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見る/開く - 東京外国語大学学術成果コレクション

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見る/開く - 東京外国語大学学術成果コレクション
Journal of Asian and African Studies, No., 
論 文
今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
ポスト・スハルト期インドネシアの国家,宗教,華人コミュニティ
津 田 浩 司
(日本学術振興会)
What is Going on around Chinese Temples in Contemporary Java?
State, Religions, Chinese Communities in Post-Soeharto Indonesia
Tsuda, Koji
Japan Society for the Promotion of Science
Since the fall of Soeharto’s New Order in 1998, Indonesia has experienced
political and social changes. It has been a decade of great change for ethnic
Chinese living in this country, too. Contrary to the Soeharto’s regime in which
anything related to China or ethnic-Chinese were oppressed both implicitly
and explicitly, the post-Soeharto governments have made effort to do away
with anti-Chinese policy. is change in policy has aroused the social atmosphere where everyone can enjoy “Chinese Culture” which the former regime
strictly prohibited people from expressing in public space; now, Chinese New
Year is celebrated officially.
Along with shopping malls and executive hotels, it is Chinese temples
(klenteng)
g which have become the center of celebration during this festive
New Year’s period. Though these Chinese traditional worship facilities had
largely been marginalized during Soeharto’s era and their activities had been
restrained greatly, it seems that they are getting livelier and livelier following
the general liberalizing policy regarding “Chinese Culture” mentioned above.
Keywords:
Chinese temples, Java, Post-Soeharto era, ethnic-Chinese community,
state and religion
キーワード :
寺廟,ジャワ,ポスト・スハルト期,華人コミュニティ,国家と宗教
* 本稿執筆のためのデータは,2009 年 1 月 25 日∼ 2 月 15 日にジャワ島を横断して行なった調査旅行
によって得られたものである。同調査旅行は,日程の大半の期間を工藤裕子氏(東京大学大学院)と,
また日程前半を小池まり子氏(東京外国語大学大学院),日程後半を北村由美氏(京都大学東南アジ
ア研究所)と共同で企画・実施した。なお,1980 年代末を中心にジャワ島内の寺廟の大半を巡り,
扁額や石碑などに刻まれた碑文を網羅的に紹介したものとして Salmon & Siu[1997]がある。本調
査旅行においても同書を重要な指針として活用し,また行程中の 2 日間は,Myra Sidharta 氏とと
もに中・西ジャワを調査旅中であった Claudine Salmon 氏本人と一部同道し,様々なご教示を受け
た。本稿執筆にあたっては,永渕康之氏(名古屋工業大学大学院),ならびに貞好康志氏(神戸大学
大学院)に,草稿の段階から丁寧に御指導をいただいた。また,2009 年 7 月には第 61 回現代人類
学研究会(於:東京大学駒場キャンパス)において本稿を発表する機会を与えられ,相沢伸広氏(ア
ジア経済研究所),中田有紀氏(東洋大学)をはじめ参加者各位から貴重なコメントをいただいた。
ここにお礼申し上げる。
38
アジア・アフリカ言語文化研究
79
en, what on earth is going on and what sort of change is taking place
around Chinese temples in Indonesia after 10 years of post-Soeharto era?
What kind of problems are they facing?
To investigate these issues, the author and 3 other researchers executed a
field trip during Chinese New Year’s period of 2009, visiting about 30 Chinese
temples located in East Java Province and the northern coastal area of Central Java Province. Based on the result of this field trip, this paper will argue
several up-to-date topics concerning Chinese temples in post-Soeharto Java,
which will further reveal the nation-wide situation in Indonesia. Also, this
paper will explore the complicated relationships among the Indonesian state,
religions—especially “Chinese religions” such as Buddhism, Confucianism
and Taoism—and Chinese local communities surrounding the temples.
1. はじめに
4.1. 相互訪問によって取り結ばれる関係性
2. 祀られている神明
4.2. 上部組織を介して取り結ばれる関係性
2.1. 中国に由来する神明
4.3. 神明によって取り結ばれる関係性
2.2. ジャワ特有の神明
5. 寺廟の活動
3. 寺廟の位置づけをめぐる問題
5.1. 定期的・組織的な宗教礼拝
3.1. 寺廟の宗教的位置づけ
5.2. その他の活動 ―華人コミュニティ
3.2. 寺廟の法的位置づけ
の結節点として
4. 寺廟相互間の交流
6. おわりに
とっても,この 10 年は大きな変化の 10 年
であった。1965 年の 9 月 30 日事件を機に誕
1. はじめに
生したスハルト体制が,一般に中国や華人に
1998 年にスハルト新秩序体制が崩壊した
まつわるものに対して極度に警戒的・抑圧的
インドネシアでは,その後「レフォルマシ」
であったのに対し ,98 年 5 月のジャカルタ
(reformasi:改革)の呼び声のもと,政治的・
暴動 を経て成立したその後の諸政権は,同
社会的にさまざまな変化が生じている。この
暴動後国外に流出したいわゆる華人マネーを
1)
国に暮らす華人系住民(以下「華人」 )に
2)
3)
4)
呼び戻そうとの思惑 ,ならびに人権意識と
1) 「華人」という語は狭義には,仮住まいの意を含む「華僑」に対し,政治的に現居住国に帰属する
ことを示す用語として 20 世紀後半から徐々に使われ出した経緯があるが,本稿では国籍の別など
にかかわらず中国系住民を指す語として広義に用いることとする。なお近現代インドネシアにお
いては,この「華人」カテゴリーはしばしば,かつての「原住民」カテゴリーである「プリブミ
(Pribumi)」と対立的に語られてきた[津田 2008: 19-23]。
2) スハルト政権内部で中国や中国文化,華人系住民に対する政策がどのような過程で策定されたかを
分析したものとしては相沢[2006]を見よ。
3) 「5 月の悲劇(Tragedi Mei)」と呼ばれるこの大暴動では,ジャカルタをはじめとする大都市各所
で華人経営の商店が多数略奪・放火されたのみならず,少なからぬ華人女性がレイプ等の被害に
遭ったと言われている。この 5 月暴動を頂点とする 1998 年前後の華人に対する暴力を分析したも
のとしては Purdey[2006]を見よ。
4) 1998 年の暴動後,スハルトの後任ハビビ大統領がいかに華人マネーを呼び戻すのに腐心したかに
ついての素描は Purdey[2006: 174-178]を見よ。
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
結びついた国内外からの強い批判の声を受け
て,従来の差別的な対華人政策の大幅見直し
5)
39
や高級ホテルなどと並んで祝祭の中心とな
る の は, イ ン ド ネ シ ア 語 で「ク レ ン テ ン
7)
を迫られ ,徐々にではあるがそれを実行に
(klenteng)」 と 呼 ば れ る 寺 廟(中 国 寺 院)
移してきたからである。そうした社会環境の
である。華人たちの伝統的信仰の拠り所であ
大きな変化を受け,今インドネシアでは,長
り続けてきたこれら施設は,スハルト期に
らく公共の場で表出することが禁じられてき
あっては無論活動が大幅に制限されたり増改
た「華人文化」を誰もが自由に享受できる空
築が厳しく規制されるなど日陰の立場に置か
6)
8)
気が全国的に生じており ,旧正月(Imlek)
れてきたが ,上述のようなここ数年の「華
ともなると町中に赤い提灯などの派手な装飾
人文化」開放の流れに伴って,次第にその活
や「Gong Xi Fa Cai(恭喜發財)」などといっ
動が活性化しつつあるのだ。
た文字が躍るようにもなっている。
この旧正月の期間にショッピングモール
それでは,ポスト・スハルト期に入って
10 年経った今,この国の寺廟およびそれを
5) スハルト体制下の華人に対する抑圧的な法令を整理したものとしては Suryomenggolo[2003]を,
またその後の政権によってなされた法改正については Winarta[2008]を見よ。
スハルト体制下の抑圧的な対華人政策を最も象徴的に示す法令のひとつとして,「チナの宗教,
信仰,慣習に関する大統領訓令 1967 年第 14 号」(Instruksi Presiden No. 14/1967 tentang Agama,
Kepercayaan dan Adat-istiadat Cina)があった。この法令は,中国に由来する宗教や信仰,伝統的
慣習の実践を公の場で行なうことを禁ずるという非常に厳しい内容のものであったが,第 4 代ア
ブドゥルラフマン・ワヒド大統領の時代に,従来の対華人政策の大幅見直しと人権への配慮を旨と
する「大統領訓令 1967 年第 14 号の撤廃に関する大統領決定 2000 年第 6 号」(Keputusan Presiden
No. 6/2000 tentang Pencabutan Inpres No. 14/1967)が出され,法的効力を失った。ワヒド政権によ
7
るこの法令撤廃は,同大統領による中国正月(Imlek)祝日化への方向づけ,そして大統領自らが
「自分には華人の血が入っている」と公言したことと並んで,この国に暮らす華人たちから大いに
評価されたきわめて意義深く画期的な出来事であった。第 5 代メガワティ政権下の 2002 年には中
国正月が国民の祝日に昇格する(実際に祝日として祝われたのは 2003 年から)に至り,「華人文
化」開放の方向性は疑いようのないものとなった。また,2006 年には「インドネシア共和国の国
籍に関する 2006 年法律第 12 号」(Undang-undang No. 12/ 2006 tentang Kewarganegaraan Republik
Indonesia)が公布・施行され,この国で生まれた華人系住民は少なくとも法令上は「華人の血」
を理由に差別的扱いを受けることがなくなった[松村 2008]。
6) この流れの一環として,スハルト体制崩壊後数年が経過してからインドネシア各地の地方都市に至
るまで広まった中国語(北京官話)学習ブームが挙げられる。これについては第 5 節で触れる。中
ジャワ州の一地方小都市ルンバンの華人たちが,どのように新たに解禁された中国語学習に臨んで
いるかを分析したものとして,津田[2009]を見よ。
7) この「クレンテン」という語は一般には,寺廟で礼拝の際に用いられる鉦の音に由来しているとい
われている[Buanadjaya 1980: 97-98]。また,福建語の「観音堂(Kwan Im Tang)」が訛って発
音されたものとする異説もある[Salmon & Lombard 2003: 111]。なお,インドネシアの寺廟建
築一般に見られる特徴については Gunawan (ed.)[1998: 115]を見よ。
8) 寺廟を規制する法令の代表としては,
「クレンテンの整序に関する内務大臣訓令 1988 年第 455.2360 号」(Instruksi Menteri Dalam Negeri No. 455.2-360/1988 tentang Penataan Klenteng)が挙げら
g
れる。この法令ではまず,
「クレンテンとは,いかなる名称を用いていようとも,中国の信仰およ
び伝統的慣習に基づいた祖霊の礼拝や崇拝のために使用される一般に開放された場所,建物,もし
くは建物の一部のことを指し,それらは通常竜や鳳凰,麒麟,虎,八卦,または神々や歴史上の人
物,聖人の像,そして漢字で書かれた文字など,中国民衆の伝統的信仰に起源を持つ諸シンボル
で装飾されている」と定義している。その上で,そもそもそのような「外国の文化システム(tata
budaya asing)」は「インドネシアの個性(kepribadian Indonesia)」にそぐわないので退けられ
ねばならず,したがって今後はクレンテンを新築したり,建物を拡張したり,維持の範囲を超えて
修復することは一切認められないと定めている。またこの法令ではあわせて,上で定義されたクレ
ンテンがその名称として,元々は「中国の伝統的信仰に基づかない仏教の施設」を指す用語である
「ヴィハラ」などを冠することも禁じている。なお同法令は,註 5 で触れた「大統領決定 2000 年
第 6 号」の発布に伴い法的根拠を失った。
40
アジア・アフリカ言語文化研究
79
図 1.ジャワ島全図
取り巻くコミュニティ周辺では,具体的にど
報告したものなども[Salmon 1993],少な
のような事態が生じ,どのような変化が起
くない。しかし,そうした宗教的全体状況な
こっているのだろうか。またそれらは一体ど
いし個々の宗教団体の動向が,地方の華人コ
9)
のような問題に直面しているのだろうか 。
この点と関連して,インドネシアの国家,
ミュニティにおいては実際どのように発現
し,どのような問題を生み出しているのか,
宗教,および宗教コミュニティとの間の相互
また人々の信仰実践にどのような変容を来し
関係については,これまでもジャワ・イス
てきたかについては,研究蓄積も限定されて
ラームやバリ・ヒンドゥーなどを通して見る
いる[津田 2006]。
ような事例研究において,すでに優れた蓄積
一方,インドネシアの寺廟研究に関して
がある[福島 2002; 小林 2008; 永渕 2007]。
言えば,ジャカルタやスマランなど一部の
また,仏教や孔子教など,いわゆる「華人の
大都市に存するものについては,主に歴史
宗教」がインドネシア国家との関係でどのよ
的観点からの調査がすでにあり[Salmon &
うに位置づけられてきたかを跡付けたものや
Lombard 2003; Liem 2004 (1931)]
,
またジャ
[Brown 1987; Coppel 1989, 2002a, 2002b;
ワに点在する寺廟については,その略史を紹
Suryadinata 1993, 1998; 北 村 2009], あ る
介したもの[Moerthiko (ed.) 1980]や,あ
いは,華人が移住先でいかに現地社会と混淆
るいは膨大な数の碑文を網羅的に記録・整
しつつ独自の信仰要素を生み出してきたかを
理した記念碑的研究もある[Salmon & Siu
9) 福建の医薬神,保生大帝を祀るネットワークが国境を越えて展開していく様を歴史的に跡づけつつ
丸山[2001: 72]も主張するように,寺廟の力は下からの民衆の力の発現であるという特徴を確か
に持っているが,実際のネットワーク形成の活動(あるいは個々の寺廟の活動の展開)は,政治・
経済的諸条件との対抗や協調の中でその時その時の決断を経ながら行なわれるものである。華人の
伝統的信仰施設の活性化についてはこれまでも,改革開放を迎えた中国とそれを取り巻く国際地政
学上の変化という大きな文脈[cf. 三尾 2001; 志賀 2001],あるいは威信増大や観光開発などとも
結びつくような地域活性化といった文脈[cf. 上水流 1999]などから,インドネシア以外の各地で
数多く報告されており,現在インドネシアで起こっている現象も無論そうした文脈の中に位置づけ
て比較してみる必要があるだろう。ただし本稿では,この国で華人が置かれてきた社会・政治的諸
条件の特殊性と,近年それを取り巻く布置関係が劇的に変化していることの重大さとに鑑み,現代
インドネシアという文脈で寺廟周辺で生じ始めている現象に焦点を当ててみたいと考える。
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
10)
1997]
。しかしながら,寺廟がインドネシ
41
表 1 のとおりである。
アという国家のもとでどのような地位に置か
各寺廟では,それぞれの場で祀られている
れてきた/いるのか,また宗教との関係はい
神明(Sien Bing:神様)を記録するととも
かなるものであった/あるのか,さらには,
に,廟公(Bio Kong:寺廟の清掃や礼拝補
スハルト体制崩壊後の「華人文化ルネサン
助をする番人)や寺廟管理・運営組織の役員
ス」的状況の中で,寺廟やそれを取り巻くコ
などから聞き取りを行ない,あわせて可能な
ミュニティの間ではどのような事態が進行し
限り資料収集にも努めた。ただし,今回は予
ているのか,などといった今日的な観点から,
備的・概観的調査という性格から,各寺廟で
具体的現地調査に基づきつつ問題群を浮かび
の調査時間は必然的に限定されたものとな
上がらせるような研究は,管見の限り皆無に
り,したがってそれぞれの寺廟のありさまを
等しい。
厚く記述するに堪えるだけの情報を得ること
加えて言えば,ポスト・スハルト期のイ
はできなかった。しかし,ジャワの中・東部
ンドネシア華人については近年,その全体
の寺廟を広く見渡すことで,それらが共通に
的な概略紹介やジャカルタを中心とする華
抱える問題や,各町・各寺廟ごとの特殊性
人団体の動向分析,あるいは政策面の変化を
なども浮かび上がってきた。そこで本稿で
跡付けることなどを通して,すでに様々なこ
は,今次の調査旅行の過程で浮かび上がって
とが指摘されてきている[Herlijanto 2003;
きた問題群を整理することで,ポスト・スハ
Suryadinata (ed.) 2008; Suryomenggolo
ルト期のジャワ―ひいてはインドネシア全
2003]。しかしながら,現代インドネシアの
土―の寺廟を取り巻いている数々の論点の
華人をより多面的かつ総体的に理解しようと
全体的見取り図を提示してみたいと思う 。
11)
するならば,各地に散らばる華人コミュニ
ティでどういった事態が生じているかについ
2. 祀られている神明
て,それぞれのローカルな文脈に即しつつ緻
密に浮かび上がらせていこうとする視点が絶
寺廟は言うまでもなく,特定の神明を祀る
対的に不可欠なのである[津田 2008: 第 1 章]。
祭壇を中心とした礼拝施設である。大抵の寺
こ の よ う な 問 題 関 心 の も と, 筆 者 ら
廟では,主神祭壇の左右にさらに祭壇を設
は 2009 年 の 旧 正 月(Imlek) か ら 元 宵 節
け,そこに別の神明を合祀している。比較的
(Capgomeh)の期間を挟む 20 日あまりを
規模の大きな寺廟では,主棟の後ろや左右に
費やして,比較的古くから多くの華人が定着
もさらに別棟が追加されており,最も大きな
したことで知られる東ジャワ州および中ジャ
部類になるとひとつの寺廟で数十体もの神明
ワ州北海岸の町々に点在する寺廟を巡る調査
を合祀していることもある。ジャワの寺廟の
旅行を実施した。本調査旅行においては,で
現状を明らかにするために,まずそこで祀ら
きる限り多くの寺廟を訪れることを第一の目
れている神明について概観することから始め
的とした。実際に訪れることができた寺廟は
たい。
10) この Salmon & Siu[1997]の研究は,Wolfgang Franke 監修のもとインドネシア国内に散らばる
中国語碑文を網羅的に記録・整理する研究の一環として出版されたもので,第 1 巻スマトラ島,第
2 巻ジャワ島,第 3 巻はそれ以外の外島の寺廟碑文・墓碑銘を収めている。
11) 筆者らは 2009 年 8 月下旬からの 3 週間あまりをかけて,東ジャワ州内の未調査の寺廟およそ 10
か所と,新たにバリ州内の寺廟およそ 20 か所を調査して廻っている。ジャワ島の寺廟に関して得
られたデータは,基本的に本稿の論点を補強するものであったが,バリ島の寺廟調査からは,個別
に議論すべき特徴やテーマが浮かび上がってきた。それら論点の提示については別稿に譲ることと
する。
42
アジア・アフリカ言語文化研究
79
表 1.調査した寺廟一覧
No.
