...

2012年度報告書

by user

on
Category: Documents
61

views

Report

Comments

Transcript

2012年度報告書
2012 年度
南山大学人文学部人類文化学科
フィールドワーク(文化人類学)Ⅰ1
調査報告書
2012 年度 「フィールドワーク(文化人類学)Ⅰ1」参加者
蟹江
美花
尾関
理江
須賀
和沙
渡邉
桜子
大江
真史
小椋
由貴
横地
葵
渡邉
晃嗣
授業担当者
吉田
竹也
教務助手
柴田
万里菜
中村
綾
はじめに
本書は、2012 年度南山大学人文学部人類文化学科科目「フィールドワーク(文化人類学)
Ⅰ」クラス 1 の報告書である。
「フィールドワーク(文化人類学)Ⅰ」は、人類文化学科のカリキュラムを特色づける
重要な科目である。授業では、大学のキャンパスを離れて、実社会の中に生きる人々に直
接インタビューすることから、文化や社会のあり方を体験的に学習する。その場合、予定
通りに進まないことがままある調査活動――たとえば、インタビューしたい相手になかな
か会えない、インタビューはしたが思ったようなデータが得られない、など――に携わる
中で、失敗を糧に学ぶこと、これが授業の隠れたねらいでもある。マニュアルの効かない
ところで自ら考え行動しつつ、文化の多様性と普遍性について考える文化人類学の視野を
実践的に養う。この授業の目的ないし趣旨はこうした点にある。
今年度の履修者は 8 人で、全員が新規の履修者だった。研究テーマとしては、石垣ある
いは沖縄一般における、サンゴ礁と人々との関わり、エコツアー、塩(マース)、火の神、
御嶽、そして石垣島川平地区の伝統行事であるマユンガナシー、などを掲げていた。春学
期の授業では、研究発表を通して各自の問題関心をより明確化しつつ、こうした研究テー
マの探求に適切な調査地域を絞っていった。結果的に、調査地は昨年度とおなじ石垣島と
なり、市街地からはやや離れているが、観光や伝統文化の面でも興味深い特徴をもってい
る川平地区に拠点をおいて資料収集をおこなうことにした。
夏季の学外での調査実習は、8 月 30 日~9 月 5 日の1週間であった。直前に台風が来た
り、旧盆と重なって一部の予定を変更したりと、すべてが順調だったわけではないが、履
修生は臨機応変に対応した。できるだけおおくの方々にインタビューしながら、地域の文
化の特徴をその場においていわば肌でつかみとるという感覚を、履修者は実感として理解
してくれたと思う。
秋学期には、インタビューで得たデータを最大限生かしながら、これにさらなる肉づけ
をしつつ、報告書の作成作業を進めた。各章で議論が一部重なっていたり、まだ調べが不
十分なところも残っているが、学生たちの書いた各章からは、それぞれの努力のあとと、
話をきかせていただいた方々への謝意や共感は伝わってくるように思われる。フィールド
ワークの授業を通して、人が人とともに人について学ぶ文化人類学の楽しさをわかってく
れたとすれば、それが授業担当者としては何よりの喜びである。
履修者にとって、今回の経験がかけがえのない財産となることを祈りたい。そして最後
に、居心地よい拠点を提供してくださった「お宿かびら」の石垣様ご家族をはじめ、今年
度のわれわれの調査実習にご協力いただいた石垣島、そして川平の方々に、あらためて深
甚の感謝を申し上げ、授業担当者としてのご挨拶にかえさせていただきます。
人類文化学科教員・授業担当者 吉田 竹也
i
謝
辞
今回、本報告書を作成するにあたり、フィールドワークでのインタビューや、その他の
調査活動にご協力してくださった方々に対して、大変お世話になりましたことを深くお礼
申しあげます。
お世話になった全ての方々は親切で温かく、私たちを迎えてくださいました。そして調
査もスムーズにいくように応援してくださいました。そのおかげで、充実したフィールド
ワークを行うことができました。この貴重な経験をもとに、今後の1人1人の人生をより
豊かなものへと生かしていきたいと思っております。
本当にありがとうございました。
お世話になった方々・組織・団体(敬称略)
石垣 兼保
石垣 セイ子
石垣 卓也
石垣 和淑
石垣 安吉
高嶺 英輝
南風野 喜一
長間 靖
宮良ナリ子
村山 愼一
石垣市立八重山博物館
石垣市役所
石垣島エコツアーりんぱな
エコツアーふくみみ
河童の海森学校
サンゴ礁モニタリングセンター
しらほサンゴ村
2012 年度「フィールドワーク(文化人類学)Ⅰ1」授業参加者一同
ii
目
次
はじめに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
i
謝
辞
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ⅱ
目
次
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ⅲ
地
図
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ⅳ
1.石垣島のサンゴ礁と人々
(大江 真史) ・・・・・・・・・・・・・
2.白保のサンゴと人々のつながり
(渡邉 晃嗣) ・・・・・・・・・・
1
6
3.新石垣空港と白保サンゴ礁
(蟹江
美花) ・・・・・・・・・・・・
11
4.沖縄の塩
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
17
5.沖縄の火の神信仰 (尾関
理江)
・・・・・・・・・・・・・・・・
22
6.川平の御嶽 (横地 葵)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
28
(須賀 和沙)
7.川平のマユンガナシー
(小椋
8.石垣島のエコツアー (渡邉
由貴) ・・・・・・・・・・・・・・
35
桜子) ・・・・・・・・・・・・・・・
40
※ 表紙の写真はアンガマの面(石垣市立八重山博物館展示)
iii
沖縄本島
宮古島
石垣島
地図1:沖縄県における石垣島の位置
平野
平久保
久宇良
明石
伊原間
野底
川平
伊土名
米原
大嵩
伊野田
吉原 山原
稃海
崎枝
星野
名蔵
嵩田
三和
冨崎
宮良 白保
大浜
地図2:石垣島地図
http://technocco.jp/n_map/n_map.html
(2012 年 1 月 25 日取得)
iv
2012 年度
南山大学人文学部人類文化学科
フィールドワーク(文化人類学)Ⅰ1
調査報告書
2012 年度 「フィールドワーク(文化人類学)Ⅰ1」参加者
蟹江
美花
尾関
理江
須賀
和沙
渡邉
桜子
大江
真史
小椋
由貴
横地
葵
渡邉
晃嗣
授業担当者
吉田
竹也
教務助手
柴田
万里菜
中村
綾
1.石垣島のサンゴ礁と人々
大江 真史
1.はじめに
石垣島には、美しいサンゴ礁の海が存在している。そのサンゴ礁は、海に生息する生物
たちだけではなく、人々にも漁業、観光などの面で影響を与えている。しかし、近年そん
なサンゴ礁を脅かす問題が起こっている。本稿では、石垣島の白保地区を中心に、サンゴ
礁の生態系とサンゴ礁と人々の関わり、破壊問題、またその保全活動を行っている組織に
ついて記述する。
2.サンゴ礁の生態系
サンゴは、骨をもったイソギンチャクにたとえられる動物で、石灰質でできた丈夫なよ
ろいに覆われていて、ポリプという単体からできている。ポリプ内にいる褐虫藻という藻
類が、光合成によってつくる栄養分をもらい成長している。昼は、褐虫藻にたっぷりと光
が届くように触手を縮めており、一方、褐虫藻も
サンゴの硬い殻と毒のある触手で守ってもらって
いる。夜になると、褐虫藻が光合成をしないため、
ポリプは、触手を伸ばして海中のプランクトンを
捕まえて食べる。また、サンゴは、熱帯・亜熱帯
地方の暖流が流れている浅瀬の海に広がっており、
動物性プランクトンが少なく、透明で、太陽光が
深くまで届く海で発達する。サンゴ礁にはカニや
エビなどの甲殻類、貝類、カイメン、フジツボな
写真1
サンゴ礁が広がる海
ど数多くの動物が棲んでいる。それらはサンゴを食べ、枝のすきまを隠れ家として利用し、
骨の中に埋まって安全に暮らしている。そして、サンゴが死滅してしまうとこうした動物
たちも死んでしまう。海に生息する生物の 4 分の 1 が、サンゴ礁の自然に関わって生きて
いると言われるほどであり、こうしたことから、サンゴ礁は海の熱帯林と表現されている。
白保の海には、世界でも最大級といわれるアオサンゴ大群落がある。このアオサンゴの
他に、ハマサンゴ・ミドリイシ・キクメイシ・コモンサンゴなどが生息している。また、
グレートバリアリーフのように、海岸から数十キロも沖合に形成されるサンゴ礁とは異な
り、白保のサンゴ礁は、海岸の目の前に広がっており、誰でもサンゴを見ることができる
(①⑦)
。
1
3.サンゴ礁と人々の関わり
サンゴ礁は、現在まで漁場としても利用されてきた。その漁法は様々であり、徒手採集
釣り・投網による個人的な漁、船などを利用した伝統的漁法など様々ある。主に獲れるも
のは、イセエビ・タコ・シャコガイ・ウニなど
である。観光面においては、船底がガラス板に
なっていて、海を見ることができるグラスボー
トや、シュノーケルを身につけて海を游泳する
シュノーケリングがさかんである。石垣島では
川平のグラスボート、白保のシュノーケリング
がある。実際、私も川平のグラスボートを体験
して、サンゴの美しさやそこに棲む魚の多さに
写真2
改めて気づかされた。
サンゴ礁で作られた石垣
また、サンゴは、人々の生活の身近なところにおいても活用されている。写真 2 のよう
に、集落の周りの石垣は、サンゴによって作られている。他にも、沖縄で有名なシーサー
の原料にもサンゴが使われることがある。
4.サンゴ礁の破壊問題
現在、サンゴ礁を脅かす問題は様々ある。そしてその主な問題は、オニヒトデの大量発
生、赤土流出、白化現象である。
4-1.オニヒトデの大量発生
オニヒトデは、生きたサンゴを食べるサンゴの天敵である。中でも枝状のミドリイシ類
を好んで食べる。その結果、サンゴは死滅するが、しばらくの間は骨格がほぼそのままの
状態で残るので、この間は、サンゴのポリプを食物として暮らしている種以外の魚類は、
影響を受けることは少ない。そして、骨格が崩壊してしまうと、サンゴ礁がもとに戻るま
で約 20 年かかると言われており、
その間にサンゴ礁と共に生きてきた動物も死んでしまう。
通常は、オニヒトデがサンゴを食いつくす前にサンゴが回復するので問題はないとされる。
しかし、大量発生してしまった場合は、回復が間に合わないためサンゴを死滅させてしま
う。このオニヒトデの大量発生の原因ははっきりしておらず、人為的原因が関わっている
という説もあれば、まったくの自然現象であるという説もあるが、いずれにせよ生態系の
バランスが崩れたことによるものである。
沖縄では、1969 年に初めてオニヒトデの大量発生が起こった。白保で観光業を営み、白
保魚湧く海保全協議会に所属しているAさんは、石垣島では、30 年前にオニヒトデが大量
発生して西部の御神崎でサンゴが全滅したが、今は回復していて、オニヒトデは北部に多
い、という。また、白保は、地上から海に行くとき一旦沈んでまた浮き上がってから沈む
2
という特質な地形である。そのため、オニヒトデは、浮き上がっている所にぶつかってし
まい、その場所から前に進めなくなる。そして、白保のサンゴ礁の多くは、一旦沈んでい
るところに生息しているため、オニヒトデによる被害は、その他の地域に比べて少ないと
されている(①②③④)
。
4-2.赤土流出
赤土とは、粒子の細かい赤茶色の土のことである。一般には、沖縄本島北部、久米島、
石垣島などに分布している国頭マージという土壌を指す。これが、亜熱帯特有の強い雨が
降るたびに地表から流れ出し、水路や川を伝って海へと流れ込む。そして海水の透明度の
低下を引き起こす。これにより、光が届きにくくなり、褐虫藻は栄養が作れなくなる。ま
た、サンゴに赤土が堆積してしまうと、サンゴは呼吸が出来なくなってしまう。石垣島に
は、川が流れていたり、サトウキビ栽培を行っているため、赤土が多く流出している。A さ
んも「年々増えている。白保では赤土が 1 番深刻だ」という(⑤)
。
4-3.白化現象
白化とは、何らかのストレスを受けた褐虫藻が、サンゴの体内から逃げ出し、その結果、
サンゴが色素を失って白く見えるようになることである。ミドリイシ類やハナヤサイサン
ゴ類が白化しやすい。白化したサンゴは、褐虫藻を失うために光合成ができず、栄養が十
分に確保できなくなる。しばらくすると、褐虫藻が元に戻り、白化が解消される場合もあ
るが、白化が長時間に及ぶと、サンゴは死滅してしまう。そして、その死骸がさらに海藻
などに覆われ、新しいサンゴも育たなくなり、サンゴ礁自体が壊滅してしまう、というこ
とが起きる。1998 年に白保で大規模の白化現象が起きた時は、サンゴに棲むエビやカニも
激減したといわれている。白保では、ここ数年でも、規模は小さいながらも、サンゴ礁の
白化は確認されている(④⑦)
。
5.サンゴ礁の保全活動
現在、サンゴ礁を守ろうとする活動は多くの組織、団体で行われている。ここでは、そ
の内の「しらほサンゴ村」と「白保魚湧く海保全協議会」について記述する。
