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千葉大学教育学部研究紀要 第5
2巻 1
9
5∼2
0
8頁(2
0
0
4)
労働と話しあい
―生活のなかの活動と自由―
岩谷良恵*
佐藤和夫
*連合大学院
博士課程
(東京学芸大学大学院)
Labor and Speech
―Action and Freedom in Life―
Yoshie IWAYA Kazuo SATO
然的に生み出された」ものだという認識に達し,それ以
降学習に励みながら作家としての活動も続けていった。
そして,1
9
9
7年8月1日に死刑が執行された。
この死刑は,大きな社会的波紋を引き起こしたが,宅
間守の場合,死刑は当人の望むところであるかのようで
あり,少なくとも極刑として犯罪者を恐怖させるはずの
死刑が,まるでその罰としての意味を持たないかのごと
くである。死刑判決やその執行という人間社会のなかで
の最もおぞましい行為に,その被告たちが何の動揺も示
さないという事態は,今日の私たちの日常生活において
何かしら恐ろしい事態が進行しているのではないかとい
¿ 世界疎外と生きる意味の無感覚化
うことを予感させるものである。
それは,死を感じられない,あるいは予感できない
大阪教育大学付属池田小学校に侵入し児童や教員を殺
人々の存在である。幼女連続殺人犯の宮崎勤は,死刑の
した事件の犯人,宅間守が死刑判決を受けた後,弁護団
判決を受けたとき,まるで無関心な表情を示したし,宅
の申し立てていた控訴を自らの意志で取り下げ,その結
間守は早く死刑にしてもらいたいと控訴を取り下げた。
果,死刑が確定した。2
0
0
1年6月8日朝,小学校に侵入
9
9
3年,アメリカ合州国のオクラホマ州で連邦ビルを爆
した宅間は,1,2年生の計4教室やその周辺で,児童, 1
破し,1
6
8名の犠牲者と5
0
0人を超える負傷者を引き起こ
教師を包丁で切りつけ,児童8人を殺害,児童1
3人と教
した事件の犯人,ティモシー・マクヴェーは,無縁な市
師2人に重軽傷を負わせた。この事件は,この間日本で
民をこれほど大量に殺害したことについて謝罪しようと
多発している,目的もなく人を傷つけたり殺したりする
はせず,自分の行為が「数年にわたり続いている連邦政
事件のなかでも,際だった注目すべきものを持ってい
府の市民に対する横暴な国家権力の行使への報復攻撃
る1。
だった」と公言し,「米国の外交政策を借りていうなら,
これらの事件に特徴的なのは,誰か特定の人格に恨み
連邦ビル爆破は,米政府によるセルビアやイラク空爆と,
や怒りがあるわけではなく,むしろ何の関係もない人物
倫理的にも戦略的にも同じこと。その視点から見ると,
に対して,考えられないような凶暴さによって危害を加
連邦ビル爆破は容認できる行為だった」と主 張 し た
えるというところである。こうした事件としては,永山
(CNN,20
0
1年4月2
8日)
。そして,死刑に際しても動
則夫の事件があげられる。1
9
6
8年1
0月,1
9歳の永山則夫
揺を示すことなく,平然と死んでいったという。
は,神奈川県横須賀市の米軍住宅から短銃を盗みだし,
このような人々に対して死刑を行使するということに
東京都港区のホテルで巡回中の警備員に見とがめられ,
どういう意味があるのかという基本的問題は脇に置くと
盗みが発覚するのを恐れて射殺。3日後には逃走先の京
しても,このような人物について共通していることは,
都市の神社境内でも警備員を射殺した。同月末,北海道
殺した相手の苦しみや親族・友人たちの悲しみについて
函館市郊外でタクシー運転手を射殺して売上金を奪い,
ほとんど全く無関心であるというだけでなく,自分の身
翌1
1月にも名古屋市でタクシー運転手を射殺,現金を
体に対する感覚を持っていると思えないような反応が見
奪った。こうした無差別な「連続射殺魔」として大きな
られることだ。まるで,この世界には身体の苦しみはリ
社会的不安を引き起こした永山であったが,彼の場合,
アルなものとしては存在しないかのごとき彼らの反応を
この凶悪犯罪によって逮捕された後,拘置所のなかで自
どう考えたらよいのだろうか。
分がなぜこんなことをしたのかを考えていくうちに,
ハンナ・アーレントは『人間の条件』のなかで,この
「自己の犯罪が貧困と無知に起因,資本主義社会から必
点について興味深い示唆を与えている。アーレントが
持った現代社会に対する最大の危機感は,この現代世界
連絡先著者
¿
À
Á
世界疎外と生きる意味の無感覚化
労働と活動
生活のなかの活動と自由
1 人と人との間に生まれる自由
―私と他者の物語をつむぐキルトづくりの試み―
2 キルトの歴史
―ジェンダー及びマイノリティの視点から―
3 キルトにおける協同活動と話しあい
―生活から離れない自由の可能性―
1
9
5
千葉大学教育学部研究紀要 第5
2巻 À:人文・社会科学編
がローマ人の言った意味での生きること,すなわち,
人々の間にある(inter homines esse)ということの深
みをないがしろにしていることにあった。人間関係を生
き抜く代わりに,感覚的快苦のみを探り,動物的な生命
の原理に従って自分のなかの感覚経験にだけ頼って生き
ようとする「世界疎外」の傾向こそ,近代の最も根深い
危険だと考えた。
このような近代の原理は本質的に深い矛盾にとらわれ
ている。というのも,人間の感覚経験は,元々,人間関
係の編みあわせ具合と深く係わっているからである。一
人で孤独感にとらわれて食べる食事の素っ気なさを多く
の人々はよく知っている。自分が心を通わせたり信頼し
たりする人との食事はおいしい。信頼できない人との
セックスは味気ないどころか,自分を深く傷つけたりも
する。つまり,感覚経験と思われるものの大半は,実は
それを媒介にして他者との関係を感じ取るものである。
この関係が考慮されないで,感覚経験が人間関係抜きで,
それ自体が人間として営まれるように信じる根深い傾向
こそ,アーレントは「世界疎外」
だと名付けていると言っ
てもよかろう。あるいは,感覚経験や快苦が他者との関
係を遮断して成り立つことを信じ,その結果,自分の身
体と感覚は「世界」から侵入されないでいられるかのよ
うに防御的に対応しようとするのが,現代の「世界疎外」
だと言い変えることもできよう。
今日の若者のなかの,そういった根深い「世界疎外」
の現象の例としては,ダイエットなどから始まる拒食や
過食の摂食障害,また,死なない程度に手首を切り続け
るリスト・カットなどの現象を見ることができよう。彼
ら・彼女らの多くは,この現実世界での営みである教育
や仕事などには生き生きとした関心を寄せることはでき
ず,時には,身近な人間関係にさえ期待を持たない。そ
の代わりに,自分だけがその試みも成果も完全にコント
ロールできると信じるダイエットやリスト・カットに向
かう。自分の体重のコントロールをめぐる壮絶な苦しみ
や征服感といったものは,世界とは全く離れた自分の身
体をめぐる経験だと信じて,そこに何らかの生きるリア
リティを見ようとする。拒食の苦しみ,そのあとの反動
としての過食,さらには,それを再び強引にトイレで吐
く経験。自分がことによればこのまま死ぬのではないか
という不安と苦痛のなかでリスト・カットに走る姿。こ
れらはいずれも,現代の若者にとっての世界に対する拒
絶の表現であり,そうした世界との断絶を感じるなかで
も自分だけの内側の世界があり得るかのような錯覚であ
る。そこには,デカルトが言う意味での「コギタチオー
ネス」
(cogitationes)
,すなわち,精神が精神として働
く限りの営み全体が,それだけで成り立つような錯覚が
ある。たしかに感じられた感覚そのものには,いつでも
対象とは別にそれ固有の感じ取る働きがある。そして想
像力は,対象がなくてもそのような対象の存在を想像し
て,感じるほどの力を持つものであることは間違いな
い2。しかし,だからこそ,こうした感覚作用は,いつ
でも対象に依存している。たとえ想像であるにしても,
そのイメージは何ものかのイメージであり,そこからさ
まざまな精神の働きが始まるのだから。
しかし,精神と異なり,感覚は,その感覚作用そのも
1
9
6
のが人間にとって生きていることの証となるためには,
人間によって感覚それ自体として追求される。精神は,
それ自体では何も見えないので言語の働きと感覚を通し
てしか捉えられないが,感覚は,それ自体で感じられる。
そして意味が人間関係からしか生まれないという事実を
忘れて,本来は何らかのものとの関係から得られる感覚
作用を,他者や世界に対する関係によってではなく,自
分のなかだけで得ようとする。どうするかといえば,自
分の身体という他者を,自分の身体故にコントロールで
きるかのように考える。そして,身体に対する感覚に
よって自分が自分の内部にだけ閉じこもって,感覚によ
るリアリティを感じ取ろうとする。
アーレントはこのような傾向を単に現代の若者たちに
特徴的な傾向として見ているわけではなく,近代人及び
近代思想の本質的傾向だと考えて,次のような順序で説
明する。まず,デカルトが立てた「私は考える,だから
私は存在する」という主張によって,自分の内部を省察
することによって得られる確実性が「私は存在する」と
いうことの確実性だと信じるようになった。その結果,
人間は,その「存在の確かさを,自分自身の内部」3に
持つようになった。ついで,この方法が実は,近代自然
科学の含む基本的な考え方,すなわち,人間はたとえ真
理を知ることはできなくても「自分で作るものは知るこ
4
とができる」
というものと結びついていったことを指摘
する。というのも,近代自然科学技術は,「地上の条件
を改善し,人間生活を一層よいものにしようというプラ
グマティックな欲望」に支えられて,自然をその目的に
資するように「支配」できるような知識のあり方を科学
的としたからである。科学は,自然そのものを認識しよ
うとする営みのように考えられているが,実は,自分の
設定した枠の中に入ってくる限りの自然を,自分でつ
くった知識の体系や数式などによって捉え,自然の運動
をそうした設定された枠のなかでコントロールしようと
するものだからである。こうして科学的知識は,実験状
態におかれた限りの自然,ベーコンの言葉を借りれば,
「拷問にかけられた」限りの自然を人間が作り出した記
号によってコントロールできるかのように秩序づけて認
識することとなった。言い換えれば,自分の精神の営み
によって生み出されたもの,そしてその枠にとどまるも
のだけを知りうるという考え方に近代人は移行していき,
「そのおかげで今再び人間は,以前よりもっと強力に自
分自身の精神の牢獄に閉じ込められ,自分自身が作り出
5
したパターンのなかに閉じ込められる」
ことになった。
その結果,自然と宇宙は「人間を逃れ去る」ことになり,
自然の認識とは,まるで実験の過程のなかに現れる自然
の運動の認識に還元されてしまうかのようになってしま
う。自然と世界はこのようにして,それが持っている無