寺廟名
所在地
主神
1
慈徳宮(Tjoe Tik Kiong)
パスルアン(Pasuruan)
天上聖母
2
龍泉廟(Liong Tjwan Bio)
プロボリンゴ(Probolinggo)
陳府眞人
3
保唐廟(Poo Tong Bio)
ブスキ(Besuki)
陳府眞人
4
白蓮山(Pai Lien San)
ジュンブル(Jember
(
)
白衣娘娘
5
観音堂(Kwan Im Tong)
ジュンブル(Jember
(
)
観世音菩薩
6
Pasarean Gunung Kawi
カウィ山(Gunung Kawi)
観世音菩薩
7
永安宮(Eng An Kiong)
マラン(Malang)
福徳正神
8
保安宮(Poo An Kiong)
ブリタル(Blitar)
廣澤尊王
9
慈徳宮(Tjoe Tik Kiong)
トゥルンアグン(Tulungagung) 天上聖母
10
慈惠宮(Tjoe Hwie Kiong)
クディリ(Kediri)
天上聖母
11
鳳山宮(Hong San Kiong)
グド(Gudo)
廣澤尊王
12
福隆宮(Hok Liong Kiong)
ジョンバン(Jombang
(
)
天上聖母
13
茂淮廟(Bo Hway Bio)
モジョアグン(Mojoagung)
善心公
14
福善宮(Hok Sian Kiong)
モジョクルト(Mojokerto)
天上聖母
15
鎮水廟(Teng Swie Bio)
クリアン(Krian)
廣澤尊王
16
関聖廟(Kwan Sing Bio)
トゥバン(Tuban)
関聖帝君
17
慈靈宮(Tjoe Ling Kiong)
トゥバン(Tuban)
天上聖母
18
慈惠宮(Tjoe Hwie Kiong)
ルンバン(Rembang)
天上聖母
19
福徳廟(Hok Tik Bio)
ルンバン(Rembang)
福徳正神
20
慈安宮(Tjoe An Kiong)
ラセム(Lasem)
天上聖母
21
義勇公廟(Gie Yong Kong Bio)
ラセム(Lasem)
陳黄弐先生
22
保安廟(Poo An Bio)
ラセム(Lasem)
廣澤尊王
23
慈澤廟(Tjoe Tak Bio)
ジュワナ(Juwana
(
)
観世音菩薩
24
大覚寺(Tay Kak Sie)
スマラン(Semarang)
観世音菩薩
25
太平亭(Tay Ping Ting)
ウェラハン(Welahan)
福徳正神
26
玄天上帝廟(Hian ian Siang Tee Bio) ウェラハン(Welahan)
玄天上帝
27
福徳堂(Hok Tek Tong)
ジュパラ(Jepara
(
)
福徳正神
28
寶安殿(Pao An ian)
プカロガン(Pekalongan)
神農大帝
29
澤海宮(Tak Hay Kiong)
トゥガル(Tegal)
澤海眞人
30
萬丹院(Vihara Avalokitesvara Banten) バンテン(Banten)
2.1. 中国に由来する神明
それぞれの寺廟の主棟内奥正面に主神
観世音菩薩
たとえば上述の廣澤尊王は泉州・漳州と関わ
りが深いとされ,また慈徳宮(トゥルンア
(tuan rumah)として祀られている神明は,
グン)や慈惠宮(クディリ),大覚寺(スマ
上記表 1 で示したとおりである。中でも目立
ラン)などで付加的に祀られている清水祖師
つのは,航海の女神である天上聖母(媽祖),
は,泉州でも特に安渓県と強く結びついた神
出稼ぎに効験ありとされる廣澤尊王(郭聖
明である。一方澤海宮(トゥガル)で主神の
王),それに土地公たる福徳正神などであり,
向かって右隣に安置されている清元眞君は,
こうした神明が多いことは,中国南岸から渡
漳州長泰県出身者からの篤い信仰を集めてお
航しそれぞれの地に定着してきた華人の歴史
り,ジャワでは他にジャカルタの鳳山廟(大
そのものを物語っている。これらに加えて観
使廟)でしか見られない珍しい神明である
世音菩薩などは,関聖帝君などと並んで他の
[Salmon & Siu 1997: XIX, 1-5, 587-607]。
多くの寺廟でも配祀されているのを見かけ
これらの神明がいつどのような形でどこに祀
る,人気の高い神明である。
られたかを手掛かりのひとつとすることで,
いくつかの神明の中には,中国内の特定地
当該神明に対する信仰の伝播,さらには中国
域と深い結びつきを持っているものもある。
の特定地域からの移民の歴史的流れの一端が
43
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
明らかになるかもしれない。
2.2. ジャワ特有の神明
なお,今回訪れた寺廟のいずれにおいても,
ジャワの寺廟には,それぞれの地で独自に
主棟正面の入口近くに天公(Tee Kong)を
祀られている神明,すなわち中国本土にその
祀る香炉が外側に向かって置かれていた。こ
源流を辿れないローカルな崇拝対象も存在す
の天公は,中国民間道教の最高神である玉皇
る。以下,いくつかを列挙してみよう 。
12)
上帝と同一視されることもあるが ,ただし
14)
・ジャワの信仰と華人の信仰の習合 ―カ
第 3 節で述べるように,国民全てが「唯一至
ウィ山
高なる神(Tuhan Yang Maha Esa)」を信ず
その筆頭としてまず言及すべきは,東ジャ
ることを絶対的に求められる現代インドネシ
ワ州マラン市郊外に聳えるカウィ山に祀られ
アの文脈にあっては,少なからぬ人々はこれ
ている聖墓の存在であろう。この標高 2,860 m
を単に抽象的な唯一神的存在と見なしている
の山の麓には,19 世紀後半に亡くなったと
ようであり,その意味ではこの天公は,この
伝えられる,ジャワ神秘主義と習合したイス
後に述べる所在地の文脈に多分に規定された
ラームの聖人(Mbah Djuggo)とその従者
13)
神明のひとつであるとも言える 。
(Iman Soedjono)の墓があったが,その傍
にはこの聖人を信奉していたひとりの華人
12) 天公については可児・斯波・游(編)
[2002: 539-540]の「天公」の項(執筆者:渡邊欣雄)を見よ。
また,台湾の民俗宗教における伝統的至上神観とその変容を論じたものとして,鄭[2009: 361374]も参考になる。
13) たくさんの祭壇をかかえる寺廟では,参拝者への便宜を図るために,礼拝の順序を示した番号を祭
壇に記していることがしばしばである。またほとんどの寺廟にはそこの番人たる廟公がおり,礼拝
の手順を教えてくれたり手助けをしてくれたりするのだが,その場合,通常寺廟参拝者は主神に向
かって礼拝する前に,正しい手順としてまず天公の香炉に線香を捧げるよう案内される。
なお「天」概念を考える上では,清末の中国大陸で康有為が中心となって,孔子を中国の教主と
して尊崇し,孔子廟に天に配して祀ろうとする孔子教国教化の試みがあったことも忘れてはならな
い。その後,康有為の試みは換骨奪胎される形で,末期的な清朝政府,そして袁世凱の帝政などに
受け継がれて行った[子安 2003: 199-235]。
この天公に捧げられた香炉が,ジャワ各地の寺廟において創建当時から存在したのか,またこ
れを設置するあり方というのがいつどのような形で広まったのかについては,今後歴史的な調査
が必要である。ちなみに筆者が集中的に調査を行なったルンバンにおいては,1970 年代初頭,華
人を取り巻く状況の悪化,ならびに唯一神への信仰が一層求められるような社会的圧力の中で,
寺廟にこの天公の香炉が設置されたことが,聞き取りから明らかとなっている。それによるとこ
の当時,町内にある寺廟,慈惠宮が単なる吉運(rejeki)や良縁(jodoh
(
)を求めるための邪教の
秘術的(klenik)な場と見なされたり,あるいは境内に夫婦の獅子像や多くの神々の像が存在す
ることをもって多神教的(musyrik)と見なされる恐れがあったため,当時の寺廟指導者たちは
「いかなる信仰といえども神への信仰を基本に持たなければならない(Semua kepercayaan harus
berketuhanan)」との見解で合意し,その上で唯一神を奉じていることを明示的に示すべく,概念
的にその同等物と考えられる抽象的な「天」に祈りを捧げる場として,新たに香炉を設置したのだ
という。なお,この天公の香炉設置以前は,慈惠宮の内陣入口右側には小さな香炉が置かれており,
参拝客はやはり建物外側に向かって線香を掲げ祈った後に,それをこの香炉に突き立てていたとい
うが,これは門の守り神(門神)に対してまず礼を尽くすという趣旨であり,天への祈りというわ
けではなかったのだという。ルンバン町内にあるもうひとつの寺廟,福徳廟は,1978 年に慈惠宮
と同一組織のもとで管理・運営されるようになるが,その際に初めて天公を祀る香炉が設置されて
いる(2003 年 5 月 7 日,ルンバンの古老 Tan Gwat Hing 氏への自宅でのインタビューによる)
[津
田 2006: 79-81, 註 46]。
14) ジャワ華人に特有の信仰については,
Salmon[1993]によるコンパクトで優れた紹介がある。なお,
鄭[2009: 382-411]は,タイおよびマレーシアの華人社会での短期調査を基に,出身地の違いに
由来する信仰形態や,それぞれの地で新たに創出された信仰形態について言及しており,より広い
文脈での比較の参考になる。
44
アジア・アフリカ言語文化研究
によって小さな祠が建てられた[関本 1982:
119-120]15)。その後,同地を訪れると経済的
79
写真 1.茂淮廟に祀られている大二老師
(撮影日:2009 年 2 月 1 日)
に成功するとの信仰が広まり,今ではジャワ
人よりも華人の参拝者が多数を占めるように
なっている。この祠では,華人参拝者はもと
16)
よりジャワ人参拝者も,線香を捧げて神杯
と神籤で占いを行なうという具合に,通常寺
廟でするのと同じ方法で礼拝を行なうことが
多いようである。筆者らがここを訪れた時点
では,ジャワ出身でシンガポールに拠点を置
く大財閥総帥が寄付したという巨大な観音像
を収める堂宇が,聖墓の麓に新築されつつ
あった。
なお上記のカウィ山麓にある祠は,ジャワ
神秘主義の聖墓に付随した施設であり,それ
自体は厳密には寺廟とは言えない。ただし,
この祠から山頂を隔てて 40 km あまり北方
に位置する茂淮廟(モジョアグン)の主棟後
方には,カウィ山に眠るイスラームの聖人の
17)
像が 1 体,
「嘉惠山・大二老師」 という名で,
18)
福徳正神と並んで祀られている (写真 1)。
和(Cheng Ho/三保公)を祀った三保公廟
このような「ジャワと中国の文化・儀式の
(スマラン)などが知られている[Salmon
混淆」とも言うべき場は,他にもたとえば鄭
1993: 283-291]。
15) Salmon[1993: 288-291] は,1950 年 代 に ス ラ バ ヤ で 印 刷 さ れ た 資 料(Im Yang Tjoe. 1953.
