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仙台市文化財調査報告書第305集
大崎入 幡宮の法焚祭と採参り
調 査 報告書
平成 18年 12月
仙 台 市 教 育 委 員 会
仙台市文化財調査報告書第305集
失崎え 幡宮の法焚祭と採参り
調 査 報告書
平成 18年 12月
仙 台 市 教 育 委 員 会
序
この た び、 『大 崎 八 幡宮 の松 焚 祭 と裸参 り調査 報 告書』 を刊 行 す る こ とに な りま し
た。
大崎八 幡宮 の松 焚祭 は「 どん と祭」 として広 く市民 に親 しまれ、 毎年 1月 14日 夜 か ら
翌 15日 未 明 にか け て行 われ る仙 台 の冬 の風物詩 の ひ とつ です。 そ の起 源 につ い て は必 ず
しも明 らかではない ようです が、お正 月 の松飾 りや注連紀、神札 な どをお焚 き上 げす る
とい う、私 たちの正 月 。小正月行事 と密接 に関わって きた祭です。 また、 この祭 には裸
参 りが伴 う とい う特色 があ り、特 に門前 にあった天賞酒造 の蔵人な どによる裸参 りがそ
の起源 とされ、市内各所か ら多 くの 団体が参加す るよ うにもなってい ます。
現在 で は、 市 内 は もとよ り県 内各地 で「 どん と祭」 や裸 黍 りが行 なわれ る よ うにな
りま したが、旧仙 台藩領 にお い て少 な くと も150年 以上 も続 く行事 は大崎八幡宮 だ けで
す。仙台市 では、 これ らの特色 をふ まえ、平成 17年 に無形民俗文化財 として文化財指定
す る こ とがで きました。
本報告書 では、大崎八幡宮 の松焚祭 ・裸参 りの歴 史的変遷や現状、 さらには市 内、県
内各地 にみ られる どん と祭 ・裸参 りの様相 に関 しての報告 ・考察 を加 え、 この行事 を、
よ り広 い視 野 で とらえなお した内容 となってお ります。
最後 にな りま したが、本調査や報告書 の刊行 に際 しましては、各地 の皆様方や関係諸
機関 にはひ とかた な らぬ ご指導 。ご協力 を賜 りま した。 ここに厚 く御ネL申 し上 げます。
平成 18年 12月
仙台市教育委員会
教育長 奥 山
恵美子
例
本書 は平成 17年 1月 に仙 台市教育委員会 が「大崎入幡宮 の松焚祭 (ど ん と祭 )」 を仙台市無形民
俗文化財 に指 定 した こ とを受 け て実施 した、平成 16年 お よび 17年 度仙台市民俗文化財調 査「大
崎 八幡宮 の松焚祭 と裸参 り」 に関す る調査報告 である。
2
3
本調査 は仙 台市教 育委員会 が仙台民俗文化研 究会 に委託 して実施 した。
本調査 の業務従事 者 は何 れ も仙台民俗文化研 究会会員 で、代表 ・調査 員
田嶋利江、調査 員
関口健、調査員
安藤直子、調査補助員
佐藤敏悦、調 査員
小
山口岳 の 5名 である。
本調査 の対象 は仙 台市青葉 区入 幡 4丁 目 6番 1号 に所 在 す る大崎八幡官 にお いて毎年 1月 14日
か ら 15日 未 明 にか け て行 われ る「松 焚祭」 お よび「 裸 参 り」 と、 当市 の 内外 で実施 され る「 ど
ん と祭」、「裸参 り」等 の 関連習俗 を伝承す る関係者 で あ る。
本報告書 の年号表記 は元 号 を優先 し「元号 (西 暦 )」 の よ うに記載 した。ただ し「平成 17年 」 の
よ うに極 めて近 い 時期 につ い ては西暦 を省略 した。
本報告書 にお け る民 俗語彙 に関 しては原則 として カタカナ表記 とした。 ただ し、漠字表記 の可能
な場合 は初 出 のみ 「 カ タカナ (漠 字 )」 等 とし、以後 は漢字 で 表 した。
本書 に使用 した新 聞記事 は、宮城県図書館及 び仙台市 図書館所蔵 の マ イク ロ フイル ム、保存版等
を参照 した。引用 にあたっては河北新報社 か らの許可 と全 面的 な協力 を得た。
なお、検索 につ い ては、小 田嶋利江、関口健、安藤直子、 山口岳 が これにあたった。
参考写真 の撮影 に関 しては仙台民俗文化研究会 の調査 員が これ を行 った。 また、岩手県矢 巾町 の
高橋
満氏、 同県紫波 町 の 畠山進 一 氏、本 田完治氏、 門前 克子氏、宮城県大和 町 の早坂秀子氏、
仙 台市青葉 区 の 岩松 卓也氏 をは じめ、 一 番 町四丁 目商店街振 興組合、JR東 日本仙台支社、仙 台
市 立病 院な ど関係 す る多 くの個 人や企業 団体 よ り所蔵写真 の提供 を受 け、そ の一 部 を掲載 した。
本書 の執筆 は、第 1章 1節・2節・3節 、第 2章 1節 。3節 (1)(7)(8)、 第 3章 1節 (5)・ 8節 (1)(3)
(5)、
第 4章 3節 を佐藤敏悦、第 1章 4節 、第 2章 2節・3節
(2)(5)・ 3節
(6)、
口健、第 2章 3節
(3)、
第 3章 1節 (3)(4)・ 2節
第 4章 1節 、資料集 を小 田嶋利江、 第 1章 2節
(2)、
第 3章 3節
(2)、
(3)、
(1)
第 2章 3節 (4)を 関
第 4章 2節 を安藤直子 、第 2章 3節 (5)(6)、 第 3章
1節 (1)(2)・ 2節 (3)(4)。 3節 (4)を 山口岳が分担 して行 った。
10
本書 の編集 は仙台 市教育局文化財管理係 の伊藤優 が行 った。 なお、編集 に当たっては仙台民俗文
化研究会 の佐藤敏悦、小 田嶋利江、関口健がそ の補助 にあたった。
目
文 例 次
序 凡 目
第 1章
第
次
大崎八 幡宮 の どん と祭 ………………………………………………… …1
1節 本調査 の 目的 と視点 …… ……・………………………・………………………………・……………・……
1
(l)仙
(2)本
調査 の視 点
第 2節
大崎 八 幡宮 の歴 史 ………………………………………………………………………………… 2
(1)大
(2)三
(3)大
崎 八幡 宮 の位置 と遷座
第 3節
…………… ……………… 7
……………… Ⅲ
どん と祭 へ の理 解 と先行研 究 … …………………… Ⅲ
ん と祭 へ の一 般理解
(1)ど
(2)ど
(3)裸
(4)ど
第 4節
台市指定無形民俗文化財 へ の指定理 由
つ の大崎人幡 と龍宝寺
崎人幡宮 の祭礼
ん と祭 の発祥 につい ての先行研 究
参 りにつ い ての先行研 究
ん と祭 の名称 につい ての先行研 究
……………… Ⅲ
……・… …15
…………… ………………………… Ⅲ
どん と祭 の諸相・………………… Ⅲ
(1)大 崎八 幡宮 の祭礼 と暁参 り
(2)松 焼 き・松納 め・松焚 き
(3)ど ん ど 。どん どまつ り 。どん とさい
(4)寒 参 り 。裸参 り 。薄衣参 り
(5)仙 台市域 の若年 と人 幡 さまの祭 り
第 2章
28
どん と祭 の変容 と展開 … …………………………………………………
第 1節
仙 台地方 の正 月送 り行事 ……………………………………………………………………… …28
(1)正
(2)松
月送 りの様相
焚 きの事例
第 2節
大崎 八 幡宮 の どん と祭 の現在 ………………………………………………………………… …31
(1)松 焚祭採火式 ―平成 18年 1月 1日 大崎八幡宮拝殿 ―
(2)松 焚祭点火式 一平成 16年 1月 14日 大崎八幡宮境 内馬場先 ―
(3)ど ん と祭 一平成 16年 1月 14日 大崎人幡宮境 内 。人 幡 町 ―
(4)ど ん と祭 とあかつ き参 リー平成 18年 1月 15日 大崎八幡宮境 内 一
第 3節
どん と祭 のひろが りと変容 …………………………………………………………… …………34
(1)ど ん と祭 の ひろが り
(2)事 例 。仙台市 中心部、東照宮 の どん と祭
・
.
(3)事 例 ・仙 台市 中心部、大 日堂 の どん と祭
(4)事 例 ・仙 台市 中心部、 三 宝荒神社 の どん と祭
(5)事 例 ・仙 台市 中心部、 陸奥 国分寺 の どん と祭
(6)事 例・ 仙 台市郊外、大倉 定義如 来 の どん と祭
(7)事 例 ・仙台市郊外、賀茂神社 の どん と祭
(8)事 例 ・仙 台市郊外、泉 パ ー ク タウ ンの どん と祭
第 3章
47
裸参 りの現状 と変遷 ………………………………………… …………・
第 1節
大崎 八 幡宮 へ の裸参 り……… …………………………………………………………… ………47
(1)裸 参 りの現状
(2)事 例 。天賞酒造 の裸参 り
(3)事 例 ・仙台市立病 院 の裸参 り
(4)事 例 。」R東 日本東北支社 の裸参 り
(5)事 例 ・個 人 による裸参 り
第 2節
岩手県南部地方 の裸参 り………………………………………………………… ………………56
(1)東 北 の裸参 りの諸相
(2)南 部地方 の裸参 り
(3)事 例 ・岩手県二戸市、似 ′
鳥八 幡神社 の裸参 り
(4)事 例 ・岩手県紫波町、志和人幡宮 の裸参 り
(5)事 例・ 岩手県雫石 町、 三社座神社 ・ 永 昌寺 の裸参 り
第 3節
裸参 りの拡散 ……………………………………………… ………………………………………69
(1)流 行 としての裸参 り
(2)裸 参 りの画 一化
(3)事 例・ 勝 山酒造部 の青葉神社 へ の裸参 り
(4)事 例 。佐元工務店 の 陸奥 国分寺 へ の裸参 り
(5)事 例・ 栗駒建業 の賀茂神社 へ の裸参 り
(6)事 例 。早坂酒造店 の吉 岡八幡神社 へ の裸参 り
第 4章
どん と祭 か ら見 えるもの ………………………………………… ………
83
第 1節
時代 に見 る どん と祭 と人 々…………… … ………………………………………………………83
(l)暁 参 りと松納 め
(2)仙 台城下 の正 月 と入 幡 さまの縁 日
(3)ど ん と祭 りと人 々
第 2節
どん と祭 の現在 か ら見 える もの ……………………………………………… …………………90
第 3節
おわ りに∼ ドン ドの火 とどん と祭 …………………………………………………………… 102
……………………………………106
資料集】 大崎八幡宮の松焚祭と裸参り …
【
……………………………………………………………… …… 。140
図 ・ 写真 …………………………・… Ⅲ
大崎 八 幡宮 の松焚祭 (ど ん と祭 )参 考文献・…………………………………………………………… 153
第 1章
第 1章
第 1節
大崎人幡宮の どん と祭
大崎八 幡宮 の どん と祭
本調 査 の 目的 と視点
(1)仙 台市無形民俗文化財への指定理由
平成 17年 1月 18日 、仙台 市教育委員会 は「 大崎 人 幡宮 の松 焚祭 (ど ん と祭 )」 を仙 台市 の無形民
俗文化財 に指 定 した。指定 に先立 ち、1月 11日 に開催 された仙台市文化財保護審議会 に諮問 された『仙
台市指定民俗 文化財指定理 由書』 (註
1)に よれば、大 崎人 幡宮 の松焚祭
(ど ん と祭 )の 由来 ・証拠 ・
伝説 と して「青葉 区人 幡 に所在す る大 崎 人 幡宮 で は、 毎年 1月 14日 日没か ら翌 15日 未明 にか け て、
正月の松飾 りや注連縄、神札 な どを焚 く祭事が行 われて い る。 この祭礼 は現在 では一般 に どん と祭 の
呼 び名 で知 られ て い るが、 祭 を主催す る大 崎 入 幡宮 で は、正 式 には松 焚祭
(ま
つ た きまつ り)と 呼称
して い る。
この祭 の起 源 につ いて、社伝 では 300年 の歴 史 を持 つ とい うが、史料的に確認 で きる初 出は嘉永 2
年 (1849)の F仙 台年 中行事大意』 で、 少 な くとも近 世末期 には行 われて い た こ とが分か る。 また こ
の祭礼 の特色 の ひ とつ となっている裸参 りについ て も、嘉永 3年 (1850)頃 の成立 とみ られ る F仙 台
年 中行事絵 巻』 に杜氏 に よる裸参 りの様子が描かれ てお り、す でにこの 頃には行 われて いた こ とが 知
られる。
なお、 どん と祭 の 呼称が使 われ始 め るのは明治 40年 頃 とみ られ、以後大正時代 になって広 く定着
して い く様相 が 当時 の新 聞記事等 に よ り確認 され る。」 と記載 されて い る。
またその説 明 として 同指定理 由書 では「大 崎 入 幡宮 の松 焚祭 (ど ん と祭 )は 、1月 14日 か ら 15日
にかけての小 正 月 に、正 月 の松飾 りや注連縄 、神札 な どを焚 き上 げ る習俗 であ る。 この祭礼 は 日本 各
地 に広 く分布 す る「小正 月行事」 の一 種 とみ られ るが、 仙台地方 における正月神送 りの一 形態 を示す
民俗行事 で あ る。
また、現在 市 内 の神社等 で広 く行 われている どん と祭 は、仙 台市消 防局 の平成 16年 の調査 に よれ
ば 157カ 所 で 開催 されたが、近世 (江 戸時代 )以 来 の継続性 を持 つ ものは大崎 人 幡宮 の他 に確 認す る
ことがで きず、大崎人幡宮 の松焚祭 (ど ん と祭 )は 広 く市民 に親 しまれて い る どん と祭 の祖形 となっ
た祭礼 として重 要 である。」 と記載 されて い る。
言主
1『 仙台市指定民俗文化財指定理由書』は仙台市文化財保護審議会の答申を受けて、仙台市教育委員会文書「平成
17年 1月 17日 告示仙 台市教育委員会告示 第 1号 」 として告示 され た。
(2)本
調 査 の視 点
本調査 は仙 台市無形民俗文化財指定 を受けて平成 17年 度 に実施 された ものである。
本調査 の 目的は前記 の仙台市指定民俗文化財指定理由書 の 内容 の確認 と証明であ る。その視点 は指
定理由書 によれば大 きく分けて「大 崎入 幡宮 の松焚祭 (ど ん と祭 )の 起源 と推移」「 どん と祭 と小正
「大崎入幡宮 の松焚祭 (ど ん と祭)
「大崎人幡宮以外へ の どんと祭 の拡大 とその背景」
月行事 の関連性」
での裸参 りの起源 と推移」「大 崎人幡宮以外へ の裸参 りの拡大 とその背景」 の解 明であろ う。そ して
これ らの調査結果か ら、近世の仙台 とい う「都市」 で発生 した どんと祭が、その後の近代化 の 中で ど
第 1章
大崎人幡宮 の どん と祭
のように推移 し、
今 日もなお貴重 な民俗文化財 として受容 されてい るのかを明 らかにすることである。
本調査 における用語の定義であるが、「 どん と祭」 については前記 の仙台市指定民俗文化財指定理
由書 に準拠 し「仙台市 を含む宮城県内で広 く行 われてい る、毎年 1月 14日 日没か ら翌 15日 未明 にか
特定 の寺社等 に拠 らない一般名称 とす る。
正月の松飾 りや注連縄 、
神札 などを焚 く行事」 と定 め、
けて、
これによって「大崎人幡宮 の松焚祭 (ど んと祭)」 も一般名称 の どん と祭 に包含 されるわけであ るが、
その理 由は現在 では前記 の定義 の行事が大崎八幡宮の松 焚祭 (ど ん と祭)を 手本 として広 く行 われて
お り、それ らを区別するためには実施 されている寺社名や地域名 によって弁別することが必要 である
か らである。 よって以後 は、総称 としての どんと祭以外の個別の どん と祭 については、寺社名 または
地域名を明記 し、大崎八幡宮 の松焚祭
(ど んと祭)も
「大崎人 幡宮 の どんと祭」 と記載す るか、ある
い は無形民俗文化財指定対象 として特定す る場合 は「大 崎八幡宮の松焚祭 (ど ん と祭)」 または「大
崎人幡宮 の松焚祭」 と記載す る。
また一般名称 の どんと祭 に「祭」の文字が使用 されてい るのに「行事」と定義する理由については、
どんと祭 を実施する主催者や場所が現在 では寺社等 の宗教関係者 やその境内地以外 に広 く拡散 し、後
述する ように新興住宅団地 の 町内会 が団地内の公園で実施するケース なども多 く、祭事 とはい えない
側面 も強まってい るためである。
このように本調査の主要 な対象 は大崎八幡宮の松焚祭 (ど んと祭 )で あるが、その実情 を明 らかに
す るためには、仙台市内や仙台市 の周辺地区で広 く行 われているどん と祭や小正月行事 との比較対照
が必要であ り、 さらに この祭礼 の特色 のひとつ となってい る裸参 りの起源 を調べ るためには、仙台地
区の酒造関係者 とその出身地域 の習俗等 を広 く採集分析 しなければな らない。 したがって本調査 は無
形民俗文化財指定後 の祭礼 のみならず 、過去の先行研究や、本調査 に先立 って行 われていた同一調査
幅広 い引用 と調査結果の対照を行 ってい る。
メンバー による酒造 に関す る民俗調査 の事例 などか らも、
本調査 では大崎八幡宮以外 の事例 について多 くの比較対照調査 を行 った。その例 としては、 どんと
祭同様 に正 月飾 り等 を焚 き上げる行事 であ りなが ら、 どんと祭 か ら影響 を受けたのではな く独 自の民
俗行事 として伝承 されて きた可能性 の高 い仙台市大倉地区のオサイ ト、同 じく正 月飾 り等 を焚 き上げ
る行事 に裸参 りの伝統 までが残 されてい る岩手県二戸市 のサイ トギや岩手県志和町の五元 日祭、そ し
て大崎八幡宮 の どん と祭 か ら影響 を受けつつ様 々に展開 して現在 に至 った仙 台市内や周辺部 の どんと
仙台地方 の酒造 りを担 った南 部壮氏 の故郷 での行事 であ り、
祭 の事例 がある。中で も岩手県 の事例 は、
大崎八幡宮 の どんと祭 を特徴付 けていた裸参 りの起源にも関わ りあ いの深 い事例報告 であ る。
第 2節
(1)大
大崎八 幡宮 の歴 史
崎 八 幡宮 の位 置 と遷 座
大崎 人 幡宮 は仙 台市青葉 区八 幡 4丁 目 6番 1号 に鎮座 す る神社 で、 祭神 は応 神天皇 、仲 哀天皇、神
功皇后 の三 柱 である。昭和 51年 10月 に宮城 県神社庁 が発行 した「宮城県神社名鑑」 によれば境 内地
は 12,432坪 、桃 山式権 現 造 で 国宝 の 本殿 15坪 、幣殿 10坪 、拝殿 21坪 で、 現在 の 宮 司 は 15代 目に
あた る小野 目博 昭 で あ る。
大崎八幡宮 の社名 は、藩政時代 は「大崎人幡宮」であった こ とが明和 9年 (1772)の 『封 内風上記』
な どの記述 で確認 で きるが、 明治 4年 の 太政官布告 で近代社格制 度が制定 された ときに「大崎 人幡神
社」 に改称 し、 旧社格 で村社 に列せ られた。戦後 の 昭和 22年 に441道 指令 で社格が廃止 された後 もし
ば らく大崎八 幡神社 の社 名 で あ ったが、鎮座 400年 の記念大祭 を 10年 後 に控 えた平成 9年 6月 に社
第 1章
大崎人幡宮の どん と祭
名 を古来の「大崎八 幡宮」 に改 めた。 なお庶民 の 間では「八 幡堂」 と呼 ばれて い た時期 もあ った とさ
れて い る。
大崎 人幡宮 の遷座 ははっ き りしていて、 慶長 12年 (1607)で あ る。 伊達家 の記録 で あ る F政 宗 君
治家記録引証記
二 十 一』 で は「一、竜宝寺八幡宮御造営御遷宮 ノ事
真 山記九
一 、同八 月十 二 日、
人幡宮殿成就 シテ御遷宮 (中 略 )此 宮殿営作 ハ 慶長九年 甲辰 ノ秋 二初 テ、四 ヶ年 ニ シテ成就」 とあ る。
由緒 につ い て は、 明和 9年 (1772)に 田邊希文が記 した とされ る 『封 内風 上記 』 や安永 4年 (1775)
の遠 田郡八幡村 の 『風 土記御用書 出』 に よれば、大 崎八 幡宮 は もともとは岩手県 の胆沢郡 八 幡 邑 (現
奥州市、 旧水沢市人 幡 )に あ った人 幡宮 (現 存社名、鎮守府八 幡宮 )を 大永 7年 (1527)に 奥州探題
の大崎義全 (マ マ )が 宮城県 の遠 田郡八幡 邑 (現 大崎市、 旧田尻 町人幡 )に 移 し、大崎八幡神社 と称
した とされて い る。 但 し、 これ には異説がある。 また大崎八幡宮 に伝 わる享保元年 (1716)の 絵巻文
書 の F奥 州仙台大崎 人 幡来 由記』 に よれば、伊達政宗が米沢 に在 った 頃、政宗 の もとに大崎氏が尊崇
して い た遠 田郡八 幡 邑の大 崎 八 幡神社 の ご神体 が届 け られた とい う。 天正 18年 (1590)に 大崎氏 が滅
び、天正 19年 (1591)に 伊達政宗 が岩 出山に移 った際、政宗 は城 内 に仮宮 を建 てて大 崎 八 幡神社 の
ごオ
申体 を安置 し、慶 長 5年 (1600)に は遠 田郡人幡 邑か ら大崎八 幡神社 を岩 出山に遷座 した。 さらに
伊達政宗が仙 台 に城 を構 えて移 るに際 して、政宗が米沢時代 か ら尊崇 し岩 出山に遷座 させ て い た成 島
人 幡 とともに大 崎 八 幡神社 を仙 台 に移 す こととなった。そ して慶長 9年 (1604)に 仙台城下 の現在 地
に社殿 の造営 を始 め、慶長 12年 (1607)に 完成 した大崎八 幡宮 は、成 島人幡 を合祀 し現在 に至 って
い る。
大崎 入 幡宮 は仙台藩 の歴 代 藩主 の崇敬 が篤 く、 二代 藩 主伊 達忠宗 か ら黒 印状が下賜 され、社領 493
石が与 え られたほか、 藩 主 の命 に よって社 殿 の修造や来 由記 の 制作 な どが行 われた。 祭礼 は現在 で は
1月 14日 の どん と祭 が 9月 15日
(明 治 の 中頃 までは旧暦
8月 15日
)の 例祭 よ り人 出が多 く著名 で
あ るが、 藩政期 に書 かれた年 中行事記録や紀行文 では、先 に述 べ た嘉永 2年 (1849)の 「仙蔓年 中行
事大意」以前 には「松 焚 き」 をす る どん と祭 のはっ き りした 記録 が見 当 た らない。 これ に対 して旧 8
月 の例祭 は流 飼馬がお こ なわれ る他 、相撲 や見世物 な どが 許 されて人気 を集め、大勢 の人 出があ った
ことが、 ほぼ藩政期 を通 じて記録 されて い る。 なお、今 日どん と祭 の ご神火が焚かれ る場所 は、その
流鏑馬が行 われた馬場 先 で、 石段 を登 りきったす ぐ左手 の広場 で あ る。
ところで大 崎 人 幡宮 が遷座 した地 であるが、 この地 は仙 台城 下 の西北端 の広瀬川北岸 の河岸段 丘上
の さ らに小高 い丘陵の頂上 部 にあ る。境 内地 は南北 に長 く、参道 や社殿 は南面 して い る。社殿 の あ る
丘陵は「恵沢 山」 と呼 ばれ、海抜 は約 83メ ー トルで、これは城下 の 中心 で あ った大町 の海抜約 40メ ー
トル よ り大幅 に高 い位置 にあ る。 大崎人 幡宮 は元禄 8年 (1695)の 『仙台鹿 の子』 には「御城府 よ り
遠 山なる故 に遠人幡 といふ 」 とあ り、 この地が仙台城下の はず れであった ことは重要である。
この大崎八 幡宮 と別 当寺 であ る龍宝寺 の 門前 町が現在 の人 幡 町 で、 大崎人幡宮 が遷座 した慶長 12
年 (1607)に は町が成立 して いた と見 られ る。明和 9年 (1772)の 『封 内風上記』 に よれば「大 崎 八
幡町。宅地凡 九十。 市 人凡千三百 四十 一 口。男人百六 口。女五 百 三 十五 口。」 とあ り、 当時 の仙台城
下で は大町、国分町 に次 ぐ規模 の大 きな町であった。 また この 町 は 関山越 え最上街道の出入 口であ り、
街道筋 の茶屋 町 としての性格 と、宿駅 で ある下愛子や熊 ヶ根 方面 か ら運 び込 まれ る主 に薪 な どの荷駄
に入 市税 を課 す「御仲 下改所 」が設 け られて い た ことは、 この 町 の特徴 で あ った。
(2)
二 つの 大 崎 八 幡 と龍 宝寺
宮城県内 には現在 大崎入幡 と呼称す る神社 が三社 ある。 一つ は仙 台 の大崎 人 幡宮、 そ の前 身 で あ る
遠田郡人幡 邑 (現 大崎市、 旧田尻 町人 幡 )の 大崎八幡神社 、 そ して旧岩 出山町内 (現 大崎市、 旧岩 出
第 1章
大崎人幡宮 の どんと祭
山町下野 日)の 大崎 人 幡神社 であ る。 この三社 の 関係 と、 大崎人 幡 に合祀 された成 島人幡 とその別 当
寺 としての龍宝寺 につい て述 べ てお く。
遠 田郡人幡 邑 (現 大崎市、旧田尻 町人 幡 )の 大崎八幡神社 は、奥州探題 に任ぜ
田尻の大崎 八幡神社
られた大崎氏が崇敬 した神社 で あ った。 由緒 は前述 の大永 7年 (1527)の 勧 請説 の他 に、社伝 や神社
明細 帳 によれば、天喜 5年 (1057)源 義家創建 の「三人 幡」 のひ とつ で、正 平 16年 (1361)に 大崎
家兼 が社殿 を再興 し大崎人幡 と称 した との説 もある。 いず れ にせ よ大 崎氏 の減亡後、伊達政宗が尊崇
しては じめ岩 出山城 に、次 いで仙台 の 地 に遷座 したが、元官 は別当寺 で あ る人幡寺 とともに現地 に残
された。享保 元年 (1716)7月 に別 当寺 の人 幡寺が提 出 した 『入 幡宮仙 台江取 移候義 二付書 出』 (鈴
木 家文書、昭和 58年 、 田尻 町史 史料 編 )に よれ ば「正保 3年 (1646)6月 に義 山 (二 代 藩主忠宗 )
の黒印 と一貫 二 百文 の寄進 を受 け た」 ことや政宗や忠宗が参話 した ことが記 されて い る。 また社殿 も
正平 16年 (1361)に 大崎家兼が再建 した建物 が残 されて い た とす る一 方 で、宝 暦 10年 (1760)に 水
月堂が記 した 『奥州里諺集哲 (「 仙 台領 の地 誌」平成 13年 2月 、今野印刷 )で は「遠 田郡人幡村 に入
幡 の拝殿計有、此所 の人 幡大崎繁 昌 の 頃ハ 、宮 も有 しよし、没落の後、仙台 へ 移 された りといふ、其
ゆへ に本社 ハ な く拝殿計 也、此所 へ 本社 を立 る事 ハ 仙台 の大崎 八 幡 よ り御 ゆる しなけれ ハ 成かた きよ
し云伝 ふ よしな り」 とあ り、仙台 の 大崎 人 幡宮 との 関係が必ず しも順調 で なか った時期 がある ことを
窺 わせ て い る。 因 み に この神社 は 明治初年 に野火か らの類焼 で社殿 や 一 切 の宝 物、文書類 も焼 失 し、
さ らには明治か ら昭和 にか けて常任 の神職がお らず荒廃 した。社殿 はその後 に再建 されたが、現時点
で は、旧田尻 町 の大崎 入 幡神社 には、仙台 の大崎人 幡宮 と直接 関 わ りの あ る祭事 や行事、神楽 な どは
見 出せ ない との こ とである。
岩 出山 の大 崎 八 幡神社
旧岩 出山町内 (現 大崎市、旧岩 出山町下野 目)の 大崎 人 幡神社 は社伝 と教育
委員会 による掲示板 の 由緒書 に よれ ば、高倉天皇 の承安年 間 (1171∼ 1174)に 藤原秀衡 の 家 臣照井
太郎高直が、秀衡 の 命 を受 け て旧岩 出山町下野 目に勧請 した人幡宮 で、 藤原氏 が減 ぶ と衰微 した もの
を、暦応年 間 (1338∼ 1842)に 奥 州探題 の大崎家兼が社殿 を修 復 して大 崎氏 の氏神 とした。天正 年
間 (1573∼ 1592)に 江合川 の 氾濫 で流 され、現在 地 に移 った とされて い る。 昭和 3年 に社殿 が焼失
したため、仙台 の 青葉神社 か ら社殿 を移築 し、昭和 46年 11月 に社 名 を大崎人幡神社 と改称 した。
岩 出山の大崎八 幡神社 と仙台 の大崎 入 幡宮 の 間では、 毎年秋 に大崎人幡宮 でお こなわれ る流 鋼馬 の
射手 に、岩出山の大崎 入 幡神社 の社 家が奉仕 して い た とされて い る。安永 2年 (1773)の 玉造郡下野
仲兵衛、清左衛 門」
目村 の 『風土記御用書 出』 では「品 替之御百姓 四人」 として「作左衛 門、善左衛 門、
が「但右 四人仙台大崎 人 幡宮御神事御 やふ さめ往古 よ り相勤」 と記載 されて い る。 また同年 と見 られ
る 『風上記御用 二付御的射大社士代 数書上』 で は「御的射
尾形仲兵衛、大社 司
笠原作左衛 門、 同
高橋 善左衛 門、 同
高橋清左衛 門」 の連名 で「往古 ハ 大崎 入 幡宮遠 田郡入幡村 二而 人 月十 五 日御流
鏑 馬相勤 申候処 八 幡宮仙 台江御移 以後仙 台 二 而相勤」 とし「右 四人共 二 御 知行 七百文宛」「右 四人共
二御神事 上下御用之節 ハ 名字帯刀 二而上下仕候」 とあることか ら、流鏑 馬 の射手 は古 くは田尻 の大崎
入 幡神社 の流 鏑馬 で、 仙台遷座後 は大 崎 八幡宮 で射手 を勤 め、その 際 は名字帯刀 が許 されて いた とさ
れて い る。 なお現在 の大崎 人 幡宮 の 流鏑馬 の射手 は、4人 の 直系 の子孫 で はな い が、その技術 を伝授
されて きた人たちである。
龍宝寺 と成島八 幡
大崎 人 幡宮 の東 隣 にあ る龍宝寺 は、藩政時代 は大 崎 八 幡宮 の 別 当寺 であった。『封
内風上記』 では「恵沢 山宝珠 院龍宝寺。在城北。真言宗。城 州醍醐 三 宝 院末寺。 旧在羽州米沢成 島。
不詳何 時何 人開山。伝云。後花 園言。康 正 中。澄海法印中興。」 とある。「 米沢市 史」 第 1巻 第 4章 第
第 1章
大崎人幡宮のどん と祭
1節 『中世 の宗教 と文化』 (平 成 9年 3月 、米沢市 史編 さん委員会 )に よれ ば「龍宝寺 は成 島人 幡 の
別 当寺 で、伊達氏 の祈祷寺である。 この龍宝寺 は、本来伊達家が 帰依 して い た伊達郡梁川 の亀 岡人 幡
宮 (の ち仙台 に移 る)の 別当寺 で あ った。寺伝 による と、伊達朝宗が常 陸国中村 に開基 したのである
が (中 略 )伊 達家が米沢へ 移 る と、 同寺 は成 島人 幡宮 の別 当寺 とな り、 さらに伊達家が仙 台へ 転封す
る とき同家 に随伴 して、寺宝等 は米沢か ら仙台へ 移 された。」とある。 これは史料 で裏付 け られ る。「大
日本古文書」 の 『伊達家文書』 では、 伊達家が米沢 に在 った天正 10年 (1582)の 『性 山公御 自筆年
始御儀式壱巻』では正月六 日に「 りうほ うし
(龍 宝寺)へ 年始参候」 とあ り、また伊達政宗が岩出山
にいた慶長 5年 (1600)正 月の『諸寺家年始進物 日記』表紙『慶長五年正月四 日諸寺家中』に「一五十
てう
りやほう寺
(龍 宝寺 )」
との記載があ り、龍宝寺が米沢か ら岩出山を経 て仙 台に移 ったことが
わかる。
龍宝寺が別当寺 であ った成島八幡神社 は、元宮が現在 も米沢市成島町に鎮座 し、正安 2年 (1300)
の棟札が残 る古社であるが、伊達政宗が岩出山に移 った際に岩出山城内の「人幡平」 に勧請 され、そ
の後仙台に移る際に大崎人幡宮に合祀 された。龍宝寺 はそのまま大崎入幡宮 の別当寺 となったが、明
治初年 の廃仏毀釈で廃寺 とな り、文書や寺宝 も故逸 した。明治 3年 の神仏分離 で龍宝寺 45世 永憲が
還俗 して大崎人幡宮の祠 官大崎清美 とな り、別当寺 としての歴 史を閉 じた。
(3)
大崎 八 幡宮 の祭礼
大崎 入 幡宮所蔵 の 『大崎人幡宮年 中行事』 は、 文化年 間 (1804∼ 1818)の 終 わ りか らその後 にか
けての記録 であ り、 この 頃、 同社 の神主 を務 めた沼 田豊前正の手 による もの とみ られ る。 当時 の祭礼
と神事 に関す る社務や作法、物事 の取 り決め の際 に交 わ された文書 の写 しな どを詳細 に渡 って書 き留
めたその 内容 は、江 戸後期 の大崎八幡宮 における神社 祭祀 の有 り様 を当時 の神職 の 目を通 じて知 るこ
とので きる今 日にお い ては数少 な い記録 の一 つ とい える。次 の一 覧 は、その 『大崎 人 幡宮年 中行事』
に記 された年 中 の行事 を整理 した もので、現在 の大崎八幡宮 お い て、それ らと同 日に行 われて い る祭
礼や神事等 を これに加 えた。
近世期 の大崎人幡宮 は、 12の 社家 に よ り奉祀 され、 神 主 を中心 として 11人 の禰宜がそれぞれ の役
に応 じて神職 を勤 めて きた。 同社 の祭礼 の 内 で重 視 された 2月 の「ワFノ 御神事」と 8月 の「大御神事」、
4月 と 12月 の 2度 の「御神事」 は、 あわせ て「四 ケ度御神事」 と総称 され、領主やその代 参 な どを
迎 えて執 り行 われる もので あ った。 これ らの御神事 は、 この後明治期 にい たって姿 を消 して い った と
み られるが、境 内赤 !専 居前 での「忌竹式」か ら始 まる「大御神事」 は、 今 も例大祭 として残 り、鳥居
祭、神楽、御興渡御、流鏑馬 な どが 姿 を少 しず つ 変 えなが ら受 け継がれ てい る。
ところで、『大崎入幡宮年 中行事』 には、今 日の松焚祭 に係 わる記事が 1月 14日 の記述 として見 う
け られ る。 す なわち、
一 、十四 日惣禰宜 中松 明 まて御宮本詰居来 申候 先十四 日暮前相 国太戟打候也夫 ヨ リ出仕勤行常
之通 身曽貴 太祓十 二 度 中臣祓壱度 三種太祓 三 十六度祈念摂掌拍手等常之通 神燈十 二 燈江
献之油等 ハ 首呑人 ヨ リ世話 いた し候 相調候而十六 日敬銭勘定之節入 料引営候 営方之禰宜江
相渡 ス十四 日夜営呑所井御拝殿 二而会相用 ひ 申候炭薪等 も同 日営番人世話役被右調代右 同断
扱右十四 日御神事 自分御神事 二而寛廷年中時分 ヨ リ欺祖父出雲 守代 ヨ リ段 々参詣者大勢 ニ
見 え候 二付其居営番人神燈神酒相献様 二取斗候処下年殊 二参詣多夫 ヨ 塑惣緬 宜 詰居 候処段候
ハ 、世 聞 二而 ハ御神事 とつ たへ 大勢参詣在之様 二相成候 由祠官沼 田若狭義豊前正叔母 聟 二有
之処享和 三 年 七十三 歳 二相成候処先年之次第段 々覚居相咄 申候也
※下線は筆者による
とあ って、 この 日は全 ての禰宜が 「松 明」 まで宮 に詰 めて い た ことを記す。 また、 18世 紀 中葉 の寛延
第 1章
大 崎 人幡宮 の どん と祭
『大崎八幡宮年中行事』にみる大崎八幡宮の祭礼
【
日時
祭礼 ・神事
現在
1月 1日
朝御官 出仕勤行 (∼ 5日 まで同じ)
歳旦祭
7日
七草御宮朝出仕勤行
8日
龍宝寺年始初 めにより出仕
日時
6月 1日
15日
7月 1日
7日
(江 戸後期)】
祭礼 ・神事
現在
月首祭
朝御官出仕勤行
朝御宮出仕勤行大御神事修復物の見分 月次祭
朝御 宮 出仕勤 行
月首 祭
龍宝寺へ 祝辞
11日
朝 出仕勤 行
14日
惣禰宜中松 明まで御宮詰居
松 焚祭
15日
朝 出仕 勤 行
15日
朝出仕勤行 神楽献納
松焚祭
21日
大御神事神楽稽古初め(∼8/8ま で)
16日
前日散銭配分 神楽御道具等の見分
22日
大御神事入用 の龍宝寺へ 申し出
29日
御宮出仕勤行 (陰 暦大の月晦日正月)
8月 1日
2月 1日
朝御 宮 出仕 勤 行
月首祭
5日
月首祭
月首祭
鳥居祭 ※
赤鳥居前他忌竹式勤行
神主この頃より大御神事別火斎戒入
大御神事御神楽稽古納めの御祝儀
11日
入幡 町火伏 勤 行祈祷
15日
朝御宮出仕勤行
16日
前 日御 初穂 配分
月次祭
上旬 頃 卯 ノ日御神事 (四 ケ度御神事 )
3月 1日
3日
朝御宮出仕勤行
月首祭
節句朝御宮出仕勤行
8日
禰宜中夕飯より大御神事別火斎戒入
9日
大御神御切削 (ぬ さ)の 用意
13日
朝内陣掃除、晩神楽、湯立式破納
14日
大御神事、
神輿渡御 (四 ケ度御神事
例大 祭 ※
15日
禰宜 中朝まで御宮 詰 め居
例大祭 ※
17日
神輿散銭配分
流鏑馬神事
15日
朝御宮出仕勤行
月次祭
18日
4月 1日
朝御 宮 出仕勤 行
月首祭
9月 9日
3日
御神事 (四 ケ度御神事 )
12月 14日
)
禰宜中龍宝寺へ祝辞
御宮出仕勤行、
御神事 (四 ヶ度御神事 )
15日
朝御宮出仕勤行
月次祭
26日
年中散銭配分
5月 1日
朝御宮 出仕勤行
月首祭
28日
門松 立て
5日
朝御宮出仕勤行
30日
大 晦 日 御 宮 出仕 勤行
15日
朝御宮出仕勤行
月次祭
※例大祭 は、現在9/1の 鳥居祭 には じま り、9/14か ら9/151こ か けて本祭が行 われ る。 なお、 同社 で は今 日、 この他 に
節分祭、皐 月祭 、水 無月大祓式、御鎮 座記念祭 な どが主 要 な祭祀 と して行 われて い る。 また、 月首祭 と月次 祭 は
8月 お よび10月 以 降 も行 われ る。
年 間 (1748∼ 1751)の 頃 よ り、参詣者 の増 えた ことを、享和 二 (1802)年 で 73歳 となる叔母婿 の神
職沼 田若狭 の話 りとして述 べ てお り、松焚祭 の始 ま りを知 る上で注 目され る もの と言 えよう。下線部
を付 した この下 りでは、 当番 の神職が 「燈 櫛」や 「神酒」 の献 上 を取 りはか らった ことか ら、参詣者
が増 え始 め、禰宜がそ の対応 のため総 出す る よ うになった ところを、世 間に は御神事 と伝 わ り、 一 層
の賑 わ い となった と記す。松焚 に関 しては触 れ られてはい ないが、あるい はその始 ま りは、神職達 が
12月 28日 に作 った 門松 や 自らの家 々で飾 ったその他 の松飾 りを松 明 にあたって、 まとめて焼納 (松
旨の人 々 も、そ の例 に習 う よ うにな ったのではなか ろ う
焼 き)し た ことに よるもので あ り、やが て参言
か。松焚場 の 中心 に今 日では正月 の社 を飾 った大 門松が据 え られるの も、あるい はこの祭 の始 ま りと
関連す るのか もしれな い。
第 1章
第 3節
大崎入幡宮の どん と祭
どん と祭 へ の理 解 と先 行研 究
(1)ど んと祭への一般理解
平成 15年 に社 回法人宮城 県観光連盟が観光 キ ャ ンペ ー ン用 に発行 した「 ウ ェルカム みや ぎ観光
`
ガイ ドブ ック 03」 で は、 どん と祭 の 説明 として 次 の よ うに記述 されて い る。「毎年 1月 14日 、 宮
城県内各地 の神社 な どで行 われ る小正 月行事 の一つ が「 どん と祭」。正 月 の松飾 りや しめ縄、
神府 (マ
マ )を 神社 に納 め、 これ を神 火 で燃 や して新年 の幸福 、商売 繁盛、無病息災 を祈 る祭 りで、全 国で も
有数 の小正 月 の行事 として定着 して い る。 中で も、仙 台市青葉 区 の大崎 入 幡宮 の どん と祭 は裸 参 りを
す るこ とで全 国的に有名 になって い る。 参加者 は猿股 に白足 袋、わ らじを履 き、口に含 み紙 を くわえ、
右手 に洋鈴、左手 に提灯 を持 って市 内 を参拝す る。」
一 方仙台市 内 で発行 されて い る 日刊紙 「河北新報」 の平成 18年 1月 15日 朝刊 1面 記事 では、 前 日
1月 14日 の どん と祭 につ い て 次 の よ うに掲載 されて い る。「小正 月 の伝統行事「 どん と祭」が十四 日、
東北各地 の神社 な どで行 われた。 仙 台市青葉 区の大崎人幡宮 では午後 四時半 ごろ、積 み上 げ られた正
月飾 りに火が入 れ られた。 参拝客 は燃 え盛 る御神火 に手 を合 わせ、一 年 の 無病息災や商売繁盛 を祈 っ
た。
恒例 の裸参 りに参加 したの は百 一 団体 の約 三千百人。 白い さらし姿 でち ようち んを手 に、かね を鳴
らしなが ら境 内を練 り歩 い た。 (以 下略 )」
この よ うに一 般的な認識 としては、 どん と祭 は「宮城県 内や東北各地の神社」 な どで行 われる「小
正 月 の伝統行事」 で、中 で も「大崎人幡宮 の どん と祭 は裸参 りの参 詣が行 われ る」 ことで有名 で ある、
とい うことになる。 しか しこの記述 は民俗学的に見た場合 は正鵠 を得てい ない。 どんと祭 が宮城県内
各地で広 く行われるようになったのは ご く最近 のことで、 ましてや東北各地 で行 われているわけでは
ない。 また小正月の伝統 行事 とされるが、小正月に松飾 りを「納 める」 ことは広 く行 われてい るが、
松飾 りを焼 くのは宮城県内では ご く稀 な事例であった。このように大 崎八 幡宮 の どんと祭 については、
裸参 りの参詣 ともあい まって他の神社仏閣の どんと祭 とは一線 を画すべ きものであった。
量新 の民俗誌 の うち、仙台市史編 さん委員会が平成 10年 3月 に発 行 し、あえて「二十世紀が終わ
ろ うとす る時点 で記録 された
(中 略)民 俗誌」 とことわった「仙台市史特別編
6民 俗」によれば「 ド
ン ト祭 正月十四 日の宵か ら翌暁にか けて大崎人幡宮 の境 内で行 われる小正月 の行事 である。「 ドン
ト祭」 の呼称 は大正期以後 の ことで、古 くは「松焚 き」 といった。 (中 略 )夕 方小正月の年取 りのお
膳 を歳徳神 さまに供 え、家族 そろって食膳 についた後 で松飾 りと注連縄 を取 りはず して束ね、大崎
入 幡官 に持参 して焼 いた。」 さらに「造 り酒屋 の杜氏 による裸参 りが行 われて い る。現在 では酒屋以
外 にも企業や団体、 また個人で裸参 りに参加する者 もい る。平成九年 (一 九九七 )の ドン ト祭 には
一三二 団体、約 三二〇〇人が参加 した。戦前、 (中 略)現 在 の よ うに個人や各 団体が参加す ることは
ご く稀 であ った し、戦後、女性が参加す るようになった時には奇異 な目でみ られた ものであ った とい
う。 (中 略)こ の ドン ト祭 は、市内 の各地区へ の影響 も大 きく、昭和 三 十年代以降には各地区の神社
で ドン ト祭 を始めた例が非常 に多 い。」 と記載 されてい る。
(2)
どん と祭 の発 祥 につ いての 先行研 究
藩政時代 の どん と祭史料
どん と祭 の発祥 に関す る文献 の うち、最 も重要 な ものは昭和 15年 7月 に
仙蔓昔話会か ら発行 された「 仙蔓年中行事給巻
附仙重年中行事大意」である。本書 は常盤雄五郎が
所蔵 していた「仙菖年中行事給巻」 を収録 したもので、郷土史研究家 の三 原良吉が解説文 を書 き、そ
第 1章
大崎 人幡宮 の どんと祭
の 中 で絵巻 の成立年代 を嘉永 3年 (1850)頃 として い る。 この絵巻 は三 原 の解説 に よれば「此 種 の仙
墓 資料 として唯一無 二 」 である とし、実際他 に同様 の 藩政時代 の風俗 を描 い た資料 は極 めて稀 であ る。
この絵巻 には 『正 月習俗 の 図』 に三人の男が裸 で鉢巻 きと腰 に前垂 れの下が った注連縄 を着 け、先頭
が鐘、二番 目が 三 宝、三 番 目が「菅原」 と書 い た桶 を持 ち、裸足 で歩 い て い る姿が描 かれ、そ こ に「裸
まうて」 と記 されて い る。 これについ て三 原 は解説 で「十 四 日の夜行 はる ゝ大崎人 幡 の松焚神事 の裸
参 り」 と記述 して い る。 (図 1参 照 )
さ らに本書 に掲 載 された「仙蔓年 中行事大 意」 は二 世 十遍舎 一 九が江戸 山崎屋清 七 か ら嘉永 2年
(1849)に 刊行 した「奥羽 一 覧道 中膝栗毛」の うちの 第四篇 の仙台 の年 中行事部分 を抜 き出 した もので、
別名 『奥州仙蔓行事』 と も呼 ばれて い る史料 で あ る。 ここには「 十五 日。大崎入幡宮。十四 日夜 よ り
参詣群集す。 この 日、 門松 を入幡 の社 内 にて焚失 るな り。」 と記載 されてお り、 これ らの史料 に よっ
て どん と祭 と裸参 りが、それぞれ藩政時代 末期 に遡 れ るこ とが明 らか にされた。
そ の後、昭和 47年 1月 に仙 台商 工 会議所 が発行 した「会議所 ニ ュース」 に掲載 された「仙 台 の正
月
幕末 の正 月行事 」 で、 時代 的 に嘉永 よ り遡 る と見 られ、 一 説 には文政 13年 (1830)と もい われ
る仙台市博物館所 蔵 の燕石斎 薄墨 の「仙府年 中往 来」が紹介 された。紹介者 は元宮城県 図書館長 で仙
台郷 土研究会会長 の佐 々久 で、その内容 は「十四 日ハ 松 を曳 きて (中 略 )同 日夜 か ら十五 日昼 まで大
崎 人幡宮参詣群集」 と記 されて いる。但 し「仙府年 中往 来」 に関 しては、 この模写 を掲載 して藩政時
代 の年 中行事 等 を詳 し く紹介 した小西利兵衛 の「仙墓昔話電狸 翁夜話」 (大 正 14年 4月 発行 )に は、
8月 15日 の大 崎 八 幡榊社祭典 の賑 わ いの記述 はあ る ものの 、正 月 の どん と祭 に関す る記述 が全 く見
当 た らないの が気 になる ところであ る。
さて、 これ らの史料 とともに よ く引用 され るのが 昭和 6年 10月 に宮城県教育会 か ら「宮城 教育」
の特集号 として発行 された「郷土 の伝承」第 1輯 に収録 された 『封 内年 中行事』 であ る。 この編者 は
不 明 であるが記述 内容 は「仙墓では十四 日か ら暁か け て大 崎 八幡宮 に焚松祭 を執行 され、途 も社 もう
づ まるばか りの盛 況 で あ る、 中に も数百人 の裸体詣 りが神鈴 を鳴 らして雪 を踏 んで寒風 の 中 を進 むの
が威勢 よ く見 られ る、之 等 を暁詣で といふてゐる。」 となって い る。
どん と祭の民俗学 的研 究
この よ うに藩政時代末期 にまで遡 るこ とが確実 な どん と祭 で あるが、 そ の
発祥 につ いての 民俗学 的 な研 究 は意 外 なほ どに少 な い 。戦前 で は昭和 15年 2月 に仙重観光協 会が発
行 した「仙重 の 年 中行事」 で「松焚 (ど ん と)祭 」 に特 に解説 が つ け られて い る。 この解説 の筆者 は
不詳 で あ るが、前記 の 『奥州仙墓行事』 や 『封 内年 中行事』 を引用 して「門松、年縄 を大崎入幡榊社
「 (門
境 内で焚 くこ とは武家 で も商家で も一 様 に行 はれた行 事 であつ た もの と考へ られる」とし、さ らに
松 を)七 日或 は十 四 日に救 した時、その ま ゝに しては汚すや うな恐 れがあつ て川 に流す とか、浄火で
焼 く習 ひが生 じで来 た。 (中 略 )民 間で松飾 りや、 しめ縄 を焼 くこ とも昔 は各 自の家 々で したのだが、
サ ンギ ッチ ョの児童遊戯 に誘 はれて「 守貞浸稿」 にあ る如 く (中 略 )諸 河岸 に持 ち出 して共 同 に焼 く
風 とな り、そ の児童遊咸 が廃 れてか らは一 は火 の用心等 の 関係 か ら著名 な神社、鎮守 の境 内 な どへ 持
ち よって焼 く ドン ト祭 の風俗 と変 じて来た もので あ らう。」 と記 して いる。
戦後 は高度成 長 の もとで各地 の民俗行事 が急 速 に衰退 に向か ってい った。 このため 文化庁 が 昭和
37年 度 か ら 39年 度 の 3か 年計画 で全 国的 な民俗 資料 一 斉調査 を行 った。その後 に全 国各地 の 民俗調
査や研 究 の成 果 を都 道府県別 の「 日本 の民俗」 として出版 す る こ ととな り、宮城県分 につ い て は昭和
49年 7月 に竹 内利美 を著者 として 第 一 法規 出版 か ら「 日本 の 民俗
宮城」が 出版 された。 そ の 中 の
正 月行事 の項 目に「仙台市 内で も正 月飾 りは十 四 日まで残 し、 同夜大崎 人 幡社 の祭 りの庭 に持 参 して
焚 く。 (中 略)こ の祭 りを ドン トサ イ と呼 ぶのは大正期以後 の 通称 で、古 くはマ ツタキ (松 焚 き)で あ っ
た。宮城県下 には他地方 の トン ドの よ うな松焼 きの正 月送 りは仙 台市 の大崎入幡社 以外 にはな い らし
第 1章
大崎人幡宮の どん と祭
い。 ほ とん どが屋 敷神 (明 神 さま・ ウチ ガ ミ 。稲荷 さま)に 納 め、あるい は屋 敷 内 の 明 きの 方 の 木 に
納 めて い る。」 とし、 大崎八幡宮 の どん と祭 は、 宮城県 内 で極 めて孤立 した祭 りであ る と結論付 け て
い る。
これ に対 して大 崎 人 幡宮 では「参拝 の しお り」 (平 成 17年 版 )に お いて「当宮 の松焚祭 は三百 年 の
歴 史 を有す全 国 で も最大級 の正 月送 りの行事 で、正 月飾 りや古神札等 を焼納す る正 月送 りの行事 で あ
り、 当官 にお い ては「松 焚祭
(ま
つ た きまつ り)」 といい ますが、他地域 で は一 般 に「左 義長
(さ
ぎ
ち ょ う)」 、 又 はその火 の勢 い か ら「 ドン ド焼 き」等 とも呼 ばれてお ります。Jと 記 して い る。 さ らに
どん と祭 の パ ンフ レッ ト「 どん と祭
来当社 に於 い ては松焚祭
(ま
裸 まい りの御案 内」 (平 成 16年 版 )の 中 では「 どん と祭 は、 本
つ た きまつ り)と 言 って居 りま したが、一 般 には、左義長
(さ
ぎち ょう)
と言 う正 月 の行事 です。 また松飾 りな どを焚 く火 の勢 い か ら、 トン ド、 ドン ドな どともい われ、サ イ
ノカ ミの信 仰 と相倹 って、サ イ ト、サギ ッチ ョな どと も言 われ ます。 これは、古来 よ り我 が 国 で行 な
われて いた 神事 ですが、それが “
サギチ ョウ"と 呼 ばれ るよ うになったのは、 中国 の風俗 を取 り入れ
てか らの事 の よ うです。」 として い る。300年 の歴 史 といった こ との根拠 は全 くふれ られて い な いが、
松焚 きの 行 事 の 由来 を中国の古代行事 に求 め る主張 の背景 には、佐 々久が昭和 36年 1月 発行 の「宮
城縣 史 12(学 問宗教 )」 の F神 社概説』 に掲載 した記述 や、昭和 63年 1月 に「仙 台商 工 会議所 月報」
に掲載 した 『 どん ど祭考』 で「上元 節 の燈節 は漢民族 の 祭 りとして民 間に続 け られた。 日本 で も年 中
行事 として 各 地 に伝 わ り、九州北部 では左 義長、南部 で は爆竹 とワラを束ね てホケ ンギ ョウ として形
式 を保 ち、 (中 略 )仙 台 の ドン ト祭 は、 中国 の燈節児 か ら伝 わ った語源 を も とに して呼 び習 わ された
ので あろ う」等 と書 い た ことに影響 されて い る とも見 られる。
一 方宮城 県 内 には数少 ない とは言 いつつ も、正 月飾 りを焼 く行事 が 山間部 の七 ヶ宿 町や仙 台市 の大
倉地 区、加 美郡 な どに残 されて い る。それ との 関係 や都 市 と農村部 との違 い な どに注 目す る民 俗学研
究が、近 年 発表 されて い る。小 野寺正人 は平成 16年 5月 に新 人物往来社 か ら出版 された「宮城 県 の
不思議事 典 」 の 『大崎人幡宮 の「 どん と祭」 はなぜ 始 まったのか』 で、大崎 入 幡宮 の どん と祭 と七 ヶ
「七 ヶ宿 町 は近 世 の参勤交代 のため に開設 された街道であ っ
宿 町 の「サ イ ドヤキ」の類似性 をと りあげ、
たので 峠越 しに山形や福 島 の民俗 の影響 を受 け て これ らの行事が行 われて い た もので あ ろ う。」 と し
た上 で「近世 の城下町 として発展 した仙 台 は住民 の正 月送 りの形態 として「入 幡堂 の松焚 き」 を しだ
い に盛 りあ げ、「 どん と祭 Jに した もので ある と見 られ る。」 とし、近 世期 の人 的交流 と仙 台 の都市 的
性格が どん と祭 を作 っていった と考察 して い る。
また三崎 一 夫 は、 平成 12年 3月 に宮城 県教育委員会が発行 した「宮城 県文化財調査報告書 第 82集
宮城県 の 祭 り・行事」 の解説文 『宮城県 の行事』 の 中 で、大 崎 入 幡宮 の「 この地 はか つ て市街地 の
北西隅 にあ た り、全 くの推測 であ るが、 もともとは町はずれで正月飾 りを燃 やす ことが あ って、やが
て 当社 の 神事 に組み こ ま したのではあるまい か。」 とし、それが全県的 に普及 した ことにつ い て は「 現
今 では農村 部 であって も住居 は近 代風 に改め られ、屋 敦 の 隅 に正月飾 りが放置 された ままで は好 ま し
くな く、 そ れ に正 月 の ものは粗末 にで きない とい う感覚 もあ って、 早 々 に処分 した い とい う意識か ら
に違 い な い 。 ヤヽ
ずれ民俗習俗が短時 間に変化 した一 例 で ある。Jと して い る。
この平 成 12年 3月 に宮城 県教育委員会 が発行 した「宮城県文化財調査報告書第 82集 宮城県 の祭
り 。行事 」 の報告書本編 には 『大崎 人 幡宮 の どん と祭』 につ い ての従来 にな い画期 的 な報告が佐藤雅
也 によって執 筆 されて い る。 この 中 で佐藤 は従 来 の どん と祭 をめ ぐる史料 に加 えて、明治以 降 の新 聞
記事 を検索 し、 どん と祭 とい う名称 が定着 して い く過程 や どん と祭 その ものが 大崎人幡宮 か ら他 の神
社仏 閣 の 祭 りに拡大 ・拡散 して い く様子 を明 らか に した。
さ らに本調査実施 中 の平成 17年 9月 に、 本調査 の 中 間報告 ともい うべ き論文が仙台市教 育委員会
文化財課主事 で、 民俗学研究者 の 中冨洋 に よって発 表 されて い る。論文 は東北学 院大学民俗学 OB会
第 1章
大崎人幡宮 の どん と祭
が発行 した「東北民俗学研究」第 8号 所収 の 『大崎人幡宮の松焚祭の祭礼的な特質について』 と題 さ
れた原稿用紙 40枚 程 の もので、藩政時代か ら現代 までの史料や新 聞記事、大崎人幡宮 の「参詣 の し
お り」か ら消防局の「 どん と祭消防特別警戒結果」 に至 るまでの資料 20点 について紹介 し、それに
論考 を加 えていった もので ある。史料 の中には初出 となる藩政時代 の「大崎八幡宮神主 沼田豊前正
『大崎人幡宮年中行事』(大 崎八 幡宮蔵・未刊)」 も含 まれてお り、現状 にお いては最 も精緻 な論考である。
この論文所収 の史料 は、本調査 と共有する ことになっていたが、 中冨は残念な ことに本調査実施中の
平成 18年 1月 21日 に病 で急逝 し、資料だけが我 々の手元に残 されてい る。 中冨の論考 の主 旨は どん
と祭 の持 つ都市型祭礼 の性格 を明 らかにしようとい うものであ り、それは明 らかに本調査の方向 と一
致す る。中冨はい わば本調査 の うちの大崎人 幡宮 に直接 関係 した文献的資料 の収集 と解析 を担 ってい
たのであ り、それに対す る見解 は今後 の どんと祭調査 にひとつ の指針 を与 えるものである。論文掲載
誌 と遺族 の了承 を得 て、 少 し長 くなるが 中冨論文 の結 び部分 の一部 を以下に転載す る。
中冨洋 『大崎八幡宮 の松焚祭 の祭礼的な特質について』所収の
Fむ
すびに かえて』
「 (前 略)祭 礼 の変遷過程 の概要は次のように整理 される。
近世末
)こ の時期 には
(― 人三〇年代 まで
(中 略)一
月十四・十五 日に多 くの参詣があ ったことが
記 されてい るが、松焚 きについての記載 はない。可能性 として、 この参詣 はあかつ き参 りで、松焚 き
その ものはまだ存在 してい なかった ことも想定 される。
近世末
)(略 )こ の時期 にはあかつ き参 りと併せて、松焚 きと裸参 りの所在
(― 人四〇年代 中葉以降
が確認 される。少 ない資料 か らの推測 になるが、一人三〇年代か ら同四〇年代中葉 にか けて、何 らか
の契機 で松焚 き、裸参 りが付加 された可能性 も想定 される。 いず れに して も、現在 の松焚祭 の形態 の
上限期 となってい る。
近代 (明 治時代 ∼昭和 二 〇年 )明 治時代以降の仙台市は東北地方の中核都 市 としての性格が よ り明
確 とな り、各種官公署、学校、事業所や軍事施設が集中 して近代都 市 としての体裁 を整 えてい くが、
この都市 の拡大 に併せ て松焚祭 も一層 の拡充がみ られ、「 どん と祭」 の呼称 を定着 させ つつ、仙台 を
代表す る祭礼 となってい く。 また大正時代以後 は、 開催場所 の拡大化 もみ られるようにな り、大崎人
幡宮以外 の寺社 で も松焚 きの行事が行われるようになる。
なお、 この時期 の松焚祭 の祭礼的特質 は、 当時宮城県下で広 く行 われていた小正 月の暁参 りを基盤
としていることである。 つ ま り構造的には、主たる「あかつ き参 り」に「松焚 き」 と「裸参 り」が付
随 していたもの とみることはで きないだろ うか。
また、 この時期 の特徴 として特筆すべ きことは、不特定多数 の都市住民 の参詣者 で維持・ 拡大 した
ことや、松飾の回収 を行 う
(マ マ)請 け負 うものの存在、 また花柳 界 の参詣な どに、いわゆる都市的
な性格が うかがわれることである。
現代
)仙 台 の市街地 は昭和 二十年の空襲で荒廃 す るが、終戦後 は新 しい社会体制
(昭 和 二 〇年以降
下で急速な戦後復興が図 られ、戦前同様 に東北地方 の 中核都市 として拡 大 を続 けてい くこととなる。
大崎八幡宮 の松焚祭 (ど ん と祭 )は 、神社の聞 き取 りに よれば、終戦 の翌年昭和 二十一年 の一 月にも
実施 されてお り、それ以後 も景気 の拡大や都市 の拡充 と併行 しなが ら、 いっそ うの隆盛 をみる ことと
なる。昭和三十か ら四十年代 にかけては、十五 ∼二 十万人の参詣者 を集 める祭礼 に成長 し、
「 どんと祭」
の呼称 も完全 に定着 して、仙 台 を代表す る祭礼 として定着す るよ うにな る。
なお、戦後 のこの時期 は社会 変革 に伴 ってさまざまな民俗が大 きな転換がみ られることはよ く知 ら
れてい るが、仙 台地方 の小正月行事 にも明瞭な変化があ り、従来一 月十五 日に行われたあかつ き参 り
の習俗 も廃絶 の傾向をた どることとなる。 これに伴 って大崎入幡宮の松焚祭 (ど んと祭 )の 参語 の様
相 にも大 きな変化が表 れて い る。神社 の聞 き取 りによれば、昭和三十年代半ば頃までは、十五 日の明
第 1章
大崎人幡宮の どん と祭
け方 まであかつ き参 りの参詣 で混雑が続 いたが、 これ以降はその様相に変化がみえ始め、夜半以降の
参詣者 は極端 に減少 し、現在 に至ってい るとい う。現代 の松焚祭 では、従来 は祭礼 の基盤 ともなって
いた「あかつ き参 り」 の性格が失われ、松焚 きと、裸参 りが主要な構成要素 となったもの とみ られる。
大崎八幡宮 の松焚祭 (ど ん と祭)を 民俗行事 としてみた とき、 この変化 は見逃す ことので きない画期
として位置付 け されよ う。
また ここ数年、 日本 の社会形態には大 きな変容がみ られ、それを象徴す るもののひとつが地方分権
の考え方 である。従来 日本の地方都市の経営は中央政府 に依存する形で維持 されて きたが、社会状況
の変化 によ り財源 も含めた独 自性が求め られるようになって きてい る。 この過程で従前 の 日本社会で
はみ られなかった都 市 間競争が いっそ う激化す る状況 となって きてお り、 これを克服す るための戦術
としてのシテイーセールスの強化や、街 自体 の活性化 を図るいわゆる地域起 こ し事業 の振興 は、地方
都市 の重要な政策課題 となっている。 この過程 にお いて、地域の個性 を反映す ると考え られてい る
「伝
統文化」 はその重要なツール として利用 される傾 向 にあ り、現実に仙台市において も、 どん と祭 をは
じめ として仙台七夕や、すずめ踊 り、仙台城跡などの「伝統文化」は仙 台 とい う都市 の個性 を象徴す
る顔 として、 さまざまなプラ ンや都市 PR、 そ してその周知 を目的 とす るメディア素材 のプ ロロー グ
として頻繁 に使用 される事例が 目立 っている。 この よ うな近年 の状況 も、 どんと祭 の現代的な変容 の
一種 として理解すべ きか もしれない。
ここまで、近世か ら現代 に至 る大崎八幡宮 の松焚祭 (ど ん と祭 )の 変遷 と特質 についての概 観 を行 っ
て きたが、 これ らを集約す ると、 この祭礼 を読み解 くキ ー は「都市」 とい う概念 に集約 されるのでは
ないか と考えてい る。 この祭ネとは一貫 して、近世 に成立 した「都市」 としての仙台 の環境下 にお いて
生成 され、変容 を続 けなが ら今 日まで継承 されて きた ものの よ うにみえるか らである。内田忠 賢 は都
市 の特性 として「多様 な価値観 を許容 して、新 しい価値 を生み出す こと」、
「血縁 。地縁的ではない、
社縁的 。選択縁 的な結合契機 の役割 が大 きいこ と」な どを指摘 し、 また都市の民俗のパ ター ンのひと
つ として「村落出身者が都市に移住後、彼 らの持つ民俗文化が残存あるいは変容 した もの」 をあげて
いる
(二 〇〇〇『日本民俗大辞典』 など)。
先述 した よ うに、大火で松飾 を焚 き上げて正月を送 る行事 は地域の民俗的な背景か らみると一見異
質なものに写 るが、 内田が指摘するような「都市」の概念 を基盤にして捉 えなおせば、その特性のラ
フスケ ッチの輪郭が浮かび上がって くる。 この祭礼 を改めて構造的 に分析 し、「あかつ き参 り」、
「松
焚 き」、「裸参 り」な ど、祭礼 の主要な構成要素について、その 出自も含めた詳細 な検討が今後 の課題
であるとい えるだろう。」
(3)裸
参 りに つ い ての先行研 究
裸参 りの起 源や推移 につ い ての研 究 は、 どん と祭 の研 究そ の ものに比 べ て もさ らに少 ない。前項 の
大崎八 幡宮 の どん と祭 のパ ンフレ ッ ト「 どん と祭
裸 まい りの御案 内」(平 成 16年 版 )で は「 三 百 五十
年余 の歴 史 を もつ 、全 国 で も最大級 の正 月神送 りの神事 で あ る大 崎人 幡神社 (マ マ )の 松焚祭裸 まい
りは、神 々が神 の 国へ 登 られ るための炎 を 目指 し、厳寒 の 中、裸 で参 られる ものですが、前述 の通 り、
寒 の仕 込み に入 る酒杜 氏 の新 酒 の 吟醸祈願 のための神 詣 で あ りま した。」 と記 して い るが、 250年 と
い う歴 史 の根拠 はない。
裸参 りの初 出史料 は前項 の「仙墓年中行事綸巻」 (嘉 永 3年 (1850)頃 )の F正 月習俗 の 図』 に描
かれた「裸 まうて」 の絵図である。 これについて三原良吉 は解説 で「十四 日の夜行はる ゝ大崎八幡 の
松焚神事 の裸参 り」 と記述 してい るが、その根拠 は示 してい ない。 この絵巻 と一緒 に掲載 された「仙
墓年中行事大意」で も「十五 日。大崎八幡宮。十四 日夜 よ り参詣群集す。 この 日、門松 を入幡の社内
第 1章
大崎人幡宮の どんと祭
にて焚失 るな り。」と記載 されて い るが、裸参 りが来 ていることには触 れ られて い な い。この 史料 によっ
て言 える こ とは、 藩政時代末期 の正 月 に裸参 りが行 われて い た ことは明 らかであ るが、 まだ 日時や場
所 は不 明 である。
次 に「仙菖年 中行事綸巻」 の 3人 が杜氏 あ るい は酒屋 で ある点 につ い てであるが、三原良吉 は特 に
言 及 して い ない。 しか し 3人 目の男 の持 つ 桶 に書かれ た「菅原 Jの 文字 は、万治 3年 (1660)に 仙台
で も最古参 の市 中酒屋 として創業 した国分 町 の 酒造家菅原家 (銘 柄名「千松 島」)で あ る と推定 され
る こ とや、明治期以降今 日に至 るまで造 り酒屋 の裸参 りが裸参 りの原点 である と広 く信 じられ、 また
多 くの造 り酒屋 に裸参 りの伝統が残 されて い るこ とか らも、 ほぼ確実 で あろ う と見 られて い る。 この
点 につ いて は菊地勝之助が昭和 39年 に郵舛社 か ら刊行 した「仙台事物起源考」の 中 の 『 どん と祭 (松
焚 祭 )の 由来』 の 中 で「仙台年 中行事絵巻 に載 せ てあ る裸参 り姿 は、 今 よ り約百余年前、仙台城下 国
分 町酒醸家菅原屋 (今 の千松 島醸元菅原家 の 先代 )が 醸造 の安全 を祈願 された際 の もので あ る とい う。」
と記 載 して いる。
裸 参 りの性格 につい ては、酒屋 であれば酒造 の安全祈願 とい うこ とになるのだろ うが、酒屋 以外 に
広 が る とす るな らば、そ こには何 らかの ご利益 を保証す る「 謂 われ」 な どが なけれ ばな らな い。そ の
封 内年 中行事』 で、「数百人 の
点 で注 目され るの は昭和 6年 の「郷上 の伝 承」 第 1輯 に収録 された 展
裸 体 詣 りが神鈴 を鳴 らして雪 を踏んで寒風 の 中 を進 むのが威勢 よ く見 られ る、之 等 を暁詣 で といふて
ゐ る。」 との記述 は、「アカツキマ イ リ」 とい う習俗 と裸参 りの習合 を意味す る と考 え られ、裸参 りが
造 り酒屋 の酒造 安全祈願 を離 れて、様 々 な団体 や個 人に よる「参拝行 事」 の一 形態 と化 して い った こ
との 裏 づ け となっている。
裸 参 りの拡大 の様子 につ い て宮城県 が企画 し昭和 59年 5月 に宝文堂か ら出版 された「 ふ る さ とみや
ぎ文 化 百選 まつ り」 で、監 4笏 者 の佐 々久 と竹 内利美 は「 この裸参 りは造 り酒屋 の「杜 氏連 中」が素
裸 の 腰 に注連飾 りを下 げ ただ けで鈴 を鳴 らしつつ 寒風 をつい て参拝 し醸酒祈願 を したのが は じま りで
あ るが、その勇壮 な姿が どん と祭 の呼 び もの になって、近年 は市 内 の 商店 。会社 か らも数十組 が繰 り
出 し、 どん と祭 にかかせ ない景物 となってい る。」 と記 して い る。
裸 参 りは年 々拡大傾 向にあ り、最近 で は大 崎 人 幡宮以外 の神社 の どん と祭 で も裸参 りの姿 を見 るよ
う に なった。 また大崎入幡宮 には芸者衆 な どの水商売 の女性 の裸参 りや、戦時 中には「 出征者 の為 め
尽 す 婦女子」 の裸参 りを掲 載 した新 聞記事 が見 られ るこ とを、 平成 12年 3月 に宮城 県教 育委員会が
発行 した「宮城県文化財調査報告書第 82集 宮城県 の祭 り 。行事」 の 中 の 『大崎人幡宮 の どん と祭』
の 項 目で佐藤雅也が報告 して い る。 また佐 藤雅也 はこの報告 の 中 で「 なお、現在、南部杜氏 の里、 岩
手 県 紫波 町 の志和入幡宮 (一 月五 日の五 か 日祭 )や 盛 岡市盛 岡入 幡宮 (一 月十 五 日)に は「 裸参 り」
の 行 事 が伝 わって い る。 文化年 間以降 には、 杜氏 、蔵人が仙台地方へ 冬場 の 出稼 ぎに くるよ うになる
が、 大崎 入 幡宮 の松焚祭 にお け る裸参 りが、 これ らの南部杜氏、蔵人たちによって広 め られたのでは
な い だろ うか。」 として、南部地方 の正 月行事 の 裸参 りとの 関連性 につ いて言及 して い る。
こ れ らの先行研究 を踏 まえて、今 回 の調査 にお いて は、落政時代 の他 の寺社 へ の正 月 の裸参 りの事
例 も検 討対象 とした。例 えば 『仙台始元』 で は、「木下薬 師 の通夜
の 真 国 は灸 に出す
木下祭祀 の事 は三 月 にあ り堂塔
正 月七 日の夜諸人群 をな して木下薬師 に賽す是 を七 日堂 と云通 夜す る者多 し 夜
籠 り といふ 寒侯薄衣 を着 て詣 る者あ り裸参 りといふ 」とある。 これ につ いて は後 に論 じる こ ととす る。
また造 り酒屋 における裸 参 りの 聞 き取 りを得 た株 式会社 一 ノ蔵社長 の桜井武寛氏 (昭 和 19年 1月 生 )
に よれば、
彼 の実家 である東松 島市 (旧 矢本 町)河 戸 の造 り酒屋「桜井商店」 (銘 柄 名「菊水」現在「 一
ノ蔵 」 に経営統合 )で は、50年 ほ ど前 には地域 で は どこも小正 月 どん と祭 をや ってい なか ったが、8
人 い た南 部 か らの蔵人が大晦 日の深夜 に、地域 の鎮守 で ある「須賀神社」 に裸参 りに行 って い た。 蔵
元 は一切 関 わ りな く、蔵人 だ けの行事 で あ った、 との ことで ある。
第 1章
(4)
大崎入幡宮 の どんと祭
どん と祭 の 名称 につ い ての先行研 究
どん と祭 の名称 をめ ぐって は、 これ までの先行研 究 はいず れ も藩政時代 に遡 る もので はな い とし、
大正 時代 以 降に「 ドン トサ イ」 と呼 ばれ る よ う になった としてい る。例 えば昭和 49年 7月 に竹 内利
美 を著者 として 第 一 法規 出版 か ら出版 された「 日本 の 民俗
宮城」 の正 月行事 の 項 目で は「 この 祭
りを ドン トサ イ と呼 ぶ の は大正 期以後 の 通称 で、 古 くはマ ツ タキ (松 焚 き)で あ った。」 とし、 また
仙 台市 史編 さん委員会 が 平成 10年 3月 に発行 した「仙 台市 史特 別編 6民 俗 」 で も「 ドン ト祭
正月
十 四 日の宵か ら翌暁 にか け て大 崎 八 幡宮 の境 内で行 われる小正 月 の行事 であ る。「 ドン ト祭」 の 呼称
は大正期以後 のことで、古 くは「松焚 き」 とい った。」 としてお り、これはほぼ定説 と見 なされて い る。
どん と祭 の名称 の 由来 につ い ては、平成 12年 4月 に発 行 された「 日本民俗大辞典」で倉石忠彦 が「 と
ん ど 小正 月 の火祭行事。 ドン ド、 ドン ドヤキ、 ドン ドンヤキな どとも呼 ぶ 。 (中 略 )ト ン ド、 ドン
ド系 の 呼 び名 は全 国的 に見 られ る」 と し、民俗行 事 の一 般名称 で ある としてい る。 また大崎入幡宮発
行 のパ ンフ レッ ト「 どん と祭
裸 まい りの御案 内」 (平 成 16年 版 )で は「松 飾 りな どを焚 く火 の勢 い
か ら、 トン ド、 ドン ドな どともい われ 」 とし、 さ らに昭和 27年 3月 に仙重市役所 が発行 した「仙重
市 史 6別 編 4」 に所収 された藤原勉 の 『仙墓方言』 で は「 ドン ドセ ェー
どん どさい
ドン ド祭。焚
火祭。左義長。正 月十四 日の変、大崎人幡神社其他 の神社境 内に行 われる、 松飾 を各 自持参 して行 っ
て火 に くべ る火 祭 りの行事。京都 で ドン ドといい、他地方で は ドン ドンヤキ、 ドン ドヤキ、 ドン ドー
な どとい う。」 として 「 ドン トサ イ」 は「 ドン ド」 の転訛 した方言 との とらえ方 を して い る。 この ド
ン ドか ら ドン トヘ の転訛 は、その後 ろに付 く「サ イ」の前 には濁音が付 か な い とい う音韻 上の必然で
あ る との見方 もある。
この よ うに「 ドン ト」 を自然発生 的名称 あ るい は一般 名称 とす る説 に対 して、民俗学研 究者 の三 崎
一 夫 は、昭和 48年 3月 に発行 された「宮城縣 史 21(民 俗 」)」 所収 の 『年 中行事』の 中 で「十四 日の夜 、
「人騰堂の松焚 き」 とい って、松飾 りを大崎 入 幡社 の境 内へ 持 って行 って焚 く。 (中 略 )こ の行事 は現
在 ドン トサ イ と呼 ばれて い るが、大正 時代 に某社 が宣伝 のため 関西 の トン ドを真似 て移 したのが訛 っ
て ドン トとされた もので ある。」と記 して い る。さ らに三崎 は平成 4年 8月 に桜楓社 か ら発行 された「祭
礼行事 。宮城県」 の 中で も「現在 の 「 どん と祭」 は、 大正期 に同様 の行事 を関東以西 で トン ドとよぶ
こ とに倣 ったが ドン トとされて定着 した もので あ る。」 とし、 どん と祭 の 名称 が人 為 的 につ け られた
もので ある との見方 を示 して い る。
一 方 どん と祭 の 名称 の 定着 の 過程 につ い て、 平成 12年 3月 に宮城 県教育 委員会が発行 した「宮城
県 文化財調査報告書 第 82集 宮城 県 の 祭 り 。行事 」 の 中 の 『大崎 人 幡宮 の どん と祭』 の項 目で佐藤
雅也が、また平成 17年 9月 に東北学 院大学民俗学 OB会 が発行 した「東北民俗学枡 究」第 8号 所収 の『大
崎 人 幡宮 の松焚祭 の祭ネし的 な特 質 につ い て』 で 中冨洋が、それぞれ明治時代 以 降 の仙台市 内 で発行 さ
れて い た新 聞記事 を検索 し、 どん と祭 の名称 の初 出 と定着化 の状況 を検証 して い る。 この 中で佐藤 と
中冨が ともに注 目した の は、仙 台市 内 で発行 された 日刊紙の「河北新報」 の 明治 39年 1月 14日 と明
治 41年 1月 14日 の記事 で あ った。 そ こで 問題 とされている明治 39年 と 41年 の 河北新報 の記事 を改
めて検証 してみる。
大崎八幡 の松炊祭
(ま
つ た きまつ り)仙 台古来 の慣例 起 りは慶長十二年 よ り
今夜 は例年 の通 り大崎人幡社 の松炊祭 (ま つ た きまつ り)だ が戦争 のお正月故松収め方 々のお礼
詣な どもあるべ く常 には信 して賑 は う事 だ らう と思ふ△色 々の旧慣例が年 々 に廃れて行 くにも拘 は
つ た きまつ り)詐 りは少 しも変 る事 な く、年 々盛んになるので、仙台市内は
申すに及 ばず、宮城名取 の郡部か らも態 々松収 めに来 る△金儲 けには抜 目の ない世 の中、近頃では
らず、此の松炊祭
(ま
第 1章
大崎八幡宮 の どんと祭
荷車 や荷 馬車 で各戸 の松 を集 む神楽囃 で収 めに来 る もの もある、追 々 は松収請負株式会社 と云ふの
が市 内 に出来 るか も知れ ぬ△扱 此松炊祭 (ま つ た きまつ り)と 云ふは東北 では珍 しい慣例 で あつ て
六県下何 処 に も此習 しが ないの み な らず、仙台藩 で も唯此城下 の仙台許 りで行 はれて居 つ た習慣 で
あ る△ 夫 に就 いて は何 か面 白い縁起 で もある こ とか と調 べ て見 る と別段何 と云ふ事 でないが此 松焚
祭 の抑 々の起 りに就 い て少 し許 り聞 き込 んだ事 を書 い て見 よ う△一 体此大崎八幡の落成 は慶長十二
年 であ つ て青葉城 よ りは五 年後 れて出来上 った、 最 も此 の社 の元 を尋 ねて見 る と、 最初 は遠 田郡入
幡村 に在 つ たので、人幡太郎義家の建立 したのだ とか云 ふ話 である、 義家 の子孫が下総 国大崎郡 に
禄 を食 ん だので大 崎 の名が此 人幡様 に も附 い て 来、夫 か ら飛 び 々 に飛 んで仙 台 の人 幡様 も大崎人幡
と云ふ 事 になった、政宗公が岩手 山に城 を築 いた 時遠 田 の大崎 八幡 を岩手 山に移 し、仙台 に城 を築
い てか ら又此地 に移 したのなそ うだ△エ ライ由来記 を述 べ て了 つ たが、遠 田に在 つ た時 も岩手 山に
在 つ た 時 も、此松炊祭
(ま
十 二 年 に始 めて此松 炊祭
つ た きまつ り)と 云 ふ 者 はなか ったが、此地 に移 つ た即 ち落成 の年慶長
(ま
つ た きまつ り)が 起 つ た、初 めは至 つ て微 々 たる者 であつ たが 年増 に
盛 んにな つ て来 た との事 で あ る△ 然 らば此慣例 が突然何処か ら移 つ て きたか と云ふ に夫 れ は漠然 と
して取 り留 めた事 は判 つ て居 らぬ △ 併 し正 月 の松 を焼 くと云ふのは、清浄 な者 を汚 しては成 らぬ と
の考 か ら起 つ た事 で、朝廷 の古 い儀式 に も見 えて居 り、又九州地方 で は一 般 に正 月 の松 を神社 の境
内で焼 くか是 を ドン ドと称 えて居 る、 ドン ドと云 ふ事 は歳時記 に も見 えて居 るか ら発 句 を作 る人 は
知 つ て居 る△ ツマ リ大崎八幡 の松炊祭
(ま
つ た きまつ り)も 即 ち此 ドン ドであって其神体 が宇佐入
幡 の分 身故 九州の方 の習慣 が何 かの場合 に此仙 台 に紛 れ込 んで古来 の慣倒 (マ マ例 力)と なった者
と見 え る△ 夫 は兎 に角 に として若 い 人方 な どは矩姥 に這入 り込 んて居 眠 りして い るよ り今夜 は大 崎
の松火 にあたつ て 身 を浄めるの も結構 な事 と思 はれ る△ 夜 は何 で も五 時頃か ら焚 き始 めて九時十時
頃が 一 番 盛 んに燃 え、後 は トロ トロ火が明 くる朝迄残 つ て い る
「河北新報」明治 39年 (1906)1月 14日
大崎八 幡 の松炊祭
(ト
ン ト)
今夜 は例 年 の通 り大崎八幡神社 の松炊祭
(ま
つ た きまつ り)だ が此松炊祭
(ま
つ た きまつ り)と 云
ふの は当大崎人幡でばか り執行す るので東北地方 で は多 く其 の例 を見 ない凡 ての旧慣例 が年 ととも
に廃 れ行 くに も不拘 この大崎人幡 でや る松炊祭
日に月 に盛 んになつ て行 く此松炊祭
(ま
(ま
つ た きまつ り)の みが反対 に其起源 の 当時 よ り
つ た きまつ り)は 何年前か ら行 はれてあ るか其本社 とも云
ふべ き遠 田郡 田尻 町字 八 幡 なる郷社大崎入幡神社 で は此 旧慣 はない それか ら見 る と其後 の もので あ
ら う政宗 公が岩 出山に遠 田の人 幡 か ら大 崎 人 幡 を遷宮 したが 間 もな く仙台 に城 を築かれてか ら当市
に移 した岩 出山邊 の和社 の何処 に も此松炊祭
(ま
つ た きまつ り)と 云ふ はない此起 りは慶長十 二 年
に始 めて起 つ たので仙台 に移 されてか らなので あ る此 慣例 は慶長十 二 年 に至 つ て突然起 こつ たが問
題 であ るが 委 しい ことは漠然 として取 り留 めた事 は判 つ て居 らぬ が多分九州地方か らの習慣 が何 ら
かの場合 に紛 れ込んだ のか又 は政 宗公が持 つ て来 られたのかのニ ツにほかな らぬので あ る九州地方
では一般 に正月の松 を焼 くと云ふて清浄 な もの を汚 してはな らぬ と云ふ処 か ら起 こつ た事 で朝廷 の
古 い儀式 に も見 えて居 る大 崎 八幡 は其神体が宇佐八幡 の分 身故 自然政宗公が加 へ たので あ ら う九州
地方 でや る松炊 祭
(ま
つ た きまつ り)は 歳時記 に も見 えて居 つ て旧 き習慣 で あ る朝廷 では御神楽 な
どの時 に禁 中 の庭上 に焼 く等火が ある之れ を庭 燎 と云ふて居 るが庭燎 の起 源 は芝居即 ち俳優 と其 の
起源 を同 してあつ て天照皇太神 が天の岩戸 に隠れ させ 玉へ る時天の細女命が可笑 しく面 白 き手振足
踏 を して歌 ひ舞 ひて神 の御心 を和 げ楽 しま しめた時 に庭燎 を焚 いた に起 因 して居 るそれ を神事 に用
たのが 今 の松炊祭
(ま
つ た きまつ り)の 時 に も行 ふや うになつ たのである神楽が廃 れて清 浄 なる松
を汚 ざる為 め と云ふ 処 にばか り重 きをお いて来 たの らしひ今宵 は定 めて賑 わふ事 であ ろ う
(白 村 )
第 1章
大崎八幡宮の どんと祭
「河北新報」 明治 41年 (1908)年 1月 14日
上 記 の 引用記事 の
( )内 はル ビで あ り、 明治 41年 の記事 の最後 の
資料 につ い て佐藤雅也 は「宮城県文化財調査 報告書第 82集
(白 村 )は 署名 である。 この
宮城県 の祭 り 。行事 」 中 の F大 崎 八 幡
宮 の どん と祭』 で、「明 治 三 十九年 一 月十 四 日「河北新 報」 の記事 をきっか け に、「 どん と祭」 とい う
表記 が登場 して くる。」 として 当時 の記事 か ら「大 崎 人 幡 の松焚祭 も即 ち此 ドン ドであ って其神体 が
宇佐 人 幡 の 分身故九州 の方 の 習慣 が何 かの場合 に此仙 台 に紛 れ込んで古来の慣 習 (マ マ )と なった」
を引用 して い る。 さらに佐藤雅也 は「 明治 四十 一 年 一 月十 四 日「河北新報」 では「大崎入幡 の松焚祭
(ど ん とさい)」 「松焚祭 (ま つ た きまつ り)」 「人幡祭」が併記 されだす。
」 とした うえで、以 後 の河北
新 報 紙 上 には「松焚祭 (ど ん と祭 )」 の名称 が使 われ、
「松焚祭 (ど ん とさい)」 、
「 大正八年以降になる と、
「 どん と祭」、
「 ドン ト祭」 と表記 され、大正 時代 にはす っか り「 どん と祭」 とい う呼称 が定着 して い っ
た。」 として い る。
また中冨洋 も「東北民俗学研 究」第 8号 所収 の『大崎入幡宮 の松焚祭 の祭礼 的な特 質 につ い て』で、
「 どん と」の 呼称 がみ られ ない こと。
新 聞資料 を検証 した結果 として「明治十一 年 か ら三十八 年 までは、
明治 三 十九年 の (資 料 )記 事 で初めて「松 焚祭」の 呼称 が使用 され、また併せ て九 州 の正 月行事 の「 ど
ん ど」 の例 を引 き、大崎人幡宮 の松焚祭が これ と同様 の性格 の もので ある との解釈 を示 して い る。 こ
の 記 事 は 明治四十 一 年 の (資 料 )と と もに、「 どん と祭」 の 呼称 の起源 を示唆す る もの として特 に着
目され る。「 どん と祭」 の 名称 は、 これ以後大正時代 にか け て徐 々 に定着 して い く様相 が うかが われ
るが、 この 呼称 は 当時 の新 聞記事 に端緒 の あ る可能性 も想定 され よ う。」 と記述 し、新 聞記事 の果 た
した役 割が大 きい との見方 を示 して い る。
なお 三 崎 一 夫 は、平成 12年 3月 に宮城県教 育委員会が発行 した前述 の「宮城県 文化財調査 報告書
第 82集 宮城県 の祭 り・行事」 の解説支 『宮城県 の行事』 の 中 で、「現在 の名称 は「 どん と祭」 であ
るが 、民俗語 に付 された「 祭」 が漢音 なの は不 自然 で あ り、
神道的な命名 であ るこ とは明 らかである。」
と解 説 し、人為 的命名説 を補 強 して い る。
第 4節
どん と祭の諸相
本 節 は、近世文書や明治以 降 の地方新 聞記事等 を文献 資料 として、近 世か ら明治大正期 を経 て 昭和
前期 までの どん と祭 の諸相 を編 年的 にた どる。 そ の作 業 を通 して現在 の話者か らの聞取 りに よっては
手 の 届 か な い、あるい はかろ う じて手が届 い て も輪郭 の不鮮 明な「 どん と祭」 の前 史 を、歴史的にた
どるための基礎 資料 の整理 を 目指 して い る。
中冨洋が指摘す るよ うに、 現在 「大 崎 八 幡宮 の松焚祭 (ど ん と祭 )」 として催行 されて い る祭礼 と、
多 くの 人 々 によって参加享受 されて い るその 祭 り習俗 は、「一 貫 して、近世 に成立 した「都 市」 とし
ての 仙 台 の環境下 にお い て生成 され、変容 を続 けなが ら今 日まで継承 されて きた もの 」 で ある。それ
ゆ え今後 の 課題 として、「 この祭礼 を改 めて構 造 的 に分析 し、「 あか つ き参 り」、「松 焚 き」、「裸参 り」
な ど、 祭礼 の主 要 な構 成要素 につ い て、 そ の 出 自も含 めた詳細 な検討」が欠かせ な い
(註
1)。
ここで
はそ の提起 を受 け、 (1)大 崎 人 幡宮 の神事 としての松 焚祭 と参詣者 の歳事 としての暁参 り、 (2)大
火 で 松 飾 りを焚 き上 げ て正 月 を送 る行事 と しての松焚 き、 (3)大 崎 人 幡宮 の松 焚祭 の 呼称 として広
く普 及 して い る どん と祭、 (4)ど ん と祭 に欠かせ ない 習俗 として定着 して い る裸参 り、そ して (5)
か つ ては松 焚 きと併存連携 して一 連 の「後 の正 月」風 景 を形成 して い た「若年」 の行事 と人 幡 さまの
祭 り縁 日の姿 につい て、前記 の 資料 を編 年 的 に整理 し、 どん と祭前史 を通観 す る基礎作 業 としたい。
第 1章
大崎人幡宮 の どんと祭
この 資料整 理作 業 の論理 的端緒 は、 もとよ り「大 崎 人 幡宮 の松焚祭 (ど ん と祭 )」 として我 々が 目
に して い る現在 の祭礼 とそれ にまつ わ る民俗 が、歴史的 に形成 され変遷 して きた事象 であ るこ とに他
な らない。 したが って本節 の記述 は、現在 の呼称 とその概 念 に よって資料 を解説す るこ とを戒 め、 資
料 における語彙 とその指示す る内容 に寄 り添 うよう努 めた。 また地方新聞記事 の資料 としての利用 に
あた っては、地域民俗の変化 を対象 として記述す る ことによ り自覚化 し、なんらかの解釈 を加 えるこ
とによって新 しい意味を付加 し、そ して地域民俗の担 い手 で あ る読者 に発信 してい くとい う、 地方新
聞が もつ媒体 としての特性 にも留意 したい。
なお、本書 の末 に付 した「 【
資料集】・大崎八幡宮 の松焚祭 と裸参 り」は、本節 の記述 の基礎資料 と
なった近世文書や地方新聞記事等 の資料集成 である。 したが って、本節 では総括的 に資料内容 を通観
す るにとどめ、そ の詳細 は同資料集 にゆず る。なお、照応す る資料集 の資料番号 を付 して相互参照の
手が か りとした。
(1)
大 崎 八 幡神社 の祭礼 と暁参 り
藩政時代 の近世文書 の うち、正月 14日 宵 か ら 15日 にかけての大崎八幡宮へ の人 々の参詣 を
記述 してい るのは、資料 1『 仙三始元』 (以 下資料番号 のみ 資料名 の語頭 に付す)、 3『 大崎人幡宮 年
江戸期
中行事』、6『 仙府年中往束』、7『 仙蔓年中行事大意』 の 4点 である。
この うち、3『 大崎八幡宮年中行事』 のみが神社側資料 で、 14日 日没前か ら松 の 内が明け る 15日
未明 まで禰宜全員が本殿 に詰めて「常」の神事 を行 うこと、従 ってその間本殿 には「神燈十二燈」が
灯 され当番所 には炭薪が焚かれること、寛廷年間 (1748-1751)頃 か ら参詣人が年 ごとに増加 して 「大
勢参詣」 とい う文化年 間 (1804-1818)当 時 の現状 に至 った ことが記 されてい る。作者の大崎人幡社
叔母聟 で 同 じく同社祠官 をつ とめた沼田若狭であった。
神 主沼田豊前正 に この経緯 を語 り伝 えたのは、
若狭 によれば、 14日 宵 か ら 15日 の神事 は「 自分御榊事」 ではあ るが、豊前の祖父沼田出雲守 の代頃
か ら当 日の参詣人が増 え始め、詰めていた当番人が神燈や神酒 などを献 じて接待 の便宜 をとったため
参詣者 は年 ごとに増加 し、禰宜全員が本殿 に詰 めて神事 を行 ってい るため、「世間」では公式 の「御
神事」 と伝 え広 め、 さらに多 くの参詣者 が詰めかけるようになった とい う。翌 15日 は人幡社 の 月次
例祭 の祭 日で もあ り、 この 14日 宵か らの神事 は「松 明」 を迎 える社家内の夜籠 り儀礼 であった と考
