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北朝鮮のジレンマ解決手段としての威嚇的瀬戸際外交
ほとんどの国が他国に対して協力的戦略をとっているが、北朝鮮はほとんどの国に対し、非協力的戦 略をとっている。しかも、それが一度や二度ではなく継続的に行なわれている点において多くの国々と 多く異なる。多くの国が世界規模の自由貿易市場の一員であるため、自国だけの政治外交的利益を追求 することは市場からの信頼を失うことによる機会費用の損失が大きい。したがって、多くの国は協力的 戦略をとるのが有利であり、現実においても協力的戦略を実行している。それに対し、北朝鮮は世界規 模の自由貿易市場の恩恵を受ける経済活動をしていないため、自国の政治外交的利益を最大化するため なら国際社会の常識からかけ離れた勝手なこともできるのである。世界の自由貿易システムと北朝鮮が 殆ど連動性がないため、北朝鮮を世界自由貿易システムの一角に入れない限り、これまでの北朝鮮発国 際問題が消え去ることはないと断言できる。したがって、理由がどこにあろうが、世界の多くの国が参 加している世界的規模の自由貿易システムと北朝鮮との間にある隔たりをなくしていけば、北朝鮮の不 可解な行動は確実になくなっていくと予想できる。 しかし、世界規模の自由貿易市場に参入するために北朝鮮には二つの制約条件がある。一つは国内に 潜在するリスクの存在である。自由貿易市場に参入するということは外国との往来を旺盛にすることで 自国の塀を低くすることを伴うが、北朝鮮の現政権にとってはさまざまな国から入るヒト、モノ、情報 を一々統制することはできなくなり、それによって将来的に政権崩壊につながりかねないリスクが潜ん でいるとすれば、自由貿易市場への参入はなかなか困難である。つまり、門戸開放と政権安泰との間に はトレード・オフの関係にあると北朝鮮現政権がみている可能性が大きいということである。もちろん、 その背景には、現政権が世界でも非常にまれな一族独裁政権であり、自由国家になることに対し自信が ないことが根底にある。 もう一つは国外に存在するリスクであり、米国の軍事攻撃による北朝鮮の安全保障問題である。北朝 鮮は核施設の保有どころか核実験まで行なった国である。なお、北朝鮮の有する核技術や軍事技術が世 界の紛争地域やテロ組織に売られる可能性が高いため、かつてのフセイン政権のように米国による軍事 攻撃をうける可能性は十分大きい。現在、北朝鮮は米国政府によりテロ支援国家として指定されており、 経済制裁を受けている。それで、テロ支援国家としてのラベルが貼られているため、経済活動が不自由 である。そこで、そのラベルを取り外すためにテロ支援疑惑がなくなるように軍事的アクションを一切 諦める必要がある。ところが、ソ連が崩壊した今の北朝鮮政権にそれはあまりにも無謀である。なぜな らば、イラクでのように、米国による軍事攻撃があるかも知れないからである。したがって、安全保障 に関して米国による信頼できる約束がない限り、政権存続を危機にさらしてまで、市場へ参入するわけ にはいかないのである。 最後に、北朝鮮政権が政権維持のために手段と方法を選ばずに米国と先が見えないかけ引きをしてい る間に、国家経済は餓死者が続出するなど奈落の底まで落ちてしまったのである。北朝鮮経済はもはや 風の前のともし火のような状態でもあり、また、四面楚歌の状態でもある。経済危機は現政権にとって 早く手を打ち、結果を出さねばならぬ重大な懸案事項である。ところが、上述の二つの制約条件のため、 経済開発をしたくてもできないのである。2 つのリスクを計算に入れずに、かつての中国のように開放を したり、周辺国の主張どおり核兵器を放棄したりした後、現政権が瓦解されてしまったら元も子も失っ てしまう格好となってしまう。そのため、現政権の下では北朝鮮経済の構造如何に関係なく、中国、ベ トナムのような経済開発は望めないと考えられる。唯一、方法があるとしたら、それは二つの制約を和 - 42 - らげたり、取り外したりすることである。経済開発と政権維持を可能とするためには米国の軍事攻撃が ないという信頼できる約束と、経済支援が必要となる。もちろん、それは北朝鮮の現政権が存続すると いうことを大前提とした場合にのみ有効である。要するに、現政権は米国の自国に対する軍事攻撃の可 能性が常に存在するなかで、政権維持と門戸開放の間でジレンマに陥っていたし、その間経済危機はい っそう深刻化したのである。 以下では、北朝鮮が直面している政権崩壊の危機((1)開放による政権崩壊不安、(2)米軍の軍事攻撃 による政権崩壊不安、(3)麻痺状態に近い経済危機)を乗り越えるために、どのような努力をしてきたか を確認したい。そして、それが威嚇的瀬戸際外交とどのようにつながるかを明らかにしたい。それがわ かれば、太陽政策と北風政策で二分されている北朝鮮の瀬戸際外交に対する対応法も歩調を合わせるう えでヒントになりそうなものが提示できると考えられる。 Ⅱ.安保危機に対する北朝鮮の対応 北朝鮮をめぐる国際環境が大きく変わったのは韓国政府の北方外交が始まった 1980 年代後半からであ る。具体的には 1990 年の韓ソ国交樹立、1991 年のソ連崩壊、1992 年の韓中国交樹立があげられるが、 これらの一連の歴史的大事件により北朝鮮は安全保障と経済においてとりわけ安全保障面で大きな打撃 を受けたのである。北朝鮮が抱えていた様々な問題が、上記の出来事が起こらなかったのであればそれ ほどの問題にならなかっただろうが、以上の出来事により北朝鮮は立ち直れないほどの大打撃を受けた のである。 1.本格的核開発の始まりと条件――ソ連がくれた不安感と米国がくれた安心感―― まず、ソ連の崩壊が北朝鮮の安全保障にどのような影響を与えたかを確認したい。安全保障について 言及する際、最初にソ連崩壊よりは北朝鮮最大の敵対国であった韓国の北方外交を指摘する必要がある。 