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『パスカルの「パンセ」』* 弁証論のテーマ(3)

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『パスカルの「パンセ」』* 弁証論のテーマ(3)
March 2
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〈翻
―1
9
5―
訳〉
*
『パスカルの「パンセ」
』
**
弁証論のテーマ(3)
M. ルゲルン、M.=R. ルゲルン著
森
川
甫***
共訳
古
家
曜
子****
悲惨さ、何よりも、人間が内心に感じる偉大感と
キリスト教の証拠
絶対感。こうして彼は人生に密着した経験やだれ
しもその存在を否定できない現実を持ち出す。パ
綴りを分類するに当たって、パスカルがいわゆる
スカルが形而上学をなおざりにするのは、それで
キリスト教の証拠を持ち出すのは、人間条件の検
は不十分だと考えるからである。形而上学が与え
証を行ったあと、さらに3番目の綴りにおいてで
てくれる確信は、同じ事柄に対する「啓示」の知
ある。この特異なやり方は、それまでに身につけ
識と比べると、一時的で、しかも一貫性がない。
た価値基準を変更し、これまで無関心だった問題
それゆえ形而上学の真髄は、哲学や、完全には傲
に必要な全注意を向けるよう読者に準備させるた
慢を払拭しきれない理性の行使を通り越して、わ
めである。パスカルの証拠のほとんどは、はっき
れわれが啓示と呼ぶものの内に真の居場所が、し
り言って、伝統的な弁証論と同じである。これら
かもきわめて居心地の良い居場所が見つかるので
はパスカルの先行者の著作においては通常、説得
ある。哲学の威勢のいい態度を、パスカルは信じ
過程のかなり先の段階になってやっと現れる。神
る者の謙遜な服従に置き換える。こうしてかれの
の存在・摂理や魂の不死の証明のための議論の方
弁証論ははるかに具体的に、実存的になった。し
が前に来るからである。その限りにおいては、特
かもこの徹頭徹尾具体性へのこだわりこそがキリ
にトマス主義者やキリスト教ユマニスムの伝統で
スト教の証拠の説明を特色あるものにした。歴
は、真理は哲学から引き出され、人間理性の領域
史、聖書、イエス・キリストの人格こそが、パス
内に留まる。一方、キリスト教に固有の証拠は、
カルの検証するテーマの本体に他ならない。これ
権威の根拠を基礎づけるのが目的であるから、パ
らこそまさしく具体的な現実なのである。確か
スカルの著作においても、伝統とのある種の連続
に、これらのテーマに持ち込まれた変更は、準備
性は認められる。パスカルも実験と推理が行使さ
段階での理性の役割の変質に比べれば取るに足り
れる理性的真理から出発し、神学の特徴である権
ないものであるが、この変更も同じ方向を目指し
威の援用の正当性を主張するのは、議論の最後に
ている。
なってからである。しかし、この連続性も、両者
の理性の行使が果たす役割の根本的な違いを捨去
他宗教の誤り
するものではない。形而上学を論じるかわりに、
パスカルは人間の具体的な状況を持ち出す。もっ
16番目の綴りの表題『他宗教の誤り』は、そこに
とも苦痛に満ちた分裂にまで行き着く相矛盾する
含まれる断章の内容を完全に表してはいない。な
もの、もっとも深いがゆえにもっとも見えにくい
ぜ他の宗教が誤りかをパスカルが述べるのは、他
*
キーワード:キリスト教弁証論、証拠、宗教
これは、M. et M.=R. Le Guern, Les Pensées de Pasual de l’anthropologie à la théologie, Larousse の 4. Les thèmes
de l’apologie の翻訳である。
***
関西学院大学名誉教授、神戸海星女子学院大学教授
****
関西学院大学社会学部兼任講師
**
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1号
宗教と比較して真の宗教から何を期待するべきか
よりも彼はキリスト教の特質を浮き彫りにせんが
を導き出すために他ならない。
ために、対照的なイスラームを利用したにすぎな
パスカルが考察したキリスト教以外の宗教の中
い。パスカルが特にイスラームを選んだのは、そ
で、イスラームが特筆に価する。イスラームにつ
のほうが対立を証明しやすいからにすぎないので
いては、彼はシャロンの『3つの真理』第2部、
はないかと考えられる。このいきさつを理解する
特に、第6冊が『イスラームの反論』と題された
には、次の2つの短い断章を比較すれば足りる。
グロティウス『キリスト教の真理について』1)か
ら知識を得た。イエス・キリストとムハンマド
(マホメット)とを比較するというアイディアは
この箇所から取られたのである。
イエス・キリストとムハンマドの違い。
ムハンマドは予言されなかったが、イエス
・キリストは予言された。
ムハンマドは殺す。イエス・キリストは彼
に従う者を殺させる(殉教させる)。
ムハンマドは読むのを禁じ、使徒たちは読
むよう命じる。
他宗教の誤り。
ムハンマドには権威がない。
自分に力がないから、理屈をこねざるを得な
いのだ。
彼は何と言っているか?
自分を信じよ、
と。(L.203)
他宗教の誤り。
彼らには証人がいない。こちらにはいる。
神は他宗教にはこうしたしるしが生み出せ
ないと言っておられる。イザヤ書43.
9−44.
8
(L.204)
結局、かくも正反対であるから、ムハンマ
明らかに、はじめの断章はまさしくふたつ目に述
ドが人間的に成功する道を選んだのであれ
べられた対照を強調する役目を果たしている。
ば、イエス・キリストは人間的には滅びる道
誤った宗教を考察すれば真理を見分ける指標を明
を選ばれたのである。ムハンマドが成功した
確にすることができる。その指標をこれからキリ
のだから、イエス・キリストも成功できたの
スト教に適用しようというのである。こうしてム
だと結論づけるのではなく、ムハンマドが成
ハンマドの暗さと明るさの考察は、聖書にも適用
功したのだから、イエス・キリストは滅びる
しうる考察方法の基礎づくりに役立つのである。
はずだったと言うべきである。(L.209)
わたしとしては、ムハンマドを判断すると
明快な対句によって、グロティウスの読書ノート
き、彼にあるなにかしら暗い部分や神秘的な
は原著にはなかった力強さを獲得した。イスラー
意味に取れるところではなく、むしろ明るい
ムにおける「クルアーン(コーラン)
」の地位を
部分、彼の言う天国やその他のものを拠り所
知るひとは、「ムハンマドは読むのを禁じ」と書
にしてほしい。彼の馬鹿さ加減はそこにこそ
かれているのに少なからず驚かされる。しかしこ
現れているからだ。だから、彼の明るさゆえ
こでのパスカルはグロティウスを信用し、彼の述
に、その暗さを神秘と取り違えてはならな
べるところを要約するにとどまる。
い。しかし聖書については違う。確かに聖書
一般的に言って、この宗教には2つの特徴が
にもムハンマド同様奇妙な暗さがある。が、
ある。ひとつは、残酷さを掻き立て、その信
一方眼をみはる明るさと、目に見える成就さ
者に血を流すようにしむけること、もうひと
れた預言があるのだから。(L.218)
つは、盲目的な服従を強い、その教義の検証
こんな風にパスカルは、まず読者を明るさ−暗さ
と、当然、信者には神聖だと思わせている聖
の弁証法に馴染ませ、それから預言の考察へと進
1)
典を読むことを禁じていることである。
む。「それが神よりのものであるなら、暗さもま
しかし、パスカルの意図はおそらくグロティウス
た尊ばれなければならないのは明るさがあるから
とは違うであろう。パスカルはムスリム(イスラ
こそなのである。
」(L.217)しかしパスカルは他
ム教徒)向けに書いているわけではないから、イ
宗教に対して論理レベルの批判しかおこなってい
スラームと戦いを交える特別な理由はない。なに
ないわけではない。彼はまたその道徳をもあげつ
1)グロティウス『キリスト教の真理について』Grotius, Traité de la vérité de la religion chrétienne, VI, 2.
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らう。道徳が完全に納得がいくとはいえない宗教
事実、真理を認識することと徳を実践することの
は真理たり得ないからである。パスカルは、こう
間には極めて密接な関係がある。このことはパス
した道徳が人間の本性と真っ向から対立する点を
カルが『ド・サシ師との対話』ですでに取りあげ
非難しているのではなく、不完全・不十分・断片
たいくつかのテーマをより詳述し、幅広く念入り
的であると言うのである。社会道徳を立てるため
に書き込んだある断章が示している。
に情欲を利用するのは間違っている。たとえこう
こうした神からの知識がなければ、人間は何
して立てられた原理がどんなに有用であっても。
をなし得たであろうか?過去の偉大さの名残
情欲を根絶すべく、真正面から情欲に対峙する以
を内心に感じて思い上がるが、現在の弱さを
外に真の解決はない。でなければ、解決は見かけ
目の当たりにしてガックリと膝をつくかのい
だけに終わる。
ずれかであろう。というのは、真理の全部が
人間は情欲から政治や道徳や正義のすばらし
見えないために、人間は完全な徳には到達し
い規範を引き出し、作り上げた。
えないからである。ある者は本性は堕落して
しかし人間のこの悪しき根、この「悪しき
いないと考え、他の者は修復不能と見なす。
さま」figmentum malum は た だ 深 く 被 わ れ
人間は全ての悪徳の二つの源泉たる傲慢か怠
ているにすぎない。(L.211)
惰を免れ得なかった。人間は結局、無気力に
パスカルがここで全く世俗的な規範、社交界に広
なって悪徳へ身を委ねるか、傲慢になって悪
く行き渡っていたオーネトゥムの道徳を指してい
徳から抜け出すかしかできないのであるか
2)彼にとってそれは単
ると考えることもできる。
ら。(L.208)
なる仮面、偽りのイメージにすぎない。
「そんな
ここにはエピクテートスとモンテーニュの主張が
ことはただの見せかけであり、偽りの愛のイメー
認められる。しかし、ストア派に対するパスカル
ジにすぎない。その根底は憎しみにすぎないから
の態度が少し変化したことに注目しよう。
『対話』
3)人間の条件を完全に分析する
である。」(L.210)
においてパスカルは、エピクテートスは「人間の
ことは、キリスト教以外にはますます不可能であ
義務を世界でもっともよく知る哲学者のひとりで
る。Rem viderunt, causam non viderunt.「彼らも
ある」と言っている。確かにエピクテートスには
たしかに事態は見たが、原因は見なかった。
(ア
「悪魔的な尊大さゆえの言辞」があることはパス
ウ グ ス テ ィ ヌ ス『ユ リ ア ヌ ス 反 駁』4.
12.
60)」
カルも認めていたが、その肯定的な面に重点がお
(L.206)こんな風にパスカルは、
『共和国につい
かれていた。逆に、ここでははっきり批判してお
て』第3巻において人間の悲惨を描写しながら、
り、彼がエピクロス派よりはストア派に対してよ
その原因に言及しなかったキケロに対するアウグ
り好意的であるようには見えない。哲学者たちの
スティヌスの考察を、複数形にして引用した。し
誤った教説がキリスト教の真理と対立するのであ
かも『パンセ』にはこれと非常に似通った直接ミ
る。
トンに宛てた、また彼の背後にいる、パスカルが
キリスト教だけがこれら2つの悪徳を癒すこ
弁証論を書くさい、読者として想定したリベルタ
とができた。それも、この世の知恵によって
ンに宛てた考察がある。
どちらか一方を追い出すのではなく、福音の
ミトンには、本性は堕落しており、人間は
オーネトゥテとは正反対であることがよくわ
単純さによって両方を追放したのである。
(L.208)
かっている。しかし彼には人間がなぜもっと
この相矛盾するものの一致は、実際、単なる人間
高く飛べないのかはわからない。(L.642)
理性の可能性を超えている。これは啓示の助けを
2)L.5
9
7参照。「自我は憎むべきである。ミトン君、君はそれを覆うことはできても、取り除くことは絶対にでき
ない.
.
.
.
君はその不快さを取り去ることはできても、その不正を払拭することはできない。
」
3)おそらくスノーの『罪人』から取ったテーマであろう。(Senault, l’Homme criminel III, 4)「不実な者の徳は正し
いことはあり得ない。徳というものはかくもうるわしいので、その影さえも快い。悪徳も徳の衣装を纏うとき
には幾らか美しく見える。だから、罪が徳の様に見せかけた外見を伴ってわれわれの前に現れると、われわれ
はどうしても罪を崇めてしまうのである.
.
.
