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東京の下町 - 東京都地質調査業協会

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東京の下町 - 東京都地質調査業協会
技術ノート
(No.42)
特集:東京の下町
社団法人
東京都地質調査業協会
〒 101-0047 東京都千代田区内神田 2-6-8
TEL (03)
3252-2963 FAX (03)
3252-2971
ホームページアドレス http://www.tokyo-geo.or.jp/
目 次
発刊にあたって
技術トピックス「東京の下町」
1.東京の下町とは
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1-1 下町の定義
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1-2 下町の地形・地質
1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
1-3 下町の形成、下町の範囲
2.下町の文化
1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
2-1 下町の言葉
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2-2 下町の寺社仏閣と祭り
2-3 下町の興行
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11
2-4 下町の伝統工芸
2-5 下町の老舗
3
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 21
3.下町の資料館、工芸館・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 23
4.これからの下町・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 25
4-1 防災の観点からの下町の状況
4-2 防災への取り組み
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 25
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 27
4-3 防災意識の向上を目指して
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 30
参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 32
技術ノートのあゆみ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 33
発刊にあたって
社団法人東京都地質調査業協会が発行しております 「技術ノート」 は、
昭和62年12月創刊以来、今回で42号を迎えることになりました。前号41号
では、社団法人化10周年記念誌として、創刊以来取上げてきたトピックス
を分類し一覧表にまとめております。これを見ますと過去の技術ノートの
内容は、河川・海岸、交通、地形・地質、公園、構造物など当協会に馴染
み深い地質・地形関連のトピックスが網羅されていることがわかります。
それに加えて東京の「温泉」、「お酒」、「野菜」、「地名と地形」など都民の
生活や文化とも言うべき内容までも含まれており非常に多岐にわたってお
ります。
今回42号は「東京の下町」と題して下町の定義、下町の地形・地質、下
町の形成、下町の文化など幅広い内容になっております。また「これから
の下町」と題して下町の現状と問題点の抽出、問題点への対応や取組みま
で取上げられており下町で生活されている方の将来設計等を描く上で参考
になればと思います。さらに行政にたずさわれる方へは下町の防災計画等
を考える際の一助となれば幸いに存じます。
最後に「技術ノート」発刊は当協会技術委員会委員各位による地道な取
材活動と執筆活動による成果の結晶であります。発刊に際しまして関係各
位に厚く感謝申し上げます。
平成 21 年11 月
社団法人東京都地質調査業協会
会 長 早 田 守 廣
1.下町とは
1-1下町の定義
広辞苑によれば、下町(したまち)とは「低い所にある市街。商人・職人などの多く
住んでいる町。東京では台東区・千代田区・中央区から隅田川以東にわたる区域をいう。」
である。つまり、下町の区分は地形的な特徴、住んでいる人の職種によって定義されて
きた。
東京の下町は、山の手(武蔵野台地東縁部分)の辺縁をなす崖線より東側の地域がこ
れにあたる。大阪では、山の手に該当する中央区南部、天王寺区、阿倍野区、住吉区の
基盤である上町台地の西の地域が該当する。
下町と山の手の地形的境界
右の写真撮影位置
図1 上野以北の地形陰影図 1)
写真1 JR日暮里駅北側の跨線橋から
みた上野台(左側)と崖下を走るJR線
図中の破線が地形的な東京の下町と山手の境界
ここが東京の下町と山手の地形的な境界
写真2 下町の中心である浅草寺
写真中央は巨大な宝蔵門で、手前は仲見世がある。
宝蔵門奥の本堂は現在工事中。
写真3 雷門通りの神谷バー付近から隅田川に
架かる吾妻橋、アサヒビール本社方向をみる
このあたりは東武浅草駅もあり、下町の交通の
中心地になっている。
-1-
1-2 下町の地形・地質
図2に東京東部の地形区
分図を示したが、青色系統
の低地部の大凡が下町の範
下町の範囲
囲になる。また、図3の東
京東部を東西方向に切った
地下鉄大江戸線沿いの地質
断面図をみると、東京の下
町地盤は、軟弱な地盤で形
成されていることがわかる。
1-3 下町の形成、下町
の範囲
下町は現代においては庶
民的な住民の多く住む地域
図2 東京東部の地形区分図
について言われる事が多
い。しかし、江戸時代では
町民階級の住む町であっ
■大江戸線沿いの地質断面
下町の範囲
て、桜新町・麻布十番など
では、台地上の武家地に入
り込む小さな谷沿いの町民
地 に 由 来 す る 地 域 が あ り、
「山の手の下町」と呼ばれ
る。江戸が東京になってか
ら は、「 江 戸 時 代 の 町 民 階
級が住む町」の地域が本来
の下町であったが、それに
関東ローム層
本郷層
東京層
有楽町層
東京磯層
江戸川層
埋没段丘磯層
東京層
協会独自編集の「技術ノート」の一部
(No.34)
図3 地下鉄大江戸線沿いの地質断面図
近接した東京23区の東側全体も通俗的には「下町」に含まれるようになった。つまり、
赤羽~上野~神田~芝~蒲田の武蔵野台地の東端の崖から、千葉県との都県境までであ
る。この場合、葛飾区の柴又・亀有などの、歴史的には旧東京市の外側だった地域も下
町に含まれることになる。この意味の下町の対をなす語は、武家町、寺町などとなる。
江戸のような都市では、軍事上の有利性から軍事拠点となる大名屋敷・旗本屋敷・大寺
院は台地上に集中し、その周辺に中級・下級武士等が居住した。また、雑誌『谷根千』
で有名な谷中・根津・千駄木はそれぞれ寺町、下町、(下級)武家町である。
-2-
2.下町の文化
2-1 下町の言葉
(1)江戸言葉(下町言葉)の起源
江戸・東京で使われている言葉には、山の手の『山の手言葉』と下町の『江戸言葉(下
町言葉、または江戸弁)』があり、これらは東京方言として位置づけられている。
東京方言は、江戸時代の江戸の発展に伴い、当時の中央語であった上方語や徳川氏ゆ
かりの三河弁などの西日本方言が土着の西関東方言と多く混合して成立したとされて
いる。江戸は、参勤交代や商売などで全国各地から人々が集まったことから、上方語や
三河弁以外にも各地の様々な方言の影響を受けた。また、当時の江戸は、世界でも屈指
の人口を誇った巨大都市であることから、町人や武家など階層別に様々な言葉使いの違
いが生まれ、武家が居住する山の手では武家言葉、町人が居住する下町では江戸言葉(下
町言葉)が使われるようになった。
江戸言葉(下町言葉)は、東京(旧江戸の範囲)の東側、下町で使われる日本語の方
言で、時代劇や江戸落語などでよく聴かれる江戸っ子の言葉である。元は、江戸時代に
おける町人(庶民)の言葉であった。
(2)江戸言葉(下町言葉)の特徴
一口に江戸言葉(下町言葉)と言ってもさまざまで、地域によって、あるいは生活風
習や職業、階層によって細かく言い回しやニュアンスが微妙に異なる。例えば日本橋と
深川や浅草とでは、ずいぶん言葉づかいやイントネーションが違っている。おそらく、
コミュニティとしての言葉づかいに加え、江戸時代からつづく地域の職業的な傾向も色
濃く影響していたと思われる。江戸言葉(下町言葉)の特徴は、「べらんめい調」と言
われるように、その発音や語彙(ごい)は周辺の山の手言葉や西関東方言とは多少異な
る。特に、「し」と「ひ」の混合が見られ、話し言葉のこうした特徴は東京出身者の年
配者を中心に存在する。
・し、しゃ、しゅ、しょとひ、ひゃ、ひゅ、ひょの発音の混同
例:東 ⇒しがし、人 ⇒しと、質屋 ⇒ひちや、潮干狩り ⇒ひおしがり
コーヒー ⇒コーシー、飛行機 ⇒しこうき
・母音の転訛(てんか)、脱落など
例:江戸っ子 ⇒えでっけ、手拭 ⇒てのごい、だいこん ⇒でいこん
また、下町と山の手ではアクセントの異なる言葉があり、その事例を以下に示す。
山の手のアクセント 下町のアクセント