Riwayat Ejang Djuggo, Panembahan Gunung Kawi. Surabaja: Palma)などに基づき,カウィ山で祀
られている人物(Mbah Djuggo)は洪秀全の反乱に組して中国大陸からジャワに逃れてきた人物
であるとする謂れを紹介している。
16) この神杯(杯珓,pwee-sien とも)とは,そら豆形の 1 対の木組みを床に投げてその出方によって
事の是非を占う方法で,中国南岸や台湾では広く見られる。ジャワの寺廟でも,各々の神明の祭壇
手前には必ずといって良いほどこの木組みが置かれている。
17) 茂淮廟は 1950 年頃にはモジョアグンの町の華人たちによって建てられていたが,大二老師像は後
に,独立戦争期に同地に渡り雑貨商を営む傍らカウィ山を信奉していた人物によって持ち込まれた。
同寺廟の歴史については,Moerthiko (ed.)[1980: 275-277],ならびに同寺廟理事会が 1990 年に
編集した記念冊子[Pengurus TITD Bo Hway Bio 1990]も見よ。現在,寺廟でカウィ山の聖人
を祀っているのは,知られている限りこの茂淮廟のみとのことである(2009 年 2 月 1 日,茂淮廟
の会長(ketua)黄栢周(Oei Pek Tjoe)氏へのインタビューによる)
。
なお一般にカウィ山の方では,
Mbah Djuggo は「大老師」
,Iman Soedjono は「二老師」と,それぞれ別々の中国名で呼び習わ
されている。
18) 上で触れた茂淮廟には,大二老師の祭壇と同じ部屋に「八義兄弟(Pa Gie Heng Teh)」なる祭壇
が置かれている。これは神像ではなく位牌の形で祀られているのだが,茂淮廟現会長の黄栢周氏に
よれば,1970 年前後にバニュワギ(Banyuwangi)の町で犠牲になった 9 名の華人のうち 8 名の霊を,
同氏の兄が祀ったものだという(2009 年 2 月 1 日のインタビューによる)。なお,茂淮廟の棚には
「公元一九六五年十二月廿六日立 八義兄弟之靈 賢爐」と書かれた香炉が保管されており,聞き
取りの内容とも合わせて推測するに,八義兄弟とは 9 月 30 日事件後の混乱の中でバニュワギで命
を落とした市井の華人たちであった可能性が高いように思われる。あわせて茂淮廟の碑文を紹介し
た Salmon & Siu[1997: 824-825]を見よ。
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
・ジャワで神格化された神明―澤海眞人,
45
ことになるが,工事完成間際に彼の仕事を妬
陳府眞人,陳黄弐先生
む者の讒言によって暗殺されようとする。そ
他にジャワ特有の神明として注目に値する
のために王の部下 2 名が刺客として派遣され
のは 3 つ,すなわち,トゥガルやプカロガ
たのだが,陳はこの 2 名から自身の暗殺計
ンで祀られている澤海眞人(Tak Hay Tjin
画を打ち明けられ,その後 3 人共々一緒に
19)
Djin) , ジ ャ ワ 島 東 端 部 か ら バ リ 島 に か
歩いて―もしくは蟹の背に乗って―海を
けて祀られている陳府眞人(Tan Hoe Tjin
渡り,対岸のジャワ島東端にある山で姿を消
Djin/ 陳 眞 人 /Kongco Banyuwangi), そ
した,というモチーフの伝説が知られている
して,中ジャワ北海岸のラセムの町を中心に
[Salmon 1993: 294-297; Salmon & Sidharta
3 つの寺廟で祀られている陳黄弐先生(Tan
Oey Djie Sian Seng/義勇公)である。
このうち澤海眞人は,18 世紀半ばに実在
2000; Salmon & Siu 1997: 742-743]。
最後の陳黄弐先生に関しては,3 つの謂わ
れが知られている。1 つ目は,漳州龍渓県で
した郭六官(Kwee Lak Kwa)という名の人
18 世紀半ばから祀られていた明代の英雄,
物であったと言われているが,彼にまつわ
陳思賢と黄道周に対する信仰が,ラセムに持
る伝説には大きく分けて 2 つのヴァージョ
ち込まれたという説。2 つ目は,ラセムに初
ンが存在する。1 つ目は,彼がジャワ北海岸
めて上陸した華人を祀ったという説。3 つ目
を交易船で航行中に海賊に襲われたというも
は,澤海眞人にまつわる 2 つ目の説と類似す
ので,その後彼が悠然と船を退去するや否や
るもので,すなわち 1740 年代の VOC に対
当の船は沈み,また彼自身もそのまま姿を消
する華人蜂起の際に,地元のジャワ人ととも
し,やがて海の守り神として崇められるよう
に闘った陳と黄を姓に持つ 2 名の英雄―タ
になったというものである。2 つ目の説は,
ン・ケー・ウィー(Tan Kee Wie)とウィ・
1740 年代に華人がジャワ北海岸一帯でオラ
21)
イン・キァット(Oei Ing Kiat) ―を死
ンダ東インド会社(VOC)に対して蜂起し
後祀ったというものである[Salmon 1993:
20)
た際に ,トゥガル近郊で VOC 軍に包囲さ
298; Salmon & Siu 1997: XIX-XX, 475]。
れていた華人とジャワ人の一団を彼が救っ
なおこの陳黄弐先生は,ラセムの義勇公廟で
た,というものである[Salmon 1993: 291-
主神として祀られている他,慈惠宮(ルンバ
294; Gan (ed.) 2009: 111-112]。
ン)と慈澤廟(ジュワナ)でも寺廟隅に祭壇
次の陳府眞人も,もともとは交易商であっ
が設けられているのだが,現在この地一帯で
たと言われている。陳はバリ島のムンウィ
伝わっている伝説は,筆者による 2002 年来
(Mengwi)王国に招かれ宮殿建設に携わる
の調査によれば 3 つ目のヴァージョンのみで
19) 寶安殿(プカロガン)の礼拝担当役員 Gan Tek Tjiang を中心とするチームが独自の調査に基づい
てまとめた冊子[Gan (ed.) 2009: 91-92]によると,かつてこの寺廟では澤海眞人が主神として祀
られていたが,1918 年に神農大帝が新たに追祀されたのに伴い,主神の座を後者に譲ったのだと
いう[cf. Salmon 1993: 292; Salmon & Siu 1997: 514]。澤海眞人は,澤海宮(トゥガル)に加え
て澤海廟(スマラン),晏清廟(インドラマユ:Indramayu)で主神として祀られているのみならず,
前記の寶安殿とともに潮覚寺(チルボン:Cirebon)や金徳院(ジャカルタ)でも祭壇が設けられ
ており,18 世紀半ばからジャワ島北海岸の西部一帯にかけてこの神明に対する信仰が広まったこ
とが窺える[Salmon 1993: 291-294; Salmon & Siu 1997: XX]。
20)1740 年にバタヴィア(現ジャカルタ)で VOC によって華人が大量虐殺されたのを受けて,ジャ
ワ島北海岸の華人がマタラム朝宮廷をも巻き込んで蜂起したいわゆる「華人戦争(Perang Cina)」
については,オランダ側歴史資料を駆使した Remmelink[1994]の研究が参考になる。
21) スマランの大覚寺が鄭和来航 600 周年を記念して発刊した冊子[Gan & Kwa (ed.) 2006: 264-265]
では,この両名の英雄に対してそれぞれ「陳家偉」,「黄英杰」の字を当てている。
46
アジア・アフリカ言語文化研究
あり,地元では完全にラセム独自の神明とし
79
つつある変化についても論じようと思う。
て見なされている[津田 : 2007a: 43-46]。
以上列挙したジャワ特有といえる信仰実践
3.1. 寺廟の宗教的位置づけ
が,歴史的にどのような経緯で特定の地域に
独立以前のインドネシアでは,イスラーム
広まったのか,またより重要なことには,そ
の教えがスマトラ島やジャワ島などを中心に
れらの伝承が現代インドネシアの文脈でどの
プリブミ
ように受容され再解釈されつつあるかという
たキリスト教も東部地域など外島では無視で
現在進行中の動態については,陳黄弐先生の
きない広がりを持っており,ヨーロッパ人と
例を除き目下のところ手付かずのままであ
結びついた宗教として社会的に相当のプレ
22)
23)
の間でかなり浸透しており,ま
り ,今後の詳しい調査研究が待たれるとこ
ゼンスを保っていた。こうしたことを踏ま
ろである。なお,陳府眞人を軸に近年活発に
え,独立直後に制定された 1945 年憲法の第
なった寺廟相互間の交流については,第 4 節
29 条では,国民各自の信教の自由を保障す
で改めて述べる。
ると同時に,「国家は唯一神(への信仰)に
24)
基礎を置く」とも規定されたのである 。こ
3. 寺廟の位置づけをめぐる問題
の「唯一神への信仰」の原則はパンチャシ
ラ(Pancasila:建国五原則)の筆頭にも掲
歴史的に寺廟は,中国から渡って来た移民
げられたわけだが,やがて 1965 年の 9 月 30
やその子孫たちが信仰を寄せる神明を祀る場
日事件―公式の歴史では共産党クーデター
として建てられ,各々の町の華人コミュニ
未遂事件とされ,その背後には中国共産党が
ティの間で維持されてきた。しかしそれらは,
いたとされる―の混乱を経てスハルト新秩
単に「昔ながら」のまま存在し続けてきたの
序体制が成立すると,
「共産主義者=無神論
ではない。各地に散らばる寺廟は,それらが
者」の復活を徹底して抑え込む目的から,対
置かれた地域の社会・政治的文脈の中で独自
抗イデオロギーとしてこのパンチャシラが絶
の発展を遂げるとともに,時にはそれらに上
対視され,国民個々人の宗教心は共産主義思
から覆い被さってくる統治機構と折り合いを
想への内的砦としていよいよ重視されていく
つけつつ存立を保ってきたのである。そこで
ようになる[Brown 1987: 111; Suryadinata
この節では,ジャワの寺廟の宗教的位置づけ
1998: 6]。こうした中で全ての国民は,
「唯
と法的位置づけをそれぞれ検討することを通
一神」などの条件を満たしていると国家から
じて,それら寺廟が置かれてきた全体的枠組
認められた宗教 ―イスラーム,カトリッ
みを明らかにするとともに,その枠組みの中
ク,プロテスタント,ヒンドゥー,仏教,孔
で個々の寺廟が直面してきた,ないし直面し
子教
25)
―の中のひとつを信ずることが求
22) ジャワ人と協力してオランダに対し蜂起したという陳姓と黄姓の 2 名の華人を,インドネシアの
国家建設に貢献した歴史的な英雄(=Pahlawan Nasional:国家英雄)として顕彰することで,現
代インドネシアにおける華人全体の地位向上を図ろうと試みたポスト・スハルト期の動向について
は,津田[2007a]を見よ。
23) プリブミについては註 1 を見よ。
24) 宗教の自由を保障しつつ唯一神への信仰を国是とするという,やや矛盾した条文が憲法草案に盛り
込まれた過程については,土屋[1994: 276-277]の簡潔な説明を見よ。
25) 孔子教はすでに 20 世紀初頭から,それが宗教なのか否か,あるいは今日的な価値があるのか否か,
盛んに議論がなされていたが,その後 1965 年に他の 5 つの世界宗教と並び公認の「宗教(agama)」
のひとつとして認定を受ける(Undang-Undang No. 1/PNPS/1965)。1967 年にはインドネシア孔子
教最高評議会(Majelis Tinggi Agama Konghucu Indonesia, 略称:MATAKIN)が結成され,イ
スラームやキリスト教を模倣した形で,唯一神=天,預言者=孔子,聖典=四書を柱とする宗 ↗
47
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
められるようになり,またスハルト体制が安
年には「チナの宗教・信仰・慣習に関する大
定する 1980 年代に入る頃になると,宗教本
統領訓令 1967 年第 14 号」 が出され,
「中
体に対しても政府からの介入・管理が強まっ
国由来」と見なされた諸要素は公共の場で
てゆくことになる。
表出することが禁じられた。また 1979 年に
27)
この国の寺廟の宗教的位置づけを理解する
は,誰の目にも明らかに「チナ臭い(berbau
上でもうひとつ無視できない軸をなすのが,
Cina)」宗教である孔子教が,突然非公認扱
「チナ(Cina)」をめぐるそれである。この
「チナ」とは,中国や華人を指す蔑称である
26)
28)
いとなる 。
インドネシア各地に散らばる寺廟は,上で
が ,9 月 30 日事件後の社会的混乱からの
述べたようなこの国の近現代の宗教をめぐる
秩序回復を急務の課題に据えていたスハルト
特有とも言える状況,そしてまた,「中国ら
政権にとっては,中国との外交問題や国内華
しさ・華人性」と結びつくものを抑え込もう
人の問題などが早急に解決しなければならな
とする国家からの眼差しという,2 つの大き
い問題群のひとつとしてあり,政府はそれら
な軸の間で翻弄される中で,安定した地位
を「チナ問題(Masalah Cina)」として一体
を模索してゆくことになるのである[津田
的に解決すべく数々の政策を打ち出してゆく
2006: 69-74]。
のである[相沢 2006]。それら諸政策の眼目
なお,この地位模索の実際のあり方は,本
は,誤解を恐れずに言えば,インドネシア国
来的には寺廟それぞれの事情に応じ個々に異
内に住む華人系住民を中国本国から切り離
なっている。ただし,上で述べたような状況
し,またいわゆる土着系のプリブミ住民の反
的圧力に幾分地域的な温度差があったことを
華人感情に火が点かないようにすることに
反映してか,寺廟の対処の仕方には地域ごと
あったわけだが,これを踏まえて,華人をイ
にある程度の傾向性を見出すことができる。
ンドネシア社会に完全に「同化」させるとと
そこで以下では,東ジャワと中ジャワとに大
もに,表面的に目に付く「中国・華人らしさ」
きく分けて,その特徴を指摘してみよう 。
を抹消するという施策が採られるようにな
・東ジャワの寺廟
る。その「同化政策」の一環として,1967
29)
9 月 30 日事件後の混沌とした社会状況は,
教 と し て 体 系 化 さ れ る。20 世 紀 初 頭 の 孔 子 教 内 部 の 議 論 に つ い て は Coppel[1989; 2002a;
2002b],独立後の孔子教の動向については Suryadinata[1998: 6-9]を参照。
26) スハルト体制下のインドネシアでは,
「中国」や「華人」を指し示す用語として「チナ(Cina)」と
いう蔑称が公的に使われてきた。同体制崩壊後は,中国・華人の立場を尊重する意を込めて,1920
年代以降盛んに用いられていた「ティオンコック(Tiongkok)」・「ティオンホア(Tionghoa)」と
いう福建語由来の語が再び意識的に用いられるか,あるいは中立的なニュアンスで英語の“China”
や“Chinese”が用いられる傾向にある。これら用語の問題に関しては Coppel & Suryadinata
[1970]を見よ。
27) 註 5 を見よ。1980 年には宗教大臣・内務大臣他の共同決定として,この大統領訓令の施行細則も
定められた。
28)MATAKIN は,結成後 10 年ほどは体制翼賛政党ゴルカル(Golkar)と蜜月が続き安定した地
位を保つが,1979 年 1 月,MATAKIN 第 9 回全国大会が突如開催不許可となり,同月 27 日に
は孔子教は公認宗教ではない旨の政令が出された。この突然の公認取消し決定の背景に関して
Suryadinata[1998: 9; 2005: 81]は,従来反共のため宗教勢力の支持を必要としていたスハルト政
権が,体制の安定に伴いむしろ華人に対する「同化政策」との整合性を図るようになったため,と
推測している。より詳細な経緯の分析は,北村[2009: 26-28]を見よ。
29) 今回の調査では,古くから華人が定着したことで知られるジャワ北海岸を中心に回ったため,東ジャ
ワ州ではマディウン(Madiun)周辺の南西部が未調査であり,また中ジャワ州については内陸部
のほとんどが手付かずである。そのため,以下の記述は必ずしも東ジャワ州ないし中ジャワ州全体
の傾向として一般化できるわけではないことを,予め断っておく。
↗
48
アジア・アフリカ言語文化研究
79
東ジャワでも強く感じられていた。そうした
31)
中心となって三教會(Sam Kauw Hwee)
中,危機意識を強く持ったこの地域の寺廟関
なる組織が立ち上げられ,華人の精神的支柱
係者らは,寺廟が「宗教施設」ではなく単な
としてこの三教を近代的な宗教に体系化すべ
る「華人の施設」であると見なされ閉鎖に追
く試みられてきた歴史がある。ジャワ島西部
い込まれるのを回避すべく,対応を協議し合
では,この三教會を継承したインドネシア・
う。そうした中 1967 年 5 月に結成されたの
トリダルマ連合会(=Gabungan Tridharma
が,全東ジャワ・トリダルマ礼拝所連合会
Indonesia,略称:GTI)が活動を続けてい
(Perhimpunan Tempat Ibadat Tri Dharma
たが,他方でスラバヤを中心とする東ジャワ
se-Jawa Timur, 略称:PTITD se-Jatim)で
では,上述のように 9 月 30 日事件後の混乱
あ っ た。 こ の 連 合 会 は, 結 成 と 同 時 に 地
に対処する中で,寺廟を単なる「華人の施設」
元 の 政 府(Penguasa Perang Daerah Jawa
ではない「宗教施設」として認めてもらうべ
Timur)からの後押しを得ることに成功し,
く,独自の連合会が生まれる格好となったわ
ま た 翌 12 月 に は 宗 教 省 ヒ ン ド ゥ ー・ 仏 教
けだ 。
32)
総局(Dirjen Bimas Hindu dan Buddha,
かくして,東ジャワでは他地域に比べて多
Departmen Agama)の支持を受け,全インド
くの寺廟がこの PTITD に加入し,
「トリダ
ネシア・トリダルマ礼拝所連合会(PTITD
ルマ礼拝所(TITD)」としての地位を得る
se-Indonesia/全印尼三教廟宇聯合會 , 以下
ことになる。中には,消極的理由からこの連
「PTITD」)と名を改め,以後スラバヤの本部
合会に加入した所もあるようであり,たとえ
30)
を中心に組織を拡大してゆくことになる 。
ここで団体名に掲げられている「トリダル
ばトゥバンの町の寺廟などは,
「そのまま(=
どの公認宗教の傘下にも属していない状態)
マ(Tri Dharma)」とは三教,すなわち,仏
では閉鎖されかねなかったので」,70 年代も
教・孔子教・道教という華人の伝統的信仰
半ばになってからようやく TITD を名乗る
体系を一体と捉える宗教概念のことである。
ようになった 。いずれにしても,同州内で
ジャカルタでは早くも 1930 年代に,仏教な
は現在確認できるだけでも実に 39 もの寺廟
どに関する旺盛な著作活動で知られていた郭
がこの PTITD に加入している 。
徳 懐(Kwee Tek Hoay; 1886∼1952 年) が
33)
34)
さて,この PTITD は,スハルト体制下に
30) 2009 年 8 月 30 日,鳳徳軒(Hong Tik Hian)において PTITD se-Indonesia の第一主席兼常務執
