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張 08
17 志賀直哉「雨蛙」を読む ―不義の妻と欲情する夫について― 張 蓮 1.はじめに 「雨蛙」1は、大正 12(1923)年に執筆され、大正 13(1924)年 1 月に雑誌『中 央公論』に発表された短篇小説である。また本作は、作家生涯における唯一の長 篇である『暗夜行路』(1921-1937 年)後篇との執筆に密接な関わりがあるとし て知られている。「創作余談」2によると、「雨蛙」の執筆の最初の構想で、志賀 直哉は賛次郎を『暗夜行路』の主人公(時任謙作)とかけ離れた青年として構 想したという。つまり、 「雨蛙」において、作者は、賛次郎を謙作とは「反対に、 姦通され、それを怒るよりも、それから却て妙に細君をいとほしむ気持になる 主人公」3として描くことにしたのである。 志賀直哉文学における女性像の考察、およびテクストの解釈を進めるには、 作中における女性の分析のみならず、テクストにおける男性登場人物との関係 の中から、女性の位置を分析することが必要であると考える。つまり、主人公 である賛次郎と彼の妻・せき、そして、他の男たち(竹野茂雄、小説家 G)と の関係を解明することが必要である。 本論文では、最初に、 「雨蛙」に登場するせきと、賛次郎がどのように描かれ ているか、主人公二人がもつ意味とは何かを考察する。次に、迎雲館事件4につ いて、改めて女主人公の立場から、せきと小説家Gとの出来事をフェミニズム /ジェンダーの視点を入れて分析したい。そして、最後に「姦通され」、却って 妻せきを「いとほしむ気持になる」賛次郎の欲望の構造を明らかにしながら、 「雨蛙」における夫婦関係の真相を読み解いてゆく。 2.「妻」の姿 2.1 美しい田舎娘 賛次郎の妻であるせきは、いかなる人物であるだろう。彼女についての描写 は次のようなものである。 18 張 蓮 せきと云う名だった。無口で余りはきはきしない、学問のない、然し誠に 美しい田舎娘だった。背丈のない事を当人は苦にしていたが、四肢の均等 した発育が、それを少しも醜く見せなかった。首から上の小さい、髪の毛 の豊かな――髪は少し赤かったが――皮膚の滑かな、鼻の形の正しい、そ して全体に如何にもクリクリと肉附に弾力のある事が見るから健康そうな 感じで、何人にも一種の快感を与えた。一つ当人の知らない欠点を云えば 茶色の勝ったその眼に光がなかった事だ。 作者は、せきの四肢、首、髪、皮膚、鼻へと視線を移してゆき、読者に彼女 の身体の印象を紹介する。せきは、健康的に恵まれ、美しく、肉体的魅力に溢 れているが、しかし、無口で学問のない「田舎娘」である女性として描かれて いる。そして、テクストから読み取れること、それは「せき」が「茶色の勝っ たその眼に光がなかった」欠点とか、 「無心の眼差し」とか「淋しい眼つき」と かいったふうに眼に焦点を置かれ、彼女の性格も心理も、こうした眼によって 表現されていることである。作中、彼女の視点というものは、作者によって全 く示されていない。せきは、見られる存在であり、語られる存在である。 講演会前日に祖母が倒れた。そのために、彼女は自分も家に残ると言えばよ いはずだが、それも言わない。講演会を聞きに行くことでも、せき自身は関心 がないが、夫に勧められたために、講演会へ行くことになったのである。せき は夫の言葉に対して何事にも従順に頷き、無口で自分の主張らしい主張は全く みられない。このような場面から考えても、せきには全く自分の意志が無いか、 あるいはあるとしても気持の表明さえもできない女性だと言うことができるだ ろう。特に、迎雲館での彼女の行動は、彼女の自我の希薄さを端的に示してい る。迎雲館で、せきは、男との関係でよく噂に上る山崎芳江から宿泊を勧めら れた際に、 「どちらでも」と答える。つまり、彼女は受身的な存在として描かれ ているのである。せきは夫・賛次郎を含めて、他者から言われれば、従うだけ の女性であったと言える。 また、せきは結婚して間もなく妊娠したが、一度流産してから三年間、妊娠 していない。つまり、彼女は、もう妊娠できない、すなわち、 「産めない」女性 であることがわかる。しかしせきは「産めない」ことを「気にも留めない」の である。大正時代において、 「産めない」女性は「役立たず、片輪者」として扱 われることも珍しくはない5。せきの不妊が「三行半」を渡されることへ発展し 志賀直哉「雨蛙」を読む 19 ていないこと、それは、中村智が指摘するとおり、それがただちに夫婦関係を 脅かす問題と捉えられていないからである6。しかしながら「女は子どもを産ん で一人前」とする社会通念7の下で、不妊のせきが、 「産める」女より一段低い位 置につけられているともいえるのだが、彼女は、そのことを「気にも留めない」。 