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幾つかの「ドイツ統一」

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幾つかの「ドイツ統一」
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幾つかの「ドイツ統一」
日 本 は「 一 民 族 、一 国 家 」 1の 国 と 呼 ば れ る 。つ ま り 、単 一 の 民 族 か ら な る
国 で あ る 。こ れ に 対 し 、「 人 種 の る つ ぼ 」と 呼 ば れ る ア メ リ カ 合 衆 国 は 、多 種
多様な民族からなる国であり、換言するならば、移民国家である。
ヨーロッパ諸国でも様々な民族
が共存しており、
「 一 民 族 、一 国 家 」
は 例 外 で あ る 。特 に 、ユ ー ゴ ス ラ ビ
ア は「 七 つ の 国 境 、六 つ の 共 和 国 2、
五 つ の 民 族 、四 つ の 言 語 、三 つ の 宗
教 、二 つ の 文 字 、一 つ の 国 家 」と し
て 知 ら れ て い た 。し か し 、1989 年 に
東 西 冷 戦 が 終 結 す る と 、民 族 間 の 対
立が激化し、分裂した。
他 方 、同 一 の 民 族 が 別 々 の 国 家 を 樹 立 し て い る 例 も あ る 。例 え ば 、ド イ ツ と
オ ー ス ト リ ア で あ る 。つ ま り 、両 国 と も ゲ ル マ ン 民 族 の 国 で あ る が 、そ れ ぞ れ
独 立 し た 国 家 で あ る 。な お 、ア ド ル フ・ヒ ト ラ ー( Adolf Hitler 1889~ 1945)
はオーストリア出身であるが、ドイツで政治的に大成し、総統となる。その
後 、 ヒ ト ラ ー は 母 国 オ ー ス ト リ ア を ド イ ツ に 併 合 す る 。 つ ま り 、 1933 年 か ら
1945 年 ま で 、 ド イ ツ と オ ー ス ト リ ア は 合 併 し 、 一 つ の 国 と な る が ( オ ー ス ト
リ ア 併 合 後 の ド イ ツ を「 大 ド イ ツ 国 」と 呼 ん だ )、第 2 次 世 界 大 戦 で 負 け 、分
断させられることになった。なお、オーストリアはドイツとの合併の継続を
希望したが、戦勝国である連合国によって却下されたため、独自の道を歩ま
ざるをえなかったという事情がある。
1 「単一民族国家」とも呼ばれるが、厳密には、北海道の先住民族であるア
イヌや朝鮮半島や台湾から渡ってきた民族やその子孫が国内に在住して
いる。
2 スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテ
ネグロ、マケドニアの 6 つの共和国である。なお、セルビアには、さら
に、ヴォイヴォディナとコソボの 2 つの自治州が存在した。
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ゲ ル マ ン 民 族 の 国 と し て は 、そ の 他 に も 、バ イ エ ル ン 、プ ロ イ セ ン 、ザ ク セ
ン な ど 300 を 超 え る 諸 邦( 国 )が あ り 、そ れ ら が ま と ま っ て「 ド イ ツ 」に な る
の は 、 19 世 紀 後 半 、 つ ま り 、 日 本 で は 江 戸 時 代 末 期 の こ と で あ る 。 こ の 「 ド
イツ統一」は、プロイセンを軸にして進められたが、これはナポレオン 3 世
( Napoleon III 1808~ 1873) に 対 す る 抵 抗 も 意 味 し て い た 。 つ ま り 、 フ ラ ン
スとの戦争に勝利するため、ゲルマン民族は団結するのである。この戦争は
普 仏 戦 争( 1870~ 1871)と 呼 ば れ る が 、「 普 」は プ ロ イ セ ン を 指 す 。プ ロ イ セ