限に豊かな姿から,人間によってコントロールされる限
りでのものだけに還元されてしまうことになる。あるい
は,そうした人間の精神の枠のなかに現れるものの方が
確実だとしてしまう自己の中に閉じこもる傾向へと進ん
でしまう。
その上,自分の中の精神の営みにだけ信頼を置く傾向
が顕著になることによって,同時に人間は,自分が立て
た欲望や目的の実現に役立つ限りにおいて世界を見ると
労働と話しあい
いう「有用性の原理」が支配し,すべてを手段=目的の
連関で見ることになったのである。
さらに,すべてのものがそれ自体の存在によってでは
なく,何かの価値や富を生み出す限りで意味を持つとい
う考え方からもっと進んでいくと,結果的には,ものを
作ることさえもどうでもよくなっていき,ものはその有
用性によってではなく,それが結果的にものの生産や消
費のなかで「経験される苦痛と快楽の総計」だけが主た
る関心になっていく。つまり,ベンサム流の「苦痛と快
楽の計算」によって「幸福」が測定されることにだけ関
心がいき,もはや人間が世界のなかでいろいろな人間関
係を取り結んだり,ものを作ったりするなかで生まれて
くる経験はどうでもよくなってくる。
こうして,快楽と苦痛に主たる関心を寄せるようにな
るということは,実は,「世界の対象物と無関係なまま
6
でいる内部感覚にとどまる」
ことである。重要なことは,
そうした人間のあり方から生まれるものが,こうして世
界とのかかわりのなかで存在し経験される人間本性では
ないために,結果的に,そこに現れる人間性はいちじる
しく内容を欠いた,画一的で単調なものとなることであ
る。また,内容を持たない幸福と苦痛を考えるなら,世
界からのひきこもりという点では,苦痛の方が快楽より
も一層徹底したものとなる。というのも,我々の経験か
らよく知られているように,人間は苦痛に喘いでいると
きには,世界を忘れてしまうからである。どんなにすば
らしい経験があっても,歯痛や頭痛,あるいはひどく傷
ついた痛みのような場合には,私たちはその痛みのこと
しか考えられなくなる。逆に言えば,自分の痛みがあま
りにひどい時には,人は,他者や世界の痛みが分からな
くなる。
宅間守も酒鬼薔薇少年もおそらくは,他者の痛みを感
じることができないほどに自分のなかの痛みがひどかっ
たのかもしれない。自分の痛みがあまりにひどいとき,
人間は他者の痛みを感じられない。とすれば,鬼のよう
に冷酷な殺人や暴力を働く凶悪犯は,実は,他人の痛み
を感じなくなったほどに,自分が痛みを受けた人たちだ
ということになる。
このように考えたときに重要になるのは,積極的な意
味で「生きる」営みである「人々の間にある」というこ
とが今日どのようにして可能かという問題であろう。痛
みが人間的関係の産物であるとすれば,人間的コミュニ
ケーションが保証されない限り,宅間守や宮崎勤,ある
いは,酒鬼薔薇少年に「生きる意味」も痛みも復活され
ないのかもしれない。おそらく,彼らのような存在は戦
後日本社会の基本的な生活様式全体に問題提起している
のかもしれない。というのも,戦後日本社会は社会の全
体としての目標を高度経済成長に代表されるように経済
的な生活水準の向上に据えてきており,日本社会を強く
規定してきた労働優先の社会原理,アウシュヴィッツ強
制収容所の入り口に掲げられたスローガン,「労働すれ
ば自由になる」とほとんど同じスローガンを豊かさ実現
の原理としてきた。彼らのような不気味な存在の続出は,
そうした日本社会が意識的にか無意識的にかは問わずと
も,無視したり,軽視してきたことによる負債を最終的
に返済することを求めているのであろう。ものの豊かさ
1
9
7
のためにどれほど仕事中毒に陥り,労働の解放的要素を
強調しようとも,労働そのものは決して人間存在に意味
を与えるものではない。意味は人間と人間の間に生まれ
るものであり,それ故にこそ,労働と生きる意味との関
係が,今日問われなければならないのである。
À
労働と「活動」
さて,生きる意味が人と人の間に生まれてくるのだと
すれば,それはどのようなときにであろうか。もちろん,
何らかの意味で人と人とが一緒に活動したり,思いを共
有させたときである。アーレントは,「人間の営みは,
すべて,人々が共生しているという事実に条件づけられ
ているのだが,人々の交際を除いては考えることさえで
7
きないのは,活動だけである」
と述べている。アーレン
トが,「活動的生活」と名付けているもののうち,残り
の二つの「労働」と「仕事」は,必ずしも他者の存在を
必要としない。労働は,離れ小島に漂着したような場合
でもたった一人でもしなければならない。何とか食べる
ものを調達しなければならないし,生き残るために営ま
なければならない。同じように,職人が椅子づくりに専
念するときに,時にはまったく一人で作り上げてしまう
こともありえよう。それに対し,「活動だけは,他者の
8
たえざる存在に完全に依存しているのである」
。ここで
「活動」
(action)と言っているものが何かは,思った
よりも簡単ではない。アーレントは『人間の条件』にお
いて,活動を定義のように「物あるいは事柄の介入なし
に直接人と人の間で行われる唯一の営みである」とし,
それが成り立つ条件は「複数性」という事態,つまり違
う人々が共にあるということだとしている。
この「活動」という事態は,今日の我々には極度に理
解が難しい。それは,現代社会が「社会」
的なものによっ
て人間の営みのほとんど全領域を浸食されており,生活
が「活動」を主たる目的とするような領域をほとんど失
いつつあることと深く結びついている。現代社会では,
ものをいかに効率よく経費を削減しながら生産するかは
社会的活動の絶対的前提となっているといってもよい状
況であるから,人間と人間の交流を自己目的とする「活
動」は,問題の処理を目的にしない「思考」のような営
為と並んで,可能な限り,この人間世界から,排除され
ていく。たとえば,教育や芸術は,人間と人間の交流が
自己目的であるような活動の要素を多大に含んでいるが,
このような活動に対して効率と市場の原理が持ち込まれ
た場合,人間の営みは,結果的に一番矛盾した要求にさ
いなまれることになる。人間と人間のコミュニケーショ
ンを目的とする「活動」の場合,コミュニケーション自
体が目的とされるのだから,お互いが交流する時間は
たっぷりと時間の経過にわずらわされないような形で行
われるのが一番よい。しかし,結果を求める市場原理,
効率主義においてはできるだけ,人がコミュニケーショ
ンのために使う時間を省略して,結果や成果が出される
ことが望ましい。
それでは,こうした「活動」が現代においてどう行わ
れるのであろうか。こうした点から見ると,現代の労働
の現状はもっとも「活動」と排除しあうような関係にあ
千葉大学教育学部研究紀要 第5
2巻 À:人文・社会科学編
ると言ってもよかろう。
たとえば,宮本常一は『忘れられた日本人』のなかで,
田植えという腰が曲がってしまうような疲れる作業を,
かつての農民たちは避けようとしていたどころか楽しみ
にしていたという興味深い事実を指摘している。今日,
競争原理に支配された都市の企業での営業のようなスト
レスの多い仕事に比べて,自分なりに頭を働かせ,自然
との交流に時間を費やす農業にあこがれる人びとが増え
ている。とはいえ,大半の人びとが農業を避けてしまう
のは,なんといっても肉体労働の過酷さを挙げないわけ
にはいかないだろう(もちろん,農業経営が今日の工業
化優先の資本主義経済においては採算が成り立ちにくい
という困難の他に,家族経営における封建的な人間関係
の残存ということがさらにあげられるが)
。田植えはそ
うした苦痛の多い労働の代表といってよいものである。
そのような労働をかつての農民たちがある意味で楽しみ
にもしていたという事実を宮本は指摘する。「女の世間」
と題された報告の中で,女性たちが農業をはじめとする
労働や日々の営みのなかでどのように互いにコミュニ
ケーションを保証し合ったかが,近代化の進行によるそ
の破壊の危機への警告と共に伝えられている。かつては
「乱れ植」という田植えの仕方だったが,それがひどく
非能率的だった。そこで,より効率よくするために定木
を作って田植えをするようにしたのだが,このような効
率のために「話しも十分にできないような田植方法は喜
ばれなかった。縄植ならば縄をひきかえるたびに腰をの
ばすので疲れも少い,その上,手を休める時間もあって,
おしゃべりもできるのである。しかしその田植がここ二,
三年次第に能率化せられ始めた。女たちが田植組のグ
ループをつくって,田を請負で植えるようになったので
ある。一反千円で引きうける。そうすれば田の持ち主は
御馳走をつくらなくていいし,また早乙女をやとい集め
る苦労もない。……と同時に能率をあげれば収入もふえ
るので田植のおしゃべりも次第に少なくなる」
。こうし
た変化によって「田植えがたのしみで待たれるような事
はなくなりました」という老女の話を,宮本常一は紹介
している。こうして宮本は,効率化によっておしゃべり
や話しあいのための時間と空間が消えていくところで初
めて「田植えのような労働が大きな痛苦として考えられ
9
始めた」
とあっさりラディカルに問題提起している。
これによれば,労働そのものが苦痛と考えられるかど
うかは,労働のそのものによって決定されると単純には
言えないということである。どんなに労の多い難儀な作
業も,打ち解けた自由なおしゃべりによるコミュニケー
ションの保証された空間では苦痛ではなくなるというほ
とんど奇跡のような事態こそ,労働と話しあいの最も不
思議な関係なのである。
逆に言えば,利害が対立したり,蹴落としあいの競争
原理の関係にいたりするとき,労働は人々をコミュニ
ケーションの楽しみからは引き離してしまう。打ち解け
た雑談や話しあいが保証されない労働は,文字通り,労
苦であり,人間に課せられた呪いとなる。人間の営みか
ら,「話しあいと活動」を奪ったところで,固有に人間
的な意味での「労働」についての議論などできないとい
うことがここで指摘されているのではないだろうか。
1
9
8
ここに示されている事態は,労働をめぐるマルクスと
アーレントの二人における対立の構図の背景に何が存立
するかを垣間見せてくれる。労働そのものが何かを,マ
ルクスのように「人間が人間の自然との物質代謝を自分
1
0
と
自身の行為によって媒介し,規制し,統制する過程」
位置づけようと,アーレントのように「人間の肉体の生
1
1
物的過程に対応する営み」
としようと,両者が共に指摘
しているのは,この労働の営みが人間の生命としての必
要性に根元的な条件となっていることである。その対立
がどうであれ,肝心なことは,労働について,それを人
間的な解放につながる営み,「魅力的(travail attractif)
1
2
で個人の自己実現」
になりうるものと位置づけられるか,
それとも,マルクスが批判したアダム・スミスに代表さ
れるように,労働を人間に課せられた呪いと考え,可能
な限り「人間生活の条件から労働を取り除こう」とする