行主席,王欽健(Ong Khing Kiong)氏へのインタビューによる。PTITD se-Indonesia の成立
経緯については PTITD se-Indonesia[1988: 1]も見よ。
31) この三教會は,その名の通り 3 つの教えの融合を標榜してはいたが,そこで説かれる仏・儒(孔)・道の
各教義の間には必ずしも整合性が取れていなかったことが指摘されている[Willmott 1960: 253]。
インドネシアにおけるトリダルマ,および三教會の略史については Djajadi[2003: 1-10],三教會の
活動の概略については石井(監修)
[1991: 190-191]の「三教会」の項(執筆者:今永清二)を見よ。
32) ジャカルタを中心とする GTI とスラバヤを拠点とする PTITD のそれぞれの聖職者団体は,1977
年に 1 つの連盟を築き,さらにその 2 年後には全インドネシア・トリダルマ聖職者評議会(Majelis
Rohaniwan Tridharma Seluruh Indonesia, 略称:Martrisia)として完全に一体化した上で,マ
ハーヤーナ系やテラヴァダ系など 9 つの仏教団体とともに,インドネシア唯一の仏教統一連合会と
して結成された WALUBI(=Perwalian Umat Buddha Indonesia)の正式メンバーとして名を連
ねた。しかし 1997 年には,Martrisia からジャカルタおよび西ジャワの支部が再び分離し,翌年そ
れらは新たに独自組織(Majelis Agama Buddha Tridharma Indonesia)を結成している[Djajadi
2003: 2-9]。
33) 2009 年 2 月 2 日,トゥバンの寺廟管理・運営組織の副書記(wakil sekretaris),余慶興(Ie Khing
Hien/Nur Iskandar)氏へのインタビューによる。
34) 今回筆者らが訪れることができた東ジャワ州内 17 寺廟のうち,15 箇所が PTITD に名を連ねてい
た。PTITD に属していなかった 2 箇所とは,カウィ山と観音堂(ジュンブル)である。この ↗
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
写真 2.茂淮廟の裏 2 階に祀られている釈迦牟尼(中)・太上老君
(右)・孔夫子(左)の像(撮影日:2009 年 2 月 1 日)
49
写真 3.白蓮山の壁に描かれた三聖人
(撮影日:2009 年 1 月 28 日)
おいては孔子教と道教が公認されていなかっ
廟(モジョアグン),福善廟(モジョクルト),
た関係で,制度上は仏教の一団体として自ら
鎮水廟(クリアン)
,関聖廟(トゥバン)の
を位置づけてきた。しかし教義上はあくま
13 箇所で三聖人の祭壇を確認できた(写真
でも仏教・孔子教・道教を一体的に奉じて
2・3)36)。これらの寺廟ではいずれも,配置
35)
おり ,そのため PTITD 傘下の寺廟には,
的に見て三聖人像が後年になってから付加さ
3 つの教えを体現する三(教)聖人(Yang
れたことは明らかであり,実際にたとえば永
Mulia Tri Nabi/Tri Suci),すなわち釈迦牟
安宮(マラン)の釈迦像などは 1966 年に追
尼・孔夫子・太上老君の像が,特別に祭壇を
加されたことが資料にも示されている[Eng
設けて祀られている場合がほとんどである。
An Kiong: 3]。また 1857 年建立の慈徳宮(パ
今回筆者らが訪れた東ジャワ州内の PTITD
スルアン)では,もともと主棟左手前に建て
所属の寺廟では,慈徳宮(パスルアン),龍
増された別棟内で孔夫子像のみを祀っていた
泉廟(プロボリンゴ),白蓮山(ジュンブル),
が,60 年代後半に同寺廟が PTITD に加わっ
永安宮(マラン),保安宮(ブリタル),慈徳
たのを機に,
「三教だから」という理由で釈
宮(トゥルンアグン)
,慈惠宮(クディリ),
迦牟尼と太上老君の像も追加したとのことで
鳳山宮(グド),福隆宮(ジョンバン),茂淮
ある 。
37)
うちカウィ山は,第 2 節で述べたように,本来はジャワ神秘主義の聖地に併設された小さな祠であ
り,厳密な意味では寺廟として独立しているわけではない。
また後者も観世音菩薩と福徳正神を祀っ
てはいるが,実際には台湾に本拠を置く天道教群英道場の礼拝施設として 2008 年に落成した圓満
佛堂(Yuan Man Fu Tang)の敷地内に併設された,小さな祠に過ぎない。
35)PTITD の定款(
(Anggaran Dasar PTITD se-Indonesia)第 7 条第 4 項には,PTITD の目的として「全て
の会員に対し,トリダルマ(仏陀,孔子,道)の教え/思想を与えることで導く」と明記されている。
36) 一方,PTITD に加入しながら三聖人を祀っていなかったのは,保唐廟(ブスキ)と慈靈宮(トゥ
バン)の 2 箇所のみであった。このうち保唐廟は比較的小さな廟であり,主棟内には陳府眞人を中
心に伽藍菩薩と福徳正神を,また外陣左翼には観世音菩薩と弥勒佛,それに関聖帝君を祀っている
のみである。一方の慈靈宮は,同じ町内にある関聖廟と一体的に管理・運営されており,事務所・
宿泊施設などの機能は圧倒的に規模の大きい後者の敷地内に一元化されている。三聖人を祀る祭壇
も関聖廟内に立派なものが設えられてあり,慈靈宮の廟公は「もう関聖廟にあるからこちらには必
要ないのだ」と語っていた(2009 年 2 月 2 日,慈靈宮でのインタビューによる)。
37)2009 年 1 月 27 日,慈徳宮で孔子教の礼拝指導を担当している Siauw Yoe Liong(Yudhi Dharma
Santoso)氏へのインタビューによる。
↗
50
アジア・アフリカ言語文化研究
79
上で列挙した PTITD 所属の寺廟は,もち
の例としては,大覚寺(スマラン)の他に,
ろんそれぞれで祀る主神は異なる。しかし,
やはり未調査ながらも福徳廟(ドゥマッ:
これらのうちでも十分な敷地を持ついくつか
Demak),保安宮(ソロ:Solo)などが知ら
の寺廟では,主棟の後方に建て増されたス
れている。ちなみに,スハルト時代に寺廟
ペースに観世音菩薩や弥勒佛,そして伽藍神
は「ヴィハラ」になるようにとの圧力がきわ
として韋駄菩薩を祀るといった具合に,互い
めて強かったとされるジャカルタや西ジャワ
に神明の配置が酷似しているのも特徴的であ
では,この後者のタイプが目立ち,その多く
る。これらは,近隣の寺廟同士で相互参照し
が萬丹院(バンテン)などの例にも見られる
合っていることは言うまでもなかろうが,そ
ように,正式名称としてサンスクリット語風
れ以上に,上部連合組織としての PTITD が
のもの(Vihara Avalokitesvara)を用いてい
奉じる教義・理念の影響が,傘下にある個々
るなど,より仏教らしさを強調する傾向があ
の寺廟で祀られる神明の種類や配置にも影響
る 。
39)
を与えたことが推察される。今後各寺廟での
中ジャワの寺廟の中には,上記の分類から
調査で,PTITD への加入時期や神明を追加
漏れ出るような特殊な地位を持つものもあ
した背景などをさらに精査していくことで,
る。特に際立ったものとして,ルンバンとトゥ
より具体的な関係性が浮かび上がってゆくも
ガルの寺廟の例を挙げることができよう。
のと思われる。
このうちルンバンの慈惠宮と福徳廟の地位
・中ジャワの寺廟
については,別のところで詳細に論じたこと
東ジャワの多くの寺廟がこぞって TITD
がある[津田 2006]。この両寺廟は 1970 年
としての地位を得たのに比べ,PTITD の影
代後半に釈迦如来像などを新たに祀り,また
響が弱かった中ジャワでは寺廟の地位がまち
正式名称も「ヴィハラ」を冠したサンスク
まちである。それらを概観すると,東ジャワ
リット語風のものに改めることで,一旦は公
のごとく TITD を名乗っているものと,正
認宗教仏教の下での安定した地位を確保す
式名称ないし別名に仏教施設であることを
る。しかし,過度に「仏教性」を強調した結
示す「ヴィハラ(Vihara)」を冠しているも
果,カトリックに改宗した華人たちを中心に
のとに大きく二分されることが分かる。前
寺廟離れが進むなど,様々な弊害が表面化し
38)
者の例としては,寶安殿(プカロガン) や
てきたことを受け,95 年に総会を開き,その
福徳堂(ジュパラ),ラセムの町の 3 つの寺
席で「クレンテンはクレンテンだ(Klenteng
廟に加え,今回未調査の福徳廟(サラティ
is Klenteng),それは華人の伝統的信仰の施
ガ:Salatiga) や 福 安 廟(ム ン テ ィ ラ ン:
設であって特定の宗教施設ではない」とす
Muntilan),それにクドゥス(Kudus)の福
る内容の定款を採択するのである。その後,
興廟・福徳廟なども挙げられよう。一方後者
一旦取得していた「宗教施設」としての認
38) 寶安殿の管理・運営組織は 1987 年に定款を改正し,正式名称を“Yayasan Klenteng Po An ian”
から“Yayasan Tri Dharma”に変更している。スハルト体制崩壊後の 2000 年には再度定款を改正
し,名を“Yayasan Tri Dharma Klenteng Po An ain”と改めている[Gan (ed.) 2009: 93-94]。
39) PTITD に所属する団体(TITD)は法的にはすべて宗教大臣が認める宗教団体とされてはいたが
(Keputusan Menteri Agama No. H/31/SK/1979 tentang Penyempurnaan Keputusan Menteri Agama
No. H/29/SK/1979),その後も華人文化を規制する法令などを根拠に内務省や宗教省ヒンドゥー・
仏教総局などからの介入を受けることになる。そのたびに PTITD は,自身が歴とした宗教団体
であることを強調するとともに,傘下の TITD は三教を一体的に奉じる独自の宗教施設であっ
て,仏教のみの礼拝施設であるヴィハラとは違うとする旨を,繰り返し主張することになる(cf.
Surat P.T.I.TD No. 001/P.T.I.TD/I/1994 tertanggal 23 Januari 1994 prihal Kelengkapan T.I.TD sebagai
Tempat Ibadah Umat Tridharma)。
51
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
定を取り消してもらうために,政府当局との
の宗教団体のもとに身を寄せたとしても,そ
交渉に 1 年あまりを費やすが,釈迦如来像な
れによって寺廟同士の関係が「支配―従属」
ど仏像を撤去することを条件に,両寺廟は晴
といったヒエラルキカルなものに一変するわ
れて「仏教施設」としての括りを外され,今
けではないということである。言い換えれば,
は「華人の伝統的施設」として単なる「クレ
各寺廟はそれぞれが直面する内外の問題に対
ンテン」を名乗っている。一般に「チナ」に
して全面的に上部組織に頼れるというわけで
まつわるものが公にはネガティヴに捉えられ
はなく,独自に解決のための方向性を探り,
ていたスハルト体制期にあって,どの宗教に
対処してゆかねばならないのである。無論,
も拠らずにむしろ「華人性」を前面に出すこ
それぞれの寺廟を支えているコミュニティの
とで自らを位置づけようとしたこのルンバン
事情や,それを取り巻く社会環境はそれぞれ
の両寺廟の事例は,散見する限り今なお他に
異なる。そうしたことから,たとえば寺廟で
類例を見ないきわめて特異なものであるとい
執り行なわれる儀式や礼拝のあり方なども自
えよう。
ずと異なってくるわけだが,これについては
一方トゥガル市にある澤海宮は,1978 年以
第 5 節で改めて述べることにする。
来ヤヤサン・トリダルマ・トゥガル(Yayasan
Tri Dharma Tegal:直葛三教基金會)とい
う組織によって管理・運営されている。ただ
3.2. 寺廟の法的位置づけ
寺廟は最近になって,位置づけをめぐるも
しこの組織は,名前の上では「トリダルマ」
うひとつの大きな問題に直面することになっ
を名乗っているが,第 4 節で述べるように,
た。それは,「ヤヤサン(yayasan)」として
特に 2000 年からは道教色の非常に濃い儀礼
の資格を維持し続けるか否かという,法的身
形態を導入するなど,PTITD とは一線を画
分にまつわる問題である 。
41)
している。このため,「トゥガル独自のトリ
このヤヤサンというのは財団に近い法人格
ダルマ」であることを示すために,組織名に
で,社会活動,宗教活動,あるいは人道活動
はあえて Yayasan “Tri Dharma Tegal” と引
を行なう非営利団体が半ば慣例的に用いてき
40)
用符をつけて標記することもあるようだ 。
た。ただし,従来ヤヤサンというもの自体を
以上見てきたように,この国の寺廟は,主
直接的に規定した法令は存在せず,慣習に由
にスハルト体制下の困難な状況を切り抜け
来する諸規則や一連の判例によってその地位
るという目的から,「TITD」になるにせよ
が位置づけられてきたに過ぎない。
「ヴィハラ」になるにせよ,そのほとんどが
スハルトが権力の絶頂に達した 80 年代半
公認宗教である仏教の傘下に入ることで存続
ばには,非営利目的の社会団体(organisasi
を図ってきた。そうした対応は時には,祀ら
kemasyarakatan=ormas) 一 般 を 規 定 す る
れる神明の追加などに端的に現れるように,
法令が立て続けに出され,一応の法整備が
名目上特定の宗教団体の看板を掲げるといっ
なされた 。しかしそこでの眼目は,全て
たこと以上の変化を各寺廟に与えてきた。し
の社会団体がパンチャシラを基本綱領(asas
かし注意しなければならないのは,仮に特定
tunggal)に掲げ,裁判所・内務省に登録す
42)
40)2009 年 2 月 8 日,澤海宮の儀礼長(ketua upacara),陳敏善(Tan Min San)氏へのインタビュー
による。
41) 本節のヤヤサンの法的背景やその問題点に関する記述については,Djasmin[2008]を参考にした。
42)「社 会 団 体 に 関 す る 1985 年 法 律 第 8 号(Undang-Undang RI No. 8/1985 tentang Organisasi
Kemasyarakatan)」を皮切りに,それを補強する政令(Peraturan Pemerintah No. 18/1986)や内務
6
6 ,および日本の NGO にあたる自助団体に関
大臣令(Peraturan Menteri Dalam Negeri No. 5/1986)
する規定(Instruksi Menteri Dalam Negeri No. 8/1990 tentang Pembinaan LSM)などが出されている。
52
アジア・アフリカ言語文化研究
79
るよう義務づけることにあった。これにより
密接に関わっているが,同時に,少なからぬ
政府は,国内で展開されるあらゆる集団活動
法令が未だにオランダ時代のものに依拠して
を,国家情報調整庁(BAKIN)や社会政治
いるという現状認識が背景にあった。こうし
総局(Dirjen Sospol)などの中央官庁,そ
たことから,ポスト・スハルト期になって
れに全国に張り巡らされた内務省系列の出先
徐々に様々な法改正・法整備が進められてゆ
機関を活用し,監視下に置くことができるよ
くわけだが,その一環として 2001 年と 2004
うになった。しかしながら一方で,政治活動
年には,これまで明確に定義されてこなかっ
もしくは秩序を乱すような活動を行なって
たヤヤサンを細かく規定する法令が発布され
いないと見なされた社会団体は,たとえ登
た。「ヤヤサンに関する 2001 年法律第 16 号
録しなくても問題視されることがなかった
(UU RI No. 16/2001 tentang Yayasan)」,お
し,また仮に登録するにしても,その社会団
よびその改正法である「2004 年法律第 28 号
体がヤヤサンとして登録するのか,はたまた
(UU RI No. 28/2004 tentang Perubahan atas
協会や連合体といった団体(perkumpulan/
UU RI No. 16/2001)」がそれである。
perhimpunan)43)として登録するのかについ
ところがこの 2 法の施行によって,多くの
てまでは,細かく問われることがなかったの
寺廟は大きな問題に晒されることになった。
が実態であった。そのためスハルト期には,
というのも,2004 年法律第 28 号第 71 条には,
多くの寺廟管理・運営組織が一応の定款を定
同法施行以前に設立されたヤヤサンは施行後
めた上でヤヤサンとして登録を行ない,法人
1 年以内に,またすでにヤヤサンとして裁判
44)
格を得てきた 。
所に登録されるか官報に記載された団体は 3
1998 年にスハルト体制が崩壊すると,そ
年以内に,定款を新法の定めに則ったものに
の後の政権は,冒頭に述べたように「レフォ
改正しなければならない,と規定されていた
ルマシ」を旗印に掲げるようになる。その
からである。その新法,すなわち 2001 年法
「レフォルマシ」が指す具体的意味内容は,
律第 16 号第 1 条および第 2 条によると,ヤ
時期や当事者によって当然強調点が異なる
ヤサンとは設立者(pembina)が特定の目
が,一般には民主化や地方分権化,汚職の撲
的のために一定の財産を分離して設立したも
滅など ―あるいは対華人政策の見直しな
ののことをいい,最高意思決定権が付与され
どもこの中に含まれるだろう ―が漠然と
たその設立者(任期なし)の下には,実際の
した共通理解であった。そしてそれらと並
事業執行者たる運営者(pengurus;任期最
ぶもうひとつ大きな課題として,
「法の支配
低 5 年),そして運営を監視し運営者に対し
(kepastian hukum)」の確立があった。これ
て助言を与える監督者(pengawas;任期最
は,KKN と略称される汚職(korupsi)・癒
高 5 年)を置く,とある。またヤヤサンには,
着(kolusi)・ 縁 故 主 義(nepotisme) を 根
これらの役職以外には会員(anggota)もい
絶しなければならないという先述の課題とも
なければ民主的意思決定の場としての会員
カー・カー・エヌ
43) この“perkumpulan/perhimpunan”については,未だにオランダ時代の官報(Staatsblad 1870
No. 64)および現行の民法(1653-1665 KUH Perdata)によって緩やかに規定されているのみに過
ぎず,ヤヤサン以上に法的位置づけが曖昧である。
44) たとえばルンバンの旧寺廟管理・運営組織 Yayasan Metta Bhumi は 1975 年に設立されたが,ル
ンバン県裁判所への登録が行なわれたのは 1986 年 3 月 8 日―註 42 で言及した 1985 年法律第
8 号が発布された 9 ヵ月後―であり,またルンバン県社会政治事務所への登録は 1994 年 10 月
24 日になってからなされている。一方,寶安殿(プカロガン)はすでにオランダ時代から団体
(Vereeniging)登録をし,その定款は 1917 年に東インド総督からの認可を受けている[Gan (ed.)
