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実験音声学・言語学研究(Research in Experimental Phonetics and Linguistics)1: 25-29 (2009) 実験文字学の構想 池田 潤† 【 要 旨 】音 声 言 語 と 文 字 言 語 が 本 質 的 に 異 な る 研 究 対 象 だ と 考 え る 立 場 に 立 つ と 、 20 世 紀 の 言 語 学 は 音 声 言 語 と 文 字 言 語 の ね じ れ た 半面を重点的に研究してきたことになる。ねじれを是正するには、 音 声 言 語 研 究 と 文 字 研 究 を 本 格 的 に 確 立 す る 必 要 が あ り 、こ れ こ そ が 本 学 会 が 挑 む べ き 課 題 の ひ と つ だ と 筆 者 は 考 え る 。こ の 考 え 方 を 踏まえ、本稿では実験文字学を構想し、研究の事例を紹介する。 キ ー ワ ー ド : 音 声 言 語 、 文 字 言 語 、 音 法 論 、 視 覚 文 字 学 、 ERP はじめに 1. 筆 者 は 別 稿( 池 田 2 0 0 6 )に お い て 、音 声 言 語 と 文 字 言 語 は 統 語 的 、語 用 論 的 、 語彙的に異なる別の言語ないし言語変種であり、それぞれ別個に記述すべき対 象であると述べた。また、音声言語優先を標榜する現代言語学が実際には文字 言 語 偏 重 主 義 に 満 ち て い る と い う Linell( 2005) の 主 張 を 紹 介 し た 。 そ の う え で、次のような指摘をおこなった。 20 世 紀 の 言 語 学 は 音 声 言 語 と 文 字 言 語 を 混 同 し た ま ま 展 開 し た た め 、 音声言語の素材に関する研究が飛躍的に進展した半面、文や句という文 字言語の単位に立脚した文法研究が音声言語研究と称して行われる結果 と な っ た の で あ る 。 21 世 紀 の 言 語 学 に 求 め ら れ る の は 、 こ の 混 同 か ら 脱 却 し 、両 者 を 別 個 の 研 究 対 象 と し て 確 立 す る こ と で あ る 。 ( 池 田 2006: 329) これを図示すると、次のようになる。すなわち、音声や文字によって同一の言 語 が 表 示 さ れ る ( 図 A) の で は な く 、 音 声 が 表 示 す る 言 語 と 文 字 が 表 示 す る 言 語は統語的、語用論的、語彙的に異なる別の言語であり、前者を音声言語、後 者 を 文 字 言 語 と 呼 び 分 け る 必 要 が あ る ( 図 B) と い う の が 筆 者 の 主 張 で あ る 。 † 筑波大学大学院人文社会科学研究科 25 池田 潤 図 A 図 B 図 B で 網 掛 け を 施 し た 部 分 が 、上 述 の「 音 声 言 語 の 素 材 に 関 す る 研 究 」と「 文 や 句 と い う 文 字 言 語 の 単 位 に 立 脚 し た 文 法 研 究 」と い う 2 0 世 紀 の 言 語 学 が 力 を 傾 注 し て き た 研 究 領 域 で あ る 。図 A の よ う に 音 声 言 語 と 文 字 言 語 を 同 一 の「 言 語 」 と み な す な ら 、 20 世 紀 の 言 語 学 は 「 言 語 」 と そ の 最 も 重 要 な 表 現 実 質 で あ る「音声」を研究してきたことになる。ところが、図 B のように音声言語と文 字 言 語 が 本 質 的 に 異 な る 研 究 対 象 だ と 考 え る 立 場 に 立 つ と 、2 0 世 紀 の 言 語 学 は 音声言語と文字言語のねじれた半面を重点的に研究してきたということになる。 筆 者 は 図 B の 立 場 に 立 ち 、 こ の ね じ れ を 是 正 す る こ と こ そ が 21 世 紀 の 言 語 学 のひとつの大きな課題だと考えるのである。 ねじれを是正するには、網掛けを施した部分の研究を従来通り着実に続けつ つ、網掛けのない部分、すなわち音声言語研究と文字研究を本格的に確立する 必要がある。このうち音声言語研究の必要性をいち早く指摘したのが、本学会 会 長 の 城 生 佰 太 郎 氏 で あ る 。