努力をしようとするかという二つの流れに基本的な考え
方の対立があったことは明らかである。
しかし,この両者は共に意識的にかあるいは無意識的
にであるかは分からないが,宮本常一がここで指摘して
いるような問題を無視している。すなわち,労働それ自
体がたとえ,苦痛に充ちたものであったとしても,そこ
で働く仲間が共に一緒になって労働しながらも,生きる
ことや生活のことなどについて「雑談」
しあって,おしゃ
べりに時間を過ごすことが,労働そのものを楽しみにさ
せさえするという事実である。
たとえば,気の遠くなるような量の掃除だとか洗濯を
するといったことは,どうみても人間にとって呪いと名
付けてよいような苦痛な営みである。ところが,その呪
いの活動が,仲間と打ち解けあって協力したり話しあっ
たりできる時には,楽しみにさえなったりするという事
態は,労働がそれ自体で必要に強制されて行われ,時に
資本家や支配者によって強く命令されたものであるとし
ても,働くなかでの仲間との信頼に充ちた話しあいが喜
びをもたらすということだ。
なぜ,このようなことが起きるのだろうか。この点に
関して,マルクスならば,こう言っただろう。資本主義
的な生産様式にあっては,利潤追求のために生産性の向
上がめざされ,その結果,労働が「外的強制労働」とし
て現れる。そうしたなかでは,労働が自己実現となるた
めの「主体的ならびに客体的諸条件」がまだ実現されて
いない13のである。労働が自然的条件を障害とすること
なく,「自己実現,主体の対象化」として,
「自然の力を
制御する活動」となった時に,人間の労働はたとえ「真
剣」で「激しい努力」を求めるものであったとしても,
「魅力的な労働」となりうるというのである。しかし,
このようなマルクスの理論によっては,宮本常一が描い
た世界の説明にはなり得ない。マルクスによれば,労働
が魅力的になるために求められる二つの条件があって,
一つには「労働の社会的性格」が作られ,労働が「科学
的性格を持ち,同時に一般的労働である」ようになるこ
とによってなのだという。それはいいかえれば,労働が
資本主義的な利潤のための手段という性格を乗りこえて,
自然を十全にコントロールできるだけの科学技術水準を
持ち得たときに可能だというのである。
こうしたマルクスの説明に欠けているのは,労働がた
労働と話しあい
とえ,疎外されたもの,外的強制に従属され続けたとき
にも,一緒に働く者たちの相互の話しあいが実現された
ときには,働くことを楽しみにさせるのだという事実で
ある。あるいは逆に言えば,相性の合わない職場の仲間
との嫌々ながらの仕事やセクハラ的状況のなかで働くよ
うな場合には,たとえ,社会主義とかNPOのような資
本主義的な利潤追求主義に取り込まれていないような仕
事でも,労働が苦痛と感じられる。つまり,労働が自然
との物質代謝の活動である対象との関係によって規定さ
れたり,生産様式によって規定されるだけでなく,具体
的な人間のコミュニケーション,自由な話しあいの場に
なるかどうかが,労働そのものを論じるときの一つの決
定的な要因なのである。
たしかに,労働と話しあいはそれぞれ別の営みである。
しかし,生産の営みが,他の人との協同によって行われ
るものである限り,自由な話しあいが行われるならば,
それによって,労働そのものが喜びにも転化しうる。そ
うだとすれば,人間の営みとしての労働が意味深いもの
になるかどうかは,労働の性格如何とは別に,話しあい
の問題として独立に提起される必要があることになる。
これこそ,アーレントが『人間の条件』のなかで,人間
の活動的生活を三つに分け,労働や仕事とは区別される
「活動」を論じた理由である。もし,人間と人間の直接
の交流が,労働や仕事にたまたま付加的に現れたものに
過ぎないというならば,労働は,対自然的な関係を主た
る問題とすれば済むであろう。しかし,労働が苦痛にみ
ちたものか,それとも,魅力的なものかどうかは,実は,
自然に対して隷属的であるか,それとも自然を支配でき
るほどに主体的であるかということによるのではなく,
一緒に働く仲間とのコミュニケーションのあり方によっ
て基本的に大きく規定されている。そうだとすれば,こ
うしたコミュニケーションを自己目的とする「活動」は
それ自体が自覚的に人間の営みのなかから浮き彫りにさ
れ,労働や仕事から区別されてどこにおいて成り立つの
かを示す必要があろう。別の言い方で言えば,労働や仕
事とは区別されて「活動」がそれ自身で成立する条件は
どのようなものかを探らなくてはなるまい。
今日まで日本に根深く存在する傾向,働くことそのも
のが自己実現であるという考え方の背景には,生きるこ
とや働くことの意味が労働そのものあるいは労働の組織
形態によって決められるという前提があった。しかし,
宮本の指摘が示していることは,どのような労働条件で
あれ,あるいは労働が時には肉体的にどれほど過酷なも
のであれ,自由なコミュニケーションを確保する話しあ
いの空間が成立する限り,人間にとって,労働は苦痛で
さえなくなる条件があるということである。
この点で,「近代的工場のなかでのものと精神との直
接的な格闘」を知るべく工場労働者として働いた経験を
描いたシモーヌ・ヴェイユの叙述は興味深い。1
9
3
4年1
2
月から1
9
3
5年7月までパリの工場で働いたヴェイユは,
細分化された労働が,精神の自由を働かせるどころか,
ものの制作に細心の注意を働かせるためにいかにマルク
スの言う意味での「自己実現」とはほど遠い条件にいる
かを仔細に描いている。彼女の報告で興味深いのは,ス
ピード化による生産性向上の労働が,「考えることはス
1
9
9
1
4
ピードを落とすこと」
であるという人間の営みに本質的
に反するものであるという指摘である。そのなかでは
人々はただ黙々と従順にそのペースに合わせることしか
できなくなるという。そして,そうしたスピードに追わ
れる条件のなかでは「自分を一度も表現できず,心にか
かることをいつも自分のうちに閉じこめておかなければ
ならないということが心に重くのしかかる」
。それこそ,
「本当の苦しみ」であり,周囲がだれ一人私に興味を
払ってはいない状況のなかで「単なる生産機械」という
思いを抱きながら働くしかないということこそ,「産業
1
5
労働の条件」
だという。
つまり,2
0世紀の工場労働がフォード主義とテーラー
主義という二つの「科学的」方法を通じて,人間を生産
工程のロボットにしてしまうために,人間同士の話しあ
いを奪ってしまうことが人間労働をもっとも耐え難いも
のとしてしまうのだと指摘している。もしマルクスが2
0
世紀を生きたとするなら,このような「科学的管理法」
のために人間の主体的な自己実現を労働において実現で
きないということをどう問題にするだろうか。実は,労
働の過程がどれほど「科学的」な要素をはらんでいたと
しても,働く者同士の話しあいや雑談が保証されていな
いところで,労働がどのように人間的だと要求できるの
だろうか。
ここで逆に,人間の労働に関するこれまで忘れられて
きた空間に注目する必要がある。それは女性たちが主と
して担ってきた,無償労働としての家事労働の部分や,
現代的なフォード主義やテーラー主義に支配されないで
働く農業のような労働において現れてきた労働である。
近代資本主義は,人間の労働から商品生産に係わる部分
だけを切り離し,利潤を生み出す労働を労働の基本的形
態としてきた。この点で言えば,資本主義の根底的な批
判を目指すマルクスの労働論も,当然のことながら,男
性が中心となった工場労働の形態を基本に据えてきた。
しかしながら,大量生産システムへと変容させられる
前の農業や家事労働においては,その労働がどれほど社
会的評価(つまり,資本主義的市場からの評価)をうけ
ることのない労働であるとはいえ,労働の主体的な責任
主体は,個々の女性だったり,一人ひとりの農業をした
り家事をする人々自身である。今日のフェミニズム運動
が明らかにしたことは,マルクスの分析対象とした労働
概念が,いわば有償労働としての賃労働を基本にしてお
り,生産手段を資本家という他者に奪われ,労働作業の
仕方を具体的に上司から指定されたり,制約されておこ
なう労働を前提としていることである。
それに対して,衣服を縫ったり,料理を作ったり,洗
濯をしたりといった無償労働としての家事労働は,無償
であるが故に,一般的には,資本主義的な生産様式から
直接にコントロールされてはおらず,したがって,そこ
では作業をこなしさえすれば,一般的には他者の直接の
指令や規制を受けはしない。このことは多少の違いはあ
るにせよ,農業や職人などの自営業的な労働においては
同じである。だからこそ,井戸端会議や田植えでの雑談
が成り立つのである。つまり,賃労働としての今日の労
働が奪うものは,自主的な意志と労働そのものであるだ
けでなく,労働をきっかけに行われる「活動」の場であ
千葉大学教育学部研究紀要 第5
2巻 À:人文・社会科学編
り,話しあいとコミュニケーションの場である。逆にい
えば,賃労働だけを基礎に労働を位置づけ,マルクスの
ように労働を「自己実現」の場だと捉えることも,アー
レントのように単なる生命としての「労の多い」営みだ
と捉えることも,共に,労働が「活動」と結びついたと
きに持つ意味を見失うことになる。
このような視点から今日の人間の営みを見るとき,今
日ほど近代化と合理化の進んだ社会にあっても,人間の
なす営みには,はるかに多様な形で,「活動」の側面が
あることが分かる。今日の労働は賃労働を軸にイメージ
されてその賃労働が極限的にまで「話しあいと活動」を
拒否した形態でしか存在し得ないかのような状況にある。
そうした今日の「合理化」された状況にあっては,労働
は自由な形態を失い,「魅力的な労働」であり得なくな
る。ところが,家事労働や農業といった営みのなかでは,
労働は「労苦の多い」営みの間に雑談や話しあいという
形で人間同士の直接的なコミュニケーションを保証する
空間を生み出すことをなお可能にする。つまり,労働は,
「労苦」や呪いだけでなく,自由と結びつきうる可能性
を持っている。言い換えれば,労働が自由との接点を持
ちうるのである。
それだけではない。女たちを中心として,労働を出発
点とする人間の営みを積極的に自由の空間,「活動」の
空間と結びつける工夫がさまざまな形で行なわれている
のである。これまで家事労働については,産業労働や賃
労働を前提とする労働観の前に,その社会的評価のなさ
や労働としての苦痛が強調されてきた。実際,家事労働
は人類の営みのなかで最も労の多い営みに属するもので
あり,肉体労働としての大変さや単調さ,さらには,
アーレントの指摘するような意味での消費的性格を持つ
ものとして否定的に評価されてきた。すなわち,食器洗
いや掃除のように,労働しても,使われればすぐ無に帰
するような性格が指摘されたり,積極的な結果を生み出
すための準備的な営みだと捉えられてきた。その上,有
償労働と無償労働との対立に含意されているように,賃