2009: 91]。
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
53
写真 4.永安宮に掲げられている
役員組織図(撮影日:2009 年 1 月 30 日)
総会(rapat anggota)のような機関もない,
と定められている。
けねばならず煩わしいとして,「普通の団体
(perkumpulan biasa)」に戻しているとのこ
46)
しかし一般の理解では,寺廟は,外に向かっ
とである 。このような対処を行なった寺廟
て広く開かれたものとして,そして町の華人
としては,他に慈徳宮(トゥルンアグン)な
たちが協力し合って維持・管理すべきものと
ども挙げられる。
して受け継がれてきたのであって,新たに法
一方,たとえばマラン市の永安宮の伽藍内
令で定められたヤヤサンの形態が果たしてそ
には,正副会長や秘書職,会計職など役割分
うした寺廟のあり得べき姿にそぐうのかどう
担のなされた運営陣の上に,5 人の監督者,
かということについては,各寺廟で判断が分
さらに 3 人の設立者をヒエラルキカルに配
かれているようである。
置した組織図が大きく掲げられている(写真
た と え ば プ ロ ボ リ ン ゴ 市 の 龍 泉 廟 は,
4)。保安廟(ブリタル),寶安殿(プカロガン)
1970 年代初めに「当時のインドネシアの時
なども,実際の運用面での権限がいかばかり
代状況に対処すべく」一旦ヤヤサンの形に
かは不明ながら,組織上は明らかに設立者職
しているが,上述の法施行を期に 2009 年か
などを置いている。
らは「元の本来の形である礼拝所(aslinya
ま た ル ン バ ン の 現 寺 廟 管 理・ 運 営 組 織
dulu; tempat ibadah)」に戻すことが決まっ
(Yayasan Dwi Kumala)は,1996 年にすで
45)
ているという 。またトゥバンの町の 2 つ
に定款を作成してヤヤサンとしての登記を済
の寺廟を管轄する組織は,スハルト時代に
ませていたが[津田 2006: 註 69],新ヤヤサ
「ヤヤサンでないと法律上保護されぬ恐れが
ン法施行に伴い設定された期限である 2008
あったから」との理由でヤヤサンを組織した
年 10 月までに,定款を新法に沿ったものへ
が,やはり同法施行後に設立者や何やを設
と改めている。ルンバンではここ 10 年あま
45)2009 年 1 月 28 日,龍泉廟の会長(ketua)
,李子昇(Listyo Sentoso)氏へのインタビューによる。
46)2009 年 2 月 2 日, 関 聖 廟 で の 余 慶 興 氏 へ の イ ン タ ビ ュ ー に よ る。 な お,“perkumpulan/
perhimpunan”については註 43 で述べたように,未だ法整備がなされてはいないが,現行法によ
れば,特定の理念に基づき社会・宗教・人道などの分野での活動を目標に掲げる団体は,公証人の
前で定款を作成して法・人権相の承認を受ければ,この“perkumpulan/perhimpunan”として法
人格を取得できる。その場合,ヤヤサンとは異なり,組織上設立者を持たない一方で会員を持つこ
とができる[Djasmin 2008]。
54
アジア・アフリカ言語文化研究
79
り,一握りの者が恒常的寄付を背景に寺廟の
運営に影響力を発揮してきたが,この定款改
4. 寺廟相互間の交流
正によって,もともと設立者職の肩書きを得
ていたこの人物のもとに名実ともに最終権限
ポスト・スハルト期に入って「華人文化」
が委ねられる形となった。そしてそのことが
開放の流れが定まったのに伴い,寺廟の活動
きっかけとなって,かつて衆議のもと「ヴィ
が活発化してきていることは,すでに指摘し
ハラ」でも「TITD」でもない,宗教的に中
た通りである。中でも一見して明らかなの
立な「クレンテン」という特殊な地位を選び
は,従来寺廟を中心に定期的に行なわれてき
取ってきたルンバンの 2 つの寺廟 ―これ
た祭が次第に派手で大規模なものになってき
は寺廟の宗教的位置づけのところですでに見
ているという事実である 。こうした祭礼は,
たとおりである―は,今や当該設立者の主
旧 正 月, 元 宵 節, 中 元 節(Tiong Gwan/
導のもと,彼自身が篤く信奉する仏教の一宗
Rebutan),中秋節(Tiong Ciu)などの祭日,
48)
派であるブッダヤーナ(Buddhayana)派の
あるいは各寺廟の建立日や主神の生日(She
礼拝施設へと方向づけられようとするといっ
Jit)など,一般に旧暦の日付に則って開催
た事態も,また現実に起き始めているのであ
される。祭礼のあり方は各寺廟や各機会ごと
47)
に様々であり,地元の寺廟関係者だけで供物
このように,寺廟は伝統や慣習に基づいて
を用意して共同礼拝するのみの場合もあれば,
る 。
同地の華人コミュニティ内で管理・運営され
49)
バンド演奏や布袋戯(wayang potehi) の
る一方で,近代国家の中にあっては,その寺
上演などの賑やかな見世物を伴う場合もあ
廟に枠組みを与える法とも決して無縁ではな
る。また主神の生日などに際しては,当該神
い。その上から降りかかってくる法的枠組み
明が神輿に乗せられ,賑やかな鉦や太鼓の音,
とどのように折り合いをつけてゆくか。この
それに色鮮やかな龍や獅子舞いなどを伴いな
国の寺廟は,スハルト時代に続いて「改革の
がら町中を練り歩くこともしばしばである。
時代」の今,再び新たな選択を迫られている。
特に最後に述べたような行列を伴う大きな祭
その実際の選択が,コミュニティ内のどのよ
礼の際には,近隣の町々の寺廟にも声が掛け
うなポリティクスのもとでなされるかは,当
られ,多い時には町外の神明を含め数十体も
然ながら各町・各寺廟ごとにさらに検討して
の神輿が一斉に町中を行列することもある。
ゆく必要があることは論を待たない。
このように,近隣の寺廟間で派遣団を出し
合って互いの祭礼を盛り上げるといった現象
47) 2008 年 10 月 28 日,ルンバンのニョー GK(仮名)氏の自宅でのインタビューなどによる。
48) たとえば中ジャワ州の州都スマランは,明の永楽帝時代に南海大遠征を行なった鄭和(三保公)の
艦隊が寄航したことで知られているが,同艦隊の上陸日とされる旧暦六月末には伝統的に,華人街
の中心部にある大覚寺と市郊外にある三保公廟との間で賑やかな行列を伴う祭が開かれてきた。ス
ハルト体制下にあっては,こうした顕示的な祭の形態は著しく制限を受け,寺廟敷地内でのみ細々
と行なわれ続けていたのだが,同体制崩壊後の 2000 年からは再び市内を行列が練り歩くようになっ
た。また 2005 年は鄭和上陸から 600 年目の節目にあたるとして,州政府も巻き込んで祭自体の規
模が大幅に拡大されたばかりか,鄭和に関するシンポジウムや観光促進のための展示会が同時開催
されるなど,かつてないほどの一大イベントとなった。これにあわせて,三保公廟自体も原型を
留めぬほどに改築されている。当該イベントに関連して刊行された資料[Gan Kok Hwie & Kwa
Tong Hay (ed.) 2006]も見よ。
49) 福建起源の人形劇で,中国の歴史や伝説に題材を採った物語が,胡弓や鉦の音に乗って,インドネ
シア語やジャワ語をベースに福建語などを織り交ぜつつ語られる。一時は衰退し,語り部(dalang)
はスマランやスラバヤなどの都市でわずかを数えるのみとなったが,現在はジャワ人などにも徐々
に受け継がれ始めている。
55
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
写真 5.龍泉廟が 2009 年の旧正月の
祭礼に際して発した招待状
(撮影日:2009 年 1 月 28 日)
は,やはりポスト・スハルト期になってから
か 12 km しか離れていないルンバンとラセ
特に顕著に見られるようになったと言うべき
ムの町には,慈惠宮と慈安宮という共に同じ
だろう。換言すれば,ここ 10 年あまりで寺
くらい古い歴史を持ち,また共に媽祖を祀る
廟相互間の交流が今までになく密で活発なも
寺廟がある。このルンバンとラセムの寺廟相
50)
のになってきているということでもある 。
互間では,確認できる限りインドネシア独立
では,各々の寺廟は一体どのようにして,他
期から 1980 年代にかけての間,フォーマル
の町の寺廟との交流関係を取り結んでいるの
で定期的な行き来は存在しなかった。1990
だろうか。以下では寺廟相互間の関係性の取
年代に入る頃になってようやく,隣町同士の
り結び方をいくつかパターン化して示してみ
誼を深めるという趣旨から,当時慈惠宮の炉
たい。
主
51)
を務めていた人物の発案により,媽祖の
生日(三月廿三日)に合わせて両寺廟をそれ
4.1. 相互訪問によって取り結ばれる関係性
恐らく最も基本的なパターンは,祭礼の際
に相手方の寺廟を訪問し,逆に自身の寺廟で
ぞれ管轄する組織の役員が相手方の寺廟を互
いに表敬訪問し合ったのが,両寺廟のフォー
52)
マルな相互交流の始まりであるという 。
祭礼を催す時に相手方を招いて訪問を受ける
ただし,寺廟の祭礼自体を大々的に行なう
という,いわば互酬的関係性の積み重ねに基
ことが未だ困難であった間は ,こうした寺
づいた交流の拡大であろう。たとえば,わず
廟相互間の交流も役員派遣程度の限定的なも
53)
50) 祭礼の盛大化という現象は,主催者側がそれを通して見栄を張りたいという気分と密接に関わって
いることは言うまでもない。つまり,近年の華人を取り巻く環境の変化に伴って,そうした威信を
示すための恰好の対象として,寺廟の祭礼や寺廟自体が浮上してきたということである。
51) ルンバンをはじめ多くの寺廟では,それぞれの寺廟の礼拝を司る炉主(locu)という役職が置かれ
るか,あるいは寺廟管理・運営組織の中に礼拝を統括する一部門が置かれている。
52)2005 年 7 月 21 日,相互訪問開始時に慈惠宮の炉主を務めていた梁天佑(Liong ian Yoe)氏へ
のインタビューによる。
53) たとえば澤海宮(トゥガル)では,正月十三日に澤海眞人像を神輿に載せて港まで運び,豊漁祈願
をするのが伝統となっていたが,1991∼98 年には地元市長から街中を行列するための許可が下り
なかったため,その間は祭壇を港とは別の臨海公園内に設け,寺廟と公園との間は車で神像を運ぶ
ことで礼拝を行なっていた。また,スマラン市内の大覚寺から郊外の三保公廟までを往復する鄭和
祭においても,スハルト期を通じこれと同様の対処がなされていた(cf. 註 48)。
↗
56
アジア・アフリカ言語文化研究
79
のに留まっていた。だが,スハルト体制崩壊
それはさながら贈与交換のごとく,遠からぬ
後に「華人文化」への締めつけがなくなって
将来返礼訪問を果たすことが期待される類の
からというもの,十分な資金と人手を動員で
互酬的関係である―は,寺廟対寺廟のやり
きる寺廟は,積極的に近隣の寺廟やその関係
取りにより切り開かれるのみならず,人づて
者などに宛てて招待状を発し,町外からいく
で取り結ばれる場合もあり得る。同じくルン
つもの神輿や龍・獅子舞団を迎え入れて,祭
バンの例だが,2007 年 9 月に同町の福徳廟
礼を大規模に挙行するようになってきている
で祭礼を開催するに先立ち,祭礼実行委員会
のである。
はかつてこの町の祭を訪れたことのあるバリ
こうして町外からの表敬を受けた場合,原
島在住の人にも招待状を 1 通送った。その
則として,いずれその相手方の寺廟が祭礼を
招待状を受け取った人物が,デンパサール
開催する際には,こちら側からも神明か,で
(Denpasar)に 2001 年にできたばかりの関
なければ龍・獅子舞団か役員から成る表敬団
公 廟(Kongco Pura Taman Gandasari) に
を派遣するというような暗黙の義務が発生す
取り次いだことから,早速バリ側から訪問団
る。たとえば中ジャワ州南岸のチラチャップ
派遣の打診がルンバンの祭礼実行委員会にな
(Cilacap)市にある南清宮は,近年役員らが
されたのである。
積極的に自らの寺廟を盛り立てようとし始め
ちなみに,このルンバンとデンパサールの
ているとのことで,2008 年 4 月には直線距
寺廟のケースでは,遠方ということもあって,
離で 280 km も離れたルンバン慈惠宮からの
ルンバンの寺廟管理・運営組織側から 2 百万
招きに応じ,媽祖聖誕祭の当日に,車数台に
ルピア(当時約 2 万 5 千円)を包むことで,
分乗し神明と神輿を携えた一団を派遣してき
実際の訪問が実現している 。こうした直接
たという。これに対しルンバンの寺廟管理・
的な金銭授受が伴うのは稀であるとしても,
運営組織の会長(ketua umum)は,
「いずれ
通例招待する側は訪問する側に対して最低限
チラチャップ側からの招待を受けたら,今度
の宿泊施設と全員分の食事を提供しなければ
はこちらからも先方に表敬団を派遣するよう
ならない。食事は招待側寺廟の女性陣を中心
54)
努めねばならないだろう」と語っていた 。
こうした相互訪問による寺廟間の交流―
↗
55)
56)
に総出で用意するとして ,多くの場合ネッ
クになるのは宿泊の方である。というのも,
こうした中で数少ない例外は関聖廟(トゥバン)であろう。この関聖廟は,地元の地方指導協
議会(Musyawarah Pimpinan Daerah=Muspida)と比較的折り合いが良かったことも手伝って,
スハルト期にあっても,旧正月や元宵節を含む祭日のたびに比較的大掛かりな祭礼を実施し続ける
ことができ,それを見に町外からも多くの一般客が訪れていた。しかし,スハルト体制崩壊後には
各地の寺廟が独自に賑やかに祭日を祝うようになってきたため,現在関聖廟では中元節と中秋節,
それに関聖帝君の生日(六月廿四日)のみを大々的に祝うようになっている(2009 年 2 月 2 日,
関聖廟での余慶興氏へのインタビューによる)。
54) 2008 年 10 月 23 日,ルンバンの寺廟管理・運営組織会長,林和結(Liem Hoo Kiat)氏へのイン
タビューによる。なおこの 2008 年の媽祖聖誕祭にあたり,ルンバンの祭礼実行委員会は町外へお
よそ 3 千枚の招待状を出した(ただし,宛先不明で戻って来たものも少なくなかったという)。そ
のうち,寺廟やその関係者に限定しても百枚は出したとのことで,お蔭でスマランやソロ,遠くは
チラチャップや西ジャワ州のクラワン(Krawang)などから数多くの神明を招くことができた。
なお,比較的歴史が古くその名声がジャワ中に知られている玄天上帝廟(ウェラハン)などは,
自身の祭礼に際して他の町からの神明を受け入れることはあっても,自らあえて神明を町外に出す
ことはないというが,こうした非対称的な関係というのはきわめて稀なケースであるといえよう。
55) 2008 年 10 月 28 日,2008 年度媽祖聖誕祭実行委員会で接客係(penerima tamu)を務めた梁劍傑
(Liong Kiam Kiat)氏へのインタビューによる。
56) 2009 年 2 月 7 日に筆者らが寶安殿(プカロガン)を訪れた時には,翌日開催予定の行列を伴う祭
礼に備え,千五百食分の調理準備がなされていた。
57
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
写真 6.関聖廟の裏にある新築の
4 階建て宿泊施設
(撮影日:2009 年 2 月 2 日)
通例 1 つの訪問団に対しホテルならば 2 部
(クディリ),福隆宮(ジョンバン),福善宮(モ
屋は用意するのがやはり慣例となっているた
ジョクルト),寶安殿(プカロガン)などの寺
め,祭礼時のように賑わう時期に町内に十分
廟にも,明らかにここ最近できたことが見て
な宿泊施設を確保しきれない中・小規模の町
取れる広々としたホールないし多目的施設が