えられる。
6『 仙府年中往束』と 7『 仙墓年中行事大意』
1『 仙墓始元』は 3『 大崎人 幡宮年中行事』とほぼ同年代 の、
は数十年後 の大崎八幡に「参詣群集す」様子 を簡潔 に伝 えてい る。 と くに 1『 仙蔓始元』 はその賑わ
い を活写 してい るが、大崎 人幡社 の人 月例大祭 を「入幡祭式」 と記す のに対 して、正月 14日 は 「大
「大崎入幡に夜賽す」ともっぱ ら参詣者側か らの記述であるのは 3『 大崎入幡宮年中行事』
崎八幡神賽」
の記述 と呼応 して い るように思われる。
明治期
明治期 最 初 に刊 行 され る「仙蔓 日日新 聞」 とそ の 後継 紙 で あ る「 陸羽 日 日新 聞」 は 明
治 11年 か ら 15年 まで の仙台 を拠点 とす る唯―の地 方新 聞 である。「仙重 日日新 聞」 に 4点 (資 料
10,14,15,16以 下資料番号 のみ を記す)、 「陸羽 日日新聞」 1点 (18)、 正月 14日 の大崎八幡社 に関する
記事が見 られる。明治 11年 の記事 (10)の み新暦で、後 (14,15,16,18)は 旧暦 の正 月 14日 を取材 し
てい る。明治 ■ 年 1月 15日 の 10「 仙蔓 日日新聞」 に「大崎八幡の祭灌」 とあ り、明治 12年 2月 5
「祭典」
日の 14「 仙墓 日日新聞」に「大崎人幡神社 の祭典」 と見 える。残 りの 3点 の記事 には「祭灌」
ゝ
の記述 はな く、「 一 昨夜 は畜正月十四 日に営 るゆゑ」「一 昨 夜 は喜正月十四 日なれは」 と正 月 14日
とい う「後 の年取 り」 の当 日であることが大崎入幡 に参詣群集する ことの 自然な由縁 として理解 され
第 1章
大崎人幡宮のどんと祭
て い る。
明治 16年 か ら 24年 までは「奥羽 日日新 聞」が唯 ― の新 聞資料 となるが、「奥羽 日日新 聞」 に 12点
(19,22,25,27,29,30,32,33,34,36,37,38)大
が 7点
崎 人 幡参詣 の 記事 が見 られ る。 その うち新 暦 14日 に当 る もの
旧暦 14日 に当 る ものが 5点 (25,29,30,34)で 、 同 じ年 の新 旧暦 と も参
詣者 の賑 わ い が伝 え られ、 この時期 まで新 旧二 回 の大崎入幡 へ の参詣が行 われて い た こ とが 見 て とれ
(19,22,27,32,33,36,38)、
る。 さ らに明治 17年 2月 13日 の 25「 奥羽 日日新 聞」の「 一 昨夜 は喜暦正月十四 日に営 りし とて (略 )
賑 ひは新 暦 に倍せ し」 な どの記述か ら、旧暦行 事 へ の 人 々の愛着が根 強 い ことが うかが われ る。
これ らの記事 の うち、明治 18年 2月 25日 の 29「 奥 羽 日日新 聞」 に、「来 る十八 日は旧暦正 月十四
日に営 るに付 人 幡町大崎人幡社 に於 て例 の如 く祭典執行 せ らる ゝ由」 とある他 は、大 崎 人 幡社 の祭典
につ い ての 記載 はな く、
残 り 11点 の記事 は 14日 宵か ら 15日 暁方 まで大崎入幡 に参詣す る こ とを「暁
参 詣」「暁参 り」 と呼称 し、 多 くの記事 はその 見 出 しに も「暁参 り」 を掲 げて い る。「奥 羽 日日新 聞」
は これ以 降 一 貫 して、新 旧暦 と も「暁参 り」 の呼称 を使用 し、好 んで記事 の見 出 しとして い るが、 明
治 19年 1月 16日 の記事 (33)で 市 内櫻 ヶ岡神社 と神宮教会所、明治 17年 2月 13日 の記事 (26)で
名取郡笠 島道祖 神社、 明治 19年 2月 21日 の記事 (35)で 名取郡館腰榊社 と道祖神社、 明治 16年 2
月 26日 の 記事 (21)で は福 島県福 島町 での霊 山な ど、大 崎 人 幡社以外 の暁 参 りの賑 わ い を もたびた
び取 り上 げ て い る。
さらに正 月 14日 か ら 15日 にか け ての仙台市域 の正 月習俗全体 を「若 年」の行事 ととらえ
(20,27)、
暁参 りをそ の一 連 の風景 の一駒 として位置 づ け てい る。 明治 17年 1月 16日 の記事 (22)に 「○一 昨
そ の模様 こそ異 (か は)れ 是 は執 れの地方 に も有我 國 の嘗習 にて正 月十四 日の夜 は営仙墓
地方 に手 は持 ち打 と襦 へ 物好 なる騒客 (ひ とひ と)は 思 ひ思 ひに奇様 の装束 をな し祝 ひのため とて 甲
夜 の景況
家 乙戸 (そ こここ)を 廻 りて種 々 の狂藝妙技 をな し人 を して驚 を喫 し腹 を抱 か しむ (略 )借 (さ て)
また人幡 な る人 幡社 へ の参詣人 は悪路 なるに も拘 は らず 陸績 と押 し出 して年始 の飾 り松 等携 へ 茶 り社
内へ 堆 たか く積 み之 を燒 き終夜人 の絶 えざ りしは是 も又営地 の書慣 とこそは知 られた り」 とあ り、 こ
の 時期 同紙 は これ ら伝統行 事 に対 して「営地方 の 畜習 として」 (23)「 風習 は未 だ去 らず」 (26)な ど
の常套句 を多用 して い る。 これ らの記事 の背後 には、一連の伝統行事が大 きく変化 しよ う とす る兆 し
を 自覚 し、 一 方 で 未 だ変化 して い ない事象 を伝統 的 な語彙 に よって明確 に名付 け る ことに よ り対象化
しよ う とす る、 同紙記者 の媒体 としての 自覚が 一 貫 して い る よ うに思 われ る。
「奥羽 日日新 聞」の他 に「 東北新 聞」
明治 25年 か ら 34年 までは、
「東北 日報」
「奥羽新 聞」
「仙墓新 聞」
そ して「河 北新報」 な ど多 くの地方新 聞が創刊 され、 多彩 な記事 資料 が残 されて い る。 大崎 入 幡参詣
の記事 は 31点 (39,40,43,45,48,49,51,52,54,58-72,74,78-83)見 え、そ の うちの「東北 日報」4点
「東北新 聞」 5点
(63,66,69,74,81)、
(45,48,54,59)、
「奥羽 日日新 聞」 1点 (72)が 「八 幡神社 の祭進」「 人 幡社 の祭典」
に言及 して い るの に対 し、
「奥羽 日日新 聞」「東北新 聞」「東北 日報」 の記事 13点
(39,43,49,50,51,52,58,
62,64,65,70,78,79)は 大崎人幡参詣 を引 き続 き「暁参 り」「暁詣 で」 ととらえている。
これ らの 記事 の 中 で、 明治 29年 1月 12日 の 63「 東北新 聞」 は「●入 幡神社祭避
営市 大崎八幡
社 は茶十 四 日夜 祭 りにて松納 め翌十五 日は本祭 な り」 と十五 日の本祭 に対 して十四 日が夜祭 りであ り
また松納 め の 日である とす る。 これは正 月 14日 の大崎 人 幡参詣 を「松納め」「注連納 め」 と呼称す る
新 聞記事 の 初 出であ り、以降「仙重新 聞」「東北新 聞」「河北新 報」 な どに も多用 され る よ うになる。
明治 30年 1月 14日 の 69「 東北新 聞」 に も「●入幡神 社 祭進
本晩 は正 月十 四 日俗 に松 飾 り奉納 と
唱 ひ八幡 町 同社 の夜祭 りな り」 とある。 神社祭灌 の 本祭 と前夜 の 宵宮、そ してそ こに集 う参詣者 の歳
事 と しての松 納 め とい う理解 の構 図 を、 最 も簡 潔 に表 現 して い る。 なお、 明治 30年 に「 河北新報」
が創刊 され るが、 明治 32年 1月 13日 の 78「 河北新 報 」 で は「 ●大崎 入 幡 の 暁祭 り 来 る十 四 日の
夜 よ り十 五 日に掛 け入幡 町 の大崎八幡宮 に於 て例年 の 通 り暁祭 を執 行 し」 と、「暁祭 り」 とい う呼称
第 1章
大崎八幡宮の どん と祭
を使用 して い るのが注意 され る。
明治 35年 か ら明治末 年 まで は、「河北新報」2点 (84,100)と 「東北新 聞」2点 (99,106)に 大崎 人
幡神社 の祭典 につ いての 言及が あ る。一 方 「暁参 り」 の呼称 は少 数例 (85,109)を 除 きほ とん ど姿 を
消す。明治 37年 1月 15日 の 100「 河北新報」 では「0人 幡神社 の 國威宣揚 祭
崎八幡神社 に於 ては例年 の通 り昨 日松焼例祭
(せ
営市 人 幡町鎮座 の大
うせ うれい さい)を 行 ひ併せて全 國神職曾決定の趣
旨に依 り國威宣揚祭 を営 みたる庇」 とあ り、それまで「祭泄」「祭典」 とのみ とらえられて きた神事
に「松焼例祭」 とい う理解が示 されてい る。翌明治 38年 1月 14日 の 105「 河北新報」 では、「0大
営市大崎八 幡神社 にては今十四 日例年 の通 り松納め の祭事 を執行す」 と、参詣者
側 の時事 で あ る「松納 め」 とい う意味づ けが神社側 の神事 の性格 づ け に反映 してい る。翌明治 39年
崎八幡神社の祭典
1月 14日 の 108「 河北新報」 と同年 1月 16日 の 110「 東北新 聞」が ともに「大 崎八 幡 の松焚祭
つ た きまつ り)」 「大崎八幡祠 の松焚祭
(ま
(ま
つ た きさい)」 の呼称 を始めて使用する。以降多 くの記事
(109,115,119,124)に 見 る よ うに「松焚祭」の呼称 は「 どん とさい」 の呼 び名 と連携 して定着 し継承
されてい く。
大正昭和期 大正 2年 か ら 7年 までの「1可 北新報」が現存せず この期 間の新聞資料が欠落 してい るが、
大正 8年 以降は「大崎八幡 の松焚祭 (ど ん と祭 )」 の呼称 はす でに確 立 され、大正期 の「河北新報」
記事 はほとん ど「松焚祭 (ど ん と祭 )」 の名称 で神社側神事 も周辺 の祭 り習俗 も含めて呼称 されるよ
うになる (125-129)。
昭和期 に入ると一連 の「河北新報」記事 (130-143)に 見 られるように、「 どんと祭」「 ドン ト祭」
の名称が「松焚祭」 の文字か ら自立 して使用 され始め、昭和 10年 代 には表記 として一般化 し、特 に
神事 を指 し由緒 を述べ る時以外 は「松焚祭」 の名称は使用 されな くな る。
(2)
松焼 き 。松 納 め・ 松 焚 き
江戸期 近世文書 の うち、大崎人幡社の境内で正月の門松注連縄 などを焚火で焼 く習俗 の初出は、嘉
永 2年 (1849)成 立の 7『 仙蔓年中行事大意』 であ り、近世 の記録 では現在 の ところこれが唯―の資
「○十五 日大崎入幡宮十四 日夜 よ り参詣群集す この 日門松 を入幡の社内に焚失 (た
料 であ る。そこには
きすつ)る な り」 とのみ記 され、 この 門松焼 きが、なん らかの神事 をともなう神社側 の行事 で あった
のか、社家内部 の焚 上 げを参詣者にも開放 した もの なのか、参詣者へ の接待 としての焚火 に松納めの
松が次第に投 じられるようになったのか、 この資料 だけか らは確定 で きない。ただ先述 の ように、文
化年間 (1804-1818)成 立の 『大崎人 幡宮年中行事』 によれば、正 月十四 日宵か らの神事 は本来参詣
者 に対す る公式の神事ではなかった。そうであれば この松焼 きも、参詣者 の増加が神社 の 自覚的主導
ではなかったように、神社側のなん らかの便宜提供 に端 を発 した、参詣者か らの 自然発生的習俗 では
なかったか と考 えられる。
明治期 江戸か ら明治 にかけての町場 。市域 にお いて、 門松注連縄 の処理がなん らかの課題 になって
いたことをうかがわせ る新 聞記事が、明治期 を通 じて散見 され る。明治 11年 1月 21日 の 11「 仙重
日日新聞」 に、石巻の火事騒 ぎの記事がある。巡査や消防が半鐘 を聞 いて駆 けつ けてみると、「火事
ではな うて例の頑的連が五 幣を捨 出 し門松や ら七五三組や らを燒捨居 たJと 判明す る。 当時 の都市部
において松飾 りや年組 の適切 な処理が、火災 の危険を負 った課題 になっていたことを示 してい る。同
時に旧習 を守 る人 々「頑的連」 は、以前か ら松飾 りな どをそれぞれが焼 き捨てることによって処理 し
てきたことが示唆 されて い る。同 じ記事 の結 びに「今頃 は廉下邊 では斯 んな事 はあ ります まい と石巻
第 1章
大崎人幡宮の どん と祭
の伊志嘉波 さんか ら申 して茶 たるが廉下 に もまだ まだ」 とある ことか らす る と、仙台市域 で も個人が
私 的 に松 を焼 き捨 て る ことは、好 ま しくな い にせ よ実際 は行 われて い た と考 え られ る。
す でに江 戸期 か ら江戸市域 では松飾 りを焼 き捨 て る「 どん ど」は火 災 の危険か ら禁止 されて い たが、
伊達藩政期 の仙 台市域 も何 度 も大火 に見舞 われて広 範 囲 の被害 を被 っている。当然私 的な松焼 きは禁
忌 され、 なん らかの公 共 的松飾 り処理が考案 され普及 して い た もの と考 え られ る。 明治 32年 1月 15
日の 79「 東北新 聞」に、
「 0大 崎八幡暁参 り 茶十四五 雨 日大崎入幡宮 にては例 の通 り松燒無代慣執行」
とあ り、明治 45年 1月 14日 には「●八 幡神社松燒祭
(略)因 に松 〆紀等 は毎年 の通 り無代慣 で燒
却す可 しといふ」 とある。明 らかに有償の松焼 き。
松処理 の存在が前提 されている。そ う した状況が、
明治 39年 1月 14日 の 108「 河北新報」 の「△金儲 けに は抜 日のない世 の中、近頃では荷車や荷馬車
で各戸 の松 を集む神 築囃 で収 めに茶 るもの もある、追 々は松 請負株式會社 と云ふのが市内に出茶 るか
も知れぬ」 とい う記事 の背景 になってい よう。
正月 14日 の大崎八幡参話を取 り上 げた明治 25年 までの新 聞記事 の中で、 当 日松飾 り注連縄 を境 内
で焼 いてい る記述が現れるものは 3点
(17,22,27)、
決 して頻出す るとは言えず、大崎八幡参詣 の記事
が毎年現れ る中ではご く稀 である。 さらに新聞記事 としての初 出である明治 13年 2月 26日 の 17「 仙
重 日日新聞」 の記事 は、 当夜 の士族 と鋸職人の若者同士 の喧嘩の詳報の情景描写 として記述 されてお
り、「松焼 き」 を大 崎八 幡参詣 とい う正月行事 の眼 日として取 り上 げているのではない。それに対 し
て明治 17年 1月 16日 の 22「 奥羽 日日新聞」 と明治 18年 1月 16日 の 27「 奥羽 日日新聞」は餅掲 き。
繭玉 。鳥追 い 。持打 ちな ど一連 の「若年」 の正 月行事 の一環 である暁参 りとして大崎八幡参詣 を意 味
づ け、そ してその暁参 りに欠かせない景物 の一つ として境内での松焼 きを記述 してい る。そ うした記
述の背後 に うかがわれる同紙 の媒体 としての 自覚につい ては先述 したが、それ以降明治 25年 まで「松
焼 き」へ の言及 は見 られない。
それが明治 26年 1月 17日 の 48「 東北 日報」 に「○八 幡神社 の祭避
去 る十五 日は営市八幡町大
崎八幡神社大祭 日にてあ りければ前 日の宵祭 の如 き老幼男女の人出彩 しく
(略 )社 前 には例 年 の通 り
四方 よ り持茶 りたる門松 を燃 しければ炎焔天を焦 し其賑 は しさ言はん方なか りし」 と松焼 きの記述が
あ らわれてか らは、次 第に頻度 を増 して言及 されるようにな る。 また ここでの「炎焔天 を焦 し」 とい
う表現 は、やは り明治末頃か ら大正期 に増加 してゆ き、昭和期 に頻出す るようになる類型表現 の初 出
である。
そ してそ う した門松 を携 えて大崎入幡に参詣 し境内の焚火 に松 を投 じるとい う習俗 に対 して、 明治
29年 1月 12日 の 63「 東北新聞」は「松納 め」 と名づ け、明治 30年 1月 14日 の 67「 仙蔓新 聞」は「 門
松納 め」 と一般化 してい る。 この「東北新聞」 の記事が新 聞記事 における「松納 め」 の初出 と思われ
るが、以 降明治 30年 代 の「東北新聞」 を中心に「松納め」「注違納め」の呼称が常用 されるよ うにな
り
(69,81,83,85,90,91,99,101,104,105,107,108,109,112,120,123)、
やが て 明治 37年 1月 15日 の 101「 奥羽
新 聞」 と明治 38年 1月 14日 の 105「 河北新報」 にも「松納 め」 の呼称があ らわれる。 しか も先述 の
よ うに、明治 37年 1月 15日 の 100「 河北新報」 では、 それ まで「祭薩」「祭典」 とのみ とらえ られ
て きた袖事 に「松焼例祭」 とい う理解が示 され、翌明治 38年 1月 14日 の 105「 河北新報」 では、参
詣者側 の歳事である「松納め」 とい う意味づ けが神社側 の神事 の特性 にも「松納めの祭事」 として反
映 してい る。翌 明治 39年 1月 14日 の 108「 河北新報」 と同年 1月 16日 の 110「 東北新聞」が ともに
「大崎人幡 の松焚祭
(ま
つ た きまつ り)」 「大崎人幡祠 の松焚祭
(ま
つ た きさい)」 の呼称 を始めて使用
し、以降「松焚祭」 の呼称は「 どんとさい」 の呼 び名 と連携 して定着 し継承 されてい くことも先述 し
た。 また大正昭和期以降の変遷 について も前項の記述 を参照 されたい。
こ うした新聞記事 の編年的変遷は、 もともと市域 での松飾 りの適切 な処理 として機能 してい た松焼
きの習俗が、「若年」 の行事 の一環 で ある「松納め」 として明確 に捉 え直 され、 さらにそれが神社 の
第 1章
大崎八幡宮の どんと祭
神事 か ら周辺の祭 り習俗 まで含 めた祭行事全体 の呼称 である「松焚祭 (ど ん と祭 )」 として明示範囲
を拡げて、地方新聞 とい う媒体 により提起 され普及定着 してい く過程 を浮かび上が らせてい るように
思われる。
(3)
どん ど・ どん どまつ り・ どん とさい
だの り)、 通称 は清右衛 門・伊豆之介、字 は文規、号
は国人、知行高一 〇五石 の仙台藩大呑士 で、漢詩 。書 ・俳画・長刀 をよくした。文化文政期 (1804-
江戸期 遠藤 国人 (-1886)イ よ、諄 は定矩
(さ
1830)を 中心 に活動 した当時の仙台俳壇 を代表す る俳人である。その 『国人句集も の春 の部 に「 どん
と燒 く里は しらみて鴨踊 る」の句 がある (4)。 また、 日人 と並ぶ同時代 の俳人松 窓乙二 (し ょうそ う
おつ に )の 『乙二句集』 にも、「あの畑 は しつ けぬ委か どん ど焚」 の句 が見 える (5)。 乙二 は、庵 号
が松 窓、俳号が乙二。刈田郡 白石 の千手院 とい う4多 験 の家 に生れ、父 について俳諸 を学び、奥羽俳諧
の四天王 と称 された。 日本各地 を旅 し、蝦 夷 まで も足 をのばし、各地の俳人 と交流 を持った。 これ ら
の句 は、仙 台 の俳壇 にお いてはす でに藩政期 か ら、「 どん ど」 の話が季語 として違和感な くな じんで
使 われ、その話の担 う特定 の習俗が句想 の素材 として生 きていたことを語 ってい る。
仙台藩領内 には歌枕の地 と伝 えられる景勝地が多 く、江戸期 を通 して多 くの俳人たちが来仙 して塩
釜や松島をめ ぐって吟行 し、土地の俳人たちと交流 して俳諸の座 を設 け、多 くの紀行や句集 を残 して
い る。寛文 2年 (1662)の 西 山相 因 『陸奥塩亀 一 見記』、元禄 2年 (1689)の 松尾芭蕉 『奥 の細道』
もそ うした流れの 中に位置づ け られる。 また来仙す る俳人の中には大淀三千風や渡辺雲裡坊 の ように
仙台に長期滞在 して多 くの門人 を育てる者があ らわれ、そ うした系譜 を伝 えつつ、領内各地 の俳人達
を含みつつ、仙台俳壇 は形成 されて い った。文化支政期 (1804-1830)に は句作 を生活の中で楽 しむ
層が厚 みを増 し、江戸の蕉風俳諧が伝 えられ、仙台 の俳人 も藩外各地 の俳人 との広 い交流 の 中で作句
の想 を練ることになる (註
2)。
そ うであれば、他郷の地域性 を色濃 く担 った季題 ・季語 に関す る知識 も、作句 の素養 として備 えら
れねばならない。江戸期 の「俳諧歳時記」類 の隆盛 は、地域 を横断 した作句 の共通基盤 を培お うとし
た各 地の俳人たちの熱意が支 えていたにちがい ない。 これ ら江戸期 の歳時記 の系譜 には大 きく二つの
系列 が見 られ、一つ は貞門系 の伝統的な季題 ・季語集 である「季寄せ 」 であ り、 もう一つは近世中期
以降における本草学や地誌 の隆盛 に呼応 した生活百科 としての「歳時記」 で あ る。他郷 の地域 習俗 の
考証 に必要なのは後者 であ り、そ の中で江戸 か ら明治にかけての代表書が嘉永 4年 (1851)刊 、滝沢
馬琴編 ・藍亭青藍補 『増補俳諧歳時記栞草』 (以 下 『栞草』)で あ る (註 動。
『栞草』 では春 の部 に「三毬打
吉書揚 (き つ しよあげ)菱 の配
ぎちや う)ど ん ど 爆竹 (は うち く)
漢三
(は なび ら)を ほこらす」 の頂があ る。以下 には 『徒然草』 路日
(さ
ぎちや う)左 義長
(さ
才図会哲『荊楚歳時記』等 を引 い て各語 の原義 を考察 し、最後 に「凡、民 間十五 日の朝、毎家 の飾藁
松竹 を取収め、一処 に集めて焼之、止牟止 (ト ム ト)と す。児童 の試筆 (か きぞめ)の 書 を天に上 ぐ。
○武江にては官禁あ りて爆竹 (さ ぎちや う)を せず」と編者 の考察 と当時 の実状 を注記 してい る (註
明治期 先述 のよ うに、「松焚祭
(ま
41。
つ た きまつ り 。まつ た きさい)」 とい う呼称 の新聞記事 における
初出 は、明治 39年 1月 14日 の 108「 1可 北新報」 と同年 1月 16日 の 110「 東北新聞」 であ る。そ して
この「河北新報」 の記事 に、「又 九州地方 では一般 に正月の松 を神社 の境 内で燒 くか是 を ドン ドと襦
えて居る、 ドン ドと云 ふ事 は歳時記 にも見 えて居 るか ら斐句 を作 る人は知って居 る△ ツマ リ大崎人幡
の松焚祭
(ま
つ た きまつ り)も 即 ち此 の ドン ドであって」 とある指摘が、「松焚祭」 と連携 して「 ど
んと祭」 とい う呼称が広 く普及す る一 つの端緒になったことは間違 い ない。
第 1章
大崎人幡宮の どん と祭
ただ、 伊達藩政期 の俳 人遠藤 国人 と松 窓乙二 の句 に「 どん と」「 どん ど」 の季語が織 り込 まれて い
ることか らすれば、明治 期 の俳壇 にお い て も同様であった と考 える方が 自然 で ある。そ の ことは、明
治 30年 か ら 40年 にか け ての正 月 の 俳句欄 に坂 出す る、「 どん ど」「 とん と」「左 義長 Jを 季語 とす る
一 連 の作句が なに よ りも明か に して い る
(77,86,88,89,97,98)。
特 に 明治 36年 1月 23日 の 97「 河北新
「清秋含句録」 と題 された 6名 に よる 13句 が掲載 されて い るが、その うち「 どん ど」
報」 の俳句 I関 に、
の季語 を織 り込 む もの 3句 、「左 義長」 の季語 を織 り込 む もの 3句 で、 半数近 くの句が「 どん ど」「左
義長」の習俗 を取 り上 げて い る。 また句の内容か ら「 どん ど」の 内容 は神社境 内で の松飾焼 きであ り、
日付 か ら考 えて 14日 の 大崎八幡境 内 の松焼 きに句会 と して 吟行 した時の一連の作句 で あろ う。そ れ
に対 して明治 36年 1月 1日 の 88「 河北新報」 に掲載 す る「新 年 海」 と題 す る 6名 に よる 10句 には、
「海暮 て丘 に小 きどん ど哉」 の 1句 だ けが 「 どん ど」 の季語 を折 り込 んでいる。 10句 それぞれの「新
年海」 の情景が さまざまであ る こ とか ら、「新 年海」 とい う季題 を与 え られて各人がそれぞれ の作句
を寄せ た題詠である こ とが わか る。 そ して この一句 の 中で「 どん どJに 詠み込 まれて い る意 味 は、 明
か に神社境 内 の松焼 きな どで はな く、野外 の焚火 で あ り野焼 きであ る と読み取 る方が作句 の情景 と情
感 にふ さわ しい。おそ ら く、少 な くと も「河北新報」 に投 句す る 当時 の俳人 たちの用法では、
「 どん ど」
と「左 義長」 には意味 に広狭 の差が あ り、「左 義長」 は松飾 り注連縄 を焚 き上 げる正 月行事 だが、「 ど
ん ど」 の 意味用法 は、 さ らに正 月 の 野外 での焚火 。野焼 きとい う広が りを も許容 して い る。
なお、「河北 新報」 は明治 30年 の発刊時か ら仙 台 の俳壇 と深 いつ なが りを持 っている。発刊 当時 の
家庭文芸欄担 当 は佐藤紅緑 、記者 には俳人の近藤泥牛があ り、 二 人 を中心 として正 岡子規 の俳句革新
運動 に呼応 した俳 句会 「奥羽百文会」が結成 された。「河北新報」創刊号 の文芸欄 には、 同会 の 第 一
回句会 の作句が「同行 四人」 の題 で掲載 され、 二 人の句 も紅緑 ・表男 の名 で見 えて い る。 紅緑 と泥牛
はその 年 の うちに退社 す るが、 明治 30年 代 には習俗故事 や文芸 の特 集記事 を「囲分坊 」 のペ ンネ ー
ム で書 い て い た佐藤豹 五 郎 がお り、彼 は明治 36年 1月 1日 の「 河北新報 J5面 に「大淀 三 千風 と其
の後継 者」、翌 明治 37年 1月 1日 の 「河北新報」30面 に「 は い か い の 字義 に就 い てJと い う俳諸 の
特集記事 を「國分坊 」 の 名 で 執筆 して い る。 また明治 39年 2月 10日 の「河北新報」では、 旧暦元 日
にちなんで「五 十年前 の仙蔓 (― )正 月 の行事」 と題 し、藩政 時代 の仙台藩士 の二 月行事 につ い て詳
細 に紹介 して い る。 佐藤豹 五 郎 の 関心 と得意分野 の在処が うかが える
(註 0。
佐藤豹 五 郎 は、後 に『宮
城県史』 14巻 (1987宮 城県 史編纂委員会 )の 「俳諧枡 究篇」 を分担 執筆 して い る。
こ う した「河北新報 」 の 家庭文芸欄 の流 れの中に、正 月 14日 の大崎人幡 につ い ての「 どん ど」 の
初 出記事 も位 置 して い る。 そ れ は明治 35年 1月 15日 の 84「 1可 北新 報」 に「境 内 は どん ど火 (ひ )
の焔 (ほ のふ)熾 ん に暗 (や )み を照 して鈴 の音 か しま しか りき」 と、 何 の説 明 もな く「 どん ど火 」
と熟 して現 れる。 この 記事 だ け取 り上 げる と唐突 で はあ るが、 仙 台 の俳壇 で は江 戸期 か ら「 どん ど」
の季語が使 われていた こ と、
「 どん ど」には野焼 きの情景 を も許容す る意 味 の拡が りが感 じられ ること、
そ して仙台の俳壇 と深 いつ なが りを持 ち習俗故事 に も関心 を寄 せ て い る「河北新報」 の紙面 に現 れた
記事 で ある ことを考 える と、それ な りの系譜 を持 つ 語 として 了解 され る。
同様 に、正 月 14日 の大崎人幡境 内で の松焼 きを「松焚祭」 と名 づ け、九州地方 の松焼 きであ る「 ド
ン ド」 と等 質 の正 月行事 として並立 させ た、 明治 39年 1月 14日 の「河北新報」 の記事 も、「 ドン ド」
なる新規 の 呼称 を唐突 に提 出 した ものでは ない。それは、 俳壇 の 人 々 に意 味 の ゆ らぎを伴 って使 われ
てお り、紙面 の 俳句欄 に も しば しばあ らわれ る、「 どん ど」 な る不鮮 明 な語 をその原 義 か ら解 説 し、
そ の「 どん ど」 を仲立 ちにす るこ とで、 仙台市民 にな じみの深 い大崎人幡 の松焼 き習俗 を他地方の類
似習俗 に よって よ り自覚 的相対 的 に捉 え直そ う とす る記 事 で あ ったろ う。
その後、翌明治 41年 1月 14日 の 114「 河北新報」 に も「大崎入幡の松 焚祭
(ト
ン ト)」 の見 出 し、
類似 の論 旨で「 白村」署名 の記事が見 える。 それ以降「1可 北新報」は、一 貫 して現在 まで「松 焚祭」と「 ど
第 1章
大崎人幡宮 の どんと祭
ん とさい」の呼称 で大崎八幡の松焼 きの記事 を載せ るよ うにな り、同時に「火炎 は天に沖 し」(120)「 松
焚 (ど ん ど)の 火煙が天を焦が し」 (125)等 、松焚 きの火勢の壮観 さを描写する類型表現が紙面に頻
出す るよ うになる。
大正昭和期 「河北新報」における「松焚祭」 と「 どん とさい」 の呼称 は、 明治末期か ら大正期 にか
けては「松 焚祭」 に「 どんとさい」 のルビを付 した形であ らわれる。ただ、明治期 はい まだ「 どんと
「 どん ど」「 とん と」「 どんどさい」「 どん とさい」な どのゆ らぎがあ
さい」 のル ビは確定 してお らず、
り (114,115,120,121,123,124)、 それが大正期 に入 るとほぼ「 どん とさい」に収敏 される (125,126,127,129)。
さらに昭和期 に入 ると「松焚祭」 か ら離れた仮名書 きの「 ドン ト祭」「 どん と祭」 が次第 に多用 され
るよ うにな って い る
(131,133,134,139,140,141,143)。
ただ大正昭和期 になって も、写真 のキ ャプシ ョ
ンや商店 の大売 り出 し広告などに、「 どんど祭 り」「 どん ど祭」 の呼称があ らわれ、当時発音 されてい
た音韻 の実際 を うかがわせる
(註 6)。
また松焼 きの火 の呼称 は、 昭和 6年 1月 16日 の 132「 河北新報」 で「天 を焦がす浴火炎 々」 とい
可北新報」以来 「御神火」
う表現 で「β火」が以降一般化 し (135,140)、 昭和 13年 1月 15日 の 134「 ヱ
も多用 され るようにな り現在 にいたっている。
(4)
江戸期
寒 参 り・ 裸 参 り 。薄衣 参 り
安 永 ∼ 文化年 間 (1772-1818)成 立 の 2『 仙重始元』 に、「木下 薬 師 の通夜
木下祭祀 の事 は
三 月 にあ り堂塔 の員国 は愛 に出す正 月七 日の夜諸 人群 をな して木下薬 師 に賽す是 を七 日堂 と云通 夜す
る者多 し夜 籠 りといふ 寒候薄衣 を着 て詣 る者 あ る裸 参 りといふ 」 とあ るのが、 仙台周辺 にお ける「裸
参 り」 を記 録 した初 出資料 である。
嘉永年 間 (1848-1854)成 立 の絵 図資料 8『 仙蔓 年 中行事絵巻』 には、「裸 まうで」 と題 した三人の
男 の 姿 が描 写 されれて い る。装束 は三人 ともに裸体裸足 で、 頭 には白鉢巻 を締 めて後 ろの結 び 目に松
を差 し、腰 には藁の下が りを腰衰状 に巻 きつ ける。先頭 の男 は片手 に鈴 を持 ち、 二 人め は三宝 に載 せ
た供 え餅 を抱 え、三人めは酒桶 を肩 に担 ぐ。桶 には「菅原」 の 文字が見 え、國分 町 の酒造家 菅原甚左
衛 門家 をあ らわす と考 え られる。家伝 によれば菅原家 は万治三 年 (1660)創 業 の 酒造家 で代 々甚左衛
門を名乗 り、現 当主 は十代 日、銘柄 は「千松 島」 で ある (註 7)。
『仙
『仙蔓始元』 の 裸参 りが 「 薄衣」 を身に着 け て い るの に対 して、
これ ら二 点 の 資料 を比較す る と、
蔓年 中行事 絵巻』 では文字通 りの裸体裸足 である点 にお い て、 明 らかな装束の相違が認 め られ る。
江戸期 に 各 地 に流行 した「裸参 り」 と呼 ばれ る寒修行 をかねた寺社参詣 は、 各 地の地誌紀行 に も記
録 されて い る。天保 7年 (1886)刊 の鈴 木牧之 『北越雪譜』 初編巻之下 には「雪 中 の寒行者」 の項 が
ある。
雪 中 の 寒行者
我が家 に江戸 に二 た とせ 居 たる僕 あ り。かれがか た りしに、江 戸 に寒念仏 とて寒行 をす る道信
者 (ど う しん じゃ)あ り。寒 三 十 日を限 りて、 毎夜鈴 ケ森、千住 にいた り刑死 の 回向 (え こ う)
をなす 。 そのすが た は股引 (も もひ き)。 草 雑 (わ らん づ )に てあたたか に着 て つ とむ るな り。
また寒 中裸参 (は だか まゐ)り といふ あ り。家作 にかか はるすべ ての職人 の若人 らが す る事 な り。
そのす が たは、 常 よ り長 く作 りたる挑灯 (ち ょ うち ん)に 日参 な どの文字 を大 くしる した るを持
ち、裸 にて□ (れ い)を ふ りつつ と くは し りて、お もひお もひにこころざす い所 の榊仏 へ まゐる
な り。 まゐ らん とす る時 は、かな らず水 を浴 ぶ 。寒 中 の夜 は、 幾人 (い くた り)も 西東 へ はせ あ
りく とか たれ り。我 が国の寒行 は事 はこれ に似 て、その行 ははなはだ異 な り。我 が 国 の 寒行 は所
第 1章
大崎人幡宮の どんと祭
として雪ならざるはな く、寒気 のはげ しきことはまへ にいへ るが ごと し。その雪 をふみて毎夜寒
念仏、 または寒大神 まゐ りとて、寒中一七 日或 い は三七 日、心 に日をか ぎりておのれが志 す神仏
にま うづ。おほ くは農人
うにん)の 若人 (わ か うど)ら 、商家 のめ しつ かひ もあ り、昼は業 (い
となみ)を なして夜 中にまうづ るな り。昼 のい となみのあ ひあひ日に三度づつ水 をあぶ。 なほあ
(の
ぶ るは心 々な り。禁 じて身を拭
く)す 。坐するには米稿
のわ らは七五三
たる稿
(わ
(の
ご)ふ 事 をせ ず、ぬ れたるままにて衣服
(き
るもの)を 着
(ち
ゃ
(い ねわ ら)の 穂 の方 を くくしたるを扇 のや うにひらきてこれに坐 す (こ
(し め)の
こころとぞ)。 か りにも常 のごと くには居 らず。 この ゆゑにこの束ね
ら)は 帯 にはさみてはなたず。 また、行の 中には無言にて一言 もい はず。 また母のほ
か妻た りとも女 の手 よ り物 をとらず。精進潔斎 は勿論な り。他の人 も、彼が腰 にはさみたるわ ら
を見て行者なる事 をし り、む ごんなれば言葉 をかけず人 々つつ しむ事 な り。 これはもし、行者 に
ことば をかけ、行者あや まって ことばをい だせば行破れたるゆゑ、は じめよ り行 をしなほすゆゑ
な り。 また無言の行 はせ ざるもあ り。 さて夜 に入れば千垢離
(せ んこ り)を
と り、百度 目に一通
づつ か しらより水 をあぶるゆゑ、十遍水 を浴 ぶ。身をの ごはず きるものをあ らため、雪ふ らず と
も衰笠な り。あるい はいかなる雪荒にもい とふ事 な く鉦
(か ね)う
ちな らしつつ ゆ く。 これには
か ならず同行の ものある故、そ のか どにい た りてかねをならせば、 同行 も家にあ りてかねを うち
あ い さつ として出で きたる。家 に入 らざるものは、 この行者女 に』行 きあへ ば身の けがれ として
川 に入 り、 または、井戸 をこふて水 をあぶ る事 まへ のごと くして身をきよめ、 さてまゐるな りこ
のゆゑに行者 の鉦 の音 をきけば女 はすべ て 門へ はいでず、道にあへ ば遠 くにかね のお とをききて
か くるるな り。行の内人の死 したるをきけば、た とひ二里、三里 ある所 とて も、つ ねに知 る人知
らぬ人を論ぜず、志願の所 にま うでたる帰 るさな ど、その家にいた りね んごろに回向す。 これ も
行 の一つ とす。 さるゆゑに、不幸あ りて 日のたたぬいへ にては、行者 の きたるをまちて もの くは
せ んな ど、 いかにも清 くして待 つ な り寒念仏 ・寒大神 まゐ りの苦行あ らまし件 (く だん)の ごと
くなれ ば、他国はしらず、江戸の寒念仏裸 まゐ りに比ふれば、はなはだ異な り。かかる苦行 をな
す ゆゑにや、その利益 (り や く)の 知然
づ れの神仏 も感応ある事 を童家 に示す
(い
ち じるき)事 を次にしるしつ。苦行 して祈れば、 い
なお 『北越雪譜』 には次に「寒行 の威徳」 とい う項があ り、寒行者 を害そ うとした者が41H罰 を被 った
とい う当時 の実話が記録 されている (註 D。
『北越雪譜』が伝 える江戸の「寒念仏」 と「裸参 り」 については、歳時記や年中行事記 の類 に も記
載 されてい る。天保 9年 (1838)刊 『東都歳時記』 の「十一 月 寒 の入」の項 に、
「○寒中水行 (但 し、
へ
づ
の
冬 内 も出る)、 寒念佛出る。O神 佛裸参 り、 なかん く中の郷 の太子堂 作事 の諸職人夜 中参詣す」
とあ る
(註 9)。
寒念仏 については 『江戸府内絵本風俗往来』 に「寒の入 よ り諸寺院 の僧、老壮 とも未
明 に起 きいで、冷水 に身を清め、念仏 三味の寒行 を勤む。なかには毎夜鉦 を打 ち鳴 らし市中 を修行す。
これ を寒念仏 といぶ①誠に心 さむ しき趣 して、 聞 くも寒 きを覚えた り。僧は木綿 の衣 一枚 に法衣 を着
し、
足 袋 などは用 ひざるな り」 と、
裸参 りについ ては『江戸府内風俗往来』に「諸職人の弟子小僧 は皆、
十 ヶ年 の年期中にその職業 を覚ゆ。 しかるに、手練手管意匠の難 き、神仏の加護 を得 て、技柄人に秀
でん ことを望み、難行の発心、寒三十 日の間、 日暮 るれば、主人 よ り少時間暇を乞 ひて、水垢離 をな
し、身 を清め、裸、素足 にて 白木綿 の鉢巻 し、長堤燈 を携へ 、鈴 を打 ち鳴 らして不動尊、 さては金比
いに技価の成功 を祈 るな り」 と、その風景が こまやかに語 られてい る (註 10)。
羅大権現 に発願 し、一ッ
また先 に引 いた嘉永 4年 (1851)刊 『栞草』 の冬 の部 には、
「寒念仏
(か
んねぶつ)」 と「寒垢離
(か
んご り)」 の季語 を載せてい る。
寒念仏
)[滑 稽雑談]伝 へ 聞 くに、往古 にはなか りしことな り。京、田舎 にて、僧
(か んねぶつ
俗 に限 らず衣、寒三十 日暁天に及びて、山野に出、高声 に念仏 を唱ふ。 これを寒念仏 といふ。近
第 1章
大崎人幡宮 の どん と祭
年宝永 に及 びて、 京 の在俗、男女老幼 を隔てず 、五三味廻 りとて、 寒夜 に鉦 をな らす行粧 (ぎ ゃ
う さう)、 喧 (か まび)す し。
寒垢離 (か ん ご り)修 験 の徒 、寒 中、道路並 に橋 の上 に立 て、 水 を浴 び銭 を乞 ふ な り。是 を寒
垢離 といふ 。是 、寒 中 の水行 (す い ぎゃう)な り (註 11)。
以上 の近 世 資料 か ら、天保 ∼ 嘉永年 間 (1830-1854)の 江戸 で は「 寒念仏」 と呼 ばれ る念仏 行者 の
寒 中修行 と、「裸参 り」 と呼 ばれ る作 事 に関わる職人の若者 たちに よる寒 中 の寺社参詣祈願 が流行 し
て い た事 が分 か る。「寒念仏」 は保温 に充分 な着衣 に草雑履 きか、木綿 の衣 一枚 に法衣 を付 け て素足
の 薄着姿 、「裸参 り」 は裸体裸足 に白鉢巻 を締 め長堤燈 を手 に持 ち、 ともに夜 半 に鈴 を振 り鳴 らしな
が ら行 われ る。「寒念仏」 は刑死者の回向な ども行 い、「裸参 り」 は参詣前 の水垢離 を伴 う。 また天保
年 間 (1880-1844)の 越後塩沢 で も「寒念仏」「寒大神 ま ゐ り」 と呼 ばれ る寒 中 の精進潔斎 を伴 う寺社
参詣 が、農家や商家 の若者 によって盛 んに行 われて い た。 こ ち らは衰笠 を付 け、や は り夜 中に鈴 を鳴
らしなが ら参詣 し、 日常 的 に水垢離 をと り女性 との接触 を断 ち無言 の行 を貫 くな ど、厳格 な精進潔斎
を伴 って い る。無言 の行 で あ る ことと、「七五三 (し め )」 に見 たてた藁坐 を常 に帯 に挟 んで い る こ と
が注 意 され る。
一 方仙台 では、江 戸 での裸参 り流行 と同時代 の嘉永年 間 (1848-1854)「 裸詣 で」 と呼 ばれる寺社参
詣が 正 月 の景物 と して描 かれて いる。裸体裸足 に白鉢巻 を締 め鈴 を振 り鳴 らして い る姿 は、江戸 の「裸
参 り」 と同 じ流行 圏 にあ る習俗 で ある ことを推測 させ る。 ただ仙台 での裸 詣 では、装束では腰 に藁 の
下が りを巻 いて お り、裸参 りの担 い手 の象徴 として考 え られ い るの は作事 の職人 ではな く、街 中 の酒
造蔵 に詰め る若衆 たちであった。 さらに 『仙墓始元』 の 木下薬 師 の通夜 につ い ての記述 に よれば、文
化 年 間 (1804-1818)に は江 戸 の「 寒念仏 」 に類 す る薄着 での 寺社 参詣が行 われ、そ れが「裸 参 り」
の 呼称 で 呼 ばれて い た。 ただ仙 台 での両 資料 は、江戸 の「寒念仏」「裸参 りJの よ うな、数 日間連続
して参詣す る「 日参」 で はない よ うである。江 戸 での寒念仏 、裸参 りの流行 の始期が文化年 間 まで遡
りう る ことと、仙 台へ の流行 の伝播 とその模倣があ った こ とが推測 され る。
明治 ■ 年 か ら 21年 まで の新 聞記事 で 当時 の「裸参 り」 にあたる習俗 に言及す る記事 は 6点
(12,18,23,26,30,35)、 そ の うち新 旧暦 正 月 14日 夜 の 大 崎 八 幡 参 話 にお い て は 2点 (18,30)、 残 りの 4
明治期
点 (12,23,26,35)は 宮城県 内外 の他寺社参詣 にお い ての「裸 参 り」習俗 の 報告 であ る。 また 6点 の記
事 の うち 4点 (18,23,26,30)に 「裸体参 (は だか まゐ)り 」 の 呼称 が 使 われて い るが、装束 につ い て
の 具体 的記述 は な い 。「裸体 参 り」 の 呼称 が な い 明治 11年 2月 4日 の 12「 仙菖 日日新 聞」 には、老
婆が 「夜十 一 時 と も覺 ふ しき頃急か に水 を被 り薄 き一 重 に着更 へつ ゝ」 とあ り、明治 19年 2月 21日
の 35「 奥羽 日日新 聞」 には、「 い か なる立願 あ りて にや此 寒 中 も厭 はず革物 (ひ とへ もの)一 枚 の 参
詣人 を多 く見受 た りし と云 」とある。 この場合裸体 で はな く薄 い単衣 の着物 を身 につ け て い る。 なお、
明治 17年 2月 13日 の「奥羽 日日新 聞」 には、「裸体参 り」 と並 んで、「眈足参 (は だ しまゐ)り 」 の
呼称 もあ らわれて い る。
大崎 入 幡社 以外 の寺社 として は、仙台周辺 では 中山不動尊
(12)、
名取郡笠島村 の道祖神社
(26,35)、
同郡館腰神社 (35)、 県外 で は山形 市周辺 の各社 (23)が 見 られ る。 明治 11年 2月 4日 の「仙重 日日新 聞」
の姐 の 中山不動参詣記事 は、毎夜水垢離 を とって薄 い単衣 一 枚 で深更 にかけて参詣す る とい う形 か ら、
「寒念仏」 にな らう寒行 を実践 して いた信神者が あ った こ とを伝 えて い る。 また明治 17年 2月 13日
の 26「 奥羽 日日新 聞」 は、笠 島 の道祖神社 の 旧正 月 15日 の 暁参 りの賑 わ い を活写 して い るが、太夫
と呼 ばれ る神職 に よる縁結 びの 占いに心躍 らせ て多 くの若者達が未明 に参話 し、そ こにや は り若者 の
「裸体参 (は だか まゐ)り 」が参 じて い る。両 記事 は鮮 やか に、「寒念仏」 と「裸参 り」 とい う二つの
寒行 が代表す る類似 習俗 の持 つ 両面性 を切 り取 ってい る よ う に思 われ る。 また、明治 17年 2月 1日
第 1章
大崎人幡宮の どん と祭
の 23「 奥 羽 日日新 聞」 は、 山形市 の「二 年参 り」 と呼 ばれ る旧暦大晦 日か ら元旦 にか け ての 寺社参
「 中には裸体参 (は だか まゐ)り と して査公 (さ こ う)に 認咎 (み とが )め らる ゝ
話 を伝 えて い るが、
も見 えた り」 とあ り、裸体 に よる参詣が警察 に よる風 紀上 の取締 り対象 で あ った こ とが うかが える。
「痩我慢 に歯 を喰 〆て裸 か参 りす るは違 警罪 の禁物 なれば能 々
明治 27年 1月 14日 の 51「 東北 日報」に も
注意す べ し」 とある。
明治 22年 1月 16日 の 36「 奥羽 日日新 聞」が大崎 人 幡 へ の 暁参 りの記事 で、「 中には如何 なる立願
の ある難有 連 にや裸 体参 り又は薄着参 りと唱ふ る参詣 人 も六七名 はあ りて」 と「裸体参 り」 の 別名 と
して始めて 「 薄着参 り」 の呼称 を使 うが、それ は裸参 りをす る参詣人 自身 の呼称 であった らしい。以
降明治末年 まで、裸参 りを取 りあげ た記事 は 34点
86,93,95,105,107,109,110,112,116,118,121,123)、
衣参 (は くい まゐ)り 」 (79)、「薄衣参
(う
(36,38,39,50,51,54,58,59,61,62,6579,80,81,82,83,84,85,
そのなかで「裸体参 り」以外 に、「 薄着参 り」 (34)、 「 薄
す ぎまゐ)り 」 (80,84)、「F7t足 参 (は だ しまゐ)り 」 (83,112)、
「寒参 (か ん まゐ)り 」 (83)、 「 白衣詣 で」 (109)、 「寒詣 で 」 (121,123)な ど、 さまざまな呼称 が使 わ
れて い る。
ただ、装束 の描写 は常 に「 白の鉢巻 白装束弓張堤燈片手 に」(123)と い う風姿 であ り、
「男女 の裸詣 (は
だか まへ )り 」 の小見出 しの下 に「四五人宛組合 をな し一様 の提灯 を手 に し寒天 に白単衣 (し ろひ と
へ )一 枚洋揮 (づ ぼん)と 云ふ扮装 にて」 (110)と あ るこ とか ら、 さまざまな呼称があれ、実態 は 白
の単衣 に白鉢 巻 の姿 で あ った と思 われ る。 ただ 白の 単衣 で も長着 の単衣 の場合 と腰 まで の 白い 半纏や
肌着 の短衣 の 場合 とが あ った よ うで、明 治 33年 1月 15日 の「河北新報」 の イラス トで は長 着 をあわ
せ、 明治 39年 1月 14日 の「東北新 聞」 のイ ラス トで は白い 半纏 をはお ってい る。 さ らに腰 に巻 い た
注連縄 が最 初 に確認 で きるの は明治 29年 1月 16日 の 65「 奥 羽 日日新 聞」 の記事 で あ り、 日 に噛 む
含み紙が最 初 に確認 で きるのは明治 39年 1月 14日 の 「東北新 聞」 のイラス トである。 含 み紙 を噛み
なが ら無言 で 静 か に歩 を進め る とい う様式 は、 明治 にお いて は必 ず しも典型 ではない よ うで、 日の声
を上 げなが ら駆 け抜 け てい く裸参 りの若者 の描写が、記者 の現地報告記事 に しば しばあ らわれて い る。
明治 44年 刊 の 若 月紫 蘭著 『東京年 中行事』 の一 月暦 には、明治期 の東京深 川不動 での「 寒詣 り」
の賑 わ い と活気 が こ まやか に描写 されて い る。 最後 に紫 蘭 は「昔 の寒詣 は素裸 でや った もので、 そ の
頃はむ しろ裸 詣 りと言 った。『東都 歳時記』 を見 る と、 神仏裸参 り、就 中中 の郷太子 堂 へ 作事 の諸職
人夜 中参詣 す と出て い る。 けれ どもそれが 許 され な くな って、 白鉢巻 に白足袋 白衣 と変 わ ったので 」
と解説 して い る。 仙 台 にお ける「裸体参 り」「薄衣参 り」 な どの 呼称 の揺 らぎも、裸体参詣 の取締 り
によ り白衣着用 に移行 した実態 と「裸」 の 旧称 との 間に生 じた意味の落差か ら くる揺 らぎであ った と
考 え られる。 また深川不動の裸参 りで も、参詣者 の 若衆 は「J践 悔懺悔、六根清浄」 を声高 に叫 びつつ
駆 け来 た り、境 内 の井戸 で 『股若心経』 や真言 を唱 えなが ら何 度 も水垢離 を取 るな ど、 無言 の 行 とし
ての要 素 は見 られな い
大正 昭和期
(註 12)。
大正期 の「1可 北新報」記事 にお い て も、「裸体参 り」 (126)、 「寒詣 で」 (128)、 「寒詣 り」
(125,129)「 薄衣詣 (は くい まゐ)り 」 (127)な どの 呼称 が並行 して使用 され るが、昭和
5年 頃か ら「裸
参 り」 にほぼ統一 され、現在 に至 る。 また「裸参 りJ力 請己事 の見 出 しの中に始 めて登 場す るの は、 大
正 14年 1月 16日 の「河北新報」 の「昨夜 の松焚祭
大 崎 人 幡社 の賑 ひ 寒 も話 りも多か った」か ら
で、「裸参 り」 の写真が最初 に掲載 されたのは、昭和 11年 1月 15日 の「 河北新 報」 であ る。 当時境
内には水垢 離場 が設 け られて いた らしく、揮一 つ で水垢離 を取 る男達の写真 が 白衣 の裸参 りの若者 の
写真 とともに上 下 に並 んでいる。以 降 ほぼ毎年裸参 りの 写真 が掲載 されて い る。
昭和期 に入 る と、 松焚 祭 。どん と祭 と裸参 りは一組 で 祭事 の 中心 として扱 われ る よ う にな り、 と
くに昭和 10年 代 か ら松 焚 きと裸参 りに皇軍大勝 や武 運 長 久 な どの祈 願 を読 み込 む記事 が 多 くな っ
第 1章
大崎人幡宮 の どん と祭
て い く (135,136)。
戦 後 は、 昭和 20年 代 半 ば頃か ら一 貫 して裸 参 りを含 む どん と祭 を正 月送 りの 伝
統 行 事 と捉 え、餅 花 売 りな どの江 戸 明 治以 来 の 小 正 月 の 伝 統 風 物 と連 な る歳 事 と して記 述 して い る
(138,139,140)。
(5)仙
台市域 の 若 年 と八幡 さまの祭 り
天保年 間 (1830-1844)に は成立 して い た とされ る 6層仙府年 中往茶』 は、「十四 日ハ 松 を曳 きて米
玉の花 を咲せ赦宣子 ハ 襟 に□ を懸晴着 を飾 り門に立 て祝 を得 くタベ にハ 餅打海鼠曳 とて童 共打群 て是
を引 く同 日夜宮 よ り十 五 日迄大崎人幡宮参詣群集す」 と、元旦 と並 ぶ 「後 の年越 し」の 目白押 しの風
物 を数 え上 げ てい る。 それだけ 14日 か ら 15日 にかけては「若 年」 とも呼 ばれる正月の大 きな節 目に
当 るが、14日 官か ら 15日 未 明 にかけての大崎人幡参詣 は「暁 参 り」 と呼 ばれてその「 若年」 の悼尾
に位置 づ け られる。その歳事 の構 造 は明治期 に も基本 的にはそ の まま受 け継がれ て い る。
明治期仙台市域 の一 月十 四 日、伝統習俗 に満 ちて いた ろ う「若 年」 は、 閑雅 な情趣が に じむ 日であ
るよ りは、 開け広 げな喧騒 に満 ちた一 日であ った よ うだ。 年越 しの餅 を掲 く杵 の音、繭 玉木 を売 り歩
く近在農家 の女性 の売声 、厄払 いの ために行者 が吹 き鳴 らす法螺貝 の音 、法華信者 の 団扇太鼓 の響 き、
鬼や らいの ため何 度 も空 に放 たれ る鉄砲 の音、門 ご とに餅貰 い に歩 く子供 たちの掛合 いの声 、餅打 ち
チ ャセ ゴ暁参 りと忙 しげに深更 まで行 き交 う人 々の足駄 の音、夜 の 白む頃そ こここで上 が る鳥追 いの
声 と、一 日が喧騒 を伴 った 習俗 にす き間な く満 た されて い る。14日 宵か ら 15日 未明 にか け ての大 崎
人 幡参詣 は、「若年」 の 締 め くくりとしての「暁 参 り」 と捉 え られ、 そ の 時正 月 の松飾 りや注連縄 を
持 ち寄 る参詣者 に とっては、 それは また「松納め」で もあった
(10,14,22,57)。
仙台周辺 で も、江戸期 か ら暁参 りで賑 わ う社寺が い くつ かあ り、岩沼 の竹駒神社、塩 金の塩釜神社
な どは広 く知 られて い る。 名取郡笠 島村 の 道祖神社境 内 も正 月 15日 未 明 は暁 参 りの男女 で 毎年雑踏
す るが、 ここでは大夫様 と呼 ばれ る神 職が境 内に詰 めかけた参詣者 の方 を指差 して男女縁結 びの 占い
をす るため、 若 い男女 が連 れだって参詣す る。 この道祖神社 の 暁参 りに象徴 的 に見 られ るよ うに、若
い男女が夜 を徹 して連 れ立 って歩 く事 へ の寛容が、各地 の 暁参 りに広 く見 られ、大崎入幡 の暁参 りも
文字通 りの老若男女が夜 明 け まで集 う事が許容 され る場 で あ った
(26,37)。
仙台市域 の 若年 の行事 は、近在農村 地域 の女正月 の行事 と多 くの 共通習俗 を持 つ が、市域特有 の姿
をとる もの も少 な くな い。思 い思 いの仮装 を して家 々 を訪れ、様 々 な持 ち芸 を披露 して祝儀や馳走 の
もてな しを受 け る「持打 ち」 も、料理屋・芸者置屋 。貸座敷 な どが 軒 を連 ね る常盤丁 でのそれ は、「三
番隻茶呑浅 島忠信 二 十四孝其他」 な どで見物 人が 山をな した とい う。広 く周辺か ら市 中に集 まった専
門の芸能者 たちとそれを目当てに花町につ めかけ る人 々の姿が うかがわれる。市中の芸妓や帯間も年
始 と称 してそ う した芸能披露 に加 わっていたようで あ る。「鬼や らい」 の豆撒 きも、國分町奈良屋 の
それは、烏帽子 を冠 に威儀 を整 えた者が金平糖や蓬莱豆 を撒 くとい うので、 これにも見物人が山をな
した。 日覚 ましい見物が披露 され、それが見物 される ことが、仙台市域 の正 月の醍醐味 として享受 さ
れてい る
(22,24)。
若年行事 の最後 が大 崎 人 幡 の松 納 め と暁 参 りだが、 明治 の 早 い 時期 か ら宵宮 の縁 日として賑
わ い が うかが える。人 幡 町 の 参道沿 い は軒提灯 と珠燈 が と もされ、境 内 も大提灯 と電燈 で 明 る
く、 多種 多 様 な祭 り屋 台 が ひ しめ き合 った。 見 世 物 小 屋 も毎 年 数棟 掛 け られ、 ジ ン タ 。拍 子
木・ 三 味線 の音 が屋 台 の 客 引 きの声 とともに、 行 きも帰 る もままな らな い雑 踏 の 中 で喧騒 を き
わめ て い る。松 焚場 は 当時 大杉 に囲 まれ て い た ら し く、杉 の 梢 を抜 け て煙 り と火 の 粉 が あが
り、松納 めの人 々が しば ら く大火 を囲んで い る。境 内 も市 中 の道 路 も未舗装 のため、 厳寒 の 晩参
りの 時期 は凍結 し、参 詣者 は しば しば転倒す るが、 それ 自体 が 暁参 りの一 つ の 景物 と して人 々
第 1章
大崎八幡宮 の どんと祭
に 楽 しまれ て い た よ うで あ る。 明治 30年 代、 芝居小 屋 や 芸 妓 屋 な どが 荷 車 に松 飾 りを満 載 して
神 楽 囃 子 や 楽 隊付 きで松 納 め に乗 込 む こ とが 流 行 し、 中 に は松 飾 りで 形作 った 軍艦 を担 い で 松
納 め をす る 者 もあ っ た。 芝居 一 座 と芸 妓 達 は参 詣 の 華 や か さで も参 詣 者 た ち の 耳 目を集 め、 揃
い の 赤 い 提 灯 に人 力 車 を連 ね楽 隊 を引 き連 れ て 乗 込 む壮 士 芝 居 の 一 座 や、馴 染 み の旦 那 を引 き
連 れ て艶 や か な芸 者 姿 で 参 詣 す る芸 妓 達 は、例 年 暁 参 りの 見 物 の 一 つ にな って い る。 祭 りの 賑
わ い に つ き もの な の が 拘 摸 や 賽 銭 箱 荒 し と喧 嘩騒 ぎで、 市 中 に も盗 難 や 喧 嘩 な どの 警 察 沙 大 が
常 に 話 題 と な り記 事 の 素 材 と な っ て い る の で あ る
(17,39,74,78,83,84,86,91,93,94,95,102,110,121)。
主
言
1.中 冨洋 「大 崎 人 幡宮 の 祭礼 的 な特 質 につ いて」 (東 北学 院大学民俗 学 OB会 『東北民俗学研 究』 8 2005)pp.119133
2.仙 台市 史編 さん委 員会遍 『仙 台市 史 通史編 5近 世 (仙 台市 2004)pp.351364 第 4節 俳 諧
3.堀 切実「解 説」 増補俳 諧歳時記栞草』下巻 岩波書店 2000)p552
4 前記 『増補俳諸 歳 時記栞草』 上巻 pp.195-196
5 創刊 百周年記念事 業 委員会編 『河北新 報 の百年』河北新報社 1997 pp.45-49;金 沢規雄「佐 藤紅緑 と仙 台」
3』
(『
る さとの文学 史』 第 4号
6
平成
12
(『
ふ
東北文学調査会 )
大崎人 幡社 前 の人 幡 町で生 まれ育 った昭和 14年 生 れの男性 話者 に よれ ば、子供 時代 、当時の年配者 や近在 の 農
家出身者 は「どんとさい」ではな く、「どんどまつ り」と呼びならわしてお り、年配者や市外の者が使う古風な
「どんどまつ り」
言い方のように感 じていたとい う。また宮城県の各地で行われている松焼 き習俗の呼称の中で、
「どんどんまつ り」などが確認される。刈田郡蔵王町宮では「 ドン ド焚 き」 (『 ふるさとみやぎ文化百選 まつ り』
1984)、
桃生郡1可 北町飯野川では「 ドン ドン祭 り」 (『 わがふるさとの飯野川』1965)、 加美郡中新田町では「 ドン
ド祭 り」(『 中新田町史』1964)な どが報告されている。メディアによって普及 した「どんと祭」とは別の「どんど」
の系譜があることを推測させる。
7.佐 々久 『國分町と菅原家』宝文堂 1984
8.朝 倉治彦編 『日本名所風俗図会 1奥 州・北陸の巻J角 川書店 1987 pp48 49
9.斎 藤月春 朝倉治彦校注 『東都歳時記 3』 平凡社 1972 p57
10。
前記 『東都歳時記 3』 p.58註 6
H.前 記『増補俳諸歳時記栞草』下巻 p374
12 若月紫蘭 朝倉治彦校注 『東京年中行事 1』 平凡社 1968 ppつ 9101
第 2章
どん と祭の変容 と展開
第 2章
第 1節
どん と祭 の変容 と展 開
仙 台地方 の正 月送 り行事
(1)正 月送 りの様相
宮城県内におけ る「松納め」「正月飾 り送 り」 は、一般的には暮れ に「明 きの方」の方角か ら松 の
枝 を伐 り出 し、それを使 って神棚や玄関の「松飾 り」 を作 ることか ら始 まる。そ して正月を迎え、14
日まではその松飾 りをその まま飾 ってお くことが通常であった。
1月 14日 夜 に、家中の松飾 りは家長あるい は家督息子 の手 によってはず される。それは束ね られ
るが、その うち神棚 などに飾 られた注連縄 に付 けられた御幣は別にされ、深夜 に家長か家督息子は庭
に出て、長 い竿 の先 にその御幣 を取 り付 け、それを振 り回 しなが ら「ヤ ーヘ イ ヤーヘ イ」 と唱えて
「鳥追 い」 をする。
翌 15日 は家族で朝 に「あかつ き粥」 を食べ 、それか ら「 ウチガ ミ様」や 「鎮守様」な どに「アカ
ツキマ イリ」に行 く。前 日はず された松飾 りは、その際かあるいは早朝 に家長や家督息子 の手に よって、
裏山や「明 きの方」 の立 ち木に結 び付 け られた り、「ウチガ ミ様」 の祠 の前 に置かれた りして、やが
て朽 ち果ててい く。
このような「松納め」「正月飾 り送 り」 は、昭和 40年 代 までは仙台市郊外 を含 めて宮城県内 に広 く
分布 していた。 これに対 して松飾 りを焼 くどんと祭 は仙台市街地、それ も大崎人幡宮 に限定 された行
事 と見なされて きた。第 1章 で述 べ た ように、先行研究 の多 くがその よ うな立場 をとって きたのであ
る。それが現在 は宮城県内各地 ともどん と祭 一色になって しまった。仙台市郊外での、 どんと祭以前
の典型的な「松納 め」 の事例 を報告す る。
仙台市泉区古内、若生家 の松納 め 仙台市泉区古内の賀茂神社 では、本章第 3節 の
(7)で 詳述す る
ように、昭和 40年 代 の終 わ り頃か らどん と祭 が始 ま り、現在では どん と祭 の人 出が 1万 8,000人 と、
泉区内で最 も賑やかなどん と祭が行 われてい る。その主役 は初めは神社周辺 の住宅団地 の住人であ っ
たが、現在 では古 くか らの地域住民 もどん と祭 で正 月飾 りを焚 いてお り、昔 のや り方を守 っている人
はほ とんどい ない と見 られてい る。 しか しそれは比較的最近の ことで あ り、 どんと祭 の主催者 である
賀茂和社 の氏子で さえ、昭和 30年 代 までは昔なが らの小正月行事 と松納 めをお こなっていた。
賀茂神社 の氏子総代長 で仙台市泉区古内の農業、若生勝男 さん
(昭 和
5年 1月 生)方 では、正 月の
松飾 りは暮れの 12月 30日 に自宅の裏 山に入 り「迎 えて」来た。松 は「三蓋松」 になってい るものを
伐 りだし、枝 を少 し落 として玄関に飾 った。 落 とした松 の枝 は神棚 に飾 った。その 日は自宅で注連縄
を絢 い、
御幣 と昆布 をつ けて玄関の松 と神棚 に飾 った。これ らの松飾 りは 1月 14日 まで飾っておいた。
1月 14日 は、朝 に家督息子が風 呂に入 り、裏山か らミズ キと栗の木 を伐 りだ して来た。「若木迎 え」
と言 っていた。 ミズキの木には梗米 の粉 で作 った団子 を「刺 し」た。栗の木は 7本 か 9本 の枝 のある
もの を伐 り出 し、平たい小判形 の餅 を刺 した。 また 14日 の朝 に玄関 と神棚 の松飾 りをはず した。注
連縄 の御幣をはず し、松 と注連縄 は丸 めて玄関などに置 く。それ らはどん と祭が始 まってか らは賀茂
神社 に持ってい ったが、それ以前 は 14日 の夕方 に、家 の外 の敷地 の西 の端 にあった「ウジガ ミさん」
の祠 の横 に置 き、そ の まま置 きっぱな しに してい た。 また長 さ 3メ ー トルほ どの細 い竹 を伐 り出 し、
注連縄か らはず した御幣 を竹の先 に取 り付 けた。
1月 15日 の明け方 まだ暗 い うち に、家督息子が起 こされ、祖父 の羽織 を着せ られて家 の外 に出る。
第 2章
どんと祭 の変容 と展開
御幣 をつ けた竹 を振 り回 しなが ら家のまわ りを廻 る。その時の唱え言 は「イノシシ カラシシ ケ ッ
ッ モ ック モ ック ヤ ーヘ ヤヘ ホーホー」 であ った。
15日 の朝 は、小豆の入 った「アカツキガユ」 をつ くった。家 の外 の「ウジガ ミさん」 と古内部落
の鎮守 の「二渡神社」 に参拝 し、アカツキガユ を供 えた。
若生 さん方では、松飾 りは現在 も作 っているが、その他 の小正月行事 はどんと祭が始 まった頃か ら
止めて しまったとのことであった。
(2)松 焚 きの事 例
仙台市中心部以外 の「松納め」は、松飾 りが前述 したように氏神 の祠 の脇 に放置 された り、裏山の
木 に くくりつ け られた り、 とい うのが大半 であ った。そのため、広 く普及拡大す る前 の大崎人幡宮 の
松焚祭 (ど ん と祭)は 、宮城 県内では極 めて孤立 した行事 であるか の よ うに捉 えられる ことが多 い。
しか し改めて仙台藩領内の年中行事 と松納め行事 を細か く検討 してい くと、そ こには意外 に多様な
「火
焚 き」の行事、すなわち松飾 りを集 めて焼 く行事 を見出せ るのである。 これ らの行事 とどん と祭 の直
接 の関係 についてはさらに分析が必要 であ り、軽 々には論 じられないが、事例 として把握 してお くこ
とは重要 であろ う。
今回の調査 では、仙台藩領内の福 島県伊達郡か ら宮城県内、岩手県胆沢郡 までの市町村史 をは じめ
民俗調査報告書 な ど、89の 文献か ら、合 わせて 139の 松納 め と小正 月行事 の事例 を採取 した。市町
村 はいず れ も平成の市町村合併以前の自治体単位である。 これ らの事例 は原則 としてその地域で どん
と祭が始 まる前の民俗行事で、139の 事例中、松飾 りを焚 く行事 として福 島県梁川町、宮城県七 ヶ宿町、
仙台市、女川町江 ノ島、加美郡内、岩出山町、東和町な どで合 わせて 28事 例が確認 された。 また藁
を焚 く「オサイ ドタキ」が鳴子町で、藁で作 った「′
島追 い小屋」 とおぼ しき小屋 を焼 く行事が宮城県
宮崎町の「焼 け人 幡」 と東和 町嵯峨立で確認 された。 これ らの中か らい くつ かの事例 と、今回聞 き取
りをお こなった事例 を報告 す る。
七 ヶ宿町関の問松焼 き
1月
15日 早朝、団子 を入れた小豆粥 を炊 き、「暁粥」 と言 って神 に供 え、そ
の後 に正月の松 飾 りや注連縄 を下ろす。15日 午後 か ら、下 ろ した松 を入幡様の鳥居前で燃やす。 こ
れを「門松焼 き」 といい、「 目糞景糞飛んで行け、銭 と金飛 んで こい」 とはや し言葉 を唱える。門松
焼 きの火で餅 を焼 いて食べ ると虫歯 にならない といい、持ち帰 って子 どもたちに食べ させ る。 この餅
を「力餅」 とい う。 (七 ヶ宿町史編纂委員会編 『七 ヶ宿町史 生 活編』 1982)
加美町
(旧 宮崎町)西 原
1月
14日 、下ろ した正月飾 りの幣 をはず し、年縄や松 を炉で燃や し、そ
の火で粥を炊 いて家内中で食べ 、灰 は別にして屋敷神 に納める。以前 この灰 を「三峰山」の碑 のある
集落 の入口まで持 って行 き納めていた。 (文 化庁文化財保護部 『無形 の民俗文化財記録第 39集
南奥
羽 の水祝儀哲 1996)
大崎市
(旧 鳴子町)鬼 首 田野のオサイ
ドタキ
1月
15日 暁、 ワラ 10∼ 15束 持 って きて訪問先 の家
で焚 く。雪 の降 り積 もった庭の上で「祝 え 祝 え 三度 の祝 い 明 きの方か ら宝物持 って きた」 と唱
える。家人は庭の上 にゴザ を敷 き、家 の戸 を開け、行李の蓋 も開けてお く。主人 は羽織袴 で訪聞者 を
迎 え入れ、オス イ
(お 汁 )な
本民俗地図 2』 1978)
どを添 えて一杯 あげ、家族繁盛の唱 え言葉 にこたえる。 (文 化庁編 『 日
第 2章
どんと祭の変容 と展開
登米 市 (旧 東和町 )嵯 峨立川端 の鳥追 い小屋
1月
15日 、鳥追 い小屋 に火 をつ け て燃 やす と、川 端
の人 々が注連縄や松 を持 って きて火 に投 げ込 んで焼 い た。 この火 で餅 を焼 いて食 べ る と、 この年 は病
気 を しないで過 ごせ る と言 われて いた 。 (東 和 町史編纂委員会編 『東和 町史』 1987)
仙 台市青葉区大倉、早坂家 の ドン トサ イ
仙台市青葉 区大倉 の農業兼建設業 の早坂光雄 さん (昭 和 3
年 2月 生 )は 、大倉 地 区 の有力 なマ ケ (家 筋 )の 本家 につ なが る家 で、屋 号 は「 まる も り」、早坂光
雄 さんで 7代 日であ る。 早坂家 には代 々、正月飾 りや神札 を裏 山の氏神 さまの祠 の前 で焚 く行事 を伝
えて い る。 この行事 の名前 は「 ドン トサ イ」 と言 う。光雄 さんが子供 の 頃か ら「 ドン トサ イ」 と呼 ん
で い た とい う。大倉地 区 で「 ドン トサ イ」 をお こ な うのは 4軒 で、 いず れ も本家筋 の家 で ある。4軒
は早坂家 と結城家 (屋 号 み なみ)、 下 田家 (屋 号 しもだ)、 新 国家 (屋 号 にっ くに)で あ る。
早坂家 の松迎 えは 12月 30日 で、 持 ち山に入 り松 を 21本 伐 り出 して来 る。 松 には注連縄 を輪 に し
て「 輪通 し」 を作 って飾 る。 床 の 間 に「歳 徳神 Jの 札 を貼 った掛 け軸 をかけ、その前 に伐 り出 した松
の うち三蓋松 になって い る 1本 を飾 る。 残 った 20本 の松 は、 母屋 や納屋 、馬小屋 、作業小屋 な ど全
ての建物 の入 口に飾 る。 母屋 の玄関飾 りは「その よ うな格 の家 でない」 として飾 らず、他 の建物 の入
口 と同 じ松飾 りにす る。 また 21の 松 飾 りの 下 には、 直径 5セ ンチほ どの九餅 を二つ 重ねた「 フクデ」
を 12月 28日 に作 ってお き、それ を飾 る。但 し、暮 れ に親戚 な どに不幸 があ った場合 は、近 い親戚 は
21日 間、遠 い親戚 は 7日 間、火が悪 いので松 も飾 らず餅 つ きもせず、 ドン トサ イ も しな い。21日 が
明 け て まだ 1月 中な らば、22日 目に餅 をつい て神様 にだけ上 げ る。
1月 14日 の夕方 に松 飾 りをすべ て 下 げ て座 敷 にまとめて置 く。
1月 15日 の午前 3時 頃に当 主の妻 が アカツキ ガユ を作 り、家 の神棚 に上 げ る。小豆 と餅 を入 れ る
が、塩 味 はつ けない。昔 はヤ ヘー ボ イの前 に、庭 か ら川 に向かって火縄銃 で空砲 を撃 った。ヤヘ ー ボ
イは早朝 に子供が竹 に御 幣 をつ け て家 の まわ りを廻 った。唱 え言 は「ヤ ヘー
ヤ ル メラ
ネ ムル ドモ
カブル ドモ
アサ ハ ヤ クオキテ
トリ ボ イネ
ヤ ヘー
ムケ エ ホウノ
ボ イネ」。 当主 と家督息子
は、 早朝 に裏 山の氏神 にアカツキガユ を供 えて拝み、定義 山に歩 い て いって暁 参 りを した。家 に戻 っ
てか ら、皆でアカツキガユ を食 べ た。
ドン トサ イは 1月 15日 の 夕方 で、 当 主が まず風 呂に入 ってか ら、前 日に下 げ た松 飾 りや神札 を裏
山 の氏神様 に持 って行 く。氏神様 は母屋 の 東 の裏 山 の 中腹 にあ り、木 の 鳥居 の先 に小 さな広場があ り、
そ こに 7つ の石 の祠 が へ の字型 に並 んで いた。総称 して代 々「 白山神社 」 と呼 んで いた が、平成 17
年 11月 に新 しい祠 を作 り、7つ の古 い祠 か ら中の石 や焼物 の稲荷神像 や石像 を出 して、 一 つ の祠 に
並 べ て安置 した。大倉 の小倉神社 の宮 司 に来て もらって神事 を した。 ドン トサ イは氏神様 の祠 の前 の
広場 に、木の枝 な どを積 んで置 く。午後 6時 頃に早坂家 を本家 とす る 4軒 のマケの家 の家族がそれぞ
れの家 の松飾 りを持 って 集 まって来 る。氏 神様 に酒 と餅 を供 えて、 ロー ソクを灯す。松飾 りを積 み上
げ、早坂家 の 当主が マ ッチで火 を点 け る。
ドン トサ イの火の まわ りで大人は酒 を飲 み、子供 たちは餅 を焼 い て食 べ る。 切 り餅 を竹 に刺 して熾
きで焼 い て食べ る と風邪 を引かない 。火 の粉 や煙 をかぶ る と 1年 間無病息災 な どと言 った。 夜 の 8時
頃 まで火 を焚 き、そ の後 は早坂家 に移 って マ ケの人たちで宴会 を した。大倉 地 区 の鎮 守 の小倉神社 で
も 15日 にオサ イ ドがあ るが、 早坂家 の一 族 はそのオサ イ ドには参加 しなか った。
ドン トサ イの由来 はわか らない。近所 で も ドン トサ イをや る家 とや らな い 家があ るが、その違 い は
わか らな い。 ドン トサ イはず っ と昔 か らや っていた とい う話 と、 早坂家 の 4代 目が幕末 の 頃に出羽 三
山に行 って免許 をもらい、そ の とき始 めた とい う話 もある。
仙 台市青葉区大倉、石 田家の小正 月行事 とオサイ ド 石 田家 は大 倉字新 山に古 くか らあ る農家で、冬
第 2章
どんと祭 の変容 と展開
場 には戊焼 きな どを生業 として きた。現在では、暮 らしもかわ り、炭焼 きな どは行わな くなったが、
小正月の行事な どは、今 も途絶 える ことな く伝承 され、続 けられて い る。
正月の 14日 には、家中の注連縄、松飾 りを下ろし、納屋 などにまとめて寄せてお く。平成 18年 は納
屋 にまとめて置かれていた。 家 の 門口には、紙 シデを集めて長 い竹 の先 に結 びつ けた ものを立てる。
これをハ ライヘ イソクといい、紙 シデは風雨でな くなって しまうが、秋 までは立てたままにしてお く。
この 日はウル コメの粉 を蒸 してだん ごにし、 ミズキの枝 に刺 してダ ンゴ木を作 り飾 る。他 にアワボと
いって、アワ餅の代わ りに (昔 はアワ餅 だったと伝 えられてい る)餅 を大 きく小判型にまとめ、大判
小判を換 して同 じように枝 に刺す。そ こに、早 乙女 を摸 したソー トメを餅で作 って下げる。上 の大 き
い団子 を笠に、藁に小 さい餅 をつ けた房 をすそ模様に見たてる。 また手、肌の白いマ イダマ木 (種 類
不明)の 枝 に餅 を小 さく丸 くして、稲穂 をかたどったマ イダマ を作 って飾 る。 マ イダマ は年取 りの時
も作 られて飾 られるが、それは下 されて新 しいマ イグマ を飾 る。古 いマ イダマ は千 して油で揚げて塩
や砂糖 をつ けておやつ に食べ るとい う。
15日 朝 は、 ウル コメの粉 でだん ご を作 り、小豆 を煮 た 中に入れ、何 の味 も付 けない アカツキ (あ
るいはアカツキダンゴ)を 作 り、 まず神棚 に供えてか ら、家族全員が食べ る。 味が しないので子 ども
たちは食べ たが らないが、一つで もいいか らと必ず食べ させ る。 元 日か ら 15日 まで、アカツキダ ン
ゴ を食べ ない うち は、あんこ餅 と鶏 を除 い た四つ足 の 肉は食べ てはな らない もの とされている。15
日の夜 7時 頃、前 日にまとめてお い たヘ イソク・ タマガ ミ・ 門松 の竹 ・注連縄 ・松飾 りな どを持 って
集落の小倉神社境内に参詣す る。社殿の前 には、
集落の家 々 よ り納め られた正月飾 りが集 め られ、ベ ッ
トウサ ン (別 当さん )の 神事 の後、火が ともされる。別当さん とは、 この神社 の神職 のことで現在 ま
で 14代 続 くとい う。集落 では、 この神社 の前 で正 月飾 りを燃やす ことをオサイ ドと呼ぶ。 この オサ
イ ドに加わって正 月飾 りを送 った あ と、 同家では屋敷の庭先で前の年 に刈 り取 った真を五 ・六把 ほど
燃やすが、 これ もオサイ ドと呼んで い る。以前は、「正 月は神 の月 だか ら」 といって、仏壇 はこの 日
の翌 日を待 ってか ら開け る もので あ った とい う。 だんごの木やマ イダマ は、正 月 の 20日 になってか
ら下げ、その本 は、 とってお いて、春先味噌を煮る ときの燃料 にす る。
第
2節
大 崎 八 幡 宮 の ど ん と祭 の 現 在
本節 では、大崎八幡宮 の どん と祭 の現在像 として、人 幡宮が執行す る神事 としての松焚祭 と、そこ
に集 う担当者や奉仕者や参詣者 たちによって形作 られるどん と祭 の習俗 とを、 時間の経過に沿 って記
述する。正月元旦歳旦祭での採火式か ら 14日 の どん と祭 当 日の点火式、境 内 と入 幡町の賑 わい、 15
日未明にかけて続 く参詣 の様子 までの実況 をた どる。
なお記述 は、 14日 の点火式 とどん と祭 の様相 は平成 16年 、元 日の採火式 と疲半か ら 15日 未明 ま
での境内の様相 は平成 18年 の実況である。
(1)松 焚 祭 採 火 式 ― 平 成 18年
1月 1日 大 崎 八 幡 宮 拝 殿 ―
現在、大崎人幡宮松焚祭 の採火儀式 は、正 月元旦 の歳旦祭 に含 まれ、その次第 の中で執行 されてい
る。平成 18年 1月 1日 の歳旦祭 は、一 昨年保存修理が完了 した同宮拝殿で午前 九時か ら齋行 された。
拝殿 の向か って右手に小野 目宮司 と神官 3名 、左手 には氏 子総代 7名 が 向か い合わせ に座 を占める。
神事 は修祓 に始 ま り、宮司一拝、献供、祝詞奏上 と続 き、次 いで松焚祭 (ま つ た きまつ り)の 「御神
火」を打 ち出す「採火の儀J力 Ⅵヽ
野 目宮司によって執行 される。宮司が白布で作 られたマス クと手袋
第 2章
どん と祭 の変容 と展開
を身 につ け、火打 ち石 と火打 ち金で火花 を打 ち出 して火口で受け、その火種が付け木 で蝋燭 に移 され、
蝋燭 の焔 は厨子形 の箱 に納め られて本殿 に安置 され、14日 の松焚祭 当 日まで「忌火」 として灯 し継
いで保 たれるとい う。「採火 の儀 Jの 後、御神楽 「浦安 の舞」 が 2名 の巫女 によって奉奏 され、玉串
を捧 げて拝礼 し、撤供、宮司一拝 で歳旦祭 は終了 した。
なお、十数年前 は 1月 14日 当 日、点火式 の場 で火打 ち石 を使 って採火 していたが、火 をお こす の
に手間取 り、参詣人 もとどこおるため、1月 1日 の歳旦祭 の 中で採火式 を行 うようにな り現在 にいたっ
ている。
(2)松 焚 祭 点 火 式 ― 平 成 16年 1月 14日 大 崎 八 幡 宮 境 内 馬 場 先 ―
平成 16年 1月 14日 昼過 ぎ、小雪が舞 う中、松焚祭 の神事 を控 えた大崎八幡宮 では、 す で に各家 か
ら納 め られた正 月 の松飾 りや縁起物 の達磨 な どが石段 上 の 鳥居横 、馬場先 の広場 に巨大 な山を築 いて
い る。四囲に青竹 を立 て注連縄 をめ ぐらした広 い松焚場 に松飾 りな どが積 み上 げ られ、そ の 中央 には
島居前 に設 え られてい た大 門松 二 基が並 んで据 え られ、 門松 中央 の青竹 二 本 を結 んで太
去年暮れ か ら′
い注連縄が掛 け られて い る。参道側 には簡易 な木製祭壇 と麻が らを束 ねた十数本 の松 明が用意 され、
松飾 りの 山にはす で に雪が降 り積 もって白 くな っていた。
和事 は午後 四時か ら松焚場前 の祭壇 で、小野 目宮司他 一 名 の神官 に よ り齋行 された。氏子総代世話
人数名が立 ち会 い、仙台東 一 番 町商店街 の代 表が招待 されて い る。 同商店街 は氏 子 の範囲に は入 らな
い が、年末大売 り出 しの看板 としてア ー ケ ー ドを飾 った大 鳥居 を毎年松焚祭 に納 め に来 る こ とか ら、
点火 の儀 に招待 され るよ うになった とい う。神事 は、 修祓 、宮 司 一 拝、献供、祝詞奏 上の後、代表 が
玉 串 を神前 に捧 げ て拝礼 し、宮司 一拝 によって終了す る。 そ の後点火 の儀 に移 り、氏子総代 と東 一 番
町商店街 の代表が、採火式 で打 ち出 された 「忌火」 を麻 が らの松 明 に移 して松飾 りの山に点火す る。
雪が 降 りしきる中、 四方 か ら点火 された火 は見 る間に焔 を拡 げ て全 体 を包み、同時 に松焚 きの大火 を
囲 んだ参詣者 の 人垣 か ら感嘆 とも安堵 ともつ かな い ざわめ きが起 こった。
(3)ど ん と祭 ― 平 成 16年 1月 14日 大 崎 八 幡 富 境 内 ・ 八 幡 町 ―
平成 16年 1月 14日 の どん と祭 は朝か ら曇 り空 であったが、昼過 ぎか らみぞれ交 じりの雪が 降 り出
し、次第 に本格 的 な雪景色 となった。境 内 は祭 りにつ きものの 食物・玩具 な どの露 店 と達 磨・熊手・纏・
松焚 の火が 点火 され る頃は、
仙台駄菓子 な どの どん と祭名物 の縁起物 を売 る露 店 が参道 の 両側 に並 び、
もう出店 の準備 も済 んで増 え始 めた参詣者が露店の間を行 き来 して いた。雪模様 の 中、 ビニー ル を掛
け たた くさんの華 やか な熊手 を売 る店先 には大熊手が、纏 の店 には大纏が掲 げ られ、仙台駄菓子 の店
には人幡様 の鳩 にちなんだ「 は とパ ン」や担 ぐほ ど大 きな「ね じリオ コ ン」 が電球 の 間に下が って い
る。仙台達磨 もどん と祭 の縁起物 として数軒 の 店が大小 の鮮 やか な達磨 を背 の高 さの順 に きれ い に並
べ て客 を待 ってい る。 どん と祭 に古 い纏や達磨 を納 め に来 た人が これ らの店 で新 しい達磨 や纏 を買 っ
て帰 るのだ とい う。神社 が 出店す る甘酒茶屋 の前 も、熟 い甘酒 を畷 る人で人垣 がで きて い る。例 年 ど
ん と祭 は寒気 の底 にあた り、「大崎 入 幡宮縁起甘 酒」 として、 多 くの参詣者 に熱 い甘 酒 は喜 ばれて い
るのである。
。
参 道横 の馬場南端広場 の松焚場 では、 点火式が終 わ り松 飾 り 達磨 ・神札 な どを積 み上 げ た山全 体
が火 に包 まれ、 降 りしきる雪 の 中で も火炎 の勢 い は増 して いった。次第 に厚 み を増 して きた参詣者 は
石段 を登 り切 る とす ぐ鳥居左手 の松焚 の火 に向 い、持参 した松 飾 りや古 い神札、達磨 な どを投 じてか
らも、 しば らく火 を囲んで暖 を と り同伴者 と歓談 して い る。 この 火 に当たる と一年 間健康 で あ る とい
第 2章
どんと祭の変容 と展開
う伝承 は まだ生 きて い る。 白い装束 に長 い棒 を手 に した火 の香数人が火 の周 囲に立 ち、常 に火 勢 に気
を配 りなが ら火の世話 を して い る。消 防署 は松焚場 の南 に消 防 自動車 を常駐 させ て警戒 し、警察 官 は
境 内 の各所 に立 って一 般参詣者 を整理 し裸参 り参加者 を順路 に誘 導 して い る。
点火式 の 前 か ら姿 を見か け始 めた 裸参 りは、五 時 を過 ぎる と会社 ・ 商店 な ど各種 団体 が 絶 聞な く、
鉦 を鳴 らしなが ら参道 を行 く。男 の装 束 は、 白い晒 しを腹 に巻 き半股引 に白鉢巻 ・ 白足袋 ・ 草軽履 き
に腰 に注連縄 を巻 き、女 はその上 に白の晒 し半纏 をはお る。 白紙 を折 った含み紙 を口に噛み、 片手 に
団体名 を入 れた長提灯 を持 ち、片手 に鉦 を鳴 らしなが ら歩 む。社殿が保 存修理 中 のため仮拝殿 で参拝
し、お神 酒 をい ただ い てか ら「御神火」 と呼 ぶ松焚 きの 火 に向か う。松焚 きの火 に腰 の注連縄 を投 げ
入れ火 の 回 りを右 回 りに廻 って、 鳥居横 か ら龍宝 寺 方向 に抜 け て帰路 につ く。参拝が終 わった裸参 り
の面 々 は、少 し緊張が ほ ぐれ て寒 さが身 にこたえるのか、 多少肩 をす ぼめつつ 心 な しか くつ ろ い で雪
の 中を引 き上 げ て い く。
夕間が濃 くな ってい く八 幡町 の 国道沿 い は、 各商店や家 々が道 沿 い に紅 白の提灯 を連ね、火 を入 れ
た提灯 の光 の 中で、 歩道や商店 の軒 に白 く雪が降 り積 もって い た。八 幡町 の各商店 は普段 の 商売物 と
どん と祭 の ための飲食物 な どを店先 に並 べ 、家族 の 手伝 い を交 えて参詣者 に声 をかけて い る。老舗 味
噌屋 の 味噌 おでん、蒟蒻屋 の玉 蒟蒻 な ど、古 くか らの 味 を知 る常連客が買 い求 めて い く。 国道沿 い に
長 い黒板塀 を連 ねる落政期か らの造 り酒屋 天賞酒造 で は、例年清酒 と甘酒 と手作 りの豚汁 の 出店 を蔵
前 に出す。雪 の どん と祭 で体 の冷 えた参詣客や 帰 り道 の裸参 り参加者が大勢立 ち寄 り、熱 く爛 を した
コ ップ酒や 暖 めた甘酒や 豚汁 で暖 を とっている。造 り酒屋 の社 長 はみ ず か ら店先 に立 って、立 ち寄 る
参詣客や店 前 を通 る裸参 りの列 に声 をかけて い た。
降 りしき っていた雪 も止み、裸参 りと一 般参詣客が減 り始 めた午後 七時、天 賞酒造 の黒塀 の 前 に人
垣 が 出来 て い た。 この酒屋 は大 崎 人 幡宮 の御神酒酒屋 で あ り氏子総代 をつ とめる家 で、そ こか ら毎 年
繰 出す裸参 りは、蔵 の芳酒醸成 を祈願 して南部の蔵 人 た ちが裸 で詣 でた時 の古式 を伝 える姿 だ とい う。
そ の 酒屋 の 裸参 り行列が 二 個 の大 ぶ りの祭提灯 が下が る黒 木 の 門を くぐって、 今 出発す る所 で ある。
酒銘柄が浮 かぶ 二 挺 の 高張 り提灯 を先頭 に、大鉦 を振 る先導、陣笠 に杵姿 の男 二 人、紋付袴姿 の酒屋
主人、祈願板 ・ ボ ンデ ン・御幣 ・御神酒 ・鯛 ・ 野菜 ・鏡餅 な どの奉納物 を捧 げ る男 たち、 そ の 後か ら
左 手 に屋 号 の 入 った提灯、右手 に鉦 を持 った男 たち十 数 人が続 く。朴姿 と紋付姿 の三 人の他 は全 て裸
参 りの装束 だが、腰 の大 い注連縄 とその大 ぶ りな御 幣 は見応 えがある。酒屋 の裸参 りのため に交通規
制 を した国道 の 中央 を、見 物客 の人垣 の 中、 ご くゆ った りと鉦 を大 き く一 斉 に振 り、足並 み を揃 え、
緩やか に行 列 はねって い く。周 囲に は揃 いの半被 に長股 引姿 の 店 の者 たちが、 裸参 りの男 た ちに気 を
配 り、時 に近 づ い てか い が い しく濡 れた含 み紙 を交換 す る。人 幡 さまの石段 を昇 り、拝殿 で 参拝 し、
御神 火 を三 度廻 るの も同 じ緩やか さは保 たれ、 帰路 もそれが乱 れ ることな く男 たちは黒 木 の 門に戻 っ
て きた。 この 酒屋 は蔵 の郊外移転 を決 めてお り、 人 幡 町 の蔵 か ら出る最後 の裸参 りで あ る とい う。
(4)ど
ん と祭 と あ か つ き参 リ ー 平 成 18年 1月 15日 大 崎 八 幡 宮 境 内 一
平成 18年 1月 14日 の どん と祭 は、ときお り強 く降 りしきる雨の 中で行 われた。雪 になる こ とはあ っ
て も雨 にな る ことは稀 な時期、参詣者 には雪 よ りも喜 ばれ なか ったか、例年 よ り人出 は薄か った よ う
である。
雨 も上が った午後十時 の大崎八幡宮 は、 参詣者 の雑踏 もす で に引 き、絶 間な い裸参 りの鉦 の音 もす
で にな く、祭 りの 喧騒 は遠 のいていた。 だが 露店 は い まだ電球 を灯 し、去 り難 い参詣者が む しろゆっ
た りと露店 の 間を行 き来 して、家族連れや若者 同志 が、まだ火勢 の衰 えない松焚 きの 火 を囲んで い る。
午後十 二 時近 くな る頃、参詣者 の厚 みが また少 し増 して くる。多 くは国分 町・一 番 町周辺 の飲食店・
第 2章
どんと祭 の変容 と展 開
居酒屋 な どの従業員や接 客係 と思 われ る男女 で ある。若 い従業員 同士 それぞれ思 い思 い に服装 をこ ら
した男女 の集団、年 上 の経営者 が従業員 の若者 たちを気 配 りしなが ら引 き連れて い る集 団、店 に出る
着物姿 や ドレス姿 で常連 の 男性客 と連 れ立 って参詣す る接客業 の 女性 、そ うした人 々が数人ず つ 、石
鳥居横 の松焚 きの火 を囲み、 多彩 な人垣 が厚 くな っている。多 くは店 を飾 っていた
段 を昇 って きては′
大 ぶ りな熊手 。達磨 。纏 な どの縁起物 の入 った袋 を手 に、 店 の仕事 を終 えた後 に大 崎 人 幡 に参詣 し、
店 の縁起物 を松焚 きの火 で焚 き上 げ て歓 談 して い る。それが また、彼等 の欠かせ ない年 中行事 として
