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アニメーションという原罪

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アニメーションという原罪
571
アニメーションという原罪
を訳しながら考えたこと
"Drawing the Line"
かけに2007年に「日本アニメーター・演出協会(JAniCA)」
が発足。文化庁予算を使った新人育成用アニメ短編制作企画「アニ
メミライ」を2010年から毎年行ってきた。
ただ、これらの研究や動きはどうしても日本国内に完結しがちだ。
*1
の入り口を固めてスト破りを見張ること。
ケ 線( ピ ケ ッ ト ) と は、 ス ト の 際 に 組 合 員 が 会 社・ 工 場
* 1 "drawing the line"
に は「 絵 の 線 を 引 く 」 と「 ス ト
ライキでピケ線を引く」の両方の意がある。ちなみにピ
でにない視点からのアニメ研究が相次いでいる。業界内でもベテラン・アニメーターたちの危機意識をきっ
奇しくも本書がアメリカで刊行された頃から、日本でも「クール・ジャパン」の掛け声のもと、それま
いないミッキーマウス誕生以前の時代にまで 遡 っての論となると、およそ類のない本であろう。
さかのぼ
今も終生名誉会長の肩書きを持つアニメーターがまとめた労働運動史、それも日本ではあまり知られて
AG)の前身組織の委員長を務めた人物だ。
作に参加した凄腕アニメーターで、何よりアメリカアニメ労働者の一大組合アニメーション・ギルド(T
著者のトム・シートはディズニーで『美女と野獣』『ライオンキング』『ファンタジア2000』等の大
"Drawing the Line: The Untold Story of the Animation Unions from Bosko to Bart Simpson"は
2006年、ケンタッキー大学出版局から刊行された。
訳 者
解 説
572
訳者解説
573
現状に一石を投ずるためにも本書の邦訳は大きな意義があると考える。
ユニオン
組合が力を握るアメリカアニメ界
本書を読んでみてまず驚かされるのは、アメリカアニメ界における組合の存在感である。
日本では組合は各企業の従業員「のみ」で構成されることが圧倒的に多いのでピンとこない向きもある
かもしれないが、欧米圏ではもともと職業別、職種別、産業別に労働組合が作られる。原著者が終生名誉
会長を務めるアニメーション・ギルド(TAG)は、ウォルト・ディズニー社をはじめいくつもの大手ア
ニメスタジオの従業員の代表として、雇用条件や最低賃金ほかの団体交渉権を有している。
全米自動車労働組合(UAW)側がメーカー数社と全面衝突、という類のニュースを目にしたことがあ
フ リ ー ラ ン ス
る方も多いだろう。あれと同じ仕組みがアニメ業界でも働いているのである。
スタジオに雇用されていない「自由契約者」であっても、TAGとユニオン協約(会社との団体交渉権
が従業員の代表たるTAGにあると承認した協約)が結ばれているスタジオで働いているのなら、やはり
TAGに守られる。TAGとユニオン協約を結んでいるスタジオに入社したら、 日以内にTAGへの入
会が義務付けられる。
フ リ ー ラ ン ス
エンプロイー
*2
*3
「個人事業主」であって「労働者」ではない。だから労働基準法も適用されない。
*2 た
だ 労 働 組 合 法 が 定 義 す る「 労 働 者 」 に は 該 当 す
るとされる。
ク ー ル・ ジ ャ パ ン の 旗 手 ―― ア ニ メ 界 は ブ ラ ッ ク 企 業 な ら ぬ ブ
ラック業界なのである。
では例外である。
今 も 存 続 し て い て 発 言 力 が あ る か ら。 無 論、 業 界 の な か
金」と称して退職金まで支払われる。これは社内組合が
主」扱い)でありながら厚生年金等があって、「解約慰労
シ ョ ン は 年 度 ご と の 契 約( 契 約 社 員 で は な く「 個 人 事 業
は才能ある選ばれた一握りの人間のみ。ただ東映アニメー
*3 社
員 と し て 雇 用 す る ス タ ジ オ も あ る が、 業 界 全 体
ではほんの一部でしかなく、そういうところに入れるの
なる。恐慌対策としてルーズヴェルト政権が選んだのが労働運動、
アメリカアニメの黄金時代の始まりは、奇しくも大恐慌時代と重
しい問いかけだが本書は大いに参考になる。
日米アニメ界のこの絶望的なまでの違いはどこからくるのか。難
高度経済成長を追い風に量産体制に入った日本アニメ
大恐慌を母に躍進したアメリカアニメ、
ワ ー カ ー
出ないし、厚生年金には入れず、医療保険も自腹。介護保険も雇用保険も労災保険もない。彼ら彼女らは
だ。スタジオはあくまで机を貸しているという建前であり、それゆえにどんなに長時間働いても残業代は
あの人たちは、スタジオの社員ではない。一枚いくら、一カットいくらで報酬が支払われるフリーの人間
それからもっと重要なことがある。日本のアニメのスタジオで机を並べて絵を描き、色を塗っている
あの人たちは「社員」ではない
述のJAniCAは労働組合ではなく、
社団法人だ。
つまりユニオンではなく、
あくまで緩い職能団体である。
ゆる
合も映演労連加盟)が母体になっている、と理解していただければ感じはつかめるだろうか。ちなみに前
たまにニュースになるアニメ界での解雇撤回闘争はこの東映動画労組か映演労連(ちなみに東映動画組
や映演労連フリーユニオンがアニメ職人を個人加入で受け入れているくらいだ。
らいしかなくて、あとは映画、演劇、テレビ界の企業内組合の総連合体・映演労連に参加している映産労
一方で日本のアニメ界はどうか。今では企業内組合というと東映アニメーションの東映動画労働組合ぐ
組合が機能していない日本アニメ
業種ユニオンの統括組織であり、その上部組織として、全米規模の大労働ユニオンAFL‐CIOがある。
TAGは国際劇場・舞台従業員連盟(IATSE)の系列にあって、このIATSEは映画、演劇の各
30
ユ
ニ
オ
ン
しょう れ い
労働組合の奨励だったこと、その追い風を受けて映画業界にユニオンがいくつも生まれ、やがてアニメ界
にもユニオンが誕生したこと、その結果として起きたのがフライシャーやディズニー社での大規模ストラ
イキだったこと等が生き生きと綴られていて圧巻である。
一方で日本でのアニメ大量生産の時代は映画ではなくテレビによってもたらされた。テレビCM用アニ
メの需要拡大にくわえ、戦後の高度経済成長期にあたる1963年に始まった『鉄腕アトム』を皮切りに、
アメリカからの輸入ものではなく国産のテレビアニメが量産されていったのだ。
1930年代の大恐慌を母に発展を遂げたアメリカアニメと、1960年代の高度経済成長を母に数量
的躍進を遂げた日本のアニメ――その比較検証は後に行なうとして、日本のアニメ界での労働運動史をま
ずは駆け足で追ってみよう。
かつては日本でも「雇用」だった
本書第3章〜第5章で描かれる労働運動、組合運動に匹敵する日本での争議といえば、やはり初期の東
映動画(現・東映アニメーション)での事件であろ 。
*5
と動きで十分理解させ得る」と積極姿勢を示し、さらにはテレビの
*6
時代が日本でも到来することを見越して「漫画映画は広告漫画と共
*7
にテレビと不可分の関係にあります」。すなわち国内CMアニメ市場
の大きさを見越して「東洋のディズニー」たる東映動画を設立した
のだった。
* 5 「 東 映 教 育 映 画 ニ ュ ー ス
」掲載の大川博の談
話。『日本アニメーション映画史』から再引用。
*6 右
に同じ。
*7 右
に同じ。
ページ参照。
*9 も
っとも1964年の末にはハリウッドのアニメ
ユニオンについて東映動画内では知られていた。同年
『日本アニメーション映画史』
*8 『白蛇伝』の作画開始前に、東映動画から二名がハ
リ ウ ッ ド の ア ニ メ ス タ ジ オ 視 察 の た め に 渡 米 し て い る。
No.
14
23
もっとも労務管理についてどこまで研究がされていたかはわから
*8
*9
ページ)と同じ事件が、当の東映動画でも『白蛇伝』
な い 。 と い う の は、 本 書 第 3 章 に あ る ア イ ワ ー ク ス 社 で の ユ ニ オ ン
結成運動 (
の完成後に起きているからである。
*4 森
岩雄『私の芸界遍歴』(青蛙房、1975年)。
目にして、人件費が安く済む日本でのアニメ制作は「映画輸出の欠点とされていた日本語の非国際性を絵
ではできない」と後に述懐しているが、大川は反対に、テレビの台頭で衰退を迎えたハリウッド映画界を
*
けの設備をしなければ線画 [引用者注 アニメーションのこと]製作は十分でないとすれば、とても日本の国力
東宝の重役がその2年前にやはりディズニーを視察して「その規模の大きいことに全く圧倒され、これだ
大川は1953年の渡米を皮切りにハリウッドには何度もわたり、ディズニーの視察も行なっている。
の映画祭にも出展され輸出も行なわれた。
影所の一角に新スタジオができ(現在もここ)、翌1958年には長編第一作『白蛇伝』を公開し、海外
言)に目をつけて日本動画株式会社を吸収合併し、1952年に東映動画が発足。1957年には東京撮
戦後に発足した映画会社・東映は、「アニメーションの国際的可能性の豊かさ」(当時の大川博社長の発
う
年安保や三井三池炭鉱闘争と
1959年、切り崩された組合結成運動
東映動画労働組合結成運動には、
月の社内報『どうが』に
精神を感じるがここでは省略する。この運動が挫折した要因の一つ
*
野
口雄一郎・佐藤忠男「偉大なる手工業・東映動
画 ス タ ジ オ( 撮 影 所 研 究、 第 回 )」 よ り。「 映 画 評 論 」
いる。
ラ行為への反発から組合結成運動への参列者が相次いだものの、そ
ない。
て会社側が事前に気が付いていたかどうか、興味は尽き
1961年9月号掲載。この第一次組合結成運動につい
10
の悪習を改めると会社側が宣言したのならもはや戦う義理はない、
職の人間から「過度に親愛の情を示される」
、つまり今でいうセクハ
に、トレス・仕上げ係の女性職員の戦線離脱があったという。管理
本書で酷評されている監事ラリー・キルティとも会って
た原徹が、アニメユニオンのひとつMPSCを単身訪れ、
掲載された視察団の座談会『新春鼎談 アメリカ動画界
の現状と東映動画の将来』によると渡米団のひとりだっ
ド視察団が送り出され、翌年
月(東京オリンピック開催期!)に東映動画からハリウッ
10
*
1
1
1
いった、今も語り継がれる大きな政治闘争、労働闘争と連なる時代