このように、せきは女性として自分の感情にさえ乏しい女性として描かれている。 これらの点からみると、せきという人物の造型には、一貫性があると思われ る。 「雨蛙」では、無口で学問のない田舎娘せきは、希薄な自我の持ち主で、受 身的な存在、そして、従うだけの女性として描かれ、「産めない」女として造 形されている。彼女はまるで生きている美しい人形のような存在である。つま り、せきは、見られる存在であり、賛次郎と作者によって、当時の男性的な視 線によって語られているのである。 2.2 H 町と「せき」 「雨蛙」は賛次郎の暮らす「H と云う小さい町」の紹介から始まる。H 町は 志賀直哉により、近代化の波から取り残された、閑静な田舎町であると示され る。町の人は、たとえ町を抜け出して都会へ行きそこで失敗をして帰郷しても、 町にある組合の相互補助によって再び平穏な生活を続けることができる。 せきはごく普通の伝統的な規範に従って賛次郎と結婚した。普通、新婚生活 や結婚生活が楽しくなる場合もある。そして、子供も産まれれば、生活も新し くなるかもしれない。しかし、せきはそういうタイプではない。彼女は嫁とし て賛次郎の家へ行っても何も新しくなったように見えない。彼女は家に入るこ とにより、賛次郎と一緒に楽しむこともなく、平凡な毎日を送っている。せき は、町の環境(閑静、平穏、単調など)に全く溶け込むような人間である。つ まり、彼女は、H 町の社会的・地理的環境がもっている特徴と全く同様であり、 この H 町(の文化、雰囲気)を象徴している。身体の発達は立派であったと描 かれているせきは、ちょうど H 町が整然と作られている様子、いわば、村の物 理的な様子(例えば、町を縦に貫く「県道よりも立派だった」道)をも表して いる。換言すれば、H 町は、せきの身体のメタファーとなっている。 「せき」はひらがなの名前である。名前の感覚から言えば、 「せき」というひ らがなの名前は漢字で書くものより、優しい感じがする。また、 「細君」という 女役割の名前よりも、作中における位置付けの重要性がやや重く考えられる。 名前を漢字で書くと、その言葉の意味は決定される。しかし、ひらがなで書く 20 張 蓮 と、いくつかの意味の可能性を読み取ることができる。 「せき」を漢字にすると すれば、 「関」や「席」などの文字があげられるだろう。このように、ひらがな の「せき」という名前は多義的な意味をもっている。 その意味の一つを考えるとき、この物語の中でせきという名前は、 「関(せき)」 という漢字がまず考えられる。 「関」が第一に連想させる意味は、 「せきしょ(関 所)」である。つまり、「ゲイト(Gate)」、「境界」という意味である。「雨蛙」 の主人公たちの地理的な移動は、H 町に始まり途中 A 市に移って再び H 町に返 るという構成になっている。町と市との繋がりは、町を縦に貫く県道よりも立 派な長い一本道である。A 市の講演会を聞きに行く日に、せきは、人力車に乗 り、この一本道を通って、町より遠ざかってゆく。H 町の道を遠ざかることは、 A 市との結びつきが強まることを意味する。すなわち、H 町から延びている一 本道は、町との境界となって、その後、A 市へと入ってゆく。つまり、この「生 垣の続く、長い一本道」の終わりは、町の境界(「関」)と言える。これは、町 の物理的、社会的な境界である。 先に「せき」という女性は、H 町を象徴的に表わした女性であると述べたが、 彼女が「市の公会堂」での講演会へ行くことは、ある意味で、町の境界を越え ることである。そういった意味で、彼女には「関(せき)」という漢字が当ては まる。せきが町を遠ざかっていくことは、せきが町の境界を越えることを意味 するだけではなく、 「町」の境界を越え「市」の範囲に入ることを通して、迎雲 館でのせきと小説家 G との出来事を予告しているのである。つまり、「せき/ 関」は、町の物理的な境界だけではなく、精神的・社会的な境界をも越えるこ とをも予告する。 3.「夫」の像 3.1 一人児で若い主 ここではやや視点を変えて、主人公・賛次郎を考察しておきたい。 H町に生まれ育った賛次郎は、「一人児」であり、「父の意嚮」で農科大学に 入っていたが、六年前その父に死なれ、急に祖母の考えで実家の美濃屋に呼び 戻された。越智良二は「賛次郎は総て素直に受け容れる人物」であると、 「賛次 郎の受動性」を指摘している8。また、岸規子は、賛次郎を「学問を捨てること に不満もなく」、「平穏無事な毎日に退屈することはあっても、故郷離脱の願望 をもつこと」も、「野心も抱くこと」もない「ごく平凡な青年」だとしている9。 