の楽 しみ に もなって い る様子 が うかが える。そ う した飲食 業 ・接客業 の 人 々の参詣 にま ぎれて、近在
の年配者 と思 われ る男性 が松 飾 りと思 われる新 聞包み を火 に投 じ、 静 か に手 を合 わせ て帰 って い く姿
も見 られた。
十 一 時頃か らあちこちで店 を片 づ け始 めた露 店 は、 十 二 時 をまわって 日付 が 変 わる頃には大 半が店
仕舞 い となって参道 の 両側 は 暗 さを増 したが、 石段 を昇 って くる参詣者 は途 絶 えな い。15日 の 午前
三 時 をまわる頃には、飲 食業 の男女 にかわって、夜 更か しを して時 間 を もて余 した らしい男女 二 人連
れや若者たちが火を囲み、急 ぐでもなく時間を過す。そうした情景は空が白み始める頃まで変わらな
かった。
第
3節
(1)ど
ど ん と祭 の ひ ろ が り と変 容
ん と祭 の ひ ろ が り
仙台市中心部にお い ては、今 日、 どん と祭以外 の「松納 め」「正月飾 り送 りJの 事例 を採集す るこ
とは困難 であ る。それは大崎八 幡宮 の松焚祭に幕末か らの歴 史があ るばか りでな く、今か ら百年ほど
前 には仙台市内の複数の神社 で どん と祭がお こなわれ、正月飾 りを どん と祭 で焚 くことが あたか も昔
か らの伝統行事であるかの よ うに考えられていたか らである う。そのことは当時の新聞記事 か らもう
かが ヤヽ
知 ることがで きる。
0-昨 夜 の松焚祭
(ど ん とさい
)△ 近年珍 らしき良夜
△ 押 な押 なの大群集
例年 の一 月十四 日夜 は市 内各戸 の戸 の松飾 りを徹 して之れ を入幡 町 の 同社 へ 納め又北 四呑丁 の松尾
大 町一 丁 目頭 の櫻 ケ岡神社、荒町昆沙 門天堂そ の他 へ も持参 して神火 に附す る慣 は しなる (以
神社 、
下略 )
「河北新報」 明治 44年 (1911)1月 16日
どん と祭 はその後 も他 の神社 に広 が り続 け、昭和 7年 には明治期 に創建 された青葉神社 で もどん と
祭 が始め られる。
青葉神社 で も どん と祭
裸詣 りの 申込みが非常 に多 い
近方 の便 宜 をはか り青葉神社 で も今年 か ら境 内 にお い て仙蔓 名物 で あ る松焚祭 を執行す る こ と ゝ
なったが、十四 日宵か ら撤 宵 で古 い神札 や松飾 りをお祓祝詞 を白 して浄火 で燒 き上 げる、 同時 に水
防鎮火祭 と満洲派遣軍 の 武逗長久祈願祭 も行 ふが 裸参 りも既 に伊澤酒造 店其他 か ら申込 みあ り、花
火打揚 、奉納 41H築 等相 首賑 はふ べ く通町北鍛冶町其他五 ヶ町で は大 い に意氣込んでゐる。
「河北新報」昭和 7年 (1932)1月 14日
第 2章
どん と祭の変容 と展開
戦後 は高度成長 の も とで どん と祭 は飛躍的に拡散 して行 く。
はだか
今夜 の大崎 入 幡神社 には去 年 の十 五 万人 を上 回る二 十万人の人出が予想 され、寒 中 の名物 “
参 り"も 繰 り出 して景気 づ けをす る。
なお同市 内 の “どん ど祭 "は 大崎 人 幡神社 ほか七十 九 ヵ所 の神社 (三 消 防署調 べ )で 行 われ る。
昨年 は六十 四 カ所 だった。
「 1可 北新報」昭和 40年 (1965)1月 14日
仙 台市 内 の どん と祭会場 は、仙 台市消 防局調 べ で平成 16年 は 157カ 所。 18年 も会場 に変更 はあ る
が 157カ 所 となってい る。以下 に、仙台市 内 の寺社 か ら仙 台市郊外 の住宅団地 まで 7カ 所 の どん と祭
の事例 を列記 し、 どん と祭 が どの よ うに して広が って い ったか、 また現状 は ど うなのか、大崎人幡宮
との違 い は何 か、 な どを報告す る。
(2)事
例 ・ 仙 台 市 中 心 部 、 東 照 宮 の どん と祭
仙 台市青葉 区 に位置 し、 目指定重要文化財 で ある東照宮 で は、1月 14日 の昼 過 ぎか ら 15日 午前零
時 にかけて、正 月送 りの行事 で ある どん と祭が実施 されて い る。
どん と祭 当 日の 朝、拝殿 で 点 された御神火 は、 神事 の 後 、宮 司や神 職 の手 で斎場 へ と運 ばれ、 平
成 18年 (2006)に は午後 3時 か ら点火式が行 われた。 この年、東照宮 には 48,600人 の参拝者が訪れ、
斎場 で燃 え盛 る火 に手 をか ざ し、あるい は火のそばで手 を合 わせ るな ど、1年 の健康 を祈願 す る姿が
み られた。
東照宮 にお い て どん と祭が始 まった時期 につい ては、正 確 な記録が残 っていない ものの、神社 へ の
聞 き取 りに よる と、 戦後す ぐ昭和 22年 (1947)か ら 23年 (1948)頃 に開始 された とみ られて い る。
開始 当初 は、宮 町周辺 の氏子が神社 へ 松飾 りや門松 、神札 を納 め、それ を焚 き上 げる とい う小規模 な
正 月送 りの行事 で あ った と言 われて い る。 しか し戦後、神社周辺 に住宅が増 えるに連れて、参拝者 は
急 激 に増加 して きた。平 成 18年 (2006)現 在、仙 台市 内 で は神社 や町内の公 園敷地 な ど 157カ 所 で
どん と祭 が実施 されて い るが、その うち、仙台市 の 中心 部 に位置す る東照宮 へ の参拝者数 は、仙 台市
内 で は大 崎 八 幡宮 に続 い て 2番 目に多 く、宮城県全体 でみて も、大崎八幡宮、岩沼市 の竹駒神社 に続
い て、 3番 目に多 い参拝者数 を数 えて い る
(註
1)。
平成 18年 (2006)の どん と祭 で は、 参道 に 63軒
の露店が並 び、境 内は参拝客 で非常 に混雑 したため、 拝殿前 では参拝者 を ロー プで区切 り、参拝順 を
一 時的に規制す るな ど、雑踏警備 に も細心 の注意が払 われた
(註
2)。
なお、東照宮 では、仙台北警察署、
交通指導隊宮 町分隊、小松 島分隊、宮 町地 区防犯協会、仙 台北地 区交通協会 に警備 を依頼 して い る。
また、参拝者数が増加 しただけに止 まらず、団地の建設 な どに伴 う住宅数 の増加 に伴 い、正月飾 りを
納 め る参拝者 の居住範 囲 も拡大 して きた。従来、東照宮 で氏子 区域 と認識 して きた、宮 町、小松 島、
小 田原、東照宮 といっ た地域 に限 らず、現在 では、南光 台、旭 ヶ丘、鶴 ケ家、東仙台 とい った 団地や、
上 杉、台原か らも参拝者が数 多 く訪れ て い る
(註 3)。
周辺 に住宅地や団地が建 設 され、参拝者が増加 した こ とに よ り、東照宮 に持 ち込 まれ る正 月飾 りの
量 も増加 した。 東照宮 の どん と祭 にお いて は、青葉消 防署、青葉消 防団小松 島分 団、宮 町分団が消 防・
警戒 に当た ってい るが、 どん と祭 の翌 日が必ず しも休 日とは限 らな くな った こと もあ り、消 防団員 の
翌 日の仕事 を考慮 して、 午前零時 には消火作業 に入 らざるを得 ない。持 ち込 まれた松 飾 りや注連飾 り
を残 さず焚 き上 げ るため、 榊社 で は 当初 17時 で あ った 点火 の 時刻 を、昭和 56年 (1981)か ら 16時
に繰 り上 げ、 さ らに平成 8年 (1996)頃 か らは 15時 まで繰 り上 げて い る。
第 2章
どんと祭 の変容 と展開
また、1月 15日 が祝 日であった平成 12年 (2000)ま では、深夜 11時 を過 ぎて も参拝者が見 られたが、
そ の後、 1月
14・
15日 が平 日に当た る よ うになった後 には、 夕刻 か ら夜 にか け ての参拝者数 は減少
して い る。 つ ま り、東照宮 にお い て は大 崎 人 幡宮 と同様 に 15日 未 明か ら早朝 にか け て参拝す る慣習
は見 られな い。 さ らに最近 で は、仕 事 の都合 で 14日 には参拝 で きな い 人が、それ以前 に正月飾 りを
納 め に訪れ る こ とも増 えてお り、 どん と祭 へ 訪れる人 々の、参拝 の時期 や時刻 の分散化が顕者 で ある
と言 う。
平成 9年 (1997)頃 か らは、正 月飾 りを燃やす ことによるダイオキ シ ンの発 生 な ど環境 問題が取 り
沙汰 される よ うにな り、 これ に伴 って 東照宮 にお い て も、納 め られ る正 月飾 りに使用 される材料 の分
別 に努 めて い る。 最近 は、門松 や松 飾 り、注連縄、古 い お札 、お 守 り、神棚 、達磨 な どの縁起物 のほか に、
年賀状 や本、写真 、教科書、人形 、 ぬ い ぐるみ、 こけ し、 故人 の遺 品、財布が持 ち込 まれ る こと も増
えて いる。そ のため、神社 では正 月送 りの神事 とは関係 のない もの、 燃 えな い ものや ゴ ミは持 ち込 ま
ない こと、 プラスチ ックや ビニー ル類 は あ らか じめ取 り除 い て納 め るこ とを呼 びかけてお り、斎場 に
分別用 の箱 を設置 す るほか、 分別 に当たる係員 を配 置 して、徹底 した分別 を心が け て い る。
また、東照宮 にお いて も、 どん と祭 の 日には、数組 の 団体 に よる裸参 りが行 われて い る。神社 へ の
聞 き取 りに よる と、 東照宮 で裸 参 りが行 われ るよ うになったのは、昭和 50年 代 の ことで あ り、地元
の建設会社 や商工会が参拝 した こ とが 始 ま りで ある。それ まで、他 の建設会社 と共 に大崎人幡宮 に裸
参 りを して い た、近 隣 の建設会社 が単独 での裸参 りを起案 し、参拝先 を大崎八幡宮 か ら東照宮 へ 変更
した こ とが きっか けであ る と言 われ てお り、それ以降、東照宮 へ の裸参 りが行 われ るよ うになった。
また、最近 は見 られない ものの 、東照宮 へ の裸参 りが始 まった当初 は、個 人 に よる裸参 りも見 られた。
裸参 りの参加者 は、水 を浴 び、 体 を清 めてか ら裸参 りに臨む。 団体 ご とに一 列 とな り正面 の参道 を、
鉦 を振 りなが ら上 り、拝殿前 で 整列 して御祓 い を受 け た後、参拝す る。 そ の 際、 口に挟 んだ含 み紙 に
包 まれた小銭 を賽銭箱 へ 投 げ入 れ る。 その後、拝殿脇 でお神酒 を受 け、斎場 に下 りて御神火 の周辺 を
3回 回 り、 3周 目には腰 に巻 いた注連縄 を御神火の中へ投 げ入 れ る。
平成 18年 (2006)に 、東照宮 へ 裸参 りを したのは 3団 体 で あ り、例年 3∼ 5団 体 が裸参 りを行 って い る。
企業 の他 に、近隣 に位置す る病 院 の看護士 らによる裸参 りが行 われて い るが、 これは最近 の ことで あ
り、他 に献血の PRを 兼 ねた血 液 セ ン ターの職員 に よる裸参 りも行 われて い る。裸参 りの参加者 の う
ち、企業参加者 は商 売繁盛 を、 また病 院関係者 は息 者 の早期 回復 を祈 願 して い る と言 われて い る。
東照宮 の裸参 りは、 当初大崎 人 幡宮 に参拝 して い た 団体が、参拝先 を東照宮 へ 変更 した ことをきっ
かけに定着 した もので あ り、大 崎 八 幡宮 へ の参拝 を見本 として い る。 また、 どん と祭 につい て も、大
崎 八幡宮 の形式が意識 されてお り、大崎 入 幡官 を中心 として仙台市 内 に広が りをみせ て きた「 どん と
祭」 の拡散 の様相 が随所 に伺 える。
主
言
1
宮 城県警 に よる と、 どん と祭 の 参 拝 者 数 は、 2000年 には合 計 644,500人
80,000人 、東 照 宮 58,800人 )、 2001年 に は合 計 332,800人
宮 57,500人 )、 2002年 に は合 計 544,000人
(う
(う
(う
ち大崎 八 幡宮 ■2,800人 、竹駒 神社
ち大 崎 八幡宮 52,700人 、竹 駒 神社 70,000人 、東照
ち大 崎 人 幡 宮 69,000人 、 竹 駒 神 社 75,000人 、 東 照 宮 59,500人 )、
2004年 には合計 393,000人 (大 崎八 幡宮 59,000人 、竹駒神社 80,000人 、東照宮 50,000人 )を 数 えて い る。 この こ
とか ら、近年 の どん と祭 にお け る東 照宮 へ の 参拝者数 は、 宮 城県 内で は 3番 目に位 置付 け られ る こ とが 明 らかで
あ る。 なお、2001年 に参拝者 数が 半減 した こ とは、移 動祝祭 日の導 入 に よる と推測 され る。
2
縁起 ダルマ や纏 、 ね じ りお こ し、 は とパ ンな ど、 縁起物 を売 る露 店 も多 く、 中で も縁 起 だ る まを販売す る店 は 3
軒 出店 して い る。
3
東照宮 で は、宮 町、小松 島、小 田原、 東 照宮 を氏 子 区域 と して い る。 どん と祭 の 際 に は、 宮 町商店会青年 部 が、
第 2章
どんと祭の変容と展開
甘 酒 や 玉 こん に ゃ くの 販 売 を行 っ て お り、 どん と祭 は 周 辺 地 区 の 住 民 に よ る交 流 の 場 と して も機 能 して い る こ と
が 伺 え る。
(3)事 例
。仙 台市 中心 部、大 日堂 の どん と数
… アド
オダィニ ッツア ン (大 日さん)と して親 しまれ る柳 町 の 大 日堂 は、 この 町 の鎮守 的な堂祠 で あ り、
未 と申年 の 守本尊 として も信仰 を集 めて い る。 慶長 6年 の仙台 開府 に際 して、城下の町割 りに用 い た
縄 を焼 き、そ の灰 の上 に大 日如来 を安置 した ことが この 堂の始 ま りと伝 わ り、近世 には柳生 山教楽院
大 日堂 を号 した とい う。教楽院 とは、 当時 の大 日堂の別 を勤め る町修験 で あ った。 明治 29年 以降、
大 日堂 とその境内地は、柳 町の町人有志 によって共有管理 され、別当 も新たに迎えられてい る。 この
別当は、終戦後 まで数代焼 き、時期 によっては法螺貝 を吹 いて町内を回 り、堂を維持す るための浄財
を募 った とい う。今 では、教楽院の墓所 のある土樋 の西光院が別当を頼 まれ、祭祀などを勤めてい る。
大 日堂は確認で きる範 囲では、大正 8年 の南町大火 と昭和 20年 の仙台空襲に伴 って 2度 ほ ど火災
に見舞われている。戦後 は昭和 22年 に仮堂が置かれ、
現在 の堂は昭和 29年 に再建 されたものである。
現在 の堂 と境内地は、町内の有志で組織 されてい る「大 日会」 によって維持 され、 どん と祭な どの行
事 もこの会 を中心 として行 なわれてい る。柳町の老舗 タゼ ンの 田中善次郎氏 (大 正 14年 生)に よると、
同氏 の子供 の 頃のお大 日さんの境内は、今 よ りもたいぶ広 く、土塀 によって囲まれていた。堂 の入 り
口には山門 もあって、その内は近所 の子供達 のよい遊び場であった。境 内ではパ ッタなどをした り、
野球をす ることもで きた とい う。 タゼ ンで は、代 々の主人が総代 を引 き継 ぐな どして大 日堂 の世話役
を務めて きた。田中善次郎氏 もまた長 きにわた り大 日会の会長 な どを務 めてい る。現在 の大 日堂では、
正 月の元朝参 りや どん と祭、 7月 の大 日如来の祭典などが大 日会 を中心 として行 われてい る
(註
1)。
どんと祭 は、 昭和 の初めにはすでに行われてお り、田中善次郎氏 は、その幼少 の頃にお祖父 さんやお
婆 さんなど家の人に抱かれて参詣 したことを覚えているとい う。同氏 の子供 の時分には、大 日堂の境
内も広 く、納め られる松 飾 りも今 よ り大分多かった。積み上 げ られた松 飾 りは、夕方 には数 メー トル
の高さになるほどであ った。子供たちにとっては、正 月飾 りはよい遊び道具 ともなった。ガラスで作
られたグルマの 目を取 るな どして、堆 く積 まれた正月飾 りの 山の周囲で遊んだ。田中善次郎氏 の若 い
頃には、 タゼ ンか らも裸参 りに行 く人があ った。 この 日は「女の年取 り」 で もあ り、裸参 りに参加す
る人は家 の女衆 と一緒 にご馳 走 を食べ てか ら出掛 けていった。近 くの銭湯 で身を浄 め、大 日さんを拝
んだあ と大崎人幡に詣でた よ うである。裸参 りは、 タゼ ンの行事 として行 われたわけではな く、希望
す る職人や丁稚が知人 と誘 い合 うな どして参加するものであ った。大崎人幡宮 に向か うため、柳町を
抜 けてい く裸参 りの一行 も、大 日堂に参詣す るもので あ った とい う。近隣 にあった酒屋や醤油屋 の裸
参 りは大勢 で、数十人が大 日堂に立 ち寄って、別当のお祓 い を受 けていった。
戦時中は境 内に大 きな防火水槽が設 けられ、炎が空襲 の 目標 と もされる危険性 もあった ことか ら、
どんと祭 は行 われなかった よ うである。戦後 まもな くして、 どん と祭 は再開されたが、大 日会ので き
る以前 は、町内の有志 によ り行 われることもあった。以前 は納 め られる松飾 りも多か ったため、 どん
と祭 も明け方 くらい まで行 った。 町の人は店 じまい をしてか らやって きた。女の正月のような 日で も
あ り、馴染みの芸子 と連れだって訪れる旦那衆などもあった。大 日さんが守 り本尊 となるため、未年
や申年になる といつ もよ り何倍 も大勢 の人で賑わった。現在 は午後 3時 頃、別当の西光院さんに拝ん
で もらいお堂の灯明を移 して着火す る。火 を付 け る役 は以前 は別当が行 な うものであったが、今 日で
は西光院や大 日会などの名のある人が受 け持 ってい る。営利 の 目的ではないため、 どんと祭 の宣伝 は
一切行 ってい ない とい う。それで も大勢の人が訪れて くれる。町にも近 いため、松飾 りを燃やす場所
の少ない一番町の人なども燃や しに来る。口こみで訪れる人 もあ り、西光院の祈祷 を受けてい く。祈
第 2章
どんと祭の変容 と展開
祷 は午後 よ り宵 の口 まで数回行 われ、家内安全 な ど様 々 な祈願が寄 せ られ る。 同会 で保存 されて い る
祈祷 の 申込書 による と、 平成 10年 には 70数 名 の祈祷 申 し込みがあって、 申込者 は地元 ばか りでな く
仙 台市 の全域 に及 んでお り、遠 くは神 奈川 の横浜 な どか らの依頼 もみ られた。大 日会 で もお札やお守
りを販売 してお り、参詣者 が買 い 求 め て い く。近年 では午後 9時 頃 には、正 月飾 りを焼 く火 も落 ち、
そ の後 は片平消防所管 内 の消防団 に番 を頼 み、 どん と祭 の夜 は終 わる。
主
言
1.大 日堂 に関す る記述 の一 部 につ いて は、柳 町会編 『御譜代 町や な ぎまち一 戦災 50年・柳 町会復興 40周 年記念誌― 』
(1995)及 び同会編 『御譜代 町や な ぎまち― 戦 災 60年 ・柳 町会復興 40周 年記念誌― 』 (2005)を 参考 とした。
(4)事
例 ・ 仙 台 市 中 心 部 、 三 宝 荒 神 社 の ど ん と祭
南鍛冶町 と二 宝荒神社
南鍛冶町は青 葉城 の東方、藩政期仙 台城下域 の縁辺 に位置す る職人町である。
藩祖伊達政宗 が米沢 か ら岩 出山を経 て 仙 台 に入封す るのに従 って きた鍛冶職衆が置 かれた町 とされ、
最初 の城下割 りでは元鍛 冶町 に配置 された鍛冶職衆 は、元鍛冶町が侍屋敷 に組 み込 まれたため、南北
の北鍛 冶町 と南鍛冶町 に移 された。
申を現社地 に勧 請 し、
元和年 間 (1615-1624)、 南鍛冶町 の鍛 冶職衆が、鍛冶 の守護神 として三宝大荒イ
社殿 を建立 した と伝 える。以来、 三 宝 荒神社 は鍛 冶職 の守護神 として、火 防 の神 、竃 の神 として南鍛
冶 町 に鎮座 し現在 にいた って い る。 そ の 間、寛保年 間 (1741-1744)に 社殿 が火災 で類焼す るが、明
和 年 間 (17641772)に 再建 されて い る。明治 40年 (1907)に 境 内地 の北 に第 一 中学校 (現 仙台第一
高等学校 )が 建設 され、そ こへ の新 道 が境 内 を横切 る ことになった。南鍛冶 町 の信徒 たちは資金 を拠
出 して西 隣 の土地 を買取 り、そ の 地 を清 めた うえで明 治 41年 (1908)6月 19日 の例祭 の 日に社殿 を
遷座 した。現在 の荒井荒町線 の鉤 の 手 の角 か ら三宝荒神社横 を仙 台 一校 まで北東 に延 びる道路 はこの
時 の新道 で あ る。遷座 前 の境 内 はその 新 道 と現境 内向か いの駐車場 を合 わせ た一帯 であった。 なお、
三 宝荒神社 の神体 は、現在 の花京院通 りにあ った聖 護院末 の本 山派修験道場花京 院 の脇仏であ った と
伝 え られ、厨子 に納 め られた まま今 まで一 度 も開帳 された こ とが な い とい う
(註
1)。
荒町か ら南鍛冶町、穀 町、南材木 町、河原 町にか けての一 帯 は、 藩政期 か ら明治大正 昭和初期 にか
け て、仙台市域 と周辺 の農村 地帯 とが 接す る街道筋 の 町場 であった。六郷 ・ 七郷 の 農家 の 人たちは馬
仙台 の 町中 まで行 か ず ともこの町 々で さまざまな用足 しを済 ませ るこ とがで きた。
車 でや って来 ては、
それだけさまざまな店屋 が軒 を連ね、 河原町 は青物 市、歳 の市 な どで賑 わって いた 。
南鍛冶町 の松納 め と暁参 り 現在南鍛 冶町 には鍛冶職人は見 られ ないが、先代 ある いは先 々代 まで鍛
冶職 を営 んで い た家 は少 な くな い。 そ う した家の正 月歳事 として、 昭和初期 の松納 め と暁 参 りの二 つ
の事例 を紹介す る。
一 つ めの事例 は祖父 の代 か ら南鍛 冶 町で馬車 ・馬耕鋤 な どの製作 を営 む鍛 冶職 の 家 に生れた、大正
13年 生れの千葉富次郎 さんか らの聞取 りであ る。 話者 の子 ども時代 で あ る昭和初期、正 月 14日 か ら
15日 にかけての家 の 歳事 は以下 の よ うで あ った。14日 には家 と仕事場 の松 飾 りを下 ろ して団子木 を
飾 り、松飾 りの御 幣 をはず して ミズキの幹 の先 に結 びつ け、松 は まとめてお く。夕方 6時 頃、近所 の
子 どもたち 5、 6人 がチ ャセ ゴ とい って辺 りの 家 々 をめ ぐる。 各家 の玄 関先 に子 どもたちが並 び、 皆
で「銭持 ち、金持 ち、宝持 ち、 こっ ち の旦 那 さん身上持 ち、お祝 い な して くな い ん」 と唄 ってその家
の者 に餅や蜜柑 を貰 う。
2寸 径 の丸 い ザ ッキ 4個 (あ るいは 5個 )
夜 中 の 11時 過 ぎ頃、ア カツキガユ と呼 ぶ小豆入 り粥 を炊 き、
に粥 を盛 り、そ のザ ッキ をオゼ ンコ と呼 ぶ 角膳 に乗 せ て神棚前 に供 える。 4個 のザ ッキは神棚 の年徳
第 2章
神 ・ 恵比寿 ・大黒 。保食神
(う
どんと祭 の変容 と展開
け もち のかみ)に 対応 して い る。 また下 ろ して まとめてお い た松 の 間
に も粥 をあげる。 そ の後、家 の男が御 幣 を結 びつ けた ミズキの幹 を持 って、竃神 さま、井戸神 (水 神 )
さま、お明神 さま (屋 敷神 )、 工 場 の フイ ゴの上 の神棚 のお 荒神 さまを巡 る。 各神 の前 で ミズキの御
幣 を振 りなが ら「 ヤヘ イ、ヤ ヘ イ、 ホ ー」 と大声 で何度 も唱 える。それ を「お正月 さんを送 る」 とい
う。 そ の後 まとめた松 を持 って三宝荒 神社 に参 り、境 内 の焚火 でその松 を焼 き捨 てる。それ を「お荒
神 さまに暁参 りして松 を納 め る」 とい う。
二つ めの事例 は、現 当主 の 曽祖 父 の代 か ら南鍛冶町で鍛 冶職 を営 み、父 の代 に金物商兼業 とな り、
戦後 もっぱ ら金物 店 を営 む よ うになった家 に嫁入 りした、現 当主の母 にあた る大正 4年 生れの女性話
者 か らの 聞取 りに よる。 話者 が嫁入 りした 昭和初期 には、夫 は鍛冶職 と金 物 商 を兼業 し、 店 では呑頭
な ども数人使 っていた とい う。
14日 の 夕方、家 中 の松 を下 ろ して ま とめ、座 敷 の縁 側 か ら庭 に出す。 晩遅 くアカツキガユ と呼 ぶ
小豆粥 を炊 き、神棚 に供 えてか ら若 い番頭 たちに好 きなだけ粥 を食 べ させ、それか ら家 の者が食べ る。
家 と店 の者全員 で神棚 を拝 してか ら家 を出、 門口で主人か一番呑頭 が下 ろ した松 の一 部 を振 ってお祓
い しなが ら、「ヤ ー ヘ 、ヤヘ ヤ ヘ 、 ホ ッホ ッホ」 と唱 える。 それか ら同様 に唱 えなが ら皆で家 を巡 り、
まとめた松 を持 って暁参 りに行 く。暁参 りは荒町の見 沙 門 さんに参 ってか ら、人幡町の大崎八幡 さん
に行 き、そ の境 内で松 を焼 き捨 て る。大 崎 入 幡 さんまで行 けな い年 は昆 沙 門 さんで松 を焼 いたが、遠
くとも大崎 入 幡 さんまで持 ってい くもので あ り、そ こで達磨 な どを買 って帰 るのが 楽 しみであった。
また店の番頭 たちが大 崎人 幡 さんへ 裸参 りを した こと もあった とい う。
三宝 荒神社 と周辺 の どん と祭
近傍 で は荒 町 の見沙 門堂、六十人町 の城取神社、 五 十人町 の伊達 人 幡
神社、裏柴 田町 の 白鳥神社 な どで もB召 和初期 には どん と祭 を行 って い た とい う。現在 では昆沙 門堂 と
伊達 人 幡神社 のみが継続 して い る。
先 の千葉富次郎 さん に よれ ば、幼少時代 の記憶 の あ る昭和初期、 正 月 14日 の 晩 に三宝荒 神社境 内
で松飾 りを焼 い て い た とい う。 そ して同夜 に三宝荒神社 に参 るこ とを「暁 参 り」 といい、そ の折下 ろ
した松飾 りを持 参 して火 に投 じる ことを「松納め」 とい った。 また境 内 の焚火 で松飾 りを焼 く行事 を
す で に「 どん と祭」 と呼 んで い た とい う。 三 宝荒神 さんに松飾 りを納 め に来 るのは、成 田町 ・茶畑 ・
穀 町 ・三 百人町 ・石名坂 な どの ご く近 くの人たちで あった よ うだ。
なお、三宝荒神社 の祭事 は戦 後 まで近 くの「拝みや さん」 と呼 ばれ る男性 が もっぱ ら担 当 して い た
が、その没後 は町内の泰心 院 の住職が 一 貫 して執行 して い た。 それが数年前 に同 じく町内の東漸寺 の
住職 に依頼す る よ うにな り現在 に いた っている。
現在、 三宝 荒神社 の どん と祭 は、 同社 の氏子総代 を中心 に南鍛冶 町 の氏子が主体 となって準備執行
されて い る。商 店街組合 であ る南鍛 冶町商栄会 も甘酒接待 の 店 を出す な ど協力 して い る。
三 宝荒神社 の どん と祭 の現在
2006年
1月 14日 の どん と祭 当 日は、昼過 ぎにはす で に持 ち込 まれた
松 飾 りや古 い達磨 な どが舞殿 前 に積 み上 げ られて小 さな山をな し、 関係者が準備 に携 わって い た。 鳥
居 の右手 には南鍛 冶町商栄会 が甘 酒 の奉仕所 を設 け、横 の掲示板 には同会 の 年末大売 り出 しの景 品 で
ある新米 の 当選者が張 り出 されてあった。午後 4時 の 点火 に先 立 ち、 同町内 の東漸寺 の住職 が本堂で
仏事 を執 り行 った。
午後 4時 、消 防署員が立会 うなか、参道横 に水 を満 た したバ ケ ツを 円形 に置 き、 中心 に松飾 りの一
部 を積み上げて火が入れ られ る。火入 れ は、 祈祷 の終 わった祭壇 のお燈 明 の火 に よって行 われ る。そ
の火 を ロ ウソクに移 し紙 で 囲 って風 除 けに し、氏子総 代 の一人がそれ を手 に して社殿 を降 り、参道横
に小 さ く積 み上 げ た松 飾 りの 山 の 四囲 に点火 す る。火 勢 に応 じて納 め られた松飾 りが少 しず つ 投 じら
れ、松飾 りを手 に した近傍 の人 々がお りお りや って来 ては、松 を火 に投 げ入れ て い く。参詣者 は しば
し火 に当たった り甘酒 を飲 んだ りした後、それぞれ帰 って い く。 どん と祭 の 火 に当たる と一 年 間風邪
第 2章
どんと祭の変容 と展開
をひかない とい う言習 わ しは、今で も地元 の人たちに伝 えられてい るとい う。
集 まった松飾 りの山は子 どもの背丈 ほどだったので、午後 6時 近 くには大方 の松飾 りが火に投 じら
れて、松飾 りの山は小 さ くなっていた。
註
1.三 宝荒神社 の縁起 ・神体 などの伝承 は、昭和 6年 (1927)に 町内有志 によりまとめ られた小冊子 『三賓荒神社縁起
誌』 に、明治 41年 (1908)の 境内地移転 の経緯 は、境内の石碑「沿革碑 Jに 拠 った。
(5)事
例 ・ 仙 台 市 中心 部 、 陸奥 国 分 寺 の どん と祭
仙台市若林区木 ノ下にある国指定有形文化財陸奥国分寺 は、近世にお いては「金光明四天王護国山
医王院木 ノ下国分寺」と称 し一 山寺院を形成 した。古 くか ら一 山鎮守 として白山宮が勧請 されてい る。
この 陸奥国分寺内の薬師堂 では 1月 14日 16時 頃か ら 23時 頃まで どん と祭 が催 される。昭和 37,8年
頃 までは隣接す る白山神社 で行われていたが、宮司の交代や諸事情 を経て行われな くなった。そのよ
うな中、薬師堂では七 日堂 の 日にだるまを納 め、一回 り大 きいだるまを買 って帰 るとい う習俗 が行わ
れて いたが、その際だるまを納めにきた参詣者 に正月飾 りの処分 について相談 を受けた ことをきっか
けに地域住民 が持ち寄る正月飾 り、松飾 り等 を薬師堂で燃す ようになった とい う。
どん と祭 の運営 は国分寺薬師堂つ ぼの会 とい う世話人 の集 ま り (50人 ほど)に お願 い して い ると
い う。祭場 は国指定史跡 の一部 となってお り、仙台市教育委員会 の許可 を得 て使用 してい る。火災な
どの予防のため、14日 当 日、世話人 たちが配 置 される 10時 頃まで松飾 り、正 月飾 りの搬入 はで きない。
平成 18年 (2006)イ ま陸奥国分寺薬師堂 の半纏 を着た 10名 ほどの世話人が鐘楼南側 の どん と祭会場 で
旨者 か ら正月飾 り、門松や縁起物 を受け取 り山に積 んでい る様子が見 られた。薬師堂に正月飾 り等
参言
を燃 しに持 ち寄る人 々の大部分 は若林 区在住者 と宮城野区の一部 (国 道 45号 線南狽1在 住者 )で ある
とい う。納 めた後、参詣者 は松飾 りの 山の西側 に設け られた祭壇 に手 を合わせていた。正月飾 りの 山
は松 飾 りや門松、正月飾 りを世話人が受け取 り薬師堂参道東側 に 4つ 作 る。消防署か らの指示で最終
的 にはそれ らを熊手で 1つ の山にまとめ、23時 には消防車 の放水 によって消火す る。
薬 師堂 では神棚 ・仏壇 。人形 ・個人の遺品・縁起物 などはダイオキ シンの問題 もあ り、 どん と祭 に
は納 め られない としている。それ ら納め られない物 は本堂脇 の仮設 テ ン トにて供養料
(一
口 2,000円
)
と共 に預かる。持参 した参詣者は形代 (人 型紙 )と よばれる供養札 に品名 と納 めた人の名前 を記入 し、
それ を代 わ りに焚 き上げる。納め られた人形や縁起物 は 11月 下旬 にまとめて供養す る。 これを薬師
堂で は焼浄会
(し
ょう じょうえ)と 呼 び平成 11年 (1999)よ り行 って い る。チ ラシや イ ンター ネッ
トな どで正 月飾 りと分けて納め るように呼 びか けている。
1月 14日 は 15時 になると本堂にて祈祷 を行 い、護摩 を焚 く。その火 をろうそ くで木札 の束に移 し、
数人 の僧侶が祈祷 の文言 を唱 えなが ら正月飾 りの 4つ の 山へ と向か う。正月飾 りの 山の西側 に設け ら
れた祭壇 にて祈祷 を行 い、最寄 りの山か ら左 回 りに点火 してゆ く。
16時 30分 頃か ら続 々 と裸参 り行列が団体 ごとに到着す る。薬師堂 での裸参 りは 20年 近 く続 いて
い る とい う。平成 18年 (2006)は 7団 体 (工 務店,病 院,ボ ー イスカウ ト,地 元商工 会 ,ス ポ ー ツ
少年 団な ど)の 参加があ った。出発地は各団体それぞれに決めている。出発時刻 については祈祷 の時
刻 が重 なって しまわないよ う薬師堂側でおお よそ 30分 お きに到着する よう配分す る。
ら参道 に入 り、本堂 を右回 りに 3周 し、2人 ずつ
本堂 に入る。その際、口に くわえてい る含み紙 (5円 玉を挟み込んでい る。三角形 )を 外 し賽銭 とし
裸参 り各団体 は仁 王門
(調 査時点では4多 復 中)か
て箱 に投入 し御神酒を飲み、祓 い をす る。 本堂 での祓 いが終わると参道 を通 り松焚 の火 の 回 りを右回
第 2章
どんと祭 の変容 と展 開
りに 3周 し 3周 目に腰 の注連縄 を解 き、火 に投入す る。 裸参 り参加 団体 には薬 師堂側か ら人数分 の御
札 と御守が渡 され る。 各 団体 おお よそ 20人 ほ どの行列 で、 男女 の 別 な く幅広 い年齢層 の参加 がみ ら
れた。往路 は含 み紙 のため 口は きかず、整然 と歩 くが火 の 回 りや帰 り道 で は寒 さを訴 える声 や小走 り
になる参加者 も散見 された。 各 団体 多少 の ちが い はあ る ものの基本 的 に袢 ・ 大提灯 (団 体名 )。 酒 ・
三 宝 (野 菜 )と いった構 成 で あ った。 衣装 に関 して も鉢巻 (前 締 め )、 晒 し、 半股引、軍手、 白足 袋、
草牲、右手 に鈴、左手 に提 灯 、腰 に注連縄 といった姿 で、根本的な違 い や奇抜 な格好 は見 られなか った。
(6)事
例 ・ 仙 台 市 郊 外 、 定 義 如 来 の ど ん と祭
仙台市大倉 は、 青葉 区 の 北 西 部 に位置す る。広 瀬川 の支流 で あ る大 倉 川 の 峡谷沿 い に集落が散在
す る山間地 で、 奥羽 山脈 を境 として 山形県 と接す る。近 世 には大 倉村 と して 一村 をな し、 明治 22年
(1889)に 合併 して大沢村 の大字 となった。戦後 は、宮城村、宮城 町 の大字 を経 て、昭和 62年 (1987)
に仙台市 となる。地 区内 の大部分 を山林 に覆われ、 県内各地 の 山手 に多 い平家伝説 の地 の一つ として
も知 られる。定義如来の名 で信仰 を集めて い る大倉 の浄土宗極楽 山西方寺 の 由緒
(『
宮城県寺 院名鑑』
1994仏 教 文化振興会 )に よれ ば、 平氏 が壇 ノ浦 の戦 い にお い て敗 れた後、平 貞能が源氏 の追討 を逃
れて大倉 の地 に隠れ住み、平重盛 よ り預か った阿弥陀如来の宝軸 を安 置 し、 安徳 天皇 と平氏 一 門 の冥
福 を祈 った とい う。貞能が世 をはばか って名前 を「定義」 と改 めた こ とか ら、 この地 を定義 と称 し、
如来 を「定義如 来」 と呼 ぶ よ う になった と伝 える。建久 9年 (■ 98年 )7月 7日 に平貞能が没 した地
にその従臣たちが貞能 の追命 を うけ、墓上に如 来の宝軸 を安置 した仏堂 を作 ったのが西方寺 の始 ま り
とす る。
定義 は、西方寺 の 門前集落で、現在の戸数は 24戸 で ある。集落では、定 義如来 のことを「オテラ
サン
(お 寺 さん)」
と呼 び、 そ の周辺 には山の神や稲荷 などがみ られる。現在 では観光地化 してお り
参道で土産物屋 などを商 う人 も多 くなっているが、以前 はもっぱ ら炭焼 きなど林業 を生業 として暮 ら
しを立てていた。炭焼 きが盛 んで あ った頃は、今か ら 40年 ほ ど前 の ことで、ほ とん どの家 で黒炭 を
焼 いていた。 もっとも、
炭 の原木 を自家でまかなえるほどの 山を持 っていた家 は 4軒 あまりと少な く、
他 の家 では国有林 の払 い下げなどをして炭焼 きを行 っていた。現在の ように土産物屋 などをして暮 ら
す ようになるのは、昭和 30年 代後半か ら 40年 代 にか けてのことで あった。
お寺 さんでは、今 日、正月の 14日 に「 どん と祭」が行 われている。 この 日に御札や絵馬 などをお
焚 き上げする行事 は 35年 ほ ど前 よ り行われていたが、 どん と祭 と呼 ぶ よ うになったのは最近 の こと
であるとい う。定義 の人 々 も今 日では、 この どんと祭 の火で松 飾 りや正月飾 り、ホシノダマガ ミな ど
を焼 いて正 月 を送るようになった。 どんと祭 は、お寺 さんが主催 し、火の始 末な どの手伝 い は檀家 で
ある定義集落 の人 々によって行 われる。お飾 りや絵馬などは、
本堂 の前 の四隅に竹 を立て注連縄で囲 っ
た ところに集 め られ、住職 の祈祷
入れ
(お 飾 りの前 に祭壇 を用意 して行 う)を 受けたあ と午後 3時 頃に火
(祈 祷 の際の灯明を火種 とす る)が 始 まる。正月飾 りを納めるのは定義 の集落 を含めて大倉周辺
の檀家 (280軒 ほど)が ほ とん どで、他 の参詣者は絵馬や古札 など以前 にこの寺 で請けた ものを燃 し
に来るとい う。
どんと祭 で燃やす ようになる以前、定義 の集落 では、お寺 さんの裏手 にある山の神様 の境内が正月
のお飾 りを納める場所であった。正月 15日 未明、 日付の変る頃に納め られたお飾 りは、そのままし
ば らく放置 されて、2月 2日 の 山の神講 で燃や されるものであ った。山の神講 は、集落 の全戸 によっ
て組織 されてお り、講の当 日は朝の 7時 か ら夕方 まで正月飾 りやホ シノタマを燃 した。その火でオフ
焼 いて食べ ると病気 にな らない といわれていた。お飾 りを燃 した後は、各家 の主 人か跡
クデ
(餅 )を
取り
(家 督)が 当番 の家に集 まって様 々な料理 を作
りひと時をす ご した。 山の神講の料理には、メヌ
第 2章
どん と祭の変容 と展開
ケ (魚 )を 煮 た ものが 定呑 であったが、古 くは鮫焼 きな ども出 され ることがあった とい う。 正 月飾 り
を燃 さな くな った今 日も、 山の神講 は行 われて い る。
(7)事
例 。仙 台 市 郊 外 、 賀 茂 神 社 の ど ん と祭
賀茂神社 につ いて
仙台市泉 区古内糸し1番 地 に鎮座 す る賀茂神社 は、社名や地名が示す通 り京都 の糸L
ノ森 に鎮座す る下 鴨榊社 を勧 請 した神社 である。 神社 が平成 17年 に発行 した「賀茂神社御参拝 の栞」
の「賀茂神社 由緒 書」 に よれ ば、「本神社 は元塩竃 神社 に鎮座せ られ、只州宮 と称 し元禄 年 間該神社
造替 の節、今 の地 に遷座 され伊達藩 の崇敬 篤 き社 で あ った。 元禄八年十月十 三 日伊達綱村公 の命 によ
り「只州の御社 を別所 に奉退す べ き」 とその社家鎌 田信濃 守 に申 しわた し十 一 月十 三 日には新 しい御
遷座 の地 を選 ぶ べ く、御社 くじを占 し、現在 の古 内村 を御社 地 と選定 し、先ず下賀茂社 の御社 を元禄
「御祖神社」 として奉斎 した。
九 年 二 月二 十九 日着工、同年九月二 十 三 日に塩竃 よ り正遷座 の儀 を行 い、
同年十月十四 日上賀茂社 の棟 上 げ、翌元禄十年 正 月二 十九 日には上賀茂社 の正遷座 の儀 を行 い 「別 雷
神社」 として奉斎 す る。」 と記述 されて い る。 本殿 は 2社 あ り、向か って右が下賀茂神社 で祭神 は「玉
依姫命」、 向か って左 が上賀茂神社 で祭神 は「別雷 命」 であ る。 2社 の本殿 と棟札 は昭和 39年 に宮城
県 の重 要文化財 に指 定 されて い る。現在 の神社 の神職 は泉 区実沢 の熊野神社 との兼務 で宮司が石川昇
氏、禰宜が石 川隆穂氏 で ある。
平成 15年 か ら賀 茂神 社氏子 総代長 で あ る泉 区古 内 の 若生勝 男 さん (昭 和 5年 1月 生 )に よれ ば、
賀茂神社 の所在地 は旧七北 田村 で、 昔 は七北 田の二柱神社 の宮 司が神職 を兼務 して い たが、 いつの 頃
か らか旧根 白石本寸の熊野神社 の兼務神社 に移 った。 賀茂神社 は 明治期 に百 日咳 な どの はや り病 の神様
として繁盛 したが、戦後 は一 時期衰退 した。 また塩釜か ら移 って きた神社 なので、地元 の泉 区古 内や
根 白石 では鎮 守 とは考 えてお らず、 正 月 15日 の暁参 りには参拝 しな い。暁参 りは古 内地 区 の 古 くか
らの住人 は二 渡神社 に、丸太沢地 区 の 人 は貴布禰神社 に参拝 して い る。 賀茂神社 は、 昭和 31年 頃 に
氏子 が中心 にな って 鹿踊 りと剣舞 を復活 させ、昭和 39年 に本殿 が 県 の重 要文化財 に指定 されてか ら
やや注 目され る よ うになった。昭和 50年 代 に神社 の 近 くに加茂 団地 が造成 されてか ら賑 わ う よ うに
な り、現在 に至 って い る とい う。
賀茂神社 の どん と祭 の経緯
賀茂神社 で何 時か らどん と祭が始 まったか は定かで はない。賀茂神社 の
あ る古 内地 区 は昔 か らの純農村 地帯 で、以 前 は正 月飾 りの松 は どの家 で も暮れ に山か ら伐 り出 し、正
月 15日 に暁 参 りの 際 に家 の 裏 の氏神様 の脇 に納 めて いた とい う。賀茂神社 の石 川隆穂禰宜や若 生勝
男氏子総代長 か らの聞 き取 りで は、 昭和 40年 代 の終 わ り頃 に、 旧泉市 内や当時 の仙 台市 のはず れ に
住宅 団地 の造成や分譲が始 まる と、松 が取 れる と団地 の住 人が松飾 りを賀茂袖社 に持 って くる よ うに
なった。そ の ままに して置 けないので 、神社 の役 員が脇 の 広場 に集 めて焼 い て い た。 またそ の後 に神
社 の 近 くで野火 が頻発 したため、氏子 で 防火 クラブ を作 り、集 まった松飾 りは 1月 14日 に禰 宜 にお
祓 い を して もらった あ とに火 をつ け て 防火 クラブが管理 した。 それが どん と祭 に発展 して いった。
昭和 50年 代 に加 茂 団地 と長命 ヶ丘 団地 が で きる と、 松 飾 りを神社 に持 って くる人が急 に増 えた。
神社 の役員 を して い た若 生 勝男氏が、消 防団 のポ ンプ車 に乗 り込み、賀茂神社 で どん と祭 をや るので
松飾 りを袖社 の脇 の広 場 に直接持 って きてほ しい とス ピー カー で 呼 びか けなが ら、加茂 団地 と長命 ケ
丘 団地 を回った。神社 の広 場 には森林組合 か らもらった材 木 の コ ッパ を積 み上 げ、それ に松飾 りを投
げ入 れて燃 や した。 また境 内 で 防火 クラブが甘酒 な どを売 って、 収益 は どん と祭 の運営費用や神社 の
防火対策費 な どに あ てた。 現在 もどん と祭 は神社 と氏子 の 共 同主催 でお こなって い る。
住宅団地 の うち賀茂神社 に最 も隣接 した加茂団地 は、地 権者 で組織 した加茂団地土地 区画整理組合
第 2章
どん と祭 の変容 と展開
が昭和 52年 10月 に区画整理法 の事業認可 を得 て開発分譲 した住宅団地である。第 1期 と第 2期 の 開
発 で、総面 積 は 153ヘ クタール、昭和 58年 12月 に最終の換地処分が行 なわれた。平成 18年 3月 現
2,213世 帯、
在 の仙台市住民基本台帳に よる加茂 1丁 目か ら5丁 目までの人口は、
住民 は 6,339人 である。
加茂団地 の最初 の住人 の一人で ある泉区加茂 2丁 目の菅野允章氏
(昭 和
14年 8月 生 )は 、昭和 53
年 3月 に加茂団地の第 1回 分譲 で建売住宅 を購入 し、仙 台市 の幸町か ら転入 した。菅野氏 によれば、
当時は賀茂神社 では既 にどんと祭 をやっていた とい う。 しか し入居 した翌年 の昭和 54年 は、それ ま
で正 月飾 りを焼 きに行 っていた大崎八幡宮 の どん と祭 に行 った とい う。賀茂神社 の どん と祭 に行 くよ
うになったのは入居 2年 目の昭和 55年 か らで、その時は団地 か ら賀茂神社 までの道路が まだ整備 さ
れてお らず、雪 の積 もった狭 い路地 の ような道 を苦労 して歩 いて神社 まで行ったとい う。当時 は夜店
などは出てお らず、賀茂神社 の どん と祭が賑やかにな ったのは昭和 60年 代 に入 ってか らで、泉区の
将監団地や仙台市北部 の西勝山団地な どか らも参拝 客が来 るようになった とい う。
賀茂神社 の どん と祭 は、その後 は年 々賑やかさを増 してい る。現在 では参道 の両側 と火 を焚 く広場
の周囲 に も露店が軒 を連ねて、付近の道路 は昼過 ぎか ら大渋滞 となっている。参拝客は仙台市消防局
の まとめで、平成 16年 1月 14日 が 1万 2,300人 、夕方か ら土砂 降 りの雨が降った平成 18年 1月 14
日が 1万 8,410人 と増 え続けてお り、泉区内では最 も人出の多 い どん と祭 である。 また近年 は裸参 り
も訪れるようになった。裸参 りの最初 の参拝 は、平成 2年 に大崎八幡宮へ の裸参 りの帰路 に賀茂神社
を訪れ、翌 年 か ら正式 に裸参 りを続 けてい る仙 台市泉区野村 の建設業者 「栗駒建業」 で、 次が平成 4
年か ら社屋 移転 を機 に大崎八幡宮か ら賀茂神社 に裸参 りの行 き先 を変更 した「東 日本放送」、 さらに
平成 18年 か らは「ボー イスカウ ト宮城県連盟泉第一 回」 の子供 たちが参加す るようになった。
平成 18年 の どん と祭
平成 18年 1月 14日 の どん と祭 当 日、仙台市泉区の賀茂神社 は早朝 か ら正 月
飾 りを持 って訪れ る参拝客 で賑わっていた。午前 9時 には、普段 は駐車場 として使 われて い る参道西
狽1の 広場 に持 ち込 まれた正月飾 りや グルマ、門松、神棚用のお社 などがお よそ 2メ ー トルの高 さにま
で積み上 げ られていた。正 月飾 りの周囲 は、一辺が 12メ ー トルの四角で囲まれるように 4本 の青竹
が立て られ、注連縄が回されていた。積み上げ られた正 月飾 りの中心 には抗が打たれ、高 さが 15メ ー
トルほどの 長 い竹が立て られ、その先端 には大 きな御幣が飾 り付 けられていた。神社 の拝殿正面には
国旗 と紅 白の帳幕が飾 られ、参道には露店が立ち並 び、社務所脇 には賀茂神社防火 クラブがテ ン トを
張 って甘酒 と焼 き′
専を売 っていた。午後 2時 には正月飾 りは直径 7メ ー トル、高 さ 3メ ー トルほどに
積 み上がっていた。
午後 2時 、石川隆穂禰宜がワゴン車 で大 幣な どの道具類 を運んで来て、正 月飾 りの南側 に仮 の祭壇
を設ける。氏子代表 らが三宝に盛 った米、お神酒、鯛、大根 。人参 。青菜、 りんご・みかん 。苺 を三
宝 ごと仮祭壇 に飾 る。午後 2時 40分 、仮祭壇前 に氏子代表や消防団、防火クラブの役員 ら 26人 が整
列す る。石 川隆穂禰宜が拝殿 に行 き、 ガラスのケースに入れた蝋燭 に灯 された ご神火 を持 って戻 り、
ケースご と仮祭壇 に置 く。 ご神火 は元旦に採火 して蝋燭 に移 し、拝殿 に安置 して どんと祭 まで灯 して
お くとい う。
午後 2時 45分 に神事が始 まる。石川隆穂禰宜が仮 祭壇 に向かって祓 いの祝詞 を奏上 し、仮 祭壇 と
参列者、そ して積み上げ られた正月飾 りへ の修祓 をお こなう。 どんと祭 の祝詞 を奏上 し、禰宜、氏子
総代長 らが玉串を奉貧する。続 いて氏子総代長、泉消防署 の代表、消防団の代表、婦人防火 クラブの
代表 ら 6人 に蝋燭 を渡 し、禰宜 と 6人 がガラスケース の上か ら持 った蝋燭 に ご神火 を移す。それぞれ
積 み上げ られた正月飾 りの周 りに並 び、午後 3時 に花火の合図で正月飾 りに点火す る。燃 え上がると
四方の青竹 と注連縄がはず されて、火 に投 げ入れ られる。禰宜 はガラスケースのご神火 を拝殿 に持 っ
て戻 り、仮祭壇 を撤収 して神事 を終える。以後、 どん と祭 のご神火は消防団 と防火クラブのメ ンバー
第 2章
どん と祭 の変容 と展 開
が管理す る。
参拝客 は火が点 され る 頃か ら増 えだ し、午後 4時 頃には参道 に長 い行列が で きた。点火直後 にボー
イス カウ トの子供 ら 26人 が裸参 りに訪 れ、夜 7時 には栗駒建 業、 そ の 後 に時 間 をず らして東 日本放
送 の裸参 りが訪 れた。 夕方 か ら雨 になったが、平成 18年 は どん と祭 の 日が土曜 日で、 日中 の 人 出が
多 かったため、参拝者 の 総数 は 1万 8,410人 と例年 よ り大幅 に増 えた。
(8)事
例 ・ 仙 台 市 郊 タト、 泉 パ ー ク タ ウ ンの どん と祭
泉 パ ーク タウン高森地 区 について 仙台市泉 区 の泉 パ ー クタウ ンは仙 台市北西部 の、旧泉市 の市域 で
あ った泉 ヶ岳の丘陵地 を造成 して作 られた巨大 な新興住宅団地 の総称 である。泉 パー クタウ ンを開発
したのは最大手 の不動産会社 三 菱地所株式会社 で、 昭和 44年 に用 地取得 を開始 し、昭和 47年 に造成
を開始 、昭和 49年 9月 に宅地 の分譲 を開始、昭和 50年 8月 に最初 の入居者が居住 を開始 した。泉 パ ー
クタウ ンには開発順 に高森 ・寺 岡・桂 。紫 山の 4つ の住宅 団地 と、流通工 業 団地 の 明通地 区、 さらに
は スポー ツ施設地 区な どが あ り、総 開発面積 は 1,070ヘ クタール 、計画人 口 5万 人 と、北 日本 で最大
規模 の住宅都市 開発 であ る。 泉 パ ー クタウ ンの 開発前 の土地 は無 人 の雑木林や原野 であ り、 もともと
の住 人 は存在せず、居住者 はす べ て他地域 か らの移 住者 で あ る。平成 17年 9月 末現在 の仙 台市住民
基本台帳 に よる人 口は、4つ の住宅 団地 を合 わせ て 8,255世 帯、 25,127人 で、 分譲開始 か ら既 に 30年
が経過 したが、 まだ開発 は続 い てお り、近年 は手 頃な販売価格 のマ ンシ ョン分譲 に よって比較 的若 い
世帯 の居住 も増 えて い る。
泉 パ ー ク タウ ンの 4つ の住宅 団地 の うち、高森 地 区 は最初 に開発分譲がお こなわれた地 区 であ る。
昭和 50年 に最初 の 入居 者 が居住 したあ と、翌 年 昭和 51年 には仙 台市 バ ス の乗 り入 れが始 ま り、52
年 3月 に入居者が 100世 帯 を突破、 4月 に泉市立 (当 時 )高 森小 学校 が 開校、 同月 に高森 町内会が発
足 した。高森地 区 では新 規 の一戸建 て住宅 の分譲販売 は終了 し、住民 の 高齢化が進 んで いたが、平成
元年 にはマ ンシ ョン (集 合住 宅 )の 新築分譲 が始 ま り、 それ は現在 も続 いている。平成 17年 9月 末
現在 の仙台市住民基本台帳 に よる高森地区 の 人口は、高森 1丁 目か ら 8丁 目まで合 わせ て 2,901世 帯、
8,547人 で あ り、前年 同月 に比 べ て世帯数が 86世 帯増加 して い る。
高森地 区 の どん と祭 の経緯
高森地 区 では、 平成 17年 には高 森連合 町 内会が主催 して 1月 14日 の ど
ん と祭、4月 29日 の運動会 (高 森小学校 と共催 )、 8月 6日 の盆 踊 り大 会、 10月 1日 の親子 スポー ツ
大会 グ ラ ン ドゴル フの 各 イベ ン トが 開催 されて い る。主催者 の 町 内会 は、昭和 52年 4月 に高森 町内
会 として発足 し、昭和 60年 4月 に高森 1丁 目か ら 8丁 目まで の 区画 ご との町内会 に分かれ、そ の上
に高森連合 町内会が発足 して現在 に至 って い る。連合 町内会 の会 長 は初代 が三尾 一 喜氏、 二代 が庄子
喜兵衛氏、 三代が昭和 63年 か ら現在 まで会長 を務 めて い る相 原廣 之氏 で あ る。
町内会 主 催 のイベ ン トの うち、最 も早 く始 まった のが 昭和 52年 1月 14日 の どん と祭 で、以後平成
3年 か らは高森東連合 町内 と共催 で、 さらに平成 5年 か らは桂 連合 町内会 も共催 に加 わ り、3つ の連
合 町内会 による共催事業 として高森 2丁 目の 高森 自然公 園内多 目的広場 (通 称 明神広場 )で お こなわ
れて い る。
聞 き取 りをお こ なった高森連合 町内会 の相原廣 之会長 (大 正 12年 3月 生 )は 、昭和 51年 ■ 月 に泉 パ ー
クタウ ンの 80世 帯 目の 住 人 として仙台市台原 か ら高森 1丁 目に転居 した。昭和 52年 の 高森 町内会発
足 とともに町内会 役員 とな り、昭和 60年 の高森連合町内会発足 時 には事務局長 、昭和 63年 か らは連
合町内会長 を務 めて い る。高森地 区 の最初 の どん と祭 は昭和 52年 1月 14日 にお こなわれたが、そ の
時 はまだ町内会が発足 して い なか った。 しか し当時住人が い た 高森 1丁 目と高森 3丁 目にはそれぞれ
第 2章
どん と祭 の変容 と展開
親 睦会が あ り、合 同でイベ ン トをや ろ う とい う ことにな り、 どん と祭 をお こなった。 この時 の話 し合
い が町内会結成 につ なが って い った。 どん と祭 は初 回か ら団地内の高森 2丁 目の広場 でお こなわれて
い たが、 昭和 63年 に当時 の泉市 が仙 台市 に吸収合併 され、広 場 が仙 台市 の 高森 自然公 園 の一 部 に指
定 された。 当時 の仙台市 の規則 で は、 自然公 園内で火 を焚 くことが禁 じられて い たため、 どん と祭 も
会場変更 をせ まられた。 このた め連合 町内会 で は仙台市 に対 して、 どん と祭 の会場 の広場 は、 もとも
と公 園 で はな く多 目的広場 で あ り、通称 「明神広場」 と呼 んでいる と主 張 して、 どん と祭 の会場使用
許可 を得 た との ことで あ る。
泉 パ ー クタウ ンには神社仏 閥 はまった くな い。以前、鎮 守 の神社 を創 りた い との声 が あ ったが、 特
定 の宗教 施設 を創 ることは ど うか との意 見 もあ って、実現 しなかった。 また、泉 パ ー クタウ ン内 の寺
岡地 区 で は、以 前、寺 岡地 区の西 に隣接 して い る泉 区根 白石字行木沢東 の上 ノ原神社 の境 内 での どん
と祭 に参加 した ことがあったが、 現在 は寺 岡連合 町内会が寺 岡地 区 の広場 で どん と祭 をお こなって い
る。 しか し住人 の 中には現在 も上 ノ原神社 の どん と祭 に行 く人 も多 い。
平成
18年 の どん と祭 平成 18年 1月 14日 の 高森 地 区での どん と祭 は、 平成 17年 10月 31日 に開
か れた高森 。高森東 ・桂 の各連合 町内会 の合 同会議 で 決定 された。 日時 は平成 18年 1月 14日
(土 )
の 午後 4時 30分 か ら午後 8時 30分 まで、会場 は高森 自然公 園 の 明神広場、幹事 は桂 連合 町内会 で、
実行委員長 は桂連合 町内会 の奥野会長が選 ばれた。 どん と祭 のために準備す る もの としては、以前 か
らの 申 し送 りで青竹 の 幣 串 4本 、注連縄 30メ ー トル、 御 幣束、鳶 口、鈍、 鋸 を用 意す る。 それ に会
場 内に 4張 りのテ ン トを張 り清酒 と甘酒 をふ るま う こと、玉 こん にゃ くの 出店 の依頼 をお こ なう こと
が 決 まった。
平成 17年 12月 に回覧板 で どん と祭 の 計画 が 各家庭 に知 らされた他、 平成 18年 1月 中旬 の どん と
祭 の前 には地元 新 聞 の折込 として 町内会 の皆様宛 の「 どん と祭 の ご案 内」が配 られた。 それ による と、
主催 は どん と祭実行委員会、共催 は高森 ・ 高森東 。桂 の各連合 町内会、趣 旨 は「本行事 は正 月飾 りや
門松 、 旧年 中にお受 け した神社 のお札 、お守 り、お よび書 き初 め、 だるま等 を御神火 に よ り焼 く火祭
りの行事 です。」 とした うえで、「私 たちの地 区には神社 はござい ませ んので、厳格 な意味での神事 と
は い きませ んが、 この行事 の趣 旨 を ご理解 い ただ き、次 の事項 につ い て必 ず お 守 りくだ さい。」 と し
て 3つ の注意事項 を列記 して い る。それ は「生 ゴ ミ、不燃物等 の持込 は絶対 しな い で下 さい。 ダイオ
キ シ ンの発生 防止 のため ビニー ル類 は取 り外 してお持 ち下 さい。 (ミ カ ン、 もち等 は取 り外 して下 さ
い 。入 り口 で確認 します )持 ち込み時 間 :午 前 10時 ∼ 午後 8時 まで。 (午 後 8時 以 降は入 れ ませ ん)」
で あ った。 また「点火午後 4時 30分 ∼ 午後 8時 (持 ち込み終了 )以 後消火」 とし、 さ らに「お神酒・
あ ったかい甘酒 を用意 します。 (無 料 )夜 店 も出店 します。」 として参加 を呼 びか け て い る。
どん と祭 の準備 は、前 日までに青竹 を伐 り出す ことと注連縄 を作 ることか ら始 まる。青竹 は高森東
連合 町内会 の北村栄 一会長 の知人が所有 して い る団地近 くの竹林 か ら伐 り出す。長 さ 4メ ー トルほ ど
で、一 番 上 の 50セ ンチ ほ どの枝 と葉 を残 して、 そ の 下 の枝 葉 を落 とす。注連縄 は 高森東連合 町内会
の 北村 栄 一 会長 と町内会役 員 の有志 が作 る。 また前 日中に広場 内 に火 を焚 く「祭場 」が準備 される。
地 面 を縦横 2メ ー トル、深 さ 30セ ンチ ほ ど掘 り下 げ、周 りに掘 った上 を盛 り上 げ る。 そ の 中 に太 さ
10セ ンチ、長 さ 180セ ンチの丸太 30本 を井桁 に組 んで高 さ 180セ ンチ にす る。
平成 18年 1月 14日 の どん と祭 当 日は、朝 の うち に祭場 の まわ りに 4本 の青竹 が立 て られ、御 幣 を
つ け た注連縄 が廻 される。注連縄 は会 場 の広場 を囲む フェ ンス に も取 り付 け られ る。広 場 の入 り口に
は持 ち込み品 をチ ェ ックす るテー ブルが 置 かれ、 ビニー ルや不燃物 が分 別 され る。正 月飾 りを持 ち込
む人 は朝 か ら断続 的 にや って きて、昼過 ぎには井桁 の 回 りに積 み上 げ られ る。 午後 4時 30分 、町内
会 の役 員が四隅 の青竹 の根本 に塩 を撤 き、積 み上 げ られた松飾 りに灯油がか け られ る。点火す るのは
第2章
どんと無の変容と展開
例年、高森東連合Hrm会 のJヒ 村栄一会長と決よつていて、北村会長か畳ぼ 新聞紙にライターで火を
ロ
点け、松節 りに火をつけて行 く。燃え上がった段階で(町 内会役員がハンドス ピーカーで参カ
者に呼
と
二
二
の
びか よ 実行委員長 合図で全員がそろって火に 拝 拍1手 する。後は午後 8時 30分に滑火するま
で火H焚 かれ続1)、 また用意された甘酒や出店のまわ りには子供たちが群がっていた。
辛茂 18年 の1泉 パータタラ ン高森の どんと祭のえ出は、仙台市消防局の まとめでは 300人 であった。
―
これは1平 成 161年 の1人 出の 2p00人 を大 きく下回つた.が ヽ人出が滅った理由は平成 18年 は1午後う時頃
―
か ら雨が降り出し、 閂もな く土砂降 りとなつたためであった。 しか じ天気予報で夕1方 からの雨が報 じ
られていたため、点火前に正1月 1飾 りを持ち込む住民は多 く、そ―
れな りの数量の正月節りが集 まった。
46
第 3章
第 3章
第 1節
探参 りの現状 と変遷
裸参 りの現状 と変遷
大崎八 幡宮 へ の裸参 り
(1)裸 参 りの現状
大崎 人 幡宮 の どん と祭 の 名物 とされる裸参 りは、 藩政時代 末期 まで遡 れ ることはこれ まで の研 究等
で 明 らか となって い る。 現在 まで続 く裸参 りの ピー クは、昭和 40年 代 か ら 50年 代 にかけて仙 台市 内
の企 業や大学 な ど多様 な団体 が PRを 兼ね て行 う よ うにな ったためで、その後仙台市 内各地 の寺社 で
どん と祭が行 われ る よ うになる と、 裸参 りも分散傾 向 を見せ て くる。 しか しどん と祭 の 中心が大崎 入
幡宮 で あ る よ うに、 裸参 りも圧倒 的多数が大崎 人 幡宮 へ の 参拝 で あ り、 そ の 数 は平成 18年 には 101
団体 2,433人 にのぼって い る。近 年 で は裸参 りの参拝者 は事前 に大崎八幡宮 に 申 し込み をす ることに
なって い るが、千 円 の お守 り代 と昇殿料 を支払 い貸衣装 で も揃 えれば、誰で も気軽 に参加 で きる こ と
が人気 の理 由で もあ る。
この裸参 りの作法や形 につ いては、本章第 3節 で 詳述す るが、元 来 は造 り酒屋が酒造安全 を祈願 し
て参話 したのが始 ま りとされ、 造 り酒屋 の裸参 りの作法が最 も正統 的 で あ る とされて きた。 しか し最
近消費者 の 日本酒離 れ と造 り酒屋 の 減少 で、正 統的 な裸参 りが次 々 に姿 を消 し、最後 まで大崎入幡宮
へ の裸参 りを続 けて いた 天賞酒造 (現 まるや天賞 )も 平成 17年 に仙 台市 内か ら川崎町 に移 転 し、平
成 16年 の どん と祭 を最後 に裸参 りを行 っていない。 このため 平成 18年 には、天 賞酒造 の裸参 りの伝
統的な様式 を守 ろ う と、 市 民有志が 「仙蔓伝統裸参 り保存会」 を結成 し、道具類 を「 まるや天賞」 か
ら借用 して裸参 りを行 った。 そ の 設立趣 意書 によれば、正統 な天賞 の 裸参 りは「 1.水 をか ぶ って体
を清 める」「2.ゆ っ くりと歩み、行 きも帰 りも私語 を慎 むため に「含 み紙」 を くわえ、列 か ら離れ な
い」「3.鈴 をそろって鳴 らす」「4.列 の)贋 番 に しきた りがあ り、動 か さな い」 とい うもので ある。仙
重伝統裸参 り保存会 の 発起 人代表 で 20年 ほ ど前 か ら毎年、天賞 の裸参 りに参加 して きた谷徳行 さん
(昭 和
26年 生 )は 「酒造 りに根差 し、脈 々 と受 け継がれ て きた誇 りあ る地元 の文化 を絶や した くない 。
次世代 に伝 えて い くため、 今 はわれわれが頑張 る。伝統 の様式 にで きるだけ近 づ けてい く。」 と語 り、
これ に対 して大崎人幡宮 も「様式 を絶や さず に残す ことは非常 に意義があ る」 と歓迎 して い る。
平成 16年 を最後 に天賞 酒造 の 裸参 りは行 われて い な い が、 次項 でその最 も正統 的 とされ る天 賞酒
造 の裸参 りの様子 を詳述 す る。 なお次項 の表記 は仙 台市教 育 委 員会 か ら当研 究会が委託 され た平成
15年 度 「天 賞酒蔵 に係 る民 俗 調査 」 の調査結果 に依拠 した もので あ り、天賞 の調査報告書 と重 複 す
る部分 があ ることをあ らか じめ断 ってお く。
(2)事 例
。天 賞 酒 造 の 裸 参 り
天賞酒造 と大崎八幡宮
天 賞酒造株 式会社 (当 時 )が 平成 16年 に発 行 したパ ンフ レッ ト「天賞 の あ
ゆみ」 に よれば、「仙 台藩祖伊達政宗公建 立 国宝大崎 人 幡宮 の 御榊 酒酒屋 と して文化元年 (1804)三
代 目勘兵衛が現在地 にて創業。屋号 は丸屋。 当初、 人 幡宮御使 の鳩 にちなみ「鳩正宗」、明治 38年 日
露戦争終結 を祝 い、天祐 に よ り勝利 を得 た感謝 の気持 ちか ら「天勝正 宗」 と称 しま した。 明治 41年
大正天皇が皇太子 として仙 台 に巡啓 された際、お買 い上 げ の 栄 に浴 した こ とを記念 し「雲上嘉賞
天
之美禄」 よ り「天 賞」 と改 め、現在 に至 ってお ります。」 とあ る。
天 賞酒造 の蔵元 は代 々「天江勘兵衛」 を襲 名す るが、その天江家 に伝 わって い る文書 によれば「嘉
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
永 4年 (1851)丸 屋勘兵衛が龍宝寺 門前 (人 幡町)の 伊藤屋 治兵衛 か ら酒株 や家屋敷 を買 い取 った」
とあ る。 ここに登場す る丸屋勘兵衛 は、 家伝等 に よれば広瀬川の橋 の修復 な どへ の功績 で天江姓 を名
乗 る ことが許 され、文久元年 (1861)に 死去 した天 賞第 四代蔵元 の天江勘兵衛 と思 われ る。 また 『宮
城県 酒造 史』 (早 坂芳雄、 1958、 宮城 県酒造組合 )に よれば、 明治 4年 (1871)に 宮城県庁 に提 出 さ
れた「酒造願」 では「天江勘兵衛」 (六 代 と思 われ る)が 「清酒 150石 」 の造石 を出願 してお り、天
江家 が四代丸屋勘兵衛 以来、 九代天江 勘兵衛 (平 成 16年 3月 31日 死去 )ま で、 150年 以上 にわたっ
て入幡町で酒造業 を営 んで きた ことはほぼ確実 で あ る。
また「天賞 の あゆみ」 に も述 べ られて い るよ うに、天江家が藩政時代 か ら大崎入幡宮 の御神酒酒屋
であ った可 能性 は高 く、明治期 に使 っていた「鳩正宗」 の ラベ ルでは、人幡宮御使 の二 羽 の鳩が向か
い合 った姿 で数字 の「人 Jを 表 して い る。 さ らに天江家 は昭和 の初 めか らは確 実 に大崎人幡宮 の氏子
総代 を務 めて御神酒 を奉納 してお り、天江家 は大 崎 入 幡宮 とは極 めて密接 な関係 が あ った。
天江家 とどん と祭
天賞酒造蔵元 の一 族 で、幼少期 と近 年 を入幡町の天江家で暮 らした天江久 さん (大
正 15年 生 )は 、天江家 の年 中行事 と しての どん と祭 とその 日の様子 につ い て次の よ うに話 して い る。
「 どん と祭 の裸参 りの準備 は七 草が過 ぎた頃か ら徐 々 に始 め る。 仕事 の合 間に、店 の人 たちが 紙垂型
を切 って梵 天 を作 り、何枚 もの含 み紙 を折 り、 ゴボウ締 め に幣束 を挟 む仕事 や提灯 や鉦 な どが用意 さ
れ る。 また、 どん と祭 当 日の振舞酒 の 準備 や 当 日に出店 で売 る甘酒の仕込み も行 われ る。
1月 14日 は、 店方 は朝 か ら、裸 参 りのための準備 と出 店 の準備 に終始 す る。 そ の合 間 をぬ って、
正 月 のお供 え餅、お飾 り、注連縄、松 飾 りを はず し、神棚 に祀 られた一 年分 のお札 もお ろ して大崎人
幡宮 に納 め に行 く。
昭和初期 の どんと祭 の裸参 りの参加者 は、蔵人 と店方 だ けで多 くの人数が集 まった。蔵人や店 の従
業員、蔵 で使用す る道具 の修理 を行 うブ リキ屋、 タガ屋、大工なども参加 した。 裸参 りでは、現在
は天江家の当主が先頭 に立つ が、人代天江勘兵衛 までは裸参 りの先頭 に立 つ ことはなかった。 また大
崎八幡宮 に奉納する祈願板 は当主が書 いていた。
この頃、裸参 りをした人たちは、参詣後 に蔵で直会 をした。直会 の参加者 は蔵人など裸参 りに行 っ
た人だけで行 っていた。直会 の料理 は毎年趣向が凝 らされるが、かならず「ひ き煮 しめ」が出された」
とヤヽう。
平成 16年 1月 14日 の天賞酒造 の裸参 り 参加者 は合計 26名 。主人 (蔵 元である天江文夫社長)、「祈
願板持 ち」 と 4名 の「付 き人」 は天 賞酒造 の従業員 であるが、それ以外 は全 て一般参加者 である。天
称 )と い う昔 か らの天賞 フア ンのメンバーがお り、彼等 が事前 に参加の申
し合 わせ を行 なう。天江文夫社長 によれば、昭和 54年 の段 階で裸参 りへ の蔵人以外 の参加者がす で
賞酒造 には天賞愛好会
(自
にい た との ことである。最近 では蔵人 の年齢 が高 くなったため、蔵人は介添 え役 にまわ り、注連縄や
晒 しを巻 いた りす るような手伝 い を してい る。 また この年 は「杜氏」 は不在 で赤加 してい ない。
裸参 りの準備 は、1月 に入 ってか ら参加人数分の衣装 などを準備 し、蔵の中に保管 されてい る足袋
や鐘 などの確認 をす る。 1月 13日 は午後 か ら蔵人の談話屋で、天賞酒造 の従業員 たちが注連縄 に御
幣 を付 け、含 み紙、三方や衣装 を準備す る。以前 は蔵人が梵天や含み紙 の準備 を した。祈願板 は仙台
市青葉区芋沢 の大工が作 り、それに掛 け る注連縄 は蔵人が作 り、文字は社長が書 い た とい う。 また蔵
の中では、蔵人が裸参 り当 日の天賞 の 出店 に出す甘酒の準備 を行 う。その後、裸参 りの後 の入浴に使
う木桶 を洗ってお き、翌 日の どん と祭 と裸参 りの用意 を済 ませてお く。
以下は 1月 14日 当 日の時間経過 で ある。
裸参 り参加者 が天賞酒造 に集合 (午 後 5時
)
出欠確認 と一般参加者 か ら参加料 1,000円 の集金
(午 後
5時
)
第 3章
蔵 内での参加者 の草履 サイズ合 わせ (午 後 5時
30分
)
社長挨拶、総務部長 か ら参加者 の役割告知 と段取 りの説明 (午 後 5時
初心者 に鈴 の振 り方や歩 き方 をベ テ ランの参加者 が指導 (午 後
蔵 内 の井戸 か ら水 を半切桶 に汲 み水垢離 (午 後 6時
着替 え (水 垢離後 か ら午後 6時
裸参 りの現状 と変遷
40分
5時 50分
)
)
20分 か ら
)
45分 まで
)
裸参 り参加者 の衣装 は休巻、含 み紙、晒、 半股引、 白足袋、草履、腰 に注連縄 をつ け る。主人 。杜
氏 (平 成 16年 は杜氏 は参加 せ ず )は 天賞の紋付 袴姿、足袋、草履 を着用す る。 袢 は袢 と陣笠、足袋、
草履 を着用す る。 付人 は揃 いの 半纏 、鉢巻、足 袋、草履 を着用す る。
主人 と袢北 。南 は他 の参加者 たち とは別室で着替 える。裸参 り参加者 は、 まず水垢離 を して体 を清
めてか らタオルで体 を拭 き、着替 え始 める。 半股引 を穿 き、次 に足 袋 と草牲 を履 く。そ の 際、脱 げな
い よ うに白い紐 で足 袋 と草履 を固定す る。 鉢巻 の両端 はハ サ ミで切 る。 晒が巻 き終 わった ら、注連縄
を付 け る。 後 ろは、注連縄 を輪 の よ うにす る。
集合写真撮影 (午 後 6時
50分
)
16年 度 は社長のみ
奉納物 や採物 を揃 え参加者全 員 が整 列 (午 後 6時 50分
屋敷 内 の松尾神社 に参拝、 二 拝 二 拍手 一拝 (平 成
)
)
裸参 り参加者 の採物 は、 高張 り提灯 、祈願板、梵天、幣束、お神酒、魚、野菜、餅、提灯、鈴、太
刀 である。付 人 は、「天賞」 と名 の入 った手提 げ袋 を持 つ 。採物 の保管 と準備 は天 賞酒造 で行 う。
大崎 人 幡宮 に奉納す る祈願板 には、 平成 16年 は「 祈願
日新志
平成 甲申一 月十 四 日 天賞蔵元
一 同敬 白」 と社 長が揮墓 した。大崎入幡宮 に納 め られて い る天 賞酒造 の祈願板 は昭和 52年 か らの
26枚 が保存 されてお り
(身 内 の不幸 の あ った昭和
57年 と昭和 天皇崩 御 の 64年 には参拝せ ず )、 それ
芳醇醸酒 J(昭 和 52年 )、 「祈願
らの祈願板 の祈願文 は「祈願
酒造安全」 (昭 和
54・
63年 )、 「祈願
上天美 禄」 (平 成 7年 )な どで あ る。
裸参 り行列 出発 (午 後 7時 )
1)先 頭 高張 り提灯 (2名
2)大 振 り (一 番鈴)…・右 手 に大 きな鐘、左手 には提灯 を持 つ。
3)袢 北 ,袢 南 …左手 は太刀 に添 える。
4)主 人 。(杜 氏 )… 左手 には提灯 を持 つ。
5)二 番鈴
6)祈 願板
7)梵 天
8)御 幣
9)お 神酒 … お神酒 は天 賞酒造 「本醸造」 を二本、奉納 と書かれた板 に括 り付 けて持 つ
)
10)魚 …魚 は鯛 で尾 頭付 き 1匹 を三方 に乗せて持 つ
11)野 菜 …野菜 は大根 ,人 参 ,ゴ ボ ウで切 らず に三 方 にのせ て持 つ
12)お 餅 …鏡餅 二枚 を三方 にのせ て持 つ
残 り 8名 は左手 に提灯、右手 に鐘 を持 って、 後 ろに続 く。付 き人 は 4名 で、 計 26名 。
通常 の裸参 りの行列 は歩道際 の 車道 を歩 くよ うに警察か ら指導 され るが、天 賞 の裸参 りだ けは昔か
ら通 りの 中央 を通 ることが大 崎 人 幡宮 か ら許 されて い た とい う。 このため大崎人幡宮前 の大通 り (国
道 48号 線 )は 、天賞の裸参 りの ため に一 時通行止 めにな り、天賞 の裸参 り行列 は通 りの 中央 をガラー
ン・ ガ ラー ンとい う鐘 の音 に合 わせ て、 行 きも帰 りもゆ っ くり歩 く。鐘 も他 の裸参 りと異 なって腕 を
大 きく頭上 に振 り上 げ、 ゆっ くり振 り下 ろ しなが ら大 きな音 で鐘 を鳴 らす。
参加者 の うち主人 と 2名 の袢 以外 は含み紙 を唾 える。含み紙 を旺 えるの は「神 に息 をかけて はい け
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
な い ,話 を して い けない」 とい う意味があ る。付 き人が含 み紙 を交換す る。
八 幡神社本殿参拝 (午 後 7時
20分
)
本殿 の前 を一 回廻 る。本殿 では祈願版 。ボ ンデ ン・御幣 。お神酒 。魚 。野菜 ・ 餅 を奉納 しお神酒 を
い た だ く。 口紙 はお神酒 をい ただ く前 にはずす。
御 神 火 を廻 る (午 後 7時
30分
)
腰 の注連縄 を御神火 に入れ、火 を三 回廻 る
龍 宝寺参道 よ り帰路 につ く (午 後
天 賞 到着 (午 後
7時 50分
7時 40分
)
)
入浴 、着替 え (到 着後 す ぐ)
裸 参 りの参加者 たちは、天 賞酒造 に到着 した ら、 ぬ るま湯 に入 る。湯 は酒の仕 込み に使 った木桶 に
あ らか じめ用意 してある。以前 そ のぬ るま湯 は、ぬ るい ものか ら熱 い ものへ 三段 階 に分 かれて い たが、
現在 で はそれ は行 われて い ない。
蔵 の 中 で直会 (午 後 8時
(3)事 例 ・
20分 か ら
)
」 R東 日本 仙 台 支 社 の 裸 参 り
大 崎 八幡宮 どん と祭へ の裸参 り参拝 を新 年 の恒例行事 としている団体 のなか に、広域 企業 の東北支
店 ・ 仙 台支店が多 く含 まれて い る。
JR東 日本 と通称 され る東 日本旅客鉄道株式会社 の仙 台支社 も、
20年 近 くに わた り毎年欠か さず、正 月 14日 に白い裸参 り装束 の男女 の参加者が行列 を連 ねて大崎八
幡 へ の裸参 りを行 なって い る。
」R東 日本仙台支社 の社 員数十名が、 同社 の代表祈願者 として大崎人幡 どん と
祭 に裸 参 り参拝す る よ うになった経緯 につ いて は、社 内 に明確 な記録が残 されて い るわ け で はない。
た だ 同社 総務 部広報室 に よれ ば、 1987年 に国有鉄 道が分割 ・ 民営化 され、東 日本 旅客鉄 道株 式会社
裸 参 りの経緯 と祈願
が設 立 された頃か ら大崎八幡 へ の裸参 りは行 なわれてお り、 開始時 に立 て られた裸参 りの祈願 は、鉄
道会社 として最優先 されるべ き「鉄道運行 の安全」 と、 民営化 に際 して課せ られた命題 である「商 売
繁盛 ・社 業発展」 で あ った とい う。2007年 の 裸参 り参拝 につ い て社 内各部署 に送 付 され た「大 崎 人
幡神 社
裸参 り参拝 の実施 につ いて」 とい う標題 の連絡文書 に も、「運転 及 び傷 害等 の無事故、社業
の発 展並 びに商 売繁盛祈願 のため」 と記 されてお り、裸参 りに託 され る願 い は変 わ らず受 け継 がれて
い る。 さ らに、鉄道旅行 の企 画 とその提供 を中心 的業務 の一 つ とす る同社 は、管 轄地域 の 習俗行事 に
積 極 的 に参加貢献す ることを会社 の社 会的貢献 として掲 げてお り、大崎 入 幡裸参 りの他 、仙台 の初夏
の 祭 りとして定着 した仙台青葉祭 りに も山車 を提供 す るな どして参加 して い る。
裸 参 り参加者数 な どの過去 の記録 はな い が、か つ ては参拝終了後 の参加者 の移動 のため に大型 バ ス
2台 を待機 させ た時期 が あ った とい う。近 年 は裸参 り祈 願者 と介添 え者合 わせ て 60人 ほ どのため、
バ ス 1台 が大崎人幡近 くの牛越橋脇 に待機 して い る。
裸 参 り準備 の ダイヤグラム
仙台支社 の組織 は、 設備部 ・ 運輸車両部 ・事業部 。営業部 ・総務部 と監
査 室 に よって構成 されるが、裸参 りの企 画準備 か ら当 日の実施運営 と後 日の事後処理 に いたる まで の
幹事 は、1年 毎 に各部 が持 ち回 りで担 当す る。 2007年 の裸参 り担 当 は事業部 であ った。
例 年裸参 りの準備 は前 年 の 10月 下旬 頃か ら始 め られて い る。2006年 11月 30日 には、事業部長か
ら社 内各部長 と監査室長、 さ らに隣接 す る JR仙 台病 院長宛 に、「大崎八幡神社
裸参 り参拝 の実施
につ い て」 と題 す る連絡 文書が送付 され、各部署 か ら裸参 りと介添 えの参加者 の推薦 、参加者 の装束
な どの規格 の 申告、裸参 り参加者 の健 康 診 断実施 の周知 な どにつ い ての依頼 が な され た。12月 に入
る と準備 は本 格化 し、裸参 りの装束・持物・備 品 な どの在庫確認 と不足 品 の発注、記念写真撮影依頼、
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
参拝者送迎用 の JRバ ス 申込み、参拝 後 の 浴場施設 申込み、 ホテルの直会会場 申込み、 」R仙 台病 院
へ の参拝者健康診 断 申込みな どを、 常 に作業 日程表 をに らんで照合 しつつ こな されて い った。
2007年 の 年が明け る と、 大崎八 幡宮 に初穂 料 を納 めて裸参 り参拝 申込みが な され、裸参 り参拝者
の健康診 断が JR仙 台病 院 で行 なわれ、装束 ・備 品 。行程 ・施設 。経費 な どが 最終確認 され、事業 部
内担 当者 の最終打合 せが なされる。 5分 刻 み に予定 された当 日の裸参 りの流 れ に沿 って、 各担 当毎 の
裏方作業 の流れ を一 覧表 として 図示 した「裸 参 り作業 ダイヤ」が作成 され、 当 日の支社 長室 での代表
者祈願、支社玄関前 での 出発式、仙 台駅前 での駅 長激励 と応 援 団か らのエー ル な どの分刻 みの場面想
定 が式次 第 と配列 図 に よって確認 され るので ある。 まさにダイヤグラム に よる 1分 刻 みの正確 さで運
行 される鉄道列車 の よ うに、微細周 到 に企画運 営 された裸 参 りに は、 いか に も鉄道 を支 える職業人た
ち の職人気 質 が い かんな く発揮 されて い る よ うで ある。
2007年 1月 14日
の裸 参 り
2007年 の 1月
14日 は 日曜 日であった。裸参 り参加者 の 受付 け は 12時
30分 か ら支社 内会議室 で行 われた。 当年 の 裸参 り参拝者 は 48名 、 うち男性 36名 、女性 12名 、介添
者 は 8名 、他 に団長 を事業部長、先 導 を事 業部課長が つ とめ、 参拝参加者 は総 勢 58名 であ った。一
方準備運営 な どを取 り仕切 るの は、 事 業 部 を主 体 に した 10名 の担 当者 であ る。 また裸参 り参拝者 の
年齢層 は、20代 28名 、 30代 11名 、 40代 7名 、50代 2名 で あった。裸参 り参拝者 と介添者 は社 内各
部 と 」R仙 台病 院 に依頼 して選抜 され るが、 参加 の判断 は最終的 に本人 にまか されて い る。それで も
毎年 60名 近 い参加者が保 たれてい るの は、 裸参 り参拝 を希 有 な体験 として興 味 を抱 き、みずか ら志
願す る参加者が少 な くないか らであ ろ う。 この年 も 」R病 院 に依頼 された裸参 り参拝者 の 人数 は 8名
で あ ったが、応 募 した参加者 は 10名 にのぼ り、 いずれ も 20代 の女性看護師であった。
参加者 には 『大崎人幡宮松焚祭裸参 り』 と題 した栞 が配 られ る。 表紙 には「 どん と祭 の 由来」 とし
て正 月送 り行事 で ある松焚祭 と酒杜氏 の祈願参拝 で ある裸参 りの 由来が解説 され、 中に行程表・ 配列
図・ 経路 図な どの裸参 りの各要項が綴 じられて い る。その 中 の注意事項 として「 参拝 に際 してはアク
セ サ リー 等 を身 に付 けな い で くだ さい 」「ネ
申事、社員 の代表 です。厳粛 な気持 ちで参拝す る よ うお願
いい た します」 と記 されて い た。
受付 の後、男女別 の部屋 で装束 へ の 着替 えが なされた。裸参 り参拝者 の装束 は、 男性 の場合頭 に白
晒 しの向 う鉢巻 き、腹 に白晒 しを巻 き、 パ ッチ と呼 ばれる白の半股引 を履 き、足 には白足 袋 に草雑 を
履 く。 口には三角 に折 って 中に五 円玉 を挟 んだ 白紙 を咬み、腰 には藁 の注連縄 を巻 く。女性 は白い T
シャツに 白い シ ョー トパ ンッを履 き、 白 い半纏 を羽織 り、そ の他 は男性 の装束 と同様 で あ る。介添者
は、ス ー ツ姿の上 に「 JR東 日本」 の社名が染抜 かれた白い半被 を羽織 る。 団長 は羽 織 り袴 を着付 け
て草履 を履 く。 これ ら装束一式 は市 内 の衣料 品店 ダイ コクヤが専 門に取 り扱 ってお り、毎年必要数 を
注文 して揃 え られて い る。
参加者 の着替 えが終 わ る と 14時 か ら支社 長室 で代表祈願が行 われ る。 団長 ・ 先 導 を含 む参加 者代
表 10名 ほ どが支社長室 に入 り、支社 長室 の神棚 の前 に支社長 とともに整 列 し、神殿 に二 礼、 二拍手、
一 礼 を行 なって祈願 した後、神社 に納 め る旧年 の神札 と破魔矢が神棚 か ら下 ろ され、支社 長 の手か ら
参拝者 に手渡 され る。 14時 10分 に参加 者全 員が支社正面玄 関前 に集合 して記念撮 影 の後、社員 たち
が見 守 る中で出発 式が行 われた。 最初 に 団長が 出発 の 決意 を述 べ た後、支社 長が壮行 の挨拶 を送 り、
参加者 は裸参 りの行列 を組 んで、提 灯 の蝋燭 に火 を入れ、含 み紙 を口に咬 んでか ら、社 員 の拍手 の な
か を仙台駅 に向け出発 す る。
行列 の配置は先導 と団長以外 は二 列縦隊 を形作 る。 列 の先頭 中央 に先導者、次 に「 JR東 日本」名
入 りの高張提灯 一対 を左右 に掲 げる参拝者 2名 、次 に団長が続 く。そ の後 ろを、グル マ 、御神酒、魚、
餅 、野菜、破魔矢 ・神本とを三方や祝儀 台 に載 せ た り、晒 しで首 に掛 け た 6名 が 二 列縦 隊 で続 く。そ の
後 ろに右 手 に鉦、左 手 に社 名入 り弓張提 灯 を持 った参拝者 38名 が 二 列 で続 き、最後尾 に 2名 の参拝
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
者が高張 り提灯 一 対 を掲 げ る。介添者 8名 は含 み紙 や蝋燭 の予備 を持 って行列 の周 囲 に寄 り添 って 同
行す る。 この 配列 は参拝終了 まで保 たれ る。 なお、 この 時奉 げ られて い た グルマは、社 内列車司令室
に安全祈 願 のため飾 られて いた一尺 ほ どの松 川 グルマで 、毎年 グルマ は裸参 りのお り大崎 八 幡 に納 め
ιる とヤヽっ。
ら″
出発後 一 行 はす ぐ仙台駅前 に到着 し、駅舎前 ペ デ ス トリア ンデ ッキの上 で仙台駅長 の 出迎 えを受 け、
駅舎前 に整列 して仙台駅長の激励 の挨拶 と、仙 台支社応援 団 の応 援披露 を受 け た。通 りかか った市民
や駅利用 者 も足 を止 めて人垣がで き、拍手 な どで声援 を送 る姿が見 られた。特 に応援 団員 の一 人が裸
参 りに参加 してお り、応援 の ときだ け隊列 か ら抜 け て裸参 り装束 の まま応援 の大鼓 を叩 く姿 は、見 学
者 に も好 評 で盛 んな拍 手が送 られて いた。
仙 台駅 に立寄 った後 、行列 はアー ケ ー ドの架か る中央通 りを西進 し、 一 番 町通 り商店街 で右折 して
一 番 町通 りのアー ケ ー ドを北進 し、 定禅寺通 り、 二 日町通 りに出、裸参 り用 品 を扱 って い る二 日町の
衣料 品店 ダイ コ クヤで休憩 を とる。 休憩後、大崎 人 幡神社前 を通 る国道 48号 線 に達 し、左 折 して国
道 を西進 し、東北大学病 院前 を経 て、15時 40分 頃 に大 崎 人幡宮前 に到着す る。例年 中央通 りのア ー ケ ー
ドは ビル風 が強 く、国道 も風 の通 り道 にな りやす く、 この 区間 の歩行 が寒行 として厳 しい もの になる
とい う。
大崎人 幡宮 に到着す ると配列のまま石段 を登 り参道 を進んで拝殿 を右 回 りに廻 ってか ら奉納物 を納
め、拝殿 内 で神札 ・破魔矢を授け られ、一 人一人御神酒 をいただ く。神札 は三体 で、 ともに東 日本旅
客鉄道株式会社仙台支社 取締役仙台支社長名 で、祈願内容は「商売繁盛」一体 に「安全」 二体 であ
る。その後御神火の回 りを右回 りに一 回 りして 16時 過 ぎころ参拝 を終 わる。
参拝が終了す ると参加者 たちは牛越橋脇 に移動 し、待機 していた 」Rバ スに乗車 して南吉成 の大型
浴場 で入 浴 。着替 えの後、 JRバ スに乗車 して市 内ホテルの直会会場 に移動 し、 18時 30分 か ら、参
拝者、介添者、幹事 で ある事業部 の担当者 に、各部署 の担当部課長 と支社長、仙台駅長 を迎 えて直会
の席 が設 け られた。直会では乾杯 の後、参拝者 の代表数名が感想 を述べ 、終 りに裸参 りの主催幹事が
