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2011年5月に行なわれ た

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2011年5月に行なわれ た
Tamura Keiko T.
はじめに
「われわれはこれまでいくつかの誤りを犯した。これからも誤りを犯すかもしれない。ただ、
もし誤りであるとわかれば謝罪し、責任をとり、誤りを正さなければならない。誰かを処罰し
(1)
なければならないならそうする。そして誤りから学び、もう二度と起こらないようにする」
。
シンガポールが1965年 8 月に独立して以来11 回目となる総選挙は、2011 年 5 月に行なわれ
た。その選挙戦終盤でリー・シェンロン首相はこのように述べ、さらに、近年の国民の不
満や不安(後述)に政府が十分に対処してこなかったことを謝罪した。首相が政策の誤りを
認めて国民に直接謝罪するというのは、独立以来これが初めてであり、多くの国民は驚き
とともに、長期にわたる抑圧的な与党人民行動党(PAP: People’s Action Party)政府の支配体制
に変化の兆しを感じただろう。もっとも、この謝罪は PAP 劣勢が伝えられたなかで行なわれ
るという絶妙なタイミングだったため、与党に同情票が集まり、PAP 得票率を数 % 押し上げ
たに違いない。
東南アジアの小さな都市国家シンガポールは、1960 年代後半から急激な経済成長を遂げ
た。この驚異の経済発展だけでなく、この国は PAP の長期一党支配体制でも知られている
(第 1 表を参照)
。またリー・クアンユー初代首相(1990年まで首相、その後も上級相、顧問相と
して 2011 年 5 月まで内閣にとどまって大きな影響力を行使した)は「われわれは何が正しいの
(2)
、
「PAP が政府であり、政府は PAP
かを決める。国民がどう思うのか気にする必要はない」
(3)
である。私はこのことに何の弁解もしない」
と豪語し、常に PAP は正しく、その PAP 一党
支配ゆえにシンガポールの安定と繁栄が実現されたことを誇ってきた。
2004 年に第 3 代首相となったリー・シェンロンは、このリー・クアンユーの長男である。
彼は 2006 年総選挙時に「もし国会に 10 人、15 人、20 人の野党議員がいたらどうなるか。私
はシンガポールが進むべき正しい方向を考えるのではなく、野党議員をどのように抑え込
(4)
と発言した。これは野党をはじめとする批判勢力の活動
むかばかりを考えることになる」
拡大を容認するような「贅沢」は時間と人的能力の無駄であるという父の姿勢が、そのま
ま彼に受け継がれていることを示した。
このようなPAP統治を長い間みてきた国民にとって、冒頭で紹介したように首相が誤りを
認めるなど、考えられなかったことなのである。本稿では、独立以来今日まで続く PAP 長期
一党支配体制とその下で沈黙してきた市民社会を振り返り、さらに、首相に謝罪を迫った
国際問題 No. 625(2013 年 10 月)● 45
民主化に向かうシンガポール― 2011年総選挙と活発化する市民社会
第 1 表 シンガポール総選挙の結果(1959―2011年)
総選挙実施年
国会(一院制)定数(人)
PAP当選者数(人)
野党当選者数(人)
PAP得票率(%)
1959*
51
43
8
53.3
1963*
51
37
14
46.6
1968
58
58
0
84.4
1972
65
65
0
69.0
1976
69
69
0
72.4
1980
75
75
0
75.6
1984
79
77
2
62.9
1988
81
80
1
61.8
1991
81
77
4
61.0
1997
83
81
2
65.0
2001
84
82
2
75.3
2006
84
82
2
66.6
2011
87
81
6
60.1
(注)
*=1959年選挙はイギリス植民地下の立法議会選挙、1963年選挙はマレーシア連邦の1州としての州議会選挙。
(出所)
Singapore: The Year in Review, the Institute of Policy Studies, 各年版;The Sunday Times, May 8, 2012.
