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No.42 - 公益財団法人周南市ふるさと振興財団
No.42 平成25年 ふるさと探訪 漢陽寺 P2∼3 あんな風こんな風 遠石地区コミュニティ推進協議会 P4 活動紹介 三味線民謡ボランティアかえる会 P5 1枚の絵 徳山市鳥瞰図 P6 いっておかえり。鹿野市 P7 山陽道エピソード お地蔵さまの伝説ほか P8 昔の遊び 山菜採り ふるさとの味 きゅうり&バナナジュース P9 P10 千石岳 630 若山城跡 漢陽寺 鹿野地区にある漢陽寺は、曲水庭や潮音 洞などで有名なお寺です。 1374年、大内盛 見 が建立しました。 本堂には、御本尊であるお釈迦様と、向かっ て右側に用堂明機禅師、左側に大内盛見公 の像が安置されています。 このお寺には、様々ないいつたえや伝説 が残っており、今回はそれらを中心にご紹 介します。 曲水庭 本堂の裏山には、岩崎想左衛門が掘った潮音 洞があります。 日本庭園の権威故重森三玲は、この潮音洞を みて、全国探してもこれほど水の豊かな寺は珍 しいと感動し、曲水庭をはじめとした5つの庭 を完成させました。重森は、その土地にある石 を使用することが1番景観にあうと考え、当時 建設中の向道ダム工事で採石されたものや秘密 尾、須金の川の石などを利用して造りました。 鏡池とカヤの木 伝説 その 1 山門前左手に「鏡池」、寺の東側、清流通り沿 いに「カヤの木」があります。建立の地の印となっ たものです。 開山である用堂明機禅師が中国で修業し船で 帰国する時のことでした。大嵐で難破しそうに なりましたが、観音様からお告げがあり、母か ら御守として授かった『手鏡』と帰国時に恩師 から頂いた『カヤの実の数珠』をお告げ通り空 高く投げると海は鎮まり、無事帰国できました。 それから年月が経ち、大内の殿様が鹿野の地に 寺を建立することとなり、初鍬入れであの手鏡が 出土しました。また湧水が出たことから「鏡池」 [2] 本堂前庭「曲水庭」は、平安時代から鎌倉時代にかけて 流行した様式の庭園。平安貴族が曲水に盃を浮かべ歌を 詠んだという庭の再現を見られるのはココだけです。 と名づけられました。 また、寺のそばでカヤの木が1本すくすく育ち、その 種を見ると数珠の糸通し穴の跡がくっきりとありました。 まさに観音様のお告げの地でした。 消灾石 伝説 その 2 用堂明機禅師が漢陽寺で弟子たちと過ごしていたある 夜、中国で修行した寺が火災にあっているという悪夢に うなされました。用堂明禅師は弟子たちを起こし「中国 で修行した寺が火事にあっているので水をかけて火を消 さなければいけない。 」と寺内の石に水をかけさせまし た。すると、その石からと湯気が立つ不思議な体験をし ました。後日、中国から使者が来て「あの時は大変お世 話になりました。 」と話された為、弟子たちは大変驚い たそうです。鏡池にあったその石は「消灾石」と彫られ、 現在、潮音洞横の山裾に移動しています。 山門のキズ 山門の扉には、明治時代の田原川の合戦で受けた弾痕 があります。これは、山口からの脱走兵が島根県方面へ 移動する際、鹿野を荒らした事により起こった話です。 村人たちは、再度脱走兵が襲って来ると考え、案山子 を立てて多勢に見せかけ、田原川の土手に隠れ狙い撃ち しました。しかし、それは脱走兵を追いかけてきた山口 兵でした。山口兵はその様子から脱走兵が漢陽寺に立て 籠もっていると思い、漢陽寺めがけて大筒を打ち攻撃し ました。