5-1.しらほサンゴ村
しらほサンゴ村とは、2000 年の春、石垣島白保のサンゴ礁を保全するために、WWF(世
界自然保護基金)ジャパンが設立した施設である。WWF は、1961 年にスイスで設立され
た環境保全団体である。当初は野生動物の保護が目的であったが、1980 年代からは自然環
境の保全へと活動範囲を広げ、現在世界約 100 ヵ国で活動している。
3
しらほサンゴ村の主な活動として、環境モ
ニタリング調査、白保日曜市の運営支援、白
保魚湧く海保全協議会への支援、などがある。
なお、白保魚湧く海保全協議会については後
述する。
環境モニタリング調査は、年 1 回、白保の
海域で実施されており、調査の対象となるのは、
魚類やシャコガイ、クモガイなどの貝の仲間、
イソギンチャク、ヒトデ、ウニ、ナマコなど
写真3
しらほサンゴ村
である。これらの野生動物たちは、サンゴ礁の健全性を示すバロメーターである。また、
見られる生物の変化は環境の変化と関わりがあり、これらの動物たちを観察することによ
って、サンゴ礁の現状を把握することもできる。他にも、いくつかのポイントで、海水温
の連続測定や白化の有無などのサンゴの定点観測を毎月行っている。
白保日曜市は、島に伝わる自然や文化をうまく利用した暮らしを受け継ごうと、2005 年
9 月にスタートした。当初は、月 1 回の開催であったが、現在は、第 1、第 3 日曜日の月 2
回の開催となっている。しらほサンゴ村勤務の B さんは、基本的に地元の人が作った野菜
や魚を売っていて、他にも月桃という植物からエキスを出してスプレー状にして売ってい
る、という。このスプレーには防腐剤の効果がある。また、月桃は強い根を張るため、農
地に植えることによって、赤土流出を防ぐことができる。実際、月桃がしらほサンゴ村の
玄関口に生えているのを確認した(⑤⑥⑦)
。
他にも、B さんからサンゴの移植について聞くことができた。サンゴの移植は、沖縄本島
では積極的に行われているが、八重山地方ではそれほど行われておらず、しらほサンゴ村
でも積極的には行っていない。移植に関して反対の人たちは、同じ遺伝子をもったサンゴ
を移植するため、そのサンゴがストレスに弱かったりした場合やサンゴの単純化という問
題が起きてしまうという主張をしているが、一方では、とにかくサンゴの個体数が少なく
なっているから移植を行っていくべきだ、という声も出てきている。また、しらほサンゴ
村では、水槽でサンゴの養殖をして実際にどのくらい成長するのか、といった展示をする
という予定がある。
5-2.白保魚湧く海保全協議会
白保魚湧く海保全協議会は、2005 年 7 月 15 日に設立された組織であり、漁業関係者を
始め、婦人会や青年会に所属している人などで構成されている。主な取り組みは、サンゴ
礁の利用形態の維持・発展、白保周辺の自然・生活環境の保全と再生、垣(かち)の復元・
活用であり、地域の持続的な発展を目標としている(垣については、本報告書第 2 章を参
照)
。他にも、年に 1~2 回オニヒトデの駆除作業、シャコガイの放流、海岸の清掃活動、
4
白保小・中学校の子どもたちやその親にシュノーケリング体験の実施などを行っている。
Aさんは、今まで、海に入ったことがなかった大人もいて、こうしたシュノーケリング体
験を通して、サンゴ礁の美しさに驚いたり、大切さを学んだりした人も多くいる、という。
また、しらほサンゴ村やダイビング事業者と連携して、活動を行ったりもしている(⑦⑧)
。
6.おわりに
今回の調査で、サンゴ礁に対する保全の取り組みによって、徐々にではあるが、サンゴ
礁の破壊が少なくなってきていることがわかった。しかし、この保全の取り組みやサンゴ
に対する意識は、地元の人と移住してきた人との間で若干違っているということにも、気
づかされた。地元の人にとってはサンゴがあるのが当たり前であり、中には大人になって
も 1 度も海に入ったことがない人もいるらしい。また、月桃を植えて赤土流出を防ぐグリ
ーンベルト大作戦においても、月桃を植えることによって農地面積が減ってしまうため、
植えることを承諾してくれる農家の人はかならずしも多くないということも聞いた。
しらほサンゴ村や白保魚湧く海保全協議会は、地元の人との関わりを大切にしており、
定期的に集会を開いたり、海岸清掃を行ったりするなど、地元の人との関わりは深まって
きている。
私は、今後、少しでも多くの人が、サンゴの美しさを知ってもらい、サンゴを守ってい
く意識を持っていくことが大事だと思った。
参考文献
① 森啓 1986 『サンゴ――ふしぎな海の動物――』
築地書館
② 石川徹也 2001 『日本の自然保護 尾瀬から白保、そして 21 世紀へ』 平凡社新書
③ 山里清 1991 『サンゴの生物学』 東京大学出版会
④ 土屋誠・藤田陽子 2009 『サンゴ礁のちむやみ 生態系サービスは維持されるか』 東
海大学出版会
⑤ WWF ジャパン 2012 『WWF Magazine for WWF supporters No.370』WWF
⑥ WWF ジャパン 2010 『WWF ジャパン 年次報告書 2009/2010』WWF
⑦ WWF
サンゴ礁環境保護センター
しらほサンゴ村
http://www.wwf.or.jp/shiraho/
(2012 年 12 月 9 日取得)
⑧ 白保魚湧く海保全協議会 http://www.sa-bu.com/ (2012 年 12 月 9 日取得)
5
2.白保のサンゴと人々のつながり
渡邉 晃嗣
1.はじめに
沖縄というものをイメージした時に、まず連想されるのは青く透き通った海である。石
垣島の海は透明度も高く、なによりサンゴ群落を身近に見ることができる。環境問題が様々
なメディアで騒がれている現在、サンゴもまた例外ではない。私は、現地の人々がこのサ
ンゴとどのように向き合って生活しているのかを調査した。本稿では、サンゴと人々の関
わりに焦点をあてて述べていく。
2.命つぎの海
周囲に群生している、アオサンゴ群落の学術的な貴重さが、新石垣空港建設問題によっ
て明らかになる前から、白保集落の人々にとって、海は「命つぎの海」という存在だった。
「命つぎの海」というのは、社会的にどんな変化が起きたとしても、この海さえ残ってい
れば海にすがって必ず命だけはつないでいける、という意味の言葉である。過去の例では、
戦争によって集落の生活がどん底に陥ったとき、人々は、この海から食べ物を得ることに
よって生き延びることができたという。
白保集落は、見渡してみると漁船が多くみられるが、実は沖縄県有数の耕地面積をほこ
る農村集落である。この豊かな農地の土壌は、サンゴ礁に由来する島尻マージからできて
いる。これは主に沖縄南部、宮古島に分布し、サンゴ石灰岩を母材とする暗赤石土で、石
垣島においては南部に多くみられる。「命つぎの海」と呼ばれる多くの生物を育む海は、サ
ンゴに共生する褐中藻の光合成によって助けられている。サンゴ礁生態系が陸と海の豊か
さの源である。
現在も、お年寄りが潮にあわせておかず取りを行うイノー(礁地)では多くの海草や貝、
魚などの食料を手に入れることができる。また、集落を歩くと目に付く石垣や、木造家屋
の柱を支える基礎、踏み石、井戸の囲いにもサンゴが使用されている。屋根の赤瓦を留め
る漆喰はサンゴを焼いて作られている。いずれもサンゴの恵みである。調査中は、白保の
海で取れる海草の代表格であるアーサ採りに励む集落住民の姿を確認することもできた
(①)。
3.垣
白保に古くからあり戦後もしばらく行われていた漁法に、
「垣(カチ)」がある。垣とは、
沿岸部の浅瀬にサンゴの石垣を積み、満潮時に海岸の海草を食べにきた魚が、干潮時に石
垣にはばまれ戻ることができず、潮溜まりに身を寄せているところを網や手づかみで捕る
6
という、潮の干満を利用した漁法である。国内に現存するものは、文化財などに指定され
保存されている。かつては、白保の海岸のほとんどに設置された垣だが、市街地の埋め立
ての際に運び出されたということと、台風のよって徐々に壊されたこともあり、次第に使
われなくなっていった。現在では、石積みに使われた石も、海岸付近浅瀬に点在する石が
当時の面影を残すのみとなっている。はっきりしたことはわからないが、白保には、垣が
13、14 ヶ所あったとされている。
2006 年には、白保住民による保全団体「白保魚湧く海保全協議会」が「しらほサンゴ村」
とともに、白保の子どもたちが海の体験学習を行うということを目的として、沖縄県知事
の特別の認可を受けて、垣を、完全なものではないが、復元した。白保魚湧く海保全協議
会会員で、白保で観光業を経営している A さんに、このような活動がなければ現在の子供
たちは海や垣に触れる機会はないのかと訊くと、
「ない。子供たちの親の世代では、海に入
ったことすらない人もいる。親も、子供と一緒にシュノーケリングに参加することで、は
じめて海やサンゴのきれいさに驚く」という。なお、白保魚湧く海については後述する
(①②④)。
4.しらほサンゴ村
現地の人々だけでなく本島の人々も白保との関わりを持っている。サンゴ礁保護研究セ
ンターしらほサンゴ村は、2000 年の春、石垣島白保のサンゴ礁を保全するために、世界的
な自然保護団体である WWF が設立した施設である。
現在、しらほサンゴ村では、白保の人々とともに、サンゴ礁の保全活動と持続的な海の
資源利用に取り組んでいる。その活動は多岐にわたる。主なものとして、第 1 に、昔の生
活や海の利用方法などについて、白保の人々への取材調査を実施している。現在も続くア
ーサ採りなどの聞き取り、映像記録や関連する道具の収集を行っている。第 2 に、白保で
利用されている海洋資源などの生物学的な情報を大学や水産試験場などの研究機関との連
携により収集、整理することで、白保の人々が経験的に習得されてきた伝統的な知恵との
比較等を行う、などがある。
これらの調査の結果を基に、展示物の作成やセミナーなども開催し、持続的な資源利用
と自然環境の保全について、白保の人々とともに考える機会を提供している。また、地域
の人たちが主体となったイベントも開催している。しらほサンゴ村は、直接的な普及や教
育の活動とは違った形でも、地域のさまざまな取り組みに参加している。さらに、しらほ
サンゴ村を会場にしたコンサートなども開催している。地元の人々に日常的に来館できる
ような工夫をしているほかに、島外からの人々と地域の交流の場となることをめざしてい
る。
しらほサンゴ村が行う生物多様性の調査は、サンゴ礁の現状を詳しく知り、どのような
保全活動を行うべきかを決める、基礎となる大切な活動である。大学の研究者などの専門
7
家と協力しながら、サンゴやサンゴ礁に生息する魚類、カニなどの甲殻類、貝やウミガメ、
鳥類など、さまざまな野生生物について調査を実施している。一部はしらほサンゴ村が設
立される以前から継続して行ってきた。年 1 回、白保の海域でモニタリング調査を実施し
ているほか、いくつかのポイントで海水温の連続測定や白化の有無などのサンゴの定点観
測も毎月行っている。モニタリング調査の対象となるのは、魚類はもちろんのこと、シャ
コガイやクモガイなどの貝の仲間や、イソギンチャク・ヒトデ・ウニ・ナマコなども含ま
れる。これらの野生動物たちは、サンゴ礁の健全性を示すバロメーターである。環境がど
のように変化したか、それにより、見られる生物はどのように変わるのか、サンゴ礁の自
然の現状を把握しようと試みている。この調査の結果等に基づいて、環境保全のための提
言を行っている。また、調査の結果は、地域の人たちが身近な自然の姿やあり方をあらた
めて見つめ直し、海と共存してゆくためのアイデア作りにも役立てている(④)
。
5.白保魚湧く海保全協議会の成り立ち
しらほサンゴ村は、里海再生活動等を通じて地元住民の理解を得るとともに、空港問題
の他に人口流入による希薄化等の課題を抱える地域社会の再生へも活動を広げている。こ
のような活動が浸透するなかで、2005 年に「白保魚湧く海保全協議会」が設立された。地
元公民館の支援を得ながら、サンゴ礁の利用ルール策定や畑の赤土流出対策など、多様な
環境保全活動が推進されている。しらほサンゴ村は、かつて地先の海を大切にしていた地
域社会を取り戻すことが、住民の主体的なサンゴ保全活動に必要であるという考えのもと、
地域再生を目指す公民館の活動を積極的に支援した。これと並行して住民による白保魚湧
く海保全協議会の活動を事務局として推進したことが、地域再生にも大きく貢献し相乗効
果をあげている。
活動は、先述した復元した垣をつかった課外学習、海岸清掃、親子でのシュノーケリン
グ体験など、子供たちに海の豊かさを伝えようと努めている(④⑤)
。
6.白保のサンゴの現状
現在のサンゴは、様々な要因から死滅の危機にさらされている。地球温暖化の影響によ
る水温上昇が原因と考えられている白化現象、オニヒトデの大量発生による食害、赤土の
海水への流出による水域の汚染など、である。
しらほサンゴ村の調査報告によると、サンゴ減少の大きな要因は赤土問題である。赤土
とは、琉球列島の島々にみられる粒子の細かい赤茶色の土のことであり、沖縄では国頭マ
ージと呼ばれる。石垣島でも、南部を除き北中部の大半はこの国頭マージであり、これが
亜熱帯特有の強い雨が降るたびに地表から流れ出る。海に流れ出た赤土は、サンゴをはじ