志賀直哉「雨蛙」を読む 21 このような賛次郎は、一家の若い主と呼ばれるが、美濃屋の主導権は、実際は 「岡蔵」や祖母によって握られている。そのため、賛次郎は名前だけの主人に 過ぎない。そこで賛次郎の資質や手腕といったものは、全く重視されていない。 つまり、彼は、家族の言われるままにやってきた青年であるということができ る。このように賛次郎は家父長制度において、一家の主人の位置に置かれた傀 儡だと言っても過言ではない。 こうした賛次郎には、親しい友の竹野茂雄という人がいる。竹野は、東京の 私立大学文科を卒業し、今も青葉と号して雑誌に詩歌を投稿するといった人物 である。元々詩や歌を作ろうとは思わなかった賛次郎に、いつしか竹野の影響 が現れ始める(「彼は市へ出る度、何かそういう読物を買って帰るようになっ た」)。竹野の影響は、文学趣味の面だけではなく、おそらく結婚の面も大きい に違いない。竹野は文学仲間である東京の水菓子屋の娘と結婚し、長兄の反対を 押し切って、実家と絶縁して A 市に水菓子屋を営んでいる。そしてほぼ同じ頃 に、賛次郎も祖母の勧めるままに、遠縁の田舎の娘・せきを迎えているのである。 結婚した賛次郎は、竹野の妻が文学を嗜むことを知り、 「せきにもそう云う方 面の教養を与えたい」と思う。ここで、改めて賛次郎から、せきという存在を 読み解くことができる。賛次郎とせきとの相互関係について、越智良二が論文 で「父性的賛次郎」10を指摘しているように、賛次郎にとって、せきは妻ではな く娘としての存在である。また、岸規子も、賛次郎はせきを「独立した人間と は見ず、自分の一部となることを期待していた」と述べ、 「彼は、せきを理想通 りの女性に育てようと考え始める」と論じている11。上述のように考察すると、 賛次郎とせきとの間に次のような力関係が潜んでいる。賛次郎は彼自身の意志 を持って、せきを「文学をやる女」として育てようとしたことで、妻のせきを 自分の対等な存在としてではなく、せきを自分より一段低い位置の娘のような 存在として扱っているのである。せきは、賛次郎にとって、妻という存在より は、むしろ娘という存在である。さらに言えば、彼女は、家族の言われるまま にやってきた賛次郎が、唯一支配することができる存在である、と言うことが できよう。 3.2 「文学への興味」、「結婚への行動」と「欲望の模倣」 次に夫である賛次郎の「文学への興味」および「結婚への行動」に存在する 欲望の構造を考えてゆきたい。 22 張 蓮 人間の欲望とは、常に他者の欲望の模倣である。このことを論証したのは、 ルネ・ジラールの『欲望の現象学』12である。ジラールによれば、欲望の主体(S) は直接に欲望の対象(O)に向かうのではなく、他者という媒介(M)を通し て欲望を生じさせるという13。この関係は、欲望の主体(S)と媒介(M)にな る人間(すなわち、手本・モデル、または物、あるいは感情、つまり、自尊心 や虚栄心)14と、欲望の対象(O)との間の三角形をなす。欲望の三角構造のな かで、ジラールが指摘しているように、他者の欲望を模倣することで自己の欲 望が成り立ち、行為は主体が対象を獲得することによって、主体は第三者の欲 望を模倣して対象に向かってゆく。他者が良い・欲しいと感じるから私も良い・ 欲しいと感じる原理は、子供が他の子のおもちゃを欲しくなるのと何ら変わら ない。自立した個人・個性が存在するからこそ、模倣の欲望も存在するという ことである。それゆえ、主体の人間が最後に到達した頂点は、媒介者の不可避 の影響をはっきりと排除して自覚することによってのみ、人間は自由になりう る。この自覚を困難にしているのが、個人主義に伴う自尊心の抵抗15である。そ して、自身が媒介者の拘束を深く洞察し、打ち砕かれた自尊心の向うに予感され る救済への道を見出すことこそが、 「真実」の自由なのであるとされる16。 田中絵美利は、賛次郎が町での生活を「単調」に感じられることから、「市」 でエリート意識を身に付けて町に戻った賛次郎にとって、 「町」で名前だけの主 人という彼の立場が、賛次郎にとって「「単調」でつまらないと言うよりも、寧 ろ屈辱的であった」と論じている17。ここには近代日本社会を生きている個人主 義18に伴う賛次郎の自尊心の抵抗が見えてくる。つまり、「雨蛙」における賛次 郎の行動(竹野との競争、せきへの教養など)とは、すべて彼の自尊心の現わ れということができる。このような彼の性格は、賛次郎の文学への興味、結婚 への行動、という二つの三角形的欲望を成り立たせる要素である。ここで、ジ ラールが述べた「三角形的欲望」の理論を用いて、作中における夫婦の三角形 の関係について分析を試みたい。 「雨蛙」において、竹野は多くの点で賛次郎と対照的に描かれている。