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教師の多忙感解消に向けた一つの提案

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教師の多忙感解消に向けた一つの提案
創大教育研究
第2
0号:矢島
P3
7∼5
0
研究論文
教師の多忙感解消に向けた一つの提案
―価値を創造する「ユーモア・センス」という観点から―
創価大学大学院 文学研究科博士前期課程教育学専攻
矢 島 伸 男
研究の目的
本稿では,近年注目されている教師の多忙感の問題を取り上げ,その解消を目指し
た方法の一つとして,心理的苦痛を和らげるという観点から,教師の多忙感解消と笑
い・ユーモアの特性とを関連付けて考察した。まず,教師の多忙感について先行研究
を交えて触れ,次に笑い・ユーモアの特性と,それらを活かした教師の多忙感解消へ
の一方法を,筆者が定義するユーモアの観点から述べる。最後に新たな教師の資質と
しての“ユーモア・センス”について考察し,笑いと教育の新たな可能性を探ってい
きたい。
Ⅰ
多忙感の関心の高まり―教師と子ども・保護者との関係性の変化
日本の学校教育(ここでは主に小学校・中学校・高等学校のもとで行われる教育を
取り扱うものとする)において,教師の多忙感に関する研究が多くなってきたのは,
いつ頃からであろうか。今回は,CiNii(サイニー:国立情報学研究所論文情報ナビ
ゲータ)と Nacsis Webcat(総合目録データベース WWW 検索サービス)を中心に,
国内における文献検索を行った。文献の検索ワードには,
「教育/多忙」「教師/多
忙」「教員/多忙」「教職/多忙」「多忙感」「多忙化」「バーンアウ ト」の7つ を か
け,それぞれで検索された文献数を,重複して検索されたものや,教育とは関連しな
いものを除いてまとめた。各年代別の検索結果は以下の通りである。
各年代
文献数
∼1
9
9
0年
4
1
9
9
1∼1
9
9
5年
6
1
9
9
6∼2
0
0
0年
1
9
キーワード:多忙感,ストレスコーピング,心理的余裕,“スーモア・センス”,判断力
−3
7−
研究論文:教師の多忙感解消に向けた一つの提案
2
0
0
1∼2
0
0
5年
5
6
2
0
0
6∼2
0
1
0年
6
0
各年代に発表された文献のうち,1
9
9
0年より以前では4件,また1
9
9
0年代前半では
6件という結果に対し,1
9
9
0年代後半では1
9件と,過去文献の倍近くの数に達してい
る。そしてこの時期を皮切りに,2
1世紀に入ってからはさらに勢いを増し,2
0
0
0年代
前半では5
6件,2
0
0
6年から今日に至るまでが6
0件と,教員の多忙感に関する文献が相
次いで発表されている。以上のことから,日本の学校教育における教師の多忙感への
関心は,1
9
9
0年代後半になって高まってきたと考えられる。
多忙感の議論については,藤田英典ら(1995)が指摘するように,安易に近年の雑
務増加による多忙化の裏付けによって証明されるものではないし,教師という職業の
無限定性に帰着するものとも言い切れない(1)。実際に,北上正行・高木亮(2007)が
まとめた通り,教師の多忙化はすでに昭和2
0年代から,労働環境の未整備によって引
き起こされており,多忙化の要因は年代によって様相を変えているということが指摘
されている(2)。また多忙感という名称からも伺えるように,多忙感に関する議論は,
教師の心理的な面の影響が強く,教師そのものの職業観や抱え込むストレスの差異,
さらには教師としてのやりがいをいかに感じているか,という事柄にも深く関係して
おり,マクロな視点で捉えることが難しい。
しかし,その難しさを差し引いてもなお,多忙感の議論が活発に行われているの
は,度重なる教師の不祥事や問題行動,または精神疾患の増加といったものの背景と
して,多忙感の存在が関連している,という考えがぬぐえないからであろう。以上の
ような点に配慮しながら,本稿では,教師の多忙感に関する研究が9
0年代後半に増加
した理由の一つとして,学校と子ども・保護者との関係の変化による雑務の増加と,
適応の消化不良があると考えた。
小浜逸郎(2001)は,高度経済成長期のころ,子どもや保護者が教師に対して持っ
ていた,
「権威を権威として承認する無意識の合意」が,7
0年代の後半から徐々に減
退したことを指摘している。小浜はその背景として,欧米並みの近代化が日本におい
て達成されたために生活が豊かになり,
「学校に通い教師の言うことを聞き,一生懸
命勉強して貧困を脱したい」という倫理的気風の喪失を挙げている(3)。
また山脇由貴子(2008)は,教師と保護者双方のコミュニケーションの減少によ
り,双方の役割の背後にある「義務」を果たすことだけを要求するようになったこと
を指摘している(4)。小浜と山脇の指摘を合わせると,役割と義務によって続けられた