韓国の北方外交とはソ連、中国、東欧諸国、その他の社会主義諸国と北朝鮮を対象とするもので、社会 主義諸国との関係改善をはかり、経済交流を深めることで、最終的には社会主義諸国との国交樹立と朝 鮮半島の統一を目的とするもので、1988 年当時の盧泰愚大統領の就任演説のなかで取り上げられたもの である。その後、1989 年に社会主義諸国の中でハンガリーと初めて国交を樹立することとなる。そして、 いよいよ韓国政府は、1990 年当時北朝鮮の最大支援国であり、かつ社会主義諸国に最も影響力の大きか ったソ連と国交を樹立するまでに到る。そして、1991 年には中国との間に貿易代表部を設置し、1992 年 に中国と国交を樹立するのである。 北朝鮮に不利に急変する国際情勢のもとで、ソ連の崩壊は北朝鮮の安全保障において致命打となり、 まるで晴天霹靂のような大きな衝撃を与えたに違いない。和田(1994)は韓ソ国交樹立が「北朝鮮から 見れば、ソ連の核の傘がはずされて米国の核に裸で向き合うという状況になった」と語っている。また、 和田は韓ソ国交樹立の方針を知らせに訪朝していた当時ソ連のシェワルナゼ外相と北朝鮮の金永南副首 相兼外相とのやり取りを紹介した 1991 年 1 月 1 日付の朝日新聞の記事を引用している。そこには韓ソ国 交樹立を反対するため、北朝鮮側がソ連側に渡したメモランダム(覚書)の内容が紹介されている。同 記事には「ソ連が南朝鮮と『外交関係』を結ぶなら、朝ソ同盟条約を自ら有名無実なものとすることに - 43 - なるであろう。そうなれば、我々はこれまで同盟関係に依拠していた若干の兵器も自分のために調達す るための対策を立てざるを得なくなるであろう。それは、朝鮮半島情勢を極度に先鋭化させる」と書か れている[朝日新聞 1991 年 1 月 1 日(朝刊)1 面]。また、同記事には、北朝鮮外相がソ連外相に「韓国 とソ連が国交を樹立するならば、独自に核開発を進める」と表明したことも書かれている 1。北朝鮮側の 安保に対する危機感が大いにあらわれている一幕である。この記事から推測できることは、北朝鮮がい つから核兵器を開発したかは明らかではないが、韓ソ国交樹立がきっかけとなり、安保不安に対処する ために拍車をかけたという点である。 ソ連崩壊とは関係のない話であるが、北朝鮮が核兵器開発を独自的開発したのはアイラニカルにも米 国の核政策に依存している面が大きい。米国は 1945 年に日本で 2 回使って以来どこの紛争でも一度も使 用していない経緯がある。北朝鮮はそれを逆に利用し、核攻撃を受ける可能性は非常に低いと計算して いた可能性もある。 つまり、国際社会でソ連の崩壊以後、確実な見方が存在しなくなった一人ぼっちになってしまった北 朝鮮は、米国の核攻撃に露出され、安保に危機感を抱いたことは事実だと考えられる。しかし、日本で 使われた以来一度も使われていなかった米国の核兵器が 1991、1992 年の時点で核施設が発覚されただけ で自国が核攻撃の対象とはならないと考えていた可能性も否定できない。ソ連は韓国との国交樹立と自 らの崩壊で北朝鮮に不安感を与えたし、米国は核兵器を長年使用していない国であるため、自国にも使 わないだろうという予測を可能にし、それが核開発に赴かせた大きな条件だと考えることができる。そ して、後述する二度にわたる NPT 脱退、ミサイル発射のような威嚇的瀬戸際外交は核兵器開発を成功さ せるまでのつなぎのアクションとして捉えることができる。 2.威嚇的瀬戸際外交の道程 これまでの内容は北朝鮮が本格的に核兵器を開発するきっかけと条件を述べたが、これからは米朝間 における北朝鮮の核兵器開発をめぐる外交のやり取りの事実を確認し、それによって北朝鮮が何を勝ち 取る目的で、どのように臨んできたかについて分析を試みたい。 NPT 脱退宣言 1989 年の寧辺核施設の発覚以来、1990 年の韓ソ国交樹立などに対抗し、北朝鮮も日本との国交樹立 2の ような、いわば、南方外交に転じようとした。1990 年の自民・社会両党による訪朝議員団との交渉もそ の一環だったとみられる。1991 年には朝鮮半島非核化宣言を行なったり、韓国と同時に国連に加入した りした。しかし、南方外交を実らせるために受け入れた、1989 年に発覚された寧辺核施設に対する IAEA (国際原子力機関)による核査察で、北朝鮮の思惑とは正反対に核兵器の疑惑が強まり、南方外交は水 の泡となってしまった。それどころか、米国が北朝鮮に特別査察を強く要求する不利な状況に転じてし まった。北朝鮮からすれば、関係国の中で自国だけが何の収穫も得ることができず、特別査察を受け入 れなければならない羽目になっていた。そのような不利な状況下で、核戦争訓練と北朝鮮が非難してい た米韓共同軍事訓練(一名、チーム・スピリット訓練)が再開されたこともあり、国際社会に背を向け る形で NPT 脱退宣言を行なう運びとなる。 長距離ミサイルの発射 1993 年の NPT 脱退宣言以後の朝鮮半島情勢は特別核査察をめぐって非常に険悪な状況が続いていたの - 44 - である。同年国連安全保障理事会で IAEA の特別核査察の受け入れと NPT 復帰を要求する決意案が採択 されたが、北朝鮮は長距離ミサイルを発射し、はじめて武力を誇示し、北東アジアに緊張感を募らせた。 “火の海”発言 1994 年の南北会談の場で北朝鮮代表がソウルは火の海となるという所謂“火の海”発言などで一触即 発の危機状態になったこともあったが、カーター元米国大統領の訪朝とエネルギー支援と政治関係の正 常化で合意したジュネーブ合意 34により、自国が軍事攻撃をされかねなかった安保危機は目前で回避でき たのである。それだけではなく、KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)による軽水炉発電所 2 基の建設 と完工される間までに年間 50 万トンの重油支援という約束も勝ち取ったのである 5。 