城 生 氏 は 1 9 8 5 年 の 著 作 の 中 で 従 来 の「 文 法 」が 事 . . . . 実 上「 文 字 言 語 の 法 」で あ っ た と 指 摘 し 、文 法 論 に 対 置 さ れ た「 音 声 言 語 の 法 」 としての「音法論」の必要性を唱えている。文や句といった文字言語の単位に とらわれずに音声言語を研究するためには、まず音声言語の単位を確立する必 要 が あ る 1 。実 験 と い う 手 法 を 用 い て 音 声 言 語 の 単 位 を 確 立 す る こ と が 、本 学 会 の挑むべき課題のひとつだと筆者は考える。 本学会が取り組むべきもうひとつの重要課題が文字研究である。別稿でも指 摘 し た よ う に 、「 文 字 は 音 声 と 並 ぶ 言 語 記 号 表 現 で あ る が 、 2 0 世 紀 の 言 語 学 を 貫くひとつの理念として音声言語中心主義が存在したため、ソシュールやブル ームフィールドを初めとする多くの言語学者が文字という記号表現にほとんど 関 心 を 向 け て こ な か っ た 」( 池 田 2 0 0 8 : 2 )。 音 声 に 関 し て は 、「 ① 言 語 音 の 産 出 に か か わ る 生 理 音 声 学 (physiological phonetics)、② 口 唇 よ り 放 出 さ れ た 後 の 段 階 を 扱 う 音 響 音 声 学 (acoustic phonetics)、 ③ 聴 覚 器 官 で 受 容 さ れ た 後 、 大 脳 に おける聴覚情報処理系の営みによって言語音が認知理解されるまでの段階を扱 う 聴 覚 音 声 学 ( a u d i t o r y p h o n e t i c s ) 」( 城 生 2 0 0 6 : 5 5 ) と い う 3 つ の 分 野 が 確 立 されているが、文字についても同様の研究分野を確立していく必要があろう。 このうち、②に対応する分野は筆記された後の段階を扱う研究分野となる。 筆 記 さ れ た も の を「 文 献 」と 総 称 す る な ら ば 、こ の 研 究 分 野 は 文 献 学( p h i l o l o g y ) に含まれることになる。文献学は数千年の伝統をもつ学問であり、文字資料に 1 城生 いる。 (1985) は 、音 声 言 語 の 単 位 と し て 呼 気 段 落 、頂 点 段 落 、意 義 段 落 等 を 提 示 し て 26 実験文字学の構想 基づいて過去の歴史や文化の全体像を描き出すことを目的とする。この目的の ために、文献学は文献をあらゆる角度から精査する。その作業の基盤は、言う までもなく文字の精査である。文献学における文字の精査とは、未解読の文献 を 対 象 と す る 場 合 、( a ) 無 限 に 異 な る 字 形 の 中 か ら 弁 別 的 な 単 位 を 抽 出 す る こ と で あ り 、解 読 済 み の 文 字 で 書 か れ た 文 献 を 対 象 と す る な ら 、(b)弁 別 的 な 単 位 を 同 定 し て 個 々 の 文 書 を 解 読 す る こ と で あ り 、ま た ( c ) 弁 別 的 で は な い エ テ ィ ッ ク な字形の異なり(異字体など)の調査分類に基づき古文書の年代や書き手を推 定 す る こ と で あ る 。 (a)は 文 字 の 解 読 、 (b)は 文 書 の 解 読 、 (c)は し ば し ば 古 文 書 学 ( paleography) な い し 碑 銘 学 ( epigraphy) と 呼 ば れ る が 2、 (a)(b)(c)を 合 わ せ た 研 究 分 野 を 指 す 名 称 は 存 在 し な い 。 そ こ で 、 筆 者 は 別 稿 ( 池 田 2006: 331) で これを文献文字学と呼ぶことを提案した。したがって、文献文字学は新しい研 究 分 野 で は な く 、 い わ ば 古 く か ら 文 献 学 の 一 部 と し て 研 究 さ れ て き た (a)(b)(c) の 総 称 で あ る と 言 え る 。そ の た め 、文 献 文 字 学 は 基 本 的 に は 実 験 研 究 で は な い 3 。 ①と③に対応する分野としては、失読・失書の臨床研究を基盤とする「神経 文 字 学 」が 存 在 す る 4。し た が っ て 、文 字 の 実 験 研 究 と 言 え ば 、こ の 分 野 を 指 す ことになる。神経文字学については、主に医学の分野で失読・失書の臨床研究 にもとづく研究の蓄積があるが、言語学における研究は皆無に近い。したがっ て、言語学の立場から文字の実験研究を行う意義は大きく、これが本学会に課 された使命のひとつだと筆者は考える。 言語学の立場から文字の実験研究に取り組む場合、少なくともその初期段階 に お い て は 、文 字 の 産 出 と 認 知 に 同 じ 重 き を 置 い て 研 究 す る こ と に は な ら な い 。 記号の産出(話す)と認知(聞く)がほぼ同時におこなわれ、日常的な伝達に お い て は 記 号 が 保 存 さ れ な い 音 声 と 異 な り 、文 字 の 場 合 、一 般 に 記 号 の 産 出( 書 く)を度外視しても文字の研究は可能であり、実際に文献は文字の産出プロセ スを度外視して認知(読む)されることが多い。それは、文献研究者が文字の 産出過程に無関心だからではない。文字の産出過程が分かると文献に関する理 解が格段に深まるため、当然のことながら文献研究者は文字の産出過程に多大 な関心をもっている。しかし、古代の文献の場合、文字の産出過程はもはや知 り得ないし、現代の文献であっても文字の産出と認知には通常時間差があり、 産出が個人の営為であるため、研究者が文字の産出プロセスを知りうるケース はまれである。そのため、通常は書く過程を度外視して、文献として書かれた 結果だけを読むのである。したがって、文字の実験研究においても書くプロセ スより読むプロセスに比重が置かれてもおかしくはないのだが、神経文字学は 「 読 み 書 き 」 の 実 験 研 究 で あ り 、「 書 き 」 と 「 読 み 」 そ れ ぞ れ に 特 化 し た 研 究 分 野 の 名 称 は 存 在 し な い 。 そ こ で 、 筆 者 は 別 稿 ( 池 田 2006: 331) で 文 字 の 産 出 に かかわる分野を筆記文字学、視覚器官で受容された後、大脳における視覚情報 2 これらの用語は分野や関心によって定義が異なるため、明確な線引きが難しい。詳 し く は 、 ナ ヴ ェ ー (2000: 7-8) 参 照 。 3 た だ し 、 最 近 で は 粘 土 板 の 記 載 岩 石 学 的 分 析 ・ 化 学 的 分 析 や 羊 皮 紙 等 の DNA 鑑 定 に よって文書の出自を探る研究なども現れ、文献文字学に実験的手法を採り入れる試みも 始まっている。 4 詳 し く は 、 岩 田 ・ 河 村 (2007) を 参 照 。 27 池田 潤 処理系の営みによって文字が認知理解されるまでの段階を扱う分野を視覚文字 学 と 呼 び 分 け る こ と を 提 案 し た の で あ る 5。 これを踏まえると、文字の実験研究にとって直近の課題は視覚文字学の確立 であると言える。その第一歩として、筆者は文字類型の視覚文字学的研究に取 り組んでいる。一例を挙げると、類型的に異なる視覚刺激によって誘発される ERP の 基 本 的 な 特 徴 を 虚 心 坦 懐 に 探 る べ く 、 被 験 者 を 1 名 に 限 定 し て 基 礎 実 験 を実施した。具体的には、灰色の背景に白の「□」をコンピュータの画面に映 し て 被 験 者 に 見 せ 、 施 行 内 容 に 応 じ て 次 の よ う な 指 示 を 与 え た 6。 ● 施 行 I: デ ィ ス プ レ イ に 現 れ る 図 形 を 頭 の 中 で 繰 り 返 し て く だ さ い 。 ● 施 行 I I: デ ィ ス プ レ イ に 現 れ る 文 字 を カ タ カ ナ の「 ロ 」と し て 口 に 出 さずに読んでください。 ● 施 行 III: デ ィ ス プ レ イ に 現 れ る 文 字 を 漢 字 の 「 口 」 と し て 口 に 出 さ ずに読んでください。 本実験の結果、同一の視覚刺激であっても、それをどう認知するかによって異 なる振り分けを脳が視覚刺激処理の早い段階でおこなっている可能性が示唆さ れ た 。