関係は,教師と保護者を【授業料を支払われる―支払う】関係に変化させ,保護者は
学校をサービス産業として見るようになり,教育の質の高さだけでなく,かつて学校
が扱わなかった事柄すらも,学校の責任として要求するようになったと考えられる。
教師と保護者の関係はいまや,
【公権力の行使を行う―受ける】という関係から,
−3
8−
創大教育研究
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0号:矢島
【サービスを提供する―消費者としてサービスを受ける】という関係へと構図が変化
し,学校に対して「勉強を教える」以上の事柄を,子ども・保護者それぞれが要求す
るようになったのである。
例えば,子どもが教師に求める新たな要求として,上條晴夫(2000)は,子どもが
日ごろ慣れ親しんでいるテレビ文化の定着から,教師に対する新たな要求として,テ
レビタレントのような個性と楽しい授業があることを指摘している(5)。また家本芳郎
(1990)は,少子化や受験戦争などにより,
「私=遊ぶところ」の場が消滅したこと
から,子どもたちが学校という「公=学ぶところ」の場に「私=遊ぶところ」の場を
侵入させたと指摘している(6)。彼の指摘から,多少の私語や遊びを学校内で許容して
ほしい,という要求も新たに高まっていることがわかる。
ひるがえって保護者の新たな要求は,かつて学校が責任を負わなかったような事柄
が多く,その行き過ぎた例が,今日「モンスターペアレント」と言われているもので
ある。小野田正利(2009)は,学校に寄せられる苦情は,1
9
9
0年代後半から増え続け
ていると,多くの教師たちが実感しており,
「通学路を変更しろ」「ブラスバンドは窓
を閉めてやれ」「生徒がコンビニでたむろしているから,注意しに来い」しまいに
は,通学路の清掃や汚物処理を注文するような,およそ学校の守備範囲を超えた要求
が行われていると指摘している(7)。このような現状も,学校がサービス産業として受
け止められていることにあるのかもしれない。
多忙感の問題について考える時,制度の見直しや業務の形態・内容の改善といった
外的側面と,教師自身のやりがいやメンタル面を補強または修復する内的側面の2つ
いずれかに焦点を当てる方法がある。本稿では,このうちの内的側面,例えば教師の
心的健康の保持促進,または問題にポジティブに捉え取り組む姿勢や視点の転換と
いった内容に触れながら,多忙感解消における笑い・ユーモアの可能性を探っていき
たい。ゆえに本稿において明らかにしたい点は以下の3点である。
1.多忙感解消という観点から,教師のストレスコーピング能力と,その能力維持の
ために,教師の心理的余裕が必要である。
2.ストレスコーピングと心理的余裕の獲得のために,笑い・ユーモアは効果的であ
る。
3.ストレスや多忙な業務からくる心理的負荷を和らげ,心理的余裕を保持するため
に,新たな教師に求められる資質として「ユーモア・センス」の重要性を提案
し,その定義について考察する。
Ⅱ
多忙感解消のためのストレスコーピングと心理的余裕の獲得
実際に,
「教師の多忙化がどのように進んでいるか」という議論についてはここで
は取り扱わないが,学校の教師は日々,授業や指導・生徒指導以外にも,校務分掌や
−3
9−
研究論文:教師の多忙感解消に向けた一つの提案
クラブ活動の指導,各種委員会活動や職員会議など,あらゆる雑務に追われている。
ここで2つの事例を見てみたい。多忙感に関する調査は,都道府県や市町村の単位
で,独自のアンケートを基に行っている所が多いのであるが,栃木県が2
0
0
9年に発表
した報告書では,自分の職務について忙しいと感じている教師は全体の9
4%にのぼ
り,平日2時間以上勤務時間外(退勤後も含む)に業務を行っている教師は全体の
6
4%であることが分かった。また,教師の半数が「十分に睡眠時間をとれていない」
「日常生活に不安を感じることが多くある」と答えていることが分かった。なお,多
忙の主な原因については,
「校務分掌に係る業務」が5
6%,
「提出物や成績の処理」が
4
0%,
「会議・打合せ」が3
8%,
「学校行事」が3
6%,
「教材研究・教材の準備」が3
5%
であった(8)。
また,布川淑(2006)は,エスノグラフィ的手法を用いて,公立高校教師1
5名への
聞き取り調査を行った。調査によると,全員が昼食を不規則におよそ1
5分という短時
間で摂り,1
2人が仕事を自宅に持ち帰り,1
0人が土日に出勤(うち8人がクラブ活動
の指導)するなど,日々業務が慌ただしいことが分かった。また,
「土日はすべて仕
事でつぶれるほどやる。
(5
0代女性)
」
,
「休日は,やる仕事があれば何時間でもする。
(3
0代女性)
」
,
「まったくの休憩としての時間を取らないことが習慣になっている。
(4
0代男性)
」
,
「しんどくてやっていけないという状況はある。命いっぱいのところ
でやっている。