めとするさまざまな生きものたちに打撃を与える。赤土自体に毒性などはないが、粒子が
細かいため、一度水に混ざると、なかなか沈殿せず、水を長時間にわたって濁らせる。そ
8
のため、雨が止んだ後も日光が遮られ、サンゴは体内に共生している藻類による光合成が
できなくなり、栄養不足で死んでしまうことがある。また、直接赤土を被った場合も、サ
ンゴは大きな打撃を受ける。白保の集落の北には轟川が流れており、大雨が降ると、この
川の周辺にある畑などから流れ出た赤土が、水路を通って川に流れ込み、そのまま海へ運
ばれる。こうして、白保の海域にもたくさんの赤土が流入している。
サンゴ礁への赤土流出は、排水の効率を重視した土地整備や河川の直線化・コンクリー
ト化を進めた結果、顕著になったと考えられている。A さんは、赤土の問題について、
「年々
増えている。雨や川があるとどうしても赤土は流れてくる。農業における土地開発、改良
でサトウキビ栽培を行っているため、赤土が出やすい」という。
先述したしらほサンゴ村では、白保の海に流れ込む赤土の調査を実施している。陸では、
大学の研究グループなどと協力しながら、轟川周辺でどのような形で土地が利用されてい
るか、流出しやすい場所などを調べている。海では、年 4 回の赤土調査を実施している。
季節による赤土の流入の変化や、海底の砂にどれくらい赤土が混ざっているか、などを調
べる。調査は、白保の海域に設置した複数のポイントで継続的に行っている。海水や海砂
の採集には、カヌーやシュノーケルを使い、分析を行っている。これらの調査には地元の
人々も参加している。
この調査結果によると、リーフエッジに近い沖側のフタマタクムイ、モリヤマグチでは、
平均 25%以上だった被度が 10%前後まで減少していた。その直接的な要因として、大型台
風や白化を挙げたうえで、
「赤土など陸域の物質が多量に流入し、サンゴ礁にストレスを与
え続けている」と指摘した。特に赤土については「健全なサンゴ礁の限界か、それを超え
る堆積量が続いている」と懸念し、
「県や市の対策事業が進められているが、サンゴ礁環境
の明瞭な改善には至っていない」とした。ただ、
「白化から回復したサンゴや、新たなサン
ゴの加入なども確認されており,回復の可能性はあることが示されている」とも述べ、サ
ンゴ礁の環境を回復させる取り組みの重要性を強調している(⑤)。
7.赤土問題への取り組み
白保では海へ赤土流出を抑制するために、2012 年にグリーンベルト大作戦が実施された。
これは、白保魚湧く海保全協議会が呼びかけ実現したものである。協議会では、設立当初
から「海のことだけをやっていてもサンゴは守れない」
「サンゴを守るためには赤土を止め
なければ」との意見が出され、赤土流出対策への取り組みが課題となっていた。そこで、
提案されていたのが、赤土流出の源になっている畑の周辺に、グリーンベルトを設置する
というものだった。
グリーンベルトは、根の強い植物を帯状に集中的に植えることで、雨で土が流れるのを
防ぐというものである。白保では、月桃というショウガ科の在来植物が採用された。しか
しながら、このグリーンベルトを植えてしまうと、農機具の出し入れの邪魔になってしま
9
い、農地の一部を削ってしまうため、少しでも収量を上げたいと考える農業者の方々の気
持ちと相容れないこともあり、あまり広がっていないのが現状である。この解決策として、
月桃の葉や茎から蒸留し、デオドランド商品を開発するなど経済価値を持たせ、農家の負
担を減らす工夫をとっている。植付け用の月桃の苗は、石垣市より無償で提供を受けた(⑤)。
8.おわりに
前章でも触れている点であるが、今回の調査で印象的だったのは、白保のサンゴにたい
しては、内地から来ている人々が積極的にその保全活動に取り組んでいる一方、現地の人々
にとっては、サンゴはあって当然なものと思われているところがある、という話を聞いた
ことである。私も実際に見てみて、白保の海の美しさに感動し、この海が汚染される可能
性があるとは思えなかった。A さんも、観光業に就いてから、白保の海の大切さに気づいた
という。
「命つぎの海」と呼ばれてきた白保の海は、いままで集落の人々の生活を支え、たくさ
んの生命を育んできた。現在死滅の危機にさらされているこの海だが、集落の人々と、内
地から来た人々が協力してこれからも「命つぎの海」という呼び名を受け継いでいってほ
しいと思う。
参考文献
① 野池元基 1990 『サンゴの海に生きる――石垣島・白保の暮らしと自然』 中央公論
社
② 鈴木 款・土屋 誠・大葉 英雄・ 日本サンゴ礁学会(編) 2011 『サンゴ礁学――未
知なる世界への招待』 東海大学出版社
③ 土屋誠・藤田陽子 2009 『サンゴ礁のちむやみ――生態系サービスは維持されるか』
東海大学出版社
④
WWF サンゴ礁環境保護センター しらほサンゴ村
http://www.wwf.or.jp/shiraho/ (2012 年 12 月 1 日取得)
⑤
WWF ジャパン 2012 『WWF Magazine for WWF Supporters WWF 7/8 (Vol.42
No.370) WWF
10
3.新石垣空港と白保サンゴ礁
蟹江 美花
1.はじめに
2013 年 3 月 7 日に、石垣島東部に「新石垣空港」が開港する。新石垣空港建設地である
白保地区の海には、海域公園地区1に指定されるほどの貴重なサンゴ礁が存在している。白
保に新石垣空港が建設されることによって、白保のサンゴ礁にはどのような影響があるの
だろうか。私は、白保のサンゴ礁を観光資源と捉え、調査した。
本稿では、まず白保のサンゴ礁、新石垣空港建設の概要を述べ、新石垣空港建設がサン
ゴ礁へ与えるかもしれない影響と問題、問題への対策、実際に新石垣空港や白保のサンゴ
礁に関わる人々へのインタビュー調査でわかったことを、記述していく。
2.白保の貴重動植物・自然
石垣島の白保地区には貴重な動植物が多く生息している。そのなかでも石垣市の鳥とさ
れているカンムリワシやヤエヤマコキクガシラコウモリなどの 3 種類の小型コウモリ類、
オオハナサキガエルやコガタハナサキガエル、イシガキカラスウリなどの 18 種類の植物は、
絶滅危惧種に指定されている(②)
。
また、白保のサンゴ礁には、学術的に貴重な北半球最大で最古のアオサンゴ群落、黄色
いユビエダハマサンゴ、花のような形のウスコモンサンゴ、ハマサンゴ、エダサンゴなど
多様なサンゴが存在している。さらに、サンゴ礁を住みかとして魚や貝、エビ、カニなど
の水棲動物も多く見られるため、生物学的にも貴重である(⑦)
。
このようなサンゴ礁、サンゴ礁のまわりの水棲動物を観光資源として、インターネット
の観光サイトでは「石垣島の名所・観光スポット」として紹介されており、ボートで行く
シュノーケリングツアーやグラスボートなどのサンゴツアーが組まれるなど、観光に活用
されてもいる(⑧)
。
実際に白保で観光業を営む 50 代男性の A さんのところでは、年間 1000 名ほどの観光客
が、サンゴ礁を見るためにシュノーケリングツアーに参加するという。
3.新石垣空港
先述したように、石垣島では 2013 年、白保地区に新石垣空港が開港予定である。新石垣
空港は「南(ぱい)ぬ島空港」という愛称もあり、開港に向けて様々な PR 活動が行われて
いる。
1
海域公園地区とは、海域の優れた景観を維持・保護しなければならない地区である(⑤)。
白保は 2007 年 8 月 1 日に国から海域公園地区に指定された。
11
3-1.新石垣空港建設理由
石垣島には南東部の市街地である真栄里地区に石垣空港がある。石垣空港はいくつかの
課題を抱えており、さらに石垣島を含む八重山圏域の振興発展を考えると、新石垣空港が
必要になってくる。
主な理由として、1 つめに空港の利用率が増加していることがある。年間の乗降客数は
2016 年には 224 万人になることが予想されており、石垣空港では対応困難であると見られ
ている。2 つめは、石垣空港ではコンテナ輸送ができないことにある。滑走路が 1500m し
かないため、貨物のコンテナ輸送が可能な中型ジェット機の運行ができない。そのため、
八重山の農水産物を直接東京や大阪などの大消費地に運ぶことができず、那覇でいったん
積み替えて運んでいる。このことが、八重山のさらなる産業振興・発展を阻んでいるとこ
ろがある。3 つめは、現在の石垣空港の周辺住民が航空機騒音に悩んでいることである。空
港周辺は急速に市街地化が進行し、地域住民に航空機騒音被害が広がっているため、早く
新たな場所で新空港を建設するよう強い要請がある。4 つめは、飛行機の輸送能力と安全性
の向上を図ることである。滑走路が短いため、重量制限が課されたまま小型ジェット機が
運行しており、大量輸送としての飛行機の性能が十分に発揮されておらず、また、離着陸
における安全性の向上の面からも、2000m の滑走路を持つ新空港が必要である。また、石
垣空港は周辺に、文化保護法により指定されたフルスト遺跡や既成市街地があることから
拡張ができない(①⑥)
。
石垣市役所企画部企画政策課の男性職員のBさんは、「石垣空港のジェット化は、周辺住
民の方々の理解を得て 1979 年に暫定的にされたもの。石垣空港はジェット機対応の空港で
はない。そのときから新空港の必要性が考えられた」という。
3-2.新石垣空港建設位置
新石垣空港建設位置が現在の場
所に決定するまで、長い時間がかか
っている。
1979 年、
現在の位置とは異なる、
白保の海上に「新石垣空港」の建設
計画が発表された。この計画では、
当時有名ではなかった白保のサン
ゴ礁は埋め立てられる予定だった。
この計画に対し、地元白保の人々の
多くは反対運動を展開した。白保の
図1
新石垣空港建設候補地(①)
Aさんは、
「当時、白保で民宿を営んでいた人たちが反対運動として、グラスボートなどを
12
使ってサンゴ礁や海のきれいさを知ってもらい、サンゴ礁を守ろうとしたことで白保のサ
ンゴ礁の知名度が上がった」という。その後、自然保護団体や環境団体も反対運動に加わ
り、白保の海上を埋め立てる計画は中止となった。新石垣空港建設計画の発表から約 20 年
の間に、建設位置は白保の海上からカラ岳東側海上、宮良地区と変更を重ねた。その後、
新石垣空港建設位置選定委員会を設立し、2000 年に現在のカラ岳陸上が建設位置として決
定された。カラ岳とは、白保集落の北端に位置する小さな山のことである。この計画によ
り、カラ岳の一部が削られ、サンゴ礁の広がる海の目の前まで工事が行われている(①⑦)
。
3-3.新石垣空港の可能性
沖縄県新石垣空港課によると、新石垣空港ができることで以下のメリットがある。まず
中型ジェット機の就航が可能となり、将来予想される 200 万人以上の乗降客に対応できる。
それによって、より多くの観光客を運ぶことが可能になる。観光客が増えることで観光業
が発展し、関連事業が増え、若者が仕事を求めて島を離れることが少なくなる。また、狭
くて混雑している石垣空港のターミナルよりも広いターミナルができるため、快適なサー
ビスが提供可能になる(①⑥)
。観光客にとって使いやすく快適であるだけでなく、特に地
元の観光業の発展にもメリットがあるとされている。
石垣市役所職員のBさんは、
「観光客は増えるだろう。東京や大阪への直行便も増えるだ
ろうし、国内線だけでなく、香港・台湾・韓国などからの国際線が開通すれば、さらに観
光客が増えると期待している」という。一方で、白保のAさんは「ジャンボジェット機が
飛ぶなら(観光客は)増えるだろうが、そういうわけでもないので、すぐに増えるとは思
っていない」という。開港直後の観光客の増大は難しいかもしれないが、PR活動を続け、
知名度があがれば、中長期的には観光客の増大が見込まれる、と私は考える。
4.新石垣空港建設における環境への配慮
新石垣空港建設によって観光客の増加・観光業の発展が見込まれる一方で、考えなけれ
ばならない問題もある。新石垣空港建設地の白保では、天然記念物や希少種などの様々な
動植物の生息・生育が確認されるとともに、海域には多様なサンゴ礁が広がっている。新
石垣空港課は、「豊かな自然環境の保全を図ることを最優先の目標として取り組んでいる」
とパンフレットで述べている(①)。市役所職員のBさんも「(建設において)環境を守る
ことは大前提としてある」という。
4-1.赤土問題と対策
現在、沖縄県のサンゴ礁はさまざまな要因により消失している。
その要因の 1 つに赤土汚染の問題がある。赤土とは、沖縄県の面積の約 55%を占め、土
壌粒子が小さく、水はけの悪い赤茶色の土、国頭マージのことである。沖縄の強い雨は、
13
赤土を浸食し、川を通ってサンゴ礁の海へと流出する。赤土の流出によって、サンゴ礁は
大きな被害を受けることになる。サンゴの体内には褐虫藻と呼ばれる藻が存在しており、
この藻が光合成によって作り出す養分に、サンゴの生長は助けられている。水中に漂う赤
土が光合成に必要な太陽光線をさえぎれば、サンゴの生長は悪くなり、さらに汚染が進む
とサンゴ自体に赤土が付着してサンゴは死滅してしまう。また、赤土が岩盤に堆積すると、
サンゴの幼生の付着する場所が失われ、サンゴの再生もできなくなる(③④)。
新石垣空港建設地の南西部は、轟川流域の盛山地区に隣接しており、土壌は赤土である。
