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文化政策研究センター
京都橘 大学
文化政策研究センター
ニ ューズ レター v o l . 3 4
lnstitute for Cultural Policy Studies
CONTENTS
KYOTOTACHIBANAUNiVERSiTY
Arts&Life 25
ンン、 諸
ンンン
ン
ンン
商店街の 「まちづ くり」再考
∼山科の商店街の事例から
和 田 応樹
京都市産業観光局商工部商業振興課
Interface文化政策との出会い 第 6回
キャラクターとまちづ くり
「
∼彦根市と境港市の事例」
織 口 直文
本学現代 ビジネス学部教授
京都モダニズム建築を訪ねて 第 4回
ー
同 志 社 大 学 ア モ ス ト館 ゲ ス トハ ウス
河 野 良平
本学現代 ビジネス学部講師
Book Review 第 5回
ひろがる日本のミュージアム
『
ー みんなで育て楽しむ文化の時代―』
千地万造 ・木下達文著 (晃洋書房 200/年)
五十川 仲 矢
本学現代 ビジネス学部教授
2008年度都市環境デザインフォーラム報告
「京 の 宿
…」
くつ ろ ぎ の か た ち と は
今井 裕夫
本学現代 ビジネス学部教授
interview文 化政策の風景 第 23回
「
伝続」を突 き詰めたところか ら
イノベ ーションは起 こる
京和傘 。日吉屋の挑戦
西堀 耕太郎
(株)日吉屋 代表取締役
報告
地域活性化 フォー ラム
Arts ttt Life 25
商店街 の 「まちづ くり」再考
山科 の商店街 の事例 か ら
和 田 応樹 Wada′Masaki
京都市産業観光局商工部商業振興課
山科駅前 の街 区が紫 一色 にな り、「なす び」が 山科 の空
1
に翻 った。その 「なす び」とは、 山科地域商業 ビジ ョン
が明確でな く、 コス ト
概念が希薄であると感
じるか らだ。 まちづ く
の推 進 のため組織 された山科地域 商業 ビジ ョン推進委員
″
″
会 ( 愛称 まっせ 山科 ) 2 が 、 山科 の新 しい シ ンボ ル と
して 「出科茄子」をモチ ー フに製作 した 「もてなす くんJ
りは理念ではな く、事
業であ り、事業には経
( 右写真 ) で あ る。 民 間企業 か ら転 身 してか ら約 一 年半、
営感覚が必須 である。
無償 の奉仕や費用 を度
私が最初 に出会 った事業が 山科地域 商業 ビジ ョンで あ っ
た。 未 だ に公 務員世界 に戸惑 って い る私 は、デス クワー
クよ りも、商業者 の話 を聞 き、取組 を支援 し、何 よ りも
異
事業が成功 した時 に喜 びを覚 える。本稿 は、そんな 「
3が
、 山科 の 商 店街 の事 例 か らまち
端 派」( ! ) 地方 官僚
づ くりにつ いて考 えた こ とを綴 った もので ある。
実 を言 えば、私 は 「まちづ くりJ と い う言葉が好 きで
はな い。考 えてみれば、「まちづ くり」とは不思議 な言葉
だ。 日本 で は よ く欧米 の先進事例が取 り上 げ られ るが、
日本 の まちづ くりに当たる言葉 は英語の辞 書 にはない。
まちづ くりの分野 は都市計画 だけで な く、商業、観光、
4。
そのため、行政 が まちづ
防犯 、環境 な ど多 岐 に渡 る
くりに関 わ る場合 、担 当部局 ( 例 i 京 都 市 ) は 総合 企画
局、環境 局、文化市民 局、産業観光局、都市計画局、建
設 局 な ど多 くの 部署 が 関係 す る。 それ ゆ え、「
縦 割 り行
一
政」と那輪 され る弊害 が、 挙 に噴 出す るのが まちづ く
りの フ ィー ル ドで もあ る。 「まちづ く り」とは言葉 自体
外視 して地域のために
尽 くす ことは素晴 らしいことだとは思 うが、商業 による
(私益 ・公益 を含む)利 益追求 の共同体 としての商店街
がそれでいいのであろうか。商店街 の まちづ くりとは、
商 いが まず あって、商 いによって まちを賑 わす こ とだ
と思 う。経営感覚 ,金 銭感覚 を決 して忘 れてはな らな
いのだ。
翻って、今回の山科の事業は、色 々なところに商人の
思想が反映 されている。 まず、 メ ンバ ー は本音 で語 り
合 って、思 い をぶつ け合 う。織 田教授 と商店街 の人たち
が口角泡 を飛ばす場面 を何度 も見た。 自身の大切 な時間
を投資 しているまちづ くりの場で、真摯な姿勢で向 き合
い、時間を無駄にした くない とい う思 いが垣 間見 える。
次に、 自身の大切 なお金を投資 している事業 には、有形
無形 のリター ンを考え、投資 した以上のものを獲得 しよ
も発展 途上 にあ り、住民、大学や行政 な ど異 なる主体が
うとした。締麗事 ではな くて、事業をするためにはお金
がいる、素晴 らしい事業 もお金がなければ実現 しない、
関わ って言葉 として も作 り上 げ てい くもの なのだろ う。
しか し、私が好 きではない理 由は、「まちづ くり」は責任
それが市場経済 (資本主義)の 摂理である。「もてなす く
ん」の事業 で見 ると、大 きな夢 は抱 きつつ も、最初か ら
02
山科の商業者が、 自身の手で、商業を中心に山科 の未来図を
描 いたビジョン ( 平成 1 9 年 3 月 策定) 。
その中では、ビジョンを達成するために必要な事業 として、
見買遊食癒観感動が味わえる華のある街づ くりJ な ど
「
5 つ のテーマ に沿 って明記 した。
委員長は山科三条商店会会長龍野英次氏、高J 委員長
兼ア ドバ イザ ー を京都橘大学織田直文教授が務める。
公務員でな く、官僚 としたのは、近代資本主義 システムと
連結 した存在 として捉 えるべ きとの筆者の考えによる。
マ ックス ・ウェーバ ー著 「
官僚制J か ら大 きく影響を受けた。
大風 呂敷 を広げることはしなかった。身の丈に合 ったサ
イズで事業 を考え、続けることを第一義に進めてい った。
「もてなす くん」も最初か らこれだけの ことを考 えてい
たのではな く、話 し合 いの中の笑 い話か ら生 まれ、育 っ
て、今の形になった。案外、事業の端緒 とはこのような
ものか もしれない。
例えば ドイツでは、 まちづ くりは都市計画 の意味合 いが強 い。
日本では都市計画は行政が行ってい るが、ド イツでは歴史的に
住民 自治の考えが浸透 してお り、住民が都市 ( まち) の プラン
作 りか ら実施 まで担 っている。住民だけでな く、行政、企業 も
対等な立場 で積極的に関与 している
家族 のための地域 同盟J の 取組) 。
(「
定期借地権 を活か した取組などで有名な四国 ・高松丸亀町
商店街振果組合は、事業を構想するに当たって全国の失敗事例
を集め、原因などを分析 したという話を理事長か ら伺 った。
をつ なげるのが大変で あ った こ とだ。 NPMや
公会計改
革な どが話題 に上が って きたが、行政 の制度 を今 の資本
主義 シス テ ム に合 わせ て リニ ュー ア ルす るこ とが必要 だ。
今後 の課 題 と して、地 方 官僚 は取 り組 んで い か ね ば な
らない。
よ く成功事例 に学ぶ と言 うと、都 市 の中核 をなす大 き
最後 に、 この場 を借 りま して、龍野英次委員長 (山科
三 条会会長)を 始 め とす る ″まっせ 山科 ″の委 員各位、
な商店街が引 き合 いに出される。 しか し、夢の大 きさは
そ してその活動 を支 えて こ られた ご家族 の皆様 にこれ ま
同 じで も、組織 も、体力 も違 う商店街 に同 じことがで き
るだろ うか。「うち は小 さいか ら」と問 々 としている商
で と今後 の活動 に対 して、僣越 で はあ りますが大 きな拍
店街 には逆効果 にもなる。ただ し、成功 に至 るプ ロセス
とその精神 は商店街の規模 に関係 な く、学ぶ ことがで き
る 5。近代資本主義 の黎明期 は鉄鋼業や化学工業 など菓
大 な設備投資を要するため、規模 の経済性が働 いた。今
手 を贈 ります。
″
″
まっせ 山科 の快進撃 はこれか らも続 く !