・坂(さか 尾高型)←→(さか 頭高型)
・次(つぎ 尾高型)←→(つぎ 頭高型)
・鮨(すし 尾高型)←→(すし 頭高型)
-3-
・坂東(ばんどう 頭高型)←→(ばんどう 平板型)
・朝日(あさひ 頭高型)←→(あさひ 中高型)
・卵(たまご 中高型)←→(たまご 平板型)
庶民・職人では「べらんめい調」が盛んに用いられたのに対し、商人では商売柄、丁
寧さに欠けるとしてあまり用いられなかった。
下町言葉は、江戸の職人の言葉を引き継ぐもので、いわゆる落語のような語り口から
なる。落語は、江戸の職人ことばを基本に語られているのでよく似ている。その下町言
葉の一つに「ちょいと」がある。「ちょっとお待ちください」を「ちょいとお待ちくだ
さい」、「ちょっとそこまで」を「ちょいとそこまで」というような言い方があり、「ち
ょっと」→「ちょいと」と言うように、“い”に変わるだけでテンポが出て威勢が良く
なる。この“い”に変わるのは下町言葉の特徴のひとつである。また、
「 それから」を「そ
いから」、
「おまえさん」を「おまいさん」と言う表現もある。二つ目の下町言葉に「な
んてったら」がある。「なんと言ったらいいんだろう」を「なんてったらいいんだろう」
と短く表現する。他にも「いやなこった」を「やなこった」、
「 違いない」を「ちげーねー」、
「大概にしやがれ」を「てーげーにしやーあれ」と言葉が短くなる。このように下町言
葉には、音が飛んだり、つながったり、詰まったり、ということがよくあるが、方言で
しか伝わらない微妙な機微というものが存在する。つまり、下町言葉は、テンポがよく、
聞きやすく、歯切れ美しく、自然の勢いのあるのが特徴である。また、このあたりの表
現が下町言葉のいいところと思われる。
(3)標準語の広まりと江戸言葉(下町言葉)の衰退
江戸言葉(下町言葉)と対する山の手言葉は、明治維新以降、東京の山の手で使われ
てきた方言で、西関東方言を基盤に上方言葉(主に京言葉)などが混合してできた江戸
の中上流階級の言葉を基に、明治時代にできあがった。日本語の標準語は、明治政府の
もと中流階層の山の手言葉を母体として制定され、教科書に取り入れられて全国に広ま
っていった。
そのような中、江戸っ子は、東京の町や文化に強い誇りと愛着を持ち、関東大震災・
東京大空襲等の大災害に伴って郊外へ多数の移住者を出しながらも、江戸言葉(下町言葉)
の特徴は比較的最近まで保たれてきた。ところが、下町と山の手の曖昧化、大災害によ
る旧来住民の減少と戦後高度経済成長期からの地方出身者の流入などにより、東京方言
の江戸言葉はもちろん、標準語の母体となった山の手言葉も消滅の危機に瀕している。
表 1 は、 下 町、 浅 草 北 部 の 職 人 衆20人( 明 治 生 ま れ 4 人、 大 正 生 ま れ 5 人、 昭 和 生
まれ11人)に、主要語について普段よく使うか、余り使わないかを基準に尋ねたデー
タである。これによると、明治、大正、昭和の年代順に使用率が低下していることがわ
かる。また、図4は、地元出身のサラリーマン10人と職人20人とで使用の様子を比較
-4-
したものである。職人層の使用率が圧倒的に高い。伝統職の人々には、昔のままを守り
抜く姿がここにある。下町を含む現在の東京では、学校教育による標準語の普及と標準
語自体の変化により、標準語を基盤に、各地の方言が混合して新しく形成された首都圏
方言(新東京方言)が主流になり、山の手言葉や下町言葉は東京の旧来の住民の間に残
るのみとなっている。
玄関(げんか)
けぶい
くたぶれる
からきし
かくなす
帰り(かいり)
おれんとこ
おなし
うっちゃる
いらっしゃいまし
歩って
あるったけ
年代
遊ぶ(あすぶ)
語
表1 主要語の職人衆年代別使用人数 2) (単位:人)
明治
3
4
3
4
4
3
3
4
0
4
4
3
1
大正
4
4
5
4
5
4
5
5
3
3
4
2
2
昭和
3
11
8
7
10
9
11
7
6
8
7
6
2
平均人数率(%)
やぶく
めっかる
ふるしき
ぶらさがる
ばかし
なすった
ちっちゃい
時 分
さむしい
これしき
こさえる
ここいら
語
年代
明治
4
2
1
2
4
3
2
1
3
3
4
2
71.0
大正
2
2
2
3
2
3
4
3
3
1
3
5
66.4
昭和
10
7
3
2
5
9
4
7
8
2
5
9
60.4
注:調査対象人数は、明治4人、大正5人、昭和11人
90
75
75
65
55
45
40
30
40
30
20
60
55
30
20
20
30
30
(注) は、職人、 は、サラリーマン。
20
調査対象人数は、職人20人、サラリーマン10人。 めっかる
さむしい
こさえる
けぶい
くたぶれる
からきし
かくなす
うっちゃる
いらっしゃいまし
あすぶ
0
数字は、使用パーセント。
図4 職人・サラリーマンの特定語の使用率 2)
-5-
2-2 下町の寺社仏閣と祭り
東京で行われる大きな祭りとしては、神田祭、山王祭、深川八幡祭りがあり、「江戸
三大祭り」と言われている。江戸っ子は、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」
と評した。「山王祭」は旧暦6月15日頃、「神田祭」は9月15日頃、「深川八幡祭り」は
8月15日頃に行われる。また、浅草の三社祭りは、3日間で約150万人という人出の多
さから江戸三大祭りに匹敵するぐらいの規模の大きさである。
下町の深川八幡祭りは富岡八幡宮、浅草の三社祭りは浅草神社の祭礼として行われている。
今回は、富岡八幡宮、浅草神社ついてとりあげて説明する。
(1)富岡八幡宮
所在地:東京都江東区富岡
最寄駅:東京メトロ鉄東西線・都営地下鉄大江戸線の門前仲町駅
創 建:寛永4年(1627)
当時は永代島と呼ばれ、周辺の砂州一帯を埋立て、社地、氏子の居住地を開いた。
主祭神:品蛇和気命(ほんだわけのみこと)他八柱
本 家:神奈川県横浜市金沢区の富岡八幡宮
境内の石碑等:「横綱力士碑」、「巨人力士碑」、「伊能忠敬の銅像」
写真4 富岡八幡宮(正面)
写真5 伊能忠敬の銅像
※伊 能忠敬は、江戸時代の測量家で、現在の門前仲町1丁目に居住を構え、測量の旅に出かける
際は、安全祈願に富岡八幡宮に参詣しに来ていた。
≪深川八幡祭り≫
祭礼は、毎年8月15日を中心に行われ、3年に1度、八幡宮の御鳳輦が渡御を行う
年は本祭りと呼ばれ、氏子・町内の大神輿と子供神輿の大小120数基が勢揃いし、その
内、大神輿54基が連合渡御をして練り歩きをする。町内の氏子が江東区から中央区に
かけて、約10kmの道程を神輿を担いで歩くさまは壮観であり、
「勇壮なること天下無双」
と言われている。また、担ぎ手の声は、昔ながらの「ワッショイ」に統一され、「コリ
-6-
ャ サ 」、「 ド ッ コ イ 」 と い っ た 合
い の 手 も 入 る。 ま た、 神 輿 の 担
ぎ手に沿道の観衆から清めの水
がかけられることから、「水かけ
祭り」の別名もある。
富 岡 八 幡 宮 に は、 元 禄 時 代 に
豪商として名を馳せた紀伊国屋
文左衛門が奉納したとされる総
金張りの宮神輿が3基あったが、
関 東 大 震 災 時 に 焼 失 し、 そ れ か
ら68年 後 の 平 成 3 年 に 日 本 一 の
大 神 輿 が 奉 納 さ れ、 宮 神 輿 が 復
活 し た。 し か し、 担 ぐ に は 大 き
いため、新たに宮神輿を製作し、
二の宮として平成9年の例大祭
で華麗に渡御した。
写真6 深川八幡祭りの風景 3)
写真7 大神輿(平成3年製作)
写真8 神輿(平成9年製作)
-7-
(2)浅草神社
所在地:東京都台東区浅草
最寄駅:東武線、東京メトロ銀座線、都営地下鉄浅草線の浅草駅
創 建:慶安2年(1649)
三代将軍徳川家光が観音堂(焼失)と同時に寄進。国の重要文化財で権現造り。
御祭神:土師真中知命(はじのまつちのみこと)
檜前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)
檜前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)
浅草の総鎮守とされ、明治政府の神仏離令により「浅草寺」と分かれた。現在では地
元の人からは『三社さま』として親しまれている。
≪浅草神社の由緒 4) ≫
推古天皇の36年3月18日のことだった。漁師
の桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出
していたが、その日に限り一匹の漁もなく網に
かかるのはただ人型の像だけであった。幾度か
像を水中に投げ捨て、何度場所を変えて網を打
ってもかかるのは人型の像だけなので、最後に
は兄弟も不思議に思い、その尊像を捧持して今
の駒形から上陸し、槐(えんじゅ)の切り株に
安置した。そして、当時、郷土の文化人であっ
写真9 浅草神社(正面)
た土師真中知にこの日の出来事を語り、一見を請うたところ、土師氏は、これぞ聖観世
音菩薩の尊像にして自らも帰依の念心仏体であることを兄弟に告げ、諄々と功徳、おは
たらきにつき説明した。兄弟は初めて聞く観音の現世利益仏であることを知り、何とな
く信心をもよおされた二人は、深く観音を念じ名号を唱え、「我らは漁師なれば、漁労
なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得させしめ給え」と厚
く祈念した。翌十九日に再び網を浦々に打てば、願いのごとく大漁を得ることができた。