ン に 率 い ら れ 、普 仏 戦 争 に 勝 っ た ド イ ツ 諸 邦 は 、ド イ ツ 国 内 で は な く 、パ リ の
ベ ル サ イ ユ 宮 殿 で「 ド イ ツ 帝 国 」の 成 立 を 宣 言 す る 。同 時 に プ ロ イ セ ン の 王 で
あ っ た ヴ ィ ル ヘ ル ム 1 世 ( Wilheml I 1797~ 1888) を 初 代 皇 帝 に 据 え る 。
彼 と 同 じ 時 代 に 生 き た 他 の ド イ ツ 王 と し て は 、「 白
鳥城」
( Neuschwanstein)を 建 立 し た こ と で 知 ら れ る 、
バ イ エ ル ン の ル ー ト ヴ ィ ヒ 2 世 ( Ludwig II 1845~
1886)が い る 。こ の バ イ エ ル ン 王 家 か ら は 、現 在 で も
「 シ シ ー 」と い う 愛 称 で 慕 わ れ て い る 、エ リ ザ ベ ー ト
( 1837~ 1898)が 出 て い る が 、ル ー ト ヴ ィ ヒ 2 世 は 彼
女 の 従 兄 で あ る 。「 シ シ ー 」 は オ ー ス ト リ ア 皇 帝 で あ
る フ ラ ン ツ ・ ヨ ー ゼ フ 1 世 ( Franz Josef I 1836~
1916) の 妻 と な り 、 オ ー ス ト リ ア ・ ハ ン ガ リ ー 帝 国
( 1867~ 1918)の 成 立 に 尽 力 し た 。こ の よ う に 、オ ー
ス ト リ ア が ハ ン ガ リ ー と 手 を 結 ん だ の は 、ド イ ツ 諸 邦
と の 戦 争( 1867 年 の 普 墺 戦 争 )に 敗 れ 、国 力 が 衰 え た
た め で あ る が 、異 民 族 の 国 家 で あ る ハ ン ガ リ ー と 、い
わ ば「 結 婚 」し た た め 、血 統 を 重 ん じ る ド イ ツ 諸 邦 か ら は 疎 ん じ ら れ る よ う に
な る 。第 1 次 世 界 大 戦 後 、「 オ ー ス ト リ ア ・ ハ ン ガ リ ー 帝 国 」は 崩 壊 し 、ゲ ル
マン民族の国家に戻ったオーストリアは、後に、ヒトラー政権下でドイツに
併 合 さ れ る ( 前 述 参 照 )。
なお、プロイセンでは秩序や勤勉が重
ん じ ら れ 、日 本 は「 東 洋 の プ ロ イ セ ン 」と
呼ばれることがある。明治維新期の日本
は 、当 初 、
「 ナ ポ レ オ ン 法 典 」で 有 名 な フ
ラ ン ス か ら 民 法 を「 輸 入 」し よ う と し て い
たが、普仏戦争でドイツが勝利したこと
を 受 け 、方 向 転 換 し 、森 鴎 外 を 初 め と す る
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官僚がドイツに派遣されるようになった。日本民法が仏法法的な性格と独法
的な性格の両方を持っているのは、そのためである。
と こ ろ で 、プ ロ イ セ ン が 推 進 力 と な っ て 実 現 し た
ド イ ツ 統 一 は 、ビ ス マ ル ク( Bismarck 1815~ 1898)
の 存 在 な く し て 語 れ な い 。彼 は ヴ ィ ル ヘ ル ム 1 世 の
治 世 下 で プ ロ イ セ ン の 首 相 と な り 、国 威 発 揚 や 富 国
強 兵 に 大 き く 貢 献 し た 。す で に 述 べ た よ う に 、ド イ
ツ 諸 邦 は 1867 年 の 普 墺 戦 争 で オ ー ス ト リ ア に 勝 利
し 、オ ー ス ト リ ア を 弱 体 化 さ せ る が 、こ れ も ビ ス マ
ル ク の 策 略 に よ る も の で あ っ た 。ま た 、1870~ 71 年
の 普 仏 戦 争 で ド イ ツ 諸 邦 が 勝 利 を 収 め る の も 、彼 の
功績によるところが大きい。ドイツ統一は鉄と血、
す な わ ち 、兵 器 と 兵 力 に よ っ て の み 実 現 さ れ る と 述