(4
0代男性)
」など,現場の多忙を物語る声が多数あり,布川の調査機
関前にも,2人の教員がバーンアウトしていたことも明かされた(9)。
以上のような事例を見ても,現場の教師たちの多忙さが伺えるが,最大の問題は,
教師がバーンアウトしてしまうことにある。文部科学省の「病気休職者数等の推移」
によれば,公立教員の精神疾患による休職者は,平成1
1年度の1
9
2
4人から,平成2
0年
度は5
4
0
0人となり,およそ3倍弱に増加したことが分かっている(10)。増加の要因につ
いて文部科学省は,①教育内容の変化についていけない,②教員同士のコミュニケー
ションが減り,相談相手がいない,③要望が多様化している保護者らへの対応が難し
い,などの要因を挙げており,教師の多忙に苦しむ現実が示唆されている(11)。
精神疾患によるバーンアウトに歯止めがかからなければ,新たな教師を雇用しなけ
ればならないだけでなく,バーンアウトした教員の業務を他の教員が引き継ぎ,さら
なる多忙化や非効率化を招きかねない。精神疾患が増加の一途をたどっているのを見
ると,教師のメンタルヘルスはうまく機能していないと考えるのが自然だろう。いか
に多忙な日々であろうと,メンタルヘルスが維持されていれば,教師は体力の続く限
り働くことが出来る。逆に教師自身がいかに高い志を持ち,業務において勤勉であっ
たとしても,バーンアウトしてしまうことで全てが無駄になってしまう。
ここで取り上げたい問題の所在は,バーンアウト寸前の教師に対して,ユーモアの
必要性を強要した再起を図ることではない。教師がバーンアウトしないために,日常
生活から教師の多忙感を解消することである。教師の心理的負荷が日々与えられるも
−4
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のと考えた時,教師にその負荷を処理する能力が上回っていることが必要となる。
「負荷を処理する能力」とは,自分に向けられた心理的負荷を抑制し,最小限に食い
止める能力,と言ってもよいだろう。これを教師の「ストレスコーピング能力」と呼
ぶことにする。コンピュータのメモリ残量が処理能力に影響するように,
「ストレス
コーピング能力」が日々十分に働くためには,教師自身にある程度の“思考の余地”
が残されていなければならない。つまり,日頃ストレスコーピングを行うための,心
理的余裕をいかに構築するかが重要となる。
Ⅲ
教育現場に見られる心理的余裕の欠如
教師の余裕のなさは,学校で子どもと接する時の配慮の欠如につながり,それが要
因となって,不適切な発言や授業による不祥事へと発展する。このことを裏付けるよ
うに,2
0
1
0年9月から,各メディアで学校での不祥事が立て続けに明らかとなった。
例えば2
0
1
0年1
0月1
9日,東京都杉並区の小学校で3年生を担任していた2
3歳の女性
教師が,
「3人姉妹の長女が自殺し,次女はその葬式に来た男性を好きになった。再
会するにはどうすれば?」という問題で,
「妹(三女)を殺せば葬式で会える」とい
0
1
0年9月1
5日,
う答えの“殺人クイズ”を出題していたことが報道された(12)。また,2
愛知県岡崎市の小学校で3年生を担任していた4
5歳の男性教師が,算数の授業で,
「1
8人の子どもがいます。1日に3人ずつ殺します。何日で全員を殺せるでしょ
0
1
0年
う。
」という“殺人割り算”を出題していたことが取り上げられた(13)。さらに2
1
0月1
4日,埼玉県入間市の小学校で6年生を担任していた5
9歳の男性教師が,児童へ
の罰則として「キス」「ハグ」などと書かれた“セクハラサイコロ”を使用していた
ことが,児童の保護者からの抗議で明らかとなった(14)。
これらと類似したものも含め,以上のような一連の不祥事に共通しているのは,教
師自体は真面目な人柄であることと,子どもたちを喜ばせたいあまり,不適切な行為
に至ってしまったことである。それぞれの事件について事情を尋ねると,
“殺人クイ
ズ”を出題した教師は,
「子どもたちにせがまれて,大学時代に友人と楽しんだクイ
ズを出してしまった。
」と述べ,
“殺人割り算”を出題した教師は「子どもたちの興味
を引くために言ってしまった」と述べている。
“セクハラサイコロ”の教師も同様に,児童への興味・関心や楽しい学級運営を狙っ
た行為として行ったのだが,この事件に至っては発覚後,日頃勤勉で信頼の厚い教師
を擁護するために,保護者による署名運動や卒業生によるネット書き込み,さらには
休職する教師のために児童らによる千羽鶴の作成が行われていたのである。
行為そのものは決して許されるわけではないが,もとをたどれば子どもを楽しませ
ようとする情熱の発露であり,サービス精神だったということである。つまり,これ
ら一連の不祥事は,教師の授業力・指導力といった資質の欠如が問題とは言い切れ
−4
