...

『出雲国風土記』の河川記事について

by user

on
Category: Documents
21

views

Report

Comments

Transcript

『出雲国風土記』の河川記事について
『出雲国風土記』の河川記事について
田 籠 博
₀ はじめに
昨年(2013)は、和銅六年(713)に風土記撰進の命が出されてから1300年
の記念の年であった。
『出雲国風土記』勘造は二〇年後の天平五年(733)だ
が、記念する事業がいくつか催され、本年三月刊行の島根県古代文化センター
編『解説 出雲国風土記』(今井出版)もその一つと思われる。口語訳の本文と
解説・コラム、豊富な参考文献を備え、
『出雲国風土記』を理解するのに有益
である。
ただ、筆者には一つの点で不満が残る。出雲国を代表する河川である斐伊川
が、風土記においては特別な扱いを受けているのだが、その点に触れた解説が
通説の域にとどまっていることである。
本稿は、斐伊川の水源と合流に関わる問題を主題とするが、論の展開上、ま
ず『出雲国風土記』(以下、単に「風土記」とも言う。)における河川記事の一般的
特徴について述べ、そこから論点を絞っていくことにする。
1)
早く水野裕氏に「斐伊川名義考」
の論がある。その第一節「斐伊川なる名称
の由来」は本稿の論旨と大きく重なる。ただ、水野氏の論述の方向が筆者の関
心とは異なり、結論の中には同意できないものもあるから、改めて最初から考
えてみようとする。
引用する風土記本文は、岸崎時照の『出雲国風土記抄』2)による。原文の表現
に即して検討するため、訓み下し文は用いない。適宜、句読点を施し、双行の
注記は[ ]内に入れて小書きとした。
₁ 河川記事の一般的特徴
『出雲国風土記』の地理的記述が詳密であることは周知の通りで、山野に続
く河川記事についても、その特徴はよく現れている。
『出雲国風土記論攷』(東京白川書院、1983)所収。
島根大学附属図書館桑原文庫蔵。写本四冊。附属図書館の HP から、デジタル・アーカイ
ブで閲覧することができる。
1)
2)
〔1〕
『出雲国風土記』の河川記事について
2
一般に、風土記の河川は次の要素を含んで定型的に記述される。
1. 水源の山野名、及びその郡家からの方位と距離
2. 流れの方向、または経過する郷村名
3. 他河川と合流する場合はその河川名
4. 最終的な流入先
5. 注記で、魚等の存否
すべての河川記事が要素を完備する訳ではないが、記述の方針としては定型
を守ろうとしている。そこで、郡ごとに番号を附して記事を掲げて、実際を確
認し、定型でない記事にはそれぞれ指摘を加えることにする。
【意宇郡】
①伯太川 源出仁多与意宇与二郡堺葛野山、経母理楯縫安来三郷、入于
海。[有年魚伊久比]
②山国川 源出郡家東南卅八里枯見山、北流、入伯太川。
③飯梨河 源有三[一水源出仁多大原意宇三郡堺田原。一水源出枯見。一水源出仁
多郡玉嶺山]
。三水合北流、入于海。
④筑陽川 源出郡家正東一十里一百歩荻山、北流、入于海。
⑤意宇川 源出郡家正南一十八里熊野山、北流、東折流、入于海。[年魚伊
久比]
⑥野代川 源出郡家西南一十八里須我山、北流、入于海。
⑦玉造川 源出郡家正西一十九里志山北、流、入于海。[有年魚]
⑧来待川 源出郡家正西廿八里和奈佐山、西流、至山田村、更折北流、入
于海。[有年魚]
⑨完道川 源出郡家正西卅八里幡屋山、北流、入于海。[無魚]
①③を除き定型的である。①伯太川は水源の所在を郡堺で示し、流れの向き
は流域の郷名で代えている。③飯梨河は水源の所在に不備がある。うち二つ
は、三郡の堺と他郡の山だから①と同じ事情だが、残る「枯見山」の所在は、
直前の②山国川にあるとして省かれたようである。なお、流入先の「海」は、
①③~⑤では中海、⑥~⑧では宍道湖であり、注記された魚名「年魚」はアユ
(鮎)の正表記である。