今年 の事業部 か ら来年 の運輸車両部に引 き継がれて締めの挨拶 となる。
裸参 り体験の もた らすもの 終了後 につぶやかれ、直会で発表 される裸参 り初体験 の感想 には、ほぼ
共通 の思 いが見て とれる。何 よ りもまず「裸参 り」 とい う寒行 によって、今 まで一度 も経験 した こと
の ない未知 の「寒 さ」 を体感 した こと、そ してそれにもかかわ らず参拝終了まで脱落せずや り遂げた
自身に達成感 と充足感 を感 じた こと、その達成感が これか らの通常業務 を こなしてい く自信 と活力に
なると思 われること、 さらに提灯 の社名を掲げつつ参拝す ることで会社の一員 であ り代表 であ る 自身
を意識 し、かつ沿道 の声援 を受ける中で地域 に支 えられてい る 自社 を実感する ことである。そ う した
思 い をもって新人の若者 たちは、裸参 り体験 を「参加 して良かった」「感動 した」 と一様 に総括 して
いるよ うである。
(4)事 例 ・ 仙 台 市 立 病 院 の 裸 参 り
大崎八 幡宮 を始め とす る仙 台市内各 地の どん と祭 には、多 くの病院 。医療施設か らの裸参 りが参拝
す る。その中で も仙台市立病院のそれは、30年 前か ら途絶 える ことな く毎年継続 し、女性 を含めた
100名 近 い裸参 り参拝者が列 を連ねて大崎人幡 どん と祭 に詣でる姿が、常 に仙台市民 の 目を引 きつ け
て きた。
裸参 りの経緯 仙台市立病院の裸参 りは、昭和 53年 (1978)に 始め られた。10年 後 の昭和 62年 (1987)
には、裸参 り 10周 年 を記念 して、裸参 り開始時 の経緯 と裸参 り実行委員会 の準備 運営 の姿が、 ビデ
オにより丹念 に撮影 され、明確な方針 の もとに編集 されナ レー ションを吹 き込 まれた記録映像 として
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
ビ デオデ イス クに残 されて い る。 これは明か に、 仙台市立病 院 の裸参 りを院内 の重要行事 として、 そ
の 経緯 と実践 を記 録す るこ とで、裸参 り草創 の 頃 の熱意 と志 向 とを後 の世代 に継承す る手がか りにす
るべ く作 り込 まれた映像 で あ る。
そ の 映像 中 の 回想 と、 昭和 58年 (1983)の 裸参 り以来参拝者や裏方 として 関わ り続 けて きた管財
課 職員 の話 によれば、 裸参 りの起 りは、飲 み仲 間 の整形外科 医たちに よる酒の席 での思 い付 きであっ
た。 当時 の 院長 の口癖 は「病 院一家」 で あ り、細分化 した大組 織 で ある病 院全体 の連帯 と連携 を高 め
るためにも、 院内の組織 を横 断 して「俺 らみんなで何かや っぺ や」 とい う志 しと遊 びυ
bに 根 ざしてい
た よ うである。毎年正月 14日 に仙 台の繁華衡 一番町を闊歩する裸参 りの姿 を思 い 出 し、その「何か」
にふ さわ しい催事 を裸参 りに定めた とい う。
整形外科か ら発起 された「仙 台市立病院 の裸参 り」構想 は、 まった く何 もない ところか らの企てで
あ り、資金、参加者、準備 などのさまざまな困難 を抱 えていた。そこで彼 らは院内に募 金 を呼 びか け
て 資金 を集め、同様 に参加者 を募集 し、あ らゆる知合 い とつ てを駆使 して準備 を整 え、裸参 り参加者
35名 、介添役である取巻 きも合わせて総勢 50名 による第 1回 裸参 り実施 まで奪引 してい く。
そ して回を重ねるごとに参加者 も順調 に増 え、当時若 い女性社員 を多数加 えて観衆 に好評だった三
越 百貨店 の裸参 りの大集団 とも、肩 を並 べ る規模 の行列 を連ねるようになった。現在 にいたるまで、
仙 台市 立病院の裸参 りは途切れることな く継続 され、2007年 で 30周 年 を迎 えた。
2007年
1月 14日 の裸参 り 2007年 1月 14日 の裸参 りの参加者 は、
参拝者 71名 、その うち男性 37名 、
女性 32名 、小児 2名 、そ して取巻 き 14名 の総勢 87名 であった。各診療科 の医師、看護師、検査技師、
薬剤 師、事務職員な どまで、病院内のあ らゆる部署か らの参加者 とともに、希望があれば職員 の知人、
家族 をもその行列に迎えてい る。最近ではわざわざ裸参 り参加 のために来 日したアメリカ人 もあった
とヤヽう。
午後、院内で男女別 に着 替 えを済 ます と、 10階 大講堂に参加者 ・ 関係者が集合 して、出陣式が行
われた。 当初 の出陣式は 2階 ロビーで樽酒 の鏡割 りをし、調理室で作 り熱 くした豚 汁 を通び込んで行
われて い た。後 に院内が飲酒禁上 にな り、調理 を行わな くなって、10階 の講堂 で升酒 を振 る舞 うの
みの ものになった。かつ て 2階 での 出陣式では、職員の家族知人、入 院患者に加 え、外来息者や地域
住民 までが、その出発 を見送 りに人垣 を作 り、賑やかで盛大な出陣式であった とい う。
参拝者 の装束は、男性 は白い晒 しの向 う鉢巻 きをし、腹 に白い晒 しを巻 いて半股引 を履 き、足 には
白足袋 に草履 を履 き、腰 には藁の注連縄 を巻 く。女性 は 白い半纏 とシ ョー トパ ンツを身 につ け る以外
は男子 と同様 である。 ともに三角 に折 った懐紙 を口に咬み、片手に鉦、片手 に「仙 台市 立病院」 の名
を画 いた弓張 り提灯 を持つ。多 くの参拝者 は昨年 の神札 を納めるために晒 しの胸元や半纏の懐 に挟ん
でヤヽる。
行 列 は先導 1名 を先頭 に、男女 の 行列先頭 各 1名 、「仙台市立病 院」名 の 3本 の 高張提灯 を掲 げ る
女性 6名 、紋付袴姿の男性 3名 、三宝 に餅 ・魚 。野菜 を載せ て持 つ 男性 3名 、鉦 と弓張提灯 を持 つ 女
性 25名 、男性 28名 が 二 列縦 隊 で続 き、最後 に子供 2名 、男性 2名 が掲 げ る高張提灯 2本 、最後 に男
性 1名 が最後尾 を しめて行列 は終 わ る。 行列 の後 には介添役 の取巻 き 14名 が交換用 の懐 紙 の 予備 を
持 って続 き、 さらに後 に内科 の 医師等 の救護班が 固 めて い る。 当初救護班 は救護 の 旗 を担 い で続 い て
い た とい う。 また、鉦 と提灯 を持 つ二 列縦 隊 の参拝者 は、必 ず鉦 は行列 の 内側、提灯 は外側 に持 つ し
きた りがある。
参加者 は出陣式 を終 える と、 病 院正面玄 関前 で行列 を組 んで懐紙 を口に含 み、 14時 30分 に出発 し
た。 東 二 番丁通 り、国道 4号 線 を北進 し、南 町通 りに左 折 して西進 し、東 一 番丁通 りの入 口か らア ー
ケ ー ドの繁華街 の 中を端か ら端 まで北進す る。 か つ て はアー ケ ー ドの 一 部 しか行程 に組 み入 れて い な
か ったが、 参加者 に病 院全体 の代表 としての 緊張感 を持 たせ るため に人通 りが多 く注 目され る東一 番
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
町アーケー ドの全 長 を行程 に組み入れたのだ とい う。
アーケ ー ドを抜 け ると正面 に仙台市役所が位置 し、15時 頃か ら 30分 ほど市役所 の ロビーで休憩 を
とる。かつ て病院勤務であった市役所職員な どが集 まって出迎え歓談す る。以前は仙台市長が裸参 り
を出迎 えて い た時期 もあ った とい う。休憩後市役所 を出発 し、北 一番丁通 り、晩翠通 りを経 て 国道
48号 線に入 り、17時 前 に大崎八幡宮 に到着す る。
石段 を登 り、鳥居 を くぐって拝殿 に進み、榊殿 を 1周 してか ら、奉納物 を収めて新年 の神札 を授か
り御榊酒 をいただ く。 ここか ら松焚場 に戻 り、腰 の注連縄 と旧い神札 を火 に投げ入れて裸参 りは終了
す る。帰 りは 17時 30分 頃、牛越橋脇 に待機 してい るバ スに乗車 して帰院 し、参拝者 ・取巻 き・裏方
など全関係者 で直会 が催 されて、2007年 の裸参 りが終了 した。
仙台市 立病院の裸参 りは、6キ ロ以上の長距離 を踏破す る多 人数 の隊列 で、全行程 を徒歩で大崎人
幡 に参拝する団体 の 中では、 もっとも長距離 を参拝す る裸参 りの一つであ ろ う。病院前 を出発 してか
ら帰 りのバ スに乗車す るまで、休憩 も含めて じつ に 3時 間にも及 ぶ。 しか し毎年準備 に当たる担 当者
たちは、祈願 のための耐寒行 としての本旨を守 ろ うと、手袋や女性参加者 の下着、 ス トッキ ング、 さ
らにはアクセサ リー などを遠慮 して もらうようにしてい る とい う。
裸参 りに託す思 い 病院に勤務 したばか りの若 い新人 は、有力 な裸参 り参加者 として常 に期待 されて
い る。成行 きで参加する ことになった新人 も、始めて体験す る長時間の耐寒行 の後、帰院 して直会 に
出席 した彼 らの表情 は一様 の笑顔 であ るとい う。未知 の体験 を自身でや り遂げた とい う充足感 か ら、
「やって良かった」 とい う共通 の感想が語 られるようである。
また、裸参 り 10周 年記念 の ビデオデ イスクの 中で、裸参 りを最初 に発起 した整形外科医 たちは、
遊び心 と隣 り合わせの裸参 りに寄せ る切実で熱 い思 い を語 っている。一人は、多 くの部署 に細分 され
た総合病院の 中で、踏み込 んだ人間関係 を結びづ らい職場 でのお互 いの角 を裸参 りが壊 し、丸 くなっ
た人 と人が円滑 に 日常 の業務 を運べ るようになるとい う。 一 人は、裸参 り体験 が、社会 の構成員 とし
ての 自身、病院の構成員 としての自身の 自覚 を呼 び覚 まし、社会人 としての役割 と責任 の 自覚 につ な
「仙台市 立病院」名 の高張提灯が掲げ られた情景 を目に して、
がると続 ける。それに応 えて もう一 人は、
自身 は この中の一 員 として 日々業務 に勤めてい ることが涙が出るほど嬉 しかった と語 ってい るのであ
る。
もとより、 これ らの裸参 りに託す思 いの基底 には、医療従事者 としての祈願が持つ本来的で切実な
意味が常 に意識 されてい る。 いかなる部署であろうとも病院の職員 であ るか ぎり、祈願はまず患者 さ
んたちの回復祈願であ り健康祈願 であ ることは言 うまで もない。そ うい う意味で医師 も看護師 も担当
患者 ひいては市 立病院の患者全ての代参者 であ り、そ のため 出発 にあたっては、参加者 は裸参 り姿 を
担当患者 に見せ に行 き、息者 も注連縄 の藁 をお守 りとして欲 しがるのだとい う。 かつ て出陣式が 2階
ロビーであった時 には、車椅子 や点滴 を付 けた息 者 たちが大勢見送 りに赴 いて人垣が出来た。看護師
に頼 んでベ ッ トの ままロビー まで運んで もらって見送 った患者 もあ った とい う。
裸参 りの継承 こ う して、30周 年 を迎 えた仙台市民病院の裸参 りは、多 くの関係者 のさまざまな思 い
によって支 えれて きた。第 1回 か ら定年 まで 26回 も参加 し続 けた女性看護師を始め、10回 、15回 と
連続参加 の職員 たちは、 また裸参 りの準備 運営 にも忙 しい勤務 の合間を塗 って献身 して い る。15回
参加 してい る検査技師 は、二 人の娘 も一緒 に毎年参拝 してた とい う。一方 で、当初の裸参 り開始 の経
緯 と志 しを継承す る工夫 もさまざまなされて い る。 10周 年記念 の ビデオはそ の一 つ であ り、参加者
を減 らさないために、3回 連続、5回 連続参加す る参拝者 と取巻 きには、記念品や祝儀 を用意 してい る。
仙台市 立病院の裸参 り継承 の試み の一つ で ある。
そ して祈願 としての本来 の姿 を保 とうとす る努力 も、
第 3章
採参 りの現状 と変遷
(5)事 例 ・ 個 人 の 裸 参 り
大崎 人 幡宮 の どん と祭 には多 くの 団体や企業が裸参 りに訪 れるが、その中には個 人や家族で の参加
といった ケ ー ス も見受 け られる。仙 台市青葉 区二 日町のユ ニ ホ ーム販売 の「 ダイ コ クヤ 」 で は、以前
か ら個 人参加者用 に裸参 りの衣装 ワ ンセ ッ トを販 売 し、 着付 けのア ドバ イス もお こ なって い るが、 毎
年 一 人 二 人 は個人参加 の新規購入者が い る他 、以前 に衣装 を購入 した個人参加者 に注連縄 な どの消耗
品 の ダイ レク トメール を送 ってお り、裸参 りの個人参加 は確実 に増 えて い る と話 して い る。 その個 人
参加 の 先 駆 け と言 える人物が仙 台市青葉 区木 町通在住 の岩松 卓 也 さん (昭 和 14年 生 )で あ る。以下
は岩松 さんか らの聞 き取 りで ある。
岩松 さん は昭和 30年 に中学校 卒業後 に仙 台市 一 番 町 の「 東 一 市場」 内 の魚屋 に勤 め、 そ の魚屋 が
裸参 りを行 なって い たので、 昭和 31年 1月 の どん と祭 で魚屋 の主 人 らと裸 参 りに出か け たのが 最初
で あ った。 その後、高校在 学 中 もその魚屋 で ア ルバ イ トを続 けた ため、 裸参 りには毎年 出て い た。 当
時 は東 一 市場 の 中で裸参 りを行 なって い たの は 3軒 の魚屋 と蕎麦屋、それ に組 事務所 の あ った博徒 の
一 家 で、所 謂「素人」 は裸参 りは しなか った とい う。 また女性 の裸参 りは うる う年 の 時 だ けに限 られ、
洗 い髪 で 白い衣装 を着 け て女性 だ け で参 った。魚屋 の裸参 りは店が終 わってか らで、夜 7時 過 ぎに出
発 したが 、帰 りに国分 町を通 る とキ ャバ レー な どの飲食店 に呼 び込 まれて、ただで ご馳走 になった こ
ともあ った とい う。
大学 に入 り魚屋 のアルバ イ トをやめたが、それ まで続 け て きた裸参 りをや める気 にはなれ なか った。
ア ルバ イ トの時 に水商売 の女性 に「3年 続 けた ら願がか な う」と言 われたが、
3年 でやめ るので はな く、
学生 なが ら年 に一 回何 か をや り続 け たい と思 い、 ひ と りで 裸参 りを続 ける ことに した。衣装や道 具 を
用意 し、 当時住 んで い た (若 林 区)古 城東 か ら往復 5時 間半 をか け て大 崎 人 幡神社 (当 時 )に 裸参 り
した。 夕方、水道 の水 を 20杯 か ぶ り、腹巻 を して足 袋 の 中に唐幸子 を入 れ、替 えの足袋 を持 って出た。
当時 は ひ と りで裸参 りを して い た人 は い なか ったのでは な い か。裸参 りは厳粛 な もので 、街 の 人たち
も神聖 な もの を見 る よ うな思 いで見守 って くれ た。 街 を歩 い ている と、 見送 る人や 参拝客が 自分 の肌
に触 れ た り、酒 を振 舞 われた ものだった。学生時代 か ら市 内 の小料理店や トンカ ッ屋 で板前 の修業 を
してお り、結婚後 も調理 の仕事 を して い る時期 も、 ひ と りでの裸参 りは欠か さなか った。
昭和 44年 に長 女が誕生 し、 (宮 城野 区)原 町 に移 って 、翌 45年 に当時 8ケ 月 の子供 を抱 い て裸参
りに出 た。妻 は最初 は反対 したが、長女 は 3歳 の ときに一 緒 に歩 い て裸参 りに行 くようになった。昭
和 50年 に次女が誕生 し、翌 年 か ら娘 2人 を連 れて裸参 りに出た。 また昭和 51年 に (青 葉 区)大 町に
現在 の 店 「 とんか つ 処 岩松」 を出店 した。 そ の 頃か らテ レビや新 聞 に取 り上 げ られ る よ うにな り、
撮影 のた め に明 るい時間に歩 い て欲 しい との要望が寄せ られたの と、 裸参 りか ら戻 ってか ら店 を開け
るため、 午後 3時 過 ぎに出発す るよ うになった。
娘 を連 れて裸参 りを続 け たのは、 年 中無体 で遅 くまで飲 食店 で働 い て い たので、子供 と接す る時 間
が少 なか った。裸参 りをす るこ とで、 同 じ寒 さを体験 し、父 親 と共 有す ることで仲 間意識 を持 てるの
ではな い か と考 えた。小 さい 頃 は子供 は大 学病 院 の あた りで、 寒 さで泣 き出 したが、 綿 アメを買 って
や った りして、 なだめなだめ連 れて行 った。 2人 の 娘 は 中学生 まで父親 と裸参 りに参加 した。 そ の後
はひ と りで 裸参 りを続 けた り、店 の常連客が参加 した い と言 って一緒 に行 った こ ともあ った。 長女が
結婚 して平成 3年 に孫 の男 の子が で きたが、その子 も 6年 間一緒 に裸参 りを した。
岩松 さんの裸 参 りは 1月 14日 の午後 3時 過 ぎに青葉 区木 町通 の 自宅 の風 呂場 で水 をか ぶ ってか ら
出発す る。衣装 は白はちまきと白の 晒 しの腹巻、パ ンツの上 に猿股 をは き白足袋。右手 に鐘、
「岩
左手 に
松」 と書 い た提灯 を持 つ 。草履 な どの履物 と腰 の注連縄 は して い ない。岩松 さんが最初 に裸参 りを し
た 昭和 30年 代 は じめ には、履物 と腰 の注連縄 はなか った と言 い、昔 のや り方 を守 った とい う。衣装
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
現在 は若林 区遠見塚 の「キ
はデパー トなどで購入 し、
提灯 はは じめは柳町の「椎名提灯店」で購入 し、
リエ」 で作 ってもらったが、 これまでに 3回 取 り替 えた とい う。
岩松 さんは昭和 60年 代 以降、裸参 りが形骸化 しお祭 り騒 ぎになった と違和感 を持 っていた。平成
11年 に裸参 りに行 った時、翌年 に大崎入幡宮が大修理に入 るのを知 り、突然涙が出て歩けな くなった。
これが限界だ と悟 り、そ の年 で 44年 間続 けて きた裸参 りを終 わ りにした。 しか し平成 19年 に、仙台
の高校 に入学 した長女 の長男 (孫 )が ひと りで裸参 りに行 くと言 い出 した。孫 は岩松 さん と一緒に 6
回裸参 りに行 っていたが、転居 によってその後 は裸参 りに行 かなかった。高校生 になったので もう一
度や ってみたいとい うの と、祖父 の健康 を祈 ってひと りで行 くとのことで あ った。平成 19年 1月 14
日午後 3時 に、青葉区木町通 の岩松 さんの 自宅 を出て大崎人幡宮 に向かった ところ、提灯 の「岩松」
の文字 を見て「また始めたの」 と声 をかける人が いた とい う。 また裸参 りの一番乗 りで石段 の下に着
い た ところ、「裸参 りが来ました」 のアナウ ンス とともに参拝客が拝殿 まで道 を空けて くれた、「あの
時 の気持 ちよさは忘れ られない」 と言 って いた とい う。
岩松 さんは裸参 りを続 けた理由 として「や り続 けることで自信 が持てた。終わると次は 365日 後 だ
と思 い、がんばろうと思 った。裸参 りの醍醐味は、神社 に着 いて火のまわ りを 3回 廻 り、熟 い思 い を
したあ と、再び寒 さの中を帰 って くる、そ の熟 さと寒 さ、それを実感する ことにある」 と語 った。
第 2節
岩手県南部地方の裸 参 り
本節 にお いては、初 めに東北各地 の「裸参 り」 と呼称 され る行事 お よび類似 す る ものの事例 を、特
定 の観点 か ら概観 し、注意 され る特性 を示 した うえで、特 に岩手県南部 地方 に伝承 され る裸参 り習俗
の表徴 を指摘 し、それが仙台市大崎八 幡宮 どん と祭 における裸参 り習俗 と系 譜 関係 にあ る ことを示唆
した い。 なお東北地方 の 裸参 り習俗 の 通観 には、 1991年 か ら 2006年 までの「河北新報」 の地 方記事
を主 として参照 した。
次 に岩手県南部地方 の裸参 りの事例 として、 新年 の年 占行事 の 中 で行 われ る二 戸市似 鳥入 幡宮 の裸
参 り、 五 元 日祭 とともに行 われる紫波 町志和人幡宮 の裸参 り、そ して蔵人の習俗 として伝 え られて い
る雫石 町 三社座神社 の裸参 りを取 りあ げ、 そ の様相 を記述す る。
(1)東 北 の 裸 参 りの 諸 相
東北 地方 の年中行事 としてのハ ダ カマ イ リ (裸 詣 。裸参 )は 、「若 者 た ちが裸 になって参拝す る祭
典 ・ 行事」 (『 秋 田民俗語彙事典』稲 雄 次編 著
無 明舎 出版 1990)、
参加す る行事」 (『 青森県百科事典』 1981 株式会社東奥 日報社
また「若者 たちが裸 で神参 りに
森 山泰太郎担 当)、 「若者 たちが裸 に
なって参拝す る行 事 の一 つ 。裸祭 り とも呼 ぶ 」 (『 秋 田大百科事典』秋 田魁新報社
1981
齋藤寿胤担
「祭
「一 人前 の成人式 をす ませ た男子」 であ り、
当)と あ るよ うに、特 定 の条件 を備 えた「裸参 り」 は、
りの構 成員す なわち本寸の社会的地位 にあ る者」が、 み ず か らを提示 し誇示 す る祭事 としての特性 を備
えて い る。
ただ、東北各地 の 「裸参 り」 と呼称 されて きた行事習俗 、あるい は体系化 された 一 連 の祭事 に組み
込 まれて「裸参 り」と呼称 され る要素 は、た しか に多 くの場合「村 の若 い衆 た ち の 晴 れ姿」ではあるが、
その他 の さまざまな動機 ・ 意味付 け ・役割 な どを付加 されて成立 して い る。 そ こで まず、東北各県 の
裸参 り習俗 を順次概観 してみた い。「東北 の裸参 り装束採 り物 一 覧」 (表 1参 照 )に 取 りあげ た 30件
の事例 を一 覧 し、それ を「東北 の裸 参 り装 束採 り物分布 図」 (図 3参 照 )と 照合 す る と、 特定 の性格
第 3草
裸参 りの現状 と変遷
を共 有す る裸参 りが特定地域 に分布 す る場合 と、孤立 した事例 同士が発生や機 能面 で一致す る場合 が
見 て とれる。
年縄奉納
青森県津軽地方 には、大 晦 日か ら元 日にかけて、 数十 キ ロか ら数百キ ロ もある大 しめ縄 や
福俵 な どを、 集落 の産土社 に奉 納す る行事、す なわち年縄奉納 の習俗 がか つ て広 く分布 してお り、 い
くつ かの集落が 今 も伝承 して い る。 この年縄 を担 い で集落 を練 り歩 き、産土社 に参詣 して奉納す るの
が、 白鉢巻 に相撲 回 し姿の裸 参 りの若者 たちで ある。
弘前市鬼沢 (お にざわ)地 区 には鬼 411社
(き
じん じゃ)と 呼 ばれ る興 味深 い産土社がある。鬼神社
は、 岩木 山に住 む鬼で ある大 人 (お お ひ と)が 村 人 に農耕 のわざを教 え、逆 堰 と称す る困難 な用 水堰
を一 晩 で造 って村 人の開田を助 け たため、 感謝 した村 人が鬼神 様 を祀 った と伝 え られる。鬼神社 の社
名額 の「鬼」 の字 には「 ノ」が な く、鬼沢地区では節分 に豆撒 きを しな い。鬼沢 の裸参 りは旧暦 の正
月元旦 で あ る。 昨年 中か ら地 区 の人 々が総 出で大小合 わせ て 40余 しめ連縄 を作 る。鬼 神社 に奉納 す
る大注連縄 は直径 60セ ンチ、重 さ 70キ ロ、 中型 の物 で も重 さ 40キ ロ あ る。元 日の朝 9時 頃、裸参
りの若者 たちは鬼神社 に集合す る。雪 と冷水 を入れた大桶 に肩 までつ か った後、藁火で体 を温 め、登
山ばや しに合 わせ てそれ を数 回繰 り返 して水垢離 を とる。 男 たちは 白鉢巻 に白の相撲 まわ し、素足 に
草雑履 きで、大注連縄 な どを肩 に担 ぐ。登 山ばや しの笛 ・ 太鼓 を先頭 に、職 や供 え物 を持 った婦 人 た
ち と行列 をつ くり、地区内約 2キ ロの道 を「サ イギ、サ イギ」 の掛 け声 とともに練 り歩 く。地 区 の 7ヶ
所 の神社や祠 をまわって参拝 し、注連縄 や供 え物 を奉納す る。 この裸参 りは三 百年以上前か ら続 い て
い る とい っ。
裸参 りの若者 たちが正 月 の 産土参 りに年縄 を奉納 し、新 年 の豊作 ・ 大漁 ・ 安全 な どを祈願す る事例
は、 他 に南 津軽郡藤崎 町常盤 の常盤 人 幡宮、西津軽郡鰺 ヶ沢 町好戸 の正人 幡宮、西津軽郡深浦町岩崎
に も見 られる。 と くに岩崎 の裸参 りは豊作大漁祈願 に作 占の趣 向 も加 味 されて い る。 岩崎 の年縄奉納
は新暦 12月 30日 の暮 れに行 われ る。 そ の一 週 間 ほ ど前 か ら村 の男 た ちが集会所 に集 ま り、大 しめ縄
や しめ俵 を作 る。 当 日は 30人 ほ どの男 たちが精進潔斎 した後、重 さ約 80キ ロの大 しめ縄 2組 を担 ぎ、
「サ イギ、サ イギ、ドッコ ウサ イギ」 と声 を掛 けなが ら村 内を練 り歩 く。岩崎漁港近 くで二 手 に分かれ、
山の武奏槌 (た けみか づ ち)神 社 と海 の弁天宮 の鳥居 に大 しめ縄 を掛 け る速 さを競 い、翌 年 の大漁 ・
豊作 を占 う。海側 の神社が勝 てば大漁、山側 の神社 が勝 てば豊 作 と言 い伝 える。男 た ちの現在 の装束 は、
白鉢巻 に腹 に白晒 を巻 き、半股 引 に草雑 を履 く。 この裸参 りは産土講 の伝統行事 として 350年 以上続
くとい う。本来 は旧暦 12月 3日 に行 われていたが 、近年 は村外 に出た若者達が もどって くる新暦 12
月 30日 に行 われて い る。
なお、津軽 の裸参 りに特 有 の相撲 まわ しを着 け た裸姿 は、 旧暦 8月 1日 の 岩木 山登拝「お 山参詣」
にお い てかつ て見 られた若者習俗 で あ る。
水神 へ の奉納
同様 に裸 姿 の男 たちが 大 しめ縄や えびす俵 を奉納す る裸 参 りで も、秋 田県 の鹿角市土
深井 と湯沢市岩崎 に伝 わる 由来伝 承 は、その発生 にお い ては氾濫す る米代川や皆瀬川 の水袖 ・ 龍神 に
捧 げ られた奉納物 で あった こ とを示唆 して い る。
鹿角市十和 田土深井の裸 参 りは、寛文 10年 (16Ю )ご ろ、地 区を流 れ る米代 川が度 々氾濫 し、村 人が
苦 しんで いた ところ、 占い 師が「災 い を静 めるためには、水 で 身 を清 め神社 にお 参 りせ よ」 といった
のが 裸参 りの始 ま りと伝 え られて い る。 現在新暦 2月 第 三 日曜 に行 われ る土 深井裸参 りは、 もとは二
年 に一 度 の旧暦 2月 19日 に行 われた。 当 日は早朝か ら男 たちが 15メ ー トル程 の大 しめ縄 を作 り、正
午 に裸姿 の男 た ちが村堰 で水垢 離 を と り、大 しめ縄 を担 いで稲荷神社 の一 のソ
専居 に奉納 し、続 い て稲
荷神社、 人 幡神社、駒形神社 、 山神社 を巡拝 す る。 白晒 しの腹巻 き、半股引、足袋、 草雑、腰 に真 の
下が りの細 い しめ縄、 日に 白紙 を くわえ、 手 に祈願 を書 い た峨 を持 つ 。腰 に しめ縄 を結 び、 口に白紙
を くわえる無言 の行列 であ るこ とが、 しめ縄・俵奉納 の裸参 りの 中 で は得 意 な装束作法 を持 っている。
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
湯 沢市 岩崎 の裸参 りは水神社初 丑 祭 りと呼 ばれ、人 幡神社境 内 の水神社 に裸参 りの男 たちが えびす
俵 を奉 納す る。天正元年 (1573)に 皆瀬川 の竜神 にさ らわれた と伝 え られる岩崎城 主の娘能恵姫 (の
えひ め )を しのんで、姫 を祭 る水神社 で、 姫 の 嫁入 りの 日だった旧暦 11月 の初 丑 の 日に行 われ る。
出稼 ぎ者が増 えた 1960年 ごろ に途絶 えたが、89年 に地元有志 によって復活 した。 当 日は岩崎地区 の
20∼ 60歳 代 の男 たちが、 鉢巻 。足袋 ・揮 姿 で、 6町 内毎 に分 かれて、 えびす俵 を担 ぎなが ら寒空 の
下 を練 り歩 く。水神社 にえびす俵 を奉納す る際、奉納 を済 ませ た町内が、後か らや って きた町内 を入
口付 近 で 荒 々 しく迎 え、男 た ちは「 ジ ョヤサ ー、ジ ョヤサ ー」 と威勢良 く声 をあげて激 しくもみあ い、
豊作 と水 難 除け を祈願す る。
蘇 民祭
岩手県南半 の 旧伊達 藩領 は、廃絶 した事例 も含 めて「蘇民祭」 と総称 され る正 月 の「裸祭 り」
が濃 密 に分布す る。 蘇民祭 は水沢市黒石 の黒石寺蘇民祭が古 い伝承形態 とされ るが、 そ の一連の祭事
は体 系 的 に構成 され重層的な構 造 ・ 意味 を持 つ と考 え られ る。 ここでは、そ の祭事 の 次第 の一 つ とし
て組 み込 まれて い る蘇民祭 の 「裸参 り」 を中心 に考 えた い。多 くの蘇民祭 は基本 的 に、水垢離 を伴 う
裸参 り、柴燈木 (ひ た き)登 り、別当登 り、鬼子登 り、蘇民袋争奪 の祭事次第 に よって構成 されて い
る。 祭事 の 冒頭 に位置す る「 裸参 り」 は、 祭 り参加者 たちの祭 りへ の祈願 の意味 を担 って い よ う。
黒 石 寺蘇民祭 は旧暦 1月 7日 の夜 半 か ら翌 8日 早朝 にか け て行 われ、7日 午後 10時 ころか ら始 ま
る裸 参 りで幕 を開け る。 この裸参 りは「夏 参 り」 または「祈願祭」 ともいい、厄年 の者 を含 めた祈願
者 が揮 に地下足袋・草雑姿 で、境 内 の瑠璃壺 川で水垢離 を と り、薬師堂 と妙見社 を三 回巡 って参拝す る。
男 た ちは揮 一 つ に地下足袋や草雑、片手 に角燈、片手 に洗米 をお捻 りに して参拝す る数 だけ割竹 には
さん だ浄飯 米 (オ ハ ンナイ リ)を 持 つ 。「 ジャ ッソウ」「 ジ ョヤサ 」 な どの掛 け声 をか けなが ら境 内 の
薬 師 堂・妙見社 を巡 り歩 き、参拝す る度 に手 に持 ったオハ ンナイ リを一 包 みず つ 賽銭箱 に投 じて い く。
西 磐井郡平泉町平泉 の毛越 寺常行堂 で は、新 暦 1月 20日 夜 に行 われ る「 二 十夜 祭 」 も蘇民祭 とい
われ る。 祭事 の始 めに常行堂 の講衆 ら数百人が献膳 ・蘇民袋 な どを捧 げ て毛越 寺 に向か う「お上 り行
列」 の 中 に、数 え 42歳 の厄 男 を中心 とした裸参 りの一 行があ る。裸参 りの 男 たちは鉢巻 に揮、地下
足袋 姿 で、大松 明や手木 を持 つ 。厄男 たちは、大鼓、 ほ ら貝 に先導 され、腰 で支 えた大松 明 を振 りか
ざ しなが ら、「 ヨ ッ、 ヨー」 と悪魔払 いの気合 い を入れ なが ら歩行す る。
この よ うに蘇民祭 の裸参 りは、掛 け声 を上 げ、気合 を入れなが ら歩行す る作法・所作 が 一 般 的だが、
南 部 地方 と隣接 す る蘇民祭 の北 限地域 に、 白紙 を口に咬 んだ無言 の裸参 りで 開始 され る蘇民祭 が存在
す る。 花巻市矢沢 の胡 四王榊社 では、慶応 年 間に疫病流行 を鎮撫す るため蘇民祭 が初 めて行 われた と
い う。裸参 りの男 たちは、 白鉢巻 に自晒 しの 下帯 を着 け、 白足袋 に草雑 を履 き、腰 に紙垂 の下が った
太め の しめ縄 を巻 く。 口に三角形 に折 った 白紙 を くわえ、松 明 を手 に持 つ 。麓 の神社遥拝殿前 で神主
に よるお祓 い を受 け、水垢離 を と り、天狗 、宮 司、鉦 ・ 太鼓 に先導 され、行列 を構 成 して山頂 の本殿
へ 登 る。
また花巻市石舟谷町 の光勝寺 五大堂 の光勝寺 五 大尊蘇民祭 で は、旧暦正 月 7日 夜 の前夜祭 で 裸参 り
祈願 祭 が行 われ る。6日 午後 7時 、 1キ ロ西 の公 民館 に参加者 が集合 し、水垢離 を と り装束 を整 えて、
神 楽 囃 し 。法螺貝 に先 導 されて、「 ジャ ッソー」 の掛 け声 をあげ拳 を突 き上 げなが ら、行列歩行 して
光勝 寺 に向か う。境 内一の鳥居 を くぐる と掛 け声 を止 め、 口紙 を くわ えて五大堂、本堂 に参拝 して祈
祷 ・ 加持 を受 け、 口紙 ・角燈 の紙 を燃 やす。す なわち掛声 をあげる裸参 りと白紙 を噛 む無言 の裸参 り
が一 の 鳥居 の 内外 で交替 して い るのである。
年占
西津軽郡深浦町岩崎 の裸参 りが年縄奉納 と海 山 の豊 凶占い を兼 ねて いた よ うに、正 月 の 年 占祭
事 に裸参 りが組み込 まれて い る事例 も各所 に単独 で散見 される。
岩 手県 で は三戸市似鳥 (に た ど り)の 似 鳥 八 幡宮 のサ イ トギでは、旧暦大晦 日か ら正 月 6日 まで の
オ コモ リ、6日 夜 にサ イ トギの前 の裸参 りを合 わせ 行 う。 オ コモ リとは、大晦 日に炊 いた飯 を土地 の
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
五 穀 を表す 5本 の剣状 に盛 り上 げ、 そ れが崩 れ るか ど うかで凶作 か否 か を占 う。 6日 午後 7時 ころ、
社殿 で似 ′
専新 山神楽の権現昇が奉納 され、神主が祝詞 を奏 上 し薪 に点火 す る。 裸参 りの若者 たちが水
垢離 を と り、装束 を整 える。 白鉢巻 に白晒 しの腹巻 き・締込み、ケ ンダイを腰 に巻 き、 白足袋 に草雑、
口に含 み紙、手 に御 幣 を持 つ 。鈴 を振 る先導者 に従 って石段 を登 り、人幡宮 を参拝 してか ら境 内 の観
音 堂他 の小祠 を順 に巡 って参拝す る。 参拝が終 わる と腰 の しめ縄 を入 幡宮 の柱 に結 んで奉納 し、生 木
の 長 い テ コを手 に して火の回 りを囲み、 ほ ら貝 と大 鼓 の音 に合 わせ てテ コで四 方か ら薪 を揺 さぶ って
火 の粉 を舞 い上が らせ る。神主 は火 の粉 の流 れる方向 と様子 で豊 凶 を 占う。サ イ トギは井桁 に組 んだ
薪 を燃 や し、裸 参 りを終 わった男 た ちが薪 を揺 す って炎 を掻 き立 て、火の粉 の 流 れ る方 向 と様子 で豊
作不作 を占 う。
宮城県 で は加美郡加 美 町柳 沢 の 焼 け八 幡 と呼 ばれ る複合 的意味 を持 つ 小正 月行事 が あ る。正 月 14
日に若者 たちが柳沢地 区 の高台 にあ る人 幡神社 に、竹 とわ らで「御小屋」 を作 り、そ ばにある老木 に
月数 を示 す 12束 ある い は 13束 のわ らを 吊 る して点火 し、作 物 の作柄 を占 う。 15日 は若者 た ちが集
会所 で酒 を酌み交わ し、下帯一 つ で神社 に裸参 りし、「 ヨイサ」「 ヨイサ」 の掛 け声 とと もに地区内の
44戸 を回って手お け の酒 を振 る舞 い 、顔 にスス をつ け て歩 き、最後 に御小屋 に火 をつ け る。
旧伊達藩領の裸参 りの古 い伝承 にお い ては、 無言 の作法 は一 般的 では なか った こ とが推測 される。
災厄 除 け 特定 の災厄 を端緒 に して、 その災厄 を防 除す る祭事が行 われる場合 、火 難 除け ・火伏せ祈
願 は「水 かけ祭 り」 の形 で表 れて い る。 岩手県 では一 関市大東 町大原の水 か け祭 りは、 現在新暦 2月
11日 だが、 もとは旧暦 1月 18日 に行 われ て い た。 そ の発 生 につ い て は、 明暦 3年 (1657)正 月 18
日の江戸大火 を機 に、 仙 台藩 の代 官所 の あ る大原 に も防火 を呼 びか ける触書 が 回 り、 1月 18日 を厄
日と定め火 防祈願、火 防宣伝 の祭 りと して始 まった と伝 え られ る。やがて厄落 しをかね る よ うにな り、
今 は厄 除け祈願 の意味あ いが強 い。 当 日は大原商 店街 の道路 5区 間約 500メ ー トル を、 約 200人 の裸
男 と加勢人 (か せ っ と)が 、花火 の合 図 とともに一 斉 に駆 け出 し、叫 び声 を上 げなが ら全 力疾走す る。
沿道 に詰め掛 けた人たちは「 ハ レ、 ハ レ」 と声 を掛 けなが らバ ケッやお けで勢 い よ く清 めの水 を浴 び
せ かける。 祭 りの きっかけ となった江戸 の大火 は「振 り袖火事」 と も呼ばれ、振 り袖 に付 い た火が 原
因 で あ る。そのため女人禁制で、厄 年 の女性 の 身代 わ りに幼 い男児 の加勢人が参加す る。 走 り終 えた
後 、男 たちは輪 になって一斉 に「 納 め水 」 を浴 びる。男 たちは 白鉢巻 に 白晒 しの腹 巻 き、半股引 に白
足 袋 ・ 草雑 の姿 で、 商店街 の道 を叫 び声 を上 げなが ら駆 け抜 ける。
また福 島県 の双葉郡浪江町権現堂 の水 か け祭 りも、江戸期 の大火 を契機 に して い る。 1859(安 政 6)
年 に発 生 した大火で現在 の 浪江 町 の 中心 部、権現 堂村 82戸 の家 々が西風 にあお られて焼 失、町並 み
をそれ までの東西沿 いか ら西風 に強 い 南北沿 い に造 り替 え、 中央 に水路 を通 した。 さ らに浪江神社 を
現在 地 に写 し、毎 年旧暦 の正 月八 日、火災予 防を祈願 して浪江 町消 防団第 1分 団が主催 して実施 され
る。 防火祈祷祭裸参 りと もい う。 町消 防回員や厄 年 の男 たちは、 白鉢巻 に 白晒 しの 半纏 と半股引に白
足 袋 を履 く。 もとは裸 に腰注連縄 を着 け ただ けだったが 、昭和 4年 浪江警察署長か らの「お達 し」 で
白装束 をまと うよ うになった とい う。 浪江神社 でお祓 い を受 け、先頭 に家屋 に水 を掛 ける水掛 け役 の
後 に、「 ワ ッシ ョイ、 ワ ッシ ョイ」 の 掛 け声 を発 す る白装 束 の一 行 が続 く。沿道 で待 ち構 えて い た住
民 は水 を掛 け、声援 を送 る。 参加者 は権現堂地区 の 目抜 き通 り約 四キ ロ を走 り、締 め に万歳三唱 を し
て終 り、公衆浴場で暖 まる。
一 方、突然 の岩手 山の噴火 に遇 ってその沈静 を祈願 したのが、 岩手 山の麓 に位置す る人 幡平市西根
町平笠 の裸参 りで ある と伝 え られて い る。 享保年 間 (1716-1736)、 岩手 山腹が噴火 して溶岩が流 出 し、
焼走 り溶岩流が で きる。 山の噴火 と当時流行 して い た疫病 を鎮 め よ う として平 笠 の 人たちは裸参 りに
よって岩手 山に祈願 した。太 平洋戦争 中は出征 した夫・息子 の無事 を祈 って女 た ちに よって続 け られ、
戦後 一 時 中断す るが 昭和 40年 に復活 す る。 現在 は女性 参加者が過半 を占め「女 裸参 り」 として知 ら
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
れて い る。女 たちは 白鉢巻 に白の肌着 を着 け、長 い 白の下が りの ケ ンダイ、手 に鈴 と験 竿、 口に独 特
の折 り紙 に した含 み紙 を噛む。当 日は盛 岡な どで はハ サ ミと呼 ぶ験竿 に鈴 を手 に した白装束 の女性 た
ちが、朝
8時 半 ごろ宮 田神社 を出発、家 々の求 め に応 じて門付 けを しなが ら人坂神社 まで の約 13キ
ロ を 5時 間 ほ どか け て歩 く。始終 口紙 を噛 んで歩行す る無言の行 で あ る。
安産 ・ 成長祈願
単 一の事例 として山形 県余 目町千河原 の人 幡神社 に「やや祭 り」 と呼 ぶ 祭事 が伝承
されて い る。 そ の 由来伝承 は以下の よ うで あ る。 第 15代 応神 天皇の皇子大 山守命 が、悪 臣 の謀反 に
あ って千河 原 の 地 に逃れ、村 の長老弥左右衛 門家 の 産屋 の妊婦 にか くまわれ た。それ に感謝 した皇子
は、妊婦 に「私が死んで も神 となってお前 を守 り、世 の産女 の安産を祈 ろ う」 と言 い残 した とい う伝
説にちなむ。かつ ては子 どもの裸参 りだけでな く、若者 もお百度参 りを行 い、夜 にはワラ束で互 いの
体 を打 ち合 った。 この ときの「ヤアヤア」 とい う掛 け声か ら、やや祭 りと呼 ばれるようになった とい
う。少年 たちは 白鉢巻 に藁 のケ ンダイ (腰 衰 )、 を着 け、素足 に草雑 を履 く。裸姿の少年 たちが、手
桶 で何杯 も冷水 を浴びせ られ、村内を一周す る。かつ ては神社 の参道 で、 同 じ裸姿の若者たちが、鳥
居 と拝殿 の 間を往復す る度に冷水 をかぶってお百度参 りを行 った。
寒行 横手市雄物川町三井山の湯殿 山神社 の裸参 りは、かつ ての信榊者 の寒行 の本来 の姿 を伝 える行
事 である。 裸参 りは「お柴燈」 とも呼 ばれ、かつ て三井 山地区の者 は、各家一 人は裸参 りに参加 した。
また女性参加者は「夏参 り」 と呼ばれ る浴衣姿 での参拝 を行 った とい う。裸参 りの者 は新暦 1月 7日
の夜、奉納す る百匁蝋燭に願事 を記 し、熱 い風呂で 身 を清 め暖めた後、下帯一つに腰 に細 い しめ縄 を
巻 き、素足 で神社 まで走 り、境内の井戸 で水垢離 をとり、社殿 に百匁蝋燭 を奉納 して帰 る。
(2)
南 部地方 の裸 参 り
岩手県南 部地方 の裸参 りのなかで、その装 束所作 の 表徴 を もっ と も鮮やか に示 して い るの は盛 岡市
内 の裸参 りで あ る。 現在盛 岡市 内 の寺社 で 行 われ る正 月 の裸参 りは、北 山 の教浄寺 。人 幡 町 の盛 岡人
幡宮 ・ 内丸 の桜 山神社 な どで、それぞれ新暦 1月 14日 ・ 15日 ・26日 に参拝が行 われ る。盛 岡 の裸参
りは教浄寺 で発 生 し、古 くは教浄寺 のみで行 われ、 後 に盛 岡入 幡宮 。桜 山神社 に も波及 した と伝承 さ
れて い る。
盛 岡市教浄 寺 の裸参 り 教浄寺 は北 条氏減 亡 に殉 じた南部茂時の時宗 の書提寺 として も と三 戸 にあっ
た。 慶長 17年 (1612)南 部利直 が盛 岡 に城 を移 す にあた り、教 浄寺 も盛 岡北 山に移転 す る。利 直 は
恵心作 と伝 え る阿 弥陀如来像 を教浄寺 に奉納 し、 奉 納 を祝 して七 日間一 般人 の参観 を許 した ところ、
参詣者が雲 集 し、それ以来「おあみだ さん」 の名 で 親 しまれ る よ うになる。 旧暦 12月 14日 は阿弥陀
の年越 の 祭ネしで、 阿弥陀像 の年 に一 度 の 開帳があ り、腰 ミノだ けの姿 で裸参 りす る者が あ り、盛 岡の
裸参 りは も と教 浄寺 だけで行 われて い た と伝 える。
現在教 浄寺 の裸参 りは地域 の消 防団員 な どによって担 われて い るが、 裸参 り参加者 は風 呂 に入 って
体 を清 め、 暖 めた後、装束 を整 える。 白鉢巻、 白 い晒 しの腹巻 き、紙垂 を付 け た腰 ミノ状 のケ ンダイ
を着 け、 しめ縄 を斜 め に背負 い、素足 に草唯 を履 く。 口には三角 に折 った 白紙 を咬み、右 手 に鉦 、左
手 にハ サ ミを持 つ 。 ハ サ ミとは、一 間余 りの割 り木 に三角 に折 った半紙 を数十枚鋏込 んだ もので、片
手 だけで捧 げ て い るこ とは難 しい ため、ケ ンダイを巻 いた腹 にハ サ ミの端 を乗せ て片手 を添 える。他
に消 防団 な ら団旗 を持 つ 者、高張 り提灯 。長提灯 を持 つ 者、魚 ・ 野菜 ・ お捻 りに した洗 米 な どをそれ
ぞれ 三 宝 に入 れて捧 げ る者 な ど、整 え られた隊列 を組 んで出発 す る。歩調 は非常 に緩慢 で、全 体 の歩
調 を揃 えるため に一歩 ごとに一 斉 に鉦 を振 る。その鉦 の音 に合 わせ て大 きく一 歩 を踏み 出す度 に、 ハ
サ ミの先端 を地面 に摺 るほ ど前 に倒 し、お もむろに後 ろ足 を寄せ る と同時 に またハ サ ミを立 て る。そ
の ように歩調 を合 わせ、極 めてゆっ くりと練 りなが ら参道 を進 み、本堂で祈祷 を受 け て供物 を奉納 し
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
た後、腰 の しめ縄 をはず し、ハサ ミなどの持物 を納めて裸参 りは終了する。
装束 の細部やハ サ ミの 白紙 の枚数な ど、 各消防分団の伝承 に微細 な異同はあるよ うだが、盛 岡八幡
宮、桜 山神社の裸参 りの装束 ・作法所作 ・参拝方法などは基本的に共通 してい る。
年越祭 ・縁 日 教浄寺に見 られるように、盛 岡の裸参 りはその寺社 の本尊 ・神体 である神仏 の縁 日の
日、そ して暮れか ら正月にか けての寺社 の年越祭・祈年祭 の 日に合わせて行われてい る。
教浄寺 の場合、
本来旧暦 では暮れの 12月 14日 が阿弥陀の縁 日であ り年越 しの 日であるため、年越祭 は旧暦 12月 14
日に行 われ、年 に一度 の「おあみださん」の 開帳 もこの 日に行われていた。かつ てはこの開帳に多 く
の参詣人が群集 した といい、藩政期 にその賑 わ う雑踏 に向けて腰 ミノーつ で裸参 りを敢行する若者が
現 れたのであろ う。近代以降新暦使用が普及 し、月遅れの新暦 1月 14日 に年越祭 を定めたため、裸
参 りも新暦正月 14日 に行われるよ うにな り、近年 では松飾 りを焚 くどん と祭 まで合 わせ て行 うよ う
になってい る。
現在盛岡八幡宮 は新暦 1月 15日 、桜 山神社 は同 1月 26日 に裸参 りが見 られるが、 ともに両社 の年
越祭 の 日である。
雫石町 の裸参 り 同様 の事情 は盛 岡周辺 の裸参 りにもうかがえる。岩手郡雫石町の裸参 りは、町中に
あ った造 り酒屋 の蔵人 たちが、暮れの 12月 14日 に永 昌寺 の阿弥陀如来 の開帳に、裸参 りをしたこと
に始 まると伝 えられてい る。現在 は新暦 1月 の第 3日 曜に行われるが、かつ ては旧暦 12月 14日 の阿
弥陀如来 の縁 日に合わせた開帳 の祭 日であったことが、盛 岡市教浄寺 の事情 と酷似 してい る。雫石 の
裸参 りは昭和初期 に中断の後、昭和 55年 に復活 されるが、その装束 ・所作 の点で も盛岡 の裸参 りと
細部 まで一致する。盛岡の裸参 りが直接移入 されたことが推測 される。
紫波町志和 八幡宮 の裸参 り また紫波郡紫波町の志和八 幡宮 の裸参 りは、戦前、志和八幡宮 の五元 日
祭 に合 わせて地 区の酒蔵、醤油蔵な どの若者達が裸参 りを行 っていた と伝 えられる。五元 日祭 とは、
正月 5日 未明か ら境内に 2基 のかが り火 を焚 き上げ、法螺貝 を鳴 らし時の声 をあげて魔 を払 う新年 の
祭事 で ある。かつ ては多 くの参話者 で賑わった といわれ、やは り賑わう祭 りの雑踏へ の若者 の裸参 り
で あ ったのだろ う。 ただ、志和 人幡宮 の裸参 り装束は、盛岡・雫石 の裸参 りとは構成 に基本的相違が
ある。 白鉢巻 に白い晒 しの腹巻 きをし、 白の半股引に草雑 を履 き、 しめ縄 は肩 に背負 わず、紙垂 の付
い た太い しめ縄 を腰 に巻 き、ケ ンダイは着けない①手に鉦 とハサ ミ、日に三角に折 った口紙 を くわえ、
緩慢 な拍子で鈴 を振 りなが ら大 きくゆっ くりと練 ることは盛岡と共通する。すなわち装 束 の 中心が腰
ミノ状 の藁 のケ ンダイではな く、大 ぶ りの紙垂れの下がった太 い しめ縄であることが、志和 の裸参 り
の表徴 である といえよう。なお、雫石 と志和八幡宮の裸参 りについては以下 の節 に詳説す る。
遠野市小友 の裸参 り また、遠野市小友 の巖龍神社 の裸参 りも藩政期以来 の祭事 だ と伝 え られる。伝
承 に よれば、 明暦 4年 (1658)に 不動岩 の前 に拝殿 を造 り、その翌年の旧暦 1月 28日 、厄年の者が
裸参 りを行 って以 来今 日まで継続 されてい るとい う。28日 は不動 の縁 日で、旧暦 1月 28日 は小 友地
域 の不動講 の新年最初 の縁 日にあたる。装束 は 白鉢巻 に白晒 しの腹巻 き、揮か下帯、草雑 を履 き、腰
に紙垂 の下がった しめ縄 を巻 く。口には三角 に折 った口紙 を くわえ、右手 に角燈 を持 つ。裸参 りの行
列 は、神社 でお祓 い を受けた後、42歳 の厄男が先頭で大鈴 を降 り、蝋燭 を燈 した角燈 を右手 に、巌
龍神社か ら上宿橋そ ばの大般若供養塔 までの約 350メ ー トル を三往復 し、健康 ・家内安全 ・高校合格
な どを祈願する。小友の裸参 りには盛岡・雫石 ・志和 に特徴的なハサ ミが見 られず、緩慢 な練 り歩 き
もな く通常 の歩行 を行 う。
仙台市大崎 八幡宮 の裸参 り 仙台市 とその周辺 で、藩政期 まで遡れる裸参 りの事例 はご く限 られる。
大崎八幡宮 の裸参 りもその限 られた一つ だが、現在 の装束・所作 ・作法な どが、 そ の まま古 い形態 を
継承 してい るものでないことは確 かである。
現在、大崎八幡宮 の裸参 りで一般的な装束は、白鉢巻、白晒 しの腹巻 きと半股引、足袋 に草雑 を履
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
き、腰 に紙垂 れ の 下が った しめ縄 を巻 き、 口に三角 に折 った 白紙 を咬 む。古 い形態 を残す と伝 え られ
る市 内造 り酒屋 に よる裸参 りの形式 も基本 的に共通す るが、特徴 的 なのは 自前 で用意す る腰 の しめ縄
が太 く見事 な こ とと、 歩調 が緩慢 でゆっ くり間をお い て鉦 を振 って歩調 を揃 え、通常 の歩行 なが ら練
り歩 きの律動 に近 い ことで あろ う。
。
明治大 正期 の仙 台 の地 方新 聞 の記事 によれば、当時の大崎人幡宮 の裸参 りの装束 作法 は極 めて多
様 な在 り方が許容 されてあ り、参加者 の手持 ちの装束 と趣 向 にまか されて いた。文字通 り下帯 一つの
「裸足参 り」 といって素足 で参拝す る者、
「薄衣参 り」 とい う白の下着や晒 し半纏 をはお る者、
姿 か ら、
また三 井 山湯殿 山神社 の「夏参 り」 に通 じる浴衣 な どの単衣 の 長着 を着 る者 な ど、 各装束 の推移 と盛
衰 はあるに しろ、常 に複 数 の姿 が併存 して いた ことは確 かであ る。 またそ の所作 や作法 にお い て も同
様 に多様 で、 行列 をな さず気 の合 う者 同士 で三 々五 々連 れ立 って歩 く姿、園の声 をあげなが ら駆 け抜
け る若者 たちな ど、 現在 正統 的 と意識 されて い る造 り酒屋 の静 か に整 った裸参 りか らは逸脱す る雑多
な様相 こそが、 当時 の裸参 りの一般的あ りよ うだった と考 え られ る。無言の行 を誇示す る口紙 の存在
を最初 に確認 で きるの も、明治 39年 1月 14日 の 『東北新 聞』 にお いてで ある。
『仙 台年 中行事絵巻』に見 られ る「裸 まうで」の蔵人 は、裸体 に腰衰 を巻 くのみ 、
さ らに時代 を遡 れ ば、
口紙 も噛 まず、素足 で歩 んで い る。現在 の仙台 の裸参 り装束 で はな く、盛 岡教浄寺 の発生期 の 姿 に よ
く一 致す る。
なお気仙 沼市唐 桑 の 日高見神社 の 1月 14日 夜 の 例祭 は、 か つ ては御崎神社 の「暁参 り」 と
も呼 ばれ、 は じき猿 。さっぱ舟 な どの伝統玩具 な どの夜 店 が 出て賑 わ う。昭和 の初期 まで、大願 をか
暁参 り
け る者 は「一点参 り」 とい う浴衣 一枚 での参拝 を行 っていた とい う。刈 田郡蔵王町宮 の刈 田嶺神社 の
同 日夜 の 暁参 りも近在 か ら人 々が群集 して賑 わ うが、 ここで は暁参 りの 日に境 内 の夫婦杉 に大草牲 を
奉納す る。現在刈 田嶺神社 の暁参 りで も裸参 りが行 われて い る。 宮城県 にお いては毎年暁参 りで人 々
が雑踏 し、縁 日が連 なる よ うな特定 の社祠 に、多 くの裸参 りが集 って きた よ うで あ る。
現在 の岩手県南部地方 とその周辺 の 裸参 り装束 ・所作 の分布 を一 覧 し (分 布地 図
。
参照 )、 仙台大崎 八幡宮 の裸参 りの装束 と所作 の変遷 を概 観す る と、現在 の正 統 的 とされる裸参 り装束
裸参 り装束 の系譜
所作 の系譜 を推測 で きる。
口紙 を咬 む裸参 りは南 部地方全般 に広 く分布す るが、 県境 を接 して隣接す る秋 田県鹿角市十和 田土
深井 と、 仙台大崎 人 幡宮 を除 く他地域 には見 られ ない。 そ の範 囲 の北半 には腰 簑状 のケ ンダイを装束
の 中心 に置 く地域 が あ り、南半 には太 い横綱 と呼 ばれ る しめ縄 を腰 に巻 くことで それ にか える地域 が
あ る。ケ ンダイ地域 と横綱地域 の接す る中心部 は、 縁 日に群集す る観客 にとって、 もっ とも見応 えの
あ る裸参 り行列 の 次第 ・装束 。所作 の形式 を造形 した地域 といえる。 この点が この 地域 の裸参 りの最
も際 だった特性 で あ る よ うに思 える。
見物
(み
もの )と しての裸 参 り 見応 えの あるケ ンダイや横 綱 で装 束 の 中心 に観客 の視線 を定 め、長
いハ サ ミを体全体 で大 き く上下 に操 り、鉦 を振 って極 めて緩 やか な歩調 に揃 え、見得 を き り決 め を作
りなが らゆった りと進 む「お練 り行列」 ともい える裸参 りの 姿 は、他地域 の裸参 りに はない。 これは
あ きらか に個 人の信仰 に根 ざ した街素 な寒修行 の姿 と も、村 や町の若者 たちがそれぞれの仕 方 で祭 り
に興 じる姿 とも、 質 を異 に して い る。 い わば群集す る観客 に とって 見応 えの ある見物 であるこ と、錐
賞物 で あ ることを追求 した裸参 りの あ りか た を示 して い よ う①
大崎 八幡宮 の裸 参 りと南部 の蔵人 たち 現在、大崎 人幡宮 の 裸参 りの装束 は、明か に南部地方南半 の
横綱 を中心 に置 く装束 の系譜 に連 なる。行列次第 ・所作 にお い て も南部地方 中心部 の形式 を継承 して
い る と考 え られ る。 ただ、南部地方 中心部 に特徴 的なハ サ ミと、 したが ってハ サ ミを使 った大 きな練
りの所作 とは取 り入 れ なか った。その代 わ り片手 に鉦 、片手 に弓張 り提灯 を持 ち、 ゆった りと鉦 を振
りなが ら歩行す る とい う また別 の練 りの姿 を造形 した。 この鉦 と弓張 り提灯 の組合 わせ は、江戸期か
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
ら明治期 にかけて流 行 した京都 の裸参 り姿 の方 を継承 して い るので あ る。
雫石 の 裸参 りは町 中 の造 り酒屋 の蔵人 に よって 始 め られ、盛 岡 の裸参 りの装束 ・所作 をその まま取
り入れ て い る。 そ こか ら示唆 を得 るな ら、か つ て は雑多 だった仙台 の裸参 り習俗 の 中に、見物 として
の整 った行 列次第 。装束 ・所作 の形式 を造形 す る契機 になったのは、やは り町中 の酒蔵 に詰 めて い た
南部地方 出身 の蔵人 だったのではないか。 もとよ り最初 は 『仙台年 中行事絵巻』 に見える よ うな簡素
で個人的 な営 み だったのだろ う。それが蔵元、縁 日の群集 な どとの協働 の なかで、お練 り行列 として
造形 され、形式化、組織化、恒常化 して い った こ とが推 測 され る。 南部杜氏が裸参 りを最初 に伝 え、
だか らこそ酒屋 の裸参 りこそが最 も正統 な古 い形態 を残 して い る、 とい う仙台 の伝承 は、おそ ら くこ
う した人 々 が群集す る縁 日とい う場 での協働 に、南 部 の蔵人がた しかに関って い た ことを伝 えて い る
のだ と考 える。
そ こで 仙 台 の裸参 り習俗がそ の系譜 に連 なる と推 測 され る、 岩手県南部地方 の裸参 りの三 つ の事例
を次 に記述 す る。
(3)
事 例 ・ 岩手 県 二 戸市、似鳥 八 幡神社 の裸 参 り
岩手県】ヒ部、青森県境 に面 した二 戸市 に所在す る似 鳥 (に た ど り)人 幡神社 (二 戸市似 鳥字林 ノ下
37番 地 )に 二 戸市無形民俗文化財「サ イ トギ (祭 斎 )」 と呼 ばれ る祭礼 がある。似 鳥八 幡神社 は旧社
格 は村社 、勧 請年代 は定か で はな い が、『二 戸市 史』 に よる と「 もと長流 山観世音 と称 した。天正五
年 (一 五七 七 )南 部 二 四世春政公の時、 田口刑部三 郎 を して堂宇 を修築 して い る。その後 の こ とは詳
かで はな い が、寛永九年 (一 六三 二 )、 寛文四年 (一 六六 四 )、 正徳 四年 (一 七一四)、 明和 三 年 (一 七六五 )
修築 の棟本とが残 ってお り、また享和 二 年 (一 人 ○二 )奉 納 の石燈篭 二基がある。明治四年 (― 八七 ― )
神仏混治廃 止 の 時、 白旗 人 幡 を合祀 して入幡ネ
申社 と改称 した。」 と記 されて い る。 祭神 は「誉 田別命」
であ る。 また、本殿 の脇 には糠部 三 十 三観音 の三 十 二 番札所 「長流 山観世音」が祀 られて い る。氏 子
教 は約 330戸 、崇敬者 は約 900人 である。
似 鳥人幡神社 のサ イ トギは、旧正 月 6日 に行 われ る年 占行事 で あ る (平 成 18年 は 2月 3日 の 開催
であった )。 サ イ トギ とは境 内 に 2mほ どの 高 さまで井桁 に組 んだ木 の こ とで、 この サ イ トギ を燃 や
した際 に生 じる火の粉 の飛 び具合 で作物 の生 育 を占 う。サ イ トギの木 は、 昔 は火の粉 を激 し く舞 い上
げる胡麻 木 だったが、近 年 は雑木 で行 っている よ うで あ る。 この サ イ トギは近隣住民 の正 月飾 りや札
な どを納 め る場 ともなってお り、サ イ トギ当 日も正 月飾 りを持参す る参詣者が多数見 られた。 神社 の
裏手 の小屋 で は昼 頃 よ り裸参 りの準備 が平行 して行 われてい る。 裏 山か らひい た水 を木桶 に溜 め、費
の子 を敷 き、水垢離 の準備 をす る。地下水 は厳冬 の 野外 に放置 して も凍 らな いの だ とい う。小屋 の 中
には参加者 の 衣装類が揃 え られて い る。 神前 には「オ コモ リ」 と呼ばれる 20cm程 の飯 の 山が 5つ 三
宝 に乗せ られ旧暦元旦 よ り供 え られ る。 この 5つ の 山は地域 の重要作物 である稲 ・科 。栗 ・ 大豆 ・小
豆 (又 は麦 )を 意味 し、 旧正 月 6日 、す なわちサ イ トギ当 日の飯 の 山の状況 でその年 の 5種 の作物 の
出来具合 を 占 うのだ とい う。 これ らサ イ トギ ・ 裸参 り 。オ コモ リの 3つ に よって似 人 幡袖社 の 年 占
`鳥
は行 われ る。
夜 7時 頃、 人 幡神社 の本殿 にて新 山神楽 の権現舞 が奉納 され、神主の祝詞奏上 にて五 穀 豊穣 を祈願
す る。その後、 法螺貝 の合図で豆殻 か らサ イ トギ に点火 され る。 昔 は青笹 を使 った と伝 え られ る。
夜 8時 頃、神社裏手 の小屋 では4 41つ に着替 えた裸 参 り参加者が 2人 ず つ水垢離 を とる。木桶 に張 っ
た水 を手桶 に汲み、両手 で頭上 に振 り上 げ、右左 右 と 3度 かぶ る。水垢離 の 済 んだ者 は小屋 に戻 り、
晒、前締 め 白鉢巻 き、 白足袋、草軽、注連縄 を身 に付 ける。小屋 の 中 は参加者 の 熱気 に満 ちて い た。
8時 30分 頃、装束 を整 えた参加者 は小屋 の前 で神 酒 を飲 み、 含 み紙 を口に くわえ、手 に御 幣 を持 ち、
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
行列 を組む。鈴振 りの先導 について榊社裏手 の小道 を進み、石段 を登 り、本殿 と石段 の間を 3度 往復
した後、2人 ずつ参拝す る。その後、観音堂やサイ トギを囲む よ うに並 ぶ小祠 を 2人 ずつ参拝 し、含
み紙 をサイ トギの火 に投 げ入れ る。参拝 の済 んだ行列 は再度本殿前 に戻 り、腰 に巻 いていた注連縄 を
本殿 の柱 に巻 き付 け、 4m程 の木の棒 を持ち、サイ トギの周 りに立ち並ぶ。参加者 は木の棒 をサイ ト
ギに差 し入れ、法螺貝の合 図 と共にテ コのようにサイ トギを揺 さぶ り、火 の粉 を舞 い上が らせ る。 こ
の火 の粉が飛ぶ方向に よってその年 の豊 凶を占うのである。火 の粉が南側 の石段 の方向へ流れる と豊
作、逆方向であれば凶作 なのだ とい う。一通 り、火の粉 を上げた後 は木 の棒 でサイ トギを叩 き、井 の
字に組 まれた木を崩す。 この後、裸参 り参加者 は本殿前へ と戻 り、神主 の託宣 を聞 く。平成 18年 の
託宣 は「豊作」 とのことで ある。その後、裸参 りの記念撮影 を行 い、参加者は衣服 を身 につ け、本殿
にて神楽保存会、氏子 らと共 に直会 を行 う。
裸参 りの参加者 は似 鳥八 幡神社周辺 の男性 の参加者が大半 だが、山形 県や関東 か らの参加者 も見 ら
烏
れた。 これ ら他県か らの参加者 はイ ンター ネッ トなどで情報 を収集 し、参加 を申 し込むとい う。似′
人幡神社 のサイ トギは他地域か らの参加 を拒む ことはないが 身内の不幸 ・ 出産があ った場合、参加 で
きない。
(4)
事例 ・ 岩手 県紫 波 町、志和 八 幡宮 の裸 参 り
南部杜氏 の里 として石 鳥谷 町 (現 花巻市石鳥谷 )と 共 に全 国的 に有名 な岩手県紫波町上平沢 に鎮座
す る志 和 人 幡宮 (岩 手県紫 波郡紫波 町字人幡 73番 地 )に 五 元 日祭 (ご か んにち さい「御勧 日」 とも
書 く)と 呼 ばれ る正 月行事 が あ る。 この五 元 日祭 は人 幡太郎義家が奥賊誅伐 の 際、志和 入 幡宮 に戦勝
を祈願 した ことに由来 し、義家 の戦勝報恩感謝 のため毎年正 月 5日 の早朝 よ り境 内 で大等火 を焚 き上
げ、 みか ん まきや餅 ま きが行 われる。「五元 日祭」 とい う名称 の行事 は周辺の町村 には他 に見 られず、
地域住民 に も独 自の もの と認識 されて い る。 現在 で は 1月 15日 に どん と祭 を開催 し古 い御札 や正 月
飾 り等 を燃すが、古 くは この五 元 日祭 で処分 されて い た よ うであ る。 出店 も立 ち、 ミカ ンまきや餅 ま
きでは早朝 にも関わ らず 多 くの近隣住民が集 まる。餅 まきの餅 には当た りが 3つ 入 ってお り、当 たっ
た人 には二福神 (恵 比寿 ・大黒 )が 贈 られ る。 競 って餅 を拾 う人、早速食 べ る人な ど正 月 らしい賑 わ
い を見せ る。氏 子青年会や近 隣 に住 む人 々の話 に よる と昔 は五元 日祭 で 5枚 一 組 に した 白煎餅 (餅 米
で作 る)が 売 られて い た とい う。 この煎餅 を等火 で焼 いて食べ る と健康 で い られ るのだそ うで あ る。
この五 元 日祭 と平行 して同 日志和人幡宮 では裸参 りが催 され る。 この裸参 りは元来、近 隣 にあった
造 り酒屋 の蔵人が醸造安全 を祈願 して行 って い た もの と伝 え られ る。志 和 入 幡宮 か らも程近 い上 平沢
集落 には大正末頃 まで営業 して いた造 り酒屋があ った。銘柄 は「富久鯛」とい う。地域 では「権兵衛 酒屋」
の名称 で語 られる。創 業者 は近江商人の村井権兵衛 とい う人物 で あ った。地域 住民 の 間 では この 人物
が南部杜氏 の生みの親 と考 え られて い る。『紫波 町史』 に よる と南 部杜 氏 の起 源 は紫波 町内 に土 着 し
た近江商人の近江屋村 井権兵衛 が紫波 町志和地 区 (旧 志和村 )で 酒造業 を始 めた ことに由来 して い る
とある。村井権兵衛酒屋 は里 謡 に も登場 し、明治 30年 頃は造石 高 3000石 で 職 工 店員 は 8,90名 で あ っ
た と口伝 されて い る
(『
紫波 町史』 第 2巻 P672)。
この権兵衛 酒屋 は大正 末 頃 まで続 くが、経営 を多
岐 に広 げす ぎて大正 13年 、破 産 に至 った とい う。 上 平沢在住 の 中村 良 一 さん (大 正 6年 生 )は 子供
の 頃、 この権兵衛酒屋 の 蔵 人たちに よって行 われた裸 参 りを実 際 に見 たそ うである。 この 酒屋が裸参
りを始 めたのではない か と語 る。 中村 さんによれば昔 の権兵衛 酒屋 の裸参 りは揮 一つで行 っていた と
い う。採 り物 の「挟み」 や供物、注連縄 な どは現在 と同 じような ものだった と語 る。酒屋 だけではな
く、醤油屋 な ど大 きな風 呂 を持 つ 家 (多 くの従業員 を擁 す商家 )で も行 っていたそ うであ る。 冷 えた
体 を温 め るため、一 度 に大 人数入れ る風 呂が なければ裸参 りはで きなか った。風 呂 の確保 は裸参 りを
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
行 う上での必要条件だ ったようであ る。
志和人幡宮の裸参 りは戦後中断
(註
1)さ れてい たが、 昭和 49(1974)年 の志和人幡宮氏子青年会
の結成 を機 に氏子青年会 を打 ち出すために何かをしよう、 とい う機連が高まった。そのような中、地
域 の古老 よ り昔行 われていた裸参 りの話 を聞 き、氏子青年会が復活 させたとい う。 この古老は裸参 り
に参加 した経験 はなかったが準備 な どを手伝 ったことが あ り、注連縄や道具 の作 り方 を知っていた と
い う。復活後、裸参 りが ニ ュース などで放送 されるようにな り「絶対続けなければならね えなあ」 と
思 うよ うになった とい う。以 降現在 まで氏子青年会主導 で継続 されている。年代 によ り上衣の有無 な
どの差異 はある ものの基本的な衣装は現在の大崎八 幡宮 の裸参 り衣装 と似てい る。鉢巻 き
(前 締め)、
台形状 に折 られた口紙、鉦、幣束 を差 した注連縄、白足袋 に草雑 を履 く。一時揮 を締めた とい う話 も
あるが、写真 な どで確認 で きるのは半股引を着用 してい る姿 のみであ った。志和入幡宮 の裸参 りで特
よ「ハ サ ミ (挟 み)」 と呼ばれる三角形 に折 った紙 を 49枚 挟み込んだ 2mほ どもある長
に 目を引 くのイ
大 な杉 の棒 を持 つ 点である。由来や起源は不明だが、 この挟み を一歩歩 くごとに大 きく上下 させ る。
この動 きと連携 した歩 き方が志和入幡宮の裸参 りの大 きな特徴 となっている。裸参 りへ の参加者 は志
和 八幡宮 の氏子 だ けではな く盛岡など他 の町村か らもみ られるが、多 くは紫波町近辺 に勤務 してい る
など何か縁 のある人が出るもので誰 で も参加可能 とい うわ けではない ようである。 また女性 の参加 を
断 っているわけではないが習慣的に男性 だけの参加になっている。前年に子供が生 まれた人や身内に
不幸 のあ った人は裸参 りには出 られない。
裸参 りの衣装 ・採 り物 などは氏子青年会が作成 ・購入 し準備す る。注連縄 の藁 は前年 の新 ワラを使
い
(元
は ミゴを使 って作 った とい う)、 12月 の第一 日曜 に参加者分 を氏子青年会 で作成す る。準備 は
男性 だけで行 われる。裸参 り復活前 は各参加者、団体で作 った ようである。 で きた注連縄 は神楽殿 に
しまってお く。挟み も同 じく 12月 中に氏子青年会で作成 す る。挟みは復活当初、材料 に半紙 を用 い
ていたが、雪や湿気 などです ぐに垂れて しまうため、現在 は奉書紙 を用 いて作成 してい る。正 方形 の
紙 を少 しず らして三角形 に折 った紙 を 49枚 作成 し、 中央 に溝の入 った杉 の角棒 に挟み込み、ね じ止
めする。口紙 も同 じく奉書紙 で作 る。復活当初は口紙 の 中に トウガラシを挟んだとい うが今 は行 って
い ない。
大崎八幡宮 など仙台の裸参 りでは正方形 の紙 を半分 に折 った三角形 の ものが定着 してい るが、
志和人幡 の裸参 りでは口紙 は台形状 に折 り、細 い側
(上 底 )を
口に くわえる。他 の採 り物 ・衣装は購
入する。復活当初 は防寒 のため半袖 シャツを着 て晒 しを巻 いた。今は上半身は晒 しのみである。
平成 18年 1月 5日 の志 和 八幡宮裸参 り 志和人幡宮 の裸参 りの 日は例年雪が降 る とい う。平成 18
年 も例 にもれず風 の ない静かな降雪 に見舞 われた。雪が降 らない と裸参 り特有 の厳かな雰囲気が出な
い と話す人 もお り、雪 を歓迎 してい るよ うだった。 まだ 日の出前の早朝 4時 頃、参加者、世話人 らが
志和入幡宮 に集合 す る。その後、志和 入 幡宮 よ り車 で 10分 ほ どの距離 にある温泉施設あづ まね温泉
ききょう荘ヘバ スで向か い、温泉に入 り体 をあたためる。裸参 り復活当初は近隣の家 々で風呂を借 り
て参加者 は各家 に分散 して体 をあたためていた。 い きな り熱 い風呂に入ると体が冷めやす いので風呂
を借 りる各家 々 に頼み、ぬるめの湯か ら徐 々に熱 く焚 い て もらった とい う。 だがそれぞれ異な る場所
で風呂に入 ると集合 までに体が冷えて しまうので― 力所 で風 呂に入 る方が便利が よい とい うことにな
り、現在ではあづ まね温泉 ききょう荘で入るよ うになったそ うである。参加者が入浴中に氏子青年会
の世話役が施設内の座敷 にて着衣 の準備 を進める。座敷、お よび出口までの廊下 には草雑の藁が落ち
ない ようビニー ルシー トを敦 き、注連縄、晒 しなどの衣装 を用意す る。入浴 の済 んだ者 か ら座敷で氏
子青年会 らに晒巻 きなどの身支度 を整 えて もらう。長年参加 してい るベ テラ ンが経験 の浅 い者や 1年
目の者に衣装 の着用 を手伝 う姿 も見 られた。衣装の準備 が済 む と、御神酒を飲みおにぎりなどで腹 ご
しらえす る。裸 参 りの前 日は食事 をとらないのだとい う。参加者全員 の身支度が整 った後、 ききょう
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
荘 よ リバ スで 出発地点へ 向か う。5時 30分 頃、上 ・下 の各出発地点 にて行列 を整 える。準備で き次
第出発す る。志和 八幡宮前の裸参 りの通る道沿 い (商 店街)の 各家 々か らは見物人が顔 を出 し、裸参
りの男達 の行列 を見守 る。地域の人 々 には事前 に祝儀袋 を配 り、行列が前 を通過す るときに ご祝儀 を
出 して もらい、それを世話役が集める。最近 は毎年出 して くれる家 も増えた とい う。その後、参道前
の鳥居 にて、上・下、 2つ の行列が合流す る。裸参 り復活後、行列出発地点 は上 と下の 2カ 所 に分か
れたが、 これは人 幡宮前 の多 くの人に見 て もらうための演出なのだとい う。氏子青年会 による復活後
の裸参 りは各所 にこのような演 出が盛 り込 まれ、裸参 り独特 の雰囲気 を強調 してい る。合流 し、鳥居
を くぐった後 はす り足 でジグザ グに歩 き、 一歩 ごとに挟みを上下に大 きく振 る。 カマ イタチ といって
寒 中 の風 などで肌が切れる ことがあるがそれを防 ぐため走 ってはならないのだ とい う。参道 を神社ヘ
向か い、拝殿で一礼 し、拝殿 。本殿 を左回 りに一周 し、一度鳥居 か ら神社 を出る。その後神社前にあ
る農業用水 の堰 を渡って楔 ぎを行 い、再度神社 へ戻 り拝殿 。
本殿 を三周 し、供物 を納め、祓 い をする。
腰 に巻 いていた注連縄は御神木 に結びつ け、拝殿前 にて記念撮影 を行 う。その後、一時解散 し再度 き
きよう荘 ヘバ スで向かい、入浴 して体温 を戻す① この後、神社 で直会 となるが、直会 には参加せずそ
の まま仕事先へ 向か う人 もお り、全員 の参加 ではない。 このとき神木に結びつ けた注連縄 は志和入幡
宮 の どん と祭 で焼 く。志和人幡宮で どんと祭 を実施するようになる前は 1年 間神木 に注連縄 を掛 けた
ままに してお き、翌年 の五元 日祭で焼 いたが、 あま り見栄えもよ くなか ったので どん と祭 で焼 くよう
になったそ うである。直会 は五元 日祭 と裸参 りで別個 に行われる。五元 日祭 と裸参 りは中断 の影響か、
別個 の行事 のように見受けられた。
裸参 り行列
(平 成
18年 1月 5日
)
参加者 20名 、奉納者 12名 。半数ずつ上 。下 の 出発地点 よ り出発。
役職 は基 本的 に氏子青年会で決める。裸参 り参加 1年 目の者 は裸参 り行列 の花形 である挟みを持 つ こ
とはで きない。以下に平成 18年 度の行列 の 内訳 を記す。
袢 :青 年会 の会長
氏 子 青年会会旗 :下 よ り
/Jヽ
提 灯 × 2:_Lよ り
御 神 酒 :下 よ り
お供 え :下 よ り
三 宝 (魚 ):下 よ り
三宝 (野 菜 ):上 よ り
三 宝 (果 物 ):上 よ り
挟 み × 12:上 ・下、各 6名 ず つ 。
註
1
熱心 に戦勝 を祈願 して裸参 りを続 けて いた人が敗戦 を機 に裸参 りをやめて しまった。 この ような事例 も裸参 り中
断 の原因の1つ のようである。
(5)事 例 ・ 岩 手 県 雫 石 町 、 三 社 座 神 社 ・ 永 昌寺 の 裸 参 り
雫石街道 と雫石 雫石 は、雫石川中流の河岸段丘上 に位置す る雫石盆地 に開けた集落で、藩政期 には
盛 岡 と秋田を結 ぶ要路 であ った雫石街道 (現 国道 46号 線 )の 宿駅 として発達 した。元禄期 まで幕府
や諸大名 の馬買衆 はこの街道 を下向 し、幕府巡見使 の藩境視察 では雫石 に御仮屋が設け られた。盛岡
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
藩 の地方行政単位である雫石通十 ヶ村 の 中心地 として雫石代官所が置かれ、雫石 の 町 は検 断 を中心 に
自治が行 われた。
近 江商 人高嶋屋
寛文 10年 (1670)12月 、雫石村 の兵右衛 門 とい う者が造酒屋 を営 んでいたが 、御
物成、す なわち酒税 としての御礼金 を上納 で きず、盛 岡 の上 野市右衛 門に造酒株 を保証す る酒屋 証文
を売却す る。 この造酒株取得 を契機 として市右衛 門は雫石 に造酒屋 「高嶋屋 」 を出店 して名 を市左衛
門 と改 めた。以 降明治初期 まで、代 々の 高嶋屋市左衛 門は雫石 の酒造家、後 に また材 木商 として大店
を切 り盛 りしてい く。
上野 市右衛 門は もと、宇都宮城主奥平氏 の家 臣、 上 野市兵衛 の次男 で あ り、寛永年 間 (1624-1644)
「 次男以下 は随 身 自由」の意 を受 け、武士 を捨 てて宇都宮 の 商家 に仕 えて商人 となっ
藩主が転封 のお り、
た。 寛文 9年
(1669)、
盛 岡新 町 の美濃屋権兵衛 を頼 って移住 し、翌 10年 雫石 の造酒株 を美 濃屋 の助
力 で取得す るので ある。初代市左衛 門には男子が なか った ことか ら、 二代 目には、盛 岡市本町 の近江
屋 市兵衛 の手代 で、近江 国高嶋郡北畑村 の清水清右衛 門 の弟勘十郎 を婿 に迎 える。近江商人 『高嶋屋』
の屋 号 は、 この勘十郎 に由来 す るのであ ろ う。
四代 目市左衛 門の時代 に、酒造 業 に くわえて木材 ・ 鉱 山に も事業 を拡大 し、寛保 2年 (1742)に は
藩 の新 田開発政策 に尽力 した功 に よ り、 四十石刀差 しを許 されて い る。四代 目は長男 には造酒屋 と高
嶋屋 市左衛 門の名跡 を、次 男 には四十 石刀差 しの家格 と上 野家 の名跡 を継が せ、上 野市兵衛 と改め さ
せ た。
高嶋屋 は雫石 の大商家 として、 飢饉 の救 済、菩提寺廣養寺 の再建 な どに努 めた とい う。雫石 町中町
の 曹洞宗廣 養寺 の施設 の 多 くを高嶋屋 が 寄進 し、享保 19年 に寄進 された大鐘楼 と大梵鐘 も大檀家 高
嶋市右衛 門 と米沢半兵衛両 人 の建立 と伝 え られ る。上 野家 は江 戸末期 には代官下役 を勤 め、 明治以 降
は県会議員、初代雫石 町長 のほか 、海軍 中将、 肖像画家 な どの人材 を輩 出 して い る
雫石 の 酒造
(註
1)。
一 般 に落政期 の造酒屋 は、 年 々の 米 の 豊凶によ り変転す る藩 の統制 を受 け、酒造石高 の
増 減 と店 の盛衰 はめ ま ぐる しい。雫石 の 造 酒屋 も藩政期 を通 じて興 隆 と廃 業 を繰 り返 して い る。宝
歴 年 間 (1751-1764)雫 石 通 りには高 嶋屋 を含 め て三 軒 の 酒屋 が 店 を構 え、 上 町 。中町 ・ 下 町 の 町
並 み に当て た上酒屋 。中酒屋 ・ 下酒屋 とい う町 中 での 通称 も記録 されて い る
(註
2)。
だが 寛政年 間
(1789-1801)に は造酒屋 は高嶋屋 一軒 のみ とな り、そ の経営 は思わ しくな く造石 高 も減少 し、天保 12
年 (1841)に は藩か ら 150駄 の米 を借 り受 け、安政 4年 (1857)に は清酒 の 酒造高 を 60石 に減 らし
て濁酒 の醸造 に切 り替 えるな ど、 店 を維持 す る努力 を続 けて い る。
文久 3年
高嶋屋 は家屋敷か ら酒造道 具 まで を火災で焼失 し、雫石通 りの造酒屋 は姿 を消す。
そ う した中で、雫石 の検 断、各村 の肝入 。老名 の連署連印の うえ、雫石通村 々惣 百姓 の名 の下 に、 高
(1863)、
嶋屋 へ の再興 のための米 300駄 の 十 ヶ年年賦償還 での貸付 け願 い が、 雫石通代 官宛 に出 されて い る。
書面 で は、 百姓共 の 山川 の働 きも、駅所夫伝馬相勤 め る者 も、酒屋が無 くて は迷惑 し、万事融通 な ら
ず、市 中 はい よい よ衰 え、役 人 の宿 を勤 め る者 も無 くな り、村 一統容易 な らざる迷 惑 を して い る と訴
え、さ らに「万 一上 納相滞 り候 はば、市左衛 門へ 不拘 、御百姓共 にて弁済可仕候」 と書 き添 えて い る。
こ う して雫石通村 々一 統 の 唯 一 軒 の 酒屋 として 高嶋屋 は再興 され、明治初 め まで続 け られ るので あ る
(註 3)。
明治 10年 (1877)頃 高 嶋屋 は廃 業 し、 その後 雫石村 に 3軒 、上 野村 に 2軒 の 造 酒屋 が 開業 され、
明治 30年 (1897)10月 その 5軒 で雫石 酒造業組合 を組 織 して い る。 その うち雫石村 中町 の和 川 と下
町 の大久保 は、大正 期 を経 て 昭和初期 まで営業 を続 けるが、昭和 7年 (1932)の 金融恐 1院 に よ り廃業
する
(註 4)。
阿弥陀 さんへ の蔵人の裸 参 り 現在毎年 1月 第 3日 曜 日に、 雫石 町上 町 の三 社座神社 か ら下 町 の永 昌
寺 まで、雫石 町商店街が軒 を連 ね る旧 国道 46号 線 をた どって行 われ る雫石 町裸 参 りは、か つ てその
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
道筋 に店 を構 えた造酒屋 の蔵人 たちが始めた寒 中 の行事 として、町の人 々 は今 も伝承 して い る。
雫石 町出身 の大正 8年 生れの男性話者 によれば、子供 の 頃、暮 れの 12月 14日 、和川 とい う酒屋 の
蔵人 たちが裸 に晒 しを巻 き、腰簑 を着 け、 ハ サ ミを掲 げ て、 ゆっ くりと歩 き、阿弥陀 さんの寺 まで裸
参 りを して い た とい う。 また、 同 じく大正 11年 生 れ の男性話者 は、子 ども時代 に営業 して い た大 久
保 とい う酒 蔵 と、 蔵 の敷地 に並 んだ大 きな桶 の列 を記憶 して い る。 そ してそ の 蔵人 たちが、12月 14
日に腰 簑 を着 け、横 綱 を巻 い て、裸参 りを して い た とい う。大 正生 まれ の話者 たちの記憶 に よれば、
当時 の 蔵人 の 裸参 りと、復活 された現在 の裸参 りとで は、装 束、 ハ サ ミな どの持物、所作作法 な どの
点 で、大 きな違 い はない よ うで あ る。
阿弥陀 さん の寺 とは、下町の石 水 山永 昌寺 の こ とで、 雫石商店街 の東端 に位置す る曹洞 宗 の寺 院で
ある。道沿 い 西方 の浄居 山廣養寺 の 末寺 で、 本尊 は釈迦 牟尼仏 だが、堂内に阿弥陀如来 を安置 し、 12
月 14日 に祭礼 が行 われ、 この 阿弥陀 の祭礼 に裸参 り祈願 が行 われたのであ る。 なお旧国道沿 い には
東 か ら西 に廣 養寺、臨済寺 、永 昌寺 と寺 が甍 を並 べ 、 町 の人々は順 に上 寺、中寺 、下寺 と呼 び習 わ し
てい る
(註
5)。
こ う した裸 参 りをめ ぐる町の伝承 は、2004年 1月 18日 の裸参 りで見学者 に配 られた案 内チ ラシに
も書 き記 されてお り、「裸参 りの 由来」 として、「昔 、雫石 の広養寺 と臨済寺 の 間に高 島屋 とい う大 き
な酒屋 があ り、大 正時代 に入 っては大 久保、和川 とい う二 軒 の 酒屋があ った。 酒屋 の蔵廻 りの若者 た
ちが健康 を祈 願 しての行事 で、毎年厳寒 の 12月 14日 に実施 された。お酒 を呑 んでか ら、足 をそ ろえ
てゆっ くり歩 き、永 昌寺 の「あみだ様」 にお参 りした」 とあ る。 この裸参 りは、昭和 7年 (1932)両
酒屋 の廃業 に よって中 断 し、昭和 12年 (1937)頃 青年会 に よって再興 され るが再度 中断 し、昭和 55
年 (1980)に 雫石 町青年 団体連合会 に よ り復活 されて現在 まで継続 されて い る
(註 6)。
2004年 の雫石 町裸参 りは、正 月第 3日 曜 日の 1月 18日 に行 われた。参加者 22
名 は「 裸参 り祈願者」 と呼 ばれ、全 て 20歳 か ら 30歳 代 の男性 である。 朝 9時 に雫石公民館 に集合 し
雫石 の裸参 りの現在
打合 せ、 長 山 の西 山診療所 に移動 して健康診断、その後鴬宿温泉 の旅館 で昼食 を と り、裸参 りに備 え
て入浴す る。 祈願者 の 日程表 には、そ の折 の注意 として 「 しっか り温 まってか ら、暖か い お湯 か ら順
にぬ るい湯 をかぶ り、最後 に冷水 を浴 びて体 の毛 穴 をふ さいで か ら上が りま しょう。 これ を しな い と
熱が奪 われ や す くな り寒 くな ります」 と記 されて い る。入 浴後 12時 に上 町 の三 社座神社 に移動 し、
境 内 の社務所 で裸参 りの 身仕度 にかか る。
裸参 りの 装 束 は、 裸 の下半身に白晒 しを巻 い て藁製 の腰簑 を着 け、横綱 と呼 ばれ る紙垂 れ の下が っ
た太 い しめ縄 を腰 に巻 き、お守 りと呼 ばれ る横綱 よ り小 さい しめ縄 を輪 に して右肩か ら左脇 に斜 めに
背負 う。頭 に白晒 しで向 こ う鉢巻 きを し、足 は素足 に草軽 を履 く。
12時 45分 、雪が降 り積 もった神社 本殿前 に裸 参 り祈願者 が整列 し、神主 に よる神事 の後 、祈願者
全員 に守札 が 手渡 され、神 酒が ふ る まわれ る。 その後神社 の 鳥居前 に行列順 に整列 し、 13時 に「歩
行祈願」 と呼 ばれ る永 昌寺 までの練 り歩 きが始 まる。
行列 の 次 第 は、先頭 には最 も裸参 り参加歴 の長 い 10年 目の祈願者が ハ サ ミを掲 げ、次 に御神酒 2名 、
御供 え 1名 、御沙穀 (お さ ご)1名 が、 それぞれの供物 を捧 げ て続 く。 その後 に提灯 ・ハ サ ミを持 っ
た各 1名 が続 き、6名 が祈願内容 を墨書 した峨 を掲 げ る。 同様 に提灯 ・ハ サ ミ各 1名 の後 に、峨 6名
「五穀豊穣」「無病息 災」「家
が続 き、最後 尾 を提灯・ハ サ ミ各 1名 が 占め る。 職 に書 かれた祈願 内容 は、
「青少年健 全育成」
「雫石 町発展 J「 明 るい選挙」
「商 売繁盛」
「交通安全」な どの一般 的祈願 の他 、
内安全」
な どが 見 られた。
祈願者 た ち は皆 口に三 角 に折 った 白紙 を咬 む。 ハ サ ミ・提灯 。峨 の担 当 はそれぞれ を左 手 に持 ち、
右手 に鉦 を持 つ 。片足 を一 歩踏 み出す とともに鉦 を振 り、踏み出 した膝 を曲げ重心 を低 くして、 ハ サ
ミと峨 は地面近 くまで下 ろされ、その まま数秒 間 ため られてか ら、お もむ ろに体 を延 ば しハ サ ミ・峨
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
を も との 位 置 に引 き上 げ、後 ろ足 を引 きつ け る。 片足 ず つ この所作 を繰 り返 しなが ら、 1.8キ ロ東 の
下寺 と呼 ばれ る永 昌寺 まで を 1時 間半か け、 きわめて緩慢 に練 り歩 い て い く。道 々、か つ て参加 した
経験者 が初参加者 に付 き添 って歩行 の所作 を指導 し、 口紙 の替 えを持 って 同行す る係 りが、祈願者 の
濡 れ た 口紙 を新 しく交換 して世話す る。 沿道 には町の人 々が並 んで祈願 の若者 たち を見 守 り、祝儀袋
を用意 した者 は行列 に一礼 して係 に手渡 す。途 中、上寺 と呼 ぶ広養寺、中寺 と呼 ぶ 臨済寺 の参道入 口
にかか る と、 各祈願者 は練 り歩 きの所作 を中断 して寺 の 門に向かってハ サ ミ 。峨 とと もに深 く頭 を下
げ、再 び練 り歩 きを続 け る。
永 昌寺 の 本堂前 の雪 の上 には、堂 に向 か って 3本 ず つ 2列 の竹が雪玉 に突 き刺 して立 て られ、各
1
3本 の竹 は縄 で結 ばれてある。永 昌寺 に到着 した祈願者 は、最初 に 2列 の竹 の 中央 を進 んで本堂前
で供物 ・ 持物 を納 め、その まま鉦 を振 りなが ら 2列 の竹 の外側 を右 回 りに 3周 して裸参 りの歩行祈願
列
を終 わ る。 15時 に最後 の祈願者 が永 昌寺 に到着 し、本 堂 内で祈祷 を受 け、堂 内 の 阿弥 陀如来 を拝 し
て裸参 りは終 了す る。
そ の 後鴬宿 の温泉旅館 に戻 り、入浴 して冷 えた体 を暖め る。 今度 はぬ るい湯か ら順 に熱 い湯 に入 る
よ うに と注 意 され る。入 浴後、雫石公民館 に移動 し、祈願者 と関係者 一 同 で 感謝祭 を行 い全 日程 を終
了す る。
註
1.