60
1
11
574
訳者解説
575
*
てん まつ
*
、同じこと
ページ)
というわけで仕上部の人間が戦線離脱。本書第8章には、1969年に起きた作品二次使用料請求権闘争
こんだん
が、 仕 上 部 の 女 性 陣 の 造 反 で 骨 抜 き に な っ て し ま っ た 顛 末 が 綴 ら れ て い る が (
が東映動画でも起きていたのである。
3
3
3
*
だが2年後の1961年、再起が図られた。秘密会合で情報や意見交換を続け、同年9月に組合結成を
1961年、東映動画労働組合ついに承認される
かくして組合結成運動は挫折。社員懇談会に着地させられて終わった。
*1
*
*
(3)』
当時の組合機関紙から。
ていた。
ラビアンナイト』の売り込みも大川はハリウッドで行なっ
* 当 時 の 組 合 機 関 紙、 そ れ に『 映 画 年 鑑 1 9 6 3』
(149ページ)で確認できる。ちなみに長編最新作『ア
*
http://www.style.fm/log/02_topics/top041008a.html
『 東 映 長 編 研 究 第 5 回 永 沢 詢 イ ン タ ビ ュ ー
てあまり好ましくない事態であったと思われる。
もいくつか進行していた。そこに組合の結成は会社にとっ
の提携契約を結んでいてアメリカからの下請け制作企画
11
向上が確約された。
大川社長、USAテレビアニメの下請けに活路を探る
ストライキで押し切られた会社側は、膨らむ人件費に対応して長
編を年1本から2本の体制に切り替えを検討しだしたのにくわえ、
アメリカからの下請けに意欲をみせていたことは、この1962年
6月に渡米した大川が、本書でも何度か名が出てくるUPA社のテ
レビアニメ制作の下請けの話を、東映動画ストライキが勃発してい
*
たちょうどその時期にハリウッドで進めていたという記録からもう
*
* 『日本アニメーション映画史』( ページ)によると、
『白蛇伝』完成後、東映動画はアメリカのヒッツ社と3年
ト――シンドバッドの冒険』の制作中にストライキが勃発。組合側の勝利に終わり、主に給与面での条件
宣言。激しい衝突の後、会社側はようやく組合を承認した。さらに翌1962年、長編『アラビアンナイ
*1
たもと
方法論とは袂を分かち、デザイン的な絵柄で新境地を切り開いた才能集団だったのだが、テレビアニメの
分野では出遅れ、経営が悪化していた。さらに第9章には、1960年代の頭にいくつかのテレビアニメ
がアメリカ国外に下請け発注で作られていたとする記述がみられる。
UPAからの下請けの話は、その後続報がなかったことから条件が折り合わず立ち消えになったと思わ
*
れるが、この話が持ち上がったのは、ちょうど東映グループ全体が利益の損失を大きく計上していた年で
メの下請けが始まるとなれば、こなした絵の枚数やカット数換算で
給与を定めるやり方のほうが雇う側にとっては無駄が少なくなる分
ありがたい。
現在の日本のアニメ業界では原画家、動画家の大半は完全出来高
制(か期間限定の拘束制)が基本で、つまり制作会社の社員として
* ま ん が 家・ 手 塚 治 虫 が 立 ち 上 げ た 虫 プ ロ ダ ク シ ョ
ン(1961〜1973年)も、1961、1962年の
あわせて収益を増やすためにも長編の年2本制作体制が検討され、そのうえさらにアメリカのテレビアニ
格化であろう。ストライキに押し切られての社員給与の増額はすなわち人件費の増大を意味した。それに
切り替え、実力にみあった収入が得られるようにする、という建前ではあったが、現実には労務管理の厳
賃金制を検討していたことがうかがえる。ある程度経験を積んで枚数をこなせる原画家は部分出来高制に
1962年に発行された組合機関紙にあたると、会社側はこの年の半ば頃から固定給制とは別に出来高
さらに社員固定給から出来高賃金制への移行を提案
にテレビ時代への対応を強く意識していたのは間違いない。
あり、当時のいくつかの大川の発言をみても、強いドル(当時は1ドル=360円)を稼ぐことを、それ
*1
68
*1
ることは本書第8章にあるとおりだ。自然主義的表現を標ぼうするぶん膨大な労力を要するディズニーの
*1
12
*1
UPAはディズニー・ストライキ後の離反者によって発足してい
かがえる。
*1
14 13
* 『映画年鑑1963』や当時の東映有価証券報告書
を参照。
東映動画ストライキ脱落組が主戦力だった。
15
16
576
訳者解説
577
*
うよりは個人経営色の強いスタジオではあったが、それでもテレビ
*
*
* この 年に各東映系列会社の組合の連合組織「全東
映」が発足している。奇しくも同年の日本シリーズ優勝は
いる。が、実態は本書第9章でも論じられているように、アメリカ
日本製コンテンツの世界進出の先駆けとして今なお語り継がれては
質な映像スタイルを打ち立てたのとどこか似ている。第6
* 1941年に起きたディズニー社でのストライキの
後に退社した人間がUPAを立ち上げ、ディズニーとは異
ていくその過渡期に、
『アトム』がアメリカ側に偶然「発見」された、
* 拙訳『アニメが「ANIME」になるまで―鉄腕ア
ト ム、 ア メ リ カ を 行 く 』( フ レ ッ ド・ ラ ッ ド + ハ ー ヴ ィ・
20
ちょうせ き
*
んでもない高給を得る者も少なくなかったのに対し、アメリカでは
1950年代半ばにテレビアニメが開拓されても日本のような狂乱
度に
*
倍に増やしたのである)
倍までと法で定められている。そこで一ヶ月はさ
んで増資を再度行い、資本金を
年 史 』( 東 映 ア
そ
も そ も 戦 後 日 本 で の 民 間 放 送 の 開 始( か つ て 日
本本土には放送局がNHKしかなかった)、そしてテレビ
*
ニメーション編)参照。
に 増 資 し て い る。『 東 映 ア ニ メ ー シ ョ ン
16
現象はなかった(らしい)こともそのひとつである。
資料不足もあって断定はできないが、映画の世界で活躍していた
21
4
落している視点は何なのかが浮かび上がってくる。
意識していたことを考えると、従来の日本アニメ史に欠
映画会社の重役が頻繁に渡米しハリウッドの動向を強く
放送の導入がともにアメリカ主導だったことや、日本の
22
アニメ制作の人材が、映画産業の没落を受けて失業し、その受け皿
としてハナ=バーベラ等のテレビアニメスタジオが機能していたこ
と が 本 書 の 記 述 か ら も う か が え る( な に し ろ ハ ナ と バ ー ベ ラ そ の
* 例 え ば『 ア ト ム 』 開 始 の 年 に、 東 映 は わ ず か 一 カ
月で東映動画の資本金を4倍の4倍(資本金の増資は一
は絵描きの絶対数が不足し、まんが家志望者をはじめ多少でも描ける若者が即戦力として迎えられ、と
本書を訳していて興味をそそられたことは数多い。テレビアニメの時代を迎えて1960年代の日本で
テ レ ビ ア ニ メ の 時 代 を 迎 え て 若 手 が 入 ら な く な っ た ア メ リ カ 、新 人 を 大 量 に 集 め た 日 本
潮 汐力を受けてきたことが感じられる。
*2
国外への下請け傾斜の歴史的経緯を読むと、日本の商業アニメ界もまたアメリカアニメ界から少なからぬ
される映画からテレビへの趨勢の変化、劇場用短編アニメの衰退とテレビアニメの台頭、そしてアメリカ
従来の日本の商業アニメ史はどうしても日本国内からの視点で綴られがちだ。しかしながら本書で言及
ない)が東映ほか日本の放送局や広告代理店の意欲をかきたてたことが当時の内部資料からはうかがえる。
*2
ドルで売れた」という話(実は事実ではなかったことが訳者の調査で判明しているがここでは詳細は述べ
*
デネロフ著、NTT出版、2010年)参照。
19
『アトム』が一本一万
といったほうが実態に近いようだ。それから「
ページ参照。
277
章277
東映フライヤーズだった。
62
アニメへの進出を決断したのは、アメリカでの劇場用アニメの失速
とテレビアニメの台頭を強く意識してのことだった。アメリカで起
きたことはいずれ日本でも起きるから、というわけだ。
17
18
アニメ界がテレビ作品の需要増大を受けて国外下請け発注を開拓し
こうして企画された『鉄腕アトム』は、
当のアメリカに輸出された。
* 「 労 働 基 準 法 」 は、 完 全 出 来 高 制 に 基 づ く 雇 用 を 禁
じている。部分出来高でも最高裁判例に基づき規制される。
から飛び出すこととなった(ちなみにスタッフの主力は東映動画での労働運動からの離脱組)。企業とい
*1
テレビアニメの国産第一号は東映動画ではなく、まんが家・手塚治虫が自ら設立した虫プロダクション
『アトム』の輸出もアメリカアニメ界の過渡期ゆえの結果
大がかりな労働運動が「勝利」したその反動として、ひっそりと始まっていたのである。
*1
て久しいが、社員制給与体系の混乱は、実は『アトム』以前に東映動画内部で、それもストライキという
まんが家がいきなり国産で乗り込み、その結果アニメ制作業界が大混乱に陥った」とするのが定説となっ
おちい
ビアニメはアメリカからの輸入物しかなかったところに、売れっ子とはいえアニメーションは素人に近い
国産テレビアニメ番組の第一号『鉄腕アトム』の放送開始は翌1963年の1月1日。「週放映のテレ
は雇われないやり方が主流だが、その萌芽がこの1962年スト後の東映動画に認められるのである。
*1
人がMGMを解雇された末にテレビアニメに乗り出した口なのだか
ら)
。
50
*2
本書第8章では著者がアニメの世界に入った1975年当時、
30
578
訳者解説
579
代、
代のスタッフがまるでいなかったこと、第 章ではディズニー社ですら 年近くにわたって新人を
10
20
*
いたとする本書第1章 ( ページ)の記述は、日本で国産テレビアニメが次々と作られ人材不足になった
戦前のアメリカアニメ界で、ユニオンができる前の時代には他社の絵描きのスカウト合戦が行なわれて
時代になってもかの国では起きなかったのだろうか。
本書を訳していて興味をそそられた点はほかにもある。下請けプロダクションの乱立がテレビアニメの
日本では下請けプロダクションが乱立
テレビアニメ時代到来
カアニメ界は歩んでいったようである。
量に入ってきた(そしてやがて過労で倒れ、死んでいった)のだが、それとはおよそ正反対の道をアメリ
*2
ほとんど採用していなかったことが綴られている。日本では、テレビアニメの時代になって若い才能が大
40
は同じ賃金であることに嫌気がさして、腕のある人間が仲間ととも
に独立してプロダクションを立ち上げていったのだ。
だがアメリカでは?