デポドンミサイル発射、南北首脳会談、オルブライト元米国国務長官の訪朝、不審船、韓国西海交 戦 ところが、核施設を隠すためにグムチャンリに地下核施設を作っているという米国からの疑惑(1998 年 3 月)が生じた。それと関連があると判断することは難しいが、ほぼ同時期に北朝鮮はデポドンミサ イルを発射(1998 年 8 月)した。それが日本の三陸沖に着弾し、日本中が驚愕したことは記憶にも新し い。これに対しては、後でグムチャンリの疑惑が完全に解消されたとしても、北朝鮮が得たものよりは 米国、日本、そして韓国内での保守勢力の立場を強化させてしまった逆効果がより大きかったと言える。 ところが、当時のペリー米国国務長官が対北朝鮮政策を北朝鮮と周辺国の間で互恵的に変える必要があ るという内容を取り入れたペリー・レポート 6により、クリントン大統領の民主党政権最後の 2000 年にオ ルブライト国務長官の訪朝などで一気に解氷期に入りそうな空気もあった。その背景には同年 6 月に平 壤で行なわれた南北首脳会談もあり、朝鮮半島が和解ムードに包まれていたということもあった。 ‘悪の枢軸’、ウラン濃縮疑惑を認定、重油支援中断、再度の NPT 脱退宣言 しかし、共和党への政権交代後、ブッシュ大統領は 2001 年の 9・11 大惨事以後、テロとの戦争を宣言 し、2002 年の両院議員を対象に行う演説で、北朝鮮を‘悪の枢軸’と、名指ししたこともあり、再び緊 張感が漂うようになるのである。そして、同年ケリー国務次官補が訪朝した際、北朝鮮はウラン濃縮疑 惑を認め、再び国際社会に大きな波紋を投げつけた。そして、米国は北朝鮮がウラン濃縮疑惑を認めた ことを証拠にし、北朝鮮のジュネーブ合意違反を主張し、重油支援を中断したり、北朝鮮の船を捜査し たりした。これに対し、北朝鮮は逆に米国側のジュネーブ合意違反だと主張し、核開発凍結の解除宣言 を行い、IAEA 査察官の追放と核再処理施設の再稼動を宣言した。そして、2003 年初めに北朝鮮は再び NPT 脱退宣言をするようになる。 6 ヶ国協議 2003 年から米・中・日・露・韓・朝の多国間で北朝鮮の核問題の解決を目指すための6ヶ国協議がス タートする。北朝鮮は経済支援、不可侵条約、長距離ミサイル発射実験の凍結及び製造技術の輸出中断 を先行させた後、核兵器を放棄すると主張したのに対し、米国は北朝鮮の核兵器開発について先放棄後 支援を主張した。2004 年までの 3 回にわたる6か国協議で自国の主張は受け入れられず、米国が再び北 朝鮮をテロ支援国と指定したことを問題視し、6 か国協議への不参加を宣言し、翌年の 2005 年初めに‘核 保有宣言’を行なう。そして、マネー・ロンダリング疑惑でマカオの BDA(バンコ・デルタ・アジア) の北朝鮮口座を米国が凍結してしまう。その直後開催された第4次6か国協議で、米国の対朝軍事不攻 撃とエネルギー支援、日米との国交正常化との交換という形で、朝鮮半島の非核化、つまり、核開発の - 45 - 放棄に合意したのである。ところが、米国による金融制裁が解除されていないままでは6か国協議に参 加することはないと宣言し、2006 年夏にはミサイル発射実験を行い、秋には初の地下核実験を断行する にいたる。核実験が功を奏したかどうかは分からないが、2007 年 2 月に大きな転換点を迎える。北朝鮮 の核放棄の度合いに応じて北朝鮮の要求案を受け入れるということだった。ところが、BDA に凍結され ている北朝鮮のお金が北朝鮮の要求どおりになっていない。これまでの経緯を見ると、北朝鮮がまた威 嚇的瀬戸際外交を展開する可能性が高かったが、6 月中旬に米国政府がこの問題を劇的に解決した。その 後、ヒル米国国務次官補の電撃的平壤訪問もあり、米朝間の関係は好転している。 以上の瀬戸際外交の事実の確認作業から分かったことは、北朝鮮の要求は不可侵条約後の日米との国 交樹立から得られる政権の安全保障と、経済回復のためのエネルギー支援である。言い換えれば、安全 保障と経済回復に障害が発生する際は威嚇的瀬戸際外交が動き出すということである。 一連の北朝鮮の瀬戸際外交から捉えられる大事なことは、北朝鮮が「米国との不可侵条約の締結」、 「米 国、日本との国交樹立」、そして、「エネルギー源供給」を強く求めている点である。北朝鮮の行動に対 する分析は次節で述べるが、瀬戸際外交を展開している理由はソ連崩壊後、政権を維持するため、つま り政権の安全保障を強固なものにするためという目的から始まっており、その具体的手段として、長距 離ミサイルと核兵器が用いられたということである。もう一つは、自国の要求が受け入れられなかった 場合は瀬戸際外交の度合いを「火の海発言→複数にわたる長距離ミサイル発射→核実験」のように強め てきたことも注意する必要がある。北朝鮮の要求が受け入れられなかったため、瀬戸際外交の度合いを 強めてきたという仮説が有効だとすれば、北朝鮮国内の政治状況に変化がない限り、今後も北朝鮮は自 国の要求案を受け入れられ、安全保障危機や後述する経済危機が払拭されるまで瀬戸際外交を継続する と予測することができる。 北朝鮮はソ連崩壊後安全保障において大きな危機にさらされていたが、経済問題も深刻であった。ま さに、外憂内患の状況だったのである。以下では、経済危機について述べたい。 Ⅲ.経済危機と瀬戸際外交 1.ソ連崩壊と北朝鮮経済――糸が切られた凧―― 北朝鮮が瀬戸際外交を展開する元々の理由は、政権の安全保障にあったと考えられる。1980 年代後半 の北朝鮮経済の状況も決してよくなかったが、配給システムが麻痺するほどではなかった。北朝鮮経済 が急激に減退の道のりを歩んだ背景は、ソ連崩壊にあったとみることができる。以下では、ソ連崩壊が 北朝鮮経済にどのような影響を与えたかを確認したい。 かつてソ連が崩壊する前は、ソ連が経済と安保の面で最大の支援者と盾となってくれたため、他の国 との関係はそれほど重要ではなかった。ソ連からの北朝鮮への支援がどれほど大きかったかは、ソ連の 崩壊とともに、北朝鮮経済が食糧不足、電力不足、外貨不足に陥ったことから簡単に推測できる。