高 嶋屋 上 野家 の歴 史 と雫石 との 関連 につ い て は、 雫石 町史編 纂委員会編 『雫石 町史』 1979 p341、
雫 石 町教 育委員会 『雫石 の 旧家』 1982 p.2-3、
近江 商 人末裔 会編 『近江商人東北 の 末裔 た ち』 p.129-131に 拠 る。
2. 註 1前 掲 書 p342。
3. 註 1前 掲 書 p.341-345。
4. 註 1前 掲 書 p889893。
5
註 1前 掲 書 p l167-1168、
6
雫 石 町編 『雫石 町史第 2巻 』 1989 p1053-1054、 「2004年 雫石裸参 り案 内チ ラン」。
第 3節
(1)
雫石 町教 育委員会 『雫石 の寺社」 1989 p4-6。
裸参 りの拡散
流 行 と しての裸 参 り
大崎八 幡宮 の どん と祭 の裸参 りの主 役が造 り酒屋 の蔵 人であった こ とは論 を待 たな い 。
○暁参 リ ー月十四日の官 より翌十五 日の朝迄暁参 りと唱へ人 幡町なる大崎人幡神社 へ参詣す るの
習慣 にて年 々同社 は賑ふことなるが殊 に本年即 ち一 昨 日の宵 の中は参詣人頗 る多 く社 内の雑沓 一方
な らず 中にも囲分町の酒造家大崎市三郎方 にては呑頭雇人等十余名が白襦袢 一枚 にて参詣せ し如 き
は人 々の 目に付 きた りしと併 し商ひは相愛 らす不景氣お蔭 で繁昌な りしは常盤丁 な りしといふ
「奥羽 日日新聞」明治 24年 (1897)1月 16日
この 記事 に登 場す る大 崎市 三 郎 は、 明治初年 に創業 した蔵元で、銘柄名 は「高歳」 で あ ったが、 明
治 44年 に廃 業 して い る。 この よ うに、 裸参 りは造 り酒屋 の格好 の宣伝 の場 に もなって いた。 それが
やが て他 の企 業 に も波及 して い った。
大崎 八 幡宮 の氏子総代長 で もあ った庄司寿氏 (大 正 7年 生 )│こ よれば、
昔 の裸参 りは主 に、天賞、勝 山、
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
竹 に雀、鳳 山な どの酒屋 が 中心 になって行 っていた。「天 賞 さん来た」「勝 山さん来 た」 と言 って、 見
て い た とい う。 天 賞 を含 め、酒屋 の裸参 りは厳粛 な ものだ った とい う。酒屋 の他 に、商店街や映画館、
百貨店、不動産 関係 の企 業 の参加があ った、 との ことで あ った。
そ の一 方 で裸参 りは「祈願」 の有力 な姿 ともされた① 日露戦争 の最 中 の どん と祭 には次の よ うな裸
参 りも登場 した。
●戦時の裸参 り 別頂所載 の大崎入幡神社祭事 に就 ては慣例 によりて裸参 りす る者時節柄 として殊
に多数 なるべ く就中出征者 の烏 め蓋す婦女子尤 も多かるべ し
「河北新報」明治 38年 (1905)1月 14日
このように裸参 りにはかな り早 い段 階か ら、一種 のブームの よ うな要素 があった。それが一気 に加
速す るのは戦後の高度成長期 と、昭和 60年 代か らのバ ブル時代 で あ った。 しか しこの二つ の波 には
違 いがあった。高度成長期 の裸参 りは、裸参 りの参加者が企業や団体単位 で、 しか も気軽 に参加で き
るように裸参 りの作法 のマニュアル化や衣装 の画一化が背景 にあった。 これに対 してバ ブル期 の裸参
りは、企業 の宣伝用 のぬい ぐるみで参加 した り、酒を飲 んで騒 ぎま くるなど従来の基本 ルールが破壊
される傾向があ った。 さらにその一方 で大崎人幡宮以外 の どん と祭が盛 んになるにつ れて、大崎入幡
宮以外 の神社仏閣の どん と祭 に裸参 りす る人 も増えていった。
このように裸参 りはその時 々の社会情勢や人々の意識 の変化 によって様 々な形 をとって きたと言え
る。以下では、裸参 りの拡散が どのように進んで きたのか、実際 の参加者 の事例 をもとに検証 し、報
告す る。
(2)裸 参 りの 画 一 化
大崎人幡宮 で行 われる裸参 りは、造 り酒屋 の杜氏や蔵人が、新酒 の吟醸、醸造 の安全 を祈 って神社
へ参拝 した ことに始 まると言われてい る。現在の裸参 りには酒造会社 に限 らず、仙台市内の企業や大
学 な ど多様 な団体が参加 してお り、平成 18年 には 101団 体 2,433人 が参拝 してい る。参拝者 は事前
に大崎人幡宮 に申 し込みを済 ませ、千円のお守 り代 と昇殿料 を支払 う決 ま りになってお り、衣装 を揃
え手続 きを済 ませれば、誰で も気軽 に参加す ることがで きる。
大崎人幡宮へ の参拝者 の多 くは、男性 の場合、晒 し腹巻 に、揮 もしくは半股引を着用 し、女性 の場
合 には、晒 し腹巻 に白襦袢 もしくは晒 し伴天 を着用 して い る。男女共に、白足袋 を履 き、頭 には鉢巻
きを巻 く。腰 には細 い注連縄 を巻 き、提灯や鐘 を持ち、日には含み紙 を挟んで、無言で参拝するとい
う様式が定着 して い る。現在 と同様 の衣装が定着 したのは、昭和 40年 代 のことであ ると言 われてお り、
それ以前には、装束や参拝 の形式 も様 々であった。
本項にお いては、大崎入幡宮 を中心 に行 われて きた裸参 りにお いて、参拝時 に着用 される装束が ど
のよ うに変化 して きたのか、裸参 りの衣装 の変遷 をた どることを目的 とす る。具体的には、現在 の裸
参 りの原形 となった杜氏集団 による裸参 りの衣装 の変遷 と、 昭和 30年 代以降、多様 な団体が参加 し
始 めた後 に生 じた変化の過程 を検討す る。
社氏 の裸参 り衣装
どん と祭 の裸参 りが酒造 りの関係者 による行事 として定着 して きた ことは疑 い得
ないが、その衣装 には、大 きく分けて二つのパ ター ンと時代 による変化が見 られた。明治期 の新 聞記
事 によれば、明治 22年 1月 16日 の「奥羽 日日新聞」 では「如何 なる立願 のある難有連 にや裸体参 り
又は薄衣参 りと唱ふる参詣人 も六七名あ りて」 と記載 され、裸参 りには裸の姿 と薄着 の上着 を着 た姿
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
の 漑方が見 られた よ うであ った。一 方、造 り酒屋 の 関係者 の裸参 りの姿 としては、 昭和 15年 7月 に
仙墓昔話会 か ら発行 された「仙墓 年 中行事綸巻」 の 『正 月習俗 の 図』 の「裸 まうて」 では、三人の 男
が上半 身裸 で鉢巻 きと腰 に前垂 れの下が った注連縄 を着 け、先頭が鐘、二 番 目が 三 宝、 三 番 目が「菅
原」 と書 い た桶 を持 ち、裸足 で歩 い て い る姿が描かれて い る。 解説 によれば この絵巻 の成立年代 は嘉
永 3年 (1850)頃 であ ることと、三 番 目の男が持 つ 桶 に書 かれた「菅原」の名前 か ら、 この裸参 りは
国分 町 の 酒 造家菅原家 (銘 柄名 「千松 島」)の 蔵人 で あ る と推 定 されて い る。
そ の後 しば ら くは裸参 りの衣装 につ い ての 資料 が途切 れ るが、 昭和 10年 代 の 姿 を伝 え る写真 な ど
が存在す る。 ひ とつ は平成 6年 2月 に 日曜随 筆社 か ら刊行 された高木謙次郎氏 の 『わが酒屋 うた』 に
収 め られ た、高 木氏 の実家 の「鳳 山酒造」 の裸参 りの 写真 で、 キ ャプシ ョンでは 昭和 10年 頃 の もの
とされて い る。そ こでの衣装 は頭 に白鉢巻、 口に含 み紙、上半 身 は長袖 の 白い肌着 の シャツで袖 を肘
まで ま くり上 げ、腰 に大 い注連縄 を巻 き、数本の紙 の御 幣 とた くさん の藁 の下が りを前垂 れの よ うに
着 け、 白 い 半股 引 に白足 袋、車軽 を履 い た 姿が写 ってい る。 これ とほぼ 同 じ姿 の 写真 が、昭和 15年
2月 に仙台観光協会が発行 した 『仙墓 の年 中行事』 の口絵写真 に「松焚 祭裸詣」 として掲 載 されて い
る。 こち ら も鳳 山酒造 の裸参 りであ るが、 持 ってい る「祈願板」 の文字が異 なるため、時期 は違 うも
ので ある こ とがわか る。 但 し姿 は 同 じで、歩 きやす い よ うに真 の下が りを腰 の左右 に振 り分 け て歩 い
て い る写真 であ り、昭和 14年 以前 の近 い時期 の もので あ る と思 われる。
さらに大 崎人幡宮 のお神酒酒屋 で青葉 区入 幡町 に在 った天 賞酒造 には、大正か ら昭和 にか け て活躍
した小説家 、 随筆家 の平 山置江 (1882∼ 1953)が 、 昭和 15年 と 16年 の天 賞酒造 の 蔵人 の 裸参 りを
描 いた絵巻 物 が残 されて い る。その絵 巻 に描かれた衣装 は、頭 に白鉢巻、 口に含 み紙、 上 半 身 は白い
晒 しの半纏 を着、腰 に太 い注連縄 を巻 き、数本 の紙 の御 幣 とた くさんの真 の下が りを着 け、 白 い半股
引 に白足袋 、草履 を履 い た姿 で あ った。 これ につ い て 昭和 35∼ 52年 まで天賞 の蔵人 を して い た高橋
満氏 (大 正 6年 生 )の 話 によると、天 賞 の裸参 りの装束 は、近 年 の上 半身裸 の前 は、晒 しの 半纏 に半
股引 を着用 して い た とい う。中に寒 さを防 ぐため、 麹室 で使 っていたネルを巻 きつ け る者 もい た。足
は素足 に草 姓 で、 後 に草牲 を作 る人が い な くな ったため、 白足 袋 になった との ことで あ る。 これ に対
して、 さ らに以前 の天 賞酒造 の裸参 りの衣装 は違 っていた と話す人 もい る。大 崎 八幡 宮 の 氏子総代長
で もあ った庄 司久氏 (大 正 7年 生 )に よれば、 昔 の天 賞 の裸参 りは 20∼ 30人 の行列 で、鐘 の音 に合
わせ てゆっ くりとした歩 き方 を した。装束 は揮一 本 だ ったが 、後 に晒 しと股引が加 わるよ うになった。
揮 一 本 とい う時期 は、勇壮 で見 ものだった と話 して い る。
この よ う に造 り酒屋 の裸参 り衣装 はそれぞれの蔵 ご とに、 あ る い は時代 に よって変化 して きて い る
こ とが 分か る。それが さ らに変化 し、そ して画一化 す るの は戦後 である。 次項 で詳 しく述 べ るが、天
保 13年 (1842)に 酒造 を 開始 した仙 台 の勝 山酒造 部 で は、 第 2次 世界大戦 中に取 り止 め ていた裸参
りを昭和 30年 代 の初め に復活 させ た 際、衣装 も古 い 蔵 人 らか ら話 を聞 い て復活 させ た。 その衣装 は、
腹 に晒 を巻 き、上着 は着用 しない。頭 に白はちま き、 白い半股引、 白足袋、 白鼻緒 の草履 を履 く。腰
に注連縄 を巻 き、 口に含み紙 を唾 え、右手 に提 灯、左 手 に鐘 を持 つ もので あ った。 勝 山酒造部 はこの
姿 で裸参 りし、当時 は造 り酒屋 の裸参 りで も上半 身裸 と、上 着着用 の二 つ の姿 の裸参 りが見 られたの
で ある。そ れ に再 び転機が訪れ る。 昭和 48年 秋 に天 賞酒造 の杜氏 に就任 した高橋貢氏 (昭 和 7年 生、
平成 11年 没 )が 、それ まで の晒 し半纏 を着 た天 賞酒造 の 裸参 り衣装 を、勝 山流 の上 半 身裸 で晒 し腹
巻 を巻 く形 に切 り替 えさせ たのである。その理 由は当時天賞酒造 の蔵人 を して い た高橋満氏 (大 正 6
年 生 )に 聞 い て もよ く分か らなか った。 しか し勝 山 と天 賞 とい う仙台市 内 の老舗 の 酒蔵が、 同 じ裸参
り衣装 を採 用 した ことの影響 は大 き く、やが て人 幡 町 の衣料 品店 の「 ホ ズ ミ」が、新 しい 天賞酒造の
衣装、す なわち勝 山酒造部 の衣装 を裸参 りの標準形 と見 なす よ うになった と言 われ、衣装 の 画 一化が
始 まるので あ る。
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
企業 による裸 参 りの始 ま り 戦後、大崎人 幡宮 へ の裸参 りが復活 した のは、昭和 22年 の ことで ある。
昭和 20年 代前半 には、物 不足 に よ り肌着 な どを新調す るこ とが 難 し く、裸参 りの参加者数 も少数で
あ った と言 われて い る。 この 頃 には、女性 の薄衣参 りもみ られ、上下 の肌着 を着用 した女性 に よる裸
参 りが行 われ、 また個 人で の参拝 も行 われて い た (註 1)。
昭和 20∼ 30年 代 には、大崎人幡宮 へ の参拝が 10∼ 30数 組 見 られた ものの、参拝者 の装束 はそれ
ぞれ に異 なって い る。 白 シ ャツに白パ ンッを着用す る団体や、上半 身裸 で 白パ ンツを着用 した団体、
あるい は、晒 しに短 パ ン、足袋 を履 き、鉢巻 きを身につ けた 団体 や、 白 い タンク トップに短 パ ン姿 の
団体 もみ られ、含 み紙 も くわえた りくわえなか った りと、衣装や 様式 は統 一 されて い なかった とみ ら
れる。
37年 には、
前述 した よ うに、昭和 30年 代前半 に杜氏集団 による裸参 りが復活 して い るが、昭和 35年 、
企業 による団体参拝 も行 われてお り、東北放送 が所蔵す るニ ュース 映像 の 中に、そ れぞれ「福 島」「 だ
い久製麺」「高橋染 工 場」 と書 かれた提灯 を持 つ 3つ の 団体 の裸参 りが確 認 される。
映像 に見 る限 り、昭和 35年 の「福 島」 の提灯 の 団体 は、 ラ ンニ ングシャツ と白い短 パ ンを着用 し、
履物 は不 明、頭 には白い鉢 巻、紙 の御 幣 を下げた太 目の牛芽締 めの注連縄 をつ け、左手 に提灯 、右手
に鐘、 口には含み紙 とい うス タイルで参拝 して い る。 また、「 だ い 久製麺」 の裸参 りで は、 同 じくラ
ンニ ングシャツに短 パ ン、 白足袋 で履物 な し、右手 に提灯、左 手 に鐘 を持 って参拝 して い るが、全員
注連縄 はつ け て い ない 。 さ らに、昭和 37年 の「 高橋染 工 場」 と書 か れた提灯 の 団体 は、上着 を着用
せ ず腹 に晒 しを巻 き、 白 い短 パ ンを履 いている。頭 には鉢巻 き、 白足 袋 で履物 な し、 日に含 み紙 を挟
み、左手 に提灯、右手 に鐘 を持 って い る。 また、紙 の御幣 と藁 の 下が りが つい た細 い注連縄 をつ けて
東北放送 1960年 。1962年 1月 14日 〕。
参拝 して い る 〔
装束 の セ ッ ト販売化
やが て、 昭和 40年 代 に至 る と、企 業や各種 団体 に よる集 団 での裸参 りが増加
して い く。 これに伴 って、衣 料 品店 に よる、装 束 のセ ッ ト販売が始 ま り、装束 を大量 に発注 し、販売
す るシステ ムが形成 され て い く。
八 幡 町 に位置す る衣 料 品店 「ホズ ミ」 では、一 般 的 な衣服 の他 、晒 しや足袋、「半 タ コ」 と呼 ばれ
る短 パ ンな ど、 祭 り用 品 も商 品 の一 部 と して取 り扱 ってお り、 昭和 30年 代 まで裸参 りの 参加者 は、
この店 か ら個別 に必要 な品物 を購入 して い た と言 われて い る。 しか し、団体 で裸参 りに参加す ること
が定着す るに連れて、装 束 を一 括 で発注 す る ことを求め る団体 が増加 した。 そ のため、 この 衣料 品店
では、装 束 をセ ッ ト化 し、大量 に発注 して販売す る ことに着手 し始 め、現在 は「裸参 り用 品一 式」 と
して、洋鈴 (か ね )、 半 股 引
(ま
た は揮 )、 白足袋、帯付 の 女子 用 晒伴 天、提灯、 三 方 (献 備 品用 )、
白緒 ゾー リ、 はち まき、晒、 わ らじ、注連縄、 ロー ソク、大 奉紙 、含 み紙 をセ ッ トで販売 して い る。
固々 に衣装 を準備す る手 間が省かれ、初 め
衣料 品店が装束 をセ ッ ト販売 し始 めた ことで、参加者がイ
て裸 参 りに参加す る人が、 どの よ うな装束 を揃 えれば よい かわか らな い とい う不安 を抱 く必要が な く
なった。 この ことで裸参 りは市民 に とって、 よ り身近 で気軽 に参加 で きる行事 として受 け止 め られて
い くこととなる。仙台市 内か ら大崎人幡宮 へ と集合す る、大 勢 の参拝者 の装束が画 一化 されて い くの
もこの時期 で あ り、 この こ とは、衣 料 品店 に よる装束の セ ッ ト販売化 を要 因 として いることが推測 さ
れる。 (図 2参 照 )
装東、様式 の マニ ュア ル 化
昭和 50年 代、60年 代 には、会社 や会社 の 商品 の PRを 目的 とした企 業
による裸参 りが増加 し、鮮 やか な配色 の峨 を持 ち、行列 に会社 の マ ス コ ッ トを登場 させ るな ど、装 束
や様式 も大 きく変化 し、参拝者 によるマ ナ ーの乱 れ も指摘 され る よ うになった。
特 に 50年 代後半 に至 る と、 裸参 り行事 のマ ナ ー の乱 れ を懸念す る動 きがみ られ、古 くか ら裸参 り
を継続 して きた酒造業者 は、連 名 で 新 聞広告 を出 し、以下 の よ う に論 じて い る。「裸参 りは、 い ま造
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
り酒屋 だ け の もので はな くな り、一 般 に行 われ るよ うにな った。 中には酒 を飲 んでか け声 を上 げた り、
太鼓や ほ ら貝で はや して走 るな どの一 行 も見かけるが、故事 にの っ と り、あ くまで も整然 と礼儀正 し
『河北新報』 昭和 57年 1月 13日 5面 〕。
く、厳粛 に行 うのが 本来 の姿 であろ う」 〔
また、参加 団体 が急増 した ことで、人幡町 の衣料 品店 では、初 めて裸参 りを行 う団体 の担 当者 か ら、
装束 の着付 け方 な ど、
助言 を求 め られる こ とが 多 くな った 。 こ う した事態 を受 け て、昭和 60年
(1985)、
大崎 人 幡宮 と衣 料 品店 で は、 裸参 りの衣装 の付 け方や、参拝 の 際 の作法等 を記 したパ ンフ レッ トを作
成 した。 このパ ンフ レッ ト『裸参 りの御案内
どん と祭 Jは 参拝者 に配布 されてお り、 ここには大崎
人 幡宮が捉 える「裸参 りの本来あ るべ き姿」や参拝 に際 しての注意事項 が記 され、 また、衣料 品店 で
購入す るこ とがで きる衣装 の一 式が提示 されて い る
(註
2)。
パ ンフレッ トの中 には、裸 参 りの 際 の装束 につい て「 服装 は 白装束 として、男子 はハ チ マ キ、晒腹
巻、揮又 は半股引、 白足 袋 を着用 し、女子 は晒腹巻、 半股引、 白足袋 を着用、 ハ チ マ キ、 白襦袢 (晒
伴天 )を 着用、 しめ縄 を腰 にまき、提灯、鐘 な どを持参 して もよい」 と記 され、装束 の基本が示 され
て い る。 また、行列 の 際 には、整然 さを保 ち、私語や掛 け声 を慎 むため、含紙 を口に くわえるこ とも
注意書 きされて い る。
なお、パ ンフ レッ トの作成 にあたっては、大 崎 入 幡宮 の 門前 に位置す る天 賞酒造 (現 「 まるや天 賞
株式会社」)で 継続 されて い る裸参 りの装束や作法が見本 とされた と言 われて い る。 ただ し、天 賞酒
造 で は草牲 ではな く草履 を履 い てお り、 この点 はパ ンフ レッ トの内容 とは異 なって い る
(註
3)。
また、案 内書 の 中 で は、裸 参 りは元来「寒 の仕込み に入 る酒 杜氏 の新酒 の 吟醸祈願 のための神 詣」
であ り、酒杜氏 に とって 酒蔵 に雑菌が入 らぬ よ う楔齋 を し、心 身 を清浄 にす ることが い か に重要であ っ
たか につい て触 れ た上 で、「 着衣 をまとわず に裸 で参拝 す る とい う こ とは先祖 か ら受 け継 いでい る清
純無垢 であ るべ き私 たちの 肉体 を入幡様 に御覧 い ただ き、新年 の無病息災、家内安全 、商売繁 昌な ど
の ご加護 を頂戴す る もの」 と述 べ られ、裸参 りがあ くまで も「神 へ の参詣」 であることが強調 されて
い る。 さらに、「各種 商売 の 繁 昌を願 う方 々や、心 身鍛 錬 を 目的 とす る方 な ど年 々増 えて い くばか り
ですが、形 だけを追 うのでは な く、そ の心 を も合 わせ て、 御参拝 され る事 を願 うものです」 と記述 さ
れ、大崎人幡宮が捉 える裸参 りの「本来あるべ き姿 Jが 提示 されて い る。
また、「装束 を着 け る前 には必 ず、心 身 の清浄 をはか り (水 をか ぶ る、 手水 を とるな ど)神 社 参拝
まで沈黙 を守 り、お み きな どと称 しての飲酒 は厳 にお慎 み くだ さい」「神社 に到着 しま した ら、神社
世話 人、警察官 の指示 に従 い、本殿参拝の後、御神火へ 向か って くだ さい」 といった よ うに、参拝 の
手順 や飲酒 に関す る注意 書 きも添 えられて い る。 さ らに、 神社 の参拝 として適 当 でな い行動 は慎 む こ
と、 場合 に よって は参拝 を取 りやめて もらう場合 もある こ とも書 き記 され、裸参 りのルールや心構 え
が提示 されて い る。
こ う したパ ンフ レッ トが作成 された ことを きっかけに、仙 台市 内 で行 われる裸参 りの装束や様式が
さらに画 一 化 されて い った こ とが推測 され る。
裸参 りの拡散化― 「伝統性」 の保持 か、企業の PRか ―
裸参 りが「神 へ の参詣」 で あ ることを再確
認 し、「本来あるべ き姿」 へ と4笏 正 しよ う とす る 目的で、 マニュ ア ルが作成 された ものの、 そ の後 も、
企 業が裸参 りを通 じて社 名や商品 を PRし よ う とす る動 きは加速す る一 方 であった。 そ の結果、裸参
りへ の 参加 は、「伝 統 的」 な裸参 りの様態 を守 ろ う とす る動 きと、企業 の PRや 職員 の 親睦 を深 め る
こ とを 目的 とす る 2つ の 方 向 に分散 して い くこととなる。あ る酒造 会社 は、大崎人幡宮 の裸参 りが、
「酒
杜氏 や蔵人が醸造祈願 のため行 って い た 『本来 の姿』」か らかけ離 れ、騒 々 しくなった とい う理 由で、
参拝先 を大崎人幡 宮 か ら市 内 の青葉神社 へ 変更 して い る 〔
資料
1〕
。
また、裸参 りに臨 む 目的や姿勢 は、年 々多様化 して い る。 平 成 4年 (1992)1月 18日 の 『河北新報』
に よる と、職場 や大学 ご との参拝者以外 に、遊 び仲 間同士 での参加 もみ られ、 参拝者 は裸 参 りを通 じ
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
て、仲間意識 を確認 し、あるい は観客 に見 られる快感を得 ることに参加 の意味を見出してい ることも
伺 える 〔
資料 2〕 。
小括
ここまでに論 じたように、戦後、復活 した後の裸参 りは、装束 に も統 一感がな く、衣類や、腰
にぶ ら下げる注連縄、履物 の種類 まで、参拝者各 々があ り合わせの もの を着用 していたと思われる。
その後、昭和 30年 代後半 か らは、次 第 に装束が統一 され始め、40年 代以降 は、 団体 による参拝が増
えた ことで、市内の衣料品店 に装 束 を一括注文す るシステムが確 立 され、 これにより装束の画一化が
急速 に進んだ。 また、昭和 60年 (1985)に 、大崎八幡宮や人幡町の衣料 品店が、装束 の基本的な姿
や参拝 の様式、参拝 に当たっての心構 え、裸参 りの歴 史的な背景 をまとめたパ ンフレッ トを作成 した
ことで、衣装 に限 らず、参拝 の様式 も画一化 されて きた ことが窺える。 また、パ ンフレッ トが参拝者
に配布 される ことによ り、大崎八幡宮が提示する裸参 りの歴 史や「あるべ き姿」が浸透 して きてい る
ことも推測 される。
しか しその一方 で、 昭和 50年 代 以降は、個 々人が裸参 りに参加す る理由や 目的 も多様化 して きた。
その結果、企業 の PRを 目的に参加す る団体が増加 しただけではな く、参拝者 の 中には体に色 を塗 り、
参拝 中に酔 って大声 を上げる人 もしば しば見 られるようになった。裸参 りを古 くか ら継続 し、裸参 り
の「伝統性」 を追及す る酒造会社 は、 このことを重 く受け止め、他 の 団体 と酒造会社 による裸参 りを
積極的 に区別化 しようとしてい る。
現在 の裸参 りは、 (1)陰 造 の安全 を祈願 す る杜氏集回の行事 とい う「伝統性」 を保持 しようとす る
酒造会社 と、 (2)企 業 の PRや 、職員、仲 間内の懇親、 自己鍛錬 な どを目的 とす る人 々 により、その
目的や意味付 けが大 きく三分化 されてお り、 これに伴 って、 昭和 40年 代 に画一化 された裸参 りの装
束や参拝 の様式 は、再び拡散 し多様化 して きてい ると言える。
資料 1〕
〔
大崎参 りやめた 勝 山企業男衆
どんと祭派手過 ぎる 仙台
「伝統行事 にそ ぐわない騒 ぎは、 もうご免」。一 月十四 日の夜 に仙 台市 の大崎人幡神社
(青 葉区人
幡四丁 目)で 行 われる小正 月行事 「 どん と祭」に、毎年欠かさず裸参 りを続 けて きた造 り酒屋 の し
にせ、勝山企業 (伊 沢平 ―社長 )が 、今年は大崎参 りをやめ、別の神社 へ参拝す ることにした。公
加企業が増 えるにつ れて裸参 りの演出 も派手にな り、「静か に一年 の無事 を祈 るとい う本来 の姿か
ら懸け離れて しまった」 とい うのが理 由。伝統を支えて きた造 り酒屋 の男衆が、祭 りの原点 を求 め
て、あえて “
離反"の 道を選 んだ。
大崎八幡神社 の どん と祭 の参拝 は、年 々、大手企業の在仙先機関の参加が増 え、昨年 の裸参 りは
百七十団体、約五千人 に上ってい る。女性 の姿 も日立ち、華やかになる一方、「ショー化が進んだ」
「 まるで企業 の PRイ ベ ン ト」 などの批判 も聞かれるようになった。
どん と祭 は、大正時代 に勝 山企業 な ど造 り酒屋 の杜氏
(と
う じ)た ちが
しめ縄 を回す仕 込
みの ス タイルで神社 に参拝 し、醸造祈願 を したのが発祥 とい われ る。
毎年、勝 山企業 の先頭役 を努 め る伊沢社長 は「今 まで我慢 を重 ねて きたが もう限界。小正 月 の伝
統行事 で あ ることをもっ とわ きまえてほ しい」 と話す。
伝 統 と形式 を重 ん じる勝 山企業 に とって、 縫 い ぐるみや笛、大鼓 まで飛 び 出す ここ数年 のお 祭 り
騒 ぎは、見 るに耐 えなか った よ うだ。思 い切 って今年か ら、や は り伊達政宗 ゆか りの青葉神社 (青
葉 区青葉町)に 参拝先 を変 え るこ とに した。
大崎入 幡神社 の どん と祭 は、戦 後 になって在仙 の企 業 が「商 売繁盛」 を祈願す る よ うにな り、仙
台 の伝統行事 として定着。十年 ほ ど前か ら大手企 業 の支社 。支店が参加す る よ うになって い る。
勝 山企業 の不参加 を聞 いた 大崎 人 幡榊社 は 「あ ま りひ どいス タイルの参加者 にはこち らか ら注意
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
してもらいます。参拝を遠慮 してもらうというわけにもいきませんし…・。こちらで、いろいろ気
を配っていたのですが」 と残念そうだ。
大半 の企 業 は既 に例 年通 りの人 員規模 で、大崎 人 幡神社 へ の参拝 を決 めて い る。その中で 昨年、
縫 い ぐるみ を登場 させたあ る損保会社 で は、神社側か ら「あ ま り派手 な ことは遠慮 して もらえない
か」 と要請 され、今 回は縫 い ぐるみ は使 わない な ど “
演 出"を 自粛す る。
例年、「古式 にの っ とったお 参 りを心掛 け てい る」 とい うあ る地 元金融機 関 では「確 か に とっぴ
す ぎる参拝姿 へ の批判 はあ る。 古 来 の方法 を守 ってい きた い ものだJと 言 って い る。
※下線 は筆者 による
F河 北新報』平成 4年 1月 10日
資料 2〕 ゆ う レデ ィース 微 に入 るタウン 興奮、感激、 ダウン 裸参 りは 「行 きはよいよい、
〔
帰 りはコワイ」 の巻
年 々、お正月の感動が薄れてい くように思 う。 自分が年 を重ねたせ い なのか、 日々の暮 らしが豊
かになって、お正月 と日常 の 区別が はっ きりしな くなって しまったか らなのか。 ここ らで本来の厳
粛 なお正月の雰囲気 に浸 ってみるの も悪 くはない、 と十四 日の夜、仙台市 。大崎八幡神社 のどん と
祭裸参 りに参加 してみた。
「げ― っ、 これ、太 もも丸 出 しじゃない」「さらしがず り落ちた ァ」「ち ょっ と、 こっち向いて言
わないで よ」
“
か しまし娘"た ちの着替 えは騒 々 しい。
正月飾 りで送 り火 をた き、年神様 を神 の国へ送 る正 月最後 の儀式 どん と祭。そ こに花 を添えるの
が裸参 りだ。酒杜氏
(と
う じ)た ちが吟醸を祈願 して参拝 したのが始 ま りとか。元来、裸参 りは男
性 だけだったが、近 頃は企業参加組が女子 の新入社員 も参加 させ るよ うにな り、女性の白装束 もち
らほら見かけ る。
こち らは 日ごろの遊 びイ
中間 の 寄 り集 ま り。裸参 りは初 めてだ け ど、 ベ テ ラ ン組 に混ぜ て もらった
ので手 はず に抜 か りはな い。奮発 してグ ルー プ用のち ょうち ん も注 文 し作 って もらった。 トレー ド
マー クの スズメの紋がバ ッチ リ決 まって い る。わ くわ くしちゃう。
☆
★
★
全員仕事 を終 えてか ら集合。 キ ム チ なべ と コ ップ酒 で体 を温 め て、 午後 九 時、 い よい よ出発 だ。
一 歩外 に出る と、 うう、 ブルブル ッ、 寒 い。
か しま し娘 "も 、それ に薄 い さらしはんてん を羽
男子 はさ らしの腹巻 きに半 もも引 き、私たち “
織 っただ け の軽 装 なんだ もの 。
む き出 しの手先が どん どん凍 えて くる。 途中 で「 ご苦労 さん」 とお 酒 を振 る舞 われたが、体が冷
えて鈍 って い るせ い か、ぬ る ま湯 を飲 み 干す よ うに、 ぐび ぐび と飲 めて しま う。
少 し足元が よろけるの は酔 いのせ い か、それ ともあ ま りの冷 た さに頭痛が し、視界が狭 まって い
るためなのか。 とにか く裸参 りに加 わって しまったのだ。 含 み紙 を加 えて、黙 々 と歩 くしかな い。
い ったん腹 を くくると不 思議 な もので、た まにはこんな “
行 "を す るの ヽ匙いか ヽ、 /khん て黒 タ
てきた。寒さに負けじと全 身に力を込め、暗が りを進んで行 くうちに、心が静まって くるような気
がしてきた。一緒に歩いている仲間たちとの連帯感も沸いて くる。前を行 く男性陣の背中は頼 もし
い し、自分でちょうちんを持つの も誇 らしい。帰属意識とい うものだろうか。
祭 りは「この土地に暮 らしているんだ」 という思いを新たにさせて くれる。
☆
★
★
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
目指す は仙 台市青葉 区 の大崎人幡神社。神社 に続 く大通 りに出 た途端、一 般参拝客が どっ と増 え、
裸参 りの一行 はス ター並みの特別扱 い になった。 カメラを向ける人、 ビデオを回す人。「あのスズ
メの紋、 どこの飲み屋かな」 との声 に内心ほほ笑んだ。
「裸参 りの列 が通 ります。道 を開けて下 さい」 とアナウンスが流れ、人垣が さっと開 く。顔 を引
き締めて石段 を上 り、一般参拝客 は入れない社殿 に上がってお神酒 とお札 をもらい、送 り火 の 回 り
を、 これ も一般客が取 り巻 く中を、正月飾 りを焼 く火 に片ほほをあぶ られなが ら三回巡る。お参 り
は これで終了。 口のほ うも解禁 だ。
「ハ ア ッ、興奮 しちゃった。披露宴での花嫁 の気持 ちが よ く分 かるわ。人 に見 られる快感 よね」
とナツコ。「私 なんて カメラ小僧 に三度 も迫 られちゃった」 とカオ リ。みんな高ぶっている。
一行 はその足 で夜 の飲食街、国分町へ 。な じみの店 を門付 け してはお酒を振 る舞 われる。なみな
み とつい だ コ ップ酒 を一杯、一杯、 また一杯。七軒 回ったか ら合計 一升
(― .人
リッ トル)近 くは
飲 んだらしい。
「それでは○○屋 さんのご繁盛を願 って、お手を拝借。 い よ―J。 リー ダーの掛け声 を聞 きなが ら、
急に意識がなくなった。神社 にもうでる前に、積んでおかねばならない修業があったようである。
※下線は筆者による
『河北新報』平成 4年 1月 18日
註
1
昭和 20年 代 に も女性 に よる裸参 りは行 われて い たが、参拝 者 数 は限 られ て いた。やが て、昭和 52年 に、女性 が
団体 で参拝 した こ とを きっか けに、そ の後 は女性 に よる裸 参 りが急 激 に増加 して い く。
2人 幡町 の衣 料 品店が配布 して い るパ ンフ レッ トには、左 手 に鐘 を持 ち、右 手 に提灯 を持 つ 姿が参拝 の 見本 と して描
かれて い るの に封 して、大崎 人幡 宮 の 配布物 には左 手 に鐘 、右 手 に提 灯 を持 つ 姿 /左 手 に提 灯 、右手 に鐘 を持 つ
姿 の 2種 類 が描 かれ、見本 とされている。
3
天賞酒造 の衣装 は、 昭和 48年 以 降に勝 山酒造部 の 衣装 を参 考 に変更 され た と言 われ、草履履 きはそ の 時 に採用 さ
れた と見 られ る。 聞 き取 りで はそれ以前 は白足袋 のみ、 あ る い は裸足 に草雑 であ った とい う。
(3)
事例 ・ 勝 山酒造部 の青葉神社 へ の裸 参 り
勝 山酒造部 の裸 参 りの経過
勝 山酒造部 は、仙台市青葉 区上杉 2-1-50に 本社 を置 く勝 山企業株式会社
の 酒造部 門で あ る。勝 山企業 は元禄年 間創業 と伝 え られ る仙台 の豪商伊澤家 の 同族会社 で、 現在 で は
不動産業 や飲 食業、学校経営 な ど幅広 い事業展 開 をお こ な い 、それ を伊澤家 の一 族が分担 して経営 し
て い る。 この うち家業 とい える酒造部 門 は最 も歴 史が古 く、天保 13年 (1842)に 酒造 を開始 し、安
政 4年 (1857)に 仙 台藩御用 酒屋 に取 り立 て られて い る。 蔵 の複 数 の 関係者 へ の 聞 き取 りに よれ ば、
どん と祭 の裸参 りは昔 か ら長年続 け られて きたが、第 2次 世界大戦 中 と戦 後 の混乱期 は裸参 りを と り
やめて い た。 しか し昭和 30年 代 の初 め に復活 させ る こ とにな り、戦前 のや り方 を知 って い た古 い蔵
人 らか ら話 を聞 い て、衣装や 参拝 の段取 りな どを決 めた。 復活 させ た際の衣装 は、腹 に晒 を巻 き、上
着 は着用 しな い 。頭 に白はち ま き、 白い 半股引、 白足 袋、 白鼻緒 の草履 を履 く。腰 に注連縄 を巻 き、
日に含み紙 を唾 え、右手 に提灯、左手 に鐘 を持 つ ものであ った。 注連縄 は蔵人 が 自分 たちの分 を作 っ
た とい う。 この よ うに酒造 の蔵 人の伝統行事 として復活 した ものの 、酒造部 門の合理化 に よる人 員削
減 な どもあって、近 年 は どん と祭 の裸参 りは勝 山企業全社 をあげて の行事 とな り、酒造部 はその事務
局 と準備 を担 当す ることとなった。
勝 山酒造部 の 裸参 りの 参拝先 は、長 らく大崎人幡宮 で あ ったが、 平成 4年 1月 14日 の裸参 りか ら
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
青葉神社 に行 き先 を変更 した。当時の社長 (伊 澤平 一 氏 )が 、大崎人幡宮 の裸参 りの風紀 の 乱 れ を嫌 っ
たか らで、 裸参 りの発祥 とされた造 り酒屋 の、 それ も老舗 中 の老舗 の蔵が大崎 人 幡宮 へ の裸参 りを変
更 した こ とは、 当時 は新 聞な どに も大 きく取 り上 げ られ、様 々 な反響 を呼 んだ こ とは前項 で述 べ た通
りで あ る。
青葉神社 は仙 台市青葉 区青葉町 7-1に 鎮座 し、 祭神 は仙 台藩祖伊達政宗 (神 号武振彦命 )で 創建 は
明治 7年 で あ る。 青葉神社 の どん と祭 は昭和 7年 11月 14日 の河北新報 の記事 によれば、 この年か ら
始め るこ と となった との ことで ある。 当時 も裸参 りの 申 し込みがあ り、そ の 中に「伊澤酒造店」が含
まれて い るが、 これが勝 山酒造部 を示す ものか或 い は勝 山の分家 で青葉神社 に隣接 した「伊沢竹 に雀
本舗」 を示 す ものか は不 明 で ある。 しか し戦後 は勝 山酒造部が平成 4年 に裸参 りをす るまで は、 長 ら
く青葉神社 へ の裸参 りの参拝 はな く、勝 山酒造部 の裸参 りの翌 年 頃か ら仙台 市 内 の比 較 的近 くに本社
を置 く商業協 同組合や文具 の卸売会社 な どが 裸参 りに訪 れ るよ うになった とい う。 なお勝 山企業 の裸
参 りは、 平 成 18年 は酒造工 場 が泉 区へ 移転 し、酒造 部 が 操業準備 な どに手 間取 ったため として裸参
りを休止 した。
平成
16年 の裸 参 り 平成 16年 1月 14日 の裸参 りには、勝 山企業の役貝や従業員 ら 36名 が参加 した。
従来 と大 き く異 なったのは、前年か ら仙台藩主伊達家 第 18代 当主伊達泰宗氏が参加 して い る ことで、
泰宗氏 は勝 山企業 の伊澤平 一 会長 の 呼 びか けに応 じ、先祖 の伊達政宗 を祀 った青葉神社 へ の特別参拝
とい う こ とで、 紋付袴 の正 装 で参加 した。
36名 の 参 加者 の うち、紋付袴 での 参拝 は伊達 泰宗氏 と勝 山企業 の代表者 で あ る伊澤平蔵取 締役副
会長 の 2名 、裸参 りは 34名 で、全 員 が 男性 で あ った。伊 達泰宗氏 を除 く参加 者 は、 午後 3時 に青葉
区上杉 の 本 社 隣 の酒造蔵 に集合 し、食事 の あ と、工 場 の釜 場 に据 え付 け られた直径 お よそ ■5メ ー ト
ルの酒造用 ホ ー ロー タ ンクに湯 を張 った風 呂に入 り、 出 る とす ぐに大 きな柄杓 で全 身 に冷水 をかけ ら
れ る。 続 い て裸参 りの衣装 に着替 える。
裸参 りの 衣装 は、戦後 に復活 させ た 時 の衣装 を踏襲 した もので、腹 に晒 を巻 き、上半身 は裸 で、 頭
のは ち ま きは勝 山の名前 を染 め抜 い た手 ぬ ぐいで あ った 。下半身は白い半股引、 白足袋、 白鼻緒 の車
履 を履 き、腰 に巻 く注連縄 は、 紙 の御 幣 5本 を下 げ、藁 の 下が り 5本 のつい た手編み のやや細 い注連
縄 で、酒造 部 の従業員が作 った とい う。 口には含 み紙 を し、特別 な採 り物 を持 たな い者 は右手 に弓張
提灯 、左 手 に鐘 を持 つ 。 そ の姿 で、 蔵 内に設 け られ た 仮祭壇 の前 に整列 し、 午後 4時 50分 に酒造 の
神 を祀 った 青葉 区宮 町 の松尾神社 の宮 司に よるお祓 い を受 ける。
勝 山 の 酒造蔵 を出発 したの は午後 5時 で、 行列 の 順序 は、 先頭 に裸参 り衣装 の 2名 、次が紋付袴 の
伊達家 当主 、青葉神社 に奉納す る御手座 を載せ た三宝 を持 つ 1名 、背 中に勝 山の 名入 り半纏 を着 て高
張提灯 を掲 げ た 3名 、高張提灯 の 文字 は 中央が「仙蔓 藩御用酒」左右が「勝 山」、続 い て紋 付袴 の伊
澤副会長 と裸参 り衣装 の役員 2名 、樽神輿、欅で結 んだ三宝 に鏡 餅、鯛、大根 ・ 人参 ・牛 芽 を盛 った
3名 、以下 3列 の裸参 り衣装 の参加者が続 き、殿 が高張 提灯 2名 であった。
行列 は仙 台市 中心部 のお よそ 2キ ロの道 の りを、無言 で 先頭 の鐘 に合 わせ てそれぞれ鐘 を鳴 らしな
が ら、やや ゆっ くりと 30分 をか け て 青葉神社 に 向か い 、拝殿 の脇 を通 って本殿 の前 に整 列 した。奉
納 の三 宝 を献上 し、宮 司 のお祓 いの あ と、伊達泰宗氏 が参拝、伊 澤福会長 の参拝 に合 わせ て裸参 りの
全員がす
白手 を打 った。次 いで境 内 の松飾 りを焚 い てい る ご神火 に向か い、
左 回 りに ご神火 を 3回 まわっ
て腰 の注連縄 を火 に投 げ入れ、拝殿前 に整列 したあ と、 順路 を逆 にた どって鐘 を鳴 らしなが らやや早
足 で酒造蔵 に帰 った。
裸参 りの 参加者 は戻 った後、やや ぬ るめ に設 定 した風 呂に入 り、参加記念 のお 守 りと会社 か らの ご
祝儀 を受 け取 り、着替 えてか ら直会 の宴会 に参加 した。
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
会社 ではどんと祭 の裸参 りは、酒造の無事 と優良な酒 の醸造 を祈願す るものだが、会社全体で参加
す るので企業業績 の発展 と従業員 の健康 を祈願 してい るとして い る。裸参 りの参加者 も、仕事 として
やむを得ず参加 した と言 う者 は皆無 で、業績向上や 自分 の健康 を願 って参加 してい る、10年 以上続
けて参加 してい る者 もお り、参加 した以上は言 い伝 えに従 い 3年 続 けたい と異口同音 に答えていた。
(4)
事例 ・佐元 工 務 店 の 陸奥 国分寺 へ の裸 参 り
国道 4号 線 バ イパ ス に程近 い仙台市若林 区遠見塚 2丁 目に本社 を置 く佐元 工 務店 は昭和 30年 (1955)
佐藤元治氏 によって創 業 された仙台市燕沢 の個人工 務店 を前 身 とし、 昭和 53年 (1978)「 株式会社佐
元 工 務店」 となった。 現在 では営繕部 門,賃 貸管理部 門を独 立 させ、3社 に よる SAMグ ルー プ となっ
て い る。 また佐元 工 務店 で は周辺地域 に対 して企業広報誌 の配布 や感謝祭 の実施 な ど地域 住民 とのふ
れあ い を積極 的に行 ってお り、地域 の 活性化 を目指 して い る。広 報誌 は創刊 当初 は施工主の紹介 な ど
をメイ ンで行 っていたが、 最近 では周辺地域 の 団体 の紹介や地域情報 な どの掲載へ と刷新 した。地域
に頼 られ る企業 を 目指 して い る とい う。
陸奥 回分寺楽師堂へ の 裸参 りは平成 18年 (2006)で 3度 目を数 え る。裸参 りは大 崎 人幡宮 での裸
参 り経験 の ある同社 の常務 が 中心 とな り社員 によって始 め られた。大崎入幡宮や愛宕神社 は有名 だが
佐元 工 務店 か らで は距離が あ り、参加者 も多 く、裸 の ままでの待 ち時 間 も長 い ため、比較 的近場 の 陸
奥国分寺薬 師堂 に参拝 して い る とい う。沿道 か ら「 ご苦労 さん」 な ど声援 も厚 く、地域 の一 体感 が感
じられ薬 師堂 での裸 参 りに満足 して い る と佐藤元 一社長 は語 る。
同社 は入社 した ら 3年 間は裸参 りを行 う とい う。 よって参加 者 は若手 が 多 く、女性 の参加者 も目立
つ 。平成 19年 (2007)か らは同社 の パ ー トナ ー 会 (左 官屋 な どの連 携 企業 )に も参加 を呼 びか ける
とい う。無病息災 ,無 事故無災害 ,商 売繁盛 を祈願 して い る との ことだが 団結力 の強化 ,地 域 の活性
化 な ど様 々 な副次的効 果 もあ った とい う。「裸参 りの よ うな共 同 での行事 は連帯感 を生 む。苦行 の よ
うな状況 を意識的に設定 し、乗 り越 える こ とに人 間は満足感 を得 るのではない か」 と社長 は語 る。
裸参 りを始 め るにあ た って衣装 は佐 元 工 務店 の作業着 を発 注 して い る青葉 区一 番 町 の「 鳩 岡商店」
か ら調達 した。提灯や鉦 な ど も全 て調達 して くれ た とい う。
平成
18年 の裸参
',
衣装 。物 品 の確 認 は 12月 か ら総務 が担 当 して行 う。参加者 は裸参 り当 日は 15
時頃に は仕 事 を切 り上 げ て準備 を行 い 、着替 えを済 ませ 出発前 に園の声 をあげ、御神酒 を飲 む。夕方
4時 頃同社 を出発 し、徒 歩 で 薬 師堂 へ 向か う。行列 は羽 織袴 を着用 した社 長 を先頭 に高張提灯 2名 が
後 ろに並 び、その後 ろには三宝 (野 菜 )持 ち 1名 が並 ぶ 。以 降提灯 (社 名入 り)と 鉦 を持 った参加者
19名
(男
15名 ,女 4名 )が 続 く。総勢 23名 の 参加 であ った。 衣装 は前締 めの 白鉢巻 , 白晒 ,日 に
は 5円 玉 を挟み込 んだ含 み紙 ,半 股引 ,注 連縄 ,白 足袋 ,草 軽履 きとなって い る。女性 は これに上衣
を着用す る。 コー スは事務所前 か ら道路沿 い に宮城 の萩大通 りに出 て北上 し東北銀行宮城野支店 を西
に曲が る とい う薬 師堂 まで はおお よそ 30分 の道順 を とる。道路 沿 いの企業 な ども行列が近 づ くと声
援 を送 って くれ る。
薬師堂到着後 は参道 か ら本堂 に向か い右 回 りに 3周 し本堂 に入 る。その 際、 口に くわ えて い る含み
紙 を外 して箱 に投入 し、御神酒 を飲 み、祓 い をす る。 本堂 での祓 い が終 わる と参道 を通 り御神火 の 回
りを右 回 りに 3周 し 3周 目に腰 の注連縄 を解 き、火 に投入 し、帰路 につ く。
行 きは徒歩 だが、 帰 りは薬 師堂 を出て東 に 500m程 の地 点か らウ ェルサ ンピア仙台 (厚 生 年 金健康
福祉 セ ン ターサ ンピア仙 台 )の バ ス に乗 り、そ の まま直会会場
(ウ
ェルサ ンピア仙台 )へ 向か う。体
が冷 え切 って い るので温泉 で体温 を戻 す のだ とい う。入浴 し体 温 を戻 した後、直会 に入 る。 直会 では
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
裸参 りの様子 を納めた ビデオの上映なども行 う。
参加者 の感想 I佐 元工務店営業女性社員
〔
(昭 和
54年 生 )
佐元工務店 の裸参 りに当初 よ り参加 してお り今年 で 3度 経験。
宮城県外 の 出身で裸参 りを見 たことがな く、 どうい ったことをやるのかわか らず最初 は誘われて も
断 っていたが いい経験 になるか と思 いやってみた。3度 続 けない と御利益がない と聞 き続けてみたが、
体験 してみると話 ほ ど寒 くもな く、む しろ沿道か らの声援 が嬉 しかった。準備 をして くれた方 々は大
変 だった と思 うが社員 の皆 で何かをや り遂げる充実感が得 られた。その年の裸参 りの様子 を納めた ビ
デオや温泉 も楽 しみのひとつ。会社 の安全や 自分 の健康 も祈願で きるいい機会。女性 は珍 しい ようで
声援 も多か った。
(5)
事例 。栗駒建業 の賀茂神社 へ の裸 参 り
栗駒建業 の裸 参 りの経過
仙 台市泉 区野村字前河原 9-1に 本社 を置 く有 限会社栗駒建業 は、高橋 安敏
社長 (昭 和 18年 3月 生 )が 昭和 56年 6月 に設立 した建 築会社 で、一 般住宅 の建築や リフ ォーム を手
が け て い る。 平成 18年 1月 現在 の従業員 は 11名 で ある。社 名 の 由来 は高橋社長 の 出身地 の 旧栗駒 町
(現 栗 原市 )か らとった もので 、社屋
2階 の事務所 内 の神棚 には旧栗駒 町沼倉 に鎮座す る駒形 根神社
か ら拝領 した「勅 宣 日宮駒形根神社」の神札 が、泉 区野村 地 区 の神社 で ある「賀茂神社」と「 二柱神社」
の神札 とともに祀 られて い る。 本社 の所在地 は、昭和 56年 の創 業時 は泉 区市名坂 (当 時 は泉 市市 名坂 )
にあ ったが、 平成元年 に現在 の泉 区野村 に移転 した。
高橋社 長 か らの聞 き取 りに よれば、栗駒建業 の どん と祭 の裸参 りは、昭和 63年 に初 めてお こ なっ
た。会社設立か ら 5年 が経過 し、比較 的若か った従業員 との コ ミュニ ケ ー シ ョンを図 るために、一緒
に裸参 りを してみ た い と社長が提案 し、従業員 も賛成 したのでお こな う ことに した。裸参 りの作 法や
決 め事 を大崎人幡宮 の禰宜 に尋 ね、教 え られた通 りに道具 一 式 を入幡町の「ホズ ミ」 か ら購入 して昭
和 63年 1月 14日 に実施 した。 当時 の泉 区市名坂 の本社 で 着替 えてか ら車で宮城県庁 まで行 き、そ こ
か ら大崎人幡宮 まで歩 い て裸 参 りした。以後、途切 れ る こ とな く裸参 りを して い たが、 平成 17年 は
どん と祭 と住宅 リフ ォー ムの イベ ン トが重 なった ので、裸 参 りを中止 した。衣装 はホズ ミで調 達 し、
洗 って毎年使 い 回 して い るが、 注連縄 とわ らじは毎年新 しい もの をホ ズ ミで買 ってい る。
仙台市泉 区古 内 の賀茂神社 へ の裸参 りは平成 2年 に初 めて行 った。 平成 2年 は、 前年 に現在 の泉 区
野村 に本社 を移 し、 それ まで通 りに大崎 入 幡官 に裸参 りに行 ったが、 車 での帰 り道 の 途 中に賀茂神社
が あ り、前年 に賀茂神社 の長床 の修復 工 事 を請負 ったので、 挨拶 をかねて車 を下 り、そ の ままの衣装
で榊社 に行 った ところ、 参詣人 の 間か ら裸 参 りが来た と驚 きの声 があが った。それ まで裸参 りが来た
こ とはなか った とい う ことだった。氏子総代 らか ら、ぜ ひ賀茂神社 に裸参 りしてほ しい と言 われたの
と、 賀茂神社 と本社 が近 か ったこ ともあ り、改 めて賀茂袖社 に寄進 を して翌平成 3年 か ら正式 に賀茂
神社 に裸 参 りして い る。 そ の後、平成 5年 には賀茂神社 拝殿 の修復 工 事 を請負 うな ど、神社 との 関係
は密接 になって い る。 また近年 は裸参 りの メ ンバー に、従業 員 だ け で な く下請 け業者 も加 わ り、会社
として も重要 な行事 となって い る。
平成
18年 の裸 参 り 平 成 18年 1月 14日 の裸参 りには 12名 が参加 した。 内訳 は高橋 社 長 と栗駒 建
業 の従業員 7名 、下請 け の材木業者 か ら 2名 、水道工事業者 1名 、基礎工事業者 1名 であった。 午後
6時 に本社 に集合 し、事務所 の 隣 のプ レハ ブ建 てのテ コ ン ドーの 道場
(社 長が地域 の子供 たちに教 え
てい る)で 衣装 に着替 えた。裸参 りの衣装 はホ ズ ミで購 入 した もので、 頭 に白はち ま き、腹 に晒 を巻
き、 白い半股引、 白足袋、 わ らじ履 き。腰 に注連縄 を巻 き、 口に含み紙 を旺 え、右手 に提灯 、左手 に
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
鐘 を持 つ 姿 であるが、 この 日は夕方か ら土砂 降 りの雨 となったため、 裸参 りの全 員 が頭か ら透明な ビ
ニー ル合羽 を着用 した。着替 え後、2階 の事務所 で全 員が神棚 の前 に整 列 し、社長 に合 わせ て二 拝 二
拍手 一 拝 で拝礼 し、午後 7時 に本社 を出発 した①
裸参 りの行列 はたて一 列 で、 先頭 は栗駒建業 と書かれ た高張提灯 を掲 げ た高橋社 長、次が社旗 を掲
げ た従業員 の代表、続 いて右手 に箱入 りの一 升瓶 の清酒 と左 手 に弓張 提 灯、次 に Sで 結 んだ三宝 を右
手 で抱 え、左手で弓張提灯 を持 った 4名 、三宝 は二段 の鏡餅、鯛 1匹 、大根 。人参 ・胡八 ・林檎 ・バ
I・
ナナを盛 った もの 、す るめ ・ 昆布 。寒 天 を盛 った もの。以下 の 5名 は鐘 と弓張提灯 を持 った。 弓張提
灯 に書かれた文字 は栗駒建業 の他 に下請業者 の名入 りの もの もあ った。
栗駒建業本社 か ら七北 田川沿 いの 道 をお よそ 2キ ロメー トル離れ た賀茂神社 まで 30分 かけて歩 き、
神社 に到着す る と石川隆穂禰宜が ハ ン ドマ イクを持 って社務所 か ら出て きて、参詣者 に道 を空 け て く
れる よ うに頼み、裸参 りの行列 を拝殿 に誘導 した。 は じめに向か って右側 の 下賀茂神社 に酒 と三宝 を
奉納 し、石川昇宮 司 に よるお祓 い を受 け、参拝す る。 次 に左狽1の 上 賀茂神社 に参拝す る。 この あ と参
道脇 の駐車場 で焚 かれて い る ご神火 に 向 か い、左 回 りに 3回 まわって腰 の注連縄 を火 に投 じた。全員
が ご神火 の前 で整 列 して い る と、 石川隆穂禰宜が神酒 を持 って きて、全員 に配 った。 裸参 りはそれで
終了 し、参加者 は神社前 に迎 えに来た車 に分乗 して本社 に戻 り、着替 え の後 に直会 の宴会 となった。
高橋社長 による と、裸参 りで は会社 の業績 向上 と従業員や下請業者 の健康 な どを願 うが、参加者 に
は好評で、言 い伝 え られて い る通 り 3年 は続 け る とい う人が ほ とん どであ る。下請 業者 も望 んで参加
して いる。 また賀茂神社 は きわめて好 意的 で、禰宜 さんが出迎 えて くれ た り、氏子総代 がわ ざわ ざ酒
をふ るまって裸参 り参加者 をね ぎらって くれ て い る、 との ことで あ った。
(6)事
例 。早坂酒造店 の 吉 岡 八 幡神社 へ の裸 参 り
黒川郡今村 と吉岡八幡神社
藩政期、黒川郡 の 中心地域 で あ った今村 の 町場 は吉 岡 と呼 ばれ、 現在 の
大和 町吉 岡地 区 にあた る。 伊 達政宗 の三 男宗清 は、 飯坂氏 を継 ぎ、慶 長 18年 (1613)伊 達領 に編入
された黒川郡 に入 都す る。始 め下 草 (現 大和 町鶴巣下草 )に 拠 ったが、元和 2年 (1616)に 今村 に移 り、
ここに城下町 を建設 し、以降吉 岡 が黒川郡 の 中心 となって い く。元和 9年 (1623)に は、下 草か ら中
村 (現 大郷 町中村 )を 迂 回 して い た奥州街道 に、政 宗 によって富谷 ・ 七北 田 を経 て仙 台へ 直行す る新
道が開かれ、吉 岡 はその宿駅 と して も整備 される。 この街道 は北 奥諸大 名 の参勤交代路 として、そ し
て吉 岡宿 は陸羽街道 と羽 後街道 の分岐点 として、 ともに欠かせ ない もの となって い く。
吉 岡の城下 には、 多 くの寺社 が下草 か ら移 され、町場 の東北 に集 め られて寺 町 を形作 った。 現在大
和 町役場 。吉 岡小学校等 が位 置す る町 裏地 区がか つ ての寺 町で、吉 岡八幡 神社 もそ の一 角、町役場 向
い に社殿 を構 えて い る。 同社 は もと飯坂氏 の氏神で、信夫郡飯坂 (現 福 島市飯坂 町 )に あ ったが、 宗
清が飯坂氏 を継 い だお り宮城郡松森 (仙 台市泉 区松森 )に 移 され、 さ らに黒 川郡入部 にあた り、下草
を経 て元和 4年 (1618)に 吉 岡に移 されて黒川郡総鎮守 とな り、宗清死去後 に入部 した但木氏 によっ
て も崇敬 された。『黒川郡今村風上記御用書 出』 によれば、隔年 8月 15日 の吉 岡入 幡和社 の祭礼 には、
宗清入部以来 の神事 と して流 鏑 馬が奉 納 され、上 町 ・ 中町 ・ 下 町 の 吉 岡 三 町が「渡物」 を くり出 し、
それは元禄 2年 か ら安永 3年 まで間断 な く続 け られて い た とい う。現在 9月 の 第 三 日曜 日に行 われ る
秋 の例大祭 で も、流鏑馬 と榊興 渡御 は毎年執行 されて い る。
八 幡 さまのお歳取 りと飴市
吉 岡 の人 幡 さまのお歳取 り、年越祭 は暮 れの旧暦 12月 14日 で あ ったが、
この 日境 内に飴市 がたった。近年 まで飴売 りの店 を出 して いた 「 白酒屋 」 と呼 ばれ る吉 岡中町 の菓子
舗吉 田家 の伝承 に よれば、 この飴市 は江 戸前期 に吉 田家 の先祖 が入幡神社 の 祭礼 で荷鞍飴 と島田飴 を
売 り始 めた ことに始 まる とい う。
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
島田飴 は、襦米 を原料 に した飴莫子 で、手細 工 に よって 島田髯 をかた どる ところか らその名がある。
この 島田飴 と飴市 の 由来が今 も吉 岡 の 人 々 に伝 え られて い る。人 幡神社 の神 主が暮 の 14日 に髪 を高
島田 に結 った花嫁 を 目に して恋煩 い とな り、それ を慰 めるため に村 人 たちが 自酒屋 で作 った 島田髯 の
飴 を奉納 した ところ病 が 回復 し、村 人 に感謝 した神 主 は暮 の 14日 に縁結 びの祭事 を行 う よ うになっ
た とい う。那須直太郎編 属
伝説
島田飴』 によれば、 この祭 りの 日に、町の造酒屋 の若 い蔵人 たちが
神社 に裸参 りす るよ うにな り、次第 に他 の者 たち も自分 の年齢 だ けお百度参 りをす る「お数 参 り」 を
行 う よ うになった とい う。
現在 は新暦 12月 14日 を島田飴祭 りとし、 島田飴 のみの露店が 出 され、縁結 びの縁起物 とされる 島
田飴 を求めて若 い女性 や未婚 の娘 を持 つ 母親 たちが早朝か ら列 をなす。近 年 は 島田飴踊 りを創作 した
り花嫁行列 を行 うな ど、地域 観光 の祭事 として も展 開 されて い る。
吉 岡 の酒蔵
早坂酒造 店
城 下 町 で あ り宿場 町で もあ る吉 岡 で は、 藩政期 か ら昭和後半期 まで、 つ
ね に数軒 の 酒蔵が造 りを続 け て きた。早坂芳雄編 『宮城県酒造 史
別編』 (宮 城県酒造組合
1962
pp.449-453)に よれば、 藩政期 は多 い 時 で七 軒 の造 り酒屋が軒 を並 べ るが、明治初期 は廃 業す る蔵が
相次 い だ。 明治 29年 の 酒税法改正、31年 の濁酒 の 自家醸造 の 禁止 を契機 に新 たに蔵 を構 える酒造家
が現れ、吉 岡の酒造業 は隆盛期 を迎 える。
「松 華 J
有 限会社早坂酒造店 も、明治 29年 早坂文 七 に よって吉 岡下 町 に創 業 された。そ の醸造銘柄 は
「奥乃誉」「奥之華」「奥正宗」 な どだが、 現在 は松華 のみ を使用販 売 して い る。
南部社氏 の裸参 り 宮城 の多 くの酒蔵 と同様 に、松華 の蔵 で も南部杜氏 によって造 りが担 われ、 昭和
後半期 は紫波町二 日町の本 田完治杜氏が 28年 間 に渡 り、蔵 人た ち を率 い て酒 を醸 して きた。
本 田杜氏 は大正 14年 (1925)生 れ、父 は桶職 人で岩手県紫波 町 の 月 の輪 酒造 な どの桶作 りを して
いた とい う。本 田杜氏 は桶 職人 の修行 はせ ず、毎年夏期 は二 日町で農業、冬期 は各地 の蔵 での酒造 り
に携 わって きた。20歳 代 前 半 に当時尿 年少 で杜氏 とな り、 一 級技 能士 の 資格 も取 り、後 に南 部杜氏
協会 の理 事 をつ とめてい る。 また本 田杜氏が造 りを指揮 した時期 に、 早坂酒造店 の松華 は、 清酒品評
会 で優等賞 を得 て い る。
本 田社氏 とその配下 の 蔵人たちが吉 岡八 幡神社 へ の裸参 りを行 ったのは昭和 46年 と 47年 の 2年 間
であった。 参加 の経緯 は、 本 田杜氏が まず思 い立 って蔵人に呼 びか け、賛 同 を得 た。事前 に蔵 人たち
が装束 ・持物 な どの準備 を調 え、当 日は社長 の早坂芳雄氏 も羽織袴姿 で参拝 に加 わった。 本 田杜氏が
裸参 りを発起 した意 図 は「醸造 祈願」 とい う よ り、需要 に陰 りが見 えて きて いた 日本酒、 と くに自ら
が手がけて い る早坂酒造店 の松華 を、
消費者 に直接広告宣伝 す る ささやか な実践 になれば と、思 い立 っ
たのだ とい う。そ してその手段 を裸参 りに求 めたのは、本 田杜氏 の子 ども時代、故郷 二 日町の木宮
(き
のみや )神 社 に数人で裸 参 りを した 自らの体験 か らの 自然 な発想 で あ った とい う。
本 田家 には、木宮 神社 の社殿 前 で 10人 の子 どもたちが 裸参 り装 束 で並 んでい る、 当時 の 記念写真
が残 されて い る。右 端 の子 どもが「 紀元 二 千六百年」 の峨 を持 ってい る ところか ら、皇紀 二 千 六百 年
の記念行事 が行 われ た 昭和 15年 で あ るこ とが 分 か る。装 束 はみ な白の 向 う鉢巻、 白の 晒 し半纏 に半
股引、大振 の紙垂 れ と藁 の 下が りの付 い た きわめて太 い注連縄 を腰 に巻 き、 日に白紙 を噛 んで、素足
に草軽 を履 い て い る。小 さな子 ども 4名 は上 げ物が載 った三宝 を両手 で捧 げ、傍 らにハ サ ミが二 本立
てかけ られて い る。
一 方、昭和 46年 に吉 岡入 幡神社 へ の早坂酒造店 の裸参 りの 記念 写真 には、蔵前 の広場 に並 ぶ 裸姿
の七 人 の蔵 人 と、酒屋 の 半纏 を羽織 った本 田杜氏 と羽織袴姿 の早坂芳雄氏、後列 には着衣の蔵人四人
が見 える。裸参 りの装束 は、白の 向 う鉢巻 き、白の 晒 しを腹 に巻 き、白の 半股引 に、
腰 に紙垂 れの下が っ
た極 めて太 い注連縄 を巻 き、 口に白紙 を噛 んで、 素足 に草軽 を履 く。 3人 は上 げ物 の三 宝 を捧 げ、 一
人 は紙幣 を束ね たボ ンテ ンを持 つ 。前列 の 2人 は右手 に鉦 を持 ち、左 手 に「松 華」「早坂酒造 店」 と
第 3章
裸参 りの現状 と変遷
書 かれた角燈 を持 つ 。裸参 り装束 につ いて は、 す で によ く知 られて い た仙台大崎 人 幡宮 へ の勝 山酒造
の それ に習 ったのだ と、 本 田杜氏 は い う。 そのため上着 を着 けず に晒 しを巻 き、 ハ サ ミの代 わ りにボ
ンテ ンを持 つ ので あろ う。 ただ、極 めて太 い注連縄 が装 束 の 中心 に置かれ る点 は、 紫波 の裸参 り装束
を継承 して い るのである。 蔵人 は蔵 の 注連縄 も空 き時間に手作 りす る ものだが 、 そ の折裸参 りの注連
縄 もみずか らなった とい う。
吉 岡 八 幡神社 の どん と祭 と裸参 り 飴市 が立 つ 入 幡 さまの歳取 りの縁 日に行 われた酒 蔵 の若衆 の裸参
りが、藩政期 まで遡 るのか、 あ るい は明治期 か ら昭和初期 までの いず れかの時期 にあたるのか は、 島
田飴 をめ ぐる伝承か らは決めがた い 。 ただ、 昭和 46年 (1971)正 月 14日 の どん と祭 へ の蔵人 たちの
裸参 りは、か つ ての飴市 へ の それ を先例 として意識 して い なかったのは確 かであ る。
早坂酒造店 の本 田壮氏 と蔵人が裸参 りを試 みた昭和 46年 正月 14日 は、地域 の有志 に よ り初め て吉
岡人 幡神社 で どん と祭 が執行 された 日であ った。 大和 町役場 の広報 で あ る「広 報 た い わJに よれば、
吉 岡商店街 の店主 な どを 中心 とす る竹 の会が、地域 の催事 として どん と祭 を企画 し、 この年初 めて 開
催 し、以 降例年 の行事 と して恒常化 し現在 に い たって い る とい う (No.354平 成 3年 2月 号 )。 初 回か
「に ぎやか に ふ るさとの祭 りどん と祭」 の見 出 しで、
ら 10年 後 の 昭和 56年 (1981)2月 号 には、
「ふ
る さ との祭 りとして、 す っか り定着 した恒例 の吉 岡人 幡神社 「 どん と祭 」」 と記 し、昭和 59年 2月
号 で は「松納 めの伝統行事」 (No.270)、 平成 7年 (1995)2月 号 で は「小正 月 の伝 統行事」 (No.402)
と見 え、以降「伝統行事」 の形容が定着 して現在 にい たる。 また平成 7年 には町内各 地 区 の神社 で ど
ん と祭 が行 なわれてお り、平成 16年 2月 号 には、 宮床 の新 田入幡神社 が初 めて どん と祭 を行 なって
地域住民 に好評 だった記事 が見 える (No.510)。 本来、吉 岡周辺 の地域 で は正 月 の松 飾 り 。注連縄 は
氏神 の祠 な どに納め るか、個人居宅 内 で焼 き納 めて い た とい う。吉 岡入 幡神社 と吉 岡地 区にお い ては、
どん と祭 は決 して伝統行事 ではないが、地域 か ら遊離 した「 どん と祭」 の形式 そ の ものが「伝統行事」
と形容 されて拡散 して い く有様 を見 る こ とがで きる。
また、吉 岡入 幡神社 の どん と祭 へ の 裸参 りは、 どん と祭が始 まった初年 と翌 年 に早坂 酒造が行 なっ
てか らしば らく途絶 えるが、「広報 た い わ」 に よれば昭和 52年 (1977)か ら地域 の 団体 によって再 び
始 め られ (昭 和 59年 2月 号 No.270)、 昭和 天皇逝去 によ り自粛 された平成元年 (1889)を 除 き (平
毎年行 なわれて現在 にい たって い る。
早坂酒造 の裸参 りの装 束・作法 な どは仙台 の勝 山酒造 の それにな らって いた が、昭和 52年 以来地域
成元年 2月 号 No.330)、
の 団体が主体 になった裸参 りは、 まった く異 なる様相 を示 して い る。例 年 の 参加 団体 は町商工会青 年
部、 スポーツ少年団、 町内 の企 業、 自衛 隊大和駐屯地 の部隊 な どである。 スポー ツ少年 団 は上 半身裸
で、 柔道着 ・野球 のユ ニ フォーム な どのズ ボ ン、 自衛隊員 は同 じく上半 身裸 で 自の体操 ズボ ン、 とも
に足 はそれぞれの運 動靴 を履 く。他 の 団体 は 白の 晒 しを腹 に巻 き、半股引で 白足 袋 を履 く。 いず れ も
み な白 ・色 ・柄物 の後鉢巻 きを し、 白紙 は噛 まず、腰 に注連縄 を巻 くこ ともな い。多 くは松飾 りを積
上 げ た手作 りの神輿 を、皆 で掛声 を掛 けなが ら境 内 に担 ぎ込み、 どん と祭 の 火 に投 じて い く。 なかで
も目をひ くのは、細部 まで作 り込 んだ手作 りの仮装 を身 に着 けた七福袖姿 で、 これ は町内企業の社員
たちであ る (2000年 10月 号 No.462)。
神社側 は裸参 りの装束や作法 に関 して、指 導 め い た干渉 は一切行 なって い な い 。様式化 した既製 の
装束 一 式が流通す る こ ともな く、参加者個 々の発想 ・趣 向 と手持 ちの装束 に任 されて い る。 吉 岡入 幡
神社 の裸参 りは、裸参 りのそ う した多様 で雑多 な様相 を鮮や か に示 して い る事例 で ある。松飾 りを山
積 み した神輿 を掛声 とと もに どん と祭 に担 ぎ込む姿 は、明 治期 の仙台大崎 人 幡宮 の どん と祭 にその ま
ま重 な り合 うので あ る。
第 4章
第 4章
第 1節
どんと祭か ら見える もの
どん と祭 か ら見 え る もの
時代 に見 るどん と祭 と人 々
本節 では、仙台大崎八幡社 の正 月 14日 夜 か ら 15日 未明 にかけての祭 り風 景 を、江戸末期か ら昭和
前半期 まで の変遷 の なかで、 その風景 に組 み込 まれ 自らそ の風景 を形作 って きた多様 な人 々の姿 に 目
を とめつつ叙述す る。
(1)江 戸期 か らの仙 台地方 の小正 月行事 で あ る「若歳」の歳事 に連 なる大崎人幡社 の暁参
りと松納 め を概観 し、次 に (2)そ れが仙 台市域 の祭礼 、町場 の祭 りとして顕 れ る姿 と、その有様 が
最初 に
明治 中期 に多様 に展 開す る姿 を描写 し、最後 に (3)そ れ らが「 どん と祭」と括 られ認知 されて い く中 で、
大正期 か ら昭和前期 にかけて伝承 され続 け た祭 りの水脈 を探 ってみた い。 (1)(2)の 記述 は第 1章
第 6節 の 資料集収載資料 に、 (3)の それ は主 として祭 りに関 わって きた人 々か らの聞書 きに基 づ く。
(1)暁 参 り と松 納 め
後 の年越 しと大崎 八 幡社
仙 台地方 の小正 月 は「後 の正 月」「後 の年越 し」「女 の正 月」「若歳」 な ど
と呼 ばれて きた。 第 1章 第 4節 に概観 した よ うに天保 5年 (1834)の 『仙府年 中往束』 に よれば、江
戸末期 の仙台城下 で は、陰暦 正 月 14日 か ら 15日 にか け て、数 多 くの小 正 月行事が絶 間な く連 な り、
風物 を列挙す るその行 間か らは、 そ の晴 れやか なせ わ しさが垣 間見 えて い る。14日 は松飾 り注連縄
を下 ろ して繭玉 の 木 を飾 り、 町 中 で は晴着 を着て門毎 に祝 儀 を乞 う「赦宣子」 が見 られ、夕方 は子 ど
もたちが群 を成 して「海鼠曳 き」 を し、そ して晩 は大 崎 入 幡社 の夜宮 に参詣 人が群集 し、その雑踏 は
翌 15日 まで続 い た とい う。 また嘉永 2年 (1849)の 『仙墓年 中行事大 意』 に よれ ば、 雑踏す るその
境 内 で、役 目を終 わった 門松 が焚 き捨 て られて い た。
正 月行事 では、正 月 14日 晩か ら 15日 未明 にかけて地域 の 産土社や鎮
暁参
松納 め 仙台地方 の月ヽ
')と
守社、 さらには特定 の著名 な寺社 へ 参詣す ることを「暁参 り」 と呼 び、 若歳 を締 め くくる歳 事 と位置
づ け られて きた。『仙府年 中往 来』 が伝 える、14日 夜大崎 人 幡社 へ の 参詣群 集 は、暁参 りの遡及 した
姿 に違 い な い。 一 方 15日 は人 幡神社 の縁 日に当たる こ とか ら、14日 夜 は大崎八幡社 の新年最初 の 宵
宮 で もあ ったのだろ う。
また、14日 に下 ろ された松 飾 りや注連縄 は、 昭和 中期 頃 まで仙 台市域周 辺 で は、屋 敷神 の祠 の 前
に置かれた り、鎮守 の古 木、 あ る い は「明 きの方」 の大木 に結 びつ け られて朽 ちるに まか された。 こ
れ は宮城県全域 で見 られた「松 送 り」「松納 め」の在 り方 で もあ った。 それ に対 して旧城下 の仙台市
域 にお い ては、『仙蔓年 中行事 大 意』 に見 る よ うに、暁 参 りで賑 わ う大崎 入 幡社 の境 内 で松飾 りな ど
を焚 き上 げ て い た。
そ うした暁参 りと松納 めの大 崎 八 幡社 での様相 は、明治期仙台の地方新 聞 の記述 によって もた どる
ことがで きる。14日 夜 か ら 15日 未 明 にか け ての参詣 は「暁参 り」 と呼 ばれ、境 内で の松焼 きも「松
納め」 と意 味付 け られて、 ともに若歳 の最後 を締 め くくる伝統歳事 とされて い る。
明治 18年 (1885)1月 16日 の 「奥 羽 日日新 聞」 には、「暁 参 り」 の 見 出 しで、小正 月 の風物 を活
写す る記事 が見 える。
○暁参 り 餅鴇なる杵の音遠近 とな く聞 くえしは一昨 日にしてそれなん若年の祝 ひ事物する烏にて
繭玉木 (ま ゆたまき)脅 ぐ田舎女 (ゐ なかめ)の 群さへ何 となう春めけるに女の年越杯云ふめれば
第 4章
どん と祭か ら見えるもの
裏屋 の爆 も今 日ばか りは と我 の顔す る もい とをか し又 さすが にむか しの手振捨 難 の人 もあ りしと見
え夜 更 て後′
専追 ふ 啓す ら僅 か に聞えたるなん床 し然 れば人幡町 (は ちまん まち)な る大 崎 (お ほさ
き)人 幡 (は ちまん)の 暁参
(あ
か つ きま ゐ)り も左 こそあ らめ と思ふ に違 はず宵 よ りの参詣 にて
各 々松 三五 (し め)等 の飾 り物 を持行設 け の場 にて燒 (た く)煙 もいつ よ り許多 な りしを以て巡査
と消 防夫 とが 詰合 て其が非常 を警 回せ しとか故 (か れ)昨 日暁 までは引 も切 らぬ参 詣 にて同社 内 の
賑 は ひ一方 な らざ りしとなん
「奥羽 日日新 聞」明治 18年 (1885)1月 16日
地 方 新 聞 に「松 納 め」 の 呼称 が見 られ るの は少 し遅 く、 明治 29年 (1896)1月 12日 の「 東北新 聞」
に「 ●八幡神社祭灌
営市大崎 入 幡社 は茶十 四 日夜祭 りにて松納 め翌十五 日は本祭 な りJと あ り、明
治 30年 (1897)1月 15日 の 同紙 に「●入 幡神社祭趙
本晩 は正 月十四 日俗 に松飾 り奉納 と唱 ひ人 幡
町 同社 の夜祭 りな り」 とある。
(2)仙
台 城 下 の 正 月 と八 幡 さ ま の 縁 日
祭 り縁 日 旧城下である仙台市域 の正 月行事 の多 くは、
周辺農村地域 のそれ と多 くの共通項 を持 つが、
市域特有 の姿 で顕れることが 少 な くない。 明治 17年 (1884)2月 5日 の「奥羽 日日新 聞」 には、正
月 7日 の仙台 の風物 を次のように描写 して い る。
営地方 の害習 とて畜暦正 月 七 日は朝観音 に夕薬師 と補 へ 朝未来 (あ さまた き)よ り
太 陽 の東 の天 に沖 る比 まで は元 寺小路 なる税音 に詣で夕 は又木の下 薬師へ 参 り各 自我 身 の幸 を祈 る
○正 月七 日
者彩 多 (お びた ゞ)し く鉦 の緒 さへ 手 に取 るこ とのな らぬ は是 維新前 の事 に して追 々世 の 開明 に随
ひ参 話 の者 の敷 を減ぜ しにぞ本年杯 は如 何 あ らん と想 ひた りしが 一 昨 三 日は其例 日なればにや朝観
音 は守畜家 が前 官 の屠蘇 の飲 み過 し欺将七草 叩 きに疲 れて朝起 の順 (も の う)か りし烏 な らんか左
まで の雑沓 にはあ らざ りし夕 はこれ に引 きかへ 頃 日天氣打績 きて道 は乾坦 (よ く)且 つ 常 よ りは暖
氣 (あ たたか)な るに宵 は月 さへ 清 けか りしに浮れ てか薬 師堂 は殊 のタト賑やか にてあ りし又 同夜 は
鮮 追 (や らい)の 声 四方 聞え て何 とな く騒 々 しか りしも中囲分町奈良屋 の追雑 (や らひ)を 危す者
ti烏 帽 を冠 り大豆 に代 へ て金 平糖又 は蓬来豆 を打撒 く等営地方 には異様 のの もの なれば之 を見 ばや
とて 同店 の前 に人の山をな したる も亦おか し
「奥羽 日日新 聞」明治 17年 (1884)2月 5日
当時仙 台 では、正 月 7日 早朝 には市 中心 部 の元寺小路萬願寺 の観音 に、 同 日夕か ら宵 にか け ては市
域南 東 隅 の 木 ノ下薬師堂 に参詣す る習俗が あ り、それ を「朝観音 に夕薬 師」 と称 し、 明治期 の地方新
聞 に は毎年 の よ うにその賑 わ い が報 じられ て い る。 この 木 ノ下 の楽師堂参詣 は、『仙菖始元』 が「 木
(略 )正 月七 日の夜 諸人群 をな して木下 粟 師 に賽す是 を七 日堂 と云 通夜 す る者多 し夜
籠 り といふ 寒候薄衣 を着 て詣 る者 ある裸参 りといふ Jと 伝 える、江戸後期 の木下薬 師七 日堂 の流 れ を
下薬 師 の通 夜
受 け継 い で い ることは疑 い な い 。
そ して ともになん らかの祭 り縁 日が たって い た こ とも確 かであろ う。明治 11年 (1878)1月 8日 の「仙
墓 日 日新 聞」 には、「○昨 日は朝税音 に夕粟 師 とか 申 して午前 五六 時比 か ら元寺小 路 の 槻世音 へ は参
詣 人 がお し掛 けへ し掛 け釣鐘 を ゴー ンゴー ンと打散 らし近 年 に無 き群集 で あ りま した中に も澤 山に寄
り束 り目覺 しか りしは満境 内作 り花 の賣店 にて恰 も春時花 の 開 きた る心地ぞ した りける夕粟 師 に い た
りて も随分賑 はへ たる様子」 と新春 らしい華 やか な屋 台 の姿 を伝 えて い る。 木下薬 師 の七 日堂へ の裸
第 4章
どん と祭か ら見えるもの
参 りも、 この祭 り縁 日が立 つ 中 に参 じて人 目をひ き記録 に とどめ られたので あろ う。
上 に引 い た 明治 17年 2月 5日 付 け「奥羽 日日新 聞Jに よれば、「鬼や らいJの 豆
撒 きとして、 中心街 囲分 町 の奈 良屋 が烏 帽子 の冠 に威儀 を整 え金平 糖 や蓬 莱 豆 を撒 き、「異 様 の もの
群集 と異様 の見物
なれば之 を見 ばや」 と路上 に群 集が 山をな した。
また、同年 1月 16日 の「奥羽 日日新 聞」は、
仙台 の花 町常盤丁 での
「持 ち打」の あ りさまを伝 えて い る。
○ 一 昨夜 の景況
その模 様 こそ異 (か は)れ 是 は執 れの地 方 に も有我 囲 の奮習 にて正 月十四 日の夜
は営仙蔓地方 にては持 ち打 と稀 (た た)へ 物好 なる騒 客 (ひ とひ と)は 思 ひ思 ひに奇様 の装束 をな
し祝 ひのため とて 甲家 (そ こ)乙 戸 (こ こ)を 廻 りて種 々 (く さ ぐさ)の 狂藝妙戯 をな し人 を して
驚 を喫 し腹 を抱 か しむ且 つ 是等 の 人 にて訪 はれ し家 にては祝儀 な りとて金 子
(き
んす )出 す もあ り
酒肴 を馳走 す る もあ り又之 を謝 し断 る もあ りけ り即 ち一 昨夜 は其 れ に営 るを以 て午後七時頃 よ り市
中は何 とな く騒 が しか りしも左 まての事 はあ らざ りしか ど常盤丁
(と きはちゃ う)は 大賑 はひにて