」
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借りてはじめて得られる。ここからパスカルは、
だ。しかしそれでは知識人向きではない。純
人間には解決できない問題に解決の光をもたらす
粋に知的な宗教なら、(先ほどの宗教よりは)
ことで自ずから認められるこの権威に対して読者
知識人にふさわしいであろうが、まったく民
が服従することを強く求めるのである。
衆向きではないであろう。この外面と内面を
とすれば、この天からの光を信じ、崇めるこ
兼ね備えたキリスト教だけがどちらにも適
とを拒否するひとなどいるだろうか?われわ
う。(L.219)
れが自分の内に消し去ることのできない優れ
この綴りに集められた断章は一見すると寄せ集め
た性質があるのを感じているのは、日の光よ
のように見えるが、パスカルのやり方は明快であ
りも明らかではないか?また、われわれが自
る。さまざまな宗教を批判的に検証すれば、その
分たちの哀れな条件の現実をつねに実感して
欠点を明らかにして、その宗教から期待しうるも
いることも事実ではないか?(L.208)
のを対照的に引き出し、それが真の宗教かどうか
首尾よく読者をこの服従に導くために、パスカル
を評価することができる。キリスト教は、こうし
はためらうことなく、彼が心に揺さぶりをかける
た異なる指標に基づく批評的検証によって完全に
ときの説得のための道具、叙情的な調子を用い
満足できる結果の得られる唯一の宗教なのであ
る。
る。
この混沌、このはなはだしい混乱が、抗えな
宗教を愛すべきものに
いほど厳しい声でわれわれに告げ知らせてい
るのは、まさしくこの2つの状態ではないの
か?(L.208)
次の綴りにはかなり短い断章が二つしか収められ
それゆえ、真の宗教とは、満足のいくやり方で人
ていない。しかしこの箇所は、おそらくパスカル
間の真の本性を説明し、その矛盾を解決しうるも
が相当に重視した彼の方法の一段階に当たる。そ
のということになる。したがって人間学的第1部
れは丁度このテーマに関連のある人たちにテーマ
全体と緊密に関係していることがはっきりする。
の筋道を明示する『順序』の綴りがそうであった
弁証論の第1部の存在理由が明らかになるのであ
ように。
順序。
る。
人間の本性を理解したのち、ある宗教が真実
人々は宗教を軽蔑している。宗教を憎み、宗
であるためには、その宗教がわれわれの本性
教が真実であることを恐れている....尊ぶに
を知っている必要がある。それは(人間の)
値することを示し、尊敬させねばならない。
偉大さと卑小さおよびその理由をも知ってい
それから宗教を愛すべきものにし、善良な
なければならない。キリスト教以外にそれを
人たちに宗教が真実であってほしいと願わ
知っている宗教があるだろうか。(L.215)
せ、そのあと宗教が真実であることを示すこ
真の宗教は、認識の矛盾とともに道徳の矛盾をも
解決せねばならないであろう。すなわち傲慢と絶
望を同時に遠ざけることができなければならな
と。
尊ぶべきだというのは、宗教が人間をよく
知っているからである。
愛すべきだというのは、宗教が真の幸福を
い。
イエス・キリストはわれわれが傲慢にならず
約束するからである。(L.12)
に近づくことができ、絶望に陥らずにひれ伏
つまり、パスカルにとっては、誰もが求める最高
すことのできる神である。(L.212)
善(真の幸福)の問題に事実上、重点の置かれた
いまひとつ解決すべきは、外見に惹かれる民衆と
議論に読者に付いて来てもらうことが大切なので
もっと知的なことに関心を持つ知識人の双方に受
ある。パスカルは一見矛盾するように見えて、そ
け入れられるような宗教でなければならないこと
の実この綴りの題名が示すテーマを互いに補い合
である。
う関係にある2つの側面のみを考察する。キリス
異教などはずっと人気がある。外面的だから
ト教は普遍的という点でユダヤ教とは正反対であ
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る。誰ひとり漏れる者はない。「イエス・キリス
とも古く、もっとも正しいからだ。ムハンマ
トはすべての人のために。モーセは1つの民のた
ドがクルアーンを存続させるためにそれを読
めに。」断章の最後で、教会の態度とキリストの
むのを禁じたのに対し、モーセは同じ目的で
態度のあいだにはっきりした食い違いが現れる。
全員に読むように命じた...
「教会さえ信じる者たちのためにだけ犠牲を捧げ
われわれの宗教は神よりのものである。も
る。イエス・キリストは万人のために十字架の犠
うひとつ別の神よりの宗教が基礎となってい
牲を捧げた」
(L.221)これはもう1つの断章の
るぐらいだからである。(L.243)
次の文章と新たに矛盾するように思える。
「キリ
「基礎」とは結局その宗教が依拠する文書のこと
スト教 徒 の た め に だ け 贖 い 主 が お ら れ る」
(L.
である。それは人間理性の力のみでは到達し得な
222)これら2つのテクストを比較すると、弁証
い知識を人間に与えてくれる啓示資料なのであ
論執筆当時の恩寵と救済についてのパスカルの問
る。聖書はユダヤ教とキリスト教の共通の基礎で
題意識は、ジャンセニストとジェズイットの論争
ある。それゆえパスカルが選んだ視点は決して抽
当時とはもう同じではないような印象を受ける。
象的ではない。彼にとって宗教の基礎とは、多少
どうもパスカルは相矛盾するものの調停の弁証法
とも哲学的な観念でも抽象でもなく、どんな些細
というかたちで問題を提起しようとしたようだ。
なことでも詮索するに価する1冊の本という具体
しかし実際は、テクストがほとんど展開されてお
的な現実なのである。
らず、また内容も明快とは言えない状態のため、
これは単なる仮定の域を出ない。
人間の条件は悲惨なのであるから、それだけ宗
教の真理は、その悲惨を脱出するためのさらに確
しかし聖書はわかりやすい書物ではない。明快
で、読者のわずかな努力も要求しないようなわか
りやすさは持ち合わせない。聖書には光と闇の弁
証法が見出される。
実な手段を与えるものであることが一層望まれ
選ばれた者を照らすには十分な光が、またへ
る。この問題を考察しつつ、パスカルは汎神論・
りくだらせるに足る十分な暗さがある。見捨
ユダヤ教・キリスト教間の格付けを始める。これ
てられた者を盲目にするのに十分な暗さが、
は『パンセ』の中で彼が何度も繰り返すテーマの
彼らに罪を宣告し、言い逃れできなくするに
ひとつである。
足る十分な明るさがある。
異教徒には贖い主は存在しない。単に彼らが
旧約聖書のイエス・キリストの系図は他の
それを望まないからである。ユダヤ人にも贖
どうでもいいものと一緒くたにされて、見分
い主は存在しない。彼らは空しくそれを待ち
けがつかなくなっている。もしモーセがイエ
望んでいる。キリスト教徒にとってのみ贖い
ス・キリストの先祖だけを記録に残していた
主は存在するのである。(L.222)
なら、あまりに明らかすぎたであろう。しか
し彼がイエス・キリストの系図を記しておか
宗教の基礎と反論に対する応答
なかったなら、明るさは十分ではなかったで
あろう。だがこのことをもっと仔細に見るひ
この同じ図式が、
『宗教の基礎と反論に対する応
とには、タマルやルツという名で区別される
答』と題された次の綴りの断章中にも見出され
イエス・キリストの系図が見わけられるであ
る。パスカルの弁証論で「基礎」という語の表す
ろう。(L.236)
意味が理解できるのはこの断章においてである。
異教には基礎はない。
イスラームはクルアーンとムハンマドを基
礎にもつ...
ユダヤ教は違ったふうに見るべきであ
る...その基礎はすばらしい。この世でもっ
パスカルの弁証法はある解釈学に基づいている。
それについてアンリ・グイエ4)は、それが彼の世
界観と歴史観の核心であることを証明した。神は
自らを隠す。神が自分を隠す意志は自分を顕わす
意志と裏腹の関係にある。照らすのも神、盲目に
するのも神である。神の憐れみはその義(正義)
4)『ブレーズ・パスカル注釈』Blaise Pascal, commentaires, pp.1
8
7−2
4
3.
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社 会 学 部 紀 要 第9
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同様限りがないからである。アダムの罪によって
入れなければ、われわれは神の御業をなにひ
人間は神を知ることができなくなった。神が自ら
とつ理解することはできない。(L.232)
を隠すのはひとえに義ゆえである。しかし神は全
これは被造物すべてに当てはまる。
「空も鳥たち
人類が堕落したままに捨て置くことを望まれな
も」神を証明することはできない。ただ「神がこ
い。神が自らを顕わされるのは限りない憐れみか
の光を与えた数少ない魂にとって以外には。
」
(L.
らである。これこそ予定説5)の奥義である。この
3)神の御業に常につきまとう、この「隠す−顕
明るさと暗さの共存こそが選ばれた者と見捨てら
わす」の二重の意志こそが万物に見られる矛盾を
れる者とを生み出す。しかも神の最終決断は人間
説明できる。
「こうした相反することを知ってい
の自由と両立しない。
「ひたすら見ることを望む
ることが力の印であるなら、この点については聖
者には十分な光があり、これと反対の傾向の者に
書を敬うべきであ る。」(L.466)人 間 の 本 性 は
は十分な暗さがある。
」(L.149)光か闇かを選択
「相反するもの」で造られている。宗教もしか
するのは人間の意志であること、照らす者と盲目
り。したがって、イエス・キリストについて福音
にする者を決めるのは神お1人であることのどち
書がわれわれに示す方向も同じである。
らも正しい。ここでまたパスカルが『恩寵文書』
イエス・キリストは、はっきり見える者を盲
において分析した弁証法的状況に出会う。神は求
目にし、盲目の者に視力を与え、病人をいや
める者には決して恩寵を拒まれない。しかし神ご
し、健康な人を死なせ、罪人を改悛に導いて
自身が人間に祈りの賜物をくださらなければ、誰
義しい者とし、義人を罪にとどめ、貧しい人
も神に恩寵を求めたりはしないのである。恩寵と
たちを満ち足らせ、富める者たちを空腹のま
光は、人間の態度と神の意志とに同時にまた全面
まに放 っ て お く た め に 来 ら れ た の だ。(L.
的に依拠している。それゆえ、神が揺り動かそう
235)
となさるのは人間の精神というよりはむしろ人間
従って、キリスト教の本質は「相反するもの」か
の意志のほうである。
ら成る。それは見かけ上は折り合わないように見
神が備えをさせるのは精神よりは意志のほう
える要素を折り合わせることである。いたるとこ
である。完全な明るさは精神の役には立って
ろに現れる両立しがたい現実を共存させる秘訣は
も、意志には害になる。
ここにある。
思い上がりを貶めること。
(L.234)
相反するものの源泉。辱められた神、それも
原罪以来通常となった精神の勝利を伴う傲慢に汚
十字架の死に至るまでも。イエス・キリスト
されていない知識を、神は人間に与えたいと思
の2つの本性。2度の来臨。人間の本性の二
う。暗さはへりくだらせるが故に、選ばれた人た
つの状態。ご自分の死によって死にうち勝っ
ちにも役立つ。こうして神の光は、人間が自力で
手に入れることができない賜物であることを人間
にもっと強く感じさせる。
人間は神に相応しくない。が、神に相応しく
た救い主。(L.241)
これが原罪の奥義と密接に結びついた受肉と贖罪
の奥義なのである。矛盾はこうして解決される。
「信仰のすべてはイエス・キリストとアダムより
されることは不可能ではない。(L.239)
成り、道徳のすべては情欲と恩寵より成る。
」
(L.
