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科学の参謀本部 - Hiroshima University

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科学の参謀本部 - Hiroshima University
“科学の参謀本部”
―ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデミー
の総合的研究―
論集 Vol.3
平成 22 年度~24 年度日本学術振興会科学研究費補助金
[基盤研究(B)]【課題番号:22500858】研究成果中間報告
2013 年 3 月
編集 (研究代表者): 市川 浩
“科学の参謀本部”
―ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデミー
の総合的研究―
論集 Vol.3
平成 22 年度~24 年度日本学術振興会科学研究費補助金
[基盤研究(B)]【課題番号:22500858】研究成果中間報告
2013 年 3 月
編集 (研究代表者): 市川 浩
論集 Vol.3 刊行にあたって
本論集は,日本学術振興会科学研究費補助金[基盤研究(B)]
(課題番号 22500858)
:
「
“科学の参謀
本部”―ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデミーの総合的研究―(研究代表者:市川 浩)
」による
研究成果の一部である.一昨年刊行した論集 Vol.1,昨年刊行した論集 Vol.2 に続いて本論集をお届
けできることは研究班メンバー全員の深く喜びとするところである.
ヴラジーミル・P. ヴィズギン,ユーリー・I.クリヴォノーソフ両氏からの寄稿は,研究代表者の
市川が 2012 年 4 月 17~19 日にモスクワで開催されたロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィーロフ
名称自然科学史=技術史研究所第 18 回年次学術集会(XⅧ Годичная Конференция Института истории
естествознания и техники им. С. И. Вавилова Российской Академии наук)に参加した折,両氏に直接依
頼したものである.これらはオリジナルな原稿である.
日本人による寄稿のうち,市川のものは,広島大学大学院総合科学研究科紀要Ⅲ『文明科学研究』
第 7 号(2012 年 12 月)に掲載されたものを,同研究科広報・出版委員会,
『文明科学研究』編集委
員会の許可をえて転載したものである.梶雅範,藤岡毅両名のものはそれぞれオリジナルな論稿で
ある.
掲載の順番は,概ねそれぞれが扱っている年代順としている.
なお,事前の打ち合わせが不充分で,各章はそれぞれの著者,訳者の好みにより形式がまちまち
となってしまった.これを統一する時間的余裕が余りなかったので,多くの場合そのままになって
しまっている.また,文書館資料を引用する場合,出所の表記は簡略化し,文書館名はしばしば頭
文字だけで表記している.ロシア科学史に精通しない限り,あまりなじみがあるとはいえない人名,
地名,機関名については,当然訳注が附せられるべきであったが,論集 Vol.1,2 に引き続いてここ
でも時間的余裕がなく果たせていない.訳文の生硬さについては読者にご寛恕をお願いしたい.
わたしたちの研究のそもそもの問題関心,課題と方法については,ご面倒ではあるが,論集№1
に掲載した研究代表者による「はじめに―研究の課題と方法―(pp.1-3)
」をぜひご参照いただきた
い.論集 Vol.l は,インターネットでも参照が可能である(http://home.hiroshima-u.ac.jp/
ichikawa/kagaku_1.pdf).また,論集 Vol.2 も同様にインターネットで参照が可能である
(http://home.hiroshima-u.ac.jp/ ichikawa/kagaku_2.pdf)
.
2012 年 2 月 5 日(日),東京工業大学を会場に開催された,本科研グループと日本科学史学会生物
学史分科会との共催企画=合同シンポジウム「ルィセンコ事件再考」の成果は日本科学史学会生物学
史分科会の雑誌『生物学史研究』の第 88 号(2013 年 3 月刊行)に特集として掲載されている.ま
た,2013 年 10 月 6 日(土)
,立命館大学衣笠キャンパスで開催されたロシア史研究会 2012 年度大
会において,本科研グループが企画し,ゲストを招聘したパネル「科学とソヴィエト権力―対抗・
協調・縺れ―」の成果は,日本科学史学会の欧文誌 Historia Scientiarum. Vol.22. No.3 (March,
2013)に特集として掲載される.それぞれの雑誌の刊行日との関係でいずれの特集も本論集には転載
することはできなかった.あわせて参照されたい.
われわれの研究が関心をもって参照されることを願ってやまない.
2013 年 3 月 15 日
編者記.
目次
Ⅰ.ロシアの第四世代の化学者としてのヴェルナツキー ―地球化学から叡知圏へ―/梶 雅範1)
…p.1.
…p.17.
Ⅱ.遺伝学研究所はなぜ乗っ取られたか?/藤岡毅 2)
Ⅲ.熱核兵器開発におけるソ連邦科学アカデミーの役割/ヴラジーミル・パーヴロヴィチ・ヴィズギン 3)(市川浩 4)
訳)
…p.33.
Ⅳ.科学アカデミーにたいする党の統制強化の諸形態―1949~1954 年―/ユーリー・イヴァノヴィッチ・クリヴォノ
…p.39.
ーソフ 5)(市川 浩訳)
Ⅴ. ルィセンコ覇権に抗して-ソ連邦科学アカデミー・シベリア支部細胞学=遺伝学研究所の設立をめぐって-
/市川 浩
…p.44.
※執筆者紹介
1)
かじ まさのり/東京工業大学大学院社会理工学研究科准教授. 科学史,化学史.
2)
ふじおか つよし/同志社大学嘱託講師.生物学史.
3)
Владимир Павлович Визгин/ロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィーロフ名称自然科学史=技術史研究所主任研究員・
物理学=力学史セクター主任.物理学=数学博士,教授.物理学史.
4)
いちかわ ひろし/広島大学大学院総合科学研究科教授. 科学・技術・社会論,技術史.
5)
Юрий Иванович Кривоносов/ロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィーロフ名称自然科学史=技術史研究所主任研究
員・科学政策史問題グループ主任.科学政策史.
「ほら,アメリカにはアカデミーなどない.でも,あそこでは,なんと科学機
関,科学研究機関の仕事が発展していることか.ご覧なさい.アメリカではど
れほど嵐のように急速に科学が発展していることか」
1946 年 12 月 12 日,モスクワ国立大学物理学部党員報告・選挙集
会での同志セルゲーエフの発言(ЦАОПИМ, Ф.478, Оп.1, Д.114,
л.169).
後,西欧留学して,リービヒなどの大学研究室
Ⅰ.
で本格的な実験研究を体験してきた化学者たち
ロシアの第四世代の化学者としてのヴェルナ
ツキー ―地球化学から叡知圏へ―
であった.その代表として,アレクサンドル・
ヴォスクレセンスキー(Александр Абрамович
,ニコライ・ジーニン
Воскресенский: 1808-80)
梶 雅範
,アレ
(Николай Николаевич Зинин: 1812?-80)
クセイ・ホドネフ(Алексей Иванович Ходнев:
,ゲルマン・ヘス(ロシア語の発音では
1818-83)
1 はじめに:ロシアの第四世代の化学者
「ゲス」
.Герман Иванович Гесс:1802-50)などを
ロシアにおける化学の歴史をその担い手であ
挙げることができる.彼ら第二世代の化学者た
る化学者を中心に考えてみると,
1725 年に設立
ちに,化学の当時の先端的な研究テーマにかか
された科学アカデミーによって養成された最初
わる自立的な研究の始まりを見ることができる.
のロシア人会員の一人ミハイル・ヴァシーリエ
しかし,彼らの研究能力は,十二分には開花さ
ヴィチ・ロモノーソフ( Михаил Васильевич
せられなかった.当時のロシアが彼らに求めた
Ломоносов:1711-65)が化学者の嚆矢と言えよ
のは先端的な研究活動ではなく,国家に必要な
う.彼は,現存するロシア最初の大学であるモ
専門家の養成,つまり教育活動であった.この
しかし,
スクワ大学の創設にも係わっている 1.
ため,過重な講義負担が貧しい実験施設ととも
いまのところ,ロモノーソフ等の動きは,あく
に,第二世代の化学者たちの研究活動を阻害し
までも「先駆」にとどまって 19 世紀のロシア
た.とくにそのことが顕著だったのは,大学と
での化学の歴史には大きな影響を与えることは
ともに多くの高等専門学校が集中していた首都
なかった.
サンクト・ペテルブルクの化学者たちであった.
化学者集団のロシアでの発生は,19 世紀初頭
彼ら第二世代の化学者に学び,19 世紀半ばの
のアレクサンドル一世による学制改革の中で設
「大改革時代」に研究者として出発したロシア
立された 6 校の帝国大学に設置された化学講座
の化学者(いわば,第三世代の化学者)は,実験
ゆえであった.それらの講座を担当したのは,
研究とともに理論的研究にも目を向けるように
一部の例外を除いて,ドイツ出身の教授たちで
なった.その代表は,ドミトリー・メンデレー
あった.大学の施設の貧弱さから,研究もまま
エフ(Дмитрий Иванович Менделеев:1834-1907)
ならず,化学教育の水準も低かった.彼ら(い
とアレクサンドル・ブートレロフ(Александр
わば,ロシアの化学者の第一世代)が行なった研
Михайлович Бутлеров:1828-86)だろう.彼らの師
究は,ロシア国内の産業や生活にとって直接に
の世代と違い,彼らには理論を含めた学術研究
必要で有益な事物に係わる分析化学的ないし応
が第一に求められるようになったのだろうか.
用化学的研究が大部分であった.
残念ながらそうではない.相変わらず彼らに対
それが,1830,40 年代になって,こうした状
して第一に求められていたのは,専門職業人の
況にも,変化が見られるようになった.そのこ
養成であった.化学者自身の求めたものと,社
ろようやく,地元の実践的な課題解決に迫られ
会から直接に求められたものの間にはずれがあ
ての実用的研究から離れた,当時の化学の先端
った.しかし,第三世代の化学者たちは重要な
的な問題に係わる実験的研究が見られるように
点で前の世代と違っていた.それは,絶対数は
なったのである.その担い手となったのは,ロ
確かにまだまだ少なかったが,化学者が集団的
シアで第一世代の化学者たちから教育を受けた
1
な存在になったことである.高等教育機関での
で採択された.ロシアの化学者たちは,ロシア
研究・教育環境の改善が,第三世代の化学者た
化学会を活動の拠点とし,
この学会は 19 世紀に
ちに研究者の道をより多く開いたのである.そ
あってはもっとも活動的な専門学会であった.
の端的な現れは,1863 年に公布された新大学令
本論文で注目したいのは,学会創設のころの
である.講座数,教官定員,給与ともに引き上
1860 年代生まれの次の世代の化学者たち,
ここ
げられ,
研究・教育の補助施設に対する予算も,
の言い方を使えば第四世代の科学者たちである.
2〜4倍になった.新大学令では,実験室,教
彼らは,その後半生,ほぼ四十代から六十代に
授室,資料室,診療室の新増設を定めており,
かけて,1905 年の第一次ロシア革命に始まり,
学生の実習の比重を増すことができるようにな
第一次世界大戦,二月革命と十月革命,内戦,
った.大学協議会は,教授要目,学位,奨学生
ソ連邦の成立と祖国の大変動を経験した.こう
決定の最終的権限をもち,予算配分,監査等の
した体制変革の中で,どのように生きるべきか
財務権も与えられた.最終的な裁可権は学区監
の厳しい選択を余儀なくされた.
督官や教育相が握っており,上からの統制が外
そうした化学者の一人,ヴェルナツキー
されたわけではなかったが,学内人事の具体的
(Владимир Иванович Вернадский:1863-1945)の
な執行は評議会の権限となった.以上のような
生涯と業績を本論文では検討したい.まず,彼
大学の研究・教育条件の一定の改善によって,
の生涯を簡単に追った後,その後半生の代表的
大学を通じての諸事業も多様で活気あるものと
な二つの著作『地球化学概論』と『惑星的現象
なった.
としての科学的思索』を取り上げて分析する.
最後にロシア社会におけるヴェルナツキーの位
こうした私的なサークル段階から公的な学会
置づけについて考察する.
へ進もうという化学者内部の動きを決定的に助
けたのは,学術集会を開催しようというロシア
2 ヴェルナツキーの生涯
の自然科学者全体の運動であった.そうした運
動は,地方レベルでは,1850 年代末から見られ
ヴラジーミル・イヴァノヴィチ・ヴェルナツ
た.学術集会の「政治利用」を恐れた支配層は,
キーは,1863年にサンクト・ペテルブルグに生
この種の集会をなかなか許可しなかったが,よ
まれた2 .1881年にサンクト・ペテルブルグ大
うやく 1867 年になって,
ペテルブルクにおける
学理学部に入学し,大学でとくに土壌学の創始
自然科学者会議の全国大会開催の請願に対して
者ドクチャーエフ(В. В. Докучаев:1846-1903,
許可がおりた.1867 年 12 月 28 日,ペテルブル
名・父称不詳.ロシアの土壌学者)の指導を受け,
クで,
第1回ロシア自然科学者会議が開かれた.
土壌学・鉱物学・結晶学から出発し,1910年代,
会議は,数学,天文学,植物学・動物学,解剖
20年代に,アメリカのクラーク(F. W. Clarke:
学・生理学,物理学,化学の6部会に分かれ,
1847-1931.アメリカの地球化学者)やノルウェ
465 人の参加者を集め,153 の報告があった.こ
ー の V ・ M ・ ゴ ル ト シ ュ ミ ッ ト ( V. M.
のうち,化学部会に集まったのは,80 人である.
Goldschmidt:1888-1947.ノルウェーの岩石・地球
1868 年 1 月 4 日までの会期中,化学部会では3
化学・結晶化学者)らの研究とともに,化学的
回の集会があり,全部で 33 の報告があった.当
手段によって地球全体を対象とする
「地球化学」
時のロシアの化学の専門研究者のほとんどを集
という新しい科学分野の確立に貢献した.
めて,学術報告会を開き得た事実は,化学会を
ヴェルナツキーは,
1890年から1911年までモ
設立して運営をして行く自信を化学者たちに与
スクワ大学の鉱物学と結晶学の教授を務めたが,
えたといえる.会議最終日の閉会全体集会にお
1911年2月に大学当局の反動的な政策に抗議し
いて,会議に対してロシア化学会設立請願を求
て多くの教授たちとともに大学を辞任した後は,
めた化学部会の宣言が読み上げられ,全会一致
科学アカデミーの会員(当時は鉱物学部門の通信
2
会員で,正会員となったのは1912年12月)として
ランゲリ軍)の撤退とともにヨーロッパに亡命
1911年9月にサンクト・ペテルブルグに戻った.
するつもりだった.歴史学者になった息子ゲオ
ヴェルナツキーは科学研究だけでなく,大学
ルギー( Георгий Владимирович Вернадский:
時代の友人の影響もあって意識ある知識人(イ
1887-1973.ロシア出身で,アメリカで活躍したロ
ンテリゲンツィア)として社会運動にもかかわ
シア史家)3 は夫妻で亡命するが,ヴェルナツキ
った.彼らは,教養ある社会層による文化的な
ーはタヴリーダ大学の学生たちの要望もあって
進化が社会に秩序ある望ましい政治的変化をも
妻とともにロシアの地に留まった.
たらすと信じていた.1905年の第一次ロシア革
最終的に 1921 年 1 月に学長を退いた後,
妻や
命後に開設された第一国会で第一党になる自由
娘とともにモスクワを経由して 4 月初めにペト
主義政党「カデット(立憲民主党)」の設立に
ログラード(第一次大戦開始時に,敵国のドイツ
ヴェルナツキーは参加し,1908-18年にはその
語風の名前を嫌って,サンクト・ペテルブルグか
中央委員を務めた.
ら改称)に戻り,科学アカデミーでの活動に復
1914年に始まった第一次世界大戦は,軍人の
帰する.7 月にペトログラードの秘密警察に逮
作戦行動よりも銃後の生産力が決定的な意義を
捕されて短期間勾留されたが,科学アカデミー
もつ総力戦という新しい形態の戦争であり,各
の友人の尽力ですぐに釈放された.
国で科学者を含め全国民が動員された.ヴェル
1921 年の暮,パリ大学学長から地球化学の講
ナツキーらは,開戦の翌1915年,大戦による輸
義のための招待状が届くと,ヴェルナツキーは
入途絶からくる原料枯渇に対処するためにロシ
四方八方に手を尽くして出国許可をとった.
ア自然生産力調査委員会(Комиссия по изучению
1922 年 6 月に妻と娘とともに出国し,亡命して
естественных производительных сил России :略称
いた息子夫婦のいるプラハにしばらく滞在した
КЕПС)を科学アカデミーのもとに結成し国家
後,7 月 8 日にパリに到着した.12 月 13 日には
の戦争遂行に協力した.
ソルボンヌでの講義を開始している.
しかし,帝政政府は,総力戦の負担に耐えき
欧米の同僚は,このヴェルナツキー出国を亡
れず,1917年2月に倒壊してしまった.かわっ
命とみたが,ヴェルナツキーは,国外での生活
て設立されたブルジョワ的な臨時政府を多くの
と生物地球化学(биогеохимия)という新構想の
科学者たちは歓迎した.臨時政府に参加したカ
外国での展開の可能性を探りながら,派遣元で
デットの中央委員であったヴェルナツキーも,
あるソ連科学アカデミーにたびたび滞在延長申
この政府のもとで教育次官を務めた.
請をしていた.
三回にわたる滞在延長の末,
1924
しかし,そのあとの同じ年のボリシェヴィキ
年春までは滞在延長許可を得た.ヴェルナツキ
による十月革命には,ヴェルナツキーを含め科
ーが完全な亡命に踏み切らず,科学アカデミー
学者の多数派は反対した.
翌年6月には親族も多
に対してたびたび延長申請をして許可を得てい
いウクライナに移り,ウクライナ科学アカデミ
た理由として,この時代のヴェルナツキーを分
ーの創設にかかわり,11月26日のその最初の総
析したロシアの科学史家コルチンスキー
会で初代総裁に選出された.1919年になるとボ
(1)老年な
(Эдуард Израилевич Колчинский)は,
リシェヴィキに占領されたキエフを逃れ,1920
ので新しい土地で新たにやり直すだけの時間が
年初めまでに,ロシアの最南端にあたる黒海に
ないとヴェルナツキーが感じていたことと,
(2)
突き出たヤルタ半島に移った.同年3月,ヤルタ
すでに 60 代になろうとしていたヴェルナツキ
半島の中央にあるシンフェローポリにキエフ大
ーの新しい研究プロジェクトに援助しようとい
学の分校として設立されたタヴリーダ大学
う外国の研究機関や財団がなかなか見つからな
(Таврический университет:のちに独立)の学長
かったことを挙げている 4.
となった.彼は,当初,南ロシアにいた白軍(ヴ
たびたびの外国滞在延長にしびれを切らした
3
科学アカデミーは,1924 年 9 月 3 日に,ヴェル
ンドル・フェルスマン(Александр Евгеньевич
ナツキーをアカデミー正会員から除名し,アカ
Ферсман:1883-1945)が「地球化学」と名付けた
デミーの給与と官舎を没収した.さらにラジウ
最初の講義を行っている.ヴェルナツキーによ
ム研究所所長職から解任し,ヴェルナツキーの
る「地球化学」の講義は,ウクライナ滞在中に
つくった知識史委員会(Комиссия по истории
キエフ大学で(1918-19 年)
,ペトログラードに
знаний)を解散する決定を下した.ただし,帰
,また
戻ってから科学アカデミーで(1921 年)
国すれば,科学アカデミー会員に選挙なしに復
同市の農業高等専門学校で(1921-22 年)行われ
帰できる余地は残した.
た.1920 年代のパリ滞在中にもソルボンヌで地
結局,有名な研究者を祖国に引き留めておく
球化学の講義を行っており(そのためにパリ大
ことにメリットを感じていた当時のソ連政府が,
学から招待状を受けた)
,
パリから帰国後もレニ
彼に研究の場を提供したのでヴェルナツキーは
ングラードの科学アカデミーでふたたび講義し
帰国した.
た 5.
1929年には,独立性の強かった科学アカデミ
それらの講義は,いずれも記録がとられてい
ーに対して新会員の選挙を通じて党員ないし党
る.とくに,キエフ大学の講義録とペトログラ
に近い専門家たちのアカデミーへの浸透をはか
ードの科学アカデミーでの講義録は,印刷用に
り,また多くの科学アカデミー研究所職員が逮
整理されてヴェルナツキーのパリ出張前に印刷
捕・解雇され,科学アカデミーの「ボリシェヴ
所に入れられていたが,なぜか印刷されずに科
ィキ化」がはかられた.ヴェルナツキーはこう
学アカデミーの文書館に保管されたままになっ
した動きに対して批判的態度を貫いたが,研究
てしまった 6.17 回にわたる農業高等専門学校
グループの中から粛清の犠牲者を出したものの,
での講義は,速記録が残っているだけで出版は
彼自身は学問的功績と国際的名声,老齢ゆえに
されなかった.したがって,生前に出版された
粛清されることはなかった.
こうした状況下で,
彼の地球化学の講義は,ソルボンヌでの講義だ
彼の思索はますます哲学的傾向を強めていった.
けである 7.これこそが,当時の日本の化学者
や地質学者たちが読んだものだ.
彼が亡くなったのは,
第二次世界大戦の末期,
フランスで 1924 年に出版されたこの講義録
モスクワの自宅で脳出血に倒れてから二週間後,
1945年1月6日のことである.息子が,父をアメ
は,この本の序文によれば 1922 年から翌 1923
リカに招待しようと準備している最中だった.
年にかけてなされた講義に基づく 8.ただソル
ボンヌでの2年目の講義は出版されなかった 9.
ヴェルナツキーが帰国してまもなく出された
3 ヴェルナツキーと『地球化学概論』
』
(1927 年)
『地球化学概論(Очерки геохимии)
ヴェルナツキーは,鉱物学部門での科学アカ
デミー会員であったように,地質学者・鉱物学
10
者として出発した.しかし,その後半生には,
行されたロシア語初版である.とくに生命現象
地球全体を化学的な観点からアプローチする
(
「生命圏」
)や放射性元素に関する部分が完全
「地球化学」という新分野の創設者の一人とな
に書き直されたと,その序文にある.このロシ
った.その点から,化学に貢献した.本節は,
ア語版から翻訳して増補改訂したドイツ語版が,
このヴェルナツキーの地球化学を彼の関係のこ
1930 年に出版された(序文の日付は 1929 年 7
の分野での初期の代表作である
『地球化学概論』
月)11.1934 年に出版されたヴェルナツキーの
の分析を通して考えてみよう.この分析は,ヴ
『地球化学』のロシア語第2版 12 は,その序文
ェルナツキーと日本との学問的な接点をも明ら
で,ロシア語初版よりはドイツ語版を改訂増補
かにしてくれる.
したもので,フランス語版から通算して「第四
は,このフランス語版を全面的に改定して発
版」に当たると述べている.
1912 年に,ヴェルナツキーの弟子のアレクサ
4
年7月11日に,
満二年間のアメリカ合衆国,
12)
4 ヴェルナツキーの『地球化学概論』の日本語訳
ドイツ,フランスへ在留を命じられた.同年 12
じつは,ヴェルナツキーの数えた「4つの版」
月 5 日に仙台を立ち,アメリカにしばらく滞在
には入っていないが,上記のドイツ語版とロシ
した後ヨーロッパに移った.途中,在留国にイ
ア語第2版との間に,日本語版とも呼べる日本
ギリスを加えたので,二ヶ月あまり当初のヨー
語への翻訳があった 13.当時,東北帝国大学教
ロッパ滞在予定を延長して,1926(大正 15)年
授だった高橋純一による翻訳であるが,その内
2 月 18 日神戸港に帰朝,
20 日には仙台に帰着し
容の分析の前に,高橋純一という人物について
た.帰国の翌年 1927(昭和 2)年 12 月 13 日に,
紹介しておこう.
高橋は予定通り東北帝国大学教授に昇任し,石
油鉱床学講座担当となった.
戦時中の 1944(昭和 19)年には評議員,戦後
1) 高橋純一の略歴
高橋純一は,1887(明治 20)年 8 月 2 日,岩
まもなくの 1946(昭和 21)年には理学部長に就
,母ヱキの
手県盛岡市に父高橋恵泯(けいみん)
任して,1949(昭和 24)年 3 月 31 日の退官直前
三男として生まれた 14. 父は,1851 年に南部
の 3 月 3 日まで務めた.翌年,新設の新制大学
藩士の息子として生まれ,もと禅宗の修行僧だ
の信州大学学長に迎えられ 16,1954(昭和 29)
ったが,のちにカトリックに改宗して伝道師に
年 9 月 15 日まで学長を務めた.在任中,一度,
なるという変わった経歴の持ち主で,
それゆえ,
脳梗塞で倒れ東京でしばらく療養したというが,
高橋純一もカトリックの幼児洗礼を受けたとい
学長辞職の 5 年後,1959(昭和 34)年 7 月 9 日
う.純一夫人になったユキは,戸籍名ルシヤと
に再び脳梗塞に倒れ,14 日に永眠した.墓所は
いい,もと鳥取藩士武宮一の娘で,そうした娘
東京の青山墓地にある.
への命名から夫人の両親もカトリック信者だっ
たと想像できる 15.純一夫妻には三人の子供が
2) 高橋純一とヴェルナツキー
いたが,三人ともにカトリックの幼児洗礼を受
高橋純一とヴェルナツキーの最初の接点は,
けたという.
高橋純一の三男高橋洋氏によれば,
教授昇進のための 1923 年暮からの二年あまり
クリスチャンであったためか,父純一は温厚な
の欧米での在外研究のときであった.
性格で怒ることは滅多になく,学生の面倒見も
このときを物語る史料としては,東北大学史
よかったという.
料館に保存されている在外研究の辞令と関係種
高橋純一は,福島県立安積中学,第二高等学
,遺族から寄贈
類(家族調書や健康診断書など)
校を経て,東京帝国大学に進学し,1909(明治
されて盛岡市先人記念館にある当時のパスポー
2)7 月に東京帝国大学理科大学地質科を卒業し
トくらいしかない.
ただ,
滞在の詳しい記述が,
た.しばらく新潟県や長崎県の県立中学に勤め
東北大学の退官まもなくに編集された小冊子
た後,1917(大正 6)年,金沢の第四高等学校
『高橋純一先生の学術的業績』17 にある.
教授に任じられた.この第四高等学校時代に北
これをまとめた八木次男(1897-1951)の記述
陸地方の地質現象を研究し,さらに文部省の科
によれば,1923 年暮に横浜を発ってまずアメリ
学研究補助費を得て石油鉱床の研究を始めた.
カに渡り,翌年夏までカリフォルニア州立大学
この研究が,東北帝国大学理学部岩石鉱物鉱床
に滞在し,
コロラド州の鉱山学校やシカゴ大学,
学科教授神津俶祐 (こうづ・しゅくすけ,
ピッツバーグの各大学やアメリカ各地の油田を
1880-1955)の目にとまり,1921(大正 10)年 3
見学しながら東海岸に出て,ニューヨークから
月 31 日,東北帝国大学助教授に迎えられた.高
フランスに渡った.
フランスではパリに滞在し,
橋は,学科の新しい講座である石油鉱床学講座
さらにはドイツ,イタリア,ポーランド,ルー
を担当することになり,そのために 1923(大正
マニア,イギリスなどの各地の鉱床や油田など
5
を精力的に見学して回ったという.
ツキーは,1925 年末まではパリに滞在しており,
八木は,
「パリーは専らラ・クロア(鉱山学,
高橋もしばらくはパリにおり,ヨーロッパにや
岩石学)カユー(水成岩)両教授の研究所にお
はり 25 年末までいた.しかも,ヴェルナツキー
られ,当時亡命中のヘルナドスキー教授の特別
も高橋もパリでの受け入れた先が同じラクロワ
「ヘルナドス
講義に列せられた」としている 18.
なので,ふたりが全く会わなかったというのは
キー教授」というのは,もちろん当時,パリに
考えにくい.
滞在していたヴェルナツキーのことで,ヴェル
現に,高橋は帰国後,所属の岩石鉱物鉱床学
ナツキーもフランス語版の『地球化学』の序文
科が立ち上げた岩石鉱物鉱床学会(1928 年 10
で,この本の内容について議論し,ゲラに目を
月 24 日設立)の機関誌『岩石鉱物鉱床学会誌』
通し,しかも自然史博物館内にあった自分の実
の編集に携わったが,その第2巻に「地化学の
験室を使わせてくれた友人として,ラクロワ
概念」という解説論文 23 を発表した.そのなか
(François Antoine Alfred Lacroix:1863-1948)の名
で彼は,
「著者がかつてその教えを受けた露国学
前を挙げている 19.
士院の会員,W. Vernadsky」という言い方をし
ここまで書かれているとヴェルナツキーと高
ており,講義は聴けなかったとしても面識ぐら
橋は講義を聴講しパリで面識を得ていたと想像
いはあったろうと想像できる.そのことを八木
したくなるが,残っている史料からどうやら高
に常々言っていて,それですでに引用した八木
橋は,少なくともヴェルナツキーの講義には出
の記述になったのだろう.
席しなかったようだ.モスクワの科学アカデミ
高橋はヴェルナツキー宛の最初の手紙(1932
ー文書館にヴェルナツキーのフォンドにあるヴ
年 5 月 28 日付け)で,フランス語版の『地球化
ェルナツキー宛の外国人からの手紙のファイル
学』の翻訳の許可を求めた.はじめて手紙を出
の中に,高橋がヴェルナツキーに宛てて出した
す形で,まったく面識がないようにも読める文
手紙が保存されている 20.英文の手紙が 6 通 21
面だ.手紙は,ヴェルナツキーがすでに 1926
と仏文の手紙 1 通 22 がある.このうち,もっと
年初めにはパリを離れてソ連に帰国しているこ
も古い 1932 年 5 月 28 日付けの手紙の冒頭で,
とも知らずパリ大学宛に手紙を出しているくら
「パリ到着が遅かったので,あなたがソルボン
い,
かりに 1924 年に面識を得ていたとしてもそ
ヌで行った講義に出席できなかった」と書いて
れ以上の交流はなく,六年以上経って初めて出
おり,八木の記述とは違い高橋はヴェルナツキ
す手紙を,まったくの初対面であるかのような
ーのパリでの講義には出席していない.
文面になったとしても不思議はない.
実際,盛岡市先人記念館に保存されているこ
のときの高橋のパスポートによれば,彼は 1924
3) 高橋純一によるヴェルナツキーの『地球化学』翻
年7月8日にパリに到着していることがわかる.