【嶋根郡】
①水草河 源二[一水源出郡家北三里二百八十歩毛志山。一水源出郡家西北六里
一百六十歩同毛志山]
田 籠 博
3
②長見川 源出郡家東北九里一百八十歩大倉山、東流
③大鳥川 源出郡家東北一十二里一十歩墓野山、南流。二水合東流、入于
海
④野浪河 源出郡家東北廿六里卅歩糸江山、西流、入大海
⑤加賀川 源出郡家西北二十四里一百六十歩小倉山、北流、大海入也
⑥多久川 源出郡家西北二十四里小倉山、西流、入秋鹿郡佐太水海[以上
六川少々無魚川也]
①を除き定型的である。ただ、②③の合流後の川の名がなく、⑤の「大海入
也」の措辞は不審である。水源記事しかない①は、諸本にある「二水合南流、
入々海。[有鮒]
」の誤脱である。
「源二」は意宇郡③の「源有三」から見て、
「有」字の脱落か。
【秋鹿郡】
①佐太川 源二[東水源嶋根郡所謂多久川是也。西水源出秋鹿郡渡村]。
二水合南流、入佐太水海。
②山田川 源出郡家西北七里湯大、南流、入于海。
③多太川 源出郡家正西一十里女心高野、南流、入于海。
④大野川 源出郡家正西一十三里磐門山、南流、入于海。
⑤草野川 源出郡家正西一十四里大継山、南流、入于海。
⑥伊農川 源出郡家正西一十六里伊農山、南流、入于海。
⑦長江川 源出郡家東北九里四十歩神名火山、南流、入于海。[以上七川並
無魚矣]
①の「東水源」が隣郡の河川名である点を除けば、定型的で整然としている。
【楯縫郡】
①佐香川 源出郡家東北所謂神名樋山、東南流、入于海。
②多久川 源出同神名樋山、西南流、入于海。
③都字川 源二[東川源出阿豆麻夜山。西水源出見椋山]。二水合南流、入于海。
④宇賀川 源出同見椋山、南流、入于海。
定型的でない記事ばかりである。水源について、①は方位と山名、②③④は
山名だけを記す。この破綻は、記事の重複を避けようとする本郡独自の記述態
度と関係する。
水源の三つ山の所在は、直前の山野記事にある。
神名樋山 郡家東北六里一百六十歩
『出雲国風土記』の河川記事について
4
阿豆麻山 郡家正西五里卅歩
見椋山 郡家西北七里
他郡では、重複を厭わずに水源の所在を記すが、例えば本郡の海産物が載る
べき所に、
凡北海所在雑物、如秋鹿郡説。但、紫菜者楯縫郡尤優也。
と、秋鹿郡の説く所に委ねている。楯縫郡は簡略を旨としたようである。
【出雲郡】
①出雲大川 源自伯耆与出雲二国堺鳥上山流、出仁多郡横田村、即経横田
三処三沢布勢等四郷、出大原郡引沼村、即経来次斐伊屋代神原
等四郷、出雲郡堺多義村、経河内出雲二郷、北流、更折西流、
即経伊努杵築二郷、入神門水海。此則所謂斐伊川下也。
(略)
則有年魚鮭麻須伊具比魴鱧等之類。
②意宇美小川 源出雲御埼山、北流、入大海。[有年魚少々]
①には、流域の人々が川の恩恵を受けて生活する様を伝える興味深い記事も
あるが、本稿の主題と関係しないため略した。②は楯縫郡と同様に、前の山野
記事に「出雲御崎山」の所在があるため、山名のみとしたのであろう。
①「出雲大川」は、今日の斐伊川のことだが、水源に関する記述が定型とは
違っている。通常は「源出……」と表される所が「源自……流」である。異な
る表現は異なる意図に基づくとすれば、その意図が何かについて考える必要が
ある。後に再論する。
【神門郡】
①神門川 源出飯石郡琴引山、北流、即経来嶋波多須佐郷、出神門郡餘戸
里間立村、即神門朝山古志等郷、西流、入水海。則有年魚鮭麻
須伊具比。
②多岐小川 源出郡家正南卅三里多岐々山、北西流、入大海。[有年魚]
神門川は斐伊川と並ぶ大河だが、水源の記述を含めて定型的である。
【飯石郡】
①三刀屋川 源出郡家正東二十五里多加山、北流、入斐伊川。[有年魚]
②須佐川 源於郡家正南六十八里琴引山、北流、経来嶋波多須佐等三郷、
入神門郡門立村。此所謂神門川上也。[有年魚]
③磐鉏川 源於郡家正南七十里箭山、北流、入須佐川。[有年魚]