土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安
して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げた。いわゆるこれが浅草寺の起源であ
る。土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し
上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされている。
≪浅草の三社祭り≫
○昔の祭礼(観音祭・船祭)
昔の祭りは3月17日、18日の両日に行われ、丑、卯、巳、未、酉、亥の1年おきに本祭
が行われた。正和元年(1312)から三社の神話に基づき船祭が始められたと云われている。
-8-
江戸時代には大祭前夜、神輿を観音本堂の外陣に安置され、びんざさら舞も堂前の舞
台で行われていた。そのことからも分かるとおり、当時は浅草寺と一体となった祭りで、
「観音祭」又は「浅草祭」と呼ばれた。
昔の氏子は、観音の縁日にちなみ十八ヶ町、南から諏訪町、駒形町、三間町、西仲町、
田原町、東仲町、並木町、茶屋町、材木町、花川戸町、山之宿町、聖天町、浅草町、聖
天横町、金竜山下瓦町、南馬道町、新町、北馬道町、田町があった。このうち材木、花
川戸、聖天を宮元三ヶ町と呼び、すべてを総称して浅草郷とも千束郷とも云った。
祭礼は、今日のように本社神輿を担ぎ廻ることよりも、むしろ氏子十八ヶ町や、片町、
茅町、天王町、黒船町、三好町などから繰り出された山車が中心で、各町がおのおのの
趣向で行列の勢いと絢爛さを競い合った。また、昔の祭礼は蔵前筋や浅草橋の各町にま
で及ぶ広範囲のものだった。
祭礼当日の早朝は、山車を中心とする祭礼行列が浅草見附の御門外に集合し、御蔵前
から諏訪町、並木町と並んで仲見世から境内に入り、観音堂に安置された神輿の前に参
詣の上、おのおのの芸能を演じ、随身門(二天門)を出て自分の町へ帰って行った。こ
れが終わると「お堂下げ」と云って神輿三体を本堂から降ろし、一の宮を先頭に浅草御
門の乗船場まで担ぎ、待機していた大森在住の漁師の供奉する船に神輿を乗せ、浅草川
(隅田川)を遡って駒形から上陸し、浅草神社に担ぎ帰った。この船祭は、江戸末期ま
で続き、明治に入って廃絶した。祭礼は、明治5年から5月17日、18日の両日に行い、
現在の氏子各町に神輿の渡御を行うようになった。
写真10 大正12年5月撮影 4)
当時、神輿庫には新旧7基のお神輿があった。
○今の祭礼
氏子の四十四ヶ町と浅草組合で構成される浅草神社奉賛会により運営されている。
現在では交通事情や各町の情勢変化で、慣例通りの5月17日、18日の両日の大祭執
行が不可能となり、昭和38年から17、18日に近い金曜日に神輿神霊入れを行うように
なった。土曜日に氏子各町連合渡御、第三日曜日に本社神輿の各町渡御を行い、例大祭
式典、びんざさら舞奉納などもそれに伴い日程が決まっている。
-9-
5月17日に近くになると浅草の男たちは祭りのことが気になり仕事に手がつかない
状態になる。三社祭りの場合は、担ぎ手同士がぎゅうぎゅう詰めに密着し、乱暴に担ぐ
ので、中の方で失神する担ぎ手もいる。神輿の担ぎ手にとっては、一番前に出ている中
央棒、通称「花棒」を担ぐのが一番の名誉であり、誰もが花棒を担ぎたがるので小競り
合いが起こることもあるが、一瞬でも担げば満足して離れるから、大喧嘩になることは
ない。また、江戸時代は女性が神輿を担ぐことが許されなかったが、今は担ぐことがで
きるようになった。
神輿は、神社が持っている本社神輿(宮神輿)のほかに、氏子の四十四ヶ町がそれぞ
れ大人用と子供用を持ち、さらに大きな商店が客寄せ用に自分の神輿を持ったりするの
で、祭りにはすごい数の神輿がでる。
写真11 浅草の三社祭りの風景 5)
祭りが始まるのは金曜日の夜の「宵宮」からで、土曜日には町会の神輿の連合渡御、
日曜日には本社神輿(宮神輿)が町を回る宮出しと、祭りには一連のストーリーがある。
観光客の皆さんには、夜の神輿が綺麗な金曜夜の「宵宮」がお薦めである。三社祭りは、
パレード的な要素が強く、ろうそく提灯や電気でライトアップされたお神輿が行列をな
し、3日間で約150万人の人出がある。
三之宮
一之宮
写真12 浅草神社の宮神輿
- 10 -
二之宮
4)
2-3 下町の興行
興行とは:客を集め、入場料をとって演劇・音曲・相撲・映画・見世物などを催すこ
と(広辞苑より)。
下町の興行といえば、やはり「落語」「歌舞伎」「相撲」などを連想される方が多い
のであろう。これらの興行はいずれも江戸時代に発展し、現在に受け継がれる伝統的な
興行である。
(1)落語 6)7)
<落語って>
落 語 は、 近 世 期 の 日 本 に お い て 成 立 し、 現 在
まで伝承されている伝統的な話芸の一種である。
「落し話(おとしばなし)」、略して「はなし」と
も 言 う。 都 市 に 人 口 が 集 積 す る こ と に よ っ て 独
立 し た 芸 能 と し て 成 立 し た。 成 立 当 時 は さ ま ざ
ま な 人 が 演 じ た が、 現 在 は 通 常、 そ れ を 職 業 と
す る 人 が 演 じ る。 衣 装 や 道 具、 音 曲 に 比 較 的 頼
ら ず、 身 振 り と 語 り の み で 物 語 を 進 め て ゆ く 独
写真13 落語の口演 7)
特の演芸であり、高度な技芸を要する伝統芸能でもある。落語は江戸落語と上方落語に
大別される。
<江戸落語の始まり>
17世紀後半、江戸の町では大坂出身の鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋で「座敷仕方
咄」を始めた。同時期に京都では露の五郎兵衛が四条河原で活躍し、後水尾天皇の皇女
の御前で演じることもあった。大坂には米沢彦八が現れて人気を博し、名古屋でも公演
をした。また、
『寿限無』の元になる話を作ったのが初代の彦八であると言われている。
18世紀後半になると、上方では雑俳や仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始
めた。これが白鯉館卯雲という狂歌師によって江戸に伝えられて江戸小咄が生まれた。上方
では1770年代に、江戸では1786年に烏亭焉馬らによって咄の会が始められた。やがて1798年
に岡本万作と初代三笑亭可楽がそれぞれ江戸で2軒
の寄席を開くと、その後寄席の数は急激に増えた。
<東京の寄席>
落語は寄席と呼ばれる常設館で演じられるこ
と が 多 い。 現 在、 定 席 と よ ば れ 一 年 中 落 語 が 聞
ける代表的な寄席には、鈴本演芸場(上野)、浅
草演芸ホール(浅草)新宿末廣亭(新宿)、池袋
写真14 浅草演芸ホール
演芸場(池袋)の四席がある。
- 11 -
<寄席の殿堂:鈴本演芸場>
上野の鈴本演芸場は、日本にある寄席の中で
最高の格式と権威、知名度を持つ。出演者は社団
法人落語協会所属の芸人である。古くから「娯楽
の殿堂」の頂点として芸界に君臨してきた。日本
に数軒ある寄席のなかでも、文句なしの代表とみ
なされており、落語家の晴れ舞台である真打襲名
披露は、必ずここからからスタートする。
上野の繁華街一等地、中央通りに面するとい
う最高の立地にあり、一階入り口にある切符売
り場の上が太鼓櫓になっている。 エレベーター
写真15 鈴本演芸場
が一基しかなく、芸人と客が共用するた
め芸人と客の動線が同じとなり、エレベ
ーターで客と芸人が鉢合わせすることも
ある。売店で販売する寿司「志の多寿司」
は当地名物。 前座は、開演前に呼び出
し太鼓、終演後に追い出し太鼓を叩くの
だが、その姿を生でみることができる。
写真16 志の多寿司
【寄席で用いられる道具・用語】
高座(板):寄席の舞台の事。
上下(かみしも、上手、下手):客席から見て右が上手、左が下手。
めくり:高座の下手に出演者の名前を書いた紙の札の事。
出囃子:落語家、漫才師等が高座に上がる際にかかる、音楽。上方が発祥。
下座(お囃子):出囃子を演奏する人。
捥ぎり:入り口でチケットの半券を切る人。
席亭:寄席の運営者や経営者の事。
割:一日毎の客の入りと演者の格に応じて支払われる給金。
(2)歌舞伎 8)9)
<歌舞伎のはじまり>
慶長8年(1603)に北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国が歌舞
- 12 -
伎の元祖といわれている。阿国はその時代の流行歌に合わせて踊りを披露し、男装して
当時のカブキ者のふるまいを取り入れて、当時最先端の演芸を生み出した。
阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)など
が、風紀を乱すとの理由から寛永6年(1629)以降徐々に禁止され、現代に連なる野
郎歌舞伎となった。そのため、歌舞伎においては男性役も女性役も、すべて男優が演じ
る。それは江戸時代の文化の爛熟のなかで洗練されて完成し、独特の美の世界を形成す
るに至っている。
<歌舞伎:紆余曲折の時代>
明治になっても相変わらず歌舞伎の人
気は高かったが、海外の演劇事情を知った
知識人などから、その内容が文明国にふ
さわしくないとの批判を受けて、演劇改
良運動と呼ばれる歌舞伎様式の改良運動
が起こった。これは明治政府の文明国の
上流、中流階級が観劇するにふさわしい
演劇の成立を目指す目論見ともかさなり、