その大筒の弾砲が山門に当たったものです。そ の後、反撃がないことから山口兵は敵ではないことを知 り、戦いを止めて島根県方面へ向かったと伝えられてい ます。 5年前に山門を修復した時、この扉は残されました。 潮音洞横「蓬萊山池庭」の右奥にある 小さな石に「消灾石」とあります。 門柱 漢陽寺駐車場入り口にある門柱の碑文は、鹿野出身 で京都の南禅寺管長・中村文峰氏の筆です。大潮出身 で地域医療に尽力された神田医院の親族が施主とあり ます。 【取材協力;漢陽寺】 【参考;今 話そうかいの鹿野今昔物語】 [3] 遠石地区コミュニティ推進協議会 ༚ǂŽƼŴƛ© ∼ŴƮ߽ƏƑƛƗŽƻƃƘ∼ 遠石地区コミュニティ推進協議会は、設立30周年を迎え、地域の環境美化向上・啓発 事業の一環として、ポイ捨て防止標語等を表示した看板の設置、遠石3丁目交差点地下道 の壁面の補修整備を行いました。 県道のグリーンベルトには、空き缶・煙草の吸殻・ゴ ミ等の投棄が多く、そのことによって、地区住民の環境 美化意識が低い様に見られるため、信号機付近を中心に 地区住民から募った標語を主とした啓発・アピール・ス ローガン等の看板を設置しました。遠石地区は朝夕の通 勤ラッシュ時は無論、日中も交通量の多い地区です。看 板設置や道路一斉清掃等により環境美化に常に関心をも ち続けたいと考えています。 そうした地区住民の願いが通行する人々に気持が通じたのか、設置以降、車両からのポ イ捨ては確実に減少しているように感じられ温かい気持ちになります。このことは、道路 一斉清掃でごみの量が減っていることでも実証されています。 また、平成10年に「ふるさと創生事業」で設置した遠石3丁目交差点地下道の壁画は、 通学する高校生や、市の総合スポーツセンターへ向かう人たちの心を捉え、明るく安全な 地下道として定着してきました。今回、遠石地区の最近の日常活動を表した写真を壁画化 し、リニューアルしました。以前より更に明るく楽しい散歩道になりました。 路上等に環境美化に関する看板等を掲示することにより、地区住民の意識向上と地区内 を通過する車両等からの投げ捨て防止の一助けになればとの思いを強くしています。自分 達の住みよい環境は、自分達で創り守る意識が定着するようみんなで頑張ろうと思います。 【執筆:遠石地区コミュニティ推進協議会長 福田 秀夫】 〉〉 〉( 財 ) 周南市ふるさと振興財団では、市民自らが行う地域づくり活動を推進するため、個性あるふるさとづくり活動を行うコミュ ニティ団体を支援しています。 [4] 活動紹介 ふるさと振興財団では、平成16年度より市民活動において新たな 取り組みを目指す団体を対象に助成を行っています。今回は、平成 24年度の助成団体の中から 「三味線民謡ボランティア かえる会」 に活動紹介をしていただきます。 ∼平成24年度しゅうなん元気活動支援事業 助成団体∼ 三味線民謡ボランティア かえる会 かえる会の由来 若 かえる 基本に かえる 私たちは、日本古来の伝統である三味線で皆さんと一緒に唄ったりすることで、共有の 時間を過ごす活動をしている三味線民謡ボランティアグループです。 “待っていたよ” “また来てね”という言葉に支えられ、主として周南地区の福祉施設等 に訪問活動を初めて早8年が過ぎました。今では地区の敬老会やお祭りイベント等からも 声をかけて頂き、多くの人たちとの出会い、ふれあいを大切にしながら“楽しく・唄って・ 元気よく”を合言葉に楽しく活動をしています。演奏を始める前と後の、皆さんの表情の 変化を目の当たりにして、音楽の効用の深さに驚かされながら感動と元気をもらっていま す。 