労働を本来の労働とする近代の労働観と結びつけて,賃
金を払われない私的な労働として否定的に評価してきた。
しかしながら,近代社会においては,家事労働が工場
労働などの資本主義的利潤原理に基づく管理の下におか
れず,私的なものとして位置づけられたということは,
家事労働が逆に,そこに従事してきた女性たちの自己管
理の下で工夫し,人間の営みとしての積極的な側面を失
わずにきたという幸運をも含んできたのであった。
実際,家事労働の大半の活動は,それが生活の必要に
強制されているという基本的な側面を敢えて無視すれば,
人間的能力のある意味での豊かな実現の場ともなりうる
ものである。農業は実に多くの工夫と努力を要求される
ものであるし,衣服を縫ったり,いすや机を制作すると
いうのは,実に長い経験と訓練を基礎に作品を生み出す
行為である。そこにこそ,マルクスが労働の源基的形態
として分析したような成果を持ち続けているものだと
いってよい。
なかでも重要なのが,家事労働という形態を持ちなが
らも,実際には,働く者の雑談や話しあいなどのコミュ
ニケーションの形態が保持されやすいという点である。
2
0
0
ここにこそ,むしろ,労働とコミュニケーション,ある
いは話しあいとの,興味深い関係を見出すことができる。
その興味深い企ての一つを,アメリカ大陸を中心に広
がっていったキルトづくりという日常の一番「労働」的
な営みに見いだすことができるのではないだろうか。
現代における自由を創造する試み
―生活から離れない自由の空間―
Á
1.人と人との間に生まれる自由
―私と他者の物語をつむぐキルトづくりの試みから―
赤・黒・オレンジといった3
0センチ四方の手漉き風の
やわらかい紙が一人ひとりに手渡される。そして,水
色・黄色・ピンクなどさまざまな色の紙,漢字が印刷さ
れた紙,薄い緑や朱色のリボンが,コの字型に並べられ
たテーブルのあちこちに置かれる。かたわらにはのりや
はさみもある。これから何やらつくるらしい。それだけ
がわかる。次に,一片の紙がまた,一人ひとり手渡され
る。そこには,数行の短い英語で,一人の女の物語が書
かれてある。
ある人はその瞬間から,1日に2ドルしか稼げない5
人の子どもを抱えるコロンビアの女性になる。ある人は
要塞のような家で暮らす大金持ちの夫を持つ妻になる。
どの物語も,参加者にとっては自分のことではない。と
いうより,実際にはわからないことの方が多い。だから,
決して自分の内面を表現するということにはならない。
男性の参加者の場合には,性も超えるのだから。しかし
他方で,正確ではっきりとした情報も与えられないまま
に,遠くにいる他者の人生や立場を,自分の物語として
語ろうとする。いわば,私の物語として再構成し,それ
を表現するのである。わからないけれど,わからないな
りに,わかろうとしながら,数行の物語を読んで感じた
こと,その物語の主人公の女性になってみて感じること
などを,イメージとしてつくるのである。そこには,論
理も明確な言葉もない。ただ,小さな四角の紙のなかで,
参加者一人ひとりが,どこまでも自由に考え,想像を広
げ,色や形,あるいは,ちょっとしたメッセージで表現
する。コラージュのように。
この作業の間,また,紙やのりやハサミをお互いに使
いあい,貸し借りするときに,そこでちょっとしたお
しゃべりが始まる。「私はいつもいつも働いているのよ。
大変よ,毎日。
」
「ぼくはG7の閣僚の女性。この世界は
ぼくが握っている!」といったような,半ば事実,半ば
冗談を言いあいながら進めていく。
そのようなおしゃべりがさざ波のように起こり,とき
にはその場で話がつながったり,笑いを共有したりする。
そうかと思えば,ある瞬間は誰も話さずに静かになった
りする。
2
0分ほど経過し,参加者のほとんどがそれらをつくり
終えると,一人ずつ見せあいながら自分に与えられた物
語―“You”で始まる物語を,“I”に読み換えて―を
話し始める。
あまりの深刻さに共感のため息がもれたり,「そうい
うふうに考えたのね」という反応があったり,「なるほ
どー」といった発見の声もあり,実に多様である。
労働と話しあい
すべての人が話し終えた後は,自分の物語が他者の物
語とどのようにつながりそうかを,個々に表現したもの
を照らしあわせながら話していく。そのつながりを話し
あうことで,お互いの物語が一つも孤立したものでなく,
どこかでつながっていることを感じる。その過程を経て,
参加者全員の表現を一つにする。そこで初めて,キルト
として生まれる。
参加者全員でキルトをつくるために一人ひとりがピー
ス(piece)をつくるわけだが,その誰もが,つくり方
も表現の仕方も違う。したがって,いわゆる作品として
の優劣や,つくり手の得手・不得手,器用・不器用につ
いては問題にすらならない。ただ,他者の物語をどのよ
うに自分で受け止めたか,それをどう表現し,周りの人
にどう伝えようか,ということが中心となっている。
この紙のキルトづくりワークショップ(work shop)
のもともとのテーマは,“Women & Development for
Peace and Justice”
「平和と正義のための女性と開発」
で,韓国で開催された国際平和教育会議で筆者らが参
加・体験したものである16。
こうした一連の活動の過程に,次のような重要性があ
るのではないだろうか。
一点目に,作業をする合間のおしゃべりが重要な時間
であるということだ。必ずしも最初から関係ができてい
ない参加者同士,初めて知りあった人同士だと,話の
きっかけを無理につくろうとすると,力が入ったり緊張
したりする。あるいは,「ここではどのくらい自分の
思ったことを言ってよいのだろうか」と,お互いの探り
あいも生まれるかもしれない。また,生活背景,言葉,
性,階層,民族など,あらゆる点で異なる文化的背景を
もつ人同士が,同じ問題を論理で共有しようとすること
は,かえって強者・弱者などの二項対立を顕在化させる
ことにもつながり,最初に話しあいや協同作業をしてい
こうとする意欲さえも失わせる危険性をはらんでいる。
しかし,このキルトづくりといったような,自分の表
現も十分に試み,かつ他者の表現とつなぎあわせようと
する協同作業を通じて,たまたま横に並んで座っている
人と言葉を交わすことが自然発生的に起こる。いつでも
気が抜けないままに,深刻なテーマを論理的に議論する
のでもなく,ましてや論争的に話すのでもない。また,
ワークショップで促されることの多い,二人一組で,聴
く・話すという立場を交替して行うような,特別に設定
された会話でもない。2,3人のおしゃべりと,それが
ときに参加者全員が共有するおもしろさにつながりうる
ものである。その合間やリズムが自然発生的に起こるこ
とにこそ,自由な空間が保証されているのではないか。
二つ目の重要な点は,キルトづくりの作業が,一人で
いられる時間ともいえるし,人と人との間にいられる時
間ともいえる点である。一人になりつつ複数の人々の間
にある行為のなかでは,ある人が一瞬考えたりキルトを
つくるのに集中して無口になったりしても,それは全く
奇異ではない。むしろ自然な精神の営みだろう。他者の
話に耳を傾けながら,想像を広げたり,自分に当てはめ
て思考したり,あるいは,作品に熱中したりすることが,
自由にできることが保証されているのが重要なのである。
なぜなら一点目にも書いたが,論争的な議論においては,
2
0
1
そういった,同じ場にいて一瞬引きこもるような形を,
参加していないとみなすだろうからだ。
三つ目の重要な点は,誰一人として同じものをつくら
ないという点である。つまり,すべてが違うのである。
そのことを通じて,どの人の表現もかけがえのないもの
で,その人しかつくることができないと感じる。たとえ
似たような感覚や思いを抱いていたとしても,必ず違う
ということが見てわかるということは,自ずとお互いを
尊重しあおうという気にさせるのではないだろうか。
以上の三点で指摘した点がこの一連の過程にあり,そ
れらを踏まえたこのキルトづくりの最も重要な点として,
四点目に挙げられるのは,参加者全員でキルトとしてつ
なぎつくる際の,話しあいにある。つまり,個々に表現
した物語について,違いはそのままにしながらも,お互
いのつながりを,目で見,言葉を交わしあいながら,分
かちあうことによってキルトをつくりあげるという点で
ある。このワークショップで行ったキルトづくりの試み
は,実は,このつながりを話しあうことが中心だったの
ではないか。「私」から見える物語をつくり,
「他者」か
ら見える物語を聴き,それをつなぎあわせていく。そこ
には,多様性と相互性が存在し,かつ,最終的につくら
れるもの自体も,自分たちが予想も計画もしなかった意
外な協同作品ができてしまう。そしてそのことに対し,
驚きと充実感を共有し,本当に自分たちが参加していた,
参加できてよかったと思うのではないだろうか。
現在,平和,多文化理解,エイズ教育・啓発などで,
こういったキルトづくりと話しあいが行われている。
一つの事例として,中東における平和と多文化理解の
ために始められたキルトがある。これは1
9
9
8年から1
9
9
9
年頃に,ニューヨークに住む南アジアのムスリム,ムス
リムやクリスチャンのアラブ人,ユダヤ人やパレスチナ
人,他の伝統的な人々といった,あらゆる国籍・民族・
立場の人たちがつながって始められている。そこでの取
り組みは,多様な人々の間で違いを際立たせるような対
話と理解について話しあうことである17。
また,エイズ教育及び啓発の事例としては,「AIDSメ
モリアルキルト(The AIDS Memorial Quilt)」がある。
これは1
9
8
9年,ノーベル平和賞を贈られた活動としても
知られているが,世界中でHIV感染症/AIDSに対する気
づきを促し,啓発及び防止教育として,また,協同で行
うアートとしてもなされてきている。1
9
8
7年アメリカ合
州国・サンフランシスコのThe NAMES Projectで始ま
り,現在ではアフリカ,アジア,ヨーロッパなど世界各
地に広がっているという。具体的には,AIDSで亡く
なった人々の人生を4
4,
0
0
0以上のキルトのパネルで表し
ているが,キルトに込めたHIV感染症/AIDSの記憶・自
覚・希望と共にこの活動を伝え,考える機会を提供して
いる18。キルトを用いて考える若者向けプログラムの中
で は,約3
0セ ン チ メ ー ト ル 四 方 の 白 い 布(a blank
twelve―foot―by―twelve―foot fabric)にAIDSに つ い て
考えたこと,そのキルトに対する反応を表現しあうのだ
が,ここで特徴的な点は,非論争的であり(non―controversial)
,対等に分かちあう(peer―driven)ということ
である。また同時に,このプログラムでは,芸術家や裁
縫の専門家である必要がないし,個人的な賛辞を得るた
千葉大学教育学部研究紀要 第5
2巻 À:人文・社会科学編
めにつくるわけでもない。絵を描こうが,すてきな刺繍