まず は、何がきっかけで北朝鮮経済が崩壊の危機に直面しているかを確認する必要がある。一般に言われる ように、北朝鮮経済の閉鎖性が確かに大きな問題ではある。しかし、それだけが 1990 年代の北朝鮮経済 の崩壊危機を説明するうえで有効とはとても考えられないからである。閉鎖経済だけが問題だったとす れば、ソ連崩壊前にすでに昨今のような経済危機の状況が現れてもおかしくないからである。閉鎖経済 - 46 - が北朝鮮経済危機のもとであることは間違いないが、危機の導火線となったのはソ連崩壊である。それ を証明するものとして、1990 年代前半に多くの社会主義国家の崩壊があげられる。 <図1>は資料の制限により 1990 年以降の北朝鮮経済の実質成長率と GNI( 国民総所得、Gross National Income)を示している。同図だけをもって北朝鮮経済がソ連崩壊によるものと断定することは難しいが、 ソ連崩壊以後 1990 年代の北朝鮮経済がいかにたいへんだったかがうかがえる。また、1999 年以降経済成 長率はプラスに転じたものの、GNI の規模はソ連崩壊前の 1990 年水準に達していないことが確認でき、 ソ連なき北朝鮮経済の厳しさが如実にあらわれていると言える。 今度は、北朝鮮経済の崩壊危機をソ連との経済関係を示しているデータを用いて再確認したい。<表 1>は北朝鮮の国別貿易規模を時系列で示している。同表により、貿易において北朝鮮がどの国に最も 依存していたかがわかる。背景がシャドーになっているところは、各年度において北朝鮮との貿易規模 が最も大きかった国とその額を示している。いずれの年もソ連と中国が最大貿易国であることには異変 はないが、1980 年以後の両国の金額に注意する必要がある 7。とりわけ、点線の四角の中の数値はソ連の 金額を表しているが、たった 1 年間で 2,564 百万ドルから 347 百万ドルまでなんと 87%も激減してしま ったのである。1990 年とソ連が崩壊した 1991 年を比べてみると、ソ連の崩壊によりソ連・ロシアからの 輸入が通常の国家間の貿易ではありえないほど、異常に激減したことがわかる。他の国との貿易規模に さほどの変化がない状況下で、2 年間における貿易規模の激減は北朝鮮に大きな打撃を与えたことが用意 に推測できる。また、1996 年から 2000 年までのロシアとの貿易規模は 1955 年水準を下回っている。KOTRA (2007)によれば、2000 年以後最も貿易規模が大きかった 2005 年の場合でも 1990 年のそれと比べて 1 /10 の水準にも至っていなく 8、ソ連の崩壊が北朝鮮にとってどれほど致命的だったかがうかがえる。し かし、朝ロ貿易は 2001 年から回復しており、2006 年は北朝鮮貿易の 7%に相当する約 2.1 億ドルを記録 している。 北朝鮮がどれほどソ連に依存していたかは他の国との貿易規模を比較することで分かる。最も目立つ のは 1991 年以後中国が最大貿易国となった点である。社会主義諸国の宗主国であったソ連の崩壊という 国際情勢の急変により、同じく社会主義国家であり、朝鮮戦争の際、北朝鮮に多くの援軍を派兵した血 盟関係の中国との取引の規模が増えるようになる。その後、中国への依存がますます大きくなり、中国 は名実ともに最大支援国となり、北朝鮮に対し最も影響力の大きい国となっていく。KOTRA(大韓貿易 振興公社)の資料[KOTRA2007,9]によると、2005 年現在、中朝貿易は 1,580 百万ドルで北朝鮮の貿易総 額の 53%を占めている。それに、韓国との貿易額(1,056 百万ドル)を合わせて、やっと 1990 年のソ連 との貿易額に比肩するようになったのである。つまり、それほど 1990 年のソ連と北朝鮮との貿易規模は 大きかったのである。逆に、ソ連崩壊以後、最も影響力の大きいとされる中国の北朝鮮への支援がかつ てのソ連と比較にならないほどの規模でしかないことが分かる。 - 47 - <図1>北朝鮮経済の実質成長率と GNI の推移 (%) (億ドル) 250 8.0 6.0 200 4.0 GN I(国民総所得) 2.0 150 0.0 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 100 -2.0 1998年以後、回復はして いるものの、旧ソ連崩壊 以前(1990、1991年)の水 準には達していない。 -4.0 -6.0 経済成長率 50 0 -8.0 (資料)韓国銀行の http://ecos.bok.or.kr/より作成。 <表1>北朝鮮の国別貿易規模の推移 (単位:百万ドル) 1955 1960 1965 1970 1975 1980 1985 1990 1991 1994 1996 1998 2000 旧ソ連、 ロシア 中国 その他 社会主義国家 89 118 187 389 469 880 1271 2564 347 140 65 65 46 83 122 182 116 483 678 484 483 611 624 566 413 488 14 48 53 123 167 247 188 226 86 46 39 n.a. n.a. 韓国 日本 OECD国家 開発途上国 20 111 195 252 222 425 5 32 57 259 575 436 467 504 481 518 395 464 11 26 94 377 400 169 366 405 363 367 n.a. n.a. 3 18 208 571 638 457 654 490 422 n.a. n.a. (資料)ヤン(2001)pp.256-258.をもとに作成。 (注1) ヤン(2001)の資料は 3 つの資料をもとに作成されており、推定者と推定方法の差により、統 計が非連続となっている。ヤンのデータは輸出と輸入に分かれていたが、全体の推移と輸出ま たは輸入の推移はほぼ同じだったため、貿易総額のデータを示すしだいである。