ー
メ ンバ は今 も知恵 を絞 って い ます
知恵 の宝箱 か ら次 は何 が出る ?
の資本主義 は 「
知識資本主義」とい う言葉 も出るように、
基本的にはネ ッ トワー クの経済性が働 く。商店街 に当て
はめると、地域の信頼関係 とい うネ ッ トワー ク上で協働
して事業 を行 い、知識や情報 の交流 を活発 にして、新 し
い創意工夫を通 じて付加価値 を生み出す ことだと思 う。
山科地域商業 ビジ ョンを構成する商店街 は決 して大 きな
商店街 ではない。専従 の職員 さん もい ない。「もてなす
くん」のデザイ ンは普通の商店主が考え、名前 も普通 の
商店主が考えた ものだ。関わった専門家 は織 田教授 くら
いではないか。で も、ネ ットワークを活用 し、持てる知
恵 を投入 して、今回の事業を成 し遂げることがで きた。
行政 として悩んだのは、商店街の思 いと行政 の支援制度
insttute for Cukural Po icy Stud es News Letter 34
03
interface 文 化政策との出会い 第 6回
キヤラクターとまちづ くり ∼彦根市 と境港市の事例∼」
「
N aofu mi
織 田 直文 o d a ′
本学現代 ビジネス学部教授
井伊直弼 と開国 1 5 0 年 祭
ひこにゃん 彦 根市承認 N o 9 2 1
平成 19年 、滋賀県彦根市 で誕生 したキ ャラク ター
″ひこにゃん ″が大活躍 した。 この
年、彦根城築城 400
年を迎 えた同市が、一連 の記念事業のキャラクター とし
て採用 し、 これが大当た りし、民間企業や市民 の間で も
幅広 く活用 され、大ブ レイクしたのである。当初、彦根
城へ の来場者数は 55万 人を目標 としたが、結果は約 76
万人で、彦根城観覧料収入 は約 6億 円だった。推計で
400年 祭全体 の観光消 費額 (直接効果)は 約 174億 円
″
″
(経済波及効果 は 338億 円)、 ひこにゃん グ ッズ購入
額 は 17億 円 とい われて い る。翌 年 の秋 に開催 された
「ゆるキャラまつ りin彦根 ∼キグる ミさみっと2008∼ 」
で も、2日 間で 4万 6′
000人 もの来場者があ った とい
″ひこにゃん ″
人気 の理 由を、事務局ス タッフはこ
う。
う語 る。
「人気が出始めたのは着 ぐるみを作 り、あ らゆる場面
に登場 させ るようになってか らで、″ひこにゃん ″があ
たか も生 き物の ようになって、人々を意 き付 けるように
なった。それに 『
猫』とい うのがかわい くて よか った。
たいへ ん人気がある。 またその人格 を尊重 して、同時期
に 1カ 所 にしかいないようにしている」。
現代人は大量 の情報 の中で生 きているが、人間の情報
処理能力には限界がある。そ こでは商品情報 も地域情報
もよほ どインパ ク トがなければ届かない。その点、キャ
み易 く、伝 わ り易 く、発信者のイメー ジ
ラクターはIll染
も形成 して くれる。一方、人々 もス トレスを発生 させや
す い金属的な情報 よりも、柔 らかい生 き物 の ような愛 ら
しい、親 しめる形で情報 を得 る方が″
卜地 よい と思 うとこ
ろがあ り、時 には癒 しを求めキ ャラクターその ものの
ファンと化す のである。″ひこにゃん ″フィーバ ー は、
まさにそのことを示 して くれた と言え、今号 で和田応樹
氏が紹介 している京都 山科 の ″もてなす くん ″も同 じと
言え よう。
″ひこにゃん ″や ″もてなす ん ″の ような地域 でオ
く
リジナルに創 るタイプもあるが、鳥取県境港市 のように
既 に全 国で知 られている 「
水木 しげる」の作品を活用す
るタイプもある。境港市は、全国的に名の知れた漁業の
さ らに彦根城 で (ひ こに ゃん ダ ッシュ〉や (イナ バ ウ
まちである。その港に隣接 して繁栄 してきた商店街 も戦
ワー)、〈
正座〉などをやって もらった りしているのだが、 後は衰退するが、その活性化策 として着手 されたのが、
04
い、伊達 は、 「ロー ドは、 一 気 に作 り上 げず、 間 に妖怪
「水 木 しげ る」が扱 って きた妖怪 の キ ャラ ク ター を活用
し彫刻 を配置 す る 「
水 木 しげ る ロー ド」の 整備 であ った。
平成 5年 7月 オ ー プ ンの 「
水 木 しげ る ロー ド」、 また平
神社 の設置や記念館 の 開設が入 り、絶 えず話題 を欠か さ
成 15年 3月 オ ー プ ンの 「
水 木 しげ る記念館 」 は、 いず
人々 も自分 の 商売繁盛、地域 の発展 のため に創 意工夫 し
れの人気 も高 まって きて い る。平成 20年 の 観光客数 は
「水 木 しげ る ロ ー ド」が約 170万 人、 「
水 木 しげ る記念
ている姿勢があ った」と付 け加 える。
いずれ にせ よ結局、 キ ャラク ター活用 の まちづ くりを
成功 させ るには、①地域 の歴 史 ・風土 にあった もの にす
館」 は約 30万 人であ る。
その成功要 因 につ いて 、桝 田知 身 (境港市 観光協会会
長 ・水 木 しげ る記念 館館 長)と 伊達 憲太郎 (境港市 産業
環境 部通 商課 長)は 、 「全 国的 ・世 界 的 に知名 度が高 く、
現在 も ご本 人が ご健在 で、作 品 もヒ ッ トを続 け、映画や
なか った点 が よか った」と分析 す る。 そ して 「まち の
る こ と、② ス トー リー性 や生 命 ( 人格 ) を 宿 す ような も
ので あ るこ と、③平面 よ り立体化 し、躍動感があ る もの
にす る方が よい こ と、④地域活性化 につ い て総合的 な戦
テ レビで放 映 されて いる もの を まちづ くりに生か して い
略化 を図 ること、⑤地域 の様 々 な主体 が関わ り、時 間を
か けてキ ャラク ター を育てて い くこ とな どが必要 な よ う
る」こ とを まず あ げ る。 さ らに伊達 は 「言 わば、 そ こは
である。
いつ 来て も タダで味 わ うこ とがで きる屋根 の無 い水木 し
げ るワー ル ドの博物館 であ り、美術館 であって、 フ ァン
今や く
我が まちのキャラクター〉が無 い地域 は無 い く
らい、キャラクターのオンパ レー ドである。我 々はキ ャ
ラクター を生み出し、キャラクター を活用 しようとして
に とって これほ ど魅 力 的 な所 は無 い。 また繰 り返 してテ
まで幅広 い 世代 の フ ァン層 に支持 されて い るの も強み」
悪戦吉闘するが、彼 らは一旦生命を宿 した となると、凄