この明るさと暗さの弁証法は聖書にのみ当てはま
226)この照応関係は、「相反するもの」の論理、
るわけではなく、神の業には例外なく当てはま
決まりきったものとは違う考え方をせざるを得な
る。
くさせる論理が現に存在することの証拠である。
神がある人たちを盲目にし、他の人たちを照
これこそパスカルの弁証法の基礎である。
らしたいと願われたことを出発点として受け
キリスト教の特徴であるこの光と闇との混合は、
5)かくして断章4
6
1を説明せねばならない。「この世は憐れみと裁きを実行するためにある。人間は神の御手から
出た状態にあるのではなく、神の敵としてこの世に存在する。この敵に対し、もし人間がご自身を求め、従い
たいと思えば、神は恩寵によってご自分の元に戻れるに足る十分な光を、人間がこれを拒めば、罰するに足る
十分な光を与えておられる。
」
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―2
0
1―
無神論者側の反論を引き出す。「だが、われわれ
の側にも確信を与えるものはないとわれわれ
には何の光もない。」(L.244)と。実際は、無神
は言っているからである。(L.237)
論者のいる闇もまた、キリスト教の真理を補足的
これは恐ろしいテクストである。そのペシミスム
に証明するものなのである。キリスト教は完全に
は狭い意味でのジャンセニスム、カルヴィニスム
隠れています神を告知するのであるから、彼らが
と紙一重である。自分の誤りを認めさせることも
非難する光の無さも同時に表明済みだからであ
できないまま、選ばれた者たちに受け入れられ、
る。この点に関してイエス・キリストは預言者が
説き伏せることのできない不信仰者には拒絶され
告知するところと完全に一致する。
るキリスト教のこうしたお定まりの表現は福音書
イエス・キリストについて預言者はどう言っ
にも教会の伝道活動の正統的な見解にも反する。
ているか?はっきり神だと言っているか?い
しかもこれはおそらくパスカル思想の本意ではな
や、だが彼はまさしく隠れたる神であって、
いであろう。もし本当に不信仰者を説き伏せるこ
ひとに知られず、彼がそれだとは誰も思わ
とができないのなら、なぜパスカルは弁証論を書
ず、躓きの石となって、多くのひとが彼に躓
くのであろうか?「説き伏せる」という語を知性
く....と。(L.228)
に対する理性活動という意味に限定して、このテ
自然においてと同様に旧約聖書にも、現に神より
クストを極めて特殊な意味に理解するのでなけれ
の曖昧さがあるとすれば、同じ曖昧さをパスカル
ば、われわれは彼らを説き伏せられないというこ
はイエス・キリストにも見出す。
とにはならないであろう。確かにパスカルは弁証
イエス・キリストは、悪人たちを盲目のまま
論において、説き伏せようと想うだけでは満足せ
に留め置くために、自分はナザレの出身では
ず、説き伏せるための道具をすべて駆使してもい
ないとも、ヨセフの息子ではないとも言われ
る。しかも宗教は理性を超えているのであるか
ない。(L.233)
ら、理性活動から洩れることはみな存在しないと
この件に関して、パスカルには新約・旧約聖書間
はいえない。
「理解できないことといえどもやは
には根本的な違いはない。大多数の神学者は福音
り存在するのだ。」(L.230)
書の明るさとモーセ律法の暗さを対立的に捉えて
隠れたる神のテーマは弁証論の争点になる。暗さ
いるのだが。旧約の神と全く同様に、イエス・キ
はキリスト教教義によって認められ、説明される
リストもある者たちを照らし、他の者たちを盲目
限り、キリスト教が真理であることの証拠となる
にしたいのである。
からである。
もしイエス・キリストが清めるためだけに来
られたとすれば、聖書全編も万物もそのこと
を目指したであろうし、不信仰者を説き伏せ
ることも容易であったろう。もしイエス・キ
神が自らを隠したいと思われたこと。
ひとつしか宗教がなかったならば、神は十
分明らかであったろう。
われわれの宗教にしか殉教者がいなかった
リストが盲目にするためだけに来られたので
としても同様であろう。
あれば、その行動は全くの混乱であり、われ
神はこのように隠れておられるので、神は隠
われには不信仰者を説き伏せる手段が全くな
れていると言わない宗教はどれも正しくな
いことになるであろう。しかし彼が来られた
い。さらに、その理由を説明しない宗教は益
のは、イザヤも言っているように、
「聖所と
にならない。われわれの宗教はこれらをすべ
なり、躓きの石となるため」in sanctificaio-
て満たす。
「まことにあなたは隠れています
nem et in scandalum なのであるから、われ
神である。」(L.242)
われには不信仰者を説き伏せることはできな
宗教の暗さに対してリベルタンからの型どおりの
いし、彼らもまたわれわれを説き伏せること
反論に答えたあと、パスカルはいくつかの古典的
はできないのである。しかしこの同じ理由か
な反論に対する答えを記している。奇跡にキリス
ら、われわれは不信仰者を説き伏せることが
ト教の証拠を認めず、別のところに奇跡を求める
できる。イエス・キリストの行いにはどちら
者たちにパスカルはこう答える。
「不信仰なのに
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社 会 学 部 紀 要 第9
1号
もっとも信じやすい者たち、彼らはモーセの奇跡
から、聖書は本当はコード化されたメッセ−ジで
は信じないが、ヴェスパシアヌスの奇跡は信じる
あって、その名宛人のみがその本当の意味を知る
のだ。」(L.224)神が宇宙を創造したことは認め
ことができることがわかる。パスカルはこの均質
ながら、復活や処女生誕の可能性を否定する者た
性の指標を直接聖書にも適用する。
ちには、彼はこう訊ねる。
「人間や動物を最初に
馬鹿話をしている2人のうち、一方の話には
創ることはそれらを再生するより難しいのだろう
仲間うちでならわかる2つの意味が込められ
か?」(L.227)
ており、もうひとりの話にはそれだけの意味
しかない。さてここでこんな隠された事情を
律法は象徴的であること
知らない誰かが2人がこうして会話している
のを聞くとすれば、どちらも同じだと思うか
弁証論に解釈学を適用する手法は、
『律法は象徴
もしれない。だが、話の続きを聞いている
的であること』と題された綴りにおいて最も重要
と、ひとりは天使のようにすばらしいことを
な働きをなす。聖書の神は自らを隠すと同時に顕
言うのに、もうひとりはずっと平板で月並み
わしもするのであるから、聖書においては暗さが
なことしか言わないとすると、そのひとは、
意味明瞭な章句と混じっていることになる。曖昧
ひとりは奥行きのある話ができるが、もうひ
な章句も、それらを真理の象徴と見なせば、その
とりにはできない、ひとりはこんな馬鹿話に
意味がはっきりする。象徴をこのように用いるこ
は向いてはいず、奥行きのある話ができるこ
とは預言書には頻繁に見 ら れ る。
『預 言 者 は 象
とをはっきり示したのに、もうひとりは奥行
徴、帯、髭や焼けた毛髪等によって預言してい
きのある話などできず、馬鹿話専門のひとだ
た。』(L.248)
と判断するだろう。(L.276)
聖書の見かけ上の矛盾はこんな具合に解決するこ
またしても別のやり方で、旧約聖書は暗号化され
とができる。矛盾する章句を一致させるひとつの
たメッセージとしての姿を露わにする。旧約は、
意味が見出せなければ聖書の意味を知ることはで
見たところは意味明瞭だが意味が隠されていると
きない。
いわれるような明瞭さを持つテクストから成って
われわれについても、相矛盾するところをす
いる。こうした矛盾は矛盾自身にだけメッセージ
べて一致させてはじめて容貌をきちんと描き
には暗号的性格があるということがわかればいい
出すことができる。矛盾するところは放って
のである。聖書においては、明るさと暗さとが混
おいて、一致している特徴だけ取りあげれば
じり合っていいるのであるから、問題はどれが文
済むというわけにはいかない。作者のいわん
字通り解釈されるべきテクストか、どれが象徴と
とするところを理解するには、矛盾する章句
見るべきテクストかということになる。当然各人
を全部一致させねばならない。
は自分の考え方に合う章句を文字通りに解釈する
同様に、聖書を理解しようと思えば、矛盾
傾向がある。それで、物質的幸福に惹かれる人た
する章句がすべて一致する意味を知らねばな
ちは現世的幸福あるいは物質的幸福の約束を文字
らない。いくつかの矛盾しない章句に当ては
通りに解釈するのである。
まる意味ではいけない。矛盾する章句全部を
ユダヤ人は象徴的なものを愛し、期待しすぎ
一致さ せ る も の で な け れ ば な ら な い。
(L.
たため、現実が預言された時と方法でやって
257)
来たときそれとわからなかった。
聖書の矛盾を解決するには、聖書をひとつのコー
ラビたちは花嫁の乳房を象徴ととらえた。
ド化されたメッセージと考える必要がある。
「旧
現世的幸福というただ1つの目的を言い表さ
約聖書は暗号である。
」(L.276)テクストを検証
ないものをすべて象徴と取ったのである。
すれば、それを本当に文字通りに取っていいの
(L.270)
か、それとも別の意味なのかが分かる。それで、
パスカルは、象徴にすぎないものを文字通り解釈
明らかに些細な文字上の均質性が欠けていること
しないための暗号解読法を制定する。
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愛にまで達しないものはすべて象徴である。
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りと述べられているのである。
聖書のただ1つの目標は愛である。
霊的な意味がこんなにもはっきり述べられて
ただ1つの幸いに達しないものはすべてそ
いるのであるから、このことがわからないの
の象徴である。目標はただ1つなのだから、
はその人が盲目だからにちがいない。肉が霊
適切な言葉でそこへ至らないものはすべて象
を操り、霊が肉の奴隷となってしまっている
徴なのである。(L.270)
からである。(L.502)
綴りの分類よりはるかあとに書かれたと見られる
支離滅裂に見えるとしてもそれは見かけだけで、
断章において、パスカルは『なぜ象徴かの理由』
象徴的な部分を字義通りに取り、明らかに霊的な
(L.502)を詳しく述べる。旧約聖書の曖昧な性
部分を具体的な意味に取ることによるものであ
格は、イエス・キリストは紛れもなくメシアであ
る。しかし前者の象徴の下に隠された霊的な意味
り救い主であることとともにこうしたテクストを
は後者と両立しうる。
伝承してきた証人たちの確かさの証拠ともなる。
霊的な意味は、ほとんどの箇所ではもうひと
ユダヤ人は信用できる証人である。彼らはイエス
つの意味によって隠されてはいるが、稀にい
・キリストをメシアとは認めないにも関わらず、
くつかの箇所においては顕わになっている。
注意深く預言を伝えてきたからである。預言は文
しかも、それが隠されている箇所が多義的で
字通り「メシアを救済者、この国民が愛する肉的
どちらにも取れる状態なのに対し、顕わに
幸福の分配者として告知している。
」預言者の書
なっている箇所では一義的で、霊的な意味に
が全世界に広まったあと、ユダヤ人たちは『不名
しか取れないのである。(L.502)
誉でみじめなメシアの到来』に失望した。結局、
ユダヤ人が預言に物質的な幸福の約束しか見な
イエス・キリストを見捨て十字架に架けたのも、
かったのは、彼らが肉的な国民だったからであ
預言のかたちでイエスこそ真のメシアであるとの
る。「彼らの強欲のために、それを地上の幸福の
証言を残したのもこの同じ国民なのである。預言
意味に限定したのである。」「幸福は神にのみある
が「彼は捨てられ、躓きとなるであろうと言って
と考えた」ユダヤ人たちにとっては「幸福とは神
いる」のであるからそれだけ一層確かな証拠とい
以外よりのものではありえなかった。
」肉的ユダ
える。このユダヤ人の理屈に合わない態度は、預
ヤ人と霊的ユダヤ人(こちらが、そうした呼び名
言が2つの意味に取れるのでなかったならば、あ
ができる前から、パスカルにとっては真のキリス
り得なかったであろう。
ト教徒である)とを分かつものは、双方の意志が
こうした理由で預言には、この国民が忌み
相対立する2つの原理に依っていることである。
嫌った霊的な意味が、彼らが愛した肉的な意
つまり人間の意志を分ける2つの原理がある
味の下に隠されているのである。もしこの霊
のだ。強欲と愛がそれである。強欲が神への
的な意味が顕わであったなら、彼らはそれを
信仰と、愛が地上の幸福と両立しないからで
愛することはできなかったであろうし、そん
はなく、強欲が神を利用し、現世を楽しむの
なものには耐えられず、教典や儀式を守ろう
に 対 し、愛 は そ の 反 対 だ か ら で あ る。(L.
との熱意も持てなかったであろう。しかし、
502)
もし彼らがこの霊的な約束を愛し、メシアの
ユダヤ人に見られる神への信仰と物質的幸福への
時までしっかり保っていたならば、彼らの証
執着の矛盾はこんな風に説明される。旧約聖書は
言にはなんの力もなかったであろう。彼らは
「ある者たちを盲目にし、他の者たちを照らすよ
その約束を好ましく思っていただけなのだか
うに」書かれているのであるから、ユダヤ人の教
ら。(L.502)
義は真理でもあり、誤謬でもある。ユダヤ人が神
これは預言の意味がまったく曖昧だったからでは
から受け取った目に見える幸福そのものが、そう
ない。確かに、いくつかの章句においては霊的な
理解したひとの精神状態によって多義的な意味を
意味は「現世的な意味の下に隠されてきた」が、
持ちうる。肉的なひとは幸福は自分自身の内にあ
ある箇所では霊的な意味が疑いようもなくはっき
ると見なしたが、霊的なひとは逆に、
「神より受
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け取った目に見える幸福があまりに大きく神々し
書かれている。(L.259)
いものであったので、神にはまた目に見えない幸
もしこうした二種類の断言間の矛盾を解決しよう
福や救い主をも与えてくださる力があるように思
とすれば、律法や契約や犠牲を二重の意味に解さ
えたのである。」具体的な解釈がすでに旧約聖書
ねばならない。これら自体はそのあるがままの状
にほのめかされている。
態では、神の眼から見て真理としての価値はな
イザヤ51章は言う。贖罪は紅海を渡るような
い。これらの犠牲は神が望まれたものではないか
ものとなろう、と。
らであり、律法は神の真の御旨にかなう永続的な
神はエジプトからの、紅海からの脱出のと
律法ではなく、契約も最終的な契約ではない。し
き、王たちの敗北のとき、マナにおいて、ア
かし、これらを単にあるがままに検証するだけで
ブラハムの系図において、救うことも天から
はなく、そこに真の犠牲、真の律法、真に永遠的
パンを降らせることもできることを示され
な契約の象徴を看て取る必要がある。あるがまま
た。それで、この敵なる民も、自分たちの知
では、これらは神の御旨にそむき、消滅すべき運
らない救い主ご自身の象徴とも似姿ともなる
命にある。しかしそれらが象徴する現実は神の御
のである....