*
当時の週刊誌等からいくつか確認できる。
きる。それからもうひとつ大きな原因があった。枚数をこなせる腕の早い人間とそうでない人間が社内で
下請けプロダクションは、絵が描ける、塗れる人間さえ揃えられれば大きい資本金がなくても旗揚げで
けて作業の下請けが普通に、さらに完全外注も珍しくなくなっていった。
ぼすべてを社内で行ない、制作スタッフも社員として雇用されていたのが、国産テレビアニメの時代を受
けプロダクションの新興・乱立が起きたという違いがある。東映動画、虫プロともに当初は制作作業のほ
ただ日本の場合、こうした「人買い」によって既存スタジオの戦力増大が図られたというよりは、下請
ときにまさに同じことが起きた事実を知っていると味わい深い。
37
*
てくるのだった」(
〜
0
ページ)という、1978年頃とおぼしい回想があるが、著者に問い合
3
8
6
日本のアニメ界にも産業別組合が誕生
ところでテレビアニメの量産時代になってからも、日本のアニメ
界の組合といえば東映動画の社内組合しかなかった。全盛期には社
当 時 の 東 映 動 画 内 で 使 わ れ て い た 呼 び 方。『 作 画
汗 ま み れ 増 補 改 訂 版 』( 大 塚 康 生[ 著 ]、 徳 間 書 店、
2001年)の第4章参照。
*
わせたところ日本でいう「下請け」というよりは「分業」だったようである。
3
8
5
中小スタジオではフリーの人間が作業を行ない、早いと数時間でハナ=バーベラの従業員のもとにあがっ
第9章にはハナ=バーベラ社が「制作作業の4分の3は社外での作画に頼っていた」
「下請けをしている
こうした下請けシステム、それに社員の請負者化はアメリカアニメ界では発生しなかったのだろうか。
足を置いたほうが安全となっていった。
画仕事をアルバイトでこなすのである。こうして給与体系は形骸化し、雇う側にすれば外注や請負者に軸
また、雇われる側からもずるをする者が続出した。社員として固定給と残業代を貰いながら、他社の作
0
使用者側には魅力だったと思われる。
られたという。社員ではなくなるので社会保険等の福利厚生費の一部を社が負担する義務から免れるぶん
トプロ・システム」すなわち社員を社外で独立させて下請けプロとして育てるやり方が東映動画では進め
*2
さらに、『アトム』に始まる国産テレビアニメの急増をうけて、「契約者」の考え方が拡大され「ユニッ
せる案を組合に提示していたことは先に述べた。
1962年ストの後、東映動画が一部の腕の早い絵描きを「契約者」として部分出来高賃金制に移行さ
23
24
580
訳者解説
581
員500人を超えたといわれる虫プロでさえ、組合は結成されず社員懇談会に留まっていた。
だが1965年、つまり国産テレビアニメが生まれて3年目にして「日本映画テレビ産業労働組合」、
係者の)組合の連合体として映演労連がすでにあるが、この映産労
等の福利厚生は整備されていた。そのぶん人件費は増え
クションでは社員としての雇用にくわえ年金、健康保険
畠山によると社員として雇用されてはいたが健康
保 険 等 の 福 利 厚 生 は な か っ た と い う。 同 じ 頃、 虫 プ ロ ダ
(通称=映産労)が結成された。大手映画会社の(それから舞台劇関
は独立系映画プロダクションの協会を母体に発足。ちなみに独立系
る。ただ、そこには会計上のトリックが内在していた。
るが商品化権印税が虫プロの赤字を補っていたと思われ
*
映画プロは大手映画会社から離れた人間によって運営されるのがほ
とんどで、敗戦直後に東宝で起きたストライキ(若き黒澤明も当時
参加していた)の経験者が揃っていた。
この映産労は個人加盟の組合で、映画だけでなくテレビ(CM含む)
関係者も組合員になれた。結成の翌年に東京ムービー社のアニメー
ター・畠山芳子が映産労の組合員となった。アニメ関係者としては
動に出たと受け止めた会社側は1966年
月、事前通告なしの解雇に出た。
女ハイジ』で活躍することになるアニメーター小田部羊一が、勤務
時間中に自動車教習所に通っていたことがとがめられて解雇をいい
*
それと入れ替わりに武蔵野市議会の共産党系議員として地
方自治政界に進んで長く活躍し、 歳代の今は富山の利賀
* 『日本のアニメーションを築いた人々』
(叶精二[著]
、
若草書房、2004年)収録の故・奥山玲子(小田部の妻
村に移って農業を営み、児童の農業体験等を支援している。
70
わ た さ れ た の だ。 共 働 き の 多 い 職 場 な の で 子 ど も を 車 で 保 育 園 に 迎
えにいく必要があったのと、テレビ時代を迎えてノルマさえ果たせ
げっこう
26
この事件で小田部は原画で一番下の級にされた。
があって、各職種の従業員がランク化されていた。そして
で同僚)インタビューから。当時の東映動画には職級制度
27
ば勤務時間には以前ほどうるさくなくなっていたなかのこの解雇理
由に小田部は「ならば虫プロに移籍する!」と激高したという。
* 畠山は映産労の支援を受けて解雇撤回の裁判を起こ
し東京地裁で勝訴。1971年に国際放映と和解に達し、
この解雇事件があった1966年には東映動画でも解雇撤回闘争があったようだ。後に『アルプスの少
同じ年に東映動画でも
が、それと酷似した事件が1966年に日本でも起きていたことになる。
*2
本書第3章には1935年にヴァン・ビューレン社を労働運動を理由に解雇された女性の話が出てくる
11
▲ 1966 年 12 月 11 日『赤旗日曜版』より
入会第一号だという。
東京ムービーで不当解雇、日本アニメ界初の解雇撤回闘争へ
東京ムービーはテレビアニメの増産を目論んだTBSの出資でで
きたスタジオで、1964年に手塚原作の『ビッグX』で旗揚げし
たがアニメ制作経験者が少ないのがたたって現場の制作会計管理の
穴の多さから経営危機となり、国際放映社の傘下となった。東京ムー
ビー創業者で、国際放映傘下後は制作部長を務めた藤岡豊は、制作
*
たことで東京ムービーも国際放映も大いに潤ったという。その一方で制作現場では労働環境について不満
うるお
この業務提携下で『オバケのQ太郎』(1965〜1967年)が大当たりし、商品が飛ぶように売れ
の制作を行なうという業務提携がなされた。
彼を中心にAプロダクションという制作スタジオが作られ、東京ムービーが企画と管理を、Aプロが実際
体制の再建のため東映動画からアニメーターの楠部大吉郎を招き、
25
の声がくすぶり、畠山が要望書を東京ムービーに提出。映産労の会員であることが知られていた彼女が扇
*2
組合が会社と交渉して解雇は撤回されたが、小田部は降格処分と
*
なった。
*2
582
訳者解説
583
解雇撤回闘争の第二号は『サザエさん』のスタジオで
解雇撤回闘争の第二号と思われるのは1968年、TCJのアニメーター、中村二三男が提訴した事件
*
であろう。この裁判も畠山闘争と同じく長引き、1973年にようやく和解で終わっている。会社側は解
*
外伝』のスポンサーだった)それにTCJの親会社であるヤナセ自動車の社長宅を囲んでデモを繰り返し
余談だがこの裁判が起きると、映産労の組合員が東芝本社(当時TCJが制作・放映していた『カムイ
雇を取り消し、代わりに原告は自主退職し、闘争期間中の給与680万円を支払うという決着だった。
*2
在に至っている。
高度経済成長の終わりの始まり
目 指 し て 映 画『 千 夜 一 夜 物 語 』 で 成 人 向 け 芸 術 映 画 に 進 出 し、 翌
わりに労働組合が誕生している。虫プロは1969年に閉塞打破を
*
* 1 9 7 3 年 9 月 発 行 の 東 映 動 画 機 関 紙 に「 中 村 闘
争終結」の記事がある。
例えば1971年には手塚治虫が虫プロの社長を辞任し、入れ替
支部を作っていったことがうかがえる。
た権利)様子が繰り返し描かれるが、個人加盟組合の映産労はまさにこれに準じたやり方で各スタジオに
超えるとそのユニオンが全従業員の代表として会社と交渉できるようになる(アメリカ労働法で認められ
合結成運動があったようだ。本書には各スタジオの従業員が次第に社外ユニオンの会員となり、一定数を
1970年代の前半には東京ムービーやタツノコプロ等いくつかの大手アニメスタジオで映産労系の組
1970年代に入って各スタジオに組合発足
―
翌年に始まったのが『サザエさん』で、この独立したアニメ部は1973年に商号をエイケンと改称し現
た。ノイローゼになった柳瀬次郎社長(当時)はTCJからテレビアニメ制作部を分離独立させた。その
*2
当時のテレビアニメ業界OBへの取材で確認。
28
とうとう社員アニメーターがゼロの会社登場
現場の管理は非常に緩く、それが労働環境の悪化を招いたのだった。
1970年に第二弾『クレオパトラ』を放ったが、まんが家としての仕事を膨大に抱えた手塚のもと制作
29
*
「制作経費が1本につきいくらかかるかもわからない。500〜600万円で受注した作品の制作費が
*3
栄二インタビューから。
* 『中日新聞』2007年 月 日付朝刊『アニメ大
国の肖像』欄に掲載されたサンライズ社長(当時)山浦
*
者 の あ い だ で も 見 解 は 分 か れ る よ う だ が、 当 時 制 作 デ ス ク だ っ た 人
「東映ロックアウト」と呼ばれるこの事件をどう解釈するか、研究
打ち閉鎖を断行しスタッフのうち数十名の指名解雇を宣言した。
人たちがとうとう社員組合とは別に組合を結成。すでに数億の負債をかかえていた東映動画は職場の抜き
ターだった宮崎駿も1971年にAプロに移籍)
。社員ではないという理由で社内組合に入れなかったこの
は何年も前から取りやめていて、年度契約による「契約者」の数が年々増えていった(前者の社員アニメー
この1972年にはもうひとつ象徴的な出来事があった。東映動画は定年までの無期限雇用社員の採用
そして決定的事件が同1972年に
業界内で常態化して久しいが、それを徹底した最初の元請スタジオがおそらくこのサンライズである。
制作管理の人間のみを社員にすることで経営管理の安定化を図った。絵描きを社員として雇用しないのが
虫プロの制作畑の人間が連れ立って独立し、サンライズ社を設立。絵描きの人間には完全出来高制を通し、
ける能力の高いアニメーターも、能力の低い人のレベルに合わせてしまっていた」
。こうして1972年、
「現場ではたくさんの動画が描
00万、900万円なんてザラ」と、当時の虫プロ役員秘書は回想する。
8
物が前年に会社に提出した合理化提案書を読むと、社員スタッフを
*3
30
11
15
584
訳者解説
585
使うより下請けプロへの外注のほうがずっと制作費が抑えられること、最終的には外注と契約者のみでの
制作体制を打ち立て、会社は企画と制作管理に徹するのが望ましいことが具体的な数字とともに指摘され
ている。 要は現場の人間の偽装請負化だが、そうしなければもはや経営が成り立たない時代になってしまったと
いう判断であろう。
解雇撤回闘争は2年続き、脱落者も出たが最終的に解雇は撤回され、一応は組合側の勝利に終わった。
だが制作現場スタッフの社員雇用による補充はその後もなく、正規雇用入社組も加齢とともに退職。こう
して契約制度が100%化し2014年の現在に至っている。
オイルショック前夜、虫プロ倒産
この解雇撤回闘争と同時期の1973年秋、さらに大きな事件があった。虫プロが倒産したのだ。
ず さん
先に述べたように手塚の社長辞任とともに映産労系組合が生まれ、映画『哀しみのベラドンナ』で起死
*
木 村 智 哉 は 論 考『 東 映 動 画 株 式 会 社 の 発 足 と 同
社アニメーション映画の輸出に関する一考察』
(初出は
回生を図ったが手塚社長時代に根付いてしまった制作管理の杜撰さもあって負債がさらに膨らみ、出資者
を失った末のことだった。
5年のあいだ受注制作費は値上げがなかった
この1973年に東京ムービー、東映動画、TCJ動画センター
(後のエイケン)、タツノコ、虫プロの連名で「テレビ動画番組制作
費に就ての陳述書」が民放各局に提出されている。1968年頃か
2 0 1 1 年 ) の な か で、 東 映 社 長 の 大 川 博 に は、 実 は 海
外市場を明確に意識してのアニメ企画・営業の具体的方
針はなかったと論じていて示唆に富む。これもまた東映
ロックアウトの遠因であろう。だがそれは一因ではあっ
ても主因ではない。このテーマについては後日じっくり
論じたい。
*
30
*
1
9 7 1 年 に 著 作 権 法 が 全 面 改 正 さ れ、 映 画 会 社
の強い意向をうけて、映画やテレビ作品の著作権の帰属
*
が「 著 作 者 」 で は な く「 製 作 者 」 と さ れ た。 テ レ ビ ア ニ
たのは、法改正後に製作者が著作者を囲い込むためだっ
た の で は な い か と い う 指 摘 も あ る。 両 者 の 定 義 に つ い
て は 文 化 庁 の「 著 作 権 な る ほ ど 質 問 箱 」 を 参 照。 http://
chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/ref.asp
* 現 地 で 育 成 指 導 を 行 な っ た の は、 か つ て 東 映 動 画
で 労 働 組 合 の 結 成 を 訴 え、 旗 を 振 っ た は ず の 大 塚 康 生。
国内のアニメ労働者にとってはある意味大敵であったは
ず の 海 外 労 働 者 を 育 成 す る 側 に 回 っ て し ま っ た 皮 肉 を、
当人は今どう考えているのだろう。 * 拙訳『アニメが「ANIME」になるまで――「鉄
腕 ア ト ム 」、 ア メ リ カ を 行 く 』( フ レ ッ ド・ ラ ッ ド + ハ ー
年がかりで移行し、一方で社員雇用制も