2011 年総選挙とはどのようなものであったのか、権威主義的な政治体制は変容するのかに
ついて、考えてみたい。
1 PAP 長期一党支配体制と沈黙する市民社会
(1) 批判勢力の封じ込め
シンガポールの憲法には国民が主権を有するとの明文規定はない。これは独立時の不安
定な国際環境の反映である。イギリス連邦の自治領であったシンガポールは 1963 年に隣国
マレーシア連邦の 1 州となることで独立を達成したものの、2 年後には連邦から追い出され
るように突然の独立をし、2 年間の連邦中央政府とシンガポール州政府との政治的・経済的
対立によってマレーシアが独立シンガポールの「仮想敵国」となった。さらに、シンガポ
ールの人口の 75% を華人が占める(他はマレー人 14%、インド人 9% など)ためにマレー人が
多数を占める近隣諸国とは異質であり、国内にマレー人と華人との対立を抱える近隣諸国
から「第三の中国」として不信と疑惑の眼でみられがちであった。そのために、国家の生
存と発展を最も重要な憲法原理のひとつとしたのである。
ただ、同時にそれは国家主導型の政治運営によって、経済発展とそれによる国民統合を
目指すという政府の意図の反映でもあった。政府の政策に反対するような批判勢力は徹底
的に取り締まられ、
「危険分子」を無期限に拘束できる治安維持法は現在でも破棄されてい
ない。主要な新聞は英語紙、華語紙、マレー語紙、タミル語紙と言語別に 4 種類あるが、こ
れらを発行する会社はすべてシンガポール・プレス・ホールディングズ社の傘下にあり、
その経営陣には政府高級官僚が加わっていて、メディアの言論は政府の規制下にある。野
党は複数存在するが、その普段の活動をメディアが取り上げることはほとんどない。
国際問題 No. 625(2013 年 10 月)● 46
民主化に向かうシンガポール― 2011年総選挙と活発化する市民社会
一方、圧倒的な政治的コントロールだけでなく、政府は経済面でも大きな役割を果たし
ている。住宅、保健、公共輸送、通信などは国家によって重要な事業と位置づけられ、ほ
ぼ政府の独占事業となっている。シンガポールの経済発展を担ったのは外資であるが、政
府は外資の進出を支援するのみならず、多くの政府系企業を設立して外資との合弁をはか
り、製造業から金融・サービス業、貿易など幅広い分野に資本進出し、経営責任を担って
いる。
このように圧倒的な力をもつ政府与党の支配の下、経済発展は達成された。2007 年には 1
人当たりの国民所得は日本を上回り、2010 年の 1 人当たり国民所得は国際通貨基金(IMF)
の統計によれば、4 万 3117 米ドルで世界第 15 位にランクされている。なお、日本は 4 万 2783
米ドルで世界第 17 位である。
(2) 沈黙する市民社会
しかしながら、シンガポールでは国民がPAP の長期一党支配に反対したり、言論の自由な
どの民主化を求めて組織的な運動を起こしたという歴史は、いまだ皆無である。経済発展
とそれによる豊かさの実現は、自由民主主義を不可避的にもたらすものではないことを、
シンガポールの事例は物語っている。では市民社会は、とりわけ積極的に政治的・社会的
問題で声を上げて社会変革を担うと考えられている中間層は、なぜ沈黙しているのだろう
か。
第 2 表は、2011 年のシンガポール人(国民と永住者)の職業分布(15 歳以上)、およびそれ
ぞれの分布のなかで月収が 5000 シンガポールドル(1 シンガポールドルは約 78 円、以下「Sド
ル」
)を超える比率を示している。シンガポール政府は中間層を経営・管理職と専門・技術
職と定義しており、ここでもその定義に従えば、全労働力の 52.2% が中間層ということにな
る。また、全シンガポール人労働者の平均月収が約 3000Sドルであるから、その所得がいか
に高いかがうかがえる。
このような人々は、政府が 1979 年から開始した産業構造の高度化政策によって生成され
た(5)。それまでの労働集約的な低付加価値産業をシンガポールから撤退させ、技術集約的・
知識集約的な高付加価値産業を誘致したのである。1990 年代になると金融・サービス産業
が、2000 年代になるとレジャー産業や文化産業も重視されるようになった。このような経
第 2 表 職業分布と高額所得者の割合(2011年)
職業
比率(%)
月収5000Sドル
以上(%)
経営・管理
17.8
62.8
専門・技術
34.4
30.8
事務・販売
24.6
2.3
生産工程
12.7
1.7
清掃関連他
10.8
0.4
(出所)
Report of Economic Survey of Singapore 2011より
算出(http://www.mom.gov.sg/Documents/statisticspublications/manpower-supply/report-labour-2011/mrsd_
2011LabourForce.pdf、2012年6月20日参照)。
国際問題 No. 625(2013 年 10 月)● 47
民主化に向かうシンガポール― 2011年総選挙と活発化する市民社会
済政策の変遷にともなって熟練労働者の育成がはかられ、高等教育機関は毎年大幅に拡充
された。大学とポリテクニック(高等専門学校)など高等教育機関修了者は 1990 年の 15% か