訳
すでに述べたように,ヴェルナツキーのパリの
帰国後の高橋によるヴェルナツキーの業績の
最初の講義は 1922 年暮に始まり,翌 23 年の夏
紹介は,すでに触れた所属学科が編集発行しは
前に終わっている.この内容が翌年にフランス
じめた『岩石鉱物鉱床学会誌』の誌上でなされ
』
で発行された彼の『地球化学(La Géochimie)
た.そのもっとも早いものが,1929 年に同誌に
である.2年目も同様に講義したが,前年の同
発表され「地化学の概念」24 である.ここで高
じような日程だとすると,
講義は 23 年終わりに
橋は,Geochemie を地化学と翻訳して,ヴェル
はじまって 24 年の夏前には終わっている可能
ナツキーの概念を紹介した.
続いて翌年には
「ヴ
性がある.したがって同年の 7 月 8 日にパリに
エルナドスキのカオリン核説に就て」25 で,ヴ
到着した高橋はヴェルナツキーのソルボンヌの
ェルナツキーによる粘土の構造についての学説
講義には出席できなかった.しかし,ヴェルナ
を紹介した.さらに 1933 年には同誌に,ヴェル
6
った 33.
ナツキーの『地球化学』の第一章を翻訳して,
「地球化学発達概史」26 として発表した.
さらに,とくに石油鉱床学を発展させた高橋
最終的には,ヴェルナツキーの『地球化学』
の弟子,田口一雄 34 は,有機地球化学 Organic
の日本語訳は,1933 年 10 月に発行された 27.
geochemistry を提唱し,大気圏,水圏,岩石圏,
同年 9 月付けの序文によれば 28,フランス語版
生命圏,宇宙空間に分布する有機物(炭素化合
を基本にドイツ語版(1930)も参照し,さらに
物)を研究する目的で,日本有機地球化学会を
ヴェルナツキーとの文通を通じて提供された新
1977 年に設立した 35.これなど,ヴェルナツキ
『地球化学』のロシア語版第2版のための資
資料(
ーの唱えた生物地球化学 биогеохимия (biogeo-
料)をも参照して,日本語に翻訳して 1933 年に
chemistry)を連想させ,間接的な影響関係が推測
内田老鶴圃から出版した.そのため,節分けも
できる.ヴェルナツキーは,高橋純一を通して
若干他の版と異なり,
「仏蘭西版四章六十二節,
東北帝国大学に地質学の新分野・新たなアプロ
独逸版六章六十節なるに対し,本書は七章六十
ーチ開拓において一定の影響を得たといえよう
六節なるに至った」とある 29.節の区切り方だ
36.
けでなく,
翻訳で多くの独自の注をつけており,
5 地球化学から生物地球化学,生物圏から叡知圏
とくに石油関係の章では批判的な注が多い.
へ
ヴェルナツキーの地球化学研究は,生物の影
4)高橋純一の地球化学の日本導入に果たした役割
高橋純一は,これまでヴェルナツキーの『地
響を考慮する意味で他の地球化学研究から一線
球化学』の翻訳者として以上には,彼の日本へ
を画しており,彼の晩年には生物地球化学的研
の地球化学導入に果たした役割を評価されるこ
究の展開に努めた.さらに20世紀初頭に彼が眼
とはなかった.翻訳の後は「伝統的な地質学の
のあたりにした物理学革命に始まる科学自体の
道を守った」という,すでに引用した松尾の評
大きな変革とロシア社会自体の大転換の中で,
価 30 は,その典型だろう.
ヴェルナツキーは哲学的な思考を深めていった.
高橋の地質学者としての業績の分析は,弟子
その集大成と言えるのが未完の著『惑星現象と
の八木次男による
『高橋純一先生の学術的業績』
しての科学的思考(Научная мысль как планетное
(1949 年)31 がもっとも総括的なものと思われ
явление)』である.1938年末まで書き続けられ
る.
最近のものでは,
岡田博有のものがある 32.
た原稿は,推敲途中の草稿のまま科学アカデミ
岡田によれば,高橋純一は,
「日本の堆積学の苗
ー文書館に保管された37.原稿は,戦後,解読
床を作った人」であって,石油成因論や油田構
されソ連時代でも3回公刊された.その3回目
造の地質学的研究,油層に伴う各種岩石の研究
の1991年,ソ連崩壊の直前に,その全文がはじ
を行い,
「なかでもその名を高めたのは海緑石の
めて完全な形で刊行された38.私は,その刊行
産状と成因に関する研究であった」
.
のしばらく後にこの1991年版の翻訳を依頼さ
この岡田の評価をさらに敷衍して,高橋純一
れた.印刷物になっているとはいえ,もとはま
の業績について再考してみよう.高橋は,弟子
だ推敲の終わっていない草稿であり,ロシア語
の八木次男とともに地質学における新たなアプ
としても必ずしもよく練られていない,場合に
ローチ,すなわち,地質学への化学的アプロー
よっては文法的にも破格な部分を含む,しかも
チを導入し,元素循環をはじめとする総合的・
始めは,内容的にもよく理解できないロシア語
時間的アプローチ(ここにはヴェルナツキーの影
の翻訳は困難を極めた39.多くの中断を経なが
響が見られる)によって,堆積学という,たん
ら,翻訳は細々と続けられようやく最後までの
なる堆積岩の層序学ではなく,化学や物理学の
翻訳が一応完成したのは,2013年3月のことで
アプローチを含む新しい分野形成の先駆けにな
あり,完成に20年以上かかってしまった.本節
7
では,この未完の著を考察して,ヴェルナツキ
1938年秋までは続けられたが,完成はされなか
ーの研究上・思想上の到達点を明らかにしよう.
った.1941年6月に独ソ戦が始まると,疎開先
のカザフスタンでは,『地球とその周囲の生物
1)『惑星現象としての科学的思考』の成立と出版の
圏の化学的構造(Химическое строение биосферы
経緯
Земли и её окружения)』の執筆に費やされた.
実は,『惑星現象としての科学的思考』の出
最晩年には,生物圏から叡知圏への転換につい
版自体,長い紆余曲折があった.それについて
て独立の論稿を書いた.それが,「叡知圏に関
まず見てみよう.
する若干の話」44とアメリカの息子に送付され
て英訳されて発表された「生物圏と叡知圏」45
ヴェルナツキーは,1940年に出版された『生
物地球化学概論(Биогеохимические очерки)』
である.
の序文で,生物地球化学という分野にすでに
結局,『惑星現象としての科学的思考』は,
1916年から関心をもち,それ以来ずっとこのテ
草稿のまま科学アカデミー文書館のヴェルナツ
ーマで研究してきたと述べている.実際,
キーの個人文書ファイルの中に保管された.草
1920-30年代にすでに述べた『地球化学概論
稿はタイプ原稿で,そこに手書きで訂正や補足
(Очерки геохимии)』(1927年以降),『生物
が入っている.そのため,句や文章が破格にな
圏(Биосфера)』(1926年),『天然水博物誌
っている部分もあり,主述が不対応であったり
(История природных вод)』,『生物地球化学
して,編集途中の文章と感じられる部分が見ら
の諸問題(Проблемы биогеохимии)』(1934年
れる46.また,代名詞も多く,その代名詞がな
以降)などの著作を書いてきた.それに関連し
にを指すのかわかりにくい.引用も一部は記憶
て,すでに70歳になっていたヴェルナツキーは,
でしているようで,間違いもある.論著のタイ
1933年10月28日付けの旧友オリデンブルグ
トルや著者名も不完全なところも多い.これら
(Сергей Фёдорович Ольденбург:1863-1934)宛
を完全にした完成稿をヴェルナツキーはつくる
の手紙に,これまでの著作を総括する科学と哲
ことはできなかった.私が翻訳し始め時には,
学や人類の将来についての哲学的な著作を死ぬ
こうした言わば「悪文」が頻出するので,たい
前に書きたいという希望を述べている40.
へん苦労した.部分的にはロシア人にさえ,文
ヴェルナツキーが実際にそうした著作の執筆
意不明なところもあり,翻訳の当初私は,ヴェ
をはじめたのは,1936年春のことであった41.
ルナツキーが二流の文章家,悪文家と思い込ん
しかし,生物地球化学の基礎の考察から,科学
でいた.それゆえ,どうしてロシア人がヴェル
や科学的思考そのものの根本的検討へと発展し
ナツキーを評価するのかわからなかった.これ
た.彼の最後の外国滞在になったこの年のヨー
は,未完成の草稿を見ていたからのことで,完
ロッパ滞在でも,構想は練り続けられた.1937
成した彼の他の文章はそれほどひどくない.
年の前半は,モスクワで開かれた国際地質学会
この草稿からの出版は,ソ連時代には3回行
の準備に費やされ,8月には最初の脳溢血があ
われており,そのこと自体がそれぞれの時代の
り,後半にはその療養に努めて知的な作業がで
反映といえる47.最初の出版の企画は,スター
きなかった.本格的な執筆作業に入ったのは,
リン死後のフルシチョフ政権下の「雪解け」時
1937年から38年にかけての冬のことであった.
代に,科学アカデミー地球化学・分析化学研究
1938年1月4日の日記の記事に,「本に関する系
所附属ヴェルナツキー記念室・博物館の室長の
統的な仕事を始めた」42という記述が見える.
ネ ア ポ リ タ ン ス カ ヤ (Валентина Сергеевна
日記を追っていくとその後の執筆過程のおおよ
Неаполитанская:1907-99)の発案で始まった.彼
そがつかめる.1938年5月初めにはほぼ初稿は
女に科学アカデミー文書館の所員のバストラコ
完成し,推敲に入ったと考えられる43.推敲は
ヴァ(Майя Семёновна Бастракова)とフィリーポ
8
ヴァ(Н. В. Филиппова,名・父称不詳),それに後
された),また1977年版の注解もそのまま残さ
に有名なヴェルナツキー研究者になるモチャー
れた.
ロフ(Инар Иванович Мочалов:1932-)48が加わっ
1991年,ソ連崩壊の年に発刊された本論文で
て,ヴェルナツキーの草稿の解読が始まった.
1991年版と呼んだ版では,『惑星現象としての
可能な限り判読困難な語は復元し,略号は元に
科学的思考』は独立した一書として発刊された
戻し,文意不明瞭や文法的に破格の部分は,ヴ
が,ここでも最後の151-156節は,本文とはい
ェルナツキーのスタイルや語彙などを保存でき
っしょにされず,付録に「初期の草稿の結論的
る範囲で訂正した.1960年代の末に,出来上が
断 章 ( заключительные фрагменты раннего
った原稿は,学術的な監修と注釈のために科学
варианта рукописи)」として収録されている.
史家・科学哲学者で科学アカデミー会員でもあ
注の中には,ヴェルナツキーの思想をソ連の官
るケドロフ(Бонифатий Михайлович Кедров:
製イデオロギーの折り合いを付けるための注解
ケドロフの好意的な
1903-85)のもとに回された.
がいくつか残っている.しかし,それでもヴェ
扱いにもかかわらず,ブレジネフ体制下のソ連
ルナツキーの草稿の全体が完全に印刷された最
体制の保守的な揺り戻しの中で出版はなかなか
初の出版物と言える.
許可が下りなかった.1977年に原稿は,2巻本
ソ連崩壊後も,管見の限り少なくとも2回,
のヴェルナツキーの哲学的な論著を集めた論集
本書は刊行されている.まず,1997年にヴェル
『博物学者随想録』の中に収録する形で出版す
ナツキーの科学について論著を集めた2巻本の
ることが出来た49.ただ,辛うじて出版された
論集の第1巻に掲載された53.さらに1992年か
ものの,多くの省略があり,検閲でずたずたに
ら発行の始まったヴェルナツキーの著作集『ヴ
されての出版であった.たとえば,中華国家と
ェルナツキー文庫(Библиотека трудов В. И.
儒教の関係を扱った73節や,弁証法的唯物論を
Вернадского)』の科学哲学関係の論著を集めた
批判的に扱い同時代のソ連の哲学者たちを批判
巻(2000年)に掲載された54.1997年版のテキ
した150-156節は完全に削除された.全体とし
ストは,1960年代末につくられた印刷用の原稿
て印刷全紙三枚分(48ページ分)が削除されて
の全文を採用しただけでなく,ヴェルナツキー
いるという50.さらに,ヴェルナツキーの思想
研 究 者 の グ ル ー プ ( И. И. Мочалов, В. С.
を当時のソ連の官製イデオロギーの折り合いを
Неаполитанская,
付けるための多くの注解が付されていた.
Ярошевский)が元原稿と照合して本文を訂正し
1980年代末,ソ連末期のペレストロイカ期に
М.
Ю.
Сорокина,
А.
А.
た.原稿末尾の151-156節は元原稿の通りに他
1977年版から削除された節が個別に雑誌に掲
の本文の末尾に付けられ,注解も新たに付け直
載された.とくに,公式イデオロギーを正面か
した.このため,『惑星現象としての科学的思
ら批判した150-156節は,1988年に『自然科学
考』のテキストとしては1997年版テキストが最
史・技術史の諸問題』にはじめて掲載された51.
良だと一般には言われている55.ただし,2000
1988年には,ソ連科学アカデミーのヴェルナ
年版は,1991年度版をテキストにしている.ま
ツキー科学遺産研究委員会の後援のもとに『博
た,1997年度版のテキストについては,ヴェル
物学者の哲学的思索』が発刊され,ここに『惑
ナツキーの考え方はよく伝えているが,1991年
星現象としての科学的思考』がふたたび収録さ
版のテキストの方がヴェルナツキーの用語法を
れた52.今回は,1977年版での削除箇所はほと
より忠実に再現しているという意見もある56.
んどなくなった.ただ,ペレストロイカ期の末
2)『惑星現象としての科学的思考』の内容
期,いわゆるグラースノスチ(公開性)の最盛
期で言論の自由が進んでいたはずだが,それで
最晩年に書かれた『惑星現象としての科学的
も最後の151-156節は収録されず(150節は収録
思考』は,以上のよう完成に至っていないが,
9
ヴェルナツキーの思想的な到達点を示す貴重な
いが論じられている.ここで,生物圏から叡知
著作である.すでに述べたように,地質学者・
圏への移行において科学研究の自由の重要性が
鉱物学者として出発したヴェルナツキーは,地
強調される.第6章では,生物圏の地球化学とし
球全体を対象にして化学的にアプローチする新
て新分野「生物地球化学」が論じられている.
分野「地球化学」を創設した.後半生は,地球
「生物圏(biosphere)」や「叡知圏(noosphere)」
全体の進化における生物の役割に注目して,生
という言葉の起源についても触れている.第7
物を地質学的な力の一つとして考える「生物地
章では,人間による(ヴェルナツキーは人間の
球化学」を提唱し,地球上でも生物が大きな役
「文化的生物地球化学的エネルギー」と呼ぶ)
割を果たす「生物圏(биосфера, biosphere)」の
叡知圏の創造について論じている.人類史的な
研究を提唱した.
考察もある.第8章では,生命について改めて考
『惑星現象としての科学的思考』は,20世紀
察している.第9章では,彼の提唱する生物地球
初頭のX線の発見に始まる「物理学革命」とも
化学のアプローチを強調するために生物学との
いわれる自然科学の大きな変化を背景に,生物
違いについて論じている.とくに自然物でも生
地球化学的な立場から,地球の未来,とくに地
命起源の自然物と非生命起源の自然物の違いに
質学的時代として転換を考え,それを「生物圏」
ついて取り上げている.最後の第10章では,生
から人間の関与,とくにその頭脳的な関与を強
物と非生物の関係,とくに生命自然物と非生命
調した「叡知圏(ноосфера, noosphere)」への転
自然物の超えがたい溝について論じている.最
換と捉えた.
この著作には,
科学と哲学の関係,
後の151-156節では,
ソ連における官製弁証法的
科学史の検討も含まれる.その意味で,科学史
唯物論批判を展開しており,この節がソ連時代
的な立場からも興味深い著作になっている.
には最後まで特別扱いを免れなかった理由がよ
全体は,156節からなり,それが10章に分け
くわかる.
られているが,生物圏,叡知圏,科学の役割,
このようにヴェルナツキーが,六十代以降に
科学史の問題が,さまざまな角度から論じられ
研究を展開した「生物地球化学」の基礎概念の
ている形で,各節がある程度の独立性を保って
哲学的な考察を展開した書物だと捉えることも
いて,さまざまなことをくみ取ることができる
出来るし,そこには生物圏から叡知圏への移行
箴言のような形式で,簡単にはまとめることが
を論じるような未来を見据えた現代問題の考察
困難な内容になっている.それでも,各章毎に
が成されているとみることもできる.
内容をなんとかまとめてみよう.
第1章では,生命物質と非生命物質の複合体
『惑星現象としての科学的思考』の目次
第一部 生物圏における地質学的力としての
として「生物圏」を定義する.ここで早くも生
科学的思考と科学研究
物圏から,人間の労働と科学的思考が重要な役
第1章(1-13節)
割を果たす叡知圏への移行が論じられている.
また,生命物質と非生命物質の違いについても
その生命物質の合法則的な部分,その組織化
論じられている.第2章では,20世紀が地質時
の一部としての生物圏における人間,人類.
代の新時代を画するような特別な時代であるこ
生物圏の物理・化学的および幾何学的な多様
とが論じられている.第3章では,20世紀の特異
性.生物圏の生命物質と不活性物質の根本的
性を科学史的に論じられている.第4章では,国
な組織化上の(物質的・エネルギー的・時間
家と科学の関係が論じられている.科学にとっ
的)違い.種の進化と生物圏の進化.生物圏
て国家的な投資が必要だが,それを超える国際
における新たな地質学的な力である社会的
的な科学者組織についても言及している.第5
人類の科学的思考の出現.その現れは,われ
章では,科学と他の知識領域とくに哲学との違
われが生きている氷河時代,すなわち理由が
10
あって地殻のわくを越えて地球史で繰り返
形態とそれにかかわる叡知圏の創造による)
.
される地質学的発現のひとつとつながりが
第四部 科学知識体系における生命科学
ある.
第8章(120-127節)
第2章(14-46節)
生命は現実世界の永続的な現象なのかあるい
体験されていく歴史的瞬間が地質学的作用
は一時的な現象なのか.生物圏の自然物は,
として現れること.生命物質の種の進化と生
生命物質と不活性物質である.生物圏の複合
物圏の叡知圏への進化.この進化は,人類の
自然物は,生命物質と不活性物質の複合体で
世界史の作用によっては止められない.科学
ある.そこでは生命物質と不活性物質との境
的思考とその現れとしての人類の生活様式.
界は侵されていない.
第3章(47-65節)
第9章(128-142節)
20 世紀の科学的思考の運動と生物圏の地質
生物圏の生命自然物質と非生命自然物質との
学史における意義.科学史的思考の運動の基
間の越えがたい境界の生物地球化学的現れ.
本的な特徴:科学的創造の爆発,現実世界の
第10章(143-156節)
基礎についての理解の変化,科学の普遍性と
生物学は,叡知圏を把握する諸科学の中で物理
科学の作用の現れ,および科学の社会的な現
学や化学と同等となるべきである.
れ.
第二部 科学的真理について
6 結論: ヴェルナツキーはなぜロシアで人気があり,
第 4 章(66-74 節)現在の国家体制下での科学
国外では無名なのか
の状態
ヴェルナツキーは,科学アカデミー会員にな
第5章(75-93節)
るにふさわしい一流の地質学者・鉱物学者であ
正しく導かれた科学的な真理は,あらゆる人
り(鉱物学・地質学部門),地球化学や生物地球
間個人にとって,あらゆる哲学にとって,あ
化学という新分野を展開した第一級の科学者
らゆる宗教にとって揺るぎなく不可避であ
(化学者)といえよう.しかし,その名が冠さ
ること.科学が管理下にある領域においては
れるような歴史に残る具体的な発見をなすか,
科学が達成した成果は,誰にも適用される普
画期的な新理論を構築したわけではない.彼の
遍的なものであることが,科学が哲学や宗教
思想的な論著は興味深いものであり,その博識
とは違う基本的な特質である.哲学や宗教の
ぶりには驚くが,詳細に見るとそれらは哲学的
結論というものは,そのようにだれでもそう
には詰めは甘く,当時すでに専門化した哲学者
あらねばならないということはない.
から見ればやはり素人談義の域を出ていない.
第三部 新たな科学的知識と生物圏から叡知圏
しかし,少なくともヴェルナツキーは,20世紀
への移行
初頭にあって,人類史・地球史上の大きな転換
第6章(94-99節)
点にいると自覚していた.その転換を理解する
20世紀の新たな問題すなわち新科学.生物地
球化学,その生物圏との切れ目ないつながり.
第7章(100-119節)
キーが,自然科学にあると考え,論著を展開し
た.この理解は,時代に先がけたものを含んで
いる.
叡知圏の現れとしての科学的知識の構造,科
しかし,ヴェルナツキーは,ロシアの国境を
学的知識によって引き起こされた生物圏の
越えると,その専門分野を超えてはほとんど知
知識学的に新しい状態,Homo sapiensの地球
られていない.逆にロシア国内ではもっともよ
での出現の歴史的過程
(それは,
Homo sapiens
く知られている科学者の一人であり,ロシア人
による生物地球化学的エネルギーの新しい
には人気がある.それはなぜだろうか.これは,
11
ヴェルナツキーについて調べてきた私にとっ
たヴェルナツキーの歴史家としての予言力にも,
ても当初,謎であった.結論である本章では,
注目すべきものがある.
ヴェルナツキーはまた,
ロシアにおけるヴェルナツキーについて論じ
その知性にも美的にも(ヴェルナツキー自身が見
てみたい.ロシアにとって,ヴェルナツキーは
,一つの私たちにとって模範
目麗しい人だった)
どんな人物なのか,なぜ人気があるのか.そう
とすべき人物だった.だた,彼は,生前はその
した素朴な疑問を機会があるごとに,ロシアの
思想はほとんど注目されることはなかったが,
科学史家,とくにヴェルナツキー研究者にぶつ
死後,1960 年代に再発見され,1970 年代からそ
けた.それを紹介しよう.
の思想的な著作の部分的な刊行によって徐々に
ロシアの代表的なヴェルナツキー研究者であ
注目を集めるようになった.たとえば,
『惑星現
る ア ク シ ョ ー ノ フ 氏 ( Генназий Петрович
象としての科学的思考』は,ヴェルナツキー自
Аксёнов:地質学)とモチャーロフ氏(Инар
身は出版を考えていなかった.
Иванович Мочалов:哲学)へのインタヴューを
おなじ,2004 年 11 月には,
『惑星現象として
2004 年 11 月にモスクワ,科学アカデミー・自
の科学的思考』の解読にかかわった一人である
然科学史=技術史研究所で行った.
アクショーノ
バストラコヴァ女史に科学アカデミー・自然科
フ氏によれば,
ヴェルナツキーは 1930 年代には
学史=技術史研究所でヴェルナツキーについて
単に老齢のアカデミー会員というだけでとくに
話を聞くことが出来た.まず『惑星現象として
一般に注目されることはなかった.1965 年に彼
の科学的思考』は,何度も同じ思想に戻るよう
の『地球とその周囲の生物圏の化学的構造』が
に書かれているが,らせん的思考でまったく同
出版されたことが,ヴェルナツキーが注目され
じところに戻るわけではなく,発展している.
るようになった一つのきっかけであった.さら
また,それぞれの箇所で一見矛盾するような見
に,1975 年に部分的に『惑星現象としての科学
解が述べられているが,それはむしろ同じこと
的思考』が出て 57,ロシアの理性的なものの代
を違った見地から見ていると考えた方がよい.
表として,またロシアの民主派として注目され
この書は,多面的な著作で,歴史的・哲学的・
るようになり,ヴェルナツキーの思想の全貌が
社会学的・科学的という全面的なもので世界観
わかるにつれて「自由」の象徴として注目され
が問題にされている.しかし,その内容は同時
るようになった.さらに近年,環境科学への関
代人には理解されず,当時なんの反響もなかっ
心の高まりと研究の進展につれて,ヴェルナツ
た.また狭い専門家には,その専門に沿ってし
キーが深く関与した「生物圏」の文脈で関心を
かヴェルナツキーを理解できず,全体像はとら
呼んだ.また,宗教を含めたヴェルナツキーの
えることができていない.本書は,魂の活動の
世界観(ちなみにヴェルナツキーは人間には宗
」
記録たる「生命(いのち)の書(книга жизни)
教が必要だと言っている)が国内の哲学者から
といえるようなもので,ヴェルナツキーの生涯
注目されるようになった.
の思想的な総決算として書かれたものであるが,
さらに,モチャーロフ氏は,以上のアクショ
弟子たちはヴェルナツキーのある一面(鉱物学
ーノフ氏の発言に補足して,ヴェルナツキーの
であったり,地球化学であったりと)を発展させ
著作の全貌はまだまだ明らかになっていない点
ただけで,ヴェルナツキーを全面的に引き継い
があり,若い時期のヴェルナツキーやヴェルナ
だ人はいず,メンデレーエフもそうだが学派を
ツキーが遺したものについての分析を進める必
形成しなかった.1970 年代-80 年代のヴェルナ
要があると述べた.
さらに,
ヴェルナツキーは,
ツキーのブームが,ペレストロイカの思想的な
問題は提出したがその多くに回答を与えてはい
源という見解があるが,それは誤りだ.たしか
ない.そのために,研究すべき課題をヴェルナ
にたとえば,ゴルバチェフは引用していたが,
ツキーの著作の中に発見することが出来る.ま
ヴェルナツキーはさまざまなことを言っている
12
ので好都合の部分だけをとってくることは可能
えから,スターリンに粛清されることはなく,
である.このように述べたバストラコヴァ女史
その生涯をロシアで全うしたことも,ロシア人
に,
ではなぜヴェルナツキーがロシア人に当時,
の評価にプラスした.結局,ソ連体制下での官
人気があったか,それは,公式的見解に対して
製の哲学のオータナティヴを体現する人物とし
オータナティヴ思想であったためかと聞くと,
て,その思想内容を含め,ロシアの知識人たち
賛成してくれた.
に人気を得たのであろう.ロシアを超えたヴェ
サンクト・ペテルブルグ大学教授で,大学附
ルナツキーの科学史的・思想史的な意義につい
属のメンデレーエフ博物館・文書館館長で科学
ては,今後の研究課題としたい.
史家のドミートリエフ氏( Игорь Сергеевич
Дмитриев)にも,ヴェルナツキー評価について,
何回か聞いたことがある.氏のヴェルナツキー
注
評価は,いわゆるヴェルナツキー研究者とはち
1. ロシアにおける大学の起源を,科学アカデミー
がって,より批判的であった.すなわち,ヴェ
の附属の大学相当組織に求める立場もあるが,こ
ルナツキーは,優秀な大学教官であり,一流の
こでは大学の起源についての論争は検討しない.
研究者ではあったが,とくにこれと言って当た
そのあたりについては,浩瀚な橋本伸也『帝国・
った研究はなかった.そのためにとくに彼の研
身分・学校 帝政期ロシアにおける教育の社会文
究のなかで後世に残った業績はない.
その点は,
化史』名古屋大学出版会,2010 年を参照のこと.
18 世紀のロシアの最初の科学者の一人ロモノ
この書は,本論集の第1卷で紹介・論評した.
ーソフに似ている.ロモノーソフもメンデレー
2. ヴェルナツキーは,日本ではあまり知られてい
エフもヴェルナツキーも,ロシアに時に出る夢
ないが,ロシアでは知らぬ人はないほど有名で,
想的な「自然哲学者」型の研究者である.メン
彼の著作や彼に関する著作も多数出版されてい
デレーエフもその「自然哲学者」的な包括性を
る.ヴェルナツキーの伝記は,ロシアでは非常
めざすところは,二人に似ているがメンデレー
に多く出されている.しかし,国外の知名度は
エフは,幸いにも周期律という大当たりした研
低いために,日本語の伝記は存在しないし,英
究があったために,研究そのものが後世にも影
語でも次の一書が唯一のものである.Kendall E.
響力を与えることができた.そのためにロシア
Bailes, Science and Russian Culture in an Age of
以外でも広く世界的に名前を残すことになった.
Revolutions: V. I. Vernadsky and His Scientific
それに対して,ロモノーソフとヴェルナツキー
School, 1863-1945, Bloomington & Indianapolis:
は,後世に残るような発見はなかったが,ロシ
Indiana University Press, 1990.ロシア語では,
アの科学文化や科学の組織体制に影響を残した.
以下のものを挙げておく.И. И. Мочалов,
そのことが,ロモノーソフとヴェルナツキーが
Владимир Иванович Вернадский (1863-1945), М.:
国内でしか有名でないことの理由である.
Изд-во
Наука,
1982;
Геннадий
Аксёнов,
Вернадский, 2-е инд., М.: Молодая Гвардия,
以上のようなロシア人研究者の見解も踏まえ
2010.
て,最初の問いに対する答えを私なりに与えて
みると,ヴェルナツキーがとくにロシアで人気
3. ゲオルギー・ヴェルナツキーは,プラハを経
を得たのは,彼がソヴィエト政権に批判的であ
由して 1927 年にアメリカに渡った.紆余曲折
りながら,彼がさまざまな偶然からロシアに残
の末,1946 年にイェール大学教授になった.Н.
り,科学アカデミーの中で,革命前の知識人の
Н. Болховитинов, “Жизнь и деятельность Г. В.
ある種の典型としてソヴィエト体制に対して批
Вернадского (1887-1973) и его архив”, Slavic
判的な態度を貫いたゆえである.しかも,彼は
Research Center Occasional Papers No.83, Sapporo:
老齢ゆえ,かつその有能な科学機関の組織力ゆ
Slavic Research Center, Hokkaido University, 2002.
13
4.この当たりの事情については,ロシアの科学史
われている.したがってその藩士にカトリック教
家コルチンスキーがはじめて詳細に明らかにし
徒がいても不思議はない.鳥取在住のもと鳥取大
た.Э. И. Колчинский, А. В. Козулина, "Бремя
教授赤木三郎氏のご教示による.同氏と同氏を紹
выбора: Почему В. И. Вернадский вернулся в
介してくださった故大森昌衛先生に感謝します.
Советскую
Россию?"
Вопросы
16. 1946(昭和 21)年 9 月に東北帝国大学理学部
истории
岩石鉱物鉱床学科を卒業し,1948(昭和 23)年
естествознания и техники, № 3, 3-25 (1998).
3 月 31 日付けで長野師範学校(1949 年 6 月の信
5. А. А. Ярошевский, "Предисловие," Вернадский В.
И. Труды по геохимии, М.: Наука, 1994, с.5.