政治家を巻き込んだ運動となった。この
写真17 明治28年 東京歌舞伎座上演の『暫』9)
運動のひとつの成果として、現在につな
中央で見栄を切るのは九代目市川團十郎
がる歌舞伎座の開場がある。
以降も明治・大正・昭和(戦前戦後の
混乱期)と歌舞伎は様々な紆余曲折を経
て、 進 化 を 遂 げ る。 昭 和38年(1963) の
十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人
気を回復し、六代目中村歌右衛門、十七代
目中村勘三郎ら活躍した。昭和40年(1965)
には歌舞伎が重要無形文化財に総合指定
され、国立劇場、大阪の大阪松竹座など
写真18 初期の歌舞伎座(明治40年)9)
が開場した。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演するとともに演劇形
式としての歌舞伎を模索、スーパー歌舞伎という大胆な演出を強調した歌舞伎を創り出
した。また、近年は十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎なども注目されている。
このような公演活動を通じて、現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。
<歌舞伎座>
歌舞伎座は、明治の開場以来、火災や戦災に遭うなど様々な変遷はあったが、今日に
至るまで名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られる。
- 13 -
歌舞伎座は、明治の演劇改良運動の流
れを受けて明治22年(1889)に東京市京
橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座四
丁目)に開設された。初期の歌舞伎座は
洋風の煉瓦積みの外観で、総建坪は外郭
を 除 い て457坪( の ち に528坪 )、 総 ヒ ノ
キ作り、3階建の容姿を誇った。その後、
火災や戦災による焼失と復興による大型
化を幾度か経験する。戦後しばらくは廃
写真19 現在の歌舞伎座
墟の姿をさらしていたが、昭和25年(1950)に現在の歌舞伎座が完成した。1980年代ま
では、松竹歌劇団のレビューなど、歌舞伎以外の催しが行われることもあったが1993年
以降、オーナーである松竹の方針により「歌舞伎の本拠地」として原則通年で歌舞伎を
興行することとなり、現在に至っている。
【歌舞伎に由来する語】
十八番:複数の説があるが、歌舞伎で七代目市川團十郎が、初代・二代目・四代目の
團十郎がそれぞれ得意としていた演目18種を選んでこれを「歌舞伎十八番」と呼んだ。
ここから、得意とする芸という意味で広く用いられるようになった。
差金:蝶や鳥などを舞台上で表現する場合に、小道具で創り、後見(舞台上で補佐す
る役。黒衣のときもある)が長い棒にさして動かす。この小道具一式を差金と呼ぶ。
黒幕:歌舞伎の黒幕は通常夜を表すために用いるが、人形浄瑠璃の黒幕は舞台を操る
者をその陰に隠すために用いる。そこから歌舞伎でも、舞台裏から影響力を行使して
舞台を操る興行主・金主(投資者)
・芝居茶屋などのことを「黒幕」と呼ぶようになった。
二枚目・三枚目:一座を構成する配役の番付の上で、思慮分別をわきまえた貫禄のあ
る役を勤める立役の看板役者を「一枚目」、美男で人気が高い若衆役を勤める役者を「二
枚目」、面白おかしい役を勤める道外方を「三枚目」に掲げていたことが語源。
(3)相撲 10)11)12)
<相撲と大相撲>
「相撲」 の起源は非常に古く、古墳時代の埴輪や須恵器にもその様子が描かれている。
相撲は神道に基づいた神事であり、現在でも日本国内各地で 「祭り」 として 「奉納相撲」
が地域住民により行われている。一方、「大相撲」 は、日本古来の奉納相撲を起源とし、
江戸時代から続く職業的な力士たちによって行われる相撲興行であり、現在では日本相
撲協会が主催する相撲興行の名称となっている。神道の影響が強く、力士の土俵入りの
際に柏手をうち、横綱が注連縄を巻く。また、東京での本場所前々日には墨田区の野見
- 14 -
宿禰神社に日本相撲協会の幹部、審判部の幹
部や関係者が出席して、出雲大社教の神官に
よって神事が執り行われる。この興行相撲が
組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世
紀)と言われている。当初は浪人集団との結
びつきなどの理由から幕府によって江戸にお
ける辻相撲禁止令が出された。その後、寺社
写真20 番付表『蒙御免』の文字
奉 行 の 管 轄 下 に お い て、「 職 業 と し て の 相 撲
平成21年7月現在の番付
団体の結成」 と、「年寄による管理体制の確立」 を条件として、相撲の興行が許可された。
現在も相撲番付の中央に見られる 「蒙御免」 の文字、奉行所の 「御許し」 を 「蒙った」
公式の相撲という意味で、江戸時代の名残とされる。
現在、大相撲といえば両国の街を連想する方も多いと思われるが、その歴史は明暦3
年(1657)までさかのぼる。この年、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災が
発生する。世に言う「明暦の大火」である。十万を越すと言われる大火の死者を弔うため、
両国に回向院が建立された。その際の建立修繕費用は 「勧進相撲」 により賄われたとさ
れている。以降、両国は回向院への参拝と勧進相撲により多くの人を集め、相撲の街と
して確固たる地位を築くと共に江戸随一の豪華な盛り場となっていく。
<国技館の歴史>
今から100年前の明治42年(1909)6月、両国の回向院境内に国技館が開館した。当時、
東洋一とも言われた大規模な建物は大変な評判となった。100年の歴史を経る間に場所
は両国、蔵前、再び両国と変遷こそしたものの、いずれの国技館も大相撲の舞台として
数多くの名勝負を見守ってきたのである。
◎旧両国国技館(初代)
明治42年(1909)6月、両国の回向院境
内に建てられた日本初のドーム型屋根をも
つ大相撲常設館、これが最初の両国国技館
である。それまで大相撲は屋外で興行され、
晴天の10日間興行であったが、天候に左右
され、雨の続く年は1ヵ月以上も延々と延
期された。旧両国国技館は、ヨーロッパ風
の 美 し い 外 観 で 東 京 の 名 所 に も な っ た が、
10)
写真21 旧両国国技館(明治42年)
大 正 6 年 に 失 火 で 全 焼。 大 正 9 年(1920) に 再 建、 大 正12年(1923) に は 関 東 大 震
災で再び炎上。東京大空襲による被災。再三再建されて占領軍による接収。「国技館」
の名も剥奪され、メモリアルホールと呼ばれたこともある。昭和57年に解体された。
- 15 -
◎蔵前国技館(二代目)
昭和29年9月に、和風様式の蔵前国
技館が完成した。新しい大相撲の殿堂
として、栃若時代、柏鵬時代、輪湖時代、
千代の富士時代を見守ってきた蔵前国
技館は、大相撲の戦後史上に燦然と輝
いている。昭和29年から昭和59年まで
の30年間は、蔵前の街は大相撲のメッ
カとしての役割を果たしていた。また、
写真22 蔵前国技館正門(昭和29年)11)
NHKによる大相撲テレビ実況中継が始まったのも、昭和28年夏場所からで、これに
よって大相撲人気は全国的なものへ拡大し、新たなファンを生み出すことになる。や
がてこの蔵前国技館もその役割を終え、両国に新たに建設された新国技館へと引き継
がれた。
◎新両国国技館(三代目)
昭 和60年 1 月、 新 両 国 国 技 館 が 開 館 し た。 大 相 撲 の 殿 堂・ 新 両 国 国 技 館 は、 随 所
に最新のテクノロジーが組み込まれ、まさに新しい時代の先駆けとなった。
吊り屋根と土俵は自動昇降で格納可能、相撲以外のイベントホールとしても使用で
きる。広大な敷地内には、相撲博物館、相撲診療所なども併設されている。また、壁
面には、見る者を圧倒する巨大な 「相撲絵」
が描かれており、江戸時代の相撲の様子を
現代に伝えている。
写真23 新両国国技館
写真24 国技館壁面の相撲絵
写真25 国技館の太鼓櫓
- 16 -
<相撲部屋の所在地と角界の隆盛>
表2 相撲部屋の所在地
現在、相撲部屋の多くが東京都内に居をか
まえている。中でも墨田区にはその半数近く
が集中している。回向院の境内に国技館が開
都道府県
東京都
42
都 下
墨田区
19
千葉県
4
江東区
7
館 し て 以 来、「 相 撲 の 中 心 は 両 国 に あ り 」 の
埼玉県
3
江戸川区
4
傾向が続く証である。
茨城県
1
荒川区
2
1
足立区
2
52
杉並区
2
属する力士は総勢707名を数えるが(H21/6/29
台東区
1
現在で集計)、東京都出身力士は49名と最も多い。その一方で、か
大田区
1
日本相撲協会のデータによれば、協会に所
神奈川県
合 計
葛飾区
1
つて第58代横綱千代の富士を輩出し相撲王国とまで言われた北海
中央区
1
道出身の力士は今や19名(15位)とBest10から大きく後退したほか、
中野区
1
小錦や曙、武蔵丸を排出したハワイ勢に至ってはもはや力士が存
練馬区
1
合 計
42
在しない状態が続いている。
これに変わって角界を席巻
表3 力士の出身地Best10(H21/6/29現在)
しているのがモンゴル勢で
幕内
十両
幕下
東京都
0
2
8
14
19
6
49
