い
117
つもアズールの森に一緒に分け入って素材採取をしてるんだが、今
日は俺の方がちょっと予定が立て込んでてな。代わりに連れてって
くれる奴を探してたんだ。それで、嬢ちゃんならちょうど良さそう
だと思ったんだが、どうだ?﹂
かなり無茶な話である。
いきなり連れてけもないし、おそらく話す内容からして、少年の
ランクは銅級以下だろう。
つまり、銀級相当の実力があると判断されたロレーヌからすれば、
足手まといだ。
だから断ろうと思ったのだが、中年の男は、
﹁なに、別に依頼料を折半とは言わねぇ。こいつを連れてくだけで
いいんだ。さっき受けたの採取の依頼だろ? こいつにも採取させ
れば報酬は増えるぜ。あんたの全部取りでいい。それに加えてただ
の荷物持ちもやってくれる。だから、な。頼むよ﹂
と、かなり押しが強く、まるで引く気がなさそうだった。
最終的にロレーヌは仕方なく、うん、と言い、レントと共に依頼
をこなすことになったわけだが、この後、彼がいて良かったと心か
ら思うとも思ってもいなかった。
◇◆◇◆◇
アズールの森は広く、多くの動植物が存在する自然の要塞のよう
な場所だ。
ロレーヌは本から得た知識から、そのことを良く知っていたが、
実際に見てみるのと、読んでみるのとではこれほどまでに違うのか
と驚いたものだ。
118
というのは、まず、ロレーヌは森の中をさして歩けなかった。
体力がないわけではない。
むしろ、十四にしてはある方だし、身体強化系の魔術もある。
けれど、森の歩き方、というのにはコツがあり、ただただ歩いて
いるとどんどん体力を奪われて、最後には疲労困憊になってしまう
のだということを初めて知った。
それなのに、自分よりも遥かに低級の冒険者であるはずのレント
はまるで疲れた様子など見せず、座り込むロレーヌにどこからとも
なく飲み水を調達してきて手渡すのだ。
また、彼の腰に下げてある袋になんとなく目をやってみれば、い
つの間に集めたのか数々の薬草類が摘まれて入っている。
しかも、一つ一つ見せてもらえば、学者であるロレーヌから見て
も完璧な処置の施された摘み方、掘り出し方のされているものしか
ない。
ロレーヌが人に頼んで薬草類を調達したとき、ここまで完璧に処
置されたものは少なかったことを思い出した。
魔物に出会った時もそうだ。
ロレーヌはこの森の探索するそのときまで、魔物とまともに戦っ
たことがなかった。
もちろん、大博士として、魔術は十分に実戦レベルの威力を持つ
ものを多数使うことが出来たが、ロレーヌがどこかに移動するとき
は必ずだれかがついてきて、ロレーヌが魔術を使うまでもなく、他
の誰かが魔物を倒してくれていた。
だから、魔物と初めてまともに相対したとき、ロレーヌは息が止
まって何もできなかった。
︱︱これほどまでに恐ろしいものなのか。
端的に言って、ただ、それだけを思った。
119
他の何も︱︱戦おうとか、魔術を使わなければとか、そんなこと
は頭の端にすら登らなかった。
そして、身動きすらもとれなくなった。
そんなロレーヌに、
フォティア・ボリヴァス
﹁⋮⋮ロレーヌ! 火弾だ!﹂
レントがそう声をかけてくれなければ、ロレーヌはそこで永遠に
動けずに、そのまま終わっていたに違いない。
ただ、指示を出されたから、その通りに動けただけで、あのとき
のロレーヌはでくの坊以外の何物でもなかった。
強力な魔術によって黒焦げになった魔物を目の前にしながら、茫
然とするロレーヌに、ほとんど戦闘経験がないことを知ったレント
は、彼女に事細かに魔物との戦闘の心得や、実際に戦闘になったと
き、魔物がどう動くのかを教えてくれた。
ロレーヌは賢い。
並ぶ者がないほどに、賢い。
だから、レントの教えたことを乾いた土のごとく、物凄い速度で
吸収していったが、それもこれも、最初の戦いでレントのお陰で生
き残ることが出来たからだと深く思った。
受けた依頼で集めるべき素材︱︱薬草についてもそうだ。
本で読んだ内容によれば、生えている場所はかなり限定されてい
て、見つけるのも容易だと言うことで心配していなかった。
けれど、実際に探してみればまるで見つからない。
やっと見つけたかと思えば、半刻の時間をかけて一本だけしか見
つからない。
その結果に、あの本の作者、次に会ったときはぶん殴ってやる、
と思ったくらいだ。
120
それなのに。
それなのに、である。
微笑みながら、森の中を、ロレーヌの後ろについて歩いているレ
ントの腰の薬草の数は振り返るごとに、ガンガン増えていっている
のだ。
しかもそこにはロレーヌの探していた薬草も沢山ある。
つまり、ロレーヌが通った場所には確かに生えていたのに、すべ
て見落としていたということに他ならない。
ロレーヌはそれに気づいた時、いかに自分が見ていた世界が狭い
ものなのかを知った。
そして、レントに、戦闘のいろはに加え、冒険者としての基本や、
植物の採取の仕方、薬草の生育場所など、どうか教示してくれない
か、と頼み込んだ。
レントはそれに快く答えてくれ、ロレーヌはその日の依頼をなん
とか日暮れまでに完遂することが出来たのだった。
121
第18話 学者ロレーヌ・ヴィヴィエ︵後︶
後になってあの中年冒険者に尋ねてみれば、本当にロレーヌにた
だで荷物持ちをつけてやろうと思っていたわけではなく、その行動
や身のこなしなどから見て、何の経験もなく依頼に出ようとしてい
ギルド
ることが分かったため、案内役としてレントを付けた、というのが
真相だったようだ。
これにはロレーヌも、冒険者組合というのは、駆け出し冒険者に
ギルド
そこまで細かな配慮をしているものなのか、と驚いたが、そういう
わけでもないらしい。
ただ、中年冒険者とレントが、冒険者組合併設の酒場で冒険者た
ちの様子を見ていると、ふとロレーヌが目に入り、二人で話してお
そらくは、このまま行かせては取り返しのつかない可能性になるだ
ろうと一致したらようだ。
それで、ロレーヌのプライドを傷つけないように、レントを荷物
持ちとして、という流れでついていかせることに決め、あとは二人
で上手にロレーヌに近づいたらしい。
手の込んだことをするものだ、と思うと同時に、ありがたい配慮
だったとロレーヌはそれを聞いて思った。
やはり、自分の見ていた世界が狭かったとも。
結局、手元しか見えていなかったのだ。ロレーヌは。
知らないものがたくさんあることは知っている、と思っていたが、
知らないものの数は知っていると思っていた。
現実にはそれすらも知らなかった。
そういうことだろう。
そしてそれをレントと、あの中年冒険者に教えられた、というわ
けだ。
122
ロレーヌはこのあとしばらく都市マルトにいた。
それは今までの人生が全くの灰色に思えるほど楽しい日々で、人
生を通して初めて、この都市を離れがたいと感じた。
しかし、この国のこの都市に、ロレーヌはそもそも自分の本来い
る場所で果たすべき役割を放り出して来ていた。
何日、何週間と経つうち、ロレーヌをせっつく連絡も積み重なっ
て言って、ロレーヌはついに決断した。
一度、戻ろうと。
そして、またここに戻ってこようと。
もともといたあの場所に、さしたる未練はもうなかった。
学者としての生き方それ自体は好きだが、別にあの場所にいなく
ても出来る。
だから、何もかもをしっかりと片づけて、そしてここに戻ってく
るべく、ロレーヌはある日、都市マルトを旅立った。
ただ、実際に戻ってみれば、そこは以前思っていたような、つま
らない場所でもなかった。
開いた目でよく見てみれば、心配してくれる同僚や友人が意外に
もいて、ロレーヌの今までいた場所は、空虚な椅子などではなかっ
たことを知った。
レントに会わなければ、これもまた、見えなかったことだ。
彼に会ったことで、ロレーヌの心の目が開いたのだ。
そんな気がした。
しかし、それでも。
都市マルトには戻りたかった。
古くも新しい友人、同僚たちには悪いと思ったが、どうしても。
そのことを告げれば、彼らは絶望的な表情を浮かべたが、最終的
には受け入れてくれた。
123
ロレーヌの決意や、何か変わったことを彼らなりに感じ取ってく
れたからかもしれない。
けれど、代わりに、少し条件をつけられた。
都市マルトに本拠地を置くのは構わないが、年に一度は戻ってく
るように、と。
そこで彼らと交友を深め、またその一年で研究した成果を発表し
てくれと。
そして連絡も絶たないでくれとも。
それくらいのことなら、と軽く了承し、実際にそのように活動し
始めだ。
しかし、都市マルトに家を買い、一人暮らしを始めてからしばら
く、その過程で自分がいかにナマケモノだったかを知った。
研究は趣味であるからしっかりやっていたのだが、本国の友人た
ちとの連絡は最初は定期的に行っていたが、徐々にアバウトになっ
ていった。
いや、向こうはずっと定期的に手紙を送ってくるのだが、ロレー
ヌの返信は気が向いた時になってしまっていた。
年に一度戻ってくるように、との話も、近づくにつれて、今年は
いいかなぁ、と思ったりもした。
けれど、気づいたら、手紙の返信も、帰省も、レントにせっつか
れてしっかりとすることになっていた。
なぜ、レントがそんなことを知っているのかと聞けば、本国の友
人の一人が、レントに手紙を送り、ロレーヌをよろしくと言われた
からだ、と話した。
誰に言えばロレーヌが動かざるを得ないかを、友人は良く知って
いたらしい。
実際、一人暮らしを始めて最初はレントに頼りきりだった。
124
何をどうすればいいのか、大半がロレーヌには分からなかったか
らだ。
すべてを教えてもらい、一通り出来るようになって、しかし怠け
るようになってからは、レントがよくロレーヌのもとに来て、仕方
ないな、と言いながら色々とやってくれるようになった。
と言っても、ただで、というわけではない。
いろいろやってもらう代わりに、レントにロレーヌは色々と教え
た。
ロレーヌは腐っても学者である。それも、かなり優秀な。
つまり、通常はかなりの金額を払った上でやってもらうような研
究を、レントはロレーヌの家事を肩代わりするくらいで頼めたわけ
だ。
もちろん、レントにそんなつもりはない。
というか、ロレーヌの過去の経歴を、レントは知らない。
ただ、都落ちしてきた木端学者だと思っているし、ロレーヌもそ
う説明してきた。
別に嘘はついていない。
ただ、自ら、というのと、かなり引き止められた、ということ、
未だに本国に影響力が残っていて、かつ、学者として超がつくほど
一流だということを言っていないだけだ。
まぁ、レントのことである。
その説明でどれほど納得しているのかは分からないが、とりあえ
ず諸々について触れずにいてくれた十年間なのは間違いない。
ロレーヌは、こんな付き合いがずっと続いていけばいい、と考え
ていた。
そう、死ぬまでだ。
レントは冒険者を続けられるまで続けるだろうし、それを傍でず
125
っと見続けられればそれでいい。
好きな研究を彼の傍でしつつ、たまに一緒に食事をとったり、く
だらない話をして、そんな日々が続いていくのを疑っていなかった。
けれど。
ある日、レント・ファイナは姿を消した。
数日、ロレーヌのもとにやってこないことなど珍しく、何かあっ
たのかもしれない、と不安に思った。
もしかしたら、魔物に殺されてしまったのかもしれないとも。
そうだとしたら⋮⋮。
自分の心が、今までにないほど乱れているのをそのとき感じた。
今すぐにでも街中を、彼の名前を叫んで探して回りたいような、
そんな気分だった。
しかし、ロレーヌはそれがいかに無意味なことかも、その明晰な
頭脳で理解していた。
そんな方法ではなく、もっと別の方法で探す方がいいとも。
冒険者たちに依頼を出すのがいいだろう。
金に糸目はつけない。
それだけの貯蓄はある。
さぁ、依頼書を書こう⋮⋮。
そう思ったそのとき、ロレーヌの家のノッカーを、適当に叩く音
が聞こえた。
これは。
126
十年のときを経て、ロレーヌにも都市マルトに沢山の知り合いが
出来た。
そのうちの誰かが訪ねてきた、その可能性もある。
ただ、この音には聞き覚えがあった。
ありとあらゆることについて研究癖のあるロレーヌは、ノッカー
の叩き方にまで法則性を見つけ出して、覚えていた。
そして、この叩き方は︱︱
レント・ファイナだ。
そう確信したとき、飛び出して出ていきたいと思ったが、それを
するのは彼に奇妙に思われることだろう。
そもそも、彼が生きている。
そのことが分かっただけで、十分だった。
なぜここ数年は叩くことすらなかったのに、珍しくノッカーなど
叩いているのかは謎だが、放っておけばそのうち勝手知ったるなん
とやらで扉を開けて入ってくることも予想がついた。
だから、何もなかったこととして、彼を出迎えようと思った。
いつもなら、この時間、ロレーヌはソファで眠っている。
だからそのようにしよう。
髪を乱し、適当に横になる。
扉を開く音がする。
こつこつと歩く足音がして︱︱彼は言った。
﹁⋮⋮おい⋮⋮おい。おきろ﹂
127
第19話 都市マルトの鍛冶屋
ギルド
あれから、ロレーヌに俺の迷宮での成果である諸々の素材や魔石
などを手渡し、冒険者組合で換金してきてもらったところ、結構な
金額になったので俺の懐は今、非常に温かい。
清浄なスライムの体液についてはロレーヌ自身が購入してくれた
ギルド
ことも大きい。
冒険者組合でも中々な高値で引き取ってくれる品だが、別に他の
ところに販売してはいけないと規約で決められているわけでもない。
誰に売ろうと、基本的に冒険者の自由だ。
ロレーヌは錬金術の類にも手を出している器用貧乏な人間で、自
ら調薬して色々な薬剤を作れるから、素材は色々と求めており、そ
の需要に合致したものを持ってきたとき、彼女は結構な値で素材を
ギルド
引き取ってくれる。
冒険者組合から購入すると中抜きがあり、それを考えればむしろ
安上がりだとの話だ。
ちなみに、今俺が何をしているかというと、街中をうろうろ歩い
ている。
もちろん、久しぶりに思える街の空気をただ浴びようと言うわけ
スケルトン
ではなくて、しっかりとした目的あってのことだ。
グール
それは、武具の購入である。
屍食鬼になってから、というか骨人のときからずっと、俺は俺が
生前持っていた武具を使って来たわけだが、防具はともかく、武器
の方にかなりガタが来ているのだ。
生前から、数年使っていて、だからこそ、というのもあるだろう
128
が、それ以上に単純な腕力やその他の魔力や気の力が上昇した影響
を受けて、傷みやすくなっているようだった。
それも当然で、元々、気の力など一日に一回使えればいいか、く
らいの感覚だったし、魔力や聖気などを武具に込めることもまずな
かったというか出来なかったから、そういう用途に使うためには出
来ていない、安物の武具を使って来た。
それが、ここ数日の魔力や気、聖気の多用によって、強い負担が
かかり、かなり傷みが進んでしまったのだ。
これはもう、仕方がない。
本来はあと一年くらいは使うつもりだったが、数日迷宮に潜りき
りだったから碌な手入れも出来なかった影響を受けて修復不可能な
ほどに傷ついてしまった。
ただ、力の上昇のお陰で狩りの効率が上がり、結果として懐も温
かくなっているし、リナがローブなどを買って来たおつりも返して
くれたから、合わせると結構な金額を持っているのだ。
ここら辺が、武具の買い替え時だろう、と思った。
まぁ、そうはいっても、防具の方はまだ、買えない。
なぜなら、それを買うためにはしっかりと寸法を調整しなければ
ならず、そしてそのためにはローブを抜いで寸法を測ってもらう必
要があるからだ。
別に、裸になるのが嫌、というわけではない。
初心な若い娘ではないのだ。
しかし、そんな娘よりもさらに、肌を晒すわけには行かない理由
が俺にはある。
グール
こんな、屍食鬼の枯れ切った体を、一体誰に見せられるというの
だろう。
無理だ。
よほど信用できる人間でなければ。
129
そこまでの信用を持てる相手など、俺にはロレーヌくらいしかい
ない。
ロレーヌについては、細かいことを気にしない大雑把な性格をし
ている、というのも大きいが⋮⋮。
そもそも、信用だけが問題なわけでもない。
俺が、こんなものであるとばれた時に、関わりを持っていると言
うだけで問題が生まれてしまう。
だから、今のところはロレーヌ以外にこの体を見せるのは厳しい
だろう。
したがって、今日購入するのも武器である剣だけだ。
俺はたどり着いた目的の場所の看板を見上げながら、覚悟を決め
てその扉を開いた。
◇◆◇◆◇
﹁いらっしゃい! ⋮⋮?﹂
俺が店内に入ると同時に、そう声をかけてきたのは一人の女性だ。
この店、鍛冶屋︽三叉の銛︾の店主クロープの妻であるルカであ
る。
金色の髪に青い瞳を持ったまるで貴婦人のような容姿を持った女
性で、なぜクロープの妻になったのかまるで理解できない。
そんな彼女の視線が、俺を目に入れて一瞬止まった。
おそらくは、ローブで全身を隠していて、かつ顔に不気味な骸骨
の仮面など被っているからだろう。
そう思い、俺はルカに若干近付き、言う。
130
﹁⋮⋮ぶき、みな、みためで⋮⋮す、すま、ない﹂
しかし、ルカはその言葉に慌てて首を振って、
﹁いえ! 違うんです。そうじゃなくて⋮⋮ちょっと知り合いの人
に似ていらっしゃったものですから。仮面を被る人は冒険者にはさ
して珍しくないですからね。こちらこそ、おかしな視線を向けて申
し訳ないです﹂
そう謝って来た。
まぁ、こういう怪しい客にも慣れているのだろう。
それからルカは、
﹁⋮⋮ところで、今日のご用向きは? ︽三叉の銛︾にいらしたと
いうことは、武具をお求めでしょうか? それともお手入れを?﹂
﹁あ、ああ。あたら、しい、けん、がほしくて、な⋮⋮これを﹂
そう言って、俺は鞘に入った剣を台の上に置く。
特に説明せずとも、ルカにはその意図が分かったようで、
﹁では、失礼しますね﹂
そう言って、剣を鞘から抜いて、見た。
彼女はこの店の鍛冶師であるクロープの妻だが、こうやって店頭
で客の相手をする関係で、その目は確かだ。
武具の種類は言わずもがな、品質や痛みもある程度は見ることが
出来る。
そんな彼女の目から見て、俺の持ってきた剣はというと、
131
﹁⋮⋮これは、買い替えるしかなさそうですね。何かご希望はござ
いますか? 剣の傷みから見て、何か魔術か気の使い手とお見受け
しますが⋮⋮?﹂
そんなに簡単に分かることではないはずなのだが、彼女の目から
見ると自明らしい。
別に隠すことでもないので、俺は素直に告げる。
﹁あぁ⋮⋮まりょく、も、きも、つかう⋮⋮せいき、も。だから、
そのすべ、てに、たえられ、るような、けん、に、してくれ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮全部持ち、ですか。これはまた珍しい。貴方で二人目ですよ﹂
﹁でき、れば、ひみつ、に⋮⋮?﹂
﹁それはもちろんです。お客様の秘密を守れないようでは鍛冶屋は
務まりませんから。しかし、そのご注文ですと⋮⋮料金の方が。そ
れに日数もかかるかと思いますが⋮⋮?﹂
まぁ、それはそうだろう、と思っていた。
なにせ、魔力も気も聖気も使える人間など滅多にいない。
二つくらいならいなくはないが、三つは相当に珍しいのだ。
そんな人間のための武器など、そうそう作っているはずがない。
それに、通常、鍛冶屋は魔力か気を使う者向けに武具を作る。
聖気持ちはそもそも少ないうえ、聖職者が大半だから、彼らが武
具を欲するときは贔屓の店に直接発注するからだ。
つまり、俺は相当珍しい注文をしているのだった。
だから、金額が嵩むのも分かる。
﹁かま、わ、ない。ただ⋮⋮これ、がおれ、のぜん、ざいさん、だ
132
から⋮⋮﹂
そう言って、布袋に詰まったなけなしの財産を台の上に置いた。
金貨や銀貨がかなり詰まっていて、俺からすると一財産である。
もちろん、高位冒険者からすれば大した金額ではないのかもしれ
ないが⋮⋮。
ルカは中身を確認し、それから、
﹁⋮⋮これだけお持ちなら、十分なものが作れるかと。しかし、お
支払いにつきましては、今のところは半値で構いません。もう半分
は、お渡しのときに、ということで﹂
﹁いい、のか?﹂
かなり特殊なものを作らせようとしているのだ。
仕入れにもそれなりに金がかかりそうだ、と思っての台詞だった
が、ルカは、
﹁ええ。ですが、その代わりと言ってはなんですが⋮⋮主人⋮⋮こ
の店の店主兼鍛冶師クロープにしばらくお付き合いください。クロ
ープは凝り性ですので⋮⋮おそらく、作っている最中、何度かお呼
びすることがあると思いますので﹂
そう言った。
クロープは、俺が冒険者になってから大分長い付き合いの鍛冶師
だ。
だから、その性格も知っている。
普通の剣ならともかく、俺が頼むようなものを作るとなったら、
徹底的にこだわって試作を繰り返すようなところがあることも、で
ある。
133
だからこのルカの言葉はある意味で予想していたと言ってもいい。
俺はルカに頷く。
﹁かまわ、ない⋮⋮その、とき、は、がくしゃの、ろれーぬ、のと
ころ、に、れん、らくを、くれ﹂
ロレーヌから、街にいるときは自分の家を宿代わりに使うといい、
と言われていたので、そういうことになった。
ルカは、これが今までで一番驚いたようで、目を見開いていたが、
すぐに営業スマイルに戻って、
﹁承知いたしました。では、まず、こちらはお返しします﹂
そう言って、半値を抜いた財布を俺に返し、それから、
﹁では、こちらへどうぞ。クロープから、これからお作りする武器
について、色々とお聞きすることがあると思いますので﹂
そう言って、店の奥へと案内したのだった。
134
第20話 都市マルトの夫婦
案内された店の奥、そこは鍛冶場であり、かなりの熱気に満ちて
いた。
そこでひたすらに槌を振るう筋肉質ではあるが、細身の男が一人
いて、一心不乱に剣を打っている。
それを見て、あぁ、これはしばらくダメそうだな、と俺は思った。
案の定、案内してくれたルカも、
﹁⋮⋮申し訳ありません。これは、少々お時間がかかるかも⋮⋮。
一時間ほどすればお話しできる状態になると思いますので、それま
ではどこかで時間を潰していただければ⋮⋮﹂
と、それこそ申し訳なさそうに言った。
しかし、俺はこんなクロープの姿は見慣れている。
彼は、武具を打つとなると、大抵こんな風になってしまう。
そしてそうなると、大抵話しかけても無駄だ。
場合によってはこちらに槌の一撃が飛んできかねないくらいで、
こうなった彼については作業が一段落するまで放置しておくしかな
い。
それが分かっていた俺は、
﹁⋮⋮い、いや、かまわ、ない。ここで、また、せて、もらって、
も?﹂
するとルカは、
﹁ええ、構いませんが⋮⋮むしろ、よろしいのですか? ここには
135
面白いものは何もありません。退屈では⋮⋮﹂
そう尋ねてきたので、俺は、
﹁かじ、しご、とをみる、のは⋮⋮たいく、つ、じゃ、ない⋮⋮﹂
そう答えた。
ルカは少しだけ驚いたような表情をしたが、すぐに通常のものに
戻り、それから若干微笑んで、
﹁でしたら、そちらに椅子がありますので、ご見学ください。お飲
み物をお持ちしますね﹂
そう言って去っていった。
実際、俺は人の仕事を見るのが好きだ。
どんなものでも、一流の人間のすることには何か大いなる流れの
ようなものがあって、見つめているとそれが分かってくる気がする
からだ。
クロープは間違いなく一流の鍛冶師であり、その仕事には一種の
美しさのようなものが感じられる。 それを見て、退屈だ、などとは俺は思わなかった。
◇◆◇◆◇
しばらく経って、断続的に聞こえていた鍛冶の音が鳴りやみ、鍛
冶場に満ちていた緊張が霧散する。
クロープが今まで打っていた剣を見つめて、笑った。
おそらく、満足した出来になったのだろう。
いいことだな、と俺が思うと同時くらいに、クロープが振り返っ
136
て、
﹁すまんな。待たせたらしい﹂
そう話しかけてきた。
どうやら存在に気づいていなかった、というわけではなく、鍛冶
に集中していたかったが故の無視だったようだ。
途中で手を止めるわけにはいかない作業だから、むしろそれで当
然であり、問題はないだろう。
だから俺は答える。
﹁⋮⋮い、いや、かまわ、ない⋮⋮。おもしろ、かった⋮⋮﹂
その答えに、俺の目の前にいる、男、クロープはにやりと笑い、
﹁ほう、ルカがここに連れてくるとは珍しいことだと思ったが⋮⋮
面白そうな奴だな?﹂
そう言った。 クロープのその表情は、鍛冶師というよりかはまるで、敵を見つ
けた戦士のように不敵ですらあるが、それが似合ってもいる。
顔立ちは若くはなく、四十代手前、という感じだろう。
ルカよりもかなり年上に見えるが、実際のところ、二人の年齢は
大して変わらないらしい。
らしい、とういのはルカに直接年齢を聞ける人間がいないからで、
クロープがかつて言った﹁あいつは俺の幼馴染だぞ﹂という言葉だ
けが彼女の年齢を推測するただ一つの材料だった。
ちなみに、直接年齢を尋ねたものの行方は杳として知れない⋮⋮
わけではないが、威圧的な笑顔に質問をひっこめざるを得なかった
らしい。
137
つまり、教えてくれないという訳だ。
﹁おも、しろい、か、どうか、は、わか、らない、が⋮⋮けん、を、
つくってくれ、ると、きい、た⋮⋮﹂
﹁あぁ、オーダーメイドか? だが、店頭には結構な種類の剣を並
べておいたはずだが⋮⋮。どれも自信作だ。わざわざ値の張るオー
ダーメイドを頼まなくても、探せば合う品があるはずだ﹂
クロープのこの言葉は、その口調が若干ぶっきらぼうなため、聞
きようによっては断りの台詞にも聞こえるが、実際にはただ無駄遣
いしなくてもいい、と言っているだけだ。
顔立ちも視線も鋭く、人を見つめるだけで泣かすことが出来そう
な男であるだけに、話す言葉はすべて脅しか恫喝に聞こえてくるほ
どである彼だが、その中身は意外と優しいことを俺は知っている。
だから、俺は彼に気負わずに返答する。
﹁あそ、こに、ならんで、る、しな、だと、せい、きに、たえ、ら
れ、ないか、ら⋮⋮﹂
﹁せいき⋮⋮聖気か。なんだお前、その見た目で聖職者か? だっ
たら馴染みの鍛冶師がいるんじゃ﹂
﹁せい、しょくしゃ、でも、ない⋮⋮ま、りょく、も、き、も、つ
か、える﹂
﹁まさか、全部持ち、か!? ⋮⋮そうか、なるほどな。それなら、
店頭の品じゃ、無理だな⋮⋮ルカが通すわけだ。金は持ってるんだ
な?﹂
138
﹁てん、いん、が、いうに、は、じゅうぶん、なもの、がつく、れ
る、と﹂
﹁ルカが言うならそうなんだろうな⋮⋮よし、分かった。早速だが、
相談に入ろうぜ。予算の方も含めてな﹂
クロープはそう言って、どこからか椅子をもう一脚持ってきて、
小さなテーブルに一緒につき、話を始めたのだった。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮ま、こんなところだな。あとは細かく調整していく必要があ
るから、その都度、連絡するが、いいか?﹂
﹁かま、わ、ない﹂
﹁よし。じゃあ、商談成立だな。よろしく頼むぜ﹂
クロープはそう言って手を差し出してきた。
握手を、ということなのだろう。
俺はどうしたものか、一瞬迷った。
この手は、不死者の手だ。
触れると色々と問題がありそうな気がした。
しかし、その逡巡も一瞬のことだった。
クロープには、俺が不死者だ、などとは話せない。
ただ⋮⋮。
俺はクロープの手を握り返し、
139
﹁まか、せ、た﹂
そう言ったのだった。
◇◆◇◆◇
扉からお客様が去っていく。
変わったお客様。
ローブに仮面の。
しかし、その後姿には、ついこの間までこの店によく来ていた青
年の面影があった。
けれど⋮⋮。
﹁おう、ルカ。どうした。妙な顔して﹂
後ろから、私の主人であり、この店の主でもあるクロープが渋い
微笑みを浮かべながらそう、話しかけてきた。
私は振り返り、答える。
﹁⋮⋮分かってるでしょ? あれは⋮⋮﹂
途中で言葉を切った私に、クロープは、
﹁⋮⋮まぁ、な。最近街や酒場で見かけねぇし、どこ行ったのかと
思ってたが⋮⋮随分厄介なことになってるらしい﹂
﹁どうして、頼ってくれないのかしら? 私たち、そんなに信用が
ない?﹂
140
悲しくなって思わず言った言葉に、クロープは顎をさすり、答え
る。
﹁そうかもなぁ⋮⋮おっと、冗談だ、冗談﹂
涙が出そうになった私に気づいたクロープは慌てて手を振り、弁
解する。
では、どういうこと、と視線だけで訪ねると、クロープは、
﹁⋮⋮迷惑かかると思ってるんじゃねぇか? なんであんなローブ
着て、仮面つけなきゃならねぇのかはわからねぇが、何か呪われて
るのかもしれねぇ。あいつが呪われたってなると、うちの武具の性
能にケチをつけるやつも出てくるだろうし、そもそも、そういう客
が来る店を揶揄する輩ってのもいるからな。誰だか分からない、呪
われてるなんて知らなかった、もう二度と入れねぇ、って、後で俺
たちが言っても問題ないようにとか、そんなこと考えてるんだろう
よ﹂
﹁そんなことって! 貴方、そんなことしたりしないわよね?﹂
ずずい、と威圧感を持って迫る私に、クロープは、
﹁⋮⋮当たり前だろ。別に俺はどうでもいいやつに何言われたって
気にしねぇよ。ただあいつは、そういう水臭いところのある奴だっ
てだけだ。ま、いいだろ。生きてることがわかったんだ。しばらく
はあいつの好きなようにさせておけ。そのうち吐かせればいいんだ
よ⋮⋮少なくとも、正体を匂わせるようなことは言ってくれただろ。
断言はしなかったが、その辺りがあいつの譲歩の限界だったんだろ
う⋮⋮それに、うちには変わらず来てくれるつもりみたいだしな﹂
141
言われて、私はそうだった、と思う。
かなり珍しい魔力、気、聖気の全部持ちで、かつ、ロレーヌちゃ
んの家に出入りしている。
それだけでも、相当なヒントだ。
それを私たちにわざわざ言ったのは、そういうことだった、とい
うことに違いない。
ただ、もちろん、それだけでは、何があったのかは分からない。
人にとても言えないことがあったのかもしれない。
それでも、武器を求めにうちに来てくれたのは⋮⋮それくらいの
信頼はあるからだ、と思っても許されるだろう。
私は、それを理解させてくれた夫に、
﹁そうね⋮⋮そうよね﹂
零れ落ちそうな涙をぬぐいながら、そう言ったのだった。
142
第21話 水月の迷宮の冒険者
スケルトン
カタカタと笑う骨人が︽水月の迷宮︾の狭い通路に二体、俺を挟
むように立っていた。
奴らは徐々に距離を詰め、そしてあと一歩で俺に届く、というと
ころで腕を上げて俺に襲い掛かる。
スケルトン
しかし、そんな骨人たちがその腕を振り下ろす前に、俺は剣を振
るい︱︱
二匹の胴体を切り離したのだった。
スケルトン
崩れ落ちた二匹の骨人の残骸を漁り、魔石を拾う。
小指大ほどの小さなそれを、腰に下げた皮袋に入れ、俺はまた、
歩き出した。
一体どこに向かっているのかと言えば、それは自明だ。
あの︽龍︾のいた、未発見区画だ。
ギルド
いくらもう︽龍︾の気配がないと言っても、一応の調査は必要で、
しかしそれを冒険者組合に言っても信じてもらえるかどうか微妙で
ある現状、俺が直接行くしかないだろう。
そう判断した。
武器については、クロープに頼んだところ代用品を貸してくれた。
魔力と気は通すが、聖気は無理だから気を付けろ、という。
剣自体の性能はそこそこで、ただ、今まで使っていたものよりも
若干いいというくらいか。
ただ、魔力と気に耐えられる構造になっているので、消耗につい
143
ては今までよりもずっと気にしなくていいので楽になりそうだった。
それで、色々と準備を整え、ロレーヌにも外出してくると言い、
︽水月の迷宮︾までやってきたのだ。
◇◆◇◆◇
それなのに。
﹁いやぁ、助かったぜ。まさかスライムがあんな動きをしてくると
は知らなかった! あんたが来てくれなきゃ、どうなっていたこと
か⋮⋮考えるだけで震えてくるぜ!﹂
俺の横を歩きながらそんなことを言いつつ、俺の枯れた肩をロー
ブごしにバンバン叩いているのは、四十近い年齢と思しき剣士のよ
うな男だ。
ような、と言うのは、先ほど見たその腕にかなりの問題があり、
碌に修行もしてないなと丸わかりだったからに他ならない。
俺は、彼が迷宮でスライムに襲われて難儀しているところに通り
がかり、つい、助けてしまったのだ。
本来、迷宮での冒険者の行動というのは殆どが自己責任だと言わ
れていて、魔物と戦っている他の冒険者を見つけて、仮に冒険者側
がかなりの劣勢であっても助ける義務などない。
迷宮のどこで死のうが、その冒険者が弱いのであり、無謀な冒険
をする奴が悪いだろう、という基本的な考えから来ている決まりで
ある。
もちろん、そうはいっても、冒険者は人間だ。
悪い人間がいれば、いい人間もいるように、良識ある冒険者とい
うのも沢山いて、そう言う場合には原則を曲げて助けに入る者も少
144
なくない。
しかし、そういうことをした結果、最終的に揉めに揉め、魔物に
殺されるよりも凄惨な出来事で命を奪われる結果に⋮⋮なんていう
ことも珍しくはない。
だからこそ、自己防衛としても、仮に困っているように見えても
他の冒険者の助けには入らないのが賢い選択だ、と言われている。
実際、揉め事を避けるのなら、それが一番正しい。
わざと魔物に負けそうなふりをして助けに入らせて、助けに入っ
た冒険者が魔物と一生懸命戦っているところを狙って後ろから切り
かかり、魔物ごと葬って持ち物をすべて奪い取る、なんていう非道
な冒険者もいるくらいなのだ。
しかも、そのような場合、証拠は残りにくい。
リポップ
迷宮はどのような理由なのかは分からないが、常に一定程度の清
潔が保たれている。
飛び散った血や肉片などは、およそ再湧出に必要な時間程度で迷
宮それ自体が吸収・消滅させてしまうからだ。
そしてそうなったとしても、やはり、冒険者は皆、自己責任とさ
れてしまう。
十分な用心なしにはいられない、かなり危険な商売なのだ。
だが、俺はそのことを概ね把握していても、どちらかというと助
けてしまう方だ。
よほど実力的に無理そうだ、という場合は素直に見捨てるわけだ
が、どうにかできるな、というときは、明らかに違法冒険者である、
と判別できない限りは、助けに入る。
それは、生前なら︽良い冒険者︾の良識からだ、と言えるが、今
の俺にとっては、人間であるという唯一の証明であるような気がす
るから、というのが理由になるだろう。
145
だって、今の俺が、困っている人間を見捨てたら、それはもう、
魔物そのものではないのだろうか?
助けられる人を見捨て、自分のためだけに生きる、人でないもの
⋮⋮。
それを、人は魔物と呼ぶのだろう。
だから、俺には困っている冒険者を、そう簡単に見捨てることな
どできなかった。
しかし、当然だがすべての冒険者を助けなければならないわけで
もない。
手が届きそうな、危険もそれほどではない場合に、良識に従って
行動すればそれでいい。
そう思って活動するつもりだった。
その観点から言えば、今、俺の隣にいる男は別に見捨てても良か
ったかもしれないな、という気がしている。
なにせ、さっさと戻ればいいだろうに、俺の横にずっとついてく
るのだ。
俺がそれなりの腕だとみて、おこぼれを期待しているのか、それ
以外の理由か⋮⋮。
分からないが、とにかくうっとうしくなりつつある。
俺はこれから、あの︽龍︾が現れた区域に向かうのだ。
あまり足手まといがいると、もしものとき、危険である⋮⋮。
しかし、正直にそんなことをいう訳にもいかないし、どうすれば
いいのか迷っている。
それが今の状況だった。
146
まぁ、別に今の状態で他の冒険者に好かれたいわけでもないのだ。
お前は邪魔だからどっか行け、と言ってもいいが、この男、そう
いう話をまともに受け取らない気配がある⋮⋮。
さきほどやんわりとそんなことを言い、徐々に語気を強めていっ
ても、まるで効果がないのだ。
言うだけムダ、と考えるのが正しいだろう。
﹁⋮⋮なぜ、ついて、くる?﹂
俺は面倒くさくなって、素直にそう、尋ねることにした。
すると、意外なことに今まで饒舌だった男が急に黙り込み、それ
から、
﹁⋮⋮あんたが、強いからだ﹂
絞り出すようにそう言った。
やはり、おこぼれ目当てか?
うーん、あまり褒められた行為ではないが、それほど強くない冒
険者にとっては仕方のない選択肢でもある。
しかし、この︽水月の迷宮︾は、いくら弱い冒険者に分類される
存在であっても、そこまでしなければならないような迷宮ではない。
そう思っていると、男は説明を始めた。
﹁⋮⋮どうしても、金が必要なんだ。来週までに、金貨三枚。それ
がなきゃ、俺の店が取られちまう⋮⋮﹂
どういうことか、と思って詳しく聞いてみると、曰く、男は本来、
小さなレストランの主人であるらしい。
それで、ここ数年、経営が思わしくなく、借金に借金を重ねてし
147
まった結果、かなりの苦境にあるという。
来週までに金貨三枚を用意し、かつ全部で金貨十五枚ほどの借金
を返済できなければ、レストランを譲渡すると言う条件で借りてい
るため、どうしても金が必要で、手っ取り早く稼ぐには冒険者だ、
という結論を出したとのことだ。
あまりにも短絡的かつ、不可能に近いやり方だが、絶対に無理と
も言い難い。
金貨十五枚は、それなりの腕がある冒険者なら、五日あれば何と
かなるだろう額だからだ。
しかし、この男は、少なくともそんな腕は持っていないだろう。
そしてそれを自覚している。
だからこそ、俺について来ようとしている、というわけだ。
だが、
﹁⋮⋮それ、をする、なら、ここ、じゃなく、て、しん、げつ、の
めい、きゅう、だろう?﹂
都市マルトの周辺には、もう一つ迷宮がある。
︽新月の迷宮︾と呼ばれる巨大迷宮で、この︽水月の迷宮︾とは
比較にならない魔物も出現するところだ。
そちらになら、銀級の冒険者もいるし、そういう冒険者について
いけば、金貨十五枚も夢ではない。
まぁ、着いてこさせてくれるのか、ということと、着いていける
のか、という問題はあるだろうが。
大した腕もなく強力な魔物と相対すれば、一瞬油断しただけで死
ぬ可能性もある。
それを考えると、あまりにも分の悪い賭けだろう。
﹁やろうとしたんだけどな⋮⋮これがもう、皆見事なまでに門前払
148
いだ﹂
力なくそう言った。
まぁ、それはそうだろう。
そしてそれは俺の場合も同じだ。
﹁⋮⋮わ、るい、が、おれ、も、いそが、しい。あんた、につき、
あっている、ひま、はないん、だ⋮⋮﹂
できれば何とかしてやりたい気もするが、今の俺では荷が重いだ
ろう。
強くなった、とは思うが、せいぜい、銀級でも下位クラスの実力
だと思う。
その状態で五日で金貨十五枚。
うん、無理だな⋮⋮。
冒険者の報酬は一般に比べれば高いが、ランクが高くなければや
はりそれなりに過ぎない。
ギルド
よっぽどのことがあって、臨時収入などがなければ、低級冒険者
にそんな大金が得られるはずが⋮⋮。
︱︱よっぽどのこと、か。
考えながら、少し思ったことがあった。
あるじゃないか、余程のこと。
もちろん、俺が不死者になったことではない。
そうではなく、不死者になった場所だ。
迷宮に、未探索区画が見つかった。
それは結構な情報で、これをもたらした人間には冒険者組合から
それなりに報酬が支払われるはずだ。
149
それが、金貨十五枚に値するかどうかはあれだが⋮⋮まぁ、期待
するだけならただだろう。
ギルド
本当なら、俺が報告したいところだが、今の俺はこの有様である。
冒険者組合に入るのすら難しい状態で、そんなこと出来るわけが
ない。
誰かほかの人間に報告してもらうしかなく、いずれロレーヌに頼
もうと思っていたくらいだ。
別にこの男に代わりにやらせてもいいだろう。
まぁ、その場合は、前から知っていた、という風ではなく、この
ギルド
男が見つけた、ということにしてもらわないとならないかもしれな
いが。
前から知ってて言わなかったという話になり、それが冒険者組合
に伝わると色々とややこしい話になりそうな気がするしな。
それに、こんな俺が伝えるよりも、しっかりとした人間が伝えれ
ば、調査もちゃんと入るだろう。
結果的に、ここに入る冒険者のためになるだろうし⋮⋮。
報酬は惜しいが、金貨十五枚くらいなら、俺だってすぐ稼げるよ
うになるはずだ。
生きていた時は無理だったが、今の俺なら、そのうちそうなれる
⋮⋮。
そう思っている。
だから、諦めてもいい。
よし、そうするか。
心の中でそう決めると、俺は、俺に一度拒絶されて肩を落として
いる男に向き直って、言う。
150
﹁⋮⋮やっぱ、り、きて、も、いい、ぞ。にもつも、ち、くらい、
には、なる、だ、ろう⋮⋮﹂
﹁えっ⋮⋮?﹂
男は驚きつつも、しかし歩き出した俺の後ろに慌ててついてきた。
﹁おい、待ってくれ! い、いいのかよ!?﹂
﹁⋮⋮あ、あ﹂
言いながらも、まさか許されるとは思っていなかったらしい表情
である。
切羽詰って、寄生して稼ごうとしていたが、根は善良なのだろう。
まぁ、そもそも全てが嘘という可能性もあるが、そのときはその
ときだ。 それに、必ずしも純粋にこの男のためだけに、というわけではな
い。
グール
これもまた、俺が人間であることを確認するための作業になると
思ってのことだ。
というのも、なぜだか、屍食鬼になってから、たまにたまらなく
不安になることがあるのだ。
何か、妙な衝動を感じるときがあると言えばいいのか⋮⋮。
だから、多少の人助けくらい、してもいいだろうと、ふと思った。
そうしないと、俺はいつか自分が何なのかを、忘れてしまいそう
な気がする。
そうなったら、終わりのような気も。
それは、ダメだ。
ダメなのだ。
151
そんなことを考えながら、俺は、あの︽龍︾のいた場所へと向か
う。
後ろからどたどたと、慣れない様子で男がついてくる。
以前は、俺もあんな風だったのだろうか。
なぜか、遠くて、思い出せないような感じもした。
こうなって、そんなに時間も経ってないのに。
よくない傾向、かも知れなかった。
152
第22話 水月の迷宮の未踏破区域
﹁⋮⋮おい、あんた。そっちは行き止まりだろ?﹂
後ろから着いてきている男が、俺に向かって地図を見ながらそう
言った。
男の持っている地図はもちろん、この︽水月の迷宮︾のもので、
街中で普通に販売しているものだ。
迷宮の地図の値段はピンキリで、色々な条件によって大きく変わ
る。
たとえば、その迷宮の難易度や階層の数などでも変わるし、迷宮
ポップ
の特徴や魔物の種類についてまで書いてあると値段が上がっていく。
緻密なものだと、魔物の湧出する地点が固定しているところがあ
れば記載してあったり、また、先行する冒険者たちについての情報
までついている場合もある。
まぁ、最後の方まで行くと、作る方も半ば趣味と意地になってき
ていて、他の地図製作者より少しでもいい地図を、という領域にな
るのであまり意味はない。
ただ、詳細な地図であるほど高く、有用であるのは間違いない。
その観点で言うと、男の持っているそれは標準程度の質のものだ
ろう。
一般的に踏破される場所の通路は皆、記載してあるが、それだけ
で、他の付属情報は一切書いていないもの。
つまり、ただの地図だ。
それによると、俺の進もうとしている方向は行き止まり、と書い
てあるらしい。
153
そしてそれは俺も知っている。
なにせ、同じ地図を俺も持っているからだ。
一つ違いを言うのなら、俺の地図は男のものと比べると色々と書
き込みが加えられていて、ほぼ別物と化しているということだろう
か。
十年ここに潜り続けた経験は伊達ではなく、おそらく都市マルト
で最も詳細な︽水月の迷宮︾の地図を持っているのは俺だ。
そしてそこには、数日前に新たな道が書きこまれている。
当然、あの︽龍︾の出現した区域だ。
﹁⋮⋮いい、から、こ、い﹂
俺が取りつく島もなくそう言うと、男は納得しかねるような顔を
していたが、結局は諦めてついてきた。
一緒に歩いていてよくわかったが、男にはほとんど戦闘の心得が
ない。
武器だけはいっぱしのものを持っているようだが、使いこなすど
ころかまともに扱えてすらいない。
その状況で、俺と離れるのは危険だと、危機感の薄い男でも分か
っているのだろう。
俺は男にそれ以上何も言わず、迷宮を進んでいく。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮こいつは⋮⋮? え、だって、地図には何も﹂
唖然としたように地図と目の前の光景を見比べる男。
154
彼の言いたいことはよくわかる。
なにせ、俺も最初見た時はそんな気分だった。
そしてそのままの勢いで中に入って行ってしまった。
相当に危険な行為であるにもかかわらず。
本当なら、一度戻って誰か仲間を連れて改めて調査すべきだった
だろう。
一応の言い訳なら、ないでもない。
まず、さっさと探索しておかないと、他の冒険者がやってきて先
に報告される可能性があること。
これがあって、俺は焦った。
今にして考えれば、地図に行き止まりと記載してあるここにわざ
わざ来るような奴がどれほどいるのか、という気もする。
しかし、実際俺は来たし、行き止まりは魔物を追い詰める場所に
は最適だ。
絶対に来ないとは言えなかった。
それに加えて、俺は基本的にソロでやっていた。
つまり、連れてこれるような仲間には心当たりがないのだ。
一応、ロレーヌという選択肢もないではなかったが、彼女の本業
は学者だ。
冒険者仕事のノウハウについては色々教えて今や魔術の実力と合
わせて銀級として十分な実力を持つが、滅多に冒険者としては働か
ない。
やはり、学者の方が肌に合っているらしく、素材集めが必要にな
ったら大抵俺にやらせる。
最近の彼女は研究が佳境に入っていたようで、忙しそうにしてい
たというのもあり、声をかけにくかったというのもあった。
そして最後の一つが、良くも悪くも油断だ。
俺はこの通路の先に、大した魔物がいないだろう、と踏んだのだ。
だからこそ、あのとき入った。
155
というのは、強力な魔物というのはいればそれなり気配というも
のを発するものであり、集中すれば大抵わかる。
高位の魔物や特殊な魔物であれば気配を隠す能力を持っているも
のも確かにいるが、この迷宮のこんな階層に高位の魔物など滅多に
出ないし、特殊な魔物についても、ある程度のものなら対応できな
いこともない。
もちろん、戦える、という意味ではなく、逃げることは出来るだ
ろう、という意味でである。
まぁ、実際に出くわしていればどうなったのかはわからないが、
そういうものが現れる可能性というのはどんな迷宮のどんな階層で
もかなり低いとはいえ、どこででもある。
気にしすぎると冒険者などやってられない以上、そのことについ
てはさほど考えないでしまった、ということだ。
そういう諸々の結果として、︽龍︾に出会ってしまったわけだ。
しかし、あれは本当にどうしようもなかった。
気配なく、突然現れたのだし、逃げようとしたところで体も動か
なかったのだ。
人数がいればどうにかできると言う相手でもなかったし、慎重に
挑んだところで出遭ったら終わりのものだった。
振り返って反省してみても、何の情報もないあの状態ではあれ以
外の判断は出来なかっただろう。
さて、それでは今回はどうか、と言えば、おそらくは大丈夫では
ないだろうか。
あの︽龍︾の気配は今は感じない。
前回と同様、突然出現する可能性はないではないが、そうなった
ときはもう、仕方ない。
ある程度の諦めは冒険者である以上、必要だ。
いざというときは、後ろの男をおとりにして逃げれば⋮⋮とまで
156
非道なことは考えていないが、本当にどうしようもないときはそう
するほかない。
二人いれば︽龍︾が現れてもどっちかは生き残れるかもしれない。
男もこれが成功すれば必要なだけの金銭を得ることが出来るかも
しれないのだから、知らずにそんなリスクを背負わせてもそこまで
酷ではないだろう⋮⋮いや、酷か。
でも仕方ない。
﹁⋮⋮さき、に、いってみ、よう⋮⋮﹂
とは言え、一応、俺の方が先に進むくらいの配慮はあった。
男が先に入るよりは生存の確率は上がるだろう。
前のときは、ほとんど目の前に︽龍︾が現れたからこそ何も出来
ないで終わったのだ。
そっと進めば、多少の距離はとることも出来るかもしれない⋮⋮。
相当に臆病な速度で俺はその通路を進んでいく。
スケルトン
通路に出現する魔物は先ほどまで歩いてきたすでに調べ尽くされ
た通路と変わりなく、骨人やゴブリン、スライムが主で、大して苦
戦もしない。
少し、男にも戦わせてみたりしたが、へっぴり腰でまるで話にな
らない。
流石に急に思い立っただけはあるな、と妙な感心をしてしまった
くらいだ。
時間があれば鍛えたいところだが、男の期限はあと数日だし、そ
の程度で他人を強くできるほど俺は優れてはいない。
ギルド
これはこういうものだ、と思って諦めるしかないだろう。
ただ、ここまでひどい腕だと、冒険者組合にこの新区域の発見を
報告しても信用されない可能性が出てくる。
それは困るから、一応の構えと、それから魔物からの逃げ方だけ
157
教えておくことにした。
それだけ覚えておけば、ここまでたどり着ける可能性はある、と
いうくらいには思ってはもらえるだろう。
そして、しばらく道を進むと、俺たちはとうとう、たどり着いた
らしい。
通路の向こうに、開けた空間が見える。
あの︽龍︾と遭遇した広場。
スケルトン
つまりそれは、俺が骨人になった、あの場所だった。
158
第23話 水月の迷宮の油断
﹁⋮⋮行き止まり、か?﹂
ゆっくりと警戒しながら足を進める俺を、男が追い抜いていき、
そして広間の壁を中心から見回しながら、そう呟く。
実際、広間は行き止まりのように見えた。
しかし、長い間、発見されてこなかったこの未踏破区域に、これ
ほどまでに何もないというのは拍子抜けだ。
いや、むしろ何かあってほしい、と思うのが人情だ。
まぁ、ある意味、その何かはすでに去ったと考えることも出来な
くはないが⋮⋮。
つまりは、俺が遭遇した︽龍︾がそれだったのだ、と。
だが、そうなると、やはりここにはもう、何もないということに
なってしまう。
それは寂しい。
だからせめて他にも何かないかと、男と周囲を歩き回ってみた。
すると、
﹁⋮⋮おい! こっちに隙間があるぜ!﹂
と、男が叫んだ。
何か見つかったか、と男の方に近づいてみると、なるほど、男が
指し示している壁に隙間があった。
顔を近づけてみると、仮面からはみ出たわずかな皮膚に風を感じ
159
る。
⋮⋮何か、ありそうだな。
そう思って、ぺたぺたと壁をいじくりまわすと、かちり、と何か
を押したように壁の一部が凹み、それから、音を立てながら壁の一
部がせり上がって、そこに新たな通路を作り出した。
﹁⋮⋮かく、し、つう、ろ、か﹂
ギルド
﹁⋮⋮おぉ、そうみたいだな⋮⋮しかし、マジかよ。誰も来たこと
のない新しい通路に加えて、隠し通路⋮⋮これは冒険者組合に報告
すりゃ、一財産なんじゃないか?﹂
そうなる可能性は低くない。
これであんたの借金も何とかなりそうだな、と思って俺が男に視
線をつい、と向けると、男は慌てて、
﹁い、いやっ! もちろん、あんたの発見だってことは分かってる
! 俺はただ、着いてきてるだけだし、魔物も倒してねぇんだ。一
緒に見つけた、なんて口が裂けても言えねぇよ⋮⋮﹂
とぶんぶん首を振りながら、自分を卑下して言う。
別に今更気にすることもないし、ここまで来たらもう少し図々し
く分け前を要求してもいいような気がするが、そういうところ、男
は律儀らしかった。
まぁ、俺も金は欲しいが、この見た目では使える場所に限りがあ
る。
ここで一気に稼がずとも、徐々に溜めていく、くらいのつもりで
も別にいいのだ。
160
ギルド
少しお人好し過ぎる気もするが、そもそも俺では冒険者組合に報
告できないのだからな⋮⋮。
﹁⋮⋮お、まえの、て、がら、にすれば、いい⋮⋮それよ、り、さ
き、だ⋮⋮﹂
まだ通路は続いている。
そちらの方が気になる。
俺は男の返事を聞かず、再度歩き出した。
◇◆◇◆◇
隠し通路も、今まで歩いてきた道とさして変わらなかった。
スケルトンソルジャー
多少、魔物の質が上がってはいたが、せいぜいがポイズンスライ
ムや、骨兵士くらいのものだ。
今の俺にとって、雑魚とまではいわないが、十分な安全を確保し
て戦えるレベルの相手に過ぎない。
それに隠し通路は短く、すぐにまた、開けた場所についた。
今度も広間で、また︽龍︾が出現するのではないか、と怯えなが
ら歩いたが、そんな心配は無用だった。
ただ、今度は全く何もない、というわけではなく、中心に魔法陣
が刻まれていた。
これは、珍しいことで、ただ、全くないということでもない。
大きな迷宮の深部には、それに乗ることによって、仕掛けが動き
出したりするような場合があり、そうしなければ先に進めない、と
いうこともあるらしい。
ここにある魔法陣も、そう言った何らかの機能を有している可能
性はある。
俺は初めて目にしたが⋮⋮。
161
しかし、広間に同じく足を踏み入れた男は、
﹁⋮⋮また、何もない部屋かよ。またどこかに隠し通路でもあるの
か?﹂
そう呟いている。
しかも、地面に思い切り刻まれている魔法陣には全く、目もくれ
ずにだ。
﹁⋮⋮おま、え⋮⋮?﹂
そう声をかけ、視線を下に向けて注意を促すも、男は無反応だ。
それどころか、俺が何を言いたいのか分からないようで、首を傾
げて、
﹁⋮⋮なんか、あったのか?﹂
と尋ねてくる始末だ。
これで、男にはどうやら魔法陣が見えていないらしいことが分か
った。
しかし、それが分かったところで何だと言うのか。
俺にしか見えないのか、それとも男には見えないが、俺以外の他
の人間にも見えるのか。
それは分からない。
ただ、この状況ですんなり魔法陣に乗っかり、その機能を試すの
は流石に怖いような⋮⋮。
そう、思ったところで、男が考えている俺を見て近寄って来た。
そしてその際に、魔法陣を思い切り踏んだ。
162
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
その瞬間、魔法陣が光だし、そして、男はその光に飲み込まれて、
消えた。
それを見て、俺は後悔する。
先に踏めばよかったか、とか、せめて注意すべきだった、とか。
ただ、そんな反省を今更しても無駄だ。 今考えるべきはこれからどうするか、だろう。
幸い、男が踏んだおかげであの魔法陣の効果がなんとなく理解で
きた。
おそらくは、転移陣だろう。
踏むことによって、任意の場所へと移動することの出来る非常に
特殊な魔法陣。
何十階層もある巨大な迷宮に、五階層とか十階層ごとに配置され
ているらしいそれは、残念なことに人の手で作り出すことは出来て
いない。
魔法陣を真似ても稼働しないらしく、また人が使っている魔法陣
とは仕組みそのものが違うようで、解析が出来ないらしい。
それでも研究する者は大勢いて、いつは人の手で作り出そうとし
ているようだが、今のところその目途は立っていない。
そんなものだ。
つまり、あれは迷宮限定の代物で、飛ばされる先については調べ
ようもない。
乗ってみなければ分からない。
そういうものだ。
つまり、俺には今二つの選択肢がある、というわけだ。
163
追いかけるか、諦めるか。
慎重に行動する、というのであれば諦める、が正しいだろう。
もしあれにのって、とんでもない場所に飛ばされて、しかも戻っ
てこられないとなったら目も当てられないからだ。
けれど、見捨てるのは⋮⋮。
そもそも、しっかり魔法陣の見えている俺が注意しなかったのが
そもそもの原因と言えば原因だ。
それなのに、見捨てて戻ると言うのも寝覚めが悪い。
それに、絶対に戻ってこられないと決まっているわけでもない。
確認されている転移陣の情報を思い出すに、双方向で行き来が可
能なものもあるという。
しかし、あの男にそういうものだ、という知識はなさそうだ。
なにせ、冒険者としての基本的な知識すら欠けているのだ。
使うこともなさそうな転移陣の情報など、仕入れていることは期
待できない。
それに、あの男には見えていないのだ。
それを考えると、仮に双方向式の転移陣だったとしても、自力で
戻ってくることは期待できない⋮⋮。
﹁⋮⋮く、そ⋮⋮﹂
考えれば考えるほど、悔やまれる。
そして、こうなったらもう、なすべきことは決まっていた。
ここで見捨てて逃げ帰って寝覚めの悪い思いをするくらいなら⋮
⋮。
俺はこつこつと転移陣の元まで歩き、そしてわずかに発光してい
164
るその魔法陣を少しの間見つめてから、一歩踏み出す。
案の定、魔法陣の光は増していき、そしてすぐに俺の視界全体を
覆うほどの大きさになった。
あぁ、飛ばされるな。
自分の選択とは言え、いざ乗ってみると、色々不安だった。
しかし、こうなったらもう、仕方がない。
どうか、飛ばされる場所が安全なところであることを。
そう祈ることしか、もはや俺には出来なかった。
165
第24話 水月の迷宮:屍食鬼VS
どうやら、俺の期待、というものは常に裏切られるものらしい。
そう思ったのは、転移陣による光の奔流が収まった後、目の前に
広がる光景を見たからだ。
そこは、天井の高い、石造りの大広間だった。
おそらくは迷宮だろう、と推測できる、ありふれた景色。
壁に魔力を飛ばしても即座に吸収されてしまう特殊な空間。
水月の迷宮に未踏破区域、その続きということだろうか?
分からないが、しかし、そんなことを考えるよりも重要なことが
ある。
目の前にあるもの、それは、巨大な魔物と、そしてそれにやられ
た、と思しき男の姿だ。
男は、俺が追って来たあの男で間違いないことは、倒れていても
確認できる装備や髪型で分かる。
ただ、遠めだがまだ息はあるようだ。
緩慢ながら、手足が動いている。
助けなければ⋮⋮。
しかしそんな俺を遮るものが、ここにはある。
魔物だ。
巨大な、しかし俺にとっては馴染み深いその見た目。
ジャイアントスケルトン
骨のみで構成された、命を持たずに永遠の時間を彷徨うもの。
スケルトン
骨人︱︱その上位個体、骨巨人がそこにはいた。
166
笑えばゲタゲタと骨のぶつかる音が大広間に鳴り響き、歩く足音
はおよそ骨だけとは思えないほど大きく地面を揺らす。
ジャイアントスケルトン
スケルトン
あんなもの、迷宮で出くわしたら即座に逃げるような魔物だ。
骨巨人は、ただ骨人が巨大化しただけの魔物ではない。
スケルトン
骨人のみならず、巨人の因子をも取り込んだその魔物は、その強
度や速度は通常の骨人と比べ、二段も三段も上である。
当然腕力も恐ろしいほど強くなっていて、当たれば一撃で吹き飛
んでしまうことは確実だった。
あんなものと、戦う?
いくら多少強くなったとはいえ、馬鹿げている。
だが、あの魔物の足元には男がいるのだ。
見捨てられない以上、選択肢は他にない。
それに、この大広間、通路が見当たらないのだ。
こういう空間に、俺は覚えがある。
︱︱ボス部屋だ。
一度入り込めば、部屋の主を倒すか、倒されるかしない限り出る
ことの出来ない特殊な部屋。
かなり有名な話だ。
ただ、通常はそんなことにはならない。
なにせ、一般的なボス部屋というのは、倒せないと思ったらすぐ
に引き返せるように、常に通路への入り口は開いているものだから
だ。
そうでなければ、冒険者たちの死亡率は恐ろしいほどに高くなっ
ているだろうし、そもそもなろうとする者すら相当に減少するだろ
う。
退却できる、というのはそれほどに重要なことであり、だからこ
167
そ、冒険者は自らの実力を徐々に研鑽しながら進んでいける。
しかし、そんな冒険者の大きな試練が、この脱出不可能型のボス
部屋だ。
未だ誰も踏破したことのない迷宮のボス部屋はそうなっているこ
とが多いと言われる。
またそうでなくとも、四十層を越えるとそう言ったボス部屋も増
えてくる、とも言われている。
つまり、基本的にこんなボス部屋を攻略しなければならないのは、
冒険者の中でもいわゆるトップクラスの者たちだけで、初心者、中
級者、それに上級者でも四十層を越えない区域で稼いでいる者は、
殆ど入ることなどないのだ。
それなのに、である。
ここはまさにそのようなボス部屋であるらしい。
これは、もう覚悟を決めるしかない。
そういうことなのだろう。
ジャイアントスケルトン
ジャイアントスケルトン
俺は剣を抜いて、骨巨人に立ち向かう。
幸い、俺が現れたと同時に、骨巨人の注意は俺に向いているよう
だった。
ジャイアントスケルトン
足元の男については、もはや息も絶え絶えであるからか、興味が
薄いらしい。
早く決着をつけて、助けなければ。
そう思い、俺は地面を蹴る。
生前とは比べ物にならない速度で体が押し出され、骨巨人の足元
にすぐに突いた。
そして剣を振り上げ、その足に思い切りたたきつける。
168
しかし。
︱︱がきぃん!
と言う音と共に、剣が弾かれる。
そして、その直後、俺に向かって巨大な骨の手の振り下ろしが襲
って来た。
ジャイアントスケルトン
まずい、と俺は慌てて距離を取るべく動く。
もちろん、倒れている男をひっつかみ、骨巨人から引き離すこと
も忘れずに。
このまま放置しておけば、いずれ踏み潰されて死んでしまう危険
ジャイアントスケルトン
があるからだ。
幸い、骨巨人は、破壊力はともかく、速度については俺の方が若
干上のようだ。
初めて戦うため、その実力の程が詳しくは分かっていなかったが、
これなら、もしかしたら何とかなるかもしれない。
ジャイアントスケルトン
俺は、そう思って、抱えた男を大広間の端に置き、骨巨人のもと
に再度向かう。
問題は、あまりにも固い骨にいかにしてダメージを負わせるか、
だ。
先ほどの一撃は、気の力を込めたもので、俺の最大の一撃に等し
いものだった。
しかしそれでも傷つく様子はなく、このままでは勝利を収めるの
は難しそうだった。
169
普通なら、これで詰みである。
いくら多少速度で勝っているとはいえ、ダメージを負わせる手段
がなければそこで終わりだ。
いずれこちらの体力が尽き、そこを襲われておしまいになる。
迷宮の魔物と言うものは不思議なもので、ボス部屋にいる魔物に
ついては体力切れ、ということがまずないと言われている。
その理由は、迷宮から直接力をもらっているからだ、とか、元々
無尽蔵な体力を持っているからだ、とか色々な説があるが、概ね事
実であることは冒険者たちの長年の経験からはっきりしている。
つまり、ボス部屋の魔物に体力切れを望むのは意味がないのだ。
だからこそ、倒す攻撃力がなければおしまいなのだ。
そういった諸々を考えると、今の俺が置かれている状況は絶望的
に見えるかもしれなかった。
けれど、俺には、通常の冒険者とは異なり、やれることがあった。
アンデッド
俺は、聖職者ではないが、非常に特殊な力、聖気を持っているの
である。
向こうは恐ろしいほどに巨大とは言え、その根本は不死者なので
あるから、聖気の浄化の力を使えば、おそらくは傷を負わせられる
はず、である。
そんな切り札があるのなら、初めから使え、という話であるが、
使わなかったのには理由がある。
それは、そもそも俺は聖気をさほど使いこなせていないというこ
とはもちろん、それに加えて、武器の問題だ。
クロープに貸与されたこの剣は良い作りのものであるが、聖気を
注ぐ目的で作られてはいない。
したがって、聖気を遣って戦っても、どれだけ持つのか、という
問題があった。
170
けれど⋮⋮。
ここでこれを使わなければ、俺もあの男もここで死ぬしかないの
だ。
出来ることがまだある以上、やらなければならない。
それが、冒険者だ。
最後まであきらめずに戦うのが、冒険者なのだ。
俺はそう決意を固めると、剣に聖気を注いでいった。
今まで気の、黄金に近い色のオーラを薄く纏っていた剣が、聖気
ジャイアントスケルトン
の青白く清浄なオーラを放ち始める。
アンデッド
それを見て、骨巨人は何かを感じたのか、若干後ずさる。
浄化の力は、不死者の天敵だ。
グール
恐れる気持ちは分かる。
スケルトン
それをなぜ屍食鬼である俺が宿していて平気なのかは謎だが、そ
もそも俺が骨人になったことからして謎なのだ。
今更気にしても仕方がないし、それなら使えることに感謝するし
かない。
ジャイアントスケルトン
ジャイアントスケルトン
俺はそして、剣を骨巨人に振るうべく、地面を思い切り蹴る。
気の力を十分に注ぎ込んだ足の力は、大きく離れていた骨巨人と
ジャイアントスケルトン
の距離をすぐに縮め、そして俺はその足元へとたどり着く。
骨巨人がそれに気づいたころにはもう、遅かった。
ジャイアントスケルトン
ジャイアントスケルトン
俺の剣は振り上げられ、骨巨人の、木の幹のように巨大な足に吸
い込まれるように振り下ろされる。
そして、命中した、と思った瞬間、骨巨人の足は、溶けるように
切断されていった。
171
ジャイアントスケルトン
剣を最後まで振り切ると、骨巨人は片足を失い、それによって大
ジャイアントスケルトン
きくバランスを崩してその巨体を支えきれずに倒れこむ。
それによって生まれた大きな隙に、俺は骨巨人の頭部へと走り込
み、そして思い切り剣を振って、砕いたのだった。
172
第25話 水月の迷宮の聖気
体に、いつものように魔物の力が流れ込んできているのを感じる。
その奔流をいつもよりもずっと力強く感じるのは、相手があまり
にも強大な存在だったからだろう。
と言っても、銀級であれば簡単に倒してしまうような相手に過ぎ
ないが⋮⋮。
まぁ、それでも。
︱︱なんとか、なったか。
ジャイアントスケルトン
俺は、頭部を砕かれてもはや微動だにしない骨巨人の残骸を見つ
め、ほっと息を吐く。
もちろん、これは比喩的な表現であって、俺の肺はまともに動い
ていない。
スケルトン
気分の問題だ。
ただ、骨人だった時とは異なり、そこにあるのは間違いなさそう
だが、生きている人間と同様には動いていないのは間違いない。
いくら息を吸い込もうとしても吸い込んだ気がしないことからし
て明らかだ。
まぁ、それでも武器を振るうときなどは呼吸を意識して体を動か
してしまう。
癖であるから仕方がないだろう。
ミスリル
ただ、呼吸で人の動きを読むことの出来る達人もいると言うし、
俺が神銀級を目指すならそう言うものと張り合っていかなければな
らない。
それを考えると、少し、直した方がいいのかな?とも思うが⋮⋮。
まぁ、今のところはいいか。
173
ジャイアントスケルトン
それよりも、今はあの男だ。
おそらくは骨巨人に出くわし、傷を負わされたと思しき男。
早く応急処置でもなんでもしないと死んでしまうかもしれない。
先ほどは息があるようだったが、今はどうか⋮⋮。
そう思って近づき、様子を見てみると、思ったよりも傷は浅そう
だった。
それでも触れてみると脇腹の骨は折れているようだし、足の骨も
片足がやられている。
放っておけば間違いなく死ぬだろうな、というくらいには重傷だ
った。
しかし、ここには俺がいる。
回復魔術は使うことは出来ないが、俺には聖気がある。
魔術は使い方をしっかり学び、理論から理解しなければ使いこな
せないと言われているが、聖気はむしろ本能的に使っても効果を及
ぼすことが多い。
だからこそ、聖職者でもなんでもない俺でも、与えられた直後か
ら、水を浄化するくらいは出来たのだ。
そして今の俺ならもっと大きなこともできる。
ジャイアントスケルトン
先ほど、骨巨人を倒した直後に、感じた力の奔流。
ジャイアントスケルトン
それによって、この身が強化されたのを感じる。
体の奥から湧き出る、魔力、気、聖気の力は、骨巨人と戦う前よ
りもずっと大きくなっていて、これならば⋮⋮と思うところがあっ
た。
つまりは、傷の回復が出来そうだということだ。
聖気による治癒術は、聖職者の領分であり、基本的に神の奇跡と
されていて、聖気を持つ聖職者の中でも使える者のそれほど多くな
174
い力である。
持てる聖気の量、質は、信仰に比例すると言われていて、それが
十分でないと治癒を使うことは出来ないと言われているからだ。
だからこそ、治癒術を使える聖職者は尊敬されるし、またある程
度以上に力を持っていると聖者、聖女として尊崇の対象にまでなる。
その観点から言うと、俺が使えそうなのは少し、おかしい。
なぜなら、それほど深い信仰心を俺は持っているとは言えないか
らだ。
なにせ、俺が聖気を得た理由はほぼ気まぐれがもたらした偶然で
あるし、今も感謝はしているが、信仰している、とまでは言えない
からだ。
それなのに、俺の聖気は、依然と比べると格段に増えているのだ。
アンデッド
どういうことなのか分からない⋮⋮が、別に悪いことではない。
この力で不死者である俺が消滅するというのなら話は別だが、特
に不自由は感じていないのだ。
問題ないのならそれでいいだろう、というのが現実的に合理的に
ものを見る冒険者らしいだろう。
さて、それでは治癒術の開始である。
使ったことは、ない。
正直言って人生初の行為であり、本当に可能かどうかも微妙だ。
ただ、なんとなく出来そうだな、ということが分かるだけで。
こんな感覚的なことでいいのかと思うが、水の浄化だって似たよ
うな感じでやってきたのだ。
同じようなものだろう。
気絶している男の体、骨折している患部へと手を当て、先ほど剣
に纏ったように、手の平に聖気を纏う。
青白い燐光が俺の手を光り輝かせる。
手袋越しだが、これを外すと、もし目覚めた時に問題だから、と
175
りあえずつけたままだ。
ダメならそのとき外せばいい、と思ってのことだった。
幸い、手袋の厚めの布越しでも、聖気はしっかりと働いてくれる
ようだ。
骨折して、赤黒くなり始めていた部分が、徐々に色を取り戻して
いき、またずれていた骨も正しい位置に少しずつ戻っていく。
正直言って、どのくらいの時間で完治するのかは分かっていない
ので、なんとなくこれで大丈夫だろう、というくらいでやめて、今
度はわき腹から足へと手を移す。
そして同じように聖気を発動すると、やはり足の骨折部分も病的
な赤黒さから、徐々に肌色へと変わっていき、そしてパッと見では
骨折していたとはまるでわからないくらいに綺麗になった。
⋮⋮治ったのかな?
自分でやっておいて、どうなのか分からない。
が、見かけ上は治ってはいる。
まぁ、仮に全快ではなかったとしても、そう悪くはあるまい。
先ほどのヤバそうな見かけを思い出すに、今なら放っておいても
何とか家に戻れそうですね、というくらいだと言えば分かるだろう。
とは言え、いきなり動かしてやっぱりまだ骨折してた、ではまず
い。
とりあえず、目覚めるまで待って、男に痛みはないかしっかり確
認してから戻った方がいいな、と思った俺だった。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮う⋮⋮こ、こは⋮⋮?﹂
176
少し揺り起こしても起きる様子がなく、目覚めるまであまりにも
手持無沙汰だったため、周囲に何かないか観察していた俺の耳に、
そんな声が聞こえてきた。
どうやら、男が起きたらしい。
それを察知して、俺は男のもとへと近づいた。
﹁⋮⋮め、ざ、め、たか⋮⋮?﹂
そう話しかけると、男は頷いて、
スケルトン
﹁あぁ⋮⋮一体、ここは⋮⋮そうだ、あのどでかい骨人は⋮⋮っ!
いつっ⋮⋮﹂
意識がはっきりしてきたらしく、目を見開いてそう叫びかけた男
は、痛みに腹を押さえる。
どうやら、反応からして俺の治癒では完治していなかったらしい。
まぁ、付け焼刃だ。
そんなに大層な効果があるわけでもないだろう。
後で病院に行った方が良さそうだな。
そう思いつつ、俺は男に、
﹁⋮⋮おれ、が、たおし、た⋮⋮こいつ、が、しょう、こだ﹂
ジャイアントスケルトン
そう言いながら示したのは、手のひら大の大きさの魔石である。
骨巨人を倒した後、その残骸を漁って見つけたものだ。
頭部をばらばらに砕いてしまって、その中に紛れていたから探す
のは面倒だったが、時間はたっぷりあった。
結果、見つけることが出来た。
大きいものだった、というのも影響している。
男はそれを見て、驚いた顔で、
177
﹁⋮⋮金級相当の魔石だな⋮⋮詳しくは鑑定しなきゃわからんだろ
うが⋮⋮やっぱり、それだけの大物だったのか⋮⋮﹂
確かに、魔石だけ見ればそうだが、そこまでの実力があったかは
疑問だ。
そうだったらたぶん、俺も倒せはしなかった。
これは運が良かったがゆえの、レアドロップというものだと思う。
たまにあるのだ。
ある程度の長い年月を経た魔物が、通常よりも高品質の魔石をそ
ジャイアントスケルトン
の身に隠していることが。
今回の骨巨人は、おそらくかなり長い間放置されていたからこそ、
こんなものが見つかったんだろう。
ともかく、それなりに高い値段で売れそうないい魔石であること
は間違いない。 そしてそうなると、男としては、
﹁⋮⋮それだけの魔石があれば⋮⋮いや﹂
何かを言いかけて口を閉じた。
言いたいことは分かる。
これはおそらく、金貨十五枚以上で売れる。
つまり、男の借金はチャラになるだろう。
しかし男は、くれとは言えなかった。
そういうことだろう。
ただ、俺は男に言う。
﹁⋮⋮ほし、い、なら、やっても、いい、ぞ﹂
178
もちろん、ただのつもりはない。
179
第26話 水月の迷宮での相談
﹁⋮⋮本気で言ってるのか? そいつはあんたが倒した魔物から出
た魔石だろ。俺がもらうのは⋮⋮﹂
本当は喉から手が出るほど欲しいだろうに、逡巡したように言う
男。
俺は男に言う。
﹁⋮⋮む、じょう、けん、というわけ、で、は、ない、ぞ﹂
その言葉に男はなるほど、という顔をした後、
﹁だが⋮⋮俺の事情は話しただろう。あんたのような強い冒険者に、
何が出来るとも思えねぇ﹂
確かに、それはその通りだ。
俺が強いかと言われると、まぁ、生前よりは強いだろうがそこま
ででもない。
ただ、男から見ればそう見えるのは理解できる。
そして、そんな俺に何も出来そうもない、と考えることも分かる。
男は、彼の申告を信じる限り、借金まみれであり、かつ、冒険者
としての腕も酷い。
俺に何か出来るような財産が、経済的にも肉体的にもあるわけで
はない、ということだ。
ただ、それは男から見た場合の話だ。
俺から見れば、男はただ、人間であるというだけで十分な価値が
180
アンデッド
ある存在である。
俺は、不死者だ。
街中ではそれほど自由には動けない。
店に寄ることすら、中々に厳しく、それを代わりにやってくれた
りするなど、何らかの協力をしてくれる人間というのはいくらいて
もいすぎることはない。
つまり、俺はこの男に、都市マルトにおける協力者となってほし
い、と考えているのだ。
アンデッド
ただ、俺の事情を細かに説明するには流石に信用が足りない。
俺が不死者であるとは言った場合どこかに報告しないとも限らな
いし、そうでないにしても、男自身にもいずれ迷惑がかかる可能性
もある。
だからそういうことについては言わずに、ただ、色々と手伝って
もらえたら、と思っている。
俺は言う。
﹁べつ、に、むずか、しい、ことを、して、ほしいわけ、じゃ、な
い⋮⋮﹂
﹁じゃあ、何を⋮⋮﹂
﹁おれは、この、みため、だ。ろくに、みせや、ぎる、ど、にはい
れ、ない⋮⋮おま、えに、かわりに、かい、ものやほう、こくを、
たのみ、たい⋮⋮﹂
そう言って、俺は手袋を外し、腕を見せた。
体全体や、顔を見せるというわけにはいかないが、これくらいな
らまだセーフだろう。
腕を失っているわけではなく、ただ、おそろしく枯れ切っている
181
だけに過ぎない。
これくらいなら、冒険者にはたまにいる。
ただ、男はまだ冒険者としては駆け出しとも言えないくらいの初
心者だ。
今の俺の腕のようなものを見るのに慣れていないようで、少し引
け腰になる。
しかし、目をそらさない辺り、俺を魔物だと疑っているような感
じはない。
純粋に、ただの古傷だと思っているようで、思惑通りにいってい
ることに安心し、続けた。
﹁いぜん、まものに、やら、れた。こえ、も、そのとき、のこうい、
しょう、だ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そうか。やっぱり、強い冒険者ってのは、危険が段違いなん
だな⋮⋮﹂
軽い気持ちで冒険者になってはみても、その危険性については深
く考えたことは無かったのだろう。
いや、あまりにも経済的に切羽詰っていて、考える余裕すらなか
ったのかもしれない。
俺の腕の惨状に、冷や水を浴びせられたような気分になったよう
だった。
男はそれからしばらく考えて頷き、
﹁⋮⋮分かった。それくらいなら、俺にも出来る。しかし、本当に
それだけでいいのか? 言っちゃなんだが、あんまりにも俺に都合
が良すぎると思うんだが⋮⋮﹂
﹁それ、は、おまえ、のじじょう、だ⋮⋮とは、いえ、そう、だな
182
⋮⋮もう、ひとつ、じょう、けんを、つけ、ようか⋮⋮﹂
男の言葉に頷きながら、新たな条件を付けくわえようとした俺に、
男はやはりな、という顔をして、少しだけがっかりしたような顔を
した。
やっぱりうまい話には裏があるのだ、当たり前だろうな、とでも
考えているのだろう。
しかし、俺の言葉は男のそういう期待を裏切るものだった。
﹁しゃっきん、をかえし、た、あかつきには、おまえ、の、みせ、
で、いつ、でも、ただ、でのみくい、でき、るけんり、をつけ、て
くれ⋮⋮それだけ、でいい﹂
男は、最初、俺が言った台詞を飲み込めないようだったが、徐々
に頭に染みわたってきたようで、それからだんだんと苦笑いのよう
な表情になって、
﹁⋮⋮あんた、本気かよ⋮⋮。馬鹿なんじゃ、ねぇのか⋮⋮﹂
﹁なに、がだ?﹂
﹁そんな⋮⋮そんなもんで、金貨十五枚以上になりそうな魔石をく
れようとするんじゃねぇってんだよ!﹂
﹁だめ、か?﹂
﹁だめなわけ、ねぇだろ⋮⋮いくらでも食ってくれ。俺は⋮⋮今度
こそは、店を潰さねぇように、必死で働くからさ⋮⋮ありがとうよ
⋮⋮旦那﹂
183
そう言った男の顔は笑顔だった。
ただ、その目は赤く、次から次へと涙がこぼれていて、どうやら
いいことをしたようだな、と思った俺だった。
◇◆◇◆◇
さて、巨大な魔物に男の借金と、色々と解決したところで、これ
からどうするかを男と相談した。
と言っても、ほとんどその内容は俺の中で決まっていたが。
つまりは、とりあえず迷宮を出て、街に戻ろう、ということだ。
なぜなら、男はもう、迷宮に潜った目的を達成できるだけの魔石
を手に入れたわけであるし、これ以上身を危険に晒して迷宮に潜る
必要がない。
俺の方としても、男を連れ歩きながら危険な迷宮をこれ以上歩く
ノーマルスケルトン
のは流石に厳しいと思った。
通常骨人やスライム、ゴブリン程度の魔物しか出てこないのであ
れば別に問題はないのだが、必ずしもそうではないということが証
ジャイアントスケルトン
明されてしまったからだ。
もう一度、骨巨人クラスの魔物が出たら、俺の安全はともかく男
の命について保障することは出来ない。
だから戻ろう、という話をしたところ、男としても特に反対する
理由もないようで、賛成してくれた。
ここで戻る手段についても一応、問題となるが、実はこれについ
ジャイアントスケルトン
ては男が気絶している間に解決していた。
というのも、あの骨巨人を倒した直後、ここに転移してきたとき
にはなかった転移魔法陣が現れたからだ。
どこにつながっているのかは一応、問題だったが、出現した場所
184
が、俺たちが転移してきた地点であることから、おそらくはそこか
ら戻れるだろう、と判断した。
仮にそうでないとしても、他に進める通路などは見えないし、乗
るしかないというのが正直なところではあったが、実際に使ってみ
た結果、問題なく元の場所に戻れたのでそのまま帰ることにしたの
だった。
帰路は、来るときよりも大分楽に進んだ。
それは、男の実力というか、度胸というか、腹の座り方が来る時
とは完全に変わっていたからだ。
強力な魔物と戦ったから、というのと、俺がそれなりに最低限の
技術を教えたから、というのがあって、魔物と出くわしても冷静で
いられるようになり、自分のすべきことを理解できるようになった
ためだ。
完全に一対一で魔物と戦い、勝利を収める、とまで出来るほどで
はないが、襲って来た魔物から距離を取りつつ、逃げる機会をうか
がう、くらいは出来るようになったのだから十分な進歩だろう。
このまま、それなりに経験を積んでいけば一、二年あれば銅級く
らいにはなれそうだが、男にはその必要はないだろう。
ただ、俺の代わりに依頼をとってもらったり、報告してもらうこ
ともあるので、それなりの戦闘力は身に着けておいてもらいたいの
も正直なところだ。
それでも、ある程度以上の難易度の依頼についてはロレーヌに報
告してもらうつもりでいるから、せいぜい、一人で森や迷宮の浅い
層にいけるくらいのそれでいいのだが。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮ふぅ。やっと出れたな。なんだかこの空気、久しぶりな気が
するぜ。そんなに経ってないのに懐かしさすら感じる﹂
185
男は迷宮の外に出て深呼吸をし、そんなことを言った。
男の気持ちは分かる。
なにせ、あと一歩で死んでいたくらいの濃密な経験をしたのだ。
安全な場所に出て、緊張の糸が切れたのだろう。
一応、迷宮の外とは言え、魔物が全くいないという訳でもなく、
その意味では気を抜くべくではないが、今日のところは見逃してお
いてもいいだろう。
ただ、軽く釘だけ刺しておくに留める。
﹁⋮⋮まち、に、もどる、までが、めい、きゅう、たんさく、だ、
ぞ⋮⋮﹂
そう言って歩き出すと、男が慌てて、
﹁あ、待ってくれよ、旦那。分かってるって!﹂
その声に、なんだか久しぶりに冒険者として活動している気がし
て微笑みたくなるが、俺の乾いた肌はひきつって、笑うことは出来
なかった。
いずれ、人間らしく笑えるようになりたい。
そんなことを思いながら、迷宮近くまで来る辻馬車の停留所まで
進んだのだった。
186
第27話 水月の迷宮からの帰還、その後
﹁⋮⋮旦那、ここが俺の店だぜ。どうだ、ちょっとしたもんだろう
?﹂
迷宮から街に戻ってきて、男は俺を自分の店に案内したいと連れ
てきた。
そこは、言われてみるとこんな店もあったかな、という微妙な立
地のところにあり、マルトに十年住んでいた俺にして、一度も入っ
たことがなかったところである。
まぁ、辺境とは言え、都市マルトは都市というだけあってそれな
りに広い。
近くに迷宮が二つもあるお陰で、冒険者もそれなりにいるし、ま
ぁ、羽振りは悪くないなのだ。
男の店は、確かに男の言う通り、外観は悪くはなかった。
石造りの瀟洒な店で、そんなに人が入らなそうな感じでもない。
それなりの味で、存在を知っていればまぁ、たまには入ってみよ
うかあ、と思うくらいの悪くない店だった。
もしかして死ぬほどまずいとか?
そんな疑問が生じてしまうほどに、この店で経営が行き詰ったと
いうのは謎だ。
男が扉を開けて入っていくので、俺は後ろをついていく。
◇◆◇◆◇
187
﹁⋮⋮あなた! 無事だったのね⋮⋮!﹂
店に入ると同時に、そう叫んで男に抱き着いたのは、美しい女性
だった。
亜麻色の髪を後ろでまとめた、働き者という雰囲気の女性で、全
体に細身である。
一言でいえば、美人だ。
しかし、そんな女性が、男にあなた、と言ったということは、そ
の素性は大体分かろうと言うものである。
男は女性に言う。
﹁イサベル! 心配するなって言ったじゃねぇか⋮⋮俺はピンピン
してるぜ﹂
﹁でも⋮⋮迷宮に行くなんて⋮⋮。料理しかしてこなかったあなた
に、そんなこと出来るはずがないって何度も言ったじゃない!﹂
﹁おいおい、俺だって男だぜ? 迷宮くらいなぁ⋮⋮と言いたいと
ころだが、今回ばかりはお前の言う通りだ。実は、魔物に殺されそ
うになったところを、助けられてな。俺がここに帰ってこられたの
も、この旦那のお陰だ﹂
﹁⋮⋮? あ、あら。私ったら。お客さまがいたのに⋮⋮夫が、助
けられたそうで、本当にこの度は⋮⋮﹂
男の言葉にやっと俺の存在に気づいて、頬を染めながら頭を深く
下げてそう言った男の妻、イサベルは美しい上に可愛らしく、なぜ
こんな男の妻などやっているのか⋮⋮と罵りたくなるような魅力が
あった。
188
とは言え、正直にそんなことをいう訳にもいかない。
俺はイサベルに軽く頭を下げ、
﹁い、や⋮⋮たま、たま、だ⋮⋮きに、しなくて、いい﹂
そう言った。
するとイサベルは若干不思議そうな顔をしたが、男が説明する。
﹁旦那は強い冒険者なんだが、魔物に色々とやられたみたいでな。
喋るのがあんまり得意じゃないらしい。ただ、本当にいい人なんだ
ぜ。助けてくれたし⋮⋮そうだ、魔石ももらったんだ﹂
ジャイアントスケルトン
そう言って、男は懐からあの骨巨人の魔石を取り出して、イサベ
ルに見せる。
イサベルは、それを目を見開いて見つめて、
﹁こ、これは⋮⋮え、どういうことなの!? どうしてこんなもの
を⋮⋮﹂
﹁旦那にさ、事情を話したら、これをくれるって⋮⋮﹂
おそらくは、そのあとも色々説明しようとした男だが、残念なが
ら続きを口にすることは出来なかった。
イサベルが、
﹁ダメよ! こんな⋮⋮こんな高価なもの、もらえるわけがないで
しょう!? 通りすがりの人に、ご迷惑をおかけしたらダメよ! 命を助けてもらって、その上、こんな⋮⋮﹂
と叫んだからだ。
189
俺から施しを受けるのが嫌だから、という雰囲気ではなく、これ
以上迷惑をかけるわけにはいかない、という気持ちらしい。
ただ、別にただで、というわけでもないのだ。
俺は男に視線を向け、それを説明するように促す。
﹁イサベル、これは別に施しじゃねぇんだ。確かに、俺の取り分が
大きすぎるが⋮⋮俺はこれから旦那のため働く、その代わりにこれ
ギルド
をくれた。あとは、ここで飯を食うのは無料にするって約束でな﹂
﹁⋮⋮何か、また危ないことをするの?﹂
﹁いや、そういう訳じゃ⋮⋮ないよな?﹂
男も自信はなかったらしく、俺にそう尋ねてくる。
俺はそれに頷く。
﹁ほら、違うらしいぜ。基本的には、旦那の代わりに冒険者組合に
報告や素材を収めたりするだけだ﹂
﹁そんなこと、自分でした方が⋮⋮﹂
イサベルは不思議そうにそう言ったので、俺は自分でその点につ
いては言う。
﹁⋮⋮この、みた、め、だから、な⋮⋮ぎる、どには、あまり、い
きた、く、ないんだ⋮⋮﹂
そう言って、軽く腕をまくって見せる。
手から腕まで全体を男には見せているが、ご婦人には少しばかり
きついだろうと思っての判断だった。
190
案の定、イサベルは息を呑んだが、それで理解はしてくれたらし
い。
頭を下げながら、俺に言う。
﹁言いにくいことをお聞きして、大変申し訳ありません⋮⋮この人、
随分と騙されやすくて、心配で⋮⋮今回の件、もしよろしければ、
お願いしても⋮⋮?﹂
今回の件、とは魔石のことだろう。
改めて頼んでき、筋を通しているという訳だ。
俺としてはもちろん否やはない。
頷いて、
﹁はじめ、から、そういって、いる⋮⋮けい、やく、せいり、つ、
だな⋮⋮﹂
そう言うと、イサベルは手を差し出してきて、
﹁はい、お願いします!﹂
と言ってきた。
握手を、ということなのだろうが⋮⋮先ほどの俺の腕を見て、怖
くないのだろうか。
どうしたものかと思って、イサベルの後ろにいる男に顔を向ける
と、握手してやってくれ、という顔でイサベルの方に顎をしゃくっ
ている。
こういう女性だ、ということらしい。
俺はそれなら、と手を伸ばして、イサベルの方に手を伸ばし、
﹁あぁ⋮⋮﹂
191
そう言って、握手をしたのだった。
◇◆◇◆◇
﹁そう、いえ、ば⋮⋮な、まえ、をきいていな、かった、な⋮⋮﹂
店を出るとき、男にそう尋ねると、あぁ、という顔をして男は言
った。
﹁そういやそうだな⋮⋮まぁ、旦那が名乗りたくなさそうだったし、
赤竜
俺の事なんか眼中になさそうだったからだが⋮⋮改めて自己紹介す
の店主だぜ。旦那は?﹂
るぜ。俺の名前はロリスだ。ロリス・カリエッロ。この店、
亭
﹁おれ、の、なは⋮⋮きかない、ほうが、いい、だろう⋮⋮﹂
正確には、名乗って問題が起きると嫌だなという俺の事情である。
しかし男︱︱ロリスは納得しかねたようで、
﹁なんでだよ! 命の恩人の名前くらい、知っておきてぇぜ⋮⋮ダ
メなのか?﹂
と懇願してきた。
これには俺も仕方がないな、と思い、ただ、釘を刺しつつ言う。
﹁いって、も、いい、が、おまえ、やくそく、でき、るか?﹂
﹁何をだ?﹂
192
﹁おれ、の、なを⋮⋮ほか、のやつ、にいわ、ない⋮⋮ことを、だ﹂
旦那
としか呼ばねぇ。旦那の名前を誰かに
﹁どうしてそんなに秘密にしたいのかはわかんねぇが⋮⋮分かった
よ。旦那のことは、
聞かれても、言わねぇ。それでいいか?﹂
﹁あぁ⋮⋮では、いおう。おれ、のなは⋮⋮レント。レント、ファ、
イナ、だ⋮⋮﹂
それを聞いたとき、ロリスの顔は少し驚いていたが、すぐに、
﹁わかったぜ。旦那。ありがとうよ。じゃあ、また今度、うちに食
いに来てくれ。そのときは歓迎するからよ﹂
と、自分で言った通り、俺の名前は呼ばずに声をかけてくれた。
俺もそれに頷き、それから踵を返して、街に向かって歩いていく。
◇◆◇◆◇
正直なところ、ロリスに家族がいたのは残念だった。
もしかしたら、嘘をついていて、家族もおらず、借金もなく、た
だ、俺のことをだまそうとしているのかもしれないな、と思ってい
た。
そしてもしそうであるなら、
・・・・・・
その方がいい。
そう、思っていた。
なぜなら、俺の中の衝動が言うからだ。
193
人を食え、と。
試すのなら、悪人がいいだろう?
人をだます奴なら、問題ないだろう?
けれど、ロリスはいい奴だった。
だから、もう食べることは出来ない。
食うなら名前を知らない方がいいと思って聞かなかったくらい、
心の準備も周到にしてきたと言うのに。
残念だ⋮⋮。
ふと、そんなことを心のどこかで考えている自分に気づき、あぁ、
まずいな、と思った。
そう思いつつ、俺は歩き出す。
向かうのはロレーヌの家だ。
食べれば人の肉は美味いだろう。
血はワインのように濃厚に喉を潤すに違いない。
いや、違うだろう。
それは、ダメだ⋮⋮。
頭の中がうまくまとまらない。
194
あぁ、ロレーヌ、ロレーヌの家へ⋮⋮。
195
第28話 水月の迷宮の雑談
扉を、開く。
勝手知ったるロレーヌの家。
今の俺の塒だ。
ロレーヌの好意で、普通の宿に泊まるのが厳しい俺のために住ま
わせてもらっている家。
彼女がここに住み始めたのは、十年前にさかのぼる。
本当に昔のことだが、つい最近のことのようにも思えることもあ
る。
腐れ縁、と言ってもいいくらいに長い付き合いの彼女。
俺の何よりの友人。
そんな彼女の家の扉の鍵は、普段から開いていることが多く、今
日もやはり、開いていた。
いくらなんでも、年頃の女性の家である。
不用心に過ぎる、と思わないでもない。
しかし、それが彼女の性格なのだ。
ロレーヌは基本的に自堕落で、なまけものな生活をしている。
だから、色々なことに大雑把で、カギについてもそうだなのであ
る。
けれど、それだけが理由ではなく、彼女には戦える技能がある。
どこの誰が、銀級相当の実力を持つ魔術師を襲おうなどと考える
だろう。
彼女は分かっているのだ。
どんな暴漢が襲って来ようと、自分には滅多なことでは危険など
ないということを。
196
そう、分かっているからこその、不用心さだった。
俺もまた、ロレーヌには危険はないと思っている。
彼女には戦う力があるからだ。
だから⋮⋮だから?
そうだ。
グール
屍食鬼が入り込もうとも、大丈夫だ⋮⋮。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮レントか? 戻って来たか﹂
俺が部屋の中に入ってくる音が聞こえたのだろう。
衣擦れの音と共に、ロレーヌの理知的で、どこか蠱惑的な声が響
く。
眠そうで、けれどぶっきらぼうではなく、優しい、穏やかな声だ。
俺はそれにいつものように、答える。
﹁⋮⋮あ、あ⋮⋮﹂
﹁そうか。今日は︽水月の迷宮︾を見てくると言う話だったが、ど
うだ。いたか、︽龍︾は?﹂
﹁⋮⋮い、や⋮⋮﹂
世間話に返答しながら、俺は徐々にロレーヌに近づいていく。
進んでいくと、ソファに寄りかかる様に座るロレーヌが見えた。
視線が目に入ると、彼女は膝の上に分厚い本を置いて、それに目
もくれずに、優しげなまなざしで、俺を見ていた。
197
グール
不思議な感覚がした。
だって、俺は屍食鬼なのに。
人間ではなく、人の敵だ⋮⋮。
それなのに、彼女は⋮⋮。
﹁⋮⋮? レント。どうかしたか⋮⋮? 口数が少ないように思う
が。やはり、︽龍︾がいなくてショックだったか?﹂
﹁⋮⋮そん、な、ことは、ない⋮⋮お、れは、う、れ、しい⋮⋮﹂
そう言いながら、俺は、ほぼロレーヌに、あと一歩のところまで
たどり着いていていた。
手を伸ばせば、触れられる。
そんな距離だ。
ぼんやりとロレーヌの顔を見つめる。
相変わらず髪は適当にまとめているし、服装もローブを大雑把に
身に付けているだけだ。
けれど、それでも隠しきれない魅力が感じられる⋮⋮。
魅力⋮⋮どんな魅力だ?
それは⋮⋮。
ロレーヌはそんな俺に、尋ねる。
﹁嬉しい? なにかいいことでも﹂
そして、彼女が最後まで言葉を言い切る前に、俺は彼女を抱きし
めた。
◇◆◇◆◇
198
﹁⋮⋮!? れ、レント⋮⋮一体、何を⋮⋮? 酔っているのか⋮
⋮? いや、不死者が酔うはずは、ないか⋮⋮﹂
いつもより上気したような声で、自分に言い聞かせるようにそう
呟く彼女は、どこかいつもより可愛らしい気がした。
肌が少し赤みを帯び、汗がにじんで、埃っぽい空気の中にロレー
ヌの香りがふわりと匂う。
俺はその香りに、くらくらとしたものを感じながら、ロレーヌを
抱きしめたまま、言う⋮⋮。
﹁ろ、れーぬ⋮⋮おれは⋮⋮﹂
﹁あ、あぁ⋮⋮なんだ、レント﹂
何かを、言おうとした気がした。
大事なことをなにか。
けれど、その思考は、少しずつ何かに塗りつぶされるように消え
ていく。
視界が赤く染まっていき、頭の中に満ちるのは混乱だった。
そして、ロレーヌの香りに、俺が感じた感情は、
︱︱美味しそうな匂いだ。
そう思うと同時に、俺は口を開き、ロレーヌの肩にかかったロー
ブをずらして、その白い肌に歯を立てていた。
﹁⋮⋮ッ!?﹂
ロレーヌはしかし、悲鳴は上げなかった。
声にならない声を、喉の奥に飲み込んだような。
199
体は強張って、痛みに震えているようだったけれど、それでも叫
んだりはしなかった。
叫べば、外に聞こえるだろう。
そして、誰かがやってくるはずだ。
都市マルトの治安は悪くない。
何か事件の気配があれば、誰かしらの介入はある。
それが分かっていての行動だろう。
そうだ、ロレーヌは痛いだろうに、我慢している。
そのことが、彼女の肉をより上質の味にしているような気がして、
俺は歯をさらに彼女の肩に食い込ませる。
すると、じわり、と血が染みてきて、俺の喉を潤した。
あぁ、なんておいしいのだろう。
こんな飲み物を、俺は今まで一度たりとも口にしたことはなかっ
た。
昔呑んだ二十年物の古酒が泥水だったかのようにすら感じる甘美
な感覚。
もっと、飲みたい。
もっと、もっとだ⋮⋮。
そう思って、俺はロレーヌの血を、吸う。
﹁⋮⋮うっ、あ、れん、と⋮⋮お前⋮⋮﹂
ロレーヌの声が聞こえるが、しかしやめる気にはならない。
それに、思う。
血がこれだけ美味しいのなら、その肉の味はどうか、と。
それこそ、この世のものとは思えない味がするかもしれない、と。
200
俺は、歯の力を強め、そして⋮⋮。
︱︱ぶちり。
﹁⋮⋮あぁっ!?﹂
ロレーヌの肩の肉を、食いちぎった。
量はわずかで、それこそ小指の爪の先ほどだ。
けれど、その味はやはり、想像した通りの素晴らしさで⋮⋮。
何度となく咀嚼し、味わう。
ずっと、これだけを口に含んでいてもいい。
そう思えるような味だった。
しかし、やはり量が少なかったから、すぐにその幸せは通り過ぎ
る。
飲み込むと、また、喉の渇きがやってきた。
潤さなければならない。
そう思って振り返ると。
﹁⋮⋮れん、と⋮⋮。お前は、まだ、そこに、いるのか?﹂
ロレーヌが、肩から血を流しながら、俺をまっすぐに見つめてそ
う尋ねた。
⋮⋮?
レント。
それは、俺の名だ。
ここに俺がいるのかって?
どういう意味だ。
俺はここにいるだろう。
いるさ。
201
だから、お前の、血をくれ。
一瞬だけ、立ち止まり、それから俺はまた、ロレーヌに向かって
襲い掛かる。
しかし、ロレーヌは俺の反応に頷いて、
﹁まだ、いる、らしいな⋮⋮ならば、今は眠れっ⋮⋮!﹂
そう叫び、手のひらを向けてきた。
魔力がロレーヌの手のひらの先に収束しているのを感じた時には
もう、手遅れで。
そこから俺に向かって、火炎の弾が放たれる。
その威力は流石、銀級クラスの魔術師であり、俺は吹き飛ばされ、
そしてそのまま壁に思い切りぶつかった。
それから、ずるずると地面に倒れていき⋮⋮意識が遠くなってい
く。
そんな俺の元に、ロレーヌが慌てて駆け寄ってきて、俺の頬に手
を当て、
眠り
の魔術を唱えた。
﹁⋮⋮よし、生きているな。とりあえず、謝罪は起きてから聞くぞ﹂
そう言ってから、今度は
意識が遠くなるのが早まる。
完全に意識が消える前、俺の耳に、ロレーヌの言葉が聞こえた。
﹁⋮⋮これは覚えていなくてもいいが、襲い掛かるのなら、せめて
素面のときにしてくれ。いつ食われても構わんのだ、こっちは⋮⋮﹂
202
空耳かな、これは。
遠くなる意識の中で、俺はそんなことを思った。
妙な力が、体に満ちるのを感じながら。
203
第29話 水月の迷宮の後の、和解
なんだか、体が重いな。
妙な感じがする⋮⋮。
いや、というか、俺はどうしたんだ。
いつ眠って⋮⋮。
そこまで考えたところで、意識が徐々に覚醒してきた。
瞼の裏に光を感じ、そして俺は目を開いた。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮起きたか。レント﹂
目の覚めた目に入ってきたのは、勝手知ったるロレーヌの家の天
井だ。
続いて、彼女の声が耳に入ってきて⋮⋮あぁ、そうだったな、と
フラッシュバックのように色々な出来事が脳裏を通り過ぎた。
俺は現状をある程度把握して、口を開く。
﹁あぁ⋮⋮わるかった、な⋮⋮あたまが、だいぶ、こんらんしてい
て⋮⋮﹂
﹁いや? 気にするほどの事でもない。が、謝罪は受け取っておこ
う。それよりも今のお前の状態の方が大事だ。今は⋮⋮何かおかし
なものに支配されてはいないか? なにか妙な衝動はないか?﹂
ロレーヌがそう尋ねてきたので、俺は首を振る。
204
特になにも感じない。
いや、多少、部屋の中に香る血の匂いに食欲のようなものをそそ
られる感じはあるが、あの時のような、目の前が真っ赤になったか
のような強烈な渇望は、今はもうなかった。
ロレーヌのはそんな俺に頷いて、肩に手を置き、語る。
﹁そうか⋮⋮ならば、いい。それと、繰り返すようだが、気に病む
ことは無いぞ。あれは不幸な事故だった。そういうことで、処理し
ようと思っているからな⋮⋮それと、どこまで覚えている?﹂
再度謝ろうとする俺に、ロレーヌは制止するように手のひらを差
し出してそう言った。
そう言わなければ、俺がいつまでも謝り続ける、ということを分
かっているからだろう。
昔からの中というのは、心の仲まで手に取る様に理解されている
ようで、少しくすぐったいような気持ちもするが、こういうときは
ありがたかった。
俺と、ロレーヌの間に、遠慮は必要ないだろう。 だから、彼女の言葉は額面通り、素直に受け取り、あまり気にし
すぎることは無いようにしよう、と思った。
もちろん、今すぐ完全に忘れ去ると言うことは出来そうもないが
⋮⋮時間が解決してくれるはずだ。
とりあえず、今はロレーヌの質問に答えよう。
どこまで覚えている、だったか。
どういう意味の質問だだろうか。
たしか、俺はロレーヌを見た途端、目の前が真っ赤になって⋮⋮
それから、襲い掛かったはずだ。
あとは⋮⋮ええと、なんだったか⋮⋮。
205
ダメだ。
色々と記憶が怪しい。
夢中だったというか、興奮しすぎて、色々とタガが外れていたよ
うな感覚がある。
理性的な判断は何一つできなかった。
そんなようなことをロレーヌに言えば、彼女は納得するように頷
き、
﹁概ね、そんなことだろうとは思っていた⋮⋮あれは普段のお前と
は違ったからな。そもそも、ある程度予想していたことでもある。
驚きもそれほどではなかったから、私も対応できた﹂
こうして俺がソファに寝転がらせられてる時点で、何がどうなっ
たかは大体わかってはいたが、改めてロレーヌに説明を求めると、
彼女は、
﹁そんなに長い話でもない。帰宅したお前が突然、襲い掛かって来
たから、魔術で吹っ飛ばしたというだけだ。いい的だったぞ? 普
段のお前ならまず、当たらなかっただろうが⋮⋮﹂
そうだろうか?
ロレーヌはこれで結構な実力者だ。
昔ならいざ知らず、今では単独で迷宮探索も余裕でこなせる。
そんな彼女の魔術を俺が易々と避けられるとは思えない。
そう言うと、
﹁私も万全だったらそうだったかもしれんがな。それなりに慌てて
はいたのだ。私は普段、魔物と相対するときはそれほど近い距離に
はいかず、遠距離から確実に潰していくことを考えて動くタイプだ
206
からな。あれほど近いと⋮⋮魔術の選択も難しかった。咄嗟に放て
たのは魔力を大量に込めて圧縮することで一撃の威力を上げる苦肉
の策で⋮⋮まぁ、一応うまくはいったみたいだが﹂
彼女なりに、動揺はしていたようだ。
顔立ちが常から冷静そうに見えるため、そこまでの動揺をするよ
うには見えないが、知り合いが唐突に暴れ出したのでは流石の彼女
も普段通りとはいかなかったということだろう。
彼女はそれから、俺に、気づかわしげに言う。
﹁⋮⋮今更だが、体の方に問題はないか? 威力は調節したつもり
だが、手加減など滅多にしないからな⋮⋮何か致命的な傷などは⋮
⋮?﹂
言われて、改めて体の動きを確認してみるも、問題はなさそうだ
った。
むしろ、調子はいいような気がするくらいだ。
そう言うと、ロレーヌはほっとしたように、
﹁それなら、よかった。しかしそうはいっても病み上がりには違い
ないだろうからな。今日のところは休んでいろ。私はとりあえず部
屋を片付けねば⋮⋮つッ!﹂
周囲の、いつも以上に家具やら本やらが散らかっている部屋の惨
状を見回し、そう言って立ち上がろうとしたロレーヌ。
しかし、肩を抑えて、顔をしかめてよろめく。
俺は、それが何か分からないほど察しは悪くはない。
俺がつけた傷なのだろう。
俺は体を起こし、彼女の体を支える。
207
﹁⋮⋮おっと、悪いな、レント﹂
言いながら、すぐに体を離して一人で立とうとするロレーヌに、
俺は、
﹁ちょっと、みせてみろ⋮⋮﹂
そう言って、抑えている肩を覆うローブをずらした。
ポーシ
すると、そこには乱暴に包帯がぐるぐると巻かれていて、血が染
みだしている。
明らかに適当な処置しかしていない。
治療院には行っていないようで、なぜかと聞けば、
ョン
﹁こんな傷を見せたら理由を聞かれるだろう。なに、あとで回復水
薬でも作るさ。昨日、在庫は魔法薬屋に卸してしまってあいにく切
れているが⋮⋮このくらいの傷、すぐに直せるだけのものは、すぐ
に作れるだろう⋮⋮﹂
そう言って、片付けの方を優先しようとするので、俺はそれを止
めて言う。
﹁おれに、やらせてくれ﹂
ポーション
もちろん、治療を、ということだ。
俺には聖気がある。
これくらいの傷なら、回復水薬などなくても何とかなるはずだ。
ロレーヌもそれは分かっているようで、けれど逡巡するように言
う。
﹁だが、お前、体は⋮⋮﹂
208
どうやら俺が本調子ではないだろうと心配して言ってくれている
ようだった。
しかし、そんなものは問題ではない。
ポーション
それよりも、ロレーヌの傷を治す方が大事だ。
そもそも、回復水薬で治すと言うが、あれは傷の程度やつき方に
よっては傷跡になりやすいと言われている。
怪我自体が治ることは間違いないのだが、安物だと肌の色合いが
ポ
微妙な変わって目立つことも少なくなく、女性冒険者は高くても質
のいいものを使おうとする傾向にある。
ーション
ロレーヌはそう言ったところ頓着しないから、このまま自分で回
復水薬を作って治すつもりなら、それこそ治ればいいという気持ち
で適当な調合をするだろう。
結果、傷が残ることになるかもしれない。
俺のせいで。
それは申し訳なかった。
そう思って、俺がロレーヌの肩に手を当てると、彼女は仕方がな
いな、という顔で俺の治療を受け入れる。
﹁⋮⋮聖気の治療など、初めて受けたが⋮⋮心地いいものだな。温
かいよ⋮⋮﹂
自分自身の傷を治したことがないから、どういう感じなのかは分
からないが、痛くないのであればよかった。
ポーション
ロレーヌの肩には俺の歯型と、おそらくは食いちぎられたであろ
う乱暴な傷が残っていて、やはり回復水薬では傷が残っただろう。
かなり気合を入れて聖気を発していることもあり、少しずつ、治
っていく彼女の肩の傷は、周囲と同じく真っ白で、滑らかな状態へ
と蘇っていく。
209
そして、傷が完全に消えたことを確認し、そこを撫でるように触
れ、痛みがないか聞くと、ロレーヌは、
﹁⋮⋮全くないな。聖気の治癒術というのは、よほど高性能なよう
だ⋮⋮﹂
と言い、それからぼそりと、
﹁傷物になった、とは言えんな⋮⋮﹂
と微妙にがっかりした様子で呟いた
俺が首を傾げると、ロレーヌは、首を振って、
﹁いや、何でもない⋮⋮ん?﹂
と、何かに気づいたように俺の顔を見る。
それから、ロレーヌは、
﹁おい、レント⋮⋮仮面が、ずれていないか?﹂
そう言った。
210
第30話 水月の迷宮の成果
﹁⋮⋮ちょっと待ってくれ。たしかこの辺に鏡が⋮⋮﹂
ロレーヌがそう言って周囲を漁り始める。
彼女も無頓着に過ぎるところがあっても女の端くれ、鏡くらいは
持っているということらしい。
そして、
﹁ほれ、見てみろ⋮⋮いや、ずれているというのは正確ではないか
もしれんが⋮⋮﹂
ロレーヌが俺の前に差し出した鏡を見てみると、確かにそこには、
仮面の位置が変化した俺の顔が映っていた。
いや、仮面の位置が、どころではない。
︱︱仮面の形が変わっている。
顔の全体を覆っていたはずの仮面が、今は上半分だけを覆ってい
て、口元はむき出しの状態だ。
しかも。
﹁⋮⋮はだ、が﹂
ぼんやりとした声で俺がそう言ったのを、ロレーヌは頷き、
﹁あぁ、そうだな。いろいろあって言いそびれたが⋮⋮レント。お
前、見た目が変わっているぞ﹂
211
そう言ったのだった。
◇◆◇◆◇
その後、色々確認してみたところ、俺の容姿はかなり変わってい
た。
もちろん、仮面の形が変わった、というだけでない。
ローブを脱いで体を見てみると、未だに枯れてはいるようなとこ
ろはあるが、健康的に見えるところも出てきていた。
生前の体の、ところどころが虫食いのように枯れている感じ、と
言えば分かるだろうか。
これなら人に体を見せても、古傷が多い、で済むかもしれない。
グール
まぁ、それにしては傷が大きすぎる、といわれるかもしれないが、
即座にお前は屍食鬼だろ、とは言われないだろう。
顔は⋮⋮。
グール
仮面のなくなった下半分については体と同じようになっている。
それでも、体よりは化け物感が強いと言うか、屍食鬼っぽい。
健康的に見える部分もあるが、一番重要な口周りが結構酷い。
歯茎むき出しというか⋮⋮骸骨感があるというか。
これは隠さないとダメそうだな⋮⋮どうにかならないものか。
そう思っていると、
﹁⋮⋮お、おい!﹂
ロレーヌがそう声を上げた。
どうしたのか、と思っていると、鏡の中、顔の上半分を隠してい
た仮面が融けるように動き出し、今度は顔の全体を覆った。
212
いつも通りの、骸骨仮面姿である。
⋮⋮どういうことだ?
﹁⋮⋮レント、その仮面、ただ呪われているだけではなさそうだな
?﹂
ロレーヌが興味深そうな視線を向けてそう言った。
確かに、こんな妙な動きをする仮面は、ただの仮面ではないだろ
う。
まぁ、呪われている時点でただの仮面ではなさそうだが。
ロレーヌは仮面を観察しつつ、
﹁⋮⋮今、その仮面の形が変わった時、お前、なにかしたか?﹂
と尋ねてきたので、歯茎むき出しはダメそうだな、どうにかなら
ないかな、と考えたと言った。
すると、
﹁ふむ。お前の意志に従って変化したということか? ⋮⋮意思あ
る道具か。珍しいな﹂
意志ある道具
それは、魔剣などに代表される、持ち主を自身で選ぶ武器などの、
非常に特殊な無機物のことだ。
迷宮で発見される場合が多く、現代では作ることは困難だと言わ
れるそれは、珍品であると同時に、名品であることが多い。
俺のつけているか面もその類ではないか、とロレーヌは言ってい
るわけだ。
しかし、これはリナによれば銅貨何枚かで買ったものだぞ。
213
いくら何でも意志ある道具にしては安すぎではないだろうか。
そう、ロレーヌに言えば、
﹁呪われていたんだ。さっさと手放したくてその値段設定だった可
能性が高い。それか⋮⋮その仮面には人の意識を操る力があるとい
うことも考えられる⋮⋮﹂
と不気味なことを言う。
呪われて外れないのはもう仕方がないが、意識まで操られてはた
まったものではない。
ただでさえおかしな存在になってしまったので。
せめて自分の意思で動くくらいさせてほしい。
とは言え、これをつけてから今に至るまで、すべて俺の意思に基
づく行動だったのか、と言われると⋮⋮かなり怪しい気もするが。
ロレーヌに襲い掛かったことだしな。
ロレーヌは仮面の観察を続ける。
﹁⋮⋮お前の意思に従って形を変えたということは⋮⋮ふと思った
んだが、もしかしたら、もう外れるんじゃないか?﹂
思いついたようにそう言われて、なるほど、と思った俺は、改め
て外れろと考えてみる。
しかし、仮面はまるで外れる様子はなかった。
﹁引っ張ってみてもいいか?﹂
﹁あぁ⋮⋮﹂
ロレーヌが宣言通り、仮面の両端を持って引っ張るも、やはりく
214
っついたように離れない。
ロレーヌが非力、ということはないだろう。
たしかに男よりは力がないだろうが、これで一応冒険者の端くれ
でもある。
普通よりは体力があるほうだ。
つまり、まだ仮面は俺に引っ付いて離れない、ということだ。
﹁ダメだな。もう一度、形を変えるように念じてみてくれるか?﹂
頷いて、頭の中で仮面の形状を考えてみる。
すると、やはり仮面は顔の上半分だけを覆うように変化した。
﹁他の形状には?﹂
言われて色々と試してみて、明らかになったのは、仮面は全部で
大まかに言って三つの形状に変化する、ということだ。
全体を覆う形、顔の上半分、下半分のそれぞれを覆う形だ。
それ以外も出来ないこともないが、基本的にそれ以外は出来ない
ようで、装飾や模様が変えられるくらいのものだった。
アンデッド
﹁⋮⋮形状は変えられるが、外れることは無い、か。微妙な結果だ
な。まぁ、悪くはないのかな? なにせ、お前の顔はまだ、不死者
寄りだ﹂
ロレーヌがそう言って頷く。
実際に彼女の言っていることは正しく、俺の顔の下半分について
は人にさらすのは難しいだろう。
体も全体を見せれば、やはり動いているのはおかしい、という形
状をしている。
なにせ、ただの傷ではなく、明らかにえぐれて骨が見えているよ
215
うな部分もあるのだ。
血がまるで出ないのはおかしい、ということになる。
ただ、そういったところを隠せば、今までよりはずっといいだろ
う。
パッと見なら十分人間に見える、そういう容姿をしているからだ。
それに⋮⋮。
﹁⋮⋮こえは、へんじゃないか?﹂
﹁あぁ。大分流暢になっているな⋮⋮少し違和感を感じるところも
ないではないが、慣れの問題かな?﹂
﹁わからないが⋮⋮たしかに、しゃべりやすくなっているな﹂
これは非常にありがたいことだ。
しかしそれにしても急にどうして⋮⋮と疑問を感じたところで、
あぁ、と思った。
﹁そんざい、しんか、したのか﹂
俺が自分の現状にぼそりとそう呟くと、ロレーヌも頷いて、
﹁おそらくはそういうことだろうな。迷宮で魔物と戦ってきたから
か﹂
水月の迷宮に行くことはロレーヌにも言っていた。
だからこその推測だろう。
しかし俺はこれに首を傾げる。
﹁それは⋮⋮どうなんだろうな。たしかに、まものとはたたかった
216
けど⋮⋮ぐーる、になったときは、まものをたおした、ちょくごに
しんか、していたから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮それに比べると、お前は少なくともこの家に帰って来た後に
進化しているから、今までとは違うということか⋮⋮私を倒したか
ら存在進化したとか?﹂
﹁いやいや⋮⋮たおしてないだろう﹂
﹁そうだな。むしろ私が倒したと言ってもいいくらいだ。あとは⋮
⋮あぁ、私の血と肉を口にしたか。あれが原因かもしれないな?﹂
と、ロレーヌは驚くべき説を口にする。
俺が目を見開いていると、彼女は、
グール
しき
﹁いや、それほど突拍子のない話でもないぞ。今のお前の姿を見る
レッサーヴァンパイア
と⋮⋮屍食鬼というよりかは、吸血鬼の眷属であるとされる屍鬼に
似ている。下位吸血鬼のさらに下の魔物だが⋮⋮﹂
217
第31話 屍鬼への説明
﹁しき、か⋮⋮﹂
しき
しき
ヴァンパイア
屍鬼と言えば、そこそこ強い魔物であるが、あまり目にすること
は無い。
ヴァンパイア
ロレーヌの説明した通り、屍鬼というのは吸血鬼の眷属であるた
しき
ポップ
め、吸血鬼が作らなければ発生しないと言われているからだ。
ヴァンパイア
ポップ
レッサーヴァンパイア
それを証明するように、迷宮に置いて屍鬼が湧出することはまず
なく、吸血鬼関係で湧出するのは下位吸血鬼からである。
かなり珍しい魔物なのだ。
ヴァンパイア
とは言っても、誰も見たことがないとかそういう極端なことはな
ヴァンパイア
く、吸血鬼が生息する地域では間間、確認される。
しき
ただそれは、人が吸血鬼に噛まれることによってそうなった、と
いうだけで、もともと屍鬼として生まれるわけではない、とされて
いる。
しき
﹁あぁ。私は屍鬼の討伐依頼については何度か受けたことがあるか
らな。そのときに見たものとお前は、よく、似ている。もちろん、
その肉の抉れ具合とかは少し異なるが⋮⋮まぁ、個体差だろう﹂
ロレーヌは魔物についても詳しい学者だ。
彼女がそうである、と同定している以上かなり信ぴょう性が高い
ヴァンパイア
話だと思わざるを得ない。
しき
しかし、俺は別に吸血鬼に噛まれたわけではない。
グール
しき
それなのに、どうして屍鬼に存在進化しているのか。
そもそも、屍食鬼から屍鬼への存在進化というのは、普通に行わ
218
れているものなのか。
その辺りについては疑問を感じるので、俺は尋ねる。
﹁⋮⋮そんざいしんか、で、なれるものなのか?﹂
しかし、これについては、ロレーヌをしてもよくわからないよう
だった。
ゆるゆると首を振って、
﹁言っただろう。存在進化については未だ研究は道の途上だと。通
常のそれすらよくわかっていないのだ。かなり特殊な⋮⋮おそらく
は特殊だと思われるお前のような存在の進化について、そう易々と
答えを出せるはずもない﹂
そう言った。
確かに、それはそうだろう。
本人ですらよくわかっていないのだ。
それが簡単に分かるはずもない。
が、それでは困るのである。
俺はそう思って頭を抱える。
それを確認したロレーヌはそれを見て、俺を不憫に思ったのか、
続けた。
﹁まぁ⋮⋮しかし、私もお前が迷宮に行っている間、ずっと遊んで
いたわけではない。色々と考えたことはある。それくらいなら話せ
るが、それでもいいか?﹂
そんな風に。
もちろん、断るはずがない。
219
ロレーヌのそう言った仮説の有用さは、この十年の付き合いで十
分に分かっている。
ぜひ話してくれ、と俺は彼女に頼んだ。
﹁よし、ならば語ろう⋮⋮まぁ、お前が断っても勝手に話すのだけ
どな﹂
そう言って笑うロレーヌ。
﹁どこから話したものか、という気がするが⋮⋮とりあえずは、お
スケルトン
前の進化についての話から話した方が分かりやすそうだな。私は見
ていないが、レント、お前、はじめは骨人だったんだったな?﹂
﹁あぁ⋮⋮みせてやりたかったくらいだが、もどれるわけじゃない
からな。ただ、どうみても、すけるとん、だったぞ。じぶんのほね
をじぶんでみながらするせいかつは、しゅーる、だったな⋮⋮﹂
思い出しながらしみじみと語る俺に、若干呆れた顔をするロレー
ヌだが、すぐに気を取り直して続ける。
グール
﹁それで、そこから屍食鬼になった、と﹂
﹁ああ。ぐーるすがたは、ろれーぬ、も、みてるからわかるよな﹂
﹁あぁ⋮⋮最初に見た時は妙な気分になったが、興味深くも思った
スケルトン
グール
⋮⋮。と、私の感想はいいか。それよりも、進化についての考察だ。
お前、骨人から屍食鬼になるのがそもそもおかしい、とは思わなか
ったのか?﹂
﹁ん⋮⋮?﹂
220
ふっと投げかけられた質問に、俺は首を傾げる。
ロレーヌはそんな俺の様子に、質問の意味が理解できていないな、
という目を向けて、説明する。
﹁つまりだ。存在進化、というのは、簡単にいうなら、ある魔物が、
より上位の存在に変化する、という現象のことを言うだろう。本当
グール
は違うかもしれないが、一応そのように定義されている。ここまで
はいいな?﹂
﹁あぁ﹂
スケルトン
スケルトン
グー
﹁それで、よく考えてみろ。骨人の上位存在とは、屍食鬼だけなの
か?﹂
﹁ええと⋮⋮﹂
言われてみると、少し奇妙な感じがした。
ル
俺はこの部屋にある研究書や魔物図鑑などを読んで、骨人は屍食
鬼になる、という記述があったから、別に大した疑問を持っていな
スケルトン
かったが、改めて考えると⋮⋮。
ジャイアントスケルトン
なにせ、骨人には、そもそも色々な上位存在がいる。
スケルトンナイトスケルトンソルジャー
ついこの間戦うことになった骨巨人もそうだし、もっと弱いもの
スケルトン
を考えると骨騎士や骨兵士などもいる。
骨人から進化するのなら、それらになるのが常道、というか、自
然な気がする。
いや、そもそも魔物の存在進化って自然なのかという新たな疑問
も生まれてくるが⋮⋮まぁ、それは今は置いておこう。
とりあえず、思ったことをロレーヌに言うと、彼女はしたり、と
頷いた。
221
・・・・・
スケルトン
グール
﹁その通りだ。確かにいくつかの研究所には骨人から屍食鬼へと存
在進化することもあると書いてあるのは事実だが、それが絶対とい
う訳でもないのだ。というか、そういう現象を見たことがある者が
いるというだけで、それが本来的な存在進化なのか、それとも例外
なのかすら分からんというのが正直なところだな⋮⋮﹂
﹁つまり?﹂
﹁⋮⋮ありていに言えば、何も分からん、ということだな﹂
ありていに言いすぎだろ、と思ったのが伝わったのか、ロレーヌ
は、続けた。
しき
﹁⋮⋮しかしだ。今回お前が屍鬼になったということも含めて考え
ると、こうかもしれない、という推測はなりたつ﹂
﹁それは?﹂
﹁魔物の存在進化は、その魔物がなりたい、と考える方向に進むも
のではないか、ということだ﹂
スケルトン
グール
それは⋮⋮わからないでもない話だった。
そもそも、俺が骨人から屍食鬼になったとき、俺はそうなりたい
しき
とずっと考えていた。
屍鬼になったときも⋮⋮見た目上は人間に見える吸血鬼になりた
いと思っていた。
そういうことだろう、というわけだ。
ただ、疑問があるとすれば⋮⋮。
222
﹁⋮⋮なぜ、ぐーる、から、しき、になったんだ? ばんぱいあ、
になってもよかったのに﹂
そもそも俺はそうなりたいと思っていたのだから、なれるものに
なれるというのならそうなるべきではないか。
ランク
しかし、これについて、ロレーヌは明確な回答をくれる。
ギルド
﹁それは冒険者組合の階級などと同じなのではないか? どんなに
実力があっても、いきなり鉄級から金級まで飛び級は出来んだろう。
そもそも、実力がなければなれないしな﹂
そのたとえに、俺は、
﹁⋮⋮だんかいを、へる、ひつようが、ある⋮⋮?﹂
﹁今のお前の状態を見るに、そうなのではないか、と思う。サンプ
プチ・スリ
ルが少なすぎて本当にただの仮説だがな。一応の裏付けとして、最
近行われた小鼠の進化実験があるが﹂
プチ・スリ
小鼠とは、どこにでもいる小さな鼠型の魔物で、捕まえるのも容
易なものだ。
場所によって様々な属性を帯びた上位個体がいることでも有名な
魔物である。
それで実験が行われたことがあるらしい。
ロレーヌは続ける。
プチ・スリ
﹁簡単な実験だ。数匹の小鼠をカゴに入れて、火山地帯や水辺、森
林や、洞窟などで育てる、そんな実験だ。その結果だが、それぞれ
面白いことになったようだ﹂
223
プチ・スリ
フゥ・スリ オー・スリ ヴァン・スリソル・スリ
詳しく聞くと、小鼠たちはそれぞれ、火鼠、水鼠、風鼠、土鼠に
進化していたらしい。
どのカゴも、一匹ずつしかいなかったようだが、その理由は今の
プチ・スリ
俺には分かる。
小鼠同士で戦い、お互いの力を吸収しあってしまったからだろう。
しかしその結果として、存在進化が確認できたわけだ。
ロレーヌは言う。
﹁もちろん、これだけで私が言ったような話にはならないだろう。
ただ環境に適応した、ということかもしれないからな。しかしそれ
が受動的に進化した、というわけではなく、そうなりたいと魔物自
身が考えたことによって起こったのなら? 論理の飛躍かも知れな
グール
いが、お前のことを考えるに、その可能性はあると思った。なにせ、
お前が水月の迷宮の環境に適応するために屍食鬼になった、とは説
グール
明しがたいからな。それならば、意思に基づいて、の方がまだ理解
できる。事実として、お前は屍食鬼になろうと考えてた。説得力は
なくはないだろう⋮⋮もちろん、絶対ではないがな﹂
224
第32話 屍鬼の現状
﹁⋮⋮ばんぱいあ、になるためには、このままがんばればいい、っ
てことか?﹂
俺がロレーヌにそう、尋ねる。
ロレーヌの説明が正しいとするのなら、基本的に、ヴァンパイア
になりたい、と考えながら魔物の力を吸収し続ければいずれはなれ
るだろう、ということになるからだ。
しかし、これにはロレーヌは意外にも首を振る。
﹁必ずしもそうだとは言い切れないな⋮⋮いや、方向性としては間
違っていないが、それだけでは出来ない可能性もある﹂
﹁⋮⋮どういう、ことだ?﹂
﹁ここで今回のお前の存在進化が問題になるんだ。ただ魔物を倒し
ジャイアントスケルトン
ていれば存在進化できる、というのならお前は迷宮でそうなってい
たはずではないか?﹂
ロレーヌの質問に、確かに、と思う。
魔物を倒し、その力を吸収するだけでいいのなら、あの骨巨人を
倒した時点で得られた力は相当に大きかったのであるから、あそこ
で進化出来ていてもよかった。
もしかしたらそれだけでは力が足りなかった、という可能性もあ
るが、あのあと俺は普通に街に戻ってきたのだ。
帰路では、せいぜい数体の魔物を倒したくらいだが、その際にも
存在進化できておらず、こうなれたのは、ロレーヌと一悶着あって、
225
気絶してから目覚めるまでの間だ。
魔物をただ倒したことによる存在進化ではない、というのはなん
となく予想がつく。
なるほど、それでさっきの話か⋮⋮。
﹁ろれーぬの、ち、と、にく、をくちにしたことがげんいん、とい
うのは⋮⋮﹂
﹁そうさ。今回、お前が存在進化出来たのは、それをしたから、と
いうことじゃないかと私は考えたわけだ。まぁ、細かいところはや
はり分からんが、魔物の存在進化には、条件がある場合がある、と
いう推測が成り立つ。なにせ、お前は事実として魔物を倒すだけで
は進化出来なかったのだからな﹂
だから、ヴァンパイアを目指すにしても、ただ魔物を倒すだけで
はダメかもしれない、というわけだ。
それにしても、なぜ、ロレーヌの血と肉で進化出来たのか⋮⋮。
しき
それについて尋ねると、ロレーヌは、
ヴァンパイア
ヴァンパイア
﹁それも難しいところだが⋮⋮屍鬼というのはそれで一応、低級な
吸血鬼の一種だからな。吸血鬼は吸血をすることによって、相手の
し
魔力や気の力を体に取り込んでいる、と言われている。それをしな
き
ければ死ぬという訳ではないが、徐々に弱体化していくらしい。屍
鬼も同じなのではないか⋮⋮つまり、人の血を取り込むことで、力
を得ることが出来る、と﹂
﹁にく、は?﹂
グール
﹁そちらはむしろ屍食鬼の方の衝動だったのでは? あのとき、お
前は大分、正気を失っていたが⋮⋮それほどまでに強い衝動だった
226
グール
のだろう? 屍食鬼だったとき、あの時以外で、本能というか、そ
ういうものを感じたときはなかったのか?﹂
言われて考えてみるに、地味に人の肉を食べたいなぁ、とかは恒
常的に考えていた気がする。
いや、だめだろ、と自分で自分にツッコミながら我慢していたが、
そんなにどうしても、という感じでなく、軽い衝動だったから出来
たことだ。
しかし、魔物と戦い、徐々に強くなってくるにしたがって、衝動
もまた強くなっていった。
レストランの男、ロリスと出会ったあの時は、そんな衝動がかな
ジャイアントスケルトン
り強くなっていた時期だ。
骨巨人を倒した後は、我慢がほとんど利かないほどに、強力なも
のとなっていた。
そんな話をすると、ロレーヌは頷き、
﹁魔物と言えど、エネルギー摂取は必要ということかもしれないな。
食わなければという本能が強く働いたのかもしれん。そして、私の
ところに来た時点で、それが爆発したと⋮⋮結果としてお前は私の
血肉を食らい、存在進化出来たわけだ⋮⋮。それが、たまたま条件
を満たしたからなのか、それとも魔物にはそう言った条件を満たそ
うとする本能みたいなものがあるのかは分からないが、概ねそうい
うところだな。だから、お前はただ魔物を倒すのではなく、その、
進化条件のようなものを考えながら努力する必要がある、と思う﹂
そう答えた。
⋮⋮と思うとは微妙な話だな、と感じるが、ロレーヌは、これに
ついて、
227
﹁⋮⋮仕方ないだろう。私だってなんでも知っているわけじゃない
んだぞ。そもそも、今言った話だってすべて仮説も仮説、妄想と言
ってもいいかもしれないものなんだからな。あぁ、もっとサンプル
が欲しい⋮⋮そうすればもっと正確なことがわかるというのに﹂
俺のような存在がそうそうたくさんいるとは思えない以上、その
ロレーヌの希望が叶う日はきっと来ないだろう。
まぁ、ロレーヌは妄想と言うが、色々と考えるにあたって十分に
参考になる話だった。
俺一人じゃ、ここまで考えることは出来なかっただろうし、そも
そもそこまで深く考えてみようとも思わなかっただろう。
持つべきは付き合いの長い、学者の友人だなと思った俺だった。
﹁ま、色々言ったが、なんにせよ、コツコツ頑張るしかないだろう
な。お前の歩いている道は人類史上、お前が初めて歩いている道な
のかもしれないのだからな⋮⋮私はそのサポートをすることにする﹂
ありがたい話である。
俺はロレーヌに言う。
﹁⋮⋮ありがとう、な﹂
﹁気にするな⋮⋮では、早速、今のお前のことを色々と調べてみる
ことにするか﹂
﹁えっ?﹂
しんみりとした空気になりかけたところで、唐突にそんな提案を
したロレーヌにおれは面食らう。
228
しかしロレーヌは、
﹁何をしている? とりあえず服を脱げ。映像水晶がここにあるか
グール
ら今の状態のお前を撮影をしておこう。あ、あとお前は食事は出来
るのか? 屍食鬼の状態で私を食った時点で何か入れることは出来
ると思うのだが、普通の食べ物にも後で挑戦してみてくれ。おっと、
それに加えてその体の一部を削って後でくれ。痛いようなら麻酔が
あるから⋮⋮麻酔は、今のお前に効くのか? 薬関係の効果の調査
もしておきたいな⋮⋮他には⋮⋮﹂
次から次へと様々な実験を提案し、そのすべてを俺にさせるつも
りらしかった。
俺はそれを聞いてげんなりとした。
普段は気だるげに過しているロレーヌなのだが、一度何かに熱中
しだすと昼夜を問わず取り組み続け、それこそ寝食も忘れて最終的
に気絶するところまでやってしまうようなところがある。
その度に、俺が身の回りの世話すべてをするような羽目になった。
ベッドに括り付けて、安静にしてろと言っても聞かずやりたいこ
とをやり続ける根性の前に毎回辟易してきたくらいだ。
今回も、その悪い病気が出た、というわけである。
ただ、彼女の提案する実験を聞いてみるに、どれも確かに必要そ
うなものばかりで、今のうちに纏めてしておいた方がいいのかもし
れないとも思った。
今の俺に薬が効くのか、は迷宮を探索する際に薬剤が効くのかど
うかにかかわってくるし、食事も出来るようであればしておいた方
がいいだろう。
いきなり腹が減って倒れるとか、栄養がとれなかったから倒れる
とかいう状態になるくらいなら、気休めかもしれないが食べておい
たほうがいい。
229
そもそも、食事自体が好きだ、というのもある。
スケルトン
グール
出来るのであればしたい。
骨人から屍食鬼になって、ロレーヌに噛み付くまでの間は、ロレ
ーヌ以外に何も口にしていないから、食べなくても大丈夫、もしく
は食べれない可能性が高いが⋮⋮試してみる価値はあるだろう。
﹁さぁ、レント。善は急げだ。早く実験を始めるぞ⋮⋮と言いたい
ところだが、今日は流石にお前も疲れているだろうから、明日から
だな。ん⋮⋮なんだその顔は?﹂
まさかあのテンションで、実験を明日に回す、などと言うとは思
わなかったので妙な顔をしてしまったらしい。
俺はロレーヌに言う。
﹁⋮⋮いや、いますぐはじめるきかと、おもってたから⋮⋮﹂
﹁私だって、たまに発揮する常識くらいあるさ﹂
たまに、なのか。
そう突っ込もうかと思ったが、まぁ、たしかにたまにだな、とす
ぐに思ってしまったので、突っ込む機会を逸してしまった俺だった。
230
第33話 屍鬼の性能
次の日。
俺の体調が概ね、もとに戻ったことを確認してから、ロレーヌ提
案の実験をいくつか行った。
まずは見た目の撮影から始まったそれは、かなり細かいことまで
やったが、俺には一体何のためにやってるのかよくわからないもの
も多数含まれていた。
学者の性で、何もかも調べないと落ち着かないのかもしれなかっ
た。
とは言え、それらの実験の中に、有用なものが全くなかったわけ
でもない。
むしろ、今までぼんやりと疑問に思っていたことのいくつかが解
消されたので、やってよかったと思っている。
ポーション
アンデッド
それでわかったことのうち、大きなものは、まず、俺が食事を出
来ると言うこと、回復水薬などの回復系の薬剤がこの不死者の体に
なぜか効果を持つということ、そして毒の類がまるで効かないとい
うことだ。
また、食事については、人の血肉以外のものも口にできるとわか
しき
ったことが大きい。
グール
正直、屍鬼になった今ですら、なんとなく人の血肉を口にしたい
という衝動は感じる。
肉についてはやはり屍食鬼の衝動だったのか、それほどでもない
が、血についてはそれなりに強い渇きを感じる。
具体的にいうと、近くの人間が流した血の匂いがすぐに分かる。
231
方角は言わずもがな、その血を流した者の、年齢や性別、健康状
態などもなんとなく分かるのだ。
これは相当だろうと思わずにはいられない。
しかも、美味しそうな匂いに感じる。
特に若く健康な娘の血の匂いに最も食欲を感じる⋮⋮。
なんだかやばいものになってしまったな、と思わずにはいられな
い。
ともあれ、こんな渇きをずっと感じていては問題である。
どうにか解消できないか、と思って色々と試した結果、通常の食
事をある程度食べるとその衝動は弱くなった。
それ以外にも、ロレーヌの血を若干分けて飲ませてもらったら、
すっと引いていった。
通常の食事だと、大体普通の成人男性の三人前程度、ロレーヌの
血であれば一滴で渇きは癒えたから、費用対効果的にはロレーヌの
血の方が良さそうだが、まさか定期的に血をくれとも言いにくいな
ぁ、と思っていると、ロレーヌは、
﹁⋮⋮この結果なら、私の血を定期的に飲んだ方が良さそうだな。
とりあえず一瓶、保存の魔術のかかった容器に入れておくから、な
くなったら言え﹂
と言って、すんなりと渡してくれた。
一瓶であるから結構な量のような気もするが、一度に飲むべきは
一滴の血である。
つまり、これだけあれば一月くらいは持つだろう。
しかし問題はないではない。
なにせ、一月に一度、この量となると⋮⋮流石にロレーヌの健康
に問題がありそうだ。
普通の食事も挟みながら、大切に飲むことにしようと思った。
232
⋮⋮しかし、普通に血を大切に飲むことにしよう、とか考えてい
るあたり、人間らしさが希薄過ぎる自分の思考に頭が痛くなってく
る。
そういう人間らしさをこれ以上失わないためにも、血だけを食事
にしたりはしないで、普通の食事もしなければならないだろう。
また、毒については弱く、即効性のあるものから順に試してみた
が、かなり強力なものでもまるで不調にはならなかった。
いざというときは、ロレーヌが毒の浄化魔術くらいなら使えるし、
最後の手段として俺には聖気があるから発動すれば毒は何とかでき
ると思っての無茶だったが、どちらも使わずに済んでしまったくら
いだ。
毒については完全に無効だと思ってもいいだろう。
﹁⋮⋮やはり、死んでいるから効かないということかな?﹂
ポーション
ロレーヌがそんなことを呟いていたが、俺にもそれは分からない。
しかしそれが理由なら回復水薬も効かないはずだ。
どちらかと言えば、毒無効の特殊体質なのかもしれない。
あらかた調べ終わると、ロレーヌは、
﹁では、私はこれから実験の結果をもとに色々と考えてみることに
する。お前は⋮⋮まぁ、言うまでもないか﹂
何をか、と言えばこれからどうするか、だが、確かに言わずとも
決まっていると言っていい。
俺のすべきことは、とりあえずせめて人間に見える状態になるこ
とだ。
233
できれば人間になりたいが⋮⋮存在進化の本質が︽望むものに近
づく︾ことだというのなら、いつか人間になれたりするのだろうか?
分からない。
ロレーヌにもその思いつきを尋ねてみるが、当然、
﹁分かるはず、あるまい⋮⋮が、まったく可能性がないとも言えな
いからな。一応の目標としてはいいのではないか?﹂
と、いう返事をもらった。
ではその方向で頑張ってみるか⋮⋮。
と決める。
暫定目標だ。
そしてそのためには迷宮に潜らねばならないが⋮⋮。
﹁⋮⋮この、けん、まだつかえると、おもうか?﹂
俺が剣を鞘から抜いてロレーヌに見せると、彼女は、
﹁⋮⋮刃こぼれが酷いな。そのままでは無理だ。修理に出す必要が
あるだろう﹂
﹁だよな⋮⋮﹂
ついこの間、渡してもらったばかりなのにもうこんな状態である。
絶対怒られるなぁ。
そう思いながらも、このままで戦うのは危険だ。
俺は覚悟を決めて、鍛冶屋にいくことにしたのだった。
◇◆◇◆◇
234
﹁⋮⋮おい、なんだコレ﹂
鍛冶師クロープがその苦み走った顔をさらに厳しくゆがめながら、
俺にそう言ったので、
﹁⋮⋮あんたの、けんだ﹂
端的にそう言った。
するとクロープは、
﹁そんなの見りゃ分かる⋮⋮俺が聞きたいのはなぁ⋮⋮﹂
ため息を吐きながらそう尋ねてきたので、これ以上誤魔化すのは
やめることにし、正直に話す。
﹁すまない。せいき、をながしたんだ⋮⋮﹂
﹁あぁ? そりゃまた⋮⋮それならこうなってもおかしくはないが、
あんた、確か︽水月の迷宮︾に潜ったんだろう? あそこで聖気を
使わなきゃならないような奴がいたか?﹂
この質問は、俺が魔力と気をある程度使えることを前提にしたも
のだろう。
つまりは、聖気を使わずともその二つの力の身で十分に対応でき
る魔物しか出てこなかっただろう、と言っているわけだ。
そしてそれは基本的には正しい。
だが、
﹁⋮⋮じゃいあんと、すけるとん、にあった。だから、しかたなく
235
⋮⋮﹂
俺の言葉にクロープは目を見開いて、
ジャイアントスケルトン
﹁あそこに骨巨人なんか出るはずがねぇ⋮⋮いや、あんたは嘘を吐
くような奴じゃねぇよな⋮⋮いったいどこで⋮⋮﹂
﹁みとうは、くいき、をみつけた⋮⋮﹂
﹁はぁっ!? あんた⋮⋮おい、それは⋮⋮﹂
驚いたが、即座に声を低めた辺り、その情報の重要性をクロープ
はよくわかっているようだ。
続けて、 ﹁⋮⋮本当か?﹂
そう尋ねてきたので、俺は無言でうなずいた。
するとクロープは、
﹁⋮⋮いやはや、変な格好で来るから何があったのかと思いきや、
そういうことがあったのか。それなら分からないでもねぇな⋮⋮ま、
いい。話は分かった。もう探索は済んだのか?﹂
分かった様なことを言うが、俺は特にそれには触れず、最後に聞
かれたことにだけ答える。
﹁まだだ。だから、できるだけはやく、けん、がほしい⋮⋮﹂
﹁だろうな⋮⋮だけどよ、流石にまだあんたのオーダーの剣は出来
236
てねぇ。今日のところはまた別の代用品をもってけ。もう少しいい
のを出してやる﹂
もしかしたら頼んだ剣がもうできていたりしないかな、と思って
来てみたところもあったのだが、やはり無理なようだ。
俺は頷いて、クロープの妻、ルカが選別してくれた魔力と気に耐
える新たな剣を受け取り、店を出た。
◇◆◇◆◇
︱︱ガンッ!
と、店を出ると同時に、何かにぶつかる。
どうやら、顔面をぶつけたようだ。
仮面がぶつかっただけなので無傷だったが、目の前を確認してみ
るとそこには男が一人いた。
白銀の鎧をまとった、騎士風の男である。
こういうタイプは居丈高なことも少なくなく、早いところ去った
方が良さそうだな、と思い、軽く頭を下げてから黙って歩き出そう
とすると、 ﹁すまない。怪我はないか?﹂
と話しかけられたので、俺は仕方なく答える。
﹁⋮⋮ああ。そちらは?﹂
﹁私も大丈夫だ⋮⋮ところで、その様子だと、貴殿は冒険者だとお
見受けするが⋮⋮?﹂
237
そう話を変えてきたので、俺は返答せざるを得なくなり、頷いて
答えた。
すると、騎士風の男は深刻そうな顔で、俺にこう、尋ねてきた。
﹁であれば、少し質問がある。この街の冒険者で、リナ、という少
女を知らないだろうか?﹂
238
第34話 屍鬼の詭弁
その名前には聞き覚えがあった。
もちろん、迷宮で俺のことを助けてくれた、あの少女冒険者だ。
今は何をしているのだろう。
あれから、俺は外出するときはいろいろ目立たないように気を付
けているため、出くわすこともなく今に至っている。
だから、彼女の現状については情報が何もない。
ギルド
果たして彼女は、ソロからは抜け出したのだろうか?
腕は悪くなかったから、冒険者組合がしっかりパーティメンバー
を斡旋しているだろうと思うが⋮⋮。
まぁ、今はいいか。
それよりは目の前の騎士風の男だ。
さらりとした金色の髪に青い瞳、精悍でさわやかなその容貌は、
まさに絵に描いたような騎士のようである。
﹁⋮⋮まず、あなたは⋮⋮?﹂
とりあえず話すにしろ話さないにしろ、その素性を確かめてから
だろう、と思って俺がそう尋ねると、その男はそうだった、という
顔つきで名乗った。
﹁これは、失礼を。私はヤーラン王国第一騎士団所属の騎士イドレ
ス・ローグという﹂
第一騎士団、と言えばヤーラン王国の騎士の中でもエリートしか
239
いないと言われる王国一精強な騎士団だ。
そこに所属するのは、有力な諸侯の子息や、才気溢れる剣士など、
どれも将来一角の人物になるだろうと思われる者ばかりで、普通の
人間はまず、所属することが出来ない。
そんな人物が、リナを探している?
なぜだろう。
気になって俺は尋ねる。
﹁そのような、りっぱなかたが、どうして、しょうじょなどを⋮⋮
?﹂
この質問に、男は逡巡したような顔を見せたが、特に隠すような
ことは無く言う。
﹁いや⋮⋮恥ずかしい話なのだが、そのリナ、という少女は私の妹
なのだ。細かい事情については恥をさらす話なので割愛するが、あ
る日、出奔してどこかへ消えてしまってな。どうやら冒険者になっ
たらしい、という話と、この都市マルトで似た娘を見かけたという
証言を得たので、やってきたのだ﹂
﹁では、りな、というのは⋮⋮りな・ろーぐ、さま、ということで
しょうか?﹂
ギルド
﹁そうなるな⋮⋮知らないだろうか? 他のところでも聞いてみた
のだが、冒険者組合は個人情報はそうやすやすと渡せないと言うし、
酒場などでは騎士は煙たがられてな⋮⋮﹂
それで、鍛冶屋など冒険者が利用しそうな店を回って、聞いて歩
いている、というわけか。
ついでに客にも、と。
240
ギルド
冒険者組合とは言え、国から要求されれば断れないだろうが、こ
ギルド
の男はそこまではせずに、ただ素直に聞いて歩いているのだろう。
ギルド
個人として聞かれれば、冒険者組合も、簡単には情報を渡さない。
そもそも冒険者組合に所属する人間の多くは脛に傷を持っている。
探られたくない過去を探るようなものが現れれば、基本的には突
っぱねるのだった。
それで、俺はどうするかと言えば⋮⋮。
﹁りな・ろーぐ、というおなまえに、ききおぼえは、ないです﹂
﹁⋮⋮そうか。残念だ。もし、どこかで見つけたら連絡をくれ。私
はしばらくはこの街に滞在している予定だ。騎士団には休暇をもら
っていてな。それほど長くはないが⋮⋮見つけて家に連れ帰りたい
のだ﹂
そう言って、自分の宿泊する宿を告げ、とぼとぼと店の中に入っ
ていった。
クロープたちにも尋ねるつもりなのだろう。
なんだか寂しそうな後姿で哀愁が漂っているが、リナのことを言
うのは本人の許可を得ていないのだからよろしくないだろう。
おそらくだが、イドレスの言ったリナ、というのは俺が会ったあ
ギルド
のリナのことで間違いないと思う。
俺はこの街の冒険者組合では古株の方で、それでいて女性冒険者
ギルド
でリナ、という名前のものはあのリナしか知らないからだ。
まぁ、俺が冒険者組合に行っていない間に新たにもう一人現れた
という可能性はないではないが、かなり低いだろう。
ただ、名前が違う、という問題があるが、十中八九、リナ・ルパ
ージュという名前は偽名であろう。
241
ギルド
冒険者組合の登録システムは非常に単純で、別に偽名であろうと
何であろうと普通に登録できてしまう。
本人の自己申告だけが頼りなのだ。
そして嘘をついていると判明しても何の処罰もない。
ただ、依頼をこなしていればそれでいい、というのが基本的な姿
勢なのだ。
もちろん、罪を犯して逃亡している人間である、と判明した場合
は素直に国や官憲に突き出すのだが、それと分からず働いている場
合も少なくない。
一目で犯罪者だと判別できない以上、仕方がないことだ。
それに、冒険者はそう言った者にとって、非常に使いやすい組織
である。
だからこそ、冒険者は胡乱な目で見られることが少なくない。
もちろん、リナがそんな奴らと同じだ、とか言う気はさらさらな
い。
ただ、名前を隠すからには見つかりたくはないということなのだ
ろう。
そう思って、俺はイドレスに聞いたことがない、と言ったわけだ。
実際、リナ・ルパージュの名前は聞いたことがあっても、リナ・
ローグについては一度も聞いたことないし、嘘ではない⋮⋮まぁ、
詭弁か。
同一人物だろうと概ね推測しているわけだし、たぶん当たってい
るからな。 まぁ、いいだろう。
俺には俺のやることがあるし、何かあるようであればそのときに
リナに助力してやればいい。
あんないかにもな騎士がこの街で何かやれば、目立つからな⋮⋮。
242
そうして、俺は歩き出す。
とりあえず、迷宮探索だな、と思いながら。
◇◆◇◆◇
向かう場所は、もちろん、︽水月の迷宮︾である。
ジャイアントスケルトン
その未踏破区域。
つまりは、あの骨巨人の出現した場所を目指して、俺は進む。
︽水月の迷宮︾はいつも通り、静かだ。
たまに戦っている鉄級冒険者にも出くわすが、彼らは必死なので
離れた位置を通り過ぎる俺の存在には気づかない。
魔力や気などの気配を発するものを出来るだけ体の奥に押し込み、
気づかれにくいようにしているというのもあるが。
昔はそんな技術など使わずとも俺の力など大したものではなかっ
たから、すこし忍び足をすれば人にも魔物にも見つからなかった。
今は、こうしなければ見つかるくらいにはなった、というのは喜
べばいいのか面倒になったのか。
まぁ、強くなったからこその悩みだし、今のところは大した問題
でもないからいいか。
魔力や気を隠すというのはそれらの力を操作する訓練にもなるし
な。
隠し通路を抜け、転移魔法陣のところに辿り着くと、俺は迷わず
それに乗る。
一度乗っているため、危険は感じない。
中には毎回同じ場所に跳ばされるわけではない転移魔法陣という
のも存在するらしいが、そこまでの意地の悪さはこの迷宮にはない
と信じたいところだ。
243
高難易度の迷宮ではそういうことも比較的よくあるらしいが、こ
こはそうではないし⋮⋮。
と、どれだけ言ってもただの希望に過ぎない話だが。
ジャイアントスケルトン
幸い、その希望は叶えられて、俺は見たことのある場所へと飛ば
された。
ジャイアントスケルト
ポン
そこは、あの、骨巨人と戦った場所であり、俺は剣を構えてそっ
と前に出る。
ップ
なぜそんなことをするのかと言えば、もう一度、あの骨巨人が湧
出しないとも限らないからだ。
ここはおそらくはボス部屋だったが、ボス部屋の魔物は一定時間
経つと復活するものと、初回のみ出現するものに分かれる。
ここがどちらなのかは、詳しい調査をしなければはっきりとはし
ないが、出る可能性がある、と思って対処しなければならないとこ
ろだ。
ジャイアントスケルト
ポン
ップ
しかし、転移魔法陣の外側に出て、どれだけ待っていても、あの
骨巨人が湧出する気配はなかった。
間隔が足りないのか、それとももう二度と出ないのかは分からな
いが、とりあえずは安心してもよさそうだと俺は剣を下げる。
とは言え、まだ鞘に戻すつもりもないが⋮⋮。
周りを見ると、何もないがらんどう。
なぜ、こんなところにもう一度来たのか、と言えばそれには理由
がある。
ジャイアントスケルトン
今、俺が降りた転移魔法陣。
これはあの骨巨人を倒した直後に出現したものだ。
俺はそれを、あのレストランの店主、ロリスが気絶している間に
探索し、見つけた。
244
しかし、だ。
俺が見つけたのは別にそれだけではなかった。
転移魔法陣は、実はもう一つあった。
ちょうど、ここに来るために載った転移魔法陣と対照の位置にあ
るそれは、おそらく別の場所につながっているはずだ。
そう、︽水月の迷宮︾は、まだ、先があるのだ。
245
第35話 屍鬼とアカシア
俺は、ゆっくりと、その転移魔法陣に乗る。
意味は分からないが、魔法陣の形は来るときのものとは異なって
いて、別の場所につながっているのだろうと想像させるものだ。
両端にどちらも同じ魔法陣が設置されていた、というオチではな
いことが分かる。
さて、鬼が出るか蛇が出るか⋮⋮。
転移魔法陣から発せられる光に包まれながら、俺は剣を構えたの
だった。
◇◆◇◆◇
ふっと、光が静まると同時に、俺は辺りを急いで見回した。
突然魔物が襲い掛かってこないとも限らないし、この転移魔法陣
がそもそも罠だったということも考えうるからだ。
しかし⋮⋮。
見渡す限り、そこに魔物も罠の類もあるようには思えなかった。
その代わりに会ったのは、ただただ雑多な部屋だ。
色々なものが朽ちて転がっている⋮⋮まるで人が生活していたか
のような、部屋だった。
いくつもの本棚が並び、また机やベッドなどもある。
ぬいぐるみも落ちていたので触れてみると、それと同時にぼろぼ
246
ろと崩れ落ちてしまったくらいだ。
相当に長い年月、ここは放置されていたのだろう、ということが
分かる。
そして⋮⋮。
部屋の一番奥、ベッドの上には、眠っているものがあった。
一夜の眠りではない、永遠の眠りについているものが。
つまりは、白骨死体である。
落ちくぼんだ眼下に光はなく、ただ天井を見て、胸に手を置いた
状態で眠っていることから、おそらくはここで息を引き取ったのだ
ろう、と思われた。
枕元には枯れた花束と思しきものが置いてあるが、これもまた、
触れるとぼろりと崩れる。
ここは⋮⋮なんだ?
誰かがここで生活していた、ということは分かるが、迷宮の深部
で、そんなことをしている者がいるとは聞いたことがない。
というか、そもそもそんなことが可能なのか⋮⋮。
分からない。
しかし、実際にこんな部屋がある時点で、少なくともこの部屋の
主には可能だったと考えるべきだろう。
だが、だから何だと言うのか⋮⋮。
宝物の類もなさそうだし、何か意味のありそうなものは⋮⋮。
そう思って冒険者らしく色々と漁ってみるが、やはり、何もない。
せいぜいが、本棚にある書物の類くらいだろうか?
247
古代語で書かれたと思しき、専門書か何かのように見える分厚い
書物が多く並べてあるが、いくつか、薄い絵本も並んでいることが
異質な気がした。
とは言え、古代の書物だ。
しかるべきところに持っていけば、金になる可能性はある。
そう思って本を引き出そうとすると⋮⋮。
﹁⋮⋮あなた、そこで何をしているのですか?﹂
と、背後から声がかかった。
背後から。
これは異常だ。
俺は、この部屋には何があるのかわからないと思っていたから、
警戒を解かずにいたのに、まるで気配が感じられなかった。
しかし、だからと言って振り向かないわけにもいかない。
むしろ、話しかけたからには振り向くまで待つだろうと期待して
もよさそうだった。
俺はゆっくりと声の方向に振り返る。
すると、そこにいたのは、一人の女性だった。
特に、何の変哲もない、白く柔らかい髪をした、水色の瞳の、微
笑みの優しい女性がそこには立っていた。漆黒のローブを身に付け
ていて、魔術師然としているが⋮⋮。
彼女は言う。
﹁もう一度聞きますね。あなたは、そこで、何をしているのですか
?﹂
穏やかな声だった。
248
優しげな、まるでわからずやの子供に静かに質問をするときのよ
うな。
しかし、たったそれだけの声に、なぜか俺は息が止まりそうなほ
どの緊張を感じていた。
一言でいえば。
︱︱こいつは、やばい奴だ。
今までの人生で培ってきた勘の全てが、はっきりとそう、断言し
ていた。
しかし、女性はちょうど転移魔法陣の前に立っていて、逃げよう
にも逃げられない状況である。
どうすればいいのか、悩んだが、やはり質問に答えるしかなさそ
うだ、という結論に達する。
俺は言った。
﹁⋮⋮なにかないか、ぶっしょくしていたところだ。おれは、ぼう
けんしゃだから⋮⋮﹂
すると、女性は、
﹁ははぁ。物色、ですか⋮⋮物色、物色ね⋮⋮。つまり、泥棒です
ね? ならばここで死ぬ覚悟も出来ていますか?﹂
﹁はっ⋮⋮?﹂
﹁困惑しておられますね。分かります。分かりますけど⋮⋮私にも
許せないことがあるのですよ。ここを穢されたくはないのです⋮⋮
そのためには、貴方には消えていただく、それしかありません﹂
249
そう言って、女性は軽く手を上げ、それを俺に向けてきた。
何をする気だ⋮⋮と思ったのもつかの間、その手の先に、恐ろし
いほどの魔力が収束していっていることに気づいた俺は、それが放
シールド
たれる前に慌てて全力の防御を張る。
魔術による盾、気による身体の強化、さらに聖気を剣に込めて、
どんな攻撃が来ようとも大丈夫なように、と。
もちろん、出来ることなら避けるつもりで。
しかし、女性の射撃の速度はそんなことが出来ないほど早く、し
かも正確だった。
ブレス
強力な火炎が女性の手のひらの先から放たれる。
それはまるで、竜の吐息のようであり、また、大砲の直撃を受け
ジャイアントスケルトン
たかのような衝撃を俺に運んできた。
骨巨人の一撃よりもずっとこちらの方が重く、強い。
俺は吹き飛ばされて、そのまま壁に思い切り衝突する。
背中に痛みを感じ、しかしまだそれで済んでいるらしいというこ
とは一撃は何とか耐えられたようだと喜ぶ。
しかし、その直後、同じ魔力の収束を前方に感じ、慌てて体勢を
整えると、女性は同じ魔術を放つべく手のひらをこちらに向けてい
るところだった。
︱︱次は、耐えられないかもしれない。
そう思いつつも再度、盾やらの準備を始めた俺だが、間に合いそ
うもなく、やばい、と思って女性の出方を見た。
すると、意外なことに、女性の動きは止まっていて⋮⋮。
﹁⋮⋮あなた、その、体、は⋮⋮﹂
250
と尋ねてきた。
体?
魔力や気を張り巡らせつつ、しかし自分の体に何かあったのかと
しき
観察してみると、どうやらローブが先ほどの炎によって、大半が燃
えてしまったようで、屍鬼の体の大半がむき出しになっていた。
腐食したり、肉が大きくえぐれていたりと、こうして見てみると
明らかに人間離れしているそれを目にして、女性は驚いているらし
い。
まぁ、当然かもしれない。
こんな生き物など、魔物以外にいないのだから。
﹁⋮⋮わるいか。おれだって、すきで、こうなった、わけじゃ、な
い﹂
この女性に俺を逃がす気がない限り、どうせ俺はここで死ぬのだ。
言いたいことは言わせてもらおうとそう発言した。
しかし女性はそんな俺の言葉に怒ることは無く、むしろ、俺を滅
ぼし尽くそうと向けていた手をふっと下げる。
それから、
﹁⋮⋮そうでしょうとも。しかし⋮⋮どうやってここに来たのかと
思えば、そういうことでしたか⋮⋮。どうやら、私の勘違いだった
ようです。失礼しました﹂
と謝り始め、それから、
﹁⋮⋮あぁ、お召しのものが燃えてしまいましたね⋮⋮代わりと言
っては何ですが、これを差し上げましょう。それなりのものですの
で、損にはならないかと﹂
251
と言い、彼女自身が身に着けていた漆黒のローブを渡してくれた。
さらに、
﹁最後になりますが、この部屋は、私にとって大事な場所なのです。
あなたもここの特殊性はお分かりかと思いますが、出来れば、この
部屋については他言無用ということでお願いできませんか?﹂
と言い始めた。
その言葉に俺が思ったことは、どうやら二度目の死を迎えずに済
んだらしい、という安堵と、この女はここをよく知っていて、だが
他には言っていなかった、ということか、という疑問の二つだった。
そもそも、冒険者でなくとも迷宮の未踏破区域など見つけたら一
財産である。
普通は報告するものだが⋮⋮。
﹁ぎるどに、言うなと?﹂
﹁ええ、そういうことになりますね⋮⋮と言いますか、ここは貴方
がいない限り入ることが出来ないでしょう。転移魔法陣を通って来
たのでしょう? あれは、貴方が近くにいなければ通れませんよ﹂
と、言う。
次から次へとよく分からないことを言う女だが、問題はこの女の
実力が俺と遥かに隔絶しているということだろう。
銀級のロレーヌと比べても明らかにこっちの方が上だ。
ギルド
答え方を間違えると死ぬ、というのは簡単に想像できた。
しかし、冒険者組合でいずれランクを上げることは俺の夢だ。
本来、ロリスがする予定だったこの未踏破区域の報告の権利は、
魔石で借金を払い切れるだけの収入が得られたため、俺の手に戻っ
252
ている。
ギルド
そして今、俺は一応なんとか人間と強弁できなくもない容姿に近
ミスリル
づいているのだから、こっそり人が少ない時間帯に冒険者組合で報
ギルド
告するくらいなら出来ると思っていた。
そうすれば、俺の冒険者組合での成績は上がり、目標である神銀
急に一歩、近づける。
そう思っていた。
それなのに、報告するなというのは⋮⋮。
そんな気の進まなそうな俺の気持ちを理解したのか、女は、
﹁⋮⋮と言っても、ここまで来て手ぶらで帰れないというのは分か
ります。冒険者の方はいつでも成果を求めてらっしゃいますものね。
代わりと言ってはなんですが、こちらをどうぞ。きっとお役に立つ
と思います。いかかですか?﹂
﹁これは⋮⋮﹂
それは、古びた何も書いていない羊皮紙だった。
しかし、女性は言う。
﹁これは持ち主が踏破した迷宮の空間をマッピングしてくれる魔道
具︽アカシアの地図︾です。初期化してありますので今は何も記録
されてはおりませんが、冒険者の方には得難いものかと⋮⋮いかが
でしょう?﹂
それが本当であれば確かにその通りだ。
というか、驚くべき魔道具だろう。
売りに出せば一体どれほどの値がつくかもわからない。
が、それが本当であればの話だ。
そんな夢のような道具があるはずが⋮⋮。
253
﹁本当ならば、お願いを聞いてくれますか?﹂
女性がそう尋ねてきたので、俺は頷く。
女性の言っていることが事実なら、これがあればこれからの迷宮
探索は相当に楽になるからだ。
﹁であれば、魔力を注いでください⋮⋮﹂
言われた通りにすると⋮⋮。
﹁⋮⋮すごいな﹂
見てみると、先ほどまで何も書いていなかった羊皮紙に、確かに
この︽水月の迷宮︾の細かい地図が記載されていた。
俺が自分の地図に加えた色々な注釈まで移しこまれている。
﹁取引は成立、ということでよろしいですね?﹂
﹁⋮⋮あぁ﹂
それでも、この場所を報告したいという欲求は感じるが、それを
したとき、この女性が俺を殺しに来ないとも限らない。
少なくとも、先ほどは間違いなく殺すつもりだったのだから、そ
れを考えると逆らおうにも逆らえない。
﹁あぁ、良かったです。では、入り口まで送って差し上げましょう﹂
﹁え?﹂
254
言うが早いか、女性は何か魔術を発動させたようで、俺の視界が
急激に歪む。
女性は笑顔で手を振っており、先ほどまでの今にも殺してやると
言う顔つきとはまるで違っていた。
﹁︱︱では、お元気で。まぁ、貴方に言うのはどうかと思いますけ
ど﹂
そんなことを言って。
そして、気づいた時には、俺は迷宮の入り口で、ぼんやりと突っ
立っていた。
夢か?
そう思うも、ローブも変わっているし、手にはあの羊皮紙が握ら
れている。
︱︱なんだったんだろうな、あれは。
そう思いながらも、今日はこれ以上探索する気にはならない。
俺は困惑を感じながら、ふらふらと街へと戻ったのだった。
255
第36話 屍鬼ともらい物の価値
﹁⋮⋮お前はここ最近、何かに呪われているかのように、おかしな
ものに立て続けに遭遇するな?﹂
迷宮から帰還した後、そこであったことを色々と説明した俺に呆
れたような顔でそう言ったのは家の主であるロレーヌである。
﹁べつに、おれだって、すきで、そうぐう、してるわけじゃ⋮⋮﹂
一応、そう言い返してみるが、よく考えてみると︽龍︾の出現し
た迷宮の未踏破区域の先に嬉々として進んでいったのだ。
いくらその気配がもう感じられないとは言っても、好んで危険に
飛び込んだようなものだろうと言われたらぐうの音もでない。
﹁まぁ、そうだろうな⋮⋮そもそも、冒険者自体がおかしなものに
会いに行くような仕事だ。今更言っても仕方がないか⋮⋮っと、そ
れで、この魔道具だったな。問題はないようだぞ﹂
そう言いながらロレーヌが見ているのはあの白髪の女性がくれた
魔道具︽アカシアの地図︾である。
迷宮を自動マッピングしてくれるという優れものだと言うことだ
が、最近まさに迂闊に身に着けた道具が呪われていることが判明し
た俺だ。
人からのもらい物については十分な注意をしておきたかったため、
ロレーヌに呪われていたりするなどおかしなところがないか、確認
してもらっていたところだ。
俺もその判別はなんとなくは出来るが、俺が身に着けている仮面
256
のように特殊な呪いがかかっているような場合もある。
詳細な調査は俺では難しいのだ。
その点、ロレーヌはその学者としての知識や経験により、多くの
ギルド
アイテムについて鑑定することが出来る。
聞くところによると冒険者組合の鑑定技能士の資格も持っている
という。
持っているだけで就職に困らない難関資格のはずだが、片手間で
取ったというのだから頭の出来が違うと言うのは羨ましいなと思う。
﹁⋮⋮ちなみに、くわしい、つかいかたは、わかるか?﹂
渡されたはいいが、使い方の説明はとりあえず魔力を通せ、くら
いなものだったので、それ以上の使い方については怪しいのである。
これについて、ロレーヌは、
﹁調べてみたが、私一人では無理なようだな。魔力を通せば地図が
出ると言うことだが、私の魔力ではダメなようだ⋮⋮お前、やって
みろ﹂
そう言って地図を手渡されたので、言われた通りにしてみると、
あのとき表示された︽水月の迷宮︾の地図が何も記載されていなか
った羊皮紙の上に描かれる。
﹁うーむ、素晴らしいな、これは⋮⋮む、この点は⋮⋮?﹂
よくよく見てみると、地図上にいくつもの黒点が動き回っている
のが見えた。
なんだろうか、と思って触れてみると、点の下に名前が表示され
た。
257
﹁これは⋮⋮﹂
﹁あぁ、おそらくは、今この迷宮に潜っている者の名前だろうな。
そんなことまで分かるとは⋮⋮恐ろしい技術だ。国宝クラスだぞ﹂
ロレーヌが感嘆してそう言っている。
実際、こんなものは見たことがなく、俺はどうやらとてつもなく
良い取引をしてきたらしい。
まぁ、その代わり一歩間違えたら殺されていたので、最終的には
トントンというところかもしれないが。
それから色々といじくりまわしたり、試したりしてみたところ、
魔力を通し、色々と念じたりすることで表示の切り替えが可能なこ
とが分かった。
たとえば︽水月の迷宮︾の地図から、別の地図に変えたいときは
そう念じれば変わる、という風にである。
また、迷宮内部を歩いている人間の表示機能だが、これはどうや
らその迷宮のマッピングを完全にしていなければ機能しないらしい
こともわかった。
俺は、︽水月の迷宮︾については完全にマッピングしているのだ
が、︽新月の迷宮︾についてはほとんどしていない。
それで、︽新月の迷宮︾の地図を表示させようとしてみると、歩
いたことのある部分は表示されていたが、歩いている人間を示す点
については存在しなかった。
しばらくの間見ていたが、それでも一人も歩いていない、という
ことは今の時間帯ではありえないため、表示されていないのだろう
という結論になった。
それで、なぜなのか、ということを考えると、おそらくはマッピ
ングが足りないからではないか、ということになった。
もしかしたら他の可能性もあるかもしれないが、それが一番あり
258
そうだというのは、すでにマッピングが完了している階層について
は表示されることからの推測である。
便利なのは間違いないが、制限もある、ということがそれでよく
わかった。
それから、もらったローブについても話をする。
﹁こっちも、のろいは?﹂
﹁ないようだな⋮⋮安心して着て問題ないだろう。中々いいものの
ようだしな﹂
﹁そう、なのか?﹂
その割には随分簡単にぽん、とくれたが。
﹁あぁ。魔法耐性が非常に高いようだし、刃物も通らん。まぁ、腕
のいい剣士や業物の武器ならどうなるかは分からないが、通常の鎧
よりは余程防御力があると思っていいだろうな﹂
それはまた、いいものをもらったものだ、と思う。
ギルド
最初は未踏破区域をせっかく見つけて奥まで探索したのに、結局
冒険者組合に報告できる成果を何一つ手に入れることが出来なかっ
たとがっかりしていたが、これからのことを考えると、便利な地図
と丈夫な防具を手に入れられた、ということでむしろプラスだった
のかもしれない。
そもそも未踏破区域と言っても所詮は銅級冒険者くらいまでしか
行かない︽水月の迷宮︾である。
そこそこの報酬になる可能性はあったとはいえ、功績という意味
で考えるとそこまで惜しむほどのものでもなかっただろう。
259
よし、今回の探索は収支的にはプラスだ。
そう思うことにした。
ジャイアントスケルトン
道中魔物と戦うことで手に入れた魔石も、骨巨人のもの以外はし
っかりと持ってきて、ロレーヌに売却してもらって懐も温かい。
クロープに武器代のもう半額を支払っても、赤貧になるというこ
とはなさそうであった。
﹁⋮⋮さて、最後はお前が遭遇した女性の話だが⋮⋮やはり何も分
からんな。私個人としては迷宮に居住施設を作ることの出来る技術
が気になるが⋮⋮﹂
これに関しては、俺も同じだ。
唐突に現れて、ほぼ何の説明もなく追い出されてしまっただけで
ある。 あれだけで彼女が何者かわかるほど俺の察しは良くない。
とてつもない使い手だったことだけは間違いないが、今の俺を凌
駕する者などそれこそ星の数ほどいるだろう。
銀級下位くらいまでなら何とか戦えるかもしれないが、それ以上
が出てくるとかなり厳しくなり、金級となれば瞬殺される可能性が
高い。
俺の実力などそんなものだ。
もちろん、ずっとこのまま、というつもりはないけどな。
これからどんどん強くなるのだ、俺は。
そのために必要な、成長できる肉体を今の俺は持っているのだか
ら。
⋮⋮いくら頑張っても魔物、という可能性もあるけれど。
260
﹁これから、もういちど、あのめいきゅうのさき、にいってみるつ
もりだ﹂
﹁追い出されたのにか? 勇気があるな﹂
﹁べつに、くるな、といわれたわけじゃ、ない。ほうこくするな、
といわれただけ、だ﹂
この俺の言葉にロレーヌは少し考えて、
﹁⋮⋮まぁ、話を思い出すに、そうだな。しかし詭弁だろう。明ら
かに来てほしくなさそうなそぶりだ﹂
これはロレーヌの言う通りだろう。
しかし、気になるのだ。
もう一度くらい、話を聞いてはくれないものか、という薄い希望
があった。
まぁ、無理なら無理でいい。
ためしに、というだけだ。
そういうと、ロレーヌは、
﹁⋮⋮気を付けることだな。お前の話を聞くに、その女性は普通で
はない。何が気に障るか、分からん﹂
﹁あぁ﹂
俺はロレーヌに頷く。
それは実際に相対した俺が、最もよくわかっていることだ。
今度はいきなり殺されることはないだろうが、よくよく注意しな
ければならないのは間違いなかった。
261
◇◆◇◆◇
しかし、次の日、迷宮に向かってみると、結局それは無駄足とな
った。
なぜなら、つい昨日までそこにあった、未踏破区域への入り口と
なる通路。
それが、今日は完全に消滅していたからだ。
どこからどう見ても壁。
それだけである。
ぺたぺた触ってみても、冷たい壁の手触りしかしない。
これで、あの女性の手がかりは完全に途切れた。
一体何者だったのだろう。
心の底からそう思うも、その答えは誰もくれない。
いつの日にか、また会える日が来るのだろうか。
そんな気持ちを胸に、俺は仕方なく迷宮を後にしたのだった。
262
第37話 新人冒険者レント
︽水月の迷宮︾の探索については暗礁に乗り上げた。
というか、もう無理だ。
あの壁の向こう側にはどうやったって行くことは出来なかったし、
︽水月の迷宮︾の探索など既にもう粗方されている。
今更、探索済みのところをある程度深部まで潜ったとしても、大
した意味はないだろう。
魔物自体の強さも、正直そろそろ物足りない、というか、︽水月
の迷宮︾の魔物では、徐々に吸収できる魔物の力が小さくなってき
ている。
︽水月の迷宮︾の魔物で強くなれる限界なのか、それとも俺とい
う器の限界なのか⋮⋮。
後者だとは思いたくないので、とりあえず狩場を変えることで対
応しようかな、と考えているのだ。
それでダメなときはダメなときだ。
もちろん、諦める、という意味ではなく、強くなれる他の道を探
すという意味だ。
ギルド
﹁それで、冒険者組合に行くと? やめておいた方がいいと思うが
な⋮⋮﹂
そう言ったのは、この家の家主ロレーヌである。
彼女のために食事を作って出し、そんな彼女の正面で瓶からロレ
ーヌの血を少しだけ舐めながら、今日の予定を語った途端にそう言
われた。
今日の予定、とはつまり、狩場を初心者及び低級冒険者向けのマ
263
イナー迷宮︽水月の迷宮︾から初心者から銀級冒険者程度までの幅
ギルド
広い人気を集めるメジャー迷宮︽新月の迷宮︾に移すということ、
ギルド
そしてその際に、冒険者組合に少し寄って、何か依頼を受けていこ
うかな、ということだ。
ロレーヌが反対したのは一番最後の部分、冒険者組合に寄って依
頼を受ける、という部分だ。
その理由は明らかで、今の俺の見た目では怪しまれること間違い
なし、ということからだ。
ロレーヌは続ける。
ギルドマスター
﹁その見た目でレント・ファイナの冒険者証を出してみろ。途端に
詰問が始まるに決まっている。冒険者組合長だってやってくるかも
しれんぞ。それどころか、古株の冒険者は片っ端から集まるかもわ
からん⋮⋮﹂
﹁たかが銅級冒険者のことで、そんなことにはならないだろ?﹂
実際、吹けば飛ぶような冒険者でしかなかった俺だ。
しかしロレーヌは、
ギルド
﹁⋮⋮まぁ確かに、お前は弱かった。だからずっと銅級冒険者をや
っていた。それは間違いない。間違いないが⋮⋮冒険者組合にとっ
ギルド
て、お前が非常にありがたい存在だったことも間違いないのだぞ。
お前が冒険者組合にしがみつくためにやっていた雑用は、一つ一つ
は大したことのない、誰にでも出来るものだったが、それら全てを
ギルド
完ぺきにこなし、工夫を凝らしてやってくれるものなど、そうそう
おらん。お前が冒険者を仮にやめるときは、冒険者組合への就職を
あっせんするという話まで出ていたくらいだ﹂
﹁⋮⋮えっ⋮⋮うそ、だろ?﹂
264
ロレーヌの話に、俺は少し驚く。
ギルド
確かに少し便宜を図ってくれたりすることはあったが、まさか冒
険者組合に就職までさせてくれるつもりがあったとは思わなかった。
なんだ、俺、将来安泰だったんじゃん、と思わずにはいられない。
とは言え、もちろん、それでも意地でも冒険者を辞める気はなか
ったが。
ギルド
﹁本当だぞ? 全く⋮⋮まぁいい。ともかく、お前がお前である限
り、冒険者組合に行くのは⋮⋮?﹂
そこで一旦ロレーヌは話を止める。
自分の言葉に迷ったように、首を傾げ、それからぶつぶつと何か
を呟き始めた。
﹁お前がお前である限り? レントがレントである限り⋮⋮レント
がレントでなければ⋮⋮ふむ、それならば、なんとか、なるかもし
れんな⋮⋮﹂
そんな風に。
ギルド
そして独り言から帰還した彼女は、次の瞬間驚くべきことを言う。
・・・・・
﹁⋮⋮レント。どうしても冒険者組合で依頼を受けたいというのな
ら、もう一度登録し直せ。名前を変えて、だ。レント・ファイナ、
ではなく⋮⋮まぁ、名前の方は分かりにくいだろうからレントでい
いが、ファミリーネームの方は別のにしてだ﹂
どういう意味か分からない俺に、ロレーヌはそれから細かく説明
した。
265
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮おぉ⋮⋮﹂ ギルド
久しぶりに訪れた冒険者組合の中は相変わらずの空気で、少し懐
かしくなる。
そこまで時間が経ったわけではないはずだけど、もう二度と踏み
入れられないかもしれないな、と心のどこかで考えていただけに、
もう一度、自分の足でこの建物に入れた感動に、涙が出てきそうだ。
⋮⋮屍鬼に涙を流す機能がついているかどうかは謎だが。
ためしに目をがっつり開いて三十秒ほど数えてみたが、目が乾い
た感じすらしない。
もともとカラカラらしい。
よって涙も出ない。
﹁⋮⋮?﹂
ギルド
通りすがりの冒険者になんだこいつ、という目で見られたのは、
ただその場で突っ立って停止していたからだ。
俺は慌てて歩き出し、目的を達成すべく、受付の冒険者組合職員
へと話しかける。
﹁⋮⋮すまない、が﹂
﹁はい? 今日はどのようなご用件でしょう﹂
そう言って顔を上げたのはそれこそ、ひどく懐かしいような気分
にさせる顔だった。
︱︱シェイラ・イバルス。
266
ギルド
ギルドマスター
冒険者組合で五年働いている、新人から抜け、だいぶ慣れてきた
職員だ。
彼女の一番最初の依頼者となることを、ここの冒険者組合長から
頼まれたことが懐かしい。
なにか、また涙が出てきそうになるも、実際にはさっぱり出てこ
ないこの身にに若干の腹立ちを感じながら、俺はシェイラに言う。
﹁ぼうけんしゃの、とうろくが、したいのだが﹂
﹁あぁ、登録ですね。⋮⋮でしたら、こちらの書類に必要事項をご
記載ください。書けない部分は空欄で構いません﹂
そう言って、一枚の荒い用紙を渡してきた。
この紙はどこだかの国で魔道具を使って作られているもので、比
較的安価で出回っているものである。
もっと高品質の、つるつるした丈夫かつ上質なものは、国の重要
書類などに使われていて結構高価らしいため、あまり出回らない。
まぁ、なぜかロレーヌの家にはたまに転がっていたりするのだが。
俺は渡された紙に色々と記載する。
以前これを書いたのは十年前か。
そのときは、碌なことを書くことが出来なかった。
名前、年齢、それと少し剣が使えること。
それくらいだった。
今思えば、もう少し色々と書けるだけの技能はあったが、それが
書くに足りる技能だと知ることは当時の俺には出来なかった。
たとえば、少しの薬草学の知識だったり、解体の経験だったりだ。
初心者でありながら、それくらいの技能を持っている奴は少ない。
俺は、故郷の村で薬師や猟師に色々と頼み込んで教えてもらって
267
いたから覚えたのだ。
何のためにかと言えば、それはもちろん冒険者になるために、で
ある。
ミスリル
あの頃から、俺の目標は変わっていない。
いつか、神銀級級冒険者に。
それだけだ。
そのためなら、すでに手に入れた銅級冒険者としての実績を捨て
て、もう一度やり直すことになってもいい。
別にレント・ファイナとしてなりたいわけじゃないからだ。
俺は、俺としてなれればそれでいいのだ。
そもそも、銅級冒険者の地位なんて、大したものじゃないしな⋮
⋮もちろん、普通の人間からすれば十分に驚異的な力を持つ人間だ
と言うことにはなるんだろうが、冒険者としては所詮は低級である。
だから、これでいい。
それに、もしも俺の見た目が元に戻ったら、レント・ファイナと
ギルド
して活動しても構わない。
冒険者組合の規則上、二つの冒険者登録というのは許されてはい
ないが、もし仮にそれをしたとしても確認しようがない。
また、一番の理由として、それをしたところで大した意味はない、
ギルド
というのもある。
冒険者組合で自分の達成した依頼の実績を二つに分割することに
なるだけなのだから、無意味だろう。
それに、とりあえずの身分証明書としては機能するが、持ってい
ることが潔白を示すわけではないのだ。
ロレーヌの提案は、そう言ったことを前提にした、いわば抜け道
的な方法だ。
俺が、レント・ファイナがこんな状態で来れば誰かがその理由を
268
聞くだろうが、他の誰かだと思われれば突っ込まれる可能性はかな
り低い、というわけだ。
実際、突っ立っててもおかしな目で見られただけだ。
冒険者には、変な見た目の奴も少なくない。
ローブを被ってマスク姿でぼんやりしている奴なんて、どこにで
もいるやつ扱いである。
そんなことを考えながら、俺は用紙の最後の項目に取り掛かる。
いや、最後というか、最初か。
それは、名前の欄だ。
とりあえず、レント、とは書いたのだが、ファミリーネームが⋮
⋮どうしよう。
何も思い浮かばん。
⋮⋮まぁいいか。どうせ、仮の名前みたいなもんなんだから、適
当に書いてしまえ。
そう思って、さらさらっと記載すると、俺はそのままシェイラの
もとに用紙を持っていった。
﹁⋮⋮はい、ありがとうございます。レント・ヴィヴィエさまです
ね?﹂
269
第38話 新人冒険者レントとギルド職員
俺が用紙に記入した名前を読み上げたシェイラの表情は、なぜか
微妙に悲しそうだった。
不思議に思い、俺は尋ねる。
﹁⋮⋮どうした、のだ?﹂
するとシェイラは、
﹁いえ⋮⋮つい先日、レント、という名前の冒険者の方の行方が分
からなくなりまして⋮⋮﹂
それは俺のことだな、と思いながらも、俺はそしらぬふりをして
返答する。
﹁⋮⋮ぼうけんしゃ、は、そういった、ことも、かくごして、いる
ときいている⋮⋮﹂
実際、ある日突然いなくなることは珍しくない。
そのまま死んでしまった、ということもあるし、単純に別の地域
に移っただけ、という場合もある。
それに冒険者に嫌気がさしてやめてしまったとか、もしくは実は
犯罪者で逃亡せざるを得なくなったとか、色々だ。
ただ、俺については死んだものとして考えているのだろう。
他の理由が特にないからだ。
シェイラは言う。
270
﹁その通りなんですけどね。やっぱり実際にそうなってみると悲し
いですよ。私が初めて担当した冒険者の方でしたし。ですから⋮⋮
同じ名前に少しびっくりしただけで⋮⋮﹂
﹁なるほど⋮⋮ちなみに、それは、れんと・ふぁいな、という、ぼ
うけんしゃの、ことか?﹂
あえて尋ねたのは、あまり怪しまれないようにするためだ。
と言ってももちろんこれだけでは奇妙に思われるだろうが⋮⋮実
際、シェイラは不思議そうな顔で、
﹁ええ⋮⋮そうですが、よくご存じですね?﹂
と尋ねた。
しかし、この質問をこそ、俺は引き出したかったのだ。
俺は言う。
﹁ろれーぬから、きいている﹂
そんな俺の言葉に、シェイラは俺が記載した名前についてピンと
来たようで、
﹁あぁ⋮⋮ヴィヴィエって、なるほど、ご親戚の方ですか?﹂
そう尋ねた。
親戚だから、ファミリーネームも同じという訳だ。
俺がロレーヌの家に入り浸っていることはおそらく、そのうち知
れ渡るだろう。
そのときに、あまりおかしな勘繰りをされたくない。
別に俺は構わないのだが、ロレーヌは未婚の女性である。
271
迷惑をかけるのは申し訳なかったから、早いうちに言い訳を用意
しておきたいというのがあった。
遠いところから来た親戚だから、少し世話になっている、という
のは悪くないいいわけだろう。
ちなみにレント、という名前は昔いた聖人の名前で、今の世の中
ではかなりありふれている。
どこの国であっても、一定数いるので別に怪しまれることもない、
という訳だ。
﹁そうだ⋮⋮まちにいるあいだは、やどをかしてもらっている﹂
﹁そうでしたか。ロレーヌさんのところに変わった方が出入りして
いると聞くようになってましたが⋮⋮ロレーヌさん自身も結構な変
り者ですけど﹂
すでに噂になっていたらしい。
俺は頷いて答える。
﹁それは、おれの、ことだろう⋮⋮なに、おかしなかんけいではな
い。くにに、いたときから、あのむすめは、かわっていた⋮⋮﹂
実際はどうだかわからないが、それっぽいことを言って誤魔化す。
キャラ設定的には、フラッと尋ねてきたロレーヌのおじさんであ
る。
シェイラも大体そのように受け取ったようで、
﹁なるほど、ご苦労を⋮⋮。それこそ、レントさん⋮⋮あなたでは
ない方と、くっつくのかと思っていましたが、そうはなりませんで
したしね⋮⋮。あっと、冒険者証、完成しましたよ。こちらになり
ます﹂
272
なんとなく聞き捨てならないことを聞いたような気がするが、そ
れと同時に手元で行われていた作業が完了したようだ。
手渡されたのは、鈍色の、鉄のカードだ。
駆け出し冒険者︱︱つまりは、鉄級冒険者の証であり、冒険者に
なった者がまず最初にもらうもの。
これを持っていたのは、遥か昔だ。
懐かしい気がして、なんとなく翳してみてしまう。
そんな俺の様子を見慣れたもののように微笑みつつみながら、シ
ェイラは、
ギルド
﹁冒険者組合の規則などについて、細かい説明などは必要ですか?﹂
と尋ねてきたが、俺はこれでベテランだ。
実力の程についてはあれであるが、とにかく務めた年数だけは長
い。
よって、規則については非常に詳しい。
それを利用して変な奴を撃退したりということもしてきたくらい
だ。
戦闘能力が低い俺は、そういうところで立ち回るしかなかったか
らだ。
だから俺は言う。
﹁いや、ひつよう、ない。こまかいきそくは、あれに、かいてある、
だろう?﹂
受付の脇に置いてある革張りの冊子を指さすと、シェイラは少し
驚いた様子で、
273
﹁よくご存じですね?﹂
と尋ねる。
まぁ、駆け出しがあれに注目することなど滅多にない。
職員に細かいことはあれに書いてありますので気になったらお読
みくださいと言われるくらいだ。
しかし俺はあれを熟読していたので、もうほとんど中身は頭に入
っている。
それでもあえて指摘したのは、わからなくなったらあれを読むか
ら別にいいよ、と言いたかっただけだ。
﹁ろれーぬに、きいた。きほんてきなきそくも、な﹂
﹁なるほど、一緒に住んでおられるのですもんね。それならいいで
しょう。では、レントさん。冒険者として、頑張ってください。く
れぐれも、命だけは大切に﹂
ギルド
そう言われたので、俺は頷き、受付を離れたのだった。
◇◆◇◆◇
ギルド
冒険者組合の依頼は大体、冒険者組合の壁に設けられている掲示
板に張られている。
依頼の種類は色々で、誰でも出来るような雑用から、腕の必要な
荒っぽい仕事まで様々だ。
基本的に便利屋という色彩が強いのだ。
だから、究極的には戦う技能が全くなくても生活できる程度に稼
ぐことは出来る。
だからこそ、隠れた犯罪者とかがたまにいたりするわけだが⋮⋮。
274
俺も、生前は弱い魔物の討伐や素材収集の他に、雑用関係の依頼
を多く受けていた。
そのため、非常に慣れていて、今もそういったものを受けたいな
と思わないでもないのだが、自分の格好を考えると⋮⋮中々に難し
いものがあるだろう。
人間だったころは格好良くはないが、人畜無害そうな童顔だと言
われることが多かった俺である。
どんなところに行っても、そこまで嫌われることもなかったが、
今のこの格好︱︱怪しいローブに光り輝く骸骨仮面となると、流石
に気持ちよく依頼を頼む、という風にはならないだろう。
それでも人の手が必要だから依頼を出しているわけで、断られは
しないだろうが、そう言った依頼よりも、今は普通に魔物を倒す方
が効率がいいだろうし、気持ちの面からも楽だ。
流石の俺も、あいつ変な奴、という目でチクチクと見られながら
仕事をするのは耐えられないわけではないが、少し辛い。
それよりは暗くジメジメした迷宮で徘徊している方がいい。
そう頭の中で考えた俺は、掲示板に張ってあった依頼の中から、
今の自分の実力から見て適切なものを取って、受付に持っていく。
﹁あぁ、レントさん。依頼はお決まりになりましたか?﹂
シェイラがそう言ったので、依頼書を手渡した。
彼女はそれを見て、
オーク
﹁⋮⋮いきなり豚鬼の納品依頼ですか? 駆け出しですと、ゴブリ
ンの魔石の収集がお勧めですが⋮⋮﹂
オーク
豚鬼はそこそこに強い魔物だ。
大体、銅級の中位から上位に相当すると言われている。
275
だからこそのシェイラの台詞だったが、今の俺には十分倒すこと
の出来る相手だ。
もちろん、囲まれたりすれば問題だろうが、そう言ったところに
ついては注意できる。
﹁⋮⋮くにで、たおしたことが、ある、からな。ぼうけんしゃとし
ては、かけだしだが、それなりの、ちからはある、のだ﹂
実際、そういう人間もたまに冒険者に登録するので、おかしな言
い分というわけでもなかった。
しかし、シェイラは心配そうである。
けれど、だからと言って、止められるものでもない。
シェイラは諦めたように、言う。
﹁⋮⋮無理だけはしないでくださいね。命は一つしかないんですか
ら、危なくなったら、逃げることです。いいですか?﹂
それについてはよく、分かっている。
なにせ、一度死んでいるのだから。
そもそも、基本的に危なそうだなというときは即座に逃げの一手
を張るタイプだった。
そう言う意味では、シェイラの心配は当てはまらない。
ただ、そんな説明をしても仕方がない。
だから俺は一言、
﹁あぁ﹂
そう言ったのだった。
276
第39話 新人冒険者レントと新月の迷宮
オーク
豚鬼というのは、そのまま名前の通り、豚の頭を持った、人なら
ざる生き物︱︱つまりは魔物であり、この都市マルト周辺で言うな
オーク
ら、森の中、もしくは︽新月の迷宮︾で生息している。
つまり、豚鬼についての依頼を受けたなら、︽新月の迷宮︾に行
くか、森の中に入って彼らを探して倒す、ということになるのだが、
オーク
俺がどちらを選ぶかは自明だった。
なにせ、森の中で生活している豚鬼というのは群れで生活してい
ポップ
ることが多く、また長く生きている固体が少なくない。
オーク
そのため、迷宮において湧出したそれと比べると強い、とされて
いる。
これは事実で、実際、森において出現する豚鬼は集団戦を仕掛け
てくることすらあるくらいだ。
オーク
ソロで戦うにはいかにも分が悪い相手である。
しかし、迷宮の豚鬼は、その見た目通り、非常に頭が悪い。
オーク
まず群れで協力して戦うなどという発想はない。
オーク
さらに森の豚鬼は通常のものですら何かしらで武装していたりす
オーク
るのだが、迷宮の豚鬼は襤褸切れを一枚纏っている程度で、攻撃力
防御力とも非常に貧弱だ。
オーク
この理屈は実のところゴブリンにも当てはまるのだが、豚鬼の場
合が最も顕著で、だからこそ森の豚鬼狩りは割に合わない。
だから俺は迷宮に潜るのだ。
そんなわけで、久しぶりに訪れた︽新月の迷宮︾の入り口は非常
ににぎわっていた。
俺が昨日まで狩場にしていた︽水月の迷宮︾とは雲泥の違いであ
277
る。
その理由は、こちらの迷宮で狩りをする方が、駆け出しであろう
とそれ以上であろうと効率がいいからだ。
ただ、一つだけ条件が必要で、それは、その冒険者がソロではな
い、ということだろう。
なぜなら、この︽新月の迷宮︾において、魔物は複数体で襲って
くることが珍しくないからだ。
︽水月の迷宮︾よりも道幅が二倍程度広く、一人で戦うとどうし
ても囲まれやすくなる。
魔物自体も︽水月の迷宮︾のそれより若干強力で、それは︽新月
の迷宮︾の方が迷宮としての格が上だからだ、とも言われているが
それが事実かどうかは分からない。
わいわいがやがやと、おそらくはパーティごとで固まって雑談ら
しきものに興じているように見える人々をしり目に、俺はとことこ
と入り口まで向かって歩いていく。
別に、彼らは遊んでいるわけではない。
迷宮内部でメンバーそれぞれがどういう立ち回りをするかなど、
作戦の最終確認をしているのだ。
そう言ったことはそれなりの経験を積んだ冒険者にとっては珍し
くないが、この都市マルトでは駆け出しでもそれをやっている。
これは、都市マルトのベテラン冒険者たちが地道に長い年月をか
けて広めてきたことだ。
これをするかしないかでは明確に生存率に差が出るため、駆け出
しには必ずしっかりと迷宮内部での立ち回りについては相談するよ
うにと教えてきたのだ。
それが根付いている、ということだろう。
聞くところによると他の地域では未だにそういうことをする者は、
駆け出しにはほぼ皆無であるということだから、都市マルトの冒険
者は割と頑張っている方だと思う。
278
ちなみに、冒険者パーティたちの横を通り過ぎるとき、視線が若
干気になった。
別にじろじろ見られているわけではないが、パーティメンバーも
無しに一人で︽新月の迷宮︾に潜る冒険者は少ないのだ。
全くいないわけではないのは、魔物たちに囲まれても対応できる
だけの腕がある者にはそれが可能だからだ。
俺はどうかと言えば⋮⋮どうかな?
微妙なところだ。
スケルトン
魔物の力を吸収してそれなりに強くなっているとは思っているが、
オーク
それはあくまでも骨人やゴブリン、それにスライムなどを相手にし
て判断した感覚に過ぎない。
それらよりも格上の魔物である豚鬼などを相手にして、どこまで
やれるのかは、実際にやってみなければわからないだろう。
スケルトン
とは言え、︽新月の迷宮︾においても、浅い階層であれば骨人た
オーク
ちなど、馴染み深い魔物たちが出現する。
豚鬼のようなものは少し深く潜らないと出てこない。
とりあえずは、浅い階層で実力を確かめつつ、徐々に深く潜って
いくのがいいだろう。
そう考えながら、俺は迷宮の中に入った。
◇◆◇◆◇
︱︱やっぱり、パーティ推奨と言うだけあるな。
︽新月の迷宮︾に潜ってしばらく、俺は深くそう思った。
なぜなら、今、俺は魔物に囲まれながら戦っているのだから。
279
それほど強力な魔物たちではない。
スケルトン
むしろ、俺にとってはもはや友達とも言っていいくらいに何度と
なく戦った、骨人とスライムの集団で、それぞれ二体と三匹程度し
かいない。
しかし、その程度でもやはり今までのように楽に勝つ、というわ
けにはいきそうもなかった。
︽水月の迷宮︾において、一対一で彼らを相手にしていた時は、
それぞれの弱点を即座に突いて勝利を収めることが出来ていたが、
複数体で向かってこられると、その弱点を突ける隙が中々見つけら
れないのだ。
それぞれの魔物たちが間断なく俺に攻撃を加えてきて、それを避
けるのでまず大変だし、剣を振るっても狙ったところには中々当た
らない。
地味に持ちこたえて削っていくしかないのが厳しい。
オーク
オーク
消費を考えずに勝負に出れば瞬殺に近い勝ち方も出来そうだが、
俺の目的は豚鬼なのだ。
魔力や気をここで使い果たしていざ豚鬼と戦うときに燃料切れ、
となるのは本末転倒である。
ここは温存しつつ頑張るところだろう。
歩きながら回復できる程度の強化で抑えて、一撃必殺のような戦
い方はしないで頑張る。
まぁ、それでも十分戦えるというか、一匹ずつ減っていき、最後
アシッド・ブリッツ
にはほぼ無傷で勝利で来ているのだから問題はないだろう。
スライムの酸弾がローブに少しかかったが、まるで溶けていない
ことから、防具の耐久性が高いことも確認できたし、武器も刃こぼ
オーク
れ一つしていない。
これなら豚鬼とも戦えそうだ⋮⋮。
280
スケルトン
そんなことを考えながら、俺は倒した骨人とスライムから魔石だ
けを回収し、腰につけた皮袋に突っ込む。
入れた量より明らかに容積が少なそうな袋だが、これは魔法の品
であり、それなりに内部空間が拡張されているため出来ることだ。
もともと俺が生前から持っていたもので、そこそこ高価だったが、
五年も貯金すれば俺程度の冒険者でも買えないことはないくらいの
ものだ。
入る容量もそれほど大きくない。
せいぜいが、普通サイズのリュック五、六個分くらいだろうか。
魔石だけ集めるのなら問題はないサイズだ。
高価なものだと竜一匹くらい入るものもあるらしいが、そんなも
のは逆立ちしたって買えるわけもないので、今の俺には関係がない。
いつか頑張ってそんなものにも手が出せるようになりたいものだ
が⋮⋮夢のまた夢だ。
夢を追いかけるのを辞める気はないけどな。
すべての魔石を回収し終わった俺は、迷宮を進んでいく。
︽新月の迷宮︾は、階層ごとに内部構造が大きく変わるタイプの
もので、確か次の階層は⋮⋮。
一度も行ったことがないところにそろそろ踏み入れるため、俺は
それを目にするのを楽しみにして、次の階層へと続く階段を下りた
のだった。
281
第40話 新人冒険者レントVS
︱︱ここは本当に建造物の中なのだろうか?
つい、そう思ってしまうような光景がそこにはあった。
草萌ゆる地面に、燦燦と降り注ぐ太陽の光、遠くには森の姿すら
見える景色。
昔、先輩冒険者に連れられて見たことはあったが、それでも何度
見ても不思議である。
迷宮にこんな、地上と何も変わらないような空間がある、という
ことが。
どうやって、誰が作ったのか、その真実は誰にも分からないと言
われる迷宮であるが、その分からない理由の最たるものが、こうい
った特殊かつ異常な内部構造にある。
俺の持っている魔法の袋に代表される空間拡張魔術などを見ると、
魔法や魔術によって、空間に手を加える、ということは部分的にで
はあるが人の手でも可能なのは確かだ。
そのため、こういった空間をつくる、というのもそう言った技術
の延長線上で可能であろうとは言われている。
けれど、様々な理由によって、現代の人の手では不可能だとも言
われているのだ。
それは、魔力量や、魔術自体の不完全さ、このような空間を恒久
的に維持する方法がまるで分からないことなど、一つ一つ上げてい
けばキリがないほどの沢山の理由によって。
それなのに、このような空間が確かに、各地に存在している。
しかも、未だに出現したり、また消えたりを繰り返しているのだ。
不思議という他ない。
282
迷宮を作り出す存在を神、もしくはそれに準ずるものとして崇め
る人々すらいるくらいだ。
⋮⋮まぁ、それでも、迷宮は、人にとって不可欠なものであるこ
とも間違いない。
なぜなら、そこからは様々な素材となる魔物のみならず、人が作
り出すことの出来ないほど完成度の高い魔道具、宝物まで得ること
が出来る。
しかも、少し放置しておけば、そう言ったものは狩っても復活す
るのだ。
迷宮とは、半永久的に使うことの出来る資源採掘場である。
はっきりとそう断言する者すらもいる。
実際はどうなのかと言えば、そういう面もあるし、また反対に人
にとって極めて危険なところもある。
単純に、迷宮にそう言った宝物を求めて入り、命を落とす者の数
は数え上げればキリがないほどだし、新たに現れた迷宮を、それと
知らずに放置すれば、いずれ中から魔物が這い出てくるようになり、
大規模な災害にその姿を変えることもある。
けれど、事実として、迷宮の存在は今の人間にとって不可欠なも
のだ。
それなしではありとあらゆる活動がなりたたない。
そんな状況になっている。
迷宮で取れる素材は、武器を作り、防具を作り、薬剤の材料とな
り、そして⋮⋮食料ともなる。
オーク
そして、豚鬼、それは、食肉として最も重宝されている魔物の名
前なのだった。
◇◆◇◆◇
283
オーク
豚鬼の見た目は非常に分かりやすい。
豚の頭をつけた、太った人型の魔物だ。
見るからに鈍そうで、それほどの技量がなくても簡単に勝利を収
められそうに見える。
今、まさに俺の目の前にいる魔物がそれだ。
オーク
けれど。
豚鬼はけっして、どたどたとは走らずに、綺麗なフォームで俺の
ところまで距離を詰めてきた。
その足や腕には筋肉の筋が見え、見据えているのはへし折れば一
オーク
撃で絶命するであろう俺の首筋である。
その豚鬼の手には剣や槍はないが、しかしこの辺りの森の木々か
ら作り出したと思しき、荒い削りの棍棒が把持されている。
あれに当たれば、その質量だけで人の命は容易に奪い去れるだろ
オーク
うと想像できるくらいの大きさだった。
それを軽々と持っている豚鬼の膂力の強さが、それで分かってし
まう。
オーク
これだけでも分かる通り、実際、豚鬼は決して弱くはない魔物だ。
むしろ、ゴブリンと相対するつもりで出遭ってしまえば、瞬殺さ
れることすら珍しくないほどのもの。
オーク
絵本ではよく、腹の出っ張った、のろのろとした魔物として描写
されているが、それは本物の豚鬼と相対したことのない者が描いた
か、あくまで絵本の登場人物として、過度にデフォルメされた存在
でしかないかのどちらかだ。
オーク
本物の豚鬼は、戦士である。
どれだけ身に付けている武具が貧弱であろうとも、油断してはな
284
らない。
その油断は、冒険者を簡単に殺すのだ。
︱︱とはいえ。
オーク
オーク
俺はその豚鬼の棍棒の一撃をするりと避けた。
オーク
それから、豚鬼の背後に素早く回り、剣を振るう。
確かに豚鬼は強い。
強いが、その強さの程が分かっていれば十分に対応する準備が出
来るのは、どんな相手が敵だろうと同じことだ。
オーク
しかし、豚鬼もさるもので、俺が背後から切り付けたのを理解す
ると即座に振り返り、重い棍棒を横に振って攻撃を加えてくる。
背中を切り付けられことに対する狼狽が全くないのは、俺の攻撃
オーク
が浅かったからだろう。
豚鬼の体はパッと見、太っているように見えて、実のところ極限
まで磨かれた筋肉の塊であり、一撃に確かな威力を込められなけれ
ば、その体の内部の筋肉に斬撃を阻まれ、その表面を軽く傷つける
オーク
に留まり、深いダメージを与えることは出来ない。
豚鬼は生まれたその時から、天然の鎧を持っているようなものな
のだ。
オーク
しかし、だからと言って負けてやるわけにもいかない。
俺は、豚鬼の棍棒を避けると、このままでは泥仕合になりそうだ
シールド
と感じ、魔力と気の力を体に満たす。
いざというときはいつでも盾を張れるようにしておき、さらに気
でもって体力の底上げを図った。
一撃で致命傷を与えなければ、と思ってのことだった。
285
ノーマル・オーク
特に金属製の武具などで武装をしているわけではない通常豚鬼は、
その大半が魔力や気などの力を持っていないと言われているが、そ
れでも俺の纏う雰囲気の変化に気づいたようで、棍棒を構えてこち
らを睨み、さらに準備が整う前に、とでも考えたかのように地面を
思い切り振り切り向かって来た。
全力の疾走には恐ろしいほどの迫力が感じられ、それを前にする
と逃げ出したくなるほどだ。
オーク
けれど、それをしてしまうような冒険者は、豚鬼に追いつかれて
オーク
死ぬことになる。
豚鬼に勝利を収めるコツは、あの疾走を決して恐れないこと、そ
して恵まれた身体能力頼りで放たれる攻撃の数々に存在する確かな
隙を適切に突くことだと言われる。
そのために必要なのは、知識と経験︱︱それに、戦闘勘だ。
オーク
かつての俺には、知識のみがあった。
そして、今の俺には豚鬼との戦いに関する経験が欠けている。
しかし、勝負における一瞬の分水嶺を認識する力︱︱戦闘勘は、
あの頃とは遥かに異なる高みに至っている。
もちろん、昔と比べれば、という話で、銀級より上の冒険者たち
オーク
と比べるとまた、話は別かもしれない。
ただ、豚鬼と戦えるだけの力はある、と確信しているのだ。
オーク
俺はその確信に基づき、剣を構え、豚鬼の突進を迎え撃った。
チャンスは確かにある。
そのことを、俺は知っている。
そう、自分に言い聞かせる。
オーク
オーク
そして、とうとう豚鬼は俺の目の前までやってきた。
その瞬間、時間が引き伸ばされたように、豚鬼の挙動が良く見え
286
オーク
るようになる。
豚鬼は俺に向かって棍棒を掲げ、突進の勢いに加えて俺を殺そう
と攻撃を加えようとしている。
オーク
しかし、その全力を攻撃に割り振った身体の挙動は、残念なこと
にその体の中心部に大きな隙を作っている。
オ
俺は剣を後ろ手に引き、そして地面を蹴り、思い切り豚鬼の体の
オーク
中心部︱︱つまりは胸の辺りを狙って振り切った。
ーク
俺と豚鬼が交錯した後、振り返ると、立ったまま静止している豚
鬼の体から大量の血が噴き出た。
それから棍棒を振り上げた状態で、ゆっくりと地面に向かって倒
れていく。
その様子を見て、俺は思った。
︱︱どうやら、勝てたらしいな。
と。
287
第41話 新人冒険者レントと食糧事情
オーク
豚鬼を倒せたのはとりあえずいいが、仕事はこれで終わりという
訳ではない。
オーク
魔石を収集するだけなら、このまま適当にさばいて心臓の横から
オーク
それを抜き出せばおしまいだが、俺が受けた依頼は豚鬼の納品依頼
だ。
より厳密にいうなら、豚鬼の魔石の納品依頼ではなく、その肉の
納品依頼である。
もちろん、その用途は食肉として活用するためだ。
食肉の用に適する生き物は色々いて、豚や牛や鶏が代表的で、そ
れらは魔力をあまり持っていないため、魔物に比べれば危険性が低
く、家畜として生産されているため、比較的安価である。
味もそれなりに美味しく、また、飼育に手間や工夫をかければ極
オーク
上の味にもなりうる、非常に人にとって有用な動物である。
けれど、そんな肉よりも、高級品とされているのが豚鬼の肉であ
る。
これには色々な理由があるが、分かりやすい最も簡単な理由が、
オーク
単純に美味い、ということだろう。
豚鬼は筋肉質な魔物であることから、筋張った味がしそうだと勘
オーク
違いされることも多いが、そんなことはない。
なぜなら、豚鬼の筋肉は、魔力によって維持されており、命を失
い魔力が霧散するにしたがって、その肉は本来の柔らかさを取り戻
すからだ。
その味は、最高級の豚肉を遥かに凌駕する甘味、旨みが感じられ、
オーク
一度これを食べれば他の肉には浮気しがたいとまで評されるほどの
なのである。
それほどまでの味を持つ豚鬼の肉だが、それほど街に出回らない
288
オーク
オーク
のは、そもそも豚鬼を狩って来れる冒険者という存在が少ないから
だ。
少なくとも定期的に一つの街全体の消費を賄えるほどの豚鬼肉を
狩れるほどはいない。
せいぜいが、資産家や貴族の食卓に登るくらい、その程度が限界
なのである。
それだけに、希少性もあり、それなりに値段が張る。
つまり、売却益が大きく、倒せるのであればそこそこ金になる魔
物なのだった。
オーク
俺はそんな金の生る木である倒れた豚鬼に近づき、まずその頸部
を切り裂く。
すると、そこから血が噴き出てきた。
これで、胸部から出ている血と合わせて、比較的すぐに血抜きが
終わるだろう。
その間、俺は周囲を警戒している。
他に魔物が現れて襲ってこられては問題だからだ。
幸い、魔物は現れることは無く、血抜きは完了する。
それから、必要な部位を見極め、切り取って部位ごとに大きな葉
で包んで入れていく。
この葉は、都市マルトの周辺の森に生えているマルトホオノキと
呼ばれる植物の葉であり、食品を包むのに重宝するものだ。
俺はこれを常に持ち歩いている。
スライムの体液を集めるための瓶など、冒険者には必需品となる
容器が色々あって、これもまた、そのうちの一つなのだ。
切り取る部位は、主にロースとヒレ、バラ、モモである。
どうせならすべてまとめて持っていきたいところだが、俺の袋の
容量は小さく、そんなことは出来ない。
289
よく使われる部位と、それにちょっと俺が食べたい部位︱︱心臓
と、肝臓、それに豚足︱︱を切り取って突っ込むのが関の山だ。
これでも結構なお金になるし、最初からしっかりと解体しておく
と直接に肉屋に卸したりすることもできるため、仮に依頼で求めら
オーク
れた以上の量を狩ってしまったとしても儲けることが出来る。
依頼では、部位の指定はなく、量については豚鬼三体程度、と記
載があったが、それ以上持って行ってしまったとしてもこうすれば
ギルド
無駄にはならないので、そう言う意味ではそのまま持っていくより
も利点はある。
まぁ、そのまま持って行っても、冒険者組合では解体を代行して
くれたり、解体部屋を貸してくれたりするので、やっぱりそのまま
持っていった方がいいというのが真実なのだが、出来ないものは仕
方ない。
オーク
解体を終え、切り刻み終わった豚鬼の残りについてはその辺に投
げておく。
こうしておいても、迷宮内部は不思議なもので、いつの間にか消
えているのだ。
迷宮に生息する他の魔物の餌になっている場合もあるし、迷宮そ
オーク
れ自体が吸収してしまうこともある。
この豚鬼がそのどちらとして処理されるのかは分からないが、放
置しても他の冒険者の迷惑になることはないし、資源としても有効
活用されることだろう。
︱︱さて、それでは次だ。
オーク
俺は、そう思って歩き出す。
豚鬼の依頼は一匹ではなく三匹だ。
あと二匹、倒さなければ依頼は完遂できないのだ。
あの戦いをもう二度、と言われると結構厳しいものがあるが、先
290
ほどの戦いでいつもよりも多くの力を吸収できたのは感じている。
次の戦いはもっと楽になるだろう。
オーク
俺は、豚鬼を求めて迷宮を彷徨う⋮⋮。
◇◆◇◆◇
オーク
しっかりと、依頼通り三匹分の豚鬼肉を集め終わったので、今日
オーク
のところは戻ろうかと俺は階段に向かって歩く。
帰りもそれなりに魔物が襲ってくるが、豚鬼の出現する階層では
あまり深入りせずに、階段周辺で戦い、ノルマが終わり次第すぐに
戻ったため、スライムやゴブリンなどしかおらず、比較的簡単に進
むことが出来た。
あのよくわからない女からもらった︽アカシアの地図︾を開く余
オーク
裕すらあったくらいだ。
さすがに、豚鬼がいつ現れるか分からない階層で一人でぼんやり
地図を見ている勇気はまだ、ない。
周囲を警戒してくれる仲間がいるならまた話は別なのだが、俺に
はそんなものはいない。
地図はよっぽど安全なときか、どうしても道が分からなくなった
時だけしか開かない。
開いた地図に、魔力を通すと、しっかりと俺が進んだ道のりが記
されている、やっぱり便利だなと改めて思う。
帰りは行きとは異なる道を歩いて、出来るだけ地図の空白を埋め
るべく努力するも、やはりこの︽新月の迷宮︾は広大で、そう簡単
にはすべてを埋めると言う訳にはいかなそうだ。
すべて埋めなければあの、どこに誰がいるのか分かる機能は活用
291
できないようなので、広い迷宮だと厳しいかもしれない。
まぁ、別に誰がどこにいるのか、なんて分からなくても普通なら
問題にはならない。普通なら。
問題になるときは、それなりに話題になるだろうし、そうなった
ときに考えればいいことだろう。
迷宮を歩いていると、ふと、耳に戦う音が聞こえてくる。
こういう場合、どうするのが正しいかと言えば、人それぞれだ。
さりげなく避けるのがマナーだ、という者もいれば、一応様子を
見て、状況が厳しそうであれば助力をするのが正しい、という者も
いる。
そこは好みと倫理観の違いが出るので、どうするのが絶対に正し
い、というものでもない。
俺はどうかというと、リナの件からも分かる通り、とりあえず様
子を見に行く派である。
そのため、こそこそと音を立てずにその現場に行ってみることに
する。
すると、そこには二人の冒険者がいて、一生懸命ゴブリンとスラ
イムと戦っていた。
立ち回りから見るに、鉄級、もしくは銅級の下位だろう。
年齢は十五、六くらいだろう。
それであの腕となると、そこそこ立派である。
一人は剣士の少年であり、もう一人はおそらく治癒術師だろうと
思しき少女だった。
少年の方が前で戦い、少女の方が背後から補助的な魔術をかけて
いるのが見える。
今の俺から見ると、結構危なっかしいところも感じる戦い方だが、
それでもゴブリン程度ならば問題なさそうな実力があるようだった。
292
問題はスライムだが⋮⋮。
そう思っていると、少女の方がスライムに向かって火の弾を打ち
出した。
あれは低級の攻撃魔術の一つであり、魔術師となれる才がある者
なら容易に身に着けられる、と言われるものだ。
残念ながら、魔術についてはさっぱり造詣のない俺としては力任
せの身体強化と盾の魔術くらいしか使えず、ああいった攻撃魔術は
使えないが、あの少女はしっかりと学び、身に着けたのだろう。
スライムは魔術など、非物理的な攻撃に弱い魔物で、あの程度の
魔術であっても一撃で倒せてしまう。
実際、少女の魔術が命中すると同時に、スライムは焼き尽くされ、
魔石だけを落として消えた。
ゴブリンもそれとほとんど同時に少年によって倒される。
︱︱問題なさそうだな。
それを確認して、俺はその場から踵を返し、入口へと向かう道に
進んでいく。
﹁⋮⋮おっと、失礼﹂
途中、他の冒険者と出くわすも、特に俺の見た目に対する言及も
なく、問題なくすれ違うことが出来たことに喜びを感じながら、俺
は迷宮を出て、その日の迷宮探索を終えたのだった。
293
第42話 新人冒険者レントとヴィヴィエ
﹁⋮⋮ぶふぉっ! お、お前⋮⋮﹂
飲んでいたお茶を吹きだしながらそう言ったのは、迷宮から帰宅
ギルド
した俺が、お茶を飲みながらくつろぎつつ、何かの書き物をしてい
るロレーヌに冒険者組合での登録名を、レント・ヴィヴィエにした、
と言ったそのときのことだった。
﹁⋮⋮だいじょうぶ、か?﹂
俺が地面にこぼれた液体を拭きながらそう尋ねると、ロレーヌは
頭を抱えながら、
﹁⋮⋮ある意味大丈夫ではないが⋮⋮というか、そもそもなんでそ
んな登録名にしたんだ。レントと仲の良かった私のファミリーネー
ムを使ったら、怪しまれるだろう?﹂
と正論を言ってくる。
そしてそれは間違いではないが、そもそも俺がレントの名前を名
乗りつつ、しかもロレーヌの家に入り浸っている時点でその問題は
遅かれ早かれ顕在化していただろう。
では別の名前にすればよかった、という結論になるかと言えば、
そうとも言えない。
まぁ、俺としてはそうなればもう、正体を怪しまれると言う問題
からは解放されそうだが、今度はロレーヌがおかしな男を家に入り
浸らせている、ということになりかねない。
だから、あえてヴィヴィエ姓を名乗り、親戚である、ということ
294
にしたのだ。
そしてそうする以上は、ありふれた名前であるレントを名乗って
も名乗らなくても大した違いはないだろうと、今まで名乗り続けて
慣れているその名前を普通に使うことにした。
概ねそういう話をロレーヌにすれば、最初はこいつ馬鹿か、とい
う視線を向けていた彼女の表情にも徐々に納得の色が見え始めた。
﹁⋮⋮親戚、親戚か⋮⋮。まぁ、そういうことなら分からんでもな
いが⋮⋮﹂
﹁だろう?﹂
﹁いや、しかしな⋮⋮別に私の外聞にまで気を遣ってくれなくとも
構わなかったんだぞ。もともと、女の身でこんな辺境で学者なんて
している時点で変り者として見られていることは変わりないしな﹂
確かに女性で学者というのは珍しい。
というのは別になってはいけないとかそういう訳ではない。
もちろん、そう言ったことを声高に主張する者というのはいるが、
そういうこととは別に、単純に体力的に厳しい、というのがある。
この世界には大量の魔物がいて、学者というのは職務上、通常の
職業よりもそういったものと遭遇する可能性の高い職業だったりす
るからだ。
研究のため、各地に自らの足で出向かなければならないし、規模
の大きな学会に出るにはやはり移動が多くなるだろう。
そのため、基本的な体力の多い、男性の方が向いている、とされ
がちである。
もちろん、銀級の冒険者としてやっていけるだけの技能のあるロ
レーヌにこの一般論は当てはまらないが、世間の目というのは確か
にある。
295
それでもあまりフィールドワークする必要のない分野であれば女
性の学者の割合も増えてくるが、ロレーヌがやっているのは魔物や
魔術など、どうしても深く調べるためには色々なところに行かなけ
ればならない分野だ。
必然、そういうことになってしまう、というわけだ。
とは言え、ロレーヌはそんなこと気にするタイプでもない。
だからこそ、こうしてずっと学者を続けている。
冒険者を本業にしてしまえば、そう言った差別的な視線を避けら
れるのに、それをしないのは余程自分の仕事を気に入っているから
だろう。
冒険者は、男女の差よりも、完全な実力主義だ。
こちらにももちろん、女だから、という短絡的な指摘をする輩も
いるにはいるが、そういう奴らは大抵実力が不足しているものだ。
ギルド
だから、意外にも学者よりは女性が生きやすい社会であったりす
る。
実際、冒険者組合におけるロレーヌに対する信頼は中々のもので
ある。
﹁そういう、わけにも、いかない、だろう。おれは、ろれーぬに、
せわになっている、み、だ。これいじょう、めいわくを、かけたく
ない﹂
﹁お前らしい話だが⋮⋮別に気にしなくていいぞ。そもそも私の方
が世話になりっぱなしだからな。炊事洗濯後片付けと、ほぼお前に
すべてやってもらってるじゃないか。お相子⋮⋮というには、いさ
さか私の方の借り分が多すぎるくらいだ﹂
ロレーヌは笑ってそう言ってくれる。
非常にうれしく、気持ちが楽になる言葉だが、実際のところ借り
296
分が多いのは俺の方だろう。
アンデッド
ふつう、いくら知り合いで、多少家事をやってもらっていた相手
とはいえ、急に不死者として現れたらまず、家に上げないし、一緒
に住もうなどとはしない。
・・・
それに、危険がないのならともかく、俺は一度とは言え、ロレー
ヌに噛み付き、彼女を比喩でもなんでもなく食べているのだ。
恐ろしくて近くに置いておけない、というのが普通の感覚だろう。
それなのに、こうして、まるで普通の知人を相手にするようにし
て、どこにも他に行けるところのない俺を家に置いてくれている。
ありがたかった。本当に心の底から。
だから、俺は言う。
﹁そんな、ことは、ない⋮⋮。おれは、ろれーぬがいてくれる、お
かげで、まだ、にんげんで、いられるんだ⋮⋮﹂
﹁レント⋮⋮。まぁ、そういうことなら、いつまででもいればいい
さ。なにせ、お前は私の親戚なんだろう? 家族に遠慮はいらぬも
のだ﹂
俺が勝手に作り上げた設定を利用してそんなことまで言ってくれ
るロレーヌに、俺は、
し
﹁おことばに、あまえて⋮⋮そう、させて、もらうことに、する﹂
そう頷いたのだった。
◇◆◇◆◇
き
それから、迷宮での成果について色々と報告しつつ、またこの屍
鬼の体の性能や、あの魔道具︽アカシアの地図︾を実際に使ってみ
297
た感想などを話し合った。
ギルド
話し合いの結果、分かったことは、今は何もないなというところ
オーク
に落ち着いて、それから冒険者組合での俺の冒険者としての活動に
ついて話す。
つまりは、今日、豚鬼の納品依頼を受け、実際にしっかりと狩っ
てきて、収めた結果、どうなったか、ということだ。
その結果を簡単にいえば、俺は今度、銅級へとランクを上げるた
ギルド
めの試験を受けられることになった。
オーク
ギルド
というのも、豚鬼はそもそも冒険者組合に入りたての鉄級が狩れ
るようなものではない。
それをほぼ無傷で三体も狩ってきた時点で、冒険者組合としては
ただの鉄級にしておくわけにはいかない、と判断したようだ。
もちろん、冒険者というのはただ腕っぷしがあればそれでいいと
言うものではなく、それなりの知識も必要な職業なので、ランクを
ギルド
上げるためにはそう言った部分についての試験もある。
つまりは筆記試験だが、これについては冒険者組合の規則や魔物
や素材の種類や扱いについて、最低限押さえていれば通るようなも
のだ。
これも、ランクが上がってくると徐々に難しくなってくるが、銅
級に上がるための試験くらいだと、俺にとっては楽勝である。
むしろ、試験対策は完璧で、満点すらとれる自信があった。
問題は、実技の方で、これはその時々によって異なる。
通常の銅級の依頼をこなすことを求められることもあるし、そう
ギルドマスター
ではないときもある。
これは完全に冒険者組合長の好みというか、選択次第だ。
ギルド
別に気まぐれ、というわけではなく、事前に不正行為が出来ない
ように直前まで冒険者組合で内容を伏せるためである。
まぁ、それでも何かしらの技能を駆使して調べ、有利に進める者
もたまにいるが、それはそれで実力があると示していることになる
298
ので、そこまで目くじらは立てられない。
ただ、調べるのには相当な労力がかかる。
普通に受けて合格をもぎ取る方が楽だろう。
今回は一体どういう試験になるのか⋮⋮。
俺はそれを楽しみにしながら、明日を待つ。
299
第43話 新人冒険者レントと筆記試験
ギルド
﹁しょうかく、しけんを、うけに、きたんだが⋮⋮﹂
ギルド
ちょうど、指定された時間に冒険者組合にやってきた俺は、まっ
すぐに冒険者組合職員シェイラのところに向かい、その用向きを告
げた。
するとシェイラもすぐに理解したようで、
﹁あぁ、レントさん。ちょうど時間ぴったりですね。ありがたいで
す﹂
そう言って笑う。
この言葉の意味は、冒険者の中でも、なりたての人間というのは
時間に対する感覚が少しルーズなことが多いからだ。
もともと冒険者になどなろうとするものは荒くれ者が多いと言う
ギ
気質的な問題と、多少遅れても大したことは無いだろうと言う感覚
的な問題があるのだ。
ルド
しかし、そういう感覚のまま冒険者を続けているといずれ冒険者
組合から処罰される日が来る。
というのも、冒険者という仕事は徐々にランクが上がっていくに
したがい、ただの魔物相手の商売から人を相手にするそれが増えて
いくからだ。
ギルド
そうなると、時間を守れない人間はだんだんと信用されなくなっ
ていく。
それでは困るので、冒険者組合は早い段階である程度時間を守る
人間を育てようとする。
ランク昇格試験は、そういったところも見る、ということだ。
300
べつに一分一秒まで細かくは見ない。
そこまで刻んで時間を見れる道具など、王侯貴族や相当な資産家、
もしくはトップクラスの冒険者くらいしか持っていないからだ。
しかし、それでもあまり遅れすぎると減点、というわけである。
俺はそれをしっているので、しっかりと守ってやってきた、とい
うわけだ。
時間についてはロレーヌが大型ではあるが、自作の計測機械を持
っていたりするので、間違いようがない。
各街の広場にも市民用のものが設置されているので、普通はそれ
を確認するものだが、ロレーヌのお陰で楽をさせてもらっていると
いうわけだ。
﹁いや。まずは⋮⋮ひっきしけん、か?﹂
﹁ええ。そうなりますね。でも、本当に大丈夫ですか? 今日の試
験ではなく、間をあけて次の試験を受けることにして、その間に勉
強されてからの方がいいですよ、と忠告しましたが⋮⋮﹂
これは、シェイラが先日、俺に銅級への昇格試験の受験資格取得
を告げたときに、すぐに受けることも、また間をとって受けること
も可能だ、と言ったことを示している。
普通は、仮に明日に試験が受けられるのだとしても、昨日の今日
で受けたりはしないで、間をあけるものだ。 というのも、実技はともかく筆記の方は、その出題範囲からして
鉄級冒険者の大半は知らないものだからだ。
もう少しで試験が受けられる、と言われて初めてその存在に気づ
き、そこから何週間かかけて頭に知識を叩き込み、それから受ける。
俺の場合は登録一日で受験資格を与えるに足りる成果を持ってき
てしまったため、事前に予告される、ということはなかったので、
余計に勉強したらどうか、ということなのだろう。
301
しかし、俺はすでに一度受けている試験であるし、そうでなくと
ギルド
も試験範囲となっている内容については詳細に覚えている。
冒険者組合規則も魔物の種類も素材の種類も銅級のものなら十分
に頭に入っているのだ。
それに、試験は毎日行われているわけではない。
数か月に一度、というの基本なのだ。
いつまでも鉄級のままやっていくのは、俺の目標からして望まし
くはない。
なれるときになっておきたい。
だから俺は言う。
﹁もんだい、ない。どこへ、いけば⋮⋮?﹂
確か、二階にある会議室だったな、と昔のことを思い出しつつ尋
ねれば、案の定、
﹁二階の会議室になります。こちらへどうぞ⋮⋮﹂
シェイラがそう言って立ち上がり、案内してくれた。
中に入ると、数人の鉄級冒険者と思しき者たちがちらりとこちら
を見たが、すぐに手元の荒い紙を見て何かを唱えるようにぶつぶつ
とつぶやき始めた。
ギルド
おそらくは、試験の内容であることがあそこに書いてあるのだろ
う。
たしか、冒険者組合が試験間近になった冒険者に貸してくれるも
のだ。
銅級の試験は、それほど範囲も広くないし、紙一枚にまとめきれ
るようなものでしかない。
銀級、金級、と上がっていくにつれ、出題範囲は小冊子、本一冊、
辞書一冊、と言う感じで増えていく。
302
全部貸与も可能で、ただ、なくしたら弁償だ。紙一枚なら銀貨で
なんとか払えるので、鉄級でもそれほど恐ろしくなく借りられるの
はありがたいことだろう。
あれで学べば、基本的に一∼二週間程度で合格に足りる知識は身
に付く。
だからそれほど心配する必要はない。
けれど、こんな試験など、生まれてこの方受けたことがないもの
が大半である冒険者にとって、これは人生初めての筆記試験となる。
俺もかつてはそうだった。
だから、ひたすらに勉強していないと不安なのだろう。
ちなみに、俺は筆記試験を受けるが、銅級としての知識を確認す
るための試験は、筆記の他に口述でも受けることが可能である。
むしろ、文字の読み書きが可能な者がそれほど多くないこの国に
おいては、そちらの方が常道であるだろう。
だからこそ、ここには数人しかいないわけだ。
口述試験を選ぶ場合は、その性質上、別の部屋で行われる。
しかも、結構な人数が受けるので待ち時間が長くなったりする。
それは嫌だったので、俺は筆記試験の方を選んだわけだ。
席に座り、しばらく待っていると、俺を案内した後、部屋を去っ
たはずのシェイラが戻ってくる。
その手には数枚の荒い紙と、数本の羽ペンが握られている。
﹁では、試験を始めますね。皆さんは字が書けると思いますので、
説明は不要かと思いますが一応⋮⋮この紙に問題が記載してありま
す。またこちらが解答用紙ですので、この羽ペンで解答を記載して
ください。試験時間は、こちらの砂時計がすべて落ちるまでの間に
なります。何かご質問は?﹂
さすがに字が書ける者たちしかいないので、紙も羽ペンも自分で
303
使ったことがある。
質問は特になかった。
﹁⋮⋮それでは、問題用紙と解答用紙と羽ペンを配ります。事前に
お配りした試験範囲の内容について記載してある用紙は今、回収し
ます。問題用紙と解答用紙は裏返しで配りますので、私がはじめ、
と言ってからひっくり返して、書き始めてくださいね﹂
言いながら、シェイラは紙とペンを配っていく。
部屋に妙な緊張感が満ちてきた。
懐かしいな、と思ったところでシェイラがすべての道具を配り終
わり、正面に戻る。
それから、砂時計に手をかけ⋮⋮。
﹁⋮⋮はじめてください﹂
試験が始まった。
◇◆◇◆◇
試験はどうだったか、というと、正直楽勝だったと言っていいだ
ろう。
当たり前だ。
一度受けたことのある内容だ。
もちろん、受けた当時とは問題自体は異なるが、範囲は変わって
いない。
出来て当然だった。
俺と一緒に受けた者たちは、やはり不安そうだが、彼らもおそら
くは大丈夫だろう。
なにせ、字が書けると言うだけである程度の教養がある証明にな
304
る。
あれくらいの内容なら、一発で受かるくらいの頭はあるだろう。
それを証明するように、筆記試験と口述試験は問題自体の難易度
は変わらないのに、合格率に大きな差があるのだ。
俺がなぜ、字が書けるかと言えば、これもまた、故郷の村にいた
とき、字の読み書きができる村長と薬師に教わったからだ。
なぜそんなことをしたかと言えば、それは冒険者に必要になる技
能だと思ったからだ。
ミスリル
俺の目標は、あの頃からぶれていない。
俺は必ず、神銀級冒険者になる。
ところで、結果であるが、筆記試験は受けた人数が少ないため、
すぐに結果が発表された。
受付に呼ばれれば合格、ということだ。
俺はもちろん⋮⋮。
﹁レントさん。レント・ヴィヴィエさん﹂
立ち上がり、シェイラのもとに行くと、
﹁⋮⋮筆記試験は、合格です。とても珍しいことに満点でした。そ
れほど難しくないとはいえ、滅多にいないんですよ? すごいです
ね﹂
そう、褒められた。
まぁ、滅多にいない、といういことはたまにいる、ということで、
大したことでもない。
そもそも、昔受けたときは満点ではなかったしな。
経験が足りず、分からない部分があっていくつか間違えた記憶が
305
ある。
とは言え、そんなことをシェイラにいう訳にもいかない。
俺は、シェイラに、
﹁⋮⋮そうか。うかったなら、よかった⋮⋮つぎは、なにを、すれ
ばいい?﹂
淡泊にそう返して、次にしなければならないこと︱︱実技につい
て尋ねたのだった。
306
第44話 新人冒険者レントと実技試験の概要
﹁⋮⋮実技試験は⋮⋮他の受験者の方と協力して、迷宮の指定ポイ
ントに辿り着く、というものになりますね。他の受験者との競争に
なりますので、早く着いた方が勝利、ということになります﹂
シェイラがそう言ったので、俺は頷く。
だいぶ昔に俺が受けたときは指定された薬草を収めること、とか
そんなものだった記憶がある。
そんなに簡単でいいのか、と受ける前は思っていたが、実際に受
けてみると薬草の生えている場所に辿り着くためにはかなりの数の
魔物を倒し、かつ深い森の中でも自分の位置を見失わずにいなけれ
ギルド
ばならないそこそこ過酷なものだった。
実際、戻ってこれなくて、後々に冒険者組合に回収された者すら
いたくらいだからな⋮⋮。
もちろん、そういう奴は軒並み落ちたわけだが。
今回告げられた試験内容はそう言う意味だと実に簡単そうに聞こ
える。
迷宮は出現する魔物は決まっているし、道筋も地図を買ったりす
れば最短距離もすぐに判明するし⋮⋮。
いや、鉄級冒険者が受ける試験だと考えるとそうとも言えないか
ギルド
もしれないな。
冒険者組合は少し性格が悪い。
﹁⋮⋮そう、か。なにか、せいげんは、ある、のか?﹂
地図購入不可、とか、この道順のみで進めとか、そういうことが
307
ないかと思って尋ねた質問に、シェイラははっとして微笑み、
・・・・・
﹁⋮⋮特にありませんよ。何をしても結構です﹂
と答えた。
その言い方に引っ掛かりを覚えた。
きっと色々と仕込んでいるに違いない。
そういうものを避けてこそ、合格がもぎ取れる、ということか。
﹁わかった⋮⋮おれが、きょうりょくする、ぼうけんしゃは、だれ
だ?﹂
﹁ええと⋮⋮あぁ、あちらの方になりますね。ライズさん! ロー
ラさん!﹂
ギルド
シェイラがそう叫んで、冒険者組合一階にたむろする試験受験者
たちの群れから、二人の冒険者を呼んだ。
すると、少年と少女がやってくる。
その二人の顔に、俺はおや、と思った。
見覚えがあるからだ。
たしか、こないだ︽新月の迷宮︾で頑張っていた二人だ。
剣士の少年と治癒術師の少女。
あのときは鉄級か銅級だろう、と予測していたが、やはりそうだ
ったようだ。
試験を受けている、ということは鉄級であるということに他なら
ない。
﹁こちら、ライズ・ダナーさんと、ローラ・サティさんです。それ
で⋮⋮こちら、レント・ヴィヴィエさんです﹂
308
シェイラは、俺に彼らを、そして彼らに俺を紹介する。
ライズと、ローラか。
ライズの方は、短めに切りそろえられた赤髪の目立つ元気そうな
少年で、ローラの方は少し引っ込み思案そうな薄い紫色の髪の少女
であった。
名前を呼ばれた二人は俺を見て頭を下げたので、俺も同じように
する。
どうやらお互いに最低限の礼儀は分かっていることは確認できた
ようで、安心した。
冒険者には、碌でもない奴がたまにいて、こういうところでも実
力を示威しようと、絶対に頭を下げない、みたいな阿呆が必ずいる
のだ。
周りを見ると、そう言う輩がちらほら見える。
⋮⋮あいつらはきっと落ちるんだろうな。
その態度だけでそう思ってしまうほど、愚かだ。
が、口にはしない。
それよりも、今は俺たちがお互いを知ることの方が大事だろう。
なにせ、一緒に迷宮に潜るのだ。
何も知らずにいると、それが命取りになりかねない。
﹁おれは、けんし、だ。まじゅつは、しんたいきょうかと、しーる
どくらいしか、つかえ、ない⋮⋮﹂
俺がそう言えば、ライズとローラも、
﹁⋮⋮俺も剣士だ。気で体力を上げて戦ってる。で、こっちは⋮⋮﹂
﹁私は魔術師で⋮⋮治癒術も使えるので、後衛として頑張ります。
309
どうぞよろしくお願いしますね、レントさん﹂
と出来ることの説明をしてくれた。
そんな俺たちの様子を見ながら、シェイラは、
﹁では、顔合わせも済んだところで、試験内容の方の説明に映りま
しょう﹂
そう言ったので、俺たちは表情を引き締める。
この説明を聞き逃すと、あとで命取りになりかねない。
俺たちは耳を澄ませて聞く。
﹁すでに説明しました通り、迷宮の指定ポイントへたどり着く、と
いうのが試験内容になります。指定ポイントはここになります。よ
ろしいですか?﹂
そう言って、シェイラは︽新月の迷宮︾の地図を出し、その一点
を示した。
それから、
﹁こちらの地図は差し上げますので、ご活用くださいね。基本的に
はそれだけです。早く到着すれば勝利、ということになりますね﹂
これに、ライズとローラが頷く。
俺は⋮⋮やっぱり何か引っかかるな、と思うがとりあえずは黙っ
ておいた。
﹁期限は日が落ちるまでになりますので、それだけはお気を付けく
ださい。では、試験、頑張ってくださいね。応援していますよ﹂
310
そう言ってシェイラはにこりと笑ったのだった。
◇◆◇◆◇
﹁じゃあ、まずは︽新月の迷宮︾に向かうか? 普段通り、馬車で
⋮⋮レント、あんたも行ったことはあるよな?﹂
ライズがそう尋ねてきたので、俺は頷く。
どうやら、彼がこの集団のリーダーを買って出てくれるらしい。
俺としては、ソロでずっとやってきただけに、リーダーという柄
でもないし、ちょうど良さそうだと任せることにした。
何かあれば口は出すが、問題なければ黙っているつもりだ。
馬車で行く、というのは問題ないだろう。
たぶん。
実際、マルトから出ている︽新月の迷宮︾までの馬車は普通に迷
宮までたどり着いた。
途中で逸れて別な場所に連れていかれる可能性も考えて、御者を
凝視していたら、苦笑いされたが、見てなければ本当にそうされた
可能性もありそうだっただけにこちらとしては笑えない。
ライズとローラは何の心配もしていなかったが、まぁ、当然だろ
う。
ギルド
こんなひっかけ問題みたいなことはやらないと誰でも最初は思っ
てしまう。
しかし、それをやるのが冒険者組合というものだ。
俺はそれを知っている。
迷宮に着いてからは、ライズとローラの二人はすぐに迷宮に潜ろ
うとしていた。
それでも悪くはないのだが、一つ問題があったので俺は口を開い
311
た。
﹁⋮⋮ふたり、とも﹂
﹁なんだよ、レント?﹂
﹁どうかしたんですか、レントさん?﹂
俺の声に首を傾げた二人に、俺は言う。
﹁⋮⋮ちず、を、かったほうが、いい﹂
すると二人は驚いたような顔をし、それから懐から支給された地
図を取り出して、
﹁いや、地図はあるだろ?﹂
﹁ですよね⋮⋮これを見ればいいじゃないですか﹂
と言う。
しかし俺は首を振る。
﹁⋮⋮この、ちずの、はっこうねんは、じゅうごねん、まえだ。た
だしいとは、かぎらない⋮⋮﹂
﹁えっ⋮⋮あ、本当だ! なんでこんな端っこに小さく書いてある
んだよ!﹂
ライズが地図を凝視し、その端の方に小さな文字で記載している
発行年を見て、悪態をつく。
312
実際、迷宮というのは不動のものではない。
内部が崩れたりして、道筋が変わることはよくある。
と言っても、そのスパンは十年とか二十年とかの長いものなのだ
が、それでも十五年前の地図は信用できない。
最新のものにした方がいいだろう。
まぁ、俺には︽アカシアの地図︾があるのでそれを見れば究極的
には他の地図などなくてもいいのだが、難点はまだ歩いていない場
所は記載されていないことだろう。
指定ポイントの場所までの道順は、残念ながら俺の地図にはまだ
記載されていないのだ。
だから、買うのが一番いい。
﹁でも、誰から買えば⋮⋮﹂
ライズが首を傾げる。
迷宮の地図を売る者は大勢いて、しかし誰の地図が信頼に値する
かを判断するのは実のところ難しいのだ。
しかし、俺はきょろきょろと迷宮周辺を見渡し、一人の人物を発
見すると二人に言った。
﹁⋮⋮あいつから、だ﹂
俺が指さした人物に、二人は眉を顰めて、
﹁⋮⋮すごい怪しくないか?﹂
﹁見るからに、怪しいです⋮⋮﹂
そう言った。
その気持ちも分からないでもない。
313
俺が指さしたのは、真っ黒いローブを身に着けた、如何にもな雰
囲気の男なのだから。
少しだけ見える口元が奇妙に歪んで微笑んでいて、今にも危険な
薬を売ろうかと言ってきそうな雰囲気だった。
⋮⋮まぁ、俺が言えたことでもないが。
と言うか、この二人は俺には問題なく接しているのに、あれはダ
メなのかな、と不思議に思う。
ともかく、俺はまっすぐにその男のもとに向かう。
気が進まなそうな二人も一応、と思ったのか、俺の後ろについて
きた。
314
第45話 新人冒険者レントと地図屋
﹁⋮⋮おや? 何かご用で?﹂
その真っ黒いローブを身に纏った小男は、近づいてきた俺に目敏
く気づいてそう、尋ねてきた。
何か面白がるような雰囲気がその声色に交じっているのは気のせ
いではないだろう。
周囲には俺たちと同じように試験を受けていると思しき鉄級冒険
者たちがいるが、それぞれ地図の仕掛けに気づいた者もいるらしく、
地図を買い求めようとしてる。
にもかかわらず、この男に話しかけようとしているのは俺たちだ
けなのだから、どれほど怪しい雰囲気を出しているか分かろうとい
うものである。
地図を売っている者と言うのは、迷宮の入り口付近には沢山いて、
自分のところの地図が如何に正しく、またそれ以外にもお得な情報
が書き込まれているかを主張しているものだが、俺の目の前にいる
男にはそういうそぶりは一切ない。
ただ、ぼんやりふらふらと突っ立っているだけ。
まさか彼が地図を売っている、とすら普通は思わないだろう。
﹁⋮⋮ちず、をうってくれ﹂
俺がそう言うと、男は、
﹁へぇ。よく私が地図屋だと思われましたな? 私には誰も近づい
てきませんぜ﹂
315
﹁そういうのは、いい。ちずを﹂
こいつの性格を、俺は良く知っている。
知らない奴が話しかけると、色々と話して最終的に煙に巻いてど
こかへ消えてしまうようなところがあるのだ。
地図を売ってるのにそれはどうなんだ、と思わないでもないが、
信用できる相手以外には売らないというのも一つの選択だろう。
ただで奪い取ろうとする横暴な輩と言うのも冒険者にはいるから
な。
﹁⋮⋮へぇへぇ、地図ね。こちらを。銀貨二枚になりますぜ﹂
そう言って、男は幅の広そうな荒い紙を渡そうとしてきたが、
﹁⋮⋮いっかいそう、だけのちずで、いい。それと、たかい。どう
か、ごまいで、かえるはずだ﹂
俺が間髪入れずにそう言うと、驚いたような顔をして、素早く他
の地図を取り出して手渡してきた。
それから、
﹁⋮⋮あんたは受かりそうですな⋮⋮そっちのチビッ子二人も、こ
の人には従った方がいいかもしれませんぜ。へぇ、銅貨五枚で﹂
銅貨を渡し、地図を受け取る。
それから男は即座にどこかへと消えてしまった。
一部始終を見ていたライズとローラは、
﹁⋮⋮本当にその地図、正しいのかよ⋮⋮?﹂
316
﹁あんなに怪しい人、初めて見ましたよ⋮⋮﹂
と言っているが、俺がとりあえず地図を広げて二人に見せ、
﹁⋮⋮しきゅう、された、ちずと、みくらべて、みろ﹂
そう言うと、二人は身に付けている鞄から支給された地図を取り
出して、俺が今購入した地図と見比べ始めた。
そして、
﹁⋮⋮ここ崩落してんのかよ。ここは⋮⋮構造が変わった? マジ
か⋮⋮﹂
﹁ええと⋮⋮怪しい人の地図だと罠の場所、いくつも書いてありま
すね⋮⋮あぁ、最短距離行くとまずいんだ⋮⋮﹂
そんなことをぶつぶつ言い続け、最後には、
﹁レント、あんたやるじゃないか。あんたがいなかったらこんな不
完全な地図で行って迷ってるところだった﹂
﹁そうですね! この地図があれば、きっと試験は楽勝です!﹂
と納得してくれた。
しかし、地図を手に入れただけで合格できるほど簡単ではないだ
ろう。
あくまで第一関門突破、くらいに考えておいた方がいい。
﹁⋮⋮ぎるど、は、いがいと、せいかくが、わるい。めいきゅうで
317
もなにが、あるか、わからない。きを、ひきしめて、いこう﹂
そう言った俺に、二人は頷いてくれた。
見かけ通り、かなり素直な性格をしているらしい。
俺としては気が楽だが、いつか騙されないか、将来が若干不安で
あった。
◇◆◇◆◇
﹁いやぁぁぁっ!!﹂
スケルトン
スケルトン
気合いのこもった声と共に、ライズの剣の一閃が骨人を襲う。
それほど強力な一撃ではないが、しかし、狙いは確かで骨人の頭
部を叩き、砕くことに成功する。
ただ、一発では倒しきることは出来なかったようで、まだふらふ
スケルトン
らしつつも動いている。
俺は、そんな骨人に向けてライズの後ろから出、剣を振るうとそ
の骨だけで構成された体を砕いた。
﹁⋮⋮はぁ、はぁ﹂
スケルトン
骨人を倒して、ライズは息を切らしている。
と言っても、それだけを相手にしたためではなく、ここまで来る
のに何度も会敵しているためである。
俺たちの陣形は、話し合ってライズが前衛を、俺がローラを守り
ながら、ライズの補助を、ローラが後衛をするということに決まり、
ずっとその状態で進んできたが、そろそろ限界に近付いているかも
しれない。
俺一人なら余裕だが、そういう訳にもいかない。
あくまで、この試験は協力して乗り越えなければならないのだか
318
ら。
﹁⋮⋮らいず、だいじょうぶ、か?﹂
﹁心配、いらない⋮⋮と言いたいところだけど、さすがにきついな。
そもそも、︽新月の迷宮︾のこの辺りって、こんなに魔物出たか?﹂
ライズがそう言ったのは理解できる話だ。
と言うのも、さっきから妙に魔物が多く出現するのだ。
ギル
︽新月の迷宮︾は魔物が少ないわけではないが、それにしても多
すぎる。
ド
おそらくは、何か理由がある⋮⋮というか、十中八九、冒険者組
合が魔物を誘導しているのだろうと思われた。
銅級になるなら、これくらいは乗り越えられるだけの戦闘能力が
あることを示せ、ということなのだろう。
﹁⋮⋮ぎるど、は、めいきゅうの、まものをちょうせいしたりは、
こう
できないが、こう、や、ひとをつかって、まものをゆうどうするこ
とは、できる⋮⋮たぶん、そういうことなのだろう﹂
俺が二人にそう言うと、ローラは、
こう
﹁こう⋮⋮? あぁ、香ですか。魔物を誘導することの出来る香な
んてあるんですね﹂
﹁ぎるどが、つかうぶんには、いいが、それをつかって、どうぎょ
うしゃを、わなに、はめようとする、ものも、いる⋮⋮きをつける、
ことだな﹂
無邪気なローラにそう言うと、彼女の表情は若干暗くなり、
319
﹁そんな人がいるんですか⋮⋮﹂
と驚きと悲しみに染まったようになる。
そんな人間がいるとは信じたくないのだろう。
しかし、確かにいるのだ。
迷宮での殺しは当然ご法度だが、仮にやったとしても、ばれなけ
ればそこで話は終わりだ。
こう
それに、自分の手を汚さずとも、魔物に殺させる、という手段も
ある。
そのために魔物を誘導する香を使う者がいる、ということだ。
もっと大規模になると、それで村や町を襲わせようとする国家の
歴史上の凄惨な所業などの話になってくる。
本来はむしろ魔物の討伐を楽にするために造られたものだと言う
が、どこにでも悪いことを思いつく者はいるものだ、という話だ。
そう、どこにでも、悪い奴はいる。
﹁⋮⋮とまれ﹂
俺が、進もうとする二人に、そう言ったのは、迷宮のとある角に
差し掛かったところだった。
二人は首を傾げて俺を見る。
俺は二人に囁き声で言う。
﹁そこに、まちぶせされて、いる﹂
二人は驚いたような表情で、しかし同じく囁き声で、
﹁⋮⋮でも、魔物の気配はしないぜ?﹂
320
﹁そうですよ⋮⋮それにそこまでの知能は、この辺りの階層の魔物
にはなかったと思いますが﹂
スケルトン
それは確かにその通りだ。
骨人やスライム、ゴブリン程度しか出現しないこの︽新月の迷宮
︾の一階層で、わざわざ待ち伏せまでするような魔物はいないと言
っていい。
たまたま出くわすタイミングの問題で、待ち伏せられたようにな
るときがあるくらいだ。
しかし、別に俺が言っているのはそう言う意味じゃない。
﹁まちぶせ、しているのは、にんげんだ。まものじゃ、ない﹂
321
第46話 新人冒険者レントと待ち伏せ
﹁に、人間って⋮⋮!?﹂
﹁どうして、人間が待ち伏せを? 何か私たちに用事とか⋮⋮?﹂
ライズとローラが動揺しつつ、俺にそう尋ねた。
俺はそれに答える。
﹁そういう、かのうせいも、ないではない。だが、これは、じゅっ
ちゅうはっく、ちがうな。ようじなら、けはいを、かくす、ひつよ
うは、ない⋮⋮﹂
そうだ、もし彼らに何か俺たちにどうしてもしなければならない
話があると言うのなら、待ち伏せなんて迂遠な方法をとらずに、普
通に近づいてきて声をかければいいだけの話だ。
迷宮内において、冒険者同士が出くわした場合、お互いの獲物を
取り合いしたりはしない、というルールがあるが、話しかけてはい
けないというわけでも近づいてはならないというわけでもない。
それなのにそうしないということは、隠れていなければ出来ない
用事があって隠れている、と考えるべきだ。
そう、俺が二人に話すと、
﹁⋮⋮それって、まさか﹂
﹁やっぱり、ですかぁ⋮⋮!?﹂
322
と、察したようで、俺は二人に頷いてその想像が正しいことを伝
えた。
︱︱二人の想像、つまりは、冒険者による、他の冒険者への襲撃
である。
まぁ、もちろんそうはいっても、百パーセントそうだ、という訳
でもない。
もしかしたら何か他に特殊な事情がある場合も、少しはある。
それに期待するのは愚の骨頂だが、決めつけて対応してしまうの
も違うだろう。
だから、
﹁⋮⋮たしかめることに、しようか﹂
俺は二人にそう言った。
もちろん、遠くには聞こえない小声である。
二人はそれに首を傾げ、
﹁どうやって⋮⋮確かめるんだ?﹂
﹁正直に聞くとか⋮⋮?﹂
と言っているが、俺は、
﹁とりあえず、いつでもたたかえるよう、じゅんびを、ととのえて
おけ⋮⋮かどまで、おれがいく﹂
そう言って歩き出した。
確かめるとは、実際に待ち伏せされているところまで行って、襲
323
われるか否か、それを試す、ということである。
この役目は、二人には任せられない。
ライズもローラも腕はそれなりにあるのだが、まだ経験が浅いし、
人間相手の戦いと言うものに対する躊躇も出るかもしれないからだ。
それに、最大の理由は、二人は切られたら死ぬからだ。
これは冗談ではなく、俺の場合はたぶん、ちょっとやそっと切ら
アンデッド
れたくらいじゃ死なない。
しき
なにせ、俺は不死者である。
中でも屍鬼というのは、首が飛んでもまだ死なないというちょっ
と考えられない生命力を持っていることでも知られている存在だ。
まぁ、流石に俺も首だけで生きていても動けるとは思えないが、
胸を突きさされたくらいでは死なないというのは大いなるアドバン
テージだろう。
だから、俺が適任なのだ。
二人はそんな俺を止めようとしたが、二人の手が俺に届くよりも
早く、俺は迷宮の通路の角に向かっていた。
それを見て諦めたらしく、二人は武器をしっかりと構えてそのと
きを待った。
いい判断だろう。
俺を止めるために大声を出して止める、という選択肢もあっただ
ろうに、そうはせずにしっかりと現実を見据えて行動している。
それは、冒険者にとって重要な資質だ。
この世界は甘くない。
油断し、騙されればすぐに死ぬのだ。
︱︱俺のように。
冗談にもならないけどな。
324
そんなことを考えながら、俺が目的の角に辿り着くと⋮⋮。
﹁うるぁぁぁっぁ!!!﹂
そんな声と共に、空気が大きく動き、そして横合いから冒険者と
思しき男が飛び掛かって来た。
手には剣を持っており、振りかぶっている。
俺を切るつもりなのだろう。
また、その後ろには弓を持った男と、魔術師らしき男もいる。
やはりな。
想像通りの成り行きに、ふっと口元に笑みが浮かぶ。
剣を抜き、飛び掛かって来た男の剣を弾くと、
﹁⋮⋮ふたりとも、きを、つけろ﹂
背後にいる二人に、そう言った。
しかし、もしかしたら余計なお世話だったかもしれない。
俺が何を言うまでもなく、二人の顔つきはしっかりと冒険者のそ
れだ。
俺に事実を伝えられて浮かんでいた困惑も、今の二人の顔にはな
い。
今は、目の前の敵を片づける、ただそれだけの感情が二人の顔に
は満ちていた。
やっぱりかなり見込みがあるな。
そう思いつつ、俺もしっかりと戦うことにする。
ライズに目配せし、とりあえず前衛を務めているらしき男のこと
はライズに任せ、俺は奥の方にいる弓使いと魔術師の方を片づける
325
ことにして、地面を踏み切る。
以前よりも遥かに増した身体能力が、俺の体を即座に弓使いのも
とへと運んだ。
﹁⋮⋮なっ!?﹂
唐突に目の前に現れたように見えたらしい俺に、弓使いが驚愕の
表情を浮かべる。
しかし、それだけで終わらずに、即座に弓につがえた矢を俺に向
けようとしてくるあたり、中々の使い手なのかもしれなかった。
ただ、俺はその矢が俺に放たれる前に、素早く弓の弦を切り、さ
らに剣の平で思い切り弓使いの胸を叩き、昏倒させる。
さらに、その奥で魔術を放とうとしている魔術師に向かい、同じ
く胸を打って気絶させた。
これで、あと一人だな。
そう思って振り返ってみれば、そこではライズとローラが剣士と
戦っているのが見える。
おそらく、あの男がこの中で一番の使い手なのだろう。
そういう立ち振る舞いをしている。
そんな男と十分に立ち会えているあたり、ライズもローラも中々
である。
手を貸すべきかどうか一瞬迷ったが、これは貴重な対人戦だ。
彼らの経験のためにも、ここはいざというときまで黙って見てい
る方がいいだろうと思い、やめた。
その間に気絶させた二人を縛り、迷宮の端に転がしておく。
これで起きたとしてもいきなり攻撃される心配はしなくていいだ
ろう。
それでも他に問題はないではないが⋮⋮まぁ、たぶん大丈夫なは
326
ずだ。
それからしばらくして、ライズが剣士の剣を弾き、一瞬生まれた
隙に、懐に入り込み、体当たりを食らわせた。
剣士はその勢いを殺しきれず、足元を崩す。
そこに後ろからローラが土の砲弾を放った。
そのままなら、ライズに命中してしまうような軌道だったが、事
前に練習していたのだろう。
ギリギリのタイミングでライズがその場から離脱し、ローラの魔
術を回避した。
剣士の男から見れば、突然目の前に土の塊が出現したように見え
ただろう。
それは男の腹部にめり込むように命中し、そして、男は気を失っ
たのだった。
◇◆◇◆◇
﹁やった、か﹂
剣士の男を倒した二人に俺が話帰ると、
﹁あぁ⋮⋮なんとか、な﹂
﹁すごく驚きました⋮⋮どうして、冒険者が私たちを?﹂
と困惑しながら言う。
俺は彼らに説明する。
﹁⋮⋮ぎるど、で、いってただろう。きょうそうだから、はやく、
とうたつすれば、かちだ、と﹂
327
あの言い方には色々と引っかかる部分があった。
そのまま受け取るなら、目的地に早くつけば合格だと言う話にな
る。
そしてそうなると、必然的に遅くついた者は失格と言う話になる。
そして、ここからが恐ろしい話なのだが、それならば、そもそも
受験者の数を減らせば合格できる可能性が上がるのではないか?
そう考える者も中にはいるのだ。
﹁つまり、こいつらは受験者で、俺たちを失格にさせようとしたっ
てことか?﹂
﹁おそらく、は﹂
ギルド
こういう輩は毎回出てくる。
そして、冒険者組合はあえてそういう奴らが出てくるように試験
概要を伝えている。
ギルド
あんな言い方をしているのは、そういう理由がある。
そしてなぜそういうことをしているかと言えば、冒険者組合なり
の教育と言う話になる。
まぁ、これについては、すべてが終わってから二人に話そうと思
っているから、今は置いておくことにしよう。
﹁⋮⋮ともかく、こういうことが、これからも、ある。きをつけて、
すすむことに、しよう。ちゅうちょは、するな﹂
そう言った俺に、二人が深く頷いたのを確認し、俺たちは再度、
迷宮を前に進み始めた。
前を歩く二人を見ながら、俺は少し立ち止まり、後ろを振り返る。
それから、
328
﹁⋮⋮はやく、かいしゅうして、やれ﹂
そう一言言うと、背後で気配が蠢いたのを確認し、二人を走って
追いかけた。
◇◆◇◆◇
その場にレントたちがいなくなったあと、闇からはい出すように
一人の人物が現れる。
暗い迷宮の中、周囲に紛れ込むような、目立たない黒装束を身に
着けたその人物は、その場から先ほど去った三人組の進んだ方向を
見つつ、
﹁⋮⋮あの人、気づいていたのか。いやぁ、新人のはずなのに⋮⋮
?﹂
そう、つぶやく。
声からして、男性のようだ。
そんな人物に、その場で倒れ伏していた三人の男がゆっくりと動
き出し、そのうちの一人、剣士の男が言った。
﹁それはいいから、とりあえず縄をほどいてくれよ﹂
﹁あぁ、ごめんごめん。しかし、仕事とはいえ、大変だよね﹂
その人物は剣士の男に気さくにそう話しかけると、男も笑いなが
ら、
﹁それはお互い様だろ。まぁ、お前は気づかれてたみたいだけどな﹂
329
と馬鹿にするように言った。
しかし、黒装束の男は反対に嘲るような表情で、
ギルド
﹁まるで自分は気づかれてない、みたいな言い方だけど、君たちも
たぶん、冒険者組合の回し者だと気づかれてたよ? あのローブの
人には。他の二人はともかくね﹂
その言葉に剣士の男は目を見開き、
﹁うえっ!? マジかよ⋮⋮何もんだ、あいつ?﹂
そう言ったが、黒装束の男は首を傾げつつ、しかし少し考えるよ
うな表情で、
・・
﹁⋮⋮さぁ。少し、思い浮かぶ人はいないでもないんだけどね⋮⋮
彼女の言っていた通りなのかな﹂
﹁あ?﹂
﹁いや、こっちの話。じゃあ、とりあえず撤収する? 他の冒険者
は何人か削ったんでしょ?﹂
﹁おぉ。二組ほどな。最近の若い奴らはなっちゃいねぇぜ。さっき
の奴らは受かるだろうがな⋮⋮﹂
そんな話をしながらその場から去っていく⋮⋮。
330
第47話 新人冒険者レントと目的地手前
﹁⋮⋮さいごは、いがいと、まっすぐで、きたな﹂
あの襲撃のあと、迷宮をひた進んだ俺たちは、何度かの魔物の襲
撃を退け、とうとう目的ポイントの直前に辿り着いた。
迷宮の一階層とはいえ、横移動すればかなりの広さを誇る︽新月
の迷宮︾である。
ここまでたどり着けたものに感慨深いものを感じないではなかっ
た。
しかし、そんな俺たちの前に、今、立ちふさがっているのは、ゴ
ールおめでとう、の花輪ではなく、冷たい石の重厚な扉である。
﹁この扉ってやっぱり、そういうことですよね⋮⋮﹂
ローラが少し怯えつつ、俺に尋ねる。
﹁あぁ⋮⋮けいけんは、ないのか?﹂
俺がそう聞くと、ライズの方が答えた。
﹁まだだ。流石に二人で挑めるほどの実力はまだないって分かって
るからな⋮⋮﹂
それは慎重で、賢い選択だろう。
彼らが持たない経験、それは、迷宮と言う存在を攻略するに置い
て、避けては通れない最大の関門の事である。
331
つまりは︱︱
﹁ぼす、べや。いっかいそう、には、たしか、ふくすう、あるとき
く。そのうちの、ひとつか﹂
ボス部屋である。
迷宮のボス部屋の存在形式は迷宮によって様々で、一階層に一つ
しかない場合や、複数ある場合、また下層に降りるためには必ず通
らなければならない場合や、避けようと思えば避けられる場合もあ
る。
今回俺たちが直面しているボス部屋は、下層に降りるために必須
のボス部屋ではなく、またこの︽新月の迷宮︾一階層に複数あるら
しいボス部屋の一つだった。
そして、この部屋の向こうこそが、俺たちの目的地であり、地図
を見る限り、ここを越えない限りは辿り着けないらしい。
なので、試験を合格したいなら、ボスを倒して実力を示せ、とい
う至極全うな意図が感じられる。
今までの非常にネチネチとした試しとは色彩の異なる関門だ。
まぁ、なんだかんだ言っても、結局は力がなければ冒険者なんて
やってられませんよ、という嫌味にも感じられなくもないが、それ
は端的な事実である以上、たとえそうであるとしても嫌とは言えな
い。
﹁あんたはどうなんだ、レント。ボス部屋の経験は⋮⋮?﹂
自分と同じ昇格試験の受験者がどれだけの経験を積んでいるのか、
急に気になったのかもしれない。
ライズがそう尋ねてきたので、俺は答える。
332
﹁なんどか、ある﹂
ジャイアントスケルトン
この間の骨巨人の部屋がまさにそれだった。
しかも脱出不可能型の、出来ればあまり遭遇したくないタイプの
部屋だ。
それに、その他にも十年、冒険者をやってきたのだ。
普通のボス部屋くらいなら、何度も経験がある。
だから、そもそも俺に聞くのが間違いなのだが、ライズにはそん
なことは分からない。
ライズは俺の答えに、自分の経験不足を感じたようで、少し顔色
が悪くなる。
それを見た俺は、ライズに言う。
﹁⋮⋮ふあん、か? それなら、やめるか?﹂
そう言う選択肢も、ないではない。
俺はさっさと昇格したいので、出来ればとりたくない選択肢だが、
前途ある若者の将来を危険に晒してまで時間短縮を図ろうとは思わ
ない。
俺はまだ二十五だし、時間はまだまだ、あるのだから⋮⋮。
⋮⋮そういえば、俺の寿命ってどうなってるんだろうな、とふと
思うが、とりあえずそれは置いておこう。
ライズは俺の言葉に顔を上げて、
﹁そういうわけには、いかねぇ。ここで逃げたら、もう戻ってこら
れない気がする⋮⋮﹂
と力のこもった声で言う。
確かにそういうこともないとは言えない。
一度心の折れた冒険者と言うのは弱い。
333
立ち直ればずっと強くなる場合もあるが、二度と立ち直れなくな
ることもよくあるからだ。
ライズが言うのは、本能的にそういうことが分かっているからな
のだろう。
まぁ、ここまで見てきたこの少年の性格なら、たとえここで一旦
退却しても、いずれ戻ってこられると思うが、そう言う話でもない
だろう。
ともかく、逃げたくはないと、そういう気合があると、そういう
ことなのだろう。
俺はライズに頷いて、
﹁そうか⋮⋮それなら、それで、いい。ただ、しんぱいなら、すこ
し、かんがえが、ある﹂
﹁え?﹂
首を傾げるライズに、俺はここまで歩いてきた通路の方を振り返
って顎をしゃくった。
すると、そこから四人の冒険者たちが歩いてきた。
﹁あいつらは⋮⋮﹂
﹁おそらく、ほかの、じゅけんしゃだ。あいつらに、さきに、うけ
させれば、いい﹂
そう言った俺に、ライズは目を見開いた。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮なんだ? ガキとおかしな仮面野郎のパーティとは、面白い
334
な﹂
四人組のリーダーと思しき男がそう話しかけてくる。
ライズは彼の言葉にかっと来たのか前に出て言い返そうとするが、
俺が止めて、返答する。
﹁おなじ、じゅけんしゃなんだ。そのものいいは、かんしん、しな
い﹂
﹁⋮⋮けっ。変な喋り方しやがって⋮⋮。同じ受験者だ? 俺たち
は受かるが、どうせお前らは落ちる。同じ扱いされたくないね⋮⋮
お、そっちの子はよく見るとかわいいじゃねぇか。どうだ、今から
でも俺たちと行かねぇか? 絶対受かるぜ。なぁ?﹂
男はそう言って、ローラに近づこうとするが、ローラは俺の後ろ
に隠れて返答をしなかった。
それが男の気に障ったようで、剣を抜こうとするが、それよりも
早く、俺の剣の切っ先が男の顎先を撫でていた。
﹁⋮⋮っ!? お、おい⋮⋮やめろよ、ちょっとした冗談だろ⋮⋮
?﹂
﹁もうしわけ、ないが、じょうだんは、あまり、つうじない、たち
でな⋮⋮﹂
﹁い、いや、悪かったって⋮⋮もう何もしねぇからよ。頼むよ、引
いてくれって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ふん﹂
335
俺が渋々ながら剣を引くと、男はほっとしたように体の力を抜い
た。
どうも見かけよりも臆病なのかもしれない。
それから、
﹁⋮⋮それで? あんたらは先に行くつもりなのか? そこはボス
部屋だろ。試験なんだから一組ずつだと思うが⋮⋮﹂
と冷静に尋ねてきたので、俺は男に言う。
﹁いや、さきに、いって、いいぞ。おれたちは、すこし、やすんで
から、いく、つもりだからな﹂
﹁へぇ? 先に着いた方が勝ちだってことじゃねぇか。譲ってくれ
んのか?﹂
﹁⋮⋮あぁ﹂
﹁そうかよ。じゃ、お先に失礼するぜ⋮⋮おい、てめぇら、行くぞ﹂
男の声に、おう、と言ってぞろぞろと四人はボス部屋へと向かっ
ていった。
扉が開き、その中へと男たちが入ったのを確認してから、ライズ
が言う。
﹁⋮⋮良かったのか?﹂
﹁なにが、だ﹂
﹁先に行かせたことだよ⋮⋮早くついた方がって⋮⋮﹂
336
ギルド
確かに冒険者組合はそんな話をしていたが、それもまた、引っか
かることの一つだ。
とは言え、これについては自分で気づいた方がいいだろう。
そのための試験だろうしな。
だから俺は言う。
﹁⋮⋮すこし、かんがえて、みろ。しょくいんの、ことばを、よく、
おもいだして、な﹂
すると、ずっと聞いていたローラがはっとした顔をした。
どうやらわかったらしい。
そしてライズに言おうとするが、俺は彼女に首を振って、黙って
おくように目配せした。
ライズは少し素直すぎる。
考える力を身に着けるために、もう少し悩んでもらおう。
そう思ってのことだ。
ローラは俺のそんな意図を理解してくれたらしく、頷いて微笑み、
口を閉じたのだった。
それから、俺たちはボス部屋の前に近づき、ライズとローラにボ
ス部屋の内部を指さして示した。
そう、扉は先ほどの四人組が入った後から開いているのだ。
ここのボス部屋は脱出不可能型ではないため、扉が閉じることは
ない。
だから外から中の様子が観戦できる、というわけだ。
ライズはそれを見て、納得したような表情で、
﹁⋮⋮これを見てから挑めば、不安もなくなるかもってことか?﹂
337
そんなライズの質問に、俺は頷いて肯定を示した。
中に入った四人組の前に、ふっと大きな魔物が出現した。
さぁ、先ほどの四人組と、魔物との戦いが始まる。
338
第48話 新人冒険者レントと見覚えある魔物
﹁⋮⋮さて、いく、か﹂
視線の先のボス部屋で、戦闘が終わったことを確認して俺がそう
言うと、
﹁いやいやいや! ちょっと待て! おいっ! 何にも解決してね
ぇぞ!﹂
と後ろからライズに思い切り突っ込まれた。
俺は後ろを振り返って大きく首を傾げ、
﹁⋮⋮はて。そう、だった、か⋮⋮?﹂
と恍けるようにつぶやく。
そんな俺と、ライズのやりとりを冷静に見ていたローラが、ため
息を吐きながら言った。
ギルド
﹁思った以上にさっきの人たち、弱かったですね⋮⋮瞬殺の上、回
収されていっちゃいました⋮⋮あれ、冒険者組合職員の人ですよね
?﹂
そう、先ほどのガラの悪そうな冒険者四人組。
彼らの戦いを参考にしつつ、ボス戦に対する心構えを築き、かつ
対策を立てようと観戦していたわけだが、彼らが思った以上に簡単
に負けてしまったのだ。
あぁ、あの攻撃が命中すれば死んでしまうだろうな、という最後
339
の瞬間に、どこからともなく黒装束の人物が二人ほど現れて、魔物
の攻撃をうまくいなしたうえ、冒険者たちを気絶させてどこかに引
きずっていったのである。
試験で死人を出さないための配慮であろうなと分かったが、はた
から見ていると色々とシュールな光景ではあった。
ちなみに彼らの戦いの一体何が悪かったのか、と聞かれれば色々
と思いつくことはあるが、端的に言えば、地力が足りなかった、と
言う話になるだろう。
数々の妨害や罠を乗り越えてここまで来れたのだから、何かしら
の実力はあったのだろうが、斥候など情報戦に長けているタイプで、
戦闘の方は今一だったということなのかもしれない。
まぁ、それでも、もう少し修行すればそのうち勝てるようになれ
るだろう、というくらいの惜しさは感じられたので、それだけが救
いだろうか。
ただ、これを見せたところでライズの不安が取り除かれたのかは
謎だ。
いや、却って不安が倍増してしまったかも⋮⋮と思い、ライズの
顔を見てみると、
﹁⋮⋮なんだか、ビビってたのが馬鹿らしくなったぜ⋮⋮。いくら
何でも、俺だってあんなに簡単にはやられないぞ?﹂
と意外にも前向きな発言をした。
彼のこの言葉が、ただの暴勇なのかと言えば、別にそんなことは
ない。
そもそも、ライズにしろローラにしろ、この年代にしては一つ抜
けた実力を持っているし、鉄級から銅級になろうとする冒険者とし
ても、上位の方にいるだろうと俺は感じている。
彼らなら、十分な実力さえ出しきれば、合格はそれほど難しくな
いはずだ。
340
先ほどのボスにしたって⋮⋮。
だから、やる気が出てきたと言うか、しり込みがなくなってきた
のはいいことである。
この調子なら、このままボスに挑んでも動けなくなる、というこ
とないだろうと判断した俺は、二人に言った。
﹁⋮⋮なら、いくか? おまえたち、しだいだ﹂
すると、二人は先ほどまでの不安そうな表情が嘘のように明るく、
﹁おお! さっきの奴らみたいには負けないぜ!﹂
﹁むしろ後で合格したって言ってやりましょう!﹂
と気合十分に叫んだのだった。
◇◆◇◆◇
︱︱しかし、少し目論見から外れたな。
リポップ
ボス部屋に足を踏み入れ、中心部で俺たちを待ち受けている魔物
の姿を見て、俺は少し残念に思った。
なにせ、もしも魔物を先に倒されていたら再湧出にそれなりの時
間がかかり、結果としてここを素通りすることも可能だっただろう
からだ。
試験において求められた条件は、あくまでも︽目的ポイントに到
達すること︾である。
したがって、いかにもなボス部屋がここにあり、そしてボスを倒
さなければ通れないのだとしても、ボスを倒さずに通ると言う選択
肢は別に排除されていないはずだ。
341
なにせ、そんなことは一言も言われていないのだから。
俺としては、その方が楽だな、と思って先ほどの四人組を先に行
かせた、というのもある。
まぁ、若干ずるい手段であるし、冒険者にそれなりの憧れがある
であろうライズとローラに告げるには夢を壊すようなところのある
方法なので、これについては黙っているが。
もし目論見通りいっていたら、ラッキーだったな、で済ますつも
りだった。
しかし、現実は何もかも思い通りに行くわけではないらしい。
人生、それなりに苦労をするのも大事、ということだろう。
誰かがそう言っているのだ、きっと。
ボス部屋の中央にいる存在、それはある意味で見慣れていて、あ
る意味では珍しい魔物であった。
グラン
﹁⋮⋮スライム。いや、大スライム、か﹂
ライズがその大きさに感嘆するようにそう呟いた。
グラン
彼の手には当然、剣が構えられていて、いつ襲い掛かられてもい
いように万全の準備をしている。
ローラ、そして俺も同様だった。
通常のスライムよりも二回りは大きなその個体は、大スライムと
呼ばれるスライムの上位個体の一種だ。
迷宮でも深層では普通に徘徊しているらしい魔物だが、低層にお
いてはこうしてボスとして出現することもある強敵である。
その理由は、単純にスライムが強化され、巨大化したものである
が故の恐ろしさにある。
つまりは、物理攻撃はあまり効かず、魔術のみが高い効果を発揮
342
するその肉体。
さらに、その体が巨大であるために質量も半端ではなく、下手な
位置取りをすれば一瞬で潰される可能性すらある。
ギルド
これを試験の最終関門に選ぶ冒険者組合の性格の悪さが分かろう
と言うものだ。
⋮⋮受からせる気はあるのか?
と若干思わないでもない。
グラン
じりじりと俺たちが近づく中、ぽよぽよと身を震わせる、大スラ
イム。
その見た目は、体内で獲物を消化していない限りはかなり愛らし
く、ローラなどはそれを見ながら、
﹁これくらい大きなぬいぐるみが欲しいような気も⋮⋮﹂
とぶつぶつ言っている。
まぁ、あったら抱き着けていいかもしれないが、置き場所がどう
にもならないだろう。
まさか宿の一室をこいつで埋め尽くすわけにもいかない。
グラン
そして、じりじりと近づいていた俺たちがやっと部屋の中心部に
辿り着くと、大スライムは俺たちに気づいたらしく、体を大きく震
アシッド・ブリッツ
わせ、そして試合開始の合図が、と言わんばかりにその体から一発
の巨大な酸弾を放ってきた。
その大きさは、通常のスライムの放つものの十倍はあり、当たれ
ば少し火傷する、くらいでは済まないだろう。
ただ、その攻撃は、俺たちが観戦していた四人組のときにも散々
見たものである。
ある程度のところまで近づけば必ず来るだろうと予測していただ
343
けに、その対処もすでに相談していた。
つまり、射線から横合いに跳べば、簡単に避けられる、というこ
とだ。
もちろん、それが来ると分かっていなければ、あまりの大きさに
避けることもままならず命中してしまうことになるが、こればっか
りはあの四人組が多少役に立ったと言えなくもなかった。
グラン
グラン
それから、ライズが走りこんで、大スライムに近づき、剣を振る
う。
物理攻撃に対して強い耐性を持つ大スライムであるが、全く効か
グラン
ないというわけでもないし、体の中を動き回る核を狙って突きを刺
し込むことで、大スライムを怯ませることも出来るのである。
実際、ライズは核を狙って突きを放ったが、やはり一撃でそこに
届かせる、というわけにはいかなかった。
通常のスライムであれば当てることはともかく、核まで剣を届か
グラン
せることそれ自体は、難しくない。
しかし、大スライムは、通常のそれよりも、体に粘性があり、突
きの抵抗が強いのだ。
グラン
さらに体積それ自体も大きく異なって、生半可な威力の突きでは、
大スライムの体の奥深くまで剣を届かせるのは難しいのである。
グラン
そして、突きに失敗したライズを、大スライムの体の一部がうね
うねと動き出し、手のように伸びてライズの腹部を叩き、吹き飛ば
す。
344
第49話 新人冒険者レントと現実的利益
ライズが巨大なスライムの腕らしき何かに吹き飛ばされたそのと
き、俺はいったい何をしていたかと言えば、呪文を唱えるローラの
眼前に立ち、スライムによる攻撃を代わりに受けるために立ってい
た。
スライムの唯一と言っていい弱点は魔術であり、それを突くため
に前衛である戦士は必ずその身をもってかの魔物の攻撃を受け止め
なければならない。
俺もまた、その役割を担うつもりでいたのだが、俺たちの前にこ
の部屋で行われた四人組の戦いを観戦しながらた相談し立てた作戦
の中に置いて、ライズは自ら矢面に立ち、スライムの攻撃をいなす
ことを選択したのだ。
それは何のためかと言えば、おそらくは色々と理由があるに違い
なかった。 しかし、それをたった一つに絞ることは難しいだろう。
ライズは先ほどまで、通常のものと比べれば類を見ないほどに巨
大とは言え、たかがスライム程度に慄いていた自分を恥じ、また自
分が信じ切ることが出来なかった自らの実力を確かめたく、さらに
言うなら今後、このような魔物に会ったときに、死亡する危険に晒
ギルド
されながら経験を積むよりは、今ここで、ぎりぎりの戦いを繰り広
げ、もしもの場合に冒険者組合職員が助けてくれる状況を利用する
のが賢いと考えて、そのような選択をしたのだった。
ギルド
そしてそれは確かに悪くない考えだ。
もちろん、最初から冒険者組合の手助けをあてにしているのなら
それは良くないことだが、そうではないことはライズの戦いぶりを
グラン
見ればわかる。
彼は必死で大スライムに突っ込んでいった。
345
グラン
自分よりもおそらくは格上の力を持つであろう大スライムに対し
て、いかに動けばその注意を逸らし、また自分の攻撃が通るのかを
考えつつ、今の自分に出来る最善の動きを考えて。
そんな彼の動きの一瞬の隙を突かれ、攻撃を加えられてしまった
ことは、彼の経験不足もさることながら、それ以上にあのスライム
がいささか強すぎるだけの話である。
グラン
大スライムは、吹き飛んだライズをそのまま追いかけてその巨体
で潰しきろうとするが、流石にそれを放置しておくことは俺には出
来なかった。
後ろを軽く振り返ってみれば、ローラの目は、ライズを助けて、
と言っていることが分かる。
もしもここでスライムの体から触腕が出てきてローラに向かって
来ても、避ける自信もあるのだろう。
俺はそれを確認したうえで地面を蹴り、スライムのもとへと向か
った。
スライム、という存在に前後の区別があるのかどうかは議論の分
かれるところだが、とりあえず進行方向とは逆に位置する面のこと
をスライムの背中とすると仮定するなら、俺はまさにその背中に向
けて横薙ぎの斬撃を加えた。
すると、びちゃり、と言う音共に、その液体と固体の間にあるよ
うな、ほとんどを水分で形成されたスライムの体の一部が剣を振り
グラン
切った方向へと抉られるように吹き飛んでいく。
大分力がついているらしく、大スライムにも関わらず、通常のス
ライムと同じ程度の抵抗しか感じなかった。
グラン
とは言え、一撃でその核を破壊できるほどではない。
大スライムの核は体の奥深くにあるうえ、やはり通常のスライム
のそれと同じように常に動き回っているし、体内に剣を突き込めば
346
抵抗で剣筋がかなりずれる。
よほどの精度で突きを刺し込むか、抵抗などまるで関係のないレ
グラン
ベルの力技で押し込むかのどちらかしかないが、その両方とも今の
俺に出来ることではなかった。
だから、せいぜい今の俺が出来るのは、この大スライムの注意を、
ライズやローラから逸らすくらいのことである。
グラン
幸い、今の攻撃でもって大スライムの注意は俺に向いたらしい。
体内の核が妙な動きを見せ、それから前進していたのが突然俺の
方に向かって動き始めた。
やはり、スライムと言う存在に前後の区別はない様だ。
核の位置で判断しているのかな?
帰ったら大学者様たるロレーヌにでも聞いてみようかな、と思い
つつ、俺はスライムの突進を引きつけつつ後退する。
もちろん、その方向はライズとローラのいない向きである。
グラン
ずるずると、巨体では考えられない速度で距離を詰めてくる大ス
ライム。
もちろん、部屋の広さも有限であるからいつまでも逃げ惑えるわ
けでもない。
しかし、そんなつもりもないし、必要もない。
グラン
少しして、ライズが復帰してきて大スライムに向かってくる。
ライズは俺とちょうど反対の位置から斬撃を加えるが、気の力を
使っているとはいえ俺より腕力に欠けているようで、さほどの傷は
刻めなかった。
グラン
しかし、前後から、その身を削られるような攻撃を加えられて、
グラン
大スライムも対応せざるを得ないらしく、俺とライズの両方に触腕
を伸ばしてきた。
先ほどライズの攻撃の隙を確かに突き、吹き飛ばした大スライム
347
のその触腕であるが、どうやら複数出すと若干精度が落ちるようで
ライズにもかろうじて対応できるくらいの速度になった。
俺はと言えば、まだ余裕がある。
おそらくだが、一人で立ち会ってもこの触腕をいなし続けること
ならずっと出来るだろう。
しかし、決定打不足で勝利を収めるのには相当時間がかかるかも
しれないが⋮⋮。
やはり、魔術をある程度修めるのは急務かも知れない、と少し思
う。
それからしばらくして、
﹁いけますっ!﹂
という声が響く。
グラン
何がいけるのか、と言えば、それはもちろん、ローラの魔術であ
る。
先ほどから彼女がずっと唱えていたのはその呪文だ。
小さなものならばかなり短縮した詠唱で行けるそうだが、大スラ
イム相手となるとそうもいかないらしく、それが故にライズが時間
を稼ぐという戦い方をしていたわけだ。
結局、ローラを守っているはずだった俺も参加することになった
が、ボスとの戦闘はそうそう予定通りにはいかないものだ。
最後が良ければすべてよし、というものだろう。
グラン
グラン
ローラの言葉に素早く大スライムから距離をとった俺とライズ。
それを確認するや否や、いつの間にか大スライムの正面に位置取
っていたローラが叫んだ。
グラン・プロクス
﹁⋮⋮大火炎!!﹂
348
グラン
その言葉と共に、ローラの端する杖の先端から、彼女の身長に匹
グラン
敵する火炎が大スライムに向かって放たれる。
巨大な炎の塊に、大スライムはその身を捩って避けようとするも、
ライズと俺にあまりにも気を取られていたせいでその挙動に至るま
グラン
での時間を失っていた。
結果として、大スライムは火炎をまるで避けることが出来ずに、
正面から思い切り受ける羽目になった。
ライズと俺の剣による斬撃ではほとんど傷つかなかったその巨体
であるが、ローラの火炎の前にどろどろと溶け出し、その核はほん
の数秒でむき出しになる。
この状態でもしばらく放置しておけば復活してしまうというのだ
からスライムと言うのは改めて恐ろしい魔物だと思うが、こうなれ
ば止めを刺すのは容易だ。
ライズが俺を見て、とどめを、と言いたげだが、ここはライズに
譲ってやりたい気分の俺は、顎をしゃくって核を示す。
そんな俺の行動に、ライズは自分は大したことが出来ていなかっ
たのに、という感情が透けて見えるような表情を浮かべるも、ボス
グラン
に止めを刺す、という一種の英雄的行動に対する憧れも捨てきれな
いようで、最後には折れて、大スライムが再生を始める前に剣を掲
グラン
げ、そして核に突き刺したのだった。
それにより、すべての大スライムの液体状の体はその結合を失い、
動かなくなっていく。
これで、ただの透明なゲル状の塊となってしまったわけだ。
放置しておけばそのまま迷宮に飲み込まれ、消えてしまうそれだ
が、俺は腰の袋から容器を取り出し、たった今、ボスを倒した余韻
を味わっている二人にもそれを渡して言う。
﹁⋮⋮すらいむの、たいえきは、いい、かねに、なる。あつめ、よ
349
う﹂
あまりにも現実的なその台詞に、二人は一瞬、今言うことなのか、
という顔を浮かべたが、
﹁⋮⋮さんにんで、わけても、ぎんかは、かたい。ほうしゅうは、
やまわけだ﹂
グラン
そう言えば、即座にその瞳をお金に変えてせっせと大スライムの
体液を集め始めたのは、ご愛嬌である。
350
第50話 新人冒険者レントとおとり捜査
スライムの体液を集める俺たちの横を、一組の冒険者パーティが
通り過ぎていく。
おそらくは、俺が初めに考えていた方法である︽誰かがボスを倒
したときにちゃっかり通ってしまおう︾作戦を実行すべく、どこか
に隠れていたのだろう。
非常に賢い選択だと思う。
いずれいい冒険者になるだろうとも。
冒険者には、こういう狡猾さも必要だからだ。
けれど、ライズは納得しかねたようで、少し腹を立てた表情をし
て彼らを見ている。
今にも﹁お前ら卑怯だぞ!﹂とでも言いそうに思えたが、そんな
ライズの肩をローラが叩いて微笑んでいる。
・・・・
まぁ、いいじゃない、という訳だ。
ローラの方は色々と気づいているから、ああいう者たちが自分た
ちの先を行こうとも対して気にならないという訳だ。
とは言え、別に問題ないからと言って必ずしも先に行かせる理由
にはならない。
やっぱり、他人より先に目的地にたどり着きたい、というのは人
の本能のようなものだからだ。
けれど、それでも俺は彼らに先に行かせる。
その理由は︱︱
先にボス部屋から出ようと扉に手をかけた冒険者パーティのリー
ダー、その口元には笑みが見える。
351
辿り着けた、という喜びが大きいのだろう。
他の者たちも同様だ。
そしてゆっくりと扉が開いていき、一歩、部屋の外へと足を踏み
出した瞬間、
︱︱ブシュー!
という音と共に、彼らに対して煙が吹きかけられる。
罠だ。
﹁⋮⋮やっぱり、か﹂
俺がそう呟くと、ローラが尋ねてくる。
﹁予測していたんですか?﹂
﹁あぁ、ごーる、てまえが、めいきゅう、たんさくで、にばんめに、
きけんだから、な。ひとが、もっとも、ゆだんする、しゅんかんの、
ひとつ、だ﹂
﹁⋮⋮言われてみると、そうですね⋮⋮﹂
俺の言葉になるほど、と頷くローラ。
しかしライズは唖然とした顔で謎の煙をかけられている冒険者た
ちを見ている。
その煙は徐々にこちらに近づきつつあったので、
﹁おっと、ろーら。かぜまほうで、あれをむこうに、おしこめる、
か?﹂
352
ブリーズ
﹁そうですね、その方がいいでしょう。⋮⋮そよ風﹂
そう言って杖の先に集中すると、緩やかな、しかしガスを押し流
すには十分な風が吹き始めた。
魔物に攻撃できるような、強力な魔術ではないが、その制御は簡
単な魔術であるがゆえにかなり精密に行われているようで、もわも
わとしたガスを完全に向こう側へと追い払う。
俺たちはこれで、巻き添えにならずに済んだが、困ったのはガス
の中心部にいる冒険者たちだろう。
頑張って振り払おうとしているが、ガスの効果なのか集中が保て
ないようで、魔術を使えるはずの魔術師も杖を明滅させるのが精い
っぱいらしかった。
そしてしばらくすると⋮⋮。
﹁⋮⋮ふむ、そういう、こうか、か﹂
﹁睡眠ガスですか。ありがちですけど、怖いですね。魔物が襲って
来たら終わりです﹂
冒険者たちはその場に崩れ落ちて、すーすーと寝息を立てていた。
ガスの放出は終わったようで、完全に霧散したので、近づいてみ
てみたので間違いない。
シールド
もちろん、それでも警戒は解かずにローラにはいつでもガスを散
らせるように魔術の準備をしてもらっていたし、俺も俺で盾を張っ
たり、魔物が現れても対処できるように武器を構えてのことだ。
ライズは眠っている冒険者を見ながら、
﹁⋮⋮先に行ってたら、俺たちがこうなってた、か?﹂
ライズもライズで彼なりに考えるようになってきたようで、俺は
353
頷いて肯定を示す。
﹁そういう、ことだな。こいつらは、ちょうどいいところに、きて、
くれた﹂
これもまた、自分でやっておきながらひどい扱いだとは思うが、
俺たちがボスを頑張って倒した事実をうまいこと利用しようとした
やつらなのだ。
俺たちが彼らを利用することも許されてしかるべきであろう。
﹁それなら先に教えてくれても⋮⋮﹂
ライズがそう呟くが、
﹁じぶんで、かんがえられるようになって、いちにんまえの、ぼう
けんしゃだ。もっとも、らいずには、ろーらがいるから、いいかも
しれない、けど、な﹂
ライズには今持っている素直さを失ってほしくないという気持ち
もあるが、どこまでも純朴な少年のままでいると彼の今後に差し障
ることは明らかだ。
幸い、ローラの方は今回の探索でかなり考えるようになってきて
いるというか、人の疑い方を理解してきている。
彼女にそういったことの殆どを任せて、ライズはただひたすら突
っ込んでいって戦う、というのもないではない。
ただ、色々と考えたローラの意図を理解できるくらいの思考力は
身に着けておかなければならないだろう。
そんなことをライズに告げれば、彼も最もと思ったのか、
﹁そう、だな⋮⋮。ローラ、俺はそういう部分、色々と頼りないか
354
もしれないけど、何か考えがあったら言ってくれ。出来る限り考え
てみるからさ﹂
﹁うん。でも、ライズは考えすぎなくてもいいよ。私、頑張るから﹂
そう言って笑いあう二人は、ほほえましく、俺にもこんな時代が
あったなと思わずにはいられなかった。
まぁ、このくらいの年の頃、こんな風に一緒に旅を出来るような
異性などいなかったが。
ロレーヌ?
なんか違うような気も⋮⋮。
まぁ、いい。
それよりも今はゴールの方だろう。
﹁⋮⋮さぁ、そろそろ、いこう。さすがに、もう、わなは、ないだ
ろうが、きをつけて、すすむぞ﹂
俺がそう言うと、二人はそろって頷いた。
その顔つきに、ゴール手前だから、という油断は微塵もない。
迷宮に入るときはのほほんとした冒険者だったが、今ではいっぱ
しの顔つきをしている。
短い間だったが、中々に成長したものだな、と思った。
◇◆◇◆◇
ギ
﹁お、来ましたね。銅級昇格試験の受験者ですよね? おめでとう
ございます! あなたたちが一番乗りですよ﹂
ルド
目的地にたどり着いた俺たちをそう言って出迎えたのは、冒険者
組合職員の思しき男性であった。
355
特に奇妙なところはなく、表情にも不自然な部分はない。
一応、職員である証として、身分証を見せてもらうが、正規のも
ので間違いない。
罠は、もうないようだ、とそこでやっと安心する。
そんな俺たちを見て、職員は、
﹁はは。流石に色々とあってお疲れですね? ともあれ、ここが事
前に示された目的ポイントであるのは間違いないですよ﹂
﹁じゃあ、これで試験は終了ってことか?﹂
ライズがそう尋ねると、職員は頷いた。
﹁ええ、一応は。とは言え、もう何もやることがないかと言うとそ
ういうわけでもないですが。とりあえずは⋮⋮こちらがここに辿り
ギルド
着いた証のバッヂですね。人数分お持ちください。これを、マルト
の冒険者組合の受付に提出すれば晴れて貴方たちは銅級です﹂
そう言って職員が渡してきたのは、小指大の小さな金属製のバッ
ヂだ。
ギルド
すぐになくしてしまいそうな代物だが、提出しなければならない
ということなので大切に持っていなければならない。
ギ
ここに辿り着けばいい、と言っておきながら実際には冒険者組合
ルド
にこれを提出しなければならない辺り、面倒な話だが、実際の冒険
者組合の依頼を考えれば報告までが依頼なのだから正しいと言えば
正しいだろう。
それから、ローラが、
﹁⋮⋮そう言えば、競争だから早くここに辿り着けば勝利だ、と言
356
うことでしたけど⋮⋮﹂
﹁あぁ、そうですね。一番乗りですから、他の冒険者に勝ったとい
うことで粗品があります。三位まで粗品があるんですよ。どうぞ﹂
ポーション
職員はそう言って、一人三本の回復水薬と、それを持ち運びでき
る、腰や足などに装着するタイプの丈夫な革製のホルダーを人数分
ポーション
くれる。
回復水薬三つとホルダーとなると、冒険者にとって必須の品物だ
が、買えば銀貨が飛んでいくので駆け出しはある程度の貯金が必要
なものだ。
それをくれるというのはありがたいもので、これについてはライ
ズもローラも嬉しそうだ。
しかし、それだけでなく、ローラはそれを受け取りながら、複雑
そうな笑顔で、
﹁やっぱり、勝ったから合格、と言う話ではなかったんですね﹂
そう呟いた。
これにライズは、
﹁えっ﹂
と小さく言い、それから少し考えて、
﹁⋮⋮あぁ、そうか、別に合格とは言ってなかったってことか⋮⋮
酷いひっかけだな⋮⋮﹂
と一人納得していた。
そこまでひどくもないと言うか、難しくはない軽いひっかけだっ
357
た、と俺は思う。
むしろ、この試験は、いつも内容自体は大きく違っても、基本的
に鉄級から銅級に上がる、駆け出しの冒険者たちに、冒険者として
やっていくために必要な技術を、それがなければどんな目に遭うの
かを身をもって知ってもらうために設計されている。
そのため、少し考えれば分かる、くらいの罠が多い。
これがもっと上の試験になると、悪辣かつ気づかないような罠も
増えてくる。
どちらかと言えば、落とす試験としての色彩が増してくるわけだ。
それと比べれば、この銅級昇格試験は大したものでもない。
まぁ、ともかく、何にせよ、この銅級昇格試験は、駆け出し冒険
者にとって、重要な関門という訳だ。
これから、冒険者としてやっていくために必要なものが、大まか
に分かるから。
職員は、言う。
﹁皆さんお気づきのようですね。ま、そういうことになります。と
は言え、ここまで来れた時点でそう言った諸々を乗り越えた方々と
いう訳ですから、合格なんですよ。別に順番とかは最初からどうで
もいいのです。期限通りに依頼をこなせるか、それが冒険者にとっ
ての基本ですから。それ以外については、自由裁量です﹂
つまり、究極的には期限までにここに辿り着けばそれで合格だっ
た、というわけだ。
色々とややこしい構造をしていた試験であるが、その本質は単純
極まりないのである。
それを聞いて力が抜けるライズとローラ。
俺はと言えば、昔に一度経験済みの話なので、懐かしいな、とし
358
か思わないが。
それから、職員は笑顔で、
ギルド
﹁何はともあれ、お疲れさまでした。あとは冒険者組合に報告すれ
ばいいだけですので、気負わずにお帰りくださいね﹂
軽くそう言い放ったが、その言葉を額面通り受け入れる者はこの
場にはいなかった。
帰り道も、何かあるかもしれない。
それくらいの感覚でいなければ、足を掬われることになるだろう、
と、職員の笑顔の裏に全員が感じていたからだった。
359
第51話 新人冒険者レントと昇格試験の終了
﹁うらぁぁぁぁ!!﹂
横合いから聞こえてきた声に、眉を顰めつつ、
﹁⋮⋮予想通りで何よりだよ! この!﹂
と怒鳴りながら、ライズがその剣を思い切り振るった。
襲ってきた男は倒れ、それから、
﹁やっぱり、ここにも罠がありましたね⋮⋮﹂
とげんなりした顔でローラが呟いたのだった。
ここはどこか、と言えば︽新月の迷宮︾の入り口である。
俺たちは迷宮の奥から戻ってきて、やっとここまでたどり着いた
のだった。
そして、迷宮を出ようとしたところ、先ほどの男が唐突に剣を振
ギルド
りかぶってこちらに向かって来た、というわけだ。
これもまた、冒険者組合のかけた罠の一つだろう。
ギルド
﹁冒険者組合に報告するまでが依頼です、って言わんばかりだよな﹂
ライズももう、だいぶ擦れたというか、こういうものなんだなと
彼なりに納得がいったらしく、困惑は感じられない。
ただただ、面倒くさげであり、もうこういうのは勘弁してくれ、
と顔に書いてあった。
360
まぁ、帰りの道も行きと同じくらいに色々あった。
ギルド
行きで味わった罠の数々と、その意図、それに目的地にたどり着
いたときの冒険者組合職員のあの雰囲気を見て、ライズも理解した
のだ。
あまりにも純粋なままではこの先よろしくないだろうと。
﹁でも、流石にこれで打ち止めですよね⋮⋮?﹂
ローラが不安げに俺に尋ねるが、そこは微妙なところだ。
ここで、行きの馬車のことを告げる。
おそらく黙って放置していれば、どこか別のところに連れられて
行った可能性の高い、馬車のことを。
すると二人とも、
﹁そこも注意しなきゃいけなかったのか⋮⋮﹂
ギルド
﹁ということは、本当に街に着くまで⋮⋮いえ、冒険者組合の受付
に着くまで、安心はできないということですね⋮⋮﹂
とがっくりとしている。
まぁ、気持ちは分かるが、そこまでやっての試験である。
資質を見るためには、試練がたくさんなければならないだろう。
とは言え、流石にここから先はおまけのようなものだ。
ここまで来れた以上、そうそう脱落することは無いはずだ。
油断は出来ないが。
﹁⋮⋮まぁ、ゆだんさえしなければ、いまのおまえたちなら、だい
じょうぶだ。いくぞ﹂
361
そう言うと、少し驚いた顔をして二人はついてきた。
どうやら褒められたのが意外らしい。
二人とも、
﹁おい、褒めてくれたぞ﹂
﹁⋮⋮ちょっと嬉しいね﹂
などと話して笑い合っている。
何か恥ずかしくなり、俺は足を速めた。
◇◆◇◆◇
俺たちはそれから、都市マルトに戻るまで、非常に慎重にことを
進めたのだが、結果として帰りはかなりすんなりと戻ることが出来
た。
馬車の御者は来るときと同じ人物で、俺の顔、というか仮面を見
ると苦笑いをし﹁普通に街まで戻してやるから乗んな﹂と言ってく
れ、宣言通りまっすぐに都市マルトまで戻ってくれたし、都市マル
トについてからも、周囲に何か怪しげな雰囲気を纏っている者たち
はいないではなかったが、俺たちがそういう者たちに対する警戒を
ギルド
しっかりしていると理解するとするりと去っていった。
彼らもまた、冒険者組合側の人間で、街に着いたからと安心して
いる受験者たちからバッヂを強奪する任務でもになっているのだろ
う。
ただ、迷宮の中にいた者たちとは異なり、無理に襲い掛かろうと
しないのは、街中だから、というのと、ここまで来たらもうそう言
った意地悪は必要ないという感覚があるからかもしれない。
そして、俺たちはついに辿り着く。
362
ギルド
冒険者組合建物の前へ。
﹁⋮⋮長かったような、短かったような⋮⋮﹂
ライズが年に似合わないしみじみとした表情と声色でそう言った。
﹁この建物を見るのも、なんだか久しぶりのような気がするから不
思議です⋮⋮﹂
ローラも似たような心境らしく、表情がライズと同じだ。
俺はそんな二人の感傷を無視して、
ギルド
﹁⋮⋮はやくいくぞ﹂
そう言って足早に冒険者組合の中へと向かっていく。 二人はそれに慌ててついてきた。
俺の突拍子のない行動にはもう慣れてくれたらしく、パーティ行
動と言うのもたまには悪くないなと思わせてくれる二人だった。
﹁⋮⋮バッヂの提出はここでいいんだな?﹂
ギルド
ライズが注意深く、受付に座る冒険者組合職員シェイラにそう尋
ねると、シェイラはほほえましそうな視線でライズを見て、
﹁ふふ、成長されたようですね。ええ、ここで間違いありませんよ﹂
そう言った。
彼女に促され、俺たちは三人ともバッヂを取り出し、手渡す。
シェイラはバッヂを矯めつ眇めつ見て真正なものであることを確
認すると、
363
ギルド
﹁⋮⋮はい。お疲れさまでした。これで、真実、冒険者組合銅級冒
険者昇格試験が終了となります﹂
ギルド
そう言って拍手してくれた。
冒険者組合内にいる冒険者たちもその言葉を聞いて、俺たちに笑
いかけて拍手をくれた。
和やかな空気なのは、彼らもまた、これを経験しているからに他
ならない。
後輩の門出に対する、祝福の拍手、というわけだ。
まぁ、そうはいっても鼻を鳴らしながら見ている冒険者もいない
わけではないが、少数派だろう。
都市マルトは比較的、冒険者の質がいいところだ。
柄の悪い者は少ない。
﹁それで⋮⋮これで俺たちは晴れて銅級ってことでいいのか?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
と、シェイラが説明しかけたところで、彼女の後ろから一人の青
年が歩いてくる。
彼は手に一枚の紙を持っており、それをシェイラに手渡し、言っ
た。
﹁彼らは問題ないよ。はい、これ、報告書﹂
﹁ああ⋮⋮はい、なるほど、これでしたら問題ないですね﹂
と二人だけにしかわからないやり取りをしている。
364
その意味が気になったライズが尋ねる。
﹁どういうことだ?﹂
﹁ええと⋮⋮﹂
しかし口にし難いらしく、シェイラが口ごもってしまったので、
俺がライズとローラに説明した。
﹁⋮⋮おれたちは、しけんちゅう、あのおとこに、つけられてたの
さ﹂
﹁えっ﹂
﹁ほ、本当ですか? まったく気づきませんでしたけど⋮⋮﹂
二人とも驚いた顔でそう言う。
これに、当の本人である青年は微笑み、
﹁君たちのことはずっと見させてもらった。試験ではね、人柄なん
かも見るのさ。まぁ、本当の心の内なんてものはわからないけど、
あまりにひどすぎる場合はランクを上げるわけにはいかないんだ。
だから、僕みたいなのが密かに後をつけて、そういうところを見て
いたってわけ﹂
その言葉に、最後のボス部屋手前で出遭った冒険者たちを思い出
す。
確かに、ああいう人物が高ランクになったらやだな、と思ったの
かもしれない。
まぁ、俺から見るとあの四人組は多少柄が悪いだけでそこまでひ
365
どくはなかった。
というのも、弾かれるのはもっとひどい⋮⋮それこそ他人を傷つ
けることに快楽を覚えるような人物を想定しているからだ。
そこからすれば、あの四人組など大したものではない。
結構挑発的だったが、実際に手を出すことは無かったし。
俺が剣を突き付けたというのもあるが、何もしなくても腰に手を
かけただけの脅しで、すぐに手を下げた可能性の方が高い。
なにせ、剣を突き付けられても冷静だったからな、あのリーダー
の男は。
まぁ、それはいいか。
青年は続ける。
﹁そういうわけで、さっきシェイラに渡したのは君たちについての
報告書さ。細かいことは色々書いてあるけど、概ね問題なし、って
書いてある。基本的に今回の試験はバッヂを持ってくればそれで合
格だからね。何か特別なマイナスポイントがなければ、問題なく合
格。つまり、君たちは、合格でオーケーってことだよ﹂
366
第52話 新人冒険者レントと新人を終えた冒険者
﹁合格⋮⋮合格か! おい、ローラ! 合格だってよ!﹂
少しして、青年の言葉が染みわたったようで、ライズが爆発する
ように喜んで叫んだ。
ローラも、
﹁わぁ! やったね、ライズ! お父さんとお母さんの反対押し切
って、村から出てきた甲斐があったよ⋮⋮!﹂
と言って喜んでいる。
内容に若干不穏なものを感じないでもないが⋮⋮。
まぁ、田舎の村での生活に嫌気がさして冒険者になりに都会へ、
というのはかなりありがちな話だ。
俺も似たようなものなので説教は出来ない。
それに、そんな出自でこれくらいの技量を持っているというのは
中々のことだ。
何か幸運があったのだろうが、それでも銅級に上がれたと言うの
は彼らの努力を証しているだろう。
銅級になれば、少なくとも通常の雇われ人をやるよりは遥かに稼
ぐことが出来るからな。
田舎で自分の手の届く範囲の畑を耕しているのとは比べ物になら
ない。
つまり、銅級になれた時点で、彼らは故郷に錦を飾ることが可能
な訳だ。
喜ぶ理由は分からないでもなかった。
367
俺はどうかと言えば、当然とても嬉しい。
そもそも俺は生きているときは銅級だったわけだし、結局そこで
足踏みして何年も過ごしてしまったが馴染み深いランクである。
今まで俺が良く受けてたタイプの依頼もこれで受けられるように
なるし、次の銀級を目指すと言う新たな目標も出来た。
ミスリル
俺の今の冒険者人生は、非常に順調で、このまま頑張っていけば
アンデッド
しき
この道はきっと神銀級へと続いている、と思えるような素晴らしい
ものだった。
アンデッド
問題は、このローブと仮面を外すと俺は不死者の屍鬼である、と
いうことだが⋮⋮。
まぁ、些末なことだろう。
きっとそうだ。
別に街を普通に歩き回っている不死者が一人くらいいてもいいじ
ゃないか。
もわもわと妄想が頭をよぎる。
よろよろと歩く、体中に穴の空いた屍鬼が、一人の物売りに話し
かける。
﹁り、りんごを、ひとつ、ください﹂
﹁あぁ、はいよ。半銅貨一枚だよ。はいはい、たしかに。それにし
てもレント、あんた今日も穴だらけだねぇ﹂
﹁あんでっど、だからな。はっはっは﹂
﹁あははは⋮⋮﹂
そんな会話がなされていてもいいのだ。
⋮⋮よくはないか。
いや、良くはないけどダメでもないんじゃないか?