旨にかなう、永遠の現実である。つまり、モーセ
結局神は、こうしたものはすべて象徴にす
の律法はそれ自体価値はなく、象徴として、キリ
ぎないこと、何が真の自由であるか、真のユ
スト教の前触れ・証拠としての価値しかないので
ダヤ人であるか、真の割礼、真の天よりのパ
ある。
ン、....であるかをわれわれに教えてくだ
さったのである。(L.503)
聖書がユダヤ人の敵について語るとき、そこに
象徴をも看て取らねばならない。最高善を物質
神が預言者を介して真の犠牲や真の割礼について
的、肉的現実に求める人たちにとって、敵という
語るところは、古い律法に記された犠牲や割礼は
語は敵対する民族以外の意味をもたない。ユダヤ
キリスト教の先触れとなる象徴にほかならないと
人は彼らと領土を争い、彼らを奴隷化するのであ
いうことである。すると旧約聖書の本当の意味
る。しかしこれらの敵は本当の敵の象徴にすぎな
は、ユダヤ人が理解していた意味ではないという
いのである。
ことになる。彼らは矛盾をなくすことができな
人間を敵からではなく神から遠ざける欲望の
かったのであるから。
ほかに人間の敵はなく、幸いは肥えた土地な
だから本当の意味はユダヤ人の考えた意味で
どではなく神を措いてはないことがよくわ
はない。イエス・キリストにおいてすべての
かっている人たちがいる。人間の幸福は肉に
矛盾が一致するのである。(L.257)
あり、人間をこの感覚的快楽から遠ざけるも
特に、パスカルは律法とそれが命じる犠牲につい
のが悪だと思っている人たちは、それに満ち
ての聖書の矛盾にこだわる。
足り、そこでくたばるがいい。しかし心から
律法や犠牲が真理であれば、神の御旨にかな
神を求める人たち、神の姿が見えなくなるこ
い、御旨にそむかぬものでなければならな
とを悲しみ、神をしっかり掴むことのみに喜
い。それらが象徴ならば、御旨にかなうこと
びを覚え、自分を神から遠ざけようとする者
もあれば、そむくこともあるはずだ。
を敵と見なし、こうした敵に囲まれ、支配さ
ところで、聖書全体を見ると、それらは御旨
れていることを嘆く人たちは慰められんこと
にかなうこともあれば、そむくこともある。
を。わたしは彼らに喜ばしいおとずれを告げ
律法は変わるであろう、犠牲は変わるであろ
よう。この人たちのために救い主がいますの
う、彼らには王もなく、君侯もなく、犠牲も
である、と。(L.269)
なくなるであろう、新しい契約が結ばれるで
しかも、肉的な先入観から解放された精神で聖書
あろう、律法は更新されるであろう、彼らが
を検証するひとにとっては、実際には両義性はな
受けた教えは良くない、犠牲は忌まわしい、
い。というのは、多義的な章句の解釈も完全に明
神はこのようなものは求められなかった、と
瞭な他の章句から自然と引き出されるからである。
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確かに敵という語は二つの意味に取れる。し
最初の来臨はあからさまに予言されていた。
かしダビデが現に別のところで、救い主はご
2度目の来臨は全く予言されなかった。とい
自分の民をその罪から解き放つとイザヤや他
うのは、最初は隠されていなければならな
の人たち同様に言っているとしたら、敵とい
かったが、2度目は誰の目にも明らかで、敵
う語に2つの意味はなくなり、不義というた
さえもそれと見分けられねばならなかったか
だ1つの意味しかないことになる。なぜな
らである。しかし彼は人知れず来られ、聖書
ら、彼が心に罪を抱いていれば、それを敵と
を探る人たちにのみ認められねばならなかっ
表現することもできたが、実際に敵を想定し
た。(L.261)
ていたのであれば、不義という語で敵を指す
ことはできなかったであろうから。(L.269)
初期キリスト教以来、聖書のさまざまな意味を確
ラビの教え
定、探求する長い伝統が神学や解釈学にはある。
パスカルの独創性はこのややこしい意味体系を簡
『ラビの教え』と題された次の綴りには2つしか
略化したことである。彼は字義通りの意味と本当
断章が入っていない。しかし、パスカルの弁証論
の意味しか残さなかったし、比喩や寓意的解釈に
的推論のこの段階の地位を決定するにはこれで十
属するものを別扱いしなかった。まるで人間であ
分である。聖書の説明法を述べたあと、彼は自分
るかのように神の行動を述べる表現法も、パスカ
の解釈に合う議論を『タルムード』のなかに探し
ルにとっては基本的には比喩を用いるケースに該
始める。彼がキリスト教に当てはまる要素をユダ
当する。
ヤの伝統に求めるのは、ラビたちがわれ知らずに
真正な神の言葉は、字義的には間違っていて
キリスト教の真理の証人となっていると彼は考え
も、霊 的 に は 正 し い。Sede a dextris meis.
るからである。ラビたちの善意については疑いの
「わたしの右に座していなさい。」これは字義
余地はない。彼らはキリスト教の利益になること
的には間違っている、だから霊的には正
を語るつもりは全くないからである。パスカル
しい。
は、キリスト教に当てはまる原罪とその結果を述
こうした表現においては、神は人間のよう
べた『タルムード』のテクストをいくつか書き出
に語られる。これは、人間が自分の右に誰か
している。ラビたちの象徴的解釈は、引用された
を座らせるときに抱く気持ちを神もお持ちに
章句においてはパスカルの方法に非常に近い。
なるであろうということにほかならない。だ
この綴りの材料はすべて、ドミニコ会士レイモ
からこれは神の気持ちを示すしるしであっ
ン・マルタンの『ユダヤ人とモール人に対する信
て、その実行法ではない。
仰 の 剣(プ ギ オ・フ ィ デ イ)』Pugio fidei adver-
同様に、神が「わたしはお前たちの捧げる
sus Judaeos et Mauros とジョゼフ・ド・ヴォワザ
香りを嗅ぎ、報酬として肥えた土地をお前た
ンがタルムードとは何かを説明した長い前書きか
ちに与えるであろう。」と言われるのは、香
ら、パスカル自身が抜き出したものである。
『信
りを受け入れ、その報酬として肥えた土地を
仰の剣』は1278年に書かれ、アントワーヌ・アル
あなたがたに与える人間が持つのと同じ気持
ノーの友人のジョゼフ・ド・ヴォワザンによって
ちを神もあなたがたに対して持たれるであろ
1651年に出版された。出版の年に注目すると、弁
うということにほかならない。というのは、
証論の最新の補強装具の1つということになる。
人間が香りを捧げてくれるひとに対して持つ
ヘブル語のテクストが付けられた『信仰の剣』の
のとおなじ気持ちを神に対してもあなたがた
極めて専門的な性格にも関わらず、そのラテン訳
は持ったからである。(L.272)
からパスカルは自分の論証に役立つどんな議論も
したがって、神は自らを隠す、それも神を心から
逃すまいと思っていたことは確かだ。この綴りに
求める努力をする人たちにはご自分を発見できる
収められた2つの断章にはそれ自体ごく限られた
ようなやり方で。
関心しか認められないとしても、自分の計画に役
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1号
立ちうるものはなにひとつ落とすまいとのパスカ
のになってしまうほどの連続性の問題である。パ
ルの意図の証明となるという意味がある。言うな
スカルはユダヤ人を肉的な者と霊的な者に分ける
れば、これは弁証家としての職業的良心の証と言
ことによってこの困難を解決する。まず彼はこの
えよう。
区別があらゆる宗教に当てはまることを確認す
る。
永
続
性
どの宗教にもいる2種類の人間。
異教においては、獣を崇める者たちと自然
キリスト教は聖書というテクストに基づく宗教で
宗教における唯一神を崇める者たちがいる。
ある。それはまた人類の歴史に記述された宗教で
ユダヤ人には、肉的なユダヤ人と古い律法
あり、人類の歴史の本質とさえ言えるものであ
におけるキリスト教徒たる霊的なユダヤ人た
る。パスカルは『永続性』と題された綴りでこう
ち。
した見方を取り上げる。よく考えてみると、これ
は逆説的な題である。キリスト教はその始まりが
キリスト教徒においては、新しい律法にお
けるユダヤ人たる卑しい人たち。
歴史の一時点に記されている宗教である。これに
肉のユダヤ人は肉の救い主を待ち望み、卑
対し、永続性について語ることは、この宗教には
しいキリスト教徒は救い主によって神を愛さ
始まりがない、あるいは少なくとも歴史とともに
ずに済むと考えた。真のユダヤ人と真のキリ
始まったということを断定することにはならない
スト教徒は神を愛せずにはいられなくする救
であろうか?幸いにもパスカルは『永続性』にど
い主を崇める。(L.286)
んな意味を込めたのかを明らかにしている。
「救
神を正しく崇める異教徒のなかに、パスカルはお
い主はずっと信じられてきた。
」(l.2
82)パスカ
そらくプラトンを含めるであろう。
「キリスト教
ルがキリスト教の本質とみなすことを信じる人た
への準備としてのプラトン」
(L.612)この点で
ちが歴史を通して常にいたということである。
は、彼はただ教父たちの伝統に従うだけである。
この宗教は、人間が栄光の状態、神との交わ
『真 の 宗 教 に つ い て』De vera religione の 冒 頭
りのできる状態から悲哀、悔悛、神との離反
で、聖アウグスチヌスはプラトンを異教の哲学者
の状態に堕落したこと、しかし一生が終われ
とは別扱いしている。肉的なユダヤ人と霊的なユ
ば、われわれは来るべき救い主によって始め
ダヤ人とを対立させることはすでに、
『律法は象
の状態に戻されることを信じるところに成り
徴的であること』の綴りにおいても重要な役割を
立つ。このような宗教がずっと地上に存在し
果たしている。卑しいキリスト教徒と真のキリス
続けてきたのである。(L.281)
ト教徒を対立させることについては、
『プロヴァ
ここにもまた、パスカルが宗教の真理のうちで原
ンシャル』論争のこだまが感じられる。卑しいキ
罪のドグマを最重要視していることが見て取れ
リスト教徒とは、良心問題判例学者が緩めたモラ
る。彼はその説明を人間の条件に求めた。これを
ルの教えに従って行動する者たちのことである。
弁証論の要とし、その周りに人間学から神学への
『プロヴァンシャル第9の手紙』において、パス
移行過程を配置する。神学部分そのものは、全編
カルは良心問題判例学者たちが厳しく神への愛を
がこのドグマに浸されている。至るところでパス
求めず、救いを保証するだけの安易な信心にすり
カルは原罪とその結果たる情欲に言及する。した
替えたことを非難した。「どの宗教にもいる2種
がって、『ラビの教え』の綴りにおいてと同様、
類の人間」を区別することは、弁証論の結末の利
『永続性』の綴りにおいても原罪の伝統に筆が及
害に大いに関係するある原理が関係している。卑
ぶのに驚く必要はない。
永続性という概念自体からもユダヤ教とキリス
しいキリスト教徒と真のキリスト教徒という2種
類のキリスト教徒を分けるとしても、前者の行動
ト教の連続性が予想される。こうしてわれわれは
から導き出される議論には何らの価値もない。
2つの相反する事柄を前にしている。ユダヤ教と
「われわれの宗教は福音書や使徒たちや伝統にお
キリスト教の対立と2つの宗教がほとんど同じも
いては神よりのものであるが、間違って解釈する
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者たちにおいては滑稽なものとなる。」(L.287)
る。エジプト人の偶像崇拝がユダヤ民族に広く蔓
肉的なユダヤ人と肉的なキリスト教徒の間にはあ
延していたが、「モーセやそのほかの人たち」は
る種の類似性があるが、霊的なユダヤ人と真のキ
「多くのユダヤ人には見えない方を見、崇め、そ
リスト教徒の間には全く違いはない。
の方が備えられる永遠の賜物に注目していた。
」
(L.281)ギリシャ人とローマ人の偽神、異教徒
肉のユダヤ人にとっては、救い主はこの世の
の詩人たちの種々雑多な神学、無数の哲学学派
王族でなければならない。肉のキリスト教徒
も、「ユダヤの地のただ中に、自分たちしか知ら
にとってイエス・キリストは、われわれが神
ない救い主の到来を予言する選ばれた人々」が絶
を愛さなくても済むように、当のわれわれに
えることなく存在するのを阻むことはできなかっ
は関係なく万事を好都合に運ぶ秘跡を授けに
た。分裂、異端、政治的転覆、教会に加えられた
やって来たのである。この2つはキリスト教
あらゆる迫害もキリスト教教義に対する信仰を滅
でもなければユダヤ教でもない。
ぼすことはできなかった。教会の存続もキリスト
真のユダヤ人と真のキリスト教徒は、神を愛
教の永続性の一部である。確かにこれも伝統的な
さずにはいられなくし、この愛ゆえに敵に勝
弁証論に馴染みのテーマであるが、パスカルは世
利させてくださる救い主をずっと待ち望んで
界歴史という全体的な視野に組み込むことで、こ
きた。(L.287)
れに意義ある重要性を与えた。彼は教会がその法
こう分けることによって、パスカルは異教徒・ユ
を変えることなく、歴史を通じて保たれてきた事
ダヤ人・キリスト教徒という伝統的3分法を、彼
実に逆説を見る。
の気質にはるかに合う2項対立に置き換えること
なぜなら驚くべきことは、教会が圧制者の意
ができた。異教徒がいて、キリスト教徒がいる。
向に揺れたり、膝を屈めたりせずに存続して
正反対のこれら2極を関数として、われわれはユ
きたことである。必要に応じて、時には法を
ダヤ人を位置づけることが出来るのである。
手直ししたりすれば、ある状態が存続するこ
肉のユダヤ人はキリスト教徒と異教徒との中
とは珍 し い こ と で は な い か ら で あ る。(L.