白保では、轟川流域の耕作地(サトウキビ畑等)から海域への赤土流出による白保サンゴ
礁の生態系への影響が社会問題となっている。
これに対し、沖縄県新石垣空港課は、赤土等流
出防止対策では濁水を海域に直接流出させない
ことを基本とし、以下の 3 つの対策をしている。
1 つめは、表土保護による対策である。土工事
を年度ごとに施工エリアを分割することで、裸地
面積を小さくする。裸地にはシートで被覆するこ
とで、直接雨が赤土に触れないようにして、土砂
の流出を抑える。また、施工後は法面の安定と濁
図2
シート被覆(⑥)
図3
種子吹付(⑥)
水防止のために種子を吹きつけ、植物を定着させ
る。種子が生育するまでは、土壌団粒化剤で土壌
を固める。法面を緑化することで、赤土の流出を
抑える(①②⑥)
。
2 つめは、濁水処理である。工事区域内で発生
する濁水は、基本的に浸透池・調整池において地
下浸透処理をすることで、赤土の海域への流出を
防ぐ。浸透池・調整池により、濁水は県条例の排
出基準である 1 リットルあたり 200 ミリグラム以下の赤土が混ざっている水にまで処理さ
れ、地下浸透する。また、仮設調節池の浸透能力を超える降雨が発生した場合は、機械処
理を併用して、濁水濃度を 1 リットルあたり 25 ミリグラム以下の赤土が混ざっている状態
にして轟川に放流する(①②⑥)
。
3 つめは、委員会の設立である。工事中は「建設工法モニタリング委員会」を設置し、赤
土等流出防止対策が所要の機能を発揮していることを確認する。建設工法モニタリング委
員は、学識経験者 6 人で構成されており、2006 年 10 月から 2012 年 8 月までの間に 7 回の
審議が行われている(①⑥)
。
また、降雨時には空港建設以外の土地もパトロールして轟川流域の赤土等流出防止に協
力している。以上のような対策を行うことで、新石垣空港建設現場から赤土流出を防ぎ、
14
海域のサンゴ礁への影響を最小
限にする。
4-2.地下水保全
赤土等流出だけでなく、汚染
された地下水が海に流出するこ
とによるサンゴ礁への影響も考
えなければならない。
図4
地下水の浸透(⑥)
新石垣空港課では、供用後の
空港に降った雨は、現在の地下水位を保つため、透水性区域では基本として地下へ浸透さ
せる。そのため、空港盛土構造内に雨水を地下浸透させる浸透層(ドレーン層)や、空港
本体に隣接して浸透池を設置する。また、建設工法モニタリング委員会では地下水に関す
る調査を行っている。2006 年 11 月から 1 年に 4 回、地下水の濁りの測定や水質分析を行
っている(①②⑥)
。沖縄県八重山支庁新石垣空港建設課職員の C さんは「平成 23 年度ま
でのモニタリング調査ではサンゴ礁への影響は確認できない。モニタリング調査は継続し
ていく」と話す。
5.開発・観光客増加の問題
新石垣空港が開港することによって、白保が観光地としてより発展したり、観光客が増
加したりすることもサンゴ礁に影響を与えるかもしれない、と私は考える。新石垣空港周
辺の開発がすすみ、十分な対策がされていない場合、赤土問題や地下水汚染問題が深刻化
するかもしれない。また、観光客が増加し、白保の海が汚れる、サンゴ礁が傷つけられる
などのサンゴ礁への影響が考えられる。
WWF サンゴ礁保護研究センターしらほサンゴ村職員の D さんは、
「新たな開発による環
境影響や、海の利用の拡大により、環境負荷が高まることが懸念されている」という。
新石垣空港は、現空港より使いやすく快適になり、観光客の増大や、地元の、特に観光
業の発展の可能性がある。しかし、一方で、白保の観光資源であるサンゴ礁は危機にさら
される可能性もあるだろう。観光客は、白保のサンゴ礁の魅力を知るとともに、サンゴ礁
保全の意識を持たなければならない。また、観光開発を行う場合にも、サンゴ礁保全を考
えなければならない。
6.おわりに
今回の調査で、新石垣空港には観光の発展と観光客の増加の可能性があり、白保のサン
ゴ礁の魅力をより多くの人に知ってもらう機会が増えるのではないかと感じた。しかし、
新石垣空港建設や観光客の増加、観光開発は、サンゴ礁を傷つけたり、消失させたりする
15
可能性もある。新石垣空港建設では、建設を進める沖縄県新石垣空港課が対策をし、赤土
流出防止や地下水保全に取り組んでいるが、やはり自然に人の手が加わることで、環境が
変化し、予測できなかった影響も出てくるかもしれない。また、新石垣空港周辺が観光開
発される場合の行政・観光開発業者の対応が、具体的にどのようなものかもわからない。
さらに、現空港の周辺住民が航空機騒音に悩んでいるが、新石垣空港周辺の白保地区でも
航空機騒音は避けられないだろう。しかし、航空機騒音についての対策もいまのところな
い。新石垣空港供用後も、白保サンゴ礁保全のために、課題はあるだろう。行政、地元住
民、観光業者、研究者、観光客、そして石垣島から遠く離れたところで暮らしている私た
ちも、新石垣空港による白保サンゴ礁の影響について考え、サンゴ礁保全のためにできる
ことをしなければならない。
参考文献
①沖縄県
2012
『新石垣空港
自然環境に配慮した空港を目指して』
沖縄県土木建築
部新石垣空港課
②沖縄県八重山支庁新石垣空港課
2007
『新石垣空港環境保全対策の概要』
沖縄県八
重山支庁新石垣空港課
③野池元基 1990 『サンゴの海に生きる――石垣島・白保の暮らしと自然』 農山漁村文
化協会
④本川達雄 2008 『サンゴとサンゴ礁のはなし』
中央公論新社
⑤国際サンゴ礁研究・モニタリングセンター http://www.coremoc.go.jp/ (2012 年 11 月
24 日取得)
⑥新石垣空港課 http://www.pref.okinawa.jp/shin-ishigaki/
⑦WWF サンゴ礁保護研究センター
しらほサンゴ村
(2012 年 11 月 24 日取得)
http://www.wwf.or.jp/shiraho/
(2012 年 11 月 24 日取得)
⑧石垣島の名所と観光スポット! http://isigakizima23.seesaa.net/
日取得)
16
(2012 年 11 月 24
4.沖縄の塩
須賀 和沙
1.はじめに
沖縄のものが売られている店などに行くと、沖縄産の塩を使った商品をよく目にする。
沖縄では、塩は調味料として使用されているのはもちろん、魔除けとしても使われる。ま
た、石垣島には、カルビーポテトチップスにも使用されている「石垣の塩」を製造してい
る「石垣の塩工場」がある。沖縄の塩はいまでは有力な島おこし製品になっている。これ
らのことから、私は沖縄の塩に興味をもち、調査することに決めた。本稿では、沖縄の人々
と塩の関わりや石垣の塩について述べていく。
2.沖縄と塩の関わり
沖縄の方言では塩のことを「マース」という。沖縄では、かつて琉球王朝時代と呼ばれ
たころから、塩が人々の生活の中で大事にされてきた。塩は沖縄料理の味の基礎を支えて
いると同時に、魔除けの効果もあるとされている。沖縄県
外でも、店舗の前に盛塩したり、葬式の後に玄関口でふり
かけたり、儀式の際に撒いたりするが、沖縄はもう少し日
常的である。一般の家でも玄関に少し塩が置かれていて、
出かける前に振り掛けたりなめたりする場合もある。
マースは、魔除け以外に、開運や縁結びなどのめでたい
ものとしても、財布やカバンなどに付ける。そのため、マ
ース袋(写真1)と呼ばれる塩を入れるための小袋も売ら
れており、受験などの時も合格祈願として贈られる(④)
。
写真 1
マース袋(⑨)
石垣島のタクシーなどの営業車では、ほとんどのタクシーがマースをお守りとして持っ
ているという事を聞いた。今回の調査では、4 名のタクシー運転手の方にインタビューする
ことができた。それぞれの方にマースを車に置いて
いるか聞いてみたところ、全員が置いていると答え
た。なぜマースを持つのか、効果はあるのかなどを
伺った。タクシー運転手の A さんは、
「安全祈願や
魔除けの為に持つ。効果があるかないかは別として、
車に塩を置くのは当たり前である」という。マース
をどのように置いているのか見せてもらったが、全
員の方が小さなポリ袋に米と混ぜて入れていた(写
真 2)。米の数は、年齢の数だけ入れる人もいれば、
17
写真 2
タクシー内のマース袋
適当に入れる人もいる。置く場所は、ハンドルの横や鏡の下、入れ物の中などそれぞれ異
なっていた。置き場所には特に決まりはないという。他にも、出勤前の車のタイヤに振り
掛けたり、車の前のライトの上に置いたりする場合もあるという。また、営業車に限らず、
沖縄では、車を買ったらすぐにマースを置くという。
3.塩を使った行事・風習
沖縄では塩を使った行事や風習がある。
3-1.マースデー
沖縄には「マースデー」という言葉がある。沖縄では、子供が生まれたお祝いに贈る金
銭を「マースデー」と呼ぶ。「塩を買う代金」という意味である。子供が「シオラシク(控
えめでつつましく丈夫に)
」育ちますように、あるいは「潮染む(世の苦労を重ねて人生経
験を積む)ように」との願いを込めて贈るのである。このように、塩は命を守り育てる大
事なものとして沖縄では強く意識されている(④)
。
3-2.クガニマース
沖縄の久高島では、旧正月の元旦にクガニマース
という、塩をなめ合い一献傾ける行事がある(写真
3)
。これは、奄美大島でもみられるもので、祝い塩
と盛り塩とも称されるめでたい行事である。まず、
筒型の容器に塩を詰め、これを皿の中央に型ぬきす
る。塩の周囲には削り鰹を置き、お酒と共に盆にの
せて床の間の前に飾る。元旦の朝、祝いにやってく
写真 3
クガニマースの様子(⑦)
る親類の人々は、このマースを盛った盆の前に座り、
主人と客が交互に塩と削り鰹を掌の上にとり、それを口にしてから一献傾けるという順序
になっている。この行事は元旦に限らず、婚礼や長旅に出る人のためにも行う行事だとい
われる(②)。
3-3.沖縄の引越しの風習
沖縄では、引っ越しにあたって特別な風習がある。引っ越しの前日までに、島マース・
味噌・手鏡・ハサミなどを準備する。そして当日には最初に、島マース・味噌・手鏡・ハ
サミなどを新居に入れ引越しの報告をする。また、引っ越し前の部屋の掃除の際には、島
マースが入った塩水で、
「これからここに住むのでよろしくお願いします」という気持ちを
込めて、拭き清める(⑤)
。
18
4.沖縄における製塩の歴史
塩の採取は古くから行われていたようだが、それは海水を焚いて塩を取る直煮法であり、
産地は主として木材燃料の豊かな国頭地方だった。17 世紀末、海水をサンゴ礁や浜で蒸発
させてかんすいを摂取する方法が薩摩から伝えられ、次第に専業者も現れた。1905 年に塩
に専売制度が施行されると、塩の自由製造は禁止され、以後販売塩が普及した。製塩所は、
1937 年には 10 ヶ所、また 1972 年の復帰当時には塩の元売り業者は 1 社にすぎなかった。
しかし 1997 年、塩の専売制度が廃止されると、全国の特殊用塩などの製造業届出は 313 件
となり、うち沖縄が 29 件も占めるほどになった。イオン交換膜法2など各種の塩の製造法が
格段に発展する中、栄養豊かな海洋資源に恵まれた沖縄では、この時期に健康食品ブーム、
沖縄長寿県の評判と、全国有数の観光県という環境が追い風にもなった。沖縄の塩は、い
までは有力な島おこし製品になっている(①)。
5.石垣島における塩の製法
塩の製法には、
「天日塩」や「釜炊き」などの方法がある。天日塩は、塩田などを使って
太陽光で水分を蒸発させていく方法である。それに対して、釜炊きは釜で煮詰めて塩を結
晶化させていく方法である。石垣島のように湿度が高い場所では水分の自然蒸発がのぞめ
ないので、必然的に釜炊き方式になる(③)
。
6.「石垣の塩」
「石垣の塩」は、八重山諸島石垣島のサンゴ礁が育んだ、綺麗な海水のみを原料に独自
の製法で作り、ミネラル分をバランス良く含んだ自然
海塩である。取水地は国際保護条約ラムサール条約登
録地「名蔵アンパル」沖合であり、ここは 2007 年に国
立公園に指定された。石垣の塩はカルビーポテトチッ
プスうすしお味をはじめ、JT 沖縄黒糖コーラ、石垣の
塩ちんすこう、石垣の塩ポン酢、塩飴、バスソルトな
ど、多岐にわたった製品に使用されている。石垣の塩
工場の従業員Bさんは「石垣の塩は一般の塩とは味が
まったく違うのではじめて食べた時は驚いた。値段は
写真 4
石垣の塩(⑥)
高いが手間暇かけているので仕方がない」という。
7.石垣の塩工場
石垣で唯一の塩工場は、石垣市新川にある「石垣の塩工場」である。現在では約 50 名の
2
電解法の一つで、イオン交換膜と電気分解を用いて塩化ナトリウム水溶液から水酸化ナト
リウムを合成する方法である。
19
職員が働いている。上記したように、石垣の塩の取水地は国際保護条約ラムサール条約登
録地である。そのため、工場では海岸のごみ拾いなどをし、環境保全にも力を入れている。
職員は、定期的に海に潜り、サンゴの様子をみることで、塩づくりに欠かせない海が綺麗
かどうかを確認している。また、「人為的に化学
薬品など一切使わず、医食同源のもと身体にやさ
しいバランスのとれた 100%海水の塩を作り続け
ている」(③)。ここは、誰でも無料で工場内に
入ることができ、塩が製造される過程を見学する