別に俺は悪いことはしてないんだし、その辺にいるおばちゃんな
ら別に俺が穴だらけのアンデッドだろうが骨で歩き回る死体だろう
368
が気にしないような気がする。
まぁ、現実に歩き回ってたら、当然誰かしらに衛兵なり冒険者な
り呼ばれてこの世からさようならだけどな。あはは。笑えない。
しかし、それはとりあえず置いておこう。
存在進化すれば、そのうち堂々と歩けるようになるはずだ。
こつこつ迷宮で、頑張っていけばいいのだ。
そうすれば、存在進化も出来て、魔物の素材でお金も儲かり、依
頼も一杯達成できてランクも上がる。
一石二鳥どころか三鳥である。
うまくいけば、の話だけどな⋮⋮。
さて、それよりも今は銅級に上がったことについてか。
昇格が決まったことはいいが、細かいことは聞いておかなければ
ならないだろうな。
俺は大体分かっているが、ライズとローラの二人はまだだし。
そう思ってシェイラに目を向けると、彼女は言う。
﹁ところで、銅級に上がったみなさんなんですが、とりあえず冒険
者証が鉄級の鈍色のものから、こちらの銅のものになります﹂
そう言って、銅の冒険者証を見せてきた。
しかしそこには、ギルド・ギルダーという恐ろしく適当な名前と、
ギルドの所在地の番地が記載してあるだけである。
それについても、シェイラが説明してくれた。
﹁⋮⋮これは見本ですから、架空の人物の名前ですよ。ちなみにギ
ルド・ギルダーさんはどのギルドの見本でも使われている由緒正し
き架空人物です﹂
369
そんな情報はいらない、と言いたいところだが、ライズとローラ
は興味深そうだ。
まぁ、あんまりこういうものを見せられることはないからな。
ただ、鉄級の冒険者証をもらうときにも見せられたんじゃないか
と思うんだが⋮⋮。
それについて、ライズは、
﹁いや、あのときは本当にいる誰かの奴を見せてくれたんだと思っ
てたんだよ﹂
と言った。
シェイラほど親切に説明する職員ではなかったのかもしれないな。
それか、若い冒険者とちょっとからかったとか。
実害があるわけではないから別にそれくらいいだろうが。
シェイラは続ける。
エンチャント
﹁銅級の冒険者証からは、一応、偽造防止の魔術付与が施されます
ので、その関係で作成には一両日頂いております。明後日には確実
にお渡しできるので、それまでは今お持ちの冒険者証をお使いくだ
さい。それで銅級の依頼を受けることも可能ですので、そこはご心
配なさらずに﹂
ギルド
この場合の偽造防止は身分証明能力が上がるという訳ではなくて、
冒険者組合側がおかしな奴に勝手に冒険者の名前を名乗らせないた
めの措置だ。
しかも、偽造防止とは言うが、その前に一応、を付けただけあっ
て、腕のいい魔術師なら偽造は可能なくらいのものだ。
だからこそ、冒険者の中には怪しげな奴も少なくなく、胡散臭い
370
エンチャント
集団だと見られることも少なくないのだが⋮⋮。
ちなみにこの偽造防止の魔術付与は、ランクが上がるにつれて上
等なものになっていく、らしい。
銀級のそれはロレーヌのを見せてもらったことがあり、ロレーヌ
にその技術について聞いたことがあったが、しかしそれでも時間と
素材があれば偽造は可能だという話だった。
ミスリル
金級、白金級も同様だ。
ミスリル
ギルド
ただ、神銀級のそれだけは、偽造は不可能に近い、ということだ。
神銀級の冒険者は、冒険者組合の宝だ。
何があっても冒険者証の偽造などさせない、ということだろう。
まぁ、それでも絶対に不可能という訳ではないぞ、自分なら時間
さえかければ何とかなる、とはロレーヌの言だが⋮⋮絶対にやるな
よとは一応言っておいた。
いつかしゃれで作りそうで怖いが。
さて、シェイラの説明も粗方終わったようである。
色々と説明してもらったが、基本的に銅級の仕事は、鉄級と大し
て変わらない。
護衛など、人と関わる仕事が鉄級のときよりも増えていく関係で、
礼儀や商慣習などについてある程度知っておく必要が出てくる、と
いうくらいか。
ギルド
その辺りについては例の受付横の分厚い本に詳細に記載してある。
必要なら冒険者組合がたまに講習しているので、それを受講する
のもいいだろう。
たしか、かなり低廉な価格で行っていたはずだ。
まぁ、そんなことはそれこそ些末なことか。
それよりも、今重要なことは⋮⋮。
﹁⋮⋮らいず、ろーら﹂
371
俺は二人に話かける。
二人は俺の方を振り返って首を傾げた。
その顔には一体、何を言い出すのだ、と書いてあって、ここまで
で俺の性格をかなり理解したが故の表情であることに俺は少し口元
が歪む。
ギルド
しかし、俺と彼らはあくまで臨時パーティなのだ。
銅級昇格試験の受験のために、冒険者組合から無理やりに組まさ
れた二組。
今ではもちろん、無理やりだったから嫌だった、なんてことはさ
らさらないが、本質的にはそうだ。
ということつまり、試験が終わった今を持って⋮⋮。
﹁なんだよ、改まって﹂
﹁なんですか?﹂
首を傾げる二人に、俺は言う。
﹁⋮⋮ここまで、いっしょにがんばれて、たのしかった。おたがい、
しっかりと、うかることもできた⋮⋮これから、おたがい、どうい
うぼうけんしゃになっていくのかはわからないが、きょうのことは、
きっと、いつまでもわすれない。ありがとう﹂
すると、二人は、はっとしたような顔で語りだした。
ただ、その顔には驚きはなく、淡々とした、事実を口にしている
ような、そんな雰囲気があった。
﹁⋮⋮いや、それはこっちの台詞だ。俺たちは、今日、はじめてち
ゃんとした冒険者になれた気がする。そうさせてくれたのは、レン
372
ト、あんたのお陰だ。冒険者にとって、大切なのはただ腕っぷしだ
と今まではずっと思ってたけど、必ずしもそうじゃないって、あん
たのお陰でわかった⋮⋮。本当にありがとう、レント。忘れないの
は俺の方だ。今日教わったことを基礎に、頑張っていきたいと思っ
てる。いつかまた、一緒に依頼とか受けられたら、嬉しい﹂
﹁レントさん⋮⋮出来れば、これからも一緒に、って言いたいんで
すけど、これは言っちゃダメなんでしょうね⋮⋮。なんとなく分か
ってました。レントさんは⋮⋮何かが違います。あぁ、見た目とか
じゃないですよ? そうじゃなくて⋮⋮なんでしょう、目標? 目
的? かな⋮⋮それがなんだか、私たちには分からないものを目指
している感じがして⋮⋮。それはきっと、私たちと一緒に探すよう
なものじゃないんだなって。レントさんは私たちに色々教えてくれ
て、戦いのときも気を配ってくれてましたけど、あくまでも、私た
ちが私たちだけで敵を乗り越えられるようにサポートに徹してくれ
てたの、分かってましたから。きっと、試験が終わったら、別れる
ことになるなって感じてました。それでも⋮⋮私たちがパーティだ
ったのは、今日この日だけだったかもしれないけど、でも、レント
さんは私たちのパーティメンバーです。もし、何かあったら、機会
があったら、また、組んでください。よろしくお願いします﹂
二人のその台詞に、俺は驚く。
立派になったものだ、というのと、俺のことをこの短い間でしっ
かり見ててくれたのだなと思って。
勝手に若い冒険者を育てているような気分になっていたが、それ
は正しくなかった。
お互いに背中を見ながら、迷っているときに押せるようにと気遣
い合っていたのかもしれないと思った。
少なくとも、今、俺は、ライズとローラに背中を押された気がし
た。
373
いつか、きっと、︽人︾になれる。
その希望は捨ててはならないのだと。
俺は、
﹁⋮⋮ぱーてぃをくめなくて、すまない。ただ、それはおまえたち
がきらいだからとか、じつりょくがたりないから、とかじゃない。
おれのじじょうなんだ。いつかそれがかいけつしたら⋮⋮そのとき
は、おまえたちにも、いろいろ、はなそうとおもう。そのときまで、
おたがいにがんばっていこう﹂
二人にそう言って、最後に握手をした。
二人は笑顔で俺の手を握ってくれた。
手袋越しだったが、もしかしたら、なんとなく不自然な感触がし
たことに気づいたかもしれない。
ただ、それについて何も言わないでいてくれた。
アンデッドだと分かったわけではないだろうが、何か事情がある、
と察してくれたのだろう。
それから、ライズとローラは今日のところはもうゆっくり休む、
と宿に戻っていった。
俺はそれを見送って、自分もロレーヌの家に戻るか⋮⋮と歩き出
そうとしたところ、
﹁⋮⋮レントさん!﹂
と、後ろから声をかけられた。
それは、シェイラのものだったが、俺は少し驚く。
その名前の呼び方は、先ほどまでの、︽あまり親しくないレント
374
︾と呼ぶものではなく︽かなり長い付き合いのレント︾を呼ぶ声色
だと感じられたからだ。
375
第53話 新人冒険者レントと冒険者組合職員シェイラ
俺が振り返ってシェイラの顔を見ると、その表情は非常に真剣な
もので俺はそれを目にした瞬間察した。
︱︱簡単には誤魔化せなさそうだな。
と。
とことこと歩いて、シェイラの前まで行き、俺は尋ねる。
﹁⋮⋮なにか、ようか?﹂
グール
しわがれてはいるが、屍食鬼だったときと比べれば遥かに流暢な
声である。
ただ、シェイラはその声を聞いてから、非常に悩んで、しかし口
を閉じることは出来ずに、
﹁⋮⋮はい。私は、貴方に聞きたいことがあります。もしよろしけ
れば、別室に来てはいただけませんでしょうか?﹂
この場で話すつもりはないらしい。
ギルド
それは⋮⋮一体どう捉えればいいのか微妙だ。
少なくとも、今、冒険者組合にいる冒険者たちに聞かせるつもり
はないということは間違いないだろう。
俺の正体が、おそらくは、レント・ファイナだと気づいたうえで、
そうするということは、名前を偽ったこと、そしてその偽った名前
で冒険者登録をしたことについては黙っていてくれるつもりだと考
えて良さそうに思える。
376
アンデッド
俺がわざわざ偽名を名乗ったことに、何か理由があると深読みし
てくれたのかもしれないな。
しかし、そうであるとしても、俺が不死者であることまで黙って
いてくれるつもりか、というとそれはまた別の話だろう。
俺が、人間として、偽名を名乗った。
これなら、許されるかもしれない。
けれど、俺が、不死者として、偽名を名乗った。
これは許されないかもしれない。
どうしたものか⋮⋮。
非常に迷う話だ。
しかし、シェイラの表情を見る限り、あまり引く気持ちはないら
しいということは分かっている。
ここで断り、色々と疑念を抱かれるのもまた、問題があった。
適度に説明する必要はもう生じてしまっている以上、とりあえず、
ついていく方向で行くしかないだろう。
そう思って、俺は言う。
﹁⋮⋮わかった。どこに、いけばいい?﹂
﹁⋮⋮! ありがとうございます。こちらへ⋮⋮﹂
ぱっと、少し表情が明るくなったことがなにか、申し訳ないよう
な気がした。
おそらくは色々と説明するように求められるのだろうが、俺が言
えることなど少ないのだ。
まさか、ローブを脱いでみせると言うのもな⋮⋮。
377
アンデッド
出来るだけ、説得力のある話を、核心︱︱つまりは、俺が不死者
である、という部分だけを言わずにするしかない。
俺は、覚悟を決めて、シェイラの後についていく。
◇◆◇◆◇
ギルド
ばたん、と冒険者組合建物の職員以外立ち入り禁止の区画にある
一室に入り、扉が閉まる音がした。
部屋の中にいるのは二人。
俺と、シェイラだけだ。
ギ
中に何か録音や録画の可能な魔道具などが設置されていないか魔
力を探知してみるが、なさそうである。
ルド
そもそもそう言った魔道具は高い上、貴重だから、いくら冒険者
組合とは言えおいそれと手に入れられるものではない。
それなのになぜロレーヌは持っているのかと言う疑問を感じない
でもないが、あいつは色々と俺に秘密の部分を持っているのは分か
っている。
・・・・・・・
おそらくはその隠された伝手とかを持って手に入れたのだろう、
と推測している。
・・・
﹁︱︱さて、レントさん。私が何を聞きたいか、察しのいい貴方な
らお分かりですよね?﹂
シェイラが口を開くと同時に、そんな切り付けるような台詞を俺
にぶつけてきた。
何も嫌な感じではないが、どことなく反論を許さないような雰囲
気の感じられる言い方である。
しかも、俺の名前やら何やらが、妙に強調されている。
その強調が、何を意味するのかは、それこそ察しのいい俺がわか
らないはずはなかった。
378
ただ、それでもそのまますべてを話すことは出来ないし、するつ
もりはない。
とは言え、それで納得しないだろうと言うことも分かっている。
だから俺は、ある程度を、色々な保障の上に話す、という選択を
することにした。
そのための布石として、俺はシェイラの質問には答えず、むしろ
質問で返した。
・・・・
﹁⋮⋮そのまえに、かくにんしておきたい。おれを、ここにつれて
きたということは、ぎるどとしては、おれが、あらたにぼうけんし
ゃとしてとうろくしたことは、とがめるつもりはないととらえても、
いいのか?﹂
﹁⋮⋮質問しているのは私ですよ、レントさん。それは本来許され
ていない行為です。ですから⋮⋮﹂
ギルド
シェイラの言うことは分かる。
冒険者組合の登録関係は結構ザルだが、表向き、というか基本的
なルールとしては複数登録は認められていない。
だから、その職員として許す、とは言えないのが普通だ。
しかしそれでは俺がここにいる意味はなくなる。
だから駆け引き、というわけではなく、端的な事実として、俺は
言う。
﹁もし、そのことについてほしょうされないのなら、おれはもうか
える。もうにどと、ぎるどには、こない。どうなんだ?﹂
ミスリル
別にそれでも構わない。
と言っても、夢である神銀級を諦める、というわけではない。
379
そうではなく、都市マルトから別のところに行ってそれこそまた
ギルド
登録しなおせばいいのだ。
何度も言うようだが、冒険者組合の登録管理はザルだ。
もう一度鉄級から始めるのはそろそろ面倒くさいが、それでもダ
メだと言うのなら仕方がないだろう。
顔や格好については、仮面の形をいじり、ローブの色や形も変え
れば問題ない。
だからそう言った。
これにシェイラは目を見開き、慌てて言った。
﹁ちょ、ちょっと待ってください! それは⋮⋮﹂
﹁しぇいら。おれは、いま、おおきなもんだいをかかえている。た
とえぎるどであっても、おかしなよこやりはいれられたくはないん
だ。だから、さいていげん、ほしょうすることはほしょうしてもら
えないと、おれはなにも、はなせない。もちろん、そのほしょうは、
まじゅつてきにほしょうされた、ぶんしょでしてもらいたい﹂
﹁⋮⋮レントさん。そんなに大変なことがあなたの身に⋮⋮?﹂
もしかしたら、シェイラとしてはそこまで重大事だとは考えてい
ないのかもしれない。
少し身を隠す必要があったから、ちょっとだけ名前を隠している、
それくらいのことだと。
けれど現実は違う。
俺はもしかしたら、永遠にこの身を人前にさらしてはならないの
かもしれない。
それどころか、明日、誰かの手で⋮⋮それこそ、顔見知りに討伐
されてしまってもおかしくはないのだ。
380
そんな状況で、そう簡単に事情を話すわけにはいかないのだ。
ギルド
これは別にシェイラを信用していない、というわけではない。
けれど、彼女はあくまで冒険者組合の職員だ。
市民の安全を守る側にいて、それを脅かす存在がいれば、たとえ
ギルド
それが友人であっても上司に報告し、倒すべく行動しなければなら
ない。
それこそが、冒険者組合というものの存在意義だからだ。
だから、彼女がそうである以上、話せる内容には限度がある。
ロレーヌは色々な意味で独立独歩な人間だから話せただけだ。
自分で決めた限り、他人には絶対に話さないと言うのが分かって
いるから。
鍛冶師のクロープも同じだ。
シェイラは、その意味で少し違う存在なのだ。
これは、好悪の問題とは違う。
立場の強いるものの違いだ。
俺はシェイラに頷いて、彼女の返答を待った。
シェイラは目をつぶり、考えた様子だったが、しばらくして覚悟
が決まったのか、口を開く。
ギルド
﹁レントさん。実は、私はまだ、貴方のことを冒険者組合には報告
していないんです。なにせ、まるで確信がなかったものですから⋮
ギルド
⋮ただ、今日貴方たち三人を追跡していた職員は、私が少し相談し
たので、知っています。ですから、冒険者組合として、貴方の登録
についてどうこうということは言いようがない、そういう状況で⋮
⋮﹂
シェイラの言葉に、今度は俺の方が驚いた。
381
第54話 新人冒険者レントと冒険者組合職員の内情
﹁⋮⋮やっぱり、驚かれましたか?﹂
ギルド
シェイラが何とも言えない苦笑を浮かべながらそう尋ねてきたの
で、俺は頷いた。
それはそうだ。
ギルド
なにせ、彼女は冒険者組合職員なのである。
冒険者組合職員と言えば、腕っぷしさえあれば簡単に登録できる
冒険者とは違って、基本的にはかなりの難関試験を乗り越えなけれ
ばなることは出来ない。
それで、一般的な職業よりも高給で、冒険者とは異なり、自ら危
険に晒されることはほとんどない。
また下世話な話だが、うまくやれば将来有望な冒険者を捕まえる
ことも出来る。
ギルド
そういったことから、若い女性には人気の職業なのだ。
ギルド
それだけに、どうしてもクビにはなりたくないため、冒険者組合
職員と言うのは冒険者組合に対して非常に忠実だ。
業務に関する秘密を外部に漏らすことなく、また何か外部から情
報がもたらされれば細かいことであっても即座に報告をする。
そういうものだ。
にもかかわらず、シェイラはその報告をしていない、というのだ。
これに驚くなと言うのが無理な話だ。
しかしシェイラは、言う。
ギルド
﹁もちろん、私だってクビになるのは嫌ですけど⋮⋮そもそも、冒
382
険者組合は言われているほど職員に厳しい組織ではないですからね。
全体的に大雑把で、細かいところは気にしない傾向があります。登
ギルド
録関係一つ取ったってそういうところが見えるでしょう? それで
も若い女性職員が冒険者組合に媚びを売っているのは、巷で言われ
ているような、クビになりたくない、という感覚よりも、有望な結
婚相手をぜひに紹介してほしいがため、という意味合いが強いです
ね﹂
それは初耳だった。
しかし、有望な冒険者など、自分の目で見つけて近づけばいいの
ではないか、と思っているとシェイラは、
﹁まぁ、ここでだけで見つけようとするならそうでしょうけど⋮⋮
ランクの高い冒険者は、都会にいるでしょう? やっぱり、そうい
うところに転勤しないとそういった冒険者には会えませんから。ど
うにか都会に、そしてそこで玉の輿に乗るために、という感覚なん
ですよ⋮⋮私の場合は、特にそういった欲望がないので、今回みた
いな行動をすることもあるわけです﹂
ミスリル
まぁ、確かに、金級や白金級、それに最高位冒険者である神銀級
がいるのは主に都会︱︱たとえば王都とか、地方都市であるとして
もかなりの巨大都市になるだろう。
そういうところに勤めたい場合は、出世するために、ひたすら媚
ギルド
びを売らないと厳しいか。
そもそもが、冒険者組合に就職するのは難関なのだ。
それを乗り越えたものたちがしのぎを削っている状況の中なら、
そういったちょっとした媚びみたいなものも大事になってくるとい
うのはあるのだろう。
そしてシェイラにはそういう欲望はない、と。
383
本当か?
ギルド
と思ってしまうような話だ。
ただ、確かに男性の冒険者組合職員を見る限り、女性の職員より
もなあなあな仕事をしているようなところがあるように見る。
あれはつまり、別に彼らは都会で玉の輿なんて狙う必要がないか
ら、と考えると納得できる。
出世は出来るならしたいだろうが⋮⋮競い合っても有望な冒険者
と比べるとその稼ぎは微々たるものだろうからな。
ギルド
別にいいかと言う感じなのかもしれない。
だとすると、シェイラの語った冒険者組合の内情については信じ
てもいいかもしれないが、シェイラ自身が本当にそう言った欲望が
ないのかはまた別の話だ。
実のところあって、ここでの会話もしっかり上に報告する、とな
ったらもう、俺としてはどうしようもない。
捕まって討伐であろう。
嫌だ。
ただ、信じたい、という感覚もないではないのだ。
ロレーヌほどではないが、シェイラもまた、俺にとってはそれな
りに長い付き合いの相手になる。
無条件の信頼を寄せるほどではなくとも、仕事相手としては十分
に信用していた。
そこからの直感で言うのなら、今の彼女は、嘘はついていない、
と思う。
しかし⋮⋮。
俺のそんな苦悩をシェイラは理解したのか、
﹁⋮⋮まぁ、そう簡単には信用できませんよね。分かってます。や
っぱり、何を言っても私は勤め人ですから、色々と義務やしがらみ
384
があるのも間違いありません⋮⋮ので、こういうものを用意しまし
た﹂
そう言って、くるくると丸められた羊皮紙を懐から取り出し、開
いて見せた。
そこにはぼんやりと光を放つ複雑な文様が描かれていて、それが
一目で何なのか、俺には分かった。
﹁⋮⋮まじゅつけいやくしょ、か。ほんとうに、よういしてるなん
てな﹂
俺が先ほど言った、魔術的にその内容を保証する文書の一つ、そ
れが魔術契約書である。
特殊な羊皮紙とインクで作られたそれは、あとで契約内容を書き
こみ、当事者が署名をすればその通りに契約され、破ることによっ
てある程度までのペナルティを相手方に課することが出来る便利な
道具である。
値段的にはどの程度のペナルティを課せるかとか、契約条項をい
くつ組み込めるかとか、そういう諸々でピンキリだが、シェイラが
持っているそれは上から三番目くらいのものだろう。ちなみに下か
らも三番目だ。
通常の契約ならだいたいこれで事足り、またペナルティもかなり
重いものまで課せる、一番需要の高い魔術契約書。
それを持っているということは、彼女も本気なのだろう。
シェイラは言う。
ギルド
﹁レントさん。貴方が何を抱えているのかは分かりませんが⋮⋮ど
うか私に教えてくれませんか? 私は、冒険者組合とは関係なく、
貴方の力になりたいんです。なぜって⋮⋮私が一人前になれたのは、
貴方のお陰なんですから。そのためにこれが必要なら、私は迷わず
385
名前を書きます⋮⋮一つ問題があるとすれば、私が相談した彼です
が、それもまた、私がどうにかします﹂
シェイラ自身については、魔術契約書があればそれでいいだろう。
しかし、シェイラが俺のことについて相談してしまった彼は⋮⋮。
一度言ってしまった話だ。誤魔化すのも難しいような気がするが
⋮⋮。
そう思っていると、シェイラは、
﹁⋮⋮彼は、私の弟です。相談したのも、その気安さがあったから
⋮⋮。ただ、絶対に他言無用に、と言った以上、彼がどこかに漏ら
すことはありません。それだけでは納得しかねるのでしたら、魔術
契約書を彼からもとってきましょう。本人が仮に嫌がっても、やり
ようはあります⋮⋮﹂
ギルド
シェイラに弟がいる、と言う話は以前聞いた覚えがある。
ギルド
しかし姉弟揃って冒険者組合勤め、というのには驚いた。
それについて俺が知らなかったのは、冒険者組合職員でも、出現
した魔物や、その討伐状況、また今回のような試験の際の密かな追
跡など、いわゆる斥候的な仕事を担当する者たちの顔は、基本的に
積極的に顔を見せたりはしないので、仕方がない。
今回俺の前に顔を見せたのは、俺の顔を見たかった、というとこ
ろだろうか。
姉がおかしいのに興味を持っているから、ちょっと顔を見てやろ
う、と。
⋮⋮もしかして姉馬鹿なのかもしれないな、あれで、と失礼なこ
とを少し考える。
しかし、シェイラの言葉でその妄想は否定された。
﹁そもそも、弟は来週から王都に転勤しますからね。私と違ってエ
386
リート街道に乗ったので、都市マルトでの仕事はあれが最後になり
ます。レントさんと関わる機会は、少なくともマルトにいる限りは
もう、ないと思いますから、それほど心配されなくても大丈夫だと
思います﹂
つまり、顔を見られても、もうここでの仕事はないから大丈夫だ、
ということか。
しかもエリート街道と言うことは斥候の仕事自体、もうしないの
ギルドマスター
かもしれない。
ゆくゆくは冒険者組合長か、ということなのだろう。
シェイラが特に出世を求めていないのは、弟が出世しているから、
自分はいいか、と言う感覚もあるのかもしれなかった。
そして、シェイラは、俺に尋ねる。
﹁そういうわけですので⋮⋮どうでしょうか。私に、レントさんの
ギルド
状況をお話していただけませんか? 何かお困りのことがあったと
き、冒険者組合職員に協力的な知り合いがいれば、必ず役に立つと
思うんです﹂
387
第55話 新人冒険者レントと魔術契約
正直なところを言うのなら、ここまで言われても俺にはまだ、迷
いがあった。
なぜなら、これはあくまでも、︽人︾であるレント・ファイナに
アンデッド
対する提案だからだ。
俺が︽不死者︾であるという事実を前提にしたとき、その提案の
すべては引っ込められてしまう、そういうものではないのかという
感覚が捨てきれない。
だが⋮⋮。
魔術契約書まで出してきた相手に、それでもまだ信じきれない、
と言うのはその覚悟に対して失礼な気もした。
魔術契約書は、そこに書いた内容を反故にすることが難しい。
絶対にできない、とまで言えないのは、やはり色々と抜け道も存
在するからだ。
ただ、それはそう簡単に出来ることではない。
魔術契約書を出してきた時点で、その覚悟は本物であり、契約は
履行されると考えるのは普通だ。
ただ、ペナルティに何を課するかによっては、守る気があるかな
いか、その軽重が分かるが、その辺はどうなのだろう。
﹁⋮⋮おれとしては、しぇいらを、しんじたい。ただ⋮⋮こまかい
かくにんになるかもしれないが、ぺなるてぃは、なにをかんがえて
いる?﹂
俺がそう尋ねると、シェイラは、
388
ギ
﹁私は、今回の契約を破るつもりがありません。ですから、どのよ
ルド
うなペナルティを書いていただいても構いません。それこそ、冒険
者組合をやめろでも、奴隷になるでも、です﹂
そのペナルティは、どちらも俺の感覚からすると重すぎる。
ギ
まぁ、ばれたら俺の場合、討伐一直線だと考えればそんなことは
ルド
ないのかもしれないが、一生懸命努力して就いた職業である冒険者
組合職員の地位を捨てると言うのは、シェイラの今までの人生の否
定だし、奴隷になるなんて論外だと思ってしまう。
奴隷制度はこの国ではそもそも認められていない。
どうしたものか、と思っていると、シェイラは羊皮紙を部屋の中
に設えられているテーブルの上に広げ、懐から羽ペンを取り出して、
書き始めてしまった。
そして、羊皮紙を俺に見せる。
ギルド
そこには間違いなく、︽契約を履行しなかった場合、シェイラは
冒険者組合を辞すこと、奴隷制度が存在する国において、奴隷とし
ての手続きを行い、その所有権を俺に与えること︾が記載されてあ
った。
いやいやいや、重すぎるから。無理だから!
と言いたくなったが、もう書いてしまっている。
今から別の魔術契約書を購入して、この契約書は焚書しよう⋮⋮。
そう言おうとしたが、シェイラの顔を見ると、その目は座ってい
る。
ここまで書いたんだからすべて話してくれるよね、と主張してい
るかのようだ。
これは⋮⋮もう、ダメだろう。
この部屋に連れてこられ、ただひたすらに優柔不断に悩んでいた
が、話すしかあるまい⋮⋮。
俺は諦めて、シェイラにいう。
389
﹁⋮⋮わかった。しっかりとないようをつめて、けいやくしょに、
しょめいしよう⋮⋮はなすのは、それからだ﹂
俺が観念したのを理解したのか、シェイラは笑顔になり、
﹁はいっ! 今すぐ契約条項の案をまとめますね!﹂
と嬉々として考えはじめ、俺に説明して、それで問題ないと言う
と物凄い速度で羊皮紙に書き、署名し、そして俺にも署名するよう
に、と羽ペンを渡したのだった。
◇◆◇◆◇
﹁さて、それじゃあ、はなすか⋮⋮﹂
色々と押し切られた感はあるが、概ねここでシェイラの言ったこ
ギルド
とは、内容としては俺も納得できるのだ。
これからのことを考えると、冒険者組合内部に協力者がいる状況
は、むしろきわめて望ましいし、その機会は出来ることなら逃した
くはなかった。
しかし、果たして今の俺の状況を知って、そうなってくれる人間
がいるかというと⋮⋮。
そこが悩みどころだった。
まぁ、もし可能性があるとしたら、シェイラをおいて他になかっ
たのも事実だ。
なるべくしてこうなった、と言えなくもない状況に、俺も、これ
でよかったのかもしれない、と今は思っている。
390
どこから話すべきか⋮⋮。
難しいところだが、やっぱり、根本から話すのが分かりやすいだ
ろう。
契約上、俺の正体について、俺の許可がない限りは他人に話さな
い、となっているので、そこを話しても問題はない。
だから、まずはローブの上、帽子部分を脱いでみせた。
全部脱ぐのが一番分かりやすいが、さすがにいきなり若い娘の前
でそれをする度胸はないし、頭だけでも実は結構衝撃的なのだ。
穴は別に空いてはいないが、ところどころの枯れ具合が中々なの
グール
だ。
屍食鬼だったときと比べれば、大したことは無いけれど。
﹁⋮⋮? ⋮⋮っ!? こ、これは⋮⋮どういう⋮⋮﹂
最初は首を傾げていたシェイラだが、後ろに回って覗いてみて、
その異常性を理解したのだろう。
さらに前に回ってもらって、今度は仮面の形状を変えてみてもら
う。
なんだかんだ言って、ここが一番衝撃的だ
なにせ、顔の下半分についてはほとんど、歯と歯茎丸出し骸骨状
態だからな。
ロレーヌはグロいものにかなりの耐性があるから平気そうにして
いるが、流石にシェイラにはそれは衝撃的だったようだ。
見たとたんに顔色を青くし、ふらふらとなって、地面に膝をつい
てしまった。
﹁⋮⋮だいじょうぶか?﹂
そう尋ねてみるが、シェイラの顔の青白さは中々もとには戻らな
い。
391
やっぱり相当にショックだったらしく、言葉が出ないようだった。
しかし、俺が、
﹁やっぱり、きかないほうが、よかったんじゃないか? おそろし
いだろう⋮⋮﹂
そう言うと、シェイラは慌てたように首を振って、
﹁そんなことありません!﹂
と叫ぶ。
それから、
﹁⋮⋮そんなこと、ないんです。レントさんが、そんな、そんな大
変な目に遭っていて⋮⋮何も知らなかった方が、嫌でした。びっく
りは、しましたけど⋮⋮知れてよかったです﹂
そう言った。
やめておけばよかった、と言われなかったことで俺は若干安心す
る。
それから、
﹁みて、どうおもった?﹂
そう尋ねるとシェイラは、
﹁⋮⋮なんていえばいいのか。なにか、かなりの重傷を負われたと
ポーション
いうことなのでしょうか? それで、治らなくてそんなことに? でも、それなら治癒術か、回復水薬を使えば⋮⋮﹂
392
と、答えが分からないようなので、俺は正直に説明した。
﹁いや、そうじゃない。おれは⋮⋮まものになったんだ。いまのこ
のみは、しき、なんだよ﹂
ぽん、と軽く言った台詞だったからか、シェイラの頭に染みわた
るのには若干時間がかかったようで、シェイラは、
﹁え⋮⋮それは⋮⋮ええと?﹂
俺は続ける。
﹁おれは、ちょっとまえに︽すいげつのめいきゅう︾にもぐってた。
そこで、みとうはくいきをみつけて、つい、はいりこんでしまった
んだ⋮⋮そして、とつぜん、りゅうにであって⋮⋮そのまましんだ。
で、きづいたらすけるとんになってたんだ。それでしかたないから
ひたすらまものをたおして、そんざいしんかして⋮⋮いまではおれ
は、しきなのさ。どうだ、おもしろいだろう?﹂
どこが面白いんだろうな、と自嘲したくなる話だが、こうやって
並べ立てるとちょっと滑稽で笑える話のような気もした。
﹁そんな⋮⋮そんなことが⋮⋮﹂
シェイラは驚きっきりで、何も言えないようだが、これは事実だ。
ただ、こんな話をして、最初から本当だと信じられる人間なんて、
まず、いない。
これくらいの反応が普通だ。
俺はシェイラの様子を見て、これ以上は少し時間が必要だ、と思
った。
393
だから、言う。
﹁いきなり、こんなはなしをきかされて、こんらんするのは、わか
る。だから⋮⋮すこし、かんがえてみてくれ。こんなおれに、ほん
とうにきょうりょくなんてしても、いいのかってことも。もちろん、
おれは、ひとをおそったりするつもりはない。ただ、ぼうけんしゃ
として、はたらければいいだけだ。けど、いきなりしんじるのは、
むずかしいだろう⋮⋮けいやくはかわしてしまったけど、そうほう
がごういすれば、かいじょすることもできる。とりあえず、きょう
のところは、おれはかえるから、かんがえてみてくれ⋮⋮おれを、
ひととして、しんじられるかどうかを﹂
そして、部屋を出ようとした。
もし、シェイラが協力はやっぱり無理だ、と言ったなら、そのと
きは契約は解除したうえで、マルトは出ようかなと思っていた。
別に、シェイラの人生を縛る気はないのだ。
その場合、すべてを話したシェイラがいる以上、マルトにいるな
ら捕まる可能性はあるだろうが、別の地域に行ってしまえば、やは
り大した問題はない。
人間関係を捨てる覚悟さえあれば、今なら一人で生きていくこと
は出来る。まぁ、ロレーヌくらいは頼めばついてきてくれるかもし
れないが。
しかし、
﹁待ってください!﹂
去ろうとする俺に、シェイラがそう叫ぶ。
俺が振り返ると、
394
﹁⋮⋮私は、レントさんを信じます。魔物になったってことも⋮⋮
人を襲ったりしないってことも⋮⋮だって、レントさんは、いつだ
っていい人だったから! だから⋮⋮私は協力します﹂
そう懇願するように言い、それからつかつかと俺のほうに歩いて
きて、俺の手を乱暴にひっつかみ、
ギルド
﹁レントさん。これから冒険者組合関係で何かあったら、私に言っ
てください。きっと、きっと力になりますから⋮⋮﹂
そう言って、落ち着いた微笑みを向けてくれたのだった。
395
第56話 新人冒険者レントと酷薄な瞳
︱︱がちゃり。
と、扉の開く音がする。
見慣れたその扉が開くと、その向こうから顔を出したのは馴染み
の女性の顔だ。
理知的で、気だるげで、少しばかり悪戯っぽく、しかし優しい。
ロレーヌ。
それは彼女の名前である。
﹁⋮⋮おや、これはまた。珍しい人を連れているじゃないか、レン
ト。︱︱まさか、手を出したのか?﹂
からかうような笑みでそう言ったロレーヌは別に本気という訳で
はないだろう。
ギルド
ただ、なぜか妙な緊張感を若干感じないではなかったが⋮⋮まぁ、
気のせいだろう。
ロレーヌが言及したのは、俺の後ろにいる人物、冒険者組合職員
のシェイラ・イバルスである。
すべてを説明し、理解してくれた彼女には、ロレーヌも知ってい
ることも話した。
それで、今は彼女の家に厄介になっていることも言ったら、少し
話をさせてほしいと言ったのだ。
まぁ、俺がロレーヌの家で厄介になっていることは、以前も言っ
てあったので特に驚きはないはずだが、改めて話したとき、シェイ
ラは、はっとしたような様子で少し考え込んでいた。
何を思っていたのだろう?
396
それは俺にはよくわからないが、とにかくロレーヌに会って話を
することが急務だと言うから、連れてきたわけだ。
まぁ、この街で俺の正体について、明確に知っているのはロレー
ヌとシェイラ、それに最初に会った少女冒険者のリナ・ルパージュ
だけだ。
鍛冶師クロープとその妻ルカも気づいてはいるが、明確には説明
していない。
アンデッド モンスター
彼らはその立場上、行政や教会なんかと関わり合うことも少なく
ないし、そうなると不死者魔物なんかとそれと知って付き合いがあ
るとまずいだろうと思って、曖昧にしているのだ。
いずれ、ちゃんと話したいところだが、今のところは彼らの、分
かっていてあえて触れないやさしさに甘えきりである。
いつか何らかの形で恩返しがしたいところだが⋮⋮まぁ、今はい
いか。
それよりも、ロレーヌとシェイラだ。
シェイラはロレーヌの言葉に、
・・・
﹁⋮⋮手は出されてませんよ、ロレーヌさん。でも、色々と知って
います。聞きましたから⋮⋮﹂
ロレーヌももしかしたら大体予想していたのかもしれないが、そ
れでもどこまでシェイラが聞いているのかまでは予想できなかった
ようだ。
俺の気分次第なのだから当たり前である。
ただ、玄関先でするような話でもなく、ロレーヌは、
﹁⋮⋮ふむ? まぁ、いいさ。とりあえず中に入るといい。散らか
ってはいるが、居心地は意外と悪くないんだ﹂
そう言って俺たちを促した。
397
散らかっているに俺は若干の違和感を感じたが⋮⋮。
なにせ、出る前に俺が片づけたはずなんだけどな。
散らかっているのはおかしくないか⋮⋮?
ほんの数時間前なんだけど。
と思わずにはいられなかった。
◇◆◇◆◇
かちかちかち、と個人用の計時魔道具︱︱時計が、無言の中、音
を立てて時間の経過を教えてくれている。
時計なんてものは大きな店かよほどの金満家くらいしか持ってい
ない非常に特殊な魔道具であるが、なぜかロレーヌは持っていたり
する。
仕組みも調べてそれほど小さなものでなければ自作も可能だと言
うのだから、我らがロレーヌさまはとても器用でいらっしゃる。
基本的に何でもできるのだ。
その何でもできる技能を、なぜ家事には活かせないのか。
いや、家事も最初のうちはやっていたはずなのに、いつの間にか
やらなくなって、代わりに俺が⋮⋮いや、これ以上考えすぎると何
か色々まずい気がするな。
やめておこう。
・・・・
﹁⋮⋮さて、それでは話を聞こうじゃないか。いろいろと聞きたい
ことはあるが⋮⋮単刀直入に聞いた方が善いだろう。どこまで聞い
た?﹂
こう、シェイラに尋ねたロレーヌの目は、今まで見たいつのとき
よりも厳しいもので俺は少し驚く。
そして、それを見返したシェイラのそれもまた、今まで見たこと
398
のないものだ。
何か覚悟を決めたような、まっすぐとした光がそこには宿ってい
た。
﹁⋮⋮レントさんが、魔物であることを聞きました。そして、人を
襲わないことも﹂
静かな言葉だったが、少し震えていたのはそれを信じたくないか
らか、それとも他の感情からか。
それは分からない。
ただ、ロレーヌには分かることがあったようで、彼女はふっと笑
い、
﹁なんだ、すべて聞いたんじゃないか。それで、のこのこレントに
ついてここまでやってきたのか? 危険は感じなかったのか?﹂
そう尋ねる。
これにシェイラは首を振って、
﹁いえ、それは特には⋮⋮。向かっていたのは紛れもなくロレーヌ
さんの家でしたし、何かされるとも思いませんでした﹂
﹁それは危機感が著しく欠けているぞ。よく考えてみろ、レントは
いたいけ
不死者だし、私は街でも特に怪しげな学者だぞ。魔物と魔女が一緒
にいる巣に幼気な若い娘が入り込んで、どうなると思う? それは
もう、よく煮立った鍋に投げ入れられて、そのまま私たちの腹の中
に入るのが普通だ﹂
自分を魔女扱いしてそんなことを言うロレーヌ。
これにはさすがのシェイラも冗談だと分かったのだろう。
399
緊張からか、若干強張っていた頬の筋が緩み、ふふ、と笑う。
﹁そんな⋮⋮魔女だなんて。ロレーヌさんが立派な学者であること
はみんな知ってますよ﹂
﹁いや、いや。それは隠し蓑でな。実は毎日、夜な夜な狩りに出て、
若い娘の生き血を啜るのが趣味なんだ。とても美味で、健康にもい
い。肌艶もよくなるんだぞ﹂
冗談か本気かよくわからない口調と表情で言う者だから、余計に
滑稽な話であった。
しかし、次の瞬間、
﹁︱︱レントは、まさにそういう存在になったのだ。本当に分かっ
ているのか?﹂
と、切り付けるような言葉をシェイラに投げつける。
別にその言い方に、責めるようなものも、怒りも、そのほかのど
んな感情も浮かんではいなかった。
本当にただの、純粋な疑問。
それだけだ。
そしてただそれだけであることが、恐ろしく感じた。
ロレーヌは今、目の前にいるシェイラを人として見ていない。
その質問の答えによって、どう扱うかを決める、そういう酷く自
然でいながら、酷薄な気持ちで彼女を見ているように感じられた。
それはまるで、そう、それこそ魔物を目の前にしているときの彼
女の目だ。
倒すべきか否か、それを考えているときの、ロレーヌの顔だった。
ギルド
シェイラは、冒険者組合職員で、戦闘の経験はほとんどない。
400
ギルド
しかし、まったくしたことがないというわけでもなかった。
研修の一環として、冒険者組合に所属する、戦闘を専門とする職
種の者の補助を受けつつ、ゴブリンやスライムなどを相手にしたこ
となら、何度かある。
そのときに感じたのは、純粋な恐怖だった。
魔物と言うのは、そのときまで遠くで見つめるもので、目の前で
確かに生きているものではなかった。
けれど、そのときは⋮⋮目の前で、それもシェイラの命を狙って
睨みつけてくるのだ。
息が止まりそうな、とはこのようなときに使う比喩なのだと理解
せざるを得なかった。
それを倒さなければならない、と言われたとき、自分の心に宿っ
た気持ちは、混乱だった。
しかしそれだけなら大したものではない。
シェイラが恐ろしく感じたのは、自分の心の片隅に、何かひどく
薄情な部分があって、それが目の前にいる生き物をためらいなく殺
せと言っているということだった。
そうすることが最もいいことだと、人の利益のために、この生き
物は滅ぶべきだと、そう言っていることを自覚したことだった。
自分は、自分の利益のために、他の生命をたやすく奪うと言う選
択が出来る存在である。
そう、シェイラはそのときに知ったのだった。
そして、今目の前にいるロレーヌ。
彼女の瞳は、まさにあのときゴブリンを見ていた時分が持ってい
たような感情を、シェイラに向けていると、直感的に理解できてし
まった。
答えを間違えれば、彼女はためらいなく自分を排除するだろう。
殺すのではない。
人が人を殺すのは、それが人と認識しているからだ。
401
そうではない相手は、ただ処分するのだ。
そして魔術か何かで燃やすか何かして、なかったことにする。
ロレーヌが、躊躇いなくそれが出来る存在であることを、シェイ
ラはよく、知っている。
なにせ、ロレーヌは冒険者。
それも、経験を積んだ銀級だ。
よくよく注意して答えなければならない。
シェイラは改めて覚悟を決めて、口を開く︱︱。
402
第57話 新人冒険者レントと食事会
﹁⋮⋮分かって、います﹂
消え入りそうな声だった。
大風の前の蝋燭の炎のような。
しかし、それは別にたやすく消えるようなものではなかった。
﹁分かってるんです﹂
次に同じ言葉を繰り返したとき、その声はもっとはっきりと響い
た。
その音は、力強かった。
人に告げるためでなく、自分に言い聞かせるような内的な響き。
ロレーヌはそれを聞いて、シェイラの気持ちを理解したらしく、
視線を柔らかくして、
﹁⋮⋮そうか。なら、いい﹂
そう言った。
その言葉に、シェイラは一瞬面食らったようになったが、ロレー
ヌが、
﹁別に私はいじめたくて言っているわけじゃないからな⋮⋮。それ
に、今日はもう遅い。一緒に食事をとるだろう?﹂
そう言ったとき、ロレーヌがなぜあんなことを言ったのか、俺に
は分かったような気がした。
403
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮レントさん、聞いてはいましたが、料理上手ですね⋮⋮﹂
シェイラが複雑な表情を浮かべながらそう言う。
テーブルの上には俺がロレーヌとシェイラのために作った料理が
何皿も並べられている。
と言っても、それほどすばらしいもの、というわけではない。
せいぜい、家庭料理に毛が生えたくらいのものだ。
味もそこそこだと思う。
しかし、男性冒険者でここまで作れる奴は少数派だろう。
仕事で忙しく、魔物を倒すと言う過酷な肉体労働を終えた後に自
宅でわざわざ料理を自分で作ろう、とは中々思わない。
そもそも、一般的な職業より実入りがよく、毎日外食してもまる
で懐に問題はないのだ。
ギルド
ギルド
そういうわけで、自炊する冒険者は少数派だった。
女性の場合は冒険者であっても冒険者組合職員が冒険者組合で出
世を目指すような理由で調理技術を磨く者も少なくないが、やはり
男性は少数派だった。
男性冒険者の場合、料理がうまいからといって女性から結婚相手
として有望、とか見られるわけではないからな。
それよりかは死ぬ気で修行して冒険者としてのランクを上げた方
がいい。
男性冒険者と女性冒険者、どっちの方が楽なのかは甲乙つけがた
いが、どっちもどっちというところだろうか。
ちなみに俺が調理技術を身に付けているのは、故郷の村にいたと
きに薬師に色々学んだからだ。
薬師の婆さんが調剤している間に、お前は料理をしろと言われる
404
ことが少なくなく、また、その際の材料に滋養強壮の薬草を入れた
りすることもあった。
要は、薬師の修行の一環だったわけだ。
そんなわけで、俺は普通の冒険者よりかはずっと料理が得意だっ
た。
﹁一家に一台レントがいると楽だぞ。家事は全部やってくれるから
な。代金は⋮⋮強いて言うなら今は、それかな?﹂
ロレーヌがそう言って指さしたのは、俺の持つ、瓶である。
保存の魔術がかかった、ロレーヌの血液入りの瓶。
俺はそこから血を一滴なめとっているところだった。
ここに血が入っている、と聞いた時、シェイラはやはり少し顔を
青ざめさせていたが、先ほどのロレーヌがなぜ、あんな言い方をし
たのかそれでわかったのだろう。
しき
﹁なるほど、屍鬼とは、低級の吸血鬼でしたね⋮⋮﹂
と納得していた。
まぁ、深く考えると今の俺は食卓につきつつ血を啜る怪物だが、
何も考えずに見るのなら、棒についた赤い液体を舐める仮面の男だ。
さして怖くは⋮⋮ないこともないか。ちょっとした変人だ。
﹁そういうことだ。ま、それはいい。それより、お前たちは魔術契
約書を使って契約を結んだんだったな?﹂
食事をしながら、俺とシェイラが結んだ契約の細かい話に映る。
別に話さなくてもいいのかもしれないが、どうせなら共有できる
話は共有しておいた方がいい、ということになったからだ。
俺は頷く。
405
﹁⋮⋮あぁ、きほんてきには、おれの、しょうたいはいわない、と
いうことでけいやくした﹂
﹁ふむ⋮⋮まぁ、細かい条項は気になるところだが、そこさえ押さ
えておけば後は些末なことだしな﹂
ロレーヌがそう言った。
シェイラは、
﹁あぁ、契約書でしたらここにありますよ。見ますか?﹂
そう言って羊皮紙を差し出した。
ロレーヌはそれを受け取り、読み始める。
とりあえず結んだ契約であるが、その内容には、基本的には問題
なくても、色々と抜け道があるかもしれないという懸念はあった。
別にシェイラ自身が破ろうとは思わなくても、無意識に何かまず
い行為をする可能性はあるし、その場合に唐突に契約不履行扱いに
なっても困る。
それに、シェイラが誰かに操られると言う可能性もないではない。
他人に言うことを聞かせるタイプの魔術は、この世に確かに存在
するからだ。
弱いものであれば個人の精神力で打ち破れるだろうが、強力なも
のであればどれだけ気を強くもっても抗えない。
そんな場合に、俺の正体について口にされると、お互いに困るだ
ろう。
そう言った諸々を考えての確認が必要だった。
この点、ロレーヌは契約関係にもそれなりに通じている。
魔術、というのにはそのような要素があり、それなりに物事の論
理についての理解が必要であるため、必然的に詳しくなるらしい。
406
と言っても、もちろん、本職の法律家ほどではないだろうが、こ
れくらいの契約書面であれば十分に見れるようだ。
そんな彼女の目から見て、今回の契約書は⋮⋮。
﹁⋮⋮ま、これといって目立つ問題はないようだな。細かいことを
言い出すと色々あるが、シェイラとしてはレントの秘密を直接間接
問わず他人に教えようとしなければ問題ない。問題は魔術によって
操られた場合だが⋮⋮結論として、その場合は諦めて奴隷になるし
かないだろうな﹂
﹁やっぱり、そこはどうしようもないですか?﹂
﹁そもそも、そこはどんな契約を結んだとしても問題になってしま
うところだから、こればっかりはな。ただ、仮にシェイラが誰かに
操られてレントの秘密を口にし、契約書の効力によって奴隷になら
ざるを得ない状況に陥ったとしても、操られたということが明らか
になったそのときにレントが任意に解除すればいいからな。シェイ
ラが奴隷になった場合、所有権はレントに移す、となっていること
が非常によく利いているのではないかと思う。だから、やはり問題
はないだろう﹂
かなりとんでもない内容だな、と思っていた契約だったが、意外
と合理的な構成になっていた、らしい。 ロレーヌは続ける。
﹁まぁ、そんな迂遠な手続きをせずとも、基本的には、その時は双
方合意して契約を破棄すればいいだけだ。さっき言ったのはあくま
でも最悪の場合の話だからな⋮⋮﹂
最悪の場合とは、つまり、シェイラが誰かに魔術により操られて
407
いて、その魔術を解除することが出来ず、それがため契約の解除も
合意してするのが難しい場合、ということだ。
本当に最悪の場合で、そうなることは本来考える必要はないのだ
ろうが、俺の置かれている状況が状況である。
そう言った場合も一応、頭に入れておく必要はあるだろう。
﹁ともかくだ。ここにいる三人は同じ秘密を共有しているわけだ。
ギルド
絶対にこれを外部に漏らさないように、努力していこう。特に、レ
ントは冒険者組合で働き続けるつもりだから、シェイラの役割は重
要になる。いろいろと頼んだぞ﹂
﹁はい⋮⋮もちろん、そのつもりで頑張ろうとも思っています。た
だ⋮⋮﹂
﹁ただ?﹂
﹁レントさんは、最近、少し目立ち始めているので⋮⋮﹂
シェイラが俺を見ながらそう言ったのを、ロレーヌは、
﹁なにか、あったのか?﹂
そう尋ねた。
408
第58話 新人冒険者レントと濡れ衣
﹁いくつか、理由はあります﹂
﹁いくつか?﹂
シェイラの言葉に、ロレーヌは首を傾げた。
ロレーヌとしては俺が目立つのはなんとなく分かっていて、その
理由も想像していたが、複数あるとは思っていなかったのかもしれ
ない。
シェイラは続ける。
﹁ええ、まずは、見た目ですね⋮⋮。まぁ、これについてはさして
ギルド
問題はないのですが。ローブも仮面も全くいないわけではありませ
んし、もっと奇抜な格好の人も冒険者組合にはいますから﹂
これは事実だ。
俺はむしろ、目立たない格好を心がけていると言えるだろう。
ただ、仮面の装飾が骸骨だったり、ローブを深くかぶっていても
ちらちら見える少し枯れた肌とか、そういうのを含めると不気味さ
は上位に入るかもしれないが。
ロレーヌもこれについては納得したようにうなずく。
﹁まぁ、そうだろうな。もっとひどい奴もいるし⋮⋮そういえば、
あいつは元気なのか? 全身虹色の服を来て頭にクジャクの羽のつ
いた帽子を被っていた男は﹂
﹁⋮⋮あぁ、オーグリーさんですか? あの人は⋮⋮なんだか、風
409
ギルド
が呼んでいる、とか言って王都の方に行ってしまいましたよ。腕は
確かだったんですが、相当な変り者でしたからね⋮⋮冒険者組合が
静かになったのでよかったかもしれません﹂
オーグリーは俺も知っている。
というか、結構仲は良かった方だ。
何度か話したこともあり、見た目と比べて思いのほか堅実でいい
冒険者である。
ただ、一点問題があり、見た目がひたすら酷かった。
ロレーヌが言ったとおりの目がちかちかするその恰好。
魔物をむやみやたらに呼び寄せたいのかと尋ねたくなったことは
一度や二度ではない。
魔物もあれで一応、生き物と言えなくもない存在であるため、あ
あいうちかちかした存在には目を引かれるのだ。
つまり、森にオーグリーを投げ込むと魔物が群がる。
だからあいつは俺と同じソロ冒険者だった。
あんなものと組みたい奴などこの世にいるはずがない。
あれと比べれば、俺の格好はむしろ普通なのだ。
しかし、王都に行ってしまったのか⋮⋮。
冒険者は常に拠点を変え続ける、別れの日常的な職業とは言え、
あんなのでも、いなくなるとなんだか寂しいものだ。
たまにソロ同士、その悲哀を語ったりもしたというのに。
⋮⋮まぁそれはいいか。
シェイラは続ける。
オーク
﹁ともかく、レントさんは見た目はさほど問題ありません。が、登
録してすぐに豚鬼を倒したり、銅級昇格試験で好成績を収めたりし
てしまいましたから⋮⋮。本当ならそれでも問題はないんですけど、
ここ最近、新人冒険者の中に行方不明者が何人か出ていまして⋮⋮﹂
410
オーク
シェイラの話の雲行きが徐々に怪しくなる。
豚鬼を倒したのも試験で成績が良かったのも本当の事だが、それ
だけでどうこういうほどのことでもない。
新人と言っても、それなりに腕のある奴が新人として登録するこ
とはよくあることだし、試験も所詮は銅級昇格試験だしな。
ただ、最後の、新人に行方不明者が出ているというのが⋮⋮。
俺と何か関係があるのか?
話の続きを視線で促すと、シェイラは、
﹁犯人探しが行われてるんです。迷宮で魔物の手にかかった、とい
う線が一番最初に浮かぶところですが、その場合は遅かれ早かれ遺
品が誰かの手で見つけられます。けれど、今のところそういうこと
がない件が数件ありまして⋮⋮﹂
迷宮で魔物に殺されると、その肉体は迷宮に吸収される、もしく
は魔物によって食べられる。
そうなると、服や装備などが残るのである。
ギルド
なぜか無機物は有機物に比べて、迷宮の吸収が遅いのだ。
それに加えて、冒険者組合の冒険者証は迷宮に吸収されないよう
特殊な加工が施されている。
他の何が見つからないにしても、これだけはいつか必ず見つかる。
まぁ、一年かかるか十年かかるか百年かかるか、という場合もな
いわけではないが、新人の場合あまり迷宮の深い層に行かない関係
もあって、比較的短い期間で見つかる。
つまり、迷宮で魔物にやられたとしても、遺品がこうまで見つか
らない事件が続くのは少しばかり不自然だ、というわけだ。
﹁もちろん、たまたま見つかってないというだけである可能性も低
くないです。むしろそっちの可能性の方が高いでしょう。ただ、そ
411
れにしては若干件数が多くて⋮⋮大した根拠にはならないのですが、
色々考えあわせると、おかしい、という話になってきています。そ
れで、一つの可能性として、誰かが意図的に新人を狙っているので
はないか、とか、さらっているのではないか、という話になってき
てて⋮⋮﹂
まぁ、分からないでもない話だ。
いつもより行方不明者が多く、遺品も見つからない。
多少の上下ならともかく、目につくくらいの件数になってきてい
る。
これはもしかして、誰かがその新人の懐なり持ち物なりを狙って
そういうことをしているのではないか、と可能性の一つとして考え
るのはいたって自然だ。
シェイラは続ける。
﹁ただ、新人と言っても冒険者です。そうそう簡単にどうこうでき
る存在ではありません。上位冒険者なら可能でしょうが、この街の
銀級以上の冒険者の皆さんについてはあまり怪しいところが見られ
ないのです﹂
﹁なるほど、話が読めてきたぞ。そんな中で極めつけに怪しく、そ
こそこ腕が立ちそうな奴がレントだと言うことだな?﹂
ロレーヌがそう推測を述べると、シェイラも頷いた。
﹁その通りです。付け加えるのなら、登録間もなく銅級昇格試験に
合格してしまいましたからね⋮⋮嫉妬ややっかみに、そういう噂を
広げる人もいるようで⋮⋮﹂
﹁しっとにやっかみ、か⋮⋮﹂
412
俺はシェイラの言葉に何か、感慨深いものを感じた。
なにせ、そういうものは、俺にとって今まで向けられるものでは
なく、むしろ向けるものだったからだ。
もちろん、そんな理由で身に覚えのない罪を着せられかけている
この状況に腹立ちを感じないわけではないが、どことなく嬉しいよ
うな気もする。
あぁ、俺も嫉妬されるような腕になって来たのだなぁと。
そんなことを言えば、ロレーヌが苦々しい顔で、
﹁おい、レント。のんきなこと言ってる場合じゃないだろう。この
ギルド
ままだとお前、いつ袋叩きに合うか分かったものではないぞ。流石
に冒険者組合はそんな曖昧な理由でお前をどうこうすることは無い
と思うが⋮⋮﹂
言いながら少し自信がなかったのだろう。
シェイラに目を向けたロレーヌである。
シェイラはこのロレーヌの言葉に心外そうな顔をして、
ギルド
﹁当たり前です。レントさんは確かに今の見た目はアレですが、し
ギルド
っかりと冒険者として働いてくれているんですよ。冒険者組合は冒
険者組合の利益になる者を不当に扱ったりは致しません﹂
﹁⋮⋮利益にならなければ普通に切り捨てるよと言っているようで
怖いんだが⋮⋮﹂
ギルド
確かにそう聞こえなくもなかった。
冒険者組合のそういうところは、ふとしたところでたまに垣間見
ギルド
えるので若干怖いところがあるのは事実だ。
しかし、今の俺は全く冒険者組合に貢献していないということは
413
ない。
オーク
少なくとも美味しい食材である豚鬼をそれなりの数、定期的に狩
って来て、しかもその場でしっかり処理をして持ってこれるのだ。
他の街ならともかく、マルトではそれが出来る冒険者は少ない。
狩るだけなら出来るやつもそこそこいるだろうが、魔物の肉は早
めに処理しないと鮮度がどんどん落ちるからな⋮⋮。
﹁ともかく、そういう訳ですから今のレントさんの立場は微妙です。
ですから、よくよく気を付けてくださいね﹂
414
第59話 新人冒険者レントと新たな武器
それから、色々と方針について話し合ったのだが、基本的にはあ
まり目立つのは得策ではない、ということになった。
まぁ、それは最初からそうなのだが、シェイラの話した新人冒険
者たちの失踪の件が片付くまでは、特に注意すべきだ、ということ
だ。
しかし実際にはどうすべきか、というところが困りもので、最も
望ましいのはしばらくは迷宮に潜らないことだと言う話になってし
まった。
ただ、俺は魔物としての存在進化を求めている以上、そういうわ
けにもいかないのだ。
ほんの数日くらいならともかく、何週間、何か月も迷宮に潜れな
いとなると⋮⋮困った話になる。
まぁ、魔物は迷宮以外にもその辺の森や山にもいるのでそちらを
メインにしてもいいのだが、やはり効率のことを考えると迷宮の方
がいい。
魔物の強さもある程度、階層などによって推測が可能だし、出現
する魔物の種類も限定されているからな。
自然に存在している魔物はその点、イレギュラーなものが現れる
ことも少なくなく、効率が悪いのだ。
そうはいっても、この見た目と周りからの嫉妬で色々な面倒に巻
き込まれるのもごめん被りたいのも確かだ。
そういうわけで、とりあえずは大人しくしておいて、しばらく経
っても事態が変わらない場合にはもう諦めて普通に活動する、とい
う方向に決まった。
そのときは出来ればパーティメンバーなどがいるといい、とは言
415
われたが、俺が魔物と戦っているとそのうち存在進化する可能性が
ある。
あれは我慢できるものではない以上、いきなりそんな場面を見せ
られる相手と言うのは限られる。
ロレーヌかシェイラについてきてもらえば一番だが、ロレーヌは
ギルド
あれで仕事があっていつも迷宮に行けるわけでもないし、シェイラ
はまさに冒険者組合職員で、戦闘技能も大したものではないためパ
ーティメンバーとして適切ではないのだ。
結局、俺は一人で迷宮に潜るしかない。
まぁ、しばらくは休んでもいいが⋮⋮。
とりあえずは、数日、様子見である。
迷宮にはいかないで、その間に何か起これば俺の濡れ衣も少しは
晴れることだろう。
ちなみに迷宮に行かないで何をする気なのかと言えば、適当な雑
用関係の依頼でも受けようかなと思っている。
生前は結構色々とよく受けていたので、そう言った技能について
はかなり色々身に付いている俺である。
そう言う意味ではあまり困らない。
それと、とりあえずやるべきこととして、武具の受け取りだろう。
鍛冶師のクロープに頼んで、しばらく経ったからな。
迷宮帰りなどにたまに寄って試し振りなどもしていたのだが、そ
ろそろ完成していてもおかしくはない。
行ってみようか、と思った。
◆◇◆◇◆
﹁お、来たか⋮⋮目的は分かってる。出来てるぞ﹂
416
クロープが俺の顔を認識すると、その苦み走った顔を僅かに和ら
げて口の端を上げてそう言った。
彼の視線の先には一本の剣が立てかけられていて、銀色に光って
いる。
おそらくは、あれが俺が頼んでいた剣だろう。
﹁⋮⋮それがおれのけん、か?﹂
尋ねるとクロープは頷いて、
﹁あぁ。魔力、気、聖気のどれもに耐えられるように鍛えた。素材
も拘ってな⋮⋮若干足は出たが⋮⋮﹂
﹁ふそくぶんは、はらおう﹂
クロープの性格からして、予定にない出費をした場合は自分が持
つ、と言うだろうと言うことが分かっていたからこその台詞だった。
クロープはそんな俺の言葉にいらない、と言いかけたようだが、
少し考えて、
・・・
﹁⋮⋮はっ。お前はいつもそうだな。分かったよ﹂
そう言って頷いた。
それから、
﹁ところで、作ってみたはいいが、あまり使い手のいない特殊な剣
だからな。実際に試してみてほしい。悪いところがあったら直した
いし、欠陥があれば作り直すからな。もちろん、俺としてはしっか
り作ったつもりだが⋮⋮全部持ちなんてそうそういねぇんだ。何が
417
起こるかわからん﹂
そう言った。
これは、クロープの言う通りだろう。
魔力と気の両方、くらいならそれなりにいるが、それに加えて聖
気を持っている者は中々いない。
しかも、その全てを戦闘で活用できるレベルとなると、滅多にい
ないということになるだろう。
そんな特殊な人間のための剣は中々発注されないし、鍛冶師から
してみれば一種の挑戦だろう。
その出来を実際にその目で確認したいというのは至極当然の話だ
った。
俺は頷いて、
﹁⋮⋮なかにわにいけばいいか?﹂
そう、尋ねた。
この店には、客が武具の出来を確かめるために、試し切りが出来
る的が置いてあるそこそこの広さの中庭がある。
そこに行けばいいか、尋ねたのだ。
クロープはそれに笑い、
﹁よく知ってるな? その通りだ﹂
と、分かっているくせに皮肉げに言って立ち上がり、剣を持って
先導し始めた。
俺もその背についていく。
そしてたどり着くと、クロープは俺に剣を手渡してきた。
俺はそれを受け取る。
418
・・・・・
手に吸い付くような、いい触り心地のグリップだった。
俺の昔からの癖を完全に理解していなければ、こんなものはどん
な名工でも作れないだろう。
しき
間違いなくクロープは俺が誰なのか分かってこれを作った。
スケルトン
しかし、こうして改めて剣を握ってみて思ったのは、屍鬼になっ
グール
ていて良かったな、ということだ。
屍食鬼だったときは言わずもがな、骨人だったときなど剣の握り
具合はかなり違和感のあるものだったからだ。
手に、肉がなかったからな。
今は枯れ気味とはいえそれなりの厚みのある肉が手についている。
ものを持つときも、生前にかなり近い感覚で握れるのだ。
﹁握り心地はどうだ?﹂
クロープが尋ねてくるので、俺は頷く。
﹁わるくない⋮⋮はやく、じっさいに、ふってみたいな﹂
﹁そうか。まぁ、的はなんでもいいんだが、無難に木の人形で行く
か。ちょっと待て﹂
クロープはそう言って、木の棒の先に人型を乗せたような的を用
意し、中庭の中心に設置した。
ミスリル
オリハルコン
他にも藁とか竹とか鎧を着せた人形とか色々あるのだが、一番無
難な選択肢になるだろう。
もっと高品質な、たとえば神銀とか魔鉄などの武器なら、金属製
の鎧を着せた人形などがいいだろうが、流石に俺が頼んだものはそ
こまでのものではないからな。
特殊であるが、武器自体の格はいたって普通のものだ。
419
あまり固すぎる金属製のものを切ろうとすれば、傷みが早まる。
まぁ、気や魔力を込めればそれほどの心配はいらないのだが、試
し切りで傷つける可能性をわざわざ生み出す必要もない。
俺は的に向かって剣を構える。
まずは、普通にその場で素振りをして、重みや重心の位置を確か
める。
まぁいつも通りだ。
調整しているのが俺がいつも頼んできた鍛冶師なのだから当然だ
ろう。
それから、改めて構えて、魔力も何も込めずに、木の人形に振っ
た。
しゅん、という音がして、剣が木の人形の間を通り過ぎた。
そんな感覚だ。
直後、すっぱりとした糸のような傷が人形に生じ、そして人形は
二つに分かれて落ちた。
それを見たクロープは若干驚いたようで、
﹁⋮⋮おいおい。随分と腕を上げたんだな?﹂
そう言った。
比較対象は、当然過去のレント・ファイナだろう。
昔の俺にはこんなことは出来なかった。
切れなかったわけではないが、もっと無様な切れ方をしていたか
らな。
なんというか、叩き切っているような感じとでもいえばいいのか。
それに対して今のはどうだったかと言えば、切れた人形の断面を
見ると、すっぱりと切り落とされており、武器の性能もさることな
420
がら、切った人間の腕もそれなりでなければこうはならないような
切り口だ。
たしかに、俺の腕はあの頃と比べるとかなり良くなったのだな、
と改めて客観的に認識することが出来た。
421
第60話 新人冒険者レントと神霊の加護
もちろん、試し切りはこれだけでは終わらない。
そもそも、魔力、気、聖気のすべてに耐えうる剣を、ということ
でクロープに作成を頼んだのだ。
そのいずれをも試してみない限りは、試した、とは言えないとい
うわけだ。
クロープもそれは分かっていて、今切り倒された木人形を別のも
のと取り換えている。
そしてそれが終わると、俺はまず、剣に魔力を込め始めた。 魔力と、気を使うのが最も標準的な剣士の戦い方だからだ。
といっても、魔力について、俺はそれほど複雑な使い方は出来な
い。
色々と理論を知り、修行を積めば剣に炎などの属性を纏わせるこ
とも出来るのだが、俺はその方法は知らない。
ただ、力任せに魔力を注ぎ込むだけだ。
しかし、それだけでも十分な威力を発揮してくれるのが魔力と言
う力である。
魔力が注ぎ込まれた剣は、切れ味や耐久力が増し、固いものもす
んなりと切り落とせる力を与えてくれる。
俺が試しに剣を振り上げて、木の人形に振り下ろすと、先ほどの
ときよりもずっと簡単に切れてしまった。
ほとんど力を入れていないというのに、この切れ味は驚異的であ
る。
剣には刃こぼれ一つなく、また人形の断面を見ると、つるつると
滑らかだ。
素晴らしい、の一言だろう。
これで、迷宮の深いところにいるだろう、岩石系統の魔物とも十
422
分にやりあえるはずだ。
次に、気である。
再度、人形が代えられる。
特にクロープと言葉を交わしたわけではないが、その辺りはもは
や言わなくても分かる。
十年の付き合いなのだ。
剣に注いでいた魔力を抜き、今度は気の力を満たす。
気の力も、基本的には魔力と同じで、剣の切れ味、耐久力を増す
効果があるが、その他に、気をうまく扱うことで起こせる現象がい
くつかある。
俺は剣を振りかぶり、人形に振り下ろす。
そして、剣が人形の中ほどまで入り込んだ瞬間、剣に込められた
気の力を解放した。
すると、人形は先ほどのように真っ二つに切れるのではなく、内
部から爆散し、ばらばらになった。
これが、気の力で起こせる事象の一つであり、気に魔力よりも破
壊力があるとされる所以だ。
魔力の方が使い勝手が良く、属性を纏わせたりして敵の弱点をつ
オーク
くことが出来る器用さがあるが、気には純粋に敵を破壊する技法が
いくつもある。
これが両者の違いで、どちらも重宝される理由でもある。
俺としては、スライム系を相手にするには気が、ゴブリンや豚鬼
などを相手にするには魔力が、と思っているが、この辺りは好みの
問題もある。
俺がそう思っているだけだ。
最後に、聖気である。
これについては他の二つよりも特殊な力で、あまり詳細が明らか
にされていないところがある。
423
というのも、基本的に使えるのは聖職者で、彼らは自らの力につ
いてその詳しいところを説明したりすることが滅多にないからだ。
それに、聖気を使う剣士、というのは聖騎士などに代表される各
宗教組織の顔ともされるような選良たちで、数も少なく、一般人が
関わる機会はほぼない。
その技術の詳細について、知る方法などほとんどなくて当然だっ
た。
まぁ、それでも、剣に聖気を注ぐ、というのが基本的な方法であ
ることくらいは分かっている。
聖気は神や精霊が与える力と言われるだけあって、その使い方が
なんとなくではあるが、誰かに説明されなくても分かるからだ。
ただ、昔から研究されて体系化された知識もどこかにはあるだろ
うが、それを知る方法は俺にはない、ということだ。
ともかく、剣に聖気を注ぐ。
普通の武器であれば、まず第一に聖気を注いで壊れないかどうか
が問題になってくる。
穢れを払う力であり、存在を正常な状態に戻す力でもある。
錬金の秘術により鍛えられた刀剣は、聖気によりその魔術的結合
を解かれ、もとの鉱石へと強制的に戻される力が働いてしまうとい
うわけだ。
そうならないようにするのが腕のいい鍛冶師の仕事で、聖気に耐
える武具を作るのが一流の鍛冶師にしか出来ない所以である。
クロープはその意味で間違いなく一流の腕を持っている。
俺が注いだ聖気にもびくともせずに、ただ薄ぼんやりとした光を
纏っているだけだ。
俺は再度取り換えられた木の人形に向かって、それを振り上げ、
そして切り付けた。
感覚としては、魔力や気を使った時よりも抵抗が少ない。
やはり、神や精霊の与える力であるだけあって、優秀な力のよう
424
だ。
しかしそれに加えておかしな効果も付属するようで⋮⋮。
﹁⋮⋮おい、なんか芽が生えてきてるぞ﹂
と、クロープが切り落とされた木の断面を見てそんなことを言っ
た。
俺も近づいてみてみると、確かにそこからぴょこぴょこと新芽が
いくつか伸びているのが見える。
聖気の力による回復力上昇の効果でもあったということだろうか?
よくわからない。
﹁⋮⋮ほかのものでも、あることなのか?﹂
﹁いや、見たことはねぇな。ただ、聖気は与える存在によってその
効果が結構異なったりするらしいからな⋮⋮。お前は、いつ聖気を
手に入れた?﹂
﹁むかし、うちすてられたほこらを、しゅうりしたときにな﹂
﹁へぇ。また随分と信心深い行動をしてるんだな?﹂
﹁べつに、ふかいいみはなかった。きまぐれだ﹂
実際、単純に暇だったうえに、なんとなく打ち捨てられたままに
されているのが気に入らなかっただけだ。
まぁ、だからといって普通は数日通ってまで修理しよう、なんと
ことは誰もしないだろうが。
だからこそ打ち捨てられたままだったのだ。あの祠は。
クロープは続ける。
425
﹁まぁ、理由はいい。ともかく、その祠に祭られてた存在に聖気を
もらったわけだな?﹂
﹁あぁ﹂
﹁とすると⋮⋮たぶん、祭られてたのは植物系の精霊か何かだった
んだろうな。だから、お前の聖気はこんな効果も持っているってわ
けだ。前にマルトに来た聖女は治癒神の加護を持ってたから、触っ
ただけで軽い病気を治したりもしてた。それの植物版だろう﹂
確かにそれは理解できる話だった。
俺もその聖女は遠目から一瞬だけ見た記憶があるが、それだけで
なんとなく体の調子が良くなったような感覚がした覚えがある。
あれは、加護を与えた存在の強大さと、その性質に基づく効果だ
った、というわけだろう。
そんな話を、何かの本で読んだ記憶もある。
だから、俺の場合は、植物に強い効果が⋮⋮。
何かに使えそうな気はあまりしないな。
そう思っていると、クロープが、
﹁この芽は育てれば聖気を帯びるかもしれないな。もらってもいい
か?﹂
そう尋ねてきた。
﹁べつにかまわないが⋮⋮ただのきになるかもしれないぞ﹂
﹁それこそ別にいいさ。ただの趣味だ。うまくいけば聖気の宿る素
材がとれるかもしれねぇし、そうでないとしても珍しいものなのは
426
確かだしな。植物系の神や精霊の加護を与えられた存在は、最近聞
かねぇし﹂
いつごろからか、人には植物の神や精霊はあまり加護を与えなく
なったらしいとは聞く。
それがゆえに、森の民たるエルフなどとの仲も今はあまりよくな
い。
昔はもっと交わっていた時期もあるらしいが⋮⋮。
まぁ、それはいいか。
しかし、こんなもの育てるなんて物好きなものだなと思ってクロ
ープを見ると、すでに中庭の端の方に木人形の切れ端を持って行っ
て、設置して機嫌良さそうにしている。
よく見ると、その他にもいくつかの鉢があって、本当に植物を育
てるのが趣味らしかった。
あの顔で、その趣味か。
と言いたくなるが、機嫌良さそうなのでやめておくことにする。
それから戻って来たクロープが、俺に、
﹁ま、これでだいたいいいだろう。試し切りはこんなところにして
おくか?﹂
と尋ねたので、俺は少し考える。
それから、ふと思いついたことが一つあったので、クロープに言
った。
﹁⋮⋮まりょく、き、せいき、すべてをまとめて、このつるぎにこ
めてみても、いいか?﹂
427
第61話 新人冒険者レントと切り札になりうるもの
﹁そいつは⋮⋮﹂
俺の質問に、クロープは難しい顔をして考える。
それから、
﹁そんなことやった奴なんて、見た事ねぇ。まぁ、世の中には出来
るやつもいるのかもしれねぇが、俺は見たことないからな。何が起
こるかわからん﹂
﹁⋮⋮やらないほうがいいのか?﹂
そもそも、全部持ちという存在が珍しいのだ。
その上、その全てを戦闘で活用可能なほど鍛えている者など、ど
れくらいいるのか。
それに加えて、すべてを一度に武具に込めようとする者などさら
に少ないだろう。
なにせ、一つの力の発動ですら結構な集中がいる。
それなのに三つの力を同時に武具に込めようとするなど、やろう
とは思わないのかもしれない。
ただ、
﹁⋮⋮まりょくと、きをどうじにはつどうさせるぎじゅつは、たし
かあっただろう?﹂
﹁あぁ、魔気融合術か? あれは相当な修行がいるものらしいから
な。滅多に使えるやつはいないって知ってるだろ。まぁ、その武器
428
で使えるかと聞かれれば、おそらくは大丈夫だと思うが⋮⋮そこに
聖気を付加するとどうなるかは⋮⋮おい、いきなりそれで使うのは
やめて、こっちでまずやってみろ﹂
魔気融合術はそのまま魔力と気を同時に発動させ、剣に注ぎ込ん
だり体に纏ったりして格段に破壊力や身体能力を上げる技法だ。
少数の達人がその実用を可能としているが、消費が激しいとも制
御が難しいとも聞く。
習得の仕方を間違えると爆散する可能性すらあるというのだから
手を出すだけで冒険だ。
使える者が少ないのもさもありなん、と言う感じだろう。
ただ、今の俺は⋮⋮首が吹っ飛んだくらいではおそらく死なない
ということは分かっている。
体がちぎれてもさしたる問題がないのだ。
ある意味、練習にはもってこいであった。
ちなみに、クロープが俺に差し出したのは、今日まで俺が使って
来た魔力と気を耐える剣である。
それに聖気など注いだら壊れるかもしれないだろうにいいのかと
思って尋ねるも、
﹁そんなに高いものじゃないからな。お前からもらった代金を考え
れば経費でいいだろう﹂
と言ってくれた。
そういうわけなので、お言葉に甘えて剣を持ち替え、それから魔
力と気をとりあえず注いでみる。
魔気融合術が俺に使えるかどうかの試しだった。
実際にやってみると、これがかなり厳しい。
429
なんというか、もう中に物が入らない箱の中に、無理やり荷物を
詰め込むような感覚だ。
それでいて、箱からはみ出したら相当にまずいことが起こりそう
だという感覚がする。
そのまずいこと、とはつまり、体のどこかが爆散するのだろうと
いうことは、伝え聞く先人たちの失敗から明らかだ。
とりあえず、さっさと試そうと、クロープが取り換えてくれた木
の人形に急いで剣を振るった。
すると、剣が触れた瞬間に、木の人形それ自体が爆散した。
気で内部から破壊したときとは比べ物にならない効果で、俺は唖
然とする。
クロープも同様で、
﹁⋮⋮失敗したらお前の体がああなるわけだ﹂
と想像もしたくないことを言って来た。
しかし、間違いではないだろう。
それだけのリスクある力だ、というわけだ。
それに、疲労がひどい。日に何回も使えるような感じではなさそ
うだ。
さらに、
﹁これを見て⋮⋮さらに聖気を付加したりする気か? 本当にやば
いんじゃ⋮⋮﹂
と不安そうに尋ねてくるが、もうここまで来れば毒を食らわば皿
まで、だろう。
仮に失敗しても、死にはしないはずだ。
爆散するかもしれないが、そのときはもうクロープには正体がば
れてるのだから、拾い集めてくっつけてもらった上で、聖気でなん
430
とか回復を試みればいい。
可能かどうかは分からないし、そもそもクロープが不死者の俺を
見て機嫌よく体を拾い集めてくれるかどうかは謎だけどな。
まぁ、それにただのギャンブル精神という訳でもなく、強力な攻
撃が使えると言うのなら一度、安全な場所で試しておきたいという
ミスリル
のが本音だ。
俺は、神銀級冒険者になりたい。どうしてもなりたいのだ。
そのためには、実力を果てしなく上げていくことが必要で、その
可能性があるのならどんなことにでも挑戦したいと思っている。
たとえ、それに何かしらのリスクがあるのだとしても、だ。
﹁⋮⋮まぁ、やるだけやってみるさ。まずそうなら、すぐにやめる
⋮⋮﹂
問題はやめたいと思ったときにやめられるかどうかだが、それは
考えないようにしておこう。
とりあえず、再度、人形を代えてもらい、剣を握る。
あれが最後の一体らしい。
色々破壊して申し訳ないが、必要なことなのであきらめてもらお
う。
そもそも、試し切りはオーダーの代金に含まれているとのことだ
し、十分に活用させてもらっていいはずだ。
剣にはまず、先ほどと同じように魔力と気を込める。
この時点できつい。
もうこれ以上、何かを付加するなんてとてもではないが、出来な
さそうに思える。
だが、それでもやるのだ。
俺は聖気を同時に発動させ、そして剣に注ぐ。
徐々に浸透していくのは、感じた。
431
出来ないことという訳ではなさそうで、少し安心するも、
︱︱ビキッ!
と音を立てて、剣に罅が入った。
小さなものだがこのままだと折れる。
というか、俺が注いだ力が暴走して、俺に逆流し、そして爆散し
そうな雰囲気がぷんぷんした。
そのことは、かなり後方から見ているクロープにもよくわかった
ようで、
﹁お、おい! 今すぐやめるか切るかどっちかに移れ!﹂
と叫ばれた。
ここでやめたら何も分からずに終わってしまうだろう。
つまり、俺がとるべき選択肢は、今すぐ切る、だ。
そう思って的に向かい、剣を振り上げ、そして切った。
するりとした手ごたえである。
魔力や気の力で切った時と似ている感触だが⋮⋮。
何も起こらない?
そう思っていると、的になった木が、突然ぎゅるぎゅるとらせん
を描くように縮まっていく。
そして、元の大きさの十分の一ほどになって、ぽとり、と地面に
落ちた。
それと同時に俺の持っていた剣の亀裂は刀身全体に葉脈のように
広がり、限界に達したらしくぼろぼろと分割して壊れてしまう。
しかし、それによって剣に注いだ力が暴走したりはしなかった。
その力はすべて、木の人形にぶつけられて、発散され切っていた
からだ。
432
その結果として残ったものは⋮⋮。
拾ってみると、それはただの丸い圧縮された木の塊であった。
物凄く強い力により外部からも内部からも圧力を加えられたよう
に、複雑に圧縮されている。
これが、先ほどの聖気と魔力、気の融合術により起こされた現象
だと言うのなら、魔物や人に向けるとどんなことが起こると言うの
か。
考えるだけでおそろしい気がした。
クロープも駆け寄ってきて、その丸い木の塊を見て難しい顔だ。
壊れた剣も拾い集めて見ているが、
﹁⋮⋮ダメだな、これは。たぶん、今回お前に造った剣でも耐えら
れはしない。その剣で、今の技は使うな。使って魔気融合術までだ﹂
﹁しかし⋮⋮それがつうようしなかったら?﹂
結構色々なことをやったような気がするが、今回的にしたのはす
べて、木の人形でしかない。
最後のはともかく、魔気融合術で起こった結果までなら、銀級く
らいの実力があれば実現することは普通にできてしまうだろう。
つまり、そこまでの力では、それほど強力な切り札にはなりえな
い。
そう言う意味での質問にクロープは、
﹁いいたいことは分かるがなぁ⋮⋮使った直後、お前の剣はこうな
るんだぞ?﹂
そう言って、たった今壊れた剣の残骸を示す。
まぁ、確かにそうだ。
433
一度使えば戦えなくなる技なのだ。
それを考えると問題だろう。
クロープは続ける。
﹁まぁ、複数、剣を持っておけば、使い捨て前提でならやれるかも
しれんが、それほど高くないとはいえ、せめて魔力と気には耐えら
れる性能がないと厳しいんじゃないか。そうでなければ、最初の時
点で壊れる可能性が高い。そしてそうなると、コストが馬鹿になら
んぞ﹂
﹁それは⋮⋮そうだろうな。だが⋮⋮たとえば、ないふとかでは、
むりなのだろうか。なげて、どうにかするとか﹂
それが出来れば、戦略の幅は広がりそうである。
武器が力に耐えられず、壊れる可能性が高いとしても、体から遠
く離してしまえば力が暴走して俺自身が爆散する可能性も低下する
だろう。
ただ、それでも使い捨てにはなるだろうが。
なにせ、一回の使用で壊れるのだから。
﹁どうだろうな⋮⋮やってみるか?﹂
しかしクロープは馬鹿にせずに、とりあえず安物のナイフを持っ
てきてくれ、試させてくれた。
結果として、それは失敗した。
というのも、そもそも剣に気や魔力を流して維持すると言うのは
手から放した時点で出来なかったからだ。
当然、聖気など注げるはずがない。
単一の力なら投擲しても敵に命中するまで維持し続けることは出
来るが⋮⋮まぁ、近接戦闘専用の技法だと言うことなのだろう。
434
結局、この試し切りでわかったことは、魔力と気と聖気を使った
場合の、それぞれの武具の強化の性質。
それに、魔力と気と聖気の合一による武具の強化は、危険な上に
高価な武具を犠牲にしなければ出来ないということ。
魔気融合術は消耗が激しく、日に何度も使えるような技法ではな
いということ。
そんなところだった。
実りは多かったような気がするが、強力な技法には大きなデメリ
ットも同時について回るのだなと、世の中の簡単でないことを改め
て知らされたような気分だ。
まぁ、そうはいっても、切り札を得られたともいえるので、悪く
はなかったのだが。
ただ、余程の強敵やピンチが来ない限りは使うことはないだろう。
魔気融合術については、今日はかなり使うのが厳しかったが、あ
れは慣れの問題もあるような気がしたので、それを前提とすると、
いずれ常用できる日も来るかもしれないから、こつこつ練習しよう
と思った。
オリハルコン
それに聖気を加えた技法は⋮⋮練習するたびに武器を破壊してい
ミスリル
たのではどうにもならないからな。
一応、クロープが言うには、神銀や魔鉄などの高価な金属を湯水
のように使って剣を作っていいのなら、耐えられるものも作れるか
もしれない、という話は聞かされたが、そんな金などどこにあると
いうのか。
とりあえずは、ひたすらに上を目指して、稼いでいくしかなさそ
うだな。
改めて、色々な現実を突きつけられた、俺だった。
435
第62話 銅級冒険者レントとお安めの依頼
クロープに、というかその妻であり店員でもあるルカに、剣の残
りの代金と、足が出たという赤字分を補填して払い、俺は店を出た。
その際、ルカの視線がなにか言いたげだったが、今、直接語れる
ことはない。
曖昧な視線を返し、微笑んだつもりになって会釈した。
つもり、というのは今の俺の顔の作りだと笑っても皮が引きつる
かそもそも表情筋そのものが存在しないために笑顔を作るのが難し
いからだ。
それに加えて仮面も被っている。
笑おうが笑うまいが相手には伝わるまい⋮⋮と思っていたら、な
ぜかルカはその表情を機嫌良さそうなものにして、微笑んでくれた。
何か伝わったということなのだろうか?
だといいのだが⋮⋮。
ギルド
俺は店を出て、そのまま冒険者組合に向かう。
銅級冒険者としての仕事始めだ。
装備も整ったことだし、これからは迷宮攻略も効率が上がる⋮⋮
と言いたいところだが、俺は少しの間、迷宮探索はお預けだとロレ
ーヌとシェイラに言われてしまっている。
正直なところ、困った話だが、事情が事情なので仕方がない。
いくらこんな見た目になったとはいえ、人さらいと間違われれる
のは勘弁である。
しかし、いつになれば迷宮探索を再開できるのか⋮⋮。
迷宮において、人さらいや他の冒険者を襲う不良冒険者というの
は実のところ、それほど珍しくはない。
436
冒険者はそれなりに強く、魔術や気などの特殊な技術を身に付け
ている者が大半であるため、さらって奴隷なりなんなりにすればか
なりの金額になるからだ。
この都市マルトが存在する田舎国家ヤーラン王国では、その長い
歴史からくるプライドなのか、奴隷制度は絶対拒否を謳っているが、
むしろ世界的には奴隷を許容する国の方が多い。
それは必ずしも人を所有することに歪んだ喜びを感じる者が多い
から、というよりかは、そうしなければ社会が回らない部分がそれ
なりに出来てしまっているからというところが強い。
たとえば、鉱山採掘などはその危険性から、ある程度以上の採掘
量を確保しようとすれば労働奴隷を入れなければ難しいし、また経
済的破たんを迎え、しかし返済能力が皆無の人間に対して、最低限、
人としての尊厳を与えるためには流石に何をしてもかまわないとい
う許可を与えるわけにもいかず、労働や居住に関する自由の一部を
奪う、という方法でもって最低限のラインを守ろうとしている、と
いう部分もある。
もちろん、奴隷だから好きに扱って構わない、と考える者と言う
のもいるが、少なくとも制度上そこまで過酷な扱いは許容されてい
ないところが多い。
それでも悲惨なのは悲惨で間違いないのだが。
そういうことも考えると、冒険者を奴隷にするのはコスト的に良
い選択肢なのだ。
体力もあり、魔術や気によって耐久力も高い。
そんな人材は探しても中々見つかるものではなく、しかし迷宮に
ギルド
行けば一網打尽、というわけだ。
まぁ、冒険者組合や強力で善良な冒険者とことを構える覚悟が必
要になってくるが、そこのところも非常に生臭い話をすれば、癒着
じみたことが行われていることもあるらしい。
冒険者の敵は決して、魔物だけではないという嬉しくない現実が
それでわかる。
437
だからこそ、試験は非常に厳しいわけだ。
そういう奴らが普通にいるから。
ただ、先ほども言った通り、このヤーラン王国では奴隷の所有も
売買も禁じられている。
それが故、そう言った人さらいたちはこの国では少数派だ。
全くいないわけではないことが人間の業の深さを教えてくれてい
るような気がして世知辛いが、とにかく少ないのは確かだ。
ギルド
それなのに、最近頻繁に新人がいなくなるものだから、マルトの
冒険者組合もぴりぴりしているわけである。
そして怪しげな俺が目に入ると、あいつやったんじゃね、と疑い
たくなる気持ちも分からなくもない。
そのまま濡れ衣へ直行してもおかしくはない。
だから俺はこそこそ他の依頼を受けていくしかないのだった。
まぁ、雑用依頼は得意中の得意だから、別にいいのだけど、存在
進化、したいなぁ⋮⋮と思わないでもない。
そろそろ、口周りを人に普通に披露できるような存在になりたい
な、とは思っているのだ。
このままだと普通のレストランでは食事すら出来ない。
たまにロリスのところでは食わせてもらっているが、そのときは
何も言われないからな。
もちろん、他の客も、またロリスの妻のイサベルもいない時間帯
にこっそりとだ。
最初に見せた時は作り物だと思ったらしいが、触らせたら現実だ
と理解したようでものすごく引いていた。
ただ、別に魔物だと思っているわけではなく、不治の呪いを受け
てこうなってしまったと彼は信じている。
俺がそう、説明したからだ。
顔だけならそれで十分通じるし、呪いだ、というのなら後で治っ
438
ても運よく聖女か何かに治してもらえたんだ、で通じるからな。
ギルド
そんなことを考えながら、ぼんやりと冒険者組合の依頼掲示板を
見つめていると、
﹁⋮⋮どうかいちまい、か﹂
ある一つの依頼が俺の目に留まる。
それは、報酬が銅貨一枚と言うあまりにも低廉な価格設定で、当
然のことながら誰も見向きもしないようだった。
ゴブリン一匹倒してももっともらえるから、当然と言えば当然だ
が⋮⋮。
しかし、どんな依頼なんだ?
少し興味を引かれて見てみると、そこに書いてあった内容は、か
なり厳しいものだった。
﹁⋮⋮レントさん、それ、受けるんですか? 受けていただけると
こちらとしてもありがたいのですけど⋮⋮﹂
後ろから声がかかったので振り返ってみると、そこにいたのはシ
ェイラであった。
俺が掲示板を見つめてずっと動かないから気になって受付からや
ってきたらしい。
今の時間帯は、俺があえて混雑する時間帯を外しているためにか
なり閑散としている。
そのために、シェイラも別に受付に張り付いている必要がなく、
だからこそ出来ることだった。
﹁これがのこっているのは⋮⋮きんがくよりも、ないようのもんだ
いか?﹂
439
﹁ええ。ぱっと見て、銅貨一枚と言うのは流石に、とは思いますけ
ギルド
ど、依頼者の名前を見て納得する方は結構いらっしゃるんです。冒
険者組合の伝統でもありますし、ね﹂
伝統というのは、銅貨一枚の依頼が意味することを言っている。
これは、どうしても金が出せない依頼者が、しかし、どうしても
冒険者の力が必要なときに出す、ボランティアの募集に近い依頼の
形なのだ。
昔からたまにあるもので、大体の冒険者はそれを先輩に聞くなり
して、いつしか知る。
シェイラの言っているのは、そういうことだ。
彼女は続ける。
﹁ですから、一応、検討はしてくださる人もいるんですけど⋮⋮や
はり内容が﹂
﹁︽りゅうけつか︾のさいしゅか。このあたりだと⋮⋮そうだろう
な。むずかしいな﹂
りゅうけつか
︽竜血花︾とは、血のように赤い花を咲かせる希少な植物のこと
で、用途としては観賞と調剤がある。
その花からは、花の色と同色の花竜血と呼ばれる液体を抽出する
ことが出来、これを適切に扱えば様々な薬品を調薬できる。
また、この花にはかつて、一人の人間の女性に種族を越えて恋を
した竜が、色々とあって勘違いをした英雄に討ち滅ぼされ、その際
に流した血が地面に垂れ、花の形になった、という伝説があり、そ
れがゆえに恋する女性にこれを贈る人間もいる。
物語の内容的にそれを贈るのはどうなんだ、と思わないでもない
が、詳しく言うと竜は英雄を殺すことも出来る力があったのに、女
440
性への愛のためにそれをせずに自ら殺されるのだ。なぜなら、英雄
は、その女性の弟だったからだ。
そういうわけで、愛のために殉じる覚悟があることを示すために、
女性に贈るというのがよくあり、これを好きな女性は少なくない。
が、非常に希少なので滅多に手に入らず、花屋で並んでいること
もなくはないが、べらぼうに高い。
それを、とってこい、と書いてあるのだ。
誰も手を出さないのは当然と言えば当然だった。
ただ、それでもシェイラが言うには検討する者もいるという。
その理由は、依頼者の項にはっきりと示してある。
そこにはこう書いてある。
︽依頼者:マルト第二孤児院、孤児一同︾
と。
むやみやたらに善意の押し売りをする気はないが、しっかりと依
頼はされている。
報酬は低いが、別にそれに乗るかどうかは冒険者の自由だ。
﹁⋮⋮どうされます?﹂
答えが分かっているかのような微笑みを向けてそう尋ねたシェイ
ラに、俺は、
﹁うけよう﹂
そう一言答えた。
441
第63話 銅級冒険者レントと孤児院
マルト第二孤児院。
マルトは辺境国家の地方都市とは言え、近くに存在する二つの迷
宮の恩恵を受け、一応は都市と呼べるだけの規模の人口のいる、ま
ぁまぁの都市である。
そのため、主要な施設はその人口に比例してそれなりの数あるし、
孤児院もまた、同様であった。
孤児院は地域や国によって、その運営主体は様々だが、この都市
マルトにおいては東天教と呼ばれる宗教団体の僧侶たちが行ってい
る。
東天教は、かつてこのヤーランに、東の地に舞い降りたという天
まつ
使がやってきて、様々な奇跡をおこなったことがあるらしく、その
人物は神の現身であったと考えて祀り、敬っている宗教で、その教
えは比較的穏便なものだ。
布教も無理強いしたりすることはなく、寄付も強制はしない。
それが故に、資金的にかなり苦しそうではあるが、東天教の僧侶
たちは大体において高潔であり、ヤーランに置いて東天教の僧侶は
敬われていると言っていいだろう。
しかし、それはヤーランだけで、他国においてはかなり微妙だ。
東天教それ自体が広まっておらず、名前すら知られていないらし
い。
まぁ、地域密着型の宗教団体であるということだ。
そんな東天教の教会に付設する形で、マルト第二孤児院は存在し
ていた。
かなりのボロだ、というのは酷い話かも知れないが、実際そうと
442
しか言えないのだから仕方がないだろう。
その化粧石のはがれ具合だとか、中途半端に石を詰めて直ったこ
とにした!と言わんばかりの石壁の欠けとか。
あぁ、本当に東天教というのは資金がないんだなと理解できる様
子に何か涙が出そうになる。
書物やロレーヌの話によれば、西の大国に存在する宗教団体と言
うのは非常に巨大なものがいくつかあり、国に匹敵するほどの権力
と資金力を持っていて、神官たちは皆、宝石屋かと勘違いしそうな
ほどにじゃらじゃらと着飾っていることも少なくない、と言うこと
だが、少なくともヤーラン王国においてそんな宗教者は一人も存在
しない。
宝石どころか銅の鍋すら買えなさそうである。
まぁ、銅の鍋は高いんだけどな。それはいいか。
俺はとりあえず、孤児院の扉の前に立ち、そこについてあるノッ
カーを手に取って叩こうとした。
すると、ばきっ、と音がなって、ノッカーが扉からはがれた。
﹁⋮⋮なかったことに、しよう﹂
幸い、ノッカーの後ろの方を見ると金具がついているのが見える。
扉の方も同様だ。
腰に下げている魔法の袋から、スライムの粘液の入った試験管を
取り出し、ちょっとだけノッカーの後ろに垂らし、扉に押し付けて
数秒待つ。
それからゆっくりと手をはなすと⋮⋮。
︱︱よし、くっついた。
これで問題ないな、と思って俺は改めて扉を叩く。
443
もちろん、軽くだ。
ノッカーの周りには決して衝撃を与えないように気を付けて、た
だ音だけは内部に浸透するように。
無駄に高度な技法を駆使しているようで、自分は一体どうしてこ
んなことをしてるのだったかと考えたくなるが、俺が自分の人生の
意味について深く思索を始める前に扉が結構な勢いで開け放たれた。
ががががっ、と、かなり乱暴な、扉のこすれる音が聞こえ、おい、
せっかくつけたノッカーが外れるだろ、と心の中で思った俺である
が、扉を開けた人物はそんなことは気にしていないようで、扉の前
に立つ不気味な仮面の男︱︱つまりは俺を見上げて笑った。
﹁あっ、お客様ですか? 申し訳ないですが、今日はリリアンは留
守で⋮⋮﹂
十二歳くらいの少女だ。
短く切りそろえられ、整えられた髪は、貧困の中でも身だしなみ
を忘れない一種の貴さのようなものを感じる。
心までは貧しくなる気はないということだろう。
しかし、リリアンが誰なのか知らないが、ここで追い返されても
困る。
俺は言う。
﹁⋮⋮ぎるどで、いらいをうけてきたぼうけんしゃなんだが、それ
でもだめか?﹂
すると、少女ははっとして、
﹁あぁ! なんだ、それを先に言っていただければ⋮⋮てっきり借
金取りの人がまた来たのかと⋮⋮どうぞどうぞ、狭いところですけ
ど﹂
444
と言って、扉をあけ放ち、中に入れてくれたのだった。
◆◇◆◇◆
﹁⋮⋮なにか、ようか﹂
中に通されて、俺は十人以上からなる孤児たちに興味深そうな目
で見つめられていた。
年齢はまちまちだ。
赤ん坊を抱えている少女もいれば、もうそろそろどこかに働きに
出なければならないだろう、という年齢の子もいる。
まぁ、孤児は毎年同じ数が出るわけではない。
魔物や山賊などに襲われて両親を失ったり、子供を作ったはいい
が育てられないからと孤児院の前に捨てていくことによって、ここ
に引き取られるからだ。
後者はマルトでは少ないようだが、前者に関してはこの世界のど
こででもありふれた話だ。
頑丈な防壁で築かれた街の外に出れば、どんな人間だってその可
能性はある。
魔物がそれほどでない、安全な地域だといって村を立てても、そ
まいきょ
いとま
の数日後に突然発生した魔物の一団に滅ぼされた、なんていう話も
枚挙に暇がないからな。
世知辛い話だが、これはもう、仕方がないとしか言いようがない
だろう。
孤児でも、生きていられただけ彼女たちは運が良かったとも言え
るのだから。
そんな彼女たちが、俺をなぜこんな目で見つめているかと言えば、
俺の見た目だろう。
445
先ほど通されてとりあえず孤児院の一応の客間らしき部屋に通さ
れたのだが、あの案内の少女がお茶を入れてきます、とどこかに行
った後、次から次へと子供たちがやってきて、この数になってしま
ったのだ。
仮面にローブ姿は彼女たちには割と珍しい存在に映るらしく、そ
れが興味深いようだ。
まぁ、冒険者としては珍しくもないこの姿だが、それ以外のとこ
ろでとなるとやっぱり珍しい、となってしまう。
戦闘を生業としていない限り、顔を焼けただれさせるとかそんな
ことは起こりようがないからな。
それに、ローブだってここまで真っ暗な色のものは着ないだろう。
冒険者だから迷宮や森で魔物に発見されないように、と言う理由
で身に付けてもおかしくはないものだが、街中を歩くものたちは過
度に明るくはないとはいえ、暗い色でも茶色とかその辺が一番目立
つ。
そういうことを考えると⋮⋮まぁ、孤児たちの注目を集めるのは
分からないでもなかった。
それに加えて、俺は孤児院に訪ねてきた冒険者なのだ。
冒険者が孤児院を訪ねることなど、あまりない。
それは、孤児院に冒険者に依頼できる経済的余裕などまず、ない
からだ。
これは他の国でも同様のはずだ。
なんだかんだ言って、慈善事業として宗教団体はこのような孤児
院を運営しているが、そこに予算はそれほど割かないものだという。
ヤーラン王国の東天教は単純に資金難の故だが、他の宗教団体の
運営の孤児院は、単純に予算不足から困窮しているということだ。
つまり、どこであっても冒険者が孤児院に来るのは珍しいのだ。
だから、見に来た、というわけだ。
446
しかしあまり感心はしないと言うか、俺だからまだいいものの、
冒険者と言うのは基本的に荒くれ者である。
あまり子供が近づいていいものではない、というのが世間一般の
認識である。
それを知らないのか⋮⋮。
そう思っていると、扉ががちゃり、と開いて、そこから最初に俺
を案内してくれた少女が現れた。
トレイには欠けたカップとソーサーが置かれていて、なるほど持
ってくると言っていたお茶なのだろうと言うことが分かる。
彼女はそれを俺に運ぼうと思っていたのだろうが、部屋の中にひ
しめく孤児たちを見て、目を見開き、
﹁あんたたち⋮⋮なにやってるの!?﹂
そう叫んだ。
447
第64話 銅級冒険者と孤児の実情
叫んだ少女は、そのままその場にいる孤児たちに向かって、冒険
者たる存在が如何に野蛮で向こう見ずで近づくと危険な存在かを語
ってくれた。
下手に近付くと切り捨てられる可能性すらあり、こんな風に大勢
の子供で囲んではいきなりタコ殴りにされてもおかしくはないとい
う。
﹁︱︱だから、絶対に近付いちゃダメ! わかった!?﹂
最後にそう言って、ものすごく泣いている子供たちを部屋から出
して、それから俺の方を振り返ってはっとしてから、ひどく言い訳
臭く、
﹁い、いえっ、あの⋮⋮すみません⋮⋮別に貴方がそうだってわけ
ではないんですよ?﹂
ととってつけたような謝罪の言葉をくれた。
これに俺がどんな反応をしたかと言うと、
﹁⋮⋮いや、むしろあんしんした。あのこどもたちは、おれになん
のけいかいもなく、ちかづいてきたからな。だれもなにもおしえて
ないんじゃないかとおもって、すこし、ふあんだった﹂
そう言って謝罪を受け入れた。
そもそも、少女の言ったことは概ね正しい。
目の前に俺がいる状況でそれを怒鳴りつけるように言ってしまっ
448
ているところは問題だが、少し間違えていれば先ほどの子供たちは
どうなっていたかわからない、というのは本当の話だ。
たまたま今日来た冒険者が俺で、特に気が短いわけでもないから
問題なかっただけで、他の冒険者だったら、そういう危険性がある
というのは間違いない。
まぁ、銅貨一枚の孤児院からの仕事を受けるような奴で、そこま
でひどい奴はそうそういないだろうが、どこにでもおかしな奴と言
うのはいる。
冒険者、という奇人変人の巣窟のような集団に全体的な警戒の目
を向けておくと言うのは、弱い立場の者にとって、むしろ常識とし
ておかなければならないことだろう。
そんな俺の考えを、俺の言葉からなんとなく読み取ったらしい少
女は、改めて、
﹁⋮⋮本当に、申し訳ありません。あの子たちは、いくら言っても
危ないところに首を突っ込んでいくもので⋮⋮いつも扱いに困って
しまっていて。聞き分けは悪くないのですけど、目を離すと⋮⋮﹂
その瞬間から、好奇心のままに動き出す、というわけだ。
子供だから仕方がないとも言えるが、そこそこ年長のものもいる
のにそうなってしまっているあたり、少しばかり危機感は足りない
のかもしれなかった。
﹁わかいときはな、こうきしんがつよいというのはわるいことじゃ
ない。ただ、ほんとうにきをつけたほうがいい。まるとのぼうけん
しゃは、あまりあらいのはいないが、ながれものがくることもある。
そういうときは⋮⋮よくよくきをつけさせなければ、ほんとうにき
けんだ﹂
449
殺人まで発展すれば大きな問題になるだろうが、そこまでは至ら
ないまでも大けがをさせられる場合もある。
そういうときは、犯人を捜そうとしてもすでに他の街へ消えた後
だった、ということもあるのだ。
俺の助言に、少女は、
﹁⋮⋮はい。しっかりと、言い聞かせます﹂
そう頷いた後、不思議そうな顔で、
﹁⋮⋮それにしても、随分と⋮⋮親切な方ですね? マルトの冒険
者は確かに常識的な方が多いですが、ここまで心配してくださる方
は珍しいです﹂
と言う。
いないわけではないだろうが、確かにこのくらいのことであれば
曖昧に笑って終わらせる、くらいの者が多いだろう。
あまり口出ししすぎるのもうるさく思われるし、そもそも依頼者
の内情に深く踏み込みたくないと考える者も少なくないだろうから
な。
俺は⋮⋮。
俺もやっぱり、踏み込み過ぎはよくないと思うが、これくらいの
注意はしておきたい派だ。
あとで何かが起こって、あのときもっとしっかり言っておけば、
みたいな後悔はしたくない。
それにせっかくこうして話しているのだし、さっきの子供たちも
顔を合わせたのだ。
多生の縁もあるだろう、という感じはある。
少し、余計なことかもしれなくとも。
450
﹁べつに、おれじゃなくてもあそこまでけいかいしんがなければ、
いうだろうさ。まぁ、それだけしあわせにすごせているということ
だとおもうが﹂
孤児院と言うのは別に地獄のような貧困にあえいでいる場所では
ない。
が、ところによってはあまり良い扱いを受けていないこともある。
東天教以外の宗教団体経営の孤児院ではその傾向が強く、そこに
いる子供たちは暗い眼をしていることも少なくない。
しかし、ここの子供たちは、さっきのを見る限り、そう言ったこ
とはないようであった。
むしろ、愛情を注がれて生きている。
そんな感じがする。
おそらくは、ここの管理者が立派な人間なのだろう、と思われた。
マルト第一孤児院の方は年に二、三度、依頼を受けることがあっ
たが、第二孤児院には俺は来たことがなかった。
なぜかと言えば、俺ではない別の者がここの依頼を優先的に受け
ていたからだ。
誰が受けていたのだったか⋮⋮。
思い出そうとしてみるが、出てこない。
喉まで出かかってるんだけどな。
俺がそんなことを思い出そうとしている間に、少女は言う。
﹁ええ、リリアン様はわたしたちにとても優しくしてくれるから⋮
⋮じゃなかった、してくれますから﹂
ずっと敬語だったが、自分のことを語ろうとしたことで若干ほこ
ろびが出たようである。
子供にしては立派な言葉遣いだったが、完璧、とはいかなかった
451
のだろう。
それでも立派なものだが。
しかし、そもそも敬語なんて俺には使わなくていい。
そう思って、俺は言う。
﹁はなしにくいようなら、ふつうにしゃべってくれて、かまわない
ぞ﹂
﹁えっ? 本当ですか? でも⋮⋮﹂
﹁きにするな。ほかのぼうけんしゃがあいてのときは、きをつけた
ほうがいいが、おれはそういうことはきにしないたちだ﹂
つまり気にする冒険者もこの世には存在するということだが、少
数派だろう。
ギルド
そもそも、敬語に馴染めるような輩などお上品扱いされるのが冒
険者の世界である。
しかし冒険者同士では馬鹿にするくせに、女性冒険者組合職員な
どが相手だと、育ちの良さそうな綺麗な言葉遣いをしている者をほ
めたたえるのだから、なんというか度し難い存在だなと自分たちの
ことながら思ったりする。
蓮っ葉な女性がダメだという訳ではなく、自分にない品を女性に
求めたいときもあると言うことらしい。
俺にはよくわからない感覚だが。
別に言葉遣いなんてどうでもいいような⋮⋮話がずれそうだ。
ともかく、冒険者と言うのは大体が、自分に向けられる言葉が敬
語かどうかは気にしないということだ。
少女は俺の言葉に少しだけ考えたようだが、本人がこう言ってい
るのだから、と思ったらしい。
452
﹁⋮⋮わかった。でも、あとで怒らないでよ? あなたが自分で言
ったんだからね﹂
と、敬語をやめた。
この方が子供らしいな、と思うがそれは勝手すぎる感覚かも知れ
ない。
ここにいる以上、彼女もまた、孤児だ。
しっかりとした言葉遣いや注意力を身に着けておかなければ、い
ずれどこで難癖つけられるか分からないのだ。
そしてその場合、抵抗することも出来ずに終わるだろう。
孤児の立場はそれくらいに弱い。
余計なことだったかもしれない、と思ったが、もう普通に喋れと
言ってしまって受け入れられたのだからまぁいいか、ということに
した。
悪いことをしたということは、依頼をしっかりと片づけて返すこ
とにしたい。
﹁もちろん、おこらない。それで、いらいのはなしだが⋮⋮おっと、
そのまえに、おたがいじこしょうかいがさきか。おれのなまえは、
れんと・びびえ。どうきゅうぼうけんしゃだ﹂
﹁銅級⋮⋮てっきり鉄級の人が来るかと思ってたわ。孤児院の依頼
なんて⋮⋮私はアリゼ。ファミリーネームは、ないわ﹂
孤児たちの出自は色々で、親のファミリーネームを継いでいる者
もいれば、そんなものは分からないため、孤児院に引き取られた時
点で名前をもらい、そのあと誰かに引き取られたり、独り立ちする
ときに改めてファミリーネームをつける、と言う場合もある。
アリゼの場合は、そういうことなのだろう。
ちなみに、普段必要であれば、対外的には孤児院の管理者のファ
453
ミリーネームを名乗ったりするが、今はその必要がないと判断した
ようだった。
別に役所ではないのだ。
手続きのためにファミリーネームが必要、なんてことはないので
その判断は正しい。
454
第65話 銅級冒険者レントと依頼の理由
﹁あらためて、いらいのはなしなんだが⋮⋮﹂
俺がそう言うと、孤児院の娘アリゼは頷いて依頼について話し始
めた。
﹁そうね。と言っても、そんなに細かい話ではないわ。依頼書に書
いてある通りよ﹂
﹁︽りゅうけつか︾のさいしゅ、か﹂
﹁その通りよ。お願い出来るかしら?﹂
﹁まぁ、いちどうけたいらいだ。ことわるつもりはない。が⋮⋮わ
かってるのか? あれはこのあたりだと、そうかんたんにとってこ
れるものじゃないぞ。せめて、りゆうくらいはきかせてくれないか﹂
俺の言葉に、アリゼは、
﹁それは⋮⋮﹂
と、少し言いにくそうな顔をした。
何か事情があるらしい、と俺はそれで察する。
しかし、急かさずに待っていると、アリゼは、
﹁⋮⋮そうね。そうよね。納得できない、というのは分かるわ。ち
ょっと待ってくれるかしら?﹂
455
﹁⋮⋮? ああ﹂
話すつもりになったのかどうか。
アリゼはそう言って立ち上がり、部屋を出ていく。
それから少しして、戻ってきたアリゼは、
﹁こっちに来て。理由を見せるから﹂
と言って手招きしたので、俺はそれについていく。
◆◇◆◇◆
アリゼはそれから廊下を少し歩いて、一つの部屋の前で立ち止ま
った。
そこで扉に二度ノックをして、
﹁⋮⋮アリゼです﹂
と中に向かって話しかけると、
﹁お入り﹂
と言う掠れた女性の声がした。
アリゼはそれに頷いて、
﹁失礼します﹂
と言い、扉を開いて中に入る。
俺にも入る様に視線で促してきたので、俺もまたそのあとについ
456
ていった。
部屋の中は簡素なもので、小さめの書棚と机、それにベッドがひ
とつあるきりだ。
ベッドには一人の中年の女性が横になっていたが、俺たちの姿を
見て上半身だけ起き上がり、話しかけてきた。
﹁初めまして。この度は、孤児院地下の整理についての依頼を受け
てくださったそうで⋮⋮報酬も雀の涙ほどでしょうに、本当にあり
がたく思います。私はこの孤児院の管理をしております、東天教の
僧侶のリリアン・ジュネと申します。どうぞ、よろしくお願いしま
す﹂
その内容に、俺は一瞬首を傾げたが、アリゼが俺の目を見て、お
願いだから黙ってて、というような視線を向けてきたので、特に突
っ込まずに自己紹介を始める。
﹁ああ⋮⋮おれは、どうきゅうぼうけんしゃの、れんと・びびえ、
だ。いらいは⋮⋮まぁ、たまにはな。わるくはない⋮⋮﹂
事実、気が向いたから受けているという部分もある。
受ける受けないは個人の自由だし、受けた以上は働く、それが冒
険者と言うものだ。
そして依頼者と冒険者は常に対等でもある。
依頼者は特に遜る必要はない。
﹁そう言っていただけると、助かります⋮⋮孤児院の地下には小さ
なものですが、魔物もおりますので子供たちに任せるわけにもいき
ませんでした。私が元気であれば多少の戦闘の心得はありますので、
なんとかなるのですが、今は⋮⋮﹂
457
こう言っては何だが、四十半ばくらいの少しふくよかな体型をし
ているリリアンにそんなことが可能とは思えなかったが、事実であ
るらしいことはアリゼが特に何も言わないことから明らかだ。
まぁ、僧侶や神官というのは、冒険者以外に特殊な戦闘技能を持
っている職業の一つでもある。
聖気なんかも、彼らは行使することが出来る場合もあるし、そう
なると体型など関係ない。
聖気の浄化の力でもって、狭い範囲の魔物なら焼き払うことすら
可能だ。
それに比べると俺の聖気の力はまだまだ弱いが、まぁ、別に神に
一心に信仰を捧げてきたわけでもなんでもないのだからその差は仕
方がないだろう。
使い方によっては強力な効果を生むことは鍛冶屋でのことでもわ
かったし、別に構わない。
ちなみに、魔気融合術の聖気版として、聖気と魔力、または気と
の融合を試してみたのだが、これについては実のところ失敗してい
た。
聖気と魔力だと、魔力と気のときよりも遥かに反発が強く、また
聖気と気の場合には両方の力を注ぐと同時にその場で力が解放され
てしまうのだ。
相性が悪いのかもしれない、と思ったが、絶対に出来なそうと言
う感触ではなかったという微妙な結果で、これは練習するか何か特
殊な工夫が必要なのかもしれないなという感じだ。
まぁ、それはいいか。
ともかく、リリアンには戦う技能はあるが、今は無理らしい。
たしかに体の調子は良くなさそうで、気になって俺は尋ねる。
﹁⋮⋮からだが、よくないのか?﹂
458
﹁ええ⋮⋮どうにもここ最近、体に力が入らなくて。ですけど、元
々体は丈夫なのです。少し休めば、すぐに元通り働けるようになり
ます。ですからそれまでの間、ぜひ、よろしくお願いします﹂
俺はどう言ったらいいものかと悩んだが、アリゼの顔を見る限り
うまいこと言うように、という感じだったので、
﹁⋮⋮まぁ、できるかぎりのことは、したいとおもう。あなたもあ
まりむりをしてはいけない。ありぜ、そろそろ⋮⋮﹂
﹁そうね。では、リリアン様。私たちはもう少し、依頼の詳しい話
をしなければならないので⋮⋮﹂
アリゼがそう言うと、リリアンは頷いて、
﹁ええ。アリゼ、貴方がいてくれてとても助かっているわ。レント
さんも⋮⋮この子はこの孤児院のことを私の次に知っておりますの
で、何かありましたらこの子に聞いてください﹂
そう言った。
俺はそれに頷き、部屋を下がる。
アリゼも同様にし、扉を閉めて⋮⋮それから、
﹁⋮⋮いろいろききたいことがあるんだが﹂
俺がそう言うと、アリゼは、
﹁とりあえず元の部屋に戻ってからね﹂
459
そう言って再度歩き始めた。
ここで話すとリリアンに聞こえてしまう、それでは困る、という
ことなのだろう。
そう思った俺は、アリゼに黙ってついていく。
◆◇◆◇
﹁⋮⋮で?﹂
一言だけだったが、アリゼにはそれだけで伝わった。
それはそうだろう。
色々とあの場で濁すように視線で指示していたのは彼女なのだか
ら。
アリゼは、
﹁色々と余計な気を遣わせてごめんなさい。理由はあるのよ⋮⋮﹂
そう言って謝って来た。
素直にそう言われれば、俺としても許容せざるを得ない。
別に詰問したいわけでもないからだ。
しかしどうしてあんな微妙な会話をしなければならなかったのか
は聞かなければならない。
アリゼの言葉を俺が待っていると、彼女は口を開いた。
﹁リリアン様が調子悪いのは分かったでしょう? あれ、本人は自
覚していないけど、病気なのよ﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
それだけで、大体話は分かった気がした。
460
が、もしかしたらその推測は間違っているかもしれないので、と
りあえず続きも聞く。
アリゼは続ける。
﹁治癒術師の人にも見てもらったんだけど⋮⋮あの病気はね。魔術
じゃ治せないわ。治癒系の加護を得た聖気じゃなければ⋮⋮﹂
﹁こんなことをいうとしつれいなはなしかもしれないが、ちゆじゅ
つしにみせるかねがよくあったな?﹂
俺がそう言うと、アリゼは笑って、俺を指さし、言った。
﹁あなたみたいな物好きはいろんなところにいるってことよ。お金
はいらないって。リリアン様のためならって。そういって見てくれ
たの﹂
なるほど、と思う。
リリアンは孤児院の管理人であると同時に東天教の僧侶だ。
彼女に救われた人もいたのかもしれない。
それが、単純にその戦闘技能に助けられた可能性もあるな。
元気なら魔物とも戦える、という話だったし。
﹁とにかく、そういうわけで、聖女様や聖者様でもこない限りは、
リリアン様の病気を治すためには薬が必要なのよ。ちょっと前に聖
女様が来てたけど、あのときはまだ元気だったから⋮⋮﹂
俺が不死者じゃなかったころに一度来たな。
今来たら⋮⋮俺は浄化されてしまうのだろうか?
見てるだけで体の調子が良くなったあのときのことを考えると、
近づくだけで消滅させられる可能性もないではない。
461
気を付けなければならない相手であるな、と思う。
﹁そのくすりのざいりょうとして、︽りゅうけつか︾が?﹂
﹁ええ、そうよ。調剤はその治癒術師の人が伝手を当たってくれる
って。技術料は⋮⋮払うつもりでいるけど、いらないって言われて
しまったわ﹂
きっとその治癒術師が払うつもりなのだろうな。
まぁ、そういうこともあるだろう。
親切が巡り巡って本人のためになっている状況なのだろう。
﹁なるほど、じじょうは、わかった。ちなみに、びょうめいは?﹂
﹁︽邪気蓄積症︾というらしいわ。聖気を使える人、特有の病気み
たいね。持っている聖気がそれほど強くないと、使っている毎に反
動として邪な気を体に取り込んでしまうみたいなの。それで、徐々
に体の調子が悪くなるって。ただ、︽竜血花︾はその邪気を払う効
果があるということよ﹂
462
第66話 銅級冒険者と地下室の主
︽邪気蓄積症︾か。
俺も聖気を使っているだけあって、他人事ではないかもしれない
病気だ。
しかし、昔から使っている割には特にそういったことはなかった
な。
もともと使っていた力が微弱過ぎて邪気がほとんどたまらなかっ
たからかもしれない。
コップ一杯くらいの水の浄化や傷口の化膿止めくらいしかしなか
ったもんな。
しなかったというか出来なかったともいうが。
それに対して、リリアンはかなり聖気を酷使してきたのだろう。
魔物を狩るのにもよく使っていたような感じだったしな⋮⋮あぁ、
そういえば、
﹁⋮⋮ちかしつがどう、とかいっていたが、あれは?﹂
俺がリリアンの言葉を思い出してそう、尋ねるとアリゼは、
﹁あれは方便と言うか、︽竜血花︾の採取のために冒険者を呼ぶ、
なんていったら、リリアン様のことだってすぐに分かっちゃうから
ね。聖気なんてここじゃ、リリアン様しか使えないんだもの﹂
﹁べつに、わかってもいいんじゃないか?﹂
﹁だめよ。自分のためにそんなことを頼む必要はないっていうわ。
463
︽邪気蓄積症︾は別に今日明日死んでしまう、みたいな病気じゃな
いから余計にね。あれは徐々に体を衰弱させる病気で⋮⋮治癒術師
の人が言うには、健康な人がかかって死んでしまうことはあるけれ
ど、それには五年十年かかるのが普通だって話よ。リリアン様はそ
れならその間に他の僧侶と管理者を交代すればいい、とか考えかね
ないわ﹂
相当自分に厳しいと言うか、懐具合に厳しい人なのかもしれない。
まぁ、そもそも︽竜血花︾の採取を冒険者に頼もうと思ったら普
通なら金貨が必要になってくるからな。
そんなもの頼めない、と言うのは分からないでもない。
リリアンがいなくなったあとの孤児院のことを考えればそれでも
頼んだ方がいいだろうが、時間があるなら他と交代すればいい、と
いうのはある意味、非常に合理的で迷惑のかからない方法でもある。
真実をリリアンに語ったところで反対されるのは目に見えている
からこういう行動に出た、というアリゼの話も理解できた。
東天教の信仰に生きる僧侶と言うのは大体が善人だが、それだけ
にたまに説得が通用しないからな。
たとえば今回のことのように⋮⋮死が目の前に与えられたらそれ
は天命だ、と考えかねない感じと言うか。
まぁ、金があるなら治療してもいいとは思ってそうではあるので、
リリアンはそこまでではないようだが。
ただ、説得は難しそうである。
黙ってやるのがいいだろう。
しかし、アリゼには他の心配があるようだ。
﹁⋮⋮ま、そういうことだから。ただ、頼んでおいてなんだけど⋮
⋮本当に︽竜血花︾をとってこられるの? 貴方も言っていたけど、
あれはこの辺りじゃ、︽タラスクの沼︾にしかないって聞くけど⋮
464
⋮﹂
しょうたく
︽タラスクの沼︾とは読んで字のごとく、そのままの意味で、タ
ラスクと呼ばれる強大な魔物の縄張りである沼沢地帯のことである。
そしてタラスクとは、沼地に好んで住む亜竜の仲間で、固い甲羅
に六本足を持つ、毒を持った魔物だ。
低ランク冒険者ではまるで相手にならない存在で、だからこそ、
︽竜血花︾の採取は厳しいとされている。
アリゼはそんなところに銅級でしかない俺が行って帰って来れる
のか、と疑問に思っているらしかった。
当然の話だ。
だが、俺は言う。
﹁⋮⋮たらすくにかてる、とはおもわないが⋮⋮やりようはある。
そんなにかずがいるまものでもないし、な﹂
﹁本当に?﹂
﹁あぁ。ま、きたいしてまっていろ。かならずとってきてやる﹂
﹁⋮⋮ありがとう。頼りにしてるわ。じゃあ、早速行くのかしら?﹂
﹁いや、︽たらすくのぬま︾は、とおい。あそこのまものは、やこ
うせい、のものがおおいからな。むかうのは、あすだ﹂
これがリリアンの病状が一刻を争う、というのであれば俺も危険
を顧みず今すぐに向かっただろうが、そういうわけでもないようだ。
無理して今行くと、帰ってこられない可能性すら生じるので、そ
うなるよりは多少遅くなっても確実性のある方が良い選択だと考え
たわけだ。
465
﹁そうなの? へぇ、やっぱり、銅級でもしっかりとした冒険者な
のね。そういうことをよく知っているのはなんだか専門家っぽいわ﹂
俺の言葉に、アリゼは妙に興味深そうにそう言った。
それが気になって、俺は尋ねる。
﹁もしかして、ぼうけんしゃにきょうみがあったりするか?﹂
﹁あれ、分かった? 小さいころからちょっとなってみたいなって
思ってはいるのよ。運よく、魔力は少しあるの。ただ、孤児院のこ
ともあるから⋮⋮しばらくは無理ね。少なくとも、リリアン様がよ
くなるまでは﹂
リリアンの話によればこの孤児院について彼女の次に詳しいのは
アリゼだ、ということである。
リリアンがあんな風になっている現状で、自分のやりたいことを
やろうというのは難しいのだろう。
魔力があるのなら、俺のように底辺にくすぶり続ける、と言う可
能性も低そうだ。
﹁ぼうけんしゃになるときは、いってくれ。ちからになるぞ﹂
﹁⋮⋮貴方、本当に優しいわね。じゃあ、いつになるか分からない
けど、そのときは頼らせてもらうわ﹂
アリゼは俺の言葉にそう言って、微笑んだのだった。
◇◆◇◆◇
466
それから、今日のところはもう、帰ってもよかったのだが、アリ
ゼに詳しく話を聞くと、孤児院の地下室に魔物がいるために整理が
あまり進んでいない、と言う話自体は本当らしかったので、リリア
ンへのカモフラージュがてら、それをやることにした。
まぁ、魔物、とは言っても都市内に入り込める魔物など大半が大
したことがない。
人に化けたり、空から襲ってきたりと特殊な入り込み方をする魔
物ならともかく、地下室をちょろちょろするしか出来ない魔物と言
うのは大体相場が決まっているものだ。
孤児院の地下室にアリゼの案内のもと、入り込み、さて、予想し
し
たもののうち、どれがいるのかな、と地下室内部を観察してみる。
き
地下室特有の涼しい空気がひどく気持ちよく感じるのは、俺が屍
鬼などという不死者であるがゆえだろうか。
こういう、薄暗いところがなんだか前より好きなんだよな⋮⋮。
まぁ、それはいいか。
﹁⋮⋮お、いたな﹂
﹁え? どれどれ?﹂
俺の言葉に、アリゼがそう反応する。
彼女の手には一応の護身用にナイフが握られている。
大したものではないとはいえ、一応魔物だ。
それくらいは必要だった。
俺は部屋の片隅を指さして、言う。
﹁ほれ、あそこにいるだろう⋮⋮あのまるいのだ﹂
467
﹁⋮⋮あぁ、あれね⋮⋮というか、大きいわね﹂
プチ・スリ
そこにいたのは、いわゆる小鼠と呼ばれる小型の魔物だ。
以前、ロレーヌとの会話の中で出てきた、実験動物的な使い方も
されることの多い魔物である。
通常は普通の鼠よりも少し大きい、くらいのものだが、そこにい
たのはその五倍は体積がありそうな奴で、アリゼの言う通り大きい
と言う他ない。
プチ・スリ
よほどここの環境が合っているのか何なのか。
その小鼠は近づいてきた俺たちに気づいて、振り返り、威嚇して
きた。
尖った前歯がまるでそれこそナイフのように鋭く光っている。
アリゼを連れてきたのは失敗だったかもしれないな、と思いつつ、
俺もナイフを構えた。
この広さで剣を振り回すのは厳しいからだ。
プチ・スリ
解体用のナイフを持っててよかったな、と思う。
その代わり、魔力だけで戦う必要があるが、小鼠くらいに後れを
とることはもう、ない。
﹁さぁ、やるぞ﹂
プチ・スリ
俺はそう言って、小鼠に向かって固い地下室の地面を蹴った。
468
第67話 銅級冒険者レントと鼠
プチ・スリ
小鼠の動きは単純だ。
プチ・スリ
普通の人間からすればそれでも非常に素早く、捕まえるのには難
儀することだろう。
しかし、冒険者にとってはそうではない。
魔力や気によって強化された身体能力の前に、小鼠程度の魔物は
良い的でしかないのだった。
プチ・スリ
飛び掛かって来た小鼠に軽くナイフを振り、切り裂く。
それだけで吹き飛んでいくほどの威力があるのは、魔力と、そし
プチ・スリ
てこの身の持つ人間離れした身体能力のお陰だった。
そのまま壁に衝突し、ずるずると滑り落ちた小鼠。
まだ息はあるようだが、ほとんど虫の息だ。
あとは止めを刺すだけ⋮⋮と思ってゆっくり近づき、ナイフを振
り上げたところ、まだ少し元気が残っていたようで、跳ねるように
こちらに向かって来た。
あまり大した速度でもなく、避ければいいか⋮⋮と体を捻ろうと
したところで、今日は後ろに人がいるのだ、ということを思い出し
た。
ソロで戦っている日々が長すぎたのが良くなかったのかもしれな
い。
自分の安全ばかりに気を取られて、一瞬判断に迷ってしまった。
もちろん、背後にアリゼがいる以上、そちらに魔物を通すわけに
は行かず、かといってナイフを引き戻すのも微妙な位置だった。
プチ・スリ
仕方なく、ナイフを持っていないもう片方の手で殴りつけること
を選択したわけだが、急いで手を突き出したからか、小鼠の尖った
歯が生えている部分にちょうど命中してしまった。
469
プチ・スリ
手に軽くぴりりとした感触を感じたが、今はそれよりも魔物の方
である。
プチ・スリ
吹き飛んだ小鼠に距離を詰めて、今度こそ止めを、と思ったら、
そこで地面にうずくまる様に倒れていた小鼠が急に苦しみ始めた。
﹁⋮⋮? なんだ﹂
奇妙に思って距離をとる。
プチ・スリ
一体これから何が起こるかわからないからだ。
プチ・スリ
ばたんばたんと小鼠が暴れ、そしてしばらくしてそれが落ち着く
と、先ほどまで灰色だった小鼠の色が黒く染まった。
プチ・スリ
そして、それと同時に、俺は奇妙な感覚を覚える。
はっとして、ゆっくりと起き上がった小鼠を見ると、それは俺の
方を見つめてその場に静止していた。
・・・・・・・
目が合い⋮⋮そして、俺は理解した。
・・・・
あいつは俺とつながった、と。
プチ・スリ
俺はナイフを下して、しかし警戒は解かずに静かに近づく。
小鼠はそれでも俺に向かってはこず、行儀よくその場に静止して
いる。
﹁⋮⋮え、ちょっと何? どうなったの?﹂
後ろからアリゼの困惑した声が聞こえる。
プチ・スリ
俺もよくは分かっていないのだが⋮⋮とりあえず、静止している
小鼠に、
﹁⋮⋮そのばで、さんかいまわれ﹂
470
プチ・スリ
と、言ってみた。
すると小鼠はまさにその命令通りの行動をした。
それを見て、アリゼの困惑はさらに深まったようで、
﹁えっ? えっ? どういうこと?﹂
と言っている。
プチ・スリ
けれど、俺にはなんとなく理解できた。
先ほど、小鼠を叩いた方の手を見てみると、手袋の一部が破けて、
そこから少し、黒ずんだ液体が流れているのが見えた。
しき
一応、血である。
屍鬼の体の大半は乾いているが、人間らしい部分もそれなりにあ
グール
る。
屍食鬼だったときとは違って、血も一応流れてはいるのだ。
プチ・スリ
まぁ、それでも、切ってもほとんど流れないんだけどな。
小鼠が噛み付いた場所は、まさに俺のその、生きているように見
プチ・スリ
える部分、だったようである。
ヴァンパイア
そして、その血が、小鼠の体に入った⋮⋮。
その結果が今の状態なのだと思う。
しき
ヴァンパイア
屍鬼は低級のものとは言え、一応、吸血鬼の一種だ。
しき
しき
吸血鬼は、その血を人間に噛み付いて注ぎ込むことにより、自ら
の眷属を作る。
その眷属の一種が、屍鬼なわけだが、では屍鬼が眷属を作ること
も出来るのではないか?
しき
一般的には出来ない、とされている。
しかし、それは、本来、屍鬼というのははっきりとした自意識を
持たない、本能的に従って行動する存在であるため、眷属を作る、
などと言う行為を意識的に行うことなど出来ないからではないだろ
うか。
471
いや、眷属を作っても、指示を出さないから結果として、眷属が
しき
いないように見えるのでは?
ヴァンパイア
だが、屍鬼に明確な自意識があったらどうだろう。
ヴァンパイア
眷属を作り、吸血鬼のように命令を聞かせることも出来るのでは
ないか。
そしてその方法は、吸血鬼がする方法と同じで、自らの血を相手
ヴァンパイア
にとりこませることかもしれない。
吸血鬼はその血を相手に取り込ませることによって、眷属化する
わけだが、その際に身体能力などが上がる効果がある。
プチ・スリ
体を無理やり作り替えるのだ。
そして、あの小鼠はまさに、たった今、俺の血を取り込んだ。
プチ・スリ
それによって体が作り替えられて、だからこそあんな風に苦しん
でいたのではないか。
そして今、俺はあの小鼠との間に繋がりを感じている。
なんだか妙に近しい感覚と言うか、今この体を本体とすると、そ
こから分けた小さな自分がそこにいる感じと言うか。
そんな感覚だ。
プチ・スリ
あの小鼠はつまり、俺の眷属になった。
そういうことではないか。
そう思った。
ヴァンパイア
けれど、そんな話をアリゼにするのはよろしくないだろう。
なにせ、そんなことをできるのは吸血鬼など、一部の魔物に限ら
れるのだ。
しかし、この状態を説明しないわけにもいかない。
なにか変なことにはすでに気づいているわけだし。
まぁ、ちょうどいい説明と言うのもないではない。
俺は言った。
﹁おそらくだが、あのまものと、おれとのあいだに、いま、ぱすが、
472
つながったらしい﹂
パス
︽道︾である。
モンスターテイマー
ちなみに、これは、従魔師が使う専門用語だ。
パス
彼らは魔物を従えるとき、特殊な魔術でもって魔物との間に︽道
︾と呼ばれる繋がりを確立し、操る。
つまり、俺は、眷属化したことを、従魔化した、ということで乗
り切ることにしたのだ。
﹁えっと⋮⋮つまり、どういうこと?﹂
モンスターテイマー
しかし、アリゼには従魔師の知識など無いようだ。
俺の台詞からすぐに思い浮かぶということはなかった。
俺はそれに頷いて、もっと詳しく説明する。
﹁おれは、あのまものを、じゅうまとすることができた、というこ
とだ﹂
モンスターテイマー
﹁⋮⋮あなた、従魔師だったの?﹂
モンスターテイマー
これで初めて理解したらしい。
モンスターテイマー
俺は別に従魔師ではないが、望んだ話の流れである。 ただ、少し調べれば俺が従魔師などではないことはすぐに分かる。
だからその辺は色々と濁しつつ話すことにした。
﹁いや、おれはけんしだが、いぜん、もんすたーていまーに、じゅ
うまのつくりかたをきいたことがあってな。すこし、やってみたん
だ﹂
﹁へぇ⋮⋮やっぱり冒険者って色々と出来るのね? すごいわ﹂
473
モンスターテイマー
従魔師の特殊な魔術など基本的に門外不出に近く、そうそう学べ
はしないのでアリゼの勘違いなのだが、特に訂正はしない。
あとあと俺のことを調べても、そういうことが絶対にありえない
とまでは言い切れないので問題はないだろう。 アリゼは言う。
﹁じゃあ、この魔物は、もう襲い掛かってきたりしないの?﹂
この質問には特に誤魔化すことなく、ちゃんと答えられる。
俺は彼女に言った。
﹁あぁ。それどころか、いうことをきくぞ⋮⋮ちょうどいいから、
このちかしつはこいつにまもってもらおう。ここは、ていきてきに
まものがはいりこむんだろう?﹂
だからこそ、リリアンがここを聖気でもって浄化できないために
困っていたのだ。
ちょうどいい番人が手に入った、と思えば悪くない話である。
これにアリゼは、
﹁本当に襲ってこないならいいけど、大丈夫なんでしょうね?﹂
プチ・スリ
と疑い深く尋ねるも、アリゼがその小鼠にいくらちょっかいをだ
しても一切、攻撃したりしてこないので、最終的には納得してくれ
たのだった。
474
第68話 銅級冒険者レントと小鼠の力
プチ・スリ
孤児院の地下の魔物については、小鼠が眷属になってくれたお陰
で解消したと言っていいだろう。
プチ・スリ
まぁ、そもそもが俺に依頼された仕事ではないし、別に何もしな
プチ・スリ
くても大した問題はなかったのかもしれないが。
ちなみにあの小鼠以外にも探してみると何匹か通常サイズの小鼠
を発見した。
ただ、こちらは本当に大した存在ではなく、アリゼに試しに戦わ
せてみたら、倒せてしまったくらいのものだ。
もちろん、全部でなく一匹だけだが、それでもいずれ冒険者に、
という夢を持っている彼女からすると初めて魔物を倒せたというこ
とは嬉しいらしかった。
ギルド
ついでに魔石もとれるし、ちょっとした小遣いにもなる。
冒険者組合で売るには登録が必要だが、別にその辺の商会にいっ
てもあまり誤魔化さずに買ってくれるものなので問題はないだろう。
プチ・スリ
プチ・スリ
さらに、俺が眷属とした小鼠はちょっとした能力を見せた。
プチ・スリ
プチ
ちょろちょろと地下室を逃げ回る他の小鼠を捕まえるのに少し苦
・スリ
労していたのだが、それを見かねたのか、眷属の小鼠が逃げ回る小
鼠を睨みつけると、まるで蛇に睨まれたかのように停止したのだ。
それから近づこうが触ろうが直立不動である。
まるで上司に怒られる部下のようで、もしかして、と思い、
﹁⋮⋮したがえてる、のか?﹂
プチ・スリ
プチ・スリ
と尋ねれば、肯定の意思を伝えてきた。
どうやら、眷属の小鼠は、他の小鼠を従える力があるらしく、そ
475
ヴァンパイア
れは吸血鬼系統の魔物が持つ、眷属化と似たような技能なのだろう。
ジェネラル
キング
魔物と言うのは多かれ少なかれ、上位個体が下位個体を統率する
能力を持っているものだ。
ゴブリンの上位個体、ゴブリン将軍とかゴブリン王などが多数の
ヴァンパイア
ゴブリンを従えられるのが代表的だろう。
吸血鬼の場合は、自らの種族ではない存在を自らの傘下に収める
力があることになるから、若干上位互換的な能力ということになる
だろうか。
ヴァンパイア
まぁ、自らの血を注がなければならない、というデメリットもあ
るが、吸血鬼の場合は個体の能力がゴブリンなどに比べて高いため、
プチ・スリ
数より質重視と言うことかもしれない。
そう言う意味では、この小鼠がどの範囲の個体までをどうやって
統率しているのかは分からない。
もともと地下室に住んでいたわけだから、こいつが親分的存在だ
った可能性もあるし、単純に下位個体はすべて統率できるのかもし
れないし。
その辺りはあとで要研究ということになるだろうか。
プチ・スリ
家主がひどく喜ぶだろうな、という気がした。
そのためには、この小鼠を今日のところは家に連れて帰りたいが、
プチ・スリ
プチ・スリ
もともとはこの地下室をリリアンに代わって守らせるつもりでいた
のだ。
しかし、今、この小鼠は他の小鼠を従えているわけで⋮⋮手下の
方に守らせて親分の方は持って帰ればいいのではないか?
そう思って、俺は尋ねる。
﹁⋮⋮おまえに、このちかしつをまもってもらうつもりだったが、
こっちのやつらにそれをまかせることは、できるか?﹂
プチ・スリ
すると、眷属の小鼠はその赤い瞳をこちらにじっと向け、それか
ら肯定の意思を伝えてきた。
476
喋れなくとも、なんとなく言いたいことが分かるのは、眷属化の
力だろう。
プチ・スリ
魔物ってかなり便利に出来てるんだな、と思いつつ、たった今、
小鼠との間で成立した話について、アリゼに話した。
彼女は、
﹁私としては全然かまわないけど⋮⋮ここを魔物から守ってくれる
ってことは、他の子供が降りてきても大丈夫ってこと? たまに小
さい子がここに潜り込もうとして心配なのよね⋮⋮﹂
プチ・スリ
と尋ねてきたので、その旨についても我が小鼠に聞いてみれば、
プチ・スリ
問題ないという心強い感覚が伝わって来た。
プチ・スリ
そして眷属の小鼠がそのまま、横に配下のように控える五匹ほど
の小さめの小鼠を睨みつけると、背筋を伸ばして﹁⋮⋮ヂュッ!﹂
と濁った返事をした。
﹁⋮⋮もんだいないってさ﹂
﹁そうみたいね⋮⋮﹂
プチ・スリ
プチ・スリ
プチ・スリ
小鼠たちのやりとりを見つつ、驚いた顔のアリゼにそう言うと、
彼女も頷く。
それにしても、どうも、この小鼠たちは俺の眷属となった小鼠を
ひどく恐れているようだ。
やっぱり、もともと親分子分の関係だったんじゃないかな⋮⋮。
そんなことを想いつつ、まぁ、こういうことなら問題ないだろう
ということで、俺はとりあえず今日のところは孤児院を後にするこ
とにしたのだった。
◇◆◇◆◇
477
﹁⋮⋮おかえ、っ⋮⋮!?﹂
帰宅して扉を開き、そして中に入ると、ソファに寝転がって本を
読んでいるロレーヌの姿が目に入った。
彼女も扉の開く音で俺が戻って来たことに気づいたようで、ゆっ
くりとこちらに目を向け、出迎えの挨拶をしようとしたようだが、
その前に何かが目に入ってしまったらしく、息を呑む。
それから、少し深呼吸をして、改めて彼女は俺に尋ねてきた。
﹁⋮⋮その肩に乗ってる小太りの黒い鼠はなんだ、と聞いてもいい
か? 幻覚ではなさそうなんでな﹂
どうやら幻覚を見るようなことを先ほどまでしていたらしい。
改めて少し匂いを嗅いでみると、何か部屋にヤバそうな薬品の香
りが満ちていた。
換気くらいしろ、と思って窓を黙って開け、それからロレーヌの
正面の位置に戻って、言った。
﹁こじいんのちかで、なかまになった。きょうからせわになる⋮⋮﹂
﹁⋮⋮端折りすぎだ、と言っても許されると思うんだが、どう思う
?﹂
﹁そうだな⋮⋮﹂
確かにその通りだ。
俺は仕方なく、孤児院であったことを色々と説明した。
すべてを聞いたロレーヌは、
478
﹁⋮⋮まぁ、そんな依頼を受けたのはお前らしいが、しかし︽タラ
スクの沼︾か。私でも厳しいぞ、あそこは。大丈夫なのか?﹂
﹁いろいろと、たいさくはかんがえてある。もんだいない﹂
﹁お前がそう言うなら、問題ないんだろうが⋮⋮心配だな。ま、今
更言うことでもないか。しかし、それにしても⋮⋮眷属化か。そん
しき
なことも出来たんだな。色々と実験はしたが、確かにお前の血を他
の生き物に呑ませるようなことはまだ、していなかったし﹂
ヴァンパイア
まだ、というのに若干引っかからなくもないが、いくら俺が屍鬼
で、吸血鬼の下位種族とは言っても、一般的には眷属を作ることは
出来ない、とされている存在である。
いきなり眷属化が出来るかどうか実験してみよう、とはならなか
ったのだろう。
ロレーヌもまず、基本的には俺の健康と言うか、存在をちゃんと
維持し続けられるのかどうかを主眼に置いて色々と試していたよう
だし、枝葉末節の能力については後回しにしていたらしい。
﹁⋮⋮かってもいいか?﹂
﹁好きにしろ。それこそ今更な話だ。この家は不死者が住んでいる
のだぞ。鼠の一匹や二匹増えたところで問題あるまい。家賃はもら
うがな﹂
﹁やちん?﹂
﹁その鼠の血と毛をサンプルにくれ。いろいろと試したいことがあ
る。もちろん、十分に健康を保てる量で構わない⋮⋮それと、ふと
思ったのだが餌は何になるんだ?﹂
479
プチ・スリ
プチ・スリ
そう言いながら、ロレーヌの手が俺の肩に乗っかっている小鼠に
伸びる。
すると、小鼠はすんすんとロレーヌの指先を嗅ぎ、それから、
﹁あだっ﹂
軽く噛み付いた。
そして、血がにじんだロレーヌの指をぺろぺろと舐める。
﹁⋮⋮なるほど、親と同じか? 全く⋮⋮﹂
呆れたような顔をしたロレーヌだが、
﹁まぁ、分かりやすくていいかもな。それにしても私の血は大人気
だ⋮⋮﹂
冗談なのか本気なのかそんなことを言う。
ただ、機嫌は良さそうなので、まぁ、いいだろう。
プチ・スリ
それが、これから行うことの出来る実験に対する高揚なのかもし
プチ・スリ
れないとしても、それを味わうのは俺ではなく小鼠の方だし⋮⋮。
そう考えると、小鼠から、勘弁してくれ、という意思が伝わって
くるが、こればっかりは俺にもどうしようもない。
プチ・スリ
以前、俺も同じようなことをされているんだから耐えろ、と意思
を返すと、小鼠からはがっくりとした感覚が伝わってきたのだった。
480
第69話 銅級冒険者レントと朝方
日が変わる。
朝日が遠くから昇ってきて、窓から見えるマルトの街を徐々に照
らしていく。
紫色だった雲の色が、赤くなり、そして世界が色づいてくると、
今日が始まる。
毎日見ている風景だ。
珍しくもなんともないが、しかし、この体になる前はそんなもの
しき
を見ることはよほど早起きが必要な依頼を受けない限りはなかった。
今の屍鬼の体は、どういうわけなのかさして睡眠がいらない。
全くとれないというわけではないのだが、必ずしも必要不可欠と
いう訳ではなさそうなことは自分の体のことだ。
なんとなく分かる。
つまり、真夜中から朝にかけては酷く退屈な時間で、外を見てい
るか、灯りをとって本を読んでいるくらいしかなかった。
依頼を受けてずっと働き続ける、という選択肢も少しだけ考えな
いでもなかったが、そんな冒険者がいたらいくらなんでも怪しいだ
ろう。
そもそもが休みを一切取らずに出来るような仕事ではない。
どれだけ勤勉な冒険者でも、たまには体を休めないと必ず体調を
崩す。
だから、その選択肢をとるわけにはいかなかった。
お陰で、俺は前にも増して勉強家になれたわけだが、まだ初めて
一月も経っていない。
ロレーヌに比べたら、天と地だ。
481
まぁ、色々と気になったことを尋ねれば、打てば響くように答え
が返ってくるのでいいのだけど。
プチ・スリ
ちなみに、そんな俺と比べて今日連れ帰って来た小鼠はしっかり
と睡眠が必要らしかった。
俺が使わせてもらってる机の上にひっくり返って腹を見せながら
眠っている。
一応、主を名乗ってもいいだろう俺が真夜中の静まり返った時間
に孤独に耐えているというのに、こいつだけ気持ちよく寝ているの
はなんとなく腹立たしいところだ。
眷属になったのだから、俺と同じようになるべきではないのか?
そう思うが、現実はこうである。
まったく。
まぁ、意思がある程度伝わっている、感覚も少し理解できる、と
は言っても、完全につながっているという訳ではないのかもしれな
い。
こればっかりは、時間をかけて色々検証していかなければわから
ないことだろう。
俺個人としてはさしてそこら辺を頑張るつもりはないが、ロレー
ヌが適度にやってくれると思われる。
人任せで申し訳ない限りだが、俺はとにかく第一に存在進化なの
で仕方がない。 それすらも行き詰ってしまっている今、暇人だろうと言われかね
ないのだとしても。
そんな益体もないことを考えながら、街の人々が目を覚まし、動
き出すのを待っていると、ふと、鼻腔をくすぐる匂いが漂ってくる
のを感じた。
どこからだ、外からか?
と思うも、夜、ロレーヌが眠るときに戸締りは全部しっかりした
482
はずである。
では⋮⋮。
注意深く感覚を研ぎ澄ませてみれば、それは家の台所の方からで、
プチ・スリ
俺はそちらに向かって歩いていく。
机で寝ている小鼠については放置でいいだろう。
起きればたぶん繋がりを通じてわかるからな。
そして、台所に辿り着くと、そこには非常に珍しい光景があった。
﹁⋮⋮きょうは、ゆきがふる、か?﹂
俺がそう言うと、
﹁馬鹿なことをいうな。私だって料理くらい、やろうと思えば普通
に出来るんだぞ﹂
そう答えたのは、当然、ロレーヌである。
彼女が台所で料理していた。
数々の調理用魔道具を器用に扱い、手慣れた様子で作り上げてい
く。
いつもならこの時間は爆睡しているくせに、珍しいこともあるも
のだ、と深く思ったが、別に彼女が料理できることは不思議じゃな
い。
というか、かつて俺が教え、一通り身に付けているのを確認して
いる。
そして気が向いた時にたまに作ることもあった。
今日がまさに、その気が向いた時、というわけだろう。
﹁⋮⋮おれのぶんもあるのか?﹂
483
血さえあれば問題がない俺だが、食事もたまにとっているのだ。
だからこその質問だった。 ロレーヌは、
﹁あぁ。作っているから、お前は座っていろ⋮⋮そろそろ完成する
からな﹂
そう言った。
彼女の腕に不安はないし、出してくれると言うのなら食べること
に問題はない。
俺は素直に言われた通り、台所を後にして、食卓へと向かった。
◇◆◇◆◇
﹁さぁ、食べるといい﹂
そう言って食卓に並べられたのは、この地方の伝統的な朝ごはん
である。
黒パンに牛乳、煮込み料理。
そんなものである。
オーク
先ほど作っていたのは煮込み料理だろう。
俺がとってきて保存してあった豚鬼の肉や、豆類、根菜類がしっ
かりとした出汁に浸かって煮込まれたと思しきそれは、匂いだけで
しき
食欲をそそった。
屍鬼であるから、腹はさほど膨れないだろうが、味覚がなくなっ
グール
たわけではないのだ。
屍食鬼だったときはあいまいでぼんやりしていたが、今は記憶が
確かならばしっかりと生きていたときと遜色ない程度に味を感じら
れるようになっている。
484
ただ、一つ以前と違うところを上げるのならば、血液の味がもっ
とも美味しく感じられるという所だろうが、些末なことだ。
俺は、ロレーヌの手製料理を前に、一応、決まり事として神に祈
りを捧げてから、カトラリーに手を付けて食事を始める。
アンデッド
﹁⋮⋮不死者が食事時とは言え神に祈るのはなんだか微妙な感じが
するな﹂
アンデッド
とロレーヌがつぶやいていたが、そんなのは俺が一番矛盾を感じ
ているところだ。
宗派にもよるが、有名どころは大体不死者について神の敵対者と
か、背教者として扱っているからな。
絶対に神には祈らない存在だと考えているに違いない。
﹁⋮⋮いちど、しゃれできょうかいにいのりをささげにいってみよ
うかな?﹂
アンデッド
﹁それは冒涜ではないのか? いや、不死者になっても神に祈りを
捧げたと言うことで、むしろ改心したということになるのかな?﹂
ふざけた話に真面目に考察してくれたロレーヌである。
実際、改心も何も、一度たりとも神に反抗心を示したことは無い
のだが、宗教施設に行ってみたらどうなるかは本当に気になる。
あの孤児院は東天教の教会に付設されていることだし、となりに
行ってみればまさに神様が祀られているはずだから、行ってみれば
よかったな、と今更後悔する。
まぁ、あれだけ教会の近くにいて何も感じなかったのだから、行
ったところで何もなさそうではあるが。
485
それにしても、と思う。
口に運んでいる料理が妙にうまい。
いや、ロレーヌがもともと料理が下手だ、ということは全くない。
むしろ美味い方だと思うのだが、前に食べた時と比べても格段に
美味しいような⋮⋮。
そんな表情を俺がしていることに気づいたのだろう。
ロレーヌがなにか勝ち誇ったかのように笑って、
﹁お、気づいたか。やはり、うまいか?﹂
と尋ねてきた。
意味が分からず、
﹁どういうことだ?﹂
と尋ねると、ロレーヌは、
﹁いや、お前の分には最後に血を一滴混ぜておいたのだ。調味料と
いう訳ではないが、そうすればお前でも美味しく料理を食べられる
のではないかと思ってな⋮⋮﹂
と説明してくれた。
なるほど、と思う。
それはまさに俺にうってつけの料理だが、少し問題があるのでは
ないかと思い、尋ねる。
﹁⋮⋮それでは、ろれーぬのぶんまで、けつえきいりに⋮⋮﹂
煮込み料理である。
486
必然的にそうなってしまう、と思ったのだが、ロレーヌは、
﹁流石に自分のものとはいえ、人間の血液入りの煮込みは食べる気
にはならないぞ。安心しろ。お前の食べる分だけ、別の鍋に移して
から改めて血を入れたんだ⋮⋮まぁ、それでも何か魔女的なことを
やっているような気分にはなったけどな﹂
そう説明した。
たしかにそれなら、料理も無駄にならなくていい。
しかし、魔女的なことか。
血を料理に入れる、なんて普通はやらない。
そう言う気分になるのは理解できる。
ロレーヌはそれに加えて、
﹁まぁ、私はやらないが、昔の魔女の占いに感化されてかそんなこ
とを人間相手にする娘もいるらしいからな⋮⋮男は大変だな﹂
と恐ろしいことを言う。
流石に冗談だと思ったが、ロレーヌの目は本気で、
﹁⋮⋮いつやるんだ﹂
と尋ねると、
﹁ほれ、あれだ。女が男にプロポーズしても許される聖人の誕生日
があっただろう? あのときに、食事を振る舞うのがしきたりだが、
ああいうときに、な﹂
確かにそういうイベントはある。
俺にはまったく縁がないから気にしたことは無いが、それで結婚
487
したという冒険者仲間はたまに聞いたことがあった。
それをロレーヌに言うと、
ヴァンパイア
﹁呪いが効いた、ということもあったのかもしれんな⋮⋮吸血鬼が
眷属を作る様に、人の女は男を従えるわけか。ある意味間違ってい
ない﹂
と納得したような顔をして、そのまま食事を続けたのだった。
488
第70話 銅級冒険者レントと名前
﹁気をつけていってくるんだぞ﹂
家を出る前にロレーヌがそう言った。
言われて、そう言えば、今日の朝食に出たあの煮込みは、この地
方で先々の幸運を願うという意味も含まれているものだったか、と
いうのを思い出す。
だから珍しく早起きをして作ってくれたのかもしれない。
︽タラスクの沼︾は、それだけ危険なところだ。
﹁⋮⋮たいしたしんぱいは、いらないさ。きけんなら、おれはすぐ
にげるからな⋮⋮﹂
﹁龍に一度食われておいてその台詞は信用ならんぞ⋮⋮ま、それに
ついてはそもそも運が悪すぎたんだろうがな。あぁ、それと、そっ
ちの鼠もな⋮⋮なぁ、ふと思ったんだが、名前とかつけなくていい
のか?﹂
プチ・スリ
ロレーヌが俺の眷属となった小鼠に手を伸ばしながら、そう呟く。
言われてみてはじめて意識したが、たしかに名前は必要だなと思
う。
考えていなかったのは、魔物であるため、ペットのように扱う感
プチ・スリ
覚が希薄だったからかもしれない。
ずっと小鼠と呼ぶのも他のものと混同して面倒な気もするし、ち
ょうどいいから今付けるか。
﹁⋮⋮くろいから、くろ、でいいんじゃないか?﹂
489
適当に思いついた名前を言うと、ロレーヌは顔をしかめる。
﹁もう少しひねったらどうなんだ? いくらなんでも⋮⋮﹂
﹁そういわれてもな⋮⋮﹂
長い間、自分の夢だけを追って冒険者稼業を続けてきた俺だ。
当然、子供などいるはずもなく、人に名前を付けたことなどある
はずがなかった。
小さいころも特にペットなど飼ってはいなかったし⋮⋮。
﹁仕方がないな。では私が付けてやろう⋮⋮そうだな、エーデルと
いうのはどうだ?﹂
エーデル。
まぁ、別に全然それで構わないが⋮⋮。
﹁どこから。おもいついたんだ?﹂
プチ・スリ
気になって俺が尋ねると、ロレーヌは答えた。
プチ・スリ
高貴なる者
を意味するエーデルがいい
﹁その小鼠は他の小鼠をまるで王か貴族のように従えていたのだろ
う? だから、古代語で
と思ったのだが⋮⋮﹂
﹁こうきなるもの⋮⋮﹂
貴族と言うよりかは親分という感じで、高貴と言うよりは威張る
虚飾の王という雰囲気だったが⋮⋮。
490
プチ・スリ
そう考えると、肩に乗った小鼠からは、心外な!という意思が伝
わってくる。
違うのだろうか?
別に間違っていない気がするが⋮⋮まぁいいか。
ロレーヌは続ける。
﹁他にもその体型から、ふとっちょを意味するモッペルとか、大食
いを意味するフレッサーなどでもいいが﹂
プチ・スリ
ほんの数秒で随分と色々考えたものだな、と思うが由来があまり
にも食欲に寄りすぎている。
先ほど、俺が作ってもらった血液入りの煮込みを小鼠にもやった
結果、目にもとまらぬ速さでがつがつと食べていたことからロレー
ヌの印象に残ってしまったのかもしれない。
プチ・スリ
俺としてはどんな名前でも困らないので、どれでもいいなと思っ
て聞いていたのだが、小鼠からは、最初のにしろという強烈な意思
が伝わってくる。
俺の眷属の癖に自己主張が強すぎるんじゃないか?
もうモッペルで⋮⋮と一瞬思わないでもなかったが、まぁ、そこ
まで意地悪な人間でもないのだ。
いや、人間ではないのだが。
俺は言う。
﹁⋮⋮えーでる、でいこう。ほかのはさすがにな﹂
俺の言葉にロレーヌは少し残念そうにしながら、
﹁そうか? モッペルやフレッサ︱も悪くはないと思うのだがな⋮
⋮﹂
491
と言う。
意外と気に入っていたのかもしれない。
しかし、俺は、
﹁ほんにん⋮⋮ほんねずみ? が、えーでる、がいいといってるか
らな。こいつのいしが、ゆうせんだろう﹂
﹁あぁ⋮⋮そう言えば、お前とその鼠は簡単な意思疎通は言葉にし
なくても出来るんだったな。なるほど、お前はエーデルが気に入っ
たわけだ。そういうことなら仕方あるまい。今日からお前はエーデ
ルだ。名付け親は私だからな? 忘れるんじゃないぞ﹂
ロレーヌはそう言って、エーデルの頭を撫でる。
それから、俺は改めてロレーヌに、行ってくるといい、家を出た
のだった。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮おい、ついたぞ﹂
御者のそんな声と共に、馬車が止まったのを認識し、俺は馬車を
降りる。
肩にはエーデルが乗せた状態でだ。
俺が降りて、目的地をなんとなく見つめていると、御者から声が
かかる。
﹁⋮⋮ここからそこを下って少し歩けば︽タラスクの沼︾だが⋮⋮
大丈夫か? あそこはソロで挑むようなところじゃねぇぞ?﹂
それは心配げな台詞で、確かにその言葉は正しい。
492
俺も、しっかりと人間だった時なら、わざわざ一人でこんなとこ
ろを探索しようなどとはあまり考えなかったことだろう。
止むに止まれぬ事情があったとしても、ソロはやめておいて、何
人か知り合いの冒険者を誘って臨時パーティでも作ったはずだ。
しかし、今回、俺はそれをしていない。
理由はいくつかあるが⋮⋮とにかく、
﹁べつに、たらすくとたたかうつもりはないんだ。ちょっといって、
かえってくるつもりで⋮⋮だから、しんぱいは、いらない﹂
そう言った。
男はそれでも心配げな表情を崩さなかったが、しかしこれ以上言
っても無駄だ、と思ったのだろう。
呆れたような雰囲気で、
﹁⋮⋮ま、冒険者ってやつはみんなそんなもんか。何があっても自
己責任の世界だ⋮⋮ただな、命は大事にしろよ? やばいときは無
理しないで戻って来い﹂
と優しい台詞をかけてくれる。
ここまで言ってくれるのは随分と珍しいことだ。
俺のそんな考えに気づいたのか、男は、
﹁最近、新人が迷宮で行方不明になっているからな⋮⋮昨日会った
奴が今日いないってのは寂しいもんだ⋮⋮だから、な。ま、ちょっ
と感傷的になっちまったのかもしれねぇ。いろいろ言ったが、頑張
れ。俺はまた、夕方くらいにここに来るから、そのときまでにはこ
こにいろよ。流石にこれ以上︽タラスクの沼︾には近づけないんで
な。じゃあ、また﹂
493
そう言って馬に鞭を入れ、走り去っていく。
︽タラスクの沼︾に来る冒険者は少ない。
馬車も日に二度、朝と夕方に通るだけだ。
それを逃すとこの周辺で野宿する羽目になるので、時間について
は気にしておこう、と思った俺だった。
それから、俺は御者の男の言った通り、坂道を下っていった。
◇◆◇◆◇
︽タラスクの沼︾。
それは、一般的に都市マルトより、馬車で数時間、北東に進んだ
ところにある沼沢地帯のことを指す。
本当は別の正式名称があるようだが、そちらの方は誰も呼ばずに、
皆、︽タラスクの沼︾と呼ぶのは、そこに住む存在があまりにも強
大で有名だからだろう。
タラスク、と呼ばれるそれは、亜竜族の一種であり、亀のような
甲羅と三対六本の足と強力な毒を持つ、恐るべき魔物だ。
甲羅や鱗、それに毒を生産する毒腺は、武具の素材として非常に
珍重されているが、討伐には銀級でも上位クラスの冒険者が必要で
あるとされており、しかも確実にというのであれば複数いなければ
厳しいと言われる。
つまり、銅級冒険者でしかない俺にとっては、絶対に遭遇しては
ならない魔物だ、という訳だ。
遭えば即死⋮⋮とまでは言わないまでも、相当の窮地に陥るだろ
うことは確実で、それがゆえ、俺は基本的にここの探索は慎重に行
い、タラスクとの遭遇を出来る限り避ける方向で頑張るつもりでい
る。
もちろん、タラスクの他にも数多くの魔物が生息しているところ
なので、そう言った存在にも気を付けなければならず、ここの攻略
494
は困難を極める。
それで報酬は銅貨一枚なのだから、まったく割には合わない。
が、たまにはこういう仕事もいいだろう。
うまくやればここに生息する魔物や、植物など、高く売れる素材
が手に入る可能性もある。
あまり冒険者も好んで来るところではないので、そういったもの
の需要は比較的ある。
それに、いざとなったら逃げかえってもいいだろう。
褒められたことではないが、死ぬよりはずっといいしな。
ちょうどここに良い囮もいることだし⋮⋮と肩を見ると、エーデ
ルから威嚇された。
そんなものにはならないということらしい。
お前、俺の眷族だろ、主のために命を張ってくれよ、と思ったの
だが、そこまでの忠誠心は期待できないらしい。
⋮⋮ま、いいか。
そう考えて、俺は︽タラスクの沼︾に足を踏み入れる。
タラスクに遭わないといいなぁ、と思いながら。
495
第71話 銅級冒険者レントとタラスクの沼の住人達
︽タラスクの沼︾の何が危険かと言えば、もちろんその主である
魔物タラスクが一番に挙げられるだろうが、他にも危険はある。
まず、この沼沢地帯の沼や湖の多くは、常に毒性を帯びていて、
そこから噴き出す瘴毒もあって、歩き回ることそれ自体がすでに危
険なのだ。
それでもここを攻略したい場合には、まず毒に侵された空気を吸
わないで済む手段が必要になってくる。
たとえば、毒への耐性を得られる魔道具とか、常に周囲を浄化し
続けられる聖気使いなどだ。
その上で、湿った土から毒の侵入を防ぐ装備やら準備も必要にな
るだろう。
さらに、毒素の豊富な環境は、ここに住む魔物たちの生態をも変
えてしまっている。
スライムは毒を帯びたポイズンスライムに、ゴブリンは毒を有効
活用した武具を手に持っていて、沼を泳ぐシースネークもまたいず
れも強力な毒をその身に蓄えて襲い掛かってくる。
これだけで分かる。
この︽タラスクの沼︾の攻略が、相当に面倒くさいものだという
ことが。
それに加えてタラスクと言う魔物が闊歩しているというのだから、
もう誰も来たくないと思っても当然だろう。
確かに有用な素材はたくさんあるし、需要も高いのだが、命の方
がずっと大事だ。
俺だって、まぁ、来ないで済むなら来たくない。
が、他の冒険者程の忌避感はないと言ってもいいだろう。
496
というのは、今の俺の状態からすると、この︽タラスクの沼︾は
それほど障害の大きな狩場ではないからだ。
アンデッド
人の身だった時は絶対に足を踏み入れたくはなかったが、今の俺
は不死者だ。
毒につかろうが瘴毒が漂ってようが、何の問題も生じない。
しっかりとどのような毒であろうとも通用しないことは調べてあ
るし、そうである以上、この︽タラスクの沼︾の障害の八割は取り
払われたようなものだ。
魔物たちの持つ毒もどれも一切効かないため、普通の魔物と何も
変わらない、ということになる。
それに加えて、仮に効くとしても、俺には聖気がある。
毒の浄化能力があるわけだ。
これによって周囲を正常に保てる以上、やはり毒は問題にならな
い。
肩に乗っかっているエーデルがどの程度、毒に対しての耐性を持
っているか、あるいは持っていないかは未知数だが、俺の眷族にな
った以上、俺の特性をある程度受け継いでいるだろう。
仮にそうでないとしても、聖気でその都度浄化が可能なので、や
はり問題ない。
もともと地下室に住んでいただけあって、汚れた空間にも特に抵
抗はないだろう。
もちろん、家に連れてくる際には浄化したので綺麗だけどな。
ここで毒で汚れても馬車に乗る前に聖気で浄化すれば問題ない。
そこまで考えて、俺は︽タラスクの沼︾へと足を踏み入れた。
◆◇◆◇◆
︽タラスク︾の沼の地面は、ゆるゆるとした湿地帯が大半で、歩
くのに相当難儀する場所だ。
497
しかも、目では確認できないが、たまに落とし穴のようになって
いる場所もあり、そうそう素早く走り抜けると言うわけにもいかな
い。
それに︱︱。
﹁⋮⋮っ!?﹂
横合いから、矢が飛んできたので俺は剣を握ってそれを落とす。
﹁⋮⋮ヂュッ!﹂
肩に乗ったエーデルがその矢の来た方向を示すように顔を向ける。
飛んで来た方向を見ると、そこには弓を握ったゴブリンがいて、
こちらを見ていた。
しかし近づいてくる様子もないのでどうしたのかと思っていると、
今度は別の方向からまた、矢が飛んできた。
それもまた、俺は剣で叩き落とし、矢の飛んで来た方向を見るが、
やはりそこにもまた、ゴブリンがいた。
これは︱︱と思って周囲を確認してみると、まずいことに気づく。
いつの間にやらゴブリンの集団が俺を囲んでいるのだ。
十体ほどだろうか。
どこから現れたのか⋮⋮と思ってしばらく周囲をけん制しながら
観察していると、ごぼごぼと音を立てて地面からゴブリンが生えて
きた。
なるほど、この湿地帯の各地に存在する穴のような場所に体を潜
めて待っていたわけか。
空気はどうしたのか⋮⋮気になって生えてきたゴブリンを見れば、
その口には細長い棒状のものが咥えられている。
あれを僅かに地上に出して空気を吸っていたのだろう、と分かっ
498
た。
湿地帯だけあって、そこかしこに草が生えており、その間に多少
なにかがあったとしてもすぐには気づけない。
歩くのに難儀して集中力も若干散漫になっていたらしい自分にい
らつきつつも、ここでやられてやるわけにもいかないため、俺は彼
らを倒すべく動く。
腹の立つことに、まるで近づいてこず、弓を撃って来ることしか
しない彼らである。
まぁ、戦術としては正しいだろう。
俺程度の実力の者相手にここまで警戒する必要があるのか、とい
う気もするが、ゴブリンくらいなら近くにいてももう、簡単に屠れ
るような実力はついている。
やはり、正しいなと思いつつ、俺は足に気を込め、歩きにくい湿
地に足が沈まない内に、力を込めて走り出した。
当然ながら、平地を歩くより遥かに機動力が落ちるが、それでも
ゴブリンたちの鈍い動きよりはかなりマシである。
彼らは俺が近づいてくるのをあわあわと慌てて見て、それから急
いで逃げ始めた。
向かってくる度胸はないのか、と思うが、ゴブリンというのはあ
あいうものだ。
ある意味、昔の俺に最も近い性格をしている魔物である。
つまり、勝てそうもない、と思ったらさっさと逃げるわけだ。
それは間違いなく正しい戦い方である。
死んだら終わりだからな。
しかし、俺は彼らを逃がすつもりなどない。
ゴブリンも、必ずしも全てが悪と言うわけではない。
中には人に対して協力的、平和的なものがいて、そういうものは
亜人として扱われて普通に生きている。
499
しかし、ここのゴブリンは、あんな方法で人を狙っているのだ。
人にとって良い存在ではないだろう。
彼らも生きているのであって、人の勝手でどうこうするのは深く
考えてみるとどうなのだろうなという気もしなくもないが、俺だっ
て死にたくないし、ここで見逃した結果、誰かが被害に遭うのは避
けたい。
彼らが人と敵対する道を選んだ以上、殺し合いは避けることは出
来ないのだった。
そうして、ゴブリンの前に辿り着くと、俺は剣を振るう。
強さとしては、︽水月の迷宮︾に出てくるゴブリンよりは若干身
体能力は高そう、と言う感じだろうか。
この湿地帯の水の中に毒を気にせず身を隠せる辺り、そう言った
耐性も通常のものよりも高いだろう。
しかし、それだけである。
地形を利用した、弓による遠距離の戦法に慣れてしまったためか、
近接戦闘能力の方はほとんど磨いてこなかったらしい。
俺の剣の一撃の前に、一匹、また一匹と屠られていき、そしてほ
どなくしてその場にいた十匹ほどのゴブリンはその全てが絶命した
のだった。
俺は周囲に魔物がいないことを確認してから、絶命したゴブリン
たちから魔石を回収する。
大した質のものではないが、これでも金になるのは間違いない。
ゴブリン自体の皮などについては何か用途があるわけではないの
で、ナイフで切り裂き心臓の横から魔石を奪ったら野ざらしである。
別にいいのだ。
放置しておいても、ここに住む魔物や生き物たちがそのうち綺麗
に平らげてくれるだろうから。
500
それにしても、エーデルはまるで働かなかったな⋮⋮。
最初に矢の来た方向を教えてくれたくらいである。
こいつ、俺の眷属としての意識はあるのだろうか?
次はちゃんと働けよ、と意思を伝えると、その必要があったらね、
と返答された。
⋮⋮こいつ、自分の方が主だと思ってるんじゃないだろうな?
そんな疑問が浮かばないでもなかった。
501
第72話 銅級冒険者レントと沼の中
あまり人が好んで来ることの少ない場所とは言え、ここにしか生
息していない植物や生き物も多数いる以上、ある程度は人が入れる
ように整備されているところもある。
たとえば、沼沢地帯であるために向こう岸に渡りたいが大きな沼
が断絶として存在している場合には、橋が架かっていたりとかもす
る。
まぁ、当たり前と言えば当たり前だろう。
なにせ、俺のように毒については完全に無効である人間など、ま
ずいない。
毒々しい色に染まった沼の中を泳いで渡りたいと考える者が皆無
である以上、橋はどうしても必要だろう。
俺だって、浸からないで済むのなら浸かりたくない。
つまり、橋があるなら普通に利用するわけだ。
ただ、一つ問題があるとすれば。
︱︱ギシギシ。
と、一歩進むごとにあまり聞きたくない音が聞こえることだろう
か。
橋の材質は場所によっていろいろだが、そのほとんどが木造だ。
作りやすいと言うのがその素材が選ばれる最大の理由だろうが、
そもそもこんなところまで金属を持ってきて橋にすることは難しい
だろう。
冒険者を何人も雇って、かなり長い期間かけないとそんなことは
できないからな。
502
必然、しょぼい作りの木造の橋が多くなる。
木々なら一応、そこら中に生えているし、こんな毒沼だらけの場
所でも元気に生きている植物たちなのだ。
沼に橋としてかけても、普通の木を使うよりかはずっと耐えてく
れる。
しかし、そうはいっても所詮は木造。
しかも手抜きという訳ではないが、簡易的な作りのものに過ぎな
い。
劣化は結構な速度で進み、そしていずれは沼に飲み込まれていく。
俺の今渡っている橋も、まさにそんな状況で⋮⋮。
︱︱バキッ!
と音がした時点で、俺もなんとなく覚悟した。
いや、覚悟が足りなかったので、つい急いで走ってしまったのだ。
それは冷静に考えれば間違った選択だっただろう。
しき
橋に大きな負担をかけ、薄っぺらい床板を踏み抜いてしまった。
そもそも屍鬼として人間とはかけ離れた身体能力を得るに至って
いるのだ。
思い切り足に力を入れて踏み切れば、そうなるのは目に見えてい
たとも言える。
つまり、俺の足は見事に木造橋の床板に嵌り、そしてそんな俺の
目に見えたのは、橋が中心から見事に、くの字に曲がって折れて沈
んでいく様だった。
さらに言うと、エーデルが俺の肩から離れ、沈みかけた橋を急い
で渡り、そして対岸に辿り着く様子も。
︱︱裏切りやがったな。
503
そう思ったが、まぁ、あの黒鼠の毒に対する耐性は未だ明らかで
ない。
毒沼などに沈んだら俺と違ってなにか問題があるかもしれないし、
許すことにした。
そうしてごぼごぼと沼の中へと橋と共に沈んでいった俺なのだが、
アンデッド
まるきり息は苦しくなく、何の問題もなかった。
不死者だから、ということなのか、息は吸わずとも特に構わない
らしい。
一応地上にいるときは呼吸はしているんだが⋮⋮。
なにせ、呼吸しないというのは怪しい。
まぁ、人間だったころの癖なのか、意識しなくても普通に息はし
てしまうのだが。
ただ、沼の中に入っても特に何も問題ないと言うのは改めてこの
体の便利さを感じる。
ミスリル
見た目の不気味さにさえ目をつぶれば、もう一生このまんまでも
いいんじゃないかなという気すらしてくる。
結婚とかは出来なさそうだが、俺はその前に神銀級冒険者になる
と言う夢がある。
もともとする気もなく出来る気もしなかったものなので別に構わ
ないだろう。
ちょっとこういうときに考えてしまう辺り、もしかしたら心の底
では諦めたくはないのかもしれないが。
︽タラスクの沼︾にある毒沼の中は、まるで生き物が生息できな
さそうに思える。
なにせ、通常の生き物が浸かれば即座に肌の色が紫色に染まって
五分後には絶命しているようなところもあるくらいなのだ。
504
しかし、俺が落ちたこの沼の中には、しっかりと生き物が息づい
ているようだった。
とても美しい光景だ⋮⋮とはとてもではないが思えないけど。
人の背丈ほどありそうな魚らしき物体が、俺の方に大口を開けて
迫ってくるのだから、それも当然の話だろう。
しかも一匹ではない。
十匹近くいる。
あれに食われたとしても俺は死にはしないだろうし、そもそも俺
の体に喰いでがあるとは思えないから、しばらく黙って耐えていれ
ば去っていくのかもしれないが、俺に未だにある程度残されている
人としての感覚は、あんなものに喰われるのは勘弁だと叫んでいた。
俺は腰の鞘から剣を抜き、迫る大魚たちに構える。
幸い、沈み切って地面に足がついている。
戦うことは出来そうだった。
片方の足が木造橋に引っかかっているため、浮き上がらないよう
に固定も出来ている。
縦横無尽に泳ぎ回ってばっさばっさと切り捨てる、という訳には
いかなそうだが、ここで待ち伏せしつつ潰していく方が簡単そうだ。
事実、直後に突っ込んできた大魚については、剣の一撃で首を落
として倒すことが出来た。
水の中であるので剣がかなり重く感じるが、切れ味に問題はない。
もちろん、地上で振るっている時よりは遥かに落ちているが、魚
の首くらいは気を多めに込める力技で何とかやれる。
ただ、それでも一度に四、五匹の大魚にまとめて来られると対処
も厳しかった。
そもそも体を固定して戦ってしまっているので、全方向に注意を、
という訳にはいかなかったのだ。
505
それに、水の中での機動力も段違いである。
向こうはそのために特化した体を持っているわけだから当然なの
だが、他にやりようがあったのに、もう少し考えればよかった、と
その瞬間思った。
しかし、そんな俺の反省など、大魚たちにとってはどうでもいい
ことらしく、それぞれが俺の体の一部に噛み付いてきた。
正面三方から来た大魚についてはまとめて横薙ぎにして何とかな
った。
しかし、後ろから来た二匹については流石にどうにもならず、足
を噛み付かれ、そしてそのまま水の中を引きまわされることになっ
た。
どうにか外そうと暴れたり、剣をぶんぶん振ってみたのだが、今
一うまくいかない。
万事休すか⋮⋮とまでは思わなかったが、早く外さないと足がと
れる、というくらいの危機感は感じた。
アンデッド
自分の命に対する心配がそれほどないのは、自らの実力に関する
信頼という訳ではなく、この不死者の体の頑丈過ぎるのがよくない
と思う。
首を飛ばされようとも死なない気がする、そしておそらくそれで
正しい、というこの体は、俺から危機感を奪いつつある。
よくないな⋮⋮これは改めなければ、と俺は強く思い、今度こそ
振り払おうと真剣に暴れることにした。
気による強化を一旦やめ、体に聖気を込める。
こちらの方が強化率が高いからだ。
魔気融合術の方がさらに強化率が高いのだが、これはまだもろ刃
の剣と言うか、修行が足りないのでちょっとこういう土壇場で使う
のは怖い。
どうしても、と言う場合でないと、ピンチに使うと言うこともな
いだろう。
506
聖気による強化は、やはり気によるそれよりも強く、水の中での
挙動がかなり楽になる。
足にも力が入る様になり、大魚の口から自分の足を引き抜こうと
力を入れる。
すると、片方の足については外れたが、もう片方については意地
でも離そうとしてくれない。
こんな鶏ガラみたいな足がそんなにうまいのか?
と思わないでもないが、こんなひどい環境に住んでいるのだ。
一旦口にした食べ物らしきものは意地でも離さない本能のような
ものがあるのかもしれなかった。
しかし、そんなことでは困る。
俺は、こんな毒沼の底で朽ちていくつもりなどないのだから。
幸い、片方の足が自由になったお陰で、体の向きは割と自由に変
えられるようになった。
俺は体を捻り、大魚の方を向くと、剣を振り上げる。
今なら問題なく切り払える。
そう思った瞬間、大魚の方も何か察したらしい。
泳ぐ速度を急に上げて、上昇し始め、そして俺をそのままの勢い
のまま、水の外へとぶん投げてくれた。
﹁⋮⋮ぐふっ!﹂
そのまま、俺は渡ろうとしていた向こう岸の地面に叩きつけられ、
情けない声が口からである。
びしょぬれで、ぽたぽたと水が滴っている。
ローブの方は、やはり高性能らしく、あれだけ水に浸かっていた
507
のにもう乾いている。
最初から濡れていなかったのだろうか?
分からないな⋮⋮。
それから、きょろきょろと周囲を見回すと、俺を置き去りにして
くれた眷属の姿が目に入った。
﹁⋮⋮おまえ⋮⋮なんだ、それは?﹂
俺がそう尋ねたのは、黒鼠エーデルが何かを妙に顔の形が変形し
ていたからだ。
引っ捕まえて、無理やり口を開けてみれば、ほっぺたに山と入っ
た木の実の姿が目に入る。
つまり、主を放置して、自分は嗜好品となる食料を確保していた
というわけだ。
こいつは俺よりも血液に依存する部分が少ないのかもしれない。
それにしても⋮⋮なんというか。
ヴァンパイア
忠誠心がないんだよな。
吸血鬼の眷属ってみんなこんなものなのだろうか?
誰かに聞きたいものだ、と思った今日だった。
508
第73話 銅級冒険者レントと鼠眷属の能力
︱︱いつだって希望と言うものは裏切られるものだ。
そう言ったら、少し悲観的に過ぎるだろうか?
しかし、今の俺が置かれている状況を見れば、きっとその感想も
変わるに違いない。
なにせ、俺の目前には今、絶望がいるからだ。
亀のような甲羅に、六本の足、扁平だが頑丈そうな竜の体に、固
い鱗が生えている。
その瞳には知性よりかは野獣性が宿っていて、その目が捕らえよ
うとしているのはただただ自分の腹に収まるべき弱い生き物だけだ。
︱︱タラスク。
この︽タラスクの沼︾の通称の由来となった魔物が、そこにいた。
遭わないで済めばいいなぁ、とあれだけ思っていた相手であるが、
正直なところを言えば遭遇したことにそれほどの驚きはない。
なぜなら、目的の植物︽竜血花︾の群生地はタラスクの生息地に
囲まれるような形で存在しており、見つからずに通り抜けるのは簡
単なことではないと知っていたからだ。
それでも、一応タラスクの生息地を踏まないよう、マーキングの
跡なり他の魔物の現れる数などを注意して見て進んできたのだが、
見事なまでに失敗してしまったらしい。
これは非常にまずいことだ。
509
しかし、こうなったらもう、戦うしかなさそうである。
不幸中の幸いと言うべきか、タラスクの持つ毒については俺には
通用しない。
そのため、普通の魔物と戦って勝てばそれでいいだけだ。
問題は、それだけの実力が俺にあるのかどうかだが⋮⋮。
﹁⋮⋮ぐるあぁぁぁぁぁ!!﹂
耳をつんざくような轟音のようなタラスクの唸り声が鳴り響く。
間違いなく俺を敵として認識しているだろう。
はなはだ不本意だが、戦うしかない⋮⋮。
俺は剣を抜いて、タラスクと相対する。
すると、タラスクは俺に向かって走り出してきた。
タラスクの体は見上げんばかりの巨体であり、人間などあれにぶ
つかれば一瞬にして弾き飛ばされるか潰されるかの二択である。
当然、俺はそのどちらの結末も選ぶつもりはなかった。
タラスクの突進を直前まで引きつける。
タラスクは亀のような甲羅を持ち、そこから長い首を上に伸ばし
ている魔物だ。
倒そうと思ったら、色々な方法が考えられるが、剣士が取れる方
法は大体二つに分けられる。
甲羅ごと叩き切るか、首を切り飛ばすかのどちらかだ。
前者については、相当な腕と武器がなければ不可能なことだ。
タラスクの甲羅と言えば、銀級や金級の防具の素材としても使わ
れるものだ。
鍛冶師による加工無しでも相当な強度を誇り、またその厚みも亀
なんかとは比べ物にならない。
それを叩き切ることは、俺には極めて難しいだろう。
まぁ、魔力、気、聖気すべてを複合したあの技術であれば、もし
510
かしたらいけるのかもしれないが、いけなかったときのことを考え
るとおいそれとはやる気にはならない。
この状態で武器を失ったらそれこそ終わりだからだ。
あれは、本当に打つ手ゼロの時以外には選ぶべき方法ではない。
ではどうするか、と言えば、首を切り落とす方向で行くのだ。
俺はそのためにタラスクに向かって飛び上がり、そしてその甲羅
の上に乗った。
そのまま首を後ろから切り落とす。
そのつもりで剣を振ったのだが、
︱︱かぁん!
と、まるで金属に当てたかのような音と共に、剣が弾かれる。
その衝撃でタラスクも背中に乗る俺の存在に気づいたようで、い
きなり横倒しになってごろりとその巨体で転がった。
︱︱ごごぉん!
という地鳴りのような轟音と、タラスクの行動によって噴き上げ
られた湿地の泥が辺りの視界を阻む。
それだけでも脅威だが、俺だからそんなもので済んでいるのであ
って、通常の人間であればこれによって毒の心配もしなければなら
なくなるだろう。
攻防一体の、いやらしい攻撃というわけだが、俺は泥がどれだけ
体に付着しようが問題はない。
視界も、思ったほど阻まれていない、というか、人間の視界で捉
えていたものより多くの情報が得られているらしく、泥で見えない
はずなのに、その向こう側に生き物がいることが分かる。
なんだろうな、これ。
511
理由は分からないが、非常に便利な視界だと言えるだろう。
俺はその視界を信じて、泥の霧と雨の中を突っ切り、タラスクに
向かう。
未だにゴロゴロと転がり、また湿った地面に体を叩きつけている
ため、ここだけ地震が来たかのように揺れていて、かなり行動しに
くいが、それでも俺が標的としているタラスクの首自体は、むしろ
転がっていることにより地面に近い位置に来ている。
タイミングさえ間違えなければ切り落とせるはずだ。
問題があるとすれば、剣の切れ味の方なのだが、ここはもう、使
い時だろう。
何をかって?
そりゃあもちろん⋮⋮。
剣に力を籠める。
魔力⋮⋮そして、気だ。
魔気融合術。
普通に切れないのなら内部から破壊してしまえばいい。
そういうことである。
まぁ、本当に魔気融合術を使いこなしている達人であれば、その
破壊力を一点に集中して切れ味を上昇させることも出来るらしいが、
少なくとも今の俺に出来る技能ではないな。
力任せに爆破である。
さぁ、行くぞ。
剣だけでなく、体にも気を込めて走り出す。
いつもよりも多めに使った気は、俺を素早くタラスクの首の付け
根まで運んだ。 タラスクの動きは未だに停止してはいない。
512
のんびりしているわけにもいかず、即座に剣を振りかぶった。
そして、剣がタラスクの首に命中すると︱︱
轟音と共に、タラスクの首を覆っている鱗が粉々に砕け散った。
︱︱やったか?
一瞬そう思って動きを止めた俺だが、残念ながらこの程度でやら
れるほどタラスクと言うのは軟弱な魔物ではないようだ。
油断しかけた俺に、爪による攻撃が飛んできたのだ。
俺は慌てて避け、それからもう一撃くれてやろうとタラスクの首
を見るが、そのときにはすでにそれは遥か高いところに行ってしま
った後だった。
つまりタラスクは身を起こして戦うことにしたらしい。
俺が人間だったらさっきの方がずっと戦いにくかっただろうが、
今の俺にとっては狙いどころが遠くなるこの戦い方の方が厳しかっ
た。
そもそも、人間だった時はタラスクなんてどうやっても相手にな
んて出来なかったわけだが。
タラスクはその六本足を器用に動かして、俺に迫ってくる。
速度は先ほどほどでないのは、俺をさっき見失って背中に乗せて
しまったことを反省しているからかもしれない。
もしそうだとするなら、やはりタラスクは恐ろしい魔物だろう。
この短い間にしっかりと学び、反省を活かして戦っていることに
なるからだ。
タラスクはどちらかと言えば野性味の強い、本能に従って生きて
いる魔物だと言われているが、理性的な頭脳も巷間で言われている
以上に持っているということなのかもしれない。
俺は、頭のよくないタラスクの方が好きだった⋮⋮。
513
ま、そんなことを言っても仕方ないか。
しかし、ここからどう戦ったものか。
やはり背中に昇って攻撃を加えるのが一番だろうが、それを許し
てくれそうな雰囲気ではないしな。
ここは⋮⋮。
と、考えているといつの間にか肩に乗っていた鼠の姿がなくなっ
ている。
どこに行った⋮⋮と思って少し探してみると、タラスクの足元に
物凄い勢いで走り込んでいた。
おい、潰されるぞ、やめておけ、と思ったのだが、中々どうして、
タラスクの巨体や六本足に踏まれないよう、うまいこと避けて、と
うとうその背中にまで登ってしまった。
意外とやるものだなと思う。
ここに来て、エーデルに初めて感心した。
プチ・スリ
ただ、通常個体よりもかなり太っているとはいえ、所詮は小鼠に
過ぎないエーデルが、タラスクの背中に上ったところでどうなると
いうのか⋮⋮。
そう思っていると、
﹁⋮⋮んなっ!?﹂
体から急に力を吸われたような感覚がし、それからエーデルの体
が輝き始めた。
514
第74話 銅級冒険者レントと吝嗇の招いた不幸
一体何が起こっているのか。
そしてエーデルは何をする気なのか。
何も分からぬまま、俺は目の前の光景をじっと見つめる。
つまりは、エーデルとタラスクを。
エーデルはそして、動き出す。
光を身に纏ったまま、タラスクの首の付け根辺りに突っ込んでい
プチ・スリ
き、そして、俺が先ほど鱗を剥がした部分を狙って体当たりを加え
た。
エーデルはかなり大きい方だとは言え、小鼠の一個体に過ぎない。
つまりは、あの巨大なタラスクに体当たりをかましたところで、
ダメージを与えるどころか衝撃を加えるのも難しいはずだった。
それなのに、直後俺の目の映ったのは、エーデルの体当たりによ
ってタラスクが苦しんでいる姿だった。
﹁⋮⋮グルァァァッァ!!
プチ・スリ
傷ついた場所と再度抉られたことによる苦しみの悲鳴か、それと
もたかだか小鼠に痛みを感じるほどのダメージを与えられたことに
対する怒りの咆哮か。
どちらなのかはタラスク自身にしか分からないことだろうが、と
にかくエーデルの攻撃をタラスクは無視できなかったようだ。
ぶるぶると震えて傷みを堪えつつも、タラスクはその首を鞭のよ
うにしならせてエーデルに襲い掛かる。
その速度は傷を負っているとは思えないほどに素早く、エーデル
515
は避けられずにぶつかり、吹き飛ばされた。
俺は空中に投げ出されたエーデルの軌道を追い、地面に追突する
前にキャッチする。
﹁⋮⋮だいじょうぶか?﹂
捕まえたデブ鼠にそう話しかけると、問題ない、それよりお前も
戦え、という意思が返って来た。
元気そうで何よりだな、と思いつつ、一応聖気で治療をしようと
したが、エーデルに傷は見当たらなかった。
どういうことだ、と思いつつ少し考えると、そう言えば先ほど目
減りした力のことを思い出す。
たしかあれは、魔力でも気でもなく、聖気だったな、と。
どうも、俺から聖気を奪い取った上、攻撃に使い、さらに余った
から自身の治癒まで行った、ということらしかった。
一切指示も出してないし許可も与えていないのだが、と思ったが、
眷属と言うのはこういうものなのかもしれない。
勝手に主から力を奪おうと思えば奪えると。
⋮⋮なんだか搾取されているのは俺の方じゃないか?
という気がしないでもなかったが、
﹁⋮⋮グルあぁぁ! がっがぁ!!﹂
という叫び声が聞こえ、まだ戦闘中だったことをかろうじて思い
出した。
まぁ、ずっと走り回ってはいたのだが。
タラスクは巨体故にあまり小回りが利かない。
直線距離はかなりの速度が出るので完全に撒くのは難しいが、狭
い範囲を逃げ回るのは今の俺には十分可能なことだった。
もちろん、ただひたすらに逃げてもどうにもならないし、いずれ
516
こちらの方が先に体力が尽きるに決まっているので時間稼ぎでしか
ないが、回復のための時間を稼げるというのは十分に意味がある。
エーデルにはその時間もいらなかったみたいだけどな。
しかし、タラスクを見てみるとエーデルの攻撃は大分効いたみた
いで、タラスクの首の動きはかなり不自由になっているようだった。
少し近づいてみると、エーデルが攻撃を加えた部分からは煙のよ
うなものが出ているのが分かる。
別に炎の魔術を放ったとかそういうわけではないのにああいう風
になっているということは、エーデルの体当たりの効果と考えるべ
きだろう。
エーデルの特殊能力か?
⋮⋮いや、そんな風には見えなかった。
光ってはいたけれど、あれはあくまでも聖気の輝きだった。
つまり、聖気による攻撃でタラスクはああなった、と考えるべき
だろう。
いいヒントが得られたな。
タラスクは気や魔力よりも聖気で戦うのが正解、ということだろ
う。
初めからそうすればよかった⋮⋮。
まぁ、実のところここに来る前から少しヒントはあったのだ。
タラスクの生態として、聖水が苦手なのでタラスク避けとして聖
水を持ち、定期的に体に振りかければ向こうの方が避けてくれると
聞いていた。
だから実際俺は聖水を購入して、そのようにしていたのだが、結
果はこれである。
デマだったのだろうと思っていたが、そうではなくて聖水の方が
偽物だったのかもしれない。
︽タラスクの沼︾を目指すにあたって、色々と散財してしまった
517
ので懐具合が寒く、ケチって露店の怪しげな聖水を買ってしまった
のが良くなかったのかもしれない。
そもそも、聖水はどこかの教会に行かないと手に入らないし、高
価なのだ。
この体で教会になどできれば行きたくはないと言う気持ちもあっ
た。
そんな妥協の産物として、露店の聖水⋮⋮。
安物買いの銭失いとはまさにこのことなのであろう。
勉強になった。
もうこうなったら聖水の製法も覚えたいところだが、あれは教会
で秘匿している技術だ。
俺も聖気を水に込めようとしてみたことはあるのだが、ふわっと
した量の力が微妙にこもって、それから十分もしないでただの水に
戻ってしまった時点であきらめた。
やはり何か特別な方法でないと無理なのだなと。
︱︱ガンッ!
と、近くの木がタラスクによって吹き飛ばされる。
あれだけ首を痛めていても体の方は何の問題もないらしく、ひた
すらに俺を追いかけて体当たりをしてくるタラスクのしつこいこと
だ。
さらにそれに加えて毒のブレスも放ってきているが、これについ
ては俺には何の意味もない。
肩のエーデルですら平気な顔をしているくらいだ。
俺たちにとってはただの紫色の生暖かい息でしかない。
むしろ、ブレスを放ってくれるとそこがちょうど隙になった。
もわりとした不快な空気であるが、さほど勢いがないためにその
中を通り抜けてタラスクの近くまで簡単に潜り込めてしまった。
518
タラスクは、そんな俺の行動に驚いたように慌てて後ずさりをす
る。
まぁ、その気持ちは分からないでもない。
こんな攻略方法など出来る奴はそうはいないだろう。
少なくとも人間ならあらゆる毒完全無効の強力な魔道具でも持っ
ていない限り無理だ。
しかし俺はそれを体質のみで乗り越えられる、というわけである。
︱︱今度こそは。
先ほどのように中途半端に戦果を確認したりはせず、絶命を確信
するまでは攻撃を加えよう。
そう思って、俺は剣に聖気を込めた。
剣に込められた聖気は剣からわずかにもれ、周囲に広がる紫色に
染められた空気を浄化していく。
視界が開け、タラスクの首まで剣がたどるべき道筋が見えた。
﹁くらえ⋮⋮っ!﹂
俺は剣を振りかぶり、タラスクの首の付け根、俺が一度、エーデ
ルが一度攻撃を加えた結果、鱗が剥がれ、溶けかけたところにもう
一度ダメ押しの一撃を加えた。
魔気融合術によって攻撃を加えた時は、固く通らなかったタラス
クの肉である。
しかし、聖気のこもった剣で切り付けた感触は、通常の魔物を切
るときと同じものであり、これなら、と俺は深く思う。
もちろん、タラスクの方も、俺に切られまいと身を動かし、どう
にか避けようとしたが、そんなことをここまで来て許したりするは
ずがない。
俺の剣はタラスクの首に深く入り込んでいき︱︱そして、その付
519
け根から切り落としたのだった。
520
第75話 銅級冒険者レントと弱肉強食
轟音を立てながらタラスクの巨体が沈む。
体の方は首を落とされてもしばらく動いていたが、徐々に勢いを
失っていって最後には完全に静止した。
首も首で蛇みたいにのたうち回っていて結構気持ち悪かった。
あのサイズでそれはやめてほしいものだと心底思う。
殺しておいて何を言ってるんだと言う話だが、逃げようとしたの
に追ってきたやつの方が絶対悪い。
俺は謝らないぞ。
ところでタラスクなのだが、こいつも魔物である以上、当然魔石
を持っている。
魔石のある場所は色々あるが、大概は心臓の横にあるのが普通だ。
しかし、タラスクの心臓がどこにあるって、それは当然固い甲羅
の奥底である。
取り出せるはずがない⋮⋮とまでは言わないがそれをやるのは相
当時間がかかるし、ここは皆さんご存知︽タラスクの沼︾のタラス
ク生息地帯である。
間違いなく解体している間に他のタラスクが寄ってくることにな
るだろう。
それは流石に勘弁してもらいたい。
まぁ、もう一匹位なら、弱点の分かった今、なんとか倒せる可能
性はある。
実際に戦ってみてわかったが、俺とは非常に相性のいい相手であ
るようだし、エーデルもそこそこ手伝ってくれそうだし。
しかし問題は、俺の余力だ。
聖気をエーデルが大量に消費してくれた上、俺も俺でタラスクの
521
首を切り落とすのに結構使った。
聖気は魔力や気と比べて保有量が少ないうえ、消費も激しい。
そうそう何度も使えるものではないのだ。
だからこそ温存していたのに、ここではそれが一番の戦い方にな
るのだ。
それは流石にきつい。
つまり、ここにタラスクの死骸をおいて、魔石は諦めるか?
いやいや、そんなことはしない。
したくない。
というか、出来ない。
なぜなら、それやったら完全に赤字だからだ。
もちろん、孤児院で頼まれた銅貨一枚の仕事である。
オ
赤字は最初から分かっていたが、そうではなく、俺はここに来る
前にちょっと身銭を切ったものがあるのだ。
それは何かというと、魔法の袋である。
すでにお前は持っているだろうって?
ーク
確かにそうだが、俺の所有している魔法の袋の容量はせいぜい豚
鬼数体がギリ入るくらいの代物だ。
タラスクなんて巨大な魔物、入るわけがない。
解体して重要な部分だけ持っていく、という方法もないではない
が、ここでの解体はいかんのである。
となると、どこかに持っていくしかないわけで、容量の大きい魔
法の袋がどうしても必要という訳だ。
それを俺はこの︽タラスクの沼︾攻略に当たり、持ってきている
のである。
その理由について、なぜかと聞かれたなら、流石の俺の自分の運
の悪さを最近自覚しつつあるからだ、と答えることになるだろう。
なにせ低ランク向け迷宮の浅層でまさかの伝説クラスの化け物、
522
スケルトン
龍に喰われて骨人なんかになってしまった俺である。
めぐり合わせの悪さはおそらく世界レベルであろう。
そんな俺が︽タラスクの沼︾になんか来たらどうなるか?
そりゃあ、タラスクに遭遇するに決まっている⋮⋮というのはあ
まりにも悲観的すぎる考えだったかもしれないが、きっとそうなる
だろう、と勘が告げていたのだ。
もしかしたら、魔物になったことで危機感知能力みたいなものが
強くなっているのかもしれない。
実際、来てみれば遭遇したわけだし、今の俺の勘は良く当たる可
能性は低くない。
ちなみに、容量大きめの魔法の袋はレンタルである。
当たり前だ。
ギ
買うとしたら家を買うくらいの額を出さないと難しいくらいの代
物だからな。
ただ、借りるだけなら金貨を出せば何とかできる。
ルド
ギルド
そんなことしたら持ち逃げされそうな気もするが、これは冒険者
組合から借りたのだ。
プラチナ
つまり、持ち逃げしたら冒険者組合の手練れたちが総出で取り返
しにやってくる。
場合によっては金級や白金級まで動きかねない。
そうなったらもうどんな国でも生きていくのも厳しい。
だから持ち逃げしようとする奴は滅多にいない。
絶対ではないことが、世の中の闇の深さを物語っているが⋮⋮。
まぁ、そんなわけで、今の俺にはタラスクの運搬手段があるとい
うわけだ。
タラスクを持ち帰れば、魔石を初め、甲羅や鱗など、その素材は
高値で売れる。 したがって、払った金貨の分も十分に補填できる。
523
それどころかむしろかなりの黒字になるだろう。
懐が温かくなり、色々とお買い物が可能になる。
いやぁ、一攫千金素晴らしいな、これだから冒険者はやめられな
い、と深く思う。
⋮⋮十年冒険者をやってきて、こんな一攫千金の機会に遭遇した
のは初めてだけどな。
ジャイアントスケルトン
一応、こないだの骨巨人がいるが、あれの魔石はあげてしまった
し、俺の懐に入った金額はゼロだ。
嬉々として魔法の袋にタラスクを入れる。
もちろん、ずるずると引きずって物理的に中に入れるわけではな
く、魔法の袋の口にタラスクの体の一部をくっつければそれで中に
入ってしまう。
とても便利な設計でありがたく思う。
体だけでなく、首の方も、たしか目玉とか脳とか毒腺とか色々と
使えるため、それなりの金額で引き取ってくれるのでしっかりと回
収する。
それから、周囲にタラスクなど他の魔物がいないことを確認して、
俺は歩き出す。
ちょっとゴブリンがうろうろしているのが見えなくもないが、あ
れは明らかにおこぼれを狙っているな。
タラスクの死体は彼らにとっても重要な素材なのかもしれない。
そう言えばゴブリンの身に着けていた防具なんかはタラスクの鱗
や甲羅のようなものを砕いて乱雑に組み合わせたようなものだった。
︽タラスクの沼︾も一つの生命圏と言うか、沢山の生き物の営み
がそれぞれ複雑に絡み合って形成されているんだなとしみじみ思い、
しかし近づいてきそうなゴブリンに石を拾ってあらん限りの力を入
れて投げ込んで追い払う。
なにせ奴ら、ただ見ているだけならともかく、俺を弓で狙い始め
524
ていた。
結果として複数いるゴブリンのうち、一匹の頭に見事命中し、そ
のゴブリンが崩れ落ちると、蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。
仲間を助けようと言う気概のあるゴブリンは一匹もいないようで、
倒れたゴブリンは受けたダメージに震えつつも置いていかれたこと
に慌てて立ち上がり、逃げたゴブリンの方を一生懸命追いかけてい
った。
心温まる光景に、なんだか先ほどのタラスクとの戦いで削られた
精神が柔らかく復帰していくような感じがした。
かと思えば、先に逃げていったゴブリンたちの前にある池から俺
にさきほど襲い掛かって来た大魚が突然現れて、数体いたゴブリン
の体を上半身ごと持っていった。
生き残ったのは、俺の投げた石のせいで逃げ遅れた一匹だけだ。
︱︱弱肉強食だなぁ。
改めてしみじみ思うも、世の中そんなものである。
目の前で仲間たちが一瞬にして食われた光景を見て呆然としてい
るゴブリンの背中には若干の哀愁を感じないでもなかったが、あの
ゴブリンも自分を見捨てた奴らを機会があっても助けたいとは思わ
なかったかもしれない。
どこから見ても世知辛い話だな。
⋮⋮さて、︽竜血花︾は確かこっちだったな。
一人ぼっちになってしまったゴブリンがとぼとぼと森の中に消え
ていったのを確認してから、俺は踵を返して本来の目的地に向かう。
もちろん、タラスクの生息地帯はまだ出ていないので、警戒はし
ながらだ。
幸い、さっきよりもずっと安全に歩けそうな方法のあても見つか
った。
525
先ほど、タラスクには聖気が効くことは確認したから、聖水の話
もおそらくは本当だろうからだ。
だとするなら、聖気を僅かに垂れ流しながら歩けば多少は遭遇す
る確率も減るのではないか。
そう思った俺は、残った聖気をちびちび放出しつつ、歩き出した。
526
第76話 銅級冒険者レントと竜血花
タラスクの生息地をなんとか抜け、たどり着いたその場所は、息
を呑むほど美しく、一瞬俺は絶句する。
︽タラスクの沼︾、そこは毒と瘴気に侵された泥濘と有毒の植物、
致死性の猛毒を持った生き物たちが支配する場所で、見かけからし
て通常の生き物の侵入を拒む悪夢の地だ。
こんなところに来ようとする者など、頭のいかれた人間か、危険
を恐れぬ冒険者くらいで、普通の人間ならまず、足を踏み入れよう
などとは絶対に考えない。
それほど危険な土地の奥地、最も危険な生物が生息する場所の、
更に奥に、どうしてこんな場所があると想像できるだろう。
そうだ。
そこは、美しかった。
︽タラスクの沼︾などというところに存在しているとは思えない
ような楽園が、そこにはあった。
真っ赤な花が、底まで見える綺麗な水を称えた池の上で、その花
弁を俯くように傾げて群生しているのだ。
それに寄り添うように、いや、女王に傅く兵士たちのように、そ
れらの花の周囲を他の植物たちが守る様に包んでいる。
そんな植物の周りを飛び交う虫や鳥、それにかけまわる獣たちは
穏やかで、見ているだけでここがあの瘴毒の沼地の最奥だとは完全
に忘れてしまいそうだ。
なぜ、ここにこんな空間があるのか。
527
それは、あの赤い花が理由である。 赤い花︱︱つまりは、︽竜血花︾のことだ。
あの花は、強力な環境浄化能力を持つ。
つまり、ここに群生している︽竜血花︾は、この︽タラスクの沼
︾の毒を常に浄化し、それによってこのような空間を形作っている
のだ。
周囲の植物や生き物は、パッと見、︽竜血花︾を守っているかの
ようにその周囲に存在しているが、実際は逆である。
︽竜血花︾の周りだけが、彼らにとって楽園で、ここから出れば
彼らは一時間となく死に絶えてしまうだろう。
ここは一種の楽園であり、そして同時に牢獄なのである。
それが故に、あの鳥や虫、獣たちは非常に希少であり、ここから
持ち帰ればかなり珍重される。
ただ、方法が非常に難しいが。
なにせ、ここの空気は非常に清浄だが、周囲を瘴毒の支配する空
間がまるまる覆っているのだ。
生き物を一匹連れて行こうと考えたら、その周囲を常に正常な空
気で保護し続けなければならないが、そうなると特殊な魔道具を使
うか、高い魔力量を持った魔術師にずっと風の魔術を使いつづけさ
せるかしかない。
それをしてどれだけの利益が得られるかと言えば、それほどでも
なく、労力と割に合わないこともあってか、皮肉なことにそれでこ
の環境は守られ続けている。
まぁ、下手に︽竜血花︾の生息環境を破壊すると間違いなく各所
から非難されるというのもある。
おかしな乱獲さえしなければ、︽竜血花︾自体は非常に生命力の
強い植物なので、すぐに再生することだし、今後も基本的には問題
ないだろう。
︽竜血花︾の生命力の強さは、こんな場所をわざわざ自らの群生
地に選んでいることからも分かる。
528
あの花は、毒を吸収し、自らの力として生きている植物だからだ。
それがゆえに、わざわざタラスクの生息地が周囲にあるここに、
群生している。
タラスクはその死骸や排せつ物からすらも強力な毒が放出される。
︽タラスクの沼︾の汚染は、それが大きな理由なのだ。
そして毒を好む生き物が集まってきて、最終的にこのような毒の
楽園が出来上がるわけである。
ある意味で、タラスクがこの地域の中心なのだ。
そしてタラスクがいないとここの︽竜血花︾は存在できない。
亜竜の仲間であるタラスクの近くに︽竜血花︾があるというのは
何か示唆的なものを感じないでもないが⋮⋮まぁ、その辺は俺より
もロレーヌとかが好きそうな話だな。
詳しいことは分からん。
そんなことよりも、とにかく採取だ。
俺はそう思って︽竜血花︾の群生地に足を踏み入れる。
あまり踏むとか踏まないとか気にせずにざくざく入って行けるの
は︽竜血花︾の生命力が強いことをしっているからだ。
本により得た知識によれば、全部折れるくらい踏みつけても一日
あると復活しているらしいからな。
まぁ、それくらいでなければ邪気なんて祓えはしないか⋮⋮。
ちなみに採取するときは、しっかりと掘って根ごと持ってくるべ
しと言われる。
切っても絶対にダメだと言うことは無いが、一番重要な調剤に使
える花竜血という成分が抜けてしまうらしいからだ。
そんなに面倒で、しかし生命力が強いと言うのなら外部に持って
行ってタラスクの毒をやりながら栽培すればいいようにも思うが、
それをやるとそもそも花の色が赤く染まらずに花竜血もとれないら
しい。
529
それでも白く美しい花は咲くが、それでは調剤的には意味がない。
ちなみに白い︽竜血花︾は︽白竜花︾と呼ばれており、あまりい
い意味では使われないが⋮⋮それはいいか。
︽竜血花︾を周囲の土ごと掘り出し、持ってきた布で包んで縛り、
魔法の袋に入れていく。
一株だけでもいいのだが、ここには数千株の︽竜血花︾が生えて
いるし、採取しても一週間すればその掘り出した場所は他の︽竜血
花︾で埋まるらしいので問題ない。
沢山採取してどうするのか、と言うといくつかは花屋にもってい
き、またいくつかは薬屋に持っていくのだ。
生きていたころの話になるが、︽竜血花︾があったらいいなと思
うことがある、みたいな話をどちらからも聞いたことがあるからだ。
高く売れるから、というのも勿論だが、花屋的にはプロポーズの
ときにないとは思っても一応買いに来る若い男女とかがいるらしい
し、薬屋的にはこれがあれば色々な薬が作れるから花竜血の備蓄が
欲しいと言うことで理解できる話だった。
乱獲するつもりはないが、まぁ、十株くらいなら許容範囲だろう。
それでも十分多い気はするが。
でかい魔法の袋を借りてきて良かった。
それにしても、︽竜血花︾を採取するのは初めてだ。
こんなところにはどうやったって前の俺では来れなかったので当
然なのだが、なんだかうれしくなってくる。 ﹁⋮⋮あだっ﹂
一生懸命︽竜血花︾を掘っていると、なぜか突然、鈍い痛みが手
に走った。
︽竜血花︾には棘などなかったはずだが⋮⋮。
530
不思議に思って色々と触ってみると、どうやら花びらに触れると
ちょっと痺れるような痛みが感じられる。
こんなところに生えているのだ。
多少の自己防衛のために触れたものを驚かせるような成分が含ま
れているのかもしれないと思った。
そうして、目的の量の︽竜血花︾を採取し終わった俺は、立ち上
がる。
あとは戻って収めるだけだ。
︽竜血花︾を薬に調合するのはアリゼの知り合いがやってくれる
わけだし、俺の仕事はそこで終わりかな⋮⋮。
そんなことを考えながら、︽竜血花︾の花園を歩いて戻っている
と、ふと、視線の先に人影が過った。
⋮⋮敵かな、と一瞬思うが、あれはどう見てもゴブリンのシルエ
ットではないし、それ以外に人型の魔物は確かここにはいないはず
だ。
必然、冒険者か何かだろう、ということになる。
ただ、だからと言って完全に警戒を解くわけにもいかない。
なにせ、冒険者同士の殺し合いと言うのはたまに起こるからだ。
迷宮の中だとばれやすいが、こういうところでそういうことがあ
っても、冒険者証は見つかりにくいからあまりばれない。
むしろこういうときこそ警戒すべきだった。
俺はいつでも腰の剣を抜けるように構えながら、近づいてくる者
の全体像が見えるのを待った。
531
第77話 銅級冒険者レントと他所の事情
﹁⋮⋮おや? 先客がいらっしゃるとは意外ですね﹂
そう言いながら近づいてきた人物の俺を見る表情は非常に意外そ
うで、特に俺を追いかけてきたとかそういうわけではなさそうだ。
したがっておそらくは冒険者狙いの不良冒険者、というわけでも
ないと思われた。
まだ確定するのは危険なので警戒は解かないが、とりあえず会話
は出来そうだと思い、口を開く。
﹁こちらも、いがいだ。︽たらすくのぬま︾など、まともなにんげ
んでは、これん﹂
この言い方にその人物は笑って返答してくる。
﹁まるでご自分がまともな人間ではないような物言いですが⋮⋮い
え、私はもちろん、まともな人間ですよ。ほら、こんなものを持っ
ています。あなたもでしょう?﹂
そう言ってその人物が見せてきたのは、毒無効の魔道具に、教会
で販売されている本物の聖水、それから正確に記載された高価な︽
タラスクの沼︾の地図だ。
つまり、体のつくりの特殊性だけを武器に、若干、いやかなり無
謀にここに突撃してきた俺とは違って、用意周到に準備したうえで
ここを攻略しにやってきたというわけだ。
これこそ真っ当な︽タラスクの沼︾攻略者である。
頭が下がる思いだ。
532
アンデッド
なぜか俺もそんな風にしっかりと準備してやってきたと誤解して
いるようだが。
まぁ、全然違う、俺は不死者だからすくなくとも毒は効かないし、
聖気もあるからタラスクは不幸な事故を除いてセーフだった、とは
説明はしない。
中途半端に頷いて、
﹁⋮⋮まぁ、そんなものだ﹂
﹁やっぱり。目的は︽竜血花︾ですか?﹂
﹁あぁ⋮⋮とりあいせずにすむものでよかった。まさかここにほか
のぼうけんしゃがくるとはおもわなかったのでな﹂
実際、こんなところに来るものなど滅多にいない。
腕があっても装備を揃えるのが大変だし、毒で汚染されたくない
と考えるのが普通だからだ。
ここまで来れるような腕があるのなら、むしろ迷宮の深層に潜っ
た方が稼げるしな。
ただ、︽竜血花︾が欲しいというのならここに来るしかないが、
どうしても、という場合は少ない。
それにしても、見目麗しい人物だった。
太陽にほとんど当たったことがないような色素の薄い肌に、どこ
か酷薄な印象を感じさせる顔の作り、髪は長くさらりとした銀髪で、
全体的に貴族的な雰囲気の若い優男である。
腰に細剣を差し、防具はかなり質のいい金属製の軽鎧を身に付け
ているが、なぜだかただの飾りのように見えてくるくらいだ。
この男にはもっと華美な服装か、むしろ全く逆の一切の装飾のな
いきっちりとした格好が似あいそうである。
533
総合すると、およそ︽タラスクの沼︾にいることそれ自体が不似
合いな男なのだが、︽竜血花︾が必要だから仕方なく来た、という
ことであればそれもまたおかしくはない。
男は言う。
﹁あぁ、私は冒険者ではないのですよ﹂
﹁⋮⋮というと?﹂
﹁何と言いましょうか、とある方にお仕えする執事のような者でし
て。その主が、どうしても︽竜血花︾が必要だからと、定期的にこ
こに﹂
主の命に従ってこんなところまで︽竜血花︾を一人で取りに行っ
て来てくれる執事。
なんて素晴らしい主従関係なのだろう、と俺は思わずにはいられ
なかった。
男の言葉に、俺は肩に乗っている黒鼠に目を向けるも、鼻を鳴ら
されただけで終わった。
こいつは俺のためにそんなことは絶対にしてくれそうもなさそう
だ。
俺は男に尋ねる。
﹁⋮⋮ぶしつけだが、なにが、ごびょうきで?﹂
﹁ええ、まぁ。最近は起き上がるのもつらそうなくらいでして⋮⋮。
本当なら私もここに来るよりも主の看病をしていたいほどなのです。
ただ⋮⋮やはり︽竜血花︾は必要ですから。成分を抽出して薬剤に
調合してしまえば問題はないのですが、主は花竜血そのものをとら
れることに拘っておられまして⋮⋮その状態では保存があまり利き
534
ませんでしょう? もしかしたら、冒険者の方でしたら、いい方法
をご存知でしょうか?﹂
そう尋ねられてしまった。
︽竜血花︾は調薬の材料に使われるわけだが、そもそも薬効が花
竜血そのものを取った方が高い、と言われる場合もある。
俺も薬師や治癒師ほど詳しくは知らないが、数日も経たず劣化す
る成分があるようで、花竜血は採取してから数日間しか使用できな
いらしい。
そのため、花竜血そのものを摂取したいのであれば、頻繁にここ
に訪問してとらなければならないだろう。
しかしそんなことは資金的にも労力的にもかなり難しい。
魔道具は一度購入すれば問題ないだろうが、聖水の方は基本的に
それこそ使い捨てだからな。
あれを瓶一本で金貨数枚を取るのだからふざけた話だが、効果が
間違いないことは保障されている。
それを考えると法外とも言いにくい辺り、聖水を作る教会はかな
りあこぎな商売をしているなと思う。
それはともかく、当たり前の話だが俺は花竜血の保存方法など知
らない。
だから、
ミスリル
﹁⋮⋮いや、そんなものしっていたら、おれはくすしにでもてんし
ょくしているよ﹂
そう答えた。
実際、知っていても神銀級冒険者を目指すという目的は変わらな
い以上、転職はしないだろうが、ともかく本当に知らないのでこう
答えるしかない。
535
そういうのは薬師の領域であるのも事実だ。
まぁ、色々な人が挑戦して未だに見つかっていないのだからそう
そう見つかるとも思えないが。
男は俺のこの答えはほとんど予想していたようで、
﹁で、しょうね﹂
と未練なくそう答えた。
俺は一応、
﹁すまない﹂
そう言ったが、今度は男の方が済まなそうな顔で、
﹁いえ、こちらの方こそ、勝手に期待のようなものをしてしまった
ような形になって、申し訳ありません。一応聞いてみただけですの
で、お気になさらずに﹂
そう言って来た。
だから、
﹁そういってもらえると、たすかる。おれも、むやみにひとをがっ
かりさせたいわけでもないからな。なにかできることがあればよか
ったんだが⋮⋮﹂
そう言うと、男は意外そうな顔をして、それから少し考えて、
﹁そうですか? ⋮⋮ふむ、たとえ花竜血の保存方法をご存じなく
とも、貴方と知己を得られたことが私と、私の主にとっては僥倖だ
ったかもしれませんね﹂
536
そう言った。
一体どういうことだ、と思って首を傾げると、
﹁あぁ、すみません。一人で考え込んでしまったようで。その⋮⋮
先ほど申し上げましたでしょう? 私はある方にお仕えしていて、
出来ればずっと、ついていたいと﹂
﹁そうだったな﹂
﹁それで、そのために︽竜血花︾を定期的に確保できる人材を求め
ていたのですが、中々見つからなくて⋮⋮﹂
﹁ふむ⋮⋮?﹂
それは確かにそうだろう。
別にランクが高くてもここに来たいかと言われるとまた話は別だ
からだ。
よほど法外な報酬がもらえるか、余程の理由がなければ大体は断
ってしまう。
だからこそ、孤児院のアリゼも困っていたのだ。
それほどの依頼でなかったら、あの孤児院の依頼は俺がとるまえ
に誰かが受けていただろう。
と、ここまで考えて俺はピンとくる。
俺は言う。
﹁なるほど⋮⋮そのじんざいとして、おれを?﹂
ギルド
﹁ええ。無理は申し上げませんが⋮⋮もちろん、冒険者組合を通し
537
た依頼を正式に行い、報酬や条件等に納得されてから、ということ
になりますが、出来れば受けていただけるとありがたいです⋮⋮今
更ですが、冒険者の方ですよね?﹂
その質問に、なんとなくすでに冒険者だ、と名乗った気分になっ
ていた俺は、確かにはっきりとは明言していなかったな、と思う。
俺は改めて男に向き直り、名乗る。
﹁あぁ。どうきゅうぼうけんしゃの、れんと・びびえだ。ここには
いらいできていた﹂
俺の名乗りに男は再度、驚いた顔をする。
理由は分かる。
ランクだ。
案の定、男は、
﹁⋮⋮まさか銅級だとは思ってもみませんでした﹂
そう言ったので、俺は、
﹁いらいするきが、うせたか?﹂
そう尋ねると、男は首を振りながら言う。
﹁いえいえ、ランクについては確かに驚きましたが、それだけです。
ここまで無傷でいらっしゃれるのですから、実力に疑いはありませ
ん。依頼の話、考えておいていただけるとうれしいです﹂
﹁かわっているな⋮⋮﹂
538
普通は銅級にこんなところに来る依頼を頼もうとはあまり考えな
いものだ。
しかし、男は特にランクなど気にしないらしかった。
まぁ、実の方が大事、ということなのかもしれない。
俺にそんなものがあるのかどうかは謎だが、認めてもらえたよう
で少し嬉しい気分にある。
それから、男は思い出したかのような顔で、
﹁⋮⋮おっと、私の名前ですが、イザーク・ハルトと申します。イ
ザークと呼んでいただければ。主につきましては⋮⋮正式な依頼を
してから、ということで﹂
そう名乗ったのだった。
539
第78話 銅級冒険者レントと聖なる水
イザークとは思いのほか話し込んでしまったが、本来ここ︽タラ
スクの沼︾は井戸端会議をするような場所ではない。
お互いに瘴気や毒については問題がなさそうだと分かっているか
らこそできることだ。
そうでなければ、一秒でも早く脱出したくなるのが普通だ。
長くいればいるほど、体だけでなく持ち物や装備すらもここの穢
れた空気によって劣化が進んでいくのだから。
なので、イザークははっと気づいた様子で、
﹁少し長くなりましたね。そろそろお帰りになりたいでしょうし、
私も︽竜血花︾採取がありますのでこの辺で、ということで﹂
と話を切り上げてきた。
お互いにそろそろ、とはどっかで思っていたのでちょうどいい。
俺も頷いて、
﹁あぁ。いらいについては、ぎるどで、ということでいいんだな﹂
﹁ええ、指名依頼をさせていただきますので、ご連絡がいくと思い
ます⋮⋮まぁ、そうせずとも誰も受けないとは思いますが﹂
そう言って笑ったイザーク。
確かに、︽タラスクの沼︾に定期的に行って︽竜血花︾を採取し
てくる依頼を掲示板に張り出したところで、誰がとるのかという感
じはする。
一回だけならまだしも、定期的に、というのがハードルが高い。
540
こんなところに何度も通っていたら遠くない内に体を壊すに決ま
っているからだ。
冒険者は体が資本である。
倒れたら飯の種を失ったも同然だ。
したがって、俺のように特殊な事情により何度来ようとも問題な
い者以外は受けようとは思わないだろう。
そしてそんな奴は滅多にいない。
俺は頷き、それから手を振って別れた。
イザークの方も愛想よく手を振り、そして、あぁ、と思い出した
ように何かを投げてきた。
俺はそれをキャッチし、確認してみると、
﹁⋮⋮せいすいのびん?﹂
首を傾げていると、イザークが、
・・・・・・・・・
﹁よろしければお使いください。どうも、お持ちではなさそうです
ので﹂
と気になることを言う。
分かっていたのか?
そう思って俺は尋ねる。
﹁なぜ、そうおもう?﹂
﹁聖水には独特の匂いがありますからね。ただ、別の手段はお持ち
のようですが⋮⋮ここは︽竜血花︾の群生地ですので、瘴気も邪気
も常に浄化されていますが、それ以上に清浄なものを感じます﹂
541
︽タラスクの沼︾はこう言っては何だが、非常にきつい匂いがす
る。
毒や泥濘に支配された空間なのだから当然と言えば当然だ。
ここ、︽竜血花︾の群生地については浄化されているからそれほ
どではないが、ここはむしろ︽竜血花︾自体の香りがきつい。
つまり、聖水の匂いなどそうそう感じ取れるような環境ではない。
聖水の匂いは確かに独特ではあるが、ほのかに香る程度のもので、
時間が経過した香水よりも薄い匂いだ。
街中などで聖職者とすれ違えばほのかに分かるが、こんな雑多な
匂いが強烈な場所で分かるようなものではない。
嗅覚によほどの自信があるのか?
いや、それだけではない。
︽竜血花︾以上に清浄なものを感じる、などと言っている以上、
俺がわずかに纏う聖気にも気づいていると思っていいだろう。
もちろん、︽タラスクの沼︾にソロで来れる以上、それなりの実
力はあるのだろうとは思っていたが、それ以上にどこか底知れない
人物なのかもしれないな、と思う。
﹁⋮⋮よくわかったな。おれは、せいきがつかえる﹂
別に、わざわざ隠さなければならないことでもない。
使える人間は少数だが、しかしいないわけでもない。
孤児院の管理人リリアンが使えることを見ても、街中で全くすれ
違わないということはないのだ。
まぁ、あえて言い触らしたいとは思わないが、すでに気づいてい
る人間にそうだ、というくらいは別に構わない。
イザークも常識的な感覚は持っているようだから、わざわざ言い
触らしたりはしないだろう、というくらいの信頼はすでに感じてい
た。
彼は俺の言葉に納得したように頷き、
542
﹁やはり。となると⋮⋮聖水は余計でしたか?﹂
﹁いや。ひじょうにありがたい。いきはなんとかなったが、かえり
はしょうじき、ふあんでな。それほどつよいかごをあたえられたわ
けではないのだ﹂
﹁さようでしたか。でしたら、よかった﹂
﹁⋮⋮しかし、いいのか? これはかなりこうかだろう? ⋮⋮び
んからすると、ろべりあきょうのさいこうきゅうひんだろう﹂
ロベリア教。
それはこの国ヤーラン王国では目立った存在ではないが、西方の
大国などでは大変な権勢を誇るらしい宗派の一つだ。
一応、マルトにも教会があるが、信者の数は多くない。
それに見合った程度の小さな教会であるが、しかし聖水について
は他の追随を許さない高品質なものが多く売られている。
⋮⋮いや、売ってはいないのか。
あくまで寄進された人に対して、その信心の高さに報いるために
渡しているだけ、という体裁だからな。
ともかく、その寄進の額が多ければ多いほど、聖水の質と、瓶の
装飾が増えていくのである。
聖水にも品質がある。
基本的なものはどこの宗派で買おうとも似たような効果だが、高
品質なものになるにつれ、作れる宗派と作れない宗派が出てくる。
効果の持続時間や、濃度、匂い、それに透明度など様々な要素が
重なって品質の上下は変わるが、このロベリア教の最高級品は、一
滴で一般的な品一瓶位の効果と価値があるものだ。
こんなもの、人にぽんと与えるようなものではない。
543
しかしイザークは首を振って、
﹁今度も必要になるでしょう? 今渡してもいいかと思いまして﹂
俺があとで依頼を受けるから、ということでそう言っているのだ
ろうとすぐに分かった。
しかし⋮⋮。
﹁おれがいらいをうけずにこのまませいすいだけもちにげするとは
かんがえないのか?﹂
﹁それならそれで。私の見る目がなかったというだけのお話ですか
ら。それに、私も、私の主も経済的にはさほど困っていないのです﹂
聖水くらいは端金だ、というわけだ。
うらやましい限りであるが、しかしだからこそ、欲する人材の得
難さを知っているのかもしれない。
ここで聖水を与えておいて恩を売っておけば、依頼を受ける可能
性が上がるだろうと言うくらいには思っているだろう。
たしかに断りにくくはなりそうだ。
まぁ、そもそも断ろうとは今の時点では考えていないのでいいの
だが。
﹁そういうことなら、ありがたくもらっておくとしよう⋮⋮それで
は、こんどこそ﹂
﹁ええ、帰り道にはお気をつけて﹂
そうして、俺はイザークと別れた。
544
帰り道については、それほど特別なことは無かった。
最大の難関であるタラスクの生息地を聖水の絶大な効果でもって
簡単に抜けることが出来たのだから当然だろう。
他の魔物は、水にさえ落ちなければ問題ないし、ゴブリンはかな
り遠巻きになっていたからな。
俺を見るとなにか怯えるように下がっていったので、俺が何度か
ゴブリンをまとめて屠ったとき、逃がした奴がいたのかもしれない。
基本戦術が遠方から弓矢を放ってくるような奴らだったからな。
見逃してもおかしくはない。
しかしあんまり遠巻きにされると、いつかここのゴブリン討伐の
依頼などを受けた時に難しくなりそうで困る。
⋮⋮いや、そこまで記憶力がある奴らじゃないか。
一週間もすれば、俺の顔とか忘れているだろう。
別に馬鹿ってわけじゃないんだが、なんか刹那的な生き方をして
るのが多いんだよな、ゴブリンって。
普通に集落を作って人間と交流したりする奴らはむしろそういう
生き方に嫌気がさしたやつらなのかもしれない。
いつか聞いてみたいものだ。
ゴブリンの言葉は特殊なのでまずそこから勉強する必要があるだ
ろうが⋮⋮。
そんな益体もないことを考えながら、俺は︽タラスクの沼︾を抜
けていった。
来た時に下った坂道を反対に上り、馬車を待つ。
しばらくぼうっとしていると、やってきた馬車の御者は驚いたよ
うな顔で、
﹁⋮⋮そこまでピンピンしてるとは意外だな? 実は相当な手練れ
なのか﹂
545
と聞かれたので、
﹁ほんとうはみすりるきゅうぼうけんしゃで、このかめんはよをし
のぶかりのすがたなんだよ﹂
と少し茶化して言うと、男はふっと笑って、
﹁なんだ、あんた、見た目よりとっつきやすそうだな? またここ
に来るなら俺に声をかけろよ。安くしとくぜ﹂
そう言われたので、頼む、と言い俺は馬車に乗り込んだのだった。
546
第79話 銅級冒険者レントと解体
ギルド
都市マルトに戻ってきたので、とりあえず冒険者組合に向かう。
︽竜血花︾を渡しに先に孤児院に行ってもいいのだが、狩ってき
たタラスクの方を先にどうにかしておきたいからだ。
リリアンの病状が一刻を争う、というのならまた別だが、幸いに
してそういうわけではない。
今日、薬師に調薬を依頼しても今日中に薬をもらえるわけでもな
ギルド
い以上、少し前後するくらいは許容範囲だろう。
冒険者組合に入り、事情を知っている馴染みの職員、シェイラの
ところにまっすぐに向かう。
﹁⋮⋮あら、レントさん。今日はなんのご用件で⋮⋮もしかして、
もう行ってきたのですか?﹂
流石のシェイラも、これほど早く依頼を片づけてくるのは予想外
だったらしい。
まぁ、これは当然である。
以前の俺の実力を知っていればいるほど、今の俺に出来ることと
はかけ離れていく。
銅級試験も実力、というよりかは知識で乗り切ったからな。
単純な腕っぷしが必要になってくる︽タラスクの沼︾の攻略とは
話が変わってくる。
事細かに俺が何が出来るか話したわけではないし、こんな反応で
普通だろう。
俺は言う。
547
﹁あぁ。しっかりと︽りゅうけつか︾はさいしゅしてきた。あとで
こじいんにいって、いらいひょうにさいんをもらってくるつもりだ﹂
オーク
﹁これほどまでに仕事が早いとは⋮⋮驚きですね。豚鬼を定期的に
狩ってくるところまでは、今までの頑張りが実ったんだな、とくら
いに思っていましたが⋮⋮相当腕を上げられたようで﹂
﹁そうかな? わからないな⋮⋮﹂
これは何も謙遜という訳ではなく、正直な感想だった。
たしかに強くなったとは思う。
それは事実だ。
しかし、今の俺が強くなっていることが、それすなわち腕が上が
った、ということなのかというと少しだけ違和感があるというだけ
だ。
これは体が魔物になったがゆえに得られただけの力ではないか。
そういう懸念がなくならないからである。
別に、魔物になって強くなったことが気に喰わないという訳じゃ
ない。
そうではなく、ある日突然、この力が失われてしまって、またあ
の頃に戻ってしまうんじゃないかという一瞬の恐怖があるのだ。
そうなったとき、俺は大丈夫なのだろうかとたまに考えるのだ。
一度、努力したらその分だけ強くなれる状態を経験してしまった
ミスリル
以上、また、何の才能も伸びしろもない状態に戻って、それでも尚、
神銀級冒険者を目指すことが果たして俺に出来るのか。
そうなった時点で、心が折れてしまうのではないか。
そういう不安だ。
もちろん、素直に考えると、別にどうなろうとも俺はいつまでも
目指し続ける、とは思うのだが、実際にそうなったとき、どう思う
548
かはなってみないと分からない。
その分からないということが不安なのだ。
まぁ、そんなこと、これから先どうなるのか、そもそも人間にな
れるのかどうかすら微妙なこの状態を考えれば、取らぬ狸の皮算用
と言うべき話かもしれないが。
﹁あの︽タラスクの沼︾をソロで攻略できるのなら、銀級でも十分
やっていけそうな腕前ですよ? そこは自覚しておいてください﹂
シェイラは俺の言葉をそのまま素直に謙遜と受け取ったようだが、
特に訂正はしない。
いつかなくなるかもしれないとしても、今は確かに俺の力なのだ。
それがどの程度のものなのか、しっかりと分かっておくのは確か
に重要な話だろうと思ったからだ。
﹁わかったよ。それで、ようのほうなんだが﹂
﹁あぁ、そうですね。依頼完了の報告ではないということは⋮⋮素
材の売却でしょうか?﹂
ギルド
特に説明をしなくとも理解してくれるあたり、やはり五年目を迎
える冒険者組合職員と言うものは察しもよくなってくるらしい。
俺は頷いて、
﹁ああ。ただ、ものがものだ。ふつうのかいたいべやではさすがに
⋮⋮﹂
﹁そうですよね。それに、もしかして量もありますか? たしか、
大きめの魔法の袋を借りてましたよね、レントさん﹂
549
﹁ああ。かなりおおい﹂
正確にはかなり大きい、だが、それはここではいいだろう。
聞き耳を立てている冒険者がいないとも限らないし、あとで絡ま
れたくはないしな。
シェイラは俺の言葉に頷いて、
﹁でしたら、裏の解体場の方がいいでしょうね。ご案内します⋮⋮﹂
そう言って、シェイラは近くにいた職員と受付仕事を交代して立
ち上がり、歩き始めた。
俺はその後ろについていく。
◆◇◆◇◆
ギルド
冒険者組合には、魔物の解体をするための部屋がいくつかあるが、
そこはあくまで簡易的なもので、どちらかと言うと解体そのものよ
りすでに解体されたものや、依頼の品の鑑定のために使われること
が多い。
ギルド
一般的には、ある程度以上の大きな魔物の解体や、数がある場合
には、冒険者組合の裏に併設されている解体場の方で行われるのが
普通だ。
解体を代行してしてくれるのはむしろこちら側であり、常に解体
仕事を専門にする者たちがそこで作業をしている。
引退した冒険者や肉屋などからの出向などが多いが、皆、一般の
冒険者とは比べ物にならないほどの解体の知識と技能を持っていて、
自分で解体が出来なかったり、大きさや数の問題で自分で行うのが
厳しいと言う場合には手数料を支払って解体を頼む。
550
俺は冒険者の中ではかなり真面目に解体について学んだ経験があ
るうえ、解体仕事も故郷の村で数をこなしているのでかなり得意な
方だが、流石にタラスクの解体となると話は変わってくる。
量や大きさ、それに固さもさることながら、体に強力な猛毒を持
っている関係上、おいそれとそこら辺で解体するという訳にはいか
ないからだ。
俺は毒が効かないので、俺自身についてはそれでも問題ないだろ
うが、街中で解体して土に染み込み地下水にまで浸透して、ある日
突然原因不明の集団毒死事件が、では困るのだ。
ここでなら、そう言ったことについても十分に対策がされている
ので安心して任せられるのである。
﹁⋮⋮ダリオさん! ダリオさーん!﹂
解体場の入り口に辿り着くと、その開け放たれた入り口からシェ
イラが中に向かってそう叫んだ。
用途の関係でかなり広い建物なので、それくらいの声で呼びかけ
ないと聞こえない位置にいるのが日常茶飯事だからである。
そして、何度目かの呼びかけで、
﹁おう! ちょっと待ってろ!﹂
と、野太い男の声が聞こえてきて、それからしばらくして、一人
の屈強な男がこちらにやってきた。
この解体場の責任者の一人である、ダリオ・コスタである。
生前は何度となく面識があったが、今の俺を見て流石にレント・
ファイナだとは分からないようだ。
オーク
オーク
﹁待たせてすまんな⋮⋮今日は少し豚鬼が多めに運ばれてきて、か
なり人手が不足してるんだ。どこでも豚鬼肉は珍重されているから
551
なぁ﹂
オーク
どうやら、作業を切り上げてきてくれたらしい。
しかし豚鬼か。
大量に持ってこれるものはそれほど多くないとはいえ、全くいな
いわけでもない。
それに、需要があるときは肉屋から直接依頼が出されて報酬や引
き取り額が高騰することもある。
おそらく今は、そういう時期なのだろう。
︽竜血花︾の依頼を受けていたから、他の依頼には注意してなか
ったな。
オーク
儲け時を逃したかもしれないなと少し残念に思う。
オーク
︽タラスクの沼︾に豚鬼がいればなぁ⋮⋮いたらタラスクのいい
餌か。
うまいもんな、豚鬼。
なんだか食われるためだけに存在しているみたいで可哀想になっ
て来た。
そんなことを考えている俺を置いておいて、シェイラはダリオに
言う。
﹁お忙しいところ申し訳ないですが、損はさせませんよ。こちらの
レントさんが、今日は珍しいものを持ってきてくれたんです﹂
ここまでの道すがら、俺はシェイラに何を解体に回す気なのかを
話していた。
それがゆえの台詞だった。
シェイラの言葉にダリオは胡散臭そうな表情で、
﹁珍しいものだと? それだけ言うのならよほどのものじゃないと
俺は驚かないぞ﹂
552
そう言ったが、シェイラの次の言葉に目を見開く。
シェイラは言った。
﹁レントさんはタラスクを狩って来たんです。まるまる一匹分の素
材を、解体に回したいと﹂
553
第80話 銅級冒険者レントと素材の売却について
﹁⋮⋮タラスクだと? シェイラ、俺を担いでるんじゃないだろう
な?﹂
ダリオがそういう気持ちも理解できる。
なにせ、タラスクは強さだけならともかく、持っている毒の厄介
さ、生息する環境の厳しさからソロで狩るなら銀級でも上位程度の
実力は必要とされているからだ。
しかし、俺の場合は毒は効かない。
周囲の環境もそういう体質の俺には普通のところと同じだ。
せいぜいが、少し動きにくいな、という程度で常に毒を気にしな
アンデッド
ければいけない、普通の人間の冒険者とは話が違う。
ただ、そんなことは俺が不死者であることが前提の話なので、説
明するわけにはいかない。
だからとりあえず、俺が黙っていると、シェイラが、
﹁わざわざそんなことをしても意味がありませんからね。掛け値な
しに本当の事ですよ。事実かどうかは、実際にその目で見ていただ
ければ﹂
﹁⋮⋮しかし、そのタラスクはどこにある? 表にでもあるのか?﹂
ダリオがそう尋ねたのは、タラスクのような大物を狩って来た場
ギルド
合には自分の実力を示そうと見せびらかしつつ持ってくるものも少
なくないからだ。
流石に街中を練り歩くわけにはいかないが、冒険者組合の前で出
して、そこから解体場まで持ってきたりとかするわけである。
554
ただ自慢しよう、というだけでなく、これだけの大物が狩れたか
ら、そのうち素材なども出回ると言うことを喧伝するためでもある
ので、必ずしも悪いことではない。
が、俺はそこまで目立つつもりもない。
銅級に登録から間もなくすんなり上がったことで多少は目立って
いるところもあるだろうが、所詮は銅級だ。
もとから実力のあるものがかなり短い期間で昇格することは別に
聞かない話ではない。
俺は魔法の袋を取り出してダリオに示し、言う。
﹁ここにはいってる。だしてもいいのか?﹂
ダリオはそれに首を振り、
﹁⋮⋮いや、タラスクとなるとここじゃあな。こっちに来てくれ﹂
そう言って解体場の中を先導する。
そしてたどり着いた部屋は、かなり広く、たしかにここでならタ
ラスクを出しても問題ないだろうという場所だった。
それに加えて、魔道具が壁際に色々設置してあるのが見える。
あれらは毒などのある魔物を解体する場合に、周囲に撒き散らさ
れないように集め、あるいは浄化するためのものだ。
かなり特殊なもので、高価であるが解体場には必須の魔道具であ
る。
ただ非常に高価かつ貴重なので、そんなにいくつも手に入れられ
るものではなく、この解体場にはこのような部屋は二部屋くらいし
かなかったはずだ。
﹁さぁ、いいぞ。出してくれても﹂
555
ダリオが扉を閉め、シェイラと俺に毒を吸わないためのマスクを
差し出しながらそう言ったので、とりあえず仮面の上からマスクを
つけるという非常に微妙な格好になった上で、シェイラがマスクを
したのを確認してから魔法の袋からタラスクを取り出す。
タラスクを中に入れるときは袋の口をタラスクに付けるだけでよ
かったが、出すときは出す場所を念じながら口を開くだけでいい。
やり方を間違えるととんでもない出方をするのでコツが必要だが、
魔法の袋については俺は持っている。
大きさは違ってもやり方は同じなので慣れていた。
﹁⋮⋮本当だったんだな。しかしこいつはタラスクでもでかい方だ
ぞ﹂
そう言いながら、ダリオはその場に現れたタラスクに触れる。
体の方と、切り落とした首の方、両方とも並べて出した。
ダリオはまず、甲羅の方を全体的に見て、触れつつ言う。
﹁こっちは傷一つねぇな。珍しいぜ﹂
﹁⋮⋮そうなのか?﹂
俺は銅級だった。
つまりはタラスクについてある程度の知識はあっても、それを狩
ることについての実際的な経験は薄い。
タラスクを倒すには、首を落とすか甲羅ごと心臓を潰すかの二択
をとることになるが、その二択であれば首を落とす方が楽ではない
のか。
そうだとすると、別に甲羅に傷がないことは珍しくないように思
うが⋮⋮。
556
俺がそんなことをダリオに尋ねると、彼は言う。
﹁言いたいことは分かるがな、それをするためには問題がいくつか
ある。その中でも一番大きいのが、タラスクに近づかないとならな
いってことだな。こいつは毒のブレスを吐くんだ。そこまで近づく
プラチナ
となると、毒に侵されるのを覚悟でやらなきゃならねぇだろ? 毒
軽減の魔道具は銀級や金級でも買えるが、完全無効の奴は白金くら
いじゃないと厳しい値段してるからな。普通はそんな危険は冒さな
いで、遠距離から倒そうとするもんだからな⋮⋮﹂
なるほど、それは理解できる話だ。
俺の場合はそもそも毒が効かないということと、基本的に近距離
戦しか出来ないことからそんな選択肢はなかったが、パーティがい
て、遠距離攻撃手段を持っていたら、確かに遠くから攻撃した方が
楽かもしれない。
ダリオは続ける。
﹁甲羅は固いし攻撃は通りにくいが、それはこいつの鱗も同じこと
だしな。少し時間がかかっても的のでかい甲羅の方を狙うのさ。威
力のある攻撃なら貫通することも出来るし、こいつを倒そうとする
奴は大体それくらいの隠し玉は持ってるからな⋮⋮ただ、そうなる
と必然的に甲羅は割れるか穴が開く。解体屋としちゃ、少しばかり
がっかりな素材になっちまう﹂
ただ、銀級や金級の攻撃で貫通可能となると、そのランクの防具
の素材としては厳しいようにも思われる。
しかし、別にゴブリンではあるまいし、素材をそのままの状態で
組み合わせて鎧にするわけではない。
強度を上げる加工をし、また他の素材と組み合わせながら元の素
材そのままよりも強力なものにする技術を鍛冶師たちは持っている。
557
加工するとはいえ、その場合には、もちろん素材自体は無傷の方
がいいだろう。
つまり、 ﹁いいねだんに、なりそうか?﹂
気になって尋ねると、ダリオは、
﹁もちろんだ。まぁ、解体するのには結構手間も時間もかかりそう
だから、手数料はもらうが、それを引いてもかなりの値段になるぞ。
首の方もいいな。傷は一か所、根元だけだ。これだと毒腺も完全に
無事だろうし⋮⋮ここまでいい状態のタラスクは久々に見たぜ﹂
そう太鼓判を押してくれる。
俺は、
﹁そうか⋮⋮なら、ばいきゃくのほうはまかせたいとおもう﹂
そう言った。
狩って来た魔物の売却については色々な方法があり、ここで解体
だけ頼んで自分で引き取り先を探したり、自分でオークションにか
けてもらったりすることも出来るし、少し手数料はかかるが、ここ
で扱いの全て任せるということも出来る。
一般的にはここに全部任せるのが普通だ。
その理由は単純で、冒険者は多くが面倒くさがりだからだ。
ただ、馴染みの店から頼まれたり、またタラスクのような大物の
場合にはオークションなどの方が高く売れる場合が多いので他の選
択肢が出てくる、と言う感じである。
ただ、今回は、ここにすべてを任せてもタラスクほどの魔物とな
ると、オークションにかけてくれるものだし、購入を考えてくれる
558
客も沢山呼んでくれるので、こちらに任せるのがいいと俺は思った。
﹁構わねぇが⋮⋮いいのか? 探せばいい客がいるかもしれねぇぞ﹂
それは正しい意見かも知れないが、今の俺の体でそれを探すのは
かなり難儀だ。
色々な人間を尋ねて、面接を繰り返すと言うのは厳しいからだ。
ロレーヌなどに頼むと言うのもあるが、あいつは金にはそれほど
頓着しない。
安値で売りそうでそれくらいならダリオに頼んだ方がずっといい。
そう言った色々な思いを語らずに、ただ信頼のみを込めて、俺は
ダリオに言った。
﹁⋮⋮あんたをしんじる。たのんだ﹂
するとダリオは少し笑って、
﹁そう言ってもらえるとこっちも手を抜けなくなるな。良い値段で
売るぜ。楽しみにしてろ﹂
そう言ったのだった。
559
第81話 銅級冒険者レントと広がった網
解体場にタラスクを置き、ついでに他に色々と得てきた素材関係
についても解体すべきものは解体場に、植物などの類はシェイラに
渡しておいた。
量が結構あるので、その場で即座に査定は出ず、後日と言うこと
になったがそれでも十分な金額になるだろう。
そして、残ったのは︽竜血花︾である。
孤児院でアリゼとリリアンが待っていることだろう。
ギルド
⋮⋮いや、リリアンは待ってないか。何も知らないからな。
ともかく、俺は冒険者組合を出て、孤児院に向かう。
◆◇◆◇◆
︱︱ばきり。
と、音がして俺は茫然とした。
そうだった、ここのノッカーは壊れていたんだった、とそのとき
思い出したからだ。
壊れていたというか、俺が壊したわけだが⋮⋮まぁ、直したのも
俺なのだ。
もう一度、同じことをしよう、と即座に考えて、魔法の袋からス
ライムの粘液を取り出し、前よりも念入りに塗りつけて、ぎゅっぎ
ゅとノッカーを扉に押し付けた。
﹁⋮⋮かんぺきだな﹂
その出来栄えの前に一人そう呟くと、
560
﹁⋮⋮何が完璧なの?﹂
と、後ろからから声がかかったので俺は驚く。
ゆっくりと振り向くと、そこにはアリゼが立っていた。
手にはおそらくは食料品が入っていると思しき袋を持っていて、
彼女の後ろにいる数人の子供たちも同じような袋を持っていた。
どうやら買い物帰りらしい。
俺はアリゼ及びその後ろで不思議そうな顔で俺を見る孤児院の子
供たちに冷静を装いながら言った。
﹁⋮⋮いや、いらいがな﹂
そう言うと、アリゼは、
﹁えっ!? も、もう!? うそでしょ!?﹂
と驚いていたが、とりあえず中へと促されたので、両手の塞がっ
ているアリゼたちに代わり、ノッカーに出来る限り振動を伝えない
ように細心の注意を払って俺は扉を開いたのだった。
◆◇◆◇◆
﹁⋮⋮それで、本当なの? 依頼が終わったって⋮⋮﹂
以前通された応接室の中で、俺とアリゼは対面に座りつつ、話を
している。
アリゼは俺の言葉を特に怪しまずに、しかしこれだけ早く依頼を
終えてきたことに驚いているようだった。
完璧だったのは、ノッカーの完成度の話だが、この勘違いは永遠
561
に秘密にしておきたい。
俺はそんな内心を表に出さずに、ただ無表情に言う。
﹁あぁ⋮⋮ほら、これだ﹂
そう言って、魔法の袋から、︽タラスクの沼︾で採取してきた︽
竜血花︾を一株出し、テーブルに置いた。
しっかりと土ごと布で包んでいるが、テーブルを汚しては悪いの
で一応、もう一枚布を敷いてのことである。
しかし、そんな気遣いにアリゼは特に興味はないらしく、ただ︽
竜血花︾のことを見つめていた。
﹁これが⋮⋮。初めて見たわ。きれいな花なのね⋮⋮﹂
花の美しさになのか、それとも手に入らないと思っていた高価な
薬の材料が手に入ったことになのか、アリゼの瞳は感慨深い色に染
まっていた。
確かに、彼女の言う通り、︽竜血花︾は美しい。
血のように赤い花弁、空を見ず、傾いでいる花の形、それを目立
たせるように広がった葉、花の生命力を伝えるように太く丈夫な茎。
その全てが絶妙なバランスで配置されていて、確かにこのような
花であればプロポーズのときに恋人に渡したくなるのも理解できる
気がした。
プロポーズするような相手がいない身で何を言うかと思うかもし
れないが、それはそれだ。
﹁なんとかなりそうか?﹂
俺が花に見とれるアリゼにそう尋ねると、彼女ははっとして、
562
﹁何とも言えないわ。私にはこれが本物の︽竜血花︾かどうかすら
分からないから⋮⋮あ、疑ってるわけじゃないからね。そうじゃな
くて、私にはその能力がないってことよ﹂
﹁⋮⋮そういえば、しりあいのちゆじゅつしのつてで、ちょうざい
をたのむ、だったか﹂
﹁ええ。だからまず呼ばないと⋮⋮少し待っててもらうことになる
けど、いいかしら?﹂
どうやらこれからその治癒術師というのを呼んでくれるらしい。
俺としては早く確認してもらって、依頼票にサインをもらいたい
ので、待つのは別に構わない。
そのことをアリゼに告げて、頷いた。
アリゼはそれから俺にここで待つようにいい、急いで部屋を出て
いった。
おそらくこれから彼女自らその治癒術師を呼びに行くのだろう。
相手は治癒術師ということであるから、どこかの治療院か教会に
いるのだろうが、そういうところは忙しいものだ。
それほどすぐに帰っては来ないだろう。
つまり、かなり時間が空いてしまった。
それまでここで、というのは精神的に辛いと言うか、退屈だな⋮
⋮。
そう思っていると、肩に乗ってだらんとしていたエーデルがふっ
と起き上がり、飛び降りてとことこと歩き出す。
それから、壁にカリカリとやり始めた。
﹁⋮⋮なにしてるんだ?﹂
563
そう尋ねると、扉のノブをみて、ジャンプする。
エーデルの前足は確かにそこに触れるが、引っかかりのないタイ
プなので、エーデルの手では開けられないらしかった。
タラスクにあれだけ強力な攻撃を加えられても、扉は容易には開
けられないらしい。
なんだか滑稽な気もするが⋮⋮。
開けてやるかどうか少し迷ったが、ここにいろとは言われたがど
こにも行くなと言われたわけでもない。
入ってはいけないところもあるだろうが、少しくらい歩き回って
もいいのではないか、と考えて扉を開けてやることにした。
何か言われたらペットが逃げたからということで全面的にエーデ
ルのせいにしよう。
嘘ではないしな。
実際、エーデルが扉をあけろと言っているところから始まってい
るのだから。
そんな俺の内心が伝わったのか、若干エーデルは俺に睨むような
目を向けたが、それでも扉を出たいと言う気持ちは変わらないらし
い。
相変わらずノブを見ているのでかちゃりと開いた。
すると、エーデルは駆け出す。
一体どこに向かうのかと思ってついていくと⋮⋮そこは、以前孤
児院に来た時に訪れた地下室だった。
その部屋の中心でエーデルは﹁ヂュッ!﹂と一鳴きする。
プチ・スリ
すると直後、物凄い勢いで五匹の小鼠が現れて、エーデルの前に
並んだ。
どこかで見た光景である。
というか、以前ここで見た光景だ。
564
プチ・スリ
並んでいる小鼠たちにも見覚えがある。
傷や毛並みが同じだ。
しかし、前に見た時より巨大化しているような気がする⋮⋮成長
したのか?
プチ・スリ
そう思っていると、エーデルと小鼠たちは何か会話のようなもの
をし始めた。
すべて、﹁ヂュッ!﹂という人間にはまるで理解できない鳴き声
の応酬であったが、俺には幸い、エーデルとのつながりがある。
そのため、一体どんな会話をしているのかなんとなく理解できて
しまった。
それによると、彼らエーデルに従えられている五匹の鼠たちは、
プチ・スリ
あれからずっとこの地下室を守ってきたのだと言う。
その際、街中にいるいくつかの他の小鼠の群れからの襲撃を何度
か受けたが、すべて跳ね除けることが出来、結果としてこの地下室
を守り切ったらしい。
それを可能にしたのは、エーデルから流れてくる魔力や気の力の
プリ・スリ
お陰で、それによって魔物としての存在の格が少し上がったため、
通常の小鼠よりも強力な存在にそれぞれになりつつあるという。
つまり、存在進化が近いと⋮⋮。
ここで俺は引っかかる。
そもそも、その魔力や気って俺のじゃないの?
だってエーデルの力って、俺から奪い取ったものじゃ⋮⋮。
そう考えると、エーデルが振り返って俺を睨み﹁ヂュッ!﹂と強
めに鳴いた。
黙ってろ、ということらしい。
⋮⋮おい、理不尽だろうが。なんだそれは。俺が主でお前が従者
565
だろ!
プチ・スリ
そう思うも、迫力のあまり、言われた通り黙ってしまったので何
とも言えない。
プチ・スリ
それに、エーデルと手下の小鼠たちの会話らしきものは、俺にも
結構有用なものだった。
プチ・スリ
彼ら曰く、ここに襲い掛かって来た小鼠たちは皆、結果的にここ
の小鼠たちの傘下に入ったらしい。
プチ・スリ
それによって、この都市マルトに存在する建造物の構造や隠し通
プチ・スリ
路のうち、従えた小鼠たちが知っていたものについての情報が得ら
れたという。
これで、ここに住む小鼠たちの生活は安泰であり、安心して生活
していける、それもこれもすべてエーデル親分のお陰で⋮⋮。
みたいな話をしている。
⋮⋮うーん。
まぁ、いいんだが、そもそもその力の源は俺だって。
そう言いたい。
プチ・スリ
しかし言いにくい。
というか言っても小鼠だから通じないだろう。
それに、俺にはエーデルみたいなカリスマ性はないしな⋮⋮残念
ながら。
なんだか情けない気分になって来たが、エーデルがふっと俺に伝
えてきたことに俺は少し驚いた。
プチ・スリ
それは、小鼠たちに、集めてほしい情報があれば、その旨伝えれ
プチ・スリ
ば収集可能である、ということだった。
小鼠たちは、この姿と素早さで、都市マルト内であればどこにで
も入れる。
退治されることはもちろん日常茶飯事だが、繁殖のスピードとど
っこいどっこいなので、減りも増えもせず、常にそこにいるのだ。
566
そんな彼らに情報収集を頼めるなら⋮⋮。
俺は都市マルトで知らない話はなくなるかもしれない。
これは非常に有用な話だ。
俺はどうやら気づかない内に、とてつもないものを手に入れてい
たのかもしれない。
そう思った。
567
第82話 銅級冒険者レントと薬師
﹁⋮⋮これは、素晴らしいね! ここまでしっかり処理して持って
きてくれるのは珍しいよ﹂
そう言ったのは、アリゼの知り合いの治癒術師であるウンベルト・
アベーユの連れてきた薬師のノーマン・ハネルである。
ウンベルトの方がかなり細身の中年の男性で、ノーマンの方が少
しふっくらとした二十代半ばの男性である。
二人とも大分人の好さそうな雰囲気と見た目で、孤児院に協力的
なのが会ってすぐに理解できた。
﹁そうか? ︽たらすくのぬま︾にいくのはこういのぼうけんしゃ
がおおいから、それなりにちゃんとしているのがふつうかとおもっ
ていたが⋮⋮﹂
冒険者というものは、ランクが高くなるにつれて当然のこと、仕
事の質が上がっていく。
単純な腕っぷしもそうだが、たとえば採取技術や解体技術、それ
に礼儀や学問の知識についてもそうだ。
もちろん、専門家ほどではないが、必要最低限の技術や知識は上
を目指そうとする段階で必要に駆られて自然に身に付いていくもの
だからだ。
まぁ、偏った依頼を受け続けたり、実力が隔絶して高いとか、そ
ういう場合には例外もあるし、試験や依頼を誤魔化しながらうまい
ことランクを上げる者もいるが、基本的には、という話だ。
そのため、︽タラスクの沼︾に行って︽竜血花︾を採取して戻っ
て来れるくらいの冒険者であれば、俺のような特殊な事情を抱えて
568
いない限りは、銀級から金級程度のランクになるのが普通なので、
素材の採取についてもそれなりの技術を持っているはずなのだ。
しかし、薬師のノーマンは俺の言葉に首を振って、
﹁いや、技術は持ってないわけではないんだろうけど、あそこは場
所が場所だからね⋮⋮タラスクや毒に侵されないように警戒するこ
とにだけ注意がいって、肝心の︽竜血花︾の状態についてはとって
くればいいだろ、みたいな扱いをされることが多いんだ。それでも、
あまりあそこに行く冒険者が少ないこともあって文句も言いにくい
んだよね。そもそも、行ってくれるだけですでに結構ありがたいん
だから﹂
と実情を語ってくれた。
あんなところに長居したいなどと考える者がいるはずがないこと
は容易に想像できることで、その話も理解できる。
それに、他に稼ぎどころがあるのにわざわざ行く時点で、全部で
はないにしても多少は冒険者の側にも善意と言うかボランティア精
神みたいなものがあった上で依頼を受けているものと思われた。
もちろん、冒険者と依頼者は基本的に対等なものだが、︽タラス
クの沼︾のような冒険者の側の供給が需要と釣り合っていないと、
やっぱりどうしても冒険者の側の立場の方が強くなってしまうと言
うことかもしれない。
依頼全体で見ると依頼者の方がずっと立場が強くなることの方が
多いんだが⋮⋮全部バランスよくとはいかないものだな。
﹁そういうことなら、よかったかな⋮⋮﹂
俺がそう呟くと、ノーマンは、
﹁良かったに決まっているさ。これだけ状態のいい︽竜血花︾があ
569
るのなら、︽邪気蓄積症︾の薬もすぐに作れる。︽花竜血︾は花に
傷がないほど質のいいものがとれるからね⋮⋮その後の調合も楽に
なるし。欲を言えばもっとたくさんの︽竜血花︾があれば他にも色
々と作れるんだが⋮⋮﹂
それは流石に欲張りだろうね、と言ったノーマンに俺は言う。
﹁⋮⋮いくつ欲しいんだ?﹂
﹁え? そうだね⋮⋮あと三、四株くらいあればうれしいかな。そ
うすれば、他に回ってる人たちの病気を治せる薬もいくつか作れる
から﹂
これは別に俺に強請っていったわけではないだろう。
なにせ、俺が他に何株も︽竜血花︾を採取してきたとは言ってい
ないし、ノーマンも、こんな︽竜血花︾を採取してこられる冒険者
がもっといれば、依頼できるのにな、とぼやいているからだ。
あまり嘘をつけそうなタイプにも見えないし、アリゼが俺の横に
近づいてきて耳元で、
﹁⋮⋮ノーマン先生は孤児院だけじゃなくて、貧民街もよく回って
自費でお薬を出しているの。今時珍しい偉い先生なのよ﹂
その言い方には必ずしも称賛と尊敬の気持ちだけでなく、あんな
に人がよくて大丈夫なのかしら、という心配の気持ちも感じられた。
アリゼからしてみれば非常にありがたい存在で感謝しているのも
間違いないのだろうが、薬師と言うのはそもそも素材を集める時点
で結構なコストがかかる職業だ。
高値で薬を売るのは必ずしも金儲けのためという訳ではなく、続
けるためにはそうせざるを得ないからだ。
570
それなのに⋮⋮ということだろう。
そこにはノーマンの先行きの心配に加えて、いなくなられては非
常に困る、という現実的な考えも感じられた。
まぁ、アリゼからしてみればそう思うのも無理はないだろう。
しかし、現実に彼は続けられているわけで、何らかの方法でもっ
てそう言ったコストを補っていると思われた。
それが何なのかは分からないが⋮⋮まぁ、問題ないならいいだろ
う。
それより、そう言う事情ならば、俺としてもストックしている︽
竜血花︾を出すのも吝かではない。
俺は言った。
﹁なら、これをつかってくれ﹂
そして、魔法の袋から四株の︽竜血花︾を出し、テーブルに置く。
それを見て、ノーマンも、そしてその隣の治癒術師ウンベルトも
目を見開いた。
まさかソロで行ったのにこれほどの数の︽竜血花︾を持っている
とは思ってもみなかったのだろう。
︽竜血花︾がどのように群生しているかを知っていればそれほど
の驚きは感じないものだが、そもそも魔法の袋自体、俺の持ってい
るくらいの大きさでも持っていない冒険者は少なくない。
俺はこの魔法の袋を五年は金を貯めて買った。
銀級でも一年は貯金が必要と思われ、しかし冒険者はその性質か
らあまり宵越しの金は持たないタイプが多い。
それに加えて、いつでも買えるというものでもなく、オークショ
ンや闇市などで出品されたときにたまに買えるくらいだ。
俺は色々と知り合いが多いので情報を集めて購入できたが、一般
的な冒険者の持つ魔法の袋の収納量は、俺の魔法の袋の半分程度だ。
必需品や容器などを突っ込んでいくと、素材はそれほど詰め込め
571
ない、というわけである。
それでもパーティを組んでればそれなりの量の素材を持って帰っ
ては来れるが、︽タラスクの沼︾を攻略するとなると毒関係の対策
のために必需品がどうしても多くなってしまう。
結果として、︽竜血花︾は一人一株くらいしか持って帰って来れ
ないというわけだ。
俺の場合は毒対策が不要で、かつ袋の容量がそこそこ大きいので
出来たことだ。
この体様様だな、と何度目か分からない気持ちが心に浮かんでく
る。
もちろん、いずれは人に戻りたいが⋮⋮どうにか耐性とかだけそ
のままで人間に戻れないものだろうか。
⋮⋮それこそ欲張りすぎかもしれないな。
仕方ないだろう、人間は欲張りな生き物だ。なにかが手に入った
ら次が欲しくなるのだ。
そんなことを考えていると、肩に乗っているエーデルから、自分
はそんなことないぞ、という意思が伝えられた。
そりゃ、鼠さまはそうだろうさ⋮⋮と考えると、肩を強く引っか
かれた。
はいはい、悪かったって。
ともかく、俺が出した︽竜血花︾に硬直していた治癒術師と薬師
だが、薬師の方⋮⋮つまりノーマンが再起動して、俺の方を見、
﹁い、いいのかい!? こんなにあるなら僕に売るよりも、大手の
薬屋に売った方が高く売れると思うんだけど⋮⋮﹂
どうやらノーマンは依頼されたわけではない、余分に出した分に
ついてはお金を払ってくれるつもりらしい。
しかし、俺は首を振った。
572
﹁いや、これはあなたのかつどうのこうけつさにめんじて、むりょ
うでしんていしよう⋮⋮なに、じつのところ、まだあるのだ。だか
らしんぱいせずともかまわない﹂
別に、何か施しをしたくなったわけではない。
が、たまにはいいことをしたような気分にもなりたくなる。
つまりこれは自己満足だ。
それにそもそも儲けようと思って持ってきたわけではなく、知り
合いが欲しいと言っていたなとなんとなく思って袋に入る分、沢山
持って来てみただけだ。
だから譲ることに大した問題はない。
俺よりもよほど有用に使ってくれるだろう。
それに、今の俺の顔と名前を知った上で、関係を結んでおける薬
師というのは欲しいと少し思っていたのだ。
ロレーヌも調薬についてはそれなりにできるが、あいつの専門は
魔法薬関係で、病気についての特効薬とかその辺りは少し範囲から
外れるため、流石に本職ほどではないからな。
ノーマンはそう言う意味で、俺にとってちょうどいい相手だった
と言える。
打算的で非常に申し訳ない気もするが、誰も損しないのだから別
にいいだろう。
ノーマンは俺の台詞に驚いたように再度静止していたが、最後に
は、
﹁⋮⋮すまない。助かる。これでどれだけの人の命を救えるか⋮⋮
もし何か困ったことがあったら僕に言ってくれ。少なくとも、薬に
ついての知識は誰にも負けない自信がある﹂
573
そう言って感謝してくれたのだった。
574
第83話 銅級冒険者レントと弟子
﹁じゃあ、これで依頼は完了、っと⋮⋮﹂
薬師と治癒術師の二人が早速薬の作成に入ると孤児院を出たのを
見送った後、そう言いながら、アリゼが依頼票にサインをくれる。
依頼をくれたのは孤児院の代表であるリリアンではなく、孤児院
の孤児一同であり、そしてその代表はアリゼだ。
したがって彼女にサインをもらうことになった。
ギルド
それにしても、これでやっと依頼終了だ。
あとはこれを冒険者組合に提出すれば報酬が貰うことが出来る。
いつもより相当に大変な依頼だっただけに、感慨深いな。
⋮⋮ま、銅貨一枚だけどな。
﹁ああ。ありがとう﹂
俺がそう言って依頼票を受け取ると、アリゼは首を振って、
﹁それを言わなければならないのはこちらの方よ。本当言うと依頼
は⋮⋮出したはいいけれど、ほとんど諦めていたのよ。銅貨一枚で
︽竜血花︾を採取してきてくれる冒険者なんているはずがないって。
でも、貴方はわざわざ受けて⋮⋮そして本当に︽竜血花︾を持って
きてくれた。いくら感謝してもしたりないくらい。本当に、ありが
とう。レント。もし何かあったら必ず言って。私も、ここの子供た
ちも、きっと貴方の力になるから。⋮⋮貴方に助けが必要かどうか
は分からないけど﹂
そう言ってくれたので、俺は答える。
575
﹁おれにだって、たすけがひつようなときはある。そのときは、た
よらせてもらうさ⋮⋮それと、こんかいのいらいだが、おれいがい
にもうけようとしていたやつはいたぞ。ただ、すこしばかり⋮⋮む
ずかしすぎたみたいだが﹂
こんな言い方になったのは、アリゼが若干冒険者の良心に失望し
ているように思えたからだ。
もちろん、そんなつもりで言ったわけではないことはわかる。
ただ、冒険者は基本的に冷たいものだ、というステレオタイプな
印象をどこかで持っているようにも感じられた。
まぁ、彼女の話は分かる。
︽タラスクの沼︾にわざわざ行きたがる冒険者など実際に、滅多
にいないのは事実だからだ。
しかし、冒険者の中にも物好きはいるのだ。
実際、受けようとしていた奴はいたみたいだしな。
内容と自分の実力を相談して、無理だと思っただけで。
俺は冒険者に幻滅はしてほしくなかったので、その点については
しっかりと弁解しておくことにしたというわけだ。
そんな俺の言葉に、アリゼは、少し驚いて、
﹁そうだったの⋮⋮? 私、てっきり誰も孤児院の依頼なんて受け
ようなんて考えてはくれなかったんだと⋮⋮﹂
そう言った。
確かに最初会ったとき、アリゼはあまり表には出さないようにし
ていたようだが、冒険者に対してそれほど期待していなかったよう
な雰囲気があった。
鉄級が来ると思っていた、というのは、大した経験もない冒険者
が、何も考えないで来る以外にこんな依頼は受けないだろう、と思
576
っていたということだったのかもしれない。
そう言えば、他にも⋮⋮。
﹁ぼうけんしゃになりたい、といっていたのは⋮⋮﹂
﹁ええ。リリアン様の病気は進行が遅いって話だったでしょう? だったら、時間がかかってもいいからいずれ私が︽竜血花︾を取り
に行けば⋮⋮と思っていたの。それに、冒険者になれば孤児院に寄
付だってできるわ。何かあれば力になれるだろうし⋮⋮今思えば浅
はかだったかもね。でも、それ以外に何も思いつかなくて﹂
そう言った。
気の長い話だが、︽邪気蓄積症︾は命がなくなるまで五年十年か
かるという話だったし、十年なら、今十歳過ぎくらいのアリゼが冒
険者になって一人前になるまで⋮⋮なんとか持つかもしれないと言
う感じだ。
不可能ではない辺り、何も考えていないと言うわけでもない。
問題はそこまで強くなるには相当な修練と才能が必要だと言うこ
とだが、才能の方は魔力があるわけだし、頑張れば︽タラスクの沼
︾くらい行けたのかもしれないな。
﹁おもいのほか、いろいろかんがえていたみたいだな。ま、けっか
としてむだになったが⋮⋮ぼうけんしゃのゆめはもう、あきらめる
のか?﹂
気になって尋ねてみると、意外にもアリゼは首を振る。
﹁いいえ、今回の事で、やっぱりなりたいなって気持ちが強くなっ
たわ。もちろん、もう︽竜血花︾を取りに行く必要はないけれど⋮
⋮いつか冒険者になって、それで、レント、貴方みたいな冒険者に
577
なりたいわ。人のために働ける、そんな冒険者に﹂
⋮⋮え、俺?
と思ったが、特に口には出さない。
出さずに、俺は言う。
﹁そんなにりっぱなものじゃないとおもうが⋮⋮﹂
﹁何言っているのよ。リリアン様は貴方のお陰で命が助かって、元
気になるのよ⋮⋮それに、今、この孤児院は貴方のお陰でとっても
清潔になったし﹂
と、身に覚えのない話をされて首を傾げる。
﹁どういうことだ?﹂
そう尋ねると、アリゼは、
プチ・スリ
﹁知らないの? 貴方の肩に乗ってる小鼠ちゃんの子分が、孤児院
中の虫を退治してくれているの。前まではちょっとゴキブリとかた
まに出てたんだけど、気づいたら死骸が一か所に集められてたりす
プチ・スリ
ることが増えてね。どういうことかと思って、そのゴキブリ山の近
くで隠れて見張っていたら、小鼠ちゃんがどこからともなくゴキブ
リをくわえてやってきて、置いていくのよ。いくら駆除してもどこ
かから出てくるからね。ありがたいわ﹂
エーデルの手下たちが妙なところで活躍していたらしい。
なんだか無駄に高性能な奴らだが⋮⋮まぁ、そういうことならい
いか。
578
しかしなぜ、と思ってエーデルの目を見てみれば、あいつらは自
分の寝床を綺麗に保ちたいから頑張ったんだろう、という返事が返
って来た。
なるほど、別に人のためではないのか。
しかし結果としてアリゼたちのためになっているので、ちょうど
いい共生関係が出来上がっているのかもしれなかった。
﹁おもってもみなかったはなしだが⋮⋮べつにあれはおれのてがら
じゃないからな﹂
﹁それでも貴方がいなければ何も変わらなかったわ﹂
とにかく否定してもアリゼは頑固であった。
流石に俺も根負けして、
﹁⋮⋮わかった⋮⋮。まぁ、すきにするといいさ。ただ、そうだな、
ほんとうにぼうけんしゃをめざすなら、しゅぎょうははやめにして
おいたほうがいいぞ。じゅうごでとうろくできるが、それまでにき
ほんはみにつけておかないとすぐにしぬ﹂
村から出てきてそのまま登録する愚かな奴も少なくない商売であ
る。
だからこその、実際的なアドバイスであった。
これにアリゼは頷き、
﹁でも、どうやって修行したらいいのかしら?﹂
と尋ねる。
俺は、
579
﹁いろいろほうほうはある。ぎるどでもしんじんむけのこうしゅう
ギルド
はやっているし⋮⋮そうだな、じかんがあるときにおれがおしえて
もいい﹂
つい、そう言ってしまった。
弟子など持ったことはないが、それこそ冒険者組合の新人向けの
講習などは担当したことがある。
新人に必要な最低限度の知識と技術くらいなら、俺でも教えられ
る自信はあった。
あとは⋮⋮。
﹁まりょくをもっているなら、まほうもまなんだほうがいいだろう
な⋮⋮おれはそこはびみょうだから⋮⋮すこししりあいにあたって
みてもいい﹂
誰の事かと言えば、ロレーヌである。
毎日研究三昧で忙しそうな彼女であるが、だらけているときは徹
底的にだらけているので、そういう時間を少しだけ、アリゼに当て
てもらえないか聞いてみようと思った。
これにアリゼは、遠慮がちに、
﹁⋮⋮でも、私、お金が⋮⋮﹂
まぁ、そりゃあそうだろう。
孤児院の子供で、依頼に銅貨くらいしか出せないのである。
金などあるはずがない。
魔術師に払うべき授業料は高額なことが多いしな。
ロレーヌは別に金なんかいらんといいそうだが。 が、それについては別にいい。
580
﹁きにするな﹂
﹁それはダメよ﹂
﹁そういうとおもって、あんがある﹂
﹁えっ?﹂
﹁おれが、むりしで、かそう。へんさいはぼうけんしゃになって、
かえせるようになったとき、ということでどうだ﹂
まぁ、この辺りが落としどころだろう。
彼女だってこれ以上の施しは要るまい。
まぁ、無利子と言う時点で施しの色彩を帯びるが、それについて
はあまり気にしない。
なぜなら、
﹁⋮⋮それなら、お願いするわ。でも、利子はつけて返す。冒険者
になって、稼げるようになったら⋮⋮ねぇ、それでもいい?﹂
そう言うだろうと思ったからだ。
俺は頷いて、
﹁じゃあ、けいやくはせいりつ、ということだな﹂
そう言って手を差し出すと、アリゼはその手を強く握ったのだっ
た。
581
第84話 銅級冒険者レントと口上
﹁別に構わんぞ。確かに暇なときは暇だしな⋮⋮お前の言う通り﹂
若干目を細めつつそう言われたのは、俺が孤児院から帰宅した後、
ロレーヌと夕食をとっているときのことだ。
何の話かと言えば、アリゼに魔術の教師をしてもらってもいいか、
という件である。
その際に、アリゼとした色々な話をロレーヌにしたわけで、その
中でロレーヌは結構暇だろ、という出来れば口にするのを避けるべ
きだった言葉をさらっと言ってしまったのだ。
口から外に出た後、あっ、と思ったものの、特に触れずにいてく
れたので流してくれたのかな、と思っていたらこれである。
完全に失敗した、これではお願いも通りそうもないな⋮⋮と肩を
落としていた中、こんな表情でも引き受けてくれたことに俺は感謝
する。
﹁すまない⋮⋮いや、ひまだっていいたかったわけじゃない。すこ
しじかんがあるかもなと⋮⋮﹂
俺がもごもごとそんな言い訳を話し始めると、ロレーヌは顰めた
じと目から、ふっと笑って手を振り、
﹁分かってる⋮⋮冗談だ。全く。しかし世の中には冗談の通じない
女と言うのもいるからな。よくよく気を付けることだ。お前は冒険
者とはすんなり仲良くなれても若い娘の気持ちと言うのを分かって
ないからな﹂
582
と注意された。
少しじゃれただけらしい。
俺は良かった、とほっと心をなでおろす。
ミスリル
それにしてもロレーヌのアドバイスは的確かも知れない、と思う。
俺は今までずっと、神銀級を目指して人生をそれに捧げて頑張っ
てきたわけで、そのためには才能が例えないとしても、あらゆる努
力を惜しまなかったつもりだが、その中には当然、若い女性に対す
る正しい態度、なんて科目はなかった。
まぁ、あの頃の俺の実力では無理だったにしても、いつかランク
が上がれば貴族などに呼ばれることもありうるため、貴婦人に対す
る対応や礼儀については勉強していたし、ある程度身に着けてはい
たが、一般的な女性に対する機微には欠けるところがかなりある、
というのは自覚していた。
意識的に振る舞えばある程度格好はつけられるし、何を言っては
めっき
まずいのかも理解できてはいるのだが、こう、少し親しい間柄にな
ってしまうと途端に鍍金が剥がれてしまってつい余計なことを口に
してしまい、こんなことになるのだ。
これは気を付けていかなければな、と深く思った。
﹁⋮⋮ごちゅうこく、かんしゃする。しかし、こんなみためじゃ、
わかいむすめとなんて、ほとんどかかわらないきもするけどな⋮⋮﹂
今の俺は黒いローブの不気味な骸骨仮面である。
一体どの世界の若い娘が俺に近づこうと言うのだろうか。
少なくとも俺が若い娘であったら、こんなもの確実に遠巻きにす
る。
道を歩いている、仮面ローブ男、花を売っている少女、話しかけ
る仮面ローブ男⋮⋮。
﹁も、もし、おおおじょうさん⋮⋮﹂
583
﹁ひっ⋮誰か! 誰かぁ!! 助けてください!﹂
﹁ち、ちがうんだ! お、おれはただはながほしいだけ⋮⋮﹂
﹁ひぃぃぃ! あの男が! あの男が花が欲しいと!﹂
そして花の意味を曲解されて捕まる仮面ローブ男。
弁解? 意味不明なことを供述しており⋮⋮。
⋮⋮ダメだな。
絶対に街中で若い娘に話しかけるのはやめておこう。
そんな妄想をしていると、ロレーヌが、
﹁おいおい、若い娘はここにいるじゃないか。ほれ﹂
と自分の顔を指さして言う。
俺は首を傾げ、指の先を見て、
﹁⋮⋮どこだ?﹂
と尋ねると、ロレーヌが手をぐーにして、
﹁お前⋮⋮いくら私が温厚でもそのうちブチ切れるぞ? 二十四の
娘を見て、言うに事欠いてそれか? ⋮⋮ふむ。そう言えばここに
最近開発された強力な呪術の解説書が⋮⋮﹂
と言いながら杖を片手に何か怪しげな本を探し出したので、俺は
慌てて止める。
﹁ま、まてっ! わかい! わかいから! ろれーぬはわかいむす
めだ! しんせつのようなしろいすはだに、ちょうこくをきりだし
たかのごとくきんせいのとれたしたい、おぉ、それにくわえて、び
のかみにうつくしさのたいげんとしてつくられたみずうみのせいれ
584
いすらもこうべをたれるだろううつくしいかおだち! がくもんの
かみにあいされたそうめいなずのうに、せいじょをみまがうがごと
きやさしさにみちあふれたせいかく! どれをとっても、ろれーぬ
はわかいむすめのみほんそのものだ!﹂
こういうときはとにかく褒めた方がいい。
そうしないと死後の世界がその後ろにひたひたと迫る足音が徐々
に大きくなっていくだろう。
それを避けるためには恥も外聞も捨て、とにかく目の前に立つ女
をほめたたえることだ。
それが出来なかったら?
そんなの言わなくてもわかるだろ?
とは、以前酒場で一緒に酒を飲んでいた既婚者の男性冒険者だ。
妻の尻に敷かれていつも管を巻いている、がオシドリ夫婦で有名
で、その秘訣を聞いた時に出てきた言葉がそれだった。
あいつ、元気なのかな⋮⋮どこかで宿を開いたとか聞いた気がす
るが⋮⋮。
そんなことをうすぼんやりと考えながら口にした言葉だったが、
ふと、ロレーヌの顔を見ると、彼女は俺の方を見つめ、停止してい
た。
⋮⋮?
なんだろう。
ロレーヌはそして、俺に向かって口を開く。
﹁⋮⋮お前、その口上は一体どこで覚えたんだ?﹂
その表情は呆れたようではあったが、先ほどのような怒りじみた
ものは感じられず、俺は少しほっとした。
俺は言う。
585
﹁どこでって⋮⋮べつにどこでもないぞ。みちなかをあるいていれ
ば、にたようなこといってるやつはみかけるし、えんげきなんかで
もちかいことはいってるだろうが⋮⋮きほんてきには、ただおもっ
たことをいっただけだ﹂
﹁思ったことだと? お前⋮⋮そこら中の女にそんなことを言って
るのか?﹂
驚いたようにそう言ったロレーヌに、俺は首を振る。
﹁まさか⋮⋮そんなばめん、みたことないだろ?﹂
ロレーヌほど気心知れた相手ならともかく、そこら中の女にこん
なことを言って歩いていたら色々と疑われるだろう。
言うはずがない。
俺の言葉にロレーヌは少し考え、それから納得したようにうなず
いて、
﹁⋮⋮まぁ、そうだな。いや、すまん、なんだか妙に慣れているよ
うに聞こえてな⋮⋮﹂
﹁なれてたらいまごろおれはぼうけんしゃなんてやってないで、ど
こかのいなかにだれかとひっこんで、てきとうなざっかやでもやっ
てるさ。それくらいのたくわえはがんばればどうきゅうでもためら
れるしな﹂
﹁だろうな⋮⋮安心した﹂
﹁あんしん?﹂
586
どういう意味か、と思って首を傾げると、ロレーヌは、
﹁あぁ⋮⋮お前が色魔でなくて良かったなと﹂
と結構ひどいことを言う。
が、先ほど言った台詞を考えるとそう言われても仕方がないかも
しれない。
台詞の選択があまり良くなかったな。
彫刻を切り出したかの如く均整の取れた肢体、とかは相当いやら
しい目で見ているようではないか。
改めて思い出し、申し訳なくなった俺は、ロレーヌに、
﹁⋮⋮いや、わるかった。そんなつもりじゃなかった﹂
﹁それこそ分かってる。まぁ⋮⋮そういうのも含めて若い女には注
意することだな⋮⋮おっと、まだ食べるか? 皿が空だが﹂
ロレーヌがふと気づいたように俺の皿を見る。
そこには先ほどまでロレーヌの作った料理が入っていたが、やは
り彼女の血入りだからだろうか、非常においしくてすぐに食べ終わ
ってしまった。
最近よく料理を作ってくれるロレーヌだが、その理由は家事が好
きになった、とかではなく、俺の体調管理と言うか、健康状態を観
察したいかららしい。
つまりは、研究目的だ。
まぁ⋮⋮ロレーヌらしい。
俺は彼女に頷いて、
﹁まだあるなら、たべたいな。どこにある?﹂
587
と、皿を持って料理を取りに行こうとしたが、ロレーヌが、
﹁いや、私が持って来よう。鍋が二つだから分かりにくいだろう﹂
とさらりと言って、皿を俺から奪い、キッチンに行ってしまった。
その後姿は何か妙に弾んでいるような気がしたが、まぁ、気のせ
いだろう。
◆◇◆◇◆
キッチンに辿り着いたロレーヌは、ふと、壁に貼り付けてある鏡
が目に入った。
そこにはいつものように冷静な顔をした自分の表情が映っている。
しかし、長く伸びた髪をかきあげ、ぴんと立った形のいい耳を見
ると⋮⋮。
﹁⋮⋮赤くなっているではないか。⋮⋮酔ったかな﹂
食事をしつつ、ワインを口にしている。
たしかにその可能性もないではないが、ロレーヌはかなり酒精に
強く、どれだけ飲んでも顔に出たことは無い。
当然、耳にも。
だから論理的に言ってその推論は間違っているのだが、自分の心
の中でそれを否定するのは何か危険な気がして、
﹁⋮⋮飲み過ぎは良くないな、飲み過ぎは⋮⋮﹂
そう一人呟きながら、レントの皿に丁寧に料理を盛り付け、そし
て食卓へと戻っていく。
588
その足取りは、やはり若干弾んでいるが、それを確認し、指摘す
る者はどこにもいなかった。
589
第85話 奇妙な依頼と依頼主
ギルド
次の日。
冒険者組合に入ると、慌てた様子のシェイラが近寄ってきて、
﹁れれ、レントさん! ちょっと!﹂
と、話しかけてきた。
俺は先日のタラスクの素材の扱いがどうなったか、とりあえず尋
ねに来ただけだったのだが、そういうわけにもいかなさそうなこと
をそれで察する。
﹁⋮⋮どうしたんだ?﹂
俺がそう尋ねると、
﹁とりあえず、こちらに⋮⋮﹂
ギルド
と言われて、奥の部屋に通された。
そこは冒険者組合に設けられたいくつかの応接室の一つで、冒険
者と言うよりかは依頼主向けにある部屋である。
依頼内容が複雑で細かい相談が必要な場合や、依頼自体の規模が
大きい場合などにこの部屋に依頼主を案内して話し合う訳である。
まぁ、つまりは基本的に依頼主がある程度以上の経済力か権力を
持っている場合に使われる部屋と言うことである。
必ずしもそれだけではないということは、今、俺が通されている
ことからも分かるが、秘密の話をするにはもってこいの部屋なのだ。
そんなところに俺を通した理由は⋮⋮?