ふるさと振興財団からの助成金のおかげで、より一層、皆さんの輪の中に入ったコミュ ニケーションがとれ、一体感を感じる濃い活動ができるようになりました。 これからも、民謡だけでなく、童謡・演歌・オカリナ・フラダンス・踊り・手品等レパー トリーも増やし、皆さんに喜んでいただけるようにステップアップの努力をしながら頑張っ ていきたいと思います。 【執筆;三味線民謡ボランティア かえる会】 [5] 徳山市鳥瞰図 徳山市の昭和10年の市制施行を記念して昭和12 年に発行された綴じ込み式はがきの徳山市鳥瞰図です。 裏面には徳山市の観光スポットなどが当時の写真付き で紹介してあります。大正広重とも呼ばれた吉田初三 郎は大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師で、下 松や防府市も描いています。昭和22年には昭和天皇 の天覧となった「港徳山之図」 (周南市美術博物館蔵) も描いており、昭和31年発行の「徳山市史下巻」の 見返しに使われています。 封緘絵はがき外包 吉田初三郎「港徳山之図」( 周南市美術博物館蔵) [6] 平成25年7月20日、21日の2 日間、鹿野地区の中心部で「鹿 野市」 が開かれました。かつて山代街道が通 り賑わった市を復活させようと、鹿野 ブランド創出研究会と鹿野景観まちづ くりの会が主催しました。 この日は、まちなかを流れる清流と 水路をイメージした青いのれんを目印 にして古民家カフェや履物屋の開店、 ラムネ販売、レトロカー展示など内容 盛りだくさんで行われました。 その他、高校生の手作りカード販売や熊毛鹿野連携事業で開 発された「ご当地バーガー」の試食などもあり、懐かしさと新 しさが融合したイベントでした。 さらに、「岩崎想左衛門没後350周年記念展示」や「潮音 洞めぐり」、カフェや農家レストラン等が完熟トマトをテーマ とした創作メニューやスイーツで競演する「鹿野の風プロジェ クト第8章」も同時開催され、懐かしさと温かみのある街並み となり鹿野地区全体に、皆さんの笑顔があふれていました。 [7] 第 16 回 山陽道エピソード 山陽道を歩こう会 西村 修一 じぞう ≪お地蔵さまの伝説≫ 山陽道を歩いていると、面白い伝説や伝承をもったお地蔵さまに出会います。文久年中 のこと、お地蔵さまが福川の松左衛門の夢見に立ち、海の中にいるから陸に上げてくれと 頼みます。果して、みつけて屋敷内にお堂を立てて安置しました。大火事があったとき、 お地蔵さまが大汗をかいて、松左衛門さんの家だけ被災を免れたので、お地蔵様のおかげ だと噂されるようになりました。また天明年中のこと、戸田の夜市川の支流のほとりにあ る辻地蔵さんが汗をかいて震えておられるのを見て、人だかりができました。占いでは火 災の難の相とされ、諸社寺に祈願をして未然に防ぐことができました。村人はお堂を新し くしました。呼坂の火伏せ地蔵は、祀られてから火災がピタリとやんだといいます。 戸田の辻地蔵 福川の海からあがった地蔵(左) 呼坂の火伏せ地蔵 おうかんまつ ≪往環松≫ 江戸幕府や諸藩では、主要街道の両側に松や杉などを植えて、積極的に保護育成につと めていました。参勤交代などに利用する大名行列や通行者に日陰を提供したり、風雪から 守ってくれたことでしょう。徳山の城下に至る街道付近は壮観だったようで、東松原・西 松原と呼ばれていました。大正時代の絵はがきでも十分伝わります。夜市川沿いにもたく さん立派な松があったと、当時を覚えている住民は懐かしげに語られます。