ちなみに、北 朝鮮は貿易収支赤字国である。 (注2) その他の社会主義国家において 1990 年以後の東ドイツと、OECD 国家においては日本を除いて おり、OECD 国家の 1960 年の値は OECD 国家と開発途上国の割合が分離されていない値である。 - 48 - また、食糧に関しては全体の 43%に該当する 32 万トンを、原油に関しては 100%全部である 53 万 3 千トンを中国から輸入している 9。北朝鮮からすれば、中国がかつてのソ連の肩代わりではあるが、その 規模においては 1990 年ごろのソ連に比べ物にならない。 量ばかりではなく質の面においても、かつてのソ連と経済開発の真最中にある中国は異なる。金(1996) によれば、石油輸入の際、ソ連からは 1990 年まで国際市場価格の約 30%、中国からは約 50%の所謂‘友 好価格’を通じて原油の供給を受け、物々交換方式で決済を行なった。しかし、1991 年以後国際市場価 格で硬貨決済方式に変更したことにより、ロシア産原油は 2 倍、中国産原油は 2.3 倍も暴騰した。石油 を 100%輸入に依存する北朝鮮にとって、ソ連の崩壊は自国内産業に甚大な影響を与えたのである。 北朝鮮の最大貿易相手国である中国は北朝鮮同様社会主義を標榜しているものの、資本主義を導入し 国家経済が飛躍的発展を遂げている最中にあるため、北朝鮮が最も敵視してきた米国と日本を含めた国 際社会との協力を大事にしなければならない立場にある。また、頻繁に指摘されているように台湾問題 や人権問題に関して米国に干渉させないためにも中国は米国と日本に外交的隙間を与えてはならない。 つまり、経済成長の最中にある中国としては北朝鮮をかつてのソ連のように友好的に支援することはで きなくなっているということである。かといって、米国の軍事的制裁に賛同するわけにもいかない。な ぜなら、これまでもそうだったが、脱北者の多くが中朝の国境を越境している事実から判断して、北朝 鮮で軍事的衝突がある際は多くの脱北者が中国に集中する可能性が非常に高く、それは、中国にとって は避けて通りたいものであることは間違いない。中国にとって朝鮮半島での軍事的衝突はもはや対岸の 火事ではなくなっているのである。2006 年 7 月のミサイル発射後の国連の制裁に対しても、2006 年の核 実験に対する国連の制裁案に対しても中国が拒否権を発動しなかった反面、軍事的制裁に対しては断固 として反対したということは、北朝鮮に対しけん制しながらも、米国に対しても同じくけん制をせねば ならぬ中国のあいまいな立場を立派に証明している。 ここまではソ連の崩壊により北朝鮮の安全保障と経済において大打撃を受けたが、中国、韓国と交易 が大きくなったことにより、少しずつではあるが経済は最悪の状況から抜け出ている。また、安全保障 面では軍事的制裁を受ける危険も非常に小さくなったことを確認することができた。ところが、政治状 況を含めた他の条件が不変だとした場合、中国との貿易規模が大きくなっていき、かつてのソ連との貿 易規模に達し、しかもそれが北朝鮮経済の最低貿易規模にまで到ったとすれば北朝鮮経済の崩壊危機も 自ずとなくなる可能性が大きい。 ソ連崩壊後の北朝鮮経済は糸が切られた凧のように急降下を継続するが、中国、韓国との交易拡大で 地面すれすれのところをかろうじて飛んでいるぼろぼろの糸が切られた凧にたとえることができよう。 2.自力では解決できない物不足 北朝鮮経済の深刻さを表すものとしてよく取り上げられるのが、食糧難、エネルギー難、外貨難であ る。この 3 つの経済難は独立しているものではなく、互いが深く絡まっている問題である。「エネルギー 不足は生産現場の稼働率を下げ、輸出可能な製品の生産量を低下させ、外貨不足 10を招く。外貨不足は原 油燃料の輸入減少につながり、採炭装備の現代化を遅らせ石炭採掘を減少させ、電力不足を発生させる。 なお、食糧輸入のための外貨が不足することは言うまでもない。」ソ連崩壊以来このような悪循環が続い ている。問題はそれを解決する力を北朝鮮自ら有していないことである。 - 49 - まずは、簡単にそれぞれの経済難について述べたい。その前に、指摘しておかなければならないのは、 北朝鮮経済のキーワードは「自力更生」である点である。つまり、外国へ依存する経済運営ではなく、 国内完結型の経済運営を長年してきたという点である。そして、自力更生経済がオイル・ショック時の ように運を呼びつけた時期もあったが、現状からすればそれが災いのもとであったことを前もって指摘 しておく必要がある。 (1)エネルギー危機 韓国のエネルギー経済新聞[2006 年 5 月 10 日付]によると、北朝鮮のエネルギーの自給率は 92%であ り、韓国の 3%とは対照的である。一見すると、よさそうにも見えるが、外貨不足のため輸入できない石 油を石炭に代替するため、自力更生を強調した結果に他ならない。2003 年現在、総エネルギー供給のう ち、石炭が約 70%、水力が約 20%を占めている。なお、韓国統一部の推計によれば、2003 年現在北朝鮮 のエネルギー供給量は 1990 年の 65%水準にとどまっているとエネルギー経済新聞は報じた。そのような 状況下で、水力発電は森林の荒廃化、地球温暖化による水資源の減少、設備の老朽化、冬場の降水量の 急減などで発電量が大幅に下がった。そのうえに、1995 年以降の相次ぐ大規模洪水の発生、洪水再発防 止のためのダムの放流は、水力発電所の揚水量を低下させ、必要な時に電気が起こせないようにし、エ ネルギー難をいっそう悪化させてしまったものである。 火力発電は燃料の殆どを石炭に依存しているが、大洪水による炭鉱の浸水、設備の老朽化のため、1990 年代以後の石炭生産量は 1980 年代の半分水準にまで下がっている。また、原油燃料による電力生産量は 北朝鮮で大きな割合を占めていない。だが、輸送手段の燃料という点で重要燃料の一つであることに間 違いはない。