州大学発足にあたって教育学部になった)に赴任
6. 同所.1921 年の科学アカデミーでの講義録は,
していた飯嶋南海夫(いいじま・みなお)氏が運
1994 年に初めて公刊された.前掲書,с.7-158.
動し,文理学部の支持もあって,高橋純一は学長
7. W. Vernadsky, La Géochimie, Paris : Librairie Felix
に当選した.飯嶋氏からの 2003 年 4 月 14 日付
Alcan, 1924.
けの私信による.なお,高橋の弟子で東北大学と
8. 前掲書,p.1. 序文の日付は 1923 年 10 月にな
北海道大学の名誉教授であった故八木健三氏に
っている.
よれば,高橋は東北大学理学部長時代に東北大学
9. 後述するロシア語版初版 В. И. Вернадский,
の学長選に出馬したことがあったという.
Очерки геохимии, М.-Л.: Гос. изд-во, 1927 の序文
17. 高橋純一先生御退官記念会『高橋純一先生の
によれば,フランスでは出版されなかった2年目
学術的業績』.弟子の八木次男の筆になる高橋の
(1924 年)の講義は,地球の核における鉄,銅,
業績の概述と英文リストからなり,20 頁の小冊
鉛,稀元素の歴史に関するものである.
子である.冊子自体には発行年月日の記述はない
10. 前掲書.
が,八木の記述の最後に「昭和 24 年秋」とある
11. W. J. Vernadsky, Geochemie in ausgewahlten
ので,高橋の退官した年の秋に退官の記念行事が
Kapiteln ; autorisierte ubersetzung aus dem Russischen
なされたのにあわせて発行されたと思われる.八
von
木次男は高橋の東北大学での後継者だったが,胃
E.
Koredes.
Leipzig
:
Akademische
Verlags-gesellschaft, 1930.
ガンのために高橋の退官の2年後に亡くなって
12. В. И. Вернадский, Очерки геохимии. 4-е изд. (2-е
しまった.
рус.), М.: Гос. науч.-техн. горно-геол.-нефт. изд-во,
18. 前掲書,4 頁.
1934. ヴェルナツキーの死後,1954 年,1983 年,
19. 前掲注 7, La Géochimie, p.II-III.
1994 年にロシア語の再版が出されているが,い
20. Архив РАН, Ф.518 оп.3А д. 281.
ずれもこの最終のロシア語第2版のテキストを
21.うち 4 通はそれぞれ 1932 年 5 月 28 日(д. 281
л.2),10 月 25 日(д. 281 л.1)および 1933 年 6
用いている.
月 10 日(д. 281 л.3)と 7 月 15 日(д. 281 л.4-5)
13. ヴェルナドスキー『地球化學』高橋純一訂譯,
内田老鶴圃(東京),1933 年 10 月,523+26p.
の日付を持ち,他の二通(д. 281 л.11-12, 13)は,
日付はないが,内容的に前 4 通より後に書かれた
14. 以下の経歴の記述は,主として高橋純一の三
男洋氏からの聞き取りと,氏が提供してくださっ
ものである.
た戸籍のコピー,ならびに信州大学総務部人事課
22. 1935 年 3 月 18 日付け(д. 281 л.6-7).
福祉係が保管史料に基づいて 2003 年 2 月 17 日
23. 高橋純一「地化学の概念」『岩石鉱物鉱床学
会誌』第2巻,27-34(1929).ここで Geochemie
に作成した資料に基づく.
15. 鳥取藩池田氏は,もともと領内にキリスト教
を地化学と呼んでいることに注意しよう.これは,
の信徒が多かったこともあって,藩内での信徒の
おそらくはBiochemie を生化学というのにならっ
弾圧はゆるやかで,明治維新に至るまで処刑によ
てのことだと思われる.後述するように柴田雄次
る殉教者を一人も出さなかったまれな藩だとい
は,年 1926(大正 15)年 1 月 26 日付けの『国民新
14
聞』に新しい研究分野として Geochemie を紹介
学部岩石鉱物鉱床学科に入学,高橋の退官の年,
し,それを地球化学と呼んだ.日本語としては,
1949 年 3 月に卒業.同年 6 月に東北大学理学部
こちらの用語の方が定着し,1933 年にヴェルナ
助手,1962 年同助教授,1984 年同教授,1986 年
ツキーの Géochimie の翻訳をしたときには,柴
定年退官し,1996 年没.田口一雄教授退官記念
田の「地球化学」を訳書のタイトルとして採用し
会『石油鉱床学の諸問題』1986 年を参照.
35. 1972 年にはその前身,有機地球化学談話会が
た.
24. 前掲書.
発足した.
25. 高橋純一「ヴエルナドスキのカオリン核説に
36. もう一人,ヴェルナツキーの日本の影響を考
就て」『岩石鉱物鉱床学会誌』第4巻(1930):
えるときに,重要な人物に,東京帝国大学理学部
128-138; 184-186.
化学科教授だった柴田雄次(1882-1980)がいる.
26. 高橋純一「地球化学発達概史」『岩石鉱物鉱
柴田は,東京帝大の化学科で彼が主催するフラン
床学会誌』第9巻(1933): 188-194; 223-232.
ス語輪講会でヴェルナツキーの『地球化学』フラ
27. 前掲注 13.
ンス語版を読み,地球化学の重要さに気づき,東
28. 序文は,原著の序文の翻訳ではなく,「訳訂
大に地球化学研究の学派をつくった.柴田につい
者の言葉」と題する訳者高橋の書いた序文がつけ
ては本論文では省略した.
られている.そこに,「訳者が本書の邦訳を敢え
37. ロシア科学アカデミー文書館には,ヴェルナ
てするに至った動機は,その巴里留学中に師事せ
ツキーの校正の手が入ったタイプ草稿が保管さ
るラクロア教授の研究室において,当時母国革命
れている(Архив РАН, Ф.518, Оп.1, Д.149, 150,
の難を避けてソルボンヌの講師の職に在りし原
151).
38. В. И. Вернадский (Ответственный редактор, А.
著者の地球化学講義に接したるに始まる」とあっ
て,ヴェルナツキーの講義を聴いたようにも読め,
Л. Яншин), Научная мысль как планетное явление,
さきに引用したヴェルナツキー宛の高橋の手紙
М.: Наука, 1991.
39. その草稿ゆえの破格なロシア語部分は確かに
と矛盾するかに見える.しかし,これは当時まも
なく発刊されたヴェルナツキーの講義録たる『地
難しいと,草稿を解読した研究グループも認めて
球化学』に接したことを指すと考えたい.
いる.また,完成稿であってもそもそもヴェルナ
29. ちなみに日本語版とほぼ同時に発行されたロ
ツキーのロシア語は,さまざまな背景的知識が必
シア語第2版(その序文の日付は日本語版より早
要とされるので,一般のロシア人にもやはりむず
い 1933 年 8 月付けになっている)は,6 章 60
かしいと『惑星現象としての科学的思考』の解読
節でドイツ語版に近い.
者の一人バストラコヴァ女史は,私がインタヴュ
30. 松尾禎士「日本地球化学会の 25 年 回顧と展
ーした際に話していた.
望(その 1)」『地球化学』第 22 巻,123-137 頁
40. В. И. Вернадский (Ответственный редактор, Б. С.
(1988),127 頁.
Соколов), О науке. Том I. Научное знание.
31. 前掲注 17 を参照.
Научное творчество. Научная мысль., Дубна: Изд.
32. 岡田博有「堆積学を拓いた人々(2)」『堆積
Центр «Феникс», 1997, с.529 に引用.
41. 1936 年 5 月 13 日付けの弟子のフェルスマン
学研究』54 号,45-48(2001).なお,『堆積
学研究』55 号,34 頁に高橋の経歴に関する記述
(Александр Евгеньвич Ферман, 1883-1945)宛の
の訂正記事がある.
手紙(Письма В.И. Вернадского А.Е.Ферсману. М.,
33. 岡田博有『堆積学 新しい地球科学の成立』
1985, с.178).
42. В. И. Вернадский (Ответственный редактор В.П.
古今書院,2002 年,154-156 頁を参照.
Волков), Дневники 1935-1941, Книга 1 1935-1938,
34. 1922 年秋田県に生まれ,1945 年 10 月に秋田
М.: Наука, 2006, с.179.
鉱山専門学校採油科卒後,翌年 4 月に東北大学理
15
43. 前掲注 40, с.531.
(http://vernadsky.lib.ru/e-texts/archive/thought.html).
44. В. И. Вернадский, «Несколько слов о ноосфере»,
このサイトを作成し,同書の入力もしたセルゲ
Успехи современной биологии, т. 18, вып.2,
イ・ミンガレーエフ(Сергей Мингалеев)氏は,
с.113-120.
1991 年版と1997 年版のテキストを比較して,こ
45.V. I. Vernadsky, “The biosphere and the noösphere,”
のように評価している.なお,このサイトによ
American Scientist 33, 1-12.
れば,ミンガレーエフ氏は,光を使った集積回
46. 前掲注 40, с.532.
路の研究をしているウクライナ出身の物理学者
47. 前掲注 40, с.533.
である.氏は,非平衡系に関心があり,その一
48. モチャーロフは,博士号(доктор наук ソ連・
つとしてヴェルナツキーの生物圏と叡知圏の問
ロシアでは欧米での Ph.D.にあたる кандидат
題にも関心をもったと述べている
наук よりさらに上級の学位)請求論文(1971 年)
(http://mingaleev.nanoscience.by/research/).
で「ヴェルナツキーの世界観の自然科学的・哲学
57. 正確には
『博物学者の随想録』
の第1巻が1975
的基礎」について書いている.また最初のヴェル
年に出版され,その第2巻として 1977 年に出版
ナツキーの本格的な学術的伝記(И. И. Мочалов,
されたものに『惑星現象としての科学的思考』が
Владимир Иванович Вернадский (1863-1945), М.:
収録された.
Наука, 1982)の著者でもある.
49. Вернадский В.И. Размышления натуралиста: В 2
кн., М.: Наука, 1977. Кн. 2. Научная мысль как
планетное явление, Сост.: Бастракова М.С.,
Неаполитанская В.С., Филиппова Н.В.; Редкол.:
Кедров Б.М. (пред.) и др.
50.前掲注 40, с.533.
51. Вопросы истории естествознания и техники
1988 №.1, с.71-79.
52.
Вернадский
В.И.,
Философские
мысли
натуралиста, М.: Наука, 1988, с.с.19-195.
53. 前掲注 40, с.303-538.
54. В. И. Вернадский (Ответственный редакторы, К.
В. Симаков, С. Н. Жидовинов, Ф. Т. Яншин),
Труды по философии естествознания, Москва:
Наука, 2000, с.316-451.
55. 私は,ヴェルナツキー研究者の一人で最新の
ヴェルナツキー伝の著者でもあるゲンナジー・ア
クショーノフ氏に,1997 年版のテキストがよい
と薦められたことがある.また,バストラコーヴ
ァ女史も同様に,1997 年版が最良のテキストだ
と言っていた.
56. インターネット上にヴェルナツキーのテキス
トデータが掲載されるサイトがあり
(http://vernadsky.lib.ru),そこには『惑星現象と
しての科学的思考』も掲載されている
16
など,主に政治的・イデオロギー的文脈の中で
Ⅱ.
行なわれてきた.こうしたアプローチは事柄の
遺伝学研究所はなぜ乗っ取られたか?
全体像をその本質において理解する上できわめ
て重要である.しかし,遺伝学研究所の具体的
藤岡 毅
な研究内容がこうした政治的・イデオロギー的
文脈からどのような影響を受けたのか,また逆
に研究所の研究内容がどのように政治的・イデ
オロギー的状況の変化に影響を及ぼしたのか,
はじめに
というような科学の内容と政治的・イデオロギ
1930 年代のソ連におけるニコライ・.ヴァヴ
ー的文脈との相互関係についてまだ十分に分析
ィーロフ( Николай Иванович Вавилов :
されていないように思われる.
1887-1943)ら遺伝学者たちとルィセンコ派と
の闘争はよく知られ,多くの研究が行なわれて
本稿ではロシア科学アカデミー文書館所蔵の
きたテーマの一つである.農業科学の領域で党
遺伝学研究所に関する史料調査に基づき,遺伝
指導部の後押しを受けながら地歩を固め,頭角
学研究所の研究内容と上記の政治的・イデオロ
を現してきたトロフィム・ルィセンコ(Трофим
ギー的文脈との関連やそこから読み取れる状況
Денисович Лысенко:1898-1976)は,1938 年 2
の新たな解釈について考察を行ないたい.
月に農業科学アカデミー総裁の地位を遺伝学者
から奪い取った.ヴァヴィーロフが所長を務め
1.ソ連科学アカデミー・遺伝学研究所の発足
る全連邦植物栽培研究所(Всесоюзный институт
(1) 遺伝学研究所の前史
растениеводства, ВИР: 以下 VIR)は,農業科学
アカデミーの傘下にあるため,総裁の権力を利
遺伝学研究所の前身は,科学アカデミーの自
用したルィセンコによってさまざまな妨害を受
然生産力研究委員会(Комиссии по изучению
けるようになった.多くの遺伝学者たちは,農
естественных производительных сил, КЕПС ) のも
業科学アカデミーからソ連科学アカデミー傘下
とで 1921 年に組織された「優生学事務局
の研究機関や大学に自分たちの研究の足場を移
(Бюро по Евгенике)」である.この事務局の長を
すことを余儀なくされた.こうしてソ連科学ア
務めたユーリー・フィリップチェンコ(Юрий
カデミーとその遺伝学研究所は,1930 年代末
Александрович Филиппченко: 1882-1930)は,
の遺伝学者とルィセンコ派との攻防の主要舞台
1913 年にロシアで最初の遺伝学に関する連続
となった.遺伝学研究所をめぐる 2 つの学派の
講義をサンクト・ペテルブルグ大学(後のレニ
闘争は,ヴァレリイ・ソイフェル(Валерий
ングラード大学)で行なった遺伝学者である.
Николаевич Сойфер-Valery N. Soyfer-:1936-)1
その後彼はロシアで最初の遺伝学教科書(1917
や ニ コ ラ イ ・ ク レ メ ン ツ ォ フ (Nikolai
年)を出版し,ペテルブルク大学に「遺伝学・
Krementsov)2 ,ニルス・ロール-ハンセン(Nils
実験動物学研究室」(1918 年),「遺伝学・実
Roll-Hansen)3 らによって詳細に展開された.こ
験動物学講座」(1919 年)を開設した.当初,
れらの著作の中でルィセンコたちが農業人民委
ソ連の遺伝学研究では保健人民委員部の関与の
員部の後ろ盾を得ながら,遺伝学研究所の中に
下,人類遺伝学研究の比重が高かったが,しだ
足場を築いていった経過が描かれている.これ
いに家畜や栽培植物の遺伝やショウジョウバエ
らの分析は,1937 年に始まる大テロルやスタ
の実験遺伝学などその研究領域は広がっていっ
ーリン主義の科学政策,農業集団化の下での農
た.「優生学事務局」は再編され,1925 年に「遺
業政策,科学に対するイデオロギー支配の影響
伝学・優生学事務局 (Бюро по Генетике и
17
Евгенике)」と名称を改め,さらに 1927 年には
物と家畜の新しい変種を選定する方法論的原理
「遺伝学事務局 (Бюро по Генетике)」となった.
を発展させている.世界の科学がまだほんのわ
この当時,モスクワにおける遺伝学研究の中心
ずかしか達成していない最も困難な領域に関す
となっていたのは「実験生物学研究所」で,そ
る理論的課題に主要な関心が向けられている」
の 創 始 者 ニ コ ラ イ ・ コ リ ツ ォ フ (Николай
と 1934 年度計画はのべている 7.拡充された遺
Константинович Кольцов:1872-1940)とフィリッ
伝学研究所の当面の目標と人事はおおよそ次の
プチェンコは 1925 年に共同で
『実験生物学雑誌
通りであった.1.新しい変異と品種のための
(Журнал экспериментальной биоло- гии)』を創刊
物的源泉として,突然変異を人為的に得る技術
した.この雑誌はその後,ソ連における遺伝学
の確立(指導者=ゲルマン・マラー:ロシア語の
研究を統合する中心的な役割を果たした.
発音では「ミョーレル」.Герман Германович
1929 年から始まる科学アカデミーの再編は,
社会主義建設にとって必要不可欠とみなされた
Мёллер:1890-1967)2.種間および属間のハイ
ブリッドを合成する理論の発展(ドンチョ・コ
ストフ-Дончо Костов-)3.栽培植物の起原に
数学・自然科学部を主軸にソ連科学アカデミー
関する研究(ニコライ・ヴァヴィーロフ)4.実
を最高の科学機関として存続させる一方,人文
用的な品種改良とそれと関係する量的形質の遺
学部は共産主義アカデミーに吸収していく方向
伝の研究.特に植物発育,化学的特長を持つ遺
で進められたという 4 .このような科学アカデ
伝現象,家畜の種内ハイブリッドの研究など
ミー再編過程の中で,1930 年に「遺伝学事務
(アンドレイ・サペーギン-Андрей Афанасье-
局」は独立した学術機関として強化され,それ
вич Сапегин-:1883-1946).
を母体にソ連科学アカデミー・遺伝学研究所
[ラボラトリー]がレニングラードで創設された
遺伝学研究所[ラボラトリー]の遺伝学研究所
5.その初代所長は引き続きフィリップチェン
[インスティテュート]への格上げが決定された翌
コが務めたが,同年の彼の死後,VIR 所長で農
年の 1934 年秋,レニングラードにあった遺伝
業科学アカデミー(ВАСХНИЛ) 総裁のニコラ
学研究所はモスクワへ移転した.移転直後の研
イ・ヴァヴィーロフが兼務によって同研究所の
究所の部門と責任体制は次の通りであった 8 .
所長に就任した.
①突然変異部門(マラー)②植物の異種間ハイ
ブリッド化部門(コストフ)③形質遺伝学課(サ
ペーギン)④量的形質の遺伝と変異(テニス・
(2) 遺伝学研究所発足の経緯とモスクワ移転
レーピン:Тенис Карлович Лепин:1895-1964)⑤
1933 年 11 月 4 日,ソ連科学アカデミー幹部
家畜の進化と起原
(ヤニス・ルース:Янис Янович
会は遺伝学研究所[ラボラトリー]を遺伝学研究
Лус:1897-1979)⑥遺伝細胞学(ゲオルギー・レ
所[インスティテュート]に格上げすることを決定
ヴィツキー:Георгий Андреевич Левитский :
した.同月 24 日から 30 日まで開かれたソ連科
1878-1942).突然変異部門のマラーは,米国出
学アカデミー総会はこの格上げを承認する決議
身の遺伝学者ハーマン・マラー(Hermann Joseph
を行なった 6.総会で提案された科学アカデミ
Muller) のことであり,文書館記録では Г.Г.
ーの 1934 年度計画の中では,「1934 年度生物
Меллер の名前で通している.研究所の記録文
学分野の計画は,遺伝学研究を植物生理学とミ
書によると,マラーは 1927 年以来研究所に属
クロ生物学の領域に拡大することに特長づけら
し,ソ連科学アカデミー通信会員でソ連共産党
れる」と述べられている.この計画を中心的に
党員となっていた.サペーギンはウクライナ科
担うものとして遺伝学研究所が発足したのであ
学アカデミー正会員で党員であり,1933 年以
る.「科学アカデミー遺伝学研究所は,遺伝学
来,研究所に籍を置いている.コストフ,レー
研究の世界的中心として発展しており,栽培植
18
ピン,ルースは早くから研究所で仕事をしてき
ヴァヴィーロフは遺伝学者のゲオルギー・メイ
た教授たちであった 9.移転直後の研究計画で
ステル(Георгий Карлович Мейстер: 1873-1943)
は,ヴァヴィーロフ自身が直接責任を負う研究
や ミ ハ イ ル ・ ザ ヴ ァ ド フ ス キ ー (Михаил
テーマは設定されなかった.
Михайлович Завадовский:1891-1957)とともに副
総裁となってムラロフを補佐した.農業科学ア
カデミーのこの再編過程の中でルィセンコは農
2.遺伝学者に対する不信の始まりと遺伝学研究所
業科学アカデミー正会員に任命されたが,これ
の壮大な研究計画
までルィセンコを高く評価し,前年にウクライ
(1) ルィセンコの台頭と農業科学アカデミーの再編
ナ科学アカデミー正会員に彼を推薦したのはヴ
ルィセンコは『プラウダ』の記事などを通し
ァヴィーロフ自身であった.ロール-ハンセン
て人々に知られるようになリ,農民出身の農業
によれば,このときの再編で 50 人の農業科学
生物学者として人気を集めた.1935 年2 月に行
アカデミー正会員が任命され,そのうち 9 名が
なわれた全ソ連邦コルホーズ農業突撃隊員大会
科学アカデミーから,41 名が農業省(農業人民
でのルィセンコの演説に対するスターリンの賛
委員部)からの指名であったという.また,13
美(ブラボー!ルィセンコ同志!ブラボー!)以
名の会員は学位を持っていなかった 11.つまり,
降,ルィセンコの地位は急速に上昇し,それと
再編によって農業科学アカデミーは科学者と科
相反して遺伝学者に対するソ連指導部の圧力が
学行政官の混合組織となり,科学行政官のイニ
しだいに強くなっていった.ルィセンコへのス
シャチブの下に科学者が協力していくというス
ターリンの賛美から 4 ヵ月後の 1935 年 6 月,
タイルに移っていった.ヴァヴィーロフはこの
ヴァヴィーロフは農業科学アカデミー総裁から
ような農業科学アカデミーの再編を承認したし,
解任され,新総裁に農業人民委員代理で古参党
ルィセンコたちが進めていた研究を自分たちの
員のアレクサンドル・ムラロフ(Александр
遺伝学の理論的枠組みの中に取り込むことがで
Иванович Муралов: 1886-1937)が就任した 10.
きるものと考えていたと思われる.
この人事はソ連政府の農業政策と一体となった
しかし,農業科学アカデミーの再編以降,総
農業科学の発展をめざした指導部の意向による
裁を降りたヴァヴィーロフへの批判はしだいに
もので,必ずしも遺伝学への批判の結果という
強まる一方,農業科学アカデミー正会員となっ
わけではない.VIR 所長,遺伝学研究所所長, たルィセンコの権威は,党機関紙『プラウダ』
を通じた宣伝も功を奏し増大していった.VIR
農業科学アカデミー総裁という3つの公職を兼
務しながら,遺伝学研究所の拡充・強化とモス
において,研究員や博士課程学生の中ではヴァ
クワ移転の責任を果たすことは,ヴァヴィーロ
ヴィーロフへの支持は依然として強かったもの
フにとって過重負担であったにちがいない.遺
の,事務部門では「反ヴァヴィーロフ派」が急
伝学研究所のモスクワ移転後,ヴァヴィーロフ
速に拡大していったという 12.1935 年 12 月の
が特定のテーマで研究をすることはなくなった
農業科学アカデミー幹部会に出席したソ連政府
が,それはヴァヴィーロフが行政的・管理的仕
首相のヴィャチェスラフ・モロトフ(Вячеслав
事に忙殺されたことを物語るものだろう.した
Михайлович Молотов:1890-1986)はヴァヴィー
がって,党・国家の要求との一体化が求められ
ロフを「なんの役に立たない研究にお金を消費
る農業科学アカデミーを運営していく上で経験
している」と名指しで批判した 13.ソイフェル
豊かな党活動歴を持つムラロフと総裁を交代す
によると,遺伝学者のアレクサンドル・セレブ
ることはヴァヴィーロフ自身にとって悪い選択
ロフスキー(Александр Сергеевич Серебровский:
ではなかったと思われる.実際,後任のムラロ
1892-1948)が進めていた「キツネの家畜化」とい
フは遺伝学研究を支持する立場に立っており,
う研究に目の留まったモロトフは「この研究の
19
目的は何か」と質したところ,モロトフにとっ
た.会議の討議資料は速やかに出版され,翌年
て納得の得る返答を得られなかったという.怒
5 月には,取り消されていた国際遺伝学会モス
った彼は,ヴァヴィーロフが進めてきた世界の
クワ開催が 1938 年に延期して行なわれること
栽培植物の種子の収集にも難癖をつけたという. を政治局は決定した.この時点でヴァヴィーロ
科学における理論的な基礎研究と実用的な応用
フはルィセンコを批判しつつも,彼を説得の対
研究の相互関係を理解していない政治指導者た
象と考えていたと思われる.ヴァヴィーロフは,
ちは,この出来事以降ますます,ヴァヴィーロ
ルィセンコに見せるため遺伝学の実験試料を準
フたち遺伝学者の仕事とルィセンコの仕事を,
備し,ルィセンコに対し説得工作を試みたとい
無用で趣味的な研究と社会主義建設に有益な研
う.しかし,この試みはうまくいかなかった
究という対比で捉えるようになった.1935 年
16.
末の農場労働者の集会に参加したスターリンは,
ヴァヴィーロフの演説が始まるや否やこれ見よ
(3)分子生物学,放射線生物学につながる遺伝学研
がしに立ち上がり,会場を去ったという 14.こ
のように遺伝学者と遺伝学への批判が強まる中,
究所の体系的な研究計画
1936 年 11 月,政治局は 1932 年にソ連政府が提
遺伝学者の巻き返しが成功した時期,1937
案し国際的な公約となっていた国際遺伝学会・
年度の遺伝学研究所の研究計画が作られた.
モスクワ開催(1937 年 8 月)の予定を取り消す
「遺伝子および突然変異に関する 1937 年度科
決定を行なった.
学研究計画」では,「遺伝子の特性」,「突然
変異と遺伝子組み換えのメカニズムと相互作
用」
「遺伝子突然変異の影響下での生物進化メカ
(2)遺伝学者の巻き返し
ニズム」の 3 つ部門について詳細な方針が打ち
このような政治指導部による遺伝学者への風
出されている 17.
当たりの強まりにもかかわらず,遺伝学研究所
「遺伝子の特性」では,塩基の性質および遺
の基本方針は変わることはなかった.1936 年
伝能力を示す、細胞の基本構造としての遺伝子
の計画によると,マラー他 9 名の遺伝学者によ
の相互作用について実験的研究を行なうことが
る「遺伝子と突然変異問題」に関する出版が予
目標とされた.具体的には,①遺伝子の大きさ
定され,遺伝子の性質とその構造,ショウジョ
と個々の遺伝子の有効な効力の決定,②染色体
ウバエや原生動物の遺伝,一般遺伝学に関する
中心部において活動中の遺伝子の数・大きさの
著作が準備された.また,植物の交配実験,野
生羊と家畜羊との交雑による新しい品種の創出,
家畜動物の交雑や比較遺伝学に基づく家畜の進
決定,③唾液腺における相同遺伝子の相補的な
吸引力の性質などを明らかにすることがめざさ
れた.遺伝子の大きさを大雑把に見積もる試み
化と起原の探求,小麦など植物における量的形
は,コリツォフの弟子でドイツに派遣された遺
質の遺伝学研究などが進められた 15.
伝学者ニコライ・チモフェーエフ=レソフスキ
1936 年 12 月,農業科学アカデミー第 4 部会
ー(Николай Владимирович Тимофеев-Ресовский:
で,遺伝学者とルィセンコたちとの本格的な論
1900-1981)らによってすでに行なわれていた
争が行なわれた.論争は遺伝の物質的単位とし
(
「遺伝子突然変異と遺伝子構造の性質につい
ての遺伝子の存在,遺伝法則としてのメンデル
て」,1935 年)18.この研究は第二次世界大戦後,
の法則の是非,外部条件の直接作用による遺伝
エルウィン・シュレーディンガー(Erwin
性の転換の是非をめぐって行なわれたが,ルィ
Schrödinger, 1887-1961)の『生命とは何か』に
センコによる春化処理の思慮なき乱用に批判が
よって紹介され,欧米諸国における爆発的な分
集中し,遺伝学者たちは巻き返すことに成功し
子生物学研究のさきがけとなった.このような
20
遺伝子の物理学的・化学的性質の本格的解明を
る遺伝子の生理学的働きのメカニズムに関する
目的にした遺伝学研究所の当時の計画は世界の
研究」は,ルィセンコたちが主張していた栄養
最先端を行く野心的な試みであったといっても
雑種を遺伝学の見地から評価する試みと思われ
過言ではない.
る.ここで重要なことは,ヴァヴィーロフたち
次の「突然変異と遺伝子組み換えのメカニズ
の遺伝学研究には,ルィセンコたちの農業生物
ムと相互作用」では,さまざまなタイプの遺伝
学的観点も包摂する視点があったことである.
子変化が生じるメカニズム(遺伝子突然変異,
そして,科学としての遺伝学の論理体系の中に
微小な染色体再編,大規模な染色体再編)の解
位置づけながら,農業生産拡大の体制側の要求
明と遺伝的変異を生み出す方法の開発がめざさ
に答えようとしたのである.これは科学者とし
れた.記録によると,①X 線突然変異の出現頻
てきわめて自然な対応であったのだが,まさに
度における照射条件の影響(温度の影響や晩発
この点においてヴァヴィーロフは集中砲火を浴
的影響の可能性)の研究,②遺伝変化の異なっ
びたのである.
たタイプの類似性の研究,③X 線以外の突然変
異出現の要因,④染色体の再編と関連のない突
3.「大粛清」時代におけるルィセンコの台頭
然変異遺伝子の性質と染色体上の座位の研究,
(1)ヴァヴィーロフのルィセンコへの妥協とルィセンコの影
⑤X 線の影響により変化したさまざまな遺伝子
響力の拡大
座の遺伝学的・細胞学的性質の比較研究,⑥環
状染色体における染色体の分裂機構の研究等,
よく知られているように,1937 年から 1938
多岐にわたる研究が予定されていた.特に放射
年の嵐のような大粛清の混乱の時期に,多くの
線照射による晩発的影響の問題は,現在におい
遺伝学者や生物学者が「人民の敵」という根拠
ても放射線生物学や放射線防護学の中心的課題
のない告発を受け,逮捕され命を落とした.
の 1 つであることを考えると,遺伝学研究所の
1937 年の初め,ルィセンコの政治的パトロン
先駆性が理解できるであろう.