竹野 は「中学を卒業すると東京の私立大学の文科に入り」、「文学雑誌に投書などし て」おり、現在は「文壇の消息通」である。一方、賛次郎は「父の意嚮」で農 科大学に入学し、「市の寄宿舎から呼び返され」、家業を継いでいる若い主であ る。また、竹野は家族が反対しても自由恋愛で結婚して自活しているのに対し て、賛次郎は、 「祖母から云い出され、一も二もなく」せきとの結婚を了解した。 志賀直哉「雨蛙」を読む 23 そして、竹野の細君は「美しいという方ではなかったが、若いにしては心のし っかりした女」であるのに対して、賛次郎の妻・せきは、無口で「学問のない、 然し誠に美しい田舎娘」である。元々文学をやろうとは思っていなかった賛次 郎は、竹野に感化されて「自身でも短い文章を作り、竹野に見て貰った」りす るようになる。 賛次郎の文学への興味と結婚への行動には、竹野からの影響が大きく見える。 つまり竹野の文学趣味は、賛次郎の行動における情熱の源泉として存在するの である。つまり、賛次郎は竹野の行動を手本・モデルとし、竹野の欲求を模倣 している。つまり、賛次郎にとって竹野との関係とは、友人であり、師弟関係 でもある。文学の方面において、竹野は賛次郎よりレベルの高い存在だと言え る。ジラールによると、師弟関係の中で、弟子にとっての師はしばしば手本で あると同時にライバルでもあった19。つまり、賛次郎がせきに文学的教養を与え ようとしたのは、友人の竹野の細君が「文学をやる」女であるからと言っても 良いだろう。そのため賛次郎は、せきを竹野の細君と比べているのであると同 時に、自分自身が竹野と競争しているとも言うことができるのである。 ジラールによれば、媒介者の欲求を模倣する主体は、模倣しようとしている 意図を自慢するどころか、それを隠そうとするという。主体は媒介者を手本と してあがめ、彼を模倣している事実を客体や他の人々に隠すだけではなく、自 己自身にも隠そうとする。なぜならば、媒介者という人間の欲求を模倣してい るという事実を認めることは、主体の自尊心を苦しめるからである。そのため、 媒体者に対する優越への願望を、様々な表現の形を通して語っている。 賛次郎は竹野を師にしていると同時に、彼をライバル視している。このこと は賛次郎が自身の模倣の姿勢を隠そうとしているのだと理解できる。賛次郎は、 「自身でも短い文章を作り、竹野に見て貰ったりした」ことで、竹野に自分の 文学的才能を認めてもらいたいという部分、すなわち、三角形的欲望で言えば、 竹野を崇拝する部分を抱いている。また、文学をやる、美しい方ではない細君 を有する竹野に対して、賛次郎は、無口で学問はないが、美しいせきを娶った。 そして、彼はせきにも竹野の細君と同様に、文学の教養を身に付けさせようと するのである。すなわち、三角形的欲望で言えば、竹野に嫉妬し羨望する部分 (竹野を超えようとしている部分)を抱いている。このように、欲望する主体 は手本に対して、最も従順な敬意と最も強烈な競争意識という二つの相反する 感情を抱く。 24 張 蓮 せきは、こうした賛次郎と夫婦になり、賛次郎と結婚生活を送っている。彼 女は、賛次郎が媒介者によってかき立てられた文学や結婚という彼の欲望を満 たすもの、つまり彼の三角形的欲望の犠牲者となっている女性と読み取ること ができる。 4.迎雲館の出来事 4.1 「不義」の妻―姦通するか、強姦されるか 「雨蛙」において、迎雲館の出来事は一番重要な転換点である。この事件の 主役であるせきは、迎雲館の出来事の中で、どのように位置づけられているの か。傍観者(竹野、その細君、賛次郎)によって語られている迎雲館の出来事 は、先行研究では姦通事件であると考えられている20。しかしながら、それは実 際に姦通なのであろうか、それとも強姦であったのであろうか。ここでは、改 めて迎雲館事件における主役・せきの立場を考察してみたい。 「雨蛙」において、迎雲館での出来事は、はっきりとは描かれていない。しか しながら、テクストのいくつかの場面から、せきと小説家の G との二人の間に 不貞な出来事が行われたのだという暗示を読者に与えている。そして志賀直哉 自身、 「創作余談」、および「「雨蛙」に就いて」で、 「雨蛙」では自分の妻の「不 義」により、 「姦通され」た夫を書くつもりであった、と述べている。そのため、 従来の研究では、迎雲館で起きた出来事は、姦通事件として論じられている。 迎雲館の出来事がなぜ姦通として認められるかというと、それはこのような 判断を裏付ける当時の社会の法律(旧憲法)があるからである。旧憲法下の刑法 では、 「姦通」は、夫のある女性(妻)が夫以外の男と肉体交渉をもつことを意 味した。また、姦通罪とは、夫のある女性のみに課され、男には課されない罪 となっていた21。