間を占める。異教徒は神を知らず、この世し
281)
か愛さない。ユダヤ人は真の神を知ってい
こうして、政治の規範を基準にすれば、キリスト
て、この世しか愛さない。キリスト教徒は真
教会の永続性はまことに逆説である。人間が絶え
の神を知っており、この世を全然愛さない。
ず求めてきたものと教会が教えてきた真理の間の
ユダヤ人と異教徒とは同じ幸福を愛し、ユダ
対立を考慮すれば、教会はなお一層逆説的であろ
ヤ人とキリスト教徒とは同じ神を知ってい
う。
る。
ユダヤ人に2種類あった。一方は異教的な
感情しか持っておらず、他方はキリスト教的
自然や常識やわれわれの欲望に反する宗教だ
けがずっと続いてきたただ1つの宗教なので
ある。(L.284)
な感情を持っていた。(L.289)
もし霊的ユダヤ人をキリスト教徒と見なすなら、
モーセの証拠
初期の人類を動転させたあらゆる無秩序にもかか
わらず、この世の原初期からずっとキリスト教徒
こうした歴史的な視点は、
『モーセの証拠』と題
が実在したことになる。
された綴りにおいても支配的である。パスカルは
しかしながら、エノク、レメクやそのほかの
この綴りで、創世記に収められた世界歴史の始ま
者たちのような聖人が、この世の始めから約
りの物語の信憑性を証明しようとした。モーセを
束されていたキリストを忍耐強く待ち望んで
信頼に価する語り手とするもの、それは世界が出
いたのである。(L.281)
来てから彼までの少数の世代である。
「というの
パスカルはまたノアも引きあいに出し、彼の中に
は、ものごとが曖昧になるのは長時間が経過した
救い主やアブラハム、イサク、ヤコブの姿を認め
からというよりも、その間の世代数の多さによる
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のであるから。
」(L.292)「族長たちの寿命の長
んなものかをあなたがたに証明した人たち
さこそ」物語の信憑性の最良の保証である。長く
が、こんなものでわれわれは変わったり、神
生きていれば、人類の起源について族長たちが知
を知ったり、愛したりはできない、ただ、知
るところをほぼ完全に子孫に伝えることができる
恵もなくしるしもない十字架の狂気の力だけ
からである。
がそれをなし得る、この力を持たないしるし
先祖の話をあまりよく知らないことがあるの
には何事もなし得ない、とあなたがたに宣告
は、先祖と同時代にわれわれが暮らすことは
する。
ほとんどないこと、先祖はわれわれが分別の
こうしてわれわれの宗教は、有効な出発点
つく年齢に達する前に死んでいることが多い
においては愚かであるが、そこへ導く知恵に
からである。ところで、ひとが長生きだった
時代には、子供たちも自分の親と長く暮らす
おいては賢明である。
(L.291)
すると、弁証論の道筋に導かれるこうした知的な
ことができた。子供は親と長い時間語り合う
作業全体が、ある意味で、無駄に見える。しか
ことができたのである
ところで、彼らはど
し、ことの本質はほかにある。キリスト教とその
んなことを語り合ったのであろうか。先祖の
有効性は知性を満足させることではなく、人間が
話以外考えられない。どんな話も結局はその
神となり、十字架上で死ぬという、人間知性に
話に行き着くものだから...
(L.290)
とっては理解しがたいパラドクッスにあるのだ。
モーセが語る物語の真実性の論証をパスカルはこ
ここに弁証論の限界がある。弁証論は回心のため
の議論からはじめる。
の準備、心からの回心があとに続かなければ、無
セムはレメクを見たことがあり、レメクはア
駄になってしまう準備にほかならないのである。
ダムを見たことがある。セムはまたヤコブも
見たことがあり、ヤコブはモーセを見たこと
イエス・キリストの証拠
がある人たちを見たことがある。したがっ
て、洪水物語も創造物語も真理である。(L.
296)
『モーセの証拠』の綴りで展開された議論がなお
萌芽的なものに留まるのに対し、次の『イエス・
パスカルの弁証論の立論の中で、われわれがもっ
キリストの証拠』の綴りにおいては、それらの
とも弱いと感じるのはこの部分である。しかし、
テーマが豊かに繰り広げられている。論証には世
彼はリシャール・シモンぐらいしか先行者のいな
界観とともに聖書の綿密な考証ならびに世界を段
い、発達というにはまことにお粗末な注釈書しか
階的にとらえる見方が一緒くたに入れられてい
利用できなかったことを考慮すべきであろう。し
る。イエス・キリストの神性と福音書の真実性と
かも彼がこのテーマに賭けた思いとは裏腹に、こ
は、まずユダヤ人の歴史によって証明される。
の部分の立論にパスカルは満足してはいないよう
シナゴーグは教会に先立ち、ユダヤ人はキリ
な印象を受ける。この綴りにはモーセには関係の
スト教徒に先立つ。預言者はキリスト教徒を
ない断章が1つ含まれている。しかしこれはパス
予言した。聖ヨハネはイエス・キリストを予
カルがキリスト教について抱く観念をさらによく
教えてくれる断章なのである。
この宗教は神聖にして、純粋、非のうちどこ
言した。(L.319)
キリスト教の到来と教会が人間の歴史を変革した
そのやり方はもう1つの証拠となる。
ろのない奇跡において、博識にして偉大な証
全国民は不実と情欲に浸されていた。そのと
人や殉教者....においてもかくも偉大であっ
き全地に愛が燃え上がった。王侯たちは恵ま
た。しかしこの宗教はこれらをみな捨て去
れたその境遇を捨て、娘たちは殉教へと赴
り、知恵もしるしもなく、ただ十字架と狂気
く。この力はどこから来るのか。救い主が来
しかないと言う。
られたからだ。これこそ救い主が来られたこ
なぜなら、こうしたしるしや知恵によって
あなたがたの信頼を得た人たち、それらがど
との結果であり、しるしなのだ。(L.301)
教会の歴史それ自体がまた別の証拠となる。
「異
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端者は、初期の教会においては、正典を証明する
れたのでなければ、誰が使徒たちを動かした
役目を担った。」(L.313)正典、すなわち教会が
のか。(L.322)
啓示の一部と見なしていた聖書のことである。し
以上が、使徒たちは思い違いをしたとは考えられ
かもパスカルの証明のエッセンスはこの聖書に由
ないことの証明である。彼らに騙す気がなかった
来する。旧約聖書は、救い主を告知したときイエ
ことは、「福音書記者たちの歴然とした食い違い」
ス・キリストを予言したのである。救い主の到来
(L.318)からも明らかだ。実際、騙してやろう
の時期そのものも預言者によって予言されてい
という意図があれば、こんな食い違いは当然取り
た。このテーマは、
『預言者』の綴りで展開され
除かれたはずである。使徒たちが共謀して、勝手
る。「イエス・キリストは、その時と世界の有様
にでっち上げた福音を人々に信じさせようとした
について予言されていた。
」(L.317)旧約聖書こ
のだとする考え方は、彼らのその後の運命を見れ
そ、ユダヤ国民の歴史とイエス・キリストとを絡
ば、排除できる。
めた解釈を可能にするものである。ユダヤ国民
使徒たちが偽善者だとする仮定は全く馬鹿げ
は、救い主が来られたあとと、それを期待してい
ている。この見方を進めてみよう。イエス・
た時とでは、もはや同じ状況にはない。
キリストの死後、12人の人間が集まって、イ
ネブカドネザルがこの民を連れていったと
エスは復活したと言いふらす謀議をしている
き、王杖がユダから取り去られたと思われな
と想像してみたまえ。それによって彼らはあ
いように、王はあらかじめ、彼らはここには
らゆる権力を敵に回すことになる。不思議な
長くは留まらず、しばらく居たあと連れ戻さ
ことに、人間の心は軽はずみになったり、気
れると言っておいた。
が変わったり、うっかり約束をしてしまった
彼らは絶えず預言者から慰めを得たし、王
も絶えなかった。
り、金に目がくらんだりするものなのだ。彼
らの1人でもこうした誘惑に負けて、さらに
しかし2度目の滅びには、約束も帰国の望
また、投獄や拷問や死の恐怖から少しでも弱
みも預言者も王も慰めも希望もない。王杖は
気になったら、彼らは破滅していたであろ
永遠に取り去られたからである。(L.314)
う。(L.310)
旧約聖書にも増して、この綴りでパスカルが関心
福音書の内容を検討すれば、別の根拠が出てく
を持っているのは福音書である。彼は福音書はイ
る。キリストの苦悶を描写する逆説的な方法、明
エス・キリストそのものであると言う。福音書に
らかに神の強さとは全く相容れないその弱さは、
おいては、すべてはイエス・キリストから見て意
福音書が真実を語っていないとすれば、説明がつ
味がある。「福音書が聖母マリアの処女性を主張
かないであろう。しかもこのキリストの苦悶とい
するのはイエス・キリストの誕生までである。す
うパラドックスは完全に理解ができるのである。
べてがイエス・キリストと関連する。
」(L.299)
一体だれが、イエス・キリストのように完璧
したがって、福音書についての根拠はすべて、イ
に雄々しい魂を福音書記者に教えたのであろ
エス・キリストの証拠でもある。福音書が語るこ
うか。なぜ彼らは苦しむ彼を弱々しく描くの
とがでっち上げだとすると、それについては2通
か。彼らは確固たる死を描くことができない
りの説明ができる。使徒たちが騙されたのか、は
のか。そうではない。同じ聖ルカが聖ステパ
たまた彼らが騙そうとしたのか。パスカルはこう
ノの死を、キリストの死よりも力強く描いて
した反論に次のように答える。
いるのだから。
使徒たちは騙されたか騙したかだ。しかし、
死が必然性を帯びてやって来るまでは、彼
このどちらとも考え難い。あるひとが復活し
らはイエスを恐れる者として描き、そのあと
たと思い違いをすることなどあり得ないから
はまことに力強い姿で描く。
だ。イエス・キリストが使徒たちと一緒にお
しかし、彼らがイエスの動揺する姿を描く
られた間は、彼が使徒たちの支えとなること
ときには、実際イエス自身が動揺している。
もできたが、そのあとは、彼が使徒たちに現
しかし、人々がイエスを動揺させる場合に
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社 会 学 部 紀 要 第9
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は、彼は実に雄々しい。(L.316)
を完全に理解しうる価値の段階に含まれる。これ
福音の単純さと彼の偉大さが逆説的に対立してい
は有名なパスカルの3つの秩序の考え方である。
ることもまた、イエス・キリストが神であること
パスカルをその創始者とするのはおそらく誤りで
の証明となる。
あろう。段階的な考え方は古代・中世哲学全体に
イエス・キリストは重要なことを至極気さく
共通だからである。新プラトン主義者の書物や、
に語られたため、まるで彼はそんなことを考
パスカル時代にはなおギリシャ教会の教父の第一
えたこともないように見えるのだが、にもか
人者と見なされていたディオニュシオス・アレオ
かわらず明瞭に語られたため、彼がそれにつ
パギタ(Pseudo-Denys)の著作には特に、非常に
いてどう考えていたかがはっきり解るのであ
詳しい記述がある。パスカルの長所は、この場合
る。この素朴な明快さは驚嘆に値する。(L.