まじい勢 いで まちを創 り、 まちを育み、我々の生 き方を
と言 う。桝 田は 「マス コ ミが 評価 して くれ、取 り上 げて
生み出すのである。実に面 白い時代になったものである。
くれ てい るこ とが人気 づ くりを支 えて くれて いる」と言
( 取材協力 : 彦根市、境港市、境港市観光協会。文中、敬称略)
″ひこにゃん ″ブームで有名になった彦根市。(キャッスルロー ド
〉
(筆者撮影)
水木しげる像と妖怪像 〈
境港駅 (鬼太郎駅)前〉(筆者撮影)
レビ放映 されて きた こ とか ら、子供か らお年寄 りに至 る
instttute For Cultural Po cy Stud es News Letter 34
05
京都 モ ダニズム建築 を訪ねて 第 4回
同志社大学 アー モス ト館 ゲス トハ ウス (1962)
河野 良平 Kohn。
′Ryohei
本学現代 ビジネス学部講師
西側ゲス トハ ウス部分の高側外観 (筆者撮影)
今 回紹介す る建 物 は 「同志社大学 ア ーモス ト館 ゲス ト
ハ ウ ス 」で あ る。 まず この 建 物 に つ い て話 す 前 に、
「ア ー モス ト館 」自体 につ いて簡 単 に触 れ てお きた い 。
であったケー リ氏にゲス トハ ウスの設計者 として提 案 し
とい うの は、設計者 であ る吉村 順 三 (19o81997)は
生 まれ、1926年 東京美術学校 (現東京芸術大学)に 進
んだ。学生の頃か ら度々京都 を訪れ、お寺などの実測調
建
物 を設計す る際、周 囲に立 つ建物 につ い て も配慮 を怠 ら
ない建 築家 だ ったか らであ る。 「アー モス ト館」は 1932
(昭和 ア)年 、 ボ ス トンの 設計事 務所 に よる イ メ ー ジ原
条 に基 づ き、 アメ リカ人建築家 の ウ ィリアム ・メ レル ・
たそ うである。
吉村順三は 1908年 東京市本所区緑町の呉服商 の家 に
査 をしていた。在学中か ら通っていたアメリカ人建築家
ア ン トエ ン ・レーモ ン ド (1888-1976)の 事務所 に約
10年 間勤 めた後、1941年 に自身の設計事務所 を開設 し
ヴ ォー リズ (1880-1964)に よって設計 された ニ ュー イ
ング ラ ン ド ・ジ ョー ジア ン様式 の学生寮 であ る。 この建
ている。1945年 か らは母校 で教搬 をとりなが ら住宅 を
物 は、 同志社 の創 始者 であ る新 島裏 (18431890)の 留
学先 であ った アー モス ト大学か らの学生代 表 と、 同志社
井沢 の別荘」(1962)、等がある。京都 とも縁があ り、
昨年開催 した本学のフォー ラム 「
京 の宿Jで 話題 に上 っ
の選 ばれた学生 たち を寄宿 させ るための国際学生寮 とし
た 旅 館 「俵 屋 」の 増 築 (1965)や 「ホ テ ル フ ジ タ」
(1970)といった宿泊施設 と 「
御蔵山の家」 (1966)等の
住宅 を手掛 けている。
この 「同志社大学アーモス ト館 ゲス トハ ウス」は、西
て建 設 された。外壁 は赤煉瓦積 みで、 ギ ャ ンブ レル (二
面切 妻 二段 勾 配)屋 根 に ドー マ ー 窓が付 いてい る。 この
本格 的な コロエ ア ルス タイルの本館 に付属す る形 で、今
回紹介す るゲス トハ ウスが建 て られたのである。今 回の
取材 で館 を案 内 して いただいた 同志社大学 ・北垣宗治名
中心 とした設計活動 に取 り組 んだ。代表作 として、 「
軽
誉教授 にお話 を伺 った ところ、 ア ーモス ト館 出身者 で川
側 のグス トハ ウス部分 と東側の館長用住宅部分か ら成 り
立 っている東西 に長 い建物 である。規模 は鉄筋 コ ンク
リー ト造 2階 建 て、延床面積 521.539m2、竣ェ は 1962
島織物 の東京 支店長 を勤 めた こ とのあ る故木下猛氏 が、
年 8月 20日 である。1階 西側ゲ ス トハ ウス部分 には玄
東宮御所 の設計者 として有 名 だ った吉村 を、 当時 の館 長
関、食堂、厨房 と事務室等があ り、2階 には当時の雰囲
気 をその まま今 に伝 える客室が 3 室 あ る。東側 の館長住
屋根 の形状 や手摺 の高 さ、柱 の 間隔、開田部 のサ イズや
宅 部分 1 階 は居 間、食堂、和室、台所等 の水廻 り、2 階
外壁 の仕上 げな どが揃 え られて い るため、全体 的 には統
一 感が備 わっている と言 えるだろ う。
は主寝室 と子供部屋 2 室 等 となっている。 これ らの機能
の うち、 ゲス トハ ウスの食堂 と各室、 住宅 の居 間、和室
と主寝室 とい った部屋 は南側 に面 して配置 されて いる。
吉村 の代 表作 「
軽井沢 の 別荘 」と同時期 に建 て られ た
建物 の南側 には広 い庭が あ るのだが、西側 の コロエ アル
この建 築 は、 周 囲 の環境 を取 り込み なが ら、清 々 し く爽
やか なモ ダニ ズム と日本 の伝統 的な簡素 さが融合 した親
ス タイルの本館、東側 の和風 の無賓主庵、それ にこのゲ
密 で落 ち着 きのあ る空 間を実現 して い る。
ス トハ ウスの合 わせ て 3 つ の建物 が芝生の張 られた この
庭 に よって繁がれ てい る。
次 に室 内 の 天丼高 につ いて吉村 は 「
京都 の 町家 は小壁
が小 さ く、天丼 もひ くくて気持 の よい立面 を して い る。
私はもともと、内法 5尺 ア寸 とい う寸法が決定的 ともい
えるほど、いい高 さの寸法であると思っていたし、その
うえ小壁がひ くく、天丼高の低 いのが好 きだったのだが、
のちにアメリカにおいて、ボス トン付近の コロエアル風
の住宅 をみた とき、天丼が意外 に低 く、そのうえ、たい
へ ん気持 ちのよい空 間をしていた ものだか ら、すっか り
左側がアーモス ト館ゲス トハ ウス、右奥の瓦屋根の建物が無貧主庵。
自信 をえ、今では、で きるだけ天丼高を押 えるよう意識
1と
2、
芝生の庭によって三つの建物が繁がれている。 ( 筆者撮影)
している」 述べ ている。5尺 ア寸 は約 190cmな ので
ゲス トハ ウス部分の 2階
天丼高にしては少 し低 い気がす る。そこで、竣工当時か
らほ とん ど手が加 えられていないと思われる2階 の客室
客室。障子部分、窓枠 の
高 さまで 2050mm。 天
井は窓枠 に接 していて、
緩 い勾配がついている。
の天丼高を実測 してみた。寝室の天丼は南側の開田部分
が 一番低 く2050mm、 そ こか ら緩 い勾配が付 いて一番