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研究論文:教師の多忙感解消に向けた一つの提案
ず,むしろ勤勉で子ども思いの教師の配慮不足による問題であると言える。一瞬の思
慮分別が出来ていれば,また周囲の反応が読み取れていれば,踏みとどまることので
きた問題である。そのような意味では,自分を客観視出来る“余裕”が必要だったの
ではないか,考えるのが妥当だろう。
Ⅳ
ストレスコーピングと心理的余裕の獲得に有効な笑い・ユーモア
ここでは,教師の「ストレスコーピング能力」の向上,および心理的余裕の獲得を
促進するための,具体的な方略を探っていきたい。もちろん,
「仕事の量自体を減ら
す」「休みを取る」といったことも,具体的な心理的余裕の獲得になる。しかし実際
のところ,
“やりがい”を持っている教師は多忙な時もいきいきと働き,
“やりがい”
のない教師はすべての業務が億劫であるように,個人の心理的要因も深く関係する。
要は“心の持ちよう”も重要な心理的余裕の獲得の一部であるといえる。したがって
本節では,個人の努力に帰着する心理的余裕の獲得に焦点を当て,笑い・ユーモアの
効果について触れておきたい。
先行研究において,笑い・ユーモアは痛みやストレスを緩和し,心身の健康を促進
または疾病を予防し,対人コミュニケーションを円滑化させるなど,様々な効果があ
るとされてきた。笑い・ユーモアとストレスコーピングの研究に関しては,桾本知子
(2007)が,
「ストレス対処方略としてのユーモアはユーモアコーピング(humor coping)と呼ばれ,欧米を中心としてその有用性に関する実証的な研究が数多く積み重
ねられてきた」と述べ,従来ストレスコーピングが持っている,
「問題焦点型(スト
レスの原因に直接働きかける)
」と「情動焦点型(ストレッサーによって生じた不快
な情動を調節する)
」いずれかの機能のうち,ユーモアコーピングはその2つどちら
の機能も内包しているとした(15)。
つまり,問題焦点型コーピングは,ユーモアによって物の見方が変わる(視点の変
換)ことで,情動焦点型コーピングは,あえて現状を笑い飛ばす(楽観主義)ことで
行われるということである。また椎野睦(2008)が,ナラティヴ・アプローチを用い
て,カウンセリングの際にユーモア的表現がもたらすクライアントへの影響を調査し
たところ,紹介された2事例ともにクライアントの緊張や不安を抑制し,前向きな思
考や自己分析を促すことに有効であることが分かった(16)。桾本と椎野の研究から,笑
い・ユーモアはストレスコーピング,および心理的余裕の獲得に有効であると考えら
れる。
ここである問題が生じる。それは,教師が笑い・ユーモアの効果を享受するため
の,実践または努力のプロセスが不明確であるという点である。この問題を解消する
ために,笑い・ユーモアの定義に加え,その受け手として教師に求められる能力・資
質といったものの定義を行う必要がある。そこで本稿では,人間に笑い・ユーモアの
−4
2−
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0号:矢島
効果を享受する一つの感覚があると捉え,それは日々の努力で磨かれていくものであ
ると仮定する。つまり,笑い・ユーモアの効果を享受する感覚(以降“ユーモア・セ
ンス”と呼ぶことにする)が研ぎ澄まされることで,教師の「ストレスコーピング能
力」向上と,心理的余裕の獲得につながると考えることにする。
次項では,笑い・ユーモアおよび“ユーモア・センス”の定義を,先行研究を交え
て再検討していきたい。
Ⅴ
教師に求められる新たな資質を考える―“ユーモア・センス”―
笑い研究において,笑いの言葉上の定義にはさほど差異は見られず,大体の研究者
が「人がおかしみを感じる現象」を笑いと捉えている。一方,ユーモアという言葉の
定義は非常に曖昧である。笑いという意味合い同様に用いられる場合もあれば,人を
笑わせる能力を指す場合もある。
「ユーモアにあふれた教室」と「笑いにあふれた教
室」では同じ意味合いとして通じるが,
「あの人はユーモアがある」と「あの人は笑
いがある」では,後者に文法上の無理が生じる。さらにフロイト(1969)は,ユーモ
アをより狭義的なものに捉え,以下のように述べている。
―ユーモアの本質は,四囲の状況からいえば当然起こるはずの興奮を起こさせず
にすませ,そのような感情の表出が許されそうな事態を冗談で乗り切ってしまう
という点にある。―(17)
つまりフロイトは,ユーモアは笑いの中で,苦境に立たされた時の自分自身を笑い
飛ばし,自らを救うものであると考えたのである。また,子ども向けのテレビ番組
『ひょっこりひょうたん島』のテーマソングに,次のような歌詞がある。
―苦しいことも
だけど
あるだろさ/悲しいことも
ぼくらは
あるだろさ
くじけない/泣くのはいやだ
笑っちゃおう―(18)
フロイトの定義に置き換えれば,この姿勢がまさにユーモアであると言える。以上