も、彼が厳密かつ一貫した体系化をおこなった理
309)
論を単純化したことである。彼の著作中に異なる
これは、福音書が告げ知らせる偉大さと偉大さを
秩序の段階という考え方の萌芽が認められるの
告げ知らせる者の偉大さが、実際、完全に釣り
は、弁証論を計画するずっと以前のことである。
合っているからである。
1652年6月のスウェーデンのクリスチナ女王宛の
富について語る職人、戦争や王権について語
手紙ですでに、精神の秩序と身体の秩序を対立さ
る代訴人....。しかし、富めるひとは富につ
せているぐらいであるから。
いて正しく語り、王は自分がいましがた授け
身分の間でと同様に才能(génie)の間にも
た賜物について冷静に語り、神は神について
同じような段階があるのです。臣下に対する
正しく語る。(L.303)
王の権力は、自分よりも下位の精神に対する
この省略されてわかりにくい断章は、パスカルの
精神の力のイメージにすぎないように私には
甥エチエンヌ・ペリエの手になるポール・ロワイ
思えます。精神は自分よりも下位の者に説得
ヤル版の序文で注釈が付けられている。この注釈
の権利を行使するものであり、それは政治権
の出所は、エティエンヌの記憶に残るパスカル自
力における命令権に相当するものでありま
身の言葉だと考えられる。「叔父(パスカル)は
す。この2番目の王国は、身体より高い秩序
何よりも率直さ、単純さ、そして言うなれば、冷
に属する精神よりもさらに高い秩序に属する
静さ、つまり偉大なこと、高尚なこと、たとえば
神の国や聖人たちの天上の栄光について、教父た
とさえ思われます....。
ここからが3つの秩序の区別の始まりだ。
ちやこのことについて書いたすべての人たちのよ
身体と精神との無限の距離は、精神と愛との
うに長々とではなく、イエス・キリストが冷静に
限りなくはるかに無限の距離を象徴してい
語られた、その冷静さを高く評価していました。
る。なぜなら、愛は超自然的なものであるか
叔父が言うには、この本当の理由は、こうした事
ら。(L.308)
柄はわれわれにとっては限りなく偉大で高尚な真
精神生活に関心のある者たちにとっては、身体的
理だが、イエス・キリストにとっても同じという
な偉大さは真の輝きを持たない。その逆はもっと
わけではないので、キリストがそれについて何の
はなはだしい。「精神的な人物の偉大さは王や金
驚きも感激もなく、まさに比類なく語られるから
持ち、軍人や肉の偉人たちには見えない。
」同様
といって不思議に思うことはない。将軍は重要地
に、神の知恵のような愛の秩序に属する偉大さ
点の包囲や激戦の勝利についてはまことに素っ気
は、「肉の人にも精神の人にも見えない。」このよ
なく、感情を抑えて語るものである。また、王
うに3つの秩序があるのだから、精神の秩序にお
は、一般人や職人ならやたら誇張して話す1500万
いて卓越した地位を占める「大天才(grands gé-
とか2000万という数値についても冷静に語るもの
nies)」は、知性を備えた人たちに認められるた
であると。」
めに、身体の秩序に属する偉大さは必要ない。同
語るひととそのひとが論じる主題とのこの合致
じように、聖人たちには身体的偉大さも精神的偉
は、段階的世界観、イエス・キリスト到来の意味
大さも必要ない。このような人たちの真の偉大さ
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は、神と天使しか認められないのである。詮索好
を置いて、哲学者よりずっと先へ行っている。こ
きの身体にも精神にも捉えることはできないので
うしたパスカルの考え方は、異なる秩序に対応す
ある。アルキメデスは王侯の身分であったが、そ
る『べき』についての彼の数学的著作と関係させ
れで彼の知的な偉大さが増すわけではない。知的
て考えることができる。同じ推論法が『べきの総
な偉大さは彼の発明のみに基づく。イエス・キリ
和について』の結論部分に認められるからであ
ストは身体の秩序にも精神の秩序にも属さない。
る。「好みの数に、下位の無限性の秩序に属する
「彼は一度も支配したことがない。」物質的な財産
大きさを加えても、連続する大きさを増すことは
を持ったことも「発明をしたこともない。
」彼の
できない。すなわち、点は線に何も加えないし、
偉大さはその清らかさにある。
「彼は謙虚で、忍
線は面に、面は立体に何も加えない。あるいは算
耐強く、神に等しい神聖さを持ち、悪魔には激し
術表現にふさわしく数を使って言えば、根と平方
く、何らの罪 も な い。」こ の た め、彼 の 偉 大 さ
は無関係であり、平方と立方、立方と根は無関係
は、愛の秩序に目を開かれた人たちだけに顕わに
である。したがって、下位の秩序の量は無きに等
なるのだ。しかもこのような人たちにとっては、
しいものとして無視すべきである。
」これこそパ
彼の偉大さは比類のないものなのである。
「その
スカルの一貫したテーマの1つである。彼はその
知恵が見えるひとの目には、彼はなんと華々し
弁証法のための独創的な根拠をここから引き出す
く、目にも鮮やかな壮麗なさまで来られたこと
ことができたのである。
か。」
こう考えることで、イエスの身分の低い地上で
預
言
者
の生活や、彼が同時代の歴史家の注意を惹かな
かったという事実を盾にした反論を封じることが
イエス・キリストが神であることとキリスト教の
できる。ここにもまた、キリスト教のための補足
真理のもっとも決定的な証拠は「預言」によって
的な根拠が認められる。
与えられる。パスカルはひとつの綴り全体をこれ
イエス・キリストの卑しさが、その顕わそう
に充てる。彼は救い主に関する預言者たちの預言
とされた偉大さと同じ秩序にあるかのように
が、イエス・キリストによって実現されたことの
受け取って非難するのは滑稽である。
証明を試みる。ユダヤ国民は救い主の到来に与る
彼の一生における、受難における、その曖
であろうと告知されていた。これは現実に実現し
昧さ、その死、弟子たちの選び、弟子たちに
たのである。
「霊的な人たちは救い主を受け入れ
捨てられたこと、その秘かな復活、その他に
たが、俗な連中は依然として彼の証人の役を果た
おいて、彼の偉大さをじっくり見てみよう。
している。
(L.331)ユダヤ人は打たれて盲目と
どんなに偉大かが解って、的はずれな卑しさ
なり、救い主を受け入れず、激しく非難されるで
を非難 す る 理 由 が な く な る で あ ろ う。
(L.
あろうとも予言されていた。
308)
ユダヤ人はイエス・キリストを見捨て、その
3つの秩序の考え方は、単に世界観を表すだけで
ゆえに神から見捨てられるであろう。選ばれ
なく、この3つの間を不連続とすることで、価値
た葡萄の木には酸っぱい実しか成らないであ
の段階をも表す。
ろう。選ばれた国民は不実で、恩知らずで、
物質すべてを合わせても、それでささやかな
思想1つでも産み出すことはできまい。そん
不信仰となるであろう。
「服従せずに反抗す
る民」(L.347)
なことは不可能であって、別の秩序に属す
パ ス カ ル は、聖 パ ウ ロ が『ロ ー マ 人 へ の 手 紙
る。物質と精神のすべてを合わせても、そこ
(X,2
1)』で引いたイザヤのテクストを引用す
からまことの愛の動きを引き出すことはでき
る。預言者たちに予言されていたユダヤ国民のこ
まい。そんなことは不可能であって、別の、
の盲目は、さまざまな人物を救い主と考えたとこ
超自然的な秩序に属する。(L.308)
ろにはっきり現れている。
出発点は、確かにデカルト的だが、思考の上に愛
救い主と信じられたヘロデ。彼はユダから王
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1号
杖を取り去ったが、ユダの出身ではなかっ
た。そのために大きな党派ができた。
るにはよほど大胆でなければならない。
偶像崇拝の、あるいは異教の4つの王国、
またバルコスバや、ユダヤ人たちに受け入
ユダの支配の終り、そして70週が同時に、し
れられたもうひとりの人物。さらに、当時い
かも第2神殿の破壊以前に全部起こらねばな
たるところに広まっていた噂。(L.337)
らなかったのである。(L.336)
しかもこの盲目は、救い主に関する預言の明らか
救い主の到来に関するこの詳しさは、
『預言』の
に矛盾した性格によって引き起こされる。
綴りの多くの断章で繰り返される。それらはダニ
救い主はどうあらねばならなかったか。彼に
エルの預言からの借用である。パスカルは確実に
よって王杖は永遠にユダにあり続けるはずで
彼の預言から、弁証論のこの部分の論証のための
あったし、また、その来臨によって王杖はユ
主要な素材を採用するつもりだったのである。解
ダから取り去られるはずでもあったからであ
釈学のその後の進歩の結果、ダニエル書のテクス
る。
トは、パスカルの時代に考えられていたほど明確
ユダヤ人が見ても見えず、聞いても聞こえ
ではないことがわかった。それで、今日ではもう
ずの状態になるのにこれ以上うまく事を運ぶ
誰も、イエス・キリストはユダヤ国民の待ち望ん
ことはできなかった。(L.337)
だ救い主であるとの事実に縛られた証明をダニエ
創世記49章のヤコブの預言を、パスカルは相当重
ルの預言に基づいて立てようとは思わないであろ
視しているように見える。
「来るべき方が来られ
う。しかし仮定上とはいえ、この明確さゆえに、
るときまでは、王杖はユダから取り去られないで
ダニエルは弁証家にとってもっとも有用な預言者
あろう。その腿から君主は取り去られないであろ
となったのである。この際だった明るさ故に、
う。そして彼は異邦人たちの期待となるであろ
ジュリアン・エイマール・ダンジェ師には「隠れ
6)ユダの子孫たちの王位がユダの民のバビロ
う。」
ている神」のパスカル的「明−暗」とは両立しな
ン捕囚によって断たれた事実を踏まえた反論に、
いように感じられる。
「おそらくこの理由で、彼
パスカルは次のように答える。
「王杖はバビロン
はこの書物に足を止めたのであろう。彼はダニエ
捕囚によって断たれなかった。彼らは速やかに帰
ルを研究した。また、ほかのテクストを数多く収
還したし、そうなると予言されていたからであ
集した。彼は厳格な方法に従って、それらの資料
る。
」
(L.34
2)ピラト臨席のイエス・キリストの
と取り組もうとした。しかし彼は気づいたのだ。
裁判 の 際 に ユ ダ ヤ 人が 放 っ た 言 葉《Non habe-
自分の手には余る、と。そこで彼はこの作業を取
Caesarem.7)》を 注 釈 し て い る 別
りやめ、別の対象へと転換したのである。
」(『パ
の箇所で、パスカルはこれこそヤコブの預言が成
ス カ ル と そ の 先 駆 者 た ち』Pascal et ses précur-
mus regem nisi
就した証拠であるとする。
「だからイエス・キリ
seurs, p. 181)有効できちんとした証明が、良心
ストは救い主であったのだ。彼ら(ユダヤ人)に
的な弁証家によって一度も試されなかったという
はもはや外国人の王しかいなかったし、彼以外の
結論は、あまりに性急すぎる。その上、断章の年
王を持ちたいとも思っていなかったのだから。」
代をちよっと検証しただけで、ジュリアン・エイ
(L.340)
マール師は分析を止めている。預言による証明に
預言者たちによって救い主の到来時期の告知は
関係のある断章は、綴りの作成よりずっとあとに
かくも多くの細部と詳細が組み合わさっているた
書かれた『未分類部分』では重要な位置を占めて
め、これらすべての預言が偶然同時に実現するな
いる。それゆえ、パスカルは証明のこの部分を発
どということはあり得ない。
展させ、詳しく論じるつもりだった。そのため
おなじ事をこんなにも様々なやり方で予言す
に、彼はダニエルの預言を翻訳し、注釈を付けた
6)パスカルが用いた翻訳はルーアン版である。エルサレム版聖書による同章句の翻訳は次の通りである。「王杖は
ユダから離れず、君の杖はその足の間を離れないであろう。その杖の正しい持ち主がやって来て、国民が彼に
従うときまでは。
」
7)「われわれにはカエサル以外に王はありません」ヨハネ,XIX,1
5.