こ れ を 主 発 点 と し て 、視 覚 刺 激 が 誘 発 す る E R P の 基 礎 研 究 を 今 後 も 続 け 、 本学会を舞台に視覚文字学の確立を目指したいと思う。 【参考文献】 池 田 潤 ( 2 0 0 6 ) 「 文 献 言 語 学 序 説 」城 生 佰 太 郎 博 士 還 暦 記 念 論 文 集 編 集 委 員 会( 編 ) 『 実 験 音 声 学 と 一 般 言 語 学 』 東 京 堂 出 版 , 325-334. 池 田 潤 ( 2 0 0 8 )「 視 覚 刺 激 に よ る E R P の 基 礎 研 究 : 文 字 類 型 の 実 証 的 研 究 ( 1 ) 」 『文藝 言 語 研 究 』 言 語 篇 54, 1-13. 岩 田 誠 ・ 河 村 満 (編 ) (2007) 『 神 経 文 字 学 : 読 み 書 き の 神 経 科 学 』 医 学 書 院 . 城 生 佰 太 郎 ( 1 9 8 5 ) 「 音 用 論 の す す め 」 林 四 郎 ( 編 )『 日 本 語 の 教 育 』 応 用 言 語 学 講 座 1, 19-32. 明 治 書 院 . 城 生 佰 太 郎 (2006)「 実 験 音 声 学 の 研 究 方 法 」 城 生 佰 太 郎 博 士 還 暦 記 念 論 文 集 編 集 委 員 会 ( 編 )『 実 験 音 声 学 と 一 般 言 語 学 』 東 京 堂 出 版 , 5 2 - 6 0 . L i n e l l , P. ( 2 0 0 5 ) T h e w r i t t e n l a n g u a g e b i a s i n l i n g u i s t i c s : I t s n a t u r e , o r i g i n s a n d transformations. London: Routledge. ナ ヴ ェ ー , J. (2000)『 初 期 ア ル フ ァ ベ ッ ト の 歴 史 』 法 政 大 学 出 版 局 . 5 6 点字に対しては触覚文字学という研究分野をたてることができる。 実 験 の 詳 細 に つ い て は 、 池 田 ( 2008) 参 照 。 28 実験文字学の構想 An Overture for Experimental Graphetics Jun IKEDA† If we assume that a spoken language and its written counterpart are essentially distinct entities, it turns out that the twentieth century linguistics has studied mismatching aspects of them (sounds and written language) and has paid little attention to the remaining aspects (writing and spoken language). In order to solve this incompatible situation, we need to establish the science of writing (graphetics) and that of spoken language. Based on this spirit, this paper argues that the Japan Experimental Linguistics Society should play an active role in establishing exper i m e n t a l g r a p h e t i c s a n d r e f e r t o I k e d a ( 2 0 0 8 ) a s a n i n s t a n c e o f s u c h e n d e a v o r. † Graduate School of Humanities and Social Sciences University of Tsukuba 1-1-1 Tennodai, Tsukuba, Ibaraki 305-8571, Japan E-mail: ji@ lingua.tsukuba.ac.jp 29