590
シェイラは口を開く。
手には一通の依頼書を持ちながら。
﹁⋮⋮レントさん。あの、レントさんって、ラトゥール家の方とお
知り合いだったんですか?﹂
おずおずとした口調で、されたその質問に、俺は首を傾げる。
なぜなら、その家名に俺は聞き覚えがないからだ。
だから正直に言う。
﹁⋮⋮いや? なぜそんなことをきく? そのいらいしょか?﹂
するとシェイラは首を傾げつつ、依頼書を、
﹁ええ⋮⋮実は、レントさんに指名依頼が入ってまして⋮⋮﹂
と言いながら渡してきた。
俺はそれを受け取り、内容を読み込む。
そこには︽タラスクの沼︾で週一度定期的に︽竜血花︾を採取す
ることと、ついこないだまでスライムやゴブリンを狩りながら生計
を立てていた俺からすれば信じられないほど高額の報酬が記載して
あった。
そして、その依頼者の名前は⋮⋮。
﹁あぁ、なにかとおもえば、いざーく、からのいらいか﹂
あの︽タラスクの沼︾で出遭った男、イザーク・ハルトの名前が
記載してあった。
この俺の反応に、シェイラは、
591
﹁⋮⋮やっぱりお知り合いなんですね⋮⋮﹂
と驚いたような、唖然としたような、そんな表情で俺を見ている。
なぜそんなに驚いているのか、と思うが、それは先ほど彼女が言
った家名に関係するのだろう。
そして、イザークは主がいるという話をしていた。
そこからすれば、話はなんとなく想像できる。
﹁いざーくがつとめているいえが、その、らとぅーる、といういえ
なのか?﹂
そういうことだろう。
俺の推論はどうやら正解のようで、シェイラは頷く。
ギルド
﹁ええ⋮⋮ラトゥール家はこの都市マルトでも古い家系で、その運
ギルド
営に昔から関わっているんですよ。冒険者組合との付き合いも長い
みたいで⋮⋮マルトの冒険者組合が珍しく気を遣わなければならな
い相手と言うか﹂
その言い方に色々と奥歯に物が挟まったようなところがあること
が、なるほどラトゥール家の都市マルトにおける権力のようなもの
を示しているように感じられる。
しかしイザークはそこまで悪い印象は受けなかったけどな。
気になって俺は尋ねる。
﹁なにか、けんりょくをふりかざして、いたけだかなようきゅうを
してくるようないえ、なのか?﹂
﹁いえ、それは違います。むしろ、最近はかなり穏やかと言うか、
ほとんど干渉はしてきませんね。ただ、マルトにおける発言力が衰
592
えたわけではないので、やはり気を遣うという感じで⋮⋮﹂
やはり、その説明は曖昧なところが多かった。
そもそも⋮⋮。
﹁らとぅーるけ、というのはきぞくなのか?﹂
この国ヤーラン王国にも当然、貴族はいる。
上から公侯伯子男という順番で爵位の序列が決められている。
まぁ、そもそもが田舎国家であるから、公爵が農作業をしていた
り伯爵が商売していたりとあまり大きな国と比べると自由と言うか
貴族感の薄い愉快な人たちが多いのだが、それはとりあえず置いて
おこう。
俺の質問にシェイラは、
﹁そうではないようですね。ただ、古い家、というだけです。古く
からこの街にあり、その運営に多大なる寄与をしてきた。そう聞い
ています。だから、無下に扱ってはならないのだ、と。この都市マ
ギル
ルト一帯を治める領主のロートネル子爵もラトゥール家とは繋がり
ド
が深いと聞いていますが⋮⋮正直なところを言いますと、冒険者組
ギルドマスター
合職員でもある私にも詳しくはよくわからない家なんです。何かと
秘密主義と言うか。でも冒険者組合長は絶対に粗相がないようにと
強く言うもので⋮⋮今回のこの依頼についても、レントさんがまず
いことをしないようによく言っておけと言われまして﹂
﹁⋮⋮いったいなにものなんだ﹂
﹁ですから、詳しいことは分かりません。でも、マルトの運営に昔
から関わっている古い家系で、領主一族と深い親交がある、という
だけですでに粗相は出来る相手ではないです。つまり、レントさん、
593
この指名依頼はマルトで生きていくつもりなら断ることは出来ませ
ん﹂
シェイラはそう断言した。
⋮⋮酷い話である。
ただ︽タラスクの沼︾で会っただけなのに、とんでもない者とか
かわりを持ってしまったらしい。
まぁ、そもそも断る気はない。
報酬もいいし、依頼主はそのラトゥール家ではなく、イザーク・
ハルトなのだ。
彼は依頼について内容を見て、納得したら受けてくれと言う話を
ギルド
していた。
冒険者組合としては絶対に断ってほしくはなさそうだが、断りた
いなら実際に会って、無理だと言えばおそらく納得してもらえるだ
ろうと思われた。
いつもの依頼受注と大して変わらず、俺としては問題は感じない。
ギルド
ただ、イザークの仕えるラトゥール家が一体どんな家なのか、そ
の詳細については気になるところだが⋮⋮冒険者組合職員でも下っ
端には教えてくれないと言うのだ。
知りたいなら本人に尋ねるしかないだろう。
周りの冒険者や知り合いに尋ねてみる、という方法も思いつかな
いわけでもないが、俺はこのマルトで十年冒険者をやってきた。
大した腕はしていなかったのは間違いないが、少なくともマルト
のことについてはそれなりに知っているつもりでいた。
それなのに、俺はラトゥール家については知らない。
都市運営に関わる古い家なんて、いくつも知っているが、しかし
その中にラトゥールの名前はないのだ。
一体⋮⋮。
まぁ、その辺はイザークが知っているだろう。
594
教えてくれるかどうかは分からないけどな。
色々と考えた俺は、シェイラに言う。
﹁いらいをことわるつもりはない。︽たらすくのぬま︾で、いざー
くともはなしたしな。あそこにいって、︽りゅうけつか︾をとって
くることは、おれにはそこまでたいへんでもないこともわかった。
だから、うけるさ﹂
﹁本当ですか? でも⋮⋮大丈夫でしょうか。その、レントさんは
⋮⋮﹂
その先は言わなかったが、彼女の言いたいことは理解できる。
俺が魔物であるのに、ラトゥール家、などというおそらくは都市
マルトの上層部と深いつながりのある家と関わっても平気なのかと
いうことだ。
もしばれれば、俺はマルトから追放されるどころか、マルト中の
人間から狙われてしまう可能性がある。
最終的に行きつくところは、それこそ討伐ではないか。
そう思ったのだろう。
しかし、俺は首を振る。
﹁このみためでは、そうかんたんには、わからないからな。じじつ、
いざーくも、あったときはきにしてなかった﹂
あのとき指摘されなかった以上、改めて俺の格好を問題にすると
も考えにくい。
問題があるとすれば、ラトゥール家の当主とかに会わせられて、
その際に仮面やローブは失礼だ、と言われることだろうが⋮⋮酸で
595
焼かれて醜いのでそちらの方が礼を失するとかなんとかいえばどう
にかなるだろう。
無理ならそれこそ依頼自体断ってしまえばいい。
イザークも、自分で言ったことをひっくり返したりはしないだろ
う。
そういうことをしそうなタイプには見えなかった。
シェイラはそんな俺に、
﹁⋮⋮何かあったら、言ってくださいね。私に何が出来るか分かり
ませんけれど、可能な限り、力になりますから﹂
そう言ってくれたので、俺は頷いて、シェイラの肩をぽんと叩き、
応接室を出たのだった。
596
第86話 奇妙な依頼と庭園
︱︱完全に迷った。
俺がそう思ったのは、依頼の詳細を話そうと、イザークのところ、
ギルド
つまりはラトゥール家を訪ねてしばらく経った頃だった。
ラトゥール家の位置については、冒険者組合で渡された依頼票に
しっかりと記載してあり、場所は都市マルトの郊外と言うことで周
囲に家もなく、分かりやすかった。
そのため、迷うこともなくすんなりとたどり着けたところまでは
良かったのだが、問題はそこから先だった。
相当に巨大な屋敷で、かなり広そうな庭の向こう僅かに屋敷が覗
いていた。
それは別に地方都市の古い家としては珍しい光景ではないのでよ
かったのだが、その庭が問題だった。
ラトゥール家の歴代当主のうちの誰かの趣味なのか、入り口から
屋敷に続く道は全く一本道ではなく、入り口から一歩足を踏み入れ
ると、もう周囲の景色はほとんど見えなくなった。
なぜかと言えば、そこはおそらくは薔薇の一種と思しき植物で作
られた高い生垣に囲まれていて、見えるのは緑色に色づいたそれだ
けだからである。
それが直線的な組み合わせの通路を形作っていて、少し進んだ先
でかくりと曲がっている。
更にそこを曲がってもその先にはまた、進路は曲がるか分岐して
いる。
そんなことが延々と続くのだ。 つまり、どう見ても迷路なのだった。
実際、中に入ってしばらくは普通に進んでいたが、結局俺は完全
597
に迷ってしまったわけだ。
屋敷を入る前のことを、俺は庭園の生垣に囲まれた中で考える。
俺はラトゥール家に依頼の内容について詳しく聞きに来ただけだ。
当然、ただ、依頼の内容について知りたいだけで、それなのにこ
んなものに時間はかけたくないと、屋敷の入り口を無言で守る門番
に色々と尋ねることにした。
すでに依頼票は見せてあるから、俺が中に入るのに異論はないよ
うで、まっすぐに遠くを見つめて俺に気を払うこともないが、ここ
でこの状況について尋ねられるのは彼だけだ。
俺は言った。
﹁⋮⋮ほかに、いりぐちは、ないのか?﹂
門番は、ちらりと入り口の向こうに広がる薔薇の迷路を見て、首
を振り、
﹁⋮⋮ございません。いえ、あるのかもしれないのですが、私は知
りません﹂
と答えた。
その表情は実直で真面目なものであり、誠実に考えてから答えて
くれたのだと言うことは理解できる。
そしてそれだけに俺が感じた絶望は大きい。
つまり、屋敷に辿り着くためにはここを抜けなければならないの
だ。
﹁⋮⋮どれくらいかかるものなんだ?﹂
﹁屋敷までですか? ⋮⋮それは、人による、としか⋮⋮。定期的
598
に道順も変わっているようで、これと決まった攻略時間は⋮⋮﹂
と申し訳なさそうな声で門番は言う。
定期的に道順の変わる庭園迷路とは、それってもはや迷宮だろう
と突っ込みたくなるのは俺だけではないのだろう。
門番は、
﹁そう言った特殊な魔道具があるようです。ラトゥール家の当主は
代々、魔道具集めが趣味のようで、これもそのうちの一つを使って
作り上げられたとか﹂
そんなものがあるのか、と俺は少し驚く。
しかし別にありえない話でもない。
魔道具とか聖具、気物、呪物などと呼ばれる道具は職人によって
つくられるものと迷宮から産出するものがあるが、その規格と言う
か、種類には一定のものについては統一性があるのだが、特殊な品
も多い。
統一性のあるもの、というのはたとえば灯火の魔道具など、一般
に使用頻度が高く、また単純な機構のものであり、こういったもの
は大量生産がある程度利くので、比較的価格が安い傾向にある。
特殊な品と言うのは、それこそ一品もので⋮⋮ある意味俺の仮面
やローブなどがそれに当たるだろう。
効果も非常に特殊で、価格はピンキリだ。
何の用途をなすのかよくわからないものもあれば、非常に有用な
ものもあるなど、玉石混交であり、価値は見るものによって様々だ
からである。
俺の仮面だって、まぁ、結果的に俺からすればかなり有用で都合
のいい魔道具ということになるが、そもそもこれは二束三文で売ら
れていたものだ。
売っていた露店の店員からすればそれこそ全く要らないもので、
599
価値の低いものだった、というわけだ。
まぁ、一旦身に着けたら外れない呪われた仮面の扱いなんて、露
店の店員の方が正しいだろうが、俺は運が⋮⋮良かったのか悪かっ
たのか今一わからない。
﹁つくるのはじゆうだが、そのしゅみをのりこえなければならない
のはたまらないな⋮⋮﹂
俺がうんざりしながらそう呟けば門番は笑って、
﹁お気持ちは分かります。ただ、迷った場合には一定時間が経過す
ればここまでの一本道が出現するようですので、あまり気負いせず
に挑まれてみては?屋敷に辿り着いた方には何かしら魔道具を差し
上げているようですし﹂
そう言った。
何か門番の口調は伝え聞いたことをなんとなく話している、とい
う感じで不思議な気がしていると、そんな俺の気持ちを理解したの
か、門番は言う。
﹁私も昔、挑んだんですよ。お客様が来ない限り、この門はいつも
閉まっているんですが、そのときは開かれていたんです。なぜって、
街中に迷路を攻略すれば魔道具を一つ進呈する、と書いてある張り
紙があったもので⋮⋮ラトゥール家の地図もありました。それを見
つけて、ここまでやってきたわけですね﹂
まぁ、ラトゥール家がちょっとした遊びか何なのか、気まぐれで
そんなことをやったのだろうということは分かる。
ある程度以上、財力のある家、というのは思いついたかのように
よくわからないことを始めたりするものだからな。
600
一般的なのはパーティを開くことだが、そういうのに飽きた一歩
進んだ者たちは余人には理解しかねることをする。
その一環だったのだろう。
門番は続ける。
﹁もちろん、街中に張ってあった張り紙を見たのは私だけではない
ですから。他にも何人か人はいました。で、先に迷路に入って行っ
て⋮⋮でもしばらく経つとみんなとぼとぼ戻ってくるわけです。話
を聞けば、途中で道が分からなくなった、と。それで途方に暮れて
いると、生垣の一部が動いて、入り口までの一本道が開いたらしい
のです。初めて聞いた時はそんなことが出来るのかと驚きましたが
⋮⋮魔道具を使っているのですからそれほど不思議でもないですね。
それで、私もきっと無理だろう、と思いつつ、帰って来られるとい
うことはなさそうだなと安心しながら挑んだんですが⋮⋮﹂
﹁ごーるにたどりつけたわけか﹂
﹁ええ。完全にまぐれで、もう二度と無理だろうと言う気はします
けど。それで、何か魔道具を、とラトゥール家のご当主にいくつか
良さそうなのを並べて頂いたのですが、その当時、私はお恥ずかし
ながら、失業していて⋮⋮魔道具はいいから雇ってもらえないかと
頼んだんです。そうしたら⋮⋮﹂
﹁やとってくれたと。なるほどな⋮⋮﹂
まぁ、これだけ広大な敷地と遠くからも見える屋敷を持ち、かつ
魔道具を収集してなお資金が尽きないような家だ。
門番一人雇うくらい余裕だろう。
しかし、この門番、かなり真面目そうで、そうそう首になりそう
には見えないが⋮⋮。
601
﹁ちなみに、しつれいかもしれないが、なぜ、しつぎょうしたんだ
?﹂
﹁上司に逆らいました。もう少しうまく世の中を渡るべきだった、
と反省しています。まぁ、そのお陰でここに就職できたので、真面
目に生きていればいいことがあるのかも、とも思いますが﹂
﹁まじめにいきてればいいことがある、か。いいことをいうな⋮⋮﹂
俺も、真面目に頑張っていればいつか人間になれるのだろうか。
少なくともこうなる前も真面目には生きてきたつもりだが。
しかし食われて結果として強くなれる素質を手に入れたのだから、
全てが悪かったわけでもない。
人生は糾える縄のごとし、ということか。
男に妙な共感を覚えた俺だった。
﹁さんこうになるはなしだった。では、おれもいどんできてみるこ
とにする⋮⋮せんこうこうりゃくしゃとして、なにかあどばいすは
ないか?﹂
迷宮探索者がよく、先行する探索者に尋ねる質問である。
男もその冗談がよくわかったのか、笑みを深くし、それから言っ
た。
﹁そうですね、太陽はあてになりません⋮⋮というところですかね﹂
その言葉に俺は首を傾げたが、どんなアドバイスでも先輩の助言
というのは役に立つことが多い。
ありがとう、と言って、それから俺は庭園迷宮に足を踏み入れた。
602
第87話 奇妙な依頼と庭園広場
︱︱しかし、凄いな。
完全に迷った庭園の中で、俺は頭を抱えつつ周囲を見渡し、そう
思う。
なにせどちらを見ても薔薇の生垣と、そして今まで通って来た道、
それにこれから向かうべき分岐路しか見えないのだ。
こんなものを作り出す魔道具を一体何のために造ったのか⋮⋮と
いう気もするが、それを言うのは野暮と言うか、魔道具と言うのは
基本的にそういうものだ。
むしろ、目的を持って作られるものの方が本質から外れている。
もちろん、現在では魔道具職人と言うのは便利なものを作る職人
であり発明家であるが、初期の頃は胡散臭く、かつ無駄なことをす
る詐欺師か何かのように見られていたと言われている。
そもそも、歴史的には迷宮から産出する不思議な道具を人が模倣
し始めたことから始まった、と言われているが、そのオリジナルの
方は本当に不思議な道具、としか言いようがないものが多いことが、
その歴史が真実であると裏付けている。
ぼんやり光っているだけ、とか、触れると甲高い笑い声を上げ続
けるだけ、とかそういう魔道具が少なくないのだ。
それでも、分解するなどして、他の魔道具を作る際の材料として
使用する分にはかなり有用なので、高値で引き取ってくれるが、魔
道具とはそういうものだということがよくわかる話である。
そのことを考えれば、この薔薇の迷路を作り出している魔道具は
しっかりとした用途があるだけ、意味があるだろう。
それにしても、この庭園は相当広い。
603
これだけ広大な迷路を維持し、また改変できるだけの魔道具とな
ると、相当に魔力も使うはずだが、その辺りに問題はないのだろう
か。
まぁ、湯水のように金を使える財力があるのなら、その時点で魔
石を買い漁ればいいだけなので、いらぬ心配かも知れないが。
⋮⋮あまりにもどっちがどっちだか分からなくなっているため、
現実逃避にこの庭園を形作っているだろう魔道具について色々考察
してみたが、何か状況が変わるわけでもない。
本当に迷った。
どうにもならない⋮⋮どうしよう。
そう思っていると、突然、ふっと開けた場所に出たので俺は驚く。
﹁⋮⋮ここは⋮⋮?﹂
そこは、周囲を生垣に囲まれた場所で、それだけなら今まで歩い
てきた通路と同じだが、異なるのは明るさと、そして生垣の中に薔
薇の花がかなり咲いているのが見えることだろう。
別に今まで進んできた道の薔薇が一切咲いていなかったという訳
ではないのだが、ぽつりぽつりとしたもので、配置も自然のまま、
配色も特に選んだわけではないような無造作なものだった。
しかし、ここは違う。
かなり沢山の薔薇が咲いているうえ、生垣自体がしっかりと手入
れされているのも分かるし、それに加えて、その中心部には場違い
な⋮⋮いや、むしろ合っているのか⋮⋮貝殻的な装飾を主に用いた
豪奢なテーブルと、白磁をベースに作られたティーセットが置かれ
ており、そしてテーブルの脇にある椅子には一人の人物が腰かけて、
その高そうなティーカップを優雅に手に持ち、口に運んで紅茶らし
きものをゆったりとした仕草で飲んでいた。
604
その人物は、俺に気づくと振り返り、そして尋ねた。
﹁⋮⋮諦めますか?﹂
それでなるほど、と思う。
俺が完全に迷ったことを察して出てきた、ラトゥール家側の人物
なのであろう、と。
その人物の見た目は、背の低い、十二、三歳の少女で、どこか現
実離れをした雰囲気を持ってた。
目はふわりと遠くを見つめているようであり、身に付けているも
のは歩きにくそうな、フリルを多用した黒色のドレスだ。
肌は白く、瞳は青い。
どこか不健康な雰囲気が漂う気がするが⋮⋮それが退廃的で、何
とも言えない貴族的な空気を醸成しているように感じられる。
俺はそんな彼女に、答える。
﹁⋮⋮いや、もうすこし、がんばってみようとおもっているが⋮⋮
だめか?﹂
すると少女は、ふっと微笑む。
そうすると、無表情でいるときよりも幼さが強調されて、年相応
の雰囲気に見えた。
俺の主観だが、無表情よりかはこっちの方がいい気がするな。
まぁ、どうでもいいか。
メイズ
﹁では、あちらに向かってください。迷路は続きます。ご休憩され
たければ、一緒に紅茶でも如何ですか? いくつかお茶請けもご用
意させていただいております﹂
605
至れり尽くせりの言葉に、俺は少し悩みつつも、まぁ、急いでい
るわけでもないし⋮⋮と自分に言い訳しつつ、椅子に腰かけた。
﹁⋮⋮いただこう﹂
﹁はい。では⋮⋮﹂
自分で紅茶を入れようと思った俺が、ポットに手を伸ばそうとす
ると、少女が先んじてそれを手に取り、淹れてくれる。
ポットに湯を注いでいるが、その湯を作り出しているのは魔道具
であり、また、ポット自体にも魔力を感じる。
ティーカップには特に何も感じないが⋮⋮このラトゥール家が魔
道具収集を趣味としているというのは事実であるようだ。
こういった、紅茶関係の魔道具は需要が高く、かつ中々見つから
ないのでオークションに出されてもすぐに買い手がつくし、値段も
ちょっと考えれないほどに高くなることが多いからな。
収集家が多く、競争率の高い魔道具のジャンルの一つである。
もちろん、その競争に参加するのは多くが貴族だが、好きな者は
平民にもいる。
多少お金があれば、一つくらい手に入れられないものか、とは多
くの者が考えるのだ。
そんなジャンルの魔道具をこうして持っていて、無造作に使って
いるというのは⋮⋮やはり相当な財力がなければ厳しい。
﹁どうぞ。こちらのポットは、お気づきの通り魔道具で、一度入れ
た茶葉であれば、次は要れなくとも魔力さえ注ぐと、その茶葉が再
現されるというものです﹂
⋮⋮そんなとてつもないポットとなると、競争率が高いなどと言
うものではないだろうな、と思った。
606
オークションは俺も冷やかしでたまに行くことがあるが、たまに
出る紅茶用のポットの効果と言えば、入れた湯が冷めないとか、細
かな茶葉が淹れ口の外に出ないとか、その程度のものだ。
あとは、耐久力が高いとか。
それなのに、これは⋮⋮。
いくらするんだ。
手に持ったティーカップすら震える。
これは魔道具、というわけではなさそうだが、模様や質感がポッ
トのそれと同じだ。
薔薇と、蔦が精緻に描かれたまさにここで紅茶を飲むときのため
のようなもの。
つまりこれは、ポットに合わせて職人に造らせた、ということな
のだろう。
磁器の製法を知っていて、それをこのレベルまで消化しているの
は一部の高い技能を持った職人たちだけである。
何が言いたいかというと、魔道具でなくても間違いなく高い。
俺が壊したら弁償できないレベルで。
そんな俺のティーカップを見る視線に気づいたのか、目の前の少
女はふっと笑って、
﹁壊しても大丈夫ですよ。もちろん、思い切り地面に叩きつけられ
るのは困りますが、わざとでなければ特に怒ったりも致しません。
安心して、ゆるりとお寛ぎを﹂
そう言ったのだった。
そんな少女の口調にも瞳にも、嘘は一切含まれておらず、あぁ、
金持ち喧嘩せずっていうのはこういうことなんだな、と貧乏が染み
ついていた俺は心のそこからそう思ったのだった。
607
第88話 奇妙な依頼と紅茶
ティーカップをゆっくり口に運ぼうとすると、目の前の少女が俺
を凝視しているのに気づく。
﹁⋮⋮なんだ?﹂
俺がそう尋ねると、少女は、
﹁いえ⋮⋮どうやって紅茶を飲まれるのかな、と思いまして﹂
﹁あぁ⋮⋮﹂
基本的に外すわけにはいかないから食事時すらまず外さない仮面
である。
今も外すつもりはなく、しかしそれは少女の目から見るとかなり
奇妙に感じられるらしかった。
しき
まぁ、もちろん外した方が呑みやすいのだが、しかしそれは無理
だ。
俺は屍鬼である。
そういった魔物であることを人に見せびらかすわけにはいかない
以上、これは外すわけには行かない。
かといって、いつもロレーヌと食べているときにやっているよう
に、仮面の下半分だけを素肌が見えるような形状に変えるのも憚ら
れる。
大人相手ならまぁ、火傷が酷くて見苦しいけれど我慢してくれ、
で何とか見せることも出来なくもないが、今俺の目の前にいるのは
十二、三歳の少女だ。
608
しき
流石に俺の顔の下半分はグロテスクに過ぎる。
そもそも、この屍鬼の体の中でどこが最も気持ち悪いかと言えば、
まさにこの顔の下半分だ。
唇などない、むき出しの歯と歯茎、枯れ切った素肌、一目見た瞬
間、即座に骸骨を連想するだろう。
いや、骸骨そのものよりも悍ましいかもしれない。
中途半端に人に近づいた俺の顔は、筋肉そのものがむき出しであ
り、その動きがありありと外側から見えたりするのだ。
ただの真っ白な物言わぬ骸骨の方が、よほど衝撃は少ないだろう。
そんなわけで、見せるわけにはいかないのあ。
では、どうするかと言えば⋮⋮。
﹁⋮⋮それは、魔道具ですか?﹂
俺がやった行動に対して、少女はそう尋ねてきた。
つまりは、仮面の形状変更だ。
しかし、下半分全てを取り払う形ではなく、口の部分に僅かに紅
茶を注ぎ込めるだけの隙間をあけたのである。
恒常的にその状態を維持することは出来ないが、ほんの数秒程度
なら出来るのだ。
あんまり長くやろうとするともとに戻ってしまうが、紅茶を飲む
くらいなら数秒で十分である。
紅茶を口に運びつつ、言う。
﹁まどうぐ、というよりは、じゅぶつ、にちかいようだ⋮⋮まると
のろてんで、しりあいがかったんだ﹂
俺の言葉に少女は目を見開き、そしてきらきらとさせて言った。
609
﹁マルトにそんな面白そうなものが⋮⋮。あの、申し上げにくいの
ですが⋮⋮譲っていただくことなど出来たりは⋮⋮?﹂
ラトゥール家には魔道具の収集癖がある。
その話はどうやら真実であるようだ、とこの少女の様子でよくわ
かる。
少女が一体ラトゥール家のどういった立場の人間なのかは分から
ないが、少なくともイザークのような仕える方ではなく、仕えられ
る方に属することは間違いないだろう。
そしてそんな彼女が言うのだ。
この仮面を譲る、と言えば結構な金額を払ってくれそうだが⋮⋮
と思っていると、少女はやはり、
﹁もちろん、お代の方は十分にご満足いただける額をご用意します
⋮⋮いかがですか?﹂
と言って来た。
俺としては、譲りたい。
譲りたいのだが、しかし、この仮面は今の俺にとって間違いなく
必需品なのだ。
これがあるがゆえに、仮面を外せと言われても呪われているから
無理だで通るのだから。
だから、少なくとも、この顔が人に見せられるようになるまでは、
誰かに譲るわけには行かない。
それに加えて、外そうと思っても外れないのだ。
どう頑張っても譲ることなど出来るはずがなかった。
俺は目の前に浮かぶ金貨の山の中でおぼれる自分の姿が少しずつ
遠ざかっていくのを断腸の思いで見守りながら、強い意志でもって
少女に首を横に振りながら言う。
610
﹁⋮⋮すまない。これは、かねじゃないんだ。ゆずることは⋮⋮﹂
かなり忸怩たる思いが声に滲んでいたのだろう。
少女は眉根を寄せて、何か同情的な視線を俺に向けて言う。
﹁いえ⋮⋮何か、深い思い出などあるのでしょうに、お金で譲れ、
などと無理を申し上げました。失礼を⋮⋮﹂
⋮⋮思い出?
いやいや、この仮面に宿った思い出なんて、さほどのこともない。
いきなり顔にくっついて外れなくなった悪夢の象徴のような存在
である。
今だってどう頑張ったって外れはしないのだから、余計に。
今の俺が感じているのは、思い出の詰まった品を手放す可能性を
考えての悲しみではなく、本当は手に入るはずの金が遠ざかってい
く絶望なのだが、それを口にするのは憚られた。
というか、少女のこの反応を見たあとに、そんなことを言って軽
蔑されたくはなかった。
お金は大事なんだけど。
﹁いや、きにすることはない。そんなもの、そとがわからみただけ
でわかるものではないからな。むしろ、きづかいにかんしゃする⋮
⋮﹂
そう、外側から見ただけでは、俺の金に対する執着の醜さなど分
からない。
それをいいことに格好つける。
汚い大人になってしまった⋮⋮。
と思いつつ、まだ純粋そうな瞳を持った少女を見ると、彼女は、
611
﹁そう言っていただけると助かりますわ⋮⋮とこで、紅茶のお味の
方はいかがです?﹂
と、まさに上手に気遣って話を代えてくれた。
俺はそう言われて、口に運んでいた紅茶の味に意識を向ける。
⋮⋮なんか、すごい美味しい。
香りもいいし⋮⋮もしかすると、今までの人生で一番おいしい紅
茶かもしれない、という気すらしてしまう。
俺は正直に少女に言う。
﹁こんなにうまいこうちゃははじめてだ⋮⋮まどうぐの、おかげか
?﹂
﹁そうですね。ただ、茶葉自体は魔道具ではなく、作った農家の方
の力です。先ほど申し上げました通り、このポットは一度入れた茶
葉の味を何度でも再現できるものですから。つまり⋮⋮今淹れたも
のは、ずっと昔にこのポットに誰かが入れた茶葉の中で、私が一番
おいしい、と思っているもの、ということです﹂
それは、美味しいわけだ。
地域や場所により、毎年異なる出来になる茶葉である。
毎年常に、同じ味を味わえるわけではない。
しかし、このポットがあれば、いつでも好きな年代の好きな地域
で取れた好きな茶葉を飲めるのだ。
それはとてつもない話で、やはりお値段の方が気になってくる。
せいぜい、一度入れた茶葉の味を記憶して、その一種類を再現し
続ける、新たに茶葉を入れれば、その前に入れた茶葉の味は再現で
きなくなる、くらいの魔道具だと思っていたが、今まで入れたもの
全てを再現できるとなるとまた、話が変わってくるだろう。
これは究極のポットだ。
612
まぁ、毎年味が変わるのが楽しく、記憶の中だけにある味を思い
出したりするのが風流なのだという人間もいるだろうから必ずしも
誰もが価値を認めるという訳でもないだろうが、それでも多くの人
間が欲しがるのは容易に想像できる。
﹁いったいこんなもの、どこでてにいれたんだ?﹂
﹁二百年ほど前に、遠方の迷宮から産出したようですね。それを発
見した冒険者の方と直接交渉して手に入れました⋮⋮金額は、白金
貨で三百枚ほどだったとか﹂
﹁はく、きんか⋮⋮﹂
無理しなければ、一枚で一生遊んで暮らせるだけの価値がある白
金貨、それを三百枚⋮⋮。
たかがポットに払う額ではない。
しかし、ラトゥール家にとっては大した額ではないのかもしれな
い。
それだけ払って二百年経っても、これだけの家を維持しているの
だ。
さらに、マルトにおける影響力もそのまま保っている。
そこらの小さな貴族よりもよほど危険な家なのだろうな、とそれ
でよく理解できた。
それから、しばらく話して、俺は立ち上がる。
﹁もう行かれますか?﹂
少女が尋ねたので、俺は答える。
613
﹁あぁ⋮⋮たのしかったけどな。たぶんだが、またあとで、あえる
だろう?﹂
俺がそう尋ねると、少女は意味ありげにほほ笑んで、
﹁お分かりですか?﹂
そう答えた。
まぁ、彼女がラトゥール家のものだというのはもうほとんど自明
だ。
どの辺りの立場なのかは分からないが、イザークのように仕える
側でなく、仕えられる側なのも間違いない。
﹁なんとなくな。なまえは、そのときにきくことにしよう﹂
メイズ
﹁⋮⋮では、お気をつけて。迷宮の残りは、それほど長くはありま
せん⋮⋮少しヒントを。太陽は見ない方がよろしいかと﹂
﹁それはもんばんのおとこからもきいたな⋮⋮なんなんだか﹂
﹁あら? でしたら、余計でしたね。意味は考えてみてくださいま
せ﹂
﹁わかった⋮⋮﹂
それから、俺は広場を出ていく。
すると、俺が出た直後、広場の入り口はその周囲の生垣が動き出
して、閉じてしまった。
あらためて前後を見ると、そこに続いているのはどこまでいって
も迷路でしかない。
614
﹁⋮⋮ほんとうに、ながくないのかね⋮⋮﹂
俺はそうぶつぶつと呟きながら歩き出した。
早くゴールに着きたいな。と思いながら。
615
第89話 奇妙な依頼と惑わし
そもそも。
そう、そもそも、実は、迷うことがおかしい。
なぜなら、俺はこれで長くやって来た冒険者だ。
方向感覚は比較的ある方だし、この庭園迷路を歩きながら、頭の
中に地図を作ってはいた。
それなのに、なぜ、迷うのだろう。
それが分からなかった。
そこで問題になるのが、先ほどの少女や門番の言う、太陽をあて
にしてはならない、だろう。
門番に聞いた時は、単純に考えて、太陽の位置で方角を判断する
べきではない、ということかと思った。
だから、そのようにして歩いてきたのだが、結果は迷った。
改めて初心に帰ろう、と思い、太陽を見つめてみた。
﹁⋮⋮ふつう、のようなきがする⋮⋮﹂
太陽の位置は、特におかしくはない。
と、思う。たぶん。
やっぱり、あの助言は何の関係もないのか⋮⋮?
と、思っていると、迷路の角を曲がった次の瞬間、太陽の位置が
ずれた。
俺から見て、左側の上空にあったはずのそれが、角を曲がると同
時に正反対の位置に浮かんでいたのだ。
驚きつつも、気のせいではないかと思い、少し下がってみると、
616
やはり、太陽の位置はずれ、元の位置に戻っていた。
やはり、太陽をあてにするな、とはその位置を基準に方角を判断
してはならない、ということえ正しかっただろう。
しかし、そうなるとなぜこれほどまでに迷うのか⋮⋮。
いや、それで、俺はふと思う。
仕掛けが一つだ、と思いすぎているのではないか。
太陽の位置はあてにならない。
それは分かった。
そして他にも何か仕掛けがあって、そちらに俺は目が向いていな
い、ということでは。
門番が迷宮を探索したときは太陽にさえ気を配っていればそれで
よく、だからあのようなアドバイスになった。
しかし、今回はそうではないとしたら⋮⋮。
だとすると、あの少女の性格が少し疑わしいと言うか、中々に曲
者だったということになるな。
門番が俺にした助言を知った上で、同じ助言をして、それだけに
気を配っていれば大丈夫、と言いながら、他にも何か仕掛けをして
いたということになるからだ。
つまり、門番の助言は事実助言であったが、少女の助言はむしろ
俺を惑わすための罠だった、ということかもしれない。
確かに、どこか不思議な雰囲気と言うか、底知れない感じのする
少女だったからな⋮⋮。
そんな単純に攻略のヒントなどくれそうもないといえば納得でき
るような存在だった。
617
俺は、そのことを念頭に、また迷宮を歩き始める。
すると、まっすぐ進んでいて、ふと道が歪んだのを感じた。
それは僅かな違和感だったが、しかし、気を張っていたので確か
に間違いない、と思った。
景色は変わっていないように思えるが⋮⋮太陽を確認したときの
ように下がってみればやはり、何かが違う。
太陽の位置ももちろん変わっているが、これは当てにならないと
して⋮⋮どうするか。
少し立ち止まって考えてみて、足元を見てみると、手のひら大の
石が転がっているのが見え、思いつく。
石を拾って、違和感を感じた空間に投げてみた。
すると、投げた石は何の脈絡もなく、ふっと消えてどこかにいっ
てしまったのだ。
﹁⋮⋮まさか、くうかんてんい、か?﹂
それは、未だ人の手では実現することの出来ていない特殊な魔術
である。
しかし⋮⋮人の手で作ったものではないのなら。
可能性はないわけではない。
大体、この薔薇庭園を形成しているのが、迷宮由来の高度な魔道
具なのだろうから、その機能の一つとして、それくらいのことが出
来てもおかしくは、ない。
が、そんなもの個人で持てるようなものではないと思うのだが⋮
⋮。
いや、そこは考えても仕方がないか。
とりあえず、出来るものとして考えよう。
618
そうでなければ永遠に迷路を攻略できない気がした。
俺は改めて、石が消滅した空間をくぐる。
景色は変わっていないように見えるが、実際は変わっていること
がはっきりした。
消えたはずの石がそこには落ちていたからだ。
また振り返って投げてみれば、消える。
やはり、この場所を通ると、転移してしまうようだ。
しかも極めて似た場所、パッと見では全く同じ場所にいるように
錯覚するような場所に。
これでは迷路を攻略できないのも道理である。
俺が頭の中で作って来た地図は、すべての道が繋がっている前提
で作り上げたものだ。
それなのに、実際の道は飛び飛びなのだろう。
これではな⋮⋮。
自分がもう、どこを歩いているのかすら、定かではない。
ゴールになど、たどり着けるはずがなかった。
しかしだ。
ここからは違う。
今ここをスタート地点として、改めて地図を作る。
もちろん、頭の中でだが⋮⋮。
実のところ、あの不思議魔道具︽アカシアの地図︾がここでも使
えないか開いてみたのだが、地図一面に︽表示できません︾と思い
切り表示された。
一体どういうことだ、と尋ねたいところだが、地図がその答えを
くれるはずもない。
まぁ、別にいいのだ。
619
所詮は金持ちの主催する遊びである。
それに景品もあるわけだし、失敗しても死ぬわけでもないし⋮⋮。
しかし、ここまで来たら絶対に攻略してやろう、とは強く思った。
とくにあの少女の意外と性格の悪い惑わしには引っかからなかっ
たぞ、と言ってやりたい。
⋮⋮すでに引っかかってある程度迷ったあとではあるけどな。
◆◇◆◇◆
﹁⋮⋮やっと、ついた、か⋮⋮﹂
長かった薔薇の生垣が、ついに終わり空間が開けた。
目の前には美しくも瀟洒な館と、噴水、それにそのわきに設けら
れたテーブルで紅茶を飲んでいるあの少女と、そして横に控えるイ
ザークの姿が見えた。
二人とも、俺に気づき、少女が立ち上がって俺の方に来て、イザ
ークはその後ろから静かに歩いてくる。
そして、少女は言った。
メイズ
﹁おめでとうございます。本当に迷路を抜けられるとは、思ってお
りませんでした﹂
その表情は十二、三歳の少女が作るものとは思えないほど美しく、
整ったものだったが、俺にはその後ろに若干意地悪な性格が見える
ような気がして仕方がなかった。
まぁ、そこまで嫌な感じ、というわけでもないが。
むしろ、悪戯っぽい、というのが一番適切だろうか。
しかしそんな気まぐれであんなに大変な思いをしたのは少しばか
620
り酷い話だ、と思ってしまう。
もともと高く昇っていたはずの太陽も、今はオレンジ色に輝いて
世界を朱色に染め上げている。
一体何時間、あの迷路にいたのか⋮⋮。
﹁おれはもっとかんたんにぬけられるとおもっていたぞ。きみがい
ったことばのいみを、りかいするまでは﹂
﹁なるほど、気づかれたのですね。演技が少し下手だったでしょう
か?﹂
﹁⋮⋮いや、うまかった。むかしのおれだったら、まちがいなくひ
っかかってそのまんま、だっただろうな⋮⋮﹂
しき
言うまでもなくこの屍鬼の体でなかったときの話だ。
あの違和感に気づけたのは、この体の性能が前と比べて極端に高
いからに他ならない。
空気や匂いに敏感で、かつ、視力もいいのだ。
だからこそ、気づけただけで、俺自身の経験が生きたから、とい
う訳ではないのだ。
そんな俺の言葉に、少女は少し首を傾げて、
﹁むかしの、あなた、ですか?﹂
そう尋ねてきたが、俺は首を振って、
﹁いや、こっちのはなしだ。⋮⋮それで、めいきゅうをぬけたらし
ょうひんがもらえるときいたのだが、おれにもくれるのか?﹂
それが目的で頑張って来たところがあるが、あれはあくまで門番
621
が攻略したときの話である。
今回は別にそんなものはない、と言われたらそれまでだが、強請
ってみるくらいはいいだろう。
そう思っての言葉だったが、少女は笑顔で、
﹁もちろん、ございます。ラトゥール家の保有するものから、お好
きなものを差し上げるつもりです﹂
そう言ったので、俺はちょっと意地悪な気持ちで、
﹁では、あのめいろをつくったまどうぐをくれないか?﹂
そう言ってみた。
すると少女は目を見開き、それから、
﹁⋮⋮申し訳ありません。あれは、差し上げるわけにはいきません。
どうぞ、ご勘弁を⋮⋮﹂
そう言ったので、俺は即座に言った。
﹁じょうだんだ。めいろのなかでだまされたからな、いっぽんとっ
てみたかったんだ﹂
その言葉に、少女は唖然とした顔で、
﹁⋮⋮悪い人ですね﹂
そう言って、それからふっと微笑んだのだった。
622
第90話 奇妙な依頼と銅貨一枚
しかし、さりとて他に欲しい魔道具が何かあるか、というとそう
いうわけでもない。
もちろん、長い年月魔道具を収集し続けた家であるラトゥール家
の保有する魔道具だ。
何をもらおうとも、売れば相当な金額になることは確実である。
つまり、どんな魔道具でも欲しいとは思う。
が、特定の、こういうものがほしい、というのは特には⋮⋮。
﹁⋮⋮とりあえず、どんなものがあるのかみせてもらっても?﹂
俺がそう尋ねると、少女は、
﹁もちろんです。では、こちらへ⋮⋮﹂
そう言って歩き出す。
イザークも後に続いた。
一言も言葉を発しないのは、やはり少女がいるからだろう。
イザークの主、それはつまり⋮⋮。
﹁そう言えば、自己紹介が遅れました。私は、このラトゥール家の
当主、ラウラ・ラトゥールと申します。どうぞお見知りおきくださ
いませ﹂
そういうことだろう。
つまり、彼女はラトゥール家の誰かの娘だ、というわけではなく、
彼女こそがこの家の当主なのだ。
623
俺はそれを聞き、この年で、と思わなかったわけではないが、こ
ういうことは冒険者のように年齢制限が設けられているわけでもな
い。
むしろ、相応しい者が、様々な事情の上に小さいころから務める、
という場合も少なくないのだ。
特に貴族の場合、色々と血生臭いお家騒動ののちに、年端もいか
ない子供が家の当主に、ということになる。
このラトゥール家は、貴族家ではないにしろ、この財力だ。
当主争いというのが普通にあっても納得がいく。
金の力と言うのはおそろしいものだからだ。
俺もまた、彼女に言う。
﹁おれもじこしょうかいがまだ、だったな。おれのなまえは、れん
と・びびえ。どうきゅうぼうけんしゃだ﹂
この言葉に、ラウラは少し驚いた表情をしていたが、やはり主従
は似るのか、以前イザークに名乗った時と変わらない反応だった。
つまりは、銅級だからと言って、別に落胆したりはしないという
ことだ。
これは態度としては立派だとは思うが、やはり非常に珍しい。
なにせ、これから依頼をしようとする相手なのだ。
それなりに高いランクである方が安心できる。
もちろん、銅級相応の依頼をそれと知って任せる場合には、銅級
ギルド
が来ても問題ないのだが、貴族の家や、商家、もしくはこういった
歴史ある大きな家が冒険者組合にする依頼は高難度のことが多く、
それに見合った冒険者が派遣されるものである。
したがって、あまり銅級が来る、ということはないのだ。
今回についてはイザークが俺を指名したから来ることになっただ
けで、本来であればラウラにしろイザークにしろ、俺のような低級
624
冒険者にはあまり依頼しない身分なのだ。
それなのに、俺のランクを聞いても大して気にしない様子なのは、
イザークから︽タラスクの沼︾で会った俺の話を聞いているからな
のだろうか。
⋮⋮いや、そんな様子はないな。
ラウラはイザークの方をちらりと見たが、その視線は、むしろ、
なるほどね、とでも言いたげなようなものだった。
おそらくは、イザークはラウラに俺の大まかな印象だけ伝え、ラ
ンクなど詳しいことは言わなかったのだろう。
てっきりイザークは何もかも主であるラウラに説明しているもの
かと思ったが、そういうわけでもないらしい。
プチ・スリ
どういう主従なのか⋮⋮と思うが、基本的にはイザークはラウラ
に絶対服従のようであるし、うちの小鼠エーデルとはわけが違うこ
とだけは分かる。
プチ・スリ
ちなみに、今日はあいつはいない。
なんだか、孤児院の地下で小鼠たちの会合が行われるらしいから
だ。
プチ・スリ
俺としても、このラトゥール家の人間について詳しいことは分か
らなかったので、小鼠を連れていくのはやめておいた方がいいかも
しれないと思っていただけに、ちょうどよくはあった。
エーデルは俺の聖気によって間違いなく清潔だが、やはり不潔で
あると見る人間も間違いなくいる。
育ちが良ければよいほど、そうなっていくことは目に見えていて、
だからこその懸念だった。
そう頭の中で考えると、べし、とエーデルに蹴られ、それから、
自分は清潔である、といった意志が伝えられたが、こういうことは
事実よりも印象の問題だから仕方ないだろう、と伝えると引いてく
れた。
⋮⋮俺より理性的な奴かもしれない、とたまに思わせるエーデル
であった。
625
﹁銅級で︽タラスクの沼︾を攻略されるとは⋮⋮あそこはとてもで
はないですが、銅級が行けるような場所ではないと聞きます。また、
どうしてあんなところに⋮⋮?﹂
ラウラがそう尋ねてきた。
イザークから聞いてないのか、と思ったが、そもそもイザークに
もあそこにいた理由は言ってなかったな。
俺は答える。
﹁こじいんからいらいされたんだ。どうかいちまいで、な﹂
この言葉は、冒険者からすると色々な意味が読み取れる分かりや
すい言い方だ。
しかし、ラウラにはそんなことは分からなかったらしい。
首を傾げて、
﹁︽タラスクの沼︾を銅貨一枚で、ですか? それは⋮⋮﹂
と言ったので、俺は説明する。
﹁こじいんからのいらいだからな。しかたないさ。それに、ほうし
ゅうがどうかいちまいのじてんで、ぼうけんしゃはさっするものだ﹂
金がないから、銅貨一枚しか出せないから、銅貨一枚で依頼をす
る。
それは確かにその通りだ。
だが、あの報酬額にはそれだけではない意味がある。
ギルド
つまり、一種のボランティア募集の意味だ。
冒険者組合は基本的に依頼で報酬を得る商売をしている団体であ
626
るから、そんなことは普通は出来ないはずである。
ギルド
しかし、それでもいつの時代もそこそこ善意のある冒険者という
のはいたし、冒険者組合にもそういったものは少しはあった。
その善意が、今でも黙認されつつ続いている、一種の制度のよう
なものを作った。
世の中には冒険者など、相当な武力を持った者しか解決できない
問題があり、しかしどうしても依頼する金がない、という者がいる
という現実は、いつの時代もあった。
ギルド
そういうものについて、少しだけ、手を貸そうと、一人の冒険者
が冒険者組合の制度をうまく使って始まったのが、銅貨一枚依頼だ
ギルド
と言われる。
冒険者組合に依頼する際の最低報酬は規定上、金銭でなら、銅貨
一枚になる。
これは、パンが二つ買えればいいような、おそろしく低廉な価格
ギルド
だが、別にこれで依頼してダメだ、というわけではないのだ。
冒険者組合に銅貨一枚で依頼をし、依頼票を掲示板に張ってもら
えば、冒険者たちの目に留まる。
もちろん、それをとるかどうかはそれぞれの自由だが、依頼人と、
報酬、そして備考欄に書いてある事情などを見て、これは冒険者の
力がいるな、と判断できれば受ける冒険者と言うのはいつでもある
程度はいたのだ。
結果として、そういった依頼は非常に低廉な報酬設定であるにも
かかわらず、善意の冒険者たちが受け、解決してきたのだ。
その優しさからくる制度を悪用する者もいなくはないが、これに
ついてはある程度経験を積めば、本当に困っているのか、ただのケ
チとか悪意のゆえなのかは簡単に見抜けるようになる。
大した問題はない、というわけだ。
627
そんな話を大まかにラウラにすると、彼女は感心したような表情
で、
﹁冒険者の方がそれほどお優しいとは意外でした﹂
そう言った。
まぁ、確かに、強面の多い職業である。
俺にしたって仮面骸骨ローブだ。
パッと見て優しい!などと判断する人間がこの世にいるとは思え
ない。
そもそも、そんなに優しいという訳でもない。
ただ⋮⋮。
そう、ただ、出来ることはしたいというだけだ。
冒険者と言うのは、その職業上、凄惨な現実を目にする機会が少
なくない。
そんな中で、自分が少しでもいいことをしている、という実感を
持ちたい瞬間がある。
そういうとき、そんな依頼が目に入ったら、つい受けてしまう。
そういうことだ。
それは、俺が、人であることに縋りついているのと少し似ていた。
628
第91話 奇妙な依頼と魔道具たち
それにしても、歩きながら思うが広い屋敷であった。
まぁ、外から見た時、すでに屋敷と言うよりほぼ城に近いような
大きさだったので不思議ではないが。
奇妙なことをあげるとすれば、屋敷の中にはそれほど人がいない、
ということだろうか。
何人かの使用人と思しき者たちとはすれ違ったが、かなり少ない。
これだけの屋敷を維持するにしては少なすぎるように思えた。
素直にそのことについて尋ねると、わが家の使用人は皆、優秀で
すから、と返って来た。
まぁ、イザークを見れば確かに優秀なのだろうな、という気はす
るが、いかに優秀でも物理的に厳しいような⋮⋮考えても仕方ない
か。
実際、この家はしっかりと回っているわけだし、通路にも壁にも
シャンデリアにも埃一つないのだ。
屋敷のどこを見ても手入れは行き届いており、手が足りない、と
いう感じは少なくとも屋敷自体の様子からは感じることが出来ない。
﹁⋮⋮こちらです﹂
そう言ってラウラが手をかけたのは、重い鉄でできた扉である。
それを開くと、奈落の底まで行けそうな長い石造りの階段が続い
ていた。
﹁ちかしつ、か﹂
﹁ええ。魔道具は魔力や気が籠もっていますから、基本的にはかな
629
り丈夫なのですけど、やはり古いものも少なくないので。保存には
気を遣っているのです。ここの地下室は気温や湿度も一定ですから、
魔道具に負担があまりかかりません﹂
複雑な機構を採用している魔道具ともなると、流石に単純に魔力
が籠もっているから丈夫である、とは言えないが、確かに基本的に
魔道具はかなり丈夫に出来ている。
冒険者が自分の体を魔力や気で強化するように、道具それ自体も
魔力や気を注がれて、耐久力が上がってるわけだ。
そのおかげで、魔道具は通常の道具よりもかなり長い年月を耐え
ることが出来る。
かなり古い、それこそ国宝にされるような魔道具が未だに新品の
ような状態で残っているのには、そのような理由があるのだ。
もちろん、そうはいっても乱暴に使ったり、また用途によっては
すぐ壊れるが⋮⋮その辺りは普通の道具と同じだ。
かつかつと先に進んで階段を下りていくラウラに俺は後からつい
ていく。
俺の後ろにはイザークがいる。
地下室に向かう階段には窓も何もないが、空気の流れが感じられ
るし、またラウラが進むのに合わせて両側の壁に、ぽっ、ぽっ、と
灯りが点っていく。
それもまた、魔道具なのだろう。
灯火の魔道具は機構も単純で量産しやすいため、価格はそれほど
高くはないのは事実だが、ここまで沢山あるというのはそれでも驚
きだ。
しかも、人が通過するのを察知して点るように作られているわけ
で、そうなると一般的な灯火の魔道具の価格とはやはり桁が違って
くるだろう。
一体ここまでの財をどのようにしてこのラトゥール家が築いたの
630
か気になってくる。
あとで聞いてみよう、と思った。
それから、どれくらい階段を降りただろう。
ラウラがぴたりと止まって、一つの扉の前に辿り着いた。
その扉には、材質のよくわからない板が取り付けられていて、ラ
ウラがその板に右手でべたりと触れた。
すると、ぽうっ、と扉全体が輝き、それから、がちゃり、という
カギが開いたような音が耳に響いた。
﹁では、入りますよ﹂
ラウラがそう言って扉の取っ手を掴み、推すと、その扉はゆっく
りと開いていった。
やはり、先ほどの行為が、扉の鍵を開くために必要なことだった
のだろう。
扉の向こうは暗闇である。
中に何があるのか、ここからは見えない。
しかし、ラウラは別にその暗闇を恐れてはいないようで、静かに
扉の中に入っていく。
俺はそんなラウラのあとを、一瞬躊躇しつつも追ったのだった。
◆◇◆◇◆
暗闇の中をラウラは少しも迷わずに進んでいった。
そして立ち止まり、
﹁⋮⋮光を﹂
そう呟くと同時に、辺りはぱっと光に包まれる。
631
俺をそのまぶしさに一瞬、目をつぶるが、すぐに光に目が慣れた。
それから周りを見つめてみると⋮⋮。
﹁これは、すごいな﹂
周囲には山と敷き詰められた魔道具の数々が、まるでガラクタの
ように転がっていた。
いや、しっかりと並べられてはいるのだ。
しかし、大きさがまちまちだし、数も膨大に過ぎて、ぱっと見だ
と無造作に配置しているようにしか見えないのである。
そんな俺の気持ちを理解したのかラウラは説明する。
﹁これでも片付いている方なのですよ。以前はもっとぐちゃぐちゃ
というか⋮⋮本当に手に入れた順番に投げ込んでいたような状況で
したからね。今は、ちゃんと用途や種類、年代や、人工物か迷宮産
出のものか、など、一定の基準に従ってまとめて配置してあります。
数が多すぎて、まだまだ未分類なものも少なくはないのですが、時
間をかけてやるしかありません﹂
確かにこれだけの数、整理するだけでも手間だろう。
家の倉庫の整理とはわけが違うのだ。
中には人の三倍はありそうな巨大な魔道具を思しき物体などもあ
るが、あれはどうやって動かすのか⋮⋮。
ラウラの力ではどう考えても無理そうだが、イザークが頑張るの
だろうか?
ラトゥール家の使用人は大変だな⋮⋮。
ラウラは続ける。
﹁この中から、好きなものを選んでもっていっていただいて構いま
632
せん。どれも一級品⋮⋮と言えるかどうかは正直微妙ですけど、そ
こはレントさん、貴方の目利き次第です﹂
﹁それはどういうことだ?﹂
言い方が気になって素直にそう尋ねると、ラウラは言う。
﹁ご存知かもしれませんが、魔道具は玉石混交だと言うことです。
とりあえず、気になったものを収集してきたもので、本当にただの
ガラクタとしか言えないものも混じっているのですよ。あえてそう
いうものを選んで持っていっていただいても構わないのですが、冒
険者の方なら有用な魔道具が欲しいのではないかと思いまして、一
応のご注意を﹂
﹁なるほどな⋮⋮﹂
ただその場ではね続けるだけ、などという魔道具もこの世に存在
するくらいである。
せっかく選びに選び抜いたのにも関わらず最終的に手にしたのは
そんなものだ、となったら目も当てられない。
しかし、俺にそこまでの目利きは厳しいものがある。
一般的に知られている魔道具についてはそれなりに知識はあるが、
ここにあるものは多くが見たことがないものだ。
おそらく大半がオークションなどで手に入られれた一品ものなの
だろう。
そうなると⋮⋮見ただけではどうにもならないように思える。
それで少し悩んでいると、ラウラが助け舟を出してくれた。
﹁気になったものがあれば、言っていただければどのようなものか
はご説明しますよ? ⋮⋮私にも用途が分からないものも、ないで
633
はないので、そういう場合はご自分の目で確かめていただくしかあ
りませんが﹂
﹁ありがたいが⋮⋮しかしなんでそんなものを集めたんだ⋮⋮?﹂
用途が分からない魔道具など、それこそガラクタである。
そう思っての質問だったが、ラウラは笑って、
﹁収集癖とはそういうものですよ。とにかく欲しい! それだけで
す﹂
そう答えた。
まぁ、分からないでもない。
ある意味、真理ではある。
貴族や商家など、ある程度財力を持て余した家の当主は妄執にと
らわれたかのような収集癖を発揮することも少なくないからな。
錠前集めとか、ゴブリンの魔石だけをひたすらに集めるとか、そ
ういうことはたまに聞く。
見せてもらうと確かに結構面白いは面白いのだが、他人から見る
と微妙だ。
ただ本人が楽しんでいる、というだけなので別にいいのだが、な
んで、とは聞きたくなるのが人情だ。
そしてそこに論理的な答えが出ることは無い。
集めたいから、それだけだ。
まぁ、そういうことを考えると、ラトゥール家の魔道具収集と言
うのは比較的分かりやすい趣味ではある。
そのお陰で俺も高価かつレアな魔道具をもらえるわけだし、文句
を言うのはやめておこうと思った。
634
第92話 奇妙な依頼と空飛ぶおもちゃ
﹁⋮⋮これは?﹂
歩きながらなんとなく目に留まり、俺が楕円形と言うか円柱形の
ような形をした物体を指さすと、ラウラは頷いて説明してくれる。
﹁それは魔道具、というよりかは模型ですね。主に西方地域を飛ん
でいる飛空艇というものです。もちろん、本物同様に動きますよ。
こうしてですね⋮⋮﹂
ラウラがそう言って魔石を持ち、その飛空艇の模型にそこから魔
力を注いで、それから手に何かを持って何かを念じた。
すると、飛空艇の模型から煙が噴き出してきて、それから空中に
浮かび出す。
ラウラは続ける。
﹁今、実際に飛んでいるものは魔力ではなく、蒸気の力で動いてい
ますから、厳密には模型とは言えないのですが⋮⋮それを模したお
もちゃ、のようなものと言ったところでしょうか﹂
そう言った。
飛空艇の話は聞いたことがある。
ただ、乗ったことは無い。
なにせ、飛空艇はラウラが言う通り、西方地域を飛んでいる代物
であり、こんな辺境国家でしかないヤーラン王国まで飛んできたり
してはくれない。
まぁ、王都で行われた何かの祭りのときに来た、とは聞いた覚え
635
があるが、せいぜいその程度だ。
それに加え、乗れる人間は、運賃の高額さからそれなりに財力が
ある人間に限られる。
銅級冒険者に過ぎなかった俺には、全く縁のない交通手段だった、
というわけだ。
しかし、それの模型が目の前にあり、そしてびゅんびゅん飛んで
いるのを見ると何だか楽しくなってくる。
コントローラー
ラウラが持っている石のような物体は飛行機を操縦することが出
来る操縦器というものらしく、
﹁⋮⋮操縦してみますか?﹂
コントローラー
と差し出され、尋ねられたので、俺は頷いた。
やり方は簡単で、操縦器を握りながら、飛空艇の進む方向や高度
を念じるだけである。
実際、やってみると恐ろしく楽しかった。
空なんて、特殊な魔術を身に着けた魔術師などの例外を除いて、
人間が飛べるものではないから、憧れも大きいのだ。
飛空艇に乗れば空の旅が出来るのは事実だが、それが出来るほど
の経済力はまだまだない。
そんな俺に、こんな機会が訪れれば嬉々として活用してしまうの
は至極当然の話だった。
﹁楽しいですか?﹂
ラウラに尋ねられたので、俺は頷く。
﹁あぁ⋮⋮ほしくなったな⋮⋮﹂
636
﹁では、それに?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
確かに、欲しいは欲しい。
しかし流石におもちゃを持って帰ると言うのは⋮⋮。
心の中の俺の少年の部分が、ぜひにこれをもらおうぜ、と言って
いるが、大人の俺はそんな馬鹿なことしないでもっと役に立つ物を
選びなさい、と言っている。
後者の方が正しい。
正しいのは分かっているが、世の中正しさだけで生きていって楽
しいと思っているのか?と俺の中の少年は畳みかける。
⋮⋮いや、さぁ⋮⋮確かにそうなんだけど。
そうなんだけど、ここは断腸の思いで⋮⋮。
と俺が決意しかけたところで、ラウラがさらに言った。
﹁そんなに楽しいのであれば、他の機能も使ってみては? あの模
型に、意識を集中してみてください﹂
そう言われて、俺はその通りにした。
すると、今まで見上げていたはずの視点がパッと変わり、模型か
ら見下ろしたような視点になる。
下方にはこちらを見上げる仮面ローブ男と、そして美しい少女の
姿が見えた。
﹁⋮⋮っ!? なんだ、これは⋮⋮﹂
慌てると、視点は元の位置に戻り、目の前にラウラの姿が目に入
った。
637
彼女は言う。
﹁あの模型には意識を乗せられるんです。模型、と言いましたが、
実のところ、今、世の中を飛んでいる飛空艇を模してあれが作られ
たわけではなく、あの模型を模して、飛空艇の方が作られたんです
よ。あれは迷宮産出品ですので﹂
つまり今、飛んでいる飛空艇は発明されたもの、というよりかは
迷宮産出品の模倣で作られた、ということだろう。
世の中に広がっている魔道具と同じ過程で作り出されたわけだ。
それなのに魔力だけで動くこの模型とは違い、蒸気で、というの
は完全に模倣するのが難しかったからだろうな。
迷宮産出品は、解析・分解してもその詳しい仕組みを完全に理解
しきるのは難しいのだ。
それでも似たようなものを作ろうとするなら、工夫や発明がいる
というわけである。
しかし、意識を乗せられる、か。
俺は改めて模型に意識を集中する。
すると、模型の先端から世界を見つめているような視点になった。
これは、ただのおもちゃだ、と思っていたがそんなことはなく、
有用そうな品である。
これを使えばかなり遠くの状況を空から見ることも出来るのでは
ないだろうか。
偵察にはもってこいの品だろう。
俺がそうラウラに言えば、
﹁そうですね⋮⋮そういう使い方も出来るでしょう。ただ、魔力の
関係であまり長距離を飛ぶのは難しいですから、使いどころは選ぶ
かもしれません。少し先を覗く、もしくは空から周囲を観察する、
638
くらいの使い方が出来るかなと言ったところでしょうか﹂
確かに、先ほどラウラが魔石からそれなりに魔力を込めていたの
に、もうかなり目減りしていることが分かる。
あれくらい注いで五分程度で尽きるとなると⋮⋮ずっと飛ばし続
けるのは難しそうだった。
遠くまで行けないとなると、いくら意識を乗せられるといっても、
使いどころは難しいかもしれない。
魔力が多量にあるならともかく、さっきライラの使った魔石はか
なり大きかったからな。
俺が全力で魔力を注いでも十分は持たないかもしれないと考える
と、微妙だ。
﹁⋮⋮わるくないとおもったんだが﹂
﹁そちらはやめておかれますか?﹂
そう尋ねられたので、俺は少し考えてから答えた。
﹁⋮⋮いや、ほりゅう、にしておこう。けっきょくこれがいい、と
なるかもしれないからな⋮⋮﹂
今は大して使えないかもしれないが、そのうち魔力が増えていけ
ば長く飛ばすことが出来るようになるかもしれない。
それに、遊んで楽しかったし⋮⋮。
とは言わないが、そういうところもないではなかった。
ともかく、他にも見てみようと、俺は再度、ラウラとイザークと
地下室を歩く。
639
◆◇◆◇◆
それから、色々な魔道具を見せてもらった。
飛空艇の模型以外にも、障壁を張る魔道具とか、自分自身を空中
に浮かべるもの、毒の無効化ができるもの、魔力を刃にできる武器、
魔力を注げば自動的に戦ってくれる鎧や、爆炎のような炎を発射す
る筒などなど、こんな魔道具があったのか、と思うものがたくさん
あった。
中でも一番気になったのは、最初に見た飛空艇の模型と、それか
ら声を変えることの出来る魔道具である。
前者は言うまでもなく楽しかったからだが、後者は今の俺の声の
聞き取りにくさがかなり改善されるのでいいなと思ったのだ。
問題は、後者はいずれ必要なくなるかもしれないということだが
⋮⋮。
﹁お決まりになりましたか?﹂
俺が優柔不断に悩み続けているのに、ラウラは嫌な顔一つせず、
待ち続けてくれている。
非常にありがたく、かつ申し訳ない気分になってくるが、これは
かなり今後に関わる大きな選択なのだ。
時間をかけることを許してもらわざるを得ない。
まぁ、別に気にしている様子はないのだが。
﹁じつのところ、なやんでいる⋮⋮どうしたものか⋮⋮ん?﹂
顎を摩りながら、周囲を見回しつつそんなことを言うと、俺の目
にふと、妙なものが飛び込んできた。
俺は素直に尋ねる。
640
﹁あれは?﹂
ラウラは、
﹁あぁ、あれは⋮⋮まぁ、見てのとおり、魔物の素材などですね。
魔道具ではないのですが、気になるものもありまして、少しだけ集
めているのです﹂
そう答える。
量を見るに、少しだけ、などという数ではないのだが、しかしラ
トゥール家からすれば本当にそんな感覚なのかもしれなかった。
竜の鱗や、ユニコーンの角、巨人の骨やら、売り払えば目も飛び
でるような金額になるだろうものが所狭しと置かれている。
すごいな⋮⋮と思いつつ、少し見せてもらうと、俺の目にふっと
気になるものが映った。
俺の視線を見て、ラウラが言う。
﹁⋮⋮それが気になるのですか?﹂
﹁あぁ。まぁな﹂
俺が頷くと、ラウラはそれを手に取った。
細長い、透き通った水晶で作られた容器だ。
中には赤黒い液体が入れられている。
ラウラは言う。
ヴァンパイア
﹁これは、吸血鬼の血液ですね。武具や魔道具の製作や魔法薬の調
合の際に触媒として使われるものですが⋮⋮﹂
641
第93話 奇妙な依頼と景品
﹁⋮⋮その中身が本物であるかどうかは判別しかねるのですが、中
身は実のところどうでもいいのです。その容器自体が魔道具で、中
身を長期間にわたって保存し続けられる品で、そのために競り落と
しました﹂
﹁なかみは、どうでもいいのか?﹂
ヴァンパイア
魔道具収集が趣味であり、魔物の素材は二の次なラトゥール家当
ポップ
主としては確かに分かりやすいが、それにしても吸血鬼の血液であ
る。
レッサーヴァンパイア
迷宮に湧出した直後のものならともかく、そうではない彼らの多
くは複雑な血縁集団を作り上げる習性があると言われ、下位吸血鬼
ヴァンパイア
以上になるとそう易々と捕らえ、また退治することは出来ない。
特に吸血鬼として成熟した個体については、人との判別が困難で
あり、かつ長命であるために社会的な地位も持っている場合が少な
ヴァンパイア
くなく、そういう意味でも難しい存在である。
つまり、吸血鬼の血液など、採取しようとしても採取できるもの
ではないのだ。
それを、どうでもいいと言い切るラウラに俺は驚いたが、まぁ、
彼女の興味の方向が魔道具にしかいっていないとすれば、さほどお
かしくはないのか⋮⋮。
俺には金貨の塊のように見えるが⋮⋮。
ラウラはしかし、興味はないにしても一応、中身についても説明
してくれた。
642
ヴァンパイア
ヴァンパイア
﹁吸血鬼の血液は、摂取すれば吸血鬼になれる、という噂がありま
ヴァンパイア
すからね。そういう意味でも永遠の命などを欲する強欲な貴族など
には非常に高く売れます﹂
﹁噂なのか?﹂
ヴァンパイア
それについては俺も聞いたことがある。
そもそも、吸血鬼に噛まれ、血を送り込まれれば吸血鬼になれる
はずではないのか。
ヴァンパイア
エーデルは、俺の血を飲んで、俺に近いものになったはずだし⋮
⋮眷属になっただけなので吸血鬼になった、というのとは少し違う
のかな。
分からない。
ラウラは続ける。
ヴァンパイア
﹁微妙なところです。実際に吸血鬼の血液を飲んだ、という記録も
それなりにありますが、いずれも気が狂い、何者にもなれずに死亡
した、とか、いいとこ廃人になったというものばかりですから。も
ヴァ
しかしたらなれた人もいるのかもしれませんが⋮⋮そういう人は記
ンパイア
録など残さないでしょうね、なにせ、その命は永遠です。自分が吸
血鬼である、などという話を人に言おうとは思わないでしょう?﹂
しき
この話はかなり身につまされるところがある。
俺だって自分が屍鬼だと言い触らそうとは思わないからな。
親しい人数人には言ってしまっているが、せいぜいがその程度で、
わざわざ後世のために記録に残そうなどとはまず、思わない。
﹁たしかに、な⋮⋮﹂
643
ヴァンパイア
﹁ですので、︽噂︾なのですよ。まぁ、それでも廃人になるか永遠
の命を手に入れるかの二択ですが、それに賭けて吸血鬼の血液を飲
んでみたいと考える人間はいつの時代も少なくないようで、それが
故にこれは高値なわけですが⋮⋮﹂
若干皮肉気な口調で彼女は言ったが、別に責めているというわけ
でもなさそうだ。
何か、永遠の命などというものに執着する者を、心底愚かだと思
っているような、そんな雰囲気を感じる。
⋮⋮どうなんだろうな。
永遠の命、俺はそれをそれほど悪いものとも思えないが、しかし
現実に周囲で知り合いが老い、死んでいくさまを幾度となく見てい
ると、ゆっくりと心が腐り落ちていく、というのはあるのかもしれ
ない。
自分が死ぬわけではなく、他人が死ぬわけで、悲しいのは悲しい
で間違いないが、衝撃のほどは小さく、しかしそれを二度、三度、
ならともかく、百度、千度と繰り返していったら⋮⋮。
もう、いいかな、というくらいは思うだろう。
⋮⋮俺が人間に戻れなかったら、そういう日々が待っているのだ
ろうか?
ロレーヌやシェイラが老いて、死んでいくさまを見つめ続けるわ
けだ。
寂しいだろうし、辛いだろうが⋮⋮今は大した実感を伴って想像
することは難しいな。
永遠の命、それがいいものか悪いものかは、結局のところ体感し
てみなければわからないことなのかもしれない。
ヴァンパイア
それにしても、ラウラの持っている吸血鬼の血液。
644
しき
あれに、俺は今、結構な欲望を感じている。
屍鬼になるとき、ロレーヌに対して感じたそれと非常によく似て
いる。
単純に血があるから飲みたいなと思っているだけかもしれないが、
もしかしたら、と思うところがないわけではない。
つまり、あれは俺が次の存在進化をするために必要な品なのでは
ないか、ということだ。
というのも、俺はこの間、︽タラスクの沼︾に行って、結構な数
の魔物を倒した。
それに、質の面でも、タラスクは相当な強敵だったのだ。
しき
あれだけの魔物を倒し、そしてその力を十分に吸収した感覚があ
るのにもかかわらず、未だ俺は屍鬼のままなのである。
まだまだ魔物を倒し足りない、という可能性もないではないが、
それよりかは、何か存在進化に必要な条件を満たしていないから進
化できていないのではないか、という疑いの方が強くなってきてい
る。
ただ、今日ここに来るまでは、たとえそうであるとしてもその条
件が一体何なのか、想像もつかなかった。
ヴァンパイア
けれど今は⋮⋮。
あの吸血鬼の血液。
あれを摂取することで、俺は次の段階へ行けそうな、そんな気が
するのだ。
本能がそう言っているというか⋮⋮。
それにしてはロレーヌに噛み付いた時よりも欲求は弱いが、それ
は俺があの頃よりも存在それ自体が理性的になっているがゆえに、
本能にそれほど支配されていないからかもしれないと思う。
645
もう、ここまで来ると、何をもらうのかはほとんど確定だな。
まぁ、俺はもともと血を飲みたいと心の底から思ってしまう生き
物だから、ただただ美味そうなものを見つけて食欲が暴走している
ヴァンパイア
だけ、という可能性もないではない。
だから、吸血鬼の血液を飲んだとしても、もしかしたら全く意味
がない、という可能性も低くはない。
ヴァンパイア
だけど、意味があるかもしれない可能性はあるのだ。
ここを逃すと吸血鬼などという存在の血液など得られるチャンス
はそうそうあるとは思えず、そうなると俺がもらうべきはもう決ま
っていると言っていいだろう。
だから、俺は言う。
﹁⋮⋮これをくれ﹂
ヴァンパイア
﹁吸血鬼の血液をですか? また、随分意外なものを選ばれました
ね⋮⋮﹂
ラウラは目を見開いてそう言った。
彼女は他のものを選ぶと思っていたらしい。
まぁ、そう思った理由は、俺が飛空艇の模型を死ぬほど楽しんで
いたからだろうが、それ以外にも役に立ちそうな魔道具はいっぱい
あった。
武具や魔道具、薬剤の触媒に仕えるとはいえ、こんな飲んだらど
うなるか分からないようなものをあえてもらおう、という者はあま
りいないだろう。
売却する、ということであっても、他にもっと高値がつきそうな
魔道具も一杯あるしな。
だが、俺の一身上の都合で考えると、これが一番いいのだ。
646
﹁⋮⋮個人的な興味ですが、理由をお聞きしても?﹂
﹁⋮⋮しりあいに、まもののせいたいをけんきゅうしているものが
いてな。ほしがるのではないかとおもった﹂
口から出てきたのは、そんな嘘である。
知り合いと言うのはもちろんロレーヌの事で、必ずしも完全に嘘
っぱちというわけではないが、真実からは少しずれている。
真実など、言えるはずがないし、これ以外に説明しようがない俺
の苦し紛れの台詞であるのはもちろんだった。
これに、ラウラは何か感じ取ったものがあるのか、眉根を寄せて
いたが、しばらく俺を見つめてから、ふっと笑うと、
﹁⋮⋮そうですか。でしたら、こちらを差し上げます。容器も一緒
にお付けしますから、考えようによっては景品を二つ手に入れたよ
うなものですね﹂
そう言ったのだった。
647
第94話 奇妙な依頼と報酬の話
ヴァンパイア
ポーション
当たり前の話だが、ラウラとイザークの目の前で容器の蓋を開け、
腰に手を当てながらごくごくと吸血鬼の血液を栄養剤やら回復水薬
のように飲み始めるわけにはいかない。
そうしたいという衝動もなくはないが、それは飲んでしまうと一
歩間違えれば廃人になる薬ですよと言われて、じゃあ早速いただき
ましょう、ゴクゴクゴク、うまいですねもう一杯ないですか?なん
て奴がいるわけがない。
ただでさえ見た目からして怪しさいっぱいなのだ。
これ以上変な奴としての印象を残しておきたいとは思わないのは
当然だろう。
﹁⋮⋮それでは、上に戻りましょうか。もうここですべきことは終
わりましたし﹂
ラウラがそう言ったので、俺は頷く。
とことことついていき、来た道を戻っていく。
後ろに安置してある飛空艇模型にかなりの後ろ髪を引かれなくは
ないが、もう俺は景品はもらってしまった。
残念ながら、ここは諦めてラウラについていくしかない。
しかし、あの飛空艇模型はどこかの迷宮で産出した品だ、という
話だから、頑張って迷宮を攻略すればそのうち発見できる可能性も
ないではない。
機会が二度とないわけではないのだ。
ここは我慢だ。
我慢しよう⋮⋮。
648
そう思いながら、重い足取りで俺は地上への階段をラウラの後ろ
から昇っていく⋮⋮。
◆◇◆◇◆
地上に戻ると、俺は応接室と思しき部屋に通された。
やはり、というべきか調度品の類もすべて一級品である。
俺でも知っているような王都の有名な職人が作ったようなものば
かりだ。
いくつか、オークションで売られているのを見たことがある。
もちろん、俺が購入できるような値段ではなく、いつかああいう
のがおける家が欲しいなぁと思いながらも、そんな日は来ないか、
と諦めていたが、まさかそういったものが置いてある家に訪問する
ことになるとは思ってもみなかった。
﹁さて、それではそろそろ本題の方に入りましょう。レントさんは
ここに遊びにいらっしゃったわけではないのですし﹂
ラウラの言葉には、自分の遊びに付き合わせて悪かった、という
ようなニュアンスが感じられた。
まぁ、俺は本来、イザークからの指名依頼を受けにここに来たわ
けで、迷宮に閉じ込められてそれを攻略する様を見物されるために
来たわけではないのは事実だ。
しかし、貴族なんかには、指名依頼をした相手に力試し的なこと
をさせる場合は少なくない。
実力があるとは聞いていても、自分の目で確かめなければ納得で
きない、という者がいるからだ。
そういう場合に、依頼主が選んだ武芸者と戦わせたり、本来の依
頼をする前に何か特別な品を持ってくるとか、そういうことをさせ
ることがあるのだ。
649
これは、本来褒められたことではないが、そういったことをさせ
る依頼者と言うのは大概が目玉が飛び出るような報酬を出してくれ
たり、相当な権力者だったりする。
やっておいて損はないし、そこで見限られるようならその程度の
冒険者だ、という感覚もあって、黙認されている。
事実、今回のことにしたって、ラウラは景品をくれたしな。
ただ力試しをやらせるだけやらせて、あとは放置、みたいな居丈
高な態度をとるものは少ないし、いてもその場合は次に冒険者が依
ギルド
頼を受けることはなくなるというわけだ。
依頼者と冒険者は対等、とする冒険者組合の基本的な考えからす
ると当然の話である。
﹁ずっと、あそんでいてもよかったんだがな。もういっかい、あの
めいきゅうをくりあしたら、けいひんをもらえたりしないのか?﹂
俺がラウラにそう言うと、彼女は笑って、
﹁それほどまでのあの模型が欲しくていらっしゃるのですか? 他
にももっと有用なものはあったと思うのですが﹂
と、俺の心を見透かしたような台詞を言う。
そしてそれは間違いではなかった。
もう一度、庭園迷宮を通り抜ければあれがもらえるというのであ
れば、朝までかかってもやるつもりがある程度には俺はあの模型が
ほしかった。
だから正直に言う。
﹁⋮⋮ゆうようとかそんなことはかんけいない。ただほしい、それ
だけだ。しゅうしゅうかというのも、そういうものなのだろう?﹂
650
俺がそう言うと、ラウラは頷いて、
﹁全くその通りです。こんなところに同じ志を芽生えさせたお仲間
がいるとは⋮⋮。しかしあの迷宮は、基本的に一人一回と決めてい
るのです。ですから⋮⋮﹂
ラウラもしくはラトゥール家の基準で、そのように決めているの
だろう。
どういう理由かはわからないが、普通に考えて何度でも景品をも
らえることにしたらいくら大量の魔道具を持っているとはいえ、い
つかすっからかんになってしまうことを思えば、当然の話ではある。
しかしそうなると、やっぱりもうあの模型は手に入れられないの
か⋮⋮。
ショックが大きい。
どのくらい大きいかって、十年頑張ってまだ銅級なのかと、ふっ
と思い出してしまった瞬間くらいにショックが大きい。
いつもは気にしていない、気にしないようにしている事実に、な
んだか突然ピントが合ってしまう瞬間って物凄く辛いよね⋮⋮。
いや、それは今は置いておこう、と頭を切り替えようと努力する。
けれどあんまり切り替わらない。
ショック⋮⋮。
そして、そんな俺がラウラには余程不憫に見えたらしい。
おずおずとした様子で、
﹁もちろん、あれもまたラトゥール家のコレクションの一つですか
ら、それなりの執着はありますけれど⋮⋮そこまで欲しがっておら
れるのなら、考えないこともありませんよ?﹂
651
と言った。
これに地面を見ながら爪先で渦巻を描いていた俺は顔を上げてラ
ウラを凝視する。
彼女は続けた。
﹁レントさんに今日来ていただいたのは、指名依頼をうけていただ
くため。そしてその内容は︽竜血花︾の定期的な採取。ここまでは
よろしいですね?﹂
﹁あぁ。だが、いらいにんは⋮⋮﹂
﹁イザークになっていますね。けれど、もうここに私がいる時点で
なんとなく察しておられるのでは?﹂
﹁ほんとうのいらいにんは、らうら、きみだということか﹂
真実イザークの個人的な依頼だと言うのなら、イザークだけが俺
を出迎えればいいだけの話だ。
まぁ、あの迷宮の攻略者と話すために来た、と言う可能性もない
ではないが、そうだとしてもやはり依頼の話はイザーク本人がする
ことになるはずだ。
そうではなく、ラウラが自ら切り出している時点で、そういうこ
となのだろうな、となんとなくは考えていた。
もちろん、絶対ではなかったが。
ただ、その予想はどうやら正しかったようだ。
ラウラは続ける。
﹁あの︽竜血花︾は、私が定期的に摂取しているもので⋮⋮そのた
びにイザークに採りに行かせていました。けれど、最近イザークも
652
色々とオーバーワーク気味なようで⋮⋮主として、多少の休暇はあ
げたいのです﹂
まぁ、これだけの屋敷を維持しているうえ、︽タラスクの沼︾に
定期的に行っている、などというのはちょっと考えられないほどの
激務がイザークや他の使用人の肩にかかっているのだろうと想像で
きる。
いや、︽タラスクの沼︾に来ていたのはイザークだけなので、彼
一人が激務なのか。
屋敷の維持だけでもかなりの激務のような気もするが、︽タラス
クの沼︾にさえ行かなければ大した手間ではないということか⋮⋮?
その辺りは大きなお屋敷の使用人なんてやったことのない俺から
するとなんとなく想像では出来ても、詳しくは分からない話だな。
﹁おれが、いらいをうければ、いざーくはらくになるのか?﹂
﹁ええ。少なくとも本人はそのように言っておりますので。家の仕
事もかなり多いかとは思いますが、イザークはその辺りとても優秀
です。︽タラスクの沼︾に行く時間がなくなれば、十分な休養にな
る、というのは理解できる話です﹂
イザーク自身も俺の言葉に頷き、またラウラの台詞にも同意する
ように首を縦に振った。
まぁ、そういうことならいいのか。
そもそも、俺がこの家の内情にまで踏み込む必要はよくよく考え
てみるとない。
依頼を受けてイザークが楽になるかどうかは、俺には関係のない
話だ。
俺にとって重要なのは、あの模型の話の方である。
653
﹁そうか⋮⋮それで、そのことと、もけいのはなしは⋮⋮﹂
どう繋がるんだ、という意味の質問だったが、ラウラは言った。
﹁今回の依頼を受けてくださったら、その報酬にあの飛空艇模型を
差し上げると言うことです。あぁ、もちろん、本来の報酬︱︱金銭
の方も減額することは無いのでそこはご心配なく﹂
654
第95話 奇妙な依頼と帰路
﹁い、いいのか?﹂
俺がそう尋ねると、ラウラは、
﹁ええ⋮⋮そもそも、︽タラスクの沼︾に定期的に行って来れる冒
険者を探すのは中々に難しいですからね。それが出来るレントさん
にやる気を出してもらえるなら、あれくらいのものは差し上げても
構いませんよ﹂
そう言ってくれた。
あれくらい、と言うが、実際は売りに出せばどれだけ金貨が積み
上げられるか分からないような品である。
それをこんな風にぽん、とくれるとは⋮⋮。
なんて太っ腹なのだろう。
俺は心からラウラに感謝の気持ちを感じる。
今この瞬間、この少女に忠誠を誓ってもいいくらいだ。
実際にはそんなもの当然不要だろうが。
﹁さがせば、それなりにいそうなきもするけどな﹂
俺は自分の心のうちを口にしないで、当たり障りのない返答をす
る。
ラウラはそれが分かっているのかどうか。
彼女は、見た目は幼いが、その瞳に宿る理性は一端の大人どころ
か、大店の主や海千山千の貴族に匹敵している。
どれだけの経験をすればこんな風になれるのか、その人生を俺は
655
想像することしかできないが、そんなラウラが、俺の浅はかな考え
を読めないとは思えなかった。
ただ、それだけに、彼女は大人である。
俺がうじうじ飛空艇を欲しがっているのも理解して、すんなりこ
んな提案をしてくれたのだから。
今の俺の飛空艇模型をもらえて万歳、という喜びも、大人として
流してくれたようである。
⋮⋮別に俺が子供っぽいわけじゃないぞ。
冒険者たるもの、欲しいものはどんな手を使っても手に入れるの
だ。
それがたとえ、子供に極端に気を遣わせるような方法でもな!
⋮⋮自分が情けなくなってきた。
でも、やっぱり要らないなんて絶対に言わない。
飛空艇模型は俺のものだ。誰にもあげないんだ。
まぁ、冗談はさておき⋮⋮。
どこまでが?
という突っ込みはなしだ。
そう、冗談はさておき、俺はラウラと話を続ける。
彼女は、俺の言葉に、少し悩みつつも答える。
﹁実力的には銀級の方に頼めば問題はないのでしょうけれど、やっ
ぱりあそこに行くと色々と問題がありますからね。身に付けていっ
たものはダメになりますし、毒の危険もありますし、遅効性のもの
ですと、いつ体に不調が出るかも分かりません。タラスクにしても、
基本的には聖水で避けられますが、それでも運悪く縄張り争いに負
けた個体と出くわす可能性はないわけではないのです。そういう諸
々を考えますと⋮⋮金級は欲しいところですが、そこまでの実力に
656
なると大概王都に行ってしまいますし、マルトに残っている金級の
冒険者の方にはもっと受けるべき依頼があります﹂
この場合の受けるべき依頼、とは、彼らしか倒せないようなクラ
スの魔物が出現した場合のことを言っているのだろう。
それを放置して、自分の依頼を受けてほしい、とは言いにくいと
いうことだ。
その点、俺なら銅級であるし、他の懸念もすべて解決できる。
かなり得難い存在で、だからこそ色々と便宜を図ってくれるつも
りがある、というわけだ。
納得した。
とはいえ、そう言えば気になっていたことがある。
﹁⋮⋮はなしは、わかった。いらいもうけるのはやぶさかではない。
が、︽りゅうけつか︾をせっしゅしているということだったが⋮⋮
もしかして、ラウラは、︽じゃきちくせきしょう︾なのか?﹂
そう尋ねると、ラウラは驚いた顔で、
﹁その病名を知っているということは、レントさんが︽タラスクの
沼︾で︽竜血花︾を採取していた理由は⋮⋮﹂
そう尋ねてきた。
しかし、一応守秘義務もある。
依頼を受けた、というくらいならまだしも、詳細まで言ってしま
う訳にもいかない。
と言っても、言わなくてもすでにほとんど察しがついていそうだ
し、このマルトにおいてラトゥール家は相当な力を持っているらし
いのだ。
657
調べようと思えばすぐに調べられてしまうのだろう。
ただ、それでも俺からは言わない。
﹁そこまでは、な﹂
そう言うと、ラウラも理解したようで、
﹁申し訳ありません。差し出がましかったですね。しかし、私の事
情もご理解いただけたでしょう? ︽邪気蓄積症︾は、初期数年な
ら︽竜血花︾から生成される魔法薬で完治が可能ですが、末期にな
ると、一生付き合っていくしかない病へと変化するのです。それで
も死につながるわけではありませんが、生きていくためには新鮮な
︽竜血花︾の摂取がどうしても必要になります。ですから⋮⋮﹂
彼女の言葉に俺は頷く。
これ以上は、俺の方が差し出がましい、ということになるだろう。
︽邪気蓄積症︾が詳しくどういう病気なのかは知らなかったが、
そういうことなら⋮⋮。
それを考えると孤児院のリリアンは運がいい方だったのだろうな。
一度︽竜血花︾をとってくるだけならともかく、何度も依頼をす
るのは流石に厳しいだろう。
もしそうなっていたら、俺がやったかもしれないが⋮⋮。
まぁ、事情も大体理解できたし、依頼のことも報酬に至るまで細
かいことも分かった。
依頼を受けることに問題はなさそうだし、報酬も素晴らしく魅力
的である。
俺はラウラに言う。
﹁いらいは、いらいひょうにきさいされたじょうけんと、さきほど
ついかされたじょうけんでうける。これからよろしくたのむよ、い
658
らいぬしどの﹂
それから手を差し出すと、ラウラは俺の手を握って微笑み、
﹁そう言っていただけるととても助かります。どうぞよろしくお願
いします。レントさん。それと、私のことはラウラ、で構いません
よ﹂
そう言った。
俺としては依頼を受けた時点で客として扱うと言う意思表示のつ
もりだったが、余計だったらしい。
﹁わかった、らうら。これでいいか?﹂
そう言うと、笑みを深くして、彼女は頷いてくれたのだった。
◆◇◆◇◆
﹁⋮⋮しかし、ほんとうにいいのか?﹂
俺がラトゥール家の門まで向かいながら、そう尋ねると、一緒に
歩いているイザークが頷いて言う。
﹁ええ、構いませんよ。いずれ差し上げるものですし、今差し上げ
ても同じだろう、とはラウラ様のお言葉ですので﹂
俺とイザークの視線の先には、空を飛んでいる飛空艇模型がある。
俺の魔力では十分程度しか飛べないので、ラウラにサービスに魔
石から一時間程度持つくらいの量の魔力を注入してもらっている。
本来ならその魔石ですら報酬にしても十分なほどだったが、ラト
659
ゥール家にとっては大したものではなかったようだ。
ちなみに今、ラウラは屋敷の中にいる。
イザークだけ、門まで見送ってくれる、ということでついてきた
のだ。
俺も子供ではないから⋮⋮心の中にいる少年はともかくとして⋮
⋮見送りなど不要だ、と言いたいところなのだが、ラトゥール家は
その庭が広大な迷路になっている。
もう一度それを自分で攻略して門まで、などということになった
らそれこそ朝までかかるのは目に見えていた。
しかし、イザークがいれば⋮⋮。
どうなるかというと、庭園迷路を構成している生垣の壁が、イザ
ークが近づくとまるで避けるように開いて、通路が形作られるので
ある。
﹁⋮⋮どんなしくみなんだ?﹂
コントローラー
と尋ねると、手のひらを開いて、丸い石を見せてくる。
それは、俺がもらった飛空艇模型の操縦器に似た素材で、イザー
クは、
﹁これを握って念じると、好きな形に庭園を作り替えられるのです。
まぁ、大規模なことは無理ですけど﹂
﹁それをするときはどうするんだ?﹂
﹁ラウラ様にしか出来ません。やり方は⋮⋮内緒とだけ﹂
まぁ、そこまで話す必要もないだろう。
知ったら悪用する者もいるかもしれないしな。
660
聞いても俺は別に誰かに話すつもりはないが、そもそも誰にも話
さなければ広まりはしないのだからイザークの判断は正しい。
﹁さて、辿り着きましたね﹂
話しているうち、入り口に辿り着く。
俺は飛空艇模型を地面に下ろし、それから機体の横に触れた。
すると、大きさが縮まり、手のひらに乗るくらいになる。
ラウラに色々聞いた機能のうちの一つである。
他にも色々あるのだが、使う機会があるかどうかは謎だ。
ただ、この縮小化は、流石に街を先ほどまでのサイズのまま持ち
歩くわけにも飛ばすわけにもいかないので、非常によい機能だと言
える。
﹁⋮⋮もんばんは、もういないんだな﹂
﹁ええ、彼は朝から夕方までの勤務ですので。夜は門を閉めますし、
迷路もより複雑にしておきますから。誰も入っては来られません﹂
イザークはそう言った。
ただでさえ難解な迷路である。
さらに難しくなったら、それこそ夜に入ったら朝まで迷い続ける
ことになるだろう。
恐ろしい話だ。
﹁⋮⋮つぎ、ここにきたときは、どうすればいいんだ?﹂
また攻略するのは御免である。
景品ももらえないのだから当然だ。
イザークはそれについて、言ってなかったか、と思い出したよう
661
な表情で言った。
﹁門番の彼がいる時間帯であれば、彼が屋敷に連絡をつけられます
ので、大丈夫です。そのときは私がお迎えにあがりますので﹂
それなら俺としても安心である。
そう思ったところで、俺はイザークに手を振り、屋敷を後にする。
次来るときは、︽竜血花︾を納品するときだ。
またあの︽タラスクの沼︾に行くのは気が滅入るが、イザークに
もらった聖水が俺にはある。
次はさほど苦労はしないだろう。
662
第96話 奇妙な依頼と水晶の瓶
﹁⋮⋮これが﹂
﹁あぁ﹂
ロレーヌの家のリビングで、俺とロレーヌは腕組みをしながらテ
ーブルの上に置いてある一つの物体を見つつ唸っていた。
ヴァンパイア
そこにおいてあるのは、赤黒い液体の入った水晶作りの瓶である。
つまりは、先日、ラウラにもらった吸血鬼の血液だ。
昨日、ここに帰って来た時点でラトゥール家であった諸々につい
てはロレーヌに説明したが、どうにも随分眠かったらしく細かいこ
とはまた明日だ、ということになって今に至る。
朝起きて聞いてみれば、どうにも根を詰め過ぎたらしい。
何をしていたのかと聞いてみれば、今度アリゼに魔術を教えるた
めの教科書を書いていたという。
一般に販売しているもので構わない気がするが、妙なところ凝り
性なので自分で作らなければ気が済まなかったらしい。
書き終わったのか、と聞いてみれば、終わったと言う。
ふつう、一日二日でどうにかなるものではないような気がするが、
とりあえず基本的な事項だけについてのものだからそれほど時間は
かからなかったらしい。
展望を聞くに、いずれ全十部の大論文になる予定だと言う。
全部読み切ればこれで貴方も魔術学者に!がコンセプトらしい。
なんで孤児院の子供に魔術の基礎を教えるだけの話がそこまで広
がるのか今一理解できない。
冒険者になると言っていたのに、そのうち道がずれて学者になっ
663
たらどうするんだ。
そう言うと、別にそれはそれでいいではないか、と言われた。
⋮⋮まぁ、確かに立派な学者になればロレーヌのぐうたら具合を
見ると分かるようにそれなりに稼げる。
少なくとも木端冒険者でしかない以前の俺のような銅級冒険者よ
りはずっと裕福になれるだろう。
それを考えると悪い道ではない。
学校だって、優秀であれば国が奨学金を出しているし⋮⋮田舎国
家の辺境都市で適当にやっているしょぼい学者とは言え、ロレーヌ
が口利きすればそういう道にも進める可能性は高いだろう。
が、アリゼは冒険者になるのである。
なにせ俺の初めての弟子だぞ、と言えば、私の弟子にもなるのだ、
とちょっとした喧嘩になった。
最終的にはいずれ本人に選ばせよう、ということで落ち着いたが、
気を抜いていると学者の道に引き込まれてしまう気がする。
アリゼにはこれからよくよく冒険者の夢と希望と楽しさについて
教えていこうと決意した。
間違っても、十年間銅級にくすぶっていた男の話などするまいと
も。
ヴァンパイア
それはともかく、吸血鬼の血である。
これを何のために貰って来たかと言えば、それはもちろん、俺の
存在進化のためだ。
なんとなく、これを摂取すれば、何かが変わるような⋮⋮そんな
気がするのだ。
﹁⋮⋮本能のようなものなのかな?﹂
ロレーヌがそう尋ねた。
俺は少し考えつつ、答える。
664
﹁わからないが、おいしいものをたべたいとか、ねむいからねたい
とか、そういうかんかくに、にているきはするな﹂
全く同じなのかと聞かれると違うような気もするが、人であった
ころには感じたことのない感覚である。
他に表現が見つからずにそういう風に言うしかなかった。
俺の言葉にロレーヌは、
﹁⋮⋮まぁ、こればっかりはな。お前の感覚を信じる以外に方法は
ヴァンパイア
ない。しかし、大丈夫なのか? そのラウラ・ラトゥールが言った
ように、吸血鬼の血液は劇薬だと言われる。実際に飲んだ者の結末
もいくつか読んだことがあるが、いずれも悲惨なものだったぞ。生
半可な覚悟では口にすべきものではない﹂
ヴァンパイア
ヴァンパイア
俺は吸血鬼についてはそれほど詳しく調べたことがなかった。
というのも、吸血鬼は魔物としてかなり上位の存在であり、強力
な魔物であるため、少なくとも当分出くわす可能性がなかったから
だ。
ヴァンパイア
それでも大まかな概要くらいは知っていたが、その血液を飲んで
吸血鬼になろうとした人間の話までには流石に手は回っていない。
ロレーヌはやはり学者と言うべきか、そういうことにも詳しいよ
うだった。
そんな彼女から、改めてその血液の危険さを語られると、覚悟が
ちょっとだけ揺らぐ。
﹁⋮⋮やっぱりのむのはやめて、これであそんでようかな⋮⋮﹂
コントローラー
俺がそう言って丸い石のような形をした操縦器を手に取り、部屋
の端に宝物のように置いてあった飛空艇模型を飛ばし始めるとロレ
665
ーヌは呆れたような顔で、
﹁本当に珍しいものをいくつももらってきたものだな⋮⋮。ラトゥ
ール家など、私も聞いたことがなかったが、これだけの品を持てる
時点でどう考えても普通の家ではないな﹂
空中を飛ぶ飛空艇模型を見ながら、ロレーヌはそう呟く。
俺が意識を飛空艇模型に移し、空からロレーヌを見下ろすと、感
心しているような、それでいて呆れているようなロレーヌの顔がア
ップで映る。
どうにも近づきすぎたようだ。
ここまで近づくことはあまりないからな⋮⋮。
それにしても、今日のロレーヌは随分と緩い格好をしている。
このアングルだと色々見えてしまいそうでまずい。
そう思った俺は、飛空艇から意識を戻して深く息を吸った。
飛空艇の機能についてはまだ話していないため、俺が上から見て
いたことには気づかれてはいないはずだ。
しかし、
﹁⋮⋮?﹂
ロレーヌは妙に首をひねっていた。
﹁どうかしたのか?﹂
そう俺が尋ねると、ロレーヌは、
﹁⋮⋮いや。気のせいかな。なんでもない⋮⋮﹂
そう、珍しく曖昧な返答をした。
666
それから意識を切り替えたらしく、
﹁それはともかく、現実逃避はやめてどうするか決めたらどうだ?
存在進化のために必要だと言うのなら、いずれ飲まなければなら
ないものだぞ﹂
そう言ってきたので、俺は、
﹁⋮⋮たしかに、そうなんだが、やっぱりちょっとこわくて⋮⋮ろ
れーぬは、おれがこれをのむことになにもおもわないのか?﹂
と尋ねる。
するとロレーヌは真面目な顔で、
アンデッド
﹁もちろん、飲まないで済むのならそうして欲しいがな。別に私は
お前がずっと不死者でも構わん。ずっとここにいて、適度に冒険者
仕事をしながら暮らしていけばそれでいいと思っているさ﹂
と言った。
しかし、とロレーヌは続ける。
ミスリル
﹁⋮⋮お前は、それは嫌なのだろう? 私はお前の夢を知っている
さ。何が何でも、才能がなかろうが、何年かかろうが、神銀級にな
りたいのだろう? そのために虎の尾を踏まなければならないのだ
としても、お前は迷っても最後にはやるのさ。いや、迷っているこ
とすら、ふりでしかないのだろう。そういう男だ⋮⋮そうだろう?
だったら、私としては応援するまでだ。なに、骨は拾って、しっ
かり墓に埋葬し、毎月墓参にいってやる。私が死ぬまで、墓守をし
よう。葬式でも盛大に泣いてやろう。私が出来るのは、せいぜいそ
のくらいだ⋮⋮﹂
667
よくわかっているな、と俺はそれを聞いて思った。
確かに今、俺は迷っている⋮⋮という態度でいるが、実際はもう
覚悟などほとんど決まっていた。
これを飲んで、死んだり廃人になったりするのは当然いやだが、
そうなったらそうなったで仕方がない。
飲まなければ俺は一歩も前に進めないし、今後の人生は生きてい
るだけの死人と化すだろう。
⋮⋮比喩的な意味でだ。
物理的に本当にそうだというのはなんだか滑稽だな。
とは言え、それでロレーヌに迷惑をかけるのもいやである。
だから俺はロレーヌに言う。
﹁⋮⋮すまないな。もし、おれがこれをのんで⋮⋮おかしなことに
なったら、まじゅつでもうちこんでやきつくしてくれ﹂
ロレーヌをそれを聞いて、
﹁そうならないことを祈るがな⋮⋮﹂
と願うように言った。
俺はそれを見、頷いてから、水晶作りの瓶を手に取る。
僅かな不安に揺れるロレーヌの瞳を見ながら、俺は瓶の蓋を開け、
そしてその中身を飲み干した。
668
第97話 奇妙な依頼と薄い感情と
一滴目が舌先に触れた瞬間に、刺さるような痛みが襲って来た。
飲むのをやめた方がいいのかもしれない、一瞬そう思ったが、こ
れを飲み切らなければ意味がないような気もした。
気のせいだったかもしれない。
ただ、存在進化については勘を頼るしかないのだ。
理屈でなく何かがそう言っているのなら、そうせざるを得ない。
俺は、そう思って、瓶を大きく傾けたのだ。
︱︱からん。
と、テーブルの上に瓶が転がる。
あれでかなり有用な魔道具である。
割れないように気を付けて置いたつもりだったが、残念ながら倒
れてしまったらしい。
しかしそれも仕方ないだろう。
目の前が赤い。
体にびりびりとした痛みとも苦しみともつかぬ衝撃が走っている。
これは、やばいな。
単純にそう思った。
しかし、死にそうだ、というわけでもない。
なんというか、体が思い切り作り替えられて行っている。
そんな感じがするのだ。
体の奥深く、今まで何もなかった空間に、俺の体の中に渦巻くす
べての力が勝手に使われて、何かが一つ一つ押し込まれて行ってい
669
る感じだ。
その何かは、おそらくは俺の体の中にいままで存在していなかっ
ただろう、生きた内臓というところだろうか。
体の表面に大量の蟻が物凄い速度で走り、昇っていくような感覚
は、皮膚ができ始めているからに違いない。
この悍ましい感覚は、生きているときに大量の酒を飲んだ時と似
ていながら、その百倍は気持ち悪く、目の前の景色がまるで巨大な
地震が襲って来たかのように歪んでいる。
勤めて冷静になろう、と努力してみるも、そんな行動は全くの無
意味で、ただただ自分の体中が異常を訴え続けていることを深く理
解するだけに終わる。
これは⋮⋮どこまで続く?
いや、終わりなど来るのか。
ヴァンパイア
そんな思いが胸の中に浮かび、そして引くことなくくすぶり続け
る。
なるほど、こんな感覚を吸血鬼の血液を飲んだ者は皆、味わう羽
目になると言うのなら、耐えきれずに死んでしまうことも、発狂し
てしまうことも理解できる気がした。
俺はまだ耐えられている。
心が強いから?
アンデッド
いや、違う。
アンデッド
俺は不死者だからだ。
不死者になってからずっと、俺の心の動きは酷く人間離れしたも
のと自覚していた。
出来る限り人であるように、人のままであるようにと振る舞いの
方はどうにか人らしく見えるようにしてきたが、それにしても生き
ているときと比べ、心に立つ波は弱く、静かだった。
670
スケルトン
グール
しき
骨人になり、屍食鬼になり、屍鬼になって、どうしていつも通り
平静な様子でいられたかと言えば、実際に俺は平静だったからに他
ならない。
気持ちが強く動かないのだ。
ミスリル
それでも、そんな中でも心の反応することは色々あって⋮⋮。
神銀級になることなど、俺が生きていたころに強く大事に思って
いたことにだけ、俺の心は確かに動いているのを感じた。
だから、執着してきた。
むしろ、生きているときよりもずっと、執着してきたかもしれな
い。
その執着すら、眠って起きたら忘れてしまいそうなほど僅かなも
のだったけれど、それを手放さないように、強く意識して忘れない
ようにしてきた。
そんな俺だからこそ、この痛みも苦しみも、この程度で済んでい
る。
もしも紛れもなく人だったときにこの苦痛に襲われていたら⋮⋮。
ものの数秒で俺は正気を失っていただろう。
﹁⋮⋮! ⋮⋮!!﹂
遠くから声が聞こえる。
歪む視界の中に、ロレーヌの顔があった。
しき
それを見て、俺は安心する。
なぜと言って、屍鬼になったときのような、彼女の血肉に対する
欲望はないからだ。
ただ、あるのは⋮⋮。
意識が遠くなる。
671
手放すとどうなるのか⋮⋮。
いや、この感じならば、ただ気絶するだけで済みそうだ。
こんな状態で、ずっと意識を保ったまま、というのはつらい。
いっそ、気絶してしまった方が、楽だろう。
それで存在進化とかは大丈夫なのかと言う気もするが、おそらく
重要なのは、この苦しみで正気を失わないこと、苦痛のあまり精神
が死なないことだ。
俺はその意味において、初めから死んでいる。
だから問題ないと確信できた⋮⋮。
そして、目の前が暗くなる。
ゆっくりと頭が地面に落ちていくような浮遊感、そして地面に叩
きつけられる直前、ふわりと何かに抱き留められた気がした。
◆◇◆◇◆
やっぱり、平気だったな。
意識が戻ってきて、俺はすぐにそう思った。
体に感じるのは、妙な軋みだ。
なんていうかな。
骨を折った時に、木の添え棒をつけられているようなつっぱりを
感じる。
なんだこれ⋮⋮。
まぁ、不快と言うわけではなく、ちょっとした違和感でしかない
のだが。
しき
目を開こうとして、瞼の重みを感じ、俺は少し驚く。
そう言えば、屍鬼だったときは瞼の上げ下げとかしたことなかっ
672
たかもしれない。
目をつぶった様な気持ちになってはいたが、仮面を下半分だけ覆
った形状にして鏡で見たときは瞼はなかったな。
しかし、今はそれを感じると言うことは⋮⋮。
目を開くと、ぼんやりとした光を感じた。
蝋燭の揺らぐ、僅かな光の感触だ。
この家にはちゃんと灯り用の魔道具があったはずだが、眠る直前
なんかはそう言った明るいものは消すようにしているからな。
今は、俺が気絶していたので、ロレーヌが気を遣って灯りはそち
らにしてくれたのだろう。
体はどうやら横になっていて、ベッドの上だったらしい。
瞼をあけて初めに見えた天井には影が見えた。
⋮⋮人影だな。
あぁ⋮⋮と思って、ベッドの横に目をやると、そこには、分厚い
書物のページを捲るロレーヌの姿があった。
しばらくロレーヌの横顔を見つめていると、本の左側に目をやっ
たときに俺に気づき、
﹁目が覚めたか、レント﹂
と口にした。
どうやら、そこで俺の様子を見ていたらしい。
それで、少しすれば目が覚めると思っていたら、あまりにも昏々
と眠り続けていたため、暇になって本を持ってきて読み始めた、と
いうところだろうか。
外は暗く、俺が倒れたのは朝だったことを考えると、かなり長い
間眠っていたことになる。
久々の眠りだったわけだが、あまり楽しめずに終わってしまった
673
な。
﹁あぁ⋮⋮何を読んでるんだ?﹂
俺がそう尋ねると、ロレーヌはぱたりと本を閉じ、それから表紙
を撫でながら答えた。
ヴァンパイア
しき
レッ
﹁吸血鬼の生態についての解説書だな。主に種類について書いてあ
サー・ヴァンパイア ミドル・ヴァンパイア
グレーター・ヴァンパイア
るものだが⋮⋮大まかな分類はお前も知っているだろう。屍鬼、下
級吸血鬼、中級吸血鬼、上級吸血鬼⋮⋮という奴だ。まぁ、強力な
ものになるにつれて、これに分類できないものも増えていくようだ
エンシェント・ヴァンパイア
から、必ずしもすべてに当てはまる理屈ではないようだが⋮⋮たと
ヴァンパイア・プリンセス
えば、長い年月を生きた古代吸血鬼はこのどれにも当てはまらない
し、吸血姫もどこにも該当しないと言われる﹂
グレーター・ヴァンパイア
﹁⋮⋮どっちも会ったことのある奴なんていないって聞くけどな。
せいぜいが、上級吸血鬼程度で、群れの規模も眷属全員合わせても
村一つ程度だと。街なんかでそれなりの社会を築いているとそれで
トワイライト・ヴァンパイア
も厄介だろうが⋮⋮それに、まぁ、嘘か本当か怪しい伝説だと国一
つを飲み込んだ黄昏の吸血鬼なんて奴もいたって聞くが、そんなの
は、それこそ伝説だしな⋮⋮﹂
﹁伝説だからといって必ずしも真実でないとは限らないだろう。レ
トワイライト・ヴァンパイア
ント、お前だって、それこそ伝説中の伝説、︽龍︾に実際に出会っ
てその身を食われているんだ。黄昏の吸血鬼だっていたのかもしれ
ないし、東の地に舞い降りた払暁の天使も実際にいたかもしれない。
そうだろう?﹂
そこを言われると、確かに弱い。
俺は事実、伝説をこの身で体験しているのだから、伝説は伝説に
674
過ぎないだろう、とは口が裂けても言ってはいけない存在だろう。
俺は仕方なく頷いて、
﹁まぁ⋮⋮そうだな。で、またなんで改めてそんな本を読んでるん
だ?﹂
俺がそう尋ねると、ロレーヌは俺を指さして言った。
﹁簡単な話だ。つまり⋮⋮﹂
﹁つまり?﹂
︱︱存在進化おめでとう、という話さ。
ロレーヌは微笑み、そう呟いたのだった。
675
第98話 奇妙な依頼と美肌
存在進化?
なんだそれは⋮⋮。
アンデッド
というほど呆けてはいないつもりだが、言われるまで意識に上ら
なかった辺り、不死者になって脳みそまで腐っていただろうと言わ
れてもちょっと反論が出来ないところではある。
まぁ、確かに言われてみれば体の感覚は大幅に変わっていた。
寝起きだから今一ぼんやりとして全容がつかめなかったんだよ⋮
⋮。
しかし、そういう感覚すら、結構久しぶりな気がするな。
今日の朝までは結局、そういう感覚ははるか遠くにあったから。
なんというかテンションが常に一定だったというか、存在進化す
るとき意外は、ものすごく冷静な気持ちでしかいられなかったとい
うか。
みんな大爆笑しているのに自分だけ面白さが分からなくて、でも
疎外されたくないから無理やり笑ってどうにかやり過ごしていたよ
うな感じと言うか。
あれは虚しい⋮⋮。
いや、それはいいか。
アンデッド
ともかく、今は結構、心の動きが活発になっているような気がす
る。
あの冷静さは、不死者だったから、というより、体の中身が空っ
ぽだったから、心もついでに空っぽだったようなものだったのかも
しれないな。
今は、しっかりと体の中身も詰まっているぞ。
676
腹を掻っ捌いて見せても⋮⋮よくないか。
そもそも、まだ自分がどうなっているか大して確認していない。
鏡、鏡⋮⋮。
そう思っていると、ロレーヌが準備よく部屋の壁に立てかけてあ
った姿見を持ってきて見せてくれる。
この間まではそこまで大きな鏡はなかったはずだが、どうやら購
入してくれたらしい。
まぁまぁ高いだろうに、なんだか申し訳ないような気もするが⋮
⋮。
﹁⋮⋮よく、分からんな﹂
俺が鏡を見ながらそう言うと、ロレーヌは呆れた顔で、
﹁ローブと仮面を取れ、ばかもん。その格好ではいつもと変わらな
いのは当然ではないか⋮⋮﹂
と突っ込む。
確かに全くその通りで、しかしだとするとロレーヌはどうやって
俺が存在進化したと思ったのか⋮⋮。
そう思って首を傾げると、ロレーヌは察して説明してくれる。
﹁手袋だけとってみたんだ。そこだけで明らかだろう?﹂
言われて、なるほど、していたはずの手袋が外されて、ベッド脇
の小さなテーブルの上にたたんで置いてあった。
自分の手を見てみれば、今日の朝までかなりグロかったというか、
これは人間の手なのかそれとも枯れ木を材料に人間の手を模した上
で腐った肉を張り付けたものだろうかと悩むような感じだった俺の
677
手が、今ではするりとした綺麗なものである。
アンデッド
若干青白く、血の気がまるでないのは確かだが⋮⋮しかしこれを
見て、即座に﹁不死者の方ですよね? 初めて会うんです、サイン
グール
しき
頂いてもよろしいですか!?﹂と言ってくるものはおそらくはいな
スケルトン
いだろうと思われる程度には人間をしていた。
⋮⋮まぁ、骨人だったときも屍食鬼だったときも屍鬼だったとき
アンデッド
も一度たりともサインを求められたことは無いけどな。
ばれてないから。
もし仮に街中でばれたとしても、﹁不死者の方ですよね? 討伐
報酬が魅力的なんです、お命頂いてもよろしいですか!?﹂と大剣
を振り上げてくる筋骨隆々のおっさんたちしか俺には寄ってこなか
っただろうけどな⋮⋮。
考えたくない。
⋮⋮それにしても。
﹁⋮⋮人間にかなり近づけている、のかな?﹂
俺がそう呟くと、ロレーヌは少し悩んで、
﹁夢のない話だが、そもそもお前がいつか人間になれるのかどうか
すら謎だからな。何とも言えんが⋮⋮見た目だけで言うのなら、人
間に近づけているかもな⋮⋮とりあえずそれを判断するために、仮
面とローブを取れ﹂
相変わらずと言うか、こういうときにただの希望を事実として扱
わないところははっきりとして分かりやすい。
確かにその通りなんだよな。
俺がいつか人間なれるかどうかなんて、誰にも分からない。
それでもそこまで強いショックを受けないのは、ロレーヌが別に
678
それでもかまわないとさっき言ってくれたからだろうか。
少なくとも、魔物として一人孤独に生きていかなければならない
かもしれない、みたいな悲壮な気持ちにはならないな。
﹁わかったよ⋮⋮﹂
俺は頷きながら、ローブを脱ぐ。
ローブの下には一応、服を着ているがかなり粗末なものというか、
ほぼ下着だけだ。
なぜと言って、体の至る所に穴やら欠けがあったので、あまり蒸
れる格好をしているとそこから腐り落ちてしまいそうな気がしてい
たからだ。
実際には、怪我をしても回復魔術や聖気によって修復が可能なの
で、たとえそうなってもさほどの問題もなかっただろうが、こうい
うのは気分の問題である。
外から見れば大した意味がなさそうに見えても、それでも保湿に
偏執的な情熱を注ぐ若い娘のようなものである。
そのお陰でスライムの体液はとても高価だったので、やっても意
味ないからやめろ、などとは言えないのだが。
そもそもそんなことを実際に口にしたらどこで袋叩きに遭うか分
からない。
世の中には黙っていた方がいいことがたくさんあるのである。
﹁⋮⋮ふむ﹂
ローブを脱いだ俺の体を見て、ロレーヌが頷く。
その反応に俺は、
﹁何か、変なところはあるか?﹂
679
そう尋ねた。
すると、ロレーヌは、
﹁⋮⋮いや? 正面から見る限りは特に何もないな⋮⋮。それにし
ても久しぶりに見たが、やはり引き締まった体をしているな⋮⋮ま
ぁ、修行を欠かさずに行っていたのだから、当然と言えば当然だろ
うが⋮⋮私から見て、体型自体にそこまで変化はないように思うが、
どうだ、お前から見て、前と体の感じは変わらないか?﹂
姿見を示しながら、そう聞いてきた。
どうかな?
じっくりと姿見に映る自分の姿を見ながら、おそらくは変わって
いない、と思った。
今まで枯れた体やら穴の空いた体やらばかり見てきたから、以前
の自分の体型というものの記憶が遥か遠いが、まぁ、概ねこんな感
じだっただろう、と思う。
アンデッド
違うところを上げるなら、やはり全体的に漂う青白さ、血の気の
薄さだろう。
ぱっと見では人に見えても、未だ不死者に過ぎないのだろう、と
いうことがそれでしっかりと理解できてしまう。
とは言え、それでも今はまだ十分だ。
肌があり、体に穴が開いていないと言うのはそれだけで素晴らし
いからな⋮⋮。
目覚めたとき、何か体が突っ張っているような感じがするのは、
滑らかな皮膚が形成されたからだったのだろう。
ほとんど皺のない肌は、以前の自分のそれよりもずっと滑らかで、
まるで生まれたばかりのように感じられる。
﹁⋮⋮冷たっ﹂
680
ふっと肌に冷えた感触を感じ、何かと思ったら俺の背中にロレー
ヌが優しげな手つきで撫でるように触れていた。
彼女は頷きながら、
﹁⋮⋮若い娘が羨みそうな肌だ。これは再生したと言うより、新生
したと言ってもいいような滑らかさだな? お前も男だし、それに
加えて過酷な生活を繰り返す冒険者だった。以前はそれなりに肌は
ざらついてただろう。しかし今は⋮⋮﹂
ロレーヌはたまに俺が大けがをした時などに手当をしてくれたり
して、上半身の裸くらいは普通に見ていたし、触っていた。
そのときの感覚からして、あまりにも肌が滑らかに過ぎる、とい
うことのようだった。
ロレーヌは続ける。
﹁傷も一つもないようだ⋮⋮前は古傷がいくつかあっただろう? 背中には大きな切り傷もあったはずだが⋮⋮すべて消えている﹂
確かに、体の前側にも同様に小さな古傷がいくつもあったが、今
アンデッド
は一切ない。
不死者の体になって、すべて作り直されたがゆえに消滅した、と
いうことなのだろうか。
分からないが、別に古傷一つ一つに深い思い入れがあったわけで
もない。
別に構わない⋮⋮と俺は思うが、ロレーヌは、
﹁他の傷はともかく、ここにあった傷は中々、冒険者らしくて好き
だったのだがな。まぁ、なくなってしまったものは仕方がないか⋮
⋮﹂
681
と残念そうに言っていた。
俺よりも傷に思い入れがあったらしい。
ぬいぐるみに刻まれた染みに愛着を感じるようなものなのかもし
れない。
それから、ロレーヌは、何でもないような口調で、
﹁⋮⋮全体的にあまり変化はないな。せいぜい、背中に小さな羽が
あるくらいか。大した変化ではないな﹂
と、驚くべきことを言った。
682
第99話 奇妙な依頼と妙な羽
﹁⋮⋮羽?﹂
俺がかくりと首を傾げると、ロレーヌも同じようにかくりと首を
傾げて、
﹁⋮⋮気づいていたんじゃないのか?﹂
と尋ねてきた。
ロレーヌとしては、別に意図的に黙っていたとかいうわけではな
く、俺がすでに分かっているものと思っていたようである。
しかし、である。
﹁自分の背中なんて見れないんだ。気づいているわけないだろ⋮⋮
?﹂
そう言うと、ロレーヌは、
﹁いや、先ほどから結構ぴこぴこ動いているから、意識的に動かし
ているものだと思っていた。すまないな⋮⋮なんだ、意識せずとも
勝手に動くものなのかな? 瞼みたいなものか⋮⋮あぁ、鏡がもう
一枚必要かもな。無理やり背中を向けると見にくいだろう。ちょっ
と待て﹂
そう言ってごそごそと部屋の中にある棚を漁って鏡を取り出す。
一応、俺が借りている部屋とは言え、もともとはロレーヌの部屋
だ。
683
大した荷物があるわけでもないし、部屋の中にある棚やらチェス
トやらの中身はほとんどロレーヌのものだ。
ロレーヌは取り出した鏡と、俺の前に置いてある姿見の位置を調
整して、俺が背中を見れるようにしてくれた。
そしてそこに映っていたのは⋮⋮。
﹁⋮⋮羽、だな﹂
﹁あぁ、羽だ。さっきからそう言っているだろう﹂
まさにそれは、羽だった。
俺の背中、肩甲骨の僅か下、背骨寄りの位置に、左右対称の位置
で羽が生えているのが分かる。
それは、どちらかというと、羽毛のある鳥の羽と言うよりは⋮⋮
蝙蝠の翼膜のようであった。
小さく畳まれているようだが、意識してみると確かに動かすこと
が出来る。
それを見て、ロレーヌは、
﹁⋮⋮お、自分で動かせるのか? となると、さっきまでの感じは
何だったんだろうな⋮⋮﹂
そう言いながら、翼膜に触れ、撫でたり伸ばしたりし始める。
かなりくすぐったく、しかしロレーヌはこれで魔物の専門家であ
る。
彼女に体を見てもらうことは、自分を深く知ることにもつながる
だろうと、その行為を受け入れようとしたのだが⋮⋮。
﹁おい、逃げるな﹂
684
とロレーヌが言う。
﹁⋮⋮? 逃げてなんているつもりはないが⋮⋮﹂
﹁しっかり逃げているぞ。体がじゃない。お前の羽がだ。翼膜と言
った方がいいのかもしれんが⋮⋮まぁ、私もお前も空を飛ぶものの
器官を意味する言葉について厳密な定義がしたいわけでもないし、
どっちでもいいだろう。ともかく、その羽が、逃げているのだ﹂
事実として、俺は特に翼を動かしているつもりはないのだが、ロ
レーヌからしてみると逃げているようにしか思えないようだ。
今度はしっかりと逃げないようにという意思を持って、触れても
らうと、
﹁⋮⋮うむ。逃げてないな﹂
と納得された。
しかし、それでもさっきのことは気になるようで、ロレーヌは首
を傾げて、
﹁さっきはなぜ⋮⋮む、そうか、もしかして⋮⋮﹂
そう言い、それから俺の翼をなんだか妙な手つきで触りだした。
それはまるでくすぐっているようであり、事実、鏡に映るロレー
ヌの表情は何かちょっと笑っている。
⋮⋮いたずらである。
しかし、俺はそんなものには負けないと強く意志を持ち、しばら
く努力する。
くすぐりなど、耐えようと思えば何時間でも耐えられるのだ。
685
そう、何時間でも⋮⋮なんじかんでも⋮⋮なん⋮⋮無理。
そう思ってあきらめた瞬間、
﹁⋮⋮今、羽を意識的に動かしたか?﹂
そう聞かれたので、
﹁いや。くすぐったかったけど、出来る限り耐えたつもりだぞ﹂
そう答えた。
実際、最後にはくすぐりに耐えきれなくなったのは確かだが、基
本的には動かそうとはしなかった。
ロレーヌはそれを聞いて、
﹁やはりか。意識的にも動かせるようだが、無意識にも反応するよ
うだな? 私がくすぐっている間、ずっと羽は勝手に逃げようとし
ていたぞ。それを、別の意志が引き戻そうとしてせめぎ合っている
ような感じだった。最後にお前、諦めただろう?﹂
﹁あぁ⋮⋮流石に耐えきれなくて﹂
﹁その瞬間、無意識の方に主導権が傾いたんだろうな。羽は私の手
から逃げていった⋮⋮動物の尻尾みたいなものなのだろうな﹂
となんだか妙な結論に落ち着く。
俺の羽を見れば、俺の機嫌やら感情がまるわかりと言うことだろ
うか?
まぁ、そこまでは言わないにしろ、俺が羽を動かそうと思わなく
ても反応してしまう訳だから、注目されると隠しごとが難しそうだ
686
な。
背中丸出しで歩いたりすることは無いだろうが⋮⋮。
ん?
そこまで考えて少し気になったことがあった。
﹁⋮⋮これ、服を着ていると背中になんか飼っているように見えて
怖くないか?﹂
﹁⋮⋮やってみるか﹂
そう言って、ロレーヌが麻で出来た安物の上着を持ってくる。
それを被ってきてみてから、ロレーヌに背中の様子を聞いてみる。
﹁どうだ?﹂
﹁⋮⋮あー、まぁ、これは⋮⋮確かに、何か怖い気もするな。背中
の一部が膨らんでもぞもぞしている⋮⋮﹂
それは、見なくても分かるホラーな光景であった。
魔物の中には人間の体に卵を産み付けるような恐ろしい存在もい
るわけだが、そう言う目にあった人間を俺は見たことがある。
肌の内側をこう、ミミズがのたくっているような悍ましい光景に
なるのだ。
しき
そして、最後にはその肌を突き破って生まれてくるのである。
グール
あれは人生で見た中でもトップ3にグロい光景だった。
ちなみに、トップ3の中には、屍食鬼だったときの自分と屍鬼だ
ったときの自分が入っているのはもちろんである。
体の内部が常に見えている干からびかけた人間が、グロくないわ
けがない。
最近ではかなり見慣れていたのも確かだけどな。
687
そんなものを思い出す光景が俺の背中で繰り広げられているのが、
頭に浮かんでくる。
明らかにダメだろう。
そんなものをしばらく観察してから、ロレーヌは俺に言う。
﹁⋮⋮そうだな、その羽、しまえたりしないのか? 一部の魔物は、
体内に翼を出し入れできるものもいるぞ﹂
﹁そういやそんなものもいるな⋮⋮しかし、どうやるんだ?﹂
﹁私が分かるわけなかろう。とにかく、強い意志でしまおうと思っ
てみるところからじゃないか⋮⋮?﹂
目を合わせると、手探りの、かなり頭のよくない会話であるなと
お互いに思っていることがその瞳の光から察せられた。
しかし、現実的に考えてそうするしかないのも間違いない。
こんな状況に置かれた人間など、俺を置いて他にいないのだから、
誰かを参考にして効率的な行動をとったりしようがないのだから。
俺は、とりあえずロレーヌの言ったとおりにやってみた。
すると、するり、と体に何かが押し込まれるような感覚がした。
俺の背中を観察していたロレーヌは、
﹁おぉ!﹂
と声を上げ、それからペタペタと背中をいじって、
﹁しっかりしまえているぞ、レント﹂
といい、更に、上着を捲って背中を直で見て、
688
﹁⋮⋮うむ、ちゃんと見えなくなっている⋮⋮僅かに盛り上がって
いるような気もするが、これくらいは許容範囲だろうな⋮⋮﹂
と頷いた。
それから、
﹁苦しくはないのか?﹂
と尋ねられたので、俺は答える。
﹁少し、内臓が押し込められているような妙な感じはするが⋮⋮い
きなり羽が出てくると言うことは﹂
︱︱なさそう、と答えようとしたところで、
﹁わっ!!﹂
とロレーヌが声を出した。
当然、俺は驚き、びくりとしたわけで、いきなり何をするのか⋮
⋮と尋ねようとロレーヌの方を振り返ると、彼女は呆れた顔で俺の
背中を見つめていた。
﹁⋮⋮驚くとダメらしいな﹂
言われて鏡で無理やり背中を見てみれば、そこにはいつの間にか
飛び出てきた羽の姿があった。
しかも、畳まれた状態ではなく、広がった形である。
いきなり街中で、服を破ってこれが出てきた日には、悪魔が現れ
たと声高に指さされて糾弾されるのではないだろうか。
689
今ここで、確認が出来て良かった⋮⋮と心の底から思った俺だっ
た。
690
第100話 奇妙な依頼と空への憧れ
﹁⋮⋮まぁ、だからと言ってどうしようもないわけだが。せいぜい
驚かないように頑張るしかないだろうな⋮⋮﹂
ロレーヌがそう言って見放した。
酷い話である。
が、何か方策が見つかりそうな問題なのかと聞かれるとまるで思
いつかないと答えるしかない類の話だ、これは。
驚かないようにする、なんていうのはかなり難しいだろうし⋮⋮。
出来ることとすれば、驚いて出てきても即座にしまうくらいだろ
うか。
あとは、常に背中に気を配っていれば防げるかもしれない。
その程度だ。
﹁頑張ってどうにかなるといいんだけどな⋮⋮﹂
﹁街中でくらいなら、なんとかなるんじゃないか? 迷宮などをソ
ロで探索しているときは周囲にお前の背中を凝視している冒険者で
もいない限りは問題ないだろうしな﹂
まぁ、確かにそれはそうである。
そもそもローブの中に着ている服を破ることはあっても、ローブ
の方は破れないだろう。
羽は結構な勢いで飛び出すようだが、魔物の攻撃すら通さない防
御力の前に、いくら勢いが良くても攻撃という訳ではない以上、破
るほどの威力があるわけではないからだ。
691
﹁⋮⋮ところで、その羽、もしかして使ったら空を飛べたりするの
か?﹂
ロレーヌがふと、そう尋ねてきた。
背中に突如生えた存在に、現実的な心配ばかりが浮かんできてい
たが、確かに用途の方についてはまだ検証していない。
実際どうなのだろうな、というのは俺も気になった。
そもそも、どう見ても、羽、なのだから普通その用途は空を飛ぶ
ためにあるのではないだろうか。
世の中には飛べない鳥というのもいくつかいて、彼らもまた羽を
持ってはいるのだが、その事実についてはあえて無視していきたい
ところである。
﹁とりあえず、試してみるか⋮⋮﹂
俺はそう言って、とりあえず上着を脱ぎ、自分の背中の羽を広げ
る。
大きさは広げてもさほどでもなく、これを羽搏かせてもどう見て
も空を飛べそうには見えない。
が、空を飛ぶと言うのは一種の浪漫である。
飛行魔術など使えない俺が空を飛ぶためには、飛空艇に乗るか、
この羽の能力によって飛ぶかくらいしかないのだ。
ぜひにも、その可能性を俺に見せてほしく、そのために俺は一生
懸命、羽を羽搏かせる。
⋮⋮が。
﹁⋮⋮なるほど、次の検証に移ろうか﹂
ロレーヌは俺の様子を見て、無慈悲にそう言い放つ。
その意味は明確だった。
692
俺は飛べていない。
頑張ってはいるけれども、全然浮けていない。
ふわふわとした風を辺りに起こしているだけだ。
﹁いや、まだだ。まだ、本気は出していない。絶対に、この羽には
何か能力があるはずなんだ⋮⋮﹂
そう言いながら、諦めきれずに羽を動かし続ける俺。
ロレーヌは、
﹁夏場、重宝しそうではあるな。ちょうどいいそよ風だ﹂
と涼んでいる。
ちくしょう。
そんなことしかできないのか?
俺の羽は。
いや、そんなわけない。
出来るはずだ、空を飛べるはずなのだ。
今出来ていないのに、何かが足りないだけで⋮⋮何か?
うーん⋮⋮そう言えば、竜なんかは、別に羽を羽搏かせるだけで
空を飛んでいるわけではない、という話を聞いた記憶があるな。
あの巨体を、いかに大きいとはいえあの翼だけで浮力を得るのは
難しいとかなんとか。
となると⋮⋮俺にもそれは可能なのではないか?
そう思っていると、ロレーヌも、
﹁ま、冗談はさておき⋮⋮巨体を持つ空飛ぶ魔物の類は魔力や気の
力を使って浮力を得ているというのは良く言われる話だ。細かいや
り方については分かっていないが⋮⋮それは試してみた方がいいか
もしれないな﹂
693
と、助言をくれる。
どうやらさっきまでのは冗談だったらしい。
そりゃそうか。
試せるものは全部試そうと考えるタイプだし、俺が思いついたよ
うなこともすぐに頭に上っていただろうしな。
俺はロレーヌに頷いて、羽に魔力を注いでみることにした。
すると、
﹁⋮⋮おぉ。やはりか﹂
ロレーヌが俺を見て、感嘆の声を上げる。
その反応からも分かる通り、俺は確かに浮いていた。
つまりは、実験成功、である。
魔力を羽に注ぐ、というのは正しかったようだ。
ただ、
﹁⋮⋮もう少し高くは飛べないのか?﹂
ロレーヌが直後、そう聞いたくらいに、俺が浮いている高度は低
空である。
具体的にどのくらいかと言えば、そう⋮⋮分厚い本が二冊挟まる
くらいだろうか。
飛んでいると言うより、ちょっと浮いてるレベルだ。
ロレーヌがそう言いたくなる気持ちも分かる。
もちろん、俺だって飛ぶとなれば、大空を自由に駆け回るものと
考えているので、こんな高度で満足など出来るはずがない。
頑張って高度を上げようと、魔力を強めたり、体を捻ったり、色
々とやってはいる。
しかし、残念ながら、何をしても高度は変わらなかった。
694
﹁これが限界みたいだ⋮⋮﹂
酷く肩を落として残念がる俺の肩を、ぽん、とロレーヌが叩く。
﹁ま、まぁ⋮⋮地面にある罠などはそれさえ出来れば避けられるわ
けだし、悪くはない結果ではないか? 落とし穴の類は単純ながら
最も多くの冒険者の命を奪って来た罠の王だとも言うくらいだし﹂
明らかに慰めである。
が、彼女の言っていることにも一理ある。
実際、迷宮などに存在する罠のうち、最も沢山の冒険者の命を奪
って来たものはどれかと聞かれれば、それは落とし穴であると言わ
れる。
数が多いというのはもちろんだが、あまりにも単純すぎて、かえ
ってみつかりにくいのだ。
足を踏み入れると槍が飛び出してきたり矢が飛び出してきたりす
るものや、踏み抜くと何かが稼働して襲い掛かってくるような罠な
どは、慣れてくるとぱっと見で違和感が感じられて察知しやすいの
だ。
しかし、落とし穴は⋮⋮。
どのようなところにも存在する可能性がある上、見つけにくい。
俺も何度引っかかりかけたことか。
いや、引っかかったこともあるか。
それで死んでないのは、穴の底に落ちる前にリカバリーが出来た
からだ。
そういう場合に何とかできるように、かぎづめ付のロープなどを
持っているので出来たことだが、一歩間違えたら死んでいただろう。
思い出したくもない話だが⋮⋮それを避けられる、となると確か
に間違いなくこの羽は有用ではある。
695
﹁だけどなぁ⋮⋮もっと高くびゅんびゅん飛び回りたかった﹂
コントローラー
悲しくなって、飛空艇の操縦器に手が伸びる。
俺の飛空艇は俺なんかよりもずっと美しく早く高く空を飛び回っ
ていた。
自由な飛行である。
俺はあれが欲しかった⋮⋮。
そう思いながらいじけ始めた俺に、ロレーヌは、
﹁いやいや、まだ出来ることはあるだろう。今度は、魔力じゃなく
て、気か聖気を込めると言うのはどうだ?﹂
と提案してきた。
確かに、それはまだやっていない。
コントローラー
つまり、俺の空への可能性はまだ、閉じられていない。
俺は黙って飛空艇を着陸させ、操縦器を置き、羽を広げた。
それから、ロレーヌの頷く顔を見ながら思い切り気を注ぎ⋮⋮。
そして、次の瞬間、しゅん、という音が耳に聞こえたと思ったら、
俺は頭から壁に突っ込んでいた。
﹁レ、レント! 大丈夫か!?﹂
壁に頭をめり込ませた俺の耳に、そんなロレーヌの声が響いた。
696
第101話 奇妙な依頼と羽の力
ダメージはない。
もう一度言う。
ダメージはない。
﹁⋮⋮なんなんだ⋮⋮﹂
壁から頭を引き抜くと、パラパラと壁の残骸が落ちてきて顔にか
かる。
かなりの速度で突っ込んだからか、壁の残骸は粉になっていて、
俺の仮面を白く染めた。
﹁その台詞は私が言いたいところだが⋮⋮ともかく、無事か? 物
凄いスピードで突っ込んでいったぞ、お前﹂
振り返ると、ロレーヌが何とも言えない顔でそう言った。
彼女からすればそんな貌もしたくなるだろう。
空を飛ぶ実験をしていたのに、いきなりその場から掻き消えるよ
うにすっ飛んで壁に激突したのだから。
﹁あぁ⋮⋮存在進化したお陰なのか、全く痛みはないからな。怪我
もないと思う﹂
そう言った俺の体をロレーヌは観察し、
﹁たしかに、無傷だ。⋮⋮この家の方が大けがと言ったところか。
まぁ、直しておこう﹂
697
そう言ってロレーヌは呪文を唱えだし、俺が突っ込んで大穴をあ
けた部分をものの数秒で修復してしまう。
壁はレンガで形作られていて、それを魔術で修復することは不可
能ではない。
しかし、攻撃用の魔術ではないが、かなり高度で複雑な構成が必
要なはずの魔術だ。
ただ、ロレーヌはむしろそういうものの方が得意で、鼻歌交じり
にやってしまう。
こういった魔術を身に付けているのは、王都で貴族などの依頼を
受けて城や邸宅を作る建築家集団に所属する魔術師くらいであり、
かなり珍しいものだ。
身に着けるのが大変だし、身に付けても使い方が難しいからであ
る。
それなのに、ロレーヌは⋮⋮。
ギルド
学者を辞めてもどこでも食べていけそうでうらやましい限りだ。
俺はなぁ⋮⋮あぁ、冒険者組合が職員として雇ってくれるかな。
シェイラがそんな話をしていた。
まぁ、別に冒険者をやめるつもりはないけれど。
﹁⋮⋮こんなものだろうな。で、さっきのことだ。あれはやはり、
羽に気を込めたから、ということでいいのか?﹂
壁を修復し終えたロレーヌが、俺に改めてそう尋ねてくる。
俺は頷き、答える。
﹁そうだな。ただ、魔力をたくさん込めて大して浮かばなかっただ
ろ? だからこんどは一気に込めても大丈夫かなと思って⋮⋮﹂
﹁⋮⋮お前は、用心深いのか考えなしなのかたまに分からなくなる
698
な⋮⋮。別に一気にやらなければ死ぬわけでもあるまいに﹂
ロレーヌはあきれ顔でそう言う。
まぁ、確かにその通りで、本来なら魔力のときと同じく少しずつ
力を込めていくべきだった。
ただ、空を飛びたいという気持ちが強すぎて、気が急いてしまっ
たところがあるのも否めない。
﹁⋮⋮次は気を付けることにする﹂
﹁それがいいだろうな⋮⋮で、今度こそゆっくり気を込めてみたら
どうだ?﹂
そう言われたので、俺は頷いてその通りにしてみる。
また吹き飛んでは問題なので、出来るだけ部屋の中心に行く。
壁に背を向けて端っこの方がいいのかもしれないが、どっちに吹
き飛ぶのかすら正直分からないからな。
まぁ、さっきみたいな無茶をしない限りは、あんな吹っ飛び方は
おそらくはしないだろうというものある。
事実、少しだけ気を込めると、前方に向かう推進力が羽から発せ
られたのが感じられたが、その程度だった。
やはりさっきのはやりすぎだったということだろう。
気の込め具合を徐々に増やしていくと、推進力は徐々に強くなっ
ていき、これ以上は部屋の中では危ないな、というところでいった
ん止める。
これはここではこれ以上試すのは難しそうだ。
俺のそんな様子を見て、ロレーヌは、
699
﹁魔力では浮遊が出来て、気で推進力が発生するということかな?
魔力だけでは進めないのか?﹂
﹁いや⋮⋮そういうわけでもないな﹂
俺はそう言って、実際に今度は魔力を込め、浮き、そして前後左
右に動いて見せた。
あまり速度は出ていないが、動けないわけではない。
歩くくらいの速さというところだろうか。
﹁魔力と気を併用して飛ぶことは出来るのか?﹂
﹁それはまだやってみてないな⋮⋮どれ﹂
両方を同時に扱う技術はそれなりに難しい技術とされていること
は、魔気融合術の関係で言われていることだが、俺には一応それが
出来ている。
精度や威力などを見れば、きっと正しく修行を積んだ人から見る
と甚だ怪しい技術レベルかもしれないが、慣れてはいるのだ。
つまり、羽に魔力と気、その両方を注ぐことは出来る。
不安があるとすれば、さっきみたいな急加速が起こらないかと言
うことだ。
これは魔気融合術の効果を考えるとそういう話になるからこその
不安だ。
剣に魔力と気を注ぐと、それが命中した相手は内部から破壊され
て爆散するからな⋮⋮。
俺の羽が爆散とかは勘弁願いたいと思うのも当然の話だ。
よくよく注意しなければ⋮⋮。
そんなわけで、かなり怯えつつ、びくびくしながら魔力と気を羽
700
に注いでみた。
すると、意外なことに爆散はしなかった。
それどころか、しっかりと前に進めている。
気を込める量で、速度も調整が出来、中々悪くない。
俺、飛べてる!
そんな感じがする。
まぁ、浮かんでいる高度は何も変わらず低空なので、ちょっとあ
れだけどな。
気を強めに注いで、高度を高く上げることは出来そうだが、当然、
そこから徐々に高度が下がっていくため、出来て滑空と言うことだ
ろうか。
俺はモモンガに存在進化した!
しき
いや違う。そうじゃない。
なんで屍鬼の次にモモンガにならなきゃならないんだ。
しかしそれにしても、なぜ爆散しないのか⋮⋮と思って意識を集
中してみれば、羽に注がれた魔力と気の流れが感じて理解できた。
羽に流れている魔力と気、それは魔気融合術を使ったときのよう
に、混じり合ってはいないのだ。
俺の蝙蝠のような羽には、膜の部分と、それを支える骨のような
部分があるのだが︱︱ロレーヌ曰く、蝙蝠の羽だとすると、膜の方
は飛膜、骨の方は指骨というらしい︱︱魔力は飛膜の方に流れ、気
は指骨の方に流れている感じがするのだ。
反対に流せるかを試してみるが、無理なようで、やはり魔力と気
が混ざらないようになっているようだった。
やっぱり混ぜると爆散するから、あえてそういう作りになってい
るのだろうか?
魔物の体のつくりはよくわからないな⋮⋮。
ロレーヌに感じたことを説明してみれば、
701
﹁ほう、それは面白いな⋮⋮魔気融合術のことを考えると、それが
合理的なのかもしれん。詳しい理屈はもっと調べてみないと分から
ないが、とりあえずのところはしっかりと飛べているようだし⋮⋮
これでその羽が何の役にも立たない、ということはなくなったよう
だ。よかったな﹂
と微笑んで言う。
それから、ロレーヌは続ける。
﹁最後は、聖気だが⋮⋮﹂
そうだ、魔力と気が流せた以上、聖気でも試しておく必要があっ
た。
聖気は、色々な意味で特殊な力だ。
強力なのはもちろんだが、加護を与えた存在によってその効果も
かなり異なる。
俺の場合は、修復した祠の主だっただろう精霊が、おそらくは植
物系の加護をくれたのだろう、とは鍛冶師クロープの予想だが、そ
れをこの魔物の羽に流すとどうなるのかは、もはや特殊な事情が重
なりすぎていて前例などあるはずがなく、予想がまるでつかない。
しかし、それでもやるしかない。
なぜなら、これで出来ることがいずれ命を左右する可能性がある
からだ。
出来ることが何なのかは、しっかりと把握しておくこと。
それが冒険者の生き残るためのコツの一つであることは、長く冒
険者として生活した者ならだれでも分かっていることだ。
俺は深呼吸をし、それから覚悟を決めて、聖気を羽に流した。
すると、
702
﹁⋮⋮きれいだな﹂
と、ロレーヌが妙な台詞を口にした。
﹁え?﹂
﹁いや⋮⋮なんだか、お前の羽、光ってるぞ﹂
その台詞に、当然俺は驚いた。
703
第102話 奇妙な依頼と光る羽
羽が光っているとはどういうことなのか。
ロレーヌの言葉を聞いて俺がまず、そう思ったのは言うまでもな
いことだ。
とりあえず、俺はその言葉が事実であるかどうかを確認するため、
鏡に自分の背中を映す。
すると、確かに背中に生えている翼が、先ほどまでとは異なり、
ふわりと白く発光しているのが見えた。
といっても、攻撃的な光ではなく、どことなく暖かいような、ふ
わりとした柔らかい光り方で、また羽を覆う光が雪のようにはらは
らと落ちていっているのも確認できた。
なるほど、ロレーヌがきれいだ、と口にしたのも理解できる。
幻想的で、現実味の薄い光がそこにはある。
ただ、一つ文句があるとすれば、
﹁⋮⋮たしかにきれいだが、一体何の意味が⋮⋮﹂
俺はそう言って首を傾げた。
魔力や気を注いだ時にはしっかりと浮遊したり推進力を生みだし
たりと、明確な意味のある効果が発生した。
しかい、これは⋮⋮。
他の二つの力よりも強い力を持つ、聖気である。
かなりの効果があるものと期待していただけに、ただ光っている
だけというのは期待外れもいいところだった。
人間松明になってもどうしようもない。
これならモモンガなりムササビなりの方がまだ役に立つと言うも
704
のだ。
﹁夜道でも見つけやすいという意味では役に立ちそうだが⋮⋮ん?
これは⋮⋮﹂
冗談を口にしながら、ロレーヌが何かに気づいたようにふっと視
線をずらした。
どうしたのかと思って彼女の視線の先を見てみると、そこには俺
が育てているハーブの鉢があった。
料理にたまに使うためのものだが、俺が使っている部屋が一番日
当たりがいいので置いてあったのだ。
しかし、それが今なにかあるのか?
首を傾げていると、ロレーヌはそれをとって、
﹁少し、成長している気がするぞ⋮⋮﹂
そう言って俺に見せた。
確かに、さっき見たときより成長しているような気もするが、し
かしそう言われたからそう見えるだけのような気もする。
そんな俺の視線を理解したのか、ロレーヌは、鉢を俺の羽に近づ
けて、光に当てて見せた。
すると、驚いたことに、鉢の中のハーブがにょきにょきと成長し
始めた。
﹁これは⋮⋮﹂
﹁お前の羽は聖気を込めると、植物の成長を促進するようだな! ⋮⋮いったい何の意味があるんだ?﹂
自分の頭で考えた仮説が正しかったことが証明されたことが嬉し
705
かったらしく、一瞬勝ち誇ったように言ってから、かくり、と首を
傾げて我に返ったように自問したロレーヌである。
まぁ、確かに⋮⋮一体何の意味があるんだろうな?それに。
俺にも分からない。
﹁⋮⋮空を飛んで畑を回れば農家の皆さんに豊穣を与えられるんじ
ゃないか?﹂
﹁なるほど、今すぐ冒険者を辞めて出張肥料に転身するのか?﹂
そんなのは嫌だ。
しかし、この力なら間違いなくそれが出来るだろう。
大地の神や精霊の加護を受けた聖気の使い手の中には、そういう
ことをしている者もいると聞く。
彼らは大地の力を強めて、豊穣を約束するわけだが、その場合、
植物は最終的には豊かに実るが、成長自体は普通にするので、時間
はかかる。
けれど、俺の場合は、その成長時間を短縮できるのだ。
その有用性は疑うまでもないだろう。
きっとどこかの宗教団体に入れば、豊穣の聖者として敬ってもら
えるだろう。
そして口さがない者たちには、出張肥料と呼ばれる⋮⋮。
そんな未来がロレーヌの台詞で一瞬で想像できてしまった。
ミスリル
当たり前だが、俺はそんなものになるつもりはない。
あくまでも、俺の目的は神銀級冒険者なんだからな。
だから当然ロレーヌには、こう言うことになる。
﹁辞めるわけないだろ⋮⋮でもなぁ、流石に用途がこれだけって、
ないぞ﹂
706
﹁まぁ、それはよくわかるが⋮⋮あとは、うーむ⋮⋮そうだな﹂
この状態をロレーヌは少し気の毒だと思ってくれたらしい。
少し考えて、それから何か思いついたらしく、懐からごそごそと
何かを取り出した。
何を⋮⋮と思ってみてみると、
﹁⋮⋮ナイフなんかどうするんだ?﹂
﹁いや、こうする﹂
俺の質問に軽くそう答えて、自分の指先を僅かに傷つけた。
慣れた手つきなのは、契約魔術とか、錬金術などで、自分の血を
使うことは日常茶飯事であり、自分の指先を傷つけるくらいは抵抗
がないからだろう。
最近では俺のために血を貯めたりもしてくれているわけだし、余
計に抵抗が薄くなっているのかもしれない。
しかし、なぜ今そんなことをするのかと思って首を傾げていると、
ロレーヌはその指を俺の羽に翳した。
すると、
﹁⋮⋮消えたな﹂
と言って、それから俺にたった今、傷つけた指を見せてきた。
﹁なるほど、完全に治ってるな。治癒の力もあるってことか﹂
﹁そういうことだろうな⋮⋮良かったな、出張肥料だけでなく、つ
いでに農家の皆さんの疲労も癒せるぞ﹂
707
流石にそれは冗談だろうが、これならまだ、用途はあるかもしれ
ない。
羽に聖気を流して、一定範囲内を飛び回れば、その範囲内の者に
治癒をかけられる、ということだからな。
強力な治癒系の聖気を持つ聖者や聖女なら、そんなことは余裕で
やるのだが、今の俺には一人ずつしか治癒をかけることはできない。
それが多少改善されるわけだ。
﹁地味な効果だが⋮⋮ないよりはいいか﹂
﹁そうだな。光っていることと合わせて、うまく使えば敬われるぞ。
神の使いとかなんとか﹂
これもまた、ロレーヌなりの冗談だろうが、実際にやろうと思え
ば出来るかもしれないところがなんとなく恐ろしかった。
別に俺はそういう妙な注目を集めたいわけではない。
この力は使いどころを選びそうだな、と思う。
﹁⋮⋮まぁ、ソロの俺が使うこともなさそうな力だけどな﹂
寂しいが、俺は基本的にソロである。
一人旅しかしない俺に、範囲治癒能力などあっても仕方がない気
がしたからこその台詞だった。
しかしロレーヌは、
﹁そうとも限らんさ。たまに魔物が異常繁殖することがあるだろう。
そういうときは皆で狩りに行くじゃないか。範囲治癒を出来る奴が
いると相当重宝するぞ⋮⋮間違いなく、強制依頼だな﹂
ロレーヌが言うのは、街の周辺の魔物が何らかの事情で異常な繁
708
ルド
ギ
殖をすることがあり、そういうときには危険を排除するため、冒険
者組合総出で駆除を行うことがたまにあるのだが、そういうときは
半ば戦争のような戦いになってくるため、治癒をできる人間が非常
に貴重なのだ。
治癒魔術も聖気も、そもそも使える者の絶対数が少なく、更に、
そのほとんどが個別治癒しか出来ないため、範囲治癒はそういう場
合には相当に重宝される。
本来、そういうときは絶対に出撃しなければならない、というわ
けではないので行きたくないなら行かなくてもいいのだが、治癒能
力があるとなると強制的に行かせられる可能性は高い。
それが嫌なら隠しておくしかないだろうが⋮⋮。
まぁ、そもそも、冒険者の良心と言うものがあるからな。
今の俺でも、やっぱりそういう時は行かなきゃならないと思う。
放っておいたら最後、街に魔物が入り込む可能性があるし、そう
なったときに後味の悪い思いをするのは俺なのだから。
それに、今なら魔物扱いされずに済みそうだしな。
あんまり目が良すぎる奴がいるとまずいが、よっぽど注目されな
い限りは大丈夫だろう。
だから俺は答えた。
﹁そのときは諦めてやるさ⋮⋮ただ、あんまり光っているのは困る
よな⋮⋮﹂
やるにしても、どうにか、それだけは何とかならないかと頭を抱
えた俺だった。
流石に天使扱いは遠慮したいところだ。
709
第103話 奇妙な依頼と種族
﹁これでお前の羽について、あらかた試したいことは試したな﹂
ロレーヌがすっきりした顔でそう言った。
羽に聖気を込めたまま飛べるかどうかも試したが、魔力と聖気が
それぞれ羽の別部分に流れているのと同様なのか、すべて一緒に流
してもやはりいずれの力も剣に注いだ時のように混じり合い、爆発
するというようなことはなかった。
今まで持っていなかった器官とは言え、これで一応、自分の体の
一部なので間違っても爆発するようなことがないような設計になっ
ているらしいことに深く安心した俺である。
その代わり、剣のときのような、力の融合による強力な効果の発
現、というのは望めなさそうだが、飛べるだけで十分と言えば十分
なのだ。
これ以上は高望みであろう。
﹁そうだな⋮⋮あとは⋮⋮俺が何になったのか、ってことだが⋮⋮﹂
それについてまだ、話をしていなかった
ヴァンパイア
ロレーヌはなんとなく検討がついているような感じだったので、
分かるか、と目配せで聞いてみるも、彼女は首を傾げて、
﹁⋮⋮正直なところ、よくわからんな﹂
そう言って首を振る。
﹁おい、なんだか大体分かっているような雰囲気だったろ。吸血鬼
710
の解説書も読んでたみたいだし、思い当たる種類があったから調べ
てたんじゃないのか?﹂
まぁ、さっぱり分からないから頑張って何か似ているものがない
か探していた、という可能性もあったが、本のページを捲るロレー
ヌにそういう焦りみたいなものは感じられなかったからな。
すでに見当はついていて、一応確認のために読んでいて、かつ俺
が気絶から目覚めるまでの暇つぶしをしていた、と見たのだ。
その推測は間違っていたのか⋮⋮そう思ったが、ロレーヌは、
ヴァンパイア
﹁いや、確かにそうなのだがな⋮⋮その羽を見て、よくわからなく
お
なった。本来、吸血鬼はそのような羽を持った種族ではないからな。
にば
見かけ上は人間とほぼ、同じはずだ。せいぜい、血を吸うための鬼
歯があるくらいだ⋮⋮あぁ、そうだった。顔の方はどうなってる?
仮面をずらして見せてくれ﹂
思い出したようにそう言ったので、俺もあぁ、そうだったなと仮
面をずらす。
とりあえず歯のことを言われたので、仮面を上半分だけ覆う形に
した。
もっと全体的に見えるようにしたいところなのだが、長く維持す
るとなるとこの形にするしかない。
以前は歯と歯茎、そして枯れた筋肉繊維がむき出しで覗いていた
その場所。
ロレーヌはそれを見て、感嘆の声を上げた。
﹁おぉ、しっかりと肌があるじゃないか。体と同じく憎らしくなる
くらいのたまご肌だが⋮⋮やはり、青白いのは否めないな。不健康
そうだ﹂
711
そんなことを言っているが、ロレーヌ自身もぐうたらかつ不摂生
な生活をしている割に滑らかな素肌をしている。
この間シェイラに文句を言われていた。
シェイラもシェイラでかなり肌は綺麗だと思うので正直にそう言
ったら、手間とお金がかかっているから当然であると言われてしま
った。
ロレーヌもこれでそれなりに美容には気を遣っている部分もある
ことは、自分で高品質の基礎化粧品を生産していることからも分か
るが、生活や食事と言う面も鑑みると、やはり一般的な女性からす
アンデッド
ると腹立たしいと思われる対象なのかもしれなかった。
﹁そもそも健康な不死者とかよくわからない存在だけどな⋮⋮﹂
﹁言われてみるとそうだな。いや、死んでも死なないのだからむし
ヴァンパイア
ろ最も健康な存在なのではないか⋮⋮ことばあそびか。で、鬼歯の
方は⋮⋮やはりあるな。吸血鬼であるのは間違いなさそうだが⋮⋮﹂
そう言いながら、ロレーヌは俺のほっぺたをぎゅむ、と両手で把
ヴァンパイア
持し、押したりひっぱったりしつつ、口の中を観察する。
﹁意外と目立たないな? いや、吸血鬼の歯並びの観察なんて滅多
ヴァンパイア
にできないから実に面白いな⋮⋮しかし、これくらいでは本当に見
ただけでは吸血鬼だとは分からんぞ。少し八重歯が出ているくらい
にしか見えん⋮⋮どれ⋮⋮﹂
そう言って、ロレーヌは一旦俺から手を離し、部屋に置いてあっ
た血入りの瓶を持ってきて、
﹁もう一度口を開いてみろ﹂
712
そう言ったので、俺は口を大きく開く。
それからロレーヌは瓶をあけて、血を棒につけて差し出してきた。
すると、
﹁⋮⋮ふむ、血を吸おうと思うと、伸びるようだ。これなら分かり
やすい⋮⋮が、街の人間を並べて血を鼻先に持って行って口をあけ
ろ、なんて検査はできないだろうから、無意味か﹂
ヴァンパイア
どうやら、ロレーヌは俺を使って、街中に潜む吸血鬼を判別する
方法がないかと考えたらしい。
しかし、確かにこの方法は厳しいだろう。
ヴァンパイア
街の住人全員をやるわけにはいかないだろうし、そうなると群れ
をつくる習性のある吸血鬼のすべてを見つけるのは難しいだろうか
らな。
素直に今まで通り、魔物の判別に長けた聖人や聖女を呼んで時間
をかけて駆除するしかないだろう。
補助的な手法としては有効そうだけどな。
ヴァンパイア
﹁では、次は顔の上半分を見せてくれ⋮⋮確か、吸血鬼の瞳は赤か
ったはずだからな﹂
ロレーヌがそう言ったので、今度は仮面を下半分を覆う形にずら
す。
﹁うむ⋮⋮なんだか懐かしい顔だな。ほぼ空洞だったり、筋肉繊維
ばかりだったりと、だいぶ人間離れしていたからな⋮⋮﹂
そう言って、ロレーヌは俺の顔に手を伸ばした。
先ほどのような実験対象を把持するような手つきではなく、優し
い触れ方である。
713
﹁今更だが、この顔には言いたくなることがあるな﹂
ふと、ロレーヌがそんなことを言ったので、俺は首を傾げて尋ね
る。
﹁なんだ?﹂
﹁⋮⋮決まってるだろう﹂
︱︱おかえり、レント・ファイナ。
なんだか、それを聞いて、何かが戻ってきたような気がしたな。
人間である確信と言うか。
気のせいかな。
◇◆◇◆◇
ヴァンパイア
﹁で、お前の吸血鬼としての種類の話だが﹂
深い感慨を込めて言ってくれたわりに、あっさりと話を切り替え
る辺りロレーヌらしいが、重要なことだ。
﹁結局何だと思う?﹂
レッサー・ヴァンパイア
﹁まぁ⋮⋮引っ張っておいてなんだが、下級吸血鬼の一種、という
714
しき
ところじゃないか? 屍鬼の一つ上位の吸血鬼系統の魔物と来たら、
ヴァンパイア
結局それしかないしな。瞳も赤いし、鬼歯もあるし、血には反応す
るし、という時点で吸血鬼であるということは間違いないと考えら
れる以上、そうとしか言えん﹂
ロレーヌにしてはあいまいな話であった。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、ロレーヌは眉を顰めて続ける。
ヴァンパイア
﹁仕方ないだろう。羽のある吸血鬼など聞いたことがないのだから
な。お前は木端学者に期待しすぎだ。それに⋮⋮お前は間違いなく
魔物としては特異個体に分類されるだろうからな。一般的な種族分
類などそもそも当てはまらんから考えるだけ無駄だ、という結論の
方が正しいくらいだろう。あくまであえて当てはめるのなら、その
辺だろうな、という話だ﹂
﹁それを言ったらおしまいだろ﹂
﹁その通りだ。だから言わないようにしていたんだが?﹂
軽い皮肉であり、分かっているのなら言うな、と言いたげである。
⋮⋮うん、俺が悪かったな。
﹁ごめんなさい﹂
﹁わかればよろしい⋮⋮ま、それでも順調に進化していることは間
違いないんじゃないか? 一つ一つ、存在の格が上がっていってい
レッサー・ヴァンパイア
ることは疑いようがないしな。ただ、最終的に何になるのかは⋮⋮
想像がつかん。下級吸血鬼程度の位階ですでによくわからん羽がく
っついているのだ。そのうち角がついて、腕が十二本になり、目が
五十個くらい現れてもわたしは驚かんぞ﹂
715
﹁⋮⋮それは勘弁願いたいな﹂
あまりにも恐ろしげな風貌の化け物になった自分を頭に思い浮か
べて、そんなセリフが出る。
しかし、確かにそうならないとは言えないのだ。
出来ることなら、このまま見た目は変わらないでほしいものだな
⋮⋮。
そう思った今日であった。
716
第104話 下級吸血鬼と師弟の誓い
﹁⋮⋮それは必要なのか?﹂
街中を歩いていると、横を同様に歩くロレーヌが疑わしそうにそ
う言った。
俺はその言葉に深く頷いて答える。
﹁要不要じゃない。持っていきたいから持ってきたんだ﹂
コントローラー
手に持っているのは、飛空艇の操縦器である。
そこに地味に魔力を注ぎながら、歩いているのだ。
昨日も、俺の種族についての話が終わった後にありったけの魔力
を注いだのだが、今の俺でも、一気に魔力を満タンにすることは出
来ず、仕方なく回復するごとにこつこつ入れている。
努力の甲斐あって七割方満タンに近づいてきている。
まだ余裕があるが、これでも二時間は飛んでくれるだろうから、
問題はないはずだ。
ちなみに、俺たちが今どこに向かっているかと言うと⋮⋮。
﹁ふむ、ここだな。ノッカーを⋮⋮﹂
目的地に到着したため、ロレーヌが頷いて扉についているノッカ
ーに手を伸ばした。
俺は何も言わないでそれを見ていた。
ロレーヌがノッカーを掴み、叩こうと引っ張ろうとすると、
717
︱︱ばきっ。
と音が鳴り、ノッカーが金具ごと、外れた。
﹁⋮⋮私は悪くないぞ。初めから壊れていたんだ﹂
ロレーヌがぎぎぎぎ、と首を回転させ、俺を見ながら慌てたよう
にそう言った。
他人から見ればかなり無表情に見えるが、長い付き合いの俺には
分かる。
内心かなり慌てている、と。
まぁ、そりゃ、普通にノッカーを使おうとしたに過ぎないのに金
具ごと外れてしまったら誰だって驚くに決まっているだろう。
俺だってすでに二度、驚いていることだしな。
そもそもロレーヌの意見は正しい。
壊したのは俺だ。
しかし特にそのことについて言及はしない。
慌てているロレーヌは珍しい。
そして、俺はこの事態を予測していたので、スライムの体液から
作った超強力接着剤を今日も持ってきている。
ロレーヌの持つノッカーの裏側に無言で塗り込み、引き取って壁
に押し付けた。
数分待つと、まるで外れたことがあるとは思えないほどしっかり
と扉に張り付いたノッカーの姿がそこにある。
それから、俺は静かに扉を叩いた。
もちろん、ノッカーは使わない。
﹁はい、どちらさま⋮⋮あぁ、レント!﹂
718
と言いながら、孤児院の子供、アリゼが顔を出した。
そう、俺たちがやってきたのは、マルト第二孤児院である。
その目的は、アリゼを弟子にする、というこの間の話について、
ロレーヌと共に本人と話をするためだ。
この孤児院の管理人であるリリアンにも話を通しておく必要があ
り、二人でやってきたわけである。
しかしアリゼは、
﹁ちょうどいいところに来たわね。実は今日、お薬が出来たって連
絡があって⋮⋮リリアン様の病気、治るのよ!﹂
嬉しそうにそう言って、俺たちを孤児院の中に招いたのだった。
◇◆◇◆◇
本来、俺が受けた依頼は、︽竜血花︾を持ってくるところまでで、
そのあとの扱いについては実のところ本来、関係はないのだが、リ
リアンが今後どうなるのかは気になってはいた。
なぜといって、依頼のそもそもの目的はリリアンの病気を治すた
めだし、せっかくそのために︽竜血花︾を取って来たのに治ったか
どうかについては依頼とは無関係だから特に知らせたりはしない、
では寂しいではないか。
まぁ、依頼のものをとってきたのだからそのあとのことについて
たち
連絡不要、という者も冒険者には少なくはないが、俺はどちらかと
言えばしっかりとその後の始末まで聞いておきたい質だ。
そのため、アリゼの話はちょうどよかった。
﹁⋮⋮そう言えば、そちらの方は?﹂
719
応接室に通されて、まず、アリゼが首を傾げて、ロレーヌを見な
がらそう言った。
いつも一人でここにはやってきていたから、誰かと連れだって来
ているのが奇妙に感じられるらしかった。
⋮⋮別に俺だっていつも一人ぼっちで活動しているわけじゃない
ぞ。
友達くらいいるのだ。
⋮⋮はっきりとそうだ、と言えそうなのは、今のところ、ロレー
ヌとシェイラくらいだけども。
ロレーヌはその言葉に頷いて答える。
﹁あぁ、自己紹介がまだだったな。初めまして、アリゼ。私はロレ
ーヌ・ヴィヴィエ。学者にして魔術師でもある銀級冒険者だ。今回
は、アリゼ、君に魔術を教えるための教師として、ここにやってき
たんだ﹂
そこまで言われて、アリゼは俺との話を思い出したらしい。
﹁魔術師! しかも銀級なんて⋮⋮私はアリゼと申します。あの、
本当にいいのですか? 私、お金もないし、孤児院の人間で⋮⋮﹂
俺に対するものとは違って丁寧な言葉遣いなのは、ロレーヌと初
めて会ったからだろう。
俺に対しても最初はこんな感じだったしな。
それと、アリゼの言葉の意味は、遠慮しているのだろう。
そもそも、俺は魔術師を連れてくるとは言っていたが、銀級が来
るとは考えていなかったのかもしれない。
魔術師は数が少ないし、銀級ともなると普通の人間からすればと
720
てつもないとしか表現できないようなクラスの魔術も行使可能にな
る。
本質的に、街のチンピラに絡まれるよりも関われば危険な存在な
のだ。
チンピラなら絡まれてもぼこぼこになるくらいで済むが、銀級魔
術師の逆鱗に触れればそれこそ比喩でもなんでもなく、消し炭にさ
れて終了である。
⋮⋮超怖いな、ロレーヌ。
俺が余計なことを考えたことを察してか、ギン、とした視線を一
瞬俺に向けたロレーヌである。
しかし、アリゼにはそんな表情は見せずに、いつもよりも三割増
しの微笑みで話しかける。
﹁お金に関してはレントが貸すということで話がついているのだろ
う? 私もこいつから取り立てるのは気が楽でいいし、問題ない。
孤児院の人間であるかどうかは、私にとってはどうでもいい話だ⋮
⋮あぁ、悪い意味じゃないぞ? そうではなく、どういう出自であ
っても、学ぶ気があるのならばそれだけで歓迎すると言うことだ。
私は魔術師だが、同時に学者でもある。学問の道は、金でも出自で
もなく、最後には情熱がものを言うものだ。だから尋ねたいとすれ
ば︱︱君にはそれがあるのか? ただそれだけだな﹂
中々の口説き文句⋮⋮のような気がしたが、あとの方になるにつ
れてなんか違くないか?と言う気がしてきた。
学問の道って、アリゼは冒険者になるんだが?
学者にはならないんだが?
と横から突っ込みを入れたくなった。
が、場の空気がそれを許さない。
アリゼはごくりと息を呑み、目をつぶって静かに考えてから、ロ
721
レーヌの質問に対する答えを口にする。
﹁私はお金も何も持っていませんけど⋮⋮情熱はあります。もとも
と、リリアン様のために、冒険者になれたらって、それだけ思って
いたけれど、今は⋮⋮レントみたいに、人を助けられる冒険者にな
りたいって思うんです。楽な仕事じゃないっていうのは、レントが
色々話してくれたから分かっていますけど、それでも⋮⋮私は、人
のために働いてみたい。そのために勉強が必要で、一生懸命やらな
ければならないなら、私、頑張ります。ですから⋮⋮﹂
あまり上手な言葉選びではなかったように思う。
話し方もつっかえつっかえで、一つ一つ区切るような話し方だっ
た。
けれど、それだけに、アリゼがよく考えて、ロレーヌに自分の思
っていること、感じていることを精一杯伝えようとしている、とい
うことは理解できた。
だからロレーヌはアリゼの言葉に深く頷いて言った。
﹁⋮⋮いいだろう。では、契約成立と言うことだ。今日から、アリ
ゼ、君は私、学者兼魔術師ロレーヌ・ヴィヴィエの弟子だ。魔術と
学問の道を、これから共に究めようじゃないか﹂
その言葉に、アリゼは、﹁はいっ!﹂と笑顔で頷いた。
はたから見ると、感動的と言うか、師弟の誓いがなされた美しい
瞬間である。
しかし⋮⋮。
魔術と学問の道?
学問の⋮⋮。
え?
722
ちょっと待ってくれ、だから、アリゼは学者にはならないって!
冒険者になるんだって!
俺は心の底からそう叫びたいと思っていたが、しかし、やはり場
の空気的に無理だった。
なんだか徐々に既成事実が積み重ねられて行って、気づいたらア
リゼはロレーヌと似たような学者兼魔術師になってそうである。
⋮⋮そもそも、俺の弟子でもあるはずなんだけどなぁ⋮⋮。
色々考えつつも、結局何も言えない俺だった。
723
第105話 下級吸血鬼と孤児院院長
﹁さて、本人の許可は取ったことだし、あとは孤児院の管理者の許
可を得れば問題ないな。その、リリアン、という方が孤児院長とい
うことでいいか?﹂
ロレーヌがアリゼにそう尋ねる。
アリゼはもちろん、孤児院の子供であるため、その身の振り方に
ついては保護者である孤児院長の許可が本来必要だ。
ある程度の自由は認められているが、流石に将来まで関わってく
るような話になると、何の許可も得ずに話を進めると言うのは、出
ギルド
来なくはないがやめておいた方が望ましいことである。
買い物をしたり、冒険者組合で報酬の低い依頼をするくらいなら
問題ないのだが⋮⋮。
ロレーヌが言ったのはそういう意味である。
アリゼはロレーヌの言葉に頷いて答える。
﹁ええ、リリアン様はこの孤児院の院長先生で、東天教の僧侶様で
す。今は病気で臥せっていますけど、もう少ししたらお薬が届くの
で⋮⋮﹂
﹁あぁ、以前、レントが受けた依頼だな⋮⋮となると、会うことは
難しいか? あまり調子がよろしくないようであれば、また後日伺
うが﹂
ロレーヌがいつもは見せない大人の対応を見せるが、アリゼは首
を振って、
724
﹁いいえ、リリアン様はいつも、お客様が来たらお通しするように、
とおっしゃっておられるので⋮⋮大丈夫です。どうぞ、こちらへ﹂
そう言って立ち上がった。
おそらくは、この間通してくれた部屋へと案内してくれるつもり
なのだろう。
立ち上がるのも難しいくらいであるのは変わっていないようで、
それならまた、病気が治ってから別の日に来ても良かったのだが本
人がそう希望するのなら断るのも難しい。
俺とロレーヌは顔を見合わせ、立ち上がり、アリゼについていっ
た。
◇◆◇◆◇
﹁リリアン様、失礼します﹂
アリゼが扉を叩き、そう言うと、少し遅れて﹁お入り﹂という声
が返ってくる。
あまり健康そうな声ではないが、しかし以前より若干明るいもの
のような気がするのは、今日は調子がいいからかもしれない。
アリゼが薬について話しているかどうかは分からないが、リリア
ンの病気が治ると知っているから俺にはそう聞こえるのかもしれな
い。
扉を開くと、中には前と同じように一人の中年女性がベッドに横
になっていた。
﹁あら、貴方はこの間の⋮⋮レントさんですね。聞いております。
地下室の魔物を倒してくれたそうで⋮⋮﹂
725
俺の顔と言うか格好と言うか、怪しげな全体像を見て、見覚えが
あることにすぐに気づいたようで、そう話し始めた。
確かに、俺はそういう名目でここに来たんだったっけかな。
実際に孤児院の地下室の魔物についてもどうにかはした。
が、倒したかと言われると⋮⋮。
仲間にしてしまったので何とも言えない。
ちなみに、エーデルは今日、俺よりも先にここに来て、手下たち
と遊んでいる。
基本的に迷宮なんかに行く時以外は奴は自由行動だ。
⋮⋮自由行動を許可しているのではなく、勝手に行動するのだ。
まぁ、別に普段はエーデルの手がなくても問題ないし、あいつが
役に立つのは基本的には戦闘時なのだからそれでいいのだが、一応
俺の眷属なんだからもう少し忠誠心が欲しいなと思わないでもない。
ちなみに、あいつも俺が存在進化した影響を受けてか色々と変化
していたが、それは後でいいだろう。
ともかく、
﹁大したことはしていない⋮⋮孤児院が平和になって良かったと思
っている﹂
そう言うと、リリアンは、
プチ・スリ
﹁そんなことはありませんよ。小さな魔物でも、長く放置している
と強大な存在になることもありますから。いたのは小鼠だったと聞
きましたが、あれも数が増えると厄介ですから⋮⋮﹂
プチ・スリ
彼女の言っていることは非常に正しい。
小鼠はとても舐められている矮小な魔物の一つだが、それでも危
険とされている場合があり、それは彼らが街一つを覆うほどの群れ
を作り出した場合である。
726
プチ・スリ
稀に、小鼠の中に強力な個体が現れ、何年何十年とかけて、静か
に街の地下や下水に巣食う同族たちを支配下においていき、最終的
には手の付けられない大集団となってしまうのだ。
⋮⋮なんだかどこかで聞いた話だな、と一瞬思ったが忘れること
にした。
エーデルがそうなっていくとは考えない。
そもそも、かなり時間がかかるものだし⋮⋮まぁ、仮にそうなっ
たところで、俺の眷属なのだからいいだろう。
﹁数はそれほどいなかったからな。それに、一匹はアリゼが倒した
ことだし﹂
そう言うと、リリアンは驚いた顔で、
﹁アリゼが? 本当ですか﹂
と俺とアリゼに尋ねてきた。
アリゼは若干バツの悪そうな顔で、
﹁⋮⋮はい﹂
と言ったので、まずいことをやらせたのかと思い、俺はフォロー
する。
﹁もしもの時に、自衛出来るくらいの経験はあった方がいいかと思
ってやらせたんだ。余計だったか?﹂
﹁いえ⋮⋮そういうわけではありません。アリゼ、そういうことが
あったのなら、ちゃんと報告なさいな﹂
727
リリアンはあまり厳しくはなく、しかし忠告した。
アリゼは、
﹁申し訳ありません⋮⋮あまりリリアン様に心労をかけたくなくて﹂
﹁もう、大丈夫だと言ってますのに⋮⋮﹂
どうやらお互いに気を遣ってのことだったらしく、不穏な事態に
なったわけではなさそうで安心した。
﹁そうでした⋮⋮それで、そちらの方は?﹂
リリアンはロレーヌの顔を見て気になったらしく、そう尋ねてき
た。
ロレーヌは答える。
﹁私はロレーヌ・ヴィヴィエ。学者兼冒険者です。このレントとは
友人かつ腐れ縁ですね﹂
﹁そうでしたか⋮⋮私はこの孤児院の管理をしております、東天教
の僧侶のリリアン・ジュネと申します。どうぞ、よろしくお願いし
ます。それで、お二人のご用件は⋮⋮﹂
リリアンがそう尋ねたところで、部屋の扉が叩かれた。
そして、直後扉の向こうから、
﹁アリゼお姉ちゃん! ウンベルトさんとノーマンさんが来てるよ
!﹂
と小さな子供の声がした。
728
孤児院の子供なのだろう。
来客についてはいつもアリゼが対応しているようだが、今はここ
にいるので他の者がしているというわけだ。
聞こえてきた名前は確か、以前会った治癒術師と薬師のもので、
おそらく、︽竜血花︾を使った薬を持ってきたものと思われる。
アリゼはその名を聞いて、そわそわとし、それから、
﹁あの、申し訳ないのですが、行って来てもよろしいでしょうか?
私以外に対応できる者が⋮⋮﹂
いないこともないはずなのは、もっと年かさの人間が以前、孤児
院にいるのを俺は見ているのでなんとなく想像がついたが、どうし
てもアリゼは行きたいのだろう。
リリアンもそれは理解していたようだが、仕方なさそうに笑って、
﹁私は構いませんが、こちらのお二人をおいていくのは⋮⋮﹂
と若干の難色を示す。
しかし、俺もロレーヌも別に、行って来てもらって構わないので、
﹁いや、俺たちのことは気にしないでいい﹂
﹁そうだな⋮⋮少しリリアン殿と話したいこともある。アリゼは行
ってくるといいぞ﹂
と二人で返答した。
リリアンはその言葉に少し首を傾げたが、本人が別にいいと言っ
ているのだから、と思ったようである。
﹁⋮⋮ご厚意に甘えて、行ってきなさい。出来る限り早く戻ってく
729
るように﹂
と少し厳しく言った。
アリゼはそれに、
﹁はい。お二人とも、申し訳ありません。では⋮⋮﹂
そう言って頭を下げ、部屋を出ていった。
それからリリアンは、
﹁慌ただしい子で、申し訳ありません。あまりしっかり教育が出来
ずに⋮⋮﹂
と謝って来たが、とんでもない話だ。
ロレーヌが、
﹁いいえ、そのようなことはありません。アリゼはあの年にしては
十分すぎるほどしっかりしていますし、礼儀も出来ている。そして、
才能も﹂
と言った。
これにリリアンは首を傾げて、
﹁︱︱才能?﹂
そう尋ねた。
730
第106話 下級吸血鬼と夢
﹁ええ、先ほど見て、確認しましたが、アリゼには才能が有ります。
魔術師になれる才能が﹂
ロレーヌがリリアンにそう、答える。
ちなみに一般的には、何もしていない状態を見ただけで潜在魔力
量を看破することは出来ない。
しかし、熟練の魔術師であれば可能だ。
他人の魔力量を測ることの出来る魔術、というものがあるからだ。
ロレーヌがわざわざここに来て、アリゼと顔を合わせたのはその
ためでもある。
もちろん、俺は使えない。
今はもう、魔力量は十分に魔術師になれるくらいはあるのだが、
魔術はそもそも理屈や構成を学ばなければ使えるものではない。
俺は自分のかつての魔力量でも使える最低限の魔術のそれだけを
学び、未だに使っているだけなのだ。
まともに魔術を使おうと思うのなら、俺もまた、これから勉強す
る必要があるというわけだ。
﹁魔術師に⋮⋮確かに魔力はあると言う話でしたが、魔力量の方は
⋮⋮﹂
しっかり測ったことは無かったのだろう。
魔力はあっても魔術師になれるほどではない、というのが大半だ
ということもあるし、そもそも魔力を測るためには熟練の魔術師か、
そのための魔道具が必要である。 どちらも活用するためには金銭を払わなければならないが、高価
731
なのだ。
ギリギリの生活をしている孤児院で支払える金額ではない。
ロレーヌも本来、金をとるべきであるのだが、自分の技術を継げ
る弟子を探す魔術師もいることだし、そういう場合には自己都合だ
から金をとったりはしないものだ。
今回はそういうわけではないが、ロレーヌの中ではそんなものだ
ろう、という意識でいるのは先日の話し合いでなんとなく分かる。
本人が払いたいと言ったら止めはしないが、その場合も俺からの
貸しということになるだろうから結局問題はないのだが。
﹁勝手ながら、先ほど応接室で話しているときに測らせてもらいま
した。十分な力があると思います。正確にどれほどか、というのは
専用の魔道具にかける必要があります。しかし私見ですが、努力す
れば宮廷魔術師くらいは目指せるでしょう﹂
と軽い様子で驚くべきことを言った。
魔力がある、とは言っていたが、流石にそこまでとは考えていな
かった。
宮廷魔術師、というのはヤーラン王国においては魔術師の最高峰
である。
王に直接仕え侍る強力な魔術師たち、彼らを宮廷魔術師と呼ぶわ
けだが、なるためには当然大きな潜在魔力と強力かつ正確な魔術行
使能力、そして魔術についての深い知識が必要であり、魔術師なら
ばそれになることは憧れだ。
もちろん、なれるような人材は限られるはずなのだが⋮⋮。
﹁⋮⋮それは、本当ですか? いくら何でも⋮⋮﹂
信じられなかったのは俺だけではなく、リリアンもそうだったよ
うで、口に手を当てて瞳を大きく見開き、そう言った。
732
しかしロレーヌは首を振って、
﹁驚くお気持ちは分かります。私も驚きましたから。しかし、嘘や
冗談のつもりはありません。しっかりとした教育と修行を行えば、
彼女は不世出の魔術師になれるでしょう。もちろん、怠ければ凡人
で終わることもあるでしょうから、そこは努力次第としか申し上げ
られませんが⋮⋮﹂
まぁ、確かに大きな魔力を持っていても、結局は普通の魔術師で
終わるということもないではない。
どれだけの魔力を持っているか、というのは非常に重要だが、そ
れだけでは一流の魔術師になることはできない。
魔力の大きさと、魔術についてどれだけ深く知り学んだかという
のは魔術師の両輪であり、どちらが欠けても大した魔術師にはなれ
ないのだから。
俺の場合は魔術についての勉学がさっぱりだから使えないような
ものである。
もちろん、せっかく魔力が大きくなっているのだから、魔術につ
いても勉強していこうとは思っていたのだが、それよりも存在進化
を出来るだけ早くしたいと思っていたので後回しになっていたのだ。
もともと剣士であるし、魔力を身体強化や武具の強化に使う技法
は、魔力が少なかろうと魔力を持っている限りは使える簡単な技法
だったので覚えていたため、それで行けるところまで行こうと思っ
てやってきたのだ。
詰まったらそのときに方向転換を図ればいいかと思って。
実際のところ、未だ何とかなっているが、この間の︽タラスクの
沼︾では、なくても何とかなったにしろ、あったらきっともっと色
々と楽になっただろうなと言うのは感じた。
遠くから矢を打ち込んでくるゴブリンたちには反撃の遠距離魔術
を、水の中にいる大魚には雷撃か氷結の魔術を使えればもっと楽に
733
行けただろう。
橋が落ちかけていた時も、土系統の魔術で補強すればあんな風に
落ちたりはしなかったかもしれない。
少なくともロレーヌならばいずれも俺が進んだ時よりもスマート
に攻略していっただろうなと言うのは容易に想像できる。
﹁そうですか⋮⋮でも、あの子は⋮⋮どうなのでしょう。魔術師に
なりたいのでしょうか?﹂
少し悩んでリリアンがそう言ったのは、魔術師という職業が、基
本的に過酷なものだからだ。
まず、修行そのものからして結構つらいというイメージがある。
魔術について学ぶのは生半可な努力では足りないとされるし、座
学をしっかり身に着けたところで、今度は実践で失敗したときにい
かなる反動があるかわからないからだ。
それに、魔術師が活躍できる場で一番最初に想像されるのは、大
抵が戦闘である。
もちろん、魔道具作りや研究の道も存在しているわけだが、多く
は国に所属し、その力を振るったり、冒険者などになって魔物と戦
うなどの道を進む。
それが最も魔術師の技能を活かすことが出来、また高額な報酬を
もらえる職種だからだ。
そのため、たとえ魔術師になれるだけの力があっても、なりたく
ない、という者は意外と少なくない。
その点、アリゼはどうなのか、とリリアンは悩んでいるのだろう。
これについては最初に俺が話をすべきだろうと思い、口を開く。
﹁それなんだが⋮⋮アリゼは、以前俺がここに来た時に、冒険者に
なれたら、という話をしていた﹂
734
﹁えっ?﹂
プチ・スリ
﹁先ほど、小鼠をアリゼに倒させた話をしただろう。それは、彼女
が冒険者になりたいと言っていたから、ちょっとお試しにというか
⋮⋮どんなものかというのを体験させてみようと思ってしたことだ
ったんだ。それで怯えるようならそもそも向いていないだろうが、
アリゼは普通に倒したからな。覚悟もあるように思う﹂
まぁ、そうはいっても俺は結局他人であるから、なんとなくそう
思ったというだけでその感覚が絶対正しい、なんて言っているつも
りではない。
ただ、リリアンに今まで知らなかっただろうアリゼの夢を話して
判断材料にしてもらおうと思っただけだ。
本人の許可を得ないで話していいのか、という問題はあるが、そ
ういう夢があるみたいだ、というくらいならまだセーフだろう。
リリアンも人の夢を頭から全否定するようなタイプではないこと
だし。
そもそも、なんとなくあれになりたいなぁというのはアリゼくら
いの年頃なら普通だしな。
ミスリル
良くも悪くもあのくらいの年頃の夢をまともに受け取る奴は少な
い。
ちなみに俺は小さなころからずっと神銀級冒険者を目指して一貫
している。
リリアンは俺の言葉を少し考えてから頷き、
﹁そうでしたか⋮⋮本人がそれを望むのであれば、私としても無理
に止めることはありませんが⋮⋮しかし、またどうして冒険者に﹂
と、疑問を口にしたところで、部屋の扉が叩かれた。
どうやらアリゼが戻って来たらしい。
735
第107話 下級吸血鬼と宣告
﹁⋮⋮リリアン様、治癒術師のウンベルト様と薬師のノーマン様が
お会いしたいとのことで、お連れしました。中に入ってもよろしい
でしょうか﹂
扉の向こうから、アリゼの声がそう言った。
リリアンは俺とロレーヌの顔を見て、
﹁しかし今は⋮⋮﹂
と言いかけたが、俺とロレーヌは首を振って、
﹁俺は以前会ったことがある。入れても構わない﹂
﹁私も構いません。もし邪魔であれば下がります﹂
と言った。
かなり空気の読めない行動を得意とする俺とロレーヌであるが、
読もうと思えば読めるのである。
普段は意識的に読まないだけだ。
⋮⋮そうなのだ。
﹁⋮⋮そうですか? では、お言葉に甘えさせていただいてもよろ
しいでしょうか。おそらく、私の体のことでお話があるのだと思い
ますから⋮⋮﹂
治癒術師であるウンベルトはそもそも最近体調の思わしくないリ
736
リアンを診ていた人間であるし、薬師のノーマンは彼の知人だ。
それを考えると、なぜここに来たのかは簡単に推測できる、とい
うわけだろう。
﹁では、お入り﹂
リリアンがそう言ってアリゼとウンベルト、それにノーマンを招
き入れる。
見覚えのある細身中年と小太りの青年が、アリゼに続いて入って
来た。
俺とロレーヌを見て少し驚いたような顔をしているが、以前にし
っかりあっているのですぐにその表情は微笑みに変わる。
都合、この部屋にリリアン以外に五人の人間がいることになり、
かなり手狭になった。
椅子はそもそも三つしかなく、俺とロレーヌがたった今入って来
たウンベルトとノーマンに譲ろうとすると、それに気づいたアリゼ
が、
﹁椅子を持ってまいります!﹂
と慌てていって、部屋を出ていく。
その勢いに少し驚いた俺たちは、譲ろうとして立ち上がった体勢
のまま停止し、またウンベルトとノーマンは固辞しようと手を上げ
ようとしたところで止まった。
妙な空気が広がるが、その空気はリリアンが打破してくれる。
﹁⋮⋮はぁ、慌ただしい子だこと⋮⋮。皆さん、本当に申し訳あり
ません。私の教育が行き届きませんで⋮⋮﹂
がっくりとした様子でリリアンがそう言うが、皆、ふっと苦笑し
737
ただけで特に怒りはしない。
アリゼは十二歳前後の少女であり、本来これだけ出来るだけでも
十分なのだから。
そもそも俺は自分がそのくらいだったときのことを思い起こせば、
とても怒れないし、表情を見る限り、ロレーヌもそんな苦い記憶を
思い出しているような雰囲気がする。
他の二人にしても、似たような気持ちであることは顔を見ればわ
かった。
まぁ、余程厳しく養育されない限り、十二くらいの子供に完璧な
礼儀など持てるはずもない。
椅子に気が付いて即座に取りに行こうとするだけ、むしろ良くで
きている。
﹁いいえ、お気になさらずに。我々の子供の頃よりはずっとましな
ようですからな﹂
そう言って鷹揚に笑ったのは、治癒術師のウンベルトである。
見た目通りにかなり物慣れた様子の男であり、無精ひげが生えて
いる姿はどこか冒険者の方に近い雰囲気がする。
街中に施療院を作り、そこで市民に治癒術を提供しているという
ことだが、以前は冒険者だったのかもしれないという気すらする。
﹁そう言っていただけるとありがたいですが⋮⋮他の皆さんは⋮⋮﹂
とウンベルト以外の三人をリリアンは見たが、全員似たような気
持ちなのはさっきのとおりである。
曖昧な苦笑を浮かべ、同じですよ、と示した。
﹁⋮⋮まぁ、誰しも子供の頃はあんなものでしょうね。私も似たよ
うなものでした。それで、あの、ご用件の方は⋮⋮。こんな風に、
738
まとめて応対するような形で非常に申し訳ないのですが、こちらの
お二人には許可をいただきまして。もしかして私の体のことでしょ
うか?﹂
リリアンがかいつまんで今の状況を説明しつつ質問すると、ウン
ベルトとノーマンも理解したようだ。
ただ、
﹁あぁ、そうだ。同席することについても、我々としても特に問題
はない。ただ、少し話が長くなる可能性はあるから、先にそちらの
ご用件を済まされても構わないのだが⋮⋮﹂
ウンベルトがそう俺たちに言い、このままでは大人の譲り合いが
延々と続きそうだなと思ったのか、ロレーヌが、
﹁いえ、多少時間をとりそうなのはこちらも同じなので⋮⋮それに、
もしもお二人のご用件がリリアン殿の体調に関することであるなら、
我々のする話とも無関係ではないですから。むしろ一緒に話を聞か
せていただけるとありがたいのですが﹂
と言う。
事実、アリゼが冒険者になりたい、という話をしたのはリリアン
の病を治したいというのがまず、最初にあったからで、アリゼの将
来の話をするのならばリリアンの病についてまず話をした方が分か
りやすいだろう。
それに、ウンベルトとノーマンはリリアンのために薬を持ってき
たはずだ。
それを飲み、病気を治せる目途が立っていることを知らせてから
の方が進めやすい話もあるだろう。
739
ロレーヌの言葉に、リリアンはよく意味が理解できないのか、不
思議そうな貌をしていたが、ウンベルトとノーマンはそれでロレー
ヌが色々と事情を知っていることを察したようで、
﹁我々はリリアン殿が認めるのであればそれで問題はない。貴方の
近頃の体調不慮の理由について、この二人が知ることになるが、リ
リアン殿、どうか?﹂
ウンベルトがそう尋ねたが、リリアンはその点について特に問題
は感じていないようだ。
頷いて、
﹁よく、事態が把握できてはいないのですが⋮⋮必要であるのなら
ば別に構いませんよ。どうぞ、お話を始めてくださいな﹂
そう言ったのだった。
◇◆◇◆◇
﹁まずは、リリアン殿の体の話だが⋮⋮驚かずに聞いてほしい。貴
方は︽邪気蓄積症︾に侵されている﹂
ウンベルトが単刀直入にそう言った。
まどろっこしいことが嫌いなのか、むしろじわじわと遠まわしに
言う方がショックが大きいと言う判断なのか、はっきりと言う。
︽邪気蓄積症︾という病気の存在について、俺はアリゼに教えら
れるまで知らなかったくらいだが、聖気を頻繁に使うものにとって
は有名な病名なのかもしれない。
なぜなら、ウンベルトの口から病名を聞いた瞬間、リリアンの顔
から血の気が引いていったからだ。
740
⋮⋮それだけ深刻な病気と言うことかな。
今日明日死ぬわけではないということなのでそこまでではないよ
うな気もするが⋮⋮いや、五年十年で死ぬ可能性が高いということ
ならやっぱり恐怖だな。
そんなリリアンの反応はウンベルトは予測していたからこそ、驚
かないで聞け、ということだったのだが、だったら先に治療法があ
ることを言うべきだったと思うけどな。
いや、治療法があることは知っているけど、そのためには︽竜血
花︾が必要だから、高価過ぎて手が出ない、というところまで想像
したのかもしれない。
﹁⋮⋮それでは、私の命は⋮⋮︽竜血花︾なんて手に入れようが⋮
⋮それではこの孤児院はどうなって⋮⋮﹂
とぶつぶつ言っているあたり、やはりそれは正解だろう。
しばらくして、リリアンは何かを振り切る様に首を振って、
﹁申し訳ありません。取り乱しました。それで、私はあとどれくら
い生きられるのでしょうか? 孤児院の引継ぎを東天教本部にしな
ければ⋮⋮﹂
まだ顔は青白いながらも、気丈に顔を上げ、しっかりとした声で
そう尋ねるリリアンは立派な人であった。
しかし、その心配はいらないのだ。
ウンベルトは、首を振って言う。
﹁だから、驚かずに聞いてほしいと言ったのだ。そもそも話はまだ
終わっていないぞ。貴方の病気は治る。だから心配することはない﹂
その言葉に、リリアンの瞳はあっけにとられたように見開かれた。
741
第108話 下級吸血鬼と服用
﹁⋮⋮治るのですか? ︽邪気蓄積症︾が﹂
喉の奥から枯れたような声を出すリリアン。
その様子からして、彼女も容易には治すことが出来ない病だと良
く知っていたことが分かる。
ウンベルトはその反応を見て、元気づけるように、自分の言葉が
確かに真実だと印象付けるように、力強く言う。
﹁あぁ。あんたもさっきぶつぶつ言っていたから知っているんだろ
うが、︽邪気蓄積症︾の治療には︽竜血花︾が必要だ。しかし、そ
れはすでに手に入っている。また調合もすでに終えているのだ。あ
とは、貴女が決められた量を決められた回数、定期的に飲むだけだ﹂
どうやら、一度飲めばそれで完治、というものではないようだが、
別にそれはどちらでも構わないだろう。
服用すれば治ることには変わりないのだ。
リリアンも、そのことには理解を示したようである。
けれど、苦しそうな表情で、
﹁⋮⋮いえ、しかし、私にはそのお薬を購入するお金が⋮⋮﹂
と首を振った。
しかし、ウンベルトは、
﹁金は必要ない。そうだな、ノーマン﹂
742
そう言って横に立つ小太りの男を見る。
話を振られた本人である薬師のノーマンはウンベルトの言葉に深
く頷いて、
﹁その通りさ。なにせ、今回は最も高価な素材の材料費がかかって
いないからね⋮⋮他の材料についてはさしたる金額じゃないし、実
のところその損失を十分に補填する利益もあった﹂
と答える。
利益があった、とは俺が渡した︽竜血花︾の余分でリリアンのた
めではない薬を製作し、誰かに売りつけたという所だろうか。
貧民街の者たちのために薬を作って配るような話をしていたが、
すべてをそのようにする必要もない。
全く利益が出なかったらそんな活動もずっとは続けていられない
だろうし、その辺りはうまくやっているのだろう。
あんまりあくどいことをしているようなら、やっぱり渡した︽竜
血花︾は返せ、と言いたくなっただろうが、おそらくはそういうこ
とはない⋮⋮と一応信じておく。
身に付けているものからしてかなり困窮していることが分かるし、
儲けはそれほどでもないだろうと想像できるからだ。
まぁ、変装としてそんな服装を持っているだけと言う可能性も考
えられるが、そこまで言い始めるとキリがないしな。
﹁材料費がかかっていないって⋮⋮︽邪気蓄積症︾の治療には︽竜
血花︾が必要だとたった今、言ったではないですか。あれは購入に
は金貨が必要なものだったはずですよ。仮に自分の手でとってくる
にしても⋮⋮ウンベルトが昔、冒険者をしていたことは知っていま
すが、失礼ながら︽タラスクの沼︾を攻略できるほどの腕だったと
は聞きませんし⋮⋮﹂
743
リリアンは不思議そうに、また疑わしそうにウンベルトとノーマ
ンにそう言った。
やはり、俺の予想通り、ウンベルトは冒険者を過去、やっていた
らしい。
しかし、そこそこの腕だったようだ。
銀級下位程度だったのだろうか?
治癒術師だから、銀級上位くらいだったとしても、ソロでは行け
るようなところではないが。
ウンベルトもリリアンの言葉に納得したようにうなずいて、
﹁当然、俺には無理な話だ。だが、今回は誰がツイていたのかは分
からないが、運よく、︽タラスクの沼︾から格安で︽竜血花︾を採
取して来てやるっていう、善意の冒険者がいたんだ⋮⋮なぁ﹂
俺の顔を意味ありげに見ながらそう言った。
リリアンは唖然とした顔で、しかし、俺がもともとどういう理由
でここに来たと言っていたのかを思い出したらしく、尋ねる。
﹁⋮⋮レントさんが? けれど、孤児院の地下の魔物退治を引き受
けてくださったと⋮⋮﹂
確かに、リリアンにはそのように話していた。
しかしそれは、アリゼがあえてそう言っただけだ。
俺が依頼を引き受けても言わなかった理由はなんとなく理解でき
る。
あのとき、アリゼは俺のことを心底信じていたわけではなく、俺
が本当に︽竜血花︾を取ってこられるかについて疑問を感じていた
のだろう。
そして、そのことは別に間違った判断ではない。
その辺の冒険者に簡単にとってこられる素材ではないし、実際、
744
俺はそこそこ苦労したのだから。
それについて、俺は説明する。
﹁あれは方便だ。そもそも、︽タラスクの沼︾の攻略自体、うまく
いくかどうかも分からなかったからな。薬が出来るまで言わない方
が良いだろうという配慮だったはずだ﹂
もちろん、俺のではなく、アリゼのである。
俺に依頼をする前に話していなかった理由としては、そもそも、
依頼を出したはいいが、受ける人間がいるかどうかも分からないし、
受ける冒険者が来たとて失敗する可能性もあったというのが大きい
だろう。
ぬか喜びさせるくらいなら最初から言わない方がいい、とアリゼ
が思っていたわけだ。
そして俺が依頼を受けてもそれを貫いた。
それだけの話だ。
どうしようもなくなったときは、自らとってくるという覚悟を決
めながら。
改めて考えるに、実に肝の座った子供であるな、と思う。
どんなに思いつめてもそこまでは考えないだろう。
︽タラスクの沼︾は大人のそれなりの冒険者ですら率先しては絶
対に行きたくないような場所だ。
そんなところに、たとえ一種の無謀であるとしても、自分が行く
と決めると言うのは結構凄いことだと思う。
それだけ慕われているリリアンも中々だ。
﹁そう、だったのですか⋮⋮でも、そんな、どうしてレントさんは
そんな、︽竜血花︾などとってきてくださったのですか⋮⋮?﹂
﹁それはもちろん、依頼だったからだ﹂
745
この際である。
全部説明するために、俺は言う。
﹁誰から⋮⋮?﹂
﹁分かるだろう? 依頼者の欄には、マルト第二孤児院の孤児一同、
って書いてあったぞ﹂
﹁あの子たちが⋮⋮﹂
唖然とした表情をしつつも、リリアンの顔には同時に納得もあっ
た。
この状況で、誰が依頼するのかは聞かずともなんとなくわかる。
そんなリリアンに、俺は続ける。
﹁特にアリゼは⋮⋮さっきの俺たちの話につながるんだが、もし、
誰も︽竜血花︾を採取してきてくれないようなら、いずれ自分が冒
険者になってとりにいくつもりだった、とまで言っていたくらいだ。
かなり慕われているんだな、あんたは﹂
﹁アリゼが、そんなことを⋮⋮? なるほど、それで冒険者の話を
したのですね⋮⋮﹂
リリアンは俺たちがアリゼが冒険者になりたがっていると聞いた、
という話をしたことを思い出したのだろう。
納得したようにうなずいた。
それからウンベルトが、
﹁ま、その辺りの話は後でしてもらうとしてだ。とにかく、あんた
746
の病気は治る。薬もしっかりとノーマンが作って来た。受け取って
くれるな?﹂
そう言ってノーマンを促す。
ノーマンは持っていた鞄から木箱を取り出して、リリアンに手渡
した。
リリアンが恐る恐るそれを受け取り、蓋をあけると、そこには小
指の先ほどの大きさの丸薬が数十個入れられている。
﹁これを毎日一粒、一月前後飲み続ければ、貴方の体の中に巣食う
︽邪気︾は徐々に分解され、体の外に排出される。それで︽邪気蓄
積症︾は治るんだ。まぁ、服用すべき期間は実のところ結構個人差
があって、長引く場合もあるんだけど、まだ薬はあるから、足りな
いときは追加で出すから安心してほしい。少しずつ体が良くなって
いくのを実感できるはずだから、毎日忘れずにこつこつ飲むように
ね﹂
ノーマンがそう説明する。
それに対して、リリアンは丸薬を一粒取り出し、見つめながら、
しみじみとした様子で、 ﹁⋮⋮本当に治るのですね⋮⋮皆さん、本当にありがとうございま
す。この御恩は、一生忘れません⋮⋮﹂
そう言って頭を下げる。
それから、ぽたぽたと、ベッドの上に涙が零れ落ちた。
そして、それと同時に、扉を叩く音がして、
﹁椅子をお持ちしました⋮⋮って、あれ﹂
747
扉を開けたアリゼが、部屋の中の様子に驚いたように口を開いた。
748
第109話 下級吸血鬼と許可
﹁⋮⋮ど、どうしたのですか? 何か、あったのですか!?﹂
リリアンがぼろぼろ泣いている様子を見て、自分のいない間に何
かとんでもないことが起こったのかもしれない、と思ったらしい。 アリゼは酷く慌てた様子でそう叫びながら部屋の中に入って来る。
⋮⋮椅子は廊下に置きっぱなしのようだった。
まぁ、この状況では仕方ないだろう。
アリゼの言葉に、リリアンが嗚咽を抑えつつ言う。
﹁アリゼ⋮⋮それはこちらの台詞ですよ。貴女は⋮⋮私に内緒で一
体何をしていたのですか⋮⋮﹂
その台詞に、アリゼは周囲にいる俺たちを見回して、状況を察し
たらしい。
申し訳なさそうな声で、
﹁あぁ⋮⋮ばれてしまったのですね⋮⋮。申し訳ありませんでした。
あの、でも、私たち、どうしても、リリアン様に元気になってほし
くて⋮⋮﹂
とぽつりぽつりと話し始めた。
俺はアリゼが黙って行動していたことに、リリアンは怒るかもし
れない、と思ったが、その予測は外れる。
リリアンはアリゼの言葉にふっと笑い、
749
﹁分かっておりますよ。別に責めているわけではありません⋮⋮私
は、なんだかとても恵まれているようです。普通なら、どれだけ頑
張っても︽邪気蓄積症︾の治療薬など手に入るものではないのです
から。教会の聖気持ちの間では、何よりも恐れらている病です。そ
れなのに⋮⋮﹂
﹁⋮⋮それは、天使さまのお導きです。今まで、ずっと、この孤児
院のために頑張ってこられたリリアン様のために、奇跡を下さった
んです⋮⋮﹂
しみじみと言ったリリアンに、アリゼの方が泣き出しそうな顔で
そう言った。
しかしリリアンは、
﹁私がしてきたことなど、当たり前のことに過ぎません。このよう
なことになったのは、天使さまのお導きかもしれませんが、何より
も、アリゼ、貴女がそのために頑張って、レントさんが︽竜血花︾
を採取してきてくれ、ウンベルトとノーマンが薬を用意してくれた
からです。私はそのことに、深い感謝を覚えてやみません⋮⋮本当
に、ありがとうございます。アリゼ、それに皆さん⋮⋮﹂
そう言って、また何かこみ上げてくるものがあったのか、リリア
ンは涙を流し始めたのだった。
◇◆◇◆◇
﹁レント! レント! 次は私がやってもいい?﹂
﹁次は俺だぞ!﹂
750
﹁えー! 約束したのは私が先だもん!﹂
孤児院の中にある小さな聖堂、その空中を飛び回る飛空艇の姿を
見上げる者たちがいた。
俺とロレーヌ、それに孤児院の子供たちである。
俺が飛ばしているときよりもかなり不安定で、ぶれた飛び方をし
ている飛空艇であるが、しっかりと空中に浮き、操縦者の意志に従
っていることは、壁や天井にぶつからずに飛んでいることからも理
コントローラー
解できた。
操縦器を持っているのは、孤児院の子供の一人だ。
五歳くらいの男の子で、俺が手持無沙汰に飛空艇をここで飛ばし
始めたのを羨ましそうに見ていたので、少し貸しているのである。
コントローラー
彼らには魔力はないが、すでに俺が十分に充てんしてあるので、
操縦器さえ持っていれば飛ばせるのだ。
ちなみに、なんでこんなところでこんなことをしているのかとい
うと、リリアンが、ウンベルトとノーマンが一通り薬の服用の注意
事項について話し、帰宅した後、アリゼと二人きりで話がしたいか
ら、少しだけ外で待っていてもらえないか、と言ったからだ。
俺とロレーヌがリリアンに提案した、アリゼ冒険者兼魔術師兼学
者計画をとりあえず俺たち抜きで話そうと言うのだろう。
まぁ、即決できるようなことではないことは分かる。
数日時間を⋮⋮と言われてもおかしくはないと思っていたくらい
だ。
しかし、意外にも話す時間はそれほど長くなくていいと言われた。
理由を聞けば、リリアンから見て俺とロレーヌは少し変わっては
いるが、悪人ではないと分かるからそこまで怪しんでいないからだ、
と言う。
ただ本当に、アリゼに覚悟や将来の展望があるのかどうかを聞き
たいだけのようだ。
751
それにしても、
⋮⋮変わってはいる?
聞き捨てならないな、と一瞬思ったが、ロレーヌがそそくさと、
では、孤児院の中にある聖堂で待っていることにしよう、と言って
俺を引っ張って部屋を出てしまったのでその発言について詳しいこ
とは話せていない。
その言葉の意味、しっかりと尋ねたかったなぁ、どういう意味な
のかなぁ、と心の底から思わないでもないが、仕方がない。
あの二人には確かに会話が必要だろう。
﹁⋮⋮しかし、いいのか? あれはお前にとって大事なものではな
かったか﹂
ロレーヌがびゅんびゅん飛ぶ飛空艇を見ながら、そう呟く。
まぁ、確かにあれは俺にとって非常に重要なものだが、別に誰に
も触らせたくないというわけではないのだ。
むしろ、皆とあれを操る楽しさを共有したい⋮⋮そういうもので
ある。
しかし、複数ないとそういうことはなかなかできないし、人に触
らせて盗まれるのも嫌だ。
そう言う心配がなく、皆で楽しめている今の状況は、むしろ歓迎
すべきものであった。
だから、
﹁いいんだよ。みんな楽しそうだろ?﹂
コントローラー
操縦器を次々に回しながら飛空艇を操る子供たちに視線をやりな
がらそう言った。
752
ロレーヌはそれを見て頷き、
﹁⋮⋮まぁな。しかし⋮⋮許可は出ると思うか?﹂
そう言う。
後の方の言葉は、話を変えたのだろう。
何の話かと言えば、それはもちろん、アリゼの冒険者話のことで
ある。
﹁出るんじゃないか? なんだかんだ言って、孤児ってのはなれる
ものが限られているからな⋮⋮賢く、努力できる孤児はそのまま神
官や僧侶になれるらしいが、大半は自分で仕事を見つけて来なきゃ
ならない。アリゼはまだ若いが、あと二、三年もすれば仕事を探し
始めなきゃならない年齢だからな。それが少し早まるだけなんだか
ら⋮⋮﹂
俺の言葉に、ロレーヌは孤児院の子供の置かれている状況の厳し
さを改めて感じたのか、少しだけ悲痛な顔をした。
けれどすぐに首を振って頷き、
﹁⋮⋮そうだな﹂
と、しみじみとした声で言った。
それから、聖堂の入り口の扉が開く音がしたので振り返る。
﹁⋮⋮お、来たようだぞ﹂
ロレーヌが言った通り、そこにはリリアンとアリゼがいた。
リリアンの方が立ち歩いていることが意外だったが、彼女は近づ
いてきて言う。
753
﹁⋮⋮薬を飲んだところ、みるみるうちに体の怠さが抜けたのです。
聖気も戻ってきていて⋮⋮これなら働けますわ﹂
と笑顔で言った。
良いことであるが、これに横に立っているアリゼが、
﹁リリアン様! まだまだ本調子ではないのですから、しばらくは
無理をせず、孤児院の運営は私たちに任せておいてください﹂
と小言を言う。
これではどちらが孤児院長なのか分からないが、リリアンはそれ
に笑って、
﹁ふふ⋮⋮それならしばらくはお言葉に甘えようかしら。でも、ア
リゼ。貴女はこれからこのお二人に冒険者として、魔術師として、
学者として鍛えてもらうのでしょう? なら、一人で抱え込むのは
貴方も避けなければだめよ。他のみんなにも頼らなければ﹂
と言う。
その言葉を聞いて、俺とロレーヌは安心する。
どうやら、弟子入りの許可は出たらしいな、と理解できたからだ。
アリゼは、それから改めて、俺たちに向き直り、
﹁あの、そういうことですので、レントさん、ロレーヌさん、これ
からどうぞよろしくお願いします。私、精一杯頑張りますので﹂
そう言って頭を下げた。
﹁こちらこそよろしく頼む。共に魔術と学問の道を突き進もう﹂
754
ロレーヌがそう言ったので、俺も続いた。
﹁俺もよろしく頼む⋮⋮なぁ、冒険者になるんだよな? そうだよ
な?﹂
そう確認せずにいられなかったのは、仕方のないことだと思う。
755
第110話 下級吸血鬼と講義
﹁さて、諸君。魔術を使うのに、何が必要か分かるか?﹂
ロレーヌの家のリビングで、一枚の大きな板を前に棒を持ちなが
ら、ロレーヌはそう、俺たちに尋ねた。
俺たち︱︱つまりは、俺、レント・ファイナと、アリゼである。
アリゼは、正式に魔術師として、また冒険者としての修行をする
ことが先日決まったわけだが、その第一日目が今日始まる、という
わけだ。
それは理解できるにしても、じゃあなんでお前までいるのか、と
尋ねる者もいるだろう。
その理由は簡単だ。
今、ロレーヌが話しているのは魔術についての基礎に関する話だ。
アリゼは魔力を持ち、魔術師としての修行を積むわけだから、当
然の話だが、魔術師としての才能があるのは何もアリゼだけではな
い。
俺にだってあるのだ。
もちろん、以前の俺にはそんなものはなかった。
低級の攻撃魔術すら発動させることが出来ず、ちょろちょろ水を
出したりするくらいが関の山だったくらいだ。
以前なら、魔術師としての才能が有ります、なんて口が裂けても
言うことが出来なかっただろう。
しかし今は違う。
俺の魔力は当時とは比較できないほどに伸びている。
十分に魔術師として魔術を行使できるくらいにである。
そして、そうであるにも関わらず、魔術が使えないのは、魔術の
理屈や実践がないから、というだけなので、学べば身に着けられる
756
はずだ。
そう思った俺は、アリゼに教えるついでに俺にも教えてくれ、と
ロレーヌに頼んだのである。
そうしたら、彼女は﹁授業料二倍な﹂と言って、快く引き受けて
くれた。
⋮⋮快く引き受けてくれたのだ!
まぁ、別に俺の授業料だけ二倍とる、と言う話ではなく、アリゼ
の分と自分の分、両方しっかり払えと言う意味なので正当な対価の
要求であるからいいのだが、ここで結構家政婦しているのでその分
割引とかないのかなとちょっとだけ思わないでもない。
居候している身で言えたことじゃないか。
そもそも、まともに魔術を身に着けようと思ったら、高名な魔術
師に弟子入りするか、魔術学院に行く、の二択にほとんど限られる
のだ。
どちらを選ぶにしても金貨数十枚を積むしかなく、そのことを考
えるとロレーヌの料金は極めて低廉で良心的である。
むしろ破格だ。
つまりすでに割引されていると受け取ればいいと言うことかな⋮
⋮。
ともかく、そんなわけで、今、俺とアリゼはロレーヌの︽第一回
魔術師講義∼ゴブリンでも分かる魔術の使い方∼︾を受けていると
ころだ。
そしてそんなロレーヌの質問に答えるべく、俺が口を開こうとす
ると、
﹁はい!﹂
と、隣から元気のいい声と共に挙手されたのが見えた。
757
アリゼの手である。
それをロレーヌは手に持っている細長い棒で指して、
﹁はい、アリゼくん﹂
と指名した。
アリゼは椅子から立ち上がり、滔々と質問に対する答えを披露す
る。
﹁はい。魔術を使うためには、︽魔力︾が必要です!﹂
﹁よくできました。座ってよろしい﹂
⋮⋮どうやら俺は出遅れたようである。
別に答えが分かっていなかったわけではない。
分かっていたけれど、挙手するタイミングがずれただけだ。
そうなんだ。
ロレーヌは続ける。
﹁今、アリゼが言ったように、魔術を使うためにはまず、魔力が必
要なのは常識だ。もちろん、沢山魔力があったからと言って必ずし
も強力な魔術師になれるというわけでもないのだが、強い魔術師に
なりたいなら、出来るだけたくさんの魔力を持っていることが望ま
しい。その理由は⋮⋮﹂
﹁はいはい! はいっ!﹂
ロレーヌが途中で言葉を切って、俺たちを見たので、俺は必死に
声を張り上げて手を上げる。
横をちらりと見ると、アリゼが﹁⋮⋮大人げなくない?﹂とぼそ
758
ぼそ言っているが、そんなことは知ったことではない。
俺は負けず嫌いなのだ。
一度負けたら、次は負けないのだ。
ロレーヌは俺の挙手を見、さらにアリゼとアイコンタクトをして
からため息を吐いて、
﹁⋮⋮はい、レントくん﹂
と呆れたように言った。
俺は望んでいたその指名に、堂々と返答する。
﹁持っている魔力が小さいと、使える魔術の種類が著しく限られる
からです。たとえば、生活魔術と呼ばれる、ひどく矮小な魔術だけ
しか使えず、攻撃魔術の一切を発動できない、という場合も少なく
ありません⋮⋮昔の俺みたいに﹂
﹁はい、正解。良かったな、レント﹂
投げやりにロレーヌが褒める。
それから、俺が最後にぼそりと付け加えた一言に、アリゼは、
﹁えっ? 本当? レントって昔から何でも出来たんじゃないんだ﹂
と驚いた顔をする。
⋮⋮一体俺に対してどんな超人イメージを持っているのだろう?
ちなみにアリゼには敬語はしなくていいと言ったのでこんな口調
だ。
ロレーヌもやめろと言っているのでこの授業中以外は普通に喋っ
ている。
759
しかし、勉強している間だけは、先生と呼び、敬語で話すように、
という妙な規則を設けられてこんな口調なのだ。
なぜか俺も強制された。
ギルド
ロレーヌが言うには、彼女の故郷の学び舎だとこれが普通らしい。
ヤーラン王国だとどうなんだろうな?
学院は行ったことないから分からないが⋮⋮冒険者組合の講習な
んかだと誰も敬語なんて使わないし、新鮮な感じはする。
﹁別になんでも出来たわけじゃないし、今だって大したことは出来
ないぞ﹂
アリゼに俺が否定気味にそう言うと、ロレーヌもそれに頷きつつ、
﹁レントは出来ることは出来るんだが、出来ないことは徹底的に出
来ない奴だからな。今はかなり色々なことが出来るようになってき
ているみたいだが⋮⋮それでもどこか抜けているところがあるのは
理解できるだろう? まぁ、冒険者しているときはそういうところ
は、あまり見せないのだけどな﹂
そう補充した。
アリゼは意外そうな顔で、へぇ、と頷いているが、ふと不思議に
思ったことがあったようで、ロレーヌに質問する。
﹁そう言えば、レント、昔の自分は生活魔術しか使えなかったって
言ってたけど⋮⋮﹂
この疑問にはロレーヌが答える。
﹁それは事実だな。レントは確かに、つい最近まで、大した魔術は
使えなかった。魔力は基本的に成長期を過ぎたら増減しないものだ
760
からな。ただ、例外もあって、何かのきっかけで急に魔力が増える、
という場合も存在しないではないんだ﹂
隠した方がいいことなのかもしれないが、そうなるとなんで俺が
この講義を受けているんだと言う話になる。
早いうちに、それには理由があるのだと言っておいた方が良いと
いう、ロレーヌの判断だった。
﹁それってどういう場合ですか?﹂
俺が最近まで大した魔力がなかった、と言う事実に特に奇妙なも
のを感じなかったらしいアリゼが続けてそう尋ねると、ロレーヌは
答える。
﹁一概には言えないが、例としては、特殊な霊薬を口にしたり、強
力な魔物を討伐したりした場合かな。神霊の加護で、ということも
ないではない。物騒なのだと、悪魔に何かと引き換えでもらう、と
いうのもある﹂
そう、魔力は基本的に一度固定するとずっと増減はしないものだ
が、特殊な方法によって増やすことも可能なのだ。
しかし、知られているいずれの方法も実現するには多大なコスト
がかかり、かつ運に左右されるものばかりなのだ。
魔力増加の霊薬など、そうそう手に入れられるものではなく、オ
ークションに出れば際限なく値段が釣り上げられていくものだし、
魔力を増加させるような魔物と言えば、伝説に名前が出てくるよう
な類の化け物ばかり、神霊の加護など運でしかないし、悪魔との契
約など命がいくつあっても足りない。
俺だって生きているときに魔力を増やせるなら増やしたかったが、
どれもそう簡単に出来ることではなかったのだ。
761
それにやっても、僅かにしか増加しない、ということもありうる。
正攻法で頑張るのが一番堅実なのだ。
堅実にやって、結果喰われて死んだのは笑い話だが。
﹁俺の場合は何かやったわけじゃないが、急に増えてな。運が良か
ったと思っているよ﹂
アリゼにそう説明する。
別にこれもまた、ない話ではない。
だから話の辻褄は一応合うのだ。
アリゼも、そこまで魔術師について詳しいわけではないので、
﹁そうなんだ⋮⋮だから、今一緒に勉強しているってわけね﹂
なるほど、と言って納得したようである。
いずれ俺のことを何かおかしい、と気づく日も来るかもしれない
が、そのときは改めて説明すればいいだろう。
762
第111話 下級吸血鬼と魔力の自覚
ロレーヌは続ける。
﹁それで、だ。魔術師は魔術を使うために、当然の話だが自分の体
の中に魔力があり、それ動かせることを自覚しなければならない。
魔力があるにも関わらず、これが出来ないがために魔術師になれな
いものは思いのほか少なくない⋮⋮アリゼは今、自分の体に魔力が
あることを感じられているか?﹂
ロレーヌの質問に、アリゼは首を傾げ、答える。
﹁⋮⋮いいえ。感じられません。あの、先生、もしかして、私って
魔術師になれないのですか⋮⋮?﹂
その表情はかなり不安そうで、今開きつつあった扉が突然閉じら
れたかのようですらある。
ロレーヌがたった今言ったことを解釈すれば、確かに魔力を感じ
られていないアリゼは魔術師になれない、という話になってしまう
から、彼女の気持ちは理解できる。
しかしロレーヌは微笑みながら首を振って、
﹁焦るな。そんなことはない⋮⋮とは言い切れないのだが、それほ
ど心配することでもないから安心しろ。というのも、今言った魔力
を感じられない者というのは、大半が独学で魔術を学ぼうとするも
のなのだ。実は、魔力を自力で感じ取ると言うのはかなり難しい。
伝説で伝えられている︽始まりの魔術師︾はそれを自力で行ったと
言われるから、とりあえずそれにあやかろうと挑戦する者はいるし、
763
実際に出来る者も全くいないわけではないが⋮⋮よほどセンスがな
ければな﹂
このロレーヌの言葉に、アリゼは尋ねる。
﹁ロレーヌ先生はどうだったんですか?﹂
﹁私か? 私は当然できたぞ。凄いだろう﹂
恥ずかしげもなくそう言って胸を張る。
その台詞に、俺はジトッとした目を向けるも、一切謙虚に振る舞
う様子もないのが彼女らしかった。
﹁⋮⋮レントは?﹂
ついで、と言った感じで聞かれたので、俺も答える。
﹁出来るわけないだろ。俺は凡人だよ﹂
そう、魔力は持っていたが、出来なかった。
じゃあなぜ、俺は魔力が使えるのか、という話になるが、それに
ついてはアリゼがロレーヌに尋ねる。
﹁自力で出来ないときは、どうすればいいんですか?﹂
﹁方法はいくつかある。最も簡単なのは、すでに魔力を扱える者に
協力してもらう方法だ。その者の魔力を体に流してもらって、魔力
がどういうものかを感じてもらう訳だな。よほどの鈍感でない限り
は、これで問題なく魔力を感じ取ることが出来るようになる。どの
くらいの期間がかかるかは人それぞれだが⋮⋮魔力が多いほど早く
764
出来るようになる傾向があると言われているな﹂
﹁他の方法にはどんなものがあるんです?﹂
﹁あまり勧められないが、魔物と戦うという方法がある。魔物の力
は魔物を倒すと僅かに吸収されるのだが、その力の中には様々な要
素が含まれていてな。魔力も一部含まれているのだ。それを吸収で
きるわけだから、魔力を人に流してもらうのと同じ効果が得られる
ということだ。ただ、非常に微弱で小さい力だ。この方法だと、時
間がかかることが多い﹂
﹁うーん⋮⋮手っ取り早くて、誰にでも出来る方法ってないんです
か?﹂
どちらの方法も一長一短あり、アリゼにはまどろっこしく思えた
のかもしれない。
だからこそ、そんな質問をした。
普通なら、物事と言うのは何でも苦労せずに済むようなものはな
いのだ、当然、そんな都合のいい方法などあるわけがないだろう、
と子供の教育的には言いたくなるが、ロレーヌは首を横には振らな
かった。
﹁あるぞ。魔術を受けるんだ﹂
﹁えっ?﹂
メイジ
﹁魔物は魔術を使えるものがいる。原始的なものから、複雑なもの
までその種類は様々だが⋮⋮たとえば、ゴブリン魔術師なんかだと、
非常に初歩的な魔術を使ってくるのは知っているだろう?﹂
765
﹁は、はい⋮⋮それで、受けるとは?﹂
フォティア・ボリヴ
ギァ
・ス
ヴェロス
﹁読んで字のごとくだ。火弾やら土の矢やら、なんでもいいが、そ
の身で直接浴びるんだ﹂
聞くだに恐ろしい話だが、一番恐ろしいのは話しているロレーヌ
が至って真剣なことだろう。
つまり、冗談でもなんでもないのである。
﹁⋮⋮そんなことしたら、死んじゃうんじゃ⋮⋮﹂
アリゼの唖然としてそう言ったが、ロレーヌもそれに頷いて、
﹁そうだな、運が悪ければ死ぬな⋮⋮いや、運が良ければ生き残れ
るのかな? まぁ、普通の方法ではないのは確かだ。しかしその効
果は確かだぞ。生き残れさえすれば間違いなく、魔力が感じ取れる
ようになるからな。なぜかと言うと、魔力が感じ取りにくい理由は、
普通、人の体の中で使われていない魔力が静止しているからなんだ。
これを、自力で動かす、それが出来ない場合は、外部から魔力を取
り入れて、動かすことで感じ取る、というのが基本なんだが⋮⋮魔
術を受ければ人の体内魔力は荒波のように動き出すからな⋮⋮数日
立ち上がれないだろうが、目覚めればもう、体中の魔力が好きなよ
うに動かせるようになるわけだ﹂
ロレーヌは利点をたくさん上げるが、しかしアリゼにはどうして
もその方法を認められない理由があるようだ。
アリゼは言う。
﹁⋮⋮流石に、命を危険に晒してまでそんなことする人はいないの
では⋮⋮?﹂
766
しかしロレーヌはぴっ、と棒を上げて、
﹁そこにいるではないか﹂
俺を差しながらそう言った。
アリゼはまるで街中で竜にでも遭遇したかのような眼差しを俺に
向ける。
声も出ないようだが、その瞳は間違いなく、﹁正気なの?﹂と聞
いていた。
俺はいつだって正気だ。たまに血が飲みたくなるだけで。
俺はまるで言い訳のように、
﹁いや、別に俺だって他に方法があるならそうしたさ。だけど、俺
の故郷は小さな村だぞ。まともに魔力を扱える人間なんてほとんど
いないし、魔力の扱いを教えてくれって言っても、そう簡単には教
えてくれないものだからな⋮⋮自分でどうにかするしかなかったん
だ﹂
もちろん、水を出したり種火を出したりするくらいのことは冒険
者になった時にはすでに出来ていた俺だ。
誰にも何も学ばなかったわけじゃないが、そもそも魔力を扱える
ようになるきっかけについては、自分でどうにかするしかなかった
のだ。
メイジ
それこそ当時住んでいたところに生息していると言われていたゴ
ブリン魔術師を探して、魔術をわざわざ受けた。
結果として魔力を感じ取れるようになったわけだが⋮⋮今にして
思うと無謀にもほどがあるな。
よく生きているものだ。
別に、全くの考えなしというわけでもなくて、老いた死にかけの
767
メイジ
ギ・ヴェロス
ゴブリン魔術師が森に出た、という情報を聞いてから、よくよく気
を付けて挑んだのだ。
受けた魔術だって、小さな土の矢だったからな。
当たり所が良かったのか腹に痣が出来るくらいの威力でしかなく、
どうにか走って逃げて事なきを得た。
後で聞いた話によると、帰宅したら気絶して熱出して昏々と眠り
続けたらしいが。
そんな話をアリゼにすると、彼女は唖然とした表情のままロレー
ヌの方に向き直り、
﹁⋮⋮私、そんな方法嫌です﹂
と、はっきりとした声で宣言した。
ひどい。
いや、俺がひどいのか。
アンデッド
昔の俺、何やってるんだろうな。
まぁ、不死者やっている今の俺も何やってるんだって感じだが。
そんなアリゼにロレーヌは、
﹁それはそうだろう⋮⋮というか、そんな方法を弟子に勧める魔術
師なんてまずいないから安心しろ。アリゼにはそういうわけで、通
常の方法︱︱つまりは、すでに魔力を扱えるものから、魔力を注い
でやる方法をとる。やり方は簡単で、今すぐにでも始められるが、
覚悟はいいか?﹂
そう尋ねた。
768
第112話 下級吸血鬼と挑発
﹁それは痛いですか⋮⋮?﹂
怯えながらそう尋ねるアリゼに呆れた顔をしたロレーヌが言う。
﹁⋮⋮全く痛みなどない。他人の魔力を流されるわけだから押し込
まれるような違和感はあるだろうが、苦痛というほどでもないだろ
う。なんというかな⋮⋮少し息を止めているときのような感じとで
もいえばいいだろうか。まぁ、心配するほどでもないということだ﹂
アリゼはこの説明にほっとしたようで、
﹁でしたら、よろしくお願いします﹂
そう言って頭を下げる。
そんなアリゼにロレーヌは、
﹁ふむ。では手を出せ﹂
﹁はい﹂
アリゼが差し出した手を、ロレーヌが掴み、言う。
﹁⋮⋮では、ここから魔力を流していくが、覚悟はいいか?﹂
﹁はい⋮⋮あの、ふと思ったんですけど、魔術を受ければいいって
言っていましたけど、付与魔術とかじゃダメなんですか?﹂
769
アリゼが疑問を口にしたので、ロレーヌは答える。
﹁いや、ダメではない。ただ、魔術師が弟子に魔力を自覚させるた
めに、わざわざその方法を選択する利点がないんだ。さっき言った
魔術を受ける、はあくまで魔術師がいない場合の方法の話だからな﹂
﹁ええと、つまり⋮⋮?﹂
﹁魔術を受ける方法を選んだ場合、体内魔力を荒波のように乱れる。
魔力の扱いを知らないが、魔力を潜在的に持っている者に付与魔術
をかけた場合、同様のことが起こる。するとどうなるかというと⋮
⋮体中に苦痛が走り、気持ちが悪くなる。さらに、その状態が数日
続く羽目になる⋮⋮レントもそれを味わったはずだ。そうだな?﹂
ロレーヌの質問に俺は頷いて答える。
﹁正直、死んだ方がマシだと思えるほどきついぞ。もう二度とやり
たくない﹂
本当に、真実俺はそう思った。
意識もうろうとしていて、時間間隔もかなり希薄で、永遠に続く
かと思うほどに苦痛が続くのだ。
あんなのは何度も味わいたいなどと思えるわけがない。
﹁⋮⋮その方法がいいというのなら、付与魔術をかけてもいいぞ?﹂
ロレーヌがアリゼにそう尋ねれば、アリゼは慌てて強く首を振っ
て、
770
﹁い、いえ! 普通の方法でお願いします!﹂
と叫ぶ。
当然だ。
好き好んであんなことをやる奴なんて滅多にいない。
俺だって好きでやったわけじゃない⋮⋮本当だぞ?
ただ、他に方法がなかっただけで。
魔術師はただの村人からすれば信じられないほどの金を要求する
し、魔術師と言えないほどの魔力持ちだとて、やはり金銭を求める
からな。
自分だけの力で魔力を自覚できるよにしようと思ったら、それく
らいしかできなかったという話である。
﹁ま、そうだろうな⋮⋮では、今度こそ魔力を流そう。しっかりと
集中して、体の中に走る違和感を感じ取るんだぞ﹂
﹁はい⋮⋮っ!?﹂
アリゼが頷いた直後、ロレーヌはぎゅっとアリゼの手を強く握っ
た。
その瞬間、アリゼは目を見開く。
それだけでわかった。
才能があるって、こういうことなのだろうなぁと。
うらやましいなぁと。
つまりは⋮⋮。
﹁⋮⋮どうだ、分かるか?﹂
ロレーヌがアリゼの手を握ったまま、そう尋ねると、アリゼは頷
771
いて答える。
﹁はい⋮⋮分かります。なんだか⋮⋮どろどろしたものが体の中に
流れているみたいな⋮⋮﹂
その答えに、ロレーヌは目を瞠って、
﹁かなり魔力があるから早いだろうとは思っていたが⋮⋮ここまで
とはな。そうだ、それが魔力だ。今は私が無理やり流して動かして
いるわけだが、自分の意志でそれを操ることは出来るか?﹂
﹁⋮⋮ちょっと、難しいです⋮⋮﹂
額に脂汗を浮かせながら、アリゼがそう答えた。
どうにか体の中の魔力を動かそうと必死のようだが、そう簡単な
ことではないようだ。
俺はそんなアリゼの様子を見ながら、自分の体の中にある魔力を
ふぉんふぉん動かす。
おなか辺りにあるそれを引っ張り出して腕まで伸ばしたり、体の
線に沿ってぐるぐる動かしたり⋮⋮もう、超余裕である。
当たり前だ。
なにせ、年季が違う。
十年以上も付き合って来た力で、かつ、俺は魔力量がそもそも酷
く小さかった。
魔力は、それが自らの体の中にあると自覚するのは多いほどいい
とされているが、それを意思に沿って操ることについては、むしろ
少ない方が楽だと言われている。
パンパンにつまった袋の中にあるものの位置を動かすより、スカ
772
スカの袋の中の方が動かしやすいのだ。
だから俺は魔力の自覚が出来た後は、至極簡単に動かすことが出
来たし、その感覚を磨き続けた結果、未だにそのまま楽に操れてい
るわけだ。
ただ、これが出来たからと言って魔術師として優れている、とい
う話には直結しない。
体の好きな位置から魔術が出せるし、威力調整も容易になり、か
つ魔術の構成も速くなると言われているが、それだけだ。
強い魔術を使うためにはやはり、魔力量が不可欠なのだ。
まぁ、しかし女性には割と重宝されるとは言われている。
なにせ、好きなところから魔術が出せるわけで、初歩の初歩の魔
術は、水を出す魔術である。
目からちょろちょろ水を出すとウソ泣きが簡単に出来るのだ。
だから、割とこの技術については女性の方がうまかったりする⋮
⋮怖い話だ。
﹁⋮⋮そろそろ、一回休むか﹂
ロレーヌがアリゼの様子を見て、そう言った。
ロレーヌが魔力の供給を辞め、手を離すと、アリゼは息を乱し、
がくりとその場に膝をつく。
苦痛ではないにしろ、決して楽な行為ではないということだ。
それに、他人の魔力を体に流しても死にはしないが、あまり一度
に長時間流し続けるのはやはり体によくはない。
本来、これは休み休み何度もやって、数日かけて身に着けるもの
なのだから。
しかし、アリゼはすでに魔力自体の感覚はつかめているようで、
これはかなり優秀であると言えるだろう。
﹁大丈夫か? 今日のところはこれでいったん止めておくか?﹂
773
ロレーヌがアリゼにそう尋ねる。
息も少し落ち着いてきているが、決して楽そうではなく、汗はま
だ流れている。
ちょっと我慢しすぎたらしい。
アリゼはロレーヌの質問に少し悩みつつ、答える。
﹁こ、これ⋮⋮どれくらい、やったら⋮⋮?﹂
﹁慣れるかって? それはもちろん、とりあえず体内の魔力を自由
に操れるようになったらだな。それが出来ない限りは、私が魔力を
流してきっかけをつかんでもらうしかないから、苦しいままだぞ﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
相当に辛いらしく、その顔は結構な絶望に満ちている。
ロレーヌはそんなアリゼに微笑みつつ、
﹁別に今日一日で覚えろってわけじゃない。もともと数日かける予
定だったんだ。だから⋮⋮﹂
今日のところはここで終わりでもいいぞ、と言いかけているとこ
ろで、俺は魔術でもって自分の指先に小さな火をぽっと灯す。
さらに、反対の手からは水をちょろちょろ出してみせた。
その上で、アリゼの方をじーっと見つめてみた。簡単だなぁ、と
いうような雰囲気で。
アリゼがそんな俺を見ながら、
﹁⋮⋮あれ、出来るように、なるには、どれくらいかかり、ますか
?﹂
774
と息が切れつつもちょっとイラッとした態度で尋ねた。
どうやら俺の態度がかなり挑発的に見えたようだ。
確かに、若干踊りながらやっているのでそう見えたかもしれない。
別にわざとじゃないぞ。
ロレーヌはそんな俺を呆れた顔で見ながら、
﹁レント⋮⋮煽るのはやめろ⋮⋮﹂
と低い声で言い、アリゼには優しげな声で、
﹁すぐに出来るようになるぞ。あんなの簡単だからな﹂
と、俺の十年間の努力をさらっと否定した。
実際、簡単なのは否めない。
今なら体中から噴水を出せそうな気がする。
初歩の魔術であるから、規模はこれ以上大きくならないのだが、
魔力に飽かせて、数だけは増やせるだろう。
やってみようかな⋮⋮と思ったところで、アリゼが立ち上がり、
言う。
﹁だったら、あれが出来るようになるまで、頑張ります!﹂
その様子はかなり奮起したらしく、やる気に満ちていた。
疲れてはいるが、気合で乗り切ろうという根性を感じる。
ロレーヌはそんなアリゼを見て笑い、
﹁そうか⋮⋮じゃあ、もう少し頑張ってみるか﹂
そう言って、俺の方を見てふっと微笑んでから、再度アリゼの手
775
を取り、魔力を流し始めたのだった。
776
第113話 下級吸血鬼と初歩魔術
﹁うう⋮⋮﹂
アリゼがうなりながら自分の人差し指の指先に魔力を集中させよ
うと意識している。
基本的に、魔力は慣れさえすれば、体のどこからでも出せる。
しかし、一番出しやすいのはどうしても手からである。
手のひらとか指先とか、そういうところから魔力が放出されるイ
メージが一番、人には思い浮かべやすいからだ、とか、最も魔力を
通しやすいのが手のひらだからだ、とか色々な説明がされるが、と
りあえずそれは事実だ。
俺としては、目から魔術を出す変わった魔術師を一人、知ってい
るので、イメージ説の方を支持したい。
手から出せないわけではないのに、なぜわざわざそんな出し方を
するのかと聞いたら、かっこいいだろ、と頭のおかしい答えが返っ
てきたことを俺は忘れない。
﹁うむ、悪くないな⋮⋮しっかり魔力を動かすことが出来ている。
まだまだ、量としては多くはないが⋮⋮これだけ魔力を集められた
なら、初歩の生活魔術程度であれば発動させられるかもしれんな﹂
ロレーヌがそう言ったところで、アリゼは、
﹁くっ⋮⋮はぁ、はぁ⋮⋮﹂
と、集中力が途切れ、指先に集めていた魔力も霧散させてしまっ
た。
777
﹁大丈夫か? 今度こそ本当に厳しいと思うが⋮⋮﹂
ロレーヌが、地面に突っ伏しながら息を切らせているアリゼに心
配げにそう尋ねる。
先ほどはせいぜい、短い距離を二、三度全力で走った程度の疲労
だったが、今は街の周囲を何週もしたかのような、限界にほど近い
疲れを感じているように見えるからこその言葉だろう。
いきなり初日から無理させているような気がするが、むしろ最初
だからこそ厳しくしているのかもしれない。
こうやって、ただ魔術を学んでいるだけならこれほどまでに限界
に近付くことはないが、アリゼは冒険者になるのだ。
たとえ冒険者の中では比較的体力が少なくても務めることが出来
る魔術師とはいえ、それでも一般人に比べれば化け物に等しい体力
を持っていなければ簡単に死んでしまうものである。
こうやって学者をしながら、たまに自分の気が向いた時に依頼を
受けるような生活をしているロレーヌですら、腕相撲をすれば街の
荒くれ程度に負けることはまず、ない。
冒険者とは、かなり厳しい肉体労働者なのである。
まぁ、単純に鍛えてそこまでなれたというより、魔物を倒してそ
の力を吸収し続けた結果なのだが。
﹁だ、大丈夫です⋮⋮レントの⋮⋮レントのあれを出来るようにな
るまでは頑張るんです⋮⋮﹂
ずっとロレーヌの背後で水を出し続ける俺を鋭い眼で見ながら、
アリゼはそう言った。
見上げた根性である。
俺が彼女の立場だったら、今日のところはこの辺で、と言ってし
まうことだろう。
778
そんなアリゼにロレーヌは、
﹁⋮⋮別に構わないが、本当に無理しなくていいんだぞ? レント
は明らかに挑発しているだけだからな⋮⋮これでこいつは訓練やら
修行については鬼のように厳しい。それだけ疲れていてもアリゼは
まだ頑張れると思って煽っているんだろうが⋮⋮﹂
⋮⋮そんなつもりはないぞ?
たぶん。
人間、やればできるものだ。
アリゼはロレーヌの言葉に笑って、
﹁分かってます。私もそんなに怒っているわけでもないし⋮⋮でも、
実際、まだ頑張れるし、あれ、今日中に出来るようになるのは無理
じゃないんでしょう?﹂
﹁まぁな。レントも流石に無理難題を示したりはしない。あと少し、
と言ったところだ。それが出来たら本当に今日は終わりでいい﹂
﹁なら、やります︱︱次はどうすればいいんですか?﹂
アリゼの質問にロレーヌは、よし、と頷いて答える。
﹁次が、レントの使っているあれだ。つまり、一般的に︽魔術︾と
言われたときにイメージされるものだな。やり方にはいくつかあっ
て、詠唱、短縮詠唱、無詠唱だな。意味は分かるか?﹂
アリゼは少し首を傾げて、答える。
779
﹁意味はなんとなく分かりますけど⋮⋮﹂
正確な意味は分からない、と言う顔だ。
まぁ、当たり前である。
ロレーヌもそれは分かっていて、
﹁そうだろうな。というわけで、ここはさっきから煽り続けている
レントに責任をとって実践してもらおうじゃないか。︱︱レント、
しっかりと詠唱は覚えているよな?﹂
にやりと笑って俺の方を見て、そう要求した。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮﹂
部屋の中、真ん中に立つ俺を、アリゼとロレーヌが注目している。
もちろん、俺が初歩魔術を使うのを観察するためだ。
銅級とはいえ、ベテラン冒険者たる俺の使う、非常に滑らかかつ
自然な魔術を教材にするのは極めて正しいことだと言えるだろう。
⋮⋮不安だ。
いや、普通に魔術を使うことは出来る。
それはさっき、アリゼに見せびらかすように魔術を使い続けたこ
とからも分かるだろう。
問題は、ロレーヌの要求である。
つまりは詠唱だ。
基本的に俺はあまり呪文の詠唱をしない。
全くしないわけではないが、教科書通りというか、普通の詠唱が
うろ覚えなのである。
780
魔術は慣れれば詠唱を短くできるし、頑張れば無詠唱にも出来る。
俺は十年、二、三個だけの魔術をえんえんと毎日使い続けたから
な。
それだけなら完全無詠唱で使えるという訳だ。
そして、本来の呪文は遥か記憶のかなたに⋮⋮。
火よ、我が魔力を糧にして、ここに顕現せよ⋮⋮
それをロレーヌは知っていて、あんな言い方をしたわけで⋮⋮。
﹂
﹁⋮⋮あー⋮⋮
アリュマージュ
︽点火︾
唱え終わると、俺の指先にぽっ、と小さな火が点った。
まぁ、この結果は当たり前だ。
この魔術は十年俺の野宿を支え続けてくれた超高性能魔術の一つ
である。
簡単に使用できて当たり前なのだ。
問題は、詠唱がこれで正しいのか、である。
たぶん、合っていると思うが⋮⋮細かいところが不安だ。
火だっけ? 炎だっけ? なんかもう少し付け足しがあったよう
な気も⋮⋮顕現もなぁ⋮⋮現れよだったような気も⋮⋮うーん。
そんな気持ちが顔ならぬ雰囲気に出ていたのか、ロレーヌは特に
何も言わずに面白そうな視線で俺を見ている。
不安だ。
アリゼは感心したような顔で俺を見ていて、先達の威厳を示せた
ような気がする⋮⋮詠唱が合っていれば。
それから、酷く不安になるような微妙な時間、黙っていたロレー
ヌは、ふっ、と息を吐いて、
﹁⋮⋮意外に覚えていたな? それでいい。よくできている﹂
781
と微笑みながら言ってくれた。
それでやっと安心できた俺は、息を吐く。
﹁⋮⋮凄い不安だったよ⋮⋮まぁ、合ってたならいい。アリゼは出
来そうか?﹂
流石に挑発し続けたので、俺からの質問にもイラッとされるかな
と思ったが、アリゼは、
﹁うーん、出来るのかな? やっぱりレントは凄いなって思ったけ
ど⋮⋮﹂
そう言った。
全くわだかまりはないらしい。
俺とアリゼ、どちらが大人なのかわからない。
いや、明らかに俺の方が子供だろうな。
分かってる。
ロレーヌはそんなやり取りを聞き、アリゼにいう。
﹁出来るだろうさ。コツは⋮⋮色々あるが、これはレントに聞いた
方が良いかもな。初歩魔術については、あいつの方が達人だから﹂
魔術の練度は、その威力や滑らかさに直結する。
延々と初歩魔術ばかり使い続けた俺は、おそらく初歩魔術の技量
についてはロレーヌを上回っていると言っていいだろう。
アリゼは、俺の方を見て、何かアドバイスは、と目で聞いてきた
ので、俺は言う。
﹁一点に魔力を集めること、集めた魔力を安定して保つこと、それ
782
にどういう結果が起こるのか、明確に頭にイメージすることだな。
これは他の魔術にも共通しているから、意識しておいて損はないは
ずだぞ⋮⋮たぶん﹂
俺は初歩魔術しか使えない。
だから他の高度な魔術については実感を伴っては話せないが、そ
ういう風に言われていることは知っている。
ロレーヌも頷いて、
﹁レントの話は正しい。それを意識しながらやれば、他の魔術にも
応用できるだろう。まぁ、他にも色々とコツはあるが⋮⋮とりあえ
ずは実践してみるのが分かりやすい。まずは、詠唱を覚えて、唱え
てみよう。出来るか?﹂
そう言ったので、アリゼは頷いて立ち上がった。
783
第114話 下級吸血鬼とベテラン魔術師
﹁では、まずは魔力の集中からだ。さっきと同じように、指先に魔
力を集めなさい﹂
ロレーヌがそう言うと、アリゼは頷いて体内の魔力に意識を集中
し始める。
俺には他人の魔力の動きなんて見えないが、ロレーヌには見えて
いるはずだ。
俺は尋ねる。
﹁どうだ?﹂
﹁うむ、しっかりできているぞ⋮⋮。まぁ、さっきから気持ち悪い
くらいに速く魔力を動かしているお前と比べたらゆっくりだが⋮⋮
初日だからな。これだけ出来れば十分だろう﹂
ロレーヌはそう言って頷いた。
それから、
﹁よし、それでは、初歩魔術だ。さきほどレントが起こした現象を
思い浮かべながら、呪文を詠唱しなさい⋮⋮いいか、これだぞ﹂
そう言ってロレーヌは、いつの間にか板に書いていた呪文を持っ
ている棒で指し示し、叩く。
火よ⋮⋮我が魔力を糧に⋮⋮して、ここに⋮⋮顕現せよ⋮
アリゼは脂汗をかきつつ、頷いて口を開く。
﹁⋮⋮
784
アリュマージュ
⋮︽点火︾
!﹂
すると、魔力の蠢く気配がし、それからアリゼの指先が輝く。
俺のときには発生しなかった現象である。
あれは、魔力の変換効率が悪いために起こることで、無駄な魔力
が光に変わっているのだ。
俺は幾度となく発動させ続けたため、ほとんど魔力にロスなど発
生しないが、初めて使うとあんなものだ。
魔術に慣れると徐々に無駄はなくなっていくが、すべての魔力を
現象それ自体に変換することは魔術師の夢である。
多少のロスは必ず発生するもので、それはもう仕方がない。
それから、アリゼの指先に、ぽっ、と、俺が灯したものより二回
りほど小さな火がともった。
ゆらゆらとして不安定であり、火種にするにも心もとないような、
本当に小さな光だ。
しかし、アリゼはそれに驚いたように目を見開く。
魔術を学んで、しっかりと魔力を操れていることを自覚しながら
も、いざ、本当に魔術が発動すると信じられないらしい。
魔術師というのは、普通の人間からすればかなり特殊で珍しい存
在だ。
一撃で人を消し炭に出来る力を持ち、あらゆる物体に干渉できる
ような存在に、まさか自分がなれるとは中々思えないだろう。
なりたい、と思っていても、また、なれる、と言われても、実際
に魔術を使うとこんな反応をするものが大半なのだ。
﹁⋮⋮すごい、私にも魔術が⋮⋮あっ﹂
アリゼが感動してそう呟いた瞬間、彼女の指先に点った光はふっ
と消えた。
785
集中が途切れたからだろう。
魔力を操るのは、慣れれば無意識でも可能になるが、最初のうち
は全集中力を一点に集めないと難しい。
﹁別のことを考えたからだな。まぁ、何度も繰り返していけば、い
ずれ何も考えずに使えるようになる﹂
ロレーヌがアリゼに説明する。
﹁こんな小さな火を灯すだけでここまで大変なのに、そうなれるよ
うな気があんまりしないんですけど⋮⋮﹂
アリゼがそう言うが、ロレーヌは横に首を振った。
﹁いやいや、そんなことはない。よく考えてみろ、レントにだって
出来るんだぞ? それに、もっと慣れれば、こういうことも出来る
ようになる。
ロレーヌはそう言うと同時に、指先に火を灯し、さらに水を浮か
べ、それらを使って次々に複雑な図形を作っていく。
達人技だ。
あれだけ魔力の形を自由に操れるものは中々いない。
ただ、そこまでなら俺にもできる。
しかし、ロレーヌの魔術はそれだけにとどまらない。
火と水は徐々に大きくなり、それぞれが生き物の形を形作り始め
る。
火は鳥の形状に、水は竜を象って、空中を飛び回る。
明らかに初歩魔術ではない力だ。
初歩魔術では火も水もあそこまで大きくできないし、体から離し
て動かすことも難しいのだ。
786
これだけのコントロールが出来る時点でこれは初歩魔術ではない。
出来るなら、すでに俺はこれで遊んでいることだろう。
﹁ふわぁ﹂
と、アリゼは口を開いて唖然としている。
さらにロレーヌは、
﹁こんなことも出来る﹂
そう言って、空中に魔術によって土を生み出し、さらに、それを
ギルド
使って次々と建物の形にし始める。
最初は冒険者組合建物、次はこのロレーヌの家、その次は見たこ
とのない大きな屋敷に、最後には壮麗な城である。
いずれも色合いが異なっていて、土魔術で作り出したとは思えな
い精巧さである。
ロレーヌと俺の技量の差が悲しくなるくらいに浮き彫りになった。
そして、ロレーヌは魔術を引っ込め、
﹁どうだ、すごいだろう。レントより﹂
と胸を張った。
魔術の可能性を弟子に見せたい、という訳ではなく、俺よりも優
れた魔術師であることをアリゼに示したかったらしい。
子供か。
まぁ、俺が言えたことではないけれど。
そんなロレーヌにアリゼは、
﹁凄いです! ロレーヌ先生も、レントも! 私も二人みたいに出
来るように、頑張りたいです!﹂
787
と、手放しでほめたので、ロレーヌは少し照れたようになり、
﹁そ、そうか⋮⋮まぁ、そうだな。レントも中々やるからな⋮⋮﹂
ロレーヌも別に俺のことを馬鹿にしようと思って言ったわけでは
ないし、可愛い弟子が二人ともそろって褒めるものだから否定もし
がたいようで、そんな言い方になったようだ。
それからアリゼは改めて、
﹁はい! こんなお二人に教えてもらえるなんて⋮⋮私、これから
も頑張りますから、どうぞよろしくお願いします!﹂
そう言って頭を下げ、そこで今日の講義は終了になったのだった。
◇◆◇◆◇
﹁では、また!﹂
そう言って、アリゼが手にロレーヌの作った教科書の第一部を持
って、孤児院へと帰っていく。
俺とロレーヌは玄関先から彼女に手を振りつつ見送って、それか
ら後姿が見えなくなると、部屋に戻った。
﹁それにしても筋がいいな。これなら、このまま魔術師兼学者の道
にも本当に進めそうだ﹂
ロレーヌがソファに座り、しみじみとした様子でそう言った。
俺はそれに、
788
﹁いやいや、アリゼが成るのは冒険者だろ? 今日は魔術の修行だ
ったが、次は冒険者の修行だからな﹂
とりあえず、ロレーヌに物凄く推されている魔術師兼学者の道で
あるが、アリゼ本人は今でも冒険者になるという目標を撤回しては
いないのだ。
帰るとき、次は冒険者の方の修行をするからそのつもりでな、と
も言っておいたが、素直な笑顔で、﹁うん!﹂と言ってくれた。
彼女の将来の目標は今でも冒険者である。
冒険者だよな?
冒険者だ。
うん。
ところがロレーヌは眉を顰めて、
﹁全く、お前も頑固だな⋮⋮まぁ、仕方あるまい。今はそういうこ
とにしておいてやろう﹂
と渋々許可しているかのような声色で言う。
⋮⋮なんかおかしくないか?
そう思う。
まぁ、言っても無駄なんだろうけどさ。
﹁それで、冒険者の修行と言うが、まずは何をさせるつもりだ?﹂
冗談を言うのはとりあえずやめたロレーヌが、そう聞いてきたの
で、俺は少し考えてから答える。
﹁まずは、剣術を教えるところからかな。あとは、森や迷宮に連れ
て行って、素材やルールを教えていくことになるだろう﹂
789
すると、ロレーヌは懐かしそうな顔をして、
﹁なるほどな、私が昔、お前にしてもらったようなことをするわけ
だ⋮⋮﹂
と言い、それから閃いたように、
﹁なぁ、レント。それ、私も着いていっていいか?﹂
と尋ねてきた。
別に、それは自由である。
と言うか、ロレーヌもアリゼの師匠な訳で、魔術についても実戦
で魔物を相手にして教える必要があるだろう。
そのためには、何度か一緒に迷宮などに行き、彼女の立ち回りを
知っておく必要がある。
もちろん、いきなり魔物を倒すことなど出来るわけがないから、
俺が倒すのを観察する、もしくはかなり弱ったものに止めを刺す、
という感じになるだろうから、立ち回りと言うのは少し語弊がある
かもしれないが。
だから俺は言う。
﹁まったく構わないぞ。ただ、いいのか? 研究は⋮⋮﹂
﹁いいんだ。というか、アリゼだけではなく、私はレント、進化し
グール
し
たお前の戦闘もじっくり見ておきたいからな。以前とはおそらくか
なり変わっているはずだろう?﹂
き
実際どうなのかはやってみなければ分からないが、屍食鬼から屍
鬼になったときにも結構な変化はあった。
790
しき
グール
やはり、変化していると考えるべきではある。
そもそも屍鬼や屍食鬼のときは体が奇妙な方向にぐるんぐるん曲
げることが出来たからな。
今は⋮⋮出来なくはないが、体に肉がかなりついている分、抵抗
が強くなっている。
精神的にも肉体的にもだ。
やりすぎると怖いので、今は限界を探している状況だ。
一度、ロレーヌに客観的に観察してもらった方が、色々と分かる
かもしれない。 そう思って、俺はロレーヌに頷いたのだった。
791
第115話 下級吸血鬼と懐
アリゼに冒険者としての修行をさせる、とはいうものの、そのた
めに必要なものは色々ある。
ロレーヌの行った魔術師の修行では、とりあえず、本人の体と、
ロレーヌの知識の集大成である教科書があればそれでよかったわけ
だが、冒険者の修行にはどうしても色々な道具が必要だ。
アリゼは魔力を持っているから、その気になれば魔術だけで戦っ
てもいいが、冒険者というのはそこまで甘いものではない。
もしも魔力が枯渇したり、魔術を無効化したり弾き返したりする
魔物が出現した場合には、他の手段を持っていなければ詰む。
そのため、たとえ魔術師であってもある程度の体術と武術は身に
着けておく必要がある。
ロレーヌも魔術が使えない場合に備えて、一応の武術の心得はあ
る。
だから、アリゼにも何か身に着けさせる必要があるのだ。
それに加えて、冒険者の修行は実際に自分の目で迷宮など街の外
の魔物の出現する地域に行って、素材の在処や採取の仕方などを学
んでいく必要がある。
本で知識を得ることも大事だが、実際にやってみなければその知
識の活用方法がよくわからないまま冒険者をすることになり、結果
的にかなり非効率なことになりうる。
そう言った理由から、アリゼにはどう考えても武具が必要だった。
しかし、孤児院で生きてきた彼女に、個人的に所有しているもの
などほとんどなく、当然、武具など持っているはずがない。
俺の方で準備するしかないだろう。
そのためには金が必要だ。
もちろん、まだ駆け出し以下に過ぎないアリゼに、高価な武具は
792
必要ないだろう。
必要なくても贈ってもいいが、それこそそういう施しは受けない、
というタイプであるアリゼはやると言っても首を振るだろう。
武具を買うなら、それも含めて、俺からの借金ということにする
と言い出すだろうというのは容易に想像がつく。
だから、今の彼女に必要にして十分な性能と価格の武具を購入す
ることになるはずだ。
しかし、当然そのためには先立つものが必要で、今の俺の持ち合
わせはちょっと心もとない。
ラウラの依頼はまだ片づけていないから報酬はもらっていないし、
今まで得た報酬や素材の売却代金は、ほとんど自分の武具に費やし
てしまった。
大きめの魔法の袋を借りたのもかなり痛手だったし、その上、調
子に乗って飛空艇模型用のケースまで買ってしまったのは少し無駄
遣いだったかもと思わないでもない。
こんな状態では、当たり前だがアリゼに武具を買ってやることも、
ロレーヌに二人分の授業料を支払うことも厳しいということになっ
てしまう。
けれど、そんな俺には金策についてしっかりとしたあてがあった。
まだ、売却金額がはっきりしていない素材があるではないか。
つまりは、︽タラスク︾のことである。
ギルド
先ほど、冒険者組合から連絡が来て、タラスクのことで話がある
ということだった。
おそらくは査定と売却が終わった、ということだろう。
これで俺の懐の寒さは解消される。
そう思って、るんるん気分で俺はロレーヌに手を振り、家を出る。
793
﹁⋮⋮査定と売却が終わったという話なら、そうはっきり言うので
はないか? 話がある、というのは何かちょっと違う気がするが⋮
⋮まぁ、気を付けていって来い﹂
ギルド
と不吉なことを言われたが、まぁ、そんなのは気のせいだろう。
俺はそう思うことにして、冒険者組合に向かった。
◇◆◇◆◇
﹁あ、レントさん!﹂
ギルド
冒険者組合に入ると同時に、シェイラが受付からそう、声を上げ
た。
どうやら俺を待っていたらしく、手招きしている。
こっちに来い、ということのようだ。
いやはや、売却価格はどれくらいになったんだろうな⋮⋮。
かなりの金額になるはずだが。
そう楽しみに思って、俺はシェイラに近づく。
そして、言った。
﹁シェイラ、タラスクが売れたんだろう? どうだったんだ﹂
すると、シェイラは驚いた顔で、
﹁⋮⋮あれ? レントさん、随分と言葉が流暢に⋮⋮﹂
そう言った。
言われて、俺はシェイラにまだ進化後の姿を見せていないことを
思い出す。
794
彼女の中では、俺はまだ歩く死体だ。
俺は仮面の形を顔全体を覆うものではなく、顔の下半分を覆う形
にして、帽子を取って見せる。
すると、シェイラは目を見開いて、
﹁えっ、レントさん、もしかして⋮⋮進化、出来たんですか?﹂
進化、の言葉についてはひそひそとした小さな囁き声で言ってく
れたシェイラである。
俺はそれに頷いて答える。
レッサー・ヴァンパイア
﹁ああ。つい先日な。ロレーヌによると、下級吸血鬼の一種みたい
だ。見た目はもう、ほとんど人間と変わらないはずだ⋮⋮ちょっと
青白いけど﹂
俺の説明に、シェイラは、ははぁ、と驚きつつも、ふんふんと頷
いて、
﹁⋮⋮確かに、ちょっと顔色が悪い感じはありますけど、以前のレ
ントさんの顔と同じですね⋮⋮肌はすごい綺麗ですけど﹂
﹁それはロレーヌにも言われたな⋮⋮妙な副産物だ﹂
﹁うーん、それを見るとレントさんみたいになりたいなとちょっと
だけ、思ってしまいそうです﹂
やはり、女性にとってたまご肌は永遠の課題らしく、シェイラは
悩みつつもそう言った。
しかし俺は首を振って言う。
795
﹁やめておけ。骨から始まるんだぞ﹂
そう、俺みたいになるにはまず、そこから始めなければならない。
もしかしたら別の方法もあるかもしれないが、少なくとも俺はそ
れを知らない。
ヴァンパイア
その上で、それほどうまく動かないカタカタした体で魔物を倒し
続け、乾いた死体、肉の着いた死体、と進化した上で、吸血鬼の血
液をゲットして飲まなければならないのだ。
相当に難しいことだというのがそれだけでも分かる。
俺の場合は、単純に運がよかっただけで、実力を持ってそれを行
おうとしたら、相当な力が初めからないと厳しいだろう。
シェイラもそれはよく理解しているようで、
﹁分かってますよ。流石になれるけどどうする? と聞かれたらち
ょっと⋮⋮ってなりますから﹂
そう答えた。
それから、
﹁あ、そうだ。もうほとんど人間と変わらないということでしたら、
名前と登録についてはどうされますか? 元通り、レント・ファイ
ナとしてやっていくのか、レント・ヴィヴィエとしてやっていくの
か⋮⋮﹂
と尋ねてきた。
確かにそういう問題もあったな。
しかしこれに対する答えは、今のところ一つだ。
﹁とりあえずは、レント・ヴィヴィエでやっていくよ﹂
796
すぐにそう答えた俺に、シェイラは首を傾げて尋ねる。
﹁どうしてですか?﹂
﹁理由は簡単だ。この仮面が外れないからだよ⋮⋮。レント・ファ
イナだったら、なんで急にそんなもの付け始めてるんだって話にな
ってしまうしな。それに実力も大分上がってる。どうしてそうなっ
たんだと聞かれると⋮⋮今は色々と説明が難しい﹂
もちろん、魔物になったんだ、と言えれば一発なのだが、納得は
得られても討伐はまぬかれないだろうから、それは当然却下である。
少なくとも、はっきりと人間だ、と言えない限りは、この都市マ
ルトに置いて、レント・ファイナは名乗るのは難しいように思う。
あまりにも知り合いが多すぎるのだ。
﹁なるほど⋮⋮でしたら、これから依頼を受けられるときは、その
ように処理しておきますね⋮⋮ところで、今日お呼びした目的なの
ですが﹂
﹁あぁ、タラスクの事だろ? 高く売れたんだろうなぁ⋮⋮﹂
わくわくしながらそう言った俺に、シェイラは、
﹁え? いえ、まだ売れてませんよ。そうじゃなくて、ご相談があ
って。とりあえず、解体所の方へ﹂
ときょとんとした顔で言った。
⋮⋮俺の懐は?
そう思ったが、勝手に早とちりしたのは俺である。
特に言及することは出来ずに、
797
﹁あ、あぁ⋮⋮﹂
と頷いて、立ち上がり、歩き出したシェイラの後ろを、少しだけ
がっかりした気分でついていき始めたのだった。
798
第116話 下級吸血鬼と割り込み
﹁おぉ、来たか﹂
解体場に辿り着くと、ダリオがその入り口で俺たちを出迎えてそ
う言った。
どうやら待ちわびていたらしいことがその雰囲気で分かるが、一
体どうしたのかと疑問に思う。
シェイラの雰囲気からして、まだタラスクの素材の売却が終了し
た、という感じではなさそうなのだが⋮⋮。
﹁何かあったのか?﹂
俺がそう尋ねると、解体場の主であるダリオは、
﹁まぁ、とりあえず入れや﹂
と解体場の中を示して俺たちを促した。
特に断る理由もなく、また何か込み入った話がありそうなことは
察せられたので、素直に頷いて俺は後をついていく。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮それで、何かあったのか?﹂
俺、シェイラ、そしてダリオが解体場の中に設けられた事務所の
椅子に座ったのを確認し、俺がそう口に出すと、ダリオは悩みつつ
答える。
799
﹁あぁ⋮⋮ま、大したことじゃねぇんだが⋮⋮﹂
その話始めは大したことでないようにまるで聞こえないが、俺は
その続きを待った。
ダリオは言う。
﹁お前の持ち込んだタラスクなんだけどな、とりあえず解体も終え
て、品質を見る限り、オークションにかけるのが一番高値が付くだ
ろうと思って、提携してるオークショナーに持っていくことにした
んだが⋮⋮そこでちょっとあってな﹂
ちょっとって一体なんだ?
何か文句がついたということだろうか。
しかし、あのタラスクは、ダリオがパッと見で判断する限り、十
分な品質、いや、かなり高品質なもので、滅多にみないとまで言っ
てくれたものである。
素材が悪いという文句をつけられるような筋合いの品ではないよ
うに思うが⋮⋮。
そう考えると、ダリオもその点については、
﹁いや、品質に問題があったわけじゃねぇんだ。むしろ逆だ。品質
が良すぎてな⋮⋮オークショナーの方が、顧客に直接、持っていき
たいって言い始めたんだ﹂
そう言う話か。
まぁ、ないでもない。
オークションにやってくる者は、色々な者がいるが、その中でも
頻繁に利用し、かつ大金を常につぎ込むような人間というのは限ら
れている。
800
たとえばラトゥール家のように、権力と財力の両方を持ち合わせ
ている者だ。
そしてそういう者は、かなりの割合で、特殊な趣味を持ち、その
ためには金に糸目をつけずに物品を購入する傾向がある。
ラトゥール家の魔道具収集がそのいい見本だろう。
同様に、どんな理由かはわからないが、タラスクの素材について
は強い執着を見せるだろう顧客に、そのオークショナーは心当たり
があったのだろう。 だとすれば、それは俺にとっても悪い話ではない。
そして、ダリオにタラスクの素材の売買については全権を委任し
ている以上、高く売れるとダリオが判断するのなら自由にしてもら
って構わないはずだが、なぜ、わざわざこんな相談をしているのだ
ろう。
そう思って、俺は、 ﹁⋮⋮別に好きなように売却してくれて構わないが?﹂
そう言ったが、ダリオは難しそうな顔で首を振る。
それから、
﹁⋮⋮売るのはいいんだ。それはあんたに任されたことだからな。
それは好きにやらせてもらうさ。あんたが最大限利益を得られるよ
うに。ただ、今回のことはそうはいかねぇんだ﹂
その言い方に俺は大きく首を傾げる。
意味が分からない。
そう思ったからだ。
ダリオは続ける。
﹁⋮⋮条件が付けられたんだ。オークションで予想される売却金額、
801
その倍額で購入する代わりに、タラスクを狩って来た冒険者を紹介
するように、ってな﹂
﹁それは⋮⋮﹂
確かに、ダリオの一存では決められない話だ。
オークションというのは、良くも悪くも匿名であるのが基本だ。
売却する方も購入する方も、オークションの場において自らの身
分を晒すことは基本的にしない。
それは、非常に価値が高く、珍しい品を扱うのが常のオークショ
ンであるため、そこで購入者や売却者の身分が明らかになれば、後
々、襲われたり、脅迫されたりする危険性があるためであり、その
ためにオークショナーは細心の注意を払っているという訳だ。
もちろん、オークショナーは購入者と売却者の身分を把握してい
るが、それを外部に漏らすことはまずない。
それをしてしまえば、オークショナーとしての信頼を完全に失っ
てしまうからだ。
例外は、本人の許諾を得た場合のみである。
そして、今回は、俺の許諾が必要だ、とそういうことなのだろう。
しかし、不思議だな。
俺を紹介してほしい、というのは、つまりタラスクを狩れるよう
な冒険者を探しているという訳で、それくらいなら見つからないわ
けでもないだろう。
オークションでの推定落札価額の二倍も躊躇いなく払える財力が
あるのなら、別に普通に冒険者組合に行って金級を雇えばいいだろ
うに、わざわざ探しているのは⋮⋮理由が分からない。
そんなことを考えていると俺の雰囲気から察したのだろう。
ダリオは言う。
802
﹁⋮⋮かなり目の肥えた人らしくてな。一度、ここに来て、お前の
狩ったタラスクを見せたんだが、その品質に感動したらしい。しっ
かりと根元から首を断ち切られているタラスク、他に傷はほとんど
なく、ほとんど完璧な状態と言っていい。タラスクを狩れる冒険者
は星の数いるけれど、ここまで素材としての良さを殺さずに持って
これる冒険者はかなり少ないだろう、自分はその人物と知己を得た
い、とそう言うんだ﹂
なんだか、べた褒めである。
確かに、結果としてタラスクの素材として重要な部分をほとんど
傷つけずに手に入れることは出来たが、それは運が良かったという
部分が大きいことを俺は知っている。
しかし、その人物は、俺がこれをあえて、良質な素材を得るため
に困難な方法にチャレンジしたと捉えているように思える。
だとすれば、過大評価も甚だしいのだが⋮⋮。
そんな状態で会うのは、極めて不安である。
会った後で期待外れだ、やっぱり買うのはやめる、と言われたら
困るのだ。
出来るだけ顔も名前も実力も広めたくない俺である。
そんな、財力も権力もありそうな人物と会うからにはそれなりの
リターンがなければいやだ。
お金は大事なのだ。
なければ一欠のパンだけで数日を過ごさなければならない羽目に
なるのだ⋮⋮あぁ、駆け出しのころが懐かしい。 あの頃は、よく腹を満たすために森の山菜を一生懸命採取してい
た。
冬場は凄い辛かったなぁ⋮⋮。
﹁⋮⋮おい、急にぼんやりとしてどうした?﹂
803
ダリオが唐突に自分の世界に入った俺に、心配そうにそう尋ねて
くる。
俺ははっとして顔を上げ、答えた。
﹁いや⋮⋮ちょっと考え事をな。なぁ、その人は、俺が会ったら購
入を撤回したりはしないのか? こんなこと言いたくないが、タラ
スクをあれだけ綺麗に狩れたのはほとんど偶然だぞ?﹂
ここで嘘や見栄を張っても仕方がないので、正直に話す。
するとダリオは、
﹁別にそれくらいは俺も、向こうも分かってるよ。ただ、うまく狩
れたことは運が良かったにしても、少しも素材の品質のことを考え
なかったってわけじゃないだろう? いくらなんでもそれくらいは
分かるぞ﹂
﹁確かにそうだが⋮⋮﹂
ことさらにタラスクの鱗を傷つけたりしないで、最初から首の根
元一本を狙って攻撃していることが傷から分かることを言っている
のだろう。
そしてそれは事実だ。
ダリオは俺の答えに満足したようにうなずいて言う。
﹁たぶんだが、先方の求めているのはそういう、気遣いの出来る冒
険者だろう。金級でも、いくらそういう話をしても理解できない阿
呆は割といるからな。そういうの関係なく、見つけたらとりあえず
知己を得ておきたいんだろうさ。だから、会ったからと言って、買
わないとは言わないと思うぞ。そもそも、そこまで条件出して買わ
ないというのは、そういう権力者にとっては恥をさらすに等しいか
804
らな。他に心配がないなら、会ってみたらどうだ?﹂
805
第117話 下級吸血鬼と返答
ダリオの言葉になおも、俺は悩む。
別に、会うのがそこまで嫌だ、という訳ではない。
しかし、問題がある。今の俺は魔物なのだ。
知り合いと少し会話をするくらいならともかく、初対面の、おそ
らくは権力か財力を持った人間といきなりかなり深い話をするとい
うのは恐ろしいものがある。
正体がばれて討伐、という事態は、可能な限り避けたいに決まっ
ている。
けれど、冒険者をやっていくというのであれば、徐々にランクを
上げるにしたがって、そういうことはむしろ増えていくだろう。
ラウラの件がいい例だ。
腕を見て、それを見込んで依頼をする。
難しく、高額の依頼ほど、依頼者本人がその冒険者の目利きをし、
そして実際に会って人柄を確かめてからする、ということが増えて
いくのだ。
ただ、ラウラのときと今回のことは、俺にとっては事情が異なる。
ラウラのときは、すでに一度話して、ある程度人柄を察すること
の出来たイザークがいたが、今回は、オークショナーにしろその紹
介したい人物にしろ、どんな人柄なのかさっぱり分からないからだ。
だからこそ、怖い、という感覚がある。
そのため、可能であるならば断わりたい、と思ってしまう。
ミスリル
けれど、冒険者として上を⋮⋮神銀級を目指すのであれば、これ
を断るのは間違いなのは分かる。
ギルド
権力や財力のある者と、多く知己を得ておけば、それによってさ
れる依頼の質も変わってくるし、そういう冒険者を冒険者組合は重
806
ギルド
用し、色々な面で便宜を図ってくれるからだ。
なんだか生臭い話になるが、冒険者組合だって商売なのだ。
多くの金を運んでくる冒険者に肩入れするのはある意味当然だっ
た。
ランク制だって、腕の良さという基準に見えがちだが、本来はそ
の先︱︱腕が良ければ良いほど、稼ぐ金額が高いために優遇してい
るということに他ならないのだから。
あまりはっきり言わないのは、みんな言わずとも分かっていると
いうのと、冒険者というのは誇り高いものだ、という価値観が存在
し、それが金に群がるという感覚とは対立するものなので、大っぴ
らに言い切るのはまずい、という認識があるからだ。
腕が良くて金を稼げる冒険者の方が良い冒険者なのか、誇り高く
ギルド
て弱者の味方をする英雄的な冒険者の方が良い冒険者なのかは、ど
んな視点から評価するかによって異なるが、冒険者組合からすると
ギルド
前者、冒険者からすると後者が評価されるという所だろうか。
どちらも広い意味では冒険者組合の利益になるという意味で、い
ギルド
い冒険者だということになると思うが、どちらと言い切ってしまう
と、これもまた問題になるので冒険者組合は明言したりはしない。
たまに酒場で冒険者同士の議論の題材になるくらいの話だ。
俺がどっちを目指しているかと言えば、どちらかと言えば後者だ
ろうな。
まぁ、それで全く稼げないというのも問題だから、後者よりの中
間というのが正確なところだろうが。
そう言う視点から見ても、今回の話は悪くない。
色々な危険はありそうだが、見た目に関してはすでに俺は存在進
化済みで、よほど勘が鋭いか、特殊な技術を持った人間でない限り
は正体を判別することは裸になっても出来ないはずだ。
ヴァンパイア
もちろん、いきなり腰に手を当てて、血液の入った瓶の中身をぐ
びぐび飲み始めたら流石に子供だろうが﹁あ、吸血鬼だ!﹂と指さ
807
して言うだろうが、そこまで愚かなことは流石の俺もしない。
そこまで考えて、俺はダリオに言う。
﹁⋮⋮会ってみることにする。俺も素材が高値で売れるならその方
がいいし、金持ちの依頼人と知り合いになれるなら、悪いことは無
いからな﹂
するとダリオは明るい顔になって答える。
﹁おっ! そうか? なら先方にそう、伝えておくぜ。いや、わり
ぃな。無理言って⋮⋮せっかくいい素材持ってきてくれたのにごた
ごたしちまった﹂
その言い方からすると、ダリオとしては本来、それほど気は進ま
なかったのだろう。
まぁ、彼の職業は魔物の解体屋である。
その本質は、いい素材を正しく解体するところにある。
売却にあたって顧客をあまり煩わせるのは本意ではないのだろう。
多少の値段交渉ならともかく、今回の話は何かいつも通りの手順
に割り込まれたような感覚が強いのかもしれない。
俺にとっては悪いことではなかったから、別にそこまで気にする
ようなことでもないんだけどな。
それに、俺はダリオの顧客な訳だが、オークショナーの方だって
ダリオにとっては顧客のはずだ。
どちらにも出来る限り便宜を図るのが公平なのだろうが、ダリオ
は職人気質というか、解体それ自体の方が好きな感じがする。
いい素材を持ってくる冒険者と、それを売却する商人とを比べる
と、どちらかと言えば冒険者の方に肩入れしてしまうのだと思われ
た。
808
﹁構わないさ。嫌なら嫌っていうからな⋮⋮ただ、一応聞いておく
がそのオークショナーは信用できるのか?﹂
これが変に居丈高だったり、ごり押しをしてくるようなタイプだ
ったらやっぱりやめる、と言いたくなるからこその質問である。
これにダリオは、
﹁その辺りは問題ないはずだ。昔からの懇意にしているところだか
らな。ステノ商会ってところだが⋮⋮知ってるか?﹂
それは都市マルトにおいては上から数えた方が早い大店の名前だ
った。
オークションだけではなく、通常の店舗もいくつか持って手広く
やっているところだ。
俺も以前はステノ商会のやっている店にたまに行っていた。
こうなってからは通常店舗には中々顔を出しにくくなったので行
っていないが、たしかにそこならそれほど不安要素はない。
信用できる店である。
﹁あぁ。採取のための容器なんかを買いに行ったことがあるからな
⋮⋮分かった。それで、いつ行けばいい?﹂
﹁とりあえずお前が会ってもいいって言ったことを向こうに伝えて
からだな。日にちが決まり次第、また連絡する感じになる。たぶん、
明日か明後日になると思うが⋮⋮いいか?﹂
いきなり今日行って会う、というわけにはいかないのは理解でき
る。
俺は頷いて、
809
﹁じゃあ、頼む﹂
そう言った。
ダリオは頷き、
﹁おう⋮⋮おっと、あぶねぇ、忘れるところだった﹂
ふっと思い出したようにそう言って、どこかから書類を取り出し、
俺に見せる。
﹁これは⋮⋮あぁ、預けた他の素材についてか﹂
内容を読んで、納得する。
ダリオにはタラスクだけではなく、他の素材のうち、解体にかけ
る必要があるものを預けていたのだ。
それらの中で、オークションにかけるほどのものではないもにつ
いてはすでに売却が終わっているらしく、売却された価格がずらり
と書かれている。
見る限り、かなりいい値段で売ってくれたようで、ありがたく思
った。
﹁けっこう頑張ってくれたんじゃないか?﹂
俺がそう言うと、ダリオは、
﹁いや⋮⋮今回余計なことに煩わせちまっているからな。その分っ
てわけじゃねぇが⋮⋮それに、お前の持ってきた素材はどれも、傷
が少なくていいものが多かった。普通に売却しても高値のものが大
半だったんだ。素材の性質を良く知っているな﹂
810
と思わず褒められる。
もともと、全然稼げない銅級冒険者だったからな。
可能な限り高く素材を売却したいがため、魔物の素材の使用方法
なども勉強して、傷つけてはならない場所や、素材を採取するうえ
での理想的な倒し方などを個人的にいろいろ研究していた。
そのお陰だろう。
﹁そう言われると嬉しいな。また、品質のいい素材を持ち込めるよ
うに、頑張るよ﹂
俺はそう言うと、ダリオは、
﹁お前の素材ならいつでも歓迎だ⋮⋮で、売却価格は納得してもら
ったってことでいいか?﹂
﹁ああ﹂
俺がそう言って頷くと、ダリオは机の上に貨幣を並べて、受け取
るように言ったので、俺はそれを自分の財布⋮⋮皮袋に入れ、解体
場を後にしたのだった。
811
三才
に敏感過ぎじゃないですか?笑
第117話 下級吸血鬼と返答︵後書き︶
皆さん
812
第118話 聖女ミュリアス・ライザ
ロベリア教、という宗教団体がある。
これは、マルトの住人の感覚からすると、ヤーラン王国では目立
った存在ではないが、西方の大国において大変な権勢を誇る宗派の
一つで、一応、マルトにも教会があるが、信者の数は多くない。
マルトにあるのは、マルトにおける信者に見合った程度の小さな
教会で、しかし聖水については他の追随を許さない高品質なものが
多く売られている。
そんな宗教団体である。
この評価は、概ね間違っていない。
ただし、現実を知っているわけでもない。
確かにロベリア教の信者はヤーラン王国には多くはないが、その
組織の巨大さは、信者数が少ないことを理由にヤーラン王国におけ
る諜報活動を鈍らせたりはしない。
つまりは⋮⋮。
﹁⋮⋮都市マルト、か﹂
ひたすらに走る馬車の窓から、ちらりと覗く景色は見慣れたアル
ス聖王国のものとは異なり、どこか整えられていない野性を感じさ
せる。
これから向かうという辺境国家ヤーラン王国辺境都市マルトもま
た、そのような人々が住んで逞しく生きているのだろうか。
ヤーラン王国は初めてではないが、以前来た時に寄ったのは首都
とその周辺のいくつかの街や村だけだ。
813
ここまで中心部から外れた地方にやってくるのは初めてで、余計
に新鮮に見えるのかもしれない。
ロベリア教の聖女ミュリアス・ライザはそんなことを思いながら
その場所を目指していた。
物思いにふけりつつ、馬車の外を眺めるミュリアス、その輝かん
ばかりの銀色の髪に、水晶のような紫の瞳は、彼女のその立場に見
合った神秘性を与えている。
ロベリア教に限らず、神霊の加護を受け、聖気を操れる特異能力
者である聖者や聖女は数多く存在しており、ミュリアスもまた、そ
んな聖女の一人だ。
彼女の加護を与えた神は、ロベリア教が信仰する女神である唯一
神ロベリアであり、その力は絶大である。
この世界を創造し、ありとあらゆる存在を作り出した女神ロベリ
ア。
しかし、彼女の加護を受ける者の使うことの出来る能力は各々異
なる。
例えば、ミュリアスのそれは、治癒と浄化に大きく特化した力で
あり、その気になれば街一つを包み込める治癒の光を降らすことす
らも可能だ。
もちろん、それだけ派手なことをすれば流石のミュリアスも立ち
上がれなくなってしまうだろうが、それだけのことを出来るという
のは驚くべきことである。
しかも、これでミュリアスは未熟であるとされる。
ロベリア教の本部にいる他の聖者、聖女の中には、ミュリアスを
鼻で笑ってしまいそうになるほどの力の持ち主が何人もいるのだ。
だからこそ、ミュリアスは驕ることなく勤めを果たしてきた。
女神ロベリアのために、ロベリア教の教えによって世をあまねく
光で照らすために、ひたすらに信仰を説き、治癒の加護を与える。
814
そのためにあらゆる街々を回り、その力を振るってきた。
これから向かう、都市マルトについてもそうだ。
先日、他の宗教団体の聖女が都市マルトを訪れ、住民に治癒の加
護を振りまいたことは伝えられている。
ヤーラン王国において最も信仰されている東天教の聖女ではなか
ったようだが、むしろそのことがヤーラン王国において様々な宗教
が活動し始めていることを教えていた。
ヤーラン王国は難しい土地だと言われて久しい。
東天教という古くから存在している宗教団体が国民のほとんどに
受け入れられ、信仰されていて、今更、外国を起源とする他宗が入
り込む余地がないからだ。
それに加えて、東天教の教義は独特で、他宗と比べると信仰に対
する負担が薄く、またそれに属する僧侶たちも極めて高潔で質素な
生活を旨としているというのも地味に他宗にとっては痛かった。
なにせ、どことは言わないが、多くの宗教団体はその上層部はあ
る程度腐敗しており、信仰に当たってはまず寄進を求めることが多
く、したがって自らの宗教は素晴らしいと胸を張って宣教出来なか
ったのだ。
もちろん、そんな状況であっても、自分のところの内情は隠しつ
つ、教義を広めるべく活動する神官や僧侶たちはいたが、ヤーラン
王国の者たちはその矛盾を鋭く見抜き、指摘してきた。
結果として、どの宗教団体も、大して自らの教義を広めることが
出来ず、ヤーラン王国の東天教の独占は未だに続いている。
けれど、最近この事情も変わって来た。
世の中に魔物が増えてきているのだ。
徐々に世界を包む闇が大きくなってきており、その不安はヤーラ
ン王国も無縁ではいられなかった。
救いを求める国民の声は大きくなってきていて、分かりやすい救
815
世を叫ぶ宗教団体に人が流れ始めている。
東天教は、そういうところで自己努力をまず求める、ある意味で
極めて厳しい教えであるため、魔物の脅威を目にすると信仰に揺ら
ぎが出るらしかった。
世界は危機に陥っているが、まさにそういうときほど宗教にとっ
ては書き入れ時である。
この危機を、利用するのではなく、神が与えた試練と考えて、そ
の試練を乗り越えるためにはロベリア教を信じることこそが最も正
しい、というわけだ。
なるほど素晴らしい話である。
本気でミュリアスはそう思っているのかと聞かれると微妙なとこ
ろではあるが、ロベリア教に属する聖女としては、それを正しいも
のとして扱うのは当然の話だった。
ただ、それでもひどく面倒な気持ちもあった。
特に最近は⋮⋮。
聖女として言ってはいけないことだろうが、果たしてロベリア教
は正しいのだろうか?
唯一神ロベリアというが、自分に与えられた加護は本当にロベリ
アのものなのだろうか。
ロベリア教は、ありとあらゆるこの世に存在する加護を、ロベリ
アがその存在の形を変えて与えたものだという考えに立っている。
たとえば、他宗における風の神ヴァンスルトの加護は、ロベリア
がその形を変えてヴァンスルトの形態をとって与えたのだ、と考え
るのだ。
数百数千の顔を持つ、全てであり一つの神、ロベリア。
その加護は、加護を与えられる者の性質に合わせて、ロベリアが
その力を受け入れやすいようにして与えてくれると説明する。
816
けれど、本当はいかなる神の加護なのか⋮⋮。
神霊の加護は、その加護を与えた者がいかなる神なのか、調べる
ことは特別な場合以外には出来ない。
特別な場合というのは、神殿などで、神が直接声をかけ、加護を
与えた場合である。
その他には、何か特別な加護が得られそうな行為をした直後に、
聖気の芽生えを感じる、ということもある。
しかし、それ以外は、いつの間にか備わっていた、というのが普
通で、それが大半なのだ。
ミュリアスもその口で、ある日、怪我をした人を見たとき、なぜ
か自分には治せるような気がした。
それだけだ。
それなのに、ある日突然やってきた神官に、貴方は唯一神ロベリ
アの加護を得たのです、と言われても胡散臭いとしか思えないのが
普通のように思う。
けれど、ロベリア教の聖者や聖女は、皆、ロベリアを信じている
のだ。
それこそ、狂信、とまで行くものは少ないが、当然のものとして、
である。
自分が異端だと察するのに時間はかからなかった。
その心の内は、きっと態度にも出ているだろう。
だからこそ、最近は監視役までついている。
目の前に座っているのは、その監視役であるところの、神官ギー
リである。
鋭い目つきをしたその若い男は、むしろ暗殺者ではないかと疑い
たくなる顔つきと動きであり、その想像がそれほど間違ってなさそ
うなことは神官の癖に腰に重たい刃物をつりさげていることから察
せられる。
余計なことをしたらお前、分かっているな、と言いたげなロベリ
817
ア教本部の意志を感じてげんなりするミュリアスであった。
﹁⋮⋮今回の訪問の目的は、何だったっけ?﹂
それでも重い空気に耐え切れず、先ほどからぽつぽつ独り言のよ
うな、話しかけているような、微妙な言葉を口にしている。
さきほどは無言で流されたが、今回は答えてくれるらしい。
ギーリは言う。
﹁ロベリア教の布教のため、治癒と浄化をすること告げ、マルトの
市民を集めて説教をしていただく予定です﹂
﹁説教⋮⋮私より、貴方がやった方がいいんじゃないの?﹂
このやる気のない態度に、ギーリは首を振り、
﹁そのようなことは、街に入られてからは口にしないようにしてく
ださい。ロベリア教の聖女たるもの、信仰に対する疑念を生むよう
な言葉は差し控えるべきです⋮⋮それに、本部の意向もお考えくだ
さい。その身のために﹂
そう言った。
堅苦しい男である。
しかし、その話している態度の中に、若干の優しさが感じられた
のでミュリアスは驚いた。
﹁⋮⋮もしかして、少し心配してくれていたりとかするのかしら?﹂
﹁貴方はあまりにも発言が酷い。フォロストロアのようにされるの
ではないかと、気が気ではありません﹂
818
フォロストロアはかつて人々を苦しめる強大な竜を退治したが、
その宴の席で酔い過ぎ、王の前で王をあからさまに侮辱する発言を
してしまい処刑された愚かな英雄の事である。
よくある格言話だ。本当にいたのかどうかは分からない。
しかし、そんなものにたとえられていい気はしないが、今の状況
を考えると当たらずとも遠からずなのが何か面白かった。
﹁ふふ⋮⋮まぁ、気を付けることにするわ⋮⋮﹂
微笑みながらそう言ったミュリアスに、ギーリは重々しく頷き、
﹁そうであることを祈っております﹂
と何の感情もこもっていない声で呟いたのだった。
819
第119話 下級吸血鬼と節約
ギルド
手持無沙汰な時間が出来てしまった。
今日は冒険者組合から呼ばれたため、結構な金額の収入があると
思って、そのままの勢いで鍛冶屋や服屋や雑貨屋に行こうと思って
いたから、結構時間を空けていたのだ。
失敗したな、と思う。
ちなみに、鍛冶屋と雑貨屋は、アリゼのための武具と冒険者とし
て最低限必要な道具類を購入するためで、服屋は自分のために行こ
うと思っていた。
服はそれなりに持ってはいるのだが、当然すべて、人間レント・
ファイナだったころのもので、その背中は当たり前だが完全密閉さ
れている。
その状態で羽が飛び出すと、正直辛いのだ。
だから、特注の服を何着か購入するつもりでいたのだ。
もちろん、特別に誂えるために、通常のものよりも高価だろうが、
タラスクの報酬さえ手に入れば余裕と思っていた。
気のせいだった。
くそう。
それに加えて、俺の服はもう大体、着潰してしまっているという
グール
しき
か、収入が少なかったために切り詰める必要があり、長年あまり買
い替えずに使ってきたうえ、屍食鬼や屍鬼のときも着ていたため、
色々な汚れがついている。
血とか肉片とかそういう類の汚れだ。
毎日しっかり洗って綺麗にしてはいたが、体だけは完全に人間の
ものと変わらないものを手に入れた今、あのころ着ていたものをず
っと着ていたいとは思えない。
ちょうどいいきっかけだし、買い替えたかったのだ。
820
しかし、残念ながらそれは出来ない⋮⋮。
主に金銭的な問題で。
先ほど解体所である程度の金はもらったが、それを服につぎ込ん
でしまうと、今度はアリゼのための武具や道具が買えなくなってし
まうだろう。
ロレーヌにも授業料を払わないといけないし⋮⋮。
なんだかすごく首が回らなくなってきている気がする。
多重債務者だ。
死んでも借金に追われるような生活を送らなければならない俺は、
一体前世、どれだけの業を背負ったのだろうか。
もっとちゃんと生きろよ、前世の俺、と思わずにはいられなかっ
た。
まぁ、しかし仕方がないものは仕方がない。
あぁ、お金がない、お金がないだけ言っているのではなく、しっ
かりとこれからのためにお金を稼いだり切り詰めたりする計画を立
てよう。
明日明後日になればタラスクを売り払えてどーんとお金が入って
くるわけだし、そうなればうはうはである。
それまで、爪の火を灯すように生きれば⋮⋮。
いや、ダメだ。
そんな考えだからこんなことになっているのだ。
と、俺は首を振る。
明日入る大金に頼るような生活をしていたら、いつまでもお金が
たまらないだろう。
レント、お前はもともとしっかりと貯金して魔法の袋を買えるく
らいの甲斐性がある男だ。
貯めようと思えば貯めれる人間なのだ。
そのための方法を、お前は今、何か思いつかないのか?
821
そう、自問する⋮⋮すると、俺は、はっとした。
節約⋮⋮節約か。
最も冒険者らしい節約術とは何だ。
それは、武具を作るとき、その素材を自らの手でもってくること
である。
と、そう思って。
もちろん、今の俺自身が使う武具は、この体の特殊性の関係で、
材料を一部とはいえ、自らとってくることは難しい。
魔力、気、聖気、に耐えられる剣を作るための素材など、かなり
希少なものを使わなければ厳しいだろう。
それに加えて、そんな特殊な武具の製法は教えてはくれることな
どないから、何を持っていけばいいのかもわからないのだ。
だから、俺の武具について、そういうことをするのは難しかった。
けれど、アリゼの武具は⋮⋮。
いずれ強力なものや、自分に合った品がほしくなることもあるだ
ろうとはいえ、少なくとも最初に持つ武具については特殊なものは
必要ない。
これは、アリゼがまだ大した腕を持っていないから、というのも
あるが、一番初めに持つ武具は、癖のないスタンダードなものがい
い、といわれているからだ。
なぜかというと、最初から特殊な作りの品を持ってしまうと、戦
い方が偏って、応用力の弱い冒険者になってしまう可能性が高いか
らだ。
冒険者として、それは致命的、とまでは言わないまでも、いざと
いうときにその差が出る可能性はある。
そういう隙は、アリゼのために塞いでおいてやりたかった。
822
だからこそ、アリゼの武具の素材を俺の手で採取しに行こうと思
う。
幸い、時間はある。
今日の午後いっぱい、すべて使って︽新月の迷宮︾を探索しよう。
まぁ、帰宅するのが朝方になるかもしれないが、それはロレーヌ
に伝えてから行けばいいだろう。
なにせ、今の俺に睡眠は必要ない。
徹夜だろうがなんだろうが、体力が尽きるまで動き続けられるの
だ。
そしてその体力は、ほとんど無尽蔵に近いことを俺は今までの生
アンデッド
活で知っている。
不死者の特性なんだろうな。
まぁ、精神的な疲労はたまるので、疲れた、というのはそういう
意味合いになる。
とりあえずは、家に戻ってロレーヌと相談しよう。
◇◆◇◆◇
﹁アリゼのための武具か。まぁ、用意してやらなければならないが、
わざわざ素材集めまですることはないんじゃないか?﹂
帰宅すると同時に思い付きを話すと、ロレーヌはとりあえずそう
言った。
とはいっても、反対、というわけではなく、思ったことを言った
だけのようだ。
まぁ、その反応は理解できる。
初心者の装備など、基本的に鍛冶屋なりなんなりに任せていれば
それでいいものだからだ。
しかしだ。
823
﹁⋮⋮今の俺には金がないんだ。少しでも節約するために、素材を
集めて来ようと思って⋮⋮﹂
そう言うと、ロレーヌは、
﹁そういう理由か。それなら分かるな。やはり、タラスクの素材の
売却はまだだったんだろう?﹂
そう、俺に尋ねる。
朝の時点で、ロレーヌはきっとそうだろうと予測している節があ
った。
実際、彼女の想像の通りで、若干悔しいよううな気もするが、そ
れでも俺は正直に言う。
﹁あぁ。というか、なんだかややこしい感じになっているみたいで
な⋮⋮﹂
﹁ん? どういうことだ﹂
詳しい事情までは流石に予想していなかったようで、ロレーヌが
首を傾げてそう尋ねてきたので、解体所であったことをすべて話す
と、ロレーヌは難しい顔で、
﹁また、おかしなことに首を突っ込んでるな、お前は⋮⋮﹂
と呆れたように言う。
﹁そう言われても仕方ないだろう? そもそも、オークショナーの
方の言い出したことだし、ほっといても売れるわけじゃないし⋮⋮
店も大きいから出来るだけ意向に沿った方が今後いろいろうまくや
824
っていきやすいだろう?﹂
﹁まぁ、確かにそういうメリットもあるだろうし、決して小さくは
ないが⋮⋮お前の正体がばれる可能性を考えるとな。デメリットが
大きく見えすぎて何とも言えん﹂
確かにそれはその通りなので反論できない。
しかし、この街で生活していく以上、いずれその問題にはぶつか
る。
それを考えると、この辺りで少しだけ大胆な行動に出てもいいよ
うな気がしてしまったのだ。
そのことをロレーヌに言うと、
﹁まぁ、分からないでもないが⋮⋮そうだな。私としてはやめてお
いた方がいいように思うが、いずれ、というのは確かにある。そこ
でばれるようなら、そのうち誰かにばれるだろうとも思う。そう考
えると⋮⋮決して悪い選択肢ではないのかもしれん﹂
と、一応の納得を示してくれた。
しかし、とロレーヌは釘を刺す。
ヴァンパイア
﹁何か危険を感じたら、さっさと逃げることだ。考えたくはないこ
とだが、吸血鬼は下級のものであっても価値は高いからな。捕獲し
ようとする人間もいないとは限らんぞ。オークションでものを売る
つもりだったお前が、気づいたら商品になっていたなど笑い話にも
ならん。いざというときは、私が伝手をたどってマルトや、ヤーラ
ンから外へ逃がすことも出来る。だから、気を引き締めていけ﹂
そんな風に言って。
俺はロレーヌの言葉に深く頷き、
825
﹁分かった﹂
と言った。
それからふと気になって、
ヴァンパイア
﹁⋮⋮吸血鬼ってどれくらいで売れると思う?﹂
と尋ねる。
ロレーヌは危機感の薄い俺の言葉に呆れた表情になりつつも、少
し真面目に考えてから答えた。
﹁⋮⋮白金貨が舞うんじゃないか? まぁ、とてもではないが一般
人には払える額ではないだろうな⋮⋮﹂
826
第120話 下級吸血鬼と慣習
﹁お前、まさか身売りするつもりじゃないだろうな?﹂
ロレーヌにじとっとした目で見られたので、俺は首を振る。
﹁馬鹿な事言うなよ。そんなことするわけがないだろう﹂
しかしロレーヌもさるもので、
﹁いや、別にお前が自分自身について売り物にする、とは思ってい
ない。そうではなく、たとえば、血液や肉片なんかを売ろうとする
可能性はあるかと思ったんだが⋮⋮﹂
ぎくり、としなかったわけではない。
ヴァンパイア
ちょっとだけ、本当にちょっとだけそんなことも考えたからだ。
なにせ、貴族などにとって、吸血鬼の血液などは不老不死の霊薬
のような扱いを受けているものである。
本当にその効果があるかどうかは別として、オークションに持ち
ヴァンパイア
込めばそれなりの金額で引き取ってくれるのではないか、と考えた。
オークショナーはそれが確かに魔物の、そして吸血鬼の血液かど
うか、調べる手段は持っているだろうしな。
金さえ積めば王都の魔物研究所などに送って真贋を確かめること
は出来るのだ。
だからこそ、手っ取り早い金稼ぎになりそうな気はする。
ヴァンパイア
アンデッド
しかし、俺も流石に全くの考えなしという訳ではない。
吸血鬼の血液は確かに、飲んで耐えれば不死者になれる可能性の
827
ヴァンパイア
ヴァンパイア
ある霊薬なのかもしれないが、本来、吸血鬼の血液というのは、そ
の吸血鬼の下僕を増やすための手段である。
つまり、俺の血を誰かが飲んだなら、その誰かはもれなく俺の下
プチ・スリ
僕になってしまうのではないか?
まるで、小鼠のエーデルのように。
⋮⋮エーデルのように?
それは困る⋮⋮と若干思わなくもないが、それは置いておいて、
ヴァンパイア
ともかくいきなり下僕が増えるというのは⋮⋮。
考えようによっては、吸血鬼の血液などという高価な品を買い求
められる財力なり権力なりがある人物を下僕にするのはちょっとお
得なような気もするが、いきなり知らない奴に傅かれて、よしよし
俺のために働くのだぞ、と言えるような精神構造を俺はしていない。
やっぱり無理だ、というのが俺の感覚であった。
とりあえず、その辺りの葛藤についてはロレーヌには語らずに、
何事もなかったかのように首を横に振り、答える。
﹁いいや? そんなつもりなんかないさ。ただ、どれだけ危険なの
か、分かりやすい指標を聞けば感じとりやすいかと思ってな⋮⋮﹂
実際、白金貨が躍るような状態になりうることを考えると、恐ろ
しいことこの上ない。
絶対に捕まってはならないなと心底思う。
レッサー・ヴァンパイア
まぁ、ロレーヌの言う金額は、俺がかなり特殊な存在であること
も考慮しての言葉で、通常の下級吸血鬼であったらもっと常識的な
金額だろう。
珍しいとはいえ、たまに出現する魔物だからな⋮⋮。
ヴァンパイア
まぁ、その性質上、非常に捕獲しにくいのは事実だが。
ヴァンパイア
大抵の吸血鬼は︽群れ︾と呼ばれる一種の集団に属しており、そ
の中の最上位の吸血鬼に支配されているものである。
828
ミドル・ヴァンパイア
しき
レッサー・ヴァンパイア
多くは中級吸血鬼が盟主として君臨する群れに数体の下級吸血鬼
レッサー・ヴァンパイア
がおり、さらにその下に屍鬼や使役された人間がいる、ということ
ミドル・ヴァンパイア
が普通なわけだが、この場合、たとえ一匹の下級吸血鬼を捕獲した
としても、盟主たる中級吸血鬼によってその血を暴走させられ、爆
ミドル・ヴァンパイア
散してしまうのである。
血に込められた中級吸血鬼の力を奪われた結果、人の形に押し込
めるには分不相応な力が行き場をなくし、そのような事態に陥ると
レッサー・ヴァンパイア
言われているが、本当は理由については正確なところは分かってい
ない。
ともかく、重要なのは、捕まえても下級吸血鬼は捕まえられたそ
ヴァンパイア
の時点で、もしくは捕まえられてしばらくすれば死んでしまうとい
うことだ。
ヴァンパイア
力を上位の吸血鬼に奪われるので、その飛び散った肉片やら血液
やらにも吸血鬼としての力はなくなってしまう。
つまり、素材としての価値も、その時点でゼロになるわけだ。
捕獲しにくい理由がよくわかる。
より正確にいうなら、捕獲しても意味がない理由か。
ヴァンパイア
レッサー・ヴァンパイア
その点、俺なら、捕まえても上位の吸血鬼などいないので、そう
いうことは起こりえない。
結果として素材としての意味を果たせるうえ、下級吸血鬼として
レッサー・ヴァンパイア
もかなり珍しい存在なので、高値がつくだろう、というわけだ。
俺のような特殊な存在でなく、捕獲できる下級吸血鬼は少なく、
迷宮で生まれたばかりの個体に限られるだろう。
それ以外は、大半が盟主を持ったものばかりである。
俺の希少さがよくわかる。捕まる。怖い。
ヴァンパイア
レッサー
世の中で流通する吸血鬼の素材は、盟主それ自身のものか、盟主
・ヴァンパイア
が何らかの理由で力を奪うことなく存在し続けることの出来た下級
吸血鬼のものなのであった。
829
俺がラトゥール家でもらったものは、一体どちらなのかは分から
ないが、特にあれから何かに支配されている、とも感じられない以
上は後者だったのだと考えるべきだろう。
あまり距離が離れすぎたり、力が拮抗したりしていると支配の力
もあまり働かないらしいが、ああやって流通している以上は、その
辺りの心配は払しょくされているはずだ。
ラウラにしたって危ないなら危ないと言うだろうし。
まぁ、もしものときはもしものときでもある。
あのとき、飲まないと進化出来ないという感じがしたから飲んだ
わけで、結局それ以外に選択肢がなかったのだし、後悔しても仕方
がない話だ。
﹁⋮⋮ま、そういうことならいいだろう。ともかく、気を付けるこ
とだ⋮⋮あぁ、あと、素材を取りに行くならついでに私の分も頼み
たい。授業料から依頼料引いておくから﹂
そう言ってロレーヌが依頼してきたのは、、いくつかの魔石と素
材である。
内容を聞けば、その目的は明白であった。
﹁⋮⋮ロレーヌもアリゼに何か贈るつもりか?﹂
﹁あぁ。魔術師として教え込むのだから、魔術媒体の一つや二つ、
必要だろう。まぁ、そもそも魔術媒体の作り方から教えるつもりだ
から、そのための教材でもあるのだが﹂
﹁⋮⋮だから同じ素材をいくつも言ったのか⋮⋮﹂
微妙に俺の予測とはずれていた。
魔術は特に魔術媒体がなくとも使えるものだが、あれば発動が楽
830
になったり威力を強化したりすることが出来る。
また、特殊な系統の魔術では魔術媒体が必須の場合もあり、そう
いうときは魔術媒体を自作する必要もある。
だからこそ、魔術師は基本的な錬金術の知識は身に着け、実践し
ているもので、ロレーヌはアリゼにもそれを教えるつもりなのだろ
う。
もちろん、俺にも。
素材の数は三人分だ。
予想するまでもなくはっきりとしている。
﹁ま、そういうことだな。はじめて持つ武具は、特別なものだろう。
自分で作らせてみるのもいいかと思ってな﹂
その言い方からして、最初の魔術媒体を作らせるのは、魔術師か
らすると一般的ではないのかもしれない。
魔術媒体の製作にはそれなりの手間と技術が必要で、それほど強
力なものではなくとも、そう簡単なものでもないからな。
ただ、それでも作らせようとするのは、魔術師の修行を楽しんで
もらおうとする親心ならぬ師匠心だろう。
そして俺にもそれはある。
ロレーヌは続けてそれを指摘した。
﹁お前だって、わざわざ武具の素材を集めるのは節約のためだとい
うが、それだけではないだろう。稼ぐだけならそれこそ血でも売る
なりなんなりすればいいのだからな。そうではなく、その手で集め
た素材から作った武具を贈りたいのだろう。二人そろって、同じこ
とをやろうとしているわけだ。全くおかしいな﹂
おかしいのだろうか?