べ た こ と か ら 、ビ ス マ ル ク は「 鉄 血 宰 相 」の 異 名 で も 知 ら れ て い る 。内 政 面 で
は、新しく発足したドイツ帝国の治安を維持するため、反対勢力や社会主義
運動を徹底して封じ込める一方、世界で初めて社会保険制度を導入した。
ところが、ヴィルヘルム 1 世が退位し、その長男であるヴィルヘルム 2 世
( Wilhelm II 1859~ 1941) が 即 位 す る と 、 ビ ス マ ル ク は 失 脚 す る 。 つ ま り 、
若 き 新 皇 帝 は 、父 の 時 代 の「 鉄 血 宰 相 」を 退 陣 に 追 い や り 、新 し い 政 治 を 始 め
るのである。彼の政策に大きな影響力を及ぼしたのは、外交官の経歴を持つ
オ イ レ ン ブ ル ク( Eulenburg 1815~ 1881)で あ っ た 。伯 爵 家 出 身 の オ イ レ ン ブ
ル ク は 、プ ロ イ セ ン の 外 交 官 と し て バ イ エ ル ン に 派 遣 さ れ 、ル ー ト ヴ ィ ヒ 2 世
に 謁 見 し た こ と も あ っ た 。 ま た 、 1861 年 に は 江 戸 幕 府 と 通 商 協 定 を 締 結 し て
いる。
オイレンブルクの勧めもあり、ヴィルヘルム 2 世はフランスとの和解を考
え る よ う に な る 。皇 帝 は 普 仏 戦 争 で 獲 得 し た 領 土( ア ル ザ ス・ロ レ ー ヌ 地 方 )
の返還まで視野に入れたが、それは当時のドイツにとってスキャンダラスな
ことであった。最終的に、軍部の反対にあい、和平構想は闇に葬られる。ま
た 、オ イ レ ン ブ ル ク は 私 生 活( 同 性 愛 者 で あ る こ と )を 暴 露 さ れ 、政 界 か ら 姿
を消すが、彼の失墜を目論み、陰で動いていたのはビスマルクであった。
平和の推進役を失ったドイツは軍備拡張に傾倒し、第 1 次世界大戦に突入す
ることになるが、ドイツはこの戦争に敗れ、ヴィルヘルム 2 世も失脚するこ
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と に な っ た 。ド イ ツ の 最 後 の 皇 帝( ラ ス ト エ ン ペ ラ ー )と な っ た 彼 は オ ラ ン ダ
に 亡 命 し 、第 2 次 世 界 大 戦 中 の 1941 年 に 死 亡 す る ま で 、二 度 と 祖 国 の 地 を 踏
む こ と は な か っ た 。同 時 に 、ド イ ツ 帝 国 も 崩 壊 し 、「 ワ イ マ ー ル 憲 法 」で 知 ら
れるワイマール共和国に変わる。また、普仏戦争で獲得した領土はフランス
に 奪 い 返 さ れ る だ け で は な く 、ド イ ツ の 領 土 の 一 部( ザ ー ル ラ ン ト )が フ ラ ン
スに割譲される。なお、後に、この地域の住民はドイツ復帰を住民投票で決
め 、ヒ ト ラ ー 政 権 下 で 復 帰 が 実 現 す る 。し か し 、ほ ど な く し て 始 ま っ た 第 2 次
世 界 大 戦 で ド イ ツ は 負 け 、同 地 域 は 、再 び 、フ ラ ン ス に 占 領 さ れ る こ と に な っ
た 。 し か し 、 再 度 、 住 民 投 票 で ド イ ツ 復 帰 を 可 決 し 、 1960 年 代 に ド イ ツ 領 に
戻 っ た 。こ の よ う に 、比 較 的 短 期 間 の 内 に 帰 属 先 が 度 々 変 わ っ た の は 、こ の 地
域 が 石 炭 の 産 地 で あ り 、鉄 鋼 業 が 栄 え て い た た め で あ る 。第 2 次 世 界 大 戦 後 、
独仏両国は、平和の実現には石炭と鉄鋼を共同管理下に置くことが重要であ
る と 悟 り 、欧 州 石 炭・鉄 鋼 共 同 体 を 設 立 す る 。現 在 、同 共 同 体 は EU に 発 展 し
ている。
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