ことができる。また、塩づくり体験もできる(写
真 5)
。塩づくり体験は、自分で海水をとりにいき、
写真 5
塩作り体験
火にかけて塩を作る。出来上がった塩はマース袋
に入れて持ち帰ることができ、
「家族連れにとても人気がある」とBさんはいう。
工場内には塩の製造課程でできる濃縮ミネラルエキスを利用した小さなプールがあり、
無料で利用できる。併設ショップもあり、石垣の塩や、石垣の塩を使用した商品を購入で
き、観光地としても知られている(⑧)
。
「石垣の塩」の製造方法は次のようである。まずは、サンゴを避けて、取水パイプをひ
き、海水をとる。沖合 1.5km 地点から取水された海水は、藻などの不純物が濾過されて、
タンクにいったん貯蔵される。それを小さなポ
リタンクに移し、巨大な釜に注ぎ込んでいく。
ほぼ 8 分目まで一杯になったところで、蓋をし
て着火する。3 日間かけて煮詰める。釜に塩の
結晶ができたら、すくい取る。そして天日に干
す。天日に干して乾いた塩を、木槌を使って少
しずつ丁寧に砕く。小さな不純物を手作業で丁
寧に見つけて取り除く(⑥)
。塩は水に弱いため、
湿気のない所で作業をしなければならない。そ
写真 6
不純物を取り除く作業
のため、炎天下の中でこの作業をしなければな
らないのが大変だと、従業員Cさんはいう。また、塩づくりにおいて難しい点は何かと聞
くと、火加減だという。塩は火加減で味が変わってくるため、丁度いい火加減にするのが
難しいという。
8.おわりに
今回、沖縄の塩について調べた際、塩に関する資料がとても少ないのが気になった。そ
の理由を石垣市八重山博物館の学芸員Dさんに尋ねると、商業としての塩業が始まったの
が最近であるからだという。昔は塩のかわりに海水を直接料理に入れていたと考えられる。
20
海水があれば特に塩を作る必要はなかった。そのため塩づくりに関する資料は少ない、と
いう。
今回の調査では、沖縄の人々にとって塩がどれだけ大切にされているかを知ることがで
きた。塩をお守り代わりに持ち運ぶという、沖縄独自の風習があることはとても興味深い。
また、石垣の塩工場の従業員の方々は、
「石垣の塩」に自信を持っているのがインタビュー
を通して伝わってきた。塩は沖縄の人々をあらゆる面で支えているということがよく分か
った。
参考文献
① 渡邊欣雄他(編)2008 『 沖縄民俗辞典』 吉川弘文館
② 亀井千歩子 1979 『塩の民俗学』 東京書籍
③ 石垣の塩オフィシャルホームページ
http://www.ishigakinoshio.com/ishigakinoshio010-6.html(2012 年 11 月 26 日取得)
④ ウグゥアン.com
http://www.ugwan.com/ (2012 年 11 月 26 日取得)
⑤ 沖縄の引越しの風習
http://www.frontier-resort.co.jp/fuusyuu/index.html
(2012 年 11 月 26 日取得)
⑥ カルビー 石垣島とポテトチップスの美味しい関係
http://www.calbee.co.jp/chips/enjoy/ishigaki/shimakikou1.html
(2012 年 11 月 26 日取得)
⑦ 久高島の旧正月
http://lotus55.ti-da.net/d2009-02-01.html (2012 年 11 月 26 日取得)
⑧ 美ら海物語
http://www.churashima.net/shima/ishigaki/m_20011204/index.html (2012 年 11 月 26
日取得)
⑨ M.A.P 販売サイト
http://www.ownmap.jp/article/industrialart/omamori.htm (2012 年 12 月 16 日取得)
21
5.沖縄の火の神信仰――石垣島川平地区を中心に
尾関 理江
1.はじめに
沖縄では、土地の四方や家の各所に神がいるといわれている。なかでも火の神は、
「も
っとも親しく付きあう」神だと考えられており、古くから信仰されている(⑦:14)。私は、
沖縄の人々がもっとも親しく付き合うという火の神がどのようなものであるのか興味を
もったため、今回の調査のテーマとした。
本稿では、火の神の概要を述べた後、石垣島の火の神信仰について、インタビュー調
査を通し分かったことを記述していく。インタビュー調査は、石垣島川平地区在住の方
を中心に 3 名に行った。
2.火の神とは
火の神は、台所に祀られる 3 つの石をよりましとする神で、沖縄諸島全域および奄美
諸島で信仰されている。ヒヌカンという呼称が一般的であるが、ウミチムン、ウカマ、
ウカマンガナシなどともいい、ところによって発音は若干異なることがある。元来、か
まどそのものを拝んでいたが、
やがてかまどをかたどった 3 つの石を拝むようになった。
燃料の変遷に伴い台所が大きく変化した結果、現在では陶製の香炉をおいて火の神を象
徴することが多い(④⑨⑩)
。
台所に祀られている火の神の普遍的な特徴は、家の神であるという点にある。仲松に
よれば、今では先祖も祀っているが、沖縄諸島に仏壇が登場したのは後世のことで、そ
れ以前は家庭を守る神は火の神のみであった。火の神は古くから一家の守護神と観念さ
れているのである。文献によれば、現在でも、家庭における重要な出来事は、最初に火
の神、次に仏壇を拝するという手順をとっている。しかし、石垣島の人々へのインタビ
ューからは、石垣島では火の神に報告はするが、必ずしもこの手順と決まっているわけ
ではないではない、ということがわかった。ほかに、火の神が媒介的機能を持つという
点も、特徴として挙げられる。沖縄ではこのような神を、「お通し神」と呼ぶ。人々は火
の神への拝礼を通して、地鎮の神、屋敷の神、村の神、山の神、天神など諸々の神に語
りかけるのだ。また、人間の住む世界と対比され、神々がいる別の世界だと考えられて
いるニライカナイへも中継ぎしていた可能性もあると主張されている(①④⑧)
。
家で火の神を祀るのは、主婦である妻や母である。嫁入りの際に、母親の祀る火の神
の香炉の灰を婚家に移したり、分家の際に母親の香炉の灰を持って行って新たに祀り始
めたりする事例が見られることから、仏壇が男系の継承線を表すのに対し、火の神とそ
の祭祀は、女系の継承線を示すといわれている(⑨⑩)
。
22
火の神は、各家にあることから多分に個人的な性格を帯びた神と思われがちだが、集
落や八重山全体を司る火の神もある(②)。これについては後述する。
3.石垣島川平における火の神信仰
私は、石垣島川平地区でインタビュー調査を行い、
実際にはどのように火の神を祀っているかというこ
とを中心に話を聞いた。
60 代女性の A さん宅の台所には、コンロの脇の台
の上にお供え物がおいてある。香炉の手前に左から水、
茶、盛り塩があり、香炉の右に葉物をさした花瓶があ
る。香炉を含めそれらの器はすべて白い色で統一され
ている。火の神を表す 3 つの石は、家を建てるときに
下に埋めたという。毎月 1 日と 15 日にはお供え物を
取り替え、火の神に願いごとをする。そのとき、水は
朝一番の蛇口の水を使い、塩はすでに開封したもので
写真 1
お供え物の様子
はなく、新しく買ってきたものを使う。下げたお供え
物は庭にまき、そのままゴミ箱に捨てるということは
しない。葉物は、庭にある「くさまーぺー」と呼ばれ
ている木の枝を 3 本切ってきて、
花瓶に入れて供える。
香炉の中の灰は、たまったら濾して線香の燃えかすを
取り除く。先述したように、A さん宅でも、男性は火
の神には触らず、主婦である A さんが祀っている。女
性が行うのが一般的ではあるが、妻が亡くなった家で
は夫がかわりに祀る場合もあるという。
おなじく川平に住む 60 代女性の B さんも火の神を
祀っており、コンロのすぐ近くにお供え物がしてある。
香炉の手前の左側に盛り塩、右側に水、右奥に葉物を
さした花瓶がある。3 つの石は、家の下、ちょうどお
供え物の下あたりの場所に埋めてあるという。石をど
のように用意したかということについては、先代より
もっと昔のことなので分からないという。香炉、花瓶、
盛り塩の器は白い陶製のものだが、水はガラスのコッ
プに入っている。なぜ水だけ白い陶器ではなくガラス
写真 2
くさまーぺー
のコップに入れているのか尋ねると、よくわからない
という。器は、買ってきたものではなく、先代から使っているものを今も使っていると
23
のことである。お茶は供えないのかと聞くと、B さんは「やらないね」という。毎月旧暦
の 1 日と 15 日に、A さんと同じように、水は朝一番の蛇口の水、塩は新しく買ってきた
ものと取り替え、庭に植えてある「くさまーぺー」の枝を新しく 3 本とってきて花瓶に
さす。
「くさまーぺー」は多くの人が自分の家の庭に植えていると教えてくれた。下げた
お供え物は、シンクに流すなどして「普通に捨てる」。女性が主に火の神を祀るというこ
とについて、
「奥さんが亡くなった家では、ご主人が祀ることもあるらしいですね」と私
がいうと、B さんは、
「それもあるが、奥さんがいるのにご主人がやっている家も知って
いる」と話してくれた。
川平の 80 代女性の C さんは、3 つの石について詳しく教えてくれた。石は、新しい家
を建てるときに炊事場の角に当たる地面に 3 つ置かれる。方角は特に決まっていない。
周囲が 20 センチで、縦が 15 センチほどの石とのことだ。
4.1 日 15 日
旧暦の 1 日と 15 日は、月の満ち欠けの関係で神様が活発にはたらくといわれる。火の
神は、毎月 1 日と 15 日に天に簡単な中間報告をしているのだ(⑦)
。この日の朝には前
述したようにお供え物を取り替えたり、お願いごとをしたりする。何を願ってもよいが、
A さんや B さんは主に家族の健康を祈願するという。しかし、A さんも B さんも、旧盆
の月(旧暦の 7 月)には火の神のお供えものには触らない。旧盆は、先祖が 1 年ぶりに
里帰りする日で、子孫は先祖が気持ちよく過ごせるよう丁寧におもてなしをするのがな
らわしである(⑦)
。A さんも B さんも、旧盆の時期はその準備で忙しいという。なぜ旧
盆の月には火の神に触らないのか、その明確な理由はインタビューではよくわからなか
った。
5.火の神の願い
いつも家族を見守っている火の神は、年末から年
始にかけて一旦天に帰るといわれている。天に帰る
と、その年 1 年間の家族の出来事を報告し、新たな
年の課題を話し合い、旧暦の 1 月 4 日に地上に戻っ
てくる(⑦)
。火の神のお迎えをするときに行う御
願を、川平地区では「火の神の願い」という。火の
神の願いについて、A さんに詳しく話を聞くことが
できた。
写真 3
火の神の願いのお供え物
火の神の願いの際のお供えものは、普段のお供
えものに数種類を加えた特別なものである。写真 3 のイ・ロ・ハはバガピン(にんにく)
である。バガピンは、根本から葉までのものを使う。ニはフーパナ(米)で、ホはシミ
24
ヌム(おでん)
、ヘは塩、トは酒である。シミヌムの具は特に決まっていない。これらは
すべて当日の朝供える。そして、
「挨拶をするから受け取ってください。米、おでん、塩、
にんにくを飾ります。健康を願うので受け取ってください」という内容の言葉を、方言
でとなえながら拝む。
6.蔵元の火の神
八重山全体の火の神を祀り、住民生活の守護を
している神を「蔵元の火の神」という。神名は「お
たいかね」で、石垣市登野城の美崎御嶽の境内に
鎮座している。写真 4 は、火の神御嶽といわれ、
蔵元の火の神を祀っている。御嶽内の正面奥には、
高さ 10~15 センチほどの石が 3 つあり、手前に香
炉が置かれ、葉物などのお供えものがしてある。
器は白で統一されている。
「八重山島大阿母由来記」の記録によると、神代
写真 4
火の神御嶽(⑤)
に沖縄の神々が集まり、八重山の守護神についての
話し合いがなされた結果、沖縄県北部の今帰仁から「おたいかね」という神が舞い降り、
蔵元の火の神として崇敬されるようになったのが由来である。蔵元(元の八重山支庁)
を「ウラ」ということから、
「ウラヌピィヌカン」ともよばれる。また、住民の生活を守
るとともに、蔵元政治の守護という使命もあったことから、
「政治火の神」という呼び名
もあったといわれる(②⑥)
。
蔵元の火の神は、1524 年に西塘によって竹富島に初めて蔵元が創設されたときに迎え
られた。
竹富は土地が狭く不便ということで、
蔵元は 1543 年に石垣島の大川村に移され、
さらに 1633 年に登野城に移転した。その際火の神も一緒に移されたが、1953 年の区画
整理に伴う道路拡張工事のため、美崎御嶽の構内に遷座して今に至っている(②⑤)
。
美崎御嶽とは、代々八重山の蔵元が尊び崇め、管理した御嶽である。1500 年のオヤケ
アカハチ事件で、琉球尚真王率いる首里軍が討伐を達成した後、沖縄へ無事に帰れるよ
う美崎山に祈願したことに由来している。そのため首里王府との関係が深く、国家的儀
式はすべてこの神前で行われてきたことから、俗に「公儀御嶽」という特別な尊称を持
っている(②)
。八重山博物館の学芸員は、蔵元の火の神が美崎御嶽に移されたのは、美
崎御嶽が公的であるため適当だと判断されたからであろうという。
7.川平火の神