では,自ずと受容可能な訪問団数が制限され
併設されており,さらには保安廟(ラセム),
57)
てしまうからである 。
この問題を解決するため,ここ数年来各寺
廟は隣接する土地に大きな空間を備えた多目
慈惠宮(ルンバン)
,鳳山宮(グド)などにも,
町の規模からすれば不釣合いなほどに巨大な
58)
付属施設がやはり近年追加されている 。
的ホールを相次いで建設しており,祭礼の際
逆にブリタルの町にある保安宮は,土地の
にはそこに茣蓙やマットを敷いて訪問客用の
制約などもあって未だホールを持っていな
寝食スペースに宛てるようになっている。際
い。そのためこの寺廟は,これまでにトゥバ
立った例は関聖廟(トゥバン)と三保公廟
ンやマラン,スラバヤなど町外の祭礼にそれ
(スマラン)であり,両者はいずれも広大な
ぞれ 50 人規模の訪問団を派遣したことはあ
敷地内に故宮を思わせるような巨大な建造物
るものの,自分たちの寺廟主催の祭礼には外
を新築しており,実際祭礼時にはそこが泊ま
部からの訪問団を招けないでいるという 。
59)
り客で埋まるという(写真 6)。また永安宮
こうして見ると,各寺廟の脇に建てられつ
(マラン)
,慈徳宮(トゥルンアグン),慈惠宮
つある立派なホールは,単に個々の寺廟の隆
57) ルンバンの福徳廟では,10 年に一度主神の福徳正神が町を練り歩く大祭を開いている。2006 年が
その大祭の年にあたり,祭礼実行委員会は事前に町外 62 の寺廟に招待状を出したところ,26 もの
寺廟から参加表明がなされた。遠くはジャカルタから 3 つの寺廟がバス 13 台を連ねて派遣団を送っ
て来るほどの盛況ぶりであったが,実行委員会側は宿の確保に腐心し,車で 1 時間はかかる周辺の
町々の宿を借り上げたのはもとより,町内のキリスト教系私立学校を休校にしてもらって宿泊施設
に充てるなどまでした。
58) このうちたとえば寶安殿に隣接する多目的ホール龍鳳堂(Lung Fung ang)は,3 年の歳月と
40 億ルピア(当時約 5 千万円)を費やして 2008 年 6 月に落成している。ルンバンについては,註
57 で触れたような苦い経験を踏まえ,2008 年に町の有力者らを中心とする寄付により,2 階建て
の立派な多目的施設を完成させた。
59)2009 年 1 月 31 日,保安宮の礼拝部門副長(wakil seksi ritual),葉忠漢(Yap Tjong Han)氏へ
のインタビューによる。
58
アジア・アフリカ言語文化研究
盛を表現し,また専らその寺廟の活動の便宜
79
て一層の調査を要する。
のために供されるものとばかりは言えなさそ
うだ。それらは,寺廟間の交流を拡大・促進
する手段としての訪問団派遣を,片務的な
4.3. 神明によって取り結ばれる関係性
もうひとつ,近年始まったやや特殊ではあ
ものから互酬的なものへと転換することを,
るが注目すべき交流のあり方として,第 2 節
フィジカルな面で可能にするための装置とし
で触れた神明,陳府眞人を軸に取り結ばれる
60)
ての側面も持っているのである 。
関係性についても紹介しておこう。陳府眞人
はジャワ島内では 4 箇所,すなわち,今回筆
4.2. 上部組織を介して取り結ばれる関係性
者らが実際に訪れることのできた龍泉廟(プ
原則として互いに独立し自立している寺廟
ロボリンゴ)
,保唐廟(ブスキ)の他,当該
と寺廟との間の交流は,上で述べたような
神明伝承の中心地である護唐廟(バニュワ
個々の寺廟間の相互義務の積み重ねを拡大さ
ギ:Banyuwangi)とその南郊の徳龍殿(ロ
せるのとは異なった方法を通じても達成され
ゴジャンピ:Rogojampi)で,それぞれ主
る。特に東ジャワで顕著なのは,各寺廟の上
神として祀られている 。また,伝承のもう
部組織である PTITD を通じた交流のあり方
ひとつの舞台であるバリ島内でも数箇所 ,
である。
さらにその東のロンボク島でも 1 箇所(ア
第 3 節 で 述 べ た よ う に, 東 ジ ャ ワ で は
62)
63)
ンペナン:Ampenan)で像が祀られている。
寺廟に宗教的地位を与える受け皿としての
これら寺廟を歴史的に概観すれば,最も古い
PTITD が実質的に機能している。その東ジャ
ものは 18 世紀後半(バニュワギ)に建てられ,
ワ州支部(PTITD Komda Jatim)は 1 年に
その後 1880 年までにジャワ島東端部(ブス
1 度定期会合を開いており,その際には寺廟
キ,プロボリンゴ)とバリ島(ブレレン,クタ)
相互間で祭礼の招待状などを交換し合ってい
でそれぞれ 2 箇所ずつといった具合に,徐々
61)
るともいう 。この PTITD が実際どのよう
に陳府眞人にまつわる信仰が地域的に広がっ
な活動をし,また寺廟間の関係性のあり方や
たことが窺える[Salmon 1993: 295-296]。た
交流の拡大にどれほどの影響・効果を及ぼし
だし,その後知られている限り,これら寺廟
ているかについては,その歴史的展開も含め
相互間では特段の交流はなかったようである 。
64)
60) 祭に際して町内ないし町外に神明を担ぎ出すかどうかは,まず寺廟管理・運営組織の都合によるの
はもちろんだが,最終的にはそれぞれの神明の前で神杯を投げて神意を尋ねることによって決定さ
れるのが一般的である。そのため,たとえば福隆宮(ジョンバン)のように,主神である媽祖が他
の町の祭に出て行くことはあっても,自身の町での祭に際しては神輿で町内を練り歩いたことが
未だにないという,奇妙なねじれが生じることもある。2009 年 2 月 1 日,福隆宮の廟公 Go Soen
Hien(Supriyadi)氏へのインタビューによる。
61) 2009 年 1 月 28 日,龍泉廟での李子昇氏へのインタビュー,ならびに 2009 年 8 月 30 日,鳳徳軒
での王欽健氏へのインタビューによる。
62) 護唐廟については,2009 年 9 月 4 日の祭礼時に訪れ,同寺廟理事長である余満瑞(Indrana Tjahjono)
氏への聞き取りも行なった。
63) Salmon[1993: 295-296]は,バリ島内で陳府眞人が祀られている場所として,ブレレン(Buleleng
=シガラジャ:Singaraja),クタ(Kuta),タバナン(Tabanan)に加え,ムンウィ(Mengwi),
バンリ(Bangli),ギアニャル(Gianyar),クルンクン(Klungkung),カラガスム(Karangasem)
の計 8 箇所を挙げている。
64) 歴史資料や碑文・対聯などの分析をもとに陳府眞人に対する信仰の広がりを論じた Salmon &
Sidharta[2000]は,詳細は不明な部分が多いと断りつつも,少なくとも保唐廟(ブスキ)
,龍泉廟(プ
ロボリンゴ),徳龍殿(ロゴジャンピ)に関しては,護唐廟(バニュワギ)からの「分香(火)」に
よって建立されたことを跡づけており,またバリ島内のいくつかの寺廟についても護唐廟との同様
の関係性を示唆している。仮にそれが事実だとしても,その後陳府眞人を抱える寺廟相互間の歴史
的つながりは,当事者たちの間では長らく忘れ去られていたようである。
59
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
図 2.陳府眞人を祀る寺廟の所在地
こうした中 2000 年,陳府眞人に関する伝
ケ大会などの余興も,いずれも寺廟からはや
承が各地ごとで微妙に異なり統一性がないこ
や離れた市郊外の新しいホテルが会場となっ
とに心を痛めた護唐廟の役員が中心となっ
た。会議の席では,各寺廟が近々催す予定の
て,陳府眞人を祀る寺廟連合(Paguyuban
祭礼の招待状が交換されたそうで,この連合
Tan Hu Cin Jin)の結成を呼び掛けた。こ
会は寺廟相互間の新たな交流の場として着実
こには護唐廟を含む東ジャワの 4 寺廟と,バ
に機能し始めているようである。また面白い
リの 4 寺廟(シンガラジャ,クタ,タバナン,
ことに,上述の会議にはプロボリンゴ市長も
ヌガラ:Negara),それにロンボクの 1 つを
顔を見せ,2009 年の元宵節に際し龍泉廟で
加えた計 9 つの寺廟が集まり,以降互いの友
行なわれる神輿行列(2 月 7・8 日)をぜひ
誼を深める目的で半年ごとに交流を重ね始め
皆で盛り上げてほしいと,出席していた各寺
65)
ているという (写真 7・図 2)。
廟関係者に要請をしたともいう。このように,
2008 年の後半には持ち回り順で,龍泉廟
ひとつの神明を軸として新たに取り結ばれつ
(プロボリンゴ)が 2 日間の交流会を主催し
つある交流は,観光振興という地元自治体の
ている。と言っても,龍泉廟の境内が直接の
思惑にも後押しされて ,今後ますます密な
舞台となったのは初日夜に 9 つの寺廟役員
ものとなっていくとともに,参加している寺
が揃って行なった集団礼拝時のみであり,翌
廟の活動を一層活性化するのにも貢献してい
日に設けられた今後の親睦を深めるための会
くように思われる 。
66)
67)
議も,またその晩引き続き行なわれたカラオ
65)2009 年 9 月 4 日,護唐廟での余満瑞氏へのインタビューによる。こうした寺廟連合組織が可能となっ
た直接的な要因としては,陳府眞人を祀っている寺廟が地域的に限られ,またさほど数も多くない
ことが挙げられよう。なお,プロボリンゴ市の隣町ブスキにある保唐廟は,2000 年に金品目当て
の略奪を受け,ひどく損壊してしまった。その再建にあたっては,パスルアン市やプロボリンゴ市
など町外各地からの援助が大きかったというが,陳府眞人を祀る寺廟としての存在が互いに意識さ
れ始めたのは,この事件がきっかけであった可能性もある。
66) スマランの鄭和来航 600 周年記念祭が州政府も巻き込む形で大々的に宣伝されたことについては,
註 48 で触れた。
67) トゥバンの関聖廟や,マドゥラ島内にある観音宮は,それぞれ関聖帝君と観世音菩薩というありふ
れた神明を主神としているが,両寺廟のそれは特別に霊験があらたかであるとして広く信仰を集め
ており,今や遠方からも巡礼客が訪れる関羽信仰ならびに観音信仰の聖地と化しつつある。先述の
バリ島デンパサール市にある関公廟は,トゥバンの関聖廟に詣でて病気が平癒したという人物が建
てたもので,2001 年の落成時にはトゥバンから役員を招いている。このように,神明を介したつな
がりは,歴史的な関係性のみに規定されるわけではなく,日々新たに再編されつつあるとも言える。
60
アジア・アフリカ言語文化研究
79
写真 7.龍泉廟に掲げられている,
陳府眞人を祀る 9 つの寺廟の写真
(撮影日:2009 年 1 月 28 日)
子教・道教の混合物であることの宿命ゆえ
5. 寺廟の活動
か,あるいはゆるやかな寺廟連合に過ぎない
という組織的性格のゆえか,いずれにしても
一般に寺廟は,それを支える人々(umat)
教団として所属各寺廟に対し特に定まった礼
68)
のみに閉じられたものではない。前節で述べ
拝方式を強く課しているわけではない 。実
たような賑やかな祭礼時のみならず,基本的
質的には,それぞれの寺廟が旧正月や神明の
にはいつでも誰でもそこを訪れることができ
祭日などの機会ごとに,しかるべく供物を並
るし,また自由にお参りすることもできる。
べた祭壇を設けて,それぞれが受け継いでき
しかし第 3 節で見たように,寺廟がいずれか
たやり方で礼拝をするのが基本である。しか
の宗教のもとに帰属している場合には,その
し,そうしたいわゆる伝統的な祭日の礼拝と
特定宗教の礼拝ないし礼拝教室が定期的かつ
は別に,今回筆者らが訪れ情報を得ることの
組織的に提供されることもある。また寺廟は,
できた寺廟の多くでは,三教のうちいずれか
それぞれの町の華人コミュニティの結節点な
の宗教形式に則った礼拝集会ないし礼拝教室
いし拠り所として,礼拝以外の活動も行なっ
が,定期的かつ組織的に行なわれていた。
ている。そこで最後にこの第 5 節では,そう
たとえば慈徳宮(パスルアン),保安宮(ブ
した寺廟の活動の面に焦点を当ててみたい。
リタル),鳳山宮(グド),福隆宮(ジョンバ
ン),福善宮(モジョクルト),慈安宮(ラセ
5.1. 定期的・組織的な宗教礼拝
ム)などでは,毎週孔子教の集まりが開かれ
東ジャワの大部分と中ジャワの少なからぬ
ており,また小規模な寺廟である鎮水廟(ク
寺廟が PTITD に属していることはすでに述
リアン)においても,月 1 回の頻度で孔子教
べたが,この PTITD は,教義的に仏教・孔
の教室が開かれていた。このうち福隆宮の孔
68) 2009 年 8 月 30 日,鳳徳軒での王欽健氏へのインタビューによる。ただし,
「純粋な仏教」とは趣き
を異にする宗教団体としての独自の立場を主張する文脈で,PTITD が宗教省など政府当局に対しト
リダルマの教義を繰り返し説明していたことは特記すべきであろう[cf. Surat P.T.I.TD. No. 29/VI/
PTITD/88 tertanggal 23 Juni 1988 perihal Instruksi Mendagri No. 455.2-360 dan Lampiran: Penjelasan
Singkat tentang Tempat Ibadat Tridharma tertanggal 1 April 1984]。
61
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
子教日曜教室は,2008 年末に始まったばか
なく,ごく限られた範囲ではあるが着実に
りの新しいものであった。一方,永安宮(マ
定期的礼拝が続けられていた。そうした中,
ラン)では孔子教と仏教の日曜教室を実施し
2006 年になって再び孔子教が公認宗教に返
ており,寶安殿(プカロガン)と澤海宮(トゥ
り咲いたのを期に ,にわかに,主に寺廟を
ガル)では週 1 回仏教と道教の集いがそれぞ
舞台とする孔子教の定期礼拝,あるいは児童
れあるという。主棟裏に釈迦牟尼像を祀る棟
対象の礼拝教室が活気づいているのだ。
69)
が併設されている慈澤廟(ジュワナ)と福徳
たとえば鳳山宮(グド)では,筆者らが訪
堂(ジュパラ)では,各々毎週仏教の礼拝が
れたのがちょうど土曜の夕刻ということも
行なわれている。
あって,孔子教教室が開かれている最中であ
こうした特定の宗教に特化した礼拝が導入
り,近隣から集まったという 20 名ほどの華
された経緯,あるいはその実態や参加者,問
人の児童が楽しそうに歌を歌っていた。教師
題点などは,今後の個別寺廟での調査研究に
を務めていたのは,かつてソロ市にあった
委ねるとして,ここでは特徴的なケースとし
MATAKIN の教育機関で学んだというジャ
て,昨今の孔子教(教室)の広がりと,道教
ワ人女性であった 。彼女はこの鳳山宮の他
式の礼拝を導入した澤海宮(トゥガル)の事
にも,毎月第 2・4 日曜日には保安宮(ブリ
例について紹介しておこう。
タル),第 4 木曜日には鎮水廟(クリアン)
・孔子教の広がりと MATAKIN
などといった具合に,定期的に東ジャワのい
70)
既述のように,孔子教はかつては仏教など
くつかの寺廟を廻り,孔子教の礼拝指導や児
と並び公認宗教の地位を得ていたが,1979
童教育を行なっているという 。また慈徳宮
年以来非公認扱いとされた。とはいえ,その
(パスルアン)でも,やはりかつてソロ市で
全国組織である MATAKIN(Majelis Tinggi
孔子教の教理を修めた男性が,毎週日曜日に
Agama Konghucu Indonesia: イ ン ド ネ シ
50 人ほどの地元の児童を集め,礼拝教室を
ア孔子教最高評議会)が解散されることは
開いている 。
71)
72)
69)2007 年には政令(Peraturan Pemerintah No. 55/2007 tentang Pendidikan Agama dan Pendidikan