いや、そうではないだろう。
831
俺はロレーヌに言う。
﹁それくらい師匠として当然のことだろう? ずっと昔は、弟子の
はじめての武具は師匠が贈るものと相場が決まっていたと言うしな﹂
今は、親から与えられるか、自分でそろえる、ということが多い
と言う。
個人に弟子入り、ということが少なくなってきているし、したと
しても裕福な者がすることが多いからだ。
ロレーヌも其れには頷いたが、
﹁古い慣習だ。今はあまりそういうことをするものはいないが⋮⋮
ま、私たちがやってもいいだろうな﹂
そう言って笑ったのだった。
832
第121話 下級吸血鬼と眷属の進化
スケルトン
オーク
そんなわけで、︽新月の迷宮︾に到着である。
骨人やスライムが出現するのが第一階層、豚鬼が出現するのが第
二階層と呼ばれる区画であり、その最深部はこの基準で言うと一体、
第何階層まであるのか分かっていないが、とにかく深い迷宮である
のは間違いない。
︽水月︾の迷宮なんて、同じ基準で判断するとほぼ一階層で終わ
りだからな⋮⋮まぁ、あの転移してしかたどり着けないところを入
れるとまたややこしい話になってくるが、一般的に知られている区
いずこ
画だけを言うならそういうことになる。
﹁⋮⋮俺の出番は何処に﹂
そんな︽新月の迷宮︾の第一階層を、︽アカシアの地図︾を埋め
るために若干遠回りしながら歩いている俺であったが、今のところ
非常に楽をしている。
いくら第一階層とはいえ、普通に魔物は出現するし、暴れまわっ
て確実にこの階層の魔物には勝てないと言う印象をつけさせたなら
ともかく、普通に歩いているだけの冒険者であれば、たとえどれだ
けの実力を持っているとしても襲われないということはない。
にもかかわらず、俺は非常に楽をしている。
その理由は、目の前でゴブリンとスライムと戦っているエーデル
にあった。
今日はしっかりと迷宮探索をするつもりで、かつ細かい素材なら
エーデルの方が見つけるのがうまいかもしれないと思って連れてき
たのだが、予想外に彼は今、働いている。
別に戦力としてはさほどあてにはしていなかった。
833
プチ・スリ
なにせ、元々、若干サイズが大きめだったとは言え、小鼠に過ぎ
ないのである。
その戦闘能力は、ゴブリンやスライムにすら劣る、それどころか
十歳前後の子供ですら武器さえ持っていれば倒すことも不可能では
ない最弱クラスの魔物である。
タラスクとの戦いで、中々の力を示してくれてはいたものの、あ
れは俺の力を奪い取り、無理やり強化してどうにかしたという感じ
だろうと思っていた。
つまり、俺が魔力なりなんなりを、エーデルに譲渡しないとそれ
ほどの実力は発揮できないだろうと。
けれど、現実は違った。
今、俺はエーデルに譲渡する力を絞っている。
この間は無理に吸収されたが意識すればそれくらいは出来ること
はあの後、気づいたのだ。
しかしそれにもかかわらず、エーデルは問題なくゴブリンとスラ
イムを相手にしていた。
小さな体⋮⋮というほど小さくもない、ちょうどゴブリンの頭く
らいの大きさのエーデルは、縦横無尽に周囲をかけ、壁を上り、ま
た体当たりをかまして翻弄している。
スライムも、銅級冒険者だった俺が気を込めた会心の一撃を放た
なければ霧散させることが出来なかったくらいに厄介な魔物のはず
なのに、エーデルの回転しながらの体当たりによって、粉々に散っ
て、破片たちは合体できずに動かなくなっていく。
﹁ぎぎっ!﹂
とゴブリンはその体当たりの破壊力を見て唖然とするも、すでに
目の前まで迫ってきていたエーデルの攻撃を避けられるわけでもな
い。
834
グルグルともの凄い速度で回転しながら向かってくるエーデルの
前に、その頭部は破裂するように破壊されてしまった。
実にグロい光景であった。
◇◆◇◆◇
リンピオ
﹁⋮⋮洗浄﹂
俺がそう唱えながらエーデルに向かって手を掲げると、ふわりと
した光がエーデルを包み、そして一瞬のあと、そこには真っ黒な⋮
⋮というと語弊があるが、綺麗になったエーデルがそこにいた。
先ほどまではゴブリンの血と肉、それからスライムのどろどろし
た体液で触りたくもない状態だったからな。
綺麗にするのは急務だったという訳だ。
しかし、今綺麗にしてしまっても意味がないかもしれないと言う
気はしなくもない。
なにせ、ここに至るまでに何体かの魔物に遭遇しているし、これ
からも魔物に遭遇するのは間違いなく、また汚れることは目に見え
ているからだ。
もちろん、俺も多少の血痕やら肉片やらならそこまで気にはしな
い。
俺だって剣を振るったり解体したりすればそれなりに汚れるから
な。
しかしエーデルの場合はまた、それとは異なる。
彼の攻撃方法は、体を回転させながら突っ込み、相手をミンチに
するというものだからだ。
そんなことをすれば当然、エーデルの体中にそんな汚れが付着し
て当然で、これからも同様のことになるもまた簡単に想像がつく。
そうなるごとに毎回、洗浄の魔術をかけてもいいが、これは俺も
最近覚えた生活魔術なのである。
835
攻撃魔術ならともかく、生活魔術であれば理屈は知っているので、
呪文と構成さえ聞けば使えるようになるため、ロレーヌに便利なも
のをアリゼより一足先にいくつか学んでいたのだ。
ただ、覚えてから日が浅いため、使い慣れておらず、まだ魔術自
体に無駄が多い状態だ。
正直、毎回使うくらいなら俺が自分で戦った方が消費が少ないか
もしれないくらいである。
もう少し慣れれば使う魔力量も減っていくだろうが、今日明日で
どうにかできることでもなく、そうなると⋮⋮。
﹁エーデル、他に攻撃方法ないのか?﹂
何も解決方法が思いつかず、俺はエーデルに直接聞いてみること
にした。
自分で戦う、が一番なのだろうが、今後のことを考えるとエーデ
ルの戦い方もよく観察しておきたい。
あとで連携の練習なんかも出来るならしておきたいし、そうなる
とこの辺りのそれほど強くない魔物でエーデルがどう戦うのか、自
分がその戦いに加勢するならどういう立ち回りがいいのか、考える
時間が欲しかった。
エーデルは俺の言葉に、少し考えるような表情をし、それから、
飛び上がって、未だ地面に転がるゴブリンの死体目がけて何かを放
った。
すると次の瞬間、ゴブリンの体に大きな切り傷が刻まれる。
﹁⋮⋮これは、魔術か﹂
尋ねると、肯定を意味する思念がエーデルから返ってくる。
俺よりも先に魔術を使いやがって腹が立つ、少しは主を立てろ、
と思わなくもないが、そもそも魔物の使う魔術と人の作り上げた魔
836
術とは少し異なっている。
どちらとも、魔力を使って何らかの現象を起こす、という広義の
意味では同じものだが、人は魔術の仕組みを理解し、構成をくみ上
げ、呪文を唱えてやっと使えるのが基本である。
魔物の場合は、効力の程はともかく、魔力を直感的に現象そのも
ヴァンパイア
のへと置き換えることが出来るものが少なくないのだ。
人に近い魔物︱︱ゴブリンや、それこそ吸血鬼などは、人の魔術
に近いものを扱うが、やはり魔物として、魔力を直感的に扱うすべ
も持っている。
ゴブリンであれば、人よりも一回り小さいにも関わらず、成人男
ヴァンパイア
性と互角以上に戦えるのは人の身体強化に近い魔術を本能的に発動
させているからであり、吸血鬼が抵抗力の弱い人間をその瞳を見つ
めるだけで自らの信奉者に仕立て上げることが出来るのは魅了の魔
術を魔物として備えているからに他ならない。
つまりはエーデルも、そのような魔力の扱いが出来るようになっ
プチ・スリ
た、ということなのかもしれない。
プチ・スリ
フゥ・スリ
通常の小鼠は、ゴブリンのような微弱な身体強化程度ぐらいしか
出来ないが、属性を帯びた小鼠たち、火鼠などが、誰に魔術を教え
られたわけでなくとも、その身から小さいながらも火を放てるのは、
魔力をそのように扱える本能があるからに他ならない。
フゥ・スリ
ブレス
とは言え、こういった魔物が本来的に備えている魔術は、どれも
ヴァンパイア
大した効力のないものだ。
吸血鬼の魅了の瞳や、火鼠の小火球、竜の吐息などは、その瞳や
喉などがそもそも特殊な器官であり、それがために強力な力を放つ
ことが出来るだけで、普通に魔術を使うのであれば、構成や詠唱を
しっかりと伴った、体系的な魔術の方が効率がいい。
プチ・スリ
つまり、エーデルの場合、いくら魔力を扱えるようになったとは
レッサー・ヴァンパイア
いえ、特別な器官を備えているわけではない小鼠に過ぎないのだか
らそんなことは出来ないはずだが⋮⋮実は、俺が下級吸血鬼になっ
837
た影響で、いくつか変わったところが出てきているのだ。
その影響かも知れないという気はする。
838
第122話 下級吸血鬼と兵士
エーデルの変化したところ、それは俺に似ている。
つまり、今のエーデルには羽らしきものがあるのだ。
と言っても、俺のように背中から伸びるように出ているという訳
ではなく、ムササビのように、脇の下から後ろ足の先までにかけて、
皮が伸びて被膜になっているような感じである。
それで飛べるかどうかも試してもらったのだが、俺とは異なり、
かなり楽そうに飛べるようだった。
構造上おかしいとしか言えないのだが、その状態で滑空だけでな
く、空中で静止することも可能にしている。
浮遊とかっ飛びと松明代わりにしか使えない俺の羽と比べて、明
らかに性能が上である。
なんで主の方が低性能で眷属の方が高性能なのかと各方面を小一
時間ほど問い詰めたい気分だ。
神とか。
俺の信仰心は薄いのだ。
それでも聖気が失われないのはなぜなんだろうな、とたまに思う
が、俺に加護をくれている神霊はそういうものを求めていないのか
もしれない。
確認できない以上、よくわからないが。
とは言え、エーデルがなぜ、そこまで自由自在に空を駆けまわれ
るだけの性能を手に入れたのかは、なんとなく想像がついている。
単純に、俺とエーデルとでは体重が違うのだ。
消極的とはいえ、俺の許可を得さえすれば魔力も気も聖気も俺と
同量使うことが出来るエーデルである。
839
おそらくは大体俺の六分の一以下の体重しかないエーデルは、俺
よりも遥かに浮遊がしやすいはずだ。
だから力の消費を気にしなければ好きにびゅんびゅん飛び回れる
わけである。
うらやましい。
今は力の消費を俺の方で絞っているからその挙動はあまり空中で
は披露されなかったが、何割か増やせば空中も飛び始めることだろ
う。
誰にも教えられていないのに、どんどん強くなっているエーデル。
俺よりもよほど伸び幅が大きい。酷い話だ。
そんなエーデルが先ほど魔術を使ったのである。
これ以上強くなられると俺の見せ場がなくなってしまうが、助か
るのも間違いないので文句も言えない。
オ
とりあえず、どれくらいの攻撃力があり、消費はどのくらいで、
また応用の幅や、他に使える魔術がないかを試すことにした。
﹁⋮⋮ゴブリンかスライムを探すか⋮⋮﹂
ーク
実験相手に、という意味合いでの言葉だったが、エーデルは、豚
オーク
鬼にしてくれ、と意思を伝えてくる。
豚鬼はあれで結構強いし、今、ゴブリンとスライムを相手に見た
限りの動きでは、まだエーデルには厳しいような気がしたので、
﹁いや、流石にな⋮⋮﹂
と言うも、エーデルは、危なくなったらお前が助けろ、と思念を
飛ばしてくる。
⋮⋮本当にどっちが主なんだ。
そう思うが、まぁ⋮⋮別に無理な相談という訳でもない。
840
いくら強くなった、と言っても、魔術が使えるようになっている
とはいっても、まだまだ俺の方が強いのも間違いない。
頼られているうちが華なのかもな⋮⋮とよく分からない気持ちに
なり、
オーク
﹁⋮⋮分かったよ。じゃ、豚鬼な﹂
そう頭の上に乗っかったエーデルに言い、次の階層への階段を探
して歩き出した。
◇◆◇◆◇
遠くに落ちていく日が見える。
朱色に染まった夕日は、世界全体を赤く染めて、もうすぐ闇の世
界が訪れることを教えていた。
それは別に不思議な光景ではなく、毎日繰り返されるありふれた
ものである。
まぁ、ここが迷宮の中ではなかったら、という但し書きがつく話
でもあるが。
﹁なんだか変な感じがするな⋮⋮﹂
ここは︽新月の迷宮︾の二階層である。
時間帯は、まだ夕方、というほどではない。
おそらく、迷宮の外では未だ燦燦と太陽が世界を照らしているこ
とだろう。
つまり、ここと外とは、時間帯が全く同様という訳ではない、と
いうことだ。
話には一応聞いていたが、実際に時間帯がずれている光景を見る
のは初めてである。
841
この間は、同じ時間帯だったからな⋮⋮。
つまり、ここは、ここが昼で、外は夜、とか外は夜だがここは朝、
とか、そういうことは普通に起こりうるところなのだ。
まぁ、明るい時間帯ならともかく、やってきてみればひどく暗い、
となると冒険者としては非常に困るわけだが、その辺りは各々色々
な方法でもって解決している。
それなりの腕を持つ魔術師がいるなら、暗視の魔術を使わせたり
するのだ。
ただ、大抵の冒険者は諦める。
今日のところは運が悪かったな、ということで夜だと明らかにな
った時点で帰るわけだ。
そう言う意味では、今日はついていたということになるだろう。
夕方であれば夜とは違って十分に見えるし戦えるのだから。
オーク
まぁ、しかし仮に太陽が落ちていたとしても、俺の目は特殊だ。
夜でも普通の人間よりも遥かに良く見えるし、豚鬼はむしろ人間
寄りの視覚をしている魔物なので、そちらの方が実は戦いやすかっ
たりする。
エーデルはどうだろうな。
オーク
オーク
オーク
仮にも俺の眷属であるわけだから、目は夜目の方が効くかもしれ
ない。
﹁⋮⋮豚鬼、豚鬼⋮⋮豚鬼はどこだ﹂
呪文のように唱えながら、迷宮第二階層を歩く。
周囲は森か平原という感じの、自然あふれる空間で、どこまで続
いているのかもわからないくらいに広いので、見つかるときは見つ
ノーマル・オーク
かるが、見つからないときはさっぱり見つからないことも普通だと
オーク
聞く。
豚鬼は人に比べるとあれだが、通常豚鬼であっても数匹で集団を
作るくらいの知能はあるし、一匹さえ見つければ芋づる式に数体探
842
すことも容易だ。
反対に、一匹に見つかれば数体を相手しなければならない状況に
追い込まれることもあるため、その辺りは慎重になるべき相手だが、
オーク
今の俺にとってはむしろそれは望ましい事態である。
上位の豚鬼が現れたら困るが、ここはまだ二階層に過ぎない。
モンスター
そうそう出現することもないだろう。
はぐれ魔物なり、特殊個体なりが出現する可能性はなくはないが、
見つけ次第逃走することは心に決めていたりする。
最近、色々順調だから忘れがちだが、俺がこうなった原因はまさ
にはぐれとか特殊とかそういうべき、︽龍︾に出遭ってしまったか
らであり、そういう例外的な存在はよくよく注意しなければならな
いのだと骨の髄まで染みて分かっている。
どうしても戦わなければならないような状況だったり、十分に勝
オーク
算があると判断できない限りは、逃げるが勝ちなのであった。
オーク
﹁⋮⋮豚鬼、豚鬼⋮⋮ん? あれ?﹂
ふと、不思議な感覚に襲われた俺は首を傾げる。
何か違和感を感じたのだ。
一体なんだろう⋮⋮と思って少し考えてみると、妙に頭が軽いこ
とに気づく。
それで頭の方に手をやって、あぁ、と思った。
そこに先ほどまでいたはずのものがいない。
つまり、エーデルがいないのだ。
一体どこに行った⋮⋮と考え、感覚を研ぎ澄ませて場所を探る。
エーデルとはつながっているがゆえに、少し集中すればどこにい
るのかたちどころに分かるのである。
すると、森の方に入った辺りに気配があることが分かる。
俺は呆れながらそちらに近づいていく。
843
﹁⋮⋮エーデル、勝手に離れるようなことは⋮⋮﹂
そう言いながら。
しかし、がさり、と森の草葉をかき分けると、そこには、
﹁⋮⋮ぶしゅるるるるる!!﹂
﹁ぐぶぶっ! ぶるるるる!!﹂
﹁ぎぎぶっ! ぶぶぶぶっ!!﹂
オーク
と、とてもではないが俺には意味の聞き取れない鳴き声で会話す
オーク
る、三匹の豚鬼が武器を持ちながらエーデルを囲んでいた。
ピ、ピンチじゃん、エーデル⋮⋮。
と、主らしく察した俺は助けに入ろうと思ったが、豚鬼たちの持
つ武器と、体を覆う鎧の材質を見てぴきり、と時間が止まった。
ノーマル・オーク
どれも金属製である。
オーク・ソルジャー
まずい、通常豚鬼じゃない。
あれは、豚鬼兵士だ、と。
844
オーク
第123話 下級吸血鬼と豚鬼兵士
オーク・ソルジャー
ノーマル・オーク
豚鬼兵士、それは豚鬼の上位個体であり、通常豚鬼よりも一回り
オーク
オーク・キング オーク・ジェネラル
大きな体と、金属製の武具を持っていることがその基本的な特徴と
する魔物の一種である。
金属製の武具を持っている豚鬼は他に、豚鬼王や豚鬼将軍なども
オーク
いるのだが、そう言った個体は迷宮の低階層にはまず出現しない上、
持っている武具の質が違う。
エーデルの周囲を囲んでいる豚鬼たちの武具は、確かに金属製の
ミスリル
ものではあるが、青銅のものや鉄製のものが入り混じった雑多な品
オーク・ジェネラル
で、作りもそれほど複雑なものではない。
それに比べ、豚鬼将軍などは場合によっては神銀製の武具を持っ
プラチナ
ていることもあるというのだから、恐ろしい。
オーク
それこそ、冒険者で言うなら白金級が必要になってくるほどの化
け物だ。
それに加え、豚鬼の上位個体は、下位個体を統率する能力を持っ
オーク
ていて、位階が上がるにつれてその支配力を及ぼせる相手の質、数
オーク・キング
ともに増えていく。
豚鬼王ともなると、その地に存在するすべての豚鬼を統率できる
オーク・ソルジャー
というのだから、恐ろしいことこの上ない。
ノーマル・オーク
もちろん、豚鬼兵士にもそのような支配力はあるのだが、彼らが
支配できるのは通常豚鬼のみであり、数もせいぜい一体につき、数
体が限界だと言われている。
それでも三匹いれば十数体は統率できることになるのだから、甘
く見ていい相手でもない。
しかも、彼らの泣き声は仲間を呼ぶもので、遠くまで届くために
倒すのに時間をかけると命取りになるのだ。
845
﹁⋮⋮エーデル!﹂
オーク・ソルジャー
だから俺は、そんな豚鬼兵士に囲まれているエーデルを発見する
と少し考えた後に、そう叫んで剣を抜き、走り寄った。
その意味は自明で、出来るだけ素早く倒そう、と考えたからに他
ならない。
それはエーデルにも思念で伝わり、
﹁ヂュヂュッ!﹂
と一鳴きして、俺が絞りを緩めた力を吸収していく。
全く手加減なく力を奪っていくので、もう少し遠慮しろ⋮⋮と思
うも、この状況ではそんなことをしている余裕がないと言うのも分
かる。
オーク・ソルジャー
俺と、エーデル、その気配が突然変わったことに気づいたのか、
エーデルを獲物としてしか見ていなかった豚鬼兵士たちの雰囲気が
ふっと変わり、身構え始める。
しかし、遅い。
オーク・ソルジャー
オーク・ソル
すでに直前まで迫っていた俺は、三匹の豚鬼兵士の中でも最も偉
そうな個体の首筋を狙って剣を振るう。
ジャー
ほとんど不意打ちに等しい攻撃で、しかし、それでもその豚鬼兵
士は反応して、手に持った剣を振り上げ、俺の一撃を防いだ。
︱︱やるな。
と思ったし、速攻で勝負を決めるという訳にはいかなさそうだな、
と感じないでもなかったが、しかし、それはあくまで俺が一人で戦
846
っているのならの話だ。
オーク・ソルジャー
俺の方を向いて、俺の剣に気を取られたその豚鬼兵士は次の瞬間、
呆けた顔をした。
なぜなら、視界が俺の方に向いていたはずなのに、気づいたら体
が空中に投げ出されるような格好で、空を見ていたからだ。
オーク・ソルジャー
どうしてそんなことになったのかと言えば、それは、エーデルが
その豚鬼兵士の足に突っ込み、転ばせたからに他ならない。
オーク・ソル
人を凌駕する巨体と、金属製の武具を得た代償に、その体は酷く
重く、支えを失った瞬間に面白いくらい簡単に倒れたのだ。
ジャー
そのまま地面に頭をぶつけ、このままではまずい、とその豚鬼兵
士は考え、身を起こしたようだが、そのときにはすでに俺の剣が彼
の首筋直前に迫っていた。
オーク・ソルジャー
先ほどとは体勢が異なるうえ、剣の握りも甘く、即座に剣を滑り
込ませることも出来ずに、豚鬼兵士の首を俺の剣が綺麗に断ち切っ
た。
飛んでいく首、噴き出す血液。
それを見ながら、あぁ、あれもあれで美味しいんだよな、勿体な
いな、と思うが、ここで戦闘を中座してごくごく飲むわけにもいか
ない。
オーク・ソルジャー
それに、ここまででほんの十数秒だが、他の二体の豚鬼兵士はす
ぐに事態を認識して襲い掛かろうとしてきた。
ただ、たった今倒した個体こそが、この三人組を統率している固
体だったのだろう。
俺とエーデル、どちらを狙うべきか悩み、各々別々の方を狙って
突っ込んできた。
これは、俺たちにとっては非常に都合のいい挙動に他ならない。
単純な腕力よりかは速さや工夫を重視して戦っている俺や、元々
体躯の小さなエーデルにとって、単純な質量で攻めて来られるのが
847
一番嫌だからだ。
一匹しか向かってこないなら、いくらでも戦いようがあり、一人
でも何とかすることは可能である。
オーク・ソルジャー
向かってきた豚鬼兵士は剣を掲げているが、俺はその懐に近づき、
まず手元を狙って一撃入れる。
オーク・ソルジャー
金属製の小手を嵌めているため、切り落とす、というわけにはい
オーク・ソルジャー
かなかったが、その衝撃は豚鬼兵士の剣を取り落とさせることに成
功する。
オーク・ソルジャー
慌てて拾おうとする豚鬼兵士であるが、そんなことはさせるつも
りは俺にはない。
オーク・ソルジャー
二撃目を打ち込むべく剣を引き、豚鬼兵士に向かって突き出す。
しかし、流石に豚鬼兵士も武器を拾う隙を狙ってくることは想像
オーク・ソルジャー
がついたようで、仰け反る様にしてその突きは避けられた。
オーク・ソルジャー
俺を馬鹿にしたように笑う豚鬼兵士。
けれど、その動きは豚鬼兵士にとってはあまりいい手ではなかっ
オーク・ソルジャー
たように思う。
豚鬼兵士が体を戻そうとしている間に、俺は剣を思い切り蹴飛ば
したからだ。
オーク・ソルジャー
きれいにまっすぐ飛んでいった剣は、そのままエーデルが対峙し
ている豚鬼兵士の背中に突き刺さる。
﹁ぷぎぃ!﹂
と痛みに苦しむ声が聞こえ、またエーデルから、よくやった、と
いう思念が飛んでくる。
お前は俺の上官か。
いや、それはいい。
オーク・ソルジャー
ともかく、完全な無手になってしまった豚鬼兵士は、けれどそれ
848
でも戦う気概をその拳を握り、ファイティングポーズをとることで
示す。
豚の癖に、見上げた戦士魂だった。
まぁ、だからと言って手加減はしないのだが。
オーク・ソルジャー
俺は、そんな豚鬼兵士にためらいなく突っ込んでいき、剣を振り
かぶる。
もはや防御するための剣はなく、手甲でもってどうにかしようと
オーク・ソルジャー
していたが、絶対的にリーチが足りない。
俺の剣は豚鬼兵士の脳天を思い切り叩き割ることに成功する。
飛び散る脳漿に、これが美味しいと言う人もいるんだよなぁ、と
思ったが、そこまで気を遣って戦うのは難しかったので仕方がない。
強化をもっと上げれば行けただろうが、今日の探索はここで終わ
りというわけではないのだ。
一匹目については脳みそも食べれる状態で残っているので、それ
で許してもらおう⋮⋮。
それにしても、魔物の生命力というのは強く、脳天を叩き割られ
てもまだ、動いている。
流石に俺に攻撃を加えるような判断能力はもはやのこっていない
ようだが、滅茶苦茶な挙動で暴れまわっている。
とどめを、と思い、俺は剣に気を込めた。
やはり、首を切り離すのが一番、動きを止めるのによく、俺はそ
のように剣を振るう。
︱︱終わったな。
ノーマル・オーク
やはり、通常豚鬼を倒すようにはいかなかったが、それでもかな
オーク・ソルジャー
り成長してきていると言えるだろう。
余裕を持って豚鬼兵士を倒せる日が来るなんて、望んではいても、
849
昔の俺では信じられなかっただろう。
︱︱ずがっ!
オーク・ソルジャー
と大きな音が鳴り、少し離れた場所でエーデルが豚鬼兵士に止め
を刺していた。
俺の先ほどのお願いが効いたのか、回転体当たりではなく、魔術
による斬撃で首を切り落としていた。
オーク・ソルジャー
ぐらりと倒れて、しっかりと命が断たれたことを示している。
プチ・スリ
⋮⋮小鼠が豚鬼兵士を倒す、なんて話も信じられなかっただろう
なぁ。
俺はその光景を見て、そんな風にも思ったのだった。
850
オーク・ソルジャー
第124話 下級吸血鬼と木
オーク
狩り終えた豚鬼兵士を解体する。
豚鬼の上位個体である。
その味の程は折り紙付きだ。
本来なら、もう二、三階層進んだところでないと出遭えない存在
である。
それだけになぜ、ここに三体だけとはいえ出現したのか疑問だが
⋮⋮。
オーク
まぁ、ない話ではない。
俺のように豚鬼が経験と時間を経て存在進化した、ということは
普通に考えられるからだ。
身に付けている武具の類は、そこらで死んだ冒険者から剥ぎ取っ
オーク
たのだろう。
豚鬼にも知能はあるから、それくらいのことは出来る。
解体するためにすべての武具を取り払う訳だが、見れば継ぎはぎ
の跡や穴の空いた箇所が地味に存在しているのが分かった。
存在進化でないなら、下の階層から登って来た、という可能性も
ないではない。
しかし、こちらの方はむしろ可能性が低い。
なぜかというと、迷宮の魔物というのは基本的に遠く離れた階層
に移動することはないからだ。
階層、という考え方自体、人が決めた基準であり、考え方によっ
てどこで区切るかは分かれてしまうが、この魔物の挙動もその判断
基準に入れられる。
縄張り意識なのか、それ以外の理由なのかは分からないが、迷宮
の魔物は一定範囲内の中で行動し続け、その外へ出ることはないの
である。
851
特に、階段などの明確な仕切りがあると、まるで魔物はそれが見
オーク・ソルジャー
えていないかのように行動することがよくあるのだ。
︽新月の迷宮︾の豚鬼兵士もまた、生息している階層︱︱第四、
五階層辺りから、上の階層へはやってくることがないとされる魔物
なのである。
もちろん例外はあって、たまに、そう言った仕切りや階段を越え
て、自分の本来生息する階層から別の階層へと移動することがある。
もしかしたら、今回出遭ったあいつらもそれかもしれない、とい
う気がした。
まぁ、だからと言ってどうという話でもないが⋮⋮。
︽氾濫︾とか︽大波︾とか言われる迷宮の魔物が迷宮の外へと溢
れてくる現象でも起こらない限りは、急いで報告する必要はないか
らだ。
まぁ、そういう別階層への魔物の移動は︽氾濫︾や︽大波︾の前
兆であると言われることもあるし、一部それは事実であるため、戻
ったら一応報告しておくのが良識的な冒険者だろうが。
シェイラに後で言っておけばいいだろう。
ただ、切羽詰った状況ではないのは確かだ。
なにせ、本当に︽氾濫︾が近いなら、この程度じゃすまないしな。
十年、二十年に一度起こると言われているが、以前起こった時は
俺は街の防衛に参加したくらいで、迷宮周辺までは行かなかったか
ら詳しい状況については後で少し聞いたくらいだ。
ただ、それによると、かなり下の階層の魔物が一階層にまで出張
ってきていたようで、それから大体二日くらい経ってから︽氾濫︾
が起こったと言う話だ。
つまり、今の状況なら、たとえ︽氾濫︾の前兆であるとしても、
一週間、いや、ひと月くらいは余裕があると思っていい。
852
もしそうなったとしても、その時はマルトの皆と協力して挑めば
大した被害にはならないはずだ。
少なくとも、以前のはそうやって乗り越えたのだから。
今俺がすべきは、あくまで素材集めである。
アリゼのための武具⋮⋮。
シュラブス・エント
ワンド
そのために、ロレーヌが頼んできたのは、三階層以上に生息する
魔物の魔石と、灌木霊の木材だ。
魔術媒体にも色々と種類があるが、やはり有名どころは短杖であ
り、作るのにも最も手間がかからない。
そのため、初心者のうちはこれで十分のはずだ。
いずれは身に着けるタイプの魔術媒体︱︱指輪や腕輪などが必要
になってくるだろうが、これらは作ろうとすると結構な金額がかか
ってくる上、非常に微細な加工能力が必要になってくるので、今は
まだいいだろうというのがロレーヌの言葉だった。
弟子にしたとは言え、絶対に冒険者になれるとも決まっているわ
けではない。
シュラブス・エント
これ以上の借金を背負わせるわけにはいかないのだ。
その点、三階層程度の魔石と灌木霊くらいの素材であれば、俺が
シュラブス・エント
産地直送で持って来れる上に、それを素材に杖をアリゼ自らの手で
作ることも可能である。
問題があるとすれば、俺に灌木霊が本当に倒せるのかどうかとい
うことくらいで⋮⋮。
なにせ、一度もまともに挑んだことがない相手だ。
ここに来るにあたって、ロレーヌの家で資料を調べられるだけ調
べ、分からないところはロレーヌに尋ねたが、それでも中々難しそ
オーク
うな相手だ、というのが正直なところだった。
豚鬼などのように強さが分かりやすい存在なら対策も立てようが
853
シュラブス・エント
エント
あるのだが、灌木霊に限らず木霊系の魔物は性質に幅があるため対
アンデッド
策が極めて立てにくいのだ。
まぁ、それでも俺には不死者としての肉体があるからおそらくは
大丈夫だと思うが⋮⋮実際に戦ってみるまでは、何とも言えないだ
ろう。
オーク
そんなことを考えながら豚鬼の解体をしていると、いつの間にか
すべて終わっていた。
魔石をとり、自分が食べたい部位と高く売れる部位を厳選して葉
シュラブス・エント
に巻いて魔法の袋に突っ込んでいく。
あまり入れすぎると後々、灌木霊やその他の素材を入れる隙間が
なくなってしまうからな⋮⋮。
必要な素材をすべて回収し終わったところで、
﹁エーデル、行くぞ﹂
俺はそう言って、迷宮を再度、歩き出す。
次は三階層だ。
気を引き締めて進まなければ⋮⋮。
そう思って。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮二階層の夜よりも面倒くさいかもな﹂
三階層への階段を下りて、直後目に入ったのは、大量の木々であ
った。
空から光が差しているということは、空を見上げれば草葉に隠れ
ているとはいえ、小さな光がちらちらと覗くことから理解できた。
けれど、俺とエーデルが進む地上を照らしているのはせいぜいが
854
小さな松明程度に過ぎない明かりで、周囲は酷く暗い。
高く伸びすぎた木々が、本来空から地上を照らすべき光のほとん
どすべてを遮っているからに他ならなかった。
とは言え、それだけであったら夜目の利く俺とエーデルにとって
は大したものではない。
問題は、木々の枝や葉が、縦横無尽に走っていて、明るい暗いと
は関係なく、視界がそれらで遮られていることだった。
流石に夜目が効くと言っても、物理的に視界を封じられてはどう
しようもない。
一応、生き物の温度を視認できる特殊な視界も持っているのだが、
この階層においてはそんな特殊な視界もそれほど役には立たなそう
だ。
﹁ききっ!!﹂
と鳴き声がしたので、剣を抜いて後ずさると、たった今、俺がい
ケセム・コフ
た場所に向かって上から何かが降って来た。
見れば、それは猿だ。
細い体型の、あまり大きくない、魔猿である。
この階層に数多く存在する、一階層におけるスライムやゴブリン
に相当する魔物だ。
しかし、弱いかと言われると、そんなことはない。
三階層になると、魔物の方も狡猾になってきて、単純にまっすぐ
戦えばいい、というわけにはいかなくなってくるからだ。
﹁⋮⋮おっと!﹂
ケセム・コフ
剣を構えて目の前の魔猿に向かおうとしたところで、俺は後ろか
ケセム・コフ
ら気配を感じて慌てて頭を下げる。
振り返るとそこには別の魔猿がいて、蔓にぶら下がって俺に爪を
855
立てようとしていたところだった。
失敗したのを理解するやするすると昇っていき、すぐに見えなく
なる。
周囲に気配をたくさん感じる。
どうやら、一匹で向かってきているわけではないな、とそれで分
かった。
﹁エーデル、気を付けろよ﹂
俺がそう言えば、お前もな、と返ってくる。
鼠なんてここの猿にとっては餌に過ぎないような気がするが、随
分と頼もしい返事だなと思った。
856
第125話 下級吸血鬼と灌木
それにしても数が多い。
二、三匹ならある程度の余裕を持ってさばけただろうが、十匹近
ケセム・コフ
いのではないだろうか。
そんな数の魔猿が木々の間を縦横無尽に駆け巡り、次々と襲い掛
かってくるものだから対応に困る。
オ
森の中での戦闘は別に初めてというわけではないが、俺が探索し
ーク
たことのある森など、せいぜいがゴブリンかスライム、最悪でも豚
鬼が出現する程度のものでしかなく、こんな風に蔓や枝を自由に利
ケセム・コフ
用して襲い掛かってくるタイプの魔物とはあまり戦ったことがなか
ったからだ。
もちろん、ここに来るにあたって、魔猿の情報についても色々と
集めてはいたが、実際に見るのとただ書籍の文章の羅列を見るのと
では雲泥の差だと言うことを思い知る。
まず、場所がつかみにくい。
視覚でどうにか探そうとしても木の影や枝の裏をちょろちょろし
ているのですぐに見失ってしまう。
本当なら魔力や気でもってその位置を探すのが正しいのだろうが
⋮⋮そういった魔力の扱いは俺はまだ、修行中であるし、気も基本
的技術のみ身に付けているだけで周囲の状況を感覚を広げて察知す
るような方法は学ぶ前に才能の枯渇でもって脱落している。
聖気はそういう意味ではまるで役に立たないし⋮⋮。
ケセム・コフ
もう単純に気配を感じてどうにか頑張るしかないだろう。
近づいてきた魔猿を間一髪で避け、剣を振るうもその挙動は極め
て不規則で掴みにくい。
蔓にぶら下がっているのがイライラする。
857
火をつけてやろうか?
いやいや⋮⋮それをやって山火事になったら俺が火葬されてしま
う。
また骨に戻るのは嫌なのだ。
素直に伸びている蔓を掴まれないように地道に切り落としていく
しかあるまい。
間断なく襲われながらだとかなり辛いが⋮⋮仕方がない。
せめて向こうの連携をもっと散らせたら、と思うが、俺には難し
いだろう。
木をよじ登っても追いつけるはずもないし⋮⋮と悩んでいると、
﹁ヂュッ!﹂
と、鳴き声がして、エーデルが両足に魔力を込め、木をひっかき
ながら物凄い速度で登りだした。
あんなこと出来るのか、と俺は驚く。
なぜかと言えば、俺は出来ないからだ。
魔力を足に込めてもあそこまで器用に駆け上がるのは難しい。
おそらくは木を強化した爪で素早くえぐることでとっかかりを得
てあの速度を出しているのだろうが、俺が同じことをやると木が凹
み、数段上った時点で華奢な木なら割れてしまうだろう。
体の小さいエーデルだから出来る方法だった。
ケセム・コフ
それから、俺が地上で魔猿たちの襲撃を避けつつ、地味に蔓を切
り落としていると、
﹁⋮⋮キィッ!﹂﹁キキッ!﹂
という甲高い鳴き声が上空から聞こえてきて、直後、地面にぼと
858
ケセム・コフ
りと魔猿が落ちてきた。
その体にはひっかき傷がたくさん刻まれており、明らかにエーデ
ルにやられたものだろうと分かる。
ただ、致命傷にまではなっていないようで、地面に体を叩きつけ
られながらも急いで木を登ろうと立ち上がるが、そんな隙を俺が見
逃すわけもない。
ケセム・コフ
即座に飛び掛かって袈裟斬りにしていく。
さほど気を遣って切らないのは、魔猿はあまり有用な素材がとれ
ないからだ。
皮は薄く、毛皮としてもとげとげしていて需要がない。
ケセム・コフ
食用としても味が悪く、せいぜい魔石が採れる程度だ。
魔猿の魔石は心臓の横にあり、そこさえ傷つけなければ採取には
問題ない。
そのため、これだけ適当に、かつ大きな傷をつけても問題にはな
らないのだ。
ケセム・コフ
次々に落ちてくる魔猿をさほどの労力をかけずに止めを刺してい
き、そしてついに一匹も落ちて来なくなった辺りで、エーデルが上
から降ってくるように落ちてきた。
どすり、と少し重い音がしたが、怪我はないようである。
丸々としていて、結構な量の脂肪が身に付いているからクッショ
ンになったのかもしれなかった。
まぁ、無事なら何よりだ。
何が起こっているのかさっぱり見えなかったからな⋮⋮。
ケセム・コフ
ケセム・コフ
一応、聞いてみれば案の定、上で魔猿を相手に大立ち回りを披露
していたらしい。
まるで見えなかったが、落ちてきた魔猿たちの怪我の程度を見れ
ばかなり頑張って戦ったことが分かる。
ソロで戦っているとこういう役割分担が出来なかったから、敵の
859
性質によってはかなり助かる。
もちろん、これから何があるかわからないから、こういうときに
も一人でもなんとかできるように訓練しておかなければならないけ
どな。
さて、解体だ。
今回は魔石を採るだけなので、すぐ終わる。
ケセム・コフ
十匹程度だが、そこまで大きなものではないので嵩張ることもな
いだろう。
ケセム・コフ
しかし、こんなに魔猿が何度も沢山出てきてはたまらないな。
エーデルに周囲を警戒させて、出来るだけ魔猿が出現しない道の
りを選んで歩くことにしようと思った。
◇◆◇◆◇
シュラブス・エント
ワンド
灌木霊を探さなければならない。
ケセム・コフ
ケセム・コフ
それが、アリゼと、俺が短杖を作るために必要な素材その一だか
らだ。
魔石はたった今、確保した魔猿のものを使えばいい。
欲を言うならもう少し質のいいものが欲しいが⋮⋮なにせ、魔猿
シュラブス・エント
の魔石は︽新月の迷宮︾第三階層で採取できるものとしては小さ目
で濁っており質が良くない。
ワンド
探せばもっといいものがあるはずだ。
ただ、短杖の持ち手部分の素材になる灌木霊とは出来れば別の魔
ワンド
物の魔石がいいと言われてしまったからな⋮⋮。
錬金術的に、短杖の杖頭につける魔石と、持ち手部分の素材は別
にした方が魔力の増幅と制御がしやすくなるらしい。
同じだと魔力が偏って扱いにくい杖になりがちだ、という話だっ
た。
もちろん、バランスのいい杖にするためにはしっかりとした製作
860
者の調整が必要だが、アリゼと俺にはその調整の仕方も含めて教え
るつもりだから、別々の魔物から素材を集めてもらわないと余計困
ると言うことだった。
場合によっては偏った性質の杖もいいが、とりあえずは基本から
だ、ということらしい。
そうなると⋮⋮うーん。
三階層だと難しいかもな。
シュラブス・エント
もう一階層、あとで頑張ってみるか、と思った俺である。
シュラブス・エント
しかし、灌木霊が見つからない。
シュラブス・エント
戦う相手として難しいのはもちろんだが、灌木霊はそもそも見つ
けるのも難しい。
森の中だと特に、である。
シュラブス・エント
森の木々に紛れて、どれが灌木霊なのか分からないからだ。
それもそのはず、灌木霊とは、森に生える木々に魔力が凝ること
によって発生する魔物であり、本来はただの木なのである。
そのため、見分けようとしても見分けられるものではない。なに
せ、同じものなのだから。
ただ、魔力が凝っているわけだから、熟練の魔術師の目には違い
が分かるようだが、俺には当然それはまだ、出来ない。
あとは、魔道具屋などで販売している、魔力を少しだけ視覚化し
てくれるメガネを使うくらいしか方法がないが、あれは高い上にほ
とんど使い捨てだ。
一日程度で効果が切れるというふざけた仕様で、そんなものに金
を払う気にはなれない。
結果として探すのに難儀しているわけで、買っとけばよかったと
絶賛後悔中なわけだが⋮⋮。
まぁ、今更の話だ。
俺は最後の一つ、一番メジャーで、かつ安全性に疑問符のつく方
861
法を試しているところだった。
それはつまり、それっぽい灌木をべしべし叩く、という方法であ
る。
862
第126話 下級吸血鬼と灌木霊の本体
シュラブス・エント
灌木霊と思しき木を叩くとどうなるか。
シュラブス・エント
それは非常に想像しやすいものだ。
灌木霊は植物の変異したもの、とはいえ、基本的には魔物なのだ。
魔物というのは一部例外を除いて、大抵が獰猛なもので、そうい
うものを不用意にべしり、と叩いたらどうなるかというのは⋮⋮。
﹁⋮⋮ジュルルアウアァァァア!!!﹂
近くにある一つの小さな灌木をべしり、と叩いた直後、木がたて
るものとはとてもではないが考えられない叫び声とともに、普通な
ら動くはずのない枝や蔓が生き物の一部のごとくズルズルキシキシ
と動き出した。
そして、その蔓は鞭のようにしなって俺に向かい、また木の枝は
槍のように俺に大して突き出される。
明らかに、その木には俺を攻撃する意思があることがよくわかっ
た。
本来樹木と蔓は同じ植物であっても、あまり相性の良くない存在
のはずだが、魔物化したことによってその関係性が変化しているら
しい。
仲良く俺を狙って絞め殺すか突き殺すかしようとしてきている。
どちらも勘弁願いたい。
心の底からそう思った俺は、襲い来る蔓を切り落とし、さらに俺
シュラブス・エント
を刺すべく向かってくる枝は体を捻って避けた。
幸い、灌木霊の本体部分に当たる幹は太く、移動はそれほど自由
863
自在という訳ではなさそうだ。
切り落とした蔓はびたんびたんと蛇のようにのたうち回っていて、
そのまま地面に新たな根を伸ばし始めている。
アンデッド
⋮⋮そのまま死なないのか。生命力強すぎ。
と思ったが、その台詞は不死者である俺が言えたことではなかっ
た。
ヴァンパイア
そもそも、俺って絞め殺されたり刺し殺されたりするのかな?
吸血鬼系統の魔物に止めを刺すには、心臓を銀の武器で刺せとか、
ミドル・ヴァ
それがないなら武器を聖水にをつけてから心臓を刺せばいいと言わ
レッサー・ヴァンパイア
れている。
ンパイア
実際、下位吸血鬼はそう言った方法で退治されているし、中位吸
血鬼も稀にだが討伐例はある。
それ以上となると討伐例はほとんどなくなって、耳には入らなく
なってくるから、可能なのかどうかは微妙だが⋮⋮。
まぁ、聖水とか銀に気を付ければいいのかな。
聖水で苦しむことはないということを考えると、銀だけ気をつけ
ればいいのかもしれない。
でも銀にもロレーヌの実験の一環で触れたことはあるが、特に問
ヴァンパイア
題はなかった。
普通の吸血鬼とはありとあらゆることが違っているので、意外と
普通に刺されただけで死ぬのかもしれない。
わからん。
シュラブス・エント
まぁ、俺自身のことはともかく、灌木霊は切ったからと言って安
心はできなさそうだ。
蔓から伸びている根の伸びる速度はゆっくりだが、見てわかるく
シュラブス・エント
らいの速度ではあるので普通の植物と比べるとけた違いに成長が早
いのは間違いない。
放っておけばあれはまた別の灌木霊になるのかな⋮⋮。
864
シュラブス・エント
そんなことよりも目の前の本体の方か。
灌木霊の見た目はそのまま、動くお化け樹木である。
幹に当たる部分には凶悪そうな顔が浮き出ていて、実に気持ちが
悪く、あまり好きになれるような見た目ではない。
目や口にはぼんやりとした光が点っていて、それがゆらゆらと動
く。
シュラブス・エント
加えて、枝や幹に蔓が巻き付いていて、木だった時代に寄生され
ていたのか、灌木霊になると生えてくるのかは謎だ。
本で仕入れた知識によると、蔓があるものと無いものがいる、と
シュラブス・エント
のことで、そこからするともともと寄生されていたと考えるべきか
もしれない。
今俺の目の前で荒れ狂うように枝を差し出してきている灌木霊は、
幹の表面が白く、細いことからたぶんだがシラカバの木が変異した
ものだろう。
ワンド
シュラブス・エント
俺は樹木については良く知っているというわけではないので、こ
いつが短杖の素材として適切なのかどうかは分からない。
ただ、その辺りについては一応、ロレーヌに聞いており、灌木霊
になった時点で木材としての強度はかなり上昇しているという。
こうやって自らの体を武器に戦っていることからもそれはなんと
なくわかる。
結構な力で叩いているのに中々折れないし⋮⋮切ることは気や魔
力を込めれば出来るわけだが、そんなのはどんな木材でも同じだ。
つまり、強度についての心配はいらない。
ワンド
大きさの方は⋮⋮作るものが短杖であり、長くて四十センチ前後
である。
それほど大量の木材は必要ないだろう。
まぁ、それでも何種類か確保しておくつもりではあるが。
それだけに一体にあまり時間をかけるわけにはいかない。
865
シュラブス・エント
何度か打ち合ってわかったことは、この灌木霊にはさしたる攻撃
手段はなさそう、ということだ。
蔓と枝、そして本体自身の体当たり。
これなら、一気に行ってしまっても大丈夫そうである。
シュラブス・エント
シュラブス・エント
そう確信した俺は、灌木霊の次の突きを待った。
シュラブス・エント
そして、突っ込んできた灌木霊の枝を直前で避け、切り落とした
うえ、幹の部分にある顔の目の部分に剣を刺し込む。
まるで何もない穴のように見えるが、あの奥にこそ本当の灌木霊
の本体がある。
木の部分というよりも、幹の中にある不定形の霊体こそがその本
体なのだ。
つまり、むき出しの弱点の訳で、普通なら一番に狙いたいところ
だが、あまり狙う者はいない。
シュラブス・エント
なぜなら、普通に攻撃したところでそこにあるのは霊体である。
通常の攻撃では命中しないのだ。
では、どういう方法によるかと言えば、物理的に灌木霊の幹を破
シュラブス・エント
壊するのである。
なぜなら、灌木霊の本体は、存在が非常に希薄なため、張り付い
ている幹がある程度以上破壊されると、その時点で存在を保てなく
シュラブス・エント
なり、消滅してしまうからである。
ただ、その方法によると灌木霊をかなり切り刻み、叩き壊さなけ
ればならないため、とれる素材の数は激減する。
あまり大きな木材は必要ないとはいえ、出来る限りとれるものは
とっておきたい。
余りは普通に売却すれば、通常の木材よりも数倍高い値段になる
ため、稼ぎたい俺としては物理的破壊による討伐という選択肢はな
い、というわけだ。
では、通常攻撃が効かない相手にどうやって攻撃を通すのかと言
866
えば、魔力か気である。
不定形のものや、霊体にはそれが使えなければそもそも戦いにな
らないのだ。
最も効力が高いのは聖気だが、これは使える者がそもそも少ない
ので代表的な手段とは言えないだろう。
俺は、魔力を剣に込めて突いたわけで、その直後、
﹁ギギィィィアヤァァァァア!﹂
シュラブス・エント
シュラブス・エント
と甲高い悲鳴のような声が灌木霊の不気味に開いた口から聞こえ
てきた。
シュラブス・エント
そして、ぼんやりとした黒いものが灌木霊の体が噴き上がり、霧
散していく。
それから、灌木霊の目と口から、光が徐々に失われていき、そし
てどすり、と音を立てて地面に倒れたのだった。
どうやら倒せたらしい。
地面に根を伸ばしている蔓の方は、未だに生きているようだが、
その根の伸びる速度は通常に戻ったようだ。
少なくとも見ている限りは伸びているのかどうか分からない。
シュラブス・エント
灌木霊の樹木本体の方は、横倒しになってはいるが、ほとんど傷
もなく、素材としては十分な状態ではないだろうか。
俺はそれから、周囲を見て、魔物が他にもういないことを確認す
ると、採取に移ることにしたのだった。
867
第127話 冒険者リナ・ルパージュ2
グール
あの不思議な出会いから、しばらく時間が経った。
顔に複雑の刺青が刻まれた優しい屍食鬼。
ンデッド
ア
終わるはずだったリナの人生を、そこから救ってくれた奇妙な不
死者。
思い出してみれば、奇妙な体験だった。
今では夢だったのかもしれない、と思ってしまうほど。
ア
彼のためにリナは服や仮面を用意し、都市マルトの門番を騙して
内部に通すと言う冒険をしたのだ。
実に不思議で嘘くさい。
ンデッド
それに、よくよく考えてみれば、いや、よくよく考えずとも、不
死者を都市の内部に通すと言うのはとても許される行為ではないし、
リナにも人並みの常識はある。
それがやってダメなことだと分かっての行動だった。
アンデッド
けれど、それは、あの人が、レントが悪い人ではない、と理屈で
はないところでわかったからで、レントが普通の不死者だったらそ
んなことは断固拒否したに決まっている。
つまり、リナはレントを、あの短い時間で深く信用していたのだ
った。
振り返ってみれば、リナは他人をそこまで信用できた経験など、
ほとんどなかった。
父は厳格でリナのやることなすことすべてに注文を付けてきたし、
母は一言目でリナの動きに気品がないことを指摘し、二言目では結
婚相手の話ばかりをするのだ。
868
自分にはいくらやりたいことがある、と言っても、そんな話は全
く聞き入れられずに、唯一リナの話をまともに聞いてくれたのは、
年の離れた兄だけだった。
今頃、兄は何をしているのだろう⋮⋮。
兄⋮⋮イドレス・ローグは、本来のリナの実家であるローグ家の
長男にして、王国第一騎士団に所属するエリートである。
リナの憧れであり、騎士の家に生まれた以上、彼のように騎士を
目指すのだと思って生きてきた。
けれど、現実は⋮⋮。
女騎士、というのはヤーラン王国に存在しないわけではない。
現に王国第一騎士団にも二人ほど、女性騎士がいて、男性騎士と
同様の任務についていると兄は語ってくれた。
けれど、リナがそれを目指すことを両親は認めてくれなかったの
が問題の始まりだった。
その理由は、父が言うには、女がそのようなものを目指すべきで
はないの一点張りだったし、母の方も、女性の幸せは守ってくれる
殿方に見初められ、結婚することだと言って譲らなかった。
その意見が絶対的に間違っている、とまではリナも流石に思わな
い。
貴族としては、むしろ正しい意見だとも感じた。
けれど、そこまで頭ごなしに否定しなくてもいいのではないか。
リナの考えをもっとちゃんと聞いて、その上で一緒に考えてほし
かったのだ。
それを、両親はしてくれなかった。
しかし、兄だけは違った。
兄はリナの話を真剣に聞き、そのための方策を考え、両親とも交
渉してくれた。
869
結果を言えば、それでも結局ダメだった、という他ないが、それ
でも兄は兄に出来ることをすべてやってくれたと思う。
そして、そこまでやってダメなときの選択肢までも、兄はくれた
のだ。
つまり、このまま家にいてもそのうちリナはどこの誰とも知らぬ
貴族と結婚させられてしまうだろう。
それも別に悪いことではないが、リナがどうしても嫌だと言うの
ならば、家を出る、という方法もなくはない、と。
しかしその場合、騎士になると言うのは酷く難しくなる。
家と縁を切ることになるし、そうなると自分一人の力のみでのし
上がらなければならないからだ。
騎士の家の娘として何不自由なく育ってきたリナに、それが果た
して出来るのか、と兄は言った。
リナとて、現実を全く知らない向こう見ず、という訳ではない。
その選択肢がどれだけ厳しいことなのかは分かっていたし、若い
女がたった一人で生きると言うことがどれほど困難なのかも知って
いた。
両親は決してリナに世の中の汚いところを見せるまいとしてきた
が、兄イドレスは、むしろリナを悪所によく、連れて行ったからだ。
雑多な匂いと怪しげな雰囲気の満ちた裏町へ、両親がどこそこの
家のパーティで留守にする、というときにひっそりと連れ出してく
れたことが何度もあった。
リナには町娘の着るような継ぎはぎだらけのボロを着せ、自分は
自分でチンピラのような格好をして裏町に繰り出していったのだ。
あれも一種の冒険だったな、と懐かしい気がする。
貴族の家に生まれた兄が、どうしてこんな悪所を知り、かつ精通
870
しているのか、不思議だったが、そこで目にしたもの聞いたものは、
リナの者の見方考え方を一変させるものだった。
平民として扱われる人々の生活が貴族のそれと比べてどれだけ厳
しいか。 明日をも知れぬ日々の中、どれほどの逞しさでもってそれを乗り
越えているのか。
女がその身一つで生きていかなければならないとき、最後に何を
よすがとするのか。
すべてを失った者が、最後にはどうなってしまうのか。
普通なら、貴族の家の娘にそんなものは見せるべきではないだろ
う。
甘い夢だけを見せて、屋敷の奥に閉じ込めておくのが一般的だか
らだ。
しかし、リナの兄はその点、普通ではなかった。
もしかしたら、最初からいつかリナが最後には進むべき道を失い、
家を出ようとすることを予想していたのかもしれない。
だから、世の中の厳しさを教え、諦めるのであればその方がいい
し、諦めないのであれば現実を知っておく必要がある、と思ったの
かもしれない。
事実、その経験は、リナの人生にとって必要なものだったと言え
る。
実際、リナが冒険者になったのは、自分には魔力と気の素養があ
り、それを磨けば少なくとも生きていく程度のお金は稼げることを、
兄の悪所周りに何度もついていくことで知ったからだ。
貴族は大半が、魔力か気の素養を持っているものだが、リナはそ
の辺りの才能が大きく、少なくとも魔力についてはある程度学べば
十分に戦える程度のレベルにまで持っていけることが分かった。
気は、それを扱える者について、かなりの修練を積まなければ素
871
養があっても難しいため、今から、という訳には中々いきそうには
なかったが、魔力だけでも十分である。
それに加え、リナは騎士になるために、兄に武術の基礎を学んで
いた。
魔力とそれを活用した武術、それがあれば、冒険者としてもやっ
ていけることも理解していた。
だから兄に、どうする、と聞かれたとき、考えた末に、家を出る
ことを決めた。
兄はその決断に何とも言えない表情を浮かべていたが、やはり否
定はせずに、それがリナの決めたことなら、自分は支持すると言っ
てくれた。
ただ、家を出ても、家族であることは間違いないのだから、連絡
はするようにとも言った。
リナはそれからしばらくして兄の用意してくれた平民の格好をし、
ギルド
安物の武具を身に付け、数週間分の路銀を持って家を出、それから
その足で冒険者組合に所属することになった。
◇◆◇◆◇
︱︱甘く見ていた。
そう理解するのは早かった。
ギルド
本職の騎士、その中でもエリートでもある兄に武術を学んでいた
から、自分には実力があり、だからこそ冒険者組合でも十分にやっ
ていける。
そう思っていたが、その希望は早々に打ち砕かれた。
リナが活動拠点としようとしていた王都周辺の依頼は、どれも要
求水準が高く、それなりの技術はあっても所詮は駆け出しでしかな
872
いリナが受けて何とかできるようなものではなかったのだ。
いくつか細々とした依頼を受けながら日銭を稼ぐ日々が続き、そ
してそれにも無理が出たところで都市マルトの話がされた。
アンデッド
王都では、いつ両親に出遭うか戦々恐々としていたこともあり、
それに飛びついて、リナはマルトに来たのだ。
マルトでの日々は、初めはつらかった。
しかし、そんな日々に終止符を打たれたのは、あの不死者レント
に出会ったからだ。
彼と過ごした日々は、短かったが、面白かった。
彼はリナから見れば凄腕の剣士だったが、その見た目故に、一人
では何をするも厳しいと言う特殊な状況に置かれていた。
もともとはレント・ファイナという冒険者で、しかし気づいたら
ああなっていたという話で、とてもではないが信じがたかったが、
それでもリナにはそれが嘘ではないと理解できてしまった。
話して、協力して、一つずつ問題が解決していって。
ついに都市マルトの中にまで彼を入れることが出来た時は、一種
の達成感を感じたほどだ。
それなのに、突然彼は、リナとは別れると言い出し始め⋮⋮。
正直に言えば、ショックだった。
けれど、今にして思えば、彼はリナのことを気遣ってそんなこと
アンデッド
を言ったのだ。
不死者と協力して都市の中に侵入させたとなれば、その罪は重い。
追及されればどうなるかわからない罪だ。
そこからリナを出来るだけ遠ざけるには、たぶん、その方がいい
と判断したのだろう、と今は分かる。
いや、当時もわかってはいたけれど、別れるのが嫌で、認めたく
なかった。
873
しかし、時間が経つにつれ、徐々に彼の気遣いが身に染みて⋮⋮。
リナは前を向くことにした。
レントは、リナの話を道中聞き、色々なアドバイスをしてくれて
いた。
あれもまた、彼の気遣いだったのだと思う。
たとえば、冒険者として今、厳しい状況にいるリナがしなければ
ならないこと、どういう方針でやっていくか、有用な狩場や、良心
的な店など、多岐にわたって教えてくれた。
その話を活かせば、きっとこれからはやっていける。
そう思った。
ギルド
そしてリナは、冒険者組合に行き、今までとは違う行動原理で動
くことにした。
依頼を見極め、自分にあったものを選ぶ。
ソロであることを悲観せずに、出来ることをする。
パーティを組むためには、まず、自分がどれだけ優秀なのかを示
す必要がある。
また、他のパーティの情報は受付で聞けば教えてくれるし、加入
を求めているところの情報も聞けるという。
ギルド
リナは実のところ、そんなことすらも知らずに活動していたのだ。
兄が騎士であり、冒険者組合の知識などまるでなかったことで、
そんな状況になっていたのだ。
しかし、レントと会って、その状況は大きく変わったという訳だ。
ギルド
いくつか依頼をこなし、戦闘の技術も少しずつではあるが上がっ
ていった。
覚えなければならない知識も、冒険者組合でやっている講習にい
くつか参加し、学んで色々と身に着けた。
その結果、受けられる依頼の数は増え、達成率も上がり、そして、
パーティに所属しないかという連絡がとうとう来た。
874
それは、リナと同じくらいの年齢の男の子と女の子一人ずつの小
規模なパーティだったが、すでに銅級であり、その実力は中々のも
のだという話だった。
一人は剣士で、もう一人は魔術師兼治癒術師、ということでバラ
ンスもよく、リナは少し条件などを話し合って、加入することにし
たのだった。
875
第128話 下級吸血鬼と階段周辺
シュラブス・エント
それからしばらくの間、俺は灌木霊を狩り続けた。
シラカバが変異したものでもおそらくは素材として問題ないと思
うが、他にもいくつか採っておきたい。
樹木としての種類によって特性は異なる、とはロレーヌも言って
いたことだ。
ただ今回はその辺りについてはそれほど拘ってはいないとも言っ
ていたが⋮⋮一応である。
結果として、シラカバ以外にも、エボニーやモミノキなども採取
することが出来たので、十分だろう。
ブドウの木もあって、そいつは命中すると破裂し、中から強酸性
を帯びた果汁を撒き散らしてくる厄介な攻撃を放ってきた。
俺は毒の類については何の問題もないが、酸は当たれば普通に焼
けることがそれで理解できてしまった。
幸い、俺の身に付けているローブはこの酸にある程度は耐えられ
シュラブス・エント
るようで、何とかなったが、あれとはもう会いたくない。
シュラブス・エント
というか、あれに遭ったからもうそろそろ灌木霊狩りはやめよう
と思った。
魔術さえあれば遠くから魔術を放ってもっと安全に灌木霊の判別
が出来るのだが、今の俺には無理な話だ。
エーデルに頼むことも考え、実際に頼んでみたが、威力が若干強
すぎてダメだ。
素材を採りに来たのに、素材を大きく傷つける風の刃とか、山ご
と燃やしそうな火炎の弾とかしか使えないようである。
まぁ、これについては俺がそのうち頑張って魔術を覚えて解決す
るしかないだろう。
876
シュラブス・エント
灌木霊に限らず、周囲と擬態するような魔物は少なくない。
そういうときに、判別法がぶったたくしかないというのはあまり
に問題だ。
︽水月の迷宮︾程度じゃ、そんな心配する必要はなかったが、こ
れからはそういうわけにはいかないのだ⋮⋮嬉しいやら面倒やら。
頑張るしかない。
さて、そんなことを考えながら迷宮を歩き続けていると、ふっと
森が開けた広場に出る。
そこにはどう考えても自然な森には存在しないであろう、地下へ
向かう階段があった。
階段がどこに続いているのかは明白で、迷宮の次の階層、第四階
層だろう。
分かってはいるが、改めて冷静になって考えてみると、迷宮とい
うのは意味が分からないな。
誰が、どんな理由でこんな存在を作り出したのか⋮⋮神か精霊の
仕業なのだろうか?
色々と説はあるが、分かってはいない世界最大の謎の一つである。
つまり、俺に解けるはずがないということだ。
こういうのはロレーヌたちみたいなのの仕事だな⋮⋮。
俺の仕事は、そうではなく、魔物を倒すこと。
あの階段の周りをうろうろしているような、な。
すんなりと第四階層に行けることを期待していた俺だったが、迷
フォレスト・ウルフ
宮もそうはさせまいと思っているのか何なのか、次階層への階段の
フォレスト・ウルフ
周辺には森魔狼が屯していた。
森魔狼、その名の通り、森林を主な生息地にする狼型の魔物であ
り、この第三階層にも出現する。
単体での戦闘力はそれほどではなく、せいぜい通常の狼に毛が生
877
えた程度なのだが、群れとなるとその危険性は段違いになる。
数匹で協力して狩りを行う性質があり、また複数体いるとその咆
哮によって周囲の魔物を鼓舞し、強化することが出来る厄介な特技
を持っている。
それが、今俺の目の前に五匹いる⋮⋮困った。
しかし、あれを倒さなければ先には進めない。
ワンド
まぁ、究極的には進まないで帰る、という選択肢もなくはない。
シュラブス・エント
実のところなんだかんだ言って短杖を作るために必要な素材は手
に入れている。
オーク・ソルジャー
ワ
杖の持ち手部分を作るための灌木霊の木材に、杖頭につける魔術
オーク・ソルジャー
触媒となる、豚鬼兵士の魔石だ。
ンド
豚鬼兵士は本来、四階層、五階層で出現する魔物であるため、短
杖の素材として使えなくはないのである。
ただ、本来生息する階層から離れた階層にいたからか、その魔石
の質はかなり低下しており、出来ることなら別の魔石が欲しいな、
ワンド
というくらいのものなのだ。
まぁ、初心者のための短杖を作るためであるし、多少質が悪くて
も作れればそれでいいような気もするが、魔術触媒は下手なものだ
と魔術が暴発する危険性もあり、そんな危ないものをアリゼに使わ
せたいとは思えない。
フォレスト・ウルフ
したがって、他の魔石を⋮⋮というわけだ。
その点、森魔狼の魔石だったら悪くなさそうだが⋮⋮まぁ、もし
得られても、帰ろうと言うことにはならないだろう。
なにせ、まだ俺は俺がアリゼに贈る予定の武具のための素材を集
めていないからな。
どうせここまで来たのだから、四階層の素材を持って帰りたい。
フォレスト・ウルフ
いくつか、あてがあるのだ。
そのためにはやはり、森魔狼を倒すしかあるまい⋮⋮。
腰に手をかけ、剣を抜く。
878
フォレスト・ウルフ
剣と体に魔力を込め、強化する。
フォレ
森魔狼は速度に定評のある魔物で、初撃がうまくいくかどうかで
その後の戦いの運びが決まるだろう。
一撃目は必ず入れるぞ。
そう思って、俺は思い切り地面を蹴り、剣を振り上げた。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮ギャワンッ!!
スト・ウルフ
と、甲高い鳴き声を上げたのは、階段の周辺をうろついていた森
フォレスト・ウルフ
魔狼の中でも一際大きな体を持つ一匹であった。
おそらくは、あれがこの森魔狼の集団を統率する一匹だろうと考
フォレスト・ウルフ
え、狙ってみたのだが、その予測はどうやら正しいらしい。
鳴き声と共に、周囲の森魔狼たちが警戒をあらわにして俺の方を
睨むように見つめ、そして突っ込んできたからだ。
集団のリーダーをやられて腹を立てた、というところだろうか。
見上げた忠義であるが、その動きは俺にとってひどく読みやすい
もので、初撃の狙いは成功したと言っていいだろう。
俺は向かって来た一匹を切り付け、弾き飛ばし、また次にやって
来たものも同様にした。
いくら早いと言っても、まっすぐ突っ込んでくるだけなら待ち伏
せて叩き伏せるだけで済む。
これほど楽な狩りはない⋮⋮と思っていたら、やはりリーダーら
フォレスト・ウルフ
しき個体はすぐにそのことに気づいたようだ。
フォレスト・ウルフ
大きな声で吠え、他の森魔狼に注意を促した。
森魔狼の皮は、随分と厚く丈夫なようで、俺の斬撃を受けても深
手はまだ負っていないようである。
流石に︽新月の迷宮︾も四階層手前まで来ると、魔物の耐久力も
879
シュラブス・エント
上がっているらしい。
灌木霊はたまたま弱点をつける手段を持っていたからの楽勝だっ
たということかな。
フォレスト・ウルフ
相性の良さもあっただろう。
しかし、この森魔狼たちは⋮⋮。
中々に難しそうである。
フォレスト・ウルフ
リーダー格の個体の咆哮ですっかり冷静さを取り戻してしまった
森魔狼たちの動きはもはや、一流の狩人のようである。
もう、そう簡単には油断も誘えなさそうで⋮⋮事態は膠着状態に
陥った。
フォレスト・ウルフ
そんな中、ここまで戦い続けて疲れているのか、今回は全く戦わ
ないで肩に乗っかっているエーデルを、あの森魔狼の中に投げ込ん
で、食べている間に切り付けるという案が一瞬頭に浮かぶが、頼む
からやめてくれという意思が飛んできたので、特別にやめてやるこ
とにした。
880
第129話 下級吸血鬼と魔物部屋
仕方がない。豚肉だ。
オーク
オ
そう思って俺は魔法の袋からマルトホオノキの葉で包まれた豚肉
⋮⋮もとい、豚鬼の肉を取り出してぶん投げた。
ーク
鼠がダメなら豚肉でどうだという至極単純な作戦であったが、豚
オーク
鬼肉は人間のみならず、魔物にとってもそれなりにごちそうのよう
だ。
フォレスト・ウルフ
鼻先を掠めて飛んでいく豚鬼肉の匂いを、すん、と嗅ぎ、一瞬、
森魔狼の注意が削がれた。
俺はその隙を狙い、地面を蹴る。
剣を振り上げて、今度は一撃で倒すべく強めに剣に魔力を込めた。
切り落とすなら、魔力の方が俺はやりやすい。
ただ、それなりに消費魔力が多くなるので、普段は節約気味だが、
ここは少し節約精神には引っ込んでおいてもらおう。
どうしようもなくなったら帰ればいいのだから別にいい。
フォレスト・ウルフ
フォレスト・ウルフ
フォレスト・ウルフ
俺が森魔狼たちの隙を狙っていることに気づいたのか、リーダー
格の森魔狼が、うぉんと三度吠える。
肉なんかに気を取られるなというわけだ。
オーク
自分もよだれを垂らしているくせに酷い奴である。
そんなにうまいのか、豚鬼肉。まぁ、うまいんだが。
フォレスト・ウルフ
ただ、警戒を促すのが遅かったな。
森魔狼たちの注意が俺に戻った時、すでに俺の剣は一匹の森魔狼
の首筋に食い込んでいた。
881
抵抗が強いな⋮⋮。
ノーマル・オーク
やはり、耐久力が上層の魔物とは明らかに異なる。
ゴブリンや通常豚鬼程度であれば、これだけ魔力を込めればさっ
くり切れているところだ。
しかし、だからと言って切れないという訳でもない。
少しの魔力と技だけで乗り切れる甘い階層はもう、終わったと言
うだけだ。
フォレスト・ウルフ
腕に力を込め、魔力も研ぎ澄ませていく。
フォレスト・ウルフ
すると、重く、固かった森魔狼の肉がずずず、と切れていった。
刃ば肉の中を抜け、するりとすべて抜けると、森魔狼の首は地面
に落ちる。
しかし、魔物の生命力はそれだけで絶命したりはしないのだ。
首がごろごろと転がりながらこちらを見ている。
体の方も、震えながら立っていたが、流石に首と体を切り離され
て長い間生きていられるという訳でもないようだ。
数秒の後、どちらも全く動かなくなって、目を閉じ、また倒れた
のだった。
︱︱これで、一匹。
まだ残りは四匹いる。
戦いは全く終わったわけではないが、先ほどよりはずっと楽にな
フォレスト・ウルフ
った。
フォレスト・ウルフ
森魔狼、彼らの戦いは、五匹で連携をとることを前提に組み上げ
られているらしかったからだ。
なぜそんなことが分かるかと言えば、今でも間断なく森魔狼たち
は俺に向かってきてはいるものの、タイミングの取り方に乱れが見
えるのだ。
ほとんど隙が見えなかった先ほどまでと比べると、付け入るのは
882
容易に見えた。
フォレスト・ウルフ
フォレスト・
実際、攻撃と攻撃の間に僅かに空いた隙を狙って突っ込んだ俺に、
ウルフ
森魔狼たちは虚を突かれたように動けずに、またリーダー格の森魔
狼はぎりりと歯ぎしりし、自分が向かって来た。
︱︱ここで決める。
フォレスト・ウルフ
そう思った俺は、リーダー格の森魔狼の首を狙って強く魔力を剣
に込める。
ここで引かれて体勢を整えられると、今は存在している隙すら埋
められそうな気がしたからだ。
五匹から四匹になり、リズムがとれていない今こそが最大のチャ
ンスだった。
向こうにとっては、俺がそう思って突っ込んできている状況こそ
がチャンスなのかもしれない。
もう一度下がれば、俺は俺で防御を主体にして戦い始めるだろう
からな。
フォレスト・ウルフ
そうなると、決着がつくのは時間がかかるだろう。
森魔狼はどちらかと言えば瞬発力が武器の魔物であり、スタミナ
はそれほどではない。
もちろん、普通の動物と比べれば段違いなのだが、それでも魔力
持つ冒険者と何十分、何時間と戦い続けられるほどではないのだ。
フォレスト・ウルフ
つまり、ここで決着をつけなければ早晩、勝敗が決まってしまう
のはむしろ向こうの方なのだ。
さぁ、やるぞ。
フォレスト・ウルフ
俺は剣を振りかぶり、リーダー格の森魔狼に向かって振り下ろす。
森魔狼の方も、体に魔力を取り入れ、僅かに毛皮が緑に光り出し
883
ている。
本気という訳だ。
フォレスト・ウルフ
いや、今の今まで使ってこなかったことを考えると、切り札かも
しれない。
威圧感が増している。
リーダーとしての矜持が、その森魔狼をより大きく見せていた。
けれど、俺とてこんなところで負けるわけにはいかないのだ。
まだ銅級、登るべき坂はまだまだある。
フォレスト・ウルフ
これくらいの敵、鼻歌を歌うように簡単に倒せなければならない
⋮⋮。
フォレスト・ウルフ
そう強く心に思って力を込めた剣は、森魔狼の首筋に強く食い込
む。
抵抗が最初に倒した森魔狼のときほどではないのは、魔力をその
ときよりも五割増しで込めているからだ。
フォレスト・ウルフ
流石に、リーダー格の魔物を、同じだけの力で倒せるとは思って
いない。
その判断は功を奏し、剣はするりと森魔狼の首筋を抜けていった。
首が、落ちる。
︱︱勝った⋮⋮。
フォレスト・ウルフ
そう思った瞬間、落ちていく首、森魔狼の口から、緑に輝く刃が、
ふおん、と放たれ、俺に飛んでできた。
やばっ!
と思い、慌てて体を捻るも、風の刃は俺の頬を掠めて通り過ぎて
いく。
背後からごごごん、という何かが崩れるような音がし、振り返っ
884
てみるとそこには幹を切り落とされた大木の姿があった。
フォレスト・ウルフ
まだ生きていた。
最初の森魔狼のことを考えれば、それくらい考えておくべきだっ
た。
しかし、流石に魔術を放つとは⋮⋮。
今はもう完全に沈黙しており、最後の一撃だったと察せられるが、
もう油断はしない。
まだ生き残っている三匹も、絶命を確認するまでは気を緩めては
フォレスト・ウルフ
ならない、と心を改めて俺は向かう。
と言っても、リーダー格を失った森魔狼の動きは読みやすく、連
携などあったものではなかった。
ただただ、俺に噛み付くべく直線的に向かってくる彼ら。
向かってくる順番に切り付け、倒していくのは容易であり、先ほ
フォレスト・ウルフ
どまでとは難易度がまるで違う。
フォレスト・ウルフ
フォレスト・ウルフ
結局、すべての森魔狼を倒すのにはほんの数分しかかからず、あ
のリーダー格の森魔狼と、群れをなした森魔狼こそが恐ろしかった
のだと理解して、戦いは終わりを迎えたのだった。
◇◆◇◆◇
フォレスト・ウルフ
森魔狼で使える素材は、魔石はもちろんだが、それ以外に毛皮が
ある。
生きているときは、体に取り入れた魔力によって限界まで耐久力
フォレスト・ウルフ
が強化され、鋭い剣で切り付けても傷がつくかどうか、といった堅
固さを見せる森魔狼の毛皮であるが、絶命した後に触れてみるとそ
の意外な柔らかさに驚く。
ふわりとして触り心地が良く、寄りかかってみても包み込むよう
な温かさが眠気を誘う。
885
主にコートや敷物としての需要が高く、結構な値段で売れるため、
しっかりと剥いで持っていきたい。
武器や防具にはならないが⋮⋮貴重な収入源である。
爪や牙は工具などの材料として使えるため、これも確保だ。
毛皮はともかく、それ以外はあまり嵩張らないのでありがたい素
材であった。
あらかた素材を取り終えると、余った部分は穴を軽く掘ってそこ
に埋めておく。
そのまま放置でもいいのだが、流石に下層に降りる階段の前でそ
れをやってしまうと下から上がって来た冒険者や、ここにやってき
た冒険者たちのために良くない。
階段を上ったらそこはモンスターハウスでした、というのは笑え
ないのである。
あたりに充満する血の匂いは上に向かって風の魔術をエーデルに
使ってもらい、適度に散らしておく。
あとは染み込んだ血液や散らばってる肉片などだが、流石にこれ
はどうしようもない。
まぁ、これくらいで数十匹も魔物が寄ってきたりはしないだろう。
十匹くらいならありえそうだが、下層に降りられる冒険者なら十
分注意して上に上がってくるだろうし、それだけ沢山魔物がいたら
遠くからも見えるから、倒せそうもない冒険者なら帰るはずだ。
問題ない。
俺もこれから四階層に降りるわけだが、ここのことはしっかりと
覚えておかないとな⋮⋮。
自分で作った弱モンスターハウスになりかけの場所を忘れて飛び
込み死にましたというのは流石にあほすぎる。
三階層はモンスターハウス、三階層はモンスターハウス、三階層
はモンスターハウス。
886
よし、三回唱えたな。
そう思った俺は、ぶつぶつとまた呟きながら、四階層に続く階段
をゆっくりと降りていった。
887
第130話 下級吸血鬼と第四階層
目の前に広がっているのは、頑丈そうな岩で構成された一つの山
である。
これこそが第四階層であり、岩山の周囲は底が抜けて空中に浮い
ているようだった。
俺が立っている場所から、岩山に向かって一本道が伸びていて、
たった今、降りてきた階段と、岩山に行く以外の道は存在していな
い。
底が抜けているところ、その下はいったいどうなっているのかっ
て?
それを知った人間で地上に戻った者はいないから分からないな⋮
⋮。
知りたいのなら、試しに落ちてみればいい。
きっと自分の目で見れるだろう。
などという冗談は置いておいて、実際のところはロープなどを使
ってどこまで見に行けるか試した馬鹿もいるのだ。
しかし、結局、一番下がどこまで続いているのかは分からなかっ
た。
浮遊系の魔術などを使ったり魔道具を使ったりしても墜落するよ
うで、やはりどうやっても調べられないらしい。
俺の羽ならどうだろうか⋮⋮使った結果落ちたらあれだから試す
度胸はない。
ただ、第四階層の本体部分というか、岩山部分は見た目通り空中
に浮いている格好だと言うことだけは分かっている。
つまり、この岩山は空に浮いた島のような存在なのだ。
888
そんなものが迷宮の中にあるとはどんな原理なのかを心底思うが、
今更である。
そもそも、たったいま降りてきた階段の高さよりも岩山の方がは
るかに高い。
階段は岩山とは反対方向に浮いているような形で存在している岩
の中に飲み込まれるように続いていて、そこから降りてきたわけだ
が、明らかにその岩の周囲には何もなく、なぜ岩の中に入っていく
と第三階層に行けるのかも謎だ。
﹁⋮⋮おっと、来たな﹂
ぼんやりと面白い光景に見入っていると、岩山に続く一本道の向
こうからわらわらと何かがやってくるのが見えた。
当然、魔物である。
第四階層に入ると、歓迎のようにしてやってくると言う話は聞い
ていた。
正直いらない歓迎である。
まぁ、普通の平坦な場所でなら、獲物になる魔物が向こうから寄
ってきてくれるので探す手間が省けていい、という話になるかもし
れないが、場所が場所だ。
両端に手すりもなく、ただどこまで落ちていけそうな空間だけが
ゆえん
ある細い一本道で戦わなければならないとなると考えると、げんな
りするのも当然の話だった。
第四階層から先は銀級推奨とされる所以である。
どうやってあれを攻略するのか、というとそれはパーティ構成に
もよるが、誰にでも出来て手っ取り早いのは、魔物が現れる前にさ
っさと一本道を走り抜けてしまう方法だろう。
その上で、地面のしっかりとした、落ちていく可能性のない場所
で戦うのだ。
889
しかし、周囲の光景に見とれて時間を浪費してしまった俺にその
方法は無理である。
そもそも、その方法はかなり賭けの要素が強く、一本道を渡って
いる最中に魔物が現れる可能性も十分にあり、その場合は却って窮
地に陥るのであまり薦められる方法ではないのだ。
では他にどんな方法があるかというと、魔術によって遠くから攻
撃していくというものが一番危険が少なくて楽だと言われている。
あの一本道はあれで迷宮の重要な部分だからか、とてつもなく頑
丈に出来ていて、通常の攻撃程度では、まず、破壊できない。
そのため、あのあたりを通ってやってくる魔物たちに向けて、延
々と魔術を放つのだ。
うまくやれば致命傷を与えずともぼこぼこ横に落ちていくという
寸法である。
素材は採ることは出来ないが、魔物は岩山にたくさんいるわけで、
その辺は気にしないという訳だ。
しかし、これについても却下である。
俺は魔術は使えない。
エーデルも未だに疲れているようで、ぐでっとして頭の上に乗っ
たままだ。
しばらく戦う気はないらしい。
俺の眷属になったのだからもう少しスタミナがあってもよさそう
だが⋮⋮まぁ、そこが主と眷属の違いなのかもしれない。
まぁ、そういうわけで、俺には一つしか方法はない。
つまりは、真っ向勝負である。
一本道をまっすぐ進み、落ちないように気を付けながら相手を倒
すか突き落としていくのだ。
落ちてしまったら、使えるかどうかは分からないが、自前の羽を
活用することになるだろう。
890
落ちないといいな⋮⋮。
さて、行くか。
魔物たちが一本道の半ばまで来ている。
数は三体だ。
それほど大量に来ることは無いのは、迷宮の配慮か何かなのだろ
う。
あまり長居するとどんどん増えていくらしいが、普通に進む分に
長居
歓迎
で現れるも
なのか分からない以上、出来るだけ早く倒
はそうはならないという。
どれくらいが
さないとな⋮⋮。
◇◆◇◆◇
第四階層で出現する魔物は色々いるが、この
のはほとんど決まっている。
それは、人間のように二足歩行している。
てらてらと光る肌は鱗が全体を覆っていて、その口にはギザギザ
とした鋭い歯が生えている。
金属製の鎧と武器を持ち、縦長の瞳孔が輝くその瞳でこちらを睨
みつけているその魔物。
リザードマン
それは、蜥蜴人である。
見た目が非常に似ている存在に︽竜人︾というのがいるが、こち
リザードマン
らの方は魔物ではなく亜人種のひとつとされている。
しかし蜥蜴人は紛うことなき魔物であり、人を見れば問答無用で
襲い掛かってくる。
891
リザードマン
案の定、俺が一本道を歩き始めると、蜥蜴人たちはいきり立って
走って来た。
オーク
手に持っている武具は様々で、剣に槍、曲刀であった。
ポップ
一体どこから武器を手に入れているのかと思うが、豚鬼たちと同
じだろう。
つまりは、力尽きた冒険者から奪うか、湧出した時点ですでに手
に持っていたかのどちらかだ。
あまり質の良さそうなものではないので、おそらく今目の前にい
る彼らは後者の方なのだろう。
第四階層まで来れる冒険者はそれなりの武器を持っているからな
⋮⋮。
俺は体と剣に魔力を込めつつ、彼らに向かう。
あまり速度を出し過ぎると弾かれた勢いで空中に投げ出されそう
リザードマン
なので、ゆっくりとした歩みだ。
蜥蜴人の方はその辺り、なにも考えていないのか、それとも助走
をつけて俺を一撃で吹き飛ばすつもりなのか、結構な速度で向かっ
てくる。
リザードマン
打ち合うと危険そうだな⋮⋮そう思った俺は、目の前までやって
リザードマン
きた蜥蜴人の横薙ぎの一撃をしゃがんで避け、そのまま懐に入って、
思い切り切り付けて弾き飛ばした。
﹁ギギィ!﹂
リザードマン
という何かがこすれ合うような叫び声を上げて、蜥蜴人は吹き飛
び、後ろにいた蜥蜴人二体と衝突する。
俺の二倍、いや、三倍は体積がありそうな体である。
リザードマン
重量もまた相当のようで、そんなものが衝突してきたからか、最
も後ろにいた蜥蜴人は衝撃を殺しきれずに、道を踏み外してずるり、
と横に落ちていった。
892
リザードマン
落ちる直前の﹁あ⋮⋮﹂という蜥蜴人の表情が何とも言えない哀
愁を帯びていた。
﹁ギギギギ⋮⋮⋮﹂
リザードマン
という声が徐々に遠ざかって、聞こえなくなる。
果たしてあの蜥蜴人は永久に落ち続けるのか、それとも足をつけ
る場所に高速度で辿り着いて潰れるのか、それは確認できないから
分からない。
ただ、俺が思ったのは、ああはなりたくないな、ということであ
る。
そのためにはあと二体、あれと同じ運命を辿らせなければな。
リザードマン
そう思って、俺は改めて残った二体の蜥蜴人に向き直った。
893
第131話 下級吸血鬼と不安な足場
リザードマン
流石に一匹落とされて警戒したのか、蜥蜴人は俺から距離をとっ
た。
後ろにいる一匹は、前の一匹が吹き飛んできても十分に避けきれ
るような位置にまで下がり、前にいる一匹は重心を低くして吹き飛
ばされまいという格好をしている。
少し、面倒な気もするが、それならそれで構わない。
突き落とすことによって決着をつけるのは、あくまでもそれが手
オーク
っ取り早いからで、本来は倒した方がいいのだ。
最近、豚鬼程度では魔物の力が吸収できなくなっており、四階層
リザードマン
の魔物からならもっと力を吸収できるのではないかと考えていた。
突き落とした蜥蜴人の力は吸収できた感じがしないので、未だに
生きているか、そもそもあんな倒し方では魔物の力を吸収すること
リザードマン
は出来ない、ということなのだろう。
俺は細い一本道を進み、蜥蜴人との距離を詰める。
身長があるので、近づくと大きく見えるが、これくらいの大男な
ら人間にもいる。
リザードマン
大きいため、小回りもあまり効かないだろう。
リザードマン
実際、俺が近づいてくるのを察知した蜥蜴人は剣を振りかぶり、
リザードマン
俺に一撃加えようとしてきたが、蜥蜴人が振り下ろすよりも早く、
俺はその懐に入って剣を振った。
フォレスト・ウルフ
もう、第四階層である。
森魔狼の体ですらあれだけ切りにくかったのだから、蜥蜴人は更
に固いだろう。
そう思って、初めから魔力の出力は強めにしておいたが、それで
894
リザードマン
も剣はあまり深くは入っていかなかった。
浅かったか。
そう思って、俺は蜥蜴人から距離をとるべく後ずさる。
単純な腕力であれば、おそらくは向こうの方が上だろう。
あまり近くにいすぎて、戦いが力比べの方向に進んでしまうのは
まずい。
それよりも、この感じなら、一撃離脱方式で何度もやるしかない
だろう。
魔気融合術を使えばもっと深く傷つけられるだろうが⋮⋮あれは
消耗が激しいのだ。
まだどれくらいの強敵と出くわすかわからない今は、まだ、温存
しておきたい。
確かに剣は通りにくいが、全く効いていないという訳でもない。
リザ
しっかりと斬撃は通っているし、何度か繰り返せば倒せるはずだ。
魔気融合術を出すときは、本当に切羽詰った時である。
ードマン
そういうわけで、俺は再度仕切り直しとばかりに構えなおした蜥
リザードマン
蜴人にもう一度向かっていく。
すると、蜥蜴人の構えが先ほどとは異なり、腕を体の方に寄せ気
味になっている。
二度、同じ手を食うつもりはないと言うことだろう。
懐にはもう入れてやらんぞ、というわけだ。
しかし、構えが変わってくると、反対に疎かになってくるところ
も出てくる。
リザードマン
武器を手元に引きすぎた結果、間合いが短くなっているのだ。
俺が懐に入ったのは、あくまでも蜥蜴人が俺と比べてはるかに巨
体であり、リーチの面で大きく劣っていたからだ。
自分の得意な距離で戦おうとしたのである。
895
けれど、向こうからその有利を捨ててくれたのであれば、むしろ
リザードマン
俺としてはやりやすい。
リザードマン
俺は蜥蜴人に迫る速度を速め、切りかかった。
リザードマン
案の定、蜥蜴人は俺の剣を防御するべく、自分の剣を動かすが、
先ほどよりも速度が遅くなっている。
リザードマン
それでも確かに懐には入れなくなっているので、蜥蜴人の目的は
達成されていると言えるが⋮⋮。
続けて顔に向かって剣を振るうと、蜥蜴人は剣を素早く動かすこ
とが出来ずに防御し損ねた。
﹁⋮⋮ギギィ!﹂
リザードマン
と、痛みに呻き、それから剣を滅茶苦茶に降り出したので、俺は
もう一度下がる。
それから、俺が離れたのを確認したのか、蜥蜴人は剣を止め、傷
ついた顔でこちらを睨みつけた。
青い血がたらたらと地面に落ちている。
一滴落ちるごとに、僅かに白い煙が上がっていることから、強い
酸性の性質を帯びているのだろう。
流石にいくら俺が食いしん坊でも、あれは飲めないな⋮⋮。
ダメージは確実に蓄積している。
リザードマン
もう次で決める気で突っ込むか⋮⋮悩みどころだ。
すると、前に出ていた蜥蜴人はゆっくりと後ろに後ずさっていき、
そして後ろにいたもう一匹と場所を交換した。
⋮⋮まぁ、向こうからしてみれば、それがいいだろう。
今度の奴は槍を持っている。
かなり面倒くさそうな奴が出て来たな、という感じだ。
あまり相手にしたくないが⋮⋮なるほど、相手にしないと言うの
896
もありかもしれないな、と思う。
リザードマン
そして、俺は地面を踏み切り、今までで一番の速度で蜥蜴人に近
リザードマン
づく。
リザードマン
蜥蜴人はそんな俺を叩き落とすべく、槍を構え、そして直前で突
リザードマン
き出してきたが、俺はそれを剣の腹で受け、辿り、蜥蜴人の方に近
づいていく。
リザードマン
そして、懐までたどり着いて⋮⋮それでも足を止めずに、蜥蜴人
の横をすり抜けた。
一本道は広くなく、蜥蜴人がやっと乗れる程度とはいえ、それで
も俺が何とか通り抜けられるくらいの足場はまだ、空いていたのだ。
リザードマン
俺はそのまま、後ろの方に下がった、先ほどまで相手をしていた
蜥蜴人の方に向かう。
向こうはすっかり休憩気分か、観戦気分だったのかもしれない。
突如横からすり抜けてきた俺を驚いたような顔で見つめていたか
リザードマン
らだ。
リザードマン
蜥蜴人にも表情があるもんだな、とどうでもいいことを思う。
あわてて構える蜥蜴人。
しかし、もう遅い。
俺の剣の方が早い。
リザードマン
リザードマン
横合いから殴りつけるように思い切り振った剣は、蜥蜴人の腹に
命中し、そしてそのまま吹き飛ばした⋮⋮つまり、その蜥蜴人は空
中に投げ出され、どこへ続くとも分からない奈落の底へと落ちてい
った。
俺はそのまま走り、岩山の方へと向かう。
まだ一匹、一本道の上にいるのは分かっているが、ここで無理に
戦うこともないのだ。
落ちる恐怖に怯えながら戦うのは嫌だ。
俺はそんなに高いところが得意なわけではないのだ。
897
好きは好きなのだが、落ちそうな状況だとやっぱりちょっと怖い。
リザードマン
だからとにかく一本道を走り、絶対に落ちないだろう岩山の開け
たところへとたどり着いた。
そこで後ろを振り返ると、俺を追いかけていたらしい蜥蜴人最後
の一匹が俺を血走った眼で見つめていた。
仲間をやられて怒り心頭、というところだろうか。
だったらあんな危ない場所にどたどた三匹でやってくることもあ
るまいに、と思うが、迷宮の魔物がどういった行動原理で生きてい
るのか分からないので何とも言えないところだ。
四階層に人が入って来たら何が何でも戦いを挑まなければならな
いようにされているのかもしれないからな。
実際、毎回必ずやってくるらしいし、彼らにしてみれば一種の呪
いなのかもわからない。
リザードマン
まぁ、だからと言って、手加減してやろう、とはならないが。
蜥蜴人は止まって向き直った俺に、槍を構えて走って来た。
先ほどまでだったらその巨体から繰り出される攻撃を受けただけ
で落ちてしまいそうで怖かったが、この安全地帯においてはそんな
リザードマン
恐怖などまるでない。
俺も蜥蜴人の方へと走り、そして直前で右に飛び、横合いから剣
を振るってその腹部に斬撃を叩き込む。
さらに足も切り付け、それによって頭が前に傾いだ瞬間を狙って、
リザードマン
剣に魔力を多めに注ぎ、思い切り首筋に向けて剣を振り下ろした。
剣は重かったが、それでも蜥蜴人の首を切り落とすことに成功す
る。
先ほどまでの、のろのろした戦いとは全く違った展開だが、それ
だけあの足場の不安定さは俺にとって厳しかったということだ。
ああいう場所でも十分に戦えるように訓練が必要かもしれない、
898
と思った。
ともかく、これで第四階層の第一関門はクリアである。
しっかりと素材を剥ぎ取って、先へ進もう⋮⋮。
899
第132話 下級吸血鬼と幻影
第四階層の岩山は、むき出しの外壁部分と、内部へと続く洞窟部
分の二つがある。
洞窟部分は通路であると同時に坑道になっていて、中では多様な
鉱石類を得ることが出来る。
俺の目的は、それだ。
アリゼには剣と軽鎧辺りを作ってもらって贈ろうと考えており、
第四階層で採取できる金属がちょうどいいだろう、と思ったのだ。
俺は、岩山を上り、そしてそんな岩山の山肌に開けられた坑道を
見つけると、内部から何か魔物が出てこないかと警戒しながら、ゆ
っくりと入っていく。
◇◆◇◆◇
坑道の中は入り組んでおり、あまり奥に入り込むと帰ってこられ
なくなることもあると言われる。
そのため、本来は複雑に入り組んだ坑道内部をマッピングした地
図を購入する必要があるが、俺には︽アカシアの地図︾がある。
自分の足で歩いたところしか表示されないが、それでも戻れなく
なると言うことはまずない以上、地図は買う必要はなかった。
その代わりに採掘できる場所は自分で探さなければならないけど
な⋮⋮。
坑道を歩きながら、ふっと目に入った壁が崩れたところを見る。
おそらくは、先人たちの誰かが掘ったあとだろう。
こういうところは、すべて掘った跡ならともかく、そうでないこ
900
とが多く、まだ採掘が可能なことが普通だ。
俺は魔法の袋の中から板を取り出す。
魔力を僅かながら反応する、お安い板である。
つまり魔道具の一種なのだが、これを一体何に使うかというと、
壁に掲げながら前方に魔力を放つ。
そのまましばらく待っていると、ふわりとした感覚がして、持っ
ている板が微妙に発光した。
これで何が分かるかというと、俺が必要としている金属がこの向
こうにまだ存在しているかどうかが分かるのだ。
俺が求めているのは︽魔鉄︾と言われる通常の鉄よりも強度が高
く、魔力との親和性の高い金属である。
魔力を注ぐと、一部吸収し、一部反射する性質があり、その反射
を今俺が持っている板は感知できるのだ。
つまり、掘れば︽魔鉄︾が向こうにある、というわけである。
ロレーヌのように見ただけで魔力の有無が分かる技量があるとこ
んなもの必要ないのだが、俺には無理だからな⋮⋮。
俺は魔法の袋の中からツルハシを取り出し、壁に向かい、腕をま
くった。
よしやるぞ、というわけである。
カンカンと音をたてながら、壁を叩く。
このツルハシは魔力にも耐えられる仕様であるため、魔力を注い
で叩いても問題がなく、ガンガンと採掘は進む。
あまり長時間かけると魔力不足になってしまうが⋮⋮この調子な
ら、問題ないだろう。おそらく。
しばらくすると、岩しか見えなかった壁の向こう側に、鈍色の物
体が見えてきた。
おそらくは︽魔鉄︾を含む鉱石だろう。
901
俺は採掘の速度を速めた。
鈍色の壁は、今まで叩いていた壁よりもずっと固かったが、今の
人間離れした腕力と魔力による強化の前には何ほどの事でもない。
驚くほど簡単に鉱石を採掘することが出来た。
しかし⋮⋮。
﹁⋮⋮あまり質が良くないか﹂
︽魔鉄︾交じりの鉱石を拾って矯めつ眇めつ見てみるが、混じっ
ている不純物の割合がかなり多い。
見ただけで分かるくらいだ。
これだと、かなりの量を持って帰らないと必要なだけの︽魔鉄︾
は得られそうもないし、これを使ってもあまり性能のいい武具は作
れないだろう。
まぁ、そんなに性能のいいものを作ろうとしているわけでもない
のだが、悪すぎてもな⋮⋮。
ここまで良くないのはダメだ。
俺はせっかく採取した鉱石だったが、その場に放って、次の採掘
場所を探すことにした。
残念だった、というほどでもない。
最初からある程度は予想していたことだ。
この岩山の鉱石は、基本的に深部に行けば行くほど、質が上がっ
ていくと言われているからだ。
こんな坑道入り口からさして離れてもいないところで採掘したと
ころで、それほど質のいいものはとれないと分かっていた。
けれど、とりあえず一度採掘してみて、どんなものかは分かって
おきたかったためにやってみただけだ。
やはり、深く潜らないとな⋮⋮。
902
◇◆◇◆◇
ふっと、誰か、人の影が坑道の向こうに過った気がした。
︱︱誰かいるのか?
他に冒険者がいても、それは何もおかしいことではない。
ただ、少しだけ、違和感がした。
存在感が希薄というか⋮⋮なんだろうな?
分からない。
とりあえず、見に行ってみるかな⋮⋮。
いや、でもこういう好奇心の結果、こんな体になってしまったわ
けで、身の安全を考えるなら見に行かない方が⋮⋮。
とも思ったが、最終的に俺はまさに好奇心に敗北した。
そういう性格でなければこんな風になることなんてなかったのだ
から、ある意味当然とはいえば当然だったかもしれない。
まぁ、もしも危険なことがあったら、即座に走って逃げればいい
さ。
今なら消耗さえ考えなければ、結構な素早さでもって逃走するこ
とも出来るだろうしな。
そう思って俺は人影が見えた方に歩いていく。
⋮⋮。
別に誰もいないな。
気のせいだったか⋮⋮。
と思ったら、
903
﹁⋮⋮貴方は誰。どこから来たの?﹂
と後ろから声がかかった。
驚いて振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
幼い少女だ。
五、六歳と言ったところだろうか。
ただ、その雰囲気に幼いところはない。
猜疑心といらだちが混じった様な、大人にしか出せないような表
情をしていた。
俺が驚きつつも口を開いて何か言おうとしたところ、
﹁⋮⋮わからない。いや、俺は⋮⋮﹂
と、これまた、後ろの方から声が聞こえてきた。
俺の声ではない。
誰か別の人物が背後にいるらしい。
振り返ってみると、そこには、古くなって襤褸となったローブを
身に纏った者が、一人立っていた。
異様な雰囲気の人物だ。
何か底知れぬ存在感を漂わせていて⋮⋮けれど、何か不安げによ
ろけている。
・・・・・
少女のした質問に、何かを深く考えているようで⋮⋮。
何者なのだろう。
そう思っていると、ふっと、俺の胸を通り抜けて少女が顔を出し、
ローブの人物に言う。
至近距離で見た少女の姿は、よく見ると、透けていた。
実在していないのか?
ここにいるわけではない?
だから俺が、見えていない⋮⋮?
904
ローブの人物の方も、やはりよくよく観察してみると、少し透け
ている。
﹁分からない? どこから来たにしろ、ここに来るにはどこかは歩
かなければならないのだけど。それなのに、分からない?﹂
少女が尋ねる。
ローブの人物はしかしそれでもかぶりを振って、
﹁分からないんだ⋮⋮分からない。何も分からない⋮⋮俺は⋮⋮な
んなんだ? ここは⋮⋮﹂
そう叫んだ。
すると、あまりにも激しく頭を振ったからか、被っていたフード
が外れる。
︱︱おい。
俺はそれを見たその時、心底驚いた。
そこにあったのは、骸骨だ。
眼窩に光を称えた、しかし理性ある視線を宿す、骸骨。
複雑な刺青が刻まれ、それがぼんやりとした青色に発光している。
スケルトン
刺青には覚えがないが⋮⋮しかし。
しかし、あれは間違いなく︱︱骨人。
かつて、俺がそうだったもの、それに他ならなかった。
905
第133話 下級吸血鬼と鍛冶場
︱︱あいつは、何だ。
俺はそう思って、一歩前に足を踏み出す。
もっと、そのローブの人物を近くで見たいと、そう思ってのこと
だった。
しかし、まるでそれが合図だったかのように、ふっとローブの人
物の輪郭が解けるように淡くなっていく。
彼に相対している少女もまた、同様で、徐々に色を失っていき⋮
⋮そして、消滅した。
残ったのは、なにもない岩肌に囲まれた坑道だけであり、たった
今、ここであったことなどまるで気のせいだったとでも言いたげな
静寂がその場を支配していた。
﹁⋮⋮一体、何だったんだ⋮⋮?﹂
思わず、口をついてそんな言葉が出た。
しかし、答える者など誰もおらず、ただ、声が反響していくだけ
だ。
第四階層では、こんなことは日常茶飯事なのだろうか?
いや、そんなはずはあるまい。
もし、そうだとしたらもっと噂になっていてもいいはずだ。
少なくとも、全く耳に入ってこないと言うことは無いだろう。
では、俺にだけ起こった特殊な現象だと言うことか?
しかし、どうして⋮⋮ただの偶然か、それとも、何らかの必然な
906
のか⋮⋮。
分からない。
そしてしばらく考えて、まぁ分からないことは、とりあえず置い
アンデッド
ておくしかないか、と諦めた。
俺がこうして不死者になっている理由を含め、世の中にはわけの
わからないことが多すぎる。
それはそれ、これはこれ、の精神が生き抜くには大事である。
さぁ、素材集めだ。
坑道を深く潜れば潜るほどいい︽魔鉄︾が手に入る。
進むぞ⋮⋮。
◇◆◇◆◇
﹁ぐぎゃぁ!!!﹂
ミナ
という人間のものとは思えない悲鳴が聞こえた。
俺の剣が、目の前にいる魔物、鉱山ゴブリンの顔を切ったからだ。
ノーマル
首を狙ったのだが、動きが思ったよりも素早く、避けられてしま
ミナ
った。
鉱山ゴブリンは、通常ゴブリンとは異なり、その名のごとく住処
を鉱山とするゴブリンで、それに見合った技能を有している。
それはつまり、鍛冶技術である。
ドワーフのように精緻かつ高度な、魔道具を作るような技術まで
はないまでも、剣や鎧を自らの手で作る程度の業は持っているのだ
った。
つまり、この山のどこかに彼らの鍛冶場があるはずだが、どこに
あるのかは分からない。
何度か見つかって冒険者の手により破壊されているというが、そ
907
の度に彼らは別の場所に鍛冶場をこさえるのだ。
そんなに簡単に作れるものではないような気がするが⋮⋮迷宮は
広い。
第四階層も本気ですべて回ろうとしたら一日二日では絶対に無理
だ。
何週間もかける必要があるだろう。
それだけの空間があるのだから、常にいくつも鍛冶場を作り確保
しておいて、一つ壊されたら次をどこかに建造し始めるのかもしれ
なかった。
だとすれば、いつまでたっても全くなくならない理由も分かる気
はする。
道具の類は別のところで作ってもっていけばいい、というわけだ。
少なからぬ魔道具もあるようで、煙やら熱やらは外には漏れない
構造になっているようで、見つけるのは困難なのだと言うしな⋮⋮。
もうそれだけやるなら人間と協力して生きていこうぜと思わなく
ミナ
もないが、そうしているゴブリンも世の中にはいる。
この四階層の鉱山ゴブリンは、人間には分からない矜持を持って、
ノーマル
そのような生き方を選んでいるのかもしれなかった。
ミナ
ノーマル
そういうわけで、鉱山ゴブリンは見かけも通常ゴブリンとは異な
り、鎧や武器はしっかりとしたものを持っている。
また、肌の色も、鉱山にいるために保護色になったのか、通常ゴ
ブリンが緑がかった色をしているのに対して、土気色をしているの
も特徴だろう。
ミナ
また、鉱山を採掘しているだろう関係で、体も大きく、筋肉も盛
ノーマル
り上がっている。
通常ゴブリンをガリチビだとすれば、鉱山ゴブリンはゴリマッチ
ョである。怖い。
リザードマン
実際、切りかかってくる速度も、その腕力もかなり強く、正直言
って蜥蜴人よりも手ごわい。
908
武器の扱いにもかなり手馴れていて、武術めいたものを使ってく
る。
俺が切り付けても、一瞬、集中が乱れる程度で、すぐに冷静さを
取り戻し、向かってくる。
徐々に簡単には勝てなくなってきている⋮⋮。
しばらくは、ここで戦って魔物の力を吸収していくのがいいのか
もしれないな、という気がする。
別に俺も強くなっていないという訳ではないのだが、それ以上に
さくさくと下に降り過ぎた。
もっと自分の実力と相談してから降りるかどうかは選択すべきだ
ったな、と思う。
まぁ、それでも大した怪我も負っていないのだから、まだ適正な
ところで戦っているとギリギリ言えるところであろうが、もう一階
層降りるとまずいだろうな。
それとも、それくらいのところで戦って、身を危険に晒すことで
実力の底上げでも図るか⋮⋮いや、危険すぎるか?
ミナ
その辺りは家に戻ってから改めて考えることにしようか。
それよりも今は、目の前の鉱山ゴブリンである。
ミナ
大きめの両手斧を持っていて、俺では持て余しそうな品であるが、
鉱山ゴブリンにとってはさほどの重さでもないらしい。
単純な重さ以上に、扱いも難しそうだが、それも手馴れているの
だ。
俺が切りかかると、斧を横に構えてたてのように使い、うまく防
御される。
そしてそのまま弾かれ、反撃される。
﹁⋮⋮ぐっ﹂
909
ミナ
間一髪で避けるものの、鉱山ゴブリンの猛攻は止まらない。
更に縦に両手斧を振り、俺を真っ二つにしようとしてきた。
今の俺が、単純に真っ二つにされたところでどのくらいのダメー
ジを負うのかは謎だが、しかしあえて切られたいとも思わない。
意外と簡単に死ぬかもしれないしな。
慌てて俺は避けるも、頬を両手斧が掠めた。
スッとした一本の傷が入るが、数秒で治癒し、消えていく。
切り傷くらいならすぐに回復するようだった。
ただ、少し疲れた感じもするので、全く何のリスクもないという
ヴァンパイア
訳ではなさそうだ。
レッサー・ヴ
吸血鬼という種族は、たとえ切り刻まれてもすぐに回復すると言
ァンパイア
われており、実際に戦った者たちもそれには同意していて、下級吸
血鬼もその例外ではないが、この感じだと何度となくバラバラにす
れば、いつか回復できなくなるのかもしれない。
ヴァンパイア
それを試した者がいないのか、記録に残っていないだけなのかは
分からないが、ほとんどの場合、吸血鬼に出会ったらそんな方法で
はなく弱点を突く方向で戦うのが普通だからな。
ミナ
あえて手間と時間がかかる選択肢をとろうとは誰もしないのだろ
う。
ミナ
俺は立ち上がり、鉱山ゴブリンに向かって剣を振り上げる。
鉱山ゴブリンは俺の攻撃を視認していていて、このままではまた
防御されるな、と思ったが、
﹁⋮⋮ぎゃっ!﹂
ミナ
と、鉱山ゴブリンは声を上げ、両手斧を後ろに振った。
ミナ
何を⋮⋮と思って見てみると、そこにはエーデルがいて、魔術の
風の刃を鉱山ゴブリンに放ったようだった。
もうすでに遠ざかって逃げており、両手斧からは逃れられている
910
ミナ
ようで安心する。
俺への鉱山ゴブリンの注意も削がれており、俺は行けると考えて、
思い切り剣を振り下ろした。
ミナ
剣は深々と鉱山ゴブリンの頭部に突き刺さり、そしてそのまま、
ミナ
その体を真っ二つにする。
ぐらりと倒れた鉱山ゴブリン、その体からはだらだらと血が噴き
出た。
911
第134話 下級吸血鬼と部屋
ミナ
鉱山ゴブリンの解体だが、採れる素材はたかが知れている。
武器と防具、それに魔石くらいしかなく、それ以外は活用の方法
がない。
後は右耳を切り取って行けば討伐報酬がもらえるくらいだが⋮⋮
ギルド
今は討伐依頼が出ていたかな。
冒険者組合で見た記憶がないので、おそらくは無駄だが、一応持
ミナ
っていくことにした。嵩張らないし。
武器と防具については、鉱山ゴブリンがこの岩山の坑道において
ミナ
︽魔鉄︾を採掘し、鍛えて作り上げたものだが、その冶金技術は正
直、大したものではない。
︽魔鉄︾の精錬も武具の鍛造も中途半端で、サイズも鉱山ゴブリ
ンのものであるから、持って行っても大した値段にはならないだろ
う。
まぁ、せいぜい素材として再度、溶かして使うくらいだろうが⋮
⋮改めて精錬しなければならないだろうし、そうなるとただ︽魔鉄
︾入りの鉱石を持っていくよりも安い値段になる可能性が高い。
これは放置だな、と決める。
魔石についてはそこそこの大きさと質であるため、これはしっか
ワンド
りと採取しておくことにする。
短杖の素材としても使えるだろうし、それが無理なら売却しても
いい値段で売れるからだ。
こんなところかな⋮⋮。
俺は改めて坑道を歩き出す。
912
◇◆◇◆◇
大分深いところまで来た、と感じたのは、空気の淀みが強くなっ
てきているように感じられるからだ。
坑道の常で、有毒なガスなどがここでも発生しないわけではない。
それほど頻度は高くないが、たまに有毒ガスが大量に充満して立
ギルド
ち入り禁止になることもあると聞いた。
今はそういった注意は冒険者組合から特に出されてはいないもの
の、全くガスが出ていないと言うことは保障されていない。
つまり、今ここにおいて、おそらくそう言ったガスが多少出てい
ると思われる。
ただ、俺はこういった毒には滅法強い。
レッサー・ヴァンパイア
毒関係は全くの無効だからだ。
下級吸血鬼になってもその強みは全く失われず、こういうときも
さくさく進んでいけるこの体はありがたい。
とは言え、どこまでも万能という訳にはいかないらしいのは、再
アンデッド
生の件で分かったことだが⋮⋮。
最近、不死者だから、と思って普通なら死にそうな行動をとって
も大丈夫、という意識が強すぎたかもしれない。
危機感が希薄と言うか⋮⋮これくらいじゃまだ死なない感が凄く
アンデッド
あるのだ。
不死者になったからなのか、それともただの過信なのかははっき
りとは分からないが、ここは過信だと思って、しっかりと安全を確
認しながらやっていくことにしようと思う。
そんな俺の目の前に、今、大きな扉が出現している。
︱︱さて、どうしよう。
913
というわけなのだが、どうしたらいいだろうか?
明らかにこの向こうにはボスがいるなぁ、という感じなのだが、
アンデッド
入ってもいいだろうか。
不死者的な感覚で言うのなら、さぁ行こう今すぐ行こう、なのだ
が、昔の感覚で言うのなら、いや、やめておこうぜ、もう少しこの
辺の魔物と戦って、地力を上げてから勝負が安全なんじゃないか、
なのだ。
しかしなぁ⋮⋮行けそうなんだよなぁ。
よし、行こう。
危なかったら戻ればいいのだ。
流石に第四階層で脱出不可能型ということはないだろう。
そういうのは、四十層を越えたくらいから、というのが一般的だ。
まぁ、以前︽水月の迷宮︾でのことを考えるとその常識が絶対的
に正しいとは口が裂けても言えないのだが⋮⋮あれはあくまで特殊
な例だ。
別にあのときのように、隠された通路があり、転移魔法陣が設置
してあって⋮⋮というような状況ではなく、単純にボス部屋ですよ
と主張する扉が目の前にあるだけなのである。
これは、特殊な部屋ではない。そうに決まっている。だから大丈
夫⋮⋮。
と、俺は自分に言い聞かせ、扉に触れてしまった。
不用意かな⋮⋮という不安はぬぐえなかったが、十中八九、これ
は問題ないボス部屋である。少なくとも逃げられるタイプだ。
しかし俺自身の不運体質のゆえに、なんだか違うかもしれない、
という気がしているだけだ。
冒険者をしている以上、多少のイレギュラーが起きる可能性は常
にあり、それをいつも気にしていては究極的には何もできなくなっ
てしまう。
914
だから、いいのである⋮⋮そう、俺は間違っていない⋮⋮。
モンスター
そう思いながら、俺はごごごご、と重い音を立てながら開く扉を
見守ったのだった。
◇◆◇◆◇
推測は間違ってはいなかったな。
扉の向こうを覗き、俺はそう思った。
ただ⋮⋮扉の向こう、部屋の中心に鎮座しているボス魔物が問題
ではあった。
てらてらと光る鱗、四本足で地に足をついたその巨体、頭部に生
えた鉱石で出来た角⋮⋮。
いずれもその存在の強力さを示していて、なるほど、戦って楽勝
だな、とはとてもでは思えない相手だったのだ。
テラ・ドレイク
︱︱地亜竜。
ドレイク
竜族の下位種族である亜竜、その中でも地下を住処とする存在が
そこにはいた。
下位種族とは言え、それは竜族なのだ。
一般的に言って、かなり強力な魔物の一種であることは間違いな
い。
テラ・ドレイク
第四階層で出るような魔物か、と言われると⋮⋮微妙なところだ。
というのも、部屋の中心にいる地亜竜のサイズはあまり大きくな
い。
いや、俺と比べれば遥かに巨大ではあるのだが、通常、成体とさ
れるサイズのものと比べると、大体四分の一ほど、つまり四メート
ルくらいなのである。
915
あれなら、俺にも何とかできるのではないか。
そう思わせる、絶妙なサイズ感であった。
基本的に竜族は、長く生きれば生きるほど大きくなり、また強く
なっていくと言われており、あの大きさなら、まだそれほど強力で
はないはずである。
だから⋮⋮というわけだ。
俺はよくよく考えて、扉を見ている。
あまり分厚くなく、いざとなれば叩き割ることも出来そうな厚み
である。
ということは、このボス部屋は脱出不可能型ではない、と思って
いいだろう。
まぁ、特殊な素材であって、破壊がかなり難しいという場合もな
くはないが、周囲の岩と比べて特別な様子はなかった。
初めから逃げることを考えるのもどうかと思うが、いざというと
きの対策は大事である。
これなら⋮⋮いいだろう。
そう思った俺は、ゆっくりと部屋の中に入っていく。
中心近くに向かっても、後ろの扉が閉まる様子はなく、やはり逃
げようと思えば逃げられるようだった。
俺はそのことに深く安心しつつ、剣を抜いて、そこに魔力を込め
始めた。
テラ・ドレイク
四つん這いでこちらを見ている地亜竜はまだ、動かない。
俺を観察しているのか、それとも俺が近づくまでは動かないよう
になっているのか⋮⋮。
ともかく、これなら先手を取れそうに思われた。
俺は徐々に速度を上げ、そして走り始める。
916
﹁グルギャヤァァァァァ!﹂
テラ・ドレイク
という耳障りなが叫び声が、耳に入ったが俺は足を止めない。
俺はそのまま地亜竜の頭部を狙って、剣を振りかぶった。
917
第135話 下級吸血鬼と地亜竜
︱︱がきぃん!!
テラ・ドレイク
という音を立てて、俺の振り下ろした剣は、地亜竜に防がれてし
まった。
テラ・ドレイク
しかし、鱗の固さに、というわけではない。
もちろん、地亜竜は下位竜族の一種、亜竜族なのであるから、そ
の鱗の固さはその辺の魔物の皮膚のそれとまるで違うのは当然のこ
とだ。
けれど、そんなことは俺も分かっていることだ。
まともに戦ったことは今までなかったのはもちろんだが、それで
テラ・ドレイク
も知識だけは沢山仕入れている。
テラ
その中に、地亜竜のそれもあり、だからこそ、今までよりもずっ
と多く、武器と体に魔力を込めて攻撃したのだ。
・ドレイク
それなのにも関わらず、こうして防がれてしまったのは、今、地
亜竜の俺が攻撃した部分⋮⋮つまりは頭部周辺を覆っている、岩の
盾の効果によるものだ。
周囲の岩を一点に集めて、半球状の兜のような盾を、俺の攻撃を
見て即座に形成したのだろう。
魔物の使う魔術、という奴である。
しかも、属性魔術。
これは、現代において人間にはどちらかと言えば古い魔術として
分類されている魔術だが、その有用性については否定されていない。
というのも、魔術においては呪文も大事であるが、それ以上にイ
メージも重要とされており、属性魔術はその大半が自然現象をもと
にしているために非常にイメージがしやすいものだからだ。
918
さらに、それ以上に属性魔術が有用であるとされるのは、まさに
この場所のような状況においてである。
属性魔術は長ずれば、周囲の状況そのものを武器とすることが出
来るとも言われており、たとえば、地属性魔術を周囲に土や岩に満
ちたところで扱えば、周囲の土や岩を集め、集中するなどして魔力
テラ・ドレイク
を節約し、また魔術の威力を強化することも出来るのだ。
今、地亜竜が行ったことがまさにそれで、この鉱山の中で、周囲
の岩を集めることによって盾を作り出したのである。
この辺りの地層は当然のことながら、︽魔鉄︾が含まれており、
その強度は高く、さらに亜竜の強力な魔力によって強化されれば、
その防御力は相当なものになる。
事実、俺の攻撃は防がれてしまった。
普通に考えれば、この時点でかなり詰んでいるということになる
だろう。
不意打ちして、かつ自分の中でもかなり強力なつもりの攻撃を軽
く防がれてしまったわけだから。
ミスリル
だが、このくらいで諦めているようでは、俺はいつまで経っても
神銀級になどなれないだろう。
まだ、やりようはある。
切り札だって出していないのだし、あの盾にしたって何かしら隙
はあるかもしれないのだから。
テラ・ドレイク
テラ・ドレイク
俺は一旦下がって、地亜竜の出方を見ようとした。
しかし、そんな俺に、地亜竜は物凄い速度で迫ってくる。
テラ・ドレイク
まずい⋮⋮と思ったときにはすでに直前まで来ていた。
慌てて横に飛ぼうとするも、地亜竜は回転して尻尾を思い切り振
って来た。
ちょうど、避けようとした方向から来た攻撃に、俺は剣の平を向
けることでしか対処が出来ない。
尻尾の一撃が俺に命中し、そして吹き飛ばされ、
919
︱︱ドォン!
と轟音を立てて壁に激突した。
ぱらぱらと岩壁が崩れる音がする。
テラ・ドレイク
それだけの衝撃だったのだ。
しかも、まだ地亜竜は攻撃を終わらせたつもりはない様だ。
吹き飛んだ俺を放っておいてはくれず、さらに突っ込んでくる。
避けなければ⋮⋮。
壁に思い切り激突させられ、若干ふらりとした頭でとりあえずそ
れだけを考える。
横に避けても先ほどと同じように尻尾で攻撃されるだけだろう。
それなら⋮⋮。
テラ・ドレイク
俺はギリギリまで地亜竜を引きつけ、それから直前まで来た時点
テラ・ドレイク
で壁を足場にして跳んだ。
目指すは、地亜竜の背中である。
行けるか⋮⋮?
空中を浮かんでいる間は、まるで時間が引き伸ばされたかのよう
に長く感じた。
なにせ、この状態は最も無防備な瞬間なのだから。
いざとなれば羽に気を注いでどこかに吹き飛ぶくらいは出来そう
だが、その場合はまた追いかけっこになってしまいそうだ。
頼む⋮⋮。
テラ・ドレイク
短いような長い時間が、少しずつすぎていく。
テラ・ドレイク
地亜竜の頭部が近づき、そしてそこに足を延ばす。
まだ、地亜竜は気づいていない。
俺のいたところに突っ込んだことによって、土煙が起こって視界
が悪くなっているからだ。
920
アンデッド
俺は通常の視界だけではなく、温度感知すら可能な不死者の特殊
な視界でもって見ているから、分かるだけだ。
ありがとう、この体、と言いたい。
壁に追突させられてもふらふらするくらいで済んでいるのも、や
テラ・ドレイク
はりこの体のお陰だしな⋮⋮。
そして、俺の足が確かに地亜竜の頭を踏みしめた。
その瞬間、俺はすでに剣を振り上げていて、その頭部に向かって
剣を振り下ろし始めていた。
避けると同時に、最大のチャンスでもあるこの瞬間。
当たれば一撃で倒せる可能性もある。
そう思っての攻撃だった。
しかし⋮⋮。
テラ・ドレイク
剣は首筋に命中し、あと少し入れば、と思った瞬間に、地亜竜の
首に瞬間的に形成された岩の鎧に防がれてしまった。
ダメだったか⋮⋮。
そうは思ったが、それでも一応、傷を負わせることは出来た。
絶対に攻撃が通らない、というわけでもなさそうだ。
テラ・ドレイク
とは言え、ここからの攻撃はもう通せないのは明らかで、俺はと
りあえず地亜竜の視界から逃れるために背中を走って降りることに
テラ・ドレイク
する。
地亜竜も流石に背中にいる敵の正確な居所を掴むと言うのは中々
に難しいようで、暴れるように体を振るった。
テラ・ドレイク
それから転がりはじめたが、その頃にはすでに俺は地に足をつい
て地亜竜の横にいた。
ちょうど、腹が見えている絶好の位置である。
︱︱今だろう。
921
そう思った俺は、出し惜しみはせずに、剣に魔力と気を注ぐ。
魔気融合術だ。
それから、思い切り横薙ぎに腹を切った。
テラ・ドレイク
地亜竜の腹部は、背中や首辺りとは異なり、鱗がほとんどなく、
柔らかく切れていく。
もちろん、魔気融合術の力が大きいだろうが、それでもここまで
抵抗がないとは思わなかった。
弱点、というわけだな。
それは図鑑などにも書いてあることだが、腹を自分の方に向かせ
る方法など中々なく、積極的に狙うのは難しい。
今回は運が良かった⋮⋮。
テラ・ドレイク
ただ、地亜竜の生命力は腹を切り裂かれたくらいでは尽きないら
しい。
それでも立ち上がり、俺の方を向く。
テラ・ドレイク
それから、地面を片足で叩くと、ぼこぼこと地面から槍のように
岩が盛り上がって来た。
テラ・ドレイク
それを避けながら、俺は止めを刺すべく、地亜竜の方へと走る。
地亜竜はそんな俺を見つめ、空中に岩の槍を形成し、俺に次々に
放ってきた。
しかし、傷が深く、集中力が乱れているのか、その狙いはあまり
正確ではない。
テラ・ドレイク
それでも脅威は脅威なのだが、先ほどまでと比べれば何ほどの事
でもなかった。
俺はそして、地亜竜の正面に到着し、そして飛び上がる。
その首筋を狙ったのことだった。
今なら、あの岩の盾を張れないのではないか。
そう思ってのことだ。
922
そしてその予想は的中した。
テラ・ドレイク
素早く振り切った俺の剣に、地亜竜は盾を張ろうとはしていたが、
その強度は明らかに落ちていて、魔気融合術による剣の一撃の前に
テラ・ドレイク
は柔らかい何かでしかなかったのだ。
俺の剣はそのまま、地亜竜の首を切り落とし、そして、その体は
それと同時にずずん、と大きな音を立てて倒れたのだった。
923
第136話 下級吸血鬼と鉱脈
テラ・ドレイク
地亜竜の素材は魔石と体全部になる。
鱗や牙、爪や目など、どれも非常に有用な素材なのだが、魔法の
袋の容量の関係上、すべてというわけにもいかないのが残念なとこ
ろだ。
まぁ、魔石と鱗をある程度、それから牙の長いのと爪、それから
目を持っていけばそれで充分だろう。
つまみ食いに近い取り方だが⋮⋮あぁ、やっぱり大きい魔法の袋
が欲しい。
近いうちにオークションに出ないものかな。
あれは普通の店では買えない品物なのだ。
値段も値段だし⋮⋮タラスクの素材を売却して得るだろう金で買
えるといいのだが。
あんまり大きなものは難しいかな。
まぁ、それでも今持っている魔法の袋を捨てるわけでもないし、
二つ持ちになればいいだけだから今よりはずっと素材の運搬は楽に
なりそうだし、いいだろうが。
テラ・ドレイク
地亜竜を解体し終わり、先に進む。
魔石関係についてはもう、十分かなと思うが、︽魔鉄︾がまだ採
取できていない。
もう少しだけ、進もう⋮⋮。
◇◆◇◆◇
テラ・ドレイク
地亜竜の出現したボス部屋には二つ扉があり、一つは俺が入って
来た扉、そしてもう一つは出口に当たる扉だ。
924
テラ・ドレイク
戦っている最中は閉じていたが、地亜竜が倒れると同時に、その
扉は開いた。
そこから先に進むつもりだ。
扉の方に近づくと、俺は少し驚いた。
というのも、扉の向こうには分かりやすい通路というものが存在
しなかったからだ。
崖のようになっていて、壁を降りるためのくぼみととっかかりが
あるだけだ。
それに、その空間は広く、一キロ四方はありそうで、天井も高く
見える。
周囲は暗く、全てが見えるわけではないが、とにかく今まで通っ
て来た坑道の通路とは明確に異なる大きさなのは間違いない。
それに加えて、色々な施設というか、魔道具が設置してあるよう
に見え⋮⋮簡単に言うと、採掘場、というような雰囲気である。
トロッコなどもあって、かなり人工的な空間に見えた。
けれど、ここは迷宮である。
人間がここで採掘場を作ったという話がない以上、ここはそうい
うものとして迷宮に生み出されたのだ、と考えるべきだ。
たまに、街や城のような空間があることもあるという迷宮。
そのことを考えれば、ここのような空間があることもそこまで不
思議ではない。
一番不思議なのは、迷宮という存在それ自体であり、こういう風
な階層があることは、むしろ普通だと言える。
しかし、どうしてこのような場所が迷宮内にあるのかは気になる
と言えば気になる。
迷宮は形成されるとき、人の営みを参考にしているのだろうか?
街や城などがあることも考えれば、そうなのだろう、ということ
925
になる。
まぁ、普通に森や洞窟など、自然地形を再現していることを考え
れば、人間の作ったものも広い意味で考えると一つの自然な地形で
しかなく、おかしくはないのかもしれない。
究極的には魔物それ自体を再現して生み出し続けているわけだし。
驚くべきはその創造力の方か。
まぁ、どんな理由があるにせよ、こんな空間があることは、俺に
とってはいいことだろう。
なにせ、採掘場だ。
︽魔鉄︾を採掘しに来た俺にとって、これ以上におあつらえ向き
な場所もないだろう。
俺は、崖に張り付き、下の方に降りていく。
下に辿り着くと、周囲を見てみる。
あまり遠くまでは明るさの問題で見えなかったが、上から見る限
り、色々とうごめいている魔物の姿も少しは見えた。
ただ、ちょうど扉の下にあるここら辺りにはパッと見、いなかっ
たため、やはり特に魔物の姿はないようで、少し安心する。
他には、トロッコと、魔道具のスイッチのようなものがあるのが
見えた。
うーん⋮⋮どうしたものか。
あのスイッチ、押したら何が起こるのか分からないな。
押さない、という選択肢が最も安全だと言うことになるだろうが、
それは面白くない。
面白さより安全を優先すべきだろうが⋮⋮周囲を見る限り、何か
罠が、という感じでもない。
上から何かが落ちて来そうなわけでもないし、落とし穴もないよ
うだし⋮⋮。
926
押すだけ押してみるか、と思う。
何かまずいことがあったらもう一度押して、切ればいいのである。
⋮⋮それはできない、という可能性についてはあえて無視する。
ほい、ぽちっとな⋮⋮おぉ?
軽い様子で俺がそのスイッチを押すと、暗かった周囲に光が差す。
上を見ると、かなり高いところから光源があり、下に向かって光
を届けているのが見えた。
つまり、今のスイッチは灯りを点けるためのものだった、という
わけだ。
⋮⋮罠じゃなくてよかったな。
ただ、広間全体を照らしているわけではなく、周囲数十メートル
を照らすくらいのものだ。
アンデッド
おそらく今のようなスイッチがいくつもあって、それをつけなけ
れば暗いままなのだろう。
まぁ、多少暗くても俺にはある程度見えるが、主に不死者の視界
は生物の挙動を掴む方に大きく振れているからな。
ヴァンパイア
無機物を見るのはそこまで得意ではないのだ。
流石、吸血鬼、と思わないでもないが、つまりはそれほど役に立
たないと言うことである。
︽魔鉄︾を得るために壁を採掘するのはいいが、質を見るには灯
りは必要だからな⋮⋮。
まぁ、採掘しつつ、スイッチも探しつつこつこつやっていくしか
ないだろう⋮⋮。
⋮⋮あっ。
ミナ
と、思って周りを見てみると、鉱山ゴブリンが二体ほど寄ってき
927
ているのが見えた。
灯りがついたから、何かいると思ってきた、というところだろう。
ある意味罠だったというわけか⋮⋮?
まぁ、いくつもつけていけば、魔物もある程度分散できるのかな。
ミナ
やってみなければ分からないが⋮⋮。
とりあえずは、鉱山ゴブリンを倒して、この広間を回ろう。
いくつか、採掘に適してそうな色合いの壁があったのは上から見
えたし、そういうところを回って︽魔鉄︾を収集しよう。
そう思った。
◇◆◇◆◇
︱︱かぁん、かぁん!
ミナ
と、壁をツルハシで叩く音が響いている。
先ほど襲い掛かって来た、鉱山ゴブリンは普通に倒した。
やはり中々の強敵だったが、次々と仲間を呼ぶとかそういうこと
はなく、二匹が寄って来ただけで終わった。
あんまり仲間意識とかはないのかもしれない。
それから、広間を歩き回り、良さげな壁を見つけたので、今叩い
ているというわけだ。
しっかりとスイッチも探して、壁周辺は明るく照らされている。
もともと誰かが採掘していた場所のようで、しっかりと鉱脈も見
えるのでいい︽魔鉄︾が取れることだろう。
実際、崩れて落ちた鉱石を拾って見てみる限り、十分な質がある
ように思えた。
これなら⋮⋮。
まぁ、ここだけではなく、いくつか回って一番いいところをたく
さん持っていきたいところである。
928
ここはこれくらいにして、次の採掘場所に向かおう⋮⋮。
929
第137話 下級吸血鬼と戦慄
戦慄が走ったのは、三か所目の採掘場所を後にして、そろそろ戻
ろうか、と思ったその時の事だった。
色々と歩いて、この大広間の構造が分かって来て、俺が採掘をす
るために歩いているフロアと、その下にもう一段、階段状にフロア
があるようだ、というのが見えてきた。
あるようだ、というのはやはり暗くてあまり見えないからで、そ
の下の層のフロアに何があるのかはしばらくの間、分かってはいな
かった。
ただ、一応、何があるのかは気になっていて、ちょうどよく、三
へり
か所目の採掘所を照らす光が、僅かに下の層も照らしていることに
気づき、俺は崖の縁にくっついて、落ちないようにしながら下のフ
ロアを見下ろしたのだ。
そうしたら、そこには化け物がいた。
僅かに漏れ出る光は、ずっと下のフロアの地面を照らしている、
と思っていたのだが、その地面はよく見ると、緩やかに動いていた
のだ。
俺の目は、暗闇でも生き物の存在を感知する。
しかし、例外もあるらしく、力の差がありすぎるとその能力は発
揮されないと言うことがそのときはじめてわかった。
一体何がそこに、と思ってしばらく観察していると、その全容が
徐々に明らかになっていく。
ざらざらとした岩のように見えるそれは、ある一体の大きな存在
の肌であり、それがどこまでも続いているのだと。
そしてふっと、光が、その存在の顔と思しき部分を照らした。
930
俺と同じくらいの大きさの目がそこには見えた。
この時点で、逃走すべきかどうか迷ったが、その目は閉じられて
おり、どうやら眠っているらしい、ということが遠目からでも分か
る。
ただ、それでも⋮⋮恐ろしい。
あれには絶対に挑めない。
今の俺には。
ここに俺がいる、ということは絶対に感じさせずに、そそくさと、
この広間を後にしなければならない、と心の底から思った。
なんだかんだ、ここまでの道行きで俺がまだいける、と思って進
んできたのは、実際にそこまでの危険はないと知っていたからだ。
魔物の種類や強さ、罠の多寡、それ以外の様々な危険について、
ここに来る前に調べている。
そこから考えて、総合的にまだいける、と思っていたに過ぎない。
けれど、この下にいるのは⋮⋮。
そういう判断をするまでもなく、確実に無理だと断言できる、そ
んな存在だった。
つまりは⋮⋮。
アース・ドラゴン
︱︱大地竜。
その容姿は、蛙の顔の部分に髭と理知的な瞳を取り付け、背中部
分にはその巨体に見合わない小さな翼を取り付けると、その姿とな
るだろう。
しかし、その大きさは蛙などとは比較にならない。
四、五十メートル近い⋮⋮いや、体積が物凄いので、もっと大き
く見える。
あの体で暴れまわったら、街一つくらい一時間も持たずに粉々に
アース・ドラゴン
破壊されるだろう。
実際、怒り狂う大地竜により破壊された町や村、それに国はいく
931
つも伝説で伝えられている。
ただ、あの巨体でただ暴れるだけではなく、あれは地震を起こす
のだ。
地を揺らし、建物を倒壊させ、街を破壊する。
逃げ惑う人々には岩を空から降らせ、それすらも逃れた幸運なも
のはその手下の餌にする。
あんなものがいるなんて⋮⋮。
情報にはなかった。
なぜだ。
あれだけデカい存在がいれば、誰も知らないと言うことは⋮⋮。
アース・ドラゴン
そう思って、ゆっくりと遠ざかりつつ観察していると、ぱちり、
と突然目を開き、そして、ごごごごご、と轟音を立てて大地竜が動
き出した。
やばい⋮⋮ばれたか。
ここで俺の人生は終わりか。
あのとき、︽龍︾に出遭ったときと同じような感覚が体を襲う。
諦めと、どことなく感じる解放感と、それから伝説クラスの生き
物に出会えた感動と。
どれをとっても中々に得ることが出来ない経験で、まぁ、このま
ま死んでもそれはそれでいいのかもな、と心のどこかで思ってしま
う、そういう感覚が。
しかし、当たり前だが俺はこんなところで死ぬわけには行かない
ミスリル
のだ。
神銀級になるのだから。
そのためにこんな体になっても何も諦めないでやってきたのだか
ら。
932
アース・ドラゴン
けれど、だからといってこの状況で一体どうするのだ?
大地竜がそのぼよぼよとした腕を一振りしただけで、おそらく俺
アンデッド
の命は尽きるだろう。
そこには、不死者だからどうとか、そんなレベルではない格の差
があった。
何も⋮⋮何も、出来ない。
ただ、あの生き物が、俺には決して気づかずに、もしくは気にも
留める価値のない、矮小な生物であると認識して無視してくれるこ
とを祈る以外には、何もだ。
命無きこの身に、心臓の音が聞こえる気がした。
冷汗が、肌を伝っているような気も。
震えはカタカタと体を伝わっていくが、しかしどんな音も立てて
はならぬと、死ぬ気で、そう、死ぬ気で抑える。
︱︱すると。
一瞬、目が合った気がした。
アース・ドラゴン
が、気のせいだったのだろう。
大地竜はゆっくりと踵を返し、それから地面を掘って、その体を
深く深く沈めていく。
地面と言っても、岩山なのだから、土ではなく非常に硬い岩のは
アース・ドラゴン
ずなのだが、そんな事実などまるで存在しないように軽く掘ってい
く⋮⋮。
流石は大地竜というところだろうか。
シールド
俺はと言えば、それを、身を潜めつつ黙って見ていることしかで
きない。
岩がたまに吹き飛んでくるので、避けたり、盾を張ったりするの
で忙しくもあった。
933
テラ・ドレイク
さっき地亜竜に放たれた岩の槍よりも威力があるぞ⋮⋮ヤバすぎ
ミスリル
る。
神銀級はそれこそ、ああいうものと一対一でやりあえると言うの
だから、その遠さが身に染みるが⋮⋮。
アース・ドラゴン
いつかは倒してやるさ。
いつかは。
そう深く思った。
◇◆◇◆◇
なるほど。
そう思ったのは、大地竜が去った後の、静寂が支配するその場所
アース・ドラゴン
で、先ほどまで強大極まりないその存在がいた場所を観察したとき
だった。
今までそこには確かに大地竜がいたはずなのに、そんな事実など
アース・ドラゴン
まるでなかったかのように、ただ、岩が転がっている空間があるだ
けだ。
この状態が常だと言うのなら、大地竜の情報がまるでないことも
うなずける。
もしかしたら出会った者もいたのかもしれないが、すべてやられ
アンデッド
てしまったか、あまりの恐ろしさに口をつぐんだかという所だろう。
俺だって不死者として、若干、人とは異なる精神をしていなけれ
ば、今頃まるで動けなくなって漏らしていた可能性もないではない。
それくらいに恐ろしかったのだ。
その存在の迫力は、これだけ離れていても肌にびりびりと伝わっ
てくるほどだったし、魔力の大きさは向こうを湖だとすれば、俺な
どコップ一杯の水にもならないようなレベルだった。
単純な体の巨大さだって⋮⋮俺が剣を振り回して戦ったところで、
向こうはつま楊枝で刺されたくらいにしか感じないのではないだろ
934
うか?
まともに傷つけられる気は、まるでしなかったのは言うまでもな
い。
プラチナ
あんなものに出会って平静でいられる冒険者など、それこそ最低
でも白金級はなければ⋮⋮。
この第四階層で狩りをしているような者など、一たまりもあるま
い⋮⋮。
はぁ。
今日は運が良かったのか悪かったのか。
死ななかっただけ、良かったな。
これからはもう少し、気を引き締めてやらなければならない。
情報を集めたからと言って、あまり過信するのはやめることにし
よう⋮⋮。
帰ろ帰ろ。
今日はもうやる気でないわ。
家に帰って、安全なところで布団にくるまって眠りたい。
ロレーヌにホットワインを作ってもらおう⋮⋮そうしよう⋮⋮。
935
第137話 下級吸血鬼と戦慄︵後書き︶
宣伝なのですが、新たに
﹃綺麗な薔薇には棘がある﹄
http://ncode.syosetu.com/n876
0dq/
という作品を始めました。
望まぬ不死の冒険者と同じようなスケジュールでやってこうと思い
ますので、
どうぞ、お時間がありましたら読んでいただけらた嬉しいです。
よろしくお願いします。
936
第138話 下級吸血鬼と取り込まれるもの
アース・ドラゴン
﹁⋮⋮大地竜? またとんでもないものに遭遇しているな、お前は。
間違いなく何かに取りつかれているに違いない⋮⋮﹂
ギルド
呆れた顔で俺にそう言ったのは、家の主ロレーヌである。
あれから︽新月の迷宮︾をひたすら戻り、そして冒険者組合に腐
りそうな素材を全部収めてきたうえで、帰って来たのだ。
魔石やら何やら、しばらく腐敗しないであろうことの間違いない
素材については、アリゼのための武具の製造のために必要になるか
ら持ってきている。
魔鉄は俺が使って鍛冶を⋮⋮というわけにもいかないので、クロ
ープのところに持って行ってオーダーする予定である。
その際はアリゼと一緒に行くことになるだろう。
あのおっさんはこだわりが強い。
使う本人がいないのは何事かとぶち切れかねない。
アース・ドラゴン
﹁俺だって心の底からそう思う⋮⋮そもそも、なんであんなところ
に大地竜なんていたんだ? そんな情報一つも上がってきてないぞ。
大体あそこは迷宮とは言え第四階層だ。おかしいだろうが﹂
ロレーヌの作ってくれたホットワインを何杯も煽ったせいで、若
干、酔い気味気分な俺はここぞとばかりに文句を言う。
ロレーヌが悪いわけでは一切ないし、彼女に八つ当たりしている
オーガ
わけでもないが、とりあえず憤慨して文句を言わなければやってら
れない気持ちだった。
考えてもみるといい。
あの状況はたとえば、︽水月の迷宮︾の第一階層で鬼人にいきな
937
り出くわすとか、安全な街道を歩いていたら大量のゴブリンの集団
が襲い掛かって来たとか、そういうレベルの理不尽である。
プラチナ
そんなもの、どれだけ用心したところで避けようがない。
逃げたくともそのためにはまず、最低でも白金級という隔絶した
実力が必要で、当たり前だがそんなもの今の俺が持ち合わせている
はずもない。
無理に決まっている。
そんな俺の気持ちを理解してくれたのか、それとも酔っぱらいの
戯言を適度に流すつもりでなのか、ロレーヌは微笑みつつ言う。
アース・ドラゴン
﹁まぁな⋮⋮低階層で強力な魔物が出ることは全くないわけではな
いが⋮⋮流石に第四階層で大地竜が出現するのは運が悪いとかそう
いうのを遥かに超えた理不尽だな。ただ、お前は生きて帰って来た
んだ。とりあえずはそれを喜ぼうじゃないか。ごちそうも沢山作っ
たんだ。どうだ、美味しいか?﹂
彼女の言う通り、テーブルにはいつもより豪勢な食事が並べられ
ている。
どれも彼女が手ずから作ったもので、しかも俺が食べても美味に
感じるように血液入りである。
確かにかなり美味い。
ワインもそうだ。
むしゃむしゃごくごく⋮⋮いや。
﹁うまいけど、そうじゃなくてだな⋮⋮﹂
誤魔化されそうになって、俺は顔を上げてロレーヌを見る。
するとロレーヌは頷いて、
938
アース・ドラゴン
﹁まぁ、それでも気になることではあるよな。お前の話によれば、
大地竜は地面に潜って消えていったということだが⋮⋮﹂
﹁あぁ。採掘場みたいになっているところだな﹂
﹁あそこか⋮⋮﹂
ロレーヌは行ったことがあるのか、心当たりがあるようだ。
﹁知っているのか⋮⋮気になったんだが、あそこは迷宮がああいう
風に創造した空間なのか?﹂
﹁いや、そうではないな。あそこの施設は人工物だよ。ただ、かな
り昔のものだと思われるがな。お前も採取してきたように、あそこ
は魔鉄が採れるだろう? そのための採掘場だったと私は考えてい
る。数百、数千年前の話だ﹂
また随分とスケールの大きな話である。
それほど昔となると、ここにはまだマルトがなかった頃の事じゃ
ないか?
そのころからあの迷宮はあったのか。
迷宮の構造や出現する魔物、その攻略方法についてはそれなりに
調べていたつもりだが、流石に歴史までは微妙だ。
ヤーラン王国や、都市マルトにまつわる基本的な歴史くらいなら
押さえているが、それらが成立する以前の古代史となると⋮⋮もう
完全に学者の領分だろう。
ロレーヌは続ける。
﹁今は魔鉄と言えば、ドワーフたちの採掘技術の方が優れているか
らな。大量に確保するつもりなら彼らが流通させているそれを購入
939
するのが早いし安上がりだ。しかし、あの採掘場が稼働していたこ
ろはそうではなかったんだろうと思う。たぶん、当時、魔鉄は貴重
で、確保が難しいものだったのだろう。まぁ、今でも貴重は貴重だ
が、効率的に採掘できる鉱山もいくつかある今とは比べられないだ
ろう。そうでなければ、第四階層とは言え、あんな魔物が出現する
場所にわざわざ採掘場など作ろうとは思わん﹂
まぁ、確かにそうだろう。
しかし、そういうことなら⋮⋮。
﹁あそこにある魔道具はなんでそのままなんだ?﹂
﹁それは、なんでそのまま置いてあるのかということか? それと
も、そんな昔の品なのにどうして稼働しているのか、ということか
?﹂
﹁その両方だ﹂
前者については、冒険者が貴重な魔道具を見つけたら持って行か
ないはずはないからこその疑問であり、後者は魔力を注ぐ者がいな
いはずなのに未だに普通に動くのはおかしいからだ。
どんなに高性能の魔道具でも、永遠に動き続けたりすることは余
程特殊な場合でなければないはずなのだから。
これにロレーヌは頷いて答えをくれる。
﹁実のところ、それについてはどちらも答えは同じだな。あそこに
ある魔道具は、迷宮に取り込まれたのだ。したがって、持って帰ろ
うとしても持って帰れないし、魔力を注がなくとも動き続ける。全
く訳の分からないシステムだが⋮⋮そういうものだからな。仕方あ
るまい﹂
940
迷宮に取り込まれる。
それは、死した冒険者や魔物が、放っておくと迷宮から消えてし
まうあの現象のことを指している。
しかし、魔道具にそれが適用されるのか⋮⋮。
いや、死した冒険者の武具が取り込まれてどこかの宝箱に入るこ
ともあるのを考えると、おかしくはないのか。
ただ、
﹁そのままの形で取り込まれる、なんてことがあるのか?﹂
あまり聞いたことのない話だからこその疑問だった。
ロレーヌは、
﹁ある、というほかあるまい。ただ、他にも例はあるぞ。迷宮内に
街を作ろうとした善王フェルトのことは知っているだろう?﹂
それは、かつてある国において迫害された民族を連れて国を出奔
し、放浪の末に巨大な迷宮を見つけ、そのワンフロアを都市として
活用しようとした伝説の人物の事である。
もちろん、知っていたので、俺は言う。
﹁あぁ。それが、どうした?﹂
﹁あれは事実だ。私は彼が街を作ったと言う迷宮を知っている。そ
してそこには、︽街がそのまま残っていた︾﹂
﹁んなっ⋮⋮!﹂
そんな話は、聞いたことがない。
941
ロレーヌもそれは分かっているようで、
﹁ま、気持ちは分かる。というかこれは実のところ内緒の話だから
な。私の故郷においても機密として扱われていたことだ。命が惜し
ければ黙っておけよ?﹂
﹁⋮⋮おい﹂
いきなり恐ろしい秘密を教えられてしまった。
ロレーヌはそんな俺のツッコミを無視して、話を続ける。
﹁まぁ、そんなわけだから、採掘場についても別におかしくはない
のさ。ただ、そんな話をしているのはこの国において私だけだ﹂
﹁それはどういう⋮⋮?﹂
ギルド
﹁この国の人間は、もちろん、冒険者組合もマルトの人間も、あの
採掘場は迷宮が創造したものだと考えている。まぁ、当然と言えば
当然だ。人が設置した魔道具がそのまま取り込まれて稼働し続けて
いる、なんていう説は主流ではないからだ。お前は信じるか?﹂
942
第139話 下級吸血鬼とロレーヌの昔語り
ロレーヌの質問に、俺は呆れる。
何を当たり前のことをいまさら言うのかと思ったからだ。
俺は言う。
﹁なんだか俺を試すような言葉選びだが、ロレーヌだって分かって
るだろ? 信じない理由が何一つない。ロレーヌを信じられなくな
ったら、一体他に何を信じろっていうんだ。俺のこの体について、
誰が真面目に研究してくれる? そうだろ﹂
そう言う話になるからだ。
俺の馬鹿げた話を、真面目に聞いてくれる人間なんて探して中々
見つかるものではない。
ましてやまともに取り合って研究対象にしてくれるものなど、ロ
レーヌ以外に考えられない。
まぁ、この体を晒し、その秘密を教えて、研究してくれないかと
言えば二つ返事で引き受ける者はいるだろう。
けれど、その場合、俺はまんま実験動物というか、どこまでも切
り刻まれてどこかの研究施設に放り込まれて一生駕籠の鳥の生活に
なるだろう。
こんな風に、自由に生活している状態で診てくれるなんてことに
はならないのは間違いない。
ロレーヌは俺の言葉に微笑み、いう。
﹁⋮⋮確かにそうだな。悪かった。私も少し酔っているのかもしれ
ん﹂
943
少し遠いところを見るような瞳をしていて、どうしたのかと俺は
首を傾げる。
するとロレーヌは首を振って、
﹁いや、昔のことを思い出したんだ。故郷にいるときのことをな。
皆、初めのうちは私が何を言っても異端扱いだったものだから⋮⋮﹂
﹁へぇ?﹂
ロレーヌが昔語りをするのは極めて珍しい。
故郷、ということはロレーヌがここに来る前に住んでいた国の事
か。
確か、学問の国と呼ばれるところだったはずだ⋮⋮ええと。
﹁ロレーヌの故郷と言えば確か、レルムッド帝国、だったか﹂
﹁そうだ。よく覚えていたな?﹂
﹁そりゃあいくら田舎者でも、友達の故郷くらいはな。かなり遠い
から行ったことは流石にないけど﹂
かなり規模の大きな西方に存在する国で、それこそロベリア教が
勢力を誇っている国だということは聞いたことがある。
誰にかと言えば、それこそロレーヌにだ。
ただ、東方の小国であるこのヤーランにおいては、その影響力は
小さい。
というか、レルムッド帝国もこんな小さなしょぼい国に興味はな
いだろう。
特に特産品があるわけでもなし、征服したところで何か得られる
944
ところがあるのか?
と住んでいる俺ですら疑問に思ってしまう程度の国だ。
もし仮に、レルムッド帝国がヤーランを侵略する気になったとし
て、それは他のあらゆる国を併呑したあとになるだろう。
それくらいに、つまらない田舎国家なのが、このヤーランなので
ある。
⋮⋮言ってて悲しくなるな。いいところなんだぞ!
他のところと比べると色々とあれだけどな⋮⋮。
ロレーヌは続ける。
﹁あの国は、このヤーラン王国と違って、人の時間が早く流れてい
てな。今思えば、ものすごく疲れるところだった。毎日あくせく努
力して、人を蹴落とし、踏み台にしつつ、ただひたすら上を目指す
ような、そんな人間ばかりのところだ。まぁ、国や人類の繁栄を考
えると決して間違った姿勢ではなかっただろうが、それも行き過ぎ
ると問題になると言う、いい例だ﹂
﹁だからここに来たわけか?﹂
俺がそう尋ねると、ロレーヌは少し言葉に詰まりつつ、しかし頷
いていう。
﹁それが大きな理由の一つであるのは違いないな。大きく言えば安
らぎを求めていたというか⋮⋮まぁ、それはいい。そんな国で、私
も今とはだいぶ違った生活をしていてな。これで結構なエリートだ
った。それこそその気になれば、レルムッド第一大学の学長の地位
すら狙えたくらいにな﹂
唐突に出てきた単語に、俺は首を傾げる。
945
田舎者には難しい話だった。
﹁⋮⋮レルムッド第一大学というのは⋮⋮?﹂
﹁私の母校で、レルムッドにおける最高学府だ。まぁ、努力すれば
だれでも入れるから大したところではないのだが、その学長の地位
は、あの国の学者たちが欲しがる椅子のうちの一つだった。私も例
に漏れず、手を伸ばそうとしてな。いろいろやって、業績を積んで
いったのだが⋮⋮そのときにな、足を引っ張ろうとする者たちが多
くて多くて辟易したのさ。誰にでも分かるように真理を示してやっ
ているのに、なぜか全否定されるのだ。わかるか? みかんを目の
前において、これがみかんだ、というと、いいや、それはリンゴだ、
とか、それはパンだろう? とか言う者が次から次へと現れる。そ
の上、私の方が間違っている、という目で見られるのだ。目の前に
あるのは、どう見てもみかんなのにだ。頭がおかしくなる﹂
﹁それは⋮⋮﹂
良くある話というか、その辺りの人間の機微はなんとなく理解で
きる。
つまりは上に結構早いスピードで登って来たロレーヌを快く思わ
なかった者たちが多くいたということだろう。
まぁ、そのみかんがみかんである、と本当に理解できなかったの
かもしれない可能性もなくはないが、どちらかと言えば足を引っ張
っていたと考える方が自然だ。
気の毒な話だな、と俺が思ったのが雰囲気に出たのか、ロレーヌ
はふっと笑う。
﹁まぁ、私も私であの頃は立ち回りが下手すぎた。子供だったから
な。今だったらもう少しうまく動いて、気分よくやれただろう。た
946
だ、あの頃は無理だった⋮⋮それで、色々と疲れて、私はここに来
たわけだ。ある日、突然、なんとなく、な﹂
﹁⋮⋮それは、相当な無茶だったんじゃないか? それなりに仕事
があったような話だが﹂
﹁その通りだ。が、それくらいしないと私の精神の平衡が保てそう
もなかったからな⋮⋮つまらなくて、かつイライラする日々にはさ
よならをしたかったのだ。実際、ここにやってきて思ったのは、何
かから解放されたような感覚と、自分が久しく感じていない刺激を
もらえるような、わくわくだったからな。来てよかったよ⋮⋮そう、
お前にも会えたしな﹂
ロレーヌはレルムッドで学者をやっていて、なんとなく飽きたか
らここに来たみたいな話を俺は聞いていたが、実のところ、結構色
々あったらしいと言うのが初めてわかった。
まぁ、本当にロレーヌのその話を⋮⋮レルムッドで木端学者をし
ていて、大した地位でもないからヤーランにやってきたのだ、とい
うのを心の底から信じていたわけではなかったけどな。
その割に、ロレーヌがこの十年で見せてくれた学識や技術は優秀
すぎるものだったからだ。
ヤーランでも、頑張れば宮廷学者になれるんじゃないか、と勧め
たことも何度かあるくらいだが、ロレーヌは気が進まないらしいと
いうことを悟ってからは勧めなくなった。
そういう、権力闘争みたいなのは好きじゃないのだろうと思って
いたが、こういう事情ならば仕方があるまい。
それに、ロレーヌがここにいてくれる、俺はその方がよかった。
彼女には何度となく助けられているし、この街で一番の友人であ
るからな。
これからも、こうしてずっと楽しく過ごしていけたらいい。
947
そう思った。
948
第140話 下級吸血鬼と素材
明けて翌日。
今日の予定はオークショナー⋮⋮つまりは、ステノ商会に行って
タラスクの素材について話をすることだな。
オークションでの売却金額の倍で売れるという話だから楽しみだ。
問題は、相手がどんな人物かということだが⋮⋮。
金持ちやら権力者やらは偏見かも知れないが碌なのがいないよう
な気がして少し怖い気もする。
ラウラみたいな酔狂な人物だといいんだけどなぁ。
無理か。あれは例外だ。
あとは、昨日とってきた素材の目利きというか、ロレーヌに見せ
ないとならない。
あれで問題ないのか見てもらわないといけないからな。
たぶん大丈夫だと思うが⋮⋮。
今日になったのは、結構遅く帰って来たし、量が量だからまた明
日、ということになったのだ。
﹁⋮⋮お、もう起きてたか﹂
ロレーヌが寝室からやってきて、リビングにいた俺にそう言った。
と言っても寝間着姿という訳ではない。
すでに着替えていつも通りの魔術師然とした格好のロレーヌだ。
朝が強いんだか弱いんだか分からない奴である。
いや、眠そうにしているときは徹夜続きで実験とか研究とかして
いるときだから、基本的には強いのかな。
949
グール
アンデッド
﹁あぁ。不死者になって、睡眠時間は短くなったからな。というか、
屍食鬼だったときは眠れすらしなかったくらいだ﹂
﹁今は少しは眠れるわけか。進化するにしたがって徐々に睡眠時間
が伸びているというのは面白いな。人間に近づいているということ
かもしれん﹂
﹁そうだといいんだけどなぁ⋮⋮﹂
実際はどうかと言えば微妙なところだろう。
今は、眠ろうと思えば眠れる、というくらいで、起きていようと
思えばたぶんいくらでも起きていられるからな。
やったことはないが、感覚的に分かる。
﹁人間に近づくのはともかく、睡眠時間が短くていいというのは羨
ましいがな。実験中、いいところで眠気が襲ってくると、あぁ、ど
うして人間には睡眠が必要なのかと考えてしまう﹂
﹁どこまでも学者だな⋮⋮俺は寝るのが好きだから、むしろよく眠
れる体に戻りたくて仕方がないぞ。今は寝ても眠りが浅いというか、
必要ない行為をしているからかそんなに気持ちよくもないんだよな
⋮⋮﹂
それでも寝れるから寝るあたりあれだが。
アンデッド
長年繰り返してきた習慣は抜けにくいのである。
それにしても、不死者になって便利にはなったが、失ったものも
色々ある。
睡眠の心地よさもその一つかもしれない。
﹁興味深い話だが⋮⋮それは、今しなくてもいいか。それよりも素
950
材を見せてくれるのだろう? それと⋮⋮︽魔鉄︾の精製だったか﹂
ロレーヌが話を切って、そう言った。
まぁ、いつでもできる話だし、今日はすることがいくつかあるか
らな。
時間が惜しいというところだろう。
素材を見せることはともかく、︽魔鉄︾の精製とは何かというと、
ロレーヌに錬金術の技術でもって︽魔鉄︾をインゴットの形にして
もらうという話である。
俺が採取してきたのはあくまでも︽魔鉄︾そのものではなくて、
︽魔鉄︾の含まれた鉱石だからな。
迷宮産なので非常に高い割合で︽魔鉄︾が含まれているのだが、
そのまま使うという訳にはいかない。
もちろん、鍛冶組合とかに持って行って精錬してもらう方法もあ
るが、それをすると金がかかる。
基本的には節約のために鉱石を自分で取りに行ったのに、余計に
金がかさんだでは話にならない。
まぁ、別に単純にアリゼのために素材をとってきて師匠面してみ
たかったというのが理由の大半を占めているので、いっそ金がかか
ってもいいんだが、ロレーヌが出来るんだからやってもらった方が
いいだろう。
﹁あぁ。そんなに量はないと思うが⋮⋮﹂
言いながら、テーブルの上に素材を出していく。
食卓とは別の、ロレーヌが実験に使うためのテーブルなのでかな
り広く、色々置いても余裕がある。
とはいえ、流石にすべて出せるかと言えばそんなことはなく、と
りあえずは魔石と︽魔鉄︾の鉱石をいくつかだけだが。
951
シュラブス・エント
灌木霊の木材なんかは一つずつだな。
量もあるし、大きさも大きさだ。
灌木のものとはいえ、家の中に広げるにはデカい。
オーク・ソルジャー
﹁結構いろいろと採って来たんだな⋮⋮お、これは豚鬼兵士の魔石
か?﹂
流石、ロレーヌには見ただけで何の魔石か大体分かるようだ。
魔石には確かに色や形に特徴はあるが、個体によってまちまちで
パッと見で見分けるのは意外と難しい。
少なくとも俺には出来ないな。
質の良し悪しはすぐ見て分かるんだけどな⋮⋮引き取り額に直結
するから。
とりあえず金になるかどうかで見てしまう辺り、根っから冒険者
なのだなと思う。
出来るのは解体場の職員とか、余程の魔石マニアとか⋮⋮あとは
ロレーヌのように博識かのどれかだろう。
﹁あぁ、第二階層に出たんだ﹂
﹁第二階層? ほう⋮⋮︽氾濫︾が近いのかもしれないな。あれは
珍しい魔物が現れたりするから、私としては楽しいんだが⋮⋮﹂
﹁︽氾濫︾を楽しむなよ⋮⋮なければない方がいいものだぞ﹂
まぁ、予測されていればほとんど被害は出ないものなのだが。
あまり大規模なものだと街一つ消滅するようなことも起こらない
ではないが、そこまでのものは中々ない。
﹁確かにそうだが、どうあがいても起こってしまうものでもある。
952
どうせ起こるなら楽しんだ方が得だと思わないか?﹂
﹁それは⋮⋮まぁ、そうかな?﹂
﹁そうさ⋮⋮さて、︽魔鉄︾の鉱石の方は⋮⋮ふむ、やはり質が良
いな。む? これは⋮⋮﹂
手に取って︽魔鉄︾の鉱石を見ていたロレーヌが、一つの鉱石で
手を止め、じっと見入った。
﹁どうした?﹂
俺がそう尋ねると、ロレーヌはその鉱石を見せてきて、
﹁色が違うのが見て分かるだろう?﹂
という。
たしかに、鉱石の中に見える︽魔鉄︾は黄みががっているように
見えた。
︽魔鉄︾はもともと、少し紫がかった鉄の色をしているものだ。
それがこのような色に染まっているのは⋮⋮。
不思議に思って、俺はロレーヌに尋ねる。
﹁どういうことだ?﹂
するとロレーヌは、
アース・ドラゴン
﹁おそらくだが⋮⋮お前はこれを大地竜が出たところで取って来た
わけだろう? その魔力に当てられて変質したのだと思う。加工し
ていない︽魔鉄︾は魔力に影響されやすいものだからな。まぁ、そ
953
れでもこんな風になることはあまりないが⋮⋮﹂
﹁もしかして、︽魔鉄︾としては使えないか?﹂
アース・ドラゴン
だとすれば迷宮に行き損である。
せっかく頑張って、大地竜に怯えつつ頑張って帰って来たのに、
使えませんでしたでは目も当てられない。
しかし、その不安はロレーヌが払拭してくれた。
﹁いや、そんなことはないぞ。そもそも変質していないものもある
からな。本来の用途にはそちらを使えばいいだろう。ただ、変質し
た方は⋮⋮﹂
﹁やっぱりそっちはダメか﹂
アース・ドラゴン
﹁そうではない。そうではなく、むしろ逆だな。大地竜の魔力で変
質した︽魔鉄︾など、素材としての価値はかなり高いぞ。武具を作
っても魔道具を作ってもいい。何か特別な効果もつくかもしれん﹂
954
第141話 下級吸血鬼と木材
﹁特別な効果⋮⋮というと?﹂
俺が尋ねると、ロレーヌは答える。
﹁確実にこれ、というわけではないのだが⋮⋮たとえば、剣にした
として、振るえば魔力を使わずとも岩の槍が放たれるとか、そうい
うものだな。つまり、魔剣や魔鎧などが作れる可能性が高い﹂
魔剣や魔鎧、と言えば、それ自体に強力な魔力を帯びた特殊な武
具のことだ。
滅多に手に入らず、したがって、買えば白金貨が飛んでいくよう
な代物である。
もちろん、それでも実際に使う者もそれなりにいるが、余程の腕
を持っているか、余程の金を持っているかのどちらかだ。
俺のような木端冒険者には基本的に縁のないもので、手に入れる
ためにはひたすら依頼を受けて金を貯めまくるか、ランクを上げて
名声を得、持ち主から貸与という形で手にするか、運よく迷宮で手
にしてそのまま自分のものにするかくらいしかない。
アース・ドラゴン
それを作れると言うのは⋮⋮。
それだけで大地竜に怯えた甲斐があったな。
ただ、問題は作ってもらうにも相当の費用が必要になってくると
言うことだろうが⋮⋮。
出せる気がしないな。
タラスクの素材を売ったくらいでは足りないのではないだろうか?
まぁ、その辺りは鍛冶師のクロープと相談すれば⋮⋮いや、あま
り値切るのもな。
955
しっかりとした腕には適正な支払いをしなければならない。
頑張ってお金を貯めるまで、こいつは死蔵かな⋮⋮。
だが、相談だけは後でしておこうと思った。
﹁⋮⋮当たり前だが、アリゼのための武具に、というわけにはいか
ないよな﹂
﹁そのうち贈るのは構わんが、最初から持たせるのは当然ダメだぞ。
アリゼの教育によくない。身の丈に合わない強力な武具を初めから
持ってしまうと、自分の実力を勘違いしかねないからな⋮⋮﹂
確かに、それはそうである。
しかし、仮に魔剣や魔鎧を作ったとして、俺の身の丈に合ってい
るかというと、そうでもないような気がするな⋮⋮。
まだまだだし。
となると、やっぱりしばらくは作らないでおこうかな⋮⋮。
いや、お金が貯まったら作りたい。
そして思うさま振り回したい。
⋮⋮こういうよろしくない思考をする冒険者にならないように、
アリゼに初めからそういう武具を持たせるべきではないな、と自分
を振り返って思った。
シュラブス・エント
ワンド
﹁じゃ、こいつは後でクロープと相談でもするとして⋮⋮残りの素
材だ。灌木霊の木材は色々と持ってきたけど⋮⋮短杖の素材として
いいのはあるか?﹂
シュラブス・エント
一旦魔石類などを移動してから、採取してきた灌木霊の木材をテ
ーブルの上に置く。
それでもすべて、というわけにはいかないが、一応、見本として
956
出せるように、戦っている最中に欠けた部分を端材として持ってき
てあるので、それをまず置いたのだ。
シュラブス・エント
全体についてはあとで一つ一つ出そうと考えている。
ロレーヌはテーブルに置いたいくつかの灌木霊の端材を見ながら
言う。
﹁シラカバに、エボニー、それと⋮⋮モミノキか。おかしなものを
持ってくるかもしれないと少し思っていたが、意外に悪くないのを
持って来たな?﹂
褒められた。
⋮⋮いや、褒めてないか?
若干、期待してなかったというようなニュアンスを感じる⋮⋮。
だから俺は言う。
﹁おかしなものを持ってくるかもしれないって、なんだ﹂
﹁強度のないものとか、加工が極端に難しいものとか、そういうの
を持ってくる可能性も考えていた⋮⋮まぁ、私が特に注意しなかっ
たのが悪いんだが。今回お前が持ってきたものは、どれも悪くない
ぞ⋮⋮ただ、エボニーはアリゼには重いかな。シラカバかモミノキ
のどっちかがいいだろう﹂
シュラブス・エント
言われてみると、確かにエボニーの灌木霊は重かった気がする。
魔法の袋に入れるときは別に持ち上げる必要がないが、戦ってい
るとき、その一撃一撃が妙に固く威力があって、かつ重かった。
⋮⋮ん?
﹁⋮⋮もしかしてエボニーはあまり良くなかったんじゃないか?﹂
957
﹁まぁな。ただ、お前が使うと考えればむしろ良かったと思うぞ。
腕力もあるし、きっと結構乱暴な使い方もするだろう。それでも壊
れないだろう強靭な木だからな。お前の杖に向いている。ただ、加
工は簡単ではないぞ。挑戦だな、レント﹂
そう言って、ちょっと意地の悪い笑顔を向けるロレーヌ。
⋮⋮まぁ、自分で持ってきたのだ。
そのくらいの責任はとることにしよう。
﹁魔石はどうする?﹂
オーク・ソルジャー
﹁結構色々と選択肢があって、迷うな。色の好みもあるだろうし⋮
ミナ
⋮そこは作るとき、アリゼの選択に任せよう﹂
テラ・ドレイク
杖に使えそうな魔石は、鉱山ゴブリンのもの、豚鬼兵士のもの、
地亜竜のもの辺りになるだろう。
それ以外のは⋮⋮一、二階層で採取出来るものだからな。
指定されたのは三階層以上の魔物の魔石だった。
﹁ちなみにだが、ゴブリンとかスライムとかの魔石だとダメなのか
?﹂
﹁絶対にダメという訳ではないが、やはり魔力の増幅や制御の問題
でやめておいた方が良い。アリゼはただでさえ魔力が多いからな。
おそらくそれくらいの魔石を使うと、初歩の魔術であっても、すぐ
に割れるぞ﹂
﹁⋮⋮魔力に耐え切れないわけか﹂
﹁まぁ、そうだな。ただ、魔力の扱いに長けていれば、そういう弱
958
ワンド
い魔石を使った短杖でも壊さずに使うことは出来る⋮⋮が、当たり
前だが、アリゼはそんなのには慣れていないからな。無理だ﹂
なるほど、よくわかった。
基本的には練習用の杖になるわけだし、そんなに簡単に壊れるよ
うだと問題だろう。
また作り直すのも手間だしな。
まぁ、作り方に習熟するためにあえて、ということもありえない
ではないが、魔石が割れた杖を使うと、魔術の暴発の危険があると
も聞く。
そんな危険をあえて招く必要もないだろう。
﹁そういうわけだから、これらの魔石は引き取らせてもらってもい
いか﹂
もちろん、そのために持って来たものなので、俺は頷く。
ロレーヌが、授業で使うものを集める責任は本来、教える自分に
あるから、今回代わりにとってきてもらったということで報酬も支
払おう、と言ってきたが、それについては必要ない、ということに
しておいた。
そもそも俺もアリゼも授業料をロレーヌに支払っているわけだが、
その金額は実のところかなり負けてもらっていると思う。
ロレーヌはなんだかんだいって優秀な魔術師で、まともに師事し
ようとしたらその報酬の相場は、金貨を出さないと無理なはずだ。
それなのに、そこまでしてもらうのはダメだろう。
そう言うと、ロレーヌは、別にもらえるものはもらっておけばい
いのに、と言ったが、そういうところはしっかりしておきたいと思
った俺だった。
まぁ、結構色々なぁなぁでやってきてはいる俺とロレーヌである
959
が、こういうときにお互いに別にいい、と言ってしまうからそうな
っているだけで、元々、ただで寄りかかるつもりはない。
結局、結果的には寄りかかりまくりなんだけどな⋮⋮。
それからロレーヌは、
﹁で、あとは︽魔鉄︾の精錬だな﹂
そう言った。
960
第142話 下級吸血鬼と精錬
︽魔鉄︾の精錬。
それをどのようにしてやるのか、というと大きく見るといくつか
ある。
大規模なものだと、鍛冶組合などが行っている魔道具を使用した
精錬方法が代表的だろう。
魔術を使わずにやる方法も古来のものとして存在してはいるが、
今ではコストや時間の関係でほとんど行われていない。
辺境などで小規模にやっている場合は存在しているが、大規模な
ものはほぼない。
ちなみに、ヤーラン王国は辺境である。
つまり山奥の村とかに行けば見られる可能性はあるということだ
な。
その機会があるかどうかは謎だが。
まぁ、そういうわけで、基本的には魔道具を使った精錬方法が代
表的なのだが、他にも方法はある。
それが錬金術を使ったものだ。
厳密にいうなら、魔道具を使った方法も、錬金術が生み出した方
法と言えるが、魔力を操りつつ、専用の魔道具を使わずに行える方
法があるのだ。
ロレーヌに頼むのがこれにあたる。
錬金術は別に魔術師しか学んではならないというものではないし、
魔術師ではない錬金術師というのもいるが、やはり魔力をある程度
扱える方が研究しやすいのは事実だ。
そうでなければ魔石を使ったり魔力を操るための器具を活用しな
いとならなくなってくるから面倒らしい。
961
ロレーヌはこの点、極めて優秀な魔術師であるので、片手間でぱ
ぱっとやってしまえるようである。
実際、︽魔鉄︾の鉱石をいくつか手にし、まとめて机の上に置い
てからロレーヌは、
﹁では、早速⋮⋮﹂
と言いながら、︽魔鉄︾の精錬のために魔力を集め始めた。
俺には魔力がどこに集中しているか見えるわけではないのだが、
鉱石に含まれた︽魔鉄︾が魔力に反応してほのかに淡い紫色に発光
している。
それから、変化はふっと起こった。
鉱石の発光している部分が動き出し、液体のような動きを見せる。
︽魔鉄︾だ。
それからしゅるしゅると蛇のように動き、鉱石から離れていく。
キン、キキン、と音を立てて、小さな破片が弾かれていくのは、
不純物が飛ばされているからだ。
そして、純粋な︽魔鉄︾となったそれは、ひとところに集まり、
徐々に細かなまとまりから大きな塊を形作っていった。
﹁⋮⋮ふむ、こんなものかな?﹂
空中に浮かぶ、長方形をした紫がかった金属の塊を手に取り、ロ
レーヌがそう言った。
﹁出来たか﹂
俺がそう尋ねると、ロレーヌは、
962
﹁あぁ⋮⋮まぁ、それなりに良くできていると思うぞ。並の錬金術
師ではここまで純度の高い精錬は出来んだろう﹂
そう言って、︽魔鉄︾のインゴットを俺に手渡す。
俺は手渡されたそれを矯めつ眇めつ見てみるが、冗談交じりにで
も自画自賛するだけあって確かに非常によくできているように見え
た。
ある程度以上の純度の金属塊について、俺がどれだけの質を判断
できるかと言われると微妙なところだが、鍛冶組合などで手に入る
︽魔鉄︾のインゴット以上の質があるのは間違いないと思う。
まぁ、あっちは大量生産品で、こっちはそうではないからな。
かけられる手間も違うし、それに鍛冶組合の品は鍛冶師の手に譲
られた後、鍛冶師によって更に精錬されたりすることを想定したも
のだから、単純には比較できないとは思う。
もちろん、それでも品質が良い方がいいのは当たり前だけどな。
そしてロレーヌがしてくれたのは十分な仕事だと言えるだろう。
﹁他のも全部まとめてやってしまうが、いいか?﹂
ロレーヌがそう尋ねてきたので、俺は頷いて、魔法の袋に入って
いる︽魔鉄︾の鉱石すべてを取り出す。
﹁あぁ⋮⋮変質しているのもあるんだったな。分けておこう。黄色
みがかかっている奴だけ除ければいいよな?﹂
思い出して俺がそう言うと、ロレーヌは、
﹁そうだな⋮⋮まぁ、内部だけ変質しているものもあるかもしれん
が、そういうものは精錬する際に分けることとしよう。全部一緒に
やってもいいんだが、疲れるんでな。ある程度は分けておいた方が
963
楽だ﹂
アース・ドラゴン
大地竜の魔力に染まった︽魔鉄︾と通常の︽魔鉄︾と同時に、か
つ分割して精錬することもロレーヌには出来るらしいが、それは魔
力の扱いに非常に気を遣うためにやりたくないらしい。
また、失敗する可能性も高くなるとも。
少量だけ混じっている、という状態ならそれほど気を遣わずに分
けられるということなので、俺はせっせと鉱石を分けていった。
﹁⋮⋮意外と量があったな﹂
アース・ドラゴン
というのは、鉱石全体の量という訳ではなくて、大地竜の魔力に
染まった鉱石の量が、である。
全体の三分の一ほどあり、持ってきた量からすると結構なインゴ
アース・ドラゴン
ットが採れそうな感じだ。
﹁その大地竜がよほどの魔力を周囲に放っていたのではないか? 並の冒険者がそこにいたら気絶していたかもしれんな⋮⋮﹂
ロレーヌがそう、恐ろしいことを言った。
俺はこの体だから平気だったのかもしれないというわけだ。
まぁ、それでも死にはしなかっただろうが、あんなところで気絶
したら即座に魔物に襲われるからな。
やっぱり死んでただろう。
﹁さぁ、サクサク行くぞ﹂
ロレーヌはそう言って、分けた鉱石のうち、通常の︽魔鉄︾の方
を精錬し始める。
先ほどとは速度が違うのは、この鉱石の構成を理解して、慣れた
964
からだろう。
次々にインゴットが詰み上がっていく。
﹁⋮⋮よし、こんなところだな﹂
ロレーヌがそう言ったのは、精錬を初めて三十分も経っていない
くらいだ。
速い。
それこそ並の錬金術師なら、一日がかりの作業なのではないだろ
うか。
しかもロレーヌはそれから、
アース・ドラゴン
﹁次はこっちだ﹂
そう言って、大地竜の魔力に染まった︽魔鉄︾鉱石の方に取り掛
かり始めた。
﹁⋮⋮大丈夫なのか?﹂
あまりにも速いので心配になってそう尋ねるが、
﹁何、問題ない⋮⋮﹂
そう言いながら、やはり次々とインゴットを積み上げていく。
こちらは、先ほどの︽魔鉄︾と違って、黄みがかった金属塊だ。
黄金というよりかはかなりくすんだ色合いで、輝きは薄いが、通
常の︽魔鉄︾よりも圧力のようなものを感じる気がする。
気のせいかな?
﹁よし、これでいいだろう﹂
965
ロレーヌがそう言ったのは、さきほどよりも遥かに短い時間、十
分ほどしか経っていない。
ただ
それなのに、その仕事は完璧であった。
﹁流石だな。しかし、これで無料っていうのは本当に悪い気がする
な﹂
これだけのことを一般的な錬金術師に頼んだら普通に金貨が飛ん
でいくのではないだろうか。
一日がかりだし、品質も高いし、魔力も大量に使うだろうし⋮⋮。
しかしロレーヌは首を振るのだ。
ただ
﹁それを言うなら、私も無料で世界唯一と思しき存在を研究させて
もらっているわけだからな。本来なら万金に値する経験だぞ。なに
せ、これくらいのことを出来る錬金術師なら探せば見つかるが、お
前のような存在は探そうと思っても見つけるのは不可能だ。だから、
気にするな﹂
本当にどこかにいないのかな、と思うが、少なくとも俺は会った
ことは無いし、ロレーヌも見たことは無いのは間違いない。
そもそも︽龍︾に喰われなきゃならないと言うのがハードルが高
いからなぁ⋮⋮。
ともかく、
﹁じゃあ、お互い持ちつもたれるってことでいいか﹂
そう言うと、ロレーヌも頷いて、そうだな、と言った。
966
第143話 下級吸血鬼と商会
﹁では、気を付けて行って来い。商人というのは抜け目がないから
な﹂
そう言って、ロレーヌが俺を見送る。
﹁あぁ。十分に分かっているつもりだが⋮⋮﹂
人間だったときだって、貴重な品物を手に入れたことくらいは何
度かあり、その際に大店の商人と話したこともある。
だからそう言ったのだが、ロレーヌは首を振って、
﹁前のときとは違うんだ。お前はその身自体が貴重品だからな。白
金貨百枚くらい持っているつもりで用心しろ﹂
そう言った。
ヴァンパイア
まぁ⋮⋮確かにそうか。
吸血鬼が目の前にいたら、とりあえず捕獲か退治かってなるもの
だし、商人だったら捕獲一直線で動くだろう。
彼らには護衛などの関係で腕利きの冒険者との伝手も強かったり
するし、そういうのを呼ばれているとやばいのは間違いない。
よくよく用心しなければならないと気を引き締めた。
⋮⋮別に用心しないつもりだったわけではないぞ。
思っていた以上に、というだけだ。
﹁わかったよ⋮⋮じゃあな﹂
967
そう言って俺はロレーヌに手を振り、街へと繰り出した。
◇◆◇◆◇
大通り沿いの目立つ位置に存在しているステノ商会の本店は、流
石この街において上から数えた方が早い商会だけあって、かなり大
きい。
五階建ての石造りの建物で、二階までが店舗部分、それより上は
商会の事務所や倉庫となっているようだ。
店舗部分には常に人が出入りしていて、客足が尽きない様子が一
目で理解できる。
生活雑貨から冒険者用の道具に至るまで、ありとあらゆるものを
扱っているというだけあって、客層も色彩豊かだった。
まぁ、その中でも俺はかなり浮いているが⋮⋮ローブはともかく
仮面はそれほどいないからな。
全くいないわけでもないが、流石に髑髏の描いてある派手な仮面
をつけている奴はいない。
大半は怪我や火傷などで顔を直接見せられないからつけるもので
あり、そういう事情から少し負い目を持ってしまう者が多いらしく、
派手な仮面は敬遠される傾向にあると聞く。
それでも稀にど派手な仮面を身に付けている者もいるが、そうい
う者は今度は服装まで派手だったりするからな。
ローブは仕立てがいいけれど地味なのに仮面は派手に主張してい
るという、どっちつかずな俺はやっぱり目立つ。
だからと言ってどういうというわけでもないが⋮⋮改めてこうや
って昼間の街中でこういう大きな店の入り口前に立っていると、果
たして俺が入っていいのかな?という気分になる。
それだけ夜とか早朝とか昼間でもあまり人通りが少ない目立たな
い時間を狙って行動してきた俺にとって、こういう人ごみは久しく
968
味わっていないもので、そこでの作法というか、振る舞いに変なと
アース・ドラゴン
ころが出ないかと緊張してしまうのだ。
これならまだ大地竜の前の方がどきどきしないかも⋮⋮いや、そ
んなわけないか。
あんなものと相対したのだから、今更、一般人の人ごみ程度でび
くびくするなよ、レント、と自分に言い聞かせ、俺はステノ商会の
店内へと突入した。
﹁いらっしゃいませ、お客様。今日はどのようなご用件でしょうか﹂
店に入るとほぼ同時に、物慣れた雰囲気の細身の男が素早く寄っ
てきてそう尋ねてきた。
走ったわけでもないのに、その速度は冒険者のそれと勘違いしそ
うなほどに素早い。
流石、大店は勤めている従業員も質が違うな、と思う。
その辺の店だと入っても適当だからな⋮⋮そっちの方が俺には気
楽だが、高級品を買うならこれくらいの方が安心できるかもしれな
い。
任せておけば全て適切に選んでくれそうな物慣れた雰囲気がある。
まぁ、在庫を押し付けられたりする場合もないとは言えないだろ
うが、それをすればこれくらいの店となると後々客足が逃げること
も理解しているだろう。
﹁あぁ⋮⋮ええと、俺はレント・ヴィヴィエという者だ。この間、
タラスクを持ってきた者なのだが⋮⋮﹂
名前を名乗った時点で、男の顔には納得の表情があり、俺が言葉
を切ると即座に、
﹁伺っております。こちらへどうぞ﹂
969
と言って店の奥へと案内してくれた。
店舗部分ではなく、事務所部分に当たる上階に昇降機を使って先
導してくれる。
﹁⋮⋮最近は来ていなかったが、こんなものまであるのだな﹂
俺が昇降機を見て驚いてそう言うと、男は、
﹁ええ、つい最近導入致しまして⋮⋮王都の魔道具職人の手による
もので、このマルトにおいては当店のみにしかございません。しか
し、当店にご来店されたことが? 失礼ですが、いつ頃⋮⋮?﹂
王都の魔道具職人か。
昇降機は以前、ロレーヌの本で読んだことがあるくらいで、現物
を見たのは初めてである。
西方の技術により開発されたものらしく、ヤーランに入ってくる
のはいつ頃かな、と思っていたが、すでに入ってきていたらしい。
辺境の辺境であるここマルトにまで来ているということは、王都
の店には沢山あるのだろうか?
いや、でも王都の職人でないと作れないと言うことはそこまで普
及しているわけではないのかもしれない。
この店の、営業能力を見せるための施設といった所だろうか。
また、俺がいつ来たのか尋ねているのは、この男が客の大半の顔
と名前を憶えているからかもしれない。
俺の方はと言えば、どの店員と話して買い物したのかすらあやふ
やであるが、それくらい出来ないとこの店の店員としては失格なの
かもな。
しかし、その質問は俺には困るのだ。
970
適当に誤魔化しておくことにした。
﹁⋮⋮いつ頃だったかな。他の店と勘違いしているのかもしれん。
マルトホオノキを買いに来たんだが⋮⋮﹂
﹁あぁ、そちらでしたら、ウィータ商会の方でしょうね。あちらは
冒険者の方向けに多くの質のいい商品が扱われておりますから。も
ちろん、当店も負けるつもりはございませんが﹂
と言われた。
マルトホオノキの葉は確かにマルト第一の商会と言われるウィー
タ商会の方に売っている品で、こちらのステノ商会にはないものだ。
もちろん、あえてそういうものを口にしたのだ。
男の納得は得られたようで、俺は安心する。
ちなみに、あれはあまり儲けの多くないもので、売るかどうかは
店によって差がある。
俺たち冒険者にとっては必須であるので、ウィータ商会は昔から
売っているが、あまりにもそこの印象が強いので、他の商会はあま
り売ろうとしていない。
仕入れるのもその辺に生えているので簡単なんだが、大体がウィ
ータ商会の方に行ってしまうから、意味がないのだろう。
他の品で客寄せはするということだ。
実際、十分な客が来ていることから、それで問題ないのだろう。
﹁⋮⋮着きましたね。こちらが当店の五階です。応接室はこちらに
⋮⋮﹂
昇降機を降りると、男は再度、先導して歩き始めた。
そして一つの木製の高級そうな扉の前で止まる。
⋮⋮高級そうな、ではないな。高級だろう。
971
なにせ、かなり細かい装飾が施されているし、ノブは銀製だ。
応接室だから気合いを入れているのか、それともそれだけ儲かっ
ているのか⋮⋮。
どっちでもいいか。
﹁では、どうぞ﹂
がちゃり、と扉を開き、中に入るよう促されたので、俺は入室す
る。
続いて男も入ってきて、扉を閉めた。
それから、
﹁こちらにおかけください﹂
とソファをすすめられ、さらに部屋にある棚から茶器一式を持っ
てきて、優雅な仕草で目の前に出してくれた。
温かい香りが広がる。
﹁当店で仕入れております紅茶でございます。よろしければ、こち
らのお茶請けとご一緒にどうぞ。私はこれから主人を呼んでまいり
ますので、その間、お楽しみくださいませ﹂
そう言って、男は深く頭を下げ、部屋を後にした。
﹁⋮⋮お、うまいな。こっちのお菓子も﹂
遠慮せずばくばく食べていると、こんこん、と扉が叩かれたので、
俺はびくりとして慌てて茶器などを置き、出来るだけ冷静に聞こえ
るように細心の注意を払いながら言った。
972
﹁⋮⋮どうぞ﹂
973
第144話 下級吸血鬼と商会の主
﹁⋮⋮失礼する﹂
そう言って部屋に入って来たのは、恰幅のいい一人の男性であっ
た。
いかにも商人風の鮮やかな色合いの使われた緩い衣装と、全体か
ら感じられる大らかそうな雰囲気がなるほど、大商会の会頭だな、
という雰囲気だった。
予測に過ぎなかったが、やはりそれは正しかったようで、
﹁貴方があのタラスクを狩ったという冒険者、レント・ヴィヴィエ
殿か⋮⋮この度は無理を言って、本当に申し訳ない。私がこのステ
ノ商会の会頭、シャール・ステノだ。今回のことの埋め合わせは、
我が商会の商品の割引や、その他、商会として便宜を図ることでし
ていきたいと考えている⋮⋮﹂
そう言って頭を下げた。
いきなりそこまで俺にとって有益な条件を出してくるのは、本当
に申し訳ないと思ってのことなのか、それとも何か他に思惑がある
のかと怪しんでしまうほどだ。 ふつう、こういったことは徐々に
お互い探り合いながら決めていくもので、以前、俺が珍品を見つけ
て商会に売りつけに行ったときは大概がそうだった。
それなのに⋮⋮。
タラスクという品が品だからなのか、それとも、タラスクを欲し
いと言った人物がよほどの相手なのか⋮⋮。
どちらにしろ、全く気が抜けなさそうだな、とげんなりした思い
を覚えた俺だった。
974
しかし、そんな感情を表には出さずに、俺は仮面を顔の上半分だ
けを覆う形にして、笑いかけながら言う。
﹁⋮⋮銅級冒険者、レント・ヴィヴィエです。以後、お見知りおき
を。それで、今回のことについてすが⋮⋮それほど謝ってもらうほ
どのことでもありませんよ。ここに来たのは、自分で決めたことで
すから。私が苦労して討伐したタラスクをオークションで推測され
る落札価格の倍額で引き取ってくださると言うのですから、これを
喜ばない冒険者はまず、いないでしょうし。私としては小躍りした
い気分ですよ﹂
最後に付け加えた一言に、シャールはふっと笑って、
ひょうきん
﹁⋮⋮意外に、剽軽で話の出来る方なのだな? 噂を聞くに、もっ
とこう、固い人物だと予想していたのだが⋮⋮﹂
そう言った。
なんとなく、聞き捨てならない言葉である。
そもそも、俺の噂ってどこで流れているんだ。
気になって、尋ねる。
﹁ええと、どこでどのような噂が? 正直、自分が周りからどのよ
うに見えているのか、自覚があまりないもので⋮⋮﹂
レント・ファイナだったころは割とあったのだが、今はなぁ。
接触する人間の数がかなり少ないのだ。
ロレーヌやクロープたちくらいで、その他の一般的な冒険者たち
と話すことはあまりない。
せいぜい、落とし物を拾って手渡したりとかしたくらいか?
それでも最低限の会話しかしていないが。
975
あまり長く話してボロが出るとまずいからな⋮⋮。
シャールは、
﹁ふむ⋮⋮商人としてはあまりそういう情報を人に開示するのは褒
められたことではないのだが、今回は完全にこちらの我儘だ。便宜
を図る、とも言ったことであるし、教えよう﹂
と意外にも親切にいう。
シャールは続ける。
﹁と言っても、正直なところ、レント殿の話を集めるのは意外と骨
でな。冒険者でいらっしゃることは簡単に分かったが、どんな人物
か知るものはほとんどいなかった。ただ、皆、口をそろえて言うこ
とには、︽恐ろしい奴だ︾という話だった﹂
﹁それは、どういう⋮⋮?﹂
﹁貴方は銅級冒険者であるわけだが、ほとんど誰とも話さない。そ
れだけに、無口で不愛想な人物だと認識されているようだが、迷宮
などで見かけると、その技の冴えはとてもではないが銅級程度に収
まるものではない、と﹂
なるほど、たまに冒険者とはすれ違っているし、戦っている横を
通りがかられたことも何度もあるからな。
お互い、基本的に手出しは無用という迷宮の掟に従って関わらな
いわけだが、それでもちらりと見られたことは結構あるわけだ。
場合によってはじっくり観戦されたこともある。
まぁ、よろしくはないが絶対にダメという訳でもない。
邪魔しない限りは咎められない行為だ。
976
そういうことをしていた冒険者たちから話を集めたのだろう。
ギルド
しかし、無口で不愛想か。
まぁ、冒険者組合ではシェイラとしか話さないし、大体ぼそぼそ
喋っているからな。
解体場ではダリオとくらいしか話さないし⋮⋮。
うーん、俺って友達いない奴みたいじゃないか?
実際、いないんだけど。
はっきり友達!って言えるのは、ロレーヌくらいしか⋮⋮。
あんまり深く考えるのはやめよう。寂しくなる。
昔は俺だって一杯友達がいたんだい。
﹁なんだか随分と褒められているみたいですが、それほどでもない
と思いますよ。俺くらいの腕の者は、そこらにたくさんいますから
ね⋮⋮﹂
別に謙遜でもなんでもない。
実際、俺の腕を客観的に計測したら、銀級下位程度ではないだろ
うか?
色々と切り札をいくつか持っていて、それが俺の実力を瞬間的に
それ以上に底上げしているときはあるかもしれないが、普段は⋮⋮。
それでも、レント・ファイナだったときと比べると、雲泥の差で、
これからも強くなれるという確信が持てているので幸せなことであ
るが。
そう思っていった言葉に、シャールも頷いた。
﹁それは確かにそのような話を言っていたな。だが、非常に無駄が
少ない、とも言っていた。ただ強いのではなく、隙が無いと。負け
ない戦いが出来る奴だ、と。それに加えて、噴き出す執念が人間離
れしている、とも﹂
977
負けない戦い⋮⋮死にそうになったら逃げるような戦い方はして
いるかもしれないが、それが意外と評価されているようだ。
執念はそうか?という感じだ。
一生懸命頑張ってはいるつもりだけど、そんなにそんなもの出し
てるつもりはないんだけどな⋮⋮。
人間離れは、まぁ⋮⋮人間じゃないんで、と言えればどれだけウ
ケがとれるかというのを試してみたい衝動に一瞬かられるが、それ
をやると終わりである。
いくら剽軽と言われてもそこまで剽軽にはなれない。
﹁うーん⋮⋮総じて考えると、臆病でなんだか危険そうな人物、と
いうところではありませんか? ⋮⋮評価していただける部分がな
いような﹂
﹁なぜ、そんな捉え方になるのだ⋮⋮まぁ、いいだろう。そういう
ことにしておこう。ただ、いくら調べても分からなかったことがあ
る﹂
額を抑えながら首を振ったシャールが、ふと言った言葉に俺は首
を傾げる
﹁はて? なんでしょう?﹂
﹁貴方の出自だ。いや、レルムッド帝国の人間だ、とは一応分かっ
たのだが⋮⋮それ以上はな。どこの出身か、お聞きしても?﹂
⋮⋮いや、俺って帝国の人間だったっけ?
とか言いたくなるが、この辺りはロレーヌとシェイラが色々とや
ギルド
ってくれたことを聞いているのであまり驚きはしない。
冒険者組合の記録はシェイラが、細かい足取りについてはロレー
978
ヌが伝手を使って細工してくれているのだ。
なぜ帝国の出身になっているかと言えば、対外的に俺はロレーヌ
の親戚であるからだ。
冒険者はおかしな出自の人間が多い職業である。
単純に探ってくる相手は適当にあしらえば良かったが、商人相手
となるとそうはいかない。
多少怪しくてもそこまで調べる人間はさほど多くないと思ってい
たが、念のため色々やっていて良かった⋮⋮。
ついでに今日、商人が相手ということで、ここに来るにあたって
ロレーヌと考えた一応の細かい設定もあった。
だから俺は言う。
﹁特に隠すことでもありませんし⋮⋮レルムッドの機械都市アーヴ
ァンの出ですよ。ご存知ですか?﹂
俺は知らない。
行ったこともない。
が、知識はロレーヌが帝国のことを語るついでに話してくれたの
で分かる。 魔道具や機械が発達しているとしてであり、鉄と油と魔術の街だ
と言う話だ。
そこら中に魔工や機械工がいて、日夜、新たな製品を作るべく働
いているのだと言う。
場所柄、手に職をつけたいと考える者が集まりやすく、そのせい
かはわからないが下働きの孤児も多いようだ。
他所のスラムなどから、アーヴァンに来れば何かしら食べる手段
が得られると集まるらしい。
俺は、そんな孤児の一人だった、という設定である。
そんな説明を、ロレーヌに聞いたアーヴァンの雰囲気や匂いが伝
わる描写と共に伝えると、シャールは納得したらしい。
979
﹁⋮⋮なるほど。そういうことだったか﹂
そう言った。
本当に納得しているかどうかは、その表情からうかがい知ること
は出来ない。
ただ、一応の説得力は感じてくれたように思う。
質問にもいくつか答えたし、致命的な間違いはなかったはずだし
な⋮⋮。
たぶん。
あとでロレーヌにその答えで大丈夫だったか聞いてみよう。
それから、シャールは、
﹁色々と長く話してしまったが、楽しかった。人となりも大体分か
ったことであるし、そろそろ時間だ。今回話を持ってきた相手方が
あと数分で到着するが、よろしいか?﹂
そう言った。
980
第145話 下級吸血鬼と二人の人物
俺がシャールの問いかけに頷くと、
︱︱コンコン。
とタイミングよく扉が叩かれる音がした。
﹁⋮⋮ニヴ・マリス様と、ミュリアス・ライザ様がいらっしゃいま
した﹂
扉の向こうから、そんな声が響く。
先ほどの店員の男のもののようだ。
シャールが俺を見たので、頷くと、彼は扉に向かって、
﹁お通ししてくれ﹂
と、言って立ち上がる。
俺も同様に立ち上がった。
すると、扉が開き、その向こうから二人の人物が入ってくる。
驚くほどの、美人二人だ。
一人は灰色の髪に、爛々と輝く赤い瞳を持った、内面のまるで読
めなさそうな印象を受ける女性で、そしてもう一人は、銀色の髪に
紫水晶のような瞳を持つ、儚げな雰囲気の女性である。
年の頃は⋮⋮二人とも、十代後半から二十代前半と言ったところ
だろうか。
あんまり女性の年齢の目利きは得意ではないので外れているかも
しれないが、概ね当たっているような気がする。
981
今ではまず行かないが、先輩冒険者に昔連れられて行った女性が
テーブルにつく飲み屋において、私いくつに見えるクイズに何度外
れてきたことか。
先輩冒険者の方は、正しい年齢に大体マイナス二、三才程度で答
えると言う離れ業を披露していたのを思い出す。
なんでわかるんだ。それはどうでもいいか。
二人が入ると、扉は閉じたので、店員は去っていったようだ。
﹁よくいらっしゃいましたな。ニヴ様、ミュリアス様。こちらが、
先日タラスクを狩って来た冒険者の⋮⋮﹂
と言うところで切り、俺の顔を見たので、自己紹介しろ、という
ことだろう。
様、とつけているところかも、向こうの方が身分が高いことを示
してくれているようだ。
親切である。
俺は、
﹁銅級冒険者の、レント・ヴィヴィエです。どうぞお見知りおきを﹂
そう言って頭を下げた。
すると、向こうは意外にも、
﹁あぁ、そういうのは構いませんよ、顔を上げてください、レント
さん。私たちは別に偉いわけでは⋮⋮あぁ、ミュリアス様は偉かっ
たですね? いやいや、私の方は、特に偉くはないのです。一応、
爵位は持っていますが、元々、平民ですからね﹂
と言ってきたので、おそるおそる顔を上げると、そこには笑顔の
982
ニヴがいた。
灰色の髪の女性の方が、ニヴだろう。
プラチナ
俺は実のところ、彼女の名前を聞いたことがあった。
ニヴ・マリス⋮⋮それは、隣国における、若くして白金級間近と
も言われる金級を持つ、飛び抜けた才能を持つ冒険者の名前だ。
その成し遂げた偉業によって、国から名誉男爵の地位を受けてい
る。
だからこそ、ああいう言い方になったのだろう。
そして、その偉業は、俺とは非常に相性の悪いものだ⋮⋮。
ミドル・ヴァンパイア
ヴァンパイア・ハンター
﹁ええ、私も冒険者なので、お噂は聞いています。たしか⋮⋮街に
ヴァンパイア
巣食っていた中級吸血鬼を討伐なさった、吸血鬼狩りだとか﹂
そうだ。
しき
レッサー・ヴァンパイア
彼女は、多くの吸血鬼を好んで狩る冒険者なのである。
ミドル・ヴァ
と言っても、基本的にその獲物の大半は屍鬼や、下級吸血鬼なの
ンパイア
だが、彼女は隣国ホープ王国に置いて、都市に巣食っていた中級吸
ヴァンパイア
血鬼の群れを根絶やしにしたことで名前が知れ渡った。
その強さもさることながら、隠れ住んでいる吸血鬼探しに卓越し
た技能を持っている、ということがそれでわかったからだ。
ミドル・ヴァンパイア
一体どのような方法でもってそれを行っているのかはまるで分か
らないが⋮⋮。
事実として、中級吸血鬼の群れが一つ丸々潰されているのだ。
出来る、という他ない。
⋮⋮なんでこんな天敵みたいなやつがいきなり来るんだ? 俺の運勢悪すぎないか?
ヴァンパイア・ハンター
ヴァンパイア
心の底からそう思ったし、今すぐに逃げ帰りたい気分だが、貴方
は吸血鬼狩りなので、吸血鬼である私にとっては極めて都合が悪い
983
です、お暇させていただきますとか口が裂けても言えるはずがない。
ヴァンパイア
出来る限りさっさと話をつけて帰るほか、方法はないだろう⋮⋮。
もし俺が吸血鬼であるとすでにばれていたら?
そのときはもう終わりだ。
ここで死ぬ気で戦って逃げ、それからどこか別の土地で人生をや
り直すしか道はないだろう。
実際どうなんだろうな⋮⋮。
雰囲気からは全く分からない。
普通の、極めてにこやかな表情だ。
底知れないものは感じるが、しかし、俺に対する敵意とか警戒と
かはまるでない⋮⋮ばれないのか。どうなんだ。
胸ぐら掴んで問い詰めたい気分だった。
それをやったら死ぬだろうけど。
まぁ、腹をくくって話すしかないな。
ばれてたら、そのときのことはそのときに考えよう⋮⋮。
﹁おぉ、よくご存じで。まさか私の名前がこんな辺境にまで伝わっ
ているとは⋮⋮おっと失礼。別に馬鹿にする意図はないのでお許し
を﹂
ニヴは、ここマルトを辺境、と言ったことをすぐに謝った。
別にいい気はするが、それで怒る人間というのもたまにいる。
何を辺境だと、ここは都会なんだぜ、である。
そんなわけなかろうに。
﹁いえ、おっしゃる通りここは辺鄙なところなので⋮⋮それで、そ
ちらの方は?﹂
984
隣に立っている儚げな様子の銀髪の女性を見て、俺はそう尋ねる。
するとその女性は、
﹁申し遅れました。わたくしはロベリア教において神官を務めさせ
ていただいております、ミュリアス・ライザと申します。どうぞよ
ろしくお願いします﹂
と名乗り、それから俺の目をじっと見つめた。
その瞬間、ふわり、とした感覚が体を襲う。
不快ではなく、何かに包まれたような不思議な感覚だ。
一体なんだ?
と思った直後、体の奥から聖気が共鳴して引き出されるような感
じがした。
これは⋮⋮。
首を傾げていると、ミュリアスは驚いたような顔で俺を見て、そ
れから、
﹁⋮⋮もしかして、聖気をお使いに?﹂
と尋ねてきた。
なんで分かるのか、と聞きたいところだが、なんとなく理由は察
しが付く。
﹁今の感覚は⋮⋮貴女が?﹂
﹁ええ、聖気の祝福をと思いまして⋮⋮悪しきものは払われるので、
その、何と言いますか⋮⋮﹂
ちらり、と隣のニヴを見て、言いにくそうな顔をした。
ニヴはその視線を笑って受け、
985
﹁いや、申し訳ないですね。私はこれで、レントさんの言った通り、
そこそこ有名なのですよ。ですので、命を狙われることも日常茶飯
事で⋮⋮普通の攻撃なら結構腕にも自信があるので何とかできると
思うのですが、毒とかそういったものは注意しててもどうしようも
ありませんから。聖女であらせられるミュリアス様に今日ここに来
るにあたって同道をお願いし、浄化してもらったのです。これで私
ヴァンパイア
も聖気は使えるのですが、浄化とか祝福とか、そっち方面は苦手で
ヴァンパイア
⋮⋮ロベリア教に伝手があって非常に助かりました。私、吸血鬼探
しは上手なんですけどね。吸血鬼は聖気に弱いですから、ぶつけて
やればもう一発です﹂
と言う。
なんだかとにかく喋る人物だ。
話す言葉一つ一つが軽いような⋮⋮でも内容は結構重要なことを
言っている。
ミュリアスがロベリア教の聖女である、と言っているし、そんな
ところに頼みごとが出来るだけの権力のようなものをニヴは持って
いると今の話だけでわかる。
ヴァンパイア
また吸血鬼狩りが得意な理由についても。
しかし、吸血鬼は聖気に弱い、か。
俺は身に宿しているからか全然平気なんだけどな⋮⋮。
そもそも、一般的にもそんな話は⋮⋮聞いたことないような?
本当なのかな。
いや、普通に武具に聖気を込め、切りつけたりすれば傷つくのだ
が、聖気をぶつけて⋮⋮それで判別が出来るとは聞いたことがない。
それが出来るなら、吸血鬼狩りは聖人や聖女の独壇場になってい
るはずだ。
けれど、そうではない。
それは、その方法では出来ないからではないか。
986
そう思った俺の雰囲気が伝わったのか、ニヴは、
﹁やり方があるのですよ。それを、私は見つけました。だから他の
人には出来ないけれど、私には出来る。そういうことですよ﹂
そう言った。
987
第146話 下級吸血鬼と判別の試し
﹁やり方、ですか⋮⋮﹂
そんなものがあるのか。
聖気の扱いについては本能的に分かるそれ以外は俺には分からな
い。
だから、そんなことが出来るのかどうかも判別は出来ない⋮⋮。
が、このニヴだけが出来る、と言っているのだから、聖気の扱い
に習熟していたとしても、本当かどうかは分からない、のかもしれ
ない。
隣のミュリアスの表情を見てみると、若干疑わしそうと言うか、
本当ですか?と今にでも言い出しそうな顔をしている。
⋮⋮この二人は別に仲がいいわけではないのかな。
ニヴの方が呼んだようだが、別に誰か指定して呼んだ、という訳
でもないのかもしれない。
俺の言葉にニヴは、
ヴァンパイア・ハンター
﹁ええ、やり方です。これで私は百発百中の吸血鬼狩りになること
が出来ました⋮⋮もちろん、普通の人にやっても何の苦痛もないの
ですよ。普通の人にやっても、ね﹂
これは⋮⋮どうなんだ?
バレてるのかバレてないのか全く判別がつかない。
すでにやっている?
ヴァンパイア
いや、だとしたらすでに捉えるか殺しにかかっているはずだ。
ニヴ・マリスの牙と爪は吸血鬼を引き裂くためにあると言うのは
988
有名な話だからだ。
ということは、やはり、まだバレてはいないのか⋮⋮。
ただ、疑われている、というのは考えられる。
ヴァンパイア
その上で探られている、とも。
そうなると⋮⋮その吸血鬼の判別法で俺がそれと分かるかどうか
だが⋮⋮。
悩んでいると、俺のそんな葛藤を分かってか分からないでか、ニ
ヴは言う。
ヴァンパイア
﹁お、疑ってますね? いやいや、気持ちは分かりますよ。なにせ、
最初は誰も信じてはくれませんでしたし。吸血鬼を街中で見つけて
ヴァンパイア
その場で引き裂いたらいきなり殺人鬼扱いでしたからね? もちろ
ん、私が殺した人物が吸血鬼だと後で分かったらしっかり釈放され
て報酬も出たのですが⋮⋮いやぁ、あれは災難だった﹂
笑いながら言っているが、絵面を想像すると確かに酷いな。
ヴァンパイア
街中で通行人にいきなり攻撃、惨殺では殺人鬼扱いも仕方あるま
い。
ニヴからすれば、吸血鬼が街中を歩いていたので即座に処分しな
いと危険だから、ということだったのだろうが、周りから見ればそ
のまんま、ただ道を歩いているだけの人間を無残に殺した殺人鬼だ。
ヴァンパイア
捕まるな。
吸血鬼を滅ぼすだけの実力を持った冒険者が、その辺の官憲にそ
う簡単に捕まるはずがないが、後ろめたいところがなかったから素
直に捕まったというところだろう。
﹁⋮⋮ということで、お疑いでしたら一度、試してみますか? 結
構珍しい経験だと思うんですよね。なんだかんだ言って、聖気の祝
福と似たようなものですし、普通の方にやるとだいたい喜んでもら
989
えるんですよ。やはり一般人にとって、聖気はありがたいもの、幸
福を招くものと捉えられることが多いですから。その割に宗教団体
の神官たちは出し渋ってあまり人に祝福なんてかけないので、私の
仕事もやりやすい⋮⋮いやいや、ロベリア教批判じゃないですから
ね?﹂
途中から話がずれ始めたあたりから、ニヴの隣のミュリアスの顔
が徐々に不機嫌そうに染まっていった。
ぱっと見では分からないくらいだが、明らかに温度が下がったよ
うな顔に変わっていったのだ。
まぁ、ニヴは否定したが、どう聞いたって宗教批判だからな。
特にロベリア教は聖気の祝福なんて、聖女なりなんなりが慰問に
訪れたときなど特別な時以外は寄進しないとかけてくれないものだ。
なんだか金に汚いんだよな⋮⋮聖水のことを考えたって。
しかし、その代わりロベリア教の神官たちには強力な聖気使いが
多かったりする。
十分な給料を提供してくれるから、ということだろうか?
東天教なんかは爪に火を点す生活をしないとならないから⋮⋮ま
ぁ、それでも強力な聖気使いが全くいないというわけではないのは、
人の本性が決して悪に偏っているわけではない証明なのだろうが。
﹁⋮⋮試す、と言っても⋮⋮なんだか怖いのですが﹂
俺がニヴの提案にそう言う。
その意味するところは、単純にバレたらヤバいぜ!ピンチだぜ!
ということに他ならないが、ニヴはそうは捉えなかったようだ。
﹁あぁ、すみません。私、あんまり人に信用されなくて⋮⋮こんな
軽薄な奴なんてそうそう簡単には信じられませんよね? 分かりま
す分かります。しかし⋮⋮力だけは本当なんですよ。と言っても⋮
990
⋮うーん、あ、シャールさん、やってみます? なんだか興味深そ
うなお顔をされてますよ?﹂
と、立って話を聞いていた商人シャールに尋ねる。
特に出しゃばらずにいたのは、俺とニヴたちとの話を邪魔しない
ための配慮だったのだろう。
そもそも、ニヴが俺に会いたい、と言ったからこんなことになっ
ているのだ。
話が弾んでいる以上、口を挟まなくてもいい、という判断だった
のかもしれない。
まぁ、弾んでいると言うよりニヴがとにかく話すのだけど。
話を振られたシャールは、別にそんな顔してないわ、とでも言い
たげに眉根を顰めるが、
﹁ほら、聖気の祝福を受けた! とか言えば、これからの商売にも
いい影響があるかもしれませんし、それにしばらくは魔物も寄って
きませんよ? それに私、ロベリア教とは違って寄進とか求めませ
んから、タダです! 結構お得だと思うのですけど﹂
と押し売りのように話を続ける。
シャールも特に彼女の話に乗り気、というわけではなかっただろ
ヴァンパイア
うが、この感じでは乗るまで終わらないのだろう、と察したらしく、
﹁⋮⋮分かりました。本当に苦痛はないのですな?﹂
と念を押して受け入れる。
ニヴはその質問に頷いて、
ヴァンパイア
﹁ええ、貴方が吸血鬼でなければ、の話ですけどね。吸血鬼だった
991
らそりゃ、苦しいですよ。そのためのものですもん。︱︱違います
よね?﹂
と、最後の一言を尋ねたときだけ、その瞳の輝きが違った。
心の奥底まで貫き通すような恐ろしい眼だ。
先ほどまでの軽薄さなど一切ない。
ヴァンパイア・ハンター
言葉にも軽さが感じられなかった。
なるほど、これが吸血鬼狩りニヴ・マリスか、と思った。
シャールもそんな彼女の表情に一瞬息を呑んだようだが、すぐに、
﹁当然ですな。永遠の命は欲しいと思いますが、魔のモノに身を落
としてまで手に入れたいとは、私は思いませぬ。滅びるときは、人
の身のまま、安らかに神の身許へ、と考えております。⋮⋮まぁ、
素直にそこへ行けるほど、綺麗な身でもありませんが﹂
と苦笑するように言った。
いやぁ⋮⋮魔のモノに身を落としちゃってごめんなさい。
わざとじゃないんだ。そして人間に戻りたいんだ。
だからなんていうかセーフだよね?
人の誇りとかそんな感じの方向では。
と俺は心の中で思った。
シャールの言葉にニヴは、
﹁商人ですもんね。これだけ大きい店を構えるには色々とあったで
しょう。けれど、それくらいでこっち来んなというほど神様の懐は
狭くないんじゃないですかね。ね、ミュリアスさま﹂
と横を見る。
ミュリアスはそんなニヴの信仰心が希薄なのかそれとも心の底か
992
ら信じているのか分からない妙な質問に、何とも言えない顔で、
﹁⋮⋮神の御心は私などには計れません。ただ、神は、救いを求め
る者には、それを隔てなくお与えになります﹂
﹁ですって﹂
とってつけたようなニヴの言葉である。
シャールは苦笑したが、まぁ、いいかと思ったのだろう。
ヴァンパイア・ハンター
﹁では、お願いしましょう。先ほどの言葉からして、宣伝に利用し
ても構わんのですな? 吸血鬼狩りニヴ・マリスの祝福を受けたと﹂
そう尋ねたのは、彼女が聖気使いであることがあまり知られてい
ないからだろう。
隠しているのでは、ということで聞いたのだ。
ニヴは、
﹁ぜんぜん構いません。別に隠してないですからね。知ってる人は
知ってるでしょうし。同意も得られたところで、行きますよ?﹂
﹁ええ、どうぞ﹂
そして、シャールはニヴの前に跪く。
それは、ロベリア教における、聖気の祝福を受けるときの、正式
な作法だった。
993
第147話 下級吸血鬼と炎
ニヴはそして、跪いたシャールの頭上に手のひらを、水を掬うよ
うな形にして掲げた。
そこに徐々に聖気が集まっていくのが見える。
魔力は全然見えないが、聖気は感覚的に集中しているのが分かる
んだよな⋮⋮。
まぁ、あまり離れると無理なのだけれども、これくらいの距離な
ら普通に分かる。
それにしても、かなりの量の聖気だ。
俺だったらもう枯渇してそうなくらいの量である。
ニヴ・マリスは名誉男爵の地位はあるにしても、なんだかんだ言
って結局は身分としてはただの冒険者な訳だが、そんな在野の存在
がこれほどの聖気を持っていることなどあるものなのだな。
ふつう、これだけの聖気を持っていたら、どこかしらの宗教団体
ヴァ
か、聖騎士団かに勧誘され、破格の条件を提示されて所属するのが
普通だろう。
ンパイア
それをしないのは、何か個人的な信念があるからなのかな⋮⋮吸
血鬼狩りにそれだけこだわっている、ということか。
掲げたニヴの手に、ぽっ、と小さな火が灯った。
普通の火ではない。
白くゆらゆらと燃える、不思議な炎だ。
そしてそれが聖気の塊であることが、俺には分かる。
﹁⋮⋮︽聖炎︾ですよ。聖気使いの中でも、膨大な聖気を持ち、そ
の扱いに習熟した者にのみ宿る神の炎です﹂
994
と、隣から説明がなされる。
見てみると、ミュリアスがそこにいて、不思議そうな目でニヴの
灯した︽聖炎︾を見ていた。
ヴァンパイア
﹁なぜあれで吸血鬼の判別が⋮⋮?﹂
彼女だけ使える、という話だったが、ミュリアスの言い方からす
ると他にも使える者はいるようだったからこその質問だった。
これにミュリアスは、
ヴァンパイア
﹁︽聖炎︾は得た加護によって効果、使い方が千差万別なのです。
ニヴ様の︽聖炎︾は⋮⋮吸血鬼探しに特化している、ということな
のかもしれません⋮⋮﹂
と、断定は避けながら説明してくれた。
俺も頑張ればいつか使えるようになるのかな。
それで何か特別な力を得たりとかできるのだろうか。
⋮⋮俺が使ったら出張肥料に特化するのかもしれない気もしない
でもないが⋮⋮。
そういえば、と思い尋ねる。
﹁⋮⋮ミュリアス様もお使いに?﹂
﹁私にはとてもではないですが無理です。聖気の量も、また技術も
まだまだ拙いものですから﹂
﹁ロベリア教にはあれを使える人はどのくらい⋮⋮?﹂
﹁それは⋮⋮あまり外部の方に説明することではありませんね﹂
995
少し悩んで、ミュリアスはそう言った。
あまり聞いていいことではないらしい。
しかし、ミュリアスは、ただ、と付け加えて、
﹁⋮⋮ロベリア教に限らず、あれを扱える人はほとんどいません。
各団体に、二、三人いればいい方、とだけ﹂
と説明してくれた。
他の団体のことを言っているようでいて、ロベリア教のことも言
っているわけだ。
ギリギリの説明だな。
ニヴとのやりとりを聞く限り、かなり四角四面っぽい人に思えて
いたが、意外とそこまで信仰心でガチガチになっているタイプでは
ないのかもしれない。
まぁ、そんな深く信仰していなくても、あれだけあてこすりのよ
うに文句を言われ続ければ流石にイラッとはするか。
言い方もあれだったしな。
そんなことを考えているうち、ニヴの抱える白い炎は大きくなっ
ていき、天井手前までの大きさになる。
シャールがそれを見たら目を見開いて驚くだろうが、今、彼は目
をつぶっている。
そのことが救いだろう。
あんな炎が頭の上で燃えていたら死ぬと思うぞ、普通。
しかし、この距離でもあそこまで巨大な炎があれば、焼けるほど
熱くて不思議ではないはずだが、全く熱は感じない。
炎が焼いているように見える天井も、まるで焦げる様子などない。
普通の炎とは、性質が全く違うのかもしれない。
996
それから︽聖炎︾は、ニヴがその両手を、水を流すように少しず
つ下に開いていくと、シャールに向かって零れ落ち始めた。
燃える!
と思ってしまう光景だが、白い炎はシャールを焼かずに、ただ照
らし、そして包み込むように触れると、静かに消える。
次々とそんなことが繰り返され、そしてすべての白い炎が落ち終
わると、辺りはまるで今まで何もなかったかのように、しん、と静
まり返っていた。
それから、
ヴァンパイア
﹁⋮⋮シャールさんは、吸血鬼ではないようですね! では次です
!﹂
と言って、ニヴは俺に視線を合わせて叫んだ。
シャールはそう言われて目を開け、ほっとしたように息を吐いて
いる。
それにしても、流れ作業のように言うな!
と突っ込みたくなったが、そんなことを出来る相手ではない。
というかそこまでの余裕は正直ない。
どうすりゃいいんだ。
逃げられないのか⋮⋮。
あぁ、そういえば。
と思い、俺はニヴに尋ねる。
997
﹁⋮⋮先ほどその力を受けると、魔物が寄ってこない、というお話
をされていましたね?﹂
﹁ええ、まぁ﹂
﹁私は冒険者なので、それでは困るので、ちょっと遠慮を⋮⋮﹂
良い言い訳である、と思っての言葉だったが、即座に、
﹁あぁ、お気になさらず。そうならないようにも出来ますから﹂
と言い返された。
全力で気にしたいのに、それを許してくれるつもりはないようだ。
けれど、俺はそれでもあきらめないで言い募る。
﹁⋮⋮最初だったら良かったのですが、今、あれを見てから受ける
度胸は⋮⋮﹂
別におかしくはない言い訳であろう。
誰だって、きっと安全だと思っていてもどう見ても炎にしか見え
ないものに焼かれたい人間などいるはずがない。
しかし、ニヴは、
﹁お気持ちは分かりますが⋮⋮うーん、なんだか、先ほどから妙に
避けますね? 何か疚しいところでも?﹂
ヴァンパイア
と首を傾げ、目を爛々と輝かせて聞いてきた。
あの目は、先ほどシャールに吸血鬼かどうか尋ねた時のそれと同
じだ。
正直、ぎくり、という擬音が頭の中に鳴り響く。
998
しかし、表情には出さない。
出さずに、
﹁そんなつもりはないですよ。ただ、私は怖いなってだけなんです﹂
バレるのが。
とは言えない。
だから単純に、火が怖い、で通じたはずだ。
これにはニヴも納得のようで、
﹁⋮⋮まぁ、それはおかしくはないですね⋮⋮じゃあ、そうですね。
今日はやめておきましょうかね⋮⋮ってなりませんよ、はい、いき
ますよ!﹂
と、いきなりこちらに向かって手を向け、そこから白炎を放ち始
めた。
それらはすべて俺に向かって襲い掛かってくる。
やばい、と思って避けようとしたが、流石に金級である。
その狙いはすべて正確極まりなく、すべて命中してしまった。
プラチナ
自分の技量と身体能力の低さに涙が出る。
これでも人間離れしている方なのだが、白金間際の金級の前には
その辺の鼠も同じだった。
先ほどのシャールにやった方法では、通行人なんかにかけようと
しても無理だろう、と思っていたが、こういうやり方もあるのかと
ある意味で納得が胸の中に広がる。
危険な状況の中、何を感心しているのだろうと思うが⋮⋮それと
これとは話は別だ。
しかし、焼ける焼ける。
999
周りでゆらゆら白い炎が上がっているのが見える。
ヴァンパイア
俺を包み込んでいるのだろう。
これで俺は吸血鬼と判別されてしまうのだろうか?
そうなったらいろんな人に迷惑が⋮⋮。
などと色々な感情が胸の中を行き過ぎる。
けれど、
﹁⋮⋮なんともないな。というか、熱くない⋮⋮﹂
意外にも、何も問題ない。
いや、俺がそう感じてるだけなのかもしれないが、少なくとも目
に見えて問題になるところはないように思えた。
これは⋮⋮いけたんじゃないか?
賭けに勝った感じがするぞ。
しかし、燃えても熱くないのは、シャールの燃える光景を見てい
ればまぁ、そりゃそうだろうという感じなのだが、改めて自分で体
験してみるとやはり不思議極まりない。
強いて言えば、熱いと言うよりくすぐったいかな。
体中を弄られているような感じがする。
大丈夫そう、と思うと余裕が出てきて、楽しめるようにすらなっ
てきた。
自分の体の中にある聖気も、なんだか活性化しているような気す
らする。
気のせいかな?
しばらくこのままでもいいかもしれないなぁ⋮⋮。
と、なんだかお風呂にでも入っているような気分になって来たく
らいだ。
しかし、やはり永遠には続かないようで⋮⋮。
1000
しばらくすると俺の体中を撫でるようなその感覚も徐々に消えて
いった。
もちろん、炎もである。 それから、俺を覆う白い炎が完全に消滅し、特に問題がないこと
を確認したニヴは、俺をまっすぐに見つめつつ、言った。
ヴァンパイア
﹁⋮⋮レントさんも、吸血鬼ではないようですね!﹂
ヴァンパイア
吸血鬼だよ!
と突っ込めたらどれだけ気分がいいだろうか。
その直後、死が待っているのだとしてもやってみたくなる状況が
ここにはあった。
もちろん、そんなわけには行かないが。
1001
第148話 下級吸血鬼と大商会のしがらみ
﹁⋮⋮ふむ、質問なのですが、一体いま、何が行われたのですかな
? レント殿が突然慌てておかしな動きをし始めたようにしか見え
なかったのですが⋮⋮﹂
と、シャールが重々しい顔で尋ねてきた。
俺が、突然慌てて?
いやいや、そりゃ、燃やされそうになったら慌てるのでは⋮⋮。
シャール的には逃げるようなものでもないという認識なのだろう
か。
そう思っていると、ニヴが、
﹁レントさんには聖気の祝福が見えるのですよ。ですから、避けた
のです﹂
と言った。
つまり、シャールには見えない、ということか。
あのでっかい白い︽聖炎︾も?
どうしてか、と思っていると、ニヴがシャールに説明している間
に、耳元でミュリアスがひそひそと囁き声で教えてくれる。
﹁⋮⋮︽聖炎︾は、いわば聖気の塊です。聖気の素養のない人間に
は見えません。もちろん、見えるようにも出来なくはないのですが、
基本的には見ようとしても無理なのです。したがって先ほどの一幕
は、シャール様にはレントさんがドタバタと一人で踊っていたかの
如く見えたでしょう﹂
1002
と衝撃的な内容である。
どこが衝撃的かと言えば、俺が一人で踊り始めたように認識され
ているということだ。
︽聖炎︾が聖気の素養のない人間に見えないと言うのは⋮⋮まぁ、
魔力のことを考えるとそこまで不思議ではないからな。
ヴァ
そんなことより、変な奴として認識されてしまった方が由々しき
事態である。
ンパイア
﹁⋮⋮とまぁ、そういうわけで、シャールさんもレントさんも、吸
血鬼の疑いは晴れました。ご協力、ありがとうございます﹂
ニヴのシャールへの説明が終わったようだ。
内容的には、見えなかったかもしれないが、聖気での祝福は二人
とも終わり、そして問題なかった、という話だ。
それにしてもシャールはともかく俺は一切協力するなんて言って
いないのだが⋮⋮。
そう思って不満そうな空気感がニヴに伝わったのだろう。
ニヴは、首を横に振って少しだけ不服そうに答える。
﹁仕方がないじゃないですか。レントさんが聖気の素養のある人だ
とは、私、ここに来るまで知りませんでしたからね。本当ならこっ
ヴァンパイア
そり︽聖炎︾にくべて確認を終えて何もなかったような顔で帰るか、
吸血鬼発見、殺害、の予定でした。そうできなかったのは⋮⋮事前
の情報収集不足でもありますが、そんな特殊な力を冒険者なのに使
えるレベルで持ってるのが悪いです﹂
と断定されてしまう。
酷い話だ。
自分が一番イレギュラーな能力を持っているくせに、俺のせいに
するなと。
1003
まぁ、確かに冒険者で聖気を実用レベルで持ってる奴はほとんど
いないだろうけどな。
それくらいあれば、聖騎士団などに所属したいと思うのが普通だ
からだ。給料と立場がいいから。
しかし、聖気がなかったら、俺は気づかない内にすべてバレて、
いつの間にか心臓に杭を打ち込まれていた可能性があるわけか。
あぁ、あのとき祠修理しといてよかったな⋮⋮今度、また、祠を
掃除しに行こうかな。お陰で助かりましたって。
ヴァンパイア
というか、ニヴはそういうことが出来るから街中で吸血鬼探しな
んて出来るわけだ。
ヴァンパイア
最初からもう少し考えてみるべきだったな。
いくらニヴでも、街中で人を燃やしながら吸血鬼探しをするほど
頭がおかしくはないと。
⋮⋮実にやりそうだけど。
人を燃やしながら哄笑を上げて笑っている様子がありありと頭の
中に思い浮かぶ。似合うな。
いや、流石に偏見の目で見過ぎか。
まだ知り合って一時間も経っていないのに。
それなのに大分キャラが立ちすぎているニヴが悪いのだが。
まぁ、現実にはやらないとはっきりしたけどな。
﹁⋮⋮ふむ、詳しいことは私にはよくわかりませんでしたが、つま
り、レント殿が危機感を感じるようなことをニヴ様はなさったとい
うことですか?﹂
シャールがそう尋ねた。
その表情は若干、怒りが籠もっているようなものである。
はて、何に怒りを覚えているのか⋮⋮。
さっぱり分からず俺が首を傾げていると、
1004
ヴァンパイア
﹁吸血鬼でさえなければ、問題のないものでしたので私としては危
険に晒したつもりはありませんでしたが⋮⋮レントさんの反応を見
るに、そう感じさせる結果になってしまいましたね。それについて
はお二人に謝罪します。特にシャールさんには無理を言いましたし﹂
ニヴがそう言った。
どういうことか、と思っているとこれもミュリアスが説明してく
れる。
﹁⋮⋮おそらく、私を連れてきてロベリア教の威光を間接的に利用
しようとしたことを言っているのだと思います。商人にとって、ロ
ベリア教は⋮⋮言いにくいことですが、非常に逆らい難い相手です
ので。ここ、ヤーランにおいてはさほどの影響力を持っていません
が、ロベリア教は世界的に根を張る巨大団体です。ありとあらゆる
ところに信者がおり⋮⋮そういうところで色々と手を回されたら、
シャール様のような国際的に活動されている商人の方には⋮⋮生命
を断たれるような結果を招くことも難しいことではありません﹂
この説明にニヴは感心したような顔をして、
﹁まさかミュリアス様にそんな説明をしていただけるとは思っても
みませんでしたよ。がっつりロベリア教だけ信じて生きてるタイプ
かと思ってました﹂
という。
さらに俺に向き直って、
﹁⋮⋮そういう訳ですから、シャールさんをあまり責めないでくだ
さいね。彼的には、私をレントさんに会わせることも出来れば避け
1005
かわ
たかったはずです。お願いしたとき、のらりくらりと躱され続けま
したから。仕方なく、ロベリア教に対する私の伝手をいくつか挙げ
て、頼んだ次第です。それでも危害を加えるような真似はしない、
させないと約束させられましたが。それに加えて、本当なら、私た
ヴァンパイア
ち、レントさんだけで会いたいなぁ、という希望もしていたのです。
もしレントさんが吸血鬼ならば、人目に触れないところで確定させ、
滅ぼそうと考えて。まぁ、流石にそこまで説明はしませんでしたし、
ちょっとだけ内緒で話したいことがある、とだけ伝えたのですが、
シャールさんも何か不穏なものを感じてはいたのでしょうね。私、
有名ですし。だからか、私たちとレントさんだけで合うことは認め
られないと言われてしまって⋮⋮結果として、彼はここにいるので
す。つまり商会の長が身を張って顧客を守ろうとしているわけで、
そこそこいい人だと思いますよ、顔の割に﹂
と言った。
意外である。
その威厳に満ち溢れた顔に、大らかそうで、親しみを感じやすい
表情を浮かべていながら、その実、その裏では策謀を練り続けてい
るような商人にありがちなタイプに見えていたが、その根本は善良
な商人だったようだ。
だから繁盛しているのかな?
まぁ、商品は質も品ぞろえもいいし、このご時世、ただ儲けだけ
求めるタイプなら、もっと色々と削るところだろう。
それをしていないところに、努力の感じられる店であった。
シャールの顔を見ると、バツの悪そうな顔というか、申し訳なさ
そうな表情をしている。
﹁この人の言うことは事実ですか?﹂
1006
俺がそう尋ねると、
﹁⋮⋮事実だ。私にはこれ以上、どうしようもなかった。私一人の
問題なら何とでも出来ただろうが⋮⋮店を盾に取られては⋮⋮従業
員やその家族もいる。私には店を守る義務がある。ただ、顧客を守
る義務もあるのだ。だから私はここにいる﹂
ヴァンパイア
と、言葉少なに肯定した。
俺が吸血鬼でさえなければ問題なかったわけで、別にそこまで頑
張らなくてもいいような⋮⋮と俺は思うが、それが彼の商人として
の矜持なのかもしれない。
まぁ、葛藤の末とは言え、やっていることは俺を差し出したよう
なものだからな。
一緒に断頭台に上がったような状況だとは言え、申し訳なさはあ
るのかもしれなかった。
それが故の、最初に会った時のいきなりの好条件提示だったのだ
ろうな⋮⋮。
俺について詳しく調べていたのは、俺の出自がどうしても気にな
ったと言うよりは、ここで何が起こっても後々対応できるようにか
な?
⋮⋮葬式の手配をしに行くつもりだったとしたら面白いんだが。
もう死んでるしな。冗談にもならないか。
実際は、家族がいて、俺に何かが起こったら、説明できるような
らしに行こうとしていたのかもしれない。
まぁ、ただの推測だが、今ではシャールはそれくらいしてくれそ
うな気はしていた。
ヴァンパイア
一歩間違えたらシャールも殺されてそうだしな⋮⋮。
ニヴはたとえ一瞬でも吸血鬼を庇う者を許しそうな感じはしない。
なんでそこまでというくらいに嫌ってるのが分かる。
1007
しかし、ここまでの話で思ったのは⋮⋮。
俺はニヴに向き直って尋ねる。
ンパイア
ヴァ
﹁大体のことは分かりましたけど、なんだか、私のことを物凄く吸
血鬼だと疑ってませんでしたか? ご協力したわけではないですが、
結果的にそうではないと証明されたわけですし、もし何か理由があ
るなら説明くらいはほしいのですが⋮⋮﹂
正しくないのに、そう証明されてしまった。
これは俺にとってとても都合が良い結果で終わったわけだが、も
しあるのなら、理由くらいは知っておきたい。
そうでないと、また何か起こるかもしれないしなぁ。
俺の運の悪さは折り紙付きである。
確認しなかったことが遠因になって、泥沼に足を踏み入れたくは
ない。
﹁ええ、もちろん。貴方にはそれを聞く権利があるでしょうからね。
それに、私からも少しお願いがあるのです。シャールさんに言った、
有力な冒険者と知己を得ておきたい、というのは全くの嘘という訳
ではないのですよ﹂
そう言って、ニヴは説明を始めた。
1008
第149話 下級吸血鬼と確信
﹁最近、迷宮で失踪者が出ている件についてはご存知ですか?﹂
ニヴの話はそんなところから始まった。
どこかで聞いたな、と思い出してみると、あぁそうだったなとい
う件が一つ浮かぶ。
﹁⋮⋮新人冒険者の失踪事件のことですか? 何人もいなくなって
いるとか﹂
するとニヴは頷いて、
ヴァンパイア
﹁そう、それです。私はそれを、吸血鬼の仕業である、と考えてい
ます﹂
ギルド
唐突に犯人の断定を行った。
あれは今でも冒険者組合では犯人捜しをしているが、目星もつい
ていないんじゃなかったかな?
シェイラの話によると、というだけなので、もしかしたら本当は
ヴァンパイア
すでにある程度のところまで分かっているのかもしれないが⋮⋮。
しかし、それにしても吸血鬼が犯人とは。
それが正しいのだとしても、俺は犯人じゃないぞ。
﹁⋮⋮少し、無理やりすぎるのでは? 別に血を吸われた冒険者が
見つかった、というわけでもないでしょう。それなのに、そんなこ
とを断定するのは⋮⋮﹂
1009
出来るはずがない、と思っての台詞だったが、ニヴは、腰に下げ
た魔法の袋から地図を取り出し、それをテーブルの上に広げだした。
ヴァンパイア
見れば、そこには色々な情報が記載してある。
ヴァンパイア
ただ、どれも吸血鬼関連のことばかりだ。
何年の何月にどの吸血鬼がどのような規模で出現しどのようにし
て滅びたか、または生き残っているかが書かれている。
ヴァンパイア
これだけの情報、よく集めたものだ。
吸血鬼に関する情熱は本当らしいなと、それだけで分かる。
だからと言って好感も持てないが、まぁ、話は聞いておく。
ニヴは地図から、西の方にある国の一つを指さし、説明を始めた。
﹁この国に、ルグエラという街がありますね。ここになりますが⋮
⋮ここで、半年ほど前に新人冒険者の失踪事件が起こっています﹂
﹁⋮⋮それが?﹂
良くある話だ、とは言わないが、ない話ではない。
気にするほどのことでもないはずだ。
しかし、ニヴは続ける、
指を、東に移して、
﹁次はこちらです。ここにはオラドラスという街がありますが、や
はりここでも新人冒険者の失踪事件が起こっています﹂
次もか。
それから、ニヴは徐々に東に指をずらしていき、そして最後にこ
の街マルトを指さして、合計で全部で十三の街で同様の事件が起こ
っていることを告げた。
行方不明事件は徐々に東に進んでいるかのように、日付を追って、
徐々に東にずれていっているのだ。
1010
これは⋮⋮。
そう思った俺の雰囲気を察したのだろう。
ニヴは言う。
﹁お分かりの通り、行方不明事件は徐々に東進しています。そして、
とうとう、ここに辿り着いた。ここまではいいですか﹂
﹁あぁ⋮⋮﹂
ヴァンパイア
﹁もちろん、これだけでも吸血鬼が関係しているとは断言できませ
ん。そもそも、この行方不明事件、十一の街においては特に公表さ
れていませんでした。というか、普通に迷宮で亡くなったものとし
て扱われていました。私が自分ですべて確かめましたので、事実で
す﹂
それは⋮⋮どうなんだろうな。
実際にそうだったのかもしれない。
そもそも、迷宮で人が死ぬことは悲しい話だが普通のことだ。
特に新人冒険者となれば、その頻度は否応なく上がる。
数が多少、多かったとしても、それは結局深く潜りすぎる暴勇の
持ち主がたまたま多かったのだろう、で済まされた可能性の方が大
きい。
事実そうだった可能性も低くはないだろう。
だから俺はその点について尋ねる。 ギルド
﹁冒険者組合はいつものこととあまり問題視していなかったのでは
?﹂
﹁そういうところもありましたね。ですが、そのうちのいくつかは
分かっていて隠していましたよ。というのも、そのいくつかの街に
1011
しき
ギルド
ヴァンパイア
おいて、屍鬼が数体確認され、討伐されているのです。金級になる
と見れる冒険者組合の資料の中に、吸血鬼関連の討伐記録があるの
しき
ヴァンパイア
ヴァンパイア
ですが、不思議なことにそのことは記録に残されておりませんでし
しき
た。ご存知の通り、屍鬼は吸血鬼の眷属、吸血鬼がいなければ、基
本的には発生しないものです。それに加え、その屍鬼たちは、失踪
した冒険者たちそのものだった、ということでした。﹂
それを黙っていた冒険者組合の罪はかなり重い気がするが、まぁ、
こんなものだろうなという感じもしないでもない。
そんな俺の気持ちを察してか、ニヴも言う。
しき
﹁⋮⋮まぁ、それだけ分かっているのに言わなかった理由はなんと
ギ
なく想像がつきます。なにせ、屍鬼の存在が明らかになると、街に
ルド
は冒険者が集まりますからね。一時的には街は潤いますが、冒険者
組合からすると常に街にいてくれる冒険者たちから仕事を大量に奪
って去っていく要らない祭りみたいなものですから。言いたくなか
ったんでしょう﹂
ギルド
酷い話だが、冒険者組合は清廉潔白な団体ではない。
ギルド
マルトにおいては比較的健全な運営がなされているが、他の街に
は他の街の冒険者組合の決まりがある。
癒着だったり利権だったりにどっぷり浸かっている場合も少なく
ないのだ。
もともと荒くれ者の集団だし、まぁ、ある程度はどうしようもな
い部分でもある。
ギルド
それでも基本的なサービスは提供できているのは、凄いのかすご
くないのか⋮⋮。
しき
まぁ、ちゃんとやれよ、冒険者組合、というところであろう。
ヴァンパイア
それにしても⋮⋮つまり、吸血鬼に屍鬼にされた冒険者たちが何
1012
人も見つかったということか。
そういうことなら⋮⋮。 ニヴは続ける。
ヴァンパイア
﹁お話したことからも分かると思いますが、私は常に吸血鬼を探し
ていますから、変わったことがあれば自分で探りに行くのを常とし
ているんですね。まぁ、外れのことも多いのですけど、今回は完全
しき
に当たったとそれで思いました。それで、私も東進しつつ、他の街
でも屍鬼が発生していないか確かめ、結果、いくつかの街で見つけ
ました。見つけ次第、しっかり滅ぼしておきました。それで、最後
に残った親玉を求めてここにやってきたわけですが⋮⋮今のところ
発見には至っていません。どこかに必ずいるはずなのに、です﹂
ヴァンパイア
﹁もうこの街から出ていっている可能性もあるのでは?﹂
東に進み続けている吸血鬼なのである。
もういない可能性もあるだろう。
これにはニヴも頷いて、
ヴァンパイア
﹁まぁ、ないとは言えませんね。ただ、私の経験上、これだけの数
の人間を狩った吸血鬼がそれをやめることはほぼ、出来ません。未
だに新人冒険者の不自然な失踪がここで続いている以上、まだいる
と考えるのが自然ですし、いないとしても、他の街で人間の失踪が
起こっているはず。今のところそう言った話は近隣の街や村から届
いておりませんので、やはり、まだここにいるはずです﹂
ギルド
色々と見張っているらしい。
方法は⋮⋮金級になれば、冒険者組合の情報網を一部利用できる
という話もあるから、それかな。
それとも、ニヴ独自のそれか。
1013
分からないが⋮⋮確信ありげである。
おそらくは、正しいのだろう。
しかしだ。
﹁それで、なぜ私を疑ったのです?﹂
それが問題だ。
俺はそんなに怪しかったのか?
そう思っての質問だったが、ニヴは答える。
ヴァンパイア
﹁私はこの街で吸血鬼を探すにあたって、ほぼ全員が怪しい、と考
えて行動していますが、その中でも特に怪しい人物が何人かいまし
た。特にレントさん。貴方は最近この街にやってきて、短い期間で
銅級に上がり、タラスクまで一人で討伐してしまった。お分かりか
ヴァンパイア
と思いますが、絶対にいないとは言いませんが、そんなことが出来
る新人は非常に少ないです。しかしもし貴方が吸血鬼なら⋮⋮。そ
ヴァンパイア
のようなことも無理ではありません。それに加えて、貴方はあまり
人のいない時間を狙って活動している傾向にある。よくある吸血鬼
の特徴の一つです。人目や日を出来る限り避けようとするからです。
仮面やローブも、その肌の青白さや、口に生えた牙を隠すためのも
のと考えると⋮⋮。要するに、見れば見るほど怪しかったのですよ
ね、申し訳なかったですが﹂
⋮⋮まぁ、納得というか。
正直、全部正解なんだけども。
ヴァンパイア・ハンター
意外とちゃんと調べて俺を狙ったんだな。
吸血鬼狩りとして名高い理由がよくわかる。
ミュリアスやシャールも、説明に一応の納得はしているような顔
だ。
1014
ヴァンパイア
しかしだ。
俺は吸血鬼ではないと保証されたのだ。
色々疑われた見返りくらい求めてもよさそうだとここで思う。
だから言う。
﹁⋮⋮紛らわしくて悪かったとは思いますが⋮⋮しかし、それで疑
われては⋮⋮﹂
﹁ええ、そうでしょうね。災難ですよね。よくわかります。私が言
えたことじゃないですけど。でもまぁ、そういうわけですから、私
としては今回のタラスクの購入代金にかなりの色をつけることで謝
罪の気持ちとさせてもらえないかと考えています。それと、これは
要らないかもしれませんが⋮⋮﹂
と先んじてくれるものを色々と提示した上で、ニヴが何か謎の物
体を差し出してきた。
ギルド
⋮⋮紙、かな。
ギルド
そこに、冒険者組合の登録番号が記載してある。
それがあれば、冒険者組合を通せば連絡がつけられるというもの
だ。
まぁ、どれだけ時間がかかるかはどこにいるかによると言う甚だ
微妙な連絡手段だけどな。
特にニヴのような神出鬼没そうなタイプには⋮⋮あまり連絡はつ
かないだろう。
﹁そんな嫌そうな顔しないで下さいよ。必要になるかもしれないじ
ゃないですか﹂
﹁⋮⋮その可能性は低そうですね⋮⋮﹂
1015
出来るだけ関わりたくないからな。
けれど、ニヴは不吉なことを言った。
﹁私、色々と調べたり考えたりすることも好きですが、何よりも勘
が大事だと、よく、思うんですよね。その勘が言っているんですよ。
レントさんは、いずれ、必ず、私に、連絡をくれる、と﹂
﹁⋮⋮﹂
勘弁してくれ、と思う。
しかし⋮⋮彼女の勘は、かなり当たっているということがこの状
ヴァンパイア
況で察せられる。
なにせ、俺を吸血鬼であると判断したのだから。
それで、俺が連絡をすると感じていると言うのは⋮⋮あまりにも
不吉すぎた。
⋮⋮とにかく、もらうだけもらっておこうか。
この紙には何か魔術とかかかっているかもしれないから、帰った
らロレーヌに見てもらおう⋮⋮。
深くそう思った。
1016
第150話 下級吸血鬼と金勘定
﹁では、今日の本来の本題ですね﹂
とニヴが言った。
一瞬、それってなんだったっけ、と思わないでもなかったが、覚
えている。
タラスクの素材の売却だ。
色をつけて買ってくれるということだから⋮⋮いくらになるのか
な?
最近欲しいものが出てきて金欠気味である。
アース・ドラゴン
金はいくらあっても足りない。
大地竜の︽魔鉄︾を使った武具に、今のものよりもずっと大きな
魔法の袋⋮⋮。
しかし、
﹁買ってくれるつもりはあるのですね? 少し意外でした﹂
単純に俺をおびき寄せるための方便かもしれない可能性も考えて
いたが、そうではないようだ。
ニヴは、
ヴァンパイア
﹁ええ、普通に買いますよ。タラスクの素材はそれなりに貴重です
からね。特に毒腺はいいです。吸血鬼に良く効きます﹂
と答える。
ヴァンパイア
﹁タラスクの毒に吸血鬼は⋮⋮?﹂
1017
ヴァンパイア
レッサー・ヴァンパイア
﹁あまり知られていませんが、吸血鬼は高い耐性を持つ魔物ですが、
タラスクの毒はよく効くんですよね。下級吸血鬼であれば体が麻痺
してしまいます。上位になればなるほど、効きにくくはなるのです
が、それでもないよりはあった方がいいものです﹂
⋮⋮俺は効かないのだけどな。
ヴァンパイア
先ほどの聖炎によって判別もされなかったし、俺はやはり通常の
ヴァンパイア
吸血鬼とは大きく異なっているのだろう。
そもそも吸血鬼なのかどうかも疑うべきところなのかもしれない
が⋮⋮。
しかし、どんな魔物なのか確実に判別する、なんていうのは見た
ヴァンパイア
目とか特徴から見て、今まで集められた知識と照合して判断するし
かない。
その結果として、俺は吸血鬼だ、となったのだ。
もうこれ以上は調べようがないな⋮⋮。
まぁ、それはそれで仕方がないか。
今気にしてもどうしようもないのだし。
それよりタラスクの値段だ。
﹁ニヴ様くらいのランクの冒険者なら、タラスクくらい狩れると思
うのですが﹂
貴重は貴重だが、ニヴくらい強ければそうでもないだろう。
その分、金額は下がるのかなと若干不安に思っての質問だ。
ニヴは、
﹁狩ろうと思えば狩れるでしょう。ただ、タラスクは⋮⋮どの地域
でもそうですけれど、あんまり足を踏み入れたくない沼地に棲んで
いますからね。準備も大変ですし、そんなことをしているくらいな
1018
ヴァンパイア
ら私は吸血鬼の方を狩りたいです。幸い、たまにこうして狩ってく
れる方はいるものですから。むしろ、レントさんはよくああいう場
所に行く気になりますね?﹂
と尋ねてきた。
タラスクの住処はタラスクの分泌する毒によって、あのタラスク
の沼のような有毒地帯になってしまう。
したがって、どんな地域でタラスクを探そうとしても、必ずああ
いうところを通らなければならない。
それは嫌だと言う話は理解できる。
いかにニヴでも毒と汚泥に塗れながら進むのは勘弁願いたいのだ
ろう。
俺はどうかと言えば⋮⋮。
まぁ、俺も好き好んでいきたいわけではない。
ただ⋮⋮。
﹁色々と理由があって、採りに行かなければならない素材があった
ものですから。そのついでというか⋮⋮﹂
この言葉に、ニヴは少し考え、それから、
﹁⋮⋮ふむ、タラスクの住む沼地にしかない素材と言えば⋮⋮︽竜
血花︾に︽毒浴鳥︾、あとは⋮⋮︽タラスクの毒石︾といったとこ
ろでしょうか。お、どれかのようですね。なるほど﹂
表情に出したつもりはないが、なぜかニヴには今のでそう理解で
きたらしい。
ミュリアスは、
﹁⋮⋮雰囲気や仕草に全く変化などなかったと思いますが⋮⋮﹂
1019
と俺の様子を評価したが、ニヴには分かってしまったらしいので
ダメだ。
修行が足りないようである。
﹁さて、雑談はこんなところにしておいて、そろそろ商談と参りま
しょうか。シャール殿、今回のタラスク、オークションでは、いか
ほどで売れる予定でしたか?﹂
ニヴがシャールにそう尋ねると、彼は頷いて答える。
﹁通常、タラスクの素材は部位によって値段はまちまちですが、一
匹丸々で言うと、平均から行って金貨60∼から200枚の間で売
却されています。ただ、今回のものは狩り方や解体に全く無駄のな
い、綺麗な素材でしたので⋮⋮最低落札価格が金貨100枚から始
めることになったでしょう。そこからどこまで上がるかは時の運だ
ったでしょうが、今回出席される方の顔ぶれからして、金貨300
枚よりも上がることは無かっただろう、と思います﹂
うーん、聞けば聞くほど俺のような一般庶民感覚からすると額が
とてつもない。
タラスクはデカかったから、その分、一匹から採れる素材も多く、
値段もつきやすいのかもしれないが、それにしても⋮⋮という感じ
だ。
やっぱり場所が場所だから、中々出回らないのだろうな⋮⋮。
﹁なるほど、でしたら⋮⋮予定では落札価格の倍額で購入するとい
う話でしたから、金貨600枚だった、というところから始めまし
ょう。ただ、もしかしたら酔狂な人がいて、金貨4、500枚にな
った可能性はないではありませんよね﹂
1020
イヴがそう、シャールに言うと、シャールは難しそうな顔をして、
﹁まぁ⋮⋮そうですな。あまりないことですが、上げ幅の見通しを
間違えて、10枚上げるところを100枚上げて青くなる方もいら
っしゃるくらいですし。ただ、そういうことは起こっても一度でし
ょうな。ですから、金貨四百枚以上は絶対なかった、と言えるかと﹂
﹁では、倍額とは金貨800枚ということで。それで、それに加え
て私の誠意ですが⋮⋮通常、他人の生命を理由なく侵害した場合、
賠償額は平民の場合はいくらでしたか?﹂
﹁⋮⋮金貨10枚から50枚の間が多いですな。職業にもよります
が⋮⋮私が殺された場合でも、金貨50枚は超えないでしょう﹂
これは俺も知っている話だ。
平民の命の価格は低い。
まぁ、それでもそれだけあればたとえば遺族が主を失って生活が
安定するまでの時期を乗り越えてやっていくくらいには十分事足り
る額でもある。
しかし、都市マルトにおいて、これだけ大きな商会の主であって
もその額ということは、俺の場合は⋮⋮。
まぁ、もっとずっと低いのは間違いないだろうな。
なにせ、明日をも知れぬ冒険者だ。
とはいえ、そういった場合の賠償額は領主が決めるのが普通で、
建前上、同じ身分間では命の価値に差はないとされているから、額
にあまり大きな差はない。
シャールが死んだ場合と俺が死んだ場合とでは、社会的損失に大
きな違いがあるだろうが、そういうことはあまり考慮されないのだ。
これが貴族が死んだ場合となるとまた大きく話は変わってくるの
1021
だが、まぁ、それは今はいいだろう。
ニヴは言う。
﹁では、レントさんが殺された場合の遺族に対する賠償額は金貨5
0枚だったということにしましょう。私はそのようなことをしよう
としていたわけで、しかも結果的に問題なかったとはいえ、だまし
討ち紛いのことをしているわけですから⋮⋮これも、その倍額とい
うことにいたしましょうか﹂
つまりは金貨100枚を賠償額だと仮定すると。
高いなぁ、と思う反面、タラスクをこれから何体も狩れたのに殺
されてその可能性をゼロにされてたわけだから、まぁ、妥当と言え
ば妥当か。
領主によって判断される、通常の場合には考慮されないところな
ので、良心的であろう。
﹁⋮⋮合計金貨900枚、ということですか﹂
ううむ、それだけもらえれば俺の欲しいものは全部手に入りそう
だ。
まぁ、魔法の袋で大半消えて、残りで武具を買うくらいになるだ
ろうが⋮⋮。
魔法の袋は高すぎるんだよな。
それでも今持っている奴の三倍くらいの容量の奴しか買えないだ
ろうから。
タラスクくらい入る奴は⋮⋮うーん、前オークションで見たとき
は、金貨1800枚くらいの値段がついてたなぁ⋮⋮無理だな。
ニヴの提示に不満という訳ではないが、これからそのために金貨
の貯金をするか、それとも諦めて小さめの魔法の袋を買うかで迷っ
て、妙な雰囲気を出してしまったらしい。
1022
ニヴはそれを勘違いしたのか、
﹁⋮⋮足りませんか? まぁ、そうですよね⋮⋮では、こうしまし
ょう。キリよく金貨千枚、ということでいかがです?﹂
と、いきなり百枚上げてきた。
ヴァンパイア
どんだけ金を持っているんだ、こいつは⋮⋮。
いや、吸血鬼狩りの報酬はかなりいい。
それを頻繁にこなしているだろうことを考えるとおかしくはない
か。
しかし⋮⋮そんなにもらっていいのだろうか?
俺はちょっと悩む。
別にお金が嫌いな訳じゃない。
そうではなく、ニヴからあまり大量のお金をもらうと⋮⋮なんだ
か繋がりの糸みたいなのが強くなっているようで出来れば避けたい
なと思ってしまうのだ。
まぁ⋮⋮連絡先もらっているのだから、今更なのかな?
いやいや、でもなぁ⋮⋮。
と悩んでいると、ニヴはさらに勘違いしたのか、仕方なさそうに
笑い、
﹁全く、交渉上手ですね、レントさんは⋮⋮分かりました。さらに
倍、出しましょう。金貨二千枚、これ以上はもう出せませんよ。流
石に私にも今後の生活がありますからね﹂
と言って、机の上に白金貨を二十枚並べる。
⋮⋮白金貨。
こんなに。
はじめてみた⋮⋮。
1023
心の中では唖然としていた俺である。
しかし、雰囲気には出さない。
今度ばかりは鉄の意志で表にはどんな雰囲気も出さなかったため、
ニヴにも分からなかったようで、
ヴァンパイア
﹁銅級ですのに、これを見てもそこまで不動の人は中々いませんよ。
レントさんは吸血鬼でこそなかったようですが、やっぱり、かなり
稀有な人のようですね﹂
と妙な方向に感心していた。
ニヴの隣のミュリアスは、まさに唖然とした顔で口をぽっかり開
けている。
シャールの方は、何か頭を振って、呆れたような顔をしていた。
ニヴの財力にか、ここまで額面を上げさせたように見える俺の態
度にか⋮⋮。
1024
第151話 下級吸血鬼とお取り寄せ
﹁⋮⋮まだ、足りませんか?﹂
と、ニヴが聞いてくるが、まさか白金貨20枚で足りないなどと
言ったらいくらなんでもぼったくり過ぎである。
もちろん、命の危機だったのだから、そのことを考えるとたとえ
いくらであっても足りない、という話になってしまうかもしれない
が、現実を考えるとな。
俺たち冒険者はお安い値段で常に命をかけているようなものなの
だ。
今更、命には金に代えられない価値がある、なんてことを言って
も説得力はないだろう。
まぁ、あんまり命を粗末にしている奴には言うかもしれないが、
こと自分の命の値段については⋮⋮大したものではない、と思って
しまっているところがどこかにあるのかもしれない。
俺は、
﹁⋮⋮いいえ、これで十分です。ちょうど魔法の袋が欲しいなと思
っていたものですから、これくらいあれば買えるなと﹂
少し考え込んでいた理由をそう説明した。
すると、ミュリアスが驚いた顔をして、
﹁⋮⋮魔法の袋をお持ちでないのに、タラスクを丸々一匹持ってこ
られたのですか?﹂
1025
ギルド
と少々、世間知らずな発言をする。
まぁ、聖女は冒険者組合の詳しいシステムなんて知りようがない
よな。
ニヴとシャールは魔法の袋の貸し出しがあることを知っているた
め、別に驚きはないようだ。
ニヴがミュリアス様に言う。
ギルド
﹁冒険者組合には短期間ですが大きな容量を持つ魔法の袋を貸して
くれる仕組みがあるのですよ、ミュリアス様。レントさんはそれを
活用してタラスクを運んでこられたのでしょう﹂
ですよね、という視線を向けられたので、俺は頷いた。
ミュリアスは、
﹁そんな仕組みが。しかしそんなことをしたら盗まれたりなど⋮⋮﹂
と言い始めたが、これ以上詳しく話し始めると時間の無駄だと思
ったのか、ニヴは、
﹁あとで説明してあげますので、そのあたりの疑問は引っ込めてお
いてください。ミュリアス様﹂
と若干厳しいことを言う。
ミュリアスは一瞬、ニヴに不服そうな顔をするが、確かにその通
りだと思ったようですぐに頷いた。
それから、ニヴが俺に、
﹁しかし、魔法の袋はそうそう出回りませんからね。手に入れよう
と思ってもすぐには無理でしょう?﹂
1026
と言ったので、俺は頷いて答えた。
﹁ええ。でも、手元に資金があれば、オークションなどに出された
とき、すぐに参加できますからね。ちょっと前に、もっと小さなも
のですが、逃したことがあって⋮⋮あのときは悔しかったです﹂
本当に、思い出す。
今持っている魔法の袋より五割増しの容量でありながら、結局同
じ値段で落札されたのだからな。
俺にも買えたのに⋮⋮。
まぁ、今更だが。
そんなことを考えているとニヴが少し考えてから、提案する。
﹁魔法の袋は冒険者にとって、重要な道具の一つですからね⋮⋮。
でしたら、私が都合をつけましょうか? これで色々と伝手はある
のですよ。ご希望のサイズをお聞きして、それから声をかければ近
いうちに見つかるかと思いますが﹂
これは、悪くない提案だ。
なにせ、魔法の袋は本当に手に入りにくい。
まぁ、今俺が持っているようなサイズならそれなりに手に入るが、
タラスクが入るようなサイズから上となると⋮⋮。
この間の1800枚の奴なんて、久しぶりの出物だったからな。
半年、いや、一年に一度、出るか出ないかの⋮⋮。
その理由は、魔法の袋は迷宮から極稀に出る以外には職人が作っ
た者しかないのだが、その製法は一部の職人集団の内で秘匿されて
いるからだ。
生産数は限られており、正規の値段だと即座に売り切れる。
結果として、普通の方法ではまず、手に入らない。
1027
すでに持っている人間が手放したものをオークションで買うか、
迷宮で手に入れるしかない。
しかし迷宮で手に入れられる確率などほとんどないので、必然的
に普通に手に入れようと思ったらオークションしかない。
とは言え、一応、製法が不明とは言え、職人がいる以上確実に人
の手で作れるものなのだから誰かしら真似して作れないか、という
話になるが、今のところをそれを実現したものはいない。
かなり難しいのか、素材が特殊なのか⋮⋮。
理由は製法が公開されていないため、当然はっきりとはしていな
い。
ただ、一つ言われていることは、魔法の袋の製法は古代技術なの
ではないか、ということだ。
遥か昔に栄えた古王国、そこには今とは比べ物にならないほどの
文明が栄えていたという伝説があるが、その技術が連綿と受け継が
れて一部残っている、と言われるものがいくつか現存している。
そのうちの一つが、魔法の袋ではないか、というのだ。
浪漫である。
⋮⋮まぁ、誰が言い出したのかまるで分からない以上、ただの眉
唾か妄想の類である可能性が大なのだけどな。
そんな魔法の袋を、声をかければ手に入れられるという。
ニヴの伝手の広さが分かる言葉だ。
正直なところ飛びつきたいが⋮⋮やっぱりニヴと深くかかわるの
はなぁ⋮⋮。
俺がそう思っていることを察したのか、それとも今の話の中に商
機を見出したのか、シャールが俺の耳元に口を寄せて、
﹁⋮⋮ニヴ様に任せるのが不安なら、私が探すことも出来るぞ。ニ
1028
ヴ様よりは時間がかかるかもしれなんが、これで一応、手広くやっ
ている商人なのだからな⋮⋮まぁ、私も信用できない、というのな
ら、他の店も紹介できる。それこそ、ウィータ商会でも構わん﹂
と言って来た。
ウィータ商会の話なんてシャールにはしていないのだが⋮⋮まぁ、
あの店員に聞いたのか。
しかし、ウィータ商会はステノ商会にとっては目の上のたんこぶ
に近い商売敵だろうに、よく紹介する、なんて言ったな。
まぁ、ステノ商会から金貨数千枚の取引を持っていけば恩は売れ
るか?
けれど、この場合、自分のところでやった方がはるかに利益は多
いはずだ。
それなのにあえて、どこでも他の店を紹介する、と言っているの
は俺に対する彼なりの誠意なのだろう。
ヴァンパイア
⋮⋮まぁ、色々と欺かれたわけだが、事情が事情であったわけだ
し、この吸血鬼関係になると人の意見はまるで聞き入れなさそうな
ニヴが相手だからな⋮⋮。
シャールの行動は致し方なかったと言えるし、ここまでで、それ
以外の点については十分に心を砕いてくれている、と思う。
魔法の袋の取引くらい、任せてもいいだろうと思う。
もしダメでも、今回貰った白金貨が吹っ飛んでいくだけだからな。
あぶく銭が消えるだけだ。痛手は少ない。
もちろん、出来る限りなくなってほしくはないけどな。貧乏性だ
からさ⋮⋮。
命が亡くなるよりはいいかな、という意味である。
色々こそこそシャールと話していると、ニヴが、
1029
﹁⋮⋮まぁ、それでもいいですよ。私も一応探しておいて、シャー
ルさんがどうしようも出来なかったら私に連絡をくれればオッケー
です。ということにしては?﹂
と、言う。
聞こえないようにひそひそ話していたのに、筒抜けである。
地獄耳か。
﹁⋮⋮では、そういうことで﹂
﹁本当に私と関わるのが嫌そうですね⋮⋮仕方ないでしょうけれど。
ただ、最後に一つ、お願いです﹂
あぁ、そういえばお願いがどうこう言ってたな、とそれで思い出
す。
俺はニヴがこれから一体何を言うつもりなのか、緊張しつつ耳を
傾けた。
1030
第152話 下級吸血鬼と理由
ヴァンパイア
﹁吸血鬼を見つけたらご一報を⋮⋮と言いたいところですが、レン
トさんは中々強そうです。聖気もお持ちですし、自分で倒した方が
早い、ということも多いかと思いますので、それは言いません﹂
ヴァンパイア
と、ニヴは言う。
なんとなく、吸血鬼はすべて自分の獲物だ、くらい言うかと思っ
ていたのだが、そういうわけではないのだろうか。
気になって尋ねる。
﹁⋮⋮いいのですか? 私が 倒してしまっても﹂
するとニヴは頷いて、
ヴァンパイア
﹁ええ。私が一般的な吸血鬼を倒すのは、確かに生きがいなんです
けど、実のところは暇つぶし、趣味、余暇の楽しみ方、といった方
が正確なものなので。誰が倒したところで別にいいのですよ﹂
と驚くべきことを言う。
余暇の楽しみで、あれだけの執着を見せているのか?
これは聖女ミュリアスも初耳のようで、意外そうな表情だ。
シャールもである。
商人の耳でもってしても知ることの出来ない話か。
もしかしたら、価値がある情報かも知れない⋮⋮。
そもそもニヴと関わり合いを持ちたい人間がどれだけいるか、と
いう気もするが、関わらないようにするために使える情報かも知れ
ないな。
1031
ニヴは続ける。
ヴァンパイア
﹁ですから、レントさんが見つけた吸血鬼はレントさんが倒してい
ただいて結構です⋮⋮ただ﹂
ただ、があるわけだ。
ヴァンパイア
なんだろうな。
プラチナ
吸血鬼を見つけたら知らせろ、以外にニヴが求めそうなものが想
像がつかなかった。
金は要らなそうだし、権力はすでに白金級を上回る以上の個人的
なコネクションを大量に持っている。
酒⋮⋮は飲まなそうと言うか、飲んでも全く酔わなそうだし、ギ
ャンブルもしなさそう⋮⋮いや、したら鬼のように勝ちそうだな。
じゃあ残るは⋮⋮女? いやいや、本人が女だし⋮⋮じゃあ男か。
これもなぁ⋮⋮こう、男に寄りかかって甘えるとかまるで想像がつ
かない。
ヴァンパイア
こいつにそういうものは必要なさそうだ。
分からん⋮⋮。
そう思っていると、ニヴは言う。
・・・・
﹁レントさんが、勝てないと感じる吸血鬼に出遭ったら、私にご連
絡ください。それだけでいいですよ﹂
﹁⋮⋮それは、一体どういう⋮⋮﹂
意図が分からない言葉だった。
求めているところは明確だが、何のために?
まぁ、最終的にはニヴが倒すため、なのだろうが⋮⋮。
俺が勝てないと思って見逃すことを危惧しているのか?
確かに勝てそうもないなと思ったら見逃すだろうが、そういう場
1032
合は言われなくても倒せそうな奴に伝えるだろう。
ヴァンパイア・ハンター
どれだけニヴと関わるのは勘弁してくれ、と思っていてもこの人
は吸血鬼狩りとしてはかなり優秀なのだ。
その辺の冒険者に伝えて、被害を拡大させるよりかは、仕方がな
く思ってあの連絡先に伝えることだろう。
それくらいのことは、ニヴには簡単に想像が出来そうだ。
なにせ、吸血鬼が嫌がるような手管をこれだけ細かくやれる人間
なのだから。
人がどうすればどう動くか、について、詳しく理解しているのだ
ろう。
お願いの事だって⋮⋮。
タラスクの報酬が決まってから言い出した辺りにニヴの狡猾さと
いうか、うまさがあるように思える。
先ほどまでだったら相当印象が悪かったし、頼まれても絶対いや
じゃ、とそっぽを向きたくなるような心情だったが、今に至っては
⋮⋮。
あれだけ払ってくれたのだ。
ちょっとくらいなら頼みを聞いてもいいかな、という気分になっ
ている。
しかもそれが、これほど簡単な頼みなら⋮⋮。
ただ、その背後に巨大なリスクがちらちらと見えてもいるのだが
⋮⋮しかし避けたところでな、というのもある。
ニヴは噛み付いたら離さない猛獣のようなところが、ここまでで
よく理解できている。
何をしようと関わりたいところに全力で関わってくる。
だから、避けても無駄だろう、と思ってしまう。
それなら、別に頼みを聞いても⋮⋮。
葛藤していると、ニヴは俺の質問に答える。
1033
﹁深い意味はないですよ⋮⋮と言っても、レントさんには通じなさ
そうです。ご説明しましょう﹂
この言い方が、また俺の無言を勘違いしての過大評価だったら楽
なのだが、別にそんなことはないのだろうな。
というか、さっきのも⋮⋮別に本当に勘違いしていたわけでもな
いだろう。
ただ、支払う額を吊り上げることを最初から決めていたのだろう
と言う気がする。
まぁ、そのこと自体は別に俺にとって悪いことではないのだが、
ここに来て、あまりいい方向には作用しないのだろうな、と強く感
じる。
かと言って、もう今更どうしようもないが⋮⋮。
ニヴは続ける。
﹁まぁ、そんなに身構えなくても大した話じゃないですよ?﹂
と、ニヴは微笑み、場の緊張を解くように促すも、そう簡単には
解けない。
俺もミュリアスもシャールも、ニヴが次の瞬間にいったい何を言
い出すのかと不安だ。
アンデッド
俺は仮面があるし、表情にも出すまいと心を砕いている。 それに加えて不死者の体はあまり汗が出ないから、無意識に冷汗
が、ということもない。
ヴァンパイア・ハンター
が、他の二人は、少しばかり冷汗が見える。
誰も知らない吸血鬼狩りニヴ・マリスの秘密が一部、知れるのだ
からそうなるのも無理はない。
ニヴは言う。
1034
ヴァンパイア
﹁⋮⋮私は、ずっと一体の吸血鬼を追い続けているのです﹂
ヴァンパイア
﹁一体の吸血鬼、ですか? それはまた、なぜ⋮⋮﹂
ヴァンパイア
しき
特定の吸血鬼を追いかける、というのは、まぁ、ありえない話で
はないだろう。
身内や知り合いを、血を吸われて殺された、とか屍鬼に変えられ
た、という事情がある場合に、恨みを晴らすために追いかける。
ヴァンパイア
普通にありうる話だ。
まぁ、それは吸血鬼に限らず、魔物だろうと人間だろうと同じか。
復讐のためにその相手を探し求めているに過ぎないのだから。
ただ、疑問があるとしたら、ニヴがそのような行動を果たしてす
るのだろうか、というところだろう。
他人をどうこうされたからと言って、恨みを⋮⋮なんていうタイ
プにはまるで見えない。
周囲のことなど気にしない究極の傍若無人であるように俺には思
える。
たとえ友人が死のうと家族が死のうと気にしないのではないか。
ヴァンパイア
偏見かも知れないが、そう思ってしまうくらいだ。
しかし、事実として彼女は一体の吸血鬼を追いかけているらしい。
その理由は⋮⋮。
﹁なんでしょうねぇ。浪漫ですかね? レントさんも古い遺跡を漁
って古く強力な魔道具が欲しい、とか思うことはあるでしょう?﹂
と突然おかしな方向に話が飛んだ。
俺は首を傾げつつも、答える。
1035
﹁ええ、まぁ⋮⋮古い変わった魔道具なんかは好きですね﹂
飛空艇模型とかな。
そこまで言う必要はないだろうが。
ニヴにはどんな情報でも言いたくないな。
飛空艇模型が好き、と言ったら次来た時はそれを手土産に何か理
不尽な要求がされそうで嫌だ。
﹁私もそれと同じです﹂
﹁というと?﹂
ヴァンパイア
﹁私が追いかけている吸血鬼は遥か昔から存在し、そして恐れられ
ている、頂点の存在の一人﹂
トワイライト・ヴァンパイア
︱︱黄昏の吸血鬼です。
ニヴは、そう言って微笑んだ。
1036
第153話 下級吸血鬼と黄昏
トワイライト・ヴァンパイア
﹁馬鹿な⋮⋮黄昏の吸血鬼など⋮⋮もう存在しません。そんなもの、
今の時代では子供を怖がらせるためのおとぎ話です﹂
その名前を聞き、首を振りながらそう呟いたのは、ロベリア教の
聖女ミュリアスだった。
それに対してニヴは鼻で笑って、
﹁そう思いますか? そう学んだのですか? 教会で。まぁ⋮⋮ロ
ベリア教の上層部はそういうことにしておきたいのでしょうね。分
かりますとも﹂
そう言う。
それにミュリアスは、
﹁なにをっ⋮⋮﹂
と立ち上がりかけ、文句を言おうとするが、ニヴはそれを制して、
﹁おっと、申し訳ありません。別にロベリア教を馬鹿にしようと思
トワイライト・ヴァンパイア
っていっているわけではないのですよ? でもミュリアス様、よく
お考え下さい。私は人生を賭して黄昏の吸血鬼を追いかけてきたわ
けで、そのことは今、私がした話から分かるでしょう? それなの
に、そんなものおとぎ話だ、なんて言われたら腹を立ててもおかし
くはないと思いません?﹂
と、完全な正論を言う。
1037
まぁ、言っていることは正しいだろう。
夢を馬鹿にされたら普通は怒るんじゃないの、という話なのだか
ら。
しかし、それをニヴが言うと⋮⋮。
本当に怒ってるのか、という疑問と、実はあえてミュリアスの神
経を逆撫でしてるんじゃないだろうな、という疑念が心の中に浮か
んでしまう。
そのどちらか、もしくは両方が正しいのかどうかは、ニヴの様子
からは判然としない。
当然か。
分からせる気など、彼女にはないのだろうからな。
性格が悪い。
対してミュリアスはどちらかと言えば素直なようで、ニヴの言葉
が正しいと認めたのか、
﹁⋮⋮確かに、そうですね。失礼なことを申し上げました﹂
と謝罪する。
ただ、と付け加え、
﹁ロベリア教をことさらに批判することはおやめください。ロベリ
ア教の教えは⋮⋮正しいのですから﹂
と、付け加えた。
ニヴにはその点についてはまだ、一家言ありそうだったが、泥沼
にする気はなかったらしい。
﹁⋮⋮そうですね。何を信じるかは個々人の自由だと思いますよ。
ええ﹂
1038
と微妙な台詞を言った。
これも結構、当て擦りに聞こえるが、ミュリアスはもう、気にし
ないことにしたようだ。
今更という気もするが、それがニヴを相手にするにあたって賢い
選択であるのは間違いないだろう。
ニヴは俺に向き直って言う。
トワイライト・ヴァンパイア
﹁レントさんも、もちろんご存知ですよね、黄昏の吸血鬼﹂
もちろん、知っている。
ヴァンパイア
子供の頃に聞いたおとぎ話、伝説の類に何度も出てきた存在であ
るからだ。
それに、吸血鬼になって、何かヒントがあるかもしれないと思っ
て、それなりに調べても見た。
まぁ、調査した結果なにかが分かったのかと言われれば、小さい
ころの思い出をいくつか思い出したな、くらいなものだったが、読
トワイライト・ヴァンパイア
み物としては面白かったな。
黄昏の吸血鬼は非常に有名な悪役の一人で、街や村で英雄ごっこ
遊びをすると、大体が一番立場の弱い者が割り当てられてタコ殴り
トワイライト・ヴァンパイア
に遭うと言う恐ろしい役回りである。
黄昏の吸血鬼を退治する英雄は、場所や年齢によってばらつきが
ヴァンパイア
あるようだが、概ね、聖騎士とか聖者とかだな。
邪悪な吸血鬼だからそんなイメージに落ち着いたのだろう。
とは言え、実際に倒したのは誰なのかもう分からないらしいから、
適当に当てはめたという可能性もないではない。
トワイライト・ヴァンパイア
しかし、それでも黄昏の吸血鬼がすでにずっと昔に倒されている、
トワイライト・ヴァンパイア
というところについては議論の余地はないとされている。
なにせ、黄昏の吸血鬼の亡骸、というか灰を埋葬した墓というの
1039
がどこかにあったはずだ。
それでもまだ追い続けている、ということはニヴはその墓は偽物
だと考えているということだろう。
トワイライト・ヴァンパイア
﹁ええ、子供の頃にさんざん聞きましたし、遊びましたからね。私
は大抵、黄昏の吸血鬼の役で﹂
﹁なるほど⋮⋮しかし、子供のころ、いじめられっ子だったように
はとても見えませんが﹂
俺の答えで、即座にその辺りを見抜くニヴ。
俺は言う。
﹁なんだか、当時の友人に聞くと、ずいぶんと変わった子供に見え
ていたみたいですね。今ではその頃、いじめてきた奴らとも和解し
てるんですよ。故郷に帰れば普通に話す仲です﹂
これに、シャールが、
﹁また珍しい。いじめられっ子が冒険者になって故郷に帰ると、大
概復讐に動くと言うのに。私だったら間違いなくぶん殴りに行きま
すけど、レントさんはそのようなことはしようとは思わなかったの
ですか?﹂
と尋ねてきた。
俺は答える。
﹁そうですね⋮⋮まぁ、今更、というところもありますし、私には
したいことがありましたから。他のことはあまり、考えようとは思
わないのですよ﹂
1040
﹁それは?﹂
ミスリル
﹁︱︱いずれ、神銀級の冒険者になることです﹂
ヴァンパイア
吸血鬼になってから、完全な他人には初めて言ったな。
なんだか不思議な感じがする。
もちろん、人間だったころもよく言っていた台詞だが、あの頃は
⋮⋮どこか意地で言っているようなところもあった。
けれど今は⋮⋮。
なんだか、本当に叶いそう、という希望が感じられるのだ。
意地でも気負いでもなく、ただ、目標を口にした。
そんな感覚がするのだ。
実際、このまま強くなっていけば、いつかは⋮⋮。
とは言え、そんな事情はニヴにもミュリアスにもシャールにも分
からないだろう。
何を馬鹿なことを、と笑われるかなと思った。
なにせ、人間だったときは、最初の頃、けっこう笑われていたか
らな。
徐々にそういう人物は減っていったが、まぁ、本当のど新人のこ
ろはそんなこと言っても本気だとは中々捉えられなかったのだ。
しかし、ニヴは、
﹁ほう、そうなると⋮⋮私とどっちが先になるか勝負しますか。私
は今、金級ですから、今のところ有利ですが、まだまだ遠いですか
ら﹂
と言い、ミュリアスは、
1041
﹁単独でタラスクを狩れるような冒険者なのです。いずれそうなっ
てもおかしくはないでしょう﹂
という。
そしてシャールは、
﹁そうなったらぜひ、うちの店に支援させてくれ。店に箔がつくか
らな﹂
ミスリル
と、冗談交じりに言った。
ミスリル
神銀級ともなると、武具やら道具やらを購入せずとも、店の方か
ら使ってくれ、と言われることもあるのだ。
もちろん、善意ではなく、宣伝のためで、神銀級が使っている品
だ、と言えば売れ行きが相当に伸びるようだ。
ミスリル
店自体も繁盛するようだしな。
ミスリル
ただ、神銀級であるという事実をそういう意味で利用しようとす
る神銀級はほとんどいなかったりする。
色々と柵があるのが面倒だ、というタイプが多いからだろう。
冒険者というのはそもそもそんな奴らの集団だしな。
俺は⋮⋮もしなれたらどうだろう。
武具は自分で選びたいし、道具もそうだということを考えると、
あまりそういうことはしないだろうなと思う。
それにしても、三人とも俺の夢を頭ごなしに否定しないのは、不
思議な感じだった。
昔なら、誰か一人くらいは馬鹿にしてるだろうからな。
ここにいる三人がいい人だから⋮⋮とは言えないが、まぁ、人の
信条を否定することを良しとはしないタイプばかりなのだろう。
1042
﹁⋮⋮いつなれるか分かりませんからね、勝負も支援も遠慮させて
もらいますよ﹂
俺は三人にそう言って、
トワイライト・ヴァンパイア
﹁それよりも黄昏の吸血鬼の話です。ニヴ様は本当に今も生存して
いると信じておられるのですか?﹂
と話を戻した。
1043
第153話 下級吸血鬼と黄昏︵後書き︶
長くなってますが、話し合いは次くらいで終わりかな、という感じ
です。
1044
第154話 下級吸血鬼と握手
ヴァンパイア・ハンター
﹁⋮⋮信じていますよ。だからこそ、私は今、吸血鬼狩りなのです
から﹂
そう言ったニヴの瞳は、何かよくわからない感情に彩られていた。
ミスリル
憧れか、怒りか、執着か⋮⋮。
俺が神銀級になりたい、と言っているときもこんな目をしている
のかな?
それとも全く違うものなのか⋮⋮。
トワイライト・ヴァンパイア
﹁そうですか⋮⋮なぜ、とお聞きしても? こう言っては失礼です
が、それこそ黄昏の吸血鬼はすでに討伐された、と言われています
よね﹂
俺がそう言うと、同意するようにミュリアスが、
﹁そうです。ロベリア教の聖者が、その心臓を貫き、討ち滅ぼした
のですよ﹂
と続ける。
それを聞いたシャールは、
﹁⋮⋮まぁ、ロベリア教ではそのように言われておりますが、他宗
トワイライト・ヴァンパイア
においてもうちの聖者が、と言っているところはいくつもあります
からな。黄昏の吸血鬼の墓所にしても、いくつも存在しております
し⋮⋮﹂
1045
と何とも言えない顔で言う。
ミュリアスはちょっとだけむっとした顔をしたが、実際言ってい
ることは正しいので文句も言えないようだ。
シャールはミュリアスの手前、ロベリア教を否定するわけにはい
かないのだろうが、そうならないところで一般論を言ったわけだし
な。
確かに墓所については書物でそうだったと読んだ覚えがある。
トワイライト・ヴァンパイア
一番有名なものがロベリア教が喧伝している墓所のようで、そこ
が間違いなく黄昏の吸血鬼の墓所だ、と言っているようだが、正し
いかどうかは⋮⋮。
ニヴもそう思っているようで、
﹁シャール殿のおっしゃる通り、墓所についてはどれも甚だ怪しい
でしょう。そもそも、討伐した人物すらはっきりとはしていないの
です。むしろ、討伐などされていない、と考える方が自然なのでは
?﹂
と言った。
ここまでで出てきた事実だけ積み上げると確かにニヴの言ってい
ることに説得力があるのだ。
ただ、一つ問題があるとすれば⋮⋮。
トワイライト・ヴァンパイア
﹁⋮⋮黄昏の吸血鬼は血と破壊と虐殺を好んだと伝えられています。
仮に今でも存在しているのなら⋮⋮その被害が見られないのは奇妙
では?﹂
伝説によれば国一つ飲み込んだことすらあると言われる存在であ
る。
それが事実かどうかは今となってははっきりとは分からないにし
1046
ヴァンパイア
ても、かなりの規模の被害があったのは間違いないだろう。
伝説の邪悪なる吸血鬼は、存在するだけでそのような災害を引き
起すのである。
しかし、ここ数百年で、かの存在の仕業だ、と見られるような災
害は特に起こってはいない。
トワイライト・ヴァンパイア
生存しているのなら、起こらないはずがないのに、だ。
それが、黄昏の吸血鬼が今はもういないことの最大の証明ではな
いか。
けれどニヴは、
ヴァンパイア
﹁奴は別に獣ではないのですよ? 自分が死んだと見せかけて、姿
を隠すくらいのことはむしろ考えて普通でしょう。吸血鬼は、低級
なものはともかく、上位存在になればそれほど存在の維持をするた
ヴァンパイア
トワイライト・ヴァン
めに大量の血液を必要としません。細々と、静かに生きるのにはむ
パイア
しろ上位の吸血鬼の方が向いているのですよ。ましてや黄昏の吸血
鬼ともなれば⋮⋮﹂
ヴァンパイア
そこは知らなかったことだな。
上位の吸血鬼など、普通は出くわすことすら中々ないから、その
ヴァンパイア・ハンター
生態についてはあいまいなところが結構多い。
ニヴはその吸血鬼狩りとしての経験で、知っていることが多いの
だろう。
しかし⋮⋮上位の吸血鬼だと、血があんまりいらない、のか。
俺は一日三滴くらいあれば足りてしまうのだが⋮⋮多いのか少な
いのか。
やっぱ少ない方だよな?
気になって、ニヴに尋ねてみる。
レッサー・ヴァンパイア
﹁ちなみに、下級吸血鬼だとどれくらい血が必要なのですか?﹂
1047
﹁そう、ですね⋮⋮個体差もありますから、一概には言えませんが
⋮⋮月に人間二体分、と言ったところでしょうか。概ね⋮⋮そこに
ある花瓶十杯分もあれば足りると思います。中級であればその半分、
上級であればさらにその半分、というところでしょうか。それより
も上となると、少ないでしょうが、もう一般論では語れないでしょ
うね﹂
ニヴは、飾ってあった花瓶を指さしながらそう語った。
花瓶の大きさは、それほどでもない。
あれに液体を入れたら、大体、コップ五杯分くらいが限界という
所だろうか。
それを十杯分必要ということは⋮⋮。
凄い多いな。
いや、俺が少なすぎるのか?
もしかして俺って、高位の吸血鬼?
とか思ってしまうが、おそらくは気のせいだろう。
個体差もあるというし⋮⋮高位、というよりは特殊な、という感
じの方がしっくりくる。
聖気でも判別されないしなぁ。
いつかしっかり自分がどういう存在なのか、分かる日が来るのだ
ろうか。
⋮⋮難しそうだな。
まぁいいか。
話を戻そう。
トワイライト・ヴァンパイア
﹁⋮⋮なるほど、分かりました。それで⋮⋮お願いは黄昏の吸血鬼
を見つけたら、ニヴ様に連絡する、ということでいいですか?﹂
最後に確認である。
1048
結局、彼女が求めているのはそれだろう。
ニヴは頷いたが、
﹁ええ、それでいいのですが⋮⋮ただ、レントさんは見ても分から
ないでしょう?﹂
トワイライト・ヴァンパイア
﹁それは⋮⋮まぁ、そうですね。そもそも黄昏の吸血鬼ってどのよ
うな見た目をしているのですか?﹂
それが分からないと探しようがない。
けれどニヴは首を振って、
﹁さっぱり分かりません﹂
といっそ潔くはっきりと断言した。
おいこらそれで探せってか、と突っ込みを入れたくなったが、至
って真面目な表情なのでそれは言えない。
ニヴは続ける。
ヴァンパイア
﹁もちろん、結構な無茶を言っていることは自覚していますよ。だ
からこそ、レントさんが勝てそうもない吸血鬼に遭遇したら、連絡
してください、と言ったのです﹂
あれは、そういう意味だったのか。
しかし⋮⋮。
トワイライト・ヴァンパイア
﹁私では黄昏の吸血鬼には勝てないと?﹂
そういう話になるだろう。
ニヴはそう思っていると。
1049
⋮⋮まぁ、勝てないか。無理だな。分かってる。
ただ一応聞いてみたかっただけだ。
ニヴは言う。
トワイライト・ヴァンパイア
﹁気を悪くされたなら、謝ります。ただ⋮⋮黄昏の吸血鬼は国崩し
の魔物の一体です。レントさんに同じことが出来ると言うのなら文
句はありませんが⋮⋮﹂
出来ないでしょう?
と言外に匂わせる。
ミスリル
出来ないよ。うん。
出来たらもう俺は神銀級だろうさ⋮⋮。
しかしニヴには出来るわけか?
いやぁ⋮⋮怖すぎる。
とは言え、冒険者としては他人の強さがどのくらいなのかは気に
なるものだ。
俺は尋ねる。
﹁⋮⋮ニヴ様は、それが出来ると?﹂
するとニヴはふっと笑って、
ヴァンパイア
﹁まさか! ただ、吸血鬼相手にはそれに見合った戦い方がありま
すからね。向こうが圧倒的に強くても、勝てないという訳ではない
のです。つまり、実力の差を、ノウハウで埋められる、その技術と
経験が、私にはある、ということです﹂
と思ったよりも堅実な返答をした。
なるほど、俺にはそれがないから無理、か。
納得だ。
1050
まぁ、それに加えてニヴはもともと俺よりずっと強いわけだけど
な⋮⋮。
ともかく、話をよく理解した俺はニヴに頷いて、
ヴァンパイア
﹁分かりました。そういうことなら⋮⋮そのような吸血鬼に遭った
ら、必ず連絡しましょう﹂
そう言って手を差し出す。
一応の握手だ。
和解と言うか、色々あったけどとりあえずちょっとだけ、仲直り
を、という意味合いで、
ニヴはその手に少し目を見開いていたが、
﹁⋮⋮ええ、よろしくお願いします﹂
と今まで見せなかった少し柔らかな笑顔を向けて、俺の手を握っ
たのだった。
1051
第155話 聖女ミュリアス・ライザ2︵前︶
私の名前はミュリアス・ライザ。
ロベリア教で聖女をしている。
小さいころに、女神ロベリアの加護を受け、聖気の才能が芽生え
ているということで教会に連れられ、それからはずっと聖女として
修業の日々を送ってきた。
今回もそうだ。
遥か遠く離れたアルス聖王国からこんな僻地にやってきのは、ロ
ベリア教の威光を辺境にも届かせるため。
私の力でもって、多くの人を癒し、ロベリア教の正しさを伝える。
そのために、私はここ、都市マルトに来た。
そのはずだった。
◇◆◇◆◇
都市マルトにあるロベリア教の教会は、アルス聖王国の聖都にあ
る大聖堂と比べると、これは小屋であると評したくなるほどに小さ
いものだった。
アルス聖王国聖都においては、その教会である大聖堂は、アルス
王の住まう王城よりも大きく、その中心は城ではなく大聖堂である
と言ってもいいほどだった。
しかし、都市マルトでは⋮⋮。
小さいだけなら別に構わないが、道を歩く者の中で、ロベリア教
の教会にちらとでも目を向ける者すら見ることが出来ないのには驚
いた。
1052
たまに教会にやってくるものもいなくはないが、祈りに来たり説
教を聞きに来たりしているわけではなく、ただ、ロベリア教が作っ
ている高品質の聖水や、それを使って作られた石鹸などの製品を購
入しにやってきているだけだ。
その際に、寄進と称して金銭を払い、祈りを捧げはするが、どう
見ても形ばかりのものでしかないことはその祈りの仕草の適当さか
ら、よく、理解できた。
﹁⋮⋮こんなもの、大教父様が見たら何て言うか⋮⋮﹂
私が遠目でロベリア教の︽製品︾が売れていくのを見ながら、ど
う見てもただの商店と化してしまっている教会の現状をそう、嘆く
と、隣に立っていた目つきの鋭い男、ギーリは、
﹁⋮⋮大教父様はご存知です。辺境とはこのようなものだと﹂
﹁だったら⋮⋮﹂
なんで放っておくのか、と言いかけた私であった。
しかしギーリは首を振り、
﹁いいえ、大教父様は、その現状を憂いたからこそ、ミュリアス様
を派遣されたのです。貴女様の責任はとても大きなものですよ﹂
とまじめ腐った顔で返答した。
本当かな?
そもそも、私は聖女でこそあるが、経験豊富というわけではない。
いくらか街での治癒・浄化や、説教をこなしたことはあるが、比
べればもっと経験豊富で、大きな聖気を持つ聖者・聖女を挙げれば
は枚挙に暇がないのだ。
1053
ここが小さな村だとか町だとかいうのなら、確かにそのような人
々を派遣せずとも、私でも何とかお勤めを果たせるかもしれない。
しかし、この街マルトは辺境都市とは言え、それなりの規模のあ
る都市なのだ。
私にはどう考えても、荷が重い気がした。
だから、私は正直に思ったことを言ってしまう。
﹁確実に教えを広めたいのなら、私ではなくアールズ様やミリア様
を派遣すべきでしょうに﹂
二人とも、経験も聖気の量も技術も、全てが私を百人集めたとし
ても追いつけない、当代最高の聖者・聖女である。
辺境にロベリア教を広めたいと言うのなら、彼らくらいの人物を
派遣すべきで、聖女とはいえ、末端の末端に過ぎない私をここに派
遣したところで、焼け石に水のような気がする。
ギーリはそんな私の心の内を知ってか知らずか、
﹁⋮⋮お二人はロベリア教でも一、二を争う忙しさでいらっしゃい
ますからね。流石に遠方へ派遣、というわけにはいかなかったので
しょう﹂
と、当たり前のことを言った。
そんなことは、私にもわかっている。
彼らの忙しさは、そんじょそこらの王侯貴族の比ではない。
毎日ほとんど分刻みの生活を行っていて、休む暇もないとは彼ら
のことを言うのだろう。
当然、遠方になど来れるはずがない。
﹁⋮⋮つまり、私は暇だと﹂
1054
﹁いえいえいえ。そんなことは申しませんが⋮⋮﹂
が、のあとに何が続くのか、と聞こうと思ったけれど、聞いても
楽しくはないなと思ってやめる。
それに、暇だからと派遣されたのだとしても、やることは何も変
わらないのだ。
私の仕事は、ここに住む人々に、ロベリア教の偉大さを伝えるこ
と。
︱︱とにかく、頑張ってみよう。
何はともあれ、前向きでいようかと心を改め、
﹁説教は一週間後の予定だったかしら?﹂
そう尋ねる。すると、ギーリは、
﹁ええ。それまでは色々と手続きがありますので。また、この街の
有力者にご挨拶もしなければなりません。彼らの中には通常の治癒
魔術では治癒不可能な怪我や病を患っている者もおりますので﹂
それで、何をしに行くかと言えば、︽寄進︾と引き換えに私が治
癒するのだ。
彼らは喜んで支払うだろう。
それだけの資産を持っているし、治癒はお金には代えられないも
のだから。
そして、ロベリア教の信仰を少しずつ広めていくのだ。
事実、この国において、ロベリア教は一般平民にはほとんど信仰
されていないが、貴族や商人などの資産家の中にはそれなりに広ま
1055
ってはいる。
それはこのような地道な活動が実を結んでいるからだ。
平民はというと、︽寄進︾がなければあまり恩恵を与えることが
ロベリア教では少ないために、信者の数が増えては行かないのだろ
う。
この国における最大宗教東天教は、寄進を要求することは無く、
ただ分け隔てなくその力を与えるという。
その結果として、貴族や資産家たちが後回しになるということも
少なくなく、それがため、金で優先順位をつけるロベリア教の方に
傾倒する者が多いというのもある。
どっちが正しいか、と言われると心情的には東天教は立派である
と言いたくなるが、実際のところ、よく考えると⋮⋮微妙だと思う。
なにせ、自分の家族が重い病で一刻を争うというときに、後回し
にされて結果、死亡した、となりたくはないから、金を払うから先
に頼むと言いたくなるのだろうから。
東天教とて、重傷者と軽傷者がいれば、重傷者を優先して治癒を
行っているのだろうが、それでも取りこぼしは出る。
そういうところをロベリア教は狙い、そして徐々に権勢を広めて
いる、というわけである。
もしかしたら、大きな目で見れば、この国において、東天教とロ
ベリア教はうまく住み分けが出来ている、ということになるのかも
しれない。
ロベリア教が、それで満足するわけがないのだが。
どんな宗教を信じても、それは個人の自由ではないか、とたまに
考えることもある。
そういう意味では、この国は理想的に見える。
けれど、そんな状況を、私は打破しなければならない⋮⋮複雑だ
った。
1056
そんな私に、ギーリは、教会に届いた手紙の束を読みながら、
﹁あとは⋮⋮む、これは⋮⋮﹂
と首を傾げた。
﹁どうかしたの?﹂
そう尋ねると、ギーリは、
﹁大教父庁から直々のご指令ですね⋮⋮。これは⋮⋮金級冒険者ニ
ヴ・マリスの供をするように? これは一体どういう⋮⋮﹂
困惑しながらそう言ったのだった。
1057
第156話 聖女ミュリアス・ライザ2︵中︶
そもそも、金級冒険者ニヴ・マリス、とは一体誰だ、というのが
私の率直な感想だった。
私はずっと聖女として、そのために必要な知識と技術を身に付け
てきた。
その中に、冒険者たちのそれは存在しなかったのだ。
ミスリル
もちろん、場合によっては各国の王や高位貴族のような扱いを受
けることもある、有名な神銀級冒険者であれば知っている。
ミスリル
しかし、金級程度の冒険者の名前となると⋮⋮。
際立った活躍を見せる者も多い、将来の神銀級が生まれるランク
であると、注目されることも多いようだが、私が気にしなければな
らない情報ではなかった。
けれど、ギーリは違ったようで⋮⋮。
ヴァンパイア・ハント
﹁⋮⋮金級冒険者ニヴ・マリスと言えば、有名な吸血鬼狩り専門の
冒険者ですよ﹂
ヴァンパイア・ハント
﹁吸血鬼狩り?﹂
﹁ええ、通常、冒険者はその獲物や依頼を選り好みすることは少な
ヴァンパイア・ハント
いのですが⋮⋮たまに効率や個人的な好みでそういうことをする冒
し
険者というのがいるのです。特に、吸血鬼狩りについては⋮⋮かな
き
り難しい狩りになりますが、その分、リターンも大きい。末端の屍
鬼を捕まえても意味はありませんが、︽群れ︾の︽盟主︾を捕獲す
れば一攫千金が狙えますからね。夢のある職業です﹂
1058
珍しく、少しだけ興奮した様子でギーリはそう言った。
普段からあまり表情や態度に感情を出すことがないため、意外に
思う。
﹁随分楽しそうね? 冒険者に憧れでも?﹂
﹁おっと、申し訳ありません。神官になる前、小さなころにいつか
なりたい、と思っていた時期があったものですから。思い出しまし
て⋮⋮﹂
この男にして意外な過去である。
子供のころから堅実な道をただ求めて生きてきたようにすら思え
る顔をしているのである。
夢が⋮⋮と言われると意外にもほどがあった。
もちろん、この男にも、可愛かった子供時代があったはずで、そ
ういうときにそういうことを思っていたことは何もおかしくはない
のだが⋮⋮。
なんだか、私の中ではギーリは小さなころからギーリであったよ
うな、そんな気がしてしまうのだった。
だから、
﹁そう⋮⋮貴方にも普通の子供時代があったということね﹂
と皮肉交じりの台詞を言ってしまうが、ギーリは気にした様子も
なく、
・・
﹁もちろんです。私とて、初めからこうではないのですよ﹂
と分かった様な台詞を言った。
それから、
1059
﹁それで、指令についてですが⋮⋮聖女ミュリアス・ライザはニヴ・
マリスの供をして、彼女とある冒険者との交渉に在席するように、
とのことです﹂
﹁冒険者の? なぜ、私が⋮⋮﹂
嫌だ、というわけではなく、ただ不思議だった。
別に、そう言った交渉の席に侍ったことが全くないわけではない。
貴族同士の話し合いの席などに、毒の入っている場合を考えて、
浄化の業を振るうために呼ばれることは、実のところ聖者・聖女は
多いのだから。
今回のこともきっと、そのようなことを期待されているのだろう、
ということは分かるのだが、聖女を呼ぶ、というのはそう簡単に出
来ることではない。
少なくともそれなりの権力と金銭が必要であり、たとえ金級冒険
者であるとはいえ、そうそう出来はしないはずなのだ。
それなのに、と思った私の心情を理解したのか、ギーリは、
﹁分かりません。が、これは大教父庁からの直接の指令ですから⋮
⋮ニヴ・マリスはロベリア教の上層部に影響力を持っているという
ことでしょうね。そうでなければ、このような指令は出ません﹂
﹁それなりに有名なようですが⋮⋮金級程度でなぜそのような力を
⋮⋮﹂
そんなことは上位貴族でも容易なことではないはずだ。
ロベリア教はヤーラン王国では大した存在ではないとはいえ、世
界的に見れば巨大な力を有する宗教団体に他ならない。
必然、各国の貴族や政府に対しても多大なる影響力を持っている
1060
のだ。
そのロベリア教における最高権力、大教父庁に直接何かを要求で
きるというのは⋮⋮。
ギーリにもそれは非常に不思議なようで、
﹁それも、分かりません。ただ、ミュリアス様、これは断ることが
出来ませんよ﹂
そう言った。
そんなことは分かっている。
分かってはいるが⋮⋮。
ギーリは続ける。
﹁ニヴ・マリスは明日、この教会に来るそうです。そこで詳しい話
は聞くようにと﹂
色々と不安を感じつつも、命令には逆らえない。
私は頷き、明日のことを想った。
◇◆◇◆◇
﹁やぁやぁ、こんにちは。聖女ミュリアス様。私はニヴ・マリス。
しがない金級冒険者です。どうぞよろしくお願いしますね﹂
そう言って部屋に入って来た人物は、私が今まで会ったことのな
い人種で、どう対応していいものか分からなかった。
雰囲気は⋮⋮アールズ様に似ているような気がする。
けれど、その瞳の輝きが、明確に違った。
何か、得物を狙って舌なめずりをしている怪物を前にしているよ
うな、そんな不安をこの人を前にしていると感じるのだ。
1061
﹁⋮⋮ええ。よろしくお願いします。ところで、今回は冒険者との
交渉の席への在席ということですが⋮⋮﹂
出来るだけ早く離れたいと思ったので、早速、本題に入る。
するとニヴは、
﹁ええ。ミュリアス様は浄化の聖気が使えるでしょう? 私はそれ
が少し苦手で⋮⋮奴らはかなり狡猾ですからね。バレてはいないと
思うんですが、もしかしたら毒を盛られるかもしれないので注意し
たいんですよ﹂
と、よくわからないことを言い出した。
私は首を傾げ、
﹁⋮⋮奴らとは? 毒を盛られる⋮⋮? 冒険者と素材の売買をす
るだけなのではなかったのですか﹂
少なくとも、大教父庁からの手紙にはそう、記載してあった。
しかし、ニヴは、
ヴァンパイア
ヴァンパイア
﹁あぁ、もちろん、それも目的ではあるんですが、一番大事なのは
吸血鬼を狩ることです。私、その冒険者が吸血鬼じゃないかと疑っ
てましてね。色々調べてほとんど確信に近いのですよ。だから、万
全の準備をして、望みたいと考えておりまして﹂
と驚くべきことを言う。
ヴァンパイア
﹁吸血鬼が街に⋮⋮?﹂
1062
そんなこと、魔物に餌場を提供しているに他ならないではないか。
しかしニヴは慌てることなく、
﹁そんなに驚かれることでもないですよ。よくあることです。さき
ほども言いましたが、奴らは狡猾です。街の人間に紛れることなど、
ヴァンパイア
奴らにとっては朝飯前ですよ。そういうわけで、ミュリアス様には
ハンター
吸血鬼退治に協力していただきたいのです。ロベリア教にも邪な魔
物を狩る、専門の狩人たちはいますし、業務の一部と言ってもいい
と思いますし﹂
ルー・ガルー
彼女が言っているのは、ロベリア教の誇る異端根絶騎士団のこと
ヴァンパイア
だろう。
吸血鬼、人狼、悪魔憑きなどの、人に混じり、人間社会を脅かす
魔物たちを専門に探し、滅ぼすことを目的とする集団。
しかし、私はほとんどかかわったことがなく、一体何をしている
のか、どういう風にして任務を行っているのかは知らない。
もしかしたらニヴの方が詳しいのかもしれない。
こんな風に普通に口に上るのだから。
ヴァンパイア
それにしても、吸血鬼が⋮⋮。
もし事実であるとすれば、それは大変な話である。
ロベリア教に若干の疑念を感じてはいる私ではあるが、それでも、
聖女として、人のために行動しなければならないと言う気持ちに疑
ヴァンパイア
念があるわけではない。
吸血鬼を滅ぼせるのなら、協力するのは吝かではなかった。
大教父庁も、おそらくはこのようなニヴの活動に賛同を示してお
り、出来るだけ早い退治が必要と考えたからこそ、ニヴのお供をす
るように、と指令を送って来たのだろう。
だから私は頷いて、
1063
﹁⋮⋮どれだけお力になれるかはわかりませんが、承知いたしまし
た。どうぞよろしくお願いします﹂
そう言ったのだった。
1064
第157話 聖女ミュリアス・ライザ2︵後︶
﹁よくよく気を付けてくださいね。奴らは魅了の魔眼を持っていま
レジスト
す。異性を強烈に惹きつけて離さない目です。聖女さまと言えど、
必ず抗魔出来るというものでもないので、過信はしないでください﹂
ニヴは、例の冒険者に会う直前、交渉の場所であるステノ商会の
前でそう呟いた。
﹁魅了の魔眼、ですか⋮⋮﹂
魔眼持ちは私も何人か知っているし、会ったことはある。
ヴァンパイア
けれど魅了の魔眼は⋮⋮。
必ずしも吸血鬼だけが持っているというものではなく、人にも持
つ者が生まれることはある。
しかし、その場合は見つかり次第、捕縛され、必ず封印処置が施
されるのだ。
なぜなら、魅了の魔眼がその名の通り、ただ、異性を自分に夢中
にさせる、というだけならともかく、それ以上の価値を持ってしま
う事例が歴史上にあった。
それというのも、魅了の魔眼に惹きつけられた者は、相手の言う
ことをそのまま丸のみで聞いてしまう。
抗うことは出来ない。
こんなものが組織や団体の内部に入り込み、そして好き勝手に振
る舞うことを許すと⋮⋮。
とんでもない事態を引き起こすことは想像に難くない。
実際、︽傾城のアドネー︾と呼ばれる人物がいる。
彼女は一国の王をその瞳でたぶらかし、そして国を乱れさせた。
1065
多くの人を殺し、また多くの富を呑み込み、そして最後には⋮⋮
国は滅びた。
そんな事態を起こさないために、魅了の魔眼持ちは捕まり次第、
封印処置をされる。
封印処置は、昔はその瞳そのものを潰す、くり抜く、という極め
て非人道的な方法で行われていた。
そのため、自分の子供に魅了の魔眼持ちがいても、国に報告しな
い、ということはよくあり、そのため、後々問題になることも少な
くなかった。
しかし、今はそのような方法によらず、魔術的な処置でもって、
その魔眼の効力を永久に失わせることが可能である。
もちろん、失明したりすることもない。
若干視力が落ちることはないではないが、せいぜいがその程度で
ある。
必要があれば国から視力補助用の魔道具を支給されることもあり、
今では魅了の魔眼持ちは素直に封印処置に応じる。
それでも見逃されることもなくはないが⋮⋮きわめて少数だ。
十年に一度、いるかいないか。
そんなものである。
つまり、魅了の魔眼、というのは極めて珍しいのである。
ヴァンパイア
しかし吸血鬼は⋮⋮。
ヴァンパイア
﹁吸血鬼は皆、魅了の魔眼を?﹂
私がそう尋ねると、ニヴは、
﹁絶対、というわけではないですね。ただ、多くは持っていますし、
1066
人の持つそれよりも強力なことも少なくないです。ですから、奴ら
は危険なのですよ。よくよく、お気をつけてくださいませ﹂
そう言って、ステノ商会の中に入っていったので、私はそのあと
を慌てて追いかけた。
◇◆◇◆◇
﹁こちらです﹂
ステノ商会の店員に案内され、通された部屋の中には、商会の主
であるシャール・ステノと、そして一人の冒険者がいた。
商人シャールの名は、この街において私が挨拶をしなければなら
ない有力者の一人として耳に残っている。
ただ、もう一人の方は⋮⋮。
正直に言って、異様な人物だった。
顔を見れば、そこには精緻な骸骨の描かれた不気味な銀色の仮面
を被り、ゆらゆらと揺らめく暗黒色のローブを身に纏っている。
立っている姿には隙がなく、こちらを仮面から覗くまっすぐとし
た瞳で見つめていた。
⋮⋮見てはいけないのだった、と思うが、もう遅いかもしれない。
あれが抗い難い威力を持つと言う魅了の魔眼だと言うのなら、す
でに私は⋮⋮。
﹁⋮⋮大丈夫ですよ、まだ。目は見ないように。どうしても顔を合
わせるときは、額を見なさい﹂
ぽん、と背中を叩かれ、ニヴが囁くようにそう言った。
彼女には魅了の魔眼の発動がどうやら分かるらしい。
1067
まだかかっていない、という言葉に一応安心し、それから挨拶に
移った。
挨拶をするとき、私は彼⋮⋮レント・ヴィヴィエというらしいが
⋮⋮に、聖気の祝福をかける。
これが、ニヴが私を連れてきた理由だからだ。
浄化の力が彼を包み、浸透する⋮⋮と思ったその時、彼の体の中
ヴァンパイア
にもまた、聖気の輝きを感じた。
⋮⋮吸血鬼が聖気を持つ、などということがあるのだろうか?