をしようが,そんなことは問題にならない。どんな記憶
の表現もすべて尊重されるのである。
また,歴史教育活動として,アメリカ合州国では学校
教育プログラムや美術館でも子どもたちがキルトをつく
る例もある。一例として,草の根の運動を通して設立さ
れたニューイングランドキルト美術館(The New England Quilt Museum)では,歴史を学ぶ実践として「マー
チン・ルーサー・キング」
「憲法キルト」
「南北戦争キル
ト」
「独立戦争キルト」といったテーマでコンテストを
行ってきた。この取り組みでは,男女が共に参加して協
同作業をしながら,自分も歴史の記録をつくる一人だと
いう誇りと満足感とを感じられるという19。
これまでキルトは,長年の間,主に女性たちが裁縫に
よって担ってきた生活必需品であり,文化であり,また
今日では芸術としても認知されつつある。現在では,裁
縫技術の有無や得手・不得手,性別等にかかわらず,誰
もが参加でき取り組めるものの一つとして,方法も裁縫
にとどまらず,位置づいてきている。
しかしそれは,キルト自体が長い間,協同作業を伴う
ものであり,そこでは常に,人々が集まって行っていた
歴史と物語がある。次に,キルトの歴史について,ジェ
ンダー及びマイノリティの視点に立った先行研究を含め
て整理しながら,明らかにしていきたい。
に用いられ,日常生活のなかでは,古着のリサイクルと
して主に女性たちが行ってきた。
また,アイヌの人々にとってのアイデンティティでも
ある切伏文様の衣服「カパラミプ」
,韓国ではチマチョ
ゴリをつくり終えた後に残った布でつくる,日常生活に
も儀礼にも用いる「褓(ぽ)」
(風呂敷のように包むもの),
ペルシアの婚礼や祝いごと等に使われる「掛け袱紗」な
ども,キルトの手法でつくられている。
現在アメリカン・キルトといわれるキルトの場合は,
1
8世紀の終わりから1
9世紀始め頃に,ヨーロッパの移民
たちがアメリカ合州国へ渡った際に伝わったものである。
家族が使う衣類やシーツなどのすべてを,妻であり母
である女性が,自分でつくり出さなければならなかった
時代に,自分の手で紡ぎ,染め,織った布の残りや切れ
端を捨てずに,さまざまな形や色のピース(piece)を
つくり,それを直線的につないで幾何学模様に縫い合わ
せていったのである22。そのような模様をデザインした
ものが表地(TOP)で,裏地(BACKING)との二枚の
布の間に,さらに芯地(BATTING)を入れて,刺し縫
い,つまりキルティング(QUILTING)をしたものが,
キルトである。
すでに東部を占有してしまったアメリカ人が家族ぐる
みで西部へ進出した,いわゆる開拓時代23に,防寒のた
めに保温性を高め,丈夫にするために,自然に布地を重
ね始めるといった,いわば暮らしの知恵が定着していき,
キルトの全盛期となっていったのである。
2.キルトの歴史
アメリカン・キルトは,もともと防寒のためのベッド
―ジェンダー及びマイノリティの視点から―
カバーを指す言葉として始まり,生活のなかでの合理性
キルト(quilt)はいつからどこで始められたのか。
を追求したものでもあった。しかし他方で,そのキルト
その起源は定かではないが,語源としては約2
0
0
0年以上
が装飾に力を入れられ始め,女性たちはデザインの形や
も前からあり,古代からエジプトや東洋に存在した方法
パターンに意味や呼び名をもたせ24,また贈る相手に対
ではないかといわれている20。日本では「パッチワーク・
キルト」という呼ばれ方で,主にアメリカン・キルトが, して思いを込める記念品としてつくりもした25。
趣味から仕事まで幅広く知られ,多くの女性たちの間で
イギリスで起こった産業革命とともに,キルトを取り
行われている。そういった一般に広がったキルトは,実
巻く環境も変わった。大量に生産された安価な木綿を使
に世界のさまざまな地域で行われてきた。
うキルトも増え,女性たちが生活のために行うものとし
世界で最古のキルトとしては,紀元前1世紀から紀元
てつくられる一方,比較的裕福な階層の女性たちは,絹
2世紀の時代につくられたとされる,墓の床に敷かれて
やベルベットといった上等で高価な布地を使った,いわ
いたシベリアの敷物であり,ベットカバーとしては1
4世
ゆる暇つぶしとして行うものとしても広まっていった。
紀後半につくられたイタリアのシシリアン・キルトが存
その代表として,クレイジー・キルトと呼ばれるキルト
在する。また,1
1世紀の終わりには,中近東の人々がす
が流行した。それは,不規則に切ったピース(piece)
でに着ていたキルティングの下着を真似て,十字軍の兵
を不規則につなぎ,ピース(piece)の中心やつなぎ目
士たちが鎧の下に防護用の衣服として身に付け(身分が
を刺繍糸で飾り縫いしていったもので,不可解さが特徴
低い兵士はそのまま布鎧として着用し)
,以降1
6世紀頃
とされ,膝掛け,部屋の装飾用キルトとして使われてい
まで,自分の身体や生命を守る衣服として重宝されてき
る26。この傾向は,男性の側では,暇つぶしができる妻
た。1
7世紀にはヨーロッパで,ズボンやペチコート(ド
を持っていることが男性の誇りとされ,キルトの伝統的
レスやスカートの下着)や旅行用かばんなどに,また,
実用性と反しながらも受け容れられていた側面がある。
農業や漁業に従事する女性たちの丈夫な衣服としても利
工員として働き,裕福ではないながらに経済的に自立
用され,後者はアメリカにも渡っていった。
した女性たちは,奴隷たちが安い賃労働で摘み取った綿
アジアの地域でも,キルティングは古代から見られる
が,ニューイングランドに運ばれて,自分たちの生活を
ものである。インドの女性たちは,後にふれる「キル
豊かにしているという矛盾に気づき,後に奴隷解放運動
ト・ビー(quilt bee)
」
「キルティング・ビー(quilting
を展開していったが,その際に,彼女たちは,キルトで
2
1
bee)
」
といったものと同様,女性たちが数人集まって, 表現していったのであり,キルト以外の手工芸ではこの
ような動きについてほとんど例を見ないという27。
協同で制作していた。日本では,「刺し」
「切り継ぎ」
「寄
裂(よせぎれ)
」という名の技法がキルティングと同様,
当時の女性たちに共通することは,裁縫ができること
僧の着る袈裟や火消しが着た「家事羽織」
「家事袢纏」
が,個々の適性や得意・不得意に関わらず,女性として
2
0
2
労働と話しあい
当たり前のこととされ,家庭のなかの衣類や生活用品の
は,「動物の創造(THE CREATION OF THE ANI制作が女性(妻)の役割であったが,それは女性に,不
MALS)
」である。
満と誇りとの両方を与えてきた。大量に布製品が生産さ
彼女は文字が読めなかったが,クリスチャンの経験を,
れる前は,女性の経済的自立を支える技術の代表であっ
アフリカの伝統とともに旧約・新約聖書のモチーフから
たし,その後は,手づくりは愛情を示すものという文脈
つくっているという28。それまでは,単に白人の雇い主
の注文によって,多くの美しいキルトをつくっていた。
において,複雑な思いで肯定されてきたものでもある。
しかし,自分の思いや物語と切り離されたところでそれ
キルトの制作は,女子に対する学校教育のなかでも,
を美しいとだけ評価されることは,彼女だけでなく,多
忍耐や繊細さといった教育的効果を発揮するものだとし
くのアフリカ系アメリカ人の女性たちにとって望まない
て他の科目よりも優先されていたし,家庭や地域では
ことであったろう。
「それをやるまでは遊びに行っちゃダメ」といったよう
南北戦争以前から奴隷だった女性たちも,奴隷ではな
に,宿題として強制的に行われたこともあった。そのた
かった女性たちも,キルトをつくっていたのだが,アフ
めに,キルトそのものが子ども時代のいやな思い出で
あったり,拒否する対象と考えたりする女性も多かった。 リカ系アメリカ人女性のキルトは,奴隷解放後もいわゆ
るキルトの歴史からは完全に無視されていたという。そ
キルトの制作が,女性たちが家庭や学校で一つの性役
して,実際に光が当てられたのは,1
9
8
9年に開催された,
割を押し付けられてきた側面をもっていることは事実で
マサチューセッツ州のウィリアムカレッジでのキルト展
ある。また,結婚や主婦の象徴として,女性にストレス
『いつもあったもの・アメリカン・キルトにおける黒人
や負担を与えるものでもあった。しかし他方で,キルト
の存在(ALWAYS THERE;THE AFRICAN AMERIの制作は,共につくる女性たちの結びつきを対等な友情
CAN PRESENCE IN AMERICAN QUILTS)』と,サ
として紡ぎ,困ったときに助けあう仲間として関係を築
ンフランシスコのフォークアート美術館で行われたイー
くことそのものにもつながったのである。
ライ・レオンのコレクション『誰が考えられるの・即興
例えば,夫のアルコール依存,生活破綻や暴力につい
的アフリカン・アメリカンのキルト作り(Who’
d A
て経験を分かち話しあい,キルトを通じて禁酒運動を展
Thought It; Improvisation in African―American Quilt
開し,広まっていったこともある。また,先に挙げた女
性工員たちの運動のように,奴隷解放のためにメッセー
making)
』という展覧会であったというのだ29。
ジをキルトに縫いこんでいったのである。
アメリカ先住民の女性たち,例えば,ナヴァホ族の女
生活と密着しながら生活や家計のために行われただけ
性たちは,支配者のキルトを自分たちの文化にうまく取
でもなく,また,最初から運動のための手段として使わ
り込み,それまでカーペットや毛布などの毛織物で表現
れたわけではないキルトの制作。それは,その当時の多
していたナヴァホのシンボルをキルティングした。また,
くの女性たちにとって,個人的に事情は違っても,抱え
チェロキー族の人々はそういったシンボルを表現したキ
ている悩みや問題を共有し,その思いを表明し,また,
ルトを部族の長に贈ったりしている。さまざまな部族の
多くの女性たちが共鳴しあったものである。
人々が,逆に,自分たちのシンボルを表現し,かつ防寒
キルト自体は,支配者から伝えられ,支配者の文化で
や儀礼的なものとして,大事に使っていったのである。
あったこともあり,そこに込められた意味は違ってくる
しかし,彼女らがつくるキルトの美しさもまた,そう
側面も持つが,アフリカ系アメリカ人,アメリカ先住民, いった自分たちのシンボルや模様の意味にではなく,そ
ハワイ諸島の先住民の女性たちにとって,自分の言葉に
こだけを切り取られるようにして,幾何学的模様の美し
ならない思いの表現という視点からすれば,より顕著に
さにのみ焦点が当てられていた。つまり,先住民でしか
現れているともいえる。
も女性がつくったということは切り捨てられて,その上,
奴隷として働かされてきたアフリカ系アメリカ人の女
評論家が彼女たちのつくったものを「芸術」として承認
!