で党中央委員会農業課長ヤーコヴ・ヤーコヴレ
最後の「遺伝子突然変異の影響下での生物進
フ(Яков Аркадьевич Яковлев: 1896-1938)は遺伝
化メカニズム」は,「進化のプロセスにおいて
学を「ファシストの教義と密接に関連する反動
発生した突然変異が,結果として,生物体の性
理論」として非難し,ルィセンコの同盟者イサ
質を不変に保つ明確なシステムと相互関係をな
ーク・プレゼント(Исаак Израилевич Презент:
す道すじの研究」とされた.ダーウィンの自然
1902-1969)もこの見解を敷衍し,遺伝学者を「人
選択説はもっとも知られた「生物体の性質を不
民の敵」として執拗に告発した 19.スターリン
変に保つ明確なシステム」なので,突然変異過
に粛清されたブハーリンが,数年前に書いた論
程と自然選択過程の統一的な理解をめざすこの
文「ダーウィン主義とマルクス主義」の中で遺
分野の研究は,1940 年代から1950 年代に確立
伝学を擁護していたという事実でさえ,遺伝学
した進化の総合説の遺伝学的基礎の確立につな
者と
「人民の敵」
との関係を示す証拠とされた.
がるものであったといえる.その詳細な内容は, プレゼントは,党員で遺伝学者のイズライリ・
アゴル(Израиль Иосифович Агол:1891-1937)や人
①明白な形質の遺伝子の集積である染色体内の
局所的な差異の研究,②新しく生じた突然変異
類遺伝学者のソロモン・レーヴィット(Соломон
の振る舞いに基づく,進化過程における優性遺
Григорьевич Левит:1894-1938)を名指しで非難し
伝子への転換の分析,③染色体内における新し
た.また,1920 年代に優生学研究を主導した
い遺伝子の出現メカニズムの研究,④染色体内
遺伝学者たち(コリツォフやセレブロフスキー
の遺伝子配列の研究などである.また,「移植
など)をナチの人種主義者と同一視する主張が
による植物体の発達過程における,形質に対す
流布され,優生学を支持する発言を繰り返して
21
きたマラーも厳しい立場に立たされた.
ブロフスキーなどの遺伝学者が中心であり,学
こうした状況にもかかわらず,農業科学アカ
術会議へのルィセンコの参加は遺伝学研究所の
デミーの指導部(ムラロフ,ヴァヴィーロフ,
研究内容自体にそれほど大きな影響を及ぼすほ
メイステル,ザヴァドフスキー)の遺伝学擁護
どではなかった.
は変わらなかったが,政治指導部の強力な後ろ
(2)ルィセンコの農業科学アカデミー総裁就任と遺伝
盾と広範な人気を持つルィセンコとの対立を避
学研究所への干渉の始まり
けるため,ヴァヴィーロフたちはルィセンコに
譲歩した 20.遺伝学の見地からすれば同一品種
党と政府の強力な支援にもかかわらず,農業
内の遺伝的変異の多様性には限りがあるので,
科学アカデミーでルィセンコの理論は主流とな
品種内の交雑は品種改良の手法としては効果の
ることはなかった.ヴァヴィーロフ,ザヴァド
低い方法とみなされていた.生育環境が変化す
フスキー,メイステルら農業科学アカデミー内
ることで表現型の変化が生じたとしてもそれは
の指導的な遺伝学者は品種改良に関するルィセ
新しい遺伝的変異が生み出されたことにならな
ンコの方針に明らかに反対であり,総裁のムラ
いと遺伝学者たちはみなしていた.だからヴァ
ロフもルィセンコの手法に疑問を抱いていたか
ヴィーロフたちは,ルィセンコが進めていた小
らである 23.しかし,スターリン指導部がはじ
麦の品種内交雑実験が成果を生むものだとは考
めた「大粛清」はルィセンコに幸運をもたらし
えなかった.しかし,1937 年 5 月に,農業科
た.1937 年 6 月にミハイル・トゥハチェーフス
学アカデミー総裁のムラロフと副総裁のヴァヴ
キ ー 元 帥 (Михаил Николаевич Тухачевский :
ィーロフとメイステルは,オデッサのルィセン
1893-1937)をはじめ 8 名の赤軍最高幹部が「国家
コの試験場を訪問し,ルィセンコの小麦の品種
反逆,およびスパイの罪」で逮捕・銃殺されて
内交雑実験を受け入れることを表明した.ソイ
以来,恐るべき粛清の嵐が吹き荒れた.疑心暗
フェルはこの譲歩を植物生産研究所と遺伝学研
鬼と自己中毒化したスパイ狩りの告発合戦の中
究所を守るためにヴァヴィーロフたちが行なっ
で多くの党員が逮捕・処刑された.同年夏に農
た戦略的妥協と評価した 21.農業人民委員部の
業科学アカデミー総裁のムラロフが
「人民の敵」
機関紙『社会主義農業』は,ルィセンコの品種
というでっち上げで逮捕され,一時的に総裁の
内交雑実験をアカデミー正会員のヴァヴィーロ
地位を引き継いだメイステルも同様に逮捕され
フとメイステルが受け入れたと大々的に宣伝し
た.遺伝学を支持するものだけが狙われたので
た.そしてまもなく農業人民委員部は小麦の品
はないことは,ルィセンコのパトロンで中央委
種内交雑を実施することを12,000のコルホーズ
員会農業課長ヤーコヴレフや農業人民委員ミハ
に命じた.結局,ヴァヴィーロフの妥協はルィ
イル・.チェルノーフ(Михаил Александрович
センコの権威を高める結果をもたらした.同年
Чернов: 1891-1938)が逮捕されたことからも明
8 月 5 日に行なわれた科学アカデミー幹部会で
らかである.彼らは中央委員会科学課長カル
承認された遺伝学研究所・学術会議の 17 名の
ル・.バウマン(Карл Янович Бауман:1892-1937),
構成員の中に,ウクライナ科学アカデミー正会
国営農場人民委員モイセイ・.カルマノビッチ
員という肩書きでルィセンコが初めて名を連ね
た
22
(Моисей Иосифович Калманович:1888-1937)とと
もっとも,学術会議の構成員は,ヴァヴ
もに処刑された 24.
ィーロフ,サペーギン,マラー,コストフ,レ
ムラロフの逮捕による農業科学アカデミーの
ーピン,ルースら遺伝学研究所の研究者のほか
指導体制の危機状態の中で,ヴァヴィーロフは
イヴァン・シュマリガウゼン(Иван Иванович
実質的に総裁の役割を果たし続けたが,内務人
Щмальгаузен: 1884-1963),ゲオルギー・ナドソ
民委員部(НКВД)はヴァヴィーロフの逮捕を準
ン(Георгий Адамович Надсон: 1867-1940),セレ
22
備していたという.最終的にこの時期ヴァヴィ
学アカデミーの傘下であり,この時点ではまだ
ーロフが逮捕されなかったのは,政治局員で中
ルィセンコたちは手出しができなかった.それ
央委員会イデオロギー部長のアンドレイ・ジダ
でも,1937 年夏の厳しい状況の中で,遺伝学
ー ノ フ (Андрей Александрович Жданов :
者のマラーはソ連から退去せざるを得なくなり,
1896-1948)がヴァヴィーロフの逮捕を承認しな
遺伝学研究所は遺伝子本体と突然変異の研究に
25
.逮捕は免れたものの,ヴァ
おける最大の戦力を失った.さらに,科学研究
ヴィーロフは農業人民委員部から批判を受け続
に,より小さな資金でより大きな実用的成果を
けた.同年 11 月末,『社会主義農業』にはさま
要求する党と国家の圧力はますます強まり,
ざまな研究所に対する侮辱的な記事が連続して
「純粋科学」研究の余地はしだいに狭められて
掲載され,綿花研究所の失敗の責任者としてヴ
いった.1938 年 3 月 23 日の科学アカデミー幹
かったからだ
26.翌
1938
部会決議によって,遺伝学研究所と植物形態形
年 1 月にも『社会主義農業』は,ヴァヴィーロ
成学研究所[ラボラトリー]が合併した 30 ことも,
フ,ザヴァドフスキーらがルィセンコの理論に
4 月17 日の幹部会決議により,進化形態学研究
ァヴィーロフが名指し批判された
敵愾心を持っているとして非難の記事を載せた. 所[ラボラトリー]が遺伝学研究所の一部として
その一方,『プラウダ』は,「科学への私の道」
再編された 31 ことも,こうした文脈の中で理解
というルィセンコの自伝的な記事を「アカデミ
することができるだろう.
ー会員 T. ルィセンコ」という署名入りで掲載
27
とはいえ,ルィセンコの農業科学アカデミー
.このような党と政府による宣伝活動
総裁就任にもかかわらず,ヴァヴィーロフやザ
は,空いている農業科学アカデミー総裁の地位
ヴァードフスキーを直ちに副総裁から解任する
にルィセンコを就かせ,同アカデミーにおける
ことできなかったことは,政治指導部はルィセ
支配権を遺伝学者から奪い取ることを目指した
ンコの実用主義を支持しても,遺伝学自体を否
農業人民委員部の意思を示すものであるだろ
定してはいなかったことを示している.このよ
う.
うな状況下で,遺伝学者たちが遺伝学研究と遺
した
1938 年 2 月,ついにルィセンコは農業科学
伝学研究所を守るためには,遺伝学の理論的枠
アカデミー総裁に就任した.同年 4 月 1 日にル
組みに立ちながらも,研究所の研究内容に農作
ィセンコ総裁の下での 1 回目の農業科学アカデ
物の生産拡大や品質の向上に直接つながるよう
ミー幹部会が開かれ,副総裁のヴァヴィーロフ
な実用的課題を取り入れ,自ら改革を進める以
とザヴァドフスキーは留任のまま,ルィセンコ
外にはないことは明らかだった.4 月27 日,科
の支持者で植物学者・育種家のニコライ・ツィ
学アカデミー幹部会生物学部は遺伝学研究所の
ツィン(Николай Васильевич Цицин:1898-1990)
規約を承認したが,承認された遺伝学研究所の
がメイステルの逮捕で空席になっていた第 3 の
組織構成は,1.突然変異と遺伝子の性質,2.論
副総裁に就任した 28.ルィセンコは傘下の研究
争となっている栽培植物の遺伝学的原理,3.形
所を党の政策に従属させ,科学研究に従事する
態遺伝学,4.植物の種間ハイブリッド,5.遺伝
研究スタッフを 1/2 から 2/3 に削減し,科学研
子の化学的成分,6.論争となっている家畜の遺
究よりもコルホーズやソフォーズの実践的要求
伝と進化,7.植物形態形成,などとなっていた
に応える活動を重視する方針を打ち出した
29
.
32
.ここでは,遺伝学研究の理論的枠組みを残
農業科学アカデミー傘下のVIRは,反ヴァヴィ
したまま,これまで論争となってきたルィセン
ーロフの活動をするために送り込まれたルィセ
コたちの研究も俎上に載せる姿勢が示されてい
ンコ派の人たちによって混乱させられた.
る.しかし,遺伝学研究所に対する科学アカデ
しかし,ヴァヴィーロフと遺伝学者たちのも
ミーの方針は政治指導部を満足させるものでは
う 1 つの拠り所である遺伝学研究所は,ソ連科
なかった.
23
議はヴァヴィーロフの研究を厳しく批判し,遺
4.国家指導部の遺伝学研究所への介入と遺伝学
伝学研究所で研究するためにルィセンコを招い
者の抵抗
た.ルィセンコは彼自身の部門をそこで組織し,
オデッサからもっとも親密な弟子たちを引き連
(1)遺伝学研究所に対する人民委員会議の干渉とそ
れて職員となった」34.ロール-ハンセンも,人
の影響の評価
民委員会議の決定の結果,
「ボリス・ケレルを議
5 月 11 日付『プラウダ』によれば,ソ連科学
長とする委員会がヴァヴィーロフの遺伝学研究
アカデミーの研究課題を精査するために人民委
所を評価するようになり」,「遺伝学研究所と
員会議が召集された.この会議には人民委員以
ヴァヴィーロフのその運営に厳しい判定が下さ
外に電化計画の主導者で工学者のグレブ・クル
れ」
,
「指摘された弱点を補強するため,研究所
ジ ジ ャ ノ フ ス キ ー ( Глеб Максимилианович
内に新しい分野を組織するためにルィセンコが
Кржижановский: 1872-1959)とルィセンコが科
招請された」と述べている 35.
学者を代表して出席し,加えて政治局員のモロ
たしかに,この人民委員会議をきっかけにル
トフとラーザリ・カガノーヴィッチ(Лазарь
ィセンコが遺伝学研究所に足がかりを得たのは
Моисеевич Каганович:1893-1991)も出席した.人
事実である.これらの見解からは,ルィセンコ
民委員会議は,「いくつかの研究所に似非科学
を支持する政治指導部によってヴァヴィーロフ
が安住しており,似非科学の代表が適切に取り
たち遺伝学者や科学アカデミー幹部会がもっぱ
除かれていない」という理由でソ連科学アカデ
ら譲歩を迫られ,遺伝学研究所内でルィセンコ
ミーが提出した研究計画を拒否し,アカデミー
の影響力がストレートに拡大していったかのよ
の名簿は若い人たちを含め新しく作り直すよう
うな印象をうける.しかし,状況はもっと複雑
に命じた 33.似非科学に支配された研究所は具
であり,また,ルィセンコたちは人民委員会議
体的にどこを指すのか会議では言及されなかっ
以降すぐに遺伝学研究所に影響力を拡大できた
たが,遺伝学研究所を指していることは明らか
わけではない.
だった.また,非難が一般的な形で述べられて
ソ連科学アカデミー幹部会の議事録によれば,
いることからすれば,科学アカデミー内のすべ
科学アカデミーおよび農業科学アカデミー会員
ての組織や個人がいつでも槍玉になりうる可能
で植物学者のケレルを議長とする「遺伝学研究
性があった.ソイフェルはこの決定を,10 年
所に関する評価委員会」の設置を科学アカデミ
前から始まった科学アカデミー内の人文科学と
ー幹部会に提案したのは,ヴァヴィーロフ自身
社会科学に対する独裁を自然科学に広げるもの
であり,しかもその提案がなされたのは,人民
だと正しく評価している.
委員会議の1 ヶ月近く前の4 月15 日である 36.
しかし,ソイフェルは,この人民委員会議の
委員会の設置を人民委員会議の結果とみなす見
結果,遺伝学研究所を査察するためのボリス・
解は正しくない.ヴァヴィーロフはケレルのほ
ケレル(Борис Александрович Келлер: 1874-1945)
かルィセンコを含む 9 名の評価委員を指名した.
を議長とする委員会が科学アカデミーによって
名簿に記載された名前と所属は以下の通りであ
作られたとしている.クレメンツォフも同様の
る.議長:アカデミー会員ケレル,委員:アカ
解釈に基づき,次のように述べた.「この会議
デミー会員ルィセンコ(ВАСХНИЛ),アカデミ
の結果,科学アカデミー幹部会は,ヴァヴィー
ー会員ピョートル・リシツィン(Пётр Иванович
ロフの遺伝学研究所の研究を『見極める』ため
Лисицын: 1877-1948.チミリャーゼフ名称農業
に,ルィセンコの協力者でアカデミー会員のボ
アカデミー― Сельскохозяйственная академия им.
リス・ケレルを議長とする特別委員会を組織し
К.А. Тимирязева: ТСХА―,全連邦農業科学アカ
た.委員会の評価に基づいて,幹部会の特別会
デミー ) ,D.A. キスロフスキー教授(Д. И.
24
Кисловский:名・父称・生没年不詳, チミリャー
コの圧力に対し,ヴァヴィーロフや科学アカデ
ゼフ名称農業アカデミー) ,Kh.S.コシュトヤン
ミー幹部会が受動的に対応したのではないとい
ツ教授(Х.С.Коштоянц, :名・父称・生没年不詳.
うことである.遺伝学に対する政治的批判から
科学アカデミー),P.N.ヤコヴレフ(П.Н.Яковлев:
遺伝学研究を守るために彼らは積極的な改革姿
名・父称・生没年不詳.ミチューリン名称中央遺
勢を示す必要があった.こうした改革は,研究
伝学研究所),エリザローヴァ(Елизарова:名・父
所の外部から,しかも研究所に対する厳しい批
称・生没年不詳.科学アカデミー・生化学研究所),
判の結果として進められるほうがよりスムーズ
G..コノバリョフ (Г. Коновалов:名・父称・生没
にゆくように思われる.如何に言葉の上で厳し
年不詳.科学アカデミー・植物生理学研究),Z.V.
くとも,その重点が実用面にあり,遺伝学研究
キスリャコヴァ(З.В.Кислякова:名・父称・生没
そのものが温存されるなら,当時の厳しい政治
年不詳.科学アカデミー・НПО-詳細不明-所属),
的経済的状況の下でヴァヴィーロフたちが取り
D.I.ジダーノフ(Д.И.Жданов:名・父称・生没年不
うる最善の選択ではなかっただろうか.
詳.科学アカデミー・要員課).以上の事実は何
以上のことは,当時作成された「ソ連科学ア
を物語るか.本稿著者の解釈は次の通りであ
カデミー遺伝学研究所 1938 年の研究計画の概
る.
要」の内容を合理的に説明する.「概要」の中
一般に,ケレルは遺伝学研究所へのルィセン
であげられた研究項目は,①様々な条件下で突
コ派の浸透に手を貸したルィセンコ派の人物と
然変異が出現するプロセスの経過と特徴の研究
見做されている.しかし,ソイフェルも述べて
②染色体の構造変化と形態形成との関係 ③染
いるように 37,ケレルはこれまで遺伝学に好意
色体のヘテロ接合領域の構造と機能の細胞遺伝
的な発言をしてきた植物学者である.あとで述
学的研究 ④生産性の高い植物組織の形質遺伝
べるように,ケレルの評価委員会報告では,遺
学 ⑤個体発生における遺伝子の動作メカニズ
伝学研究所の研究計画は焦眉の農業問題を解決
ム ⑥ヘテロシスの性質 ⑦量的形質の遺伝学
するための実践的関心と結びついていないとす
と生産力 ⑧伝染病に対する免疫力の遺伝学,
る厳しい評価が下されたものの,遺伝学研究自
などというものであった 38.これらの計画には,
体に批判の矛先は向けられていない.また,評
農作物の生産増大や伝染病の防除などの実用的
価委員会に加わったケレルとルィセンコ以外の
な課題と基礎研究を結び付けようとする姿勢が
もう一人のアカデミー会員リシツィンは,農業
示されていると同時に,ルィセンコに好意的な
科学アカデミーとチミリャーゼフ名称農業アカ
遺伝学者が強調する発生論的研究も加えられて
デミーに属する遺伝学者である.リシツィンは, いる.その上で,遺伝学を基礎とした理論的枠
ヴァヴィーロフやムラロフたちがルィセンコの
組みはあくまで貫かれており,結果として総花
品種内交雑実験を容認するという妥協を行なっ
的ともいえる内容である.そして,ルィセンコ
たとき,この妥協を歓迎した遺伝学者の一人で
派対遺伝学者の単純な図式で割り切ることので
もあった.つまり,ヴァヴィーロフは政治指導
きない科学理論と政治経済的要求の複雑な相互
部の要求する農業生産に結びつく実用研究への
関係は,遺伝学研究所内部の討論からうかがい
シフトに積極的に応じるとともに,遺伝学研究
知ることができる.
の枠組みを破壊することなく,受け入れ可能な
(2)ケレルの評価報告に対する遺伝学研究所の所員
ルィセンコ派の研究を遺伝学研究所に取り入れ
たちの反応
るという改革を構想したのではないだろうか.
おそらくルィセンコたちのポストを研究所内に
人民委員会議の数日後の5月17日,スターリ
準備することも想定内であったかもしれない.
ンは高等教育研究機関の職員の前で演説し,そ
ここで強調したいのは,政治指導部やルィセン
25
の中で「安全地帯に逃げ込んでいる科学の司祭
て先鋭な階級闘争が生み出されている生物学の
たちと闘い,古びた伝統や常識,観点を粉砕せ
最前線である」41)いう視点を提起した.そして,
よ」と述べた 39.1929 年 12 月にマルクス主義
遺伝学研究所の計画案が科学アカデミーや熟練
農業専門家会議での演説でスターリンが「わが
した専門家のためなら少しは役立つかもしれな
国の実務活動家の頭をよごしている,ありとあ
いが,この計画によって研究所が強化されるこ
らゆるブルジョア的理論を根こそぎにし,それ
とは困難であり,実用的な問題を解決する上で
らを投げ捨てよ」と述べて以降,デボーリン批
研究所の専門的な能力は雲散してしまうだろう,
判が開始され,マルク・.ミーチン( Марк
と批判した.そして最後に,いくつかの重要な
Борисович Митин:1901-1987)ら若い哲学者が台
農業問題を選びその解決に勢力を集中すべきだ
頭したように,今回のスターリンの演説は科学
と結んだ.ケレルは遺伝学そのものを否定して
アカデミーへの新たな攻撃の合図となり,科学
おらず,その批判の重点が農業問題の解決とい
アカデミーの権力からの自律性を奪う試みは強
う実践上の問題であったことに注目しなければ
化されていった.しかし,遺伝学研究所の再編
ならない.遺伝学研究所の計画が農業問題の解
に対する職員たちの反応は複雑であり,ルィセ
決に役立たないというケレルの主張に対し,サ
ンコ派対遺伝学者という単純な図式だけでは捉
ペーギンやシュクバルニコフは反論したが,実
えることはできない.その様子は,5 月19 日に
践的問題の解決が焦眉の問題である点に反論が
開かれた遺伝学研究所内部の活動者会議の速記
あるわけではなかった.このような実践上の問
録からうかがい知ることができる 40.
題意識は,ヴァヴィーロフ自身が冒頭のスピー
討論は,ヴァヴィーロフが議長を務め,最初
チで家畜や農作物の選抜育種の実用的な研究の
にケレルが遺伝学研究所に関する評価報告を行
重要性を強調し,「われわれは,世界中の遺伝
い,それに対する研究所職員の意見表明が行な
学研究機関と異なった方向に研究所を転換す
われた.討論で発言したのは,サペーギン,ニ
る」42 と述べたように,研究所の遺伝学者たち
コライ・クレンケ(Николай Петрович Кренке:
にも共有されていたと思われる.たとえば家畜
1892-1939),ユーリー・ケルキス(Юлий Яковлевич
遺伝学に従事していたヴァーシンは,農業生産
Керкис: 1907-1977),ボリス・ヴァーシン(Борис
拡大に対する遺伝学知識の可能性を過大評価し
Николаевич Васин: 生没年不詳)
,ヴァシリー・
ていたと反省したうえで,「われわれが作らな
パトルーシェフ(Василий Иванович Патрушев:
ければならない計画の中でまず第一の問題は,
1910-) , コ ス ト フ , N.N. コ レ ス ニ ー ク
わが国は遺伝学研究所に,ひいてはソヴィエト
(Н.Н.Колесник: 名と父称・生没年不詳), ミハイ
の遺伝学者に何を求めているのかということで
ル・ナヴァーシン(Михаил Сергеевич Навашин:
ある.われわれの誰もが一致する見解は,国家
1896-1973),ピョートル・シュクヴァルニコフ
は家畜の品質改善の速度をいっそう速めるため
(Пётр Климентьевич Шкварников: 1906-2004),
に役立つ理論を発展させることを我々に期待し
K.V. コシコフ(К.В.Косиков: 名と父称・生没年不
ているということである」と述べている 43.
詳)などであった.ケレルは人民委員会議以降
しかし,農業生産への貢献を目指すという原
の状況に触れ,科学アカデミーは人民委員会議
則論で一致していても,品種改良に不可欠な実
の決定を受け入れなければ存続できないという
践的な育種技術の開発に遺伝学理論がどの程度
厳しい認識を示し,科学アカデミーの計画案は
重要性を持つのか,という点については理解に
最も困難な経済問題に答えていないとするモロ
温度差があった.パトルーシェフは科学を人民
トフの批判を紹介した.そしてケレルは,遺伝
のために奉仕させることを要請したスターリン
学研究所体制の個々の領域すべてに細々した批
の演説に言及し,ルィセンコの方法を試してみ
判があるわけでないとして,「遺伝学はきわめ
ようと呼びかけた 44.かつてオデッサ植物育種
26
研究所でルィセンコの上司であったサペーギン
一部の人々の意見も反映していたのである.だ
は,生物体の特徴は遺伝子だけに還元されない
からルィセンコ派が遺伝学研究所に参入するよ
発生の複雑な過程によって決まると控えめに述
うになったことが,そのまま遺伝学者たちの敗
べた.サペーギンの個体発生論的観点は,遺伝
北と見做したり,科学アカデミーが遺伝学研究
学者のナヴァーシンによって支持されたが,彼
所をスケープゴートにした結果と単純に判断す
は「発生論的遺伝機構の不変性の暗黙の承認」
ることはできない.
を「忌まわしい伝統」と呼び,「われわれが遺
伝子や染色体と呼んでいるある構造が存在する
(3)科学アカデミーの再編と遺伝学研究所へのルィセ
のは明らかに短い時期だけである」とさえ述べ
ンコの参入
た 45.彼は,接木のような栄養雑種の研究の重
1938 年 5 月 25 日,科学アカデミー幹部会の
要性にも言及した.このような個体発生論的ア
臨時会議が招集され,人民委員会議で批判され
プローチを過度に強調する主張に対し,ヴァー
た研究機関について討議がおこなわれた.プラ
シン,ケルキス,クレンケらは正統遺伝学擁護
ウダは,会議で遺伝学と地質学が槍玉にあげら
の立場から反論した.遺伝学研究所の研究室主
れたと報じ,人民委員会議と科学アカデミー幹
任のクレンケは,形態遺伝学と個体発生研究と
部会の一致を強調し,ヴァヴィーロフと遺伝学
の協力の必要性を認めつつも,この問題は「遺
研究所を厳しい言葉で非難したケレルの査察報
伝学研究所だけでは達成できない複雑な問題で
告を引用した 48.科学アカデミー幹部会はケレ
あり,われわれは他の学術機関と協力する必要
ルの報告を承認し,ルィセンコが確立した理論
がある」とし,「もし,遺伝学研究所がこれら
と方法に基づく研究を遺伝学研究所の中で開始
の課題の研究ばかりになると,遺伝学研究所で
することを決定した 49.しかし,ヴァヴィーロ
はなくなるだろう」と述べ,研究所間の連携の
フと遺伝学研究所に対する科学アカデミー幹部
必要性を主張した 46.
会の一見厳しい対応にもかかわらず,幹部会が
発生現象を遺伝学で捉える試みは,20 世紀
承認した遺伝学研究所の研究計画改訂案は,先
が終わる頃になってようやく実現するようにな
に述べたように融和的なものであったことは忘
った課題である.遺伝のメカニズム自体がまだ
れてはならない.
解明されていなかった 1930 年代の当時の遺伝
科学アカデミー幹部会の臨時会議から 2 ヵ月
学の水準では,発生現象を遺伝学の立場から研
究を進めることは客観的に困難なことであった.
したがって,サペーギンやナヴァーシンの発生
後の7月27日,プラウダは,アカデミー幹部会
の新案が人民委員会議に提出されたが,人民委
員会議はそれを拒否したと報じた.それは政治
論的立場もヴァーシンやクレンケの正統遺伝学
指導部が科学アカデミーの融和的な方針を認め
の立場もまだ仮説以上ではなく,その意味でそ
ないという断固とした意思の表明でもあった.
れらの主張は両者ともに科学的議論の枠内であ
このとき以来,科学アカデミーそのものを政治
りえた 47.しかし,限られた予算の枠内でどの
指導の下に置くという,5 月17 日のスターリン
研究に重点を置くのかということは研究部門の
演説以来明確になった方針の具体化が始まった.
盛衰にかかわる問題でもあった.実際,遺伝学
農業科学アカデミー総裁ルィセンコと彼の支持
研究所内部での発生論的研究の拡大は,正統遺
者で副総裁のツィツィンが1939年1月に予定さ
伝学に依拠する研究を進めていた遺伝学者にと
れていた科学アカデミー会員選挙で選出される
って自己の研究分野の消滅につながる危険性を
ようにあらゆる手段が追求された.そのために
宿していただろう.ともあれ,発生論的研究を
農業科学アカデミー正会員であると同時に古く
開始するという科学アカデミーの結論は,上か
からの科学アカデミー正会員であった遺伝学者
ら強制されたというより遺伝学研究所の内部の
27
のザヴァドフスキーとコリツォフのポストを,
わち遺伝学的方法の成果も語られた.たとえば
ルィセンコとツィツィンが奪うことが必要であ
免疫特性のような性質を別の種に付加すること
った.指導部はザヴァドフスキーとコリツォフ
やその特性を持続させるために「不稔の克服の
の再選を阻止するためにさまざまな政治的圧力
方法の発展」や「染色体の倍化技術の利用」
「羊
を加えた.特に,1920 年代の優生学研究の草
の種間雑種の変異と遺伝の法則の研究」などが
分けであったコリツォフがナチスドイツの優生
報告された.また,「生命操作の方法を発展さ
政策の支持者であるかのようなデマに基づくネ
せるための,動植物の突然変異体の性質の研
ガティブ・キャンペーンが展開され,『プラウ
究」の下で,(1)種子の胚嚢内の突然変異形成過
ダ』は「人民の敵の擁護者」
,
「ファシスト」と
程体の研究,(2)倍数体作成法の発展とそれら
いうレッテルをコリツォフに貼った記事を掲載
の実用的利用,(3)形成期の染色体構造の再編
した 50.こうしたネガティブキャンペーンが功
の役割,(4)遺伝の染色体理論の発展,等の研
を奏し,コリツォフとザヴァドフスキーはアカ
究が進められたという.1937 年の研究テーマ
デミー正会員の地位を失い,ルィセンコとツィ
に比べるとかなり縮小されたとはいえ,従来の
ツィンがアカデミー正会員となった.これによ
遺伝学研究も保持されている.「生物体とそれ
って,ソ連における遺伝学者の学術的立場は急
ぞれの特質を求められる方向に進化させる発生
速に弱められた.ロシアの科学史家トミーリン
学的な方法を発展させるための動植物の発生学
は,1930 年代末のソ連科学アカデミーの再編
上の型の研究」は,遺伝学研究所内の討論で議
によって「アカデミーは自律的構成体から行政
論になった発生論的研究のことを示していると
=指令システムを組み込んだ完全に統一された
思われる.
組織へ変貌を遂げ」たと指摘したが 51,遺伝学
以上のことからわかるのは,ルィセンコの遺
研究所をめぐる顛末もこうした過程の一要素と
伝学研究所への参入後も,古典的な正統遺伝学
いえるだろう.