のように,ユーモアは広義的には「笑いそのものと笑わせる能力の両方」
,狭義的に
は「苦境から自分自身を救い出すための笑い」を指しており,ユーモアコーピング
は,主に後者の定義を重視する。
研究者の中には,広義的なユーモア解釈に含まれる「笑いそのもの」と「笑わせる
能力」をそれぞれ分断し,前者をユーモアとして取り扱い,また後者の「笑わせる能
力」をさらに深く考察し,独自の手法で定義づける者もいる。例えばアブナー・ジッ
プ(1995)は,ユーモアを定義する試みが難しい作業であるとしながらも,次のよう
に述べている。
―ユーモアおよびユーモアのセンスを研究するにあたっては,主要な二つの次元
を考慮する必要がある。つまり,ユーモアを味わう能力とつくる能力を区別して
考えるのである。―(19)
−4
3−
研究論文:教師の多忙感解消に向けた一つの提案
このようにジップは,ユーモアとユーモアのセンス(ユーモアそのものを捉える能
力)を分けて考えたのである。であるならば,ユーモアは人間によって発見され,そ
れを介して笑いという現象として表出されるまで,この世に潜在的にあるということ
になる。この世に潜在的にあるユーモアが笑いとなるためには,
(ジップでいうとこ
ろの)ユーモアのセンスという媒介物が必要なのである。
つまり,ユーモアは常に潜在的なものであり,その上「笑いそのもの」を指すので
はなくなる。ユーモアは笑いを引き起こす直接的要因ではなくなり,笑いを判断する
全権は笑う主体である人間に委ねられるのである。さらに踏み込めば,人間の感覚に
よって取捨選択される限り,この世のすべての事物がユーモアの対象になる可能性を
持っているということになる。
このような「森羅万象ユーモア説」ともいうべき考え方は,織田正吉(1979, 1987)
の理論にも見られる。織田は,世の中すべての現象はユーモラスであるとし(20),それ
らをユーモアであると判断する感覚を“ユーモア感覚”であると指摘した。織田の場
合のユーモア感覚とは,
「面白い冗談が言える」「人をよく笑わせる」というものとは
違い,より人間の内面にある笑いの感覚を表している。さらに織田は,
「簡単にいっ
てしまえば,ユーモア感覚は,あらゆる種類の心の束縛から解放されるための一つの
能力です。それは,固定観念や先入観をとりのぞき,アイディアをひらめかせ,表面
の現象にとらわれないで,かくされた真相や実態を見ぬくことのできる知性の一種で
す。
」と述べている(21)。
しかし織田の観点には一つの問題がある。それは,ユーモア感覚で説明されている
ユーモアが,狭義的に捉えられているのに対し,一方では世の中すべての現象がユー
モラスであるとするなど,定義の曖昧さが生じていることにある。ここで考えたいの
は,そもそもユーモアに,フロイトや織田が言うような「苦境から自分自身を救う笑
い」という狭義的な定義は必要なのか,という点である。であるならば,何を根拠と
して,
「苦境から自分自身を救う笑い」とそうでない笑いを判別するのだろうか。
仮に「苦境から自分自身を救う」ための前向きな思考や視点の転換が,すべての笑
いによって喚起されるのであれば,笑う対象となるユーモアすべてが,
「苦境から自
分自身を救う」ものになるはずである。実際のところ,医学・心理学における笑いの
研究では,笑いは病的なものを除いては,声を大きく出して笑うことも,作り笑顔で
にっこりと微笑むことも,心身に良い影響を与えるということが定説となっている。
つまり,いかなる種類の笑いであれ(仮に差別的表現やブラックジョーク,下ネタ
などを含むものから起きる笑いであったとしても)
,笑った人間は倫理的追及を抜き
にして,ひとしく笑いの効果を享受することが出来るのである。
「森羅万象ユーモア
説」を取る場合,ユーモアすべてが「苦境から自分自身を救う」可能性を持っており,
実際に笑いによって苦境から脱することが出来るかは,人間の“感覚”にかかってい
るのである。
−4
4−
創大教育研究
第2
0号:矢島
以上を踏まえ,筆者が考える各用語の定義をまとめると,以下のようになる。
筆者の定義
笑い
:おかしみを感じる現象すべて
ユーモア:この世すべてに潜在する笑いの要素となるもの
ユーモア・センス:人間が笑い・ユーモアの効果を享受するための資質・能力。
ユーモアを笑いへと変化させる媒介物。
ここからは,
“ユーモア・センス”の構成要素について考えていきたい。教育にお
ける笑いの先行研究では,織田やジップのように,ユーモアに関する能力,あるいは
感覚としての概念を提案し,実際の教育現場で,笑い・ユーモアの可能性を探ろうと
する動きが見られる。ユーモア教育の第一人者である有田和正(1993)は,
「今,日
本の教育に何が足りないかといえば,
『ユーモアのセンス』だといえる」と,ユーモ
アを感じ取る能力に着目した上で,その能力は先天的に具わるだけではなく,後天的
に育てられるものであるとして,子どもへのユーモア教育を行っている(22)。有田の考