三 番隻茶番浅 島忠信 二 十四孝其他種 々 あ りて執 れ も古体 を摸 し事物 に似せ たれ皆奇容戯体 な らざる
はな く見物人 は山を烏 して其 雑杏 云ふべ くもあ らざ りし借
(さ
て)ま た人 幡 なる人幡社 へ の参詣人
は悪路 なるに も拘 は らず 陸績 と押 し出 して年始 の飾 り松等携 へ 来 り社 内へ 堆 たか く積 み之 を燒 き終
夜 人の絶 えざ りしは是 も又営地 の富慣 とこそは知 られた り
「奥羽 日日新 聞」 明治 17年 (1883)1月 16日
仙台市域 の「持打」 は、思 い思 いの仮装 を して家 々 を訪れ、様 々 な持 ち芸 を披露 して祝儀 や馳走 の
もてな しを受 け る。それ も、料理屋 ・芸者置屋 。貸座敷 な どが軒 を連 ね る常磐丁 で は、「三 香隻茶呑
浅 島忠信 二 十 四孝 其他種 々 あ りて執 れ も古体 を摸 し事物 に似せ たれ皆奇容戯体 な らざるはな く」そ の
見物人 は群 集 し、 花 町は雑踏 を きわめた とい う。
明治 26年 (1893)1月 14日 の 「東北 日報」が「 ○正 月乞兒
(こ
じき)ヤ レ高歳、ヤ レ歌 うたひ、
ヤ レ餅貰 ひ と名 つ けて一 月茶 れ ば乞□ とな り市内毎戸の門邊 に立 ちて年 の うちを貰 ひ歩 くもの をば正
月乞□ と呼 ぶ こ となるが彼等 の 中 には近 郷 にて相應 に暮 し居 る者 も交 り居 る由破廉 恥 とや い はん、鍼
面皮 (て つ めんぴ)と や云 はん」 と非難す る記事 は、 当時彩 しい多様 な芸能者が、 周辺地域 か ら仙 台
市域 に正月 を通 じて流れ込 んでいた こ とを語 っている。市 中 の芸疲 や 帯 間 も得意先 の年始廻 りの途上
で端芸披露 に加 わ り、 中心街各所 で は連 日見物人が 山をな した。 日常 は 目にす ることので きない 目覚
ま しく華やかな見 物が路上 で披 露 され、それをゆ きず りの通行 人 と して見物す るこ とが、仙台市域 の
正 月 の楽 しみ として人 々 に 開放 され享受 されて い たので あ る。
男女 の夜歩 き 仙 台周辺 で、 広 い地域 か ら人 々が暁参 りに集 うことで 知 られていたのは、岩沼の竹駒
神社、塩釜 の塩釜 神社 な どで あ る。 明治 17年 (1884)2月 13日 の 「 陸羽 日日新 聞」 によれば、 名取
郡笠 島村 の道祖神社 は、太 夫様 と呼 ばれ る神職が、暁参 りの参詣者 の 男女 を指差 して縁結 びの 占 い を
す るため、 と りわ け若 い男女 が連 れ立 って参詣群集 し、「近傍 は人 頭 の為 に黒 し」 とい う賑 わ い だっ
た とい う。記事 は最後 に「営年 も男女敷十人の参詣あ りて何 れ も若者共 な りしが 中に は裸体参 (は だ
か まゐ)り J/t足 参 (は だ しまゐ)り もあ り境 内 の積雪 を も踏消す計 りの雑踏 にて定例 の指 さし式 もあ
り最 と盛 んにて有 りた りとは随分可 笑 (お か し)か りし次第 な りけ りJと 結 んでい る。 裸参 りの若者
が暁参 りの群集 に よって迎 え られ 喝采 され見物 として享受 され るさまが 想像 され る。
この道祖神社 の 暁参 りに代表 され る よ うに、大崎八幡社 の 暁参 りも、若 い男女 を始 め とす る老若男
女が夜通 し出歩 くことが許 容 され る場 で あった。すでに江 戸後期 の F仙 蔓始元』 の「大崎入幡神 賽
(略 )正 月十四 日の夜 男女老幼群 をな して大 崎 人 幡 に夜賽 す暁天 に至 る まて諸 人一隊一 隊行還轟 る事
な し」 とい う記述 に、 この夜 が担 って きた開放性が 活写 されて い る。 明治期 になって もそれは変 わ ら
第 4章
どん と祭か ら見 えるもの
ー 昨夜 は菖暦 の正 月十 四 日と
ず、明治 23年 (1890)3月 6日 の「奥羽 日日新 聞」 に、「○暁参 リ
云 ひ宵 の小雨 の 間 もな く晴れ霞 (か す み)の 衣
ろ も)打 榮
ちはえ)し 月弓男 (つ きゆみ を と
こ)浮 かれ出 しよ りい ざせ我 もと男女打連立 ち大崎人幡 に参詣す るなるべ し往復 (ゆ きかへ )の 足音
夜 た ゝ聞え しが社 内 の賑 へ 左 こそ と推 せ られぬ 」 とある。
八 幡 さまの縁 日
(こ
(う
明治 30年 代、芝居小屋 や芸妓屋 な どが荷 車 に松 飾 りを満載 して神 楽囃子 や楽 隊付
きで松納 め に乗 込 む こ とが流 行 し、 中に は松飾 りで形 作 った軍艦 を担 いで松納 め をす る者 もあ った。
明治 36年 (1903)1月 16日 の「東北新 聞」 は次の よ うな描写 が ある。
0-昨 夜 の人 幡社
一 昨夜営市大崎人幡社 に例 年 の通 り夜禁
(よ
まつ)(マ マ)り あ り夕頃 よ り
(け む り)頗 る盛 な りき又例 の裸赤参 (た
まゐ)り も各隊列 を
作 りて出かけ殊 に仙台座興行中の俳優連数十名腕車 (わ ん しゃ)を 連ね先頭 は架隊に歩調 を整へ 後
尾 には年4嘔 門松等 を浦載せ るチ ャリーズ を附 し恰 も出征行進隊 の如 く花 々 しき有様 な りき
老若男女群集雑沓 門松年縄 を焚 く焔
「東北新聞」明治 36年 (1903)1月 16日
芝居 一座 と芸 妓達 は参詣 の華や か さで も参詣者 たちの耳 目を集め、揃 いの赤 い提灯 に人力車 を連 ね
楽隊 を引 き連 れて乗 込 む壮士芝居の一 座や、馴染 みの旦那 を引 き連 れて艶やかな芸者姿で参詣す る芸
妓達 は、例 年暁参 りの 見物 の一 つ になって い る① 明治 36年 (1903)1月 16日 の「奥羽新 聞」 は、壮
士 芝居 一 座野参詣 を「0青 柳 一座 の人 幡詣 (は ち まん まゐ り)仙 蔓座 に興行 中な る壮 士俳優 青柳 一
座総員十余名 にて 一 昨夜 人力車 に何 れ も座名 を染抜 きた る紅燈
(こ
う と う)を 離 じ市 中音築隊 を先駆
に馬鹿囃重 (ば か はや しやた い)を 後 ろに威勢 よ く人 幡神社 に参詣 したるは廣告 を兼ねた るよ き思付
み な りし」 と伝 えて い る。
祭 りの賑 わ い につ きもの なのが拘摸 や賽銭箱荒 しと喧嘩騒 ぎで、市 中に も盗難や喧嘩 な どの警察沙
汰が常 に話題 になって い る。 明治 86年 の「奥羽新 聞」 と明治 37年 の河北新報 か ら引用 してお く。
花柳便 り若莱籠 (略 )▲ 一 昨 日の時間過 ぎにお人幡様 へ 参詣 に行 った藝妓屋 は吉野家、柳 家、 い て
ふ 家、玉 よろづ 、丁子屋 、新東家、 よろづ 家、福す ヾき等 で其 の藝妓 が惣出だったか ら賞 に花 々 し
く人 幡様 も大分御 眼尻 を下 げ られたか何 うだか分 らな い が一行 の 中に御精進 で も悪か った と見 え石
段 で 韓 んだ妓 な どあ って大 陽氣 で あ った げな▲ 此 のお八 幡様 の 宵祭 りに若 い女 の 裸参 りと老 婆 の
裸参 りと書生 の 裸参 りは三 幅封 の見物 であ ったが惣 体 に昨年 よ り人出 き多 く又 た裸参 りも多 か った
0怪 しか らぬ縁起物
市 内連坊小路七番地庄司清次郎妻 カツ (六 ― )は 一 昨夜 同東九番丁姓不詳 アイ、
クマ なん ど云ふ面 々 と打連 れ共 に怪 しか らぬ木製の物 を扇 に載 せ 囲分 町界隈 の家 に入 り込み餅打 の
御祝儀 な どと蝶舌 り居 りしを風紀係 に認 め られ しが昨 日一 同召 喚 の上 其 の不心得 を誠 しめ秤放
「奥羽新 聞」 明治 36年 (1903)1月 16日
●参 詣 の留 主 に泥 坊 北 目通 り九番地瀧喜 太郎 (五 十五 )は 長女 きさ (二 十 三 )と の二 人暮 ら しに
て薪炭商 をな し居 る ものなるが一 昨夜 七 時半頃 きさと共 に入幡神社 に参詣 に出掛 け蹄宅 して見れば
戸が開放 しにな り居 るよ り不審 に思 ひ箪笥 の 中 を検 め見 しに衣類入鶏盗難 に罹か り居 るのみか折 角
鴇 き立て の餅 まで も盗 まれて皆無 なるに二 人 は尻 餅 をつ いて之 れ は これ は
0次 も盗難
一 昨夜 六時 頃営市虎屋横丁 の伊藤春吉方 にて家族 か 夕飯 を食 し居 る 間に店先 に置 きた
る塩鮭一俵 (八 本入 にて見積 二 回)盗 難 に罹 る
0人 幡祭 りと警 察事故
一 昨夜 の人 幡神社祭典 は非常 の 人 出 な りし よ り警察事故 も多 か りしが営市
連坊小路 の筆職加藤義 一 郎方 の雇人高田忠蔵 は黒 縮子 の財布 を金一 回三 厘在 中 の ま ヽ拘 り取 られ名
第 4章
どんと祭か ら見える もの
掛丁二十番地佐 々木政治 は唐縮緬 の風呂敷一枚 を拾 ひ名掛丁 の佐藤キチ は妹 と体勇治
(十 一 )を
連
れて出掛 け たる途中にて勇治を見失ひしとて其筋 に訴 ひ出で しが同夜神社近傍 にて礎見 し又十人九
歳 の青年が 二十二三歳 の番頭艇 の番頭体 の者 と喧嘩 を始めたるを園田巡査が通 り掛か り説諭 し次に
参詣 人中に娼妓 らしき女あ りしより警官が取調べ たるに娼妓 にはあ らざ りしこと判明 して許 された
り
「河北新報」明治 37年 (1904)1月 16日
(3)ど
ん ど祭 り と人 々
大崎八幡 社 の 門前 町 で あ る人 幡町 で生 まれ育 った 昭和 14年 生れの話 者 は、 親 の世代 や近在 の年配
者 たちは、 現在 一 般化 して い る「 どん と祭
(さ
い)」 の 呼称 で はな く、「 どん ど祭 り」あ るい は「 どん
どん祭 り」 のそれ を 日常 的 に使 っていた こ とを記憶 して い る。 ここでは、「 どん ど祭 り」 の 呼称 に代
表 され る よ うな、現在 の 話者 たちの記憶 の ひだの 奥 に とどまってい る昭和 30年 代 まで の祭 りの 諸相
を書 きとめ てお きた い。
夜祭 りの雑 踏
現在「 どん と祭」 と総 称 され る大 崎 人 幡社 の正 月 14日 夕か ら 15日 未明 にか け ての祭
礼が、現在 の 話者 たちの記憶 の 中で 「縁 日」 として 隆盛 で あ ったのは、神社前 の 国道 に市営 の路面電
車が運行 して い た 時代 であ る。
当時祭 りの露店 は、 大学病 院 の あた りか ら大 崎 八 幡社前 の鳥居 まで国道沿 い にひ しめ き合 い、折 り
重 なる人波 で行 くも帰 る もままな らない ほ どの雑踏が廷 々 と続 いた。もっ とも参詣者が多か った 頃 は、
混雑時 は境 内 に続 く長 い石段 を片側通行 に して警官が歩行者 の整理 にあた り、境 内に参詣者が群集 し
て これ以上 の密集 は危 険 と判 断 され る と、 石段 の最 上 段 で往路 の参詣者 の進行 を遮断 し、2-30分 後境
内 の混雑力漸日らい だの を見 はか らって通 行止が解 かれた。 それ まで密集 した参詣者 たちは数十分 間石
段上 で立 った まま待 って い るのであ る。そのため、 大 ′
鳥居 を くぐって石段 を昇 り、境 内に行 きつ くま
でに 30分 以上かか るこ と もめず らしくなか った。夜 10時 を過 ぎる と混雑 も和 らぐが、 まだ境 内はか
な りの 人出で賑 わってお り、それは 12時 近 くまで 続 い た ものだ とい う。
神社前 まで通 じて い た市電 は、15日 の 午前 2時 頃 まで特 別 ダイヤで終夜 運行 され、市 中心 部 と人
幡社 を徒歩 で往復す る参 詣者 も彩 しく、国道か ら通 町 を抜 け て 中心街 の一 番丁 まで、遅 くまで人通 り
が絶 えなか った。 昭和 11年 生 れの男性話者 が、 昭和 30年 か ら 40年 代 の記憶 として、 どん と祭 の夜
は深夜 まで 人通 りが多 く、そ の 中 を市 中心部 まで歩 い て帰 るこ とが 楽 しみだった とい う。「夜 、遅 く
まで歩 ったた って、寂 しくね えんだ もん、 どこまで 歩 い て来 たって、人がいっぱいで しゃ。 それ楽 し
みだっち ゃ」 と語 る言 葉 には、日頃は中心街 で も早 い 時刻 に閉店消灯 し人通 りが途絶 えが ちな街路が、
この 日だけ は深夜 まで人の波で賑 わ い華や ぐことへ の喜 びが こめ られて い る。
夜店 さまざま
昭和前期 か ら高度成長期 にかけての どん と祭 の夜店 では、 考 え得 るあ りとあ らゆる品
物が商 われ ていた。 最盛期 には 日本全 国 の露天商が仙 台 の どん と祭 に集 まった とい われ る。 口上販 売
や実演販売 な どの特技 を磨 い た売 り手や、各地 の郷土色濃 い夜店が 一 堂 に会 し、互 い に気合 が入 って
楽 しか った と、 毎年 どん と祭 に夜店 を出 し続 けて い る仙台駄菓子店 の 昭和 10年 生れの店 主 は語 る。
仙 台駄菓 子、仙台達磨 、そ して ま といの店 は、 毎年境 内 に店 を張 る老 舗 で あ る。 他 に弓矢 ・風車 ・
張子面 。人形 な どの郷土玩具屋、 さまざまな花や提 灯 な どを精巧 に紙で造 り出 した紙細工屋 、竹 とん
ぼ 。独 楽 ・ 水 鉄砲 な どを並 べ た竹細 工 屋、縁 日につ きものの ヨー ヨー売 りな ど、 食物屋 で は、 どん と
祭 の 名物 と して毎 年何軒 も見 られた甘酒屋 、現在 の 大判焼 を小 さ くした責金焼 き、芭蕉煎餅 、 スルメ
の醤油焼 き、な どこれ もと りど りの 品 を商 っていた 。先 に引 い た 明治 11年 1月 8日 の
「仙蔓 日日新 聞J
が、元 寺小 路 の観音 の縁 日が境 内中造 り花 の 店 で花 が咲 い た よ うになった と報 じて い るが、 昭和前期
第 4章
どんと祭か ら見える もの
の紙細 工屋 はこの造 り花 の伝統 を引 く店 で あ ろ うか。牡丹や菊 の造花 を始 め、提灯や雛 人形 まで さま
ざまな紙細 工 品が、あち こち の 店先 を飾 っていたのが 見事 で あ った とい う。
仙台近郊 の 人 々 も手持 ち の 品 で露店 を開 い た よ うで、 野菜 の漬物、 閑上浜 の干物 を焼 いて売 る店 な
ど、それぞれ思 い付 くか ぎ りの 品が並 べ られた。人幡社前 の人 幡 町 の商店 も、それぞれ の店 の 品物 を
持 ち寄 って露店 を張 った。 終戦後 の食糧難時代 は、 カエ ル を捕 らえて来て焼 い て売 った り、 マム シを
売 った りす る店 もあ り、表 に「甘酒屋」 の看板 を掲 げ、裏 では濁 酒 を呑 ませ る店 な どもあった とい う。
戦後 しば ら くは演芸 や見世物 の小屋 も例年小屋掛 け し、手品 。玉乗 り 。軽業 な どが上演 されたが、
時 に芸達者 な参話人が飛 び入 りで持 ち芸 を披露す る こ ともあった。 また境 内 の一 隅 に将棋盤 を据 え、
参詣人 と賭 け将棋 を指す将棋指 しも見 られた とい う。
現在、駄菓子・芭蕉煎餅 ・達磨 。まとい な どを除 き、 これ らの と りど りの夜店 はす っか り姿 を消 し、
大判焼 。お好み焼 きな どの特 定 の食物屋が ほ とん どを 占め るよ うにな ってい る。
縁起物 と客寄 せ
正 月 の 縁 日であ る どん と祭 には、新春 を祝 う縁 起物 の夜 店 が欠かせ な い。現在 も
どん と祭名物 とされ るのが、板 お こ しを らせ ん状 に捻 った形 の「捻 りお こ し」 で、大 きな もの は長
さ 50セ ンチ を越 え、店先 に飾 られて看板代 わ りに もな って い る。 他 に「鳩 パ ン」 と呼 ばれ る鳩 の形
を した平 た い堅焼 きパ ンと、そ の年 の千支 をかた どった堅焼 きパ ンは、捻 りお こしとと もに仙台駄菓
子屋が どん と祭 でだ け売 りに出す縁起物の看板 商品 となって い る。細 か い装飾 と独 特 の色合 いが特色
の仙 台達磨 も、仙台周辺 の正 月縁 日に欠かせ ない縁起物 で あ り、 どん と祭 には毎年数軒 の店 が 出る。
古 い達磨 を持参 して どん と祭 の 火で焚 き上 げ て新 しい達磨 を求めた り、去年 よ リー 回 り大 きな達磨 を
買 った りす る。大小 のマ トイを並 べ た まとい屋 も、毎年何軒 も見 られた。現在 まった く姿 を消 して い
る玩具 の 弓矢 も、武神 で あ る人 幡神 にちなんだ縁起物 として多 くの 店 が商 って い た とい う。
多 くの夜店 の売 り手 た ちは、客 を惹 きつ けるさまざまな工 夫 を凝 らした。練 った能書 きと調子 の 良
い 口上 を聞かせ、見事 な手 さば きの実演 で 目をな いた。客寄 せ は手業 と喋 りが鍵 を握 って い たのであ
る。縁起物 の達磨屋や ま とい屋 の口上 は景気付 け と呼 ばれ、黄金焼 き屋 に も黄金焼 きの口上があ った。
仙台駄菓子 の売 り手 も、菓子 の効能や由緒 を連 ねた能書 きを喋 る ことで客 の足 を止め、そ の口上で
耳 を惹 きつ け楽 しませ て、店先 の菓子 を勧 めた。 毎年 どん と祭 に出店 して い る仙 台駄菓子店 の 当主 は、
昭和 10年 に仙台市鉄砲 町 に生 れ、市 内 の駄菓子屋 に弟子入 りして 7年 間修行 の後 23歳 で独 立、 自転
車 で市 内 を行商 しなが ら菓子 を売 り歩 いた。菓子 の行商 は一 軒 一 軒 の 家 にあが って喋 りとお し、持 っ
て い る菓子 を次 々試食 させ て信用 を得 る とい う販売方法 を とった。 自 ら作 った菓子 を携 えて家 々 を廻
り、菓子 の 口上 を述 べ て 客 を惹 きつ け る仕方 は、「口演」 と呼 ばれ、駄菓子販売 にお いては 日常 の 姿
「 われ われ、作 る人が話す るんだか ら、だか ら聞 い て る人 も感動す るわけね」といい 、
であった。 店 主は、
大道商人 とは効能 を述 べ て 品物 を売 る芸人だ と語 る。
また仙台駄菓子 の店 で は、見 事 な手業 を客の前 で披 露す る菓子 の実演販売 も行 なわれて い た。餅粉
に色 をつ け て手で さまざまな物 を形作 る しん こ細 工、それ を飴 で 行 な う細 工 飴、吹 きガ ラスの よ うに
暖 めた飴 に息 を吹 き込 んで 造形す る吹 き飴 な ど、 熟練 した手業 は雑踏 の 中 で も多 くの客 の 目を引 きつ
け足 を止 め させ たに違 い な い 。 ただ現在 は、 こ うした実演販売 は保健 所 の規制 によって行 なわれて い
ない。
子 どもたちの どん と祭
人 幡社 前 で生 まれ育 った 昭和 14年 生 れ の 男性話 者 は、小学生 だ った戦 後す
ぐの 頃、大崎 入 幡社 の 秋 の 例大祭 には人幡小学校 が休校 になった こと を記憶 して い る。人幡町の子 ど
もたちに とって、お人 幡 さまの 秋祭 りとどん と祭 は、一 年 で もっ とも待 ち遠 しい祭 りであった ことは
間違 い な い①
どん と祭 の 日は、露店が準備 を始 め る早 い時 間か ら遊 び仲 間 と誘 い合 って境 内を行 き来 し、心 ひか
れる露店 を一つ一 つ 注意深 く観察 し、値踏み して い った。話 者 を含 めた子 どもたちが楽 しみ に して い
第 4章
どんと祭か ら見えるもの
たのが、今 の大判焼 を小 さくした黄金焼 きの店 で、皆 で何軒 もある責金焼 き屋 をめ ぐって、火加減や
最初 に引 く油 の善 し悪 しまで批評 した うえで判断を下す。古 い油 を使 うと焦げやす く、新 しい油だ と
焦げず に味 よく焼 け るため、油 の善 し悪 しで同 じ責金焼 きで も美味 しさに大 きな差があるため、彼 ら
は「あの三軒 日の親父が美味 い どぉ」
「あの親父ねや、古 い油 でねや、 あ ど忙 しい どこれだかん な」
と手鼻 をかむ仕草 を した り、竹細工屋 を巡っては、「あの竹 とんぼ大 っきいどぉ」「あそごの竹 とんぼ
飛 ばね えどJと 、あち こち徘徊 しては批評 を戦わ して時 を過 した とい う。
昭和初期頃まで、仙台達磨 にはガラスの 目玉がはめ込 まれていた。卵 の殻 を横 に割 ったような楕円
の ドーム型 ガ ラスに、中か ら黒 目と白目を描 いてはめ込んだ。 どんと祭 で数多 くの達磨が焚 き上げ ら
れるため、い くつ かのガラス ロ玉は焚火後 に焼け残 っている。 どんと祭 の火はそのままにしてお くと、
雨か雪で も降 らない限 り3日 も4日 も燃え続けた。子 どもたちは火勢が弱 まったのを待って、長靴 を
はい て焼 け跡 に達磨 の 目や五円玉を拾 いに出か ける。 まだ くす ぶ り続け る焼け屑 の上 を長靴で歩 き回
り、達磨 の 目に気 を取 られてい ると、いつの まにか長靴 に穴が開 く。話者は長靴 に穴 を開けて家 に戻
り、「 一年一 度 のお人 幡 さまの どん と祭 だか ら」 と、親 にあ きれ られなが らさほ ど咎 め られなかった
ことを記憶 してい る。
仙台芸者 と達磨屋
明治期 の新聞には、 どんと祭 の晩、仙台 の芸妓たちが人力車で乗 りつ けて大崎入
幡社 に参詣する様子が記 されてい るが、芸妓 の参詣 は昭和期 を通 じて どんと祭 の風物 の一つ であ り続
けた。 昭和 30年 代 まで人力車で鳥居前 に乗 りつ ける芸妓が見 られた とい う。芸妓 の参詣 はお座 敷が
ひけ た後 の 12時 過 ぎ頃で、たいてい馴染みの旦那 を同伴 してお り、それを芸妓たちは「暁参 り」 と
呼 んでいた とい っ。
昭和 11年 生れで現在 も芸妓 をつ とめる話者 によれば、参詣す る時は正月姿 であ り、芸者の もっ と
も改 まった姿 をとる。髪は高島田、あ るいは潰 し島田、着物 は黒 い「出」 の衣装に柳 の帯、髪には鼈
甲の警 と正 月特有 な もの として髪 に稲穂 を付 ける。「黒 の 出」 は黒留袖 とは異な り、普通 の着物 の三
反分 で仕立て られてお り、柳 の帯 も普通 の九帯 の二本分 にあたる。「黒 の出」は、裾が長 いので黒の
出を着 ることを「黒 を引 く」 と言 う。歩 く時は長 い裾 を左手で棲 を取 って歩 く。その姿 を「左棲
(ひ
だ りづ ま)」 と言 う。雪 の時 は雪下駄 を履 き、右手で蛇の 目を差 して左手で棲 を取 って歩 く。そ うし
た「黒 を引 く」 のは正 月 と、舞台 での踊 りを依頼 された り、客 に特 に依頼 された りした時に限 られる。
芸者たちは、商売柄 もあ り、 どん と祭 の縁 日では必ず縁起物 を買 うことが約束事 となってお り、そ
こには特有な縁起担 ぎの習俗が伝承 されてい る。 どん と祭 に客 と行 くと、たいてい屋台で達磨 。マ ト
イ・捻 りお こ しなどを買 った り、買ってもらった りする とい う。
マ トイ屋では、大 きめのマ トイを買って、「その小 さいの付 けて」 とか、「い くらい くらにして」 と
か と、必ず値切 る。その交渉が成立する とその場 で皆 で手打 ちをす る。
グルマ屋では大 きめの ものを買 うが、売 り手 の隙を見て小 さい グルマ を袖の中に入れる。左手で棲
を取 っているので、
右手 を袂か ら延ば してグルマ を右 袖 の 中に入れる。それを「ち ょっとお連れす る」
と言 う。 どんと祭 で芸妓が グルマ を盗むのは、芸妓に とって も店 にとって も縁起が良 い とい って、店
の者 も見て見ぬ振 りをす ることになってお り、その分の代 金 は買った分 に含めてい るとい う。
この「達磨 をお連れする」 ことは達磨屋 の方 で も確か に伝承 されてい る。毎年仙台達磨 の店 を出 し
て い る昭和 11年 生れの達磨職人に よれば、そ う した行為 は「盗 む」のではな く、芸者が達磨 を見つ
け られずに懐 に入れると縁起が いい とし、見つ け られないこ とが肝要なため、 また連れの旦那が他 に
買 って くれる こともあ り、
見 ないふ りをして「縁起物だか ら呉
(け )て やれ」と若 い者 に言った りす る。
ある若者が店を手伝 い始めた最初 の年 に、 日のさめるよ うな芸者が達磨 をお連れ しようとした。泥棒
だ と思 った若者 は持 っていたモノサ シで軽 く叩 こう とした。す ると芸者は自分 の源氏名 と藤 の花 を染
め出 した手拭 を置 いていった とい う。興味深 いの は、そ うした風習は事前に先輩か ら言葉で教 えられ
第 4章
どん と祭か ら見えるもの
るこ とはな く、祭 りの現場 でのや りと りの 中 で体験 し、特定 の芸者 と達磨屋が緊張 したや りと りの 中
で暗黙 の 了解 を結 んで い くことが、常 に繰 り返 されて い る こ とである。 その了解 は数 年 間をかけて安
定 した一種 の信頼 関係 へ と育 って い くよ うで ある。
祭 叩を創 って い く人 々
どん と祭 の点火式 には、市 中心部 の東 一 番 町商店街 の代表が招 かれ、人幡社
の氏子 とともに松 明 を手 に して松飾 りの山に火 を点 ける役割 を担 う。氏子 で はない彼 らが招かれる よ
うになったの には、以下 の よ うな経緯 があ る。
昭和 30年 代、商店街 の店 主 10名 ほ どが 明治 43年 成年生 まれで、「成 年 の会」 を結成 し、 ことある
ご とに成年 の守 り神 で あ る大崎 人 幡 へ 参詣 した とい う。 どん と祭や節分 な ど、「何 か口実 をつ け ては」
年 に何 度 も参詣 して い た。戊 年 の会 の 会員 は、商 店街運営 の 中心 になって さまざまな行事 ・ イベ ン ト
な どを企画 して いた が、 一 番 町商店街 の年末大売出 しの大鳥居 を最初 に立 てた時、人幡宮 の どん と祭
に運 び込んで燃や す ことに した。 どん と祭 の 日は、 いったん鳥居 をば らして、仙台駅 まで運 び、仙台
駅か ら錦 町を通 って人 幡神社 まで運 んだ。 店 主達が担 い で運 んだが、重 いので 途 中 で若 い者 たちは逃
げ て しまった。 わ ざわざ仙台駅 まで運 んだのは、当時 一 番町商店街 と中央通商店街 は切磋琢磨 し合 っ
「 目玉」
て い たので、中央通商店街 へ の示威行動 の意味 もあ った。 どん と祭 の 時 の大鳥居 は「形 になる」
で もあ ったので、神社側か ら依 頼 され、 一 番 町四丁 目商店街 の代表が点火式 に立 ち会 い点火係 の役割
を呆 たす よ うにな り、それ以来 町内会が どん と祭 に関わるよ うになった。
東 一 番 町商店街 が大崎八幡社 の 祭礼 に積極 的に関って いつ たの は、 どん と祭 のみ に とどま らな い。
も ともと 30年 程前 か ら一番 町商店街 で節分祭 を行 なって い た。その 際 八 幡社 にお払 い を頼 んで いた。
やがて商店街 の代表が神社 に出向 い て豆 撤 きを行 な う よ うになった。最初 は商 店街 で撤 いた豆の一 部
を入幡宮 に持 って行 って、社 務所 の庭 で撒 い た。それが NHKに 取 り上 げ られ、 それか らよ り大規模
に本殿 で撒 くよ うにな り、今 で は特 別 の舞台 を作 って節分祭 を して い る とい う。 まさに神社 に率先 し
て祭 りを創 り出 して い る人 々で あ る。
また、 どん と祭 の 火で餅 を焼 い て食 べ る習俗 を、 一 人で毎年実践 し続 け た女性が い る。仙 台 で芸 妓
を勤 めた女性 は、大正 4年 神奈川県平塚市 に生 まれ、小学校 か ら東京浅草 に暮 らす。彼女 の叔母 は仙
台 で「待合」 をや ってお り、夏休 み に仙台 に遊 びに来 た時、芸者衆 の姿 を見 て憧 れ、仙台 に居 つい て
芸妓 になった。浅草 にい た頃は酉 の市 には何 があって も必ず行 く人 で、 仙台 で は人幡 さまを始めにさ
まざまな社寺 に参詣 し、 多 くの 守 り札 な どを も とめ、縁起 が良 い と聞 い た こ とは何 で もや ってみ るよ
「 お守 りのデパ ー ト」な どと呼 ばれるほ どだっ
うな人だった。あ ま りに多 くの 守 り札 を買 い求 めたので、
た。ある とき彼女 は、歳 時記 な どで とん ど焼 きの火で餅 を焼 い て食 べ る小正 月行事 を知 り、大崎 八 幡
の どん と祭 に鏡 餅 を持 って い き、社 務所 で長 い棒 を借 りて焼 いて食 べ る事 を始 めた。 それ以来、毎年
どん と祭 の火で餅 を焼 いて食 べ て い た。それ を食べ る と一 年丈夫 で い るか らとか、風邪 をひかない か
らと言 って い た とい う。彼女 の 娘 でや は り仙台 で芸 妓 を勤 め る昭和 11年 生れの話者 は、「 なかなかそ
れ焼 けないんで す よ、熱 い し。交替 で 持 ってね、重 い し。それ焼 け た とこだ けち ぎつて。また焼 いて ね。
みんな、「おばちゃん、何 してんの」 なんて子 どもたちがね。「食 べ な さい 、風邪 ひかな いの よ。受験
に合格す るよ」 とか、毎年それや ったんで す よ。それ をや らな い と、 どん と祭 に行 った あれが ない っ
て。 … だか ら、文献 でなんか 見 なが ら、「ああ いい、 これは縁起物 だJっ てい うんで、始 めた。」 と母
を回想す るのであ る。
第 2節
どん と祭 の現在 か ら見 えるもの
本節 にお い ては、昭和 30年 代 以 降、高度経済成長期 を経 て、 現代 に至 る までの仙 台市 内における
第 4章
どんと祭か ら見えるもの
どん と祭 の変化 の様相 を、地元紙 であ る「河北新報」 の記事 を中心 として分析す ることを 目的 とす る。
小正 月行事 の変 容 とどん と祭 の 隆盛
戦後 の急激 な社会変化 を経 て、 昭和 30年 代 に至 る と、 仙台市
内 の小正 月行事 に も変化 がみ られ る よ うになる。 昭和 30年 代 か ら 40年 代 にか け ての河北新報 には、
1月 14日 が近づ く度に、仙台市内にモチ花売 りが登場 した ことが取 り上 げ られているものの 〔
資料
、14日 に松飾 りを外 し、ダンゴ木を飾ることや、15日 にアズキ粥 を作 るといった習俗は、既に「よ
き時代のノスタルジアを買 う」〔
資料 2〕 、「町角の郷愁 モチ花市」「世の中が目まぐるしくなればな
1〕
るほど郷愁を感 じるらしくモチ飾 りの売れ行 きも意外に上 々」〔
資料 3〕 などと表現されてお り、都
い
市部を中心 として小正月行事の捉え方が変化 してきて ることが窺える。
資料 1 ほんの り春の気配 街 を流すモチ花売 り
○ …仙台市内にモチ花売 の姿がみ られる、あす は “
正月の十四 日"戸 ごとに松 飾 をおろし、ほこ
りをはらってモチ花 を飾 る日である。
O… 紅 白のモチをち りばめた枝 の束 をかかえて街 を流す彼女 たちの背 に、冬の陽射 しがやわ らか
くほおえみかけ、何 とな く春 の訪れを告げてい るようなの どかな風情か って、かの西鶴が「天丼裏
にさしたるモチ花に春の心 して …・」 と草 したの も、なにか しらうなずけ る感 じだ。
○ …徳川時代 のむか し養蚕の成功 を祈 ってマユ ダマ を飾 ったのがいつ しか こうい うな らわ しに変
わったのだそ うだが、仙台 ではこの 日松飾 をた く大崎八幡 の名物 どん と祭 のにぎわいにお されて、
かれんなモチ花 を愛す る人 々が年 々減 ってい る。
※下線は筆者による
『河】
ヒ新報』昭和 30年 1月 13日 夕刊 8面
資料 2
パ ッとモチ花
小正月
(十 五 日)の
小正 月呼 ぶ店頭
デ コ レー シ ョン、 マユ 玉が仙 台市 内 の店先 に出た。「 ダ ンゴ木」 と呼 ばれ、
一昔前 にはどの家で も柱 に飾 ったエ ンギ もの。赤 い ミズキの花 に咲 き乱れた白いモチの花 は雪国の
季節感 に ピ ッタリだ。お客 さんたちも「 よき時代へ のノス タルジアを買 う」 とい った表情 だった。
この「 ダ ンゴ木」 は十九 日ごろ までにおろ して しま う地方が多 く、そ の秋 の豊作 を祈 りなが ら枝 の
モチを食べ て正 月気分 に別れを告げるとい う。
※下線 は筆者 に よる
『河北新 報』 昭和 35年 1月 13日 夕刊 3面
資料 3
町角 の郷愁
仙 合 でモチ花市
あたたか く暮 れて月夜 や小正 月 (圭 岳 )
十五 日は小正月、 い わゆる女 の正 月 だ。 十四 日はその年越 しで、 この 日に仙台では門松 や松飾 り
を納 め、それ を焼 く行事 が “どん ど祭 "な わ け。家 々ではアズキが ゆ を作 って祝 い、
松飾 りに代 わっ
て ミズ木 にモ チ花 を咲かせ たモチ 飾 りが登場す るな ど地 方 に よって い ろい るの習慣 があ る。
かつ ては元 日以来、男性 の ごちそ う作 りな どでいそが しか った婦 人 たちが 初 めてゆっ くり正 月 を
楽 しんだ ものだ とい う。 こ うした情緒 、世 の 中が 目ま ぐる し くなればなるほ ど郷愁 を感 じる らしく
モ チ飾 りの 売れ行 きも意外 に上 々「 団地 の人 々 も買 ってい きます」とモ チ飾 り屋 さんは語 って い た。
※下線 は筆者 に よる
『河北新報』 昭和 39年 1月 13日 夕刊 5面
第 4章
どんと祭か ら見えるもの
また、昭和 30年 (1955)に は、全 国的に新生活運動が展 開 し、冠婚葬祭の簡略化や生活 の近代化
が推進 された ことに伴 い、門松 の廃止 も呼びかけ られてい る。 しか し、年中行事 の簡略化 が推進 され、
小正月行事が古 きよき時代 の習俗 としてノス タルジックに受け止め られてい く一方 で、大崎人幡宮 の
どん と祭 はむ しる この時期 に、15万 人か ら 20万 人 とい う戦後最大 の人 出を記録 し続け、仙台を代表
す る祭礼へ と成長 を遂げていったことが明 らかである 〔
資料 4〕 。
資料 4 燃 えるお正 月 仙台名物 大崎 八幡 どんと祭
○ …お正月の神様が炎にのって天に帰 る とい う仙台名物大崎八幡神社 の どん と祭 が十四 日夜行わ
れた、門松廃止 Pの 年 とい うの にど こか ら集 まるのか戦後最大 の十 五 万 の人出 を記録 したのは皮 肉、
午後 六時古式 さなが ら火打石 で火 を ともして浄火が エ ン ゝと境 内 の天 を こがせ ば絶 える ことない人
の列 もまたエ ン ゝ
○ …名物裸 まい りもこの 日二 .六 度 (午 後 八 時 )と い う どん と祭 にはめず らしい 暖か さにす こぶ
る威勢 よ く、白装束 に鈴 の音 もリ ン ゝと酒造店 は じめ二 十組以上が参加、参詣 人 の 目をみ は らせた。
○ …車庫 を空 に して動員 した市電、市 バ スは午後 七 時過 ぎころか らす べ て超 満員、 ヘ ッ ドライ ト
の流れさなが ら東京 の 目抜通 りをしの ぐばか りで名物ね じりあめなど軒 をつ らねる露店、 このあた
りにか き入れの どん と祭景気 をみせ た
※下線 は筆者 による
『河北新報』昭和 30年 1月 15日 7面
「松焚 き」
「 どん と祭」とい う呼称 が定着 し、
大崎人幡宮 では現在 と同様 に
なお、昭和 30年 代 には、
既に
と「裸参 り」 を中心 とした行事が実施 され、 15日 の明け方 まで参拝客が訪れて いたことが窺 われる。
神武景気 を受けて、昭和 32年 (1957)に は戦後最高 の 15万 人が参拝 してお り、「炎 を眺めなが ら神
資料 5〕 。
武景気 に感謝 した」 との記述 もみ られる 〔
資料 4〕 、「仙台市電、市 バ ス も例年 に
他 にも「 このあ た りにか き入れの どん と祭景気 をみせた」 〔
ない張 り切 り方、バ スの方が うしみつ 時 まで運転すれば、市電 も負けず劣 らず、二十一台 の臨時電車
を増発、午前 二時 まで運転、サ ー ビス これつ とめる」 〔
昭和 30年 1月 14日 夕刊 3面 〕、「市電、市 バ
スは延長運転、市内の映画館 も明け方 まで上映するところが多 く、年に一度 の火祭 りは夜通 し続け ら
れる 〔
昭和 34年 1月 14日 4面 〕といった記述がみ られ、
神社 の周辺 は明け方 まであかつ き参 りの人 々
で賑わっていたことが窺 える。
また、 この頃、東一番丁商店街 では正 月 の大売出 しの宣伝のため、6つ の大′
烏居 を立て、1月 14日
パ
に鳥居 を解体 し、
大勢 で担 いで大崎人幡宮 まで運ぶ「 どんと祭大鳥居奉納 レー ド」 を実施 してお り、
これが どんと祭 の名物行事 となっていた。商店街 の関係者 は、 どん と祭 の 日のパ レー ドを東京の神田
資料 5〕 、威勢の良 い掛 け声 にのって鳥居 を逗び、移動中に
祭 の ように定着 させた い と述べ てお り 〔
は縁起物 である火伏 の纏 を配布す るな ど、 どん と祭 を通 じて商店街 の宣伝 にも努めていた。
この他にも仙台駅前 に設置 された正月の大売出 し宣伝用の大型 の達磨や、新伝馬町の三瀧山不動院
の張子 など、多額 の資金 を注 ぎ込んで作 られた巨大 な縁起物が大崎入幡宮 に物 々 しく運ばれ、 どんと
祭 の雰囲気 を盛 り上 げて いたことが窺 える。 この ように、 どん と祭 は、正 月送 りの行事 であると同時
に、昭和 30年 代 には商店街 の活性化 にも活用 されていたことが明 らかである 〔
資料 5〕 。
資料 5
どんど祭 =大 崎八幡 =人 出 ざっと十五万 神武景気 の大鳥居 も炎に
(別 面諸報 )き の う十 四 日夜 は仙 台名物 の「火祭」 どんどまつ り、仙台市 内の各神社 の境内には
みんなが持寄った「松飾 り」や「 しめなわ」 など正月の飾 りを焼 く火がたかれ、終夜賑わ った。 中
第 4章
どん と祭か ら見えるもの
で も八幡町 の大崎入幡神社 には十五万 をこす人が押 し寄せ、 寒 さもゆ るんだ夜遅 くまで「はだか参
り」 な どで ごった返 した。 しか し警戒 は万全、大 した事故 もな く、平穏 な「 どん どまつ り」 だった。
正 月"の 中に は年末年始 の 商戦 に活躍 (?)し た東 一 番丁、新伝 馬町、駅前 な
○ …焼かれゆ く “
どに飾 られた大鳥居やおか動 さん、 グルマの姿 もあった。 つ めか け た各商店街 の 人 々 は炎 々夜 空 を
焦がす ほのお に包 まれてゆ くこれ らの′
島居や不動 菫 空査が めなが ら “
神 送量室と 空遂謎 し重
○ …東 一番丁 の青葉通、広瀬通角 な どに立 て られた六 つ の大′
専居 は同 日午後 までに取 り外 されて
広瀬通 りに勢ぞ ろ い し、 午後 三 時、 白装束 の 山伏 を先頭 に東 一 番丁 の各商店 の店員 と、 学 生約 二 百
人 にかつ がれて東 一 番丁、駅前 な ど市 内 を行進、 夕刻大崎 入 幡神社 に着 い た。 ベニ ヤ板 の張 り合 わ
せ とはい え高 さ二 十五尺、大 さ三尺五寸 とい う大代物 だ けに これ をか つ ぐハ ッピ姿 のバ イ トさんた
ち も寒 中に汗 して「 ワッシ ョイ ゝ」先頭 の「宝車」か らはエ ンギ ものの小 さい 火伏 の まといが見物
人にば らまかれ宣 伝 は上 々。
東 一 連合会 の話 では「人出の 少 い仙台 に客 を集めるため毎年 この行事 を行 い、東京 の神 田 まつ り
のように名物化す る」と意気 ごんでいる。結局六つで三十六万円が灰になったわけ。
○ …一 方新伝 馬 町 のお不動 さまにあ る張子 のお不動 さん もv烏 居 と一 しよに灰 になった。や は り同
日午後か ら町内の役員や神 主 さんが出席 し、お神酒で祝 って告別式 を行 い、午後 四時 ころ 山伏姿の
若者 たちが 引 くリヤ カー に鎮座 して出発、町内 を一巡 したのち大崎八 幡神社 に到 着 した。 ほのお を
背負 った高 さ十 二 尺 の “トリ年 の守本尊 "と い われる張子 の お不動 さんは「バ リ ゝ」 と音 をたてて
火 の 中に消 え、金六万 円 の威勢 を見せ た。
○ … また仙台駅前 の青葉通入 口 にでん と構 えた グルマ さん もこの夜 どん どまつ りに参加 した。高
さ五尺の二つ が道路の西側 に飾 られ、 年末か ら正月にかけ客 の フ トコロ をに らんで きたが、 一つ は
十 二 日の大風 で無残 に も吹 きとんで こわ れて しまったので、駅 前商店街 で は十 四 日もう一 つ の グル
マ さん も解体 して トラ ックニ 台 に積 み夕刻 同神社 に運 んだ。 楽隊、お はや しを先頭 にに ぎやか に行
進 し、町内の人 たち も トラ ックー 台借切 って グルマ さんの前途 をみ とどけに参列 し鳥居やお不動 さ
んに負 けない盛況 ぶ り。 これ も二つ で二 万五千 円の火炎だった。
さっそ うハ ダカ参 り 声 もかす れる警戒陣
○ …神明前 の青年有志須藤正 さん ら二 十 二 人は宮城 の 町商工 会 の激励 を受 け て さっそ う とハ ダカ
参 り。午後六時総合 グラウ ン ド付 近 に集合、 水 ご りを と り身 を きよめて出発、 二 十人町、名掛丁、
東 一 番町、櫓 町、北 四呑丁 と コー ス を と り、 白装束 もい かめ しく、 鈴 の音 に邪気 をは らって大崎人
幡 へ と向 った。
○ 一大崎人幡 の境 内は宵 の うち出足 しはあ ま りよ くない方。例年 に くらべ て格段 の 暖か さで “
遅
く行 って も大文夫 "と い うわ けか午後 八 時 ころには 四万 くらい。 ところが、 それ を過 ぎる と人並
み はみ る ゝあつ くな り、 同八 時半 には一 躍 三 倍 の人 万、 同九時 には十 二 万 とい った調子。 昨年 の
十五万 とい う数字 をオ ーバー した とい うのが 各方面 の観測。
○ 一人出警戒 の仙 台北署 は例 年通 り表 の大 鳥居 わ きに警備本部、拝殿下 の 裏参道分 れ道付近 に警
備詰所 をお き、約 二 百名 の警官 を動員、仙 台市消 防本部、 日赤県支部 な ども協力 して警戒態勢 の完
璧 を期 した。 ス ピー カー には四人の婦 警 さんが 三組 に分れてつ きっ き り。迷子 の照会、人波 の誘導
に大 わ らわ。「 テ ー プ レコー ダー を持 って くれば よか った」 とかす れ声 でボヤ い て い た。
O… これが功 を奏 した ものか、人が多 く出 た割 に通 行 はス ムーズ。神前 に参 り松 か ざ りを燃やす
善男善女 の群れは文字通 り流 れ る よ う。 人 もさま ゞな ら祈 る思 い もさま ゞで どん どまつ りの夜 はふ
けて行 った。
※下線 は筆者 による
第 4章
どんと祭か ら見えるもの
『1可 】
ヒ
日324■ 1月 15日
新罰期 日
召不
│
4F面
│
山台三大祭」 としてのどんと祭 ― さらに、昭和 30年 代後半 には、どんと祭
どん と祭の資源化 ―「イ
は市民 による正月送 りという目的以外の意味を付与され始め、市民の行事から仙台市を代表するイベ
ン トとして認識されてい く。
、
「みちの く最大の火祭 り」〔
「仙
昭和 35年 1月 15日 9面 〕
河北新報の中にも、
昭和 39年 1月 15日 〕 といった表現がみられるほか、 この時期 には「仙台七夕
台名物 『どんと祭』」〔
資料 6〕 。
「仙台三大祭」として外部に提示されるに至っている 〔
まつ り」や「青葉祭 り」とセット化され、
このことは、同じ時期に国鉄が「青森ねぶた」「秋田竿燈」
「仙台七夕」を「東北三大祭 り」 として商
品化 したことと運動 していることが推測されるが、どんと祭もこの頃から、七夕祭 りと並び、仙台市
資料 7〕 。
を代表する観光資源 として意識され始めてきたことが窺える 〔
資料 6
ハ ダカ参 りも元気 に
仙台名物 『どん ど祭 』
古 い伝統 を持 つ 仙台 の「 どん ど祭」が十 四 日夜 か ら十五 日暁 にかけ、人幡町恵沢 山 の大崎 八 幡神
社 を中心 とし市 内六十四 ケ所 の神社 (市 消 防局届 け出)で 盛大 に催 された。
“
仙 台 三 大祭 り"の 1つ とされる この行事 は「左 義長」 とも呼 ばれ る小正 月 の 火祭 りで、 この火
をあ び る と若返 る とか病気 を しな い とか い う言 い伝 えが あ り、観光価値 もあ って 年 々 に ぎや か に
な って い る。
寒 冷前線通過 のため午後 か らは気温が下が って小雪 もち らつい たが、 暮 れ なず む ころか ら大崎人
幡神社境 内 には門松や しめ飾 りを持 った人た ちが途切 れ ることな く続 き、松 た き場 の火 勢 は強 くな
正月"を 納 め、数十組 の
る一 方。商店街 が年末年始 の繁盛 を祈 って建 てた大鳥居 も投 げ込 まれて “
裸 参 りの若者 たちが鈴 を鳴 らしなが ら周 囲 を舞 う。縁起 ものの グルマ や火伏せ マ トイを売 る百 二 十
数軒 の夜店か らの呼び声 も祭 り気分 をあお ってたいへ んなに ぎわい だった。 榊社 の人の話 では人出
は昨年 よ りやや多 く「 さて、十七、人万 人で しょうか」 とい うことだった。
※下線 は筆者 に よる
『河北新報』 昭和 39年 1月 15日
7
今夜、恒例 の “どん ど祭 "
七 夕 と並 ぶ仙台 の代表的 な民俗行事 “どん ど祭 "は きよう十四 日夜 か ら十五 日暁 にかけ仙台市入
資料
運び込 まれた大鳥居
幡 町恵沢 山 の大崎 八 幡神社 で行 なわれ る。
“どん ど祭 "は 「左義長」 とも呼 ばれ る小 正 月 の 行事 で、 約 二 百年 の伝統 があ る。 この火 をあび
る と若返 る とか、病気 を しな い とか いい伝 え られ、燃 え上が る炎がその年 の景気 を占 う ともい われ
て い る。
大 崎 人 幡神社参道 には この朝 、早 くも数十軒 の夜店が作 られ、縁起 ものの グル マ や火伏せ ま とい
の 陳列 に大 わ らわ。 “
松 た き場 "に は シメなわ も張 られ準備万端。夜 の 混雑 を避 け た近 所 の主 婦 た
商売繁盛 "
ちが つ ぎつ ぎと投 げ込 んだ門松 、シメ飾 りが 山 と積 まれて い た。 また、東 一 番丁通 りで “
の 守 り役 として大役 を果 た した高 さ約七□ の 大 鳥居 も トラ ックで午前十時半 には “
松 た き場 "に 運
び込 まれた。 この鳥居 は同 日朝早 く十 二 人の作 業員が 三 十分がか りで取 りはず した。
はだ
今夜 の大崎人幡神社 には去 年 の十五万 人 を上 回る二 十万人 の人出が 予想 され、寒 中 の名物 “
か参 り"も 繰 り出 して景気 づ け をす る。
なお 同市 内 の “どん ど祭 "は 大崎 人 幡神社 ほか七十 九 ヵ所 の榊社 (三 消 防署調 べ )で 行 われ る。
昨年 は六十 四 カ所 だった。
※下線 は筆者 に よる
第 4章
どん と祭か ら見えるもの
『河北新報』 昭和 40年 1月 14日 夕刊 5面
昭和 49年 (1974)の 記事 には、「正 月 の フィナ ー レ
どん と祭昔 なが らの 素朴 さ 全 国有数 の大崎
八幡 宮 Jに お い ては「生 活 の近代化 の 波 の なかで、松納 めの行事 もしだ い に薄れ、 昔 ほ どのに ぎわ い
を呈 す る こ とが な くな った。 東京 な どで は松 飾 りが正 月過 ぎれ ばただの ゴ ミと して回収 されて い る
ケ ース が 多 いそ うだ。 そのなか にあ って仙台市内では 『 どん と祭』 の名 で、 昔 なが らの素朴 な正 月行
事 と しての形式 を残 しなが ら現在 まで脈 々 と続 い て い る。大 崎 人 幡神社 の 『 どん と祭』 は、お祭 りの
規模 や歴 史か らい って全 国 にその 名 を知 られ、冬 場 これ とい った祭 りの な い 仙 台地方 で は唯 一 最大
の観光行事 と もなって い て、 宮城 県 内外 か らの観光客 で に ぎわ う」 と記 されて い る。 また、「六時前
後 か らは、『裸参 り』 の一行 が続 々到 着す る し、 点火風 景 も撮影で きるので、 ピー クょ リー足早 く神
社境 内で待 ち構 えるのが 賢明 とい え よ う」 と、 この 頃多 く見 られるよ うになったアマ チ ュ アカメ ラマ
ンヘ の写真撮影時 にお け るア ドバ イス も記 されて い る 〔
昭和 49年 1月 10日 3面 〕。 この ことか らも、
どん と祭 を、仙 台 を代 表す る冬 の行事 として対外 的 に PRし 、 また外部の視線 を意識 して捉 え直そ う
とす る動 きが窺 える。
そ の後、昭和 50年 代後半 には、 各 地 で 途絶 えて い た小正 月行事 の復活が試 み られ るな ど、小正 月
行事 を地域 お こ しに活用 しよ う とす る動 きが生 じ、ふ るさと創生事業が実施 され る 頃には、 さらに こ
の動 きが活発化 して い く (註
1)。
平 成 2年 (1990)に は「 (中 略)月 ヽ
正月の行事 は各地 で盛 んで ある。
いや、地域 お こ し、ふ るさと創生 の掛 け声 に乗 って、年 ごとに盛 んになる気 配 だ。全 国的 に名 を売 っ
た仙 台 の どんと祭 もさる ことなが ら…。 (以 下省略)」 〔
平成 2年 1月 14日 1面 〕 とい った記述 もみ ら
れ、小正月行事 としての どん と祭 の 資源化 の動 きが観察 される。
神社 か ら団地の公 園ヘ ー 「コ ミュニ テ ィどんと祭」 の誕生 一 昭和 40年 代後半 には、大崎人幡宮へ
の参拝者 は 35万 人程度にまで増加 してい る。40年 代 の後半になると、大崎入幡宮や東照宮 とい った
市内の代表的な どん と祭会場 は非常 に混雑する ようにな り、参拝 に出か けて も本殿 に近づ くことがで
きず、遠 くか ら拍手 を打 つ人 も目立 ち始めた 〔
昭和 56年 1月 15日 10面 〕。 また、代 表的な神社へ の
参拝 の集中は、交通渋滞 も引 き起 こ し、松納 めを近所 で済 ませたい と考える人 も増 えて きた。 こ うし
た理 由か ら、仙台市内 にお ける どん と祭 の会場 は、40年 代以降急激 に増加 し、 参拝客が分散化す る
傾 向がみ られるようにな った。 しか し、 中には近所 に神社がない といった新興住宅地 もあ り、昭和
50年 代 に団地が増加 し始めた後 は、 神社 とは関係 のない、団地の公園や空 き地で どん と祭が行 われ
るよ うになった。 昭和 63年 (1988)に は、仙台市内の 134カ 所 で どん と祭が行 われたが、 この うち
16カ 所 は公 園や空 き地で行われてい る。
特 に、昭和 50年 代 には団地 ブーム にのって、仙台市郊外 の住宅地 で行 われる どん と祭 が急激 に増
加 してお り、昭和 39年 には 64ヵ 所 で あ った開催地は、
平成 3年 頃か らは 180カ 所 にまで増加 してい る。
こ うして、 昭和 50年 代 を通 じて、 どん と祭 を実施す る新興団地 の町内会が増加 し、 どん と祭 は正 月
送 りの神事か ら住民 の親睦 ・交流 の場 としての性格 を強めて きた と言える 〔
資料 8、 9〕 。 なお、新聞
い
コ
ニ
記事 にお ては、町内会主催 の どん と祭が 「 ミュ ティどんと祭」 と称 されてい る。
町内会による「 コ ミュニティどん と祭」が増加するに連れて、大崎人幡宮 へ の参拝者数は減少 して
きた。大崎人幡宮へ の参拝者 は昭和 56年 (1981)頃 がその ピー クであ り、例 年 24∼ 25万 人が参拝
していたが、各地 で どん と祭が行 われるようになった後 には、参拝者数が ピー ク時 の 3分 の 2程 度 ま
で減少 している。
さらに、町内の住民 の親睦 を図るため企画 された町内会主催 の どん と祭 に、正 月送 りの神事 の意味
が逆 に持 ち込 まれるとい ったこと も生 じて い る① 昭和 58年 (1983)に 始め られた桜 ヶ丘 7丁 目の青
第 4章
どんと祭か ら見える もの
葉台町内会 では、 どん と祭 の会場 である青葉台公園内に臨時 の榊殿 を設置 し、桜 ケ岡神社 の宮司 によ
昭和 62年 1月 15日 12面 〕。 また、地区
る神事が行われた後、正月飾 りの焚 き上げが行われている 〔
の空 き地の どんと祭会場 に、山形県羽黒町の出羽三 山神社か ら山伏 を招 き、清 めの儀式を行った後 に、
お焚 き上げをする町内会 も登場 してい る 〔
資料 10〕 。
資料 8
小規模 だけど 御利益 同 じさ 県内各地 でもどん と祭
御 神火燃 える
十四 日夜 、仙台市 の 大崎 人 幡神社 では恒例 の「 どん と祭」が行 われ、大勢 の人 々 を集 めたが、 同
榊社 以外 の県内各 地の神社 やお寺 な どで も、御神火 に正 月飾 りを投 げ入 れ、手 を合 わせ る家族連れ
の姿 が 目立 った。規 模 は小 さ くて も無病息災、家 内安全 を願 う気持 ちは皆 同 じ。各神社 の境 内は夜
遅 くまで に ぎわった。
仙台市 内 では 同夜、大崎 八 幡和社 のほか東照宮、薬師堂、 天満宮 な ど百 二 十 七 ヵ所 で御神火 がた
かれた。 同市以外 では泉市 十五 カ所 、塩釜市五 ヵ所、多賀城市十 ヵ所 、岩沼市 ― 力所、松 島町六 ヵ
所、利府 町四 カ所 な ど。 県 内各地 で夕 暮れ ごろか ら炎が上が った。
"
神社境 内 での昔 なが らの どん と祭 のほか、最近 目立 って増 えて きた町内会単位 の “ミニ どん と祭
も盛 んだった。仙 台市 米 ケ袋 にある「縛地蔵専」では「近 いので私 で も来 られ ます」 とお ばあちゃ
ん。 家族連 れや子供 た ち と一 緒 に、御神火で体 を温 めて い た。
大崎地方 の あ る消 防署 で は「 どん と祭」 の最近 の傾 向 につ いて 「田んぼや空 き地 に正 月飾 りを持
ち寄 って燃やす地 区が多 くなったJと 言 う。港 の ある七 ヶ浜で は、船 だ ま りの 海面 に赤 々 と御神火
が映える幻想的な「どんと祭」 も見 られた。
※下線 は筆者 による
『1可 北新報哲昭和 58年 1月 15日 12面
資料 9
郊外団地
盛 んな火 の手
どん と祭
松飾 り、近 くで焼 く 仙 台 あす は 127ヵ 所 で予定
あす十四 日夜 は どん と祭。仙台 の 名物行事 の 1つ 大崎人幡神社 の どん と祭 には、今年 も二 十万人
"も 盛 んにな
を超 える人出が予想 され る。その一 方 で、最近 は郊 外 の 団地 な どでの “ミニ どん と祭
火 の手"が 上がるはず。 しか
り、仙台市消防局へ の届 け出 によると、あすは市内百二十七 ヵ所 で “
し、 この世界 にも栄枯盛衰があるようで、古 くか ら地域の中心だった神社 の 中には、参拝客の減少
を嘆 いているところ も少 な くない。
どんと祭 は小正月の行事。松飾 りを外 して燃や した後 にはもち花
(繭 玉)を
飾 り、五穀豊穣
(じ
よ
う)を 祈 る。仙 台駅前 の朝市 などでは数 日前か らもち花が売 り出され、小正月の雰囲気 を盛 り上 げ
てい る。
同市消 防局 に よる と、市 内 で行 われ る どん と祭 の作 数そ の もの は年 に よって大 きな変動 はない が、
五十 年代 以 降に 目立 って きた のが 団地 の 公 園や空 き地 で行 われ る “ミニ どん と祭 "。 今年 は十五 ヵ
所 で計画 されて い る。
そ の多 くは町内会の主 催。「神社が遠 いので手作 りで」 とい うわ け だ。
同市北東部 の鶴 ケ谷 二 丁 目中央町内会 (渡 辺久雄会長 )で は、 二・ 五 キ ロ ほ ど離 れた東照宮 か ら
お札 をもらって きて町内 の公 園 で松 飾 りを焼 き、町内会役員 らが ミカ ンや酒、 もちを用意 して親睦
を深め る こ とに して い る。
また、同市卸 町二 丁 目の卸商 セ ン ター では、一 昨年、 セ ンター 裏 に建 て られた神社 に、組合役 員
が集 ま り、神火 をた い て商 売繁盛 を祈 る。典型 的な新興 どん と祭 だ。
これ に対 し、古 くか らあ る神社 やお寺 の どん と祭 は全般 に、 年 々参拝 客が減 って地盤 沈下気 味。
同市 内 の あ る神社 では「最近 の人たちは、松飾 りは地元 の神社 で燃 や して手 ぶ らで大崎入幡 さん の
第 4章
よ うなにぎやかな ところへ行 って しまう。 お賽銭
(さ
どんと祭か ら見えるもの
いせん)な どの上が りはみな向 こ うさん とい
うわけで、参拝の少 ない神社 では仕方な く火をたいてい るよ うなもんです よ」 とばや く。
しか し、なかには商売繁盛 で悦 に入ってい るところもあ る。例 えば、学問の神様 として知 られる
八年前 か ら多 くなった とい う。
同市摺岡の天満宮。入試 を目前 に控えた受験生の参拝が、
特 にここ七、
進出"し て くる動 きが 目立ってい るが、 これ らのお寺 にとって
最近 は仙台市内や近郊 に寺院が “
どん と祭 は絶好の PRの 機会。昨年十月 に開山 したばか りの 同市荒巻 の成田山経 ケ峰国分寺
伯龍住職)で は、本 山では十二 月に行 う「お焚
(た )き
(国 分
上げ」 の行事 を十四 日にして どん と祭 に歩
調 を合わせた。
山伏、僧 りよが火の周 りで祈祷 をす る儀式などを行 う予定 で三、四万人の人出を見込んでい る。
「大崎 さんには い くら頑張 って もかなわないが、 こち らは車で来 られるメリッ トがあ りますか ら
ね。成田さんの教 えに神仏 を問わず受け入れ よとあ ります ので、大崎 さんへ の行 き帰 りにも寄 って
下 さい」 (五 十嵐琢元副住職)と 宣伝 に余念がない。
※下線は筆者に よる
『河北新報』昭和 58年 1月 13日 夕刊 9面
資料
10
住 民主役 に
広場 で境 内で
どん と祭
地域 に定 着
仙台
社寺 の境 内に、 町内会 のお 祭 り広場 に、 ご神火 が上が った。寒空 の 十四 日夜、仙台市 内をは じめ
県 内各地 で行 われ た「 どん と祭」。交通安全 を、無事合格 を、商売繁盛 を …・、それぞれ の、 さまざ
まな思 い をす くい上 げ る よ うに、燃 え上が る炎。各会場 は例 年 に もま して、夜遅 くまで に ぎわ った。
仙台市 内 で行 われた どん と祭 は百 二 十 八 ヵ所 (市 内三 消 防署調 べ )で 、県内 トップ①昨年 よ リー カ
所増 えた。
この うち、同市北 束部 の 自由 ヶ丘団地 の どん と祭 は、地元 町内会 (五 百 二 十世帯 )の 主 催。「地
域 の コ ミュニ テ ィーづ くりもかね て」 と四年前、 山形県羽黒 町 の 出羽 三 山神社か ら山伏 を招 い て催
したのが きっか け とな り、今年 も、 同神社 山伏 の大川治左衛 門康 隆 さん (五 九)に 来 て もらい、地
区 の空 き地 で午後 五 時半か ら始 まった。
白装束 の大川 さんが ホ ラ貝 を合 図に会場 の清 めの儀 に入 るころには五十人余 の住民が しめ縄 や松
飾 り、 お札 を手 に集 まった。赤 々 と燃 える ご神火 に手 をか ざ しなが ら、 ある主婦 (三 人 )は 「娘 の
高校合格 を祈 りま した」
どん と祭 も、七 夕 同様 こ う して地域単位 で行 われ る よ う になって きた のが都市部 の傾 向。 “
団地
都市 "の 泉市 で は、 昨年 の十五 ヵ所 か ら今年 は十九 ヵ所 に増 えた。
県 内 では、 商売繁盛 を願 い 商人 とのゆか りが深 い どん と祭 の起 こ りにあやか って、 最近 目立 って
きた のが 商工 団体 が音頭 を取 っての どん と祭。迫 町 で は地元 の佐沼商 工 会青年部が 「町の新 しい 名
物 に しよう」 と始 めてか ら、今年 は六回 目を数 え、裸参 りも登場 した。
小牛 田町で も、 町商 工 会が手掛 け た どん と祭 が今 で はす っか り定着。会場 の神社 には安産、子授
け の神 さまが まつ られて い る とあ って、「 こ としこそは」 とご利益 を願 う婦 人 の姿 も。境 内 には 開
逗 のだるまや、 ま とい を売 る露 店が 立 ち並 びに ぎわ った。
このほか 、神社 を中心 に気仙沼市では人 ヵ所 で、 古川市 で六 ヵ所 、塩釜市 で も五 ヵ所 で行 われ る
な ど夜 の どん と祭 を最 後 に、お正 月行事 を締 め くくった。
※下線 は筆者 に よる
『河北新報』 昭和 59年 1月 15日 12面
裸参 叩への企業参加 の増加 と「伝統裸参 り保存会」の結成
どんと祭においては、「御神火が主役で
第 4章
どんと祭か ら見えるもの
はあ る ものの、 裸参 りが な い と様 にな らない」 と も言われ、 この ことか らも市民 は「松焚 き」 と「裸
参 り」 を合 わせて、「 どん と祭」 と して認識 して い ることが窺 える。
昭和 52
昭和 50年 代前半 には、男性 と共 に裸参 りに参加 す る銀行 員 の女性 の 記事 が取 り上 げ られ 〔
年 1月 15日 8面 〕、百貨店 の女性社 員や看護士 な ど、 裸参 りへ の女性 の参加 が 目立 ち始めた。
また、50年 代 の後 半 には不 景気 や増税 の影響 を受 け て、商 売繁盛 を祈 願す る企 業 に よる参加 が増
加 した他、社 員 の親睦 を深 め、企 業 の PRを 目的 として裸参 りに参加す る企 業 も増 え始めた。 この 時
期 は、特 に大手企業 の在仙支社 ・ 支店 による参加が増加 して い る。
これ を受 け て、 昭和 50年 代 には、 古 くか ら裸参 りに参加 して きた酒造業者 らに よって掲載 された
新 聞広告 に、以下 の よ うな苦言 が掲 載 されて もい る。「裸参 りは、 い ま造 り酒屋 だ け の もので はな く
な リー般 に行 われ る よ うになった。 中には酒 を飲 んでか け声 を上 げ た り、太鼓 やホ ラ貝ではや して走
るな どの一行 も見 かけるが、故事 にの っ と り、あ くまで も整然 と礼儀正 し く、厳粛 に行 うのが 本来 の
昭和 57年 1月 13日 5面 〕。
姿 で あ ろ う」 〔
特 に、企業 の参加が増加 した昭和 50年 代 には、参拝者が体 に色 を塗 り、酔 って大声 を上げるよ う
な行動 も日立ち始め、大崎入 幡宮 では昭和 60年 (1985)以 降、参拝 に当たっての注意事項 を記 した
パ ンフレッ トや ビデオを作成 し、裸参 りの参加者に配布 してい る。
そ うした中、平成元年 には、天皇崩御に伴 い、裸参 りを自粛す る団体や、派手な懺や色物 の着用 を
「伝統的な “
みそ ぎ"の 神事が復活 したよ う」〔
資料 11〕 だ とい う声が上がった。
控 える団体 も出たため、
資料
11
時節柄裸 参 りはみそ ぎ風
大崎 八 幡 「 どん と祭」
天皇 ご逝去 に よる 自粛 ムー ドで、裸参 りはむ しろ厳 か な雰 囲気 に 一。仙 台市 。大崎 入 幡神社 で
十四 日夜、
行 われた「 どん と祭」。 ハ イライ トの裸参 りは昨年 の 半分、約 二 千 二 百人 の参加 に とどまっ
み
たが、参加企業 の 自社 PRは 控 えめで、さ らし、短 パ ン姿 の 白い裸参 りの 行列が続 き、伝統的 な “
そ ぎ"の 神事が復活 した よ う。冬 の夜空 を焦がす ご神火 の前 は文字通 り新時代 の「平和」 を祈 る人
の波 で あふれた。
神社境 内に積 まれた松飾 りや、 しめ縄 の 山に ご神火が入 ったのは午後 四時過 ぎ。 ち ょう ど雪が舜
い、気温 も三 度台 と、 冬 の祭 りには申 し分 の ない舞台が整 った。
み
続 々 と裸参 りの男女 の列が参道 を上 って くる。もとは杜氏 (と う じ)が新 酒 の 醸造祈願 のための “
そ ぎ"と して行 われて い たが、 最近 は企 業 の参加が増 え、 ち よっぴ り宣伝色 が。 それが今年 は参加
団体 が約百十団体 と昨年 よ り八 十 団体 も減 り、企業名や商品名 ののば りや カラフルな装 束 もあ ま り
目立 たなか った。
「 今年 も参加 しま した。が、 や は り自粛 です① の ぼ りも色 ものの着用 はや め ま した」 と、 あ る生
命保 険会社。「大 行天皇 の ご逝去 を悼 む」 とののぼ りを掲 げ た 団体 もあ った。
本 当 にお参 りしている"っ て感 じ
あ る年配 の参拝者 は「 昨年 まで と比 べ る と寂 しい気 もす るが “
で いいね」 と、 “
簡素"な 裸参 りの 感想 を話 して い た。
裸参 りは 自粛 で も、参道 のわ きは露店が軒 を連 ね、 いつ もの に ぎや か な祭 り風景。夜が更 けるに
つ れ、赤 々 と燃 え盛 る “
冬 の 火祭 り"は 家 内安全、無病息災、商売繁盛 を祈 る人、人、人で夜遅 く
まで に ぎわった。
『河北新報』 平成元年 1月 15日 27面
また、バ ブル景気 の頃には、企業 による PRの 活動が活発化 し、裸参 りが企業 の PRイ ベ ン トとなっ
てい るとい う批判 も再 び聞かれ るようになった 〔
資料 12〕 。
第 4章
資料
12
歩 く CM
どんと祭か ら見えるもの
「どんと祭」裸参 り 縫 い ぐるみや太鼓 加速する企業 PR
仙台 。
伝統 の小正月行事で、盛 んに 自社 PR― 。仙台市の大崎八 幡神社 で十四 日、行 われた “どん と祭"。
呼 び物 の裸参 りには昨年 を上回る百七十 団体、七千人が参加 した。 さらし、
短パ ンの 白装束に交 じっ
て、今年 は縫 い ぐるみ姿 の特別宣伝 部隊 もお 目見 え し、企 業 の PR合 戦 は年 々、加速す る一 方。赤 々
と燃 え盛 る冬 の火祭 りは、 家 内安全、商売繁盛 を祈 る人たちで夜遅 くまで に ぎわった。
朝早 くか ら持 ち込 まれ た松 飾 りや しめ縄 の 山に ご神火 が入 れ られたの は午後 四時五十分①炎 が
高 々 と上が ったの を合 図 に、 裸参 りの男女が鈴 を打 ち鳴 らしなが ら、続 々 と参道 を上 って くる と、
祭 り気分 は一気 に盛 り上 が った。
裸参 りは も と もと、寒 の 仕込み に入 る杜氏
(と
う じ)た ちがお参 りした のに 由来す るが、 最近 で
は大 勢 の参拝客が集 まる一大 イベ ン トとあって、企 業単位 の参加 が増 え、今 や格好 の宣伝舞台 に (以
下省略 )。
※下線は筆者による
F河 北新報』平成 3年 1月 15日
23面
裸参 りへ の企業参加が増 える ことについては、仙台市 の活性化 につ ながるとい う見方が強 い一方、
古 くか らの しきた りを重視 し、裸参 りは企業 の宣伝 の場 ではない と戒める声 も上がってい る。「杜氏
が新酒の醸造祈願 のための膿 ぎとして行ってきた」 とい う本来 の 目的を再確認 しようとする動 きも生
じてお り、平成 18年 (2006)に は酒造 団体 の関係者 によって「伝統裸参 り保存会」 も結成 されて い
る 〔
資料 13〕 。
資料
13
仙台 。大崎八幡宮 「どんと祭」 /正 統裸参 り「次代 へ」市民有志 が保存会
仙台の誇 り継承、一肌脱 ぐ/移 転 の天賞酒造、2006年 も不参加
1月 14日 夜、仙台市青葉 区の大崎八幡宮で行われる小正月の伝統行事「 どん と祭」 で、裸参 り
の伝統的な様式 を守 ろ う と、市民有志が「仙蔓 (せ んだい)伝 統裸参 り気存会」 を結成 した。正統
な裸参 りをつか さどって きた地元の酒蔵「天賞酒造」 (現 まるや天 賞)が 移転 したため、伝統の様
式や装束が失 われると危 ぶ まれてお り、会は継承 に力 を注 ぐ。
呼 び掛 け人 は、青葉区一 番町 で飲食店 を営む谷徳 行 さん
(54)。 大崎八幡宮 に新酒を奉納 して き
た天賞酒造が昨春、宮城県川崎町に移転 し、今年 も昨年 に続 き参加 しないため、会 をつ くって裸参
りの伝承 に乗 りだ した。裸 参 りで毎年顔な じみの 20-50代 の男性約 30人 がはせ参 じる。
大崎人幡宮 によると、裸参 りは江戸時代、厳冬期 に仕込みに入 る杜氏
(と
う じ)が 、醸造の安全
や吟醸 を祈 って参拝 したのが始 ま りだ とい う。史料 で も江戸末期 の 1849(嘉 永 2)年 の「仙台年
中行事大意」で確認 されて い る。
(1)水 をかぶって体 を清める (2)ゆ っ くりと歩み、行 きも帰 りも私語 を慎む
ために「含み紙」 を くわえ、列 か ら離れない (3)鈴 をそろって鳴 らす (4)ア Jの 順番 にしきた り
天賞の裸参 りは
があ り、動かさない一 な ど、伝統 をしっか り守 って きた。
20年 ほ ど前か ら毎年、天賞 の裸参 りに参加 して きた谷 さんは「酒造 りに根差 し、脈 々 と受け継
がれて きた誇 りがある地元の文化 を絶や した くない。次世代 に伝 えてい くため、今 はわれわれが頑
張 る」 と話す。
今回は天賞の社主や杜氏が い ないため、奉納酒 はない。ち ょうちんや鈴、足袋、草履 などは天賞
か ら借 りて裸参 りに臨む。谷 さんは「本当にや りたい人だ けが集 まった。伝統の様式にで きるだけ
近づ けてい く」 と意気込む。大崎人幡宮 も「様式 を絶や さず に残す ことは非常 に意義があるJと 歓
迎 してい る。
第 4章
どんと祭か ら見えるもの
『河北新報習平成 18年 1月 5日
さらに、
「正統な」裸参 りを静かに続けたいと、混雑 した大崎八幡宮から周辺の神社へ参拝場所を
資料 14〕 。
変更 した酒造会社 も出てきている 〔
‐
少
資料 14 '可 Jヒ 才
仙 台 。大崎八幡神社 の どん と祭 を盛 り上 げ る「 裸参 り」。神社 の説明に よる と二 百五十年 ほ ど前、
う じ)た ちが、吟醸祈願 したのが始 ま りとい う。
正装 "も 、身 を清 めた杜氏 の姿 を映 して い る。右手 に鐘、
もひ き)、 腰 に しめ縄 の “
新 酒 の仕込み を控 えた城下 の杜氏
さ らしに股引
(も
(と
左 手 にはち ようち ん。 口に「含 み紙」 を して沈黙 を守 りなが ら、粛 々 とご神火 を 目指す。
だが、時代 とともにそのス タイル も崩れて い く。昨年 は、 裸参 りにぬい ぐるみが登場 した。笛や
太鼓、会社 名 を大書 したのぼ りも珍 し くな い。20万 人 もが集 まる祭 りは、企 業
PRの 絶好 の場 と
い うわけだ。
伝統派 の 目には、そんな騒 ぎが「堕落」 と映 る。 と う と う今年 は、 しにせ の 酒造会社 が「別の神
社 に参拝す る」 と宣言 した。 この思 い切 った シ ョック療法、今夜 の どん と祭 に効 き目が表れ るか ど
うか。
大崎八幡 神社 も最近、裸参 りの乱 れ を正す意味 を込めて、 どん と祭 を ビデオ化 した。受 け継 がれ
て きた祭 りの「心 」 を大 切 に、 とビデ オは訴 えて い る。 あか らさまな商魂が、 厳 か な神事 にそ ぐわ
な いの は確 かだ。
※下線 は筆者 による
『1可 北新報』 平成 4年 1月 14日
現在 も、景気 の拡大や低迷 に合 わせ て、企 業 による裸参 りは増減 してお り、直来や衣装 の代 金がか
さむ こ とか ら、 ここ数年 は、参拝者 の 人数 を減 らす 企 業 も増 えて い る
(註 2)。
また、平成 4年 (1992)に は仙台市 に よる成人裸参 り実行委員会が組織 され、新 成人 に よる裸参 り
が実施 され るな ど、 裸参 りの 目的 も参加 団体 も多様化 して い る。
どん と祭 の拡大 と変容
昭和 30年 代 以 降 の どん と祭 は、大崎八幡宮 を中心 としなが らも、周辺 の寺社、
あ るい は町内の公 園な どへ と会場数 を拡大 し、 またその性 質 も正 月送 りの神事 か ら、観光 資源化、 企
業や町内会 の親睦 ・交流 といった 目的 へ と拡散 して きた。 さらに、平成 9年 (1997)頃 か らは、正月
飾 りを燃やす ことによるダイオキ シ ンの発生 な ど、環境 問題が盛 んに取 り沙汰 され るよ うになった こ
とで、正 月飾 りの素材 の分別が徹底 されて きた。
仙 台市内 の どん と祭 は、 東北 の 中核都市 としての仙台 にお い て、不特定多数 の都市住民 を巻 き込み
なが ら拡大 し続 け て きた。現在 は、大 崎 人 幡宮 へ お 守 り代 と昇殿料 の千 円 を支払 えば、誰 で も気軽 に
裸参 りに参加す ることがで きる。 また、裸参 りの衣装 も市 内 の衣料 品店 にお いて 、 一 揃 い で販 売 され
てい る 〔
資料
15〕
。
どん と祭 が、「仙 台七夕 まつ り」 と同様 に仙台市 を代 表す る行事 として認識 され、定着 して きた こ
とは、多様 な価値観を許容する緩やか さによるものであ り、都市型 の祭礼 としての どん と祭 の特質が
ここに窺える。
資料
15
レジャー最前線 /大 崎 八 幡 宮 どん と祭 (仙 台市青葉区)/無 病息災 を炎 に願 う
14日 夜、東北各地 の神社 で行 われ る伝 統行事 「 どんと祭」
。仙台市青葉区の大崎入幡宮 (小 野 目
第 4章
どんと祭か ら見えるもの
博 昭宮司 )の 祭 りは、その 中 で も最大規模 を誇 り、 7万 人以上 の人 出で に ぎわ う。
<寒 さ耐 え裸参 り>
どん と祭 は、 藩政時代 に始 まった正 月送 りの行事。 1月 14日 夜 か ら翌 15日 未明 にかけて、正 月
の松飾 りを燃やす炎で暖 を取 る と、 その 1年 は病難 を免 れる とされ る。
大崎八幡宮 の小 岩裕 一 さんは「 どん と祭 の魅力 と言 えば裸参 りだ」 と話す。
裸 で腹 にさらし、腰 に しめ縄 を巻 い た老若男女が、 カネを鳴 らして市 内 を練 り歩 く姿 は仙台 の冬
の風物詩 となっている。
寒 さに耐 えて人幡宮 へ 到着、本殿 でお は らい を受 けた後、御神火 を一 周す るのが 習 わ し。裸参 り
を 3年 続 ける と一生風邪 を引か な い とも言 われる。
企業や団体 の参加が ほ とん どだが、 もちろん個人参加 もで きる。大崎人幡宮 に よる と、裸参 りは
事前 に申 し込みが必要 で、お 守 り代 と昇殿料 として 10oo円 が掛 か る とい う。
<白 装束 で きめ る >
裸参 りは白装 束が基本 ス タイル。 創 業 100周 年 のユ ニ ホ ーム販売 「 ダイ コ クヤ 」 (青 葉 区、青 山
昭司社長 )で は、個人参加者 向 けに用 品一 式 を販 売 して い て、5000-1万 2000円 で全 部がそ ろ う。
「 身支度 の ア ドバ イ ス もして い る。気軽 に 申 し出てほ しい」 と青 山太郎専務 は話 す。
もちろん、迫力 あ る裸参 りを身近 で 見 るの も楽 しみ方。人幡宮 へ の到着 ラ ッシュ は午後 4-6時
で、「見物 な ら国道 48号 沿 いが好位 置」 (小 岩 さん)と い う。
境 内に立 ち並 ぶ 露店 もどん と祭 の魅 力。毎年、 180店 ほ どが 軒 を連 ね、夜祭 りの華や か さを演 出
す る。縁起物 の 人気 は高 く、「 どん と祭 限定」 と もなれば、売 り切 れ るのが 早 い。
<巨 大お こ し人気 >
老舗和菓子店「 中鉢屋 」 (宮 城 野 区、 中鎌喜隆社長 )の 「 どん と大 ね じ り」 はその 1つ 。 らせ ん
状 にね じったお こ しで通 常 は 1個 5セ ンチ程度 だが、 この 日だけは巨大 お こ しを販売す る。
価格 は大 きさに応 じて 4種 類。 1.5メ ー トル ほ どもあ る大 ね じりは l個
2万 円、1メ ー トル程度
な ら 1万 円。 ほか に 1000円 (約 30セ ンチ )、 500円 (約 20セ ンチ )の 手 ごろ な大 ね じりもある と
い う。
人生 山あ り谷 あ りを表す大 ね じ りを食 べ ることで、道が 開け る とか 。「お客 さまの今 年 一 年 の健
康 を願 い、1つ 1つ 丹精込めて作 る」 と中鉢社長 は意気込 んで い る。
<裸 参 り>
酒 の仕込み に入 る酒杜氏
(と
う じ)が 酒造安全、吟醸祈願 のため参拝 したのが始 ま り。 白装束 に
身 を包み、左手 にち ょうちん、 右 手 には カネを持 ち、 口に含 み紙 を くわ えて、黙 々 と大崎 入 幡宮 の
御神火 を 目指 して市 内 を練 り歩 く。
※下線 は筆者 による
『河北新報』平成 16年 1月 9日
主
言
1.昭 和 56年 (1981)に は九森町において、小正月に再び年取 りをして厄落としをする「年重ね」という厄落としの
行事が復活している 〔
昭和 56年 1月 15日 10面 〕
。
2-方
で、 裸参 りを しなか った年 に凶作 になった こ とか ら、裸 参 りを復活 させ た団体 もい る。
第 4章
第 3節
どん と祭か ら見えるもの
おわ りに∼ ドン ドの火 とどん と祭 ∼
本 調査 では、 い くつ かの新 資料 の発見や、 聞 き取 りに よる新 しい知見 の取得 とい った成果が見 られ
た。 そ の 中か ら、従来定説 とされて きた どん と祭 の名称 の 由来 に関す る新 たな問題点 を指摘 して、本
調査 の まとめ に代 えた い。
三 原 良吉 と天江富弥 の沈黙 について
平成 12年 3月 に宮城 県教育委員会 が発行 した「宮城県文化財
宮城県 の祭 り・ 行事 」 の解説文 『宮城県 の行事』 の 中 で、三 崎 一 夫 は「 この行
事 の 名称 につい て、かつ て三原良吉 ・ 天江富 弥 の両氏があ る席 上で、以前民 間 では「八 幡堂 のマ ッタ
調査 報告書 第 82集
キ (松 焚 き)」 とよんで い たが、他地方の同様 の行事が トン ドとい われて い るこ とか ら、大正 (マ マ)
時代 に仙 台 の それ も トン ドである と報道 され、 トン ドでは仙台人 の発音 にな じまず ドン トとされて定
着 した ので あ ると語 られたが、仙台市 の この 分野 に詳 しい両氏が言葉 を一つ に して語 られた ので、 ほ
ぼ違 い はない であろ う。」 と記述 して い る。
上 記 の 内容 につ い て平成 17年 秋 に直接 、三崎 一 夫 に質す機会 を得 た。その答 えは「昭和 50年 前後