の枠組みに立つ研究やルィセンコと遺伝学者の
ルィセンコが遺伝学研究所で実際に活動を始
中間に立つ発生論的研究が共存したということ
めたのは,彼が科学アカデミー正会員となった
である.さらに,「ソ連科学アカデミー遺伝学
1939年以降のことである.1940年1月にヴァヴ
研究所 1939 年派遣・出張費」の表に基づき計
ィーロフが提出した「1939 年における遺伝学研
算すると,「新しい品種の繁殖法の開発」の項
究所の科学研究業績について」52 によると,「ア
目において,「テーマ1:進化・遺伝・品種形
カデミー会員ルィセンコの指導下で新しい植物
成の法則の解明」では合計 61,520 ルーブル,
遺伝学実験が組織され,1939 年から研究所内
「テーマ 2:異種間交雑」では 44,090 ルーブル,
で新しい部門の研究が始まり」,「適した栽培
「テーマ 3:品種改良の過程を促進するための
条件の選択,栄養雑種などによる方向性を持っ
種内交雑に当たってつがいを選択する遺伝学理
た遺伝的変化を生み出す方法の開発」が進めら
論」では 16,096 ルーブル,となっている 53.
れたという.「動植物の種内交雑の組み合わせ
テーマ3がルィセンコたちの研究にかかわる分
の理論開発」
が進められ,
「動物の進化,遺伝,
野だとみなすと,この時点では,研究所内での
品種形成の法則の解明には,生育した生活条件
ルィセンコ派の占める位置はまだ小さく,予算
と環境条件を考慮する必要がある」ことがルィ
面でも遺伝学者側の優位性が示されていると思
センコたちの研究の基本方向だった.種内交雑
われる.
研究は,小麦,大麦,エンドウ,亜麻に対して
(4)科学へのイデオロギー支配の強まりとヴァヴィーロフ
行なわれた.しかし,1939 年業績報告には,
逮捕
「遺伝の形式の発見にもとづく,種間交雑によ
る動植物の農業上の特性の結合」の成果,すな
28
ルィセンコは政治指導部の支持を受け,また
この討論会は科学論争に決着をつけるというよ
3 つのアカデミーの正会員という学術的権威も
り,「遺伝学および育種の分野におけるマルク
勝ち取っていた.しかも農民出身というルィセ
ス・レーニン主義の路線を確定する」
ことを目的
ンコの社会的出自は,ソ連社会という特殊な条
として,党の理論雑誌『マルクス主義の旗の下
件の下で,大衆的人気も獲得する好条件でもあ
に』誌編集局主催で開かれることになった.
った.しかし,ルィセンコの学術的権威は政治
1939 年 10 月に開催された「遺伝学の諸問題に
権力の支持によって得られたものである.遺伝
関する討論会」において,討論に最終評価を下
学研究所という学術機関の世界では,たとえ科
す権限を与えられたのは,同雑誌の編集長のミ
学の政治への従属が強められた 1930 年末の時
ーチンを中心に編集員のパイエル・ユージン
期にあっても,学術的権威を政治的権威で完全
(Паиел Федрович Юдин:1899-1968)とエルネスト・
に置き換えることはできなかっただろう.たが
コ ー リ マ ン (Эрнест Яромирович Кольман :
いに異なる原理を基礎にした遺伝学研究所内の
1892-1979),哲学研究所のヴラジーミル・コルバ
2 つの流派は,和解することも,一方が他方を
ノフスキー(Владимир Колбановский:父称・生没
圧倒することもなく,互いに対立しながら並存
年不詳)ら4人の哲学者だった.この会議の経過
した.もし仮に,実用的成果の優劣のみで決着
と結論は,クレメンツォフやロール-ハンセン
が図られるなら,まだしも対立解消の生産的な
らによってすでに詳しく分析されており,哲学
方向がありえたかもしれない.しかし,この時
者たちは総じて,遺伝学に対するルィセンコの
期,問題の解決をいっそう困難にしたのは,ス
方法論的かつイデオロギー的批判を受け入れた
ターリン指導部が科学に対するイデオロギーの
54.科学論争の評価において,生物学に精通し,
優位性を強調し始めたことである.
議論の科学的内容を正確に理解できる科学者を
高等教育研究機関でのスターリンの演説,会
加えることなく,哲学者のみで判定を下すとい
員選挙を通じた科学アカデミーの再編以降,科
う書記局の決定自体が,すでにルィセンコの勝
学に対する階級的視点が一層強調され,マルク
利を内包していたといえる.この結論は,形式
ス主義哲学を科学的真理の基準にすえようとし
的にはルィセンコに高い学術的権威を与え,一
た 1930 年前後の文化革命期に破綻した路線が
方でヴァヴィーロフたちの権威は引き下げられ
復活させられた.1939 年 3 月に開かれた第 18
た.その決定に納得できなかったヴァヴィーロ
回党大会で,スターリンはソ連が社会主義の第2
フは,ミーチンに手紙を送り再考を求め 55,ま
段階を終え,共産主義に前進しつつあると述べ
た,スターリンに面会を求め挽回をはかろうと
るとともに大粛清の終結を宣言した.それと同
試みた.しかし,11 月 20 日にようやく実現し
時に第 3 段階に入ったソ連社会の精神的・政治
たスターリンとの面会で,スターリンはヴァヴ
的単一性を強調し,「ソヴィエト愛国主義」
のス
ィーロフは冷たく突き放なした 56.
ローガンとともに「マルクス主義哲学」
の科学に
こうしてヴァヴィーロフは打ちのめされるよ
対する指導的役割が強調された.党の科学政策
うな打撃を被った.しかし,だからといって,
は,「マルクス・レーニン・スターリン主義」の
遺伝学研究所内でルィセンコとの力関係の逆転
イデオロギー宣伝を任務とする宣伝煽動部の傘
がただちに起こったわけではない.1940 年 1
下で決定されるようになった.
月16日に開かれた1939年遺伝学研究所業績報
遺伝学者に対する攻撃が科学論争の域を超え
告会議にはルィセンコとその支持者たちも多数
て政治闘争に転化していると訴えた生物学教授
参加した.所長のヴァヴィーロフは,先に述べ
グループの要請に応じて,中央委員会書記局は
た通り業績報告の中でルィセンコたちの新しい
ルィセンコ派と遺伝学者の公開討論の開催を承
研究が始まったことに言及すると同時に,種間
認した.しかし,当時の政治的思想的状況下で, 雑種による品種改良や突然変異の研究など遺伝
29
学に立脚する研究の成果についても詳しく報告
フは内務人民委員部によって逮捕された.翌
した 57.速記録によれば,ヴァヴィーロフの報
1941 年 1 月 7 日,科学アカデミー幹部会は,空
告の後,ルィセンコ派と遺伝学者側の間で激し
席となった遺伝学研究所所長にルィセンコを任
いやり取りが行なわれ,ヴァヴィーロフに対し, 命した.その後,ヴァヴィーロフ時代の研究所
研究の障害だという非難さえぶつけられた.ル
員の解雇が始まり,1942 年初めに遺伝学研究
ィセンコたちの論難に対し,遺伝学者は自信を
所の 1942 年研究計画がルィセンコによって提
持って自分たちの成果を誇示した.たとえば灰
出され,遺伝学研究所は,設立以来の遺伝学研
色のカラクル羊と黒のカラクル羊の交配につい
究からルィセンコたちが目指す「ミチューリン
てのルィセンコの質問に対し,ヴァーシンは,
生物学」へ転換したのである 61.
「1938-1939 年の成果として,われわれは黒
を含んだ灰色のカラクル羊の繁殖の方法を発見
5.結論
した.それは上質の羊の毛皮となるものだ.こ
(1)1930 年代後半の遺伝学研究所の研究は将来
れはまさに政府の委員会への我々の報告テーマ
の分子遺伝学,放射線生物学,分子進化学につ
である」と自分たちの業績を強調した 58.ルィ
ながる最先端(当時)水準にあった.
センコ派による遺伝学への中傷が続く中,ヴァ
ヴィーロフは「ここにはたくさんの誤解がある
と思う.われわれは互いによく知らないだけだ.
人が異なった職場で働いていると起こりえるこ
(2)1938 年 5 月の人民委員会議の決定により,
すぐにルィセンコたちが遺伝学研究所での影
響力を拡大できたわけではない.
ケレルを代表
とだ」と述べ,研究所に学びに来た大学院生の
とする遺伝学研究所の評価委員会の結成は,
人
例を挙げて,このような態度の教育における弊
民委員会議の結果余儀なくされたというより,
害について語った.そして,「これはわれわれ
が置かれている状況の異常なものの 1 つであり,
今こそ取り除くかなければならない」とヴァヴ
受け入れ可能なルィセンコたちの要求を取り
込むことで,
遺伝学研究の持続を図ろうとした
ヴァヴィーロフたちの戦術的対応として,
ヴァ
ィーロフが語ると,「そうだ!そうだ!」とあ
ヴィーロフ自身のイニシャチブで作られたも
ちこちで声があがった 59.このように,イデオ
のである.
科学アカデミー幹部会は少なくとも
ロギーや政治の影響力の大きかった研究所外部
この時点では,
ヴァヴィーロフの路線の枠内で
でルィセンコの権威が如何に高まろうとも,遺
政治指導部に抵抗したと思われる.
伝学研究所内部でルィセンコ派が完全な実権を
握るためには,ルィセンコたちが遺伝学者も認
(3)遺伝学研究所内の遺伝学者の中には,発生過
めざるを得ない決定的な研究上の成果を上げる
程について,
遺伝子説にのみ解消できない複雑
か,逆にヴァヴィーロフたちが遺伝学を擁護す
なメカニズムの存在を想定し,
ルィセンコたち
ることをあきらめさせるしかなかっただろう.
の主張と遺伝学の立場を調和させようとした
しかし,同年 7 月 4 日,1939 年のアカデミー
人々もいた.
研究のどの方向が強められるかど
選挙後,再編された科学アカデミー幹部会はル
うかは,
個々の遺伝学者にとっても利害の絡ん
ィセンコ指揮下の植物遺伝学研究室を遺伝学研
だ問題であり,
当時の遺伝学研究の水準を考慮
究所の一部として援用すると決定した 60.この
に入れると,現実の研究現場においては,ルィ
決定により,遺伝学研究所内でルィセンコの影
センコ派対遺伝学者という単純な 2 項対立で
響力が拡大することは避けがたく,ヴァヴィー
捉えることはできない側面もあった.
ロフはいっそう困難な立場に立たされた.そし
てその 1 ヵ月後の 8 月 6 日,政府の命令による
(4)しかし,1938 年夏に人民委員会議は,ルィ
西ウクライナへの調査旅行中に,ヴァヴィーロ
30
センコ派と遺伝学者の融和につながる科学ア
Сойфер, Власть и Наука :Разгром коммунистами
カデミーの計画案を拒否した.その秋,遺伝学
генетики в СССР, Москва, 2002.
2.Nikolai Krementsov, Stalinist Science, Princeton
者をファシスト呼ばわりするネガティブ・キャ
ンペーンが展開され,翌年 1 月のアカデミー
University Press, 1997.
3.Nils Roll-Hansen, The Lysenko Effect: The Politics of
選挙で,
遺伝学者のコルツォフとザヴァドフス
Science, New York: Humanity Books, 2005.
キーが落とされ,
ルィセンコとツィツィンが代
って正会員に選出された.
それは科学アカデミ
4.コンスタンチン・アレクサンドロヴィッチ・ト
ーが自律性を失い,
行政=指令システムに組み
ミーリン(金山浩司訳)
「セルゲイ・ヴァヴィー
込まれた存在へと変質を遂げる過程の重要な
ロフと 1930 年代ソ連科学アカデミーの組織上の
要素の1つとなった.
改変」市川浩編『”科学の参謀本部”-ロシア/ソ
連邦/ロシア科学アカデミーの総合的研究-
(5)1939 年 3 月の第 18 回党大会で,マルクス主
論集 Vol.2』
(平成 22 年度~24 年度日本学術振興
義哲学の科学に対する指導的役割が強調され,
会科学研究費補助金[基盤研究(B)]
【課題番号:
科学のイデオロギーへの従属が強まったこと
22500858】研究成果中間報告, 2012 年 3 月,18
が,1939 年 10 月の遺伝学討論で,ヴァヴィ
頁~23 頁所収),18 頁.
ーロフたち遺伝学者側が敗北した要因の 1 つ
5. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д.65. л.23.
である.
ルィセンコたちは遺伝学論争で勝利し,
6.Архив РАН Ф.2, Оп.7, Д.2, л.33.
一見学術的権威を獲得したにもかかわらず,
遺
7.Архив РАН Ф.2, Оп.7, Д.2, лл.39-40.
伝学研究所内で研究のイニシャティブを握る
8.Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д.10, л.5.
ことはできなかった.それは,ルィセンコの勝
9.Архив РАН Ф.384, Оп.2, Д.4, л.17.
利が,
政治とイデオロギーの力によって得られ
10. Soyfer(1994), Op. cit., in the note (1), p.66.
たものであり,
真の科学論争を通じた勝利では
11.Roll-Hansen, Op. cit., in the note (3), p.99.
なかったからである.
12.I・G・ロスクートフ『食を満たせ~バビロフと
ルィセンコの遺伝学論争と植物遺伝資源』
(山田
(6) ルィセンコたちが遺伝学研究所のような研
実訳,未知谷 2009 年)pp.33-34.
究機関で本当の勝利を得るためには,
真の学術
13. Soyfer(1994), Op. cit., in the note (1), p.70.
上の権威の獲得が必要だったのではないか.
ヴ
14. Ibid., p.72.
ァヴィーロフが逮捕されたことによってでし
15. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д.48, лл.1-2.
か遺伝学研究所の支配権をルィセンコが握る
16. Soyfer(1994), Op. cit., in the note (1), p.88.
ことができなかったこと自体,政治的・イデオ
17. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д.66, лл.15-16.
ロギー的権威にとどまらず,
遺伝学研究所にお
18. N.W.Timofeeff-Ressovky, K.G.Zimmer, and
M.
ける学問的権威の獲得を目指したルィセンコ
Delbrück,“ Über die Natur der Genmutation und der
たちの目論見の失敗を意味するのではないか.
Genstruktur,” Nachrichten von der Gesellschaft der
また,このことは,政治やイデオロギーによっ
Wissenschaften
て科学政策を一時的に支配できても,
科学の内
Physikalische Klasse, Fachgruppe VI, Biologie Bd. 1,
容そのものを支配できないというあたりまえ
Nr. 13, 189-245,1935.
zu
Göttingen:
Mathematische-
19.Soyfer(1994), Op. cit., in the note (1), pp.103,104.
の真理を表しているだろう.
20. Roll-Hansen, Op. cit., in the note (3), pp.250-251.
文献・注
21. Soyfer(1994), Op. cit., in the note (1), pp.110,111.
1.V. N. Soyfer, Lysenko and the Tragedy of Soviet
22.Архив РАН Ф.2, Оп.6a, Д.10, лл.114-115.
Science, Rutgers University Press, 1994.; В. Н.
23.Roll-Hansen, Op. cit., in the note (3), pp.250-251.
31
51. トミーリン, 前掲書, 注(4), p.19.
24. J.Arch Getty and Oleg V.Naumov, The Road to
Terror: Stalin and the Self-Destruction of the
52. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д.118, лл.2-17.
Bolsheviks, 1932-1939. (Yale University Press,1999),
53. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д.110, лл.52-53.
p.465.
54. Krementsov, Op. cit., in the note (2), pp.71-80;
Roll-Hansen, Op. cit., in the note (3), pp.252-262.
25.ジョレス・A・メドヴェージェフ, ロイ・A・メ
ドヴェージェフ『回想 1925-2010』(佐々木洋監
55.1939 年 11 月 15 日より遅くない時期に,ヴァ
訳, 天野尚樹翻訳, 現代思潮新社, 2012 年)p.54.
ヴィーロフがミーチンに送った手紙がミーチン
26. Soyfer(1994), Op. cit., in the note (1), pp.112.
のフォンドに保管されている (Архив РАН
27. Академик Т. Лысенко, “Мой путь в Науки,”
Ф.1992, Оп.1, Д.381, лл.1-5)
.
Правда, Октябрь 1, 1937.
56. ロスクートフ, 前掲書, 注(12), pp.49-51.
28. Roll-Hansen, Op. cit., in the note (3), p.251.
57. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д.118, лл.5-17.
29. Soyfer(1994), Op. cit., in the note (1), pp.120.
58. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д.125, лл.61-62.
30. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д.12, л.89.
59. Там же, л.93.
31. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д.12, л.199.
60. Aрхив PAH Ф.7, Оп.1, Д.349, л.145.
32. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д.89, л.5.
61. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д.138, лл.1-15.
33. Soyfer(1994), Op. cit., in the note (1), p.121.
34. Krementsov, Op. cit., in the note (2), p.62.
35. Roll-Hansen, Op. cit., in the note (3), p.262.
36. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д.12, л.188.
37. Soyfer(1994), Op. cit., in the note (1), pp.121-122.
38. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д.90, лл.30-35.
39. Soyfer(1994), Op. cit., in the note (1), p.122.
40. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д.94, л.1-115.
41. Там же, л.24.
42. Там же, л. 6.
43. Там же, л.51.
44. Там же, л.71.
45. Там же, лл.90-92.
46. Там же, лл.45-46.
47. 1930 年代後半の時期,日本の遺伝学者で動物
生態学者の徳田御稔はげっ歯類に関する優れた
業績を残している.彼はドブジャンスキーの種分
化理論を日本に紹介したが,その後ネオ・ダーウ
ィニズムの立場に限界を感じ,ルィセンコの理論
に興味を示した.戦後彼は,ルイセンコ派の論客
になった.また,メンデル遺伝学者として多くの
業績を残した篠遠喜人は,戦後まもなく接木雑種
のメカニズムを解明するための実験を行なった.
48. Soyfer(1994), Op. cit., in the note (1), p.123.
49. Soyfer(1994), Op. cit., in the note (1), pp.122-123.
50. Roll-Hansen, Op. cit., in the note (3), pp.262-263.
32
や近年の一連の出版物【文献 4~9】に記載され
た,比較的最近秘密解除され,公開された文書
館資料を基礎とするものである.
Ⅲ.
熱核兵器開発におけるソ連邦科学アカデミ
ーの役割
ヴラジーミル・パーヴロヴィチ・ヴィズギン
(市川 浩訳)
すでに示したように,ソヴィエト原子力計画
の開発初期段階における科学アカデミーの役割
はきわめて大きなものであった【文献 1】
.その
ことは,最初の国産原子爆弾の実験が成功裏に
実施された1949年の8月までソヴィエト原子力
計画のあらゆる段階にも当てはまる.熱核兵器
の開発は,その不可欠な前提となったウランプルトニウム段階から直接的に連続していた.
それゆえ,以前に生まれていたアカデミーから
の働きかけの経路は熱核兵器の問題の解決にお
いてもその意義を保持していたし,さらに言え
ば,軽い元素の核融合を基礎とする核弾頭を組
立てる可能性に関する最初のシグナルは 1945
年に遡るのである.
熱核爆発の物理学は原子爆弾の物理学より数
段複雑であり,そのため科学アカデミーに働く
物理学者・理論家を事業に補充する必要があっ
た.
確かに,熱核爆弾へのアプローチにおける数
値計算の,そして理論の基礎付けの複雑化は数
学的能力の抜本的強化を要するもので,こうし
たことは科学アカデミーの数学によってしかで
きないことであった.
結果として,国の主要な核兵器センターであ
った第 11 設計ビューローは 1940 年代末,1950
年代初頭にはかなりの程度の自律性を獲得して
いたにもかかわらず,熱核兵器計画に移行する
と,科学アカデミーからの真摯な支援を必要と
するようになった.そして,こうした支援は,
「熱核兵器の 10 年間」
,すなわち最初の発案
(1945~1948 年)から最初の国産水爆のヴァリ
アントである「スロイカ」の開発,および 2 段
階式のものの開発,つまり,国の核戦力の基礎
となった熱核弾頭の原型(1954~1955 年)に関
連した決定的な突破にいたる,すべての段階に
わたってきわめて本質的なものであった.この
研究は,おもに,レフ・リャーベフ編『ソ連邦
原子力計画』第 3 巻の2つの分冊【文献 2,3】
33
科学アカデミーにおける出発点(1945~1948 年)
熱核融合による爆発的反応の起爆剤として原
子爆弾の爆発を利用するアィディアは 1945 年
の秋には原子力計画の指導部のなかで知られる
ようになった.イーゴリ・クルチャートフはこ
のことについて,科学アカデミー・レニングラ
ード物理工学研究所の理論物理学のヘッドであ
ったヤーコヴ・フレンケリに手紙を書いた【文
献 2.c.9】
.その直後,アメリカの水素「超爆
弾」計画に関する諜報活動の資料が明らかにな
り,計画の科学面での指導者たちはソヴィエト
版水素爆弾に関する問題を検討する権限を与え
られた.
この決定に関連して,1945 年 12 月 17 日,特
別委員会[当時のソヴィエト原子力計画の指導機
関.のち,廃止.別名,ベリヤ委員会…原注に訳
者補完]技術協議会で,ヤーコヴ・ゼリドヴィ
チ
(ソ連邦科学アカデミー・化学物理学研究所.
同時に,科学アカデミー・第 2 研究所)の報告
「軽い原子核における反応誘発の可能性につい
て」が,イサイ・グレーヴィチ,ゼリドヴィチ,
ポメランチュク,ユーリー・ハリトンの 4 人の
報告者による関連した報告「軽い元素の核エネ
ルギーの利用」と一緒に聴取された.ゲオルギ
ー・ゴンチャロフの意見では,
「この報告の作成
は事実上,アメリカの「古典的な超[爆弾]
」と
同種の,
「チューブ」という呼称を与えられるソ
ヴィエト・ヴァージョンに関する研究のはじま
りであった」
【文献 4.c.70】
.ゼリドヴィチ以外
の 3 名の共著者はアカデミーの研究所(化学物
理学研究所,ラジウム研究所,物理学研究所)
の出身者で,当時は科学アカデミー・第 2 研究
所の研究員であったことは記憶しておこう.第
2 研究所の科学アカデミーの研究所としてのス
テータスは,何よりヨシフ・スターリンの提案
で,1944 年にもまだ保たれていた【文献1.
c.46-47】
.
1946 年 2 月 28 日,化学物理学研究所所長の
ニコライ・セミョーノフはラブレンチー・ベリ
ヤに,超爆弾の開発を含む原子力計画に自身の
研究所を含めるよう提案する書簡を届けた.と
くに,
「何より,連鎖反応による原子爆弾の爆発
を起爆剤とする,ありふれた[つまり,軽い,
ということ.…筆者]元素の熱爆発」という,よ
り強力な爆発の可能性を説明する研究と計算の
仕事」を包摂することについて述べていた【文
献 2.c.41-43】
.
事実上,ニコライ・セミョーノフは核兵器固
有のテーマを(原子爆弾の開発も,熱核爆弾の開
発もともに)ソ連邦科学アカデミー・化学物理
学研究所に集中するように提案したのである.
ソヴィエト原子力計画の指導部は,
第 11 設計ビ
ューロー(科学面の指導はハリトン)と名付けた
特別の「爆弾」センターを設立することで,別
の道を歩んだ.それとともに,化学物理学研究
所は一連の問題に動員されたが,とくにゼリド
ヴィチの指導下に小さな理論グループ(ゼリド
ヴィチのほかにアレクサンドル・コムパネェツと
S.L. ジャーコフ)が設置され,超爆弾の諸問題
に取り組むてはずになっていた.
第 11 設計ビュ
ーローに関する決定と同時に,
1946 年 4 月 9 日,
この仕事に化学物理学研究所を動員する決定も
ソ連邦閣僚会議によって採択された【文献 4.
c.72-73】
.
熱核問題の研究にはソ連邦科学アカデミー・
物理問題研究所の,レフ・ランダウを長とする
理論グループが動員された.このことについて
は,1947 年 6 月に確定した研究所の計画が証拠
となるが,そのなかでは軽い元素の熱的効果の
可能性の説明」に関する研究も,とくに言及さ
れていた【文献 2.c.65-67】
.
物理学研究所の衝動(1948~1949 年)
1947 年末までに明らかとなった化学物理学
研究所内のゼリドヴィチ・グループの理論研究
の成果は,二次的反応の断面積が充分大きい場
合の重水素の核爆発の可能性を確認したものの,
安心させる内容のものではなかった.1948 年の
前半,
第 11 設計ビューローでも熱核研究を開始
すること,そのため 3 つの科学アカデミーの研
究所,すなわち,ウクライナ科学アカデミー・
ウクライナ物理工学研究所,ソ連邦科学アカデ
ミー・数学研究所(コンスタンチン・セメンジャ
ーエフを長とする計算ビューロー)
,そして物理
学研究所の諸グループを動員することが決定さ
れた.1948 年 7 月,イーゴリ・クルチャートフ
とボリス・ヴァンニコフの提案に基づき,政府
の決定で物理学研究所内に「
《120》物質[重水
素のこと]の燃焼理論開発に関する」グループ
が,物理学研究所理論部長イーゴリ・タムの指
導下に設置された【同上.c.121-123】
.
超爆弾問題への,タムと若い理論家,セミョ
34
ーン・ベレニキー,ヴィターリー・ギンズブル
グ,アンドレイ・サハロフ,ユーリー・ロマー
ノフを含む物理学研グループの動員は最初の国
産水爆の開発に決定的な役割を果たしたことが
明らかとなっている.
当初,
タムのグループは,
主としてアメリカと同様の「古典的な超[爆弾]
(すなわち,
『チューブ』
)
」に関してゼリドヴィ
チのグループがおこなった計算・理論研究結果
の点検と正確化に取り組んだものと思われてい
た.しかし,1948 年末には,グループのメンバ
ー,誰よりも,まずサハロフが,当時「スロイ
カ」と命名された超爆弾の組立てに関する新し
いアィディアを提示していたのである.サハロ
フの「スロイカ」に関する基調報告は 1949 年 1
月 20 日の日付でなされたものであった【同上.
c.154-169】
.
「スロイカ」のアィディアにたいす
るたいへん重要な補足は,ギンズブルグの,重
水素化リチウム-6 を熱核燃料として利用するこ
とに関する提案であった(対応する報告は 1949
年 3 月 3 日付でなされている)
【同上.c.177-180】
.
その後,
水爆の開発はふたつの代替的な方向,
すなわち,
「チューブ」と「スロイカ」
,別名,
РДС-6т(以下,RDS-6t …訳者)と РДС-6с(以下,
RDS-6s …訳者)の方向に沿って進んだ.前者は
ゼリドヴィチ(化学物理学研.その後,第 11 設
計ビューロー)のグループが責任をもち,後者
はタム(物理学研究所.その後,第 11 設計ビュ
ーロー)のグループが責任をもった.
計算作業は,ソ連邦科学アカデミーの物理問
題研究所(ランダウのグループ)
,数学研究所(イ
ヴァン・ペトロフスキー,イサーク・ゲリファン
ド,セメンジャーエフ)
,および,当時,アンド
レイ・チーホノフのグループが集中していた地
球物理学研究所で実施することが計画されてい
た.トリウム,重リチウム 6 の入手方法,およ
び РДС-6(以下,RDS-6 …訳者:上記の RDS-6t
と RDS-6s はこの2つのヴァリアント…訳者補)に
関するその他の実験的・工学的研究は科学アカ
デミーの研究所,すなわち,物理問題研,レニ
ングラード物理工学研,
ウクライナ物理工学研,
化学物理学研,地球化学=分析化学研究所,測
定機器研(この当時,第2研究所はこのように改
名していた)が取り組むことになっていた【文
献 2.c.218-222】
.
水爆に関する政府決定と「科学アカデミーの計算機」
最初のソ連製原爆実験の成功はハリー・トル
ーマンに水爆開発の国家的決定をおこなうこと
を促した(1950 年 12 月 31 日)【文献 4.c.96】
.
ソヴィエト原子力計画の指導部は瞬く間にこ
れに対抗した;1950 年 2 月初めには水爆に関す
る政府決定採択に必要な資料がすべて準備され,
2 月 26 日にはラブレンチー・ベリヤが対応する
計画を提案し,その日のうちにスターリンがソ
連邦閣僚会議布告「RDS-6 開発に関する活動に
ついて」に署名した.RDS-6t(
「チューブ」
)と
RDS-6s(
「スロイカ」
)のふたつの方向性に沿っ
た活動が命じられた.ふたつの方向性はともに
第 11 設計ビューローで実施されることになっ
ており,そこには物理学研のグループ(タムの
指導下の)が移され,
「スロイカ」型に責任をも
つことになり,ニコライ・ボゴリューボフと何
名かのその教え子(数学研)
,そしてポメランチ
ュク(測定機器研.科学アカデミー・熱工学研究
所[ラボラトリー])が補充された.計算作業は数
学研と地球物理学研究所(RDS-6s について)
,お
よび物理問題研(RDS-6t について)にゆだねら
れた【文献 2.c.283-289】
.ついでに言えば,公
式には,第 11 設計ビューローは 1950 年 6 月ま
で測定機器研究所の支部であったので,科学ア
カデミーの機関というステータスを保持してい
たのであるが,のちに第1総管理部に移管され
た.
「スロイカ」に関する研究はその原理的な実現
可能性が問題視されていた「チューブ」のそれ
より首尾よく進んだ.しかし,
「チューブ」は,
クラウス・フックスからもたらされた諜報活動
による資料が有望と見なしていたこともあって,
計画指導部は RDS-6t の開発を続行することが
必要だと考えていた.1951 年 5 月 9 日,ソ連邦
閣僚会議布告「RDS-6t に関する活動について」
が採択され,このときまで物理問題研でランダ
ウのグループがおこなっていた,
「チューブ」に
関する計算作業を抜本的に強化することが計画
された.この目的で,数学研(ムスチスラフ・ケ
ルドゥィシュ指導下) に計算グループ,
さらに数
学研究所レニングラード支部(レオニード・カン
トロヴィチ指導下)にも計算グループが設置さ
れた.こうしたグループは,アカデミー外の機
関であった,ドミートリー・ブロヒンツェフを
長とする「
《B》研究所」にも置かれた.これに
関して,
数学研究所は 73 名にまで定員を増員し,
応用数学部(ケルドゥィシュを長とする)を定員
30 名で発足させることが許可された.さらに,
第 1 総管理部科学技術協議会の電子計算機の開
発と利用に関する活動(やはり,ケルドゥィシュ
35
を長とする)を加速することに責任をもつ,数
学セクションの開設が決定した【文献 2.
c.397-403】
.