ら 2011 年の 46.5% へと急増している。これら高等教育機関のなかでも大学の学位があれば高
い給与と社会的地位の高い職業がほぼ約束される。2011 年で大学卒業生の平均初任給は学
部によって異なるが約 3150 ― 5000Sドル(6)で、初任給の段階ですでに全労働者の平均月収を
超えている。卒業生は政府官僚や外資系企業、政府系企業の管理職や高度技術者となって、
シンガポールの発展を担っていくのである。
また、国民の 82% は政府の公団に住んでいるが、月収 1 万 Sドル以上の高額所得者は公団
に住むことはできない。このような人々はコンドミニアムや一戸建てを購入する。豊かな
中間層の増加によって、豪華な邸宅や最新のデザインのコンドミニアムの売れ行きは好調
である。
「政治的に沈黙している」中間層の圧倒的多数は、個人の努力で高い学歴を得て、専門職、
政府系や外資系企業の管理職、高級官僚になれば高額所得が約束され、豪華な住宅に住め
るのだから、政府与党の統治も悪くないと考えている。国会のフリーハンドを握り続ける
PAP 支配の下では自由な政治批判や政治活動は困難であり、外資や政府系企業が経済を支配
しているために、自分で起業して成功するのも難しい。そうなると、国民の多くに残され
た道は政治を忌避して政府が認める範囲内で行動し、豊かになることであろう。PAP 一党支
配はこのような政治システムに恭順な人々の意識と行動にも支えられてきた。
2 政治意識の変化と 2011 年総選挙
(1) 政治意識の変化
長い間、多くのシンガポール人は政府が認める範囲内で行動してきたが、2000 年代にな
ると、大量に流入する外国人労働者との雇用をめぐる競争、拡大する深刻な所得格差に不
満と不安をもちはじめ、2011 年総選挙での投票行動にそれが大きな影響を与えた。その 2 つ
の問題をまずみてみよう。
① 外国人の大量流入
この 10 年間で外国人(労働者とその家族、留学生や研修生)は 75 万 4000 人から 135 万人と
急増、外国人が人口に占める割合は 2012 年には 28% までに達した。以前はシンガポール人
とはあまり競合しない高度技能者や肉体労働者、家事労働者が中心で、その数も限られて
いたが、2004 年から中級技術者やサービス産業の中間管理職従事者も受け入れるようにな
り、雇用をめぐってシンガポール人との競合が増えた。しかしその後も政府は高い経済成
長を支える人材を確保するために、単純労働者から専門・管理職に至るあらゆるレベルで
外国人の受け入れを拡大した。
また、急増する外国人を受け入れるための住宅や交通機関の整備・拡充も追い付いてい
なかった。外国人も永住権をもてば中古の公団を購入できるため公団が不足してその価格
が上がり、また民間のコンドミニアムや一戸建て価格も高騰した。公団と民間住宅価格は
この 10 年間の間に 1.5 ― 2 倍上昇している。土地が狭く、娯楽の少ないシンガポールでは、
国際問題 No. 625(2013 年 10 月)● 48
民主化に向かうシンガポール― 2011年総選挙と活発化する市民社会
多くの国民の夢はコンドミニアムや一戸建てに住むことであるが、これらが高額所得者以
外の一般国民には絶対に手が届かないような価格になったのである。
② 所得格差の拡大
外国人の大量受け入れは年平均 6% 以上の高い経済成長を支えるのに貢献した。しかし、
高所得層の外国人の増加は国内の高所得層の収入を世界レベルへと引き上げる一方で、他
のアジア近隣諸国からの低熟練・低所得の外国人流入は清掃人に代表されるような低所得
層の所得を圧迫している。シンガポールの社会における所得格差の程度を示すジニ係数は
2000 年の0.442 から 10年間上昇傾向が続き、2010 年で 0.465 となった(7)。
第 2 表に示したように職業による所得格差も深刻である。2011 年 6 月時点で最も月給が高
かったのは経営・管理職で 6630Sドル(中央値)。この経営・管理職と最も所得の低い清掃関
連職の月給 1020Sドルとの格差は 6.5 倍にもなる。清掃関連職に就いているような人を含め
て下層 20%(20 万世帯)の平均収入は 1200Sドルで、この 10 年で 1.3% しか増えていない。イ
ンフレを考えると、10年間ほとんど増加していないことになる(8)。
しかし、このような貧困層への公的な支援はほとんどない。すでに先進国入りしたシン
ガポールであるが、その社会福祉は貧弱である。政府は西欧の福祉主義が個人の自立を阻
むこととその経済的負担を懸念して、
「福祉国家」を明確に否定している。困窮者や高齢者
の支援は家族が行なうべきもの、というのが社会政策の基本理念であり、政府は失業者や
低所得者には一時的で期限付きの金銭的支援や金券の配付、医療サービス、学童期の子ども
がいる場合には教育サービスを行なうだけである。失業保険もない。国内総生産(GDP)に
占める社会福祉関連費は 16.7% でしかなく、欧米諸国の平均 35% をはるかに下回っている(9)。
拡大する所得格差が顕著になるにつれて、この社会政策の基本理念の問題点を問う声は
高まりつつある。政府は貧困の原因を個人の問題として片付けてしまい、失業保険や最低
賃金がないという制度上の不備を是正せず、拡大する所得格差を放置しているのではない
かという声であり、弱者への公的支援制度や社会福祉の充実を求める声である。
③ 政治意識の変化