縮小を余儀なくされながらも残存し、こうして経営側と、
「社員」と
ヴィ・デネロフ[著]、NTT出版、2010年)
け、完全出来高制にほぼ
迎えて、従来の社員雇用のやり方から部分出来高制へ、やがて下請
大雑把にまとめてしまえば日本のアニメ界はテレビアニメ時代を
社員制の時代から、業界ぐるみの違法操業の時代へ
なわれていたのである。
*
ア の ア ニ メ 産 業 の「 育 成 」 が 日 米 そ れ ぞ れ の 資 本 主 義 的 理 由 か ら 行
本書第9章にもアメリカアニメ界の海外下請けがどう始まったか
*
* 「 ア ニ メ れ ぽ ー と・ 第 一 号 」( 1 9 7 5 年 発 行 ) 掲
載の数字から。 http://anirepo.exblog.jp/16983469/
分テレビドラマの制作費より割高となると、この陳述書に局側が応じず、TBSのようにアニメ番組から
ちなみにこの1973年に虫プロが制作した『ワンサくん』の受注価格が1本380万円。これでも
*3
ら制作費が据え置きになっていたことがうかがえる。
31
メ で「 チ ー フ デ ィ レ ク タ ー」 と い う 肩 書 き が 発 明 さ れ
で下請けスタジオの育成に乗り出している。
開 始 し て い る。 遡 れ ば 1 9 6 0 年 代 末 に す で に 東 京 ム ー ビ ー が 台 湾
会社化し『ミラクル少女リミットちゃん』の仕上(彩色)の外注を
ペイント
この年には東映動画が韓国の東紀動画、大元動画、世映動画を子
1970年代に海外下請けが本格化
数年間撤退してしまったのも冷徹な判断ではあった。
*3
が綴られているが、日本もまた似たような道を歩いたのだ。東アジ
*3
32
33
34
*3
自らを規定する人間との間に蓄積されたひずみが、制作費の頭打ち
10
35
586
訳者解説
587
588
訳者解説
589
*
という圧力蓋のもと(アメリカ輸出でドルを稼ぐという目論見なぞ、とうに破綻していた)、労使衝突と
して1970年代前半に破裂した、という解釈を取りたい。
東映ロックアウト体験者は1年後に生々しく綴っている。
「会社と契約している下請プロと臨時アルバイター、或いは電話1本で駆けつけてくる1匹オオカミの
*
アニメーター等々、圧倒的多数の未組織軍団に包囲されているのだ。[中略]ロック・アウトであろうが、
ただちに彼等を動員すれば会社は何等支障なく製作業務を続行出来る」。
そしてこう嘆く。「米国のアニメーターには、職能団体としてのユニオンが確立しているというのに日
本では何故不可能なのか…」。
戦後日本で産業別、業種別組合が主流にならなかった理由
職能団体としてのユニオンが日本では、何故不可能なのか……、そもそも産業別、業種別組合そのもの
*
1
』を
9 6 7 年 に 輸 出 さ れ た『 マ ッ ハ Go Go Go
最 後 に、 日 本 製 テ レ ビ ア ニ メ の 輸 出 は 途 絶 え、 そ の 後 約
が日本には根付かなかった。詳細は専門の文献に当たっていただくとして、突き詰めれば雇用の考え方の
違いに行き当たる。
本書を訳していて痛感したのは、日本でいう「入社する」「就職す
る」に当たる英語が見当たらないことだった。日本だと学校卒業後、
とにかく会社に入れてもらって、それから具体的な職種がいいわた
される仕組みだが、それとは違って何の職種かが事前に特定され、
)のだ。例えば書類整
そのうえで雇用契約が交わされる( "be hired"
理係として雇われたのなら、新たに契約しなおすのでなければ職も
十 年 間、 下 請 け 制 作 の み に な っ て し ま っ た。 理 由 は『 ア
ページ参照。
メリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』(草薙
聡志 著
[ 、]徳間書店、2003年)の
* 『映画史研究』
(佐藤忠男[編])の第二号(1973
年 発 行 ) 掲 載 の 手 記『 テ レ ビ 漫 画 時 代 に 明 日 は あ る か
95
*3
アニメーター残酷物語』(小田克也)より。
一郎[著]、日本経済新聞社、2011年)参照。
プ制」にある。詳しくは『日本の雇用と労働法』(濱口桂
い う。 日 本 の 雇 用 形 態 の 特 殊 性 は む し ろ「 メ ン バ ー シ ッ
* 誤 解 が な い よ う 断 っ て お く と、 企 業 別 労 働 組 合 は
日本だけの特殊形態ではなく、東アジアでは普遍的だと
―
分が人件費」「本質的に機械化、省力化が出来難い業態」
「制作受注価格は[中略]『巨
人の星』『スカイヤーズ5』
『魔法使いサリー』『マッハゴーゴー』
(昭和 43 年頃)等の
価格に比して現在も殆んど変わりなく、その他の受注条件(再放映や商品化権収入配分
の比率)はむしろ退歩」「経営収支の赤字は月毎に累増し、今日におきましては、如何
様の手段方法をもってしても経営の悪化を防ぎ止める事が出来ない」「現行受注価格を
少なくとも『30%方の増額』並びに『放送権譲渡は放送一回に限ること』を今後の成約
の基本的在り方として御承認下さいます様」と悲痛な訴えが綴られている。
給与もそのままである。
36
37
38
まるでプロ野球選手のような割り切った関係に思えるだ
ろうが(もっとも、プロ野球選手と球団との契約が「雇用」
ではないことは念を押しておく)、背景に「会社は株主の
もの」という考え方があるようだ。
会社は株主という出資者に利潤を還元することこそを存
在理由している。従業員(ちなみに法における社員とは株
主のこと)の生活を守るのは本来、会社の目的ではない。
会社と労働者の関係は雇用契約で定められた内容こそがす
べてであり、それで不満なら契約を再交渉するか、もっと
条件のいい会社を探して自分を売り込めばいいというわけ
だ。
無論、雇用する側/される側では後者の立場が弱くなる。
(アメリカのように整理解雇がしやすい労働法制下ではな
おさらそうなる) そこで労働組合の存在が認められる。
対等な関係での交渉ができるようにするために欠くべから
*
ざ る 対 抗 力 と し て。 そ し て 職 種 を 特 定 し て の 雇 用 関 係 だ か
本書を読んでいて、健康保険や年金がユニオンによって
となる。
職 種 別 の 組 合、 そ し て そ の 発 展 形 と し て 産 業 別 組 合 が 基 本
ら、労働組合は日本のような会社別の社内組合ではなく、
*3
▲ 「TV 動画番組制作費に就ての陳述書」 1973 年3月付。「制作費の 80%を超える部
*3
590
訳者解説
591
たっと
運営管理されていることに違和感を覚える向きも多いだろう。国による社会保障制度の整備よりも、我が
ユ
ニ
オ
ン
さかのぼ
身は我が身で守るという理念を尊ぶ国民性が大きいゆえだが、もうひとつは、労働者を守るのは企業では
(get a
なく労働組合という、 遡 れば中世ヨーロッパのギルドを始祖として、さらに市民革命や産業革命を経て
法制化されていった考え方が根底にうかがえる。
序 章 で 著 者 が ユ ニ オ ン の 必 要 性 を 力 説 す る 理 由 は こ こ に あ る の だ ろ う。 そ し て、
「職を得る
」ではなく「入社して何か職をまわされる( become a member for getting a job
)」が正統とされる
job)
日本の労働市場において、職能団体としての労働組合が結局根付かなかったのも(それが間違っているか
どうかは別として)なんとなくうなずける。
大恐慌と高度経済成長
それから、先に少し触れたようにアメリカアニメが大恐慌の時代に発展したこと、恐慌対策として組合
運動を奨励する国策がとられたことを背景にユニオンが強力な存在感を得ていったのに対し、日本のアニ
*
ル
シ
ョ
ッ
ク
*
* 「商品化権印税収入によってテレビアニメは儲かると
メは高度経済成長期に「テレビまんが」として、つまり映画ではなくいきなりテレビ番組用として市場が
イ
そこに石油の輸入大幅削減危機が重なった。その後、安定成長への
オ
もっとも日本の高度経済成長も1970年代前半に破綻をみせ、
た節がみられる。
高給が得られたことから、労務管理や労使関係の整備は後手にまわっ
時とはいえ)売り手市場となって枚数がこなせる者ならたいへんな
急拡大したため人手不足にみまわれ、そのため絵描きにとっては(一
*4
不景気時には)吉という判断から、労使対決が避けられた。
これは実は、同じ社内でも組合に所属する(できる)者はできる
だけ解雇にまわさず、代わりに組合に所属しない(できない)周縁
*
的労働者を人員整理の際の優先解雇対象とするという手打ちが行わ
*
れたともいえる(「正社員」「パートタイマー」という呼び方がこの
時期に生まれたのは暗示的である)。
認識され、それで量産ラッシュになった」と長く言われて
きたが、この説は非常に疑わしいと再度強調しておく。
*
アメリカでは劇場用アニメの衰退と入れ替わりに
テレビアニメが台頭した。そのため劇場用作品で活躍し
た人材がそのままテレビアニメに流入したため、日本の
アニメ界ほどの人手不足にはならなかったと思われる。
『非正規雇用の歴史的あり方と今日の問題点』
http://homepage3.nifty.com/hamachan/forum1001.html
「 賃 金 制 度 と 労 働 法 政 策 」 http://homepage3.nifty.com/
(ともに濱口桂一郎)参照。
hamachan/chinginseido.html
*
さらにはこんな仮説も立てられる。1960年末に
池田勇人内閣が打ち出した「所得倍増計画」のもと、日本
の経済は1960年代に驚異的躍進を遂げたのだが、その
なかで賃金制度も、戦前からの生活給制(年功序列、それ
程の人間すべてを「下級」ならぬ「個人事業主」化して企画や営業
年代後半に賃金制度は「職能給」という日本独自のやり方
率給制にアニメ業界全体が傾いていったのではないか。
現場の人間による芸術家的良心だった。
こうした地殻変動を決定的なものにしたのは、皮肉なことに制作
宮崎駿も共犯者
前半だったことは、今後もっと深く論じられてしかるべきであろう。
この偽装請負方式に業界ぐるみで移行したのがまさに1970年代
や管理の人間のみを社員にするという会社が今や圧倒多数である。
きいため、どちらの制度にもなじまず、それで下請制や能
立が続いていった。アニメ労働者は作業能率の個人差が大
に養う家族の人数等を考慮して給与が決まる)か、欧米の
50
う記述がある。日本ではこれがさらに徹底されて、アニメの制作工
級」を国外に下請け発注するやり方が
抑制策として制作工程を「上級」
「下級」に分け、単純作業である「下
章 380ページには、テレビアニメの制作費
41
42
職務給制(同一労働同一賃金の原則による)かで労使の対
そういえば本書第
*4
年代後半に発案されたとい
9
*
であった(ある)この国の労働市場においては、賃金上昇を犠牲にしても解雇は免れるほうが(とりわけ
の労使協調路線が主流になったのが大きかったという。もともと転職が労働者としての格落ちとほぼ同義
移行が比較的滑らかに実現したのは、この時期に大企業では組合と
39
40
*3
*4
とになる。
1982年に海外下請阻止ストの敗北で手痛い目に合うこ
別組合が強いアメリカアニメ界ではこうならなかったが、
る の 関 係 そ の も の か ら 排 斥 さ れ て い っ た の で あ る。 産 業
るにどんな賃金制度にもなじまないため、雇用する/され
て個人事業主化が趨勢となったのではないだろうか。要す
度もなじまず、それで下請制と能率給制の最終的帰着とし
に収斂していったものの、アニメ労働者にはこの職能給制
60
しげ と
たもと
テレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』(1974年放映)は、TCJと袂を分かって瑞鷹エンタープ
ライズを設立した高橋茂人が、児童文学の古典『ハイジ』のアニメ化に強い意欲を抱き、東映動画出身の
高畑勲に監督を打診。高畑は品質を維持する制作体制を構築できないとして難色を示したが、高橋は少年
時代に愛読したという原作を自ら映像化する夢を捨てず、高畑を説得した。
* 『「 ア ル プ ス の 少 女 ハ イ ジ 」 で 高 畑 演 出 が 目 指 し た
も の 』( 叶 精 二 ) 参 照。 http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/
そして高畑によって編み出されたのが、中核を宮崎駿ら少数の才能集団(この頃は高畑以下、個人事業
主ではなく今でいう契約社員待遇だったと思われる)で固め、原画
や背景などは外注で描かせ、高畑の元で中核スタッフがそれを休日
*
返 上 で チ ェ ッ ク・ 修 正 す る こ と で 一 定 の 品 質 を 維 持 す る や り 方 だ っ
この番組は商業的にも成功を収め、後のジブリアニメの源流とし
実 際 の 作 品 制 作 が ズ イ ヨ ー 映 像 と い う 二 社 体 制 だ っ た。
『アニメレポート』1975年6月号掲載の『ズイ
名いた人が今では
名、約
年
ヨー映像が日本アニメーション(株 に
) 社名変更』を参照。
ちなみに同記事の下には『竜の子プロ、大幅な人員縮小』
*
いるが、真相は不明。
にズイヨーが瑞鷹にクーデターを起こしたともいわれて
『ハイジ』の莫大な商品化権印税収入をめぐって放映翌年
*
品質のものは作れると『ハイジ』は業界内で見せつけてしまった、
事態を、大監督となった現在どう捉えているか非常に興味深い。
のなかで大塚が
語っている。
アニメブームで育った世代が劣悪労働環境を「普通」にしてしまった?