火の神は、村を守護するために各村の村番所(オーセー)にも祀られていた。川平の
村全体の火の神を祀り、村民の生活を護っているのは「川平火の神」といわれ、川平公
25
民館があった場所の東に今でも祀られている。そ
こは古く村番所のあったところで、村番所があっ
た当時はその構内で祀られていた。村人はかつて
それを「オーセーヌピィヌカン」と呼んでいた。
写真 5 の左の木々が生い茂っているところに、川
平火の神を祀るコンクリート製の小さな祠があ
る。現在は、その周りに開けた道路や公衆トイレ、
グラスボートを営む店などがあり、多くの観光
写真 5
川平火の神と周りの風景
客が行き交っている(③)
。
A さん夫妻によると、川平火の神は 4 人のツカサ(神司)と神事部 4 人で管理されて
いる。ツカサは「ねがいびー(にがいびー)」ともいわれる。神事部は、公民館の機関で、
集落の中で割り振られる役割のひとつである。神事部は毎年かわるが、司は何十年も同
じ人が務め、交代する際はその氏子の中からくじで決められる。
8.おわりに
今回の調査を通し、実際に人々が火の神をどのように信仰しているのかを知ることが
できたが、文献に書かれていることとは異なっていることもあった。具体的には、仏壇
より先に火の神を拝まなければならないという決まりはないことや、お供えものを取り
替えるのは毎朝ではなく、1 日と 15 日の月に 2 回であること、などである。また、それ
ぞれの家にはそれぞれの祀り方があり、お互いの火の神のことについて詳しくは知らな
いということも、わかった。
火の神信仰は、いくらか薄れつつあるように感じられた。現に蔵元の火の神や各村番
所の火の神は、蔵元が廃止され祭政分離に移行したため信仰の主体を失い、現在はどち
らも一部有志によって信仰が継続され、火の神が維持されているという状態である(②)
。
また、B さんは、古くから家の火の神を祀っている人は、そうするのが当たり前で、急に
やめるという人はいないが、他県から移住してきた人や若者の間では、火の神を祀らな
い家が目立ってきている、という。
とはいえ、火の神信仰は確かに今も存在している。「遠く離れた場所に住んでいる息子
の分も、火の神にお願いしている」と話したときの B さんの笑顔が印象に残っている。
時代が変わっても、火の神を祀り家族の健康を願う人々にとって、火の神が重要な家の
守り神であることは変わらないのだと感じた。
参考文献
① 安達義弘 1998 「琉球政府の中央集権体制と火神信仰」 窪徳忠先生沖縄調査二十
年記念論文集刊行委員会(編) 『窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集 沖縄の宗
26
教と民俗』61-99 第一書房
② 石垣市史編集委員会(編)
2007 『石垣市史 各論編 民俗 下』 石垣市
③ 川平村の歴史編纂委員会(編) 1976 『川平村の歴史』 川平公民館
④ 仲松弥秀 「ヒヌカン」 1983 沖縄大百科事典刊行事務局(編) 『沖縄大百科事
典
下巻』 沖縄タイムス社
⑤ 牧野清 1975 『登野城村の歴史と民俗』 城野印刷所
⑥ 牧野清 1990 『八重山のお嶽』 あ~まん企画
⑦ 比嘉敦子+チームくがに 2008 『沖縄暮らしのしきたり読本 御願・行事編』 双
葉社
⑧ 比嘉政夫 「ニライカナイ」 1983 沖縄大百科事典刊行事務局(編) 『沖縄大百
科事典 下巻』 沖縄タイムス社
⑨ 古家信平 1994 『火と水の民俗文化誌』 吉川弘文館
⑩ 古家信平 「ヒヌカン」 2008 渡邊欣雄他(編) 『沖縄民俗辞典』 吉川弘文館
27
6.川平の御嶽
横地 葵
1.はじめに
沖縄では、その地理により、古くから本州とは異なる独自の文化を発展させてきた。そ
れは沖縄の信仰文化についても同様であり、その一例として挙げられるのが御嶽(ウタキ)
といわれる聖地である。私は、石垣島の川平の御嶽に焦点を当て調査を行った。
本稿では、まず御嶽について概要を述べた後、川平の御嶽、および川平にのみ存在する、
御嶽に関わる土地パカーラについて、記述していく。
2.御嶽
沖縄本島およびその周辺諸島に点在する、人々の信仰の対象となり、また、神女達が祈
願や祭祀を行う聖地を、御嶽(ウタキ)という。御嶽という名称は、首里王府より与えら
れた公称であり、民間ではムイ・ウガン・グスクなどと呼ばれた。その起源は分かってい
ないが、古い歴史を持つものだと考えられる(①②)。
御嶽には神が鎮座しているとされ、神は御嶽を信仰する人々にとって村に豊年をもたら
し、また人々の生活を護る存在であると考えられているなど、人々の心のよりどころであ
る。同時に、神の名の下に厳しく人間の行動を規制するなど、御嶽および神の存在は社会
秩序の維持にも大きく作用していた。これらの理由があってか、古くは村が 30 戸に達する
と、必ず御嶽を勧請したと伝えられている(②③)
。
3.八重山の御嶽
以下は、八重山地方の御嶽について、川平在住の方々数名に行ったインタビューの内容
を交えながらまとめていく。
八重山地方では、一般的に御嶽はオン、あるいはオガンなどと呼ばれている。『琉球国由
来記』によれば、八重山地方の御嶽の数は 78 嶽である。しかし、同時期に編集された『八
重山島大阿母由来記』とは数に違いが見られ、また、実際に村祭祀の中心となっているい
くつかの御嶽が数えられていないことが分かっており、正確な記録とは言い難い。『石垣市
史』によれば、御嶽(オン)と呼ばれているもの全てを調査したところ、御嶽の数は石垣
島のみで 92 嶽に相当する(③: 7)
。
なお、各御嶽にはひとり、祈願・祭祀を行う神女がいる。この神女を沖縄本島ではノロ
というが、八重山地方ではツカサと呼ぶ(④)。
28
3-1.八重山の御嶽の構造
八重山の御嶽の基本的な構造は次の通りである(図1)。
まず、入口には鳥居が存在する。八重山地方の御
嶽は入口に鳥居がある場合が多く、これは同地方の
大きな特徴である。
次に、入口より奥に存在するのが拝殿(別名オン
ヌマー・オンヤー)という建物である(③)。川平
に住む 80 代の男性 A さんによれば、通常祭祀を行
う場合は、ツカサがウブンの中で行っているが、雨
天時に祭祀を行う際はこの拝殿にツカサがウブン
から神を連れてきて、ここで行っている。また、拝
殿の扉は基本的に開かれており、鳥居側から拝殿を
通して神に対する礼拝・祭祀の場であるイビヌマイ
を見ることができる。このような造りになっている
図1 八重山の御嶽の基本構造
のは、
川平に住む B さんと B さんの家族によると、
御嶽の神が拝殿を通り、村を見わたすためである。また、拝殿には御嶽の神の子分もしく
は分身の神がいるそうだが、A さんも詳しくは知らないという。
そして、御嶽の構造の中でもっとも重要な場所が、御嶽の奥にあるウブン(本島ではイ
ビ)である。ウブンとは、ミズガキという石垣によって区画された、もっとも神聖な場所
であり、A さんによれば、御嶽の神がおわします場所である。ウブンは本島では男子禁制の
空間であるが、八重山地方ではツカサのみ立ち入りが許され、B さんの家族によれば、もし
関係がない者が入れば神罰が下るとのことである(③④)。
4.川平の御嶽
石垣島北西部に位置する川平には、群星御嶽(ユブスォン)、山川御嶽(ヤマオン)、赤
イロ目宮鳥御嶽(アーラオン)
、浜崎御嶽(キファオン)
、底地御嶽(スクジオン)の 5 つ
の御嶽が存在している。特に群星御嶽、山川御嶽、赤イロ目宮鳥御嶽、浜崎御嶽は川平四
嶽(カビラユーヤマ)と呼ばれ、川平で行われる祭祀の中心となっている(⑤)
。A さんに
よれば、どの御嶽も成立年代はわからないが大昔からあった。
4-1.オミヤ
先述した通り、御嶽(ウタキ)という呼び名は公称であり、民間では御嶽のことを別の
呼び名で呼んでいた。とくに八重山地方においては一般にオンと呼ばれているが、実際に
川平で何人かの方に御嶽についてインタビューしたところ、御嶽のことをオミヤと呼んで
いることがわかった。B さんによると、昔の人は方言であるオンという呼び方を使っていた
29
が、現在の川平ではオミヤと呼ぶのが普通である。本州では神社を御宮とも呼ぶ。私は、
御嶽のことをオミヤと呼ぶようになったのは本州の影響が大きいと考えている。
4-2.川平に住む人と御嶽
川平の人々にとって御嶽とはどのような存在なのか。話を聞いたところ、御嶽に詳しい
人も、そうでない人も、共通して聖地・神聖な場所という答えであった。『川平村の歴史』
によれば、
「古くから川平の人々は、神々の御守護によって毎年豊作が恵まれ、村の平和、
人々の健康、生活その他もろもろの幸福が与えられていると感謝」し(⑤)
、御嶽を信仰し
ている。A さんも、御嶽の神が川平の住民を守っている、と述べる。
また、昔から川平に住んでいる人々は、家ごとにそれぞれ拝みに行く御嶽が 1 箇所決ま
っている。このことに関して A さんは、
「昔からのことだから詳しい理由はわからない」と
いう。しかし、現在でも川平の人々はそのしきたりに従い、祭祀などの際は自分たちの家
が属する御嶽に向かう。なお、分家筋の者は父方の、嫁入りした者は夫が属する御嶽に属
することになる。
では、川平に住んでいる人は、祭祀もない日常において御嶽とどのように関わっている
のか。A さんや B さんによれば、通常御嶽は立ち入り禁止である。小さい頃より、御嶽に
入るとバチが当たると教えられてきたようで、もし入ったら御嶽まで謝りにいったという。
御嶽に入ることが許されるのは年に 4 回、草葉願い(クサパーニガイ)、豊年祭、結願祭(キ
ツガンサイ)
、世願祭(ユーニガイ)の時のみである。しかし、これも従来川平に住んでい
た人に関してのみであり、御嶽を信仰する家に嫁入りや婿入りをした場合を除き、外部か
ら川平に移住した人は公民館が主催する結願祭にのみ参加できる。なお、A さんに川平外部
から移住してきた人は御嶽を信仰するのかを聞いたところ、元々川平に住んでいた家に嫁
入り・婿入りする人はその限りではないが、外部から住み着いてきた人は御嶽を信仰しな
いとのことだった。
また、B さんによれば、旧暦 7 月の間、川平すべての御嶽の中にはツカサを含め絶対に
入ってはいけない。これは古くからのしきたりであり、その理由は今ではわかっていない
という。
4-3.御嶽と公民館
コンクリート製の鳥居など、川平の御嶽の建物の中には比較的近年に建てられたと思わ
れるものが幾つか見られた。A さんによれば、御嶽はこれまで建物が悪くなるたびに改修し
てきており、その際に、指定文化財である赤イロ目宮鳥御嶽を除き、他の御嶽は公民館よ
り助成金が出ている。御嶽と公民館とのつながりについて、公民館の部署のひとつである
神事部の C さんに話を聞いたところ、公民館と御嶽およびその氏子集団は基本的に独立し
た存在であるという。しかし、いくつかの条件が合えば、公民館が御嶽側に協力すること
30
もある。また、御嶽の氏子集団は人数が不足しているため、神事部がその手伝いをするこ
とがあるという。そして、B さんによれば、ツカサと共に中心となって行事を行うスーダイ
という役職は、今では神事部の者が担っている。
4-4.御嶽の変容
ときが経つにつれ御嶽内の構造が変化するなど、御嶽は少しずつその形を変えてきた。
それは川平の御嶽も同様であり、A さんや A さんの家族によると、2 年ほど前より行事な
どの際の利便性から、川平四嶽には電気が引かれるようになった。結願祭などの村の祭祀
のときは川平の人々も御嶽に集まり、そこで酒を嗜む。その際、昔は松の根を燃やして光
源にしていたそうだが、現在では、山川御嶽および群星御嶽はシーマンズクラブから電気
を引いている。赤イロ目宮鳥御嶽および浜崎御嶽は、以前は個人宅から電気を引いていた
そうだが、去年よりある電設会社が電力を提供するようになった。
5.川平四嶽と底地御嶽
5-1.群星御嶽(ユブスォン)
群星御嶽とは、川平貝塚の近くにあ
る御嶽であり、川平で行われる祭祀の
中心を担う御嶽である。群星御嶽は、
川平村の宗家の一つである南風野屋
の娘が、夜中に霊火が昇降しているの
をみてその場所を調べたところ、白米
の粉で丸く印が記されていたため、そ
の場所は神が天下りした場所である
として、御嶽を建てたのが始まりであ
る。村の一大行事である結願祭はこの
御嶽で行われ、その他の神事もこの御
嶽を中心として行っている(⑤)
。
A さんによれば、御嶽に祀られてい
る神は山の神であり、御嶽を管理する
家元(ヤームトゥ)は現在、南風野家
図2
川平の御嶽の位置(⑤)
の子孫が担っている。
5-2.山川御嶽(ヤマオン)
山川御嶽とは、底地ビーチに向かう道の途中に存在する御嶽である。昔、平田の主とい
31
う人物が琉球王朝に向かう途中遭難し、宮古島の山川集落に漂着した。そこで集落の御嶽
に参詣し琉球王朝に行けるよう祈願したところ、無事琉球王朝に到着できた。このことに
感謝した平田の主は深く感謝し、山川集落の御嶽に奏請して分身を賜り建てられたのが山
川御嶽である(⑤)
。なお、本御嶽にあたる山川集落の御嶽について詳細を示した文献は存
在しないが、
『平良市史』によれば、山川集落にはマラシ御嶽という御嶽がひとつ存在して
いることから(⑥)
、この御嶽が本御嶽なのではないかと、私は考えている。
A さんによれば、御嶽に祀られている神は山の神であり、家元は平田の主の子孫である。