あ る。 朝 青 龍、 白 鵬 の 両 横
大阪府
1
0
8
13
19
4
45
愛知県
1
2
5
11
15
9
43
鹿児島県
0
1
2
15
14
6
38
モンゴル
10
4
13
4
3
0
34
福岡県
2
2
6
10
9
4
33
兵庫県
0
0
4
8
13
4
29
青森県
4
5
4
7
6
1
27
茨城県
2
0
3
10
11
0
26
千葉県
1
1
4
8
8
4
26
綱 に 加 え、 大 関 日 馬 富 士 な
ど、 幕 内 力 士 は10名 を 数 え
る。 時 代 は ま さ に モ ン ゴ ル
勢 に 傾 き つ つ あ る。 日 本 人
力士の今後の巻き返しに期
待がかかるところだ。
三段目 序二段 序ノ口
合計
2-4 下町の伝統工芸 13)14)
伝統工芸とは:日本の伝統的な技術を基礎に、現代生活に即した作品を創造し、新し
い伝統を築くことをめざす工芸。また、その作品。天然素材を用いた手作りを本旨とす
る。陶芸・染織・漆芸・金工・木竹工・人形など多くの分野がある(大辞林より)。
(1)伝統工芸の歴史
江戸時代の初期、徳川幕府は多くの職人を全国から呼び寄せ、江戸の下町に職人町をつ
くり手工業を発展させた。これが江戸における手工業の始まりである。その後、消費生活
の発達につれて職種は細分化するが、この時代を通して多種多様な生産活動が行われた。
時代が江戸から明治に変わると、明治維新に端を発する産業構造の転換や西洋化の波
などにより、これらの手工業は時代の波に取り残されて徐々に衰退していった。しかし
ながらその一方で、技術と伝統は脈々と受け継がれ、現在では「伝統工芸」として再評
価されており、匠が作り出す作品は芸術作品としての評価も高くなっている。
- 17 -
(2)地名とのかかわり
徳川幕府の命により全国から江戸に集められた職人は、神田・日本橋周辺などの下町
に職種ごとに集団で居住した。幕府御用を請負った職人頭が一町もしくは二~三町単位
で幕府から土地を拝領し、その土地を幕府御用の職人たちに割り与えて居住させたので
ある。これがいわゆる職人町の始まりである。
江戸時代初期までに、鍛冶町(鍛冶職人)、紺屋町(染物職人)、大工町(大工)、鍋町(鍋
職人)、乗物町(駕籠・乗物職人)、銀町(銀細工職人)、佐柄木町(研師)、白壁町(壁
職人)など、手工業生産を行う同業の職人が住む様々な職人町が形成され、大いに発展
した。
明治以降、手工業の衰退や、震災・戦渦、都市の近代化などにより、東京の街からそ
の地名の多くが消え、現在では鍛冶町や紺屋町などの地名が残るのみとなっている。
(3)主な伝統工芸
今に伝わる江戸の伝統工芸についていくつか紹介する。
<江戸指物> 15)16)17)18)
江戸時代の中頃、消費生活の発達につれて、大工職の
仕 事 は 楢 物 師( ひ も の し )、 戸 障 子 師、 宮 殿 師 な ど の 職
業に細分化した。その一つが指物師である。朝廷用・茶
道用が発達した 「京指物」 に対し、「江戸指物」 は、武家用、
商人用および江戸歌舞伎役者用のものが発達した。木材
の木目の美しさ最大限に生かし、あまり装飾的になるこ
とを避け、すっきりとした造形と堅牢な作りで江戸の粋
を表現している。その名称は、板と棒を組み、指し合わ
せることからきたもの、あるいは 「物差し」 を用いて丈
夫な家具を作り、器物を細工するからともいわれる。
木地(材料)は、桑、杉、桐などを使い、少なくとも
写真26 江戸指物 18)
半年以上、長いもので10年~ 20年位天然乾燥させたものを用いる。仕上げは 「拭漆(ふ
きうるし)」 と言う手法で何度も漆を塗る作業と拭く作業とを繰り返し、美しい木目の
出る作品に仕上げる。
現在は、東京都および通商産業省から伝統工芸品指定産地組合の指定を受けた江戸指
物協同組合に加盟する11名(H21年現在)の職人を中心に、指物技術・技法を後世に伝
えるために若手後継者の育成と技術の普及に積極的に取り組んでいる。
<江戸切子(カットグラス)> 19)20)21)
日本のカットグラスは、正倉院にある 「白瑠璃碗」 をはじめ、古代に属するものは何
れも舶来のもので、日本人の手によって製作された歴史はずっと新しく、近世に入っ
- 18 -
てからのことといわれている。江戸時代
の後期、加賀屋久兵衛が江戸大伝馬町で
金剛砂を用いてガラスを彫刻したのが日
本のカットグラスの始まりとされる。明
治に入り、ヨーロッパのカットグラスの
技法が導入され、ガラスの表面に様々な
模様を施すガラス工芸の技法が確立され
た。その後、同時期に製作が始まった薩
摩切子と共に、江戸期のすぐれたガラス
工芸品として、今日まで伝承されている。
写真27 江戸切子 21)
江戸切子の素材となるガラスには、透明なものと薄く色被せしたものがあり、施され
るカットは深く鮮明かつ正確であり仕上がりがはっきりとして華やかなのが特徴である。
現在は、東京都認定の伝統工芸士18人が所属する東京カットグラス工業協同組合の
ほか、数多くの職人が貴重な江戸時代の伝統工芸品の製作技法を後世に伝えるため、積
極的な活動を展開している。
<東京銀器> 21)22)23)24)
日本で銀器が使用された
歴史は古く、延喜式(916年)
に 見 い 出 だ さ れ る ほ か、 法
隆寺献納御物の中にも各種
の銀器品が見られる。
江 戸 時 代 に お い て は、 初
期 の 寛 永 年 間(1624 ~
1733) に 銀 道 具 類 が 整 調 さ
れ、 皇 室 や 幕 府 に 献 上 さ れ
た記録が残る。
江戸時代中頃の寛政元年
(1789)、 か ん ざ し、 櫛、 き
写真28 東京銀器
(あられ銀瓶)22)
写真29 銀のベビースプーン21)
せる等に金、 銀の使用を禁じた御触れが出た記録があることなどから、当時町人の中で
も銀器、銀道具が広く使用されていたことがうかがわれる。
東京が主要な産地で、鍛金(打ち物)、彫金(彫刻)、切ばめ、鑞付けの4つの技法があり、
各種置物をはじめ食器や装身具など様々なものが造られている(写真29は皇室の愛子
様に献上されたものと同型のもの)。
現在、東京都および通商産業省から伝統工芸品指定産地組合の指定を受けた東京金銀
- 19 -
器工業協同組合に加盟する各社のほか、数多くの職人が彫金等の多彩な伝統技術・技法
を後世に伝えるために若手後継者の育成と技術の普及に積極的に取り組んでいる。
<江戸和竿> 23)25)26)27)
釣 竿 に は、 一 本 の 竹 を そ の ま ま 用 い る
「延べ竿」 と、何本かの竹を継ぎ合わせて
一本の竿にする 「継竿」 がある。
継竿については 「平安時代末期の治承
4 年(1180) に 京 都 で 発 祥 し た 」 と す る
説 が あ る が 現 存 の 資 料 は な い。 一 方、 江
戸における継竿の発祥は、京都より遅れ、
江戸時代中頃の享保年間(1718 ~ 1735年)
で あ り、 そ の 製 造 技 術 が 一 大 飛 躍 を 遂 げ
た の は、 天 明 8 年(1788) に 創 業 さ れ た
「泰地屋東作」 に負うところが多く、現在
の 江 戸 和 竿 職 人 の 系 譜 は、 天 明 年 間 創 業
の 泰 地 屋 東 作 に 遡 る と い わ れ て い る。 江
戸 時 代 後 期 に は、 美 術 工 芸 と 呼 べ る 域 に
まで達し、今日の江戸和竿が完成した。
江戸前の海やきれいな河川にも恵まれ、
遊 び 心 を た っ ぷ り 持 っ た、 江 戸 に 暮 ら す
人々の釣竿への要望に応えた研究の結晶
が江戸和竿といえる。
江戸和竿の材料には布袋竹、矢竹、淡竹、
真 竹 な ど が 使 わ れ、 竹 の 表 皮 を 生 か し た
漆 仕 上 げ に 特 徴 が あ る。 ま た、 石 鯛 釣 り
用約5.7m(写真上段)、鮎釣り用約8.1m(写
真 中 段 )、 は ぜ 用50cm( 写 真 下 段 ) な ど、
対象とする魚のサイズに合わせ様々な長
さの竿が製作されている。
写真30 江戸和竿 27)
現在、東京都および通商産業省から伝統工芸品指定産地組合の指定を受けた江戸和竿
協同組合に加盟する各社のほか、数多くの職人が江戸和竿の技術・技法を後世に伝える
ために若手後継者の育成と技術の普及に積極的に取り組んでいる。また、江東区立中川
船番所資料館では江戸和竿に関する様々な展示が行われており、その歴史や技法を学ぶ
ことができる。
- 20 -
2-5 下町の老舗
(1)下町のフーズ
下町には現在でも多くの老舗と言われる食べ物屋、小物を扱う店等がみられる。食べ
物屋の代表として、寿司屋、天ぷら屋、佃煮屋等がある。これらの食べ物屋で扱ってい
る食材の多くがかつて「江戸前」と呼ばれた地域で採れたものを使用していた。江戸前
の海には、この狭い海域に多摩川や隅田川、荒川、江戸川などの大きな河川が流れ込ん
でいて、そういう海域は魚介類の種類が豊富で、味もよい。江戸の屋台で売られたにぎ
り寿司やてんぷらはそれらの魚介類を種にした。これらの食べ物は、江戸前の海があっ
たからこそ生まれたともいえる。江戸の庶民たちは、これらの食べ物を「江戸前の○○」
と呼び、たいへん誇りにしていた。さらには海でとれるものでなくても、うなぎ、どじ
ょう、野菜も江戸前と呼ぶようになった。表4に食べ物別の老舗をまとめて示した。
「江戸前の海」というのは、江戸のすぐ前の海という意味で、羽田沖から深川沖を結ん
だ半円形の海域をさしていた。いまは東京湾の海岸域のほとんどが埋め立てられている。