では、この 2 つの問題に対する不満と不安を背景に、有権者の政治意識はどのように変わ
っているのか。政府のシンクタンクである政策研究所は有権者(21 歳以上)1092 人を対象に
2010 年 7 月から 10 月にかけて政治意識に関する調査を行ない、総選挙直後の 2011 年 5 月末に
公表した(10)。研究所の研究員と社会学者が民間の調査会社の協力を得て行なったこの調査
は、世代別・教育程度別の政治意識について興味深い結果を示している。
まず、
「言論の自由よりも経済発展を優先する」という項目に「強く賛成・賛成」と答え
たのは、調査対象者全体で 70.1% にのぼるものの、21 ― 39 歳で「強く賛成・賛成」したの
は 61.3%、60 歳以上で「強く賛成・賛成」したのは 75.3% と、若い層のほうが比較的言論の
自由を重んじていることがわかる。さらに、高等教育を受けた層のほうが言論の自由を重
んじている。また、対象者全体の 73.2% が「自分の考えで政府を動かせる強い指導者が必要」
という項目には「強く賛成・賛成」と答えた。ただ、これを年齢別にみると、若い層ほど
「強く賛成・賛成」する比率は下がり、21 ―39 歳では 66.7% であった。
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民主化に向かうシンガポール― 2011年総選挙と活発化する市民社会
一方、
「公然と政府を批判する自由がもっと与えられるべき」という項目に対しては全体
の 50.1% が「強く賛成・賛成」し、
「政府のマスメディアへの規制は強すぎる」
「マスメディ
アの政治や政党、選挙の報道は偏向している」という項目には、それぞれ 56.2%、48% が
「強く賛成・賛成」している。
この調査結果からは、若い層および高い教育を受けた層のほうが言論の自由を重んじ、
PAP の権威主義的な統治よりも民主主義的な政治を求めていること、またこの層を含めて全
体の半数が言論空間の拡大を求めていることがわかる。
「われわれは何が正しいのかを決め
る。国民がどう思うのか気にする必要はない」
(前掲)というリー・クアンユー元首相の考
えに反発する人々が確実に増えていると言えよう。ただ、年齢や教育程度に関係なく、調
査対象者の半分以上が言論の自由よりも経済発展を優先し、強い指導者を求めていること
は、注目に値する。
(2) 2011 年 5 月総選挙
①2011 年5 月総選挙の結果
2011 年 5 月の総選挙(第 1 表)で PAP は全 87 議席中の 6 議席を失い、得票率は 60.1% と独立
後史上最低となった。野党は独立後最高の 6 議席を獲得した。この 6 議席は、労働者党
(WP: Workers’ Party)によるグループ選挙区(GRC: Group Representation Constituency)5人チーム
区の 5 議席および 1 人区 1 議席である。PAP が史上最低の得票率であったことに加えて、野
党が初めて GRC で議席を獲得したことは画期的であった。
GRC とは 1988 年に導入された制度で、数人が 1 つのチームを作って立候補し、有権者は
個人ではなくそのチームに投票する。1 つのチームのなかには必ずマイノリティーのマレー
人やインド人を入れなければならない。これによって圧倒的に華人に偏りがちであった国
会議員の民族比率をより人口比に近づけるためである。ただ、国会議員の民族比率の是正
よりもこの制度の注目すべき点は、GRC を作るための選挙区再編が PAP 一党支配維持に大
きく貢献していることである。再編によって野党有利の選挙区が真っ先に統合もしくは分
割されている。また、PAP は GRC 選挙区のチームには必ず現職の大臣を1 人入れ、大臣が選
挙キャンペーンの中心的な役割を担うという戦術をとる。こうすれば有権者はマスメディ
アによく登場する大臣のチームに投票すると予想されるからである。PAP 支持率が 1980 年
代以降 60% 強であっても議席のほとんどを獲得できるのは、このような有利な制度ゆえで
ある。さらに、GRC は、ただでさえ人材に乏しい野党に複数の候補者をそろえさせるとい
う大変な労苦を強いる。GRC が導入された 1988 年には 3 人チーム区が 13 設けられたが、総
選挙のたびに GRC 議席数が増加し、2006 年総選挙では 5 人チーム区 9 つと 6 人チーム区 5 つ
となり、GRC だけで 75 議席となった。
ではなぜ PAP は史上最低の得票で、かつGRC 選挙区を落としたのか。
まず、今回の総選挙の特色をみてみよう。それは、21 ― 34 歳の有権者が全体の 4 分の 1 を
超えるという若い有権者が多かったこと、また、ニューメディアと呼ばれるフェイスブッ
クやツイッター、ユーチューブの使用が選挙期間中に認められために、既成メディアでは
普段は報道されない野党の動向が大々的にニューメディアを通して流れたこと、さらに野
国際問題 No. 625(2013 年 10 月)● 50
民主化に向かうシンガポール― 2011年総選挙と活発化する市民社会
党が互いに候補者を調整してほとんどすべての選挙区に候補者を立てたため、多くのシン
ガポール人が投票できたこと、の 3 点であろう。2006 年選挙では 7 つの GRC37 議席で野党が