旧憲法・明治民法において、男性は公娼制度のもとで放蕩が許 された一方、女性の処女性は重視され、きびしく貞操が要求されたのである。 このように当時の性道徳に著しい二重性が存在することがわかる。そのため、 男性である小説家Gや賛次郎の立場から言えば、この出来事は姦通と受け取ら れる。したがって、当時の基準から考え、せきが迎雲館に泊まった一晩を姦通 事件としてみるならば、それは、姦通の責任がすべて妻・せきに帰すると考え られる。姦通を犯したせきは離婚されるか、または処罰されるべき存在となる。 では、「強姦」の定義を考えてみよう。「強姦」とは、男性が暴力や脅迫によ って、また心神喪失・抗拒不能を利用して女子を姦淫すること、または、女性 志賀直哉「雨蛙」を読む 25 の意思に反して性交することであると定義される22。強姦の構造と現実について、 駒尺喜美は次のように述べている23。 強姦というイメージに欠かせないのは、ひとつは見知らぬ男ということと、 二ばんめには大変な暴力行為でもってしゃにむにというようなイメージで ある。(中略)事実は全くそうじゃない。(中略)通報された出来事の中の半 分以上が、知り合いの男によるものなのである。だいたい知り合いの男か ら強姦されるということは和姦とあまり区別がつかない。 駒尺も述べるように、せきの場合は、前述した迎雲館での夜の出来事(「何時 の間にか芳江さんが居なくなって G さんが入って来ました」)と関連づけて分 析することができる。強姦は特異な非日常的な事件のみではなく、日常的にし ばしば起こっている出来事でもあるということである。迎雲館での事件は、日 常的ではないが「特異な非日常的な事件」というわけでもない。迎雲館事件に おいて、そこに暴力があったのかどうかは描かれていないが、小説家の G は見 知らぬ男ではない。このように、せきの立場に立って、彼女の性格や無知性を あわせて考えると、迎雲館での出来事において、せきは G という小説家に性行 為を強制されたのだと言うこともできるだろう。つまり、迎雲館事件における 小説家 G の行動とは、性犯罪だと言っても過言ではない。 しかしながら、このように迎雲館での出来事を見ても、彼女の姦通した様子 は疑われるものの、小説家Gの行為の善悪は問われることはない。現実の裁判 においては、被害者の女性が死の危険をおかしてまでも抵抗したという事実が ない限り、強姦罪とは認められないことが多い24。しかも、非対称な男女関係が 存在しているという前提が、無意識のうちに浸透している以上、強姦は許され た犯罪であり続ける。そのため、迎雲館の出来事は、せきの人格が無視され、 ただ肉体としてのみ扱われていると言うことができる。このように見ると、せ きはこの事件で小説家Gから性暴力を受けたということが明らかになる。そし て、小説家Gがその罪を問われることはない。よって、迎雲館の物語には、せ きへの性暴力が隠蔽されているのである。次に、この強姦がせきに及ぼした影 響について考えてみたい。 4.2 妻・せきの変貌 せきは夫である賛次郎の代わりに A 市へ講演会を聞きに行き、結果、小説家 26 張 蓮 の G と肉体関係をもつに至る。迎雲館事件後、せきに対する描写に変化が見ら れる。まず、外見的には、彼女のヘアスタイルが旧式な廂髪から当世風の髪隠 しに変化する。迎雲館の翌日、賛次郎とせきは共に帰途につく。その際に、H 町への道中、以前は無口で、表情や反応が全くないと言っていいほどのせきに 変化が現れる。賛次郎は、せきに迎雲館で「一人にされたのか?」と尋ねると、 彼女は「横を向いたまま、意味の解らぬ微笑」を浮かべる。そして、賛次郎が せきに、昨晩 G がせきの泊まった部屋に来たこと、その後、部屋では何があっ たのかを尋ねると、せきは急に下を向く。そして、せきは「如何にも甘い夢」 を見ているように、 「ぼんやり遠い一点を見つめて歩」くのである。その様子を 見た賛次郎は、せきが「気の遠くなるような陶酔を感じている」、「甘い夢」に 酔う「一種の喪心状態」にある、と感ずる。 しかしながら、現実のせきの内面的な変化がいかなるものかについて、実は、 それは描かれていない。 「雨蛙」において、せきの内面は常に他者の目、あるい は、賛次郎の目を通して描かれる。 「雨蛙」の中で、あらゆるせきの様子は全て 賛次郎の眼差しと賛次郎の心理変化によって映し出される。せきの変貌につい て、田中絵美利は、せきは「以前と何ら変わっていない」としている25。しかし ながら、女性にとって「強姦(または姦通)された」ことを気に留めないはず がない。越智良二は、Gという男性と関係することによるせきの陶酔とは「肉 体的な一個の生命体としての喜びが自然に発露したもの」だと論じている26。 また、岸規子は、せきは迎雲館で「官能の目覚めを体験し」、 「「女」であること に目覚めた」と述べている27。