1951 年 12 月 29 日付のソ連邦閣僚会議布告
「1952 年次における第 11 設計ビューローの活
動計画について」
【文献 2.c.442-447】では,最
終的に,RDS-6s が水爆の基本的なヴァリアント
であることが公式に確認された.そのため,
RDS-6t に従事していた計算・理論グループは
RDS-6s に関する活動に移管されることとなっ
た.対象となったのは,ランダウのグループ(物
理問題研),ケルドゥィシュのグループ(数学研),
そして,当時は科学アカデミーの外にあったゼ
リドヴィチ(第 11 設計ビューロー)とブロヒンツ
ェフのグループ(《B》研究所)のグループであ
った.アンドレイ・コルモゴロフ(数学研,モス
クワ国立大学)もこの仕事に動員されることに
なった.この布告の附則第 2 項で科学アカデミ
ーの研究所と,RDS-6s に関連して諸研究所(物
理学研,ウクライナ物理工学研,水利工学研究所
[ラボラトリー]
,計測機器研,化学物理学研,ラ
ジウム研など)で得られた各物理学的計測結果
をはじめとする具体的な課題が再度リストアッ
プされた.
このようにして,RDS-6s 開発に関する国家的
な決定のおかげで,この事業にきわめて重要な
意義が与えられることになり,それを基礎とし
て,科学アカデミーの機構を事業に追加的に動
員することが確定した.数学者の側からの学術
的な支援がとくに抜本的に強化された.彼らは
最初の熱核爆弾の計算的・理論的基礎付けに多
大の貢献を果たした.
「スロイカ」実験への道:“科学アカデミーの切り取り”
1952 年初頭までは,RDS-6s に関する仕事の
基本的で,
かつ先端的な部分は第 11 設計ビュー
ローで展開されていたが,科学アカデミーの力
を動員してその活動を維持していたのである.
気体力学計算には セメンジャーエフ(数学研)
のグループの数学者が活発に参加し,
「スロイ
カ」の計算的・理論的基礎付けでは物理学研究
所のベレニキー,エフィム・フラッドキンの仕
事が重要な役割を果たした.RDS-6s のエネルギ
ー拡散に関する仕事は,チーホノフ(地球物理
学研究所)のグループが続行していたが,その
グループにはアレクサンドル・サマルスキー,
ヴラジーミル・ゴリジン,ボリス・ロジェスト
ヴェンスキー,ニコライ・ヤネンコがいた.
1951
年末の,ランダウ,ゼリドヴィチ,ケルドゥィ
ッシュ,ブロヒンツェフ,およびアンドレイ・
コルモゴロフを「スロイカ」の開発に動員すべ
しとの勧告によって,RDS-6s の計算的・理論的
基礎づけの現状を評価する委員会が創設された
が,委員会には上記の 5 名のほか,タムとサハ
ロフも加わった.1952 年 2 月,この専門委員会
は「スロイカ」のエネルギー散乱に関する事前
計算の根拠づけの正しさを確認したが,にもか
かわらず,チーホノフ(地球物理学研)のグルー
プ,そして,RDS-6t の研究から解放される予定
だったランダウ(物理問題研)のグループに補充
的に並行して計算にあたらせるように勧告した
【同上,c.455-457】
.
1952 年の半ばから政府の追加的な決定によ
って,核物理学定数の実験的確定と熱核爆発の
一連の諸係数計測の準備に関する科学アカデミ
ー諸研究所(測定機器研,化学物理学研,ラジウ
ム研,物理学研,物理問題研,水利工学研究所[ラ
ボラトリー], 熱工学研究所[ラボラトリー],ウク
ライナ物理工学研)の活動が強化された.
RDS-6s に関する緊迫した仕事には,何であれ,
原子力計画の「アカデミーの側」に関連した,
いくつかの矛盾した状況を含めて,一定の困難
を伴うものであった.1952 年 5 月,推定できる
ところでは,ランダウを水爆開発から解任する
という脅しがあった【文献.c.486-492.文献 7.
C.561】
.9 月にはソヴィエト原子力計画の「主
任数学者」であったケルドゥィッシュをソ連邦
科学アカデミー工学部の書記役アカデミー会員
にして科学組織活動に移動させようとする試み
がすすめられた.このすぐれた科学者はふたり
とも,ベリヤの介入のおかげで原子力計画のた
めに確保された【文献 2.c.530-531】
.
もうひとつ,矛盾した状況であったのは,
RDS-6 の「スロイカ」型と「チューブ」型の両
ヴァリアント間の激しい競争の反映であるが,
それについては第 11 設計ビューローにおける
政府の全権委員であったヴァシーリー・デトネ
フがベリヤに書き送っている【同上,c.513】.
その結果,
第 11 設計ビューローの所長だったア
レクサンドロフとクルチャートフはこの状況を
打開し,
「スロイカ」開発を強化する追加的な方
策を採らなければならなかった 【同上,
c.520-536】
.
「スロイカ」開発は仕上げの,結果に直結し
た段階に入った.1953 年 1 月,専門委員会(ブ
ロヒンツェフを長として,ボゴリューボフ,ゼ
36
リドヴィチ,ケルドゥィッシュ,サハロフ,タ
ム.それに,ランダウとチーホノフが加わった)
は,何より,ランダウとチーホノフのグループ
が到達した,
「スロイカ」の計算的・理論的基礎
づけの水準を高く評価した【同上,c.593-594】
.
それにもかかわらず,計算作業はランダウとチ
ーホノフのグループだけでなく,ケルドゥィッ
シュが(電子計算機による計算を含め)総括的に
指導する数学研究所のグループ,数学研究所レ
ニングラード支部のカントロヴィチのグループ,
TTL のイサーク・ポメランチュークとアレクサ
ンドル・クロンロードのグループ,そして,物
理学研究所のヴィターリー・ギンズブルグ,ベ
レニキ,フラッドキンといった理論家によって
も継続されることが決められた 【同上,
c.601-604】
.
1953 年 8 月 12 日,セミパラチンスクの試験
場で RDS-6s の実験が成功裏に行われた(爆発
はトリニトロトルエン 400 キロトンに相当し,計
算上の数値の最上限に当たるものであった)
.
こう
して,国産熱核兵器開発の最も重要な段階が完
了したのであるが,そこでは,われわれが見て
きたように,科学アカデミーが最初のソ連製水
爆の開発に極めて重要な貢献をしていたのであ
る.
2 段式熱核兵器 RDS-37-科学アカデミーの側で-
核抑止力を保障し,熱核兵器の潜在力の基礎
を築いた熱核弾頭の最初のものとなったのは原
爆による爆縮装置(АО -Атомное обжатие--装
置)
,すなわち放射線爆縮装置を装備した水素爆
弾であり,それこそ,1955 年 11 月に成功裏に
実験が行われた 2 段式熱核爆弾 РДС-37(以下,
RDS-37)であった【文献 4,5】
.それは 2 年足ら
ずで開発されたことになる.
第 11 設計ビューロ
ーに宛てた АО 装置の仕組み関する最初の報告
は 1954 年のもので,その年の夏の間,АО 装置
の問題はそれぞれ,ゼリドヴィチとサハロフに
率いられた,ふたつの理論セクターでインテン
シヴに取り組まれた.新しい装置は比較的速や
かに開発されたにもかかわらず,参加者のひと
り,ゴンチャロフが記しているように,それに
至る道は困難の多いものであった【文献 4.
c.114】
.この途上,基本的な困難は第 11 設計ビ
ューローの理論家たちの緊張漲る努力によって
克服されたが,そのことは文献に詳細に書かれ
ている【文献 4~6,8】
.
1954 年には,科学アカデミーがどのような経
路を通じて RDS-37 開発をサポートしたかを物
語る,一連の重要な文書が出されている.本質
的な意義をもっているのは,科学アカデミー・
数学研究所応用数学部に電子計算機「ストレラ
ー(Стрела)
」
(1954 年 6 月)を使った仕事のた
めに数学者=計算専門家を養成する課程が設け
られたことである.核爆発に伴う物理現象の研
究のために,数学研究所応用数学部や精密機械
=計算機器研究所の数学者のほか,化学物理学
研,地球物理学研,ラジウム研,力学研の専門
家も動員された.こうした仕事を監督する権限
は化学物理学研,セミョーノフとサドフスキー
に与えられた【文献 3. c.233-239】
.その結果,
RDS-37 の実験のときに,こうした研究所,な
かんづく,化学物理学研とラジウム研(および
国立光学研究所)の集団が熱核爆発の諸パラメ
ーター計測に主要な役割を果たしたのである.
最終的に,1954 年 12 月,RDS-6t 開発を停止
し,第 11 設計ビューローの努力を「より展望を
もつものとしての,АО 装置(原爆による爆縮装
置)の問題に関する活動」に振り向ける決定が
採択された.これに伴い,ゲリファンド(数学
研応用数学部)とクロンロード(熱工学研)の数
学者グループは「チューブ」開発から АО 装置
開発に移ることが予定された.
ベリヤの逮捕後,
第 1 総管理部と特別委員会のかわりに設立され
た中型機械製作省の指導部と化学アカデミー幹
部会は,1955 年 2 月,水素爆弾の新しい計画を
承認し,第 11 設計ビューローの指導部に「1 週
間の期間内に新しい型の水素爆弾開発に関連し
た計算・理論活動の遂行にたいするソ連邦科学
アカデミー数学研究所応用数学部(ケルドゥィ
ッシュ同志)の課題を明らかにすること」を提
案した【同上,c.312】
.
1953 年7 月,
サハロフ,
ゼリドヴィチのほか,
タム(委員長)
,ミハイル・レオントヴィチ,ケ
ルドゥィッシュ,ギンズブルグとイサーク・ハ
ラトニコフが加わった専門委員会(その実は科
学アカデミーの委員会)は 2 段式装置の仕組みが
物理学的な根拠をもち,展望があることを認め
【文献 3. c.371-373】
,RDS-37 の計算的・理論
的基礎づけに関する最終報告が出された.その
なかでは,とくに次のように述べられていた;
「これほど複雑な開発においては,数学計算の
役割はとくに大きく,部分導関数方程式の計算
によって,場合によっては,基本的な点で,あ
れこれの環での活動,あるいはあれこれのシス
テム変更に関するわれわれの理解が修正される
37
こともある.こうした計算は,基本的には,ソ
連邦科学アカデミー・数学研究所応用数学部に
おいて,ケルドゥィッシュとチーホノフの全般
的指導のもとで行われている」
【文献 3. c.378】
.
そして,具体的な重要計算課題と担当する計算
グループの名前が挙げられたリストが続き,多
くの計算が電子計算機「ストレラー」で行われ
ていることが記されている.
1955 年 11 月 22 日,
2 段式熱核爆弾(原爆による爆縮装置を装備した
RDS-37 装置)の実験が成功裏に実施されたが,
それは
(トリニトロトルエン換算で)
1,67~1,76
メガトンのエネルギー発散を伴い,
「ソヴィエト
物理科学の成熟」を物語るものとなった【文献
3. c.424-425】
.核弾頭の実験においては初めて,
数学研応用数学部のたくさんの数学者グループ
(ケルドゥィッシュ,チーホノフ,ゲリファンド,
サマルスキー,セルゲイ・ゴドゥノフ,オレグ・
ロクツィエフスキー,ヴラジーミル・ジャチェン
コ)が立ち会った【文献 5. c.79】
.このことは,
RDS-37 の開発における科学アカデミーの数学
者たちの貢献の特別の重要性を強調するものと
なっている.
結論
熱核兵器開発における科学アカデミーの貢献
のいくつかの特徴について述べておこう.
1.1950 年まで第 11 設計ビューローはほとん
どまったく,初期の原子爆弾の開発と実験に
手一杯で,水素爆弾は「空を飛ぶ鶴」であり,
それゆえ,それを探求する研究は,最初は,
基本的に,科学アカデミーの諸研究所(化学
物理学研,物理問題研,物理学研など)で行わ
れていた.1950 年になってようやく,第 11
設計ビューローは,
化学物理学研,
物理学研,
数学研などの主導的な理論家,いく人かの数
学者(ゼリドヴィチ,タム,サハロフ,ボゴリ
ューボフ,ポメランチュクなど)が集中する,
熱核兵器開発の主要なセンターとなった.
2.しかし,1950 年以降も,科学アカデミーの
諸研究所の水爆開発事業への参加はかなりな
ものであり続けた.計算的・理論的作業は物
理学研,物理問題研,数学研,数学研レニン
グラード支部で行われ,トリチウム,重水素
化リチウム-6 を入手する研究には物理問題研,
レニングラード物理工学研が,熱核爆発に伴
う物理現象の研究には,化学物理学研,ラジ
ウム研などの研究員が動員された.
6. Горелик Г.Е. Андрей Сахаров: Наука и Свобода.
Ижевск: НИЦ «Регулярная и хаотическая
3.熱核兵器開発計画はふたつの方向性,すな
わち,
「チューブ」と「スロイカ」の間の激し
い競争のなかで進められた.ふたつの競争し
あう方向性を同時に理論的に探ることは,ソ
連邦科学アカデミーの諸研究所から質の高い
理論家と数学者を追加的に動員することを要
求した.
динамика». 2000.- 512с.
7. Горелик Г.Е. Советская жизнь Льва Ландау. М.:
Вагриус, 2008.-464с.
8. Харитон Ю.Б., Адамский В.Б., Смирнов Ю.Н. О
создании советской водородной бомбы // Успехи
физических наук, 1996, т.166. С.201-215.
9. Визгин
4.2 段式装置 RDS-37 の図式という熱核兵器
の基本的なヴァリアントを開発するにあたっ
ては,電子計算機を使ってこの核弾頭の計算
的・理論的に基礎づけた数学研応用数学部の
ケルドゥィッシュとチーホノフをリーダーと
する数学者たちの役割はとくに大きかった.
математиков в советском атомном проекте
//Историко-математические исследования, 2011.
Вторая серия, вып. 14 (49). С.53-76.
文献
1.Визгин В.П. Ядерно-академический союз: роль
Академии наук в советском атомном проекте (по
материалам АРАН и других архивов) // Атомная
эра: вклад Академии наук / Коорд. Н.М. Осипова.
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2. Атомный проект СССР. Документы и материалы
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Т.Ш. Водородная бомба. 1945-1956. Кн. 1 / Отв.
сост. Г.А.Гончаров. М.- Саров, РФЯЦ-ВНИИЭФФИЗМАТ ЛИТ, 2008. 736с..
3. Атомный проект СССР. Документы и материалы
/ Под общ. ред. Л.Д.Рябева. Т.Ш. Водородная
бомба. 1945-1956. Кн.2 / Отв. исп. Г.А.Гончаров.
М.-Саров:
В.П. Взаимодействие физиков и
РФЯЦ-ВНИИЭФ-ФИЗМАТЛИТ.
2009.- 600с.
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предыстория и десять лет пути к водородной
бомбе // История советского атомного проекта:
документы, воспоминания, исследования / Отв.
ред. и сост. В.П. Визгин. СПб. 2002, вып.2.
С.49-146.
5. Андрюшин И.А., Илькаев Р.И., Чернышев А.К.
Решающий шаг к миру. Водородная бомба с
атомным обжатием RDS-37. Саров: РФЯЦ –
ВНИИЭФ, 2010.- 132с.
38
フ・モロトフに総裁の活動,おもに人事問題で
Ⅳ.
の活動について情報を提供していた 1.
科学アカデミーにたいする党の統制強化の諸
形態―1949~1954 年―
セルゲイ・ヴァヴィーロフを完全には信頼し
ていなかったが,彼がアカデミー総裁職にとど
まることに利害関係を有していた党機関員たち
ユーリー・イヴァノヴィチ・クリヴォノーソフ
はより厳格な統制の形態,そして完全に彼らの
方針に従う書記役アカデミー会員職への候補を
(市川 浩 訳)
探していた.
1990 年代の初めには,ソ連邦科学アカデミー
とその諸研究所のさまざまな時代における活動
に関する研究にあたって,以前は閲覧不能だっ
た党-政府諸機関,および科学アカデミーの秘
密文書を研究に利用する可能性が現われた.科
学アカデミー,その諸研究所と研究員の状況を
理解するうえで重要な時期は戦後の時期である.
1945 年における大祖国戦争の勝利によって
もたらされた陶酔,そして思考と行動の相対的
な自由にたいする希望に満ちた短い時期のあと,
今度は対外政策における「冷戦」と内政におけ
る社会生活のあらゆる側面にたいする党の統制
厳格化の,新しい段階がはじまった.
その活動が党の最上級機関の格別の警戒心と
不安を呼んだ領域のひとつが科学アカデミーで
あった.一方では,国家は新しい科学の成果,
とりわけ原子力研究やロケット技術,およびそ
れらに隣接した分野といった方向性における成
果を必要としていたが,他方では,科学要員に
たいする揺るぎない不信感を保持していた.
党と政府の最上級諸機関の決定にもとづいて
ソ連邦科学アカデミー書記役アカデミー会員
職(1949~1954 年)の創設と活動の歴史は,誰
がこのアィディアを出したのかがよくわからな
かったがために,今にいたるまであまり明らか
にはなっていなかった.党機関の諸文書は,書
記役アカデミー会員職の創設を科学アカデミー
の創意によるものとして見せかけようはした試
みが現実にはうまくゆかなかったと見なす根拠
になっている.すべての文書,証言者のメモを
全部分析すれば,このアィディアが党の最上級
の指導部,可能性としては,スターリン自身か
ら出されたものであるとの結論に達することも
可能であろう.書記役アカデミー会員職が創設
されてまもない頃のその活動についての最高レ
ベルへの通報がそのことを物語っている 2.書
記役アカデミー会員の役割については,1951 年
2 月セルゲイ・ヴァヴィーロフの死去後にソ連
邦科学アカデミー総裁に選出されたアレクサン
科学アカデミー総裁に選出されたセルゲイ・ヴ
ドル・ネスメヤーノフが次のように回想してい
ァヴィーロフはたいへん複雑な状況に陥ってい
る.
「…この時期の科学アカデミー管理の本当の
た.彼の活動は厳格な統制のもとに置かれてい
中心は幹部会書記役アカデミー会員にあり,主
た.権力が何らかの目に見える,公然とした対
任学術書記アレクサンドル・トプチエフに体現
立を望まなくとも,彼らはみずからの行動によ
されていた」3.このため,1949 年 3 月に主任
ってセルゲイ・ヴァヴィーロフに,とくに人事
学術書記に任命されたトプチエフの,急な昇進
政策の実行に際して,可能性の限界をそれとな
をとげたキャリアに関するエピソードは大きな
く示していた.公式には総裁のもっとも近しい
関心事である.
補佐であった科学アカデミー幹部会書記役アカ
1943 年,大祖国戦争期,トプチエフはモスク
デミー会員は,その当時はニコライ・ブルエヴ
ワ石油専門学校の校長に任命され,1947 年,全
ィチであったが,事実上はスパイであり,密告
連邦共産党(ボ)中央委員会政治局の決定で人
者であった.彼は規則的に,セルゲイ・ヴァヴ
事担当の高等教育次官に任命された 4.高等教
ィーロフには秘密に党と国家の最上級指導者,
育省におけるこのような主要なポストへの任命
とくに全連邦共産党(ボ)中央委員会書記のア
には,当時存在した国家政策体系のなかで実行
レクセイ・クズネツォーフ,副首相ヴャチスラ
されていたように,候補者の「全項目にわたる」
39
詳細な点検が先行していたはずである.とはい
の定期的な密告者としての活動を知らなかった
え,彼はこれと同様の点検を,党中央委員会書
はずはなかった.
記局の人事リストに載っている高等教育機関の
1949 年 2 月 14 日,党中央委員会書記ゲオル
長への候補者としても受けなければならなかっ
ギー・マレンコーフ宛てのアカデミーの書簡が
たはずである.
出されたが,その内容は事前に合意がなされて
その少し後,トプチエフはソ連邦高等教育機
いたことには疑いがなく,あるいは党中央委員
関省附属最高資格審査委員会副委員長という科
会の機関で準備されたものであるかもしれない.
学要員の資格審査システムにおける主要なポス
書簡には,その他の問題も書かれていたが,ニ
5
トに任じられている .このように,彼の掌中
コライ・ブルエヴィチの健康状態を考慮して,
には,高等教育機関という最重要な領域におけ
そのソ連邦科学アカデミー書記役アカデミー会
る人事政策が集中することとなった.
もちろん,
員職辞任の願いを承認し,その職に化学博士ア
こうした政策は完全に最上級の党機関の方針に
レクサンドル・トプチエフを任命することが必
照応したもので,その直接の指示で実行されて
要であるとの問題が提起されていた.同時に,
いた.
それに関連して,ソ連邦科学アカデミーの規程
1948 年末,高等教育省の発案で,党中央委員
と科学アカデミーで築き上げられてきた伝統に
会も賛同して,現代物理学のイデオロギー問題
従って,科学アカデミー正会員だけが選出され
に関する会議の準備が始まったが,その委員会
えること,そのためトプチエフを正会員に選出
の委員長にはトプチエフが任命された.生物学
する選挙を総会の 15 日前(規程の想定では 2 ヶ
で起こったことと同様のイデオロギー的虐殺が
月前だが,
)に公示して実施することが許される
おこなわれることが予想された.1949 年初め,
とされた.
組織委員会の準備会議がインテンシヴに開催さ
この書簡によって,党中央委員会指導部によ
れた.セルゲイ・ヴァヴィーロフは,本会議を
る一連の規程の蹂躙が始まった.ほぼ 1 ヶ月後
あらゆる方法を駆使して延期させつつ,基調報
の 1949 年 3 月 11 日,党中央委員会書記局布告
告を準備した.おそらく,このとき,トプチエ
「ソ連邦科学アカデミー幹部会学術書記局の設
フが,当時アカデミー会員ブルエヴィチが占め
置について」が出された.そのなかで,トプチ
ていた書記役アカデミー会員の職へのありうべ
エフを長たる主任学術書記とし,党中央委員会
き候補として浮上してきたのであろう.
科学課長ユーリー・ジダーノフを含む 5 名の書
ヴァヴィーロフのところでは,膨大な量の日
記からなる構成が確認された 6.1949 年 3 月 17
記類から判断して,ブルエヴィチの働きぶりは
日には,アカデミー幹部会は自身の決定「…学
不充分で,何度も病気になっていて,すべての
術書記局の組織について」を,その構成ともど
事業が彼のところに閉じ込まれている(たとえ
も,中央委員会の文書を基本的になぞるかたち
ば,
「アカデミーには,わたしとブルエヴィチ以外,
で採択する.
沈む船から出てゆくネズミのように,ちょうど良
すでに翌 4 月の 7 日には,中央委員会書記局
い時機に去りたいと思っている人間はいない」-
は布告「ソ連邦科学アカデミー規程の変更につ
1948 年 9 月 26 日付のメモ-.またはその少し後
いて」を採択する.規程のなかに,学術書記局
に,
「また,重苦しい週.ブルエヴィチが病気で,
の課題とその構成に関する項が追加されたので
アカデミーの舞台裏の仕事はすべてわたしにふり
ある.科学アカデミー幹部会の構成員に主任学
かかってきた」
,
「12 月 19 日,ブルエヴィチは病
術書記が入ることになったが,その被選出性は
気で,残りは無能か,そう見せかけようとしてい
前提されなかった.つまり,そのことは,一方
る者だ」
)ので,書記役アカデミー会員の交替が
では直接的任命を合法とするものであり,同時
必要であった.それ以上に,彼がブルエヴィチ
に必ずしも科学アカデミーの構成員が占めなけ
40
7 月 13 日,ヴァヴィーロフはスターリンに接
ればならないということではないことにするも
7
のであった .1949 年 4 月 13 日,党中央委員会
見した.7 月 15 日の朝,レニングラードに向か
は,トプチエフを科学アカデミーの定例総会で
う列車のなかで書かれたメモには「13 日,朝 10
正会員に選出することを認める,
新しい布告
「ア
時,ヨシフ・スターリンがわたしを迎え入れて
レクサンドル・ヴァシーリェヴィチ・トプチエ
くれた.ゲオルギー・マレンコーフも同席.ア
フ同志について」を採択した.この決定に関連
カデミーのことと百科事典の件で 1 時間半も会
して,党中央委員会機関のスターリン宛の説明
話はつづいた」とある.
資料では,
「アレクサンドル・ヴァシーリェヴィ
その日の夕方,彼は日記を続けた;
「歴史家の
チ・トプチエフ同志.1907 年生れ.ロシア人.
ために,ヨシフ・スターリンとの会話を記す」
.
1932 年以来の全連邦共産党(ボ)党員.教授,
この接見で議論された多くの問題のなかで,
化学博士にして石油化学分野の傑出した専門家
ヴァヴィーロフはスターリンの書記局に関する
ほ.50 本以上の科学著作をもつ.…(中略)…
見解を記述している.すなわち,スターリンが
8
幹部会主任学術書記に任命」 と示されていた.
この問題に精通していて,彼が直接介入して,
しかしながら,セルゲイ・ヴァヴィーロフの
あるいは,あらゆる場合においてその疑いのな
日記メモによると,理由はわからないが,トプ
い賛同をもって書記局が生まれた,と述べてい
チエフのアカデミー会員選出を可能とする決定
るのである;
「良い書記局が必要だ.I. V. S【ス
はどこかの党機関でなんらかの反対に遭遇した.
ターリンのイニシャル…訳者】は,幹部会書記局
トプチエフ選出延期の可能性が出てきたことに
がどのように機能しているのかを尋ねる.書記
関連して,一群の化学者・科学アカデミー会員
局は幹部会の決定を遂行し,適宜,状況につい
たちが党中央委員会とアカデミー幹部会にトプ
て警告を送らなければならない.書記局は,各
チエフ選出を支持する書簡を送った.共同で,
分野 10 名まで増員されなければならない.
望ま
あるいは個々人で書簡を書いた人物のなかには,
しくは,
すっかりその仕事に集中できるように,
ゼリンスキー,ナミョートキン,ヴォーリフコ
充分支払われるべきだ.科学者が科学研究から
ヴィチ,カザンスキー,ネスメヤーノフといっ
離れるのは難しい,と言う.応答はないままで
た科学アカデミー会員,そして大臣のカフター
ある.S 同志【スターリンのこと…訳者】は,幹
9
ノフ,バイバーコフがいた .
部会は必要だが,幹部会がこのような問題を処
日記帳のなかの 6 月 5 日付のメモで,ヴァヴ
理するのは困難だ,と言う」
.
ィーロフはその前の数日間と 6 月 4 日の選挙に
中央委員会の機関では,
スターリンの意見は,
ついて回想している;
「ばかばかしく,とんでも
疑いなく知られるところとなっていたし,指導
ないことがいっぱい.トプチエフとオストロヴ
部としても受け入れて行動に移したのであろう.
ィチャーノフの選出のためのアカデミー総会.
1
この年の終り,中央委員会政治局は「ソ連邦科
日中,
「解職する」
.
[そして,
]トプチエフは進
学アカデミー幹部会学術書記局に関する規則」
めることができたが,オストロヴィチャーノフ
を確定し,
その機能を細かく規制するとともに,
は延期となった.手続きに関する会合,…(後
書記の定員を 11 名までに増員した 10.
こうして出来上がった条件のもとでは,トプ
略)
」
.
結果としてトプチエフは1949 年6 月4 日付で
チエフが,党中央委員会勤務員の要求を完全に
アカデミー正会員に選出された.1 ヶ月後,ヴ
支持し,アカデミー幹部会に附置された,彼が
ァヴィーロフは日記帳に,
「実にさまざまなでき
指導する新しい機構がおこなう活動の政治=イ
ごとが渦を巻いている.新しい人々,まだ何を
デオロギー的な望ましさを誇示しなければなら
しなければならないか知っていないトプチエ
なくなったことは,まったく明らかである.党
フ」と書いている.
中央委員会科学課長ユーリー・ジダーノフが書
41
記局に入っていたので,このことは彼にとって
この時機,ユーリー・ジダーノフは,中央委
はより重要となった.トプチエフにとってそれ
員会科学課長として「好ましからざる要素」か
と同様に重要な状況であったのは,彼のキャリ
ら科学アカデミーの研究所を引き離す仕事を指
ァーのいくつかの要素であった.実際に,ジニ
導していた.そして,どんな取るに足りない事
チェンコという全連邦共産党
(ボ)
党員による,
実でもその履歴に見られた,気に入らない人物
党中央宛ての,あまり読み書きがうまくない人
はみな解職され,ときとして逮捕された.こう
が書いたような密告状をきっかけに,公式にこ
した不審者のなかには,ヴァヴィーロフ自身の
れらの問題が浮上してくるのは,
もっと後,
1951
研究室のふたりを含む,ヴァヴィーロフ指導下
年半ばのことである.ジニチェンコは,1924 年,
の物理学研究所研究員も含まれていた.これに
スターリングラード州フロロヴォ市から大商人,
ついては,ジダーノフの中央委員会書記局宛に
ヴァシーリー・ペトローヴィチ・トプチエフが
書いた,
数多くの報告メモが証拠となっている.
逃亡して,
「労働者階級の犠牲のうえに蓄積した
トプチエフが簡単にではなくとも抑圧を免れる
大金を持ち去り」
,その後,モスクワで大きな仕
ことができ,このような上級のポストに任命さ
事に就いている,と書いた.一方,1950~1951
れることになった理由は何であったのかは,今
年,
『偉大な科学研究者,アカデミー会員,A.V.
のところ推察することができるだけである.彼
トプチエフについて』と題する報告が印刷され
の任命にあたって誤りがあったことを認め,予
た.そのなかでは,トプチエフは,
「未確認のう
期せぬことがおこったと認めることは,党中央
わさでは,以前の商人の息子で、…(中略)…
委員会諸機関の勤務員の仕事に直接関連した利
アカデミー会員,トプチエフ同志の履歴を点検
益にはならなかった,ということに疑いの余地
することは無駄ではない」と書かれていた.密
はない.トプチエフ自身は,党諸機関の指示を
告状の点検に関連して,スターリングラード州
無条件に実行することで,いくぶんか,科学ア
委員会書記はユーリー・ジダーノフの質問にた
カデミーにおけるこのような主要なポストで仕
いして,実際にトプチエフの父がネップ期【1921
事を継続することの保障をえる,という条件に
から 1927 年の「新経済政策」期のこと…訳者】に
置かれていた.アカデミー会員の称号と主任学
大きな小間物と織物の店を有していたこと,祖
術書記の職務はアメであり,ムチは棚上げにさ
父が大きな家畜業者であったこと,集団化期に
れた過去についての「備蓄されている」文書で
トプチエフ家の経営は国有化され,家族は「フ
あり,これらのアメとムチが彼を完全に管理可
ロロヴォ地区の境界外に」去ったことを回答し
能にし,指導部に望ましい「個人的なイニシャ
た.ユーリー・ジダーノフの組織局事務室への
ティヴ」を発揮するようにさせたのである.