彼らは聖気に弱いと聞く。
ヴァンパイア
まさか自ら使えるはずがない。
彼の吸血鬼の疑いはもう晴れたのではないか。
そう思うも、ニヴはまだ、警戒を解いてはいなかった。
⋮⋮なぜだろう?
分からない。
ニヴも聖気を使える、と聞いていたし、それなら今のも分かった
はずなのだが⋮⋮。
ヴァンパイア
しかし、ニヴはそれからもレントを、吸血鬼であるものとして、
質問や、聖気による高位技術︽聖炎︾による診断にかけたりした。
ニヴに聖気の素質があるとは本人からここに来る前に聞いていた
ヴァンパイア・ハンター
が、まさか︽聖炎︾まで使えるとは思わず、驚いたが⋮⋮だからこ
そ、有能な吸血鬼狩りとして名を馳せられたのだろう。
ちなみに、どうしてここまでレントを疑うのか、その理由もその
後語られた。
ニヴのどこか軽薄な態度からは想像もつかない、しっかりとした
裏付けのある話で、なるほどと思ってしまうような話である。
つまり、レントは極めて疑わしい行動の数々をとっていたという
ヴァンパイア
ことになるが⋮⋮結局、彼は︽聖炎︾を切り抜けた。
彼は、吸血鬼ではない。
1068
ただ、レントはニヴの説明に納得したようだったが、私にはどこ
かしっくりこなかった。
なぜ、と聞かれると今一分からないが⋮⋮強いて言うなら、勘で
あろうか。
⋮⋮馬鹿みたいな話だ。
もう、レントの疑いは晴れたのだ。
ニヴ自身もそう言っているし、もういいだろう。
それから、ニヴは謝罪に、と言って物凄い金額をレントに支払う
ことを決め、さらにそのままの勢いで、頼みにくいお願いをレント
にする。
このレント・ヴィヴィエという冒険者は非常にお人好しなのだろ
う。
見た目で勘違いしていたが、ニヴ対しては終始、腰が低く誠実に
対応していたし、ニヴのお願いについても一応は了承した。
ヴァンパイア
人は見かけによらないのだな、と改めて思う。
吸血鬼 でもなかったことだし。
そして、ニヴとレントとの話し合いは終わり、私たちはステノ商
会を出た。
﹁やれやれ、無駄足でしたか﹂
ニヴはそう言ってため息を吐き、首を振った。
﹁⋮⋮どうしてあそこまでレントさんを疑っていたのですか?﹂
私がそう尋ねると、ニヴは、
1069
ヴァンパイア
﹁うーん⋮⋮色々と言いましたけど、結局は勘ですよ、勘。吸血鬼
ヴァンパイア
探しで一番大事なのは、センスというか勘というかそういうものな
んですよ。そして私の類まれなる勘は、彼を吸血鬼だと言っていた
のです。でも、実際は⋮⋮鈍りましたかねぇ、私の勘も。今まで百
発百中だったのですが、今回で百発九十九中になってしまいました
よ﹂
本気で言っているのかどうか。
それは分からない。
ただ、勘で、という部分は真面目に言っているのだろう、という
のがなんとなく分かってしまう。
何とも言えず、私が黙ってると、ニヴは、
﹁⋮⋮ま、足で稼ぐのも大事ですから、今回のはレントさんがそう
ヴァンパイア
ではない、と分かったということで良しとしましょう。ただ、この
街に巣食う吸血鬼がいなくなったわけではありません。まだまだ探
しますよ。ミュリアスさん、明日からも手伝ってくださいね?﹂
と微笑んでいう。
⋮⋮私は、手伝うのか、この人を。
今回ついていったので終わりのはずでは⋮⋮。
しかし、ふと大教父庁の指令所を思い出すと、そこには別に期限
可能な限りの便宜を図る様に
も書いていなかったし、ついていくだけでいいとも書いていなかっ
た。
それどころか、指令の最後には
とも書いてあった覚えがある。
今しばらく、聖女として正式な活動は出来ないらしい、と頭を抱
1070
えつつ、私はこれからしばらくの間、道を共にしなければならない
ことに精神的な疲労を感じていた⋮⋮。
1071
第158話 下級吸血鬼と提案
﹁おぉ、帰ったか。どうだった?﹂
ステノ商会でのニヴたちとの話し合いを終え、ロレーヌの家の扉
を開くと、そんな声がかけられた。
ロレーヌのもので、これを聞くとやっと帰ってこられたか、とい
う気分が心から噴き出てくる。
今回ばかりは相当に危ない橋を渡ってしまった、という認識があ
る。
少し不用意過ぎたかもしれないが、流石に素材を売りに行ってあ
んなのが現れるなんて想像もつかない。
ヴァンパイア
隕石が降ってくる並に珍しい出来事だ。
まぁ、それでもニヴは、吸血鬼に対するあの嗅覚である。
いずれ会ってしまってはいたのだろう、とは思う。
﹁色々と予想外のことが起こったよ⋮⋮大丈夫だったけど﹂
﹁なに⋮⋮? また何かおかしなことに巻き込まれたのか?﹂
うんざりしたような顔でそう言うロレーヌ。
しかし、話を聞いてくれるつもりはあるようで、
﹁とにかくこっちに来て、話を聞かせてくれ﹂
そう言ったのだった。
◇◆◇◆◇
1072
﹁⋮⋮ニヴ・マリスと、ロベリア教の聖女とは⋮⋮。考えうる限り、
今のお前が一番会いたくない相手だな﹂
大体のことを話し終えて、ため息を吐きながらロレーヌがそう言
った。
俺は彼女の言葉に頷いて、
ヴァンパイア
﹁まったくだよ⋮⋮ただ、ニヴは特殊な吸血鬼判別技術を持ってい
たが、俺には効かなかったわけだからな。今回は却ってツイていた
のかもしれない﹂
﹁あぁ、︽聖炎︾か。故郷で使っている者を見たことがあるぞ。そ
のときは、滅多に使われない教会の秘奥義である、と言われてその
詳しい内容は説明されなかったが⋮⋮調べてみると面白そうだな。
聞いても教えてくれなさそうだが。そもそも、基本的には聖気の素
養がなければ見えないと言うことは、私が見たものは見えるように
してくれていた、ということのようだし、見せてくれといっても協
ヴァンパイア
力は得られなさそうだ。しかし⋮⋮なぜ、お前にはその判別方法が
効かなかったのだろうな? お前は現実に⋮⋮吸血鬼だろう?﹂
そこのところは俺にとっても謎である。
なにせ、ニヴは間違いなく判別できる、という自信を見せていた
のだから。
その事実を素直に受け取って考えるなら⋮⋮。
ヴァンパイア
﹁⋮⋮もしかして、俺は、吸血鬼ではない、のかな?﹂
ぼそり、と独り言のように呟いたその言葉に、ロレーヌは少し考
え込んでから言う。
1073
スケルトン
ヴァンパイア
グール
しき
ヴァンパ
﹁⋮⋮ないではない、話だな。そもそも、お前が吸血鬼だ、などと
イア
アンデッド
確定出来ているわけでもないのだから。骨人、屍食鬼、屍鬼、吸血
ヴァンパイア
鬼、と、不死者系統の魔物として進化しているように見えるから、
スケルトン
スケルトン
おそらくは吸血鬼なのではないか、と推測しているだけだ。そもそ
も、お前は骨人の時点で骨人ですらなかった、というのも考えられ
なくもない﹂
そう言われてしまうと、痛いと言うか、難しい。
そもそも、俺の存在自体、何なのかよくわからない、というのが
正直なところだからだ。
魔物なのか、魔物でないのか、その辺りすら曖昧でよくわからな
いのが本当の話だ。
けれど、それだと何も考察しようがないから、とりあえずは、魔
物である可能性が高い、とか魔物であるとこうなるだろう、という
理屈で俺の状態を考えているに過ぎない。
スケルトン
スケルトン
したがって、もし仮に、今ロレーヌが話したように俺がそもそも
最初から骨人の形をした、骨人ではないなにか、だったのだとした
ら⋮⋮。
もうどんな説明にも当てはまらない、ということになってしまう
だろう。 そうなると将来の予測を立てる材料は俺が今まで辿って来た経過
のみになるな。
それでも、進化はしているし、通常の魔物の存在進化と似てはい
るのは間違いないから、参考にするのはいいだろうが。
その辺りのことは、俺よりもロレーヌの方が良く考えているよう
で、
﹁初めから普通の魔物と違うことは分かっていたわけだし、今更な
1074
話という気もしなくもない。今言ったような話だと、お前に︽聖炎
︾による判別が効かなかったのは、お前が特殊だからだ、という、
当たり前だろうという結論になる。そんなのは分かっているから、
アンデッド
これはいいだろう。他の可能性としてはすぐに思い浮かぶのは、お
前が普通の不死者と異なり、聖気を使えることだろうな。そこが作
用したのではないか?﹂
﹁聖気か⋮⋮﹂
ヴァンパイア
ヴァンパイア
ニヴの話によると、吸血鬼は聖気に弱い、ということだった。
つまり、聖気を使える吸血鬼などというものは、基本的に存在し
ないと言うことになるだろう。
ヴァンパイア
しかし、俺は使えてしまう訳だ。
吸血鬼っぽくなってもまだ使える理由は分からないが、単純に考
えるなら生前から使えたものだからそのまま引き継いだだけだ。
使っている聖気は、昔と何一つ使い心地が変わらないのだから、
それで間違いないだろう。
この力を持っているから、他人のものとはいえ、聖気は俺に害を
ヴァンパイア
及ぼさない、というところか。
︽聖炎︾はニヴ曰く、吸血鬼には苦痛を与えるものだ、という話
だったが、俺にとって聖気はそのようなものではない。
だから、効かなかった⋮⋮。
ヴァンパイア
俺は吸血鬼でもなんでもない特殊な存在、という話しよりは受け
入れやすいな。
ロレーヌは俺に言う。 ﹁毒でも魔術でもなんでもそうだが、耐性のある存在にそれが通用
しないのはいたって普通の話だからな。分かりやすいだろう。レン
ト、お前の聖気は、確か故郷の村の祠を修理したときに得たものだ
1075
った、という話だったな﹂
ロレーヌには、俺がなぜ聖気を持っているのかは話してある。
そもそも大した力ではなかったから、隠すようなことでもなかっ
たというのもあった。
当時の知り合いの中には、俺が全部持ちであることを知っている
者はそれなりにいるのだ。
すごい、珍しい、というよりかは、宝の持ち腐れというか、器用
貧乏扱いというか、そんなものだったけれども。
実際、それは正しい評価だったしな⋮⋮。
﹁あぁ。大分ぼろぼろだったからな⋮⋮というか、ほとんど森の木
に飲み込まれかけてて、そこにそれが存在していることすら村の人
間の大半は気づいてなかったんじゃないか? あんまりだと思って
⋮⋮周囲の蔦やら何やらを払って、綺麗にして、壊れているところ
は修理したんだ。手間はかかったが、その頃は冒険者になる前だ。
時間はあったんだ﹂
そう言った俺に、ロレーヌは、
﹁祠を直した、と簡単に言うが、そういうのにはそれなりの技術が
いるだろう? お前は⋮⋮﹂
﹁村の木工職人に色々と教わってたんだよ。もともと、そういう細
かい作業は得意だからな。基本は身に付いてたし⋮⋮あとは試行錯
誤だ。いい修行にもなった﹂
﹁⋮⋮器用な奴だな⋮⋮。それで、冒険者の才能だけがなかった、
というのも神は残酷なことをするものだが﹂
1076
﹁そうとも言えないぞ。今、俺はこうして上を目指せているわけだ
しな。意外と神様は甘いのかもしれない﹂
﹁前向きすぎる。しかし、それがお前のいいところだな。ところで、
その祠なのだが、何の神を祭っていたのだ?﹂
ロレーヌがそう尋ねてきた。
けれど、この質問に対する答えを、俺は持っていない。
﹁いや、分からないな。誰も見向きもしなかったような祠だし⋮⋮
まぁ、村の古老たちなら知っているかもしれないが﹂
﹁そうか⋮⋮なぁ、レント、一度、その村に行ってみないか?﹂
ロレーヌが急にそう言った。
1077
第159話 下級吸血鬼と諸々の問題
﹁行ってみないかって⋮⋮また、なんでだ?﹂
俺がそう尋ねると、ロレーヌは、
﹁お前のことを理解するためには、調べられることは調べておいた
方がいいと思うからだ。特に、お前の聖気については、今のお前の
状態を理解するのに重要な要素のようだからな。せめて、どんな神
か精霊の加護によるものか、調べられるのならそうした方が良いだ
ろう﹂
そう言った。
確かにロレーヌのいうことはもっともだと思う。
しかし、あの村の人間が祠のことを知っている可能性はかなり低
い⋮⋮。
知っていたら修理ぐらいしたんじゃないか?
と思うからだ。
﹁無駄足になりそうな気もしないでもないが﹂
﹁それならそれで仕方あるまい。ただ、お前も言っただろう。村の
古老なら知っているかもしれない、と﹂
言うには言ったが、本当にもしかしたらレベルの話だ。
何か確信があって言ったわけじゃない。
それでも、そうかと聞かれれば頷かざるを得ず、俺は言う。
1078
﹁まぁな﹂
ロレーヌはそんな俺の言葉に後押しされたように言う。
﹁可能性はあるんだ。行ってみる価値はある。そうだろう?﹂
﹁しかしな、それほど近いという訳でもないんだぞ。行きと帰りで
二週間はかかる⋮⋮﹂
俺の故郷は、田舎だ。
この辺境国家の辺境都市マルトをして、さらに辺境と言いたくな
るような場所に、俺の故郷であるハトハラーの村はある。 遠すぎて、ここに来て数えるほどしか戻ったことがないくらいだ。
流石に二週間も冒険者稼業を放って里帰りできるほど、俺の以前
の収入は良くなかった。
それでも少しずつ貯金して、年に一度、帰るかどうかくらいの頻
度では戻れていたが⋮⋮。
﹁そうはいっても、ラムズ大森林とか、ホヘル空中遺跡とかのよう
な人外魔鏡というわけでもあるまい?﹂
ロレーヌがそう尋ねるので、俺は流石に呆れたと言うか、心外な
気持ちになって言い返す。
﹁お前な、流石にいくらなんでも比べるところが酷いぞ。田舎とは
いっても、行商人くらいは定期的に寄るし、道だってあるわ﹂
ロレーヌが挙げた二つの場所は、人が寄り付かないどころか、寄
り付けないレベルの秘境である。
立ち入るのに何かしらの資格を要求されるほどだ。
1079
俺の故郷の村ハトハラーはそこまででない。
そう思っての少しムキになった反論だったが、ロレーヌは、
﹁だろう? じゃあいいじゃないか。ここ数年里帰りもままならな
かっただろう? ちょうどいいだろう。それに、収入の問題だって
昔のように戻ったら貯金を切り崩しながら草を食べるような日々を
送らなければならなくなるわけでもあるまい﹂
と言う。
そう言われるとそうだが⋮⋮。
気
じゃないな。
なんだかうまく乗せられているような気がしてきた。
いや、
うまくことを運んでいるのだろう。
頭の回転が違うから、会話の主導権はそもそも俺には握りようが
ないのを改めて感じる。
﹁まぁ、そうだが⋮⋮﹂
﹁それに加えてニヴ・マリスなんてものが今のマルトにはいる。少
し離れて距離を取っておくのも悪くないのではないか﹂
ヴァンパイア
言われてみると、それはそうかもしれない。
ニヴはおそらくは俺ではない吸血鬼を追いかけてここに来て、こ
れから探すために動くのだろう。
ヴァンパイア
その中で、俺の正体がばれる可能性もないではない。
︽聖炎︾を浴び、吸血鬼ではない、という認定を一応もらったの
だからたぶん大丈夫だと思うが、だからと言って完全に気を緩めて
いい相手かというと全くそうではないだろう。
この街にいれば、きっと関わらざるを得ないだろうし⋮⋮。
それを考えると、もう一旦この街を出て、ほとぼりがさめてから
1080
戻ってくる、というのも手ではある。
ニヴに色々と聞かれた直後に街脱出では余計に怪しいかもしれな
ヴァンパイア
いが⋮⋮その辺りはいつ戻るかを誰かに言っておけばいいだろう。
わざわざ吸血鬼が闊歩している疑いのあるマルトを放っておいて、
すでに疑いの晴れた俺を追いかける意味もないだろうし。
ただ、そうはいっても問題はある。
﹁悪くないかもしれないが、俺には依頼があるからな。そっちの方
で許可を得ないと無理だぞ﹂
ラウラに頼まれている︽竜血花︾採取である。
これはロレーヌも分かっていたようで、
﹁そうだろうな。そこは依頼主と相談してみてくれ。無理ならその
ときは私が一人で調べに行って来よう。私も私で、というかお前も
だが、アリゼの訓練があるからな。少し休みになることを伝えなけ
ればならん﹂
それもあったな。
まぁ、アリゼの訓練はもともと不定期だ。
アリゼ自身が孤児院でやることが色々あり、その合間に行ってい
る関係でそうなっている。
それに、今すぐ冒険者に、というわけではなく、長い目で見て、
冒険者として登録できる年齢になったころに、ある程度の知識と実
力を身に付けていることを目指しているので、のんびりやっている
ので、たまの休みくらいはかまわないだろう。
﹁他にもこまごまとしたことはあるが、その辺りはどうとでもなる
だろう。あとは、そうだな⋮⋮あぁ、お前、どういう立場で行く?﹂
1081
これは、俺がレント・ヴィヴィエとして行くのか、レント・ファ
イナとして行くのか、という質問だろう。
これは悩ましい問題だった。
しかし、古老たちに深く話を聞かなければならないことを考える
と、俺があの祠を直したことも話さないとならないからな。
どうしたって、俺は俺自身として行くべきだと言うことになる。
その場合、偽っている俺の身分が、ばれる糸口を作ってしまうの
ではないかということになるが⋮⋮。
まぁ、究極的にはもう、ばれても構わないと言えば構わない。
なにせ、見た目の上ではほぼ、元通りなのだ。
ギルド
顔に仮面をつけてはいるが、顔の上半分、下半分、どちらかだけ
見せようと思えば見せることは出来る。
ギルド
冒険者登録を二重にしていることも、冒険者組合に突っ込まれる
ギルド
と規則違反になるが、冒険者組合の罰則はそれほど厳しくない。
ギルド
最も厳しい罰則は除名処分の上、冒険者組合からの永久追放だが、
これがなされるのは冒険者組合によほど大きな損害を与えるか、も
しくは重大な犯罪︱︱大量殺人とか、国家転覆とかをした場合のみ
だ。
ただの二重登録程度では、金貨数枚の罰金だけで終わる。
ギルド
二重登録者はなんだかんだ言って結構いるものだからだ。
冒険者組合はその構成員の大半が荒くれ者である関係で、その過
去は色々と大っぴらに出来ない者も少なくない。
以前登録していた名前で活動したくない、という者もかなりおり、
ギルド
それが故に結果的に二重登録している者はいるのだ。
そしてそれについて、冒険者組合は分かっていて黙認している。
俺だけ処分される、ということにはならないだろう。
ギルド
もしものときはもしものときで、交渉の余地もあるしな⋮⋮。
冒険者組合は良くも悪くも清廉な団体ではないからだ。
だから、問題ないだろう。
1082
こういうことを考えると、ロレーヌの質問に対する答えは、こう
なるだろう。
﹁レント・ファイナとして行くよ。装備なんかを変えて、仮面の模
様も変えておけば、まぁ、なんとかなるだろう﹂
1083
第160話 下級吸血鬼と資料
﹁あぁ、レントさん。今日は何の御用で?﹂
そう言ったのは、ラトゥール家の門番の男だ。
名前は⋮⋮聞いてなかったか。
俺の名前はラウラかイザークにでも聞いたのだろう。
﹁少し依頼のことで相談があって来たんだ。イザークを呼んでくれ
るか?﹂
﹁はい⋮⋮あれ、レントさん、随分と話し方が流暢になられました
ね?﹂
頷きつつ、何か懐から魔道具のようなものを取り出して操作し始
めた男が、気づいてそう言った。
俺は頷いて、
﹁あぁ。怪我でうまくしゃべれなかったんだが、治ってきていてな。
今ではこの通りだ﹂
そう言った。
男はそれに、
﹁ははぁ、いい治癒師とでも知り合いましたか? なんにせよ、良
かったですねぇ⋮⋮イザーク様はすぐ来るとのことです。少しお待
ちください﹂
1084
魔道具を見て、それが分かったようで俺にそう言ったのだった。
◇◆◇◆◇
イザークはラトゥール家入り口を覆う生垣を開いて現れた。
今までそこにあった植物が、がさがさと自分で動き出し、門のよ
シュラブス・エント
うなものを形作り始めるのはいつ見ても不思議な光景である。
そんなこと言い始めたら、灌木霊なんかは不思議の塊以外の何物
でもないという話になってしまうかもしれないが、あれは魔物だか
らな⋮⋮。
魔物は、一般的な動植物の生態からはかけ離れた存在であるので、
考えるだけ無駄に思えてくるときがある。
それでも、何らかの法則性や原理原則が存在しているのは確かな
ので、ロレーヌのような学者が研究しているのだけどな。
その恩恵は確実に俺たち冒険者などに反映されているわけで、非
常にありがたい存在である。
﹁レントさん、ようこそいらっしゃいました⋮⋮今日は︽竜血花︾
の納品ではなく、何かご用件があるとのことで⋮⋮?﹂
以前会った時と変わらぬ銀髪と色素の薄い肌をしたイザークは、
俺にそう尋ねる。
俺は、
﹁あぁ。実は、ちょっと遠出をする必要が出てきたんだ。ただ依頼
のことがあるから、それを相談に⋮⋮﹂
﹁なるほど、でしたら主人と直接お話をされた方が宜しいでしょう
ね。こちらへどうぞ⋮⋮﹂
1085
イザークはそう言って、先を歩き始める。
彼を見失うと庭園内では迷子確定であるため、俺は急いで彼の後
ろを追いかけた。
◇◆◇◆◇
﹁レントさん、何か、依頼の事でご相談があるとのことですが⋮⋮
?﹂
ラトゥール家の応接室に通されて、挨拶もそこそこにラウラが俺
にそう尋ねた。
今日のラウラのドレスは、以前見たものとは異なり真っ白であっ
たが、フリルの豪奢さなどは変わっていない。
こういうものを何着も持っているのだろうな⋮⋮とラトゥール家
の財力を改めて感じながら、俺は言う。
﹁あぁ。実はちょっと行かなければならないところが出来てな。た
だ、少し遠いんだ。具体的に言うと、二週間前後かかる予定で⋮⋮﹂
﹁なるほど、依頼は中止したいと言うことですね? ですが、そう
いうことでしたら、中断という形で、マルトに戻って来たあと、ま
た同様にしていただければこちらとしては問題ありませんよ﹂
ラウラのその答えは、少し、意外だった。
全く考えていないわけでもなかったが、こういう場合は依頼は中
止して、他の冒険者を探して依頼をする、というのが一般的だから
だ。
それなのに、それをしないで俺がマルトに帰って来た後、まだ任
せてくれるつもりであることがありがたかった。
そんな俺の気持ちを理解したのか、ラウラは、
1086
﹁もちろん、レントさんを信頼している気持ちもありますが、そも
そも︽タラスクの沼︾に週に一日だけ、ということにしても定期的
に行ってくれる冒険者など中々おりませんから。それに加えて︽竜
血花︾を採取してくれる方はさらに少ないです。ですから、何にせ
よ私にはレントさんにお願いするしか選択肢はないのですよ﹂
と言う。
もともと、そういう話だったから俺に依頼されたのは確かだ。
ただ、金級に頼めば絶対無理、というほどでもないはずである。
それでも俺を選んでくれるのは、やはりありがたい話だった。
﹁そう言ってくれると、ありがたい。戻って来たら必ず連絡する。
⋮⋮ところで、余計なお世話かも知れないが、俺がいない間は⋮⋮
?﹂
﹁その間は、以前と同様にイザークに任せることになります。です
から、出来るだけ早く戻ってきてくれるとありがたいですね。もち
ろん、無理してそうされる必要はないですよ⋮⋮そういえば、どこ
に行かれるご予定なのですか? いえ、話したくないとおっしゃる
のであれば、無理にお話しされなくても構わないのですが⋮⋮﹂
ふと気づいたように、ラウラがそう尋ねてきたので、俺は答える。
﹁ハトハラー村に行く予定だ﹂
辺鄙なところにある村である。
その存在すら知らない可能性も考えたが、ラウラは容姿に似合わ
ず博識なところがある。
すぐに頷いて、
1087
﹁また随分と遠方に行かれる予定なのですね⋮⋮どのような目的で
?﹂
この質問には、少し迷う。
正直に答えるか、答えるにしてもどこまで話すか、難しいからだ。
しかし下手に嘘を言ってもこの少女は見抜きそうである。
それでせっかく築きつつある信頼関係が無になってしまうのは良
くないだろう。
それを考えると、すべて、というわけにはいかないにしろ、ある
程度は正直に話しておいた方が良いだろう、と思った。
俺は言う。
﹁実は、あの村には小さな祠がある。そこを訪ねに行くつもりだ﹂
﹁祠⋮⋮? 一体どうして﹂
その質問に、俺は答える。
﹁俺は聖気の加護を持ってる。その加護は、その祠に祀られていた
ものから与えられたもので⋮⋮ただ、どんな神霊がそこに祀られて
いたのか、俺は知らないんだ。だから、それを知りたくて⋮⋮﹂
これに、ラウラは特に驚かずに頷く。
まぁ、俺が聖気を持つことはイザークにはすでに︽タラスクの沼
︾で言っていたことだし、彼の主人であるラウラが知っていること
に違和感はない。
﹁聖気ですか⋮⋮そうでしたね。しかし、冒険者ですのに、珍しい
ものをお持ちですよね。しかしなるほど、そういうことでしたら⋮
1088
⋮分かります。神霊の加護は、いかなるものに与えられたかを知る
ことで能力の幅が広がる、と言いますし﹂
そう言った。
これは初耳で、
﹁そうなのか? 聖気については俺は素人同然で⋮⋮詳しいことは
知らないんだ﹂
と言う。
ラウラは、
﹁聖気は基本的な使い方については身に付いた時点で直観的に分か
りますから。聖気を身に着けていても、そういう方が大半でしょう。
しかし、魔力、気と並ぶ力の一つですから、その運用方法には長い
歴史と技術の積み重ねがあるのです。その大半は⋮⋮各宗教団体で
秘匿されていますが﹂
なるほど、そうだろうな、という話だ。
この間の︽聖炎︾の扱い方だって俺には分からない。
あそこまでいかないにしろ、武器や身体能力の強化、それに治癒・
浄化以外にも聖気には使い方があるはずだ。
しかし、学びようがない。
ミスリル
今更どこかの宗教団体の門戸を叩いて、聖者として修業を受けさ
せてくれもないしなぁ⋮⋮。
そもそも俺がなりたいのは神銀級冒険者であって、出張肥料聖者
ではないのだ。
しかし、そんな俺にラウラの口から朗報がもたらされる。
1089
﹁⋮⋮聖気の源たる神霊について調べに行く、ということであれば、
ラトゥール家が所蔵する、聖気に関する資料をいくつかお持ちにな
りませんか? いくつかの教会における、聖気の修行方法なども描
かれたものがあったはずです﹂
⋮⋮そんなもの、一体どうやって手に入れたのだろう。
秘匿されているのではなかったのだろうか。
ばれたら異端審問にかけられそうな代物だ。
けれど、それがあれば色々とだいぶ助かるのは間違いない。
それに、ここで異端審問が恐ろしいからいらない、と言ったら、
あとでロレーヌがブチ切れそうな気がした。
なんでくれと言わなかったのかと。
だから俺は言った。
﹁もし、貸与してもらえるなら頼みたい⋮⋮﹂
ラウラはそれに笑顔で、
﹁もちろんです﹂
そう言って頷いたのだった。
1090
第161話 下級吸血鬼と民話
︱︱個人でこんなに本を所有している人間がいるんだな。
ラトゥール家の財力を今まで何度となく見せられてきたが、それ
でも改めてそう思いたくなるほどの蔵書がその部屋にはあった。
﹁長い年月をかけて集めたものですから⋮⋮時間をかければそれほ
ど難しいものではないですよ?﹂
とラウラが言う。
イザークはその部屋の蔵書の中から、聖気関連のもので俺の役に
立ちそうなものを探してくれている最中で、今のところ俺とラウラ
は手持無沙汰だ。
イザークがあっちこっちの書架の間を行ったり来たりし、梯子を
上ったりしている様を見ていると、なんとなく手間をかけさせて申
し訳ないような気分になってくる。
俺のために本を探してくれているのだ。
手伝うべきなのだろうが、いかんせん、どこになにがあるのかさ
っぱりわからない。
イザークの方はしっかり頭に入っているようで、書架を行きかう
その足取りに迷いはあまりない。
ただ、数が多いだけだ。
机の上に次々と詰み上がっていくが⋮⋮こんなにいるかな。
まぁ、俺も読書は嫌いではないが、基本的には普通の冒険者だ。
多少字が読めて、まぁまぁ難しい書物を読める程度で、専門書に
関しては流石に厳しいものがある。
ロレーヌに丸投げするしかないかな⋮⋮。
1091
﹁時間をかけても、本は安くないだろう。俺には無理そうだ﹂
﹁そうですか? 最近のレントさんの活躍は耳に届いていますよ。
私の依頼はともかくとして⋮タラスクの素材の売却で相当に儲けら
れたと聞きました﹂
確かに、最近の俺の収入源は非常に多い。
タラスクの素材はつい先日売却できたし、ラウラの︽竜血花︾に
ついては今日はそれが目的で来たわけではないにしても、一度はせ
めて納品しなければと言うことで手土産がてら持ってきて、先ほど
納品しているのでその報酬ももらっている。ニヴがいるから出来る
限り早く、都市マルトから離れたいとは思うが、そもそも長旅にな
るため準備もある。一週間ほどかかると考えているので、その間に、
︽タラスクの沼︾に行って来て、もう一度くらいは納品するつもり
である。一度行って地形は分かっているし、俺には毒沼を突っ切っ
ても問題ない体がある。以前よりも遥かに早く︽竜血花︾の群生地
までたどり着けるようになったので、準備の合間に採取してくるこ
オーク
とも十分に可能だ。
また、豚鬼やら何やらの迷宮素材など、昔とは比べ物にならない
ほど色々なものを採取できるようになったため、普通に生活してい
く分には余裕はある。
けれど、それでも本は厳しい。
数冊くらいなら買えるけれど、ここにあるほどの数を集めるのは
どうやったって無理だ。
ミスリル
白金貨が何千、何万枚と必要だろうからな⋮⋮。
そこまで額が大きいと、神銀貨とかになるのかな。
一度たりとも見たことがない貨幣だが。
国や大商会の支払い専門で用いられる、まず一般庶民が目にする
ことのない貨幣だ。
1092
⋮⋮ラウラは唸るほど持ってたりしそうだが。
しかし、それにしても⋮⋮。
﹁耳が早いと言うか、良く知っているな。タラスクの取引なんて、
つい、こないだのことだぞ﹂
そう言うと、ラウラは少し微笑んで、
﹁ラトゥール家の耳は都市マルトのことなら何でも聞いているので
すよ﹂
とちょっと怖いことを言う。
この都市マルトの運営に大きく関わっている家である。
当然と言えば当然なのだが、一個人と商会の取引の一つ一つまで
把握してそうなその言葉には驚かざるを得ない。
それから、
﹁⋮⋮これで、概ねよろしいかと﹂
イザークが蔵書を集め終わったようで、積み重ねられた書物の前
でそう言った。
すべて一か所に積み上げられているわけではなく、三つほどに分
類されて積み上げられている
イザークはまず、一つの山を示して、言う。
﹁こちらは、聖気の運用︱︱つまりは、聖術とか聖気術、もしくは
聖剣術などと呼ばれる技術について、概要が説明されているもので
すね。始めはこの辺りを読まれるのが宜しいと思います﹂
1093
聖気版の魔術に該当するのが、聖術とか聖気術、になるだろう。
聖剣術は、聖騎士などが使用する武具を媒介とした聖気の運用方
法のことだった、と思う。
俺もそこまで詳しいわけではないのだ。
聖気については、ただ、なんとなくの概要だけしかわからない。
イザークは他の山を示して、続ける。
﹁こちらの書物は、聖気の源となる神霊についての資料です。神霊
の数は、ご存知の通り数えきれないほどですので、その全てを網羅
的に記載しているわけではありません。それに単純な説明ではなく、
歴史的なものを色々と関わってまいりますので、比較的読み解くの
に知識と時間がかかると思います。この辺りは、ゆっくりと読まれ
ることをお勧めします﹂
神霊については色々と難しい問題がある。
世の中に数多ある宗教団体、それぞれが崇めている神が全く同じ、
ということはあまりなく、あっても言い伝えなどが大幅に異なるこ
とはざらだ。
宗教間における、戦争なども何度も行われているし、結果として
滅びた宗教や、それが祀っていた神なども少なくない。
そのため、それらについて調べるには、どうしたって広範にわた
る知識が必要になってくる。
当然のことながら、俺にはそんな知識などなく、この辺りについ
てはロレーヌに丸投げするしかないだろう。
なんだか頼りっきりで申し訳ないような気分になってくるが⋮⋮
まぁ、研究が好きと言ってはばからないタイプなのだ。
新たな本を読んでもらう分には喜んでもらえるだろう。
もちろん、感謝は忘れないが。
1094
﹁最後のこちらの書物は⋮⋮これからレントさんが向かわれるハト
ハラ︱の村、その周辺の民話などが記載されたものなどですね。数
は少ないのですが、何かの役に立つのではないかと思いまして⋮⋮﹂
最後にイザークが示した山は、確かに他の二つと比べて少ない。
というか、山とは言えないだろう。
二冊きりしかないのだから。
しかし、それでもあのあたりの民話を集めた書物など存在してい
たのだな⋮⋮。
もちろん、民話が全くない場所など人が住んでいれば基本的には
存在しないだろうが、わざわざそれを集めて本にしようとする酔狂
な人間はさほどいないのだ。
そのような書物が全く存在しないのは、むしろ普通である。
なのに二冊もあるというのは⋮⋮。
パラパラとその場で捲ってみてみると、一冊は絵本で、もう一冊
はハトハラ︱のだけ、というよりかは都市マルト周辺全体の民話を
集めたもののようだ。
なるほど、これなら納得である。
絵本の方も、その中で有名な話を描いたものだ。
俺が小さなころ、村の古老に聞いていたような話もいくつか載っ
ていて、なんだか懐かしい気分になってくる。
﹁十分だ。これだけあれば、何かの糸口にはなるだろう。読むのは
時間がかかりそうだが⋮⋮俺の友人にはそういうことが好きな奴も
いることだし﹂
﹁友人と言いますと、ロレーヌさんですか﹂
ラウラがそう、尋ねてきた。
1095
当たり前のように知っているのは若干怖いが、やはりそんなもの
だろう、と思わざるを得ない。
﹁あぁ。そうだ。こんなに本があったら、あいつは心底喜びそうな
くらいだ﹂
実際、ここにある蔵書はどれもあまり見たことがないものばかり
だ。
端の方に、マルトの書店でも普通に販売しているような書物が並
んだ棚はあるが、一部に過ぎない。
他の棚は、マルトの書店でも、そしてロレーヌの家でも見たこと
がないようなものばかりだ。
ロレーヌが来たら、宝の山だ、と目を輝かせることだろう。
そんな意味を込めた俺の言葉に、ラウラは、
﹁そういうことでしたら、今度はロレーヌさんと一緒にいらしてい
ただいても構いませんよ。私は最近、あまりこの部屋を使っており
ませんので、誰かに使っていただければ本も喜ぶでしょうし﹂
そう言ったので、
﹁⋮⋮いいのか? あいつをこんなところに連れてきたら、それこ
そ一日中籠もり続けるぞ。出ろって言っても出ないかもしれない⋮
⋮﹂
基本的には常識や礼儀は心得ているロレーヌだが、自分の興味が
ある本が目の前にあると⋮⋮少しばかりネジが外れる可能性はない
ではない。
俺がこんなことを言った、と知れたら、呆れた顔で、私だってそ
1096
こまでじゃないぞ、と怒られるかもしれないが。
そんな風に言った俺に、ラウラは、
﹁構いませんよ。好きなときに来て、好きなときに帰っていただい
て。私もお茶を飲むお友達が欲しいと思っていたところですし﹂
そう言う。
友達か。
ラウラはぼっちなのかな⋮⋮。
と、依頼者に対して思うには問題なことを考えるも、確かにここ
までの家の主となると、友人は作りにくいかもしれないな。
と思う。
まぁ、ただの方便と言うか、気を遣ってそう言ってくれているだ
けかもしれないが。
﹁そう言うなら、今度ロレーヌに話してみよう。⋮⋮本当にいいの
か?﹂
一応、最終確認として聞いてみたが、ラウラはやはり頷いて、
﹁ええ、ぜひ﹂
と本当に楽しみそうに返答したのだった。
1097
第162話 下級吸血鬼と本の虫
ラトゥール家から帰宅して、家にいたロレーヌと一緒に孤児院に
向かう。
﹁⋮⋮そうだ、ラウラ・ラトゥールが、今度、ロレーヌを連れてい
ってもいいって言ってたぞ﹂
孤児院への道を一緒に歩く道すがら、ロレーヌのそう言うと、ロ
レーヌは驚いた顔で、
﹁⋮⋮いいのか? お前から依頼主の話を聞く限り、どちらかと言
えば権力者でありながらも、隠棲しているような立ち位置のように
感じていたが⋮⋮﹂
ロレーヌも当然、この街の運営に携わる家についてはほとんどす
べて知っているが、それでもラトゥール家だけは耳にしたことがな
く、知らない。
どんな家で、どのような人物がいて、どのような考えでいるのか
は、俺からの伝聞で判断するしかない。
一応、調べようとしてみたようだが、何も分からなかったという
ことだ。
ラトゥール家の力が凄いのか、それとも調べられるような内実が
そもそもないのか⋮⋮。
後者の可能性はあの家や当主本人、イザークを見る限り、なさそ
うだな、と思う。
考えれば考えるほど変わった家だが⋮⋮俺からしてみるとすごく
親切な家である。
1098
別にそれでいいよな?
⋮⋮よくないか。
でも警戒しようがないのも事実だ。
なにせ、今俺がかの家にされたことと言えば、割のいい依頼をし
てくれて、俺の好きなものを贈呈され、さらに今度用事があると言
えばそのために役立ちそうな資料まで用意してくれたくらいだ。
何一つとして不利益がない。
何か目的があって俺にそのようなことをしてくれているのだ、と
考えることも出来なくはないが⋮⋮こう言ってはなんだが、最近、
俺は俺なりに頑張って冒険者としていいとこに来ているとはいえ、
結局はまだ銅級冒険者に過ぎない。
魔物としての人間離れした身体能力や、実用レベルに至った魔力、
気、聖気を持っているかなり珍しい存在であるのは間違いないが、
それでも純粋に実力だけ評価すれば、よくて銀級程度であろう。
ヴァンパイア
そんな冒険者は当然、この世の中に吐いて捨てるほどおり、あえ
て俺に構いつける必要はあの家にはないのだ。
強いて言うなら、ニヴのような目的である場合だが⋮⋮吸血鬼と
しての俺を求めていると言うのであればすでに捕獲されているだろ
う。
イザークの実力はこの目で見たわけではないが、単身、人の身で
あの︽タラスクの沼︾を定期的に攻略できる技量の持ち主だ。
まともに戦ったら俺が負ける、と考える方が自然だろう。
そしてあれだけの財力を持つラトゥール家の戦力がイザークだけ、
というのも考えにくく、そうなると俺を捕獲するくらいは容易なこ
とだろう。
あとは、俺を泳がせて何らかの目的を達しようとしている、とい
うことも考えられなくもないが⋮⋮俺を泳がせて一体何になるんだ?
何もならんだろう。
存在こそ特異だが、やっていることは迷宮行って魔物を狩って納
品してを繰り返しているだけだからな⋮⋮。
1099
たまに夜な夜な出歩いていたりとか。
そんなのに達成させられる目的があるのなら自分でやった方が早
いだろう。
つまり、それはない、と思う。たぶん。
そうなると、ラウラがここまで俺に良くしてくれるのは、素直に、
︽タラスクの沼︾に行ける人材の確保が難しいからだ、という彼女
の申告通りのものになるのだろう。
分かりやすく、納得しやすい、極めて普通の目的だ。
色々くれたものも、ラウラにとってはそこまで価値が高い、とい
うわけでもなさそうだったし⋮⋮。
すごくいい人だな。うん。
﹁隠れ住んでいる、というよりかは静かに暮らしている、くらいな
ものだと思うぞ。存在を喧伝しているわけじゃないが、隠している
ってわけでもなさそうだし﹂
俺がロレーヌにそう答えると、彼女は難しそうな顔で、
﹁⋮⋮その割に調べてもほとんど何も出てこないのだけどな⋮⋮﹂
﹁ほとんど? 少しは何か出てきたのか﹂
﹁あぁ。参事会の古い議事録に名前が載っているのは見つけた。確
かに、街の運営に関わっているようだ。けれど、ここ最近⋮⋮とい
うか、ここ百年は特に何もしていないような感じだったな﹂
﹁⋮⋮そんなもの、よく閲覧できたな﹂
マルト参事会は領主が主催し、マルトの力ある家が参事を輩出し
ているマルトを運営している機関である。
1100
その議事録と言えば、一般市民が見せてくれと言って見せてくれ
るようなものではない。
それなのにロレーヌは⋮⋮。
﹁これでそれなりの繋がりはあるんだ。まぁ、少し薬を調合するよ
うに頼まれたが⋮⋮大したものではないしな﹂
対価という訳だ。
ギルド
ロレーヌが錬金術を駆使して作る薬の数々は非常に効果が高く、
そのことを知っている知り合いに頼んだのだろう。
ロレーヌは技術は色々と持っていても、街の薬屋や冒険者組合に
は一般的なものしか卸さないからな。
特殊なものは本人と直接交渉するしかないが、ロレーヌは自分の
研究第一の人だ。
頼まれたってやらないことが少なくない。
こういうときにしか、頼めないという訳だ。
﹁芸は身を助けるじゃないが、こういうときに便利だよな⋮⋮俺も
錬金術、身に付けておけばよかった﹂
そうすれば、銅級冒険者だったときもそれほど困窮せずに済んだ
のではないか、と思ってつい出た台詞だったが、ロレーヌは首を振
って、
﹁今なら覚えられるだろうが、以前のお前には決定的に魔力量が不
足していたからな⋮⋮無理だっただろう﹂
と言われてしまった。
まぁ、それは当時から十分に分かっていた。
だからこそ近くに錬金術の達人がいても学ばなかったわけなのだ
1101
から。
錬金術は必ずしも魔力がなければ無理、というものではないが、
それで稼ごうとするなら最低限必要な魔力量というものがある。
毎回魔石を使って魔力を補う、というやり方をしていたら、金や
時間がどんどんかさむからな。
それをするくらいなら、普通に魔物を狩って納品している方が効
率的だ。
﹁それで? どうしてまた、私を招いてくれるんだ、そのラウラと
いう方は﹂
ロレーヌが話を戻してそう尋ねてきたので、俺は答える。
﹁あぁ、さっき行ったときに、俺が自分の聖気の源︱︱加護をくれ
た神霊が何なのか調べに行くと言ったら、そのための資料を色々と
貸してくれてな﹂
﹁ほう? 資料と言うと、本か。私はその辺りは専門外だからあま
り持っていないからな⋮⋮﹂
全くないわけではなかったが、普通に一般的に流通している、特
に教会の秘密に踏み込んではいない資料しかロレーヌは持っていな
かった。
しかし、ラウラが貸してくれたのは、むしろそういう、外部に出
てはいけないはずの知識が多く書かれているものだ。
⋮⋮なんで持ってるんだろうな?
不思議過ぎる⋮⋮が、考えても分からない。
とりあえず、ロレーヌにいう。
﹁あぁ。それで、その資料がある場所が、これがもう、物凄い図書
1102
室でな⋮⋮広い空間に本棚が延々と続いているような光景だった。
壁も床から高い天井までずっと本棚。納められている本は、どれも
貴重なものばかりに見えたよ﹂
するとロレーヌは血相を変えて、
﹁な、なにっ⋮⋮もしや、私を招いてくれると言うのは⋮⋮!?﹂
﹁あぁ。友人に本好きなのがいるから連れてきたかった、と言った
ら、ロレーヌさんですね、いいですよ、とこう来た﹂
﹁お前⋮⋮お手柄だな。今ならお前の靴を舐めたっていいぞ﹂
と、冗談ではなく真面目な顔で言うものだからとりあえずやめろ、
と言っておく。
それから、ロレーヌは落ち着いて、改めていう。
﹁⋮⋮しかし、友人、と言っただけで私の名前が出るとは。別に、
教えてはいなかったんだろう?﹂
﹁そうなんだよな⋮⋮﹂
これは不思議、というか、相当な情報収集能力を持っていること
の証拠である。
そんな家が、俺に興味を持つのはやっぱり奇妙だが⋮⋮。
ロレーヌもそう思ったのか。
﹁ま、私に本を提供してくれる辺り、素晴らしい家だと思うが、そ
れでも安心して良さそうな相手ではないようだな﹂
1103
と言う。
それでも、ラトゥール家に彼女が行くことは決まっているあたり、
完全に本に心を奪われているロレーヌなのであった。
1104
第163話 下級吸血鬼と童話
孤児院の扉を前に、俺とロレーヌは顔を見合わせる。
どちらがノッカーを叩くか、それを考えているのだった。
﹁⋮⋮どうぞ﹂
俺がそう言うと、
﹁いや、そちらこそ﹂
とロレーヌから帰ってくる。
にらみ合いはしばらく続き、そして譲らない俺に業を煮やしたロ
レーヌが、
﹁⋮⋮仕方がないな⋮⋮﹂
と言って、ノッカーに触れ、叩いた。
すると案の定、
ばきっ。
という音と共に、ノッカーそのものが外れる。
﹁⋮⋮やっぱりな。だから嫌だったんだ⋮⋮﹂
ロレーヌはため息を吐きながら俺を見るが、すでに俺は超強力ス
ライム接着剤を出していた。
1105
﹁準備がいいな⋮⋮﹂
と呆れたように言いながらも、接着剤に手を伸ばしたロレーヌだ
ったが、今日は珍しく、
﹁はい、どちらさま⋮⋮﹂
と、俺たちがノッカーを張り付ける前に孤児院から人が出てきて
しまった。
やばい、と思ったが時すでに遅し。
扉の隙間から顔を出してきた、小さな女の子の目が、俺たちの顔
を認識したあと、俺たちの手元に移っていく様子がありありと分か
った。
そして、ロレーヌの手に握られたノッカーを見て目を見開く。
﹁い、いや! ちょっと、待ってくれ。これはだな、もともと⋮⋮
そう、もともとな!﹂
とロレーヌが言い訳を始めた辺りで、少女は、
﹁それ、直さないとなぁってみんなで話してたんです。外れてびっ
くりしましたよね。ごめんなさい﹂
と驚くべき事実を言って来た。
﹁⋮⋮直さないとなぁって⋮⋮やっぱり、もともと?﹂
﹁壊れてました。でも、ちょっと接着剤でくっつけておけば、くっ
つくからそのまんまで⋮⋮﹂
1106
ようは、俺たちと同じことをしていたわけである。
ロレーヌは肩をがっくり落として、
﹁⋮⋮なら早くそう言ってくれ⋮⋮﹂
と呟いたのだった。
◇◆◇◆◇
﹁昔々、一人の男がいました⋮⋮﹂
孤児院の少女に案内されてついたのは、孤児院の中に儲けられて
いる礼拝堂だった。
そこで、アリゼが本を開いて、小さな子供たちに読んであげてい
る。
その本は、有名なもので⋮⋮。
﹁︽西に向かう旅人︾か。ヤーランでもあるんだな﹂
ロレーヌがその本の題名を言う。
ヤーランにおいては有名な童話で、子供でも大人でも間違いなく
知っているものの一つだ。
その筋は、単純で、西に向かう旅人が、様々な人々と出会い、色
々な問題を解決していくというものだ。
なぜ西に向かっているのかは分からない。
というか、そこに家庭でのアレンジがなされる。
人によって西に向かう目的が変わってしまうのだ。
家風が出る、面白い部分でもある。
多いのは、遠くにいる恋人に会いに行くために、というものだな。
1107
あとは、兄弟や姉妹、それに両親と言った、家族に会いに行くた
めに、というもの。
ロレーヌは⋮⋮どう聞かされて育ったのか。
﹁ロレーヌのところでは、旅人は何しに西に行くんだ?﹂
﹁私か? 私は⋮⋮︽すべてを知る賢者︾に会いに行くために、だ
ったかな。旅人は、ある日、自分が何も知らないことに気づいて西
に向かうんだ。そこに、この世のすべての答えを知る賢者がいる、
と聞いてな﹂
ロレーヌらしい答えと言うか。
そういう話を聞いて育ったからこうなったのかな。
俺がそう言う目をしていたからだろう。
ロレーヌも俺に言う。
﹁そういうお前はどうなんだ? 旅人は何をしに、西に?﹂
﹁あぁ⋮⋮俺のところは変わっていたかもしれないな﹂
﹁というと?﹂
興味深げにロレーヌが俺を見る。
俺は答える。
﹁⋮⋮何も目的はないのさ。強いて言うなら、目的を探しに西に行
くんだ。そこには何かがあるかもしれないからと﹂
それにロレーヌは何とも言えない表情になり、それから頷いて、
1108
﹁それはそれで面白いのかもしれないな。なるほど、そんなものを
聞いて育てば、お前のような男が出来上がるか。納得だ﹂
と、俺がロレーヌに対して思ったようなことを言われる。
まぁ、別にこれだけで人生が決まるとかそんなわけでもないだろ
うが、心の一部に入り込んでいるものの一つだろう。
だから、性格が少し出てしまうわけだ。
﹁アリゼは、どうするつもりなんだろうな﹂
俺はそう呟く。
もちろん、旅人の目的についてだ。
ロレーヌは、
﹁⋮⋮アリゼも女の子だからな。大抵、恋人に会うため、というこ
とにするから、そうなんじゃないか?﹂
そのために艱難辛苦を乗り越えて、旅路を全うするわけだ。
一応、旅人の性別は男だが、豪気な人になるとそこまで変えてし
まうこともある。
そうすると、恋人に会うため、と言う目的で話を構成すると、男
の旅人が女性の恋人のために一生懸命旅をする話と、女の旅人が苦
労しながら恋人のもとへ急ぐ話のどちらかが出来上がる。
よく聞く筋であり、どちらも小さな女の子には受け入れやすいよ
うで、人気がある。
反対に男の子には受けが悪い。
恋について、まだ、よくわからないらしいからだ。
その辺り、女の子の方は小さくても立派な女だと言うことだろう。
男女の成長の違いが分かるようで、そこのところも面白い。
1109
﹁アリゼは恋に恋するって感じでもないような気がするけどな﹂
﹁そうか?﹂
﹁なんかサバサバしているというか、あの年にして、すでに大人に
なろうとしているというか﹂
俺の評価に、ロレーヌは納得した顔で、
﹁あぁ、そういうことか。若いながらに苦労していると、どうして
も現実的な性格になりがちだものな。アリゼもそうだと?﹂
﹁そうそう﹂
俺がうまく言葉に出来ないことを率直に言語化してくれたことに
感動するとともに深く頷く。
しかし、ロレーヌはその意見には賛成しかねるようで、
﹁⋮⋮だからこそ、却って白馬の王子様を待っている、ということ
も考えられなくもないぞ﹂
そう言って。
まぁ、確かに⋮⋮ないとは言えないな。
しかしどちらにしろ、
﹁聞いてみれば分かることだ。少し座って聞いてみることにしよう﹂
そう言って、礼拝堂にひっそりと足を踏み入れ、その端っこに座
った。
俺もロレーヌも、それなりに冒険者としての研鑽は積んできた。
1110
孤児院の子供程度に対して、その気配を完全に断つことは朝飯前
である。
実際、全く気付かれず、アリゼは朗読を続けていた。
﹁⋮⋮そんな日々の中、男はふと、西に旅立つことを思いつきます﹂
まだ最初の方だな。
アリゼの声のあと、
﹁どうしてその人は旅立ったの?﹂
と小さな男の子の声が響いた。
他の筋を聞いたことがあるからか、それとも単純に気になったの
かは分からない。
それは、話の続きを決定づける質問だった。
アリゼは、その男の子の質問に答える。
﹁この男の人は、料理人だったの。だから、西には新しいレシピを
探しに行ったのよ。西の国は、とっても文化が進んだところだから
ね⋮⋮﹂
色気より食い気か、と少しげんなりしたが、ともかくどうやら俺
の予想の方が正しかったと言えるだろう。
現実的になった結果、恋人よりも食い物をとったわけだ。
﹁私の負けか⋮⋮いや、別に勝負はしていないのだけどな﹂
そう言ったロレーヌだったが、微妙に悔しそうな顔である。
反対に俺は勝ち誇った様な微笑みを向けてやった。
ぎりぎりと歯ぎしりするロレーヌ。
1111
そんな俺たちの存在など気にせず、アリゼの話は続く。
1112
第164話 下級吸血鬼と料理人
男の旅路は平坦なものではありませんでした。
いくつもの困難が、彼を襲います。
男が西に進もうとすると、道の真ん中に何かが立っていました。
なんだろう、不思議に思って男は近づきます。
すると、男は驚きました。
そこにいたのは、赤い眼をした、怪物だったからです。
怪物は言います。
﹁ここを通りたければ、お前にとって最も大事なものを置いていけ﹂
男は怪物の言葉に少し悩みましたが、懐から包丁を取り出すと、
怪物に渡しました。
﹁なんだ、これは?﹂
﹁私は料理人です。料理をするためには包丁がなければなりません。
ですから、最も大事なものは、これなのです﹂
男の答えに怪物は奇妙な顔を歪めて、言います。
﹁こんなもの、もらったところで何の意味もない。返す。道も勝手
に通るがいい﹂
1113
男はその言葉に頷いて、先を急ぎました。
◇◆◇◆◇
﹁包丁か。まぁ、そうだな、ないと料理は出来ない﹂
俺が頷くと、ロレーヌは、
﹁別に野菜をちぎって炒めれば何かしら作れはするだろう。男はう
まく場を切り抜けたのだ﹂
と、男の意外な狡猾さを指摘する。
まぁ、確かにそうか。
しかしそうなると、怪物の頭がちょっと足りないような気もして
くるが⋮⋮。
童話だしそんなものだろうが。
アリゼは続ける。
◇◆◇◆◇
男が道を進んでいると、途中で、その道は途切れてしまいます。
そこから先は、延々と荒野が続いている景色が男の瞳に映りまし
た。
この先は魔物が出て、大変危険なので進むべきではない。
旅立つ前に、道を教えてくれた村人がそう言っていたのを思い出
しました。
けれど、男には目的があります。
西にある、新しいレシピを探さなければならないのです。
他に道はありません。
1114
男は決意を固めて、歩き出しました。
荒野を進んで、どれくらいの時間が経ったでしょう。
男の目に、何かが前にいるのが映りました。
なんだろう。
不思議に思って男が近づくと、そこには、荒野には似つかわしく
ない、白い服を纏った女が立っていました。
女は男に言います。
﹁ここからならまだ戻れます。あちらにまっすぐ進めば、貴方の故
郷に帰れることでしょう。しかしこのまま進むのなら、貴方は命を
失うかもしれません﹂
なぜ、女がそんなことを知っているのか、それは分かりません。
ただ、男には目的があります。
西に、新しいレシピを探しに行くと言う目的が。
たとえ、命の危険があっても、進まないということは出来ません。
男は女に言います。
﹁私はそれでも西に向かいます。そう決めているのです﹂
と。
女はその答えに残念そうな顔をし、尋ねます。
﹁なぜ? 命より大事なものはないはずです。あなたは何のために
西に行くのですか?﹂
1115
﹁西に、新しいレシピがあるからです。私は料理人です。この手で、
多くの人を笑顔にしたいのです。そのためには、命をすら惜しまな
いのです﹂
男の言葉に、女は少し考えた顔をし、それから手を軽く振りまし
た。
すると、何もなかった荒野に、突然、キッチンが現れました。
驚く男を後目に、女は言います。
﹁そこまで言うのなら、私に貴方の料理をご馳走してください。出
来ないのであれば、通せません﹂
男はなぜ、女がそんなことを言い出したのか分かりませんでした
が、料理人として、ご馳走をしろ、と言われると断れません。
それに、長い旅で長らくしっかりとしたキッチンには触れていま
せんでした。
むしろ嬉々とした様子で調理に取り掛かり、そして女の前に、や
はり突然現れたテーブルにいくつもの皿を置いて言いました。
﹁どうぞ、召し上がれ﹂
女はそれに頷き、食べ始めました。
最初はゆっくりでしたが、だんだんと速度が上がっていき、そし
て最後にはすべての皿をぺろりと平らげてしまいました。
女は満足げな様子で男に言います。
﹁なるほど、貴方は確かに料理人です。西に渡れば、もっと美味し
いものが作れるようになるでしょう。どれ、加護をあなたに与えま
しょう﹂
1116
そう言って腕を振るうと、男の体がぴかりと光りました。
すると、とても体が軽くなったように感じて、これなら西にもす
んなり渡れそうな気がしました。
女は続けます。
﹁お供もつけましょう⋮⋮﹂
そう言って、女は目をつぶると、いつの間にか、女が四つに分か
れていました。
一人は暗い笑みを湛えた女に。
一人は穏やかな微笑みを持った女に。
一人は幼い笑顔の少女に。
一人は人を惹き付ける笑みを浮かべた女に。
女たちは同時に言います。
﹁この少女を貴方に。旅路の成功を祈ります﹂
そう言って、幼い笑顔を持った少女を残して、他の三人はどこか
に消えてしまいました。
少女は、
﹁よろしくおねがいします﹂
と頭を下げたので、男も同じようにしました。
それから、奇妙な二人旅が始まりました。
◇◆◇◆◇
1117
﹁いつも思っていたんだが、他の三人はどこに行ったんだ?﹂
俺がロレーヌに尋ねる。
旅人がどんな人物だろうと、この部分の筋はそれほど変わらない。
しかし、他の三人はこのエピソードのあと一切、出てこない。
だから不思議だった。
ロレーヌは、
﹁童話は色々な比喩をしているものだからな⋮⋮たぶんだが、本来
は、この女が善意で何かをくれたんじゃないか? それをこういう
表現にした、とか。他の三人は、人の本質を表しているのだろう。
一人だけ、悪意を持ってそうな女がいるじゃないか。善意で何かし
てくれる人の心の中にも、闇はあるというところではないか。まぁ、
︽西に向かう旅人︾には解説書もいろいろあるからな⋮⋮私は専門
家じゃないから、詳しく知りたいならそういうのを読め﹂
一応、考察をしてくれたが、最後にはさじを投げたロレーヌであ
る。
若干捻くれた解釈な気もしないでもないが、まぁ、そんな感じも
するかなと言う話である。
それから、アリゼは話を続けた。
その後の展開は、旅人がまた、何人かの人に出会い、話し、なぞ
かけや試練を乗り越えていき、西に辿り着く。
レシピを手に入れた男は、その才能でさらにレシピをよりよいも
のにして、少しずつ名前が知られていき、多くの料理人が男のもと
に集まるようになる。
功績を王様に称えられた男は、領地を手に入れ、国を作る。
1118
そして、料理の王様として、幸せに暮らすのだ⋮⋮。
﹁めでたし、めでたし﹂
とアリゼの声が、本を閉じる音と共に聞こえた。
どうやら、すべて読み終わったらしい。
しかし、俺は不思議に思う。
﹁⋮⋮これで終わりか?﹂
するとロレーヌは、
﹁あぁ。︽西に向かう旅人︾は国を作って終わりだろう。色々とい
じくりまわすところはあるが、結末は同じだ﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
頷きつつも、あれ、と思った俺である。
なにせ、俺が昔聞いていた話だと、その後、国は滅ぼされる。
たとえば、料理人が旅人だとすると⋮⋮。
料理に秀で過ぎた男は、ありとあらゆる国から料理人を呼び寄せ
てしまい、料理の国を作ってしまったから、他の国から憎しみの目
で見られるのだ。
そして、男の国の持つ、料理の力を羨んだ他の国が、それを手に
すべく攻めてくる。
男は戦いを望まなかったが、仕方なく応戦する。
結果として、男の国は荒廃し、また、他の国々も同様に疲弊する。
料理で多くの人を幸せにしようとした男の夢はかなわず、男は絶
望し、国を出て、何処へかと消える。
男の力で国となったのである。
1119
男がいなくなった国は、権力争いでさらに疲弊していき、そして
歴史の波間に消えていった。
今ではもう、名前も分からない古い国の話だ。
と、こう終わるのだ。
﹁⋮⋮あれはうちの両親の創作か?﹂
だとすれば、随分と悲劇的な結末にしてくれたものだが、現実的
と言えば現実的か。
いや⋮⋮。
﹁何か言ったか?﹂
ロレーヌがそう尋ねてきたが、
﹁いや、何でもない。それよりアリゼのところに行こう﹂
そう言って俺たちは立ち上がり、アリゼの方へと歩き出した。
1120
第165話 下級吸血鬼と鍛冶屋
﹁あ、二人とも来たんだ? 今日は何か用?﹂
アリゼが近付いてきた俺たちに目を留めてそう尋ねた。
﹁あぁ、ちょっとな﹂
﹁⋮⋮込み入った話?﹂
﹁そういうわけじゃない⋮⋮ちょっと用事があって、俺たちはしば
らくこの街から離れる。だから、講義はしばらく休みだって伝えよ
うと思ってな﹂
そう言うと、アリゼは驚いた顔で、
﹁⋮⋮しばらくって、一年とか二年とか?﹂
と言ってくる。
まさかそんなつもりなど俺たちにはないので、ロレーヌが首を振
って答えた。
﹁いやいや、二週間くらいだ。だからそのあとはちゃんとまた色々
教えてやれる﹂
するとアリゼはほっとした顔で、
﹁⋮⋮良かった。てっきり、ずっといなくなってしまうんじゃない
1121
かって思った。それくらいなら全然構わない﹂
と言った。
別に、街を長期間出るようなそぶりをしたつもりはないが、なぜ
そう思ったのだろう。
気になって俺は尋ねた。
﹁またなんで、ずっとなんて思ったんだ﹂
するとアリゼは、
ミスリル
﹁だって。、レントは一応、神銀級冒険者を目指してるんでしょう
? それなら、王都に行った方がずっと早く手柄を立てられるだろ
うし、ロレーヌ師匠は凄い魔術師で、凄い学者様なんだもん。こん
な辺境にいるより、すぐに都会に行ってしまうんじゃないかって⋮
⋮﹂
なるほど、分からないでもない話だ。
確かにいずれは、とは思っている。
しかし、まだその時期ではない。
それにしても、俺とロレーヌのアリゼ評価に何か差があるような
⋮⋮。
俺は︽一応目指している︾、ロレーヌは︽凄い魔術師で学者︾⋮
⋮うーん。
まぁ、間違ってないか。
アリゼの台詞に、ロレーヌは笑って、
ミスリル
﹁⋮⋮私はそれほど大した学者じゃないぞ。魔術の腕だって、まぁ、
悪くはないとは思っているが、そこそこだ。レントもな⋮⋮神銀級
1122
を目指しているのは事実だが、王都でやっていけるほどかと言うと
⋮⋮もう少し、と言ったところだ。アリゼにそれなりに魔術師と冒
険者の基本を叩き込むまでは、ここにいるさ﹂
そう言った。
実際、そのつもりだ。
まぁ、基本を教えるくらいならそんなに時間はかからないだろう
し、そもそも気長に教えるつもりなのだ。
一年、は長すぎるにしても、何か月か出て、たまに戻ってきてそ
の度に少しずつ教える、でもいいのだ。
そう言う意味で、アリゼが心配する必要はない。
アリゼはロレーヌの言葉に頷いて、
﹁なら、よかった⋮⋮。二人がいなくなったら、私、冒険者になれ
る気がしないもの﹂
そう言うが、ロレーヌはそれに、
﹁そうか? まぁ、仮になれなかったとしても、そのときは語り部
や吟遊詩人にはなれそうだな。先ほどの朗読を聞く限りは﹂
と冗談交じりに答える。
アリゼは聞かれていたとは思ってもみなかったようで、
﹁え、聞いてたの? 恥ずかしい⋮⋮﹂
と頬を赤く染める。
俺は、
﹁別に恥ずかしがることでもないだろうに。ただ、旅人が料理人と
1123
はな。食い意地が張っているのか?﹂
﹁レント! そんなことないわ⋮⋮でも、料理の国が本当にあれば
行ってみたいかな﹂
と笑って言う。
料理の国、か。
そんなものはこの世に存在しない。
なぜなら、アリゼが作り出した架空の国に過ぎないからだ。
けれど、この世の料理全てが食べられる夢のような国があるのな
らば⋮⋮。
大人であっても言ってみたいと思うだろう。
貴族たちなんか、常に美食を求めているからか、珍味になるよう
オーク
な魔物の素材などは阿呆みたいな高値で買ってくれるしなぁ。
この辺りだと豚鬼肉くらいしかないが、他の地域にはもっといろ
いろある。
動くキノコとか空中を泳ぐ魚とかな。
﹁なんだかそんな話をしていると腹が減って来たな⋮⋮まぁ、それ
はいいか。アリゼ、今じゃなくてもいいが、今度、少し時間がとれ
ないか﹂
俺がそう言うと、
﹁どうして?﹂
と尋ねてきたので、俺は言う。
﹁アリゼのために武具を作ろうと思っててな、素材をとって来たか
ら、鍛冶屋に採寸に行きたいんだ。それと、魔術触媒の作成もする
1124
予定だ。もちろん、今日でも構わないが﹂
まぁ、いきなり今日来て、はい行こう、とはならないだろうと思
っての台詞であった。
とりあえず、今日は講義が出来ないことだけ言って、時間が取れ
るとしたらいつかを聞こうと思っていただけだ。
もちろん、今から行けるならその方が楽ではあるが⋮⋮こればっ
かりはな。
アリゼはこれで忙しい。
しかしアリゼは意外にも、
﹁うーん。今日は特に予定はないからたぶん大丈夫だと思う⋮⋮た
だ、ちょっとリリアン様に聞いてみて、それからでもいい?﹂
と言って来た。
俺たちは暇⋮⋮というわけではないが、多少待つくらいなら全く
問題ない。
無理なら今日は旅のための細々としたものを購入しに歩こうと思
っていただけだからだ。
だから、俺たちは頷く。
﹁ああ、問題ないぞ。ここで待っている﹂
俺がそう答えると、アリゼは、
﹁うん、わかった。じゃあちょっと待ってて!﹂
そう言って、礼拝堂を出ていった。
1125
◇◆◇◆◇
しばらくして、アリゼが戻って来た。
シュラブス・エント
ワ
返答は、今日これからでも大丈夫、ということだったから、一緒
に鍛冶屋に行くことにする。
ンド
それが終わったら、この間、倒してきた灌木霊の素材を使って短
杖の製作である。
必ずしもアリゼだけのため、というわけでもなく、二週間もある
ワンド
旅路で、それなりに触媒を使った魔術の練習をしておきたいと思っ
ているので、俺の短杖も欲しいという理由もあってのことだった。
﹁⋮⋮あ、レント⋮⋮さんと、ロレーヌさんに⋮⋮ええと﹂
久しぶりに来たクロープの鍛冶屋︽三叉の銛︾で、まず、俺たち
を出迎えてくれたのは店番をしているクロープの妻、ルカであった。
彼女は俺の顔を見るなり、驚いたような不思議そうな、もしくは
懐かしそうな表情になる。
今は、仮面が顔の下半分を覆うくらいになっているからだろう。
以前のレント・ファイナとしての顔をここで見せるのは久しぶり
で、だからこその表情だ。
﹁あぁ。こいつはアリゼ。俺とロレーヌの弟子だ。それで、ちょっ
と武具を頼みに来たんだ。クロープはいるか?﹂
﹁ええ⋮⋮はい、ちょっと待っててください。今、呼んできますか
ら⋮⋮貴方! 貴方!!﹂
と、ルカは奥の鍛冶場の方に向かってそう叫びつつ、走り出した。
その後姿を見ながら、ロレーヌが、
1126
﹁⋮⋮いいのか? 見せて﹂
と、短く尋ねてきたが、俺は、
・・
﹁まぁ、いいだろう。顔を見せなかったのはあれだったからだから
な。懸念もなくなったし、今は⋮⋮問題ない﹂
アンデッド
アリゼがいるので指示語だけの会話になるが、ロレーヌにはしっ
かりと通じだ。
ヴァンパイア
つまりは、前は不死者でしかなかったが、今はもう見た目は普通
の人間である。
それに、聖炎によって、吸血鬼の疑いも晴れたので、この店に迷
惑をかけることはもう、ないだろう、という意味が。
アリゼは首を傾げているが、これで苦労人である。
俺とロレーヌの会話に何か立ち入ってはならぬものがあると感じ
ギルド
たのか、ふい、と俺たちから離れて、その辺に並んでいる武具の観
察を始めた。
﹁そうか⋮⋮冒険者組合の登録の方はまぁ、何とかなるだろうし、
それでいいのだろうな﹂
ギルド
冒険者組合の登録関係のザルさを知るロレーヌがそう言って頷い
たので、俺もそれに頷き、それから店で武具を見ているアリゼの方
に近づく。
﹁何か気に入るものはあったか?﹂
アリゼは俺とロレーヌの先ほどの会話には特に触れずに、
1127
﹁うーん⋮⋮分からないけど、あんまり重いものは持てそうもない
なってくらいかな﹂
と、店に並ぶ中でも一際重そうな大剣に目をやりながら答えた。
確かにあれは⋮⋮俺でも厳しそうだな。
今なら持てなくはないし、振るえもするだろうが、あれを使って
ソロ冒険者をする勇気は出ない。
アリゼなら間違いなく持っただけで潰れることだろう。
﹁⋮⋮まぁ、あそこまで極端なものは気にしなくていいだろう。そ
れに、これから会う鍛冶師はベテランのいい鍛冶師だからな。相談
しながら決めた方が良いぞ﹂
﹁そうなの? レントとロレーヌ師匠も一緒に相談してくれる?﹂
そんな風に弟子らしいことを尋ねてきたアリゼに、俺は深く頷い
て答える。
﹁もちろんだ﹂
1128
第166話 下級吸血鬼と強面
﹁お前⋮⋮いいのか?﹂
クロープが出てきて、まず言ったのがその一言である。
顔を出していることを指して言っているのだろう。
俺は答える。
・
﹁外だと基本的に全部すっぽり覆ってるさ。こんな風にな﹂
そう言って、仮面をにゅるにゅる動かし、顔全体を覆う形にした。
しっかり骨骨ペイントで。
するとクロープは、
﹁⋮⋮その仮面、そんな面白いもんだったのか。おい、ちょっと外
して見せてみろ﹂
と言ってきた。
そう言えばクロープにはしっかり仮面のことを説明したことも見
せたこともなかったかな?
クロープは有能な鍛冶師で、武具以外も目利きできるが、この仮
面は流石に特殊過ぎるのだろう。
見てもなんらかの魔法の品だと言うことは分かっても、どんな効
果があるのかは分からなかったに違いない。
ま、調べてもロレーヌに聞いても分からない代物だからな。
そりゃ、誰も分からないだろう。
俺はそんなクロープに笑って、
1129
﹁外せるものなら外してみろ。そしたら見せてやる﹂
と言った。
顔は見えておらずとも、瞳で笑ったことは分かったようだ。
クロープは挑発されたと感じたのか、腕をまくって、
﹁何⋮⋮? よし、そこまで言うのなら⋮⋮﹂
とこちらに近づいてきて、仮面の横に手をかけた。
それから思い切り引っ張るが、当然のごとく全く外れない。
ただ、俺の顔の皮が引っ張られて痛いだけである。
クロープは鍛冶師であるから、腕力も中々あるのだ。
冒険者のそれに耐える武具を作るには、鍛冶師にも単純な腕力は
ある程度要求されるからな。
クロープはあまり太くはなく、細身ではあるが、それでも筋肉質
だし、タフな男だ。
そんな男が思い切り俺の皮膚にくっついた物体を引っ張っている
のだから、その痛みは想像できることだろう。
ヴァンパイア
ただ、俺はこれで吸血鬼なのだから、耐久力回復力にも定評があ
る。
皮膚がちぎれないで済んでいるのはそれが理由だ。
魔物になってて良かった⋮⋮とちょっとだけ思うが、そもそも魔
物になってなかったらこれつけなかったしな、と冷静に反論も浮か
んだ。
﹁⋮⋮そろそろいいだろう﹂
俺が流石に耐えきれなくなってそう言うと、クロープは、
1130
﹁え? あぁ⋮⋮﹂
と残念そうな顔で仮面から手を離す。
それから、
﹁しかし、本当に外れないな。その仮面は何だ?﹂
とつづけたので、俺は言う。
﹁分からん。露店で買ったらしいが、つけたら一切外れなくなった。
ちょうど良かったし、今見たように色々形は変えられるから不便は
ないんだが⋮⋮流石に一生このままはな、とは思ってる﹂
いくら冒険者に仮面が珍しくないとはいえ、俺には本来必要がな
いのだ。
それに、冒険者をやっているときは身に付けているのはいいとし
ても、寝るときや体を拭いたり洗ったりしているときまで外れない
のは困る。
今更な部分はあるが、それでも外せる方法があるなら外したいも
のだとはずっと思っている。
クロープはそんな俺に言う。
﹁⋮⋮外そうとしても外れんと言うことは呪いの品か。それほど強
くない呪いなら、軽い聖気の浄化で外れるもんだが⋮⋮お前はな﹂
俺が聖気を使えることをクロープは知っている。
俺は頷いて、
﹁やってみたが駄目だったんだ。思いもかけず、他の人間にもかけ
られたが⋮⋮結局ダメだった﹂
1131
聖女ミュリアスが俺の体全体に聖気の祝福、という名の浄化をか
けていた。
しかし、結果として外れていない。
ニヴの︽聖炎︾もあったが、あれは浄化とは性質が違っていたか
ら、また別だろう。
まぁ、なんにしろ外れていないし、考えても仕方がないが。
﹁普通に浄化しただけでは外れん、と言うことだな﹂
﹁そういうことだ﹂
﹁うーむ⋮⋮ロレーヌ、お前は何か方法は知らんのか?﹂
そう言ってクロープがロレーヌに水を向けると、ロレーヌは首を
振る。
﹁私だって外せるものなら外してやりたいからな。色々調べてはみ
たが、あまり⋮⋮﹂
ロレーヌも冒険者であり、依頼をこなすときはほとんどローブ姿
だが、その下には軽鎧くらいは着るし、解体用や近接専用の短剣く
らいは持っているため、ここにはたまに来る。
そのため、クロープとは顔見知りだ。
クロープはロレーヌの言葉に難しそうな顔で、
﹁そうか⋮⋮お前でもダメか。俺の方でも少し、調べてみることに
する﹂
そう言い、さらに俺とロレーヌの後ろに隠れているアリゼの方を
1132
見て、
﹁それで? 今日はそいつのってことでいいか?﹂
と尋ねた。
アリゼが隠れているのは、クロープが若干強面だからであろう。
細身だが迫力があるし、視線は一度見たら外さない男だからな。
この年頃の少女にはかなり怖く映ってそうである。
﹁⋮⋮アリゼ、大丈夫だ。この男は見かけより優しいぞ。それに、
レントの姿に怯えなかったお前が、今更普通の格好の人間に怯える
のは滑稽ではないか?﹂
ロレーヌがそんなことを言いながら、アリゼの背中を押して、前
に出す。
骸骨仮面の暗黒ローブ男と、声のデカい強面の親父と、どちらが
怖いのかと聞かれると⋮⋮。
微妙じゃないか?
怖さの性質が違うよな。
まぁ、いいか。
﹁アリゼ、この人は俺が冒険者になってからずっと世話になってる
鍛冶師のクロープだ。ロレーヌが言ったように見かけより怖くない。
お前の武具を作ってくれる人だ﹂
俺がアリゼにそう言うと、アリゼも覚悟が決まったのか、しっか
りと前に出て、
﹁⋮⋮アリゼです。マルト第二孤児院の子供で、レントとロレーヌ
師匠の弟子です。よろしくお願いします﹂
1133
とちゃんと挨拶した。
そもそも、孤児院でしっかりと初めて来た俺の応対をしていたわ
けだし、出来ないはずはないか。
あのときと違って、今は頼るべき人間がいたからちょっと引っ込
み思案なところが出た、というところだろうか。
ということは、俺が孤児院に行ったときは相当頑張ってたと言う
ことだろうな。
どれだけ怖がらせていたかを考えると、申し訳ない気分になる。
今更の話かも知れないが。
クロープはアリゼの言葉に、
﹁ほう、ガキが俺に怯えないのは珍しいな。よし、よろしくお願い
されたぞ。お前の武具を作ればいいんだよな?﹂
と、ぽんとアリゼの頭に手を乗せていう。
これでクロープは女子供にはかなり優しい。
だからこそ、ルカなどと言う美人を妻に出来たのだろう。
まぁ、よく見ると強面とはいっても、顔立ちも渋くて中々格好い
いしな⋮⋮。
俺?
俺は童顔と言われがちだったな。
ヴァンパイア
今はどうだろう。
吸血鬼になって、青白さと目のギラギラ感が増している気がする
から、童顔っぽさは消えているような気もするが。
ロレーヌは⋮⋮。
どう見ても大人の女性だな。
年相応かと言われると⋮⋮うーん、難しいところだ。
1134
強いて言うなら年齢不詳の知的美人と言う感じか。
何年たっても年食わなそうな見た目でうらやましい限りだ。
そんなこと言うと、俺も永遠に年をとらなそうではあるが。
アリゼは、クロープの言葉に頷いて、
﹁はい! よろしくお願いします﹂
と言う。
俺はそれに加えて、
﹁あぁ、武具の素材なんだが、迷宮で採ってきたんだ。まずはそれ
を見てくれないか﹂
と言った。
クロープはその言葉に片方の眉を上げて、
﹁ほう? お前もそのくらいのところに行けるようになったんだな
⋮⋮感慨深いな。よし、じゃあ全員こっちに来てくれ。鍛冶場に案
内する﹂
そう言って歩き出したので、俺たちはその後ろについていった。
1135
第166話 下級吸血鬼と強面︵後書き︶
書いてて思ったんですが、レントとロレーヌは髪の色とか今まで一
切書いたことなかったような気が⋮⋮。
何かイメージとかありますか?
私は二人ともなんとなく黒髪イメージでやってきたのですが⋮⋮。
忘れただけでどこかに書いてたかな⋮⋮。
1136
第167話 下級吸血鬼と樹木
ここの鍛冶場には何度も入っている。
したがって、俺にとってはさして目新しいものはほとんど何もな
いわけだが、アリゼには違うようで目を輝かせて周囲を観察してい
る。
⋮⋮鍛冶場に入る機会なんて冒険者や騎士などでもない限り、そ
れほどないのが普通であるから、そういう反応にもなるか。
それに女性であると言うのも微妙にネックになる。
クロープはロレーヌも普通に鍛冶場に入れてきたくらいにそうい
うこだわりはないのだが、中には鍛冶場に女性を入れるのはよろし
くないという者もいるのだ。
理由は色々だが、鍛冶の神はともかく、炉の神は女性だから嫉妬
する、とか、そういうことが多いな。
炉の神が男性なのか女性なのかは人によって議論のあるところだ
が、まぁ、信仰心に嘴を挟むのもどうかと思うので、仕方ないかと
言う感じである。
ただ、事実としてそういう者は少なくないので、女性が鍛冶場に
入る機会はかなり少ないのだ。
そういう諸々を考えると、アリゼの気持ちはよくわかる。
﹁⋮⋮素材はそこの上に出してくれ﹂
クロープがそう言って示したのは、大きめのテーブルだ。
色々と加工するの使っている台なのだろう。
かなり丈夫に出来ているようで、ここならインゴットを置いても
問題なさそうだ。
俺は魔法の袋から色々と取り出して置いていく。
1137
すると、
﹁⋮⋮︽魔鉄︾か。となると、︽新月の迷宮︾か? それともハム
ダン鉱山の方か?﹂
クロープが見ながらそう尋ねてきた。
この街の鍛冶師だけあって、当然、ここ周辺に存在する素材の採
取できる場所は頭に入っているのだろう。
特に鉱石類については完璧に違いない。
︽新月の迷宮︾で正解な訳だが、ハムダン鉱山とは、マルトから
二日程度でたどり着ける位置にある小さな鉱山だ。
かなり昔に放棄されているところで、今では冒険者くらいしか行
かないところでもある。
︽魔鉄︾はまだ残っているらしいが、中には魔物が巣食っており、
坑道自体もかなり老朽化していてとてもではないが商売としてやっ
ていけなくはなったために、放置されていると聞いている。
それでも都市マルトで︽魔鉄︾が採れる場所は、︽新月の迷宮︾
と、そのハムダン鉱山だけ、というわけだ。
﹁︽新月の迷宮︾の方だよ。第四階層で採って来た﹂
俺がそう答えると、
﹁四階層か⋮⋮ソロでは一、二階層が限界だったお前が⋮⋮いやは
や、これだから鍛冶師ってのは楽しいんだよな﹂
と笑う。
俺の成長を喜んでくれているらしい。
厳密にいうと成長ではなく、ただ魔物化しただけなのだが、それ
については別に言わなくてもいいだろう。
1138
色々とややこしくなるからな⋮⋮。
・・
それから、すべての<ruby><rb>普通の</rb><r
p>(</rp><rt>魔鉄</rt><rp>)</rp><
アース・ド
/ruby>を取り出し終えた俺は、次に竜の魔力に染められたあ
の︽魔鉄︾の方を出す。
するとクロープは目を瞠った。
﹁真鍮か? いや⋮⋮おい、レント⋮⋮こいつぁ⋮⋮﹂
そう言ったので、俺はクロープに言う。
ラゴン
﹁これも︽魔鉄︾だよ。なんでかわからないけど、第四階層に大地
竜がいてな。大分長い時間そこにいたのか、周囲の︽魔鉄︾が変質
していたんだ。ロレーヌによると、珍しいんだろ、これ﹂
するとクロープは、
﹁ああ⋮⋮かなり珍しい。︽魔鉄︾を変質させるほどの魔力を持っ
た竜種など、そうそういるもんじゃないからな。しかし、いいのか
? こいつを素材に出しちまって。オークションに出せば、それこ
そ高値で売れるぞ﹂
と言う。
そう言えば、そういう選択肢もあったな、と思うが⋮⋮。
⋮⋮一応、一応いくらくらいになるのか聞いておこう。
﹁売るつもりはないんだ。だが⋮⋮もし仮に、仮に売ったらいくら
くらいになる?﹂
1139
﹁ん? そうだな⋮⋮まぁ、ちゃんとした鍛冶師がいれば、このイ
ンゴット一つで、大体、白金貨くらいは出るんじゃないか?﹂
⋮⋮白金貨か。
となると、金貨百枚ということになる。
高いのか安いのか微妙だな。
しかし馬鹿高いわけでもない。
普通の︽魔鉄︾と比べれば、その価値は百倍くらいあることにな
るが⋮⋮。
﹁つまりそれだけ性能が高いと言うことか﹂
ロレーヌがそう尋ねると、クロープは、少し悩んで、
﹁⋮⋮難しいところだな。使い方次第と言われている。普通に武器
を打ったんじゃ、︽魔鉄︾よりも若干強いくらいで落ち着くだろう。
ただ、工夫次第でかなりのものを生み出せる可能性があるとも言わ
れている﹂
﹁随分と曖昧な言い方だな。工夫と言うと?﹂
ロレーヌがさらに尋ねると、クロープは、
プラチナ
﹁この︽魔鉄︾だけで打っても大したものにはならないのさ。他に
ヴァンパイア
も色々素材を使わねぇと。白金クラス以上の魔物の魔石とか、聖樹
の葉とか、ほとんど手に入らないものだと、吸血鬼の血とかな。厳
しいだろ? だからこいつを使って武具を作るのはお勧めしねぇぞ。
素材集めだけで一財産必要になってくるからな⋮⋮﹂
なるほど、かなり難しいらしい。
1140
ヴァンパイア
しかし、クロープは全く知らないことだが、吸血鬼の血液なら何
とかなる。
ヴァンパイア
つまりは、俺の血だ。
⋮⋮俺が吸血鬼かどうか、少し怪しくなってきているから使える
かどうかは微妙かも知れないが、試してみる価値はあるだろう。
あとは⋮⋮魔石と聖樹の葉か⋮⋮。
魔石は頑張ってどうにかするしかないとしてだ。
聖樹というのは⋮⋮。
こき
﹁確か、聖樹ってのは、古貴聖樹国にある、あの聖樹のことだよな
?﹂
俺が尋ねると、クロープは頷く。
﹁ああ、ハイエルフたちが治めるあの国にある聖樹のことだ。無理
だろ?﹂
﹁かなり厳しそうだな⋮⋮﹂
古貴聖樹国、とはクロープが説明したように、ハイエルフが治め
るエルフを主体とする国家のことである。
国家とは言っても、実際はその国土のほとんどが森林に囲まれて
おり、また人間のもののような統治体制を持っておらず、集落同士
の緩い紐帯をもって国を称している、というのが実態に近い。
国境の線引きもかなりあいまいで、なんというか、国と言ってい
いのかどうか悩ましい国だ。
国名も昔、どこかの国の王が勝手に決めただけだ。
古き貴き種族が聖樹を守って暮らす国である、と言って。
エルフの方は国名など一切気にしていないらしい。
もちろん、行ったことは無い。
1141
というか、行けない。
彼らがどういう風に領地を線引きしているのかは分からないが、
彼らが領地と定める森に足を踏み入れると、それが人間である限り
襲い掛かってくるらしい。
エルフは皆、精霊魔術の熟練した使い手であり、また鍛えられた
弓術師でもあるところ、人間が不用意に踏み入れてもろくに戦えも
せず追い返されるという。
聖樹というのは、そんな国の最も奥に存在している樹木で、常に
聖気を放っているらしいが、人間で見たことがある者なんてどれく
らいいるんだろうな?
そうそう、聖気を放つ樹木と言えば⋮⋮。
﹁クロープ、以前俺が切った人形から生えてきた木はどうなった?﹂
﹁あぁ、あれか。順調に育ってるぞ⋮⋮ん、お前、あれが聖樹の代
用にならないか考えていないか?﹂
⋮⋮ちょっとだけ考えていた。
無理なのか、と思ってクロープを見ると、彼は首を振って答える。
﹁流石に無理だ。あれも流石にお前の聖気から作られたものだから
なのか、確かに僅かながら聖気を放っているのは呪いの品を近づけ
アンデッド
てみたら少し浄化されたから分かったがな、せいぜいその程度だ。
本物の聖樹は近づくだけで不死者が蒸発させられるレベルだと言う
ぞ。俺も昔、オークションに出た聖樹の葉は見たことがあるが⋮⋮
遠くの席に座ってたのに空気に清浄さまで感じたくらいだ。お前の
木に、そこまでの力はあるまい﹂
1142
第168話 下級吸血鬼と鉢植え
﹁⋮⋮木とは何だ?﹂
ロレーヌが俺とクロープの会話を聞いて、そう尋ねる。
⋮⋮そう言えば、ロレーヌには剣を使った結果について大まかに
は話していたが、あの生えてきた樹木については詳しく話していな
かったような気もする。
クロープが答える。
﹁あぁ、以前、こいつが聖気を込めた剣で切り付けた木の人形から
植物の芽が生えてきてな。面白そうだから俺が育ててるんだ﹂
別に隠すようなことでもないし、気安い口調であった。
ロレーヌはそれを聞いて、
﹁⋮⋮また変なものを⋮⋮しかし、なるほど、納得はできる。なに
せ、レントは出張肥料だものな⋮⋮面白そうと言うのは同感だな。
クロープ、私にも見せてくれないか﹂
と、以前の冗談を引き合いに出して微笑んだ。
あまり驚いていないのは、羽で植物の成長を促したときのことが
あるからだろう。
ああいうことが出来る聖気なら、木人形から芽を生やすことも出
来るだろうと。
クロープはロレーヌに言う。
1143
﹁別に構わねぇぞ。ちょっと待て⋮⋮﹂
しばらくして、クロープが鉢植えを持ってくる。
そこには随分と育った樹木があった。
大体、俺の背丈の半分くらいだろうか。
あれからそこまで時間はたっていないのに、成長が早いような気
がするが⋮⋮。
﹁これだ。どうだ、何か感じるか?﹂
クロープが俺たちにそう尋ねてきたので、ロレーヌがまず言う。
﹁私には聖気は見えないからな、なんとなくでしかないが⋮⋮少し
空気が綺麗になった様な気がするくらいだな﹂
﹁私もそんな気がする﹂
ロレーヌに続いて答えたのはアリゼだ。
俺は、
﹁⋮⋮確かに僅かに聖気を発しているな。俺と同じものだ﹂
そう言った。
聖気持ちにはやっぱりある程度視認できるもので、煙のように樹
木を覆う光が僅かに見える。
とは言え、大した量ではないが。
﹁やっぱり、お前と同じか? となると、こいつが発している聖気
も植物系統だから成長が早いのかもしれんな。そろそろ鉢植えでは
窮屈になってきたくらいだ。しかし土地がな⋮⋮﹂
1144
クロープの店は別に狭くはないが、どこも鍛冶屋のために使って
いるスペースばかりだ。
中庭だってここで試し切りするために使っている以上、ここに植
えるというわけにもいかないだろう。
普通の樹木ならまだ、端の方に植えるなどすることは考えられな
くもないが、この樹木は特殊だ。
今の時点で結構なスピードで成長しているのを見せている以上、
下手なところに植えるとまずいことになりそうだ、という想像は出
来る。
俺の聖気で作られた品が半ば呪いの品に⋮⋮申し訳ない。本当に
申し訳ないと思う。
しかし育てる気になったのはクロープなのだから同情はしない。
すぐ処分すればよかっただろうに。
﹁⋮⋮そうはいっても、まだ大丈夫そうだし、本当にどうしようも
なくなったらそれこそどこかの山にでも植えてくればいいんじゃな
いか?﹂
俺がそう言うと、クロープは、
﹁最後はそれしかないかもしれんな。しかし、何かに使えそうだか
らな⋮⋮。さっき、聖樹の代わりにはならないと言ったが、あくま
で代わりにならないだけで、武具の素材にはなりそうな気はしてい
るんだ。どういう効果がつくかは試作が必要だが⋮⋮﹂
﹁ほう、確かに素材としても面白そうだな。錬金術でも何かには使
えそうだ。クロープ、私にも分けてくれないか?﹂
クロープの言葉に好奇心をくすぐられたのかロレーヌがそう言う。
1145
聖気のこもった素材など、確かに通常あまりない。
それこそ聖樹の葉とか枝など幻のものが多く、一般的なものだと、
教会が売る聖水とか聖者や聖女が力を注ぎ続けて出来上がる品とか
だろう。
後者は比較的手に入りやすいのでそれを使ってもよさそうに思え
るが⋮⋮。
俺が二人にそう尋ねると、クロープは微妙な表情で、
﹁聖水は教会の秘匿技術で色々と加工されていてな。込められた聖
気を他のものに転用するのは難しいんだ﹂
続けてロレーヌもクロープと似たような顔で、
﹁聖者や聖女が作ったものも同様だな。その辺りの流出については
気を遣っている、というわけだ﹂
そんな風に言う。
まぁ、確かに何にでも転用できるようにしたら、それを販売して
いる宗教団体的にはあまり良くはないのかな。
転用されても、もとの聖気自体の生産が聖者や聖女にしか出来な
いことを考えると、別に構わないような気もするが、そんな簡単な
話でもないのだろう。
たとえば、ロレーヌみたいなのが聖気の仕組みを解明して、聖者
や聖女がいなくても浄化や回復が簡単に出来る、みたいな品を大量
生産できるようにしたらまずい。
⋮⋮そんな簡単に出来ることでもないだろうが。
しかし、必ずしも不可能ではないだろう。
なにせ、迷宮ではたまに、浄化や回復の出来る品は出るからだ。
効果の低い模造品に至っては、普通の魔道具店でも作られ、販売
されている。
1146
効果の高いものについては、かなり希少な素材を使わないと作れ
ないため、やはり聖者や聖女たちの価値が揺らぐことは今はないが
⋮⋮永遠とも言い難い。
そのために秘密にしている、というところだろうか。
﹁かといって絶対に不可能、とは言わないが⋮⋮そっちを使うより、
レントのこっちの方が使い勝手が良さそうだろう。で、どうだ?﹂
なんだか俺の力によって生まれた樹木が即席聖気製造機のような
扱いを受けている気がするが⋮⋮。
間違ってはいないか。
クロープはロレーヌの言葉に頷いて、
﹁まったく構わないぞ。というか、これ一鉢だけじゃないんだ。あ
と四つあってな⋮⋮二つ、譲ろう﹂
沢山あったというのは少し驚いたが、あのとき木人形に生えてい
た芽はもっと沢山あったからな。
全部植えてみて、生き残ったのがそんなものだった、ということ
なのかもしれない。
しかし、全部で五鉢もあって、二つしか譲ってくれないのか。
別に文句があるわけじゃないが、扱いに困っている感じだったか
ら、一つ残して全部放出するくらいかと思っていたが⋮⋮。
﹁三つも残して、大丈夫なのか?﹂
俺が色々な懸念を込めてそう尋ねると、クロープは、
﹁問題ないだろう。究極的には切って薪にするというのもあるしな。
1147
聖気が籠もった樹木に少し不敬な気もしないでもないが⋮⋮どうせ、
お前の聖気由来なんだ。不敬も何もないだろ﹂
と言う。
辿って行けば、俺に聖気を込めた神霊のものであるわけだから、
若干不敬な気もするが、別に信仰心が深いという訳でもないなら問
題はないか。
いかなる神を信じるかも、いかなる神を信じないかも人の自由だ
しな。
そもそも、神々が人の営みにどれほどの興味を抱いてらっしゃる
のかは、はるか昔から議論の対象になって来た問題だ。
人の一挙手一投足などにさして興味は持たれていない、他人を傷
つけ殺すことにすら何とも思われない、ただ大きな流れだけを見つ
めているのだ、という考え方もあるくらいだ。
それによると、木を燃やすくらい気にも留められない、というこ
とになる。
だから、問題ないだろう。
実際、木を燃やしたくらいでどうこうなるなら、人類は滅びてい
るだろう。
焚き火ぐらい誰だってやる。
﹁焚き火にする前に相談してくれよ⋮⋮森に植林しに行くくらいな
らいつでも行くからさ﹂
別にそんなことする必要はないのだが、俺の聖気から生まれた樹
木である。
なんとなく、我が子のような気持ちがちょっとだけ湧いてきてそ
う言った。
クロープは、
1148
﹁じゃあ、そのときはそうすることにしよう⋮⋮さて、大分話はず
れてしまったが、嬢ちゃんの武具だな。まずはどんな武具を作るか
だが⋮⋮﹂
そう言って、クロープはまず、いくつかの基本的な武器を持って
来た。
1149
第169話 下級吸血鬼と武器選択
﹁とりあえず、試すといい﹂
と言ってクロープが置いたのは、それこそ古今東西の色々な武具
で、中にはこれを初心者に進めるのはどうなんだというマニアック
なものまである。
⋮⋮円月輪?
無理だろ⋮⋮。
﹁あの、私、こういうときどういうものを選んでいいのかが⋮⋮﹂
おずおずと言った様子でアリゼがそう言った。
確かにいきなり武器を選べ、と言われても困るだろう。
俺が初心者だった時は、とりあえず一番最初は狩人に戦い方を学
んだからな。
弓と剣鉈を主体にしたまさに狩人のそれで、悩むと言うことは無
かった。
冒険者になろう、と決めていたので、剣鉈の扱いに習熟しつつ、
片手剣も独学で練習していた。
幸か不幸か選択肢というものを選ぶ必要がなかったわけだ。
まともな剣術はたまに村に来る行商人の護衛とかの冒険者に暇つ
ぶしがてら教えてもらったりして、いつまでも繰り返して身に着け
た。
そこそこうまくなってくると、教える方も面白くなってくるよう
で、結構熱を入れて教えてもらった記憶がある。
いつの間にか別の冒険者が来るようになっていたけどな。
依頼中に死んだのか、それとも他の土地に行ったのか⋮⋮。
1150
ギルド
マルトの冒険者じゃなかったからマルトで調べても分からない。
もっと大きな街の、地方の冒険者組合を束ねているようなところ
で調べれば消息もつかめるかもしれないが、時間がかかりそうだし、
それにあのときの冒険者は言っていた。
会えるなら会えるし会えないなら会えない、と。
妙に風来坊気質の変わった男だったが、その感覚は今の俺には分
からないでもない。
あえて調べようと思わなかったのはその辺りに理由がある。
アリゼにはそんなある意味で不便な環境ではなく、好きに選べ過
ぎるために難しいわけだ。
こういうときは、やっぱり師匠の助言が必要だな!
そう思って口を開こうとすると、
﹁ふむ、アリゼは魔術師としても戦う訳だから、遠距離攻撃につい
ては心配する必要がない。主に近接戦用のものから選ぶといいかも
しれないな﹂
と、ロレーヌが適切な助言を与えていた。
﹁ほう、魔力を持っているのか。なら、この辺りは要らんな⋮⋮﹂
クロープがそう言って、弓矢や円月輪などの遠距離戦用の武具を
取り除く。
残ったのは大体、スタンダードな近接戦用の武具だ。
片手剣にダガ︱、槍に斧、両手剣⋮⋮。
﹁⋮⋮これはちょっと持てなさそう⋮⋮﹂
と言いつつ、アリゼが両手剣に手を伸ばし、持ってみた。
1151
言うほど持てていない、というわけではない。
十二程度の子供にしては頑張って持っている。
しかし、かなりふらついていて危なっかしいのは言うまでもない。
﹁⋮⋮こいつも無しだな﹂
クロープがそう言ってふらつくアリゼから両手剣を軽々と受け取
り、端に置いた。
鍛冶師は体力がないとまず務まらない商売であるから、彼の筋力
は中々のものである。
両手剣くらいなら何の問題もないのだろう。
﹁⋮⋮レントはこれを使ってるよね﹂
そう言って次にアリゼが持ったのは、片手剣である。
言わずと知れた、俺の主武器だ。
とは言え⋮⋮。
﹁別にそれしか使えないわけじゃないぞ。他の武器も一通り使える﹂
そう言って他の武器、槍や斧を持ち、一応身に付けている型をい
くつか披露する。
自慢げに。
﹁すごい! レント、何でもできるんだね﹂
と、アリゼが褒め称えてくれ、いい気になったところで、
﹁無駄に器用だな⋮⋮﹂
1152
とクロープから呆れたような声が。
﹁器用貧乏を形にするとレントが出来る。一家に一人いると非常に
便利だぞ﹂
と冗談交じりのロレーヌの言葉が聞こえた。
﹁今は結構戦えるんだぞ﹂
と、ちょっとむきになって反論すると、
﹁もちろん、知っているさ。冗談だ。しかし、それだけレントが出
来るわけだから、アリゼは別にレントに武器選択を合わせる必要は
ないぞ﹂
とアリゼに言う。
アリゼは少し目を瞠って、
﹁⋮⋮そうなの?﹂
と言った。
俺が片手剣を主武器としていることを知っているためか、合わせ
て選ぼうとしていたことを察知してのロレーヌの助言だった。
子供のするような気遣いではないが⋮⋮アリゼの出自を考えると
むしろ自然である。
アリゼは孤児院の子供だし、当然今までもそうやって他人の顔色
を良くも悪くも見つめながら生きてきただろうから、こういう選択
肢を与えられても意外と自由には選べない。
それが分かってのあえての俺たちの軽口の応酬である。
その辺りは、ロレーヌは即座に理解できるし、クロープも子供好
1153
きだから意外なほどにうまくやるのだ。
﹁あぁ、もちろんだ。槍だろうが弓だろうが斧だろうが、なんだっ
て俺は教えてやれるぞ⋮⋮まぁ、一流かと言われると疑問だが⋮⋮﹂
一流なら、冒険者としても一流になれただろうからな。
そうは言えない。
しかしクロープは、
﹁いや、そう馬鹿にしたものでもない。こいつは型やら基礎やらを
ひたすらにやり続けるのが大好きな訓練馬鹿だからな。今の動きを
見ても⋮⋮基礎を教わるのにこいつ以上の人材は中々いないぞ。滑
らかで、淀みがない﹂
と褒めてくれた。
実際はそこまで大したものでもない気がするが⋮⋮なにせ、俺は
結局銅級でしかなかったからな。
けれどそう言ってくれるとじんわりと嬉しいものである。
もちろん、その通りだ、とは言えないので、
﹁⋮⋮少し褒め過ぎだ。アリゼ、俺はそこそこだからな。そこまで
期待はするなよ。お前をいっぱしの冒険者にはしてやれるだろうが、
一流になれるかどうかはお前の努力と才能次第だからな。そこは忘
れないでくれ﹂
と若干説教じみたことを言ってしまう。
しかし、アリゼは、そんな俺の言葉に、
﹁うん。大丈夫、分かってるよ﹂
1154
と即座に頷いた。
やはり、アリゼの目から見た俺は三流冒険者か⋮⋮。
と、一瞬がっかりするが、そんな俺にアリゼは続けた。
﹁私は刺繍が好きだけど、あれは、こんなに細い糸を紡いでいって、
大きな模様にするものだもの。きれいな糸で丁寧に紡げば、素敵な
模様が出来上がるけど、そのためには一杯時間をかけて、一杯頑張
らないといけないんだよ。冒険者だって同じなんだよね? レント
は一杯頑張って来たから、強いけど、私はまだ頑張ってないから⋮
⋮﹂
⋮⋮おそろしく殊勝な台詞だった。
こんなに思慮深く素直な娘を本当に俺なんかの弟子にしていいの
だろうか?
今すぐに王都に行って、一流の冒険者たちの門戸を片っ端から叩
き、土下座してでもこの子を弟子入りさせてくださいとお願いしに
回るべきでは?
そんな考えが一瞬浮かんでしまったほどである。
しかし、そんなわけには行かない。
俺が教えると決めたのだから、アリゼは俺が責任をもって育てる
のである⋮⋮。
少なくとも、冒険者として、独り立ちできる知識と技能を身に着
けるまでは。
だから、というわけじゃないが、俺はつい、言った。
﹁この間、ロレーヌにしっかり魔術の基礎を学んだじゃないか。ア
リゼは頑張っているよ。これからもそうしていけば、そのうち俺な
んか飛び越えていくさ﹂
1155
親ばかならぬ師匠ばか発言だった。
⋮⋮俺はダメかもしれない。
1156
第170話 下級吸血鬼と武器決定
﹁⋮⋮うーん﹂
二つの武器を前に、アリゼが悩んでいる。
色々と試して無理そうなのや合わなそうなものを省いた結果、今、
彼女の前には二つの武器が残っているのだ。
その内訳は⋮⋮。
﹁⋮⋮ダガーと片手剣か。決まらないのか?﹂
俺がそう尋ねると、アリゼは頷いて答える。
﹁うん。ダガーの方が持ちやすくてしっくりくるんだけど、片手剣
の方が冒険者になったとき、やりやすいんじゃないかと思って﹂
オーク
つまりは、好み的にはダガーだが、現実的に考えると片手剣がい
いだろう、ということだ。
なるほど、分かりやすい理由であった。
そして、その考えは間違っていない。
魔物と言うのは危険だ。
ゴブリン程度ならともかく、厚い脂肪と筋肉の鎧に包まれた豚鬼
や、体がゲル状の不定形の物体で構成されているスライムなどを相
手にしたときのことを考えると、ダガーでは厳しいだろう。
ある程度、刀身のあるものでなければ⋮⋮。
ただ、アリゼには魔術がある。
オーク
今は生活魔術を発動できるくらいだが、それなりに破壊力のある
攻撃呪文を、低級のものでも覚えれば、十分に豚鬼ともスライムと
1157
も戦うことは出来る。
スライム相手にはむしろ魔術の方が効率がいいしな。
この場合、武器はあくまで護身用というか、敵が近づいてきたと
きに最後の手段として頼るもの、ということになるだろう。
そういうやり方もないではない。
が、俺としては武器でも戦ってほしいなぁと思うが⋮⋮師匠のエ
ゴか。
分かっているから特にどちらも勧めようとはしない。
好きな方を選べばいいと思う。
ただ、そういう悩みなら⋮⋮と助言を一つ思いつく。
ロレーヌの顔を見ると、同じようなことを思いついた表情をして
いた。
俺とロレーヌはお互い頷き合い、
﹁アリゼ、俺はどっちを選んでもいいと思うが⋮⋮判断材料に面白
いものを見せてやる。⋮⋮ロレーヌが﹂
するとロレーヌが、置いてあるダガーを手に取って、
﹁見ていろ⋮⋮﹂
と言い、剣に魔力を込めた。
いや、少し違うか。
魔術を発動させた、だな。
すると、ダガーの切っ先、その何もないところから透き通った刀
身が伸びてくる。
透明だが、そこに何か物理的なものが存在していることが分かる
ように、僅かに光を反射していた。
1158
それは、大体、片手剣と同じくらいの長さまで伸び⋮⋮。
﹁ロレーヌ﹂
クロープがそう言って、テーブルの上に小さな丸太を置いた。
ロレーヌは、
﹁アリゼ、少し下がっていろ。いくぞ﹂
そう言って、丸太を横薙ぎにした。
ダガーの本体には全く触れず、透明な部分で撫でるように。
その切り方は非常に様になっていた。
そりゃそうだ。かつて俺が教えたのだから。
銅級だったころの俺より速い動きなのは、まぁ、なんというか、
何とも言えないものを感じるが⋮⋮ロレーヌは魔術に長けているか
ら、身体強化もお手のものというわけだな。
あれで、もっと出力は上がるだろうが、今は必要ないからこんな
ものということだ。
丸太は、ずず、と線が入り、僅かに斜めにずれるようにして切れ、
二つに分かれた。
それを見たアリゼは、
﹁⋮⋮今のは?﹂
と尋ねる。
ロレーヌは答える。
﹁魔術さ。このダガーの刀身を魔術によって伸ばして、おおよそ片
手剣と同じくらいの長さの武器にしたわけだ。それほど難しい魔術
1159
ではないから、ダガーを選んでも何とかなるぞ﹂
結局、なんでも好きなものを選んだ方が上達が早いしな。
ダガーを選びたいが、片手剣並の刀身があった方がいい、という
のなら、両方満たせる可能性を見せれば心も決まるかな、と思った
のだ。
しかし、難しい魔術ではないと言うが⋮⋮少なくとも、俺は出来
ないぞ。
まぁ、難しいから、というより魔力量の問題で出来なかっただけ
で、今なら学べば出来るのかもしれないが、あれを使っている他の
冒険者は大抵銀級以上だ。
つまり、簡単ではないのではないかと思うが⋮⋮。
﹁⋮⋮ロレーヌ、振った手前あれだが、アリゼが身に着けられる魔
術なのか?﹂
ひそひそとロレーヌに俺がそう尋ねると、彼女は、
﹁出来ないと思ったら見せてない。この間の生活魔術で十分に才能
は見せてもらったしな。あれくらい出来れば、真剣に学べば確実に
出来るようになる﹂
と同じくひそひそした声で言う。
⋮⋮そういうことなら、いいか。
それから、改めてアリゼの方を向き、
﹁で、どうだった? 参考にはなったか?﹂
と尋ねると、彼女は、
1160
﹁うん。こういうことが出来るなら、ダガーがいいなって思った。
いいかな?﹂
と、心が決まったようである。
俺は頷いて、
﹁あぁ、いいだろう。ただ、一応言っておくが、今のを身に付ける
となると、片手剣とダガー両方の技術を身につけなければならない
から、努力が倍、必要になるぞ。それでもいいのか?﹂
ほとんど決まったアリゼの決意に水を差すようだが、それは言っ
ておかなければならないことだ。
中途半端になって結果、死にましたでは話にならないからな。
冒険者にはそういう奴が少なくないからこその台詞だった。
しかし、それでもアリゼの返答はなんとなく想像がついていた。
彼女は言う。
﹁大丈夫、かどうかは分からないけど、私、頑張るよ。一生懸命練
習して、冒険者になるの。だから、レント、しっかり教えてね?﹂
そんな風に。
俺はそんな彼女に頷き、言った。
﹁もちろん。俺とロレーヌで一人前の冒険者にしてやるさ﹂
それに付け加えるように、ロレーヌが、
﹁⋮⋮魔術師と学者にもな﹂
そう言った。
1161
◆◇◆◇◆
﹁そんじゃ、ダガーを作るってことでいいか?﹂
クロープがそう聞いてきたが、俺は首を振って、
﹁いや、こうなったらダガーと片手剣を作ってくれ。素材は足りて
るだろう?﹂
そう言った。
クロープはすぐに俺の意図を察して、
﹁⋮⋮あぁ、片手剣の使い方も習熟しないとならないもんな。あの
魔術を身に着けるまでは、本物を使うしかないと﹂
﹁そういうことだ。それに片手剣は身に付けておけば潰しが効くか
らな﹂
冒険者の多くが使っているスタンダードな武器である。
身に着けておいて損はない。
﹁じゃあ、両方作ると⋮⋮素材はお前の採って来た︽魔鉄︾な⋮⋮
どっちで作るんだ?﹂
竜の魔力に浸された方か、普通の方かと言うことだ。
これは、もちろん決まっている。
﹁普通の方で頼む﹂
1162
﹁いいのか? お前なら、いいものを贈りたいと思ってそうだが⋮
⋮﹂
﹁初めからあんまり標準的じゃないものを使うと変な癖がつくから
な。その辺りを考慮してる﹂
﹁あぁ、それなら分かるな。じゃあ、それで。しかしこっちの︽魔
鉄︾はどうする?﹂
クロープはそう言って、竜の魔力に浸された方の︽魔鉄︾を見る。
俺がそれに、
﹁それでどれくらいのものが作れる?﹂
と尋ねると、
﹁⋮⋮そうだな、それなりに作れると思うぜ。普通の︽魔鉄︾ほど
じゃないが、量はあるしな。いくつか試作する余裕もある﹂
と言う。
そういうことなら、
﹁なら、俺の作ったあの木を使ってなにか剣を作ってみてくれない
か?﹂
と言う。
クロープは、
ヴァンパイア
﹁おい、そのためには色々素材が必要だって言ったろうが。まぁ、
聖樹はいいとしてだ、吸血鬼の血は無理だろ。魔石も⋮⋮﹂
1163
ヴァンパイア
吸血鬼の血は何とかなる。
魔石は⋮⋮厳しいか。
うーん⋮⋮。
ヴァンパイア
﹁吸血鬼の血液の方は何とかしよう。魔石の方は⋮⋮﹂
﹁何とかってお前﹂
何とかできるのだ。
何か聞きたそうにしているクロープを置いておき、俺は続ける。
﹁タラスクの魔石じゃダメか?﹂
それなら俺でも採取してこれるはずだ。
プラチナ
今なら、楽に、とまでは言わないまでも、頑張れば何とかなる。
まぁ、白金クラスとまでは言えないが⋮⋮いいとこ金級程度とい
う感じだからな。
クロープは少し悩み、それから答える。
プラチナ
﹁⋮⋮まぁ、ダメってことは無いが。ただもったいなくてな。聖樹
や白金クラスの魔石を使えばかなりの業物が出来るかもしれねぇっ
てのに﹂
﹁と言っても、俺が採ってこられると思うか?﹂
いつかは、と思わなくはないが、今は無理だ。
クロープも分かっているようで、
﹁ま、そうだわな。いいぜ。それで作ってみることにする。それで
1164
も余るだろうしな。そっちはいつかお前が聖樹の葉を採って来たと
きのために残しておくことにしよう﹂
冗談交じりにそんなことを言って、頷いたのだった。
1165
第171話 下級吸血鬼と魔術触媒
結局、アリゼのための武器は片手剣とダガーを、ということで決
まった。
と言っても実際にそれを使い始めるのは俺たちがハトハラーの村
から戻って来たあとになるだろう。
しばらくマルトを空けることをクロープとルカに告げ、したがっ
て納期も戻って来たあとでいいということも言っておいた。
その前に少しはアリゼに訓練をつけるだろうが、片手剣とダガー
の在庫くらいは俺かロレーヌのものを貸せばいい。
訓練に使うならともかく、魔物相手に使うにはどうかなという使
い古しがいくつかあったはずだ。
一応は、それでいいだろう。
防具についてはクロープに依頼しようかと思ったが、クロープの
方から、アリゼには革の鎧やローブなどの方がいいだろう、と言わ
れて、他の店を紹介された。
ダガーと魔術を主体にした戦い方をこれからするだろうから、身
軽な方がいいだろうということでの提案だった。
しかし、今日のところは防具店まで行ってしまうと時間がなくな
ってしまうのでまた後日、ということになった。
なにせ、今日は他にまだ、やることがあるからな⋮⋮。
﹁これから魔術触媒を作る。お前たち、準備はいいか﹂
鍛冶屋から戻ってきて、今は俺、ロレーヌ、アリゼの三人でロレ
ーヌの家のリビングにいる。
そこに大きなテーブルと文字を書くための板を置き、ロレーヌが
1166
棒を持って説明していた。
ワンド
板は魔道具であり、書いたり消したりが何度も出来る優れもので
ある。
今日は短杖を作るので図があった方が分かりやすいだろうとロレ
ーヌがどこかから引っ張り出してきたのだ。
これで魔道具である。
決して安い代物ではないはずだが⋮⋮学者ならみんな持っている
ものなのかな?
その辺りは俺は詳しくないので分からないが、ロレーヌが持って
いるので持っているのだろう。きっと。
﹁はいっ。準備できてます!﹂
アリゼが元気よくそう言った。
それを満足げに見て、頷いたロレーヌは、
﹁⋮⋮では、レント君はどうかね?﹂
と尋ねる。
俺は渋々、
﹁⋮⋮準備出来てます﹂
と答えた。
ロレーヌは、
﹁もう少し元気に﹂
と要求してきたので、不服そうな顔をすると、びしり、と棒で指
されて、
1167
﹁やる気はあるのかね?﹂
と聞かれた。
俺は仕方なく、
﹁準備できてますっ!﹂
と腹の底から叫ぶ。
アリゼが笑った。
⋮⋮まぁ、当然ただのじゃれ合いである。
それからはロレーヌも俺も普通の様子に戻り、講義は続く。
ワンド
﹁ま、別に何も難しいことはないんだがな。今日はお前たちに最も
基本的な魔術触媒である短杖の作成をしてもらう。他にも指輪とか
武器に組み込んだりとか、種類は色々あるが、そういうのは若干高
度だからな。とりあえず基本を身に付けて、その後、高度なものに
移っていくのがいいだろう。ここまではいいか?﹂
俺とアリゼは無言でうなずく。
ロレーヌはそれを見て、
﹁︱︱よろしい。では、早速作っていこう。とりあえず、見本を見
せる﹂
シュラブス・エント
オーク・ソルジャー
そう言って、ロレーヌはこの間俺が採取してきた素材の中からモ
ミノキの灌木霊の木材と、豚鬼兵士の魔石を手に取った。
﹁材料は、これだけでいい。基本だからな。ただ、それだけに細か
1168
く追及していくと奥が深くもあるが⋮⋮その辺の玄妙さは今は分か
らんでもいいだろう。さて、ではやっていくぞ。まず最初に、この
テーブルの上の板の上にこの魔法陣を描く﹂
そう言って、ロレーヌは色々と図面の書いてある板を棒で叩く。
板には、円と三角形、それに四角が組み合わされた簡素な魔法陣
が描かれていた。
ロレーヌはそれを、テーブルの上に置いてある銅のような風合い
の板の上にインクに浸した筆でその通りに描いていく。
すると、インクで描かれた魔法陣はすっと、銅の板に吸い込まれ
るように定着した。
﹁触れてみろ﹂
と言ったのでアリゼ触ってみると、今書いたばかりのはずなのに
完全に乾いている、というか、板の模様になってしまっていること
に驚いていた。
﹁この板は何か特別なものなのですか?﹂
アリゼが尋ねると、ロレーヌは首を振って答える。
﹁いや、これは普通の銅の板だな。インクの方が特別なんだ。魔法
陣を書くために特別に作られた特殊なインクだ。まぁ、なくても別
に構わないんだが、こんな風に素材に染み込むように定着するから
あとでにじませたり間違って消してしまったりする心配がない。成
功率が上がる、というわけだ﹂
魔道具店などでは普通に販売している品だが、魔術師や錬金術師
しか基本的に購入しないものだ。
1169
なにせ、高価だからな。
それに、書くのにも、また一度書いたものを消すためにも魔力が
必要なため、一般人には扱いが難しい。
そのため、アリゼはその存在を知らなかったのだろう。
﹁なるほど⋮⋮﹂
と頷いている。
そんな彼女にロレーヌは言う。
﹁次は、この魔法陣に魔力を注ぐ。⋮⋮いくぞ﹂
そう言って、板に手を触れて、魔力を注いでいくロレーヌ。
無造作にやっているように見えるが、そうではない。
あれは慣れているからそうできるだけだ。
俺やアリゼがこれをやるためには、練習が必要そうなことは一目
でわかった。
しかしアリゼにはそんなことはまだ、分からないからか、
﹁結構簡単そうですね⋮⋮﹂
と言っている。
簡単じゃないんだよ⋮⋮たぶん、これを身に着けるだけでしばら
くかかってしまいそうだ。
しかしロレーヌはそういうところについては若干意地悪と言うか、
﹁そうだな、簡単だな﹂
とアリゼに言っている。
本気で思っているのか、それともスパルタで短時間で身に着けさ
1170
せる気なのか。
どちらにしろ恐ろしい話であった。
﹁で、次は⋮⋮﹂
十分に魔法陣に魔力が籠もったのを確認し、ロレーヌは魔石を手
に取った。
それを魔法陣の上に置く。
すると、魔石が発光し始めた。
﹁うわぁ⋮⋮﹂
とアリゼが呟き、ロレーヌは説明する。
﹁このままの状態では魔石を触媒としては使えないからな。今描い
た魔法陣を魔石が取り込んでいるんだ。このまましばらく放ってお
いてもいいが⋮⋮今日はさっさと終わらせよう﹂
そう言って、魔石に触れるか触れないかのところに両手を置いて、
ロレーヌは再度魔力を操り始めた。
すると、魔石の発光が激しくなり、それから数秒の後、ふっとそ
の光は消えた。
ロレーヌは光を失った魔石を手に取って身ながら、
﹁⋮⋮うむ。問題ないな。魔石はこれでいい。見てみるか?﹂
そう言ってロレーヌがアリゼに魔石を手渡す。
アリゼが魔石を見て、少し驚いた表情を浮かべていた。
﹁どうした?﹂
1171
と俺が尋ねると、アリゼは、
﹁魔石の中に、魔法陣が⋮⋮﹂
と言って俺に魔石を手渡してきた。
見てみると、アリゼの言う通り、魔石の中に先ほどロレーヌが描
いた魔法陣が浮きながら回転しているのが見えた。
これが、魔法陣を取り込む、という意味である。
俺は割と見慣れている光景なので驚きはない。
俺は魔道具関係はまだ一切作れないが、目利きだけは結構してき
たのだ。
と言っても、大体どのくらいの値段になりそうかな、という冒険
ワンド
者の即物的なあれだが。
この魔石で作った短杖はその感覚で言うとお安い品になるだろう。
ふと思いついて、俺は言う。
﹁アリゼ、ロレーヌの杖を見せてもらうといい。面白いぞ﹂
ロレーヌは杖やら指輪やら魔術触媒を山のように持っている。
そのため、常用しているうちの一つを見せてもらったらどうか、
と思ったのだ。
ロレーヌは俺の提案に、
﹁そうだな、その方が色々分かりやすいかもしれん。ほれ﹂
ワンド
そう言って、壁に立てかけられていた一本の短杖を取って、アリ
ゼに手渡す。
﹁アリゼ、魔石部分を見るといい﹂
1172
俺がそう言うと、アリゼはその通りにした。
そして、
﹁わっ。これ凄いね⋮⋮!﹂
と先ほどよりもずっと大きく目を見開く。
1173
第172話 下級吸血鬼と杖
﹁だろう?﹂
ワンド
俺がそう言うと、アリゼは頷いてロレーヌの短杖の魔石部分をも
う一度覗いた。
そして、
﹁魔法陣が⋮⋮いっぱいあるよ。それに、いくつも折り重なってて、
なんだか丸くなってる⋮⋮﹂
ワンド
そう言いながら、俺に短杖を手渡した。
俺はそこに何があるのかは知っているが、ついでにと魔石部分を
見てみる。 するとそこには、先ほどロレーヌが作った魔石とは比べ物になら
ないほど複雑な魔法陣がぎっしりと詰まり、浮かんでいるのが見え
た。
いくつもの魔法陣が折り重なり、球形になって、しかも球体の数
は一つではなく、三つはある。
それぞれの球体は、お互いに触れない距離を保ちながら、それぞ
れ逆にゆっくりと回転していて、なんだか砂時計を見ているような、
ずっと見ていたいような気分になってくる。
﹁立体積層魔法陣という奴だな。魔法陣を二次元ではなく三次元的
に構成することにより、より多くの情報を書き込むことの出来る技
術だ。魔法陣は一つ一つの文様や文字が様々な情報を持っていて、
それをどれだけ効率的に組み込めるかが勝負だからな。平面よりは
1174
立体の方がはるかに多くの情報を組み込めるのは当然の話だ。加え
て、もっと行くと、多次元立体積層魔法陣というものもあって、こ
れは魔法陣を三次元ではなく四次元的に⋮⋮っと﹂
ロレーヌが説明していると、徐々にアリゼの顔がちんぷんかんぷ
んな表情になってきていた。
気持ちは分かる。
俺はロレーヌに本を借りたりしながら色々と学んできたので分か
るが、孤児院で育ってきたアリゼにとっては流石に厳しい内容だろ
う。
ロレーヌもそれを感じたようで、
﹁悪かったな。この辺りをすんなり理解するためには数学の方も先
に教えた方が良かった。レントに話しているような気分になってい
た⋮⋮良くないな﹂
と謝る。
アリゼは首を振って、
﹁ううん⋮⋮なんだか、凄いってことは分かりましたから。レント
は、こんなに難しい話が分かるの?﹂
と尋ねてきたので、俺は一応頷いて、
﹁なんとなくはな。なにせ、ここにあるロレーヌの本を読むのが俺
の趣味だ。十年かけたから知識はそれなりだぞ﹂
と言う。
それはどのくらいかと言えば、一般人から見ると少し物知りに見
えて、ロレーヌのような奴から見ると、とりあえず話は通じるかな、
1175
と捉えられるような微妙なところだろう。
もちろん、冒険者関係の知識についてはこの街においては俺はか
なり詳しい方だと自負しているが、学問となると流石にな⋮⋮。
一応、故郷の村、ハトハラーにいたときは、薬師の婆さんや村長
に基礎的な学問は教わっていたから、独学的にロレーヌの本も読ん
でいたわけだが⋮⋮。
まぁ、大したものではないだろう。
しかしロレーヌは、
﹁レントは中々のものだぞ。なぜこんな男がど田舎の辺境の村で育
ったのか、謎だが⋮⋮﹂
と褒めてくれる。
彼女が謎、というのは俺があんまり自分の出自と言うか、故郷で
の話をしないからだろう。
一応、薬師の婆さんや村長なんかに色々教わったことがある、と
いう話はしたことがあるが、その程度だ。
ロレーヌも深く突っ込んで聞いてこようとはしない。
冒険者と言うのは、大概触れられたくない過去を持っているもの
だからな。
過去には本人が自発的に話そうとしない限りは、あえて触れる必
要はないという感覚がある。
﹁ま、俺のことはいいさ。それより、杖の製作に戻ろう﹂
俺がそう言うと、ロレーヌはあっさり引いて、
﹁そうだな⋮⋮それで、魔石に魔法陣を込めるところまではやった
な。次は、杖の柄の部分だが、これはやり方が色々ある﹂
1176
﹁そうなんですか?﹂
アリゼがそう尋ねると、ロレーヌは頷いて、
﹁そうなのだ。たとえば、普通に手で削る、というのがあるな。ナ
イフなどで細かく削って成型していく。昔ながらの手法だな。ただ、
これだとかなり時間がかかるし、失敗するととんでもないものが出
来たりするからな。あまりおすすめはしない。ただ、腕のいい者が
行えば、滅多に見ない名品も出来上がることはあるが⋮⋮まぁ、そ
こまでいくともはや職人の道になるからな。目指してもいいが、今
は基本と言うことで気にしなくてもいいだろう﹂
ロレーヌは続ける。
﹁最も有名で、基本的なやり方は、魔術を使っての成型だな。こん
な風にやる﹂
シュラブス・エント
そう言って、ロレーヌは灌木霊の木材に魔力を注ぎ始めた。
ワンド
そして、魔力を操作すると、木材の一部が剥がれ、空中に浮く。
大きさは短杖を作っているのだから、大体30センチ程度だ。
それから、その木材に籠もった魔力を操ると、木材が徐々に形を
変えていく。
グルグルと、板が螺旋を描くように巻かれ、少しずつ杖の形にな
っていく。
樹皮の部分を活かすように、外側部分を樹皮が出るように成型さ
れて、また、先の杖頭の方に行くにつれて太く、また反対の杖先に
行くにつれて細くなっていくように調整されていくそれは、まさに
職人の業のように思えた。
そして、杖の形が出来上がると、ロレーヌは、
1177
﹁⋮⋮ここからが一番難しいところだな。魔石と杖を結合しなけれ
ばならない。いくぞ﹂
そう言って、片手で魔石に魔力を注ぎ、またもう片方の手で杖の
柄の部分に魔力を注いで浮かべ、近づけていく。
すると、柄の杖頭の部分からバリバリとした青白い雷のような光
が幾筋も放たれ、魔石が近づいてくると魔石に吸い寄せられるよう
に繋がっていく。
近づく魔石と杖の柄、そして完全にくっつくと、杖頭の辺りの木
材がしゅるしゅると動き出し、魔石を固定するように包み、そして
止まった。
それから、ロレーヌが杖を手に取ると、杖と魔石の間にあった光
は徐々に小さくなっていき、消えていった。
﹁⋮⋮ま、こんなところだな。出来は⋮⋮まぁまぁか﹂
と、杖を矯めつ眇めつ見て、ロレーヌがそんなことを呟く。
アリゼは、
﹁不思議な光景でした。綺麗で、でも、どこか怖くて⋮⋮あんな風
に出来る気がしないです﹂
と自信なさげに言う。
しかしロレーヌは、
﹁錬金術はその手法一つ一つに真理が覗く学問・技術だからな。そ
の気持ちも分かる。あぁ、出来る出来ないで言うと、絶対できるぞ。
これはなんというか、錬金術からすると、初歩だからな。料理で言
う、包丁が使えるようになるレベルのものでしかない。それ以上と
1178
なると、もちろん、研鑽や才能の問題も関わってくるが、これは練
習すればだれでも出来るようになる。安心すると良い﹂
と笑った。
魔力のさっぱり使えない一般人からすると、本当に不思議で、何
かとてつもない技法が使われているのではないかと思ってしまうよ
うな光景だったが、ロレーヌはこんなところで嘘や気休めを言うよ
うなタイプではないから、その発言は事実なのだろう。
⋮⋮俺もちょっと出来るのかな?とか思っていたのでアリゼが言
ってくれて良かったな、と思う。
手先は普通より器用な方だと思うが、それが錬金術にどれくらい
応用できるものなのか謎だからな⋮⋮。
魔力の扱いも、大したことは出来なかったが、十年、小さく細か
く効率的にやってきたのだ。
おそらく大丈夫だと思うが⋮⋮不安だ。
一番は、アリゼに情けないところを見られないように頑張らない
と、というところだろう。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ロレーヌは言った。
﹁では、お前たちもやってみようか。好きな素材を選ぶといい。レ
ントの採取してきた素材はどれも質が良くて、どれを選んでも問題
ないからな﹂
1179
第173話 下級吸血鬼と失敗
俺もアリゼもどれを素材に使うか悩んだが、一応決まる。
アリゼの方に先に選ばせたのは言うまでもないことだ。
わざわざ彼女のために採取してきたのに、俺が我先にと良さそう
だから目ぼしい素材を持っていったら意味がない。
俺は余りでいいのだ。
ミナ
究極、新しいのが欲しくなったら俺は自分で素材を採りに行ける
わけだしな。
シュラブス・エント
ちなみに、アリゼが選んだのはシラカバの灌木霊の木材と、鉱山
テラ・ドレイク
ゴブリンの魔石だった。
俺的には、魔石は地亜竜のものが一番質が良いためおすすめだっ
たので一応勧めてみたのだが、
﹁こっちの方が綺麗だから、私はこっちがいい﹂
ミナ
ミナ
と言って鉱山ゴブリンの魔石をとった。
アリゼが手に取った鉱山ゴブリンの魔石は確かに綺麗な青色をし
テラ・ドレイク
ていて、見た目は中々いいが、質はそこそこである。
テラ・ドレイク
対して地亜竜のものは真っ赤な輝きを帯びたもので、質はかなり
いい。
それでもタラスクのものには及ばないわけだが、選ぶなら地亜竜
なんだけどな⋮⋮。
と俺が思っているのが、ロレーヌに伝わったようだ。
彼女は、
﹁別に究極の杖を作ろうという訳じゃないんだ。初めての杖は気に
1180
シュラブス・エント
入ったもので作った方がいい。その方が成功しやすいからな。だか
ら、無理に質のいいものを使う必要もない﹂
と言った。
テラ・ドレイク
まぁ、そういうことなら、これでいいのだろう。
俺は地亜竜の魔石がこの中だとお気に入りだし、灌木霊の木材の
方はエボニーのものがいいし。
﹁じゃあ、二人とも素材を選んだところで、魔法陣を描くところか
らだな。二人とも、筆は持ったか﹂
言われて、俺もアリゼも同様に筆を持つ。
インクもしっかりテーブルの上に二瓶、置いてある。
﹁よろしい。じゃあ、最初だが、筆に魔力を込める。さっき、私が
それをしているのに気づかなかっただろう? それくらいに僅かで
いい、沢山じゃなくていいということだ。注ぎ過ぎると⋮⋮まぁ、
注ぎ過ぎなければいいからそれは説明しなくていいか。ともかく、
丁寧に、少しずつ筆に魔力を注ぎ、それからその状態を維持して、
筆をインクにつける。ここからだな﹂
言われて、俺はロレーヌの説明通り、僅かに魔力を筆に注いだ。
これはもう、俺にとって慣れ切った作業であるので、非常に簡単
である。
武器に魔力を注ぐのとまったく同じだからな。
ただ、アリゼには初めての作業であるから、かなり難しいようだ
った。
十年選手と初心者ではそれは全然違うのは当然だな。
しかし、アリゼは少し悔しいようで、
1181
﹁レントに負けない!﹂
と言って、気合いを入れた。
けれど、その気合いは空回りしたようだ。
﹁あ、あんまり注ぐなと⋮⋮﹂
﹁えっ?﹂
かなり多めの魔力を筆に注いだアリゼがそれをインクにつけた途
端、インクがぶるぶると震え、直後、噴水のように噴き出てアリゼ
にかかる。
﹁あっはっは﹂
と、俺が笑うと、ギンッ、とインクで黒くなった顔で目を光らせ
て、こちらを睨んだアリゼ。
俺は笑い声を引っ込め、それからまじめ腐った口調で、
﹁⋮⋮なるほど、大量に魔力を注いでしまうとインクが飛び散る、
というわけだ。注意、注意⋮⋮﹂
と言った。
ロレーヌは頷いて、
﹁そうだが、あまり煽るなよ⋮⋮。アリゼもあんまり張り合うな。
まぁ、競争相手がいた方が良いとは思うが、この作業については張
り合うだけ無駄だ﹂
﹁どうしてですか?﹂
1182
アリゼには分かっていなかったようで、不思議そうに尋ねる。
ロレーヌは事情を説明する。
﹁筆に魔力を注ぐ、という行為は初めてやっただろうが、レントは
いつも武具に魔力を込めて戦っている。十年間、ずっとだ。つまり、
こいつはこの作業についてはまるで初心者ではない、ということだ
な﹂
﹁なにそれ、ずるい!﹂
と、アリゼが知らされた真実に憤慨するが、
﹁ずるいも何も仕方ないだろ⋮⋮今更初心者には戻れないしな。錬
金術は初めてだけど、作業でやる魔力の操作については俺は割と得
意だ。だからその辺りについては諦めろって﹂
俺はそう言い訳した。
言い訳も何も当然の話だが、アリゼはちょっとだけ不服だったの
だろう。
しかし聞き分けが悪いわけでも性格が悪いわけでもない。
彼女は言う。
﹁レントと一緒にうまくなっていけると思ったのに﹂
つまり、同じくらいの速度で同じように成長していきたかったら
しい。
分からないでもない。
ただ⋮⋮。
1183
﹁別にそれは無理じゃないだろ。ただ、俺には得意分野があるって
だけだ。魔術も錬金術も、習わないと使えないわけだしな﹂
﹁そうかな⋮⋮?﹂
少し納得しかねるように首を傾げたアリゼだが、ロレーヌが、
﹁そうさ。そもそも十年前のレントと比べたら遥かにアリゼの方が
うまいしな。十年後、こいつより出来るようになってればそれでア
リゼの勝ちだぞ﹂
と言う。
確かにそうだ。
そして、きっと抜かれるなぁ、と思う。
今から頑張って強くなっていくつもりではあるが、十年あればア
リゼなら今の俺くらいにはなれるだろう。
アリゼは素直なもので、
﹁⋮⋮頑張る﹂
と言った。
それから、ロレーヌが彼女に洗浄の魔術をかけてやり、新しいイ
ンクを持ってきて作業に戻る。
どれだけ在庫があるんだろう⋮⋮。
まぁいいか。
俺は一発で成功させた筆への魔力込めであったが、アリゼは結構
苦戦していた。
しかし、それでも一時間ほど繰り返していると何とかできるよう
1184
になっていたので、才能と言うのは羨ましいものだ。
俺が身に着けるまでには、もっと時間がかかったからな⋮⋮。
体内の魔力は魔力を自覚する過程で簡単に動かせるようになった
が、体の外に放出するとなるとこれはまた別のセンスが必要になる
からだ。
それでも一週間程度でなんとかできるようにはなったが⋮⋮アリ
ゼほど早くはない。
﹁では、次に魔法陣を描く。筆に魔力を込めたままでやらなければ
ならないから、集中力が必要だ。頑張れ﹂
ロレーヌがそう言ったので、俺とアリゼも作業に移った。
俺は筆に魔力を維持するのは息をするように出来るので、それほ
ど集中力は必要なかったが、アリゼは割とプルプルしながら頑張っ
ている。
出来るようになったとはいえ、まだまだ、というわけだ。
そりゃそうだ。今日だけで俺と同じレベルまで出来るようになっ
ていたら、面目丸つぶれである。
まぁ、別に丸つぶれになったらなったで、筋がいいということで
あるからいいのだけどな。
﹁もうできたのか、レント?﹂
ロレーヌが俺にそう尋ねたので、俺は頷く。
﹁あぁ。いいかどうか見てくれ﹂
﹁⋮⋮やっぱり器用だな。しっかりとかけている。そういえば、お
前は絵もうまかったか﹂
1185
﹁うまいかどうかはよくわからないが、人並みには描けるかな﹂
冒険者をしていると、出遭った魔物の特徴なんかを同じ依頼を受
けた者同士で共有するときなどに、地面に絵を描いて説明したりす
ることがある。
そのために、少しは練習した。
色々やってきたことが生きているということだろう。
﹁ま、これなら問題ないだろう。普通に使える。アリゼの方は⋮⋮﹂
そう言って、ロレーヌがアリゼの方を覗きに行く。
すると、
﹁どうですか?﹂
尋ねたアリゼにロレーヌが、
﹁⋮⋮悪くない。が、少しこの辺りが歪んでいるな。この程度なら
問題ないが、大きく歪むと発動しなかったり、予想外の効果が発動
したりするから気を付けるようにな﹂
軽くそう、注意した。
それにアリゼが、
﹁予想外ってたとえばどんな?﹂
﹁色々あるが⋮⋮魔術師の間で良く語られる言い伝えだと、昔、絵
心のない魔術師コンラーというのがいてな。口は達者だったんで、
宮廷魔術師になれたんだが、ある日、その国に伝わる儀式を担当す
ることになったんだ。別にそれ自体は問題なかったんだが、その儀
1186
式、魔法陣を描いて花火を上げる、というものでな。コンラーも自
分の絵心のなさは理解していたが、それでも失敗しても適当に魔術
で花火を上げればいいだろうと引き受けたんだ。で、実際魔法陣を
描いて発動させた。かなり不格好なものだったと言われている。そ
れで、そうしたら、どうなったと思う?﹂
﹁⋮⋮どうなったんですか?﹂
﹁その場に火竜が召喚されて、辺り一帯を焼き尽くして去っていっ
たとさ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
あまりの結末にアリゼは顔を青くしている。
自分が書いた魔法陣がそんな事態を巻き起こす可能性があると言
われて、怖くなったのだろう。
しかしロレーヌは、
﹁ま、今のはあくまで昔話、教訓話の類だ。実際にそこまでのこと
は起こらん。コンラーは魔法陣こそ描くのは下手だったが、それで
も優れた魔術師で、魔力量も莫大だった。そのため、それだけ大き
な失敗になってしまったのだ。アリゼが失敗したとしても⋮⋮今は
まぁ、せいぜいスライムが召喚されるくらいで終わるだろう。あと
は大きな音がなったり命にはかかわらないくらいの軽い爆発とかな。
だから安心しろ。そうなっても私が抑え込むしな﹂
そう言ったので、アリゼはほっとしたのだった。
1187
第173話 下級吸血鬼と失敗︵後書き︶
杖製作長くなってますが次くらいで終わるんでお許しください。
1188
第174話 下級吸血鬼と何気ない言葉
当然のことながら、銅板に魔力を注ぐ過程でも、アリゼは苦戦し
た。
対象が異なるとはいえ、筆に魔力を注ぐのも銅板に魔力を注ぐの
も、物体に魔力を注ぐ、という点では全く同じである。
同様に大変なのは当たり前の話だった。
それがむしろ反対に作用しているのが俺である。
魔力を武器に注ぐのも筆に注ぐのも銅板に注ぐのも同じ、という
ことは、武器に魔力を注ぎ続けて十年の俺は、この過程も楽勝と言
うことだ。
いやはや。
何だかアリゼに申し訳ない気分になってくる。
しかし、別に俺は楽をしているわけではない。
むしろ、アリゼが今日一日で身に着けようとしているものを、何
年もかけて身に着け、研鑽し続けてきたのだ。
その身ではアリゼの方がずるいと言える。
才能でどうにかなってしまっているのだからな⋮⋮いや、俺が才
能がなさ過ぎただけか。普通はこんなものなのか。分からん。
﹁よし、次は魔石を銅板の上に置くんだぞ。見てたから分かるだろ
うがな⋮⋮私の場合は時間がもったいないからと短縮するために色
々とやったが、その作業については今はまだお前たちには早い。基
本通り、ただ魔石を置けばいい。しばらく放っておけば自然に魔石
が魔法陣を吸収してくれる﹂
ロレーヌが魔法陣を銅板に書き終わった俺たちにそう言った。
確かにロレーヌは時間がかかるからと何かいろいろやってこの作
1189
業をさっさと終わらせていたが、やはりあれは難しい技術だったら
しい。
挑戦してみたい気もするが、ロレーヌがまだ早い、というのだか
らきっと無理なのだろうな。
ま、アリゼと一緒に地道にやっていけばいいか、と諦めることに
する。
一刻を争うと言うのなら別だが、俺は冒険者としては剣士として
やっているわけだし、特に困ってはいないから。
もちろん、色々と技能を身につけられればそれだけ様々なことが
楽になるだろうが、錬金術師の技能はなぁ。
冒険者として、と言う意味ではそれほど即座に役には立たないか
らな。
高品質な回復薬を自分で作れるのが強みと言えば強みだが、俺は
故郷で薬師の婆さんに回復薬の作り方は教わっているし、錬金術師
の作ったそれよりも効果は落ちるとはいえ、困ったら聖気もあるし
な。
問題はない。
それから、言われた通り、魔石を銅板の上に置くと、銅板に模様
のように染み込んでいた魔法陣がぺりぺりと剥がれるように魔石の
中に吸い込まれていく。
この過程は、ロレーヌのときは一瞬で終わってしまったからまじ
まじと眺めることが出来なかった部分だ。
光っておしまいだったからな。
不思議な光景であったが、特に変わったものでもないらしい。
ロレーヌが、頷きながら見ている。
つまり、今のところは問題なく、杖作成が進んでいるということ
だろう。
そして、十分ほど経って、魔法陣の最後の模様が魔石に取り込ま
れると、ロレーヌは、
1190
﹁⋮⋮よし、いいだろう。二人とも、魔石にしっかりと魔法陣が取
り込まれているか、見るといい﹂
と言って、魔石を手に取り、内部を覗くことを勧める。
俺もアリゼも、魔石を見たくてしょうがなかったので、そう言わ
れた直後、魔石を掴み、中を覗いた。
すると⋮⋮。
﹁あ、出来てる! 出来てます! ロレーヌ師匠!﹂
と、アリゼの興奮したような声がまず響いた。
彼女の方はしっかりと成功したらしい。
ロレーヌも、
﹁どれどれ⋮⋮﹂
と言って、アリゼから魔石を受け取り、その内部を覗く。 すると、
﹁確かによくできているな。魔法陣は、やはり少しゆがんだ形で取
り入れられてしまっているが⋮⋮問題はないだろう。初めてにして
は上出来だ、アリゼ﹂
そう言ってアリゼの頭を撫で、褒めた。
次に、
﹁で、お前の方はどうだ?﹂
と俺に話を振る。
1191
俺は、
﹁⋮⋮いや、あの⋮⋮﹂
と歯切れ悪くつぶやく。
いや、別にやましいことがあるわけでは⋮⋮なくもないか。
しかし、俺は断じていうが、ロレーヌの言ったとおりにやったの
だ。
俺の妙な様子を見て、ロレーヌは眉根を寄せ、
﹁⋮⋮おい、レント、お前⋮⋮﹂
と怪訝な顔つきで寄ってきて、俺の持っている魔石を奪い取り、
天に翳して内部を覗いた。
そして⋮⋮。
﹁お前⋮⋮何が何でも普通には出来ないのか? これは⋮⋮お前も
おかしいと分かってるだろう?﹂
と聞かれた。
魔石を改めてロレーヌから手渡され、覗いてみると、確かにそこ
には少しばかり変わった魔法陣が浮いているように見える。
俺は、ロレーヌのインクで銅板に魔法陣を描き、それがそのまま
魔石に取り込まれたはずだった。
その場合、ロレーヌが手本を見せてくれた時もそうだが、書いた
色のまま取り込まれることになる。
しかし、俺の魔石の内部に浮いている魔法陣は、緑と黄色のまだ
ら模様に発光していた。
正直あんまり気持ちのいい色合いではない。
1192
﹁⋮⋮きれいじゃないな﹂
と俺がつぶやくと、ロレーヌは、
﹁問題はそこじゃない。が、こういうことはないではない。魔力の
偏りや神霊の加護でこういう、妙な魔法陣が魔道具に浮き出ること
はたまにあるのだ。お前の場合は⋮⋮なぁ?﹂
その、なぁ、に込められた意味を分からない俺ではなかった。
アンデッド
俺は、聖気を持っていて、何かしらの神霊の加護を持っているし、
魔力についても、不死者であるためにその性質に妙な偏りがないと
は言えないのだ。
むしろ、こんなことが起こっている以上、あると断定すべきだろ
う。
俺は、まともに錬金術をすることすら出来ないのか⋮⋮ちょっと
そう思って悲しくなり、ロレーヌに尋ねる。
﹁やっぱりこれ、まずいか?﹂
俺の質問に、ロレーヌは、
﹁⋮⋮いや、珍しい現象なのは間違いないが、全くないという訳で
もない。先天的に魔力の性質に偏りがある者はいるし、聖気の加護
を持つ者も少なからずいるからな⋮⋮ただ、こうなると出来上がる
杖の性質にも偏りが出てくるからな。それだけ覚悟しておけば問題
ないだろう﹂
と言った。
どうやら、何の問題もない、という訳ではないにしろ、俺が錬金
術を身に着けられないというわけでもないようだ。
1193
それなら、まぁいいかな、と思う。
しかし、杖に偏りが⋮⋮。
どの程度偏るかが問題だが、それは作ってみないと分からないの
かな。
﹁レントの魔石、見せて﹂
考えていると、アリゼがそう言ってきたので、ロレーヌの顔を見
る。
あんまり変なものを見せると教育上良くないかもしれないと思っ
ての確認だったが、ロレーヌが頷いたので、俺はアリゼに魔石を渡
した。 それからアリゼは魔石の中を覗いて、言った。
﹁わぁ、綺麗だね。私のは普通の黒い魔法陣だから、なんだか羨ま
しいなぁ﹂
⋮⋮無邪気である。
しかし、なんとなく救われる発言であった。
別に俺も自分の特殊性はもう、心の底から理解しているのだが、
こういう何気ないところでそれが浮き彫りになるとちょっとだけ、
落ち込むのだ。
二日もすれば立ち直れるくらいのさして大きな落ち込みではない
が、それでも何だか悲しいような寂しいような、俺ってやっぱり人
間じゃないなと言う気分になる。
眠りが浅い時や、小さな傷が数秒で治ってしまうときなど、そう
感じるのだ。
けれど、今はアリゼの言葉でそんな気持ちは吹き飛んだ。
なんて良い弟子なのだろう。
1194
どっちが励まされているのか分からないな⋮⋮。
心の底からそう思いつつ、杖作りは進む。
あとは、杖の部分だけだ。
1195
第174話 下級吸血鬼と何気ない言葉︵後書き︶
今回で杖作成終わるとか言いながらもう二話くらいかかりそうです。
申し訳ない。
1196
第175話 下級吸血鬼と人形
﹁あとは、杖の柄の部分の成型と、魔石と柄の結合だな。まぁ、正
直今のままでもほとんど完成していると言えるんだが、これだと格
好つかないからな⋮⋮﹂
ロレーヌがそう言ったのでアリゼが首を傾げて尋ねる。
﹁どういう意味ですか?﹂
﹁あぁ、魔力触媒としては、魔石だけでも十分に使えると言うこと
だ。ただ、柄を付けた方が魔力を制御しやすいし、魔力増幅率も上
がるから、格好だけでもないんだけどな﹂
ロレーヌが答える。
柄が必要ないなら、魔石だけで触媒として使うだろう。
なぜ必要かと言うと⋮⋮。
ロレーヌが続けた。
﹁今回作るくらいの杖だと、魔石だけの場合と、杖にした場合とで
はそれほどの差はないんだが、高度なものになっていけばなってい
くほど、柄の部分にも色々と加工を施していくことになる。たとえ
ば芯に何か素材を入れたり、魔石を複数配置して反応させたりとか、
色々な。杖の柄は、なんというかな⋮⋮魔力触媒の土台みたいなも
のなんだ﹂
しかしそうなると、疑問も出てくる。
アリゼは即座に尋ねた。
1197
﹁じゃあ、指輪型の魔術触媒より、杖型の方が性能がいいのですか
?﹂
指輪に複数の魔石を乗せるのは難しいだろう。
単純にそんな考えでもって尋ねたに違いない。
そしてそれはある意味で正しい。
ロレーヌはしかし、首を縦には振らずに説明する。
﹁いや、必ずしもそうとは言えない。まぁ、作りやすさで言えば杖
ミナ
テラ・ドレイク
型なんだけどな。指輪型にも魔石は複数載せられる。今、使ってい
る鉱山ゴブリンとか地亜竜なんかの魔石だと、そこそこ大きいから
厳しいだろうが、魔物の魔石には色々な種類がある。小さくて、指
輪に複数載せられるような大きさの魔石を持つ魔物もいるのさ。そ
ういうのを使えば、問題ないという訳だ﹂
﹁でも、小さな魔石なら杖には一杯載せられるのでは?﹂
﹁それもまた、間違いではないが⋮⋮問題は、魔術触媒に使える魔
石の数に限界があるということだな。いくらでもスペースの許す限
り載せられるわけじゃない。基本的には一つ、うまくやって二つ、
名品と呼ばれる品で三つ、とてつもなく高性能なもので四つ、とい
うところだ。迷宮産のものならもっと多いものもあるし、それこそ
伝説クラスの名工の品であればその限りではないが、一般的な錬金
術師だと、どんなに頑張っても三つだな。四つ使って安定した魔術
触媒を作れるのなら、それだけで食べていけるぞ。目指すか?﹂
無理に決まってるだろ、とは、他人から見れば無謀とも思える目
標に邁進してる俺に言えたことではないが、アリゼは大体そんな感
想を抱いたらしい。
1198
けれど、ふと気になったのか、ロレーヌに言う。
﹁ロレーヌ師匠はいくつ載せられるのですか?﹂
﹁私か? 私は⋮⋮秘密だ。ただ、三つは間違いなく載せられる、
と言っておこう﹂
その答えだと四つもいけると言っているようなもののような気も
するが、断言はしていない。
⋮⋮うーん。
ロレーヌの性格から考えると微妙なところだろう。
いけてもいけなくてもこういう気がする。
アリゼはさらに聞こうとしたが、ロレーヌが、
﹁ほらほら、杖づくりを続けるぞ。柄の部分の加工は簡単じゃない
から、集中しないと出来ないからな﹂
と言ったので聞けずじまいに終わる。
シュラブス・エント
しかし、アリゼもそこまで不満という訳でもなく、まぁいっか、
という顔で灌木霊の木材に取り掛かる。
アリゼからすれば、ロレーヌは凄い人、なので三つだろうが四つ
だろうが別に見る目に変わりはないのだろう。
まぁ、俺から見てもそうだ。
シュラブス・エント
灌木霊の木材はもう、採取してきたそのまま、丸太感あふれる存
在であるが、ロレーヌは、
﹁それの表面に魔力を注ぐのだ。そして、注いだ部分だけを剥がす
ようなイメージで魔力を操ると、その通りの大きさで剥がれる。今
1199
回は結構な量だからな。何度失敗してもいいからとりあえずやって
みろ﹂
と言った。
俺とアリゼは頷いて作業に移る。
そして実際にやってみるとどうなったかと言うと、俺は案の定、
簡単に杖に必要なだけの素材を剥がすことに成功した。
アリゼは小さな木片だったり、湾曲した状態だったり、樹皮だけ
剥がれたり、と苦戦していた。
それでも最後にはしっかりと必要なだけの素材を剥がすことが出
来た辺り、やはり優秀であった。
﹁よし、次は、成型だ。杖の形に変えていく。これも同じだな。魔
力を使って圧縮したり、丸めたりするんだ。これはいきなりやると
失敗するだろうから、アリゼは今、剥がすのに失敗した素材を使っ
て、試しながらやるといい。慣れたら本番だ。いいな?﹂
とロレーヌが言ったので、アリゼは頷く。
俺は⋮⋮と思ってロレーヌを見ると、お前は自分で適当にやれ、
と顔に書いてあった。
さっきからさくさく出来ているので、俺に手取足取り教えるのは
やめて、アリゼ優先でやることにしたらしい。
正しい判断だろう。
俺はそもそも自分で色々やってみるのが好きだしな。
やり方は聞いたので、あとは試行錯誤するだけだ。
ただ、それでもさきほど剥がした素材をいきなり使うのは問題な
ので、俺は余った木材から同じような大きさの素材をいくつか剥が
し、それを使って成型作業の練習を行う。
色々と作ってみる。
なんだか、粘土をいじくっているような感覚に似ているな。
1200
⋮⋮別に練習なのだから、杖を作らなくてもいいか。
唐突にそう思った俺は、木材を魔力で成型し、形を変えていく。
そして出来上がったのは⋮⋮。
﹁おい、二人とも見てくれ。これ、中々じゃないか?﹂
アリゼとロレーヌにそう言うと、二人は驚いた顔で俺の作ったも
のを見てくれた。
それから、
﹁レント、よくそんなもの作れるね。私、杖の形にするのも精一杯
なのに⋮⋮﹂
そう言っているアリゼの手には、しっかりと杖の形にされた木材
があった。
どうやら出来たらしい。
ロレーヌの方は、
﹁⋮⋮それは流石に私にも無理だ。モデルを変えたら、売れそうだ
な?﹂
と呆れと感心がないまぜになった様な表情で呟いた。
アリゼとロレーヌの視線の先、そこには、二人の姿をそのまま映
し取った木の人形が置かれていた。
しっかりとポーズも取らせている。
ロレーヌは杖を持って、魔術を放つ瞬間である。かっこいい。
アリゼは礼拝堂で東天教の神に跪き、祈りを捧げている様子であ
る。実に清廉かつ荘厳だ。
うむ、いい出来だ⋮⋮。
1201
と満足していると、
﹁真面目に課題に取り組め。これは没収な﹂
とロレーヌが二体とも持っていき、
﹁アリゼ、これはもらっておけ﹂
とアリゼの形を象った方を手渡していた。 ひどい!
と一瞬思うが、講義中、やるべき課題を置いておいて勝手に他人
をモデルにして人形を作ってなにを言うのかと言う感じもある。
まぁ、これも練習の一環で課題に取り組んでいたとも言えるのだ
が、ロレーヌ的には遊んでいるようにしか見えなかったのだろう。
そもそも、これだけ出来るなら杖くらいすぐに作れるだろうと言
いたげな視線である。
そしてそれは極めて正しかった。
ちょっと遊んでた。
申し訳なかった。
俺は急いで杖を形作ると、
﹁さぁ、次は?﹂
と明るく言った。
ロレーヌはそんな俺を見て、呆れた表情になったが、すぐに、
﹁⋮⋮まぁ、いいだろう。次は最後の、魔石と杖の結合だ。頑張れ、
もう少しだぞ、二人とも﹂
1202
そう言ったのだった。
1203
第176話 下級吸血鬼と線
﹁⋮⋮魔石と杖の結合はさっき見ていた通りだ。だから説明しなく
ても出来るだろう⋮⋮﹂
とロレーヌが言ったところで、
﹁おいおい、ちょっと待て。杖頭を魔力で動かして魔石を固定する、
というのは分かるが、あのバチバチした雷みたいな光の方はどうな
ってるんだよ﹂
と俺が突っ込む。
ロレーヌはそれに笑って、
﹁まぁ、そうなるだろうな。冗談だ﹂
と言う。
それから、
﹁あの光が大事なんだ⋮⋮さっきは、まとめてやってしまったが、
ライン
魔石と杖の結合にはいくつか工程があってな。それをこれからやっ
てもらう。まず、一つ目は、杖に線を通す作業だ﹂
ライン
﹁線って何ですか?﹂
アリゼが尋ねると、ロレーヌは言う。
﹁読んで字のごとく、だな。要は、杖が完成したときの魔力の通り
1204
道のことだ。まぁ、何もしなくても魔力は通るんだが、それだと非
効率だからこの工程がある。杖の中にもともとある、魔力の通り道
を束ね、太く、まっすぐにするのだ﹂
言っていることは分からないでもないが、どうやるのかは謎だ。
アリゼもそうなのだろう。
微妙な表情で、
﹁⋮⋮どうやるんですか?﹂
と尋ねていた。
これにロレーヌは、
﹁大分抽象的な感じがするだろうが、実際やってみるとそれほど難
しくはないぞ。さっき杖を形成したのとあまり変わらない。杖の下
の方から、ゆっくりと、魔力を流して、どう魔力が流れているか集
中して感じ取ってみろ﹂
言われて、俺とアリゼは先ほど自分で形成した杖に魔力を流した。
すると、魔力は杖の下から杖頭の方へ、分散しながら流れている
のが感じられた。
まるでいくつも分岐のある通路に水を流したかのごとく、他の方
向に魔力が流れていくのだ。
非効率、とはそういうことか、と納得する。
アリゼにもそれは分かったようで、
ライン
﹁これが、線、ですか⋮⋮?﹂
とロレーヌに尋ねた。
彼女は頷き、答える。
1205
ライン
﹁そうだ。ただ、分かっただろうが、素材の形をただ杖の形に形成
しただけだと、線は様々な方向に伸び、曲がっている。そのまま杖
ライン
を作れば、それは何の意味もない棒になってしまう訳だ。そうさせ
ライン
ないために、その乱れた線をまっすぐにする作業が必要だ。やり方
は⋮⋮杖を形成したときと同様で、魔力を流しながら、線を動かし、
束ね、まっすぐにする。杖先から、杖頭までな。出来るか?﹂
出来るかどうかは分からないが、やり方は分かった。
そう言う意味で、俺とアリゼはロレーヌに頷き、それから作業に
取り掛かった。
ライン
やってみると、確かにロレーヌの言った通り、さっきやったこと
とほぼ同じだ。
杖の内部にある見えない線を動かす、ということから多少難易度
ライン
は上がった気がするが、その程度で基本的にやり方は変わらない。
ただ、もともと杖に通っている線がかなりバラバラと言うか、あ
らゆる方向にあるので、面倒と言うか集中力がいるというか、こう、
なんだろう、鍋ものを作ったときの、灰汁を延々と掬っているよう
な気分に近いな⋮⋮。
それでも俺は単純作業は割と好きだ。
しっかりと人間だったころ、毎日のように︽水月の迷宮︾で同じ
魔物を狩り続けてへこたれなかったくらいだからな。
これくらいは余裕である。
しかしアリゼは⋮⋮。
かなりイライラした顔をしていた。
それを見てロレーヌが、
﹁⋮⋮面倒になって来たか?﹂
1206
と尋ねると、はっとして、
﹁い、いえ⋮⋮あの﹂
とバツの悪そうな顔をする。
ロレーヌはそんなアリゼに笑って、
﹁いや、気持ちは分かるぞ。私も始めて杖を作った時は、似たよう
な顔をしていたからな。師匠の顔面目がけて杖をぶん投げたものだ
⋮⋮﹂
と衝撃の思い出話を披露する。
﹁が、顔面目がけて⋮⋮﹂
アリゼはとても自分にはそんなことは出来ない、という表情でつ
ぶやく。 ロレーヌは続ける。
﹁ま、それくらい面倒くさい作業と言うことだな。ただ、これは杖
の良し悪しに大きくかかわる作業だから、頑張れ﹂
﹁はいっ﹂
元気よく返事をしたアリゼは、そうして作業に戻った。
今度はイライラせずに、一生懸命取り掛かっている。
⋮⋮しかし、俺としてはその励ましよりも気になることがある。
﹁⋮⋮その師匠はどうなったんだ?﹂
1207
ぼそり、とロレーヌに尋ねると、ロレーヌは俺の耳元に口を寄せ
て、
﹁烈火のごとく怒った。あれは恐ろしかった⋮⋮もう思い出したく
ない﹂
とぶるりと震えた。
ロレーヌにそこまで言わしめる師匠と言うのがどういう人物なの
か気になるが、俺と同じでロレーヌもあまりここに来る前の話はし
ないからな。
ライン
これ以上突っ込むのはやめておいた。
それから、俺とアリゼは線作りを完成させる。
出来の方は⋮⋮。
﹁⋮⋮よし、いいだろう﹂
と、ロレーヌが俺とアリゼの杖に魔力を流して確認し、そう頷い
た。
ロレーヌは続ける。
ライン
﹁二人とも初めてにしては良くできている。アリゼはしっかり線を
まっすぐに出来ているし、レントは⋮⋮やっぱり細かい作業は気持
ち悪いくらいに得意だな。細かい取り残しがない⋮⋮﹂
それで気になったのか、アリゼがロレーヌに、
﹁ちょっとレントの杖を見せてください!﹂
と言って俺が作った杖を貸してもらい、それから魔力を通した。
1208
そして、
﹁⋮⋮うわっ。なにこれ、私のと全然違う⋮⋮﹂
と唖然とした表情を浮かべる。
ロレーヌはそれに笑って、
﹁まぁ、そうかもしれんが、落ち込むなよ。さっきの人形作りでも
ライン
分かったと思うが、こいつは普通より遥かに器用だ。あんなの私に
も出来ないからな。この杖の線作りも、ここまで細かくやるのは骨
だしな﹂
と言う。
アリゼは、
﹁師匠でも難しいのですか⋮⋮﹂
と驚いていたが、ロレーヌは、
﹁難しいと言うか、面倒なのだ。やってみてわかったと思うが、こ
れは根気よくやればいずれほぼ完璧に出来る作業だからな。ただ、
この短時間ではここまで出来ないという話だ﹂
それからロレーヌは、
﹁ま、これはこれでいいだろう。次に移る。最後の工程だな。魔石
と杖の結合だ。これは少し難しい。なにせ、片手ずつ別の魔力の扱
ライン
いをしないとならないからな。どちらの手でもいいが、片方は魔石
ライン
を、片方は杖に魔力を注ぐ。杖の方は線に十分は魔力を注げばさっ
き見たような光が出る。魔石の方も同じだが、こっちは線をいじっ
1209
ていないから全体から光が出てくるが、杖頭に近づけるとそちらの
方向に引き寄せられて行くのであまり気にするな。それと、私は先
ほど杖も魔石も浮かべながらやったが、あれは割と高度な技術なの
で、お前たちは手でもってやれ﹂
そう言われて、俺とアリゼは杖を魔石を手に持ち、魔力を注ぎ始
めた。
1210
第176話 下級吸血鬼と線︵後書き︶
半端で申し訳ない。
次で完成です。
そから、本作のアクセス数が、二千万PVを越えました。
ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
1211
第177話 下級吸血鬼と完成
杖に魔力を注ぎ始めて十秒くらいしたころ、杖頭の方からバチバ
チとした雷のような光が出てきた。
﹁ロレーヌ、これでいいのか?﹂
俺がそう尋ねると、ロレーヌは頷く。
﹁ああ、それでいい。ただ魔石の方も先ほど私が見せたようになる
まで魔力を注がないとならないから、杖の方はそのまま維持だ。出
来るか?﹂
﹁まぁ、これくらいなら問題ない﹂
右手と左手で別の作業をしているわけで、これは出来ない人は出
来ないだろうな、と感じる作業だった。
その点、アリゼは割とうまくやっている。
俺に少し遅れたが、杖から光が出てきて、その状態を維持したま
ま、魔石に魔力を注ぎ続けている。
俺が言うのもなんだが、彼女は結構器用らしい。
﹁やってみてわかったと思うが、魔石の方に多めに魔力を注がない
と今みたいな面倒な状態になる。次に作るときはその辺りを工夫し
てみるといい﹂
﹁なるほどな⋮⋮﹂
1212
ロレーヌが言った言葉に俺は頷く。
アリゼの方は、魔力を注ぐのに集中していて返事をする余裕まで
はないようだ。
なんというか、分かりにくいかもしれないが右手でお手玉しなが
ら左手で手紙書いているようなもんだもんな。
そりゃあもう一つ作業をプラスするのは難しいだろう。
そんなことを考えていると、
﹁お⋮⋮魔石もよさそうだ﹂
魔石の方からも光が出てきた。
杖のように一方向に向かってではなく、全方向に出てきているが、
ロレーヌの話によるとこれでいいようなので問題ないだろう。
ロレーヌも、俺の魔石を見て、言う。
﹁レントの方はもう次の作業に移ってもいいな。魔石と杖を近づけ
て⋮⋮﹂
言われた通りにすると、魔石から出ていた光が、杖の方向に偏り
始めた。
﹁⋮⋮このままくっつければいいのか?﹂
と俺が尋ねると、
ライン
﹁接着剤がついているわけじゃないんだぞ。杖頭の形状をいじって、
魔石を固定するんだ。線を崩さないようにやらないといけない。そ
こそこ難しいから気を付けてやれ﹂
1213
﹁どんな形で覆ってもいいのか?﹂
気になってそう尋ねると、ロレーヌは頷く。
﹁あぁ。そこで工夫する奴も多い。ま、初めてなら普通にただ固定
できればそれでいいが⋮⋮﹂
と言いかけたところで、
﹁師匠!﹂
とアリゼが言う。
どうやら彼女の方も魔石から光を出せたようである。
ロレーヌは俺に、
﹁じゃあ、とりあえず頑張れ﹂
と言って、アリゼの方の指導に取り掛かった。
俺も自分の作業に集中する。
それにしても、杖頭の形状は何でもいいのか⋮⋮。
確かに、店売りの杖なんかを見ると色々装飾されているもんな。
出来ないんだったらあんな風にはなっていないだろう。
しかし、どの程度いじれるのかが分からない。
とりあえず、俺は杖頭の形状を最初はそうっと、そして徐々に大
きく変える。
ライン
その結果、かなりいじくっても問題ないことが分かる。
ただ、限界はあるようで、これ以上動かすと線が切れるな、とい
うのは感覚的に分かった。
1214
木の棒を曲げるだけ曲げて、あと少し力を入れればばきっと行く
なという感覚に近い。
まぁ、それでもこれだけいじれるのなら、色々作れそうだな⋮⋮。
そう思った俺は、杖頭作りに没頭した。
◇◆◇◆◇
﹁よし、これで完成だ。アリゼ、頑張ったな﹂
そんな声が横から聞こえてきたので見てみると、アリゼの手には
完成した杖が握られていた。
しっかりと魔石が固定され、先ほどまでは感じられなかった、魔
道具としての安定した魔力が感じられる。
﹁これが、私の杖⋮⋮﹂
と、アリゼは嬉しそうな顔で杖を見つめていた。
そんな彼女にロレーヌは、
﹁あとでそれを使って魔術を使ってみることとしよう。レントも一
緒にな。さて、レントは出来たか⋮⋮?﹂
と言いながら、俺の方を見て、目を見開き、それから呆れたよう
な表情で、
﹁⋮⋮お前は、またか﹂
と言った。
﹁何がだよ?﹂
1215
と尋ねると、俺の作った杖を指さして、
﹁それだそれ、その杖頭。よくそんなもの作ったな⋮⋮﹂
と呟く。
俺の杖も、今しがた出来上がったところで、アリゼの杖と完成は
ほぼ同時だったと言うことになる。
俺の方が先に最後の工程に辿り着いていたのに、完成したのがほ
ぼ同じだったのは、俺が杖頭に凝ってしまったからだ。
アリゼも気になったのか、ロレーヌのうしろからひょこりと顔を
出して、俺の杖を覗く。
そして、
﹁わっ、何それ、すごい細かい⋮⋮﹂
と言って驚いた表情をした。
ロレーヌが俺の杖を手に取って、矯めつ眇めつし、言う。
﹁⋮⋮魔石が竜の口に咥えられているな。竜の彫刻をよくこれだけ
細かく作ったものだ。普通は杖頭の装飾は魔力操作だけで作れるも
のじゃないぞ﹂
確かに、俺の作った杖の杖頭は、竜が魔石を口に加えた形をして
いる。
そこを一生懸命拘ったので、時間がかかった。
ちなみに、正確にいうと竜ではなく、︽龍︾だ。
俺を食ったあの︽龍︾。
人生終わった、と思った瞬間だったからか、その形状は酷く細か
く頭の中に残っていて、あれを作ろう、となんとなく思ってしまっ
1216
たのだ。
正直、趣味は悪い気がするけどな。
その点はロレーヌも思っているようで、食われたのにその相手を
選ぶなんて、変わった感性をしているな、とでも言いたげな目をし
ている。
けれど、それについてはアリゼのいるこの場でする話じゃないの
で、俺は別の気になることを尋ねた。
﹁杖頭は魔力操作だけで作れるものじゃないってどういうことだ?﹂
﹁あぁ⋮⋮杖頭の装飾は、杖の素材を杖の形に形成する段階で、杖
頭部分だけ太めと言うか大きめにしておいて、あとで削ったりしな
がら作ることが多いんだ﹂
﹁またなんで、そんな面倒なことを?﹂
魔力操作の方が自由に形状がいじれて楽なのに。
そう思っていると、ロレーヌは頭を抱えて、
﹁ある程度までなら魔力操作で何とかできるだろうがな、ここまで
ライン
細かくは普通は出来ないんだよ。よほど魔力の扱いに習熟していな
い限りは、手で削った方が綺麗に作れる。線も崩さないで済むから
な。しかしお前は⋮⋮﹂
とあきれ顔だ。
﹁レントは凄いってことですか?﹂
とアリゼが尋ねると、ロレーヌは、
1217
﹁まぁ⋮⋮そうだな。一言で言えば、そうなる。もちろん、一流の
職人になれば同じことは可能だ。だが、レントは今日初めてやって、
これを作った。昔から器用な男だとは思って来たが、私の専門分野
で改めて見せられると⋮⋮本当に器用なんだと改めて再認識させら
れるな﹂
﹁⋮⋮なんか、悪かった﹂
と、俺が謝ると、ロレーヌは、
﹁別に謝ることじゃないだろう。むしろ、素晴らしいことだ⋮⋮う
む、そうだな。今度杖を作るときは、杖頭の加工はレントに任せる
ことにしよう。そうすれば⋮⋮﹂
と顔を伏せて怪しげなことを呟き始めた。
それから、ぱっと顔を上げて、
﹁ま、ともかく、二人とも杖は完成した。どちらも問題ない出来だ。
あとは、実際に使ってみて、本当に杖として使えるのか、試してみ
ることにしようか﹂
そう言い、アリゼがそれに、
﹁はいっ!﹂
と元気よく返事をしたので、ロレーヌの怪しげなつぶやきの意味
は聞けずに終わった。
1218
第178話 下級吸血鬼と杖の試し
魔術を杖で実際に使ってみよう、ということだったので、てっき
りその場でやるのかと思っていたら、ロレーヌが、
﹁家でやるのは危険だから、外でやるぞ﹂
と言ったので場所を移した。
と言っても、ただ街の郊外にある空き地に来ただけだ。
﹁ここならたとえ爆発しようとも誰も文句は言わん﹂
と、ロレーヌは言うが、流石に爆発したらこの土地の持ち主は怒
るのではないだろうか?
結構広い土地で、遠くに家が一軒建っているのが見える、そのく
らいの広さで、もしかしたら爆発しようともばれない、という意味
かも知れないが⋮⋮。
ただ、一応聞いてみる。
﹁爆発したら流石に持ち主が切れるんじゃないか?﹂
﹁私は別に切れないぞ。私の土地だからな﹂
﹁え﹂
と、つい言いたくなるほど予想外の答えが返ってくる。
けれど先ほどからのロレーヌの何の心配もいらないという態度の
意味が理解できた。
1219
彼女の土地だと言うのなら、確かに何が起ころうと問題はない。
まぁ、魔界への扉を開いて悪魔が大量に出現し街を襲う、なんて
ことがあったら流石に大問題だろうが、そんなことする予定はない
しな。
そもそもやり方が分からない。
伝説でそんなことをやった魔術師がいるとか言われるくらいだ。
﹁⋮⋮私もあんまり家でやる気にならない実験もあるのでな。その
ために大分前に買ったんだ。この辺りは中心街から遠いし、不便だ
から広さ程は高くなかったぞ﹂
ロレーヌはそんな説明をするが、これだけだだっ広い土地である。
安くもなかっただろう。
こいつ、金持ちか⋮⋮まぁ、分かってるけどな。
昔から謎の財力があるから。
家もぽんと買っていたわけだし、それほどの驚きはない。
ともかく、そういうことなら何の心配もいらなそうだ。
しかし、こんなところでやらなければならないほど危険なことな
のか?
初めて作った杖を試すのって。
気になって俺は尋ねる。
﹁なぁ、初めて作った杖って危ないのか?﹂
するとロレーヌは、
﹁普通はさして危険ではない。家でやっても問題ないだろう。ただ、
お前の場合少し、不安がな⋮⋮魔力操作もこなれているし、おそら
1220
くは問題ないだろうと思うが、一応だ。アリゼの方も、結構魔力量
は多いし、加減が難しいかもしれないからな。心置きなく魔術を使
ってもらうためにここでやるのがいいだろうと思った﹂
と説明してくれた。
魔力量が多いと加減が難しい、ということは、杖を使って魔術を
使う感覚と、なしで使う感覚はかなり異なるのかもしれない。
そもそも杖と言うのは魔力を安定、増幅させるものだからな。
安定の方はともかく、増幅、というのがネックなのかもしれない。
加減を間違えると、というのはその辺りについて心配しているの
だろうと思われた。
﹁まぁ、何はともあれ、二人ともやってみようか。まだ魔術は初歩
魔術しか教えていないから、とりあえずそれでやってみるといい。
杖の力がどんなものか、一番理解しやすいだろうしな﹂
と言ったので、俺とアリゼは頷く。
﹁とりあえずは⋮⋮アリゼからいってみるか。詠唱は覚えているか
?﹂
﹁はい。大丈夫です!﹂
﹁いい返事だ。じゃあ、私とレントは少し距離をとる。いいと言っ
たら使ってみろ﹂
﹁はい!﹂
そして、ロレーヌと俺が少し距離をとると、ロレーヌが﹁いいぞ
!﹂とアリゼに向かって叫ぶ。
1221
アリゼは頷いて、杖を持ち、
アリュマージュ
﹁火よ、我が魔力を糧にして、ここに顕現せよ⋮⋮︽点火︾!﹂
と唱えた。
すると、アリゼの体内に満ちていた魔力が収束し、杖に向かって
流れる。
それが膨らむように大きくなり、そして、杖の先から、ぼうっ、
と火が上がった。
⋮⋮いや、火と言うよりあれはもう、炎という感じだな。
本当に初歩魔術か、と尋ねたくなるくらいに大きい。
以前のそれは指先に点る程度の火でしかなかったのに、今は松明
くらいの大きさの炎になってしまっている。
﹁こ、これっ、これっ⋮⋮﹂
と、アリゼが炎の大きさに若干怯えているので、ロレーヌが近づ
いて、何かを唱え、その炎を消してやった。
すると、アリゼがほっとした顔になる
俺も近づいて、アリゼに、
﹁すごいじゃないか。初歩魔術であんな大きな炎を作れるものなん
だな⋮⋮﹂
と言うと、アリゼは、
﹁びっくりしたよ⋮⋮﹂
と未だに少し緊張しているようだった。
ロレーヌはそんな俺たちのやりとりを聞いて、
1222
﹁勘違いしているようだが、普通はあんなに大きくはならないから
な。前にも言ったが、アリゼはもともと魔力量が大きい。だからあ
れだけの大きくなったのだ。杖無しだと大きな魔力量があっても、
初心者の内はその大半は使えないものだが、杖があると違うからな。
制御も安定するし、かなり効率的に魔術が使えるようになる。まぁ、
必ずしもいいことばかりではないのだが⋮⋮﹂
と言った。
どういう意味か気になったのか、アリゼが、
﹁何か悪いことがあるんですか?﹂
と尋ねる。
するとロレーヌは、
﹁あぁ。杖に頼っているといずれ魔力の制御が杖無なしでは出来な
くなる。それに、魔力も杖無しでは大して動かせなくなったりもす
る﹂
﹁それは⋮⋮大問題じゃ?﹂
﹁その通りだ。致命的と言ってもいい。なにせ、常に杖に触れてな
いとまともに魔術師として戦えないということだからな。だが、最
近の若いのはそれでも杖頼りで魔術を使う方を選ぶ。その方が楽だ
からだ。最初から杖を持ち、魔術の練習を始め、そしてそのまま一
人前⋮⋮といっていいか微妙な腕前になって、冒険者なりなんなり
になっていくのさ。まったく、嘆かわしいことだな﹂
自分も決して若くないわけではあるまいに、若いのとは。
1223
と突っ込みたくなったが、真面目な話をしているようなのでやめ
ておいた。
まぁ、結婚適齢期は過ぎてしまっているから、若くないと言えば
若くないのかもしれない。
そんなこと言ったら大して変わらない年齢の俺もそうだけどな。
俺の方が一応上なのだし。下に見られがちだが。
﹁でもマルトの魔術師の人たちは、街中で杖無しで魔術を使われて
たりするのをよく見ますよ?﹂
アリゼがそう言う。
これにはロレーヌも頷いた。
﹁ああ、買い物とかで買った品を浮かべて持って帰ったりしている
のがたまに見れるな。私もあの光景を初めて見たときは意外に思っ
た。帝国ではああいう光景が見られなくなって久しい⋮⋮﹂
帝国、とはロレーヌの故郷であるレルムッド帝国のことだろう。
かなりの文化大国のはずで、魔術についても先進的であるはずな
のだが、杖無しの魔術については微妙なのか。
﹁なんで帝国ではそんなことになってるんだ?﹂
俺が尋ねると、ロレーヌは、
﹁さっき、杖のデメリットを言ったが、当然メリットもある。細か
い作業は遥かに杖を使った方がやりやすい。また、大規模なものも
な。帝国では魔導兵器や魔道具の研究が盛んで、そのために魔術師
は杖を常に手放せないのだ。ずっと使っているとそれに頼りたくな
る。それに、将来ずっと手放さないのならば、最初から杖の使い方
1224
にだけ習熟していれば効率的だ、と考える者も増える。結果として
そんな感じになった、というところだ。もちろん、杖無しの魔術を
扱える者もいるが⋮⋮帝国魔術師の主流派にはなれないのだな。私
も、その口だ、というわけだ﹂
便利になりすぎた宿命なのかもしれないな、という感じである。
しかし、主流派にはなれないとは⋮⋮ロレーヌもそんなところで
色々あって帝国を出たということなのかもしれない
ふと、そう思った。
それから、ロレーヌは声色を変えて、
﹁ま、その辺りについてはいいだろう。今はお前たちの杖の方だ。
色々と悪いことも言ったが、基本的に便利なものなのは間違いない
からな。さぁ、レント、次はお前の番だ。例によって、私とアリゼ
は下がっておくからな﹂
そう言ったので、俺は頷く。
1225
第179話 下級吸血鬼と得意属性
﹁⋮⋮おい、ちょっと下がり過ぎじゃないか? 俺を何だと思って
るんだ⋮⋮﹂
つい、そんな声が出たのも仕方がないことだ。
なにせ、俺から少し距離をとる、といったロレーヌとアリゼの二
人は、豆粒のように小さくしか見えない位置に今、いる。
さっき、俺とロレーヌがアリゼからとった距離と比べると、十倍
は離れているのではないか。
そんなに怖がられることを俺はしたか?
ヴァンパイア
ふとそう思う。
アンデッド
不死者で吸血鬼、の時点で、なるほど怖いな、と思ってしまう訳
だが。
ともかく、
﹁⋮⋮いいぞ! レント⋮⋮!!﹂
と、遠くからロレーヌの声が響く。
もう魔術を使っていい、ということのようだ。
あれだけ離れていれば、二人に被害が、なんてこともまずないだ
アリュマージュ
ろうし、よくよく考えれば俺にとってもこの方がよかったのかもし
れないな。
とりあえず、やってみるか⋮⋮。
魔術は、先ほどアリゼが使ったものと同じ、生活魔術、点火にす
るか。
1226
結果も大体見て、イメージできているし、成功させやすいだろう。
まぁ、杖は魔術師の制御力を上げ、魔力も増幅してくれると言う
ことだから、失敗などまずしないだろうが。
あとは威力の調整だが⋮⋮こればっかりは一度使ってみないと感
覚がな。
正直に言えば、杖を使ったことが一度もない、というわけではな
いのだ。
ただ、それはあくまで生きていたころの話で、あの頃の俺の魔力
量は雀の涙すらなお多い、というくらいに少なかった。
魔力増加の恩恵などほぼなかったのだ。
雀の涙を何倍にしても所詮は数滴に過ぎないわけだからな。
しかし、今の俺は⋮⋮。
あの頃とは明確に異なる魔力量を持っている。
使い心地も相当に違うだろう、というのは想像がつく。
楽しみだな⋮⋮。
そう思いながら、俺は体に魔力を満ちさせ、それから杖を持つ手
の一点に集め、魔力を杖に注いだ。
そして、唱える。
アリュマージュ
﹁火よ、我が魔力を糧にして、ここに顕現せよ⋮⋮︽点火︾﹂
その瞬間、ぼうっ、と杖の先から火が吹き出た。
杖が魔力をかなり増幅してくれている気配を感じたので、慌てて
注いだ魔力の一部を引っ込める。
しかし、それでも結構な火と言うか、火炎が立ち上っていた。
⋮⋮周囲に何も建物などの構造物がなくてよかったな、と心から
思う。
ロレーヌがあれだけ離れる、という判断をしたのも間違いなく正
しかった。
1227
魔力の制御には自信があったが、今回のこれで割とその自信も砕
け散ったな。
杖は少し練習が必要そうである。
けれど、それでもアリゼのように現れた炎の前に混乱してどうし
たらいいのか分からなくはなったりしない。
アリゼより長く生きてきた年の功の力である。
といっても、二十五年程度な訳だが。
冷静に魔力を注ぐのをやめ、残った魔力で燃え続ける火炎の方向
を調整しつつ、数秒見つめた。
そして、ふっと火炎が消えると、遠くにいるロレーヌとアリゼに
手を振って、
﹁もう大丈夫だぞ!﹂
と叫んだ。
二人は、その俺の台詞が本当かどうか少しの間、観察し、それか
らどうやら事実らしい、と確認できると近寄って来た。
慎重な⋮⋮と思うが、これくらいの慎重さは必要だろうな。
杖には暴発、ということもあるし、何かの異常で杖に残ってしま
った魔力がおかしな反応を起こすこともあると聞く。
それが起こるかどうかも含めての確認だったのだろう。
アリュマージュ
﹁⋮⋮レントの︽点火︾、ものすごく大きかったね﹂
とアリゼがまず言い、続いてロレーヌも、
﹁やはり離れておいて正解だったな。近くにいたら消し炭になって
いたぞ﹂
1228
と笑いながら言う。
現実には近くにいても、ロレーヌが即座に結界を張っただろうか
ら何の問題もなかっただろうが、何かの間違いと言うこともあるか
らな。
彼女の言う通りであった。
ロレーヌは続ける。
アリュマージュ
﹁しかし⋮⋮︽点火︾の魔術にしては少し巨大すぎではないか? 魔力量は確かに大きいが、それでもあれほどの火炎が噴き出すよう
な魔術ではないはずなんだがな⋮⋮﹂
﹁そうなのか? でも実際、見ての通りだぞ﹂
そう言うと、ロレーヌは、
マー
﹁確かにな⋮⋮ふむ、レント、お前、他の魔術も試してみろ。生活
魔術の︽水︾は使えただろう?﹂
マー
と提案してきた。
︽水︾はコップ一杯の水を生み出す、冒険者にとって非常にあり
がたい魔術であると同時に、以前の俺の物凄く少ない魔力量でもな
んとか発動させることの出来た魔術のうちの一つである。
俺は、ロレーヌのその提案に、彼女の意図を感じ取る。
﹁あぁ。そうか⋮⋮他の属性でも同じようになるか、試そうってこ
とか﹂
人には得意な属性、というものがあることがある。
ほとんどの人間は満遍なく使えるものだが、どれか一つが偏って、
得意、という場合があるのだ。
1229
なぜそんなことが起こるのかは色々と理由があるが、たとえば、
生まれた土地が火山の近くとかと言う場合に火が得意になったりす
ることがある。
また、神霊の加護も影響し、加護を与えた神霊の属性がそのまま
得意属性となる、ということもある。
俺の場合は⋮⋮植物系の神霊の加護を得ているはずなので、むし
ろ火属性は不得意になるのが自然な気がするが、現実にはそうなっ
ていないようだ。
これは不思議なことだが⋮⋮とりあえず何が得意で何が不得意な
マー
のかを判別しておくのがいいだろう、とロレーヌは思ったのだろう。
俺は頷いて、とりあえず︽水︾を試すことにした。
アリゼとロレーヌは、念のため、再度、距離をとる。
⋮⋮なんだか釈然としないものをやはり感じるが、さっきの結果
を見る限り仕方がない。
俺は、ロレーヌの、いいぞ、という声を聴き、呪文を唱える。
マー
﹁⋮⋮水よ、我が魔力を糧にして、ここに収束せよ⋮⋮︽水︾﹂
生活魔術はどれも、詠唱がかなり似通っている。
基本であるために、構成が簡素であるからだ。
しかしそれだけにこんがらがりやすい。
俺が改めてロレーヌに詠唱を聞かれたとき、少し自信なく答えた
のはそのためだ。
今回も、これであっていたかな、と少し思わないでもないが、魔
力がしっかりと動いて杖に集中しているのを感じ、正解だった、と
安心する。
そして、杖の先に水が現れる。
球体の、少し大きな水の塊だ。
しかし、先ほどの炎のように常識外れに巨大という訳でもない。
先ほど、アリゼが出した炎、それよりも一回り大きいかな、と言
1230
う程度のものだ。
俺はそれを数秒維持し、そして観察してからかき消す。
それを確認したロレーヌとアリゼが再度近づいてきた。
﹁⋮⋮やはり、火属性が異常なまでに強いのかもな、お前は﹂
ロレーヌは考えながらそう言う。
俺も今の結果を見る限り、そう思った。
﹁水属性よりはな。ただ、他の属性はどうだろうな⋮⋮﹂
気になってそう口にするが、ロレーヌが、
﹁他も試したいが、何もかも試すわけにもいかんだろうし、基本的
にお前、今の二つの呪文しか使ってこなかっただろう? 詠唱を教
えればすぐに使えるだろうが、今のお前がいきなり生活魔術とはい
え試すのは怖いからな。今日のところはここで一旦やめておこう﹂
と止める。
確かにそれはそうだな。
今使った二つはかなりこなれていたからしっかりと維持すること
が出来たが、まるで慣れていない魔術で同じことが出来るとははっ
きりは言えない。
おそらくは出来ると思うが、何かまずいことが起こってからでは
遅いのだ。
自分の体がよくわかっていない以上、用心はしてもし過ぎること
は無いだろう。
1231
第180話 下級吸血鬼と袋
その日、俺はステノ商会から連絡を受けた。
一体何の用か、と思って使いの者に尋ねると、魔法の袋が手に入
ったと言う。
ついては現物の確認と、問題ないようであれば購入を、と言われ、
また必要ないと言うのであればそのままオークションに流れるので、
出来るだけ早く来られたしとのことだったので、俺は慌てて準備を
して、ステノ商会に向かった。
オーク
魔法の袋は貴重品である。
豚鬼数体を詰め込める程度のものならそれでもまぁ、手に入らな
くはないが、俺がステノ商会の主であるシャールに頼んでおいたも
のは、タラスクが入るような大きさのものだ。
そんなものは滅多に流れず、流れても即座に売れる。
それなのに、こうやって連絡を本当にくれたのはありがたい。
ステノ商会につくと、以前案内してくれた店員が同じように応接
室まで案内してくれた。
今回もまた、昇降機に乗って上まで運ばれた。
何度乗っても、面白くて、これはいいものだ、と思う。
ロレーヌの家にも設置できないものか⋮⋮と少しだけ考えるも、
個人宅には流石に必要ないかな、とすぐに改めた。
そもそも、手に入れるのはステノ商会がその商会としての伝手を
全投入してやっと、というレベルのものであるし、個人宅に設置し
てくれと言ってもおそらくは断られるだろう。
俺の夢、破れる⋮⋮。
ロレーヌなら、言えば自分で作ってしまえそうな気もしないでも
ないが⋮⋮そこまでしてほしいわけでもないからな。 1232
残念。諦めよう。
応接室で、お茶とお茶請けを楽しみながら待った。
今回は板のような黒っぽい物体で、初めて見たものにどう扱って
いいのか悩んでいると、店員が、
﹁それはチョコレートというもので、西方ではやりつつある新たな
お菓子です。温度を変えると溶けたり固まったりすることから、色
々と加工も出来ると言うことで、面白い食材であるとのことですよ﹂
と言われた。
チョコレート⋮⋮初めて聞いた。
匂いは甘く、それだけなら美味しそうな気がするが、板である。
口に含めそうだが、大丈夫なのかと言う気がしてくる⋮⋮。
﹁⋮⋮このまま食べていいのか?﹂
﹁ええ、もちろん﹂
と言われて、恐る恐る口に運ぶと、甘い香りと、少しのほろ苦さ
が口の中に広がった。
﹁これはうまい﹂
と称賛の言葉を口にすると、店員は、
﹁ありがとうございます﹂
と言い、そして準備をしてくる、と言って去っていった。
それから、俺はチョコレートをひたすらに楽しむ。
1233
こんなに美味い菓子があるとは寡聞にして知らなかった。
温度によって溶けたりする、というのも店員の言った通りで、口
に含むと溶けていくのだ。
紅茶にもまぁまぁ合う。
ただ、なんとなく紅茶よりはきつい酒に合いそうな気もするが⋮
⋮流石に酒を出せとは言えない。
まぁ、これだけで美味しいのだし、いいか。
そう思ってばくばく遠慮せず食べていると、扉を叩く音がして、
﹁シャールだ。入ってもいいか﹂
と言われたので、俺は慌てて自分の指先を見つめ、そこがチョコ
レートで結構汚れていることに気づき、魔法の袋から布の切れ端を
出して拭った。
それから⋮⋮あぁ、口元もきっとまずいだろう、と思い、しかし、
一応拭いたがどうなっているかを確認できないので、仕方なく仮面
の形を顔下半分を覆うものに変える。
それから、すぐに、
﹁ええ、構いませんよ﹂
と冷静を装って言うと、シャールが入って来た。
﹁この間ぶりだな、レント。あれからどうだ?﹂
随分と大雑把な質問であるが、俺と彼の関係においてどうだ、と
聞かれる心当りは一つしかない。
ニヴと聖女のことだろう。
あれから何か付きまとわれたりなど何か問題がないか、と言うこ
1234
とだろう。
俺は彼に首を振って、
﹁特に問題はないと思います。もちろん、気づいていないだけかも
しれませんが﹂
ニヴならそれくらいのストーキング技術を持っていてもおかしく
ないからな。
ヴァンパイア
というか百パーセント持っているだろう。
それがゆえの、吸血鬼討伐数であるのだから。
ヴァンパイア
しかし、あれからの自分の行動を鑑みるに、さして怪しい行動は
とっていない。
少なくとも、吸血鬼特有の行動ですね!とニヴが嬉々として指さ
しそうな行動はとっていない。
夜に出歩くのも極力控え、普通の時間帯に動き回っているし。
先日の魔術の訓練はちょっと変わった結果が出たが、極端に異常
と言うわけでもなかったしな。
大丈夫だろう。
強いて言うなら、これから旅立つために色々とそういう品を買い
集めたりしているくらいだが⋮⋮旅行くらいは誰だってする。
問題ないはずだ。
俺の言葉に、シャールは頷いて、
﹁ならいいのだ。色々と迷惑をかけたからな⋮⋮あの後のことは気
になっていた﹂
そう言う。
この人は普通の人間より遥かに忙しく、わざわざ一冒険者のため
に時間を割くような立場ではないのに、再度こうして会ってくれて
1235
いるのはなぜだろうと思っていたが、そういう理由があったのかと
納得する。
ヴァンパイア
しかしそこまで気にしなくてもいいのに、と俺は思ってしまう。
お人好しかもしれないが、そもそもシャールはニヴが俺を吸血鬼
ヴァンパイア
として疑っていると詳しくは知らなかったわけだしな。
ニヴにしたって、危険な存在である吸血鬼を出来るだけ素早く、
ヴァンパイア
周囲にそれほど多くの一般人がいない状況で捕縛、もしくは消滅さ
せたいと考えるのは理解できる。
狩られる本人からしたらたまったものではないが、吸血鬼はそこ
ら辺の通行人の中に混じっているのだ。
何らかの方法によって判別し、疑いがある程度ある、と判断した
らふるいにかけてその疑いを確信に持っていかなければならないの
は当然の話だ。
だから俺は言う。
﹁あまり気にされなくても構いませんよ。もう疑いは晴れたわけで
すし、それに、魔法の袋も用意してくれたと言うことですし﹂
そう言うと、シャールは、
﹁おぉ、そうだった。今、持ってこさせよう﹂
と言って、テーブルの上に置いてある鈴を鳴らす。
すると、部屋の外から店員が銀盆の上にみすぼらしい見た目の袋
を載せて持ってきて、テーブルの上に置き、去っていった。
﹁これが、例の?﹂
と尋ねると、シャールは言う。
1236
﹁あぁ、お前が求めていた、金貨千八百枚枚相当の魔法の袋だ⋮⋮
と言いたいところだが﹂
と言葉を止めたので、
﹁違うのですか?﹂
とふと不安になって尋ねる。
シャールは頷いて、
﹁ああ、少し違う。と言っても、性能が悪いと言うわけではないん
だ。むしろ逆でな。二千枚から二千五百枚相当の品になる﹂
⋮⋮大幅に違うではないか。
いや、性能がいいのは別に構わないのだが、俺の支払い能力を考
えてほしい。
金貨千八百枚、つまり白金貨十八枚ですら大金なのだ。
白金貨二十枚までならニヴにもらった対価で払えるが、それを越
えるような額を言われても⋮⋮というのが正直なところだ。
そんな不服な気持ちが出ていたのだだろう。
シャールは笑って、
﹁いや、別に金貨二千枚払えと言いたいわけではない。むしろ、私
にはお前に大幅な借りがあるからな。その分負けて、金貨千八百枚
でこれを売ろう、ということだ。どうだ?﹂
と言って来た。
1237
第181話 下級吸血鬼とダメ押し
もちろん、俺としてはその条件が悪いはずがない。
ないのだが、なぜここまで値引きしてくれるのか⋮⋮。
シャール本人が申告した通り、俺に対して負い目のようなものを
感じているか、というのは分かるが、それにしてもかなり大幅な値
引きのような。
俺がそう思ったのが伝わったらしく、シャールは、
﹁そうだな⋮⋮別に何も下心がないとは言わん。が、何か企んでい
るという訳ではない﹂
と言ったので、俺は首を傾げて、
﹁と言うと?﹂
と尋ねる。
シャールは言う。
﹁まず第一に、これだけお前に良くしていれば、この間のことは今
後、それほど気にしないでいてくれるだろう?﹂
と、かなり正直にだ。
これには俺も、まぁ、そうだろうな、と答えざるを得ない。
人によっては絶対に許すべきではない、ここで縁を断ち切ってお
くべきだ、と言う者もいるかもしれないが、そこまでする気には俺
にはなれない。
1238
あれは、ニヴが特異な存在に過ぎるから起こったことだからな。
ここでなくとも、他の商会でもおそらくニヴに同じことを求めら
れたら同じことをすることになっていただろう。
ロベリア教の後ろ盾はそれだけ強力だ。
後ろ盾、というよりかはニヴが引きずりまわしている感じを受け
たが、それはいいか。
俺はそこまで考えて答える。
﹁たしかに、気にしないでしょうね。それほどは﹂
しかしだからと言って、全く気にしないと言うことは無理だろう。
それなりに警戒しながら付き合う、くらいの関係になる。
関わらないと情報も入ってこなくなるし、そうなると逆に面倒く
・・・・・
さいことになる。
﹁それほどは、か。理解した。必ずしもただのお人好しと言うわけ
でもなさそうだ。それで、二つ目だが、商人としてお前には何かが
あるような気がするのだ﹂
ヴァンパイア
むしろこっちの方が本当の理由だったのか、その言葉に力が入っ
ていた。
しかし、俺に何かがあるとは⋮⋮確かに吸血鬼だから俺自身の身
は価値があるが、そういう話ではないだろう。
もっと抽象的な物言いである。
﹁何か⋮⋮特に何もないと思いますけどね﹂
そう言うと、シャールは、
1239
ミスリル
﹁そうか? だとすれば、私の目利き違いと言うことになるが⋮⋮
私はそうではないと思っているのだ。それに、いずれ神銀級冒険者
になるのだろう? それが実現するのなら、間違いなく知り合って
おいて損はない。つまり、一種の投資だ﹂
と、俺がちらっと言ったことを覚えていて、言及してきた。
俺としては本気で言った話だったが、真面目に受け取られていな
いものかと思っていた。
しかし、そういうわけでもなかったらしい。
﹁そうなれたらいいなとは思いますが⋮⋮多くの人は難しいと言い
ますよ﹂
ミスリル
﹁それはそうだろうさ。銅級で、神銀級にいずれなる、と言われて
も夢のまた夢だ、となるのが普通だからな。しかし、目指さない者
は絶対になれない。私とて、もとは小さな店から始めて、ここまで
の商会にしたのだ。やってやれないことはないだろう﹂
どうやら、シャールは意外と苦労人だったようだ。
気になって尋ねる。 ﹁この店を一代で?﹂
﹁⋮⋮そう言ってしまうと語弊があるな。もともと、父の代から店
はやっていたさ。ただ、本当に小さな雑貨屋だった。それを徐々に
大きくしていったのが私だ、ということだな。私も昔から言ってい
たぞ。いずれは王国一の商会にしてやると。︱︱まだ、夢の途上だ
がな﹂
ミスリル
シャールが以前、俺の神銀級目指す発言を馬鹿にしないで聞いて
1240
くれたのはその辺りに理由があるのだろう。
ニヴは⋮⋮ニヴは何考えているかよくわからないからな。馬鹿に
するとかしないとかそういう次元に生きてる気がしない。
聖女ミュリアスは、その名の通り聖女だからな⋮⋮他人が語る夢
を頭から否定したりはしないのは分かる。
﹁しかし、そんな夢を持っている方が投資するには、その額が大き
すぎるような気がしないでもないですが﹂
最高で金貨二千五百枚になる品を、金貨千八百枚で売ると言うの
だから、金貨七百枚の値下げ幅である。
それだけあれば、毎日露店の串焼きを死ぬまで食べていられる。
⋮⋮今は死なないからそれは無理か。
ともかく、凄い額である。
それなのに⋮⋮。
シャールはそんな俺に、
﹁お前からするとかなりの額に思えるかもしれないが、ステノ商会
から見ればそれほどでもない。それに、お前の懐具合は知っている
からな。どれだけ吹っかけようとも白金貨二十枚が限界だろう。そ
もそも、魔法の袋は貴重だ。私も元々は注文通り、金貨千八百枚程
度の品を仕入れようと努力していたのだが、そんなに言い値通りの
品は都合よく出回らんのだ。それで、なんとか見つけたのがその魔
法の袋でな⋮⋮値下げするのはその辺りに私が商人としての不甲斐
なさを感じたこともある﹂
と言う。
確かに魔法の袋は手に入れにくい。
少なくとも個人の冒険者レベルだと、すでに持っている者と話を
1241
つける以外にはオークションか迷宮以外に方法はない。
そして、基本的に所有者はこれを手放すことはないのだ。
迷宮で見つかることもほとんどなく、したがってオークションに
頼るしかない。
そんな事情は、商人からしてもそれほど変わらないのかもしれな
い。
魔法の袋を作る職人はいるが、その素性が知られることはほぼな
く、大規模な商会が囲っていることがほとんどだ。
そして、その数は極端に少ない。
ステノ商会は確かにヤーランにおいては大きな商会かも知れない
が、そのような職人と伝手を持てるほどではないということだろう。
そうなると、他の商会を回るか、冒険者がたまたま手に入れたも
のを買い取るか、しかない。
狙った大きさのものを手に入れるのが難しい、というのはそうい
うことだ。
それでも、ほとんど俺が求めていたものと同じくらいのものを短
い期間で調達できているので、十分に優れていると思うが、俺の買
える額ではないと言うのが致命的だからな。
ふがいないと思うのは理解できた。
それから、シャールは、
﹁それで、どうする? 買うか?﹂
と、尋ねてくる。
悩ましいところだが、こんなものが手にはいることは滅多にない。
完全に信用しきれはしないにしても、これは普通の商取引だ。
ここで買ったからと言って、何かどうしようもない要求をのませ
られる、ということはないと考えていいだろう。
しかし⋮⋮。
1242
と悩んでいると、シャールは、
﹁おっと、そうだった。この魔法の袋なのだが、ちょっとした機能
がついていてな。見た目が変えられる﹂
と言って、袋を持ち、念じ始めた。
すると、袋が革製のバッグの形になったり、背嚢の形になったり、
箱の形になったりした。
これは⋮⋮。
シャールは続ける。
﹁この機能がついているから高い、というのがある。容量はそれこ
そ二千枚程度の品なんだ﹂
と言った。
こういうものがある、というのは聞いたことはあったが、実際に
目にするのは初めてだった。
職人の作ったものは、見た目は固定しているものなので、これは
迷宮から持ち帰られた品なのだろう。
こんなに早く手に入れられたのは、シャールがその辺りについて
かなり念を入れて目を配っていたためだと思われた。
そして、もうここまで便利そうな品を見せられたら、俺としても
物欲が抑えきれない。
そもそも、ほとんど買うつもりになっていたところ、ダメ押しが
これである。
だから俺はシャールに、
﹁買います。はい、白金貨十八枚。ご確認ください﹂
1243
そう言ってテーブルの上に素早く白金貨を積み上げたのだった。
1244
第182話 下級吸血鬼と身分
︱︱無駄遣いしたかな。
ステノ商会を後にして、手に魔法の袋を持ちながら一瞬そんな感
想が浮かぶ。
しかし俺はすぐに首を振った。
なにせ、もともと必要だったものだし、性能も出した金額以上の
素晴らしいものだ。
仮に今買わなかったとしてもいつかは必ず必要になるもので、だ
から余裕のある今のうちに手に入れておくのは正しいだろう。
オーク
これがあれば、同じくらい稼ぐのも容易だ。
タラスクをまた、狩ってきてもいいし、豚鬼を狩れるだけ狩って
もいい。
どちらにしろ金貨数百枚単位で稼げる仕事だ。
⋮⋮なんか金銭感覚が麻痺してくるな。
どう考えても銅級が稼ぎ出せるような金額ではない。
それもこれもすべてはこの特殊な体のお陰で、そうなったことに
感謝しなければならないだろう。
人間に戻りたいのだが、戻りたくない。
そんな妙な心境になってしまうが。
さて、これからどうするか。
実のところ、一つ、目的があった。
旅立つ前に、出来ることなら解決しておきたいことだ。
以前であれば見かけの問題でどうしてもそれを行うわけには行か
なかったが、今の俺なら少なくとも見た目は人間で通用する。
1245
それ以外の存在である、と判別する方法もおそらくはない、とい
うことはニヴが証明してくれた。
だから今なら、と思うことがあるのだ。
ギルド
それはつまり、俺の冒険者組合での身分の話だ。
今のところは大丈夫だが、何かあったときにニヴに嗅ぎ付けられ
ると面倒なことになりそうだからな。
ギルドマスター
出来ることなら、レント・ファイナがレント・ヴィヴィエと名乗
っていることに何かお墨付きのようなものが欲しい。
そのための交渉をしよう、と思っているのだ。
誰に?
ギルド
そりゃあ、もちろん、マルト冒険者組合の主である冒険者組合長
だ。
これはそこそこ危険なかけである。
ギルド
けれど、俺には勝算があった。
・・・・・・・
冒険者組合というのは清廉な組織ではないからな⋮⋮そしてその
ことを俺は良く知っている。
ギルド
だから、たぶん、なんとかなる。
俺はそう思って、冒険者組合の中に足を踏み入れた。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮レントさん? 今日は何の御用ですか?﹂
受付に座るシェイラが近付いてきた俺を見るなり、そう尋ねてき
た。
その顔に怪訝な色が見えるのは、時間帯的に微妙だからだろう。
これから依頼を受けるには中途半端だし、依頼の報告をするにし
1246
ても何も受けていないのは自明だ。
一体何をしに来たのかわからない。
そういうことだ。
俺はそんなシェイラに、至って冷静に言う。
ギルドマスター
﹁あぁ、ちょっとな。用事があって⋮⋮冒険者組合長に連絡をとっ
てくれないか。会いたいんだ﹂
すると、シェイラは驚いた顔で、
ギルドマスター
﹁レントさん⋮⋮大丈夫なんですか? 何をしに来たのかは、それ
で大体想像がつきましたが⋮⋮冒険者組合長は甘い人ではないです
よ﹂
ギルドマスター
と、色々と察した台詞を言う。
俺がわざわざ冒険者組合長に会う目的なんて、確かにそれほどな
いからな。
その中で一番重要なのは、今の俺の身分について、くらいしかな
いということは簡単に想像がつくだろう。
だからこその心配、というわけだ。
けれど俺は首を振って、
ギルドマスター
﹁それは知ってる。だが、俺は別に何か悪いことをしたわけじゃな
いからな。きっと冒険者組合長も相談に乗ってくれるだろう﹂
そう言った。
シェイラはそんな俺を疑わしそうな表情で見ながら、
﹁⋮⋮十分に悪いことのような気がしますけど⋮⋮﹂
1247
と言った。
二重登録はそれほどの罪とは捉えられていないとはいえ、悪いこ
となのは間違いないのでこの場合はシェイラが正しいだろう。
ただ、大した罪ではないからなんとかなるとも言える。
ギ
心配はいらないとは言えないかもしれないが、それほど深刻な問
題でもない、と俺は思っている。
ルドマスター
﹁ま、悪いことをしている人はいっぱいいるからな。とにかく、冒
険者組合長に会わせてくれ﹂
再度繰り返した俺に、シェイラは不安げな顔を一瞬浮かべたが、
﹁⋮⋮そこまでおっしゃるのでしたら、きっと問題ないんでしょう
ね⋮⋮分かりました。どうぞ、こちらへ﹂
そう言って立ち上がり、着いてくるように言った。
◇◆◇◆◇
︱︱こんこん。
と、シェイラが辿り着いた扉を叩き、
ギルドマスター
﹁⋮⋮冒険者組合長、職員のシェイラ・イバルスです。銅級冒険者
レント・ヴィヴィエ様が面会を求めていらっしゃいますので、お連
れしました﹂
と言った。
その声に、
1248
﹁⋮⋮銅級冒険者レント・ヴィヴィエ? ⋮⋮分かった、通せ﹂
重厚でいながら野卑さを感じさせる声が、少しの逡巡を見せた後
にそう言った。
その反応にシェイラは若干驚いて目を見開いていたが、すぐに、
﹁承知いたしました﹂
そう言って、扉を開き、俺に中に入る様に促す。
それから、彼女自身は中に入らず、ゆっくりと扉を閉めて、コツ
コツと足音を立て、おそらくは元の場所に戻っていった。
ギルドマスター
ギルド
部屋の中には、一人の男が執務机に座っていた。
ギルドマスター
言わずと知れた冒険者組合長である。
冒険者組合長と言えば、その大体が、冒険者組合職員から徐々に
出世していった者がつく、どちらかと言えば文官的なところの強い
役職であるのだが、その男はむしろそんな印象とは正反対の容姿を
していた。
というのも、その腕は荒くればかりの冒険者たちと比べてもそん
色がないほどに⋮⋮いや、むしろ、群を抜いて太く、またその顔に
は、左目を縦に切る切り傷があり、体はゆったりとした服装に隠れ
ているが確実に巨体であった。
さらに、しっかりとこちらを見据える右目の光は明らかに文官で
はなく、むしろ戦士のものそのものであり、噴き出る覇気はどう見
ても文官の長、という感じではない。
それもそのはず、この男は元々冒険者であり、怪我を理由に引退
グランドギルドマスター
ギルドマスター
したのだが、そのまま故郷に引っ込もうとしていたところを王都に
いるヤーランの総冒険者組合長の引き留めによって冒険者組合長の
ギルド
地位についたという、珍しい経歴の男だ。
冒険者を引退して、その後、冒険者組合に勤める、というのは良
1249
ギルドマスター
ギルドマスター
くある話だが、引退直後に冒険者組合につくなど、大抜擢である。
ギルド
当然、反対の声も大きく、冒険者組合長についた直後はマルト冒
ギルド
険者組合はかなり荒れたと聞くが、俺が冒険者になったそのときに
ギルド
はすでに落ち着いていて、他の都市の冒険者組合よりも遥かにマシ
な冒険者組合がここに出来ていた。
そんな男の名前は⋮⋮。
ギルドマスター
・・・・・
﹁ふむ⋮⋮お前が、な。おっと、まずは自己紹介からだな。俺はマ
ルト冒険者組合、組合長ウルフ・ヘルマンだ。初めまして、銅級冒
険者レント・ヴィヴィエ﹂
妙な部分を強調して、ウルフは俺に向かってそう言った。
1250
第183話 下級吸血鬼と冒険者組合長
︱︱酷い先制パンチをかまされた気がする。
ギルドマスター
冒険者組合長ウルフ・ヘルマンの一言に、色々な意味を感じて俺
はそう思った。
なぜ、はじめまして、などという至極当たり前の言葉を強調する
のか。
その意味は明白だろう。
︱︱はじめまして、じゃないよな?
そう言いたいのだ。
そうに決まってる。
問題はどこまで分かって言っているのかだが⋮⋮。
かなりの部分まで分かっているのだろうな、と思わざるをえない。
そもそも、俺がこの街で生活するうえで情報をどうしても色々漏
ギルド
らさざるを得ない相手だったからな。
冒険者組合は。
俺のレント・ファイナ、としての経歴、そしてレント・ヴィヴィ
エとしてやったこと、その両方の情報がここにはある。
その上で、しっかり考えれば、レント・ファイナとレント・ヴィ
ヴィエが同一人物であることは比較的容易に想像がつくことだ。
それなのに、今まで、大してばれていなかったことがそもそも奇
妙な点である。
もちろん、俺自身に大した重要性がないから、誰も気にしなかっ
たというのもあるだろう。
気にしていたのは、俺の以前からの知り合いたちだけで、彼らに
1251
はすでにほとんど説明してある。
残るは緩いつながりのあった友人とまでは言えない知り合いたち
だが、彼らは大抵が冒険者稼業の暗い部分を分かっているからな。
姿が見えない、となれば、死んだんだな、と割り切ってしまうド
ライな部分が非常に強い人々なわけだ。
したがって、気にしない、というか、死んだ奴のことを語るのは
辛いから語らない。
それでも、どうしても漏れてしまう部分はあっただろう。
けれど、少しでもそういう噂を聞くことはなかった。
それはつまり、誰かが隠匿していてくれたのだ。
そう想像していた。
その誰か、はきっと⋮⋮。
と、そこまで考えてはみたものの、ただの想像だ。
とりあえず知らないふりして話して、遠まわしに確認していくし
かない。
俺は言う。
ギルドマスター
﹁ええ、初めまして、冒険者組合長。俺はレント・ヴィヴィエ。銅
級冒険者です。突然尋ねたのに、わざわざこうして面会の時間をつ
くってくださって⋮⋮﹂
ギルドマスター
とそこまで言ったところで、冒険者組合長ウルフは面倒くさそう
に、
﹁いい、いい。そういうのはいい。俺はまどろっこしいのは嫌いな
んだ、レント・ファイナ。来た理由も分かる。二重登録のことだろ
う? なんとかしてやるから全部話せよ﹂
と色々な段取りをすべて飛び越した発言をしてきた。
1252
俺は息を呑み、とりあえず、
﹁⋮⋮一体何を言っているのやら⋮⋮﹂
﹁だから、そういうのはいいって。と言っても、お前は納得しない
だろうな。分かってる。お前と顔を合わせたことなんて何度もない
ギ
し、話した回数もそれほど多くない。が、俺はずっとお前に注目し
てきた。それは知っているな?﹂
﹁⋮⋮﹂
昔は知らなかったが、今は知っている。
ルド
いや、昔も一応知ってはいた。たまに冗談交じりに、お前、冒険
者組合に就職しないか?と尋ねてくるような男だったからだ。
あれは冗談だと思っていたが、もうシェイラから聞いて真面目な
話だったと知っているしな⋮⋮。
俺の何を見込んでそんな話をしてくれていたのか、よくわからな
いが、確かに俺に注目していたのは間違いない。
それで、それがどうかしたのか?
そう思った俺に、ウルフは続ける。
﹁お前がいなくなったと聞いた時、何を隠そう、一番ショックを受
ギルド
けたのは俺だ。なぜかって? そりゃ、そろそろ冒険者稼業も諦め
て、冒険者組合に再就職してくれる頃だと踏んでたからな。その直
前で、唐突にいなくなった⋮⋮まぁ、いなくなり方から見て、死ん
だと思った。冒険者だからな。そういうことはありうることだが、
俺は本当にショックだった。俺の業務を非常に楽に出来、マルトの
冒険者の死亡率を下げられる、そんな有望な職員を得損ねたんだか
らな﹂
1253
いやいや、俺は絶対にあきらめなかったぞ。
もう少しで、というのは十年間やり続けた大した成績を残せてい
ないから、そろそろ諦めるだろう、と考えてたと言う意味だろう。
しかし、俺の執念はそんなに軽くないのだ。
そう思ったのが伝わったのか、ウルフは、
﹁ま、五体満足でいる限りは諦めなかっただろうが、年を取ると少
しずつ体の動きは鈍ってくからな。いずれ大けがを負って、治しき
れなくなる可能性は高かったと思うぞ。その場合は冒険者なんて続
ギルド
けられねぇ。そうなると、他に就職を⋮⋮となって、お前なら少し
でも冒険者の近くに、と考えただろうから、冒険者組合職員にと言
われたら乗っただろう。どうだ?﹂
それは⋮⋮微妙なところだ。
ただ、冒険者を続けられないほどの怪我を負ったら確かにそうせ
ざるを得ないのは確かだ。
そして、冒険者の近くに、というのも俺なら思いそうなことであ
る。
それだけ、俺は冒険者稼業を愛している。
ウルフは続ける。
﹁なんでそう思うかっていうと、俺がその口だからだ。この目を見
りゃ分かるだろう? もうまともに冒険者なんか出来ねぇよ。だが、
次の冒険者を育てることは出来るからな。まさか組合の方で雇って
くれるとは思わなかったが、人生何が起こるかわらねぇ。冒険者も、
エリートぶった奴が上に立つより、せめて気持ちの分かる元冒険者
グランドギルドマスター
が上に立った方がいいだろうってことだった。確かにヤーラン王国
総冒険者組合長自身ももともと冒険者だしな。なるほどと思ったよ。
で、俺は同じことをお前にしようと思ってたってわけだ﹂
1254
そこまでは分からなくはない。
ギルドマスター
が、問題は、どうして俺を、俺だと思ったのかと言うことだ。
正直言って、冒険者組合は銅級冒険者一人ひとりの情報なんてそ
うそう見ない。
何百人といる彼らのことに一々気を配っていたら、時間がいくら
ギルドマスター
あっても足りない。
冒険者組合長の仕事はそこまで暇ではないのだ。
しかし、ウルフは言う。
﹁俺は、お前を見てた。だから、ある日ふと上って来た、銅級昇格
試験の報告書を読んで、これは、と思ってな。別に一発で受かる奴
がいないわけじゃねぇ。それ自体はいいんだが、受かり方がな⋮⋮
あれだけ慎重かつ完璧に罠を抜けて合格する新人なんてそうそうい
るかよ。これは、経験者かよほどの実力者か、と思うじゃねぇか。
それで、名前を見りゃ、レント・ヴィヴィエだ。気になってた冒険
者、レント・ファイナのことを思い出さないはずがねぇだろ。なぁ
?﹂
1255
第184話 下級吸血鬼と信頼
ウルフの説明は極めて分かりやすかった。
そういう事情であれば、俺を俺だとかなり早い段階で分かってし
まったのも頷ける。
そもそも、俺が自分の正体を隠す気が希薄だったのが一番の原因
でもあるだろう。
完全に隠すつもりだったら、名前はもっと全く違うものにしただ
ろうし、そもそも冒険者証を作った直後、さっさと他の街に移って
そこで活動する、というのが最もばれにくかった。
知り合いが多いこの街で、隠し通すと言うのはかなり厳しい、と
感じていた。
まぁ、そのことが分かっていたからこそ、友人、と言えるような
者たちにはなんとなく匂わせたり、はっきりばらしてしまったりし
ギルド
てきたわけだ。
冒険者組合についても、いずれは二重登録のことを話すときが来
るかもしれないというのがあった。
そのときにすんなり話を通すには、というのに、俺が俺である、
ギルドマスター
となんとなくでもいいから把握してもらえればというのがあった。
冒険者組合長のウルフがどういう人物かはそれほど正確には掴め
ギルド
ていなかったとはいえ、彼がこのマルトにいるからこそ、他の街の
・・・・
冒険者組合よりも不正や癒着が少なく、また冒険者たちの死亡率が
低い、という事情も耳にしていた。
実際に何度か話した印象からしても、決して話せない人物ではな
い、という確信はあった。
だから、正直に話せば、色々と納得してくれ、便宜も図ってくれ
るのではないか、という感覚があった。
そのため、一種の賭けだったかもしれないが、彼が気づこうと思
1256
えば気づけるくらいに俺が俺であることを小さく主張していた、と
いうのがある。
まぁ、別に何が何でも気づいてほしいとか、必ず気づいてくれと
か思っていたわけではない。
ふっと気づいて、向こうの方から呼んでくれたらいいな、くらい
の軽いものだ。
実際は気づいても呼ばれなかったわけだが⋮⋮悪い方向には働い
てはいない気がする。
もちろん、ウルフの人柄だけに頼ってそういうことを思っていた
わけではないが⋮⋮とりあえずもう少し話してみて、それは考えよ
う。
﹁⋮⋮それだけの理由で、私をレント・ファイナだと? 名前が似
ているだけというのはあまりにもひどい。レントという名前は昔の
聖人の名だ。良くありますし、ヴィヴィエだとて、この国では少な
いかもしれないが、帝国では極めてありふれた苗字に過ぎない﹂
そう言うと、ウルフは確かに、と頷いて、
﹁もちろん、それだけじゃねぇさ。色々と他にもお前がレント・フ
ァイナだと補強する証拠はある。たとえば、お前の戦い方とか、今
住んでるところとか、な。究極的にいうと、勘、というのもあるが
⋮⋮まぁそんなものはどうでもいい。レント・ファイナ、俺は別に
お前が二重登録をしていたり、レント・ファイナであることを隠し
ていることを責めてぇわけじゃねぇ。ただ、理由が知りたいだけだ。
以前のお前は、確かに才能がなく、これからの未来に漠然とした不
安くらいはあっただろうが、別にレント・ファイナであること自体
に嫌気がさしていたわけじゃねぇはずだ。街の冒険者たちとの仲は
良好で、情報屋たちともうまく通じて、市民に至ってはお前の姿を
見れば野菜や果物をぽんと投げて寄越すくらいだったろう。⋮⋮わ
1257
からねぇ。それなのに、なぜ、わざわざそんな不気味なローブと仮
面を被って別人を名乗らなきゃならねぇんだ? 俺はこれで冒険者
だった。それなりに色々な経験をしてきたつもりだ。だからおかし
な事情を抱えた奴もたくさん見てきたよ。お貴族様の追っ手から逃
げてるとか、何か重大な秘密を抱えていてどうしても顔を見せたく
ないとかな。お前も⋮⋮その口なのか、と少し考えたことはあるが
⋮⋮何か少し違う感じがするんだよな。気になってたまらねぇよ。
なぁ、教えてくれ。これはお願いだ。その代りに、俺は色々と便宜
を図ってやる、これはそう言う話だぜ、悪くねぇだろう?﹂
最後はほとんど懇願のように言って来たウルフである。
どこまで本気なのかは分からないが、心底知りたそうではあった。
それが彼の策略なりなんなりなのかもしれないが、信じたくはな
る仕草だ。
それにしても彼がしたのは当たらずとも遠からずな話だ。
ヴァンパイア
俺はもう疑いは晴れたとはいえ、ニヴに追われていたし、重大な
秘密である吸血鬼である、というのがあるからな。
ヴァンパイア
しかし、話すにしてもどこまで話すのか⋮⋮そもそも、信じてく
れるのか。
俺が最後まで話したとして、吸血鬼です、と言った途端討伐され
るのではないか、という不安がぬぐえない。
ウルフは引退したとはいえ、元々は強力な冒険者だ。ランクがど
の程度だったかは分からないが、前にしているだけで分かる覇気は、
もう冒険者なんて出来ない、とのたまう今ですら、俺よりも強力な
力を持っているような気がしてくる。
そんな彼の前で、魔物です、と名乗るのは結構な自殺行為だ。
けれど、ここまで話した印象で、すべて話してしまいたい、とい
う気持ちも生まれつつある。
彼は、かなりの好人物に思えるからだ。
1258
イア
ヴァンパ
俺の事情を、俺が絶対に明かしたくない部分︱︱つまりは、吸血
鬼である、というところ以外は粗方把握した上で、俺が受け入れや
すい提案をしてくれている。
ギルドマスター
それは、気遣い以外の何物でもないだろう。
そんなことをする冒険者組合は、まず、いない。
彼らのほとんどは癒着と不正で忙しい、というのが冒険者の基本
的な認識である。
ここまで便宜を図ってくれるのは、彼が真実、好人物だからだ、
と思ってしまう。
その辺りの葛藤が、俺の口から、こんな言葉を言わせる。
﹁⋮⋮俺が、俺の事情を話したとして、信じてもらえる保証はある
ギルドマスター
のですか? そもそも、二重登録は、規約に違反している。それな
のに、冒険者組合長として、それを許容するのは、いいのでしょう
か?﹂
と。
この言葉にウルフは笑って、
﹁まず、後者についてだが、お前も良く知ってるだろ? 二重登録
なんて大した違反じゃねぇ。どれだけ厳しい処罰を降すにしても、
せいぜいが数日間の依頼の請負の禁止とか、罰金をいくらか、とか
その程度だ。心配するほどじゃねぇ。だからお前もやったんだろう
?﹂
そう言う。
確かに、それはその通りだ。
さらに続けてウルフは、
1259
﹁前者については⋮⋮俺を信じてくれ、としか言えねぇが⋮⋮そう
だな、魔術契約を結んでやる。お前から聞いたことを、絶対に言わ
ねぇ⋮⋮という契約をすると色々と問題があるかもしれねぇからそ
の辺りの条項はよくよく話して詰めるとして、ま、秘密は漏らさね
ぇと言うことでな。それでも信じられなければ⋮⋮﹂
﹁信じられなければ?﹂
俺は尋ねたが、そこまででもうほとんど十分である。
魔術契約なんて縛りを自ら言い出すとは思わなったが、魔術契約
は破れない。
それをしてくれるのなら、信用がどうとかはあまり問題にならな
い。
まぁ、それでも抜け道が全くない、というわけではないから、信
用を示してくれるのはもちろんありがたいのだが、何をいうのか⋮
⋮。
ウルフは言った。
﹁俺の秘密を教えよう。今、な。昔は良く笑われたもんだ。俺はな、
現役時代、ずっと目指していたものがある。皆からは冗談だと思わ
れていたが、俺は紛れもなく本気だった。誰に笑われようと、誰に
馬鹿にされようと、絶対になるのだと、心から決めていた⋮⋮結果
ミスリル
は、この様だがよ、それでも俺は夢見たことに後悔してねぇ。なぁ、
レント、俺はな、昔、神銀級冒険者を目指していたんだ。だから、
お前を気に入ってた。お前は、俺と同じなんだよ﹂
大した話では、ないのかもしれない。
ミスリル
他人にとっては。
神銀級になる、なんて、阿呆らしくて、誰も本気で受け取らない
話だ。
1260
そこらで新人が息まいて言っている、くだらない話だ。
そう、誰もが捉える。
けれど、ウルフの話したその目を見れば⋮⋮。
彼が本気で言っているのが俺には分かった。
同じものを目指して、自分の力に悔しい思いをした者として、何
か通じ合うものがあった。
これを言われて、信じない、と言うことは俺には出来ない。
これは、俺のすべてであり、人生を通して目指したい夢だからだ。
甘いと言われようと軽率に過ぎると罵られても、俺には⋮⋮。
だから俺は⋮⋮。
ギルドマスター
﹁⋮⋮分かった。貴方を信じたいと思います。ウルフ冒険者組合長﹂
そう言って、頷いたのだった。
1261
第185話 下級吸血鬼と暴露
しかし、話す気になったとはいえ、いきなり何の保証もなしに洗
いざらい語るほどには軽率なつもりはない。
とりあえずは魔術契約をしてからだ。
それさえしておけば、最悪の事態は確実に免れることが出来る。
そのため、契約内容をしっかりと詰めたうえで、契約紙の該当部
分にお互い署名をした。
ちなみに、先にウルフの方に署名してもらった。
もうほとんど白状したような状態とは言え、俺がそこに書く名前
はレント・ファイナだからな⋮⋮。
先に書く気にはなれない。
ウルフもそれは分かっているのか、特に何も言わずとも先に羽ペ
ンをとって自分から名前を書きだした。
⋮⋮野卑な男の割に、随分と流麗な文字を書くな。
そう思ってみていると、ウルフは書き終えてから顔を上げ、
﹁⋮⋮書類仕事が増えてうまくなったんだよ。それに、あんまり下
手な字で書くと、王都本部の職員共はどんな提案をしても鼻で笑い
ギルドマスター
やがるからな。教養があることは見せないとならねぇ﹂
と言う。
つまりは、冒険者組合長としてしてきた努力の一環なのだろう。
言葉遣いも、俺に対してだからこんな風にいわゆる︽冒険者風︾
だが、貴族たちとも相対できる正式な礼儀をおそらくは完璧に身に
付けているのだろうと思われた。
字を書く仕草もまた、優雅なのである。
そのまま貴族と言われても信じたくなるような⋮⋮ただ、それに
1262
は腕の太さとか目の傷とかが邪魔をするが。
明らかに冒険者面だもんな⋮⋮。
﹁ほれ、お前も書け﹂
ウルフは俺にそう言って紙と羽ペンを寄越す。
ここまで来たら、もう俺にも迷いはない。
素直に自分の名前を書く。
ウルフはそれを見ながら、
﹁⋮⋮やっぱりレント・ファイナじゃねぇか﹂
とぼやくように言った。
あんた、確信してたんじゃなかったのか、と思うが、九割方確信
していても、実際にそうだと確認できてなんというかほっとしたの
かもしれない。
俺が考えている以上に俺に期待していてくれたみたいだしな。
なにかこう、強敵の殿を引き受けた後、命からがら生きて帰った
ときのパーティメンバーに再会したときの顔に似ている。
ということは、俺が生きていたことに喜んでくれているというこ
とになるな。
⋮⋮やっぱり悪い人間ではなさそうだ、と思ってしまうのはやは
り甘いのだろうか。
だとすれば甘くても別にいいかな⋮⋮。
文字を書き終わると、契約紙は淡い光を放ち、それが俺とウルフ
の体を包む。
契約発効という訳だ。
契約内容は、ざっくりと言えば、今日話したことを、ウルフは俺
に不利になるような形で言わないということだ。
1263
本当はもっと細かいが、それを言い出すとキリがないしな⋮⋮。
以前、シェイラとしたものと大体同じである。
というか、条項については彼女の立案したものが優秀だったので
拝借したに近い。
問題はないだろう。
﹁それで? レント、お前、一体なんでわざわざ七面倒くさい二重
登録なんてしたんだ? 別に命がなくなったわけでもねぇんだ。そ
のままやってたって何の問題もなかっただろうが﹂
ウルフが即座に本題に踏み込んでくる。
⋮⋮しかし、この男は本当に詳しくは分かっていないのか、と言
うほどに核心を突いた台詞を言うな。
こうやって尋ねてくる以上、本当に知らないのだろうが、しかし、
ギルドマスター
︽命がなくなったわけでもない︾はいっそ笑える発言である。
いや、命がなくなったんですよ、冒険者組合長とか言いたくなる
ほどだ。
けれどそんなこといきなり言ってもな⋮⋮いや、いつ言ってもい
きなりか。
ただ、それでも段階は必要だ。
とりあえずの経緯から話そう。
俺はそう思って、ウルフに言う。
﹁色々理由はあるんですが⋮⋮﹂
と言いかけたところで、ウルフが、
﹁あぁ、敬語は面倒だから要らねぇぞ。冒険者ってのはそんなもん
ギルド
だ。もちろん、これから先、どっかお貴族様のパーティとかで顔を
合わせた時はお互い形を作ることになるだろうが、冒険者組合じゃ
1264
いらねぇだろ﹂
と言ってきたのでその言葉に甘えることにする。
最近、敬語を使うべき相手に会いすぎて、ナチュラルに目上の人
間に対しては敬語になってしまっていたが、言われると確かに冒険
者はそんなものである。
俺は続ける。
﹁正直言うと、今はほとんど問題はないんだ。ただ、以前が⋮⋮﹂
﹁⋮⋮? 以前が問題あったのか。どんな問題だ﹂
﹁人に見せられる顔じゃなかった﹂
端的にいうと、ウルフは、
﹁なるほど、だから仮面か。だが、別に冒険者で大けがする奴は珍
しくねぇぞ。それが顔だって、別におかしくはねぇ。わざわざ名前
まで変える必要はねぇだろ﹂
と言う。
アンデッド
それは全くその通りで、俺はなんと説明したものか迷った。
簡単にいえば、不死者になったからだが、それをいきなり言った
として、なるほどな、とはならないだろう。
ヴァンパイア
そもそも、それを証明する手段が俺には⋮⋮。
ニヴですら、俺が吸血鬼であると見抜けなかったんだからな。
うーん、どうしよう⋮⋮と思ったところで、ふっと壁にかけられ
ている短剣が目に入る。
俺はそれを指さして、ウルフに言う。
1265
﹁あれをちょっと借りてもいいか?﹂
するとウルフは、一瞬少し警戒した顔をした。
俺がいきなり暴れ出す可能性を考えたのだろう。
しかし、こんなところでいきなりそんなことをする意味はないし、
やるならもっと早くやっているだろう。
それに、ウルフの目は片目だとは言え、その実力はおそらくかな
り高い。
俺が暴れようとも抑えきる自信もあるのだろう。
すぐに、
﹁⋮⋮まぁ、いいだろう。しかし一体何に使うんだ?﹂
と言って来た。
俺はその言葉に答えず、短剣を手に取り、それから腕をまくる。
それを見たウルフは慌てて、
﹁お、おいっ、お前、何を⋮⋮﹂
と言って立ち上がったが、時すでに遅し、である。
俺は、俺の左手に短剣で縦に長い切り傷をつけていた。
そこから、ぼたぼたと血が流れる。
﹁⋮⋮一体いきなり何やって⋮⋮?﹂
とウルフは言いながら、俺の腕を見ていたが、すぐにその瞳は驚
きに見開かれた。
なぜと言って、普通起こりえない現象が俺の腕の傷に起こってい
たからだ。
それはつまり⋮⋮。
1266
﹁傷が⋮⋮塞がってやがる? 馬鹿な。回復薬も魔術もかける気配
はなかったはずだぞ? それなのに⋮⋮﹂
まぁ、回復薬をぶっかけたり回復魔術や聖気を使えば治るのだが、
それとは異なると言うことを彼はその経験から察したのだろう。
そんな彼に、俺は言う。
﹁これが、俺が自分の身分を隠さざるを得なかった理由だ。他人に
ヴァンパイア
ならないと、あとあと迷惑がかかると思ったからな⋮⋮知人や、友
人たちに﹂
ウルフは俺に尋ねる。
﹁一体、どういう意味だ⋮⋮﹂
アンデッド
﹁俺は、不死者になった。この体は、もう人間じゃない。吸血鬼の
それなんだよ﹂
たぶん。
最近怪しくなっているけど、とりあえずはいいだろう。
そう思って、俺はそう言ったのだった。
1267
第186話 下級吸血鬼と薬師
当然のことながら、俺の唐突の不死者発言にウルフは目を見開く。
一体何を言ってるんだ、お前は、というわけだ。
本人がそう言っているからと言って、素直に受け入れられるよう
な事実ではない。
しかし、現実として俺には通常の人間にはまずありえない異常な
再生能力がある。
これを説明するには、やはり俺の意見を受け入れる以外にない、
とウルフはすぐに理解する。
ただ、それでも聞きたいことは山ほどあるのだろう。
ウルフは口を開いて俺に言う。
・・・・・
﹁⋮⋮唐突過ぎて、どこから聞きゃいいのか分からんが⋮⋮まず、
言っていることが事実かどうかはともかくとして、なぜそうなった
?﹂
まずはそこからだろう。
アンデッド
そう言いたげなウルフである。
そうなった、とは俺が不死者になったか、というよりかは傷が即
アンデッド
座に治るような体になった理由を尋ねているのだろう。
まだ、不死者との断定は避けている。
そりゃそうだ。
俺だって、いきなり他人にこんなこと言われたらいくら日ごろ嘘
を言わなそうな奴だ、とか思っていても信じきれないだろう。
だから俺は一つ一つ説明する。
ただ、︽水月の迷宮︾に隠し通路があることは言えない。
あの正体不明の女性との約束があるからな。
1268
しかし、それでも問題はないだろう。
核心は、俺があれに食われたことだ。
あれについて、女性は予想外のことを言われたような顔をしてい
たし、口止めの範囲に入っていない。
あくまで、部屋について言うな、ということだった。
だから、俺は言う。
﹁もうだいぶ前になるような気もするが⋮⋮俺は︽水月の迷宮︾を
いつも通り探索していた。スライムとかゴブリンを狩ったりな﹂
俺の言葉に、ウルフは懐かしそうな顔をする。
﹁駆け出しが必ずやる仕事だな⋮⋮俺も昔は良く狩った。︽水月の
迷宮︾はあれでソロ冒険者にとってはいい狩場だからな﹂
そんなことを言って。
ウルフも昔はソロだったのだろうか。
パーティを組んでいたら、︽新月の迷宮︾の方がずっと効率がい
いからな。
︽水月の迷宮︾のいいところは、魔物が徒党を組んで現れること
が極端に少ないことだ。
だから、マルトでは他の迷宮を抱えた都市よりも比較的ソロ冒険
者が育ちやすい。
一人で修行が出来る場所があるというのは、ソロ冒険者にとって、
かなりいい環境なのだ。
ま、それはいいか。
それで⋮⋮。
﹁そろそろ帰ろうかと思って、俺は︽水月の迷宮︾の通路を歩いて
た。もちろん、ある程度警戒をしながら。けれど⋮⋮ふと、広間に
1269
出たら、そこには俺が想像も出来なかった相手がいたんだ﹂
真実は、未踏破区域の広間に行ったら、だが⋮⋮まぁ、嘘はつい
ていない。
あそこも︽水月の迷宮︾の通路だし、あれに会ったのも広間と言
って間違いではないからな。
﹁想像も出来なかった相手⋮⋮︽水月の迷宮︾で出る魔物はあまり
オーク
オーガ
強力なものがいないから、何か強力な魔物が出たっていうことか?
豚鬼や鬼人とか⋮⋮﹂
﹁それくらいだったら良かったんだがな。あの頃の俺でも勝てはし
ないにしても、何とか逃げ切るくらいは出来ただろうさ。けど、そ
うじゃなかったんだ⋮⋮﹂
﹁ふむ⋮⋮で、その相手ってのは?﹂
続きを促すウルフに、俺は言った。
︱︱それはなウルフ、︽龍︾、だよ。
と。
◇◆◇◆◇
俺の言葉に、ウルフは一瞬で色々と考えたようだ。
1270
しかし、最後には頭をぐしゃぐしゃと掻いてから、
﹁⋮⋮信じられねぇ、というのは簡単だが、今、ここでお前が嘘を
つく理由なんざありゃしねぇ。つまり、少なくともお前がそれを事
実だと思っているのは間違いねぇ。問題はそれが、どこから見ても
事実だったかどうかだが⋮⋮﹂
この言い方は、俺が幻覚を見たんじゃないか、とか何かの気のせ
いだったんじゃないか、と言う可能性に言及しているのだろう。
確かに︽龍︾なんてものは、普通は遭えない。
ウルフからすれば、遭ったと言うのはあくまで俺がそう思っただ
けで、実際は別のものだった、と言う可能性の方がむしろ高いだろ
うと考えるのも当然の話だ。
しかし、︽龍︾は実在している。
それは、歴史上、会った人間がしっかりとその容姿を記憶し、画
家たちに描写させてきたことからはっきりと分かっている。
そんな絵画を、俺はロレーヌの家の書籍の挿絵の中で何度も見て
いる。
その中の一体が、間違いなくあれだった。
そして、何よりも俺があれを︽龍︾だと確信したのは、その圧力
の大きさ、性質によるものだ。
とてもではないが、人の相対できる存在ではない。
見た瞬間にそう確信させる存在感。
アース・ドラゴン
俺は、通常の竜には何度か遭遇したことがある⋮⋮たとえば、こ
の間の大地竜であるが、あれを前にしてその圧力に震えはしても、
︽水月の迷宮︾において︽龍︾に遭遇したときほどの無力感、何を
しても意味がないという絶望感は感じなかった。
あれは確かに︽龍︾だった。
1271
俺はそう確信している。
だから俺はウルフに言う。
﹁俺は、事実だったと確信してる。幻覚なんかの心配もしていると
思うが、俺はその類については色々と経験してるからな。かかった
ら、分かるんだ﹂
﹁というと?﹂
﹁俺は故郷の村で、薬師に色々と学んでたことがある。その薬師が、
ちょっと変わった人で⋮⋮俺が冒険者になりたい、と言ったら、じ
ゃあ、毒や幻覚の類については詳しくなっておくのがいいだろうと
言って、色々な幻覚剤やら毒薬を試されて⋮⋮﹂
あぁ、それはあんまり思い出したくないな。
味はもちろん、それを口にするとどういう症状になるかを実地で
学ばされ、正解しないとまたやらされるのだ。
生活のあちこちにそれが組み込まれていて、もう二度とやりたく
ない経験である。
が、あれのお陰で、幻覚にかかっているのかどうかはすぐに自覚
できるようになった。
毒についても種類や解毒方法も素早く浮かぶ。
まぁ、今となっては毒については気にしなくてよくなってしまっ
たけどな。
幻覚は⋮⋮かかるのかどうか謎だ。
俺の告白にウルフは、眉を顰めて、
﹁⋮⋮お前、昔から結構キツい生活してきたんだな﹂
1272
と同情的な視線を向ける。
⋮⋮まぁ、キツいと言えばキツかったが、あの婆さんの意見に納
得して頷いたのは俺だからな。
実際、あの婆さんに学んだことはかなり役に立っているわけで、
文句など言えない。
それから、ウルフは頷いて、
﹁⋮⋮ともかく、幻覚の類ではない、と言い切れるのは分かった。
︽龍︾に出会ったことも。ただ、そのことがどうして今のお前の体
と関係あるのかはまだ、わからねぇ。︽龍︾と関係するのは推測で
きるが⋮⋮﹂
と尋ねてくる。
まだ話は途中だ。
俺は続ける。
1273
第187話 下級吸血鬼と混乱する話
﹁ここからが問題なんだが⋮⋮﹂
俺は少しためらう。
いや、もうウルフに話すことは決めている。
しかし、それでも、これを果たして責任ある人間が信じてくれる
のか、という不安があった。
⋮⋮今更かもしれないが。
今更だな。
﹁⋮⋮︽龍︾に遭った、それだけで大分問題な気がするが⋮⋮まだ、
何かあるのか⋮⋮﹂
ウルフがそう言いたくなる気持ちも分かる。
が、ここからが俺がこんな体になるまでの経緯の最も重要な部分
だろう。
俺は言う。
﹁まぁ、色々と言っても仕方がないからな。すごく簡単に言うが、
俺は、そこで出会った︽龍︾に食われたんだ﹂
﹁はぁ? 何言ってやがる。お前、食われたらここにいねぇだろ?﹂
即座にそう返される。
しかし、事実として、俺は食われてもここにいるのだ。
俺は続ける。
1274
スケルトン
﹁⋮⋮確かに普通ならそうなんだろうけどな。どういう理由かは分
からないが、俺は︽龍︾に食われて⋮⋮気づいたら、骨人になって
た。それで⋮⋮﹂
﹁ちょ、ちょっと待て! 流石に俺でも処理が追いつかねぇ! 少
し水を飲ませてくれ!﹂
この際だから最後まで一気に言ってしまおう、と思ったのに、途
中で遮られてしまった。
ウルフは執務机のわきにある水差しから一杯の水を注ぎ、一息に
呑み切って、深呼吸をしてから、
スケルトン
﹁⋮⋮よし、人心地着いた。それで⋮⋮骨人になった、だったか⋮
スケルトン
⋮? なぁ、俺も冒険者だ。魔物についてもそれなりに知識や経験
はあるがよ、生きてる人間が骨人になるなんてこと、あるもんなの
か? お前、あのロレーヌと仲いいんだろ。確か、今は一緒に住ん
でいたはずだな⋮⋮何か聞いてねぇのか?﹂
ギルド
ロレーヌもこのマルト冒険者組合に所属する冒険者であるところ、
ウルフは彼女の情報をしっかりと頭に入れていたらしい。
ギルド
そう尋ねてきた。
たまに冒険者組合から魔物の情報について調査・報告するように
求められることもあると言っていたから、ウルフもまた、ロレーヌ
の知恵を活用してきたのだろう。
俺は彼に言う。
ヴァンパイア
﹁俺も聞いてはみたんだが、よくわからないということだった。人
スケルトン
が魔物になることは⋮⋮それこそ吸血鬼が下僕を作ることからあり
スケルトン
うることは分かっているんだが、骨人になれるかどうかは⋮⋮。す
でに死んでいる生き物の骨から、骨人が発生することは普通にある
1275
スケルトン
のは常識なんだが、それとは明確に異なるからな⋮⋮なにせ、俺は、
あのとき骨人だったが、はっきりとした自意識があった。俺はレン
スケルトン
ト・ファイナで、先ほど︽龍︾に遭遇し、食われた、という記憶も
な。そんな骨人、いないだろ?﹂
もしかしたら、俺よりも遥かに経験豊かな冒険者であるウルフな
ら知っているかもしれない。
そんな期待を込めての質問でもあったが、やはりウルフは首を振
って、
﹁いねぇな⋮⋮。一言二言、言葉を発する奴は見たことはあるが⋮
ヴァンパイア
ヴァンパイア
⋮その程度だ。お前は⋮⋮だが、今はどう見ても人間だぞ? いや、
吸血鬼だと言ったか⋮⋮しかし、吸血鬼にしては⋮⋮﹂
と、色々と混乱しているようだ。
それでも、その言葉の一つ一つが核心に触れているのは経験のな
せる業か。
俺は言う。
スケルトン
グラン
﹁今こんな見た目なのは、当然、もう骨人じゃないからだ。あんた
も魔物の︽存在進化︾は知ってるだろ?﹂
ラアル
﹁あぁ、スライムが毒スライムになったり、ゴブリンが大ゴブリン
になるあれだろう? 冒険者の常識だな。ま、知らない奴は知らな
グランドギルドマスター
いが。最近の新人どもは勉強不足だしな⋮⋮特に王都では適当な奴
が増えてると総組合長もぼやいてたぞ﹂
俺の場合は元々字が読め、ロレーヌの家に大量の魔物に関する本
ギルド
があったし、俺も書物を読むのは好きだったからな。
そうじゃない限りは、新人は冒険者組合の講習に参加したり、先
1276
輩冒険者たちに一つ一つ、その常識という奴を学ばなければならな
いが、そういう手順を面倒くさがるのが増えていると言うのは事実
だ。
マルトだとそこまででもないが、他の街だと酷いというのは俺も
聞いたことがある。
王都はもっとダメだと言うことかな⋮⋮。
いつか行ってみたいものだ。
それよりともかく、続きか。
俺はウルフの言葉に頷いて答える。
スケルトン
﹁そう、それだな。もうなんとなく察しはつくと思うが、俺は骨人
になった自分も、存在進化が出来ないかと思ったんだ。中身は人間
でも、体は完全に魔物だからな。魔物らしいことが出来るんじゃな
いかと思った﹂
スケルトン
﹁また随分と突拍子もないことを⋮⋮あぁ、でもそうか。骨人から
︽存在進化︾でなれそうな魔物っていやぁ、どれも人間っぽいもの
が多いもんな? そういうことか?﹂
ウルフは察しの良さを発揮して、そう尋ねてくる。
俺は頷く。
グール
ヴァンパイア
﹁ああ。とりあえず屍食鬼になれないか、と思った。そこからさら
に進化して⋮⋮と続けていけば、そのうち吸血鬼とか、見た目は人
間そのものの種族になれるんじゃないかともな﹂
ヴァンパイア
﹁結果として、今それってわけか⋮⋮しかし、さっきも思ったが、
ヴァンパイア
吸血鬼にしては⋮⋮お前、普通に昼間に活動してるだろ? それに、
血はどうしてる。吸血鬼共は月に人一人や二人は血を吸わなきゃ存
1277
在を維持できねぇぞ⋮⋮む? お前まさか、最近の新人の行方不明
に一枚噛んでんじゃ⋮⋮!?﹂
話しながら徐々に深刻そうになっていったウルフがそう言った。
俺は慌てて、
﹁いや待ってくれ。噛んでないって!﹂
と叫ぶも、ウルフはすぐに、
﹁⋮⋮だろうな。お前は他人を犠牲にして生きようってタイプじゃ
ねぇ。仮にそんなものが必要になったら、素直に朽ちるだろ﹂
と言ってくれた。
なんだか妙に評価が高くてむずむずするが、こういうときすんな
りこう言ってくれるというのはありがたい。
ウルフは続ける。
﹁だが、そうなるとやっぱりどうやって血を確保してるって話にな
るな。一体⋮⋮﹂
考え込んだウルフに、俺は正直に言う。
﹁⋮⋮ロレーヌにもらってるんだよ。あいつは、事情を知ってるか
らな﹂
ロレーヌとの関係は言うかどうか悩ましいところだったが、ウル
フはすでに俺がロレーヌと住んでいることも掴んでいるし、元々仲
良かったことも知っている。
そもそも、こんなおかしな状態の俺と一緒に暮らしていて、その
1278
奇妙なところに気づかないという言い訳が通用もしないだろ。
だからいっそ言うことにした。
ギルド
案の定、というべきか、ウルフは別にロレーヌもまた、俺と同様
に冒険者組合に秘密を持っていたことを責めはしなかった。
むしろ納得、という顔つきで、しかし、
ヴァンパイア
﹁それは⋮⋮今までの話からすると別に驚くようなことじゃねぇが
⋮⋮おい、あいつ大丈夫なのか? 吸血鬼の吸う血の量なんて、一
人じゃどうやっても賄えねぇって言うぞ﹂
ウルフが心配げにそう尋ねる。
﹁そこも問題なんだよな⋮⋮俺はそんなに血が必要ない。一日数滴
ヴァンパイア
あればそれで喉の渇きは癒える。食い物も普通に食えるし⋮⋮それ
に色々あって、吸血鬼かどうかも怪しくなってるくらいだ﹂
﹁そりゃ、どういう意味だ⋮⋮?﹂
ヴァンパイア
﹁ニヴ・マリスを知ってるだろ? あいつが、俺を吸血鬼じゃない
と断定したんだ。だから⋮⋮﹂
俺の説明に、ウルフは再度頭を抱え、それから水差しをとって、
もう一度、水を一杯飲みほした。
1279
第188話 下級吸血鬼とこれからのこと
﹁⋮⋮結局、お前は何なんだ?﹂
水を飲みほしたウルフは、しばらく黙り込んで考えた後、ぽつり
とそう尋ねてきた。
今までの話を色々と考え、まとめ、そして絞り出した質問がそれ
だったのだろう。
確かに、それは今一番重要な問題である。
しかしだ。
その答えは俺も知らないのだ。
だから俺は言う。
﹁さぁ?﹂
﹁おい!﹂
ふざけてるのか、と言いたげな目つきだが、別にふざけていない。
本当に分からないのだから仕方がない。
言い方はちょっとふざけていたかもしれないけど、いいじゃない
か。
ともかく、分からないものは分からない。
ヴァンパイア
﹁⋮⋮俺だって自分が何なのか、分かりたいけどさ⋮⋮さっきも言
ったけど、ニヴ・マリスは俺を吸血鬼ではない、と言ったんだ。そ
ヴァンパイア
れじゃあ、一体何なんだろう、となるのは当然だろ? そもそも、
俺は彼女にそう言われるまで、吸血鬼のつもりだったんだからな﹂
1280
紛れもない本心である。
アンデッド
人と見わけのつかない形をしていて、栄養源として主に血を吸い、
ヴァンパイア
妙な再生能力があって、夜が得意で、かつ不死者から進化出来る存
在、と言ったらもうそれは吸血鬼以外の何物でもないだろう、と思
っても当然だろう。
ヴァンパイア
けれど、その推測はニヴによって粉々に打ち砕かれた。
もしくは、ニヴにすら見抜くことが出来ない新種の吸血鬼という
ヴァンパイア
こともないではないが⋮⋮仮にそうだとしたら、同定のしようがな
いからな。
ヴァンパイア・ハンター
よくわからない吸血鬼っぽいもの、としか言いようがないだろう。
そんな気持ちで言った俺に、ウルフは、
ヴァンパイア
﹁⋮⋮ニヴ・マリスか。そうだったな⋮⋮あいつは吸血鬼狩りだ。
吸血鬼を目の前にして、間違えることなどなさそうだが⋮⋮お前、
あいつとどんな風に会ったんだ?﹂
ヴァンパイア
﹁素材を売りにステノ商会に行ったら、ロベリア教の聖女と一緒に
いたんだ。それで、なぜか吸血鬼だって疑われて⋮⋮﹂
ヴァンパイア
﹁それでよく、生きて帰ってこれたな。あいつは一度獲物に定めた
ヴァンパイア
吸血鬼は地の底まで追いかけるって評判だぞ。この街に来ているこ
とは聞いていたが、それもどっかの吸血鬼を追っかけてのものだと
思っていたが⋮⋮それは、お前のことだったのか?﹂
ギルドマスター
ニヴの悪名と言うか、評判は冒険者組合長の間でも轟いているら
しい。
しかし、俺はこれには首を振る。
ヴァンパイア
﹁いや⋮⋮吸血鬼を追いかけてきていたのはそうだったみたいだが、
別に俺を、というわけじゃなかった。ただ、俺のこの街での行動が
1281
ヴァンパイア
ヴァンパイア
随分と吸血鬼っぽかったらしくて、突っ掛って来たみたいで⋮⋮﹂
ギルドマスター
﹁⋮⋮となると、この街には吸血鬼がお前以外にいる、ってわけか。
冒険者組合長としては頭が痛くなるな⋮⋮いや、ニヴ・マリスがい
るから早々に狩り出されるか? いや、でもなぁ⋮⋮﹂
ヴァンパイア
俺からもたらされた情報に、ウルフは悩みだす。
吸血鬼は魔物としての強さも恐るべきものだが、そのもっとも危
険なところは人間の群れの中に混じってしまえるところだ。
ヴァンパイア
ギルド
ギルド
そうなると、特殊な技能を持つ者たち以外には見抜くことは出来
ない。
ヴァンパイア・ハンター
だからこそ、吸血鬼がいる、となると、冒険者組合は冒険者組合
を上げてその発見に尽力したり、他の地域から有能な吸血鬼狩りを
呼び寄せたりするものだ。
ヴァンパイア・ハンター
ヴァンパイア
今回は、俺から見ればあまり印象のよくない存在であるとはいえ、
ギルド
吸血鬼狩りとしては有名なニヴがすでにここにいる。
これは冒険者組合にとっては朗報と言えるだろう。
ただ、彼女はあまり周りの被害を考えないと言うか、吸血鬼狩り
のためなら平気で色々なものを巻き込むところがあるからな。
その辺りを考えて悩ましいのかもしれない。
しかしウルフはその悩みをとりあえず置いておき、俺に尋ねる。
﹁それで? そんなニヴ・マリスの追及をどうやって免れたんだ?
そう簡単に出来ることじゃねぇはずだが⋮⋮﹂
﹁俺としてはそんなに大したことはしてない。というのも、ニヴが
聖気を使った︽聖炎︾という技術で、俺を判別する、と言って襲い
ヴァンパイア
掛かって来たのを避けきれなかっただけだからな。まずいと思った
ヴァンパイア
が⋮⋮結果、俺は無実だと、吸血鬼ではないと、そう言われた⋮⋮
吸血鬼なんだけどなぁと思って困惑したけど、まぁ、そういうこと
1282
ならそれでいいかと思ってさ﹂
ヴァンパイア
ギルド
﹁つまり、お前が先ほど言った通り、図らずもお前は吸血鬼ではな
いとそこで証明されたわけだ﹂
マスター
ヴァンパイア
﹁そういうことになる。けど、あんたはどう思う? ウルフ冒険者
組合長。血を吸う俺は、どう考えても吸血鬼だと思わないか?﹂
むしろ、それ以外の答えがあるくらいなら教えてほしいくらいで
ある。
しかし、ウルフもそんな疑問の答えなど持っているはずがない。
彼は首を振って、
﹁⋮⋮俺に分かるわけがねぇだろ。が、放置しておくにしても問題
がありすぎるな⋮⋮︽水月の迷宮︾には︽龍︾が、マルトには︽吸
血鬼︾と︽ニヴ・マリス︾がいて、しかもそのどれもにお前が関わ
っている⋮⋮お前、運が悪すぎないか?﹂
改めてそう言われると、頷かざるを得ない。
少なくとも、ついこの間まで、うだつの上がらない銅級冒険者だ
った人間にはあまりにも荷が重すぎる試練だらけだ。
しかし、成り行きというものは俺の意志でどうにかできるもので
もない。
仕方ない、と言う他ない。
ただ、何も考えていないわけでもなく⋮⋮。
俺はウルフに言う。
﹁俺も、ちょっと運が悪すぎるとは思ってるよ。だからこのままマ
ルトにいたらもっと色々起きるんじゃないかと思ってな。具体的に
はニヴ関係で。だからとりあえずしばらくこの街を離れようかと思
1283
ってる﹂
俺を中心に色々起こっているとも言えるが、見方を変えればマル
トを中心に起こっているとも言える。
俺はたまたま巻き込まれただけだ⋮⋮たぶん。
だとすれば、場所を変えればまた違ってくるだろうという安易な
発想に基づくものだが、ニヴもここを離れるつもりはしばらくなさ
そうだったし、悪くない選択だと思っている。
﹁離れるって、お前。どこに行くつもりだ?﹂
とウルフが尋ねるので、俺は答える。
﹁ハトハラーの村だよ﹂
端的な答えだが、この辺りの地図は当然、ウルフの頭にしっかり
と入っている。
彼はすぐにその場所が思い浮かんだようだ。
それも、俺の情報もしっかりと一緒に。
﹁あぁ⋮⋮確か、お前の故郷だったか。しかし、あんなど田舎で育
って、よく、冒険者になろうなんて思ったもんだな⋮⋮﹂
ウルフがそう言う気持ちは分かる。
あそこは本当に田舎で、外部の情報なんてほとんど入ってこない
からな。
こう
魔物が襲って来ても村人が武装して倒しているくらいだ。
強力な魔物は流石に無理なので、香などを使って寄り付かないよ
うにしている。
ある意味、かなり独立した村だ。
1284
ギルド
マルト周辺の多くの村は、魔物が出現すれば大体冒険者組合に依
頼を出すからな⋮⋮。
今にして思うと、少し変わった村だったかもしれない。
1285
第189話 下級吸血鬼と勝算だったもの
﹁⋮⋮ま、どんな田舎だろうと今、この街を離れるのはいい選択か
も知れないな。確かにお前の想像通り、このままだとまた何か起こ
りそうだ。しかし、冒険者を引退して、もう面白れぇことは何も起
こらないかと思っていたが⋮⋮﹂
ウルフは笑って俺を見て、それから続けた。
﹁お前みたいなのが現れたのは嬉しいぜ。それだけに、命は大事に
しろよ⋮⋮いや、命はないのか? その辺りどうなんだ?﹂
スケルトン
﹁⋮⋮いや、俺にもよく⋮⋮でも、骨人だったときは骨だけで動い
てたから、いわゆる、心臓みたいなのは動いてないんじゃないか?﹂
事実、鼓動はない。
ヴァンパイア
ただ、心臓がある位置から、何か流れているのは感じる。
吸血鬼が心臓を杭で打たれたら存在が消滅するのにはやはり理由
があるということではないだろうか。
それとも俺にはそんな話はまるで関係ないのか⋮⋮分からん。
﹁全く、よくわからない存在だよ⋮⋮しかし、おそらく人ではない
よな。魔物なんだろうが⋮⋮今更だが、よく、ここに来る気になっ
たな? そもそも、二重登録のことがあるにしろ、どうやって俺に
その正当化を呑ませる気だった? さっきまでの反応を見るに、俺
がお前のことを細かく掴んでいるとまでは思っていなかったのだろ
う?﹂
1286
⋮⋮まぁ、確かにそうだ。
なんとなく、そうかもしれない、くらいには分かられているかも
しれないが、あまり細かくは見られていないのではないかと思って
いた。
けれど、それでもウルフはきっと二重登録をどうにかしてくれる
だろう、とも思っていた。
その理由は⋮⋮。
︱︱ばさり。
と、俺はウルフの執務机の上に荒い紙の束を乗せる。
ウルフはそれを怪訝そうな目で見つめて、それから読み始めたが、
それを途中まで読んだ辺りでため息を吐き、
﹁⋮⋮お前、こんなものよく手に入ったな。なるほど、お前の自信
の源が分かった。しかし、またなんでこれを俺に寄越す? 黙って
ギルド
持って帰ればまた何かあったとき、使えそうじゃねぇか﹂
そう言った。
彼に渡した紙束、そこに載っているのはこのマルト冒険者組合が
やってきた不正の詳細である。
俺以外の人間の二重登録とか、表には出せない依頼の記録とか、
そう言ったものだ。
どうやって俺がそんな情報を得たのかと言えば、色々である。
たとえばエーデルに探らせたり、たとえば情報屋を使ったり。
⋮⋮主にこの二つか。
最終手段としてラウラに直で尋ねる、というのも考えないでもな
かった。
あの娘は色々と知ってそうだし、聞けば驚くほどあっさり教えて
くれそうなところがあるから。
1287
とは言え、依頼主でありかつかなりの恩人になりつつある彼女に
そんなことを頼むわけにもいかなかった。
それにそんなことせずとも色々と集まってしまったからな。
エーデルはかなり有能だったと言えよう。
まぁ、どんなところにでも潜り込め、人語を解し、情報を集めら
れると言うのはそれだけでかなりずるい存在だからな⋮⋮この結果
もさもありなんというところではある。
もちろん、エーデルが盗み聞きしたりこっそりのぞいて何かを発
見した、だけではウルフを強請るには⋮⋮違う、ウルフにお願いす
るにはちょっと弱いと思っていたので、その辺りについて、情報屋
を使って裏どりするなどした。
元々、この街の人間についてはかなり顔の広い方だからな、俺は。
相当分かりにくいところにいる情報屋も、どうすれば情報を集め、
また売ってくれるのかも大抵わかってる。
その集大成が、今ウルフに渡した資料と考えれば⋮⋮たかが二重
登録のために出すのは惜しい気もしたが、必要なときに使わなけれ
ば何にもならないからな。
それに、ウルフと話して、信用できると思った以上、こんなもの
を使ってお願いする必要はもう、あるまい。
するとしたら正攻法がいいだろう、と思ったわけだ。
だから俺はウルフに言う。
﹁あんたとは脅し合いの関係じゃないものが築けそうだと思ったか
らな。まぁ、半ば脅そうとしていた俺が言える台詞じゃないかもし
れないが﹂
実際良くないよなぁと思ってはいた。
だからしないで済んで良かったなと思っているくらいである。
必要ならやったけれども。
1288
そんな俺にウルフは、
﹁⋮⋮お前は、狡猾な奴なんだか気が抜ける奴なんだか分からない
ぜ⋮⋮。まぁいいだろう。むしろ何も考えずに身一つで来た、とか
言われるよりもずっといい。真正面から行けばなんでも解決できる
とか思ってる奴は、案外使えなかったりするからな⋮⋮その意味で
も、お前に目をつけていた俺は正しかった、と証明されたわけだ﹂
とあっさり許容した。
それから、その紙束は机の中に突っ込む。
燃やしたり破り捨てたりするつもりはないようだ。
なぜかな、と思っていると、そんな視線を向けている俺にウルフ
が気づいていう。
ギルドマスター
﹁あぁ、これか? 今ぱっと見た限り、俺が知らないこともいくつ
か載っていたからな。俺が冒険者組合長になる以前のことだ。どう
やって調べたんだか尋ねたくなるが⋮⋮﹂
﹁企業秘密だ﹂
﹁だろう? あとでしっかり確認して、覚えておかなきゃなんねぇ
と思ってな。それこそ、何かに使えるかもしれねぇしよ﹂
俺が調べた諸々を有効活用してくれるつもりらしい。
一体何に使うのかは気になるが、それこそ教えてくれと言って教
えてくれるものでもないだろう。
この話はとりあえず切り上げた方がいいかな。
そう思って俺は言う。
﹁それはもうあんたに渡したものだからな。好きに使うといいさ。
1289
それで⋮⋮二重登録、なんとかしてくれるってことだが、どんな風
に解決してくれるんだ?﹂
﹁ん? あぁ⋮⋮一番簡単なのはお前とロレーヌが結婚したという
ことにして、以前の登録についてはこちらの事務方のミスだった、
ということにすることだが⋮⋮﹂
﹁おい﹂
それは困る。
俺は別に構わないが、ロレーヌがな⋮⋮。
唐突に結婚させられてなんだそれはとなるだろう。
したがって却下だ。
ウルフもあくまで冗談で言ったようで、
﹁それは流石に悪ふざけが過ぎるにしても、他にも色々あるぞ。単
純に使わない方の名義だけ抹消して、そんな人はいませんでした、
とやるとか、ミドルネームでした、とか言って無理やり統合すると
か⋮⋮﹂
と、他の案を上げる。
⋮⋮それにしてもいい加減だな。
ギルド
二重登録は大した罪ではないと言うが、本当にさっぱり重いもの
ではないようだ。
いいのか?
良くはないだろうが⋮⋮もともと冒険者組合という団体それ自体
が色々緩いから仕方のない部分はある。
しかし、その二つは流石に今やると、ニヴがこんにちはとやって
きそうで怖い。
1290
﹁もっと何かないのか⋮⋮?﹂
つい俺がそう言うと、ウルフは、
﹁お前、二重登録を解決してもらう立場の癖に我儘だな⋮⋮﹂
と眉を顰めながら言ったが、それでも考えてはくれるようで、少
し唸ったあと、思いついたように、
﹁そうだ、あれだ、あの制度があったな﹂
と手をぽんと叩いて言った。
﹁あの制度?﹂
ギルド
ギルド
﹁あぁ。もともとは冒険者組合職員のために作られたものなんだが、
本来認められない二重登録を、冒険者組合公認の下、利用できるっ
ていう制度があってな⋮⋮﹂
ギルドマスター
そんなものは聞いたことがない。
が、組合長が言うのだ。
あるのだろう。
1291
第189話 下級吸血鬼と勝算だったもの︵後書き︶
もう一話くらいかかってしまいそうです。
申し訳ない。
1292
第190話 下級吸血鬼と二重登録の扱い
ギルド
しかし、二重登録を冒険者組合公認の下、使うことが出来る、か。
それが事実出来るのだとしたら俺にとって非常に都合がいいのは
言うまでもないな。
二つの身分の使い分けが出来れば、それだけ色々な場面で動きや
すくなるからだ。
たとえば、今の状況で言うなら、俺はニヴの前ではどんな出自か
よくわからない存在、レント・ヴィヴィエとして振る舞っている。
ヴァンパイア
だからこそ疑われた、という面もあるが、レント・ファイナだと
言う前提で色々と調べられたら、俺が迷宮で吸血鬼化したんじゃな
いかという疑いも持ち始めそうだ。
実際、それは事実で、︽水月の迷宮︾を探索され、あの怪しい通
路を万が一発見されたら、結構な問題になる気がする。
あのとき会ったあの女性は、結構短気だったし、俺の不注意でば
れたとしったら怒るんじゃないだろうか。
⋮⋮まぁ、もしものときはもしものときだろう。
ニヴの行動を制御するなんて出来る気がしない。
﹁⋮⋮その制度を使ってもらうのが俺にとっては良さそうに思える
んだが、出来るのか?﹂
俺がウルフにそう尋ねると、ウルフは頷いて答える。
﹁もちろん。ただ、問題もあるぜ? お前が受け入れてくれるかど
うかだな⋮⋮﹂
なんだか話が怪しくなってきたが、他の方法は採りにくい。
1293
というか、この方法が一番都合がいいから、少しくらい条件があ
っても受け入れたいところだ。
そう思った俺は尋ねる。
﹁どんな問題なんだ?﹂
ギルド
﹁簡単な話だぜ。さっき言ったろう? これは︽冒険者組合職員の
ための制度︾だってよ﹂
⋮⋮確かに言ってたな。
ということは、つまり⋮⋮。
ギルド
﹁俺が冒険者組合職員にならないと使えないって言いたいのか?﹂
ミスリル
﹁まぁ、有り体に言えばそうだ。ただ、無理強いはしねぇがな? お前は神銀級を目指して頑張ってる奴だ。出来ることなら、それだ
けに専念したいだろう。そんな体になったり、色々と問題を抱える
中で、さらに仕事を抱え込むなんてまねをするこたぁねぇからな﹂
俺の質問にウルフは寛大であるかのようにそう答える。
実際寛大なのかどうかは、そのあとに続けた彼の言葉で分かる気
もするが。
ウルフは続ける。
﹁ただ、この制度を使わない場合は、二重登録はさっき言った方法
でくらいでしか解決できねぇからな? ロレーヌとの結婚、どっち
ギルド
かの登録の抹消・隠蔽、無理やりな統合⋮⋮どれもどっかで無理が
出そうな気がするけどな⋮⋮。その点、冒険者組合職員になれば、
ギルド
色々な特典がついてくるぞ。二重登録はそのままでも規則の例外と
して許されるし、冒険者組合の情報網を利用することも出来る。そ
1294
れにこの制度は、冒険者の中に職員が自然に混ざって、冒険者たち
の意識や考え、情報なんかを収集するための制度だからな。今まで
ミスリル
ギルド
通り普通に冒険者として活動できるし、ランクも挙げられるぞ。今
ギルド
ギルド
はいないが、昔は神銀級の冒険者組合職員だっていたって話だし⋮
⋮あとは、そうだな、冒険者組合がある各都市にある、冒険者組合
所有の建物なんかの利用が割引で、もしくは無料で出来たり、提携
している店なんかが格安で使えたり、素材の売却金額に色がついた
りとか、得することばっかりだぞ?﹂
物凄い福祉の良さを上げてくるウルフである。
激烈な勧誘員か何かにしか見えない⋮⋮。
しかしそれでも言っていることはどれも魅力的であるのは確かだ。
端的に言うなら、今まで通り生活して問題ない、冒険者の施設は
ギルド
使い放題、物を買うにも安くなり、売る場合は色がつく、と至れり
尽くせりだ。
速攻で、今すぐ冒険者組合職員にしてくれ!と言いたくなるほど
である。
が、本当にそうするわけにもいかない。
そもそも、ウルフはほぼメリットしか言っていないのだ。
デメリットだって確実にあるだろう。
すぐに思いつくものとしては⋮⋮。
ギルド
﹁⋮⋮あんたも言ったが、冒険者組合職員なんかになったら他に仕
事を振られることになるわけだろう? 俺にそんな暇があると思う
か?﹂
意外と暇だ。
合間合間に弟子の育成とか魔術の訓練とか気まぐれでやれるくら
いには。
1295
が、そんなことはわざわざ言う必要はない。
ウルフは少し考えて、
﹁それはそうだろうな。だから、出来る限りお前には仕事なんて振
らないさ。いわば、名簿に名前があるだけの職員ということでどう
だ? まぁ、もしかしたらたまに何か頼むことはあるかもしれない
が、そういうときはしっかり相談してからする。緊急を要する場合
には命令するかもしれないが⋮⋮ダメならダメって言やぁ、それで
不問としよう﹂
とまたもやひどく都合のいいことを言う。
しかし、冗談ではなく本気らしいことはその視線で理解できる。
﹁⋮⋮本当にそうしてくれるのならありがたいが、なんでそこまで
してくれる?﹂
﹁言ったろ? 俺はお前に期待してたってよ。今でもそれは変わら
ん。魔物になったのかもしれないが、心は変わっていないことは話
してみてよくわかった。何の問題もない﹂
本気で言ってるのか⋮⋮?
本気で言ってるんだろうな。
そういう表情だ。
しかしこうなると、困ったな。
断る理由がなくなってしまった。
強いて言うなら嫌がらせとしてくらいしか理由はないが、これだ
け好条件を提示されたのにそんなことをするのは流石に不義理だろ
うと思ってしまう。
それも含めての提案なのかもしれないが⋮⋮これはもう、どうし
ようもないだろう。
1296
ギルド
﹁⋮⋮はぁ。分かったよ。冒険者組合職員でもなんでもしてくれ。
ただ、俺は自分のことを優先するぞ? それでいいんだよな﹂
﹁あぁ、それで構わねぇ。よし、話はついたな⋮⋮ところで﹂
頷いたウルフがふと顔を上げて、俺に言う。
﹁なんだよ?﹂
スケルトン
グール
﹁見せられる顔じゃなかったから、その仮面をつけたってことだっ
たが、以前は骨人とか屍食鬼とかだったからってことでいいんだよ
な?﹂
話を変えたウルフに、俺は頷く。
ヴァンパイア
﹁そうだ。流石に腐ったむき出しの筋肉とか見たくないだろ?﹂
言われて想像したらしい。
ウルフは顔をしかめた。
それから、
ヴァンパイア
﹁⋮⋮そうだな。だが、今は⋮⋮吸血鬼、かどうかは確定できない
にしても、見た目は吸血鬼なんだよな?﹂
﹁そうだ⋮⋮﹂
頷いて、何が言いたいのかわかった俺は、先んじて尋ねる。
﹁この仮面のことか?﹂
1297
﹁おう⋮⋮レント・ヴィヴィエとして顔は見せられねぇからってこ
とか?﹂
と彼なりの推測を口にしたが、俺は首を振る。
確かにそういう理由もあるが、一番の理由はもっと分かりやすい
ところにあるからだ。
﹁いや、それもあるけど⋮⋮単純にこれ、外れないんだよ﹂
﹁⋮⋮呪いの品か﹂
﹁そういうことだ﹂
俺が頷くと、ふとウルフが立ち上がって、
﹁おい、ちょっと引っ張ってみてもいいか?﹂
と尋ねてきたので仕方なく頷く。
ウルフは、俺の仮面の縁に手をかけ、思い切り引っ張った。
すると、俺は体ごと前に持っていかれる。
外れる気配は、当然ない。
﹁おい、レント。もっと踏ん張れよ﹂
とウルフが言うが、これでも割と踏ん張った方だ。
人間離れしている俺の身体能力だが、まだウルフには及ばないら
しい。
冒険者をやれないから引退したとか言っているが、まだ十分やれ
そうである。
1298
それから何度か試したが、まったく外れる気配はなかった。
仮面だけ掴まれてぶんぶん振られたが、それでも外れないのだ。
正攻法ではまず外れない、とウルフもそれでやっとりかいした。
仮面を手に入れた経緯︱︱露店で買った︱︱も言ったが、ウルフ
は不思議そうな顔で、
﹁⋮⋮呪いの品は街に入ってくる時点で弾かれるはずなんだがな?
気になるから調べておくことにするぜ﹂
そう言った。
ギルド
それから、俺はウルフの執務室を後にする。
登録についてはレント・ヴィヴィエの方を冒険者組合職員として
扱うようで、あとで職員証をくれるということだった。
色々とあったが、概ね、話し合いはうまくいったと言っていいだ
ろう。
1299
第191話 下級吸血鬼と報告会
ギルド
冒険者組合を後にする前に、シェイラに夕食を一緒に食べないか
誘っておく。
別に本当に夕食が目的という訳ではなく、色々と事情を知る者に
今日のことを話しておいた方がいいと思ったからだ。
本当はウルフにあそこまで洗いざらい喋る予定ではなかったのだ
ギルド
が、話してしまったものは仕方がない。
こうなると、冒険者組合職員であるシェイラがいてくれたのは尚
の事良かったなと思う。
ギルド
ウルフとの連絡役にもなってくれるだろうし、俺もさほどの義務
は求められてはいないとはいえ、これから冒険者組合の職員になる
わけだからな。
ギルド
先輩にもなるわけで、色々と規則なんかも聞いておきたいところ
だ。
ギルド
俺は冒険者組合の規則については冒険者に求められているものに
ギルド
ついては冒険者組合受付横に置いてある冊子を呼んで熟知している
が、冒険者組合職員としてのそれについては全然知らないからな。
おそらくはあの職員用にあの冊子のようなものがあると思われ、
あとで読むように言われるのだろうが、その前に基本的なことは分
かっておきたかった。
そう言った諸々の必要性のゆえの誘いであることをシェイラは察
し、仕事を終えた後、ロレーヌの家に集まることを了承してくれた
のだった。
◇◆◇◆◇
1300
⋮⋮今日もご飯がうまい。
今、俺の前にはテーブルに並べられた沢山の料理が置いてある。
いずれもロレーヌとシェイラの合作だ。
血も入っているようであったが、いつもとは少し味わいが異なる。
間違いなく今日の方がうまいが⋮⋮どうしたのだろう。
そう思って、
﹁⋮⋮なんか、今日は味付け変えたのか?﹂
と聞いてみた。
まぁ、いつもはロレーヌ一人で作っているので、シェイラと二人
で作っている以上少しは変わるだろうが⋮⋮そういう感じではない
のだ。 なんだろう、うまく言えないが⋮⋮。
すると、俺の疑問にロレーヌが答える。
﹁あぁ、今日の奴には私のだけではなく、シェイラの血も入ってい
るんだ。私は無理しなくてもいいと言ったのだが、どうしてもと言
うのでな⋮⋮﹂
なるほど、確かに深みのある味わい⋮⋮。
二人の血を混ぜたから美味いのか、それとも二人ともの血がうま
いからこうなったのか。
しかし、シェイラはいいのかな。
血とか提供してくれて。
気になって尋ねる。
﹁シェイラ、良かったのか?﹂
するとシェイラは、
1301
ヴァンパイア
﹁気が進まない部分が全くないのかと言われるとあれですけど⋮⋮
レントさんは吸血鬼ですし、血を飲むのが必要なのは契約したとき
にしっかり飲み込みましたからね。ただそれをロレーヌさんは一人
で賄うのは⋮⋮一月一瓶程度でいいと言う話でしたけど、流石にず
っとは厳しいんじゃないかと思って、私のでも良ければと試しても
らったのです﹂
と言った。
それはウルフがしていた心配でもある。
そろそろ前にもらった血も瓶からなくなりつつあるからな。
供給源が増えるのはとてもありがたい。
ちなみに、当然だが血入りの食べ物を食べているのは俺だけであ
る。
ロレーヌとシェイラは普通の食事だ。
﹁そういうことなら、ありがたく頂こう。それで、本題だが⋮⋮﹂
ギルドマスター
そして、俺は冒険者組合長ウルフと話した内容を二人に告げた。
ギルド
大まかな話で、俺の事情の大半を話したこと、理解を示してくれ
たこと、二重登録については冒険者組合職員ということで落ち着い
たことなどである。
それを聞いて、ロレーヌは、
﹁うむ、概ね、問題なさそうだな? あの集めてた資料は結局役に
立たなかったようだが⋮⋮﹂
エーデルや情報屋を駆使して集めた脅迫用の資料についてはロレ
ーヌも編集を手伝ってくれた。
1302
彼女の考察や推測が入ったお陰で、その内容がぐっと分かりやす
くなったのも事実である。
それなのに結局使わずに終わったのは申し訳なく、俺は言う。
﹁渡しちゃって悪かったな⋮⋮手伝ってもらったのに﹂
するとロレーヌは首を振って、
﹁いや、信頼が築けそうなのに脅すのもな⋮⋮隠し持っていざとい
うときに、というのが一番だっただろうが、お前はそういうことを
積極的にしたいタイプでもあるまい。それでよかろう﹂
と言った。
出来ないタイプだ、と言わないのはやろうと思えば出来ることを
ロレーヌは分かっているからだ。
ただ、あんまりやりたくないだけで。
ギルドマスター
﹁それにしても、二重登録の抜け道なんて⋮⋮確かにそう言った規
則があったような気もしますけど、冒険者組合長もよくぱっと出て
きたものですね。少なくとも、マルトではここ何十年も使われてい
ない制度だと思いますよ﹂
シェイラがふとそう言ったので、俺は、
﹁⋮⋮そうなのか?﹂
と首を傾げる。
すんなり思いついたようなので、俺たち冒険者側には知らされて
いないだけで結構使われてるものかと思っていたのだが⋮⋮。
シェイラは言う。
1303
﹁ええ。基本的に冒険者たちの意識調査や情報収集は普通に職員が
やりますからね。わざわざ冒険者として働きながらそう言った情報
収集を行うことは基本的にないんですよ。そんなことせずとも問題
はさほど起きないですから﹂
どうやらあるにはあるが、死に制度のようなものだったらしいな。
しかし、そんなものをあんなに即座に思い浮かんだのは⋮⋮。
ギルドマスター
﹁⋮⋮最初からそこを落としどころにしようと考えてたのだろうな、
あの冒険者組合長は﹂
とロレーヌが言う。
﹁だよなぁ⋮⋮でも、そこまでする理由は⋮⋮﹂
俺は首を傾げるが、ロレーヌは、
ギルド
﹁お前にずっと目をつけてたんだ。どうにか冒険者組合に入れる方
法もまた、ずっと考えていたんだろうさ。お前を冒険者のまま、職
員として雇える方策も色々と調べていたのだろう。本当に買われて
いたのだな、お前は⋮⋮﹂
と言う。
つまり、俺が銅級冒険者だったときからそんなことも選択肢の一
つとして考えていたのではないか、ということだ。
流石にそこまでではないだろう、と思う俺だが、シェイラは、
﹁確かにそれくらいはやりそうな人ですね⋮⋮あれで結構色々考え
ている人ですから。見た目で勘違いされやすいですけど、どちらか
1304
と言えば頭を使う方が得意だと聞きますよ。悪意のある人ではない
んですけどね﹂
と、ロレーヌの推測を補強する事実を言う。
そうだとすると、かなりの傑物と言うか、手のひらで踊らされた
感がないではないが⋮⋮。
ま、俺程度の人間を踊らせるのは簡単か。
そう思って気にしないことにした。
実際、悪いことは何もないからな⋮⋮何かあったときは、そのと
き考えればいいさ。
油断しすぎると痛い目に遭うことは、最近深く感じているけどな
⋮⋮。
◇◆◇◆◇
食事と説明を終えて、シェイラを自宅に送ったあと、ロレーヌ宅
のリビングで寛ぐ。
﹁これで、二重登録は解決できたようだが、これからはどう名乗る
つもりなんだ?﹂
﹁あぁ、しばらくはレント・ヴィヴィエでいいだろう。ニヴがいる
うちはいきなり改名すると危険そうだからなぁ⋮⋮﹂
そう言った。
ロレーヌもそれには納得のようで、
﹁ま、それがいいだろうな﹂
1305
と頷く。
それから、
﹁しかし、二重登録にそんな解決方法があるとは意外だったな。普
通に抹消とかで対応するものだと思っていた﹂
﹁あぁ、最初はそんなことも言ってたな。あとはロレーヌと結婚す
れば解決だぞ、とかも言ってたが⋮⋮流石にな﹂
と、俺が言ったところで、ロレーヌが呑んでいたワインを吹きだ
した。
﹁⋮⋮なんだそれは﹂
と眉を顰めながら言うロレーヌに、俺は、
﹁結婚して、だからレント・ヴィヴィエになった、以前の登録は事
務方のミスで抹消してなかった、で通せばすんなりだ、とか言うん
だぞ? 驚くよな⋮⋮ま、ともかく全部解決だ。今日のところはそ
ろそろ休むことにしよう。明日は旅のための買い物で忙しいだろ?
おやすみ﹂
そろそろ、旅に必要なものを集めなければならなくなってきてい
るので、明日、ロレーヌと一緒に買い物に行く予定なのだ。
俺は平気だが、ロレーヌはその身が人間だからな。
眠っておかなければ体に障るだろうと思っての言葉だった。
﹁あ、ああ⋮⋮おやすみ、レント﹂
ロレーヌがそう言ったのを確認し、手を上げて俺は自室に行く。
1306
明日は何か面白い魔道具とかあったら見たいな、と思いながら。
⋮⋮必要なものを買いに行くだけだから、ダメか。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮結婚、か⋮⋮﹂
一人になって、ロレーヌはぽつりとつぶやく。
また妙な響きの単語を聞いたものだと思った。
もう結婚適齢期からはかなり時が経ってしまっているが、昔から
の知り合いでこれくらいの年齢で結婚したものはいなくもない。
レント・ヴィヴィエで結婚、ということは、婿入りと言うことだ。
うーむ⋮⋮。
﹁結婚、か⋮⋮﹂
再度呟いて、ロレーヌは目をつぶる。
色々想像してみたが、むずがゆかった。
1307
第192話 下級吸血鬼と露店市場
﹁お! あれなんか面白そうじゃないか?﹂
俺がそう言って露店の前に駆け寄る。
・・・
そこに並んでいるのは、数々の怪しげな魔道具であった。
一般的に言って使える魔道具というものは専門の魔道具店におい
て、しっかりと鑑定された上で鑑定書付きで販売されているものだ。
しかし、露店で売っていない、というわけでもない。
ギルド
なぜなら、魔道具をしっかりとした鑑定にかけるのにはそれなり
に金がかかる。
冒険者が迷宮で魔道具を入手したら、普通は冒険者組合なり魔道
具店なりで鑑定してもらうのだが、どう見ても使えない品、もしく
は鑑定したはいいが結局使えない、用途が分からない、という品も
当然出てくる。
前者の代表としては、ただはね続けるピンとか、歌う花︵美しい
ポーシ
歌ではなく、騒音である︶とか、調子が悪くなるタイミングで点滅
しつづける松明とか、そういう品だろう。
ョン
後者の例としては魔剣なのだが強化は一切つかないとか、回復水
薬の見た目をしているくせに飲むとおなかを壊すだけとか、そうい
うものだ。
迷宮で得られるアイテムの数々は、必ずしも有用とは限らないと
言うことがよくわかる。
そんな品は、よほどのもの好きか、何かしら隠された用途を知っ
ている目利きとか、そういう者以外には、おもちゃを欲しがる子供
などにしか売れない。
したがって、最終的に、流れに流れて、こういう露店で販売され
ることになるのだ。
1308
つまりは⋮⋮。
﹁⋮⋮どう見ても子供のおもちゃかゴミばかりだろう。なぜ欲しが
る⋮⋮?﹂
ロレーヌが眉根を寄せてそう呟いた。
ポーション
今、俺とロレーヌは、旅のために市場に出て、色々とものを買い
集めているところだった。
保存食とか、携帯用の砥石とか、着替えとか、回復水薬の類とか、
ポーション
ありふれたものだ。
最後の回復水薬の類に至ってはロレーヌが自作できるので買う必
要もなさそうだが、材料を集めて今から作るのは面倒と言うものも
あるとのことで、そういうものを集めている。
あとは、同中、魔物が襲ってくるだろうから、そういうのが有用
オーク
な素材になりそうなときに回収するための容器とかも。
以前、豚鬼の肉を包むのに使ったマルトホオノキの葉とか、スラ
イムの体液を入れるための瓶とか、そういうものだな。
露店で買わず、店を構える商会で購入した方が質のいいものが集
まるのだが、その分、値が張る。
冒険者として依頼のために必要なものを集めるときはそっちに行
くのだが、今回はただの個人的な旅だ。
多少質が落ちても問題ない。
もちろん、信用できない品質の品は掴まないように気を付けては
いるが。
﹁何の役にも立たなそうだからこそ欲しいんだろ。役に立つもの買
ってたらつまんないじゃないか﹂
﹁⋮⋮私は何かの哲学を聞いているのか? 理解できん⋮⋮﹂
1309
俺の反論に頭を抱えるロレーヌ。
別にいいんだい。
これは男の浪漫なんだい。
そんなことが頭に思い浮かぶが、まぁ、客観的に見てどっちの頭
が足りないのかは俺にもよくわかっている。
でも欲しいものは欲しいのだから仕方ないだろ。
﹁⋮⋮まぁ、お前の稼いだ金を何に使おうがお前の自由だからな⋮
⋮私も私で、役に立ちそうもない内容の書物をさっき買ってしまっ
たところだし﹂
と言っているロレーヌの手に握られているのは、革張りの分厚い
書物であった。
あれも先ほどロレーヌが露店で手に取り、購入した品で、タイト
ルは︽魔物料理∼ゲテモノを美味しく食べるために∼︾という怪し
げなものだ。
別に魔物を素材に料理を作るのは普通だが、ゲテモノって⋮⋮何
を素材にする気の本なんだ、それは。
スライムとか?
いやぁ⋮⋮それくらいならまだ何とかなりそうだけどな⋮⋮。
あれが実践で使われないことを神に祈らずにはいられなかった。
それから、ロレーヌが、
﹁お、あっちにも書物の露店が⋮⋮レント、私はあれを見に行って
くる。お前も魔道具を好きなだけ眺めるといい。一時間ほどしたら
中央広場東側のベンチ辺りに集合しよう﹂
1310
書物を扱っている露店が密集しているエリアにふらふらと引き寄
せられて行く。
⋮⋮また怪しげな本を買う気か。
全く、一体何の役に⋮⋮とか思うが、結局俺もロレーヌも似た者
同士と言うわけだろう。
だからこそ、十年間、着かず離れず仲良くやっていられるわけだ。
気が合うってことだな⋮⋮。
さて、魔道具魔道具⋮⋮。
そう思って、俺が一つの魔道具、地上三センチにぼんやりと浮き
続ける小さな謎の板に手を伸ばすと、
﹁あっ、すみません﹂
と、隣の人が同じものに手を伸ばそうとして、俺の手にぶつかり、
謝った。
別に痛くもなんともないので構わないのだが、それにしてもこん
な何にも使えなさそうなものに興味を抱くとは物好きな⋮⋮と、自
分のことを棚に上げて思う。
しかし、そんなことを思っているなど、おくびにも出さず、俺が
その人物に声をかけようと顔を上げながら、
﹁いえ、大丈夫です⋮⋮よ⋮⋮﹂
と言いかけたところで、時が止まった。
そんな俺に、向こうは、
﹁⋮⋮? どうかしましたか? 私の顔になにかついてますか?﹂
と尋ねてきた。
1311
何かついているか、と聞かれれば目と鼻と口がついているという
ことになるだろうが、別に何かがついているから絶句したわけでは
ない。
そうではなく、その顔に見覚えがあったからこそ、言葉を失った
わけだ。
金色の髪に、水色の瞳。
まだまだ幼く見えるところはありながらも、数年後の美貌は約束
されている顔立ち。
雰囲気には似合わない冒険者用の皮鎧と片手剣を下げているその
姿。
まさかこんなところで会うとはな。
そう思いながら、俺は彼女に言う。
﹁いや、そういうわけじゃない。俺の顔に見覚えがないか?﹂
すると彼女は、
﹁⋮⋮あれ、どこかでお会いしたことが⋮⋮うーん、顔の下半分が
仮面で、真っ黒なローブ⋮⋮うーん﹂
と悩みだす。
まさか忘れられたのか、と思ったが、そうだった、と思い出す。
今の俺の仮面は彼女が呟いた通り、形が前のときとは違っている
のだった。
﹁⋮⋮悪いな。これでどうだ﹂
そう言って、仮面を以前彼女が見たことある形、顔のすべてを覆
1312
った骸骨仮面のそれへと変える。
さらに、ローブのフードを被って、ゆらゆらと怪しげに揺れて見
せた。
すると、彼女は目を見開いて、
﹁えっ、ももももしかして、レ、レントさんですかっ!?﹂
と叫ぶ。
俺は仮面とローブを元通りに直しつつ、頷いて、
﹁ああ。そうだ。久しぶりだな︱︱リナ﹂
そう言ったのだった。
1313
第193話 下級吸血鬼と偶然の出会い
﹁⋮⋮一体今までどこにいたんですか!? 探したのに見つからな
くて、心配していたんですよ⋮⋮﹂
と、リナが言葉通り心配げに言ったので、俺は正直に言う。
﹁あれから、友人の家に身を寄せていたんだ。ここのところ、冒険
者として普通に働いてもいるんだが⋮⋮あんまり人のいない時間帯
に行ってたからな。それで会わなかったんだろう﹂
﹁なるほど⋮⋮私は結構朝早くに出ることが多かったですからね。
でも、無事でよかった⋮⋮﹂
リナはまだ駆け出しだからな。
そういう者向けの依頼は朝早くから掲示され、奪い合いのように
受けられて行くから駆け出しの基本は早起きである。
もちろん、スライムとかゴブリンとか基本的な魔物の単純な討伐
依頼もあり、そう言ったものは常時掲示されているので、そういう
のを受ける気なら早起きは必要ないが、なんだかんだ言って魔物討
ギルド
伐はそれなりに大変だからな。
朝早く冒険者組合に行けば、そういう依頼よりも安全で、かつ報
酬の高い効率のいい依頼と言うのが結構あるものだ。
たとえば、薬草採取とか、上位冒険者の荷物持ちとかな。
ただこの辺は意外とリスクが高かったりする場合も少なくないか
ら、しっかりと依頼内容を吟味する目が必要なのだが、駆け出しに
はそんなことわからないからな。
リナは⋮⋮しっかりと生き残っているあたり、俺と別れてから頑
1314
張ってやってきたと言うことだろうか。
一応、短い間しか一緒にいられなかったとはいえ、リナには色々
と俺の知っていることは教えたからな。
有用な狩場とかいい店とか冒険者として必要な注意とか知識とか
さ。
少しは役に立ったのかな⋮⋮。
気になって尋ねる。
﹁ま、俺のことはいいさ。見てのとおり、もう前みたいな問題はな
さそうだしな。それより、リナは最近どうなんだ? 冒険者として、
しっかりやれているか?﹂
俺の質問にリナは、
﹁ええ、それはもちろん。レントさんに教えられたことをしっかり
と実践してたら、今までの状況が嘘みたいにうまくいってますよ。
聞いてください、パーティもこないだ組めたんです! 同じくらい
の年頃の、男の子と女の子なんですけど⋮⋮﹂
パーティか。
十年ぼっちならぬソロを貫いてきた俺にはとても眩しい単語だが、
俺よりも遥かにリナの方がコミュ力があったということだろう。
うらやましい。
⋮⋮いや、冗談だけどな。
別に俺だって、パーティに誘われたことがないわけじゃない。
ないわけじゃないのだ。
ただ、ソロがいいから拘ってただけで⋮⋮。
しかしリナのパーティメンバーは、リナを除いて男女一人ずつか。
まぁ、そういうことなら危ないと言うこともないのかな。
1315
年ごろからしてもリナと同じくらいとなると、何かしら危険な思
惑をもってリナに近づいてきたという感じではなさそうな気がする。
大体二十代半ばくらいの冒険者が色々と擦れてそういうことをす
ることが多いからだ。
つまり俺くらいの⋮⋮いや、俺はやらないぞ。
もちろん、絶対ではないけどな。
一応、その辺りを判断するために色々根掘り葉掘り聞いてみる。
﹁そいつは良かったな⋮⋮いい奴らなのか? どんなきっかけでパ
ーティを組むことになった?﹂
﹁いい人たちですよ。男の子の方は剣士で、ライズくんと言って、
ちょっとだけ無鉄砲なところがあるけど、一生懸命戦ってくれます
ギルド
し、女の子の方はローラちゃんって言って、治癒術も使える魔術師
なんです。パーティを組むきっかけは、冒険者組合を通して連絡が
あって、話してみて決めたんです﹂
ギルド
俺の質問に簡潔に答えてくれたリナである。
ギルド
冒険者組合は色々な意味で信用ならない適当団体ではあるが、マ
ルトの冒険者組合はあのウルフが取り仕切っているだけあって、他
の都市のものよりは仕事をする。
特に、冒険者の安全にはかなり気を配っており、それがため、死
亡率もかなり低い。
ギルド
また、新人冒険者の育成についても力を入れており、パーティを
組むにあたって連絡するときは、冒険者組合の審査が入る。
新人が怪しい奴と連絡をとってパーティを組み、後々ひどい目に
遭わないようにするためだ。
新人とは言っても冒険者は魔力や気などの特殊な力を持っている
有用な人材であることが多く、捕獲して奴隷に、と考える者も少な
くないからこその措置である。
1316
ギルド
そのため、冒険者組合に紹介された相手だと言うのなら、それだ
けで一定程度信用してもよさそうだ。
それに加え、俺にはリナが今、口にした二人の冒険者の名前に聞
き覚えがあった。
﹁⋮⋮それって、ライズ・ダナーとローラ・サティか?﹂
その二人は、俺が銅級冒険者昇格試験を一緒に受けたメンバーで
ある。
無鉄砲なライズと、治癒術を使えるローラ、という形容にもぴっ
たり当てはまるから、すぐに思い浮かんだ。
リナは俺の言葉に頷いて、
﹁ええ、そうですけど⋮⋮お知り合いなんですか?﹂
と尋ねてきたので、
﹁あぁ、この間、銅級冒険者昇格試験を受けたんだが、そのとき一
緒に迷宮に潜ったんだよ﹂
と言った。
するとリナは、
﹁⋮⋮もしかして、二人が言ってた親切なレント・ヴィヴィエさん
って、レントさんのことですか!?﹂
と目を見開いて尋ねてきた。
どうやら、あのときのことはすでに二人から聞いていたようだ。
しかし、親切なレント・ヴィヴィエって。
1317
何か二つ名みたいだな⋮⋮どことなく情けない響きだが。
どうせ二つ名がつくならもっとかっこいい感じの奴がいいぞ。
あまり尖ったのは逆に勘弁願いたいが。
﹁親切だったかどうかはともかく、それは俺だな⋮⋮﹂
俺が頷いてそう言うと、リナは少し声を潜めて、
﹁⋮⋮でも、レントさんって、レント・ファイナって名前なんじゃ
⋮⋮﹂
と言ってくる。
別に俺たちの会話なんて誰も聞いていないだろうが、一応露店の
店主がいるしな。
その辺り、気を遣ってくれたのだろう。
俺も同じく小さな声で、
﹁⋮⋮ま、その辺は色々あったんだ。とりあえず今のところはレン
ト・ヴィヴィエで通してくれ﹂
と言うと、リナは頷いてくれた。
﹁⋮⋮分かりました。けど、あの二人も、私も、レントさんに縁が
あるなんて不思議ですね。今日もこうして偶然会えて⋮⋮何かある
のかも﹂
リナは嬉しそうにそう言う。
確かに偶然というのは時として面白い出会いを作り出すものだか
らな。
俺と︽龍︾とか。
1318
俺とニヴとか。
⋮⋮偶然を恨みたい。
リナとの出会いはここ最近だと唯一、俺にとっていい出会いだな
⋮⋮。
ある意味、幸運の女神かもしれない。
ここで会ったということは、俺がこれからハトハラーの村に行く
のもいいことなのかもな、と思えてくる。
1319
第193話 下級吸血鬼と偶然の出会い︵後書き︶
気づいたらブクマ数三万件を超えていました。
ありがとうございます。
正直こんなにたくさんの人に呼んでもらえると思っていなかったの
で、予想外でうれしいです。
これからもどうぞよろしくお願いします。
1320
第194話 下級吸血鬼と使い走り
﹁そう言えば、不思議な縁で思い出したんだが⋮⋮﹂
﹁なんですか?﹂
そうだ、リナとの縁は、実のところ彼女と彼女のパーティメンバ
ーだけではない。
そのことを思い出した俺は言う。
﹁以前、鍛冶屋に行ったときに、店から出るとイドレス・ローグと
いう人物に会ったんだ。リナ・ローグを探している⋮⋮と言ってい
たが、もしかして⋮⋮﹂
あの男は冒険者をやっている妹リナ・ローグを探している、とい
うようなことを言っていたが、リナとは名前が違う。
したがって、別人を探しているのだろう、と考えることも出来た
が、リナという名前で最近この街に来た冒険者と言われて浮かぶの
は今俺の目の前にいるリナだけだからな。
おそらくは、このリナのことを言っていると言うことで正しいは
ずだ、と思っての言葉だった。
案の定、リナは俺が挙げた名前に驚いたように目を見開いて、
﹁⋮⋮それは、兄です。まさか探しに来るなんて⋮⋮﹂
﹁⋮⋮やっぱりか。まぁ、一応安心しといてくれ。リナのことは言
ってないからな。なんだか騎士様っぽい人だったが、こういう田舎
1321
町での人探しは向いてなさそうだったぞ﹂
思い出してみるに、かなり都会的な人物で、エリート街道を突っ
走っている雰囲気のある男だった。
性質もよさそうで、誠実そうに見えた。
実直に仕事に取り組みそうな男だったが、それだけにこのマルト
のような雑多な辺境都市においては若干浮くのは否めない。
今もたまにあの男が歩いているのは見かけるのは、それだけマル
トに馴染めていない雰囲気が凄いからだ。
女たちの視線も結構集めているしな。
騎士ってやつはもてるのさ。うらやましいなんて思わないぞ。く
そう。
しかしそれだけ出歩いているのに、リナのことをいまだに見つけ
られないのは、情報集めがそれほどうまくないからだろう。
マルトは田舎とはいえ、これでしっかりとした都市だからな。
人も多く、なんとなく探しているだけでは人探しなど無理だ。
かといって、都会の騎士様がこんな辺境で使える情報源など酒場
くらいしかないからな。
リナはそういう場所を利用しなさそうだし、利用するような強面
おっさん冒険者たちがリナと仲いいわけもない。
名前を言われてもピンとこないに決まっている。
かといって、俺と会った時のように鍛冶屋とか店を回っても、顧
客の情報をぺらぺら喋る奴も少ないからな。
特に、都会からやってきた騎士に対しては用心深くなってしまう
もので、出来る限り情報を渡さないで早く帰ってもらおう、と考え
るのが大半だろう。
そういった諸々のせいで、イドレスの人探しは極めて難航してい
るようだった。
1322
プチ・スリ
なんで見てきたかのように正確に言えるかと言えば、そいつはエ
ーデル情報網の力である。
最近、エーデルはこの都市マルトの小鼠の半分近くを支配下に置
きつつあるようで、もはやマルト全域に耳があるようなもんだ。
調べたいことをエーデルに伝えれば、一時間もせずにその答えが
伝わるほどである。
ただ、ラトゥール家周辺は近付くのも無理らしいんだけどな。
あの家は不思議過ぎる。
プチ・スリ
まぁ、大量の魔道具もあるし、そういう妨害もあるのだろう。
さすがに小鼠程度の小魔物では限界があるということだ。
それでも十分すぎるほど役に立っているのだが。
リナは、俺の言葉に少し笑って、
﹁兄は根っからの騎士ですからね。ただ、融通が利かないってわけ
でもないんです。実家にいたときは、私をいろんなところに連れて
ってくれましたから﹂
それは少し意外だった。
話から察するに、リナの実家はおそらく貴族の家だ。
騎士、と言っているしな。
となると、リナはもともと貴族のご令嬢だったわけで⋮⋮。
まぁ、それを考えるとそもそもこんな辺境都市で冒険者をやって
いること自体おかしいんだが、それは置いておこう。
ともかく、貴族の令嬢をそんなにいろんなところに連れ歩くのは
変わっているのは間違いない。
﹁いい兄だったのか?﹂
﹁そうですね。私にとっては、そのおかげで今の私がありますから
1323
⋮⋮﹂
﹁冒険者になったのも、その兄がきっかけか﹂
﹁ええ。兄が薦めてくれて、家を飛び出すような形で冒険者になり
ました。剣術は兄に学んだりしてそれなりだったんですが、やっぱ
り人付き合いがうまくいかなくて⋮⋮もともと王都にいたんですけ
ど、どうしようもなくなってしまって、ここに来たんです﹂
王都の冒険者はマルトよりもずっと殺伐としていると言うか、実
力至上主義的な部分が強いらしいからな。
ギルド
新人には厳しい土地柄らしい。
だから王都の冒険者組合は他の都市でやってみてはどうか、とす
すめることもある。
たまにそういう理由でマルトにくる新人と言うのはいるからな。
ギルドマスター
マルトは新人にとっても優しい土地なのであった。
グランドマスター
ま、あの冒険者組合長がいるからというのが大きいかもしれない
が。
王都にいる総組合長とも仲いいみたいだし、そういう繋がりもあ
るかもしれない。
﹁そういうことなら、別にリナのことを教えても良かったかな? 知らないふりをしたけど、少しだけ申し訳ない気もしてたんだ﹂
そう言うとリナは、
﹁そうですね⋮⋮両親ならともかく、兄なら別に無理に連れ戻しに
来た、というわけでもないように思います。一度、探して会ってみ
ようかな⋮⋮﹂
1324
﹁なら今度、都合のいい日時を教えておいてくれ。俺が伝えておい
てやるよ。わざわざ探すのも手間だろう?﹂
俺にとっては大した手間ではない。
エーデルたちに探させて、偶然を装って会いに行けばいいだけだ
しな。
探していたリナと言う冒険者ってもしかして⋮⋮みたいな感じで
話しかければきっと向こうも喜ぶだろう。
俺の格好的に怪しまれるかもしれないが、変な場所を指定しない
限りは問題ないはずだ。
郊外の廃屋とかを指定したら身構えるかもしれないけどな⋮⋮や
ってみようかな。いや、ダメだ。
俺の提案にリナは、
﹁本当ですか? じゃあ、ご迷惑じゃなければ、ぜひお願いします。
ええと⋮⋮﹂
それから、リナは空いている日時を俺に言ったので、俺はそれを
記憶する。
確実に伝えることを請け合い、それからしばらく雑談して、お互
いの連絡先を交換し、別れると、ちょうど時間はロレーヌとの待ち
合わせ時間だった。
1325
第194話 下級吸血鬼と使い走り︵後書き︶
ちょっと頭痛い中書いたので色々とおかしいかもしれません。
後に修正すると思いますので、今日のところはお許しください⋮⋮。
1326
第195話 下級吸血鬼と兄
﹁ふう、買った買った﹂
と、自宅に戻ってきて満足そうに床に置いた沢山の書物を眺める
ロレーヌである。
露店で大量に仕入れたそれらは、帰宅するまでは俺の魔法の袋の
中に収まっていたのだが、帰って来るや否や、全部早く出すように
要求された。
これからじっくり読書したいらしい。
その気持ちは分かる。
買った本は出来るだけ早く読みたいもんな⋮⋮。
まぁ、一冊は手に持って歩きながら読んでたくらいだが。
人にぶつかるからよせと言いたいところだったが、ロレーヌはこ
れで正しく銀級相当の実力を持った冒険者である。
当然、通行人が近づいて来たら別に視認せずとも容易に避けるこ
とが出来るため、注意する根拠がなかった。
良い子のみんなは真似してはいけない。
この人は悪いお姉さんなんだぞ、と孤児院の子供たちに言ってや
りたい。
﹁⋮⋮じゃ、俺はさっき言った通りもう一度ちょっと出てくるぞ﹂
ロレーヌにそう言うと、
﹁⋮⋮あぁ⋮⋮気を付けてな⋮⋮﹂
と適当に手を振りながら生返事された。
1327
もう完全に本の虜である。
ダメだこりゃ。
だが別に聞いていないという訳でもないので問題はない。
俺はそれから家を出た。
◇◆◇◆◇
ロレーヌにさっき言った通り、というのは先ほど露天市場でリナ
に出会い、彼女の兄に伝言を伝えると言う約束をしたために、その
人と会ってくる、ということである。
リナについては迷宮で出遭ったことはすでに告げていたので、会
ってみたかった、と言っていたがそのうち機会もあるだろう。
リナも忙しそうだし、呼びつけるわけにもいかないしな。
ちなみにリナの兄であるイドレス・ローグの居場所は我らがエー
デルの配下たちが追跡してくれている。
俺の少し先をエーデルが先導するように進んでおり、それを俺が
追いかけているところだ。
仮面はイドレスと以前会ったとき、顔全面を覆う形だったので、
今もそうしている。
プチ・スリ
つまり客観的に見ると、骸骨仮面をつけたローブ姿の怪しげな男
が、珍しい漆黒の小鼠に先導されて歩いている、ということになる
だろう。
⋮⋮なんだか伝染病をもたらそうとしている死神か何かみたいだ
な、俺たち。
実際、俺とエーデルを見て、﹁ひっ﹂と驚いたような声を上げる
者もたまにいる。
別に普通に見れば人間だと分かるから、それでほっとしているよ
うだが、不吉な感じなのは否めない。
1328
仮面の形を変えて、フードも外していると大して見られないんだ
が、流石にこの感じは人通りの多い時間帯に突然見ると怖いか。
まぁ、でも仕方がない。
この格好じゃないとイドレスには認識してもらえないからな。
そんなことを考えながら進んでいると、前方に見覚えのある騎士
装束を纏った屈強な男の姿が目に入る。
あれだな。
そう思って速足になって近づき、声をかける。
﹁︱︱イドレス殿﹂
すると、男は振り返ってこちらを見た。
そして俺の怪しげな風体を見て、少し首を傾げ、それから、
﹁⋮⋮あぁ、以前、鍛冶屋の前で会った⋮⋮﹂
﹁ええ、そうです。覚えておられましたか﹂
そう言った俺に、イドレスは、
﹁その恰好では忘れようと思っても忘れられぬ。⋮⋮おや、それに
しても、声が変わったか? 以前はもっとこう⋮⋮﹂
その先に続けたいのはきっと、酷いだみ声だった、とかそんな感
じだろう。
発声器官が相当ダメダメだったからな。
そりゃ、酷い声だったさ。
アンデッド
しかし今は問題なく普通に話せている。
まさか、不死者として一段階進化しました!とかいう訳にもいか
1329
ないので、俺は、
﹁喉を負傷していたのですが、治癒したのですよ。この間は失礼を﹂
と無難な言い訳をする。
ただ、至極全うと言うか、普通に起こりうることなので特にイド
レスは不思議がることもなく、
﹁そうだったか。それは良かった。貴殿は冒険者のようだが、私も
騎士だ。魔物を相手にしていると、大きな傷を負い、そのまま固定
化してしまうことも少なくない。そうならずに済むことは幸運だ﹂
としみじみとした様子で言う。
もちろん、最上位の聖者や聖女たちになってくると、そう言った
通常の治癒術や聖気によっても回復できない傷ですら、力押しでど
うにかしてしまえるらしいが、そんな存在が一介の騎士や冒険者に
自らの力を振るうと言うことはそんなにないからな。
軽傷で済んで良かった、というのはそう言う話だ。
﹁ええ、そうですね﹂
俺が頷くと、彼も同様に頷き、それから、ふと思い出したかのよ
うに尋ねてくる。
﹁⋮⋮して、今日は一体何の用件で? 察するに私に何か用事があ
ったような様子だが⋮⋮﹂
﹁そうでした。この間お会いしたとき、イドレス殿は妹御をお探し
になっておられたでしょう? たしか、リナ・ローグという⋮⋮﹂
1330
﹁あぁ、そうだ。もしかして、見つかったのか?﹂
目を見開いたイドレスは、そう言って俺との距離を詰める。
そのまま胸ぐらを掴んでぐらぐら揺らしそうな勢いだが、そうし
ないだけの冷静さはあるらしい。
限りなく顔が近いが、それだけだ。
俺はびびりつつも、はっきりと言う。
﹁ええ、おそらく﹂
﹁⋮⋮おそらく? どういう意味だ﹂
﹁妹御のお名前が違っているので⋮⋮リナ・ローグ、ではなく、リ
ナ・ルパージュと名乗っているようですよ﹂
﹁⋮⋮そうか、名前がな⋮⋮だから見つからなかったのか。しかし、
貴殿は一体どうやってそれを調べた?﹂
名前を変えていると言うことは、少なくとも本人はもとの名前を
隠す気満々と言うことだ。
つまり、他人が尋ねてもそうだとは言わないのがふつうである。
それなのに、俺がそのことを知っていると言うのが不自然に思え
たのだろう。
イドレスの視線が鋭くなった。
しかし、別に俺にはやましいところはない。
素直に言う。
﹁調べたのではなく、本人に尋ねたらそうだと言ったもので。この
街の冒険者で、リナ、という名前で知り合いは彼女しかいないもの
ですから、ついこの間、貴方にお会いしたことを言うと、兄だと言
1331
ったのですよ﹂
それで、イドレスはほっと安心したような顔になって、
﹁⋮⋮そうだったか。妙な疑いをかけて済まない﹂
﹁いえ、家族のことなら心配して当然ですから、お気になさらずに﹂
俺がそう言うと、イドレスは不思議そうな顔になって、
﹁⋮⋮貴殿はなんというか、失礼かもしれんが、見た目と違って大
分、人が良いようだな?﹂
そうかな?