迎雲館での空白の一晩という夫の知らない秘密を 抱えたせきは、その秘密を通して賛次郎にとってとらえどころの無い、 「克服出 来ぬ他者」28としてたち現れる。 帰り道、せきの顔には、「意味の解らぬ微笑」が浮かんでいる。その「微笑」 は、これまでせきを支配し、彼女の内面さえも読み取っていると信じていた賛 次郎にとって、せきが突然「意味の解らぬ」存在となるのである。ここでせき は従順で理想的な妻から、賛次郎(男)の理解の範囲を越えた「不可解な女」29 となる。 せきの「下を向いた」沈黙とは、夫の賛次郎に対して、自分が経験したこと を口に出すのが気まずく、さらに彼(夫)に対する遠慮もあり、言葉に出すの が躊躇われる気持ちゆえの行動であると考えられる。それは、一面から見れば、 せきが自らの意思で思考を始めた様子が示されているとも言えるのではないだ 志賀直哉「雨蛙」を読む 27 ろうか。ここに至り、せきは「無口」で「学問のない田舎娘」から、自らの意 思で「考える女」へ変わり始めた、とも言えるのである。このようにここに至 り、せきは美しいだけの人形から、思考を持った人間へと変化を見せる。 4.3 強姦された妻に「欲情する夫」 最後に迎雲館での事件の後、なぜ賛次郎のせきに対する気持ちが、せきを責 めるのではなく、彼女を「いとおしむ」気持ちに変化したのかを考えたい。 「雨蛙」を読んでいくと、迎雲館の出来事の前(テクストの前半)では、賛 次郎が妻のせきへの愛情、ないしは、いとおしむ気持・場面は描かれていない。 最初、賛次郎にとって、せきは自分に属しているものである。賛次郎には、せ きを求め競争する媒介者の存在がないため、つまりは、媒介する他者による羨 望が存在しないため、自らの妻・せきへの欲望が起こることはない。あるとし ても、むしろ、彼は竹野の細君を媒介とした欲望、つまり竹野の細君と同様、 せきにも文学的教養を身につけさせようとする欲望が存在するのみである。つ まり賛次郎は、せきを妻ではなく、娘として、一方的に父性的な愛情を注いで いるのみである。 物語の後半に到り、山崎芳江が一晩中せきと一緒だったわけではないことを 知った賛次郎は、冷静さを保ちつつ、せきと共に帰り道につく。そして、賛次 郎が、 「G と、この美しい肉付きのせき」の組み合わせを想像した後、不思議な 力が「彼(賛次郎)の肉情を刺戟」するのである。この時より、賛次郎は「せ きが堪らなく可愛」くなり、 「不意にその場でせきを抱きすくめたいような気持」 になる。しかしながら、賛次郎はすぐに「何と云う自分だろう」と思い、この 自分の欲望をおさめようとする。 以上の描写は、賛次郎のせきに対する欲情のメカニズムを解き明かしてくれ る。迎雲館の出来事の後、賛次郎がせきを抱きすくめたいという気持になるこ とについて、越智良二は、賛次郎は「夫とか妻とかいう世の常の約束事を忘れ て、せきをいとおしむ心で一杯になる」こと、これは「世の常の常識や道徳で は律し切れない人間の根源的情動」だと述べている30。また、田中絵美利は、賛 次郎の欲情とは、単に性を通して妻を支配できる、性的な主導権を取り戻せる 男の手段に過ぎないと論じている31。欲情は、田中絵美利が述べる通りに性的主 導権を握ろうとする男の手法だとも言えるが、賛次郎の欲情は決して、性的イニ シアティブを取り戻すことという文化的産物、または、無道徳的な人間の根源 28 張 蓮 的情動という人間自らの自発的な事情によって発したものではないことに注意 を払うべきである32。 つまり、こうした賛次郎の欲情する欲望とは、先にジラールの欲望の理論を 挙げて説明したように、賛次郎は G のせきに対する欲望を媒介として、せきを 欲望していると言うことができるのである。この場合、賛次郎のせきに対する 欲望は、外的媒介者(小説家 G)と同様、性的欲望である。しかしながら、そ れと同時に、彼は G に対して嫉妬心や虚栄心を感ずる。つまり、賛次郎は、G の欲望を通して、せきを「抱きすくめたい」と欲望するが、しかしながら、作 中に示されるように、彼は、そのような自分の欲望に対して、同時に「なんと いう自分だろう」と、戸惑いを感ずるのである。このような彼自身の戸惑いと は、無意識的であれ自己の欲望の媒介者の存在を気付かせるものである。 町に入る前に、賛次郎の目の前に雨蛙が登場する。 「雨蛙」における二匹の雨 蛙は夫婦であるかどうか、厳密に言えば判断できない。しかしながら、賛次郎 は、雨蛙を夫婦のイメージとして、「つつましやかな夫婦者」と見る。つまり、 心の静まりを待つ賛次郎は、 「二疋で重なり合うように蹲っていた」雨蛙を媒介 者として、二匹の雨蛙を「仲睦い夫婦」33であるという想像的な羨望を得て、も う一度、せきと睦まじい夫婦になることを欲望する(願う)のである。 