戦後になると、 道路の拡幅や松喰い虫の被害などで切り倒され、昭和40年代頃までには周南地域でも すっかりなくなっていました。かつて浦山∼川崎間の土手から街道へのびていた往還松の 一部が、明石地区の石垣に枯れ松の根っことしてその面影をわずかにとどめるだけです。 夜市川(昭和初) 浦山(大正) 東松原(大正) 次回は「富田瓦」「山陽道を歩きながら古墳を見てみたい」です。お楽しみに。 [8] 文と絵:倉冨良枝 「 私 が 子 ど も だ っ た 昭 和 の 初 め 頃 、 今 か ら 8 0 年 ほ ど の 前 の 山 里 の 遊 び で す 。」 ∼ 山菜採り ∼ 金峰山の山麓から中腹までは、春になると芽吹く山菜の宝庫であった。 春の山菜採りは山里の子にとっては、春の楽しい遊びのひとつでもあった。よく晴れた 日曜日の朝、みんなでホボラを背負い山菜のゼンマイやワラビを採りに行っていた。 『お山のお山の細径は、だれだれ通る、だれ通る、狐の親子の通る径』の歌を唄いなが ら『お山のお山の細径は、だれだれ通るだれ通る、ヨッちゃんヒサちゃん通る径』などと 替え歌を唄いながら山路を登り中腹の草刈り場に着いた。枯れたカヤ草薮であったが、そ こは、ゼンマイやワラビがたくさん芽吹く場所であった。 同じ場所なのにゼンマイとワラビの芽吹きの時期が少しずつずれている。ゼンマイの方 4 4 4 4 が少し早く芽吹く。ゼンマイは、まいまいが白い綿毛のぼうしを被り、1株ずつ、4本5 本と群れて芽吹いている。カヤ薮の中でも、すぐに見つけることができる。ホボラがいっ ぱいになると、重たくなったホボラをみんな背負い山路を降りていった。途中の楽しみは 4 4 4 4 イタドリの新芽を折り採り皮を取ってみずみずしいイタドリを生かじりして、のどのかわ きを癒した。少し酸っぱくて…冷たくて…忘れられないものである。イタドリの新芽の先 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 をちぎり採りしながら帰った。それは夕餉の食卓にのぼる。イタドリの新芽の天ぷらのご ちそうあった。1週間遅れの日曜日はワラビ採り遊びで同じ山の同じ場所で同じ山路であ 4 4 4 4 4 る。ワラビは1本1本で芽吹いているので枯れたワラビシダの場所を目当てにワラビ採り 4 4 4 4 4 の場所を定めていた。枯シダのところに芽吹いたワラビは太くてやわらかいので重宝され 塩漬けにして保存食としても重宝されていた。蕗のトウ、ツクシ、タラの芽、ウド、ゼン マイ、イタドリの芽、ワラビ、フキ…… 遊びながらの山菜採り――天ぷら、煮〆、そして…山里の遊びは美味にも連なっていた。 [9] ԽƗԽƈƻƥƻƅƘƞ きゅうり&バナナジュース 生野菜をゴクゴク飲みましょう! 食欲のない朝にもおすすめです! 材 料 ・きゅうり……1 本 ・バナナ………1 本 ・牛乳…………200ml ・はちみつ……大さじ 1 ・氷……………6 個 作り方 ① きゅうり、バナナは適当な大きさに切る。 ② 全ての材料をミキサーに入れ、なめらかになるまで約 30 秒ほど、 ミキサーにかける。 *お好みでアレンジ自在! 小松菜やりんごなど、お好みの野菜・果物を加えたり、牛乳の代わりに豆乳を入れても おいしくお召し上がりいただけますよ。 ふるさと通信会員 Ƅࠢછຆƛ ǺȏǟȖǫƘƇƖ お届け内容 会費 年額 2,000 円 お申込み、お問合わせ先 0834-22-8516 㪜䍰䍎䍷䋺 㫂㫆㪸㪗㪾㫆㫂㪸㫅㪄㪽㫌㫉㫌㫊㪸㫋㫆㪅㫆㫉㪾 ☎ [10]