説明資料には,
アレクサンドル・トプチエフは,
もちろん,総裁と対立するようなことはしよ
事実,商人の息子で,入党のときに彼はそれを
うとはしなかったが,科学の客観的な利害がこ
隠したので,1933 年 11 月にモスクワ化学技術
の学術書記のなかで一位を占めることはなかっ
専門学校の党組織粛清委員会によって党から追
た.日記からうかがえる,ヴァヴィーロフの「書
放されたが,エメリヤン・ヤロスラフスキーを
記たち」
の活動にたいする態度はすでに述べた.
長とする中央粛清委員会の決定で,1934 年 5 月
アカデミック・ソサエティのなかでは,党機構
に復党していることが述べられていた;
「1922
の側からの厳しい圧力にもかかわらず,書記局
~6 年に小間物店を所有していた父親に関する
の活動は屈することのない反発を生み出した.
報告を,トプチエフ同志はモスクワ市の全連邦
ヴァヴィーロフの死後,スターリン宛の書簡の
共産党(ボ)キエフ地区にあった入党申請書で
なかでアカデミー会員イヴァン・アルトボレフ
は明示していた.これにより,問題の検討を終
スキーは,
「科学の分野のひとりであり,同時に
11
えることができると思料する」 .
イデオロギーの分野の人間であると自認してい
42
る,幹部会主任学術書記 A.V. トプチエフの仕
5. РГАСПИ. Протокол П.Б. от 3.IX.47.
事のスタイルは,アカデミーの指導部にも,彼
6. Академия наук в решениях Политбюро ЦК
に従う学術書記たちによっても理解されてい
РКП(б)–ВКП(б)–КПСС.
る」と書いた.アカデミー会員,V. S. クレビャ
сс.401,402.
ーキン【名,父称不詳・訳者】も同じ宛先の書簡
7. Там же. С. 406.
のなかで,
「アカデミー会員たちはアカデミーの
8. Там же. С. 406–407.
科学活動,組織活動の本質的な問題の決定にま
9. Там же. С. 407.
すます参加するのを避けるようになっていま
10. Там жен. С. 421.
12
す」と書いた .
М.:
РОССПЭН,
11. РГАСПИ. Ф. 17. Оп. 113. Д. 168. С. 134–136.
スターリンの死後,
すでに 1954 年になってい
12. АРАН. Ф. 411. Оп. 3. Д. 245.
たが,学術書記局は廃止されたことを銘記すべ
13. Несмеянов. Указ. соч., с.175.
きであろう.スターリン期の偏執狂的な「要員」
にたいする不信感は一定程度党機関によって維
持されてはいたが,その度合いは低下していっ
た.いくつかの集団を自分の活動スタイルに引
き込む必要のあったトプチエフは主任学術書記
の職務を続けた.1958 年,新しい科学アカデミ
ー総裁,アレクサンドル・ネスメヤーノフの支
持をえて,
彼は科学アカデミー副総裁に選ばれ,
1962 年に 55 歳で亡くなるまでその職に留まっ
た.その回想によれば,ネスメヤーノフにはト
プチエフにたいする信頼関係があったのである.
彼はトプチエフをもっとも近しい補佐,
「右腕」
と見込んでいた 13.アカデミーにおける実権は
次第に幹部会と総裁に戻ってきたが,彼らは科
学研究の主要な問題すべてにわたって権力に完
全な忠誠をもつことにとくに疑いをもつ動機を
もたなかった.
1. Кривоносов Ю.И. С.И.Вавилов – старые нападки и
новые документы // Исследования по истории физики и
механики. 2001. М.: Наука. С.62–81.
2. См. Кривоносов Ю.И. Ученый секретариат Академии
наук как механизм тотального контроля (1949–1953 гг.)
// Институт истории естествознания и техники.
Годичная научная конференция. 2011 / Отв. ред.
Ю.М.Батурин. М.: Янус-К, 2011. С. 212–214.
3. Несмеянов А.Н. На качелях XX века. М.: Наука, 1999.
c.141.
4. РГАСПИ. Ф. 17. Оп. 3. Д. 1066. Протокол П.Б. от
8.VII.47.
43
2000.
年 4 月にはレーニン名称全連邦農業科学アカデ
Ⅴ.
ミー総裁の地位を追われるまでになった 3.
ルィセンコ覇権に抗して―ソ連邦科学アカデ
ミー・シベリア支部細胞学=遺伝学研究所の
設立をめぐって--
他方,深刻な農業危機に直面したフルシチョ
フは,安上がりな農業生産の向上策を次々と提
案していたルィセンコの農学に期待し,1957 年
春にはルィセンコ支持を鮮明にし,その後権力
市川 浩
の側からの科学への介入が続くことになった
(後述)
.その最たるものが,1959 年 6 月 29 日
ソ連邦共産党中央委員会総会におけるフルシチ
はじめに
植物を一定期間低温にさらすことでその開花
ョフによる,ルィセンコの最大の反対者であっ
時期を変化させる春化処理(ヤロヴィザーツィ
た遺伝学者ニコライ・ドゥビーニン(Николай
ヤ:яровизация)の成功をもって,遺伝的性質が
Петрович Дубинин : 1907-1998)にたいする名指
環境操作によって変化するものと見なし,メン
し批判であった 4.
デル遺伝学を否定したトロフィム・ルィセンコ
しかし,そのドゥビーニンを長とするソ連邦
(Трофим Денисович Лысенко : 1898-1976)の学説
科学アカデミー・シベリア支部・細胞学=遺伝学
はスターリン政権公認の学説となり,それに反
研究所は,ルィセンコがふたたび政権の支持を
する立場をとった科学者はパージされ,ルィセ
えた 1957 年に設立されている.しかも,後述す
ンコとその支持者たちの覇権は,庇護者ニキー
るように,その規模はたいへん大きく,ルィセ
タ・フルシチョフ(Никита Сергеевич Хрущёв:
ンコ派はこの研究所の活動にしばしば妨害を試
1894-1971:1953-1964,ソ連邦共産党中央委員会
みるが,その拡充・発展は止まらなかった.
なぜ,この研究所の設立はルィセンコの覇権
第一書記,1958-1964,ソ連邦首相)が失脚した
と両立しえたのであろうか。ソィフェルは“フ
翌 1965 年まで四半世紀ほど続いた.
しかし,その間,第 2 次世界大戦直後の一時
ルシチョフ時代の複雑さ”にその要因をもとめ
期,および 1950 年代の半ば,この覇権が大きく
ている 5.すなわち,フルシチョフ時代,権力
揺らいだ時期があった 1.2 回目の危機は,言う
はスターリン時代に引続きしばしば科学に介入
までもなく,スターリンの死と第一副首相・兼・
したが,スターリン批判を経た段階でもはや過
内相ラブレンチー・ベリヤ(Лаврентий Павлович
去への逆戻りはありえないと考え,科学者はみ
Берия: 1899-1953)逮捕の後,ソ連邦のインテリ
な安心して多様な方向性に向かっていった,と
ゲンツィアを包み込んだ一種の解放感が背景と
いう.
なっていることに間違いはなかろう 2.ルィセ
1950-60 年代に著しく進展した“サイバネテ
ンコ覇権の確立・展開・終焉に関する詳細・大
ィクス”化を科学者による社会革新運動ととら
部な研究を発表したヴァレリー・ソィフェル
え,ソヴィエト科学史研究にたいする新鮮なア
(Валерий Николаевич Сойфер: 1936-)は,こ
プローチを提示し,世界的に注目されたスラヴ
の時期のルィセンコ派凋落の直接の原因につい
ァ・ゲローヴィッチ(Slava Gerovitch: 1963-)は,
て,
戦後新たにルィセンコ自身が打ち出した
“有
ふたりの生物学を志望する娘をもった数学者,
機-鉱物複合体”説,すなわち,微生物が植物
アレクセイ・リャプーノフ(Алексей Андреевич
による鉱物性栄養の吸収を媒介しているとする
Ляпунов : 1911-1973)の役割に注目する.リャプ
仮説とそれにもとづく“有機-鉱物複合”肥料
ーノフはドゥビーニンなどの生物学者を招き,
の推奨が,1954 年の追試における惨憺たる結果
娘のために家庭内学習サークルを開いているう
によって否定されたことにあるとした.これが
ちに,生物学の正常化,すなわちルィセンコ派
ため,ルィセンコの権威は著しく低下し,1956
による“真理の独占”を打破することがソヴィ
44
エト科学全体の課題であると確信し,反ルィセ
立・強化の同時併存の要因に迫ってみたい.
ンコ運動に立ち上がる.その成果のひとつが,
戦後,ソ連邦科学アカデミー幹部会の会議の
最終的には 297 名の科学者の連署をもって党中
場において遺伝学,あるいはより広く生物学が
央委員会幹部会宛に生物学正常化を訴えた,い
議論の焦点となったのは,旺盛に進められた核
6
わゆる「300 人の手紙」であった .ゲローヴ
開発に伴い,
「放射線の生体におよぼす影響」が
ィッチは,こうした幅広い科学者の生物学正常
科学研究の重要課題となったことに関連してい
化をもとめる“社会運動”が底流にあって,ド
る.以下では,まずこの点を確認し,当該研究
ゥビーニンを長とする研究所の設立・拡大をは
所の設立の経緯,続いて,ルィセンコ派の妨害
じめとする事態の積極的な転換を準備したと考
とその帰着点について検討してゆきたい 9.
えている.
Ⅰ.「放射線の生体におよぼす影響」研究
こうした研究は,ジョレス・メドヴェージェ
フ(Жорес Александрович Медведев: 1925- )の
ソ連邦は1949 年8 月29 日のその初めての原
衝撃的な著作『ルィセンコ学説の興亡』(1969
子爆弾 РДС[エル・デー・エス]-1 の爆破実験成
年) 7 以来,すっかり定着してしまったかのよう
功から,1953 年 8 月 12 日,初の水素(熱核)
に思えたソヴィエト科学観,すなわち,ソヴィ
爆弾 РДС-6 の実験成功まで,きわめてわずか
エト科学を全体主義国家のもとにおける党・国
な期間に核兵器開発に成功した.その後,ソ連
家統制の犠牲者として描く見方にたいして,ソ
邦は一方でアメリカの核戦力に対抗して大量の
連邦解体後新たに公開された文書記録を資料的
核兵器の製造・蓄積をすすめるとともに,他方
基礎としつつ,科学者がときとして事態の転換
で対米プロパガンダの性格を持つ“原子力平和
をもたらしえた点に注目し,その主体的な側面
利用”キャンペーン 10 を展開し,国内外の世論
を重視する,新しいソヴィエト科学史の見方
8
形成をめざすことになる.
こうした路線の上に,
に沿うものであり,高い説得力をもっている.
1955 年 7 月 1~5 日にソ連邦科学アカデミーは
しかしながら,ソ連邦科学アカデミー・シベ
大規模な学術会議=「原子力の平和利用セッシ
リア支部・細胞学=遺伝学研究所は,その名のと
ョン」を開催し、5 巻からなる報告書を刊行し
おり,ソ連邦科学アカデミーという公的機関に
た 11.
して,高度な自治を確保していた機関によって
ここで注目されるのが,この「セッション」
設立・拡充されたものであり,その運営と活動
において,生物学の分科会が特に設置され,生
は直接には,モスクワの科学アカデミー本体に
体にたいする放射線の作用を中心とする研究結
たいして相対的な独立性の高かったソ連邦科学
果が数多く報告されたことである.分科会の冒
アカデミーのシベリア支部によって管理されて
頭,高名な生理学者で科学アカデミー生物学部
いた.このことを考慮に入れたとき,この研究
に多大の影響を有していたレオン・オルベリ
所の設立・拡充について,科学アカデミーのな
「平
(Леон Абгарович Орбели: 1882-1958)は,
かでどのように議論されてきたのかをまず検討
和目的またはその他の目的で原子エネルギーの
する必要があるのではないであろうか.本稿は
研究と利用が行われていることには関わりなく,
こうした制度論上の視点から,ソ連邦科学アカ
このエネルギーは人間および生体に影響を与え
デミーの最高議決機関である総会の常設機関と
るのである」12 と述べ,核時代における放射線
して活動の基本的な方向性を決めていた幹部会
の生物学的研究の重要性を指摘した.
(Президиум)の議事録・速記録,およびソ連邦
この「セッション」の直後の 8 月 8~20 日,
科学アカデミー・シベリア支部の諸資料から,
ジュネーヴで開催された「第 1 回・原子力平和
この問題,すなわち,ルィセンコ覇権の復活と
利用国際会議」にソ連邦は大規模な代表団を派
反ルィセンコ派生物学の新たな研究拠点の設
遣した.この会議において,ソ連邦代表団は,
45
その前年の1954 年6 月27 日に運転を開始した
れています」と述べている 16. さらに,電子
世界最初の原子力発電所=オブニンスク原子力
顕微鏡の利用でも大きな立遅れがあった.1957
発電所の“成果”をしめし,参列者を驚嘆せし
年 12 月 6 日の幹部会では,
「基本的な生物学的
めたものの,自分たちの立遅れを自覚すること
諸現象の構造的・物理=化学的基礎」を解明する
にもなった.帰国後,9 月 30 日に開催された科
諸研究の強化策が審議・決定されたが,その報
学アカデミー幹部会で彼らはジュネーヴでの見
告にたったグレブ・フランク(Глеб Михайлович
聞の結果を報告するなかで,自分たちの研究が
Франк:1904-1976,生物物理学者.ノーベル物理
「とても質の高い科学者がとても小さいグルー
学賞受賞者のイリヤ- Илья,1908-1990 -の兄)
プによって(冶金学者アレクサンドル・サマーリ
は,
「わたしたちは,生物の組織の分子構造を分
ン-Александр Михайлович Самарин: 1902-1970-
析する研究の広範な戦線で立ち遅れています.
」成し遂げたもので,英米の“ビッグ・
の発言)
すでに述べたように,世界の諸雑誌には電子顕
サイエンス”に遙かに及ばないものであること
微鏡の分野で,およそ 1.000 件の研究が発表さ
を知らされたとしている 13.翌年,6 月 15 日と
れているのに,
われわれはまだ 10 件にも達して
22 日,
2 回の幹部会の会議で,
1956-1960 年,
いません」と述べている 17.
5 年間の科学アカデミー・物理学=数学部の包括
この年の秋,科学アカデミーは総裁選挙の時
的で大規模な原子力研究計画が審議され,承認
期を迎えたが,そのために 10 月 10 日招集され
された.同時に,一連の研究所の増員・資金増
た物理学=数学部総会で,5 名の高名な物理学者,
大措置が決定されたが,その一環として生物物
すなわち,イーゴリ・タム(Игорь Евгенньевич
理学研究所に放射線遺伝学研究室を設置するこ
Тамм : 1895-1971 : 1958 年,ノーベル物理学賞受
14
とも決定された .
賞)
,ピョートル・カピッツァ(Пётр Леонидович
Капица : 1894-1984 :1978 年ノーベル物理学賞受
ビキニ事件以降、放射線の生物への影響問題
15
が国際政治上の焦点となった が、ルイセンコ
賞), レフ・アルツィモーヴィッチ (Лев
覇権下のソ連では、この分野の研究は立ち遅れ
Андреевич Арцимович : 1909-1973),グリゴリ
ていた.そもそも,このような研究のための放
ー ・ ラ ン ズ ベ ル グ ( Григорий Самуилович
射性同位体元素利用の条件が備わっていなかっ
,およびミハイル・レオン
Ландсберг : 1890-1957)
た.1957 年 9 月 9-20 日にパリで開催された「科
トヴィチ(Михайл Александрович Леонтович :
学研究への放射性同位体元素応用に関する国際
1903-1981)が共同である提案をおこなった.彼
会議」について,11 月 29 日の幹部会の席
らは,ドゥビーニンを長とする新しい遺伝学研
上,報告にたった,科学アカデミー主任
究所)がいまだに創設されていないこと,現職の
学術書記,アレクサンドル・トプチエフ
科学アカデミー総裁で,この時点で唯一の総裁
(Александр Васильевич Топчиев : 1907-1962:
候補だったアレクサンドル・ネスメヤーノフ
1949~1959,科学アカデミー主任学術書記.その
(Александр Николаевич Несмеянов : 1899-1980 :
後副総裁) は,「国産の放射線測定器,放
1951-1961, 科学アカデミー総裁)が生物科学の
射線量計,および電子物理的機器はその
状況に根本的な変化をもたらしていないこと,
品種と品質の点で,また,たびたび,技
などを理由に,ネスメヤーノフが年次報告と綱
術的性能の点で,同位体と核放射線の利
領的な方向性をしめした演説をおこなう翌年 2
用を伴う研究にふさわしい水準に達して
月の年次総会まで総裁選挙を延期すべきだと提
いません.同位体や核放射線を扱う労働
案したのである.この提案は幹部会の段階で否
者のための防護設備や防護服がないため
決された 18 が,核軍拡の激化と分子生物学の爆
に,いろいろな省や官庁の多くの研究室
発的な発展(後述)を背景に放射線生物学の研
は,現在,国家衛生監督局により閉鎖さ
究が重要性をますます高める状況において遅々
46
としてすすまないその研究基盤整備にたいする
1958 年5 月の段階でもまだ始動していなかった.
物理学者の焦燥を物語るできごとでもあった.
その直接の原因は必要な面積がまだ確保されて
物理学者のこうした異議申し立てが功を奏し
いなかったことにあったが,5 月 16 日に開催さ
たのか,翌 1957 年 3 月 29 日,科学アカデミー
[生物
れた幹部会の席上,エンゲリガルドは,
「
幹部会は,放射線生物学(とりわけ放射線遺伝
科学-引用者]部の諸機関における作業面積に関
学)
,生物物理学の諸問題,およびアイソトープ
する尋常でない状況は,生物学の遅れている諸
の化学・物理学研究の飛躍的発展を目的に,一
分野の研究強化を阻害し,諸機関の活動の生産
挙に放射線細胞学,一般生物物理学,アイソト
性を低めています.とくに放射線遺伝学研究室
ープ研究の 3 カ所の研究所を新設する決定をお
と蠕虫学研究室の作業面積の状況は耐え難いも
19
こなう .審議の途上,カピッツァは「わたし
のです.アイソトープを受け入れる特別な面積
はまったく遠慮せずに率直に言わなければなら
が生物科学部の諸研究所に欠けているがために,
ないと思います.将来の戦争は,それが実際に
その研究はふさわしい条件ではおこなわれず,
起ころうと起こるまいと,ほかの誰でもない,
一再ならず地域の衛生監督部局に禁止されてい
生物学者が勝敗を決めるのです.
今,
この問題,
ます」と報告している 22.審議では,その原因
つまり,核戦争の帰結がどんなものになるかと
として生物科学部の意志決定の問題点が浮かび
いう問題を決めるのは物理学者ではない,生物
上がった.V.S. ルシーノヴァ(В.С. Русинова:
学者です.わたしたちはここにびくびくしなが
名・父称,伝記的詳細不詳)は「生物科学部ビュ
ら残っていました.
まったくびくびくしていた.
ーローのメンバーがたいへんな数のオブリゲー
これらの問題を他の問題と混同してはなりませ
ションを負っていて,職務が過剰になっている
ん。わたしたちにはこのような遺伝学研究所,
ことが生物科学部の活動に反映されている.通
放射線遺伝学研究所が必要です.…(中略)…
常,ビューローの会議にはその構成員の半分,
どんな方法を使ってもこのような研究所をつく
つまり 5,6 人,ないしそれ以下の人しか来ませ
らなければならない.これがわたしたちの今日
ん.生物科学部の科学組織活動の欠陥は一連の
的課題です.わたしたちはこの課題をできるだ
生物学の最重要問題で最近大きな議論がなされ
け早く解決しなければなりません.今までのよ
ていないことにあります」と述べたが,副総裁
20
うにぐずぐずしていてはなりません」 とアカ
コンスタンチン・オストロヴィチャーノフ
デミー幹部会員たちに熱く訴えかけた.
( Константин
Васильевич
Островитянов :
早くも 4 月 26 日には生化学者ヴラジーミル・
1892-1969. 経済学者.1953-1962, 科学アカデミ
エ ン ゲ リ ガ ル ド ( Владимир Александрович
ー副総裁)は「広範に物理学的・化学的な方法
Энгельгардт: 1894-1984)を所長職務代行として,
を応用しなければならない新しい方向性にたい
ソ連邦科学アカデミー・放射線・物理学=化学
して,生物学の諸分野に象徴的に反映されてい
生物学研究所(Институт радиационной и физико-
るような,ある種の反対がある,ということで
химической биологии АН СССР:
「放射線」と「物
す」と,ルィセンコ派の妨害を示唆している 23.
理学=化学」がともに形容詞として「生物学」にか
その間,1958 年 1 月 31 日には,この分野の
かっている-筆者)が設立された.設立にあたっ
抜本的強化を目指して,幹部会に“放射線生物
ては,政府の原子力工業総管理部(Главного
学委員会”が設けられることとなった.同委員
управления атомной промышленности)が計画に
会は,アナトリー・アレクサンドロフ(Анатолий
加わり,研究所の建物,敷地の選定・準備も同
Петрович Александров:1903-1994,原子核物理学
総管理部と科学アカデミーが共同でこれにあた
,イーゴ
者.1975-1986 年,科学アカデミー総裁)
21
った .
リ・クルチャートフ(Игорь Васильевич Курчатов :
しかしながら,この研究所は 1 年以上経った
1903-1960,
“原子力のツァーリ”とも呼ばれたソ
47
連邦原子力開発計画のリーダー)
,オルべリ,セ
二重螺旋構造を解明した論文の登場など,西側
,タム,エンゲリガル
ミョーノフ(前出,注 14)
諸国では分子生物学的研究が爆発的な勢いで進
ド,ドゥビーニン,グレブ・フランクなど 25
展しつつあった.ソ連邦の生物学者にとってこ
名の委員で構成され,科学アカデミーで実施さ
れは拱手傍観していてよい問題ではなかった.
れる“生体と遺伝への核放射線の作用”に関す
物理学的,化学的要素の強い分子生物学は「放
る一切の研究をコーディネートする権限を与え
射線の生体への影響」研究にとっても有効であ
24
られた .
ったが,彼らは,それ以上にこの段階でも“遺
伝の物質的基礎”論を激しく排斥する(これに
Ⅱ.“ニコライ・ドゥビーニンの研究所”
ついては後述)ルィセンコ派による“真理の独
1957 年 6 月 21 日の科学アカデミー幹部会で, 占”によって抑圧されていたソヴィエト生物学
ついに科学アカデミー・シベリア支部の設置が
を,西側における分子生物学の急速な発展に一
最終決定された.同時に,ドゥビーニンはシベ
挙に追いつかせるために,広範な基礎研究の課
リア支部・細胞学=遺伝学研究所の「所長・兼・
題を大規模,かつ急速にすすめる必要があると
25
組織者」という役職に任命される .これから
考えていた.ドゥビーニンにとって最初期から
できる研究所のための人選や課題設定に大きな
100 名の職員をもってスタートした研究所でも
フリー・ハンドを与えられたのである.ドゥビ
規模過小であった 28.1958 年 5 月 15~19 日に
ーニンは,幹部会の席上発言に立ち,
「今や,放
開催されたシベリア支部第 1 回総会で彼は「現
射線生物学研究所[先述の放射線・物理学=化学
状の生物学研究の組織に満足することはできな
生物学研究所のこと-引用者]の組織に関する重
いと思います」と不満を明らかにし,現状の立
要問題が提起されると同時に,放射線遺伝学の
遅れ克服のために「シベリア支部幹部会は専門
研究は大規模に発展しはじめます.そして,こ
を明確にした生物学施設の創設という課題を前
のことは未来の研究所にとって大きな意義を有
進させつつ,この原因に関する意見の交換を科
26
しています」 と述べ,自身を長とする新しい
学アカデミー・生物学部との間で行い,その結
研究所にたいする期待が放射線遺伝学の急速な
果シベリアに 10 カ所の生物学研究の機関を創
発展にあることを認めている.
設するという生物学部の布告が出されました」
この幹部会の決定を追認するために 1957 年
と,交渉の成果について述べた.ついで彼は「現
7 月 2~6 日招集された科学アカデミー総会で,
在,遺伝の問題と全体としての生物学は特別の
新たにシベリア支部長となる数学者にしてエネ
意義をもっている時代を生きています.核タン
ルギッシュな科学行政家ミハイル・ラヴレンチ
パク質というかたちで遺伝の分子的基礎が明ら
ェフ(Михаил Алексеевич Лаврентьев: 1900-1980,
かにされ,そのうえ,核酸こそ遺伝現象に何よ
1957-1975,科学アカデミー副総裁兼シベリア支部
りもまず結びついた化合物であるとみなす根拠
長)は,細胞学=遺伝学研究所は全職員 400 名,
は完全に存在しています」29 と新しい研究の方
作業面積5,000m2 におよぶ巨大研究所になるで
向性にたいする期待を表明した.
27
あろうと述べた .
生物学のほぼ全領域にたいする関心は,ドゥ
しかし,
すでにこの時点で明らかであったが,
ビーニンの研究所の構成にも現われていた.
ドゥビーニンらは,
「放射線の生体への影響」研
1958 年 12 月 12 日付の報告 30 によれば,研究
究に限らず,幅広く最新の生物学に関する基礎
所は 6 課 23 研究室から成っていた.すなわち,
研究を展開することを望んでいた.1953 年,ジ
(1)遺伝の物理的・化学的・細胞学的基礎課
ェームズ・ワトソン(James D. Watson: 1928-)と
に,1)遺伝の細胞学的基礎研究室,2)核酸・
フランシス・クリック (Francis H.C. Crick:
核タンパク質研究室,3)分光光度測定・電子
1916-2004)によるデオキシリボ核酸(DNA)の
顕微鏡研究室,4)植物細胞発生学研究室,5)
48
科学的顕微鏡撮影法研究室,
(2)一般・放射線
つづいて,10 月 8~14 日,ルィセンコの遺伝学
遺伝学課に,1)一般遺伝学研究室,2)個体群
研究所は,250 の学術機関,高等教育機関から
遺伝学研究室,3)放射線遺伝学研究室,4)細
375 名を集め,
「10 月大社会主義革命 40 周年記
胞遺伝学研究室,5)動植物倍数体研究室,6)
念・動植物・微生物の遺伝性と可変性に関する
一般遺伝学的育種法研究室,
(3)植物遺伝学・
コンファレンス」を開催した.その党中央委員
細胞学課に,1)放射線育種学・突然変異の実
会科学課にたいする報告によれば,席上,ルィ
験的発現研究室,2)ヘテロシス・交雑研究室,
センコの“副官”とも呼ぶべきニコライ・ヌー
3)植物細胞学・アポミクシス研究室,
(4)動
ジン(Николай Иванович Нуждин: 1904-1972)の
物遺伝学課に,1)動物個体遺伝学・細胞学研
発表によって,
「遺伝の染色体理論と遺伝子学説
究室,2)動物ヘテロシス・交雑研究室,3)動
は唯物論的な観点とするどく対立するものであ
物育種学の遺伝学的基礎研究室,4)動物生態
ることが明らかにされた」ということになる 34.
学的遺伝学研究室,
(5)癌遺伝学・細胞学課に,
やや時期が下り,次節で述べる党中央委員会
1)癌遺伝学研究室,2)癌細胞の細胞学研究室,
“生物学委員会”の科学アカデミー・シベリア
(6)微生物・ウィルス遺伝学・細胞学課に,1)
支部尋問のあとのことになるが,農業科学アカ
ウィルス・バクテリオファージの遺伝学・電子
デミー通信会員で全連邦植物栽培研究所所属の
細胞学研究室,2)菌の細胞遺伝学研究室,3)
I.S. シゾフ(И.С. Сизов: 名・父称,生没年不詳)
バクテリア遺伝学・細胞学研究室,である.
教授という人物が,1959 年 8 月 7 日付で「ノ
ヴォシビルスクに細胞学=遺伝学研究所は必要
か?」と題する投書を党機関紙『プラウダ』編
Ⅲ.ルィセンコ派の妨害と“ドゥビーニンの研究所”
集部に寄せた.このなかで、シゾフは「…遺伝
学・細胞学研究のこのような力の分散は合目的
(1)ルィセンコ派の妨害
ルィセンコは農業科学アカデミー総裁の地位
的であろうか.この研究を遺伝学研究所に集中
を失ったときですら,反対派牽制の目的で権力
したほうが合目的的であろう.科学アカデミ
31
への働きかけを諦めてはいなかった ,ふたた
ー・生物学部の働き手のなかには T.D.ルィセン
び権力の支持をえると,反対派への妨害を強め
コが行っている遺伝学のミチューリン的方向性
た.1957 年 4 月 19 日付の科学アカデミー総裁
が気に入らないひとが何人かいるらしく,ノヴ
ネスメヤーノフ宛書簡では,
「アイソトープと核
ォシビルスクに科学における方向性が真逆の,
放射線を応用して実施されている,もしくは実
類似したふたつ目の研究所ができた,という印
施が予定されている科学研究活動が,…(中略)
象をもつ」35 と述べ,シベリア支部・細胞学=
…なぜか遺伝学研究所[ルィセンコを所長とする
遺伝学研究所のレゾン=デートルに疑義を表明
科学アカデミー・遺伝学研究所(モスクワ)のこ
した.これを受け取った『プラウダ』編集部は
と-引用者]以外の人たちの指導のもとに置か
科学アカデミー・シベリア支部長のラヴレンチ
れている」状況を激しく非難し,
「遺伝学研究所
ェフにシゾフへの回答を依頼した.ラヴレンチ
で実施しているテーマから,架空の指導者たち
ェフは,9 月 25 日付でシゾフへの反論をシゾフ
[こうした表現で,ルィセンコは自身の研究所以
本人にたいして送付した.彼は,まず,シベリ
外の“指導者”の実在を否定しているのである-
ア 支部 ( Сибирское отделение ) が他の 支部
32
引用者]を外す指示を出してほしい」 と訴え
(филиал)と違い,研究課題を“地域的課題”
た.ルィセンコによれば,
「遺伝学研究所のなか
に限定していないことを伝えたのち,
「研究所の
では放射線作用の遺伝学に関する研究はみごと
構成とその所長の最終的決定は関連する科学ア
に組織されており,それらはミチューリン生物
カデミー諸部,総会の推薦によって採択され,
33
学の立場からおこなわれている」 のであった.