性(「お針子奴隷」という裁縫だけを専門にする奴隷の
するために,「無名の女巨匠」でさえもなく,「無名の巨
女性も含む)に対しては,自分を売り買いする雇い主や
匠」という男性名詞で呼んだのである。つまり,彼女た
開拓民(妻)によって伝えられ,彼女たちは,雇い主の
ちの性も人種も変えてしまったのである30。さらに驚く
注文にもとづいて見事なキルトをつくるようになった。
べきことに,先住民の女性の手工芸であり作品として認
また,アメリカ先住民やハワイ諸島の先住民の女性に対
められ光が当てられたのは,2
0世紀も終わりに近づいた
しては,キリスト教の宣教師たちやその妻が伝えていっ
1
9
9
7年,アメリカ合州国で初めて行われた展覧会「慰め
た。そこでは支配者の文化としてもたらされたキルトを, と名誉にかけて」においてであり,しかも,税関の建物
自分たちのアイデンティティの拠り所として自分たちの
のなかにおける調査企画展だったのである31。これを
物語を縫いあわせ,模様やデザインなどについても,独
いったいどう考えればよいのだろうか。明らかに,女性
自の伝統や文化を生き生きと表現するものとして,大事
に対する差別だけでなく,マイノリティの存在の無視で
にされていったのである。
あったのではないか。
アフリカ系アメリカ人の女性たちにとってキルトは,
同様にマイノリティであるハワイ諸島の先住民女性に
その人にしかつくることができない,その人の思いをこ
とっては,暖かい気候のなかで,しかも布地から余りや
めた物語の表現であったが,そのことが初めて明らかに
切れ端が出ないように衣類をつくってきた文化をもって
なったのは,ハリエット・パワーズ(Harriet Powers,
いたために,そもそもキルトは生活上からも全く必要で
1
8
3
7―1
9
1
1)というジョージア州出身の黒人女性(農婦) なかった。したがって,キルトはまさに植民地支配の象
徴でしかなかった。反発を感じながらも技術を教え込ま
のキルトが発見されたことがきっかけであった。その名
2
0
3
千葉大学教育学部研究紀要 第5
2巻 À:人文・社会科学編
れた後,彼女たちは決して伝えられたキルトの模様を真
似なかったのである。現在「ハワイアン・キルト」とし
て知られている,大柄の花や果物,植物などをモチーフ
としたアップリケと,模様と土台の色に反対色を使うと
いう,独自で色鮮やかなデザインには,ハワイ王朝への
忠誠や愛着,自国文化の誇りの表現を込めたのである32。
キルトは非常に長い間,生活のなかでさまざまな地域
に広がり,続けられているが,他方で,植民地支配,文
化の同化とも重なるという複雑な歴史ももつ。しかし,
例えば,主に無名33の女性たちの間でつくられ続け,こ
れが「芸術」
「アート」として初めて注目され出したの
は,1
9
7
1年,ニューヨークのウィットニー美術館で開催
された『アメリカのアブストラクトデザイン』と題した
キルト展である。それまでもキルトの展示がなかったわ
けではないのに,一般に認知されるようになったのが,
この展示以降であった34。つまり,キルト全体の歴史か
らすれば,キルトが芸術として評価された歴史は,まだ
始まったばかりなのである。ましてや,先述したように,
アフリカ系アメリカ人の女性,先住民の女性にとっては,
そうなのである。
周縁的なものとして押しやられてきた生活のなかでの
作品や営み自体―それは主に女性や奴隷的扱いを受けて
きた人々の文化や歴史でもあるのだが―を再評価し,か
つ,中心的とされてきたものを再検討する動きがあり,
キルトについても言及され見直されてきている35。
文学作品のなかにもキルトとマイノリティや女性につ
いて,主要な題材として扱っている作品がある。
アフリカ系アメリカ人の女性の作家トニ・モリスン
3
6
は,奴隷として沈黙させられてきた
(Toni Morrison)
歴史を背負いつつ,特に黒人の女性たちが,白人の男
性・女性だけでなく,黒人の男性にまでも差別され虐待
されて,存在そのものを無視されていること,さらには,
そのために生じてしまう黒人女性自身の内面化した抑圧
者の文化の深刻さをも描いている。これらは,彼女自身
の経験がもとになっているのではなく,伝え聞いた物語
の断片を,精神も身体もバラバラにされた女性たちの思
いを,寄せ集め,つなぎ,想像力を駆使して一つの全体
として描いているのだが,藤平育子はこれを,キルトの
制作のようであり,モリスンの作品をキルトに重ねあわ
せている37。
それは同時に,無名の女性たちの,言葉にならない思
いや語られない(あるいは語ることができないほど苦し
い)記憶を,黒人女性だけの物語ではなく,性や人種や
階級を超えても他の人々が共有し得る可能性を持ってい
る点から,キルトがその象徴として位置づけられている
のではないだろうか。
また,あらゆる立場の女性にとっても,自分が自分と
して自己決定し,自分の納得した生き方をできない悩み
をもち,模索し,決して自由には見えない母親の生き方
や時代に対して反発する状況などを描いている文学作品
もある。スーザン・テリス(Susan Terris)の『キルト
ある少女の物語』
(“NELL’
S QUILT”
,1
9
8
7)
,ホイッ
トニー・オットー(Whitney Otto)の『キルトに綴る
愛 』(“ HOW
TO
MAKE
AN
AMERICAN
QUILT”
,1
9
9
1)がそれである38。
2
0
4
以上のように,これまでキルトといった,無名の女性
たち,しかも,アフリカ系の人々や先住民のようなマイ
ノリティの手による手工芸を,美しさを評価してこな
かったばかりか,つくり手の存在を無視してきたことに
対する痛烈な批判を含んだ研究,ジェンダーやマイノリ
ティの視点でアートを再評価する研究が行われてきてい
る。さらに,これまで語られてきた歴史自体を,生活に
密着した小さな物語から批判的に検討しようとする研究
や,キルトの多様性と物語性に基づく文学研究もなされ
てきている。
そういった先行研究では,作品を通じた評価ないし批
判の視点を鋭く追求するものではあるが,本論文で強調
したい点である,生活から離れない場で,協同行為のな
かで話しあいが行われ,人々がつながりをつくってきた
こと自体には,あまり注目してはいない。つまり,キル
トのように生活に係わる制作の決定的な要素と考えられ
る,協同的な活動や人と人との間で話しあいが生まれる
営みについては,あまり言及していないのである。
だからこそ,本研究ではその点に改めて光を当てるこ
とで,人々が集まり話しあって協同で行う活動を,決し
て日常から離れず,一人だけの内的世界に生まれるので
はなく,人々の間にいながら感じられる,自由の空間を
創造していく問題として考えるものである。次に,キル
ト制作を通じての話しあいと活動に着目して論じていき
たい。
3.キルトにおける協同活動と話しあい
―生活から離れない自由の可能性―
キルトの制作は,一人で黙々とやる作業でもありなが
ら,地域で,あるいは,主に女性たちの間での協同作業
として位置づいてきた。それに伴って,キルトをつくる
ための集まりがたくさん行われていた。それを,「キル
ト・ビー(quilt bee)
」
「キルティング・ビー(quilting
bee)
」や,「キルト・サークル(quilt circle)
」
「キルト・
3
9
パーティー(quilt party)」などという 。
アメリカ合州国のイリノイ州やペンシルヴァニア州等,
カナダのオンタリオ州等,いくつかの州に点在して,独
自のコミュニティとネットワークをつくるアーミッシュ
4
0
(Amish)
の人々は,簡素さと伝統を重んじ,助け合い
の精神で,現代の便利さに頼らない自給自足的生活を志
している。アーミッシュの女性たちは,男性と役割を明
確に分けられ,家事や育児の一切を切り盛りする。その
なかで,「キルティング・ビー」は,彼女たちにとって
労働ではあるが,数少ない息抜きや社交の場の一つでも
ある。例えば,毎月1回の「キルティング・ビー」では,
メンバーのみんなで食べ物を持ち寄って,キルト・フ
レームを囲んでのおしゃべりが,あるアーミッシュの女
性たちにとっては,「貴重な社交行事」であるという41。
今や,キルトコレクターの間では,アーミッシュ・キ
ルトは芸術的作品(商品)として非常に高く評価されて
いるが,それは,いわゆるアメリカン・キルトとは違い,
簡素な模様と,決して明るいとはいえない色を使った,
独特の鮮やかさと緻密な技術を駆使した,彼女たちの文
化そのものを反映しているからである。キルトをつくる
女性たちが,顔をあわせ,効率的に早くつくるよりも,
労働と話しあい
ゆっくりと着実にきちんと仕事をすることが生き方とし
て重んじられていることもあり,そういった視点からも
「キルティング・ビー」を行ってきたのである。
もちろん,どの地域においても,かつて生活のために
欠かせないものとしてキルトがつくられていた時代には,
キルトづくりは,女性だけでなく,家族全員が参加し,
男性も参加していたという(ただ,男性たちの場合は,
針の糸を針穴に通したり,布地を切ったりするといった
仕事を手伝う形ではあったという)
。それを「キルティ
ング・ビー」で行うわけだが,キルトにとどまらず,何
か近所で手伝いが必要なときには開催され,ろうそくづ
くり,とうもろこしの皮むき,羊毛刈りといったことも
行われていたという42。現在では,キルトを通じたさま
ざまな試みのなかで,草の根の運動や社会参加としても,
性や年齢や国籍を問わずに取り組まれている。その理由
として,誰もが参加できる,コミュニケーションや協力
を必要とする,創造的である,メッセージを送ることが
できるといったことが積極的側面として挙げられ,世界
中で注目される理由となっている43。それは,もともと
女性たちが集まってキルトをつくってきたなかで行って
きたことでもあった。
その場ではまた,自分が無名でも無用でもない存在と
して確認でき,係わることができるものだったのではな
いだろうか。
「黒人の母(もう亡くなったけれど)と白人の父(消
息不明)をもち,娘のマリアンナ・ニールを産み,優
れたオリジナル作品で名高い『グラース・キルティン
グ・サークル』の自他共に認めるリーダーであり創設
者でもあるこのアンナ・ニールという存在を……。も
ちろん,グラースのサークルが有名だとはいっても,
キルティングの世界だけの話だけど。でも私は,この
閉鎖的なグループのおかげで,幽霊でもなく,無名で
もなくなった。社会が私に“声”を与えるずうっと以
前に,私は針と糸を使って発言することをおぼえた。
社会は人に声を与えられると思っているらしい。社会
4
4
にできるのは,人の声を奪うことだけなのに。
」
オットーが描くアンナ・ニールというアフリカ系アメ
リカ人の女性が語る「私はその世界に影として住んでい
4
5
る」
という感覚は,多くの差別されてきた人々が抱いて