高 い ところで 2350mmで あった。 これは前述 の宿泊施
3の
設「
俵屋」と 「ホテ ルフジタ」 客室 と比較 して も一番
照 明器 具 、補 子 、 ソ
ファーなども吉村順三の
低 い。 しか し、筆者 にはこの低 さが非常に心地 よい もの
として感 じられた。そ う考えると、天丼高 190cmと い
が低 く、座ると非常に落
デザイン。 ソファーの座
ち着 く。 ( 筆者撮影)
うの も意外 とあ り得 るか もしれない。
この建物 には東側 と西側で機能的な違 いがあるのだが、
外観 にもそれがハ ッキ リと現れている。東側の住宅部分
と西側ゲス トハ ウス部分 とは共に緩いアールの付 いた屋
根 で覆われているが、東西 をつ な ぐ部分の 2階 は物干 し
場 になっていて木製の縦格子が取付け られてお り、視覚
的 に も機能的に も東 と西 を分離 している。南側 の フ ァ
サー ドは、東西部分の両方が シンメ トリーの構成 になっ
てい るため、各部分 の独立性が強調 されてい る。 しか し、
2
3
吉村順三 「
内側からのスタディー」『
新建築』
1966年 1月号 p179
1尺 (=10寸)を約 33 3cmで 計算 している。
ホテル容室」「
吉村順三 「
旅館容室」F吉村順三設計図集』
新建築社、1979年 5月 号 p150-153
inst tute tor Cultural PO icy Studies News Letter 34
07
Book Revlewv
第 5回
ひろがる日本 のミュージアム
『
ーみんなで育て楽しむ文化の時代一』
千地 万造 木 下 達文 著 (晃洋書房 2007年 )
l
〕
評者
五 十川 仲矢 s h i n yias′
ogawa
本学現代 ビジネス学部教授
本書 は、現代 の博物館 を知るための、読みやす
いが奥深 い内容 をもった入門書であ り、本学にお
いては博物館学芸員課程を履修中の学生諸君に、
熟読玩味 して もらいたい と筆者 は思 う。執筆 は、
序章 ・第 1章 ∼ 第 3章 を京都橘大学名誉教授 の
み方』(講談社現代新書 1994年 )を もとに発展展
開された内容 となってお り、本書の 3分 の 2の ボ
リュームをなしてい る。
千地万造氏が、第 4章 と終章 を京都橘大学現代 ビ
ジネス学部准教授 の本下達文氏が、それぞれ担当
序章においては、博物館の歴史 とともに、その
社会教育 ・学校教育 ・生涯学習 とい う社会的役割
されている。おふた りとも、本学が カレッジか ら
ユニバ ー シティヘ、女子大学か ら共学大学へ と展
が論 じられ、集容力のみか ら存在価値 をはかろう
開してゆ く過程で、博物館学芸員課程の教育 を中
とす る市場原理に、疑問が投 げかけ られている。
また、第 1章 には、ジオラマなどの展示 をぼんや
心的に担当されて きた先生方である。本学の博物
館学芸員課程 の教育 に関わっているもの として、
学芸員 たちの工夫 を探すべ きことが、実例 をあげ
この本 を紹介 させていただ きたい。
現代 の博物館 とその楽しみ方
千地氏が執筆された 「
序章 博 物館を考える」。
「
第
ー
=ミ
ュ ジアムヘ の誘 い」・「第 2章
章 博 物館
08
多様化す る 日本 の博物館」。「第 3章 マ ルテ ィ
メデ ィア と博物館」は、氏 の前著 『
博物館 の楽 し
り見 るのではな く、 よ く観察 して展示 を企画 した
なが ら丁寧に語 られてお り、読者たちは、ゆっ く
りと博物館 の世界へ といざなわれてゆ く。
そ して、 「第 2章 多 様化す る 日本 の博物館」
には、最多 の買数がさかれてお り、全国各地 の多
様な博物館 による創意工夫に満ちた展示が詳細 に
紹介 されている。博物館 を楽 しみたい とい う人々は、
本章 を精 読 され る こ とをお すす めす る。 「ぜ ひ、
こ こに行 ってみ たい 1 」と思 う博 物館 が、 きっ と
見 つ か るにちが い ない。第 1 章 ・第 2 章 に登 場す
る滋 賀県 立琵琶湖博物館、大阪市 立 自然史博物館、
市 立 き しわ だ 自然 資料 館 な どの、 千 地 氏 ご 自身
が 設 立 と運営 に尽 力 され た博 物 館 にお け る展 示
法 の解説 には、格別 の 自信 と主張が ひ しひ しと感
じられ る。
また、 第 3 章 では、 バ ーチ ャル リア リテ ィー を
利用 した展示方法、 イ ンター ネ ッ トに よる検索、
デ ジタル ミュー ジアムな ど、現代 の最先端 の技術
を活用 した博物館 のサ ー ビス術 , 運 営技術 ・活用
法が紹介 され、学術 的興味 を もつ 人 々だ けでな く、
多様 な人 々に対 して も、様 々 な利用方法が可能 と
しが文化体験サポー トセンターによる研修活動
(木下達文氏提供)
なって きた こ とも論 じられてい る。
を提 出 した。 これ に対 して大阪府 の博物館 を支援
2 厳 しい 現 実 と博 物 館 の 未 来
「第 4章
博 物館 と市民 ・学校 をつ な ぐ」にお
いて、木下氏 は、 ご 自身 の豊 富 な博物館 に関わ る
社会的活動 の経験 か ら、博物館 におけるボラ ンテ ィ
ア活動 、 NPO団
体 や学校教 育 との連携 の 実践例
す る会 に よる署名活動、 日本考古学協会 に よる博
物館廃止反対決議 な どの反対運動が展 開 されたが、
大阪府営 のすべ ての博物館 を、今後、その まま存
続 させ るこ とは難 しい と思 われ る。
「
終章 博 物館 =ミ ュー ジアムの発 展 のため に」
を紹介 されて い る。 とくに、氏 自身が主体 的 に参
画 されて い る、 しが文化体験 サ ポー トセ ンターの
危機感 を吐露 されつつ も、博物館 の今後 を構 想 さ
活動 は、 「子供達 に芸術 に触 れ る機会 を与 え、豊
れて い る。そ して、博物館 の社会的な存在意義や
か な感性 を育 て る」とい う興 味深 い もので ある。
社会が求める博物館 の運営方法 に関 しては、学 問
そ して、2008年
11月 に本 学 にお い て、 博 物館
の
の
学芸 員課程 教育 一環 として、 セ ンター 関係者
的 な検討が欠如 してお り、 これ に対 して、新 しい
マ ネジメ ン トの方法の模索 と人材 の育成が必要 で
と学生 ・教 員 との交流会が開催 され、 こ うした活
動 にお ける大学生 のサポ ー ト活動 の意義 を多 くの
あ る とす る氏 の主 張 は、 ま こ とに的 を射 た もの