49
政府によって確認されています.生物学とそれ
に近接する科学の専門家は細胞学=遺伝学研究
ューリン生物学”だけで充分,という意味-引用
所の設立を,その他の研究所の設立と同様,合
者]と公式にはみなしているし,この研究所と
目的的であるとみなしています」と手続き論で
その周辺に存在するアプローチを原理的に共有
36
批判をかわした .
することはありません.…(中略)… 生物学
をこのような,ありえるべき単一の方向性[ド
ゥビーニンらの分子生物学的な遺伝学-引用者]
(2)党中央委員会“生物学委員会”
当然ながら,ルィセンコはシベリアに新設さ
に独占的に委ねることは正しくありません.科
れた“ドゥビーニンの研究所”の著しい拡充ぶ
学のさらなる発展にとって充分に展望があると
りを看過できなかった.
彼はフルシチョフに
「シ
思ってはなりません(л.3)」と述べた.ここで奇
グナルを送り」
,
権力のより一層の介入をもとめ
妙なことは,しばしば生物学,農学の分野で“真
た.1959 年 1 月,党中央委員会農業課科学セ
理の独占”者になったと評されるルィセンコの
クター主任であった A.G. ウテーヒン(А.Г.
側から,自身の“真理の独占”を棚に上げなが
, ルィセンコ派
Утехин: 名・父称,生没年不詳)
らも,科学研究における“独占の打破”が訴え
で1960-62年にはソ連邦農業相をつとめるミハ
かけられたことであろう.ラヴレンチェフはす
イル・オリシャンスキー(Михаил Александрович
ばやく,
「つまり,科学のもうひとつのアプロー
Ольшанский: 1908-1988) ,それに先述のヌージン
チを強化する,ということか(л.3)」と問い返す.
などをメンバーとする党中央委員会“生物学委
オリシャンスキーはただちに「そうだ(л.3)」と
員会” が組織され,科学アカデミー・シベリア
返答する.ラヴレンチェフのさらなる回答は一
支部の指導部を尋問する目的でノヴォシビルス
種のマヌーヴァーである;
「問題はすべて,狭か
クの学術研究都市,アカデムゴロドークに派遣
ったとういこと,つまり,今も必要な面積が欠
された.この“委員会”には,科学アカデミー・
けているということにあります.他のアプロー
シベリア支部幹部会ビューロー[一般にビュー
チをとる人々はここにやって来てすぐに仕事に
ローとは,常設機関中の主要メンバーによる公
かかれるよう,わたしたちを援助することが必
式・非公式の打ち合わせ機関を言う-筆者]のメ
.ゴルバチョフが「あなたがたが推
要です(л.4)」
ンバー,ラヴレンチェフ,チモフェイ・ゴルバ
薦した博士たちはみな採用しました(л.4)」と援
チョフ(Тимофей Фёдорович Горбачёв:1900-1973,
護した.
,
鉱山学者.1957-1972,シベリア支部副支部長)
ヌージンが「2つの方向性は存在します.わ
ア ン ド レ イ ・ ト ロ フ ィ ム ー ク ( Андрей
たしはその両方にシンパシティーをもっていま
,そし
Алексеевич Трофимук: 1911-1999,地学者)
す(л.5)」と述べると,すかさずトロフィムーク
てドゥビーニン本人らが対応した.以下,しば
が「しかし,両者にはちがったレッテルが貼ら
らく,科学アカデミー・シベリア支部学術文書
れています(л.5)」と反論した.シベリア支部の
37
館に保管されている当日の速記録 を見てみよ
側は,ルィセンコ側が持ち出した科学の“プル
う.
ーラリズム”に強いわだかまりをみせる.ラヴ
本題にはいってすぐ,
“委員会”側のオリシャ
レンチェフは,
「ノヴォシビルスクに科学のセン
ンスキーが「委員会は,遺伝学的方向性は[農
ターを設立するという問題は,…(中略)… 多
業の生産力向上には-引用者]成果が少ないこと,
くの部分では,有害きわまりない企てとみなさ
および,若い人たちのことを考えると,彼らに
れました.ここに来ようとした若者は,そうす
生物学的諸問題の解決に 2 つのアプローチ[ル
ることを思い留まらせられました.わたしたち
ィセンコ派の“ミチューリン生物学”とドゥビー
は要員確保のためたいへん苦労しました.率直
ニンらの分子生物学的な遺伝学-引用者]がある
に言いましょう.わたしが A.N.ネスメヤーノフ
“ミチ
と詳しく知らせることには成果が少ない[
からニキータ・セルゲィヴィッチ[フルシチョ
50
フのこと-引用者]との会話について聞いたとき
砂糖大根の,砂糖の生産を増やす ―― 生物学
のことを….彼は『あなたがたのところには誰
者はこの問題に正しくアプローチしているでし
も行かないでしょう』と言いました.この会話
ょうか.他の方法でもできるのではないでしょ
には A.V.トプチエフもいました.この会話はわ
うか(лл.10, 11)」と方法の多様性を主張する.オ
たしたちをたいへん苦しめました.こうした会
リシャンスキーは「観念論によってなされたこ
話を使って,あなたがたはわたしたちを大きな
とのすべてがばかげているとは言えません.し
イボをいじるように攻撃しました(л.6)」と,権
かし,科学は無条件に唯物論的な方法の基礎の
力を傘にきたルィセンコ派のやりかたにたいす
うえに実り多く発達するでしょう(л.11)」と切り
るルサンチマンを吐露した.
返すが,さらなるラヴレンチェフの指摘に,
「利
“委員会”側のパーヴェル・ゲンケリ(Павел
益をもたらす方法ならどんなものも否定するわ
Александрович Генкель: 生没年不詳.植物生理学
けではありません(л.11)」と回答し,以降は沈黙
者)は,自分たちの要望を次のようにまとめた;
した.
「研究所長を解任する用意は誰にもありません.
ドゥビーニンがまとめにかかる;
「わたしはア
彼は働かなければなりません.採択することは
カデミー会員オリシャンスキーの見方,つまり
われわれの仕事ではありません.わたしたちは
研究所を閉鎖せよという意見をウテーヒン同志
方向性を詳しく知らなければなりませんでした.
が支持していないことを嬉しく思います.つま
この方向性はミチューリンのやり方に反するも
り,わたしたちの仕事は続けられなければなり
のです.112 名(一部はモスクワとハリコフに
ません.ご意見はすべて考慮に入れましょう
いるが)が働いていますが,このなかにはミチ
(л.12)」
.ラヴレンチェフが続けて,
「第 26 回党
ューリン的方向に立つ戦闘的な同志はいません
大会のあと、わたしたちはすべてのテーマ別計
38
.…(中略)… ニコライ・ペトローヴィッ
画を見直します(л.12)」と約束し,ウテーヒンが
チ[ドゥビーニンのこと-引用者]がみずからの
「研究所は重要なテーマを 4~5 もっていなけれ
力をひとつの方向にだけ振り向けるのは,まっ
ばなりません.ひとつは所長,もうひとつは副
たくではないにしても,良くは響きません
所長,
のこりは課長たちに分け,
成果を観察し,
(л.10)」
.ウテーヒンが続けて,
「わたしたちは,
これらの仕事が日常的なコントロールのもとに
細胞学=遺伝学研究所の職員に生産に必要な成
置かれるようにしなければなりません(л.12)」と
果をより早く入手するよう呼びかけています
ふたたび科学研究の“プルーラリズム”を強調
(л.10)」とつけ加えた.科学研究における“プル
して,協議を終えている.
ーラリズム”
,すなわち,ルィセンコ派にもシベ
おわりに
リア支部の細胞学=遺伝学研究所にしかるべき
活躍の場を設け,
“ミチューリン農法”に学び農
ソィフェル 39 もゲローヴィッチ 40 もルィセン
業生産性の向上策を図るのであれば,ドゥビー
コ覇権の終焉に果たした指導的な物理学者の役
ニンの所長職からの解任などは要求しない,と
割には留意しているが,彼らの奮闘の動機につ
いうのである.
いては,主としてソヴィエト科学の“脱スター
しかし,
オリシャンスキーはより過激である.
リン化”
にこれをもとめているように思われる.
彼は「わたしは研究所の方向性を,そこに起因
しかしながら,1950 年代半ば,相対立する超
するすべての結果ともども,方法論的に誤った
大国が水爆を含む核兵器を大量に保有している
立場に立つものだと言ったのです(л.10)」と,研
状況下,核戦争勃発の危険性が著しく高まって
究所の方法論的な方向性の転換を要求した.こ
いた状況において,
「放射線の生体への影響」研
れにたいし,ラヴレンチェフは「
『方法論的に誤
究は,両超大国にとって国家的意義をもつ研究
った』とはどういう意味ですか.…(中略)…
課題であったのであり,軍事目的,平和目的い
51
ずれにせよ,大なり小なり原子力開発計画に関
ていたことも考慮に入れなければならない 44.
与した物理学者にとって,この課題の緊急性は
こうした視点に立って見るとき,最新の分子生
自明のことであったと見るべきであろう.
物学の成果を基礎とする「放射線の生体への影
放射線研究は急速にすすめられ,
1959 年にな
響」研究は,同時代人には自明の緊急性をもっ
ると,そうした研究の成果のひとつとして,原
た課題であった.
こうした強力な流れの前には,
子力関係の書籍出版を扱うアトムイズダード社
ルィセンコ派による生物学分野における“真理
から,
『核兵器実験の危険性に関するソヴィエト
の独占”
など,
些細なことであったに違いない.
科学者の意見』
と題する研究論集が出版された.
ルィセンコ派の側にあってもそうした背景は充
序文は,クルチャートフが寄せ,ドゥビーニン
分に理解できたがために,
“ドゥビーニンの研究
が「放射線と人間の遺伝」という論文を,アン
所”の閉鎖やドゥビーニンの解任までは要求で
ドレイ・サハロフ(Андрей Дмитриевич Сахаров :
きず,せいぜい科学研究の“プルーラリズム”
1921-1989 : 1975 年,ノーベル平和賞受賞) が「核
を楯に,生物学の新しい方向性と自分たちの学
爆発による放射性炭素と閾値外の生物学的影
派との「共存」を訴えるしかなかったのであろ
41
響」という論文を寄せている .
う。
1955 年以降のソ連邦科学アカデミー幹部会
その後の経過について述べておきたい.ルィ
の議事録・速記録を追うと,当時のソ連邦にお
センコがフルシチョフの寵をえることに成功し
ける指導的な科学者がこうした放射線研究をど
たあと,1963 年 2 月 1 日,科学アカデミー幹
42
れほど重要視していたのかがわかる .
部会と生物科学部による拡大会議が,その直前
しかし,同時に 1950 年代半ば・後半は分子生
のソ連邦共産党中央委員会とソ連邦閣僚会議の
物学の爆発的な発展が世界的に見られた時期で
合同決定「生物学の一層の発展とその実践との
もある.ドゥビーニンをはじめとする生物学者
結びつきの強化に関する諸方策について」と題
たちは,放射線研究の枠を超えて,より一層広
する布告を受けて開催された.その決定のなか
範な領域での基礎研究を渇望する.こうして誕
では生物学の“ミチューリン的方向性”が再度
生した“ドゥビーニンの研究所”
,すなわち,ソ
高く評価され,全部で 135 件掲げられた研究課
連邦科学アカデミー・シベリア支部細胞学=遺
題の多くがミチューリン農法にもとづくもので
伝学研究所は,放射線遺伝学・細胞学をひとつ
あったが,うち 6 件は直接ルィセンコ本人,な
の要素としつつ,それに限定されない幅広いテ
いしそのごく近しいグループの研究者によって
ーマを扱う巨大な研究機関となった.その後,
担われることになった 45.4 時間に及んだ当日
分子生物学はソ連邦共産党第 22 回大会で採択
の会議では,さまざまな研究機関の代表が次々
された新しい綱領に位置づけられ,重視される
に登壇し,
“ミチューリン的方向性”にもとづく
ようになる.この大会を受けて 1962 年 5 月 11
成果について報告していった 46.科学アカデミ
日に開催された科学アカデミー幹部会ではエン
ー総裁ムスチスラフ・ケルドゥィッシュ
ゲリガルドを長に 68 名のメンバーからなる学
(Мстислав Всеволодович Келдыш : 1911-1978:
術会議が設置され,強化策が立てられることと
「ここで進められた
1961-1975,総裁)が結語で,
43
なった .
討議は,わたしたちが利用する生きた世界の対
ソィフェルもメドヴェージェフも,苦悩に満
象が多様であるだけ,生きた世界の利用法や研
ちたソヴィエト農業の史的展開とルィセンコ覇
究へのアプローチもそれだけ多様だということ
権の問題とを関連づけて検討している.もちろ
を,鮮やかに示したと思います」47 と科学研究
ん,そうした見方に間違いはないが,戦後のソ
のプルーラリズムを強調したことだけが,ルィ
連邦は核時代の冷戦を闘う当事者であり,その
センコ覇権を憂う科学者の精一杯の抵抗であっ
科学者もありうべき核戦争への対応を求められ
たのであろう.おしゃべりなカピッツァも 4 時
52
間沈黙を守った.ドゥビーニンも発言していな
4.
Там же, стр.860.
い.主要な登場人物でもうひとり沈黙を守った
5.
Там же, стр.848.
人物がいた.トロフィム・ルィセンコその人で
6.
Slava
Gerovitch,
From
Newspeark
to
ある.ルィセンコ覇権の終焉は順調に進んだわ
Cyberspeark: A History of Soviet Cybernetics.
けではなかった.
The MIT Press, 2002. pp.183,184:なお,
「300
人の手紙(“Письмо трёхсот”)
」本文は, Под
ред. А.Ф. Киселёва и Э. М. Щагина,
1.
1946 年 5 月 30 日,科学アカデミーはその幹部
«Хрестоматия по отечественной истории
会で遺伝学研究所(所長はルィセンコ)とは別
(1946-1995)»(Изд-во
に,
「細胞遺伝学研究所」を新たに設立する案を
сс.458-460 に見ることができる.
策定していた.また,1947 年 11 月にはモスク
7.
Zhores A. Medvedev, The Rise and Fall of T.D.
Lysenko, Colombia University Press, 1969.邦訳
学部で,
“ルィセンコ学説”に関する批判的検討
がある(メドヴェジェフ著,金光不二夫訳
会が開催された.しかし,こうした流れは,ル
『ルイセンコ学説の興亡』河出書房新社,
ィセンコがスターリンを味方に引き入れること
1971 年)
.
8.
ソ連邦における科学者の権力との関係は、
1948 年夏には,ルィセンコの生物学・農学分野
従来しばしば指摘されてきたような単純な
全般にわたる君臨をもたらした,悪名高い V.I.
二項対立的図式に置換できるようなもので
レーニン名称全連邦農業科学アカデミー・8 月総
はなく,複雑な諸要因が機能していたと考
会を迎える.この間の経緯については,拙著『冷
えられるようになってきた.たとえば,近
戦と科学技術―旧ソ連邦 1945-1955 年―』
(ミ
年の旧ソ連邦史研究の全般的特徴は,ノー
ネルヴァ書房 2007 年)の 141,142 ページに記
ヴ(A. ノーヴ/邦訳『ソ連の経済システ
しておいた.
ム』晃洋書房 1986 年)が先駆的に提起し
旧ソ連邦における代表的な文芸誌『新世界』
た“集権的多元主義”とも呼びうる旧ソ連
1953 年 12 月号に作家ヴラジーミル・ポメ
邦社会の理解が支持を集めつつあることに
ラ ン ツ ェ フ ( Владимир Михайлович
あるが,科学史の分野においても旧来の、
Померанцев : 1907-1971)の論文「文学にお
科学者(集団)と党/政府官僚との関係に
ける誠実さについて(“Об искренности в
ついてより多元主義的な解釈が有力になっ
литературе”, «Новый
мир». №12, 1953.
てきている(注 6 に掲げたゲローヴィッチ
сс.218-245.)
」が掲載され,文学的描写にお
の 労 作 の ほ か , N. Krementsov, Stalinist
ける過剰な類型化を批判し,よりリアルな
Science, Princeton University Press, 1997; A. B.
創造が呼びかけられた.1954 年には党の理
Kojevnikov, Stalin's Great Science: The Time
論誌『コムニスト』にも,公式主義を排し,
and Adventures of Soviet Physics. Imperial
人文・社会科学者に「創造的議論」を呼び
College Press, 2004.,などを参照のこと)
.
9.
かけた無署名論文「科学と実践(“Наука и
3.
1996.)
ワ大学で、1948 年 2 月には科学アカデミー生物
に成功するやいなや,まったく逆転してしまい,
2.
“Владос”,
ロシアにおける文書館文書は,一般に,
「フ
жизнь”, «Коммунист» №3, 1954. сс.3-13.)
」
ォンド(Фонд : Ф.:ストック)
」
、
「オーピ
が掲載され,旧ソ連の知識層の間に“雪解
シ(Опись: Оп.:目録)
」
、
「ヂェーロ(Дело:
け”の機運が広がっていく.
Д.:ファイル)
」という3層の区分に従って
В.Н. Сойфер, «Власть и наука : разгром
整理されている.本稿ではロシア科学アカ
коммунистами генетики в СССР». Изд-во.
デミー文書館(Архив Российской Академии
“ЧеРо”, 2002. сс.829-835.
наук : 以下,Архив РАН と略す)
,およびロ
53
シア科学アカデミー・シベリア支部学術文
さらに翌々年 2 月には当時人気を誇った文
書館(Научный архив Сибирского отделения
芸誌『新世界』にも原子力の平和利用や原
Российской Академии наук : 以下,НА СО
子炉をテーマとした記事(К. Гладков,
РАН と略す)
所蔵の資料を活用しているが,
“Ядерные
引用した文書館資料がこの文書館のどのフ
молодёжи»»5 1954г.сс.23 -29; И.Абрамов,
ォンド、どのオーピシ、どのヂェーロに整
“Пути развития советской техники” «Новый
理されているかをそれぞれの引用注に示し
мир»№2 1955, сс.206-217.)が組まれるよう
ておく.その際、л. ないし、лл.はシート
になった。
11.
番号を示す.
なお,
文書館資料については,
реакторы”,
«Техника
«Сессия АкадемиинаукСССР по мирному
報告作成者名,執筆者名をイタリックで示
исполбзованию
атомной
энергии.
1-5
すことはしていない.また,旧ソ連邦の科
июля1955г.» в 5 тт. Изд-во АН СССР,
学者については,わかる限り,その初出箇
Москва, 1955г.
所で名前の原綴り,生没年をしめしておい
12. Л.А. Орбели,
“Действие ионирующих
излучений на хивотный организм.” Там же,Т.
た.
10. 早くも, 1949 年 11 月 10 日,ソ連邦国連
2, стр.3 :なお,訳文は邦訳(ソヴェト科学
代表=アンドレイ・ヴィシンスキー(Андрей
アカデミー篇,産業経済研究所訳『原子力
Януарьевич Вышинский: 1883-1954)は第 4
平和利用会議報告論文集・生物学編(普及
回国連総会でソ連邦における“原子力の平
版)
』アトム社 1957 年,15 ページ)に従
和利用(この場合は原爆の平和利用)
”計画
った.この邦訳書については大阪教育大学
を 打 ち 出 し て い た ( Вовуленко В.
の鈴木善次名誉教授からご教示を受け,現
“Вступительная
物をお貸しいただいた.日本語版には茅誠
статья”
//Дж.
Аллен.
«Атомная энергия и общество». М., 1950.
司(日本学術会議会長)
,湯川秀樹のほか,
cc.5-19.)が,みずから核保有国となった旧
実際にこの会議に招かれ,列席した藤岡由
ソ連邦は国内外の世論形成を目的に,原子
夫が序文を寄せている.わが国でもこの方
力がもたらす科学・技術の燦然と輝く未来
面の研究に相当の関心が寄せられていたこ
を宣伝してゆくことになる.
1952 年 10 月
とが推察できる.鈴木先生に感謝したい.
5 日、全連邦共産党(ボ)第 19 回大会にお
13. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 201. лл. 138-140;
サマーリンの発言は л.140.
けるゲオルギー・マレンコーフ(Георгий
Максимилианович Маленков: 1902-1988)政
14. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 221. лл. 30-96, 196
治局員は,
原子力の平和利用を称揚した(ソ
この研究室の主任にはドゥビーニンが任命
ヴェト研究者協会編訳『ソヴェト同盟共産
された.なお, 翌 1957 年,ニコライ・セ
党第 19 回大会議事録』五月書房,1953 年,
ミョーノフ(Николай Николаевич Семёнов:
154 ページ)
.さらに,当時ソ連邦で一般に
1896-1986. 1956 年,ノーベル化学賞受賞)
普及していた科学啓蒙誌=『知は力』誌に
は自身が所長をつとめる科学アカデミー・
は化学博士候補セレーギンなる人物の手に
化学物理学研究所のなかに生物化学課を新
なる論説「平和目的のための原子力」が掲
設し,遺伝学者で,パージされていたヨシ
載された(А. Серегин, “Атомная энергия для
フ ・ ラ ポ ポ ル ト ( Иосиф Абрамович
мирных целей.” «Знание - сила»№3 1953г.
Рапопорт : 1912-1990)をその長に招いてい
сс.27,28.)
.翌年 5 月にはコムソモール(ヴ
る(Сойфер, Указ. соч., в примечании (3),
ェ・イー・レーニン名称共産主義青年同盟)
стр.850)
.
15. 中川保雄『
〈増補〉放射線被曝の歴史 ―ア
の機関誌(のひとつ)
、
『青年の技術』に、
54
メリカ原爆開発から福島原発事故ま
19. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 240. л. 8.
で―』
(明石書店
20. Там же, л.79.
2011 年)の 70-90
21. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 243. лл.58-60, 223.
ページを参照のこと.
22. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 277. лл.10-12.
16. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 263. л. 32.:このパ
リの国際会議には 1,171 人が参加し、
23. Там же, лл.54,94.
206 本の報告が討議されている.ここ
24. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 268. лл.124, 125.
でのソ連邦・ウクライナ・白ロシア
25. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 248. л.9.
からの報告件数は 49 本と,数の上だ
26. Там же, л.124.
けからは,フランスからの 33 本,ア
27. НА СО РАН Ф.4, Оп.1, Д.1. л.27.
メリカからの 31 本,イギリスからの
28. 1958 年初の研究所人員は 101 名,研究室面
29 本を上回っていた.なお,この国際
積は 400m2 であったが,1 年後には人員も
会議に先立ち,1957 年 4 月 4~12 日には,
面積も倍加することが計画されていた(НА
前年 8 月 2 日付のソ連邦閣僚会議指令№
СО РАН Ф.10, Оп.3, Д.6. л.172.)
.
4705 にもとづき,科学アカデミーと政府の
29. 引用は,Там же, лл.171, 172.から.
原子力利用総管理部(Главным управлением
30. НА СО РАН Ф.10, Оп.3, Д.20. лл..9,10.
по использованию атомной энергии:先述の
31. たとえば,1956 年 6 月 14 日付党中央委員
「原子力工業総管理部」と同一機関かどう
会科学課長ヴラジーミル・キリーリン
かは不明)とによって,
「放射性・非放射性
(Владимир Алексеевич Кириллин: 1913
アイソトープと放射線の国民経済と科学に
-1999)宛書簡,および 7 月 5 日付党中央委
おける応用に関する全連邦科学・技術会議」
員会書記マルク・スースロフ(Михаил
が開催され,1,016 の機関の代表 3,000 人以
Андреевич Суслов: 1902-1982)宛書簡では
上が集まり,計 444 本の発表を聞いている
科学アカデミー・生物科学部の紀要編集委
(Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 244. лл.179, 193)
.
員会の人事交替に猛烈に抗議している
しかしながら,パリにおける「科学研究へ
(Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д. 279. лл.38-40)
.
の放射性同位体元素応用に関する国際会
また,11 月 21 日の科学アカデミー・遺伝
議」の時点で実際に研究が進められて
学研究所学術会議では,『一般生物学
いたのは,高分子の重合,グラファ
』
誌に掲載された細胞
(«Общая биология»)
イト・ポリマーの生産,その他のた
学・微生物学の専門家,ドミートリー・ペ
めに放射線を応用する工業的方法の
ト ロ フ ( Дмитрий Фёдорович Петров:
研究ぐらいで,それも研究室の規模を
1909-1987)の論文「遺伝性の物質的本質に
超えていなかった(Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д.
関 す る 問 題 に 寄 せ て (“К вопросу
263. л. 32.)
.
материальной природе наслественности”)」
о
17. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 264. л. 115.
を反唯物論的で反科学的であると非難し,
18. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 230. лл. 160-178;
資料を党中央委員会印刷課と科学アカデミ
なお,この件については,拙稿「ソヴィエ
ー幹部会に送付することを決定している
ト科学の“脱スターリン化”と科学アカデ
(Там же, л.49)
.
ミー―1953-1956 年のソ連邦科学アカデミ
32. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д. 284. л.8.
ー幹部会議事録・速記録から―」
(
『広島大
33. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д. 307. л.16.
学大学院総合科学研究科紀要Ⅲ 文明科学
34. Архив РАН Ф.201, Оп.1, Д. 305. лл.1-3:ヌー
研究』2011.12.1~12 ページ)で詳述し
ジンの発言の紹介は л.3.なお,このコン
ている.
ファレンスには,ドゥビーニン,イヴァ
55
ン・シュマリガウゼン(Иван Иванович
群,
「チェリヤビンスク-40」における大規
Шмальгаузен : 1884-1961)など反ルィセン
模な放射線被曝事故,いわゆる“ウラルの
コ派生物学者,物理学者カピッツア,それ
核惨事”など,当時の核関連施設における
に,マルク・ミーチン(Марк Борисович
放射線被曝の多発が影響しているのであろ
Митин: 1901-1987)
,アレクサンドル・マク
う.この関係を直接に示す資料を見いだす
シ ー モ フ ( Александр Александрович
のは今日でも困難であるが,ジョレス・メ
Максимов: 1890-19769)
,アブラム・デボ
ドヴェージェフは“ウラルの核惨事”の影
ーリン(Абрам Моисеевич Деборин : 1881
響について,
「事件は悲劇的なものであった
~1963)など一連の哲学者も招待されてい
けれども,さまざまな濃度レベルをもった
た(Там же, лл.38, 39)
.
放射性物質を含むこのように広範な汚染地
35. НА СО РАН Ф.4, Оп.1, Д.62. лл.24,25.
帯が存在することは放射線生態学,放射線
36. Там же, л.21.
遺伝学,放射線生物学,放射線毒物学など
37. НА СО РАН Ф.10, Оп.3, Д.59. лл.1-13.:以下,
の分野の科学研究にまたとない機会を与え
本資料からの引用は,その都度シート番号
てくれるものであった.1958 年から 1960
をしめすことにする.
年にかけてソ連の非常に多くの実験研究室,
38. さきほどのチモフェイ・ゴルバチョフの「あ
研究所,各種のセンターでは放射性同位元
なたがたが推薦した博士たちはみな採用し
素や放射線の軍事利用および平和利用に関
ました(л.4)」との発言と明確に食い違って
する研究がおこなわれていた.・・・[中
いる.どちらが正しいのか,実態はどうで
略]・・・ 放射線で汚染された広大な自然の
あったのか,は不明である.
領域が突然に出現したことで,何千人もの
39. См. Сойфер, Указ. соч., в примечании (3),
研究者は外国に前例のないような全く新し
сс.864-867.:ソィフェルの場合は,物理学
い機会とユニークな展望を与えられたので
者による“生物学正常化”要求と「放射線
ある」と述べている(ジョレス・A・メド
の生体への影響」研究との関連を指摘して
ベージェフ,梅林宏道訳『ウラルの核惨事』
はいるが,個々の物理学者の関心としての
技術と人間社,1982 年.36 ページ)
.
42. こうした努力にもかかわらず,1962 年 7 月
把握にとどまっている.
40. See, Gerovitch, Op.cit., in the note (6),
8 日に開催された科学アカデミー幹部会で
pp.183,184.
41. Под
общ.
は放射線生物学の“決定的な”立遅れが指
ред.
А.В.
Лебединского,
摘されることになる
(Архив РАН Ф.2 Оп.6a,
«Советские учёные об опасности испытаний
Ед. хр.198. лл.8,9)
.
ядерного оружия» (Атомиздат 1957г.); なお,
43. Архив РАН Ф.2 Оп.6a, Ед. хр.197. лл.13,21.
ドゥビーニン論文の原題は,Н.П. Дубинин,
44. もちろん、こうした課題は多くの科学者が
“Радиоакция и наследственность человека
求めていたであろう“研究の自由”の保証
(сс.82-89)” サハロフ論文の原題は, А.Д.
と矛盾するものではない.先に述べた 1957
Сахаров, “Радиоактивный углерод ядерных
年12月6日の幹部会の席上,
カピッツアは,
взрывов и непороговые биологические
「ここで思うのは,科学者が自由に語り合
эффекты (сс.36-44)” である.本書は学術書
える可能性をもっているケンブリッジやオ
であるにもかかわらず,初版 25,800 部を数
ックスフォードの経験を,こうした問題[放
えている.こうした放射線生物学の飛躍的
射線の生体への影響―引用者]の解決に適
強化の背景には,おそらく,1957 年 9 月 29
用することが不可欠だ,ということです.
日に生起したウラル地方の核兵器製造施設
わたしは,この問題で人々が集まり,語り
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合うクラブを組織することはできても,そ
れは人々が自由に交流するときに初めて可
能になると思います.ところが,わたした
ちのところには,このような自由な交流は
ありません.わたしたちは,自分の研究所
で忙しい仕事に疲れて,会議の場だけで出
会うのですが,そこで語ることができても,
報告者が邪魔をしてくるのです」と述べ,
進行中の物理学,化学,生物学の協同に期
待していた(Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 264.
л.132)
.
45. Архив РАН Ф.2 Оп.6a, Ед. хр.204. лл.10,
27-83.
46. Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 264. лл.159-302.
47. Там же, л.298.
【附記】本章は,広島大学大学院総合科学研究科紀
要Ⅲ『文明科学研究』第 7 号(2012 年 12 月)
に掲載されたものを,同研究科広報・出版委
員会,
『文明科学研究』編集委員会の許可をえ
て転載したものである.
【謝辞】貴重な資料を貸与していただいた鈴木善
次・大阪教育大学名誉教授,ならびに,投稿
前の本稿に目を通し,貴重なアドヴァイスを
いただいた藤岡毅博士(同志社大学嘱託講師)
には厚くお礼申し上げる.
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