そうでもないけど。
ただ、今回来たのは純粋な善意だし、そう見えるのは分かる。
﹁普通ですよ⋮⋮それで、リナから伝言を預かってきまして⋮⋮﹂
それから、俺はイドレスに彼女が面会を希望している日時を告げ
た。
しかし、イドレスは、
﹁⋮⋮む、それだと、会うのは難しいな。そろそろ私は一度、王都
に戻らねばならないのだ。機会を改めるか⋮⋮仕方がない。リナに
伝えておいてくれるか? 報酬は⋮⋮﹂
と言いかけたので、俺は、
﹁伝言を伝えるくらいなら別に何もいりませんよ。リナには恩があ
1332
るもので﹂
彼女がいなければ今の俺はここにいないからな。
伝言板でもなんでもなってやるさ。
イドレスは、
﹁⋮⋮恩? ふむ、それについても尋ねたいが⋮⋮本人に尋ねるの
がいいか。では、頼む﹂
そう言って、次にマルトに来れる日時と、待つ場所を俺に告げ、
それから去っていった。
大体一月後くらいか。
ギルド
騎士はそうそう休みはとれないように思うが、意外と暇なのかな。
ギルド
分からないが、俺も冒険者組合に向かう。
リナへの伝言を、冒険者組合経由で伝えてもらうためだ。
定宿も聞いてはいたが、市場で会ったとき、この後、迷宮に潜る
ようなことを言っていたからな。
その方が確実だろう。
1333
第196話 旅と料理
﹁もうやり残したことは無いか? 忘れ物はないか?﹂
早朝、ロレーヌの自宅の玄関前で、ロレーヌが母親のようなこと
を言う。
俺はここ数日で片づけたこと、ラウラへの︽竜血花︾の納品とか、
リナに伝言をしたこととかを思い出す。
いずれもしっかりやった⋮⋮と思う。
たぶん。
忘れ物の問題は忘れ物したこと自体を忘れていることなんだよな
⋮⋮思い出そうとしても思い出せない何かがあったかもしれないと
いう不安が抜けない。
が、忘れているということは大したことなかろう、と諦めること
にした。
﹁⋮⋮まぁ、ないんじゃないか? なにかあったとしてもそれは帰
って来た時に考えることにする﹂
典型的な忘れん坊が言いそうな台詞を口にする俺に、ロレーヌは
呆れた顔で、
﹁ちょっとは思い出す努力をしろ⋮⋮と言いたいところだが、別に
もう戻ってこないわけでもないしな。大丈夫だろう。じゃあ行くぞ﹂
そう言って、扉を開ける。
これから旅立つのだ。
俺の故郷、ハトハラーの村へ。
1334
◇◆◇◆◇
都市マルトは辺境都市とは言え、一応、都市と言える規模の大き
さのあるまぁまぁな街である。
もちろん、王都などと比べると当然何段も落ちるが、人の往来の
それなりにある大きな街であるのは間違いない。
当然、都市マルトの門近くにある馬車の停留所には多くの馬車が
止まっていて、その御者と思しき者が声を上げながら呼び込みをし
ている。
賑やかで活気のある光景であった。
その多くがこの辺境から西の都会に向かっていくものであり、馬
車に乗ろうとする者たちもそれなりにいて、賃金の交渉などが激し
く行われてたりする。
そんな中、俺とロレーヌは、そんな活気とは無縁そうな、ひどく
静かな区画へと向かう。
大体どこに向かうかは停留所の区画ごとに決まっているのでそれ
ほど探さずとも分かるのだ。
声を上げているのは、マルトに普段住んでいるわけではない人間
向けに分かりやすくしているからというわけだ。
﹁⋮⋮これだな﹂
ロレーヌが一台の馬車の前に立ち止まり、俺に尋ねた。
俺はうなずいて、
﹁あぁ⋮⋮しかし、いつ見ても不安になるな、これ。ハトハラーに
ちゃんとたどり着けるのか⋮⋮﹂
1335
いや、実際何度も乗ったことあるし、たどり着くのだが、やっぱ
り見るだけで不安になってくる。
というのも、その馬車は、馬車を引く動物が馬ではなく、大きな
亀なのである。
︽馬車︾という名称は一般的に馬車を引いているのが馬だから代
表的につけられたに過ぎない名前で、引く動物は他にも色々いるの
だ。
もちろん、それでも普通に馬が多いのだが、進む道や速さによっ
ていろいろと使い分けがされていることも少なくない。
通常の馬の次に多いのは、竜馬と呼ばれる馬と形はよく似ている、
亜竜の眷属にあたる動物で、馬よりも早く、体力もあり、魔物を恐
れないために良く使われる。
ただ、馬ほどの数が揃えられない上、馬よりも強いために御者に
技術と体力が必要であるため、すべて竜馬に、というわけには行か
ず、快速を旨とする馬車がこれを使っているくらいだ。
料金も相応に高く、一般人と言うよりは、貴族や騎士向けと言っ
たところだろうか。
対して、今俺たちが乗ろうとしている馬車を引いているのは、大
亀と呼ばれるそのまま、巨大な亀であり、馬よりも馬力があるが、
足は馬よりも遅い動物である。
ただ、足が遅い代わりに非常に丈夫で、魔物に襲い掛かられても
その巨大な甲羅の中に籠もってしまうため、危険な道や、山登りな
んかをしがちな道を進む馬車にはよく使われる。
ハトハラーの村へと続く道は、都会のある西に向かう道よりも当
然、整備されておらず、また勾配も激しいために大亀が適している
という訳だ。
ただ⋮⋮どう見てもただのデカい亀だからな。
こんなんだと百年たっても故郷に辿り着けない気がしてしまう。
実際のところ、足が遅いと言っても馬車に使われるほどの動物な
1336
のだ。
馬より多少遅い、くらいで十分な速度が出せる。
足も普通の亀より長く、ちょっと面白い形をしている。
﹁いつもしっかり辿り着いているのだろう? なら安心ではないか
⋮⋮御者は⋮⋮あぁ、いたな﹂
きょろきょろとしながら、御者がどこにいるのか探していたロレ
ーヌは、一人の老人を見つけて頷きながらそう言った。
老人はさきほどの活気あふれる区画で声を上げていた者たちとは
異なり、パイプを燻らせながらぼんやりと馬車の荷台に寄りかかっ
ていた。
やる気が見られない。
が、その気持ちは分かる。
わざわざこの辺境都市よりも東に向かう人間なんて、呼び込むま
でもないからな。
数も少ないし、ほとんど顔ぶれは決まっているので呼び込むだけ
労力の無駄なのである。
﹁ご老人、ハトハラーまで乗せてほしいのだが、代金はいくらかな
?﹂
ロレーヌがそう尋ねると、老人は顔を上げて、
﹁⋮⋮銀貨五枚だよ。昼飯は出すが、それ以外は途中止まる宿場町
で勝手に食べてくれ。人数がたまったら行くから、それまで荷台に
いるか、その辺で待ってな﹂
と言った。
銀貨五枚が高いか安いかは難しいところだが、ハトハラーはほぼ
1337
終点だからな。
一週間ほどかかることを考えれば、昼食付きなら安い方だろう。
西に向かう馬車はもっと安いが、それは街道が整備されていて、
乗る人数も多いからだ。
ど田舎はこんなところでも不便なのであった。
だからこそ、里帰りもあまりしなかったというのもある。
金がないから、と言って歩いて帰るのは流石にきついからな⋮⋮。
﹁じゃあ、二人で金貨一枚だな。頼んだ﹂
そう言って、ロレーヌがさっさと払ってしまう。
俺も懐から銀貨五枚出して、ロレーヌに渡そうとしたが、
﹁帰り払ってくれ。小銭が増えても仕方ない﹂
と言われてしまった。
行動が⋮⋮俺よりも男前なんだよな。
俺が女々しいだけか。なんか申し訳ないが、言われた通り、帰り
は俺が払えばいいか。
あとは宿場町の飯代とかで返そう。
旅の何が楽しいって、その場所でしか食べられない珍味とかが食
べられることだからな。
大体はありがちな田舎料理とかなのだが、たまに掘り出し物とい
うか、そこに住んでる人間は大したものだと思ってないのに、非常
カーティス・マント
に珍しい品とかが出てくることがある。
大冬蛙の卵とか、子供の殺人蟷螂の揚げ物とかな⋮⋮。
両方美味しくはあったが、見た目があれだったので一口目が恐ろ
しかったのを覚えている。
途中、止まる宿場町でまだ出しているだろうから、ロレーヌにも
食べさせてみよう。
1338
﹁さて、しばらく待つか。出発が楽しみだな﹂
ロレーヌがそう言ったので、俺も頷く。
﹁ああ。楽しみだ﹂
ロレーヌが珍料理になんていうか。
というのは少し意地悪に過ぎるかもしれない。
なんだかんだ言ってロレーヌは都会の人だから、厳しいかな。
色々想像しつつ、俺たちは人が集まるのを待ったのだった。
1339
第197話 旅と焚き火
﹁出発する。乗り込んでくれ﹂
しばらくして、数人の乗客が集まったようで、御者が俺とロレー
ヌにそう、声をかけた。
荷台に乗って、乗客の顔ぶれをさりげなく確認してみる。
俺とロレーヌを入れて、全部で六人だ。
多いのか少ないのか⋮⋮。
若い娘と中年男の組み合わせと、老人夫婦がいるだけである。
冒険者はあの中年男がそうでないかぎりは俺とロレーヌだけ、と
いうことだな。
向かう場所が場所であるから、御者が多少の戦闘能力を持ってい
るし、街道のような人間の手によって開かれた場所には魔物は現れ
にくいが、それでも皆無ではない。
また、道中の危険は魔物だけでなく、盗賊もいるから、いざとい
うときは俺たちが頑張るしかないだろう。
流石に老人や若い娘に戦えという訳にもいかないからな。
ロレーヌも若い娘と言えばそうなんだが、その前に凄腕の魔術師
である。
戦わせて問題ない。
御者が、御者台に座り、鞭を持つ。
ぴしり、と大亀の甲羅をそれで叩くと、鈍く反応した大亀が、た
った今目覚めたかのようにのっそりのっそりと歩き始めた。
⋮⋮遅い。
しかし、それは街を出るまでの事で⋮⋮。
1340
﹁⋮⋮大亀の馬車には初めて乗ったが、意外と速いものなんだな﹂
とロレーヌが少し感動していた。
実際、荷台の幌から外を覗いてみると、景色がかなりの速度で後
ろに過ぎ去っていく。
間違いなく人間が普通に走るよりも速い。
御者台の側から顔を出して大亀の動きを見てみると、その足は結
構しゃかしゃかと動いていて亀っぽくはない。
歩き始めは鈍いが、加速すると結構な速度の出る生き物なのであ
る。
これで馬力があるので、やはり重宝される理由は分かる。
性質も温厚で、丈夫だしな。
しかしそうはいっても⋮⋮。
﹁⋮⋮今日のところはここまでだ。野宿で悪いんだが、この辺りは
宿場町の間隔が遠くてな。この辺りは魔物も少ないから、安全なは
ずだ﹂
と御者が言って、馬車を止めた。
その言葉に、馬車の乗客のうち、ロレーヌだけが目を見開いてい
て、
﹁⋮⋮なるほど、これが田舎と言うことか⋮⋮﹂
と田舎を馬鹿にする発言をする。
しかし、その気持ちは分からないでもなかった。
西側に向かう道は、普通に進めばほぼ半日おきくらいに止まれる
宿場町が配置されているからな。
こんなことはふつうあり得ないのだ。
1341
しかし、こちらの道はど田舎だから、よくあると言うか、一日目
はもうこういうものだと決まっている。
間に小さくてもいいから町を作ればいいのだが、この辺りに前に
あった村が数十年前に魔物に襲われて壊滅したばかりだ。
問題の魔物は当時、しっかり討伐されたらしいが、もうこの辺り
には住みたくないと生き残りたちはマルトか、それよりも西の都会
に移っていった。
それいらい、この辺りに宿場町が出来ることもなく放置されてい
る。
そろそろそんな災害の記憶も薄れてきたころだろうし、誰かが音
頭をとれば村おこしも出来そうだが、そういうことをしようとする
人間と言うのはそうそう簡単に現れないからな。
難しいところである。
﹁別に野宿くらい、慣れてるからいいだろ?﹂
俺がロレーヌにそう言うと、
﹁まぁな。昔、よくお前に引きずりまわされて、覚えさせられたこ
とだしな﹂
と返された。
ちょっとだけ根に持っているような口ぶりだが、当然冗談だ。
引きずり回したのは事実だが。
なにせ、当時のロレーヌと来たら何もできなかったからな。
今でこそその明晰な頭脳と器用な手先で大体のことは出来るよう
になっているが、当時は焚き火のために必要な木の集め方すら知ら
なかった。
色々と魔術は知っているのだが、その使い方も生活に役立てる方
向ではほとんど考えてなかった。
1342
だから、野宿なんて出来やしなかったのだ。
ただ、今となっては野宿にロレーヌが一人いると非常に便利だ。
﹁御者どの。夕飯の煮炊きはどうするつもりだ?﹂
ロレーヌが御者に尋ねると、
﹁干し肉があるくらいだが⋮⋮別にやりたいなら好きにやってもえ
え﹂
と返してきたので、
﹁ではそうさせてもらおう。銅貨三枚もらえれば御者殿の分も作る
が?﹂
﹁む⋮⋮そうだな、出来るなら頼む﹂
そう言って、御者は三枚銅貨をロレーヌに渡す。
ロレーヌはそれから他の乗客たちにも同じように言って、集金し、
それから、
﹁じゃあ、作るか。レント﹂
と俺に声をかけた。
街を出る前に食料は結構買い込んでいる。
原価より少し高いかなくらいの料金設定で、俺たちに損は出ない。
俺は魔法の袋から食料や鍋、調理するための台を取り出し、下ご
しらえを始め、ロレーヌは地面に魔法陣を描きだした。
そして軽く呪文を唱えると、ぼっ、と火が付く。
1343
その様子を乗客たちは興味深げに見つめる。
魔術師は探せばそれなりにいるものだが、あまり人前で魔術を披
露することは無いからな。
特にこういう、生活のために使うような魔術は魔力温存のために
使うことは少ない。
しかし、ロレーヌはかなりの魔力量を持つし、彼女の魔法陣関係
は極限まで簡略化されているから非常に効率がよく、維持に使う魔
力は少量らしい。
らしい、というのは俺がロレーヌの魔術についてまださほど詳し
くないため、はっきりとは分からない部分が多いからだが、実際、
ロレーヌは軽々とこれくらいのことをやる。
魔法陣自体も、初歩的な知識に基づいてみても、確かにとても綺
麗なように思える。
俺もロレーヌに学んでいれば、そのうち、あれくらいは出来るよ
うになる⋮⋮はずだ。
ちなみに一人のとき、俺はどうやって野宿するかと言えば、魔法
陣ではなく単純な焚き火をする。
こっちの方が冒険者的にも一般的だな。
魔力の温存は重要な問題だからである。
⋮⋮っと、そんなことを考えているうちに、食材の下ごしらえが
終わる。
鍋に調味料と一緒に入れて、あとは⋮⋮。
﹁ロレーヌ﹂
そう言うと、ロレーヌが呪文を唱える。
すると、地面の土が盛り上がって、即席のかまどが出来上がった。
その上に鍋を置き、さらに鍋の中にロレーヌが魔術でもって水を
注いでいく。
1344
これは俺にも出来そうだが、力加減とか間違って水浸しにしそう
で怖いから、まだロレーヌ任せだ。
ロレーヌは必要なだけの水量をぴったりと鍋に入れ、それを確認
して蓋を締めた。
このままことこと煮込めば、かなりアバウトだがまぁまぁうまい
煮込みの完成である。
街中だと料理とも言えない料理だが、野宿のときには十分なごち
そうとなる。
しばらくして蓋をあけると、湯気と共に辺りにいい香りが広がっ
た。
親子連れも、老夫婦も、御者も、楽しみそうにそれを眺めた。
彼らに煮込みを入れた椀と、それから黒パンにハムとチーズを載
せたものを配り、
﹁じゃあ、食べるか﹂
とロレーヌが言ったところでみんな食べ始めた。
老夫婦は食べる前に何か神に祈っていたが、聞いたことがない祈
りで、おそらくは土着の宗教か何かのそれなのだろう。
この辺は田舎だから訳の分からない神様を祭る村々が結構あるの
である。
と言って、別にそれは責められることではなく、信心深い人たち
だな、で終わりだが。
俺が以前直したあの祠だって何を祀っていたのか謎だしな。
煮込みはかなり好評で、これから目的地につくまでの間、有償で
も作れるようであれば頼みたいと言われた。
俺たちとしてはそのつもりで色々買い込んでいたので、全く問題
ない。
1345
巨大なタラスクすら詰め込める魔法の袋の容量は六人の一週間分
の食材くらい簡単に飲み込んでいるのだ。
食事を終えて、見張りの時間が来る。
比較的安全とは言え、魔物が全くいないという訳ではないので、
どうしたって見張りが必要だ。
こういう場合は、御者が二人いない限りは、乗客の中で体力のあ
りそうなものが夜番を交代で任される。
今回の場合は、俺とロレーヌ、それに親子連れの中年男だ。
アンデッド
正直、このメンバーの中で一番この仕事に向いているのは、ほぼ
眠らなくても問題のない俺なのだが、不死者なんで寝なくて大丈夫
ですよ、私やります!とか明るくいう訳にもいかないので、普通に
御者を入れて四人で交代しながらやることになった。
御者、中年男、ロレーヌ、俺の順番だ。
大して眠くはなかったから、御者のやってるときだけ少しだけ眠
り、あとはずっと起きていた俺である。
そして、ロレーヌと焚き火を囲みながらどうでもいい雑談をして
いると⋮⋮。
﹁⋮⋮招かれざる客かな﹂
とロレーヌがふと呟いた。
背後の森の中に人の気配を感じる。
1346
第198話 旅と竜巻
それからしばらく森の方を見つめていると⋮⋮。
﹁⋮⋮人と言うより、人の成れの果てだったか﹂
とロレーヌが同情的な声色でつぶやく。
俺はそれに、
アンデッド
﹁数十年前と言っても、不死者には関係ないからな。俺のように何
か摂取しないといけないタイプならともかく、あれは⋮⋮﹂
﹁ああ﹂
ゾンビ
︱︱腐肉歩きだ。
そう言った。
◇◆◇◆◇
俺とロレーヌの視線の先には、ぼろぼろの服と竹槍やクワなどを
ゾンビ
持った、腐肉を臭わせるよろよろとした人型がある。
アンデッド
あれこそが腐肉歩きと呼ばれる魔物であり、俺とはタイプの異な
る不死者の一員であった。
1347
ヴァンパイア
ゾンビ
俺と異なるのは、俺は一応、吸血鬼系統で、存在するためには外
部から血と言う形でのエネルギー摂取を必要とするが、腐肉歩きは
ゾンビ
そう言った制限が特にないことだろうか。
ただ、その代わりなのか、腐肉歩きの力は酷く脆弱なことが多く、
体も脆い。
もちろん、そうは言っても普通の人間にとってはかなりの脅威だ
が。
ゾンビ
生きているときは体に過大な負荷をかけないように、構造的に人
間の体は全力を出せないようになっているらしいが、彼ら腐肉歩き
にとってはそのような制限など関係がない。
体の可動域も広がっていて、その気になれば首はぐるんぐるん回
るし、腕も足も関節など存在しないとでも言いたげにおかしな方向
に稼働したりする。
そのため、意外と冒険者にも嫌がられる面倒な相手でもある。
一番会いたくない理由は、その臭いと不潔さだが⋮⋮。
彼らは病を媒介することも多いからな。
周囲を適当に歩き回っているくらいならともかく、こっちに近づ
けるわけにはいかない。
さっさと倒すべきだ。
俺もロレーヌもすぐにそう結論した。
問題はどう倒すかだが、これについては俺がロレーヌに、
﹁⋮⋮魔術かな﹂
とぼそりと言えば、その意図を即座に汲んで、
ゾンビ
﹁ま、そうだろうな。お前がやれば確実に汚れるだろう。ここは私
の出番だ﹂
ワンド
そう言って懐から短杖を取り出し、腐肉歩きたちに近づいていく。
1348
ワンド
近付きながら無造作に短杖をふぉんふぉん振っていて、何をやっ
ているのかな、と思っていたら風がこちらから向こう側に緩やかに
吹き始めていた。
無詠唱魔術だ。
比較的低級の魔術であるが、それでもあそこまで何でもないよう
に無詠唱魔術を行ってしまえることがロレーヌの実力を示している。
俺も使えはするけど、二、三の生活魔術を十年使い続けて身に着
けたにすぎないわけだから、たいしたものじゃないんだよな。
なにせ、ほとんど制御が必要ないから。 ロレーヌの使った魔術はそうではないし、風を吹かせた意味を考
ゾンビ
えるとしばらく維持していなければならないから難しいはずである。
ゾンビ
腐肉歩きの匂いやら欠片やらかこっちに飛んでこないように吹か
ゾンビ
せたのだろうからな。
そして、腐肉歩きたちの正面に辿り着いたロレーヌに、腐肉歩き
たちはよろよろと囲み始める。
生者の光につられてこの野営地に来たようだが、それでもあまり
視力は良くないようだった。
俺の方、つまりは馬車がある辺りにはほとんど関心を見せず、近
づいてきたロレーヌの方ばかりを見ている。
それでも、どこかに伏兵がいる可能性もあるから俺はここで警戒
ゾンビ
しつつ周りを見ているが、今のところ近くにはその気配はない。
ま、腐肉歩き程度に少しでも気配を隠しながら近づく技術という
か思考能力はないからな。
ゾンビ
あまり心配しすぎることもないだろう。
ただ、若干遠くには目の前にいる腐肉歩きたちの気配を感じるが
⋮⋮なぜか徐々に減っていっているので問題ないだろう。
同士打ちか、それとも他に冒険者がいるのか⋮⋮。
一応、警戒しておく。
そしてとりあえず今はそれよりもロレーヌだな。
1349
囲まれたロレーヌは、
パルウム・イグニス・ト
﹁⋮⋮うむ。このくらいでいいだろう。他にはいないな⋮⋮では。
﹂
風よ吹け、火よ燃えろ。竜巻となりて周囲を焼き尽くせ︽小火竜
ゥルボー
巻︾
そう詠唱した。
するとその直後、ロレーヌの周囲にいくつもの炎が灯火のように
出現し、また風が吹きすさび始める。
ゾンビ
そして風は灯火を巻き込み、火炎竜巻を作り出した。
腐肉歩きたちは、腐りきった脳でも一応、少しは思考能力がある
のか、竜巻から逃れるべく、その外側に向かって引き始めたが、竜
巻が彼らを巻き込もうとする力の方が強く、抜け出すことは出来な
かった。
彼らは赤い炎を上げる火炎竜巻に燃やされ、徐々に灰へと姿を変
えていく。
森の近くで火の魔術を使うのは色々な意味で自殺行為に思えるが、
それは未熟な魔術に限られる。
ロレーヌくらいになると、森で火の魔術を使っても、完全に制御
できるために延焼させることがないので問題がないのだ。
俺がやれば間違いなく森は山火事になって終わるけどな。
ゾンビ
恐ろしすぎて使う気にならない。
しばらくすると、腐肉歩きたちはそのほぼすべてが灰燼に帰して
いた。
とてつもない威力を持った魔術である。
しかし、これでロレーヌは加減しているはずだ。
詠唱が適当だったし、威力を抑える詠唱も加えていたくらいだし
1350
な。
火炎竜巻が縮小し、消えると、その中心だった場所に無傷のロレ
ーヌが立っていた。
彼女は俺の方を向いて、言う。
﹁レント、こっちに来てくれ﹂
何だろうか、と思って近づくと、そこには積み上げられた灰と、
魔石が転がっていた。
あの腐肉歩き︵ゾンビ︶たちのものであることは明白だが、すべ
て吹き飛ばしたのかと思っていたらしっかりと集めていたらしい。
本当に魔術の細かい制御がうまいな⋮⋮。
しかし、これでなぜロレーヌが俺を呼んだか理解できた。
ロレーヌは続ける。
﹁灰まで焼き尽くせば問題ないかと思ったが、集めてみると意外と
ダメだった。聖水を使ってもいいんだが、ここには便利にもお前が
いるからな⋮⋮頼めるか?﹂
ゾンビ
つまり、腐肉歩きたちの灰や魔石には、邪気や瘴気が満ちていた。
俺の力で浄化を、というわけだ。
1351
第199話 旅と肥料
ゾンビ
通常、腐肉歩きに限らず、浄化が必要な不浄なる魔物を倒したと
き、冒険者がどうするかと言えば色々と方法がある。
たとえば、先ほどロレーヌが言ったように聖水で死骸を浄化する、
というものだ。
活動しているときや、よほど強力な存在でない限りはそれで必要
にして十分なので、これを行う者が比較的多いだろう。
ただ、一番多いのは、何もしないパターンだろう。
聖水は値が張るものであるし、常にそれを持ち歩く者は冒険者で
も多くない。
不浄なる魔物の討伐依頼を受けているなら良識ある冒険者であれ
ば持ってくるだろうが、そもそも面倒だとか、利益が減るからと持
ってこない者が多いのだ。
そうなるとどうなるかと言うと、その場に放置、ということにな
る。
これはあまり良くない行動で、それは不浄なる魔物の死骸がそこ
にあると、その地は呪われ、いずれタラスクの沼のような地へと姿
を変えることになるからだ。
ゾンビ
人の住めない土地が出来上がってしまうのである。
もちろん、腐肉歩き程度の邪気や瘴気であれば、放っておいても
せいぜい、その死骸のあった場所に数年草木が生えなくなるとかそ
の程度なのだが、それでも放置は良くない。
それを考えて、ロレーヌはこうやって灰をしっかり集めたわけだ。
魔石の方は単純に後で売ろうと思って収集しただけだろうが、こ
れも浄化は必要だ。
ただ、ロレーヌがやったように、灰になるまでに粉々にした場合
1352
には、浄化は必要ない場合もある。
あのまま竜巻にのせて、周囲に細かくばらまけば、邪気も瘴気も
分散されて、大した被害は出ないからだ。
その場合、出る被害として考えられるのは、この辺りを通りがか
るとちょっと気分が悪くなるとか、植物の成長が少し遅いなとか、
そのくらいだな。
それでも良くはないのだが、その程度は許容されているのが現実
だろう。
ただ、ロレーヌは良識ある冒険者だった、ということだ。
彼女も聖水は持っていて、俺がいなければそれを使っただろう。
今は俺がいるので、使う必要はないわけだが。
なにせ、聖水は高い。
温存できるならしたほうがいい。
その点、俺は聖気をいくら使おうが、しばらくすれば回復するか
らな。
聖気使いの有用さが分かる。
﹁じゃあやるか﹂
俺はそう言って、集積された灰と魔石に向かって手を掲げ、そこ
に聖気を込め始めた。
浄化も治癒も、感覚的にやり方が分かるのが聖気のいいところだ。
きっと体系的な使い方をした方が効率はいいのだろうが、それを
学ぶにはどこかの宗教団体に入るくらいしかないからな。
あとはフリーの聖気使いに頼み込むとか。
あんまりいないのだが、皆無ではない。
ゆっくりと聖気を注ぐと、灰と魔石に籠もっていた禍々しい気配
が解け、空気の中に溶けていく感じがする。
1353
しっかりと浄化されているようで、ほっとする。
使い方が分かっているとはいえ、これで正しいのか、という不安
は尽きないからな。
今回は問題がないようだからいいのだけど。
ただ⋮⋮。
﹁⋮⋮さすがは出張肥料だな。浄化するとこんなことになるのか⋮
⋮﹂
と、ロレーヌが浄化された灰の中を見つめてそう呟く。
俺は、
﹁⋮⋮出張肥料はやめてくれ。この結果を見ると、その呼び名がま
さに正しいことを認識せざるを得ないけどな﹂
と答えて、同じく灰の中を見つめた。
そこには、ぴょこぴょこと双葉のようなものがいくつも生えてい
て、明らかに今俺が聖気を使ったことにより生えてきたことが分か
る。
邪気や瘴気に穢されたところには草木は生えないものなので、こ
うやって小さい芽が生えていることは、ここがしっかりと浄化され、
植物が生育できる環境が整ったということを示しているわけだから
いいことなのだが、出張肥料感が増したことに愕然としたものを感
じざるを得なかった。
﹁⋮⋮まぁ、いいか。何か被害があるわけでもなし。魔石の方もも
う手に取って大丈夫だな?﹂
ロレーヌが諦めたようにそう俺に尋ねてくる。
1354
俺は魔石を見て、特に邪気や瘴気を感じないのを確認し、頷いた。
ゾンビ
﹁ああ。ま、腐肉歩きの魔石じゃ大した金にはならんだろうが⋮⋮﹂
﹁まぁな。そこは私が死霊術の研究にでも使うさ。ちょうどいいだ
ろう﹂
ロレーヌは何でもないことのように言ってるが、一応それは禁術
である。
国が認めてないとか使ったら処罰されるとかいう訳ではないのだ
が、倫理的に使うべきではないとされているという意味で。
そもそも死霊術自体、伝説的な技術で今は失伝していると言われ
ている。
だからこその研究、というわけなのだろうが、ロレーヌが真面目
にやったら復活させてしまいそうでちょっと怖い。
しかし、ロレーヌがそんなものに興味があったとは意外だった。
﹁なんで死霊術の研究を?﹂
俺が気になってそう尋ねると、ロレーヌは、
アンデッド
アンデッド
﹁不死者の理解に役立ちそうだからな。もう失伝してしまっている
わけだから素直に現実に存在する不死者の研究をする方が近道かも
知れないが、もしかしたら何かの役に立つかもしれんし⋮⋮﹂
と答える。
それで、理由が分かった。
﹁⋮⋮要するに、俺のためか?﹂
1355
そう俺が尋ねると、ロレーヌはさも当然のような顔で、
﹁当たり前ではないか。流石の私も禁術に好き好んで手を突っ込ん
だりはしないぞ。ま、別に研究したからといって処罰されるわけで
はないからもともと問題ないというのもあるがな﹂
と答える
なんだか負担をかけてばかりで悪くなり、
﹁⋮⋮申し訳ないな﹂
というと、ロレーヌは、
﹁そういうときはそうじゃないぞ、レント。他に言うことがあるだ
ろう?﹂
と言ったので、俺は、
﹁そうだな⋮⋮ありがとう。いつも助かってる﹂
と答える。
するとロレーヌは、
﹁なに、気にするな﹂
と言ったのだった。
◇◆◇◆◇
それからしばらくして、
1356
ゾンビ
﹁⋮⋮おや、また誰か近づいてくるな? 今度こそは人間か?﹂
とロレーヌが言う。
俺もそれには気づいていた。
というか、先ほど遠くに感じていた腐肉歩きたちらしき気配が軒
並みなくなっていることから、それと交戦していた何かが来たのだ
ろう。
ゾンビ
近づいてくる気配は一つだ。
遠くに感じた腐肉歩きたちは結構な数だったので、もし人だとす
れば、一人で倒せると言うことになる。
かなりの手練れだ。
冒険者ならいいが、盗賊か何かだったらまずい。
俺もロレーヌも警戒しつつ、その何かが近づいてくるのを待った。
1357
第200話 旅と同業者
﹁⋮⋮子供、か?﹂
ロレーヌが森から現れたその存在を見て、そう呟いた。
しかし、そんなはずはない。
﹁こんな何にもない整備されてない街道のど真ん中に子供なんてい
るはずがないだろ﹂
だから俺はそう言って否定する。
絶対にありえない、とまでは言えないかもしれないが、十中八九、
そんなわけはないのだから。
大体、その︽子供︾には際立った特徴があった。
その︽子供︾は、俺たちの前に立つと、口を開く。
ゾンビ
﹁⋮⋮腐肉歩きどもをこちらに逃がしてしまったと思うとったが、
お主たちが倒してくれたのかの?﹂
物凄い、時代がかった話し方だった。
俺たちの祖父母の時代、それよりも前の時代の言葉遣いである。
とは言え、何を言っているのかはわかるので、特に意思疎通に問
題はない。
ロレーヌがその︽子供︾の言葉に返答する。
﹁あぁ⋮⋮一応、私が倒した。そこに積もっている灰がそれだな﹂
と、積み上げられた灰を指さす。
1358
︽子供︾はなるほど、と言った様子で頷き、
ゾンビ
﹁灰に⋮⋮ということは魔術師か。確かに見れば魔力も優れておる
様子。それであればあの程度の腐肉歩きなど物の数ではあるまい。
が、こちらにあれが来たのはわしが討ち漏らしてしまったからじゃ。
悪かったのう⋮⋮﹂
としおらしい様子で謝られた。
しかし、打ち漏らした、ということは、あの魔物たちはこの︽子
供︾の討伐対象か何かだったのかな。
気になって俺は尋ねる。
ゾンビ
﹁あの腐肉歩きどもは⋮⋮?﹂
﹁おぉ、あれはな、この辺りで四十年ほど前に滅びた村の村人たち
の成れの果てよ。奴らは特に食事の摂取が不要じゃからの。誰かが
討伐しない限りは、いつまでもそこにあり続ける。まぁ、村のあっ
た辺りにはそれ以来誰も入ってなかったようじゃから、ほとんど休
眠状態じゃったがの﹂
ゾンビ
腐肉歩きたちは、食事の摂取が不要な代わりに、その活動は鈍く、
また周囲に襲うべき生き物がいないときには完全に停止する。
その状態をもって休眠と言うのだ。
何かのきっかけで活動を再開するわけだが、おそらく今回はこの
︽子供︾が廃村に入ったために活動し始めたのだろう。
アンデッド
なんというか、その状態に俺は何とも言えないものを感じる。
不死者であるというのは、つまりそういうことなのだなぁと思っ
て。
︽死なない︾ことと︽生きている︾ことはやっぱりどうしてもイ
コールで繋がらない。
1359
ただあり続けたって、思い出す人間がいなければいないも同じな
のかもしれないと。
⋮⋮悲観的すぎか。
そんな表情が顔に少し出たのかもしれない。 ︽子供︾が何を勘違いしたのか、言う。
﹁なに、すべて葬ってやったからもう現れん。流石にあの状態のま
ま、放置しておくのは不憫じゃしの。これでもわしは聖術師じゃか
ら、邪気を払うのも得意じゃ。その灰の邪気も払って⋮⋮むむ?﹂
ゾンビ
言いながら、︽子供︾がロレーヌが燃やし尽くした腐肉歩きの灰
に近づく。
話の内容から、あ、ちょっとやばい、と思ったがもう後の祭りだ。
大体、本当に聖気を使えるというのなら隠しようがない。
そして、それは事実だ。
ゾンビ
︽子供︾の手に聖気が満ちているのが見えるからだ。
なるほど、大量の腐肉歩きを簡単に狩れるわけだと深い納得があ
った。
﹁⋮⋮これは、すでに邪気が払われておるの? 魔術で焼き尽くし
てもこれだけ灰にして集めれば消えるものでもあるまいし、聖水で
も持っておったか?﹂
その言葉にロレーヌが懐から聖水の瓶を出して、
﹁あぁ、こういうときのためにな﹂
と言うと、︽子供︾は納得したように頷き、
1360
アンデッド
﹁ほほう、最近の冒険者にしては殊勝な心がけじゃ。不死者はどこ
にでもおるが、倒したあとの処置を怠ると災害になるからのう。昔
は誰でも聖水くらい携帯しておったもんじゃが、最近は⋮⋮っと愚
痴になってしもうたな。許せよ﹂
﹁いや⋮⋮﹂
アンデッド
確かにここにも不死者はいるなぁ、と思いながら曖昧にそう返答
する。
別に隠匿しているというほどでもないが、積極的に聖気使いだと
喧伝したいわけでもないから、このまま流してくれれば、と思った
俺だった。
しかし、︽子供︾は、
むら
﹁しかし綺麗に浄化されておるのう⋮⋮斑もない⋮⋮聖水ではこれ
ほどまでには出来んはずじゃが⋮⋮やや!? これは⋮⋮草? な
ぜ灰に⋮⋮しかも、これは聖気を発しておる! の、のう、お主ら、
何かわしに隠していることは無いか!?﹂
と慌てた様子になって尋ねてきた。
警戒して距離をそこそことっていたはずなのに、即座に詰められ
た。
冗談でもなんでもなく、聖気があるなしに関わりなく、かなりの
手練れなのだとそれで分かる。
それでも、仮に攻撃されたら反撃するくらいの間はとれそうなの
で、まだ大丈夫だ。
それに、特に今のところ敵意は感じないため、武器を抜くわけに
もいかない。
とりあえず、とロレーヌが︽子供︾の言葉に答える。
1361
﹁⋮⋮隠している事も何も、何もまだ話していないからな。お互い
に名前すら﹂
至極全うな答えだ。
実際は確かに俺が聖気を使え、それによって浄化をした、という
ことを隠しているわけだが、別に嘘は言っていないのだからいいだ
ろう。
ロレーヌの言葉に︽子供︾は納得したようで、
思える。
﹁⋮⋮そうじゃったな。まだ自己紹介もしておらなんだ。お主らの
警戒もそれが理由か?﹂
無邪気なようでいて、そんなことはまるでないことは、たった今
見せた、その無駄のない動きでわかる。
頭の働きも早そうだしな。
俺とロレーヌが頷くと、
﹁⋮⋮ううむ、やはり最近では中々見ない、骨のある冒険者じゃの。
お主らの名前が知りたくなった。とは言え、まずはわしからじゃ。
わしの名は、アルヒルディス。しがない冒険者じゃ。これで金級じ
ゃぞ! ほれ﹂
と言って、冒険者証を掲げた。
なんだかんだ言って、冒険者証の提示が冒険者同士が出くわした
ときにもっとも簡単かつ信頼性の高い身分証明方法であることは論
を俟たない。
輝かしい金色に光るその冒険者証は間違いなく本物のようだ。
︽子供︾⋮⋮アルヒルディスは未だ警戒を解かない俺たちに、親
切にも冒険者証を投げ、
1362
﹁気が済むまで確認すると良い﹂
とまで言ってくれる。
ここまでして偽物、ということもあるまい。
ただ、たまにいるからな。
冒険者証を偽造して冒険者のふりして襲い掛かってくる盗賊とか。
ここまででは、かなりその可能性は薄いが⋮⋮。
しかしそれにしても俺もロレーヌも疑いすぎな感じはあるが、そ
れもこれも結構仕方がないのだ。
いつもだったらここまで疑わない。
しかし、アルヒルディスと名乗った︽子供︾の容姿が大きく問題
なのだ。
矯めつ眇めつ見て、どうやらやはり本物、と判明した冒険者証を
投げ返してから、ロレーヌが言う。
﹁⋮⋮疑って悪かった。しかし、こちらの気持ちも理解してほしい。
エルフなど、こんな辺境では滅多に見ないものでな﹂
そう。
アルヒルディスの容姿は、際立って珍しかった。
特にこの辺境では。
それはそう言う意味だ。
輝かしいミディアムボブの金色の髪に、空よりも深い青の瞳、人
よりも長く尖った美しい流線型の耳に、十歳前後にしか見えない容
姿の割に、湛えている雰囲気は老成した何者かだ。
いくら愛らしい少女にしか見えないとはいえ、疑わない方が不可
能、というものだろう。
1363
第200話 旅と同業者︵後書き︶
200話に到達しました。
また18時に更新しますが、今のうちに言っておこうと思います。
今年は一年、本当にありがとうございました。
この作品も、この作品以外からの読者の方にも大変お世話になりま
した。
この作品は特に、かなり好き勝手に書いている自覚があるので、
こんなに沢山の方に読んでいただけているという事実にとてもあり
がたい気持ちでいっぱいです。
来年も頑張りますのでよろしくお願いします。
1364
第201話 旅と煙
﹁ま、そりゃそうじゃ。大体わしとて、ここで強力な魔術の使われ
た気配を感じて少々警戒してやってきたしの。お互いさま、という
奴じゃな﹂
アルヒルディスはさらりとそう言って笑う。
先ほどから無邪気かつアバウトな雰囲気を彼女に感じていたので、
この言葉は少しだけ意外だ。
少しだけ、というのはやはり彼女はエルフであるため、そういう
老獪さを持っていることはむしろ普通であるためだ。
極めて幼い⋮⋮人族であれば十歳前後にしか見えない容姿である
にしても、精神は何十年、何百年生きているか知れたものではない。
そこまで年齢が離れていては、もうその精神は俺たちから見れば
別の生物と言っても過言ではないだろう。
⋮⋮実際、俺は別の生物だしな。
俺、ロレーヌ、アルヒルディス、三人とも別種族というわけだ。
なんか面白い。
が、そんなことは言えないから素知らぬ顔で話を続ける。
﹁そう言ってもらえると助かるな。おっと、こちらも自己紹介を。
私はロレーヌ・ヴィヴィエ。学者兼冒険者の魔術師だ。で、こっち
が⋮⋮﹂
﹁レントだ。俺も冒険者だな。主に剣を使ってる﹂
戦い方を言うのは、冒険者の名乗るときの形式だな。
1365
アルヒルディスの方は冒険者証を見せてくれた時点で分かってい
る。
魔術師、と一応書いてあったが、聖気を使う時点でそれは表向き
と言うことになるからな。
あんまり意味はない。
俺やロレーヌにしたって、別に魔術や剣術だけ、というわけでも
ないし。
冒険者証も二人そろって提示しているが、書いてある内容を見た
ところで深いところが分かるわけでもない。
やっぱり、一応の身分証明なのだ。
﹁ふむ、ロレーヌに、レントか。覚えておこう⋮⋮あぁ、わしのこ
となんじゃがな、アルヒルディスじゃながいじゃろ? ヒルデとか
ヒルディと呼んでほしいのじゃが⋮⋮﹂
アルヒルディスがそう言ったので、俺とロレーヌは顔を見合わせ
て、
﹁⋮⋮では、ヒルデ、と呼ぼう。言葉遣いは⋮⋮﹂
ヒルデはエルフであるところ、その年齢はおそらくは俺たちより
遥かに上だ。
さっき言っていたこと⋮⋮昔の冒険者は、と言った台詞からして
もそれは明らかだ。
聖水を誰もが持ち歩いていた時代なんて、それこそ俺たちの祖父
や祖母の時代だからだ。
つまりはそれくらい年かさの相手に、果たしてこの言葉遣いでい
いのか、とロレーヌは思ったのだろう。
しかし、ヒルデは、
1366
﹁別にそのまんまで構わんぞ。だいたい、皆わしを年寄り扱いしす
ぎじゃ。見れば分かると思うが、年の割に結構若いじゃろ、わし﹂
若いどころか幼いが、エルフの実年齢と外見年齢の差をどうやっ
て見るのかは俺には全く分からない。
ロレーヌは分かるのか、と思って目を見るも、私にもよくわから
んとそこには書いてある。
まぁでも、本人が若いと言っているのだし、若いのだろう。たぶ
ん。
そんな意識で、ロレーヌは頷き、しかし若さがどうこうという辺
りには触れずに、
﹁では、言葉遣いはこのまま冒険者らしく行こうか。それで⋮⋮ヒ
ルデ。貴女はなぜここに?﹂
答えによっては戦わざるを得ないわけだが、ここまでしっかり話
してしまってそんなことになるのは勘弁願いたいと言うのが正直な
ところだった。
そもそも、ふざけてはいるが絶対強い。
金級なわけだし、ニヴに匹敵するか、それ以上である可能性もあ
る。
エルフは長命であるがゆえに様々な技術に長けていることが少な
くないし、種族固有の精霊魔術だってある。
敵に回すと厄介な存在なのだ。
ロレーヌはとりあえず目的を聞いて、安心を得たいと考えている。
俺もまた同感だ。
そんな俺たちの心を知ってか知らずか、ヒルデはやはり邪気のな
い口調で、
1367
﹁おぉ、そうじゃな。語ると長くなるんじゃが⋮⋮かいつまんで話
そう。わしは王都を拠点にする冒険者なんじゃが、ついこないだ、
アンデッド
依頼を受けてのう。その依頼の内容は、トラカ村の復興のため、そ
ゾンビ
こに巣食う不死者の討伐、じゃった。先ほどまでそれをやっておっ
てな⋮⋮親玉は倒したんじゃが、腐肉歩きは数が多くて、いくつか
討ち漏らしてしまって⋮⋮それがこっちにやってきた、というわけ
じゃな。これについては実にすまんかった⋮⋮﹂
と言う。
トラカ村、というのは数十年前に滅びたと言うこの辺りにあった
村の名前だ。
俺は故郷の大人たちから聞いたことがあるから知っている。
ロレーヌも話の流れでそうだということは分かったようだ。
ヒルデの話も、先ほどそのトラカ村が四十年ほど前に滅びた、と
比較的正確な年代を知っていたことからすると嘘は言ってなさそう
だなと感じる。
大体、そもそもこの辺りはど田舎だ。
わざわざ何かしにくる理由が他に考えられないと言うのも大きい。
﹁討ち漏らしがこっちに来たことは別に構わないさ。すでに倒した
んだからな。俺じゃなくてロレーヌが、だけど﹂
俺がそう言えば、ロレーヌも、
﹁私も別に構わん。あれくらいなら大したものではないからな⋮⋮﹂
まぁ、今馬車で眠っている乗客たちからするとたまったものでは
ないだろうが、仮に俺とロレーヌがいなくても御者辺りで十分片づ
けられただろう。
怪我はしたかもしれないし、浄化も無理だっただろうけどな。
1368
しかし街道を進む以上、それくらいの覚悟をしていなければなら
ゾンビ
ないのは当然なので仕方がないと言えば仕方がない話だ。
﹁それにしても、腐肉歩き以外にもいたのか? 親玉がどうと言っ
ていたが﹂
ロレーヌの質問に、ヒルデは、
ゾンビ・ソルジャー
﹁おぉ、いたぞ。腐肉兵士が一体きりじゃがな。おそらく、あの村
で狩人か何かをしておった者じゃろう。奴らは死したのち、生前の
技術も振るうものじゃからのう。弓がうまかったが、強敵でもなか
った⋮⋮と、それはいいのじゃ。ま、わしの方はそんなところじゃ。
お主らは?﹂
この質問には俺が答える。
﹁俺たちは依頼でもなんでもない。ただの里帰りさ﹂
﹁なるほど、そこに見える馬車に乗って、どこかの村に向かう途中
じゃということじゃな。しかし男女二人でとは、お主ら、夫婦か恋
仲か?﹂
少し面白そうにヒルデがそう言ったので、俺は即座に、
﹁いや、違う。色々事情がな⋮⋮﹂
と言うと、ロレーヌがそれを継いで、
﹁さっき学者だと言っただろう? こいつの故郷が面白そうなんで、
ちょっと一緒に見に行こうと思ってな﹂
1369
と、嘘ではないが微妙に外した発言をする。
しかし、これは意外にヒルデには理解できる話のようで、
﹁確かにこういう手つかずの地域には過去の遺跡などもあったりす
るし、民話など集めてみても面白かったりするからのう。ふむ、お
主らの目的は分かった。それで、本題じゃが⋮⋮﹂
色々話しつつ、最終的に煙に負けないかな、と俺もロレーヌも思
っていたが、この語り口調からして無理らしいことを察する。
ヒルデは言った。
﹁この灰はどうやって浄化したのじゃ? それに、この生えている
植物は⋮⋮。できれば、理由を教えてくれると嬉しいのじゃが?﹂
1370
第201話 旅と煙︵後書き︶
これで今度こそ今年最後です。
本当にお世話になりました。
出来ましたら来年もまた、よろしくお願いします。
それでは皆様。
良いお年を。
1371
第202話 旅と看破
正直言ってあまり言いたくない。
ヒルデの質問にまず思ったのはそれだった。
人に知られていない手札は一杯持っておいた方が、後々いろいろ
と楽になるからな⋮⋮。
まぁ、しかし聖気を使える、ということについては昔からあまり
隠してはいないのだが、あの頃は大したことは出来なかったからな。
今、それなりに色々と出来るようになったということについては、
俺が事情について話した人々以外にはあまりいないのだ。
それを踏まえて、さて、どうするかということだが、そんな俺の
悩みを吹き飛ばすような台詞を、ヒルデが言う。
﹁⋮⋮と言っても、大体わかっとるのじゃがな。レント、お主、聖
気使いじゃろ?﹂
これに、俺は少し驚く。
少し、というのはヒルデは聖術師だと名乗っているわけで、何か
俺の知らない技術を持っているのかもしれないと思ったからだ。
実際、ヒルデはその点について続けて言う。
﹁普段であれば分からんのじゃがな、聖気を使ってしばらくは、よ
く見ればその者の体に聖気の残滓が残るのじゃよ。ただ、よほど注
意してみなければ分からないが⋮⋮すまぬな。勝手に見させてもら
ったぞ﹂
と。
1372
それが本当なのかどうかは、俺にもロレーヌにも分からない。
俺はラウラに聖術の本をもらったが、まだあまり読み進められて
おらず、身に付いていないからだ。
読めば何とかなるだろう、と思っていたが、意外と内容が難しい
と言うか、雲をつかむような話と言うか。
魔術であればイメージが浮かぶから本からでも魔術を収められる
のだが、聖術は感覚的に分からないところが多く書いてある。
まぁ、感覚で分かる部分については、今でも出来ているわけだか
ら、主にそういうところではなく、理論的に誰かが組み上げてきた
ものを書いているわけで、そうなると本の内容がそうなってしまう
のもさもありなんという感じはする。
だからこそ、さわりだけでも教えてもらえなければ、俺に聖術は
きつい。少なくとも時間がかかる。
そんな状態の俺に、ヒルデの言葉の真偽が分かるはずもない。
ロレーヌはロレーヌで、聖気は使えないし、基本的に見ることは
出来ないから分かるはずがない。
つまりはヒルデの口調やら雰囲気から嘘かどうか判断しなければ
ならないが⋮⋮。
無理だな。
俺とロレーヌは顔を見合わせて諦める。
ヒルデの顔には一切、そういうものを匂わせる仕草が出ない。
長い年月を生きたエルフのゆえか、ヒルデ個人の技術か。
どっちにしろ、俺たちには分が悪いだろう。
そもそも、仮にヒルデの言葉がブラフであったとしても、半ば以
むら
上確信があって言っているのは分かる。
聖水の浄化では斑がある程度できることは事実だからな。
俺も強く聖気が感じられるようになるまでははっきりとは分から
なかったが、聖気の力が上がっていくにつれ、邪気や瘴気にも敏感
になってきた。
1373
その目で見ると、聖水の浄化能力は、聖気に劣ると言うか、性質
が違うのだ。
聖水はピンポイントで浄化するのに向いている。
ある程度広がってしまうと、量が必要になるのだ。
⋮⋮霧吹きとかに入れればいいのかもな、とふと思いつくが、流
石に罰当たりか。
売れないかな。聖水入り霧吹き。絶対売れないな。宣伝が必要だ。
まぁ、それはいいか。
ヴァンパイア
それでヒルデをどうするかだが⋮⋮ここまで推測されている以上、
言ってしまった方がいいだろう。
変な目で見られ続けるのも辛いし、そもそも吸血鬼案件とは違っ
て、知られたからと言って殺される類の情報ではない。
そう思って、俺は口を開く。
﹁⋮⋮はぁ、そうだよ。俺が浄化した。少しだけ聖気が使えてな。
ただ、聖術みたいな体系化された技術はないんだ。特に深い信仰心
もないからな⋮⋮﹂
使えればここでも隠し通せただけに、悔やまれる話ではある。
これにヒルデは、
﹁やはりか。しかし、信仰心がない、というのはまずいかもしれん
の﹂
と少し眉根を寄せる。
﹁どういうことだ?﹂
俺がそう尋ねると、ヒルデは、
1374
﹁さっきも言った通り、お主が聖気持ちなのは、ある程度の使い手
には分かることじゃ。聖気使いが貴重なのはお主も分かっておるじ
ゃろ? そしてどの宗教団体も、聖気使いは欲しいものじゃ。布教
に大きな力を発揮するのは、聖者・聖女じゃからの。じゃから、昔
から勧誘合戦が行われてきたわけじゃが⋮⋮﹂
しかし、俺は未だにそう言った勧誘は受けていないな。
ニヴとミュリアスに会った時も、リリアンに会った時もだ。
あれで気を遣ってくれていたということだろうか。
リリアンは単純に俺が聖気持ちだと分からなかっただけかもな。
ニヴとミュリアスは⋮⋮ニヴが強烈すぎて言い出せなかった感じ
かもしれない。
大体あそこで勧誘されても嫌だ以外に答えはない。
﹁⋮⋮別に、断ればいいんじゃないか?﹂
﹁まぁの。ただ、一々それをするのは面倒じゃろ? それに、中に
は強硬な手段に出るところもないではないしの。聖気の隠し方くら
いは知っておいた方がよいぞ﹂
と、言われてもなぁ。
聖術の本を呼んでも今一よくわからないのだ。
言い回しなども特殊で、読みこなすのも精一杯で。
その辺りの逡巡を、ヒルデは読んだようだ。
﹁⋮⋮わしが教えてやっても構わんぞ? わしはどこの宗教団体に
も属しておらんからな﹂
これは事実だろう。
1375
エルフは独自の信仰を持っていて、人間が作り出した宗教を信じ
ることは少ないと言われている。
それも、エルフは信仰、というよりかは生活の一部としてそれを
取り入れていると言う。
つまりそれは︽聖樹︾だ。
エルフたちは︽聖樹︾を崇敬するものとして見ている。
まぁ、別に全員じゃないし、神々の存在を認めていないという訳
でもないのだけど。
その辺りは難しいところだ。
ともかく、ヒルデの提案は俺にとっては悪くはなさそうに思える。
が、とりあえず今は用事があるからな⋮⋮。
それに、ただで教えてくれるのか?
いやぁ、無理だろうな⋮⋮何を要求されるのか怖い。
﹁代わりに何かしろっていうんだろ?﹂
正直にそう尋ねると、ヒルデは笑って、
﹁いや、無理は言わんぞ。ただ、そこに生えてる草をもらってもい
いか?﹂
と、予想外のことを言った。
そこに、とは灰の中に生えている草のことだ。
双葉の小さなのがたくさんある。
別に俺はこれを放置してそのまま旅を続行する予定だったから、
何も懐は痛まない。
痛まないが⋮⋮。
﹁なぜ?﹂
1376
理由は気になる。
聖気を僅かながらに放っているからだろうというのは分かるが、
それほど使いではなさそうだが⋮⋮。
ヒルデは言う。
﹁人の事情をつらつら述べるのもどうかと思うが、レント、お主は
おそらく植物系の神霊の加護を得ておるじゃろう? じゃから、浄
化したときにそのようなものが生えた。昔はそれなりにいたのじゃ
が、今はかなり少なくなっておっての⋮⋮聖気を生み出す植物の数
は減少してきておる。つまり、珍しいから欲しいのじゃな。どうじ
ゃ?﹂
色々と思う所はある。
あるが⋮⋮単純にこの程度のものでいいというのなら、断る理由
は少ない。
俺が聖気使いだ、と言い触らされる可能性もあるが、それはもう
防ぎようがないしな。
証拠なんてなくても、分かる奴には分かるわけだから。
だから、俺は頷いて言った。
﹁⋮⋮分かった。好きに持っていくといい。その代わり、しっかり
教えてくれよ﹂
1377
第202話 旅と看破︵後書き︶
あけましておめでとうございます。
どうぞ今年もよろしくお願いします。
1378
第203話 旅と基礎伝授
とは言っても、俺たちにはこれから予定がある。
今すぐ教えてくれという訳にもいかないと思った。
その事情はヒルデ側も同じはずだ。
なにせ、彼女は今依頼遂行中なのだから。
しかし、彼女は、
﹁⋮⋮本格的に教えるのはまたそのうちにしておくとして、聖気隠
しと基礎だけ叩き込もう。なに、それほど時間はかからん。見るに、
お主ら夜番をしておったのじゃろ? その間に、ついでに教えられ
るぞ﹂
と言った。
本当か?
なんだか、以前街で見た詐欺師の手口︽たった一週間で十キロ痩
せる方法︾と似た口上だぞ。
︽たった一晩で聖術の基礎が身に付くヒルデ式聖術︾。
うーん⋮⋮胡散臭い。
俺のジトッとした目にヒルデは気づき、不服そうに言う。
﹁これでわしはそこそこの聖術師じゃ。別に聖術の深淵を見せよう
と言うわけではないのじゃから、一晩あれば余裕じゃ余裕。魔術だ
って似たようなもんじゃろ?﹂
と、ロレーヌにも水を向けた。
ロレーヌは彼女の台詞が理解はできるらしく、
1379
﹁⋮⋮まぁ、魔力操作とか、生活魔術を使えるようになるくらいの
レベルならば可能だな﹂
と、俺とアリゼが実際に体験したことを言う。
確かにあのくらいなら、一晩あれば出来る者は出来るだろう。
出来ないものは出来ないが、ある程度は才能の問題だから仕方が
ない。
﹁ともかく、やってみるのじゃ。一晩と言っても、夜が明けるまで
そこまで長くないしの。付け焼刃程度にはなるが、感覚が分かれば
自分で伸ばすことも出来る﹂
ヒルデのその言葉は俺にも分かる。
聖術は魔術とは勝手が違いすぎるから、そもそもその感覚が分か
らないのだ。
もしできなかったとしてもまた習いに行けばいいし、と思い、ヒ
ルデに頼むことにした。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮まぁ、いいじゃろ。それだけ隠せていれば、わしでも気づけ
ん。通常の聖気使いたちにはまず、気づくのは不可能じゃろうな﹂
ヒルデが暗闇から橙へと染まりつつある暁天を背にしてそう言っ
た。
一晩、彼女に聖術の基礎を学び、その実践をこなし続けて、一応、
それっぽいものが本当に身に付いた俺である。
今、俺は聖気を隠蔽すべく聖気を操っているわけだが⋮⋮これ本
当に基礎なのかな?と言いたいくらいに難しい技術だ。
1380
しかしこれがないと今後色々問題が起きそうな気もするし、甘い
ことは言っていられない。
﹁⋮⋮これを、ずっと維持するのか﹂
俺がそう呟くと、ヒルデは、
﹁なれればさほどでもないでな。それまでは修行じゃと思ってやる
といい。早ければ一週間もすれば息をするように出来るようになる
じゃろう。ほれ﹂
そう言って、聖気を放出した。
彼女は聖術師であり、当然、聖気の隠匿を行っていたわけだが、
それがどのくらいの量なのかは今までわかっていなかった。
しかし改めて放出されたそれを見てみると⋮⋮俺の聖気の何十、
何百倍くらいありそうである。
すごい。
まぁ、ニヴも似たようなものだったが⋮⋮俺って成長しているの
かなと自信がなくなってしまいそうなほどだ。
それにしてもあれだけの聖気を隠すのを、特に表情に何も出さず
やってのけていることを考えると、相当な聖術師なのだろうか。
聖術、というものに足を踏み入れたのが最近過ぎてその辺りの感
覚はよくわからないが⋮⋮。
﹁⋮⋮桁が違い過ぎて参考にならないな﹂
それが正直な感想だった。
ヒルデは、しかし首を振って、
﹁まだ聖術の︽せ︾の字を知ったくらいの若造に負けてたらそれこ
1381
そ話にならんじゃろうが。まぁ、これで基本は大体いいじゃろ。後
は、さっき見せてくれた本でも読んで研鑽するといい。大体分かっ
たじゃろ?﹂
ラウラにもらった本の内容が果たして正しいのか、この通りやっ
ても大丈夫なのかをヒルデに見せて聞いていたわけだ。
すると、太鼓判を推して問題ない、と言ってくれた。
﹁あぁ。だが、また分からなくなったら⋮⋮﹂
﹁そのときはわしに尋ねればよい。わしは王都で冒険者をしておる
ギルド
から、何か聞きたいことがあったら来るとよい。わしの連絡先と冒
険者組合の登録番号じゃ﹂
そう言って、ヒルデは荒い紙を手渡してきた。
そして、俺がしっかり受け取ったのを確認すると、
﹁⋮⋮よし、ではわしはそろそろ行く。馬車の他の乗客も突然わし
がいたら驚くじゃろうしな。ロレーヌにもよろしく言っておいてく
れ。そなたとは今度、学問について話したいとな。では、さらばじ
ゃ﹂
そう言って手に灰に生えていた草を握り締めながら、そそくさと
その場を去っていった。
その足取りには全く迷うところがなく、なんだか俺の方が呼び止
めたくなるほどだった。
昨夜会ったばかりなのに、なんだか妙に親しみを感じさせる好人
物であった、と思う。
﹁⋮⋮もう行ってしまったのか⋮⋮?﹂
1382
ロレーヌが気配に気づいたのか、目を擦りつつ、俺にそう尋ねて
きた。
ロレーヌは今の今まで眠っていたのだ。
俺は別にまったく寝なくても体調に問題は起こらないが、流石に
ロレーヌにそれは無理だ。
一晩くらいそれをやっても、多少眠い位で済むかもしれないが、
ここから先、道はさらに荒くなるから馬車の中で眠ると言うわけに
はいかないし、魔物も出てくる可能性も高くなる。
眠気で誤射、なんてことは勘弁してほしい。
その辺りのことはロレーヌもしっかり分かっていたため、ヒルデ
と話したいことがもっとあっても、睡眠を優先したわけだ。
ロレーヌとヒルデは意外に話が合っていたからな。
やはり、ヒルデがかなりの年月生きているようで、その知識や経
験はロレーヌから見ても相当に貴重なものだったのだろう。
本を読むのは楽しいが、本を読んでいるだけだとわからないこと
もあるからな。
ロレーヌは読書家だが、そのことも分かっているタイプの人間で
ある。
ヒルデと話が合うのは、なるほど、と言う感じであった。
﹁ああ、ロレーヌにもよろしく、と言っていたぞ。あと、聖術につ
いて何か分からないことがあったら王都に来たらいいとも﹂
﹁⋮⋮王都か。なんだかんだあまり行ったことがないな﹂
﹁それは俺もだ﹂
俺の場合は単純に王都に行っても冒険者として仕事をしようがな
いから行かなかったわけだが、ロレーヌの場合は面倒くさがりの側
1383
面が強いだろう。
都会に行かないと手に入らないようなものが欲しい時は、レルム
ッド帝国にいる知人とやらに手紙をやって送ってもらっていたしな。
ヤーランのような田舎国家の都会など、ロレーヌにとってはマル
トと似たようなものなのだろう。
﹁ま、今はまだそんな暇はないが、そのうち検討しようか。王都に
行ってみたくないわけでもないな﹂
﹁そうだな⋮⋮で、そろそろ皆を起こそうか。出発する時間だろう﹂
そう言って、俺たちは乗客や御者たちを起こして回った。
日が昇り始めてすぐ、出発しなければ距離が稼げない。
流石に今日も野宿、というのは嫌だった。
1384
第204話 旅と下手物食い
ビ
ゾン
起こした他の乗客たちは皆、何も分かっていない様子で、腐肉歩
きが現れたことも、それを俺たち⋮⋮ロレーヌだけか⋮⋮が倒した
ゾンビ
アンデッド
ことも、ヒルデが一晩中いたこともまったく気づいていなかったよ
うだ。
基本的に腐肉歩きたちは不死者であるがゆえにすでに死んでいる
わけで、生者としての気配がまるでない。
ヒルデにしても高ランクの冒険者であるから、その気配の消し方
は、たとえ普通にしていても一般人には気取られないくらいのこと
は簡単に出来る。
だから、彼ら乗客にしてみれば、普段の平和な野宿と変わらなか
った、というわけだ。
まぁ、御者だけは気づいていたようだが、こんな整備されていな
いど田舎路線をひた走る馬車の御者と言うのは腕っぷしのある程度
ある、ボランティア精神の強い者がやるものだ。
気づいていてもさもありなんという感じではあった。
それから馬車は暁の中を走り出し、そして日が落ちる直前に宿場
町に辿り着いた。
今度こそは途中、何も問題が起きることなくたどり着けたことに、
俺もロレーヌもほっとする。
別に護衛依頼を受けているわけでもないのに、そういう緊張は出
来るだけ味わいたくない。
こんな田舎道に現れるような盗賊の類は簡単に倒せるだろうし、
魔物にしても街道には大したものは現れないが、それでもだ。
﹁⋮⋮やれやれ、今日はベッドで眠れそうだな﹂
1385
ロレーヌが馬車から降り、そう言った。
ずっと荷台で座っていたため、体がバキバキで、歩きながらスト
レッチをしていると、ぱきぱき音がなる。
道も酷く、ガタガタしきりだったからな。
これが西に向かう街道となると、しっかりと整備されてて道に小
石などが落ちていたりすることはあまりなく、もっとスムーズに進
む。
こっちの道も整備してくれよ、と思うが、費用や手間を考えると、
まぁ無理だろうなという感じがするのはもちろんだった。
私費でも投じてやりたいくらいだが、そんな金は残念ながらない。
諦めるしかなさそうだった。
﹁俺は睡眠より食事の方が楽しみだな。ここの料理は⋮⋮﹂
大半は普通だが、例の珍味が出るのはこの村だ。
ロレーヌの反応が楽しみ⋮⋮と思っていると、彼女の口から意外
な台詞が出る。
﹁あぁ、そうだったな。ソレストとゲッタンバがここの名物だった
はずだ。あれは私も楽しみだ﹂
と言われた。
その魔術名のような謎単語はなんだ、と思っていると、ロレーヌ
が眉を顰めて、
カーティス・マント
﹁なんだ? お前、この宿場町はそれなりに使って来ただろう? 大冬蛙の卵の煮込み料理がソレストで、殺人蟷螂の子供の揚げ物が
ゲッタンバだぞ?﹂
1386
と言ってくる。
⋮⋮確かにそんな名前だったかな。
名前よりも存在そのものが衝撃的すぎてぱっとは出てこなかった。
カーティス・マント
カーティス・マント
なにせ、大冬蛙の卵の方は、中におたまじゃくし的なものが見え
ている状態だし、殺人蟷螂の子供の揚げ物の方も、殺人蟷螂そのま
まの奴が更に五、六匹乗っけられて運ばれてくるんだからな。
あれを平気で食べれる女性はこの宿場町の住人か、よほど肝の座
った者のみで、普通は大抵が慄いて口に含むことすら出来ない。
しかしロレーヌはどうもそうではなさそうだ。
﹁あれを楽しみにできるとは、また、随分と⋮⋮なんだ⋮⋮﹂
俺が言いにくく濁しているとロレーヌはその先を推測して言う。
﹁ゲテモノ食いだと思うか? まぁ、間違ってはおらんさ。どちら
もこの間、露店で買った本に書いてあったからな。近場だし、一度
食べてみたいと思っていた﹂
そう言われてみると確かに︽魔物料理∼ゲテモノを美味しく食べ
るために∼︾とかいう本を買ってたな、こいつは。
なんとなく知識欲を満たすためにジャンル問わず本を次から次へ
と買っているのだと思っていたが、本気で興味があったとは思わな
かった。
⋮⋮いや、むしろ知識欲のためにゲテモノ料理だろうが何だろう
がバッチ来いな感じなのかもしれない。
ロレーヌはそういうタイプだ。
アンデッド
あんまり良くも悪くも先入観みたいなものがないのだ。
だからこそ俺が不死者になっても受け入れてくれたわけで⋮⋮。
別に食い物にまでその博愛精神を発揮してくれなくてもいいのだ
けどな。
1387
俺は大丈夫かな⋮⋮。
かなり久々に食べるんだが。
食べないと言う選択肢はない。
味は確かにいいからだ。
⋮⋮ま、夕食を楽しみにして待っておこうか。
そう思って、とりあえず宿の方へと進む。
宿自体は御者がもともと手配してくれていたようで、この時間に
辿り着いても問題ない。
というか、別にどの時間帯についても問題ないことがほとんどだ
けどな。
それだけ田舎だから。この辺は。
◇◆◇◆◇
ぼこぼこと煮立っている鍋の中に、ゲル状のものに覆われた一連
に連なる卵が躍っていた。
中にはしっかり特大のおたまじゃくしが見える⋮⋮。
ソレストだ。
その隣の大皿には、五、六匹どころじゃない。
二、三十匹の蟷螂の素揚げが山の如く積み上げられている。
壮観だ。
壮観過ぎてもうおなかいっぱいだ。
ゲッタンバ⋮⋮手を出したくない。
そんな俺の隣で、ロレーヌは普通に器に盛って食べている。
1388
﹁なんだ、レント。食べないのか? ⋮⋮あぁ、血をかけないと美
味しくないかな﹂
そんなことを言う。
気遣いだ。
最後の方は小声だったからな。
しかし、そんな問題ではなく、単純に俺はこれが苦手だった。
俺の故郷ハトハラーではここまであからさまな田舎料理は出なか
カーティス・マント
ったからな。
大冬蛙も殺人蟷螂もほぼいないというのも影響しているだろうが。
ここでこれらを食べるのは、それらの魔物の数を小さなうちに減
らしておく、という意図もあってよく食べられているわけだが、も
ともといないのであればそんなことする必要ないわけだ。
﹁⋮⋮いや、別にそういうわけじゃない。食べる⋮⋮食べるさ⋮⋮﹂
俺は心の中で泣きつつ、自分の器に申し訳程度に蛙の卵を盛り付
ける。
固まってはいるが、中の特大おたまじゃくしが未だに動いている
ように見える。
あぁ、ごめんよ、その命、いただきます⋮⋮。
そんなことを思いながら口に運ぶと、まず、卵を覆うジュレ状の
ものが舌に触れる。
変わった口当たりと言うか、ふわっとしていて、しかも鍋の出汁
が染み込んでおりやはり味はいい。
さらに覚悟を決めて食べ勧める。
そして、おたまじゃくし部分を噛むと、じわりとした優しい味が
広がった。
見た目は一切優しくないのに、味は優しい。
柔らかな甘みと、出汁の旨みがちょうどよく、いくらでも食べれ
1389
そうであった。
カーティス・マント
⋮⋮見た目さえ普通なら。
さて、殺人蟷螂の素揚げの方は⋮⋮。
意外にももう、かなり数が減っている。
ロレーヌや他の同乗している乗客たちと同じテーブルについてい
るわけだが、彼らは流石に悲鳴を上げることもなく普通に食べてい
るからだ。
パリパリとした音が聞こえてくるたびに、ああ、あれは蟷螂を食
べる音なんだなと思うが、当たり前の話だ。
しかたなく、俺も手を伸ばす。
⋮⋮蟷螂と目が合った。いやぁ⋮⋮。
これ以上、沈黙の中見つめ合うのも耐えられないので、俺はそい
つを頭から口に入れる。
そして上半身を思い切って噛んだ。 すると、パリッ、とした感触と共に、素揚げにしてはさっぱりと
した味が口の中に広がる。
やっぱり美味いんだよな⋮⋮と思う。
酒には最高に合う味で、実際御者や中年男などはひたすらにエー
ルを飲んでいるようだった。
明日の運転、大丈夫なのか⋮⋮と思ってしまうが、大亀は賢い奴
だから適当な鞭さばきでも問題なく運んでくれるだろう。
そんな感じで、最初の内はかなり遠慮しつつというか、おっかな
びっくり食べていた俺だが、あとの方になるともう気にしなくなっ
て、普通に食べれるようになった。
また次に来るときは再度、元に戻ってしまっていそうだが⋮⋮。
ロレーヌはまた来たいと言うので、帰り道はまた寄ることになる
だろう。
そしてこれを食べるのだ。
1390
それまでに俺は心の準備をしっかり整えておかなければ。
そう思ったのだった。
1391
第205話 旅と到着
﹁ありがとうございます。お二人のお陰でずっと美味しい食事が食
べられました! もしマルトで会えたら、何かごちそうしますね!﹂
馬車から降りた若い女性がそう言う。
その隣の父親である中年男は、
﹁親子ともども本当に世話になった。聞けば、夜に魔物が出たこと
もあったらしいじゃないか。これは些少だが⋮⋮﹂
と言って、俺とロレーヌに銅貨を渡そうとするが、
﹁⋮⋮いや、自分たちの身を守るためにやったことだからな。もし
何かそれでもしたいというのであれば、それこそマルトでまた会っ
た時に何か奢ってくれ。また戻るのだろう?﹂
ロレーヌがそう言った。
中年男と若い女性とはそれなりに話したが、二人とも、母と、祖
父母の住む故郷の村に帰るということだった。
二人はマルトで基本的に出稼ぎをし、たまの休みにこうして村に
戻っているというわけだ。
母親は祖父母の世話をしているという。
よくある話だな。
﹁本当にそれでいいのか? 普通、銀級の護衛なんて頼んだら銀貨
が飛ぶが﹂
1392
銀級とか銅級とか言った呼び名は、そういう分かりやすい名称で
もある。
つまりは、どれくらい報酬が高いかの目安だ。
昔は銀貨一枚とか二枚とかだったからそうなったらしいが、今で
はもっと高い。
物価が変わっているからな。
銅級は銅貨一枚とかだった。もちろん、今はこれよりも高い。
といっても高くて銀貨一枚とか二枚だけどな⋮⋮。
銅級冒険者の財布はいつだって辛い。
﹁だから、護衛を頼まれたわけじゃないからいいんだ。別に善意で
もない。私たちも旅の空、話し相手がいて楽しかったからな。また﹂
﹁⋮⋮全く、今時珍しい欲のない冒険者たちだな。分かった。また
な﹂
そう言って中年男は手を振り、若い娘と一緒に村の中へと入って
いた。
それから、
﹁じゃ、出発するぞ﹂
御者がそう言って馬車が走り出す。
まだ旅路は三日目だ。
あと三、四日かかる。
その間、乗客は御者と、俺たち、それから老夫婦だけだ。
◇◆◇◆◇
﹁ど田舎ど田舎言って馬鹿にしてきたが⋮⋮まだ足りなかったのか
1393
もしれないな﹂
ロレーヌが荷台から顔を出して、そう言った。
その言葉に、俺は確かに、と思う。
なにせ、周囲の景色がもう、ただの山と森だからだ。
あの親子が降りた辺りまではまだ、人里が近いなと言う雰囲気の
ある街道だった。
しかし今は⋮⋮。
山、山、山、森、山だ。
道は⋮⋮馬車が通れるくらいには均されているが、それでもちょ
っとなという感じである。
御者の腕がいいのと馬車自体がおそらく丈夫に作られているから
大丈夫なのだろうが、いつもこの辺りに来ると怖い。
壊れたらもう、歩くしかないからな。
ちなみに、老夫婦は昨日降りた。
街道が馬車の停車位置で、彼らの目的地である村は少し歩かない
とならないところにあったので、ロレーヌと二人、おんぶして送っ
て来た。
幸い、御者も戻ってくるまで待つと言ってくれたからだ。
なんなら今日中に戻れなければ野宿してもいい、とまで言ってく
れ、こういうところ、田舎路線のいいところだなと思う。
西に向かう馬車はそういう融通は利かない。
馬車の中、定員いっぱい乗っているのが普通だし、都会の人間ら
しく時間に縛られながら生きているからな。
到着日がずれるごとに苦情がものすごい数になり、かつ乗車賃を
返せとか言われる。
この路線は、まずそういうことはあり得ないわけだ。
のんびりしているというか、やる気がないというか、御者の方に
儲ける気がないし、乗客の方もまぁ、適当でいいよという感覚なの
1394
だった。
﹁そりゃ、これだけ田舎じゃなければ、俺だってもっと頻繁に帰っ
てるよ。本当に時間をとらないと帰れないから仕方なく帰らなかっ
たんだ。今でこそそこまであくせく稼がなくてもなんとかなってる
が、ついこないだまでは毎日働かないと明日のパンすらやばかった
からな﹂
銅級冒険者なんてそんなものだ。
パーティを組んでいると効率がいいのでそこまで困窮はしないの
だが、俺はダメだ。
まぁ、無駄遣いが少し好きすぎたというのもあるかもしれないが。
用途不明の魔道具は浪漫だ。
﹁だったら私に言えばそれくらい貸したと言うのに﹂
﹁そんなこと言えるか。お前とは対等でいたい﹂
金の切れ目が縁の切れ目、とはよく言う。
ただ、ロレーヌは言えば貸してくれただろうな。
それでもあんまり言いたくはなかった。
少なくともやっていけるうちは。
どうしようもなくなったらなりふり構っていられなかったかもし
れないが、そのときは返済するまで死ぬ気で頑張っただろう。
長年の友人と言うのは貴重なのだ。
﹁そこまで頑固にならんでもよかろうに⋮⋮ま、それがお前なのか
もしれないがな﹂
と納得したようにうなずく。
1395
そう、これが俺だ。
俺は自分のしたいことのために生きている。
アンデッド
それを捨てるのなら、それこそが俺の死んだときだ。
だから、不死者になっても、俺はまだ生きていると思える。
俺の意志がまだ生きているから。
◇◆◇◆◇
それから半日も走っただろうか。
﹁そろそろだよ﹂
御者がふとそう呟いたので、俺とロレーヌは荷台から顔を出す。
すると、道が徐々に開けてきているのが分かった。
ここら辺まではハトハラーの村人の往来があり、それがゆえに道
もある程度整備されているわけだ。
水源に続く道がこの辺りだったからな。
そのためだろう。
俺にも見覚えがある景色だ。
﹁やっとか﹂
ロレーヌが疲れた顔でそう言う。
流石の彼女もがたがた揺れまくる馬車はきつかったということだ
ろう。
都会育ちだからここまで揺れる馬車に乗ることなどほぼなかった
だろうし、そうだろうなという気はする。
﹁⋮⋮見えて来たな。ハトハラーの村だ﹂
1396
俺がそう呟くと、ロレーヌも馬車の前方を見た。
﹁⋮⋮木の柵か。こう言っては何だが⋮⋮原始的だな﹂
﹁見た目はな。ただ、あの柵にはハトハラーの薬師の婆さんが作っ
た薬液が染み込ませてある。魔物避けには効果抜群さ。何かあって
もそこそこの魔物なら狩人のおっさんたちが倒してしまうからな⋮
⋮。まぁ、問題ないよ﹂
あまり強力なのが出現すれば流石に冒険者を呼ぶが、ゴブリンと
かスライムなら以前の俺よりも余程うまく狩り出せる人たちだから
な。
山奥住まいでもさして問題ないわけだ。
﹁⋮⋮聞いてはいたが、やはり少し変わった村だな。自前で魔物に
防備を固める自治体は各国にある自治都市なんかが有名な訳だが、
こんな小規模な山村でそれが出来るところはそれほど多くないだろ
う。いや、私が知らないだけで、これくらい山奥の村となるとそれ
が普通なのかな?﹂
﹁どうだろうな。昔は俺も普通だと思って来たが⋮⋮いま改めて考
えると、少し、おかしい気もする。薬師の婆さんの薬は少し効果が
高すぎるし、狩人のおっさんたちも強すぎる気はしないでもない﹂
﹁それに加えて、お前が加護を得た謎の祠か⋮⋮ヒルデには方便の
つもりで言ったが、本当に面白そうな村だから困る。今から調べる
のが楽しみだ﹂
機嫌よさげにそう言うロレーヌ。
別に構わないが、俺的には普通の村だ。
1397
祠以外に何かあるようにも思えないが⋮⋮。
ま、着いてから考えればいいか。
そう思って、俺たちは馬車が村に到着するのを待った。
1398
第206話 山奥の村ハトハラーと幼馴染
木の柵の間に作られた、粗末な門に近づくと、そこには見張りを
している若者二人が立っていた。
二人は俺を見ると、
﹁⋮⋮止まれ。ハトハラーに何の用だ?﹂
と片方が言って来た。
何の用も何も⋮⋮。
﹁⋮⋮里帰りだよ。ジャルにドル。俺の顔に見覚えはないのか?﹂
そう言って、笑いかけた。
と言っても、仮面のせいで顔の下半分は隠れているので、目を細
めたくらいだけど。
すると、二人の若者︱︱細身の方がジャル、背が小さい方がドル
だ︱︱は目を見開いて、
﹁え、レント!? レントなのか!?﹂
と叫ぶ。
﹁そうだって。見れば分かるだろ?﹂
そう言うと、ジャルが、
1399
﹁⋮⋮いや、前に帰って来た時はもっと普通の剣士っぽかったろ。
なんだそのローブと仮面﹂
と眉を顰めて尋ねてきたので、俺は、
﹁色々あったんだよ。ともかく、中に入れてくれ﹂
と適当に流した。
ドルは、
﹁⋮⋮別にいいけど、ん? そういや、そっちの人は⋮⋮﹂
と、やっとロレーヌに気づいたようで、じろじろと見る。
見られたロレーヌの方は堂々と立っており、ジャルとドルに、
﹁私はこいつと同じ冒険者で、ロレーヌだ。マルトで学者もしてい
る。よろしく頼む﹂
と言って握手をした。
二人とも何とも言えない、面食らった顔でぶらぶら握手していた
が、その直後、俺を端の方に引っ張っていって、耳元で囁く様な叫
び声と言う器用な声色で、
﹁お、おい! なんだあの美人は! お前⋮⋮まさか、あれは嫁か
!? 嫁なのか!?﹂
ジャルがまずそう言い、続けてドルが、
﹁婚約の報告なの? だから帰って来たのかな!? こりゃ、大変
だ。村長様に、村長様に伝えないと!﹂
1400
と言って、村の中に走っていった。
﹁お、おい! 待て! 違うぞ!﹂
そう叫んだが、時すでに遅しだ。
田舎者らしく恐ろしいほどの健脚である。
一瞬で姿が見えなくなってしまった。
ジャルはまだ残っているが⋮⋮。
﹁いやはや、村でも知られた朴念仁が、まさか嫁を連れて帰ってく
るとは⋮⋮リリやファーリが悲しむな。お陰で俺たちにはチャンス
が生まれたが﹂
とつぶやく。
リリやファーリと言うのは村でも評判の美人の名前だ。
幼馴染だな。
といっても、七つほど下なので俺としては妹気分だが。
都会ではそうでもないが、村だと流石にそろそろ嫁き遅れ扱いさ
れ始める年齢なので、少し心配していた。
美人だし気立てもいいので結婚しようと思えばすぐに出来そうだ
けど。
それにしても。あいつらが一体⋮⋮。
﹁チャンスって⋮⋮なんだよ﹂
俺がそう尋ねると、ジャルは呆れた顔で、
﹁お前⋮⋮あの二人は昔からお前のことが好きだったんだぞ。幾度
となくアプローチしてただろうが。それをお前は⋮⋮﹂
1401
﹁え⋮⋮冗談だろ? いつそんなことされたんだよ﹂
﹁聖アルトの祝祭日には毎年ハチミツ菓子もらってたろ? ︽名も
なき祭り︾の日はいつも湖に誘われてたろ?﹂
どちらも恋人のためのイベントとして有名だ。
前者は世界的に、後者はこの村限定のものだが、流石に俺も常識
として知っている。
聖アルトの祝祭日はあれだな。好きな相手にハチミツ菓子を渡す、
というもので、一年のうち珍しく女性の方から告白してもはしたな
いとはされない日である。
後者の祭りの方は、ハトハラーで昔から行われてきた祭りで、そ
の名前すら分からなくなってしまっているというものだが、伝わっ
ている物語がある。
その物語に沿って、好きな相手と湖に行くと恋愛成就が⋮⋮とい
う分かりやすい話があるのだ。
確かに両方とももらったり誘われたりしていた。
しかしなぁ。
俺は十五になる少し前に村を出ているわけで、アプローチと言わ
れても七、八歳の子供にどうこう言われてどう受け取れと言うのだ。
まぁ、たまに帰って来た時に美人になってて驚いたり、そのとき
も似たようなことをされた覚えがあるが、それでも俺にとってはか
わいい妹感覚なんだぞ。
それに加えて、だ。
﹁⋮⋮二人とも相手がいないからとりあえず雰囲気だけ味わうため
に妥協しておくって言ってたぞ﹂
つまり、そういうことだからジャルの想像は間違っていると思う。
1402
そもそもいくらなんでも年が下過ぎてな。
そこのあたりに偏見はないつもりだが、赤ん坊の頃から見てれば
もう、異性としてどうこうという感じにはならない。
しかしジャルは、
﹁⋮⋮お前、額面通り受け取る奴がどの世界にいるんだよ⋮⋮まぁ、
いい。何にせよ、お前が嫁を連れてやってきた。話はそこで終了だ。
俺たち村の男にもリリとファーリを狙えるってわけだ﹂
⋮⋮まぁ、本当にしろ冗談にしろ、好きにすればいいと言う感じ
ではある。
そもそも嫁じゃねぇってのと言っても伝わりそうもない。
﹁なんだか面白い話をしているのか?﹂
﹁うわっ﹂
後ろからにゅっとロレーヌが現れて、俺たちにそう言った。
彼女の言葉に驚いたのはジャルである。
俺は近づいてきた時点で気配でわかる。
気配を消してこられたらあれだが、そうじゃない限りは問題なく
分かる。
俺はロレーヌに言う。
﹁別にそんなでもないぞ⋮⋮ともかく、村の中に入ろう。挨拶した
い人たちがいるからな﹂
すると、ロレーヌは、
﹁ああ、そうだな⋮⋮ジャル殿、と言ったか﹂
1403
﹁あ、ああ、なんだ?﹂
﹁レントはともかく、私も村に入ってもよろしいか?﹂
別に確認せずとも俺がついている時点で問題ないのだが、しっか
り尋ねるのがロレーヌだろう。
彼女の言葉にジャルは頷いて、
﹁あぁ、問題ないぜ。レントの⋮⋮だしな﹂
﹁⋮⋮? まぁ、問題ないなら良かった。レント、行くぞ﹂
ロレーヌがそう言ったので、俺は頷き、
﹁じゃあ、ジャル。俺たちは行くぞ。また後でな﹂
ジャルにそう言って手を振り、二人で村の中に進んでいく。
﹁さっそく尻に敷かれているのか⋮⋮都会の女はおっかねぇな⋮⋮﹂
後ろからそんなつぶやきが聞こえた気がするが、気のせいだろう。
あまり村の外から人間が来ることのない村であるハトハラーだ。
ロレーヌにどんな反応があるのかと思って少し心配だったが、村
の中を歩いている中で出遭った村人たちは概ね、好意的な感情を向
けてくれたので良かった。
⋮⋮ほぼ全員がジャルとドルと似たような反応⋮⋮つまりは﹁嫁
か、嫁なのか﹂状態だったが、それはご愛嬌という奴だろう。
幸い、ジャル達と違って他の村人たちは比較的分別があり、違う
1404
と言うと分かってくれた。
妙ににまにました表情だったのは、別に何か意図があるわけでは
ないだろう⋮⋮と信じたいところだ。
﹁村の産業は⋮⋮農耕と狩猟か?﹂
ロレーヌが村を歩きながら尋ねる。
俺はそれに頷いて答える。
﹁ああ。概ねそうだな。ただ、農耕の方は麦や野菜だけじゃなくて、
薬草園もやってるからそれが少し変わっているかもしれない﹂
﹁薬草園か⋮⋮そのまま出荷を?﹂
﹁いや、薬師の婆さんがいるって話したろ? 加工して行商人に売
ってるんだ。効果が高いからそれなりの値段で売れるみたいでな。
お陰でこんなど田舎でも暮らしは決してまずしくないのさ。魔物も
たまに狩るから、魔石なんかも売れるし﹂
﹁⋮⋮お前が冒険者の仕事に初めから妙にこなれていたのはこの村
の生活がまさに冒険者っぽいから、というわけか﹂
﹁まぁ、そうだな。魔物の解体とかは、良く手伝うし、森の歩き方
とかも自然に身に付いた⋮⋮おっと、あれが村長の家だぞ﹂
顔をあげると、そこには村の他の家々よりも一回り大きな家屋が
立っていた。
そこを、俺たちは目指していたのだ。
こういう村に来たら、まずは村長に挨拶、というのが基本だから
な。
1405
まぁ、それだけが理由じゃないというか、それは建前のようなも
のだが⋮⋮。
1406
第207話 山奥の村ハトハラーと親
扉を叩くと、ゆっくりと開き、そこから一人の中年女性の顔が覗
く。
久々に見る顔だ。
年齢は重ねているが、ほっそりとして美しい。
その目が俺を見て、驚いたように見開かれ、そして少しずつ涙が
たまっていき⋮⋮。
ギルド
﹁レント⋮⋮良く帰って来たわね。心配したのよ。冒険者組合から
行方不明だって聞いてたから﹂
ギルド
そう言った。
冒険者組合は行方不明の冒険者についてその故郷に積極的に連絡
ギルドマスター
してくれるような親切かつ気の利いた団体ではないが、おそらくは
冒険者組合長ウルフの計らいだったのだろう。
まぁ、俺が生きていることはすでに確認されているが、生存の連
絡はまだだったということだ。
飛行生物を使った連絡方法もあるが、こんなど田舎に送るような
ものじゃないし、そうなると馬車で送るしかない。
おそらく、今回俺たちが乗って来た馬車の中にそういう手紙もあ
ったはずだ。
物資の入った箱がいくつかあったし、あとで運び入れるのだろう。
﹁その辺りは色々と立て込んでるんだけど、こうしてピンピンして
る。父さんは?﹂
﹁あぁ、あの人も中にいるわ。入って⋮⋮あら? そちらの方は?﹂
1407
﹁ロレーヌだ。マルトで仲良くさせてもらってる学者だよ⋮⋮﹂
俺がそう言うと、ロレーヌは色々と言いたいことがありそうな顔
つきだが、とりあえず触れずに、
﹁ロレーヌ・ヴィヴィエです。レントの言った通り、マルトで学者
と冒険者、それに錬金術も趣味でしております。どうぞよろしくお
ねがいします⋮⋮それで、貴女は⋮⋮?﹂
と俺を村長宅で出迎えた女性に尋ねた。
女性は言う。
﹁ああ、ご挨拶が遅れました。私はジルダ・ファイナ。この村の村
長、インゴ・ファイナの妻です。どうぞよろしくお願いします﹂
﹁⋮⋮ファイナ? おい、まさかレントお前⋮⋮﹂
驚いた顔をしているロレーヌに、俺は、
﹁そうだよ。この人は俺の母親だ。村長はオヤジな。で、前に言っ
てた薬師の婆さんは⋮⋮祖母の妹だ﹂
そう言った。
◇◆◇◆◇
﹁まさか、レントが女性を連れて村に帰ってくるとは意外だったが
⋮⋮いや、これは嬉しいことだな﹂
1408
家の中に入ると、村長インゴがテーブルについていたので、俺と
ロレーヌ、それにジルダも共に座った。
お互いに自己紹介をし、それからは雑談をしている。
と言っても、基本的に俺がマルトでどんなことをしたのかを俺や
ロレーヌが話しているだけだ。
あとは、インゴとジルダが村での出来事を色々話している、と言
う感じである。
それで、徐々に村人たちの結婚の話に移り、聞けば小さなころ、
俺が面倒を見ていたような連中は、大半が結婚してしまったようで、
すでに子供がいる者も少なくないようだ。
確かに一年以上前にここに帰って来た時、なんだか仲良さげな奴
らが増えてきているな、と思った覚えがある。
なるほどあれは恋の季節だったわけだ。
俺と同い年くらいの奴らは俺が村を出て、二、三年後にはすでに
結婚してる奴ばかりだったからな。
村をそんな奴らの子供がかつての俺のように村を走り回っている
姿を見ると、俺がいかに人生の舵をおかしな方向に切ってしまって
いるかまざまざと見せつけられているようで少しだけ寂しい気持ち
になった。
それ以上に嬉しい気持ちが大きいけどな。
村のみんなが元気に幸せにやっていてくれてさ。
ただ、そんな話になった時点で、ロレーヌを見るインゴとジルダ
の目がちょっと変わってきて⋮⋮。
﹁そうねぇ、レントと言ったら、誰に言い寄られても訓練ばかりし
ているのだもの。いつまで経っても結婚できないんじゃないかと心
配だったの。でも、ねぇ。村の外にこんなに綺麗な知り合いがいる
なら⋮⋮ねぇ﹂
1409
ジルダがそう言った。
何を言いたいのかは、いくら俺が朴念仁でも分かる。
ロレーヌさんが貴方のお嫁さんなのね、と言いたいのだ。
しかし、この辺りが女性の話術巧みなところで、決してはっきり
とは言わない。
匂わせるだけなので、否定も肯定もしがたい。
否定とか肯定で答えられるような聞き方をしてこないのだ。
⋮⋮まぁ、ある意味、気遣いなのかもしれないが、針の筵のよう
な気分でもある。
けれど、そんな俺とは異なり、ロレーヌの方は全く緊張しておら
ず、むしろ鷹揚として、
﹁マルトではレントは女性の知り合いが非常に多いですよ。リナに、
シェイラ、私に、あとリリアン、アリゼに⋮⋮﹂
おい、ちょっと待て。
言い方に悪意を感じる。
名前だけ並べ立てるとみんな、妙齢の美女のような印象を与える
が、リナはほとんど妹のような年齢だし、リリアンは遥か年上の神
官だ。それにアリゼなんで子供過ぎる。
シェイラは⋮⋮まぁ、そういう意味では適齢期にある女性だが、
知り合いなのは仕事で付き合いがあるからだろう。
色々事情も共有してはいるが、基本的にはそれだけ⋮⋮のはずだ。
ロレーヌについては、改めてそう言う意味で考えると一緒に住ん
でいるので色々言い訳がつかないが、それは村人目線で見るとの話
だ。
マルトで冒険者と言ったら男女でもパーティメンバーなら同じ家
に住んだりすることはそんなに珍しくはないのだから、問題はない
のだ。
⋮⋮たぶん。
1410
しかし、そういうことを言おうにも、ロレーヌとインゴ、それに
ジルダの会話には俺が口をさしはさむ暇はなかった。
﹁あらあら、そんなに女性の知り合いが⋮⋮だったら、私たちの心
配は杞憂だったのね。だって、レントはもしかしたらずっと結婚し
ないんじゃないかと思ってたから﹂
﹁そうなのですか? しかしこいつがいくらそういう方面では朴念
仁と言っても、向こうから寄ってくるということもあるでしょう。
それを強硬に拒めるタイプにも思えないのですが⋮⋮﹂
﹁よくわかっているのね? その通りよ。でも⋮⋮レントにそこま
でする人はこの村にはいなかったから﹂
﹁⋮⋮それは⋮⋮?﹂
首を傾げたロレーヌだが、その質問を遮る様に、
﹁あぁ、そうだ。レントも帰ってきたことだし、今日は歓迎の宴を
開こうと思う。準備しておいてくれるか、ジルダ﹂
﹁はい、分かりました。あなた。じゃあ、二人とも、今日は楽しん
でね。今から私は村の皆に声をかけてくるから﹂
ジルダはそう言って、そそくさと家を出る。
インゴもまた、
﹁私も行って来よう。小さな村と言ってもそれなりに住人はいるか
らな。ジルダ一人だけとなると大変だ﹂
1411
同様に言って、家を出ていった。
そんな二人の後姿を見て、ロレーヌが、
﹁⋮⋮おい、レント﹂
とつぶやく。
俺は、
﹁なんだ?﹂
﹁私は何かまずいことを言ったのか?﹂
ロレーヌがそう尋ねてきたので、俺は首を振って答えた。
﹁いや、全く。問題は俺さ。あの二人は気を遣ってくれてるんだよ
な⋮⋮﹂
﹁どういう意味だ?﹂
﹁簡単な話さ。インゴもジルダも、俺の本当の親じゃない。義理の
親だってことだ﹂
1412
第208話 山奥の村ハトハラーと地雷
﹁お前の義理の⋮⋮では実の両親は?﹂
聞きにくいことを素直に聞いてくるロレーヌ。
しかし別に気遣いがないわけではない。
というのも、ロレーヌの口調は実にあっさりとしているからだ。
ここで俺が、話したくない、と言っても、そうか、と言って別の
話題を始めるだろう。
つまり、聞くには聞くが、話すかどうかは自由にしてくれと態度
で示しているという訳だ。
俺としては、別に絶対話したくないという訳ではないので、普通
に言う。
﹁⋮⋮死んだよ。だいぶ昔にな。俺が五つのときだ﹂
単純な事実で、口にしてももうそれほど心は痛まない。
ただ、それでも悲しいものは悲しいな。
顔も覚えているし、一緒に生活した記憶もしっかり残っている。
いい人たちだった。
出来れば今も生きていてほしかった。
けれど、仕方がない。
﹁そうか⋮⋮病か何かで?﹂
﹁魔物に襲われたんだ。良くある話だろ?﹂
軽く言ったつもりだったが、思いのほか、声が震えていたような
1413
アンデッド
気がする。
不死者になって、涙腺なんてもう意味をなさない器官になってい
るんじゃないかと疑っていたが、そういうわけでもないようだ。
まぁ、鏡で目を見ればいつも普通にうるんでるわけだし、意味が
ないわけもないか。
しかし、このままだとやばそうだな⋮⋮。
﹁お前が冒険者を目指す理由は⋮⋮そういうことか﹂
﹁まぁ、そういうことかな。で、今の親父や母さんたちはそんなこ
と言い出す俺に随分協力してくれたんだよ⋮⋮悪い、ロレーヌ。俺
もちょっと出てくる。少しこの家で待っててくれないか? 他人の
家で落ち着かないだろうけどさ﹂
﹁ん? あぁ、私は構わないが、いいのか。それこそ他人に留守な
ど任せて﹂
﹁ロレーヌなら他の誰より信用できるよ。じゃあな﹂
そう言って、俺は家を出た。
よくないことだ、とは分かっているが⋮⋮あれ以上あそこにいた
ら涙がこぼれそうでなぁ⋮⋮。
そんな風になったら、ロレーヌが気に病むだろう。
この十年、ロレーヌの前で泣いたことなんて⋮⋮いや、あったか
もしれないけど、その辺りは男のちっぽけなプライドとかその辺り
の問題なのだ。
少し、村を歩き回って目の周りを乾かしてから、戻ろう。
あまり長く待たせるのも悪いからな⋮⋮。
そう思って、俺は歩き出した。
1414
◇◆◇◆◇
︱︱全力で地雷を踏み抜いてしまった気がする。
ロレーヌは一人残された村長宅で心の奥底からそう思い、椅子に
深く体を沈めた。
レントの両親に対する発言にしても、レントに対するそれにして
も、踏み込み過ぎたなと思う。
これが単純な里帰りなら何にも触れず、当たり障りのない会話を
しておけばよかったかもしれないが、今回はそういうわけにはいか
ない。
レントのことを、そのルーツから知りたい、という気持ちが心の
どこかにあって、その意識が強く働きすぎたのかもしれない。
⋮⋮いや、レントのルーツを知りたい、というのはそういう、研
究者気分と言うよりかは、単純にロレーヌ自身の気持ちが大きい、
と思う。
十年、気楽な友人付き合いをしてきて、それこそ当たり障りのな
い、着かず離れずの関係をやって来た。
それは心地いいもので、故郷レルムッドにいたころには味わえな
かったものである。
もちろん、故郷に一人の友人もいない、というわけではないが、
それでも向こうではそれなりの立場があるロレーヌである。
ここまで自然な友人関係を築くことはそうそう出来なかった。
だからこそ、思い入れが強くて⋮⋮どこか、依存してしまってい
るようなところがあるのだろう。
寄りかかっているつもりはないが、その存在がなければ、どうし
ようもなく心細くなってしまうような⋮⋮そんな相手が、レントな
のだとロレーヌは自覚していた。
そしてその感情に名前を付けるならなんというのかも、なんとな
1415
く分かっている。
が、今はそれは置いておこう。
考えすぎるとまずいということをロレーヌはよくわかっていた。
それにしても、先ほど聞いた色々なことを思い出す。
レントの両親が村長夫妻、というだけでも驚いたが、それに加え
て義理の両親だったとは。
村で孤児が発生した場合、村長が引き取ると言うのは他の村でも
比較的行われている、それこそありがちなことで、それほど驚くこ
とではないが、レントがそうだったと言われると⋮⋮。
納得する部分と、意外だという部分の両方がある。
意外だと思うのは、レントの性格だろうか。
良くも悪くもどこかちゃらんぽらんというか、色々気にしない性
格だ。
ああいうのは、物心ついた時からのびのび育たないと出来上がら
ない。
両親がいなくなり、その上、他人の家に引き取られることになっ
た子供は、もっと窮屈な性格になることが多いのだ。
それなのに、あんな風になったということは、引き取った村長夫
妻がいい親だったからだろう、と思う。
納得する部分は、レントの田舎の村出身にしては妙に優秀すぎる
ところだろうか。
字も書けるし調剤も出来、武術も身に付けていてその他も妙に器
用だ。
そういうのは、村長の義理の息子として、それなりに色々叩き込
まれたからだ、と考えればある程度は納得がいく。
ただ、それでも少し優秀すぎるところもあるが⋮⋮その辺りは冒
険者になる、という意識のもと色々と努力したからだろう。
なぜ、冒険者になりたかったのか。
1416
親が魔物に殺されたため。
だから、その復讐のため?
いや、違うだろう。
レントは⋮⋮レントなら、復讐のためと言うよりは、そういうこ
とを減らすために冒険者を目指したのではないか、と思う。
そこまで聞けずに終わってしまったけれど、レントのマルトでの
活動を見る限り、それが正しいように思う。
新人たちの死亡率を下げるためにいろいろやったりしていたのも、
その一環だと⋮⋮。
まぁ、その辺りはレントが戻ってきてから、あらためて聞けばい
いか。
問題は、どううまく聞くかだが⋮⋮。
なにせ、また地雷を踏むようなことにはなりたくない。
そこであからさまに怒ったり何か罵ってくれればまだいい。
本人がまったく気にしていない風を装うのが余計につらい。
﹁どうしたものか⋮⋮﹂
口からぽつり、とそんな言葉が出たその時、
︱︱コンコン。
と、家の扉がノックされた。
誰か来客らしい。
それはいいのだが、ロレーヌはこの村長宅の住人ではない。
いきなり出て、大丈夫なのか。
このまま居留守を使った方が良いのか⋮⋮。
いや、先ほど村の中を歩いてきたのだし、全員ではないがロレー
1417
ヌがこの村に来たことは知られているだろう。
そこまで警戒はされないはず⋮⋮。
そもそも、いるのにいないというのは基本的に避けなければなら
ないだろう。
そう思って、ロレーヌは立ち上がって扉の方に向かう。
1418
第208話 山奥の村ハトハラーと地雷︵後書き︶
地雷は魔道具的なのがある感じで。
1419
第209話 山奥の村ハトハラーと来客
﹁あっ、レントいますか⋮⋮って、誰?﹂
﹁レン兄は⋮⋮えっと、どちら様で⋮⋮﹂
扉を開けると同時に、二人の少女の声がそう言った。
片方は意志の強そうなはっきりとした声で、もう片方は甘えるよ
うな柔らかな声だった。
⋮⋮若い娘にしか出せない声だな、と思ったロレーヌ。
そして、その二人の少女は、ロレーヌの顔を見ると同時に、言葉
を止める。
扉の向こうにいるのが、レントでもレントの家族でもない、と気
づいたからだ。
ロレーヌもロレーヌで一体誰なのかよくわからないため、何と言
っていいのか分からず、口を開きかねた。
一瞬の気まずい時間が流れるが、ロレーヌの方がはるかに大人で、
体勢を立て直すのも早かった。
﹁⋮⋮すまない。レントも村長ご夫妻も今は不在だ。私は留守を任
されたロレーヌと言う者で、レントの⋮⋮そう、友人だな﹂
当たり障りなくそう答えた。
言葉遣いはどうしたものか、と思ったが少女たちの方がフランク
な様子なのでいつも通りにすることにする。
二人の少女は、
1420
﹁レントの友人? あぁ、確か都会に学者の友達がいるって前に聞
いたような⋮⋮え、女の人なの!?﹂
二人の少女のうち、茶色の髪を二つに結んだ、少しきつい目つき
をした少女の方が目を見開いてそう言う。
その言葉に、もう一人の少女、青みがかった黒髪を耳にかかるく
らいのショートカットにしている、垂れ目気味の少女の方が、
﹁⋮⋮そう言えば、特に男か女かは言ってなかったね⋮⋮。それに
しても、うわぁ、リリちゃん。すごい美人さんだよ。都会にはこん
な人がいっぱいいるんだねぇ﹂
とおっとりした様子で言った。
﹁ファーリ! あんた、よくそんなのんびりしてられるわね! さ
っきおばさんにちらっと話を聞いたところによると、レントはこの
人と一緒に住んでるってことよ! いくらあのレントでも、この魅
力には⋮⋮﹂
﹁抗えなさそうだねぇ。わたしもちょっといろいろ触りたい⋮⋮﹂
ファーリ、と言われた少女の方が、ふらふらとロレーヌに手を伸
ばす。
若干胸元に伸びている気がして、どうしたものか、と思うロレー
ヌ。
なんだか気の抜ける二人組だった。
しかしとりあえず名前をしっかり確認せねばと、ロレーヌは口を
開く。
﹁⋮⋮あー、お二人はレントの友人、ということで構わないかな?﹂
1421
その言葉に、目つきの鋭い方が、
﹁ええ、そうよ。私がリリ。で、こっちの眠たそうな方が⋮⋮﹂
﹁ファーリです。よろしくお願いしますね﹂
そう言った。
ロレーヌはそれに、
﹁リリとファーリだな。こちらこそよろしく頼む⋮⋮それで、とり
あえず中に、と言いたいところだが、ここは私の家ではないのでな。
留守を任されている以上、勝手に人を入れるわけにはいかないんだ。
レントたちに用があるというのなら、そのうち帰ってくるだろうか
ら、そのときにまた改めて尋ねてはもらえないだろうか﹂
と、義務に基づいた台詞を言った。
もちろん、レントの知り合いで、別に家に入れても十中八九問題
ないのだろうが、しかし任された以上はそんなことは勝手には出来
ない。
それにリリは、
﹁⋮⋮うーん、そうね。村だと別に誰が誰の家に入っても気にしな
いけど⋮⋮都会だとそうじゃないのよね﹂
と言う。
ロレーヌはそれに、
﹁まぁ、そうだ。向こうには結構、泥棒がいるからな。街中を歩い
ているだけでも日に一度はスリにぶつかるくらいだ﹂
1422
﹁えぇっ。危な過ぎよ。ファーリなら一日で無一文ね﹂
リリが笑ってファーリを見ると、
﹁私だって注意すれば大丈夫だよ⋮⋮たぶん﹂
と全然大丈夫ではなさそうに、口をとがらせて言う。
それから、リリは、
﹁都会かぁ⋮⋮村から出たことないからなぁ。どんなところか気に
なる。ファーリは?﹂
そうファーリに尋ねる。
ファーリはそれに頷いて答えた。
﹁私も気になるよ。たまに村の外に出た人たちがお土産とか持って
きてくれるけど、それくらいだもん﹂
そんなファーリの台詞にリリは深く頷き、それからロレーヌの方
に向き直って、
﹁そうよね⋮⋮ねぇ、ロレーヌさん﹂
そう言ったので、ロレーヌは首を傾げて、
﹁⋮⋮なんだ?﹂
そう尋ねた。 するとリリは、
1423
﹁レントたちが留守なのは分かったわ。そもそもおばさんたちがい
ないのは知ってて来たし。さっきおばさんと会って、少し話したら
レントがいるって聞いたから来たの。だからそれはいいんだけど⋮
⋮少し、貴女ともお話ししたいの。私たち、村からほとんど出たこ
とないから、都会のことが聞きたくて⋮⋮﹂
そう言ってくる。
都会、というのはマルトの事か。
⋮⋮都会か?
と更に都会であるレルムッド帝国に住んでいたロレーヌは思うが、
確かに村と比べるとそうであるのは間違いない。
ロレーヌがレントからいくら田舎だと聞かされても、ここまで田
舎だとは思っていなかったのと同様に、彼女たちも感覚的に掴めて
いないところは大きいのだろう。
﹁話すのは構わないが⋮⋮家に入れるわけには行かんぞ? 頭が固
いと思われるかもしれんが⋮⋮性分でな﹂
大体においてズボラな性格をしているロレーヌだが、拘るところ
には徹底的に拘るタイプの人間でもある。
たとえば学問については几帳面としか言いようがないレベルであ
るし、今回のこういう基本的な常識は尊重したいと考える方だ。
ただ、間違いなく他人からは融通が利かない、と言われそうな感
じでもあるとも自覚しているのでこんな言い方になった。
特に村だとな⋮⋮鍵なんかほぼなく、誰が入ってもさほど気にし
ないという感覚だと、拘りすぎ、ということになりそうだ。
しかし、リリは、
﹁それも分かってるわ。だから、ここで話してくれればいいわよ。
1424
ほら、ここに座るところもあるし﹂
と言って、軒先辺りにある丸太で作られた椅子を指す。
十個ほど並べてあり、なるほど、外で何か作業するときに座れる
ように置いてあるのかな、と思う。
確かに、家の中に入れるならともかく、外で話すくらいなら問題
ないだろう。
あとはロレーヌ自身がリリたちと話したいかどうかだが、これに
ついては答えは簡単に出る。
﹁うむ、いいだろう。私もこの村の生活なんかは聞いてみたいと思
っていた。レントはあまり村での暮らしについて話さないのでな⋮
⋮﹂
﹁そうなんですか? レン兄は帰ってくると反対に都会でのことと
か話してくれませんよ⋮⋮﹂
ファーリが目を見開いてそう言う。
ロレーヌには、レントがなぜ、マルトでのことをここで話さない
のかはすぐに理由が分かる。
十年かけてずっと銅級だったからだ。
ロレーヌはそれが悪いとは思わないし、十年間、命を失うことも
なく、また大けがを負うこともなく冒険者としてやってこれたこと
自体、素晴らしい功績だと思うが、レントからすると故郷で胸を張
れるような成績ではないと言うことだろう。
その気持ちも理解できる。
リリたちと会話するにしても、その辺りについてはよくよく考え
て話さなければな⋮⋮。
ロレーヌはそう思って、丸太の椅子に腰かけ、リリたちと向かい
合った。
1425
第210話 山奥の村ハトハラーと幻
﹁レン兄って、マルトで冒険者をしてるんですよね。どんな感じな
んですか?﹂
眠そうな顔つきをした方の少女、ファーリがまず、ロレーヌにそ
う尋ねた。
その表情は期待に満ち溢れていて、レントの華々しい活躍が聞き
たそうに見えた。
隣のリリも、やはり似たような表情をしていた。
しかし、どうしたものか、とロレーヌは思う。
ここ十年のことを言うのなら、レントは活躍していない、とは言
わないが、その内容は地味なものになる。
新人冒険者たちの世話を色々とし、冒険者の死亡率の低下に貢献
していた、とかそんな話になるからだ。
それはそれで面白い内容なのだが、︽冒険者︾と言ったとき、ま
ず思い浮かぶ活躍の内容はそういうことではないだろう。
となると、やはりここ最近の話を中心にした方が良さそうだな、
と思う。
ランクのことは適当に濁しておこう。
﹁そうだな⋮⋮レントはマルトでは有名な冒険者だと思うぞ。面倒
見が良くて、新人たちからは慕われている﹂
﹁やっぱり都会に行ってもやってることはあんまり変わんないのね﹂
リリがロレーヌの話を聞いて、そう言った。
1426
ロレーヌが首を傾げて、
﹁というと?﹂
と尋ねると、リリは言う。
﹁ハトハラーにいたときも、年下の子の面倒とかよく見てたから。
都会に行っても同じことしてるんだなと思って﹂
﹁なるほどな⋮⋮﹂
妙に面倒見がいい性格は、ここで形成されたらしい。
このリリとファーリも、そうやってレントに面倒を見てもらった
のだろう。
﹁ねぇ、魔物は? 冒険者は魔物を倒すのが一番の仕事なんでしょ。
村でも狩人のおじさんたちがたまに魔物を狩ってるけど、マルトに
スケルトン
は迷宮があるっていうし、やっぱり強いのがいっぱいいるの?﹂
リリがそう聞いてきたので、ロレーヌは少し考える。
レントが主に狩って来た魔物はスライムやゴブリン、それに骨人
などだが、その辺りは一般的に弱い魔物として有名だ。
もちろん、普通の村人からしてみれば、おそろしい相手なのだが、
昔話や絵本などで出てくるそれらは蟻のように倒されてしまうこと
が多く、それらと戦った話をしたところで面白いと聞いてくれる人
は少ない。
ポーション
スライムについては結構、商人なんかは食いつくことが多いのだ
が⋮⋮。
なにせあれは、美容に非常にいいし、回復水薬へも加工できる。 商品として扱うには悪くない魔物なのだ。
1427
モンスター
これを大量に捕獲できる冒険者などは重宝されるが、村人にその
辺りの事情は分かるわけもない。
となると⋮⋮やっぱり分かりやすいのは巨大魔物の討伐などだろ
うな、とロレーヌは思う。
でかい魔物を倒した、というのはどこで話しても面白がってもら
えるネタである。
ロレーヌも遠出したときの村の酒場などで何か武勇伝を、と言わ
れたらとにかくデカい魔物を倒した話をする。
こういう話は、冒険者たちにはむしろ好まれないと言うか、正確
な魔物の強さの序列を知っている者たちからすると、あいつはデカ
グラン・フム・ワイヴァーン
いだけじゃん、などと言われることも少なくないのだが、普通の村
人にはとにかくウケる。
たとえば、全長10メートルはある大茶飛竜を撃ち落としたとき
の話がロレーヌの鉄板話だ。
聳え立つ岩山の頂上近くに住む、巨大な飛竜を、数十もの氷の槍
の魔術で貫き、墜落させ、地上に落ちたかの飛竜の首を風刃をもっ
て切り落とした⋮⋮。
という話を出来るだけ華々しく話すのである。
グラン・フム・ワイヴァーン
それに加えて、広場などあれば、そこで投影魔術を使い、実際に
大茶飛竜がどれだけ巨大であったかを分かりやすく見せるのだ。
立体的に投影された巨大な飛竜の姿は、それだけで村人たちを震
え上がらせるに余りある。
こんなものを倒したのか、たった一人で、という畏怖と尊敬の目
がロレーヌに向かい始めるのだ。
そうなるとしめたもので、ひたすらに歓迎される。
酒や食事がどんどん運ばれ、かなり割引されるか、場合によって
は無料となる。
別にそのために話しているわけではないのだが、役得であった。
グラン・フム・ワイヴァーン
ただ、実際のところ、大茶飛竜というのは空を飛ぶ亜竜の一種に
1428
ツェヴァ・ワイヴァーン
過ぎず、更に色飛竜の中でも最も弱く、魔法耐性も低くて、ロレー
ヌくらいの魔術師にとってはいい的に過ぎない。
加えて、大きいと魔術も当てやすく、住処まで分かっていると周
囲にひたすら魔法陣を構築し魔力を充てんしておいて、飛び立つと
ころを狙って一斉掃射ということも出来るので、正直言って倒すの
はとても簡単なのであった。
なのでそんなものを倒したことを誇って色々便宜を図ってもらう
のに申し訳なく思うこともよくある。
けれど、そう思って、現実に強い魔物と凄惨な戦いを繰り広げた
ことを語ると却って引かれたり、ピンと来ない顔をされたことがあ
るので、やはり空気を読んで大きい魔物を狩ったことを話すが一番
いい選択なのだろう、と今は思っている。
そんなロレーヌの感覚からすると、リリとファーリに話すべきレ
ントの魔物討伐、その相手は⋮⋮。
﹁⋮⋮確かに、マルトには迷宮がある。︽水月の迷宮︾と︽新月の
迷宮︾だ。出現する魔物は⋮⋮まぁ、ピンキリだな。レントはどち
ジャイアントスケルトン
らも潜るが、前は︽水月の迷宮︾に頻繁に潜っていた。そのとき、
遭遇した魔物が⋮⋮骨巨人と呼ばれる存在だ⋮⋮こういものだ﹂
ロレーヌはそう言って、魔術を使い始める。
すると、村長の家の前に、巨大な骨の巨人が出現した。
﹁ひっ!﹂
﹁な、なに⋮⋮?﹂
と、リリとファーリは目を見開いてそれを見る。
その体で簡単に家を潰してしまえるような巨体が突然現れて、驚
1429
かないと言う方が無理だろう。
もちろん、ただの幻影であり、実物ではなく、物体を同行する力
は一切ないが、それでも唐突にこんなものを出して、他の村人が通
りかかったら驚くことも考えて、幻影が見える範囲はしっかりと設
定してある。
ここにいる、リリとファーリ、それにロレーヌだけに見えるくら
いの狭い範囲だ。
﹁⋮⋮心配しなくていい。ただの幻影だからな﹂
ロレーヌが二人にそう言うが、信じられないようで、
﹁でで、でも、はっきりそこに見えてるわ!﹂
﹁そ、そうです﹂
そんなことを言っている。
まぁ、気持ちは分かる。
こんなもの、山奥の村にいたら見る機会などないだろう。
そもそもこの投影魔術はそれほど使える者は多くない。
ロレーヌだからこそ何気なく行えているが、色々と複雑な魔術の
制御が必要なのだ。
マルトでも突然だしたらびっくりされること請け合いである。
そのため、ロレーヌは、しっかりと安全だと分かってもらうべく、
幻影を動かし、自らが触れる。
﹁ほら、問題ないだろう﹂
ジャイアントスケルトン
しっかりとそこにあるように見えるのに、ロレーヌに手が触れよ
うとすると、骨巨人の体に飲み込まれる。
1430
引けばしっかりとロレーヌの手は存在しているのが分かるので、
リリもファーリもそれを見て、本当に安全そうだ、と思い始めたよ
うだ。
1431
第211話 山奥の村ハトハラーと少女たちの秘密
﹁⋮⋮本当だ。触っても何もないわ⋮⋮﹂
﹁不思議だねぇ、リリちゃん。これは魔術ですよね?﹂
ファーリがロレーヌにそう尋ねた。
﹁あぁ、そうだな。この村には魔術師は⋮⋮?﹂
基本的に魔術師の数は少ない。
生活魔術であっても使えない人間の方がはるかに多いのだ。
ただ、小さな村であっても、魔力持ちは計算上一人くらいはいて
もおかしくはない。
魔力を持っていても、その使い方や理論を知らなければ使えない
けれど。
ロレーヌの質問に、ファーリは、
﹁薬師のガルブのおばあさまが錬金術を身に付けている人なので、
その関係で魔術も使えるみたいです。でも、人前で見せてくれるこ
とはまず、ありませんから⋮⋮。こんな風にはっきり魔術を見たの
は初めてですよ﹂
と答える。
レントが言っていた例の薬師か。
村人が作るにしては効果の高すぎる薬を作る、という話だったが、
なるほど錬金術を身に付けているのであれば納得は行く。
1432
しかし、レントはそんな話はしていなかったな、とロレーヌは思
う。
それに、なぜかリリが、
﹁ちょっと、ファーリ。それは私も初耳なんだけど。ガルブおばあ
ちゃんって魔術師なの?﹂
と尋ねた。
その質問にファーリは少し、しまった、と言う顔をして、しかし
言ってしまったものは仕方がないと諦めたのか、
﹁⋮⋮うん。そうだよ。秘密だったんだけど⋮⋮﹂
﹁秘密って。なんでよ﹂
リリが尋ねるとファーリは、
﹁村に住むにあたって、魔術が使えるってことを言うと、よくない
からだって﹂
﹁その割に簡単に言ったけど⋮⋮﹂
﹁だって、ロレーヌさんは魔術師だから。魔術師には魔術師が分か
るからそのときは無駄だって言ってたの﹂
ファーリの言葉に、ロレーヌは確かに、と思う。
普通の人間には分からないが、魔術師は注意を払えば相手に魔力
があるかどうかくらいは分かる。
はっきりと目で視認できるのはロレーヌのような特殊な人間だけ
だが、魔力の気配、圧力を感じることは魔術師ならば出来る。
1433
まぁ、それにも熟達した感覚が必要になってくるので、必ずしも
誰にでも出来るというものでもないが、そういうものだと思ってお
いた方が油断せずに済むだろう。
そして、その感覚から言うと⋮⋮。
﹁⋮⋮ファーリにも若干の魔力があるようだが、ファーリがその人
が魔術師だと知っていることと関係が?﹂
ロレーヌがそう尋ねた。
すると、ファーリは頷く。
﹁はい。私、ガルブおばあさまに薬作りを教えてもらってて、ちょ
っと魔力があるみたいだから錬金術もそのうち教えるって言われて
て﹂
﹁なるほどな﹂
ということはまだ教わってないわけだ。
ロレーヌがほとんど無理やりアリゼの魔力を自覚させたのと異な
り、ファーリの場合はゆっくりとそれを行っているのだと思われた。
そういうものだ、と言って押し切ったところがあるが、実のとこ
ろあれはあれでそれなりに危険で、教える方の技術が足りなければ
相手は死にかねない。
普通は、軽く魔力を流したらその日は終わり、というのを何日も
何週間も繰り返すものだ。
ガルブはそちらのやり方をしているのだろう。
弟子を大切に育てようとしている意志を感じる。
﹁ファーリだけずるいわ。私も魔術を使えるようになって、こうい
うの出せるようになりたい!﹂
1434
リリが少しぷんすかしながら骨巨人の幻影を指さしつつ言うも、
ファーリは特に怯えず、おっとりした声で、
﹁リリちゃんだって、狩人のハディードおじさんに何か教えてもら
ってるでしょ? この間、森で剣鉈で丸太を切っているの見たよ。
弓もなんだかものすごい良く飛んでたし⋮⋮﹂
と言う。
リリはファーリの言葉に驚いたように目を見開いて、
﹁あ、あんた見てたの⋮⋮﹂
そう言った。
ロレーヌはと言えば、ファーリの話した内容でピンとくるものが
あり、
﹁⋮⋮︽気︾か。私は専門外だからよくわからないが、色々と出来
るらしいな?﹂
と言った。
レントも身に付けている技術であるが、これもやはりなるほど、
と言う感じだ。
一体どこで、と思っていたが普通に村で使われている技術だった
わけだ。
しかし⋮⋮普通の山村に使い手がいるような簡単な技法ではない
はずなのだが、という疑問はある。
まぁ、腕のいい武術家が老後、田舎に引きこもってその技術を細
々と教え、連綿と受け継がれていく、ということはなくはないので、
何をどう考えてもおかしい、というほどでもないのだが⋮⋮。
1435
なんだか色々といる村だな、という印象だ。
だからこそこんな山奥でも普通にやっていけるのだろうな、とい
う納得もあるが。
ロレーヌの言葉に、リリはやはり目を見開いて、
﹁な、なんで分かるのよ⋮⋮﹂
と言ってくる。
ここまで話してよくわかったが、あんまり心の内を隠すのに長け
た少女ではないらしい。
反対にファーリの方は柔らかな笑顔を浮かべているが、その奥底
は読めないようなところがある。
中々油断できない少女なのかもしれない、と思った。
﹁私はこれで冒険者だぞ、︽気︾の使い手くらい何人も知っている
⋮⋮っと、言っていなかったか?﹂
自己紹介したときはレントの友人としか言っていないし、リリの
口からはロレーヌのことは学者だと聞いていることしか言われてい
ないことをふと思い出す。
﹁ええ⋮⋮てっきり、学者だけやっているのかなって﹂
﹁学者もやっているし、魔術師と錬金術師もやっている。どれか一
つに絞るべきなのかもしれないが、気が多くてな。やりたいことは
全部やることにしているのさ﹂
普通であればそれだけ手を出せばどれかは疎かになるものだが、
ロレーヌに場合はどれも一流である。
1436
本来は気が多い、で済ませられるようなことではないのだが、そ
の辺りの事情は二人には分からない。
ただ感心した顔をしている。
﹁だから、︽気︾のことが分かるのね⋮⋮﹂
﹁まぁ、そういうことだ。私は使えないけどな﹂
身近にレントという使い手もいることだし、良く知っている。
使っているところも何度も見たし、その性質はかなり深く知って
いると言っていい。
一度、修行してみようかなと思ったこともないではないが、レン
トに修行方法などを聞いた限り、かなり肉体的にきつそうなので自
分には向いていなさそうだと諦めたロレーヌだった。
﹁しかし、二人ともすごいな、かたや魔術師、かたや気の力を身に
着けた狩人か。少し経験を積めば冒険者としてもやっていけそうな
ほどだ⋮⋮﹂
少なくとも、才能、という面についてはそれで問題がないだろう。
経験はそれこそその辺の魔物をこつこつ倒していけばそれでいい。
冒険者など、そうそう村から出てくるものではないが、レントに
続いてあと二人、しかも魔術師や気の力を使える戦士を輩出できる
となると⋮⋮やっぱり変わった村だと思わざるを得ない。
1437
第211話 山奥の村ハトハラーと少女たちの秘密︵後書き︶
幻影骨巨人﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
1438
第212話 山奥の村ハトハラーと採取
﹁本当に? でも、冒険者は大変だって聞くわ﹂
ロレーヌの言葉に、リリが少し身を乗り出して言う。
冒険者に興味があるらしい、とそれでわかる。
先達として、あんまり適当な回答は出来ないなと考え、ロレーヌ
は真面目に言う。
﹁確かに大変だ。それは魔物のことだけじゃない。幅広い知識と、
経験、それに強い精神力が求められる仕事だからだ﹂
そこで言葉を一旦止め、リリとファーリの顔を見てみるも、少し
内容が抽象的すぎたのかピンと来ていない表情をしていたので、ロ
レーヌはさらに続ける。
﹁⋮⋮たとえば、薬草の素材などの植物採取の依頼があったとする。
若い冒険者はなぜかこれを非常に簡単な依頼だと考える傾向がある。
けれど現実は違う﹂
﹁どうしてですか? 生えている場所さえわかれば、魔物と戦わな
いで済むように思えるのですが﹂
ファーリがそう言ったので、ロレーヌはその返答に一定の理を認
めつつも首を振った。
﹁それはその通りだ。しかし、それが難しい理由だ。まず、生えて
いる場所、それはその植物の性質について良く知らなければ分から
1439
ない。そうでなければ森の中を一日探して一株も見つけられない、
なんてことも普通に起こりうる。何も知らない新人は、大概そうい
う事態に陥りやすい。そもそも依頼を受けた時点で間違っている場
合すらある。植物は季節によって生えているかどうか変わってくる
からな。本来とれるはずのない季節にそういう依頼が掲示されるこ
ともある。知らずに受けると、あとで違約金をとられることもある﹂
どうしてそういう依頼が掲示されることがあるかと言うと、色々
と理由はある。
まず、悪辣なものとして、あえてそういう依頼を出して、何も知
ギルド
らない新人から違約金をせしめようとしている場合がある。
マルトの冒険者組合はそのあたりしっかりしているというか、良
ギルド
心的なので、そう言った依頼が来た時点で弾いてくれるが、一般的
な冒険者組合は依頼内容の吟味などあまりしないで、冒険者の方で
判断しろ、というやり方が多いから、その辺の目を鍛えないととん
でもない目にあうわけだ。
ただ、そんなマルトでも季節外れの植物採集依頼が掲示されるこ
ともないわけではない。
それは、何らかの理由で、季節外れであってもどうにかその植物
が欲しい、というときに、通常の場合と比べてかなり割り増しされ
た報酬を提示した上で、持ってきてくれ、というタイプの依頼だ。
これについてはマルトでも特に弾かれることなく掲示されること
があり、依頼票をよく読んだり、職員にしっかりと話を聞けばそう
いう依頼だと分かる仕組みになっている。
けれど、新人はこういう依頼を、単純に何だか簡単な植物採集な
のに妙に報酬が高いラッキー依頼だ、とか考えて受けてしまうこと
がある。
その結末は、やはり違約金だ。
こういうことをなくすために、冒険者には知識が必要なのだった。
1440
ロレーヌは続ける。
﹁それに、そういう懸念がすべて払拭されたとして、運よく植物を
見つけられても、それだけではダメだ﹂
﹁見つけたなら、掘り返して持って来るだけじゃないの?﹂
ロレーヌの言葉に至極当たり前の返答をするリリ。
しかしロレーヌは首を振った。
﹁必ずしもそうとは言えない。植物は良くも悪くも生き物だ。処理
を間違えると持って帰ったところで引き取れない、と言われてしま
うことが少なくない。そうなると、せっかく一日頑張ったのに銅貨
一枚にもならなかった、なんて事態にもなりかねない﹂
﹁あぁ、どんな用途に使うかによって、採取の方法が変わって来る
からですね﹂
ロレーヌの言葉に、リリの方はよくわからなそうだったが、ファ
ーリの方は流石に薬師に学んでるらしく、ピンと来たようだ。
ロレーヌは頷く。
﹁その通りだ。たとえば、株ごと持ってきてほしい、という場合に
は根からしっかりと採取しなければならない。周りの土ごと掘り返
し、布で包んで⋮⋮と言った作業が必要になる。そうではなく、葉
だけを新鮮な状態で何枚、といった場合には、全体を掘り返して持
っていくとその最中に萎れてしまうものもある。正しいやり方で、
葉だけをとらないと意味がない場合がな。他にも枝の切り方とか、
実の取り方、花の咲く時間帯などなど、植物採集一つとっても覚え
ることがたくさんあるのだ﹂
1441
こういったことは、ロレーヌもレントに学んだ。
ロレーヌは本でそういう知識は多く持っていたが、実践に欠ける
部分が少なくなく、レントと森を歩いて教えてもらったのだ。
それが今でも生きていて、学者の仕事にも相当に役立っている。
そして、レントもまた、おそらくファーリの学ぶ薬師に教わって
いるからそういうことを分かっていたわけで、そうなるとファーリ
の師である薬師は、さかのぼればロレーヌの師でもあると言うこと
になる。
⋮⋮あとで挨拶しなければ。
ふとそう思った。
﹁ま、そんなわけでだ。魔物以外にも冒険者には大変なことが色々
ある。そして、一番の危険が、こいつのようなのなわけだ﹂
ジャイアントスケルトン
ロレーヌはそう言って、うしろにぼんやりと控える骨巨人を指さ
した。
がらんどうの瞳には何も映ってはいないが、そこにあるだけで恐
ろしいほどの威圧感を与えてくる。
これの本物が目の前に本当に存在したら、そして力の赴くままに
暴れ出したらどれだけ危険なのか。
そう思ってしまうほど、恐ろしげな存在だった。
﹁⋮⋮こんなものと、レントは毎日戦っているのよね⋮⋮﹂
リリが、尊敬と畏怖のこもった様な声色で、そう呟いた。
ロレーヌはそんなリリの言葉に、いや、毎日は戦ってないぞ、と
言いかけたが、ここはレントの名誉のために違う返答をすべきだろ
うと思い直し、言う。
1442
﹁ああ。そうだ。そしてすべてに勝って来た。あいつは凄い奴だ﹂
ここにレントがいれば、間違いなく、いやいやいや、嘘つくなっ
て、毎日なんて無理に決まってるだろ、と絶叫しただろうが、幸い
ここにレントはいない。
ジャイアントスケルトン
好き放題言って構わない⋮⋮というわけでもないだろうが、これ
くらいのことは言っても許される。
そもそも、今のレントならたぶん、やろうと思えば骨巨人くらい、
毎日戦ってもなんとか出来るだろう。
タラスクを普通に狩って来れるような実力になっているわけだし。
ロレーヌはそう思って、次の魔物の幻影を呼び出すことにした。
﹁他にも、レントはこんな魔物と戦っている⋮⋮﹂
ジャイアントスケルトン
そして、ふっと骨巨人の威容が消え、代わりにタラスクの巨体が
その場に出現する。
1443
第213話 山奥の村ハトハラーとレントの実力
﹁これは⋮⋮﹂
﹁亀っぽいですけど、長い首を見ると⋮⋮竜、ですか?﹂
リリとファーリが目の前に出現したその魔物を見て、そう呟く。
ロレーヌは答える。
﹁いや、竜族ではなく、亜竜族の一種だな。その中でも倒すために
は金級程度の実力が必要とされる、かなり強力な魔物だ。固い甲羅
に、六本の足、鱗も弓矢くらいなら簡単に弾く耐久性を持つという
恐ろしい存在だ。ただ、もっとも危険なのは、そう言った︽固さ︾
ではない。こいつは毒を吐くんだ。その血肉もすべて強力な毒を帯
びている。こいつが住んでいると、その周囲は毒の沼地へと姿を変
えていき、最後にはそんな毒の世界をこそ住処とする特殊な生き物
たちの楽園になってしまう⋮⋮﹂
まさに︽タラスクの沼︾とはそうやって形成された場所だ。
あそこに棲んでいる生き物は、すべてタラスクの毒に耐えられる
ものだけだ。 あんなところに棲むとは気がしれないと思うが、生き物と言うの
は不思議なもので、長い年月をかけて馴染んでしまうらしい。
タラスクの毒は普通の人間が摂取すれば数分と経たずに死に至る
強力なものだが、︽タラスクの沼︾に棲む彼らにはまるで関係ない
らしい。
だからこそ、冒険者たちは行きたがらないわけだが⋮⋮そういう
場所にしか生えない︽竜血花︾のような特殊な素材もある。
1444
場合によっては行かざるを得ないのが冒険者の辛いところだった。
その点、今のレントは少しずるい。
なにせ毒が全く効かないのだ。
出来ることならロレーヌも同じようなスペックを持った体が欲し
いくらいだが、欲しがったところで得られるものでもない。
︽龍︾に遭えばいいのか、食われれば確実にああなれるのか、と
言えばそういうわけでもないだろう。
﹁これも、レン兄は退治したのですよね?﹂
ファーリがそう尋ねたので、ロレーヌは頷く。
﹁ああ。こいつに関しては定期的に狩っているな。鱗や甲羅なんか
が武器や防具のいい素材になるから、金になるんだ﹂
﹁えぇ!? でも、毒があるんでしょう? 大丈夫なの?﹂
リリがすぐにそう聞き返してきたので、ロレーヌは、あぁ、そう
だったと思い、けれど正直に答えるわけにもいかないので一般的な
手法の方を答える。
﹁色々と方法はあるんだ。でなければ誰も狩って来れないからな。
たとえば、強力な聖水で自らに浄化をかけ続ける、とか、毒の軽減・
無効化が出来る魔道具を身に付けていく、とかな。その辺りは私も
レントに詳しく聞いているわけではないが、いつも無事に帰ってき
ているのだから対策はしっかりしているのだろう﹂
この辺は、レントの方で調整してもらうために適当に濁す。
本来はただ単純に毒が効かないだけだが、そんな人間いるはずが
ないからな。
1445
⋮⋮いや、特殊な訓練をした暗殺者の類はそういうものが効かな
いこともあると聞くが、レントは別に暗殺者ではない。
仮面被ってローブを身に着けたあの格好は暗殺者そのものかもし
れないけれど。
ロレーヌの答えにリリとファーリは安心したようで、まずリリが
言う。
﹁それなら、良かった⋮⋮レント、たまに無茶するから﹂
﹁そうなのか? 考えなしのように見えるときもあるが、あれで色
々考えて行動しているタイプだと思うがな﹂
実際、うすぼんやりとしていることが多いように思えるレントだ
が、こうと決めると恐ろしいほどに狡猾に行動することも出来るタ
イプである。
レントが銅級なのに、新人向けの講習を行ったり、アドバイスを
したりしているのを見て、たかが銅級のくせにといきがる新人冒険
者がたまにいる。
そういうのがレントにちょっかいを出し始めると、レントは初め
のうちは至極まともに、かつ穏やかに対応するのだが、どうしよう
もないとなると立ち直れないくらいに追い込んだりもするのだ。
まぁ、それは殺すとか四肢をすべてもぐとかそういうことではな
く、ただ、冒険者としてはもうやっていけないようにする、とかマ
ルトに住みにくくする、とかそういうことなのだが、それでも十分
に恐ろしい。
謀略だけに生きたらレントは何かとてつもないことすらやること
が出来るのではないか、と思ってしまうほど。
やらないのだろうけど。
1446
﹁それは、その通りなんだけど⋮⋮昔、大人の許しなしに森に入っ
た子供がいたことがあるんだけど、そのとき、レント、一人で森に
入って魔物と戦って帰ってきたことがあるのよ。自分も子供だった
のに﹂
リリがそう言ったのに続けて、ファーリも言う。
﹁あったね、そんなことも。あのとき狩りに出れる大人がみんな、
ゴブリンの巣の駆除に出かけてたんだっけ﹂
﹁そうそう。それで、レントが自分が探してくるって無茶を言って
⋮⋮血だらけで帰って来た時、息が止まりそうになったわ﹂
﹁⋮⋮あいつは昔からそんな無茶を⋮⋮﹂
ロレーヌは眉を顰めつつ、言う。
基本的に、しっかりと計画立てて効率的に動ける奴なのだが、誰
かの命がかかっているとき、それを自分の命でどうにかできそうな
時は、自分の命を顧みずに突っ込んでいってしまうようなところが
レントにはある。
自己犠牲を厭わないと言うか、人が良すぎると言うか。
ふつう、村の子供がそんなことになったら、探しに出れる大人が
来るまで待つか、諦めて見捨てるものだ。
レントにはそれが出来なかったのだろうというのは容易に想像が
つく。
﹁ま、今はそこまでの無茶はして⋮⋮いないかもしれないな。少な
くとも魔物相手には﹂
ニヴ・マリスのことを考えるとそうも言えない気もするが、今の
1447
アース・ドラゴン
レントなら、迷宮の魔物程度ならそうそう遅れはとらない。
大地竜クラスになるとどうにもならないが、それはレントに限ら
ず普通の冒険者ならまず無理な相手だ。
そもそも遭遇すること自体少ない。
﹁レントはそんなに強いの?﹂
ロレーヌが言外に込めた意味には特に気づかなかったようで、リ
リはそう尋ねてきた。
ロレーヌはそれに対して、幻影魔術でもって答える。
タラスクの幻影の前に、レントの幻影も作り出した。
﹁レント!?﹂
﹁レン兄!?﹂
二人は驚いてそう言うが、ロレーヌは、
﹁あれは私が作り出した幻影だ。今からレントとタラスクの戦闘を
再現してみようと思うんだが、見てみるか?﹂
そう言った。
実際に見たわけではないが、大体どんな風に戦ったのかは聞いて
いる。
タラスクとはロレーヌも戦ったことがないわけではないし、概ね
こんな感じだろう、という動きは再現できるのだ。
ロレーヌの言葉に、リリとファーリは頷いて、
﹁見たいわ!﹂
1448
﹁見れるならお願いします﹂
そう言ったのだった。
1449
第214話 山奥の村ハトハラーとロレーヌの興行
滅多に見ることが出来ない巨大な魔物に向かって、一人のローブ
姿の男が走る。
顔の下半分には、骸骨を象った不気味な仮面を身に着けているが、
ローブの隙間から見える目元には鋭い眼光が輝いていた。
タラスクと呼ばれる、毒を吐く魔物を前にしてもその男は一切の
怯えも見せず、ただ剣を抜いて距離を詰めていく。
﹁グルアァァァァ!!﹂
男の接近にタラスクは、そんな耳をつんざくような叫び声をあげ
るも、男の動きは一切の影響を受けなかった。
恐ろしいほどの胆力、覚悟であり、自信であった。
自分なら確実にこの強大無比な魔物を倒せるという不遜に近い自
信がなければ、あの巨大な建造物が破壊されたかのような轟音にも
似た声に、あそこまで無反応ではいられないだろう。
かの男は、その自信が未熟ゆえの勘違いではなく、無数の経験と
修行により正しく身に付いた正確な観察眼のなせるものであると証
明すべく、タラスクの眼前に辿り着くと同時に、飛び上がり、初め
から狙っていたのだろうその首筋に、片手直剣による一撃を叩き込
む。
その剣は決してとてつもない名品という訳ではないことは、剣の
装飾や輝きから理解できる。
ただ、名品ではなくとも、実直な品であることも同時に分かる。
男が剣に求めるのは自分の命を預けるに足る信頼であり、確かに
その剣には命を預けるべき重みが感じられた。
淡く光を纏っているのは、男が気の使い手だからであり、剣はそ
1450
の力を正しく受け入れている。
極限まで凝縮された気の力は、ときに武具を破壊することすらあ
るという。
男の気の力は凄まじく、一般的な剣であればきっと折れていただ
ろう。
しかし、今、彼の持つ剣はそうはなっていない。
そのことがその剣を作った職人が確かに優れた職人であったこと
の証明だった。
そんな剣の出来に、男は満足が行っているのか目を細め、タラス
クの首筋を見つめる。
そこに向かって、淡く輝く気の剣が振り下ろされる。
しかし、 ︱︱ガキィン!
男の剣はタラスクの鱗に命中すると同時に、そんな音を立てる。
見れば、タラスクの首筋に生える鱗は、男の一撃でもって割れ、
また剥がされてはいるが、その内部に至る部分については鱗が防具
となって傷を与えることが出来ていなかった。
流石は、タラスク、ということだろう。
一筋縄ではいかない存在であることははっきりしていたが、現実
に相対して男はその事実に改めて気づいたに違いない。
けれど、だからと言って男は決して怯えに呑まれも、また討伐を
諦めることもなかった。
むしろ、思った以上に強敵だったことに喜びを覚えたように細め
られた目の奥、瞳の色が輝いてタラスクを見つめる。
狙うはどこだ?
もう一度、首筋だ。
1451
一瞬でそう考えた男の判断に間違いはないだろう。
一度、男の攻撃で鱗を剥がされている部分がある。
そこを狙えば、もうそこは鱗と言う防具の無い無防備な場所だ。
今度こそ男の気の一撃が叩き込まれるに違いないのだから。
しかし、タラスクの方もそんなことは誰に指摘されるまでもなく
理解しているのだろう。
男の方に向き直り、決して二度攻撃はさせぬぞという顔つきで男
を睨みつける。
そして、唐突にぱかり、と口を開いた。
一体何が、と思っていると、そこから紫色の息が物凄い勢いで噴
出される。
毒の息であった。
タラスクの最も得意とする技であり、それを直接浴びた者は数秒
となく溶解し、骨へと姿を変えることもあると言われる強力な毒。
流石の男も人間である以上、毒に対して無敵とはいられない。
このままでは危険⋮⋮なはずだった。
けれど、男もタラスクと戦うにあたって何も考えずにここに来た
わけではなかった。
見ると、男の体から青色の光が噴き出ていた。
それは、聖なる輝き、
男はタラスクと戦う直前に、聖水によって自らの体に浄化の光を
纏っていたのだ。
タラスクの強大な毒気の息も、神の加護に基づく浄化の光の前に
は無力に等しい。
男は毒の息の中を、まるで小雨の中を進むかのごとく、何も気に
せずに走っていく。
1452
タラスクはそんな男の動きに気圧されたのか、その巨体を一瞬後
退させた。
しかし、タラスクにとって、矮小な存在に過ぎないたった一人の
人間に対して、そんな怯えを抱いたと言う事実には認められたこと
ではなかったようだ。
即座に後ろ脚を踏ん張り、男を攻撃すべく、毒の息を吐き続けた
まま前進する。
男に、その巨体だけで破壊の嵐を巻き起こせそうなタラスクが迫
るも、男はまるで焦らない。
男の表情は、今にも口笛でも吹きだしそうなほどの余裕に満ちて
いた。
あの程度の巨体が何だ、と。
毒の息など効かぬと。
ただ、すべて自分の的に過ぎないのだと。
そう言いたげな、いっそ不遜なほどの自信に満ちた男は、近づく
タラスクの突進が目前に迫ったその時に飛び上がり、その背中の甲
羅へと飛び移る。
そして男を見失ったタラスクが慌てている間に、甲羅からその長
い首へと駆けのぼった。
狙うは、先ほど剣を打ちこんだ場所と同じところ。
男の狙いはぶれない。
剣を構えたそのときには、男の目には正しく、鱗のはがれたその
首筋がはっきりと標的として映っていた。
その時に至って、タラスクは始めて男が自分の首を駆けのぼって
いることを理解するが、時すでに遅し。
男を振り落とそうと首を動かす前に、男は自ら飛び上がり、そし
て剣を振り上げていた。
﹁グルアァァァア!﹂
1453
それはタラスクの懇願だったのかもしれない。
やめてくれと。
剣を振らないでくれと。
ことここに至って、きっとタラスクははじめて自分が狩る側では
なく、狩られる側であることを知ったのだ。
目の前にいる、本来なら魔物に捕食されるべき小さな人間の男に、
自分を凌駕する実力があることをやっと認めたのだ。
けれど、魔物の懇願など、男にとっては意味をなさない。
なぜなら、男は冒険者。
魔物を狩り、そして倒すことによって報酬を得る者。
悲しげに叫ぶ魔物の声に耳を貸していては男の商売は上がったり
なのだ。
ただ⋮⋮。
﹁⋮⋮悪く思うな﹂
剣を振り下ろす直前、そんな声が男の口から洩れたのは、気のせ
いだろうか。
魔物であるとはいえ、命を奪うことに何も感じていないわけでは
ないことが、その小さな声から察せられた。
けれど、そんなささやきとは裏腹に、男の剣は躊躇なく、タラス
クの首筋へと降りていき⋮⋮。
︱︱ザンッ!
という小気味よい音と共に、その首を切り落としたのだった。
数秒遅れて、
1454
︱︱ゴゴォン!
という轟音が聞こえる。
命を失ったタラスクが、地に倒れ伏した音は、振り向かない男の
耳に、命の重さを伝えているような気がした⋮⋮。
◇◆◇◆◇
⋮⋮少し、演出過剰だったかもしれない。
本来、エーデルが色々と活躍したのも知っているが、あれを出す
と説明が面倒だしな⋮⋮。
それにこの方がかっこいいじゃないか。
倒すのに魔気融合術や聖気を使ったと言うのも聞いているが、レ
ントにとってあれらは切り札だろうし、その辺は気である、という
ことで濁しておいた。
セリフ回しはあれだ。
趣味だ。
さて、反応はどうだろうか⋮⋮。
ロレーヌがそう思って、リリとファーリを見ると、未だ倒れ伏し
たタラスクの前にたたずむローブ姿の男の幻影に、目を輝かせてい
る二人の姿が見えた。
それを見て、よし、完璧だ。
レントの威厳を保つことにどうやら成功したようだな。
ロレーヌはそう思って、深く満足したのだった。
1455
第215話 山奥の村ハトハラーと幼馴染たちの誤解
色々と気持ちを落ち着けるために村をうろうろして実家に戻ると、
幼馴染二人が俺を見てなんだかものすごく尊敬するような目を向け
ていた。
⋮⋮なぜだ?
俺は何かしたか?
いや、何もしていないはずだが⋮⋮。
大体、今回帰ってきて今、初めて顔を合わせたと言うのに、そん
な尊敬など生まれる時間はなかった。
それなのに⋮⋮。
﹁レントって強かったのね! 見直したわ!﹂
﹁レン兄ってあんなに凄いの倒したんだねぇ。やっぱり冒険者って
すごいんだ﹂
幼馴染。
リリとファーリがそう言って、俺を笑顔で見つめる。
少し火照っているように見えるのは何かに興奮しているからだろ
うが⋮⋮いったい何に?
俺を見て、と解釈するとなんだかやばい幼馴染になってしまうの
でそうではないとしてだ。
何か心当たりなど俺にはないぞ。
そう思っていると、後ろの丸太に座るロレーヌの姿が目に入った。
若干、自慢げと言うか、やりきった顔をしている気がするのは気
のせいだろうか?
1456
⋮⋮いや、ロレーヌの表情はこの十年色々見てきた。
その俺の感覚からして、間違いではない、と言うことはほぼ確実
だ。
しかし、その理由が分からない。
状況から見て、幼馴染たちが留守番をしていたロレーヌのもとを
訪ね、ある程度会話したのだろうということは分かる。
そこで一体何をやり切ると言うのか。
俺に対する尊敬が幼馴染二人に生まれていることから、おそらく
ジャイアントスケルトン
ロレーヌが俺のマルトでの活躍なりなんなりを、幾分か盛って話し
てくれたのだろうということは想像がつく。
凄いのを倒した、とか言っているからタラスクとか骨巨人とかと
の戦いの話でもしたのだろうか?
しかし、こんな山奥の村で生活している村人の二人に、それらの
魔物の強さや恐ろしさを正確に伝えられるほど、話し上手だっただ
ろうか?
いや、ロレーヌがまともに説明したら、とても説明的な感じにな
るだろう。
分かりやすくはあるだろうが、こう、感情的な部分は排された、
まるで授業のような解説になるはずだ。
それで幼馴染二人がこんな風になるはずはないが⋮⋮。
と、そこまで考えたところではっとした。
そういえば、ロレーヌにはあれがあったな、と。
幻影魔術だ。
一般的には、地図や構造物などを中空に幻影として投影する魔術
であり、構成が非常に難しいのと維持に多くの魔力を使うことで知
られる魔術だ。
使い手は各国の劇場などに多く、ただ、魔力量を補うために大量
の魔石を必要とするため、かなりコストがかかる。
しかし、その効果はそれを一度見ると単純な書き割り程度では満
1457
足できなくなってしまうので、高級劇場で使われることが多い。
けれど、ロレーヌの場合は一人で大規模な幻影を維持できる。
魔力量についても自前で魔法陣や構成を研究し、かなり抑えるこ
とが出来るらしい。
らしい、というのは前にどうやっているのか聞いた時、全く理解
の及ばない説明をされたので諦めたからだ。
劇場付きの幻影魔術師たちからすれば万金に値する情報だっただ
ろうが、当時の俺には魔力量的にも制御力的にも全く使えるはずも
なかったし、そもそも理論が複雑すぎて理解できなかった。
今ならもしかしたら頑張ればなんとか出来るかもしれないが⋮⋮
まずは基本からだろうな。
ともかく、そんな幻影魔術を使って、俺と魔物との戦いを、ここ
を即席劇場にして投影したのだ、と考えるとロレーヌの満足げな表
情と、幼馴染たちの興奮と尊敬の表情も理解が出来る。
ジャイアントスケルトン
しかし問題は、︽どの程度︾演出してくれたのかだ。
正直言って、俺と骨巨人やタラスクとの戦いはかなり不格好なも
ジャイアントスケルトン
のだった。
骨巨人ははじめて一人で戦った巨大魔物であるし、なんとか弱点
を突けて倒せたが、一歩間違えれば俺の方がやばかった。
タラスクも、エーデルの助けを得てやっと勝てた、というのが実
際のところだ。
やはり、亜竜とは言え、竜に連なる魔物の力はそうそう簡単に倒
せるようなものではなかった。
その辺りを正確に描写してくれていれば、苦戦したけど勝ったん
だね、くらいで済むように思えるが⋮⋮。
⋮⋮キラキラと輝く幼馴染二人の視線を見る限り、そんな感じで
はなかったんだろうな、と分かってしまう。
1458
ともかく、とりあえず俺の予想が正しいかどうかを二人に聞いて
みる。
﹁⋮⋮久しぶりだな、リリ、ファーリ。それで、ロレーヌに幻影で
も見せてもらったのか?﹂
すると、リリが、
﹁そうよ。都会の人って凄いのね。あんなに臨場感のある幻影を、
こんな風に見せられる魔術が使えるなんて! レントの戦ってる姿
もかっこよかったし、魔物の恐ろしさも分かったわ!﹂
と言い、それに続けてファーリが、
﹁魔術を極めるとあそこまでのことができるようになるんだねぇ。
レン兄も、都会に行って、ものすごく強くなったみたいだし⋮⋮私
もそのうち、都会に修行に行こうかなって思ったよ﹂
と言った。
やはり、予想は正しかったらしい。
それにしても⋮⋮なんだか二人の都会に対する期待が膨らみ過ぎ
ている気がする。
俺は都会に行っても十年強くなれなかったし、今ある程度の実力
になれたのはただ幸運だったからだ。
いや⋮⋮あれを幸運と呼ぶかどうかはとりあえず置いておこう。
ともかく、何かの巡り合わせのお陰だ。
ロレーヌの幻影魔術にしても⋮⋮あれは単純にあいつが規格外な
だけだ。
都会に行ったってあいつほどの魔術師など滅多にいない。
銀級というランクで落ち着いているのは、あいつがそれほど依頼
1459
を受けないからで、本来だったら金級でもおかしくはない。
それに、戦闘に限らない魔術の実力で言えば、もっと上だろう。
ロレーヌは冒険者であり、戦いに身を置く魔術師であるが、その
本質は研究者・学者なのだ。
理論構築に関してはその辺の魔術師の追随を許さないレベルで高
い水準にあると言っていい。
そんなものを都会なら当たり前にいるように理解されると、色々
とよろしくはないだろう。
そう思った俺は、二人に言う。
﹁ロレーヌは都会でも色々と規格外な方だからな。あいつを基準に
して都会に行くんじゃないぞ﹂
そんな風に。
するとリリが、
﹁レントも規格外なの? 毒とか効いてなかったよね?﹂
と、予想もしなかったことを聞いてくる。
これに俺は詰まりつつ、
﹁いや、あの、俺は⋮⋮大したことないよ﹂
と言ったところ、
﹁毒の効かない人とか、もっと強い人がいっぱいいるんだ⋮⋮やっ
ぱり都会ってすごいところなんだね﹂
とファーリが目を輝かせて言った。
⋮⋮違う。
1460
少なくとも毒はみんな都会でも普通に効くから。
俺の場合はちょっとあれなだけだから。
そう叫びたかったが、どうあれなのかを説明するのが難しく、咄
嗟に言葉が出なかった。
⋮⋮この誤解は、俺たちがここにいるうちに少しずつ解いていか
なければ⋮⋮。
都市マルトを、とてつもない化け物ばかりが住む都市と理解しつ
つある幼馴染二人の認識を、どうにかすることを、村に滞在する間
の目的の一つに決めた俺だった。
1461
第216話 山奥の村ハトハラーとレント神話
﹁そういえば、リリちゃん。ロレーヌさんに聞くことがあるんじゃ
なかったの?﹂
ファーリがふと、思い出したようにそう言った。
リリははっとしてロレーヌと俺の顔を見つめ、何か言いかけるよ
うに口を開くも、
﹁⋮⋮レントと都会の話に夢中になりすぎてたわ⋮⋮。これから夜
の準備しないといけないし⋮⋮ロレーヌさん、また夜、お話してく
れる?﹂
とロレーヌに言う。
ロレーヌはそんなリリの様子に首を傾げつつも、別に断る理由は
なかったのだろう。
普通に頷いて、
﹁ああ、別に構わんが⋮⋮夜とは、あれか、村長夫妻が言っていた
宴のことか?﹂
と尋ねた。
リリもそれに頷き、
﹁ええ。それよ。私もファーリも料理作りとか手伝わなきゃならな
いから実は結構時間がないの﹂
﹁そうなのか。すまんな、時間をとらせて﹂
1462
﹁違うわ、私たちの方がいきなり押しかけたのよ。色々と話を聞け
て楽しかったわ。また。レントもね﹂
と言ってリリは手を振り、ファーリも、
﹁あの幻影、夜にも見せてくれたらうれしいです。みんなきっと見
たいと思いますから。じゃあ、また。ロレーヌさん、レン兄﹂
と同様に手を振って去っていた。
残された俺とロレーヌはそんな二人を見ながら、
﹁⋮⋮あいつら、何しに来たんだ?﹂
俺がロレーヌに尋ねると、ロレーヌは、
﹁さぁな。よくわからん。お前に用があったみたいだが⋮⋮﹂
とよく分からない顔をしていた。
しかし、二人きりになってそう言えば、と俺は思って言う。
﹁⋮⋮お前、幻影魔術使って色々見せたんだろ? あの二人に﹂
するとロレーヌは、ぎくり、という顔をして、しかし少し誇らし
げに、
﹁ああ、見せたぞ。お前の秘密をばらさないように、かつお前の村
での威厳を損なわないように調整するのが大変だった。しかし、あ
の二人の様子を見てみろ。概ね成功したと言っていいのではないか
?﹂
1463
と言って来た。
それを聞いて、俺はロレーヌなりにいろいろ考えた結果、幻影魔
術を見せたらしいと言うことを理解する。
まぁ、あの二人にマルトでの俺の様子を教えてくれ、とか言われ
たらロレーヌとしても断りにくいだろうしな。
説明するよりは魔術で見せよう、となるのも分かる。
ロレーヌはこれで意外とサービス精神旺盛な奴だし、魔術を出し
惜しみしないから⋮⋮。
魔術師にしては珍しいタイプだ。
ふつう、魔術師というやつは自分の持つ魔術を出し惜しみして価
値を上げようとするものだからな。
そもそも、一般的な魔術師と言うのは魔力量がさほど多くないと
言うか、そうそう乱発できるものでもなく、そんなことをしている
とすぐに魔力切れになってしまうので必要なときにしか使わないと
いう理由もある。
ロレーヌはそう言った心配がほとんどない位に魔力量が多いから
そういうことが出来るともいえる。
﹁⋮⋮まぁ、お前が苦心してくれたことは今ので少しわかったが、
リリもファーリも何か英雄でも見ているような夢見る瞳をしていた
ぞ。俺のことを持ち上げてくれるにしても、少しやりすぎだったん
じゃないか?﹂
俺がそう尋ねると、ロレーヌは悩んだような顔つきで、
﹁⋮⋮そうかな? 実際、お前がやったことは中々にすごいことだ
ジャイアントスケルトン
から、普通に説明されてもああいう感じになるのはそれほどおかし
くはないと思うが。骨巨人にしても、タラスクにしても、一般的な
冒険者では中々遭遇しないし、ましてやソロで討伐など実力者でな
1464
ければ出来ん﹂
ジャイアントスケルトン
まぁ、それは間違いではないかもしれないが、タラスクはその住
んでいる場所や毒と言う特殊な特性を加味しても金級程度、骨巨人
は銀級下位クラス程度の実力があれば十分に相対できる相手だ。
それほど褒められたものでもない。 俺がそう言うと、
﹁お前、少し自己評価が低すぎるのではないか? それだけの実力
をすでに身に付けていると言うことだぞ。こういった村から冒険者
になりたいと言ってマルトのようなところにやってきた若者のうち、
どれくらいが今のお前ほどの実力になれると思っている? お前の
なしたことは、間違いなく村で英雄として見られてもおかしくない
ものだ﹂
とロレーヌから返って来た。
まぁ、そう言われるとそうかな、とは思う。
そもそも俺は銅級に過ぎなかったわけで。村出身の冒険者として
は、大体がその辺の実力で頭打ちになり、そして冒険者を引退して
村に戻り、狩人やら村の防人やらになって余生を過ごすものだ。
俺も行く先はいつかそうなっていた可能性が高い。
そうならなかったのは、あの幸運だか不運だか分からない巡り合
わせのお陰でしかない。
そして、そんな俺がいまやタラスクとまで戦えるほどになってい
ることは、そういう大多数の夢破れた冒険者たちからすれば、十分
な結果だと言うことになるだろう。
⋮⋮そうだな。
なんだか最近、色々ありすぎて自信が失われつつあったような気
がする。
ラウラとかニヴとか、見るからにただものではないけどよくわか
1465
らない人々に良く会うようになって、俺って凡人だよな、と最近強
く感じるのだ。
あの生まれつき備わっているかのような、ただものじゃないオー
ラはどうやって身に着けるのだろうか?
⋮⋮いや、ラウラはともかく、ニヴみたいにはなりたくないが⋮
⋮。
あいつはただものじゃないというか、そもそも人間離れしすぎだ。
考えとか行動とか人の社会でまともに生きていけるタイプには思え
ない。
その割に、色々と伝手があったり宗教の権力のいいとこどりをし
たりと立ち回りが妙にうまくて手におえないが。
まぁ⋮⋮ああいうのは特殊だろうから、真似することもない。俺
は俺だ。
そう思えば、少しくらい、自信をもってもいいかもしれない。
とは言え、それはそれとして、ロレーヌが幼馴染たちに何を見せ
たのかは確認しておきたいなと思い、俺はロレーヌに言う。
﹁そんな大したものでもない気がするけど、少しは自信を持ってお
くことにするよ。それとロレーヌ、あいつらに見せた幻影、俺にも
見せてくれ。確認しておきたい。色々後で聞かれて襤褸が出るのも
まずいしな﹂
するとロレーヌは、
﹁それもそうだな。口で説明してもいいが、見た方が分かりやすい
し早いだろう。こっちに来い﹂
そう言ってロレーヌは魔術を使いだす。
いつみても複雑な構成の魔術だが、ロレーヌはそれこそ鼻歌でも
1466
歌いだしそうなくらいに簡単にやる。
そして、幻影魔術が完成し、ロレーヌはそれをコントロールし始
めた⋮⋮。
◇◆◇◆◇
結論として言いたいのは、一体これは誰だ、ということだ。
美化が酷い。
エーデルもいないし⋮⋮。
俺がほぼ無傷なのもな。
確かに大きなけがはしなかったが、タラスクの前にたどり着くま
でに結構色々あってぼろぼろに近い汚れ方をしていたはずなのに、
これではタラスク退治を簡単にこなした英雄のようである。
あの二人の視線の意味も、これでよく理解できた。
﹁⋮⋮いくらなんでも、演出過剰だろ⋮⋮﹂
そう文句を言うと、ロレーヌは、
﹁建国神話の国王ほどではないぞ。なに、気にするな﹂
と明後日の方向の返答をする。
建国神話の国王なんてどんな国でもそれこそ神話じみた嘘やら装
飾やらが施されているものだ。
そんなものと同列に並べられても困る。
が、半ば本気で言っていることはロレーヌの顔を見ればわかった。
﹁なぁ、ロレーヌ﹂
﹁なんだ?﹂
1467
﹁これ、夜の宴でも上映するつもりか?﹂
﹁もちろんだ。頼まれたしな﹂
楽しみそうにそう言ったロレーヌに、俺はげんなりとしつつ、一
体どうやったら俺の真実の姿を村の人たちに理解してもらえるのか
を、俺は夜まで考えることにしたのだった。
1468
第217話 山奥の村ハトハラーとレントの美的感覚
村の中心にある広場に火がたかれている。
組み上げられた木の櫓が燃え上がって、夜の闇を温かく照らして
いる。
燃える櫓の周囲には屋外用のテーブルがいくつも並んでいて、そ
の上には村の女性たちが作ったごちそうが大量に並べられていた。
中には、狩人のおっさんたちが狩って来た鳥獣の丸焼きなんかも
あって、村らしい野卑なところも見られる
マルトではあんまり見られない料理だ。
まぁ、それでもマルトもまだ辺境だから、たまにああいうのも出
されるが、それこそ本当の都会である王都なんかに行けばまず絶対
に出ない。
品がない、と言われてしまうからだ。
村で食事をするときの醍醐味と言えるだろう。
村人たちはそんな風に並べられた料理を思い思いの様子でとって
食べ、談笑をしている。
一応、今回の主役は俺だから、俺のところにきて、帰省を喜んで
くれ、かつ色々と︽都会︾の話をしたがった。
若い娘は何が今流行っているかを尋ね、男たちは美人がどれくら
いいるのかを聞いてくる。
⋮⋮まぁ、分かりやすい話だ。
女性陣には一応、お土産にマルトで流行っている装飾品なども買
ってきているので、ついでにちょろちょろ渡していた。
無駄遣いと思うなかれ。
こういうことをしておいた方が、村にも気軽に帰って来られるし、
帰って来た時いろいろと良くしてくれるものだ。
もちろん、おばちゃん連中にもお土産は渡す。
1469
男には特に何もやらないが、良くも悪くも何も考えてないので彼
らはそれで問題ない。
都会のいかがわしい店の話などをしつつ、金がたまった時に来れ
ば案内してやる旨を言えばそれで大概喜んでいる。
単純な生き物で楽だ。
ちなみに俺は利用したことないぞ。
興味がないという訳ではなく、そんなことより修行してたかった
からだ。
さすがに疲労困憊の状態でそんなところに行けはしない。
そして今となっては正体が正体だから行きようもない⋮⋮。
﹁⋮⋮楽しそうだな?﹂
そんなくだらない話に花を咲かせていた俺と村の若者たちのとこ
ろへ、ロレーヌがひょい、とそんなことを言いながら顔を出した。
ロレーヌを見た村の若者は、顔を赤くし、じっと見つめてから、
自分が今、何の話をしていたのかを思い出したのだろう。
まずい、という表情をして、
﹁れ、レント、俺はちょっとあっちで親父たちと話してくるよ。じ
ゃ﹂
と言うことをそれぞれが言って蜘蛛の子を散らすように去ってい
った。
ロレーヌはそんな彼らの反応を見て首を傾げ、
﹁⋮⋮私は何かまずいことを言ったのか?﹂
と尋ねてくる。
俺は首を振って、
1470
﹁まずいことというか、女性には聞かせられない話をしていたのさ﹂
と笑って言うと、ロレーヌはそれで理解したようで、
﹁なるほどな。別にそんなもの気にすることでも無かろうに⋮⋮純
情なのだな?﹂
と堂々と言った。
ロレーヌは冒険者である。
ギルド
そして冒険者というものは荒くれの男が多く、そう言った話につ
いては冒険者組合に行けばそこここでなされている。
そんなところに女性が行けば、別に襲われることはないにしても、
色々と問題のある発言をされることは枚挙にいとまがない。
そんな中で長年冒険者としてやってきたロレーヌに、そういうこ
とに免疫がないはずがなかった。
むしろ言い返すくらいで、一生懸命先輩冒険者の後を追おうとし
て、よくない見本を真似しようとした駆け出しなどを反対に赤らめ
させたりしているくらいである。
こわい。
当たり前だが、俺はそんなことを誰かに言ったことはないぞ。
言うだけ無駄と言うか、何が楽しいのか分からんと言うか⋮⋮暇
だなぁと思ってしまうたちだからだ。
まぁ、女性が周りにいないときにそんな話を振られたら乗るけど
な。ただの処世術に過ぎない。
﹁たしかに村の男は結構純情かもな。お前もたぶらかすなよ? 都
会に行けば⋮⋮なんて考えられてみんな村を出ていってしまったら
困る﹂
1471
俺の台詞の意味は、ロレーヌを見て顔を赤らめていた若者を見れ
ば分かるように、ロレーヌの容貌の整ったところについて言ってい
るのだが、ロレーヌはこの辺り無頓着に過ぎたようだ。
首を傾げて、
﹁⋮⋮む、どういう意味だ?﹂
と尋ねてきた。
正直に、お前が美人でスタイルもいいから、それを見て村の男た
ちが都会に行けばロレーヌみたいなのがたくさんいて付き合える、
とか考え始めると問題なんだよ、と言ってもいいが、なんだか癪に
障るので、
﹁⋮⋮ま、意味が分からないならそれでいい﹂
と流すことにした。
するとロレーヌは、
﹁おい、気になるではないか。説明しろ﹂
と言い募るも、
﹁流石に説明しにくい。リリとかファーリとかに聞いてくれよ。き
っと分かるから。おっと、あっちでジャルとドルが呼んでるな。行
ってくる﹂
と丸投げしてその場を逃げることにした。
後ろから、おい、と言う声が聞こえるが、ここは大変申し訳ない
が聞こえないふりをして無視させてもらう。
男にもいろいろあるのだ。
1472
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮全く、なんなんだ?﹂
一人その場に取り残されたロレーヌはぽつり、とそう呟いた。
さっきの言葉の意味が気になるが、考えても分からない。
その場で少し考えこんだが、どうやらダメそうだ。
そう思ったとき、
﹁あ、ロレーヌさん。どうしたの?﹂
とリリの声が聞こえた。
隣にファーリもいて、二人とも手に木製の酒杯を持っている。
かなり酒精の低い、保存するために酒精を利かせているだけの酒
とも呼べないものだが、ほんのりと甘く美味しい、このハトハラー
特産の飲み物だ。
男たちは火を噴きそうな酒を飲んでいるが、リリたちくらいの年
齢の少女たちは皆、こちらを飲んでいる。
ちなみに、ロレーヌは酒の方だ。
恐ろしいほどの強さで、顔色はまるで変わっていない。
そんなロレーヌは、リリとファーリに先ほどレントがした話をし、
意味を尋ねた。
すると二人はすぐに意味を理解したようで、説明する。
﹁⋮⋮それはロレーヌさんが美人だからよ。都会にはロレーヌさん
みたいな美人な人がたくさんいるって村を出てく人が増えたら困る
ってことだと思う﹂
1473
﹁⋮⋮うーむ。私は美人か?﹂
﹁それをその辺の女に聞いたらそのほっぺた張られるわよ?﹂
尋ねたらロレーヌに、リリは怖い笑顔と言う器用な表情でそう言
ったので、ロレーヌは何か背筋に冷たいものが走った。
﹁⋮⋮悪かった。しかし、意外だ。レントがそんな評価を私にして
いるとは﹂
リリの説明が正しいとすれば、レントもまた、ロレーヌを美人だ
と思っていると言うことになる。
何も気にしていないと思っていたので、意外だった。
しかしだとすれば、もっと何かあってもいいのではないか、と少
し不満に思うが、ファーリがその点について参考になる意見を言う。
﹁⋮⋮レン兄はその辺り、ちょっとずれているから、美人だ、って
いうのはただ客観的にそう思うだけで、美人だからどうこうしよう、
とはならないんだと思いますよ﹂
1474
第217話 山奥の村ハトハラーとレントの美的感覚︵後書き︶
気づいたらもう少しで総合評価が八万に⋮⋮。
なんでこんなに読んで頂けるのかいつも不思議です。
ありがとうございます。
どうかこれからもよろしくお願いします。
1475
第218話 山奥の村ハトハラーと酔い
ファーリの言葉にひどく心当りがあったロレーヌは苦い顔をして、
﹁⋮⋮なんであいつはそんな風になってしまったのか⋮⋮﹂
と冗談交じりに言う。
レントの性格は確かにファーリが言ったように、美人だからどう
こうとかかわいいからどうこうとか、評価の次の行動にはそうそう
移る感じではない。
昔からそうで、十年一緒にいても浮いた話一つ聞いたことがなか
った。
劇場の人気役者じゃないのだからそんなに禁欲的に生きなくても
よかろうに、と自分のことを棚に上げて思ってきたロレーヌである。
だから、そんなことを言ったのだ。
しかし、ロレーヌの台詞はなぜか、思いのほかリリとファーリに
は深刻に受け止められたようだ。
二人の表情が僅かに曇ったのをロレーヌは感じ、あぁ、また自分
は地雷を踏んだのか⋮⋮と思う。
思うが、もう言ってしまったので、能天気なふりをして徐々に話
題をずらすしか方法がない。
何か言おうと口を開こうとするも、ロレーヌより先にファーリが
言う。
﹁レン兄は、昔のことがあるから⋮⋮やっぱりどうしても、ってこ
となんだと思います﹂
1476
昔の事?
なんだろうと思っていると、リリが、
﹁そうね。でも、もうどうしようもない話だわ。忘れて⋮⋮なんて
いうのも違う気はするけど、そろそろ前を向いてもいいころよ﹂
と言う。
よほど深刻なことがあったようだが、突っ込んで聞くのもこれは
よろしくないような気がする。
﹁ロレーヌさん、レン兄は⋮⋮﹂
ファーリがそう言いかけたが、ロレーヌは首を振って答えた。
﹁その先は私も聞きたいが、レントがいない場所で聞いてしまうの
はよくない。今はやめておこう﹂
﹁⋮⋮そうですか。そうですね⋮⋮すみません、余計なことを⋮⋮﹂
ロレーヌの言葉に、ファーリは申し訳なさそうな表情で頭を下げ
る。
﹁いや⋮⋮﹂
ロレーヌはそれに、曖昧に首を振った。
別に余計なことでもなんでもない。
リリにしろファーリにしろ、レントのことを心配しているからロ
レーヌに何かを言おうとしたことは、分かるからだ。
レントの昔に何があったのかは分からないが、何か心に傷を負う
出来事があった。
1477
そのことを、マルトで長く友人関係を続けているロレーヌに知っ
てもらい、フォローなりなんなりしてもらえたら、と考えたのだろ
うと。
それは悪いことではない。
むしろ、深く心配しているからこその行動だ。
ただ、ロレーヌは聞くなら本人から聞かなければならないと思っ
ただけで、本来は言い触らさないならここで聞いても問題はない。
けれど、ロレーヌは冒険者で⋮⋮冒険者の心得にあるのだ。
隣にいる冒険者の過去を詮索してはならない、と。
規約に書いてあるわけでも、誰かがそういう決まりを作ったわけ
でもないが、冒険者の良心が自然とそういうルールを冒険者たちに
浸透させた。
その理由は、冒険者はいずれも脛に傷を持った者ばかりで、過去
なんて詮索するととんでもないものが掘り返されたりする場合があ
るから、というひどく現実的な事実にあるが、今ではどちらかとい
うと、冒険者同士の気遣いに近いルールになっている。
そこからすると、レントの過去を⋮⋮それもおそらく今の彼を形
成するに至った重要な話を、他人から聞くのは許されない。
ロレーヌはそう思ったのだ。
ただこの辺りの話は冒険者特有の感覚で、リリとファーリにはう
まく伝えられないところだ。
だからこそ、微妙な物言いになってしまったが⋮⋮。
申し訳ない気分になって、ロレーヌは二人に言う。
﹁レントを心配して何か言おうとしたことは分かるから、気にしな
いでくれ⋮⋮それに、まぁ、あとで本人にそれとなく聞いてみよう
とも思う。それで話したくなければ話さないだろうし、話してもい
いことなら普通に話すさ。あいつと私はいつもそうやってきたんだ﹂
1478
それはロレーヌからしてみれば何気ない台詞だったが、リリとフ
ァーリはすこし眩しそうな顔をした。
それからリリは、
﹁レントとロレーヌさんは⋮⋮仲がいいのね﹂
と言い、ファーリも続けて、
﹁分かちがたい絆が見えます⋮⋮﹂
と言った。
一体何の話だろう、と一瞬思うロレーヌだったが、二人の言うこ
とは間違ってはいないかなと思いつつ、
﹁確かに仲はいいし、絆もあるだろうな﹂
冒険者関係とか友人関係とかそんな方向で。
そういう意味の台詞で、特に深い意味はなかったのだが、それを
聞いた二人が、なんだか妙にがっかりしていて不思議に思ったロレ
ーヌだった。
それから、
﹁あぁ、そうだ。そろそろ幻影魔術でも披露しようかと思うのだが、
やってもいいかな? まずいならやめておくが⋮⋮﹂
と話を変えると、リリが、
﹁あ、あれもう一回見たかったのよね。今すぐに⋮⋮﹂
と言いかけたが、ファーリが慌てて、
1479
﹁待って、待ってリリちゃん! いきなりあれをやったら魔物の襲
ジャイアントスケルトン
撃だと勘違いされるよ! まず村長さんに話を通して、みんなに周
知してからにしないと!﹂
と止める。
確かにこの場合はファーリの考えが正しいだろう。
こんなところに唐突にタラスクが出現するわけもないが、骨巨人
なら場合によっては現れる可能性はゼロではない。
これから幻影魔術を使うけれど、安全なので心配なさらずに、と
みんなに先に伝えておく必要があるだろう。
あと、老人と子供には刺激が強いかもしれないから、動悸が出た
り、精神によくない影響が与えられる、と思ったら見えないように
も出来るということも伝えてもらった方が良いかもしれない。
そんなことをリリとファーリに言うと、二人は頷いて、村長︱︱
つまりはレントの義理の父のところに駆けていった。
ロレーヌも行こうと思ったが、二人はロレーヌが手に持っている
酒杯を見て、そこで待っているようにと厳命した。
⋮⋮かなり酔っていると勘違いされたのだろうか?
リリたちが呑んでいるものと、ロレーヌが呑んでいるものとは、
酒杯の形で中身が分かるようになっていて、ロレーヌのそれは火酒
であることが明らかだ。
これを持っている村人たちの多くが、ふらふらとした足取りで、
今にもかがり火に突っ込みそうな有様であるから、そう判断される
のも仕方がないかもしれないと思う。
実際はどうかと言えば、さほど酔ってはいない。
酒精には強い質で、滅多に酔ったことはないのだ。
酔ったふりをすることはあるし、雰囲気で酔ったような感覚にな
ることはあるが、いつも頭は冴え渡っている。
1480
そんなことを考えていると、
﹁伝えて来たわ! 村長がみんなに言っておいてくれるって﹂
と言いながらリリとファーリが戻って来た。
たしかに、直後、村長の声が聞こえた。
その内容は、概ね先ほどロレーヌが頼んだ注意事項を伝えるもの
だ。
それと、場所は今村長がいる辺りで、とも言っている。
これでは最初からリリたちと一緒に行っていたほうがよかったな、
二度手間だった、と思うが、歩き始めたロレーヌの両横にリリとフ
ァーリがついた。
﹁⋮⋮どうした? 両手に華で私は嬉しいが⋮⋮﹂
とロレーヌが冗談交じりに言うと、リリが言いにくそうに、
﹁⋮⋮だって、流石に酔ってるんじゃないかと思って﹂
そう言った。
それにロレーヌは、
﹁全く酔ってないぞ。と、酔っぱらいが言っても信じられないとは
思うが⋮⋮普通にまっすぐ歩ける。ほら﹂
と言って一切揺れずにまっすぐ歩いて見せた。
するとそれを見た二人は驚いた顔になり、ファーリが、
﹁⋮⋮大の大人でも一杯飲めばふらふらになるハトハラーの火酒を
飲んで、あんなにしっかりしてる人、初めて見たよ⋮⋮﹂
1481
と言う。
﹁そうか? 四杯目なのだが⋮⋮﹂
とロレーヌが返すと、リリが、
﹁⋮⋮化け物ね﹂
と呟いた。
しかし、本当に問題ないとそれで分かってもらえたようで、村長
のところへは自分の足で行かせてもらえたのだった。
1482
第219話 山奥の村ハトハラーとレント探し
﹁⋮⋮やっぱり少し酔ってたかもしれないな﹂
ジャイアントスケルトン
レント対骨巨人、レント対タラスクの両方を、リリとファーリに
見せたときよりも三割増しくらいに演出過多に上映したロレーヌは、
ぽつりとそう呟いた。
とは言え、周りのハトハラーの村人たちの反応を見る限り、特に
問題ないと言うか、大好評である。
曰く、レントがこれほどまでに冒険者として頑張っているとは思
わなかった、見直した、とか、かっこいい、村にいたらこっちから
求婚したいくらいだわ、とかそんな言葉が交わされているのが聞こ
える。
⋮⋮やっぱりやりすぎたか。
そう思うも、もうやってしまったものは仕方がない。
とは言え、レントには叱られるかもしれないな⋮⋮と思って周囲
を見渡してみるが、レントの姿が見えないことに気づく。
レントのことだから、ロレーヌが幻影魔術を使っているところを
自分の目で確認しようとするだろうと思っていたが、そういうわけ
でもなかったようだ。
もう英雄扱いは諦めたと言うことか⋮⋮いや、この場にいると度
を越してちやほやされそうだから上映が終わった瞬間、さっさと逃
げたのかもしれない。
さて、どこに行ったのか⋮⋮。
誰か見ていないかと思い、ロレーヌはリリの姿を発見し、彼女に
近づく。
彼女はロレーヌが近づいてくるのを見て、たった今、上映したレ
1483
ントの活躍を描いた幻影魔術について色々な方向から褒めてくれ、
それをしばらく聞いてからロレーヌは、切り出す。
﹁そうそう、リリ。レントがどこにいるか知らないか? おそらく
あいつも見ていたかと思うのだが、姿が見えなくてな。本人に出来
の感想を聞きたい﹂
﹁え、レントいないの? うーん、さっきまでいたような気がして
たんだけど⋮⋮逃げたのかもね﹂
リリは周りを見て、ロレーヌと同じ結論に達したらしい。
リリは続ける。
﹁まぁ、どこかにはいると思うから、探してみたら? 私も見かけ
たらロレーヌが探してたって伝えておくわ﹂
﹁そうか。悪いな。頼む﹂
ロレーヌはリリにそう言って離れた。
それからしばらくの間、ロレーヌはレントを探しては見たが、や
はり櫓の周辺のどこにもおらず、見つけることは出来なかった。
﹁ロレーヌ殿、楽しんでおられるか?﹂
そんなロレーヌのところに、そう言って村長、つまりはレントの
義理の父であるインゴが近づいてきた。
ロレーヌは言う。
﹁ええ、とても。村の方たちは皆、親切で明るいですし、食事も美
味しいです。⋮⋮これも非常に気に入りました﹂
1484
そう言って酒杯を見せると、インゴは目を見開いて、
﹁⋮⋮女性でそれを飲んで平然とされている方は珍しい。しかし楽
しんでくれているなら良かった。なにせ、ハトハラーは田舎ですか
ら、都会の人には合わないのではないかと不安だった﹂
﹁いやいや、そんなことは⋮⋮。むしろ、マルトにはないものがた
くさんあって面白いです﹂
食事や酒を抜きにして、この村の在り様は珍しい。
学者としても、冒険者としても興味を引かれる村であるのは間違
いなかった。
﹁そうなのか? それほど面白いものはないような気がするが⋮⋮
ずっと住んでいるとむしろ、わからないのかもしれん。ところで⋮
⋮﹂
﹁はい、なんでしょう?﹂
﹁先ほどから何かを探しておられるようだが、いかがされたか?﹂
その言葉に、インゴがわざわざ話しかけてきてくれた理由が分か
った。
一人きょろきょろしているロレーヌの様子に、何か困っているよ
うだと来てくれたのだろう。
気遣いにありがたく思いつつ、せっかくだから尋ねる。
﹁ええ、ちょっとレントを探しておりまして。先ほどから姿を見か
けないものですから、どこにいったのかと﹂
1485
﹁レントが? ううむ⋮⋮確かにこの辺にはいないようだ。となる
と⋮⋮﹂
きょろきょろ周囲を見て、確かにレントがいないことを理解した
インゴは、そう言って考え込み始めた。
ロレーヌはそれに、
﹁いえ、無理に探そうと言うわけでもないので、心当たりがなけれ
ばそれで構いませんよ﹂
と言うが、インゴは、
﹁いや、心当たりはある。おそらく、あっちの方にいるだろう。少
し、見に行ってみてくれるか? あまり主役が不在だと、宴も寂し
いのでな﹂
と言って、村の奥の方を指さした。
そちらは大分暗くなっていて、この時間帯だとかなり歩きにくそ
うだが、それはあくまで普通の人間の場合である。
ロレーヌは鍛えられた魔術師であり、冒険者であるところ、この
程度の暗がりは全く問題にならない。
無詠唱で魔術の光球を生み出す。
インゴはそれを見て少し驚いた顔をしていたが、ロレーヌが魔術
師であることはしっかりと知っているから、すぐに通常の表情に戻
った。
それからロレーヌは、
﹁では、見に行ってみようと思います。教えていただいてありがと
うございました﹂
1486
と言ってから、インゴの指さした方に歩き出した。
足元をしっかりと光が照らしているので、何の問題もなく進む。
それからしばらくすると、大きな建物に突き当たった。
村の建造物の中では一番大きいかもしれない。
それでも大したものではないが、装飾から見るに⋮⋮。
﹁⋮⋮教会か。宗派は分からんが、一応あるということかな﹂
ロレーヌはそう呟いた。
東天教のものでもロベリア教のものでもなく、他の大きな宗教団
体のものでもない。
まぁ、このような村だと普通だ。
土着の神や精霊などを祭っている場合は、ただの大きな建物を教
会とし、たまに集会が開かれるくらいのことが多い。
しかし、レントの姿は見えない。
こっちに来ればたぶんいると言うことだったが⋮⋮当てが外れた
かな?
そう思っていると、教会の裏手の方に、ふと、人の気配を感じた。
どうやら、外れというわけではなかったようだ。
そう思ってロレーヌが教会の裏手に回ると、そこには確かにレン
トがいた。
地面に直接腰かけている。
ロレーヌはそれを見て、どうしようかと迷ったが、この距離まで
近づいてレントが気づいていないはずもない。
魔術によって生み出した光球を消してから、堂々と歩いていき、
それから、レントの隣にレント同様腰かけた。
1487
﹁⋮⋮墓所か﹂
ロレーヌが、レントの顔を見ず、ただ前を見つめてそう尋ねると、
レントは目の前にある石碑を見つめながら、
﹁ああ。ここに親父と母さんが眠ってるよ。一応、挨拶しとかない
とと思ってな﹂
そう言った。
1488
第220話 山奥の村ハトハラーと過去
﹁⋮⋮悪いな。邪魔をした﹂
ロレーヌはレントの言葉を聞いて、すぐにそう言う。
死者との語らいは誰にも邪魔されるべきものではない。
静かに、己の内にある死者の遠い日の姿を思い浮かべるには、他
人の存在が邪魔なことがある。
今は、レントが一人で死者と向き合っているところだった。
それをこんな風に邪魔するのは⋮⋮。
そう思って立ち上がろうとしたロレーヌだったが、
とう
﹁いや、いいんだ。義父さんに教えられて来たんだろ?﹂
と言ってロレーヌの腕をつかみ、引き止める。
﹁⋮⋮よくわかるな? 自分で探しに来たとは思わないのか﹂
アンデッド
﹁ここは村でも結構奥まったところにあるし、俺の気配は不死者に
なってからかなり希薄だろう? いくらロレーヌでもなんのヒント
もなしに探すのは難しかっただろうからな。それに⋮⋮義父さんは
俺が帰省するといつも、ここに寄るのを分かっているからさ。ここ
に来ると、時間を忘れてしまうんだ。あんまり長くいすぎて、誰か
が呼びに来てくれるのさ﹂
﹁なるほどな⋮⋮﹂
だから、村長インゴはここが墓所である、と最初に言わなかった
1489
のかもしれないと思う。
そう言われたら初めから遠慮してこなかった可能性が高い。
けれど、インゴにとってもレントにとっても、別にここにいるレ
ントを誰かが呼びに来ることはおかしいことでも煩わしいことでも
ないわけだ。
じゃあ、いてもいいのかもな、と思って、ロレーヌは浮かしかけ
た腰を下ろす。
レントは続ける。
﹁それに、せっかくなんだ。一緒に参ってくれ。村の外で一番付き
合いが長く、深い友達がロレーヌなんだ。両親も顔を見たいと思っ
ているさ﹂
﹁⋮⋮そうか。では、そうさせてもらおう﹂
ロレーヌはそう言って、石碑の前に跪き、手を組んで祈る。
それから、
﹁初めまして、レントのご両親。私の名前はロレーヌ・ヴィヴィエ。
十年前から、あなた方のご子息の友人を勤めております⋮⋮﹂
から始まって、マルトでの十年間の思い出を一通り語った。
それから、
﹁これからも、私たちの関係は続きます。その道行の先に光が差す
よう、暗闇の果て、空の向こうから見守っていただけますよう⋮⋮﹂
と言って締めた。
それを聞いたレントは、
1490
﹁⋮⋮そうやって聞くと、改めて、色々あったな﹂
としみじみ呟く。
全部体験したことだし、覚えてもいるが客観的に起こったことを
語られると、なんだか変な感じがするのだろう。
﹁お前は巻き込まれ体質だからな。普通にしてても厄介ごとが向こ
うからやってくる⋮⋮とはいえ、ここ最近の諸々に比べればそれま
での厄介ごとは冒険者にありがちなものに過ぎなかったことがよく
わかるが﹂
アンデッド
﹁確かにな⋮⋮。俺も不死者になって墓参りするなんて思ってもみ
なかったよ。ちょっとな、期待してたんだ﹂
﹁何をだ?﹂
アンデッド
﹁不死者になったんだから、死霊なんかも見えないかなと。ここに
来れば両親たちに会えるんじゃないかなと。⋮⋮まぁ、見事に期待
が外れたけどな﹂
﹁死霊か⋮⋮難しいだろうな。大半の魂はそうはならずに死者の門
を潜る。その扉の向こうから魂を呼び寄せられるのは死霊術師だけ
だ﹂
﹁ま、そうだな⋮⋮。別にそこまで本気だったわけでもないんだ。
だからいいさ﹂
と、レントは口では言うものの、表情は少し沈んでいる。
そこまで本気ではなかった、というのは事実にしても、自分で思
っている以上に期待してた部分もあった、という感じなのかもしれ
1491
なかった。
﹁掘り返すようで悪いが、ご両親は⋮⋮確か、魔物に襲われて亡く
なられたんだったな﹂
割と踏み込んだ発言だったが、墓を目の前にして触れないのもお
かしい。
話したくないなら話さないだろうし、その場合には即座に話題を
変えればいいと思い、ロレーヌは思い切って言った。
するとレントは、
﹁ああ、そうだ。あれは村での特産品を売りに隣町に行くときのこ
とだったな⋮⋮運が悪かった。普段なら行商人に持ってってもらう
んだが、いつも来ていた行商人の到着が遅れててな。冬が目前に迫
ってて、現金収入と必需品の購入がどうしてもその時期に必要だっ
た。だから、俺の両親と、俺と、村長の母親と、村長夫妻の娘とで、
隣町に向かったんだ⋮⋮﹂
◇◆◇◆◇
俺の両親の名前はそこの墓に書いてあるな。
父がロクスタで、母がメリサ。
父はどちらかというとごつい顔つきの人で、体もがっしりしてい
たな。
俺とはパッと見、そんなに似ていなかったような気がするが、目
は似ていたみたいだ。
今でも、義父さんや義母さんはそう言うよ。
母は⋮⋮俺は母似みたいでな。
骨格とかは母によく似ていると言われる。
ただ、母は相当な美人で、かなりもてたらしい。
1492
当時、父と結婚してしばらく経っていたが、冗談交じりに求婚さ
れることもあるくらいだったな。
まぁ、当然すげなく断っていたが。
村長の母親は、つまり今の俺の義理の祖母だな。
彼女は、前に行った薬師の婆さんと似てる。
姉妹なんだから当然な訳だが⋮⋮名は、プラヴダと言った。
薬師の婆さんは細面にして、意地悪度を三、下げたような顔だ。
よくわからないって?
まぁ、今日の宴では婆さん見かけなかったが、明日会いに行けば
俺の言ってることが分かるよ。
ガルブの婆さんは見るからに意地悪婆さんで、実際に意地悪婆さ
んだからな。
村の子供たちは大概、あの婆さんを恐れているくらいだからな。
付き合ってみると意外と優しいところも見えるんだが⋮⋮それは
今はいいか。
プラヴダの婆さんは、村長一族の名代として一緒に行くことにな
ったんだ。
で、村長の娘は、婆さんの仕事ぶりを見るためと、あと、俺が行
くからだな。
俺と、彼女は仲良かったんだ。
というか⋮⋮まぁなんだ。
半ば許嫁、みたいな感じでな。
俺の両親と村長夫妻は中のいい幼馴染で、お互いの子供同士を結
婚させようとしていたわけだな。
断る権利ももちろんあったが、当時、俺は五才だし、特に気にし
てなかった。
実際、仲もよかったし⋮⋮大人になったらまた、考えたのかもし
れないけど、そのときは漠然とそうなるんだろうな、とくらいにし
か考えてなかった。
1493
ま、それはいいか。
そんなわけで、そういうメンバーで隣町に行くことになったのさ。
きっと楽しい旅になるんだろうと思っていた。
隣町だから、旅、なんて言えるほど長い道のりでもなかったけど
な。
ハトハラーの村にある馬車はどれも大した体力のある馬がいるわ
けじゃないから、それでも二、三日がかりの大事業だったのさ。
それが⋮⋮結果としてどうなったのかは、もうはっきりしてるよ
な。
1494
第221話 山奥の村ハトハラーと許嫁の少女
﹁レント、それにジンリン、もう準備は出来た?﹂
俺の母さん⋮⋮メリサが、俺と、村長の娘に向かってそう言った。
馬車に色々荷物を積み込むのは親父と村の若い男たちの仕事で、
俺と村長の娘、ジンリンのすることなんて対してなかった。
でも、まぁ、色々出発する前にやることもあるからな。
すべて終わったのか、という意味で聞いたわけだ。
﹁うん、終わったよ﹂
﹁終わりました! いつでも大丈夫!﹂
俺と、ジンリンがそう言うと、母さんは笑って、
﹁じゃあ、馬車の荷台に乗りなさい。そろそろ荷物も積み込み終わ
るころだと思うし﹂
そう言ったから、俺とジンリンは馬車の方に向かった。
﹁ねぇ、レント、隣町ってどんなところなんだろうね? 村から出
るの初めてだから、私、楽しみ!﹂
歩きながらジンリンがそう聞いてきた。
けど、村を出たことがないのは俺も同じだ。
基本的に村の子供っていうのは大概が十歳越えるくらいまでは村
の中から出ないからな。
1495
魔物や盗賊の危険があるから。
まぁ、ハトハラー周辺程の田舎加減となると、盗賊も中々来ない
が、どっかの盗賊団から追い出されたはぐれ盗賊が地味に稼業に励
んでいることもある。
それに魔物は儲けなんて関係なく襲ってくるから、旅は危険だ。
大人ならそれほど強くない魔物相手なら逃げられるし、子供は留
守番という訳だ。
でも、例外もあって⋮⋮。
将来、村の指導者なんかになる予定の子供は、親や親族に早いう
ちから連れられて、外に行くこともある。
ジンリンはその口だった。
俺の両親は指導者ってわけじゃないが、親父の方がもとはよそ者
でな。
村に落ち着くまで旅をしていた人みたいで、こういう、村の外に
行かないとならないときは代表としていくことが多かった。
母さんもそれについていきたがって、で、俺だけ残しておくのも
あれだろう?
まぁ、どっかに預けるって手もあっただろうし、そのときまでは
そうされてたんだけど、五才にもなったし、そろそろお前も旅に慣
れとけってことだった。
つまり、いずれ親父に変わって俺がこういうときに村の外に出る
役目を負うことを期待されてたんだな。
とは言え、それでも俺はまだただの子供だ。
ジンリンに説明できる内容なんてなかった。
﹁僕も知らないよ。でも、外なんて怖いからなぁ⋮⋮魔物とかに出
くわさないといいね﹂
﹁レントは弱虫だね。魔物なんか俺が倒してやる! くらい言えな
いの?﹂
1496
当時、ジンリンはなんというか、女の子にしてはやんちゃという
か、男勝りなところがあって、木登りとかちゃんばらごっことか率
先してやるタイプの少女だった。
対して俺はと言えば、引っ込み思案でな。
言葉遣いでもなんとなくわかるだろう? 家で静かに積み木でもしてる方が好きだったよ。
◇◆◇◆◇
﹁また、意外な⋮⋮お前と来たら、その時分から木剣でも振って毎
日修行していた者だと思っていた﹂
ロレーヌがそう言ったので、俺は笑う。
﹁まさか。いや⋮⋮まさかってこともないか。そのすぐ後には修行
し始めたからな。だけど。ともかくそのときまではそんな子供だっ
たよ、俺は﹂
﹁かわいらしい、引っ込み思案の?﹂
﹁俺としては不本意だったが、顔立ちも女顔だったみたいでな。今
はそうでもなくなったが、髪を伸ばしてると女の子みたい、とよく
言われたよ。動きもおどおどとして、遊びもあんまり俺の方は木登
りの類なんてしなかったしな﹂
思い出すに、女々しい性格だったように思う。
⋮⋮今もそれはそれほど変わっていないか?
しかし、そのときの俺を見て、将来この子は冒険者になる、なん
て予測できる人間はいなかっただろうな。
1497
﹁つくづく意外だ。まぁ、顔立ちの方は⋮⋮黙っていれば確かに、
今も女顔かもしれんな。ただ、冒険者として年季が入っているから、
多少険しくなって野性味が出てきているから打ち消されている、と
言う感じか﹂
﹁お、俺の顔にも冒険者の貫禄が出てきているのかな?﹂
と冗談めかして言えば、
﹁⋮⋮貫禄があるとしても今は良く見えんがな。仮面で﹂
と返された。
まぁ確かにその通りだ。
俺は首を振り、
﹁⋮⋮残念だ。ま、ともかく、話を続けようか⋮⋮﹂
◇◆◇◆◇
﹁おや、ジンリンは魔物を倒すのかい?﹂
俺とジンリンが話している後ろから、にょきりと顔を出してそう
尋ねたのは、そのときの旅の供である婆さん、プラヴダだ。
それに振り向いてジンリンが言った。
﹁そうよ! この間、ジャルとドルと一緒に冒険者ごっこをしたの。
二人はゴブリンで、私は冒険者の役をしたわ。ちゃんと倒せたもの﹂
﹁⋮⋮本当かい、レント?﹂
1498
とプラヴダが俺に聞いてきたので、俺は頷く。
ギルド
﹁うん⋮⋮僕は冒険者組合の受付役だったよ﹂
と言った。
プラヴダはそんな俺たちの話を聞いて首を傾げながら、
﹁⋮⋮役どころがレントとジンリンで逆なんじゃないかい⋮⋮?﹂
と言っていたが、確かに今思うとその通りだよな⋮⋮。
俺もジンリンもやりたい役をやっていたので何も文句はなかった
が。
ジャルとドルはなぁ⋮⋮文句しかかなっただろうけど、じゃんけ
んいつも負けるんだから仕方ないよな。
あいつらいつも同じ手しか出さなかったから。
その辺りを見抜いてジンリンはいつも勝ってた。
なんというか頭の妙に回る奴だったんだな。
俺?
俺はジンリンに指示された手だけ出してたからいつも勝ってたん
だ。
談合じみてるよな。
それでも楽しかったけど。
プラヴダはそれから、ジンリンに言った。
﹁ジンリン、魔物ごっこは簡単に勝てたかもしれないけど、本物の
魔物は恐ろしいんだ。もし、本当に襲われることがあったら、必ず
逃げるんだよ。いいね?﹂
1499
とかなり強めにだ。
プラヴダはいつもは穏やかな優しい雰囲気の婆さんだったけど、
このときばかりは結構厳しめに言っていたな。
内容を考えれば当然だ。
それは、ジンリンも分かっているみたいで、
﹁⋮⋮うん。昨日も聞いたもの。大丈夫!﹂
と素直に頷いていた。
﹁レント、あんたは⋮⋮あんたは言われなくても逃げそうだね﹂
﹁当たり前だよ。命が大事だからね﹂
﹁⋮⋮それでいい。ただ、男の子にしては覇気が足りない気もする
ねぇ⋮⋮ジンリン、この子のどこがいいんだい?﹂
プラヴダがジンリンにそう尋ねると、
﹁レントは勇気があるから好きなの﹂
とさらりと答えてた。
当時の俺にそんなものがあるとは思えなかったんだけど、妙にす
っきりした台詞で、プラヴダの婆さんも面食らった顔をしてたよ。
それからしばらく俺の顔を見つめて、
﹁⋮⋮分からんね? 面白そうな子だとは思うが⋮⋮勇気か。ま、
あんたが言うならそうなんだろうさ。さ、そろそろ出発だ。馬車に
乗るよ﹂
1500
そう言って俺たちを急かした。
俺たちは前を進むプラヴダについて、馬車に乗った。
1501
第222話 山奥の村ハトハラーと隣町
﹁つ、ついた⋮⋮?﹂
朝から馬車が一日走り続け、停車したのを体で感じたんだろう。
ジンリンが俺にそう尋ねた。
尋ねる顔は青くて、かなり辛そうだった。
別に病気ってわけじゃない。
つまり、乗り物酔いだな。
あんだけやんちゃだったのに、意外なところに弱点があるもんだ
よな、人って。
対して俺は全然平気だった。
今でもそうだけど、馬車に乗りながら本を読んだって一切酔わな
いからな。
性格的には反対の方が自然なのに、不思議なもんだよ。
﹁⋮⋮ついたよ。ジンリン。大丈夫? 無理しないで、吐いてもい
いんだよ﹂
俺がそう言うと、ジンリンは口元を抑えながらも、
﹁だ、だいじょうぶ⋮⋮とりあえず、外に出て空気を吸いたい⋮⋮﹂
と言ったので、プラヴダの婆さんに降りていいのか尋ねた。
すると婆さんは、
﹁やれやれ。ジンリンの父親も小さいころはそうだったね⋮⋮いい
よ。外に出な。ただ、荷物の積み下ろしがこれからだから、あんま
1502
り離れるんじゃないよ﹂
そう言った。
普段だったらともかく、今のジンリンの状態じゃどこかに行こう
としても出来るような感じじゃないからな。
そんなに心配はしていなかったんだろう。
軽い注意だけで出してくれた。
馬車から降りると、そこはどこかの商会の積み下ろし場だった。
時間帯が結構遅かったからか、あまり他の馬車はいなくてな。
それに、なんだかんだ言って田舎町に過ぎないわけだから、ここ
で荷物を売る人間はそんなにいない。
どっちかというと、ここで仕入れる商人たちのための小規模な積
み下ろし場だった。
ただ、ハトハラー産のものは、どこに行ってもそれなりに高価で
買い取ってもらえるからな。
親父も若いころ旅をして暮らしていたわけだから、その辺の値段
設定は分かっていて、だから適切な値段で売買が出来たんだろう。
そうじゃないなら、街まで⋮⋮それこそマルトまで来て売った方
が儲かるからな。
ただ、そうすると盗賊や魔物の危険は跳ね上がるから、一長一短
だ。
ハトハラー程度の村が必要とする金銭収入や生活必需品の仕入れ
では、そこまでする必要がないというのが正直なところだったのか
もしれないな。
﹁⋮⋮うぅ、気持ち悪い⋮⋮﹂
馬車から降りても、ジンリンはまだそんなことを言っていた。
それで、積み下ろし場は屋根のある場所にあって、それがなんと
1503
なく解放感がない感じだったから、俺はもう少し開けたところにい
た方が良いと思った。
﹁ジンリン、こっちに行こう﹂
そう言って、少しだけ、離れた位置にジンリンを引っ張っていっ
たんだ。
もちろん、プラヴダの婆さんの言葉は忘れていなかった。
そんなに離れてはいない。
少なくとも馬車が見える位置だったからな。
ジンリンは少し開けた場所に出て、やっと人心地着いたようだっ
た。
深呼吸を何度も繰り返していくうち、少しずつ酔いも収まってい
った。
﹁⋮⋮はぁ。なんとかなりそう⋮⋮﹂
﹁それはよかったね。じゃあ、そろそろ戻ろうか?﹂
と俺が言うと、ジンリンは不服そうな顔で、
﹁せっかく隣町まで来たんだから、ちょっと見て歩きたいわ! レ
ント、行きましょう﹂
そう言って俺の手を引っ張って、走り始めた。
俺としてはしっかりとプラヴダの忠告が頭に残っていたから、
﹁だ、だめだよ! プラヴダお婆ちゃんが遠くに行っちゃダメだっ
て⋮⋮﹂
1504
﹁いいのよ。あんなババアほっとけば。いつもいつも小言ばっかり
で、たまには心配すればいいのよ﹂
ジンリンはそう言ってまるで取り合ってくれなかった。
もちろん、彼女が言った台詞は本気ではなかっただろう。
言っている表情は腹立たしそうと言うより不安そうで、憎しみと
言うよりはすねているという感じだったからな。
ジンリンは村長夫妻の一人娘で、いずれは村を背負っていかなけ
ればならない立場にあった。
それだけに、かなり厳しく育てられていたんだろうと今にして思
う。
俺と比べるのはどうかと思うけど、彼女は五才だったけど色々な
ことが出来たからな。
読み書き計算は初歩とは言えある程度身に付けていたし、村の特
産品についても作り方から作っている家まで覚えていたりとか。
英才教育していたんだろう。
そんな環境だったから、俺とか周囲の同い年くらいの子供が、彼
女が勉強している間、かなり好き勝手にその辺を歩き回っているの
を見て、いいな、と思っていた部分がかなりあったんだろうな。
だからたまに遊びに出ると、やんちゃなことばかりしていたわけ
だ。
当時の俺は五才の子供に過ぎなかったから、そこまで細かくは考
えてなかったけど、ジンリンの葛藤みたいなものをなんとなく感じ
てはいたものがあったから、ジンリンにダメだと言いつつも、完全
に断り切れなかったんだな。
だから、結局、俺はジンリンに引っ張られるまま、町の中に行っ
てしまったよ。
今思うと、相当良くないことだけど、な。
1505
◇◆◇◆◇
﹁性格は今とは違うが、なんというか巻き込まれ体質なところはあ
まり変わっていないようだな?﹂
ロレーヌが俺にそう言う。
確かに、と俺も思う。
﹁当時は特に主体性がなくてな。消極的で引っ込み思案だったから、
余計にそうだったかもしれない。今はどっちかというと自ら首を突
っ込んでしまうようになってしまったけど﹂
最近の災難、︽龍︾との遭遇にしても、ニヴ・マリスとの邂逅に
しても、妙な興味を抱かなければ起こらなかったかもしれないこと
だ。
⋮⋮俺の運の悪さからすると、また別の災難に遭ってそうな気も
しないでもないけど。
そんな俺にロレーヌは、
﹁ま、冒険者をやっている以上、ある程度は危険の中に突っ込むの
も避けられないからな⋮⋮。それはそれで仕方あるまい﹂
そう言って励ます。
確かに、それは真理だ。
冒険者と言うのは初めから危険だと分かっている職業だからな。
危ないのが嫌だ、というのならそもそもなること自体間違ってい
る。
もちろん、それでも生き残るためには注意して仕事に取り組むべ
きだろうが、必要な注意はまぁ、払ってきたつもりだ。
それで死んだらそれはそれで仕方がないと言う部分もある。
1506
刹那的な生き方だな。
だから荒くれ者扱いされるわけだが。
﹁そうだな⋮⋮。ただ、当時、俺は冒険者だったわけじゃなかった。
ジンリンのことは止めるべきだっただろう﹂
俺は話を続ける。
1507
第222話 山奥の村ハトハラーと隣町︵後書き︶
ぞろ目の日にぞろ目の話数っていう偶然。
1508
第223話 山奥の村ハトハラーと奇妙な声
二人で歩く町並みは壮観だったよ。
もちろん、マルトや、それ以上の都市からすればしょぼいにもほ
どがある光景だったけどな。
当時の俺たちにとっては、それこそ都会に来たんだなって感じだ
った。
村にはない、いくつもの店や露店、歩く人々の格好は村よりもず
っと洗練されていて、建物も村では見られないような立派なものが
沢山あった。
ああいう家に貴族様が住んでいるのかな、とか、王様のお城はも
っとずっと大きいんだろうな、とか、そんな話をしながら歩き回っ
た。
楽しかったよ。
やっぱりハトハラーは田舎なんだなって再確認した。
でも、別にハトハラーが嫌になったとかそういう訳じゃなくて⋮
⋮こういうところもあるんだなって、そう思ったくらいだったな。
俺は。
ジンリンの方がどうだったかは分からないけど、たぶん、似たよ
うなことを考えていたと思う。
今思えば、ハトハラーはハトハラーで、都会は都会でいいところ
なんだって、そう思えたのは、幸せなことだったな。
貧しくて、生活も苦しい村だって少なくないのに、ハトハラーは
あんな立地なのにそうなっていないんだからさ。
ま、当時の俺たちにそんなところまで考えを及ばす余裕なんてな
かったけど。
それで、あらかた歩き回って、気が済んだ頃だったかな。
1509
ふと、ジンリンが、
﹁⋮⋮? レント、何か声が聞こえない?﹂
って、聞いてきたんだ。
俺には別に何も聞こえてなかったから、
﹁⋮⋮ううん。何にも聞こえないよ﹂
そう答えた。
けれどその直後、
︱︱タスケテ! タスケテ!
って、なんだか妙に甲高い声が聞こえてきた。
人間っぽくない声で、俺はびっくりしてきょろきょろ辺りを見回
したよ。
ジンリンも同じで、周りを見回したけど、やっぱりどこにもいな
いんだ。
それで、お互い顔を見合わせて、
﹁⋮⋮誰かのいたずらなんじゃない?﹂
﹁そんなことないわよ! こんなにはっきり聞こえるんだから!﹂
なんてやりとりをした。
実際、声は良く聞こえるんだ。
いたずらにしたって、どこにもその発生源がいないなんておかし
な話だろう?
だから俺たちは必死に探した。
1510
それで、しばらくして声の主の方が業を煮やしたのか、
︱︱上! 上!
と、言い始めた。
なるほど、確かにまだ俺たちは上を見てなかった。
前後左右ばっかり見てたからな。
意外と人間、上方には注意を向けないものだよ。
けれど、言われたからには素直に上を向いたさ。
小さな人間
らしきものがぶら下がってた。
するとそこには長く伸びた枝があって、その先っぽに、衣服をひ
っかけた
小さいって、子供くらいってことじゃない。
十五センチあるかないかくらいの、本当にミニチュアみたいな大
きさでさ。
俺はびっくりしたよ。
でも、ジンリンの方は特に驚いていなかった。
なぜと言って、彼女はその存在の正体を知っていたからだ。
フェアリー
﹁レント! あれ、妖精よ! 人の前になんてほとんど姿を現さな
いって母様が言ってたのに!﹂
若干興奮気味で言ってた彼女だったけど、俺は素直に疑問を言っ
た。
﹁⋮⋮そんなことより、あれ、助けなくていいの? 外れなくて困
ってるみたいだけど﹂
◇◆◇◆◇
フェアリー
﹁⋮⋮お前には興奮というものがないのか? 五才やそこらで妖精
1511
に遭遇したら、普通子供はそのジンリンのように何かしらの感情を
あらわにするものだと思うのだが﹂
ロレーヌが呆れた顔で指摘するが、俺は、
フェアリー
﹁⋮⋮まぁ、別に俺だって少しも興奮しなかったわけじゃないけど
さ。その妖精の方も大分、余裕がなさそうに見えたから。さっきか
らずっと叫んでたことになるし。だからついそう言ってしまったん
だよ﹂
言い訳という訳ではなく、本当に事実としてそうだった。
﹁まぁ、気持ちは分かるが﹂
﹁だろう? 話を続けるぞ﹂
◇◆◇◆◇
﹁あっ、そ、そうね。助けなきゃ! ⋮⋮でも、どうやって﹂
幸い、当時の俺もジンリンも子供だったから、素直にそう思って、
フェアリー
次にどうすればいいのかを考えることになった。
というのも、その妖精が引っかかってるのは高い木の枝の先だか
らな。
俺たちの身長じゃどうやっても届きそうもないし、大人でも厳し
いなっていう高さだった。
とはいえ、やっぱり背が高い方がどうにかしやすいだろう?
すぐにそう思って、俺は提案したんだ。
﹁大人の人に声をかけようよ。そうすれば、届くかもしれないし﹂
1512
かなり真っ当な方法だろう。
ジンリンもこれに賛成して、二人で周囲にいる知らない大人に頼
んでみたんだ。
今考えると結構危険な行動だったけど、ま、俺たちから見れば都
会とは言え、結局田舎町だからな。
かなり人の性質もよくて、誘拐犯なんて発生しようもなかったの
は幸いだった。
フェアリー
ただ、問題もあって⋮⋮。
フェアリー
それは、俺たちが精霊がそこの枝の先にぶら下がっていて大変だ、
と説明しても、誰にも理解してもらえなかったことだ。
みんな一応、枝は見てくれるんだけど、その先にいる妖精の姿が
フェアリー
まるで見えないみたいで、首を傾げて去るのみだったんだ。
今なら、妖精にも色々いて、誰の目にも見えるタイプもいれば、
魔力持つ人間にしか視認できない存在もいるってことも分かったん
だけどな。
あのときは二人そろってそんなこと知らなくて、なんだか大ウソ
つきにでもなってしまったような妙な気分になった。
本当のことを言っているのに、誰にも伝わらないんだ。
悲しかったな。
フェアリー
でも、だからと言って、諦めるわけにもいかなかった。
なにせ、徐々に妖精の方はぐったりとし始めていて、早く助けな
いとまずそうだったから。
そうなると、どうなるかと言えば⋮⋮。
俺はともかく、ジンリンの方は明らかだったな。
つまり、
﹁⋮⋮レント、私、登って助けてくる!﹂
1513
そう言って、木の幹に近づいて、木登りを始めたんだ。
俺は、
﹁ジンリン! 危ないよ! やめようよ!﹂
って、木の下から叫び続けたんだけど、彼女は止まらなかった。
やんちゃにも程があったよ。
まぁ、ハトハラーでは木登りが得意だったわけだし、意外とする
する登っていたけど、ハトハラーで登る木は大概同じ木だったから、
慣れが違った。
それに、木も低く、地面も土と草の大地で、落ちてもそこまで大
けがは負わないことが分かってたから、大人たちも遠くから観察し
ながら許してたんだ。
けれど、この木は全然違う。
すごく高いし、地面は土と草じゃなくて、踏み固められた固い地
面さ。
落ちたら五才の子供なんて、簡単に大怪我をする。
それなのに、彼女は登っていったんだ⋮⋮。
1514
第224話 山奥の村ハトハラーと枝
考えてみればこの時点で俺も俺で大人を呼びに行けばよかったん
だよな。
なにせ、子供が高い木の上に登ろうとしてるんだから、それを口
実にすれば大人だって妖精妖精言っているときと比べて無碍にはし
なかっただろう。
でも、今ならそんなことを考え付くが、当時はな⋮⋮。
やっぱり子供だったんだ。
そんなことは思い付きやしなくて、ただ、危ない、早く降りて来
させなきゃって、そればっかり考えて、木の下から叫んでいたよ。
ただ、ジンリンの頑固なことったらなくて、俺が叫んだくらいじ
フェアリー
ゃ一度始めたことをやめようとしないんだから。
もしかしたら、木登りと妖精に夢中で、俺の叫び声なんて耳に入
ってなかったのかもしれないけど。
そんな風に俺は死ぬほど心配してたわけだけど、それにしてもジ
ンリンの木登りの技術は際立っていたよ。
フェアリー
やっぱり運動神経がいいというか、幾度となく登って来たから慣
れていたというか。
猿みたいにするする登って行って、あっという間に妖精の引っか
かっている枝の生えている位置までたどり着いてしまったんだ。
そこからは、当然、枝を伝ってその先まで行くことになるよな。
正直、枝はそこまで細くはなかった。
子供一人ぐらいなら十分支えられそうに見える、それくらいの太
さはあったよ。
でも、逆を言えば子供一人ぐらいしか支えられそうになかったと
も言える。
1515
つまり、伝うにはとても危険であることは間違いなかった。
それなのに、ジンリンはその枝に手をかけ、やっぱりするすると、
慣れた様子で伝っていった。
ギシギシと枝のきしむ音が俺の耳に酷く嫌に響いたよ。
しな
今にも折れるんじゃないか、折れるんじゃないかって、気が気じ
ゃなかった。
木の枝が、ジンリンが先の方に近づくにつれて、徐々に撓う。
フェアリー
それなのに、彼女は戻ろうとしない。
それどころか、妖精の方に手を伸ばして、
﹁ほら、助けてあげるよ⋮⋮﹂
なんて呟いている。
その表情には高いところにいる怯えなんて一切なくて、なんてい
うか、一種の興奮みたいなものがあったよ。
人助け⋮⋮じゃないけど、そういうことをしている感覚が、彼女
フェアリー
の気分を高揚させていたんだろう。
そんなジンリンの伸ばす手に、妖精は気づき、少しの怯えを見せ
た。
フェアリー
たぶん、握りつぶされそうで怖く見えたんだろう。
妖精の大きさと比べると、子供でも人間っていうのは巨人並だか
らさ。
ジンリンはそれにすぐ気づいたのか、作戦を変えて、もっと枝の
フェアリー
先の方へと進んだ。
それから、妖精の背中、つまりは枝に引っかかってる服の部分を
ゆっくりと外してあげて⋮⋮。
その瞬間のことだ。
︱︱バキバキッ!
1516
という音がして、枝が根元から折れたのは。
﹁ジンリン!﹂
俺はその瞬間、そう叫んで、ジンリンの落下位置に走り出したよ。
俺に何が出来るかなんて考える暇もなかったけど、危ないから離
れようなんて一瞬も思わなかった。
フェアリー
ただ、ジンリンが危ないから、危険だから、どうにかしないとと
思って⋮⋮走った。
ジンリンの方は、落ちそうになったタイミングで、妖精をぎゅっ
フェアリー
と掴んで、自分の胸元に寄せていたよ。
フェアリー
フェアリー
たぶん、妖精の身を守ろうとしたんだろう。
妖精は普通、飛べるのだけど、その妖精はかなりぐったりしてい
たからな。
飛ぶ気力もなさそうだったから、そうしたんだろう。
そんなジンリンが落ちていく。
俺は走る。
そして⋮⋮。
俺はジンリンが落ちる直前、その真下に辿り着くことが出来た。
でも、その当時、俺は五才だ。
抱きかかえて華麗にキャッチ、とはいけるわけがなかった。
それでも、せめて衝撃を和らげようと、その下で構えていたよ。
地面より、人間の体の方が柔らかいはずだからな。
俺の手と、胸の辺りにどすん、と重い衝撃がやってきて、俺は支
えきれずに地面に倒れた。
枝の落ちる音は意外と小さくて、音もならなかった。
1517
まぁ、子供が乗ったくらいで折れる程度の太さの枝だし、そんな
ものだろう。
それで、ジンリンがどうなったかと言えば⋮⋮。
﹁⋮⋮いたたぁ⋮⋮﹂
地面に倒れ込んだ俺の上で、そんな声が聞こえた。
﹁⋮⋮ジン⋮⋮リン、大⋮⋮丈夫?﹂
俺もまた、体中に痛みが走る中、そう尋ねると、彼女は、
﹁うん⋮⋮どこもそんなに痛くない⋮⋮﹂
と返答した。
実際、彼女の体を見てみるに、特に大きな怪我はなさそうに見え
た、
どうやら、自分の行動は正しかったらしい、とそれでわかった。
それから自分の体の方を見たけど、俺の方も特に大けがはなかっ
たな。
まぁ、擦り傷やら青タンやらは出来ていたけど、それくらいの怪
我なら、村で走り回ってるときにも出来る。
俺はほっとしたよ。
それから改めて、ジンリンに言った。
﹁あんな危ないこと、もうしないでよ﹂
どなればよかったのかもしれないけど、当時の俺にそんなこと出
来るわけもなくて、こんな言い方になった。
1518
大分悲しい顔で言ったかもしれないな。内心は大分呆れて怒って
いたけど、それを外に出すようなタイプじゃなかったから。
でも、ジンリンは意外と素直に、
﹁⋮⋮うん。分かった。ごめんなさい⋮⋮﹂
と言って来た。
驚いた俺が、
﹁⋮⋮ジンリン、素直だね?﹂
と尋ねると、ジンリンは、
﹁だって、レント、怒ってるでしょう?﹂
と言ってくる。
﹁それは、まぁ⋮⋮﹂
﹁だから、ごめんなさい﹂
俺が怒ってるからごめんというのもどうかと思うけど、とりあえ
ず自分の非を認めたならそれでいい。
今後しないと言っているし。
俺はそう思って、もうこのことで責めるのはやめることにした。
﹁わかった。いいよ﹂
﹁本当に? もう怒ってない?﹂
1519
﹁ああ。でも、また同じことをしたら怒るかもしれない。だからや
めてと言ったら、次はやめてね﹂
﹁うん⋮⋮﹂
フェアリー
ジンリンが頷いたので、説教は本当にそこで終わりにすることに
する。
それから俺は少し微笑んで、ジンリンに尋ねた。
フェアリー
﹁それで、ジンリンが助けた妖精はどうなったの?﹂
するとジンリンは、
﹁あ、そうだった⋮⋮﹂
と、胸に引き寄せていた手を開いた。
するとそこには確かに先ほど枝に引っかかっていた小さな妖精が
いた。
1520
フェアリー
第225話 山奥の村ハトハラーと夢
﹁⋮⋮イタタ﹂
と、人間らしくない声を、その妖精が出したよ。
妙に響くと言うか、変わった音だった。
フェアリー
ただ、しっかり言葉として聞こえはした。
妖精の容姿は、十五センチほどの背丈に、薄く、若干カラフルな
フェアリー
服を身に纏っていて、その背からは蜻蛉のような羽が伸びていると
いう感じだったな。
性別は⋮⋮おそらくは、メスだと思ったが、妖精にはそれこそ性
別なんてないものもいるって話だったから、はっきりとは分からな
いな。
ただ、髪は長かったし、メスっぽい見た目だったってことだ。
そいつにジンリンが、
﹁大丈夫? けがはない?﹂
そう尋ねると、
﹁ダイジョウブ! ケガ、ナイ⋮⋮アッ、ソウダッタ、モウ、イカ
ナイト!﹂
とはっとして、それからジンリンを見て、
﹁タスケテクレテ、アリガトウ! ワタシ、ティルヤ! マタアッ
タラオレイスルヨ∼﹂
1521
と言って、パタパタと背の羽を動かし、どこかに飛んで行ってし
まったよ。
フェアリー
﹁あ、ちょ、ちょっと待って⋮⋮ああ﹂
フェアリー
ジンリンは妖精にそう叫んだけど、妖精って言うのは結構速いの
な。
すぐに見えなくなった。
力はないけど、スピードは出せるってことなんだろうなと思った
のを覚えてる。
﹁⋮⋮行っちゃったね。なんだかずいぶんと忙しいみたいだったけ
ど﹂
俺がジンリンにそう言うと、ジンリンは頬を膨らませて、
﹁もっとお話したかったのに! 少しはお礼をしてくれてもいいと
思うわ﹂
﹁お礼が欲しかったの?﹂
﹁違うわよ⋮⋮はぁ、まぁいいか。そろそろ戻らないとならないの
は私たちも同じ⋮⋮﹂
とジンリンが言いかけたところで、
﹁⋮⋮ほう? そろそろ戻るところだったのかい? なら、引きず
る必要はないのかね? ジンリン、レント﹂
1522
と、低く響き渡る女性の声が聞こえた。
少し枯れていて、結構な年齢の女性のものであることが分かる。
独特の圧力の感じられるその声の主を、俺たちが分からないはず
はなく、後ろを振り返るのが恐ろしかったのは言うまでもない。
しかし、そうしないわけにもいかず、俺とジンリンが顔を見合わ
せた後、ゆっくりと振り返ると、そこには確かに予想通りの人物が
立っていた。
﹁プラヴダお婆様⋮⋮﹂
ジンリンが絶望的な声色でそう言った。
そこにいたのは、ジンリンの祖母、プラヴダであり、その形相は
かなりの怒気に染まっているように思えた。
実際、
﹁あんたたち!﹂
とプラヴダは叫ぶ。
俺とジンリンはその怒声に背筋を伸ばした。
それからプラヴダは、
﹁知らない場所で、勝手にどこかに行くなんて何を考えているんだ
い!? 村を出る前に、あれほど言っただろう!? 村の外は危険
だと。それは別に街道だけじゃなくて、知らない土地全てがそうな
のだと。人さらいはどこにでもいるんだよ! それに、面白ずくで
人を殺すようなとんでもない人間だっているんだ。それを⋮⋮。あ
んたたちは、普通の子供よりも賢いと思ったから、こうして連れて
きたと言うのに、あんたたちはその信頼を裏切ったんだ! 分かっ
ているのかい!﹂
1523
と、そんな前置きから始まり、それから長く、彼女の説教は続い
たのだった。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮もう、こりごり、二度とあんなことはしないわ⋮⋮﹂
今日、泊まることになった宿についたときには、日が暮れていた。
その宿の、ベッドの上で、ジンリンが疲労困憊の様子でそう、呟
く。
部屋は二部屋とり、俺の両親の部屋と、俺とジンリンとプラヴダ
の部屋だ。
プラヴダはもう眠っている。
俺とジンリンを怒り疲れたのかもしれない。
まぁ、なんだかんだ言って最後には無事を喜び、抱きしめてくれ
たのだから良しとする。
俺の両親はと言えば、一応俺とジンリンを叱ったが、戻って来た
時点であまりにも疲労困憊していることが見てわかったのだろう。
叱った、というよりも軽い注意だけでおしまいにしてくれた。
それでももう、こんなことはしてはならないと深く理解している
のだから、問題なかっただろう。
プラヴダは恐ろしい⋮⋮。
だからこそ、ジンリンはそう言ったのだろう。
﹁それが賢いと思うよ⋮⋮あんな危ないことはもうだめだ﹂
俺も精神的な疲労から、かなり疲れた声でそう言った。
すると、ジンリンは、
﹁そうね⋮⋮大人になるまで我慢する﹂
1524
と、ちょっと斜め上の発言をする。
俺はそれに驚き、
﹁⋮⋮大人になるまでって、どういうことさ﹂
と尋ねた。
するとジンリンは、
﹁大人になったら、好きなところに行けるでしょう? そうなった
ら、私、冒険者になるの﹂
と驚くべき台詞を言った。
俺は慌てて、
﹁ジンリン、君は村長になるんじゃないか。君のお父さんお母さん
だって、そのつもりだよ﹂
と言ったけれど、ジンリンはどこ吹く風で、
﹁すぐにならなくてもいいじゃない? それに、私じゃなきゃいけ
ないわけでもないわ。従兄弟たちだっているもの﹂
と答える。
確かに、今の村長、つまりジンリンの両親が引退するまでは任せ
てもいいし、ジンリンの従兄弟たちが継いでもそれはそれでいい。
でも、そんなことよく思いつくな、と思ったよ。
俺はジンリンに言った。
﹁⋮⋮君は村長になりたくないの?﹂
1525
﹁違うわ。村長になりたくないんじゃなくて、冒険者になりたいの。
私、世界を見て回りたいの。レント、知ってる? 絵本に載ってい
るような、色々なところがあるのよ。空の島から落ちる滝とか、水
に囲まれた街とか、蜃気楼のように消えてしまうお城とか!﹂
今でこそ、それらは本当にすべて実在していると知ってる。
けど、当時の俺にとっては⋮⋮全部おとぎ話に聞こえたよ。
そんな不思議なものは、村に何一つなかったから。
だから、俺はジンリンに、
﹁そんなの⋮⋮夢だよ。夢ばっかり見てないで、村長になる勉強の
方をしないと。それにジンリン、明日がはやいから、もう寝なきゃ
⋮⋮僕、もう眠いよ⋮⋮﹂
と言って、目をつぶった。
実際、本当に眠気が酷かった。
⋮⋮今では懐かしい感情だな。
まぁ、ともかく、それで、ゆっくりと暗闇の中に落ちていったわ
けだけど、そんな俺の耳に最後に聞こえたのは、
﹁⋮⋮もう、レントの馬鹿! 一緒に連れてってあげないわよ!﹂
だったな。
俺も行くのか。
そう思って、そのまま俺は眠った。
1526
第225話 山奥の村ハトハラーと夢︵後書き︶
あと三、四話かなと言う感じなので、辛いと言う方は来週始めあた
りに纏めて読むといいかなと思います。
どうぞよろしくお願いします。
1527
第226話 山奥の村ハトハラーと帰路
﹁ええと、どこまで話したっけな⋮⋮﹂
﹁お前にジンリンが将来は冒険者になりたい、と話した辺りまでだ
な﹂
﹁ああ、そうだった⋮⋮﹂
ロレーヌの声に、確かにその辺りまで話したな、と思い出す。
なんだか遠い出来事を話していると、意識がぼんやりとしてくる
というか、口が勝手に語ってしまうと言うか。
意識しなくなっていって、あれ、どこまで⋮⋮という気分になる
のだ。
楽しい思い出だが、辛い思い出にもつながっている話だから、余
計に意識的には話せないようになっているのかもしれない。
ただ、体が覚えている記憶として、さらさらと俺の口から話が続
けられる。
口の語る話は、徐々に破滅へと向かう。
思い出したくない、破滅へと。
◇◆◇◆◇
次の日は、もう出発だった。
どこに向かうかと言うと、ハトハラーの村だ。
宿で起きて、ジンリンとプラヴダと朝ごはんを食べてから積み下
ろし場に向かうと、すでに父と母がそこにいた。
1528
俺たちより早く眠ったのは、早くここに来て色々と作業やら手続
きをしなければならんかっただろう。
実際、昨日、積み下ろしをした物品の売却価格の査定もすでに終
わっているようだった。
また、ハトハラー側が必要とする生活必需品などの物資について
も、すでに馬車に積み込んでおいてくれていた。
あとは最後の荷物である俺たちを積み込んで、馬に鞭を入れるだ
け、というわけだ。
﹁レント、ジンリン、出発するよ。早く乗り込みな﹂
プラヴダがそう言ったので、俺たちは頷いてさっさと馬車に乗り
込む。
きびきびとした、上官に行動を命じられた騎士のような行動を二
人そろってしているのは、昨日プラヴダにきつく叱られたことが大
きく影響しているのは当然のことだった。
あんなに怒られるのはもう勘弁⋮⋮。
俺もジンリンも、心の底からそう思っていたのは言うまでもない。
そんな俺たちの素早い行動のお陰かどうか。
出発の準備はかなり早く整い、御者台に座った俺の父ロクスタの
声が響く。
﹁行くぞ。準備はいいな?﹂
荷台にはすでに俺、ジンリン、プラヴダ、それに俺の母メリサが
乗り込んでおり、また荷物も積み込み終わっている。
それをメリサが確認して、ロクスタに言った。
1529
﹁ええ、問題ないわ。出して﹂
﹁おう﹂
そして、親父が馬に鞭を入れた。
馬車がゆっくりと走り出す⋮⋮。
フェアリー
短い滞在だったが、俺とジンリンにとってはこれで大冒険のつも
りだった。
実際、大怪我をしかけたが、妖精なんてものにも会えたわけだし、
フェアリー
子供にしては十分に冒険だっただろう。
冒険者になってから、妖精がどれだけ貴重な存在か、実感を伴っ
て知ったしな。
帰り道で、プラヴダ婆さんが教えてくれたけど、貴重と言っても
サリアの花とかそれくらいのものだと思ってたんだ。
あぁ、サリアの花は、ハトハラー周辺に生えてる、特定の季節の
満月の日にしか咲かない花な。
フェアリー
まぁまぁ貴重だよ。その代わり、たくさん採れるけど。
妖精の方は本当は、そうそう会えるものじゃなかった。
村に戻ったら、ジャルやドルたちに話して自慢してやろう。
旅の空、ジンリンは特にそう思っていただろうな。
俺?
俺は俺でまぁ、色々否定的な言動をしていたわけだけど、それで
も改めて町でのことを考えるとやっぱり楽しかったからな。
自慢、というほどではないにしろ、町に何があったのか、ジャル
達に話そうくらいのことは思ってたよ。
ジンリンの大冒険と大失敗についても。
つまり、故郷への帰り道は、とても楽しいものだった、というこ
とだな。
1530
途中までは。
◇◆◇◆◇
フェアリー
﹁⋮⋮妖精を助けたって? それであんな危ないことをしたのかい﹂
馬車に揺られながら、俺とジンリンは、プラヴダに町であったこ
とを説明した。
もちろん、彼女は驚いていた。
もしかしたら掘り返すことになって怒り出すかも、と俺なんかは
若干震えていたけど、その辺り、ジンリンの方はあっけらかんとし
ているというか、全然問題なさそうに話していたよ。
いつもプラヴダに怒られているから慣れているのか、もともと度
胸が据わっているのか⋮⋮いや、その両方だっただろうな。
﹁うん。だって、タスケテっていうから﹂
素直に頷いて言ったジンリンに、プラヴダは呆れた顔で、
フェアリー
﹁妖精なんて滅多に会えるもんじゃないんだけどねぇ⋮⋮村を初め
フェアリー
て出てそんな経験をするとは。何かの星に愛されているのかね? ⋮⋮まぁ、それはいいか。しかし、ジンリン、レント。妖精を次に
見つけても近づくんじゃないよ﹂
そう言った。
その台詞は意外なもので、俺は尋ねる。
﹁あぶないことをするなってこと?﹂
1531
しかし、プラヴダは首を振った。
フェアリー
﹁そうじゃない。いや、それもあるが⋮⋮それ以上に妖精そのもの
に単純に近づくなってことだ。あいつらは、私たち人間と考え方そ
のものが根本から違っているからね。何をされるかわかったものじ
ゃないんだよ。もちろん、個体差や種族差もあるから、一概には言
えないんだが⋮⋮実際接してみて、何かおかしい感じがしなかった
かい?﹂
そう尋ねてきたので、俺とジンリンは顔を見合わせた。
そして思い出す。
⋮⋮確かに言われてみれば、少し変だったかもしれない。
会話が通じない感じというか、人の事情を一切顧みない雰囲気と
言うか。
あれをもって人間と考え方が違うのだ、と言われるとそうかもと
いう感じだ。
﹁心当りがあるんだね?﹂
と、プラヴダは俺とジンリンに尋ねる。
どうやら、ジンリンも俺と同じ結論に達していたようだ。
プラヴダの質問に無言で肯定を示した俺とジンリンに、プラヴダ
は改めて言う。
チェンジリング
チ
﹁単純に木から落ちた。それだけが今回の危険だったわけじゃない
ってことだよ。取り替え子には遭いたくはあるまい?﹂
ェンジリング
そう言われて、俺たちは両親や親せきから、悪いことをすると取
り替え子されてしまうよ、と脅されていたことを思い出した。
誰が、とは言わなかったが⋮⋮。
1532
フェアリー
﹁あれって、妖精の仕業なの?﹂
プラヴダがそう尋ねると、彼女は頷いて、
フェアリー
﹁そうさ。人の気づかぬうち、人の子供を妖精のそれと交換してし
まう。そんな習性が彼らにはある。人から見れば、自分の子供を他
人の子供、しかも他種族と交換するなんてとてもではないが考えら
れないが⋮⋮その辺りも、人と考え方が異なると言われる所以だね。
彼らは私たちには理解しがたいものなのさ⋮⋮﹂
そう言ったのだった。
1533
第227話 山奥の村ハトハラーと遠い日の絶望
馬車が進む中、行きより遥かにその揺れに俺もジンリンも慣れて
いた。
と言っても、ジンリンは馬車で酔う体質なので慣れてどうこうな
るものでもないが、町でプラヴダが酔い止めを買っていて、出発前
に与えてくれていたのだ。
ついでに俺にもくれたが、俺の方は全く平気なので意味がなかっ
たかもしれない。
凄く苦く、飲むのが苦痛な味だったが、ジンリンは馬車での酔い
フェアリー
の方が嫌だったようで一思いに飲んでいた。
その副作用か、プラヴダと妖精の話をしてしばらくして、俺もジ
ンリンも瞼が重くなってきていた。
確かに飲む前に、ちょっと眠くなるかもね、という話はしていた
から、なるほど、と思ったのを覚えている。
その眠気に対抗しても良かったが、別に眠ったところで問題もな
いだろう。
母もプラヴダも起きているし⋮⋮眠っても。
そう思った俺は、その眠気に対抗することなく、そのまま眠りの
世界に落ちていった。
◇◆◇◆◇
︱︱ドゴォン!!
という音と衝撃に目を覚ましたのは、眠りに落ちてからどれくら
い後の事だろう。
体が宙に浮いた感覚がして、また激しく上下が変わった感覚に俺
1534
は驚いた。
周りを見る余裕はなかったけれど、そういうときって不思議なも
んだよな。
空中に浮きあがった果物とか、草の形とか、そういうものがはっ
きりと見えて、未だに覚えているよ。
絵にも描けそうなくらいだ。
ゆっくりと時間が動いていて⋮⋮ただ、焦燥が後ろから追いかけ
てくるみたいな、恐ろしい感覚がした。
何が起こったのか。
おそらく、馬車が横転したんだ、と気づいた時には、馬車の中に
あった荷物はぐちゃぐちゃに倒れていたよ。
俺も体を馬車の木枠とか、詰まれていた木箱とかにぶつかったり
して大分打ったみたいでさ。
動くのもきついくらいに体中に激痛が走ってた。
でも、まずは⋮⋮他のみんながどうなったのか確認しないとと思
って、周囲を観察したよ。
とりあえずは、ジンリンから⋮⋮。
親父や母さん、それにプラヴダは、当時の俺にとって何があって
も死ななそうな人たちだったけど、ジンリンだけは違ったからな。
ある日ふっと、いなくなってしまいそうな、ある意味危ういとこ
ろがあった少女だったから、俺はそういうとき余計に心配になった
よ。
それで、探してみたら、見つかった。
木箱やら荷物やらの下敷きになってはいたけど、しっかり息をし
て倒れてた。
﹁う⋮⋮レン、ト⋮⋮﹂
1535
そんなうめき声を上げながらさ。
けど、幸い、そんなに重いものが入っていたわけじゃないみたい
で、子供の俺でも頑張れば乗っかってるものはどかせたんだ。
もちろん、無傷とはいかなかったけど、それでも立ち上がること
は何とかできるみたいだった。
﹁ジンリン! 大丈夫!? 歩ける?﹂
そう矢継ぎ早に尋ねたら、冷汗を流しつつも、
﹁⋮⋮うん。へいき。それより、おじさんとおばさんとお婆様は⋮
⋮?﹂
言われて、俺は初めてそのことに意識がいったよ。
別に、忘れてたわけじゃなくて、その三人が、どうして俺たちを
探しに来ないのか、ということについて、意識がいった、というこ
とだ。
だっておかしいだろう。
俺たちは子供で、大人たちはいつも心配しているのは分かってた。
馬車が横転する、なんて大事故が起こったら、まず彼らは探しに
来るだろう?
別に距離が離れているというわけじゃないんだ。
むしろ、馬車の周りだけ探せばそれでいいんだから。
それなのに、探しにこないというのは⋮⋮。
おかしいよな?
それに気づいて、俺は不安になったよ。
とてつもなく。
ジンリンも同じで、不安そうな顔をしてた。
それで、いてもたってもいられなくなったそのとき、轟音が横転
1536
した馬車の前方で聞こえたんだ。
驚いてそっちの方を見ると、火柱が立っていてさ。
当時の俺には、それが一体何なのか分からなかった。
けど、ジンリンは、
﹁⋮⋮魔術!?﹂
そう言って、火柱の方に走り出したんだ。
俺は慌ててそれを追いかけて⋮⋮それで、少し走って目に入った
ものに、俺もジンリンも驚いた。
それは⋮⋮なんていうかな。
うまく表現できないんだけど、とにかく禍々しいものだったよ。
見た目は、大きな銀色の狼だった。
ただ、目は血走っていて、何もかも破壊したそうな表情をしてい
たし、その大きな体の周囲には、黒々とした邪悪なオーラがゆらゆ
らと纏われて揺れていた。
破壊の権化っていうかな、魔界の使徒っていうかな。
そんな言葉で比喩したくなるような存在がそこにはいた。
そして、その目の前に、プラヴダが、杖をもって立っていた。
魔術を使ったのは、彼女だったわけだ。
使えるなんて俺は知らなかったけど、孫であるジンリンは知って
いたんだな。
もしかしたら教わっていたのかもしれない。
いざというときの武力として。
そんなプラヴダは、俺とジンリンの気配に気づいたのだろうな。
振り返って、
1537
﹁⋮⋮あんたたち!? 生きてたのかい! だったら早くお逃げ!
この魔物は、私が⋮⋮﹂
⋮⋮それが最後の言葉だったな。
いつの間にか、プラヴダの背中から、狼の爪が生えていたよ。
ぐぶり、とプラヴダの口から血が吐き出され、徐々にその瞳から
輝きが失われていった。
⋮⋮死んだ。
プラヴダは、死んだ。
人の亡骸ならともかく、人が死ぬ瞬間を目前で見ることなんて初
めてだった。
何も考えられなくなって、頭が真っ白になって⋮⋮それで。
逃げなければいけない、と思った。
とにかく逃げなければと。
俺は同じように止まっていたジンリンの手をひっつかんで、狼か
らとにかく距離をとろうと、走った。
﹁レント!? レント、お婆様が⋮⋮﹂
どこか感情が抜けたような声で、それでも縋ろうとするような声
色でジンリンが叫んだ。
もちろん、言いたいことは分かっていたよ。
でも、プラヴダはもう、死んだんだ。
俺たちは生き残らないとならない。
だから走らないと。
ただそれだけだった。
ジンリンは続けたよ。
1538
﹁貴方のお父さんとお母さんも⋮⋮﹂
どこかにいるはず、と言いたかったのだろう。
ジンリンはたぶん、俺よりもずっと混乱していたんだろうな。
こんな状況に。
だから見えなかったみたいだ。
狼の足元に、倒れ伏した男女の死体が。
俺にははっきり見えてしまったからな。
あぁ、もう俺たちしか生きてないんだなって。
俺はそう確信していたから⋮⋮。
薄情だったのかな、俺は。
あそこで動けなくなるのが、普通の人間の反応だった気がする。
ジンリンが現にそうだったから。
でも⋮⋮でも。
ジンリンを死なせるわけにはいかなかったんだ⋮⋮。
1539
第227話 山奥の村ハトハラーと遠い日の絶望︵後書き︶
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
唐突ですが、私はこんなにたくさんのレビューをもらった作品は初
めてです。
なので、ここで書いてくださった方にお礼を。
ありがとうございます。
もちろん、評価や感想を書いてくださる方も。
これからも頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。
1540
第228話 山奥の村ハトハラーと反撃
俺たちは走った。
ただ生きるために。
死なないために。
村に帰るために。
幼馴染を守るために。
それから⋮⋮。
それからどれくらい経っただろう。
﹁⋮⋮はぁ、はぁ⋮⋮ここまで、来れば⋮⋮﹂
馬車が横転した場所から、かなり離れたところまで来た、と思っ
て俺がそう呟く。
けれどジンリンが、
﹁⋮⋮レ、レント⋮⋮﹂
と、恐怖に染められたような、震える声でそう言い、俺の前方を
指さしていた。 そこに何があったかなんて、もう明らか過ぎて改めて説明する気
も起きないほどだな。
つまりは、あの邪な狼が、そこにはいたのさ。
その血走った瞳で、けれどどこか冷徹な獣の意志を感じさせるそ
の瞳で俺たちを見ていた。
考えてみればおかしかったんだよな。
1541
子供の足で、あんな魔物から遠くまで逃げれるはずがないのに、
結構走った。
それってつまり⋮⋮遊ばれてたってことさ。
あの狼の魔物は、俺たちで遊んでたんだ。
どこまで逃げるか、どこまで必死に走るか、それを見物してたん
だ。
酷い話だよ。
まぁ、それでも、そんな狼の遊びもそこで終わりさ。
さっきまで影も形も見せなかったのに、そうして目の前に現れた
と言うことは、もう飽きた、ってことで間違いない。
ただ、当時の俺にはそんなことは分からなかったから、逃げなけ
ればって思ったよ。
でも、もう足が言うことを聞かないんだ。
ジンリンにしても、一歩も動けなさそうで⋮⋮。
どうしようもなかった。
だからってわけじゃないが⋮⋮俺は、狼の前に立った。
あんまり賢くないと言うか、意味のない行動だっただろうな。
でも、もう出来ることはそれしかなかった。
ジンリンを守るためには。
彼女の命をつなげるためには。
彼女が逃げる間、俺がそこで殺されている間に、ジンリンが逃げ
れば⋮⋮。
そんなことを思ってしまった。
手を広げ、狼を見つめ、ジンリンに言う。
﹁ジンリン、逃げるんだ。ここは、僕に任せて⋮⋮﹂
1542
言った俺に、しかしジンリンは首を振った。
狼は見物していた。
何があってももう、逃がさないという余裕だったんだろう。
実際、もう逃げるのは無理だった。
俺が犠牲になろうがどうしようが。
でも、そんなことは俺には分からなかったから⋮⋮。
﹁ダメだよ! レント、私⋮⋮私!﹂
﹁いいから早くするんだ! ここは、僕が⋮⋮!﹂
そんな押し問答を何度かして、それで、とうとう狼も飽きたらし
い。
ふしゅるる、とため息のようなものを吐き、それから腕を上げた。
ゆっくり、ゆっくりと。
その爪の先は鋭く尖っていて、未だに血が付着しているのが見え
た。
あれは、プラヴダ、それに俺の両親の血だったのだろう。
あれに貫かれ、引き裂かれ、彼らは死んだのだ。
俺も数秒後には同じことになる⋮⋮。
でも、それでジンリンが逃げる時間は稼げる。
それならそれで、いいんじゃないか⋮⋮。
そう思って、いっそすっきりした気持ちでそこに立っていた。
立っていたのに。
目をつぶって、狼が腕を振り下ろす風を感じた、その瞬間、
︱︱トンッ。
1543
と、何かに押された感触がして、俺は転んだ。
そして、予想していた爪の衝撃はいつまでも襲ってこなくて⋮⋮
一体なにが、と思ってゆっくりと目を開けたんだ。
そうしたら、そこには考えうる限り、最悪の結末が、最も見たく
ないと思っていた光景が、存在していた。
﹁⋮⋮レン、ト⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ジンリン⋮⋮?﹂
ぽつり、とつぶやくように俺の声を漏らしたジンリン。
彼女の口から、たらりと血の筋が滴り落ちていた。
そこから視線を下の方にずらしていくと、胸元辺りから、鋭く生
えるものがある。
⋮⋮狼の、爪⋮⋮。
俺が刺されるはずだったのに。
ジンリンは代わりにそれを受けたんだ。
受けて⋮⋮。
それから、ゆっくりと、ジンリンの胸元からそれは抜かれていっ
た。
びしゃり、と血が噴き出る。
ジンリンがどさりと、地面に倒れ、そこから血の池が広がってい
く。
﹁⋮⋮ジンリン⋮⋮ジンリン!! ねぇ! ジンリン!!﹂
俺は駆け寄って、さけんだ。
1544
狼?
もうどうでも良かった。
殺されようが何だろうが。
いつでも好きなときにやれと思っていた。
それよりも、ジンリンだ。
彼女を、彼女を助けなければ。
こんなに血が出て、顔はどんどん白くなっていく。
どうやったら、死なないで済む?
どうすれば⋮⋮。
でも、考えるだけ無駄だった。
﹁⋮⋮レン、ト⋮⋮ごめん、ね。私⋮⋮もう﹂
﹁ジンリン⋮⋮いいから⋮⋮喋らないで! 死んじゃう⋮⋮死んじ
ゃうよ⋮⋮!!﹂
﹁お父様と、お母様に⋮⋮ごめんって、言っておいて⋮⋮レントは、
生きて⋮⋮いつか結婚、したかった、の⋮⋮﹂
﹁しようよ⋮⋮生きてれば⋮⋮出来るよ⋮⋮﹂
﹁ふふ⋮⋮私が死んでも、他のだれかと⋮⋮しあわせに、ね⋮⋮﹂
人の死ってあっけないものだよな。
そこで、急にジンリンの体から力が抜けたんだ。
それで、もう⋮⋮。
いくら話しかけても動かなくなってしまったよ。
﹁ジンリン⋮⋮ジンリン⋮⋮! どうして⋮⋮!﹂
1545
俺は、そこでそう叫んだ。
もう、本当に何もかもどうでも良かった。
伝言も頼まれたけど、どうせ目の前には狼の魔物がいるわけだし、
どうしようもないしな。
良くも悪くも吹っ切れてしまった。
だから、転がっている棒切れを拾って、構えたよ。
狼に向かってさ。
愚かな行為だ。
どうやったって勝てっこないのに。
素直に逃げた方が、ずっと生き残れる可能性が高いのに。
ただ、どうせ死ぬのなら、戦って死のうと、そのとき思ったんだ。
それで俺は⋮⋮。
狼はそんな俺を面白そうな目で見つめて、先ほどまでのだらりと
した立ち姿から、得物を狙うような構えに変えてこっちに体を向け
た。
やっぱりさっきまでは適当と言うか、遊んでいたと言うか、そん
な感じだったんだな、とそれでわかった。
なぜ俺が構えると、まともに戦う態勢にしたのかは分からないが、
あの狼なりの美学があったのかもしれないな。
本人⋮⋮本狼に聞かないと分からないけど。
それで、俺は棒を振りかぶって、狼に向かった。
構えは無様で、振り上げ方も酷くて、走る速度もどたどたとして。
とてもじゃないが魔物に立ち向かえるようなものじゃなかった。
けど、別にそれでよかった。
俺は戦いに行くんじゃない。
どっちかと言うと、死にに行ってたんだから。
1546
狼はそれを分かってか分からないでか、楽しそうな目をして、そ
れから口を大きく開いてこちらに向かって来た。
あれでかみ砕かれるのか、俺は。
そう思ったけど、恐ろしくはなかった。
俺の目の前に、狼の大きく開かれた口が迫る。
あの中は、柔らかいかもしれない。
木の棒でも、傷くらいはつけられるかもしれない。
そう思って、俺はそこを狙って棒を振り下ろす体勢から突きのそ
れへと変えて、前に向かって伸ばした。
意外なことに、木の棒は、狼の歯茎を掠めるように少しだけ、傷
をつけたよ。
まぐれか、狼が気を抜きすぎたか、わざとか⋮⋮それは分からな
かった。
けど、俺はそれを確認して、満足した。
一矢報いたな、とそう思うって。
そして、狼の牙にかみ砕かれる覚悟をして、力が抜けた。
ああ、終わった。
そう思ったそのとき。
︱︱ガキィン!!
という音がして、狼の牙が防がれた。
1547
第229話 山奥の村ハトハラーと助け
一体何が。
そう思って俺が顔を上げると、そこには一人の大人の男が立って
いた。
大剣で、狼の牙をぎりぎりと防ぎながら。
誰だろう、とまず思った。
﹁⋮⋮下がってくれ。こいつは俺が何とかする﹂
低い声で、男がそう言った。
そのときの俺には考える、っていう余裕がなかったから、素直に
従ったよ。
下げる俺に、狼が爪を伸ばそうとしたけれど、男が大剣を振るっ
て、狼を引き下がらせた。
凄まじい使い手だった。
当時の俺に、剣術や体術の心得なんてなかったけど、それでも達
人であることが一目でわかる、美しい動きをしていた。
そしてもちろん、それからは男と狼の戦いになった。
男に向かって地面を蹴る狼、狼に向かって剣を振るう男。
どちらの動きも、とてもじゃないが、ついていけるようなものじ
ゃなかった。
先ほどまでの狼がどれだけ俺に手加減をしていたのかわかったし、
男がどれほどの使い手なのかもそれでよく理解できたよ。
隔絶した戦いが、そこにはあった。
1548
けれど、それでも男の力と狼の力は、拮抗してた。
どちらも決め手に欠ける、そんな印象の戦いだった。
振るう男の大剣を、狼は間一髪で避け、またその牙で受け止めて
いた。
男も男で、狼の爪や牙の一撃を大剣で防ぎ、また目にもとまらぬ
動きで避けていた。
そして、お互いの体力も限界か、というとき、男が勝負をかけた。
一瞬の虚を突いて、狼の懐に入り、剣を振るったんだ。
その一撃は、確かに狼の胸元に一筋の傷をつけて、狼は大声で吠
えた。
それから、男に腕を振るい、男をその場から吹き飛ばしたけど、
男はしっかりそれも大剣で防いでいて、無傷だった。
ぼたり、ぼたりと、狼の胸元からどす黒い血が垂れて、血の池を
作っていく。
狼の息は荒くなり、その目の輝きは殺意だけに満ちているようだ
った。
遠くにいても、体が竦んだよ。
けれど、男はしっかりとそんな狼と相対しているんだ。
そして⋮⋮男と、狼のにらみ合いがどれくらい続いたかな。
ふっとその場に広がっていた緊張の糸が切れて、狼が後ずさった。
それから、そのまま、狼は遠くに向かって走り去っていった。
逃げたんだ。
男はそんな狼に向かってしばらく構えていたけど、もうあの禍々
しい気配も一切感じなくなると、構えを解いて俺の方に走り寄って
きて、
1549
﹁大丈夫か!?﹂
そう尋ねた。
俺は、助けられた。
そして、助かったらしい。
男の言葉は、魔物に襲われた人間に対する至極当然の掛け声だっ
た。
ただ、そのときの俺には⋮⋮。
酷い話だが、言ってしまったよ。
﹁⋮⋮なんで⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁なんで、もっと早く来てくれなかったんだ⋮⋮!!﹂
思いつく限り、一番酷い台詞だよな。
普通、そういうときは礼を言うべきだろう。
それは分かってたさ。
でも、俺には⋮⋮。
足元で事切れているジンリンを見るとさ。
どうしても⋮⋮言わずにはいられなかった。
ただ、この男は、優しかった。
死んでいるジンリンを見て、
﹁⋮⋮悪かった。俺がもう少し早く駆けつけていれば⋮⋮本当に、
すまなかった。俺のせいだ⋮⋮﹂
1550
そんな訳ないのにな。
真実は、運が悪かっただけさ。
ジンリンも、俺の両親も、プラヴダも。
そして俺は⋮⋮運が良かった。
あれだけの魔物に襲われて、命が助かったんだ。
そうとしか言えないだろう。
そしてそれは目の前にいる男のお陰で、そんな人間を罵る権利な
んて俺にあるはずがなかった。
それでも、男は俺に謝って⋮⋮。
それで、ぼたぼた流れる俺の涙を拭ってから、抱きしめてくれた
よ。
﹁うう⋮⋮うわぁぁぁぁぁああああ!!!!﹂
それから俺は、大声で泣いた。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮もう、いいのか?﹂
一通り泣いた俺に向かって、男がそう尋ねた。
俺は頷いて、
﹁⋮⋮うん。さっきはごめんなさい⋮⋮﹂
泣くだけ泣いたら、すっきりした、というわけじゃないが、少し
は頭も冷えていた。
ひどく悲しく、どうすればいいのかもわからなくて、未だに頭の
中はぐちゃぐちゃだったけど、それでも、男には何一つ責められる
ところなんてないってことを、俺は意識できるようになった。
1551
だから謝った。
けれど男は
﹁いや⋮⋮お前は立派だ。気にするな。それより、なんだ⋮⋮お前
の連れの亡骸のことなんだが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮村まで運びたいけど、無理だよね⋮⋮﹂
人の死体はしっかりと弔われるべきものだ。
けれど、こういうときは野ざらしで、魔物やら動物の食べるのに
任せて、その場をさっさと去るのが常識だ。
運ぶのが難しい、という問題があるし、魔物も寄ってくるから単
純に危険と言うのもあった。
そういう細かいことは流石に当時の俺には分からなかったが、足
もないのに運ぶのは無理だっていうのは簡単に分かった。
けれど男は首を振って、
﹁いや、無理じゃない。場所は⋮⋮どこだ? 村っていうと、この
辺だとハトハラーか、アルガか、ムルあたりか?﹂
どれも近くにある村で、男はこの辺りの地理をしっかりと頭に入
れているらしかった。
俺は頷いて、
﹁ハトハラーだよ。帰るところだったんだ⋮⋮﹂
﹁そうか⋮⋮それは災難だったな⋮⋮﹂
﹁ううん。いいんだ。それより、無理じゃないって?﹂
1552
﹁あぁ、俺も馬車に乗ってきたところだからな。あの魔物の魔力を
感じて、ここまで走って来たが、半日も待てば来るだろう。そいつ
らに乗せてもらえばいい。乗客は、俺だけの貸し切りだからな﹂
この男の台詞がどんな意味なのかは、やっぱり当時の俺にはよく
わからなかった。
けど、今考えると⋮⋮馬車で半日かかる距離から、走ってここま
でたどり着いたということ、そんな距離からいかに強大な存在とは
言え魔物の感知が可能だということ、そして、わざわざ田舎に向か
う馬車を貸し切りにしていることが分かる。
かなり奇妙な存在だったわけだけど、助けてもらったからな。
もう俺は全面的に信頼していた。
﹁そうなんだ⋮⋮じゃあ、皆のこと、運んでもらっても大丈夫かな
⋮⋮?﹂
﹁あぁ。御者も知り合いだしな⋮⋮。それまでは、ここで待つこと
になるが、その間に、亡骸を一か所に運んでおこうと思う。お前は
何か大切な遺品があったら、それを集めておいてくれ﹂
そう言って、男は俺に仕事を指示した。
それも、男の気遣いだったんだろうな。
何かしていれば気がまぎれると。
実際は⋮⋮どうだったかな。
少しは、紛れた気はするよ。
1553
第230話 山奥の村ハトハラーと式
﹁⋮⋮ん、おう。来た来た。来たぞ、レント﹂
男が額に手を当てて、焚き火の向こう側を見ながらそう言った。
日は落ちていて、もしかしたら今日は来ないかもしれない、そう
言っていた矢先のことだったから、男の顔色は明るかった。
俺も俺で、一人で黙っていたらそのまま森の中に行って、魔物に
でも殺されに行きたいような気分だったけど、男と話しているとそ
うじゃない気分になったよ。
男は話もうまかった⋮⋮子供が好きそうな話を色々と選んで、し
てくれた。
遥か遠くにある、木と土の国の話、空を飛ぶ船の話、太陽に成り
代わろうとした愚か者の話、そして、人の魂がどこからきて、どこ
に行くのか⋮⋮。
色々と知っている男に何者なのかと聞けば、少し悩んでから、
ミスリル
﹁俺は、冒険者だ。神銀級冒険者の、ヴィルフリート・リュッカー﹂
それを聞いても、当時の俺は驚きはしなかった。
冒険者の存在は知っていても、その細かいクラス分けなんて知ら
なかったからな。
ただ、この人が、ジンリンがなりたいと言っていた、冒険者なん
だなって思っただけで。
ここにいれば、喜んだだろうなって。
それだけだった。
1554
ただ、よくよく考えれば、そのときから少し、心の中にあったの
かもしれない。
ジンリンがなろうとしてなれなかったもの。
もう目指せないもの。
生きている俺が、代わりに叶えなければならないんじゃないかっ
て。
﹁⋮⋮ヴィルフリート。いきなり馬車から飛び出すから何事かと思
ってたけど⋮⋮これは﹂
俺たちの直前で止まった馬車から御者が降りてきて、ヴィルフリ
ートにそう尋ねた。
その人物は優男風の青年で、長い髪の変わった雰囲気の男性だっ
たよ。
男なのに、なんか綺麗で、田舎に向かう馬車の御者、って感じじ
ゃなかったな。
なんていうか、貴族とか、神官とか、そっちの方の雰囲気をして
た。
彼の言葉に、ヴィルフリートは首を振って、
﹁⋮⋮ま、詳しい話は後だ。とりあえず、亡骸を故郷に運んでやり
たい。いいか?﹂
と言った。
それだけじゃ、普通の御者なら大体嫌がるものだけど、青年は頷
いて、
﹁そうだね⋮⋮。棺はないが、包んであげられる布は余るほどある。
運ぼうか﹂
1555
と即座に馬車に戻って、たくさんの布をもって来た。
どれも高価そうな布で、反物としてみれば一財産になりそうだっ
たけど、青年は惜しげもなく使ってジンリンたちを包んでくれた。
しかも優しい手つきで。
そんな彼らに会えたことは、俺にとって間違いなく幸運だっただ
ろうな。
全員を布に包み、馬車に運び終えたところで、ヴィルフリートが
青年を俺に紹介してくれた。
﹁こいつはアゼルだ。アゼル・ゴート。本業は行商人だが、決まっ
たルートを持たない道楽者でな。たまに暇な時に雇って馬車で運ん
でもらってるんだ。冒険者もついでにやってるから、パーティ組む
のにもちょうどよくてな﹂
﹁アゼルだよ。よろしくね。君は⋮⋮﹂
﹁レント﹂
俺が一言そう答えると、アゼルは頷いて、
﹁なるほど、レントくんね。了解。ところで、今日は日も暮れてし
まったから、君の村には明日向かおうと思う。それでいいかな?﹂
そう言った。
俺としては文句などあるわけがない。
俺だけならまだしも、みんなの亡骸を載せていってくれるという
のだから、それ以上の条件などあるわけがないさ。
だから頷いて、
1556
﹁よろしくお願いします﹂
と言ったら、アゼルは笑って、
﹁別に気にする必要はないよ。それよりも、君は今日はもう、休ん
だ方がいい。見張りは私とヴィルフリートがしっかりとしておくか
らね﹂
そう言って俺の頭を撫でてくれた。
その声は優しく慈愛に満ちていて、聞いているだけで眠気が襲っ
てくるようなものだった。
それからしばらくして、俺の瞼は重くなり、そしてその日は眠っ
た。
◇◆◇◆◇
次の日の朝、村に出発して、それから夕方くらいに村に着いたよ。
村のみんなは、見知らぬ馬車が村に来たことに驚いていたけど、
それ以上にその馬車から俺が降りてきたことにびっくりしてた。
当然だよな。
もともと乗っていた馬車はどうなったんだって話になるから。
でも、その状況で大人たちの大半は察していたように思う。
ヴィルフリートとアゼルはすぐに村長夫妻⋮⋮インゴたちのとこ
ろに行って、事情を説明していたから。
俺は、村の同年代の子供に色々聞かれたけど⋮⋮答える気になれ
なかった。
ちゃんと説明しなきゃならなかったんだろうけど、無理だった。
しっかりと飲み込めていない事実を、口にするのは⋮⋮。
それからのことはあっという間だったな。
1557
俺の両親と、プラヴダ、そしてジンリンの死が告げられ、葬式を
行って。
俺の扱いについては村長預かりになって、養子にしてもらって。
三日くらいの間に行われたことだけど、驚いたことにヴィルフリ
ートとアゼルはその間、村にいてくれた。
あとで父さん⋮⋮インゴに聞いてみたら、どうも俺のことを心配
していてくれたらしい。
ああいうことにあって、俺がそうとう危うく見えたって。
何をするかわからないし、そうなると誰かが見ていなければなら
ないだろうけど、葬式が終わるまでは村人にそんな余裕はないだろ
うからと。
確かに、誰もいなければふっと死にたくなっただろうから、その
感覚は正しかっただろうな。
彼らに助けてもらっておきながら、酷い話だけど、それくらい俺
はショックだったから。
それと、死者の弔いについて、人手は沢山あった方がいいからと
いうのもあったみたいだ。
実際かなり役に立ってくれたみたいで、式のための供物とかは森
に入って集めないとならないものもあるんだけど、すぐにとってき
てくれたりしたんだとさ。
いい人たちだったよ。
それから、葬式も、色々と事務的なことも全て終わって、俺はそ
こで初めてまともに現実に向き合った。
辛かった。
これからどうすればいいのかわからなかった。
村長の子になったのだから、村長を目指すのか?
いや⋮⋮。
ジンリンは冒険者になりたいと言っていた。
1558
いつか、世界を見て回るのだと。
彼女の夢は、もう彼女自身には見れない。
生き残った俺が、見なければならないんじゃないか⋮⋮。
それはあんまりよくない考え方だったかもしれない。
でも、そんなことを思った俺は、身近にいた冒険者に尋ねた。
1559
第231話 山奥の村ハトハラーと思い出話の終わり
﹁⋮⋮冒険者に? また、なんでだ﹂
ヴィルフリートは、突然、冒険者になるにはどうしたらいいか、
と尋ねた俺に当たり前の返答をした。
俺はそれに答える。
﹁⋮⋮ジンリンが⋮⋮友達が、いつかなりたいって言ってたんだ⋮
⋮だから﹂
それでヴィルフリートは大体察したらしい。
ただ一応、
﹁⋮⋮それは、今回亡くなった⋮⋮?﹂
﹁うん﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
俺が頷くと、ヴィルフリートは目をつぶり、少し考える。
その時間はなんだか俺にとって長く感じられた。
ダメだ、と言われるかもしれないと思ったからだ。
少なくとも村では冒険者になりたい、と言ってもあまり歓迎され
ない。
子供たちの中には、そういうことを言っている者も少なからずい
たけれど、大人たちはならない方がいい、と考えているようなのは
雰囲気から伝わって来た。
1560
というのは、もちろん、冒険者は荒くれ者の集団、ある意味掃き
だめのようなところだと認識されていると言うのもあったが、それ
以上に、ハトハラーの住人たちは冒険者が危険な商売で、命を落と
す可能性が高いことを分かっての心配の方が大きかったらしい。
俺も、初めて村の大人に口にした時はやめておけと言われたから
な。
まぁそれはいいか。
ヴィルフリートはそして、目を開くと、俺に言った。
ギルド
﹁⋮⋮なりたいと言うなら止める気はないが、そのためにはまず、
しっかりと修行をしろ。冒険者組合に登録するためには年齢が十五
にならないと無理だ。お前はそこまでに、あと十年ある。それまで
に、十分に魔物と渡り合える武術を身に着けるんだ﹂
今思えば、思った以上に実践的な回答が返って来たものだよ。
ふつう、五才の子供が唐突に冒険者になりたい、なんて言っても
そんな風には返答しないだろう。
せいぜいが、そうだな、頑張ればいつかなれるかもな、一生懸命
がんばれよ、くらいのものだ。
だけど、ヴィルフリートは違った。
﹁それと、知識だな。少なくとも文字の読み書きは身に着けとけ。
サバイバル
でないと騙される。同じ理由で計算もだ。あとは、薬草を初めとし
た植物の知識、魔物の種類や性質、それに村の外で生き残る生存技
術⋮⋮。どれも重要だ。ハトハラーは小さな村だが、薬師の婆さん
や村長夫妻なんかは書物も持っているし知識も中々のものだった。
どうしても冒険者になりたいなら、彼らを説き伏せて色々と教えて
もらうことだな﹂
そんなことまで教えてくれたのだから。
1561
実際、その助言はすごく役に立ったな。
﹁それを全部身に付ければ、冒険者になれる?﹂
俺がそう尋ねると、ヴィルフリートは、
﹁絶対とは言わねぇ。それに全部身に着けても、スタートラインに
立っただけだ。そこから先は、お前の努力次第だ。どこまで登れる
かはな。ただ、やりたいならやってみろ⋮⋮そうすりゃ、とりあえ
ず立って歩けるだろ。いいか、叶えるまで死ぬなよ﹂
と真面目な顔で言った。
彼には分かっていたんだろうな。
俺が、何も目標無くこれから生活してたら、いつの日にかふらふ
ら森の中に消えていって死ぬだろうってことが。
だから、無茶な目標でも、それに向かって邁進していたらとりあ
えずは死なない、そういうものがあればいいと、真面目に色々話し
てくれたんだろうと思う。
俺にはそんなことは分からなかったけど、ただ、真剣に話してく
れていることは分かったから、それに頷いて、
﹁わかった。頑張る﹂
そう言った。
◇◆◇◆◇
葬式も終わり、俺の養子になる手続も終わって、村が色々と落ち
着いたあと、ヴィルフリートとアゼルは旅立っていった。
ヴィルフリートは、
1562
﹁⋮⋮レント、冒険者になって、実力がついたら、会いに来い。流
石に十年後に俺がどこにいるかは正直自分でも分からないから、こ
こに来いとは言えねぇが、生きてる限りは冒険者をやってるだろう
からな。そのときは酒でもおごってやるぜ﹂
と言って頭を撫でてくれ、アゼルは、
﹁そのときは私も自分の店くらい構えていたいね。もし私の商会の
名を耳にしたら訪ねてくれ。たぶん、︽ゴート商会︾という名前で
やっているだろう。商会を作れてたらね﹂
と本気なのか冗談なのかよくわからない口調で言って笑っていた。
行商人の大抵の目標は自分の店を持つことにあるから、その台詞
も別におかしくはなかったんだが、ヴィルフリートはそれを聞きな
がら呆れたような顔で、
﹁⋮⋮道楽でやってるうちは無理だと思うけどな。レント、たぶん、
十年後じゃ無理だぜ。絶対俺を探した方が早い﹂
と言っていた。
そんな感じで二人は村を去っていって⋮⋮。
それから、俺の、新しい生活が始まったよ。
それまでの俺は、暇なときはずっと家にこもって、そこで遊んで
た。
たまにジンリンが呼びに来て、木登りやらチャンバラごっこやら
に巻き込まれることがあったけど、そのくらいで、ほとんど室内で
過ごしてた。
けれど、その日からは明確な目標が出来たからな。
1563
冒険者になるっていう。
ジンリンの代わりに。
もちろん、ただそれだけじゃない。
たぶんだけど、俺は⋮⋮あの魔物を倒したかったんだ。
逃げた、あの魔物を。
ジンリンや、俺の両親を手にかけたあの邪な狼を。
復讐か、と言われるとそれもまた違うんだが⋮⋮。
なんていうかな、あの狼は、俺にとって、悲劇の象徴になったん
だ。
それを打ち砕けるような存在になりたい。
そう思った。
ミスリル
そして、あの狼と渡り合っていた、ヴィルフリート。
彼は、神銀級の冒険者だって言ってた。
だから、それを目指そうと。
ミスリル
そこから、俺は神銀級の冒険者を目指し始めたんだ。
他の何をおいても、絶対になると決めて、修行を始めた。
と言っても、最初はまず、技術を教えてくれる人たちに頼み込む
ことだったな。
両親⋮⋮義両親の方に、文字の読み書きや計算の知識を教えても
らえるように頼み、狩人のおっさんたちには剣鉈や弓矢の扱いを教
えてもらえるように頼んだ。
職人のおっさんたちにも色々教えてもらえるようにお願いして。
薬師の婆さんにも薬草をはじめとする植物の見分け方、薬の作り
方、魔物の種類なんかの知識を教えてもらえるように頼み込んだ。
1564
最初はみんな何を言ってるんだって顔つきだったけど、何回、何
十回も頼みに来る俺に折れてさ。
最後にはみんな、嬉々として教えてくれるようになったよ。
必死だったから、さぼることもなかったし、教われば精根尽き果
てるまで学んだから、教える方としても楽しかったのかもしれない。
◇◆◇◆◇
﹁そんなことをしながら、頑張っていくうちに十年が過ぎて、今の
レント・ファイナが出来上がりましたとさ、とそういうわけだ﹂
俺はそう言って、思い出話を終えた。
1565
第232話 山奥の村ハトハラーと彼らの行方
ミスリル
﹁お前が神銀級をひたすらに目指し続けていたのにはそんな理由が
あったわけか⋮⋮﹂
ミスリル
ロレーヌがしみじみとした口調でそう言った。
俺は、昔から誰に対しても神銀級冒険者になりたい、という目標
を言うことに躊躇したことは無かったが、その根本的な理由につい
てまともに他人に語ったことはなかったから、当然初耳だっただろ
う。
言いたくなかった、というより語るのが難しい話だったからだ。
長くなるし、そもそも他人の不幸話なんてそうそう出来はしない。
冒険者同士なら、俺に限らず誰だって何かしらの不幸話を持って
いるものだが、そんな話には触れず、ただその日の酒と食事を楽し
むことの方が優先なのが冒険者というものだからだ。
忘れているわけでも、くだらないと思っているわけでもない。
本人にとっては重要で、人格を形成するのに重大な意味を持った
経験だが、他人にとってはなんとも触れ難い話で、そういうもので
場の空気を暗くはしたくない。
辛い日々を、仲間たちと飲み明かして忘れようとしているのに、
わざわざ古傷をえぐって見せびらかすこともない。
そんな気持ちだ。
にも拘わらず、今日ロレーヌに話したのは、なんでだろうな。
そういう気分だったからかな。
空を見上げると星が瞬いている。
マルトではもっと空は暗く、星も少ない。
1566
ライト
向こうは夜でも火や魔力灯が点っていて、ささやかな星の光はか
き消されがちだからだ。
ハトハラーにはそんなものはほとんどない。
今日は村の中心でかがり火が焚かれているけど、それでもこれだ
け見えるのだから。
﹁⋮⋮でもまぁ、それだけ気合いを入れて頑張り続けても、俺は結
局銅級止まりだったけどな。人生はままならないものだよな⋮⋮﹂
俺がそう言えば、ロレーヌは、
﹁ついこの間まではな。ただ、これからは分からん﹂
と返す。
それはその通りだ。
今なら、本当にいつかたどり着けるかもしれないと言う気がして
ミスリル
いる。
神銀級に。
まぁ、どこかで足踏みする可能性も低くはないけどな。
あくまで、今はまだ、天井が見えていないと言うだけだ。
小さなころの俺だってそういう気持ちでいたのだから、あまり期
待しすぎるのも良くないだろう。
出来ることはすべてやっていくつもりだが。
それからロレーヌはふと、
ミスリル
﹁そういえば、話の中で出てきた魔物だが⋮⋮神銀級と互角に戦え
るほど強大なものが、この辺りには生息しているのか?﹂
と尋ねてきた。
1567
確かにそれは気になる事実だろう。
そんなものがいれば、のんびり宴なんてしていられないからな。
俺は首を振って答える。
﹁いや、少なくともあれ以来、見ていない。そもそも⋮⋮今の今ま
で、どんな地域でもあんな魔物は見たことない。図鑑なんかで調べ
ても見たが、見つけられたことはない。ロレーヌにも聞いたことは
あるだろう? 人の身の丈を遥かに超えた、巨大で、かつ体に闇の
衣を纏ったような光が浮かぶ狼型の魔物って言ったらどんなのがい
る?って﹂
ガドール
﹁あぁ⋮⋮そう言えば、確かに、だいぶ前に聞かれた記憶があるな。
・ゼエブ
そんな理由があったとは知らなかったが。確か、そのときは⋮⋮巨
狼やガルム、マウィオングなんかを挙げたか?﹂
﹁そうそう。よく覚えているな。まぁ⋮⋮どれも結局違ったけど﹂
ロレーヌが挙げたものはいずれも図鑑で調べてみたが、あのとき
見た狼とは別だった。
大きさや形状が違っていたり、またあの闇の衣のようなオーラは
どれも纏ってはいなかった。
魔物なんて、そのすべての生態や存在が明らかになっているわけ
ではないから、仕方のないことだが、全く手がかりがなさそうだと
分かってしまったのが少し残念だった。
﹁新種か、特殊個体かということかな。そうなると探すのは難しい
ミスリル
か。今まで誰の目にも触れなかったか、目にした者は全員が口封じ
されてきたかということになる。その神銀級が何か知っている可能
性はあるが⋮⋮﹂
1568
﹁⋮⋮ヴィルフリートか。あの人は今、どこにいるんだかな⋮⋮﹂
ロレーヌに言われて、俺はそう返す。
ロレーヌはその言葉に首を傾げて、
﹁⋮⋮会いに行ったのではないのか?﹂
と尋ねてきた。
当然の疑問だ。
しかし俺は首を振った。
﹁いいや。あれ以来、会えてない。探してもみたんだが⋮⋮この国
にはいないみたいでな。となると他国にいるってことになるだろう
けど、せめて冒険者としてのランクをもう少しあげてから会いに行
こうと思って⋮⋮﹂
﹁それで十年上がらなかったと﹂
﹁⋮⋮まぁ、そういうことだ﹂
情けない話だが、ロレーヌが言ったとおりである。
銀とか金とかにせめてならないと、道中色々と厳しくなるのは目
に見えていた。
パーティだったらまた別だろうが、一人だと流石にな。
護衛依頼なんかを受けて他国に渡るにも、ソロの銅級では中々雇
ってくれる相手もいない。
銀級になればソロでも雇ってくれるんだけどな。
﹁⋮⋮では、商会の方はどうだ? その御者のアゼルという人が作
るとか言ってた、ゴート商会は⋮⋮?﹂
1569
﹁少なくともこの国でその名前の商会は聞いたことがないからな。
やっぱり他国でやってるか、未だに行商人をやってるか、別の名前
で商会を作ったか⋮⋮どれだかな﹂
あの雰囲気からして未だに行商人、の可能性が一番高そうではあ
る。
が、実際がどれなのかは分からない。
やっぱり他国で働いているのかもしれないな。
なにせ、ヤーラン王国は本当に田舎国家だから⋮⋮金儲けに向い
ている土地柄ではない。
ミスリル
当時、あの二人がこの辺りに来たのは、別に商売しに来たわけじ
ゃなく、他に理由がありそうだったしな。
出身は西方諸国ということだったが、冒険者で神銀級となると出
身地なんて関係なく世界中を飛び回る。
あまりその情報に意味はない。
それでもまぁ、一度行ってみてもいいかもしれないが。
何か分かる可能性はゼロではないからな。
﹁会いにこいと言ってたわりには見つけるのが難しそうな二人だな
⋮⋮﹂
呆れたようにロレーヌは言うが、冒険者と言うのはそんなものだ。
アゼルの方も、遍歴商人だから、居所が定まらないと言う意味で
は似たようなものだろう。
仕方がない。
ミスリル
﹁ま、それでも神銀級だからな。探そうと思えば意外と簡単に見つ
かる⋮⋮かもしれない﹂
1570
ミスリル
﹁⋮⋮逆ではないか? 神銀級ともなると、その情報は国家的に制
限されていることも少なくないからな﹂
ミスリル
この場合はどっちも正しいだろう。
神銀級にも色々いるからな。
目立ちたがり屋だったり、極端な秘密主義だったり。
1571
第233話 山奥の村ハトハラーと薬師の老女
﹁ま、そのうち探すことにするさ。今度はこの体が人間に戻ってか
ら⋮⋮とか言ってると永遠に探せなさそうだし、人に戻る方法を考
えつつ、並行して探していこうと思うよ﹂
俺がそう言うと、ロレーヌはため息を吐いて、
﹁なんだかやることが次々増えていっている気がするが⋮⋮大丈夫
か?﹂
と心配げに言ったが、
﹁少なくとも、俺はほとんど眠る必要がないからな。まだまだ大丈
夫だろう﹂
俺は首を振ってそう言った。
それに対してロレーヌは、
﹁そうは言っても⋮⋮いや、お前に言っても聞かないか。ま、好き
にするといい。ただ厳しい時は言うようにな﹂
と最後にはあきらめた。
それから、そろそろ篝火のところに戻ろうかと立ち上がろうとす
ると、
﹁⋮⋮おや、こんなとこにいたのかい。レントと⋮⋮確か、ロレー
ヌだったかい?﹂
1572
そんな声が俺たちの後ろからかけられた。
振り返ってみてみると、そこにいたのは、いかにも意地の悪そう
な笑みを浮かべた曲者感満載の婆さんだった。
誰なのかは明らかである。
この村の薬師のガルブだ。
俺の義理の祖母の妹だから、大叔母、ということになるかな。
それに加えて、俺の薬師としての師匠でもある。
﹁⋮⋮師匠。どうしてここに?﹂
﹁そんなの決まってるじゃないか。せっかくの宴なのに、主役がい
ないんじゃ盛り上がらないってさ。私は宴は体に響くからって家に
いたのに、インゴが呼びに来てさ。まったく⋮⋮﹂
そう言っているガルブはどう見ても健康そうで、体に響くとか確
実に嘘だろ、と言いたくなるような元気さだ。
それに、魔力が増加した今、彼女に近づいて分かったこともある。
この婆さん、魔術師だ、と。
俺の弟子入りを許しておいて、よく隠し通したものだと驚きだ。
⋮⋮まぁ、村にいたら魔術なんて使うタイミングもないし、そん
なに隠すのは難しくないか。
魔力が対してなければ他人の魔力なんて感じ取れもしないからな。
そんな俺の視線にガルブは、
﹁⋮⋮お、気づいたのかい。あんた、村を出るときは魔力なんて一
滴くらいしかなかったくせに、今はかなりのものだ。そこのロレー
ヌのお蔭かね?﹂
1573
と言ってくる。
こっちから見て分かるということは、向こうから見ても分かると
言うことだ。
それにしても魔力量まである程度、見ただけで推察できると言う
のは魔術師としてかなり高いレベルにあることを示している。
ロレーヌも同じことを思ったようで、少し驚いた表情をしながら
言う。
﹁とりあえずは⋮⋮初めまして。ロレーヌ・ヴィヴィエです。ご推
察の通り、レントに魔術を教えています﹂
﹁ひゃっひゃ。私はガルブ・ファイナ。そこのレントの大叔母にし
て、薬師の師匠。そして魔術師でもある⋮⋮村だと、インゴくらい
しか知らないけどね﹂
﹁ファーリも知っているでしょう? お弟子だと聞きました﹂
ロレーヌの言葉に、ガルブは呆れた顔で、
﹁あの娘、秘密だとあれほど言ったのに⋮⋮まぁ、口が軽いのは知
ってたけど。となると、リリにも知れているね?﹂
﹁ええ。しかし、いいのですか? 秘密と言う割に、あまり隠す意
思が感じられませんが﹂
﹁いいのさ。今の時代はもう、構わんだろう。私が若いころはこの
村ももっと殺伐としていてね、どうしても隠さなければならなかっ
たんだが、事情が変わっているからね。ファーリに教えると決めた
時点で、もうばれるものだと思ってたのさ﹂
1574
そんな時代がこの村にあったのか?
まぁ、ガルブが若いころって言うくらいだから、五十年は昔なん
だろうが⋮⋮。
なんでそんなに殺伐としていたのか聞こうと口を開きかけたら、
ガルブが、
﹁ま、それはいいさ。ともかく、早く戻りなよ。ロレーヌもだ。幻
影魔術とやらをもう一度見たいってさ。私も見てなかったから見せ
てくれるなら見たいね﹂
と言う。
ロレーヌはその言葉に、
﹁別に構いませんが⋮⋮ガルブ殿なら使えそうですが?﹂
そう言った。
それはガルブの魔術師としての実力を図ってのものだったのか、
単純にそう思って言ったのか。
ガルブはその言葉に首を振って、
﹁無理無理。あんたが使ってた時、魔力を感じたが、あんなに複雑
な構成と多量の魔力を使う魔術は老体には応えるよ﹂
そう言って来た方向に戻っていく。
その後姿を見ながら、そう言えば、と思って俺が、
﹁ああ、師匠。聞きたいことが﹂
と止めると、ガルブが振り返って、
1575
﹁なんだい?﹂
と尋ねた。
俺は言う。
﹁村に祠があったろ? あれってまだ残ってるかな?﹂
そもそも目的はそれだった。
挨拶など終わって、明日辺りに見に行こうかな、と思っていたわ
けだが、どういう由来のものなのかをこの村の生き字引であるガル
ブに尋ねようとも思っていたのだ。
ここで会ったのもちょうどいいと思い、とりあえず尋ねてみたの
だ。
するとガルブは、
﹁祠というと、インゴの家の近くにある奴かい?﹂
﹁違う。そっちじゃなくて、西の方に廃屋があるだろう? あの裏
の方のだよ﹂
そう言った途端、ガルブの表情が若干曇った。
しかし、それは一瞬のことで、注意して見なければ分からない程
度だっただろう。
ガルブはそれからすぐに、俺に、
﹁⋮⋮あんなところに祠なんてあったかね﹂
と言って来た。
おそらく、知っている様子だったのに、しらばっくれている?
しかしそんなことする意味があるのか⋮⋮。
1576
こういっては何だが、打ち捨てられた小さな祠だったのだ。
俺が修理したとはいえ、それでも目立たたない存在であるのに間
違いない。
場所も場所だし、誰も気づいてなかったかもしれないくらいだ。
﹁あるさ。俺が昔、修理したからな﹂
﹁⋮⋮あんたの聖気の源はそれってわけか。なるほどね⋮⋮﹂
ガルブはすぐに察してそう言った。
聖気を手に入れて、あまり日を置かず村を出たから、その辺りの
説明はガルブにもしたことなかったんだよな。
ただ、聖気持ちでない限り、聖気の存在は基本的に判別できない。
俺が聖気を持っていることを察していたと言うことは、ガルブも
聖気を持っているのか?
俺がそう思ったことを、表情から理解したのだろう。
ガルブは、
﹁私は聖気なんて持っちゃいないさ。ただ、あんたがたまに村に帰
ってきたとき、保存食になんかしてるのをたまに見てたからね。あ
りゃあ、たぶん聖気だろうって思ってたのさ﹂
と言う。
1577
第234話 山奥の村ハトハラーと祠の現状について
ガルブの言葉を聞いた時、実に目敏い婆さんだな、と思った。
確かにそんなことはしていたが⋮⋮。
﹁レント、お前、保存食に何してたんだ?﹂
ロレーヌが気になったのかそう聞いてきたので、俺は答える。
﹁え? いや、もう少ししたら腐りそうなヤバい奴とかあるだろ。
そういうのに聖気による浄化をかけると長持ちするんだよ。発酵さ
せてるやつはそれをするとダメだけどな﹂
たとえば痛みやすい新鮮な葉物野菜なんかに浄化をかけ続けると、
常温でも一か月くらいは持ったりする。
普通だと、どんなに保存方法を工夫しても一、二週間が限界であ
るにもかかわらずだ。
やらない手はないだろう。
反対に、発酵させて食べるようなもの⋮⋮漬物とか酒とかその辺
りに浄化をかけてしまうと、発酵が進まなくなる。
自分の好きな浸かり具合を維持する、という目的だったらそれで
いいんだろうが、保存という意味からするとアウトだろう。
したがってそのあたりはしっかり区別しつつかけていた。
アンデッド
聖気の少なかったときも、それくらいなら出来たので重宝してい
た。
戦闘には一切使えなかったし、不死者みたいな魔物の浄化も一切
できなかったけどな。
水とか食べ物とかにばっかり使っていた。
1578
﹁恐ろしいほどの聖気の無駄遣いのような気がするが⋮⋮﹂
ロレーヌが呆れた顔で言うが、俺は、
﹁別に減るもんじゃないんだし、いいじゃないか﹂
と俺は返す。
⋮⋮まぁ、一応減りはするか。
でも寝て起きたら回復するし、いいだろう。
﹁⋮⋮聖気の使い方は与えられた本人の自由だから、確かに別に構
わんだろうが⋮⋮そんな使い方してる者は他にいるものかな? 大
体、そんなこといつ気づいたんだ?﹂
﹁とりあえず使えるようになってから、色々試したからな。食べ物、
水、植物、人間⋮⋮ただ、大きく効果が見えたものはそんなになか
った。聖気の限界と言うよりは、俺の当時の聖気の量じゃ大したこ
とはできなかったんだろうな。ただ、食べ物の寿命を延ばしたりな
んかの地味な効果は他にも色々あったぞ。いろいろありすぎて、挙
げるのが面倒なくらいに﹂
物の劣化については大抵試した。
結果として、ほとんどの物の劣化を遅らせることが出来ることが
分かった。
食品関係もその一環だな。
だから挙げるとキリがないのだ。
ロレーヌはそれを聞いて、
﹁いま改めて調べたら面白そうな結果が出そうな気がするぞ⋮⋮﹂
1579
と、実験したくてうずうずしているようだった。
気持ちは分かる。
なにせ、灰に浄化をかけたら草が生えてくるくらいだからな。
⋮⋮今、食べ物に浄化をかけたら植物が生えてくるんだろうか?