ソ連が崩壊するまでは原油の 80%をソ連から「友好的交易」によって調達してきたが、崩 壊以来友好的交易ではなく、硬貨決済を要求してきた。ところが、KOTRA[KOTRA2007,23]によれば、 外貨が不足していた北朝鮮は原油の輸入を大幅に減少させることを余儀なくされ、2006 年の原油導入量 は 1991 年の 28%水準まで急落した。そして、その影響は特に輸送部門において影響は大きかった。 <図2>はエネルギー不足が引き起こす北朝鮮経済に内在する悪循環の連鎖を示したものである。北 朝鮮当局にできるものは停電しかなく、この悪循環の連鎖を自力で断ち切る術は持っていない。また、 エネルギー不足は肥料生産と農機械の活用にも甚大な影響を与え食糧危機の一因ともなった。 <図2>北朝鮮におけるエネルギー難の悪循環の連鎖 燃料不足→電力不足→生産現場の稼働率低下→生産量低下 →外貨不足→原油輸入減少→エネルギー不足 (2)食糧危機 ソ連の崩壊が直ちに北朝鮮の食糧不足に影響を及ぼしたわけではない。北朝鮮の冬は非常に厳しい。 <図3>は朝鮮半島の平均気温と最も寒い1月の平均気温を全土にわたって示されており、北朝鮮の北 部内陸地域では真冬になると、氷点下10度以下まで下がることが分かる。北朝鮮の暖房は、農村部で - 50 - は薪を燃やすことで床を暖めるオンドル方式の住宅が主流であり、都市部では多くの住宅が石炭燃料に 依存している。ところが、ネイル新聞 2007 年4月7日付によれば、燃料が供給されないため、都市部で も薪を燃料とする住宅が大幅に増えたようである。そのため、山から木を伐採しなければならない。ま た、炊事のためにも燃料は薪が利用される。当然でありながら、伐採するほど禿山が増えていく。 また、北朝鮮当局が 1970 年代から食糧生産増大を目標とし、傾斜が緩慢な山地に開墾畑(トェギ畑、 <図4>参照)と開墾果樹園(トェギ果樹園)を作る「自然改造事業」に精を出していた。そして、配 給が正常に運営されなくなり、トェギ畑はさらに急速に全土に広がり、山々は禿げていった。 最後に、中国向け輸出のための木材伐採も禿山にする大きな原因となった。北朝鮮北部の慈江道、両 江道の森林での無差別的乱伐は北朝鮮の山々を禿山にしていった。 禿山は緑豊かな山に比べ雨を蓄える能力が劣っており、山の表面が雨水と一緒に川に流れていく。集 中豪雨の際の被害は想像を絶するもので、‘苦難の行軍’の前年である 1995 年の集中豪雨はまさにそう であった。大雨は土砂崩れを起こし、農地を覆ってしまい、農家に大きなダメージを与える。土砂流失 で地盤が崩れたトェギ畑は山崩れの原因となり、雨の際は土砂がさらに流失しやすくなり、それが川底 に堆積され、川底を高くする。山に緑があった時代と比べ水深が浅くなり、大雨の際は川が氾濫しやす くなり、農作物の生産に被害を与えるのである。技術と装備さえあれば改善の余地は十分あるが、エネ ルギー難が肥料生産不足を引き起こし、農機械の活用をできなくすることで食糧生産に甚大な影響を与 えた。このような現状に対し北朝鮮当局が有する打開策はなく、被害は繰り返されている。 なお、旱魃や冷夏もあり、このような異常気候による自然災害と北朝鮮の経済状況がもたらした自然 破壊が 1995-99 年の間に繰り返されたのである。 エネルギー難が北朝鮮政府にとって最大の課題であるのに対し、食糧難は各々の住民にとっては最も 大きな課題である。それを解決するために後述する社会主義経済管理改善措置などが行われたが、その 改革措置によって飢饉問題が解決できたわけではない。つまり、エネルギー難と同じく、食糧難は北朝 鮮の自助努力ではとうてい解決が困難な甚だ深刻な問題だったと言える。 - 51 - <図3>朝鮮半島の平均気温(左図)と 1 月の平均気温(右図) (資料)韓国気象庁 http://www.kma.go.kr/ <図4>北朝鮮の山にある開墾畑のトェギ畑 (出所)朝鮮日報 http://www.chosun.com/ (注)朝鮮日報によると、2001 年 6 月に北朝鮮北部の会寧市で開墾されている山の風景 Ⅳ.北朝鮮の内部努力とその限界 1.社会主義経済管理改善措置 脱北者の証言に基づいたチャ(2005)によれば、公式的な食糧配給が 1994-97 年の間に実質的に中断 されたという。北朝鮮東北部の咸興市の場合、工場の欠勤率が 1995 年に約 20%、1996 年に 50%、1996 - 52 - 年冬からはほとんどの労働者が出てこなかったと述べられている 11。その理由は市場であるジャンマダン の登場にある。工場に出勤せねばならぬ労働者が出勤せずに、ジャンマダンに出て生存のための商売を 行なったからである。ジャンマダンにはニケル、銅、モリブデンなどの金属製品もあれば、工場設備を 売り出す人もいたようである。また、工場設備は 1995-97 年春までが最も出回っていたようである。し かし、連合ニュース[2000.8.4]によれば、1999 年 2 月に北朝鮮政府は北朝鮮全域のジャンマダン閉鎖を 試み、商売人に元の職場へ復帰することを指示した。 そして、北朝鮮当局自らが土地改革以上の改革という社会主義経済管理改善措置(以下、7・1措置と 称する)という改革措置を 2002 年 7 月 1 日から行なう。朝鮮新報[2002.7.26]によれば、低い国定価格 と高いジャンマダン価格との間の乖離を解消するため、労働者の賃金を引き上げる政策をとった。生産 労働者の場合、110 ウォンから 2,000 ウォンへ、炭鉱労働者の場合、6,000 ウォンまで賃金を引き上げたのである。 労働者の購買力を高めることにより、労働者を工場に復帰させようとした。しかし、インフレが発生し 期待していた効果を得ることはできなかった。自由北韓放送[2006.7.2]によれば、市場で1kg に 40 ウォン だった米の値段が、7.1 措置以後7月末には 250 ウォン、その後 1,000 ウォンまで暴騰した。