履 修生 に体 感 させ た。 また、 「オU用者 とともに博
よる政 策提 言 が 、 緊急 の 課 題 で あ る こ とが 痛 感
物館 が発展 してゆ く」とい う理念 の もとに、市民
参加 の博物館 づ くりを模索すべ きであ る とい う著
され る。
者 の主 張 も傾聴 に値す る。
ミュー ジアムが ひろが ることになれば と思 う。 も
しか し、 この よ うな努力 に もかかわ らず、博物
において、著 者 は、 こ うした深刻 な環境 を憂慮 し、
で あ り、博 物 館 に対 す る文 化 政 策学 的 な分析 に
本 書 に示 され た多 くの提 言 に よって、 日本 の
ちろん、 日本 の博物館 は、今後 さ らに大 きな荒波
館 をとりまく環境 は、最近確実 に厳 しい ものになっ
に洗 われるであろ うが、そ の厳 しい現実 の なかで、
てい る。2008年 の は じめ、大 阪府知事 となった
本書が今後 の 日本 の博物館 の航路 を決め る陀 取 り
橋下徹氏 は、大阪府管轄 の博物館 の統合整理計画
となるこ とに も期待 したい。
instttute fOr Cukural Policy Studies News Letter 34
09
2008年 度都市環境 デザ イ ンフォー ラム報告
「
京 の宿 くつ ろぎの かたちとは …」
H iroo
今井 裕夫 lmai′
本学現代 ビジネス学部教授
主催 : 京都橘大学都市環境 デザイ ン学科
日時 : 2 0 0 8 年 1 0 月4 日 ( 土) 午 後 1 時 3 0 分 - 4 時 3 0 分
京都 の文
昨年 の 2007都 市環境デザ イ ンフォー ラム 「
ーマに繋
の
に引
と
き続
き、テ
化観光振興 都市空間 未来」
会場 : 京都市国際交流会館
が りと重 な りを もたせ 、京都 の さ らな る魅力 を探 る
2008都 市環境 デザイ ンフォー ラム 「
京 の宿 くつ ろぎの
かたちとは…」を 2部 制で開催 した。
第1部
高校生 ,大学生 コンペ 「
京の宿 くつ ろぎのかたちとは…」
審査発表 と表彰
第2部
鼎談 「京 の宿 くつ ろぎのかたちとは…」
講師 】り│1原温 (東京芸術大学教授 建 築家)
中本
寸義明 (中村外二工務店代表 ・建築家)
今井 裕夫 (京都橋大学教授 ・建築家)
第一部では、本学が募集 した高校生 ・大学生設計企画
コンペ 「
京 の宿 くつ ろぎのかたちとは…」の審査発表 と
庭や寺社、芸術や芸能 の鑑賞、衛
表彰式が行 われた。「
並みや小路の散策 とい った京のひるの魅力 と呼応 して、
食 をふ くめたタベ と夜のひととき、心 を休め身をしずめ、
の どかでなごやかなときを過 ごす ″くつ ろぎ ″の空間ヘ
の新 しい提案や新たな視点を募集 します。千年 の伝説 も
いまに生 きる京のまちの浮 き立つタベや深 い濃い時空間に、
今 いちど呼びかけ、疾走 し消耗する現代 の時空間を対置
″
″
″
〃
させ、 懐か しさ の コア としての くつ ろ ぎ を期待
してい ます。君の理想する京 の宿 をデザイ ンして下さい」
とい うコンベ の主 旨か ら、「自分が泊 まってみたい、家
族や友人 ・大切 な人に泊 まってほ しい、そん な思 いで 自
、あこがれの 「
京の宿」
分が作ってみたい」理想の 「
京の宿」
ー
をスケ ッチ、イラス ト、パ ス (透視図)、設計図な ど
の表現 による提案での公募である。
個人、グループをふ くめ応募 の総数は、20作 品であっ
た。大学院生、大学生が 19作 品、高校生が 1作 品であ り、
その中か ら優秀賞 2、経作 3、奨励賞 1が 選 ばれ残念な
が ら最優秀賞は該当作品なしとい う結果 であった。
優秀賞の 2点 がやや他の作 品を引 き離す内容 とレベル
をもち、「鳴川 ・フロー テ イ ング ・ベ ッ ドルー ム」と題
会場風景
10
された作品は、京都 の夜景 を背景にした美 しい ドローイ
ングが評価 を受けた。 シンプルだがテーマ についてよく
練 られた案であることが理解で き、京 の街 の抱 える輝 け
る闇とほのかな灯 りと浮寝 の限 りのイメー ジが評価 された。
MUSiKUI HOTEL」
は、京都 の雰囲気 の染み渡る楽
「
しい宿が主題 で、視線 の抜 け ととどこお り、部屋 に辿 り
つ くまでの空 間の不思議 な奥行 と京都的な営為 を感 じさ
謀 さとで もい うべ き感性 を期待 したが、総 じて大入風だ
が未熟 な解決が多 く、そのことが最優秀賞該当な しとい
う結果を生 んだ。京 の宿、その宿 り、そのさらなる魅力
の模索 は人間や街の記憶のデザイ ンであ り、呆て しない
ものであることをあ らためて実感 させたのである。
第二部の鼎談 「
京 の宿 くつ ろぎのかたちとは…」では
せ る廊下 を持つ宿 の提案であ り、坪庭 をち りばめ、い く
俵屋旅館 を手掛けた吉村順三、ウェステイン都ホテル京
ー
つ もの魅力的なシ ンを演出することに成功 した案である。 都 の数奇屋風別館 「
佳水園」を設計 した村野藤吾 とい う、
ドロー イ ングも美 しく、イメー ジがつかみやす いところ
戦後 日本を代表する2人 の建築家 とその建築を手掛か りに、
が評価 された。
大建築家が挑んだ京都 の ″や どりのかたち ″を見据えて、
「
″
″
離れ」に分 け、
佳作 として 「
和 が家」は、「
母屋」と 「
京都 での や ど り の魅力 をさらに模索 してい く」とい
それぞれの役割について具体的 に提 案 されている点 と模
う今井の問題提起を皮切 りにして行われた。北川原温氏は、
ヨー ロ ッパモ ダニズムの感 じられる吉村順三、 モ ダニズ
型が力作 であることが評価 された。「
風 の部屋」は風景
と呼吸す る建築 をテーマ としてい る。ス ッキリとまとめ
られた好感の もてる計画であるが、テーマ に対す る回答
としてはやや物足 りない感 じが残 った。 「
季節味 わ う小
さな庭の宿」は、庭の魅力 とや ど りを重ね る建築へ の具
体的な提案 であった。表現が現代的でアイデアも果昧深
い力X平 面や断面への工夫の説明が不足 していたため、テー
マ に追 る表現力 に欠けていた。
奨励賞は一葉 の絵 であるが、時間の遺留品 といった空
間の閑かな記憶が いつ まで も残 る作品であった。唯一の
高校生 に よる作 品である こ とと、素朴 なアイデア と表
″
〃
現 であるが、 懐 か しさ の コアを湛 えていた点が評価
ム以前の ヨー ロ ッパ建築 の影響 を受けた村野藤吾 とい う
両建築家 の建築思想 の違 いを指摘 され、その建築の特徴