Keagamaan)で,孔子教を公教育の場で教えることも認められるようになった。孔子教再公認化
の経緯については北村[2009]が詳しい。
70)2009 年 1 月 31 日,鳳山宮で孔子教教師 Endang Titis Bodro Triwarsi 氏へのインタビューによる。
1950 年代半ばに中ジャワ州プルウォルジョ(Purworjo)に生まれた彼女はプリブミであるが,幼
少時より地元の華人と広く交流があり,高校時から孔子教に惹かれ始め,1973 年からソロで同教
を学ぶようになったのだという。その後 76 年からはトゥガルやチラチャップなどで数年ずつ孔子
教を教え始めた。79 年以降孔子教が非公認扱いになってからも活動を止めず,現在はスマラン出
身のムスリム男性と家庭を築きつつ,孔子教教師として精力的に活動をしている。一般に孔子教は
専ら「華人の宗教」と目されがちであり,実際の信者も圧倒的に華人が目立つのだが,彼女のよう
な存在は,MATAKIN の孔子教が「華人の宗教」ではなく「インドネシアの宗教」としての普遍
性を獲得していく過程をシンボリックに示すものとして,大変興味深いものである。
71) 彼女が定期的に巡回する寺廟には,他に福隆宮(ジョンバン),福善宮(モジョクルト),および福
綏廟(Bojonegoro)があり,このうち福綏廟で開かれる教室には 70 名ほどの生徒が参加している
とのことである(2009 年 1 月 31 日,鳳山宮でのインタビューによる)。彼女が福隆宮に訪れるの
は毎月第 2 水曜日で,大人を対象とした礼拝の集いを受け持っているのだが,同寺廟ではこれとは
別に毎週日曜日に児童向けの孔子教教室もあり,そこではやはり孔子教学校出身の若者が指導に当
たっている。なお,この福隆宮では 3 年ほど前から,第 3 日曜日に町外の人たちと共に道教の礼拝
も実施している。この道教・孔子教の礼拝や教室にかかる費用は全て,福隆宮が負担しているとの
ことである(2009 年 2 月 1 日,福隆宮の廟公 Go Soen Hien(Supriyadi)氏へのインタビューに
よる)。
72)2009 年 1 月 27 日,慈徳宮での Siauw Yoe Liong(Yudhi Dharma Santoso)氏へのインタビュー
による。
62
アジア・アフリカ言語文化研究
79
写真 8.福隆宮での孔子教教室の模様
(撮影日:2009 年 2 月 1 日)
このような,主に東ジャワの寺廟で起き
独自の路線を歩んできたとはいえ―TITD
始めている現象,すなわち,MATAKIN や
であることを掲げてきたこともあり,廟内に
MAKIN―近年公認を勝ち取った独立した
は長らく三教の聖人像が置かれてきた。この
宗教としての孔子教の全国組織,およびその
うち孔子像については,寺廟組織の一部とし
地方支部―で学んだような人たちが,地位
て同敷地内に設けられていたトゥガル孔子教
的には TITD である寺廟―仏教・孔子教・
評 議 会(MAKIN Tegal) の 礼 拝 所(礼 堂)
道教の 3 つの教えの融合を掲げる宗教施設
に安置されていた。しかし 2006 年に孔子教
―において孔子教の授業や礼拝教室を担っ
が国家公認の宗教となったことを受け,同地
ているという事態は,後述のように,考えて
の孔子教支部は「今後の発展のために」と寺
みれば実に複雑な宗教的状況であるといえよ
廟組織から完全に分離独立し,澤海宮斜向か
う。しかしながら,ここで挙げた孔子教の諸
いに別の建物を借り上げて,そちらに孔子像
活動は,あくまでも寺廟活動の一環としてな
を移してしまった 。かつて体操教室用に使
されており,目下問題化することなく同居し
われていたというその小奇麗な建物の 2 階部
73)
74)
ているようであった 。
分には,孔子のみを祀る祭壇が設えられ,教
・澤海宮―孔子教の分離,道教の導入
会を思わせるようなそのホールでは,毎週日
一方で,上で述べたような複雑さが別の形
曜日の夕刻,今や多い時には 100 人ほどの
で発現している所もある。特に興味深い事態
華人が集まり礼拝を行なうようになっている
が進行しているのがトゥガル市である。市中
心部にある澤海宮は―東ジャワのそれとは
(写真 9)。
一 方 の 澤 海 宮 で は,1994 年 頃 か ら ひ と
73) ただし,PTITD の第一主席兼常務執行主席,王欽健氏は,「現実として,我々の礼拝所にはすで
に MAKIN の孔子教が入り込んでしまっている」との現状認識を示した上で,仮に今後 TITD で
ある寺廟が MAKIN に乗っ取られるような事態にまで至れば,その場合は目をつぶっているわけ
にはいかず,何らかの対応をしなければなるまいと付け加えていた(2009 年 8 月 30 日,鳳徳軒で
の王欽健氏へのインタビューによる)。
74) 2009 年 2 月 8 日,トゥガル孔子教評議会(MAKIN Tegal)会長,李英良(Lie Ing Liong)氏
へ の イ ン タ ビ ュ ー に よ る。 な お,MAKIN Tegal は 1970 年 前 後 に 設 立 さ れ た が[Moerthiko
(ed.) 1980: 344-346],1982 年には澤海宮を運営する Yayasan Tri Dharma Tegal の一部門(Seksi
Agama Konghucu Indonesia)に組み入れられていた。
63
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
写真 9.トゥガル孔子教評議会での定期礼拝の
模様(撮影日:2009 年 2 月 8 日)
りの人物を中心に儀礼が執り行なわれてき
べ幾分小ぢんまりとしていた―が,互いに
た。幼少時から中国史に興味があったと語る
住み分けるように滞りなく行なわれていた。
1971 年地元生まれのこの華人男性は,北京
このトゥガル市から 60 km ほど離れたプカ
から仕入れた本で道教に接したのがきっかけ
ロガン市では,孔子教と寺廟の関係でトゥガ
75)
で,シンガポールに渡って道教を修める 。
ル市と似たような状況が比較的早くから見ら
そして帰国後の 2000 年からは,この廟の儀
れていた。プカロガン孔子教評議会(MAKIN
礼は彼主導のもと,道教様式で行なわれるよ
Pekalongan)は 1966 年以来,寶安殿の敷地
うになったのである。かくして澤海宮は,ジャ
内裏手にある別棟を間借りし,そこに独立し
ワではきわめて稀な道教を主軸に掲げる寺廟
た事務所と礼拝所を設けてきた[Moerthiko
76)
となったわけだが ,ただ同寺廟では以前か
(ed.) 1980: 342-343]。このため,地位的には
ら毎月旧暦一日と十五日には観世音菩薩に対
TITD である寶安殿の建物内には孔子像は祀
する「大悲懺」が行なわれるなど,大乗仏教
られておらず,また同寺廟で現在毎週定期的
の様式に則った礼拝もなされてきた。この旧
に催されている礼拝も,仏教式と道教式のも
来の仏教式礼拝は,今のところ新たに導入さ
ののみである。このことについて同寺廟の礼
れた道教式礼拝と協力し合って澤海宮を盛り
拝担当役員は,
「寺廟(klenteng)の孔子教は
立てているといい,実際に筆者らが観察した
三教のうちの 1 つとしての孔子教(Konghucu
2009 年の元宵節の祭礼の際も,黒の冠巾に
Tridharma) で あ っ て, 純 粋 な 孔 子 教
青の道袍姿の道士が主導する盛大な儀礼に続
(Konghucu murni)だけを掲げる MAKIN
いて,黒の長衣をまとい鉦と手持太鼓の音に
合わせ経文を唱える仏教式礼拝―前者に比
77)
のそれとは違うのだ」と説明した 。
このように,近年の孔子教の公認宗教化に
75)2009 年 2 月 8 日,澤海宮の儀礼長,陳敏善氏へのインタビューによる。陳敏善は,シンガポール
道教協会長の李至旺のもとに弟子入りし,「理為」という道号をもらっている。李至旺は全真教
の開祖,王重陽の高弟であった邱処機(長春眞人)から数え 21 代目の弟子にあたるため,陳自
身は 22 代目ということになる。なお,インドネシアでは現在 PUTI(=Paguyuban Umat Tao
Indonesia:インドネシア道教徒協会)など複数の道教団体が存在しているものの,澤海宮と同じ
道教の流派を奉じている寺廟は,目下他にスマランの 1 ヶ所だけとのことである。
76) これと同時に陳敏善は週 1 回無料で道教の勉強会を開き,若者を中心に 14∼15 人の生徒を集めて
いた。しかし,その後経済的理由や大学進学などを理由に参加者は減り,2009 年初頭の時点では
彼本人を含め 3 人のみとなっていた。
77)2009 年 2 月 7 日,寶安殿の礼拝担当役員 Gan Tek Tjiang 氏へのインタビューによる。
64
アジア・アフリカ言語文化研究
79
伴って,同教の全国組織である MATAKIN,
きとも連動しつつ孔子教が宗教として体系化
およびその支部 MAKIN の活動が各地で活
されてきたことはすでに述べたが ,21 世
発化し,そのことが,従来から仏教・道教と
紀を迎えた今再び,孔子の教えを宗教として
並んで孔子教を一体的に奉じてきた寺廟にお
形式化したあり方というものが,一定の社会
ける礼拝のあり方にも,少なからぬ影響を及
的存在感をもって人々の眼前に立ち現れ始め
ぼしつつある。そうした全体的環境の変化が
ているのである 。それは場合によっては,
個別の寺廟の礼拝のあり方などに現実にどの
上で挙げた 3 つの孔子教の様態がもはや無自
ような形で変化をもたらしているかは,そ
覚的に同居・共存し得ないほどまでに,相互
れぞれの町における各宗教組織の勢力関係や
の区別や対立を顕在化させる可能性も孕んで
歴史などに多分に規定されている。それと同
いる。コミュニティの伝統的宗教が普遍・合
時に,各町ごとでせいぜい数百人から数千人
理的なものに置き換えられていく過程を論じ
という限られた規模の華人コミュニティ内に
た M. ウェーバーを踏まえて Hefner[1993]
あっては,その町の寺廟のあり方や宗教の布
は,宗教の変容や改宗といった現象に対して,
置関係などに対し,特定個人の力量や役割が
社会制度や政治的な側面,および諸個人の経
無視できぬほどの影響を及ぼすこともあると
験的側面の両面からアプローチする必要を説
いう点もまた,十分に注意すべきであろう。
いている。この節で言及した孔子教や道教な
また,より広い文脈で上述の「複雑な宗教状
ど,いわゆる「華人の宗教」をめぐって起き
況」ということについて見れば,MATAKIN
始めている全体的な変化が,個々の寺廟,さ
を頂点として組織される公認宗教としての
らには個々人の内面や信仰のあり方にどのよ
孔子教 ―プカロガンの寺廟役員の用語を
うな変容をもたらすかということについて
借りれば「純粋な孔子教」―の広がりは,
は,今後の調査で同時的に明らかにしていか
PTITD が奉じる三教のひとつとしての孔子
ねばならないだろう。
79)
80)
教―「寺廟の孔子教」―との間のみなら
ついでに本節の最後に,孔子教の礼拝のあ
ず,人々の間で受け継がれてきた祖先崇拝な
り方について,印象論との謗りを恐れずに少
どに代表される「慣習的礼拝実践としての孔
しだけ補足しておこう。筆者らが観察したい
78)
81)
子の教え」 との間にも,新たな綱引き関係
わば「純粋な孔子教」の礼拝は ,唱歌に続
とでも言うべき状況を生み出している。20
いて説教師による聖典(四書)の解説が続く
世紀初頭以来,インドネシアの地で大陸の動
という具合に,実に整然とフォーマット化さ
78) 歴史家 Coppel[2002b: 260]は,ジャワにおける体系化された宗教としての孔子教の起源を探る
中で,ジャワの寺廟においては 19 世紀末に至るまで孔子の教えにまつわるシンボルが直接的に祀
られていた形跡はなく,その教えはあくまでも各家庭で祖先を祀る祭壇,あるいは種々の儀礼や慣
習の中に「埋め込まれていた」,と指摘している。
79) 註 25 を見よ。
80) 北村[2009: 34]によれば,かつて孔子教の非公認化に伴い身分証名書の宗教欄に他宗教の名を記
載していた華人たちの間で,近年あえて孔子教を選び取るケースが増えてきているという。そのこ
と自体は必ずしも MATAKIN へ所属することを意味するわけではないとしつつも,北村は,スハ
ルト期に確立された公認宗教への帰属が求められる社会システムや社会通念が残存している中に
あっては,伝統的な文化実践として孔子の教えを行ないつつ,自らの身分証明書の宗教欄に形式化
された宗教としての孔子教を選ぶことは,個人の生活においては意味があるだろう,と述べている。
81) 筆者らが実際に観察したのは,トゥガル市(2009 年 2 月 8 日)とトゥバン(2009 年 9 月 4 日)の
MAKIN の定期礼拝,ならびにグドの鳳山宮(1 月 31 日)とジョンバンの福隆宮(2009 年 2 月 1
日)で開かれた児童対象の孔子教教室の模様である。このうちトゥバンの MAKIN は,関聖廟の
建物施設内に近年寄付により礼堂をオープンさせたばかりである。関聖廟は関聖帝君を主神とする
TITD の寺廟であるが,MAKIN の礼堂が独立して設けられたことで,同寺廟およびそれを取り
巻くコミュニティの宗教状況に大きな再編を迫ることになるかもしれない。なお,残念ながら今回
の調査では,仏教・道教の礼拝や教室の模様を詳しく追うことはできなかった。
65
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
れたものであって,それはあたかもプロテス
あっては,一般に華人のみのための組織や活
タントの一派のミサにでも参加しているよう
動は厳しい監視・規制の下に置かれ,各町の
な感覚を抱かせるものであった。また,各寺
寺廟も第 3 節で述べたようにその存在を維
廟で開かれている児童対象の礼拝教室も,電
持するのが精一杯であった。こうしたことか
子オルガンに合わせて皆で歌うことが主体の,
ら,寺廟に付随していた少なからぬ活動や機
実に楽しげな雰囲気のものであった。そうし
能,サービスは,停滞や閉鎖を余儀なくされ
た形で着実に広まり始めているモダンな孔子
た 。しかし同体制の終焉を受け,近年各地
教 ―コミュニティの伝統的宗教を脱し普
の寺廟は祭礼時以外でも目に見えてその活動
遍・合理的な形を標榜するあり方と言っても
の場を広げているようである。
良い―は,今後もしかしたら,この国の華人
83)
たとえばマラン市中心部にある永安宮は,
の若年層に広く抱かれている「中国の宗教=
隣接するラワン(Lawang)市の郊外に 50
古臭くて(kuno)かっこ悪い(tidak keren)宗
ha の土地を買い,2008 年 11 月に華人専用
教」という従来の固定的イメージに対し,風
の墓地公園をオープンさせている 。こうし
穴を開けることになるかもしれない[cf. 津
た大規模なプロジェクトは例外的としても,
田 2006: 95]
。
他の町の寺廟も近年大なり小なりその活性化
84)
に取り組んでいる。その典型のひとつとして,
5.2. その他の活動―華人コミュニティの
結節点として
北京官話(Mandarin)教室を挙げることが
できるだろう。
寺廟は単なる礼拝施設ではなく,かつては
ジャワの華人の多くは,1960 年代前半ま
町の華人コミュニティの結節点として機能し
でに中国語学校が全面閉鎖された影響なども
82)
てきた 。それはたとえば,ルンバンの慈惠
あって,もはや中国語を話せないし日常生活
宮・福徳廟が 1970 年代まで結婚式などの際
の場でもそれを必要としなくなっている。そ
に皿などの無料貸し出しを行なってきたとい
れが,昨今の「華人文化」開放の流れに加え,
う事実や[津田 2008: 58-59],あるいはまた,
中国自体が国際地政学上プレゼンスを高めつ