つまり、物価暴騰 により、高くなった購買力が相殺されてしまい、生活水準の向上につながることはなかったのである。 同放送は、為替レートも 1 米ドルに対し、1,430 ウォンだったが、2005 年 7 月頃の闇市場でのレートは 3,000 ウォンを越えていた。それで、韓国統一部によれば、北朝鮮では、政府に対する不信の表れとして‘朝鮮の 金は金ではない’という言葉まで登場したという 12。また、工場や企業を独立採算制で運営することで、 労働者に対する勤労意欲が高まったことは事実であるが、刮目に値するほどのものではない。 7・1 措置は期待していた政策効果は達成できなかったものの、特記すべきことが二つある。それは、住 民たちの市場への依存度がますます高まっているということである。それは国家の配給に生活を任せて いた惰性を捨てて、市場での自らの取引により生計を維持せねばならないことを意味する。その意味で は、北朝鮮の住民たちの生活力は強くなったこととなり、そう簡単に北朝鮮経済が崩壊することはない と予想される。したがって、政権争い、または偶発的要因による現政権崩壊の可能性のほうが、経済崩 壊による国家崩壊、または政権崩壊につながる可能性よりもはるかに高いと考えられる。そして、この 見方が間違っていないとしたら、北朝鮮に対する経済制裁はあまり有効ではないと考えられる。 もう一つは市場に様々な情報が集まり、信頼度がないに等しい現政権に決していい情報ばかりが流れ るとはとても思えない点である。これまでは情報操作により住民たちを思惑通り動かすことができたが、 海外からの情報が入る市場を中心とした生活をしている今は以前の状況とは大きく異なる可能性がある。 結論的に言えば、深まっていく経済危機から脱するために敢行した経済改革だったが、北朝鮮当局の思 惑通りにならなかった点では失敗だった。しかし、市場経済の更なる拡大という意味では成功だったと 評価できる。はっきりしていることは、7・1 措置という改革措置が当初の政策目標を達成することはでき なかった点である。 2.部分開放 北朝鮮はかつての中国のように経済特区を設け、部分開放を進めたのは 1991 年の北朝鮮、中国、ロシ アの国境地域の「羅津・先鋒自由貿易地帯」からである。同地帯では、①交通の要衝地としての利をい かした中継貿易、②賃加工貿易、③観光などが取り上げられた。しかし、インフラの不整備、電力不足、 - 53 - 宿泊施設の不整備等々の問題があり、北朝鮮の計算どおりにはならなかった。 それ以外に、7.1 経済管理改善措置があった 2 ヵ月後に、2002 年 9 月、10 月、11 月に連続で、香港の ような一国二制度を目指した新義州特別行政区、韓国観光客を見込んだ金剛山特別観光区、韓国企業と の連携を見込んだ開城工業地区を指定した。しかし、新義州特別行政区は初代の行政長官が中国警察に 連行され、その後新義州関連の経済ニュースは消息を絶ってしまった。金剛山を外国人に開放している が、殆どの訪問客は韓国人であり、そもそも上述の羅津・先鋒とは違って、南北交流の一環として行な っている事業である。そして、2004 年にソウルからバスで 2 時間かかる開城に韓国の中小企業を対象と して工業団地を造成した。韓国のファイナンシャル・ニュース[2007.6.8]によれば、2007 年 6 月現在、 32 社が稼動しており、北朝鮮労働者 1 万 5 千人が働いている。2007 年第 1 四半期の生産額は 3,560 万ド ルで、対前年比で 2.8 倍にも拡大した。ところが、北朝鮮をめぐる国際環境の変化に左右される可能性 は大きく、大きな成果は期待できない。 北朝鮮が上述のように部分開放を行なったが、非常に高いカントリー・リスクのため、投資元の組織 はなかなか現れない。つまり、カントリー・リスクを取り払わない限り、北朝鮮の部分開放政策により 経済を危機から回復へ向かわせることには限界があるため、それはきわめて困難だと言えよう。 そして、北朝鮮がカントリー・リスクを払拭できない理由は、部分開放を積極的に進め、外国人だけ ではなく、内国民に対しても別世界だという信頼を与える必要がある。ところが、北朝鮮は中国のよう に広い国ではないのである。些細な出来事が政権に悪影響を及ぼす可能性は十分にある。これが北朝鮮 の部分開放の限界なのである。 3.絶対的供給不足の存在 ここまで北朝鮮が経済危機を克服するために経済制度の改革や一部地域での部分開放を試みたが、経 済回復につながるような成果はなかったことがわかった。そして、それを言い換えればどのような対策 も深刻な物不足を解決できなかったということである。ここでは、需要曲線と供給曲線をもって北朝鮮 の経済危機の深刻さと、その問題の解決は北朝鮮自らの力では困難であることを説明したい。 <図5>の左図は北朝鮮の苦難の行軍までの状況を需要曲線と供給曲線で示している。まずは供給曲 線が垂直に近いことを説明したい。これは価格の変動幅に対し、供給の変動幅が非常に小さい場合であ り、価格に対し供給が非弾力的であることを意味する。1995 年以降大洪水などの自然災害で、食糧、エ ネルギーの供給量が急減した当時の状況を考えてみたい。供給曲線が SS から S’S’へ減少し、均衡価格は 太い矢印のように大洪水前の pa から pb へ上昇し、均衡量は qa から qb へ減少するようになった。要する に、物不足が理由で、物の値段だけが上昇してしまったということであり、このような状況は北朝鮮だ けの状況ではない。 - 54 - <図5>北朝鮮における非弾力的供給曲線と北朝鮮の物不足 苦難の行軍期まで それ以降現在まで S' 価格 価格 S' S" D' D S 価格 D c p b b p p a p S' 0 q S b D a q S' 0 数量 S" b q D q c D' 数量 問題は右図の示すように、供給が様々な制限により、供給曲線が右に少ししかシフトしない点にある。 1999 年から北朝鮮経済はマイナス成長かプラス成長に転じる。