表4 下町の老舗(食べ物)
種 別
主な老舗
寿司屋
弁天山美家古寿司(NHKドラマに出た)、
喜寿司、すし栄、寿司政
天ぷら屋
どじょう屋
江戸前
雷門三定、大黒家、天亀八、船橋屋
伊せ喜、桔梗屋、駒形どぜう、飯田屋
佃煮屋
天安、田中屋、松久、筑定、小松屋
甘味処
竹むら、初音、にんきや、梅むら、梅園
洋食屋
煉瓦亭、芳味亭、黒船亭、たいめいけん
その他の下町の老舗として、蕎麦屋、すっぽん屋、ちゃ
んこ屋等がある。今回は、主に江戸前で採れた食材を使っ
てスタートした老舗を取り上げてみた。
(写真31、写真32)
図5 東京湾の江戸前 28)
写真31 浅草寺雷門前の天ぷら屋「雷門三定」
写真32 浅草寺裏の甘味処「梅むら」
この店は人形町の屋台店から始まったという天
ぷら屋
ここの看板商品は豆寒天で、赤エンドウ豆の
ほのかな塩味と自家製黒蜜の相性が抜群
- 21 -
(2)工芸品の名店
東京では、「江戸○○」と名付けられている伝統工芸品が実に20以上もある。下表に
東京の伝統工芸品を掲載したが、失礼ながら正しく読める方も少なくなってきている。
東京都では、これらの44品目のうち、41品目を東京の伝統工芸品として指定している。
表5 東京の伝統工芸品
1. 村山大島紬
2. 東京染小紋
3. 本場黄八丈
4. 江戸木目込人形
5. 東京銀器
6. 東京手描友禅
7. 多摩織
8. 東京くみひも
9. 江戸漆器
10. 江戸鼈甲
11. 江戸刷毛
12. 東京仏壇
13. 江戸つまみ簪
14. 東京額縁
15. 江戸象牙
16. 江戸指物
17. 江戸簾
18. 江戸更紗
19. 東京本染ゆかた
20. 江戸和竿
21. 江戸衣裳着人形
22. 江戸切子
23. 江戸押絵羽子板
24. 江戸甲冑
25. 東京籐工芸
26. 東京桐箪笥
27. 江戸刺繍
28. 江戸木彫刻
29. 東京彫金
30. 東京打刃物
31. 江戸表具
32. 東京三味線
33. 江戸筆
34. 東京無地染
35. 東京琴
36. 江戸からかみ
37. 江戸木版画
38. 東京七宝
39. 東京硝子
40. 江戸手植ブラシ
41. 曲輪加工品
42. 足袋
43. 江戸箒
44. 江戸桶
以下にこうした伝統工芸品の名店のうちの一部を紹介する。
写真33 墨田区向島5-43-2
にある江戸押絵羽子板の「鴻月」
写真34 墨田区向島2-3-6
にある江戸木箸の「大黒屋」
江戸押絵羽子板は錦絵・歌舞伎と並ぶ
江戸の華であった。
江戸木箸は外観のデザインだけでなく、
自分の手に合わせて機能性で選ぶ。
写真35 台東区谷中の
江戸千代紙専門店「いせ辰」
写真36 台東区谷中7-6-7の
江戸鼈甲専門店「赤塚ベツ甲店」
緻密で華麗な木版図刷の絵柄は江戸時代
に考案されたものが多い。
江戸の鼈甲は長崎、大阪とともに三大産地
となった。日本のおしゃれにはかかせない。
- 22 -
3.下町の資料館、工芸館
下町地域にある資料館、工芸館等は多数存在しており、庶民の生活に密着したテーマ
で展示している施設が多い。このうち、展示規模、内容で充実しているのが江戸東京博
物館である。ここは江戸時代から約400年にわたる東京の返還が学べる施設である。そ
の他に、東京都以外の墨田区、江東区、台東区、葛飾区、民間で運営している資料館、
工芸館、博物館が多数あり、こうした施設めぐりも結構楽しい。下表に58箇所の施設
を掲載した。興味の有る方は、下町散歩の途中にでも気軽にお立ち寄り下さい。
表6 主な下町の資料館、工芸館
名 称
場 所
墨田区横網1-4-1
すみだ郷土文化資料館
墨田区向島2-3-5
本所防災館
墨田区横川4-6-6
相撲博物館
場 所
日本文具資料館
台東区柳橋1-1-15
池波正太郎記念文庫
台東区西浅草3-25-16
墨田区横網1-3-28
台東区立一葉記念館
台東区竜泉3-18-4
東京都復興記念館
墨田区横網2-3-25
中川船番所資料館
江東区大島9-1-15
相撲写真資料館
墨田区両国3-13-2
江東区芭蕉記念館
江東区常盤1-6-3
鼈甲資料館
墨田区横網2-5-5
江東区深川江戸資料館
江東区白河1-3-28
木彫資料館
墨田区石原1-13-3
田川水泡・のらくろ館
江東区森下3-14-17
セイコ-時計資料館
墨田区東向島3-9-7
東京みなと館
江東区青梅2-42
東武博物館
墨田区東向島4-28-16
東京都水の科学館
江東区有明2-4-1
両国花火資料館
墨田区両国2-10-8
家具の博物館
中央区晴海3-10
金庫と鍵の博物館
墨田区千歳3-4-1
凧の博物館
中央区日本橋1-12-10
江戸小紋博物館
墨田区八広2-26-9
ジュサブロー館
中央区日本橋人形3-6-9
桐の博物館
墨田区両国4-1-8
竹久夢二美術館
文京区弥生2-4-2
足袋資料館
墨田区緑1-9-3
立原道造記念館
文京区弥生2-4-5
台東区立下町風俗博物館 台東区上野公園2-1
おりがみ館
文京区湯島1-7-14
江戸下町伝統工芸館
台東区浅草2-22-12
礫川浮世絵美術館
文京区小石川1-2-3
台東区立朝倉彫塑館
台東区谷中7-18-10
印刷博物館
文京区水道1-3-3
世界のカバン館
台東区駒形1-8-10
本郷図書館鴎外記念室
文京区千駄木1-23-4
書道博物館
台東区根岸2-10-4
東京都水道歴史館
文京区本郷2-7-1
袋物参考館
台東区浅草橋2-4-1
文京ふるさと歴史館
文京区本郷4-9-29
黒田記念館
台東区上野公園
東京大学総合研究博物館 文京区本郷7-3-1
上野の森美術館
台東区上野公園1-2
オルゴールの小さな博物館 文京区目白台3-25-14
東京藝術大学美術館
台東区上野公園12-8
北区飛鳥山博物館
北区王子5-2-12
東京国立博物館
台東区上野公園13-9
荒川知水資料館
北区志茂5-41-1
国立科学博物館
台東区上野公園7-20
渋沢史料館
北区西ヶ原2-16-1
国立西洋美術館
台東区上野公園7-7
紙の博物館
北区王子1-1-3
東京都美術館
台東区上野公園8-36
葛飾区伝統産業館
葛飾区立石7-3-16
太鼓館
台東区浅草2-1-1
地下鉄博物館
江戸川区東葛西6-3-1
中央区
文京区
台東区
台東区池之端1-4-24
江東区
墨田区
横山大観記念館
台東区
江戸東京博物館
名 称
北区
その他
- 23 -
写真37 浅草寺西側のひさご通りにある
「台東区立江戸下町伝統工芸館」
写真38 上野不忍池脇にある
「台東区下町風俗資料館」
江戸時代から伝わる木彫、指物、刷毛など、約
50種400点の伝統工芸品を展示するほか、職人
さんによる実演コーナーもある。
大正時代の東京の下町を再現したコーナーや生
活用品・玩具などを集めたコーナーなど、見る
だけではなく実際に触れて体感できる。
写真39 墨田区にある「足袋資料館」
写真40 墨田区両国にある「花火資料館」
東京に3店しか残っていない足袋の製造販売店の
一つ「喜久や足袋本舗」のショーウィンドーにある。
花火の歴史や芸術性を紹介・展示し、 江戸の情
緒をちりばめた視覚的な博物館。
写真41 墨田区向島にある
「すみだ郷土文化資料館」
写真42 江東区大島にある
「中川船番所資料館」
浅草周辺の隅田川に関わる風俗や歴史をジオラ
マなどで常設展示紹介するとともに、季節の話
題にちなんだ企画展示している。
江戸時代の埋立ての歴史と当時の水路を使った
物流や和釣竿のコレクションを常設している。
- 24 -
4.これからの下町
東京の下町は、町民文化であり、江戸時代から連綿として受け継がれてきた落語等の
各種興業、伝統工芸、食文化等国内だけでなく海外にまで誇れるような伝統文化がたく
さんある。これからの下町に望まれていることは、後述のような防災をしっかりと実践
し住民の生活をまもり、さらに伝統文化を受け継いでいくことである。
4-1 防災の観点からの下町の状況
東京の下町は、江戸時代の浅海部埋立に始
まり、現在に至るまで、干拓、埋立により拡
幅されてきた。
その範囲は、右図のとおりで、下町の南側
から東京港にかけてはそのほとんどが埋立て
である。埋立ては、江戸時代からゴミの処分
を兼ねて行われ、特に数十回にも及ぶ江戸大
火の瓦礫も使用された。
<軟弱な地盤と地震災害>
東京低地の地盤は、沖積層の軟弱地盤であ
る。軟弱地盤とは、建造物の基礎地盤として
十分な地耐力がない地盤で、粘性土・シルト・
有機質土・緩い砂質土などで構成されている。
このため、地震時の揺れが大きい。右図の
関東大震災の震度分布をみると下町で震度の
高い地域が面的に広がっている。下町の中で
図6 東京港の埋立ての竣工時期及び分類 29)
も隅田川を挟んで東側は総じて震度が高く、
西側が比較的低い。沖積地盤と埋立て地で震
度6以上の地震が発生している。
また、地盤の液状化の問題では、地下水位
が高いことも一つの要因となっている。
液状化は、砂地盤において、地下水位が高
い場合に起り易い。水が存在する緩い砂層が
地震でゆすられることにより砂粒子が詰まっ
てしまった砂層に変わる過程で砂層がまるで
液体のようなふるまいをおこす。
実際には、液状化により建物の傾き、倒壊
あるいは構造物の破損等が起きやすくなる。
図7 関東大震災 東京都心部の震度分布30)
- 25 -
右 図 に よ れ ば、 液 状 化 が 発 生 し や す い 地
域は下町に広がっている。
下町においてはこれら地震時の揺れと液
状 化 に よ り、 実 際 に 震 度 7 ク ラ ス の 大 地 震
が発生するとかなりの被害が予想される。
<風水害>