%になってしまっ
年代の日本アニメーション社の事情を
日本のアニメが子ども向きから青春映画の位置に拡大していった時代、いわゆる「アニメブーム」が
*
1970年代半ばから1980年代の前半にかけてあって、そのとき青春期を過ごした世代から才能が何
かるでしょ」と。/そのスタジオは年功序列で、動画のキャリアが
長い人は、止めと口パクだけのカットとか、サイズのちっちゃい走
りとか、おいしいところを全部取ってって、モブとか間違った原画
とかは残ってて。『新人で、どうせ稼げないんだから、練習がてらモ
* 『 animator interview
板野一郎(1)
』 http://www.style.
スマ化した。
ス』(1982〜1983年)で強烈な個性を発揮しカリ
47
から。
『WEBアニメスタイル』
fm/as/01_talk/itano01.shtml
掲載。
48
ブをやんなさい』と言われて、野球場いっぱいのモブを描いたり、
*
そんな事ばっかりやらされてた。当時1枚100円だったんで、1
日やって100円とか」。
48
* 1959年生まれ。同世代の美樹本晴彦、河森正治、
庵野秀明らと参加したテレビアニメ『超時空要塞マクロ
挙げて。あとはみんな、「あんな大変なの、誰がやるんだよ!」「1枚200円もらったって、1日1枚か
れは大変な仕事なんだけど、それでもやりたい人は手を挙げて」と言ったら、僕と森山ゆうじだけが手を
の社長が「『宇宙戦艦ヤマト』の動画を、うちのスタジオで手伝う事になりました。うちは出来高で、こ
/そんなつもりでずっとやってたら、2カ月めに『さらば宇宙戦艦ヤマト』の動画の話が来た。スタジオ
「あの当時の人達はみんなそうだったけど、旧『ルパン』とか『宇宙戦艦ヤマト』が好きだったんです。
をこんな風に回想している。
人も現れることになる。アニメーター板野一郎もそのひとりで、高校を出て業界に入った1978年当時
*4
42
とはいえないだろうか。
月に
の 見 出 し で「 な か で も ア ニ メ 部 門 の 減 り が 激 し く、
40
*
『大塚康生インタビュー アニメーション縦横無尽』
( 大 塚 康 生、 森 遊 机[ 著 ]、 実 業 之 日 本 社、 2 0 0 6 年 )
た」とある。
95
さらに放映終了の翌年である1975年の5月に、ズイヨーが突
然「日本アニメーション」と改名し、さらに「日本アニメ企画」「日
*
本 ア ニ メ 音 楽 」 と い う 子 会 社 が 同 日 設 立 さ れ て い る。 こ の 日 本 ア ニ
メ社は『ハイジ』以後の『世界名作劇場』シリーズを毎年制作し名
声 を 博 す る も の の、 そ れ も ま た 少 数 の 才 能 集 団 に よ っ て 統 率 さ れ る
*
外注方式によるものであった 。
70
*4
45
12
目で眺めなおすならば、時間や人材や制作費が足りなくても一定の
て今なお世界各地で視聴される名作となった。だが、歴史の冷徹な
た。
takahata/heidi.html
* ち な み に 企 画 と 製 作 が 瑞 鷹 エ ン タ ー プ ラ イ ズ で、
43
44
*4
かつて東映動画労働組合の委員長として活動していた高畑が、『ハイジ』とともに招いてしまったこの
*4
46
*4
*4
592
訳者解説
593
さくしゅ
これはカリスマ板野が若い頃からいかに熱血で天才肌で仕事に一途だったのかを称えるときによく引き
合いに出される逸話だが、同時にアニメへの憧れが強いあまり業界の労働搾取体制の背中を一兵卒がむし
*
ろ押してしまう逆説的事態の異常さを異常と感じない世代がこの頃に現れていた(そしてやがて経営者と
同 じ 1 9 7 8 年、 当 時
歳になるかならないかの本書の著者もまたハナ=バーベラ社のアシスタント・
「過保護」に育ったアメリカアニメ労働者への手痛いしっぺがえし
して人を使う側になっていった)こともうかがわせる。
*4
ペ ー ジ )か ら も、 ア ニ メ ユ ニ オ ン の 力 が 日 本 の 同 業 者 に は 想 像 つ か な い ほ ど 大 き か っ
3
3
3
イキがあり、若き日の著者も参加し、そしてユニオン側が敗れた経緯
が苦々しく綴られている。日本のアニメ界では雇用→請負の移行によ
るひずみの蓄積と破裂が1970年代前半にあったと先に述べたが、
本質的に同じ地殻変動が 年遅れでハリウッドアニメ界でも顕在化し
*
ナイン・オールド・メン
『ヤマト』の企画が末期の虫プロで立ち上がったの
も暗示的である。日本の商業アニメ史において『ヤマト』
は画期的作品として位置づけられて久しいが、劣悪な労
働環境をアニメ狂の若者の熱意で補完する歪んだシステ
ム を 自 己 肯 定 す る き っ か け を 作 ら な か っ た だ ろ う か? これは後の「虫プロは経営は杜撰だったが人材を輩出し
た」とする言説を生む結果にもなった。
章には、ディズニーに残った老賢者九人衆の最後の二人が、映画『きつねと猟犬』それにディズニー
く「研修生」扱いだった)。アメリカで企画された『トランスフォー
マー』等がその後東映動画で制作されていることも考えると、同社
の採用再開には本書第9章で描かれたハリウッドアニメ界の変動の
『リトル・ニモの野望』(大塚康生[著]、徳間書店、
2004年)ほか。
*
年ぶりに新人採用を再開している(入ってきたのは先に触れた板野一郎の世代。ちなみに「雇用」ではな
『風の谷のナウシカ』(1984年)だった。そういえば東映動画は1981年に「研修生」の名目で十数
下請けではなくオリジナル企画を志向した宮崎は藤岡と袂を分かち、原徹と合流して制作したのが映画
に何本かのテレビアニメシリーズを、ストでのユニオン敗北後に提供している。
はまず間違いないだろう。事実、東京ムービーはディズニーのテレビアニメ数話ぶんを始め、全米放映網
藤岡それに宮崎がハリウッドアニメ界で国外下請けをめぐって衝突が続いているのを当時知っていたの
メリカアニメの下請けを主軸にしたスタジオを設立しているほどだ。
にいくつかのアメリカ下請けアニメの企画を取りまとめた原徹が同社を1971年に退社し、翌年にはア
できる。アメリカアニメの下請け制作は日本では1960年代から既に行なわれていて、東映動画在籍中
*5
東京ムービーの藤岡豊社長(当時)がアメリカ進出を以前から目論んでいたことは複数の文献から確認
あたっていたことを。
ライキがあった1982年夏のロサンゼルスに日本から送られた宮崎駿ら俊才アニメーターの講義実習に
筆者は果たして知っていただろうか、この二人はその後日本の東京ムービー社の顧問として、問題のスト
技法書の傑作『生命を吹き込む魔法』をまとめて引退したときの様子が敬意とともに綴られている。ただ
第
10
皮肉なことにユニオンの敗北は日本製アニメのアメリカ進出の追い風となった
たのだ、という解釈は大胆すぎるだろうか。
*
第9章には、1982年にハリウッド外への外注の制限条項をユニオン協約に入れるかどうかでストラ
外国スタジオへの発注というバイパス開拓によって切り崩されてしまったという。
たことがうかがえるのだが、その強大な力はあくまでハリウッドやニューヨークの業界内での話であり、
記述 (第9章
それでも1日2回の休息時間が、当時同社の社員ではなかった著者にまで徹底されていたという本書の
アニメーターとしてやはり昼夜を徹して働いていたという。
22
10
49
50
594
訳者解説
595
*
きっかけは1990年 月。ビデオアニメ『うる星やつら 乙女バジカの恐怖』の音声収録の際に、作
画がほとんど完成していない状態で声をあてさせるのは制作側の怠慢ではないかと声優が収録を拒否し、
画部会、つまり声優部と、アニメ業界の複数の組合や団体が連合してデモを敢行したことがあるという。
実は1991年と1992年に、俳優の一大組合・日本俳優連合(当時の理事長は森繁久彌)の外画動
この1982年の事件のような大掛かりなアニメ業界ストは日本では起きなかったのだろうか。
1992年、銀座でデモを敢行したのだが…
影響がやはりあったように思える。
*5
録音監督も同調。そして日俳連はこうした事態が繰り返される実情とその改善を訴えた文書をNHK、民
放五社、音声連、動画連盟に送付した。
当時の日俳連機関誌に当たると、「作画問題の原因を辿り、作画関係者と協議を重ねた結果、●低賃金
のためアニメーターをやめる人が多く、人手不足で需要に対応できない。●TV局の企画決定が遅い。こ
の2つが大きな原因となっていることがわかった。[中略]作画関係者の団体は組織率の低さはあるもの
も
っともこの頃の日本は経済成長が順風で円高が
進み、アメリカアニメの下請けは儲からない仕事になっ
頭したのが韓国アニメ界だった。
ていった。代わりにアメリカアニメの下請け先として台
*
の大幅な待遇改善要求を続けている。
[ 中 略 ] 部 会 は 予 算 枠 拡 大 の た め の 運 動 の 強 力 に 展 開 す る 為、 こ れ
らアニメーション制作に携わるスタッフと連携をとることにした」
年 前 の 1 9 8 8 年 に も『 磯 野 波 平 た だ い ま 年 収
と、アニメ制作現場の人間との共闘がこのとき模索されたことが確
*
認できる。
これより
164万円』の題で、声優の出演料がいかに少ないかを、テレビア
* 『日俳連ニュース』1990年 月号掲載の『アニ
メスタッフとイベント開催へ』参照。
る。日俳連の外画動画部会が発行する機関誌『 VOICE
』にも、声優の出演料の格付けが声優たちの意に
*
反して業界内で悪用されていると糾弾する寄稿が翌 年の号にみつかる。翌 年 月には「テレビ放送局
*5
90
2
*
送られた。
これによると既に
*
*
年代後半から映産労ら複数の労働組合によってアニメ業界の労働実態調査が、小規
件より2カ月前に発行された映産労 (582ページ参照)の機関誌『アニメれぽーと』からもうかがえる。
*5
声優たちに留まらず制作現場側でも以前から待遇をめぐって不満がくすぶっていたことは、収録拒否事
そして問題の収録拒否事件はその翌月のことだったのである。
*5
アニメーション番組の音声製作の実態について(お願い)」と題した要請文が日俳連から各放送キー局に
89
*
1989年
月
日付。
年史』から『アニメの「白味線取り」
月
日発行)
『アニメ事業者による「番組制作費引上げ要求」幻の署
2014年
名用紙、見つかる』 http://anirepo.exblog.jp/16420573
月現在も存続。
*
h198617.html
* 『アニメれぽーと』(1990年
対 策 』 を 参 照。 http://www.nippairen.com/news/hist1986/
* 『日本俳優連合
ついては602ページを参照。
「レタス」が発売された。デジタル移行にともなう混乱に
* 『昔の資料から(1990年)
アニメの録音実態とデジ
タル化について』参照。 http://anirepo.exblog.jp/16904368/
奇しくもこの日に画期的なアニメ用デジタル撮影ソフト
15
現 実( 約 6 7 0 万 ) の 3 倍 で す。 現 行 の 制 作 費 が 如 何 に 安 く 私 た ち
の労働条件や賃金が如何に酷いものかわかります」
と訴えられている。
問題の収録拒否事件をきっかけに声優とアニメ制作現場人の共闘
が図られた。事件から4カ月後、つまり1990年7月には「アニメー