④波多小川 源於郡家正南二十四里志許斐山、北方流、入須佐川。有銕
田 籠 博
5
⑤飯石小川 源於郡家正東一十二里佐久礼山、北流、入三刀屋川。
①を除いて、水源が「源於……」で表されるのが特徴的である。校訂本等で
は「源出……」へ改訂されるのだが、本郡のみに誤写があるのも不自然で、な
お考える余地がある。②須佐川は神門郡①神門川の上流部の呼称だから、流出
先を「入神門郡門立村」
(
「間立村」の誤り)とする。以上の二点を除き、ほぼ
定型的といってよい。
【仁多郡】
①室原川 源出郡家東南卅五里鳥上山、北流。所謂斐伊川上。[有年魚]
②横田川 源出郡家東南卅六里室原山、北流。此則所謂斐伊大川上。[有
年魚麻須魴鱧等類]
③灰火小川 源出灰火山、入斐伊川上。[有年魚]
④阿伊川 源出郡家正南卅七里遊託山、北流、入斐伊川上。[有年魚]
⑤阿位川 源出郡家西南五十里御坂山、入斐伊川上。[有年魚麻須]
⑥比太川 源出郡家東南一十里玉峯山、北流。意宇郡野城川上是也。[有
年魚]
⑦湯野小川 源出玉峯山、西流、入斐伊川上。
ほぼ定型的だが、内容的に問題となる記事が多い。
まず、①室原川と②横田川との関係である。通行の風土記本文では二つの川
が入れ換えられ、①が横田川、②が室原川とされる。伝本はすべて上に掲げた
3)
通りなのだが、千家俊信の『訂正出雲国風土記』
(1805)が入れ換えて以来、
その改変が踏襲されてきた。この問題は次節で検討する。
次に、①②について、
「北流」した後の記事がない。二つの川は合流するは
ずであるのに、合流の在り方、合流後の川の名が分からない。
三つめに、⑥を除くすべての記事に存する「所謂斐伊川上」
「此則所謂斐伊
大川上」
「入斐伊川上」という注記の意味が明瞭でない。飯石郡②須佐川の「此
所謂神門川上也」から考えると、
「所謂」を含む①②の注記は、二つの川が斐
伊川の源流部であることを表すのであろう。しかし、③④⑤⑦の「斐伊川上」
には「所謂」がなく、本来ここに記されるべきは合流先の具体的な川の名である。
本郡で最大の問題は、今日斐伊川と呼ばれている河川の仁多郡における呼称
3)
千家俊信は千家国造家の出で、本居宣長に師事した。本書も附属図書館のデジタル・アー
カイブで閲覧することができる。
『出雲国風土記』の河川記事について
6
が一度も現れないことである。
【大原郡】
①斐伊川 郡家正西五十七歩、西流、入出雲郡多義村。[有年魚麻須]
②海潮川 源出意宇与大原二郡界入矣村山、北、自海潮西流。[有年魚少々]
③須我小川 源出須我山、西流。[有年魚少々]
④佐世小川 出阿用山、北流、入海潮川。[無魚]
⑤幡屋小川 源出郡家東北幡箭山、南流[旡魚]。水四水合西流、入出雲大
河。
⑥屋代小川 出郡家正東正除田野、西流、入斐伊大河。[無魚]
④⑥が水源を「出」とするのは、
「源出」の誤脱であろう。全体として定型
的ではなく、③④は水源が山名のみ、⑤⑥は方位のみで距離を載せない。
何より問題なのは、①斐伊川が、風土記において水源の記事をもたない唯一
のものという事実である。斐伊川の起源(郡内の「斐伊郷」に由来する)をもつ①
斐伊川が、河川記事で必須とされる水源記事を欠くのは偶然ではなく、何か理
由があるに違いない。
以上、郡別に河川記事を見てきた。多少の破綻はあるものの、各郡ほぼ定型
的に記述される中で、出雲郡①出雲大川の水源記述が異常であること、仁多郡
の河川の記述に問題がありそうなこと、大原郡①斐伊川の記事が特異なことが
明らかになる。いずれも斐伊川に関わることが興味深い。
₂ 仁多郡における「室原川」と「横田川」
筆者が風土記の河川記事に興味をもったのは、出雲国の地誌の嚆矢である黒
沢石斎の『懐橘談』4)(島根大学附属図書館蔵)の次の記事による。仁多郡横田の条
に
ミナモト
横田川の 源 ハ室原山より出て北に流。年魚、麻須あり。此川に烏帽子岩
と云怪石あり。(下60裏~61表)