えをさらに発展させ,具体的な能力として提案を行ったのが,青砥弘幸(2009)であ
る。青砥は,学校教育においてユーモアが才能や人格特性として扱われてきたため
に,能力育成という観点での考察が遅れたことを指摘し,ジップの理論をさらに発展
させ,
「ユーモア能力」という概念を提案した(23)。青砥が「ユーモア能力」として挙
げた要素は以下の3点である。
青砥の「ユーモア能力」の概念
・ユーモア鑑賞力:ユーモアを理解・鑑賞する能力
・ユーモア創造力:ユーモアを創造し,他人に伝達する能力
・ユーモア活用力:ユーモアを正しく判断し,それを適切かつ効果的に活用する
能力
さらに青砥は,
「ユーモア能力」育成にあたって障害となるのが,
「限定的ユーモア
観」
,つまり,狭義的なユーモア観であり,すべてのおもしろさ・おかしさをユーモ
アとする「非限定的ユーモア観」に立つ必要があると指摘した。青砥の「非限定的ユー
モア観」は,筆者で言うところの「森羅万象ユーモア説」と類似しているが,筆者の
場合は,ユーモアはおもしろい・おかしいと感じるさらに前の段階であるもの,つま
り,
「おもしろい・おかしい可能性を秘めたもの」と捉えている点で相違している。
青砥の「ユーモア能力」の概念において再考すべき問題は,2点あると考えられ
る。まず一つ目に,創造力という能力の曖昧さである。自分の伝えたいユーモアを相
手に伝達するためには,構成力と表現力の2つが必要となる。構成力とは,ユーモア
を構成する力である。表現力とは,文章を書く,自分の知っている言葉で,起承転結
をつけて話すといったバーバルなものから,ジェスチャーや絵といったノンバーバル
−4
5−
研究論文:教師の多忙感解消に向けた一つの提案
なものまでを含め,相手に「ここがおもしろい」「自分はこれがおかしいと思った」
ということを伝える能力である。
構成力と表現力の違いは,作家・演出家と演劇に立つ俳優の違いに例えることがで
きよう。作家・演出家は構成力に長けているのに対し,表現力に欠けている。ゆえに
満足のいく伝達は望めない。しかし,俳優は構成力が作家・演出家に及ばない代わり
に,表現力に長けている。そのため,作家・演出家は俳優に自身の構成力を託すので
ある。このようにして,演劇は出来上がる。であるならば,青砥が定義する概念の
「ユーモア創造力」から,構成する能力・相手に伝達する能力を分断させる必要性が
あると考える。
また「表現力」は,ユーモアを理解し笑うという行為にも含まれ,
「私はこのユー
モアで笑っている」ということを示すための能力でもある。そのため,腹の底から笑
う力や,明るい笑顔なども表現力の一部として捉える。つまり,
「表現力」は“伝え
る”役割のほかに,自分が笑いを認知したことを“知らせる”役割も持っていると考
えられる。
青砥の提案した3領域の概念を,創造力から表現力を独立させ,新たに4領域の
“ユーモア・センス”という概念として調整を行うと,以下のようになる。
筆者の「ユーモア・センス」の概念
・発見力:ユーモアを発見し,理解する能力
・構成力:ユーモアからおかしみを見出し,表現するための内容を構成する能力
・表現力:自分が考えるユーモア的表現を的確に伝える力または笑いの認知を知
らせる能力
・判断力:TPO に応じてユーモア的表現を用いる能力
2つ目に,青砥の定義のままでは,笑いが生起する(ユーモアの伝達が行われる)
までの過程における,ユーモア能力それぞれの関係性が不明確であるいう点である。
そこで,
“ユーモア・センス”によって人間が笑いを認知し,他者へその内容を伝え
るまでの過程を例に考えたい。
ユーモアからおかしみを見出す過程では,何がおかしいのかが分かるために,主に
「発見力」が働くことになる。おかしみを感じてから笑いを認知する過程では,自分
が笑うための「表現力」が必要となる。内容を他者に伝える過程では,主に「構成力」
と「表現力」が働く。
「構成力」は話の起承転結の整理,文章や芸術作品の構成,イ
ンスピレーションなどを司り,
「表現力」は話や文章,芸術作品などを通した,的確
な思いの伝達を司る。
しかし,厳粛な場で笑うと不謹慎であるように,時には TPO に応じて,表現その
ものを自制する必要がある。また,高齢者にはゆっくりと話し,子どもには過激な表
現を控えるように,話し手は状況に応じた機転を利かせなければならない。このよう
−4
6−
創大教育研究
第2
0号:矢島
な配慮に大きな影響を与えるのが「判断力」であり,
「表現力」と密接な関わりを持
つ。これまでの過程をまとめると,以下のようになる。
“ユーモア・センス”の働きの例
―笑いの認知から内容の伝達まで―
1.ユーモアの発見
…発見力(何がおかしいのかがわかる)
↓
2.笑いの認知
…表現力(笑うことで認知を知らせる)
…判断力(TPO に応じて自制する)
↓
3.他者への伝達
…構成力(話の構成を練る)
…表現力(何がおかしいのかを伝える)
…判断力(TPO に応じて,話し方や言葉遣いなどを変える)