などについての解説 の中で、俵屋旅館 と佳水園の空 間の
質の違 いについて言及 された。
中村義明氏 は、京都の建築 は応仁の乱の前後で大 きく
異な り、その背景には平安期 の密教思想 と室町以後の禅
宗思想の影響があることに言及 し、建築は思想性 と地域性、
そ して時代 によって変わるとの 自論を展開された。
最後 に中村氏か ら 「
建築 のノウハ ウだけでな く素材 に
ついての勉強を」
、北川原氏からは 「
建築家 にはアー トディ
された。
レクシ ョンの出来 る能力 が必要」との 自らの経験 に基
づ く期待 とメ ッセ ー ジを披露 された。 これか らの都市
今回のコンペ は、主題の深 さと表現 の即物 さ加減 のバ
ラ ンスが難 しく、学生の レベルでは大変なテーマであっ
環境 デザ イ ンにむか う思想 の端 々で、素材 へ の思 いや
空間の ″質 ″の問題、モ ダニズムのテイス トを深 く考 え
たに違いない。判 ってはいたが、それを越 える若 さや無
させ られる時間であった。
institute rOr cu tural Policy Studies
Newrs Letter 34
intervielA/
京和傘の世界
文化政 策 の 風 景
第28回〈
京都府京都市〉
滋野 日 古屋 さんは、現在京都でただ 1軒 の和傘屋 さん
だそ うですね。
西堀 創 業百数十年、私で 5代 目です。昔は、京都で和
傘を製造 している店はた くさんあったのですが、現在 は
うち しか残 って い ませ ん。全 国的 に も 10軒 程度 しか
残っていない とい う状況 です。
そのような状況の中で、なぜ 日吉屋が生 き残れたのか
とい うと、茶道の家元 の存在があったか らです。お茶席
で使 う赤 い傘 のことを 「
野点傘」といい ますが、中で も
本式野点傘」と呼ばれる、茶道 の家元が使 われ るよう
「
な傘 を製作 してい ます。 この 「
野点傘」があったので、
いの
の
の
普段使
番傘や蛇 目傘 出荷が減っても、 日吉屋 は
生 き残れたんです。
番傘や蛇 の 目傘 は、和服 を着ていた昔 は実用品 として
当た り前 に使われてい ましたが、洋装が主になった現在
は実用 に使 われる機会が激減 しました。当然、和傘の売
上 も減 りますか ら、和傘屋 として成 り立たな くなって、
上等な傘 はデパ ー トで、普段
洋傘屋 に変わ り、 しか も 「
使 いのビニール傘 は コンビニで」とい うことにな りまし
た。だか ら、傘屋その ものが成 り立たな くなったのです。
ゲス ト
Ktta的
西堀 耕太郎 Nishibori′
(株)日古屋 代表取締役
聞 き手
滋野 浩毅 shigen。
′Hiroki
京都 ものづ くり塾代表、楽洛まちが ら会メ ンバー ・世話人
日古屋玄関
「
伝統」を突き詰 めたところからイノベーションは起 こる
京和傘 。日吉屋 の挑戦
日吉屋でも、一時、番傘や蛇 の 目傘の需要がひ ど く落ち
込んで、 ほ とん どゼ ロ に近 い状態で したが、「野点傘」
があったので、細々 とで もやって こられたんです。
滋野 西 堀 さんは、「
外 の世界」か ら和傘 の世界に入 られ
たそ うですが、なぜ和傘 に関心 を持たれたので しょうか。
そ して、 どの ような印象 を受けましたか ?
西堀 私 は、実は婿養子 として妻の実家の 日吉屋 に入 り
ました。11年 前、 ここに初めて来た時、 まだ私 は違 う
仕事 をしてい ました し、傘 をやるとは思ってい ませんで
したが、和傘 も洋傘 も売れないとい う非常に厳 しい状態
した。でも、和傘全体の需要は下がっていますから、そ
のままだといつか必ず頭打ちになることが予想されまし
た。そこで、「
普段使 いで きる商品がなければ生き残れ
ないのではないか」と考えるようになりました。
傘の歴史 と構造を考えた中か ら生まれた
イノベ ー ション
を見て、「これはなん とか しない と」と思 うようにな り
滋野 生 き残 るためにどんなことを考えたのですか で
西堀 ま ず、和傘の歴 史を考えてみ ました。傘は奈良時
代 に中国か ら伝 わ り、最初は天蓋や ドームのような形 を
ました。
してい ました。身分の高 い人の頭上に差 しかけて、魔除
私 は、和歌 山県新宮 の生 まれで、実家は英語塾で した。
和」とか 「
伝統」にはな じみがない私か らす ると、番傘
「
は 「カ ッコいい もの」だったんです。番傘 の需要がない
けにした り、権威の象徴 として使 ったのが原形で、今で
も祇園祭 の傘鉾や菱祭などで使 われています。雨をよけ
とい うけれ ど、私がカッコいい と感 じるとい うことは、
る用途で使 い出したのはず っと後の時代 のことで、柄が
つ き、開閉で きるようにな り、江戸時代 には工程に分業
他 にも、欲 しい と思 う人 もいるん じゃないか と思 うよう
にな りました。で も、 日吉屋 とい う店が京都 で番傘 を
制 を採 り入れ、安 く大量に製造で きるようにな りました。
今で こそ 「
雨が降った ら傘 をさす」のは当た り前 ですが、
作 っているとい うことを知るのは、取引のある茶道 の関
係者 ぐらいで した。
そこで、イ ンター ネ ットが普及 し始めた頃、店のホー
雨具はもっぱ ら菅笠や蓑で した。
つ ま り、蛇 の 目傘 は、登場 当時 は時代 の最先端商品
ムベ ー ジをつ くりました。それ以来、ほとん どの検索エ
ンジンで、「
和傘」とい うキー ワー ドで検索す ると 「日吉
だったんです。 コンパ ク トにたためて、 しか も開けば美
しいので、女性が着飾って出かける時の人気アイテムで
屋」が トップで ヒ ッ トす るよ うになって、和傘 に興味の
ある人はかな りの確率 で当店のホームベー ジを見てもら
した。そ うい う女性 の姿が、浮世絵 にもた くさん描かれ
える状況になってい ます。
そのことによって、 いろいろなジャンルの雑誌社 の方
が、ネ ットを通 して 日吉屋 を知 って、取材 に来て くださ
るようにな り、それ らの出版 された ものを見て、また新
それは江戸時代の中期以降のことで、それ まで、庶民 の
ていることを見てもわか ります。
つ まり、和傘の魅力 はお しゃれなこと、開閉で きるこ
とだったんですね。
滋野 な るほど。では、和傘 の歴 史か ら見 えて きた こと
か らどんなことを発想 されたのですか。
しいお客様やメデ ィアの方 々が来て くださるようにな り、 西堀 和 傘 の構造上の特徴 は、縦の骨組みの骨数が非常
に多 くて、幾何学的な シンメ トリーの構造が非常にきれ
売上は年 々増 えてい ます。