それは余計なので起こらないでほしいんだけどなぁ⋮⋮。
あとでやってみよう。
そんなことを話している俺たちに、ガルブが呆れた顔で
﹁⋮⋮いやはや、レントがついに村に娘っこを連れてきたと思った
ら⋮⋮似た者同士ってことかね? 考え方とかやりそうなことが似
てる気がするよ﹂
と言った。
俺が、
﹁そうかな? 確かに気は合うと思うぞ﹂
返答すると、ロレーヌもそれに続いて、
﹁レントは私が何をしても驚かずに、むしろ協力してくれるので一
緒にいて居心地がいいです。似てると言えば似てるのかもしれませ
ん。調べ始めると割と凝り性だったりするところなど﹂
俺の場合は凝り性程度で済んでいるが、ロレーヌの場合は妄執に
も似た研究意欲があるのでちょっと違うんじゃないかな、と思わな
いでもない。
協力と言うのは今まさに、魔物の︽存在進化︾について協力中で
ある。
1580
驚かないでただ事実を見てくれるロレーヌは、確かに俺にとって
も居心地がいい、で間違いないな。
﹁⋮⋮ふむ。そうかい。確かにレントは昔から妙なことばかり気に
したり調べたりする子だったからねぇ⋮⋮。祠にしてもそうだ。あ
んた、いつの間に修理なんてしてたんだい?﹂
ガルブがそう尋ねてきたので、俺は答える。
﹁師匠が薬草探して来いっていうから、村や森を歩きまわってたら
目についてさ。なんとなく覚えてたんだ。それで、村をもう少しで
出て、マルトに向かうってなったときに、何か村に恩返しでもしよ
うかなって思い立って⋮⋮﹂
﹁それで祠の修復かい? インゴの家の方にある奴でもよかったろ﹂
村長宅の近くにも、確かに祠はある。
ただ、俺が直したものとは違って、結構大きく、しかも手入れも
しっかりとされている。
手入れをしているのは村の職人たちで、当然俺よりも遥かに腕が
いい人たちだ。
俺が手を出す必要などあるわけがない。
﹁あんなの俺がどうにかできるはずがないだろ。俺が直した方は小
さかったからなんとかできそうだなって思っただけだ。それに、ま
ぁ、仮に失敗しても誰も怒らないだろうってのもあった﹂
正直、そっちの方が大きかったかもしれない。
もしかしたら呪われる可能性もないではなかったが、長い間ほっ
たらかしにされても村を呪わない存在が祀られているのだ。
1581
ならばいいだろう、という判断だった。
結果としてちゃんと直せて、しかも聖気までくれたのだから万々
歳である。
﹁あんたは⋮⋮小心者なのか大物なのかよくわからないね⋮⋮。ま、
事情は分かった。で、今もあそこに祠があるかだけど⋮⋮﹂
﹁ああ。どうなってる?﹂
壊されてないか、少しだけ不安だった。
別に村人に、ということではない。
祠のある場所が、森に飲み込まれかけている村の端にある廃屋の
裏なので、動物や魔物が手を出さないかと心配だったのだ。
そうなってたら、来たついでに、聖気をくれたお礼としてまた直
そうかな、とも思っていたからそれはそれでいいのだが、もちろん
壊れてない方が良いに決まっている。
俺の質問に、ガルブは答えた。
﹁あのあたりには誰も足を向けないからねぇ。正直分からないよ。
明日、明るい時にでも行ってみたらどうだい?﹂
と中身のない答えである。
てっきり状況を把握しているものだと思っていたからがっくりと
来た。
けれど、何にせよ自分の目で見に行くことは決まっているので、
別にいいと言えば別にいい。
俺は頷いて、
﹁わかった。そうするよ﹂
1582
と答える。
ガルブからは何か聞けるんじゃないかと思っていたが、この調子
だと期待外れだったかな⋮⋮。
そう思いかけたそのとき、
﹁ああ、明日、祠の様子を見に行ったあとでいいから、私の家に二
人で来るといい。何か話も出来るかもしれないからね﹂
そう言って、ガルブは今度こそ本当に背を向けて、その場を去っ
ていった。
残されたロレーヌと俺は、
﹁⋮⋮何か話してくれると言うことかな?﹂
﹁いやぁ、どうだろうな⋮⋮昔からつかみどころのない婆さんだっ
たから⋮⋮﹂
そんな話をしつつ、そう言えば呼ばれていたんだったと思い出し、
篝火のところまで向かうことにしたのだった。
1583
第235話 山奥の村ハトハラーとお掃除
それから宴は俺たちが戻ったあと、しばらくして終わった。
ロレーヌの幻影魔術と、それを見た村人たちによる俺に対する質
問攻めが凄かった。
マルトが人外魔境と認識された気がする。
⋮⋮今更か。
改めてもう一度見た、ロレーヌ作の俺対タラスクは力作であるの
は間違いなかったが、やっぱりここまでじゃないだろ⋮⋮と言いた
くなるような出来だったのは言うまでもない。
リリがあれくらい強くなれるように頑張る、とか言っていたが、
あれくらい強くなったらその時点で俺は越えられている。
やめてほしい、と心底思った。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮こっちはあまり人の手が入っていないのだな?﹂
宴の次の日、ロレーヌが村の西端を俺と一緒に歩きながら、そう
言った。
元
道である。
歩いているのは、道と言うか下草の生えまくった、まさに手入れ
のされていない
森に近く、危険であるため、こちらにある家々はかなり前にうち
捨てられてしまったために、こんな状態なのだ。
だから厳密にいうと、村というより村の少し外と言うことになる
だろうが、たまに子供が度胸試しに来たりすることもあるので、必
ずしもそうとも言えない微妙な位置関係にある。
まぁ、森に近いと言ってもそれなりに開けているので、雑草を処
1584
理すれば普通に住めるところなんだけどな。
﹁この辺りは俺が子供の頃からこんな感じだよ。昔、そこの森から
魔物が出てきて村人を何人か襲ったことがあったらしくてな。その
ときに廃棄されたって話だ﹂
俺が生まれるより、だいぶ前の話で、それこそガルブが若いころ
くらいだと聞いたことがある。
その時代を知っているのは、村のガルブを初めとする村の古老た
ちだけだ。
﹁少し中心から外れただけで魔物が、か。おっかない土地だな﹂
﹁田舎なんてどこもこんなものだ﹂
ロレーヌの台詞は、魔物なんてほぼ出ない都会の人間のものだ。
ハトハラーは流石に田舎過ぎるにしても、他の土地にある村も、
多かれ少なかれ、常に魔物の脅威にさらされている。
大きな外壁が町全体を包み、また門を衛兵や騎士団が守っている
ような都会とは環境が違うのだ。
それなら街に住めばいいだろう、と言いたくなるが、それは色々
な事情があって無理な相談なのだ。
まず、住居を構えなければならないが、そう言った街の住居と言
うのは家賃が相当に高い。
したがって、本気で住むことを考えると、そのために十分な収入
を得られる仕事が必要だが、村人の教育水準で雇い入れてくれる街
の職場なんてあまりないものだ。
村人が街に住もうとしたら、大体そこで詰む。
それでもどうしても、と考えると最終的に冒険者に辿り着いてし
まう訳だが、これが最も厳しい選択で、何かしらの戦闘能力がなけ
1585
ればすぐに死ぬ。
魔力や気なんて、そうそうみんな持っているというものでもない
し、そうなると村人には街に移り住む手段などほとんどなくなるわ
けだ。
それ以外にも、父祖の土地を離れたくないとか、材料などの関係
でそこでしか作れない品を作っているとか、近くにある労働場に通
っているからここでないとだめだとか、そういう諸々の理由があっ
て、村人は村に住んでいるわけだ。
こればっかりは、危険でもどうしようもないということだな。
﹁⋮⋮確か、この家の裏だ﹂
俺はそう言って、一軒の廃屋の前で立ち止まる。
ロレーヌはその廃屋を見上げ、
﹁⋮⋮何の変哲もない廃屋⋮⋮のようだな﹂
そう言った。
俺はそれに、
﹁そりゃそうだろ。何があると思ってたんだ?﹂
と尋ねる。
ロレーヌは、
﹁何かを祀った祠が裏にあるわけだから、そう言った特殊な役割を
背負った家なのかもしれない、と思っていた。ま、気のせいだった
ようだが﹂
﹁なるほど、言いたいことはわかるけど⋮⋮そうだったら流石に俺
1586
も気づいてる。おっと、こっちだな⋮⋮﹂
以前、俺がしばらくの間通っていたとはいえ、それから何年も経
っている。
帰省した時もあまり見に来ることは無かった。
したがって通り道なんてものはなく、下草をかき分けて進む。
そして、
﹁あったあった。意外と綺麗だな﹂
俺がそれを発見して言うと、ロレーヌは、
﹁⋮⋮これを綺麗と言い切るとは、レント、お前の頭はいったいど
うなっているのか⋮⋮﹂
と疑わしそうな目で俺を見る。
確かにそう言いたくなる気持ちは分かる。
俺たちの目の前にある祠、それは、形こそ保っているものの、鬱
蒼と生い茂る蔦に巻き付かれ、また雨風に浸食されており、さらに
鳥などの糞などによって汚れていた。
お世辞にも綺麗とは言えないだろう。
しかしだ。
﹁⋮⋮俺が昔、見つけたときよりはずっと綺麗だぞ。形を保ってい
るだけな﹂
﹁そんなにひどかったのか?﹂
﹁ああ。屋根部分は完全に腐食してたし、本体部分だってこう、支
えになるところも腐食して糸一本分くらいの太さで繋がっているよ
1587
うな有様だったからな。ちょっと触ってバランスを崩したらそのま
ま倒壊しかねない状態だった﹂
﹁お前はそれを直したわけだ﹂
よくもまぁ、そんな面倒くさいことをやったものだ、という表情
のロレーヌである。
今にして思えば、俺もよくやったものだな、と思う。
﹁とりあえず、直すにしても原型がわからないとどうしようもない
から、丁寧に分解することから始めたよ。で、そこからはダメそう
な部分は取り替えて⋮⋮っても、ほとんどダメだったから新しく建
てたに近いけどな。それでも、まだしっかり使える部分もないでは
なかったし、柱の部分も少しは生き残ってたからな。なんとかって
感じだったよ﹂
﹁それでも十年手入れをしなければ、こうなるか⋮⋮。ま、十年放
置でこれくらいなら、確かに綺麗な方かもしれないな﹂
と、最後にはロレーヌも納得する。
﹁そういうことだ。よし、それじゃあ、ロレーヌ。掃除するぞ﹂
﹁⋮⋮む?﹂
俺の発言に首を傾げたロレーヌに、魔法の袋に入れておいた掃除
用具を取り出して渡す。
﹁ロレーヌは水を魔術でこんなかに溜めてくれ。俺は蔦を切ってお
くからさ。夕方までに終わればいいな﹂
1588
かなり強引だが、ロレーヌも祠の様子をもう一度見て、理解した
らしい。
﹁⋮⋮まぁ、お前が生き残るのにかなりの貢献をしている力を与え
てくれた存在だ。とりあえずは、感謝の気持ちを示すところから、
というところか⋮⋮﹂
そう言って、ため息を吐きながらもロレーヌは掃除用具を手に取
ったのだった。
1589
第236話 山奥の村ハトハラーと声
﹁⋮⋮かなり綺麗になったな﹂
ロレーヌが、掃除の終わった祠を見て満足そうにそう言った。
顔は煤けて汚れていて中々の様子であったが、その表情は夕日に
照らされて明るい。
その気持ちは分かる。
かなり時間はかかったが、これだけ綺麗に出来たなら頑張って働
いた甲斐があったというものだ。
俺の方も似たようなありさまだが、仮面やらローブやらが汚れを
防いでくれたので思いのほか汚れていない。
あの迷宮でもらった謎ローブは性能が良すぎて炎や毒のみならず
埃や汚れまで防いでくれるようだった⋮⋮スケールダウンしてるか。
それからロレーヌは魔術でもって、自分の身を洗浄する。
直後、そこにはいつも通りのロレーヌが立っていた。
それを見ながら俺は、
﹁⋮⋮洗浄の魔術を使えれば楽だったのにな﹂
と身も蓋もないことを尋ねるが、ロレーヌは、
﹁それは仕方ないだろう。お前はこの祠に感謝を示すために掃除し
たのだから。そういうときはどんな宗派でも己の手で磨くものだ。
それに、洗浄の魔術はかなり大雑把な術式だからな。こびりついた
汚れをとるのにはあまり向いていない﹂
1590
そう返してくる。
ためしにその辺に転がっている木切れに洗浄の魔術をかけると、
黒ずんだ部分はそのままで、ただ水で洗ったような程度のものだっ
た。
生き物にかけると表層についた汚れは埃や血、インクなどを取り
払ってくれるが、シミなんかは消えないのと似たようなものだろう
か。
かさぶたなんかもとれないな⋮⋮。
インクも完全に乾ききる前はとれるが、ある程度乾いてしまうと
とれなくなる。
魔術の世界は便利なようで不便だ。
ま、それでも表層の汚れはとれるのだから使ってもよかったが、
使わなかった一番の理由はロレーヌの言う通り、感謝の意を示すた
めには自分の手を使って掃除するべきだと思ったからだ。
東天教でも季節の終わりに祭壇を信者たちの手で掃除したりして
いるからな。
魔術師が信者に一人もいないというわけでもあるまいし、洗浄の
魔術は俺でも使える生活魔術だ。
効率を考えるなら魔術を使った方が楽だし早い。
それをやらないのは、やはり感謝を捧げるためには楽をして魔術、
ではなく苦労して自らの手で、というのが基本的な考え方だからだ。
﹁それにしても苦労した甲斐があったな。見違えたぞ﹂
と、俺は祠を見ながら言う。
こびりついていた汚れはすべて綺麗になったし、巻き付いていた
蔦や蔓の類もすべて切り払った。
今後、また来れない間に同じようになっていたらせっかく修理し、
掃除したのに残念なため、周りに生えている雑草の類は抜いておく。
1591
ただ、小さな苗木なんかもそれなりに生えていたが、それらにつ
いては放っておくことにした。
なんだか祠を避けるように生えているように見えたからだ。
どんなものが祀られているのかはよくわからないが、植物系の神
霊であることは、俺がもつ聖気の性質から間違いなく、だとすれば
あまり植物を刈り取るのもよろしくないように思えた。
とはいっても、流石に祠それ自体を覆い隠してしまうようなもの
なんかは、申し訳ないが人間の便宜のために除去させてもらったわ
けだが。
﹁こうしてみると、いい仕事をしているな。レント、お前は本当に
器用だ﹂
祠の全体像が明らかになって、改めてロレーヌはそう言った。
確かに、と言ってしまうと自惚れているようであれだが、その辺
のおっさんがやる趣味の大工仕事よりは明らかに優れていると言え
るだろう。
⋮⋮当たり前か。一応俺は本職のもとで修行してるからな。それ
で負けてたらやばいだろう。
﹁村で色々学んだお陰だ⋮⋮さて、祈るか﹂
色々とやったが、本来ここに来た目的はまず、それである。
今まで俺に加護を与え続けてくれ、俺の命をつないでくれた力の
根源に、感謝を捧げること。
何が祀られているかは、あとで村の古老たちにいろいろ聞いたり、
何か書物が残っていないか探したりすれば少しは分かるかもしれな
い、というくらいだ。
俺が祠の前に跪き、手を組むと、ロレーヌも同じようにする。
1592
彼女がそんなことをする必要はないのだが、場の空気と言うこと
だろうか。
一緒に掃除をしたのだから、彼女もまたこの祠に祀られた存在の
信徒ということになるかもしれないが。
信徒二人の神霊か⋮⋮。
どうなんだろうな。
そんなことを考えていると、
︱︱失礼なー。
とどこかから声が聞こえてきた気がした。
﹁⋮⋮? ロレーヌ。何か言ったか?﹂
不思議に思ってロレーヌにそう尋ねると、ロレーヌは顔を上げて
首を傾げ、
﹁⋮⋮いや、特に何も言っていないが⋮⋮﹂
と返ってくる。
気のせいかな?
そう思って、改めて俺は祈りを捧げる。
今まで、力を与え続けてくれて本当にありがとうございます。
信仰心はほとんどないですが、なぜかあなたは見捨てないでくれ
ました。
この力がなければ、今、俺はここにはいません。
叶うことなら、これから先も、加護をいただけますよう⋮⋮。
1593
そんな感じだ。
ついでに心の片隅で思ったのは、出来ればどんな神霊をこの祠に
祀っているのか知りたいなぁ、どうすればわかるのかなぁ、だった
が、神霊に対してその要求は不敬かと思いすぐに引っ込めることに
した。
百歩譲って頼むとしても、村でしっかり調べてからだろう。
まぁ、神霊と言うのは大体が気まぐれだ。
頼んだからって教えてくれるというものでもないだろう。
そもそも俺に加護をくれたこと自体、気まぐれの最たるものだし
な⋮⋮。
︱︱気まぐれ⋮⋮祠を修理してくれた者に加護を与えるのは、神
霊らしい行為だと思うんだけどなぁ⋮⋮。
呆れたような声が耳に響いた。
⋮⋮おい、今のは絶対に気のせいじゃないぞ。
が、周囲を見渡してもここにいるのは俺とロレーヌだけである。
一体⋮⋮。
﹁⋮⋮レント。今のは私にも聞こえたぞ。この辺りには誰かいるの
か?﹂
ロレーヌがそう尋ねてきたので、俺は首を振る。
﹁周りには廃屋しかないのはロレーヌも見ただろ。たまに子供が探
検に入るくらいだって。もう少しマルト寄りの村なら、盗賊とかが
隠れ家に使ってる、なんてのも考えられるが、ハトハラーでそんな
ことする奴は流石にいないだろう﹂
1594
田舎過ぎるからな。
それに、ハトハラーの人々は気配に鋭い。
そんな奴がいたらすぐに見つかる。
﹁では一体誰が⋮⋮﹂
とロレーヌが言ったところで、俺はロレーヌの腹部を見て驚く。
俺はロレーヌに言う。
﹁⋮⋮おい、ロレーヌ﹂
﹁なんだ?﹂
﹁⋮⋮その腹でもぞもぞ動いているのは、一体なんだ⋮⋮﹂
1595
第237話 山奥の村ハトハラーと光
﹁⋮⋮腹だと? む⋮⋮﹂
俺に言われて初めて気づいたのか、改めて自分のおなか部分を見
たロレーヌである。
そこで初めてロレーヌは自分の腹部で何かが蠢いているのを察し
たらしい。
﹁⋮⋮なんだ、これは⋮⋮﹂
と困惑の表情だが、俺は尋ねる。
﹁何かの実験で腹でおかしな生き物を飼ってるとかいうわけじゃな
いよな?﹂
そんな俺の質問にロレーヌは少し黙って考えてから、
﹁⋮⋮今は別にそんなものは何も飼ってないな﹂
と答えた。
今はってなんだ今はって。
たまにあるのか?
そう突っ込みたいところだったが、それこそ今大事なのはそこで
はない。
﹁とりあえず、それ、取り出さないのか?﹂
1596
﹁⋮⋮あぁ、そうだな。どれ﹂
そう言って、服の隙間から手を突っ込むと、何かを掴んだらしく、
﹁む、これか。よし⋮⋮﹂
と言って引き抜いた。
すると彼女の手にあったのは⋮⋮。
﹁⋮⋮ん? それってもしかして、以前俺から没収したあれか﹂
﹁⋮⋮の、ようだな。なんだこれは。動いているぞ﹂
シュラブス・エント
そう言ったロレーヌが手に持っているもの。
それは、俺が以前、灌木霊の木材から作り出したロレーヌを象っ
た人形である。
それが、ぎぎぎ、と、俺もロレーヌも特に手を加えていないのに
自ら動いている。
正直言って怖い。
﹁⋮⋮呪われたのか?﹂
俺が尋ねると、
﹁いや、そういう訳ではないと思うが⋮⋮呪物にありがちな闇の気
配が感じられないからな。ま、それを言ったらお前の仮面もそうだ
が⋮⋮﹂
ロレーヌがそう言っている最中も人形はうねうね動いている。
動き方が⋮⋮なんかもっとないのかな。
1597
せっかく手足付いてるんだからさ⋮⋮とか思わないでもない。
まぁ、しかし、それでもとりあえずすることは⋮⋮。
﹁⋮⋮さっき話していたのは、君か?﹂
俺は人形に向かってそう尋ねる。
普通に見れば、かなり危険な光景だ。
未知の存在に無防備に接触を試みているから、というわけではな
く、人形に真面目な顔して話しかけている、という意味で。
まぁ、世の中には自律行動する人形というのもあるし、そういっ
た人形を使って劇をしたり、また冒険者として働いたりする人形師
という職業もあるのでよく考えるとそこまでおかしくはないのだが、
世間が彼らに向ける目はあまり優しくない。
人形師って変な人が多いんだよね⋮⋮という感じである。そして
それは事実だ。
極めて高度な魔導技術に対する理解と、並々ならぬ人形に対する
情熱が必要になってくるため、人格がちょっとずれている人物が多
いのである。
俺もそんな世界に片足を踏み入れようとして⋮⋮ないけど、そこ
そこ勇気のいる行動なのであった。
俺の言葉に、その人形は、ぎぎぎ、と顔をこちらに向けて、
﹁そうだよ、そうだよ。こんにちは﹂
と言った。
口の動きと声とが合っていない。
何か不安になる会話だった。
が、会話の内容それ自体は別におかしくはない。 1598
とりあえず、ロレーヌと目を見合わせ、会話を続けることにする。
﹁⋮⋮それで⋮⋮君は、一体何なんだ? 俺が思うに、ここで現れ
たからには、この祠に祀られていた何か、なんじゃないかなと思っ
ているんだが⋮⋮どうだ﹂
すると人形は、物凄い動作をして起き上がり、そして俺に言う。
﹁大体そんな感じで合ってるよ。と言っても、私は分霊だけど。本
殿は別にあるし、本体もそっちにある。だから大した力もなくて⋮
⋮レントには加護もあげたけど、ごめんね、しょぼい加護で。だっ
て信徒二人しかいないんだから、仕方ないよね﹂
それは、間違いないく色々とツッコミどころのある発言であった。
とりあえずどこから聞けばいいのか⋮⋮。
悩んでいると、ロレーヌが口を開く。
﹁⋮⋮まずは、君⋮⋮いや、貴方は神霊、ということでいいのかな
?﹂
あぁ、確かにそこからだな。
俺も納得する質問である。
人形は言う。
﹁一応、そうなるかな。でもさっき言った通り、分霊だから⋮⋮ほ
とんど精霊だね。本体から離れて長いし、もう独立しちゃってるし﹂
﹁⋮⋮本体とは?﹂
﹁植物の神ヴィロゲト様だよ﹂
1599
植物神ヴィロゲトは、植物や肥沃を司る神であり、そして同時に
戦争と収穫をも司ると言われる存在である。
わりと物騒な神で、豊かさのためには戦争もやむなし、という苛
烈な性格をしているとも言われる。
そんなものから分かたれた存在にしては、随分とこの人形を依代
にしている存在は穏やかそうだが⋮⋮。
﹁なぜ、この人形に宿った?﹂
ロレーヌが質問を続ける。
﹁そりゃあ、私たちは依代がないと普通の人の目に見えるように現
界するのが難しいからね。神殿なんかだと違うんだけど、これくら
いの祠とか、山の中とかじゃ流石に⋮⋮。今回は二人と話したいと
思って、どうしようかなって思ってたら、ロレーヌのおなかにこれ
があったからちょうどいいなって﹂
﹁ちょうどいいとは?﹂
﹁これ、魔力の宿った素材から作られているでしょう? 私たち、
普通の素材から作られたものじゃ宿れないんだ。だから今回は運が
良かったよ﹂
ロレーヌがたまたまこの人形を持ち歩いていたから、この神霊だ
か精霊に会えたと言うことか。
確かに運がよかった⋮⋮けど、ロレーヌはまたなんでこんなもの
持ち歩いていたんだろうか。
あとで聞いてみよう。
1600
﹁そういえば、信徒二人って言ってたが﹂
俺がふと思い出して尋ねると、人形は俺とロレーヌをぎぎぎ、と
指さして、
﹁し・ん・と﹂
と言った。
⋮⋮いやいや。
一体いつ信仰したっていうんだ。
確かに祈ったけど、この十年でも祈ったのは数えるほどだぞ。
それでいいのか、と思わないでもない。
そんなことを俺が思っていることを察したのか、人形は、
﹁⋮⋮他にこの祠に来る人なんていなかったから仕方がないじゃな
い。打ち捨てられたのも分かるしね。おっと、それより、新たな信
徒にも加護を授けなきゃ!﹂
ぶつぶつとそんなことを言ってから、唐突にテンションを上げて
空中に浮いた。
それから、きらきらとした光を出しながら、ロレーヌに周りを飛
び回り、聞き取れない言葉で何かを唱えた。
すると、ロレーヌの体からじんわりとした光が噴き出してきた。
それは、俺にとって見慣れた光だ。
つまりは、
﹁⋮⋮聖気﹂
1601
第238話 山奥の村ハトハラーと聖気の由来
﹁聖気? これが⋮⋮﹂
ロレーヌは自らの体から噴き出る光に驚きつつもまじまじと見つ
める。
ただ、その表情は神霊から加護を与えられて感動に打ち震える信
徒、というよりかは、新たな観察対象を見つけて喜んでいるマッド
サイエンティストのそれに他ならない。
信仰心など欠片も見られない光景に、やはりこれでいいのだろう
かと思わずにはいられない。
ただ、当の本人⋮⋮本霊?は満足そうで、
﹁いやぁ、信徒が増えた増えた。今日はめでたいね。お神酒持って
きて、お神酒!﹂
と、お前、祠を居酒屋か何かと勘違いしてるんじゃないのかと言
いたくなるようなことを言っている。
﹁⋮⋮ほら﹂
とは言え、酒ならある。
ロレーヌがハトハラーの火酒を自宅用に確保しておきたいと言う
から昨日余った分をもらっておいたのだ。
大瓶にして二十本近くくれたので一本くらい供物として捧げても
許されるだろう。
それだけ沢山くれたのは、ロレーヌが幻影魔術を見せて、宴の席
を大いに湧かせたからで、酒の所有権の大半はロレーヌにあるだろ
1602
うが、モデルは俺だ。
かいた恥じの分、取り分は一本くらいあっても許されるだろう。
取り出した火酒に、ロレーヌは若干、物欲しげな顔をしていたが、
特に文句は言わないので惜しいが仕方がないということだと理解し、
差し出す。
﹁⋮⋮おっ、冗談だったのに、本当に持ってるなんて! 君って信
徒の鑑だね﹂
と、木製の体をこちらに向ける。
こんな人形の体で一体どうやって飲むのか⋮⋮。
と思っていると、俺の手にあった火酒の瓶がふわりと浮き、人形
の方に引き寄せられた。
そして、蓋も開いていないのに、中身が見る見るうちに減ってい
く。
﹁ふぅ。呑んだ呑んだ。満足したよ!﹂
すべて飲み切って、先ほどと変わらぬ様子で人形はそう言った。
神霊と言うのは酒に酔わないのだろうか?
だとすれば飲んでもそんなに楽しくないような⋮⋮。
それとも人には分からない楽しみ方があるのかな。
よくわからないが⋮⋮まぁ、満足しているならそれでいいか、と
思う。
そんなことをしている間、ロレーヌは自分に宿った聖気を少し使
ってみたようで、
﹁⋮⋮これはまた、魔術とは随分感覚が違うな。レント、お前はよ
くあれほど節操なく切り替えて使えていたものだ﹂
1603
と言った。
確かに、魔力と聖気では感覚が結構違う。
気の力もしかりだ。
したがって、魔力を使ってから、即座に聖気の運用をして、さら
に気のそれに移る、というのはやってみると意外と難しかったりす
る。
とは言え、なれれば出来るのだが。
俺の場合、かなり弱い力とは言え、十年それをやってきた。
しかも、そういう使い分けをしなければ生き残れないレベルだっ
たわけだから、それはもう必死だったわけである。
その辺の制御に関しては、申し訳ないがロレーヌにそうそう簡単
に負けはしないだろう。
⋮⋮魔術の出力はどう逆立ちしたって勝てないけどな。
聖気の方はどうだろう。
﹁俺の場合は死ぬほど使って来たからな。慣れだ。⋮⋮それで、聖
気の量はどのくらいだ? 俺より多かったら泣くぞ﹂
そう尋ねると、ロレーヌは、
﹁⋮⋮たった今手にした力だから、まだあまり把握できてはいない
が⋮⋮かなり小さい、と思う。今ちょろっと使っただけでもう枯渇
しかけている気がするぞ﹂
そう答えた。
実際、ロレーヌを見てみると、彼女の中にある聖気はもう、ほと
んどなくなっている。
もう使ってしまったからだろう。
少し放出したくらいでなくなってしまう量というのは、俺がかつ
1604
て持っていた量と似たようなものだ。
﹁だからしょぼい加護って言ったでしょ? 私程度じゃこんなもの
が限界だよ。レントも⋮⋮あれ、今気づいたけど、レントすごくな
い? なんでそんなにたくさん聖気持ってるの? 与えたときの百
倍くらいあるんだけど﹂
人形がロレーヌを見、それから俺に視線を向けてから驚いたよう
にそう言った。
確かに、俺の聖気の量は、昔と比べて格段に増えている。
増えているが、それは、この神霊が何かしてくれたおかげではな
いか、と思っていた。
けれど必ずしもそうではないらしい。
じゃあどういうことか、と気になって俺は尋ねる。
﹁⋮⋮貴方が増やしてくれたわけではないのか? 聖気の量や強さ
は加護の強さに由来するものだと思ってたんだが。最近いろいろと
大変な俺をおもんばかって、こう、加護を強くしてくれたんじゃな
いかと⋮⋮﹂
神様らしく。
信徒の生活なりなんなりを守ろうとしてくれたんじゃないかなと。
そう思っていたのだが⋮⋮。
しかし、人形は首をぎぎぎ、と振り、
﹁そんなに親切じゃないよ、私は⋮⋮と言いたいところだけど、二
人しかいない信徒の危機には力を貸したいところだね。ただ、私、
すごく力が弱いから⋮⋮頻繁にレントの様子なんて見れないよ? 今だって結構頑張ってここにいるんだからね﹂
1605
と言う。
﹁じゃあ、なんで俺の聖気は増えたんだ?﹂
そう尋ねると、人形は首を傾げ、それから俺をまじまじと見つめ
てから、
﹁まぁ、頑張れば少しずつは増えていくものだけど⋮⋮流石にレン
トのそれは普通じゃないからね。たぶん、それじゃない? そのよ
くわからない仮面。なんかこう、神様の気配を感じるよ﹂
と言った。
﹁⋮⋮これか⋮⋮﹂
リナが露店で購入してきた呪いの仮面。
全く外れないこれが、まさかそんな効果を生み出しているとは思
わなかった。
そもそも、呪いの仮面ではなかったのか。
神の気配と言うが、俺には全く感じられない。
当然、ロレーヌにも。
﹁うーん、神具なんじゃないかな⋮⋮だから、私の与えた加護を増
幅してくれてるんだと思う。もしかしたら、それを作った神様の加
護もちょっとはついてるかも?﹂
人形はそんな話をした。
自分にどんな神からどんな加護がついているのかは、人間には通
常、把握できない。
この祠を直した後についた、とかそういう因果関係から類推する
1606
以外にないのだ。
つまり、聖気が増えていたのは、俺も気づかない内に、何か他の
存在からの加護も得ていた、ということか。
この仮面由来の。
﹁⋮⋮一体何の神様の加護なんだ?﹂
﹁さぁ? 分からないなぁ。どうしても調べたいなら、鑑定神様の
本神殿にでも行けば? 普通の品ならともかく、神具だったら本神
が見てくれるんじゃないかな﹂
人形はそう言った。
1607
第239話 山奥の村ハトハラーと鑑定神
﹁⋮⋮あ、やばっ﹂
人形が唐突にそんなことを言い出したので、何があったのかと俺
とロレーヌは首を傾げる。
すると、人形は、
﹁そろそろ時間切れみたい。今度はもっといい素材で依代作ってね。
人型をしてると降りやすいよ。場所はどこでもいいから呼んでくれ
れば降りるよ﹂
﹁ちょっと待て! せめて名前くらい⋮⋮﹂
そう叫んだが、
﹁名前? 誰もつけてくれなかったからないなぁ。ヴィロでもゲト
でも適当に呼んでよ。そいじゃあね∼﹂
と軽く言い、直後、人形から蒸気のようなものが上がり、そして
一瞬ふっと空中に何者かの姿が浮かび、空気に溶けるように消えて
いった。
さらに人形の方は、数秒で黒ずみ、さらにはぼろぼろと砂になっ
て崩れていく。
﹁⋮⋮こ、これは⋮⋮どうにかならないのか、レント!﹂
ロレーヌがなぜか慌てたようにそんなことを言うが、俺にどうに
1608
かできるはずもない。
﹁⋮⋮別にただの人形なんだし、いいんじゃないか?﹂
そう言うと、ロレーヌは、
﹁いいわけないだろう! あぁっ⋮⋮だめだ。もう完全に崩れた⋮
⋮﹂
さらさらとした砂が地面に落ちた時点で諦めたらしく、がっくり
と崩れ落ちた。
俺はロレーヌに言う。
﹁⋮⋮気に入ってたのか? 別にあれくらい、いくらでも作ってや
るぞ。それに、さっきの神霊はまた依代を作れとかなんとか言って
たし﹂
それを聞いてロレーヌの表情は少し明るくなり、
﹁⋮⋮そうか。それなら、いいか⋮⋮しかし依代というが、人形が
そうだということかな?﹂
真面目にそう訪ねてきた。
俺は少し考えてから言う。
﹁あの感じだとそう言うことだろう。ただ、魔力があるものじゃな
いと降りられない、という話もしてたから、素材から考えて作らな
いといけなそうだが⋮⋮それで、作ったら適当に呼べば降りるって
話だったな﹂
1609
本当に降りてくるのかどうかは分からないが、やってみるしかな
いだろう。
まだ聞き足りないことが色々あるのだ。
場所はどこでもいい、という話だったから、このハトハラーでな
くてもいいということだろう。
神々は本来どこにでもいて、どこにでもいないものだと言われて
いる。
つまり場所は本当は関係ない。
ただ、祠や神殿というのは、彼らが住むところと俺たちが住むと
ころをつなぐ扉のようなもので、神々が降りやすい、とは聞いたこ
とがある。
その辺りの話は俺よりも宗教団体に所属する皆様の領分だろうが。
誰かに聞けば詳しいことも分かるだろう。
幸運なのか、それとも不運なのか、宗教団体の聖職者たちには妙
に知り合いが何人かいる。
リリアンとかミュリアスとか⋮⋮ニヴもいれていいのかな。いや、
あいつは所属しているわけじゃなくて、むしろ利用している感じだ
ったから違うか⋮⋮でも神とか霊とかに詳しそうという意味では同
じかも知れない。
あんまり頼りたくないけど。
ロレーヌは続ける。
﹁しかし、ヴィロとかゲトとかは⋮⋮あれか、ヴィロゲトの分霊だ
ったから、ということか。いい加減すぎないか?﹂
名前がないからそんな風にでもなんでも呼べばいい、とあの精霊
は言っていた。
ヴィロゲトは植物の神だが、その分霊だから名前も分けてもらえ
ばいい、というのは確かに安直に過ぎる。
1610
神々と言うのはみんな、ああいうものなのだろうか?
俺は初めてそんな存在と接触したから今一感覚がつかめないが⋮
⋮恐ろしいほどに神々しさを感じない。
神より精霊だ、と言っていたから、そこまで高位の存在ではない
ためにそう思ってしまうだけだろうか。
それともすべての神はああいう軽い性格なのだろうか⋮⋮それは
やだなぁ、と思わないでもない。
そう思った俺は、ストレートにロレーヌに疑問をぶつける。
﹁かなりいい加減だと思うが⋮⋮神々っていうのはみんなああいう
ものなのかな?﹂
これにロレーヌは少し悩み、
﹁書物や言い伝えでは、神々は威厳があり、神々しく重厚な存在感
を持った、遥か高いところにおわす不可侵の存在、という感じだっ
たが⋮⋮流石にさっきの方にはそういったものは失礼ながら感じな
いな﹂
別に特定の信仰を持ってはいないとはいえ、神に対する多少の畏
敬はあるらしい。
言葉を選びながらも、全然神々しくなかった、と意訳で言ったロ
レーヌであった。
そして俺もそれは同感である。
﹁本人⋮⋮本神?に言っても、たしかにね、とか言いそうだ⋮⋮。
ともかく、今度、人形を作ろう。もっと高い魔力を含んだ素材から
作った方がいいだろうな。依代に降りるのも、なんだか努力してと
どまっているような口調だったし﹂
1611
シュラブス・エント
また同じくらいの素材で作って、ほんの数分でどこかに行かれて
はたまったものではない。
迷宮で手に入れるなり、どこかで買うなりして灌木霊の素材より
質の高い素材を手に入れる必要があるだろう。
﹁そうだな⋮⋮そうなると、マルトに戻ってから、ということにな
るか。ただ、無駄足ではなかったな。お前の仮面のことも聞けたし、
鑑定神のところに行けば神自ら見てくれる可能性もあるということ
だった﹂
﹁本当なのか、という気がするけどな。神殿にいる鑑定士たちに見
られて終わりじゃ、困る﹂
鑑定神は、ものの価値や評価などを司る神だと言われており、商
人や貴族が主に信仰している。
鑑定神を信仰する神官たちは、皆、目利きの出来る鑑定士たちで
あり、日々、自分の持つものの価値を判定してもらおうとする者た
ちで混んでいるらしい。
行ったことは無いが、俺のつけている仮面がどういうものか判定
してもらうにはうってつけの場所に思える。
ただ、問題がある。
それは、鑑定神を信仰する神官たちは、呪物についてはかなり厳
しい態度をとっている、ということだ。
鑑定に持ち込むことは出来るが、それが呪物だと明らかになった
場合には、何が何でも浄化したがる人々で⋮⋮。
それがため、呪物をただ所有していたい、という難儀な好みを持
つ人々は絶対にもっていかないと言われる。
俺もだから無理だと思っていた。
が、さっきの話を聞く限り、俺の仮面は呪物と言うわけではなく、
むしろ神具だという。
1612
それならば別に鑑定してもらいに行っても、問題ないのではない
だろうか。
一つ問題があるとすれば、俺の正体がばれないかだが、鑑定神の
神殿の鑑定士たちは、膨大な知識と経験に基づく純粋な目利きでも
って鑑定をするのであって、何かしら一目でものを見て何か判別す
ヴァンパイア
ることが出来る特殊能力を持っているわけではない。
したがって、俺を見ただけで、吸血鬼か人かを区別できるわけで
もなく、そうである以上は基本的に街中にいるのと一緒で、問題な
いだろう。
1613
第239話 山奥の村ハトハラーと鑑定神︵後書き︶
一回間違ってこの話を全部削除してしまって顔が青くなりました。
ノートの履歴を見たら残っていて、なんとか助かった⋮⋮。
これからは気を付けたいです。
1614
第240話 山奥の村ハトハラーと師匠たち
一応、村を出てマルトに戻ってから何をするのかは決まった。
とりあえず鑑定神の神殿に向かう、というのを目標に動くことに
する。
問題は本神殿に行け、と言われたことだろうか。
分神殿ならヤーラン王国にも一応あるが、それだとダメらしい。
その理由はなんとなく予想はつく。
神殿や祠というのは神々や精霊の世界と近く、降りやすいからだ。
といっても、歴史的に見て、彼らが降臨した、なんていう話は滅
多にないのだが、さっきの神霊⋮⋮一応、ヴィロということにして
おこう。
ヴィロが気軽に降りてきたあたり、その辺の決まりは意外と緩い
のかもしれない。
まぁ、頑張って降りてきている、ということも言っていたから、
ただ口調が軽かっただけで本当はかなり厳しい規則に基づいて降り
てきているのかもしれないが⋮⋮。
その辺りの問題で、鑑定神は本神殿にでしか降臨できない、とい
うことではないかと想像がつく。
ヴィロは精霊に近い、いわば小さな神様のようなものだが、鑑定
神は昔から信仰されている大物の神だ。
人間でもそうだが、身分が高くなるにつれて、会うためには色々
な障壁が増えていくものだ。
会う時間、人数、そして場所など⋮⋮。
神様も似たようなものだと思えば、本神殿に行かないとならない
と言うのは理解できる。
とは言え、鑑定神の本神殿は他国だ。
1615
必然、旅をする必要が出てくる。
ラウラの︽竜血花︾採取や、アリゼの教育など色々とやらなけれ
ばならないことがある以上、その辺りのすり合わせは問題になって
くる。
帰ったら相談かな⋮⋮。
そう思っているとロレーヌが、ふと言った。
﹁ま、とりあえずここですることは終わったか。あとは⋮⋮お前の
師匠殿のところに行く予定だったな。日も暮れてしまったが⋮⋮大
丈夫か?﹂
ガルブの婆さんか。
そういえば確かに呼ばれていたな。
祠を見たら家に来いと言う話だった。
何かを話してくれるつもりなのか、それとも単純に久しぶりに帰
ってきたのだから積もる話でもしようくらいの話なのか。
あの師匠はこの村において、最も心の内が読めない人だから、一
体何を思ってそんなことを言ったのか推測が出来ない。
もしかしたら全然違う理由かもしれないと考えると若干怖いが⋮
⋮それでもいかないという選択肢はない。
なにせ、俺が冒険者として生きていく基礎を作ってくれた人間の
うちの一人なのだから。
弟子は師匠の言葉には服従なのである。
ただ、確かに時間帯の問題があるな⋮⋮。
ライト
本来、ちょろっと見てきて昼過ぎくらいにやってくるだろう、と
師匠の方は考えていたかもしれないから。
日が暮れたあとというのは、マルトのような魔力灯がそこら辺に
あるわけでもないハトハラーにおいては、夜に他ならない時間帯だ。
1616
皆、家に戻って食卓を囲み、すぐに寝て、次の日の朝、日が昇る
と同時に起きる。
そう言う生活をしている。
都会とは生活様式がまるで違う、というわけだ。
つまりは、今から人の家を訪ねると言うのは、マルトで考えると、
もう寝そうな時間帯に訪ねるようなもので、ちょっと非常識だなと
思ってしまうような行為ということになる。
だからちょっと躊躇するのだ。
とは言え⋮⋮。
﹁行くだけ行ってみることにしよう。明日にしろと言われたらそう
すればいいさ﹂
俺はロレーヌにそう答え、それから二人でガルブのところへと向
かうことにしたのだった。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮おや、やっと来たね。待ちくたびれたよ﹂
ガルブの家に辿り着き、その扉を叩くと、すぐにその扉が開かれ
て、意地悪ばあさん然とした表情をした老婆が顔を出す。
何度見ても怖いと言うか、慣れないと言うか⋮⋮本能的に怖いな、
と思ってしまう顔であった。
グール
別に顔の作りそれ自体が化け物じみている、ということではない
のだけどな。
それで怖がるくらいなら、俺が屍食鬼だったときの方がよっぽど
怖かったくらいだ。
1617
﹁ほれ、そんなところで突っ立ってないで中にお入り。他に客もい
るんだ﹂
ガルブがそう続けたので、俺たちは急いでガルブの家の中に入っ
た。
しかし、他に客?
一体誰だ⋮⋮。
ハトハラーの村は小規模な村落であるから、村人全員がほぼ親戚
のような付き合いをしていると言っても過言ではなく、他人の家で
食事をとることは頻繁にある。
だから別におかしくはないのだが⋮⋮ガルブの場合はな。
それほど多いことではないから、何かあるのだろうかと思ってし
まう。
中に入ってしばらく進み、食卓のある部屋へとたどり着くと、
﹁おう、レント。来たか。それに⋮⋮幻影魔術の姉ちゃんだな﹂
一人の男が食卓にかけたまま、手を上げてそう言った。
その男の顔にはもちろん見覚えがある。
宴にもしっかり出ていたしな。
この村の狩人頭を務める男、カピタンだ。
サバイバル
そして、俺のもう一人の師匠でもある。
剣鉈や弓の扱い、森での歩き方や生存術などを教えてくれた男だ。
十代半ばの子供が二人いる、いい年の男であるが、未だその技量
は衰えていないようで、体に纏った鎧のような筋肉はマルトの剣士
たちと十分に渡り合えそうなレベルだ。
実際、本当に渡り合えるだろう。
この男は︽気︾の扱いに長けている。
冒険者だからと言って必ずしも身に付けているわけではないその
1618
技術。
それを高度なレベルで。
彼が率いる狩人たちも、皆、︽気︾を身に着けていて、彼ほどで
はないが中々の技量なのだ。
今の俺なら、彼の率いる狩人たちなら勝てるだろうが、彼自身に
勝てるかと言われると⋮⋮正直分からない。
カピタンが本気で戦っているところを、俺は見たことがないから
だ。
こんな山奥の村なんかでくすぶっていていいような男ではないは
ずなのだが、彼はそれで満足している。
欲がないと言うか、飄々としてつかみどころがないというか。
とにかく、変わった男、と言える人だ。
ちなみに、ロレーヌとはすでに昨夜の宴の中で顔を合わせ、自己
紹介も済ませているらしい。
聞けば、幻影魔術の中の俺の戦いについて、色々と根掘り葉掘り
聞いてきたようだ。
⋮⋮聞いてるだけでなんだか居心地が悪くなってくる。
というか、この場の居心地の悪さよ。
俺の師匠が二人、いや、ロレーヌも魔術の師匠なのだから三人と
も俺からすると師匠だ。
肩身が狭い⋮⋮。
1619
第241話 山奥の村ハトハラーとその秘密
﹁どうしてカピタンがここに⋮⋮?﹂
俺は首を傾げてとりあえずそう尋ねる。
ちなみに、ガルブの婆さんのことを、俺は︽師匠︾と呼ぶが、同
じ立場にあるカピタンの方は単純に名前を呼び捨てだ。
その理由は、昔、色々な技術を教わっているときに︽師匠︾と呼
んだら、柄じゃないと言われて断られたからだ。
普通に名前で呼べ、ということらしかった。
実際、本当にそう思っていた部分もあるだろうが、照れ隠しの部
分もあるようだ。
たまに師匠、と呼ぶと機嫌が良くなるので怒ってどうしようもな
いときなんかはそうしていた記憶がある。
まぁ、基本的に温厚な人なので滅多にそんなことはなかったけど
な。
しかし、そんな人がここにいる理由はなんだろうか。
不思議だ。
カピタンは俺の言葉に頷いて、
﹁そりゃ、お前がどのくらいになったかと思ってな。ガルブの婆さ
んと色々話してたんだ。ちょうど、そこの幻影魔術の姉ちゃん⋮⋮
ロレーヌにお前の戦い方も見せてもらったことだしな﹂
と言う。
ロレーヌの幻影魔術は色々と大げさな演出はあるが、身のこなし
や戦い方それ自体については俺のそれを忠実に再現していたのは事
1620
実である。
よくそんな細かいところまで見ているな、というレベルで再現し
ていたので、ちょっと唸ってしまった。
同時に、自分の弱点や、改善点も色々と見えたので俺も見た甲斐
が結構あった。
しかし、それを自分の師匠たちに見られるのは何とも言えない。
﹁カピタン、脅かしてやるんじゃないよ⋮⋮。レント、私らは別に
難癖つけようってわけじゃないから気にすることないよ。ただ、聞
きたいことはそれなりにあるけれどね﹂
ガルブがカピタンの言葉にそう言う。
聞きたいこと、とは何か。
色々と心当たりがありすぎて何とも言えないが⋮⋮。
ロレーヌとアイコンタクトしつつ、何を話していいかは判断して
いくことにしようかな⋮⋮そもそも、この師匠たちに隠しごとが俺
は果たして出来るのか、というのは問題だが。
﹁だが⋮⋮その前にだ。お前にだけ色々話せってのも酷な話だろう。
だから私らはあんたたちにこの村のことについて話すことを決めた。
もちろん、インゴにも相談してある﹂
ガルブが意味ありげな様子でそう言った。
﹁⋮⋮この村のこと? ハトハラーなんて、言っちゃ悪いが、山奥
にある田舎村じゃないのか? 確かに師匠やカピタンみたいな、ち
ょっとマルトでも見ないような技術を持った人は何人かいるけど⋮
⋮﹂
言いながら、そんなのが何人もいる田舎村ってのもおかしいに決
1621
まっているよなぁ、と思わないでもなかった。
プラチナ
が、絶対にありえないという訳でもない。
白金級まで至った冒険者がある日突然引退して、故郷の村で隠居
生活を始めた、なんて話は昔から枚挙にいとまがないからだ。
国の将軍とか、宮廷魔術師であっても似たような話は割とある。
だから、物凄い寒村に行ってみたら、とてつもない人物がそこを
歩いていた、なんていうことも普通に起こりうる。
少なくとも、だからハトハラーは別におかしくはない、と俺は思
って納得してきた。
けれど、このガルブの口調からすると⋮⋮やっぱり何か理由があ
るのだろうか?
ロレーヌの顔を見ると、﹁ほら、やっぱり変な村じゃないか﹂と
言いたげな表情をしているのが分かった。
ロレーヌのハトハラーに対する印象はずっと、随分と変わった村
だ、だからな。
そんな顔をするのも分かる。
俺の言葉にガルブは、
﹁確かに、基本的にその認識は間違ってはいないさ。むしろ、大半
の村人にとっては、正しい話だ。あんたも今の今まで普通の村だと
思ってたわけだろう? まぁ、ちょっと変わってるな、というくら
いは思ってたかもしれないが、その程度だったろう?﹂
﹁そうだな⋮⋮師匠とカピタンはこんな村にいるような人材じゃな
いよなぁ、とは良く思ってたけど、それくらいかな⋮⋮﹂
実際、この二人は確実にマルトに行っても重宝されるだけの技量
を持っている。
ガルブは薬師として、カピタンは戦士として。
1622
それなのに⋮⋮というのは、マルトで冒険者をしながらも思って
いたことではある。
﹁そういう話をするということは、実際は普通の村ではないと言う
ことですか?﹂
ロレーヌがガルブとカピタンに訪ねると、今度はカピタンの方が
答える。
﹁いや⋮⋮今は、普通の村だろうな。ガルブの婆さんが言った通り、
大半の村人にとってはそうだ。だが、俺とガルブの婆さん、それに
村長のインゴにとっては、少し違うんだ﹂
カピタンの挙げた三人、それは、この村における責任者の地位に
いる三人である。
小さな村だから、マルトのように参事会があって、きっちりと肩
書が決まってる、というわけではないが、困ったことがあったら最
終的に誰に相談し、誰が決定を下すか、ということになったら、こ
の三人のうちの誰かがそれをする、ということなると村人たちはみ
んななんとなく認識している。
インゴはもちろん村長であるために、ガルブはこの村においても
っとも知識豊富な人物として、そしてカピタンはこの村における最
強の武力を持つ男たちの取りまとめ役として、である。
そんな三人にとって、この村が普通の村ではない、というのはど
ういう意味か。
アンデッド
当然、俺もロレーヌも興味を引かれる。
俺が不死者になった原因とは関係ないだろうが、あの祠がどうし
てあんな扱いだったのか、ということには関係するかもしれないし、
それ以上に、単純に今まで住んでいた村に秘密があるというのは好
奇心が躍るのだ。
1623
俺もロレーヌも、かなり知りたがりの性分である。
そうでなければ冒険者などやっていない。
冒険者は、世界の秘密についてどうしても知りたいという人間が
わざわざ自分の命を賭け金にしてなるものだ。
そんな人間が、こんな面白そうな話を聞いて、聞かずに帰るとい
う選択肢をとれるはずがなかった。
﹁それで? ハトハラーはカピタン達三人にとって、一体、どうい
う村なんだ?﹂
俺がそう尋ねると、今度はガルブが、
﹁今ここで話してもいいが⋮⋮それだと実感が薄いだろうからね。
詳しい話は明日にしたい。本当はこの四人で行きたいところがあっ
たんだ。だから祠を見たら来い、と言っていたんだが⋮⋮流石に暗
くなってしまったからね。今から向かうのは危険だ。今日のところ
は、私の料理でも食べて、終わりにしよう。そして明日の朝、ここ
に来るんだ。そしたら、話してやるよ﹂
そう言って笑った。
1624
第241話 山奥の村ハトハラーとその秘密︵後書き︶
アクセス数が三千万回を突破しました。
やったー。
次は目指せ四千万回。
これからもよろしくお願いします。
そして今回、あからさまに引っ張ってごめんなさい。
書き始めたときはそんなつもりはなかったんだ⋮⋮。
1625
第242話 山奥の村ハトハラーと北の森
﹁さてさて、一体何が分かるのだろうな? 楽しみだ﹂
次の日、ガルブの家に向かう道すがら、ロレーヌが楽しそうにそ
う言った。
その気持ちはよくわかる。
かなりのど田舎にあり、一見普通の村のようでいながら、何か特
殊な秘密を抱えた村なんて、昔から物語の題材によくなってきたよ
うなものだ。
そんな冒険は、よほどの選ばれた冒険者たちのみが遭遇できるも
ので、俺たちみたいな一般的な冒険者はそういったものに出くわす
ことなく、冒険者人生を終えていくものだ。
それなのに、故郷に帰って来たらこれである。
楽しみに思えない理由はないというものだろう。
﹁確かにな⋮⋮しかし、よくずっと隠してきたもんだよ。俺だけで
なく、村のみんなにまで﹂
その︽秘密︾を知っているのはガルブ、カピタン、そしてインゴ
の三人だけだ、という話だから、他の村人たちは知らないというこ
とだ。
かなり重大そうな秘密なのに、よく隠し続けることが出来たなと
感心してしまう。
まぁ、俺が分からないのはもう村を離れてしばらく経つから理解
できるが、リリやファーリみたいにほとんどずっと近くにいるよう
な相手に隠し通せるのは素直に凄い。
⋮⋮それとも、大した秘密ではないから簡単に隠せたのかな。
1626
そうだとすれば寂しい話だが⋮⋮。
﹁うーむ。隠してきた、とはいっても、今の村人にとってはさほど
のことでもないような口調だったからな。隠してきた、というより
も触れる必要がなかった、と言う感じではないのか。だから隠し通
せたと⋮⋮﹂
ロレーヌが推測を述べるが、それが合っているかどうかは今はま
だ分からない。
﹁お、ついたか。おーい!﹂
俺が前に視線を向けると、そこにはガルブの家があった。
そしてその前で老婆と屈強な男が俺たちの方を見て待っていた。
ガルブは外套を身に着けており、カピタンは狩装束で、二人とも
明らかにどこかに出かけるような格好である。
特にカピタンの方は腰に剣鉈を下げ、肩に弓矢をかけ、背中に矢
筒を背負っているという完全に狩人の戦闘態勢だった。
まぁ、それを言うなら俺たちの方も、二人に言われて村の外に行
ける格好をしているが。
ワンド
村についてからはずっともっと楽な格好をしていたが、今はほぼ
旅装である。
俺は片手剣を下げているし、ロレーヌも短杖と短剣を下げている。
﹁これで全員そろったね⋮⋮馬子にも衣装とはよく言ったもんだ。
レント、あんた随分と冒険者らしくなって来たじゃないか﹂
ガルブが俺の格好見てそう言う。
つまりは、ローブに仮面に片手剣、という例の怪しげなあれだ。
仮面については外れないという話をガルブにはしている。
1627
他のみんなにはマルトでは流行ってるんだ、とか適当な話で濁し
たから都会って凄いね、で通っている。
⋮⋮みんながマルトに観光にでも行くとき、仮面の集団にならな
いことを神に祈ろう。
ヴィロ様、よろしくお願いします。
﹁好きでこの格好ってわけでもないんだけどな⋮⋮でも、意外と動
きやすいし、便利だから重宝してるよ﹂
そう言うと、カピタンが、
﹁便利? どういうことだ﹂
と聞いてきたので、素直に答える。
師匠の質問には絶対服従だ。
正体を言え、と言われても答えられないけど。
﹁普通の金属製の鎧よりも強度が高いし、毒なんかも弾いてくれる
んだ。汚れもつかないし﹂
言いながら、売りに出したら一体いくらで売れるんだろうなぁ、
と邪なことを考える。
もうこれの無い生活は考えにくいので売りはしないが、気にはな
る。
鑑定神のところに行ったら、ついでにこれも鑑定してもらえない
かな⋮⋮。
俺の言葉にカピタンは、
﹁へぇ⋮⋮なぁ、ちょっと弓で射てみていいか?﹂
1628
と面白そうに尋ねてきたので、俺は急いで首を振って拒否した。
﹁いやいやいや、ダメだから! カピタンが射たら貫通するかもし
れないだろ!﹂
それはお世辞ではなく事実だ。この男が真面目に弓矢で射て、貫
けなかったものを俺は知らない。
もちろん、弓自体が特別に強いわけではなく、彼の身に着けてい
る︽気︾の力のお陰だ。
手に持って戦う武具⋮⋮剣や槍などに気を込めるのは、多大なる
修行が必要とは言え出来るものはそれなりにいる。
しかし、体から離れてしまう武器に︽気︾を込めるのは、とてつ
もなく難しい。
それなのに、カピタンはそれを可能としており、彼の撃った弓矢
は岩すらも撃ち貫く。
俺のローブとて、無事でいられる保証はない。
⋮⋮たぶん大丈夫だとは思うんだが、賭ける気にならない。
俺の答えにカピタンは残念そうな表情を浮かべるが、
﹁仕方ねぇな⋮⋮ま、それはそれとして、あとで模擬戦してくれよ。
お前の腕を味わいたい﹂
と、話を嫌な方向に変える。
正直勘弁してくれ、と思う。
なにせ、カピタンは俺の戦いの基礎を作ったうちの一人だ。
片手剣のまともな剣術は村に来た冒険者に学んだが、身のこなし
とか、その深いところには常にカピタンの教えてくれた技術が活き
ている。
今の身体能力で力押しすればたぶん、負けないんじゃないかと思
1629
うが⋮⋮いや、必ずしもそうは言えないか。
カピタンの本気を俺は見たことがないのだから。
しかし、だとしても断ることは出来ない。
弟子は師匠に絶対服従なのだから。
ため息を吐きつつ、俺は言う。
﹁⋮⋮はぁ。わかったよ。後でな⋮⋮それで、今日はこれからどこ
に行くんだ?﹂
俺の質問に、ガルブが答える。
﹁北の森だよ。その一番奥を目指す﹂
ガルブの言葉に、俺は少し驚く。
なにせ、北の森、と言ったらハトハラーにおいては入るべきでは
ないとされている森の一区画を指すからだ。
強力な魔物が跋扈し、ハトハラーの狩人たちですら歩き回るのは
厳しいからである。
﹁だから二人とも完全武装しているわけか⋮⋮﹂
ある意味、納得ではあった。
ガルブが戦ったところは見たことないが、おそらく魔術師として
は一流であろうとはロレーヌが言っていた。
カピタンも戦士として一流だと俺は思っている。
その二人なら、通常、ハトハラーの村人たちが入り込む森ならば
もっとふらっと入ることも出来るが、今日は二人とも少しだが緊張
感があるように感じられる。
それだけ危険なところに向かうつもりだ、ということなのだろう。
1630
﹁ま、そういうことさね。あんたたちも油断するんじゃないよ。あ
の森は、他の森とは違うからね⋮⋮じゃ、行くよ﹂
そう言って、ガルブが先頭に立って歩き出す。
俺たちはその後に続いて進み始めたのだった。
1631
第243話 山奥の村ハトハラーと図形
カピタンの振るう剣鉈がゴブリンの首筋を切り落とす。
剣鉈を振り切ったところを狙って、他のゴブリンが三体ほど、さ
びた短剣を持ってカピタンに殺到するも、すべてを軽々といなして
次々に攻撃を加え、倒していった。
ガドール・アカヴィッシュ
少し離れたところでは、ガルブが風刃を放って巨大な蜘蛛の形を
した魔物、大蜘蛛の足を器用に切断していく。
その間も巨大蜘蛛はガルブに攻撃を加えようと残った足を伸ばす
も、年齢に見合わない機敏な動きですべて回避していく。
ましら
魔術師であるから、身体強化の技法は身に着けているだろうし、
そこまでおかしいというわけではないのだが、やはり老婆が猿のご
とく縦横無尽に動き回っているのを見ると、若干怖い。
しかも、魔術を放ち続けながらだ。
魔術師、というものはどちらかというと固定砲台的な戦い方をす
コンバット・メイジ
る者が多いのだが、ガルブのそれはその基本から大幅にずれている。
魔剣士とか、戦闘魔導士の戦い方に近い。
⋮⋮素手で殴った方が実は早いんじゃないか?
ありそうで怖い。
﹁⋮⋮本職の冒険者である私たちの出番がまるでないな﹂
しばらくして、戦闘が終わってから、ロレーヌがそうぽつりとつ
ぶやいた。
周囲は魔物たちの死体でいっぱいである。
流石、小さいころからあれほど入るなと言われて来た︽北の森︾
は危険度が段違いだ。
こんなに魔物に出くわすことは、通常の森だとあまりない。
1632
︽大波︾とか︽氾濫︾とかの類が起こらない限りは⋮⋮。
まぁ、世の中には危険とされている地帯がそれなりにあって、そ
ういうところに足を踏み入れればまた違うのだが、小さいころから
育ってきた村の近くにこんな場所があったとは知らなかった。
﹁⋮⋮こんなに魔物がたくさんいて、ハトハラーは大丈夫なのか?﹂
つい、そう呟いてしまうも、耳ざとくガルブが、
﹁問題ない。ここの魔物はハトハラーまでは来ないのさ﹂
と答えた。
言っている内容が真実なら安心できる台詞だが⋮⋮そう言い切れ
る根拠が分からないな。
強力な魔物であれば、その多くが縄張りを持ち、そこからまず、
出てくることがない、というのは分かっている。
ただ、ここにはそれだけではなく、ゴブリンやスライムなどの、
良くいる低級魔物もいるようである。
そう言った魔物にとって、縄張り、というのはあまり意味をなさ
ない。
強さよりも繁殖力をとった生存戦略の故なのか、彼らは積極的に
色々な場所に行こうとする。
まず縄張りなんてものは持っていない。
ゴブリンなどは集落を形成している場合もあるが、人間に対して
敵対的な場合、彼らは村が一定規模に達するとそこを拠点に近くの
村を攻略し始めるのだ。
スライムの場合、もっと単純で、ただひたすら増え、そしてどこ
へでも行く。
したがって、ここに彼らがいるということは、十分にハトハラー
にやってくる可能性があるということに他ならないと思うのだが⋮
1633
⋮。
しかし、そんな疑問を俺やロレーヌが持っているのを理解してい
るだろうに、ガルブもカピタンもずんずん森を進んでいく。
その背中からは﹁目的地についたら教えてやるよ、色々とね﹂と
言う無言の主張が見えて、俺とロレーヌは顔を見合わせ、仕方なく
首を振って二人のあとについて進んだのだった。
◇◆◇◆◇
﹁ついたよ、ここだ﹂
そして、森を歩き回ってどれくらいの時間が過ぎたことだろう。
そろそろうんざりし始めたそのときに、ガルブがそう口を開いた。
そこにあったのは⋮⋮。
﹁⋮⋮砦、か? 相当古いな⋮⋮﹂
ロレーヌがそれを見て、そう呟く。
俺たちの目の前にあったもの、それはまさに︽砦︾であった。
石造りの小規模な城で、ただ、年月に耐え切れず、かなり崩れて
いる部分が見受けられる。
また、周囲の植物の浸食もかなり激しく、大体が緑で覆われてい
た。
ハトハラーからここを見ても、森の一部としか思われないだろう。
ただ、それでも確かにこれは︽砦︾だ。
ハトハラーの近くにこんなものがあるとは思わなかった。
少し驚いたが⋮⋮。
﹁ハトハラーの秘密って、これのことか?﹂
1634
﹁おそらくは⋮⋮そうなのだろうな。いつの時代のものか気になる
が⋮⋮あまり目新しいところはないようにも思える⋮⋮﹂
俺とロレーヌは二人して、正直、肩透かしを食らったような気が
した。
村の近くにおそらくはかなり古い年代のそれと思しき遺跡がある。
まぁ、歴史的に見ればそれなりに重大な秘密なのだろうが、それ
くらいなら探せば色々なところにある。
古代の遺跡を観光資源にしているようなところだってあるくらい
だからな。
それを考えると大した秘密ではないように思えるが⋮⋮。
それとも、そう言ったものとは何か違うというのだろうか?
そんな疑問を俺たちが抱き始めているのを理解してか、ガルブと
カピタンはさらに歩く。
﹁⋮⋮こっちだ。慌てるんじゃないよ﹂
⋮⋮やはり、何かまだ、あるようだ。
そう思ってついていく。
砦の中に入ると、やはりかなり古いようで、崩れているところが
多く目に入った。
ただ、多少片づけられているようで、人が歩けるくらいには足の
踏み場があって、それが少し不自然だった。
ガルブかカピタンが通って片づけたのだろうか。
分からないが⋮⋮。
1635
そして、しばらく歩くと、開けた場所に出る。
﹁ここは⋮⋮﹂
﹁おそらくは、王や領主など、身分の高い人間のための謁見の間だ
ろうな⋮⋮ふむ、古代、この辺りの地域には力のある豪族でもいた
のかな? そんな感じだ﹂
ロレーヌが説明した通り、そんな雰囲気の部屋であった。
奥の方が一段高くなっており、そこに石造りの椅子が置かれてい
る。
昔は布でも敷かれていたのだろうが⋮⋮今は石がむき出しの状態
だ。
年月というものはあらゆるものを風化させる。
昔、ここにあっただろう権力も、そしていただろう豪族も、今は
もう記録すら残っていないのだから。
それを受け継いでいるのがガルブとカピタン、それにインゴたち
村の責任者たち、ということなのだろうか?
しかし、前を進む二人にこの空間に対する感慨は感じられない。
ただ、
﹁こっちだ。この部屋だよ﹂
そう言って、謁見の間、玉座のような椅子の横にある通路を進ん
でいく。
どうやらこの部屋はどうでもいいらしく、俺たちはそれについて
いった。
そして、たどり着いたその場所にあったものに、俺たちは驚く。
﹁⋮⋮これは⋮⋮まさか。なぜこんなところに⋮⋮?﹂
1636
ロレーヌがそう呟いて見つめる先、そこには部屋の床全体に描か
れた、図形があった。
それは、ぼんやりとした青白い光を放つ、巨大な魔法陣である。
そしてその形状に、俺は覚えがあった。
ロレーヌも魔術師として、見れば何なのか分かるらしい。
ロレーヌは呻くように呟いた。
﹁⋮⋮転移魔法陣﹂
そんな風に。
1637
第244話 山奥の村ハトハラーと転移魔法陣
転移魔法陣。
それは、ほとんど、迷宮限定の代物で、このようなところに気軽
の置いてあるようなものではない。
何故といって、描き方が分からないからだ。
いや、それは厳密ではないか。
同じ図形を描くことは、まねすれば出来る。
しかし、たとえそのようにしたところで稼働しない。
そういう、よくわからないものなのである。
したがって、新たな転移魔法陣と言うのは迷宮でしか見つけるこ
とが出来ない。
迷宮はその内部構造が日夜変わっていくものもあり、そう言った
迷宮の深層では、新たな転移魔法陣が生み出され、そして消えてい
くのだ。
けれどここは迷宮ではない。
ハトハラーの村からそう遠くない場所にある︽砦︾の中なのだ。
どうしてこんなところにこれがあるのか。
それはロレーヌのみならず、俺も疑問だった。
そんな驚きの表情に染まった俺とロレーヌを、ガルブとカピタン
は満足そうに微笑みながら見て、
﹁⋮⋮驚かせられたようだね。いやはや、嫁候補を連れて帰ったり、
幻影魔術やら、あんたのその恰好やら、あんたらが村に来てからこ
っち、ずっとこちらが驚かされぱなしだったから、なんだか仕返し
が出来たようでうれしいね﹂
1638
ガルブがそう言い、カピタンもそれに続けて、
﹁こんなものマルトじゃよくあるぞ、とか言われたら困っていたと
ころだ。俺たちもあまり中央のことには詳しくないからな⋮⋮転移
魔法陣、これをまだ都会でも解明できていないようで何よりだ﹂
そんなことを言った。
二人そろって色々と突っ込みどころのある発言だったが、色々考
えて、とりあえず聞くべきことを絞って尋ねる。
﹁⋮⋮なんでこんなものがあるんだ? これは、人の手で作ること
は出来ない、とされている代物だぞ。中央でも、それこそもっとず
っと都会でも﹂
もっとずっと都会、というのはつまりロレーヌの故郷だ。
もし解明されていると言うのなら、ロレーヌ自身が知らないと言
うこともないだろう。
彼女もまた、転移魔法陣に驚いている時点で、彼女の故郷レルム
ッド帝国ですらも転移魔法陣の仕組みも、作り方も解明できていな
いと言うことに他ならないと思っての台詞だった。
まぁ、帝国は基本的には軍事国家と言う話だから、軍事機密、と
いうことであれば一介の学者に過ぎないロレーヌが知らないと言う
こともありうるだろうが、そもそもあの国はいつだってあわよくば
大陸に覇を唱えんとしようとしている、とはロレーヌの評である。
転移魔法陣、などという、いつでもどこでも兵站や兵士、兵器を
いくらでも送り込める装置が完成したら、もうすでにヤーラン王国
なんて滅びていることだろう。
そうなってはいないことが、転移魔法陣をレルムッド帝国も解明
していないことの証明になる。
1639
まぁ、別にレルムッド帝国が大陸唯一の先進国家だ、とは言わな
いが、先進国家のうちの一つであるのは間違いなく、そういった国
が最新の研究でも理解できていない存在である、ということもまた、
間違いがない。
俺の質問に、ガルブはゆっくりと答える。
﹁別に私たちも作れるわけじゃないよ。これがある理由は⋮⋮これ
が人の手で作ることが出来ない代物、というのが一部間違っている
からさ﹂
﹁⋮⋮? それはどういう⋮⋮﹂
さらに質問を続けようとした俺を遮って、ガルブが言う。
﹁まぁ、それはこいつに乗れば分かることさ。私は先に行くよ。ほ
れ、あんたも﹂
そう言ってガルブはカピタンを引っ張って転移魔法陣の上にさっ
さと乗りこみ、そして転移魔法陣が光を放つ。
輝くガルブとカピタンの姿が徐々に希薄になり、そして最後に残
った光の残滓が空気に消えていって、その場には俺とロレーヌだけ
が残された。
俺たちは二人で顔を見合わせつつ、話す。
﹁⋮⋮面白い面白いと言っていたが、おい、レント。本当に面白い
な⋮⋮なんだお前の村は。どんな村だ﹂
ロレーヌは珍しく興奮しながらそう言う。
学者魂に火が付いたのだろう。
1640
よくわかる。
というか、俺もちょっとドキドキしている。
まさになんだこれは状態だ。
出てくるものがヤバすぎた。
何か秘密があるんだろうなぁとは思っていたが、まさか世界初ク
ラスのものがこんなにさらっと出てくるとは完全に予想外だった。
なんだか、昔の物語に出てくるような、伝説の冒険者たちがして
いるような冒険をしているような気分になってくる⋮⋮。
しょぼい迷宮でしょっぱい魔物を毎日十匹くらい倒してたのが遠
い昔のようだな。
大して昔じゃないけどさ。
そんなことを考えながら、俺はロレーヌに答える。
﹁俺もそれは分からないけど⋮⋮やっぱり、乗るよな? これ⋮⋮﹂
もちろん、転移魔法陣を見ながら、である。
迷宮の転移魔法陣には今まで何度も普通に乗って来たし、ロレー
ヌもそうだろう。
しかし、迷宮由来ではない転移魔法陣は、少なくとも俺は初めて
見た。
当然、乗るのも初めてで⋮⋮色々と怖い。
どこにつながっているのかとか、戻って来られるのかとか。
そういう心配があるからだ。
ガルブとカピタンはあんな風に気軽に乗ったのだから、きっと問
題はないのだろうが⋮⋮それでも本能がこれは危険な代物だ、よく
考えて乗るかどうか判断しろというのだ。
石橋を叩きながら冒険をしてきたころの習性が顔を出しているな
⋮⋮。
最近は割と無謀になったというか、リスクのある行動もとれるよ
1641
うになってきたような気がしていたが、基本が臆病な低級冒険者だ
から、それも仕方のない話だ。
しかし、ロレーヌはそう言う訳ではないらしい。
﹁これに乗るのが危険だと言うのなら、あの二人は私たちを置いて
あんな風にさっさと行きはしないだろう。問題ないだろうさ。よし、
レント。乗るぞ﹂
そう言って、俺の腕を引っ張り、転移魔法陣の中に引き込んだ。
ちょっと待って、まだ心の準備が⋮⋮。
そんなことを思っていたが、無駄だった。
まぁ、確かに彼女のいう通りではあるのだ。
論理的に考えて、危険はない。
そのはずだ。
でもちょっぴり怖い。
これはなんというか、あれだな。
高い崖の端っこから、転落防止用のロープを腰につけつつ、眼下
を覗いているような気持と言うか。
大丈夫だと分かっているが、こわいというやつだ。
とは言え、もう乗ってしまったのだから抗いようがないのだけど。
何が起こるのか楽しみそうな表情をしているロレーヌが隣にいる。
そして、地面に描かれた魔法陣から光の奔流が生み出され、そし
て俺とロレーヌの姿もまた、その場から消えた。
1642
第244話 山奥の村ハトハラーと転移魔法陣︵後書き︶
なんとか間に合いました。
明日の12時からは今まで通り普通更新に戻ります。
評価・感想など、励みになっております。
どうぞこれからもよろしくお願いします。
1643
第245話 山奥の村ハトハラーと猫
﹁お、やっと来たか。怯えてこないんじゃないかと思っていたよ﹂
目を開けると同時に、ガルブのそんな少しからかうような声が耳
に響く。
続いて、
﹁俺だって初めてここに連れて来られたときは怖かった。ビビらな
いのはあんたくらいなもんだ﹂
と、カピタンの窘めるような声が聞こえる。
直後、声の聞こえた方に振り向き、二人そろってその場に何の傷
もなく立っているを見て俺は安心した。
隣のロレーヌも何も不調はなさそうである。
転移魔法陣は問題なく発動してくれたようだ。
⋮⋮まぁ、発動しないようなものをガルブとカピタンが俺たちに
使わせるはずがないから当然と言えば当然だが。
﹁しかし、ここはどこだ? 暗いな⋮⋮壁か。どこかの洞窟の中、
かな?﹂
ロレーヌが興味深そうに周囲を見渡す。
俺も同様に周りを見ると、確かに洞窟っぽい感じだ。
てらてらとした岩の壁が少し湿っている。
﹁⋮⋮ん? でも向こうは明るいな﹂
1644
少し遠くの方を見つめてみると、そちらからは光が差しているの
が見えた。
洞窟の出口、ということかな。
転移魔法陣は見つかりにくいよう、洞窟の中に隠されている、と
いうことだろうか。
だから今まで見つからなかった、と。
まぁ、分からないでもないが⋮⋮。
そんな色々なことを考えている俺たちに、ガルブとカピタンは顔
を見合わせ、意味深に微笑み、
﹁ま、あと少しだ。こっちについてくるといい⋮⋮﹂
ガルブがそう言って歩き出した。
相変わらず、俺たちには何がなんやら分からないが、今は彼女た
ちについていくことしかできない⋮⋮。
危険なことはないだろう、と分かっているからいいのだが。
﹁ガルブ殿に誘われながら洞窟を歩くと言うのはなにか、こう、黄
泉路を行くような気分になってくるな⋮⋮﹂
ガルブの背中を見ながら、ロレーヌが言う。
確かに、ガルブの後姿はどこか死神のようだ。
どことも知れぬ場所に生者を招く死後の世界の住人。
隣に付き従うように歩いているカピタンは、そんな死神の手先で
あると言われる死神騎士というところだろうか。
分からないでもない想像だ。
実際、どこに連れていかれるのか全くヒントもないのだから、そ
う考えたくなるのも理解できる。
1645
が、彼女たちは別に俺たちを葬りたいわけではないことははっき
りしているので、心配はいらない。
⋮⋮たぶん。
◇◆◇◆◇
そんな期待というか、信頼が、一瞬揺らいだのは、洞窟の入り口
近くに辿り着いたそのときだった。
ひゅん、と音がして、何か巨大なものが俺たちの目の前に現れた
のだ。
﹁なんだ⋮⋮!?﹂
ロレーヌがそう言って腰から杖を引き抜く。
俺も同様にして剣を抜いた。
⋮⋮が、ガルブとカピタンはそうはしない。
それどころか、その近づいてきた物体に自ら寄って行って、
﹁おぉ、よしよし﹂
と言って手を伸ばし、頭を撫でた。
信じられない。
ただ、いくら状況的に信じられないと言っても、ガルブとカピタ
ンの反応がこうなのだ。
武器を引き抜いている俺たちの方が間違っていることは理解でき
る。
俺もロレーヌも武器を戻し、それから、
1646
﹁⋮⋮おい、師匠。そいつは何なんだ﹂
俺がそう尋ねた。
ガルブの手が撫でるもの。
それは、人の身の丈を遥かに超える、五メートル以上はあるだろ
う、全身黒色の虎柄を持った、まさに巨大な虎だった。
その一口で簡単にガルブの頭など持っていけるだろう大きさだ。
それなのに、ガルブの前ではまるで猫のようにじゃれている。
撫でられて実に気持ちよさそうであり、その瞳はガルブに完全に
服従を示していた。
﹁何って、見りゃ分かるだろ? 虎さ﹂
﹁⋮⋮ふざけてるのか?﹂
俺がそう突っ込むと、ガルブは笑って、
シャホール・メレフナメル
﹁はっは、悪かったよ。冗談さ。もちろん、ただの虎じゃない⋮⋮
魔物だね。黒王虎と呼ばれる強力な魔物だ。あんたたちの方が詳し
いんじゃないかい?﹂
それはつまり、冒険者である俺たちの方が魔物の種類に詳しいだ
ろう、という意味の台詞だっただろう。
もちろん、それが何の種なのかは見て分かった。
ただ、問題はそこではない。
聞きたいのはそういうことではないのだ。
シャホール・メレフナメル
どうしてそんなものが、あんたに懐いているのか、ということだ。
黒王虎なんてものは、まずその辺に行けば見られるというもので
プラチナ
はなく、一体で一軍に匹敵すると言われる強力な魔物だ。
もし討伐しようとするのなら、それこそ最低でも白金級、出来る
1647
ミスリル
ことなら神銀級が必要になってくる。
そんなレベルである。
そんなものをこうも無造作に、気軽に撫でているガルブは正気で
はないと言われてもおかしくはない。
そう言う疑問を、俺は素直に口にする。
﹁別に魔物の種類を聞いてるんじゃないぞ⋮⋮。なんで懐いてるん
だ? それは人に懐くようなもんじゃないはずだろ﹂
モンスターテイマー
従魔師たちは様々な方法で数多くの魔物を自らに懐かせる術を知
っているが、基本的にそれは人間に近しく、懐くことが過去確認さ
れている魔物に限られる。
どんな魔物でも従えられる、というわけではないのだ。
だからこそ、それこそ数百年に一度、奇跡のような巡り合わせで
モンスターテイマー
シャホール・メレフナメル
強大な魔物を従魔とした者には多大なる称賛と名誉が与えられる。
ガルブがもし、従魔師であり、そして黒王虎を従えているという
のなら、確実にその伝説の仲間入りができることだろう。
しかしそんな俺の疑問にガルブは、
﹁別に私に懐いているわけじゃないよ。こいつは私の血に懐いてい
るだけさ⋮⋮つまり、ほれ、あんたもこっちに来な、レント﹂
そう言って俺を招く。
嫌だ、近づきたくない、怖い。
シャホール・メレフナメル
そんな言い訳が師匠であるガルブに通用することもなく、その場
シャホール・メレフナメル
に突っ立っていたら引っ張られて、黒王虎の前まで連れて来られて
しまった。
改めて近くにいる黒王虎を見る。
⋮⋮でかい。そして怖い。
1648
その瞳の中に知性を感じる。それが余計に恐ろしい。
この魔物は、何も考えずにここにいるわけではないのだ。
何か目的をもってここにいるのだ。
それが、俺たちをうまいことひとところに集めて食い殺すことで
ないと誰に言えるのか⋮⋮。
そう思ってしまうからだ。
まぁ、そんなの言い出したら今すぐやればそこで終わるんだから、
たぶん大丈夫なんだろうけどな⋮⋮。
1649
第246話 山奥の村ハトハラーとその由来
シャホール・メレフナメル
驚いたことに、黒王虎は俺を見ても全くその態度を変えないどこ
ろか、近づいた俺の体にその頭を擦りつけてきた。
思いのほかさらさらとした体毛が触れ、気持ちい。
さらに猫のようにごろごろとした声を出している。
魔物とはいえ、猫の仲間か、一応は⋮⋮。
しかしまた、どうしてだろう。
俺は初めてであったに過ぎないのに。
ヴァンパイア
血に懐いている、というからには、それはハトハラーの村人の血
に、ということなのだろうが⋮⋮俺は吸血鬼になっているが、その
一部はまだ、しっかりこの身に流れていると言うことだろうか。
ともかく、大丈夫そうだ。
⋮⋮そう言えば、ロレーヌはどうなんだろうな。
このでっかい虎、意外と怖がっているのか、それともいつも通り
冷静に見つめているのか⋮⋮。
気になって、後ろを見てみると、そこにはそのどちらでもない表
情を浮かべたロレーヌがいた。
それは⋮⋮なんといえばいいのだろう。
困惑と驚愕、の二つが混じったような顔といった感じだろうか。
⋮⋮まぁ、これだけの魔物だ。
見て、そういう表情になるのはおかしくはないが⋮⋮何だろうな。
少し違和感がある。
強力な魔物を見て、そういう顔になっている⋮⋮という感じでは
ないような気がすると言うか。
1650
気になって、俺はロレーヌの方にかけよって尋ねる。
﹁⋮⋮おい、ロレーヌ。どうかしたのか? なんか変だぞ﹂
するとロレーヌは、
シャホール・メレフナメル
﹁⋮⋮黒王虎⋮⋮古代の砦⋮⋮設置してあった転移陣⋮⋮洞窟⋮⋮
いやいや、まさか、な。すまない。少し取り乱した。なんだか色々
見せられて驚いてしまってな﹂
とぶつぶつと呟いてから首を振って言った。
なんだろうな。
何か、今挙げたものに共通点でもあったのだろうか?
分からない。
ま、あとで聞いてみるか。
それより⋮⋮。
﹁師匠、カピタン! ロレーヌも近づいて大丈夫なのか?﹂
と、遠くから聞いてみる。
ロレーヌはハトハラー出身ではない。
血に懐く、というのであればロレーヌには襲い掛かる可能性があ
るのではないかと思ったのだ。
けれど、ガルブは、
﹁あたしらが一緒のときは問題ない。レント、あんたと一緒でもね。
だから安心して近づいておいで﹂
そう言って手招きした。
こう言われても、俺のように普通ならすんなりとは従えないもの
1651
シャホール・メレフナメル
だが、ロレーヌはその辺り肝が据わっている。
シャホール・メレフナメル
すたすたと黒王虎に近付き、手を伸ばした。
すると、黒王虎は視線を一瞬ガルブの方に向け、そしてガルブが
頷くと、頭を下げてロレーヌに向けた。
ロレーヌが撫でるとやはり、ごろごろと猫のような音を出す。
村の人間と一緒なら、他の人間にも危害を加えないと言うのは事
実のようだ。
あらかじめそう指示してあるのか、そういう性質なのか⋮⋮。
まぁ、それはいいか。
それより、
﹁村の秘密って、これを飼ってることか?﹂
核心はそっちだ。
しかしガルブは首を振り、
﹁いや、違う。秘密はあっちの方にある。こいつはただあたしらに
あいさつしに来ただけさ⋮⋮行くよ﹂
そう言って歩き出す。
向かうのはもちろん、洞窟の明るい方、出口に向かってである。
それはもう、すぐそこだ。
そして、俺たちは辿り着いた。
そこには、きっと外の景色がある。
俺はそう思ってた。
しかしそこにあったのはそんなものではなく⋮⋮。
﹁⋮⋮これは、街、か⋮⋮?﹂
1652
俺の言葉が、静かに響いた。
◇◆◇◆◇
とはいっても、現実に人が住んでいる街ではないようだった。
というのも、人の気配が一切感じられない。
つまりこれはおそらく、遺跡だ。
それも、かなり規模の大きな。
都市マルトがいくつも入りそうな大きさだと言えばその規模が分
かるだろう。
見渡す限り、建物で満ち満ちている。
それなのに、ここはおそらく地上ではない。
とてつもなく広い空間だが、天井が存在しているからだ。
横壁は洞窟の内壁のように岩で形成されていて、天井もまたそう
なのだろうが、そこには光が見える。
ライト
柔らかな光で、そこには星が瞬いているように見えた。
また、街にはいくつもの魔法灯と思しき光が見え、全体をきらび
やかに照らしている。
死んでいる街とは思えない、壮麗な景色だ。
ここが人に知られていれば、恋人たちの聖地になっておもおかし
くないほどの幻想的な光景がそこにはあった。
これをもってハトハラーの秘密と言うのなら⋮⋮なるほど、とい
うものである。
これだけのものをただの田舎村が隠し持っていたと言うのなら、
それは色々な意味で恐ろしい話だ。
﹁ここは、何だ?﹂
俺が尋ねると、ガルブは答える。
1653
﹁街だよ﹂
﹁おい﹂
﹁⋮⋮そんな怖い顔するんじゃない。だから冗談だって。でも、事
実だ。ここは街さ。古代のね⋮⋮そして遥か昔に滅びたところでも
ある。あんたたち、古王国を知っているだろう?﹂
﹁ああ、もちろん知っているが⋮⋮﹂
その名称は冒険者の世界では有名だ。
つまりは、魔法の袋の製作技術を保有していたかもしれない国と
して。
かつて栄えた超技術文明大国として。
それ以上のことは判然としていない謎に包まれた古代の王国であ
る。
古王国、と呼ばれているが、それはそういう名前の国があったの
ではなく、国の名前すらももはや残っていないからだ。
ただ、各地に残る超技術など、稀に見つかる間接的な証拠から、
そのような大国があったと言われているのだ。
しかし、それが今、どういう関係があるのか。
大体推測はついているが、ガルブの口から言われるまでは何が真
実なのか確定できない。
俺はガルブの言葉を待った。
そして、ガルブは間を空けていう。
﹁ここは、その古王国の末裔が作った街だ。そして私たち⋮⋮レン
ト、あんたも含めたハトハラーの住人は、その血を継いでいるのさ。
それが、あの村の秘密だ﹂
1654
ガルブのその言葉はひどくすんなりとその口から出てきた。
内容は⋮⋮かなり衝撃的な話だと言っていいだろう。
ただの田舎村だと思っていたのに、随分と伝説的な由来があった
ものだと思ってしまう。
これが、ただそう言っているだけ、というのなら割と世界中にあ
る話だが、ここにはっきりとした証拠がある。
これほどの街を、地下に造る技術など、そうそう持てるものでは
ない。
ライト
現代なら多大なる資材と人材を投入すれば出来るだろうが⋮⋮遥
か昔の話だ。
それに、街をつくるだけではなく、長い間、魔法灯が生きている
というのは、つまり他にも生きている設備があるということなのだ
ろう。
そこまで考えると、今でも不可能かもしれない。
それにしても、こうなると、色々と質問したいことが出て来たな
⋮⋮。
そう思っていると、俺よりも先にロレーヌが口を開く。
そしてその言葉は、俺に更に衝撃を運んでくる。
﹁古王国の末裔が作った都市、だと? まさか⋮⋮だって、ここは
善王フェルトの迷宮都市ではないのか!?﹂
1655
第247話 山奥の村ハトハラーと亡国
﹁ロレーヌ⋮⋮何の話だ?﹂
この場でおそらく最も状況を理解していない男である俺が、ロレ
ーヌにそう尋ねる。
ちなみにガルブとカピタンは今のロレーヌの台詞を聞いても一切
動じていない。
意味が分かっている、ということなのだろう。
俺の質問にロレーヌは、
﹁お前にも以前、言っただろう? 善王フェルトの迷宮都市のこと
を。迷宮を周囲に抱えた都市ではない、本当に迷宮の内部にある都
市の話だ﹂
言われて、そう言えばそんな話もしたな、と思い出す。
しかしそれは⋮⋮。
﹁⋮⋮お前の故郷にある、という話だったよな。ということはレル
ムッド帝国に⋮⋮﹂
そこまで話して、自分が転移陣に乗ってここまでやってきたこと
に思いがいたり、あぁ、そう考えると別におかしくはないのか、と
なんとなく状況がおぼろげながらに分かって来た。
ロレーヌも俺の理解が及んだことを確認し、続けた。
﹁⋮⋮そうだ。私はこの光景を見たことがある。地下迷宮にあるに
も関わらず、きらびやかに輝く美しい古代都市を。そこを跋扈し、
1656
シャホール・メレフナメル
侵入者に容赦なく襲い掛かる魔物たち⋮⋮その王、黒王虎の姿も﹂
﹁つまり⋮⋮ここは﹂
﹁そうだ。ここはレルムッド帝国、そこにある迷宮の一つ︽古き虫
の迷宮︾六十階層⋮⋮通称︽善王フェルトの地下都市︾だ⋮⋮﹂
◇◆◇◆◇
なんだ、それは。
そう言いたくなるほどに驚いたのは、その場では俺だけらしい。
ロレーヌも驚いてはいるようだが、しかし見たことのある光景と
言うことでそれほどでもない。
俺は何から尋ねたらいいものか、少し分からなくなってきている
くらいだ。
が、最初に尋ねるべきことくらいは頭に浮かぶ。
誰に尋ねるべきかもだ。
俺はガルブとカピタンの方を向いて、質問する。
﹁⋮⋮今のは、本当の話か?﹂
するとカピタンが、
﹁細かい名称の話なんかは、俺たちは田舎者だから知らないがな。
ただ、ここがレルムッド帝国が治めている土地の迷宮の中にある、
というのは事実だ。つまり、善王フェルトは俺たちのご先祖様だ。
面白い話だろう?﹂
面白い面白くないで言ったら、確かに面白い話かも知れない。
1657
自分のご先祖様がまぎれもなく、伝説上の人物だということがわ
かったら、ちょっとわくわくはするからだ。
﹁なんでそんなことになっているのですか⋮⋮?﹂
ロレーヌが二人に尋ねると、ガルブが、
﹁そりゃあ、あの転移魔法陣がここに繋がっているからさ﹂
とまた冗談のような口調で言う。
しかし、実際にその通りなのでなんとも言いにくい。
これにロレーヌは、
﹁⋮⋮あの転移魔法陣は、帝国の方でも確認していました。しかし、
・・
稼働させることは出来ていません。おそらく今でもそうです。なの
に、なぜあなた方は⋮⋮﹂
という。
これについては俺も初耳なので、ロレーヌに尋ねる。
﹁転移魔法陣があることは分かってたのか?﹂
シャホール・メレフナメル
﹁あぁ。ただ、ここは六十階層だ。そもそも来るまでがことだし、
来た後も黒王虎を初めとする強力な魔物たちが都市を跋扈している。
まともに調査しようとしても学者なんてすぐにお陀仏だ。だから大
して調査は進んでいないのが現状だな。私が知っているのは、ここ
の景色と、転移魔法陣が確認されていること、それが稼働していな
いこと、それくらいなんだ﹂
なるほど、調べようにも調べられないという状況らしい。
1658
方法は色々考えられそうだが⋮⋮ここは以前、国家機密だという
話もしていたしな。
そうなると、選べる方法も限られてくる。
かなり難航している、ということだろう。
ともかく、それはそれとして、ガルブがロレーヌの質問に答える。
転移魔法陣の稼働についてだ。
シャホール・メレフナメル
﹁さて、転移魔法陣についてだが⋮⋮あれもまた、この黒王虎と同
じさ。私たちの血が︽鍵︾になっている。ただそれだけの話だ﹂
ワンド
﹁⋮⋮血が、︽鍵︾に⋮⋮そんな技術が⋮⋮いや、短杖に固有魔力
を登録するようなものか? 人の血にもそう言った識別の方法が⋮
⋮﹂
ガルブの言葉にぶつぶつと言い始めたロレーヌである。
が、ここで考えるよりも、質問を重ねた方が有意義と思ったよう
だ。
続けてガルブに尋ねる。
﹁つまり、私が転移魔法陣に乗ってこれたのは、レントと一緒にい
たからということですか?﹂
﹁まさにその通りさ。どんな技術なのかは知らないが、古王国には
それを可能とする技術があったようだ。強力な魔物を御し、街の守
護としてしまう技術もね﹂
目の前でごろごろと言っている巨大な猫を見るに、確かにそう考
えなければ説明がつかないだろう。
しかし、それだけに不思議なことがある。
1659
﹁⋮⋮なぜ、そんな力を持つ国が、そしてその力を受け継いだ都市
が⋮⋮このように滅びているのでしょう? そして、なぜあんな田
舎国家の辺境まで逃げなければならなかったのでしょう?﹂
ロレーヌも俺と同じ結論に達したらしい。
そうだ。
そこまで進んだ技術と力を持っていたと言うのなら、そんなこと
をせずとも良かったはずだ。
強力な魔物すらも脅威にならないと言うのなら、滅びる理由など
ないではないか。
善王フェルトにしても、どこかに国から逃げ、放浪の末にここに
ついたという。
﹁それについては気になるだろうね。私も気になっている。たぶん、
私たちより以前にここを知ったハトハラーの者たちも、ずっと気に
なっていただろう。けれど、その答えを、私たちは持っていないん
だ⋮⋮﹂
﹁調べたりはしなかったのか?﹂
人間と言うのは良くも悪くも好奇心のある生き物だ。
ガルブ程の年齢になってくると、流石に周囲に対する興味も緩や
かになってくるだろうが、そうでない限り、ここまで大きな秘密を
教えられたら、色々と知りたくなるのが普通だろう。
ガルブとカピタンが例外的にそうは思わない人間だったにしても、
長い間、何人となくこの秘密を守ってきたはずだ。
そんな人間のうちの誰かが、ここの秘密を調べよう、と思わなか
ったと言うことは考えられない。
そう思っての質問だった。
1660
これにカピタンは答える。
﹁昔は調べようとした者たちもいた、とは伝わってる。狩人頭のみ
に伝えられる口伝にもそういう話はあるんだ。婆さんの方もあるん
だよな?﹂
ガルブはこれに頷いて、
﹁ああ。村の薬師⋮⋮というのは建前で、昔は︽魔術師長︾と呼ば
れていたようだが、その口伝にも同じ話はある。それに、村長の方
にもね。あっちは昔は︽国王︾と呼ばれていたようだよ﹂
﹁それを言うなら、狩人頭も︽騎士団長︾だったらしいがな⋮⋮ま、
俺たちの村のルーツがここにあるのなら、分からんでもない。俺た
ちは滅びた国の末裔だ。虚勢を張ってそんなことを言っていたか、
誇り高く生きようとしていたか⋮⋮分からないが、結局、今は他の
どことも変わらない、ただの田舎村さ﹂
カピタンがそう言って笑った。
1661
第248話 山奥の村ハトハラーと管理
これだけのものを見せておいて︽普通の村︾などというのは酷い
話だが、この秘密をなしにハトハラーという村を見るなら、ちょっ
とおかしいが確かに普通の村だった。
少なくとも、俺はそう信じていたのだから。
村人たちも、ここにいる二人、それに俺の義理の父親インゴを除
けば、同様にハトハラーを普通の村だと認識しているはずだ。
外に出れば違和感は感じるだろうが、ちょっと変わっていたな、
で終わってしまうくらいの違和感だ。
それにしても、だ。
どうして︽普通の村︾だと主張しているのに、俺たちをわざわざ
ここに連れてきてくれたのか。
ずっと︽普通の村︾でありたいのなら、俺たちにもここは教える
べきではなかったように思う。
少なくとも、昔からずっとそうしてきたはずだ。
村の限られた古老や責任者だけが知り、秘密を守り続けていた。
そういうことだろう。
それなのに、と不思議に感じる。
まぁ、俺に何か聞きたいことがあるから、その代わりに、という
話はしていたが、教えてくれた秘密の規模が大きすぎる。
そんなことを思っていると、ガルブは言う。
﹁⋮⋮今、カピタンが言ったが、もうハトハラーは︽普通の村︾な
んだ。ここを知っている者がもう今じゃ、三人しかいなかったのが
その証拠さ。だからね⋮⋮本当に普通の村にした方がいいと思った
んだ﹂
1662
﹁どういう意味だ?﹂
俺が首をかしげると、ガルブが続けた。
﹁以前、言ったろう? 昔、村はもっと殺伐としていたってね。そ
れは、ここがあるからさ。昔話になるが、魔術師長、騎士団長、国
王⋮⋮昔ながらのそんな役割はもう、その三つしか残っていないが、
私が若かった頃は他にも宰相、司法大臣、神官、なんてのもいたん
だ﹂
今はない、ということはなくなったということに他ならない。
どうしてなくなったのか。
殺伐としていた、という言葉からして、あまりいい話ではないの
が分かる。
ガルブは続ける。
﹁私が若かった頃のことだから⋮⋮カピタンやインゴも生まれてい
なかったね。先代の村長の時代だ。そのころ、ここのことを知って
いた六人は、意見が割れていた。つまり⋮⋮ここを有効活用するか
否かで、だ。宰相、司法大臣、神官の役を持っていた三人は、ここ
をうまく使えば、ハトハラーは人を呼べる、大規模な街になる、そ
うすれば生活はもっと豊かになって、村民たちは幸せになれる、と
しきりに主張していたよ。その意見を、他の三人も理解できないで
はなかったが、しかし、積極的に肯定する気持ちにもなれなかった
と聞いている。なにせ、遥か昔からずっと守り続けた秘密だ。今、
自分たちの代で外に出すのは⋮⋮という保守的な理由がまず一つ、
そしてもう一つが、ここの危険性だよ。こいつを見ればわかるだろ
う?﹂
1663
シャホール・メレフナメル
そう言って、ガルブは黒王虎を撫でる。
ごろごろ言って完全に猫だが、本来は戦えば化け物だ。
こんなものを村が戦力として抱えていたら、確実に利用しようと
言う者が現れるだろう。
⋮⋮つまり、危険性とはそういうことか、と俺は推測する。
﹁どこかに利用されるってことを心配したのか?﹂
﹁そうさ。国や組織はいうに及ばず、個人だって強力な力を持つ者
は村の外には沢山いる。確かにこいつや、この場所は強力な武器に
なりうるが、そもそも私らは田舎ものさ。最後には騙されて使われ
て、村は荒廃するんじゃないか、という気持ちが強かったんだ。だ
から⋮⋮両者の主張は最後まで交わることなく終わった﹂
﹁⋮⋮終わった?﹂
何がどう終わったのか。
俺がその続きを促すと、ガルブは頷いて、
﹁終わったのさ。私やカピタンを見りゃ分かるだろうが、ハトハラ
ーの役職持ちは特殊な技能を色々と持っていてね。みんな魔術や気
が使えた。それも普通のものじゃない。古くから伝えられてきた、
強力なものをだ⋮⋮。宰相たちの意見は変わらず、最後に彼らは武
力でねじ伏せようとしてきた。それに当時の他の三人達も対抗して
⋮⋮勝ち残ったのが、当時の魔術師長、騎士団長、国王⋮⋮つまり、
薬師と狩人頭と村長だった、ってわけだね。まぁ、被害ゼロとはい
かなかった。薬師は重傷、狩人頭も狩人としてはもう駄目になった。
村長はなんとかなったが、それでも満身創痍だったのには変わりな
い。そして、宰相たち三人は全員死んだ、とこういう結末だ﹂
1664
血生臭いにもほどがある。
殺伐としていた、というがここまでとは思わなかった。
こんな村で、そこまで激しい闘争が繰り広げられたことがあった
とは⋮⋮。
何とも言えないでいると、ガルブはふっと笑い、
﹁ま、昔の話さ。で、話を続けるけど、そんなことが起こったのは
結局、ここを守ろうとしているからだからね。もうやめようって思
ったのさ。あんたらに託して﹂
と、かなりの問題発言を投げ込む。
﹁⋮⋮ここを守るために頑張ったんじゃなかったのか?﹂
﹁ま、確かにそうなんだけどね。事情が変わったのさ。ほれ、そこ
のロレーヌがレルムッド帝国出身なんだろう? それでここを知っ
ている⋮⋮つまり、あの村での争いのあと、ここの存在はレルムッ
ド帝国の知るところになったのさ。まぁ、ハトハラーと繋がってい
ることは未だに分かっていないようだが﹂
この言葉に、ロレーヌは頷いて、
﹁ここをレルムッド帝国が把握したのは五十年近く前だと言われて
いるが⋮⋮さっきも言ったように大したことは分かっていない。た
だ、それでもここは古代の遺跡だからな。有用な魔道具があるだろ
うということはずっと言われている。ただ、調査の難しさのために
今まで放置されてきたが、最近、帝国は物騒だからな⋮⋮。ここの
価値も見直されて、調査隊を定期的に派遣する計画も提案され始め
ているとは聞いたことがある﹂
1665
ガルブもこれに頷き、
﹁ま、そういうことさ。そもそも、宰相連中が当時、ここを公開す
べきだ、と言ったのは奴らのうち誰かがここに人が来たのを目撃し
たかららしいからね。誰かに手柄を奪われる前に自分たちがって心
境もあったんだろうさ。とは言え、人が来たことなんて、歴史をさ
かのぼれば何度もあったと私たちの口伝には伝わっている。口実の
一つに過ぎなかったんだろうと思うが⋮⋮今はそうじゃない。帝国
が国を挙げて調査に乗り出すんなら、今まで通り安心という話にも
いかないだろう。誰かフットワークの軽い者に管理を任せたくてね。
それでちょうど良さそうなのがいるじゃないか、と、そういうわけ
だ﹂
1666
第249話 山奥の村ハトハラーと鍵の作り方
﹁管理を任せたいって⋮⋮﹂
ガルブの言葉に、俺は何といっていいものか悩んだ。
ロレーヌも難しい顔をしている。
当然だろう。
こんな、個人の手の内に収めるのにはあまりにも大きすぎるもの
を、ぽん、と手渡されても、困ってしまう。
そんな俺たちの心境を察してか、カピタンが言う。
﹁別に、お前たちだけに管理をしろ、とか俺たちはもう完全にかか
わらないとか言っているわけじゃない。どっちかというと、管理者
の中に加わってほしい、という感じだな﹂
それは、少し、要求が下がった感じのする話だ。
しかしそれならわざわざ俺たちに頼まずともいいような気がする
が⋮⋮。
そう思って、
﹁今まで通りじゃダメなのか?﹂
そう尋ねると、カピタンは、
﹁ダメではないな。ただ、お前たちも加わった方が望ましい。たぶ
んだが、利益もある﹂
﹁利益?﹂
1667
それはいったい何だろうか。
ロレーヌみたいなのからすれば、ここを魔物の妨害なく好きに調
べられるだけで利益になるかもしれないが、カピタンが言うのはお
そらくそういう感じではないだろう。
カピタンが、
﹁婆さん、そうだよな?﹂
とガルブに話を振ると、ガルブは頷いて、
﹁ああ⋮⋮まぁ、百聞は一見に如かず、だ。ちょっと見に行ってみ
ようか⋮⋮よっこらせっと﹂
シャホール・メレフナメル
そう言いながら、黒王虎の背中に上る。
そこから俺たちを睥睨して、
﹁ほれ、何してるんだい、あんたたち。早く乗りな﹂
と結構な無茶を言って来た。
カピタンは言われる前からいそいそと登り始めていて、どうあっ
ても登らないとならないらしい。
少し腰が引けるが、もうかなり慣れてきているのも事実なので、
シャホール・メレフナメル
俺とロレーヌは顔を見合わせてから、仕方がないか、とアイコンタ
クトをして黒王虎の背に上ったのだった。
流石の巨体と言うべきか、四人の人間が背中に乗っても全く問題
のない広さで、しかもふかふかして気持ちいい。
居心地のいい空間に、眠気をあまり感じない俺ですら眠りたくな
るくらいだ。
1668
シャホール・メレフナメル
しかし、今、実際にそんなことをしたら大変なことになるだろう。
なにせ、なぜこの黒王虎の背中などに乗ったのかと言えば、ここ
シャホール・メレフナメル
から移動をするため、ということで間違いがないからだ。
﹁じゃ、行くよ﹂
シャホール・メレフナメル
ガルブはそう言って、黒王虎に何か指示を与えた。
すると黒王虎は滑る様に動き出し、そして、ほんの数秒で恐ろし
いまでの速度に至った。
シャホール・メレフナメル
洞窟の外、つまりは迷宮都市の中へと飛び降りるように駆け下り
た黒王虎。
俺たちの周囲に、滅びた都市の遺跡が次々と現れては後ろに遠ざ
かっていく。
洞窟は壁際の結構上の方にあったため、遺跡を見下ろすような格
好で見ていて、かなり距離があったが、こうして近くで見てみると、
建物たちにはほとんど劣化が見られず、遺跡と言うよりかは、たっ
ライト
た今、住人が全員消えてしまったかのような印象を受ける。
様々な建物の中に、ぼんやりと魔法灯の光が浮かんでおり、誰も
人の住まない街を奇妙に有機的に照らしていた。
﹁どこに向かってるんだ!?﹂
俺がそう叫ぶように尋ねると、ガルブが、
﹁街じゃなくて都市と囲んでる壁の方を見な!﹂
と叫び返してきた。
壁⋮⋮?
と思いつつも、言われた通り、そちらの方に目を向けると、ぽつ
ぽつと壁に穴が開いているのが見える。
1669
位置から見て、俺たちが先ほど降りてきた洞窟と同じような高さ
にあり、しかも大きさも同じくらいだろうと言うことが分かる。
それが無数⋮⋮というほどでもないが、それなりに沢山ある。
あれが何なのだろうか⋮⋮と思っていると、ロレーヌが、
﹁やはりか⋮⋮﹂
と呟いた。
どういう意味かと思い、
﹁何か分かったのか?﹂
と尋ねると、ロレーヌは言った。
﹁ああ。さっき言っただろう。転移魔法陣の存在は帝国の方ですで
に確認されていたと﹂
﹁そう言えばそうだな⋮⋮それがどうかしたか﹂
﹁確認されていた転移魔法陣の位置は、ハトハラーからの転移魔法
陣のあったあの洞窟ではない。別の位置にあるものだ﹂
﹁それはどういう⋮⋮?﹂
﹁五十九層から降りてきてすぐの、街の入り口辺りに小さな洞窟が
あって、そこで確認されてるんだ。そこから先は魔物の問題があっ
てな。進めていない﹂
そこまで聞けば、俺にも推測できる。
1670
﹁⋮⋮転移魔法陣は複数あるのか﹂
﹁ああ、それもハトハラーからのものと、その街の入り口のものの
二つだけではなく、あの壁に無数に開いた洞窟のそれぞれにあると
いうことではないか⋮⋮?﹂
少し震えながらロレーヌが言った言葉に、ガルブが、
﹁そういうことさ! ま、私も全部行ったわけじゃないから、どれ
がどこに繋がってるのかは把握できてないがね!﹂
と叫ぶ。
それを聞いたロレーヌは、
﹁⋮⋮考えるだに恐ろしい話だな。ここが帝国の支配するところと
なったら、大陸は間違いなく帝国に飲み込まれるぞ⋮⋮﹂
そう言ったので、俺も頷く。
﹁絶対に明かせないな⋮⋮。まぁ、ハトハラーの住人がいなければ
転移魔法陣は動かせないんだから、その意味だと安心かな?﹂
﹁むしろハトハラーの住人の身が危険な気もするが⋮⋮﹂
確かにそれはそうだろう。
ハトハラーの住人をカギにすれば動かせるわけだし、そうなると、
ハトハラーの住人は狙われるだろう。
とは言え、そんな事実に簡単にたどり着けるとも思えないが⋮⋮。
﹁⋮⋮そういえば﹂
1671
と、ロレーヌがふと思いついたように言う。
ひそひそとした、小さな声で。
ヴァンパイア
﹁⋮⋮レント、お前、吸血鬼になったにもかかわらず稼働させられ
ヴァンパイア
ヴァンパイア
たのだから⋮⋮お前の眷属を連れていればもしかしたら動くんじゃ
ないか? 吸血鬼の眷属化は、吸血鬼の血を眷属となる者に多少と
は言え、移すものであることだし⋮⋮﹂
と。
それは⋮⋮どうなんだろうな。
やってみなければわからない。
エーデルを連れてくればよかったが、あいつは今はいないからな
⋮⋮。
今度試してみたいところだ。
しかし、それが可能だとすると、俺一人いれば転移魔法陣の鍵の
問題は解決してしまう。
⋮⋮なんだろう。
俺の身の危険が凄く上がったような気がしてきた。
色々と知られたうえで、帝国に、やめて、私のために争わないで、
と言っても絶対に俺の身柄を奪い取りに来るだろうと言うくらいに
は危険だ。
1672
第250話 山奥の村ハトハラーと贈り物
しばらく進んで辿り着いたのは、壁に大量にあった洞窟のうちの
一つ、もっとも奥まった位置にある場所だった。
ここもまた、転移魔法陣が⋮⋮と、思っていたのだが、
﹁⋮⋮何もないじゃないか﹂
俺はそう、ガルブとカピタンに言う。
構造的には最初に飛んできた部屋と全く同じだ。
少し長めの通路が続き、そしてその最奥に大きな広間がある。
ただ、違うところを上げるのなら、その地面には何も描かれてい
ない、ということだろう。
ガルブも俺の言葉に頷いて、
﹁まぁ、そうだね。でも別に間違えて連れてきたわけじゃないよ⋮
⋮カピタン﹂
そう言って、カピタンに顎をしゃくると、カピタンは懐から二つ
の石を出してきた。
鈍く光る赤い石と、曇った青い石。
あれはなんだろうか⋮⋮。
そう思っていると、カピタンは赤い石の方を手に持ち、そしてそ
れを思い切り地面に叩きつけるように投げた。
すると、赤い石はばきり、と割れ⋮⋮その直後、物凄い勢いで地
面に文様が描かれ始めた。
﹁こ、これは⋮⋮!? まさか、転移魔法陣か!?﹂
1673
ロレーヌが驚いたようにそう言うと、ガルブが頷く。
﹁そうさ。私らに残された魔道具、そのうちの一つ⋮⋮新たに転移
魔法陣を描くことが出来る、秘宝。薬師と、狩人頭に一対ずつ受け
継がれていてね。それを今、ここで使った﹂
﹁一対ずつ⋮⋮? あの赤い石と青い石でセットと言うことか?﹂
俺が尋ねると、ガルブは応える。
﹁ああ。どっちから使ってもいいんだが、地面に叩きつけると、こ
のように転移魔法陣が描かれていく。出口は、もう一方の石を叩き
割った場所になる、というわけさ。どうだ、便利だろう?﹂
便利も何も、新たな転移魔法陣を描ける魔道具なんてものは、オ
ークションに出したらそれこそ天文学的な値段がつきそうな代物だ。
少なくとも俺はそんなもの見たことはない。
俺たちにそういうことが出来る、と見せるためだったのだろうが、
そんなものこんな気軽に使っていいのか⋮⋮。
そう思っていると、カピタンが、
﹁こっちはお前たちにやろう。どこか好きなところに転移魔法陣を
作るといい﹂
そう言って青い石を手渡してきた。
曇っている、と遠目には見えていたそれは実際に近くでじっくり
見てみると、ものすごく細かい文字が螺旋を描くように内部で回っ
ている。
なるほど、高度な魔道具なのだろうな、と言う感じだ。
1674
というか⋮⋮。
﹁これを、くれるのか? 俺たちに⋮⋮﹂
そう言うと、カピタンは、
﹁管理を任せると言ってるんだ。ハトハラーからマルトに帰ったあ
と、一々ハトハラーに馬車で来るのも面倒だろう? こいつがあれ
ば一瞬だ。まぁ、あの︽砦︾からハトハラーまでは徒歩で半日はか
かるが、かなり短縮されるだろ?﹂
と言う。
話自体はありがたいのだが⋮⋮いいのかな。
ロレーヌの方を見ると、
﹁⋮⋮﹂
物凄く手に取りたそうに青い石を見つめていたので、
﹁⋮⋮ほら﹂
と手渡すと、眼球がくっつきそうな距離で凝視し始めた。
ぶつぶつと何か魔術理論やら仮説やらを呟き始めて、なんだかち
ょっとだけ怖い。
が、学者冥利に尽きると言うか、こんなものを得られる機会なん
てどれだけ学者として地位を築いていても、運がなければないだろ
うから、興奮しきりなのだろう。
まぁ、いいかと放っておく。
それからガルブが、
1675
﹁⋮⋮おっと、私の方も渡しておこう。こっちは、対のまま、だね。
カピタンの方は勝手にここを出口にしてしまって悪かったが⋮⋮﹂
そう言いながら、赤い石と青い石を手渡してくる。
カピタンの奴とは少し色合いが違っているが、概ね同じだ。
取り違えたりしないように気を付けなければならないな、と思う。
出口が⋮⋮入り口かな、どっちでもいいか。
出口が、この遺跡都市になったのは、別に構わないだろう。
ガルブの話によれば、他にも沢山、転移魔法陣があるということ
だし、ここにきて、他の転移魔法陣を活用すれば遠くの土地に簡単
に行くことが出来るはずだ。
むしろ、二対そのまま渡されても、一対は普通にここに使ってい
たと思う。
ここと、そしてマルトに。
もう一対の方は⋮⋮どこに使おうとかあまり思い浮かばないが、
今のところは保留にしておいた方が良いだろう。
そのうち、目ぼしい場所が見つかるかもしれないし。
﹁あとは⋮⋮そうだね。一応、他の転移魔法陣も使ってみるかい?
いくつかだが、転移先を確認したものがある﹂
ガルブがそう言ったので、俺とロレーヌは頷いた。
﹁よし、じゃあ、もう一度、こいつに乗りな﹂
シャホール・メレフナメル
ガルブはそう言ってさっさと黒王虎に乗り込む。
シャホール・メレフナメル
流石に俺たちも慣れたので、さっきよりすんなり乗り込むことが
出来た。
四人全員が乗り込んだのを確認し、黒王虎は走り出す。
1676
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮この転移魔法陣は転移先を確認してある。とは言え、ちょっ
と面食らう場所だからね。例によって、私らが先に行こう﹂
ガルブがそう言うと、カピタンと連れだって乗り、消えていった。
﹁面食らう場所⋮⋮どういうところなんだろうな?﹂
俺が言うと、ロレーヌが、
﹁波打ち際の崖の上とか、火山の火口とかなどが考えらえれるな﹂
﹁⋮⋮流石にそれは勘弁願いたいな⋮⋮﹂
まぁ、もちろん冗談だが、ガルブをして面食らう、なんていうの
はそういうところしか思いつかない。
しかし、それでも行かないと言うわけにはいかないので、俺たち
は連れだって魔法陣の上に乗り、そのままどこかに飛ばされたのだ
った。
◇◆◇◆◇
﹁うわっ﹂
俺はつい、そう叫んでしまう。
なぜといって、転移した先で、まず一番最初に感じたのは強烈な
臭気だったからだ。
ロレーヌは声を出しはしなかったが、横を見てみると顔をしかめ
ている。
1677
その気持ちは分かる。
大分ひどい匂いがするからだ。
﹁私の言った意味が分かったろ?﹂
ガルブが笑いながらそう言った。
カピタンも笑っている。
なるほど、確かに面食らう場所だった。
しかし、ここは一体⋮⋮。
﹁それで、どこなんだ?﹂
俺がそう尋ねると、ガルブは言う。
﹁ここは下水道さ。その一部に造られた、隠し部屋の中。ええと、
この辺に⋮⋮﹂
そう言いながらガルブが石壁に触れると、一部が凹み、それから
壁の一部がごごごご、と音を立てながらずれていく。
数秒経つと、そこにはしっかりとした通路が現れていて、向こう
側には確かに下水道と思しき水の流れている水路が見えた。
﹁さぁ、行くよ﹂
そう言ったガルブに、俺たちはついていく。
1678
第251話 山奥の村ハトハラーと下水道の先
﹁ここは、あの遺跡都市が隆盛を誇っていたころからあったのかな
⋮⋮﹂
下水道の通路を歩きながら俺がふと、そんなことを言うと、ロレ
ーヌが少し悩んで、
﹁⋮⋮その可能性もないではないが、おそらく違うのではないかな。
ガルブ殿?﹂
ガルブに水を向けると、彼女が頷いて答える。
﹁ああ。ロレーヌの推測が正解だね。ここはそこまで古くはない。
まぁ、それでもかなり古いのは間違いないが⋮⋮それでも数百年程
度だ﹂
あの遺跡都市はおそらく数千年前クラスの古さだろうから、それ
と比べると確かに歴史が浅い。
しかし⋮⋮。
﹁転移魔法陣があったじゃないか。あれは今の技術じゃ作れないん
だから、その頃からあったってことになるんじゃないか?﹂
﹁レント、あんたはさっき何を見てたんだい? あの一対の石を持
っていたのは、本来、ハトハラーの役職付きみんなさ。ただ、途中
で使った奴らもいて⋮⋮ここの転移魔法陣は宰相の奴が使ったらし
いね。かなり昔の代のだが﹂
1679
なるほど、と思う答えだった。
しかし、基本的にハトハラーの役職付きの人々は、昔から、あの
遺跡やそれにまつわるものを秘匿して生きてきたはずだ。
それなのに、わざわざ転移魔法陣を作る理由が分からないが⋮⋮。
﹁そろそろ出口だ﹂
ガルブがそう言って指さした方向からは、確かに光が漏れている。
そこに向かうと、今度こそ、人工的な光ではない、太陽の光があ
った。
見える景色は⋮⋮森の中、かな。
水の流れる沢が見える。
﹁⋮⋮どこなんだ、ここは﹂
周囲を見る限り、全く分からない。
ガルブは、
﹁ちょっとお待ち⋮⋮︽隠れよ︽レヘスティール︾︾﹂
今這い出てきた下水道の出口を振り返ってそう唱えると、その出
口はさわさわと降りてきた蔦や草に覆われて見えなくなった。
見つからないように工夫しているわけだ。
そんな様子を見たロレーヌは、
﹁⋮⋮ガルブ殿の魔術と言う訳ではなく、この出入り口自体にかけ
られているもののようだな。簡単には解除できなさそうだ﹂
と言う。
1680
ロレーヌをしてそこまで言うということは結構高度な魔術なのだ
ろう。
普通の魔術師が通ってもそこに何があるのか気づかないようなも
のなんだろうな⋮⋮。
俺?
俺にはさっぱりだ。
魔術の世界は奥深すぎて⋮⋮。
そのうち一目見て、魔術の構成とかに言及できるようになりたい
ものだ。
無理か。
それから、俺たちは、ガルブに先導されてしばらく歩いた。
と言っても、それほど長くない。
十分程度と言ったところだ。
そして見えてきたのは⋮⋮。
◇◆◇◆◇
﹁あれは、王城じゃないか⋮⋮と言うことはここは王都か﹂
俺たちの前に見えているのは、聳え立つ巨大な建造物である。
かなり高い外壁に囲まれた都市の中央にあるその建物は、白く壮
麗で美しい。
この国において、あの建物より巨大で美しいものは存在しないだ
ろう。
つまり、ヤーラン王国王都ヴィステルヤの姿がそこにはあった。
正直言って、俺は初めて来た。
本や話でこんな場所だ、とは知っていたが、実際にこの目で見た
のは初だ。
1681
うーん、都市マルトの話に目を輝かせていた村人たちの感覚が今、
ありありと分かるな⋮⋮。
これが本当の都会と言うものだ。
そう思いながら隣を見てみると、ロレーヌの視線はいつも通りだ
った。
こいつはもっと都会を知っているから、さもありなんという感じ
ではあるが、なんとなく悔しい気がする。
そのうち帝国の帝都にも行ってやろうと思った瞬間であった。
﹁ちょっと見てから帰ろうか。そろそろ切れてきた素材があるんだ
よ﹂
ガルブが気軽な様子でそう言い、
﹁俺も寄りたいところがある。一旦別れて、あとで集合しよう﹂
などとカピタンも言った。
あまりにも気軽過ぎるその台詞に俺は尋ねる。
﹁⋮⋮いいのか? そもそも、ハトハラーの村の住人が王都に突然
現れたらおかしいんじゃ⋮⋮﹂
王都ヴィステルヤは外壁の東西南北に造られた正門において、王
都にやってきた者たちの簡易的な身分照合をしていると聞く。
それを乗り越えるためには身分証を出さなければならないが、そ
れをどうやって⋮⋮と思っていると、二人そろって見慣れた銅のカ
ードを取り出して見せていた。
﹁⋮⋮銅級冒険者証じゃないか⋮⋮﹂
1682
俺がかつて、とるのにそれなりに苦労し、二度目は簡単にとった
冒険者証である。
なぜこの二人が持っているのか⋮⋮。
そんな俺の視線の意味を理解したのか、カピタンが言う。
﹁こういうときに使うためだ。名前も適当にしてあるし、とったと
ころはハトハラーから遠く離れた地方都市だからな。怪しまれるこ
とはない。たまに活動しているからその履歴も記録されているしな
⋮⋮﹂
と、冒険者証に記載されているギルドの所在地を見れば、確かに
ギルド
かなり離れた地方都市のそれが書いてある。
どんな依頼をどれだけ受けたのかは、冒険者組合の方でないと確
認できないので分からないが、カピタンの腕だ。
かなりのものになるだろうことは簡単に想像できた。
ガルブもまた、そうだろう。
ガルブの冒険者証の方はカピタンの冒険者証に記載されているギ
ルドの場所とは異なるギルドの番地が記されていて、無駄に芸が細
かい。
どちらも村から旅をしてそこでとったわけではなく、あの転移魔
法陣のどれかを使って行ったのだろう。
かなり気軽に使っているらしかった。
いいのか?
と思うが、この二人が何の警戒もなく使ってきたわけもないだろ
う。
﹁そういうわけだから、お前たちも王都見物でも楽しんでくるとい
い﹂
カピタンは気軽にいうが、
1683
﹁⋮⋮俺たちもそれなりに怪しまれるんじゃ⋮⋮﹂
と口に出すと、ロレーヌが、
﹁お前の場合、レント・ヴィヴィエとしての冒険者証を使えば問題
ないだろう﹂
と言ってくる。
⋮⋮確かにそれもそうか。
ちょうど街を留守にしているわけだし、レント・ファイナは里帰
りで、レント・ヴィヴィエは王都に行ってました、で通すことは出
来る。
しかしだ。
﹁ロレーヌはどうするんだ?﹂
﹁私か? 私は私で、あまり褒められたことではないが⋮⋮ほれ﹂
そう言って、彼女は帝国の身分証明書を何枚か出して見せた。
その全てに別の名前が記載してある。
明らかに偽造だ。
本名のやつもあるが、それを使う気はないのだろう。
たまにこういうことがあるので、ロレーヌが帝国でどんな扱いだ
ったのか気になってくるが、まぁ、今さらだろう。
それに、ロレーヌがロレーヌであることはいつだって変わらない。
それでいいのだ。
﹁ま、問題ないなら良さそうだな⋮⋮じゃ、行くか﹂
1684
そう言って、俺たちは王都正門に向かった。
1685
第252話 王都ヴィステルヤと簡易検査
王都正門の人通りは激しい。
当たり前だ。
いくらヤーラン王国が田舎国家だからと言っても、国の形を保っ
ているのだ。
その王都となれば、相当な数の人の行き来があって当然だ。
ただ、田舎国家の田舎国家なところは、その身分照合のアバウト
さなんかに現れる。
﹁⋮⋮身分証は?﹂
正門に立つ衛兵の一人が、俺たちよりも前に並んでいた男にそう
尋ねた。
男は着古した衣服に、布で包んだ野菜がいくつか、藁で編まれた
帽子をかぶっていて⋮⋮という見るからに田舎村からやってきまし
た、という格好で、案の定、衛兵の質問に、
﹁あぁ、おら、作ったことがなくてぇ⋮⋮﹂
と、酷い訛りのある発音で答えた。
衛兵もこんなことは慣れっこのようで、呆れたような表情で首を
振り、
﹁⋮⋮どこの出身だ?﹂
そう尋ねると、男は、
1686
﹁ヤンガ村だぁ。野菜を売りに来た﹂
と素直に答えた。
布で包んだ野菜一式を広げて見せ、そこに何も怪しいものがない
ことを確認すると、衛兵は頷いて、
﹁⋮⋮はぁ。通ってよし﹂
と言ってそのまま通した。
これを見ていたロレーヌが、
﹁⋮⋮あれでいいのか? 野菜の中に何か禁制のものを隠し持って
いる、とかそういうこともありうるぞ﹂
と帝国での常識と照らし合わせながら尋ねるが、
﹁⋮⋮まぁ、いいんじゃないのか? 王城周辺の貴族街に入るため
にはしっかりと厳しい検査をしているらしいし。一応そこに犬がい
るからそういうものは嗅ぎ付けてくれるんじゃないかな⋮⋮﹂
なんとなく周囲を観察しつつそう言ってみたが、それが本当に正
しいのかどうか、俺には分からない。
ただ、検査の適当さについては昔から、王都に向かう先輩冒険者
たちに聞いてきた。
まぁ、こんなものだろうなという印象が強い。
﹁⋮⋮よく今まで周辺諸国に滅ぼされなかったものだ⋮⋮﹂
呆れたように言うロレーヌだが、俺も同感だ。
ただ、
1687
﹁ヤーランなんか攻め滅ぼしたところでいいことなんか一つもない
からな。領土が広がるかもしれないが⋮⋮旨みのある土地なんてほ
ぼないぞ﹂
一応地方都市いくつかはそれなりの規模なので責める価値はある
かもしれないが、そもそも周辺国家もヤーランと似たり寄ったりの
お国柄だ。
のほほんとして、中央で行われているような華々しい権力闘争は
良くも悪くも存在しない。
まぁ、別にそこまでのほほんとしているわけでもないんだろうが、
ガチガチの規律や法律によって治められているだろう帝国なんかと
ゆえん
比べるとそう言わざるを得ないだろう。
田舎国家と言われる所以である。
﹁⋮⋮次!﹂
衛兵にそう言われて、俺は前に出た。
衛兵は俺の顔を見て、仮面を被っているのに気づいたようだが、
﹁⋮⋮身分証をはあるか?﹂
と触れずに尋ねた。
顔に見せられない傷を持つ人間、というのが少なからず世の中に
いて、それにあえて触れないと言う気遣いの出来る衛兵らしい。
俺は素直に身分証を出す。
レント・ヴィヴィエの方だ。
それを受け取った衛兵は、
﹁なるほど、冒険者か。訪問の目的は?﹂
1688
正直言って目的なんかない。
いきなり連れて来られて即解散を言い放たれただけだが、強いて
言うなら⋮⋮。
﹁観光と下見です。地方都市で冒険者をやってるんですが、そのう
ち王都でも活躍できるようになりたいなと﹂
﹁なるほど、銅級となるとな⋮⋮銀まで上がれば王都でも十分にや
っていけるだろう。精進するといい。よし、通ってよし!﹂
と、肩を叩かれ、問題ないことを告げられた。
しっかり仕事をしているようだが、見る限り、出入りした人間の
身分を記録しているような様子はない。
実際、していないのだろう。
それこそ王都中央ら辺にあると言う貴族街まで行けば記録される
のだろうが、ただ下町に入る程度でそこまでするのは手間と言う所
だろうか。
やっぱり適当だな、と思ってしまうが、ヤーランと言うのはこれ
くらいの国だ。
ヴァンパイアイヤー
俺に続いてロレーヌも衛兵に色々聞かれている。
距離は離れているが、俺の吸血鬼耳には会話の内容がとても良く
聞こえた。
﹁身分証は?﹂
そう言われてロレーヌは帝国のものを出した。
すると、
1689
﹁て、帝国の方でしたか⋮⋮﹂
と衛兵がとても遜っている声が聞こえた。
帝国と言えば、ヤーランから遠く離れてはいるが、それでも押し
も押されもせぬ大国であることは誰でも知っているからな。
そこから来た人間なら、邪険にできない感覚はヤーラン王国民と
して理解できる。
あんまり下手なことすると帝国からいちゃもんをつけられかねな
いからだ。
﹁ああ。あまりそれは気にしないでくれ。訪問の目的は観光だ。通
っても構わないかな?﹂
と、堂々とした態度でロレーヌが衛兵に言えば、衛兵も、
﹁もちろんです。ただ、帝国の方と言えども、何か問題を起こされ
た場合には⋮⋮﹂
遜っているとはいえ、衛兵としての矜持は残っているらしく、ロ
レーヌに忠告をした。
ロレーヌはそれに頷いて、
﹁分かっている。大人しく観光を楽しませてもらうよ。ではな﹂
そう言ってこちらにやってきたのだった。
﹁⋮⋮いくらなんでも遜りすぎではないか?﹂
応対された本人であるのに、ロレーヌは俺に近づくと同時にそん
なことを言って来た。
1690
俺はそれに少し考えて答える。
﹁まぁ⋮⋮たしかにそうなんだけどさ。帝国の人間なんてまず、ヤ
ーランに来ないだろ? マルトから来た俺を見るリリたちみたいな
感覚なんだろう﹂
﹁都会に人だ、というわけか。私は元々帝国でもそれほど都会の人
間と言う訳でもなかったのだがな⋮⋮まぁ、それはいいか。しかし、
せっかく王都に来れたのだ。色々と見て回ることにしよう。レント
は行きたいところはあるか?﹂
ギルド
﹁俺は、まず冒険者組合が見てみたいかな⋮⋮あぁ、でも流石にそ
れはまずいか﹂
ギルド
大した記録もとらない簡易検査くらいならともかく、冒険者組合
本部にこの格好で行ったら流石に記憶されてしまいそうだ。
ローブと仮面だけならともかく、俺の仮面は割と派手だからな。 骸骨模様が恨めしい。
そう思っていると、ロレーヌが、 ﹁ローブの色を変えて、仮面はその上に布でも被せればなんとかな
るんじゃないか? ローブの色の方は、私が魔術で染色しよう。魔
術に強い耐性があるということだから、表面だけとはいえ通るかど
うかはやってみなければ分からないが⋮⋮﹂
そう提案してきた。
確かにそれなら、いつかまた訪れても同一人物だ、とはなりにく
いかもしれない。
とりあえずやれるだけやってみてもらって、ダメそうなら諦める
ことにしようか、と、一旦二人で、路地の方の人気のないところに
1691
進むことにした。
1692
第253話 王都ヴィステルヤと変化
﹁⋮⋮とりあえずはこんなものかな。悪くはないと思うが⋮⋮﹂
ロレーヌがそう言ったので、俺は自分のローブを見た。
幸い、魔法耐性の高い俺のローブは、表面だけ魔術を走らせるこ
とも可能だったようで、色合いは全面的に変更されている。
星さえも飲み込みそうな漆黒だった俺のローブは、今や紫の地に
複雑な文様が描かれた洒落たデザインに変わってしまった。
﹁ロレーヌにはデザインの才能もあったのか?﹂
見た目を変える、とはいってもせいぜい色を真っ赤に、とか黄色
に、とかその程度かと思っていたら、考えていた以上に本格的なデ
ザインがされていたのでつい、そう尋ねたくなったのだ。
するとロレーヌは首を振って、
﹁いや、帝都で最近流行ってるんだよ、そんなのが。私は着ないが
⋮⋮ちょうどよさそうなので拝借したまでだ﹂
そう答えた。
なるほど、これは天下の大都会、帝都で流行っている模様なのか
⋮⋮。
ということはつまり、世界でも先進的なスタイルである。
まだど田舎ヤーランでは見かけないわけだ。
超絶おしゃれさんとして胸を張って歩こうかな⋮⋮。
そんなことを思う。
1693
⋮⋮いや、流石にそれは俺らしくないかな⋮⋮でもたまには⋮⋮。
妙な思考がせめぎ合うが、そんな俺を我に返らせたのはロレーヌ
の言葉だった。
ギルド
﹁それより、冒険者組合本部に行くのではなかったか?﹂
﹁⋮⋮そうだった。そういえばロレーヌはどうするんだ? 俺と違
って何度か来たことはあるんだろう?﹂
ロレーヌはこれで銀級だから、普通にマルトから王都への護衛依
頼とかもソロで受けられる。
それに、錬金術のために必要な素材がマルトでは手に入らない、
ギルド
ということで王都にちょっと行ってくる、なんていうこともたまに
あった。
その際は当然、冒険者組合本部にも行っているだろうし、そのま
まだと流石にまずいのではないか、と思ったのだ。
﹁私は私で⋮⋮ほれ、これでどうだ﹂
そう言って何かの魔術を自らにかける。
すると、そこには先ほどまでのロレーヌとはまるで印象の違う存
在が立っていた。
ウェーブのかかった派手な髪に、各パーツをかなり強調した化粧
が顔に施されている。
メガネを身に着けているが、それが全体から感じる蠱惑的な空気
をさらに強めているような感じだ。
服もいつもの野暮ったいローブではなく、きらびやかに着飾られ
たもので、都会的な印象が強い。
これもまた、帝都で流行っている服、ということなのだろう。
ヤーランで見たことはないからな⋮⋮しかし洗練されていると俺
1694
でも分かる。
全体として見て思うのは、金持ちで、かつ実力のある、一癖も二
癖もありそうな年齢の分からない女魔術師、という感じだ。
近づくと火傷では済まなそうな気がする。
⋮⋮俺みたいに骨になったりな。
流石にそれはないか。
﹁随分とまた⋮⋮変わったな。幻惑魔術で出来ることの幅広さが分
かる⋮⋮﹂
基本的に人の容姿や服装を変えてしまう魔術は、幻惑魔術、とか
変化魔術とか呼ばれる。
あまり習熟していないと、出来ることはほとんどないが、熟練度
が上がっていくつれ、出来ることは増えていき、最終的には身長も
含め、完全な別人に見せることも可能になる凄い魔術だ。
例によって、幻影魔術と並んで劇場付魔術師の必須の技能である
が、人相まで変えてずっと維持することは中々に難しく、基本的に
は服装をいじるのにつかわれるのがせいぜいだ。
それなのに、ロレーヌのこの完成度である。
学者や冒険者よりも、劇場で引っ張りだこになりそうな才能だな
⋮⋮。
そう思って言った俺だったが、ロレーヌは首を振って、
﹁⋮⋮何を言ってるんだ。幻惑魔術なんて使ってないぞ。服と髪型
を変えて、化粧をしただけだ﹂
と言った。
⋮⋮?
え、だってどう見ても⋮⋮と思って、まじまじとロレーヌの顔に
近づいてそのパーツやら何やらを凝視する。
1695
﹁⋮⋮本当だ。パーツとか一切変わってないな⋮⋮﹂
つまり、純粋な化粧技術と服装の変化でしかなかった、というわ
けだ。
髪型も、色は変わっておらず、ただ豪華に見えるようにウェーブ
がかかっているだけだ。
本来の意味で︽化けた︾わけで、凄い。
だからつい言ってしまう。
﹁⋮⋮化けたもんだな。凄いぞ﹂
﹁⋮⋮お前、失礼な。私だって女の端くれだぞ。これくらいはやろ
うと思えば出来るのだ﹂
﹁別に出来ないとは思ってなかったよ。顔立ちだって元々美人だろ
う。ただそういうの面倒くさがりそうなのに、よくやったもんだと
思っただけで⋮⋮どうした?﹂
ただただ感心した、ということをロレーヌに言っていると、なぜ
か途中で後ろを向いてしまった。
何かまずいことを言ったのか?
と思ったが、そんなに問題あることは言っていない⋮⋮と思う。
まぁ、︽化けた︾発言がよくなかったのかもしれないが⋮⋮。
女性が化粧をして変わったからってそういうことは言ってはなら
ギルド
ないと、マルトの恋人がいたり結婚している冒険者連中には何度と
なく言われたことを思い出した。 ﹁⋮⋮いや。何でもない。特に問題はない。ほら、冒険者組合に行
くぞ﹂
1696
ロレーヌはそう言って歩き出した。
⋮⋮?
確かに、その声色には特に気分を害したところはない。
むしろどこか弾んでいるような感じすら受けるが⋮⋮何だったの
か。
まぁ、本人が何でもないと言っているのだからこれ以上聞いても
仕方ないのだが。
俺はそう思ってロレーヌの横に並ぶ。
路地裏から出ると、先ほどまでとは異なり、待ちゆく人の視線が
かなりこちらに向けられていることに気づく。
ロレーヌの派手な美人感に目が向いているのか、と思えば、魔術
師たちが俺の方を見ているのも感じた。
うーん、これはたぶん、かなり先進的なファッションをしている
俺たち二人が街のおしゃれさんと認識されたと言うことだろう。
⋮⋮目立ち過ぎじゃないか?
という気がするが、まぁ、変わった服を着ている、くらいならま
だセーフだろう。
これで何か問題を起こしたらまずいが、そんな気はないしな⋮⋮。
ギルド
そして、俺たちは冒険者組合に辿り着く。
マルトのそれとは異なる大きな建物で、その前に立つだけで何か
震えるものを感じた。
ずっと目指して、十年辿り着けなかった場所だ。
妙なきっかけでも、訪れられたことが嬉しかった。
﹁じゃあ、入るぞ﹂
ロレーヌが先達としてそう言って先に進んだので、俺もそれに続
1697
いた。
1698
第254話 王都ヴィステルヤと虹
ギルド
ギルド
ギルド
王都の冒険者組合は、このヤーランにおける冒険者組合の総元締
ギルド
めだ。
ギルド
冒険者組合本部、とヤーランで言ったら、王都冒険者組合を指す。
他の国の冒険者組合とはどういう関係にあるかと言うと、緩やか
な協力関係にあると言う感じだろうか。
ギルド
クラスや依頼達成状況などについて共有し、別の国に行っても依
頼を受けられるようになっているわけだ。
なぜ緩やかな協力関係かと言えば、それぞれの国の冒険者組合は
国家による統制を受けるからだが、その辺りは微妙なところらしい。
ギルド
他国の情報を流したり、仕入れたりすることは日常的にやってい
るし、冒険者組合ほど規模の大きな団体を完全に統制できるわけも
ギルド
なく、権力闘争が絶えず行われているようだ。
だからこそ、冒険者組合は胡散臭いと言うか、国からはあまりい
い目では見られない。
ま、俺みたいな低級冒険者が考えることでもないのだが、そうい
うのは噂話でも色々聞くと面白いからな。
結構楽しんで話したりしているものだ。
ギルド
そんな冒険者組合の本部建物は、マルトのそれとは違って相当に
巨大で、かつ洗練されていた。
受付カウンターも高級感があり、安物の木造りだったマルトとは
大違いである。
受付にいる職員たちも、なぜか美人が多い。
マルトの職員も美人じゃないと言う訳ではないのだが、なんとい
うか⋮⋮都会的な美人ばかりと言うか。
1699
﹁⋮⋮おい、見とれるなよ﹂
ロレーヌからそんな声が飛んできたので、
﹁見とれてないって。ただ、随分、感じが違うなって思っただけだ﹂
実際は多少見とれていたが、それはご愛嬌と言うものだろう。
ロレーヌもそれは分かっているのだろうが、呆れて鼻を鳴らすだ
けで済ませてくれたのはありがたい話だ。
ギルド
﹁とりあえず、案内してやろう⋮⋮まぁ、そうは言ってもあるもの
はマルトと大して変わらんがな。そこが冒険者組合経営の酒場兼軽
食所、そっちが受付、そっちが解体所、そこが鑑定カウンターで⋮
⋮あとは、依頼掲示板かな﹂
そうやって言われると、確かにどれもマルトにあるものばかりだ。
机や椅子、内装がマルトのそれと一線を画する高級感を有するの
で全然違うところに来ている感じがするが、改めて説明されると何
も変わらない。
依頼掲示板にも寄って行ってみるが、それこそマルトと同じだ。
ただ⋮⋮。
﹁⋮⋮やっぱり結構難しそうな依頼が多いな。お、この薬草採取は
簡単そうだ﹂
﹁お前にとっては簡単なんだろうが、それは見分けるのが難しいか
らな。王都の冒険者にとってはかなり難しい依頼だぞ。依頼日を見
てみろ﹂
﹁⋮⋮三日前じゃないか。俺なら速攻とるぞ、こんなの﹂
1700
﹁マルトの冒険者なら三日は放置しないだろうな⋮⋮お前の教育の
アンデッド
賜物か、薬草とかに詳しい冒険者が多いからな﹂
ギルド
教育とは、俺がマルトの冒険者組合で、不死者になる前にたまに
開講していた初心者向け講義のことを言っているのだろう。 講義と言っても、何か特別に難しいことを教えたりはしなかった
が、初心者冒険者にとって稼ぎの大半になるだろう薬草採取のため
に、その辺りの見分け方とか、どんなところに生えているかとか、
山や森の歩き方についてはかなり教え込んだ覚えがある。
実際に俺が薬草をとってきて、見分けさせたりしたし、似ている
が間違った薬草を使うとどうなってしまうかなど試させたこともあ
った。
腹を壊すとか調子が悪くなるくらいなら講義を受けてる冒険者本
プチ・スリ
人に食わせてみたりしたな。
死にかねない奴は、小鼠に食わせて見せたりした。
そんな場面を見たからか、その講義を受けた奴らは薬草の見分け
や採取にかなり真剣に取り組むようになり、マルトにおいてはよほ
ど生えている場所や季節などが限定されていない限りは、薬草関係
の採取依頼は即座に掲示板からもぎ取られるようなってしまい、結
果、俺の首を絞めた。
スケルトン
まぁ、初心者同士で譲り合っていたみたいだからいいんだけどな。
俺にはゴブリン・スライム・骨人狩りがあったし、しょせんソロ
だからそれほどの収入がなくても生きていけたのだから。
﹁⋮⋮困ってるなら受けてやりたいが、流石にな⋮⋮﹂
掲示板に張ってある依頼票を見つつ、困っているだろうな、と思
ったのでついそんなことを口にしたが、今の俺の身分で依頼を受け
ると記録に残ってしまうし、そんな危険を踏む気にはなれない。
1701
ギルド
ロレーヌも流石に冒険者証は自分のものしかないだろう。
﹁ま、仕方がないだろう⋮⋮。さて、そろそろ冒険者組合見物もい
いだろう。外に⋮⋮﹂
ロレーヌがそう言いかけたところで、
﹁⋮⋮やぁ、君たち、ちょっと、その依頼簡単だとか言わなかった
?﹂
と、後ろから声がかかった。
一体誰が⋮⋮と思って振り返ると、俺は息が止まった。
なぜなら、そこにいる人物は酷く派手な服装に身を包んでいたか
らだ。
虹色のひらひらとした服に、クジャクの羽の突き刺さった帽子、
腰に下げた剣の柄には極彩色の文様が描かれていて、目がちかちか
する。
さらに言うなら、その人物の顔を俺は良く知っていた。
なぜなら、少し前までマルトにおいて活動していた冒険者の内の
一人だから。
﹁⋮⋮いや、それは⋮⋮﹂
なんとなく俺が口ごもっていると、その男は言う。
﹁いやぁ、僕もその依頼、張り出された日から見てたんだけど、誰
も取らないからさぁ。僕って薬草の採取依頼とか地味なのは昔から
ギルド
不得意で、出来るだけ回避してたんだけど、流石に三日放置はかわ
いそうじゃない? 冒険者組合でも困ってるみたいなんだけど、そ
の薬草ってとるのは簡単でも見分けるのが鑑定員でも難しくて、後
1702
々問題になったりすることも少なくなくて、避ける人が多くてさぁ。
どうしたものかと思ってたんだよ。実は僕の昔の知り合いにそうい
うのが異常に詳しい奴がいて、そいつに頼めたら、とか考えないで
もなかったんだけど、そいつってマルトにいてさ。流石にここに呼
ぶわけにもいかないし、じゃあどうしたもんかなと思って⋮⋮﹂
あぁ、そうだ、こいつって喋るときはひたすらに喋る奴だな、と
それで思い出した。
俺はとりあえず、
﹁⋮⋮事情はなんとなく分かった。だが、その前に名乗ってくれ﹂
名前は知っているが、話を止めるためだけにそう言った。
すると男は言う。
﹁ああ、ごめんごめん。僕はオーグリー。銀級冒険者オーグリー・
アルズさ。よろしくね﹂
1703
第255話 王都ヴィステルヤと依頼の理由
オーグリー・アルズ。
都市マルトでソロで活動していた冒険者だ。
以前から俺とは顔見知りで、ソロ同士結構仲良くしていた記憶が
ある。
流石にこの派手な格好と仮面⋮⋮というか、今は布か。布で顔が
隠されている状態の俺を見て、レント・ファイナだとは気づかない
ようで助かった。
ロレーヌの化けた姿も判別できないようだ。
まぁ、二人そろってほぼ別人だから仕方がないだろう。
そして俺たちにとっては助かる。
それにしても、銀級か。
マルトにいたときは、銅級上位冒険者だったはずだ。
それがいつの間に銀級に⋮⋮。
まぁ、実力はもともとあったし、ソロで変人と言うこと以外は誠
実な奴だったからなれててもそんなにおかしくはないのだが、先を
越されたようでなんとなく嫉妬心が⋮⋮。
俺も早いところ銀級になりたいが、まだ依頼達成件数が足りない。
ま、それはいいか。
﹁⋮⋮それで、そのアルズさんが俺に何か用か?﹂
俺がオーグリーに、あえて心理的距離を強調しようとファミリー
ネームの方でそう呼びかければ、ひらひらと金色に光る手袋を身に
着けた手を振って、
1704
﹁やだなぁ、僕と君の仲じゃないか。アルズなんて呼ばないで、オ
ーグリーと呼んでくれよ。もちろん、呼び捨てでオーケーさ。世界
はそれで平和だ! ⋮⋮ところで、君の名前は何だっけ?﹂
僕と君の仲、と言われたあたりでちょっとびくっとしたが、最後
に名前を聞かれたのでただノリで言っているだけだと分かりホッと
する。
こいつは初対面でもこういう対応をする奴で、色々と分かりにく
いのだ。
名前⋮⋮どうしたもんか、と思ってロレーヌを見ると、何か適当
な名前を言え、という顔をしていた。
確かにその方が良いだろうな⋮⋮レントだと色々気づかれる気が
する。
変な奴の割に妙に勘が鋭く、また意外とものを見ている人間なの
でそういう危険はあまり踏まない方が良いタイプなのだ。
﹁パープルだ﹂
着ているローブが紫だからという安易なネーミングである。
あからさまな偽名のようにも思うが、むしろ名前がそうだから服
もその色にしているんだ、という言い訳も通る⋮⋮かもしれないし
な。
実際世の中にいない名前と言う訳でもないし、セーフだろう。
ロレーヌの顔を見ると呆れているが。
﹁パープルか、なるほど、紫色の服がかっこいいもんね! そっち
の女性は⋮⋮﹂
オーグリーはそう言って、ロレーヌの方を見る。
1705
﹁私はこの人の連れで、オルガと言います。よろしくお願いします
わ﹂
ロレーヌはオーグリーの視線にそう答えた。
おれと違って極めて無難な偽名である。
言葉遣いもいつもとは大幅に違う。
さらに動きもまるで異なる。
ロレーヌは自己紹介をしながら、俺の腕に自分の腕を絡ませてき
た。
それを見たオーグリーは、
﹁なるほど、恋人同士かご夫婦と言うことかな? 確かに仲が良さ
そうだ。パープル、君はこんな美しい女性を妻に出来るなんて、な
んて幸福な奴なんだ!﹂
と大げさに驚いて見せた。
いやいや、全然違うんですけど⋮⋮。
とは言いにくく、ロレーヌも特に否定せずにニコニコしている。
まぁ⋮⋮どうせ全部嘘なんだから、もうどこまでも付き合った方
が楽なのかもしれないな、と頭を切り替えた俺は、素直に頷いて、
﹁まぁな。彼女を妻にするのには苦労した。これほど美しく、気立
てもよく、そして共にいて居心地のいい女性は中々いない。俺は幸
せ者だと思っているよ⋮⋮それで、今回は新婚旅行気分で帝国から
ここにやってきたんだ。夫婦水入らずでな。ヤーランの王都は帝国
の帝都とは違って、自然を取り入れた美しい街並みをしていると聞
くし、見て回りたいと思っている。あぁ、そんなことを話している
うちに時間もなくなってきたな⋮⋮そろそろ俺たちはここで失礼す
るよ⋮⋮﹂
1706
どうにか逃げられる方法を考えてなんとか絞り出したのがその台
詞だった。
心なしか、色々俺が言っている間にロレーヌの腕の絡ませ具合が
強くなったような気がするが、気のせいだろう。
それから、さっさとその場を去ろうと歩き出した俺の腕、ロレー
ヌが絡ませている方とは反対側の手をがしっ、とオーグリーが掴ん
だ。
﹁ちょっと待った! まだ本題の話は終わっていないよ! まった
く、あまりにもすんなり歩き出すから一瞬そのまま見送りそうにな
ったよ⋮⋮そうじゃなくて、僕の話を聞いてくれないかい?﹂
⋮⋮どうやら逃げられないらしい。
無理に引きはがして逃げてもいいが、そうなるとこいつは意地で
も追いかけてくるタイプだからな⋮⋮。
平和的にさよなら出来ない以上、聞くしかないだろう。
服装が若干派手、くらいの注目のされ方ならともかく、突然鬼ご
っこを始めたおかしな冒険者たちがいる、みたいな騒ぎを起こして
目立ちたくない。
﹁⋮⋮分かった。それで? 何の用があったんだ?﹂
俺が聞く姿勢を見せたことにほっとオーグリーは、大体予想通り
のことを口にする。
﹁いや、そこに張ってある依頼を簡単だと言うからさ。僕と一緒に
依頼を受けないかと思って。なに、別に依頼料については君の全取
りでいい。魔物の露払いも、僕はこれで銀級だからね。引き受けよ
う。君には薬草の見分けだけ受け持ってくれればいいんだ。どうか
な、悪くないと思うんだけど⋮⋮?﹂
1707
ギルド
確かに、俺がこの冒険者組合で依頼を受けたくない、という条件
を考慮に入れなければこれ以上ないほどの好条件だと言えるだろう。
が、しかしオーグリーがたかがこの程度の依頼にそこまでする理
由が見えない。
﹁⋮⋮なぜ、そこまでするんだ?﹂
素直にそう尋ねてみると、オーグリーは答えた。
﹁そんなの決まっているじゃないか! 服のためさ!﹂
それは、予想外の台詞だった。
俺は首を傾げる。
﹁⋮⋮何の話だ?﹂
﹁え、もちろん、この薬草の採取依頼の話だよ﹂
﹁それでなんで服の話が⋮⋮﹂
﹁この依頼票の依頼主の名前を見てみなよ﹂
﹁⋮⋮ミシェル服飾店﹂
﹁そうそう、僕、そこに新しい衣装を注文したんだけど、染色がち
ょっと特殊でね⋮⋮その薬草がどうしても必要なんだ! 正直、頼
む前は割と簡単に手に入ると思ってたんだけど、実際に頼んでみた
ら王都ではかなり手に入れるのが難しいって話でさ。マルト基準で
考えていたのがよくなかったよ⋮⋮。取り寄せも出来るけど、一月
1708
はかかると言われてしまって⋮⋮。僕は一週間以内に新しい衣装に
袖を通したいんだ! それなのに手に入らないなんて、我慢できな
い!﹂
1709
第256話 王都ヴィステルヤと奢り
話を聞いて思ったのは、まず、果たしてそれは俺が手伝う必要の
あることなのか?
だった。
どう考えてもオーグリー個人の問題ではないか。
そもそも、服の染色ぐらい一月でどうにかなるなら待てと言いた
い。
だから俺は、
﹁⋮⋮じゃ、用事は終わったな。さらばだ﹂
そう言って歩き出そうとしたが、がっしりと掴むオーグリーの拘
束が外れる気配はまるでなかった。
﹁いやいやいや、何も終わってないよ! いいじゃないか、手伝っ
てくれれば! 依頼料丸取りだよ!? 護衛付きだよ!? 超楽ち
んなしごとじゃないか!﹂
オーグリーは必死な様子でそう叫ぶ。
そんなに叫ばれたら目立つので、仕方なく俺はオーグリーの腕を
引きはがそうとするのをやめる。
まぁ、確かに条件はいいのは間違いないんだが、そもそも⋮⋮。
ギルド
﹁⋮⋮そもそも、俺たちは事情があって冒険者組合で依頼を受けた
くないんだ。それに、さっき新婚旅行だって言っただろう? 時間
もあまりない﹂
1710
正直に言って、引いてもらうのが一番かなと言う判断である。
オーグリーは押しが強い奴だが、全く話が出来ないという人間で
もない。
しっかりと説明すれば分かってくれるだろう、というのもあって
のことだった。
まぁ、新婚旅行は嘘だが、時間がないのは本当だ。
ガルブ達との待ち合わせもある。
しかし、珍しいことにオーグリーはそれでもあきらめなかった。
ギルド
﹁事情か。その言い方からすると⋮⋮冒険者組合で依頼を受けるこ
と自体に問題があるような感じだね。となると⋮⋮ぼく個人からの
お願いと言う形ならどうかな。新婚旅行については、ほら、あんま
り普通の新婚旅行じゃ見れない場所に行けるよ!﹂
﹁随分と粘るな⋮⋮。そんなにその薬草が必要なのか? 別に一か
月くらい待ったらいいじゃないか﹂
俺がそう言うと、オーグリーは首を振って、
﹁どうしても、早く手に入れたいんだ。頼むよ。依頼料もここに記
載されている額に僕の方から更に色をつけよう。時間は、それほど
かからないはずだ。それほど遠くない森の中に生えているから、見
分けさえつくのならほんの数時間でどうにかなるんだ﹂
と、真剣に頼む。
こいつのこんな様子は本当に珍しく、マルトでもあまり見たこと
がない。
そんなに服にこだわりが⋮⋮。
まぁ、これだけ目立つ格好をずっとし続けている男だ。
1711
よっぽどのこだわりがなければこんな恰好はしないだろう。
数時間か⋮⋮。
﹁待ち合わせまでに間に合うかな?﹂
ロレーヌに尋ねてみると、ロレーヌは猫を被った口調で、
﹁数時間くらいならおそらくは⋮⋮まさかお引き受けに?﹂
と尋ねて来た。
あんまり気が進まなそうだが、これでオーグリーにはマルトにい
たときにはそれなりに世話になったこともあるのだ。
いい狩場を教えてもらったり、手に負えなそうな魔物の出現情報
を教えてもらったり。
そんな奴にこれほど熱心に頼まれては、断るわけにはいかない。
まぁ、その内容が服の染色のために必要な素材が欲しいから、と
いうのはいささかあれだが、俺たち常人にはよくわからない切羽詰
ギルド
った理由があるのかもしれない。
﹁冒険者組合を通さないのなら、仕方ない。受けてもいい。だが、
待ち合わせに間に合わなそうな時は容赦なく戻るからな。それと、
俺たちのことはあまり人に話さないでくれ。あまり目立ちたくない
んだ﹂
そうオーグリーに言うと、彼は頷いて、
﹁もちろんだ。じゃあ、依頼の受注手続きをしてくるから⋮⋮君た
ちはぼく個人の依頼にただついてくるという形式になる。しかし⋮
⋮目立ちたくないか。その恰好で⋮⋮かい? 正直話しかけたのは、
1712
僕の服に対する情熱を君たちなら分かってくれそうだと思ったから
だったんだが⋮⋮﹂
と首を傾げられた。
確かにかなり目立つ格好ではある。
しかし俺たちの着ているものはオーグリーとは異なり、歴とした
ギルド
帝国で流行している最先端ファッションである。 一緒にされたくはない。
が、そんな説明をする前にオーグリーは冒険者組合の受注カウン
ターに行ってしまった。
一言言ってやれなくて残念である。
ギルド
﹁⋮⋮レント、いいのか? まぁ、冒険者組合を通さないのであれ
ば記録も残らないし、待ち合わせの時間までの暇つぶしにはなるだ
ろうが﹂
﹁あんまり気が進みはしないけど、あいつにはそれなりに恩がある
からな⋮⋮。正体を明かすわけにはいかないが、ちょっと手伝って
やるくらいならいいだろう。依頼内容だって簡単なのは事実なんだ
し﹂
﹁全く、人がいいな⋮⋮﹂
﹁そうかな。そういうわけでもないが⋮⋮そうだ、それこそロレー
ヌには悪かったな。王都を見て回れたのに余計な用事を作ってしま
って﹂
ロレーヌからしてみれば、勝手に依頼を受けてしまったような状
況だ。
相談もしないで申し訳なかったと今にして思う。
1713
しかしロレーヌは首を振って、
﹁別にいいさ。私は王都には何度も来ているしな。今更見て回りた
いところなどそれほどない﹂
﹁そうか? もしあれなら、俺一人でオーグリーと一緒に行っても
いいんだが。あいつが求めているのは戦力じゃなくて薬草の目利き
の出来る人間だからな﹂
戦闘はすべて受け持つみたいなことを言っていたし、いつの間に
やら銀級になっていたオーグリーである。
マルトにいたころと比べるとかなり強くなっていると思って間違
いないだろう。
だから、別に二人で行く必要もないと言えばないのだ。
けれどロレーヌは、
﹁そうしたいところだが、お前ひとりだと何かボロを出しそうな気
がする。心配だからついていくさ﹂
と、俺の不用意さをつっついてそう言った。
確かに、たった今、余計な依頼を受けてしまったところだしな。
言い返せない⋮⋮。
﹁⋮⋮悪いな。今度何か埋め合わせでもするよ﹂
﹁お、そうか? では、マルトの目抜き通りにある︽オル・フレヴ
ネ︾で夕飯でも奢ってくれ。あそこのフルコースをいつか食べたい
と思っていた﹂
それは、マルトにおいて最も高級な料理店として有名な店の名だ。
1714
当然のように普通の店とは桁の違う価格の料理を出してくる。
そのフルコースと言ったら⋮⋮。
まぁ、今の俺になら払えないこともないのだが。
それに、それくらいは今までの色々を考えると奢らないとならな
い気がする。
だから俺は頷いて、
﹁⋮⋮わかったよ。今度マルトに戻った時に行こうか﹂
そう言うと、ロレーヌは意外そうな顔で、
﹁冗談のつもりだったのだがな? 本当に大丈夫か?﹂
と今度は心配された。
しかし一度言ったらもう引っ込めない。
だから俺は胸を叩いて、
﹁任せておけ。そのときは好きなだけ食べるといいさ﹂
そう言って笑ったのだった。
1715
第256話 王都ヴィステルヤと奢り︵後書き︶
ちょっと今日頭が妙な痛みの中書いたので全体的に変な文章かも知
れません。
後日修正するのでお許しくださいませ。
1716
第257話 王都ヴィステルヤと助太刀
﹁大体この辺のはずだよ⋮⋮﹂
ギルド
オーグリーが王都ヴィステルヤの壁外にある森の中でそう呟いた。
冒険者組合で依頼を受けることになって、オーグリーが手続きを
終えた後、すぐに出発し、それから一時間と少し。
確かに事前にオーグリーが申告した通り、行きと帰りで考えると
数時間で仕事を終えられそうだった。
銀級らしく、しっかりと薬草の群生地の事前調査もしていたよう
で、その足取りには全く迷いがなかった。
幸いなことに、王都にほど近い森の中だからか、魔物も今のとこ
ろ出遭っていない。
まぁ、こういうところの魔物は王都に勤める新兵なんかのちょう
どいい訓練相手にされるため、常に駆除されているような状況にあ
る。
そのため、比較的安心して出歩けるのだ。
ギルド
ギ
俺たち冒険者たちからしてみれば食い扶持が次々に潰されている
ルド
ようなものだが、その代わりに王都の冒険者組合には地方の冒険者
組合とは異なる歯ごたえのある、高価な報酬の約束された依頼が掲
示されている。
かせいあかね
そのせいで新人冒険者は王都では活動しにくいが、一長一短と言
う所だろうか。
﹁⋮⋮確かに色々生えているな。依頼の薬草は火精茜だったよな﹂
俺がそうオーグリーに尋ねると、彼は頷いて、
1717
﹁ああ。ただ、どれがどれやら⋮⋮。僕にはここに生えているもの
すべて一緒に見える⋮⋮﹂
頭を抱えながらそう答える。
じっくりとそこに生える草木を凝視するも、違いがまるで分から
ないらしい。
黄緑色の花を咲かせた小さな植物がたくさん生えているが、ぱっ
と見だと確かにすべて一緒に感じる。
が、俺の目からするとみんな違う植物だ。
かせいあかね
﹁火精茜は花と葉の形、葉の枚数、茎の形、そして香りと、最後に
根を見れば分かるんだよ。ついでに覚えておくといい﹂
俺はそう言って、オーグリーにその特徴を説明した。
似ている植物が三、四あり、しかも好んで生える場所がほとんど
同じなため、こうやって一緒くたになって生えていることが大半で、
だからこそ採取が難しいとされているが、その特徴さえ覚えておけ
ば何のことはない。
何度も説明し、オーグリー本人にも選別をさせること数回、彼に
も違いが分かったようで、
﹁なるほど、そうやって見分けるのか。これは勉強になったよ﹂
と言うようになった。
王都にもこれが見分けられる人間が増えれば、放置される依頼も
減るだろう。
オーグリーはソロ冒険者だが、比較的面倒見はいい方なので、彼
かせいあかね
から後進たちにもこの知識は伝えられるはずだ。
それにしても、火精茜を染色に使うと言うことは、服の色を赤く
1718
染めると言うことだ。
かせ
乾燥させた根から染料が採れ、それを使って染めると結構鮮烈な
赤色になる。
いあかね
火の精霊の力が特に強い日の真っ赤な夕日のような⋮⋮だから火
精茜というわけだが。
今は虹色の格好をしているオーグリーだが、こいつが茜色に染ま
るわけか。
⋮⋮なんだかな、と思わないでもないが、服の好みは個人の自由
だ。
好きにすればいいと思うことにした。
﹁では、そろそろ戻りましょうか。それだけとれば充分でしょう?﹂
ロレーヌがそう言ったので俺とオーグリーそれに頷いた。
草木染に使うにしても十分な量を確保できている。
もうこれ以上ここにいる理由はなかった。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮ん?﹂
王都までとことこ三人で歩いていると、ふと鼻に血の匂いが香っ
て来たのを感じた。
反応した俺に、首を傾げるロレーヌとオーグリー。
オーグリーが、
﹁どうかしたのかい?﹂
そう尋ねてきたので、俺は答える。
1719
﹁ああ、あっちの方から人の血の匂いがする気がしてな⋮⋮﹂
俺の台詞に、オーグリーはすん、と匂いを嗅ぐが、
﹁⋮⋮ぜんぜんわからないな。君の鼻は犬並なのかい?﹂
ヴァンパイア
と肩をすくめて尋ねてくる。
実際、俺は吸血鬼で、人間の血の匂いには恐ろしいほどに敏感な
嗅覚を持っている。
他の生き物の血の匂いも分かるは分かるのだが、人の血の匂いは
特によく匂う。
その感覚からして、間違いなくこれは人のものだ、と分かる。
ロレーヌはそれを理解しているからか、
﹁気になるなら見に行きましょうか? 思ったより時間もかかりま
せんでしたし、それくらいの暇はありますでしょう?﹂
そう言ってきたので、俺はオーグリーを見て、
﹁いいか?﹂
と尋ねた。
オーグリーも特に反対するつもりはないようで、
﹁構わないよ。むしろ、誰かが何かに襲われているようであれば、
助けてあげたいしね。はやく行こうか﹂
そう言った。
意見がまとまると、流石に三人そろって冒険者である。
1720
行動は素早く、皆で目的の場所に向かって走り出す。
フォレスト・ウルフ
先頭はもちろん、位置がしっかりと分かっている俺で、そのあと
にオーグリーとロレーヌが続く形だ。
そして、どれくらい走っただろう。
十五分はかかっていないくらいか。
辿り着いたその場所にあったのは⋮⋮。
ロック・ウルフ
ロック・ウルフ
﹁馬車が横転しているね。周りにいるのは⋮⋮森魔狼と⋮⋮おっと、
岩狼まで﹂
フォレスト・ウルフ
フォレスト・ウルフ
森魔狼の数は二十匹近くに及び、さらに岩狼の数も十匹近い。
森魔狼は通常の狼より一回り大きな、︽新月の迷宮︾の第三階層
に出現する程度の、個体ではそれほど強力ではない魔物だが、群れ
ロック・ウルフ
フォレスト・ウルフ
になると銀級とも争える強敵となる。
岩狼は更に危険で、森魔狼より二回りは大きく、かつ体中が岩の
ような外皮に覆われていて、鎧のようになっている魔物だ。
しかも、そんな体でいながら素早く、また連携攻撃も狼系らしく
得意とする魔物で、街道を進んでいるときには出来れば遭遇したく
ない魔物である。
そんな魔物たちが群れとなって馬車に襲い掛かっているのだ。
見れば、鎧をまとった数人の男たちが馬車を守る様に戦っている
が、多勢に無勢のようでかなり押されているのが見える。
馬車の周りには、すでに息絶えている者の姿も見える。
このままでは、おそらく全滅だろう。
﹁で、どうする? 帰る? それとも⋮⋮﹂
オーグリーがそう尋ねてきたので、俺は、
﹁悪いが、助けに入っていいか? 嫌なら隠れてくれててもいい﹂
1721
そう答えると、オーグリーは、
﹁僕も助太刀するさ。正直、ここまで戦ってなくて体がなまってい
たところだ﹂
と肩をすくめていう。
ロレーヌはと言えば、
﹁では、参りましょうか。とりあえず魔術で散らして、道を開きま
すね﹂
ワンド
そう言って、呪文を唱えだす。
直後、ロレーヌの短杖から風の刃がいくつも飛び出し、狼たちに
襲い掛かった。
1722
第258話 王都ヴィステルヤと身分
フォレスト・ウルフ
ロレーヌの風刃は馬車の周囲を囲む森魔狼たちに襲い掛かり、吹
き飛ばす。
今の一撃で五、六匹は屠られてしまっており、その威力のほどが
分かる。
俺たちはロレーヌの魔術によって切り開かれた空間を走り、馬車
の近くに寄った。
﹁⋮⋮お前たちは!?﹂
馬車を守る様に戦っていた鎧の男たち、その中でも壮年に近い男
が、唐突に現れた俺たちにそう言って誰何する。
もちろん、叫びつつも構えは崩さず、また襲い掛かってくる魔物
たちを切り伏せている。
俺はその質問に答える。
﹁冒険者です。助太刀します﹂
短いにもほどがある台詞だが、それだけで男には俺たちがどうい
う存在か伝わったようだ。
僅かに口元が緩み、
﹁感謝いたしまする!﹂
と言って戦いを続けた。
男の技量は大したものだったが、しかしそれでもこれだけたくさ
んの魔物に襲われると手が届かなくなってくる部分もあるのだろう。
1723
俺に答えた男はともかく、その他の男たちはかなり厳しそうだっ
たので、俺たち三人は分散して補助に回ることにした。
結果、魔物たちは徐々に数を減らしていき、そして最後の一匹を
俺が切り伏せて、そこで戦いは終わった。
﹁⋮⋮ふう。なんとか、なったようですな﹂
息を吐いてそう言ったのは、一番最初に俺たちに誰何してきた壮
年の男である。
身に着けているものは白銀の鎧であり、武器は片手剣だ。
どちらも、馬車を守っていた他の男たちと同様の拵えであり、違
いを挙げるとすれば、肩の部分に身分を示すと思しき紋章が描かれ
ていることだろうか。
どう見ても騎士である。
ということは守っていた馬車は⋮⋮。
なんとなく危険を感じ、俺は言う。
﹁もう魔物もいないようですし、俺たちは街に戻ることにしようと
思います。それでは⋮⋮﹂
しかし、案の定と言うべきか、
﹁少し待ってくだされ! せっかく助太刀してもらったのに、この
まま何もなしに帰すわけにはいきませぬ﹂
と言われてしまった。
その気遣いがかえって迷惑だ、とはとても言えず、けれどさっさ
と帰りたかったので、
﹁いえ、依頼の途中ですので⋮⋮﹂
1724
と取り付く島もないような言い方をしてみたのだが、
﹁いや、それなら、それなら後日⋮⋮﹂
とさらに言い募って来た。
その上、
﹁そうですわ。なにかお礼をさせてくださいませ!﹂
と、男の後ろの方から可愛らしい少女の声がした。
そちらの方を見てみると、そこにはドレスに身を包んだ十五、六
の少女が立っていて、少し調子が悪そうだが、しっかりこちらを見
つめていた。
俺に言い募っていた男はその姿を見て、
﹁姫! 馬車に隠れておいてくだされとあれほど⋮⋮﹂
と言いながら駆け寄ったが、その姫は、
﹁もう戦いは終わったのでしょう? それに、せっかくの恩人に今、
逃げられそうになっているではありませんか。そんなことは王家の
名折れです。何か礼をしなければ⋮⋮﹂
と言い返している。
﹁⋮⋮どうしたもんかね﹂
俺がそんな二人を遠目に見ながら、ロレーヌとオーグリーに尋ね
れば、
1725
﹁⋮⋮どうにかしてさっさとこの場を後にすべきと思いますわ。話
を聞く限り、あの方は身分の高い方の様子。ヤーランの王族か、他
国のそれかは分かりませんが⋮⋮﹂
﹁僕もそう思うよ。ああいう手合いは確かに褒美は一杯くれたりす
るけれど、関わると色々と厄介ごともかぶさってくるものだからね。
とは言え⋮⋮﹂
二人とも、関わることには消極的だが、しかしその姫と騎士の男
のやり取りを見る限り、簡単に逃がしてくれそうな気配もない。
さっさとこの場を去ってもいいのだが、それをするとオーグリー
があとで困るだろう。
なにせ、今の俺とロレーヌは存在しない人間の身分を名乗ってい
る。
ギルド
けれどオーグリーは普通に王都で活動している冒険者だ。
ここで逃げて、後々冒険者組合伝いで連絡をつけられて、以前一
緒にいたあの二人はどこか、と尋ねられたらかなり困った事態にな
るだろう。
素直に知らないと答えてもいいだろうが、そうすると俺たちにつ
いてかなり詳細な調査が入る可能性もあるしな⋮⋮。
そういう諸々を考えると、平和的に断る、以外の方法で関係を断
ってしまうのは却ってよくない。
﹁⋮⋮お待たせしてすみませぬ。姫が、お三方に礼をしたいと、王
宮に招きたいとおっしゃっておられるのですが⋮⋮﹂
俺たちが相談していると、騎士の男が近づいてきて、そう言った。
後ろには︽姫︾がいらっしゃって、俺たちを見つめている。
ぜひに王宮にいらっしゃいませ、出来る限りのおもてなしを致し
1726
ますわ、と顔に書いてある表情をしている。
その気持ちは大変ありがたいし、王族としても立派だと思う。
本来の身分であれば素直に受けるところなのだが、やっぱり色々
と難しい。
どうするべきか、とりあえず時間を稼ぐために俺は尋ねる。
﹁ええと、王宮とおっしゃいますが、あの方や、あなたは一体どう
いう⋮⋮?﹂
聞きながらも大体分かっていることではある。
騎士と、お姫様だ。
そして街道を進む中で、襲われた不幸な巡り合わせの人々。
⋮⋮なんか関わると良くないことが起きる気がするのは気のせい
かな?
俺の言葉に、騎士の男は、
﹁おっと、申し訳ありませぬ。まだ名乗っておりませんでしたな。
私はヤーラン王国近衛騎士団長ナウス・アンクロ。そしてこちらの
方が⋮⋮﹂
近衛騎士?
それはヤーランでも実力者の集団のはずで、数が多いとはいえ、
あのくらいの魔物にどうにかなるような人たちではないはずだ。
それなのに、結構押されていた。
いや、生き残っている騎士たちを見る限り、何人かは深手を負っ
フォレスト・ウルフロック・ウルフ
ている。
⋮⋮森魔狼や岩狼につけられた傷ではなさそうだな。
ということは、もともと手負いの状態だったところを、さらに襲
われた感じだろうか?
だから体力も魔力も残っておらず、結果としてあのくらいの魔物
1727
に苦戦していた、と。
うーん⋮⋮余計にまずそうな雰囲気がする。
しかしそんな俺の心配をよそに、ナウスに続いて少女の方も挨拶
した。
﹁ヤーラン王国第二王女ジア・レギナ・ヤーランですわ﹂
王女の名乗りに、俺たちは跪く。
いくら田舎育ちとは言え、それくらいの礼儀作法はあるのだ。
稀に田舎にも貴族と言うのは来るから、そういう場合に下手なこ
とをすると危険なので叩き込まれるというのが実際のところだけど
な。
そんな俺たちの行動に、王女ジアは、
﹁そのようなことはなさらなくて結構ですのよ。王宮でしたらとも
かく⋮⋮ここは街道ですもの。それに、わたくしたちはお三方に助
けていただいたのです。それなのに魔物が今にも襲い掛かるかもし
れない危険な場所で頭を下げることを強制する気はありませんわ﹂
と寛大なことを言ってくれる。
ただ、これを額面通り受け取って顔を上げると首を落とされる、
なんてことが昔からよくあるので、それでも頑固に頭を下げ続ける。
まぁ、俺は首ちょんぱでも死なない可能性があるけどな。率先し
てそうなりたくはない。
そうしていると、ナウスが、
﹁⋮⋮本当に頭を上げても大丈夫ですぞ。この方は腐った貴族とは
異なる心を持った方ですので﹂
1728
第259話 王都ヴィステルヤと引き伸ばし
腐った貴族⋮⋮。
確かにそういう貴族もヤーランにはいるが、他国に比べればその
割合は少ない方だろう。
色々と理由はあるが、東天教を信仰している者が大半なのが大き
いだろうな。
あの宗教は清貧とか他者への思いやりとかそういうものが基礎に
あるから、貴族が信仰している場合は領民たちに対する思いに繋が
りやすいからだ。
騎士団長ナウスもそんなヤーランの実情を認識していないわけで
はないだろうが、それにしてもその言葉にはかなり強いものが含ま
れているような感じがする。
ますますきな臭く感じてきて、ついていきたくない⋮⋮。
しかし、王族の求めを正面から断るのは難しい。
うーん、正面から、か。
先延ばしにするくらいのことは出来るんじゃないかな。
そうすれば、色々と対策をとることも出来るかもしれない。
少なくとも、今そのまま行くよりかはずっといいだろう。
そう思った俺は、話をその方向にもっていくべく、話を続けるこ
とにした。
とりあえず、頭を上げろ、と言われたので俺が上げる。
俺なら首を飛ばされてもいいし、一応一番前の位置にいるから代
表としてまずは俺が、みたいな空気があったからだ。
そして実際ゆっくりと顔を上げると、剣の一撃が飛んでくる⋮⋮
ことなどなく、騎士団長ナウスと王女ジアが普通にこちらを覗いて
いたので大丈夫そうだと分かった。
1729
あぁ、良かった、と心から安心しつつも、そんな動揺は見せずに、
堂々としながら口を開く。
﹁王女殿下、騎士団長閣下、お気遣いをいただき、感謝いたします﹂
﹁いいえ、構いませんわ⋮⋮それで、王宮へのご招待についてなの
ですが、如何でしょう?﹂
王女ジアがそんなことを言い始めた。
如何でしょう、とか言いつつこれは社会一般的に断ることが認め
られない類の質問である。
けれど、現実に疑問形なのだ。
それに断るわけではなく、先延ばしにすることは流石に許しては
くれるのではないか。
そう思って俺は口を開く。
ダメな時はダメな時だ。
﹁⋮⋮それなのですが、私たちは冒険者で、現在、依頼を遂行中で、
まずはその報告に戻らねばなりません。それに加え、格好を見てい
ただければお分かりいただけるでしょうが、王宮に上がるのに適切
な服装ではなく、出来れば準備をする時間を数日程、頂きたいと⋮
⋮﹂
三人そろってど派手なのだ。
俺とロレーヌは確かに流行りの格好だし、オーグリーもちかちか
するとはいえ仕立て自体はかなりいいものを着ている。
しかし、流石に王宮にこの格好で上がると確実に不敬だと言われ
るだろう。
高貴な身分の人間の前に出るには、それなりの準備と言うものが
服装についても必要で、俺たちはその意味で及第点を満たしていな
1730
い。
だから時間をくれ、というのは割と悪くないいいわけであるはず
だ。
これは必ずしも俺たちのためだけではなく、招いた側に恥をかか
せないための気遣いでもあるのだから、ジアたちにも受け入れやす
いはずだ⋮⋮。
俺の言葉に、まず理解を示してくれたのは騎士団長ナウスの方だ。
近衛騎士団長は貴族でなければなれないが、どちらかと言えば剣
の腕の方が重視されると聞いたことがある。
もしかしたら、それほど身分は高くないのかもしれない、とその
対応で推測する。
﹁ふむ、それは⋮⋮確かに。こう言っては何ですが、なんだか目が
ちかちかする格好ですものな。それに、仕事は完遂せねばならん。
本来であれば王族を優先すべきですが⋮⋮姫はそのような横入りは
⋮⋮?﹂
﹁お父様には国民の仕事を邪魔してはならぬと昔から言われていま
すわ。もちろん、後日で構いません﹂
この辺りも東天教の他者に対する思いやりとかそういうものが前
面に出た価値観だろう。
他の国の王族なら素直に横入りを良しとする、というかそもそも
横入りと言う概念自体に首をかしげるだろう。
庶民の仕事と王族の要求とはそもそも次元の違うものとして理解
するのだ。
それは同列に並べてどっちが先、みたいな考えですらない。
まぁ、ヤーランはそうでもないということが分かってよかったな。
そもそもど田舎国家だ。
王族と国民の距離も他の国々より遥かに近いだろう。
1731
感覚も庶民より、ということだろうなと思った。
﹁⋮⋮では、そのように。準備が出来ましたら⋮⋮如何すれば?﹂
俺の質問に、ナウスが、
﹁王宮を訪ねてもらえればよい、と言いたいところですが、流石に
普通の冒険者が突然、王宮を訪ねても門番が入れませんからな⋮⋮
こちらをお持ちくだされ。そうすれば、門番も道をあけるでしょう﹂
そう言って、一枚のメダルを手渡してきた。
そこには、ナウスの鎧の一部に描かれているものと同じ紋章が刻
まれている。
一角獣が魔物を突きさしているという物騒な紋章だ。
しかし騎士としては望ましいのかな⋮⋮その辺りの感覚は俺には
よくわからないが、とりあえずなんとなくかっこいい。
俺の家には家紋なんてないからな⋮⋮いや、あの村の異常さを考
えると、もしかしたらあるのかもしれない。
帰ったら聞いてみよう、とちょっと思う。
﹁これは?﹂
﹁見た通り、我が家の家紋の描かれたメダルですな。こういった場
合に手渡して、私から直接、用事を言いつけた相手として証明する
のに使うのです。何枚かありますが、それなりに貴重な金属を使っ
て作られた魔道具ですので、必ず返してくれなければ困りますぞ﹂
肩をすくめて、少し冗談っぽく話しているがその目は真剣である。
ロレーヌも横で頷いているので、事実、中々の魔道具なのだろう。
金属の質も俺の目から見ても確かに良さそうなのが分かる。
1732
売ればいい金になりそうだが、その代わりに首が飛びそうなので
そこは諦めよう。
﹁⋮⋮承知しました。では、後日必ず王宮へ訪問させていただきま
す。それと⋮⋮﹂
﹁それと?﹂
﹁そちらの馬車についてなのですが、大丈夫でしょうか﹂
事務的な話が終わったところで、今度は現実の心配である。
馬車は横転しており、ここから王都まではそこまで遠くないとは
いえ、歩いて一時間以上はかかる。
騎士たちはともかく、王女殿下には厳しそうだ。
そう思っての質問だった。
俺の質問に、ナウスは、
﹁幸い、横転しているだけですので、引き起せば使えるでしょう。
元々、王族のためにかなり丈夫に作られておりますでな。しかし、
時間がかかりそうですが⋮⋮﹂
1733
第260話 王都ヴィステルヤとにょろにょろ
魔力も体力も削られた状況で、馬車を引き起こすのは大変だろう
な、と思う。
﹁⋮⋮どうする?﹂
と、俺はロレーヌとオーグリーにひそひそ声で尋ねる。
その主語は、詰まるところ手伝うかどうかである。
ナウスは王女と一緒に残った騎士たちに馬車を引き起こさせるべ
く指示を出しているところだ。
俺の質問にオーグリーは、
﹁⋮⋮手伝っておいた方が色々あとで便宜を図ってくれるんじゃな
いかな? 僕はともかく、君たちは元々目立ちたくなかったんだろ
う? なら、最悪、後で僕だけが王宮に行くと言う手もあるし、そ
ういっても許してくれそうなくらいに恩を売っておけばさ⋮⋮﹂
と言った。
それはつまり、俺とロレーヌはどこかに行ってしまったから王宮
に来れない、とオーグリーが一人で言いに行くということだが、流
石にそこまでさせるわけにはいかない。
そもそも、助けようとしたのは俺だしな。
それによって背負ってしまった厄介ごとを、オーグリーに背負わ
せるわけにはいかない。
まぁ、そもそもの話をするならオーグリーが余計な依頼をさせた
から、という話になってしまうが、依頼を受けると決めたのは俺だ。
そこをどうこういうのはよろしくないだろう。
1734
だから俺は言う。
﹁俺たちにとっては都合がいいかもしれないが、そんなことしたら
お前の王都での立場が悪くなる。会ったばかりだが、流石にそこま
でしてもらうわけにはいかないな﹂
するとオーグリーは少し驚いたような顔で、
﹁⋮⋮僕のせいで厄介ごとに巻き込まれたようなものなのに、優し
いね。ま、そう言ってくれるとありがたいが⋮⋮じゃあ、どうする
?﹂
と言った。
これにロレーヌが、
﹁⋮⋮まぁ、何にせよ、恩を売っておいた方がいいというのは正し
いだろう。幸い、馬車を引き起こすくらいなら私が簡単にできる⋮
⋮やってきて、いいか?﹂
と言った。
魔術を使う気なのだろう。
騎士たちの中にも魔術を使える者はいるだろうが、その技術の大
半は攻撃魔術に寄っているはずだ。
ロレーヌはそう言ったもの以外にも、便利かつマニアックな魔術
を色々と身に着けている。
﹁構わないが⋮⋮派手なものじゃないよな?﹂
一応、目立ちすぎない、が王都における俺たちの目標だったはず
だ。
1735
せいぜい服装が派手、くらいで終わっておきたかったところだ。
これ以上目立つのは避けたい。
そう思っての質問にロレーヌは、
﹁⋮⋮そうだな。さほど派手ではない。が、少々にょろにょろして
いるかもしれんな⋮⋮﹂
﹁にょろにょろ?﹂
なんだその擬音は、と思ったが、派手でないなら別にいいか。
世の中の魔術師は、大体一つか二つくらいは趣味に走ったおかし
な魔術を身に着けているものだし、そういうものだと見てくれるだ
ろう。
そう思って、俺は言う。
﹁じゃあ、頼む﹂
そう言うと、ロレーヌは少し離れた位置にいるナウスのもとに向
かっていく。
それから、
﹁ナウス近衛騎士団長閣下。馬車の引き起こし作業をお手伝いしよ
うと思うのですが⋮⋮構いませんか?﹂
と尋ねた。
するとナウスは、
﹁いや、いや。流石に命を助けてもらって、これ以上なにかしても
らうわけには⋮⋮馬車も、時間はかかるでしょうが、日が落ちるま
でには王都に辿り着けるでしょうし﹂
1736
と断る姿勢を見せた。
けれどそれだと恩が売れない。
ロレーヌは推しに推す。
﹁屈強な騎士であらせられるナウス近衛騎士団長閣下をはじめとし
た騎士の皆様方ならともかく、王女殿下にはこのような血生臭いと
ころに長くいるのはお辛いと思うのです。出来る限り、早く馬車を
引き起こすことが肝要かと思います。私でしたら、多少の魔術の心
得があり、このようなときの重宝する魔術も身に着けております。
お任せいただければ、ほんの数分で馬車を引き起こすことが可能で
す。どうぞ、お使いくださいませ﹂
よくもそこまでペラペラと言葉が出てくるものだなと思うが、彼
女も帝国だと色々と学者間の調整に苦労したような話は昔していた。
その辺りで身につけた技術なのかもしれない。
ナウスの方は、最初は断ろうと思っていたようだが、王女殿下、
とロレーヌが言い始めた辺りから思案するような顔になり、さらに
ほんの数分で、と言ったあたりで驚いたような顔をして、少し苦悩
するような表情を見せた後、
﹁⋮⋮命を助けていただいた上、このようなことを申し上げるのは
大変に心苦しいのですが、どうか、私たちにお力をお貸しくだされ。
実のところ、我々はここに至る前に別の者に襲撃に遭って、魔力も
体力も尽きかけておるのです。いつもならば楽に出来ることでも、
今は⋮⋮﹂
と、正直に置かれた状況を述べて、頭を下げて来た。
ロレーヌはそれに頷き、
1737
﹁傷の具合や、魔力などから見てそうだろう、とは推測していまし
た。深い事情はこれ以上尋ねるのはよろしくないでしょうから、そ
こは尋ねません。とりあえず、馬車を引き起こしてしまいますので、
騎士の方々を馬車から距離をとらせていただけますかしら?﹂
と言うと、ナウスが、
﹁おい! お前たち! 今から、この方が馬車を起こしてくださる
! 馬車から距離をとれ!﹂
と叫んだ。
騎士たちは言われた通りに離れ、それを確認してからロレーヌは、
呪文を唱えた。
ロレーヌは色々な魔術を無詠唱で使ってしまえる技量を持つ魔術
師であるが、基本的に人前ではしっかりと詠唱する。
それは、実力を他人に見せないためであり、魔術師としての嗜み
なのだそうだ。
ロレーヌが呪文を唱え終わると、地面から緑色の太い蔦が何本も
這い出てきて、縄のようにぐるぐるとお互いに巻き付け合い、さら
に太く強くなる。
そして、その蔦の縄は、馬車に巻き付き、そのまま持ち上げて、
馬車を元通りの状態へと引き起こしてしまった。
なるほど、にょろにょろしている。
しかも早い。
あれで人や魔物の体に巻き付き、絞めたら一瞬で落とされるだろ
うな、と思うほどに強力な植物魔術である。
基本的にはエルフが得意とする系統の魔術だが、ロレーヌも使え
ることは知っていた。
もっと小さな、鞭のように植物を使う所は見せてもらったからな、
1738
ちなみに、俺の使う聖気による植物の成長促進とは違う。
魔術の場合、ずっと魔力を維持していないと、消えてしまうのだ。
それに、これを使って果実なども取ることはできるのだが、味が
しなかったり酷い味だったりするのが通常だ。栄養もないらしい。
聖気を使った場合は、成長した状態を永続させられる。
だから聖気の加護はありがたがられる。
俺の出張肥料としての価値も下がらない⋮⋮いや、下がってもい
いんだけどな。
1739
第261話 王都ヴィステルヤと護衛
﹁おぉ、これは⋮⋮見事ですな。植物系統の魔術は難しいと聞きま
すが⋮⋮﹂
近衛騎士団長ナウスがロレーヌの技量をそう言って褒めるが、ロ
レーヌは、
﹁いえ、趣味に走っているだけですので⋮⋮﹂
と謙遜する。
実際、趣味の部分も大きいのは間違いないだろうが、あれだけ植
物を操れるのは魔術師として高い技量がなければ無理だ。
植物系統の魔術は、生き物の支配の側面が強いから実際に難しい
のだ。
エルフなどが得意なのは、彼らが生まれたときから森と深い縁を
結んで生きていく種族だからで、そうでないのにこれだけ使えるロ
レーヌはやはり器用だと言うことになるだろう。
﹁それほど謙遜されずとも⋮⋮しかし、これで王都にもすぐに辿り
着けそうです﹂
﹁ナウス、では、呼びますわね﹂
ナウスがそう言ってから、その隣にいたジア王女が口笛を吹いた。
ユニコーン
一体なにを、と思っていると、遠くから何かが走ってくる音が聞
こえた。
見れば、それは二体の真っ白な一角獣だった。
1740
おそらくは、元々馬車を牽いていた︽馬︾なのだろう。
手なずけるのが難しく、また気性もかなり荒いためにあまり︽馬
︾として利用されない生き物だ。
ただ、その体力や速度は一般的な︽馬︾を遥かに凌駕するため、
ユニコーン
懐かせることさえ出来れば非常に重宝する。
ジアが呼んだら着たことから、この一角獣たちは基本的にジアの
言うことだけ聞くのだろう。
賢い生き物らしいから、ジアから他の人間のいうことも聞くよう
に言われれば聞くだろうが⋮⋮。
あまり近づくのはよした方がいいな。
主人以外の人間には野生動物となんら変わらないとも言われるも
のだから。
ユニコーン
ジアはそれから、起き上がった馬車に一角獣をかける。
その様子は手馴れていて、完全な箱入りお嬢様と言うわけではな
さそうだ、という感じを受ける。
まぁ、ナウスに馬車の中に隠れていろと言われたのに自分で外を
確認して安全と見るや出てきてしまうくらいだから、落ち着いた性
格と言うわけでもなさそうだ。
二度も襲撃を受けているのに、わりとあっけらかんとしているし
な。
それから、騎士たちは馬車の点検をしていたが、どうやら特に大
きく傷ついた場所はないらしい。
もちろん、横転していたのだ。
全くの無傷と言う訳ではなかったようだが、丈夫だと言うだけあ
って、走行に問題はなさそうだ、とのことだった。
﹁それでは、我々は出発しようと思います﹂
1741
ナウスがそう言ったので、俺は答える。
﹁ええ、もしよろしければ王都までご一緒しますが、いかがですか
?﹂
これは、ロレーヌとオーグリーと相談して決めたことだ。
つまり、恩の押し売りの二つ目である。
多少は回復しているだろうが、それでも完全とは言い難い状態に
ある騎士たちだ。
ユニコーン
王都までほど近いとはいえ、まだ馬車を守りながら進んでも一時
間はかかるだろう。
騎士たちも、もともとは騎馬していたようだが、そちらは一角獣
とは違って襲撃でかなりの数、ダメになっているようだしな。
残っているのは二、三匹だ。残っているだけマシか。
俺の提案に、ナウスは、
﹁それは、護衛してくださると言うことですかな?﹂
﹁ええ、差し出がましいとは思いますが、何よりも王女殿下の安全
を考えますと⋮⋮余計なことでしたら、どうかお聞き流しください﹂
ナウスが王女の安全やら何やらに強くこだわっていることを先ほ
どのロレーヌとの会話から理解しての台詞だ。
やはり、ナウスはそれを言われると弱いようで、
﹁⋮⋮そうですな。仰る通りです。可能であるならば、ぜひ、お願
いしたい。もちろん、お礼も致しますので﹂
そう言って来たので、俺たちは、
1742
﹁承知しました。とは言え、騎士でない者があまり目立つのも何で
す。我々は後方からついてまいりますので、どうぞよろしくお願い
します﹂
そう言ったのだった。
◇◆◇◆◇
幸い、というべきか、王都までの道のりは非常に平和なものだっ
た。
そもそもあれだけの魔物が街道に出てくること自体、珍しいのだ。
おそらくは、もともとこの一行が何かに襲われて、血の匂いを撒
き散らしていたのが原因だろう。
狼系統の魔物の鼻の良さは折り紙付きだからな。
森で魔物を倒したら、さっさとその場を離れないと次から次へと
やってくるくらいだ。
流石に街道までは来るのはあれ以上いなかったが、しかしあれだ
けいれば十分とも言える。
当分、狼系統の魔物は見たくないな⋮⋮。
﹁⋮⋮ここまで来ればもう問題ないだろうな﹂
俺がそう言うと、ロレーヌが猫を被った口調で、
﹁そうですわね。そろそろ離れた方がいいかもしれません﹂
と言ったので、俺は頷く。
﹁じゃ、言ってくるな﹂
1743
そう言って、馬車の後方から前方に移動し、ナウスに直接、
﹁ナウス近衛騎士団長閣下、王都正門もすぐそこですので、我々は
そろそろ離れます﹂
﹁おぉ、そうですか。確かに、ここまで来ればもう何もないでしょ
う。何かあったとしても、正門からすぐに人がかけつけるでしょう
し⋮⋮では、ここまで本当にありがとうございました。後日、必ず
王宮にいらしてくだされ。貴方方の功績はしっかりと陛下にも伝え
ておきますゆえ﹂
そんなことされても困るので、遠まわしに拒否しておくことにす
る。
﹁いえ、王女殿下の高貴なる身を守るのは当然のことですのでそれ
には及びません。では、失礼いたします﹂
そそくさと下がっていく俺に、ナウスは尚もまだ言いたいことが
ありそうだったが、聞けば聞くほど藪蛇になりそうな気がしたので
気づいていないふりをしてさっさと下がり、ロレーヌとオーグリー
に、
﹁じゃ、俺たちは平民用の列の方に行こうか﹂
と言って、迅速に馬車から離れた。
当然、馬車は、高位貴族用の列の方に向かっていく。
王都正門に並ぶ列はいくつかあって、平民用と下級貴族用、高位
貴族用、徒歩用、馬車用など色々別れているのだ。
門自体がかなり巨大だから出来ることだな⋮⋮。
1744
当たり前だが、平民用は今の時間帯は結構並んでいる。
ちょうど出入りの激しい時間帯なのだ。
対して、王女たちが向かった方は全然人がいない。
そもそも高位貴族の絶対数が少ないのだから当然だ。
あっちの方が楽なのでついでについていく、という方法もないで
はなかったが、それをやると色々記録に残ってしまうからな⋮⋮。
流石に貴族たちの出入りについてはしっかり記録がとられている
から。
供の者について数が少ないから記憶される可能性が高いし、よし
た方がいいという判断だ。
1745
第262話 王都ヴィステルヤと地味
﹁やっと帰ってこれたな⋮⋮﹂
王都内にすんなりと入れて、ほっと息を吐いた俺である。
一度しっかり入れているとはいえ、一応、あまり胸を張って出せ
ない身分証を使ってのことだ。
内心かなりどきどきだった。
しかし、ロレーヌとは流石に王都に慣れてるだけあって堂々とし
たものだった。
オーグリーとはなんだかんだ適当に理由をつけて少し先に王都内
に行ってもらったが、彼はしっかりとした身分証を持っているから
問題などあるはずもない。
最後に王都に入ったのは俺で、正門から入ってすぐのところで俺
を立って待っていたロレーヌに合流する。
﹁来たか。そんなにビビらんでもいいだろうに﹂
と俺の顔を見るなり内心まで見抜いた台詞を言うロレーヌである。
ビビるなと言われてもよろしくないことをしているのは事実なの
だ。
どうしようもなく小心者な俺には難しい話である。
とは言え、ばれてないのは、内心ビビっているとはいえ、しっか
りと兵士に対しては対応できていたからだ。
彼らは何か挙動不審な奴を見つけるとしつこく質問を繰り返すか
らな。
ああいう場では、むしろどれだけ悪いことをしていようが堂々と
1746
している方がいいのだ。
﹁ばれなかったんだからいいだろ。それより⋮⋮あれ、オーグリー
は?﹂
ロレーヌよりも先に中に入って俺たちを待っているはずだったの
だが、姿が見当たらないで俺がそう尋ねると、ロレーヌは、
ギルド
﹁あぁ、冒険者組合でさっさと依頼達成の報告をしてくるとのこと
だ。私たちには報酬の話もあるから、待っていろと﹂
﹁待ってろって? ここでか﹂
流石にずっと立っているのも⋮⋮と思って尋ねると、ロレーヌは
首を振る。
﹁いや、指定の店で、ということだ。一応場所と店の名前は聞いて
いるから、適当に行けば分かるだろう﹂
なるほど、と思い、
﹁じゃあ行くか﹂
とロレーヌと二人連れだって歩き出したのだった。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮また随分と怪しげな店だな﹂
﹁確かにな⋮⋮﹂
1747
しばらく歩いて、俺とロレーヌが辿り着いた場所は、大通りから
かなり奥まった位置にある、路地裏の一軒の店だった。
軒先に掲げてある看板は確かに、オーグリーからロレーヌが伝え
られた通りの店名が記載してあるが、蔦が絡まって非常に読みにく
い。
もし、店の場所を詳細に説明されていなかったら、間違いなく通
り過ぎただろうと思われた。
しかし、そうはいっても入らないわけにはいかない。
俺はおそるおそる店の扉をあけると、ぎぎぎぎ、という音と共に
ゆっくりと扉が開いていく。
﹁︱︱いらっしゃい﹂
しかし、扉の隙間から中に顔を突っ込んで覗いてみれば、意外な
ことにそこはむしろ瀟洒な家具に囲まれた居心地の良さそうな空間
だった。
様々な植物が目障りにならない程度に店内に飾られており、テー
ブルや椅子は飴色にまで使い込まれ、磨かれた中々の品ばかりであ
る。
カウンターにいるのは総白髪を短く切りそろえ、後ろに流してい
る細身の老齢の男で、食器を磨く姿がかなり様になっている様子か
ら、この店の積み重ねた年月が分かるようだ。
﹁⋮⋮意外な。しかしこんな店にオーグリーのような奴が来たら相
当目立つのではないか﹂
ロレーヌが冷静にそう突っ込みを入れる。
これには俺も頷かざるを得ないが、まぁ、人の趣味だ。
そこは自由だろう。
1748
それから、とりあえず、俺はおそらくは店長と思しきその白髪の
男性に尋ねる。
﹁⋮⋮あの﹂
﹁はい、なんでございましょう﹂
﹁ここでオーグリーと言う冒険者と待ち合わせをしているんだが⋮
⋮﹂
途中で切ったのは、もうすでに来ているか、という意味と、来て
いないならどこで待つべきか、指定の席などあるか、という意味を
込めたためだ。
店長らしき男性は、すぐにその意味を読み取り、頷いて、
﹁オーグリー様はまだいらっしゃっておられませんが、どうぞこち
らへ﹂
と言って、店の中でも特に奥まった位置の席を案内してくれる。
入り口からはほとんど見えなかったその場所は、人と目を合わせ
ないで済みそうなので楽そうであった。
﹁ご注文は?﹂
そう聞かれたので、俺とロレーヌは適当に飲み物だけ頼んで待つ
ことにした。
味もよく、王都を活動拠点にしたら是非に行きつけにしたくなる
店で、いいところを紹介してもらった気分である。
そうして、ゆったりとした気持ちでオーグリーをしばらく待って
いると、扉を開くぎぎぎぎ、という音がして、それから店主の声と
1749
足音がこちらに向かってくるのが聞こえて来た。
そして、
﹁⋮⋮待たせたね。どうだい? この店は。中々気に入ってるんだ
けど⋮⋮﹂
と言いながら、オーグリーがやって来た。
しかし、その様子に俺とロレーヌは驚く。
なぜと言って⋮⋮。
﹁⋮⋮お前、その服装はなんだ﹂
﹁なにかおかしいかい?﹂
俺の質問にオーグリーは首を傾げる。
正直に評価するなら、別におかしくはない。
おかしくはないが、おかしくないことがおかしいのだ。
オーグリーと言えば、どんなものを着ているにせよ、ちかちかす
るという印象は一切変わらない男のはずだった。
しかし、今、彼が着ているものは、地味なものだ。
茶色の外套に、全体的に暗く沈んだ色合いの衣服を中に来ている。
靴もまともなものだ。
尖って白かった先ほどまでの派手さはその面影を見ることすら出
来ない。
何か変なものでも食べたのだろうか?
そんな視線を俺たちがオーグリーに向けていることに気づいたの
だろう。
オーグリーは笑って、
﹁いやいや、流石に僕でも空気くらいは読めるさ。この店にあの格
1750
好はふさわしくないだろう? それに、君たちのこともある。それ
ほど目立ちたくないと言うことなので、僕なりに気を遣ったのさ。
ダメだったかな?﹂
その台詞は意外⋮⋮でもない。
この男はマルトにいたときから、こういうところがある男だから
だ。
空気が読めないようでいて踏み込むべきでなさそうなところは敏
感に見抜くし、気を遣えないようでいて大事なところはしっかり押
さえると言うか。
王都に来てもその感じは変わっていないらしい。
俺はオーグリーに言う。
﹁いいや、むしろ気を遣わせて悪かったな⋮⋮。それで、依頼の報
告は終わったのか?﹂
俺の質問に、オーグリーは椅子に腰かけながら答える。
﹁ああ、終わったよ。金貨二枚、しっかり貰って来た。まず、これ
を君たちに﹂
1751
第263話 王都ヴィステルヤと勘
事前に依頼料は全額俺たちに回してくれる、という話をしていた
から別に驚きはしないが、本当にそうされるといいのかな、という
気分にはなる。
だから俺は尋ねる。
﹁おい、いいのか? お前が出したお前のための依頼みたいなもの
だとは言え、依頼料を出してるのは服飾店の方なんだし、お前にも
もらう権利があると思うんだが﹂
﹁まぁ、それはそうかもしれないけど、最初に約束したしね⋮⋮色
も付けるって言っちゃったから、もう一枚追加しよう﹂
そう言って更に金貨一枚を重ね、全部で三枚になった金貨をずい、
と俺たちの方に寄せた。
俺はロレーヌと顔を見合わせるが、ロレーヌは、﹁まぁ、こうま
で言うのだからもらっておけばいいんじゃないか?﹂という顔をし
ている。
オーグリーの顔を見つめてみるが、その表情に乱れたところはな
く、珍しく真面目な感じだ。
かせいあかね
これは断ってもダメだろうな、と思い、俺は素直に金貨三枚をも
らうことにする。
ちなみに、今回採取して来た︽火精茜︾の依頼料としてこれが適
切かと言えば、結構高いということになるだろう。
マルトで依頼すれば銀貨一枚でお釣りがくるからな。
鉄級か銅級冒険者が持っていくような依頼だから当然だ。
マルトでたくさん依頼を出して、王都に持ってくれば差額で儲け
1752
られそうな気もするが、類似品と言うか、代替品があるためにそう
うまくもいかない。
オーグリーのように特殊な理由でどうしても欲しい、という場合
以外にはあまり求められない品なので、高いは高いが持ってきても
売れないだろう。
そういうことを考えると、まぁ、適切な値段かもな、と思わない
でもない。
依頼をする方も、される方も、見つけにくい特殊な依頼な訳だか
ら。
﹁じゃ、遠慮なく⋮⋮。ただ正直高すぎる気がするから、ここの払
いくらいは俺が持つことにしよう﹂
もちろん、今もらった金貨三枚から出す。
オーグリーもそれくらいは別にいいかなと思ったようで、嬉しそ
うに、
﹁お、ありがたいね。飲み物だけじゃなく食事も頼んでいいかい?
実はここは料理も美味しいんだ﹂
そう言って来た。
ちなみに俺たちが飲んでいる飲み物は、アローサルと呼ばれる嗜
好品だ。
カヅキグサと呼ばれる植物の根をすり潰したものに、ロアという
乾燥、焙煎した豆から抽出した液体を入れて混ぜたもの。
この抽出する器具がかなり特殊な形をしていて、扱いも難しく、
店によってかなり味に違いが出る。
その意味で、この店は当たりと言う訳だ。
まぁ、拘らなければどこでもいいんだけどな。ヤーランでは比較
的どこでも飲まれているもので、ヤーラン国民なら拘る事が多い。
1753
他の国の人間からすると、苦くてすっぱくて飲めたもんじゃない、
となるようだが、ロレーヌは割と普通に飲んでいると言うか、中毒
に近いくらいよく飲んでいる。
家にも抽出器があったはずだ。
個人で持つのにはお高い品なのに、それだけ好きと言うことだろ
う。
苦手な人はミルクやハチミツを混ぜたりする。
俺?
俺はもちろん混ぜるさ。苦いんだもん。
オーグリーは全く混ぜないでがぶ飲みしているようだが⋮⋮。
﹁好きにするといい。俺たちも何か頼もうかな⋮⋮﹂
そう言うと、ロレーヌも頷いて、
﹁そうですわね。ちょっとお腹も減りましたし﹂
と言ったので、店主を呼んで適当に作ってもらうことにした。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮おっと、もうだいぶ時間が経ってしまったね。そろそろ僕は
行かなければならない﹂
外を見ると、だいぶ太陽の位置が低くなっていた。
それに気づいてオーグリーがそう言ったのだ。
食事も粗方食べ終わって、なんとなく雑談をしていたが、やはり
割と俺はこの男と気があうのか、話は尽きなかった。
同じソロ同士、酒を飲んだことも何度もあるから、気安く感じる。
まぁ、オーグリーからしてみればほぼ初対面の人間だろうからな
1754
れなれしい奴、と思ったかもしれないが。
﹁そうか。じゃ、出るか﹂
﹁そうだね、レント。約束通り、ここの払いは頼むよ﹂
﹁おぉ、分かった⋮⋮ん?﹂
返事をしながら、何かおかしくなかったか、今。
と思い、じゃらじゃらと見ていた財布から顔を上げると、笑顔の
オーグリーと、何してるんだ馬鹿、と言いたげなロレーヌの顔がそ
こにはあった。
﹁⋮⋮やっぱりか。ということは、君はロレーヌ?﹂
オーグリーがロレーヌの顔を見ながらそう尋ねた。
ロレーヌは少し考えたようだが、もう意味がないと思ったのか、
﹁⋮⋮あぁ。そうだな。全く⋮⋮いつ気づいた?﹂
オーグリーにそう言った。
﹁強いて言うなら今だね。確信はまるでなかった。ただ、剣の振り
方がレントだったから⋮⋮戦っているところを見れなければ、気づ
かなかったと思うよ﹂
﹁剣の⋮⋮こいつの剣術はそんなに特徴があるのか?﹂
﹁いや、むしろあんまり特徴がないよ。そうじゃなくて、なんてい
うかな、綺麗なんだよね。お手本のように。まっすぐ敵の体に入っ
1755
ていく感じ。あれはひたすらに練習したんだろうなって感じさせる
もので⋮⋮それが特徴と言ったら特徴かな。それで、君たちはまた
なんで王都に、変装してやってきたんだい?﹂
なんと言っていいものか、迷った。
が、もう今更だろう。
ただ、転移魔法陣のことは言えないので、微妙な説明になってし
まうが。
﹁⋮⋮色々と事情があって、ここにいることを記録に残したりでき
ないんだよ。王都に来た理由は⋮⋮強いて言うなら観光かな?﹂
王都正門で、適当に門番に言った台詞だったが、間違いでもない。
ガルブ達に唐突に連れて来られて、何をしているかと言えば概ね
ギルド
観光である。
あとは、冒険者組合本部の下見もしたしな。
﹁その色々が知りたいんだけど⋮⋮ま、冒険者に根掘り葉掘り聞く
のはルール違反か。君たちがここにいることは黙っていればいいん
だね?﹂
オーグリーは別に説明せずともその意図を理解してそう言ってく
れる。
まぁ、あの騎士とお姫様に出会った時もその辺りは配慮してくれ
たのだからさもありなんという感じではある。
﹁そうしてもらえるとありがたい﹂
俺がそう言うと、
1756
﹁わかったよ。心配なら魔術契約書でも使うかい?﹂
そこまで言ってくれるが、ばれたのは俺の不注意だ。
これからは剣の使い方ももっと注意しよう、と思いながら俺は首
を振って、
﹁いや、お前を信用するよ。ただ、ばれると最終的にお前の身も危
なくなるかもしれないから、本当に黙っておいた方が良いぞ﹂
俺たちがここにいる、ということから転移魔法陣を使ったという
事実に辿り着くのは相当難しいと思うが、もしそれが事実だとわか
ったら何が何でも手に入れたい、と思う人間は少なくないだろう。
手段も選ばないに違いないし、そうなると危険なのは俺たちの身
だけではない。
断片でも情報を抱えているオーグリーもということになる。
それを聞いて少し、オーグリーも恐ろしくなったらしい。
﹁⋮⋮やっぱり魔術契約書を使おう。いいやつを使えばうっかりミ
スも防げるんだったよね、確か﹂
そう言ってきたので、とりあえず俺たちは魔術契約書を手に入れ
るために歩き出したのだった。
1757
第263話 王都ヴィステルヤと勘︵後書き︶
要はコーヒーみたいなものですね。
もっと異世界的な感じですが。
1758
第264話 王都ヴィステルヤと契約
魔術契約書はその質がピンキリで、また用途も色々とある。
最も単純かつ多用されるものは、契約を破った場合に何らかのペ
ナルティを課するもので、これが標準的な魔術契約書だと認識され
ている。
ギルド
この標準的な魔術契約書の中にも質の上下はあるのだが、基本的
に冒険者組合や商業組合などで購入することが出来る。
ただ、オーグリーが言ったいわゆる︽いいやつ︾となるとまた少
し別である。
というのも、彼が言及したそれは、ただ契約不履行の場合にペナ
ルティを課すのではなく、契約内容を、契約が破棄されない限りは
ギ
何があっても守らせるという強制力を持つもので、これは魔術契約
書の中でも少し特殊だ。
値段も紙一枚の癖してそれなりに張る。
ルド
そして、これは悪用されると非常に危険性が高いために、冒険者
組合や商業組合などで購入することは出来ない。
また、使用する場所も限られている。
このタイプの魔術契約書が売っているのは⋮⋮。
﹁ついたよ。ここが王都にある契約の神ホゼーの分神殿だ﹂
先導していたオーグリーが、荘厳な建物の前で立ち止まり、そう
言った。
真っ白な石柱が重そうな天井を支えている、巨大な建物。
その大きさゆえ、王都中心部からは離れた、どちらかと言えば郊
外に建てられているが、仕方がない話だ。
国王陛下から神殿長などに用事があるときは、王都中心部にある
1759
神官用の執務所に連絡がいくことになっている。
そしてそこからここまでやってきて、神殿長に話を伝え、神殿長
はここから王城まで向かう⋮⋮という面倒な手順をとるらしい。
神官も大変だな、と思う話だ。
それにしても、これだけ大きい建物なのに、分神殿に過ぎないと
言われると驚いてしまうな。
まぁ、神々の本神殿は、色々なところに分散しているし、王都な
ど人間が決めた中心地に過ぎないわけだから当然と言えば当然なの
だが。
聞くところによると、本神殿の方が小さい場合もあるらしい。
ここはどうかな。
契約の神はその守護する職分からして人間と深い関係があるから、
こういうところにある分神殿の方がでかそうな気はする。
本神殿がどこにあるのかは知らないけども。
﹁しかし、すっかり地理が頭に入ってるんだな﹂
分神殿の中に進みながら俺がそうオーグリーに尋ねると、
﹁まぁ、こっちに来て結構経ったからね。依頼のこともあるし、と
りあえず来た日から歩き回って王都の地理はすっかり覚えたよ﹂
冒険者は依頼によっては依頼主のもとに直接行くこともある。
俺がラウラのところに行ったように。
そういうときにスムーズに尋ねられるように本拠地としている街
の地理は覚えておけと言われる。
しかし実際にやる人間がどれほどいるかと言われる疑問だ。
マルトの若い奴らはみんなやってるけどな。
俺をはじめ、新人向け講義をしていた冒険者は皆そういう風に教
えているからだ。
1760
オーグリーも今は王都の冒険者だが、根はマルトの冒険者と言う
ことだろう。
神殿の中は静謐な空気に満ちている。
ただの雰囲気というわけではなく、流石にこれくらいの規模の神
殿になると聖気使いがある程度常駐し、毎日浄化を行っているため
アンデッド
に実際に聖気に満ちて空気が清らかなのでそう感じるのだ。
アンデッド
不死者である俺が清らかな空気に心地よさを感じているのはどう
かと思うが⋮⋮。
まぁ、聖気を使える不死者なのだから、セーフだろう。
ジメジメしたところも好きだけどな。
﹁⋮⋮ホゼー様の神殿へようこそいらっしゃいました。今日はどう
いったご用向きでしょうか?﹂
しばらく進むと、神官が寄ってきて俺たちにそう尋ねて来た。
広間の奥には巨大なホゼーの像があり、その前で祈りを捧げる人
々が見える。
ホゼーは女神であり、正義と司る錫杖と、公平を担う天秤を片手
ずつ持って、ゆったりとした服を身に纏っている髪の長い女神だ。
その瞳はまっすぐに前を見つめ、いかなる不正をも許さないとい
う意思を感じさせる。
契約の重さと、それを破ることへの覚悟を問うているのだ。
神々にも色々と性格はあるが、その中でもかなり厳しい方の神様
として知られている存在だ。
俺は緩い神様の方が好きだが、ここではそうも言っていられない。
俺は神官に言う。
﹁本日は、ホゼー様のご加護を受けた魔術契約書を頂きたくて参り
ました﹂
1761
別に質について言う必要はない。
というのも、通常使われている魔術契約書は︽ホゼーの加護を受
けている︾とは言わないからだ。
作り方はホゼー神殿が独占しているが、基本的に通常の魔術の延
長線上の技術で作られていると言うところまでは知られている。
ただ、俺たちが今回求めている、行動の制限まで伴う魔術契約書
はその製作段階に聖気が関わっている。
つまり、聖人・聖女によってつくられている者で、そのためにホ
ゼーの加護を受けている、という言い方をするのだ。
﹁そうでしたか。でしたら⋮⋮使用については神殿内で、というこ
とになっておりますが、その点は⋮⋮?﹂
﹁問題ないです。部屋を提供していただけるのですよね?﹂
﹁ええ、防音の魔術がかかった部屋がありますのでご案内します。
どうぞこちらへ﹂
神官はそう言って、俺たちを先導する。
巨大なホゼー神の石像の横を通り過ぎ、扉を開くと、その向こう
に通路と、複数の部屋へと続く扉が見えた。
扉を通り過ぎるたび、その扉の表面に赤い文字で︽使用中︾の言
葉が浮き出ていることから、中に人がいるのだろう。
そんな扉の中、何も浮き出ていない扉の前に辿り着くと、神官は、
﹁こちらです﹂
そう言って、扉を開き、中へと進むように俺たちを促す。
それにしたがい、三人全員が中に入ると、神官も入ってきて、少
1762
し黙る。
⋮⋮なんだ、と思っていると、ロレーヌが俺の横っ腹を肘でつつ
き、﹁⋮⋮寄付だ寄付﹂と小声で言った。
あぁ、そうだった、と失念していたことを思い出し、来る前にし
っかりと準備していた皮袋を取り出して、神官に、
﹁⋮⋮お納めください。ホゼー神の加護を賜りますように﹂
と言って差し出すと、神官は頭を下げて受け取り、
﹁では、こちらを﹂
と言って、一枚の羊皮紙を手渡してきた。
明らかに聖気の宿っているそれは、まさに俺たちが求めている魔
術契約書である。
﹁使い方は通常の魔術契約書と変わりません。ただ、行動の強制ま
で伴う点が異なりますので、その点はご注意くださいませ。では、
私は下がらせていただきます。契約内容を詰める中で、何か分から
ないことがございましたら、こちらの鈴を鳴らしてお呼びください。
すぐにかけつけますので﹂
そう言って神官は部屋を出ていった。
1763
第265話 王都ヴィステルヤと話す内容
﹁防音がかかっててもこの鈴の音は向こうに聞こえるのか?﹂
神官が出ていった部屋の中で、テーブルの真ん中に置いてある宗
教的な装飾の施された鈴を見ながら、俺が素朴な疑問を口にすると、
ロレーヌが説明してくれる。
﹁そいつは感じ取るのが難しいが、微弱ながら魔力が流れているか
ら魔道具だ。おそらく対になる鈴があって、そちらが鳴るとかそう
いう仕組みになっているのだろう。防音の魔術は魔力も少なからず
遮断するから、その点も考えられた特別な品だろうな﹂
その説明になるほど、と納得する。
魔術師一年生の俺には少々見抜くのが難しい話だった。
魔力が感じられないから、普通の品かと思ったのだ。
どちらかと言うと細工の美しさや素材の感じから、中々売ったら
高そうだな、盗まれないのかな、という方が気になっていたくらい
だ。
しかし、魔道具だと言うのなら盗むのは難しいだろう。
大体、敷地から出すと警報がなったりするように魔術をかけてい
るものだからな。
そういう専門の魔術師集団がいるのだ。
特殊な魔術なので、そうやって技法を守ると同時に金を稼いでい
るわけだな。
実際、世界で一番多い犯罪は窃盗及び強盗であるため、非常に需
要は高く、儲かっているらしい。
それはいいか。
1764
﹁じゃあ、鳴らしても神官が来ない心配はしなくていいとして⋮⋮
契約の話に移ろうか﹂
﹁そうだな。オーグリー、覚悟はいいか?﹂
ロレーヌが俺の言葉に頷き、脅すようにオーグリーに言うと、
﹁⋮⋮覚悟って何さ、覚悟って﹂
と尋ねて来たので、ロレーヌは答える。
﹁色々知る覚悟さ。ただ普通に私たちが来たことを黙っておけ、と
いうだけなら何も知らずとも問題はないが、契約するとなるとな。
細かい条件付けのためにも色々と話しておく必要がある﹂
これにはオーグリーも納得のようで、
﹁確かに、それはそうだね。単純に君たちが王都に来たことを黙っ
ておく、なんていう契約にして、もし君たちが他の機会に堂々と来
たことも黙っていなければならなくなったら、僕は何にも喋れなく
なってしまったりするもの。ただ⋮⋮それでも色々と限定をつけれ
ば範囲を絞ることも、僕を黙らせたい部分だけ黙らせることも不可
能ではないように思うけど⋮⋮その方が君たちにとっても都合がい
いんじゃないかな?﹂
そんなオーグリーに俺は言う。
﹁確かにそれはそうなんだけどな⋮⋮それだとオーグリーの負担が
大きいだろ? そういう契約が出来るって言っても、それこそ雁字
1765
搦めみたいになるし、予期してなかったところで不便なことになる
可能性も考えられる﹂
﹁それは⋮⋮確かにそうかもしれないけど。でも僕が君たちの立場
だったら僕の不便なんか考えずに契約結んじゃうけどな。昔から君
たちは冒険者にしては優しいよね。甘いとも言えるけど。特にレン
トは﹂
それを言われると辛いところがある。
けれどロレーヌは、
﹁レントはそうだろうが、私はそうではないぞ。オーグリー﹂
﹁どういうこと?﹂
﹁お前には色々話すつもりでいるが、もし契約せずに逃げようとし
たら地獄の底まで追いかけてそれこそ永遠に逆らえないようにして
やる。お前はこの部屋に入った時点で、契約を結ぶ以外に道はない
のだ﹂
と、ちょっと凄みながら。
オーグリーはそんなロレーヌに少し怯えた表情を作るが、すぐに
﹁そう言うことは本当に思っていたとしても、普通は黙っておくも
のさ。言ってくれるだけ、やっぱり優しいと思うな⋮⋮ま、話は分
かった。僕も覚悟を決めて話を聞こうか。ここまでするんだ。何か
余程の秘密があるんだろう?﹂
そう尋ねて来た。
オーグリーに話すのは、基本的には俺の正体についてだ。
1766
転移魔法陣についてはガルブ達と相談しなければならないので、
ぼかしながらということになる。
まぁ、ある程度事情を話せば推論すればなんとなく分かってしま
うかもしれないが、その辺りも含めて秘密としておくようにうまい
契約条項をロレーヌに考えてもらおう。
基本的にその辺りは丸投げだ。
俺も簡単な契約条項くらいなら作れるが、細かくなってくると全
然だ。
ロレーヌは職業柄か、そういうことが得意である。
だからまぁ、大丈夫だろう。
ダメな時はダメな時だ。
﹁そうだな⋮⋮どこから話したものか迷うが、まずは俺のことから
かな。オーグリー、俺が一時期、行方不明になってたことは知って
るか?﹂
そう尋ねると、オーグリーは、
﹁あぁ、僕がマルトを出る少し前くらいの話だね。あのときはもう
死んじゃったのかな、寂しくなるな、なんて思ってたけど⋮⋮なに
せ、一緒に王都に行かないか誘うつもりだったからね﹂
それは初耳である。
﹁また、なんで?﹂
﹁お互いソロで、銅級だったじゃないか。でも、王都を目指してた
のは同じで⋮⋮ちょうど銅級ソロでも護衛に雇ってもいいって言う
王都行きの隊商が見つかってさ。もしかしたらもう一人、来るかも
しれないけどいいか、って尋ねたらいいよって言ってくれたんだ。
1767
でも、結局君は⋮⋮。ま、そういうわけで、僕は一人で来たわけだ
けど﹂
意外なところに意外なチャンスが転がっていたものである。
龍に食われてこうなったこともある意味いいチャンスだったわけ
だが、あのときそうはならずに、オーグリーと王都に来ていても案
外よかったかもしれないな。
リスクはあるが、王都周りの迷宮の、少し強い魔物と戦ったらも
う少し実力も上がったかもしれないし⋮⋮。
無理かな。
そんなことを思いながら、俺はオーグリーに言う。 ﹁そうだったのか⋮⋮そうなれなかったのが残念だな。でも、お前
は一人でここにきて、銀級になってるんだから偉いよ。頑張ったん
だな﹂
﹁そう言ってもらえると嬉しいね。でもレントも頑張ったんじゃな
い? さっき見た君の戦い方は凄かったよ。身のこなしや剣術それ
自体は、元々かなり完成していたから変わってはいなかったけど、
地力が凄く上がっていたと言うか⋮⋮今の君なら銀級昇格試験もす
んなり越えられるだろうと思った﹂
オーグリーはしみじみそう言った。
その表情には、お互い、ソロで寂しい上の見えない生活を送り続
けてきて、やっと報われた感慨のようなものが宿っているような気
がした。
二人でこのまま永遠に銅級のまま終わっていくのかな、とたまに
弱気になって話したこともあったのだ。
その気持ちはよくわかる。
1768
第266話 王都ヴィステルヤと告白
﹁⋮⋮そうだな。それは俺も感じる。銀級試験を越えられるかどう
かは受けてみないと分からないが、実力は上がった。そしてそれに
は理由があるんだ﹂
オーグリーの言及したのがちょうど話を切り出すのにいい話題だ
ったので、俺はそう言った。
オーグリーはそれに首を傾げて、
﹁⋮⋮理由かい? 修行を頑張ったと言う訳じゃなさそうだね⋮⋮
いや、いつも頑張っていたけど、それで強くなるのなら君はもうと
っくに銀級になっていただろう。しかし⋮⋮他に一体何が⋮⋮﹂
考えても思いつかないらしい。
まぁ、当たり前だろう。
普通に考えて、ある日いきなり魔物になったら実力が上がった、
なんていう結論に辿り着けるわけがないからだ。
しかし、これについては言っておかなければならないだろう。
どういう反応をするかは賭けではあるが、オーグリーの人柄はマ
ルトでの付き合いで良く知っている。
ロレーヌほどではないにしろ、オーグリーにも俺なりに信頼があ
った。
俺は言う。
﹁まぁ、あんまりもったいぶるのもなんだから、端的に言うぞ。た
だ、あんまり驚かないでくれ﹂
1769
それでも一応前置きは必要だと思っての台詞だった。
オーグリーは、
﹁⋮⋮もうすでに十分もったいぶってるじゃないか﹂
﹁何言ってるんだ。これはお前のために設けてやった心の準備のた
めの時間だぞ﹂
﹁はいはい、わかったわかった。それで?﹂
俺の言葉を場の緊張をほぐすための冗談と受け取ったのか、肩を
すくめつつそう言ったオーグリーに、俺は、そんな態度をとるんだ
ったらもう気を遣ってやらんと、すんなりと言う。
﹁⋮⋮俺、魔物になったんだ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
唐突の告白に骸骨のように、かくり、と強く首を傾げたオーグリ
ーであった。
少し黙っていると、徐々に俺の台詞が浸透したのか、
﹁⋮⋮ちょ、ちょっと待って⋮⋮え? 魔物に、誰が?﹂
そう聞かれたので、俺は自分で自分を指さした。
隣でロレーヌもまた俺を指さしている。
なんだかマヌケな状況だ。
まぁ、あんまり真剣になりすぎてもあれだしな⋮⋮これくらいの
空気感の方が色々言いやすい。
1770
﹁⋮⋮いつ?﹂
オーグリーがさらに尋ねてきたので、俺は詳細について言う。
スケルトン
﹁まさに俺が行方不明扱い受けていたときだよ。迷宮に潜ってたら
運悪く︽龍︾に襲われてさ。気づいたら骨人になってた﹂
そう言うと、オーグリーは安心したように笑って、
﹁⋮⋮なんだ、冗談か。今の君、どう見ても人間だよ? 顔も仮面
スケルトン
で上半分しか見えてないけど⋮⋮目玉だっておでこだって眉毛だっ
てあるじゃないか。それで骨人っていうのは流石に無理があるよ﹂
ヴァンパイア
そう言う意味の安心だったか、と思って俺は説明をつけたす。
スケルトン
﹁今は骨人じゃなくて吸血鬼だからな。そりゃ、人そっくりの見た
目さ。おおむね、こうなる前の見た目と変わってないことは確認し
てる。でも、俺は人じゃない⋮⋮ほら﹂
そう言って、腕を出してそこを軽く引っ掻いて傷をつけると、ぷ
くり、と血の球が浮き出てくるが、その傷は即座に塞がっていった。
こんなことは人間ではまず、ありえない。
回復魔術や聖気を使えば同じことは起こせるが、今、俺がどちら
も使っていないことは明白だろう。
つまり、自己治癒力のみで治したと言うことは明らかで、そんな
ことが出来る存在は限られている。
﹁⋮⋮いやぁ⋮⋮何を聞かされるのかと思っていたけど、流石に⋮
⋮これは⋮⋮﹂
1771
俺が魔物になった、という事実を信じざるを得ない、とオーグリ
ーは思ったのか、頭を抱えながらそう言う。
﹁恐ろしいか? それとも軽蔑したか?﹂
俺がそう尋ねると、オーグリーは首を振って、
﹁いや、別に。まぁ、僕が魔物に強い憎しみを持っているとか、何
らかの理由で魔物に受け入れがたい思いを抱いていたら分からなか
っただろうけど、僕は特にそんな気持ちはないからね。魔物は基本
的に敵だが、それは僕が冒険者で、彼らを倒すことが仕事だからさ。
友人が魔物になったからと言って、その友人を憎しみのこもった眼
で見られるかと言われると⋮⋮それは全然そんなことはないさ﹂
そう言ってくれた。
その辺りの危惧は持っていたが、冒険者の過去なんて基本的に聞
けない。
聞いても答えないし、答えたところで嘘だったり冗談だったりす
る。
本当に深いところは、かなり仲良くなったうえで、ぽつりぽつり
と語られることがあるかないか、というくらいだ。
オーグリーとは付き合いが長いし、そういうことがあってもおか
しくはない仲ではあるとは思うが、しかし現実にそういう話をする
ことはなかった。
そういうところにはお互い、踏み込まないようにしていたからだ。
とは言え、魔物に関する辛い記憶、みたいなものは無いようでよ
かった。
俺はあるが、俺も魔物全般に対して思うところがあるかと聞かれ
るとそんなことはないしな。
あの銀色の狼が憎いだけで、他の魔物についてはむしろ面白く見
1772
ているところがある。
習性とか生活様式とか見ていると面白い系統の魔物もゴブリンな
どを初めとして沢山いるからな。
人間と同じで、悪い奴とそうじゃない奴がいるのも同じだ。
まぁ、大抵人を見ると襲ってくるのは事実で、少しでも理知的な
魔物は例外的だが。
﹁そう言ってくれるとありがたいな。俺は体は魔物になってしまっ
たけど、人の心を捨てたわけじゃないし、昔からの友人にそう言う
目で見られるとやっぱり辛いから⋮⋮﹂
ヴァンパイア
﹁ま、そうだろうね。しかし⋮⋮吸血鬼か。やっぱり、血を飲むの
かい?﹂
興味本位なのかそう尋ねてきたので、俺は答える。
﹁まぁ、そうだな。別に普通の食事が出来ないわけじゃないが、血
の方が美味く感じる﹂
﹁⋮⋮まさか、その辺でうら若き女性に襲い掛かったりはしていな
いよね? 次にマルトに行ったときマルト美人の数が減っていたら
僕は怒るよ﹂
﹁そんなことするわけないだろう。ロレーヌから少しずつ提供して
もらってるんだ。ちゃんと同意を得て﹂
﹁あぁ⋮⋮まぁ、それくらいしかないもんね。足りるの? 足りな
いなら僕も上げてもいいよ。流石に倒れるくらいは無理だけど﹂
本当にオーグリーは忌避感ゼロらしい。
1773
まぁ、まだそこまで実感がないからかもしれない。
そもそも見た目もほとんど変わっていないし、ただ格好があれな
だけだからな。
何か魔物っぽい行動をしない限りは、以前と変わらない、と言う
感覚しか持てないのが普通かもしれない。
1774
第267話 王都ヴィステルヤと魔術契約
血をくれる、とまで言ってくれたオーグリーであるが、流石にそ
こまでしてもらうわけにはいかない。
現状、ロレーヌのそれで足りているし、シェイラもくれるわけだ
し、さらに増やす必要もない。
それにどんどん増やしていったら、だんだん人間から遠ざかって
行ってしまう気がする。
いやだろ?
うーん、こちらの血は実に豊潤で濃厚ですが、しかし僅かに後味
に渋みが残りますね⋮⋮ズバリ、最近食生活が乱れているのではあ
りませんか?
とか言って俺が人血ソムリエ化したら。
まぁ、それはそれで面白いのかもしれないけど⋮⋮ロレーヌは面
白がりそうだな。
味覚の詳細な調査が始まるかもしれない。遠慮する。
そんな色々な妄想を呑み込み、俺はオーグリーに言う。
﹁いや、それはいいさ。今のところロレーヌの血で足りてるからな。
これから先、どうなるかはわからないけど﹂
レッサー・ヴァンパイア
なぜか下級吸血鬼であるというのに、さほど血を必要としない俺
である。
ただ、永遠にこのままだとは誰も保証してはくれない。
以前、血肉が欲しくてロレーヌに襲い掛かった時のように、ある
日突然、魔物の本能に支配されて誰かに襲い掛からないとは言い切
れないのだ。
まぁ、そういうときはロレーヌがあのときと同じように討伐して
1775
くれるだろうから、そんなに心配はしなくていいのかもしれないが、
ヴァンパイア
まずはそうはならないように頑張っていきたいところである。
スケルトン
﹁そうかい? ならいいんだけど⋮⋮。ちなみに、骨人から吸血鬼
になったっていうのはなぜかな?﹂
オーグリーからそう尋ねられ、まだ説明していなかったか、と思
った俺は言う。
ラアル
﹁あぁ、魔物の︽存在進化︾ってあるだろ? あれだよ﹂
ノーマル
﹁︽存在進化︾⋮⋮それって、普通のスライムが毒スライムになる
ようなあれかい?﹂
﹁⋮⋮随分とマニアックなところを出してきたが⋮⋮それであって
る、よな?﹂
少し不安になってロレーヌに尋ねると、彼女は頷いて言う。
﹁ああ。概ねな。ただ、スライムの属性変化は必ずしも個体の能力
が上昇するというわけじゃないからな。進化と言っていいのかどう
スケルトン スケルトンソルジャー
か議論が分かれているところでもあるから微妙な例ではある。素直
に骨人が骨兵士になるようなもの、と言ってくれ﹂
確かにそっちの方が分かりやすいし、議論の余地のないところだ。
誰でも知っている代表的な魔物だしな。
これにオーグリーは、
﹁そう言われてもね、僕はスライムが好きなんだ。あの不定形の存
在が可愛いだろう? 昔、飼ってみようと思ったこともあるくらい
1776
だ。適切な容器が見つからなくて断念したけど﹂
と衝撃の告白をする。
まぁ、しかしそうはいってもそんな考えに至る人間はこの世にい
ないわけでもない。
子どもなんかは意外とスライムが好きだしな。
思いのほか、女性や子供に人気がある魔物なのだ。
なぜといって、それは絵本や伝説に沢山出てくるし、そう言う場
合に見聞きするスライムの形はぽよぽよして可愛らしい感じである
からだ。
けれど、冒険者になった者はその大半がスライムを嫌いになる。
なぜなら、迷宮や森に蠢くスライムたちは、基本的に常に生き物
の死骸を消化中であり、それが透明な体液の中に浮かんでいるから
だ。
完全に消化されて骨になっているのならまだ、許せる。
しかし、中途半端に消化されている様子と来たら⋮⋮もう完全に
ホラーだ。
嫌いになるのは当然と言えた。
その意味で、オーグリーは稀有な例外と言うわけだろう。
ロレーヌも割と例外だが。スライムが好きだったと思う。
﹁容器⋮⋮まぁ、スライムは大抵のものを消化するからな。一般的
な瓶にいれてもダメか﹂
ロレーヌが真面目な声でそう答えると、オーグリーは分かってく
れるのか、という感じの嬉しそうな声で、
﹁そうなんだよ! だから他にも色々試してみたんだけど、保って
二週間だったね。試してないのは、それこそ、高価なものばかりで
⋮⋮流石に貧乏銅級冒険者には無理だったよ。今ならもう一度挑戦
1777
してみてもいいかもしれないけどね﹂
と言った。
ということは、マルトでそんな物騒な実験をしていたわけだ。
諦めてくれて本当に良かった。
しかし話がずれた。
ともかく、
ヴァンパイア
﹁⋮⋮スライムについてはどうでもいいんだ。俺はそういう理由で
吸血鬼になったってことだ。それから⋮⋮まぁ、色々あってな。と
りあえず人間に戻ることを目標に活動してる﹂
﹁王都に来たのもそれが理由?﹂
﹁そういうわけでもないんだが⋮⋮その一環ではあるかもしれない
な﹂
実際は微妙なところだ。
人間に戻りたい。
そのために自分のルーツを知るために故郷に戻ったら、とんでも
ない秘密を聞かされ、そしてその秘密の奥に眠っていた転移魔法陣
でここまでやってきたのだ。
しかし、それは俺が今までただ上を目指して魔物を倒していた、
それだけの生活をやめて、色々と探究し始めたから現れて来たもの
だ。
人間に戻るために活動していたら、ここにきてしまった、と言う
ことができないわけではない。
﹁そうか⋮⋮ま、そういう理由なら、王都に来たことを言えないっ
ていうのも分かるよ。魔物が街に入っていた、それが誰だ、って探
1778
し始めたときに、名前があがったら困るもんね﹂
﹁まぁ、それはそうだな﹂
それ以上に、遠くにいるはずなのにここにいる、という話になる
のが困るが、その辺はまだ言えない。
転移魔法陣の秘密について明かす範囲を決められるのはガルブ達
だからな。
それに、契約を結ぶにあたって、これくらい認識を共有していれ
ば何か間違いが起こることはないだろう。
通常の、特に魔術的ペナルティを負うことのない契約と異なり、
魔術契約書による契約の難しいところだ。
というのも、その契約をどう解釈するかを決めるのは、契約した
本人たちの無意識だと言われている。
通常の契約であれば領主やそれに任命された裁判官が解釈を定め
ればそれで足りるが、魔術契約書の場合、解釈が問題になるのは契
約書の内容に違反することをしたその瞬間であるために、そう言っ
た人間の司法関係者が入り込む隙間がないのだ。
たとえば、オーグリーと俺との間で、オーグリーのおやつを俺は
食べない、食べたら裸踊りをする、という契約をしたときに、俺が
オーグリーのおやつを食べたとする。
その場合に、契約内容が問題になり、その効力が発するのは俺が
おやつを食べたその瞬間だ。
そしてオーグリーが目の前に現れたそのとき、俺は裸踊りを意思
に関係なくすることになる。
このとき、いつ、だれが契約の内容を解釈しているのかが問題に
なる。
そして、これについては諸説あるが、一応は通説として、契約違
反をしたその瞬間に、本人たちの無意識が判断していると言われて
いるのだ。
1779
つまり、俺がオーグリーのおやつを食べてはいけないと分かって
いるのにオーグリーのおやつを食べた、と認識していると契約違反
となる、ということだ。
そして、これについて、嘘はつけない。
その虚実については、神が判断していると言われ、自分を偽ろう
とすると見抜かれるからだ、と言う。
そういう理由があるために、魔術契約書を使ってしっかりとした
間違いのない契約を結ぼうとする場合には、お互いに認識をある程
度共有する必要がある。
使い方が難しいのだ。
その辺りの詳しい理については法学者や魔術学者、神学者あたり
が協力しつつ研究しているらしいが、俺たち一般人の認識は概ねそ
んな感じだ。
だからあまり多用されないわけで、覚悟も必要なのだが⋮⋮。
俺はオーグリーに言う。
﹁さて、これで大体話した。契約をしたいと思うが⋮⋮いいか?﹂
1780
第267話 王都ヴィステルヤと魔術契約︵後書き︶
魔術契約の詳細について色々書きましたが、私の脳内妄想だと思っ
て流してください。
突っ込まれると綻びがね。
1781
第268話 王都ヴィステルヤと像
﹁そうだね。それでいいだろう。細かい条項は⋮⋮﹂
オーグリーが頷いてそう言ったので、ロレーヌが、
﹁それは私が作成しよう﹂
そう言って、部屋に備え付けてある下書き用の荒い紙に仮案を書
いていく。
オーグリーも確認し、それでいいと頷いたところで本契約に移る。
特殊な魔術契約書とは言え、使い方は通常と同じ。
つまり、契約条項を書いて、お互い署名すればそれで契約が発効
する。 どっちから署名するかは一応問題だが、それは相手が信用ならな
い人物である場合だけだ。
いつでも好きに発効できる状態で契約書を持ち歩かれたりされて
は困る。
ただ、今は別に気にしなくてもいいだろう。
オーグリーは昔からの知り合いで、その性格も分かっている。
それに、この場から逃走しようとしても部屋の入り口の最も近く
にいるのはロレーヌだ。
彼女に魔術を構築されて扉に近づけないようにされればオーグリ
ーでも出れない。
オーグリーが何か俺たちも知らない強力な切り札でも持っている、
というのなら話は違うだろうが、そこまで気にしても仕方がないし
な⋮⋮。
1782
﹁じゃ、俺から書こう﹂
そう言って、俺は契約書に署名する。
⋮⋮?
なんだか文字が妙に輝いたような気がしたが⋮⋮。
﹁レント? どうかしたのか﹂
ロレーヌがそう尋ねたので、俺は首を振った。
﹁いや⋮⋮何でもない。ほら、オーグリー﹂
俺はそして、オーグリーに契約書とペンを渡す。
やはり特別製の魔術契約書だけあって、紙も特殊なようで触り心
地が妙にいい。
紙のようで紙じゃないと言うか、金属っぽい手触りがする⋮⋮。
やはりかなり特殊な製法をしているのだろうな。
観察すれば分かるかも、とちょっとだけ思ったが全然無理だ。
まぁ、そもそもそんなこと出来るなら誰かがすでにやっているだ
ろう⋮⋮。
﹁あぁ、分かった﹂
オーグリーは俺から契約書を受け取り、そこに名前を書く。
﹁⋮⋮長いな﹂
というのは、オーグリーが書いた名前のことだ。
オーグリー・アルズ、だけではなくその後にも長々と続いている。
それを指摘するとオーグリーは、
1783
﹁あんまり見ないでくれよ、恥ずかしい﹂
おっと、冒険者の暗黙の了解たる、過去を探らない、に抵触して
しまっているかなと思って俺はすぐに下がった。
﹁悪い。そんなに長い名前の奴、あんまり見ないからな﹂
とは言え、全くいないと言う訳でもない。
国によっては改名手続きなどが簡単なところもあるらしく、自分
で好き勝手に名前を付ける奴と言うのがたまにいて、恐ろしく長い
名前をしているときもある。
冒険者だと、百人に一人、いるかいないかくらいの割合でいたり
する。
箔をつけようとかそういうちょっと愚かな感覚でつけてしまうら
しい。
オーグリーもその口かな、と一瞬思うが、そういうタイプでもな
いような⋮⋮。
そう思っているとオーグリーは、
﹁ま、別に見てもいいけどね。若気の至りってやつさ﹂
と、俺の想像を肯定するような返答をしてきた。
俺がオーグリーに会ったのは三年ほど前だから、そのときにはす
でにまともな感覚になっていたということかな。
服装についてはいまでもちょっとあれだが、受け答えは普通だ。
これに加えて、毎回名乗るごとに物凄く長い名前を言って来たら
流石に愛想が尽きそうである。
まともになってて良かった。
1784
﹁⋮⋮よし、これでオッケーっと。レント、ロレーヌ、これで契約
は発効⋮⋮﹂
そうオーグリーが言いかけたところで、魔術契約書が普通ではあ
りえない輝きを放ち始めた。
﹁これは⋮⋮!?﹂
観察していると、その光は徐々に収束し、契約書の上に、何か像
を結び始める。
何なのか気になってじっと見つめていると、それは見覚えのある
形のものに変わっていった。
それはつまり⋮⋮。
﹁⋮⋮まさか、これって⋮⋮ホゼー神?﹂
とオーグリーが言った。
確かに、そこには天秤と錫杖を持つ、長い髪の女性の淡く透明な
姿が浮いている。
そして、彼女が祈る様に目をつぶると、彼女の持つ錫杖から光が
降り注ぎ、契約書に書かれた文言にその光が染み込んでいく。
それから光が静まると、ホゼー神⋮⋮のような像は、少しずつ焦
点を失うように空気に解けて、消えていった。
光が消滅したその場に残っているのは、俺たちが書いた契約書だ
け。
恐ろしいような気がして、触れるのも恐々だったが、持たないわ
けにもいかないので人差し指で軽くつついてみる。
﹁⋮⋮特に、何もないな⋮⋮﹂
1785
俺がそう言うと、オーグリーとロレーヌもそれに触れ始めた。
﹁今のは一体何だったのかな⋮⋮? いわゆる︽ホゼー様の加護を
受けた魔術契約書︾ってのは、契約を結ぶごとにああいうことが起
こるのかい?﹂
オーグリーがそう尋ねる。
気持ちは分かる。
通常の魔術契約書も、発効するときは淡い光を放つから、その延
長線上にある現象だと考えれば何も怯えることなどない。
しかし、ロレーヌが首を振った。
﹁私は以前、これを使う現場に居合わせたことがあるが⋮⋮そのと
きは通常の魔術契約書と同様、光っただけで終わった。確かに多少
光は強かった気がするが⋮⋮その程度で、何者かの像が結ばれるな
どということは起こりはしなかった﹂
﹁⋮⋮つまり?﹂
﹁非常に特殊な現象である可能性が高いな。今こそこの鈴と使うべ
き時だろう﹂
そう言って、神官が鳴らして呼べと言っていた鈴を指さす。
﹁でも、契約内容を見られてしまうのは⋮⋮﹂
とオーグリーが言ったところ、契約書からすうっ、と契約の文言
全てが消えていった。
契約書の表面に残っているのは、俺とオーグリーの署名だけだ。
しかも、その署名ですらぼやけて良く見えない。
1786
そう書いてある。と知っているから何とか読めるだけで、普通に
見ただけだと文字にすら見えないぼやけた何かだろう。
﹁⋮⋮呼んで見せてもよさそうだな﹂
肩をすくめてロレーヌがそう言った。
﹁今の現象に突っ込みは?﹂
と俺がオーグリーとロレーヌに尋ねれば、
﹁⋮⋮びっくりしすぎてなんていったらいいものか、わからないね
⋮⋮﹂
﹁レントと一緒にいる限り、何が起こっても不思議ではないと最近
諦めている﹂
と、身もふたもない台詞を言う。
別に俺のせいじゃないだろ、と言いたいところだが、ここ最近の
俺の星の巡り合わせを考えるに、そうとも言い切れないのが辛いと
ころだ。
俺もまた、肩をすくめて、
﹁⋮⋮とりあえず、神官を呼ぼうか⋮⋮﹂
そう言ったのだった。
1787
第268話 王都ヴィステルヤと像︵後書き︶
気づいたら総合評価が9万ptに達していました。
これを書きだしたのが、主に自分のために毎日書こう、という理由
だったので、
こんなに評価されるとは思ってもみませんでした。
もう半年くらい頑張れば、二ケタも行けるかもしれないと期待しつ
つ、あまり期待しすぎないようにこつこつ頑張っていきたいと思い
ます。
ブクマ・感想・評価、いずれも非常に励みになっておりますので、
これからもどうぞよろしくお願いします。
1788
第269話 王都ヴィステルヤと神官
﹁⋮⋮神気が⋮⋮満ちている⋮⋮!?﹂
鈴を鳴らすと、まるで扉の前で待っていたのではないかと聞きた
くなるような速度で神官がやってきた。
それから、部屋に入ると同時に、呆けてそんなことを言った。
目を見開き、茫然としている。
それを見て、先ほど契約書の上に浮くように現れたホゼー神らし
き像は、ホゼー神かどうかは分からないが、少なくとも神気を放つ
ような存在であるということが分かった。
神気はその存在を感じ取るのに修行が必要なものらしく、俺たち
には見ることはできないが、先ほどから非常に清廉な空気は感じら
れていた。
聖気による浄化を経た空気を、田舎の山の空気とするのならば、
今は完全密閉されて消毒されきった感じがする、と言えばいいのか。
ヴァンパイア
邪悪なるもの一切を認めない、厳しく苛烈な意思があるように感
じられた。
⋮⋮邪悪なる吸血鬼はここにいますけど。
説得力がないな。
﹁⋮⋮やっぱり、何か変なのですか?﹂
俺が目を開いて空気を深呼吸し続ける神官に、話が進まないから
と話しかけると、神官はこちらをギンッ、と見つめて、俺の胸ぐら
をつかみ、
﹁何が! 一体何があったのですか!? 教えてくださいませっ!﹂
1789
と、揺らしまくる。
物凄い剣幕だ。
俺は、
﹁ちょ、ちょっと一旦放して⋮⋮﹂
と言うと、神官ははっとした顔で、
﹁⋮⋮あぁ、申し訳なく存じます。少し興奮しすぎました﹂
そう言って、止まってくれたので何とか命が助かったような気分
になる。
いや、胸ぐら掴まれたくらいじゃ流石に死なないけど、なんかこ
う、精神的に死を感じたよ。
俺は。
しかし⋮⋮改めて神官を見ると、女性だった。
先ほどまでゆったりとした神官服を身にまとい、かつフードを被
って顔を下げていて、声も中性的だったから顔も性別もはっきりと
は分からなかったが、今興奮して激しく動いたため、フードが外れ
て顔が露わになっている。
ホゼー神の神殿は契約を司る関係上、神官たちはその顔貌を見せ
ることを慎んでいるというが⋮⋮いいのだろうか?
そう思って俺は尋ねる。
﹁⋮⋮フードは、いいのですか?﹂
﹁⋮⋮? あっ⋮⋮﹂
俺に指摘されて、そそくさとフードを深くかぶり、ほっとした空
1790
気を出す神官女性。
⋮⋮もう手遅れだと思うけどな。
﹁もう手遅れではないか?﹂
俺があえて口に出さなかった台詞をロレーヌが素直に言った。
神官女性はそれにがっくりと肩を落とし、渋々と言った様子でフ
ードをもう一回降ろして、
﹁⋮⋮そうですね⋮⋮﹂
と言った。
なんだか妙におっちょこちょいというか、抜けている神官である。
案内してくれた時はスムーズかつ説明も簡潔でしっかりしている
ような印象を受けたんだけどな。
この部屋に満ちているらしい空気のせいか、素が出ていると言う
ことかもしれない。
神官と言ってもやっぱり所詮人間だからな⋮⋮そういうこともあ
るだろう。
ま、神官の個性はいいんだ。
それよりも⋮⋮。
﹁神官殿。神気がどうとかおっしゃっておられましたが⋮⋮﹂
﹁あぁ、そうでしたね。そう、皆様に感じられているかどうかは分
かりませんが、神気がこの部屋には満ちています。まるで、神々が
降臨されたかのような有様で⋮⋮この部屋は聖地にしたいくらいで
す﹂
神官の答えに、俺たちは顔を見合わせる。
1791
神気が感じられているかと言うと、おそらくだが、全く感じられ
ていないわけでもない。
何か、いつもと違った感じは分かる。
が、魔力や聖気のようにまではっきりとは分からない。
しかし、聖地か。
神殿内の一室なのだから好きにすればいいと思うが、問題はなぜ
そんなことになっているかだ。
俺は先ほどあったことを神官に説明する。
﹁⋮⋮聖地云々は置いておいて、事情を説明しますと、先ほど、魔
術契約書を使用したら、そこにホゼー神らしき像が現れ、おそらく
は祝福⋮⋮かなにかを契約書にかけていかれたのです。こちらがそ
の契約書で⋮⋮﹂
そう言って契約書を手渡すと、神官は恐れ多いものを受け取るよ
うな格好で頭を下げ、そしてゆっくりとそれを手に持った。
それから空に掲げるように契約書を観察すると、深く頷いて、言
った。
﹁⋮⋮間違いなく、ホゼー神のご加護がかけられております﹂
﹁⋮⋮この契約書は︽ホゼー様の加護を受けた魔術契約書︾なので
はないのですか?﹂
俺がそう尋ねると、神官は首を振って、
﹁それも間違いではないのですが⋮⋮細かい話を致しますと、違い
ます。この契約書は、︽ホゼー神の加護を受けた聖者・聖女が作っ
た魔術契約書︾ですので、間接的にホゼー神のご加護を賜っている
のです。ただ、そう言うよりかは、単純に︽ホゼー様の加護を受け
1792
た魔術契約書︾と言ってしまった方が、ありがたみが増しますので、
そのように呼んでいるのです⋮⋮﹂
⋮⋮知りたくない話だった。
いや、ホゼー神殿の神官たちはどこか、神官と言うよりかは商人
に近い空気感を持っている人ばかりなので、納得できる話でもある
が。
別に嘘もついてはいないし。
この契約書が聖者・聖女によって作られていることは普通に公表
されているのだから。
重要なのは効力があることで、実際、その点に問題はないのだか
ら責める必要もないと言えばない。
神官は続ける。
・・・
﹁ただ、こちらの⋮⋮皆様方がお使いになられた契約書は、本当に
ホゼー神のご加護を賜っております。よほど神々にとって重要な契
約だった、ということなのかもしれません﹂
﹁⋮⋮重要な契約にはホゼー神が直々に加護を授けることもあると
?﹂
ロレーヌがそう尋ねると、神官は頷いた。
﹁ええ。とはいっても、私が見たのはこれが初めてです。伝えられ
るところによりますと、聖剣の貸与に当たって契約を結んだ時には
ホゼー神が直々に加護を授けられたとか。他にもいくつか例はあり
ますが、いずれも言い伝えに残るようなものばかりです。失礼なが
ら、皆様方は一体どのような内容のご契約を⋮⋮? いえ、もちろ
ん、無理にお聞きするつもりはございません。ただ、ホゼー神に仕
える者として、出来れば、知りたい、という気持ちがあるだけです
1793
ので⋮⋮﹂
これに俺は、
﹁申し訳ありませんが、内容については教えられません。しかし、
他の例を聞く限り、それらに並べられそうな重要性のある契約を結
んだわけではありません﹂
こう答えるしかなかった。
1794
第270話 王都ヴィステルヤと再会の約束
﹁⋮⋮そうですか﹂
俺の返答にがっかりとした神官だったが、それに続けて、
﹁では、せめてお名前を⋮⋮﹂
そう言ったが、これにも首を振らざるを得ない。
﹁いや、それも申し訳ないのですが⋮⋮﹂
そう言うと、神官の顔はもはや絶望に塗りたくられたかのようで
あった。
しかし、こればっかりは仕方がない。
まぁ、ただ、俺とロレーヌはともかく、オーグリーは別に言って
もいいかもしれない。
契約や正義を司る神の神殿だけあって、神官たちは守秘義務は頑
なに守る、と言われているからな。
たとえ国や強い権力を持つ団体に聞かれても、秘密を明かすこと
はない。
歴史上で、そう言った逸話がいくつも残っているのだ。
たとえばさっきの聖剣の話にしても、初期は誰が剣を手に入れた
かは秘密にされていたらしく、その際に魔王の一人に操られた大貴
族が国の権力を振りかざして神殿にその持ち主の名を言うように迫
ったと言うが、その際も完全に突っぱねたと言う。
まぁ、それでも言わない方がいいけどな。
神官の方も悲しそうではあるが、これ以上尋ねるのもホゼー神殿
1795
の神官として失格と思ったのか、
﹁⋮⋮いえ、謝られるようなことではありません。むしろ、無理に
お聞きして申し訳ありませんでした。ですが⋮⋮契約に関して何か
ありましたら、我が神殿にぜひご連絡を。本神殿、分神殿問わず、
必ずやご協力いたしますので。こちらは、いずれのホゼー神殿でも
直接神殿長に面会を求めることの出来る面会証です。ぜひ、ご活用
くださいませ﹂
そう言って、一枚のカードを手渡してきた。
おそろしく待遇がいいというか、なぜここまで、と言う感じだ。
そもそも、なんでこんなものを一介の神官が持っている?
そんな俺たちの疑問を察したのか、
﹁あぁ、申し遅れました。私はこのヴィステルヤのホゼー分神殿の
神殿長のジョゼ・メイエと申します。どうぞよろしくお願いします﹂
と名乗って来た。
続いて名乗りそうになるが、そうそううっかりもしていられない。
名乗らずに、
﹁ええ、よろしくお願いします﹂
と三人で手を差し出して順に握手した。
しかし、神殿長か。
年齢は確かにそれほど若いという感じではない。
二十代半ばくらい。つまりは俺やロレーヌと同年代だ。
それでヤーラン王国と言う田舎国家とは言え、その王都の分神殿
の神殿長を務めているとは出世しているのだな、と言う感じである。
まぁ、神官の出世は聖気を持っていたりするとかなり早いそうだ
1796
し、神気などを敏感に感じ取っていたらしいことからおそらくは聖
気持ちであろう。
つまり、聖女だ。
ならばおかしくはない。
とは言え、あんまり関係を持つこともないだろうが。
オーグリーは王都で活動している関係で街中で出くわすこともあ
るかもしれないが、その際はジョゼの方から避けてくれることだろ
う。
さて、聞きたいことも聞けたし、やるべきことも終えたし、そろ
そろ時間も本当にやばくなってきた。
オーグリーもオーグリーで用事があると言っていたし⋮⋮。
﹁では、そろそろ私たちは帰りますので⋮⋮﹂
﹁あぁっ⋮⋮そうですか⋮⋮﹂
あからさまにジョゼが悲しげな顔をした。
もっと何か聞きたい、という表情であるが、もう話すことも話せ
ることもない。
俺たちはそそくさと部屋を出て、そしてそのまま神殿の出口に向
かったのだった。
◇◆◇◆◇
﹁さて、色々あったけど、これで心配することはなくなったかな﹂
俺が神殿を出てからそう言うと、オーグリーが頷く。
1797
﹁そうだね。契約を結んでしまえば仮に聞かれても契約を盾に喋れ
ないって言えるし⋮⋮気が楽になったよ。言おうとしても言えなく
なったしね﹂
俺が許可を出した場合なんかは言えるように契約に幅は持たして
いるが、そういうミスを防げるのは常に心配しながら生きないで済
むだけ楽だろう。
﹁まぁ、心配し過ぎなのかもしれなんがな。そもそも今回契約した
内容について、嗅ぎ付けて解き明かそうとする者などそうそういる
・・
とも思えん⋮⋮ニヴの例があるから、若干心配なだけで﹂
ロレーヌがそう言った。
確かにそれはその通りである。
見た目が完全に人間と変わらなくなった今、俺をそうだと見抜け
る者などそうそういるはずがなく、ここまで厳重に扱わずとも基本
的には露見はしない可能性が高い。
が、もしものときのことは常に考えておくべきだろう。
だから、今のところ、俺の秘密について告げた人物は皆、元々信
用できる人間か、魔術契約書を使って約束よりも強固で信頼できる
裏付けをもらった場合だけだ。
いずれ、俺の体のことが分かっていくにつれ、関係性の薄い他人
にどうしても説明しなければならない場面も出るかもしれないが、
そのときはよくよく考えなければならないだろう。
﹁ニヴっていうと、あのニヴ・マリスかい?﹂
オーグリーがその名前が気になったのかそう聞いてきたので、俺
は答える。
1798
ヴァンパイア
﹁ああ。吸血鬼を追って、マルトに来てるんだ。俺も相当疑われて
さ⋮⋮﹂
ヴァンパイア
﹁それはまた⋮⋮お気の毒に。でも問題はなかったようだね? 意
外な話だが⋮⋮﹂
一番意外だったのはもちろん俺だ。
そもそも実際、ニヴが探していたのは俺以外の吸血鬼だった。
今頃は見つかっているのかな⋮⋮西からやってきた、という話だ
ったが、あれだけの情熱をもって探していたのだ。
ヴァンパイア
マルトが地方都市としてはそこそこ広いとは言っても、毎日辻斬
りならぬ辻聖炎をされては隠れている吸血鬼もどうにもならないだ
ろう。
﹁ま、無事だったからそれはそれでいいのさ。そう言えば、オーグ
リー、お前、何か用事があるって話だったが、時間はいいのか?﹂
俺がそう尋ねると、オーグリーは太陽の位置を確認して、
﹁おっと、そろそろまずいね。今日のところはこれで失礼するよ。
また今度、会えるかい? マルトを離れてから僕も色々あってね。
積もる話もあるし、王都に君たちがいるときにたまに依頼なんかも
受けてみたいし﹂
と言って来た。
基本的にソロに拘っている俺だが、それは、一人で戦い続けるの
が最も強くなるのに効率的だと考えていたからで、今はまた少し違
う。
それに、オーグリーとはマルトにいるときもソロの誼で金欠のと
きにたまに一緒に依頼を受けていた。
1799
だから、それについては問題ない。
ロレーヌも特に問題ないようで、頷く。
ギルド
﹁あぁ。次に来た時は連絡を入れるよ。冒険者組合経由⋮⋮ってわ
けにもいかないから⋮⋮﹂
そう言った俺の逡巡を理解したのか、オーグリーはすぐに、
﹁そのときはこの宿に連絡してくれ。定宿なんだ。じゃあ﹂
荒い紙に宿の名前と大まかな位置を記載したものを手渡し、手を
振ってその場を去っていった。
1800
第271話 王都ヴィステルヤと善行
﹁⋮⋮じゃ、そろそろ集合場所に行くか﹂
俺がそう言うと、ロレーヌも頷いて答える。
﹁そうだな。まだ時間は過ぎていないが⋮⋮ギリギリだろう。あの
二人にはあまり怒られたくない﹂
ガルブとカピタンにか。
確かにそれは俺も同感だった。
だから、 ﹁⋮⋮急ごうか﹂
そう返答して、二人で集合場所へと急いだのだった。
その前に、服装を元に戻すのは忘れなかった。
さすがに派手派手しいかっこでガルブとカピタンに会う度胸はな
い。
確実にからかわれるからだ。
◇◆◇◆◇
﹁おや、時間ぴったりだね。そんなに王都見物が楽しかったのかい
?﹂
つくと同時に、ガルブがそう尋ねて来た。
皮肉、というわけでもなく単純に疑問だったようだ。
1801
俺は、
﹁悪かったよ。王都は⋮⋮ロレーヌはともかく俺は初めてだからな。
楽しいは楽しいさ。ただ、遅れた理由は⋮⋮﹂
ヴァンパイア
そして、オーグリーと出会い、その後色々あったことを話した。
もちろん、俺が吸血鬼だという点については伏せてだ。
ホゼー神殿の件は、王都に来たことを話さないでほしかったので、
そうしてもらった、という嘘でも真実でもない説明をする。
色々話している途中、ガルブとカピタンの目は大分細くなってい
たので、嘘がバレバレなのかもしれないが、それでもとりあえずは
突っ込まないで聞いてはくれた。
そしてすべて聞いてから、ため息を吐いて、
﹁⋮⋮あんたはちょっと歩いただけいろんなトラブルに巻き込まれ
るねぇ。ロレーヌ、疲れないかい?﹂
と言って来た。 ロレーヌはそれに微笑みながら、
﹁いえ、退屈になることがありませんので、楽しいですよ﹂
とポジティブな答えを返す。
﹁これはまた⋮⋮そうかいそうかい。しかし、その男に転移魔法陣
のことは⋮⋮?﹂
﹁いや、話してない。それについては師匠たちの許可がないとと思
ってさ。話しても契約を結んだから別に良かったかもしれないが、
そこはな﹂
1802
俺自信の秘密については誰にどれだけ話そうが俺の自由だ。
その結果、俺がニヴみたいなやつから殺されたとしてもそれはあ
くまで俺の自己責任であるのだから、それはそれでいい。
けれど、転移魔法陣については⋮⋮最終的にハトハラーの問題に
なるからな。
勝手に話すわけにはいかない、という判断だった。
これにガルブは、
﹁あんたたちに管理を任せるって話をしたじゃないか。それはあの
存在をどう扱うかも含めての話だよ﹂
と意外なことを言う。
﹁つまり、他人に話すかどうかも好きに決めてもいいと言うことで
すか?﹂
ロレーヌがそう尋ねると、カピタンがそれに答える。
﹁あぁ。俺たちはそのつもりで言ってたんだが⋮⋮うまく伝わって
なかったようだな﹂
﹁ですが、もしその結果、あの転移魔法陣の存在が明らかになれば、
ハトハラーは⋮⋮﹂
ロレーヌが心配を告げると、カピタンは、
﹁それはあまり考えなくても大丈夫だ。いざというときは、ハトハ
ラー側の転移魔法陣は消去することが出来る⋮⋮んだよな? 婆さ
ん﹂
1803
と、ガルブに確認した。
ガルブは頷いて、
﹁ああ。その方法は伝わっている。やろうと思えば出来るよ。で、
あとはハトハラーは知らぬ存ぜぬで通せばそれでいい。転移魔法陣
がないんだから、問題にすらならないだろうさ﹂
そう答えた。
これに驚いたのはロレーヌで、
﹁⋮⋮転移魔法陣を、人の手で破壊できるのですか⋮⋮?﹂
ロレーヌが驚くのには理由がある。
迷宮内部で発見されるのが基本の転移魔法陣だが、それを人の手
で破壊出来たことはないのだ。
迷宮が自らの内部構成を変えてしまうときに、勝手に消滅するこ
とはあるのだが、人が武器や魔術で削ろうとしても一旦は削れるの
だが、すぐに復元してしまって、壊れることはなかった。
非常に存在が強固な魔法陣なのである。
しかしガルブは、
﹁ああ。やり方さえ知ってれば簡単だよ。あんたたちにも後で教え
る。あの滅びた都市の転移魔法陣の出口なんかも含めて、伝えなき
ゃいけない知識は結構あるからね⋮⋮しっかり覚えてもらうよ﹂
そう言った。
俺は正直、かつての修行の日々を思い出してちょっとだけ及び腰
になる。
結構無茶をやる婆さんだからな、師匠は⋮⋮。
1804
それでも当時は死ぬ気で色々覚えようと頑張っていたから、辛い、
とか思う暇もなかったが、今になって思い出すと、あれは今やると
絶対辛いな⋮⋮と思ってしまうことがないではない。
俺は大分精神的にへたれたのだ。
それでも、必要とあらばやるんだけども。
対してロレーヌは、未知の、面白い知識を得られる機会だと考え
たのか、目を輝かせて、
﹁ぜひ、よろしくお願いします!﹂
と楽しそうに言っていた。
まぁ、何事も楽しんでやれるのは大事だよね⋮⋮。
しかし、転移魔法陣は壊せるのか。
それなら仮に転移魔法陣のことが露見しても、ハトハラーは無関
係を装えるだろうな。
破壊される前にハトハラーに転移魔法陣があることを知られたら
ダメかもしれないが⋮⋮そのときは知った奴を口封じするしかない。
出来ればその前に破壊できるようにしなければならない。
なんかこう、うまい仕組みを考えた方がいいかもしれないな。
それとも、すでにあるのか⋮⋮。
分からないが、心配が少し軽くなったような気はした。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮ん?﹂
王都の正門に向かう途中、ロレーヌがそんな声を上げたので、俺
は尋ねる。
1805
﹁どうかしたか?﹂
するとロレーヌは、
﹁⋮⋮あれは、オーグリーではないか?﹂
そう答えたので、ロレーヌの視線の先を見つめてみると、確かに
そこにはオーグリーがいた。
小さな女の子と会話しているようで、何かを手渡そうとしている。
盗み聞きはよくないが、ここは王都の大通りだ。
ヴァンパイアイヤー
聞かれてまずい会話はしていないだろう、と勝手に判断して、好
奇心七割くらいの気持ちで吸血鬼耳を発動させる。
別に技じゃないぞ。
俺が勝手に名付けただけで。
かせいあかね
﹁⋮⋮ほら、これが火精茜だ。持っていくといい﹂
オーグリーが少女にそう言う。
少女は、
﹁でも、私お金⋮⋮﹂
﹁何、気にするんじゃない。そいつは僕が僕の僕による僕のための
服を染めるために採って来た余り物だからね。正直採れすぎて困っ
てたくらいさ⋮⋮だから、気にしないで使ってくれ。お母さん、そ
れが必要なんだろう?﹂
﹁うん⋮⋮ありがとう。オーグリーおじさん! あの、あの⋮⋮﹂
1806
﹁お礼とかはいいさ。それよりも、早く持って行ってあげるといい。
今度、君たちに僕の至高のファッションを披露しに行くからさ。そ
のとき、病人がいたんじゃ楽しくない。ほら﹂
そう言ってオーグリーは少女の背中を押し、少女は後ろ髪を引か
れつつも、最後にはどこかに向かって走っていった。
オーグリーはそんな少女の後姿を微笑みつつ見ながら、踵を返し、
雑踏の中に消えていく。
﹁⋮⋮立派ではないか。服装とのギャップが激しすぎるぞ﹂
﹁まぁ⋮⋮ああいう奴なんだよ。だからずっと付き合ってるんだ﹂
そう答えながら、しかし、料金はオーグリーのファッションショ
ー強制観覧か⋮⋮適正だな。
と思わないでもなかった俺だった。
1807
第272話 数々の秘密と地図
﹁戻って来たか﹂
しゅん、と周囲の景色が完全に変わって、周りは先ほどまでいた
下水道の中ではなく、洞窟の中へと変わった。
あの滅びた都市のある巨大な空洞、その壁にあるいくつもの洞窟
の中の一つだ。
王都からは、やってきたときとは異なり、四人で連れ立って出た
が、特に兵士に見とがめられることも止められることもなかった。
そもそも、王都を出るにあたっては入るときよりもよほど簡単で、
身分証すら出すことなく終わった。
我が国のことながらこれで大丈夫なのか、と思うが、別に貴族街
に来たわけでもない人間の出入り、特に出立については気にしない
ということなのだろう。
入るときしっかり検査しているから、出る分にはご勝手に、とい
うわけだ。
やっぱり緩すぎる。
まぁ、ヤーランはそんな国だからこそ田舎国家なのだけれど。
﹁王都から帝国の迷宮へ、そしてここから更に転移して、ハトハラ
ーに戻るわけか⋮⋮。改めて考えると物凄い距離を一瞬で旅してい
るのだな。私たちは﹂
しみじみとした声でそう言うロレーヌ。
しかし、その言葉に、ん?と思う。
別に内容がおかしいとかそういうわけではない。
そうではなく⋮⋮。
1808
﹁迷宮、か。そう言えば、ここでも︽アカシアの地図︾は使えるの
かな?﹂
そう思ったのだ。
あれは訪れた迷宮を自動的にマッピングしてくれる、という話で、
それがありとあらゆる迷宮に適用されるのであれば、ここ帝国の︽
古き虫の迷宮︾第六十層︽善王フェルトの地下都市︾もマッピング
されているはずだ。
とは言え、六十層だけマッピングされていても意味はないかもし
れないが。
そもそも上から降りてくる手段がないからなぁ⋮⋮。
しかし、地下都市自体を歩き回る分には意味はあるか。
﹁言われてみると⋮⋮確認した方がいいかもな。私も興味がある﹂
ロレーヌがそう答える。
ガルブとカピタンは不思議そうな顔で、
﹁︽アカシアの地図︾? それは何だい?﹂
とガルブが尋ねて来た。
これについては別に隠す必要はないだろうと俺は言う。
﹁あぁ、迷宮潜ってたら変な人物からもらった魔道具だよ。かなり
便利なんで重宝してるんだ⋮⋮ほら、これだよ﹂
そう言って、魔法の袋からくるくると巻かれた古びた羊皮紙を俺
は取り出して見せる。
1809
﹁⋮⋮ふむ。何の変哲もない羊皮紙に見えるが﹂
カピタンが腕組をしながらそう言ったので、俺はその用途を説明
する。
﹁確かに見た目はな。でも、効果はすごいぞ。なにせ、歩いただけ
で迷宮の地図が正確にマッピングされるんだ。冒険者にとってこれ
ほど便利な道具はない﹂
﹁なにっ⋮⋮それは、俺も欲しいな。マルトではそんなものが普通
に売っているのか?﹂
俺の説明不足のゆえに、カピタンは勘違いしたようだ。
カピタンも転移魔法陣を使って色々なところに行っているからか、
迷宮にはそれなりに潜っているのだろう。
これの便利さがよくわかるようだ。
しかし、その期待には応えられないのである。ごめんなさい。
俺は首を振って、
﹁まさか。マルトは王都より田舎なんだぞ。そんなもの誰かが発明
したなら、王都でもすでに売ってるだろうさ。そうじゃなくて、本
当にただもらったんだ。そのくれた人物が相当変わってて⋮⋮この
ローブも一緒にもらったんだけど、ロレーヌに見てもらったらそう
そう作れるようなものじゃないって話だった。この地図も当然、そ
ういう品だろう﹂
そう答えると、カピタンはかなりがっくりとした表情で、
﹁⋮⋮よし、今度それをかけて決闘をしよう﹂
1810
などと言い出す。
俺は慌てて、
﹁いやいやいや、勝てないから。毟られるだけだからやめてくれ!﹂
と叫ぶも、
﹁ロレーヌの幻影魔術の中のお前を見る限り、そうでもないと思う
が。流石に俺とて自分より遥かに弱い相手に勝負だ、などとは言わ
ないぞ﹂
と不意打ちでさらっと褒められる。
本当に?
俺ってちょっとは強くなったのかな⋮⋮カピタンの目から見ても。
なんという気分になりかけるが、ちらりとカピタンの顔を見ると、
少し悪い顔をしているのが見えたので、
﹁⋮⋮罠か。勘弁してくれ。無理無理。無理だって﹂
と冷静に拒否した。
カピタンも基本的には冗談のつもりだったようで、けれど、
﹁わかったよ⋮⋮その地図は諦めよう。ただ、手合せはしてもらう
からな? どれだけ強くなったかは見なければならない。教えたい
こともあるからな⋮⋮﹂
と言って来た。
何も賭けないと言うのなら、流石に断れず、
﹁はぁ⋮⋮わかった。手加減はしてくれ⋮⋮﹂
1811
と答えるしか俺にはなかった。
それから、改めて︽アカシアの地図︾である。
ぺラリと開いてみてみると⋮⋮。
シャホール・メレフナメル
﹁お、やはりここでも使えるようだな。しっかりとマッピングされ
ている⋮⋮しかも黒王虎に乗っかって来た道のりも記載されている
ようだな。乗り物に乗ってもいいのか⋮⋮﹂
ロレーヌが地図を見て、即座にそう分析した。
確かに、彼女の言う通りの地図になっている。
大体こういう品と言うのは自力で歩かないといけないとか、融通
の利かない制限があったりするものだからな。
そういうものが一切ないように思える︽アカシアの地図︾は、や
はり魔道具として恐ろしく有用であるのは間違いないだろう。
量産出来たらボロ儲けなんだが⋮⋮ロレーヌをして、製法が分か
らない、ただ完成品を見ただけで作るのは不可能に近いと言った品
だ。
魔術も錬金術も初心者の俺に、量産化など到底夢のまた夢に過ぎ
ない。
シャホール・メレフナメル
ま、それはいいとして⋮⋮。
黒王虎に乗って進んだ道のりが記載されている以上に注目すべき
事実がよく見ると明らかになった。
というのは、
﹁⋮⋮この︽至ハトハラー周辺古代王国砦跡︾とか︽至王都ヴィス
テルヤ建国期下水道︾とか書いてあるのは⋮⋮﹂
俺がそう言うと、ガルブが、
1812
﹁まぁ、間違いなく転移魔法陣の出口だろうね。驚いた。そんなも
のまで勝手にマッピングする魔道具とは⋮⋮﹂
1813
第273話 数々の秘密と地図の仕組み
﹁⋮⋮この感じで全部の転移魔法陣の地図を作ったら、ここからす
んなりどこでも行けそうだな。旅行業も始められそうだ﹂
俺は楽しげにそう言ってみるが、三人はかなり考え込んでしまっ
てそんな俺を無視して思索にふけっている。
⋮⋮まぁ、気持ちは分かる。
この︽アカシアの地図︾については色々考えるべきことがあるだ
ろうからな。
ただ、頑張って場の空気を明るくしようとしたのにこの仕打ちは
ないだろう。
芸人殺しだ。
芸人名乗れるほど話術は優れていないけども。 ﹁この転移魔法陣は、迷宮由来ではなく、ハトハラーの村人が付属
させたものなのでしたね?﹂
ロレーヌがガルブに尋ねる。
﹁ああ、そうだね。ハトハラーへと続く転移魔法陣については記録
も残っていないが⋮⋮おそらくはあそこに移り住んだ時代にここと
の行き来をするために付属させられたものだ。王都の下水道へのも
のは、かなり昔になるが、村の昔の︽宰相︾が使った、ってこと話
したね﹂
﹁ええ。となると⋮⋮この︽アカシアの地図︾はその情報をどこか
ら仕入れているのか問題になる。こういうタイプの魔道具は色々と
1814
方式があるが、基本は持ち主本人の五感や知識を利用し、それに基
づいて情報を得るタイプだ。だが⋮⋮﹂
ロレーヌが説明して俺を見たので、俺は少し考えて首を振った。
﹁それはたぶんこれについては違うだろうな。なにせ、俺はあの砦
が古王国のものだ、とは分かってても、王都の下水道が建国期のも
のだなんて知らないし。数百年単位の古さだとは師匠から聞いたが、
それくらいで﹂
仮に俺の知識や五感を使って情報を得ていると言うのなら、転移
魔法陣の記載は︽至なんだかよくわからないハトハラー周辺の砦︾
とか︽至王都のすごい古いらしい下水道︾とかになるはずだ。
⋮⋮もう少しかっこよく記載されるかな?
いやぁ⋮⋮俺の五感や知識を使ったらそんなものだろう。
ロレーヌも頷いて、
﹁そうだろうな。私もあの下水道が建国期のものだ、などとは推測
できなかったし、専門家でもないレントにそれを判別しろと言うの
も無理な話で⋮⋮したがってレントの知識に基づいて地図が記載さ
れたわけではない。しかしそうなると、一体どこから来た情報なの
か?﹂
ロレーヌの問いに、ガルブが答える。
彼女もまた、魔術師であり、かつ錬金術師だ。
こういった魔道具については詳しいのだろう。
﹁魔道具の作成者の知識に基づいている、という可能性がまず考え
られるだろうね。つまり、これを作った存在はここのことを知って
いた、というわけだ﹂
1815
確かに、それが一番すんなり納得いきそうな説明である。
ロレーヌも頷きながら、しかし別の可能性も口にする。
﹁ええ。そしてもう一つは⋮⋮こちらの方は、荒唐無稽と言うか、
夢物語のようなものだが⋮⋮︽アーカーシャの記録︾から情報を引
き出している可能性だ﹂
︽アーカーシャの記録︾?
なんだそれは。
そう思ったのは俺だけではなく、カピタンもである。
この四人組の知識担当はロレーヌとガルブらしい。
まぁ、分かってたけど。
俺とカピタンはどちらかというと脳筋寄りだもんな⋮⋮。
それでもそこそこ考えているし、たまにいいことも言うんだぞ。
たまに。
しかし、今は二人そろって頭の上にハテナマークを浮かべている
のは間違いない。
そんな俺とカピタンに呆れたように、ガルブが説明してくれた。
﹁︽アーカーシャの記録︾ってのはね、概念さ。すべての現象の記
録がある場所のこと。目に見える場所ではない、そういう次元、空
間があるという⋮⋮まぁ、ロレーヌの言う通り、夢物語だね。ただ、
魔術師、錬金術師にとって、その場所は非常に重要だ。そこには魔
術の理の全てがあり、僅かにでも接触を持てれば膨大な知識を手に
することが出来るとも言われている。とは言え、歴史上、そんなも
のに接触を持てた魔術師などいない。いないはずだが⋮⋮﹂
言いながら、ちらり、と俺の持つ︽アカシアの地図︾を見る。
1816
︽アーカーシャの記録︾⋮⋮︽アカシアの地図︾。
アーカーシャ、アカシア。
なるほど、そういう意味か。
と納得するが、それが名前の由来だと言うのなら、ロレーヌの推
測が正しいと言うことになってしまう。
﹁⋮⋮ま、あくまで可能性の話だ。名前だってそれくらい凄いんだ
ぞ、という理由でつけた可能性も低くない。竜を殺したことのない
剣に︽竜殺し︾なんて名前たがついてることはざらだろう?﹂
ロレーヌがふっと力を抜いてそう言った。
とかく武器や魔道具の名称と言うのは大げさになりがちなのは事
実だ。
︽竜殺し︾以外にも︽巨人殺し︾とか︽神殺し︾とかついてるこ
とは少なくないのだ。
街の武具屋にいけば、普通に店に並んでいる。
当然、竜も巨人も神もそんな街の武具屋毎に殺されてやれるほど
数もいないし暇でもない。
つまり嘘だ。
まぁ、実際に腕のいい戦士がそれらの武器をもって相対すれば殺
せるのかもしれないがな。
要は、︽竜殺し︾ではなく、︽竜︵を︶殺︵せるかも︶し︵れな
い︶︾というわけだ。他のもご同様で。
この︽アカシアの地図︾もアーカーシャの記録に接触できたと勘
違いするほどに物凄い地図、の可能性も低くないと言うことだな。
そういうロレーヌに俺は頷いて、
﹁ま、確かにな⋮⋮。しかし、そうなるとやっぱり作った奴がここ
を知っていたってことになる。それについては⋮⋮﹂
1817
﹁それは本人に会って聞くしかないだろう。お前の会った人物こそ
がこれを作った人物である可能性が高いが⋮⋮簡単に会えそうな存
在でもないな。それについては保留と言うすることにするほかなさ
そうだ﹂
﹁そうだな⋮⋮行こうとしても行けないからな﹂
︽水月の迷宮︾深部への道は閉ざされてしまった。
壁を切っても突いてもどうにもならなかった以上、俺には行く術
がない。
他に手がかりを求めるしかないが⋮⋮今は何もない。
これ以上考えても分からないことだろう。
﹁ま、今はそいつがどれくらい使えるか知る方がいいんじゃないか
い?﹂
ガルブがそう言ったので、どういう意味かと首をかしげると、ガ
ルブは呆れた顔で説明した。
﹁そいつを使って他の転移魔法陣のところにも行ってみるのさ。そ
れでどうマッピングされるか、見てみようじゃないか﹂
1818
第274話 数々の秘密と転移魔法陣の危険
とりあえず、かなり数ある転移魔法陣すべてを今日回るわけにも
いかないので、あくまでもいくつかを回ってみることにした。
どの転移魔法陣を回るかはガルブとカピタンの選択に丸投げだ。
というのも、彼らは俺たちが使っていない転移魔法陣をいくつも
使っていて、その出口についても知っているからだ。
︽アカシアの地図︾の効力を試すのにはうってつけ、というわけ
だな。
その結果は⋮⋮。
﹁⋮⋮ううむ、︽行ったことのある場所がマッピングされる︾とい
うのは本当のようだね。ただ、転移魔法陣については、使わない限
りは詳しくは行き先が表示されないと言うことか﹂
ガルブがそう呟く。
彼女が覗く︽アカシアの地図︾には、︽至ライナ王国辺境都市ア
ルハザ︾と記載されているところと、︽至ソーン共和国ダリスの島、
商人ダリスの見捨てられた倉庫︾と記載されている部分があった。
どちらも地図上の転移魔法陣の下に記載された文字であり、これ
によって分かったことがいくつかある。
﹁転移魔法陣を使えば詳細に出口の場所が記載されるが、使ってい
ないものについては国名と属する自治体の場所が記載されるに留ま
る、ということだな﹂
カピタンがそう言った。
つまり、︽至ライナ王国辺境都市アルハザ︾と記載してある転移
1819
魔法陣の方はまだ使っておらず、前に立っているだけで、︽至ソー
ン共和国ダリスの島、商人ダリスの見捨てられた倉庫︾と記載して
ある転移魔法陣の方はガルブ達と使ってみて、実際に出口に一回行
って戻って来たのだ。
もちろん、使う前にも地図を確認してみたが、そのときは︽至ソ
ーン共和国ダリスの島︾とまでしか表示されていなかった。
使って戻って来たら、記載が増えていたのだ。
ちなみにダリスの島は風光明媚なところでした。
ソーン共和国って確か南の方にある島国だったからな。
数千の島で構成された国で、海運が発達しているらしい。
そのうち暇になったら海水浴でもしたいところだ。
⋮⋮まぁ、別に今も忙しくはないんだけどな。
ミスリル
やることは山積しているが、期日が決まってるわけでもないし。
もちろん、早く神銀級にはなりたいけれど、気合を入れすぎても
足を掬われる。
その辺りは適度に休養を挟んだ方がいいだろう。
⋮⋮怠け者か。
﹁そのうち全部片っ端から使って正確な出口を地図に記載しといた
方がいいかな﹂
俺がカピタンの言葉を受けてそう言うと、ロレーヌが悩んだ顔で、
﹁⋮⋮可能ならそうした方がいいかもしれないが⋮⋮出口が安全か
どうかがな﹂
と不安を口にする。
これにはガルブも同感のようで、
﹁⋮⋮確かにその心配はあるね。と言っても、出口側ががれきに埋
1820
まっていたりする場合、転移魔法陣を発動させると岩と融合する、
なんてことは起こらないらしいからそこまで心配せずともいいとは
思う。ただ、それでもいきなりどっかの国の玉座の間に転移する、
くらいのことはありうると思っておいた方が良い﹂
と、恐ろしいことを言う。
岩と融合しない、壁の中に転移しない、というのは安心材料だが、
玉座の間に転移と言うのは⋮⋮。
﹁なんとなく分かるだろう? ハトハラーへのものや、王都ヴィス
テルヤへのものは古いと言っても数百年で済んでいるが、他のもの
は⋮⋮ここの古代都市と同じくらいに古いものである場合も少なか
らずあるだろう。むしろ、大半ではないか? となると⋮⋮転移魔
法陣があるとは知らずにその上に建物を建てたりしている場合もあ
るだろう。転移魔法陣は知っての通り、壊れない。正確には壊れて
も復元される、だが⋮⋮一応色々と実験がされていてな。塞がれた
場合に転移魔法陣をすると、出口側の出現位置が縦移動することが
あることは分かっている﹂
﹁ん? それはどういうことだ?﹂
ロレーヌの言葉に首をかしげると、ロレーヌは説明する。
﹁わかりやすく言うと⋮⋮出口側の転移魔法陣が床に書いてあった
とする。その床の上に、転移魔法陣を覆う形で石畳を敷いたとする。
この状態で入り口側の転移魔法陣を使うと、さて、どうなる?﹂
﹁⋮⋮どうもならないんじゃないか? 転移魔法陣は壊れないんだ
し⋮⋮そのまま床の上にあり続ける。結果、転移できない⋮⋮﹂
1821
﹁確かに、理屈の上ではそうなりそうだな⋮⋮この場合、完全に転
移魔法陣は塞がれているわけだものな。しかし、こういう場合、転
移魔法陣は面白い挙動を見せる﹂
﹁それは?﹂
﹁積まれた石畳の上に移動してしまうのだ。勝手にな﹂
﹁⋮⋮それは⋮⋮﹂
便利だなぁ、と思ったけれども、俺たちの置かれている立場から
すると怖いかもしれない。
それはあれだろ。
転移魔法陣の上に建物が立っていたら、その建物のどこかに転移
する可能性があるということだろう。
つまり、ガルブの言う玉座の間にいきなり転移、とはそういうこ
となのだ。
しかも、出口側の転移魔法陣は塞がれている。したがって⋮⋮戻
って来れない。
ガルブが付け加えるように言う。
﹁そういう場合もあるだろうし、それに古い砦や城を修復して使っ
ていることも少なくないからね。貴族の城の来歴なんかたまに聞く
と、嘘つくんじゃないってくらい古代の歴史から始めることもある。
もちろん、そのほとんどは箔をつけるための見せかけの歴史だろう
が、その全てが嘘と言うこともあるまい。いくつかは事実だろう⋮
⋮そういう建物に、転移魔法陣が普通に残っていることもなくはな
いと私は思うね。なにせ、ハトハラーのあの砦にあったんだ。ああ
いう砦や城が他にあって、普通にそれと知らず使われていてもおか
しくはない。稼働しない転移魔法陣なんて絨毯で埋められてそのま
1822
まってこともあるだろう。となると⋮⋮というわけさ﹂
﹁絨毯が敷かれている場合、絨毯の上に乗った状態で転移魔法陣は
発動するのか?﹂
俺がふっと気になった疑問を口にすると、ロレーヌが呆れた顔で、
﹁お前⋮⋮今聞くことがそれか?﹂
と言って来た。
仕方ないじゃん。気になるんだもん。
そんな顔をしていると、ロレーヌはため息を吐きつつもちゃんと
説明してくれる。
こういうところが好きだね、俺は。
﹁⋮⋮絨毯のような布なんかで塞いでいる場合には石やなんかで塞
がれている場合とは違って、発動するらしい。そして、出口側の転
移魔法陣が塞がれている場合には、絨毯の上に移動する。もちろん、
私はやったことがないから本当かどうかは分からないが⋮⋮だから、
それが事実だとすれば、いきなり玉座の間に転移、はやはり十分に
ありうる話だ﹂
1823
第274話 数々の秘密と転移魔法陣の危険︵後書き︶
迷宮にある転移魔法陣のところに絨毯や石畳を運び入れて実験をす
る帝国の研究者たち⋮⋮。
それを迷惑そうに見ている冒険者たち⋮⋮。
1824
第275話 数々の秘密と荷物︵前書き︶
ちょっと前回の転移魔法陣の説明が分かりにくかったというかおか
しかったので前話の説明を修正しました。
一応、今話でまとめて説明してありますので今話を読めば前話修正
部分は別に読み直さなくてもオッケーな仕様にしてあります。
たぶん矛盾していないと思いますが、なんか、あれ、と思ったらお
教えください。
1825
第275話 数々の秘密と荷物
⋮⋮説明が色々と錯綜して分かりにくい部分があったから、まと
めてみると⋮⋮。
まず、転移魔法陣の出口側が何かしらの障害物で塞がれている状
態で入り口側の転移魔法陣を発動させても、障害物と融合したりぶ
つかったりすることはない。
ただし、転移魔法陣はその場合も発動し、出口側の障害物がない
地点に出現する。そしてそれは縦移動なので、障害物の上に転移す
ることになる。
さらに、その場合には出口側の転移魔法陣は塞がれているので、
帰っては来れない。この部分が俺たちにとってはかなりつらいな⋮
⋮。
また、転移魔法陣が絨毯などの薄い布のようなもので塞がれてい
る場合には、普通に転移できるし、戻ってくることも可能だ。
これはそれほど問題なさそうだな。出口が塞がれているにしても、
せいぜいそんなものであってほしい、と願うばかりである。
ま、転移魔法陣の挙動についてはこんなところか。
まだいろいろあるかもしれないが、今は問題にならないのでとり
あえずはいい。
﹁⋮⋮で、どうする? 未知の転移魔法陣を一つぐらい試してみる
か?﹂
ロレーヌが真剣な表情で尋ねて来た。
しかしだ。
1826
﹁流石に一方通行の危険があるようなところにはな⋮⋮﹂
そう答えるほかあるまい。
ロレーヌもこれには頷いて、
﹁そうだな⋮⋮﹂
と残念そうに答えた。
しかし、ガルブが、
﹁⋮⋮一応、一方通行かどうか、試す方法は伝わっているよ。やっ
たことはないけれど﹂
そう言ったので、俺とロレーヌは飛びつく。
﹁教えてくれるのか?﹂
﹁ぜひ、教えてください。ガルブ殿﹂
そんな風に。
するとガルブは、
﹁簡単さ。その辺の石ころに血をつけて転移魔法陣の上に置けばい
い。そうすれば、一方通行でなければ、数分で戻ってくる、という
ことだよ﹂
言われてみると、なるほど、分かりやすい話だ。
血がカギになっているわけだから、血のついた品を置いておけば
そうなる、ということだ。
けれど、問題もありそうだ。
1827
ロレーヌがすぐに気づいて言う。
﹁⋮⋮その場合、それこそ出口側が玉座の間とかだったら、唐突に
血の付いた物体が現れることになるな。転移魔法陣の存在がばれる
わけだ。今までそこにはないと思っていたそれが、確かにあって、
使えるものだと⋮⋮。血は少量で、見つかりにくいようにしても、
本気で詳細に調べれば分かってしまうかもしれんし⋮⋮リスクはあ
るな﹂
ガルブもこれに頷いて、
﹁そうさ。だから私たちは試していない。けれど、あんたらにはそ
れがある。リスクが全くないように、というのは無理かもしれない
が、かなり下げることは出来るんじゃないかい?﹂
︽アカシアの地図︾を指さしてそう言った。
なるほど、確かにな。
︽アカシアの地図︾には不完全ながらも転移先の情報が記載され
ている。
なんとか王国王都、とかなんとか共和国首都、とか書いてあった
らそこそこ危険だが、そうでない記載である場合にはこの方法を試
してみてもいいかもしれない。
あとは⋮⋮そうだな。
エーデルの手下たちを活用してもいいな。
彼らに血を一滴付けて、転移魔法陣を発動させてもらうのだ。
可能なら戻ってきてもらい、それが無理そうな場合にはその体の
小ささと素早さを活かして逃げてもらう。
出来る限りさっさと水場に移動してもらうといいかもしれない。 そうすれば、仮に捕まっても転移魔法陣は二度と使用できない。
血さえなければ研究のしようもない。
1828
結果が出なければいずれ諦める。
たとえ宮廷魔術師や宮廷錬金術師でも、あまり長い間結果を出さ
ないと首になるらしいからな。
その辺の事情は、たまに市井の者の噂話にも上る。
どこそこ王国の宮廷魔術師の方が解任されたんですって、お気の
毒にってな感じでな。
世知辛い話だ。
ともあれ、おれは答える。
﹁確かにそうだな⋮⋮エーデルたちに協力してもらえば隠密性も保
てるかもしれないし﹂
するとガルブが、
﹁エーデル?﹂
﹁あぁ⋮⋮俺の、従魔、みたいなやつだよ﹂
するとカピタンが、
モンスターテイマー
﹁レント、お前、従魔師の技術まで身に着けたのか?﹂
と少し驚いたような声を出す。
ただ、そこまで驚きが大きくないのは、俺が村にいる間色々やっ
ていたことを分かっているからだろう。
モンスターテイマー
カピタンだって俺に技術を教え込んだうちの一人、というか筆頭
なんだしな。
ただ、別に俺は従魔師になったわけではない。
だから首を振る。
1829
﹁いや、そういうわけじゃないんだ﹂
しかし、そう答えれば当然、
﹁⋮⋮では、どうして従魔など得られたんだ⋮⋮? あれは特殊技
能では⋮⋮﹂
そういう疑問が出てくる。
モンスターテイマー
確かにそうなんだよな。
普通、従魔なんて従魔師に直接学ぶ以外に従える方法など中々な
い。
全くないわけでもないのだが、それこそもっと特殊な場合だ。
俺の場合もまぁ、その特殊な場合に入ると言えば入るが⋮⋮どう
説明したもんかな。
この二人には正直に言ってもいい気がするが⋮⋮。
そう思って悩んでいると、ガルブが敏感に察したのか、
﹁⋮⋮ふむ。そいつがあんたの抱えている︽秘密︾ってわけかい?﹂
と尋ねて来た。
これに対しては別に誤魔化す必要はないだろう。
というか、ガルブに誤魔化しても見抜かれるし、それなら初めか
ら正直にしておいた方がいい。
﹁ああ。その一部、かな⋮⋮秘密の内容については、二人に話すか
どうか悩んでるんだが⋮⋮﹂
﹁それはなぜだ?﹂
1830
カピタンがそう尋ねてくる。
俺は言う。
﹁教えること自体は別にいいんだ。二人は俺の秘密をきっと守って
くれるだろう。そのことに疑いはない⋮⋮だけど、村のことがある
からな。ハトハラーを普通の村にしたいって言ってただろ? 二人
とも、この話を聞いたらまた妙なことに巻き込まれることになって、
困るんじゃないかって⋮⋮﹂
ガルブもカピタンも、ハトハラーをもう、大きな秘密を抱えた特
殊な村から、普通の村にしたい、と言っていた。
それはつまり、二人ともこれ以上秘密なんて抱えるのに疲れたと
言うことではないだろうか。
常人と比べて、相当に大きな度量をもっていることは知っている
が、どんなに凄い人でも人間である。
疲れた、と思うことはあるだろう。
そして二人ともそれだけのものを背負ってきたのだ。
ここで更に荷物を背負わせるのはどうなんだろうな、と思ってし
まう。
親のいなくなった俺の、親代わり、家族みたいな人たちでもあっ
たわけで、どうしても躊躇がある。
オーグリー?
あいつは面白いことには首を突っ込みたがるタイプだからいいん
だ。
なんて、言ってみたが、正直、良く知る友人の支えが欲しかった
と言うのが真実だ。
ロレーヌもシェイラもいるし、信用しているが、オーグリーはま
た彼女たち二人とは違った意味で深い友達なのだ。
辛い銅級を一緒に頑張っていたという、ある意味で戦友のような。
だから巻き込んでもいい、というわけではないだろうが、少しだ
1831
け、一緒に背負ってほしかったというか⋮⋮。
ガルブとカピタンは、そう言う意味で、オーグリーとは少し異な
る。
背負わせてしまいたくない、と俺は思う訳だ。
1832
第276話 数々の秘密と煽り
﹁何を言うかと思えば、そんなことかい﹂
ガルブが俺の言葉にため息吐きながら言った言葉がそれだった。
ガルブは続ける。
﹁レント、あんたは私らの弟子だ。弟子が背負っているものくらい、
師匠である私たちが背負えなくてどうすんだい。ねぇ、カピタン?﹂
話を振られたカピタンも、ガルブ同様の気持ちのようで、
﹁まったくだな。大体、どんな秘密を抱えているか知らないが⋮⋮
お前のことだ。何かやばいことをした、と言うよりかは何かに巻き
込まれた、とかそういう話だろう。流石に大罪を犯した、と言う話
だったら自首を勧めるだろうが⋮⋮違うよな?﹂
最後の方はほとんど冗談めかした口調だった。
そういうことを俺がしない、と理解した上で信じてもくれている
という意思表示に他ならなかった。
こんなご時世である。
絶対にそういうことがありえないとは言えないだろうが、それで
も俺は最後の選択を誤らないと思ってくれているのだ。
ありがたい話だった。
ロレーヌもそう思ったのか、俺の肩をぽん、と叩いて、
﹁よい師匠方に恵まれたな。私の師とは大違いだ⋮⋮﹂
1833
と、意味ありげな台詞を口にしたが、そこは突っ込まないでおこ
う。
ワンド
ワンド
なにせ、思い出すにロレーヌの師匠ってあれだろ。
短杖の製作のときに短杖をぶん投げられた人だろ?
可哀想⋮⋮。
それを考えると俺は師匠に恵まれている。
ガルブには毒を飲ませられたし、カピタンには誰もいない野山に
放り出されて生き残れ、と言われたこともあるけれど。
⋮⋮恵まれているよな?
まぁ、ガルブは絶対に死なないよう、かつ後遺症も絶対に残らな
いよう、細心の注意を払って行ったと言うし、カピタンにしても当
時の俺にはまるで気づけなかっただけで、夜通し見守っていてくれ
たらしいから、やっぱり恵まれているのだろうな。
俺はカピタンに答える。
﹁もちろん、罪なんて犯してはいないさ。ただ、罪とされる場合も
ありそうだけど⋮⋮﹂
ヴァンパイア
吸血鬼であることそれ自体が罪だと言われるとな。
まぁ、俺は罪人だろう。
ニヴからすれば鬼・即・斬だ。
まっさらな雪の平原を見つけた子猫よりも凄い勢いでこっちに向
かってダイブしてくるだろう。
絶対に勘弁願いたい。
まず可愛くない。
見た目は整ってはいるのだが⋮⋮目の輝きとかがな。
肉食獣のように爛々とし過ぎ。
猫も肉食かも知れないが、可愛さのレベルが違う。
⋮⋮怒られそうだから、この辺にしておこう。
1834
﹁罪とされる場合がある? それは一体⋮⋮﹂
カピタンが俺の言葉に首を傾げる。
ガルブも同様だ。
しかし、おぼろげながらに、ガルブは理解しつつある輝きを瞳の
奥に宿しかけている。
まさかこれだけの情報で分かるのか?
あの婆さんヤバすぎないか⋮⋮と思うが、思った途端に睨まれた。
勘がね、あの人は鋭すぎるんだよ。
もう少し鈍くなってくれ。無理か。
ガルブは首を捻りきりなカピタンとは異なり、なるほど、と言っ
た様子で言う。
﹁カピタン、私はなんとなくわかったよ。しかしそれは信じがたい
話でもある⋮⋮もしそうだとすれば、レント。あんたは⋮⋮相当苦
労してきただろう。それなのに、以前と変わらない様子なのは、あ
んたの努力か、それとも周りにいる人たちのお蔭か⋮⋮大変な幸運
だ﹂
⋮⋮ダメだな。分かられてる。
﹁ガルブの婆さん、あんただけ分かった風に言うなよ。俺には全く
分からんぞ⋮⋮なぜもう分かるんだ﹂
カピタンは肩をすくめつつ、ガルブに文句を言う。
すると、ガルブは、
﹁そりゃ、年の功ってやつじゃないかい?﹂
1835
﹁あんたな⋮⋮﹂
冗談めかした口調のガルブにさらに口を尖らせたカピタンである。
村一番の狩人も、この婆さんの前では子供のようなものだという
証明だった。
とは言え、ガルブも別に誤魔化すつもりで行ったわけではないよ
うだ。
少し考えてから、
﹁⋮⋮まぁ、別にあんたなら素直に受け入れられるだろうが⋮⋮あ
んたは理屈どうこうよりも体で理解した方が分かりやすいだろう。
カピタン、あんた、レントと戦ってみるといい。それで感じるんだ。
レントが、どう変わったかを﹂
﹁何を⋮⋮言ってるんだ? レントが変わった⋮⋮強くなったと言
うのは分かっているが⋮⋮﹂
・・
﹁そうじゃないさ。ねぇ、レント。あんた、前とは根本的に違うだ
ろ?﹂
ガルブがそう言って俺に話を振る。
⋮⋮確かに、それはそうだな。
戦い方の基礎は銅級冒険者自体に身に着けたものではあるが、こ
の体になって色々出来ることが増えた。
例えば、肩の関節を気にしないで剣を振れる。
どういうことかと言えば、肩を同じ半径でずっとぐるぐる回し続
けられるのだ。
可動域が三百六十度になったと言う訳だな。
首もそうだし、足も。
およそ関節と言う関節が人間だった時と比べるともう化け物のよ
1836
うになっている。
まさに化け物なのだから当然と言えば同然なのだけど。
ただ、滅多にそういう戦い方はしない。
なにせ、身に着けた武術は全部人間用のそれだ。
人間の関節の可動域を基礎に組み上げられているもので、そこか
ら外れた行動をすることは、もう新たな武術の想像に近い。
俺にはそこまでのことが出来るとは⋮⋮。
よっぽどの危機に陥ったらやるだろうけどな。
たまに練習もしている。
そういうのを見せてみればいいかな?