とあるのを手元の風土記で確かめると、
「横田川」ではなく「室原川」の内容
であった。石斎の取り違えかと疑って『出雲国風土記抄』を確認すると、やは
4)
島根大学附属図書館蔵。二巻二冊。本文は、平仮名漢字交じりで、振り仮名の多い善本だ
が、落丁二個所を含む。
田 籠 博
7
り「横田川」であり、次の注釈がある。訓み下し文で引用する。
鈔云、横田川ハ横田郷八川村ノ九折下ヨリ来テ、北ニ流テ、横田市次ニ於
テ室原川ニ合流スル。
(四23表)
「九折下」とは三国山北側の切り立った山腹で、旧道は確かにつづら折れであ
り、鉄道のスイッチ・バックや国道のループ橋が設けられている。
一方、室原川については、
鈔云、室原川ハ横田郷竹崎村ヨリ来テ、横田ノ市ノ側ニ於八川ト合シテ、
北ニ流ル。水源鳥上山ハ上ニ見ヘタリ。
(四22裏)
と述べ、これが斐伊川の源流部にあたる。石斎だけでなく、風土記を手に国内
を踏破した岸崎時照までもが、伝来の本文のままで疑問としていないのであ
る5)。
千家俊信はなぜ二つの川を入れ換えたのか。筆者は出雲国の地誌として著名
6)
(1717)の影響ではないか推測する。同書では、
な黒沢長尚の『雲陽誌』
「室原
川」がなぜか仁多郡八川条に置かれ、
『抄』の記事を摘記している。
室原川 竹崎村より流来て、横田町にて八川と落合て一流となる。此川
上、鳥上山なり。風土記に載たり。
(355p)
竹崎条に「鳥上山・鳥上瀧」があるのだから、当然そこにあるべきだが7)、八
川条の「室原山」の名に引かれて誤ったのであろう。「横田川」は横田条に、
横田川 八川村坂根より流来て、北に落、横田町にて室原川に合す。所謂
あ
ゆ ま
し
斐伊川の上なり。年魚麻須ありと風土記に見へたり。
烏帽子岩 怪石なり。横田川にあり。
(331p)
と、『懐橘談』の影響かと思われる記事がある。
『訂正』の入れ換えは、
『雲陽誌』の不適切な記事に想を得て、辻褄を合わせ
たもので、書名に相応しくない恣意的な改変であった。
水源が「室原山」であっても、その川が「室原川」と呼ばれるとは限らない。
にもかかわらず、『訂正』の改変は受け継がれ、最新の注釈書にすら「記事内
序でに記す。岸崎時照に風土記研究を慫慂したのは石黒石斎と思われる。『懐橘談』巻末
で「風土記に記す所の郷里山川を尋ね侍れ共、十に一二もさだかならず。」と嘆じた所が、
『抄』自序の「或人のいへるは、此国の風土記ありといへ共、
(中略)郷里たづぬるに其所分
明ならず、俗人是を誤るのみ。其旧を正して記さば、後世の助なるべしと。」と照応する。
6) 復刻本(歴史図書社1976)による。
7)「室原」は「周囲を山に囲まれた原」の意で、竹崎周辺もそうした地形である。
5)
『出雲国風土記』の河川記事について
8
容から見て明らかな誤りである。改める。
」とある。残念ながら、『解説 出雲
国風土記』も通説の流れの中にある。
₃ 仁多郡における「所謂斐伊川上」と「入斐伊川上」
仁多郡①室原川と②横田川にある「所謂斐伊川上」
「此則所謂斐伊大川上」
は、斐伊川(出雲大川)の源流部であることを意味し、飯石郡①須佐川の注記
「此所謂神門川上也」と同じ目的で書かれた注記である。三つの注記の「所謂」
が他郡の河川名を引くときの定型表現であることは、秋鹿郡①佐太川の東水源
が「所謂多久川」として嶋根郡の川を挙げていることからも分かる。逆に、仁
多郡⑥比太川の注記「意宇郡野城川上是也」に「所謂」がないのは、意宇郡で
は「野城川」ではなく③飯梨河と呼んでいたからである。
だとすると、少なくとも仁多郡では、①横田川と②室原川のどちらが斐伊川
(出雲大川)の源流であるかを決しないまま、並記していると理解しなければ
ならない。今日でも、水源の認定には種々の障碍があって容易でないという。
地理的記述に努力した仁多郡の担当者も、水源を一方には決めかねたのであ
る。
「鳥上山」に発する①横田川が河川記事の最初にあることは無視できない