きたことであろうし,現在の日本社会のなかで多くの
人々が感じている感覚ではないだろうか。しかし,「グ
ラース・キルティング・サークル」という,たとえ小さ
なサークルのなかでも,複数の人と人との間で自分の存
在を確かなものとして感じられることがここでは表現さ
れている。
キルトをつくる最中の何気ないおしゃべり,制作後の
物語の分かちあい,そして,その物語を表現した一つひ
とつのつながりについての話しあいが行われていること
にこそ,長い間,生活や労働から決して自由にはなれな
かった女性たち,また,文字通り奴隷として扱われてき
た女性たちにとっての「自由」があったのではないか。
つくられたものはすべて生かされ,誰のものも捨てられ
ることはない。ましてや,存在しなかったことにする,
2
0
5
といったこともないのであり,そこでは,自分の存在を
影や無用物と感じないでいられるのである。
この社会のなかで,いつでも多数派や受け取る側の意
識によって自分にとっての現実や言葉を歪められる恐れ
がある人々にとっては,かえってはっきりとした言葉を
使わないで表現する方が自由でいられるという,皮肉な
事実がある。だからこそ,言葉を語らないのではなく,
キルトのように,そもそも,何のつながりもなかった布
の切れ端や余り布をさまざまな形にし,それらをつなげ
ることによって意味を見出し,それを人と人との間で共
有することが,言葉以上に物語ることさえある。
時代や社会のなかで差別される立場にある人々にとっ
て,生活から決して離れないけれども,生活のためだけ
ではない空間にこそ,自分の存在を生かせる場所を見出
せるのではないか。それは,決して今ある生活と全く切
れて逃げ込む場でもなく,誰か他の人や専門家に癒して
もらう場でもない。そのときまでの自分でいながらにし
て,他者の物語に触れ,他者とのつながりや接点を見出
しつつ,また自分を振り返る場が保証されるのが,協同
の活動と話しあいの場である。
そういった,誰でもがその人その人の経験や感性や思
考を大事にし,同時に相手のそれらも尊重する空間。ま
た,その人なりに参加できる空間。これらは,決して自
分のおかれている生活の場から遠い世界にあるのではな
い。かえって,この生活に密着した延長上に,お互いの
存在,一人でいつつ,人と人との間にいるということが,
自然発生的に生まれる。そこでの話しあいと協同で行う
活動が,現代社会に自由など存在しないと思っている多
くの人々―自由とは縁がないように労働や家事・育児に
追われる人々,誰もが競争と管理の対象となるような社
会のなかで,自由なんてありはしないとあきらめている
若い世代の人々―にとって,可能性が見出されうるもの
ではないだろうか。
現在,趣味としてキルトの制作を行っている教室や
サークルの場でも,実はそこでのおしゃべりがとても楽
しみでやっている,という女性たちは実は多い。生活の
なかでのちょっとした情報交換や料理の作り方,夫/
パートナーや家族に対する愚痴など,日常生活で感じて
いるストレスや苦労の鬱憤晴らしをする。そこでは気持
ちが受け止められるだけでなく,違った視点を知ること
で,ほっとできたり,考え直して元気になったりするこ
ともある。それは,小さな切れ端の布を縫うという作業
をしながら,輪になったり横に並んだりして無理なくで
きるコミュニケーションなのである。カウンセラーなど
の専門家に正面から悩みを相談するのではなく,この何
気ないおしゃべりを心地よく思い,また無意識に求めて
いるのである。
しかしここで強調したいのは,そういった鬱憤晴らし
のような形で感情を共有することに焦点を当てたもので
はないし,一種の癒しや感情の受け止め合いを前提にす
るコミュニケーションでもないという点である。そうで
はなくて,もっと積極的に複数の人との間で,お互いの
違いや表現を際立たせ,それらのすべてを生かしあいな
がら,かつ,お互いの表現や考えに呼応しあい,つなぎ
あわせるような営みを生み出す可能性として,キルトと
千葉大学教育学部研究紀要 第5
2巻 À:人文・社会科学編
その制作の間に生まれる自由な空間に注目したのである。
なぜそこに重点をおくかと言えば,次の問題が常に
人々の協同の活動を破綻させ,それ以上に,関係やコ
ミュニケーションをいつでも破壊し,対等なものにでき
なくさせてしまうと考えるからである。例えば,自分の
感情を受け止めてもらえている,同じ気持ちを共有でき
るという思いをもっていたのに,ある瞬間から,自分の
意に反して違った反応が返ってきたとしたら,「もうあ
の人とは話したくない」
,あるいは,「同じだと思って信
じていたのに,裏切られた」という思いを少なからず抱
いてしまいがちになることである。こういった傾向は,
例えば,多くの子育て中の女性が,子育てママとしての
コミュニティに係わりつつ,悩むことに共通のものでは
ないだろうか46。
自分の悩みや感情を告白する形ではなくて,「私から
はこう思える,こう見える」といった形で,新たに他者
の物語とのつながりを見出していく営みとして,このキ
ルトのような生活から離れない活動が存在する。そこに,
活動の根本的な提起―人々が平等な関係のなかで創造し,
新たなつながりをつくるような話しあいと協同作業―を
有しているのではないだろうか。
近年,言葉としても欲求としてもよく取り上げられ,
多くの人々を惹きつける「癒し」と関わって,さまざま
なアート的な活動―音楽も絵も創作も―がそのことをす
ることによってもたらされる効果に対して,非常に高い
関心が寄せられている。それはまた,セラピーや教育や
福祉の実践的方法として,その活動がマニュアル化して
いく状況もある。
しかし,偶然たまたま「癒され」たり,「回復」した
りする可能性はあるかもしれないが,最初からいわゆる
「癒し」や「回復」を目指し,効果を見込んで行う活動
に,そもそも先述したような自由が生まれるのであろう
か。最終的には望ましい結果,あるいは,それを行う
「専門家」が「正しい」とする「回復」や「癒し」が想
定されており,それ自体で自由であるという要素がすで
になくなってしまっているのではないか。予想されたあ
るべき結果を見出すための手段とされることは,深刻な
問題である。結局それを真っ先に感じるのは,その「対
象」になる子どもたちや,「患者」にさせられる人たち
だろう47。
そういった点からも,生活からは決して離れるもので
はない,あるいは生活の延長にある空間として,話しあ
いと協同の活動を創り出すことが現代社会において非常
に重要なのではないだろうか。
ハンナ・アーレント,志水速雄訳『人間の条件』ち
くま学芸文庫,1
9
9
4年,4
4
5頁
4 同上,4
4
8頁
5 同上,4
5
4頁
6 同上,4
8
3頁
7 同上,4
3頁
8 同上,4
4頁
9 宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫,1
9
8
4年,
2
5頁
1
2
2―1
1
0 マルクス『資本論』第一巻第3章第5節,ディーツ
出版社版,1
9
6
9年,1
9
2頁
1
1 アーレント,前掲,1
9頁
1
2 マルクス『経済学批判要綱』Á,大月書店,1
9
6
1年,
5
5
5頁
1
3 同上
1
4 『シモーヌ・ヴェーユ著作集』1,春秋社,1
9
6
8年,
1
6
9頁
1
5 同上,1
9
0―1
9
1頁
1
6 Krista McFadyenというカナダの先住民の父とフラ
ンス人の母をもつ女性が提供したワークショップ。彼
女はこれまで,主にコンゴ共和国において,ストリー
トチルドレンや虐待された子どもたちと一緒にこの活
動に取り組んできたという。カナダでの彼女の生活で
は,キルトは長い間つくられ続け,とても身近なもの
だったという。International Institutes on Peace
Education主催“Educating for Peace in Divided Societies”2
0
0
3年8月4日∼1
0日。この会議の主要なテー
マは,紛争をなくすということだけでなく,むしろ,
暴力に暴力で対抗するのでなく,非暴力的な活動を通
して積極的な平和を目指すものである。そして重要な
焦点となったのは,人々が分断された社会の中で,現
代の深刻な問題である暴力をどのようにして減らし,
なくしていき,さらに,人と人との間で対等・平等な
つながりを新たにつくり出すにはどうしたらよいかと
いうことである。それをジェンダー,開発,環境,グ
ローバリゼーション,国際理解などのあらゆる視点か
ら検討したものであり,実に多様な分野の市民運動
家・NGO関係者・研究者らが参加している。この会
議の中で先述したワークショップが行われたわけだが,
立場や国を越えて理解し合う可能性,遠くの世界と自
分の生活実感とが結びつくことを,想像力を使い話し
あう中で可視的にする試み,それらが一つひとつ分断
されているものをつなぎ合わせるという試みであった
と言える。
1
7 URL:http://www.mepeacequilt.org/history.htm
“Middle East Peace Quilt An international commu註
nity art project bringing communities in New York
together”参照。
1 同じような事件は,東京・池袋の路上で1
9
9
9年9月,
1
8 “URL:http://www.aidsquilt.org/参照。
通行人を包丁と金づちで襲い,2人を殺害したうえ6
人に重軽傷を負わせた通り魔事件。あるいは,2
0
0
0年
1
9 小林恵『キルトへの招待 暮らしを彩る手作りアー
5月3日に発生した「1
7歳問題」として世を騒がせた
トの世界』PHP研究所,1
9
9
8年,1
5
8―1
5
9頁参照。
佐賀市の西鉄定期高速バスジャック事件。これらの事
2
0 “quilt”の語源は,ラテン語の“culcita”という「羽
件は,日本の社会で頻発している。
根毛や羊毛などをいっぱいに詰めた袋」という意味を
2 アウグスティヌス『三位一体論』はこの点で興味深
指すという。玉田真紀「キルティングとパッチワーク
い叙述である。
の文化」共立女子大学所蔵『アメリカン・アンティー
2
0
6
3
労働と話しあい
クキルトコレクション』日本ヴォーグ社,1
9
9
2年,1
5
3
頁参照。また,以下のアメリカ及びさまざまな地域で
5
7ページを参
のキルトの紹介は,玉田,同書,1
5
4―1
照している。
2
1 “bee”は「みつ蜂」という意味だが,みつ蜂がど
んどん集まって群れてくるようなイメージで使われた。
2
2 ピースド・キルト(Pieced Quilts)と言う。初期の
ピースド・キルトは,イギリスやオランダからアメリ
カに渡ったもの多く,類似したものが多いという。小
林,前掲,2
8頁参照。また,日本でよく言われている
「パッチワーク・キルト」がこれに当たる。