下 町 は 標 高 が か な り 低 く、 満 潮 面 以 下 の
区 域 は 下 町 の ほ ぼ 全 域、 東 京23区 の 実 に41
%に相当するなど東京低地と呼ばれる低地
面を形成している。(図9参照)
こ の た め、 風 水 害 に 弱 く、 台 風、 集 中 豪
雨 に よ る 高 潮 や 河 川 の 増 水 氾 濫、 地 震 時 の
津波等で大きな被害の予測が見込まれてい
る。 特 に 台 風 が 満 潮 時 と 重 な る と 高 潮 が 発
生 し、 潮 位 が 数 メ ー ト ル も 上 昇 す る こ と が
あ る。 こ の よ う な 浸 水 の 他、 都 市 部 で は 地
面がアスファルト等で覆われ樹木も少ない
ことから大雨が降ると水は地面にしみ込ま
ず、 側 溝 や 河 川 に ス ト レ ー ト で 流 れ 込 み 急
図8 液状化予測図 31)
な増水を招いている。
過 去 に は、 カ ス リ ー ン 台 風( 昭 和22年
9.14 ~ 15)、 キ テ ィ 台 風( 昭 和24年8.31 ~
9.1)、 狩 野 川 台 風( 昭 和33年9.26 ~ 28) な
ど で 大 き な 被 害 を 受 け て い る。 特 に カ ス リ
ー ン 台 風 は、 明 治43年(1910) の 大 洪 水 以
来 の 大 規 模 な 被 害 で、 利 根 川 の 堤 防 が 破 堤
し埼玉県から東京の下町まで広い範囲が水
没した。
以 前、 利 根 川 の 中 流 域 で 民 家 の 軒 先 に 舟
が吊るしてあったのを見たことがある。不思
議に思った記憶があるが、それだけたびたび
洪水に見舞われていたのではなかろうか。
図9 潮位面と標高 32)
- 26 -
<火災>
江戸の時代から「火事と喧嘩は江戸の華」といわれ、大きな火災が繰り返し起きてい
た。下町の密集した木造家屋が主な原因と考えられる。
また、近年では住宅の防火構造の普及により火事の類焼は少ないが、地震時の家屋の
倒壊による火災に注意が必要である。
過去の例でも関東大震災の死者数の多くは火災による焼死であった。民家が倒壊し、
火災が発生すると大きな被害がでてしまう。
4-2 防災への取り組み
(1)治水・堤防
<外郭防潮ラインの整備>
江東区荒川河口右岸から大田区
羽田に至る臨海部に外郭防潮堤約
34km、 水 門19基、 排 水 機 場4か 所 か
ら な る ラ イ ン を 作 り、 高 潮 津 波 の 対
策を講じている。(図10参照)
写 真43は 水 門 か ら 防 潮 堤 が 伸 び て
いる様子で防潮堤は陸こうを閉じる
ことでラインが完成する。
<陸こう>
防潮堤は通常道路や岸壁への出入
口 が あ り 連 続 し て 閉 じ て は い な い。
このためその場所に稼働式の堤を備
えて、高潮時にこの陸こうを閉めて、
水門も閉じることで防潮ラインを完
成させる。
写 真44の 緑 色 の 構 造 物 が 陸 こ う で
ある。
<地盤沈下>
図10 外郭防潮ライン 33)
地 下 水 揚 水 の 規 制 が 進 み、 近 年 あ
まり問題視されてはいないが、標高が
低い下町には地盤沈下は大きな問題で
ある。地盤沈下が収まっているので逆
に地下水利用再開の要望がでてきてお
り、今後、管理された利用が望まれる。
- 27 -
写真43 朝潮水門
中央区勝どきと晴海の間を
流れる朝潮運河にある水門
写真44 江東区晴海の陸こう
高潮時防潮堤を閉め切る
<地下放水路地下調整池>
施設としては下町にはないが、上流側で治水の状況を改善することで、複合的に発生
する水害を予防できる。
近年建設が進んでいる治水工事として、地下深く(40m~ 50m)に直径十メートル
以上で、長さが数キロメートルにおよぶ巨大な地下空洞の築造が進められている。その
中に増水時の水を流したりためたりすることで、洪水や集中豪雨による浸水の被害を軽
減する目的でつくられている。以下にその一例を示す。
イ)首都圏外郭放水路
この施設は東京都ではなく国土交通省が建設した。場所は埼玉県にあるが、中川、綾
瀬川流域の浸水を防ぐことで、首都圏の洪水を防ぐ一助となっている。放水路は内径
10m長さ6.3kmの施設で最終的にポンプで江戸川に排水される。排水能力は200m 3 /秒で
あり毎秒学校のプール1杯分の水を排水できる。
ロ)神田川・環状7号線地下調整池
環状7号線の地下に内径12.5m長さ4.5kmのトンネルを築造した。貯水量54万m 3 で時
間50mmの雨に耐えられるような容量である。
上記2つの施設のほかにも地下のトンネルを建設し、今までの下水道などの容量を増
やす試みは今後も続いており、主に集中豪雨に対する備えができつつある。
- 28 -
(2)地震時の対策
<内部護岸の整備>
護岸の決壊を防ぐため既存護岸の前面に内部護岸をつくり地盤の液状化対策を考慮
した耐震補強を実施している。
耐震補強の内部護岸築造前には、運河で地質ボーリング調査を実施する。地盤の地質
状況を調べるとともに、同じ孔で速度検層を実施して、地盤の弾性波伝搬速度から地盤
の動的特性を求めることで地震応答解析をおこない、護岸の設計に役立てている。
写真45は内部護岸が整備された後のものである。護岸が崩れるのを防ぐとともに人
が歩けるようにすることで避難路の
確保にもなっている。また、通常時に
は岸部におりられる階段が設けられ
親水の目的ももたせている。
写 真46は 護 岸 築 造 前 で あ る。 護 岸
は鋼矢板1枚でその上にコンクリー
ト及び堤体があり、地震時に崩れた場
合すぐ浸水をまねく可能性が高い。
(3)防火対策
関東大震災の時は、累計で10万5千
写真45 辰巳運河の内部護岸
人 の 方 が 亡 く な っ て い る が、 地 震 動
で家屋が倒壊して亡くなった人は
1万1千人なのに対して、震災に伴う
火災で亡くなった人数は9万2千人
とかなりの数にのぼる。その原因とし
ては、木造の建物が倒壊したことによ
って部分的な出火が倒壊家屋に次々
燃え移り、震災時の強風にあおられて
大規模火災を引き起こしたと考えら
写真46 内部護岸築造前
れる。防火については、東京都は条例
で平成21年4月1日より住宅用火災警報器の義務化を決めており、火災時のより迅速
な対応が期待できる。
木造の建物の防火性は、防火建材の普及により、当時より格段に向上している。先に
述べたように防火性と相まって住宅の耐震性も防火には重要である。
このため、東京都では、補助金をだして耐震診断と耐震補強の推進をはかっている。
具体的には東京都庁、区役所あるいは出先に耐震診断・改修に関する相談窓口がある。
- 29 -
4-3 防災意識の向上を目指して
前述のような対策をいろいろ講じても、実際の防災には、住民一人一人の防災に対す
る心構えが重要である。東京の地域は、以前から東海地震に伴って大地震が来ると予想
されていたため住民の意識はかなり高い。災害にそなえて防災用品や食糧を備蓄してい
る人も多いと考えられる。当東京都地質調査業協会では、東京都内にある社団法人とい
うこともあり、地質的な観点から防災の行事に協力してきた。今後も住民の方の防災意
識を高めるため地盤の専門家としての知識が活用されるような協力体制をとっていき
たいと考えている。以下に主な活動状況を紹介する。ほぼ毎年開催されているのでお近
くの方は御来場下さい。
<防災講演会>
主に区や市の防災課よりの依頼で、不定期ではあるが、講演会を開催している。講師
の方は主に大学の先生や企業の専門家であり、地質的な観点からその地域の特徴や活断
層等について講演していただいている。主に防災担当者や地域の防災関係者の方を対象
としているが、住民の方も多数参加されている。
<防災展>
毎年8月(今年は8月17
日 ~ 20日 開 催 ) に 新 宿 西
口で開催される東京都主催
の防災展である。当協会は、
防災関連のパネルの展示や
地盤の液状化の実験のほか
地域の地盤検索というコー
ナーを設けて住民一人一人
のご自宅の地盤状況を解説
している。これが思いのほ
か好評で、多くの住民の方
に来ていただいている。
(写
真47参照)
これは関東地質調査業協
会が国土地理院の2万5千
写真47 東京都防災展風景(平成21年8月)
来場された方の自宅の地盤について、地形状況土地利用
状況、地震時の揺れ易さを2台のパソコンで検索してい
る。主に首都圏内の地盤が検索できる。
分の1の地形図と土地利用条件図を重ねあわせることにより、地域の地盤状況が分かる
ように作成したものである。これに当協会がグーグルアースと連動して検索できるよう
加 工 し た も の を 用 い て い る。 当 協 会 の ホ ー ム ペ ー ジ(http//:www.tokyo-geo.or.jp/)
からでも地盤検索できる。
- 30 -
【トピック】
<東京スカイツリー>
現在の東京タワーは、東京都心部に建て
られている超高層ビルの増加によりビル
東京スカイツリーのデザイン・構造
■全周にわたるRC連続地中壁杭
陰でワンセグ等の電波を受信しにくくな
っており、これを低減することを目的とし
て建設計画が始まった。場所は押上駅から
業平橋駅の間で、地盤の良くない下町に建
設が決まったことは、日本の建築の技術力
の高さを示すものである。基礎は地下35m
の砂礫層を基盤として、通常の杭基礎では
図11 東京スカイツリーの構造34)
な く、 右 図 の よ う にRC連 続 地 中 壁 杭 の 構
基礎構造はRC連続地中壁杭を使用している