が、二つの川の魚類注記(①「有年魚」
、②「有年魚麻須魴鱧等類」)を比べる
と、むしろ②横田川に本流らしさがある。
仁多郡③④⑤⑦の合流記事「入斐伊川上」をどのように考えるかは、斐伊川
水源の未決定とはまったく別個の問題である。通説では③灰火川は②横田川に
流入するが、残る三つの川は①室原川と②横田川とが合流した後、それより下
流で入り込むからである。合流先の川が固有の名をもたず、大原郡の名を借り
た「斐伊川の上」、すなわち斐伊川の上流部と呼ばれていたというのは事実だ
ろうか。
風土記における河川の合流記事を検討すると、合流後の河川名をどのように
記述するかには三つの型がある。
一つは、合流後の河川名を最初に掲げ、記事中で複数の水源を示す型である。
意宇郡③飯梨河 嶋根郡①水草河 秋鹿郡①佐太河 楯縫郡③都字川
二つには、記事中で合流先の河川名を記し、その川に入る旨を示す型であ
る。例えば、
意宇郡②山国川 入伯太川
飯石郡①三刀屋川 入斐伊川 ③磐鉏川 入須佐川
田 籠 博
9
④波多小川 入須佐川 ⑤飯石小川 入三刀屋川
がこれに該当する。これにより、飯石郡⑤飯石小川が①三刀屋川を経て斐伊川
へ入るという流路をたどることができる。
三つめは、合流後の河川名を示さない型である。
嶋根郡②長見川と③大鳥川は「二水合東流、入于海。
」というが、海に入る
ときの川の名は分からない。大原郡では②海潮川、③須我小川、④佐世小川、
⑤幡屋小川の四つが「水四水合西流、入出雲大河。
」とある。③④⑤が「小川」
であることから、合流後も「海潮川」であった可能性が高いけれども確実では
ない。
仁多郡の河川記事には、これらの型が混在している。①室原川と②横田川と
は、二つの川が合流することさえ記載されず、合流後の河川名も載っていな
い。③④⑤⑦は第二の型だが、合流先が具体的な河川名ではないという決定的
な相違がある。要するに、仁多郡内の水を集めて流れ、生活や産業の上で重要
であるはずの川の名が、風土記にはまったく現れないという異常な状況である。
交通路を記述した仁多郡の「通道」に、
通飯石郡堺漆仁川辺、廿八里。即川辺有薬湯浴。
と現在の湯村温泉に関する記事があり、
「漆仁川」の名が見える。「漆仁」は仁
多郡が飯石郡に接する所に置かれた郷名らしく、
『解説 出雲風土記』に説明
(210p)がある。対岸の飯石郡の「通道」では、
通仁多郡堺温泉川辺、廿二里。
と「温泉川」と呼ばれている。地域の人々は、身近を流れる斐伊川を、地域独
自の名で呼んでいたのである。
神門川が飯石郡では須佐川であるように、大原郡で斐伊川と呼ばれる川の上
流域である仁多郡の人々が、郡内の重要な川に郡独自の名を与えなかったと想
定するのは不自然である。仁多郡の河川記事にその名が見えない理由は、仁多
郡の内部ではなく、郡の外に探らなければならない。
₄ 「斐伊川」記事の特異さ
大原郡斐伊郷(旧名は「樋郷」
)を流れる川として命名された「斐伊川」は、
前述の表現を用いれば、本来は大原郡における地域名にすぎない。出雲郡の
「出雲大川」も同じで、出雲郷の西を流れる大川の意であろう。風土記が最初
は郡別に編まれたとすれば、複数の郡を貫流する川が郡ごとに異なる名で記載
『出雲国風土記』の河川記事について
10
されるのは当然のことである。
郡別の風土記資料は恐らくは出雲国庁に集められ、国全体の観点から調整さ
れたと思われる。それは記述方式や用語・表現・表記の面にとどまらず、内容
の加除にも及んだはずで、複数の郡にまたがる河川記事が該当する。その結果
として、斐伊川に関係する記事は出雲郡の長文の記事としてまとめられた。
恐らくは、削除の対象となったのは大原郡①斐伊川の記事であろう。斐伊川
の恵みを最も受けていたはずであるのに、水源記事を始め具体的な記述がな
く、極めて貧弱な記事でしかないのがその証拠である。では、どのようにまと