候補者を立てなかったために、有権者の 43.4% が投票しなかった(できなかった)。今回は、
リー・クアンユー元首相の選挙区タンジョン・パガール(Tanjong Pagar)GRC5 人チーム区の
みが無投票であった。
つまり、今回の選挙は有権者のほとんどが投票し、かつ若い有権者が多かったのである。
これから結婚して家庭をもとうという若い有権者には、不動産価格の急騰や外国人との熾
烈な職争いは深刻な問題であった。また、2011 年の統計によれば、25 ― 34 歳の世代の
88.0% は中等教育修了以上の学歴を有している(11)。シンガポールが貧しかった時代を知らず、
高い教育を受けて育った彼ら・彼女らのなかには、政策研究所の政治意識調査で示された
ように、言論の自由を重んじ、PAP の権威主義的な統治よりも民主主義的な政治を求めた者
も多かった。さらに、外国人大量流入がもたらす問題や深刻な所得格差を PAP に適切に処理
させるためにも野党議員が一定数必要であると感じ始めていた有権者は、若い層だけでは
なかっただろう。
② PAP の選挙戦略
PAP は、外国人の大量流入問題と深刻な所得格差への不安と不満、有権者の政治意識の変
化を過小評価していたようである。まず、総選挙前年の 2010 年、政府は今後の選挙で選出
される野党議員の数と「非選挙区選出議員(Non-Constitutional Members of Parliament)」の数の
合計を 9 人とすること、
「任命議員(Nominated Members of Parliament)」の数も 9 名とすること
を発表した。
「非選挙区選出議員」とは、PAP 以外の政党議員を国会に一定数確保するために、落選し
た野党候補者のうち高い得票を得た者(3 人を超えない)を国会議員として指名するという
制度で、1984 年に導入された。
「任命議員」は、優秀な人材を社会各層から広く確保するた
めに、国会が 6 人を超えない範囲で議員を直接指名するという制度である。これらの制度は
一党支配のカモフラージュを狙ったものであるが、指名された議員には憲法改正や予算法
案に対する投票権はない。
これまで不明瞭であった 2 つの制度の人数を明確にすることによって、政府は、常に国会
には 9 人の野党議員と 9 人の非議員の有識者がいることになるから、あえて野党に投票しな
くてもいいというメッセージを国民に送ったのである。また、リー・シェンロン首相は
「二大政党制は社会を人種や宗教、階層で分裂させるので、シンガポールのような多言語、
(12)
多宗教、多人種の小さな国家には相応しくない」
と繰り返し述べて、野党への投票を牽制
した。さらに、総選挙キャンペーンではこれまでの実績を強調し、将来の発展を担うのは
PAP であると訴え、権威主義的な統治の見直しを訴えることはなかった(13)。
③ WP とその選挙戦略
今回の選挙で 6 議席を獲得した野党 WP とは、1957 年に創設されたが 2000 年代初頭までは
個性の強いカリスマ的指導者に依存する党であった(14)。その支持基盤を拡げて組織を強固
なものにしたのは、2001 年に書記長に就任したロウ・チアキアンである。彼には PAP 議員
国際問題 No. 625(2013 年 10 月)● 51
民主化に向かうシンガポール― 2011年総選挙と活発化する市民社会
のような海外の一流大学や大学院修了などの華やかな経歴はないが、1991 年の総選挙で 1 人
区から出馬し、選挙区を歩き回って人々の悩みに耳を傾け、方言(潮州語)と華語を駆使し
て華人有権者の心をつかんで勝利した。彼は長い間休刊となっていた党機関紙を再発行し、
「野党議員をもっと国会に送ろう」と呼び掛けて若手党員を募った。
なお、野党区となった彼の選挙区の公団は、老朽化してもなかなか政府の財政支援が受
けられず補修工事をしてもらえない。総選挙のたびに与党から「野党区はスラムのように
取り残されるだろう」と脅され、ほぼそのとおりになっている。地下鉄(MRT と呼ばれ、郊
外では高架鉄道となる)の駅も彼の選挙区にはない。それでも選挙区の人々は「PAP は何で
も規則どおりにやるが、ロウは融通を利かせながら困った人を助けてくれる」と彼を支え
続けた。
ロウの呼び掛けに応えて入党したのが、党委員長となったシルビア・リムで、ロンドン
大学で法律を学んだ女性が野党に入党したことに国民は驚いた。彼女は前回選挙では僅差
で落選したものの、
「非選挙区選出議員」として国会に登場して外国人労働者や所得格差問
題を取り上げ、穏やかな口調ながら PAP 議員と堂々と渡り合う姿に国民は高い評価を与えて
いた。
今回の選挙で WP は「第一世界の国会へ」というキャッチコピーを打ち出して、旧態依然
とした PAP に不満をもつ有権者の心を見事に捉えた。「第一世界」というのは、第三世界
(発展途上国)に属していたシンガポール経済を短期間に第一世界(先進国)まで引き上げた
ことを誇って、PAP がこれまで好んで使ったキャッチコピーである(15)。それを逆手にとって、
WP は「今度は政治的に第一世界(野党が一定数以上存在する国会)を目指そう」と呼び掛け
たのである。
WP が注目されたのはキャッチコピーだけではない。これまで野党が勝利したことのなか
った GRC で議席を奪取すべく、
「ドリーム・チーム」と呼ばれる 5 人チームを東部のアルジ