造 と な っ て お り、634mの 高 さ を 支 え る 土
台として十分な強度をもっている。現在建
設が順調に進んでおり、右の写真のように
わずか3ヶ月でかなり高くなった。
東京スカイツリーには、「下町のものづく
りを継承し、人々の交流による新たな都市
文化の創造」。「人・地球にやさしく災害に
強く安全安心に暮らせる」。「先端技術メデ
ィアが集積し新しい日本・東京を世界へと
発信する」。という3つのコンセプトがある。
写真48 東京スカイツリー(H21.6撮影)
昨今、郊外にショッピングモールやアウ
トレットモールがかなりの数でできてい
るが、地域との融合を掲げているものはほ
とんどない。実際行ってみると、何もない
所に忽然と施設だけが存在し、それで完結
している。
東京スカイツリーのコンセプトからは、こ
れらを払拭して、下町のシンボルとして、ま
た、人情家で正義感溢れるといったいわゆる
江戸っ子気質の下町文化を代表し、世界に発
写真49 東京スカイツリー(H21.9撮影)
信する施設を目指しており、今後この周辺地
区の発展が期待されるところである。
- 31 -
この時点で高さ153m
<謝辞>
本号の発刊にあたり、協会元委員の安富氏(元技術副委員長)に以下のご協力を頂きました。
・東京都東部の地形区分図(東京の地質平面図)
・地下鉄大江戸線沿いの地質縦断図
<参考文献>
1)東京地図研究社:地べたで再発見「東京」の凸凹地図、技術評論社、2006
2)横田貢:東京成徳短期大学紀要 第6号、昭和48年4月
3)富岡八幡宮:HP http://www.tomiokahachimangu.or.jp/
4)浅草神社 三社祭:HP http://www.asakusajinja.jp/sanjamatsuri/
5)浅草神社奉賛会 三社祭 公式情報:HP http://www.sanjasama.jp/
6)鈴本演芸場HP http://www.rakugo.or.jp/
7)フリー百科事典ウイキペディア:落語、寄席
8)(株)歌舞伎座HP http://www.kabuki-za.co.jp/
9)フリー百科事典ウイキペディア:歌舞伎、歌舞伎座
10)(財)日本相撲協会HP http://www.sumo.or.jp/
11)フリー百科事典ウイキペディア:相撲、蔵前国技館
12)サントロペグループ 天使の恋人 「国技館と共に歩んだ近代都市」 HP
http://santrope.at.infoseek.co.jp/Sumo/Kokugi1.html
http://santrope.at.infoseek.co.jp/Sumo/Kokugi2.html
13)大石学 駅名で読む江戸・東京 PHP研究所 2003
14)統合型オンライン辞書サービス「weblio」より:江戸指物ほかで引用
15)えどさしもの茂上工芸HP http://www.tctv.ne.jp/sasimono/mogami/
16)東京都中小企業団体中央会HP http://www.tokyochuokai.or.jp/
17)江戸指物協同組合HP http://home.e01.itscom.net/edosashi/
18)台東区立江戸下町伝統工芸館
19)東京カットグラス工業協同組合HP http://www.edokiriko.or.jp/
20)葛飾区伝統産業職人会HP http://k-densan.hp.infoseek.co.jp/
21)葛飾区伝統産業館
22)(独)情報処理推進機構HP http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/
23)葛飾区伝統産業館HP http://www.dentosangyokan.com/index.htm/
24)東京金銀器工業協同組合HP http://www.tokyoginki.or.jp/
25)全国伝統的工芸品センターHP http://www.kougei.or.jp/
26)東京都伝統工芸士会HP http://www.dentoukougei.jp/tokyo/20.html/
27)江東区中川船番所資料館
28)貝塚爽平:東京湾シリーズ「東京湾の地形・地質と水」、築地書館、1993
29)東京都港湾局:新版 東京港地盤図、2001
30)武村雅之:1923年関東地震による東京都中心部の詳細深度分布と表層地盤構造、
日本地震工学会論文集、2003
31)東京都港湾局:公式HP www.kouwan.metro.tokyo.jp/jigyo/takashio/
32)東京都港湾局:公式HP www.kouwan.metro.tokyo.jp/jigyo/takashio/
33)東京都港湾局:公式HP www.kouwan.metro.tokyo.jp/jigyo/takashio/
34)東武タワースカイツリー株式会社:ライジング・イースト・プロジェクトの概要、2008
図版出典:日建設計
- 32 -
技術ノートのあゆみ
技術ノートは 当協会技術委員会が技術情報誌として昭和62年12月に創刊号を発行して以
来、平成21年11月までで第42号に達しています。
創刊号から第42号までの内容は、既刊リスト表に示すとおりです。トピックスの内容は、
東京を舞台とする様々な話題の中に地形、地質との関連または基礎工学的な話を織り込みな
がらその歴史や現在を伝える内容となっています。各号とも写真や図にカラーをふんだんに
使い、明るい紙面となっています。
技術ノートは、一般の方々に地質調査業を理解していただこうと始めた行事であります。
今後も、たくさんの人たちに読んでもらえるよう、内容を充実させて地域社会に貢献してい
きたいと思います。
創刊号から最新号まで(社)東京都地質調査業協会のホームページ
(http://www.tokyo-geo.or.jp/)からPDFファイルで読むことができます。
■技術ノート既刊リスト表(バックナンバー)
No. 発行年月
技術トピックス
No. 発行年月
技術トピックス
1
S. 62.12
東京都の地形区分図・地質断面図
25 H. 10. 3
東京の川 神田川
2
S. 63. 3
超高層ビルの地質の基礎形式
26 H. 10.10
東京の台地
3
S. 63. 7
江戸城なりたち、その地形・地質との関係
27 H. 10.12
東京の道
4
S. 63.10
東京湾の埋立、その歴史
28 H. 11. 3
東京の水辺
5
H. 1. 3
東京の川と水
29 H. 11.10
東京のまちなみ
6
H. 1. 8
建築基礎工法の変遷、その地質との関係
30 H. 12. 3
首都圏を支える鉄道網
7
H. 1.12
隅田川の橋、その地質と基礎形式
31 H. 12. 9
東京の公園
8
H. 2. 5
東京の地下鉄
32 H. 13. 3
東京のお酒
9
H. 2.11
東京の石
33 H. 13. 9
三宅島 ー 2000 年噴火と火山災害ー
10 H. 3. 3
新東京都庁舎
34 H. 14. 3
大江戸線
11 H. 3. 7
東京の遺跡
35 H. 14.10
東京の野菜
12 H. 3.12
東京の高速道路
36 H. 16. 2
東京の斜面と災害
13 H. 4. 3
東京の温泉
37 H. 16.11
東京湾
14 H. 4. 9
都内の庭園
38 H. 17.11
多摩川
15 H. 5. 3
山手線
16 H. 5.10
東京のベイエリア
40 H. 19.11
隅田川
17 H. 6. 3
東京の下水道
41 H. 20.10
社団法人化 10 周年記念誌 東京を知る
18 H. 6. 9
東京のエネルギー
42 H. 21.11
東京の下町
19 H. 7. 3
東京の山
20 H. 7. 9
東京の上水道
21 H. 8. 3
東京の低地
22 H. 8.10
東京の運河
23 H. 9. 3
東京のトンネル
24 H. 9. 9
東京の防災
39
- 33 -
H. 18.11
東京の地名と地形
編 集 後 記
今年、東京の話題の一つに「2016 年オリンピック招致活動」があったが、
このオリンピックはブラジルのリオデジャネイロに決まった。これも「BRICs」
といわれ注目されている国々の勢いの差か。仮に東京オリンピックとなれば、
陸上競技のマラソンは現在毎年開催されている「東京マラソン」のコースで
行われるはずであった。このコースは、新宿都庁をスタートして品川、銀座
四丁目~日本橋~浅草寺雷門~吾妻橋西詰というように、約1/3が東京の
下町を通過するもので、今年で3回の開催実績がある。この東京マラソンを
テレビ観戦していると、特に下町では競技者への暖かい声援や多くのボラン
ティアによる独特な差し入れがあって、毎回微笑ましい光景をみることがで
きる。残念ながら、オリンピックで東京の下町コースが紹介されことは叶わ
なかった。しかし、“東京が一つになる日”をキャッチフレーズにした東京マ
ラソンは、毎年2月末にみることができ、3万人もの人が競技に参加できる。
昨年は当協会も社団法人化 10 周年を迎え、過去 40 号分の技術ノートを集
約して再探索した技術ノート 41 号「東京を知る」を記念号として発刊した。
今年になって昨年までこの小誌の担当技術委員5名のうち4名が抜けたが、
新たに3名が加わり4名体制で今回の技術ノート 42 号「東京の下町」を編集
した。今号を技術ノートの再出発として、今後も新たな気持ちでいろいろな
切り口の「東京」をお届けしたいと思います。
技術委員会(金井、諏訪、川井、世森)
平成21年11月発行
Fly UP