に天江富弥が経営す る仙台 の「炉 ばた」で、三原良吉が年 中行事 につい ての講演 を し、そのあ とで三
原 と天江 と三 崎が 3人 で話 し合 った。その 際 に三原 と天江が どん と祭 につい て、 本来 は人幡堂の松焚
き と言 い、 ドン トサ イ とは言 わなかった と口 を揃 えて語 った。三原良吉が 自分 の者書 で どん と祭 につ
い て 書 か な いの は、三原が「 ドン トサ イ」 とい う名称 に不快感 を持 っていたか らで はな い か。 そ のた
め、昭和 15年 に 『年 中行事』 を出版 して、一矢報 い よ う としたのではない か。」 とい う こ とであ った。
三 崎 一 夫 の この見解 を検証 してみ るこ とに した い。
まず 関係 者 のプ ロ フ イール で あ るが、三原 良吉 は明治 30年 仙台市 生 まれ。仙 台 ― 中、早稲 田大学
英 文 科 卒業。昭和 3年 に河北新報社 に入社 。論説委員、 出版局長、監査役 等 を歴任 し、昭和 27年 に
定年 で退社。在職 中か ら郷土 史研 究家 として 知 られ、仙 台郷土枡 究会委員、宮城県文化財専 門委員、
仙 台市 文化財県護委員等 を歴任 、郷土 史研 究 の功績 で 昭和 36年 度河北文化賞 を受賞、昭和 44年 に勲
五 等 瑞 宝章受章。 昭和 57年 に 85歳 で死 去 。 天江富弥 は明治 32年 、大崎 人 幡宮 の氏 子総代 でお神 酒
酒屋 の「天 賞酒造」蔵元 の 7代 天江勘兵衛 の三 男 として誕生。大正 10年 に 日本最初 の童謡専 門誌「お
てん とさん」 を創刊。仙台市 内 で居酒屋「炉 ばた」 を経営す る一 方 で、 郷土史家 として知 られ、児童
文学 の 育成 と郷土 史枡 究 の功績 で昭和 56年 度河北 文化 賞 を受 賞。昭和 59年 に 85歳 で死去。両名 と
も仙 台 における郷土史研究 の泰斗 であ った。
三 原・天江 の両名 は、 仙台市 内 の民俗行事 や故事来歴 な どにつ い て多 くの著書や論考 を書 い て い る。
しか しそ の 中 で どん と祭 につ い てふ れた もの は意 外 なほ どに少 な い。 三 原 は前述 した よ う に、 昭和
15年 7月 に仙菖昔話会 か ら「仙蔓年 中行事綸 巻 附仙蔓年 中行事大意」 を刊 行 し、解説 文 を書 い て
い る。 この うち「仙蔓年 中行事給巻」 の 『正 月習俗 の 図』 の「裸 まうて」 の解説 で は「十 四 日の夜行
はる ゝ大崎 入 幡 の松焚神事 の裸参 り」 と記述 し、 どん と祭 とい う名称 を用 いてい な い 。 また同書 に掲
載 され た「仙三年 中行事大意」 の「十 五 日。大崎人幡宮。十四 日夜 よ り参詣群集す。 この 日、 門松 を
入 幡 の 社 内 にて焚失 るな り。」 の記述 の 見 出 しも「松 焚 き」 であ り、 どん と祭 の 名称 は一 切使用 して
い な い 。 さ らに、三原 良吉 の 著作 で 昭和 27年 3月 に仙墓 市役所 が発行 した「仙重市 史 6別 編
4」
こ
イ
所収 された、 当時唯―の民俗誌 で あ った 『仙重民俗誌』 の「歳 時」 の「正 月」 の項 目で、三 原 は どん
と祭 はおろか大崎八幡宮 の松焚 きにつ いて さえ も一 言半句 も触 れて い な いので あ る。 これ は極 めて意
図的 な排 除 と考 えざるを得 ない。
一 方 天江富弥 もどん と祭 につ いての記述 をほ とん ど残 して い な い。典型 的 な例 と して は、 昭和 35
年 3月 に宮城縣史刊行会か ら発行 された「宮 城縣 史 20(民 俗 Ⅱ)」 所収 の 『童戯・童詞 』の 『年 中行事』
第 4章
どん と祭か ら見えるもの
の 中 で、天江 富弥 は小正 月行事 として 「 回子木、生 り木責め、海鼠曳 き、 ち ゃせ ご、鳥追 い、 は らめ
は らめ」 を列記 して い るが、 どん と祭や松焚 き等 につい ての記述 はな い。 また富弥 の実家 で あ った青
葉 区八幡 町 の天 賞酒造 には、昭和 15年 と 16年 の天 賞 の蔵人 の裸参 りを描 い た絵巻物が残 されて い る。
天江 富弥 の友人 で、 大正 か ら昭和 にか け て活躍 した小 説家、随筆家 の平 山置江 (1882∼ 1953)が 富
弥 の 誘 い で天江 家 を訪 れ、天 賞 の 裸参 りを見物 してその様子 を描 い た もので あ る。 昭和 15年 の絵巻
の 中 で平 山置江 は「 仙 台 に松焚祭 を見 る」 と記 し、 16年 には「大 崎 人 幡 に賽 す」 と して い る。 どん
と祭 とい う名称 は用 い て い な い が、注 目され るの は 15年 の絵巻 で「社殿 の どん どの火 焔 中に ごぼ う
じめ を投 げ てお まゐ りは終 る也 」 と記述 して い ることで ある。平 山置江 は当然 の こ となが ら友人の天
江富弥か らどん と祭 につい て話 を聞 い て い るはず なので、祭 の名称 としては「 どん と祭」を使 わず「松
焚祭」 とした と考 え られ る。 しか しそ の一 方 で「 どん ど」 とい う火 の燃 え上 が る様子 の形容 は一 般化
してお り、大崎人 幡宮 の ご神火 へ の形容詞 もそ の よ うに呼 ばれていた ことが 考 え られ るのである。
さて、昭和 15年 2月 に仙蔓 観光協 会が発行 した「仙蔓の年 中行事」 に所収 された 『松焚 (ど ん と)
「 ドン ト祭 と云ふ 名称 は 明治以後上方風 に付 した ジャー ナ リズムの過誤 で あ る らしく、
祭』の解説 では、
仙 台 では昔 か らマ ツタキ祭 と云 つ て 居 る。」 と記述 されて い る。 この解説 の筆者 名 は 明記 されて い な
い が、言 わん とす ることは最近 の研 究 の佐藤雅也や中冨洋の所論 と同 じく、 どん と祭 の名称 の新 聞起
源説 で ある。そ こで新 聞起源説 の根拠 とされ 第 1章 で全 文 を引用 した明治 39年 と 41年 の河北新報 の
記事 (資 料集
107・
1可 北新報 の 明治
113)を 改 めて検証 してみ る。
39年 1月 14日 の記事 と明治 41年 1月 14日 の記事 は、 と もに大崎人幡 の ご神体が
九 州 の宇佐八幡 の分身 で あるか ら、大崎人幡 の松焚祭 も九州 の習慣 が「仙 台 に紛 れ込 んで」 きた もの
で あろ う とし、さらに「九州地 方 で は一般 に正 月 の松 を和社 の境 内で焼 くか是 を ドン ドと称 えて居 る」
として「松焚」 に「 ドン ド」 の呼称 を充 てて い る。 この二つの記事 は内容 も表現 もほぼ同 じであるこ
とか ら、双 方 と も明治 41年 の 署名 にあ る「 白村」 なる人物 の執筆記事 であ ろ う と思 われ る。「 白村」
は、 明治 41年 1月 の 河北新報紙上 で は い くつ かの署 名入 りの「 コ ラ ム」 的 な記事 を書 い て い る。 l
月 1日 の「猿茶屋」、1月 5日 の「新 年竃 男考」 な どで、5日 の記事 には「小 山田 白村 」 との署名があ
る。記 事 は松焚祭 につ い て と同様 の事物 の起源 につい ての解説 とい う よ り荘蓄 に近 い 内容 である。 こ
の「小 山田白村」 なる人物 につい ては、 実名 ではな く雅号 と思われ るが、 河北新報社 には当時の雅 号
と実名 の対照 リス トが残 ってお らず、現 時点 では記事執筆者 は不 明 で ある。 しか し佐藤雅也や中冨 洋
の研 究 では、 明治 39年 以前 は新 聞記事 に「 ドン ド」 の 表現 はな く、 白村 の 記事 を きっか けに して ど
ん と祭 の名称が 一 人歩 きして い った と、 推論 されて い るので ある。
この「 白村」の実名 を 98年 後 の今 は知 る ことが出来 ない に して も、記事か ら 33年 後 の段 階 では知 っ
て いた可能性 の あ る人 物 が い る。 昭和 15年 の「仙蔓 の 年 中行事」 の解説文 の 執筆者 で あ る。 解説者
の氏名 は本 には明記 されて い な いが、推測 してみ る。「仙蔓 の年 中行事」には「松焚祭」の他 に「七 夕祭」
や「盆火」 な どの付録解説があ り、 その中の「盆火 」 の解説 は、起 源 を政 宗公が 五 郎 入 姫 のため に焚
かせ た こと、寛永 の始 め 頃に臣下 に書状 を送 って見物 に誘 った こ と、 若侍が騎乗 して盆火 の 間を駆 け
巡 った こと、そ して庶民 が盆 の三 日間 の慰安 を楽 しんだ こと、 な どが言
己述 されて い る。 ところが この
記述 と内容 はおろか記載順や引用 した地 口「 要 らぬ 彼岸が七 日あ り、可惜 お盆 はただ三 日」 まで も同
じ記 事 が、昭和 28年 8月 5日 に仙 台市 と仙 台観光協 会が発行 した「仙 台 の七 夕祭 と盆 祭」 に掲載 さ
れて い る。著 者 は明記 されてお り三 原 良吉 で ある。昭和 28年 の三 原良吉 は 57歳 、郷土史の大家 とし
て著 名 な存在 であ り、その彼 が昭和 15年 発行 の、しか も同 じ仙 台観光協会が出 した「仙蔓 の年 中行事」
の解説文 を丸 々盗用す る とは考 え られ な い。 つ ま り「仙墓の年 中行事」 の解説文 の筆者 も三 原良吉 な
ので あ り、盗用 ではな く昔 の 自分 の 文章 の焼 き直 しなのであ る。 しか し「仙墓 の 年 中行事」 を匿 名 に
したの には理 由があったのではな い だ ろ うか。
第 4章
どんと祭か ら見えるもの
昭和 15年 当時、三原良吉は 44歳 、郷土史家 として知 られていた とはいえ、河北新報社 に入社 して
「ジャーナ リズムの過誤」
「 白村」
氏 に対 して
12年 目の社員 である。その後輩 の新聞記者が大先輩 で ある
とまで言 い切 って「 どん と祭 と云ふ名称」 を批判 したのである。匿名にした理由が ここにあったが、
さらに三原 は批判の手 を緩めなかった。同昭和 15年 7月 には「仙蔓年中行事給巻
附仙蔓年中行事
大意」 を刊行 し、あの祭 は藩政時代末期 に遡 る「松焚 き」 であ って「 どん と祭」 ではないこ とを、史
料 を用 いて 実証 したのではないだろ うか。
その三原良吉 と同年輩 であ り、同 じく郷土史家 として知 られ、 さらに大崎人幡宮 のお神酒酒屋、氏
子総代 の家 に生 まれ育った天江富弥が、年 々昔 の姿 を変えなが ら盛大になってい き、新聞記者が勝手
につ けた どん と祭なる名称が普通化 してい くことに、危機感 を抱 いていたことは想像 に難 くない。三
崎一夫 の言 うように、彼 らが「 ドン トサイ」 とい う名称 に不快感 を持ち、それによって どん と祭 の研
究が停滞 した とす れば、それは大 い に不幸な ことで あ った。
ドン ドの火 とどん と祭 最近 の研究 の うち佐藤雅 也 は「宮城県文化財調査報告書第 82集 宮城県 の
祭 り 。行事」 の 中の 『大崎人幡宮 の どんと祭』 の項 目で「明治三十人 (一 九〇五 )年 一 月十四 日「河
北新報」 では、「大崎八幡神社祭典」 とある。 ここ までは、「 どん と祭」 とい う呼称 はどこに も記載 さ
れて いない。」 としてい る。 また中冨洋 も平成 17年 9月 に東北学院大学民俗学 OB会 が発行 した「東
北民俗学研 究」第 8号 所収 の 『大崎八 幡宮 の松焚祭 の祭礼的な特質 について』 の中で「明治十一年か
ら三十八年 までは、「 どん と」 の呼称がみ られない」 と記述 している。それに対 して今回の調査 では
新 たに明治 35年 の新聞記事に「 どんど」の呼称が掲載 されていたことが見つかった。
0わ か歳
松 の 内 も瞬 く間に過 ぎ去 りて昨 日は若歳 を迎 ひた るか昨夜 よ り今朝 へ か けては人幡 町大
崎 八幡宮 の 例祭 あ り参詣人 は例 の如 く頗 る多 く門松 を納 めん とて市 中 よ り賑か なる囃 しにて押 出せ
る もあれ ば薄衣参 ゐ りをなす信神者 も少 なか らず境 内は どん ど火の焔熾 んに暗み を照 して鈴 の音 か
しま しか りき
「河北新報」明治 35年 (1902)1月 15日 第 5面
この記事 に よって、「 どん と祭」 の 呼称が人為 的 に作 られた もので あ った として も、「 どん ど」 とい
う炎 に対す る形 容詞 は以前か らあったので はな い か とい う疑 間 を呈す る こ とは出来 うる と考 える。天
江富弥 につ い て述 べ た 際 の、平 山直江が昭和 15年 の絵巻 の 中 で記述 した「社殿 の どん どの火焔」 は、
平山が神戸 生 まれ長崎育 ちで あ った として も、大崎八 幡宮 で人 々が「 どん ど」 と言 って い た ことを記
した ものだ と考 える ことが 出来 る。 なによ りも、 い か に影響 力 の大 きなジャー ナ リズム、新 聞 とい え
ども、全 く基盤 の ない言葉 を一般 に普及 させ るこ とは極 めて困難である。 どん と祭 は新 聞記者 に よる
人為 的命名 であって も、そ の背景 には「 どん ど」 とい う人 口に隋久 した言葉が既 にあった と解釈す べ
きで はな い か とも考 え られるのであ る。それ を補 強す る資料が本報告書 の 第 1章 第 4節 の「 どん と祭
の諸相」 と末尾 の 資料集 で報告 されて い る。仙墓 叢書刊行会 が発行 した「仙墓叢書 第四巻」 に収録 さ
れて い る 『国人句 集』 に、「 どん と焼 く里 は しらみ て鳴 帰 る」 の句 が掲載 されて い るので あ る (資 料
集 04)。 遠 藤 国人 は生 年 が宝暦 8年
(1758)、
没 年 が 天保 7年 (1886)の 文化 文政期 の仙 台 藩 を代 表
す る俳 人で あ る。 句 の 内容 は明 らか に夜 通 し焚 か れ る「 どん と焼 き」 を詠 んだ もので あ る。 また 日
人 と同時代 の俳 人乙二の句 に も「 どん ど焚」 があ り (資 料 5)、 二 人の生年 中 に「 どん と」 を「焼 く」
あるい は「 どん ど焚」 とい うことばが存在 し、人 々 に知 られて い た ことを示 して い る。 しか し現段 階
では この句 は孤立 した事例 で あ り、 これのみ を以 って どん と祭 の語源 とす るには無理があ る。
一 方、河北新報 が松焚祭 に「 トン ト」や「 ドン ト」 の読み を充てだす明治 30年 代 に、松焚 きを「 ど
第 4章
どん と祭か ら見えるもの
ん ど」 と呼 ぶ例が俳句 の 世界 に先行 して登 場す る。 いずれ も河北新報 紙 上 の俳句 の欄 で あるが、 明治
32年 1月 10日 の紙面 には「弧月」 の 句 で 「北野 に も見 ゆる とん との煙 か な」、明治 36年 1月 1日 の
紙面 で「 櫻香」 の「海暮 て丘 に小 きどん ど哉」、明治 36年 1月 23日 の紙面 には「 麻琴 」 の「飾 なげ
て焔高 まる どん どか な」、「花衣」 の 「左 義長 の残 る煙 りや朝 の雨」、「櫻香」 の 「霜 の千木 どん どの 明
り映 りけ り」、「牛南」 の「左 義長や橙 焦 げて残 りけ り」「左義長 の上 に地 を這 う煙 か な」 の句が掲載
され て い る (資 料集 76・
87・ 96)。
前 述 した小 山田 白村 の実名 は不 明だが、 白村 は俳号 か も知 れ ず、
一 連 の俳句 の世界で の一 般名詞 を大 崎 八 幡宮 の松焚祭 の記事 に持 ち込 んだ と も考 え られ るのでは なか
ろ うか。 つ ま り、本報告書 第 1章 第 4節 で 明 らか にされた史料 か らは、「 どん と祭」 の語源や呼称 の
普及 が、「 ジャー ナ リズ ムの過誤」 とい う よ りは、俳句 の世界 の こ とばが一 般化 して行 く、それ を新
聞 が 後押 しした との構 図が読み とれ るので ある。
今 回 の調査 では、 これ まで大崎八幡 宮 に孤立 した行 事 と見 なされて い た「松 焚 き」が、宮城 県 内に
か な り古 くか ら広 く分布 してお り、 それ らとの 関連性が無視 で きな い こと。「裸参 り」 の形態や衣装
が南部社氏 の故郷である岩手県の裸参 りに類似す る一 方 で、その背景 には仙 台地方 に古 くか ら伝 わる
「暁参 り」や「寒参 り」 との 関連性 が 覗 え、 さ らに酒造 りの蔵 人 の 中には小 正 月 で な い大晦 日に裸 参
りして い た事例があ った こと、 な どが 新 たな知見 として得 られた。 また「 どん と祭」 の語源が人為 的
命 名 で あ った として も、 それが人 々 に受 け入 れ られ普 及す る背景 として「 ドン ド」 とい う一般名称 あ
るい は一般 的形容詞が既 に存在 して い た可能性 が見 えて きた ことが 指摘 され る。そ して何 よ りも、 ど
ん と祭や裸参 りが急速 に普及 ・拡大 ・ 拡散 して行 く背景 に、「大崎入幡宮 の どん と祭」が持 っていた
都 市型 の イベ ン ト的性格 が近 代以降 の 時代性 に適 い、 また行 事や裸参 りの画 一 化、 マニ ュ ア ル化がそ
れ に拍 車 をかけた こ とが うかが えるのであ る。その意味で大崎入幡 宮 の松焚祭 (ど ん と祭 )は 、特定
の榊社 の伝統ある祭事 として よ りも、この地 で広 く営 まれて い た小正月の民 間習俗が、
「都市」 と「近
代 」 とい う社会的 ・歴 史的な背景 の も とで、拡大再生産 されて い る新 たな都 市 の習俗 で あ り、貴重 な
民俗文化財 で ある と言 えるのである。
資料集】 大崎八幡宮の松焚祭 と裸参り
〔
集
料
資
r
K
l
大崎八 幡宮 の松焚祭 と裸参 り
本資料集 は、大 崎人幡 宮 の松焚祭 ・裸参 りとその周辺事情 を伝 える歴 史的諸資料 を集成 し年代順 に
掲載す る。 検索集成作業 の対 象年代 は藩政時代か ら昭和 30年 (1955)ま で とし、 対象 資料 は仙 台市
域 に言及す る近世の地誌紀行類 と明治以降 の仙台 を拠点 とす る地方新 聞記事 な どで ある。
新 聞検索 は仙台 を拠点 に発刊 された地方新 聞の うち、明治時代 は「仙蔓 日日新 聞」「陸羽 日日新 聞」
「奥羽 日日新 聞」「東北新 聞」
「東北 日報」
「仙菖新 聞」
「仙蔓報知」
「河北新報」を、大正時代以降 は「1可
北新報」 を対 象 とした。 資料 の現存す る明治 11年 (1878)か ら昭和 30年 まで の全期 間年 ごとに、大
崎 人 幡宮 の松焚祭 が執行 されて い る 1月 14日 を含 む 1月 13日 か ら 16日 まで 4日 間の仙台版全面 を、
ヘの
加 えて明治 30年 までは 12月 か ら 2月 の 3ケ 月間の仙台版全面 を検索 して いる。大崎人幡宮以タト
裸参 りと旧暦 での松焚祭 の情 況 を確認す るためである。
資料 の検索 は、主 として宮城県 図書館所蔵 の 図書 ・新 聞に よって行 った。
◆資料 1
安永 ∼ 文化年間 (1772∼
1818)白 石I関 今著述岡崎良輔書写 『イ山蔓始元』 (斎 藤報恩会蔵・ 未刊
)
(略 )
大崎人 幡榊賽
人幡 祭式 の事 は人 月 の 部 にあ り社宮 の 員国 を二 月 に正 月十 四 日の夜男女老幼群 をな し
て大 崎人幡 に夜 賽す暁 天 に至 るまて諸人一隊 一 隊行還蓋 る事 な し
(略 )
◆資料 2
安永 ∼ 文化年間 (1772∼
1818)白 石欄今著述 岡崎良輔書写 『仙蔓始元』 (斎 藤報恩会蔵・ 未刊
)
(略 )
木下薬師 の通夜
木下祭祀 の事 は三 月 にあ り堂塔 の 員固 は灸 に出す正 月七 日の夜諸人群 をな して木下
薬師に賽す是 を七 日堂 と云通 夜す る者多 し夜籠 りといふ 寒候薄衣 を着 て詣 る者 ある裸参 りといふ
(略 )
◆資料 3
文化年間 (1804∼
1818)大 崎八 幡宮神主沼 田豊前正『大崎 八 幡宮年 中行事』(大 崎 八幡宮蔵・未刊
(略 )
一 、惣禰宜 中松 明 まて
御宮本据詰居茶 申
候先十四 日暮前相 固太破打候也夫 よ り出仕勤行
常之通 〈
身宮貴太祓十 二 度 中臣祓萱度 )三 種太祓 三 十六度祈
念摂掌拍手等常之通神燈 十 二 燈江献之油等 ハ
営番人 よ り世話 い た し候相調候而十六 日敬銭勘
定之節入料引
首候営方之禰宜江相渡 ス十 四
日夜営番所井御拝 二而相用 ひ 申候炭薪等道
も同 日営呑人世話被右調代右 同断搬右 十四 日御
榊事 自分御神事 二 而寛廷年 中時分 よ り欺祖父出
雲守代 よ り
)
資料集〕 大崎入幡宮の松焚祭と裸参り
【
段 々参詣之者大勢 二 見 え候 二付其居首呑人神
燈神 酒等相献様 二取斗候処 一 年殊 二参詣多夫
よ り惣禰宜詰居候処談候 ハ ゝ世 間二 而ハ 御神事
とつ たへ 大勢参詣在 之様 二相成候 由祠官沼 田
若狭儀豊前正伯母聟 二有之処享和 二 年 七
十 三 歳 二相成候処先年之次第段 々覚居相咄 申
候也
(略 )
◆資料 4
文化・文政年間 (1804∼ 1830)国 人遠藤定矩『国人旬集』
春 の部
元 日のめでた き日に も老 に見
元 日も天氣 二 日も天氣哉
(略 )
七 種 や と く髪結 て長押 ふ く
庵 の 粥屑菜貰 うて 済 しけ り
新参 は夜 も騒 ぐや芹齊
どん と燒 く里 は しらみて鳴踊 る
高歳 に梅持 替 て行違ふ
高歳 の休 んで行 くや せ まい 内
(略 )
◆資料 5
文政 六年
(1823)以 前 松窓乙二 『乙二旬集』
睦月十五 日赤湯の里の山に添 うて行 く事あ り鹿 の飲流れ も氷の くさひひまな く打 てさらに春 とは
お もはれず
大歩 は月 日をねかへ 谷 の梅
萬歳 か留生の妻子や飯 時分
あの畑 は しつ けぬ委か どんど焚
遅 き日に着た ら倦 うぞか くれ簑
酒折 は十 日も遅 し植 る菊
◆資料 6
天保五年 (1834)以 前燕石齊薄塁 『仙府年中往茶』(仙 台市博物館蔵
)
(略 )
十四 日ハ松 を曳 きて米玉 の花 を咲せ赦宣子 ハ 襟 に□ を懸晴着 を飾 り門に立 て祝 を得 くタベ にハ餅打
海鼠曳 とて童 共打群 て是 を引 く同 日夜宮 よ り十 五 日迄大崎八 幡宮参詣群集す
(略 )
◆資料 7
嘉永 二 年
(1849)二 世十遍舎 一九
『仙蔓年中行事大意』
資料集】 大崎入幡宮の松焚祭と裸参り
〔
(略 )
○ 十 五 日大 崎 人 幡宮 十 四 日夜 よ り参 詣群 集 す この 日門松 を入 幡 の社 内 にて焚 失 るな り
(略 )
◆資料 8
嘉永三年 (1850)頃 『仙蔓年中行事絵巻』 ※「正月習俗之固」「裸まうて」(図 1参 照
)
◆資料 9
明治十一年 (1878)一 月八日「仙蔓日日新聞」
、
○昨 日は朝観音 に夕粟師 とか 申 して 午前 五六 時比か ら元寺小路 の税世音 へ は参 詣人 がお し掛 けへ し掛
け釣鐘 を ゴー ンゴー ンと打散 らし近年 に無 き群集であ りま した中に も澤 山に寄 り束 り目覺 しか りしは
満境 内作 り花 の賣店 にて恰 も春 時花 の 開 きたる心地ぞ した りけ る夕薬師 に いた りて も随分賑 はへ たる
様子
◆資料 10
明治十一年 (1878)一 月十五日「仙蔓日日新聞」
○昨夜 は大崎人幡 の祭灌 な り従前 は若歳 と稀す る 日なれは市 中 の賑 はへ なか なか にてお負 け に厄携 な
とまて罷出 て法螺吹 き立 て ゝボ ー ホ ンボ ー ホ ンボー ホ ンボー ホ ンボ ー ホ ンボ ー ホ ン
◆資料 11
山蔓日日新聞」
明治十一年 (1878)一 月二十二日「イ
○ヂ ャ ンデ ャ ン と打 鳴 らす半鐘 に驚 か され ソレ火 事 だ火 事 だ と巡査 消 防組 は更 な り爺 も姐 も若 い も幼
きも猫 も杓子 も飛 出 し何 んて も火元 は住吉 だ と上 を下へ と騒 き立 て駆 け付 き見 る と コハ 如何 に火 事 で
はな うて例の頑的連が五幣 を捨 出 し門松 や ら七正三縄や らを燒捨居 たのであ りま したが 一 時満港 の大
騒動 をな しました今 頃は廉下邊 で は斯 んな事 はあ ります まい と石巻 の伊志嘉波 さんか ら申 して茶 たる
が廉下 にもまだ まだ
◆資料 12
山蔓日日新聞」
明治十一年 (1878)二 月四日「イ
・
○鰯 の頭 も信心か らとはよ く云 われ た り鷹 下北 五 十人町大柳重吉妻六十近 の婆 ァさんは松尾 明神や中
山不動 を殊の外 に信心 して夜 な夜 な の参詣其邊 て誰 知 らぬ 者 もなか りしか此程 の事 な りしとか如何 な
る御託宣 やあ りけ ん夜十一時 とも覺 ふ しき頃急 か に水 を被 り薄 き一重 に着更 へ つ ゝ中山 さしてぞ出た
りけ る夫れ よ りも婆 ァさんは急 くとす れ と老 の足 中山近 く茶 た りし頃 は 木草 も寝 む る牛浦 なるへ し一
い腐筒しに脳膜散喬し
人淋 しき山路 をも凝 り固 ま りし老 の一 念 ― ッ
婆 ァ散筒しダ と唱 ふ る向 うに コン ト晴 い た
る狐 の啓あれ は惟 に松尾 明神我 を守 らせ給 ひ しかあ ら有 りか たや辱 なや と其 の離上 に額 を摺 り付 け凡
そ二 時間計 り立 もえや らて居 た りし とは 自分 て噺 せ し事 な らす は誰 か は見 た る人の有 るべ き是 は疑か
は しと思 ひなか らもさる人 よ り書 きお こせ るま ゝ
◆資料 13
明治十二年 (1879)一 月二十九日「仙菫日日新聞」
○昨 日は畜暦七 日に首を以て首地にては朝観音 に夕薬師の唱へ 朝 は小 聞 き中よ り元寺小路高願寺世観
世音又夕邊には木 の下薬師堂へ参詣す るがな らはしにて昨 日も相應 の参詣 があ りしよし
.
資料集〕 大崎八幡宮の松焚祭と裸参 り
〔
◆資料 14
明治十二年 (1879)二 月五日「仙室日日新聞」
○一昨夜 は寒明けな りしかば例 の鬼や らひの群家 ゝに騒か しく菖弊家 の無鍼Jktズ ドンズ ドンの音 には
漫録記者 の大筒 も閉口す るばか りであ りましたナゼあんなに鐵胞 を打 ったのだろ う
○昨 日は奮暦正月十四 日なれば若年 の餅 を掲んとて東三呑丁三浦源 九郎方 で餅米をふか し其中何かの
仕度 して居たが金の火燃 さかて板の間に燒付既 に大事 とならん とせ しが家内は餅所 でない大騒 き漸 ゝ
の事 で消 したは十二 時頃
○又昨夜 は人幡堂 の大崎人幡神社の祭典にて終夜 の参詣事 の外賑 はへ ました
◆資料15
明治十三年二月二十五日「仙菫日日新聞」
○ 一 昨夜 は奮 正 月 の 十四 日に営 るゆゑ害弊連が陸績 ゝゝと大 崎人幡 へ 参詣 に出掛 けた のて其道筋 は立
錐 と云ふ程 て もない か随 分賑 やかであ りま した
◆資料 16
明治十二年二月二十六日「仙菫日日新聞」
○ 一 昨 ゝ夜 は畜 正 月十四 日なれは大崎人幡へ 参詣せ ん と一盃 機嫌 て出掛 け た序 に稲荷怠冥 尽 へ も詣 て
ん と押 し掛 け たゆゑ此 頃 ピ ン空 々 て居 た常盤町か大賑 ひ其庇 て も彼庭 て もお客様 た よ― の啓が喧 しく
中に も舞鶴棲 ては廓 内一 番 に客 か 多 く上下 とも皆詰切 て仕舞後 れて這入 った客 は居所かな く勝手 の 隅
まで入込んて喰た り喰 せ た りした想 たか年 中正 月 の 十四 日かあれば宜 い とて亭 主 は韓手子舞 て嬉 しか
り結構結構 の群か暁方 まて絶 なか つ た と云ふ事 て あ りま した と
◆資料 17
明治十三年二月二十六日「イ
山蔓日日新聞」
○難た此野郎人 の居 るを も憚 らす灰 を蹴立 ァかつ て是 れ見や ァかれ 巳の体 か此通 りた 間抜 けめ鈍 痴氣
め と云ふ よ り互 ひに喧 嘩 を始 め遂 ひに警察 の五 厄介 になつ た野賛 れん 咄 しは立 町二 丁 目の士 族 白石 弘
太郎「十七」 同町 の大石松 之助 (十 八 )の 雨人か去 る十三 日の夜人幡 へ 参話 に出掛 け`専 居脇 にて諸 所
よ り持 ち束 りし門松 や 〆純 な と燃 き居 る人 ゝに打交 り居 りしか弘太郎 は過 つ て焚火 の 中に杖 を落 し拾
ひ取 らん とせ しにパ ツ ト火花 か 散 つ て傍 に居 し北 材木町鋸 や中野源助 か弟子鈴木新吉 〔
十七〕玉木留
ゝ
吉 (廿 )の 雨人 に灰 か掛 りし とて怒 鳴 出 し双 方共威張 り立 て既 に掴 みか らん勢 ひに並 居 し人 々か仲
に立入 りそ の場 は事 な く済 んたれ ど新吉留吉 の雨人 は 中 々心か鎮 ま らす今 一 度喧嘩 をや つ て腹癒せ ゝ
ん と弘太郎松 之助か蹄 る跡 を付 け束 る とも知 らて雨人 は何心 な く切 り通 しへ 差掛 りしに是 れそ能 き場
所 と新吉 は下 駄 の ま ゝ弘太郎 の足 を力 に任せ て踏み けれ は不意 を打 れて ドッか と倒 れた を新 吉透 さす
飛 ひか ゝり兼 て用意や した りけ ん一尺 程 の鳶 口にて天窓 を した ゝか打 た上起 しも立 す脇 の小川 へ 踏落
びつくり
せ は此 有様 に駕吃 な し助立せ ん と松 之助 か打 てか ゝれは心 得 た りと留 吉是 に渉 り合 ひ互 ひに劣 らず争
ふ 内眼 を打 れて松之助 前後 を失 ひアツ ト計 りに啓張 り上 げ騒 ぎ廻 りし折 こそあれ巡行の査 公が通 り掛
られ其者共 を取押 へ て種 ゝお糸Lし あ りしかは何 れ も斯 ゝと其始末 を 申 し立 弘太郎松之助 の庇庭 を改 め
られ しに弘太 郎 は天窓に深 さ一 寸程 の疵 に額 ひ と足 に打疵 あ り松 之助 は眼 と左 りの回の脇 に打庇 あれ
は大 々介抱 され新吉留 吉 の 雨 人 は直 くそ の場 よ り拘引 せ られ拘留 の上 今 にお調 へ を受て居 る とは鈍 惰
野蟹 の灰吹 どもて あ りま した
資料集〕 大崎人幡宮の松焚祭と裸参 り
〔
◆ 資料 18
明治十四年二月十四日「陸羽日日新聞」
○一昨夜 は畜暦正月の十五 日なれば営匝八幡町の大崎入幡へ出掛けし参詣人は昨朝まで引も切 らぬ程
にて其中には裸体参 りをせ し野蛮人な ども澤山見えましたが中 ゝの賑ひであ りました
◆資料 19
明治十六年 (1883)一 月十五日「奥羽日日新聞」
○暁参詣
昨夜 よ り今暁 へ かけ例 の人 幡 町なる大崎八幡社 の暁参 りも今年 は何 の故 にか い と稀 な り
,
しといふ
◆資料20
明治十六年一月十八日「奥羽日日新聞」
○餅打 喧嘩
去 る十四 日は若年 とて常盤 町 は例 年 の通 り餅打 ち祝 ひ廓 中彼 方此方 の賑 はひにて今野
棲 よ り雛妓 四五名呑頭 と共 に出かけ頓 て小 野兵 へ 押 込む と同 4は 豫 て新暦 を用 ひず奮 の正 月な らでは
客 に封 して さへ 目出度 とはいはぬ といふ 内規 なれば断然今 日の餅打祝 ひは御免蒙 る といへ ば今野 の番
I・
頭 怒 りを菱 し夫 よ り洸方 の大 悶着 その うち山の如 き人立 とな り互 ひに尉斗餅 の角 だちて鏡 の九 く治 ら
ぬ に仲 人達 も餅 に掲 き漸 々 こね取 して済せ しとは新 年 か ら餡 た らことだ
◆ 資料 21
明治十六年二月二十六 日「奥羽日日新聞」
去十一 日は奮暦の正月十四日に営るを以て福島縣福島町にては男女老幼を聞はず公園
○お山参 り
地裏なる霊山 (月 山湯殿山神の鎮座)へ 参詣す るもの数百千人雪を蹴立て午后七時頃より翌に 日の
朝まて績 ゝとして絶えざりしは流石に信仰の厚 き事 と社員 よりの通信
◆資料 22
明治十七年 (1884)一 月十六日「奥羽日日新聞」
○ 一 昨夜 の景況
その模様 こそ異 れ是 は執 れの地方 に も有我 國 の畜 習 にて正 月十 四 日の夜 は営仙墓地
方 にては持 ち打 と襦 へ 物好 なる騒客 は思 ひ思 ひに奇様 の装束 をな し祝 ひのため とて 甲家 乙戸 を廻 りて
種 々の狂藝妙戯 をな し人 を して驚 を喫 し腹 を抱 か しむ且 つ 是等 の 人 にて訪 はれ し家 にては祝儀 な りと
て金 子 を出す もあ り酒肴 を馳走 す る もあ り又之 を謝 し断 る もあ りけ り即 ち一 昨夜 は其 れ に営 るを以て
'
午後 七時頃 よ り市 中 は何 とな く騒が しか りしも左 まての事 はあ らざ りしか ど常盤丁 は大賑 はひにて三
番 隻茶番浅 島忠信 二 十四孝其他種 々 あ りて執 れ も古体 を摸 し事物 に似せ たれ皆奇容戯体 な らざるはな
く見物 人は山を烏 して其雑 沓 云ふべ くもあ らざ りし借 また人幡 町なる人 幡社 へ の参詣 人は悪路 なるに
も拘 は らず陸績 と押 し出 して年始の飾 り松 等 を携 へ 来 り社 内へ 堆 たか く積 み之 を燒 き終夜 人の絶 えざ
りしは是 も又営地 の畜慣 とこそ は知 られた り
◆ 資料 23
明治十七年二月一 日「奥羽日日新聞」
去十七 日は畜暦十二月の晦日に営るを以て山形にては二年参 りと唱へ同夜 より
○山形の二年参 り
翌 日に掛け小橋の神明八 日町人幡其他所 々の霊所へ市街 よりは勿論近在 よ り績 ゝ出掛けたれば歩行 も
自由ならぬ程雑沓なりし中には裸体参 りとして査公に認咎めらる ゝも見えた り是 は全 く畜憤を脱せざ
るものなり
、
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
〔
◆資料 24
明治十七年二月五日「奥羽日日新聞」
○正月七 日
営地方 の奮習 とて奮暦 正 月七 日は朝観音 に夕薬 師 と稀 へ 朝未来 よ り太陽 の東 の 天 に沖
る比 までは元寺小路 なる税音 に詣 で 夕 は又木 の下薬 師へ 参 り各 自我身 の幸 を祈 る者彩多 しく鉦 の緒 さ
へ 手 に取 ることの な らぬ は是 維新前 の事 に して追 々世 の 開明 に随 ひ参詣 の 者 の敷 を減ぜ しにぞ本 年杯
は如何 あ らん と想 ひた りしが 一 昨 三 日は其例 日なればにや朝観 音 は守菖家 が前 宵 の屠蘇 の飲み過 し欺
将七草叩 きに疲れて朝起 の順 か りし角 な らんか左 までの雑沓 にはあ らざ りし夕 はこれに引 きかへ 頃 日
天氣打績 きて道 は乾坦且 つ 常 よ りは暖氣 なるに宵 は月 さへ 清 けか りしに浮 れてか薬 師堂 は殊 の外賑 や
か にてあ りし又 同夜 は艶追 の声 四方 に聞えて何 とな く騒 々 しか りし中囲分 町奈 良屋 の追碑 を烏す者 は
烏 帽 を冠 り大 豆 に代 へ て金 平糖 又 は蓬 来豆 を打撒す 等営地方 には異様 の もの なれば之 を見 ばや とて 同
店 の前 に人の山をな したる も亦 おか し
◆ 資 料 25
明治十七年二 月十二 日「奥羽 日日新聞」
ー昨夜 は畜暦正月十四 日に営 りしとて例 の如 く大崎入幡へ の参詣人 は雪路 をさへ厭 はず
午後八 時頃 よ り社内に充浦尚ほ昨 日午前二 時頃は最 も盛んにして夜明け迄 の賑 ひは新暦 に倍せ しと且
○暁参 リ
つ本年は神築 をも奏 し町内には大掛 行燈 を揚たる杯都 て社内の景色 をました りしと
● 資 料 26
明治十七年二 月十二 日 「陸羽 日日新聞」
○あかつ き参 り
陰暦正月十五 日の早 天には院参 りと補 して諸神祠 へ 詣 つ るの風習 は未だ去 らず
首仙蔓匝な とにも多分之あ りし事 は前琥 にも掲げ し程 なるが田舎杯 には況 ての事殊 に名取郡笠嶋村 の
村社道祖神社 は御利 生あ りとて営暁 に参詣す るもの彩 だ しく隣村近在 は勿論 三四里の遠 き朔風飛雪の
際にも避易せず平素 の朝寝坊 も此院 に限 り星猶ほ残れる頃に同社 に達せ ん な ど其前夜 よ り心掛居 る程
なれば同社の段賑菅 ことな らず花 表 の前後人山の如 く阿呆 と呼ぶ鳩 の声 を聞かぬ先か ら鉦碧 の声 を聞
き東方砧 白き比ほ ひ同社近傍は人頭の為 に黒 しと云ふを例年 の通 りな りと云へ り其賽銭 の上る事 も推
知すべ し故に村人謂へ り太夫様 一年 の生計 は此一暁にて給れ りと而 して其御利 生 あ りと稀 ふるは如何
にも奇妙なる事共な り営暁漸 く人 の烏合せ し折 を窺 ひ太夫
(村 人は同社の祠官 を指 して太夫様 と云ヘ
リ)は 以前は鳥帽子直垂 にて神前 に拝 伏 し畏み畏みの定祠 を了へ 然る後 ち参詣人の男女を指 し彼れ と
彼 とはメツ トとか何や ら評 らぬ ことを獨語 し入換 り立換 りの人に封 して斯す ること屡せ り然に其太夫
が指 さしたる男女 は必ず一年 を出す夫婦 となるを得 るとの故 に我 も我 もと先 を競ふて人先 に指 さ ゝれ
んを欲せ り之を見て も姦 に参詣す る多数 の男女 は概 して此事 を信す るの怜悧者 と見へ た り左れば其指
れざる者は差嘆の声 を烏 し額相 集 る毎 に彼 と彼 とは大夫様 に指 さ ゝれた りなど最 も羨 ましげに話合 ひ
又其巳れを指れ し者 は欣 々たる色 あ りて御利生叶へ りと打喜 ぶが例 な りとか然れば幾 ら偏僻 な田舎に
せ よ明治十七年 の畜正月十五 日頃には若者輩 も余程賢 こうな りた らうし且此不景気 にては無益賽銭 と
無益足 を費す事 は慶たるな らん と思 ひの外営年 も男女敷十人の参詣あ りて何れ も若者共な りしが中に
は だ か まゐ
は だ しまゐ
は裸体参 り眈足参 りもあ り境 内 の積雪 を も踏消す計 りの雑沓 にて定例 の指 さ し式 もあ り最 と盛 んにて
有 りた りとは随分可笑か りし次第 な りけ り
◆資料 27
明治十八年 (1885)一 月十六日「奥羽日日新聞」
○ 暁参 り 餅掲 な る杵 の 音 遠 近 とな く聞 え しは一 昨 日に してそ れ な ん 若 年 の 祝 ひ事 物 す る月 にて
資料集〕 大崎人幡宮の松焚祭と裸参 り
【
繭玉木冑 ぐ田舎女 の啓 さへ何 とな う春 め けるに女 の年越杯 云ふめれば裏屋 の塀 も今 日ばか りは と我 の
顔す る もい とをか し又さすがにむか しの手振捨難の人 もあ りしと見え夜更 て後鳥追 ふ啓す ら僅かに聞
えた るなん床 し然れば入幡町なる大崎人幡 の暁参 りも左 こそあ らめ と思ふに違はず宵 よ りの参詣 にて
各 々松 三五等 の飾 り物 を持行設けの場 にて燒煙 もいつ より許多な りしを以て巡査 と消防夫 とが詰合 て
其が非常 を警回せ しとか故昨 日暁 までは引 も切 らぬ参詣 にて同社内の賑はひ一方な らざ りしとなん
● 資 料 28
明治十 八年 (1885)二 月二十 二 日「奥羽 日日新聞」
一昨 日は畜暦正月七 日に営 り朝 は元寺小路 の観音堂夕 は木ノ下の薬師堂へ の参
○朝観音 に夕薬師
詣相應 に群集せ しと尤 も薬師堂 は新暦 よ リー倍せ しは近在 よ りの出多か りし月 にて赤物の如 きは相應
の賣方 な りしと
◆ 資 料 29
明治十 八年 (1885)二 月二十 五 日「奥羽 日日新聞」
来る十八 日は旧暦正月十四 日に営 るに付 人幡町大崎入幡社 に終 て例 の如 く祭典執行せ
○大崎 八 幡
らる ゝ由尤 も薬師堂観音へ の参詣 も新暦に倍せ しと云へ ば同社へ の暁参 りも必ず倍す るな らんと町内
は今 よ り待居 るとの事
● t賓 米斗30
B日 日新聞」
明治十 八年 (1885)二 月二 日 「奥Σ
兼 て記せ し通 り入幡町大崎人幡 は畜暦故か至極 の人出裸体参 りさへ 随分見受 け しと又肴町
立町の如 きは餅打 に出掛けしもあ りて殊 の外 に賑 ひ しと是は一昨夜 より昨朝 に掛ての景況
○暁参
◆ 資 料 31
明治十九年 (1886)一 月十四 日「奥羽 日日新聞」
ゐなかめ
まへ た まき
本 日は畜慣 に依 り若年 の餅 を揚 る家 々 もあるや うに思 はれ しが前玉木賣歩 く田舎女 も相應
○若年
に見受 られ き
● 資 米斗32
明治十九年 (1886)一 月十五 日「奥羽 日日新聞」
昨 日は前号 にも記せ し通 り若年 と唱へ 夫 々の儀式あ るが 中にも営地方の畜慣たるな
海鼠引餅切茶旋子等殊 に多 く見受 しが今の世 にはあ らず もがな と思はれた り又本 日は暁参 りと唱へ入
○ 一 月十四 日
幡町な る大崎人幡社へ参詣す る習はしなるが暁が追 々宵 とな り昨夜 よ り今暁 までの参詣人 も可な りに
て殊更可笑 しか りしは鳥追な りまだ明や らぬ よ り何や ら喋べ り立る啓 さへ稀 に聞えたるな りと是は昨
十四 日より今暁 までの概況 を記せ るのみ
● 資 料 33
明治十九年 (1886)一 月十六 日「奥羽 日日新聞」
前号 に十四 日の景況 として粗 ぼ掲載せ しが尚ほ漏れたる分 を補 ふに同社参詣人 は可な
ヽ
りと云ふ もの 宵 に比せば暁参 りは少 な く諸商人 も例 よ りは稀 なるのみ な らず商ひ更 にな く燈 し油 の
損毛夜蕎委賣 は割 に多 か りしも是れ脂持蹄 りの姿只 いつ にな く見えしは北三香丁土橋通 に数十の提灯
○大崎 入幡
を離せ しと神社内の装飾等にてい と見事 な りし又右 に準 じ公園の櫻 岡神社片平町榊宮教含所 へ の参詣
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
【
も至て少なか りしとなん
◆ 資料 34
明治十九年 (1886)二 月十九日「奥羽 日日新聞」 (五
ー昨夜は畜暦正月十四日な りしを以て例に依 り人幡町大崎八幡社への参詣は賞に彩多 し
○暁参 リ
)
く新暦 よりは遥かに増 り尤も盛んなりし由中には鳥追ふ群も聞えしが是は些 と畜弊過て聞え蒼蠅か り
し
◆ 資料 35
明治十九年 (1886)二 月二十一日「奥羽日日新聞」 (四
○暁参 り
畜暦正月十五日の暁に名取郡植松村舘腰和社同郡笠島村の道祖神への参話は近年稀なる
)
ひとへもの
程にて中にもをかしか りしはいかなる立願あ りてにや此寒中をも厭 はず単物一枚 の参詣人を多 く見受
た りし と云
○ 正 月十 六 日
一 昨 日は旧暦正 月 の 十 六 日とて地獄 の金 の蓋 さへ 開 と云 ふ 大 齋 日なれ ば と宿 下 に
仕着 の 晴飾 り丁稚 お三の一 日極築丁稚 は 巾着 を叩て燒芋 の喰飽 お三 は紙入 を排 ての小 間物探 し烏 に市
中 も景気付 て見 え しが 中に も劇場 は大 繁 昌松 島東 の 雨座 とも一杯 の入 りな りし と
◆ 資料 36
明治二十二年 (1889)一 月十六日「奥羽日日新聞」 (五
)
○暁参 り 昨日は一月十五 日なるを以て前夜 より入幡町の大崎人幡宮に暁参に出掛 くる者引も切 らず
中には如何なる立願のある難有連にや裸体参 り又は薄着参 りと唱ふる参詣人も六七名あ りて昨年 より
は賑へ たりしと
◆ 資料 37
明治二十三年 (1890)二 月六日「奥羽 日日新聞」 (五
ー昨夜は害暦の正月十四日と云ひ宵の小雨の間もなく晴れ震の衣打榮 し月弓男浮かれ出
○暁参 リ
しよりいざせ我もと男女打連立ち大崎八幡 に参詣するなるべ し往復の足音夜た ゝ聞えしが社内の賑ヘ
)
左 こそと推せ られぬ
◆ 資料 38
明治二十四年 (1891)一 月十六日「奥羽日日新聞」 (五
○暁参 リ ー月十四日の宵 より翌十五 日の朝迄暁参 りと唱へ入幡町なる大崎人幡神社へ参詣するの習
)
慣 にて年々同社は賑ふことなるが殊に本年即ち一昨日の宵の中は参詣人頗 る多 く社内の雑沓一方なら
ず中にも囲分町の酒造家大崎市三郎方にては番頭雇人等十余名が自襦袢一枚 にて参詣せ し如 きは人々
の 目に付 きたりしと併 し商ひは相愛 らす不景気お蔭で繁昌なりしは常盤丁なりしといふ
◆資料 39
明治二十五年 (1892)一 月十四日「東北新聞」(三
)
●夜 籠 りと暁参 り 昨夕 は十三 日の夜 籠 りに て遠近 の神社佛 閣 に現世後世 を祷 る もの あ り又今暁 は
十 四 日の暁参 りにて老 若 の男女 は雪路 に足駄 の音 をな らして諸庭 の霊所 に もうず る もの 多 く殊 に大崎
八 幡 は い と賑 ゞしき程 の参 詣人 にて物 賣 まて市 をな らべ た り、 と りわ け熱心 なる信仰 家 は世 の雪空 に
革衣 一枚 にて走せ廻 る も見 えた り、角 に入 幡町 の大道 は人の往束織 るが如 きの 混雑 な りき
資料集】 大崎八幡宮の松焚祭と裸参 り
〔
◆資料 40
明治二十五年 (1892)一 月十五日「奥羽日日新聞」 (三 )
○暁参 り と唱へ昨日の宵より本日の暁かけて入幡町なる大崎人幡へ参詣するの習慣なるが本年も可
なりの参詣あ りしと云ふ
◆資料 41
明治二十五年 (1892)一 月十五 日「東北新聞」 (三 )
0餅 打
昨晩 は餅打 の宵 な りしか ば営市 の子供連 は戸毎 に廻 は りなかなかに賑 わひた り又常盤 町 は昨
、
年末 の不景気 にて是等 の佳灌 を慶 し至 て静 か な りし由
◆資料 42
明治二十五年十二月二十九日「東北日報」(三
)
本年 は門松非常 の高値 にて三階位 の庭 にて一 封六十錢位 ゐの相場 な りと其原 因は官
○ 門松 の相 場
林 の取締頗 る巖重 にて一 歩 も踏入 るこ との出束 ぬ烏 な りと
◆資料 43
明治二十六年 (1893)一 月十四日「奥羽日日新聞」 (五 )
○暁参 り 今晩より明朝にかけ暁参 りと唱へ人幡町なる大崎人幡社へ参詣するの例しなれば同社内の
賑 へ 思 ひ遣 らる
◆資料 44
明治二十六年 (1893)一 月十四日「東北新聞」 (三
◎持打を受けず 営市常盤町各貸坐敷にて例年の通一切持打を受けぬことにせしといふ
)
◆資料 45
明治二十六年 (1893)一 月十四日「東北日報」 (三 )
○八 幡神社 の祭灌
今、明両 日は例年の通 り営市人 幡町人 幡神社 の祭典 を執行する由なれば今夕 の如
き老若男女 の参詣彩 しく定め し賑 ふ ことならん
(略 )
○正月乞兒
ヤ レ高歳、ヤ レ歌 うたひ、ヤ レ餅貰 ひ と名つ けて一 月茶れ ば乞巧 とな り市内毎戸 の 門邊
に立ちて年 の うち を貰 ひ歩 くものをば正 月乞巧 と呼 ぶ ことなるが彼等 の中には近郷 にて相應 に暮 し居
る者 も交 り居 る由破廉恥 とやいはん、鐵面皮 とや云 はん
◆資料 46
明治二十六年 (1893)一 月十五日「東北新聞」(三
)
もちうち
◎十 四 日 昨夜 は正 月 の十四 日にて芽 出度やかせ ど り持打 、 な どもあ りて、 子供 の嬉 しさうに各戸 を
祝ひあるくなど市中は中々の賑ひな りし
◆資料 47
明治二十六年 (1893)一 月十五日「東北日報」 (三 )
○女子 の越 年
昨十 四 日は恰か も女 の年取 りに営 りたれば湯屋 、髪結等 は可 な り混雑 せ しが午后 よ り
はチ ラホ ラ年 賀 にか け歩 く者 を見受 け た り
'
資料集〕 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
【
◆資料 48
明治二十六年 (1893)一 月十七日「東北日報」(三
○ 人 幡神社 の祭灌
)
去 る十五 日は営市八幡 町大崎 入 幡神社大祭 日にてあ りけれ ば前 日の官祭 の如 き老
幼男女 の人 出彩 しく常盤町 よ り支倉 通北 三 香丁 と道路 の水 り居 る烏 め小足 にて歩 く章 しさ暁 に徹 して
止 まず、社前 には例 年 の通 り四方 よ り持束 りたる門松 を燃 しければ炎焔天 を焦 し其賑 は しさ言 はん方
なか りし
(略 )
○昨 日の大齋 日 昨 日は正 月十六 日にて地獄 の釜の蓋 も開 くてふ 年 二 度 の大齋 日なれ ば市 内 の湯屋 、
専の心地 にて此所彼所 を
散髪屋等 は悉 く休業 し年期小僧 は待 ちに待 ったる放築 日、何 れ も籠 を出で し′
遊 び行 き松 島座、森民座、仙蔓座 の 素 人芝居其他 の興行物 まで爪 も立 た ざる大入、市 中 の料理屋、飲
食店 も相應 の束客あ り明 る春 を待 ちた る女子等が今 日もを晴れて着飾 りて笑 ひ さ ゞめ き手 を引 き合 ふ
て遊 び行 くさまは何 とな く春 め きた り し
◆資料 49
明治二十七年 (1894)一 月十二 日「奥羽日日新聞」 (五 )
0暁 参 り 明日は例年の如 く人幡町大崎人幡社への暁参 りも多かるへ く搬は同社内の賑ひ思ふへ き
なり
◆資料 50
明治二十七年 (1894)一 月十四日「東北新聞」 (三
○女 の正 月
)
今 日は十四 日にて女 の正 月明 日は上元明後十六 日は荻入 な り右 に付 市 中は賑 ふ なるべ
し明朝の暁詣酒屋 の裸体 まゐ りもい さま しか らん (人 幡社 の賑 )
◆ 資 料 51
明治二十七年 (1894)一 月十四 日 「東北 日報」 (三
)
○わか年
今 日は若年 にて女子の年取 と云ふ 日なれば各家 にては其 々の儀式 を整のひ雑煮餅 に身動
きさへ ならぬ花嫁あれ ば屠蘇 に後先忘 る ゝ老婆 もあ りて何 とな く市中の景気賑 々 しく暫 しは過 き行 く
正月の足 を駐めた り又古例 を守る家 々 は前玉 を飾 る向 も多 く撃壊鼓腹 の御代 こそ有難けれ
○暁参 り 明 日は正月十五 日の こととて首市入幡町の大崎人幡社へ暁 き参 りをなす人 々多 きことなる
が本年は例年 の如 く寒氣 も餘 り烈 しか らねば一層 の参詣者な らん去れ ど痩我慢 に歯 を喰 〆て裸か参 り
をす るは違警罪 の禁物 なれば能 々注意す可 し
◆資料 52
明治二十七年 (1894)一 月十六日「奥羽日日新聞」 (五
●暁参 り
兼て掲載せし如 く一昨日は折からの暴風にも拘はらず参詣人非常に多かりしとのことな
)
り
◆資料 53
明治二十七年 (1894)一 月十六日「東北新聞」 (三
○ 一 昨夜 の餅打
)
一 昨 日十四 日は新正若年越 にて女の正月 と云 ひ餅打等 にて賑 ふ 営 日なるが年 の好
況 につ れ餅打等 も一 層賑 かにて各商家 を祝 ひ廻 り頗 る盛 含 な りき本社 も亦敷組 の祝 を受 け深更迄之が
迎接 に忙 しか りき
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と探参 り
【
◆資料 54
明治二十七年 (1894)一 月十六日「東北日報」(三
○ 人幡神社 の祭典
)
営市 人幡町なる同神社 にては一昨 日の宵祭 りよ り昨 日に掛け例年 の通 り祭典 を
行 ひしか市内酒造家その他 よ り裸体参 りを角せ しもの数多見受け しか雨 日とも強風吹 き荒れ し烏 め社
内に於 て焚火を禁ぜ られ しにぞ市内各戸 よ り持 ち集 りたる門松 は堆 きまて社内に充涌 し去 る十四 日の
暁参 りよ り夜 に入 り中 々の参詣 人な りき
◆ 資 料 55
明治二十七年
(1894)一 月十七 日「東北新聞」 (三
○各寺院の雑踏
)
昨十六 日は一年 一度 の藪入 日とて雪模様 にも係 は らず老若男女等墓参 りに出掛 け
たるもの多 く新寺小路邊 は 中々の賑 な りしといふ
(略 )
○藪入 の景況
昨 日は藪入にて市内の召使丁稚小僧 の放生 とて餅屋蕎麦屋小料理屋興行物 は仙蔓松
島森民座 など非常 の大入 な りし
◆資料 56
明治二十七年 (1894)一 月十七日「東北日報」(三
○昨 日の薮入
)
昨 日は正 月十 六 日の大齋 日にて地獄 の釜の蓋 も明 くてふ 藪入 の営 日とて市 中は頗 る
賑 々 し く殊 に小僧 やお三等 が年 に二 度 の追 放 日なれ ば思 ひ思 ひに仕 度 を整 ひ芝居 に飛込 む もあ り鮨
屋、天雄羅屋 、蕎麦屋 に鱈 腹頬張 りて 目の玉 を韓繰 り返す もあ り少 しは大 人 に成 り掛 りたる中僧等 は
一 人洒落 て三居澤 の翠松 舘 、 三 瀧 の望洋舘、土樋 の廣瀬舘、越路 の衆遠棲 に繰込む向 も相應 にあ り常
盤 町 の営業停 止 を無念が るの輩 は廼釜 岩沼迄 も単騎獨行 して 日頃の手柄 を顕 はす不心得者 もあ り概 し
て藝妓屋、芝居、料理店、飲食店等 は相應 の束客あ りて新年以束不景気 に 閉 たる愁 眉 をヤ ッと開 きた
り
◆ 資料 57
明治二十八年 (1895)一 月十三 日「奥羽日日新聞」 (三
●繭玉木
明十四日は女の年取 りと稀する若年にて近在 より繭玉木賣 りが多勢入込み市内を賣行 く
)
も買人は至て稀れなりと
◆ 資料 58
明治二十八年 (1895)一 月十三 日「東北新聞」 (三 )
0明 後 日の暁参詣
明十四日は松の葉の 目でたき一月の祝 も終 りとなし同夜暁参 りのため各神社 は
賑ふならんが殊に大崎人幡社塩釜神社等への参詣非常 に多かるべ く酒造家連信仰熱心家連のは裸参 り
もあるならん
◆ 資料 59
明治二十八年 (1895)一 月十五 日「東北日報」 (三
0人 幡神社 の祭典
)
昨 日は一 月十 四 日に相首す るを以 て市 内 人 幡 町 なる仝神社 に於 て例 年 の通 り大
祭典 を執行せ しが夜 に入 り造酒家杜康 その他 の裸体参 り等 あ りて仝 町内は中 々の賑 はへ な り獨 し
資料集〕 大崎八幡宮の松焚祭と裸参 り
【
◆資料 60
明治二十八年 (1895)一 月十六日「東北日報」(三
0-昨 夜市 内 の光景
)
松 の 内 の 十五 日も一 昨夜 限 りとなる 門松 を徹 き除 きて市 内人幡町なる人幡境 内
に運 び燒 き捨 つ るが例 なれば市 内は夕景 よ り殊 の外雑 開 し夜 明け まで多少 の 人通 りあ りた り
◆資料 61
明治二十八年 (1895)一 月十六日「東北新聞」(三
0-昨 夜市内の景況
)
一昨 日午後 よ りは女 の年越 とて何 とな く賑 はし く夕方 よ りはお祝 ひお祝 ひ と子
供 の呼 び啓毎戸 に見舞 はれ大崎八幡社其他 の神佛 は賑 ひ非常 の ものにて燒近 き頃は螺貝 の群音遥かに
響 き渡 リカラカラカラの足駄音繁 く時には 白布 の参詣者あれば駈 け束 る女 の裸参 り等 さてもさまさま
明ければ拾五 日の東天旭高 し
●祈祷 の婦人多 し 入 幡神社 は昔 よ り弓矢神 と唱へ 武逼 を守 ると偉ふるよ り時節柄参詣人非常に多 く
殊 に一 昨夜 の如 きは大崎入幡社頭の賑 ひ甚 しく就中軍人留守宅の遺族、婦人の参詣彩 しく華弱 き身に
雄 々 しくも水垢離 をと りて 白衣一枚 の裸参詣、夫の戦功 を祈 り体 の武逗を祷 る杯賞に凄 ましき程 な り
し此 一念 を以てす るも我軍は必ず勝つべ き筈な りと感涙 を揮ふて語 るもの もあ りき
◆ 資料 62
明治二十八年 (1895)二 月十六日「奥羽日日新聞」
●暁参 り 昨朝 は陰暦正月十五 日のことゝて勇み肌の若者等は裸参 りと縛 ひ白衣一枚 を着 して公園地
大神宮人幡町大崎八幡宮等へ暁 き参詣 に出掛けたるもの多 く一昨夜 よ り掛 けて同神社 の参詣者 は殊 の
外多か りしとぞ
◆資料 63
明治二十九年 (1896)一 月十二日「東北新聞」(三
0人 幡榊社祭灌 営市大崎八 幡社 は茶十四 日夜祭 りにて松納 め翌十五 日は本祭 な り
)
◆ 資 料 64
明治二十九年
(1896)一 月十四 日「東北新聞」 (三
)
●暁参 り 明十五 日は暁参 りのため箪釜神社大崎八幡其他 へ の参詣者未明 よ り多か らん
◆ 資 料 65
明治二十九年
(1896)一 月十六 日「奥羽 日日新聞」 (三
0大 崎人幡 の暁参 り
)
去 る十四 日の夜 よ り翌十五 日の暁 に掛 け参詣 し且つ松飾等 を持行 き燒棄 るの
習慣 なるよ り何れ も日中よ り夫 々準備 を鶯 し頓で暮近 うな るや競 ふて参詣す るを見受けた り而 して園
分町酒醸家大崎店 にては例年 の如 く裸然参 り(但 し浄衣一枚 に して腰 に〆縄 を張れ り)を 烏 したる中 々
に勇 ましか りき又夜 に至 りては之れ も一つ の慣 しとて男女の幼童群 を舟 し「錢 もち金 もち賓 もち此方
の旦那 は身上 もちJと 口々 に唱へ 軒毎 に祝儀 を貰ひ歩 く外市 中 は賑 々 しくも亦蒼蠅 き程 な りき折柄誰
か趣向にや出た りけん國分町人力車管業新車方 よ り挽 出 したるは諸方の正月飾物 を以て軍艦 を模造 し
それに陸海軍高歳の旗 を建 て又家 々の提灯 を釣 したる最 も陽氣 に見受け られぬ次 でい と殊勝 にもあは
れな りしは軍人の家族 にやあ らん十五六歳 とも見ゆる令嬢雨名白衣一重 を着 し素足 にて参詣せ るにて
あ りき自体本年 は戦争後 のこととて参詣人 は特 に多 きを覺 え しとぞ
資料集〕 大崎人幡宮の松焚祭と裸参 り
〔
◆ 資料 66
明治二十九年 (1896)一 月十六日「東北新聞」 (三 )
0-昨 夜の大崎人幡 一昨日は正月十四日にて首市人幡町大崎八幡神社 の祭典なりしが例に依 りて参
詣の老若男女夕刻より績出し同町入口より社前に至るまでの間は殆んど通行をなし得 られぬ程にて例
年 よリー層の賑かなりしといふ
◆資料 67
明治三十年 (1897)一 月十四日「イ
山蔓新聞」(三
)
◎今晩 の人 幡堂 十四 日なれば例年の通 り門松納めの烏 め賑やかなるべ し
◎国子木 の賣群
昨 日は市内各町に国子木の振れ啓何 よ りも耳立 た り
◆資料 68
明治三十年 (1897)一 月十四日「東北新聞」(三
0-昨 夜束 の市 内
歌舞音 曲の停止 とて何 れ も謹慎 を表 し光景請條 た り
◆資料 69
明治二十年 (1897)一 月十四日「東北新聞」(三
●鳥追 と新正 月
)
)
松 葉 の一 月 も本 日限 りに てい よい よ′
専追 となる、 鳥追 ひは各地 に依 り其 の式異 な り
東京 の如 きは!鳥 追 とて、 朝 また き三弦 を乱 弾 して各戸 を廻 は り〆組松等 は榊社 に納 むるを常 とし営仙
菖地方 の如 きは梯暁 ヤハ イヤハ イホ ウイホ ウイ等の語 を以て 鳥追式 とな し氏神 に納 むるな りし
0人 幡神社祭灌
本晩 は正 月十 四 日俗 に松 飾 り奉納 と唱 ひ人 幡町同社 の夜祭 りな り
◆ 資料 70
明治三十年 (1897)一 月十五 日「奥羽日日新聞」 (三 )
昨日は営市八幡町に鎮座する人幡神社の祭典 にて例年なれば暁き参 り其他終 日
0昨 日の大崎人幡
賑ふ可 き筈なるが禁内の御不幸に遠慮 して終 日ひそやかなりしと就ては正規の祭典 は菖暦一月十四日
まで延期するとのことなり
◆資料 71
明治三十年 (1897)一 月十五日「イ
山蔓新聞」(三
◎祭典延引
)
前琥 の 紙 上 に記せ し大崎人幡 の祭典 は此 度 の 國喪 に付奮 暦 正 月十 五 日まで延引せ り
◆資料 72
明治三十年 (1897)二 月十七日「奥羽日日新聞」(三
の祭典 は御大葬 の角 め陰暦正月十四十 五 の雨 日に延期せ る由は曾 て報道せ しが 一 昨
0大 崎 人幡宮
)
夜 は恰 も其 の十四 日とて参拝す る者非常 に多 く午前 二 時頃 まで下駄音絶 え ざ りし
●昨 日の停車場
昨 日は陰暦正 月十 五 日に相首せ し事 とて竹駒踵釜諸榊社 へ の参詣者頗 る多 か りし
烏 め営市岩沼堕 釜等 の各停車場 は終 日雑沓 した りといへ り
◆資料 73
明治二十年 (1897)二 月十七日「河北新報」(五
0停 車場 の雑踏 昨 日は害暦正 月十五 日なるを以て近郷近在 よ り箪金邊或 は古社畜跡等へ参詣す る も
)
資料集, 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
【
の彩 し く毎 列 車殆 ん と溢 れ ん 計 りにて営停 車場 も礎着 毎 に雑 踏 を極 め た り
◆資料 74
明治三十一年 (1898)一 月十三日「東北新聞」(三
0大 崎 人 幡社例祭 と電燈 明十四十五雨 日は営市大崎人 幡社例祭 なるが本年 は大電燈 を用 ゐ参詣者
)
便 を計 らん と町内有志者 は三 居澤電燈会社 に協議 し其位置 等 を定 め しといぶ
◆資料 75
明治三十一年 (1898)一 月十四日「東北新聞」(三
●唄女 の年始 と市 内 の景況
)
昨 日は寒暖計 も四十度 の上 に昇 り御大喪 も巳に明 き且 つ 静穏 の好 天氣 な
りしかば市 内人出非常 に多 か りし中に も唄女 の年始 は 中 々 に花 々 し く殊 に 目立 ち しは吉野家連小里次
郎 ふ ねあ い子 (今 年 一 本 とな りし新妓 )半 玉の まさ子 なん ど綺羅 を飾 りて元 氣 よ く績 い て高家 の徳助
小み よも ヽ助小 きん小半半玉 のみつ よ、小松家、菊の家、松葉 家、花 の家、 中 よろつ 其他 の群妓 は寒
さに閉 し紅梅 の一 時 に変 き しに似 イヤ艶 麗艶置 と褒 て通 る もあれ ば、三 1可 万歳、めでた節、開候、三
味線 門付 なん ども時 を得顔 に市 中 を歩 き始 めて正 月 らしき景況 を呈 した り
◆資料 76
明治二十一年 (1898)一 月十六日「東北新聞」(三
)
ほうかたれた
帯 間違 の年始廻 り 虎坊 の科 間仙 中林 中露 中に今後披 露 した花 中 の四騎轡 を並 べ て市 内贔贋筋並 び
に料理屋待合藝妓家 な どへ の年始其 口上 に曰 く今年 の繁 昌お 目出度 う國含解散御 目出度 う政府 では不
景氣挽 回 の月 の御解散 なれ ば先 つ撰碁 人様 方 の御機嫌 を伺 ひ御 意 の儘 に御 営選受合 の積 りそれ も御祝
儀 の多 い方 にヘ イ賛成致 します なんかん と持合 せ の口調 を年 玉 に して イヤ モ ウ元 氣 なる ものな り
◆資料 77
明治三十二年 (1899)一 月十日「河北新報」(三
祝れた人 も亦束 る水祝 い
1可
)
弧月
豚喰 うた去年 の噺 しや明の春
北野 に も見ゆる とん との煙 り哉
新 しく殖 へ て 目出度 し孫 の年
報国 の恵み も厚 き日の は しめ
社家 に神酒す ゞめ くれ け り初詣
◆資料 78
明治三十二年 (1899)一 月十三日「河北新報」(五
)
●大崎 人 幡 の暁祭 り 来 る十 四 日の夜 よ り十五 日に掛 け入 幡 町 の大崎八幡宮 におて例 年 の通 り暁祭 り
を執行 し伊達伯爵名代 の参 拝 もあ る由なれば定 め し賑 ふべ く且 つ 同夜 は松燒 を無 代慣 とし又電燈 提灯
等 の敷 を も増 して境 内 を不夜城 とす る と云 へ ば一 層 の光景 を添 ふ 事 な らん
◆資料 79
明治二十二年 (1899)一 月十三日「東北新聞」(三
)
●大崎入幡暁詣 り 束十 四五雨 日大崎入幡 宮 にては例 の通 り松燒 無代慣執行、丸屋大崎吉 岡等 の各酒
造家 にては畜例 によ り若者 の 薄衣参 りの準備 中な りと
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
〔
◆ 資料 80
明治三十二年 (1900)一 月十五 日「河北新報」 (五
●昨夜の人幡宮 寒氣は巌 しか りしも折柄の月夜 とて市中男女の参詣例年 よりも多 く薄衣参 りの若衆
)
も可なりあり坂の上の年4嘔 焚場 は例に依 りて中々熾んにて今暁に至るまで頗ぶる賑ひた り
◆資料 81
明治三十四年 (1901)一 月十五日「東北新聞」(七
● 入 幡神社 の例祭
)
昨夜 は例の人幡 町 人 幡神社 の例祭 な り朝茶 の 日和 にて人足殊 に繁 く玩具屋菓子屋
煮賣屋 なん どの商人連 は朝 よ り我 れ先 に我 れ先 に と詰 め掛 け押掛 け其場 を占めけるが夜 に入 り例 の如
く信神連裸参 りのチ リ ンチ リ ン松納 め若者共の ヨイサ ヨイサ ッ定めて凄 くも亦喧 しきこ とにぞあ らん
◆ 資 料 82
明治二十四年 (1901)一 月十 六 日 「河北新報」 (五
)
0人 幡社 の賑 ひ
一 昨夜 は正月十四 日の事 とて例年 の如 く裸参 りやその他 の参詣 人にて入幡堂なる人
幡社 の賑 ひたる事一方な らず二 日町 よ り北 三呑丁へ かけて木町通 よ り喜常盤町 よ り総体八幡町へ の通
路 は通 り切れぬ程 にて社前 には種 々の露店多 くか ゝり見世物 は僅かに大蛇― ヶ所 な りし社前 には先 を
争 ふて冥利 を願ふ人はベ ター面押 し合 ひヘ シ合 ひ殊 に本年 は例年 に比 し裸参 りの敷頗 ぶ る多 く総体
三 百名 もあ りたるが中にも猫豆組國太郎組 マ ッタ仙重座 の俳優及 び森徳座 の俳優 など屋重 よ車 まよの
大騒 ぎ幾百千人の老若男女只 だなん とな くワヤワヤ押掛け押返へ りか くして暁 まで人通 りの絶えぬ な
とは賑かな りし次第 とはいふべ し
◆ 資料 83
明治二十四年 (1901)一 月十六日「東北新聞」 (七
0-昨 夜の市内 門松 〆飾 りを入幡社へ納むるもの、眈足参 り、寒参 り等多 く、殊に森徳座の松納め
は藝妓屋其他 を合併 し荷車三輛にて神柴太鼓で練出す杯大賑 ひ、仙墓座 も俳優一同暁き参 りをなせ し
)
由
◆資料 84
明治二十五年 (1902)一 月十五日「河北新報」(五
0わ か歳 松 の内も瞬 く間に過 ぎ去 りて昨 日は若歳 を迎ひたるか昨夜 よ り今朝へ かけては人幡町大崎
)
入幡宮 の例祭あ り参詣人 は例の如 く頗 る多 く門松 を納めんとて市 中 よ り賑かなる囃 しにて押 出せるも
あれば薄衣参 ゐ りをなす信神者 も少 なか らず境内はどんど火 の焔熾 んに暗 み を照 して鈴 の音か しまし
か りき
◆資料 85
明治 二 十 二 年
(1902)一 月十 五 日 「東北新聞」 (三
●昨 日の大崎 人 幡
)
暁詣 での往茶 も前 年 に比 し多 く門松納 めの雑踏 は又 格別 にて入幡 町 は毎戸珠燈 を
掛 け社前 には諸商人 の店張 りあ りき殊 に天 氣 よ く風炒 なか りし故燒 浴 む る門松 〆飾 りの 炎勇 ましく深
更赤裸体詣 りの敷 も多か りき
◆資料 86
明治三十五年 (1902)一 月二十五日「河北新報」
(―
120
)
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参 り
〔
清秋會句録
産土神 に村 を碁 りしどん どか な
牛南
柴積 て幾 たび川 を覗 きけ り
同
春 い まだ狭 長 山田 の芹寒 く
同
梅楽 き嵯峨 の庵や琴 を弾 く
同
(略 )
京 の 町 に火事 のはや りて年寒 き
麻昔
襟巻 を帽子 の 中に入れてあ り
同
畑打 に梅 の名所 を尋 ねけ り
同
左儀長 の人 の顔皆 あかあか と
同
(略 )
◆資料 87
明治三十五年 (1902)二 月二十三日「奥羽日日新聞」(三
0夜 の仙蔓 (二 十 一 日)
)
▲ 途上 の光景 と雑感 ▲
▲ 陰暦 の松納 め
越 し時 に三 度尻餅 や年の坂 由束仙重 には陰陽に亘 りて正 月 を祝 ふ 向多 く田舎 に入 れ
ば勿論市 内場末 には義理一通 に松飾 りを角 し神事其他 は総べ て陰暦 を用 ゆる方多 く見受 け らる左 れば
にや 営夜 陰暦十 四 日には例 の大 崎 人 幡 に松 納 を兼 ね 暁 詣 引 きも切 らず夫 れ を営 て込む小商人露 店等
油姻臭 き空氣 もて浦 た ざれなか なか雑踏 を極 めた り
▲ 遊廓
近束客足 絶 へ て落冥 の死 地 と化 した る遊 廓 も陰暦 暁 詣 と堕釜神社 をか こつ けに歩 を運ぶ 田
舎者多 く赤毛布 と草雑掛 の三 々五 々隊 を成 して押 し歩行 く月 か小見世 には可也 の客 を見 る も大見世 に
は蜘蛛 の巣 を張 る計 りの不景氣 目も営 て られ し沙汰 に もあ らず是 で こそ天下太平 と申すべ きにや
(略 )
◆資料 88
明治二十六年 (1903)一 月一日「河北新報」(二
)
新年海
元朝 の海高砂 も見 ゆるべ し
櫻香
海暮 て丘 に小 きどん ど哉
同
海 の幸 に山の幸 に と四方拝
寒堂
初 日浴 びて海和祭 る人遠 か
同
元 日や吹雪 に海 も見 えぬ 也
今束
海棲や波平 か に初 日影
同
初空 の海 に雪 ふ る静 け さよ
乙字
月出つ る三 日の海や船祝
同
海原や瑞穂 の 囲 の初 日の 出
放江
元 日や海の 日本 に聖天子
野老
◆資料 89
明治 三 十 六年
(1903)一 月五 日「河北新報」 (四
新年雑詠
)
資料集〕 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
【
海 暮 れ て 舟 玉 の灯 や初荷 舟
櫻香
若水 や切 火 た ば しる桶 白 き
同
(略 )
どん どや く煙や海邊 の並 木松
麻昔
紙舒べ て手 のたゆたひや筆始
同
(略 )
◆資料90
明治三十六年 (1903)一 月十四日「東北新聞」(三
)
0今 晩 の松注連納 め
松 の 内 も今 日限 りにて今 晩 は松注連納めなるが市 内にては例 に よ り大崎 入 幡 の
境 内賑 ふ こ となるべ し又 今夜 は畜臓花嫁初 聟入 りの赤 々へ 餅打 を唱 えて藝人が押 出 して祝儀 を貰 う習
慣 もあ り賑 々 しきことなるべ しと
◆ 資 料 91
明治 三十 六年 (1903)一 月十五 日「河北新報」
0昨 夜 の大崎八幡社
人 幡町な る大崎人 幡神社 にては例年 のごと く昨夜 は午後 の七 時頃 よ り参詣 の人
出盛 り暁頃まで絶間なか りしが例の廣 目屋猫豆等 の廣告築隊 は各得意先 きの門松 を荷 車 に山を積み重
ね花 々敷繰出 したる傍 々大通 りよ り境内までは一方な らず賑 ひ社内には書夜共神柴 の奉納 もあ りた り
◆ 資 料 92
明治 二十 六年 (1903)一 月十五 日 「東北新聞」 (七 )
●昨 日の賑 ひ 十四 日の こととて悪路 も厭 はず年始廻 りの人 々 もあ り夜 に入 り松注進納 めにて例 によ
り八 幡神社へ の参詣 も多か りきか
◆資料 93
明治三十六年 (1903)一 月十六日「東北新聞」(七
0-昨 夜 の人 幡社
)
一 昨夜営市大崎 人 幡社 に例 年 の通 り夜禁 (マ マ )り あ り夕頃 よ り老若男女群集雑
沓 門松 年組 を焚 く焔頗 る盛 な りき又例 の裸赤参 りも各隊列 を作 りて出か け殊 に仙台座 興行 中 の俳優連
敷 十名腕車 を連ね先頭 は築隊 に歩調 を整へ 後尾 には年組 門松等 を浦載せ るチ ャリーズ を附 し恰 も出征
行 進 隊 の如 く花 々 しき有様 な りき
●本 日の養父入 り 本 日は商銅 の呑頭丁稚小僧雇人放築 日故例 によ りて各遊覧場飲 食店 は相應□賑 ふ
べ し又 明十 七 日は湯屋床店 の休業 なれば矢張 り賑 ふ なるべ し
◆資料 94
明治三十六年 (1903)一 月十六日「奥羽新聞」(五
● 青柳 一 座 の人 幡詣
)
仙蔓座 に興行 中なる壮士俳優 青柳 一座総員十余名 にて一 昨夜 人力車 に何 れ も座
名 を染抜 きたる紅燈 を離 じ市 中音柴隊 を先駆 に馬鹿囃蔓 を後 ろに威勢 よ く人 幡神社 に参 詣 した るは廣
告 を兼 ねたる よき思付 きな りし
◆ 資料 95
明治三十六年 (1903)一 月十六日「奥羽新聞」 (五 )
花柳便 り若莱籠 (略 )▲ 一昨日の時間過ぎにお入幡様へ参話に行った藝妓屋は吉野家、柳家、いて
資料集】 大崎八幡宮の松焚祭と裸参り
【
ふ家、玉 よろづ、丁子屋、新東家、 よろづ家、福す ヾき等で其 の藝妓が惣出だ ッたか ら責 に花 々 しく
八幡様 も大分御眼尻 を下 げ られたか何 うだか分 らないが一行 の中に御精進 で も悪かった と見 え石段 で
韓 んだ妓な どあって大陽氣 であった げな▲此のお人幡様の宵祭 りに若 い女 の裸参 りと老婆 の裸参 りと
書生 の裸参 りは三幅封 の見物 であったが惣体 に昨年 よ り人出き多 く又た裸参 りも多か った
0怪 しか らぬ縁起物
市内連坊小路 七呑地庄司清次郎妻 カツ (六 ―)は 一昨夜 同東九番丁姓不詳アイ、
もちうち
クマ なん ど云ふ面 々 と打連 れ共 に怪 しか らぬ 木製 の物 を扇 に載せ 國分 町界隈 の家 に入 り込み餅打 の御
祝儀 な ど ゝ蝶舌 り居 りしを風紀係 に認 め られ しが昨 日一 同召喚 の上 其 の不心得 を誠 しめ繹放
◆資料96
明治二十六年 (1903)一 月十七日「東北新聞」
や ぶ い
●養 父入 りの景況
(七 )
各商舗 の番頭丁稚 雇人昨 日正午 頃 よ リポツポ ツ往束娠 は し く見 えたるが森徳座女
芝居松嶋仙 台両座 も相應 なる入 にて夜 は開氣館長壽亭名掛館 (汁 日迄 日廷せ り小築丈 へ 米屋 町 よ り後
幕 を送 られ語物 も安 中騒動頼朝小僧 とせ り)な ぞ入 りあ り各勘 工 場飲食店共繁 昌せ しが今十七 日は湯
屋床店 の休業 日なる も家 々 によ りては十九 日に 日延せ る もあ りと
◆資料 97
明治 三 十 六年
(1903)一 月二 十 三 日 「河北新報」 (四
清秋含句録
大 賢 は愚 なるが如 く海鼠か な
放江
河豚 曰 く汝 の生 を吐 はむか
同
寒潮 に二つ飛 び立 つ 千鳥 か な
同
賦梅 に霰の玉の倅 くな り
同
暮 口に銀貨 を鳴 らし藪入す
同
や ぶ入 の話か さなる巨たつ かな
麻琴
飾 なげて焔高 まる どん どかな
同
い さか ひに人乱 れた る どん ど哉
同
や ぶ入 の土 産 ひろ げ て語 りけ り
同
左 義長 の残 る煙 や朝 の雨
花衣
霜 の千木 どん どの 明 り映 りけ り
櫻香
や ぶ入 の車 に乗 るや□ 午
落魚
左 義長や橙焦 げ て残 りけ り
牛南
左 義長 の 月に地 を這 ふ煙か な
同
◆資料 98
明治三十七年 (1904)一 月一日「河北新報」(十
)
巖 上松
禿 山の巌 の松 に初 日か な
幽谷
納 め松 三束 にな りぬ 岩 の上
櫻香
岩 の上 どん どの松 の燒 け残 る
仝
◆資料99
明治 二 十 七 年
(1904)一 月十 四 日 「東北新聞」 (七
)
)
資料集】 大崎入幡宮の松焚祭と裸参り
【
0本 夜 の 賑 ひ
大 崎 入 幡神社 の 祭 典 と松 納 め とにて 定 め て賑 ふ こ となるべ し
● i賓 米斗100
明治三十七年 (1904)一 月十五 日「河北新報」
0人 幡神社 の図威宣揚祭 首市人幡町鎮座の大崎八幡神社の於ては例年の通 り昨日松燒例祭を行 ひ併
せて全囲神職會決定の趣旨に依 り囲威宣揚祭をも管みたる鹿天氣の宜 しきと時節柄 とて例年にも倍 し
て参詣人彩多 しく頗ぶる薙踏を極めた り
◆ 資料 101
明治二十七年 (1904)一 月十五 日「奥羽新聞」 (三 )
毎年営地方 の慣習 として 一 月十四 日の夜 門毎 に立てたる松 飾 りを救 して之 を大崎人
●昨夜 の松 納 め
幡社 へ 持行 き火 に投 じて一 片 の灰塵 とし夫 よ り人 幡 へ 賽 して踊 る事 なるが昨夜 は其営 日とて官の程 よ
り詰掛 くる老 若男女 中 々 に彩多 しく或 は車 に或 は囃子 な ど着 けて章 き行 くな ど大分賑 はひた りしが警
察署 にて は豫 じめ其群 集 を慮 りて警官 を派 出 し取 締 に注 意せ しめたれ ば万事好都 合 にて暁 に及 んで
皆 々退散せ し由
◆ 資 料 102
明治 三 十七年 (1904)一 月十六 日 「河北新報」 (五
●参詣 の留 主 に泥坊
)
北 目通 り九番地瀧喜太郎 (五 十五 )は 長女 きさ
(二 十三)と
の二 人暮 らしにて
薪炭商 をな し居るものなるが一昨夜 七時半頃 きさと共に人幡神社 に参詣 に出掛 け蹄宅 して見れば戸が
開放 しにな り居 るよ り不審 に思ひ箪笥 の中を検 め見 しに衣類人離盗難 に罹か り居 るのみか折 角鴇 立て
の餅 まで も盗 まれて皆無なるに二 人は尻餅 をつい て之れはこれは
0次 も盗難
一昨夜六時頃営市虎屋横丁 の伊藤春吉方 にて家族か夕飯 を食 し居 る間に店先 に置 きたる
塩鮭一俵 (八 本入 にて見積 二 園)盗 難 に罹 る
0人 幡祭 りと警察事故
一昨夜 の人 幡神社祭典 は非常 の人 出な りしよ り警察事故 も多か りしが営市連
坊小路 の筆職加藤義一郎方 の雇人高田忠蔵 は黒締子 の財布 を金一回三厘在中の ま ヽ狗 り取 られ名掛丁
二 十番地佐 々木政治は唐縮緬 の風呂敷 一枚 を拾 ひ名掛丁 の佐藤キチは妹 と俸勇治
(十 一)を 連れて出
掛 けたる途 中にて勇治 を見失ひしとて其筋に訴ひ出で しが同夜神社近傍 にて稜見 し又十人九歳の青年
が二十二三 歳 の番頭体 の者 と喧嘩を始 めたるを横 田巡査が通 り掛か り説諭 し次に参詣人中 に娼妓 らし
き女あ りしよ り警官が取調べ たるに娼妓にはあ らざ りしこと判明 して許 された り
◆資料103
明治 二 十 八 年
(1905)一 月一 日 「河北新報」 (九
新 年十句
勅題 の つ たな き歌 や筆始
もの ゝ園 き睦月橙鏡餅
牛南
思 ひた ゝす嵯峨 の使や明 の春
同
美 しき顔 見そ め け り松 の 内
同
物 を こそ思 へ と歌留多取 に見
同
天 を衝 く杉 明か に とん どかな
同
嫁が君 こ と りと宿 の夜 更た り
同
掛乞 の 鞄 に鍵や初鳩
同
同
)
資料集】 大崎八幡宮の松焚祭と裸参り
【
軍 國 の旗 か げ高 し初 日の出
松月
吾背子 の影膳す ゑて雑煮 かな
同
◆資料 104
明治二十八年 (1905)一 月十四日「東北新聞」(三
0本 日
)
七 日を正 月の一段落 とすれば本 日は正月の二段落なる年越 しな りされ ば畜式 に因み て今 日ま
で注連や松飾 りをなし置 きたる家 は取納 めて其跡へ 繭玉 として柳 の枝 に梗米にて怖 らへ し小園子 を附
して祝 ふ な り又取外 したる注連 と松飾 りは市 にては大抵大崎人幡神社へ納めて焼 き捨てるな り左れば
本宵 の人 幡神社 の祭典 はなかなかの賑 ひに して裸体詣 りと唱ふる もの さへ仕束す る例あ り入 幡町は一
帯 に提灯 を掲げ物賣な ど出でて繁 るべ く殊 に同神社 は軍神 として尊 め居れ ば軍人留守宅 の人 々の参詣
も定めて多か らん尚本 日は婦人連 には うす紅賣 るを買 ふて用 ふるを縁起 よしと流行居れば是又なかな
か に賣 口あ らん△ 因み に十五六両 日は藪入 に営れ ど新暦 を用 ゆるもの炒なければ姦 には省 きぬ
● 資 料 105
明治二十 八年 (1905)一 月十四 日 「河北新報」 (五 )
0大 崎人幡和社 の祭典
営市大崎八幡神社 にては今十四 日例年の通 り松納 めの祭事 を執行 す
●戦時 の裸参 り 別項所載 の大崎人幡神社祭事 に就ては慣例 によ りて裸参 りす る者時節柄 として殊 に
多数な るべ く就中出征者 の烏 め蓋 す婦女子尤 も多かるべ し
◆資料 106
明治二十八年 (1905)一 月十五日「東北新聞」(五
0人 幡神社 の祭典
)
既報 の如 く昨 日の大崎人幡神社祭典は日中より茶番興行露店等あ り人出でなか な
かの賑 ひな りしが夜 に入 りて一層賑 はひ尚白石興産 の提灯行列あ りき
◆資料 107
明治三十八年 (1905)一 月十六日「東北新聞」(四
)
0-昨 夜 の注連納み、宵の内 よ りの雑踏 は大 層 な もの にて午後八 時比 に至 り人 幡 町 は人 を以 て埋 むる
斗 りな りしが戦捷祈祷提灯行列 の 国体 は各 酒店 白石興産市内靴商の連 中三 百餘名 にて華居前 にて爆竹