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のである。(L.485)以下は、彼 が70週 の 預 言 を
どう解釈したか、である。
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しかし、ここにはそれ以上がある。4000
年もの間、入れ替わり立ち替わり途切れな
く、何人ものひとがやって来て、同じように
それゆえ、知って悟りなさい。君なるメシア
キリストの到来を預言したのである。このこ
の到来までに、エルサレムを再建せよ、との
とを告げ知らせ、4000年来存続し、脅しや迫
命令が出されてから、7週と62週*あること
害が加えられても屈することなく、自分たち
を。その後、混乱と苦難の時期に広場と城壁
の抱く確信を表明してきたのは、一国民の全
が建て直されるであろう。そしてこの62週*
体なのである。これは全くすごいことであ
の終わりに、キリストは殺され**、ある国
る。(L.332)
民がやって来て、町も聖所も破壊し、すべて
を水浸しにするであろう。この戦いののち、
特別な象徴
深い悲しみが満ちるであろう。
*
*
**
ヘブル人は数を分けて、小さい方を先に
次いでパスカルは『特別な象徴』の綴りを置いて
置く習慣がある。70週の内、7と62で69
いるが、ここにはごく短い断章が2つしか含まれ
になる。すると7
0週目がまだ残っ て い
ていない。ここで彼は、おそらく、福音書やキリ
る。これがつまり、次にダニエルの言う
スト教との関連でしか意味をなさないいくつかの
最後の7年に当たる。
聖書の章句を象徴的に解釈して、補助的な根拠を
このあと、始めの7年が続く。
述べるつもりだったのだろう。
したがって、キリストは69週のあと、つ
まり最後の週に殺されることになる。
キリスト者のモラル
こうしてパスカルは、預言にイエス・キリストの
弁証論の最後の『キリスト者のモラル』と題され
もっとも重要な、もっとも決定的な証拠を認め
た綴りの位置は、この綴りを構成する断章の意味
る。彼は預言に「永続する奇跡」を認め、奇跡に
について誤った観念を与えるであろう。実際、わ
関する議論にさしたる興味を持たずに済んだので
れわれはいわゆる弁証論の最後に、断章『無限−
ある。この点で彼は、預言と奇跡を同じレベルに
無』におけるように、キリスト教の真理を受け入
置くキリスト教弁証論の伝統とは一線を画してい
れたリベルタンが心から回心するように、彼が取
る。その上、なぜパスカルが彼独自の弁証法的証
るべき行動についての実際的な勧告があると期待
明において、奇跡の重要性を故意に減じたのかは
しがちである。そんなものは何もない。キリスト
理解できる。聖茨の奇跡が引き金となった論争か
者のモラルに関するパスカルの考察は弁証論的論
ら、奇跡の意味を解釈することは相当難しく、奇
証の不可欠の一部をなしている。キリスト教が提
跡を根拠にすれば、議論から説得力の大半が奪わ
案するモラルこそ唯一完全なモラルであるという
れてしまうことを彼は知ったのである。預言につ
ことがまた、キリスト教が真理であることの新た
いては話は違う。ひとつひとつを取りあげれば多
な証拠となる。じっさい、これは弁証論の伝統的
義であっても、全体としては一貫した一義的な解
な根拠の1つであるが、これをパスカルはまった
釈が可能である。
く新しくしたことを認めねばならない。
預言の根拠はまた、それが歴史観の一部をなす
この綴りのさまざまな断章で、またモラルを論
こと、弁証論の特に歴史的な部分に組み込まれて
じた『パンセ』の未分類部分の多くの断章におい
いることに、その威力の大部分を得ている。
て、実に種々雑多なテーマを展開しているとはい
ある一人のひとがイエス・キリストがいつ、
え、いくつかの主たる方向が識別できる。ここに
どんな風に来られるかを予言する本を書き、
3つの情欲のテーマのようなパスカル思想に不可
この預言通りにイエス・キリストが来られた
欠の要素を再発見しても驚くには当たらない。肉
のなら、これは無限の力である。
欲、知的好奇心、そして傲慢による支配欲に対す
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る3段構えの戦いを軸にして、アウグスチヌス的
わがままは、なんでも自分の望むことが叶う
モラルの実用的部分は組み立てられているのであ
場合には、満足を与えはしない。だが、わが
るから。ここに相反するものの和解のテーマが現
ままを捨てたとたんに満ち足りた気持ちにな
れていることも、驚くことではない。このテーマ
る。わがままがなければ、不満足になること
は人間の行動を説明するためのものであるから、
はない。わがままがあると、満足しない。
人間が取るべき行動規範を検証する際に現れるの
は当然である。
(L.362)
パスカルが展開するキリスト教モラルのもっとも
キリスト教は変わっている。人間に、自分は
独創的な性格は、彼がそこに幸福のモラルを見て
卑しく、おぞましい存在だと認めるように命
いる点にある。その本質は、このモラルを採用す
じる一方で、神に似た者になりたいと思えと
る人たちを幸福にすることである。しかも、これ
も命じるのである。うまく釣り合いを取らな
は幸福を与える唯一のモラルなのである。
いと、こうした買いかぶりによって、人間は
真のキリスト教徒のように幸福な者はひとり
恐ろしく自惚れるか、こんなに貶められて、
もいない。理に適い、徳の高い、愛すべき者
恐ろしく卑屈になるかのどちらかである。
はひとりもいない。(L.357)
(L.351)
幸福の追求に基づくモラルと愛のモラルは、アプ
しかも、パスカルにとってのキリスト者のモラル
リオリに、矛盾しているように見える。しかしパ
が明示されるのは、相反するもの、すなわち避け
スカルは、
「考える身体」のテーマに相当な重点
るべき相反するものと和解させるべき相反するも
を置くことで、これら2つの対立する見方を折り
のの複合的な体系を通してなのである。
合わせることに成功したのである。身体と肢体の
キリスト者のモラルは、迷信と欲といったふた
寓話には伝統がある。しかし、パスカルが念頭に
つの相反するものからは等しく遠い。キリスト者
置いているのは、何よりも、パウロの「霊的身体
のモラルを、ユダヤ人がモーセの律法の些末な命
論」であるのは明らかだ。幸福追求のモラルは、
令にも熱心に従ったような、守らねばならない純
必然的にエゴイスムに基づく。自分だけの幸福し
粋に形式的な一連の規則と捉えるのは誤りであ
か考えなくなると,人間は自分がすべての中心と
る。この点に関しては、使徒の例に従うべきであ
なり、他人をいささかも重視しなくなる。そのと
る。
き他人は、道具や手段、障害物でしかなくなる。
聖ペトロと使徒たちが、神の律法には反する
キリスト者が自分の幸福の問題を考えるときに
割礼の廃止を論じたとき、彼らは預言者がど
は、自分が1つの身体に属していることが念頭に
う言っているかではなく、ただ無割礼のひと
ある。この霊的身体の頭はキリストであり、個々
に聖霊が授けられたことだけを考慮した。
のキリスト教徒はその肢体なのである。
(L.367)
肢体であるということは、ただ身体の霊に
パスカルは宗教が命じる形式的行為を尊ぶ必要が
よってのみ、身体のためにのみ、生き、存在
ないと主張しているのではなく、どんな精神で尊
し、活動するいうことである。切り離された
ぶべきかを彼ははっきり示しているのである。
肢体は、自分が属する身体を見ることができ
形式的行為に期待することは迷信であるが、
なくなり、もはや滅び行く存在、死に行く存
それに服すことを望まないのは尊大である。
在でしかない。にもかかわらず、肢体は、自
(L.364)
分が全体と思いこみ、自分が身体に従属して
迷信の几帳面さを避けるように命じるのと同様
いることが見えなくなって、1人で立ってい
に、キリスト教のモラルは情欲の結果である個人
ると考え、自分を中心にしたい、身体そのも
的な意志の気まぐれにも従わないように命じてい
のになりたいと思う。しかし、肢体は命の原
る。しかもその点で、幸福を見出す手助けもす
動力を持っていないので、ただ迷い、存在の
る。
不確実さに驚くだけである。肢体は自分が身
体ではないことは十分承知しているのだが、
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5―
身体の一部であることはまったく見えないか
信仰は、人間の歩みの到達点ではなく、神の賜物
らである。ところが、その肢体が自分を知る
である。
と、丁度自分の家に戻ったようなもので、以
単純な人たちが理屈抜きに信じるのを見ても
後はもう身体のためにのみ自分を愛するよう
驚くには及ばない。神はその人たちにご自身
になる。肢体はかつて迷ったことを後悔す
に対する愛と彼ら自身への憎しみとを与えら
る。(L.372)
れたからである。神がその人たちの心を信じ
実際、「個は全体よりは自分のほうを愛する」の
るほうへと傾けられたのだ。神が心を傾けら
は自然に適っている。誰も「自分自身のため、そ
れないなら、堅い信頼と信仰を持って信じる
して自分に役立てるためでなければ、他を愛す
ひとはないであろう。だが、神が心を傾けら
る」ことはできないのである。この自己中心主義
れたら、みな信じるであろう。(L.380)
は生まれ持ってのものであるから、キリスト教は
事実、信仰を高めるのは理性の活動ではなく、こ
それをなくすことはできない。ただ、全体に拡大
の神に捉えられているという直観であり、パスカ
する中心を個人にではなく、身体、中心自体がそ
ルが「心」と呼ぶこの真摯な同意なのである。
の肢体にすぎないような身体にすることで、自己
預言も証拠も知らないのに、まぎれもなくキ
中心主義を変化させるだけである。
リスト者だとわれわれが認める人たちは、こ
しかし肢体が身体を愛することで、自分自身を
うした事柄を知っている人たちと同じように
愛することができる。肢体は身体の中にしか、
それ(信仰)を正しく判断しているのであ
身体によってしか、身体のためにしか存在しえ
る。他の人たちが精神によって判断するよう
ないからである。(L.372)
に、この人たちは心によって判断する。彼ら
かくして、パスカルにとってのキリスト者のモラ
を信じるようにと傾けられるのは神ご自身で
ルは何より個人的なものではなく、社会的なもの
あるから、彼らはまっすぐ信仰へ導かれるの
である。それがキリストの霊的身体の社会的性格
である。(L.382)
に基づいているのであるから。こうして、モラル
パスカルはここで奇跡の問題に立ち戻り、ある意
にまとまりと一貫性を与え、全体が形式的な規則
味で、その弁証論論述のなかのごく限られた場所
から成るコードを指す、この語に通常与えられる
を割くことの言い訳をする。彼は聖トマスの言葉
意味でのモラルとはまったく別物にしたのであ
を引用する。
「奇跡は回心させる役には立たない
る。結局のところ、パスカルが考えたキリスト教
が、罪に定めるには役立つ。
」(L.379)奇跡が罪
のモラルと、各人が自己の利益、ただしすべての
に定めるというのは、奇跡によって、不信心者は
矛盾を解決しうると十分に納得された利益を追求
誤っているという知的明証を与えるからである。
することとに違いはないのである。
「ひとが自分
奇跡が回心に役立たないというのは、回心させる
を愛するのは、自分がイエス・キリストの肢体だ
には知的明証が十分ではないからである。さら
からである。ひとがイエス・キリストを愛するの
に、もっぱら謙遜を旨とする心のあり方が必要で
は、彼が身体であり、ひとはその肢体だからであ
ある。人間は神の前の自分の状況を、自分が完全
る。すべては1つである。」(L.372)
に神に従属していることを受け入れねばならな
い。
結
論
真の回心は、われわれが何度となく苛立たせ
たこの普遍的存在、われわれをいつでも合法
『結論』という題の綴りで、パスカルは弁証論の
的に滅ぼしうるこの普遍的存在の前に自己を
限界をはっきり示す。うまく行けば、彼の証明は
空しくし、この存在なくしてはわれわれは何
読者をある認識に導くことができようが、キリス
事もなし得ないこと、われわれはその失寵に
ト教の本質のあるところにではない。
「神を知る
しか値しないことを認めるところにある。回
ことから神を愛する事へはなんと遠いことであろ
心はまた、神とわれわれの間には解消しがた
う。」(L.377)信仰は推理からは独立している。
い対立があること、中保者なくしては交流が
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1号
成立しないことを認めることでもある。(L.