ション事業者協会」が発足。「大手元請会社には勧誘はしないが、入
*
会希望してきた場合は拒絶もしない」とする方針からうかがえるよ
*
うに、下請けの零細アニメ会社の連合だった。
映産労関係者によると、事業者協会発足のいきさつはこうだった
という。
「映産労(アニメ共闘)や映演共闘などは、当時バラバラだった下
*
模とはいえ行われていたようだ。同記事では「現行の3倍の制作費の実現を」
「『世間並み』を求めれば、
80
6
1
3
ニメ『サザエさん』の出演者のひとりが告発した記事が世に出てい
51
52
2
*5
*5
請会社と定期的に懇談会を行い、経営者らに事業協会のような受け
22
*5
7
30
1
*5
54 53
55
57 56
58
596
訳者解説
597
598
訳者解説
599
%以上の組織化を誇り、ストライキ可能な「日俳連」をモデルの一つにあげ、アニメのフ
皿作り(組織化)を促しました。
当時から、
*
り合い、打ち合わせを重ねました」。
月
*
日、日比谷野外音楽堂に313人を集めて『 ・
3
*
テレビアニメ制作条件改善を求める決起集会』
[中略]日俳連では映演共闘、アニメ事業者協会との連絡を密に取り合って、再び1992(平成4)年
本問題が解決されず、白味線取りでの収録といった悪条件下の出演が残されたままになっていたからです。
このことから翌年改めてデモが行われた、と日俳連の沿革には記されている。
「製作費の拡大という基
同年中に成果を掴んだようだ。もっとも番組制作費の拡大という、アニメ組合側の要求は達成されなかった。
*6
翌1991年 月に、総勢800人の共闘デモが都内で敢行され、記者会見で締めくくられた。声優組は
*6
*5
映産労などのアニメ労働組合は、アニメ声優が多く所属する、日俳連・外画動画部会と綿密に連絡を取
リー労働者にも、組合への加盟を呼びかけました。
90
3
15
膨れあがりました」。
日俳連の沿革では「後日、製作費が
%アップした番組もあると
の報告も寄せられました」とデモの成果をまとめられている。だが
こ の デ モ に 直 接、 間 接 に 関 わ っ た ア ニ メ 制 作 現 場 の 人 々 に 当 時 の こ
~
(
*
年史 』 から。
年 代 の ア ニ メ れ ぽ ー と か ら )』
jp/16397390/
『日本俳優連合
com/news/hist1991/h199102.html
そのぶん大勢の視聴者がCMに触れるのでスポンサーの
商品が売れるというのが民間テレビ放送の基本だったの
http://anirepo.exblog.
http://www.nippairen.
同 上 http://www.nippairen.com/news/hist1991/h199105.
html
年には、偶然だろうか、製作委員会方式による最初のテレビアニメ『無責任艦長タイラー』が企
年代後
70
ただテレビアニメでは話が違った。高視聴率であれば
半から行われている。
製作費の調達が容易になることから映画界では
て、出資の比率に応じて作品の利潤を分配するやり方で、
製作委員会とは、複数の出資者による「委員会」を作っ
画され翌年に放映された。
この
しぼ
年は、栄華を極めた日本の好景気(いわゆるバブル経済)が次第に萎んでいく
92
というところだろうか。
—
補足すると、この
91
「製作委員会」というリスク分散装置
時期でもあった。
た
海の潮が高くなったものの、やがて月と太陽がそれぞれの軌道にずれていくにつれて潮もまた引いていっ
すべきなのか。喩えるならば、月と太陽が地球とあるとき一直線に並ぶ瞬間があって、引力が束なって
たと
アニメ業界で、一時ここまで運動が盛り上がり、やがて自然消滅した事実を、歴史的視点からどう解釈
既に労働運動がほぼ息絶えていて、組合加入者もおそらく5%を大きく切っていたと思われるこの頃の
*
30
と を 聞 い た と こ ろ「 近 藤 喜 文 氏 に 誘 わ れ て 組 合 の 会 合 に 数 回 顔 を 出
したが、組合の論理になじめず離脱した」「体力的にも時間的にも声
優さんたちほど余裕がなく、その後も日俳連から共闘を呼びかけら
れたが運動を共にできなかった」という。ちなみにデモに参加した
90 59
60
61
20
アニメ関係者のほとんどは組合加入者ではなかったと思われる。
* 『生活苦しい、テレビアニメ制作費を2300万円に
を開催しました。集会にはアニメ共闘や民放労連の組合員も参加しましたから、総勢はなんと960人に
15
92
が、『タイラー』で覆された。番組そのものが商品として、
▲ 1992 年 3 月 15 日の銀座デモの予告。野
沢雅子ら有名声優に混じって、芦田豊雄、荒
木伸吾、石黒昇、板野一郎、宇田川一彦、近
藤喜文、山本二三、それに森康二らアニメ業
界内の著名人の名前が確認できる。さらには
「アニメ共闘」とある組織の長は、当時始まっ
て間もない『美少女戦士セーラームーン』の
監督・佐藤順一であった。
3
つまりビデオカセットで売れるのであれば、潜在的購買者層にしか番組を視聴されなくても何ら問題はな
いとする、逆転の発想がなされたのだった。
テレビアニメとして制作された『うる星やつら』(1981~1985年)が、後にレーザーディスク
化されると大勢のアニメマニア男子に購入されたことや、ビデオアニメで週一本発売を売りにした大河ド
ラマ『銀河英雄伝説』(1988年開始)がやはりマニア男子に買われた実績もあったゆえの企画だった
のだろう。ただ理由は他にもあって、バブル経済の崩壊とともにテレビアニメの新作点数が激減し、同時
*
に「OVA市場の売り上げも頭打ち状態となり、ビデオメーカーは逆に活路を求めてTVへと参入し始め」
*
『TVアニメ
animestyle.jp/2013/02/18/3987/
50
「クール・ジャパン」の掛け声が結果としてアニメ産業論をいくつも生み出した
章を読むと、『リトル・マーメイド』(1989年)で中興期
年史のための情報整理』から。 http://
からの突き上げという別種のリスクをも分散させる装置として働いてはこなかっただろうか。
製作のリスク分散のために発明された製作委員会方式は、著作権者を分散することで、制作現場の人間
たということなのかもしれない。
動しても「うちは放映してるだけだから」と著作権法を盾に拒絶できる仕組みが(結果として)できあがっ
ケースは多い。テレビ局は放送枠を売るに留まるわけだが、見方によっては、制作費の拡充を放送局に運
を連ねていない。製作委員会方式のテレビアニメでは放送局が出資者でない、つまり著作権者にならない
テレビ東京系で放映されて一部の層を中心にファンを急拡大させたこの番組は、テレビ東京が委員会に名
製作委員会方式による最初のメガヒットが『新世紀エヴァンゲリオン』
(1995~1996年)だった。
たことが大きいという。
*6
本 書 に は 日 本 製 ア ニ メ に つ い て も 少 し だ が 言 及 が み ら れ る。 第
、
11
12
は結局鉛筆をCGに代えた家族向け路線に 世紀の活路を見出していったことが綴られている。
ン路線に挑戦したものの、それはむしろ実写映画にこそ向いていることがはっきりして、アメリカアニメ
を迎えたディズニーが、やがてマンネリズムに陥り、他社も含めて日本のANIMEを意識したアクショ
おちい
62
いう意欲的研究書が著された。
前 者 は さ ま ざ ま な 公 表 デ ー タ を 組 み 合 わ せ て 日 本 の ア ニ メ 産 業・
市 場 規 模 を 概 算 し て み せ た 労 作、 後 者 は「 ア ニ メ 制 作 に は ほ ぼ 素 人
のまんが家・手塚治虫がテレビアニメを無手勝流に開拓したのが祟っ
て日本のアニメ界は劣悪労働環境が定常化してしまった」とする従
来の説に異議申し立てする野心作ではあった。
なぜ労働環境が劣悪なのかが論じられない不思議
も っ と も、 行 政 機 関 に よ る 調 査 報 告 書 で は 労 働 環 境 の 劣 悪 さ が 指
*
『アニメーション産業研究会報告書』(2002年6
アニメーション産業実態調査
』(2002年3月、労働政策研究・研修機構)ほか。
* 刊 行 は と も に 2 0 0 7 年、 N T T 出 版。 ち な み に
担 当 編 集 氏 は 同 一 人 物 で、 2 0 1 1 年 に『 も っ と わ か る
―
産業の雇用と人材育成
―
調査文書』(2004年2月、経済産業省)、『コンテンツ
(2003年6月、経済産業省)、『アニメーション製作・
月、 経 済 産 業 省 )、『 ア ニ メ ー シ ョ ン 産 業 の 現 状 と 課 題 』
*
2007年には『アニメビジネスがわかる』(増田弘道)『アニメ作家としての手塚治虫』(津堅信之)と
*6
各行政機関によるアニメ産業の調査報告書が2014年現在に至るまでいくつも作成されている。さらに
*
要するに政策の自己肯定材料として日本製アニメの国際的人気を強調したわけだが、これを受けて国の
ジャパン」と規定し、その先頭走者として日本のANIMEを持ち上げたのだった。
なる日本の特許を国ぐるみで守るのを目指したもので、その延長で日本のポップ・カルチャーを「クール・
相(当時)が「知的財産立国」を宣言していた。アジア諸国からの工業製品輸出の拡大を受けて、根幹と
アメリカアニメ界で鉛筆からCGへの移行にともなう激震が続いていたその頃、日本では小泉純一郎首
21
*6
摘 さ れ る こ と は あ っ て も「 新 人 が 育 つ 環 境 の 整 備 が 必 要 」 と い っ た
63
輝+津堅信之[編著])も企画、担当。
ア ニ メ ビ ジ ネ ス 』( 増 田 弘 道[ 著 ])『 ア ニ メ 学 』( 高 橋 光
64
600
訳者解説
601
体の、あくまで人材育成の問題としてどういうわけか扱われがちだ。『アニメビジネスがわかる』はあく
までスタジオ経営者の目線でまとめられており、局や製作委員会から提供される制作費の不足は訴えられ
ていても、制作現場の人間にどのくらい金がまわされているのか(いないのか)はとうとう論じられない。
『アニメ作家としての手塚治虫』も、手塚率いる虫プロでは(少なくとも初期は)現場の人間にも十分す
ぎる報酬が支払われていたことを強調するが、それではなぜその仕組みが崩壊したのかについては、
「『ア
*
アニメ制作のデジタル化の弊害についてはいろいろ指摘されてい
式だった事実からもわかる。
*
る。そのひとつとして、デジタル彩色化によって賃金の問題が日本
では浮上したとする現場の声がある。
「かつてセルのペイント作業は、
*
からだった。肝心の労働環境問題については迂回しつつ
アニメ史、アニメ産業論を一見破たんなく語ってみせた
のである。それからキャラクター論がこの頃から数年に
わたって流行ったのも同じ文脈で説明できる。「コンテン
ツ・ ビ ジ ネ ス で は な く キ ャ ラ ク タ ー・ ビ ジ ネ ス と 呼 ぶ べ
きだ」とする言説が現れたのも同じ理由。「キャラクター・
ビジネス」といいかえることでアニメ界に限らず労働環
境の問題が不問にされるので学者、経営者の双方にとっ
『デジタル化とアニメの表現方法 デジタル化のも
て都合がよかったのである。
*
た ら し た 課 題 』( 有 原 誠 治 ) 参 照。 http://anirepo.exblog.