「判断力」は,相手にユーモアを伝える上で,重要なカギを握っている。
「判断力」
が欠如していれば,十分な表現を行うことが出来なくなるどころか,場の顰蹙を買
い,聞き手に不快な思いをさせてしまう。この「判断力」が大きく鈍ってしまう状態
こそ,心に緊張や不安を感じている時である。お笑いの舞台でも,芸人が緊張によっ
て客層を読み間違えて,過激な表現に走って興ざめすることがよくある。また,高年
齢の客層にも関わらず,早口で話して空回りすることもよくある。これと同じよう
に,緊張や不安により,自身の心理的余裕を失うと,
「判断力」が鈍り,不適切な表
現が生まれるのである。
心理的余裕は,
“ユーモア・センス”から得られた笑いによって獲得することがで
き,
“ユーモア・センス”は,心理的余裕によって「判断力」が維持・向上される。
以上のことから,筆者が定義するユーモア・センスの4領域のうち,
「判断力」と人
間の心理的余裕は,相互扶助の関係にあるといってもよいだろう。
Ⅵ
ま
と
め
話を学校教育に戻せば,
“ユーモア・センス”は,窮地に立たされた人間に精神的
なゆとりを与え,重大な局面を乗り切るために,新たな価値を創造する機会を与えて
くれる。多忙感を解消し,心理的余裕を獲得できる能力はすなわち,教師の「ストレ
スコーピング能力」であり,その能力は,
“ユーモア・センス”が磨かれることで向
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7−
研究論文:教師の多忙感解消に向けた一つの提案
上していくのである。そして,教師が子どもに適切なユーモア的表現が出来ているか
を自分自身で見極める力が,
“ユーモア・センス”の「判断力」なのである。
「判断力」は,教師の多忙感によって心理的余裕が失われることで阻害される。ゆ
えに,
“殺人クイズ”や“セクハラサイコロ”に見られるような,不適切な授業や発
言が行われてしまうのである。学校教育における不祥事の本質は,教師の授業力・指
導力の低下ではなく,教師の心理的余裕の喪失によるものかもしれないことを強調し
ておきたい。
今回は,教師に求められる資質として,
“ユーモア・センス”という新たな概念の
提案を行ったが,今後その定義を基に,さらに精巧な理論を構築し,教育をとりまく
諸問題との関係性について研究を行っていきたい。また,笑い・ユーモアの効用だけ
でなく,その限界や危険性にも踏み込みながら,笑いの教育的機能について考えてい
きたい。
笑いは両刃の剣のようなもので,決して万能なものではない。親和性を伴う笑いも
あれば,攻撃性をむき出しにした笑いもある。また,笑いあうことで協調性が生まれ
る裏で,話題に入れない人間を置き去りにする排他性も生まれる。このような「笑い
の両義的効果」が,いじめや行き過ぎた悪ふざけなど,時には子どもたちに悪い影響
を与えることも考えられるため,学校現場でユーモアを享受し,笑いを受容するとい
う環境は,いまだ発展途上である。
2
0
0
9年1
1月,BPO(放送倫理・番組向上機構)はテレビのバラエティ番組に対して
意見書を提出した。内容は,バラエティ番組にあふれる笑いの低俗さが,子どもに悪
影響を及ぼしていることを指摘するものであった(24)。番組制作側は,しかるべき反省
を行うにしても,バラエティ番組の笑いがすべてではないし,一部の偏見から,
「笑
いが持つ力」さえも教育界から無下に締め出されるようなことがあってはならない。
教師の中には,
「学校の授業は厳粛に行い,子どもの学校生活にメリハリをつけた
い」
,
「社会の厳しさを今のうちに教えたい」という意見を持つ者もいるかもしれな
い。しかし,スピーチの講演者が,ユーモアを利かせて観衆の心をつかむように,厳
粛で張りつめた雰囲気にも,笑いの息吹が吹き込まれることはある。結局は,学校の
教師一人ひとりの,笑いに対する意識・感性を検討していくことが,笑いと教育の可
能性を探る大きな問題であるともいえる。
注
(1) 藤田英典ら:教職の専門性と教師文化に関する研究(その1) 日本教育社会学会大
会発表要旨集録(4
7) 1
9
9
5 6
6―7
1
(2) 北上正行・高木 亮:教師の多忙と多忙感を規定する諸要因の考察Ⅰ 岡山大学教育
学部研究集録第1
3
4号 2
0
0
7 1―1
0
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8−
創大教育研究
第2
0号:矢島
(3) 小浜逸郎:教師の現象学―近未来の教師像 こころの科学(9
8) 2
0
0
1 日本評論社
3
4―3
9
(4) 山脇由貴子:モンスターペアレントの正体―クレーマー化する親たち 2
0
0
8 中央法
規出版
(5) 上條晴夫:さんま大先生に学ぶ―子どもは笑わせるに限る 2
0
0
0 フジテレビ出版
(6) 家本芳郎:私語・おしゃべりの教育学 1
9
9
0 学事出版 2
6―3
0