5-3.赤イロ目宮鳥御嶽
赤イロ目宮鳥御嶽とは、川平内の上村下村のちょうど境目に位置する御嶽である。かつ
ては、川平村のツカサが毎月石垣村(現石垣市石垣)を訪れ、同村の宮鳥御嶽(メートル
オン)のツカサを通じて、宮鳥御嶽の神に農作物の状況を報告していた。しかし、宮鳥御
嶽のツカサがその煩雑さに同情し、川平で御嶽を建てて、その御嶽から宮鳥御嶽へ御通し
して報告するように取り計らわれた。これが、赤イロ目宮鳥御嶽の始まりである(⑤)
。
赤イロ目宮鳥御嶽は石垣市指定文化財として登録されており、そのため、B さんによれば、
改修などを行う際には石垣市教育委員会より助成金がでる。
なお、A さんによれば、御嶽に祀られている神は山の神である。
5-4.浜崎御嶽(キファオン)
浜崎御嶽とは、川平湾のすぐそばに存在する御嶽である。浜崎御嶽は、前多田屋(マイ
ターダヤー)の娘が川平湾に停泊する風待ちの船のために祈りを捧げていたところ、その
行いが琉球王朝の耳に届き、娘が香炉を賜ったので、川平湾に御嶽を建てて信仰し始めた
のが始まりである(⑤)
。
A さんによれば、御嶽に祀られている神は海の神である。B さんによれば、現在の家元は
前多田屋の子孫である。
5-5.底地御嶽(スクジオン)
底地御嶽とは、底地ビーチの目の前にある御嶽である。川平に存在する他の御嶽とは異
なり、川平の人々が訪れることはなく、信仰もされているとはいえない。A さんによればテ
ィーナルビという管理する者はいるものの、ツカサは存在していない。また、『川平村の歴
史』によれば、同御嶽には元々ツカサはいなかったが、後に神示を受けたことから、1976
年の段階ではツカサが存在していたようである(⑤:72)
。なお、底地御嶽の明確な由来は
分かってはいないが、旅人と恋仲になった中底屋の娘が、旅人が帰郷する際に海上安全を
祈願した場所であるという説や、鳩間島の友利御嶽から作物の神を御迎えして建てたとい
う説がある。
32
6.パカーラ
川平四嶽には、パカーラと呼ばれる属地が存在する。
『川平村の歴史』によれば、パカー
ラは「御嶽の区域を示す説、神様の休憩場説などが伝えられているが、詳細はよくわから
ない」とある(⑤:63)。パカーラについて A さんに訊いたところ、A さんは「神様が降り
てきた土地」だと答えた。パカーラは、川平四嶽とされる群星御嶽・山川御嶽・赤イロ目
宮鳥御嶽・浜崎御嶽それぞれに数十箇所ずつ存在している。A さんによれば、パカーラは各
御嶽の一帯に分布している。群星御嶽ならばクラブシーサイド・シーサイドクラブ周辺、
山川御嶽ならば川平の外れの区域、赤イロ目宮鳥御嶽ならばその御嶽の周辺、浜崎御嶽な
らば川平湾一帯にあるという。
B さんによれば、川平の人々は御嶽と同様にパカーラには立ち入らない。川平の人は全て
のパカーラの場所を把握しているわけではないが、もしパカーラに入ろうとすれば、その
場所がパカーラであると知っている周りの人が教えてくれるのだという。一方、川平在住
の D さんは、昔からパカーラは人が立ち入らないため手がつけられておらず、草木が伸び
たままであることなどから、見ればパカーラだとわかるそうだ。
パカーラは実質立ち入り禁止であることからも分かるように、川平の人々はパカーラも
聖地である、という認識をもっている。しかし、同じく聖地である御嶽とは異なり、パカ
ーラでは祭祀が行われるわけではなく、川平の人々に信仰されているわけでもない。ただ
し、ツカサが神前で述べる神詞の中では必ず全てのパカーラの名前を述べる(②)
。そして、
新たにツカサが就任する際には、パカーラの名と場所を記憶継承するという。また、D さ
んによれば、パカーラについて書かれた台帳が存在する。そのことに関して C さんに聞い
たところ、台帳は持ち出しも公開も厳禁であるそうだ。
なお、A さんによれば、パカーラが今後新たに作られることはない。一方、B さんの家族
によれば、パカーラを崩すと、その者は「神に縛られる」という。もし、パカーラを壊す
のならば、ツカサをパカーラに連れてきて、パカーラを壊すことを神にお願いした上で行
われる。
7.おわりに
実際に川平で調査をしてみて、現在の御嶽信仰や、川平の人々にとって御嶽がどのよう
な存在なのかをうかがい知ることができたように思う。書かれている文献が少ないパカー
ラについても、実際に話を聞くことができ、パカーラがどのような存在なのかもわかって
きた。
近年、御嶽には電気が通るようになったなど、今の時代の形に合わせて御嶽は少しずつ
変化しながらも、信仰は続いている。しかし、一方で、D さんは現在ツカサの後継者は生
まれてきていないといい、C さんも御嶽を信仰しない人々が増えているという。今後、どの
33
ようにして御嶽信仰が続いていくのか、気になるところだ。
参考文献
① 渡邊欣雄他(編) 2008 『沖縄民俗辞典』 吉川弘文館
② 牧野清 1985-06 「続・八重山島嶽々名並同由来――八重山郡島の御嶽に関する調査
研究中間報告書・石垣島」
『琉大史学』14:1-20 琉球大学史学会
③ 石垣市史編集委員会(編)
2007 『石垣市史 各論編 民俗 下』 石垣市
④ 沖縄大百科辞典刊行事務局(編)
1983
『沖縄大百科事典(上巻)(中巻)(下巻)』
沖縄タイムス社
⑤ 川平村の歴史編纂委員会(編) 1976 『川平村の歴史』 川平公民館
⑥ 平良市教育委員会(編) 1994 『平良市史 第9巻 資料編7(御嶽編)
』 平良市
教育委員会
34
7.川平のマユンガナシー
小椋 由貴
1.はじめに
日本には様々な神が存在しており、その神を祀るために様々な祭りが存在している。特
に沖縄では、本州にはみられない祭祀や儀式が存在しており、現在でもそういった祭りが
大切に守られている。本稿では、その中でも石垣市川平にのみ残っているマユンガナシー
について詳しくみていきたい。
2.節祭
マユンガナシーは、川平の節祭の初日に行われるものである。節は、年の折目を表し、
節祭は正月のような意味合いを持っている(①)
。
川平では、節祭は、旧暦の 8、9、10 月いずれかの月の戊戌の日から 5 日間、行われる。
2012 年の場合、12 月 3 日(旧暦 10 月 20 日)からである。節祭の流れは次のようである。
1 日目はマヤヨーと呼ばれ、マユンガナシーが行われる。2 日目はオーセーカー(村番所跡
の井戸)の願い、各井戸のさらえとスックンといわれる余興の前夜祭があり、3 日目は正日
(ショーニチ)で余興の本番である。4 日目は獅子祭りと余興の締めくくり(トズミ)とし
て余興の再演がある。5 日目は神願いで、二月たかびという行事で迎えたニランタフヤンと
いう農作物の神をニライカナイに送る。また、余興は上の村、下の村で分かれて行われて
いたが、どちらも自由に見ることができたという。
節祭は 1958 年までこの流れで続けられた。しかし、川平の三大行事の一つである結願祭
にも余興をするので、住人の負担が大きかった。そのため、現在は、余興が廃止されたか
たちで行われている(⑤)
。
3.マユンガナシー
マユンガナシーとは、ニライカナイから訪れる来訪神であ
る。ニライカナイとは海のかなた、もしくは海の底にあると
されている理想郷あるいは異界であり、ここから来訪神はや
ってくると考えられている(②)
。
マユンガナシーは漢字で「真世加那志」と表記され、真の
世をもたらす神、豊かで平穏を招来する神という認識からの
呼称だと考えられる。また、川平では、マユンガナシーは神
の名前であるのと同時に、行事のことも表す。
石垣島北部地区の仲筋・桴海・野底・伊原間・平久保の各
35
写真 1
伊原間の仮面(④)
村で明治ごろまでおこなわれていたが、現在は川平のみでおこなわれている。これには人
口の移動などが関わっている(①③)。また、伊原間ではマユンガナシーの儀式はすたれて
しまっているが、マユンガナシーの際に使われた仮面が残っている(④)
。伊原間のマユン
ガナシーについては後述する。
川平のマユンガナシーは、上の村、下の村で分かれて行われているもので、上の村と下
の村によって違いが生じている(④)
。その違いは、マユンガナシーの由来、性別、衣装、
カンフツ(神の言葉、ここではマユンガナシーがいうもの)などである。
マユンガナシーに扮する人は、上の村も下の村も、戌年生まれの男性とされている。し
かし、戌年の人だけでは少ないため、戌年以外の人も行っている。また、マユンガナシー
は上の村と下の村にそれぞれ 5 組ほどおり、1 組 2 人である。マユンガナシーに扮している
間、この 2 人は一緒に行動する。
上の村の A さんによると、マユンガナシーには何を願ってもよく、子孫や牛の繁昌、農
作物の豊作、健康など、様々なことを願う。マユンガナシーが唱えるカンフツも、これら
の内容が含まれている。
3-1.上の村のマユンガナシーの由来
A さんによると、古い時代、戊戌の日にマユンガナシーが南風野家に天から降りてきた。
その年、南風野家は豊作だった。他の人たちがどうして豊作なのかを聞くので理由を教え
ると、村の人々も迎えるようになったというのが由来である。
下の村の B さんによると、戊戌の日に、神様が旅人の姿でやってきていろいろな家に泊
めてくれるように頼むが断られた。最後に行ったのが南風野家で、そこでは主人に受け入
れられた。そしてその年、南風野家では作物が豊かになり、村の人々が理由をたずねた。
そこでマユンガナシーのことを聞き、村の人々も信仰するようになった。
3-2.下の村のマユンガナシーの由来
B さんによると、田多家の娘が夜にパシヌカー(井戸)に行った帰りに村のはずれにある
倉を見に行き、そこで 2 人を発見した。そして田多家の作物が豊かになり、信仰をはじめ、
他の人々も信仰するようになった。
3-3.マユンガナシーの衣装
前述したように、神であるマユンガナシーは上の村と下の村で性別が異なっている。上
の村は女性で、下の村は男性である。このため衣装も異なっている。
上の村の衣装はタオルでほおかぶりをし、笠をかぶり、顔を隠している。それに蓑をか
ぶり、長さが 6 尺で、直径がおよそ 10cm の木の棒を持っている。この棒の木の種類は特
に決まっておらず、どんな種類でもよく、見た目で選んでいる。また、下に芭蕉の葉を巻
36
き付けスカートのようにしており、裸足である。
下の村の衣装も笠や蓑、棒は同じだが、下に芭蕉の葉を巻き付けておらず、島草履をは
いている。マユンガナシーは神であるため顔を隠し、顔を見ると棒で叩かれる。またこの
衣装は保存され、古くなったら新しいものにする。
写真 2
写真 3
上の村のマユンガナシー(①)
下の村のマユンガナシー(①)
マユンガナシーに扮する人は、一度集まり、その後着替える場所に向かう。集まった際
に水と塩で清め、その後はしゃべってはならないとされている。塩は普通のものを使うが、
水は井戸から汲んでくる。上の村はフガカー、下の村はパシヌカーで、それぞれの村のフ
ームトゥと呼ばれるマユンガナシー全体のリーダーが朝に汲みに行く。
以前、この水は、一升瓶 1 本分は汲んでいたというが、今は 500ml のペットボトル 1 本
分を汲み、それに水道水を加えて使っている。
3-4.訪問
マユンガナシーが 2 人で家へやってくると 40 分ほどカンフツを唱える。慣れている人は
最初から最後まで 1 人でいうが、覚えられない場
合は覚えているところまでいったら棒をついて合
図をし、もう 1 人に交代する。そして唱え終わる
と家の主が頭を下げ、マユンガナシーたちは家の
中に入る。
写真 4
沖縄香
家に来たとき、まずは酒をだす。ここでサンダ
イ(皆で酒をまわして飲むこと)をする。この時の酒は御神酒である。次にマユンガナシ
ーが手を出すので、そこに家の人が箸で塩を渡し、マユンガナシーがなめる。これは家族
が病気にならないようにするためである。
家では沖縄香を 12 本(2 束)
、崩さずに立てておく。この 12 本というのは十二支を表す。
そして料理を出す。接待の時間は 15 分くらいで、家を訪れてくれたことに対する感謝の意
を伝える。マユンガナシーは話すことができないため、
「んー」や「うー」のようにおなか
から声を出す。
37
料理では、刺身やかまぼこ、酒(ここの酒はサンダイの酒ではなく、料理とともに出さ
れるものである)など出すものは家々によって違い、思い思いのものを出している。
マユンガナシーが帰るときには土産を渡す。C さんは土産に餅を 5 つ渡すという。この
餅はキラマエシノグという米で作る。しかし、この土産も家々によって異なっている。
マユンガナシーは土産をもらった後、ギノウという独特な棒踊りを踊る。マユンガナシ
ーが家にやってくるときは親戚が集まってきているため、子どもたちに見せるためである。
この踊りは上の村と下の村でほとんど同じだが、少しだけ異なっている。上の村では、ま
わってから棒をふり、
「んー」と声を発するのを 3 回繰り返す。下の村では、そこでまわら
ずに、棒をふるというのを 3 回繰り返す。これをした後、次の家へと向かう。
マユンガナシーがまわる家はあらかじめ順番が決まっており、司の家や、南風野家、田
多家を先にまわり、その後、年齢の高い人のいる家からまわる。また最近は、マユンガナ
シーを信仰する家が少なくなっている。
3-5.訪問後
すべての家を周り終わると、マユンガナシーたちは上の村、下の村それぞれで、一か所