2
3 アメリカ合州国が北米大陸全体に領土を拡大するの
を「明白な運命」
だとする領土拡張論が,1
8
4
5年にピー
クに達した。
2
4 キルト・パターンの名前の起源は民間伝承で,実証
されていない。あるパターンには1
0以上の名前がつけ
られている場合がある。現在記録に残るパターンとし
て,4,
0
0
0から6,
0
0
0ほどあるといわれ,そのうち約
3
0
0の主流のパターンがあるようだ。小林,前掲,5
2
頁参照。
2
5 新生児の誕生や,乳児や幼児に合わせたキルト(ク
レイドル・キルト),友だちとの別れに贈るキルト(フ
レンドシップ・キルト)
,結婚式の当日までにつくり
あげて新婦に贈るキルトであったり,また,結婚する
女性自身がつくるものでもあったりするキルト(ブラ
イダル・キルト)がある。さらに,ブライダル・フレ
ンドシップ・キルトという,キルトにインクで,花嫁
の幸運を祈る言葉,詩句の引用,ことわざ,ちょっと
したアドバイスといったメッセージを書くものもあっ
た。とにかく,つくり手によって,多様なキルトが制
作されていたのである。小林,前掲,5
2頁,ホイット
ニー・オットー,中野恵津子訳『キルトに綴る愛』講
談社1
9
9
6年(Whitney Otto,“HOW TO MAKE AN
AMERICAN QUILT”, New York, 19
9
1)1
2
1頁参照。
2
6 キット販売も行われ,1
9世紀の終わりまで流行し,
ある時期には,デザインに日本の屏風絵や着物姿,団
扇や提灯なども刺繍されているという。小林,前掲,
2
8頁及び1
0
0―1
0
1頁参照。
9頁参照。
2
7 小林,同上,4
8―4
2
8 パット・フェレロ,エレイン・ヘッジズ,小林恵,
悦子・シガペナー共訳『ハーツアンドハンズ アメリ
カ社会における女性とキルトの影響』日本ヴォーグ社
1
9
9
0年(Pat Ferrero, Elaine Hedges, “Hearts and
hands”
, San Francisco,1
9
8
7)4
6―4
7頁,及び小林,前
掲1
1
5頁にその写真が掲載されているが,一つひとつ
のピースに,聖書のイメージだけではなく,明らかに,
奴隷として暴力を受けている人々の場面が描かれてい
る。
2
9 小林,前掲,1
1
6―1
1
7頁参照。
3
0 ロジカ・パーカー,グリゼルダ・ポロック,萩原弘
子訳『フェミニストが読みなおす芸術表現の歴史
女・アート・イデオロギー』新水社19
9
2年(Rozsika
Parker, Griselda Pollock, “Old Mistresses Women,
Art and Ideology”
,1
9
8
1)1
1
0―1
1
2頁参照。
3
1 ミシガン州立大学美術館の博士たちによって,ハワ
イ諸島を含むアメリカ先住民のキルトを展示したとい
う。小林,前掲,1
2
2頁参照。
9頁参照。さらに,真似る
3
2 フェレロ他,前掲,6
8―6
という行為そのものが,最初につくり出した人の作品
に込めた魂を共有すると魂が分散され,その人自身の
もつ力を弱めてしまうことだと考えられているため,
作業は分担することがあるにせよ,自分のアイディア
を分かちあうということはせず,ハワイ諸島の女性た
ちは一緒に制作するということがあまりなかったよう
だ。オットー、前掲,2
2
1―2
2
3頁参照。
3
3 パーカー,ポロックの言うように,芸術家でなくて
も,男性でなくても,白人でなくても,キルトにはサ
インがあり,名前が残されているにも関わらず,それ
を「無名」にさせられてきたことに対して,強く批判
することに意味を見出す視点をもっているが,ここで
は,日常生活のなかで苦労し,抑圧されながらも懸命
に生きてきた多くの人々を表す言い方として使いたい
と思う。
3
4 小林,前掲,1
4
8―1
5
0頁参照。
3
5 江崎聡子が「縫い合わされた記憶:カルチュラル・
スタディーズそしてアート・ヒストリーにおけるキル
ト」において,「従来の学問的研究においては『小さ
な』あるいは『周縁的な』ものとしてしばしば見過ご
されてきた対象の研究の蓄積によって,『大きな』
『中
心的な』物語の再解釈が試みられてきた」として,カ
ルチュラル・スタディーズとしてキルトに関して述べ
ている。1
9
9
8年6月8日ターナー研究セミナー報告よ
り参照。
3
6 Toni Morrison(1
9
3
1―)
:1
9
9
3年ノーベル文学賞受
賞。作 品 と し て『青 い 眼 が ほ し い』(“The Bluest
Eye”
,1
9
7
0)
,『スーラ』
(“Sula”
,1
9
7
3)
,『ソロモン
の歌』
(“Song of Solomon”
,1
9
7
7)
,『タール・ベイ
ビ ー』
(“Tar Baby”
,1
9
8
1)
,『ビ ラ ヴ ィ ド』
(“Beloved”
,1
9
8
7)
,『ジャズ』
(“Jazz”,1
9
9
2)がある。
3
7 藤平育子『カーニヴァル色のパッチワーク・キルト
トニ・モリスンの文学』學藝書林,19
9
6年,2
3
8頁
参照。
3
8 前者は1
0
0年前を設定し,女性が大学に行きたくて
も行けない時代や家庭の状況下で,母親と同じように,
妻・母親として膨大な家事や農作業や育児だけに生き
る人生はいやだと思っていた主人公が,家族の経済的
苦しさを救うために,親が進めた結婚を受け容れる。
しかし,実際には何も変わらないことも父親から知ら
される。主人公がそういった人生を,受け容れられな
いままに自分が選択したように振舞い,どんどん拒食
症に陥いっていく姿を描いている。そこでのキルトの
役割は,自分にとって本当は納得がいかなかった「結
婚」という選択を象徴し,主人公にとって拒否するも
のであったが,同時に,どんどん痩せて人間離れして
いく姿の主人公が,家族や近所の人々から見たくない
者とされるなかで,自分の物語,自分と関わった人々
を表現する場になる。主人公にとっては,キルトを縫
うこと自体が自分の居場所になる。しかし最後は,主
人公が結婚を約束させられた男性と結婚する妹に出来
上がったキルトの美しさだけを取られてしまうのを拒
2
0
7
千葉大学教育学部研究紀要 第5
2巻 À:人文・社会科学編
否するために,真っ黒に染め上げる。そして,周りの
人々が自分を死んでいく存在としていることに気づき,
簡単に死ぬわけにはいかないと,新たに生きようとす
る物語である。後者は,キルトを拒否する美術研究を
する女子学生が,キルト・サークルをつくっている祖
母姉妹とその周りの女性たち(中年から高齢)の歩ん
できた人生を,キルトの制作過程と重ねあわせながら,
物語を展開していくものである。そのなかで,女性た
ち一人ひとりの友情・恋愛・結婚といったテーマを中
心にしながら,葛藤してきた思いを表現している。望
まなかった妊娠を機に結婚をし,結婚にしがみついて
生きようとする女性,アフリカ系アメリカ人として,
またシングルマザーとして独立して生きてきた女性,
一人の空間をもつことを人間的な時間として生きる女
性などの姿を描き,また,必ずしも仲がよい者同士で
はないが協同作業をする「キルト・サークル」の風景
が重なる。女性の生き方といっても一口ではいえない
ほど,キルトそのもののように多様な様相を示してい
る。
3
9 パ ー カ ー,ポ ロ ッ ク に よ る と,「キ ル ト・パ ー
ティー」では,
「だれかがデザインしてつくったキル
トの表がわを,詰め物や裏打ち布と縫い合わせる場」
とし,「共同作業の過程が誤解されて,キルトは複数
の無名の手がつくったものだから芸術として重要では
ないと論じられてきた」ことに対しての批判を持って
いる。その批判は一方で,芸術の男性性や有名性に対
抗する上で重要ではあろうが,しかし他方で,キルト
の制作に際しては,参加者自身の表現したいもの,
脈々と伝わってきているものを組み合わせたデザイン
を取り入れているのでもあり,一人のデザイナーがい
た,ということにはならないのではないかと思われる。
4
0 成人してから自分の意志で宗派を選ぶことから,
「再洗礼派」と呼ばれるプロテスタントの一宗派であ
る。宗教革命の際にヨーロッパで迫害され,移民と
なってアメリカ合州国に渡ったマイノリティである。
迫害された経験から,一般的な人々(English)や外
部との接触を,経済活動を除いては極力関わらないで
生活している。農業を中心として生活しているが,す
べてを聖書によって立ち,男性は主に屋外での仕事の
一切を,女性は家事や育児を含め屋内で行う仕事の一
切をし,男女で役割を明確に分けている。生活の必要
性からも,コミュニティ内や家族同士の助けあいの関
係を持続しているという。近年は,若い世代がこうし
た生活を嫌が り,都 市 へ 出 て 行 く 傾 向 も あ る し,
「アーミッシュ・メノナイト」
「ニュー・オーダー・
アーミッシュ」という,新たな規律をつくり守るとし
て,約3
0
0年にもわたる伝統と規律を守る「オールド・
オーダー・アーミッシュ」と分かれた人たちもいる。
ロバート・ビショップ他『アーミッシュ・キルト
アーミッシュの人たちの生活から生まれたキルト』文
化出版局,1
9
8
6年(Robert Bishop and Elizabeth
Safanda,“A GALLERY OF AMISH QUILTS”, New
York,1
9
7
6)
,池田智 『アーミッシュの人びと 「従順」
と「簡素」の文化』サイマル出版会,1
9
9
5年,参照。
また,アーミッシュのコミュニティにおいてキルトの
登場が確認されたのは,1
8
3
1年のオハイオ州,1
8
3
6年
のペンシルヴァニア州であ る と い う。菅 原 千 代 志
『アーミッシュ・キルトと畑の猫 The Amish Life
& Quilts』丸善ブックス,2
0
0
1年,8
2―8
5頁参照。
4
1 菅原,同上,8
2―8
3頁参照。
4
2 「キルトサロン横浜」URL:http://homepage2.nifty.
com/bi―an/index.htm参照。
4
3 小林,前掲,7
1ページ参照。
4
4 オットー,前掲,2
2
5頁
4
5 オットー,同上,2
2
4頁
4
6 歌代幸子が,『音羽「お受験」殺人』
(新潮社2
0
0
2年)
において,殺人という許しがたい行為をした加害者の
女性に対して,子育てをするなかでの母親同士の人間
関係に対する期待と思い込み,配慮と排除の間の苦し
み等,著書自身を含めた多くの女性たちの共感を描い
ている。
4
7 小沢牧子が臨床心理の専門家として,『心理学は子
どもの味方か』
(古今社2
0
0
0年)
,『心の専門家はいら
ない』
(洋泉社2
0
0
2年)等で,鋭く批判をしている。
2
0
8
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