jp/259145/
人の平均月産枚数は約2000枚」に増え、それでいて手塗り時代の単価設定が
1
それでいて単価設定が変わらないので収入も半減したという。
*
一方で動画は、デジタル彩色に対応した線の引き方を強いられるために月産枚数がかつての半分になり、
改められなかったために同じ労力でも倍の収入になっている、と。
*6
には「ペイント担当者
と手間隙が掛かったため、担当者1人の月産枚数は約700~1000枚前後だった」のが、2009年
絵の具の乾き待ちや影の色トレス等、動画と同じように熟練の技術
* この2冊が広く読まれ好意的書評があいついだの
も、「クール・ジャパン」の掛け声に見事に沿ってみせた
トム』の追従者が虫プロのような経営努力を怠ったせいではないか」といきなり結論付けてそれ以上の探
月放映ぶんからデジタル彩色に切り替えられた一方
ペイント
1997年に業界最大手の東映動画(現・東映アニメ)が『ゲゲゲ
日本では制作のデジタル移行について各社でずれがあったことは、
境がどう変わったかが第
章では論じられる。
年代にアメリカアニメ界にデジタル化の波が押し寄せ、労働環
デジタル化、3D化のしわ寄せも現場に
究を打ち切ってしまう。
*6
で、同年に始まった『ポケットモンスター』が従来の手塗りセル方
の鬼太郎』の
4
65
66
12
90
*6
ジ)
。 日 本 は と い う と、 観 客・ 視 聴 者 の 側 に 2 D ア ニ メ へ の 嗜 好 が
根強いこともあって、3D技術を取り入れながら従来の2Dアニメ
の絵柄に落とし込む試行錯誤が今も続いている。
*
これもまた日本の新たなガラパゴス化なのだろうか。そして労働
環境にどんなしわ寄せが来ているのか、興味そそるテーマではある。
労働実態調査が行なわれたのは2009年になってから
それにしても過酷な労働環境についてはマスコミでも時折取
*6
*
『今、アニメ業界で何が起こっているのか!』
(ヤマサキ
* 3年ごとに改訂される。ひな形(2012~2015
年 期 ) が 公 開 さ れ て い る。 http://animationguild.org/wp-
php?bid=2&uid=9
オサム) http://www.janica.jp/club/modules/director/details.
67
せの告発だった。
マのひとつが、デジタル化による労働者への負担しわ寄
雇事件(後者は2014年
月現在も法廷闘争中)のテー
* 東映アニメの美術監督・千田国広の契約解除事件、
それに背景美術専門のスタジオイースターでの三社員解
content/uploads/2012/11/2012-2015-Master-Book.pdf
68
69
行にあたって2004年に激論があったことが綴られる (497ペー
やがて3Dアニメーションが業界の主流に。ディズニー制作現場内でも、旧来の作り方を捨てての移
にその職種だったようだ。
。「コンピュータを使いこなす技量が必須だったから」だと。彩色がまさ
る記述が見つかる (507ページ)
タル化によって、1982年ストの敗北後ずっと国外に流れていた仕事がたくさん国内に戻ってきたとす
数単価の改正という問題はそもそも起きなかったのだろうか……本書には何も記述がない。もっともデジ
アメリカアニメ界はどうか。各職種の最低賃金がユニオンと制作各社とで取り決められているので、枚
*6
1
602
訳者解説
603
り 上 げ ら れ る も の の、 具 体 的 な 統 計 数 字 は ど の く ら い あ る の だ ろ
う か。 一 応、 映 演 総 連( 現・ 映 演 労 連 ) が 1 9 9 4 年、 1 9 9 6
年、1999年に行なった調査の結果がウェブで読める。さらに、
2005年には文化庁からの委託で社団法人日本芸能実演家団体協
程度。統計数
*
『JAniCAシンポジウム
記録は以下で読める。
2009』 http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0905/28/news016.
html
* 同 討 論 会 で こ の ス タ ジ オ 社 長 か ら「 ア ニ メ ー タ ー
も た く さ ん い て、 ス ケ ジ ュ ー ル を 守 ら な い、 内 容 悪 い と
いう人は現実にいるんです」「お金払う方としては『あな
*
と僕は思っています」と吐露している。実は2005年の文化庁調査
も、最初は大手アニメスタジオによる社団法人・日本動画協会に委託
*
を依頼したものの拒絶され、それで日本俳優連合(声優の9割はここ
*
たというところだろうか。2009年の調査を同協会が容認したの
労働環境の実態を自ら暴露するに等しい調査には協力できなかっ
の会員)が参加している芸団協に調査の依頼がまわってきたという。
*7
*
2009年の実態調査から浮かび上がるのは
2011年
月に芸団協本部で取材した際に確認。
* JAniCA内部でも同センターに強い期待を抱い
ていて提言書が経産省メディアコンテンツ課、自民党、内
* 調査はJAniCA主催だが、各スタジオの協力が
なければ実行不能だった。
*
の自覚の裏返しにも聞こえるのである。
言は、業界の実態が偽装請負体制であるという経営者側
の作成の徹底を各社に急遽指導している。つまりこの発
界の実態調査報告書を受けて、日本動画協会が請負契約
実は同年1月末に国の公正取引員会がまとめたアニメ業
性 の 問 題 が 指 摘 さ れ て い る。 も っ と も で は あ る の だ が、
今は下請法でできないんですよ」と絵描き側の腕や人間
と い う 選 択 も あ っ て い い と 思 う わ け で す。 で も、 こ れ も
ましょう。だけど満足できなかったら、俺金払えないよ』
学的にも有効とみなせる調査結果を拝むには、2009年に行なわ
*
結果報告と討論の会が同年5月に開かれている。その席で、あるス
たは満足なことを返してくれたから、満足なお金を払い
議会が同種の調査を行なっているが、サンプル数は
70
71
れたJAniCAによる調査を待たねばならなかった。
90
タジオ社長が「本当はこれは日本動画協会がやるべきことではないか
*7
▲ 正規分布曲線。全国模試の得点と順位の関係をはじめ、たい
ていの統計数字はこの曲線に近似する。それが…
▲ 同調査報告書から「原画」職の年収をスムージング・グラフ化。
下の数字の単位は万円。他の職種のグラフも興味深いが紙面の都合
で省略。
閣官房知的財産戦略推進事務局、文化庁文化部芸術文化課、
それに民主党に提出されている。
http://www.janica.jp/press/press090709exhibit.pdf
*
*
す
* 「 拘 束 料 」 に つ い て は 現 場 か ら の こ ん な 解 説 が あ
る。「 ア ニ メ ー タ ー さ ん は、 あ る 程 度 キ ャ リ ア を 積 む と、
入があったりすれば最右翼の山(このグラフでは平原状に出力されている)に跳ぶ 。
*7
契約に「出世」することで右隣の山に移っていく。さらにキャラクターデザインや版権イラストなどの収
左翼の山で、それがやがて腕を認められて月ごとの固定料契約や半年単位の拘束料契約、長編映画ごとの
*7
ここから想像を膨らませるに、一枚いくら、一カットいくらの出来高制で働く者は年収が最も少ない最
学力の山ほど小さくなる)、そしてそれらを加算すると下の図のようになる、
という比喩は下衆であろうか。
げ
力に極端な差があるとして、そこに統一試験を受けさせれば、それぞれ標準偏差の山が違って(人口も高
が折り重なっているのかもしれない。仮に底辺校、そこそこの学校、進学校、超進学校とで各校生徒の学
軸に置いたグラフにおいて、多くの職種が正規分布曲線を形作らないことだ。複数の山(正規分布曲線)
この調査結果を眺めて気になったのは、年収を横軸に、人数を縦
11
*7
は、この頃進んでいた国立メディア芸術総合センター構想への期待
*7
もあったのかもしれない。
*7
73 72
74
interview/303
ニメ」で生きていくということ 谷口悟朗監督×ヤマサ
キ オ サ ム 監 督 ロ ン グ 対 談 第 一 回 』 http://www.p-tina.net/
い。前倒しで払っているわけですからね。」
出典は『「ア
な せ な く な っ て、 収 入 が 下 が っ た 場 合 に 手 当 を 出 さ な
で す が。 / だ か ら、 年 を 重 ね た ア ニ メ ー タ ー が 物 量 を こ
味のお金なんですよね。制作会社はわざわざ説明しない
起 こ す な り、 自 己 投 資 す る な り し な さ い よ …… と い う 意
か ら、 引 退 後 の た め に 貯 金 す る な り、 元 手 に し て 事 業 を
ま す よ ね?[ 中 略 ] ア ニ メ ー タ ー の 現 役 寿 命 が 一 番 短 い
制作スタジオから拘束料、もしくは半拘束料が出たりし
75
1600
1400
1200
1000
800
600
400
200
0
604
訳者解説
605
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*
0
一方、右隣の山に取り立てられていくことが叶わなかった者は、その年収に耐えて生きていくか、年齢
*
画 は 見 習 い 期 間 で、 本 来 な ら ば お 金 が も ら え る よ う な 存 在 で は あ り
ません」という発言が飛び出した。ミュージシャンは仕事が少なく
が多い。つまり基本給+部分出来高制。
*
ない。当の絵描き達から批判がツイッターで相次いだ。しかしなが
と
定数は残り、兵をまとめ前線指揮を執る――。
―
日本のアニメのもうひとつのエネルギー源
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現と充実を期待したい。
* 「【 T A F 2 0 1 2】『 ま ず は、 入 っ て か ら 考 え ろ 』
アニメ業界に就職する方法は、これだ!」
http://www.cyzo.com/2012/04/post_10306.html
* 数字の出典は『守れ! 日本のアニメ制作 文化庁、
人材育成に動く』より。『日本経済新聞』2010年7月
日付朝刊に掲載。
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http://anime.typepad.jp/blog/2009/03/80-0aab-19.htm
傍点は引用者による。
* 『 日 本 の ア ニ メ ー シ ョ ン に つ い て 』『 日 本 映 画 の 現
在』(岩波書店、1988年)に掲載。
*
価』より。
* ブ ロ グ『 ア ニ メ ビ ジ ネ ス が わ か る 』 内 の『 手 塚 治
虫生誕 周年〜ポップカルチャーの元祖、その業績と評
0