(7) 小野田正利は,毎日新聞においてコラム『イチャモンを超えて―学校と親の新たな関
係』を連載。引用文は同新聞の0
9/0
7/0
5付より転載したもの。
(8) 栃木県教育委員会が,平成2
1年3月に『「教員の多忙感に関するアンケート」報告書』
を発表。なお,報告書の閲覧は以下 URL を参照のこと。
http : //www.pref.tochigi.lg.jp/education/kyouikuzenpan/kyouikuiinkai/tabou.html
(9) 布川 淑:教師の多忙と多忙感―公立高等学校教師の教育活動に関する聞き取り調査
にもとづいて 立命館産業社会論集 4
2(3) 2
0
0
6 8
7―1
0
8
(1
0) 病気休職者数の推移
http : //www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2009/12/25/
1288132_13.pdf
(1
1) 毎日新聞の0
9/1
2/2
6付にて,
『病気休職者数の推移』に関して,文部科学省が示した
見解を掲載したもの。
(1
2) 読売新聞1
0/1
0/2
4付掲載の記事より
(1
3) 読売新聞1
0/0
9/1
6付掲載の記事より
(1
4) 産経新聞1
0/1
1/0
8付掲載の記事より
(1
5) 桾本知子:対人関係におけるユーモアと自己表現 総合人間科学:東亜大学総合人
間・文化学部紀要
2
0
0
7 1
1―1
9
(1
6) 椎野 睦:ナラティヴ・アプローチにおけるユーモアによる笑いの効果 カウンセリ
ング研究 vol.
4
1 No.
4 2
0
0
8 2
9
7―3
0
3
(1
7) フロイト,S(高橋義孝訳)
:ユーモア フロイト著作集3 人文書院 1
9
6
9 4
0
6―4
1
1
(1
8)「ひょっこりひょうたん島」歌詞
http : //music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND3
8
7
5/index.html
(1
9) アブナー・ジップ(高下保幸訳)
:ユーモアの心理学 大修館書店 1
9
9
5 序文
(2
0) 織田正吉:ユーモア感覚―あたまにバイパスをつける本 講談社 1
9
8
7
(2
1) 織田正吉:笑いとユーモア 1
9
7
9 筑摩書房
※引用は文庫版(1
9
8
6)2
4
6―2
4
8
(2
2) 有田和正:ユーモア教育で子どもを変えよう 明治図書 1
9
9
3 1
(2
3) 青砥弘幸:学校教育における「ユーモア性」の育成に関する一考察―「ユーモア能
力」という概念の提案― 笑い学研究(1
6) 2
0
0
9 5
9―6
7
(2
4) 放送倫理・番組向上機構:最近のテレビ・バラエティー番組に関する意見 2
0
0
9
−4
9−
研究論文:教師の多忙感解消に向けた一つの提案
The proposition for resolution of teacher’s “busyness” :
From views of a sense of humor to create value
Nobuo YAJIMA
(Graduate Student, Soka Graduate College of Literacy)
In Japan, there has been increasing interest in teacher’s “busyness” since the latter 1990s.
“Busyness” brings on loss of teacher’s psychological allowance, so many teachers put in improper teaching and remarks to children. “Sense of humor” is helpful for teacher’s “busyness”
and stress coping.
“Sense of humor” is made up four elements ; ability of identifying, creativity, expressiveness, and judgment. Judgment in “Sense of humor” and teacher’s psychological allowance help
their maintenance each other. So judgment is the most important element of four “humor
sense” elements.
Keywords : “busyness”, stress coping, psychological allowance, “sense of humor”, judgment
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