トモティーフとして繰り返し現れ、人間の本性と
378)
キリスト教に至るまでの歴史における神の計画の
すると、読者を回心させるに際しての弁証家の役
弁証法的前進の間に特徴的な対立を表現する。こ
割はごく補助的なものでしかない。せいぜいいく
んな具合に、情欲、原罪、隠れている神といった
つかの障害を取り除いたり、不信仰になんの不満
テーマが絶えず姿を現す。しかしこれらを、これ
も持たない人たちの無関心を揺さぶったりできる
らのテーマの結果を発展させた何らかの哲学的体
程度である。信仰的な精神的態度へ導くのは彼で
系の構築を目指してあらかじめ立てられた思考の
はない。核心的な事柄に関しては、弁証論はある
枠組みと取ってはならない。反対に、パスカルの
意味で無用だと言えよう。
論述の進展にしたがって変容しながら進展してい
聖書を読んだことがないのに信じている人
くダイナミックなテーマなのである。この点で、
は、その人の内心がまったく清らかなので、
対立するものを和解させる方法が示す変質は重要
われわれの宗教の話を聞くとぴったり来るも
である。一連の問題に厳格な方法を適用するとい
のがあるからである。このような人たちは、
うよりむしろ、現実の困難に適応・適合する生き
神が自分たちを創ったのだと感じる。神だけ
生きとした直観を、異なる状況と対決させること
を愛したい、自分たちだけを憎みたいと思
に重点がある。パスカルの哲学について論じられ
う。しかし彼らにはそうするだけの力がない
ないのはこのためである。彼の弁証論を哲学体系
こと、自分から神のもとへ行くことはでき
として捉える試みはどれも、必然的に、支離滅裂
ず、もし神の方から彼らのもとへ来てくださ
に陥るか、必要不可欠な思想要素を省略せざるを
らなければ、とても神と交わることなどでき
得なくなる。パスカルの計画は、知識人の読者を
ないと感じる。それにわれわれの宗教が、神
相手に、幾何学的秩序に則って厳密に推論を積み
のみを愛し、自分だけを憎むように、しかし
上げるのではなく、理性を納得させる知的な根拠
人間はまったく堕落しきって、神に相応しく
より感情的な反応を利用して、精神のあり方を変
なくなっているため、われわれと1つになれ
え、意志に働きかけることであった。もっぱら理
るよう、神ご自身が人間となられたと教える
性的な活動を行う場合より、弁証論を構築する場
ところがしっくり来るのである。心が通うあ
合のほうが、直観の働きがずっと重要なのは当然
り方の人、自分の義務と自分の無力を知る人
である。
を納得させるにはこれ以上なにも必要ではな
い。(L.381)
それで、
『パンセ』においては、厳密に構築さ
れた論証を明晰に説明するだけでは十分ではな
く、読者の感受性に働きかけねばならないのであ
結
び
るから、文体と文筆家の技術の重要性がいっそう
理解できる。説得のためのレトリック、『パンセ』
綴りごとの分類で明らかなように、パスカルの弁
の多くのページにかくもはっきりと現れる詩のよ
証論の進め方は何よりも総合的である。彼は、自
うな表現は、無くてもよい飾りではない。これら
分が取り組んだテーマのひとつひとつをできるだ
は著者の計画から当然のように出てきたもので、
け完全に探求したあと、別のテーマに移ろうなど
不可欠の構成部分をなしている。疑問や感嘆を頻
と考えてはいない。反対に、われわれの眼前に
繁に用いるのは、これらが統辞や文律に及ぼすダ
は、交錯と反復を特徴とする構造体がある。こう
イナミスムによって、パスカルの主要な関心事に
して、悲惨のテーマは、同じ題の綴りでそのほと
対する読者の無関心に揺さぶりをかけようと思っ
んどが述べられているが、そのあとのいくつかの
てのことに他ならない。同語の飽く事なき反復と
綴りでもまた取りあげられる。
『人間から神への
はある意味で逆説的な類縁関係にある簡潔さの追
認識の移りゆき』の綴りにおいてやっと、もっと
求は、パスカルの言葉使いにはいつも見られる傾
も突き詰めた表現が与えられるのである。
『相反
向8)であるが、弁証論においては、説得につきも
するもの』のテーマは、弁証論全編を通じてライ
ののしつこさを捨て去ることなく、偉大で強力な
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真理の表現をいっそうショッキングなものにする
効果をあげている。パスカルの他の著作よりは
『パンセ』においてはるかに多いイメージの多用
が目指すのは、この説得に他ならない。イメージ
の効用は、その美的なきらびやかさによって読者
に取り入ることではなく、想像力が与える、より
悲劇的なものの助けを借りて、感受性に動揺を植
9)だか
え付け、意志に働きかけるところにある。
ら、『パンセ』のどのページにも、反対命題(ア
ンチテーゼ)が、時には何度も繰り返されるの
は、逆説的で輝かしい表現をひたすら追求しての
ことではなく、この表現以上に、様々なテーマを
互いに結び合わせ、相反するものを共存させる考
え方をよく表すものがないからなのである。
レトリックに関するパスカルの多くの考察は、
説得無くして弁証論が成り立たない、その説得の
必要性を勘案してはじめて意義あるものとなる。
しかしながら、人間の説得だけでは十分ではな
い。パスカルの最終目標は読者の回心である。し
かし彼には解っていた。人間の力だけではこの目
標に達することはできないと。神こそが回心のた
めの恩寵をあたえる。弁証論はパスカルにとって
は必要な企てである。彼がその真の使命に答えう
るのはこのやり方しかなかった。だが、弁証論は
結局無用のものである。その唯一の目標を達成で
きないのであるから。
『パンセ』のどのページに
も絶え間ない緊張が感じられる理由は、ここにあ
ると見るべきであろう。
『パンセ』は真理を見出
し、その核心を他人と共有したいと思うひとの喜
びの歌ではない。むしろ、真理がどこにあるのか
を知り、そのことを解らせようと全力を尽くす
が、自分の企ての虚しさにも気づいているひとの
悲痛な叫びのように見える。弁証家は自分が信仰
を与えることはできないこと、神の恩寵のための
働き人、しかも無用の働き人にすぎないことを
知っている。
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書
誌
版本
『パンセ』の最良の版本は、依然としてルイ・ラ
フュマ版である。(Les Pensées, Paris, Editions du
Luxembourg,1952年 の3巻 本。1巻 は テ ク ス
ト、2巻 は 注、3巻 は 資 料。た だ し、1951年 版
は、誤植が多く、これに含めない。
)ただ、注釈
部は弱い。ラフュマ版のテクスト(手稿原稿で線
で消された語を除いた)は、『人生の書』叢書 la
collection «Livre de Vie»のポケット版で入手でき
る。それはまた、
『全集』叢書に収められた「全
集版」(l’Intégrale)に採用されているテクストで
もある。(アンリ・グイエが前書きを書き、ルイ
・ラフュマが本文と注を書いた。Pascal,Œuvres
complétes, Paris, Seuil,1963)
『写本』の順序と抹消されたテクストのリスト
はいずれも、ザカリー・トゥルヌール,ディディ
エ・アンズュ版『パンセ』(Les Pensées établie
par Zacharie TOURNEUR et Didier ANZIEU , Paris,
Colin,1960)が提供している。
『写本』の順序に従って、断章の続き具合を再
構成した、自筆原稿の優れたファクシミリもあ
る。Le Manuscrit des Pensées de Pascal ,1662,
Paris, Les Libraires associés,1962.
パスカルに関する全体的な研究
もっとも手頃でもっとも完成した全体的研究は、
間違いなくジャン・メナールの『パスカル』であ
ろう。(Jean MESNARD, Pascal, Paris, Hatier, «Connaissance des lettres»5éd., 1967)彼の他の3著
作と合わせれば、完壁であろう。パスカル作品の
解釈に関する重要問題は、1
956年ミニュイ社刊
『ブ レ ー ズ・パ ス カ ル 人 と 作 品』
(Pascal
l’homme et l’œuvre, Cahiers de Royaumont, Philosophie no1,Paris, Editions de Minuit,1956)
で扱われている。
『生きているパスカル』
(第2
版)(Pascal présent , Clermont-Ferrand, Bussac,2e éd., 1963)には、より親しみやすいアプ
ローチからの研究が収められており、1963年ファ
イヤール社刊の『パスカル』
(Pascal, textes du
tricentenaire, Paris, Fayard,1963)は、トーンと
視点の豊富さから読者は個々に得るところがある
8)ミッシェル・ルゲルン『パスカルの言葉使いの一貫した傾向』参照。Michel LE GUERN, Tendances constantes
du langage de Pascal., Le Français moderne, janvier, 1969.
9)ミッシェル・ルゲルン『パスカルの作品中のイメージ』参照。L’Image dans l’œuvre de Pascal , Paris, Armand
Colin, 1969.
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1号
であろう。
近年現れたもっとも優れたパスカルに関する書
物は、衆目の一致するところ、アンリ・グイエの
『ブ レ ー ズ・パ ス カ ル 注 釈』
(Henri GOUHIER,
Blaise Pascal, Commentaires, Paris, Vrin,1966)
である。本作品を書くに際してもしばしばヒント
を得たが、パスカルのもっとも重要なテクストの
より詳細な分析に関しては参照すべき著作であ
る。
言語と文体
『パンセ』の言語についてのもっとも重要な研究
は、ドン・ミシェル・ジュンゴの『弁証論のため
の断章におけるパスカルの語彙』
(Dom Michel
JUNGO, Le Vocabulaire de Pascal étudié dans les
fragments pour une Apologie, Paris, d’Artrey,1950)
である。
作家的技術に関しては、ジェラルド・アント
ワーヌの論文『パスカルの言葉』(Gérald ANTOINE, «Le Langage de Pascal» la Table Ronde,
Avril,1962)が本質的な問題提起を行ない、ジャ
ン=ジャック・ドゥモレスト『パスカルの場合
その文体に関するエセ−』(Jean-Jacques DEMOREST, Dans Pascal, essai en partant de son style,
Paris, Editions de Minuit,1953)と、パトリシア
・ト プ リ ス『パ ス カ ル の レ ト リ ッ ク』
(Patricia
TOPLISS, The Rhetoric of Pascal , Leicester University Press,1966)がその解決のきっかけとなっ
た。
ミシェル・ルゲルン『パスカル作品におけるイ
メージ』(Michel LE GUERN, L’Image dans l’œuvre de Pascal , Paris, Colin,1969)も参照された
い。
パスカルの源泉
弁証論の分野におけるパスカルの直接の先駆者に
関しては、ジュリアン=エイマール・ダンジェ
『パ ス カ ル と そ の 先 駆 者 た ち』(Julien-Eymard
D’ANGERS, Pascal et ses précurseurs, Paris, Nouvelles Editions latines,1954)を参照のこと。
いわゆる源泉を重点的に取り上げた研究の中で
は、特に次のものが挙げられる。
J・レルメ『パスカルと聖書』J. LHERMET, Pascal
et la Bible, Paris, Vrin,1931.
フィリップ・セリエ『パスカルと典礼』Philippe
SELLIER, Pascal et la liturgie, Paris, P.U.F.,1966.
フィリップ・セリエ『パスカルと聖アウグスチヌ
ス』Pascal et saint Augustin, Paris, Colin,1970.
ミシェル・ルゲルン『パスカルとデカルト』Michel LE
GUERN, Pascal et Descartes, Paris, Nizet,1971.
『パンセ』研究
成り立ちの歴史とテクストの歴史については、ル
イ・ラフュマ『パスカルのパンセの歴史』Louis
LAFUMA, Histoire des Pensées de Pascal (1656―
1952),Paris, Editions du Luxembourg,1954を参
照。
特に賭の断章の問題に関しては、ジョルジュ・
ブリュネ『パスカルの賭』(Georges BRUNET, Le
Pari de Pascal , Paris, Desclée De Brouwer,1956)
を見よ。
『パンセ』の解釈については、ロジェ=E・ラ
コンブ『批判的研究 パスカルの弁証法』(Roger
-E. Lacombe, L’Apologétique de Pascal ,étude critique, Paris, P.U.F., 1958)とポル・エルンスト
『パスカル的アプローチ』(Pol ERNST, Approches
pascaliennes, Gembloux, Duculot,1970)を参照
せよ。
『パンセ』の分類済み断章に関する膨大な
注釈である後者は、出版当時の研究水準が相当に
高かったことを知らしめたのである。それ故、た
とえ微かではあっても、エルンスト氏の分析と、
我々の仕事のある部分が対立すると考えることの
ないように注意されたい。これら2つの注釈の間
の一致は、不一致からはほど遠いのである。
書誌
アルベール・メールの『ブレーズ・パスカル作品
の全体的書誌』(Albert MAIRE, La Bibliographie
générale des œuvres de Blaise Pascal , Paris,
Giraud-Badin,1925―1927)は、1925年 か ら1942
年分を、レイモン・フランシスの学位論文『1842
年から1
942年フランスにおけるパスカルのパン
セ』(Raymond FRANCIS, Les Pensées de Pascal
en France de 1842 à 1942,Paris, Nizet,1959)
の付録として出版された年代順書誌が、その後
は、アレクサンドル・シオラネスキュ『17世紀フ
ランス文学書誌』(Alexandre CIORANESCU, Bibliographie de la littérature française du dix-septième
siècle, Paris, C.N.R.S., t. III, p.1545―1583)が補
う。
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Les Pensées de Pascal
―Thèmes de l’Apologie
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ABSTRACT
In the 1st part of the PENSEES , Pascal studies the condition of the human being, and in
the 2nd part of this apology, he tries to show that the Christian religion is true and amiable.
The 18 titles of the second half of the table in the original manuscripts treat the interpretation of the Bible and the proofs of Jesus-Christ, Messiah, that is, A.P.R. (At Port-Royal),
Commencement (Beginning), Soumission et usage de la raison (Submission and use of reason), Exellence, Transition, La nature est corrompue (Nature is corrupt.), Fausseté des
autres religions (Falseness of other religions), Religion aimable (Amiable religion), Loi
fugurante (Figurative Law), Rabbinage (Teachings by a Rabbi), Perpetuité, Preuve de
Moïse (Proofs of Moses), Preuves de Jésus-Christ (Proofs of Jesus-Christ), Prophéties, Figures, Morale chrétienne. Pascal demonstrates that the Old Testament points out the Advent
of Jesus-Christ by his particular art of persuasion and useful rhetorics.
Key Words: Christian apology, proof, religion.
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