それによって、需要が増大したと考える ことができる。また、供給曲線の右へのシフトは 7・1 措置による国内経済の生産拡大も十分考えられる が、拡大していく中国との国境貿易による輸入品の増加に基因するところが大きいと考えられる。とこ ろが、供給曲線が右図の S’S’から S”S”へのように少ししかシフトできず、供給曲線自体も価格に対して 非弾力的であるため、均衡価格は太い矢印が示すように pb からさらに高い pc まで暴騰してしまったので ある。一言で、現在北朝鮮ではハイパーインフレが発生しているのである。 このインフレを抑えるために、供給を増やすか、需要を減らすかの調整を行なえばいいが、現在の北 朝鮮では供給を増やすことは無理である。従って、需要を調整することしかできないが、北朝鮮の需要 とは人間生活に必要な最低限の需要と推測することができるため、これも困難だと予測される。そうす ると、この状況が続くとしたら、インフレを抑えることは非常に困難であることが推測できる。それは、 様々な情報が集まるジャンマダンの更なる拡大を意味することであり、現政権にとっては非常に危険な シナリオである。しかし、内部改革も部分開放も危機から脱することができるほどの成果をあげること はできなかったため、北朝鮮政権は一刻も早くこの問題の解決策を国外へ求めていたと考えられる。 むすびにかえて 本稿では北朝鮮の威嚇的瀬戸際外交の始まりは、ソ連の崩壊による経済支援の中断からスタートして いると仮説を立てている。かつてのソ連からの支援を上回る可能性のある外国に対する門戸開放、つま り、北朝鮮政権の国内努力は現政権を不安にする恐れがあるため、非常に低いレベルでしか行なわれず、 必然として経済再生は困難となった。そのような逼迫した経済状況は現在も進行形であり、悪くなるほ ど威嚇的瀬戸際外交の危険度は高くなると思われる。だからこそ、根源的問題と考えられる経済問題を - 55 - 優先的に解決する必要があると思われる。 <参考資料> 金瑩允(1996)「北朝鮮エネルギー難の実状と展望」韓国政治学会報告論文 大韓貿易振興公社(KOTRA)(2007)『2006 年北韓の対外貿易動向』 チャムンソク(2005)「新自由主義と北韓変化の実状」『進歩評論』第 24 号 ヤンムンス(2001)『北韓経済の構造』ソウル大学出版部 和田春樹(1994)「朝鮮半島の危機の構造」五十嵐武史・隅谷三喜男・和田春樹・安江良介『瀬戸際外交 からの脱却を』SEKAI1994.8pp.193-196. 朝日新聞 韓国エネルギー新聞 http://www.eenews.co.kr/ 韓国気象庁 http://www.kma.go.kr/ 韓国銀行 http://ecos.bok.or.kr/ 韓国統一部 http://www.unikorea.go.kr 朝鮮新報 http://www.korea-np.co.jp 朝鮮日報 http://www.chosun.com 韓国統一部北韓資料センターhttp://unibook.unikorea.go.kr 自由北韓放送 http://www.freenk.net/ ネイル新聞 http://www.naeil.com ファイナンシャル・ニュース http://www.fnnews.com/ 1 同記事には北朝鮮外相の発言として、核の独自開発以外にも日ソ間の北方領土問題で日本の要求を指 示、日本と国交正常化も取り上げられた。 2 朝日新聞(1991.1.1)によれば、1990 年 9 月下旬の金丸信元副総理らを団長とする自民・社会両党代 表団の訪朝の際、国交正常化交渉開始を提案されたのである。 3 米朝両国政府はジュネーブで朝鮮半島の核問題の解決のために協議し、1994 に「米朝合意枠組み」に 到達したことを指しており、主な合意内容は、北朝鮮が稼働させていた黒鉛炉を、軍事転用がより困 難な軽水炉に置き換えることに重点が置かれ、日米韓三国を中心に「朝鮮半島エネルギー開発機構」 (KEDO)を組織し、軽水炉の建設にあたった。 4 原文は http://www.kedo.org/pdfs/AgreedFramework.pdf である。 5 重油支援は 1995-2002 年まで続き、5 億ドルに相当する 356 万トンが支援された。 6 http://www.state.gov/www/regions/eap/991012_northkorea_rpt.html 7 その背景として、中国の経済発展の本格化により中朝貿易の割合が小さくなっていき、ゴルバチョフ 政権以後朝ソ間が親密になったこともあり、1980 年代後半から圧倒的にソ連との貿易規模が大きくな っていることが推測できる。また、1988 年ソウルオリンピックに対抗する形で 1989 年に平壤で開催 された世界青年学生祝典を開催するためにソ連から莫大な支援を受けた可能性もある。 8 2005 年の貿易額は 232 百万ドルである。 9 韓国統一部 http://www.unikorea.go.kr より。 10 もちろん、国際収支は貿易収支だけでなく、貿易外収支と資本収支で構成されている。外国からの援 助や外国からの投資が考えられるが、拉致問題、カントリー・リスクのため北朝鮮の国際収支に寄与 - 56 - しているわけではない。逆に、北朝鮮の外貨不足を解決するためには、長期的な観点での貿易収支や 資本収支による解決はきわめて困難だとみられる。そのため、日本との間でまだ生産されていない戦 後処理に伴うお金や KEDO による重油支援のように、北朝鮮の核開発を自らが封鎖することによる代価 性支援が短期的には最も有効である。そして、実際の可能性もそれしかなく、北朝鮮の戦略もそのよ うである。 11 工場内の診療所で食欠証を発行してもらい、食糧を獲得するために欠勤を認めていた。 12 韓国統一部の北韓資料センター統一問答 http://unibook.unikorea.go.kr/bukhandb/bukhandb_06_77.jsp - 57 -