められたのか。
出雲郡①出雲大川の記事を再び引く。
源自伯耆与出雲二国堺鳥上山流、出仁多郡横田村、即経横田三処三沢布勢
等四郷、出大原郡引沼村、即経来次斐伊屋代神原等四郷、出雲郡堺多義
村、経河内出雲二郷、北流、更折西流、即経伊努杵築二郷、入神門水海。
まず水源について、他例がすべて「源出……」と記述されるのに対して「源
自……流」となっている。素直に読めば、これは水源記事ではなく、斐伊川の
源となる流れの一つが「鳥上山」に発することを述べるだけの、
「源出……」
とは異なった意図による表現である。
次に、流路の記述を見ると、次のように一定の型に従っていることが分かる。
自……鳥上山流、出仁多郡横田村、即経(仁多郡四郷)、出大原郡引沼
●
●
村、即経(大原郡四郷)、出出雲郡多義村、即経(出雲郡二郷)、北流、
更折西流、即経(同郡二郷)
、入神門水海。
下線部が流路の節目を表す表記である。形式を整えるため、傍点を付した文
字を私意により補った。ここから次の四点を指摘することができる。
1. 下流の郡への流出先(郡名村名)を「出」によって表す8)。
2. 従って、国境にある鳥上山は仁多郡の外と意識されていた。
3. 郡内の流路(郷名)を「即経」によって表す。
4. 最終的な流出先を「入」によって表す。
さらに付け加えるなら、大原郡の流路となる四郷の中に斐伊川の由来となっ
た「斐伊郷」がなく、
「等」の中に埋め去られた事実を指摘すべきだろう。
8)
これにより、風土記の調整段階では上流から下流を見る視点で記述されたことが分かる。
飯石郡②須佐川、大原郡①斐伊川では、「入」で表している。
田 籠 博
11
比較のために、神門川の流路記事を掲げる。
源出飯石郡琴引山、北流、即経(飯石郡三郷)、出神門郡餘戸里間立村、
●
即経(神門郡二郷)
、西流、入水海。
斐伊川に比べれば簡略だが、水源を除き基本的な形式は同じである。複数郡
にまたがる川について、流路記述を定型化していたことが分かる。
要するに、「出雲大川」において、水源が「源自……流」で表されて「源出
……」でないのは、仁多郡では①横田川と②室原川の二つを「所謂斐伊川上」
と認めていたためである。仁多郡の報告を無視して水源を一方に決めること
は、調整の範囲を超えている。
では、水源記事と見誤りかねない形で「鳥上山」からの流れだけを示したの
はなぜか。その理由は、仁多郡において小河川の合流先が「斐伊川上」となっ
ていることと併せて考えることにで明らかになる。
₅ 「鳥上山」と「斐伊川上」の意味
出雲国風土記の編集に携わった人々は、国家的事業として編纂された『古事
記』
(712)及び『日本書紀』
(720)について、少なくとも出雲国と関係する内
容は十分に承知していたと思われる。
風土記を見る限り、記紀の影響を明確に指摘できる部分は少ないというのが
通説である。しかし、本当にそうだろうか。
記紀において描かれる古代の出雲とは、所謂出雲神話のことである。神話に
おける「出雲」は、高天原を追放されたスサノヲがこの地に降り立つ所から始
まる。古代の英雄が初めて踏んだのは次の場所だと伝えられる。
ひ
とりかみ
ところ
『古事記』 出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地
ひ
『日本書紀』 出雲国の簸の川上
一書一 出雲の簸の川上
たけ
一書四 出雲国の簸の川上にある鳥上の峯
え
『書紀』一書の二では、
「安芸の国の可愛の川上」に降り立ち、後に稲田媛を
「出雲の国の簸の川上」に移しすえたとする。同じく一書の三には、文脈不明
の「出雲の簸の川上の山」がある。
「仁多」の名は見えない。風土記の地名起源説話では、スサノヲの子(また
は子孫)のオホナムチ(=大国主命)の命名によるから、スサノヲが降臨した
ときにはまだ無名の土地であった。つまり、
「簸(肥)の川上」は「仁多」に