近代個人主義社会を生きている賛次郎は、自尊心のため、文学への興味を持 ち始めた。しかしながら、テクストの最後の場面に至って、賛次郎は自分の文 学趣味が妻の迎雲館の不義を引き起こしたのだと自らを責める気持34 、そして 「安定した人生の基盤を守る為」35に、作品集を焼き捨てている。賛次郎の焼き 捨てた小説集と戯曲集は、賛次郎が自分の文学趣味だけではなく、SやGの存在 を抹殺したいという願望を意味する。小説集や戯曲集を焼き捨て、 「漸くほっと した」賛次郎は、SやGと関係の深い、文学を焼き捨てることによって、彼の中 に芽生えていた無意識のうちに抑圧された激しい嫉妬と怒りから解放されたの だと言っても良いだろう。 しかしながら、媒介者を抹殺することはイコール媒介者を否定することであ る。つまり、ジラールが「最も熱烈な模倣が最もきびしく否定されている」36 と述べるように、賛次郎は自分自身の欲望の自発性を確信しており、そのため 彼は媒介者の欲望の模倣という事実を(無意識的には感じながらも)否認する。 よって賛次郎は、以後も繰り返し自分の欲望と自尊心との間の闘いを続けてゆ くのである。 志賀直哉「雨蛙」を読む 29 本稿で分析してきたように、賛次郎が文学に興味を持つこと、せきと結婚を すること、妻に欲情することなどは、媒介者(竹野茂雄、小説家G、自尊心な ど)によって発されたものである。つまり、賛次郎の行動全てに付する欲望は、 自発的な欲望ではなく、媒介者への欲望の模倣である。しかし、賛次郎は、自 己の欲望を全て自発的なものと信じており、彼は物語の最後で、つがいの雨蛙 に自分たち夫婦の未来を見て取る。このような賛二郎の行動は、ジラールの言 葉を借りれば「ロマンティックな自己主張」であり、「ロマンティックな虚偽」 である37。そのため、賛次郎の行動とは、結局は自らが遭遇した事件にロマンテ ィックな衣をまとわせているということできる。しかしながら、せきは、雨蛙 の夫婦を見ても、賛次郎と同じように、そこに睦まじい夫婦の姿を認めること はない。以上のことから、この二人の間には、真に互いに心を通わせる愛とい うものは存在しないと言えるのである。 5.おわりに 「雨蛙」において、迎雲館の出来事は、賛次郎とせきにとって重要な転換点 となっている。今まで見てきたように、賛次郎は、自らの欲望に対して、その 媒体者の存在を自覚することができず、いつまでも自尊心との闘いを続けてゆ くことがわかる。一方、せきは、この事件を通して、美しい人形のような存在 から、「考える女」へと変わり始めたとも考えられるのではないだろうか。 賛次郎とせきとの夫婦像について、考察してきたように、二人は夫婦ではあ るが、お互いがそれぞれの自分一人の世界に生きていると言うことができる。 なぜなら、 「雨蛙」において賛次郎やせきは、最後までお互いに心を通わせると いうことがないからである。これは当時の夫婦像の一側面を示しているという こともできよう。 中村智は、もし賛次郎がそのまませきを抱きしめていたら、 「雨蛙」の結末は どのような可能的世界を開示したであろうか、という問題を提起している38。こ の「雨蛙」における可能的な展開について、本論文における考察をもととして 大胆に推測してみれば、ライバルの小説家Gが去ったあと、賛次郎の彼女への 情熱は衰えたが、彼女に対する憐憫の父性的感情は、彼女の死に至るまで続く だけだと言えるのではないだろうか。なぜなら、この物語は、賛次郎(男性) の内面的空虚をうめるためのロマンスにすぎないからである。 30 張 蓮 注 1 志賀直哉「雨蛙」(『志賀直哉全集』第五巻、岩波書店 1999 年)13-28 頁。本稿で 用いる「雨蛙」のテクストの引用はすべて岩波書店版『志賀直哉全集』第五巻に 拠る。漢字は新字体で統一しルビは適宜省略した。 2 志賀直哉「創作余談」(『志賀直哉全集』第六巻、岩波書店 1974 年)210 頁 3 志賀直哉「「雨蛙」に就いて」 (『志賀直哉全集』第八巻、岩波書店 1974 年)112 頁。 『暗夜行路』の主人公謙作は母の不義の子である故に苦しむ。謙作は妻直子が留守中、 従兄に犯されたことを知る。謙作は理性では許そうとするが、感情が許さなかっ た。結果、彼は直子に怒り散らす。彼は転機を求め一人鳥取の大山山麓の蓮浄院 へ向い、そこでコレラに倒れ高熱にあえぐ。彼は枕元に駆けつけた直子を許す。 直子は夫にどこまでもついて行くと心に誓う。 4 主人である賛次郎の代わりに、妻せきは A 市で開かれる文学の講演会に出席する。 その晩、せきは、山崎芳江の言われるままに迎雲館で一泊をすることとなる。そ の後、せきが迎雲館の部屋で 1 人寝ていると、小説家 G が彼女の部屋にやってく る。