を鳴 す杯 なかなかの元氣 に して裸体詣 りと唱ふ る もの も例年 よ りも敷多 く露店 の見世物 の敷 も多 く人
幡 神社 の参詣者 は近 茶稀 なる程雑踏 を極 めた るか 中途みぞれ雪 の 降 りしに一 時群集 が左右 に須 れ しも
忽 ち晴れて再 び賑 ひける時仙台座壮俳青柳 一 座 の 出勤俳優 が 車 を連 ねて参詣の途 中北 三 番丁路 上 にて
万 歳 を唱へ し男 あ リー 座が無言 にて通 り過 せ しは不都合 な りと人力車 を停 めて口争 い とな りしも参詣
の 途 中なれば とて件 の男 を宥 めて何事 もな く済み しといふ
◆資料 108
明治二十九年 (1906)一 月十四日「河北新報」(五
大 崎 人 幡 の松焚祭
)
仙重古束 の慣例 ……起 りは慶 長十 二 年 よ り
今夜 は例年 の通 り大崎人幡社の松焚祭 だが戦争 のお正 月故松収め方 々のお泄詣な どもあるべ く常には
倍 して賑 は う事 だ らうと思ふ△色 ゝの畜憤例が年 々に廃れて行 くにも拘 はらず、此松焚祭許 りは少 し
も愛 る事 な く、年 々盛んになるので、仙蔓 市内 は 申す に及ばず、宮城名取 の郡部か らも態 々松収めに
茶 る△金儲 けには抜 目の ない世 の 中、近頃では荷車や荷馬車 で各戸 の松 を集む神築囃 しで収めに茶る
もの ある、追 々は松収請負株式會社 と云ふのが市内に出束 るか も知れぬ△扱此松焚焚祭
(マ マ)と
云
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参 り
〔
ふ は東北 では珍 しい慣例 であ って六 縣 下何処 に も此習 しが ないの み な らず、仙墓藩 で も唯此城下 の仙
蔓計 りで行 はれて居 つ た習慣 で ある△ 夫 に就 い ては何 か面 白い縁起 で もあ る事 か と調 べ て見 る と別段
何 と云ふ事 でな いが此松焚祭 の 抑 々の起 りに就 いて少 し許 り聞 き込 んだ事 を書 い て見 よ う△ 一 体此大
崎 人 幡 の落成 は慶長十 二 年 であ って青葉城 よ りは五 年後 れて出来上 が った、 最 も此 の社 の元 を尋 ねて
見 る と、最初 は遠 田郡八幡村 に在 ったので、人 幡太郎義家 の建 立 したのだ とか云ふ話である、義家 の
子孫が下総國大崎郡 に禄 を食 んだので大 崎 の名 が此八幡様 に も附 いて茶 、夫か ら飛 び飛 びに飛 んで仙
重 の人 幡様 も大崎入幡 と云ふ 事 になった、政宗公が岩手 山に城 を築 い た時遠 田の大崎人幡 を岩手 山に
移 し、仙蔓 に城 を築 いて か ら又此地 に移 したのなそ うだ△エ ライ由茶記 を述 べ て 了 つ たが、 遠 田に在
つ た 時 も岩手 山に在 つ た時 も、此松焚 祭 と云ふ者 はなかつ たが、此地 に移 つ た即 ち落成 の年慶長十 二
年 に始めて此松焚祭が起 つ た、 初 め は至 つ て微 々た る者 であつ たが 年増 に盛 んになつ て茶 た との事 で
あ る△ 然 らば此慣例が突然何 庇 か ら移 つ て茶 たか と云ふ にそれは漠然 として取 り留 めた事 は判 つ て居
らぬ△ 併 し正 月 の松 を燒 く と云 ふの は、 清 浄 な者 を汚 しては成 らぬ との 考 か ら起 つ た事 で、 朝廷 の
古 い儀式 に も見 えて居 り、又 九州地方 では一般 に正 月 の松 を神社 の境 内 で燒 くか是 を ドン ドと稀 えて
居 る、 ドン ドと云ふ事 は歳 時記 に も見 えて居 るか ら稜 句 を作 る人 は知 って 居 る△ ツマ リ大崎人 幡 の
松焚祭 も即 ち此 ドン ドであって其神体 が宇佐人幡の分 身故 九州の方 の 習慣 が何 かの場合 に此仙重 に紛
れ込 んで古束 の慣倒 (マ マ )と なった者 と見 える△ 夫 は兎 に角 に として若 い人方 な どは矩姥 に這入 り
込 ん居 眠 りしてる よ り今夜 は大 崎 の松 火 にあたつ て 身 を浄め るの も結構 な事 と思 はれる△夜 は何 で も
五 時頃か ら焚 き始 めて九時十時 頃が 一 番盛 んに燃 え、後 は トロ トロ火が 明 くる朝迄残 って居 る
◆資料109
明治三十九年 (1906)一 月十五日「河北新報」(五
0大 崎人 幡 の松 納 め 昨 日は前夜 茶 の 降雪 道路 に堆 く、夜 に入 りての 寒 氣 一 層甚 しか り大崎 入 幡 の
)
松焚祭 は案外 の人 出にて七時 頃 よ り九時頃迄八幡町通 は往 さ束 るさの人織 るが如 く非常 の賑 ひな りき
●暁詣 昨夜 は正 月十四 日とて営市大崎八幡社等 へ の 白衣需 で数多 あ り特 に今沸暁 の暁詣 で もあ り塩
釜神社、竹腰、竹駒社等 へ の参 詣 も多 か りしな らむ
◆ 資 料 110
明治二十九年 (1906)一 月十 六 日「東北新聞」 (四 )
●大崎人幡祠 の松焚祭 一 昨午後六時半頃か ら松 を携へ参詣す る者引 きも切 らず押 し出 し振鈴 の音荘
巖 なる境内に普 く神 々 しく拝 せ られぬ
△境内の見世物 境内の見世物 には活動人形、米国産三色大鼠、 日露戦争機関等 にて相應の収入 りあ
りし様 な り
△境内の松焚 例年に愛 らぬ松焚 は非常に盛 にて火焔天を焦す ばか り寒 天微風 さへ起 したれば寒 を暖
むるにも焚火 の四周 に集 り物 々 しく見 えぬ
△各町の賑ひ 平常 はちと淋 しき入幡附近の町々は仕束す る人にて街 は狭苦 しく殊 に過 日の細雪地に
氷 り辻 り勝ちて散 々伍伍手 に手 を取合 ひ押合 ふ様例へ ん様 もなか り
△男女 の裸詣 り 四五人宛組合 をな し一様 の提灯 を手 にし寒天 に白単衣 一枚洋揮 と云ふ扮装 にて行 く
様古趣 を帯びて物珍 らしく敷十名 の多 きに達せ る事 なるが提灯印を覺 え し儘記せ ば福床、三浦硝子製
造所、鈴幸金田、杯殊 に女の裸詣 りは 甲斐 々々□姿 にて衆人の 目を惹 きた り
△賽錢箱荒 し 幾万 といふ参詣人 の中には悪人 も有 る見 え賽錢箱荒 し彩 しく果 ては呑人 を附 して警戒
す るに至 りし
△俳優藝妓 の参詣 俳優 には青柳 一座 をは じめ営地の各座 に興行中の者何 れ も花やかな神燈 を捧 げ車
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
【
輛 を連ねて勇まし く藝妓連 も伍 をな して参詣 をなせ り因に軍隊 も神譜 を奏 して詣 でた りか くの如 く押
合操合人出多か りしは昨朝 二 時頃迄績 きた りといふ
◆資料111
明治 四十年
(1907)一 月二 日 「河北新報」 (三
)
0新 年 二 十五 句
(略 )
大書す る坐 右 の銘や筆始
黎雨
官邸 に妓家 の年 玉 束 りけ り
同
畜年 の鬼遠のか ぬ 病 哉
黄村
杉森 の 空焦 るまで どん ど哉
同
六 出 で ゝ都 まぢか し絵双六
柳翠
御騎初髭 に色交 ひ け り
同
(略 )
◆資料 112
明治四十年 (1907)一 月十四日「河北新報」(五
0今 夜 の大崎人幡 本 日は昔 しよ り後 の年越 しと稀 して歳神 に鏡餅 を供へ 繭玉餅稲穂餅等 を作 り作物
)
の 豊饒 を祝 ひ暁 きに至 れ ば松飾 り年紀 を卸 して粥 を焚 き之れ を供 へ て氏神 の社 へ 松納 めを用すが営地
方 の例 なれば櫻 ヶ岡大神宮 を始 め各所 の神社 は男女老若 の参 詣 も多 きが 中に大崎人幡 は一 層盛 んに し
て白装 束 に手 鈴 の音高 く眈足参 りの勇 ましきもあ り松 の焚火 は天 を も焦 さんばか りなるが今宵 の大崎
人 幡 は定 めて賑 ふ事 なるべ し
◆資料 113
明治四十年 (1907)一 月十五日「河北新報」
●昨 日の大崎人幡
一 月 の十 四 日、松 の 内 と外 との 岐れ 日、家 毎 に納 むる松 と年樋 とは一 括 されて鎮 守 の社 に焚 る ゝので
あ る、此 の 日に臨時 祭典 を行 ふ 大崎入幡 はその昔 しよ り今 日に至 る まで、 相 も愛 らぬ人出の雑踏、社
内は朝 の 中 に祓 はれて社 司 を始め 数名 の神職 にて巌 か なる神 事 は行 われた、雪 はな し、道路 は よし、
そ よとの風 もな き午後五 時頃 よ り、境 内敷 ヶ所 に焚 き始 めた松 飾 りの火 は如法聞夜 を照破 して、悪魔
も善魔 も影 を隠 して見 る 目た ゞ明煩 々 たる別世界、束 るわ参 るわ老 い も若 きも男 も女 も、松 を抱 へ て
集 まる もの無慮何千 と云 ふ も愚 か、 中にはナ ニ とか入 幡 を握手 の場所 とさ ゝや くもあるべ く、 ガ ンガ
ンの響 は絶 間な く聞える とチ ン リ ンチ ン リ ンの音 は大 J鳥 居近 く進 み茶 るは裸参 りの三 々五 々、 多 くは
酒屋働 きの勇み肌、 と見れば コハ如何 にまた う ら若 き婦人の シャツー枚 に湯巻ホラホラ、雪 も欺 く怪
もあ らはは一向専念 のい と殊勝 さ、書尚暗 き老杉 の彼方此方 には物賣 る人 々の叫 びに紛れ て星 にさ ゝ
や くそれ もある、童の末路 に泣 くそれ もある、一領 の鏡 を持 ち茶 つ て之れを痛 し出さば如何 なるもの
が現れや うか、夜 は浮世 の雑踏 に更け行 きて、社内はます ます大規雑、此 の時、會社工場連合の提灯
行列 は火影 一国の珠敷 を作 つ て社 の前 に進み茶 る、 こは六時 を合国に鉱山監督署前 に集合 し本社 前 に
高歳 を唱へ て、停車場 よ り名掛町新俸馬町大町二丁 目を引返 し辻 よ り囲分町北一番丁同三呑丁 を練 り
廻 して今 しも此庇 に束たので ある、社前に至 るや奉納額 を神職 に渡 して一 同休憩 した、神職はこれを
内陣に納めて祈 りを捧 げ しが、 さしもに喧薫 を極めた境内 も一 時 は水 を打たる如 く森粛 とした、我れ
は鍋焼 う どんの頃れた啓 も遠 く聞ゆる人幡町へ と退却 した、後 ろを向けば焚火 の炎焔鬱たる杉 の梢 を
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
【
漏れて天に樺色の幕 を張った、町内各戸 の軒提灯 に娑婆 の間路 を照 されつ ゝ、なほ押 しか くる参詣 人
の波 を潜 ってホッ トー息吐いたのは早十一時 (み ど り)
◆資料 114
明治四十一年 (1908)一 月十四日「河北新報」(二
)
●大崎 八幡の松焚祭
今夜 は例年 の通 り大崎 人 幡神社 の松 焚祭 だが此松焚祭 と云ふのは営大崎 八幡 で ばか り執行す るので東
北地方 では多 く其 の例 を見 な い凡 ての富慣例 が 年 と共 に廃 れ行 くに も不拘 この大崎 人 幡 でや る松焚 祭
のみが反 封 に其起源の営時 よ り日に月 に盛 んになって行 く此松焚祭 は何年前 か ら行 はれてあるか其本
社 とも云ふべ き遠 田郡 田尻 町字人幡 なる郷社大崎入幡神社 では此 害慣 はな い それか ら見 る と其後 の も
ので あ らう政宗公が岩 出山に遠 田 の人 幡 か ら大崎八幡 を遷宮 したが 間 もな く仙墓 に城 を築かれてか ら
営市 に移 した岩出山邊 の神社 の何庭 に も此松焚祭 と云ふ はない此起 りは慶長十 二 年 に始 めて起 つ たの
で仙墓 に移 されてか らなのであ る此 慣 例 は慶長十 二 年 に至 つ て突然起 つ たが 問題 であるが 委 しい こと
は漠然 として取 り留 めた事 は判 つ て 居 らぬ が多分九州地方か らの習慣が何 かの場合 に紛 れ込んだのか
又 は政 宗 公が持 って束 られたのか のニ ツにほか な らぬので あ る九州地方で は一 般 に正 月 の松 を燒 くと
云ふて清浄 な ものを汚 してはな らぬ と云ふ庇 か ら起 つ た事 で朝廷 の古 い儀 式 に も見 えて居 る大崎人幡
はその神体 が宇佐入幡 の分 身故 自然 政宗公が加 へ たのであ らう九州地 方 でや る松焚祭 は歳時記 に も見
にはび
えて居 つ て書 き習慣 である朝廷 で は御神築 な どの時 に禁 中 の庭上 に燒 く等火 が あ る之 を庭燎 と云ふて
居 るが庭 燎 の起源 は芝居即 ち俳優 と其起 源 を同 してあつ て天照皇太神が天の岩戸 に隠れ させ玉へ る時
天 の細女命 が可笑 しく面 白 き手振足 踏 を して歌 ひ舞 ひて神 の御心 を和 げ築 ま しめた時 に庭 燎 を焚 いた
に起 因 して居 るそれ を神事 に用 たのが今 の松焚祭 の 時 に も行 ふ や うになつ たのであ る神築 が廃れて清
浄 なる松 を汚 ざる烏 め と云ふ庭 にばか り重 きを於 て茶 たの らしひ今宵 は定 めて賑ふ 事 であ らう (白 村 )
◆資料115
明治 四十一年 (1908) 一月十四日 「河北新報」 (五 )
●松焚祭伊達伯名代差 立
今 日大崎八幡神社松焚祭執行に付 き参拝の烏め伊達伯爵名代差立てらる ヽ
筈な り
◆資料 116
明治四十一年 (1908)一 月十六日「河北新報」(四
)
裸参 り
自分 の行 く手 に一 隊 の裸参 りが練 りて 行 くのが あ る、駆 け抜 けてそれ を見 る と、金 棒 を引 いた壮者が
二 人先頭 に併 んで行 く、後 か ら績 くのが七 人、都合 九人の 一 隊 である、手 に提 げ た提灯 の屋琥が 一 々
違 つ てる所 を見れば、何 れ近所 の信 神 同志 が 申合 はせ た一隊であ らうが、金棒 に至 つ ては蓋 し大 に菱
展 した ものだ、人敷 に於 て も又 た形 式 に於 て も、この位 に振 つ た ものはこの夜 の裸参 り中 で恐 く無か っ
たや うだ、尤 も築隊 に高燈 に鬼灯提 灯 といふや うに、九で救世軍式 な森徳座 の一 隊や、又 た座の名 と
各 自の名 とを染 め抜 い た鬼灯提灯 を差 し上 げ て、 車 に乗 った仙蔓座 の一 隊 な ど、大 々的 に礎展 した の
はあ るが、 (略 )
◆資料 117
明治四十一年 (1908)二 月十五日「河北新報」(五
あかつきまう
● 明 日の暁詣 で
)
明 日は畜正 月 の 十五 日に相営す れば市 内 にては大崎人 幡、東照宮、昆沙 門、愛宕、
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
【
そ の 他 最寄 りの 神社 又 た近 在 に て は宮 城 野八 幡、木下 白山な ど例 に依 りて 暁 ま い りの人 にて賑 ふ な る
べし
◆資料 118
明治四十二年 (1909)一 月十四日「河北新報」(五
0大 崎人幡 とどん ど 市内人幡町大崎入幡宮 にては本 日午後四時頃よ り翌十五 日に亘 りて松竹、注連
)
を焚 くが奮例 なるが昨年の如 きは松竹注連 を持ち束たれる者 のみにて賞 に三高二千餘 と算せ られ これ
に参詣者及 び見物人等 を合す る時 は無慮五万人の人出な りしと云へ ば本 日も定め し人出多かるべ く仙
蔓警察署 にては混雑 を避けん烏 め正服 及 び角袖巡査敷十名を派遣 して是が取締 をなさしむる筈 にて入
幡町入口 よ り先は乗車 を禁ず る由なれ ば参詣者 は右心得置 くべ しと云ふ因に本年度 は例年に比 して興
行物少 な く唯 だ活動痛員あるのみ なるが例の裸体参 りは定 め し見物 なるべ く仙墓座 の 山口定子 一座
五十餘名 も一座打 ち揃 ふて参詣 をなすべ しといふ
◆資料119
明治四十二年 (1909)一 月十六日「河北新報」(四
0人 幡詣 リ ー 昨夜 の松焚
)
△松 の翠緑 を負ふ て行 くの は男 で あ る、小風 呂敷、包 むに余 る年組 を下 ぐる女 は、連れ立 ちて刻足 、
道 は凍 て ヽ雪 に音 あ り、 カラ コロ と人 は流 れて指す 方 は人 幡宮 である、 宵 の七 時 の道路 は行 く人ばか
りだ、 角脇飴屋 の火 は是 よ り人 幡宮道 の標榜 らし く、十 二軒丁 の石屋 が、降積 む雪 の石燈 に燭 したの
は折柄 の思付 きで振 って居 た (略 )△ 打振 る鈴 に、薄衣 参 りの 白衣 の人が 黒 きを分 けて行 くが中に、
婦人 のそれか夜 目に も著 く打 上 りたる姿、人 目包み の深 く陰 くれ て、 何事 の祈念 を籠めての信心 で あ
ら う、群集 を避 けが ちに行 くのが あ った、 束 る ものは菊池商店 の β衣 の一 隊 であ る、先達が金 鈴 の音
に、威容 を正 して腰 に 〆紐 口には浄紙、静 々 と練 って行 く、績 い て一 国 また一 国、遠 の く鈴 に近 つ く
鈴 (略 )△ 人 時 の石段、 己に参詣 を終 つ た仙墓座 の一 連 を交 へ たる群 集 は瀧 瀬 の如 く下 る、湧 く如 く
打 ち寄せ た参詣者 は潮 の如 くに上 る、上 る もの と下 る もの と狭 き石段 は 身動 きが出来 ぬ 、積雪 は満地
を覆ふて居 る、樹梢 の 白雪 は未 だ に地 に委 せぬ、 この銀 白浩 たる中を一道 の黒 き人 の流 れが揉 みに揉
むのである、空際 に戦 うのは各 自の提灯 と提灯 だ、 百級 の石 階 は何時達す べ くも見 えなか った△ 馬場
の松焼 は壮 観 であ る、 来 る もの も来 る もの も、 一把 の松 にあ らざれば一 措 の其 で あ る、盛 んに燃 ゆる
上へ と投 げ込む、 白姻 は高 く上 って、松葉 の香が四方 へ 広が る、ヤ ッシ ョイの掛声 で逗ぶのは小 山の
如 きもので 、町内連合 の もので あ らう、それが殊 に気 勢 を挙 げた△ 拝殿 の人 時 三 十分、社縁 に並 んで
峰 くまる薄衣詣 の雪 自の人五七 人、神 官 は敬 しく御幣 を持 して祓 い清 め る、 神 酒 をい ただかせ る、 懐
中守札 を与 える、 この 同勢 の 引 き返す を待 たず、又五六 人が並 ぶ 、今年 は参詣者 は少 ない様 ぢ ゃが薄
衣詣 りは変 らぬ 百人 は超 えた との 事 で あ る△ 神社 の敷石 は、 凍 てて凸 凹の足 元頗 る危険 だ、『ア レお
駒 さん習 なんて頻 りに転 ぶ 、下 る長 い石段 は一歩 は一 歩 と危 ふ くな る、 爵時 の油 断 も出来ればだ、そ
れ阿嬌 を伴ふお人 こそ い や御心 配 で あ ら う と
◆資料120
明治四十三年 (1910)一 月十五日「河北新報」(五
●昨夜 の松燒祭
)
営市 入 幡町大崎 人 幡神社 に於 け る松燒祭 は例 年 の如 く昨夜 執行 された り今年 は凍雪
の憂 ひもな く至極平稔 なる天候 とて八 時頃 よ リポツポ ツ人出が あ り十時 頃に至 りて は木町通 り北 三 番
丁 よ り人 幡町通 りは人垣 を以 て埋 まるばか り巡査 は啓 を頃 らして左側 励 行 を叱咤す る も功 な く社頭 よ
り境 内に は種 々の興行物 の客 を吸引す るに忙 は しく雑 沓 言 はん方 な く境 内馬場 には例 の如 く盛 んに各
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
【
戸 よ り納 む る松 飾 を ドン ドン焚 き火 炎 は天 に 沖 し恰 も白書 の 如 く其壮観 は年 に一 度 の 見物 な りき斯 く
て宵 よりの人出は鶏鳴を告ぐる頃に至 りて散ずると共に今年の松焚祭は終 りを告げた り
◆ 資料 121
明治四十三年 (1910)一 月十六日「河北新報」 (三
●壮 観 なる松焚祭
)
△ 丈餘 の火柱天 に沖 し △ 人幡社 境 内は人 の波
チ リ ンチ リ ン といふ □ しい鈴 の音、歩 み を止 めて□ロヘ る と、 白襦衣 に白股引の若者が七名、軽快 な
装 で ハ イ ヨー と園を作 って、 雪崩 せ んばか りの人 の雑 岡を分 け て走 る、此の寒詣 での一 隊が通 り過 ぎ
る と往茶 はまた敷知れぬ 下駄 の音、締 りな い さん ざめ きの啓 で 充 た され る、行 く人 の松 と来 る人の肩
とが 叩 き合 って、流 石 に廣 い大通 りも人 の 畝 を作 った、 (略 )是 非 な く鳥居 の左側 に立 つ て居 る と前
の人 後 ろの人の 間 に挟 まれ歩 む とはな しに、 身 は押 されて何時の間にか石壇 の上 の 馬場 に持 つ て行か
れ た、忽 ち左 に火の柱が立 つ て何丈 といふ 上 まで高 く燃 え上 る、焔 の唸 りは凄 ま じく松 の木立 の 間に
響 く、近 よれば早や幾百 の 人 の詣 で し後 と見 えて、火柱 の音 は高 く山を成 して五六 間 の 間 に跨が って
居 る、而 も猶 ほ詣 づ る人の限 りな く左右前後 か ら門松 が投 じ込 まれる、半 ば枯 れた松竹 はパ チパ チ と
音 を立 て ゝ焔 と共 に空 に沖す る、上 った焔 は空 を妹 して、火花 は杉並木の上 に美 は し く散ず る、其壮
観 や賞 に言語 に絶す る程、百人百色 の老幼 男女 は十重 二 十重 に火 を囲続 して拝 んで居 た徐 に歩 を社前
に進 め る と、忽 ち拍子木 の音、鐘 の響 き、 三 味線 の音 な どが、 交 々耳 に波 を打 たせ る、 一 寸 二 餞見世
物 が三 つ 四つ 並 んで居 た、不具娘 の藝営、地獄極楽、鼠 の藝、それか ら女軽業であ った何 れ も大入 り
で、 看板先 には敷知 れ ぬ 人が黒 山をな して、懐勘定 を して居 る、 (略 )夜 の更 け るに従 って人 出が増
して束 る、 藝者 の一 隊が束 る、役者 の一 隊が茶 る、火 は漸 く下火 になったが、猶 ほ火 を囲 む人が減 ら
な い 、松焚 の廣場 は益 廣 く、灰 は人尺以上 も高 く積 った、社 内 に集 まる人、焚火 の傍 に立 つ 人、祭壇
に進 む人等、行 きも切 れず、斯 くして東雲 の 白む まで人幡社境 内は終夜 人の波 を打 って居 た
◆資料 122
明治四十四年 (1911)一 月十四日「河北新報」(五
0大 崎八幡 の松焚祭
)
今十 四 日は例年 の通 り人 幡町 の大崎 人 幡 の例祭 なるが恒例 の儀 式 あ りて 炎焔天
に沖 し其壮観他 に見 るを得 ざるべ し参詣者 は翌十五 日朝 に至 る も絶 えざるは例 に依 つ て例 の如 くなる
べ し其他市 内 の各醸造家 の 薄衣詣 りな どもあ るべ く今夜 の人 幡町 は非常 の雑踏 を告 ぐる事 なるべ し
◆資料 123
明治四十四年 (1911)一 月十六日「河北新報」(五
0-昨 夜 の松焚祭
△ 近年珍 らしき良夜
)
△ 押 な押 なの大群集
例年 の一 月十 四 日夜 は市 内各戸 の戸 の松飾 りを徹 して之れ を人幡 町 の 同社 へ 納 め又北 四番丁 の松尾神
社 、大 町一 丁 目頭 の櫻 ヶ岡神社、荒町昆沙 門天堂そ の他 へ も持参 して神火 に附す る慣 は しなるが別け
て も同夜 は近 年 に無 き晴夜 にて風 も無 く道 も好 く婦 人小児 も参詣 し易か りしかば市 内各方面 よ り転 ば
ぬ 要心 に靴、草履 な どを穿 ち人幡町指 して急 ぐ人引 きも切 らず午後 六時頃 よ り土橋 通 以西 は押 す な押
す なの群集 にて神殿 と坂下 なる大鳥居迄 の 間 の如 き上 る と下 る と全 く動 きのつ か ぬ 程其 間を冴 ゆる鈴
の 音勇 ま しく三人、五人、十人 と間 々女人 を交 へ し寒詣での組 々 白の鉢巻 白装東弓張堤燈 片手 に上下
す る よ り左狽1通 行励行 の警官 は世 話 のや け る こと一 通 りな らす十時頃 ともな りて雑沓 一 層甚 だ しく午
前 一 時頃迄 は只揉 み つ揉 まれつ 御坂 を上下 し居 た り御坂 の雨側 には市 内主 なる店舗 の 献燈 あ り神殿 に
出づ れ は一 般参詣者 の外 に寒詣で連 の所謂 お堂 を三返 回 りて神 酒 の馳走 あ り堂 門前 向 て右側 には女剣
舞 、怪動物、玉乗 り及 び鳴子涌谷其他洪水 山崩れの見世物等あ りて何 れ も見物 人多 く見受 け らる又南
資料集〕 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
〔
方 の廣場 には七人間四方に注連紀 を張 り神官 と警官消防夫 にて万― を警め参詣者 の持茶れ る徹松 を神
火 に附 し居 りその嵩四五間四方に二 間ほ どの高 さともな りて燃ゆる火炎に黒煙 を上げ其の煙の中に高
く寒月の皓 々 として掛れ るを見透 された り斯 くして昨 日午前 二三時頃迄人 の往復絶へ ず御坂 の下 よ り
人幡町全 部 の雨側土橋通角殊 に木町通附近の菓子屋、芋屋、蕎麦屋、お もちゃ屋等 を始め辻商人賣 ト
者、読貢等彼庭此庭 に割居 して相應 に賞入 りもあ りたるが如か りしも街路 は多数参詣者 の角 め踏み堅
め られ茨璃鏡面の如 くにな りしよ り紳士や歩行 になれぬ婦人連 を始め酔客 な どのお尻 を打 つ も多か り
しは氣の毒 に見受けられた り
◆資料 124
明治四十五年 (1912)一 月十四日「河北新報」(五
どん とさい
どん と さ い
0人 幡神社松燒祭 仙重市人幡神社 にては今十 四 日十五 日年始例祭 に兼 ぬ るに恒例 の通 り松燒祭 を行
)
ひ軍人軍属各事業国体 の参詣 あ る可 く暁か け て伊達伯爵御名代 を始め近郷近在 の参拝者頗 る多 か る可
き餘想 にて境 内は非常 の ものなる可 しと尚興業物 も敷箇所 に開場す る由なるが石工高橋嘉兵衛氏 は花
筒石 を以て二 丈余 の龍燈 と名 くる石燈 を献納 し頗 る見事 な り因 に松 〆紐 等 は毎年 の通 り無代慣燒却す
可 しといふ
◆ 資料 125
大正八年 (1919)一 月十五 日「河北新報」
◇松飾 り去る日
底氣味の好からぬまでに季節外れの温暖を呈 し居たる数日来の天候 も十三 日夕刻よりの補 々強か りし
北風に依然小寒最中らしき寒気 と愛 じ粉雪さへ降り積みて昨十四日の市内は門松の影の消え行 くと共
に例年通 りの松焚祭 日和を現 じた、早朝か ら市内の大路小路は幼兒の今 日を晴れと着飾つたチヤセゴ
の
うムぎすがた
の美麗 さに賑 はつ た、粉雪 のチ ラホラと飛び交 う間 を友染模様 を背 に垂れて背負 つ た本尊
の幼兒 より背負つ た御営人の得意相 な乳母婢女の初春 らしい顔や何時見て も品の好 い黒五 ツ紋 の産衣
◇産衣姿
に男子の誇 りを示す顔 の母御 の姿等が彼方此方 と往 き交ふた、夕方か らは例 に依 つ て此の寒天 も何 の
その と言つ たや うな
◇寒詣姿
の凛 々 しさが勇 ましい鈴 の音 と共に大崎人 幡社 を指 し繰 り込んで往 く、人 幡社境内 はこれ
も恒例 に依つ て松焚 の火煙が高 く天 を焦が し非常な雑踏を呈 した、斯 くて仙墓名物松焚祭 の一夜 も明
けて今 日十五 日は
◇暁詣 の 人影に往来は未明か らカラ コロの凍路 を踏む信女善男 の下駄 の音 に賑ふ ことで ある
◆資料 126
大正九年 (1920)一 月十四日「河北新報」
松焚祭 を最後 に 仙蔓 の松 除 き
仙菖 の松 の 内は本 日の人幡町大崎八幡社 の松 焚祭 を以て打止 め とな り門松 輪飾 りは芽 出度 く巷 の軒 々
を撤 回され る大正九年 の正 月気分 は古 式 な「銭持 ち金持 ち賓持 ち」 と巷 に良家 の子弟 にまで も許容 し
た門付 けの啓 も聞かず十四 日間の行 築 はただ一 宵大崎入幡境 内 の松焚 のほのふ と共 に空高 く遥 々 と消
い て行 く例年 の吉例酒造店各商鋪 の 店員 の 裸詣 り松 を手 に した家 々の男女 は一 年 の 願 ひ事 と無病 の祈
りを松焚 に托すべ く人 幡 町 は異常 の 賑 ひを呈 す ることであ らう殊 に今年 は桃 の花 も咲 きさうな暖か さ
だか らか とか ど宵か らは大愛 な人出で あ ら う と思 はれ る
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
【
◆資料 127
大正十二年 (1923)一 月十四日「河北新報」(二
)
焚祭 は恒例に よ り十四、五 の雨 日間執行 されるが献膳火伏祈祷 の祭
事伊達伯名代 の参進あ りと尚薄衣詣 りは東洋醸造 の百二十餘名 を筆頭 に多数 の 申 し込みあつ て異彩 を
松焚祭
市内大崎八幡神社
a松
放 つべ く町内 は各戸献燈及装飾 し煙花 を打揚 ぐる等種 々の催 しが計豊 されてゐる人幡町及人幡 自警回
では万― に備 ふべ く徹宵警戒す る由である
◆資料 128
大二十二年 (1923)一 月十五日「河北新報」(二
)
松 の別れ 今晩の大崎入幡
大正十二 年 の年頭 を壽 く日もい よい よ今 日一 日を限 りて行築 は蓋 きる人生 を幾つ かに劃 つ て一つ一つ
と世態 を度量 りして行 く松飾や注連縄 の芽出度気分 も今 日は一束に荒縄 に引括 られて社 々の松焚 の煙
と消 えて行 くこの名残 の正 月に農 る土俗 の偉説 は松焚 の火に暖を取れば本年一年 の病難か ら免れる こ
とが出束 るとや ら信疑 は兎に角本夜の松の別れは市内大崎人幡神社 を筆頭 に教築院丁のお大 日様等 の
各社 は正 月のお梯 ひに門松 を捨 ぐもの 日頃の信心 と否 とを問はず賽者踵 を踏むの4 L踏 を呈す るのが仙
蔓市 ―行事 としての偉既 で就中 この 日を以て暁詣 りと唱へ年重ねの 日と定めてい る田舎の人 々 も大分
あ るや うであるか ら本夜か ら明朝にかけての松焚 祭 は賞 に元旦三 ヶ日七草に次 ぐ然 も有終 の美 をなす
正 月 の別れである例 に依って首夜 は天の美禄の芳醇 に水 の幸 と米 の幸 とを願 ぐ各清酒醸造家杜氏 連並
に各商店員 の 肉罷美 に健康 を誇る裸形の寒詣でが寒空に振鈴 の音 も高 く白紙 を堅 く一文字 に口に咬ん
で街 々 を練 り遠 く人幡社 に詣ず るの壮観が勇 ましくも眺め られる筈で幸 に夜 は霧 た りさだめて人幡社
前百幾階 の石燈 は押昼 されるや うな混雑 を呈す ると思 はれる
● i賓 米斗129
大二十 二年 (1923)一 月十五 日 「河北新報」 (三
どん とさ
)
tヽ
名 目は歳 重 ねの暁参 りだが事賃 は新宵詣 りの松焚祭、空 は震 た り地 は堅 く凍 て付 く草履道
厳冬寒國
の大路小 路 に先ず これ程 の人出をみ る事 は まアあ るまい、 年 中 の書入 れ を只 この一 日に集 中 した
大崎 人 幡
神社 の境 内は朝来隈 な く粧 を凝 ら し百燭 の電燈 を総 門に輝 か して如法暗夜 に瞬 く常夜燈
に代へ 神殿 には百匁三百匁 の蝋燭幾百燈光明赫灼 と燦 き渡つ て神厳端然 と詣者 に備へ てゐる市内並 に
近郊近在 か ら芽出度 き正月の供 え者 を捨 いた連 中 は上 り詰 めた石蔭 の左側杉立木 の中を拓 い た一平地
に午後 六時半 を期 し姫火一仄の炎を投ずると同時 に ドン ドンと
松 飾 りを 投入 れ る見 る見 る火光 は天 を焦 して空紅 々 と夕映 の心地 す る頃か ら灯 に誘 はれた蛾 の様
にイヤ出るわ出るわ、二重廻 し長マ ン トロ出 し帽子角巻御高祖寒夜 にめげぬ老若 幾千幾万正送 りと
言 ふ奴 で 員黒 々に入幡社へ押 しかける、人幡町道筋 は爪 も立たぬ大雑踏、折柄 の
を乗せた人力車 も
成金振 り に自動車 を駆つ た放 蕩者 も梶棒で人 を掻 き分けや うとした花街 の刺朔卜
こ うなつ ては動 きが取れず「何だつ てこんな庭へ 曳込みやがるんデイ」 と清疲玉が破裂 して若 い輩か
ら張 り倒 されたや うとい う雑踏が一 人二 人、三 々伍 々勇 ましい寒詣 りの裸 が鈴 を響か して通 る午後 8
時半頃か らは益 々激 しく社前 の石段 は全 く□頭
相反錯 し て一進一退の信41H氣 を失つ て罵 り合 つ て居 るのは何時 もなが ら奇観である、かかる故 に
神殿 に喧 しく耳 を聾するばか りに鈴、鰐 口を響か して一 身一パ の万榮 を五銭十白銅 まぢ りに格安に願
ふ人 々の賽銭 は市 の道路 にスポ ンデボール を投 げた様 に前方 の人 々の頭 と頭 をバ ン ドして何鹿へ か飛
んで行 く、神様 も全 くこうなると應接 に追があるまい
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参 り
〔
千手観音
な どは全 く考 へ た ものだ と思 う、午後九時十時十 一 時 はいやが上 に も禰 まさつ て其 間に
は例 の壮観 フジビール會社大集国 の寒詣 り菊池鳳 山杜氏連の関取 土俵入然 とした骨格 の注連 に飾 つ た
裸形 の偉躯等町 々の歓美 の 中心 となつ て祭典 に一 異彩 を放 つ て居 た、績 い て市 内興行界仙墓座歌舞伎
座 の俳優 連活動痛真館 関係者 の一行が築隊 の ドンチヤ ン囃 しで賑 か に
で
後 十 二 時過 ぎはお座 敷 明 の 藝妓連 で又 艶 つ ぽ い賑 ひを見 せ て居 る、 斯 くして
囲
菱 e午
十 四 日松焚祭 は松焚 の煙 の空 に絶 えぬ 十五 日の暁かけて拍手 と鱒 口の音が 断績 して非 常 な盛況 を見せ
て居 た
◆資料 130
昭和三年 (1927)一 月十六日「河北新報」夕刊
松 焚 祭 も 寒詣 りも 今年 は至 って
(二 )
寂蓼 だ った
正 月十 四 日深更か ら十五 日の 暁 にか け て人 出 と門松 送 りに賑 はふ仙墓行事 の一 な る営市 人幡町大 崎 人
幡 の どん ど祭 も諒間 の初春 とあってす べ てが至 って淋 しく人出 も例年 の五 分 の一 に足 らなか った しめ
純 や廣□旗 な どに美 しく飾 られる人幡 町一 帯 の街路 も今年 は遠慮 して何等特別 な装飾 を施 さず興行物
の 掛小屋 か ら流れる築隊囃子 の音 も賑 やか な境 内 も今年 は猿芝居が タ ッター ツか け られた ヾけ で あっ
た 名物 の松焚 きは持 ち寄 るべ き門松年組 が な い烏 いつ ものや うな炎 々てん を こが し老杉 の梢 を照 らす
とい った4f観 はな く古 い神符やす ヽけ た達 磨 の四つ 五 つ を燃や した位 の もので あ るそれで も暁詣 での
人足 絶 えず市内各神社佛 閣 も相應 に賑 はった この行事 の 附 き物 として名物 の一 つ にかぞへ られてゐる
白衣 姿 の 寒詣 りも例年通 りの 大袈裟 な もの は見 首 らなか ったが三人 四人 一 国 の それ は可 な りあ った
十 四 日深更か ら十五 日午前 四時 ころ まで大路小路 に凍土 を踏 む甦音 をた ヽず 自動車 も頻 りに縦横 に飛
ん だ警察事故 も少 く泥酔検 束者 一 名拾得遺失 の届 出各 一作 よ りなか ったか くて どん ど祭 の一夜 はさび
し く明 け た
◆資料 131
昭和六年 (1931)一 月十四日「河北新幸
R」
ドン ト祭 の警戒
市 内電車 は運転時 間 を延 ば し バ ス も運韓 匝間延長
仙 墓警察署では十四 日夜 の ドン ト祭 は昔か らの大崎入幡社 の外 に櫻 ケ岡大 神宮、東照宮、釈迦堂 にて
も同様 執行 し荒町の見沙 門堂か らも届 出が あ るので十三 日山本署長が幹都議 の上 火 防班、交通班及び
風 紀班 を組 織 し取締 まる事 となったが、 電車 は十五 日午前 二 時 まで逼韓 し、市街 自動車含社延 ばす は
従 来北 三 呑丁新坂通 り角 まで運韓 を許可 してゐたが同匡域 を全然安全地帝 とし本年 は大 學病 院前 を西
進 して土橋通北三番丁丁字路 まで運韓す る事 とな り、 一 般 自動車 は新坂通佐久 間伯邸脇 か ら中島丁 を
経 て人 幡社 に出で婦途 は北五十人町角角 五 郎丁 を澱橋 ヘ ー 方通行す るこ とに制 限 した。
◆ 資料
132
昭和 六年 (1931)一 月十六 日 「河北新報」
織 るよ うな詣 りの人波 天 を焦がす β火炎 々 昨夜市内の松焚祭
ゆふべ は松焚祭 だ、松 の内お正月 も一夜 の名残 り。昨 日市内大崎人幡神社では社祠、神 官一 同潔齋朝
か ら神域 をβめて宵 をまった。雪空に人出の程 を氣づ かった ものの官 の頃か ら注連縄松 を措 い だ老幼
男女が凍 てついた石段 を押すな押すな と上 り始 める、七 時、人 時人の流れが い よい よ絡□ と動 く、身
動 きが出束ない、列が前へ 揺れる毎に社殿 の鈴 が神閑たる暗に行 してお燈明の大 ロー ソクが静かに揺
れ る石段上の左 の空地では一 歳 の嘉壽 を祈 り籠めた松が炎 々 と天にさかるβ火 の 中で山を築 い てい
く。境内 には見世物小屋が二つ …… ジンタな らで銅舞がヤケに肝高 いい ろんな食 もの屋が詣路 の雨側
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
【
に所 狭 く陣取 って 参 詣踊 りの お客 さん に ノ ドを涸 らす 、 踏 み な らされ た雪 は坦 々砥 をな して滑 る、 韓
ぶ 韓 ぶ 。九髯 が腰 を折 って、 大學 生 が尻 をつ く毎 にヤ ンヤ の 喝采 が大 向 ふ の 詣客 か ら爆 礎 す る。 韓 ん
だ 営 人 は縁起 韓 び だ とて 笑 ひ なが ら立上 る。
思ひ出 したや うに雪が罪 々 として降 り舞ふ、 この 中を岩久酒屋その他 の耳兒達 が裸詣 り、酒宣俸
の堤燈 も抜 け 目がない、 この 中を覺醒含所属 の連坊小路青年国、婦人野外宣偉部、市電禁酒含、
作興禁酒曾 の青年會員紹勢六十餘名が青年悪風 の基 は酒 と神前 にブ ドー
石心含、仙蔓青年禁酒會、
渡 をお神酒 に献供 し禁酒運動 を祈願 した。
神社前 か ら土橋通 りまでの人幡町道路の雨側はけふ一夜のにはか菓子屋 と化けて鳩お こし、ネジリが
飛 ぶ様 に賣 れ る。十時、十一時夜心深 くなるにつ れて往 くさ婦 るさの人の群が大□のや うに織 る□ロ
コ
□客 を呑吐 しきれない、打上げる花火は夜 を通 じて沖天 に花 を描 く暁方かけて棒 な花柳人の暁詣 りで
ドン ト祭 の幕 が閉ぢて行 った。
釈迦堂 の天神宮、
営夜 は大崎人幡の外 に市内では今年始 めて西公園の櫻 ケ岡神宮荒町の毘沙門天、
宮町東照宮、北 三番丁 の松尾神社 でも松焚祭 を碁行 それぞれ一夜詣客 に賑はった。
◆資料 133
昭和七年 (1932)一 月十四日「河北新報」(二
青葉神社 で も どん と祭
)
裸詣 りの 申込みが非常 に多 い
近方 の便宜 をはか り青葉神社 で も今年 か ら境 内にお い て仙重 名物 で あ る松焚祭 を執行す ること ゝなっ
たが、十四 日宵 か ら撤宵で古 い神札や松飾 りをお祓祝詞 を白 してβ火で燒 き上 げ る、 同時 に水 防鎮火
祭 と満洲派遣 軍 の 武逗長久祈願祭 も行 ふが 裸参 りも既 に伊澤酒造 店其他 か ら申込みあ り、花火打揚 、
奉納神柴等相 営賑 はふ べ く通町北鍛冶町其他 五 ヶ町で は大 い に意 氣込 んでゐる。
◆資料 134
昭和十三年 (1938)一 月十五日「河北新報」
月明 に映ゆ御神 火
お正 月 に名残
J階
一 入威勢 よき裸詣
仙重名物 どん と祭
しむ
懐 しいお正 月 に最後 の名残 を惜 しむ松焚祭 は全 國的 に種 々形態 の異 なった珍異風 を見せ てゐるが と り
わけ仙蔓 のお 囲 自慢 とん ど祭 のIEL観 は恒例 によって十 四 日の 宵間迫 る と ゝもに豪華 な幕 をひ らい た
い男 の 意氣 を見 て くれ とい はんばか りお稼蓼 り衆 は南京 一番槍 そ この けの大元氣 で高 々 と差 し
臣割
上 げ た弓張堤 灯 を尖兵 として沐浴齋戒 した遥 しい 身機 に 〆縄 を締 め ハ イ ヨハ イ ヨと一 列縦 隊 で 街 々
を練 り歩 き目標 は一 つ 大崎人幡 へ 績 々 と押 寄 せ る夜 が更 け るにつ れて沿道筋 となってゐる北 三 番丁、
十 二 軒丁、囲分 町、 三 日町 な どは怒 濤 の よ うな一 般参 詣人 で埋 め蓋 されて了 ふ 、夜 明けまでの人 出無
慮 四万 と註 せ られ今春 は輝 く戦捷 に湧 き上 る民衆 の感激 を乗せ て物凄 い ばか りに壮絶 な情景 を綴 って
ゆ くタクシー通路 に指定 された澱橋、瀧前丁、角五郎丁界隈は婉晩長蛇 のや うな
の
の
をつ くる有様社前 では肌 をつ んざ く酷寒 を衝 いて若 い衆がザ ンブザ ン
睡劃 動車 大群が光と 障壁
ブと勢ひよく水垢離 をとる群像 も炎 々 と夜空 を焦がす焔 の反射 を うけて何か しら神 々 しい ものを感 じ
させ る、淡 い 月明 は亭 々たる老杉の梢 を透 して美 しい、拝殿の神鈴は皇軍 の武逗長久に赤誠籠 めて打
振 る参詣者 の勢 ひで もぎ取 られんばか りの騒 ぎだ、「 まとひ」や「捻 りお こし」「名物甘酒」「戦勝飴」
等 の賣出 しも素晴 らしい景気 だ、戦捷 の春 にふ さは しく参詣す る娘 たちにもめつ きり日本髪が殖 え到
るところ明る くほ ゝ笑 ましい 日本趣味 の決水だ大戦祝賀、景気回春、
の
と
が伊達藩獨得の どん と祭 に捌 け口を見出 して火山口のや うに奔 出 し
隆凱 年万作 渦巻 く歓喜 昂奮
たので、大崎人幡以外 にも東照宮、青葉神社、松尾神社 さてはなまめか しい小田原遊廓等 々で も松焚
・
.
資洋集】 大崎八幡宮の松焚祭と裸参り
〔
祭 が そ れ ぞ れ盛 大 に と り行 はれ たの で、全 市 の 夜 空 は終夜 赤 々 と燃 え さか り静 か に暁 を迎 へ たの で あ
る
=痛 員 は 炎 々 天 を焦 す御 β火
● 資料
(上 )と 寒水 をザ ンブ とかぶ り沐浴 、裸詣 りす る兄 ィ達 (下
)=
135
昭和十四年 (1939)一 月十五 日「河北新報」
石段 も揺 ぐ人の群 徹宵β火 に祈 る 戦時色
昨夜 の松焚祭
仙蔓】興 亜新春 を多彩 に飾 るお 國 自慢松焚祭 は十四 日夜の大仙蔓 を異常 の克奮 に包 んだ、風が落ち
【
て静 かな夜空 に風 冴えるころともなれば市内大崎入幡 を始め東照宮、青葉神社、松尾榊社、亀岡八幡
などはお正月に名残 を惜 しむ無慮敷万 の老幼男女 に埋め られ門松 を焚 く炎 々 と天 を焦 す御神火 は長期
建設 の幸多 い凌足 を約束す るかの如 くまたか拝者 に銃後 尖兵 の決意を促すかに思はれた =痛 員 はβ火
を囲む人 々
(上 )裸 詣 り (中 )婉 婉参拝 の人の群 =
聖戦第三 年 目の松焚祭 だ、 時局柄 で はあるが、
長 久、戦捷 の春 の喜 び をこめて北 三 呑 丁 か ら大 崎 人 幡神社 の 門前 まで例年 の如 く屋 重 が並 び
捻 りお こ しが ブラ下が つ てゐる、 花火 も時折打 ち上 げ られ る、正 午 ころ八 幡 町小學校 の全兒童が参拝
したの を始 め書 間は門松、注連組 を燒 い て正 月 を返上 しつ ゝ武運長久 を祈 る敬虔 なる参拝者がlTHを 接
武運
してゐたが、暮 れ方 市内某店 の吾兄連が凍 てつ い た大地 を裸 で走 って くる頃になる とも う興奮 のるつ
ばだ、社 務所前 の空地で焚かれるお正 月 の名残 は空地 を取 り国 んで天 に答 ゆる幾百年 の老杉 の梢 よ り
も高 く一 晩 中
燃え
績 け てゐ る、 ところてんの様 に押 し出 されて茶 る群 集 の 間 を縫 つ て裸 の 若者達 は神社 前 で 寒
水 を浴 びて祈願す る、群 集 の 中 に交 って驚異 の 目を見張 ってゐた在仙某外 人達の 目に この 日本的風景
は何 と映 じたか九 時十時 と更 けるにつ れて参拝者 はい よい よ多 く暁 までその延人 員四、 五万 とい はれ
た、 バ ス は大 學病院以西 は終夜運韓体止 自動車 の一 方的進路 で ある北 二 番丁、北 五 十人町、 中島丁方
面 は流 行兒 ダ ッ トサ ン も加へ 「踵 を接 して」 ヘ ッ ドライ トの切 れ 目の ない光と を作 りなが ら驀進 して
ゐる、 中 に 日本髪の花柳 界 の花形がお さまって ゐるの も
例年
通 りの光景 で あ った
◆資料 136
昭和十五年 (1940)一 月十五日「河北新報」
お國 自慢 の松焚祭 裸詣 も銃後 の意氣で
仙蔓】紀元 二千六百年 の新春 を飾 るお 囲 自慢 の松焚祭 は十四 日夜か ら暁 にか けて仙重市 内各神社 一
〔
齊 に執行 した、折柄 の降雪 で員 白に清め られた参道 を参詣人 で埋め、大崎人幡神社 は無慮敷万 の人出、
天 を焦がす松飾 りをや く御神火 を国んで賑やかに “
政愛、後縫内閣"と 時局 の流れが反映 してゐる、
二千六百年 はこれで行 か うとばか り商店キネマ、個人等零下五度 の酷寒 を物 ともせ ず、水垢離 をとつ
ての裸詣 に意氣 を示せば、子供や夫の武逗長久 を祈 る婦人の裸詣 りも少 くない、なほ仙墓放送局では
水垢離 とる賞況 を録音 にをさめ、束仙 中の小説家平 山置江氏 は十年末構想 を練 ってゐた二千六百年 を
記念すべ き現代 日本小説の完成 を祈願すべ く五 十九歳長崎生れの雪知 らず の老躯で裸詣 りをするなど
燃 え上 る浄火 と共に参詣者 も後か ら後か らと今朝 までつ ゞいた、 この 日仙蔓市電、バ ス等 は逗韓時間
を延長 して参詣人の便 を固 り、仙墓署、北三、人幡町青年国、戸主含、警防園員が出動交通整理に奔
走沿道 の各商店 は営業時間を延長 して名物 “
お こ し"販 貢戦 を演 じた (痛 員 は裸詣)
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参 り
【
◆資料 137
昭和十六年 (1941)平 山直江「天賞裸参り絵巻」
昭和十 五 年 一 月十 四 日
奇縁 あ りてわか天江 富弥氏 にさそ はれ仙 台 に松焚祭 を見 る
天江家 の実家丸屋勘兵衛 ハ 青葉城下 に名高 き旧家 の酒造家 な り
嘉例 として この夜大崎 八幡 へ 裸参 りす る行事 あ り
有縁 の衆 として且 ある心願 の仔細 あ り
おのれ もまた裸参 りの一行 に加 はる
夜 八 時お蔵 の前 に勢揃 ひを して
一 行 三 十余人高提灯 を先登 に
お蔵の まは りを三 度 まは りて
の っ しのっ しと大 また に力 あ しをふ み しめ つつ
約 三四丁 はなれ し大崎人幡 へ まゐ り
御社殿 の雪 をふみ つつ ここ も亦
三 度 まは りてお神酒 を頂 き
社殿 の どん どの火焔 中 に
ごぼ う じめ を投 げ て
お まゐ りは終 る也
その 日を思 い 出 を偲 びつつ
辛 巳画
平 山芦江
か しわ手三度打 ちて水 を三杯 あび る
白木綿 の行衣 に大 きな牛芽 じめ を腰 に まき
向鉢 まきをしめ口に力紙 を くはへ る
片手 に振 鈴
片手 に提灯
辛 巳正月再 び大崎八幡 に賽す
この とし丸屋 は新築 な りて裸参 りの行事亦賑 やか也
辰 どしは寒 さ殊 の外 強 く根雪悉 く凍 りて
肌 をつ ん ざ く寒風烈 しか りしが
巳 どしは我が故郷長崎 の冬 とお な じほ どの温 か さな り
夜 九時頃お まゐ り終 りて夜 あか しの 酒宴 あ り
か くし藝 い ろい ろ
語 々たる和氣の中に行事 を終 わ る
昭和辛 巳
早春
資料集】 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
〔
平 山芦江
先登 は高 は り提灯
ご主人名 代文弥君
杜氏 の親方
十九歳 の青年
この 人威勢 甚 だ よ く道 々闊歩 せ り
御神酒
お さかな
おそなえ
武逼長久
◆資料138
昭和十九年 (1944)一 月十五日「河北新報」(三
)
決勝祈 る裸詣 り 仙墓 の松焚祭 の賑 ひ
仙重恒例 の行事松焚祭 は今年 も十 四 日夜大 崎八 幡 に相 も愛 らぬ賑ゃか さで くりひろ げ られた
新春 の 夕空 は くつ き りと晴 れ渡 り北斗 の光と も決勝 を約束 された新 しい年 を祝福 す るや うにまた ゝ
い てゐる
市電 は七蔓 を増稜 、終電 を一 時 間延長 して十 二 時 まで運 韓、次 々 と吐 き出 され るごった返 しの人 。人
人 の群 も恒例 の郷土藝術 の なつ か しさをた ゞよはせ てゐる、拝殿 の大鈴、
小鈴 は戦捷 の春 の喜 びを謳 っ
てひっ き りな しに鳴 り通 してゐ る
鈴 の音、拍手、拝殿 の前 に 目白押 しの群 れの面 をなで ゝ賽銭 が流星 の様 に飛 んで快 よい ひ ゞきを投 げ
る、やがて裸詣 りの屈 強 の若者達が善男善女 の群 をか きわけなが ら参 道 を進 んで茶 る揃 ひの さ らしの
肌着 一枚夜 目に も白 く清浄 に進 む中には上 半身素裸 の青年 の姿 も多 い
「 こん な元気の よい裸詣 りって今年 あ始 めてだ」
素裸 の退 しい背 を見送 って、 そ ち こ ちに驚 きの さ ゝや きが もれ る、境 内 に積 まれた正月飾 りは、 今年
は防空上か ら松焚 は 中止、例 年 な ら神域 の夜 空 を こが した大松焚祭 は この宵 はみ られず夜 の 明けはな
れ るのを待 って行 はれた 【
痛 員】松焚祭
◆資料139
昭和二十二年 (1948)一 月十五日「河北新報」(二
)
どん と祭 ・雨でお流れ
仙台名物大崎八幡宮 どん と祭 (松 焚祭 )は 折か らの寒 の雨でお流 れ となった 、 この 日市電では増発逼
転 を行 つ たがかん じんの参詣 人 はち ら りほ ら り “
□ ま らぬ お祭 りに火 はつ け られ ませ ん"と 神主 さん
はどてら姿 で語 つ た、十五 日夜 は□□□で もやるそ うだが折か ら仙墓一帝 は停電、時折参詣人の振 る
鈴 の□がさび しくひびいて裸詣 りも荒町か ら来た とい う婦人がただ一 人、天 をこがすばか りの火にい
ろどられた例年 と打つ て変 つ た黒一色の どん と祭 だつ た
◆ 資料 140
昭和二十四年 (1949)一 月十五 日「河北新報」 (二 )
浄火に集う敷万 どんと祭裸詣 り返咲 く
十四日夜は仙台名物のどんと祭 大崎八幡神社の神主さんが こんな暖かい どんと祭 は二十五年ぶ りで
す というように寒中とは思われない暖かさに午後六時過 ぎころから子供づれの人出が目立つて多 く最
資料集】 大崎八幡宮の松焚祭と裸参り
【
盛 の九 時 ころは実 に数万 に達 し臨時増発 の市電、市 バ ス はいずれ も鈴 な りの満員、参道 には昔 なつ か
しい一 本百 円 のね じりこ しや き リアメ も復活す る し繊維事情の きゆ う くつ さか ら途絶 えて い た とい う
名 物裸参 りも市内酒造店 一 国体 の若 い衆達がそ ろ いの 員新 しい 白パ ンツで元気 よ く参加 あかあか と燃
え る浄火 に一段 と景気 を添 えたが人 こみ をね らつ た教組 の正 月選挙舌戦 は境 内 ご法 度 とあつ て`鳥 居 の
外 に しめ出 され電車道路 に トラツクを並 べ て道 行 く人 に声 をか らして呼 びか け て い た
写真】にぎわう「どんと祭」
【
◆資料 141
昭和二十七年一月十五日「河北新報」夕刊
(二 )
`
餅花街 に香 る、松飾 りさよ うな ら
「 もち花」正月の飾物、みず木の枝 にもちの小玉 をさまざまの色につ けて神前 に供 え五穀豊穣 を祈 る (歳
時記 )
きょう十四 日はもち花が松飾 りにかわって家 ごとに飾 られ られる、農家では大古 よ りの行事その ま ゝ
天丼 をお ゝうほど大 きい もち花 の下で一 そろつ て新 しい年 の農作 を祈 る、仙台市内 の各商店 で もこの
日門松 を大崎人幡神社 に納め、 もち花 を飾 つ て一家安泰、商売繁盛 を祈願す るのだ
(写 真 )も ち花売 り、
◆資料 142
昭和三十年一月十二日「河北新報」夕刊
ほ んの り春 の気配
街 を流 す モ チ花売 り
正 月 の十四 日"戸 ごとに松飾 をお ろ し、 ほこ り
○ …仙台市 内にモ チ花売 の姿が み られ る、 あす は “
を は らってモ チ花 を飾 る 日である。
○…紅白のモチをち りばめた枝の束をかかえて街を流す彼女たちの背 に、冬の日射 しがやわらか く
ほおえみかけ、何 とな く春の訪れを告げているようなのどかな風情 かって、かの西鶴が「天丼にさ
したるモチ花 に春の心 して……」
と草 したのも、なにかしらうなずける感 じだ
○…徳川時代のむかし養蚕の成功を祈 ってマユ ダマ を飾ったのがいつ しか こうい うならわしに変っ
たのだそ うだが、仙台ではこの日松飾をた く大崎入幡の名物 どんと祭のにぎわいにおされて、かれん
なモチ花を愛する人々が年 々減っている。
I写 真】街を流すモチ花売 り (仙 台市長町で)
◆資料 143
昭和三十年一月十五日「河北新報」(七
燃 えるお正月
)
仙台名物大崎八幡 どん と祭
○ … お正 月 の神様が炎 にの って天 に帰 る とい う仙 台名物大崎 入 幡神社 の どん と祭 が十 四 日夜行 われ
た、 門松廃止 ?の 年 とい うの に どこか ら集 まるのか 戦後量大 の 十五 万 の人 出 を記録 したのは皮 肉、午
後 六 時古式 さなが ら火打石 で火 を ともして 浄火が エ ンエ ンと境 内 の天 を こがせ ば絶 える こ とな い人 の
列 もまたエ ンエ ン
○ …名物裸 まい りもこの 日二 ・ 六度 (午 後 八 時 )と い う どん と祭 にはめず らしい 暖か さにす こぶ る
威 勢 よ く、 白装束 に鈴 の音 もリ ン リ ン と酒造 店 は じめ 二 十組以上が参加、参詣人 の 目をみ は らせ た。
○ …車庫 を空 に して動員 した市電、市 バ スは先後七 時過 ぎころか らす べ て超満 員、 ヘ ッ ドライ トの
流 れが さな ら東京 の 目抜通 りを しの ぐばか りで 名物 ね じりあめ な ど軒 をつ らね る露 店、売店、 この あ
資料集〕 大崎人幡宮の松焚祭と裸参り
〔
た りにかき入れのどんと祭景気をみせた
写真】天 をこがす どんと祭
【
瑠一
一
大崎八幡宮 の松焚祭 (ど んと祭)図 ・ 写真
1霧
4典T筆寵劇媚
義 ど 一 ‘甚 r r i ■ E
図1「仙台年中行事絵き」
)部 分
(常 盤雄五郎編
“どんと器 "綿 まnり 装薫
1 さらしの書き方
恒例の大崎八幡富 “どんと祭"が
近づいてまい りました。
当店では、新年の無病息災・家内安全・
商売繁騒などを願って参拝される方め
ために、「裸 まい り用晶一式」を取 り
揃えてお ります。
どうぞお早 目にご注文下さいますよう
お願い申し上げます。
朗
(ど ん と葉 の由来〉
3
4
わらしのはき方
面で もう一虜
→
□ 翠
書み紙の折 り方
は音、適4氏 がけ巌翫憲つため神語に来
6.al神 前へのあ供え駒
∞ 社 の参毎方法〉
御神前への お供え物 (蹴 備品)は
こ方におのせ してお供え下さtヽ 。
裸 まい り用品一 式
京ズミ
仙台 市 脅 葉 区 八 幡 4-3-5
,233-4 01l FAX 233… 1321
図2
衣 料 品店 ホ ズ ミ (有 )で 配布 しているパ ンフ レ ッ ト
物
時
教浄寺探参,(お あみださん 岩手 盛 岡 市 北 山 教
桜山神社年越祭・裸参り 岩手 盛 岡 市 内 丸 践
9
新暦 1月 2日
8
呑 香 稲 荷 神 社
んじゃ
(と んこういなりじ
装
△
○
○
○
○
○
○
○
◎
神
社 新暦 1月 16日
○
○
◎
○
△
○
装束 持物の記号一覧】 00◎ □△装東持物として用いる
【
[ハ サミ
]0オ ハンナイリ
一用いない
…不明
○
○
□
△
○
○
△
○
[鉢 巻]O白 鉢巻 0色 鉢巻
○
1日
七 日 堂 裸 参 り 嘱島 河 沼郡柳 津 町 福満虚空蔵尊円蔵 新 暦 1月 7日
社
○
神
暦 1月 8日
江
社 新暦1月 15日
○
神
神
社 新 暦 1月 15日
浪 江 水 か け 祭 り 福 島 双葉郡浪江町権現堂 浪
尾花 沢市廷 沢 愛 宕
幡
山形
人 幡神社 やや祭 り 山形 束日川郡余目町千打原人
愛宕 神 社 裸 参 拝
,ど
○
○
和
○
幡
社 新暦1月 14日
沢 焼 け 人 幡 宮 城 加美郡加美町柳沢 人
人幡眺参り,な 焚祭,ど んと無宮 城 仙台市青菜区八幡町 大 崎 人 幡 宮 新暦1月 14日
‖日積神社暁参り んと 宮 城 刈田郡蔵王町宮 (1田 嶺 神 社 新暦 1月 14日
(崎
lJ「
日暦 1月 14日
仰崎神社暁参り'一 点参り宮 城 気仙沼市唐桑町 日 高 見 神 社 十
k神 社(八 幡神社境内) 旧暦11月 初との日 ○
□
山
○
水 神 社 初 丑 祭 り秋 田 湯 沢 市 岩 崎
本庄市石脇 新
○
□
○
Э匡
○
○
□
田
H日
○
○
○
△
△
○
三井山裸参り'夏 参り 秋 田 平鹿郡離物川町二丼 湯 殿 山 神 社 新 暦 1月 7日
新 山神 社 裸 参 り秋
大 原 水 か け 祭 り 岩 手 東磐井郡大東町大原 大 原 商 店 街 新 暦 2月
黒 石 寺 蘇 民 祭 岩手 水 沢 市 黒 石 黒
寺 十
日暦 1月 78日
●
石
○
毛 越 寺 二 十 夜 祭 岩手 西磐井郡平泉町 毛 越 寺 常 行 堂 新暦 1月 20日
神
社 旧暦 1月 28日
龍
○
胡四工神社蘇民祭 岩手 花 巻 市 矢 沢 胡 四 王 神 社 新暦 1月 2日
り 岩手 遠 野 市 小 友 巖
○
小 友 裸 参
○
光勝寺五大尊蘇民禁 岩手 紫波郡石鳥谷町 五 大 堂・光 勝 寺 旧 暦 1月 6日
お第
年月
志和 八幡宮裸 参 り 岩手 紫波郡紫波町志和 志 和 人 幡 宮 新 暦 1月 5日
僣日
新曜
の日
○
○
○
◎
○
③C
○
◎
◎
○
◎
○
○
○
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○
○
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○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
軍戦
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
口紙
○
御幣
○
○
職
○
◎
○
松明
採
り
○
●
○
○
○
○
○
O
○
○
○
○
物
鉦
○
○
ハサミ鈴
○
提灯
○
○
○
角灯
考
e
14日
に実施。
│こ
実施 。半股 ,Iを 履 く
素足 。
男女 とも晒半纏 を着 る。
0
かつて女性は白い単女の長着を着た0現 在女性は白い四半纏を着るc草 地にかわって草履を履(を もある
一点参 りと呼んだ
かつて浴衣一枚で参詣する者があ り、
素足。女性の裸参 りは夏参 りと呼ばれ、白い単衣 を着 る。
白鉢巻に蝋燭 を差 し、白いネルを腹に巻 く。
もとは 1日 暦 1月 18日
いう
の原形とも
思われるオハン
ナイリを
装束Oハ サミ
持つ
蘇民祭での新願祭(ll参 り,夏 参,と も
)で の
お上り行列での厄男の装束O足 袋は地下足袋を履く。
松明は大松明を腰で支える。
日紙は光勝寺境内一の鳥居をくぐるまでは含まない。
前夜祭の探参り析願祭での装束。
晒半纏は昭和前期 に着 られた。
19日
に実施。
注連縄を肩に斜めに背負い、
太い注連縄を腰に巻く
もとは 1年 おきの旧暦2月
もとは12月
注連縄を肩に斜めに背負う。
古くは女性の裸参りは白い単衣姿だという
注連縄 を肩に斜めに背負 う。
もとは旧暦 12月 14日 に実施。注連縄 を肩に斜めに背負 う
上半身に白いll着 ケンダイは長くもとはマダの木の皮を使用 日紙は独杵な折紙にする
備
[下 帯類]◎ 相撲まわし □揮 △半股引 短パン [注 連縄]○ 細い注連縄 ◎太い注連縄 [足 袋]○ 自足袋 0地 下足袋 [松 明]◎ 大松明
○
○
○
土 深 井 裸 参 り 秋 田 鹿 角市土 深井
○
○
雫 石 の 裸 参 り 岩手 岩手郡雫 石 町 三社座神社・永昌寺 新暦1月 第3日 曜日 ○
○
○
◎
○
O
○
○
社 新 暦 1月 26日
○
○
○
神
基岡八幡宮年越祭・探参り岩手 盛 岡市人 幡 町 盛 岡 人 幡 宮 新暦 1月 15日
山
寺 新 暦 1月 14日
○
浄
○
○
○
○
○
□
◎
○
○
)
束
晒半機 腹巻き 下帝類 ケンダイ 注連縄 足 袋
○
鉢巻
○
人坂神社 旧暦 1月 8日
り 岩手 岩手郡西根町平笠 言田神社。
市
新暦12月 30日
平 笠 裸 参
戸
一
戸
り 岩手
)
7
参
市
裸
ギ 岩手
6
ト
5
イ
似 鳥 八 幡 宮 旧 暦 1月 6日
4
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)
宮 新暦12月 31日
日
岩 崎 の 裸 参 り 青森 西津軽郡岩崎村
幡
所
武甍盤神社(た けみかづちじんじゃ
弁天官(宗 僚榊社
八
場
常 盤 の 裸 参 り 青 森 南津軽郡常盤村 常 盤 八 幡 宮 新暦 1月 1日
所
鬼 沢 の 裸 参 り 青 森 弘 前 市 鬼 沢 鬼神社(き じんじゃ 旧暦 1月 1日
市丁田了小寸
3
県
2
称
舞戸正人幡宮裸参 り 青 森 西津軽郡鯵ケ沢町舞戸正
名
1
No
表 1 東北 の裸参 り装東採 り物 一覧
汁昴>昂叫③募沸鴻 ︵蛎ざ暗渫︶図 ・ 川
大崎人幡宮の松焚祭 (ど んと祭)図 ・写真
・装束彩り物分
図3東 北地方の裸参り
口紙使用
ゞ ) ケ ンダイ着用
=三 ) 横 綱使 用
く
こ三二
∞
練 り歩 き
地図上の No.は 東北地方 の裸参 り
装東持物 一覧 の No.に 対応 する
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大崎入幡宮 の松焚祭 (ど んと祭)図 ・写真
参考写真】
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I.大 崎八幡宮のどんと祭の現在
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■写真 I-1 国宝大崎 八幡宮
―平成 17年 撮影 ―
■写真
I-2
松 焚祭 ・ 拝 殿 前 の賑 わい と神 前 にてお祓 い を受 ける裸 参 りの一行
―平 成 17年 1月 14日 撮影 ―
大崎人幡宮の松焚祭
(ど
んと祭)図 ・写真
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■写真 I-4点 火式 。忌火 を松明に移 す
一平成 18年 1月 14日 撮影 ―
■写真
I-3松 飾 りが持 ち寄 られ る松 焼 き場
―平 成 19年 1月 8日 撮影 ―
■写 真
I-5点 火 式 ・ 勢 い よ く燃 え上 が る炎
一平成 18年 1月 14日 撮影 ―
■写真 I-6松 焚祭・正月を送るどんとの火
―平成18年 1月 14日 撮影 ―
■写真 I-7人 混 みの 中の御神火
―昭和中頃 :畠 山進 一氏所蔵 ―
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■写 真 I-8露 店 の建 ち並 ぶ 参道
―平成 17年 1月 14日 撮 影 ―
■写 真 I-9深 夜 の松 焼 き場
―平成 18年 1月 14日 撮 影 ―
大崎人幡宮の松焚祭 (ど ん と祭)図 ・写真
Ⅱ.大 崎八幡宮 への裸参 り
■写真 Ⅱ-1(2)天 賞酒 造 の裸 参 り
鳥 居 を くぐり大 崎 八 幡 宮 に さ しかかる一 行
―平 成 16年 1月 14日 撮影 ―
■写 真 Ⅱ-1(1)天 賞酒 造 の裸 参 り
八 幡町 の街路 の 中央 を歩 み 参詣 に 向 か う一行
―平成 16年 1月 14日 撮 影 ―
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■写真 Ⅱ-1(3)天 賞酒造 の裸参 り
人 々 に見 まもられ参道 を歩 む
―昭和中頃 :畠 山進 ―氏所蔵 ―
■写真 Ⅱ-1(4)天 賞酒 造 の裸 参 り
拝 殿 に て神職 の 祓 い を受 ける
一昭和 中頃 :畠 山進 ― 氏所蔵 ―
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■写 真 Ⅱ-1(5)天 賞酒造 の裸 参 り
昭和 15年 頃 の 参詣 の様子
―「天賞裸参り絵巻」平山直江筆 :天 江文夫氏蔵―
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大崎人幡宮の松焚祭 (ど ん と祭)図 ・写真
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■写真 Ⅱ-2企 業団体 の裸参 り 。」R東 日本仙台支社
―平成 19年 1月 14日 撮影 :JR東 日本仙台支社提供 ―
■写真 Ⅱ-3企 業団体 の裸参 り・ 仙台市立病 院
―平成 19年 1月 14日 撮影 :仙 台市立病院提供 ―
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■写真 Ⅱ-4個 人家族の裸参 り
―昭和52年 頃撮影 :岩 松卓也氏提供 ―
■写 真 Ⅱ-5人 波 を分 けて拝殿 へ 向 か う
裸 参 リー行
― 昭和 中頃 :畠 山進 ― 氏所蔵 ―
■写真 Ⅱ-6御 神火の同 りを三度巡 る
一平成 17年 1月 14日 撮影 ―
大崎人幡宮の松焚祭 (ど んと祭)図 ・写真
Ⅲ.大 崎八幡宮 の歴史
■写真 Ⅲ-1 大崎八幡神社 。大崎市田尻
―平成 17年 7月 撮影 ―
■写真 Ⅲ-2 大崎八 幡神社 ・ 大崎市岩 出山
一平成 17年 7月 撮影 ―
■写真 Ⅲ -3 成 島 八 幡神社 ・ 山形 県米沢 市
―平成 18年 5月 撮影 ―
Ⅳ.仙 台地方 の正 月送 り行事
■写 真 Ⅳ -1
青葉 区 八 幡 町 。大 崎 八 幡 宮 の どん と祭
― 昭和 中頃 :畠 山進 ―氏所蔵 ―
■写真 Ⅳ -3 若林 区荒 浜
屋敷神近 くの樹木に納め られた正月飾 り
―平成 19年 1月 撮影 ―
■写 真 Ⅳ -2 青 葉 区大倉・小 倉神社 の オサ イ ト
ー平成 刊8年 1月 15日 撮 影 ―
■写真 Ⅳ -4 青 葉 区大倉
オサイ トを焼 く早坂家裏山のウチガミ様
―平成 18年 1月 15日 撮 影 ―
■写 真 Ⅳ -5 青 葉 区大倉
石 田家 の ワラ火
―平成 18年 1月 15日 撮 影 ―
大崎人幡官の松焚祭 (ど んと祭)図 ・写真
V.ど ん と祭 のひろが りと変容
■写真 V-1(1)青 葉区宮町・ 東照宮 の どん と祭
燃 えさかる御ネ
申火
―平成刊8年 1月 14日 撮影 一
■写真 V-1(2)青 葉区宮町 。東照宮 の どん と祭
どん と祭期間における東照宮の賑 わい
一平成 18年 1月 14日 撮影 ―
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■写真 V-2(1)青 葉区 。大日堂 (柳 町)の どんと祭
正 月飾 りを持 ち寄 る人 々
―平成 18年 1月 14日 撮影 ―
■写真 V-2(2)青 葉区 。大 日堂 (田 町)の どん と祭
堂 内 で行 われ る祈 祷 の様 子
―平 成 18年 1月 14日 撮影 ―
■写真V-3(1)若 林区木 ノ下・陸奥国分寺 のどんと祭
正 月飾 りに護摩 の火 が移 され る
■写真V-3(2)若 林区木 ノ下・陸奥国分寺のどんと昇
松焚 きの火 を回る裸参 切の一行
大崎人幡宮 の松焚祭 (ど んと祭)図 ・写真
■写真V-4 若林区南鍛治町 。三宝荒神社のどんと祭
―平 成 18年 1月 14日 撮影 ―
■写真V-5 若林区五十人町 。伊達八幡社のどんと祭
―平成 18年 1月 14日 撮影 ―
■写真 V-6
青葉 区 ・ 大 日堂 (田 町 )の どん と祭
一平 成 18年 1月 14日 撮 影 ―
■写 真 V-7
太 白区 向 山・ 大満寺 の どん と祭
―平成 18年 1月 14日 撮影 ―
■写真 V-8
泉 区古 内・ 賀茂神社 の どん と祭
―平成 18年 1月 14日 撮 影 ―
■写真V-9 泉区高森・泉パークタウンのどんと祭
―平成 18年 1月 14日 撮影 ―
大崎入幡宮の松焚祭 (ど んと祭)図 ・写真
Ⅵ.岩 手県南部地方 の裸参 り
■写真Ⅵ -1(1)二 戸市 ・ 似 鳥 八 幡宮 の裸 参 り
社殿 に参詣 す る裸 参 りの祈願 者
―平 成 18年 2月 3日 撮 影 ―
■写真Ⅵ ―刊 (2)二 戸市 ・ 似 鳥 八 幡 宮 の裸 参 り
祈願 者 の 舞 い上 げた火 の粉 を見 て その年 を占 う
一平成 18年 2月 3日 撮影 ―
■写真 Ⅵ -2(1)紫 波町 ・ 志 和 八 幡 宮 の裸 参
ジグザ グに歩 く裸 参 りの行列
―平成 18年 1月 5日 撮影 ―
■写 真Ⅵ -2(2)紫 波町 ・ 志和 八 幡宮 の裸 参 り
祈願 者 の古 い集 合 写真
― 昭和 10年 代以 前 :門 前 克子 氏所 蔵 ―
■写真Ⅵ -3(1)雫 石 町 ・ 三 社 座神社 の裸 参
ハ サ ミを持 つ祈願 者
―平 成 16年 1月 18日 撮 影 ―
■写真Ⅵ -3(2)雫 石町・三社座神社 の裸参 り
町中 を歩 き永昌寺 に向 か う祈願者 の列
―平成 16年 1月 18日 撮影 ―
■写真Ⅵ -4 盛 岡市 ・ 盛 岡 八 幡 宮 の裸 参 り
―平 成 16年 1月 15日 撮 影 一
■写 真Ⅵ -5 違 野市小 友 。巌龍 神社 の裸 参 り
―平成 16年 2月 28日 撮 影 ―
大崎人幡宮の松焚祭 (ど んと祭)図 ・写真
Ⅶ.裸 参 りの拡 散
■写真Ⅶ -1 青 葉 区 八 幡 町 ・ ホズ ミ
シ ョー ウ ィ ン ドウの裸 参 り衣 装
一平成 16年 1月 14日 撮影 ―
■写 真Ⅶ -3 泉 区古 内・ 賀 茂神社
栗 駒 建業 の裸 参 り
―平 成 18年 1月 14日 撮 影
■写 真Ⅶ -4(1)大 和 町吉 岡 ・ 吉 岡 八 幡神社
早 坂 酒造店 の裸 参 り
―昭和 40年 代 中頃 :早 坂 秀子 氏 本 田完治 氏所蔵 ―
■写真Ⅶ -2(1)青 葉 区上杉 ・ 勝 山酒 造
青 葉神社 へ の裸 参 り
―平成 16年 1周 14日 撮影 ―
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ゴ 覧
■写 真Ⅶ -2(2)青 葉 区上杉 ・ 勝 山酒造
―裸 参 りの衣 装
―平 成 16年 1月 14日 撮 影 ―
■写真Ⅷ -4(2)大 和 町吉 岡・ 吉 岡 八 幡神社
陸上 自衛 隊大和 駐屯地 隊 員 に よ る裸 参 り
一平 成 19年 1月 14日 撮影 ―
大崎人幡宮の松焚祭 (ど んと祭)図 ・写真
Ⅷ .時 代 にみるどん と祭 と人 々
阿
■写真Ⅷ -1 青葉区 。一番町四丁 目商店街振興組合
正月を彩 った赤鳥居 を大崎八幡宮のどんと禁に奉納する
一昭和32年 頃撮影 :一 番町四丁 目商店振興組合提供 ―
■写 真 -2 青葉 区 八 幡 町 。大 崎 八 幡 宮
参道で駄菓子を売る露店に飾 られた鳩パンと干支の犬パン
ー平 成 18年 1月 14日 撮影 ―
Ⅸ.ど ん と祭 の現在 か ら見 える もの
■写真 Ⅸ -3 増加 す る女性 の裸 参 り
―平成 18年 1月 14日 撮影 一
■写 真 DC-1 泉 区高森 。泉 パ ー クタ ウ ン
地域 の コ ミュ ニ テ ィーに よる どん と祭
―平成 18年 1月 14日 撮影 ―
■写真 Ⅸ -4 伝 統裸 参 り
―平成 16年 1月 ¬4日 撮影 ―
■写 真 Ⅸ -2 青 葉 区宮町 。東 照 宮
環境 に配慮 し徹 底 され る正 月飾 りの素材 の 分別
―平 成 18年 1月 14日 撮 影 一
■写 真 Ⅸ -5企 業 や団体 の裸 参 り
―平成 18年 1月 14日 撮 影 ―
大崎八 幡宮 の松焚祭 (ど ん と祭 )参 考文献
大崎 八幡宮関係参考文献
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(「
(田 尻町史史料編 1983)
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「諸寺家年始進物 日記」表紙「慶長五年正月四 日諸寺家中」慶長 5年 (1600)正 月
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小西利兵衛 『仙蔓昔話電狸翁夜話』 1925
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大崎人幡宮 『参拝 の しお り』2005
佐 々久「神社概説」『宮城縣史 12(学 問宗教 )』 1961
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小野寺正人「大崎八幡宮の「 どんと祭」 はなぜ始 まったのか」『宮城県 の不思議事典』新人物往来社 2004
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153
大崎八幡宮の松焚祭
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若 月紫 蘭
朝倉 治彦校注 『東京年 中行事
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三 原良吉 「仙墓民俗誌」『仙墓市 史 6別 編 4』 仙墓市役所 1952
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[福 島県伊 連郡 ]
各論編「民俗 。旧町村 沿革」
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桑折 町史編纂委員会編 『桑折 町史
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梁 川町史編纂委員会編 『梁 川 町史
第 11巻
[刈
民俗編
I』
1993
田郡 ](以 下 宮城 県 )
蔵王町史編纂委員会編 『蔵王 町 史
民俗 生活 編』 1993
七 ヶ宿 町史編 纂委員会編 『七 ヶ宿 町史
生活 編』 1982
横 川 二 百年祭実行 委員会編 『木地 の里 横 川』 1986
宮城県教 育委員会編 属
宮城県 文化 財 調査 報告書 第 二十 四集
山中七 ヶ宿 の民俗』 1974
[伊 具郡 ]
丸森 町史編纂 委員 会編 F丸 森 町史』 1984
丸森 町教育委 員会編 『丸森 町民俗 分布 図
きえゆ くい ろ りの火 』 1986
角 田町郷土誌編纂委員会編 『角 ■町郷土誌習 1956
村 の十 二 ケ月J1980 法文堂
佐藤清晴著 『ふ る さとの四季 と年 中行事
[亘 理郡 ]
山元町誌編纂 委員 会編 『山元 町誌』 1971
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諸 史編 J1984
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仙台市 史編纂委員会編 『仙 台市 史
仙台市 史編纂委員会編 『仙 台市 史
[仙 台市太 白区]
154
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特別編
6
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富谷町誌編 さん委員会編 『新訂富谷町誌』 1993
大衡村誌編纂委員会編 『大衡村誌』 1983
東北歴史資料館編 『東北歴史資料館資料集第 4集
[石 巻市]
石巻市史編 さん委員会編 『石巻市 史
第 5巻 』 1963
[牡 鹿郡]
牡鹿町誌編 さん委員会 『牡鹿町誌
下巻』2002
女川町史編纂委員会編 『女川町誌』 1960
[違 田郡]
田尻町史編纂委員会編 『田尻町史J1960
[桃 生郡]
立花改進著 『わがふ るさとの町飯野川』 1965
桃生町史編纂委員会編 『桃生町史
第三巻』 1990
桃生村誌編纂委員会編 『桃生村誌J1961
南川の民俗宮城県大和 町南川 ダム予定地域調査報告書習 1981
大崎八幡宮の松焚祭
(ど んと祭)参 考文献
河南 町誌編纂委員会編 『河南 町誌』 1967
雄勝町史編纂委員会編 『雄勝町史』 1967
[カ
ロ
う
こ君[]
村 山貞之助編 『中新 田町史』 1964
中新 田町史編 さん委員会編 『新訂中新 田町史J1997
宮崎町史編纂委員会編 『宮崎町史』 1973
[志
田郡]
三本木町誌編纂委員会編 『三本木町誌
下』 1966
志 田村誌編纂委員会編 『志 田村誌』 1950
[古 川市]
古川市史編纂委員会 『古川市史 下巻』 1972
古川市史編纂委員会 『古川市史 別巻
平成風土記』2001
[玉 造郡]
岩出山町史編纂委員会 『岩出山町史
民俗生活編』2000
鳴子町史編纂委員会編 『鳴子町史 下巻』 1978
[登 米郡]
中田町史編纂委員会編 『中田町史』 1977
東和町史編纂委員会編 『東和 町史』 1987
[本 吉郡]
志津川町誌編 さん室編 『生活 の歓
志津川町誌 Ⅱ』 1989
本吉町誌編纂委員会編 『本吉町誌 Ⅱ』 1982
津 山町史編纂委員会編 『津 山町史 後編』 1989
唐桑町史編纂委員会編 『唐桑町史』 1968
宮城県本吉農業改良普及所 『語 り継 ぎたい津 山の くらし』 1984
津 山町教育委員会編 『郷土誌資料 (第 四集)横 山村誌資料』 1983
柳津町教育委員会編 『郷土誌資料 (第 一集)柳 津町誌資料J1980
[栗 原郡]
栗駒町誌編纂委員会編 『栗駒町誌』 1963
高清水町史編纂委員会編 『高清水町史』 1976
栗原郡藤里村誌編纂委員編 『栗原郡藤里村誌
上』 1922
瀬峰町史編纂委員会編 『瀬峰町史』 1966
金野正著 『栗原 の歴 史 と民俗
増補新版習 1990
金成町史編纂委員会編 『金成町史』 1973
三崎一夫 『栗原郡民俗資料集第一集
金成の年中行事』金野正発行
高清水町史編纂委員会編 『高清水町史』 1976
-迫 町史編纂委員会編 『一迫 町史J1976
金成町史編纂委員会編 『金成町史 増補版』 2002
瀬峰町史編纂委員会 『瀬峰町史 増補版』2005
花山村総務課編 『花 山村史 増補版J2005
[気 仙沼市]
羽田部分林組合 ・羽田周辺民俗研究会 『羽 田周辺の民俗』 1981
大崎八幡宮 の松焚祭 (ど んと祭)参 考文献
[気 イ
山君[]
三 陸町史編纂委 員会編 『三 陸 町史』 1988
[陸 前高 田市 ]
陸前 高 田市 史編 纂委 員会編 『陸前 高 田史
[月
第五巻
旦〕
R君 []
金 ヶ崎 町史編 さん委員会編 『金 ヶ崎 町史』 1965
胆沢 町史刊 行会 『胆 沢 町史
民 俗編
I』
1985
民俗編 上』 1991
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大崎八幡宮の松焚祭 と裸参 り
調査報告書
2006年 12月
仙 台 市教 育 委 員 会
仙台市青葉1区 回分町三丁目7番 1号
文化財課 TEL 022(214)8892
織 会社 仙 台 紙 工 印 刷
仙台市言
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仙台市文化財調査報告書第305集
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