いくつかの町では寺廟管理・運営組織の下に
つあることなども相俟って,大都市から地方
葬祭互助部門が併設されてきたことなどに,
小都市に至るまで中国語教室や学習塾がで
見て取ることができよう。
き,そこににわかに人々が集まるようになっ
「同 化 政 策」 を 掲 げ る ス ハ ル ト体 制 期 に
85)
てきている [津田 2009; Hoon 2008: 62-67]。
82) ただし Salmon & Siu[1997]による碑文調査からも窺えるように,20 世紀初頭までになされた寺
廟の建立・改修は少なからぬ場合,Mayor(馬腰)や Kapitan(甲泌丹)など名誉官職を持った各
町の華人有力者たちによって中心的に担われてきた。寺廟は,それが存する町ないしコミュニティ
全体の誇りとなってきたのは言うまでもないが,特定の個人の名誉や威信を誇示するための対象物
としての姿も有していたことを忘れてはならない。
83) 通常華人のための葬祭互助組織は,スハルト時代も表立った活動の制限を受けることはなかったが,
たとえばルンバンやラセムなどでは,葬祭互助組織を寺廟管理・運営組織から完全に切り離すこと
で,前者の立場をより安全なものにしようと努めた形跡がある。
84) 榮安御陵山庄(Taman Makam Asri Abadi)と名づけられたこの墓地公園は,交通至便で風水良
好な立地に近代的な火葬施設や広大な駐車場を備えていることなどを売りにしている。敷地内には
キリスト教徒用の墓地区画を設けるなど,宗教を問わず広く華人一般にサービスを提供することを
目指している。
85) なお,こうした現象はインドネシアのみに限られるわけではなく,たとえば冷戦後のタイやシンガ
ポール,フィリピンなどにおいても,華人たちが中国語(北京官話)に再び目を向け積極的に学び
始める動きが報告されている[Chokkajitsumpun 2001; Kuah 2000; Ang-see 1995]。ただし,こ
れら動きをすぐさま「再華人化(Resinicization)」の現れと結論づけるには,十分な留保が必要で
あろう[津田 2009: 249-254]。
66
アジア・アフリカ言語文化研究
写真 10.慈徳宮の事務所前に掲げられた中国語教室生
徒募集告知(撮影日:2009 年 1 月 31 日)
79
写真 11.福隆宮の門前に掲げられた中国語教室生徒募集告知
(撮影日:2009 年 2 月 1 日)
そして少なからぬ町では,寺廟がその中国語
4 年間アモイ(廈門)に留学させているとの
学習の機会と場を提供しているのである。
ことで,帰国した暁には―必ずしも強制で
たとえばジョンバン市の福隆宮では,2000
はないが―市内で中国語を教えるなど,同
年代初頭から中国語教室が開かれ,毎週月曜
地の華人コミュニティに「恩返し」をするこ
日と木曜日の 15 時からは幼児用のクラス,
とが期待されている 。
88)
19 時からは大人用のクラスが設けられてい
またプカロガン市の寶安殿では 2003 年か
86)
る(写真 11) 。スラバヤへ通じる幹線道路
ら,毎週日曜日に中国に留学した若い教師
沿いの小さな町クリアンにある鎮水廟では,
が 60 人ほどの子供たち相手に無償で中国語
2006 年頃から 13 km ほど離れた別の町から
を教えている。加えてこの寺廟では「賑やか
教師を招いているとのことで,筆者らが調査
にするために(supaya ramai)」と,月曜日
した時点での生徒数は 30∼40 名にも上って
と土曜日は女性向けのダンス教室,火曜日は
87)
いた 。
道教と仏教の礼拝,水曜日と日曜日はカラオ
さらに興味深いのはプロボリンゴ市の龍
ケ大会,また木曜日は男性メンバーが中心の
泉廟である。TITD を冠するこの寺廟では
寺廟附属鼓笛団(太鼓隊:Tua Kok Tui)の
2009 年初頭現在,毎週日曜日の朝に 3 ∼ 8
練習,そして土曜日はコーラスといった具合
歳の華人児童を集め,礼拝方法や唱歌,行儀
に,連日のように何らかの活動が行なわれて
作法(tata kuromo)などと一緒に中国語を
いる。さらに最近この寶安殿の管理・運営組
教えているというのだ。のみならず,この寺
織は,寺廟斜向かいの空き家を購入しており,
廟は市内の華人の若者 2 名に奨学金を出し,
いずれはそこに学校か病院を設けたいとの展
86) 費用は 6 ヶ月 1 セットで 35 万ルピアとのことである(2009 年 2 月 1 日,福隆宮の廟公 Go Soen
Hien(Supriyadi)氏へのインタビューによる)
。
87) この女性教師は 2002 年に,中国語の国際検定にあたる漢語水平考試(HSK)の「中等水平 B 級」
を獲得しており,その証書のコピーは鎮水廟内にも掲げられていた。なお,生徒の内訳についての
詳細なデータは今回得られなかった。
88) 2009 年 1 月 28 日,龍泉廟での李子昇氏へのインタビューによる。
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
89)
望も持っているようである 。
67
インドネシアという国家的枠組みのもとで,
このように,各町の寺廟はポスト・スハル
宗教的・法的な地位をめぐって大きな問題に
ト期の今,再びかつてのようにそれぞれの町
直面してき,また現在も直面している。その
における華人コミュニティの結節点としての
寺廟を取り巻く状況を大まかに概括すれば,
役割を宛てがわれようとしている。近年各地
スハルト時代にあっては一般に上からの強い
の寺廟で進んでいる新たな棟やホールの増
統制のもと保身に努めざるをえなかったの
築 ―これについては第 4 節ですでに触れ
が ,ポスト・スハルト期に入り「華人文化」
た―や,あるいは原形を留めぬほどにペン
開放の流れが進む中,今度は逆に主体的選択
キを上塗りしたりタイルを敷き詰めるといっ
を迫られつつある,と言うことができよう。
90)
92)
た改修工事は ,町の華人コミュニティの古
そしてその選択如何では,各々の寺廟のあり
くて新しい中心として盛り立てられようとし
方や運営主体の再定義にもつながりかねず,
ている寺廟のあり方そのものを,まさに物
その意味において,この国の寺廟はむしろ今,
91)
語っているようにも見えるのである 。
スハルト時代にも増して悩み深い時代にある
とも言える。
6. おわりに
こうした大きな問題が深部で静かに進行し
つつある一方で,スハルト体制崩壊後の華人
本稿では,東ジャワおよび中ジャワを中心
を取り巻く環境の大きな変化は,より表面的
とする町々を巡る実地調査に基づき,そこに
で観察しやすい現象,すなわち寺廟同士の交
存する寺廟について,その実態や直面する問
流の拡大,そして個々の寺廟内の活動の活発
題について広く概観してきた。
化をもたらしている,という事実も見逃して
寺廟は言うまでもなく,中国から南洋の地
はならない。前節末で指摘したように,今ま
に渡来し定着してきた人々とその子孫たちの
さに寺廟は,それぞれの町の華人コミュニ
精神的拠り所として,特定の神明を祀ってい
ティの結節点としての機能を取り戻そうとし
る礼拝施設である。しかしそれらは,近現代
ているようなのである。
89)2009 年 2 月 7 日,寶安殿の礼拝担当役員 Gan Tek Tjiang 氏へのインタビューによる。このプカ
ロガンと同様の目論見は,他にもたとえばルンバンの寺廟管理・運営組織の一部役員の間でも抱か
れている[津田 2007b: 95-96]。一方,華人コミュニティの枠を超えた社会活動を実施している寺
廟もある。たとえばウェラハンの寺廟管理・運営組織 Yayasan Pusaka は,玄天上帝廟・太平亭の
2 寺廟に加え小学校も経営しているが,その小学校では中国語は教えられておらず,学費も安く抑
えてむしろプリブミの学生を多く受け入れている。
90) たとえば保安宮(ブリタル)は,2009 年 2 月 9 日挙行予定の元宵節の行列に向けて,主棟の床と
壁画が描かれた壁面の上から新たにタイルを貼る工事の最中であった。古い歴史を誇る玄天上帝廟
(ウェラハン)の主棟の床と壁面も,3 年ほど前に町外からの寄付によって全面タイル張りに変わっ
ている。また茂淮廟(モジョアグン)は 2004 年に新たに立派な前門を建てたが,これには地元モジョ
アグン郡の郡長が 5 千万ルピアを寄付している。福善宮(モジョクルト)に至っては,スハルト体
制崩壊後に巨費を投じて寺廟を全面的に建て直している。
91) 寺廟を新しく立派に改修してしまうことに抵抗がないわけでもない。たとえば 1838 年に中国から
技師を招いて建てられたというラセムの慈安宮は,柱や梁に非常に精緻な彫刻が施されている。同
寺廟を管理・運営する理事のひとりは,
「我々の責務は,この寺廟を子々孫々までそのまま受け継
いでゆくことであって,他の町の寺廟のようにペンキを上塗りなどしてしまっては,それが持って
いた本来の姿(keaslian)やカリスマ性(karisma)が消え去ってしまう」と語った(2009 年 2 月
3 日,慈安宮でのインタビューによる)。あわせて津田[2007a: 56-57, 61]も見よ。
92) ただし,それぞれの寺廟が完全に受動的に振舞っていたと考えるのは誤りである。本稿でも述べて
きたように,それらは国家が規定する宗教や法に関する枠組みや規範を活用しながら,それぞれの
ローカルな文脈に即して独自のアイデンティティを維持・継承しようと努めてきたのである。この
ことは,ポスト・スハルト期の今も変わらないだろう。
68
アジア・アフリカ言語文化研究
79
このことは裏を返せば,「改革の時代」に
たして,これまで法令などにより抑え込まれ
入って 10 年あまり経った今日,この国の華
てきた「華人としての主張」が,単純に時代
人たちがそれぞれの町を舞台として,シンボ
が変わって反動として現れたと見なせるのだ
リックにも実質的にも,「華人」としてひと
ろうか。それとも,純粋に特定宗教を広めて
つにまとまって何事かをなそうとする機運
いこうとする動きとして還元できる類のもの
が ―あまねくとは言わないまでも ―高
なのだろうか。あるいは両者の複合なのか,
まっていることの現れと読むこともできよう。
それともそれ以外なのだろうか。またそうし
仮にそうした「華人」として何事かをなそう
た主張や動きは,果たして全国的な―さら
とする試みを寺廟を核として進めていく場
にはグローバルな―広がりを持つものにな
合,恐らく鍵となるのは,現在華人の半数近
り得るのだろうか,それとも各町・各コミュ
くを占めるであろうカトリックやプロテスタ
ニティごとのレベルに止まるのだろうか。
ントに改宗した人たちをどのように巻き込ん
93)
グローバルな広がりということに関して
でゆくか,という点であろう 。というのも,
は,本稿ではカウィ山や澤海宮など一部の事
寺廟が曲がりなりにもいずれかの宗教団体の
例を除き,言及しなかった。しかしながら,
施設と位置づけられている場合,
「華人とし
現在インドネシアの寺廟周辺では,CD や
ての主張」と「特定宗教としての主張」がい
DVD を含むグッズの直輸入といったレベル
ずれ齟齬をきたす可能性を孕んでいるからで
から,神像の寄贈や教義の導入などのレベル
ある。この問題は,先述した寺廟を取り巻く
に至るまで,随所で国外とのつながりを窺わ
コミュニティの再定義にも直結するものであ
せる現象を観察できる 。この国の寺廟活動
り,それゆえ寺廟と宗教との関係は今後も重
における人・モノ・資金・情報の流れに,中
要な争点となり続けることが予想される。
国や台湾,それに香港やシンガポールなどの
94)
これら様々な問題全てを考える上でそもそ
華人がどれほど関与し,インドネシア華人と
も重要なのが,それぞれの寺廟を管理・運営
の間に「同文同種」の関係を(再)構築しつ
している組織やそれを率先して導いている人
つあるのか
たちが,実際のところどのような経緯や思惑
世界的なつながりを取り結びつつあるの
のもと,何をどのように実現しようとしてい
か
るのだろうか,という問題である。それは果
べきだろう。
95)
―あるいは特定教派を介し
96)
―といった問題は,大いに注目される
93) 一般に,カトリック教徒はプロテスタントの信者に比べると,寺廟の祭礼に参加することや線香を
捧げることは「伝統・文化・慣習」の領域に属するものであり,自身の「宗教」とは抵触しないと
して,寛容な態度をとる傾向が強い。しかし,寺廟が仏教など特定の宗教に偏り過ぎると,その限
りではなくなってしまう。ルンバンの 2 つの寺廟が,「仏教施設」から「華人の伝統の施設」へと
地位を替えたのは,まさにこうした問題が根底にあった[津田 2006: 82]。ちなみに,ルンバンの
西隣ジュワナの町でも,やはり華人の多くがキリスト教に改宗していることもあって,慈澤廟の活
動は停滞気味である(2009 年 2 月 4 日,慈澤廟の廟公,林五一(Liem Ngo Iet)氏へのインタビュー
による)。
94) たとえばラセムの寺廟管理・運営組織は,2003 年に福建省莆田市から技師 3 名を招き,慈安宮内
に寝泊りさせて媽祖の像と神輿を新造させていた。
95) この点に関しては,貞好康志氏からご教示をいただいた。
96) 筆者らは今回の調査の過程で,ジュンブルの新興住宅地内に新築された天道教郡英道場の礼拝所,
圓満佛堂も訪れている。ここには 500 人ほどの信者が帰依(日常的に集まるのは 50 人ほど)して
おり,うち 9 割以上が華人とのことであるが(2008 年 1 月 28 日,圓満佛堂でのインタビューによる),
台湾に本部を置くこの教団は現在インドネシアの各地に支部を開いている。この他,台湾発祥の新
興宗教である慈済会や佛光山,霊仙眞佛宗なども,インドネシアを含む世界各地で活発な宗教・社
会活動を展開している[Ong 2008: 106; 松金 2001; 藤井 2001; 五十嵐 2001]。
津田浩司:今,ジャワの寺廟で何が起こっているか
またコミュニティ内に目を転じれば,寺廟
を中心に何事かをなそうとしている動きに対
して,それを取り巻いている他の人々―華
人であろうとなかろうと―が一体どのよう
な目でそれらの動きを眺め,また関わろうと
しているのかも,今後十分に目配りをしなけ
ればならない。とりわけ,「華人文化」開放
の全体的流れの中で,華人にまつわるシンボ
ルを用いて積極的に何らかの主張や行動に結
4 4 4 4 4
びつけようとしているのではない人々が,実
際のところどのようにそれら動きを受け止め
ているかを具体的に明らかにすることが必要
不可欠であると考える。というのも,そうし
た研究は,スハルト時代や改革の時代におけ
る華人のあり方や彼らを取り巻く背景の表象
を短絡的に図式化させないための,豊かな現
実世界からの警鐘となり得るからである。こ
のようないわゆる「一般の華人」の漠然とし
た意識を捉える上では,まずは彼らの信仰実
践や寺廟への接し方などをつぶさに跡づける
ことが手掛かりとなるだろう。
本稿は,東・中ジャワの寺廟を中心とした
調査から,この国の寺廟やそれを取り巻くコ
ミュニティが置かれている現状を,国家や宗
教との関係を注視しつつ今日的関心から整理
したものである。無論,これまでに挙げた論
点が,はたして東・中ジャワ以外のインドネ
シアの他地域でも妥当するかどうかは分から
ない。いずれにしても,上で列挙した数々の
残された疑問や課題,あるいは本稿で詳しく
扱えなかったような現在この国の寺廟周辺で
進行中の動向の行方については,今後各町・
各寺廟でさらなる綿密な調査を実施し,その
上で厚い記述によって明らかにされるべきで
あろう。
引 用 文 献
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原稿受領日―2009 年 8 月 7 日
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