12
『出雲国風土記』の河川記事について
代わる便宜的な地名であった。
たとえ便宜的な名であっても、出雲神話にくり返し現れる「
(出雲の)簸の
川上」は、スサノヲによる八岐大蛇退治という魅力的な話もあって、古代出雲
を象徴的に表す地名となったのである。漠然としているだけに、却ってある種
の異世界的な雰囲気を漂わせた神話的表現となった。
『古事記』によると、スサノヲは「肥の河上」の「鳥髪」の地に降り立ち、
流れてきた箸を見てさらに上流へとさかのぼる。つまり、
「肥の川上」の「鳥
髪」は、『日本書紀』一書の四が言うような「峯」ではなく、人々が住居する
地域のやや下流ということになる9)。スサノヲの神話的行動は、仁多郡の諸河川
が合流して斐伊川を構成する地点と近接した所から始まるのである。そして、
その地域こそが風土記仁多郡の注記する「入斐伊川上」と重なる。この「斐伊
川上」は川の名ではなく、川の流域を表す特殊な用語であった。
本稿の主張はもはや明らかだろう。
最終的に出雲国風土記を整えた担当者は、記紀の出雲神話に現れる神話的表
現を、地理的記述の正確さを損なわない形で取り込むことを河川記事で試み
た。仁多郡では対等に扱われる二つの川から、神話に登場する「鳥上山」を源
流とする一方だけを、あたかも唯一の水源かと誤認させる「源自……出」の表
現によって示した。また、下流の河川が合流すべき川の名を消し、代わって神
話に用いられる「斐伊川上」に入るという記述が採用されたのである。
それに伴って、仁多郡①室原川と②横田川が合流する事実も消された。
「斐
伊川」が「鳥上山」に発する印象を妨げるからである。また、詳しかったはず
の大原郡①斐伊川の記事も、出雲郡①出雲大川に移された。斐伊郷の存在は
「斐伊川上」の神話性を薄める恐れがあるからである。その結果、大原郡にお
ける斐伊川の存在は著しく軽いものになってしまった。
これらは、ひとえに「鳥上山」と「斐伊川上」を際立たせようとした編集操
作の結果である。
₅ 最後に
古代を専門としない筆者から見ると、
『出雲国風土記』の研究には、細部に
『古事記』の「鳥髪」と、風土記仁多郡の「鳥上山」を同一視すべきではない。伝承の中
で、「肥の川上」に関わる印象的な地名としてトリカミの名が残ったのかもしれない。『日
本書紀』一書の四の「鳥上の峯」は合理化された伝承であろう。
9)
田 籠 博
13
こだわりをもって考証を進めたり、記載された神社の比定に精力を傾けるなど
の敬服すべき態度がある一方で、風土記の文章には上代特有の技巧が凝らされ
ていることに配慮せず、安易に本文を改変する向きがあるように感じる。若い
頃に小島憲之氏の著書10)に恐れをなした筆者には、信じがたい思いである。
仁多郡①室原川と②横田川との入れ換えなどはその典型で、誰も疑問を抱か
ないという現状はまことに不思議である。若い研究者が、いとも簡単に「記事
内容から見て明らかな誤りである。改める。
」というのを見たときにには呆然
とした。
確かに、今日の地図上では三国山(室原山)を源とする川は「室原川」だが、
しも
地元では八川本郷から横田町の間を「下横田川」と呼んでいる。これが旧名の
遺称とは確認していないけれども、江戸時代の黒沢石斎や岸崎時照が現地を訪
れて疑問としなかったのだから、その可能性を探ってもよいのではないか。先
人の言う所を、いま少し謙虚に受け取るべきである。
本稿は、河川記事という風土記のごく一部、しかも至って即物的な内容の記
事を扱っただけだが、その記述の表現上の定型と破綻の事実から、風土記の編
集に関わる問題にまで至った。結論が妥当か否か、予断や思い入れではなく、
風土記本文に即した批判を俟ちたい。
10)
不勉強な学生の身で、
『上代日本文学と中国文学』(塙書房、1965)から思い知らされたの
は、上代の文章を軽々しく扱ってはならないという一事である。
Fly UP