気持ち悪い、とか言われたらやだなぁ。
だって俺も鏡で見ると未だにまぁまぁ気持ち悪いからな。
副産物かどうか、肩こりはなくなりました。
﹁確かに違うけど、カピタンにそれが引き出せるかどうかは分から
ないな。タラスクを相手にしても、そこまでのことはしなかったく
らいだし﹂
せいぜい、体が前より相当丈夫になっていることを見せられるく
らいか。
傷が出来ればすぐに治るのも見せられるな。
それ以上は、カピタンの力次第だが⋮⋮本当に俺の本気を引き出
せないとか思っているわけではない。
なんというか、試合をすることはもう約束しているのだし、ちょ
うどいいかなと思って煽ってるだけだ。
カピタンは俺よりも脳筋寄りだからな。
ガルブもそれが分かっていて言っている節がある。
弟子とか部下の前では頑張ってある程度インテリぶってるけど、
限界がある。
カピタンは案の定、俺の言葉に乗り、
1837
﹁⋮⋮いいだろう。そこまで言うのなら、戦おうじゃないか。泣い
て謝るなら今の内だぞ?﹂
1838
第277話 数々の秘密とハトハラー、試合に向けて
よし、戦おう。
とは言ったもの、今日この場で今すぐに、ということにはならな
かった。
というのは、もう今日は色々やりすぎて疲労困憊だからだ。
体力的にも精神的にも。
これ以上何かする気は起きない。
それに加えてカピタンには家族がいる。
今ですら外では夜の帳が降りているだろうに、これ以上遅くなっ
たら妻から怒られる、ということだった。
彼ほどの勇士であっても妻は恐るべき相手と言う訳だ。
まぁ、大体、狩人のおっさんたちは昔から恐妻家が多かったよな
⋮⋮。
危険に常に晒される職業の人間の妻は、そういう人物でなければ
務まらない、ということなのかもしれなかった。
ギルドマスター
冒険者もそうなのだろうか?
こんど冒険者組合長のウルフにでも聞いてみよう。
苦い顔で頷きそうだが。
◇◆◇◆◇
﹁勝算はあるのか?﹂
ロレーヌがそう尋ねた。
俺はそれに答える。
1839
﹁どうかな⋮⋮﹂
場所は、ハトハラーの村長宅、つまり、俺の実家である。
俺たちはあの場所から帰って来たのだ。
俺たちの不在についてはガルブとカピタンが事前に説明していた
ようで、用事があって森の奥に行っていた、と皆、説明を受けてい
たようだ。
俺の義父、村長であるインゴだけは俺たちの顔を見るや否や、
・・・
﹁⋮⋮知ったのか?﹂
と尋ねてきたので頷くと、
﹁⋮⋮そうか。任せたぞ。と言っても、我々も全く関わらなくなる
と言うつもりもないが⋮⋮自由に使え。お前の職業にとっては得難
い財産になるだろう﹂
と言ってくれた。
単純に管理を任せたと言うよりかは、義父からしてみるとプレゼ
ントのような意図もあったのかもしれない。
確かに、あれがあれば冒険者稼業は幅を広げられるだろう。
まぁ、気を付けて使わなければ色々と問題が生じるのは間違いな
いから、そこのところは良く考えなければならないけどな。
可能なら全世界に向けて公開したいくらいの財産なのだが、そう
すれば俺は冒険者として間違いなく名を挙げられるけれども、平穏
は一切なくなるだろう。
転移魔法陣のカギを擁するヤーランはただの田舎国家から狙うべ
き羊へと姿を変える。
帝国が嬉々として襲い掛かってくる未来が目に見える。
そうしたくはないので、やはり公開は出来ない。
1840
いつの日か、公開できる日が来るのか⋮⋮。
俺がいつかそれに着手するとしても、その場合はハトハラーの転
移魔法陣は破壊しておくべきだろうな。
そうすれば、帝国国内にあるあの︽善王フェルトの地下都市︾だ
けが問題になるだけで済む。
ハトハラーの人々がカギだ、なんて事実は知られずに済むだろう。
俺の血を固めて加工して本当に鍵っぽい何かを作って丸投げ、と
言う方法もあるな。
まぁ、それをすれば帝国が本当に全世界を征服しかねないが。
固めたらカギとして機能するかどうかは謎だけどな。
固めないでも、ラウラにもらった容器に俺の血を詰め込んでおけ
ばカギとして機能させられるわけだが。
ロレーヌに渡しておいた方がいいのかな⋮⋮。
血が固体か液体かで転移できるか出来ないかが分かれるのかにつ
いてはそのうち実験しよう。
今のところ、俺たち二人しか使わないので問題にはならないだろ
うが。
﹁やはり、カピタン殿は強いのか? お前の師匠だとは聞いて知っ
ているし、お前が尊敬していることも分かっているが⋮⋮実際にど
れくらい強いのかはな。あの砦の行く途中の戦闘くらいしか見てな
い私には分からん﹂
北の森を突っ切るとき、魔物の大半はガルブとカピタンが倒した
わけで、その様は俺もロレーヌも見ていた。
ただ、その様子はそこまで本気、と言う感じでもなかった。
まだまだ余裕があったんだよな。
この周辺に出現する魔物については、カピタンは知り尽くしてい
るし、そりゃ、簡単に倒せるだろう。
動きも癖も分かっているから、本気など出すまでもない、という
1841
わけだ。
そもそも、北の森に出現する魔物が強いとは言っても、伝説の魔
物が出現するわけでもない。
ベテラン冒険者なら十分に対処できるレベルで、カピタンは実際
にどこかで冒険者としても活動しているのだ。
倒せて当然である。
実際に人と相対した場合にどれくらい強いのかは、そんな魔物と
の戦いで分かるはずもない。
少なくとも、おおよそ同等の実力を備えた相手と立ち会わなけれ
ば、その底を見ることは難しい。
達人になればなるほどだ。
カピタンは⋮⋮間違いなく達人だからな。
しかも主武器は剣鉈だ。
ちょっと一般的な相手とは勝手が違う。
俺も昔習ったし、鍛錬は続けてはいるが、間合いの感覚が片手剣
や槍なんかと比べて取りにくいのだ。
剣鉈だけで攻撃してくると言うより、近付いてきて拳や柔術など
による接近戦を仕掛けたりもしてくるからな。
狩人であるため、主に人間用ではなく、人型の魔物用だが、人間
相手にも十分に活用できる技だと言っていた。
しかし、今にして考えると⋮⋮昔から連綿と受け継がれている技
だ。
古王国の武術を引き継いでいる部分が多い、ということだろう。
あの人はやりにくいのだ。
﹁強いさ。当時の俺が絶対に敵わないと思っていた相手だからな。
もちろん、いつかは勝ってやるとは思っていたけど⋮⋮今から震え
てくるな﹂
﹁なんだ、怖気づいているのか?﹂
1842
﹁そうじゃない。武者震いさ。今の俺がどこまでやれるかが、楽し
みなんだ⋮⋮﹂
とは言ってみたものの、やっぱり多少怖いと言うのもある。
ただ怖いと言うよりは、がっかりされないかと思って。
ガルブが意味ありげにカピタンにいろいろ言うから、あんまり情
けない戦い方が出来なくなってしまった。
全てを出しきるつもりで挑まなければならない。
気も、魔力も、聖気も、すべてだ。
魔物としての身体能力も十二分に使おう。
その上でもし勝てなかったら⋮⋮ま、そのときはそのときだ。
ミスリル
別にそれで世界が終わるわけでもなし、俺の夢も続く。
俺のやりたいことは、あくまでも神銀級冒険者になることなんだ
からな。
﹁⋮⋮ふむ。ま、そういうことならいいだろう。明日早くにやるん
だろう? 村人たちに見せないために﹂
﹁ああ。ガルブが気を遣ってくれてな⋮⋮﹂
誰かに見られていては俺が本気を出せないことを分かってそうし
てくれたのだろう。
戦う場所も、北の森のあの砦周辺だ。
あのあたりなら、まかり間違って村人が、なんてこともまず起き
ない。
﹁では、今日はさっさと寝るとするか⋮⋮お休み、レント﹂
﹁ああ、お休み﹂
1843
ロレーヌが部屋を出ていき、彼女に与えられている部屋に行った
ので、俺も自室のベッドに横になる。
あまり眠くはないが⋮⋮ま、今日くらいは寝ておこう。
1844
第278話 数々の秘密と試合直前
﹁さて、と。この辺りでいいか?﹂
さくさくとハトハラーから北の森に入り、だいぶ歩いてきて足を
止めたカピタンがそう言ったのは、もうそろそろ昨日やってきた砦
に辿り着くかな、というくらいの場所だった。
とは言え、完全な森の中、というわけではない。
広場と言っていいくらいには開けていて、今日、森に来た目的を
考えるとちょうどいい空間がそこにはあった。
つまりは、試合だ。
俺と、カピタンの。
もちろん、殺し合いをするわけではない。
真剣を使った危険のある試合だが、致命傷になる前にやめるのだ。
もしもの場合が絶対にない、とは言わないが、かなり可能性は低
いだろう。
俺は普通の致命傷を負ったところで死なないし、カピタンはそれ
くらい避ける技術がある。
仮に重傷を負っても、俺の聖気によって傷の治癒は可能だ。
どこまで治せるか、限界は分からないが、即死しなければ全力で
治癒すれば命を取り留めるくらいのことは今なら出来る、と思う。
⋮⋮まぁ、カピタンと戦って、どれだけ余力が残るのかと言う気
もするが⋮⋮。
﹁ああ、そうだな。しかし、森の中か⋮⋮俺より随分とカピタンに
有利な気がするぞ﹂
1845
俺がそう言うと、カピタンは笑って、
﹁そりゃ、どうしようもないだろ。そもそも、お前だって狩人の修
行はしたんだ。冒険者としても森には何度となく潜ってるだろう?
有利不利はないと思うぞ﹂
と返してくる。
まぁ、確かに正論だ。
正論なのだが⋮⋮やっぱり俺の方が不利だ。
あの人はこのハトハラーの北の森を知り尽くしている。
地の利は完全に向こうにある。
とは言え、俺は俺で色々と隠し玉があるわけで、それを考えると
事前の手持ちの札はお互い同じくらい、というところだろう。
いかにカピタンが達人だとは言っても、俺が関節ぐにゃぐにゃの
軟体動物的な存在だとは想像していまい。
そこに勝機が⋮⋮あるかな?
あったらいいなぁ⋮⋮いやいや、弱気になってはいけないぞ、レ
ントよ。
と、自分で自分を励ましつつ、とりあえず何気ない風を装って周
りを観察する。
何の変哲もない森だ。
ハトハラー周辺の浅い森と比べると、木々の大きさや生え方が異
なるが、誤差の範囲だろう。
﹁修行したと言ってもな⋮⋮数十年となく森で生きて来たあんたが
相手となると⋮⋮昔だって一度も勝てたことないじゃないか﹂
俺はカピタンが適度に油断をしてくれないかな、と考えてそう言
ってみるが、
1846
・・
﹁それは油断でも誘ってるのか? お前だって何かあるんだろ? 以前のお前と同じとは思わないぜ﹂
すぐにそう言われてしまった。
舐めてくれればな。
色々と隙が生まれるかと思ったのだが、その期待はしない方がよ
さそうだ。
卑怯だって?
勝てばいいんだ。
というのは言い過ぎかもしれないが、負けるよりかはずっといい
からな。
油断を誘えるなら誘っておく、隙が見えたならそこを叩く。
そう教わって来た。
誰にって、そりゃ、カピタンにだ。
つまり、俺のやり方なんて御見通し、というわけだな。くそ。
仕方がない。
今日は正々堂々頑張るしかない⋮⋮。
﹁じゃ、そろそろいいかい? 審判は私が⋮⋮と言いたいところだ
が、このところ老眼が辛くてね。はっきり見えるかどうかわからな
いから、ロレーヌに任せることにする。いいかい?﹂
目をしょぼしょぼ擦りながらガルブがそう言った。
俺とカピタンは、あんたのどこが老眼なんだろうか、という顔で
ガルブを見たが、睨み返されたので二人そろって目を逸らす。
ここに来る途中だって、相当遠くに見える鳥を指しながらその種
類と色合いと素材の用途をロレーヌに説明してたくらいなのに。
あれで老眼などと言ったら本物の老眼の方に失礼である。
しかし面と向かってそういう度胸は俺にもカピタンにもなかった。
1847
﹁俺の方は構わん。レント、お前もいいよな? お前に有利になる
かもしれないし﹂
カピタンがそう言ったので、俺は頷く。
﹁ロレーヌは別に俺に肩入れして不公平な審判をしたりなんてしな
いぞ。︽結果︾に対してシビアなんだよな⋮⋮﹂
それはおそらく職業柄だろう。
学者であるから、そこを緩く見ることはない。
それがどんなものだってだ。
ロレーヌが俺に肩入れするとしたら、結果は結果として受け入れ
たうえで、ただその心情だけで、ということになるだろう。
俺が魔物であることも別に否定せずに、その上で受け入れたのだ
から。
そう言う人間である。ロレーヌは。
﹁それを聞いて安心したな。じゃあ、遠慮なくやらせてもらうが⋮
⋮いいよな?﹂
カピタンはなぜかその質問を俺ではなくロレーヌにする。
﹁全く構いません﹂
ロレーヌは一言、そう答える。
これにカピタンは不思議そうな顔で、
﹁レントが必ず勝つと信じているのか?﹂
と尋ねた。
1848
しかしロレーヌは首を振って、
﹁いえ、そうではなく⋮⋮勝っても負けても、私にとってレントの
価値は変わらないので⋮⋮﹂
と少し控えめに言った。 カピタンはそれを聞いて笑い、
﹁なるほど、熱いな。カミさんと出会った頃を思い出すぜ⋮⋮﹂
などと言い始めたので、俺は、
﹁おい、何の話を始めてるんだ。やるぞ﹂
﹁お前、せっかく人が良い思い出に浸ってるときにそりゃねぇだろ
⋮⋮﹂
﹁あんたと奥さんの出会いの話は昔から百回は聞いてるよ⋮⋮まっ
たく﹂
﹁お? そうだったか?﹂
普段は割と冷静だし、狩りのときは頼れる上司感を出してくれる
カピタンだが、酒が入ると徹底的にダメだ。
延々とその話をする。
最近だと奥さんのことよりも子供の話にシフトしてきているらし
いが⋮⋮。
確かにこないだの宴のときはまさにそうだったな。
俺はたまに帰ってきたときに聞くだけで済んでいるが、カピタン
の部下たちは大変だろうなと同情してしまう。
1849
そんなことはどうでもいいか。
カピタンもそう思ったのか、
﹁⋮⋮ま、じゃあ始めるか。構えろ、レント。すぐにやられたりす
るなよ?﹂
そう言って、腰から剣鉈を引き抜き、構える。
逆手に持っているな⋮⋮。
順手で持つこともあるし、どちらでも自由に使える人だ。
戦い方を学び、その基礎については俺も叩き込まれたとはいえ、
それも昔の話である。
あれから全くカピタンの戦い方が変わっていない、とは思えない。
動きをよく注視して戦わなければ。
そう思いながら俺は、カピタンにいう。
﹁それはこっちの台詞だ。行くぞ!﹂
1850
第278話 数々の秘密と試合直前︵後書き︶
ごめんよ⋮⋮引っ張ってごめん⋮⋮
そんな期待されてるとおもってなかった⋮⋮
1851
第279話 数々の秘密と気の極致
俺は叫び、先手を打つべく飛び掛かろうとした。
しかしだ。
それよりも早く、気づいた時にはすでにカピタンは目の前に迫っ
ていた。
剣鉈ではなく、拳が高速度で向かってくるのが見える。
が、別にそれは殴りかかろうとしているわけではない。
俺は確信していた。来るのは剣鉈の斬撃だと。
ただ、それが分かったからと言って必ずしも有利にはならない。
なにせ、カピタンは剣鉈を逆手に持っているため、間合いがとてつ
もなく掴みにくいのだ。
俺の体、特に目と完全に垂直になるような形でカピタンの手に把
持された剣鉈は、その存在すら事前に知っていなければ分からない
ほど巧妙に隠されている。
流石、人型の魔物を相手に磨いた技術なだけはある。
人型の魔物たち、彼らは見た目のみならず、視角もまた人間に近
似している。
俺を見れば分かるだろう。
カピタンのそれは、その目に武器の姿や間合いが映らないように
積み重ね、身に着けた技法なのだろう。
もちろん、生半可な修練で出来るものではない。
相手の動きや視線が意識的無意識的とを問わず向かう向きを察知
し、即応することが求められるからだ。
ただ、それでもカピタンの剣鉈の位置、その動きは俺の目には見
えていた。
ヴァンパイア
別に俺が特別優れているとか才能があるというわけではない。
単純に吸血鬼という生物として優れているが故に生まれた有利だ。
1852
ヴァンパイア
流石は吸血鬼の瞳である。
⋮⋮が、それでもカピタンの攻撃に反応できるかどうかはまた別
の話な訳で⋮⋮。
﹁うおっと!﹂
ついに届いたその一撃、がきぃん、という音と共に、カピタンの
剣鉈を俺は片手剣で弾くことになんとか成功する。
十分に見えていて、視認できていたはずなのに、それにもかかわ
らずかなりギリギリだった。
それは、彼の動きの読みにくさ、そして間合いの取りづらさや、
俺の癖を知り尽くしているが故の無意識を突いた攻撃であるためだ
ろう。
本当に心底相性の悪い相手だな、と深く思う。
しかし、それでも俺はカピタンの一撃を防いだのだ。
これで速攻は悪手である、と考えて一旦距離をとってくれるなら
万々歳なのだが⋮⋮もちろん、そんなわけがなかった。
カピタンはむしろそんな俺の気持ちを読み取ったかのように押し
込んできたのだ。
剣と、拳と、どちらの圧力も感じたが、とにかくまずは剣を防が
なければならない。
拳ならば顔を砕かれるくらいで済むだろうが、剣鉈だと肉をえぐ
られるからな。
寸止め? 期待できないな⋮⋮この状態だと。
カピタンはガチだ。
俺はそんな事態を防ぐために、剣鉈に添わせるように片手剣を動
かす。
そうすると、鼻先三寸のところでカピタンの拳が止まった。
見れば、カピタンのその手に把持された剣鉈は俺の片手剣をひっ
かったように停止している。
1853
あと一瞬、止めるのが遅ければその剣鉈、もしくは拳は俺の体に
命中して大きな被害を生み出していただろう。
拳と剣鉈と、二段構えの攻撃だ。
確かにやろうと思えば出来ることだろうが、カピタンの恐ろしい
ところはこれを俺の近くに接近するところまで含めてほんの数秒も
かからずにやりきっているところだろう。
しかも、カピタンの猛攻は当然のようにそれだけでは終わらない。
﹁⋮⋮ふっ!﹂
と、軽く笑ってカピタンは地面を蹴る、俺のちょうど斜め上の方
に飛び上がったのだ。
これは、良い手ではないのではないか、とその瞬間俺は思う。
なにせ、こういった近接戦闘に置いて体を浮かせてしまうという
のは、自分の挙動が制御できなくなる危険を常に孕んでいるからな。
今ならいけるんじゃないか⋮⋮そう思って、俺は即座にカピタン
の方を向き、片手剣をその体の最も的の大きく外しにくいところ、
つまり腹部に直線的に刺し込む。
が⋮⋮。
﹁なっ⋮⋮!?﹂
俺の片手剣がカピタンの腹に突き刺さる直前、空中に浮かんでい
たはずのカピタンの体がそれを避けるように不自然に地面と平行に
移動したのだ。
当然、俺の片手剣は空振りに終わり、何もない空間を切り裂いた
だけだった。
何が起こったのかと目を細めてみれば、カピタンの移動した方向
にきらりと光るものが見える。
あれは⋮⋮線か?
1854
⋮⋮おそらくは糸か何かだろう。
確か、カピタンはその職業柄、道具の修復や獲物を吊るすときな
どに使う、魔物の素材を基にした丈夫な糸を持っていた記憶がある。
それを使ったと言う可能性が高そうだ。
なるほど、あれなら人の体重を乗せて引いても切れない⋮⋮。
しかしあんな使い方は今まで見たことがなかった。
俺の気づかない内に張っていた手腕も見事である。
周りを見ても異常なんてなかったような気がしてたが、この様子
だとそこら中に罠もありそうな気がしてきた。
勝てばいいって教えた張本人だが、本当に勝ちに来ている感じで
ある。
弟子なんだから手加減しろよ、
﹁この⋮⋮!!﹂
と俺は自分の思いのたけを、最後の方だけ口に出して、移動した
カピタンを追う。
手加減無しの、思い切りの踏み切りだった。
魔物の身体能力と気の力を使った踏み切りは、俺の体を一瞬にし
てカピタンの目前へと導く。
ちょうど、横並びになった格好だ。
横から見たカピタンの顔は若干驚いていたが、しかし同時に少し
笑顔を向けている。
⋮⋮面白い。
とでも言いたげな様子なのだ。
少しは初めに食らわせられた初撃の衝撃に対する意趣返しが出来
たかも、と思ったのが気のせいだった。
俺がこれくらいのことをしてくるのは、カピタンにとって想定内
1855
だったのかもしれない。
昔はこんなことは当然逆立ちしても出来なかったし、その時代を
カピタンは良く知ってるはずなのだが⋮⋮。
俺のことをかなり高く見ているのか。
嬉しいような困ったような。
でも、だからと言って諦めるつもりも意味もない。
真剣勝負の様相を呈してきているが、これは模擬戦だ。
勝負を下りる理由はないのだ。
俺は追いついたカピタンに向かって剣を振るう。
いかにカピタンとはいえ、糸による空中挙動中なのだ。
どうにかできるはずがない、と思ってのことだった。
それなのに、この男はそんな予想を軽々と越えてくる。
俺の剣がカピタンの体に命中する、そう思った瞬間、︽気︾の力
が彼の体、その表面に凝縮されているのを感じた。
そして、剣がそこに触れると、
︱︱キィン!
と、人の体が武器に当てられた時にはありえない音が鳴り響いた
のだった。
1856
第279話 数々の秘密と気の極致︵後書き︶
昨日間違って一瞬だけ投稿してしまいました。
読んだ人はいたのでしょうか⋮⋮流石にいないかな。
1857
第280話 数々の秘密と特殊装備
なんだあれは⋮⋮。
俺はカピタンの体を見てそう思う。
俺の剣は確かにカピタンの体に命中したはずなのに、そこは一切
の傷がついていないのだから当然だ。
カピタンは狩人であり、一般的な成人男性と比べてもかなり鍛え
ている方なのは間違いないが、それでも強く振った剣の一撃を生身
の肉体で受ければ当然何らかの傷がつかなければおかしい。
それなのに、である。
彼は今、無傷なのだ。
ただ、全く何も分からないというわけでもない。
俺は、剣がカピタンに触れる直前、その体の表面に︽気︾が凝縮
しているのを感じているからだ。
それによって防御力が極端に上昇した⋮⋮ということなのだろう
が、それにしてもあれほどのことが可能なのだろうか?
︽気︾については、正直俺も分からないことが多い。
基本的には体力の活性化、身体能力の強化、自然治癒力の上昇⋮
⋮そう言った効果を持つ力であることはもちろん知っているし、そ
のように俺も使っている。
しかしだ。
その強化の力でもって、生身の肉体で剣を防御するほどのことは
⋮⋮。
出来るとは思えなかった。
けれど、実際にカピタンはそれをやっている。
一体どうやって⋮⋮。
1858
今、直接カピタンにそれについて説明を求めたいところだが、ま
だ戦闘は継続している。
武器を弾いたことで、俺の剣の攻撃力では彼の防御を破れないと
思ったのか、姿勢が先ほどより攻めの方へとシフトしている。
剣鉈と、拳、それに蹴りなどが回転しながら次々と繰り出され、
俺を後退させていく。
ジリ貧⋮⋮というわけでもないが、このまま押し込まれるのもよ
ろしくない。
反撃しなければ。
先ほどの俺の攻撃はカピタンには通用しなかったが、別にもう何
もとるべき方法がなくなってしまった、というわけではもちろんな
い。
おそらくは、相性が悪かったのだ。
俺は普段、使い勝手の良さから魔力を剣に込めて敵を切り付ける
ことが多い。
それは、魔力強化した剣は単純に切れ味が上昇するからだ。
これが気だと少し制御を間違えると爆散したりするし、聖気は強
力だがそもそも絶対量が少ないのでどうしても温存気味になる。
つまり、先ほどカピタンに防がれたのは、魔力を込めた剣撃、と
いうことになる。
それなら他の力はどうか⋮⋮。
俺はとりあえず、剣に込める力を気に切り替える。
初めのうちは多少手間取っていた切り替えだが、最近はもう完全
に慣れて、ほとんど一瞬で出来るようになっている。
﹁むっ!?﹂
カピタンの方も、俺の剣の感触が変わったことに気づいたらしい。
魔力の籠もった剣と気の籠もったそれとでは出来ることが異なる
1859
だけあって、打ち合わせた方にも違和感がある。
今、俺が剣を合わせているカピタンの剣鉈には当然のように気が
纏われているが、冒険者たちはその多くが魔力を使っている。
その力の大きさは異なるが、比べるとそもそも触れた感触からし
て違う。
魔力籠もった剣に剣を合わせようとすると吸い寄せられるような
引力を感じるのだが、気は反対で弾き返される斥力があるような感
触なのだ。
どちらがいいのかは人に拠るだろうが、その感覚を知っていなけ
れば突然、魔力から気に切り替わったとき、間違いなく驚くだろう。
けれど、カピタンは驚くほど自然にその状態に対応している。
普通ならもっとうろたえてもいいはずなんだが⋮⋮さすがと言う
べきか。
とは言え、別に魔力から気に切り替えて、そのことをもってカピ
タンをまごつかせたかったわけではない。
そうなればいいなとは思っていたが、それはあくまでおまけに過
ぎないのだ。
重要なのは、この気の力で、カピタンの体に傷がつくかどうかを
試すことである。
﹁うおぉぉぉ!!﹂
俺の剣に応じつつも、僅かにテンポがずれたカピタンの身のこな
しを隙と見て、俺は飛び掛かる。
剣を振りかぶっていては対応されてしまうだろうと、出来るだけ
予備動作を減らした突きをかます。
それでもカピタンはそう来たか、と言いたげな顔でカピタンと俺
の剣の間に自らの剣鉈の平を刺し込み、俺の突きをガードした。
まぁ、そうなるかもなとは思っていた。
1860
なにせ、相手はカピタンだ。
俺が気の技術を学び、戦いの基礎を学んだ師匠。
これくらいのことは予想の内⋮⋮でも、俺はここからの手を考え
・・
ていた。
俺は背中に気の力を、思い切り込めた。
すると、
﹁お、おぉぉぉぉぉ!?﹂
ギリギリと、俺の剣をガードしていたはずのカピタンの表情に焦
りが生まれる。
抑えきれないのだ。
俺の腕力と、気の圧力、そして俺の背中から発せられる通常の人
間にはありえない推進力が合わさった力は、流石のカピタンと言え
ども⋮⋮。
﹁⋮⋮くっ!?﹂
そして、耐えきれなくなったカピタンは、俺と共に後方へと吹き
飛ぶ。
そのまま森の中にある木の一本に背中から叩きつけられ、ごごぉ
ん!という巨大な音と共に、その木は折れていった。
土埃がたち、視界が悪くなる。
が、俺の目にはしっかりとカピタンの位置が見えている。
単純な視角でなら見えなかっただろうが、俺の目は特別製だ。
暗闇だろうが砂埃だろうが、生き物の位置は明確に分かる。
これは個人技能だ。
卑怯とは言わないだろうと、俺はカピタンに向かって剣を振りか
ぶり、そして降ろした。
1861
けれど、ごろん、と、カピタンは地面を転げ、俺の斬撃を避ける。
﹁⋮⋮なんておっさんだ! どうしてわかった?﹂
俺がそう土煙の中言えば、カピタンは、
﹁空気が動いている⋮⋮そこからお前の位置を逆算した﹂
と、確かに俺の方を見て、答えた。
本当にこの土埃の中、しっかりと俺の位置を把握しているようで、
この男には弱点はないのかと思ってしまう。
しかし、そんなカピタンでも、たった今、俺にされたことは驚き
に値する出来事だったらしい。
カピタンは言う。
﹁お前の方こそ⋮⋮今のは、なんだ!? 唐突に力が増したぞ。踏
み切りでも剣の力でもない⋮⋮ただ、まるでお前を後ろから百人の
男が押しているかのような衝撃が俺を襲って来た⋮⋮あんなことは、
ありえん⋮⋮!﹂
どうやら、少しは驚かせられたようだ、と俺は嬉しくなる。
ハトハラーに帰ってきて以来、俺はずっとガルブとカピタンに驚
かされっぱなしだったからな。
一つくらいはそれを返してやりたいと思っていたのだ⋮⋮おっと、
土埃が晴れて来たな。
カピタンが俺を見つめている。
そして、その視線は俺の背中に移った。
﹁⋮⋮お前、それは⋮⋮!? それが理由か!?﹂
1862
そこには紛れもなく、俺の特殊装備・羽があった。
羽だよな? 翼かな。どっちでもいいか。
1863
第281話 数々の秘密と攻め
ちなみに、羽は服を突き破ってはいなかったりする。
ではどうなっているのかと言えば、便利にちょうどいい穴が開い
てそこから出ている状態だ。
以前試したら、自動的に羽が出るくらいの穴が開いたのだ。
そして、しまったら穴はすぐに塞がった。
このローブ、なんか機能が多いんだよな⋮⋮ありがたいけど、︽
アカシアの地図︾のことを考えると色々とありそうではある。
魔法耐性が高すぎて調べても分かることは限られているが⋮⋮こ
れも鑑定神の神殿で聞くしかないだろう。
まぁ、今のところ何も害がないからいいんだけどな。
ともかく、俺はカピタンに答える。
﹁⋮⋮どうかな? そっちだってさっきの奴、答える気はないだろ
う?﹂
あの、おそらくは気による防御についてである。
あの技法は身に着けたいな。
切り札が増える。
カピタンは俺の質問に答える。
﹁あとで教えてやるさ⋮⋮お前もってわけだ﹂
﹁そういうことだな⋮⋮﹂
言いながら、俺はカピタンに襲い掛かった。
土埃は大分晴れ、視界はもうほぼ完ぺきだ。
1864
俺の場合は土埃があろうとなかろうとカピタンは良く見えていた
わけだが、カピタンも俺が見えるようになってその挙動は正確さを
増している。
⋮⋮まぁ、視界を塞ぐのは何の意味もなかった、というわけでは
なかったようだな。
避けられまくっているのだからあれだけど。
今もな⋮⋮ただ、突いたり切ったりしているだけでは入れること
すら出来なさそうだ。
出し惜しみはもう出来ない。
こうなれば、色々試すしかないだろう。
まずは⋮⋮聖気だ。
﹁⋮⋮っ!?﹂
単純な出力の高さで言えば、聖気が一番である。
急に俺の攻撃が重くなったことに気づいたらしいカピタンの顔か
らは、余裕が消え始めていた。
あまりにも守りが固いのでこのまま永遠に攻撃が入らないのでは
ないか、と思っていたがこれなら⋮⋮。
俺の方は人間じゃないだけあって体力は無尽蔵だからな。
精神的な疲労はともかく、肉体的な疲労は酷く感じにくい。
カピタンの方はいくら人間離れしているとはいっても、限界はそ
のうち来るはずだ。
そこまで粘れば⋮⋮と思うが、厳しいかな。
流石に俺がまるで疲れていない様子なのはもうカピタンには分か
っているだろう。
怪訝そうな視線が強い。
同じような状態になるためには、禁制の薬物にでも手を出さない
とならないからな。
1865
俺がそんなものに手を出さないと言うことは流石に分かってくれ
ているだろう⋮⋮分かってくれているよな?
とはいえ、体力はともかく聖気自体は有限である。
永遠に使い続けられるほど量があるわけではない。
他の力も使い分けながら攻めなければならない。
単純な魔力と気でもいいが⋮⋮それだけではさほどカピタンを疲
労させることは出来ないということはわかったわけで、そうなると
⋮⋮。
俺は剣に魔力、そして気を同時に注ぎ込み始める。
つまりは、魔気融合術である。
俺が剣を振りかぶり、そしてカピタンの剣鉈に振り下ろす。
狙いはカピタンではなく、最初から剣鉈だ。
なぜって、魔気融合術の特色は⋮⋮。
﹁⋮⋮?﹂
しかし、カピタンは俺の動き、それに視線から違和感を感じたら
しい。
今まで剣を交わしてきたのに、急に剣鉈を下げ、引いた。
すると、当然、俺の剣は空振りする。
魔気融合術による攻撃は命中しなければ特に何があるというわけ
でもなく、普通に空ぶったのと同じ様子だ。
カピタンはそれを見て、一体俺が何を狙っていたのか不思議そう
な表情だったが、そんなカピタンに俺はさらに追撃をする。
とにかく、剣に当てればそれでいいのだ。
そう思って、ひたすらに剣を振るう。
カピタンは先ほどまでと異なり、俺の剣を受けずに避け続ける。
紙一重で⋮⋮当たりさえすれば⋮⋮と思うが、難しい。
1866
ただ、それでも限界はある。
森の中で、下がり続けたカピタンが、一瞬、体のバランスを崩し
たのだ。
俺はその隙を見逃さずに、縦に剣を振り下ろす。
カピタンも耐え切れず剣鉈を上に掲げ⋮⋮当たった、と思った瞬
間、爆発が起こった。
魔気融合術、その特色は対象物の内部からの破壊だ。
まぁ、他にも技術があって、色々な効果も生み出せるのかもしれ
ないが、俺が素でやって出来るのはとりあえずこれだけだ。
学ぼうにも身に着けている人間なんてほぼいないからな⋮⋮。
とは言え、それだけでもその破壊力は相当のもので、以前試した
ときには的の人形が爆発したくらいだ。
人間の身に使えばひとたまりもないだろうし、剣鉈を破壊するこ
とも可能だろう、と思っての打ち込みだった。
実際、命中したことを示す爆発が起こったし、これで⋮⋮。
と思ったのだが、見てみると、
﹁⋮⋮無傷?﹂
剣鉈もカピタンも特に傷ついてはいなかった。
一体なぜ⋮⋮。
そう思っていると、ひゅっ、という音がして、横合いから何かが
来る気配を感じた。
俺は慌ててその場から下がると、そこを矢が通りすぎていった。
⋮⋮罠か。
しかし、一体そんなもの俺がいつ踏んだのか⋮⋮。
と思っていると、きらりとしたものが落ちているのが見えた。
カピタンの糸である。
それを見て思ったのは⋮⋮。
1867
﹁まさか、さっき俺が切ったのは⋮⋮﹂
俺のつぶやきを聞いたのか、カピタンが言う。
﹁俺が張った糸だな。何か狙ってるようだったから誘導してみたが
⋮⋮全く。危なかったぜ。そいつは⋮⋮魔気融合術か?﹂
そんな風に。
俺は誤魔化すのが下手らしい。
何か画策していたことはカピタンにはバレバレだって、というわ
けだ。
対してカピタンが俺をうまいこと誘導していたことには俺には気
づけなかった。
おそらく、あの一瞬の隙、あれですらわざとだったのだろう。
俺に、糸を切らせるために。
狙いを明らかにし、かつ、あわよくば罠で仕留めようと言う狡猾
な策略だ。
それをこの戦闘中に易々とやってくることが恐ろしい。
しかしだ。
それでも俺の持つ優位が揺らぐわけではない。
なぜなら、避けなければならない、ということは当たりさえすれ
ば効くと言うことに他ならないからだ。
罠だって無限に仕掛けてあるわけでもないだろう。
少しずつ詰めていけば、行けるはずだ。
手のうちだって、まだすべて晒したわけではない。
まだやれることはいくつかあるのだ⋮⋮。
1868
第282話 数々の秘密と最後
あと残っているのは、魔力、気、聖気をすべてつぎ込んだ、聖魔
気融合術と言うべきあの技だ。
ただ、大きな問題があって⋮⋮あれは武器の方が耐えられないか
らそうそう使えない。
今使ってるクロープが俺のために誂えてくれた剣でも使うなと言
われてしまっているくらいだ。
しかし、それでも切り札であるのは間違いなく、いざというとき
のために、高値が付いていたが魔力と気に耐えられる武器のストッ
クは一応持っている。
片手剣だと高いから、短剣だけどな。
それでも、あれこそ当たれば致命傷間違いない攻撃となる、紛れ
もない切り札であるのだ。
だからこそ、一応使えるように準備は常にしていたわけだ。
一度使えばその武器は間違いなく砕けるがゆえに、コストを考え
るとまず使いたくないが、ここは、使いどころだろう。
問題があるとすればそんな隙をカピタンが与えてくれるかだが、
そこはもう頑張るしかない。
ダメな時はダメな時だ。
羽も出したし、すべて出し切って一撃入れることを狙おう。
挙動を羽の力も利用したものへと変える。
地面を走り回っていただけのときより、立体的に、素早くなって
いく俺の動き。
しかしそれでもカピタンは対応している。
やはりというべきか、流石と言うべきか。
俺はそんなカピタンに空を飛び、羽の推進力を利用して突っ込み、
1869
剣を振るうけれど、そんな俺の動きを確かに捉えているのだ。
⋮⋮まぁ、考えてみれば当たり前かもしれない。
カピタンの本業は狩人だ。
空を飛ぶ動物や魔物とも戦って来ている。
ちょっと空を飛んだくらいでは⋮⋮ということなのだろう。
俺も俺で、そこまでうまく空中機動が出来ているわけでもない。
つい最近まで地べた這いずる人間だったのだから、仕方がない話
だ。
練習していなかったわけではないのだが、生まれつき空を飛べる
生き物たちを相手にしてきたカピタンにとっては単純な動きに見え
るのかもしれない。
けれど、俺は別にこれだけでカピタンをどうこうできるとは考え
てはいない。
俺がしたいのは、あくまで聖気、魔力、気をつぎ込んだ一撃を叩
き込むことなのだ。
剣に聖気、魔力、気のすべてを注ぎ込むのは、普通に魔力や気だ
けを武器に注ぎ込むよりも時間がかかるし、カピタンはいずれの力
の発動も感覚的に理解しているようなので、あまり近くでそれをや
っていると色々気づかれる可能性もある。
その点、羽を使って空を飛ぶと、気も魔力も使うために、いい目
くらましになると考えたのだ。
実際、カピタンは空を飛んでいること自体に驚いて、俺が更にま
だ何かをやるつもりであることには気づいていないようである。
それでも、警戒は抜けていないので、こちらも気が抜けないけど。
魔力も気も垂れ流しに近い位に使うので、余裕もどんどんなくな
っていく。
終局は近いな⋮⋮。
﹁⋮⋮ったく、空まで飛びやがって⋮⋮ガルブの婆さんがお前が変
1870
わったっていうわけだ。だが、ただの奇策でどうにかなるほど俺は
甘くはないぞ。まだ先があるなら、出して来い!﹂
むささびのごとく空を飛び回りながら剣に力を込めている俺に、
カピタンがそう叫ぶ。
その言葉に俺は思う。
これが、最後の打ち込みだろう。
こんなにも消耗する戦いは魔物になってから初めてだな。
色々自惚れていた部分があったと改めて理解できた。
相手があまりにも経験豊富過ぎたから。
おそらく、単純な自力では俺の方がはるかに上だろう。
ただ、技術や経験が全く違くて、俺はそれに翻弄され続けた。
元々力押しよりは工夫で戦うタイプだったのに、そういうところ
を忘れつつあったな。
十年銅級でい続けて、全然上に上がれなくて、自分でも分かって
いないところで腐りつつあったのかもしれない。
地力は確かに増えていなかったけれど、まだ出来る工夫が、あの
頃にもあったかもしれない。
初心は、忘れてはならないなと、今回思った。
とは言え、今は力押ししか方法がないけどな。
工夫しまくってすべて防がれたのだから。
これが通用しなかったらもう俺の持つ力はほとんどすべてすっか
らかんだ。
効けば一、二度追撃するくらいは出来るだろうが、効かなければ
そこで終わる。
そんな感じだ。
俺は、短剣に十分な力を注いだのを確認し、背に気の力を籠める。
基本的に直線運動しか出来ないので、カピタンに迫るためには彼
1871
が反応できないレベルの速度を出すしかない。 この羽の使い方も⋮⋮もう少し研究するべきだな。
今までの使い方でも十分に強力だったから、それも怠ってしまっ
ていた。
出来ることはすべて把握する、それくらいの努力はしなければな
らなかった。
力の身についていく速度が今までとは段違いの速度で、工夫して
いる間もなく終わってしまっていた。
それが俺の凡人の凡人たるゆえんかも知れない⋮⋮意識を変えな
ければ。
戦いが終わった後で、カピタンやガルブにもよく相談してみよう。
彼らならいいアドバイスをくれるだろう。
そのために、今、すべてを出し切ることだ。
何か叫んでから向かおうか⋮⋮と思ったが、それをしたら間違い
なくカピタンなら避けるだろう。
あえて無言で、突っ込むことにする。
羽に籠もった気が、強力な推力を産み、周囲の景色が一瞬にして
変わる。
魔物の俺ですら、どれほどの速度が出たのか認識する間もなく、
カピタンの前にいたのだ。
カピタンにも把握できなかったようで、瞬間移動のように目の前
に現れた俺に目を見開き、しかし驚いているだけでは終わらずに、
そのときにはすでに剣鉈を俺の方に動かしている。
もちろん、俺も剣を⋮⋮短剣の方を前に向けて突き出していた。
そして、カピタンの剣鉈と、俺の短剣の刃が合わさる。
カピタンにとっては、それは避けるべきことだっただろう。
それを分かっていて、出さざるを得ないところに追い込めた。
つまり、俺の作戦勝ち、ということだ。
避けられたらもう、俺は地面に斜めの穴を作ってめり込んでいた
1872
だろうけどな。
というか、こんな速度を羽の力で出したことなかったから、ここ
までとは予想外だった。
カピタンなら防いでくれると思っていたからこそ出せる力だった。
他の相手⋮⋮人間にしろ、魔物にしろこの速度でぶつかったら爆
散させたり貫通させたりしてしまいそうだ。
それから、俺の短剣が、カピタンの剣鉈に命中すると、カピタン
の剣鉈がキシキシとした、普通にはあり得ない音を立て始める。
剣鉈の柄の部分と、切っ先の部分が螺旋を描くように曲がり初め、
そしてぎゅるぎゅると刃の中心に向かって圧縮されはじめた。
それにすぐに気づいたカピタンは、剣鉈を持っていることが危険
だと気づいたようで、手を離す。
そうなるだろうと予測していた俺は、バキバキとひびが入りつつ
ある短剣を手放し、純粋な拳を前に突き出した。
それを見たカピタンは少し口元を引き上げ、俺とは反対の拳を突
き出してくる。
1873
第282話 数々の秘密と最後︵後書き︶
男が最後に頼るものは拳よ。
1874
第283話 数々の秘密と決着
クロスカウンター⋮⋮とは言えないか。
ただの相打ちになった俺とカピタンである。
お互いの頬の部分にお互いの拳がめり込んでいる。
俺の拳は当然にカピタンの肌に直接、だがカピタンの拳の方は俺
の仮面にめり込むように入っている。
仮面は壊れてはいないので見た目の上では仮面で完全に防御でき
たように思えるが、実際は衝撃が仮面の内部まで入ってきている⋮
⋮︽気︾の力による内部破壊だ。
剣鉈に気を込められて、拳に込められない道理はないと言うこと
だろう。
武器に込める方が制御に失敗しても被害がないのでリスクが低い
から俺はそればかりだが、こういうときのことを考えると拳に直接
込めて攻撃する修練をすべきだろうな⋮⋮。
しかし、それにしても、これは⋮⋮。
疲労のない俺ではあるが、ダメージはしっかりと蓄積する。
傷もすぐに治るが、何も消費せずに復活しているわけでもない。
魔力や気が相応に消費されるのだ。
そのため、今のすっからかんの状態だと、回復もきつい⋮⋮。
それでも一時間も経てば大体の傷は治るだろうが⋮⋮今この場で
それは出来ない。
ということはだ。
つまりどうなるかというと⋮⋮。
ずるずるとカピタンの頬から俺の拳がずれていく。
そしてそのまま俺は膝をついた。
1875
カピタンも同様で、肩で息をしながら、膝をつき、それから、俺
が同様にしているのを見て、
﹁⋮⋮はっ。ちょうど、相打ちかよ⋮⋮﹂
と笑った。
どうやら、体力も気も無尽蔵に思えた彼も、やっと限界に達した
らしい。
これ以上動くのは厳しいようだった。
たった今の今までそんな雰囲気は一切出してこなかったが⋮⋮敵
に弱みは見せない、という基本を最後までやり切ったと言う所だろ
う。
流石は、俺の師匠⋮⋮どう見ても村の狩人レベルではないな。
改めて考えるとたまに村に魔物退治のため、冒険者を呼んだりし
ていたのはなんだったのかという気がするが、あれもまた、擬態の
一種だったのだろう。
普通の村なので危ない時は普通に冒険者を呼んで魔物退治をお願
いしますよ、という言い訳である。
まぁ、カピタンも転移魔法陣を使ってたまに留守にしていたみた
いだし、カピタンの部下の狩人たちは強いが、それでも一般の域を
出ないからな。
カピタンとガルブが特殊なのだ。
そしてその理由は、二人ともハトハラーの特殊な役職を継承して
いるから、と。
⋮⋮村長である父さんも強いのだろうか?
︽国王︾だからそんな技術はいらないか。
そんなことを考えつつ、俺がカピタンとの戦いの勝敗について、
﹁相打ち、か⋮⋮﹂
1876
と呟くと、カピタンは言う。
﹁なんだ、不服か?﹂
﹁まさか。勝てるとは思ってなかったから、十分だ。もちろん、負
けると思って戦ってたわけでもないけどな﹂
﹁そうかよ⋮⋮ふっ。レント﹂
﹁なんだ?﹂
﹁⋮⋮強くなったな﹂
それはかなりの不意打ちで、俺は驚く。
別にカピタンに褒められたことが今まで一度もなかった、という
わけではないのだが、たった今、カピタンの口から出た言葉には、
なんというか、感慨のようなものが籠もっているような気がしたの
だ。
よくやった、とか、よかったな、とか、そんな手放しの賞賛が込
められているような。
だから、胸がひどく暖かくなった。
なにせ、やっとまともに胸を張れるようになったような、そんな
ミスリル
気がしたから。
神銀級冒険者になると村を出て十年、底辺を彷徨い続け、故郷の
人々にどんな顔をして会えばいいのか分からない日々が続いていた。
それでも、みんな何も気にせずに会ってくれるから、たまに来て
はいたけれど⋮⋮どこか、俺は何も出来てはいないなと毎回感じて
いたのだ。
けれど今回は⋮⋮。
まだ何かが出来ている、とははっきりとは言えないけれど、展望
1877
が見える。
あの頃には見えていなかった道が、目の前に広がっているのが。
それをカピタンに、今示せたような、そんな思いがして、あぁ、
戦ってよかったな、と思った。
お互い、武器は一つずつダメにしてしまったけどな。
特にカピタンの剣鉈は昔からの愛用品だったんじゃないかな⋮⋮
だとすれば申し訳ないことをした。
ただ、手加減はしようがなかったのだから仕方がない。
﹁そう言ってもらえると嬉しいよ。カピタンとここまでちゃんと打
ち合えたのなんて初めてだ﹂
﹁俺だって弟子相手にここまで苦戦したことはかつてない。冒険者
でも上の方の奴らや、秘境の奥地にしかいないような魔物ならまた
違うかもしれねぇが⋮⋮今日のお前を見るとな。いつかそういう奴
らともやりあえそうだ﹂
プラチナ
ミスリル
カピタンは強かったが、最強と言う訳ではない。
冒険者でも白金級や神銀級となると⋮⋮本当の意味で人間を辞め
ているような奴らが出てくる。
そこらへんにいるような存在ではないから、会えることなんてめ
ったにないけどな。
カピタンは会ったことがあって、実際に戦う所を見たことがある
のかもしれない。
俺も一人、見たわけだが、今思い出してもまるでたどり着けると
ころとは思えない。
それでも目指すのだが⋮⋮。
﹁⋮⋮ま、実力を見るって意味合いなら、もう十分だ。お前は強い。
もう安心してお前が冒険者をしてるのを見てられるよ。ちょっと前
1878
までは危なっかしくてしょうがなかった﹂
﹁え、そうだったのか?﹂
﹁あぁ⋮⋮まぁ、小器用に頑張ってたとは思ってたが、お前の場合
目指す場所が目指す場所だったからな⋮⋮。いずれ行き詰って、そ
れで自棄にならないか、とかな⋮⋮ま、要らねぇ心配だった﹂
思っていた以上に見られていたらしい。
たまにしか帰ってこなかったが、その度に顔色が優れないときで
もあったのかもしれない。
割と明るく振る舞っていたつもりだが⋮⋮昔からの知り合いには
見抜かれていたのだろう。
﹁それよりも、だ﹂
カピタンが続ける。
﹁なんだ?﹂
﹁色々と聞かせてくれるんだろう? その羽や、戦ってる最中に見
せた人間離れした動き、その理由をよ⋮⋮﹂
言いながら、カピタンも大体検討はついているようだった。
まぁ、ガルブが察したときとは違って、もう見るからに見た目魔
物だからな。
よくじん
羽が後天的に生えてくる人族なんてどの世界にいるよ。
翼人というのはいるけど、あれは元々、獣の因子を持つ種族であ
る獣人の一種だ。
俺の場合とは根本的に違う。
1879
俺が人族であるのは最初から明らかで、それなのに羽が生えてい
るという状況が問題なのだ。
1880
第284話 数々の秘密と在りし日の吸血鬼
﹁それは私も聞きたいね﹂
ガルブが後ろから寄ってきてそう言った。
試合が終わったのを確認して来たのだろう。
少し遠くに立って観戦していたわけだが、ロレーヌもいる。
﹁と言っても、ガルブはほとんど察してるんだろ?﹂
俺がそう尋ねると、ガルブは、
﹁⋮⋮まぁ、ね。あんたのその見た目もそうだが⋮⋮今回、最初に
会った時点で、何か違和感を感じていたよ。魔力や気には、なれる
と個人に固有の気配のようなものが分かるようなるんだが、あんた
の魔力は、前に感じられたものと色が変わっていた。量が増えてい
ること自体はそれほど気にはならなかったんだ。何かのきっかけで、
急に魔力が増える者と言うのもいるからね。ただ、あんたのは場合
は⋮⋮魔力の質が変わっていた。それは、余程のことがなければな
いのさ﹂
ガルブの言葉を聞きながら、魔術初心者としてそうなんだなぁ、
と思っていたが、ロレーヌが苦々しい顔で、
﹁この人が言っていることは一般的ではないぞ。確かに、個人に固
有の魔力波形、というのは確認されてはいる。いるのだが⋮⋮それ
は精密な魔道具などを使って初めて分かることだ。私だって、魔力
それ自体は見ることが出来るが、そこまで細かく判別することは出
1881
来ん。なんて言うかな⋮⋮ガルブ殿がやっていることは、水を舐め
てその産地を当てているようなものと言えばいいかな。それが、そ
う簡単に出来ることと思うか?﹂
そう言った。
水を舐めてって⋮⋮無理に決まってるだろと即座に思う。
まぁ、口触りのいい水、とか炭酸水、とかなど分かりやすい特徴
があれば、それくらいは判別できるかもしれないが、せいぜいその
くらいだ。
細かく産地を言い当てるのは流石に無理だろう。
さらに、水なら地域とかをいくつか言えばいい程度だが、魔力は
持っている者が膨大にいるのだ。
俺には分からない感覚だが、似ている魔力を持つものだってきっ
と沢山いて、それらを判別するのは手間だろう。
しかしガルブには、出来る、ということか。
﹁私の場合は人に魔力を見せないよう、隠し続けたからね。その辺
りの感覚がかなり磨かれたのさ。五年や十年じゃ利かない、何十年
となく磨き続けた技能だ。簡単にできたらこっちが困るよ﹂
﹁それは⋮⋮ハトハラーだと魔術師であることを隠さなければなら
なかったからか?﹂
俺がそう尋ねるとガルブは頷き、
﹁ああ、そうさ。私の師に当たる人物も出来た。これは特殊技能か
も知れないね⋮⋮。ま、それはいい。ともかく、その私の感覚から
して、レント、あんたの魔力は以前のそれとは大幅に違っていた⋮
⋮何か変わった、と気づくのは簡単だったと言う訳だ。それに加え
てロレーヌの幻影魔術もあったしね。あんたが話すマルトでのこと
1882
も⋮⋮色々とぼかしてはいたが、違和感はあった。体質が変わった
とか、そんな話もしていただろう。従魔もいるっていうし⋮⋮そう
いうのも全部含めて、ずっと考え続けて⋮⋮それでね。あぁ、って
おもったのさ﹂
・・・・
あぁ、とは、あぁ、俺が何か特殊なものに本当に変わっているの
だろう、ってことかな。
だから、魔力の質が変わり、戦闘能力も上がって、体質も変わっ
たと。
ガルブにとってはヒントが多すぎたのかもしれない。
それでも推測できてしまうのは凄いが⋮⋮ま、ここまで分かられ
て何を隠しても仕方がない。
俺は素直に言うことにした。
﹁⋮⋮察しの通り、俺は変わった。今はもう、この身は人族のそれ
じゃない。おそらくは⋮⋮魔物の体だよ。その結果、羽が付属した
り夜眠らなくても平気になったり従魔⋮⋮つまり、眷属が出来たり
した。主食は人の血で⋮⋮ただ、普通の食事も出来る。目はほら、
よく見ると赤いだろう?﹂
それを聞いて、ほとんど分かっていたこととはいえ、ガルブもカ
ピタンも目を見開く。 そして俺の目を覗き込んだ。
﹁⋮⋮確かに、赤みがかっているな。仮面のせいで暗く見えるから
目立たないが⋮⋮よく見れば色が前とは変わっている﹂
ヴァンパイア
﹁そのようだねぇ⋮⋮赤い目に、眷属を従えた、血を啜る魔物⋮⋮
ほう、つまりあれかい? あんた、魔物は魔物でも、吸血鬼になっ
たってことかい?﹂
1883
流石のガルブでも種族までは分かりかねたらしい。
感嘆したような、面白そうなような、弟子が魔物に変わったと聞
レッサー・ヴァンパイア
いたわりには奇妙な反応だが、そんな様子で俺に尋ねて来た。
俺は頷いて答える。
アンデッド
﹁ああ。たぶんだけど、今の俺は不死者の一種、下級吸血鬼だ。聖
気も使えるし、教会に行っても特になんともないし、聖水被っても
火傷もしないし、太陽も平気だけど﹂
﹁そりゃまた⋮⋮便利なことだね。しかし、たぶん?﹂
ヴァンパイア
俺の言い方に疑問を覚えたのか、ガルブが首をかしげると、ロレ
ーヌが説明した。
ヴァンパイア
﹁今のレントの説明をお聞きになれば分かると思いますが、吸血鬼
ヴァンパイア
であるにしてもその特徴があまりにも通常の吸血鬼のそれとは異な
ヴァンパイア
りますから。本当に吸血鬼なのかどうか、断定しかねると言うのが
実際のところなのです。ただ、吸血鬼にも色々と種類があることで
すし⋮⋮人が把握していない、亜種なのではないか、と推測はして
いるのですが⋮⋮その程度です﹂
ヴァンパイア
﹁ふむ⋮⋮? 確かに、普通の吸血鬼の魔力とは違う気がするね。
あいつらの持つ魔力はもっと、ねっとりとした感じを受ける。心地
よい闇の気配と言うか⋮⋮レントのそれはむしろそういう偏りが感
じられないよ﹂
ガルブは魔力ソムリエなのかそんなことを言う。
ロレーヌに分かるか?と視線を向けてみるも、苦い顔で首を振ら
れてしまった。
1884
ヴァンパイア
こればっかりはガルブの特殊技能なのだろう。
というか、吸血鬼の魔力を評価できるくらいに近くで会ったこと
があるのか、この人は。
ヴァンパイア
﹁吸血鬼に会ったことがあるのか?﹂
気になってそう尋ねてみると、ガルブは頷いて、
﹁ああ、最近じゃそうは見ないけどね。私が若いころは結構その辺
の隊商なんかに交じってたもんだよ。隊商の人間も分かって連れて
いることが多くてね。今の世の中だと随分悪者扱いされることが多
いが、本質的には人族と大して変わらないね﹂
1885
第285話 数々の秘密と考察
﹁そんなによく見たのか⋮⋮?﹂
俺が尋ねると、ガルブは答える。
ヴァンパイア
﹁よく見た、とまで言われるとそうでもないが⋮⋮たまに見たと言
う感じだね。ただ、吸血鬼は四十年ほど前から念を入れて狩られ始
めたからね。それまでも狩りたてる奴らはいたが⋮⋮力の入れよう
が変わったんだ。それから、ほとんど見なくなったさ。もうかなり
の数、狩られてしまったのか、それともどこかに隠れたのか⋮⋮分
からないけど、まぁ、悪い奴らじゃなかったよ﹂
﹁なんで、そんないきなり⋮⋮?﹂
俺が素直にそう疑問の声を上げると、これにはロレーヌが答えた。
ヴァンパイア
﹁ロベリア教だろう。昔から吸血鬼に対して排他的な思想を持って
いる宗教団体だからな。あそこは。特に四十年前となると、今の教
主が頭角を現し始めた時期だ。内部事情は詳しくは分からないが⋮
ヴァンパイア
⋮権力闘争を経て、教主となり、それからかなり教義が過激かつ純
粋になったらしい。吸血鬼狩りはその中の一部だな。他には聖者・
聖女などの勧誘の強化や、国家に対する働きかけを強めたことなど
があるが⋮⋮まぁ、その辺は私の専門ではない﹂
ヴァンパイア
彼女の言う通り、この世に存在するすべての宗教団体が吸血鬼を
敵とみなしているわけではない。
東天教なんかは好きとも嫌いとも言っていないところだからな。
1886
宗教によって分かれているところだろう。
ただ、ロベリア教はかなり広範囲で信じられている宗教であり、
ヴァンパイア
権力とのつながりも強いから人々の認識に強い影響を与えているこ
とも確かである。
ヴァンパイア
それもあって、多くの人の感覚で吸血鬼は悪とされがちだ。
ヴァンパイア
あんまり⋮⋮という人間もたまにいるが、特に吸血鬼に対して好
悪を示していない東天教信者でさえ吸血鬼に対して否定的な人間が
少なくないくらいだ。
ヴァンパイア
好意的な人物はほぼいないと思っておいた方が良い。
﹁ロベリア教はなんでそんな親の仇みたいに吸血鬼を憎むんだ?﹂
俺がふと思った疑問を口にすると、ガルブが、
﹁まぁ、人の血を吸うとか、その辺りについて嫌悪感を覚える奴が
多いからじゃいないかい? やはり捕食しているところを想像する
と共食い感が強いからねぇ。そういう異端に人は敏感なもんさ。他
には⋮⋮嫉妬と言うのもあるかもわからんね﹂
﹁嫉妬?﹂
アンデッド
俺が首をかしげると、ガルブは続ける。
ヴァンパイア
﹁そうさ。吸血鬼は不死者だ。長い時を生きる。その寿命はほぼな
ヴァンパイア
ヴァ
く、栄養⋮⋮血を摂取し続ける限りは永遠に若さを保っていられる。
ンパイア
しかし、人族には吸血鬼になる方法はさほど与えられていない。吸
血鬼の血を呑む、眷属となって力を貯める、そんなものくらいしか
ない。率直に言って、腹立たしいんだろうさ。人間は、富や権力、
名誉を手に入れれば、そのあとは永遠の命を欲しがるもんさ。それ
なのに、どれだけ今まで手に入れたものを行使しても手に入らない
1887
宝物が目の前にあったら⋮⋮そしてすでに手に入れている存在がそ
こにいたら⋮⋮。もう嫉妬しか浮かばんだろうね。そういうことさ﹂
ヴァンパイア
それは現代においても持たれている感情である。
吸血鬼になる方法を求める富豪や権力者と言うのは未だにいるか
ヴァンパイア
らだ。
吸血鬼の立場は決して良くないのに、その血液が求められ続け、
高値がついているこの状況がその証左であろう。
同じ理由でリッチになる方法なんかも需要があるようだが、こっ
ちはな⋮⋮骨になっちゃうからな。
骨経験者として、たとえ永遠の命だろうが色々と寂しいものがあ
るからやめておいたら?とか言いたくなる。
まぁ、言ったところで通じないんだろうけれども。
﹁嫉妬か。そんなにいいもんじゃないんだけどな⋮⋮﹂
ヴァンパイア
吸血鬼になった俺が得たもの、失ったものを考えながら俺がそう
言うと、ガルブは、
﹁そうかい? まぁ⋮⋮想像できなくもないね。昔から魔術師たち
は言って来たことだ。過ぎた力を求めれば身を滅ぼすと。︽アーカ
ーシャの記録︾だってそうだ。あれは全てであり、一つだ。手に入
れれば、何もかもが叶う⋮⋮誰もが知りたいと思って当然のものさ。
もちろん、求めるのは自由だが、その過程で正気を失う者も少なく
なかったと言われている。力には、責任が伴うのだ。それは義務で
はなくて⋮⋮手に入れようとしたら確実に負う報いさね。それを避
けることは難しい⋮⋮。ただ、何も知らないものからすれば、持て
るものが言う、傲慢にしか思えないのかもしれんがね﹂
ヴァンパイア
ガルブは、︽アーカーシャの記録︾にしろ、吸血鬼やリッチにな
1888
る方法にしろ辿り着いてはいない、もしくは求めようとしたことが
ないのだろうが、それを得た時の危険性を分かっている。
﹁一回なってみろ、と言いたいところだけど、それも難しそうだし
な⋮⋮﹂
﹁ふむ⋮⋮そうなのか? そもそも、レント。あんた、なんでそん
な風に⋮⋮﹂
ガルブが根本を訪ねて来た。
カピタンも知りたそうな表情をしていたので、俺はあの迷宮での
一連について説明する。
アンデッド
スケルトン
﹁なんていうか⋮⋮簡単にいうと、迷宮に潜ったら︽龍︾に食われ
ヴァンパイア
て、気づいたら不死者になってたんだ。最初は骨人だった。徐々に
進化して⋮⋮今は吸血鬼なのさ。嘘くさい話だけど、な⋮⋮﹂
信じがたい話だが、想像通り、というべきかガルブもカピタンも
普通に受け入れて頷いてくれる。
その辺りの反応については、最初から想像はついていたな。
不安もない。
ただ、︽龍︾については流石に驚いたようだった。
﹁︽龍︾には流石に私も遭ったことがないね。カピタン、あんたは
?﹂
﹁俺もないな⋮⋮。そもそも、実在するのか。あれは伝説に過ぎな
い話だと思っていたぞ﹂
実際、普通の人間にとっては遠目にもまず、遭うことなどない存
1889
在である。
そう言いたくなるのも分かる。
けれど。
﹁実際に俺はあった。こうなってしまったのがその証拠、というと
ちょっと弱いかもしれないけど⋮⋮他に理由がな﹂
ヴァンパイア
普通の人間が魔物に変異できる方法など滅多にない。
吸血鬼の血を手に入れる、とか、リッチになる儀式の方法を知り、
素材を手に入れるとかあるが、そういうのをわざわざ俺がするわけ
がないというのも二人は分かっている。
﹁ま、そうだね⋮⋮。信じるほかあるまい。というのは分かるよ。
それで、あんた、これからどうするつもりなんだい?﹂
ガルブが尋ねて来た。
1890
第285話 数々の秘密と考察︵後書き︶
どうもこの辺りは繰り返しになってしまって申し訳ないです。
端折ろうと思うのですけど、どの程度端折ればちょうどいいのか感
覚がね⋮⋮。
まぁ、もうそろそろ告白するような相手もいなくなってきたし、当
分はまた繰り返したりはしないと思いますので、どうぞこれからも
よろしくお願いします。
1891
第286話 数々の秘密と提案
ミスリル
﹁どうするもこうするも、何も変わらない。俺の目標は神銀級冒険
者を目指して頑張る、さ﹂
そう答えた俺に、ガルブは呆れたような納得したような表情を浮
かべる。
﹁あんた⋮⋮魔物になっても変わりなしかい。まぁ、あんたらしい
っちゃらしいが⋮⋮﹂
﹁そりゃ、もちろん、人間に戻る方法は探すぞ。でも、将来の目標
はそんなに簡単に変わらないだろ﹂
俺の返答にガルブは安心したように頷き、
ヴァンパイア
﹁あぁ、それは一応やるのかい⋮⋮吸血鬼のままの方が便利そうだ
が、そのままだと仲間に狩られかねんというところかい?﹂
ヴァンパイア
﹁そうだ。まぁ⋮⋮俺が吸血鬼だなんて知ってるやつは限られてる
ギルド
けどな。ここにいるメンバーに、迷宮でたまたま会った駆け出し冒
ギルドマスター
険者が一人、それに以前からの冒険者仲間一人と、冒険者組合職員
一人、そしてマルトの冒険者組合長くらいだ。その他にも俺が前と
ちょっと変わってる、ってことを認識してる奴はいるけど、はっき
りとは説明してないからな﹂
クロープ夫妻はもう知っている方だろうが、はっきりと説明した
ことはないし、彼らの生活を考えると説明しない方がいいだろう。
1892
言ってもたぶん、今まで告白した人々と同じような反応を示して
くれるとは思うが、無理に知らせる必要もない人たちだ。
クロープなんかは武器の使い心地や要望を伝えればそれでいいよ
うなタイプだしな。
まぁ、魔物が武器を使ったらどうなるか、なんていうデータは欲
しいかもしれないが⋮⋮今は気にしないでいいだろう。
﹁十人もいないんだね。とは言え、秘密の内容を考えるに多いよう
な、少ないような⋮⋮微妙な数だ﹂
﹁本当は誰にも言わない方がいいのかもしれないけどな。俺は結構
抜けてる自覚もあるし、フォローしてくれる人材が欲しかったと言
うか﹂
一人でやろうとしてやろうとしたことがうまくいかなかった十年
があるからな。
人を頼ってみようとちょっと思い始めていたと言うのもある。
迷宮に潜る時なんかは基本ソロ、というスタンスは変わらないが、
それ以外のところではな。
全部が全部自分だけでやろうとはもう思わない。
﹁その筆頭がロレーヌと言うことか?﹂
カピタンがそう言ったので、俺は頷く。
﹁あぁ。魔物になって、いの一番にロレーヌに頼ったよ。魔物につ
いてロレーヌは詳しいし、きっとな、俺が魔物になっても変わらな
いと信じられる一番の相手だったからさ﹂
﹁そして、実際にそうだったわけだ﹂
1893
ガルブがそう言ってロレーヌを見る。
ロレーヌは頷いて、
﹁レントが魔物になったくらい、気にするような付き合いではなか
ったですから。それに私は魔物について研究しています。そのため
の協力を、魔物本人から得られるというのですから、ことさら拒否
する必要もありません。むしろこちらから付き合いをお願いしたか
ったくらいで﹂
﹁ふうん? そうなのかい。ロレーヌ﹂
ガルブがそう言ってから、彼女の耳元に口を寄せた。
何か喋っているが⋮⋮それにロレーヌは頷いたり首を振ったりし
ている。
表情も結構くるくる変わっているが⋮⋮。
﹁⋮⋮何の話をしてるんだ、あの二人は?﹂
俺とともに蚊帳の外に置かれたカピタンにそう尋ねると、カピタ
ンは首を振って、
﹁⋮⋮ガルブの婆さんがああいうことをし始めたときは黙ってるの
が一番だぞ。首を突っ込むとろくなことがない⋮⋮﹂
とげんなりとした顔をする。
俺が首をかしげると、カピタンは、
﹁以前、宴の席で俺の妻がガルブとあんな感じで話しているときが
あってな。気になって首を突っ込んだら⋮⋮とんでもないことにな
1894
った﹂
と青い顔で言う。
何が起こったのか気になって、
﹁⋮⋮どうなったのか聞いてもいいか?﹂
と尋ねると、カピタンは、
﹁俺の妻が、俺の部屋の物置から昔の女にもらった品を後生大事に
しているのを発見したらしくてな。その処遇についてどうすればい
いのか相談していたのだ﹂
﹁⋮⋮それはなんというか⋮⋮﹂
一番見つかってはいけないパターンだろう。
というかそんなもの結婚したあとなら捨てておけと言う話だ。
捨てないと言う選択肢を選ぶ自由はあるが、せめてもの礼儀とし
て絶対に見つからない場所に隠しておくべきである。
そんな感覚の責める視線を俺が浮かべていたのに気づいたのだろ
う。
カピタンは慌てて首を振り、
﹁⋮⋮別に本当に後生大事にしまっていたわけではない! 単純に
部屋の奥の方にいれていたのを忘れていただけだ。それから十数年
となく触れないでいたからな⋮⋮大事にしているように見えてしま
っただけだ! と言う話を妻とガルブに対して、部下たちが酒を酌
み交わしている席でする羽目になってな⋮⋮あれは、酷い経験だっ
た。最後には事なきを得たし、夫婦仲も良くなったのだが、もう一
度経験したいかと聞かれれば、絶対に否であると答えざるを得ない
1895
⋮⋮お前は挑戦するか? もう一度、念のために言っておくが、や
めておいた方が賢明だぞ?﹂
大物の獲物を前にした時にしかしない、本気の表情でカピタンは
俺の肩をひっつかみながら言う。
ギリギリと強い力がこもっていて⋮⋮あぁ、うん、これはやめて
おいた方が良いんだなと心の底から分かってしまった。
別に俺にはこれ以上ロレーヌに隠しておかなければならないよう
な話もないんだけどな⋮⋮大体、疚しいことなんて夫婦じゃないん
だから発生しようがないとも思うが⋮⋮。
しかし、危機感は確かに感じる。
なんていうか、野生の勘みたいな?
触らぬ神にたたりなし、みたいな?
魔物になってからその辺の勘は強くなった気がするから、これは
第六感の導きにしたがって何も言うべきではないな、と俺はガルブ
とロレーヌの会話に聞き耳を立てないことにした。
それからしばらくして、
﹁⋮⋮悪かったね。ほっといて﹂
二人の会話が終わったらしく、ガルブがそう言って来た。
﹁いや、別に構わないが、もういいのか?﹂
内容は聞かないで俺はそう言う。
ガルブはこれに頷いて、
﹁ああ、まぁ、大した話じゃなかったからね。それで、改めてあん
たのことだ。夢が変わってないこと、人間に戻りたいこと、どちら
1896
も分かったよ。それでね、これは提案なんだが、あんたとロレーヌ、
少し村で修行していかないかい?﹂
唐突にそう言った。
1897
第286話 数々の秘密と提案︵後書き︶
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1898
第287話 数々の秘密と修行
﹁⋮⋮修行? また、なんで。いや、別にもうそんなものいらない
ってわけじゃないけど﹂
冒険者にしろ何にしろ、戦いを生業にする人間と言うのは一生修
行のようなもんだかな。
これで満足、という基準がない。
俺なんかは特に、目指しているものがものだ。
今日の自分に満足していたらたどり着けるものもたどり着けない
だろう。
⋮⋮まぁ、それでも、今日は十分やったな!とかたまに思うけど
ね。
そんなことを考えている俺に、ガルブは言う。
﹁別に今更普通の修行をしろ、なんて言わないさ。そうじゃなくて、
私たちの⋮⋮ハトハラーの役職持ちに連綿と受け継がれてきた技術
を、あんたらに教えようと思ってさ。本来は門外不出なんだが⋮⋮
転移魔法陣まで見せたんだ。別にいいだろ。あんたも構わないだろ
? カピタン﹂
カピタンにもそう言って水を向けると、彼もまた頷いた。
﹁ああ。俺はもともとそのつもりだ。そもそも、いざというときに
転移魔法陣を守るために残されていた技術だからな。教える相手と
して、むしろ適切だろう﹂
1899
﹁そうなのか?﹂
俺が首をかしげると、カピタンは答える。
﹁一応そう言われている⋮⋮が、何分気が遠くなるほど昔の話だか
らな。他にも来歴や理由はあったのかもしれん。しかし今でははっ
きりと言い伝えられているのはその程度だ。流石に長い年月が経ち
すぎたのだろうな﹂
その言葉に残念そうにしたのは、ロレーヌである。
﹁⋮⋮調べればあの古代都市のことも色々と分かりそうだと思って
いたのだが⋮⋮難しいかもしれんな﹂
﹁ま、残っている話は少ないとはいえ、歴代の役職持ち達が残した
資料もないではない。特に︽魔術師︾の残したものはかなりの数に
上るから、それを読めば分かることもそれなりにはあるだろう。た
だ、文字や記述の仕方が古かったり、欠損があったりで読み解くの
にはそれなりに時間がかかるだろうが⋮⋮﹂
ガルブの答えに、ロレーヌは、
﹁むしろそういう時間が楽しいのです。あとで見せていただければ
とてもありがたいです﹂
そう言ったのだった。
◇◆◇◆◇
﹁さて、じゃ、始めるか﹂
1900
カピタンが森の中でそう言った。
カピタンと試合した場所ではなく、一旦村に戻ってから、また森
に入ったので比較的村に近い。
なぜ村に戻ったかと言えば、カピタンの剣鉈の問題だ。
俺が壊しちゃったからさ⋮⋮。
ただ、剣鉈を破壊されたこと自体は別にさほど気にしていないよ
うだ。
かなりの年月使って来た大事な品かと思っていたのだが、そうで
もないらしいからだ。
戦闘から背の高い草を狩ったり、魔物の解体をしたりなど、多岐
にわたって使える武器兼便利道具である剣鉈である。
かなり酷使する関係で、大切に使っていても元々数年でダメにな
ると言う話だった。
まぁ、普通の動物だけ相手するならともかく、魔物はな⋮⋮。
素材自体の丈夫さが違うし、魔力も纏っているので同じ武器をそ
うそう長くは使えない。
冒険者用の武具は素材からして魔物製だったり、特殊な鉱石を多
量に使ったりしているので長持ちだが、カピタンの剣鉈はハトハラ
ーの鍛冶師が普通の鉄から作った一般的な品のようだしな。
別に転移魔法陣を使えば都会で冒険者用に造られた丈夫な剣鉈も
仕入れて来れるだろうし、実際に持ってはいるのだろうが、ハトハ
ラーで頻繁にそれを使ってたら流石に怪しいだろう。
一人で森に入るときは使っていても、狩人としてグループで動く
ときは普通にハトハラー製のものを使って来たらしい。
まぁ、それでもカピタンには︽気︾があるし、十分に長持ちなの
だけどな。
本当にそのままただの鉄の剣鉈を使ってたら一年ももたないかも
しれない。
1901
ちなみに、カピタンのいう﹁始める﹂は修行だ。
ロレーヌとガルブはいない。
彼女たちは彼女たちで修行があるらしいからだ。
まぁ、ガルブがロレーヌに伝授するのは魔術で、それも初心者の
俺にはまるで理解できないようなレベルの高度なものだろうから別
々にやる方がいい。
見てもわからんだろうし、必要ならロレーヌがあとで教えてくれ
るだろうから問題ないだろう。
それより、俺はカピタンの︽気︾の力、特にあの防御に使われた
技法を知りたい。
あれは何だったのか?
楽しみである。
﹁俺に試合のときに使った技を教えてくれるってことでいいんだよ
な?﹂
俺がそう尋ねるとカピタンは頷いて、
﹁ああ。あれも含めた、︽気︾の技法全般だな。お前には昔、基礎
は教えたが⋮⋮今は実際どれくらいのことが出来る?﹂
そう聞き返してきた。
とりあえず、俺がどこまで出来るのかの確認からと言う訳だ。
試合をしてはみたが、別にすべての技術の練度を見せたわけでも
ない。
魔物になった結果使えるようになった数々の力もあるし、正確に
把握するところから始めた方がいいと考えたのだろう。
だから俺も応える。
1902
﹁魔力や聖気はこの体になって、色々出来るようになったんだけど
⋮⋮気についてはな。あんまり変わってないよ﹂
﹁というと?﹂
﹁基礎の身体強化、治癒力の強化、武器の強化⋮⋮そんなもんかな。
あぁ、あと、組み合わせで特殊なことは出来るようになったけど⋮
⋮﹂
﹁組み合わせ⋮⋮というと、あれか。試合の中で見せた、俺の剣鉈
をひしゃげさせてくれた⋮⋮﹂
俺の言い方に、すぐにカピタンは思い出したようだ。
俺は頷いて、実際にやって見せることにする。
と言っても、とりあえず見せるのは聖魔気融合術の方ではなく、
魔気融合術の方だ。
聖魔気融合術の方はコストと言うか、俺の懐に痛すぎる。
剣に気と魔力を込めて、その辺にある木に切りかかる。
すると、幹の部分が剣が触れた方向とは逆の方向から爆発し、そ
の重みを支えきれなくなって倒れた。
見事なまでに自然破壊だ。
普通に切ることも最近は出来るようになってきたのだけど、制御
がな⋮⋮。
それに、見た目上、分かりやすいのはこの結果かなと思うから別
にいいかな。
カピタンは、それを見て、呆れた顔で、
﹁⋮⋮まぁ、気の強化版と言う所か? 魔気融合術だな。俺の剣鉈
を壊したあれとは違うみたいだが⋮⋮﹂
1903
﹁あっちは俺の武器もダメになるからそうそう見せられないんだ。
聖気と、魔力と、気を融合させたもので、聖魔気融合術とでも言え
ばいいのかな⋮⋮﹂
1904
第288話 当主ラウラ・ラトゥール
都市マルト。
そのはずれに、巨大な庭園を抱えた古く豪奢な屋敷があります。
当主は、初めて見る方は驚く方が多いようです。
なにせ、その見た目は、十二、三才の、不健康そうな娘なのです
から。
身に着けているものは大抵が黒か、白の古い意匠のドレスで⋮⋮。
まぁ、マルトに昔から影響力を及ぼしている古い家の人間の癖し
て、かなり陰気である、と捉える方が多いだろう、と思います。
と言っても、当主が人と会うことなど、ほとんどないのですけど。
ちなみに、当主の名はラウラ・ラトゥールと言います。
つまりは、私の名です。
◇◆◇◆◇
﹁なぜ! どうして協力してくれないんですか⋮⋮﹂
ラトゥール家の屋敷、その一室、応接室で、一人の少年が叫ぶよ
うに私にそう言っています。
私の斜め後ろには使用人であるイザークが立ち、私と同様の瞳の
色で、少年を見つめています。
﹁⋮⋮そうおっしゃられましても⋮⋮困ります。私とて、出来るこ
とはするつもりはありますが⋮⋮イザーク﹂
そう言うと、イザークは瓶に入った赤い液体を差し出して、私に
1905
渡します。
竜血花から採れる薬液です。
保存が非常に難しく、竜血花が新鮮な状態のときに採取しなけれ
ば意味がないため、そうそう手に入る品ではありません。
しかし、今の私にはとてもありがたい冒険者がいて、彼がある程
度定期的に採ってきてくれます。
まぁ、今は少しマルトから離れていますが、彼に以前渡したもの
以外にも、それなりに物質の経過時間を遅くする魔道具は保有して
います。
今まで採取してきてくれた分からとった薬液で、十分にやってい
けるため、問題はありません。
私はイザークから竜血花のエキスを受け取り、少年に手渡し、言
います。
﹁⋮⋮これを一日に一度、水で百倍に希釈して飲めば衝動は抑えら
れます。そうすれば、それで十分に人の街で生きていけます。ただ、
マルトからはもう、出なさい。あなたを探して悪魔がやってきてい
ます。ここに留まるのはお勧めできません﹂
﹁⋮⋮こんなもの⋮⋮﹂
一度瓶を受け取り、投げ捨てようとした少年でしたが、
﹁それがあればこそ、貴方方は人に紛れて長い間生きてこられまし
た。今では⋮⋮手に入れる方法も少なくなって厳しいとは思います
が、全くないわけでもないでしょう? 代替品もあるはず。それな
のに、わざわざ里から出てきてこのようなところに貴方のような若
い存在がいるのは⋮⋮なぜです? 先ほどからあなた方の存在を世
に示したい、そのために協力を、と私におっしゃっておられますが
⋮⋮それが出来るのなら、貴方よりもずっと強力な方々が、そのよ
1906
うになさっているはずです。そのことについて、どうお考えですか
?﹂
そう言われて、瓶を投げ捨てようとした腕をゆっくりと降ろしま
した。
必要な品だ、ということは理解してくれたようで何よりです。
﹁僕は⋮⋮ただ、里での生活が嫌になったんです。人間から隠れて、
静かに生きて⋮⋮まだ滅びたわけでもないのに、いないふりをして
⋮⋮僕は、僕たちはいるんだ。この世界に生きて⋮⋮それなのに⋮
⋮﹂
少年は悔しそうに、涙を流しながらそんなことを言います。
気持ちは、理解できなくはありません。
ただ、それを主張するのは⋮⋮今の世界情勢から鑑みるに、とて
もではありませんが賢明とは言えません。
わたしは彼に言います。
﹁⋮⋮少なくとも、私は貴方の存在を認めていますよ。しっかりと
生きて、こうしてここにいる。こうやって交流も持っています。そ
フェアリー
れに、世界から隠れなければならない人々は、貴方方以外にもたく
さんいます。程度の違いはありますが、エルフ、ドワーフに、妖精
や、獣人⋮⋮。その事実からは逃げられません。ただ、それでも、
貴方は生きている。ご自分でもそうおっしゃいました。このままこ
の土地にい続ければ、その重要な命すら守れずに、ただ消えていく
結果になる可能性が高いです。そのことは?﹂
﹁⋮⋮僕だって、死にたくは⋮⋮﹂
﹁であれば、里に帰ることです。場所については聞きません。知ら
1907
れたくもないでしょう?﹂
﹁でも、連絡する手段が⋮⋮﹂
﹁それについてはお気にされずとも構いません。イザーク﹂
﹁は⋮⋮﹂
イザークが私の言葉に頷いて、部屋を出ていきました。
﹁一体なにを⋮⋮?﹂
﹁我が家では、貴方のお仲間に連絡を取る手段を有しています。時
間は少しかかりますが、確実に連絡はとれますので、ご心配なさら
ずとも構いません。どの︽里︾なのかは一応問題になりますが、貴
方ぐらいの年頃の仲間がいなくなったとなれば、向こうも血眼で探
しているでしょう。すぐに向こうから連絡が来るはずです﹂
﹁⋮⋮貴方は。長老たちから聞いていましたけど、なぜそこまで僕
たちのことを⋮⋮﹂
﹁ずっと昔から、我が家はそのように暮らしてきましたので。この
マルトは、そのための拠点でした。もはや、知るものは少しずつ減
り、残っているのは我が家だけですが、ご心配はなさらずとも構い
ません。私は、貴方を裏切りませんよ﹂
﹁⋮⋮本当に、ありがとうございます⋮⋮﹂
﹁いいえ。それより、先ほども話しましたが、今のマルトは危険で
す。もし街に出るのなら、よくよく注意して歩くことです。先ほど
1908
お渡ししたそれを使っていれば危険の度合いは下がりますが、絶対
に露見しないとも言えませんので。念のため、今いる宿を引き払い、
我が家の客人として滞在されるとよいでしょう。食事についてもお
出しできますので、安心ですよ﹂
そう言った私に、少年は頷いて、宿を引き払ってくると言って部
屋を出ようとしたので、まず、竜血花のエキスを希釈して飲ませて
から私は見送りました。
それから、イザークが部屋に戻ってきたので、彼に尋ねます。
﹁連絡はとれそうです?﹂
﹁ええ、返事待ちになりますが、明日には返ってくるかと。しかし
⋮⋮あの少年が新人冒険者の行方不明の犯人ですか?﹂
イザークがそう尋ねてきたので、私は少し考えてから答えます。
﹁おそらくは、違うでしょう。彼は︽里︾からの家出者です。竜血
花ほどではないにしろ、衝動を抑え、人に近づける薬があります。
もう切れかけているようですが⋮⋮まだ、血の匂いはしません﹂
﹁となると⋮⋮もう一匹入り込んでいると?﹂
﹁その可能性が高い、と思います。調べなければなりませんね⋮⋮﹂
﹁では、そのように。失礼いたします﹂
そう言って、イザークは部屋を再度、出ていきました。
それから私はソファの背もたれに寄りかかり、ため息を吐きます。
最近、色々なことがありすぎで⋮⋮疲れがたまっているようです。
1909
はぁ、誰かに肩をもんでほしい。
そう思いました。
1910
第289話 数々の秘密と努力の意味
﹁ほう、聖魔気融合術、か。そんなことが⋮⋮。ま、魔気融合術に
してもそれにしても、俺には使えないから教えようがないが﹂
カピタンが俺の言葉に少し残念そうにそう言う。
が、こればっかりは仕方がないことだ。
かたや魔力は生まれつきの部分が大きく、かたや聖気は運の問題
だ。
聖気を運扱いすると様々な宗教団体のお歴々の皆々様に怒られそ
うだが、現実問題そうなんだから仕方がない。
まぁ、別に信仰心が全く関係ないと言う訳でもないんだけどな。
一生懸命祈ってたら、とか、善い行いをした結果、とかそういう
理由で加護をもらえて聖気を使えるようになることは少なくない。
俺だってもともと、祠の修理をしたという善行らしきものをした
がゆえに加護をもらえたんだからな。
ただ、聖気が欲しい!みたいな下心ありきでそういうことをして
も加護はもらえないんだな。
そういう逸話がいくつも残っている。
神々はやはり、神々だと言うことだろうか。
人の心を見抜くのかね。
でも邪神なんかの類がくれる加護も、善神のそれと見分けがつか
ないと言われているから微妙な話だ。
実際にそんな存在から加護をもらってる人は見たことないから分
からんけどな。
当然だ。
俺は邪神の加護があるんだぜ!羨ましいだろ!とは誰も言う訳が
ない。
1911
聖気を持っている、というくらいは言うかもしれないけどな。
邪神からもらおうが善神からもらおうが、聖気は聖気なのだ。
邪気ではないのだよな⋮⋮なぞだ。
そんなことを考えつつ、俺はカピタンに言う。
﹁カピタンなら聖気はともかく魔術くらい使えそうだけどな﹂
この男なら、むしろ使える方が自然だ。
そう思ってしまうくらいの能力がカピタンにはある。
しかし、カピタンは、
﹁ああいう小難しいのはガルブの婆さんに任せておくさ。ハトハラ
ーの民が古王国の末裔だとはいっても、全員が魔力を持つわけじゃ
ない。まぁ、他のところよりは魔力持ちが生まれやすいらしいのは
事実のようだが、それでも誤差の範囲だ。今の村にいる魔力持ちは、
ガルブの婆さんと、お前、それにガルブの婆さんに弟子入りしてる
ファーリくらいなもんさ。多いとも少ないとも言い難いな﹂
俺の場合は、もともと使い物にならないくらい少なかったのだか
ら、実質的に村の魔力持ちはガルブとファーリの二人だろう。
村の人口から考えるともっといるような気はするが、俺と似たよ
うなレベルでしかない者が大半なのだろうな。
かろうじて使い物になるのが、ガルブとファーリくらいだった、
と。
まぁ、そこは普通だな。
﹁変わった村とはいっても、そんなもんなんだな﹂
﹁そりゃ、昔のことを伝えている人間がもう、三人しか残ってない
1912
からな⋮⋮ただ、悪いことじゃない。ハトハラーはあんな秘密を抱
えるには小さすぎる。忘れた方がいいんだろうさ﹂
﹁そういうものか⋮⋮﹂
考えると、いざというときに良く知っていなければ対応が、とか
色々あるが、たとえば国が介入してきたとして、そういう場合にハ
トハラーの規模で対応もなにもないか。
ミスリル
多少強力な個人だったらガルブやカピタンがどうにかするわけだ。
神銀級クラスが来たらもうそれは国がどうにかしようとしてもど
うにかなるものでもないしな。
あれはほぼ天災だ。
諦めるのは良くないが、そういう心境になるしかなくなるだろう。
﹁ま、その辺のことはいいさ。もう決まったことだ。今はとりあえ
ず、︽気︾の話だな﹂
﹁そうだな⋮⋮で、あの力は?﹂
俺がそう尋ねると、カピタンは言う。
﹁︽気︾には色々と使い方があるのは分かっていると思うが、その
基礎は身体強化、治癒力強化、武器強化があるな。その辺は比較的
簡単に身に付くし、使いやすい。ただ、俺がお前に試合のときに見
せたあれは、ちょっと難易度が上がる。お前が村を出なければその
うち教えてただろうが⋮⋮お前には夢があったからな。流石に時間
が足りなかった﹂
ギルド
俺は冒険者組合で冒険者に慣れる年齢、つまりは十五になった時
点でマルトに向かってしまった。
1913
それ以上我慢できなかったのだな。子供だ。
今もそういうところの子供っぽさは変わっていないが。
しかし、あの当時、時間がなくて教えられなかった、という技を
果たして今、学んで使えるようになるのか?
ある程度、ハトハラーに滞在するつもりはあるけれど、せいぜい
数週間、数か月であって、一年も二年もいる気はないぞ。
寿命は⋮⋮ないかもしれないが、冒険者としてちゃんと活動した
いしな。
あくまでニヴから避難して来たに過ぎないのだから。
そう思った俺は、素直にカピタンに尋ねる。
﹁一体どのくらいの時間がかかるものなんだ? 教えてくれるのは
ありがたいけど、学ぶにしてもそんなに長くハトハラーにはいられ
ないぞ﹂
すると、カピタンは、
﹁お前次第だな﹂
﹁っていうと⋮⋮?﹂
﹁︽気︾の練度がどれくらいあるかだよ。幸い、その辺りには問題
はないと思う。十年前、お前が駆け出し冒険者になったころの練度
じゃ、まぁ⋮⋮まともに学んで一年、二年はかかりそうだったが、
今なら数週間、場合によっては数日で身に付く可能性もある。今ま
でお前が頑張って来た結果だな﹂
⋮⋮十年間、全く成長がなかったな、と思って生きてきたが、意
1914
外と俺は成長していたらしい。
確かに、武器に気を込める時間とか、身体強化の長さとか、治癒
の効率とかは少しだけ上がってたかもな。
小手先の技術と言うか、︽気︾の量が増えなくても出来る工夫の
部分はとにかくやれるだけやった気がする。
﹁無駄かもしれないと思ってやって来たことも色々あったけど、意
外と意味があったんだな⋮⋮﹂
しみじみ呟くと、カピタンも頷いて、
﹁気はな。魔力や聖気とは違う。才能よりは努力の要素が強い。ち
ゃんとコツコツやれば、確かに結果に結びつくもんだ。まぁ⋮⋮お
前の場合、気の絶対量の伸びが極端に少なかったから、僅かな成長
を感じるのも難しかったのかもしれないが⋮⋮今のお前はそうじゃ
ない。かなり気の量も増えているし、やれることはかなり多いだろ
う﹂
そう言った。
1915
第290話 数々の秘密と気の神髄
﹁それで、やり方だが⋮⋮まず、見た方が分かりやすいだろう﹂
カピタンはそう言って、︽気︾を体に集中し始めた。
試合のときに見せたときと同じ気配がする。
沢山の︽気︾が、カピタンの体の表面に凝縮されていくのを感じ
る。
そして、カピタンはしばらくして、ふぅ、とため息を吐くと、
﹁これでいい⋮⋮ほれ、触ってみろ﹂
と言って、自分の右腕を示した。
⋮⋮特に何か変わっているようには見えない。
強いて言うなら、身体強化を使っているときの気配を少し強めた
ような︽気︾の気配がする程度だ。
しかし、実際に触れてみると⋮⋮。
﹁⋮⋮おぉ。これが⋮⋮﹂
触れてみると、カピタンの腕自体の感触ではなく、何かに一枚隔
てられているような、そんな感触がする。
ばちりとした、静電気のような感じと言えばいいのか。
押し返されるような斥力がそこにはある。
ためしに強く力を入れて押してみるが、押した力の分に少し力が
加えられた反作用が働いて、押し返される。
﹁こんどは、こいつで切ってみろ﹂
1916
カピタンはそう言って、短剣を俺に差し出してくる。
しっかりと研がれた実用品だ。
そんなもの、別に戦っているわけでもないのにカピタンに向ける
ことに忌避感を感じ、
﹁いや、でも⋮⋮﹂
と俺が逡巡していると、カピタンは呆れた表情で、
﹁⋮⋮お前、試合のときは殺す気で向かって来てただろうが、今更
何言ってんだ﹂
と言って来た。
確かにそれはその通りなんだが、戦闘中と言うのは良くも悪くも
倫理観のタガが外れるからな。
興奮が理性を上回ると言うか⋮⋮なんかヤバい奴みたいだが、多
かれ少なかれ戦士と言うのはそんなものだろう。
しかし、今は平常時なのだ。
どっちかと言えば控えめな性格の俺としてはいいのかな?とか思
ってしまう。
⋮⋮控えめだぞ?
俺がそんなことを考えていると知ってか知らずか、カピタンはさ
らに言う。
﹁まぁ、何にせよ、本人が別にいいって言ってるんだ。この状態を
維持するのも結構だるいんだから、さっさとやれ﹂
顔には出ていないが、意外に結構消耗するらしい。
1917
そういうことならさっさとやるべきだろうな、と心を決めた俺は、
カピタンの腕に短剣を振り下ろす。
早くしようと思っていたから、実際に短剣はかなりの速度でカピ
タンの腕に向かって振り下ろされた。
あ、ちょっと強すぎたかな、と思ったが、まぁカピタンなのであ
るから、大丈夫だろう⋮⋮。
実際、短剣はカピタンの腕に突き刺さることはなかった。
短剣は、先ほど手で押したときと同じように、弾き返されて吹っ
飛んだ。
どうやら、力を込めれば込めるほど、弾き返す力も強くなる、と
いうことのようだった。
これはいいな、と思う。
カピタンは感心しながらそんなことを思う俺に、
﹁⋮⋮さっさとやれとは言ったが、そこまで本気でやらなくてもよ
かっただろ﹂
とちょっと睨みながら恨み言を言う。
短剣の速度から、俺が結構なガチ具合で腕に短剣を突き刺そうと
していたことを察したらしい。
だってやれっていったじゃん、と思い、軽く睨み返すとため息を
吐かれた。
まぁ、確かに少し力は込めすぎたのは確かだけど。
﹁まぁ、いい。しかし今のでなんとなく雰囲気は分かったろ?﹂
そう聞かれたので、俺は頷く。
﹁気の⋮⋮鎧みたいなものを作る技術ってことか?﹂
1918
シールド
﹁まぁ、今のはそういう利用の仕方だが、もっと一般化した言い方
をするなら⋮⋮気の物質化、だな。魔術にもあるだろ? 盾作った
りするあれだ﹂
そう言われて、なるほど、と思う。
俺が魔力が弱いころにもなんとか少しだけ使えていた技術の一つ
だ。
﹁︽気︾でも同じことが出来るってことか?﹂
俺の質問にカピタンは少し首を傾げて、
﹁まったく同じってわけでもないな⋮⋮まぁ、俺は魔術は専門外だ
シールド
から、ガルブの婆さんからの受け売りみたいになるが、魔術による
盾は事前にしっかりとその形状なり維持する時間なりを構成した上
で作り上げるものなんだろ?﹂
まぁ、確かにそうだ。
魔術と言うのはなんだかんだ言って、かなり理論的な力だ。
シールド
その構成がしっかりしていなければ、すぐに失敗する。
盾の維持程度でも構成はしっかりやらなければだめだ。
﹁気は違うのか?﹂
﹁まぁな。こっちはもっと感覚的な力だ。理屈に沿って作り上げる、
っていうよりかは感覚で掴んで操り方を覚える、って感じだ。だか
ら、こういっちゃなんだが、ずっと愚直に使いつづければ、馬鹿で
も出来るようになる。頭はいらない﹂
1919
物凄く身もふたもない言い方だ⋮⋮。
ただ、分かる気はした。
魔術は理論であるからして、地頭の出来は非常に重要だ。
そして、頭脳が強く影響する関係で、魔術の天才と言うのは学問
的な天才にかなり近似する。
対して︽気︾の使い手は⋮⋮こう言っては何だが、勉強が出来れ
ば同様に出来るようになると言う訳ではない。
むしろ、馬鹿が多い、というと怒られそうだが、有名な︽気︾の
使い手の中には単純思考を形にしたような人物も少なくない。
それは、別に理論を組み立てて、という魔術に必要な作業が、︽
気︾の場合にはそれほど重視しなくてもいいからだろう。
もちろん、頭はいい方がいいだろうけどさ。
そういうことを考えると、カピタンは︽気︾の使い手にしては頭
脳派かもな⋮⋮言ったら怒られそうだけど。
カピタンは続ける。
﹁気の物質化は身に付ければ色々なことが出来る。気の形状を自由
に操れるんだ。たとえば⋮⋮こんなことも可能だ﹂
そう言って、カピタンは地面に落ちている短い枝を広い、手に持
つ。
何をするのかと思ってみていると、そこに気の力を込め、そして
次の瞬間、上からはらはら落ちて来た木の葉を、ざんっ、と切り裂
いた。
﹁⋮⋮今のは﹂
俺が驚いていると、カピタンは説明する。
﹁何も触れていないように見えただろ? だが、この枝の先には俺
1920
が伸ばした気の刃がある。それで切ったのさ﹂
そう言って、つつ、とその不可視の刃に触れるそぶりをした。
カピタンは俺にもその刃部分を差し出し、触れるように視線をし
ゃくったので、言われた通り、おっかなびっくりと俺はそれに触れ
る。
すると、確かにそこには何かあった。
何も見えないが、長く伸びた刀身の存在が。
カピタンは言う。
﹁慣れればこんなことも出来るってわけだ。形状も自由自在だ。便
利だろう?﹂
確かに、便利だ。
というか、不意打ちに最適である。
こんな使い方を思いつくのもどうかと思うが、暗殺なんかに重宝
しそうでもある。
﹁もちろん、欠点もある。消耗が結構激しくてな。普通に戦うなら
武器にただ気を込めるだけの方がずっと楽だ。これは切り札か、最
後の手段にでもとっておいた方がいいかもしれん﹂
先ほどからずっと、気の物質化をし続けているカピタンの額には
汗が見える。
かなり消耗している、ということなのだろう。
俺よりもずっと︽気︾の使用に優れているカピタンをしてこれな
のだから、俺にどのくらいこれが出来るのかはわからないが⋮⋮。
カピタンは言った。
﹁じゃあ、とりあえずはやってみるところからだ。やり方? 叩き
1921
込んでやるからただひたすらにやれ。練習すればそのうち出来るよ
うになる﹂
その顔はずっと昔に見た鬼教官の顔で、俺の脳裏には酷い思い出
が蘇ったのだった。 1922
第291話 数々の秘密と食事
カピタンは言った通り、俺に一通りやり方を説明した後は延々と
実践をさせた。
﹁⋮⋮よし、そのまま保ってろよ﹂
カピタンは、俺にそう言う。
俺の方は何をしているかと言えば、先ほど教えられた気の物質化
をやっているところだ。
と言っても、カピタンのように全身を覆うようなことは出来てい
ない。
そうではなく、手のひらを覆うような形で、不格好な気の鎧を維
持しているだけだ。
はっきりとは見えないが、感覚的に分かる。
本当は皮膚の上にもう一枚、皮膚を作るような感覚で出来るのが
一番だと言うことだが、俺が作っているのは皮膚一枚どころか、厚
手の手袋をつけているようなものだ。
しかも、その強度は脆い。
カピタンが木の棒をもって、俺が作った気の鎧ならぬ気の手袋を
叩く、という作業を何度も繰り返しているわけだが、軽くたたいた
くらいでぱきりと壊れてしまうのだ。
まぁ、カピタンもカピタンで、木の棒に気を込めて叩いているの
で、一般的な鉄の剣くらいの強度はある棒になっているから、そこ
まで捨てたものではないだろうが、それでもまだまだ足りないのは
当然の話だ。
⋮⋮やっぱり、一朝一夕でどうにかなりそうではない。
1923
しかし、コツコツ続けていけばまぁ、そのうちなんとかなりそう
ではあった。
カピタンも、
﹁⋮⋮ま、一日目でそんだけ出来れば上出来だろうな﹂
と言ってくれる。
しかし、
﹁カピタンみたいに体全体を覆うようななのが出来るようになるに
はどれだけかかるのか⋮⋮﹂
と俺が言うと、カピタンは、
﹁さぁな。それこそ努力次第だ。ただ、一部でも出来るようになれ
ばお前なら十分なんじゃないか? 相当目が良くなってるみたいだ
しな﹂
確かに、この体になって目は良くなっている。
反射神経も良くなったし、一部だけでも気で防御できるようにな
れば、体の好きなところに盾を出すような感覚で戦えそうではある。
﹁⋮⋮でも多用するのは厳しそうだ﹂
﹁それはそんだけ無駄遣いしてるからだろ。薄くしろって言ってる
のはその方が消耗が少ないからだ⋮⋮おっと、そこ、歪んだぞ﹂
言いながらカピタンは容赦なく棒でたたいてくる。
壊れるたびに修復する、を繰り返しているのできつい。
そして、とうとう気が尽き、一切放出できなくなった。
1924
気を出そうとしても、何も感じられない。
それをカピタンも察したようで、
﹁今日のところは終わりだな。気が出なくなったんじゃ、どうしよ
うもない。無理に出す方法もないではないが⋮⋮﹂
﹁そんなものがあるのか?﹂
﹁ああ。寿命削れば出来るぞ。普段よりも強い力も出せる。が、お
勧めしない。理由は明らかだろ?﹂
俺の質問に恐ろしい返答をしてきたカピタンだった。
それから、ふと思いついたような顔で、
﹁⋮⋮お前、寿命ないんだからいけるかもな? ないよな、寿命?﹂
と言ってきたが、俺は首を横に振って拒否を示す。
﹁勘弁してくれ。寿命は⋮⋮あるかどうかわからないんだから。そ
もそも厳密にいうと俺はなんなんだかわからない存在なんだからな。
変なことしたらやばいかもしれないだろ﹂
アンデッド
ヴァンパイア
実際、切られたらすぐに治るし、眠くもならないし⋮⋮という諸
々の特徴を考えると不死者で吸血鬼で正しいのだろうが、確証がな
いからな⋮⋮。
実際、その寿命を削ってどうにかする方法を試してみて、死んで
しまったらどうするんだ。
というか、そもそも⋮⋮。
﹁カピタンはやったことがあるのか?﹂
1925
﹁あるわけないだろ。俺だって命は惜しい。ただ、やり方について
は伝えられているからな。やろうと思えば出来ると思うぞ。教える
ことも可能だ﹂
﹁また物騒な技法を伝えて来たものだな⋮⋮﹂
﹁いざってときはあるからな。切り札として伝える必要があったん
だろ。ただ、実際に使った奴がどれくらいいたのかは分からないが
な。ハトハラーにいる限り、使う機会なんてほぼない﹂
まぁ、転移魔法陣を守って来たんだから、何かとんでもないのが
来た時のためにそういうものを伝えておく必要はあったというのは
分かる。
カピタンにそういうものが伝えられてきたのだから、ガルブの方
にも何か物騒なものが伝えられているのかな⋮⋮。
それをロレーヌが学んでいるわけか。
なんだか恐ろしくなってくるな。
心配し過ぎか。
そんなことを話ながら、俺とカピタンは村へと戻っていく。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮これはまた、随分と豪華だな﹂
家に戻ると、そこにはすでに夕食が出来上がっていた。
村長の家であるからテーブルも大きく広いわけだが、そこには沢
山の料理が並べられている。
明らかに、俺とロレーヌと両親だけが食べるため、という感じで
1926
はない。
それもそのはずで、村長家には普段は見られない人数の人がいた。
俺とロレーヌ、それに両親は言わずもがな、そこにカピタンとガ
ルブ、それにリリとファーリまでいる。
﹁⋮⋮なんでお前らまで﹂
俺がそう言うと、リリがその勝気な瞳をこちらに向けて、
﹁だって、ガルブおばあちゃんと、ジルダおばさんが料理を教えて
くれるっていうから﹂
と言って来た。
俺は眠そうな顔立ちのファーリに、
﹁⋮⋮そうなのか?﹂
と尋ねると、彼女も頷いて、
﹁うん。そうだよ。大事な料理を教えてくれるって⋮⋮﹂
と言いかけたところで、リリがファーリを引っ張って台所に連れ
ていった。
﹁⋮⋮一体何だっていうんだ?﹂
俺がそう呟くと、料理を運んでいたロレーヌが、
﹁まぁ、あまり聞かんでくれ。それより、どうだ。まぁまぁ良くで
きているだろう?﹂
1927
とすでに出来上がっている料理を示しながら言う。
確かに、どれも良く出来てはいる。
ただ、俺の義理の母であるジルダが作ったものではないのは分か
る。
微妙に違うんだよな。
それが悪いと言いたいわけではもちろんない。
﹁リリとファーリが作ったのか?﹂
﹁ああ、それと私もだ。ハトハラーの伝統料理なのだろう?﹂
﹁⋮⋮そうだな。どれも昔からよく出されているものだ。どの家に
行ってもハトハラーなら頻繁に見るな﹂
と言っても、どこかの村のような虫料理ではなく、普通の肉や野
菜を使った料理だ。
まぁ、魔物のそれももちろん含まれているが、虫はないな。
あったら俺はもっと虫好きになっているだろう。
どちらかと言えば、苦手だ。
﹁ま、味の方はどれくらいうまくできたかは分からんが⋮⋮後で感
想を聞かせてくれ。マルトに帰っても作れた方が良いだろう?﹂
ロレーヌがそう言ったので、俺は頷いて、
﹁わかった﹂
そう言って、席についたのだった。
1928
第292話 小鼠︵前︶
その鼠にとって、世界とは弱肉強食だった。
小さく生まれたがゆえに、巨大な生き物たちに搾取され、やっと
の思いで見つけた寝床ですら奪われる。
食べ物は少なく、水ですらろくに口にすることが出来ない生活。
生まれたときから、ずっとそうで、しかし、それでもその鼠は優
しさを捨ててはいなかった。
︱︱本能だったのかもしれない。
たまに、鼠はそんなことを思う。
地獄のような世界を一匹、自分だけを信じて生き残ってきた結果、
鼠は他の鼠よりずっと大きく、強く育った。
もちろん、それでも鼠は鼠に過ぎない。
大きな生き物たち⋮⋮人間や、魔物に対抗することなど夢のまた
夢で、街の暗がりの中を駆け、彼らの残した残飯や保存庫の中の食
物を奪い取ることでしか命を長らえることはできない。
たまに、人間に見つかり、追い立てられる。
一人や二人なら、大きく育った鼠にも対抗できる余地はあった。
鼠は、ただの鼠ではなく、これで一応、魔物に分類される存在で、
だからこそ、僅かながらに戦う力を持っていたからだ。
けれど、四人、五人と相手が増えれば、たとえそれが︽冒険者︾
などと呼ばれている恐ろしく強い人間ではないとしても、逃走する
ほかない。
誇りなどない。
そんなもの、神は鼠に与えはしなかった。
生きることこそが、ただ生きることこそが、鼠にとっての大事だ
1929
った。
それなのに。
鼠にしては大きく、強くなった鼠を頼って、他の鼠たちが集まっ
て来た。
といっても、数は少ない。
ほんの、三、四匹程度の小さな数だ。
しかも、彼らはいずれも、他の群れから追い出された鼻つまみ者
プチ・スリ
たちだった。
小鼠の群れは非常に厳しい上下関係に支配されている。
ボスに挑み、敗北した者たちは、有無を言わさず群れを追い出さ
れる。
勝手に一匹でのたれ死ねとでも言うように、である。
酷い話だ、と言うのは簡単だが、鼠にとって、この世は等しく地
獄だ。
群れにいようといまいと、地獄は地獄に他ならない。
だから、彼らに特に同情は感じなかった。
だから、彼らを従えようとも思わなかった。
それなのに、彼らは鼠のあとを懲りずに毎日ついてくる。
共に食料を探し、水を求め、人と戦う日々を過ごした。
得た食料のうち、いくばくかを群れに属せない者たちに分け与え、
小さな子供がいれば大人になるまで、保護したこともあった。
鼠の成長は早い。
一週間も過ぎれば、すぐに大人になるのだ。
そして魔物としての長い生を得るわけだが、大半はすぐに死んで
いく。
食べ物を得られずに、また、人間に狩られて。
鼠の暮らしはその日暮らしだ。
他の鼠のことなど考えている余裕など、普通はない。
1930
その鼠だけは違った。
けれど、忘れてはいけなかったのだ。
鼠は搾取される側だと言うことを。
人間たちは恐ろしく強く、簡単に鼠のことなど駆除できてしまう
と言うことを。
それは、ある日突然やって来た。
鼠たちはそのとき、人間の作った建物の地下を寝床にしていたの
だが、階上からおそろしく異様な存在感を発した者が降りてきたの
だ。
見てみると、二人いたが、一人は普通の少女のようだったが、も
う一人が仮面を被ったローブ姿の男で、およそ人にはありえないよ
うな雰囲気を放っていた。
それを見たとき、鼠は思った。
とうとう、自分のその日暮らしな生活にも終わりが来たのかと。
いずれ来るとは思っていた終わり。
それが今、やってきたのだ、と。
鼠はその人物はおそらく、冒険者だ、と思った。
普通の人間とは明らかに違う強力な戦いの技術を持ち、鼠くらい
の魔物なら簡単に討伐できてしまう者。
巨大な魔物ですら、軽々とうち滅ぼす者もいるというそれ。
そんなものに、鼠が対抗できるはずがなかった。
けれど、ただやられるわけにもいかなかった。
鼠は、もうただの鼠ではないからだ。
手下たちのいる、親分だからだ。
せめて、彼らが逃げる時間くらいは稼がなければならない。
1931
そのために、自分の命が尽きようとも、それくらいは⋮⋮。
ボスのつもりなんて、ずっとなかった。
けれど、それでもついてきてくれた彼らのために、一度くらい命
を張っても許されるだろう。
鼠は、鼠より先に前に出ていこうとする手下たちに、鼠にしか理
解できない声で指示を出し、しばらく隠れているように言って、そ
れからその冒険者に飛び掛かった。
鼠は、鼠にしては強い。
大きく、力もある。
普通の人間くらいなら、完全に行動不能にしたりは出来ないまで
も、逃げる時間を稼ぐために少しの傷をつけるくらいなら出来る。
だから、この冒険者に対してもきっと⋮⋮。
そう思ったのだが、鼠が思っている以上に、その冒険者は強かっ
た。
飛び掛かった瞬間、鼠の動きを正確に追っているのが、その瞳の
動きから分かった。
こんなことは、普通の人間を相手にしているときにはなかったこ
とだ。
持っているナイフが、鼠の目では観測できない速さで閃く。
︱︱あぁ、切られた。
鼠がそう思った時にはすでに吹き飛ばされていた。
体中から力が抜けていく。
これほどまでに差があるとは、思ってもみなかった。
このまま死ぬのか⋮⋮。
いや、まだだ。
鼠は諦めず、体を起こす。
1932
せめて一矢くらいは報いたい。
そう思っての行動だった。
立ち上がり、再度向かっていく。
鼠の意地を見せるのだ。
そう思って。
すると冒険者の方も身構えたが、先ほどとは異なって、一瞬の躊
躇が見えた。
なぜか、と思ったが、その理由を考えるほどの余力は鼠には残っ
ていなかった。
しかし、そんな鼠の渾身の突進も、冒険者にとってはやはり、さ
したる脅威ではなかったようだ。
今度はナイフではなく、拳が飛んでくる。
顔に当たり、歯にも命中し、再度吹き飛んだ。
鼠は、歯が相手の拳を少し削ったことを感覚的に理解したが、が
っくりとくる。
その程度か、と。
それくらいしかできなかったのか、と。
思えば、自分の鼠生なんて大したものではなかった。
何か出来るかもと思っていたけど、何もできず、生きることすら
厳しくて⋮⋮。
あぁ、死にたくはない。
もっと⋮⋮。
そう思ったそのときだった。
体の奥が熱くなり始めたのは。
一体何が⋮⋮。
1933
第292話 小鼠︵前︶︵後書き︶
前後編なんかにする気はなかったのに⋮⋮。
申し訳。
1934
第293話 小鼠︵後︶
体が、作り替えられる。
強烈な体の熱さは、体内にある全てがその形を新しいものに変え
ていっているからだ。
そう理解するのに時間はさほどかからなかった。
なぜ、こんなことになったのか、その理由は分からない。
けれど、とにかく、こんなことで死ぬわけにはいかない。
自分には守るべきものがあり、まだ何も出来てはいないのだ。
ここで死んでは、あの冒険者が⋮⋮。
抗う時間が続く。
苦しみと熱さと痛みに。
そして、気づいたら⋮⋮。
あぁ、と思った。
・・・
自分は、変わってしまった、と。
自分は、あの男と⋮⋮あの冒険者と繋がってしまった、と。
その事実は、出会いの不幸さから考えれば憎むべきことだったの
かもしれない。
しかし、男とつながったことで流れて来た気持ち、記憶は、必ず
しも憎しみを湧き出させるような酷いものではなかった。
確かに、その男は、冒険者は鼠たちを駆除するためにここにやっ
てきたようだが、それは鼠たちがこの建物に起居する者たちの生活
を脅かしているため。
1935
この建物が一体どういうものなのかよく理解せずに寝床にしてき
たが、いうなれば、ここは親のない子供のために用意された場所だ
と言うことが男の記憶から分かる。
つまり、鼠が鼠の子供を守る様に、誰か同じような意識を持った
人間が作った場所だと言うことだ。
そのようなところに外敵がいれば、当然、追放しようとするのは
当然の話である。
だから、その冒険者の目的に、怒りは生まれなかった。 それに、男の性格もつながったことで分かる。
冒険者と言えば、武器を持ち、仲間たちを狩りたてる悪魔のよう
な存在だとずっと考えてきたが、男はそうでもないようだった。
魔物狩りを生業としていることは間違いないようだが、必要以上
には狩りたてないと言うか、人の生活を必ずしも脅かさない魔物に
ついては見逃すことすらあるような、そんな男のようだった。
もちろん、反対に、人にとって害があると認識すれば冷徹に、子
供がいようと殺し尽くす冒険者らしいところはあるようだが、珍し
く捕獲すれば高値で売れるが、放置しても問題ないような魔物であ
れば無理に倒そうとはしない。
そんな記憶がいくつも鼠に流れてくる。
男の方に、鼠の記憶が流れたかは分からないが、男も、鼠が男と
つながったことは理解したようだ。
目が合い、驚いたような表情をする。
しかし、お互いの間を何も言わずとも意志が通じ、何を考えてい
るかが伝わってきたので、鼠は自分が男に従うべきものになったこ
とを伝えた。
男はそれを確認するようにいくつか指示をしてきたので、鼠はそ
れに忠実に従った。
と言っても、無理やり命令を聞かされている、というよりかは、
1936
上位者から頼まれているような感覚に近い。
断ろうと思えば断れるような、そんな感覚がした。
無理に聞かせることも出来るのかもしれないが、男はそんなこと
はしなかった。
そんな男の最初の指令は、この地下室を守ることで⋮⋮鼠は、部
下の鼠たちとその指令に従うことになった。
その日から、鼠の生活は大きく変わった。
男に従う存在になったことで、鼠の力は大幅に上昇した。
男が伝えてくるところによれば、鼠は男の血を受け、眷属と言う
ものになったのだという。
その結果として、存在の格が上がり、強くなっていると。
実際、意識すれば男の持つ膨大な魔力や気、聖気を感じ、それを
利用することが出来る感覚がした。
もちろん、無理に引っ張ることは出来そうもないが、男が拒否し
ない限りは出来そうだった。
鼠は、男から少しだけ力をもらい、そして、地下室を守ること、
それに加え、マルトの街の小鼠たちすべてを支配下に置くことを決
める。
それが男の目的に資する、と考えたから。
男には夢があるらしかった。
遥か高み、冒険者の最上位になること。
そのために、ありとあらゆる情報を得られるようになることが望
ましいだろう。
幸い、鼠であれば、人間の建物のどのような場所にも気づかず入
り込むことが出来る。
人の会話を聞くことも出来るし、そのことを男に伝えることも出
来る。
それだけの能力を男から与えられた。
他の鼠たちは普通のままだから変わっていないが、通常の鼠との
1937
意思疎通はその鼠が出来るので問題なかった。
たまに、冒険者の男︱︱レントという︱︱の冒険についていき、
一緒に戦いもして、戦闘の経験も詰んでいく。
巨大なタラスク、という亜竜との戦ったが、以前であれば即座に
殺されるような存在に、鼠は一矢報いることも出来た。
とどめはレントが刺したが、十分に眷属としての貢献はできたと
考えていいだろう。
無理に力を借り受けたのは申し訳ないと思うが、その程度でどう
にかなるような存在ではないと言う信頼と、まずは手下である自分
が特攻をすべきだと言う信念がそういう行為に出させた。
レントはそんな鼠を呆れたような感心したような妙な感覚で見て
いたが、最後に仕方がなさそうに撫でてくれたので、概ね悪くない
行動だったと思う。
名前ももらった。
エーデル、というものだ。
名前とは人が持つ、相手と自分とを区別する特殊な記号を言うら
しいが、それには意味もあるらしい。
レントの番の女がつけた名で、高貴なる者を意味すると言う。
なるほど、自分は鼠の中では大きな力を持つ。
これからマルトのすべての鼠を従えていくつもりで、その未来を
も予言するものなのだろう。
気に入った。
⋮⋮そんな風に、レントに従えられてから、色々なことがあって、
楽しかった。
マルトに生息する鼠たちも、三割近くは支配し、その情報網は大
きく広がった。
これから、レントに大きく貢献できる。
1938
プチ・スリ
眷属として、小鼠はレントに活路を得たのだ。
だから、頑張って可能な限り情報を集めなければ⋮⋮。
ヴァンパイア
最近のレントの関心事は、同じく冒険者のニヴ、という者、それ
に吸血鬼に関するものだった。
どちらも物騒なもので、触れるのは中々難しいようだったが、エ
ーデルにとっては違う。
手下たちをうまく使い、色々なところから話を集めて、統合して
いく。
すると、手下たちの視点に見えたものがあった。
エーデルは、いつの間にか、手下たちの視覚を、別の場所にいな
がら借りる力を得ていた。
その力を使って、迷宮に潜る、怪しげな人影。
それを追跡し、その先で、血を流す冒険者に噛み付く、ローブ姿
の何者かを見た。
﹁⋮⋮おや、覗きはよくありませんよ?﹂
そんな声が響くとともに、その者の手から火炎が噴きでて、視界
は途切れた。
それは、視覚を通して繋がっているエーデルにも衝撃が伝わって
くるほどで⋮⋮。
頭に痛みが走り、エーデルは孤児院の地下で意識を失った。
1939
第293話 小鼠︵後︶︵後書き︶
エーデルのマルト侵略についてはそのうち暇だったら書くかもしれ
ませんがここでは割愛で。笑
番扱いはエーデルの主観です。
1940
第294話 数々の秘密と方法
﹁⋮⋮つッ!?﹂
森で先日のようにカピタンと︽気︾の修行をしていると、唐突に
頭痛が走った。
別に頭痛くらいたまにあってもおかしくはなかろう、これだけ厳
しい修行をしてるんだし、という話になるかもしれないが、俺はこ
の体になってからそう言った人間的な苦しみからは完全に開放され
ているのだ。
肩コリから始まり、腰痛、筋肉痛、虫歯⋮⋮すべての苦しみが俺
の体から去った。
そんな俺に今更普通の頭痛が襲ってくる?
あり得るはずがない。
つまり、何か理由がある痛みだ。
﹁⋮⋮どうした?﹂
流石にカピタンもおかしいと思ったのだろう。
そう俺に尋ねてくる。
俺は答える。
頭痛の先、何かに繋がっているような感覚、俺を呼ぶような、非
人間的な声⋮⋮。
そこから頭痛の理由を推測して。
﹁⋮⋮たぶん、俺の使い魔に何かあったんだと思う。軽い頭痛がし
たんだ﹂
1941
﹁使い魔? あぁ、マルトに残って情報収集しているとか言う、お
モンスターテイマー
前の従魔か。しかし、従魔ってやつはこれだけ離れていてもその身
に起こったことを主に伝えられるものなのか? 知り合いの従魔師
はそこまで便利なものじゃないというようなことを昔言ってたが⋮
⋮﹂
モンスターテイマー
確かに、従魔師が従えている魔物に関してはそうだろう。
その従魔の従え方はかなりの秘密主義だが、俺のそれとは異なる
ことは容易に想像がつく。
その効果もだ。
モンスターテイマー
その気になれば、主から魔力や気を奪い取っていける従魔関係な
ど従魔師の方からしても願い下げだろう。
まぁ、絞れば防げはするが、エーデルは必要なときにだけ必要な
分、奪っていく。
少々疲労がたまっても、別に無理に止めるようなものではない。
だからいいのが⋮⋮。
どっちが主従だ、なんて心の中で突っ込んでいるのはただの軽口
だ。
モンスターテイマー
それにしても、カピタンには従魔師の知り合いまでいるわけか。
顔が広すぎる。
まぁ、それは今はいいか。
俺はカピタンの質問に答える。
モンスターテイマー
﹁俺の場合は普通の従魔師と事情が全然違うからな。関係が違うの
も当然だろう。ただ、基本的にはここまで離れていると連絡をとっ
たりは出来ない。街一つ分くらいなら何を伝えたいのかかろうじて
分かるんだけどな﹂
﹁じゃあ、その頭痛は気のせいなんじゃないのか?﹂
1942
その可能性はないではない。
けれど、俺に伝える感覚があるのだ。
さっきまで繋がり、意識を持っていたものが、なくなったという
ことを。
まさか、死んだと言うこともないだろうが⋮⋮いや、絶対にあり
えないとも言えないな。
とにかく、どうにかして無事を確認したかった。
憎らしい憎らしいと普段言ってても、やはり大切な使い魔である。
せっかく縁って主従関係になったのだ。
向こうが何が何でも俺を主として仰ぎたくない、と思っていたと
いうのならともかく、こんな形でお別れするわけ位にはいかないの
である。
俺はカピタンに言う。
﹁気のせいじゃない。ただ、どんなことがエーデルの身に降りかか
ったのかは⋮⋮マルトまでいかないと分からない﹂
﹁⋮⋮そうか。となると、マルトに帰ると言うことか?﹂
﹁あぁ。でも馬車じゃどんなに急いでも五日はかかる道のりだから
な。すぐに準備しないと⋮⋮﹂
気の修行が中途半端で非常に残念だが、こればっかりはな。
万全を期して帰ってもみればすでにお亡くなりになってしました
じゃ、エーデルも浮かばれないだろう。
そう思って、俺が村に戻る準備をしていると、カピタンが、
﹁⋮⋮別に半日程度で帰れる手段がないわけじゃないぞ﹂
1943
と言って来た。
その言葉に、俺は一つの存在が浮かぶ。
﹁転移魔法陣か?﹂
あれがマルトまで続いてるものがあるというのなら、即座に戻る
ことも出来るだろう。
同時に、もしそれが可能だとすればそれ以外にないような気もし
た。
しかし、カピタンは意外なことに首を振った。
﹁違う。もっと別の方法だ﹂
﹁別の方法?﹂
首を傾げる俺にカピタンは、
﹁とにかく、一旦村に戻った方が良いな。早く話した方がいい。急
ぐんだろう?﹂
歩きながらそう言われて、俺も慌ててついていく。
何か方法があるのなら、ぜひそれを使いたい。
エーデルの身が心配だった。
◇◆◇◆◇
﹁何? エーデルが?﹂
ロレーヌが驚いたようにそう言った。
村についてからまず、俺たちは村長の家に来たのだ。
1944
そこでロレーヌがガルブから色々と学んでいるからである。
俺たちと異なって森の中でやっていないのは、魔術とはまずは理
論から始まるもので、そこについては座学で学ぶしかないから、と
いうことらしい。
まぁ、俺やアリゼもロレーヌから初歩を学ぶときはそうだった。
魔術が高度になってもその基本は変わらないと言うことだろう。
俺はロレーヌに言う。
﹁ああ、具体的に何があったのかは分からないが、何か異常があっ
たことは間違いないと思う。こんなこと、今まで一度もなかったか
らな﹂
﹁睡眠をとっているだけ、ということはないのだな?﹂
であれば、全く繋がりが感じられないのも一応説明がつくと考え
ての言葉だが、俺は首を横に振ってこたえる。
﹁あぁ。違う。ただ普通に睡眠をとっているだけなら、頭痛なんて
ないんだ。あいつも俺の眷属になって休憩はあまりとらなくても平
気になってたみたいだが、それでも一応、習慣か一日に一、二時間
くらいは眠っていたからな。そういうときはすっと繋がりが静かに
なるような感じで⋮⋮。なんていうかな、今回は無理に引き裂かれ
た感じと言うか﹂
こればっかりはうまく説明ができない。
モンスターテイマー
こんな経験をしている人間など、中々いないからだ。
もしかしたら従魔師になら理解してもらえるのかもしれないが、
俺にはそんな知り合いはいない⋮⋮。
ロレーヌは俺の言葉に頷き、言う。
1945
﹁そういうことなら、早くマルトに戻らなければな。仲間の危機だ﹂
ペット程度の扱いかと思っていたら、結構立場は高かったようで
ある。
俺もそれくらいの認識であるので、ちょっと嬉しい。
俺も頷いて答える。
﹁ああ。そうだな﹂
﹁しかし⋮⋮馬車で戻っても五日はかかるぞ。転移魔法陣がマルト
に繋がっていればいいのだが⋮⋮まだ確認できていないし、あるか
どうか⋮⋮﹂
ロレーヌもまた、移動手段についてすぐに頭に上ったようだ。
これに対し、カピタンが言う。
﹁いや、それにはちょっとした方策がある﹂
1946
第295話 数々の秘密と村長
﹁方策? それは一体⋮⋮﹂
首を傾げるロレーヌに、カピタンが口を開く。
﹁インゴ。頼めるか?﹂
彼が声をかけたのは、俺の義理の父であり、村長でもあるインゴ・
ファイナだった。
頼めるかって⋮⋮インゴに何か出来るのか?っていうのも酷い話
だが、何も想像が出来ない。
村長だから村での権威くらいはあるだろうが、それくらいじゃな
いのか?
そんな俺の視線を理解したのか、インゴは、
﹁⋮⋮レント、私だとて、カピタンやガルブと同じ、歴史を伝える
ものだぞ。それなりにな⋮⋮﹂
と呆れたように言った。
若干の悲しみと言うか、息子に頼りになりそうもないという目で
見られている失望が見える。ちょっと申し訳ない気分になった。
別に尊敬していないと言う訳ではないのだが、ことこの場面にお
いて何か出来るとは思えなくて⋮⋮。
ちなみに、この場には今、俺とカピタン、ロレーヌにガルブしか
いない。
母ジルダは村の女性たちと井戸端会議に出かけていて、リリとフ
ァーリは狩人と薬師の修行中らしかった。
1947
指導者たるカピタンとガルブがいなくていいのかという気もする
が、狩人の方は他にもカピタンの部下たちがいるし、薬師の修行の
方は下ごしらえ的なことをしているにとどまるようで別に大丈夫と
言う話だった。
つまり、ここには事情を知る人々しかおらず、色々言っても問題
ないわけだ。
﹁︽国王︾だったっけ? でもカピタンやガルブみたいに特別な技
能を伝えられてるってわけじゃないんじゃ⋮⋮﹂
︽魔術師長︾とか︽騎士団長︾と言った分かりやすい役職を持っ
ているガルブとカピタンが魔術や戦闘技術について特別な技を伝え
られてきたのは分かる。
が、︽国王︾がそういったものを伝えられる、とは⋮⋮。
知識とか歴史とか、そういうものを他の役職持ちより沢山伝えら
れてる、とかそんなものかな、という気がしていた。
しかし、インゴは言う。
﹁確かに、気や魔術については私は使えんがな。ただ、その代わり
と言う訳ではないが、特殊な技術を伝えられている。話を聞くに、
お前たちはマルトに出来る限り早く戻りたいのだろう? そのため
に、私が伝えられてきたそれが役に立つ﹂
﹁一体それは⋮⋮?﹂
﹁見ればわかる。まぁ、それより、準備はいいのか?﹂
俺の質問に、インゴはそう尋ねて来た。
俺が、 1948
﹁もうマルトへ行けるのか?﹂
そう尋ねると、インゴは頷いて、
﹁あぁ。急いでいるんだろう。忘れ物がないように気を付けるとい
い﹂
そう答えたのだった。
◇◆◇◆◇
﹁本当にこっちでいいのか⋮⋮?﹂
森の中を歩きながら俺がそう尋ねると、インゴは答える。
﹁ああ。間違っていないぞ﹂
﹁しかし、こっちには何も⋮⋮﹂
転移魔法陣のある遺跡の方向からもずれているし、どこに向かっ
ているのかさっぱり分からない。
横を歩いているロレーヌも怪訝そうな顔だが、
﹁⋮⋮まぁ、お前の親父殿なんだ。信じるしかあるまい﹂
そんなことを言っている。
まぁ、別にインゴに俺に嘘を言う理由も意味もあるとは思えない。
だから問題ないんだろうが、全く先が読めないので不安だった⋮
⋮。
とは言え、俺たちには黙ってついていくことしかできない。
1949
仕方なく黙々と歩いていると、
﹁⋮⋮よし、ここら辺でいいだろう﹂
インゴがふと立ち止まってそう言った。
そこは、北の森の中にあって、木々が避けるように開いた広場だ
った。
たまにこういう場所はあるから別におかしくはないが、しかしこ
こで止まって一体⋮⋮。
そう思っていると、インゴが口元に指を持ってきて、
︱︱ピィーッ!
と、指笛を吹く。
﹁⋮⋮何やってるんだ?﹂
俺が首を傾げてロレーヌにそう言うと、ロレーヌは、
﹁⋮⋮まさかとは思ったが、おそらくこれは⋮⋮﹂
と何か心当たりがある様子だった。
それから、周囲をきょろきょろと見渡している。
なんだなんだ、と俺だけ首をかしげていると、突然、空から風が
吹いてきた。
﹁⋮⋮なんだ?﹂
そう思って上を見てみると、そこには⋮⋮。
1950
﹁⋮⋮竜?﹂
大きな翼を羽搏かせる竜が、そこにはいた。
しかし、俺の台詞にロレーヌが注釈を入れる。
﹁いや、あれは竜は竜でも、亜竜だ。タラスクの仲間だな⋮⋮流星
亜竜リンドブルム﹂
リンドブルム、というのはロレーヌが言った通り、亜竜の一種で
ある。
ただ、亜竜と言っても侮れる存在ではなく、倒すのにはやはりタ
ラスクと同様、冒険者ランクで言う所の金や白金級が必要になって
くる存在だ。
そんなものがなぜ⋮⋮。
そう思っていると、インゴが言う。
﹁⋮⋮︽国王︾に受け継がれたのは、リンドブルムなどを初めとし
た、普通なら手懐けることが出来ないとされる魔物を従える技術だ。
おそらくは、いざというときに︽国王︾だけでも逃げられるように
ということだろうが⋮⋮他の二人より勇ましさに欠けて申し訳ない
気分になるな﹂
モンスターテイマー
﹁つまり、父さんは、従魔師?﹂
﹁今風に言うとそうだな﹂
カピタンが知り合いの従魔師がどうこう、と言っていたが、あれ
はおそらくインゴのことを言っていたのだろう。
これだけ近くにいれば色々と聞けるよな⋮⋮。
1951
モンスターテイマー
しかし、リンドブルムを従えるか⋮⋮。
上位の亜竜なんて、従魔師が従えたなんて話は聞いたことがない。
そんなことが可能なのか⋮⋮。
俺がそんなことを思っていることが表情から理解できたのか、ロ
レーヌが、
﹁人間の従えられるのは小型の飛竜が限界と言われているが⋮⋮こ
うして実際に従えているのだから出来るとしかあるまいな﹂
そう言ってインゴとリンドブルムを見た。
インゴは地面に着地したリンドブルムの鼻先を撫でている。
リンドブルムは非常に機嫌良さそうに、インゴに頭を擦りつけて
いて、なるほど、確かに完全に従えているなと分かる様子であった。
ロレーヌは続ける。
﹁しかし、これなら確かに半日あればマルトまで戻れるな。馬車で
五日かかる距離も、空を飛べればひとっ飛びと言う奴だ。リンドブ
ルムの飛行速度は流星や雷に例えられることもあるほどであるし⋮
⋮﹂
まぁ、確かにリンドブルムに乗っていけると言うのならその通り
だろう。
心配があるとすれば、果たして俺たちが乗れるのかと言うことだ
が⋮⋮。
俺は尋ねる。
﹁父さん、そいつにマルトまで乗せてってもらう、ってことでいい
んだよな?﹂
﹁ああ。私の言うことなら聞くからな。覚悟はいいか?﹂
1952
そう尋ねたインゴに、俺たちは頷いた。
1953
第296話 数々の秘密と空駆ける亜竜
リンドブルムに乗ってマルトに行くのはいいとしてだ。
いざ乗るとなると緊張するな。
父であるインゴはすでにその背に乗って、慣れた様子でどこかか
ら取り出した手綱をかけているが⋮⋮。
﹁⋮⋮まぁ、緊張してもしょうがあるまい。完全に野生のリンドブ
ルムだと言うのなら警戒すべきだろうが⋮⋮こいつはきっちりイン
ゴ殿に従えられているのだ。問題ないだろう﹂
ロレーヌがそう言って、俺よりも先にリンドブルムに近づき、そ
れからその鱗を撫でで、その背に上っていった。
俺の百倍度胸があるな⋮⋮。
﹁レント、結構悪くない景色だぞ! 早く来い!﹂
リンドブルムの背中から俺にそう声をかけるロレーヌである。
そう言われて行かないわけにもいかず、俺はリンドブルムに近づ
く。
近くに行けば、その細かいディティールが明らかになる。
てらてらと輝く鱗、縦長に瞳孔の走った瞳、ギザギザとした歯と
牙の覗く大きな口に、蝙蝠の飛膜を巨大化し、頑強にしたような翼。
全てが巨大で、およそ人に従うような存在には思えないが、実際
にインゴはこれを手懐けているのだ。
一体どうやっているのか分からないが、古代の人間と言うのはそ
ういうことすらをも可能とする技術を持っていたと言うことなのだ
ろう。
1954
なぜ滅びたんだろうな?
分からないが⋮⋮とりあえず登らねば。
そう思ってさらに近づき、リンドブルムの肌に手をかける。
ざらっとした感触がするが、ちょうどいいデコボコ感で登りやす
い。
俺が登っている間も、リンドブルムはおとなしくしていた。
慣れているのだろう。
そして、登り切ると、確かにロレーヌの言う通り、見晴らしがよ
く見える。
いつもよりかなり高い視線になるからな。
とは言え、周りにあるのは森だけなので、そこまでの感動はない
が。
そもそもこれから空を飛ぶのだから、そっちの方がずっといい景
色だろう。
﹁よし、乗ったな。振り落とされないようにしっかりと捕まってい
ろ。急ぐからな﹂
そう言ってインゴが手綱を引っ張ると同時に、リンドブルムの翼
がバサバサと音を立てて空気を叩き始めた。
徐々に空へと昇っていく巨体。
見える景色が少しずつ高くなっていく。
森の木々の間を抜け、北の森全体が見えて来た。
遠くにハトハラーの姿も見えたところで、
﹁⋮⋮おっと、そうだった。ロレーヌ殿。このリンドブルムが下か
ら見えないように認識阻害の魔術をかけてもらえないか? 出来る
だろう?﹂
と、インゴが思いついたように言う。
1955
リンドブルムが空を飛んでいる姿くらい、稀ではあるが上を見上
げていると見なくもない光景である。
しかし、その口に手綱が噛まされていて、かつ背中に人間が数人
載っているとなればまず見ない。
もちろん、遥か上空を飛ぶリンドブルムを地上からそこまではっ
きりと見ることなど普通は出来ないが、冒険者などの中にはちょっ
と普通では考えられない技能を持つ者がある程度いるのだ。
恐ろしいほどの視力を持つくらいの者は、むしろその辺に転がっ
てると考えた方がいい。
となると、下から見てもあまり気には留められないように対策を
しておく必要がある。
これにロレーヌは、
﹁⋮⋮別に構わないが、いつもはどうしてるんだ?﹂
言いながら魔術を構成し初め、そしてすぐに完成させてしまった。
インゴはそれを確認しながら答える。
﹁滅多に乗ることはないが、必要な場合にはガルブに頼んでいる。
ガルブがロレーヌ殿なら一通りの魔術は出来ると言うことだったの
でな﹂
﹁つまり丸投げか⋮⋮あの人は⋮⋮﹂
呆れたような表情をするロレーヌだが、ガルブはもともとそんな
性格である。
﹁ま、ガルブについては気にするだけ無駄だな。あの人には村の誰
も逆らえん⋮⋮﹂
1956
村一番の権力者であるはずの村長が言うからには、本当にそうな
のだろう。
生き字引で、村の秘密を知る一人であり、強力な魔術師で、かつ
薬師でもある⋮⋮なるほど、村で逆らったらありとあらゆる意味で
終わるなという感じであった。
それから、インゴは、
﹁では、そろそろ進むぞ。空気の抵抗についてはリンドブルムが魔
力でもって防いでくれるからそれほどではないが、それでも揺れは
するからな。振り落とされないように気をつけろ﹂
そう言って、手綱を引っ張る。
すると、リンドブルムは翼を羽搏かせ、進み始めたのだった。
◇◆◇◆◇
とてつもない速度でリンドブルムは空を駆ける。
こんな光景など一度たりとも見たことがなく、感動が胸を突く。
飛空艇に乗れば見れる景色なのかもしれないが、そんなものに乗
れるような身分じゃないからな⋮⋮。
まぁ、身分というよりは財力の問題だが、そもそもいくら乗りた
いと思ってもヤーランにはない。
帝国にはあるから、ロレーヌは乗ったことがあるかもしれないが
⋮⋮。
ただ、このリンドブルムからの景色はそんなロレーヌすら感動し
ているようだ。
﹁これは、素晴らしいな。ここまでの高空を飛ぶのは通常の飛竜で
は厳しい。滅多にできない経験だ⋮⋮﹂
1957
飛竜も単体でならそれなりの高度は飛べるようだが、それでも長
い時間は飛べない。
外気温の変化に弱く、あまり高空を飛ぶと落ちるらしい。
対してリンドブルムはそう言った問題はないようだ。
さきほど、インゴが魔力によって空気抵抗をなくしてくれている、
みたいな話をしていたが、体温についてもそのような手段で解決し
ているのかもしれない。
それか、もともと気温の変化に強いとか?
その辺りについては俺は専門家ではないから何とも言えないが⋮
⋮まぁ、問題がないならいいか。
寒さもあまり感じられない。
とは言え、元々俺はちょっと色々感じにくい性質になってしまっ
ているのであれだが、ロレーヌも特に寒そうではない。
ロレーヌも冒険者であるから普通より遥かに強靭な体を持ってい
る、とも考えられなくはないが、インゴも寒そうではないし、大丈
夫と言うことだろう。
インゴは確かに村長で、リンドブルムを従える特殊な技術を持っ
ているのかもしれないが、体は普通のおっさんだからな。
身のこなしから分かる。
リンドブルムに上るときもしっかりと中年男の動きだった。
﹁半日もあればマルトに着く。それまでは景色を楽しんでくれ﹂
インゴはそう言って、手綱を強く握り、前を見据えたのだった。
1958
第297話 数々の秘密と赤
﹁⋮⋮? なんだ、あれは﹂
ロレーヌがそんな風に怪訝そうな声を上げたのは、リンドブルム
がマルトにかなり近づいた時のことだった。
ロレーヌの認識阻害魔術の効果で、ここまで全く地上の人間に見
つかることなくやってこれたわけだが、それはあたりが暗くなって
いることも大きく影響しているだろう。
認識阻害も万能ではなく、そこそこの魔術師がしっかりと注意を
向けて見れば分かってしまうこともあるものだからな。
ただ、この暗闇の中で空を見上げてその違和感に気づき、かつ高
速で飛翔するリンドブルムに焦点を合わせて看破のために魔術を行
使するのは至難の業である。
見つからなくて当然と言えた。
そんな俺たちはマルトに到着するまで気分よく空の旅を楽しんで
いられたのだが、ことここにきて、そんな気分は吹っ飛んだと言え
る。
なぜなら、声を上げたロレーヌの目を向けた方向、そちらには、
ライト
夜にも関わらず、煌々と輝く都市の姿があったからだ。
魔法灯の力でもって光り輝いているわけではない。
ライト
あの色はそんなものではない。
魔法灯の灯りは、もっと暖かで色素の薄いものだ。
そうではなく、マルトは今、赤に近い朱色に輝いていた。
あれは明らかに⋮⋮。
﹁燃えている⋮⋮!?﹂
1959
そう、それは、燃え盛る火炎の色だった。
と言っても、マルト全てが、と言う訳ではない。
ところどころから火の手が上がっている、というくらいだろう。
しかしそれでもその数はかなり多い。
マルトの建物はレンガ造りや石造りのものが多いが、木造のもの
もそれなりにあり、放置しておけば都市全体に広がりそうなほどで
あった。
おそらく、今マルトでは水属性魔術を使える魔術師たちが魔力回
復薬を握り締めて走り回っているところだろう。
﹁一体何が起こっているんだ⋮⋮?﹂
俺がそう言うと、ロレーヌは首を横に振る。
﹁分からないが⋮⋮とにかく、消火活動には協力せねばなるまい。
レント、お前は水属性魔術は大して使えないから、街で情報収集を
してくれ。こうなると、エーデルの行方が分からないことも何かあ
ってのことだと考えざるを得ない﹂
全く水属性魔術を使えないと言う訳ではないが、消火活動に使え
るほどこなれているかと言われるとそれは全くだと言う話になる俺
である。
消火活動はよくわかっていない素人が余計なことをすると却って
酷いことになるからな。
俺には協力するのは難しいだろう。
その点、ロレーヌは十分な実力を持つ魔術師であるし、こういう
ときの振る舞いもよくわかっているはずだ。
その役割分担は正しい。
エーデルについてもロレーヌの言う通りだ。
1960
ただ、眠っているだけ、ということは流石にないとしても、それ
ほど大きな問題に巻き込まれたと言う訳ではなく、少し無理をして
気絶した、くらいの可能性は考えられなくもなかった。
けれど、彼の様子を見に戻って来たらこの有様である。
エーデルが何らかの問題に巻き込まれている可能性はかなり高い
と考えた方が良いだろう。
事情も知っているかもしれず、彼を出来る限り探す必要がある。
幸い、ここまで近づいて微弱ながらエーデルの気配は感じつつあ
る。
死んでいると言う訳ではなさそうで、とりあえずその点は安心で
きそうだ。
﹁そうだな⋮⋮分かった。父さん、マルトの近くに降りられるか?﹂
俺がそうインゴに尋ねると、
﹁ああ。ただ、あまり近くに降りるとこの様子だと色々と勘繰られ
る可能性があるからな⋮⋮あのあたりでいいか?﹂
と、マルト近くにある森の中を示される。
確かに、認識疎外をかけているとはいえ、空と地上と言う距離で
はなくなれば看破される可能性は高くなる。
そしてこんな状況の中で、リンドブルムなどという存在に乗って
現れてきたと知れれば、色々と問題視され、怪しまれる可能性も高
いだろう。
幸い、マルトまでは十分もあればつきそうな距離であり、問題は
なさそうなので、俺たちは頷く。
﹁頼んだ!﹂
1961
そう言うとインゴは頷いて、リンドブルムの手綱を強く引いたの
だった。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮私も何か手伝えればいいのだが⋮⋮﹂
リンドブルムから俺とロレーヌが降りていると、インゴが申し訳
なさそうにそう言った。
しかし、別にいいのだ。
﹁父さんはここまで連れてきてくれたろ。それで十分だ。それに何
が起こってるのかよくわからないからな⋮⋮手伝うと言っても、何
が何やら⋮⋮﹂
モンスターテイマー
それが正直な気持ちであった。
そもそも能力的にも従魔師としては大したものかもしれないイン
ゴだが、戦闘技能とか身のこなしとかは普通の中年親父である。
そんな彼に今の燃え盛るマルトの中で活動させては死ぬ可能性も
ある。
得難い能力を持つ彼に、そんな危険を踏ませる意味はないだろう。
ガルブかカピタンを連れてくればよかったな、と思うが今更な話
でもある。
﹁⋮⋮そうか。まぁ、落ち着いたら村に戻ってくるといい。私はこ
のまま戻ることにしよう﹂
インゴがそう言った。
ここにこれ以上いても特に何もすることがないのだからそうした
方が良いだろう。
1962
下手に残って見つかってはまずいからな。
それに俺とロレーヌも頷く。
また、ロレーヌはリンドブルムに認識疎外をもう一度かけた。
一度かければ看破されない限りはある程度の時間持つとはいえ、
ここまで来るのにそれなりの時間がかかっている。
一応、そうした方がいいだろうという配慮だった。
インゴは、
﹁ロレーヌ殿、すまない﹂
と頭を下げる。
﹁いや、構いません。それでは、村の方々によろしく﹂
﹁ああ、貴女も⋮⋮息子をよろしくお願いします﹂
﹁もちろん﹂
ロレーヌがそう言って頷いたので、俺は、
﹁別に俺は子供じゃないんだが⋮⋮﹂
と横で言ったのだが、二人に怪訝な目を向けられた。
そんなに子供っぽいか、俺は。
﹁⋮⋮それはともかく、マルトに急ごう﹂
ロレーヌがそう言ったので、俺もそれには頷き、
﹁ああ、そうだな。それじゃあな、父さん﹂
1963
と手を挙げると、インゴの方も頷いて、
﹁あぁ。死ぬなよ﹂
そう言って、リンドブルムと共に空に飛びあがった。
それを確認して、俺とロレーヌはマルトに向かって走り出す。
一体何が起こっているのか。
とりあえずはそれを確認しなければと思いながら。
1964
第298話 数々の秘密とマルトの状況
マルトに入ると、そこは阿鼻叫喚だった。
火炎の熱が街をあぶっている。
俺たちに向かって熱風が吹き付け、その中を街の人々が走り回っ
ていた。
﹁おい、何があった!?﹂
逃げ惑う人々の中から、屈強そうな男を選んでそう尋ねてみるも、
﹁あぁ!? 知るかよ! 気づいたら街が燃えてたんだ! 冒険者
の奴らがさっきからそこら中走り回ってるからそいつらのが詳しい
んじゃねぇのか!?﹂
そう叫び返されて腕を振り払われた。
どうやら街の一般人にとっては唐突に起きた災難、という認識ら
しいな。
﹁とりあえず、冒険者を探そう。消火活動をしてる奴がいるはずだ﹂
ロレーヌがそう言って走り出したので、俺もそれに頷いてついて
いく。
◇◆◇◆◇
﹁水を出せ! こっちだ! 延焼するぞ!﹂
1965
火炎の激しい区画に進むと、やっと冒険者と思しい一団を発見す
る。
指示を出し、また水属性魔術を放っているところから見ると消火
活動をしている魔術師たちのようで、やっと事情が聞けそうだと安
心する。
﹁おい!﹂
﹁なんだ!? 忙しい! 話しかけるな!﹂
怒号が即座に帰ってくるも、これくらいは俺にしろロレーヌしろ
慣れっこである。
冒険者ってみんな殺気立ってるときはこんなもんだからな。
びびるようならやっていけない。
﹁俺たちは冒険者だ! こっちは魔術師で、消火活動にも加われる
! 簡単な説明をくれ!﹂
そう言うと、あからさまに視線の性質が変わり、
﹁今はどこも手が回ってねぇ状況だ! ここは俺たちでなんとかで
きるから、消火に加わるなら正門近くを頼む! あの辺が落ちたら
避難も出来ねぇ! それと状況だが、魔物だ。魔物が火をつけた!﹂
﹁魔物?﹂
ギルド
﹁ああ、詳しく知りたいなら冒険者組合に行け。その辺の対策もあ
っちでやってるはずだ⋮⋮おい! そっちじゃねぇ! もっと右に
水をやれ!﹂
1966
流石にこれ以上は邪魔だろう。
俺はロレーヌと顔を見合わせ、
﹁すまなかった。ありがとう!﹂
ギルド
答えてくれた男にそう言って、別方向に走り出す。
俺が向かう場所は冒険者組合だ。
ロレーヌはもちろん、正門だ。
確かにあのあたりには魔術師はあまりいなかったからな。
火の手があまり上がっていなかったと言うのもあるが、徐々に火
炎が大きくなり始めているから心配だと言うことだろう。 ロレーヌがいればなんとか守り切れるはずだ。
俺はしっかりと状況を把握することに勤めよう。
◇◆◇◆◇
ギルド
﹁まだ見つからねぇのか!?﹂
ギルドマスター
冒険者組合に入ると同時に、そんな怒号が聞こえて来た。
声の主は、言わずと知れたマルト冒険者組合長ウルフ・ヘルマン
である。
珍しく一階で周囲を冒険者組合職員に囲まれながら指示を飛ばし
ているようだ。
慌ただしく冒険者たちが出入りしており、緊急事態なのは間違い
なく分かるが⋮⋮。
﹁ウルフ!﹂
俺がそう言って駆け寄ると、ウルフは驚いた顔で俺を見つめ、
1967
﹁レント! お前⋮⋮ちょうどいいところに来た。ちょっとこっち
に来い!﹂
ギルドマスター
と言って思い切り引っ張られる。
どこに向かうのかと思えば、冒険者組合長の執務室だった。
扉の外に誰もいないことを確認した上で、ばたり、と扉を閉めて、
部屋の端っこで俺に向かってウルフは耳打ちするように言う。
﹁⋮⋮おい、今回の、お前は関係ねぇよな?﹂
そう言ってきたので、首をかしげて、
﹁何の話だよ? 俺はたった今ここに戻ってきて面食らってるんだ
ぞ! 状況を説明してくれ!﹂
そう言い返すと、ウルフは安心したように頷いて、言った。
ギルド
ヴァンパイア
ヴァンパイア
﹁ああ⋮⋮そうだな。と言っても、冒険者組合の方でも細かく把握
できてるわけじゃねぇんだが⋮⋮吸血鬼だ。吸血鬼の群れが今、こ
の街で暴れまわってる。町全体に火をつけながら、な﹂
それを聞いて、俺は驚いた。
ヴァンパイア
そしてウルフの言葉の意味も理解した。
俺が関係ない、というのは、俺と言う吸血鬼が何か関係していな
いのか、という意味だったのだ。
もちろん、何の関係もないが、そんなこと分かるのは俺だけだ。
それなのに、俺の自己申告を信じてくれたらしいことに感謝の念
が湧き出てくる。
まぁ、そうはいっても完全に可能性を排除したわけではないだろ
うが、とりあえず説明する気にはなってくれているのだから問題な
1968
い。
一応、俺も自分の潔白について言及しながら色々と尋ねる。
ヴァンパイア
﹁吸血鬼って⋮⋮街で確認したのか? もちろん、俺は関係ないぞ﹂
ヴァンパイア
﹁まぁ、お前がこんなことしても何か得があるとも思えねぇしな。
しき
それはいいんだが⋮⋮吸血鬼だが、確認できているのは最下級種だ
けよ。つまりは、屍鬼だ。今のところ見つかってるのは十体前後だ
しき
ヴァンパイア
が、この調子だと百体単位でいるかもしれねぇ。一体どこに隠して
たんだか﹂
しき
屍鬼か。
ヴァンパイア
ちょっと前まで俺はそれだったわけだが、一般的に屍鬼は吸血鬼
グール
に通常の人間が血を吸われ、かつその際に吸血鬼の血を少量与えら
れると変異する存在だ。
見た目は朽ちた人間そのもの⋮⋮屍食鬼よりかは上等な見た目だ
が、以前の俺の姿を想像すれば分かるが、普通の人間と比べればど
う見ても死体でしかない。
﹁そいつらが火をつけてたのか?﹂
﹁ああ。そこら中にな。といっても、最初は人間にしか見えなかっ
た。魔術で顔だけ擬態してたようでな。体の方は長袖を着てればほ
レッサーヴァンパイア
ぼ分からん。いつから街に紛れれたか⋮⋮考えるだけで恐ろしいこ
とだ﹂
しき
﹁屍鬼なら、下級吸血鬼と違って、血もそれほどいらないか⋮⋮﹂
﹁そうだな。一応、血も飲むようだが、基本的にあいつらは悪食だ。
犬だろうが猫だろうが虫だろうが死体だろうが食っちまう。結果、
1969
ヴァンパイア
レッサーヴァンパイア
一番街で増えやすい吸血鬼系統の魔物だ。下級吸血鬼であればかな
りの血を必要とするから増えればすぐに分かるんだがな⋮⋮﹂
しき
低級であることが必ずしもデメリットにはならないという例であ
ろう。
しき
とは言え、それは屍鬼にとっての話で、俺たちにとっては最悪の
デメリットであるが。
ギルド
ヴァンパイア
﹁ともかくだ。冒険者組合としては今、総出で屍鬼と、おそらくは
それを作り出した吸血鬼がこの街にいると仮定して大捜索を行って
いる。お前も参加しろ﹂
1970
第299話 数々の秘密と街への思い
﹁それは構わないが⋮⋮いいのか?﹂
俺は言って来たウルフに逆に尋ねる。
﹁何がだ?﹂
ウルフが首を傾げたので、俺は素直に言う。
ヴァンパイア
﹁俺は⋮⋮知っての通り、吸血鬼だぞ。確かに今回の騒動は俺が起
こしたわけじゃないが、それでも、もしかしたら向こうの味方をす
るかもしれない、とか思わないのか?﹂
普通ならする危惧だろう。
そう思っての質問だった。
しかしウルフは、
﹁まぁ、その可能性はゼロじゃないかもな﹂
﹁だったら⋮⋮﹂
﹁しかし俺から見れば、ゼロだ﹂
﹁え?﹂
即座に返答され、首を傾げる俺に、ウルフは呆れたように言った。
1971
ギルド
﹁お前、俺がなんでお前を冒険者組合職員に引き入れようとしてい
たかもう忘れたのか? 簡単に言や、お前の、冒険者たちや、この
街に対する努力や献身を買って、そうしようとしたんだぞ。お前が
この街、マルトと、そしてここに住んでる人々と、どれだけしっか
り付き合って来たかも分かってるってことだ。そのお前が、こんな
⋮⋮ただ街を破壊しようとしている奴らなんかに、たとえ同族だろ
うと協力するなんてわきゃねぇ。それくらい、簡単に分かる。そう
だろ?﹂
その言葉に、俺は少し驚く。
買ってくれているとは感じていたが、そこまでしっかり見てくれ
ていたとは思わなかったからだ。
ギルドマスター
自己評価が低いのかな、俺⋮⋮。
いやいや、普通冒険者組合長がそこまで細かく冒険者一人一人を
見たりはしないだろう。
ウルフが特殊なだけである。
とは言え、彼の言っていることは正しい。
今のマルトの状況を見て、俺が何を感じているかと言えば、純粋
な腹立ちだ。
せっかく田舎国家の辺境とは言え、平和に楽しく生きていたマル
トの人々。
その生活を、おそらくは自分勝手な理由で滅茶苦茶にされつつあ
るのだ。
俺はこの街も、この街の冒険者も、この街の人々も好きだ。
それをこんな風にされて、怒らないわけがない。
だから、俺はウルフに頷く。
﹁⋮⋮全く、その通りだな。分かった。捜索に加わってくるよ。た
だ、探す場所は自分で決めていいか?﹂
1972
ギルド
ギル
こう尋ねたのは、大体こういう場合は捜索する区画を冒険者組合
が管理して効率的にやるものだからだ。
ドマスター
ヴァンパ
そうしない場合もあるが、ウルフはこれで有能かつ合理的な冒険
者組合長である。
効率重視で作戦を組んでいるはずだった。
これにウルフは、
﹁別に構わねぇが⋮⋮何かあてがあるのか?﹂
と即座に否定せずに尋ねて来た。
俺は答える。
イア
﹁ああ、ちょっと伝手と言うか、あてがな。それに俺はこれで吸血
鬼だ。下手に他の冒険者と行動して、疑われるのもまずい﹂
﹁そうだな、その心配もあったか。ま、お前なら大丈夫だと思うが、
気をつけろよ。じゃ、行って来い!﹂
そう言われて、俺は執務室を飛び出し、街へと走り出した。
◇◆◇◆◇
ギルド
冒険者組合を出て、俺は街中を走る。
とりあえずの目的地は決まっている。
街の状況が極めて切迫していたのでとりあえずの状況把握を先に
したが、俺が戻って来た目的は第一にエーデルなのだ。
そのため、彼のところに行くのが先だ。
後回しにしたのは、その生存がはっきりしたこと、そしている場
所も含めて少しくらい放置しても大丈夫だろうと判断したからだ。
1973
アンデッド
そもそも、俺とエーデルは普通の魔物とは違う。
不死者に足を踏み入れたため、体が欠損しようが何だろうが、頭
さえある程度無事なら問題なく再生できる。
頭が吹っ飛んだ場合どうなるかはちょっと試すのが恐ろしいので
分からないが、それでも時間さえかければ何とかできるのではない
だろうか?
まぁ、試す気なんてないけどな。
さて、それでどこに向かっているかだが、マルト第二孤児院であ
る。
アリゼとリリアン、それに孤児たちのいるところであり、かつエ
ーデルの拠点でもある場所だ。
そこからエーデルの反応がある。
まだ気絶しているようだが、生きてはいるのは分かるのでまぁ、
そういう意味では大丈夫だろう。
アリゼやリリアン、孤児たちの無事も気になる。
俺は急いで街中を走る。
そして、俺は孤児院に辿り着く。
ここまでの道のりで逃げ惑う人々は見たし、倒れて来た建材なん
ヴァンパイア
しき
かに危なく押しつぶされそうになっていた者や、がれきの中で苦し
んでいた人などもささっと助けてきたが、肝心の吸血鬼や屍鬼の姿
は見なかった。
ちなみに、人助けに大して時間はかかっていない。
ヴァンパイア
やっぱりこの体だとものをどけるのにも避けるのもかなり簡単に
できるからな。
昔だったら考えられなかった。
しき
それだけ身体能力が変わっている以上、嗅覚など五感で吸血鬼や
屍鬼を発見できるのではないか、と思っていたが、どうやらそれは
厳しいらしい。
1974
やはり、ウルフが語っていたように、魔術による隠匿がなされて
いるのだろう。
見た目だけでなく、匂いにも気を遣っているのだろうな。
しき
俺の場合かなりからっからに乾いていたからそれほどでもなかっ
たらしいが、屍鬼の湿り具合はなんというか千差万別だから⋮⋮。
十分な栄養をとってないと匂いがやばいらしいと言われているが、
そこまで試さなかったので本当かどうかは謎だ。
ま、それはいい。
ともかく、孤児院だ。
今回ばかりは悠長にノッカーを叩いている暇のなく、扉を乱暴に
開け放って俺は中に入った。
すると、
﹁レント!?﹂
ワンド
即座にアリゼの顔が目に入る。
出入り口で短杖を構えてこちらに向けているのは、彼女なりに孤
児院を守ろうとしているからなのだろう。
隣には槍を構えるリリアンの姿がある。
ぽっちゃりした中年女性だが、その腰の入り方には堂に入ったも
のがある。
⋮⋮もしかして相当な研鑽があるのだろうか?
病気だった時は穏やかに横になっていたからそういった凄味も感
じられなかったが、今の姿を見るとその可能性が高そうだな、と思
う。
﹁アリゼにリリアン殿。無事でしたか﹂
1975
俺がそう言うと、アリゼが駆け寄ってきて俺の腰のあたりにしが
みつく。
﹁⋮⋮怖かった﹂
そういうアリゼの頭をなでると、リリアンも近づいてきて、
しき
しき
﹁⋮⋮屍鬼が現れたとの情報が伝わって来たもので、籠城していた
のです。私も聖術使いですので、本来でしたら屍鬼狩りに打って出
るべきなのでしょうが、孤児たちがおりますので⋮⋮﹂
そう言った。
1976
第300話 数々の秘密と一瞬の記憶
リリアンがどのくらいの実力者かは正確には俺も知らないが、聖
気をそれなりに持っていることは間違いないし、先ほど見た構えも
しき
確かな研鑽の感じられるものだ。
打って出れば屍鬼と相対しても十分に戦えるかもしれないが、し
かし今回の場合は少し毛色が違ってくるだろう。
なぜなら、
﹁いえ、仮に子供たちが大丈夫でも、やめた方がいいと思います﹂
﹁それはなぜ⋮⋮?﹂
しき
﹁どこまでお聞きになっているのか分かりませんが、今回出現した
屍鬼は人に擬態しているようで、そうそう簡単には発見できないよ
うなので﹂
この事実がなければ、聖術使いを各宗派にガンガン出してもらっ
て退治に、というのも考えられただろうが、どこにいるか分からな
い以上、冒険者が人海戦術で探してタコ殴りにした方が効率がいい。
そもそも、聖術使いも色々だからな。
リリアンのように武術も収めていて十分に魔物と戦える、という
タイプはむしろ少数派で、街々を回って聖気による祝福をするだけ
が仕事で、戦闘に関しては護衛に丸投げ、という方が多いはずだ。
そうなると、流石にこの混乱した状況の中、街中に打って出ろと
は言えない。
聖者・聖女たちをみすみすこの街で何人も失ったら後も怖いだろ
うし。
1977
﹁擬態ですか⋮⋮聖術で見破るわけには⋮⋮﹂
しき
﹁どの程度のことが聖術に出来るのか私には正確なところは分かり
かねるのですが、数多くの街人の中から一体の屍鬼を発見すること
が可能なのですか?﹂
それが出来るのであれば、確かにやってもらいたくはある。
それか、やり方を教えてもらってもいい。簡単なら俺がやるとい
う方法もあるからだ。
しかしリリアンは、
﹁⋮⋮そこまで規模の大きいことは難しいですね。出来ないとは言
いませんが、消耗が激しいです。一人ひとり探すとなるとこれはも
う⋮⋮やはり、私に出来ることは少ないようです﹂
そう言った。
まぁ、結局、今冒険者たちがやっている捜索の方が効率が良さそ
うだ。
確実性と言う意味ではいいかもしれないが、緊急事態と言うこと
で服を剥ぎ取ればいいわけだから無理に出てもらう必要もない。
彼女にはこの孤児院の責任者として守るべきものもあるからな。
﹁そのようですね。孤児たちはみんな無事ですか?﹂
﹁ええ、アリゼも学んだ魔術で防衛を買って出てくれましたが、今
のところ孤児院に侵入者などはありませんので﹂
﹁そうですか⋮⋮ちなみに、地下の様子はご存知ですか?﹂
1978
なぜそんなことを聞いているのかと言えば、そこにエーデルがい
プチ・スリ
るからだ。
あの小鼠がこの孤児院の地下を塒にしていることは二人とも分か
っている。
これにはアリゼがしがみついたままの顔を上げて答えた。
﹁エーデルのこと? そう言えば、出てきてないね。こういうとき
は真っ先に這い出して他の鼠と話してそうなのに﹂
エーデルの鼠連絡網は結構広く、頻繁に鼠同士連絡を取り合えっ
ているのは知っている。
だからこそ、こういうときこそその出番のような気がするが、そ
れにもかかわらず出てこないのは確かにおかしい。
俺は、
﹁とりあえず、地下室に行ってみます。二人は⋮⋮奥にいた方がい
いと思います。何かあったら、叫んでください。すぐにかけつける
ので﹂
そう言って、地下室に向かった。
◇◆◇◆◇
﹁おい、エーデル!﹂
叫びながら地下室に入ると、それと同時に足元に鼠が五匹ほど殺
到した。
見れば、それはエーデルが一番最初に出会った頃に引き連れてい
た子分鼠たちである。
エーデルの手下だからか、俺の力が少しは影響を与えているのか、
1979
プチ・スリ
他の小鼠より若干賢く、人語や人の感情をある程度理解している。
そんな彼らが、俺に集まって来たのだ。
やはり、何かあったようだ、と分かる。
﹁⋮⋮エーデルは?﹂
そう尋ねると、五匹のうちの一匹が、地下室の端の方に向かって
歩き出した。
案内と言うことのようである。
それほど広くはないが、色々と物資が積み上げられているので少
し入り組んでいるのだ。
プチ・スリ
俺がそう言った荷物を避けながら案内についていくと、地下室の
端の方で倒れ込む、一匹の黒い小鼠の姿が目に入った。
エーデルだ。
﹁おい!﹂
慌てて駆け寄り、触れてみる。
死んでいるかのように見えるが、生きていることははっきりして
いる。
ただ、どのような状態かは問題だった。
アンデッド
触れてみると、問題なく息をしており、怪我も特に見られない。
⋮⋮まぁ、俺たち不死者に呼吸がどれだけ意味があるのかどうか
は疑問だ。
俺が息してるのだって、どっちかというと擬態みたいなもんだか
らな。
余裕がなくなると呼吸しなくなっている自分にたまに気づくので、
その意味でエーデルにはまだ余裕があるということは分かるのだが。
つまり、ただ気絶しているだけのようだった。
これなら、無理やり起こしても問題ないだろうと、俺はエーデル
1980
に魔力と気を流し込む。
どちらも大分目減りしている様子だったからだ。
あまり離れすぎていたから、補給が厳しかったのだろうか⋮⋮。
分からないが、起きたら事情を⋮⋮。
そう思っていると、
﹁⋮⋮ヂュッ!?﹂
と、エーデルは唐突に目をかっと開き、起き上がった。
それからきょろきょろと警戒するように周りを見て、俺を発見す
ると、ほっとしたような雰囲気で、体の力を抜いた。
やはり、何か特別なことがあったようだ。
そんな風に警戒しなければならないような⋮⋮。
しかし一体何が?
そんな俺の思考を、繋がりを通して読み取ったのだろう。
エーデルが意思と、映像を伝えてくる。
彼が見たものが俺の頭の中に鮮明に流れて来た。
⋮⋮なんだか出来ることがどんどん増えているな。
前はここまでできなかったような気がするが⋮⋮まぁ、いいか。
使い魔が優秀であるのはありがたい話であるし。
﹁これは⋮⋮迷宮の中、か? ︽水月の迷宮︾⋮⋮じゃないな。︽
新月の迷宮︾か﹂
プチ・スリ
おそらくは、エーデルの支配する小鼠の視点の映像なのだろう。
エーデルの動きより、拙く、鈍い。また、あまり賢い動きではな
いと言うか、鼠っぽい動きだ。
あっちいったりこっちいったりという。
しかし、確かに進んでいる。
そして、その映像がぱっと、一人の人物の姿を映した。
1981
それだけなら別にいいのだが、その人物は、冒険者の首筋に噛み
付き、その口元から血を滴らせていた。
それを発見した直後、
﹁⋮⋮おや、覗きはよくありませんよ?﹂
という声と共に男は火炎を放ってきて、映像は暗くなる。
おそらく、これを伝えてくれた鼠は死んでしまったのだろう。
可哀想に。
エーデルの怒りも伝わってくる。
仲間を殺された怒りだ。
ヴァンパイア
それにしても、一体今のは⋮⋮何者だ?
吸血鬼であるのは分かる。
あれは血を吸っているところで間違いないのだから。
ヴァンパイア
しかし、知り合いではないな。
実際のところ、俺は吸血鬼ではないか、と疑っていた人物が何人
かいたのだが、その誰でもない。
ただ⋮⋮。
﹁見覚えがあるような⋮⋮声もどこかで聞いた気がする⋮⋮﹂
と考えて、あっ、と思う。
そうだ。
一瞬の記憶だったが、しかし、覚えている。
オーク
あれは以前、俺が︽新月の迷宮︾に潜った時のことだ。
豚鬼を狩って、迷宮を出るときに、すれ違った奴がいた。
あの時の人物の声が、まさに今聞いた声と同じだった。
1982
第300話 数々の秘密と一瞬の記憶︵後書き︶
覚えている人がいたらちょっと超能力者なんじゃないかと思います
⋮⋮。
レントが誰を疑っていたかは内緒で。
ところでついに三百話に到達しました。
文字数もあと十万字で百万字の大台に。
結構遠くまで来たなと言う感じです。
実際には文字数で見ると話数程大したことないのですが、読者の方
からすると長いなと言う感じかなと思います。
ですので、ここまで読んでくれた皆さま、本当にありがとうござい
ます。
これからも一生懸命書いていきますので、見捨てないでください。
またここまでの評価・感想などいただけると嬉しいなとも思います。
どうぞこれからもよろしくお願いします。
1983
第301話 数々の秘密と方針
その人物のことを思い出し、あんなに以前からマルトの中にいた
のか、と思うと同時に、確かにあの頃から新人冒険者の失踪が起こ
り始めたこともあり納得が胸に広がる。
会った場所も︽新月の迷宮︾であったし、すれ違ったのは、後に
一緒に銅級冒険者試験を受けることとなった駆け出し冒険者、ライ
ズとローラが魔物と戦っているすぐ近くだった。
偶然近くを通り過ぎただけと思ってたが、あの人物の正体も考え
ると⋮⋮本当はライズとローラも狙っていたのかもしれない。
そこを俺が通ったために、あとでことが露見することを恐れて、
やめたとか⋮⋮。
ヴァンパイア
だとすればライズとローラは運が良かったのかもしれないな。 ともかく、これで街にいる吸血鬼、そしておそらくは新人冒険者
ギルド
を襲撃していた犯人が分かった。
冒険者組合に報告するべきだろう。
ただ、居場所は⋮⋮。
今もまだ︽新月の迷宮︾にいるのかな?
そう、エーデルにつながりを通して尋ねると、エーデルからは、
分からない、と返って来た。
たった今、見せられた映像、それを最後に見失ってしまっている
ということらしい。
まぁ、エーデルも視覚をつなげた先の鼠がやられたときの衝撃で
気を失っていたわけだから、分からないのも当然と言えば当然であ
る。
ヴァンパイア
しかしそうなると⋮⋮どうしたものか。
いきなり︽新月の迷宮︾に吸血鬼がいます!
1984
などと言ったところで怪しい話だ。
それに、今もいるかどうかは分からない。
何か説得力が欲しいところだが⋮⋮。
そう思って悩んでいると、
しき
﹁⋮⋮ん? 屍鬼たちの所在ならかなり把握している?﹂
そう、エーデルから伝わってくる。
曰く、街の中にいる鼠たちから各地で奇妙な行動⋮⋮放火やら徘
しき
徊やらをしている人物の様子が伝わってきているらしく、おそらく
プチ・スリ
は屍鬼であろうとのことだった。
エーデルの手下である小鼠は、エーデルのように特殊な強化が施
されているわけでもないから、戦って倒すことは出来ないものの、
監視するくらいはお手の物と言うことのようだ。
しき
うーん、そういうことなら⋮⋮。
ヴァンパイア
しき
まずは、街中の屍鬼を掃討するのを先にした方がいいかもしれな
いな。
いくら吸血鬼が屍鬼を増やせる能力を有しているとはいえ、いく
らでも簡単に、というわけにはいかない。
饅頭づくりとはわけが違うのだ。
しき
大体饅頭づくりだってそれなりの手間暇がいるのである。
屍鬼なんて魔物を増やすのにも結構な手間が必要だ。
まず材料に人間が必要だし、そこから血を吸い取った上で、自分
しき
の血を分けてやらねばならない。
それで即座に屍鬼になる、というわけではなく、ある程度、時間
を置く必要もある。
熟成である。
⋮⋮冗談だ。
しかし、人の身から魔物の身へと変化するために、本当に時間を
1985
しき
置かなければ屍鬼にはならない。
怪しげな死体があったら速攻燃やすべきだ、と言われることがあ
ヴァンパイア
しき
るが、それはそういう事情があるからだ。
ヴァンパイア
いくら吸血鬼から屍鬼に変化させられている途中とは言え、燃や
し尽くせば流石に消滅するからな。
しき
ただ、そうはいっても例外はあって、それなりに吸血鬼側が負担
ヴァンパイア
を負えば、短時間で完成する即席屍鬼も作れるようだが、その場合
は吸血鬼の力が目減りするようである。
魔力の問題なのか、血の問題なのか、その辺は分からないが⋮⋮
しき
まぁ、それはあまり気にしなくてもいいということだ。
今回、ウルフが言ったように百体近く屍鬼がいるかも、というの
は今作っているというわけではなく、長い時間を駆けて作り、そし
て隠してきたのだろうという意味である。
時間がかかる、と言っても五分十分で出来ないと言うだけで、何
しき
ヴァンパイア
日何週間と言う時間があれば、百体くらい作ることは決して不可能
ではないのだ。
﹁よし、じゃあ屍鬼狩りから始めるか⋮⋮ただ、その吸血鬼が︽新
月の迷宮︾を出て、街に戻っている可能性もあるからな。もしそれ
らしき人物を見つけたら、そっちを優先するぞ﹂
エーデルにそう言うと、肯定の返事が返ってくる。
いつもながらに頼もしいと言うか、非常に便利と言うか⋮⋮。
あぁ、あとそれに加えて、
しき
﹁孤児院の方も見張っておいてもらえるか? 屍鬼がやってきたら、
すぐにリリアン殿とアリゼに伝えられるように﹂
そう言うと、当然だ、と言う意思が返ってくる。
これで、当面の心配はなくなったかな⋮⋮。
1986
しき
安心して屍鬼狩りに迎える。
まぁ、その前に、リリアンとアリゼにエーデルの手下たちが孤児
院を見張っていることを伝えようか。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮そうですか。それは非常に助かりますわ。ありがとうござい
ます﹂
リリアンにエーデルの手下たちの見張りについて伝えると、そう
言われる。
リリアンは続けて、
﹁しかし、従魔をそのように使われて大丈夫なのでしょうか? 私
も詳しくはありませんが、あまり沢山の魔物は従えられないと聞い
たことがありますが⋮⋮﹂
と心配を口にした。
しき
エーデルたちが仕事をしない心配と言う訳ではなく、孤児院の監
視の方に人手ならぬ鼠手を割いたら屍鬼探しの方に支障が出るので
はないかと言う心配だった。
しかし俺は首を振る。
﹁俺が従えていると言うより、エーデルが従えている感じですから
ね⋮⋮物凄く沢山手下がいるようで、その辺りは問題ありませんよ﹂
﹁なるほど、直接従えられる数が少なくとも、間接的に従えること
が出来ると言うことですか⋮⋮﹂
モンスターテイマー
リリアンは俺を従魔師だと思っているからか、感心したような表
1987
情である。
モンスターテイマー
俺も俺で従魔師の常識は知らないから、これが普通なのかどうか
も謎なので、一応、
﹁これは俺の秘密の一つなので、内緒にしておいてください﹂
モンスターテイマー
と言っておいた。
モンスターテイマー
実際、他の従魔師もやっていることかもしれないが、そうだとす
ると従魔師の情報収集能力がとんでもないことになるだろうからな。
しかしそんな事実はないし、これはエーデルが可能にしている特
モンスターテイマー
殊な能力と考えた方がいい。
まぁ、そのうち、従魔師の常識も仕入れた方が良いだろう。
モンスターテイマー
父さん⋮⋮インゴに聞いてもいいが、あの人もまた、一般的な常
識からは外れた存在である。
もっとまともな、というか普通の従魔師の知り合いを見つけた方
が良いな、と俺は思ったのだった。
1988
第302話 数々の秘密と炎
孤児院を出て、街中を走る。
エーデルを肩に乗せ、彼から伝わってくる指示に従い、道を選択
しき
する。
屍鬼らしき人物のところまで案内してくれているわけだ。
プチ・スリ
エーデル自身がどうやってその情報を得ているかと言えば、それ
は街中にいる小鼠の五感に︽乗っかる︾形で次々と視点を切り替え
ながら町全体を見ているらしい。
らしい、というのは俺はその情報を共有していないからそんな言
い方をしている。
やろうと思ってもかなり厳しいのだ。
ためしに少しだけ見せてもらったのだが、かなり負担がかかる。
自分でやろうという気にはならない。
対して、エーデルにとっては大した負担ではないらしい。
モンスターテイマー
主である俺より優れた能力を持っていると言うのはどうなんだろ
うなと思うが、まぁ、従魔師の従魔にしろ、使い魔にしろ、多かれ
少なかれそういうところはあるか。
従魔が飛べるからって俺の父さんが空を飛べるわけでもないから
な。
⋮⋮飛べないよな?
ただの中年親父の背中から羽が生えてきたらびっくりするぞ。
まぁ、俺がそんなようなものだけど。
ともかく、そういうところから考えると、エーデルが色々と出来
るのは別におかしくもない。
単純な個人戦闘能力なら俺の方が上であるし、その辺でつり合い
はとれているだろう。
1989
プチ・スリ
しかし、小鼠は街の至る所にいるのだな、と改めて思い知らされ
る。
プチ・スリ
しき
あまり気にしたことはなかったが、走っていると道の角や端っこ
に小鼠の姿がいつも見える。
エーデルが視覚を借りている者たちなのだろう。
これだけ色々なところに︽目︾があるのなら、確かに屍鬼探しは
たやすいだろうな⋮⋮。
﹁⋮⋮ヂュッ!﹂
しき
エーデルが、とある人だかりの前でそう鳴き声を上げる。
どうやら、最初の屍鬼がそこにいるようだ。
しかし、近付いてみると、中々に難しい状況であることが分かる。
そこは広場だったのだが、おそらくは火から逃げて来た街の人々
しき
が集まっている様子だったからだ。
沢山の人がいて、誰が屍鬼なのかパッと見では分からない。
魔術による擬態をしているのだろう、見かけでは一切区別はつか
ない。
しき
けれど、エーデルにはそれが分かっているようだった。
頭の中に、屍鬼である人物が誰か、伝わって来た。
それは広場の真ん中、噴水に腰かけている一人の男である。
髭面の、しかしどこにでもいるような壮年の男で、周囲を警戒す
るように見ているその様子は、ただ火災の脅威から逃れて来た一般
しき
人であるようにしか見えない。
これが屍鬼だ、と言われても誰も信じやしないだろうという様子
であった。
けれどエーデルは彼が確実にそうだと言っている。
そうである以上、俺がすべきことは一つだ。
﹁⋮⋮すみません﹂
1990
話しかけると、男は、
﹁なんだ? 兄ちゃん。あんたも逃げて来たのか﹂
と特に怪しいところの無い様子で返答してくる。
しき
なんか腹が立って来るな。
屍鬼なのに人間面してふざけるな、とかじゃなくて、流暢に喋っ
しき
てるところについてだ。
俺が屍鬼だったころを思い出してほしい。
死ぬほど喋りにくかったんだぞ。
それを⋮⋮くそう。
そんな気分である。
しかし、俺はそんな心の内を隠しながら尋ねる。
﹁いや、俺は冒険者だよ。街に火をつけた奴らを追って色々歩き回
ってるんだ﹂
そう言うと、男は少し、ぴくり、としたがそれでもほとんど無反
応を貫いている。
﹁へぇ、そうなのか。だったら早く見つけてくれ。俺も街をこんな
風にした奴らは許せねぇんだ。頼むよ⋮⋮﹂
おかしな返答は一つもない。
そして、だからこそ、恐ろしかった。
こんなものがそこらに潜んでいれば、人間にはほとんど見つけよ
うがない。
その結果として、今回の騒動が起こったわけだが⋮⋮。
ともかく、さっさと正体を暴いて、退治しよう。
1991
ンパイア
しき
ヴァ
その前に、うまいこと生け捕りにして、出来れば他の屍鬼や、吸
血鬼に繋がる情報を何か吐かせられないかと思うのだが⋮⋮。
俺は、男に言う。
しき
﹁ああ。そうするさ。ところで、その犯人は屍鬼みたいなんだ。悪
いけど、おじさん。あんた、その服、脱いでくれないかな?﹂
﹁⋮⋮なんでだよ。見りゃ分かるだろ。俺は人間だ﹂
しき
﹁だったらいいなとは思うけど、そうじゃないかもしれない。屍鬼
ってやつは体が腐れ落ちているから、脱いでもらえば分かるんだと
さ。さぁ﹂
し
そう言って迫ると、男は腰かけていた場所から立ち上がり、後ず
さり始めた。
﹁そんな必要はねぇ。俺は人間だ⋮⋮人間だ⋮⋮﹂
⋮⋮うーん。
き
嘘とかその場しのぎで言ってる感じではないが、しかし、男が屍
鬼なのは間違いないのだ。
俺はさらに迫ったが、男は急に走り出して、広場にいる他の人間
に手を伸ばそうとする。
これは、もう話してどうにかなる感じではなさそうだ。
俺は腰から剣を抜いて、男に切りかかろうとした。
しかし、
︱︱ボウッ!!
と、どこかから大砲を撃つような音が鳴り響き、そして次の瞬間
1992
には、男の体が燃え始める。
それは、赤くない、青白い炎だった。
これは一体⋮⋮。
そう思って、炎が放たれた方向を見てみると、そこから一人の人
物が現れる。
﹁⋮⋮おっと、これはこれは。レントさんじゃないですか! お久
しぶりですね?﹂
現れたのは、くすんだ灰色の髪に、爛々と輝く赤い瞳を持った、
凄味のある美しい女性だ。
美しいと言っても、その頭にははかなげな、という形容は絶対に
つかないタイプである。
あえて言うなら、猛禽のような、とか、肉食獣染みた、とかそん
な感じだ。
しかし、不思議なことにそうであるにもかかわらず、どこか清さ
をも感じさせる。
俺の二十五年の人生で、彼女以外に出会ったことがないタイプの
女性である。
つまりは⋮⋮。
﹁ニヴ様﹂
﹁様付けはやめてください。ニヴさんくらいでいいですよ。私たち、
冒険者の先輩後輩の仲じゃないですか﹂
確かにそうだが、なんだかあんまり距離を縮めたくないんだよな。
しかし、そう言われては断りにくい。
仕方なく、
1993
﹁⋮⋮ニヴさん。どうしてこんなところに?﹂
﹁そんなことは簡単です。今こそ私の大活躍のときじゃないですか。
こいつのようなものを、焼き尽くす時間ですよ﹂
そう言って、未だに青く燃えながら苦しんでいる男を蹴り飛ばす。
熱くないのか、と思うも、おそらくあれは普通の炎ではない。
同じく近くにいる俺にも熱さは感じられないからだ。
聖術によるものなのだろう。
ちなみに、広場にいる他の人々は、俺たちの様子を見てドン引き
している。
傍から見ればいきなり中年男を燃やした魔術師と、その魔術師と
親しげに会話している仮面とローブの怪しげな男に見えているだろ
うから、そりゃそうだという話だ。
1994
第303話 数々の秘密と屍鬼
ちなみに青白い炎だが、周りの反応から見るに普通に一般人にも
見えているのだろう。
聖炎ではなく、聖術による炎で、見せても問題ないからかな。
それにいきなり何もしていないのに男が苦しみ始めたら周囲に脅
威を与える、という配慮もある⋮⋮可能性もないではない。
ニヴがそんな配慮するとは思えないが。
しかし見えるようにしてしまっていることで別の危惧が生まれる。
一般人をただ燃やした、となれば司法騎士なんかに捕まる。
俺はそれも避けるためにわざわざ七面倒くさい問答をしていたと
いう部分もあったというのに。
一体この場をどう収拾するのか⋮⋮と思っていると、
﹁おや、この程度では致命傷にはならなかったようですね。流石は
血吸虫の眷属。頑丈だ﹂
と、その一見純粋そうに見えるくりくりとした目を燃える男に向
ける。 男は燃えながらも、俺とニヴを睨みつけていた。
⋮⋮俺は関係ないだろ。
しき
攻撃したのはニヴなんだからニヴだけ睨んでくれ。
そう思うが、まぁ、屍鬼だと分かったら攻撃していたのも事実だ。
仕方がないと言えば仕方がない。
そう思って構えると同時に、ニヴが周囲を見渡して、叫んだ。
しき
﹁⋮⋮みなさん! 突然のことで驚かれたでしょう。しかし、何を
隠そう、この男は人の中に紛れた魔物、屍鬼なのです! これだけ
1995
の火炎に包まれながら、尚も動き、私たち人間を睨みつけているの
がその、証拠! さぁ、皆さん、離れてください。私、金級冒険者
ニヴ・マリスと、その助手レント・ヴィヴィエがこの魔物を討ち滅
ぼします!﹂
⋮⋮一応、収拾の付け方も考えてはいたらしい。
何も考えていなかったのかと思ったが⋮⋮炎にしてもあえて若干
弱めにしたのかもしれない。
魔物の耐久力と言うのは人間とかけ離れているからな。
しき
ちょっとやそっと燃えたくらいで死にはしない。
しき
ただ、ニヴの放ったのは聖術系の炎であり、屍鬼の男の体を浄化
するものだ。
結果として、男の体は、屍鬼としての再生力と、聖気の浄化によ
る浸食とが拮抗して、ぼろぼろと崩れ、また再生して、を繰り返し
ているような状態にある。
これを見て流石に人間である、と主張する者はいないだろう。
周囲の人々も、男が魔物であることをやっと理解したようで、蜘
蛛の子を散らすように広場の中心部から距離をとって端の方へと逃
げていった。
ただ、完全に広場からいなくならないのは、この戦いの行く末を
見たいと言う野次馬心からだ。
しき
しき
冒険者が魔物と戦っている様子など一般人は間近で見る機会がな
ヴァンパイア
いし、それに加えて今回の相手は屍鬼である。
どこそこの街で吸血鬼の群れが見つかった、屍鬼も沢山いたみた
いで、街の人が大勢犠牲になったらしいよ、などとニュースを新聞
や世間話で聞く機会があっても、実際に目にすることはほとんどな
い魔物の一種である。
退治されるところを目に焼き付けて、後々喋るネタにしたいとい
うところだろう。
緊急事態において、たくましすぎる気もするが、辺境都市の人間
1996
など大体がそんなものだ。
勇気と暴勇、そのどちらともつかない勇敢さを持ってしまってい
る。
まぁ、それでもいざというときはしっかり逃げてくれるだろうし、
それほど心配しなくてもいいだろう。
﹁さぁ、レントさん。やりますよ﹂
ニヴが口の端をにぃと引き上げて、楽しそうに俺に言った。
﹁⋮⋮勝手に助手にしないでくれませんかね、ニヴさん⋮⋮﹂
しき
文句を言いつつ、屍鬼と相対する俺。
ニヴはそれに対して、
﹁別にいいじゃないですか。お給料を出してもいいですよ⋮⋮っと
!!﹂
しき
そう言いながら、屍鬼の男との距離を詰める。
武器は⋮⋮持っていない?
いや⋮⋮。
男との距離が縮まったところで、ニヴはその腕を振るった。
何も持っていないように見えるが、フォン、という音が聞こえる。
男はそれをしっかりと見ていたようで、飛び上がり、避けた。
がぎり、という音が鳴り、地面から火花が出る。
﹁⋮⋮鉤爪か﹂
俺がそう言うと、ニヴは、
1997
ヴァンパイア
﹁ええ。剣も普通に使うのですけどね、やっぱり、吸血鬼を殺す感
触はこの指先で楽しみたいものですから⋮⋮﹂
そう言って来た。
悪趣味にもほどがあるが、まぁ、こいつらしいと言えばこいつら
しい。
ニヴはさらに続けて、
﹁ふむ、しかし、思ったより身体能力が高めですね。比較的上位の
個体のようです。レントさん、二人で攻めましょう﹂
そう言ってきたので俺は頷く。
ニヴはこれで金級である。
ヴァンパイア
別に一人でも余裕なんだろうが、色々と考えがあるのだろう。
身体能力を見ていることから鑑みて、今回の親玉であろう吸血鬼
しき
の実力を推測しているとか。
しき
俺は剣を構え、屍鬼との距離を詰める。
すると屍鬼は驚いたような顔をしたが、しかしそれでも腕を振る
って来た。
その指先は、爪が不自然に伸びており、それこそが彼の武器なの
だろう。
しかし、俺はそれを避け、腕を落とす。
伸ばしてきた腕を切り落とすのは、至極簡単なことだった。
さらに、後ろからはニヴが迫る。
彼女の鉤爪は男の首筋を狙っており、
﹁いきますよっ⋮⋮!﹂
そう言った瞬間、目にもとまらぬ速度で振るわれた。
一瞬のあと、男の首筋に赤い一本線が入り、横にずれる。
1998
そしてぼとり、と男の首が落ちて、切れ目からどくどくとした黒
ずんだ血が流れて来た。
恐ろしいのはそれでもまだ、男の首の方は生きていて、しっかり
とニヴを睨みつけていることだろう。
体の方も、膝を突いてはいるが崩れ落ちてはいない。
恐るべき生命力⋮⋮いや、死んでいるからちょっと違うか。
良い言い方が思いつかないが、耐久力の高さは他の魔物の比では
アンデッド
ない。
不死者というだけある。
俺もこれくらいは可能なのだろうな⋮⋮そう考えるとちょっと気
持ち悪い気もする。
ヴァンパイア
ただ、こういう存在でも消滅させる方法はもちろんある。
しき
それがなければ、吸血鬼はどうやったって倒せないと言うことに
なってしまうからな。
そうはならないのだ。
しき
ニヴはとことこ歩いて、屍鬼の首を拾うと、何か呪文のようなも
のを口にした。
すると、手に持った屍鬼の首が勢いよく燃え始める。
先ほどの炎よりも強力なのだろう。
男の首は再生することなくぼろぼろと崩れていき、そして最後に
は灰になって消えていった。
首が消滅するのとほぼ同時に、体の方もさらさらと砂になって消
えていった。
しき
男が人間であればまず、起こらない現象である。
後に残されたのは、屍鬼のものと思しき魔石が一つだけ。
それを拾って、ニヴは俺に放って来た。
﹁とりあえずの報酬です。まぁまぁ高く売れるんですよ、それ﹂
1999
そんなことを言いながら。
2000
第304話 数々の秘密と大いなる逃走
しき
屍鬼の魔石。
ヴァンパイア
報酬としては確かに悪くはないだろう。
なにせ、吸血鬼系の魔物は人の中に紛れて生きることが出来ると
ヴァンパイア
し
いう特性があるため、普段からその魔石は高く引き取ってもらえる。
き
しき
その事情は、吸血鬼系統の魔物としては下級の魔物でしかない屍
鬼であっても変わらない。
ギルド
それに加え、今の状況においては、屍鬼は緊急に討伐する必要が
あると冒険者組合から通達されているため、余計に高値がついてい
る。
つまり、この魔石は今、ちょっとした宝石のような価値があるの
だった。
﹁いいのですか?﹂
俺がニヴにそう尋ねると、彼女は言う。
﹁ええ。私は別にお金が欲しくて吸血鬼狩りをしているわけではな
いですからね。倒せればそれでいいのです﹂
⋮⋮それはそれで嫌すぎないか?
ヴァンパイア
金が目的だと言われた方がなんとなくだがほっとできる。
人間的な感覚が見えてさ。
こう言われてしまうと⋮⋮吸血鬼狩りに飢えているただのヤバい
奴になってしまうじゃないか。
⋮⋮それで間違ってないのか。
2001
﹁おっと、何か失礼なことを考えていますね?﹂
﹁いえ、別に⋮⋮﹂
答えた俺を、疑わしそうな目で見るニヴであった。
その表情は、顔だけ見れば見とれるような美人なのだが、目の輝
きがな。
直視したくない何かなのだ。
それこそ飢えた魔物の血走った眼に雰囲気が似ている。
見たら死ぬ感じ。ああ嫌だ。
しかし、ふっとニヴはその目から力を抜くと、
﹁⋮⋮まぁ、いいでしょう。それより、レントさん。こんなときな
のです。ちょうど偶然出会ったことですし、私と行動を共に⋮⋮﹂
と言いかけた。
しかし、その瞬間、
﹁⋮⋮ニヴさん!﹂
とニヴの後方から声がかかる。
そちらを見てみると、走ってきているのは神官衣に身を包んだ、
銀色の髪と紫水晶の瞳を持った女性だった。
つまりは、ロベリア教の聖女、ミュリアス・ライザだ、
ニヴはその声に眉を顰めるも、すぐに微笑みを作って振り返る。
⋮⋮なんか嫌なところ見たな。仲悪いのか?
と俺は思うが、ニヴはその心の内が全く読めない。
特に意味のない表情なのかもしれないし、もしかしたら俺に何か
を誤認させたがために作った表情なのかもしれない。
あまり考えるのも危険だった。
2002
﹁おやおや、ミュリアス様。そんなに走っては聖女らしさが半減し
ますよ。貴女はただでさえ聖女っぽくない⋮⋮﹂
口に出した一言目が軽い罵倒だった。
ロベリア教は大陸でも群を抜いて巨大な宗教団体なのに、本当に
度胸がある奴だな、と俺は思う。
ミュリアスは、ニヴの言葉にイラッとした表情を一瞬のぞかせる
も、すぐに引っ込めて、
﹁もとはと言えば、貴女が突然走り出すからではないですか。一体
⋮⋮﹂
そこまで言ったところで、地面に積み上がった灰を見つけて、
﹁⋮⋮これは?﹂
と尋ねて来た。
まぁ、尋ねてきている時点で、すでにそれが何なのかは想像がつ
いているようである。
街の状況もロベリア教の聖女ならある程度掴んでいるだろうしな。
ニヴが答える。
ヴァンパイア
﹁もちろん、低級な吸血虫の成れの果てですよ。私とレントさんで
やっつけました﹂
ヴァンパイア
虫扱いは酷いが、昔からある吸血鬼に対する罵倒の一つでもある。
吸血鬼が嫌いな奴はそういう言い方をすることが少なくない。
ニヴの言葉にミュリアスは頷き、
2003
﹁なるほど⋮⋮ですから急に﹂
と納得したらしい。
ニヴは続ける。
﹁こいつは人に擬態していましてね。見た目上は酷く判別しにくか
ったのですが、レントさんが問答で少しずつ化けの皮をはいでいっ
しき
たのです。そして、人に襲い掛かろうとしたので、私が聖術による
浄化を試みました。結果、やはり屍鬼だったようで⋮⋮間一髪でし
たね、レントさん﹂
しき
⋮⋮俺が会話をしていたところを結構聞いていたようだ。
一体いつから⋮⋮。
それがあったから、ニヴは屍鬼であると判断して聖術を使ったわ
けか?
まぁ、人に襲い掛かろうとしている奴だから、急に聖術をかけて
も許されはするよな⋮⋮。
そうは思ったものの、一応尋ねておく。
しき
﹁ニヴさんは、あの男が屍鬼だといつ頃気づいたのですか?﹂
しき
﹁確信したのは⋮⋮やはり、人に襲い掛かろうとしたときですね。
ただ、この広場から屍鬼の匂いはしていましたから。鼻が利くんで
すよね、私は﹂
それが比喩的な意味なのか、物理的な意味なのかはよく分からな
いが⋮⋮そのどっちだとしてもニヴらしいと言えばらしい。
ヴァンパイア
勘で見つけ出しそうなところもあるし、俺が人血ソムリエなのと
同様に吸血鬼ソムリエだったとしても別におかしくはない。
2004
ヴァンパイア
ンパイア
ヴァ
吸血鬼の匂いを嗅ぎながら﹁うーん、これは大体三百年ものの吸
血鬼ですね! よく熟成されています。私の手にかかってお亡くな
りになる価値がありますよ!﹂とか笑顔で言っている様が頭の中で
思い浮かぶ。いやすぎる。
そんな風にドン引きしているのは俺だけではなく、ミュリアスも
同様のようで、
﹁⋮⋮左様でしたか﹂
と呆れたような顔で言っている。
ともかく、ニヴとミュリアスは今でも一緒に行動しているようだ。
俺と会った時はともかく、今はもう、ニヴの方はあんまり乗り気
しき
ではなさそうだが、その辺りは俺には関係ない話だな。
というか、もうここにいた屍鬼は倒したのだし、ニヴとは離れた
い。離れよう。
そう決めた俺は、言う。
しき
﹁さて、俺は他に屍鬼がいないか探したいので、そろそろ行きます
よ、ニヴさん、それにミュリアス様。お二人の未来に光があります
ように﹂
ロベリア教の祝詞を適当に唱えて、そそくさと広場を出るべく走
り出す。
そんな俺の背中に、
﹁あっ、レントさん! レントさーん!﹂
と、ニヴの叫び声が聞こえてくるが、無視だ。
幸い、今回はただ逃げたというわけではなく、俺、仕事ですから、
という言い訳ががっつりあるのだ。
2005
ニヴとロベリア教との関係が一体どういうものなのか、未だに見
当もつかないが、それほど何度も聖女であるミュリアスを振り切っ
てどこか行く、というのは流石にニヴでもしないんじゃないかとい
う期待もあった。
しき
実際、しばらく走って後ろを振り返っても、ニヴの姿はなく、追
いかけてくる様子はない。
⋮⋮助かったかな。
そう思いつつ、俺は次の屍鬼を探すべく、街を走る。
2006
第305話 数々の秘密と男
﹁⋮⋮うぎゃぁぁぁぁぁ!!﹂
しき
三匹目の屍鬼の首を切り落とし、聖気で浄化しているとそんな悲
鳴が上がる。
実際には魔物を倒す冒険者なのだが、客観的に見るとただの快楽
殺人鬼に見える行動である。
しき
周囲にいる街の人も若干引き気味だが、流石にニヴのときとは違
し
ってしっかり屍鬼であることを明らかにしてからやってるので捕ま
ったりするいわれは全くない。
それにしても⋮⋮。
き
たくさんいるかも、とウルフが言っていたが本当に結構な数の屍
鬼がいるので驚く。
しき
そのどれもがかなりしっかりと喋っていることも。
俺が屍鬼だったときとはえらい違いだ。
俺との違いは何なんだろうな⋮⋮慣れとか?
しき
加えて俺の場合は声帯あたりが腐っていたのかもしれない。
しき
屍鬼の体はどの部分が崩れていたり腐っていたりするのかかなり
個体差があるからな⋮⋮。
俺は運が悪かったのだろう。
まぁ、普通の人間として暮らしていただろうに、屍鬼になってし
しき
まった時点で運が悪いのは同じだろうが。
今回、屍鬼達は結構良くしゃべるが、生前の自我を保っている、
とかそういうことはないと言われている。
そのように振る舞っていても、それは相対する人間をだますため
の擬態に過ぎないのだと。
2007
実際は⋮⋮どうなんだろうな。
問答を重ねていくと色々と矛盾が出てくるため、正しいんだろう
が、それでも人のように振る舞うために倒すのに後味はよくない。
ヴァンパイア
それでも倒さなければならないのは放置しておくと人を襲い、そ
しき
の血肉を食べ、いずれは吸血鬼となって、人の脅威となるからだ。
⋮⋮そろそろいいかな。
焼き魚の火加減を見るような感覚で浄化している屍鬼を見ると、
その大半が灰に変わっていた。
これでもう再生は不可能だろう。
ギルド
ちなみに、他の冒険者たちは聖水をぶっかけることによって対応
しているはずだ。
しき
ヴァンパイア
本来まぁまぁ値の張るアイテムであるが、今回は冒険者組合が支
給してくれている。
まぁ、そんなことせずとも、屍鬼を前にして、﹁吸血鬼だよ、ニ
ヴちゃん!﹂と呼べば﹁はーい﹂とか言いながらやってきそうな冒
険者もいるが、流石に体は一つしかないから⋮⋮ないよな? 一人
で街の各地で呼ばれても対応しきれないだろう。
しき
他にも街に滞在していたらしい聖者・聖女の姿を少し見かける。
彼らは聖術使いであるから、屍鬼に対する攻撃力が絶大なのだ。
とは言え、戦闘技能まで有している者は稀なので、とどめを刺す
係として働いているようだが。
浄化専門の聖者なら街一つ覆えるくらいの浄化を使えるらしいた
め、今ここにいればとても活躍してもらえるだろうが、そういう奴
は滅多にいないからな。
国一つに一人いるかどうか。
しかも雇うには莫大なお布施が必要だったりする。
こういうときくらい負けてくれても⋮⋮と思わないでもないが、
こういうとき負けたら使いどころもないしな。
あまりにも強力すぎる力は使いどころが難しいのだ。
2008
ヴァンパイア
それにしても、今回の吸血鬼の目的は一体何なのだろう。
街に火をつけて、混乱させて、何をどうしたいというのか⋮⋮。
目的が見えないな。
これだけ大きな群れをつくったのなら、それを基礎に少しずつマ
レッサーヴァンパイア
ルトを浸食していく方がいいような気がするが。
しき
⋮⋮それはそれで大変かな?
ヴァンパイア
屍鬼はそれほと血は必要ないが、下級吸血鬼にもなれば血は大量
に必要になる。
ヴァンパイア・ハンター
それくらいの吸血鬼が増えている痕跡が見つかれば、間違いなく
吸血鬼狩りたちが大挙して押し寄せてくる。
そうなる前にことを起こしたかった?
うーん、納得できるような出来ないような⋮⋮。
しき
考えても分からんな。
とりあえず、屍鬼狩りを再開しよう。
全部狩りだしてしまえば、本体というか、親玉も出て来ざるを得
なくなるだろう。
そうならずとも、マルトから去るのならそれでもいいし。
あとどれくらいいるのかは分からないが、エーデルのお陰で次の
獲物の居場所も分かっている。
﹁さぁ、次だ﹂
俺は肩に乗るエーデルにそう言って、再度走り出した。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮これだけやってもまだ、奴は出てこないのですか﹂
︽新月の迷宮︾、そのどこかで、そんな声が響く。
2009
低く、憎しみに染まったようなその声は、その場にいる数人の者
たちに向けられていた。
年端もいかぬ少年少女たちが、脂汗を流しながら瞑想している。
息も激しく、尋常ではない疲労が見られた。
しかし、そんな彼らに囲まれるように中心に立って、少年たちを
見つめるその男の瞳に同情の色はない。
そこにあるのは少しのいらだちと、道具が壊れないかという酷く
無機質な心配の気持ちだけだ。
そんな中、
﹁⋮⋮うぐっ!﹂
少年たちの一人が血を吐いて体勢を崩す。
男はそれは見て、またか、と頭を押さえる。
﹁⋮⋮今度はどこです?﹂
男の質問に、少年は答える。
しき
﹁第二商業区画の屍鬼がやられました﹂
﹁ふむ⋮⋮別にやられるのは構わないのですが、見つけるのが少し
早すぎますね。この調子ですと奴が出てくる前にすべて消耗してし
まいそうです﹂
男の独り言染みた声に、少年が尋ねる。
﹁⋮⋮本当にこの街にいるのですか?﹂
その言葉に、男は頷き、
2010
﹁ええ、必ず。突き止めるのにかなり手間がかかりましたが⋮⋮こ
の街に確実にいます。が、どこにいるのやら分からない。表舞台に
出る気がないのでしょうね。しかしそれでは困るのですよ﹂
﹁その方の力が借りられれば⋮⋮﹂
﹁そうです。目的に大きく近づく⋮⋮。そのための我々の活動です。
皆さんには負担をかけてしまっていますが、それもこれもすべては
我々の未来のため。分かっていただけますね?﹂
そう言って男が見回すと、少年少女たちは集中しながらも、深く
頷いた。
男は、彼らにとって間違いなく希望だった。
しき
これまで生きてきてずっと、見られなかった光を見せてくれたか
らだ。
だから⋮⋮。
少年少女たちは屍鬼を操る。
この力も、男によって与えられたもので⋮⋮。
男はそんな少年たちを見ながら、ふっと微笑んだ。
2011
アンデッド
第306話 数々の秘密と現実
しき
屍鬼に限った話ではないが、不死者というのは悲惨なものだ。
そうなれば永遠を手に入れられるというのは事実だが、それを手
アンデッド
にした時、その人物は人であったときのそれとは別人なのである。
アンデッド
不死者は一度死に、そしてその死体に新しい自我が宿るためだ。
なぜそんなことが起こるのか、不死者になる前の人格はどこへ行
ってしまうのか。
アンデッド
議論は尽きないが、その全ては未だ、明らかになっていない。
ただ、それでも不死者になる前と、なった後は別人。
これは、事実であるとされ、人々にもそう受け入れられている。
その理由は色々とあるが⋮⋮大きく影響しているのは宗教関係者
アンデッド
の考えだ。
アンデッド
彼らは不死者を不浄なるものと定め、浄化することを至上として
いる関係上、不死者の存在を認められない。
生前と同じ姿を保っていても、それを同一の存在だと認めること
は、彼らには出来ない。
と言っても、俺は別に、批判しているわけではない。
ただ立場的にはそうは出来ないと言う事実があるというだけだ。
しき
そして、彼らの主張の大事なところは、それが事実であると半ば
証明されていると言う点にある。
つまりそれは、俺が先ほどから屍鬼に会うたびにしている問答と
アンデッド
その回答だ。
不死者たちは、生前のことを尋ねられると、どんどんとボロが出
て、矛盾だらけになっていく。
そういう性質があるのだ。
本当に生前と同一人物なら、そんなことは起こらないはずである。
まぁ、体が腐り落ちているわけだから、記憶の欠損や混濁が見ら
2012
アンデッド
れる、と解釈することも出来るが⋮⋮この辺は難しいところだな。
ヴァンパイア
仮にそう解釈したとして、不死者たちは例外なく人を襲う。
上位の吸血鬼など、理性がある存在もいるが、それでも彼らは本
質的に人を襲うのだ。
そして、そんな性質を抱えているものを、自分の家族や友人、恋
アンデッド
人として受けいられらる者はほとんどいない。
だから、歴史的に不死者たちは、そうなった時点で、もう、別人
なのだ、と理解されてきた。
だから討伐される。だから排除される。
けれど。
人間と言うのはそんなに簡単なものではない。
考えても見てほしい。
自分の親兄弟でもいい。
恋人でもいい。
何かの拍子に死んでしまって⋮⋮それで、それを実感できない間
に、生前と変わらない姿で目の前に現れたら?
その口で、その声で、その仕草で、自分の知り合いであると確信
できるような様子を見せたら?
即座に拒否できる人間は少ないのではないだろうか。
それは人の優しさか、甘さか、それとも、弱さなのか。
分からない。
ただ、俺にとって、ロレーヌたちが示してくれたそのような態度
は、優しさだった。
でも⋮⋮。
﹁⋮⋮なんで、なんでよ! どうして⋮⋮﹂
今、俺の目の前で行われているそれは、どちらなのだろうか。
俺には何とも言えない。
2013
◇◆◇◆◇
そこには冒険者が集まっている。
ギルドマ
と言っても、当然、この街の冒険者全員、とかいうわけではない。
ギルド
大体十人ほどだろうか。
スター
その中には本来、冒険者組合で指示を出しているはずの冒険者組
合長であるウルフもいて、何か特殊な状況であることが見て取れた。
実際、この状況は非常に特殊⋮⋮とも言えないか。
俺は運が良かっただけで、むしろ、今日のマルトではこんなこと
しき
がそこかしこで起こっていても何も不思議ではない。
冒険者たちは、一人の少年を囲んでいた。
いや⋮⋮正確にいうなら、ただの少年ではなく、屍鬼か。
その目は血走り、破けた服の内側には腐り落ち、干からびた皮膚
と肉が見える。
しき
顔も⋮⋮擬態のための魔術が解けているのか、傷や穴がかなりあ
しき
るのが分かる。
つまりは、屍鬼狩りの一環な訳だが、問題はその屍鬼が、冒険者
の格好をしていることだろう。
身に付けている装備類や、その年齢から新人だな、となんとなく
しき
察することが出来る。
そしてその屍鬼の前にはウルフがいて、いくつか質問を重ねてい
た。
﹁⋮⋮お前、名前は?﹂
﹁ティータ・ウェル⋮⋮鉄級冒険者。まだ新人だけど、これから頑
張って銅級になるんだ。それで、故郷の両親に仕送りをして⋮⋮妹
にも一杯嫁入り道具を持たせてあげたい⋮⋮﹂
2014
しき
﹁いつ、屍鬼になった?﹂
しき
﹁⋮⋮屍鬼? 僕はティータ・ウェル。鉄級冒険者⋮⋮﹂
俺は今来たばっかりだが、おそらくは何度も同じ質問を繰り返し
たのだろう。
ウルフは首を振って、後ろで他の冒険者たちの肩を掴まれている
少女を振り返り、
﹁⋮⋮間違いねぇな?﹂
と尋ねた。
少女は涙を流しながら頷いて、
﹁⋮⋮はい⋮⋮ティータ。どうして⋮⋮助けられないんですか? だって、ちゃんと喋ってるじゃないですか。言ってることも、生前
と同じで⋮⋮﹂
﹁気持ちは分かるがな⋮⋮お前も見てただろ? こいつはさっきま
でここで暴れてたんだ。それを俺たちで抑え込んでこうしてる。手
足も使えないようにした上でな。離したら間違いなく周囲にいる奴
らを襲うぞ。それでもお前は、こいつが、生前と変わらないなんて
言えるのか?﹂
﹁それは⋮⋮でも、でも⋮⋮!!﹂
厳しい話だが、ウルフの言っていることは正しかった。
ティータの目に明滅する光は、正気と狂気の間を行ったり来たり
しているように見え、何かもとに戻す方法がありそうにも思える。
2015
けれど、そんなことが出来た者は、今のところ、いない。
ウルフは言う。
﹁⋮⋮すまねぇ。俺がもっとしっかりやってりゃ、こいつも被害に
遭うことはなかったはずだ。だが、こうなった以上は⋮⋮見たくな
いなら目を閉じてろ。恨むなら俺を恨め﹂
それから、背中に背負った大剣を引き抜き、掲げる。
ティータの仲間だったと思しき少女は、それを見て手を伸ばそう
とするが、しかし、最後には震えるように手をひっこめた。
無理だ、と思ってしまったのだろう。
そしてそれは正しいのだ。
︱︱ザンッ。
という音が聞こえ、ティータの首が斬り落とされる。
それから、その体と首の両方に聖水がかけられ、灰となっていく。
最後にその場に残されたのは、ティータの身に付けていた安物の
鎧と、ティータだった灰だけだ。
少女はその鎧に抱き着き、それから灰を掬って、泣いた。
2016
第307話 数々の秘密と親玉の居場所
﹁⋮⋮レントか﹂
しき
先ほどまで屍鬼だった者の灰を前に、泣き叫ぶ少女をなんとも言
えない目で眺めているウルフの後ろに近づくと、振り返りもしない
のにそう、声をかけられる。
この場でさっきの顛末を俺が見ていたことに気づいていたのだろ
う。
﹁辛い役目だったな﹂
月並みな台詞だがそう言うと、ウルフは首を横に振って、
ギルド
ギルドマスター
﹁マルト冒険者組合の冒険者なんだ。引導を渡すのは他の誰でもな
く、俺の役目だろうさ﹂
ギルド
その言葉には、マルト冒険者組合を率いる冒険者組合長としての
ギルドマスター
矜持と責任感が感じられる。
こういう人物がマルトの冒険者組合長であることは、運がいいの
だろうな。
それにしても、
﹁やっぱり、あれはマルトの冒険者だったんだな﹂
俺はそう言った。
途中から見ていて、それほど細かくは状況を理解していなかった
が、なんとなく推論していたことだったが、ウルフの口からはっき
2017
りとそう言われたのでそれが正しかったことが分かったからだ。
ウルフは頷いて、
﹁⋮⋮あぁ。最近問題になってた新人冒険者の失踪⋮⋮その被害者
の一人だ。そこで泣いてるのは一緒に冒険者をしてた娘だ。ある日
突然姿を消して、それっきり⋮⋮だったんだってよ。だが⋮⋮﹂
しき
﹁屍鬼になって現れてしまった、というわけか⋮⋮﹂
﹁ま、そういうことだ。酷い話だぜ。もっと俺みたいな、未来もく
そもねぇ奴を狙うならともかくよ。よりにもよって⋮⋮これからっ
てやつを狙い撃ちにするなんて⋮⋮やりきれねぇぜ﹂
ヴァンパイア
俺が件の吸血鬼であっても、ウルフのような男は絶対に狙わない
だろうが、言いたいことはよくわかる。
弱いものを狙う、これは狩人としては合理的だだろうが、人とし
て許容できない。
新人冒険者なんて言うのは、まだ色々な勝手の分かっていない、
子供ばかりだ。
そんな奴らをあえて狙うようなのは⋮⋮卑怯者だ。
そういう感覚が、ある。
それからウルフは、俺に尋ねて来た。
小声で、周囲に聞こえないように、
しき
﹁⋮⋮念のため、聞いておくけどよ。屍鬼を人に戻す方法なんて⋮
⋮知らねぇよな?﹂
先ほど、少女に向かってそんな方法は存在しない、という前提で
話していたウルフである。
2018
しかしそれでも、可能性はゼロではないとは思っていたのだろう。
なにせ、俺と言う分かりやすい見本があるからな。 けれど⋮⋮。
しき
﹁残念だが、その方法を俺は知らないな。それに、俺が⋮⋮屍鬼だ
ったころは、さっきの奴みたいに意識が混濁したような状態になっ
たことはなかった。声はちょっとだみ声が酷かったが、会話は普通
にできていたし、意識もはっきりしてた。根本的に在り様が違うの
かもしれない、とさっき見ていて思ったよ﹂
しき
先ほどの少年は明らかにウルフの質問にうまく答えられていなか
った。
しき
自分が屍鬼であるかどうかについても認識できていたのかどうか
疑問なほどだ。
しかし俺の場合は、全く違う。
はっきりと意識があり、自分が屍鬼であることも分かっていた。
魔物としての衝動がゼロだった、とは言えないが、それでもロレ
ーヌに襲い掛かった以外は衝動を抑えることも出来ていた。
そして今は血を食べているにはいるが、人に襲い掛かろうとは思
わない。
けれど、あの少年は、捕まる前はここで暴れていたというのだか
ら、俺とは根本的に何かが違うのだろう。
しき
俺の答えに、失望と安心のないまぜになったような顔をしたウル
フ。
それは、屍鬼になった、仲間である冒険者を助けられないことに
対する失望と、そしてそんな冒険者たちを切り捨て、浄化すること
が間違いではなかったと知れたことへの安心だった。
助けられる方法があるのに、殺してしまったのでは何にどう謝れ
ばいいのかわからないもんな。
2019
アンデッド
それでもあの場ではああする他なかっただろうが⋮⋮。
俺が不死者であることを明かして、その上で助ける方法が⋮⋮と
か言い出したらウルフの立場も危うくなる。
かなり危ない橋を渡っているのだ。
﹁⋮⋮そうか。分かった。安心したよ⋮⋮あぁ、それとな。色々と
情報が集まってきてる。聞いてけ﹂
ウルフがそう言って、俺に今の街の状況を教えてくれた。
ギルド
ある程度はエーデルの視点共有などによる情報収集で分かっては
いるが、分析力と言う面では冒険者組合には敵わない。
ギルド
俺とエーデルだけで状況を整理しても、中途半端な部分が否めな
いからな。
その点、冒険者組合にはこういうときに関するノウハウがあり、
しき
また大勢の職員たちが情報を整理してまとめているから、その話を
聞くのは有用だ。
それによると、まず、屍鬼はマルト各地で倒されており、やはり
その総数は五十から百体に上りそうだ、という話だった。
ヴァンパイア
その中には先ほどの少年のように、新人冒険者だったが失踪して
ヴァンパイア
姿の見えなくなった者もいて、吸血鬼が失踪事件の犯人だったと言
しき
うこともほぼ確定したと言っていいと言う。
そのため、今は屍鬼の討伐と並行して、親玉の吸血鬼を早急に捕
しき
まえようとしているが、見つかっていないと言う。
屍鬼のマルトにおける分布などからその居場所を推測しようとも
しき
したようだが、向こうもその辺りはしっかりと考えているようで、
マルトに満遍なく屍鬼が配置されていることが分かったにとどまる
と言う話だった。
流石に、自分のアジトの周りに密集させる、みたいな分かりやす
しき
いことはしないようだ。
それでも屍鬼を作り、そのアジトから出す、ということを繰り返
2020
していたらそれなりに偏りそうな気もするが、考えたうえで配置し
てからことを起こしたと言うことだろう。
ウルフは続ける。
しき
﹁まぁ、それでも屍鬼の討伐はしっかりと進んでる。いずれはすべ
て倒しきれる⋮⋮とは思うが、ただ、被害もそれなりに出てるから
しき
な。やはり親玉をさっさと倒してぇ。そこでお前に聞きたいんだが
⋮⋮﹂
﹁なんだ?﹂
ヴァンパイア
﹁吸血鬼ってやつは、一体どれくらいの距離から屍鬼を操れるもの
なんだ? 同時に姿を現して、火をつけたり人に襲い掛かってる以
上、全員に同じ指示がなされたんだろうからな。少なくとも指示が
出せる距離にはいるはずだと思うんだが⋮⋮﹂
2021
第307話 数々の秘密と親玉の居場所︵後書き︶
予約ミスしました。
申し訳ない。
2022
しき
第308話 数々の秘密と隠れ家
ヴァンパイア
吸血鬼が屍鬼を操れる距離か。
確かにそれは親玉の居場所を推測するのに重要な情報だな。
だが⋮⋮。
﹁その辺りは俺も今一分からない﹂
俺にはそう答えるしかない。
ウルフは首をかしげて、
ヴァンパイア
﹁なぜだ? お前は⋮⋮じゃないのか?﹂
ヴァンパイア
吸血鬼の部分を超小声でささやくウルフ。
気遣いが身に染みる。
そして確かに彼の言う通り、俺は吸血鬼だ。
けれど⋮⋮。
き
し
﹁いや、よく考えてみろよ。俺は人を襲ったことがないんだぞ。屍
鬼なんて作ったことも操ったこともないんだ。どれだけの距離から
しき
どのくらいのことが出来るかなんて、正確には分からないって﹂
つまりはそう言う話だ。
言われてウルフもはたと気づいたらしく、
ヴァンパイア
﹁⋮⋮そうだったな。言われてみれば、人を襲わない吸血鬼が屍鬼
なんて作るわきゃ、ねぇか⋮⋮しかしそうなると、参ったな。あと
はしらみつぶしにやるしかないか⋮⋮?﹂
2023
腕を組んでそういうウルフだったが、別にヒントゼロと言うわけ
でもない。
俺は言う。
しき
﹁まぁ、それについてはちょっと待て。確かに屍鬼は作ったことな
いが、使い魔は作ったことがある。こいつだ﹂
そう言って肩に乗っかっているエーデルを指さす。
するとエーデルは二本足立ちになり、腕組をした。
⋮⋮鼠の癖して器用だな。
ウルフはそれを見て目を丸くし、
﹁⋮⋮ただのペットかと思ってたぜ﹂
と呟く。
鼠なんて好き好んでペットにする奴は少ないだろ。
なんで俺がそうすると⋮⋮あぁ、あれか。変人扱いか。
誰も肩に乗ったこいつに突っ込んでこないのはそういうことか?
﹁仮に百歩譲ってペットなんだとしても、わざわざこんな状況の中、
肩に乗せて愛でたりはしないだろうが﹂
﹁まぁ⋮⋮お前ならそういうこともありうるかと。なにせ、突然わ
けわかんないことやりだすことには定評があるからな。昔からそう
だったろ。とは言え、後になって考えてみると、どれも意味がある
ことばかりだったりしたが⋮⋮まぁ、昔話はいいか。それより、そ
しき
いつが使い魔だとして、それがどうした?﹂
しき
﹁ああ。屍鬼は人から作るものだから、屍鬼とは違うかもしれない
2024
が、作り方はほぼ同じだからな。操れる範囲も同じなんじゃないか
と思って﹂
俺の言葉にウルフは頷いて、
﹁⋮⋮なるほど﹂
そう言った。
それから、
﹁で、どれくらいの距離なら操るのが可能なんだ? ⋮⋮おい、本
当に操れているのか﹂
俺の肩の上で謎の動きをし始めたエーデルを見て、胡乱な目を向
けるウルフである。
お前、何やってんだ? ⋮⋮暇つぶし? 好きにしろよ⋮⋮。
ともかく。
﹁まぁ、普段は好きに行動させてるんだ。これでも命令すればしっ
かりその通りに動く。それで⋮⋮それが可能な距離だが、少なくと
もマルトのどこかにいれば普通に意思疎通は可能だな。マルトの外
に出ても⋮⋮簡単な指示くらいなら出来る﹂
﹁おい、そんなに広範囲にわたるのか⋮⋮具体的にはどのあたりま
でだ?﹂
﹁そうだな⋮⋮まぁ、︽新月の迷宮︾くらいまでなら、大丈夫だろ
うな﹂
実際にやったことはないが、感覚的にそんなものだ。
2025
流石に細かい指示を出したり、タイムラグ一切なしでの連絡はと
れないが、大まかな指示くらいならその程度の距離でも可能だ。
それに⋮⋮俺は見ているからな。
それについてもちょうどいいから伝えるべく、口を開く。
﹁ついでだが、俺はこいつとある程度感覚を共有できるんだが、こ
いつ自身も自分に従う同族の視点を共有できるらしくてな。それを
使って、ちょっと気になることを掴んだんだ﹂
プチ・スリ
﹁⋮⋮ついでに言うことじゃねぇな、それは⋮⋮。視点を共有? プチ・スリ
見ればそいつは色や大きさはかなり違うが、小鼠だろう? その同
族の視点となったら⋮⋮小鼠なんてその気になりゃ普通の大人なら
ナイフ持ってりゃどうにかできる程度の魔物だから警戒されずにそ
こら中にいるような⋮⋮そいつらの感覚全てを共有できるなら⋮⋮﹂
ぶつぶつ独り言を言いながら、その意味を理解していくウルフ。
最後に、
ギルド
﹁⋮⋮いやはや、お前を冒険者組合に入れた俺の目は正しかったな
? この街で起こることは、お前には全部筒抜けになるってことだ
ろ?﹂
と言った。
それに対して俺は、
﹁いや、そこまでじゃない⋮⋮けど、かなり色々なところに入り込
んで情報を得られるのは事実だ﹂
ギルド
﹁お前⋮⋮冒険者組合に入ってそれをやるのはやめてくれよ? っ
と、まぁ、今はいい。ともかく、それでお前はそいつらを使って、
2026
一体何を掴んだんだ?﹂
ウルフの質問に、俺は答える。
ヴァンパイア
しき
﹁⋮⋮︽新月の迷宮︾で人に噛み付く吸血鬼の姿を見たんだよ。そ
れなりに時間が経っているが、あそこが屍鬼たちの親玉の、本拠地
かもしれない﹂
し
﹁なるほどな⋮⋮。行方不明事件が起こってたのは、主に迷宮だ。
き
街中でも起こってはいたが、迷宮の方が頻度は高かった。ただ、屍
鬼をそれほど遠くから操れるとは考えてなかったからな。そっちま
では捜索の手は伸ばしてねぇ⋮⋮人をやった方が良さそうだな﹂
しき
街が燃えて、屍鬼たちが人を襲っている中、かなり低い可能性し
ヴァンパイア
かない迷宮に、人を回してる余裕はなかったのだろう。
吸血鬼の親玉を捕まえるのは重要だが、それよりも、街の人々の
安全が優先だからだ。
とは言え、俺の伝えた話から、親玉が迷宮にいる可能性はそれな
りに高まった。
この状況でどうするかだが⋮⋮。
ウルフは少し考えてから、
﹁⋮⋮まぁ、そうはいってもあんまり人員は割けねぇな。街中がな
んとかなりつつあるとはいえ、それでもまだまだ終息には遠い。と
なると⋮⋮何人か人を選抜して行かせることになる。レント、お前
は行ってくれるか?﹂
ヴァンパイア
ウルフの言葉に、俺は頷く。
吸血鬼が相手なのだ。
どれだけ上位の存在なのかは分からないが、ある意味で俺が一番
2027
精通していると言える。
だからウルフも俺に行けと言っているのだろう。
﹁あとは⋮⋮ロレーヌもいた方が良いよな? それと⋮⋮﹂
ロレーヌは俺がボロを出さないようにするため、というのと、マ
ルトでもそれほど多くない銀級だからだろう。
そして、
﹁⋮⋮私も連れてってくれるんですよね?﹂
﹁うぉっ!?﹂
ヴァンパイア・ハンター
ウルフの後ろからそう言ってにゅっと顔を出したのは、言わずと
知れた吸血鬼狩りニヴ・マリスであった。
⋮⋮来るなよ。頼むから。
2028
第309話 数々の秘密と吸血鬼狩りの考察
﹁⋮⋮お前、どこから聞いてた?﹂
ウルフが難しそうな顔でニヴにそう尋ねる。
それは俺のことがどれだけ聞かれたか、という心配のためだろう。
が、俺にはウルフの後ろから猫のように近づくニヴの姿が見えて
いた。
現れてからは特に問題ある話はしていない。
﹁ええ? 人を選抜して行かせる、ってところからですね。察する
に、今回の親玉の本拠地か何かを見つけたのでしょう? どうやっ
て私より早く見つけたのか分かりませんが﹂
ニヴはウルフの質問にそう答えた。
やはり、ほとんど聞かれても問題ない辺りから聞いていたようだ。
とは言え、本当は全部じっくりがっつり聞いていた、と言う可能
性もゼロとは言えない。
それでいて、あえてこんな風にとぼけている⋮⋮という可能性も
ある。
うーん。
⋮⋮考えても分からんな。
ニヴの顔を見ると、可愛い表情ですっとぼけているようにも見え
るし、単純におもちゃを前にして楽しみにしている子供のようにも
見える。
本当に子供だったらその内面も読めるだろうが、ニヴは⋮⋮その
心のうちについて一切想像がつかない。
2029
何を考えてるんだか⋮⋮。
ギルド
﹁⋮⋮まぁ、色々、冒険者組合にも方法はある。基本的には人海戦
術だがな﹂
ウルフが、秘密がばれてなさそうなことにほっとしつつそう答え
る。
嘘は言っていないな。
人海戦術というか、厳密には鼠海戦術だが。
⋮⋮鼠海⋮⋮想像すると結構怖いな。
大挙して押し寄せてくる鼠。
まぁ、流石にそんなにたくさんはいないけどな。
範囲を絞ればいけるのかもしれないが。 ニヴはそんなウルフの言葉に、、
﹁なるほど、たまたまって奴ですか。それは流石の私も勝てません
ね⋮⋮ところで、話の続きですよ。私も行っていいですよね?﹂
そう言って話を戻した。
うやむやにならないかなとちょっとだけ期待していたが、無理だ
ヴァンパイア
ったようだ。
ニヴの吸血鬼に対する執着からして、誤魔化すのは流石に無理が
あったな。
それに⋮⋮。
ウルフは言う。
ヴァンパイア・ハント
﹁⋮⋮あぁ。お前は金級だし、吸血鬼狩り専門の冒険者だ。いてく
れるなら心強い⋮⋮なぁ、レント﹂
2030
この、なぁ、レントは別に同意を求めているわけではなく、仕方
ないからお前の方でどうにかうまくやれ、という意味を言外に込め
た台詞であった。
ここでニヴの提案を拒否するのは、ニヴの実力や能力を考えれば
おかしい。
精鋭を派遣しなければならない状況で、ニヴ以上の適任は今のマ
ルトにはいない。
そうなれば、当然、ニヴを連れていくべきだ、という話になるか
らだ。
ニヴの性格が破たんしているとか、妙に信用出来ないような感じ
がする、とかそんな個人的な感情は脇に置いておかなければならな
い。
﹁⋮⋮そうだな。専門家がいる方が、心強い﹂
仕方なく、俺もそう答えることになった。
それから、ニヴは、
﹁ふふーん。良いでしょう。ぜひ、行きましょう⋮⋮ところで、場
所はどこです? まだ聞いてないのですよね、私﹂
そう言えば、こいつ途中から聞いてたんだったか、とそこで思い
出したウルフが、
しき
﹁あぁ、︽新月の迷宮︾だよ。まぁ、絶対にいるとは限らんが⋮⋮
その可能性が高いって話でな﹂
ヴァンパイア
﹁ほう? なるほど⋮⋮確かにそうかもしれませんね。屍鬼を操る
のは一般的な吸血鬼ですとあまり距離が離れると難しいですが、力
をつけたものは遠くからも操る術を身に付けていることもあります。
2031
レッサー・ヴァンパイア
しき
下級吸血鬼でも複数が協力すれば可能な場合もありますし⋮⋮マル
トですと、マルト内部の屍鬼を操れる限界は⋮⋮そうですね、︽新
月の迷宮︾程度と考えられますね﹂
﹁やはり、そうなのか﹂
レッサー・ヴァンパイア
思わぬところから裏付けがとれて、ウルフがそう尋ね帰す。
ニヴは頷いて、
ヴァンパイア
﹁ええ。ただ、今回の吸血鬼は単独の下級吸血鬼だと思っていたも
しき
ので⋮⋮マルト内部に潜伏している可能性が高いと考えていました。
しかし、この屍鬼の数や質を考えると、その予想は捨てた方が良さ
そうですね。疑問があるとすると⋮⋮複数いるにしては被害が少な
いということでしょうが⋮⋮﹂
﹁少ない? 結構な数の冒険者や市民が失踪しているんだが﹂
レッサー・ヴァンパイア
﹁少ないです。下級吸血鬼一人養うためには、月、二、三人の人間
が必要ですので。まぁ⋮⋮必ずしも殺さずとも人間の協力を得なが
ら血の提供を受ける方法もあるにはあるのですが⋮⋮それをする場
合にはかなりの組織力が必要になります。そして、少なくともマル
とは?﹂
血薬
を手にしてい
トにはそのような組織はありませんでした。私の調べが足りないの
かもしれませんが⋮⋮そうなると⋮⋮彼らは
血薬
るのかもしれません。意外ですね﹂
﹁
ヴァンパイア
ヴァンパイア
﹁吸血鬼の吸血衝動を抑えることの出来る、特殊な薬です。とは言
え、その製造は簡単ではありません。すくなくとも、数体の吸血鬼
が集まったくらいで作れるものではないのですが⋮⋮ふむ。こうな
2032
ると俄然そいつを捕まえたくなってきますね﹂
色々と呟きつつ、ニヴのテンションが上がってくる。
﹁なんでだ?﹂
血薬
ヴァンパイア
の提供をどこかから受けている、ということになるから
俺が尋ねると、ニヴは言う。
﹁
ヴァンパイア
ヴァンパイア
です。そうなると当然、今回の吸血鬼を捕まえて尋問すれば、その
先に大量の吸血鬼の群れがあるということになる。吸血鬼狩り放題
というわけですね。これを楽しみにしないで、何を楽しみにしろと
?﹂
ヴァンパイア
本当に楽しみそうに笑うニヴの顔は怖い。
こんなのに追いかけられる今回の吸血鬼が気の毒になってくるほ
どだ。
ウルフも同じことを思っているだろうが、そんな気持ちについて
は特に言及することなく、
﹁⋮⋮まぁ、仕事熱心なのは結構だ。親玉を捕まえてくれりゃ、マ
ルトもいつもの田舎都市に戻るしな。期待しているよ﹂
﹁ええ、ぜひ。必ず捕まえてやりますので⋮⋮﹂
にやりと笑うニヴを見て、やっぱり一緒に活動するのはやだなぁ
と思うが、もう仕方がない。
幸い、お目付け役というか、監視役は他にいる。
ウルフの後ろの方を見ると、そこには、走ってやってきたミュリ
アスの姿があった。
2033
﹁⋮⋮ぜぇ⋮⋮だから⋮⋮ぜぇぜぇ⋮⋮急にどこかに行くなと⋮⋮
ぜぇ⋮⋮言ってるでしょうがっ!﹂
そんな台詞を叫んでいる。
聖女の仮面が剥がれかけてきていた。
2034
第310話 反逆者イザーク・ハルト
﹁貴方は、何のために戦っているのですか?﹂
そう聞かれて、私は至極素直に答えた。
太陽がどこから昇ってどこに沈むか。
手に持った瓶を固い床の上に落としたらどうなるか。
水に熱を加え続ければどうなるか。
そんな質問をされたときのように。
︱︱︱︱。
迷いのない私の答えに、あの方はふっと笑って、
﹁⋮⋮何も、学んでいないのですね。いえ、諦めなかった、とも言
えるでしょうか⋮⋮。けれど、それでも貴方方には無理なのです﹂
と、穏やかに私に言った。
当然の話だが、私はその言葉に、内容に深く強い怒りを覚えた。
なぜ、お前などに我々の崇高な目的を否定されなければならない
のだ、と。
どうして無理なのだとわかるのか、やってみなければわからない
ではないか、と。
それから私はあの方に詰め寄った。
するとあの方は、
﹁では、賭けをしましょう。もしもあなたが⋮⋮私を殺せれば、勝
ち。出来なければ私の勝ちです。私が勝った時は⋮⋮きっぱりと、
2035
その目的は諦めてください。期限は⋮⋮どうしましょうか? 貴方
が死ぬまで、ということでもいいですよ﹂
ふざけているのかと思った。
反逆騎士たる私が、たかが小娘一人を殺せないなどと、本気で思
っているのかと。
しかし、結果を見れば火を見るより明らかだ。
私は、あの方を殺せなかった。
賭けは未だに続いている。
◇◆◇◆◇
自分に与えられた部屋の中で、久しぶりに取り出したのは懐かし
い愛剣だった。
構えると、強く磨かれた魔力の宿る、銀色の細い刀身と、柄に刻
まれた龍を穿つ一角獣の紋章が目に入った。
これを初めて手にした時、どれほどの喜びを感じたことだろう。
しかし、これはあの時からずっと、箪笥の肥やしになっていた。
なぜなら、今の私には、もう必要のないものだからだ。
今の私の仕事は、この家の使用人である。
魔物を相手にすることもたまにはあるが、そのときは普通の武具
を持てばそれで足りる。
これは、あくまでも限定された相手に対して振るうもので⋮⋮だ
から私はもう、使うことはないのだと思っていた。
ただ、それでも⋮⋮心のどこかであのとき感じた誇らしさや、こ
の剣の持つ意味を忘れられず、手放すことも出来なかった。
あの方に対して、それは良くないことだとは思っていたが⋮⋮で
も、あの方は気づいておられただろう。
私のすることなど、あの方にとってはすべて矮小で⋮⋮いや、私
に限らない。
2036
︽彼ら︾のすることもまた、小さく、くだらないことに思ってお
られたのかもしれない。
だからこその否定、だからこその私に対する賭けだったのだろう。
そこからすれば、これから私がしようとしていることもまた、あ
の方にとっては無意味だ、ということになるかもしれない。
過去の因縁はもう断たれた。
今更⋮⋮わざわざ相対するようなことではないと、そうおっしゃ
るかもしれない。
でも、私には、そうやって割り切ることは出来なさそうだった。
それで、私は結局、愚か者のままだったのだ、と悟る。
変わったと思ったのに、あの頃とは違うものに。
現実は、こんなものなのかもしれない。
何かになろうとして、何か大きなことを達成しようとし、けれど
現実に打ちひしがれて膝を折り、差し伸べられた大きくやわらかな
手を掴んでしまった。
そういうことだと。
何もなかったのだ。
私には。
聞いた話を思い出す。
この間、この家を訪ねて来た少年を、里の者に引き渡すときのこ
とだ。
﹁⋮⋮そう言えば、僕を誘った︽仲間︾が言っていました。イザー
ク・ハルトという名前に聞き覚えはないか、と。貴方の事ですか?﹂
少年が、里を異にする︽仲間︾に誘われて、この街まで来たとい
2037
う話はすでに聞いていた。
その際に語られたのが、彼らの存在を表舞台に出し、正当な権利
を享受できる︽人︾として扱われるように社会を変えよう、という
目的だった。
その言葉に乗って、少年はマルトにやってきたわけだが、結局マ
ルトでは︽仲間︾と合流することが出来ず、衝動を抑える薬も減っ
てきて、仕方なく村の長老に聞いていたこの家を頼ってやってきた、
ということだった。
そのため、さして知っていることはないような雰囲気だったのだ
が、初めに誘われたときに、なんとなくと言った感じで聞かれたの
が、その名前だったらしい。
イザーク・ハルト。
つまりは、ラトゥール家の使用人である、私の名前だ。
﹁⋮⋮なぜその方はそんな名前を尋ねたのでしょう?﹂
私が少年に聞くと、少年も首をかしげて、
﹁さぁ⋮⋮? ただ、何気なく聞いたようでしたけど、結構重要な
質問だったみたいだって言うのは分かりましたよ﹂
﹁どうして?﹂
﹁答えを聞く様子がちょっと違いましたから。僕、やっぱり里では
跳ねっ返りで通ってましたから、よく怒られてて⋮⋮だから人の顔
色を見るのが大分得意になってしまって。あのとき聞いてきた人の
表情は、その僕の目から見て、そう見えたんですよ﹂
少年は本来出ることを許されないはずの里から、こうして辺境の
田舎町までやってきてしまうほどの行動力と反抗心があるタイプだ。
2038
なるほど、そのような技能も育ってもおかしくはない。
何がその人を成長させるのかは分からないものだ。
そんな彼の目から見て、そのように感じられたということは⋮⋮
どこまで正確かはともかく、どうでもいい世間話というわけではな
かったというのは確実だろう。
つまり、イザーク・ハルトを探している誰かがいる、ということ
をそのとき私は知ったのだ。
剣を腰に差し、屋敷の出口に向かう。
生垣の迷宮は簡単に横に逃げていき、まっすぐに進んで、私は屋
敷の正門の鉄格子を開いた。
それから、街に向かうべく歩き出そうとしたのだが、
﹁⋮⋮イザーク。行くのですか?﹂
と、後ろから声が聞こえた。
振り返ると、門に寄りかかる少女が一人。
私の主⋮⋮つまりは、ラウラ・ラトゥール。
その瞳は、その容姿の伝える年齢とは異なり、心の奥底まで覗き
込みそうな深い色をしていた。
私はその顔から眼を逸らし、答える。
﹁⋮⋮申し訳ありません。賭けは⋮⋮終わるかもしれません﹂
﹁⋮⋮はぁ。頑固ですね、貴方は。好きにしなさい。けれど、賭け
の幕を他人の手で引かせるのはおやめなさい。もしもその時が来る
のなら、自分の手で﹂
それはつまり、何が何でも戻る様に、という意味にほかならなか
った。
2039
私はそれに目頭が熱くなるのを感じたが、
﹁はい。かしこまりました﹂
それだけ言って、踵を返し、街に向かう。
昔から燻り続けてきた因縁、それを、ここで断つのだ。
心の底からそう思った瞬間だった。
2040
第311話 数々の秘密と顔合わせ
﹁あ、どうもこんにちは。ニヴ・マリスです﹂
﹁⋮⋮ロレーヌだ。よろしく頼む﹂
ニヴが差し出した手をロレーヌが握ってそう言った。
ヴァンパイア
その表情には苦いものというか、なんでこいつがここに?という
感情が透けて見える。
ヴァンパイア・ハンター
別にニヴを毛嫌いしているというわけではなく、俺という吸血鬼
らしきものの近くに吸血鬼狩りたるニヴがいるのはまずいのではな
いか、という心配だろう。
俺だって別にかかわらないで済むなら関わりたくない。
しかしニヴの方からやってくるのだ⋮⋮それも突然に。
ちなみにロレーヌがファミリーネームまで名乗らなかったのは、
俺と同じヴィヴィエ姓になってしまうので、色々と勘繰られるのを
避けたのだろう。
この辺り、冒険者というのは名乗るとき、好みがわかれる。
姓まで名乗るか、名前だけで済ますか。
冒険者というのは基本的に荒くれ者の集団であるし、まぁ、言っ
ては何だが色々と問題のある奴も少なくない集団であるため、姓ま
で名乗りたくはない、というのが昔から少なくなかった団体だ。
姓を言わない、というのはそういう冒険者の状況もあって、特に
おかしくはない。
姓まで名乗る奴は、多くは自分の出自や身分を明らかにしたい、
という意図を持っているような場合で、まぁ、信用してもらうため
にはそこから、みたいな感覚でいる場合が多い。
あれだな、挨拶で会釈で済ますくらいじゃなくて、深く頭を下げ
2041
てやる、くらいの感じである。
普段は会釈だ。
つまり、姓は名乗らない方が基本というわけだ。
﹁⋮⋮ミュリアス・ライザです﹂
﹁聖女殿ですか。ロレーヌです。よろしくお願いします﹂
ニヴには敬語を使わず、ミュリアスには敬語なのは、ニヴが冒険
者で、ミュリアスが聖女であるためだ。 冒険者同士はランクが違っていても敬語を使わなくとも失礼では
ないというか、そんなもんめんどくせぇな輩が多い。
だから極端に礼を失することを言わない限りは敬語なんて使わず
とも咎められはしない。
しかし、聖女相手ではそうはいかない。
彼らは信仰を背負っており、それはつまり宗教団体の強力な後押
しがあるということだ。
下手に適当な扱い︱︱冒険者にするような雑な扱い︱︱をすると、
唐突にブチ切れ出すタイプというのがたまにいる。
東天教の聖者・聖女はそういうのはまずいないのだが、ロレーヌ
が言うにはロベリア教を初めとする西方諸国発祥の宗教団体はそう
いうのが多いらしい。
だから、ロレーヌには聖者・聖女を前にしたとき、自然と敬語に
なったり、所作を丁寧にしたり、と言った行動が身に付いているよ
うだ。
別に信仰心がある、というわけではなく、面倒ごとはとにかく避
けたい、関わりたくないというだけのようだが。
そのうち西方諸国にも行ってみたいのだが、こういうことがある
とな⋮⋮俺も面倒くさいと思うタイプだからな。
いつか行くとして、それまでにロレーヌに色々とその辺の注意事
2042
項を尋ね、常識をある程度身に着けてからではないとヤバそうだ。
俺はただでさえ問題を起こすとまずい体だからな。
目をつけられるような行動は厳に慎まなければならない。
⋮⋮ニヴと迷宮にピクニックに行かなければならない状況になっ
ている時点で、もうなんというかあれだけど。
﹁⋮⋮あまり遜られる必要はありませんよ。言葉も普通で結構です﹂
とはいえ、ミュリアスはあまり敬語が、とかそういうのは気にし
ないタイプらしい。
ロレーヌにそう言って微笑んだ。
そうしていると紛うことなき美人聖女であるが、さっきのニヴに
対する般若ぶりをみているからな⋮⋮。
ちなみに般若とは極東にある島国にいる魔物の女性のみを指す。
オーガ
オ
そこから転じて物凄い形相で怒る女性を形容する言い方としてヤ
おに
ーランに定着している。外来語だな。
ーガ
ちなみにその魔物は鬼、という名前で鬼人に近い種らしいが、鬼
人より小さく、しかし賢いらしい。
それなりに文化もあって、人と共生しているものもいる、という
ことで、いつか会ってみたいところだ。
ドワーフのように冶金や細工に長けているという話だからな。
﹁そうですか? いや、しかし⋮⋮﹂
ロレーヌはミュリアスの言葉にそう言って逡巡を見せた。
ロレーヌは性格的に一般的な女性よりはかなり豪快というかアバ
ウトなところがあるタイプだ。
にも拘わらず、これだけの遠慮を見せる。
それはつまり、帝国出身者にとって、聖女というのはそれだけ扱
いが難しい存在だということなのかもしれない。
2043
⋮⋮帝国でどんだけ宗教者は好き勝手やってるんだろうな?
怖くなって来た。
﹁そこまで警戒されるということは⋮⋮もしかして、ロレーヌさん
は帝国の方ですか?﹂
ミュリアスがそう尋ねたので、ロレーヌは頷く。
﹁⋮⋮分かりますか﹂
﹁ええ。あちらでは皆さん、聖者や聖女に対しては、ロレーヌさん
のように話されますからね⋮⋮。お気持ちは分かります。そういう
ことでしたら、無理されて敬語をやめろとも言いません。が、話し
やすいように話しても構わないというのは本気で言ってますので⋮
⋮その点はご安心していただければと思います。正直、あちらでの
聖者・聖女の扱いについては、功績のある方々は別にしても、私の
ようなしょぼい聖女は受ける資格がないと思っているくらいですの
で⋮⋮﹂
若干ずーんとした感じでミュリアスがそう言ったので、ロレーヌ
はおや、という風に眉を上げた。
どうもミュリアスが一般的な聖女より、庶民寄りな雰囲気をして
いることに気づいたらしい。
それに、今ミュリアスが言った台詞は、ヤーランでいくら語って
も問題ないことだが、帝国で言った場合、教団への批判と受け取ら
れかねないものもあるとも。 ロレーヌに前聞いた限りでは、聖者・
聖女はことごとく敬うべし、が基本のようだからな。
少なくとも平民はそうしなければ何されるか分からなくてヤバい、
ということらしい。
聖女本人が言う場合には、教団への信頼を失墜するから立場的に
2044
もまずいだろう。
なのに言ってしまうのは⋮⋮ニヴと一緒にいて感化されたのかな?
ニヴの放言と比べれば相当にマシだし、感覚がおかしくなってい
るのかもしれない。
﹁⋮⋮ふむ。そこまでおっしゃるのなら、私も普通に話そうか。し
かし今後帝国に行った途端、﹃ミュリアス・ライザへの不敬により
異端審問にかける!﹄などというのは無しだぞ?﹂
ロレーヌはそう言ってミュリアスに笑いかける。
﹁⋮⋮異端審問官のマネですか? お上手ですね⋮⋮もちろん、そ
のようなことは致しません。私も、ここにいる間はバカンスのよう
なものだと思って楽しむことにしたのです﹂
聖女らしくない発言であるが、余計に信用に値すると思ったらし
い。 ロレーヌは改めて手を差し出し、ミュリアスに握手を求めたのだ
った。
2045
第312話 数々の秘密と迷宮
﹁⋮⋮よし、こっちだ!﹂
マルト正門に、ウルフの声が響く。
俺たちを呼ぶ声だ。
そちらの方を向くと、馬車が結構な結構な勢いでやってきていた。
︽新月の迷宮︾に向かう馬車だ。
どこかから連れてきてくれたらしい。
今は、マルトから逃げ去る馬車ばかりで、迷宮行きのものは全部
止まっていたからな。
無理して引っ張ってきたのだろう。
俺たちもそちらに走って向かう。
﹁これは特急便だ。すぐにつくぞ。さぁ、乗れ。俺はマルトで指揮
を続ける﹂
ウルフがそう言って馬車から飛び降り、そのまま街の中に消えて
いった。
俺たちが馬車に飛び乗ると、御者は即座に︽馬︾に鞭を入れる。
六つ足の馬⋮⋮スレイプニルの血が混じっていると言われる、特
に足の速い本物の馬だ。
都市マルトから︽新月の迷宮︾までの距離はそれなりに離れてい
る。
走って行けないこともないが、馬車の方がずっと早く着く。
もちろん、これは一般論で、ニヴなんかは自分の足で走った方が
早い可能性はないではないが⋮⋮流石に俺はな。
2046
少しくらいなら何とかなるかもしれないが、ずっと速度を維持す
るのは厳しく、それなら馬車に乗った方が良い。
加えて、ロレーヌやミュリアスは当然、︽馬︾と同程度の速度で
走れるわけがない。
二人を置いていくというのなら、まぁ、ニヴと二人でダッシュと
いう選択肢もあったかもしれないが⋮⋮いやいや。
そんなことしたら色々とバレるから、やっぱりなしだな。
他にも二台ほど馬車が来ていて、それには他の冒険者が飛び乗っ
た。
ウルフも精鋭を選ぶと言ったが、流石に俺たちだけに探索を任せ
る、というつもりはなかったようで、俺たちも含めて三パーティー
ほどが︽新月の迷宮︾の探索班ということになる。
まぁ、ロレーヌはともかく、ウルフから見てれば、ニヴはちょっ
とあれだし、ミュリアスはロベリア教の回し者、俺は魔物であると
いうことを考えると⋮⋮ダメだな、こいつらだけに任せるのはヤバ
い、となるのは自明である。
戦闘能力とかだけを見ると、マルトでは結構優秀な方じゃないか
と思うが⋮⋮それ以外の素性の部分で、信頼しきれない部分があり
すぎた。
ギルドマスター
それでも俺のことは信じてくれていたようだが、他の冒険者も行
かせるのは信用していないというわけではなく、冒険者組合長とし
ての義務という責任があるからだ。
﹁⋮⋮不安なメンバーだな﹂
ロレーヌがぽつりと馬車の中でそう言った。
俺とミュリアスは深く頷いたが、ニヴは一人口笛を吹いていた。
聞いたことのない旋律である。
作曲までできるのかな?
2047
だとすれば、無駄に万能であるニヴであった。
◇◆◇◆◇
しき
﹁さぁ、屍鬼狩りの始まりですよ! 皆さん﹂
テンション高く︽新月の迷宮︾の前でそう宣言して、中に突入し
たニヴである。
それを追いかけるミュリアス、さらにその後ろに俺たちと続いた。
﹁⋮⋮ふむ、ミュリアス。貴女は冒険者ではないようだが、それな
りの訓練は積んでいるようだな?﹂
暗い迷宮の中をひた走りながら、ロレーヌがミュリアスに尋ねる。
彼女は頷いて、
﹁ええ、まぁ⋮⋮聖女としての力が強ければそんなことせずとも構
わないのですが、私の出来ることなど微々たるものですから。戦う
力をつければ、少しは役に立つのではないかと思って訓練はしてい
ます。冒険者の方から比べれば、中途半端な代物ですが﹂
そう答えた。
しかしロレーヌは首を振って、
﹁いやいや、それほど捨てたものではない。基礎体力もそれなりに
あるようだし、曲がりなりにもニヴ殿の速度についていけているわ
けだからな⋮⋮とはいえ、やはり彼女は金級、私やレントも銀級程
度の力はある。貴女には厳しいものがあるだろう⋮⋮というわけで、
身体強化をかけさせてもらっても?﹂
2048
それは気遣いであり、またニヴが暴走したときのストッパーとし
ヴァンパイア
てミュリアスに多少期待しているが故の打算でもあった。
ミュリアスはこの言葉に素直に頷くが、
しき
﹁ですが、いいのですか? ここから先、屍鬼や吸血鬼がどれだけ
出現するか分かりません。魔力は温存された方が⋮⋮﹂
﹁確かにそれもそうなのだが⋮⋮何、魔力量にはそれなりに余裕が
ある。それに、前を進むあの人が勝手に露払いも引き受けてくれる
だろう。私たちがすべきなのは、とにかくついていくことだ﹂
スケルトン
そう言ってロレーヌはニヴを見た。
さっきから骨人やスライムなど、通常の魔物も出現しているが、
スケルトン
ニヴがばっさばっさとその自慢の鉤爪で切り倒している。
⋮⋮なんだか、骨人の頭蓋骨が吹っ飛んだり砕かれたりするのを
スケルトン
見ると、仲間が死んでいくような気分がしてちょっと憂鬱になる。
もう俺は骨人ではないのだけど、やっぱり最初に魔物になったと
グール
しき
きの体だけあって、ちょっと気に入っていたのかもしれない。
その後に続くのが屍食鬼とか屍鬼と言った腐ってる系の種族だっ
たから余計にな。
﹁⋮⋮確かに、そのようですね⋮⋮﹂
スケルトン
ニヴの後姿を見ながら、ミュリアスは呆れた顔でそう言った。
今、ニヴは骨人をさらに一体、ひっかき倒したところだ。
スケルトン
その顔はいい笑顔である。
俺が骨人だったらとりあえず近づかないな、あんなヤバそうな奴。
ミュリアスは続けて、
﹁では、お願いします﹂
2049
そう言ったので、ロレーヌが補助魔術としての身体強化をミュリ
アスにかける。
自分にかけるときほどの強化率は引き出せないというデメリット
はあるが、他人にかけられるという利点はかなり大きい。
非戦闘員にもそれなりの体力を与えることが出来るからだ。
まぁ、他人の魔力というのは反発しあう性質があるので構成は意
外と複雑らしいが、ロレーヌにとってはそれほどでもないようだ。
﹁どうだ?﹂
ロレーヌがそう尋ねると、ミュリアスは走りながら自分の体を確
認して、言った。
﹁⋮⋮すごく体が軽くなりました。ありがとうございます﹂
﹁良かった。では、改めて気合いを入れて追いかけようか。気のせ
いでなければニヴ殿の速度がどんどん上がっている気がするからな
⋮⋮﹂
ヴァンパイア
それは本当に気のせいではない。
おそらく、吸血鬼の匂いを感じているのではないだろうか?
俺には流石に匂いは分からないが、それでも同族だからか、なん
ヴァンパイア
となく気配が強くなってきているのは分かる。
吸血鬼は、近い。
2050
第313話 数々の秘密と虜囚
﹁⋮⋮おっと、ストップですよ、皆さん﹂
最前を進んでいたニヴが迷宮の通路の角で、そう言って俺たちに
静止の合図を出しつつ、静かにするようにと口元で人差し指を立て
る。
俺たちの中で一番五月蠅いのはお前じゃ、と突っ込みたくなるも、
ここでそれをしてはダメだと自分の衝動を収める。
ああ突っ込みたい。
が、そんな場合じゃない。
﹁⋮⋮どうかしたのですか?﹂
ミュリアスが代表してニヴに尋ねると、ニヴは頷き、静かに角の
先を指さした。
ミュリアスがそっと角から顔を出してその先を覗く。
すると、
﹁⋮⋮これは⋮⋮なるほど、確かに﹂
顔を引っ込めてからそう言い、俺とロレーヌにも覗くようにジェ
スチャーで示した。
俺たちは顔を見合わせ、順番に覗く。
そして、その先に見えた光景は⋮⋮。
﹁⋮⋮行方不明になってた、冒険者たち、か?﹂
2051
ロレーヌがそう言った。
俺はそれに頷きながら答える。
・・・・・
﹁ああ⋮⋮そうだな。間違いない。知ってる奴がいる﹂
俺たちの視線の先に見えるもの、それは、広間のような部屋で、
人形のように待機している十人ほどの人間と、端の方で縛られて座
り込んでいる、顔色のあまりよくない人々だった。
さらに、その中には、俺が知っている顔もある。
それは⋮⋮。
﹁ライズ⋮⋮ローラ。どうして⋮⋮﹂
一緒に銅級昇格試験を受けた二人だった。
◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮以前話していた二人か。しかし、リナとパーティを組んで楽
しくやっているという話だったが⋮⋮?﹂
﹁そのはずなんだけどな⋮⋮リナの姿が見えない。二人だけでいる
ときに捕まったのかな?﹂
細かい事情は分からない。
が、あの二人は幼馴染で、お互い憎からず思っているようなとこ
ろが透けて見えたし、リナも気を遣って離れるようなこともあった
かもしれない。
そういうときに捕まった、と考えればリナがいないことはおかし
くはないだろう。
しかし⋮⋮。
2052
しき
﹁⋮⋮屍鬼に、されてしまったのか⋮⋮?﹂
しき
今ここで一番心配すべきはそれだった。
屍鬼になれば、治す方法は、ない。
少なくとも俺は知らない。
ニヴも知らないだろう。
ヴァンパイア
知っていれば、公開しているはずだ。
なにせ、吸血鬼撲滅は彼女のスローガンなのだから。
そのために出来ることがあるのなら、公開を躊躇する理由はニヴ
しき
にはないはずだ。
つまり、屍鬼になっていたら⋮⋮たとえ、ライズとローラと言え
ども、倒さざるを得ないということになってしまう。
しかし、そんな俺の心配を察したのか、ニヴは、
﹁⋮⋮ふむ。あちらに集められている方たちに関しては、まだ人間
のようです﹂
そう言って、ライズとローラが座り込んでいる方に視線をやった。
気のせいか、ニヴのその視線には安心があるような気がした。
⋮⋮そう見えるだけかな?
こいつにも人間らしい心があるのかも、と思いたい俺の心がそう
見せてるだけかもしれないが。
けれど、それから、
しき
﹁⋮⋮反対側で無表情に突っ立っている方々の方は、手遅れのよう
ですけどね。今は体を人のものから屍鬼のそれへと変化させている
段階でしょうが、ああなったらどうしようもありません。引導を渡
してあげましょう﹂
2053
そう言って向けた視線の方は、どこまで冷たく、何か狂おしい光
に輝いていた。
ふっと手元を見ると、無意識なのか手がわきわきと動いている。
その鉤爪を突きたてたくてたまらない、そんな印象を受ける。
⋮⋮やっぱさっきの視線は気のせいだな。
これでこそニヴだよ。
そう思った。
しき
﹁⋮⋮さて、それでは、みなさん。とりあえず、あちらのまだ人間
である方については救出しましょう。逆の方にいる屍鬼は全部殲滅
です。いいですね?﹂
ニヴは俺たちの顔を一人ひとり覗き込み、そう言う。
しき
逆らうことは認めない、そんな圧力の込められた強力な意思の宿
った瞳は、すでに一種の脅しだ。
言っていることは⋮⋮まともで間違いないのだが、こうして屍鬼
になる前と、なった後と、明確に分かれているのを実際に目にする
と⋮⋮まだなんとかなるんじゃないか、そんな風に思ってしまうの
が人情だ。
しき
けれど、ニヴにはそう言った線引きに対する葛藤のようなものは
一切ないらしい。
俺たちは仕方なく、頷く。
実際、言っていることは正しいし、屍鬼になったら助けられない
ことは通説的な考えなのだからそうやって割り切るしかない。
ニヴが冷酷なのではなく、ただ、冒険者としての覚悟が違うだけ、
と考えることも出来る。
俺たちの意志を確認したニヴは満足したのかふっと微笑み、 ﹁さぁ、それじゃあ行きます⋮⋮む? いや、ちょっと待ちましょ
2054
う﹂
腰を浮かしかけたが、そう言っていったん止まった。
何か問題が?
気になってニヴの顔を見ると、人差し指で静かに角の先を指した。
どうしたのかと覗いてみると⋮⋮。
﹁⋮⋮だから、あんまり難しく考えるなって﹂
そんな声が聞こえて来た。
見れば、二人の人物が迷宮の奥の方から、俺たちが覗いている広
間の方へと近づいてきていた。
一人は十七、八と思しき少年、もう一人は、十四、五に見える少
女だ。
﹁でも⋮⋮本当にこんなことをして、いいの? これじゃ、人間た
ちと何も変わらない⋮⋮﹂
﹁あいつらのせいで、俺たちがどれだけ苦しんでいると思ってる?
数だけは沢山いるんだ。どれだけ減らそうが、別にいいだろうさ
⋮⋮﹂
﹁そんなこと⋮⋮﹂
﹁⋮⋮分かってるさ。でもそうでも思わないとやってられないだろ。
それに、シュミニ様はこれが必要なことだって言ってるんだ⋮⋮理
由はまだ、教えてくれないけど、あの人たちのお陰で俺たちの力が
目覚めたのは本当の事だろ? だからさ﹂
内容のよくわからない会話だが、なんとなく分かる部分もある。
2055
しき
シュミニ、という人物がいて、それが彼らの上司か何かだという
こと。
人を屍鬼に変えるという行為に対して、思う所はそれなりにある
らしいということ。
ただ、その理由については彼らは何も知らされていないというこ
と。
そして⋮⋮。
ヴァンパイア
﹁⋮⋮奴らは吸血鬼ですね。私の鼻がビンビン教えてくれています。
︱︱とりあえず、殺しましょう﹂
ニヴが楽しそうにそう言った。
2056
第314話 数々の秘密と目覚め
﹁さぁ、行きます、よッ!﹂
そう言うと同時に、ニヴは通路の角から広間に向かって飛び出し
ていった。
俺たちも後に続く。
ミュリアスは流石に戦闘員という訳ではないので出てこないが、
ヴァンパイア
彼女には聖女としての役目がある。
つまりは、吸血鬼それ自体、それに空間の浄化だ。
今はまだ出番ではないので待機、ということだ。
﹁なっ!? 何者だ!﹂
﹁誰!?﹂
ヴァンパイア
吸血鬼と思しき少年と少女が、目を見開いてそう叫ぶも、ニヴは
ただ鉤爪を振りかぶり、
﹁さぁ?﹂
そう言って振り下ろした。
一切聞く耳持たないその態度は、人型の魔物に対するそれとして
非常に正しい。
すべてがそうとは言い切れないが、彼らは人語を解するがゆえに
人の心を揺さぶることに長けていることが少なくないからだ。
言い訳や事情を聴くと、同情的になってしまう⋮⋮そして、油断
してしまって結局そのあとばっさり、なんてことは枚挙にいとまが
2057
ない。
もちろん、彼らの発言の全てが嘘とか人をだますための擬態、と
しき
は限らないのだが、今回の場合、すでに大勢の被害者が確認されて
いるし、目の前に明確にその証拠となる人々と屍鬼の蛹のような存
在がいる。
問答無用で倒してしまっても問題はない。
ヴァンパイア
強いて言うなら、先ほどの二人の会話の内容を詳しく聞きたいと
ころだが⋮⋮吸血鬼を目の前にしたニヴがどれだけそう言ったこと
を考えているのかは分からないし、俺たちは俺たちのすべきことが
ある。
まずは、新人冒険者たちの救出だ。
数はそれほど多くない。
ヴァンパイア
ライズとローラ、それに加えて四人の全部で六人である。
吸血鬼の少年と少女は、ニヴが一人で戦っており、顔を見れば﹁
プラチナ
ここは任せてください﹂と言っている。
助けはいらないだろう。
そもそも彼女は金級だ。それも、白金級に最も近いと言われるほ
どの手練れ。
俺やロレーヌが助勢して、どれだけの助けになるかは疑問だ。
だったら一人で行かせれば良かった、という気もするが、まぁ、
そこは微妙なところだ。
ニヴは結構色々な情報をくれてるし、冒険者として有能なのだが、
どこか秘密主義な部分も感じるからだ。
俺と最初に会った時からしてそうだからな。
何も言わず知らない内に余計なことまでやらかしそうな感じが強
い。
そういうことを考えて、ウルフは、じゃあニヴひとりで行け、と
は言わなかったのだろう。
⋮⋮色眼鏡で見すぎかもな。
今のところただひたすらに魔物の処理を一手に引き受けてくれて
2058
いるいい先輩冒険者であるのが客観的な事実だし、お金も一杯くれ
たし。
改めて考えるとすごくお世話になっているなぁ⋮⋮今度好物でも
聞いて飯でも奢ろうかな。それくらいはな⋮⋮とちょっとだけ思わ
ないでもない。
藪蛇な感じもしないでもないけど。
っと、それよりも⋮⋮。
﹁おい、ライズ、ローラ! 生きてるか!﹂
目が虚ろで、気を失っているのか朦朧としているのか分からない
二人の肩を軽く揺すりつつ、そう尋ねる。
すると、
﹁⋮⋮うぅ⋮⋮ここは⋮⋮あんたは⋮⋮?﹂
と返事が返って来た。
瞳の焦点もあって来たので、俺はとりあえず安心しつつ、言う。
﹁良かった⋮⋮気が付いたか。俺はレントだよ。一緒に試験受けた
⋮⋮覚えてるか?﹂
﹁レント⋮⋮レント!? なんで⋮⋮いや、それより、ローラは⋮
⋮﹂
驚きつつもそう尋ねてきたので、
﹁ここにいるよ。意識を失っているようだが⋮⋮大丈夫だ。生きて
る﹂
2059
そう言いながらローラに軽く聖気で治癒をかけると、
﹁⋮⋮あ⋮⋮あれ⋮⋮。ここ、どこ⋮⋮?﹂
そんなことを言いながら、ローラの目が開いた。 ﹁ローラ!?﹂
横でその声を聞いたライズが、立ち上がろうとするが、
﹁痛ッ⋮⋮!﹂
そう言って、倒れ込む。
見れば、足に怪我を負っているようだ。
襲われたときに怪我させられたのかな?
その上で、何らかの方法で衰弱させ、意志の力を奪い、身動きも
とれないようにしていた、という感じだろうか。
魔術の構成は俺には見れないが、身体拘束系の魔術がかかってい
る可能性はあるな。
かなり周到というか、念入りだ。
とは言え、足の傷は重傷という訳でもなく、これなら俺の力でど
うにかできる。
まぁ、出来るだけ聖気は節約したいところだが、当然、見捨てる
わけにはいかないからな。
﹁⋮⋮レント。悪い⋮⋮﹂
ライズがそう言ったので、俺は、
2060
﹁気にするなよ。俺もパーティメンバーなんだろ? 仲間を助ける
のは当たり前だ﹂
前に銅級試験を受けた後、言ってくれた言葉を思い出しながらそ
う言うと、ライズとローラが感動したような顔で、
﹁もちろんだ﹂
﹁覚えててくれたんですね⋮⋮﹂
と言って来た。
そりゃ、当然覚えてるさ。
ここ十年で、俺のことをパーティーに誘ってくれた奴は皆無とは
言わないが、それでもそんなに大勢いるわけじゃないんだ。
それに、そのほとんどが仲間に、というよりかは俺の器用貧乏な
ところに目をつけて誘って来た奴ばかりだったからな。
まともに、真正面から一緒に、なんて感じで言ってくれた奴は、
ほとんど初めてに近かった。
そういう相手は、強いて言うならロレーヌとオーグリーくらいし
か思い浮かばないが、二人ともパーティー、というタイプではない
からな。
﹁⋮⋮ま、今はそれよりも、ここを出る支度をしろ。もう立てるか
?﹂
俺がそう言うと、二人も頭が徐々にはっきりしてきたようで、
﹁ああ、立てる⋮⋮というか、さっきまで感じた怠さもないな。こ
れは⋮⋮?﹂
2061
何か酷い怠さを感じていたらしい。
別に俺は特に聖気で治癒した以外のことはしていないが、やはり
何か魔術がかかっていたのかもしれないな。
恒常的に効く様な麻痺に近い身体拘束系の魔術は、聖気に触れる
と吹っ飛ぶ。
怠くなくなった、というのはそのせいだろう。
となると、他の四人もかな?
横を見ると、ロレーヌが他の四人を叩き起こしていたが、その際
に解呪の魔術をかけているのが見えた。
やはり、そういうことらしい。
俺には細かい魔術を見る技能がないから、そこまで分からなかっ
たが⋮⋮まぁ、結果的に外れたようだし、いいか。
2062
第315話 数々の秘密と、吸血鬼の少年少女
︱︱意外なことに、善戦しているな。
救出し、回復させた新人冒険者たちを後ろに庇いつつ観戦してい
て、俺はそう思った。
ニヴが?
ヴァンパイア
いやいや、そんなわけない。
ヴァンパイア
そうじゃなく、吸血鬼の少年少女たちの方だ。
プラチナ
二対一であるから、一般的に考えれば吸血鬼の二人の方が有利な
のだが、ニヴは白金を目前にする金級冒険者。
レッサー・ヴァンパイア
普通の冒険者とは一味も二味も違う高い実力を持つ。
通常の下級吸血鬼程度ならそうそう太刀打ちできないはずだ。
しかし、思った以上にしっかりと戦えているのだ。
ニヴが手加減している可能性もあるが⋮⋮。
ニヴの鉤爪が少年吸血鬼を上から襲う。
しかし、少年吸血鬼はそれを人間にはありえない反射速度で横に
ずれることで避ける。
そのままいつの間にか持っていた刀身の赤い短剣を振るってニヴ
の首を狙った。
ニヴはこれをしっかりと視認していて、ふっと笑い、ギリギリの
ところで首を反らして避ける。
けれど、そんなニヴの挙動を待っていたかのように、今度は少女
吸血鬼の方がやはり、いつの間にか持っていた刃の赤く染まった大
鎌をその首に振り下ろす。
これは流石のニヴでも厳しいか、と思うが、大鎌はニヴの顔の手
前で止まった。
2063
⋮⋮いや、そうではないな。
ニヴは大鎌の刃を歯でガキリと噛み、白羽取りをしていた。
そのまま頭を振って少女吸血鬼を大鎌ごと吹き飛ばすと、ニヴは
空中を飛んでいく少女吸血鬼にさらに迫る。
壁に激突し、挙動が鈍くなった少女吸血鬼の首筋を狙って鉤爪を
振るう。
すると、少女吸血鬼の首に鉤爪による五本の切り傷が刻まれ、胴
体と切り離された⋮⋮流石に吸血鬼と言えどもああなれば死ぬだろ
う。
そう思ったが、首が落ちた瞬間、少女の体諸共、ふっとその首と
体は輪郭を失い、黒く染まって蝙蝠の姿となり四方八方に飛んでい
く。
それから、ニヴの遥か後ろでもう一度集合すると、全ての黒い蝙
蝠たちが合体して再度、少女の体を形作った。
﹁⋮⋮はぁ、はぁ⋮⋮﹂
少女吸血鬼は息を切らせているが、それでもしっかりと首と胴体
はつながった状態でそこに立っていた。
切られたはずなのに、という感じだが、ニヴは特に不思議そうで
はない。
その理由は⋮⋮。
ヴァンパイア
ヴァンパイア
﹁⋮⋮ほう? 名高い吸血鬼の︽分化︾ではないですか。てっきり
サン・アルム
弱っちい下っ端の吸血鬼かと思っていましたが⋮⋮思った以上に色
々と使えるようですね。血武器まで持っておられるようですし⋮⋮
これは楽しいですよ﹂
ニヴがそう言った。
2064
ミドル・ヴァンパイア
︽分化︾というのは主に中級吸血鬼が使用すると言われる特殊な
力で、その身をたった今、少女吸血鬼がしたように、蝙蝠など影の
ような動物のものへと分ける力のことだ。
これの何が凄いか、と言えば切られても無傷で復活することが出
来てしまうことだろう。
これによって、通常の物理的な攻撃が、まるで通用しない、と言
ミドル・ヴァンパイア
われている。
ミドル・ヴァンパイア
中級吸血鬼の退治の難しさの理由の一つだ。
ということは⋮⋮あの二人は中級吸血鬼なのだろうか?
サン・アルム
分からない。
ヴァンパイア
血武器というのは正直知らないが⋮⋮あれもニヴの語り口からす
ると、︽分化︾と同じような吸血鬼特有の何かなのだろうな。
ちなみに俺はどっちも使えない。
ミドル・ヴァンパイア
より正確にいうならやろうとは思わなかった、だが。
なにせ、︽分化︾は中級吸血鬼しか出来ないという頭があったか
らな⋮⋮あとでちょっと試してみようかな。
﹁⋮⋮私は楽しくない。あんたは⋮⋮いったい何なの!?﹂
少女吸血鬼が叫ぶ。
彼女からしてみれば、突然現れた刺客だ。
聞きたくなるのは理解できた。
ニヴは言う。
﹁そんなの、見れば分かるでしょう? 冒険者ですよ。貴女方の退
治を任された、ね。降参しませんか? 今なら洗いざらいすべて情
報を話すことで、天国一歩手前くらいまでは行けると思いますよ?﹂
⋮⋮情報を収集する、ということはちゃんと忘れていなかったら
しい。
2065
よかった。
まぁ、当然と言えば当然か。
彼女はなんだかんだ言って高位冒険者なのだから、俺よりずっと
ヴァンパイア
抜け目がないはずだ。
吸血鬼の進行経路についてもしっかりと分析していたし、普段が
ちょっと読めない性格をしているだけで、十分に論理的なところも
持ってる。
とは言え、天国一歩手前か。
天国に行けるとは言わないのだな。
そもそも、命は助けてやるとも言わないのか⋮⋮当たり前か。
彼らを活かそうとしたら、どうやっても人の血が必要になってく
るからな。
﹁⋮⋮ジジュー。そいつの言うことに耳を貸すな。人間は⋮⋮何も
分かっちゃいない﹂
﹁ウーゴン。でも、私は⋮⋮﹂
﹁悩むのは、後に、しろッ!﹂
少年吸血鬼が、少女吸血鬼にそう叫ぶと同時に、ニヴに飛び掛か
る。
短剣の数は増えていた。
今は、全部で七本。
サン・アルム
しかも、手に持った一本以外はすべて空中に浮いている。
あれが血武器ということなのだろうか?
刃は赤く染まっていて、普通の武器ではない空気が伝わってくる。
少年の意志に従うように、次々にニヴに向かって飛んでいき、襲
い掛かるも、ニヴはまるで踊る様にするするとすべてを回避してい
る。
2066
ミドル・ヴァンパイア
⋮⋮やっぱり、手加減していたのか。
その表情は余裕そうで、実際、
サン・アルム
﹁⋮⋮こんなものですか。やはり、中級吸血鬼ほどではない⋮⋮。
しかし、︽分化︾も︽血武器︾も⋮⋮これは、中々面白い。しかし、
致命的に技術が足りませんね⋮⋮この程度では﹂
そう言った瞬間、動きの質が変わった。
そして、鉤爪を振るい、全ての短剣を叩き落とし、砕き、さらに
はそのことに反応できないでいる少年吸血鬼の直前に一瞬で距離を
詰め、その首を切り落とす。
更に少女吸血鬼の方もほとんど同じタイミングで縦に切り裂いた。
⋮⋮が、それでも、やはり先ほどと同じだ。
少年吸血鬼も少女吸血鬼もその身を蝙蝠のものに変え、元通りに
なる。
切られた、などという事実がまるでなかったかのように。
﹁⋮⋮いくらやっても無駄だ。俺たちは、死なない﹂
少年吸血鬼の声が迷宮に響いた。
2067
第316話 数々の秘密と吸血鬼狩り
﹁⋮⋮死なない?﹂
ミドル・ヴァンパイア
ニヴがそう口にすると、少年吸血鬼は言った。
グレーター・ヴァンパイア
サン・アルム
﹁そうさ。俺たちは力を授かった。本来なら中級吸血鬼にしか扱え
ない︽分化︾、それに上級吸血鬼にしか持つことの出来ない血武器
を与えられた。見ただろう? 俺たちはいくら切られようと、いく
ら刺されようと、こうして無傷で蘇ることが出来る。何度でも、何
度でも、だ⋮⋮﹂
﹁ふむ⋮⋮なるほど、そう、です、かッ!﹂
頷きながら、ニヴは足に力を入れ、地面を蹴った。
そのまま少年吸血鬼をバラバラに切り裂いて見せるが、やはり、
黒い蝙蝠となって飛び去り、集合してまた元通りになる。
少女吸血鬼の方も同様で、なんど切り裂かれても復活してしまう。
﹁いくらやっても無駄だ⋮⋮!﹂
﹁はやく諦めなさい!﹂
少年も少女も、そう言ってニヴを襲い続けるが、けれど不思議な
ことにニヴの顔には一切、焦りはなかった。
それどころか、口の端に笑みを浮かべて楽しそうですらある。
彼女は言う。
2068
ヴァンパイア・ハント
﹁諦める? 何を馬鹿なことを⋮⋮私が吸血鬼狩りを止めるときは、
ヴァンパイア
死ぬ時ですよ。それまで、永遠に、ずっと! 貴方方は私の獲物で
す。そう、滅びるまで、ね!﹂
狂気か、執念か。
彼女の中の一体何がそこまで吸血鬼に対する執着を生み出すのか
分からないが、その狂おしいほどの思いは本物だ。
ヴァンパイア
目に宿る光、それが伝えるものは一貫して変わらず、どこまでも
吸血鬼たちの姿を追う。
彼女が諦めるときがあるとしたら、本人の言う通り、彼女自身が
ヴァンパイア
この世から消滅するときなのだろう。
そして、ニヴと吸血鬼二人の戦いはしばらく続いたが⋮⋮。
﹁⋮⋮!?﹂
﹁⋮⋮えっ⋮⋮!?﹂
ヴァンパイア
吸血鬼二人が、急に眼を見開いて、自分の体を見た。
何十回目か分からないが、ニヴに切り裂かれ、復活した直後のこ
とだった。
ニヴはそれを見て、笑う。
﹁⋮⋮ふふっ。やはりね﹂
何が、と思うが、彼女の視線が向かっている方向を見れば、一目
瞭然だ。
二人の吸血鬼、その指先を見てみると、さらさらと、砂のように
なってきているのが見て取れた。
吸血鬼二人は慌て、叫ぶ。
2069
﹁なんだこれ⋮⋮なんなんだよ!﹂
﹁どうして⋮⋮? 治れ、治れッ!﹂
そんなことを言いながら、︽分化︾を使い、腕の先だけまた形成
しなおす、ということを繰り返すも、指先の砂化は一向に治らない。
ニヴはそんな二人に言う。
ヴァンパイア
﹁⋮⋮貴方方は無知に過ぎる。吸血鬼、その能力の一つ︽分化︾。
それはその身を別の形に置き換え、そしてまた元通りにつなげる技
術ではありますが⋮⋮何度でも、永遠に、出来るというわけではな
いのです﹂
﹁な、なにを言って⋮⋮﹂
少年吸血鬼が震えるようにニヴを見て、言う。
ニヴは続ける。
﹁世の中、なんでもそうですが、無限のものなど滅多にありません
よ? 何かしらの制限があって、その中で暮らしている⋮⋮それは
どんな生き物だって同じです。意外な話ですが、魔物と言えど、そ
の限界からは逃げられないのですよ。神がそう定めた⋮⋮いえ、神
ですら、その力には限界がある。ですから、ね。貴方たちのその︽
ミドル・ヴァンパイア
分化︾にも限度がある。使いすぎると⋮⋮そのようになってしまう
という限度がね。貴方たちのような付け焼刃でない中級吸血鬼は皆、
知っている話です。貴方たちは、知らなかったようですが﹂
﹁そんな⋮⋮だって、シュミニ様は、そんなこと一言も⋮⋮﹂
2070
﹁それが貴方たちの盟主ですか? ま、そいつは滅ぼしますが⋮⋮
貴方たちにあえて伝えなかったんでしょうね。そんな限界がある、
と分かってたら、貴方たちに恐れや躊躇が生まれると思ったのでし
ょう。貴方たちのような覚悟の足りない者に、曲がりなりにも戦わ
せるためには特別な方法が必要ですが、それが、その力だった、と
いうことでしょうね⋮⋮捨て駒にされましたね。酷い話です﹂
ニヴの無慈悲な事実を突きつける言葉に、二人は、
﹁そんなわけない⋮⋮そんな、そんな方じゃ!﹂
﹁だって、私たちは、いつか私たちの国を作れるって、そこで幸せ
に暮らせるって⋮⋮﹂
そんなことを言うが、ニヴは、
﹁⋮⋮幸せな夢ですね。まるで母親が子供に聞かせるおとぎ話のよ
うです。甘く、優しく、可愛らしく⋮⋮そして全てが嘘だ。私が、
貴方方を無に帰してあげましょう。その方が、心穏やかでいられま
すよ﹂
こつり、こつり、と一歩一歩距離を詰めていくニヴ。
二人の吸血鬼は、ニヴに聞かされた話に、そして自分の崩れてい
く体に、混乱が隠せない。
動くことも出来ず、何か言葉を発することも出来ずに、ただ、ニ
ヴが近づいてくるのを見ていた。
﹁さぁ、お眠りなさい。暗闇は、暖かくあなたを迎えてくれるでし
ょう﹂
2071
ニヴは、目の前までやってきて、未だに動けないでいる少年吸血
鬼の首を、その鉤爪で刎ねた。
すぱり、と分かたれた首と体。
しかし、今度ばかりは黒い蝙蝠へと変化することなく、切断され
た部分からふっと砂に変わっていき、そして完全に消滅してしまっ
た。
さらに、少し離れたところにいる少女吸血鬼の元まで歩く。
少女吸血鬼の方も、やはり、身動きが取れない。
声も出ない。
いや⋮⋮。
﹁あ⋮⋮あっ⋮⋮私﹂
振り上げられたニヴの鉤爪を凝視して、何かを言いかけたが、
﹁貴女は、死にゆく人間の言葉など、まともに聞きもしなかったの
でしょうね﹂
そう言って、その言葉を聞くことなく振り下ろした。
真っ二つに割かれた少女の体はそのまま、砂へと変化して、空気
ヴァンパイア
に解けていく。
しき
二人の吸血鬼がいなくなったあと、ニヴはそのまま、突っ立って
いる、なりかけの屍鬼たちの方へ進み、何とも言えない表情で彼ら
を見つめてから、
﹁⋮⋮ミュリアスさん、出番ですよ。こちらへ。レントさんもお手
伝い頂けますか?﹂
2072
そう言った。
2073
第317話 数々の秘密と浄化
ミュリアスや俺の出番、とは何かといえば、聖気による浄化をし
ろということだろう。
ニヴも聖気は使えるが、浄化は不得意だ、という話だったからな。
どんな人間にも向き不向きがあるということだろう。
しかし⋮⋮。
しき
しき
﹁いいのか? なりかけとは言え、屍鬼だ。自分の手でやらなくて﹂
ヴァンパイア
俺はニヴにそう尋ねる。
ニヴは吸血鬼は絶対殺す奴だと認識しているので、それなら屍鬼
とは言え、人に任せるのは不本意なのではないか、と思ったのだ。
そんな俺の質問に対し、ニヴは首を横に振って珍しく曖昧な表情
を浮かべながら言う。
しき
﹁⋮⋮なりかけですからね。まだ身も心も屍鬼というわけではない。
とは言え、救う手段があるわけでも、ない。消滅させるしか方法が
ない。なりたくもないものに無理やりされて⋮⋮どれだけ彼らは無
念か。私にも思うところがあるのですよ。ですから、せめて苦しみ
のない手段で、安らかに、とね。おかしいですか?﹂
意外なほどに物柔らかで慈悲にあふれた意見だった。
もちろん、全くおかしくない。
それどころか、ひどく優しい話だ。
﹁いや⋮⋮ニヴがそんなことを言うなんて、ちょっと驚いただけだ。
2074
いい考えだと思うよ﹂
素直にそう言うと、ニヴは誤魔化すように笑って、
﹁ま、私は極めて慈愛に満ちた超存在ですからね。あまねく人々に
優しさを注ぐことなど普通です﹂
と肩をすくめた。
いつも通りのニヴだが何を言ってんだかという感じである。
ともかく、とりあえず浄化だな。
﹁レントさん。やり方は大丈夫ですか?﹂
ミュリアスが近づいてきてそう尋ねてきたので、俺は頷く。
﹁ああ。普通に聖気で浄化をかければいいんだろ?﹂
﹁ええ。ただ、一人ずつ行った方がいいです。まとめてやってしま
うと、消費が増えるので。私はこちらの方からやりますので、レン
トさんはあちらからお願いします﹂
しき
そう言って、なりかけ屍鬼の列の一番端に行ったので、俺は反対
しき
方向に行き、そこか順番に浄化をかけていくことになった。
無反応ななりかけ屍鬼たちは、浄化をかけると指先からゆっくり
と灰に変わっていく。
悲鳴もうめき声も何もない。
しき
ただ、その目は、穏やかな感情を伝えているように思えた。
全員を灰へと変えると、そこに残ったのはなりかけ屍鬼たちが身
にまとっていた服や持ちものだけだった。
2075
そんなものの中から、その場にいる全員⋮⋮捕まっていた者たち
も一緒に、身許を確認できそうな品を全員で回収していると、
﹁⋮⋮む、これは⋮⋮?﹂
しき
とニヴが俺の浄化した屍鬼の灰に近づき、凝視した。
それから、その中にあったもの⋮⋮つまりは、なぜか俺が聖気を
使うたびに生えてしまう植物を手に取った。
今回は芽ではなく、小さな苗木だ。
と言っても、ものすごく細く、小さいけど。
﹁これは一体⋮⋮?﹂
と、ひどく不思議そうなので、俺は説明する。
﹁俺に加護を与えたのが植物系の神様だったから、聖気を使うとな
んか生えてくるんだよ。特に害はないと思うぞ﹂
﹁ほう、植物系の⋮⋮これはまた、珍しいですね。いただいても?﹂
﹁別に構わないけど⋮⋮ただの木だぞ?﹂
そう俺が返すと、ニヴは首を横に振って、
﹁いえいえ、聖気を帯びているじゃないですか。しっかり育てれば、
いずれ聖樹になるかもしれません。あれは非常に貴重な素材なので
⋮⋮身近に手に入ればいいなと思っていたのです﹂
﹁流石にそうはならないんじゃないかと思うけど⋮⋮というか、手
に入れたことがあるのか﹂
2076
ハイエルフの治める古貴聖樹国は冒険者であってもそうそうに立
ち入れない、鎖国的な国である。
さらにそんな彼らが崇拝し、大切にしている聖樹の一部を手に入
れようとしたら、どれだけの労力が必要かわかったものではない。
葉っぱですら俺が持っている聖気の量を越える聖気を含有してい
るのではないだろうか?
前にクロープから聞いた話からすると、それくらいの品であるこ
とは確実だ。
それなのに、ニヴは⋮⋮。
俺の質問にニヴは答える。
﹁ええ、まぁ、枝を少しばかり拝借したことが⋮⋮あの時は流石の
私も死を覚悟しましたね。いやはや﹂
﹁忍び込んだのか⋮⋮?﹂
﹁他に聖樹の枝なんて手に入れる方法はほとんどないですよ。ハイ
エルフ共の放つ魔術が私を狙ってバンバン飛んでくるのです。当た
ったら蒸発してましたね﹂
そんな話を横で聞きながら、ロレーヌが、
﹁なんて無謀な⋮⋮﹂
と呆れていた。
探究心の塊であるロレーヌでも、流石に古貴聖樹国の最深部、も
っとも警戒されているところに侵入するというのは無謀な話だと捉
えるようである。
2077
当たり前か。
﹁ちなみに、何のために聖樹の枝を?﹂
﹁知りたいですか? でも、それは内緒です。いつかお見せする機
会があればそのときをお楽しみに、というところですね﹂
そう言われてしまった。
まぁ、手の内を出来る限り明かさないというのは冒険者の基本で
あるし、それだけ苦労して手に入れたものを使って何をしたのかを
教えたくないという気持ちはよくわかる。
だからこれ以上聞かない。
しき
そして、なりかけ屍鬼たちの遺品を粗方回収したところで、
﹁⋮⋮おい、こっちで何か大きな力の反応がしたんだが⋮⋮!﹂
と言いながら、他の冒険者がやってきた。
俺たちと一緒にマルトを出発した、精鋭パーティのうちの一組で
ある。
そんな彼らにたった今、ここであったことについて説明すると、
彼らの中でリーダーと思しき中年男が、
﹁⋮⋮そういうことなら、こいつらはさっさと連れて帰った方がい
いな。俺たちがそれは受けもとう。あんたたちは、探索を続けてく
れ﹂
そう言った。
2078
﹁良いのですか? 手柄は私たちが収めることになってしまいます
けど?﹂
このメンバーだとランク的にも経験的にもニヴがリーダーという
ことになるので、彼女が代表してそう尋ねる。
中年男は、
ヴァンパイア
﹁最初に吸血鬼どもを見つけたのはあんたたちなんだから、それで
いいだろう。実力や経験もあんたたちの方が上だ。それに、こいつ
らを無事に連れて戻るのも大事な任務だからな。俺たちの仲間をや
った奴を⋮⋮倒してくれよ﹂
そう言った。
ニヴはそれに頷いて、
ヴァンパイア
﹁ええ、もちろんです。吸血鬼共は、私たちが必ず滅ぼしますよ。
期待して待っててください﹂
そう返答したのだった。
2079
第318話 数々の秘密と扱いの違い
ライズやローラ達、捕まっていた冒険者たちを中年冒険者パーテ
ィに預けると、俺たちは迷宮を更に奥へと進み始めた。
と言っても、それほど奥というほど奥ではないのだが。
なにせ、︽新月の迷宮︾の第一階層にすぎないのだ。
かなり歩き回るのは楽である。
広大な広さを持つ石の迷宮である︽新月の迷宮︾の第一階層であ
しき
ヴァンパ
るが、ニヴはしっかりとマッピングされた地図を持っているようで、
角などでたまに見ているが迷うそぶりは一切ない。
俺にしたって、アカシアの地図を持っているからな。
イア
ただ、不思議なのは完全にマッピングしているのに、屍鬼や吸血
鬼たちの存在は表示されないところだろうか。
きっちり歩いている人間の名前は表示されているのだが⋮⋮使い
方が悪いのかな。
ロレーヌと色々相談したりしながら機能の確認もしているが、す
べてが分かったわけではない。
この騒動が一段落したら、もう少し迷宮を歩いて色々使い方を考
えてみるべきかもしれない。
﹁⋮⋮む、また、いますね﹂
ヴァンパイア
迷宮の角で再度立ち止まり、ニヴがそう言った。
吸血鬼をまた、発見したということだろう。
ニヴは続ける。
しき
﹁私がまず突っ込みますので、皆さんはその後に続いてください。
今度はしっかりと動いている屍鬼もいますので、そちらはレントさ
2080
んとロレーヌさんにお任せしますよ⋮⋮﹂
ヴァンパイア
角の先を見てみると、そこには先ほどのような広場があり、そこ
しき
には確かに彼女の言う通り、吸血鬼らしい、少年が一人いた。
屍鬼も数体いて、少年との違いはその顔が腐食し、肉が剥がれ、
乾燥しているところだろう。
﹁では⋮⋮行きます!﹂
ニヴがそう言って、角から飛び出していくと、
﹁何者だっ!?﹂
という声が聞こえる。
ヴァンパイア
緊迫感にあふれた叫び声だが、しかし、知性を感じる声だった。
﹁吸血鬼如きに名乗る名はありません、よっ!﹂
ニヴはそう言いながら爪を振るう。
﹁⋮⋮冒険者か、なるほど、気づいたわけだな﹂
少年はそう言って、ニヴの爪を避け、戦い始めた。
しき
﹁屍鬼ども! この女を襲え!﹂
しき
そんなことも続けていうが、その指揮が達成されることはない。
ニヴに続いて、俺とロレーヌも広場に飛び込み、屍鬼と戦い始め
たからだ。
幸い、それほど数は多くない。
2081
ヴァンパイア
全部で五体だ。
オーク
下級の吸血鬼の一種とは言え、豚鬼などと比べればそれなりの強
力な魔物である。
銅級程度であれば、二人で相手をするのは厳しいところだ。
けれど、俺は銅級だが、魔物の体と魔力、気、聖気全部持ちとい
ヴァンパイア
うちょっとしたズルがあるし、ロレーヌは紛うことなき銀級冒険者
だ。
ものの数ではないとまでは言わないが、ニヴと吸血鬼の戦いに水
を差されないように足止めしつつ戦うくらいのことは十分に出来る。
あくまでも、二人で協力しながら、だけどな。
俺が一人で色々と人間離れした動きも駆使して聖気も全開で使え
ば普通に片づけられるだろうが、そこまでやってしまうとニヴとミ
ュリアスに色々見られてしまう。
二人とも悪人だとは思っていないが、その根本を考えると全てを
見せるわけにはいかない。
俺が魔物だと露見するかもしれない、という以外に、何かのきっ
かけで敵対するとも限らないしな。
ヤーランで宗教的な部分ではかなり大らかかつ平和に生きて来ら
れた俺だが、ロレーヌに言わせるとロベリア教はマジヤバいという
ことらしいし、警戒してし過ぎることもないだろう。
まぁ、それでも結構色々知られてしまっている感じはあるが、ま
だ普通の冒険者ですと名乗っておかしくない範囲の中にはいるだろ
う。
ちなみに、どんな風に戦っているかと言えば、主に俺が前衛で、
しき
ロレーヌが後衛という分かりやすいやり方だ。
剣でもって屍鬼たちの爪や噛み付きをガードし、隙がある部分に
しき
切り付ける、というのを俺が繰り返し、ロレーヌはそんな俺の攻撃
の合間を縫って、ニヴのところへと抜けようとする屍鬼に魔術を放
ち、押し返している。
2082
もちろん、たった二人しかいないのに複数相手にこんな戦い方を
していると普通ならすぐに綻びが出てしまうものだが、その辺りは
俺とロレーヌの十年の付き合いの賜物で、連携はほぼ完ぺきなため
問題がない。
お互いが次にどういう動きに出て、何をしようとしているのか、
しき
口にせずとも、また一切合図を出さずとも分かる。
しき
例えば、俺が屍鬼に切りかかったが、あえなく弾かれて少し吹き
飛ぶ。
直後、俺に屍鬼が迫ってくるが、背中の方から魔力をふっと感じ、
しき
そのまま俺が頭を下げるように上半身をずらすと、今まで俺の頭が
しき
あった場所を射線に次の瞬間、炎の弾が撃たれ、屍鬼の顔面を燃や
す。
そんな具合にだ。
こんなことを繰り返すうち、屍鬼は一体一体減っていき、そして
最後の一匹になり、
﹁⋮⋮これで終わりだ﹂
ヴァンパイア
俺が締めくくりに剣を横に振って首を落としした。
それから背後を⋮⋮つまりはニヴと吸血鬼の方を見てみると、す
ヴァンパイア
でにそちらも戦いが終わりかけていた。
吸血鬼の少年の体は傷のない綺麗なものだったが、息が上がって
いる。
おそらく、︽分化︾を使った再生を繰り返し、スタミナが切れか
かっているのだろう。
それでも、先ほどの少年少女吸血鬼とは異なり、体は砂化してい
ない。
ニヴは少年吸血鬼に言う。
サン・アルム
﹁貴方はむやみやたらに︽分化︾されないのですね? 血武器もお
2083
使いにならないようですし⋮⋮﹂
それに対して、少年吸血鬼は馬鹿にしたように言う。
﹁ははっ。ジジュ︱とウーゴンと戦ったのかい? あいつらと僕は
違うよ。あいつらは最近仲間になったから、まだあんまり力につい
て教えてもらってなかったのさ﹂
﹁⋮⋮ほう? それはひどい話です。使い過ぎれば危険だと教えて
やれば、あんなに無残な死に方はしなかったでしょうに﹂
ニヴはそう言うが、そうでもないような気がするが⋮⋮。
結局ニヴが似たような滅ぼし方をしたんじゃないか?
まぁ、それは言っても仕方がないか。
﹁⋮⋮死んだのか。そっか⋮⋮まぁ、別にわざと教えなかったわけ
じゃないんだ。本当なら、こんなところに君たちのようなのが来る
前に、決着がついているはずだったからね﹂
2084
第318話 数々の秘密と扱いの違い︵後書き︶
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
あと少しで総合評価が十万に⋮⋮!
こんなに評価していただけるとは書き始めは全く想像していません
でした。
評価・感想・ブクマなど、とても励みになっております。
これからもどうぞよろしくお願いします。
2085
第319話 数々の秘密と強化
﹁あとから教えるつもりだったと?﹂
ニヴの言葉に少年吸血鬼は頷いて、
﹁そりゃあそうさ⋮⋮まぁ、戦うのに少し慣れてもらってから、と
は思っていたけどね。流石にここまでの手練れがやってきたのは⋮
⋮予想外だったのさ。マルト程度の辺境都市じゃ、どれだけ強くて
も銀級程度。︽分化︾さえ使えれば、死ぬこともないし、逃げるこ
ともたやすい⋮⋮はず、だったんだけどね﹂
そう言った。
少年の予測は間違ってはいなかっただろう。
ただ、ニヴの執着心や嗅覚がちょっと尋常ではなかっただけだ。
彼女がでなければもう少し時間を稼げただろうし、その間に今回
ヴァンパイア
の騒動を引き起こして逃げ去ることも容易だったかもしれない。
けれど、ニヴは来た。
執念深く追いかけ、そして的確に吸血鬼を処理していく。
﹁⋮⋮しかし、その割には、随分と余裕がありますね? ⋮⋮!?
そうですか、なるほど⋮⋮﹂
客観的に見て、少年吸血鬼は今、かなり追い詰めらている。
なんだかんだ言ってはいても、もうその消耗は限界に近く、逃げ
ようとしてもここは行き止まりだ。
それすらも厳しいはず。
それなのに、その口の端に張り付いた笑みが崩れることはない。
2086
まるで、まるでこれが計画通りだとでも言うように⋮⋮。
そのことに、ニヴは気づいたのだろう。
少年吸血鬼は言う。
﹁おや、分かってしまったのかい?﹂
その言葉に、ニヴは、
﹁⋮⋮時間稼ぎ、といったところですか? 本来の目的は街にあっ
たとでも言いたいのでしょう。しかし、冒険者の大半は街にいます。
こんなことに何の意味が⋮⋮﹂
﹁ニヴ・マリス。それは自分自身を過小評価しすぎだ。貴女さえい
なければ、マルトなど僕らにとっては羊の狩場に過ぎない⋮⋮とい
うのは少し言い過ぎかな。僕も最近知ったけど、あの街はど田舎に
・・・
ありながら、意外なほど妙にこなれた冒険者が揃ってる。ただ、そ
れでも僕らを捕らえて殺すことの出来る冒険者はいないのさ。まぁ、
ヴァンパイア
それでも僕だったら分からないけど、シュミニ様をどうにかできる
者はいないだろうね﹂
微妙なところだな。
腕の立つ奴らはそれなりにいるし、吸血鬼の再生能力は決して無
限ではないことはさっきので分かった。
だから、ずっと戦い続ければいずれは滅ぼすことも可能だろう。
しかし、狭い迷宮の石壁の間ならともかく、外で戦うとなると⋮
⋮︽分化︾によって逃げられるんじゃないか?
ヴァンパイア
ニヴなら何かしらの対抗手段を持っているかもしれないが、マル
ギルドマスター
トに今いる冒険者に吸血鬼の専門家なんていない。
ヴァンパイア
ヴァンパイア・ハンター
基本的な対策なら冒険者組合長のウルフがやっているだろうが、
的確に吸血鬼の弱点を突きながら倒す、なんていうのは吸血鬼狩り
2087
ヴァンパイア
でなければ厳しいからな。
冒険者は吸血鬼だけを相手にしているわけではないのだ。
そ
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