和傘 の売上が増 えて、和傘で生計が成 り立 つ よ うに
なったのを機に、扱 う商品を和傘一本に絞ることにしま
西堀 耕太郎
唯一の京和傘製造元 「日古屋」五代目。
和歌山県新宮市出身。
カナダ留学後市役所で通訳をするも、結婚後
妻の実家 「日古屋」の京和傘の魅力に目覚め、
脱 ・公務員。職人の道へ。
いだとい うことと、和紙 に透か した太陽の光の美 しさが
あ ります。 また、閉 じることがで きるの も傘 の長所で、
「
伝統は革新の連続である」を企業理念に掲げ、
伝統的和傘の継承のみならず、和傘の技術、構造を活かした
新商品を開拓中。和風照明 「
古都里 ―KOTORI」 で
200/年 度グッドデザイン賞中小企業庁長官特別賞、
2008年 #FORM(ド イッデザインプロダクト賞)受賞。
2004年 五代目就任。現在 34歳 。
insjtute for Cu tural Policy Studies News Letter 34
それが普及 した大 きな理由のひとつ です。
それで、「
太陽光のフィル ターではな く電気照明の光
を遮るフィルター として使 えば、和傘 の良さが活 きるの
快通 なモ ノ、使 いやす いモ ノを と考 え、切薩琢磨 して、
ではないか。そ うい う形 であれば、たとえ雨傘でな くて
も、普段 の生活 の なかで使 って もらえるのではないか」
と考え、照明デザイナー と組んでランプシェー ドの試作
ジに も、「
伝統 は革新 の連続」と書 い てい ますが、伝統工
現在 の形 になったわけですか ら、今 の時代 に合 わせ た変
化があ って もいいの ではないか と思 い ます。 ホ ー ムペ ー
芸 品だか らとい って、必ず しも昔 と同 じもの をつ くる必
要 はない。 もちろん、昔 と同 じことを踏襲 しなければ い
を始め ました。 いろいろな試行錯誤 の末、2006年 にラ
ンプ シェー ド「
古都里― KOTORI」 を発売 し、2007年
けな い物 や業界 もあ るで しょうが、和傘 に関 して い えば、
にはグ ッドデザイ ン賞中小企業庁長官特別賞をいただい
た変化 もあ っていいん じゃないか と思 い ます。
た り、「
新 日本様式」100選 に選ばれた りして、 いろいろ
滋野 変 化するか らこそ、新 たな需要 も生 まれるし、そ
れによって技術 も伝わってい くとい う関係 であって、昔
なメデ ィアで取 り上げ られるようにな りました。 また今
はジャパ ンブ ラ ン ドの支援制度 もあ って、海外で も展
示 ・発表す る機会が増えてい ます。その意味では、時代
が追 い風 になっていると思 い ます。
伝統 は革新 の 連続
西堀 わ れわれの取 り組み を見て、「それは伝統 ではな
い。邪道 じゃないか」と言 う人 もいるか もしれませんが、
傘 は登場 した時か ら、構造 も使途 も時代 に合わせて変化
して きました。その時代時代 の職人が、最 も良いモノ、
いろいろ な変化 を重ねて きた のだか ら、今の時代 に合 っ
の形だけを後生大事に抱 えていった ら、和傘そのものが
消滅するで しょうね。
西堀 そ う思 い ます。
滋野 和 傘が本来持つ特徴は何 なのか と原点 を探 る中で、
こうい う形 で展 開されることになった。そ こに新 しさが
あ り、それが まさに伝統 なのだろ うとい う気が します。
西堀 今 取 り組 んでいるランプシェー ドも、決 して伝統
を破 ることにはならない と考えています。現時点 での売
上は、ランプシェー ドより和傘 の方がずっと多 いのです
が、仮に今後、 ラ ンプシェー ドの売上が和傘 を上回 り、
和傘 をつ くる必要がな くなった として も、必ず和傘 は続
けてい きます。われわれは、和傘の修復 もやってい ます
し、傘があるか らこそ、新 しい挑戦 もで きたのですか ら。
「
和傘 をやって い る」とい うオ リジナ リテ ィがあるか
ら、 どこへ行って も通用するし、胸 を張って語 ることが
で きる。 これは、われわれにしかで きない ものなんです。
京都 には、同 じようにオリジナ リティを持 った伝統工芸
が山ほどあ りますか ら、和傘以外で も革新 の可能性 はあ
ると思います。ただ、外 の世界 の声 を聴 くことは絶対 に
必要です。われわれは照明業界 との コラボレーションに挑
戦 して きましたが、 自分 の工房 の中だけでやるのではな
店内での対談
lnterviewv
ー ションは
起 こる
「
伝 統 」を 突 き詰 め た とこ ろ か らイノ ベ
・
京和傘 日古屋の挑職
14
く、外 の世界や他 の業界 の人たちに見てもらった り、話
d)
株式会社 日古屋 ( H i y o s h i y a W o r k s h o p c oに
′
京都市上京区堀川寺之内束入 ル百 々町 5 4 6
電話 : 0 7 5 - 4 4 1 - 6 6 4 4
E―
mati:info@wagasa com
創業 : 江戸時代後期 ( 法人改編平成 1 5 年 1 0 月 )
‐
をしたことか ら、そ うい う発想が生 まれたわけですか ら。 したい し、われわれが一所懸命やった証になるような仕
滋野 最 後に、西堀 さんが、伝統的な和傘 を現代につ な
事ができた らいいなと思 うんです。その意味では、 この
ぐ取 り組みをする推進力 になったものは何 なのかお聞か
取 り組 み を や る こ と に
せいただけますか。
西堀 い くつかあ りますが、ひとつ は和傘 をす ご くいい
モノだと思 ったことです。 もうひとつ は、やは り食べ て
よって、 われわれの考 え
方や歴 史や ス トー リー、
いかねばな りませんか ら、京都 で暮 らす ことにした時に
も含 めて、外 に訴 えて い
「どうした ら自分の長所が最 も活かせ るか」とい うこと
を考えました。 自分 には和傘屋 とい う京都 で一軒 しかな
ける。そ うい うことが推
進力になってい ますね。
い家業があ る。 これを使 えば、 自分 の強みが活かせて、
他 とは違 う、 クリエ イテ ィブなことがで きるのではない
だか ら、 とても大変 です
が、面白い し、大 きな可
か。 どうせ生 きてい くの なら、で きるだけ楽 しい仕事 を
能性 を感 じています。
日本 の 「ものづ くり」が 目指す方向
驚
駆
犠
持
畿
:t!号
t告
8鱗
鞭韓
餞ン議が船犠
熙ン
鶴
今 日、伝統産業 の多 くは市場規模が縮小 し、それに伴
い事業所 も担 い手 も減少するとい う大 きな問題を抱 えて
い る。一方で 「
職人」、「
和文化」、「ものづ くり」といった