に集まる。上の村の場合、午前 6 時ころに司とスーダイ(総代)が来るまで衣装を着たま
ま待つ。司とスーダイが来るとその場で解散になる。
下の村の場合、特別な場所に集まる。そこで「コケコッコー」と鶏の真似をする。これ
は夜が明けたことをあらわす。その後、その場で衣装を脱ぎ、そこで眠る。午前 6 時ころ
司とスーダイが来る。銅鑼と太鼓を叩き、ジバラという歌を唄い、フームトゥの家に戻る。
そこで慰労会が行われ、それが終わると解散になる。
4.伊原間のマユンガナシー
先述のように、伊原間でもマユンガナシーが行われていた。伊原間では節祭をシチマリ
といい、旧暦の 9 月から 12 月の間に行われ、いい日取りは戊戌の日で、3 日間続いた。初
日の夜にマヤニガイ(マユンガナシー願い)があった。明治末まではマユンガナシーの仮
面をかぶり、土地の名前を唱えながら家々をまわっていた。今では、仮面を祀り、五穀豊
穣と健康を願っている。
5.おわりに
今回の調査により、マユンガナシーが具体的にどのように行われているのかがわかった。
実際に話を聞いてみると、川平の人たちがマユンガナシーや神についてどのように感じて
いるのかが伝わってきた。
C さんは、カンフツが覚えられたかどうか不安であっても衣装を身に着け、いざその時に
なると、自然と言葉が出てくる、これは神様が力を貸してくれているからだ、と話してい
38
た。どの人もマユンガナシー行事について生き生
きと話をしてくれた。これは伝統的な行事だから
残す、ということだけではなく、マユンガナシー
という神を信じているからだということができる
と思う。
とはいうものの、この行事を行う人が少なくな
ってきているということも、事実としてある。マ
ユンガナシーがまわる家も少なくなってきており、
また、カンフツが難しく覚えるのに時間がかかる
写真 5
行事表
ため、1 年目でマユンガナシーの役をやめようとする若い人もいる。そうした方たちに、な
ぜマユンガナシーをこれまで信仰したのかを話しても、首をかしげてやめてしまう、とい
う話も聞いた。
ただ、一方で、私は小さな子がマユンガナシーについて話しているのも聞いた。彼らに
とってマユンガナシーとは、毎年行われ、なじみ深いもののようだった。このように考え
る子どもたちがいれば、マユンガナシーという行事はこれからも続いていくであろうと思
う。
参考文献
① 比嘉康雄 1992 『神々の古層⑥ 来訪するマユの神 マユンガナシー[石垣島]』 ニ
ライ社
② 赤嶺政信 2003 『沖縄の神と食の文化』 青春出版社
③ 大城学 2003 『沖縄の祭祀と民俗芸能の研究』 砂子屋書房
④ 石垣市史編集委員会(編) 2007 『石垣市史 各論編 民俗下』 石垣市
⑤ 川平村の歴史編集委員会編
1975 『川平村の歴史』 川平公民館
39
8.石垣島のエコツアー
渡邉 桜子
1. はじめに
石垣島は沖縄の離島で周囲をサンゴ礁に囲まれ、自然の宝庫である。貴重な野生生物も
多く存在するため、このような生物を見るシュノーケリングツアーやナイトツアーなどが
数多く展開されている。そこで私は、石垣島においてエコツアーを展開している団体やツ
アー会社に着目し、エコへの取り組み、エコへの考え方、エコツアーに対しての考え方を
調査した。
2. エコツーリズムの歴史
エコツーリズムは、途上国において、観光客に森林などを見せて経済振興を図ることに
よって、森林伐採などの自然開発から自然の保護への産業転換を促す考え方として注目さ
れた。その後、先進国においては、持続的な観光振興を目指す概念として論じられるよう
になった。
日本では、1990 年頃からエコツアーを実施する民間事業者が、屋久島などの自然豊かな
観光地で見られるようになった。環境庁(当時)は、1991 年に「沖縄におけるエコツーリ
ズム等の観光利用推進方策検討調査」を実施して、エコツーリズムに関する調査を開始し
た。1990 年代後半には、日本エコツーリズム推進協議会(現日本エコツーリズム協会)な
どの民間推進団体の設立が相次ぎ、エコツーリズムの普及に向けた動きが加速した。この
ような背景を受けて、2003 年から翌年にかけて、エコツーリズム推進会議が設置され、国
をあげたエコツーリズムの推進がスタートした。環境省(現在)は、同会議で策定された 5
つの推進方策を中心に、エコツーリズムの普及と定着に向けた具体的な取り組みを進めて
いる(①)
。
3. 石垣島におけるエコツアー
私は、石垣島でエコツアーを行っている団体、ツアー会社にインタビュー調査を行い、
エコへの取り組み、活動、考え方などについて質問した。また、実際にエコツアーに参加
し、体験することでエコツアーの意義について考え、述べていく。
3-1.河童の海森学校
石垣島で 2008 年に活動開始した「河童の海森学校」は、石垣島の自然・文化・人から
学ぶことを目的として設立された。主婦 2 人を中心とした市民のボランティアが運営をし
ている。
40
この海森学校は、定期的に開催されてはいるのだが、主婦が中心の活動なので、なかな
か忙しくて思っている以上に開催できない、
と主催・運営者の A さんはいう。海森学校の
参加費は実費の 200 円程度である。
私が参加した際は、石垣島の米原ビーチの
近くにある佐久田川において行われた。小さ
な子供から大人まで楽しめる内容になってお
り、実際に川登りをしながら様々な生物と触
れ合い、環境省の職員や生物・植物を専門と
している方たちによる説明を受けながら体験
写真 1
海森学校での川登りの様子
できるエコツアーである。私が参加した際、
参加者は全員親子であった。2 歳くらいの小さな子供もおり、安全のためにも親と一緒に
参加しているようであった。
この日の活動は、親子を対象に山間の小川(佐久田川)で川登りを体験し、森と海の命
をつなぐ佐久田川のありさまを観察し、豊かで繊細な生態系や動植物の観察をし、解説を
聞く、というものであった。
「河童の気分で」自然を体感し、郷土の自然や生命の営みに対
する理解と共感を深めることが目的である。A さんは、
「海岸ではゴミ清掃を行い、自然保
護意識を広げていきたい。また、家族、他の参加者と共に自然体験をすることで、家族の
和や社会性を育んでいただきたい」と述べる。
実際に、子供だけでなく大人も楽しんでいる
ように見えた。海森学校の参加者には、生物・
植物に関する資料も配られ、触ると危険な生
物など、自然と共に生きていく上での知識も
得ることができる。
川登りを体験した後、海岸まで行き、ビー
チクリーンアップの活動に参加した。私はこ
のような活動にはじめて参加したが、これほ
ど多くのごみが落ちているとは思わなかった
写真 2
川遊びの様子
ので驚いた。ごみは海岸一体を埋め尽くす量であった。毎回このくらいの量のごみがある
という。石垣島には、海流の影響で中国など他国のごみが大量に流れてくる。
この海森学校の様子はブログでも紹介されており、ブログ内でも自然の大切さや石垣島
の現状、海森学校が行っている活動など、子供にもわかりやすく説明している。このよう
に、近年では、インターネットを使って活動内容を広げたり、皆の自然に対する知識を深
めたりする動きが他のツアー会社が多くなってきている。誰でも簡単に、かならずしも現
41
地に行くことなくても、エコツアーの内容やエコへの活動、エコに関する知識を深めるこ
とができる(②)。
写真 3・4
ごみ拾いの様子
3-2.エコツアーりんぱな
「エコツアーりんぱな」は、米原ビーチ付近で 5 年程前からエコツアーを展開している
ツアー会社である。この会社においても、エコツアーに関してインタビューを行った。
「エコツアーりんぱな」を運営する B さんは、
「エコ」という言葉を聞き慣れていても、
「エコツアー」というと、参加するのに緊張する客もいる、という。
「中には、ゴミを拾わ
せられるんじゃないかとか心配するお客様も見かけますが、りんぱなはそういうことは全
部スタッフがやりますので、お客さまには楽しむことに専念していただく」と B さんは述
べる。
B さんによれば、エコツアーりんぱなでは、Ecology(自然のつながり=生態系)を守り
ながら、自然の中で楽しいツアーを行う。B さんは次のようにいう。
「少し過激な例えかも
しれないが、もし美しいサンゴ礁の上を歩くツアーを開催したとしたら、1 年かからずにそ
のサンゴ礁は消滅してしまう。そんなツアーは、私たちが考えるエコではない。私たちは、
お客様の安全を守ることと同様に、フィールド(ツアーを開催する場所=自然)を守るこ
とを大切に考える。それは、私たちにとってはごく当たり前のこと。でも、自然に優しい
ただけじゃ、いけない。それは前提であって、ツアーは快適でなきゃならないし、楽しく
なきゃいけない。私たちは新しいツアーをつくるときも、今あるツアーを見直すときも、
いつも参加されるお客様の立場にたって、いかに楽しく過ごせるかを考える。りんぱなの
エコツアー=自然を楽しむツアーだ。私たちエコツアーのガイドは、その地の自然環境や
地域資源をよく知っているので、ガイド業以外のことにもそれを役立てることができる」。
りんぱなでは、通常のガイド業以外で、地域内外の小中高等学校での環境学習のサポート
や、大学や民間企業の環境調査業務の請負、ビーチクリーンアップなどを行い、地域の自
42
然資源の保全にも力を入れている。
私は、エコツアーりんぱなで一番人気のエコツアーである「マンタツアー」に参加した。
マンタツアーに参加し、私自身、意識の変化を感じた。実際に海に入って野性の生物と触
れ合うことにより、自然を大事にしないといけないな、という意識は確実に上がる。実際、
ツアーに参加した客の中にはリピーターになる人も少なくないらしい。また、人生観が変
わった、という人や、自殺を考えていたけど思いとどまった、と泣いて感謝する客もいた、
と B さんはいう。このような実体験をもとに、どのようなツアーでお客様が喜んでくれる
か、意識が変わるかなど考えを練って、ツアーを作っていくのだという(③)
。
3-3.エコツアーふくみみ
「エコツアーふくみみ」は、2001 年の春より沖縄県の石垣島においてエコツアーを開業
した。このツアー会社を運営する C さんは、小さな子供を連れたご家族でも、安心して一
日楽しめるような、そんなエコツアーがあってもいいかなと思って開業した、という。小
さな子が参加できるということは、あとはどんな方でも大丈夫ということで、ご年配の方
でも、少し体力に自信のないような大人の方でも、とにかくのんびり遊びたいんだという
方でも、あるいは元気が有り余っているという方でも、様々なご要望にこたえたい、とい
う。
C さんが考えるエコツアーは、自然へのダメージをできるかぎり最小限に食い止めるよう
に工夫しながら、地域の自然、歴史、文化を旅行者に紹介する新しい旅行のかたちである。
C さんは 10 年ほど前にエコツアーを始めたが、そのころはまだエコツアーを展開する団体
が少なかったという。また、エコツアーに参加するにしても年齢制限があったり、満足で
きる内容ではなかったりした。そのため、エコツアーふくみみは年齢制限がない誰でも気
軽に参加できる内容のエコツアーにしよう、と考えたのだという。
C さんは「エコツアーふくみみのエコツアーに参加することによって、お客様の意識が変
わり、そのお客様からまたその環境への意識が広がっていってほしい。エコツアーに参加
したお客様が日常生活に戻っても、普段の生活のなかで少しでも意識が変わればいいな、
と願っている」という。
「少しでもより良い世の中になったり、悩みを解決する手助けにな
ったり、人との関わりが大事なことに気づいたり、少しずつ幸せになったりすることにや
りがいを感じている。このように日常生活とは少し違った体験をすることで何かしら少し、
気持ちの変化があるのではないか、という願いがある」とも述べる(④)
。
4. おわりに
石垣島におけるエコツアーについて調べていく中で、私自身も自然の大切さを学ぶこと
ができた。やはり石垣島でエコツアーを展開している人々は、自然への意識が高く、この
自然の素晴らしさや、大切さを多くの人々に知ってもらおう、とする取り組みに一生懸命
43
であった。また、石垣島には多くのエコツアーを展開する団体や会社があるが、いずれの
団体も環境にたいする意識は高い。このような意識の高い人々と関わることで、自分自身
の意識も変えることができるのがエコツアーであり、とても魅力的であると感じた。
参考文献
① 「エコツーリズムの歴史」
(環境省自然環境局)
http://www.env.go.jp/nature/ecotourism/try-ecotourism/about/history.html(2012 年 11
月 30 日取得)
② 「石垣島海森学校のひろば」
http://umimori.ti-da.net/c133366.html(2012 年 11 月 25 日取得)
③ 「石垣島エコツアー.web」
http://rinpana.com/(2012 年 11 月 25 日取得)
④ 「ふくみみの石垣島自然体験ツアー」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yuimaru/index.html(2012 年 11 月 25 日取得)
44
Fly UP