ュニド(Aljunied)選挙区に立てた。ずっと議席を守ってきた 1 人区を若手候補者に譲ってア
ルジュニドに移ったロウ、シルビア・リム、さらにハーバード大学やオックスフォード大
学などで学んだ著名な国際弁護士を擁したこのチームは、元外相を含む PAP チームに 1 万票
以上の差をつけた。ロウの 1 人区を受け継いだ若手候補者も PAP 候補者に大差をつけ、WP
はこれまでで最高の 6議席を獲得したのである。
ただ、WP が他の野党よりも「穏健」なことが、有権者を安心させている点も見逃せない。
シルビア・リムは「いつも与党と正面からぶつかればよい野党になると考えている人もい
る。でもそれは正しい方向ではない。もし与党の決定に合理性と必要性があれば、それが
(16)
どんなに不人気な決定でも私たちは反対しない」
と述べ、与党とも政策によっては協力す
る柔軟な姿勢をみせている。またロウ書記長は「WP は(2015 年に予定される)次の選挙で
(17)
とも語っている。政策研究所による政治意識調
PAP に取って代わるのはまだ無理である」
査が示したように、まだまだ保守的で大きな変革を求めない多くのシンガポール人は、こ
のように政策重視で現実的な WP であるなら PAP のこれまでの政策を大きく変えることはな
いと考えて、支持していると言えよう。
国際問題 No. 625(2013 年 10 月)● 52
民主化に向かうシンガポール― 2011年総選挙と活発化する市民社会
④「華やかな」野党候補者の登場
WP の「ドリーム・チーム」の 1 人であった国際弁護士は、これまでなら PAP から立候補
したであろう高い学歴をもち高い社会的地位にある人物である。彼だけではなく、今回の
選挙では何人もの「華やかな」候補者が野党から出馬した(18)。特に、元シンガポール国軍
大佐や、中等教育修了時の成績優秀者に与えられる政府奨学金によって海外の一流大学で
学位を取得し、帰国後一定期間を上級公務員として勤務した経験のある野党候補者の出現
はこれまでの選挙ではなかったことであり、多くの国民を驚かせた。例えば、その 1 人であ
るタン・ジーセイはオックスフォード大学卒業後に 11 年間政府に勤務し、うち 5 年間はゴ
ー・チョクトン第 2 代首相の第 1 秘書を務めた。なお、選挙戦期間中にゴー前首相が「タン
(19)
は事務次官に昇進するような資質を有していなかった」
と元第 1 秘書を貶める発言をし、
有権者は「野党議員は邪魔なもの」としかみなさない PAP の旧態依然とした態度を再確認し
たのである(20)。
2011 年総選挙は、より開かれた民主的な政治を有権者が求めるようになったこと、それ
を実現するために、多くの高い学歴をもつ専門職や元官僚(これまでなら与党に入党したよう
な人々)が積極的に野党に加わった選挙だった。
3 活発化する市民社会
総選挙直後、首相は、不動産の急激な値上がりを調整できなかったとして国家開発相な
ど不人気だった 3 人の大臣を解任し、また外国人の大量受け入れを見直し始めた。さらに、
父クアンユーとゴー・チョクトンという 2 人の首相経験者を閣僚から退かせるなど、19 人の
閣僚中 7 人を交代させた。
「刷新」のイメージを国民にもたせるためである。また、低所得
者への配慮として、失業者や一時的に働けなくなった人が現金や金券などを申請できる世
帯収入の上限を緩和し、困窮する高齢者が受け取れる公的援助の条件も緩和した。
政府のこのような姿勢をみて、これまでにない譲歩を引き出せると感じた国民、特に教
育を受けた若い層のなかから、抑圧的な政府の政策を変えさせようという運動が起こり始
めた。総選挙後に起こった注目すべき動きを述べたい。
(1) 土地収用法への異議申し立て―ブキット・ブラウン墓地の保存運動(21)
土地収用法(1966 年)とは、政府が公共公益目的の事業に必要な土地を容易に取得し、立
ち退きに伴う補償額も政府が定めることを可能にした法律である。住民は政府の土地収用
の決定に異議を唱えることは不可能で、収用の補償額のみ裁判に持ち込むことができる(一
審のみ)とされた。この強制的な土地収用によって、国有地は1968 年の 26.1% から 1985 年に
は 75% になったと推定され、工業地帯や公団の建設が短期間に進んだ。人々は住み慣れた
場所から公団へ、さらに政府が公団の取り壊しを決めると、別の公団に移転させられてき
た。墓地もまた強制移転の対象となり、いわば生者も死者も狭い国土の有効利用のために
強制移転させられてきたのである。
東京ドームの約18 倍の面積をもつ墓地ブキット・ブラウン(Bukit Brown)は、中国以外で
は世界最大の華人墓地である。政府は 1973 年前後にすべての墓地を閉鎖、さらに土地収用法
国際問題 No. 625(2013 年 10 月)● 53
民主化に向かうシンガポール― 2011年総選挙と活発化する市民社会
によって多くの墓地を強制収用したが、ブキット・ブラウン墓地は収用を免れていた(22)。
ひっそりと静まり返ったこの墓地が大きな注目を集めるようになったのは、2011 年 7 月に
政府が墓地北西部に道路を建設する、工事は 2013 年初頭から開始すると発表した直後から
である。道路建設によって 10 万基のうち約 5000 基の墓が政府の公共墓地に移転を余儀なく