ことに関心 を示す若者が出て きた り、伝統産業を従来 と
は異 なる新たな形で ビジネス を展開する事業者が生 まれ
て くるといった、「
新たな変化」の兆 しもある。
また昨今、海外か ら日本の文化 は 「クー ル」だ と注 目
あるい は私 自身 の考 え方
宝鏡寺前
る。 また、 この ラ ンプ シェー ドは、伝統産業界、照 明業
界それぞれ に、 これ まで の業界 の常識 を超 えた新 たな気
付 きを生 み 出 し、 各方 面 か ら評価 を受 け る とと もに、
「クー ル」な 日本 が もて はや され る中で、 と りわ け生活
空 間を大切 にす る ヨー ロ ッパ で注 目され る存在 にな りつ
つ ある。
日吉屋 とい う、老舗 の和傘屋 が取 り組 む ことに なった
されて い る。それは単 に見 た 目の 「カワイさ」や 「カッ
挑 戦 には い くつ か の 「
偶 然」が あ る。 それ は、西 堀 耕 太
コよさ」だけではな く、それ 自体が持つ歴史性、文化性、 郎氏 とい う 「
の人
外
」が婿養子 として跡 を継 いだこと、
ー
西堀氏が和傘 を 「カッコいい もの」だ と感 じ、多 くの人
様式美 にも向け られ、それ らが合 わさって 「ク ル」と
い う評価 につ ながっている。
にその良さを知って もらいたい と考えた こと、京都 の持
つ様 々な資源の価値 を熟知 したブラ ン ド ・コンサルタン
このような、国内外 において 日本文化へ の認識が変化
してい く中で、伝統産業は何 を目指すのか、 どこに向か
トと、彼が紹介 した照明デザイナー との出会いなどであ
うのか とい う関心か ら、 日吉屋の取 り組みにはもともと
興味を持 っていた。
日古屋 の場合、創業百数十年の歴 史を誇 り、茶道家元
とも取引 の ある 「
老舗」であ りなが ら、現在、既存の和
傘 とは全 く異 なる市場 に新 しい商品 を発売 した ことに
よって、一躍注 目される存在 になった。それが、 もとも
と強み として持 っていた和傘の製造技術や伝統 を活か し
つつ 、 これまで と果 なった用途、顧客層、市場 を想定 し
て生み出 した ラ ンプ シェー ド「
古都里― KOTORI」 であ
る。その 「
偶然」をイノベ ー シ ョンに変 えたのは、老舗
つ
の持 技術 と文化の蓄積 である。
歴史』があ り、
西堀氏 は、「日本 にはお金では買 えない 『
その蓄積の中か ら生 まれるものは今後 もまだた くさんあ
るのではないか。その中か ら、大量生産 ・大量消費の価
格競争 に巻 き込 まれない何かをつ くっていけるのではな
いか」とおっしゃっていたが、 このことはグローバ ル化
した市場の中で、 日本のものづ くりが強みを発揮するた
めに目指すべ き一つの方向であると思 う。 (滋 野浩毅)
insdtute for Cu tural Policy Studies News[etter 34
F
I
I
報告
I
域政 策 の 実現 に向 けて、 「知 の拠 点」で あ る大学 へ の期
待 も寄せ られた。
面で連携 して きた。特 に文化政 策学部 を開設 した 2001
年以降は、文化 をキー ワー ドとしたまちづ くりの研究を
代 ビジ ネス学 部教授 )、 河野 良平 (現代 ビ ジネス 学 部講
師)が 、 プ ロ ジェク トの進捗状況 と今後 の課題 につ いて
進め、2005年 度か ら3カ 年は、文部科学省 の支援 によ
る現代 CP「 『臨地 まちづ くり』に よる地域活性化 の取
組」を契機 に一層地域 との連携 を深 めた。2008年 度 よ
報告 を した。
産公民学際連携」による地域再生 に
り当セ ンターでは 「
関す るプ ロジェク トをス ター トさせている。 このフォー
域 活性 化推 進担 当室 企画 官)、 高見孝幸氏 (京都 市 産業
I
民や学生 ら約 200名 が来場 し、盛況の うちに終了 した。
本学は山科区内にあって、かねてよ り地域 と様 々な場
I
1月 24日 に 「
地域活性化 フォー ラム」が開催 され、市
I
地域活性化 フォーラム
第二 部 で は、研 究 プ ロ ジェク トチ ー ムの織 田直文 (現
I
I
I
I
れか らにつ い て模索 した。
フ オー ラム終 了後 、 「産 公民 学 際連携 型 まちづ く り」
I
に む け て 山科 の 行 政 担 当者 、 商 店 街 、 清 水 焼 団 地 、
I
きた い と考 えて いる。
I
再生 に関す るプ ロ ジェク トを更 に発展 させ る予定であ る。
今後 も、 まちのなかへ 出かけて い き、情報 を発信 して い
I
NPO法 人等 の 関係者 との意見 交換 会 を行 った。 当 セ ン
ター で は、2年 目に なる 「産公民 学 際連携 」に よる地域
I
I
につ ながってい くとい う報告がなされた。 また、地域再
生 を担 う人財育成、学 生、行政、NPO、 地域 づ くりの
団体 などが一対 となった地域再生計画等の策定作業、地
リス トに迎 え、来場者 の声 も聞 きなが ら地域活性化 の こ
I
決策 ・アイデアを計画す る傍 ら、国が地域のエーズを把
握 し、具体的に支援 をしてい くことが地域活性化 の成功
観光 局商 工 部 商業振果 課長 )、滋 野浩毅氏 (京都 ものづ
くり塾代表。楽洛 まちぶ ら会 メ ンバ ー ・世話 人)を パ ネ
I
と題 した特別講演が行われた。地域が主役 となって、 自
らが地域の課題 ・問題点 ・資源や強みなどを発見 し、解
I
らの地域活性化の方途を探 った。
第一部では、御園慎 一郎氏 (大阪大学特任教授 ・前内
地域 の力 をみんなの力で」
閣官房内閣審議官)に よ り、「
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ラムでは、これ までの活動 を報告するとともに、 これか
第 三 部 で は、 「『
産公民学際連携型 まちづ くり』に よる
地域活性化 を探 る」をテ ーマ に、木 村 俊昭氏 (内閣府地
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京都橘大学
文化政策研究センター
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News Letter第 34号 (2009年 3月 20日 )
発行 : 京都橘大学 文 化政策研究 センター
〒6 0 7 - 8 1 7 5 京 都市1 1 1 科
区大宅山田町3 4
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