その晩、迎雲館で起きた、せきと G との姦通事件を、 「迎雲館の出来事」また は、「迎雲館事件」だとする。 5 田中絵美利「志賀直哉「雨蛙」論―〈男〉たちの〈美しい夫婦の物語〉」 (『日本近 代文学』 71、2004 年)51 頁。また「雨蛙」の時代設定について、田中絵美利は 論文で、作品発表当時の大正 13 年と同時期であり、大正中期から後期くらいであ ると考えられる、と述べている。 6 中村智「妻の姦通に欲情する夫―志賀直哉「雨蛙」論」 ( 『山口国文』23、2000 年)50 頁 7 柘植あづみ「不妊」(井上輝子ら編『岩波 女性学事典』岩波書店 2002 年)421 頁 8 越智良二「志賀直哉「雨蛙」の問題」(『愛媛国文と教育』24、1992 年)2 頁 9 岸規子「志賀直哉『雨蛙』とその周辺」( 『芸術至上主義文芸』27、2001 年)180-182 頁 10 越智良二 前掲論文 3 頁 11 岸規子 前掲論文 181 頁 12 ルネ・ジラール著・古田幸男訳『欲望の現象学 : ロマンティークの虚偽とロマ ネスクの真実』(法政大学出版局 1971 年) 13 作田啓一は「ジラールは S−M−O といった記号を用いていないし、またこのよ うな定義を行ってもいません。しかし、彼の基本的な理論を簡潔に表現すれば、 以上のようになります」と述べている。 (作田啓一『個人主義の運命:近代小説と 社会学』岩波書店 1981 年)14 頁 14 媒体は基本的な二つの種類に分類される。媒体と主体が十分離れている場合「外 的媒介」と呼ぶ。また、媒体と主体との距離が近い場合、「内的媒介」と呼ばれ る。ルネ・ジラール 前掲書 9 頁 15 主体の自己は常に、媒体者との諸関係によって(相手を軽蔑する自己)優越的に 感じたり、(軽蔑される自己)屈辱的に感じたりする自己とに分裂する。ジラー ルによれば、分裂した自己が調和・統一へ向かう過程を自尊心の抵抗と言う。 16 ジラールは近代的個人主義の文明によってもたらされた自尊心の肥大の中に分裂し 志賀直哉「雨蛙」を読む 31 た自己の病因があると述べている。自尊心の形態は世俗の世界の中では人間の高貴 な属性の一つとみなされている。しかしながら、彼は虚栄心と呼ばれる悪い意味で の自尊心も、自負心と呼ばれるよい意味での自尊心も、すべてひっくるめて自己の 分裂の病因とみなす。つまり、彼は肥大した自尊心・虚栄心が内的媒介者の影響の 意識化を妨げているため、救済の機会は、抑圧されている欲求の意識化を説くフロ イト主義の方法ではなく、媒介者の影響を十分に意識化することにあると主張して いる。つまり、内的媒介者の接近による自己の分裂の深化という危機が、同時にま たその分裂を克服することにあるとジラールは指摘しているのである。 17 田中絵美利 前掲論文 54 頁 18 近代日本の思想において、個人の自覚または内面的充実をはかろうとする個人主 義的傾向が生れ、この傾向は中等、高等教育の普及にともなって形成された都市 中間層を中心に急速に広まった。明治 43 年(1910 年)創刊の雑誌『白樺』の同 人、武者小路実篤、志賀直哉らは自己の個性に忠実であることが人類の意志にか なうことであるとして、その個人主義を人道主義、理想主義に結びつけて主張し た。翌年女性解放を唱えて創刊した平塚らいてうらの『青踏』も、同じように自 我の拡充を基調とするものであった。 19 作田啓一 前掲書 28 頁 20 越智良二、岸規子、田中絵美利などの前掲論文を参照 21 男女平等の原則に反するので、1947 年の刑法改正により削除。 『広辞苑 第 5 版』 (岩波書店 1998 年)を参考 22 『広辞苑 第 5 版』(岩波書店 1998 年) 23 駒尺喜美「許されたる犯罪・強姦―強姦のメカニズムの追及」(駒尺喜美『魔女 の論理―エロスへの渇望』エポナ出版 1978 年)71-73 頁 24 「強姦神話」が信じられているからである。井上摩耶子「強姦」(井上輝子ら編 『岩波 女性学事典』岩波書店 2002 年)118-119 頁 25 田中絵美利 前掲論文 59 頁 26 越智良二 前掲論文 5 頁 27 岸規子 前掲論文 182 頁 28 岸規子 前掲論文 185 頁 29 田中絵美利 前掲論文 59 頁 30 越智良二 前掲論文 6 頁 31 田中絵美利 前掲論文 60 頁 32 ジラールによると、人間の自発的な欲望とは虚偽であり、現代人の自律性という 幻想を擁護しているという。ルネ・ジラール 前掲書 17 頁 33 越智良二 前掲論文 3 頁 34 岸規子 前掲論文 182 頁 35 越智良二 前掲論文 6 頁 36 ルネ・ジラール 前掲書 16 頁 37 ルネ・ジラール 前掲書 16-18 頁 38 中村智 前掲論文 54 頁