されるのだが、政府はこれまで多くの墓地の移転に対してほとんど反対がなかったために
計画はスムーズに進むと考えていたようである。ところが、予想に反して計画は強烈な反
対に直面した。それも埋葬されている故人の遺族よりも、一般の比較的若いシンガポール
人が声を上げたのである。移転反対の人々は、墓地にはシンガポールの通りや公園に名を
残す有名人が眠っている、さらには、無名ではあってもシンガポールの発展の礎を築いた
多くの祖先が眠っていて、墓石に刻まれたその一生はシンガポールの歴史そのものである
から、墓地を管理・保存すべきであると主張した。これに自然愛好家団体が加わり、墓地
には絶滅危惧種を含む多くの野鳥が生息している、貴重な樹木も数多く生い茂っているの
で、この生態系を保護しようと訴えた。反対を唱える人々や団体は週末に墓地ツアーを企
画して、多くの人に墓地を案内して自分たちの主張への理解を求めるだけでなく、ウェブ
サイトやフェイスブックを活用して賛同者を瞬く間に増やした。これらの団体が共同で開
催した 2011 年 11 月 19 日のシンポジウムは、会場に入りきれない多くの人が入口近くに長時
間立ったままで墓地保存の声を上げ、土地収用法の見直しを政府に求めるなど、熱気あふ
れるものとなった(23)。
このような広範な反対運動に直面して、政府はシンポジウム直後に運動のリーダーとの
異例の対話を開始し、土地収用法の見直しには言及しなかったものの、移転を余儀なくさ
れる墓の詳細な記録をとること、記録や調査のために予算を付けて、顧問委員会も立ち上
げることを発表した。ただ、数回の対話と委員会の後に、政府は建設予定の道路の 3 分の 1
を陸橋にして 1000 基ほどの墓は保護するが、工事は予定どおり開始すると発表した。運動
のリーダーは決定に反発しているが、
「合法的な」決定を覆すことは困難で、講演会やセミ
ナーの開催、ドキュメンタリーの作成などの運動は現在も続いている(24)。
(2) 治安維持法への異議申し立て
2012 年 6 月 2 日、治安維持法で拘束された経験をもつ元弁護士などが野外集会を開いて、
これまで拘束された多くの「危険分子」の容疑の再審査と治安維持法の廃止を、集まった
約 100 名の市民に訴えた(25)。治安維持法見直しを求める市民集会の開催は、初めてのことで
ある。
すでに述べたように、治安維持法とは「危険分子」を逮捕令状なく無期限に拘束できる権
利を治安当局に与える法で、植民地時代にイギリスが「反英分子」を取り締まるために特
別警察に与えた特権を起源としている。PAP 政府は独立後もこの法を廃止せず、1970 年代ま
では「共産主義者」取り締まりのためにたびたび発令された。1966 年に拘束された「共産
主義者」の 1 人は 24 年間にもわたって拘束され続けた。1987 年には「マルクス主義的国家
転覆計画」にかかわったとして、カトリック教会活動家や弁護士など 22 人が逮捕された(26)。
22 人は「首謀者」を除いて数ヵ月で釈放されたが、逮捕者に罪の告白を要求する拷問が行
国際問題 No. 625(2013 年 10 月)● 54
民主化に向かうシンガポール― 2011年総選挙と活発化する市民社会
なわれたことを示す国際人権団体の申し立てがシンガポール政府になされ、海外のさまざ
まな人権団体からも同政府を非難する声明が出された。2012 年 6 月の集会は、1987 年に逮捕
された元弁護士の呼びかけで行なわれたものであった。この元弁護士は、逮捕から釈放ま
での約 2 年間の体験をまとめた本(27)をマレーシアで出版し、また 2011 年総選挙でも野党集
会で演説するなどして話題になっていた。
だが、政府は「国家の安全と治安を守る最後の手段として、治安維持法を破棄するつも
(28)
と明言した。ただ、シンガポール同様に治安維持法を堅持してきたマレーシア
りはない」
が 2011 年 9 月に廃止を宣言したため、シンガポール国内でも今後は同法の必要性についての
議論が高まると思われる。
おわりに―民主化に向かうシンガポール
2011 年総選挙の結果は、より開かれた公正な社会を求める国民の政治意識の変化を反映
したものであった。その政治意識の変化は、これまでなら PAP から立候補したはずの「華や
かな」経歴をもつ野党候補者を生み出し、さらに、総選挙後の土地収用法と治安維持法の
見直しを求める画期的な運動につながった。その意味で 2011 年総選挙はシンガポール政治
史の転換点として刻まれるだろう。
しかしながら、開発を至上目的とする抑圧的な政治体制の変革にはもう少し長い時間が
必要と思われる。それは、政策研究所調査が明らかにしたように、国民の多くは民主的な
政治の出現よりも経済的な満足を追求し、そのために強権的な強い指導者を求めているか
らである。つまり、多くの国民は PAP が作り上げてきた体制が大きく変化することを望んで
いないのであり、政策重視で穏健な WP が6 議席を獲得(WPは 2013 年1月の補欠選挙で勝利し、
国会の議席は 7となった)したのも、その意識ゆえである。
ただ、シンガポールがより開かれた民主的な社会に向かうべきであるという合意はでき
つつある。もはや PAP がその声を無視することはできないであろう。シンガポール政治は民
主化に向かう移行期に入っているのである。
( 1 ) The Straits Times(ST)
, May 6, 2012.