手塚治虫死去の前年に宮崎駿がこんな論考を著している。「日本のアニメは、
マンガの原作をアニメ化し、
ば「日本のアニメーションはまんが産業の傀儡なり」と経営側の人間が暴露しているに等しいのではないか。
かいらい
だがこの自画自賛的な歴史観によって何かが隠ぺいされていないだろうか。意地の悪い言い方をするなら
えるであろう」と結論づけている。
一体であるが、この流れは手塚が日本で最初のテレビアニメを手がけたことによって決定的になったと言
それをそのまま取り込んだ」「今でも、アニメの原作の大半はマンガであり、その意味でアニメとは表裏
中心に発展したストーリーマンガが優れたエンターテインメント性を持っていたからであるが、アニメは
つに至った競争力」の源として「1)エンタティンメント性 2)経済性 3)生産性」を挙げ、
「日本
のアニメは面白くかつ価格が安い、そして量も豊富」なのは「日本がマンガ大国になったのは手塚治虫を
65
マンガのキャラクターデザインを流用し、マンガの活力を吸収し、
マンガ家志望の少年少女たちからスタッ
フを集めて成り立っている。もちろん、例外はあるが、一般論とし
て間違っていないと思う。[中略]マンガを元に、しかも劇場用長編
*
映 画 に 比 べ、 圧 倒 的 に 短 い 週 単 位 の 製 作 期 間 し か 持 て な い テ レ ビ シ
そういえば本書には人気まんがを原作にしたテレビアニメの話題
は ほ と ん ど な い。 ま ん が と ア ニ メ の タ イ ア ッ プ と い う 発 想 自 体 が か
ママ
* 「入ってから考えろ」と若い労働力を集めて「自分
で進んで入ったんだから文句をいうな」と切り捨てるメ
カニズムが裏で働いていることに留意されたい。
アニメスタジオの経営経験もある増田弘道は自身のブログで「日本のアニメが世界の %のシェアを持
*
まんが文化
比率ではごくわずかだが、それでも志願者の絶対数が大きければ一
死んでいっても志願者は押し寄せるので補充には困らず、残る者は
なのだ」「根性がない」「才能がないから」と正当化される。兵卒が
りゆく若者達に対して仮に良心の呵責を覚えても「連中は自営業者
か しゃく
動画の新人・若手の離職率は8〜9割に上るという。雇う側が去
かった。
* JAniCAの調査報告書には洞察の不足に加え、
統計数学上の不備もいくつか見られる。第二回調査の実
ともに質の高さも問われることから社員雇用されること
ま た 背 景 美 術 を 描 く「 美 術 」 は、 こ な せ る 枚 数 の 効 率 と
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*8
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ら日本のアニメ界の実態をこれほど簡潔明瞭に語った発言もまたな
「実演家」としての権利が守られているが、アニメ絵描きはそうでは
* 制 作 現 場 を 取 り 仕 切 る「 制 作 進 行 」 や「 制 作 デ ス
ク」等は社員(正社員のスタジオもある)のほうが多い。
本質的にミュージシャンなどと同じ自営業です。そして職業としてのアニメーターは原画の仕事から。動
2012年、東京国際アニメフェアの就職セミナーの席上で、元経営者の講師から「アニメーターは、
「動画は本来、金を貰えるような存在ではありません」
的に転進が効くうちにやがて去っていく……。
*7
ても副職で食いつなぐ時間的余裕があるうえに、著作権法によって
*7
の国では、いや日本以外のどの先進国でもおよそ異質なのだ。
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リーズとして、日本のアニメは出発したのだった」。
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訳者解説
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い
ふ
そういう視点から日本を眺めなおした場合、日本のまんが読者人口、市場規模、そしてまんが家志願者
数の多さは驚異を超えて畏怖でさえある。そしてまんがとアニメの垣根が低いゆえにアニメの志望者もま
た毎年膨大な数を誇り、そして先に指摘したように新人からの労働搾取で業界が回り続ける――
もはや誰にもいじれないほど「成熟」してしまった
さくしゅ
広告代理店、テレビ局、製作委員会ほかから「搾取」されるためアニメ制作会社に十分な制作費がまわっ
てこない、と嘆く声は昔から聞かれる。ただ、制作会社に入った金がさらにどう分配されているのかを論
じたものが不思議とない。制作現場の人間の存在が従来の自称アニメ学やアニメビジネス論では排除され
ている、もっとはっきりいえば外部化されているのだ。
およそ十分とはいいがたい制作費を強要されても制作ラインがまわり続けるのは、まんが文化(おたく
文化と呼んだ方が正しいだろうか)を母胎に人気原作が(そしてその原作のファンが潜在的消費者として)
* 『 ア ニ メ ー タ ー・ 都 竹 隆 治 氏、「 イ ー ス タ ー・ 残 業
代不払い提訴」について言及する。』 http://togetter.com/
いくらでも供給され、アニメマニア層が一定規模の消費者として期待できて、そして制作現場で兵卒がい
くら倒れ、戦線を去っていっても、代わりの若い志願者がまたいく
らでも「外部」から集まるし、たくさん集まれば生き残るものは生
き残って下級将校に「昇格」し、なかには「完全歩合制が基本だか
ら『自分が作ったものを売って収入を得る』だけなんだよね。これ
*
だけ。至極単純。ラーメン屋がスープ仕込むのに何時間と営業時間
外も働いてて『残業代』と言う奴いるか?」と豪語する者も現れ、
さらには下請けスタジオを設立して経営者になる者も現れる。そし
*
て雇う側の論理が「親心」として再生産される。「俺だって新人のと
*
き死ぬほど苦労したからこそ今があるのだ」と。
* 志願者とりわけアニメーター志望者に対して雇う
側 が「 実 家 か ら 通 え る?」 と 聞 く 理 由 も こ こ に あ る。 志
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アニメという「原罪」とどう向かい合うか
*
望者の9割が挫折することは既に織り込み済みで、その
挫折するまでの期間をできるだけ引き延ばして酷使した
ほうがたくさん搾り取れる。そして実家から通わせたほ
うが引き伸ばしは効くのである。
それぐらい日本のアニメ界はもはや「成熟」してしまっているのだから。
―
結び
地味な、しかし的確な指摘だった(第1章)。絵画を描くのなら一人
か、せいぜい助手がつくぐらいなので「著作者」は一人に絞られる。
だがアニメーションは必然的に分業化、流れ作業化されていった。
おのれ
ときには数百人の絵描きが一つの作品に投入される。当人たちは己
を芸術家と考える。けれども「著作者」ではない。芸術家でありな
がら著作権は与えられない、つまり法解釈上は職工と同じ「労働者」
*
う に 行 な わ れ て い る。 だ か ら も し ア ニ メ か ら の「 搾 取 」
の手を緩める方針に仮に切り替わっても、今度は他の業
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界から「我々はどうなるのか」と必ず非難の声があがる。
こうして広告代理店による「搾取」体制はされる側によっ
て維持されていく……。
* タ ツ ノ コ プ ロ 元 社 長・ 成 嶋 弘 毅 の 手 記「 ソ フ ト パ
ワー大国ニッポンの大嘘」(『新潮 』2010年 月号
*
ア ニ メ ー シ ョ ン・ ギ ル ド で は、 新 人 の た め の 最 低
賃金も定めて各スタジオと協約を交わしている。
押し返されてしまう苦い事実が語られている。
掲載)は必読。どこをどういじっても既存利権によって
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なのだ(しかも日本では「労働者」ですらない)。商業アニメーショ
ンは始原からこうした原罪をかかえたメディアなのである。
あがな
そ し て、 な ぜ 本 書 の 邦 訳 に 大 き い 意 義 が あ る の か も 理 解 し て い た
だけると思う。この原罪を贖う手段として、本書の著者が力説する
* た だ「 搾 取 」 は ア ニ メ を 狙 い 撃 ち し て い る わ け で
は な い。 他 の コ ン テ ン ツ、 メ デ ィ ア に た い し て も 同 じ よ
本書を訳していて一番感銘を受けたのは、アニメーションの分業化こそがすべての始まりであるという、
ため日本国内で人が育たなくなっているという。
合理化の果ての必然ではあるが動画をはじめとするさまざまな職種の作業がアジア諸国に外注され、その
だが、搾取と表裏一体とはいえ才能を鍛え育てる仕組みが、たしかに今まで機能してはいた。それが、
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これでは広告代理店等の「搾取」が仮になくなっても、現場の人間にやはり金はまわってこないだろう。
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ようにユニオンが唯一絶対の回答なのか、少なくとも日本のアニメ
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訳者解説
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界はそうではないようだ。ただ労働環境問題について公的に語ることが半ばタブー視されている観がある
パラレルワールド
この国のアニメ界にとって、そうした問いかけが現役アニメーターの手で堂々となされるアメリカアニメ
界は、鏡の向こう側に広がる並行世界である。
今年(2014年)は、戦後日本の高度経済成長の一里塚となった東京オリンピックからちょうど 年。
でもらえれば、と切望している。
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もろもろ
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いろど
半世紀、日本のアニメ産業論で何が隠蔽されてしまったかを告発する鏡として本書は読めるし、そう読ん
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商業アニメの歩みは日本の経済成長の陰で暗渠化された諸々とともにあった。栄光と混乱に彩られたこの
きょ
悲願だった二度目の東京オリンピックに向かって、この国はおそるおそる再起動をかけつつある。日本の
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