( 2 ) ST, April 20, 1987.
( 3 ) Petir(PAP 機関紙)
, December 1982.
( 4 ) www.gov.sg/interviews/0600100lhl.htm(CNA〔Channel NewsAsia〕のインタビュー、2000 年 1 月 6 日
参照)
。
( 5 ) シンガポールの中間層に関しては、田村慶子(2002)
、105―132ページ。
( 6 ) ST, May 13, 2012.
( 7 ) ST, October 12, 2011. ジニ係数は 0.4 が警戒ラインで、それを超えると社会不安を引き起こすと言
われる。
( 8 ) ST, November 2, 2011.
( 9 ) ST, May 2, 2012.
(10) Tan, Tarn How, et al.(2011)
.
(11) Singapore Department of Statistics, “Key Indicators of the Resident Population,” Yearbook of Statistics
国際問題 No. 625(2013 年 10 月)● 55
民主化に向かうシンガポール― 2011年総選挙と活発化する市民社会
Singapore 2011.
(12) ST, May 28, 2009など。
(13) ST, April 16, 2011など。
(14) WPの歴史については、The Workers’ Party of Singapore(2007)参照。
(15) リー・クアンユー元首相の回顧録のタイトルも『第三世界から第一世界へ』であった。Lee, Kuan
Yew, From Third World to First: The Singapore Story 1965–2000, NY: Harper Collins, 2000.
(16) シルビア・リムへの筆者のインタビュー(2008年12月 2日)
。
(17) ST, January 27, 2013.
(18) Tan, Kevin Y. L. and Terence Lee, eds.(2011)
, pp. 67–90.
(19) ST, May 1, 2011.
(20) タンの略歴や考え方、選挙戦での戦いについては、Tan, Jee Say, ed., A Nation Awakes: Frontline
Reflections, Singapore: Ethos Books, 2011.
(21) 詳細は、田村慶子「都市開発と市民との対話」
『シンガポール日本人商工会議所月報』2012 年 3
月号、13―17ページ。
(22) ブキット・ブラウン墓地の歴史は、Tan, Kevin Y. L., “The Death of Cemeteries in Singapore,” in Tan
ed., Spaces of the Dead: A Case from the Living, Singapore: Singapore Heritage Society, 2011, pp. 8–19.
(23) 当時海外研修でシンガポール滞在中であった筆者もこのシンポジウムや墓地ツアーに参加した。
なお、華人墓地であるために、シンポジウムに関する報道は華字紙のほうが詳細に伝えている。
『南洋商報』2011年11月 20日。
(24) 保存を訴えるサイトは、http://bukitbrown.com/main/
(25) ST, June 3, 2012.
(26) 田村慶子(2000)
、229―231ページ。
(27) Teo, Soh Lung, Beyond the Blue Gate: Recollections of a Political Prisoner, Selangor: Strategic Information
and Research Development Centre, 2010.
(28) ST, September 30, 2011.
■参考文献
板谷大世(2013)「シンガポール 2011 年総選挙の分析― 選挙結果が示す『新しい政治』の始まり」
『法学研究』
(慶應義塾大学法学研究会)
、第86 巻2 号。
、明石書
田村慶子(2000)
『シンガポールの国家建設―ナショナリズム、エスニシティ、ジェンダー』
店。
田村慶子(2002)
「シンガポールのミドルクラス創出と政治意識」
、服部民夫・船津鶴代・鳥居高編『ア
ジア中間層の生成と特質』
、アジア経済研究所。
Tan, Kevin Y. L. and Terence Lee, eds.(2011)Voting in Change: Politics of Singapore’s General Election,
Singapore: Ethos Books.
Tan, Tarn How, et al.(2011)Survey on Political Traits and Media Use, Singapore: Institute of Policy Studies.
The Workers’ Party of Singapore(2007)The Workers’ Party 50th Anniversary Commemorative Book, The Workers’
Party of Singapore.
たむら・けいこ 北九州市立大学教授
[email protected]
国際問題 No. 625(2013 年 10 月)● 56
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