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フランスの変貌 相対的安定期 20世紀前半の文化
09_No325.jtd 鈴 木 の世 界 史 B講 義 録 325 相対的安定期/ 20 世紀前半の文化 その他 《No324「1920 年代のヨーロッパ」に収まりきれなかった内容》 フランスの変貌 ルール地方占領 ロシア革命で帝政ロシアに投下した莫大な資本が無に帰した。 対ソ干渉戦争にも参加、ドイツに過大な賠償を要求した。 1)アメリカからの借金返済と戦後の復興費用をドイツからの【1:賠償金 】 でまかなっている状態が続く。ドイツを無力化して包囲、東欧諸国を 【2:ソヴィエト政権 】との緩衝地帯にする政策を堅持。 2)1923 ~ 25 年 【3:ルール地方占領】を実行 (ベルギーも一緒に) ←ルール地方を確認せよ 工業地帯 ドイツの賠償支払いが遅れたことを口実に。 ドイツは生産を止めて抵抗。このためドイツ経済は大混乱に陥る。 この対ドイツ強硬策は失敗した。 1924 年 ポアンカレ右派内閣倒れ、左派連合政権成立。 3)外相ブリアン ヨーロッパに緊張緩和をもたらす! ① 1925 年 ルール地方からの撤兵を実行。ドイツとの協調はかる。 ② 1925 年 周辺各国と【4:ロカルノ条約 】を締結 ドイツ西部国境の現状維持、ラインラントの非武装地帯化など7項目をを確認 詳細は後掲 ③ 1928 年 【5:不戦条約 】を実現 米国務長官ケロッグ 《No324「1920 年代のヨーロッパ」に収まりきれなかった内容》ここまで 相対的安定期 1923 年以降の西ヨーロッパ経済の回復とソ連の政策転換で相対的安定期を見た! 1)ヴェルサイユ体制は「独・ソ封じ込め体制」でもある。それが若干緩みはじめる。 1922 ソ連はドイツと【6:ラッパロ条約 】締結 ソ連は対ドイツ賠償請求権を放棄、国交を回復。 コミンテルン極東諸民族大会は、植民地における民族解放運動の支援を決議、英米仏は緊張した がそれは杞憂だった。ソ連は「世界革命」を放棄して順調に国際社会に順応していった。 1924 年 英仏伊と国交回復(1924)。日とも国交回復(1925)。アメリカを除く列強はソ連を承認。 1925 年 【7:ロカルノ条約 】締結 英・独・仏・伊・ベルギー・ポーランド・チェコの7ヵ国 スイスのロカルノで会議、10 月、仮調印。正式調印は12月、ロンドンである。 これによって、ヨーロッパの集団安全保障体制が成立したと評価される。 ドイツ西部国境の現状維持と相互不可侵、紛争の仲裁裁判(ただし、実施条件はドイツの 国際連盟への加盟)。このほか、ラインラントの非武装、フランスとチェコスロヴァキア、 ポーランドそれぞれの相互援助など、計7つの協定の総称をロカルノ条約という。 シュトレーゼマン外相(独)、ブリアン外相(仏)、チェンバレン外相(英)には 1925 年のノーベル平和賞が贈られた。 1926 年 1928 年 ドイツの国際連盟加盟 【8:不戦条約 】締結 「ケロッグ・ブリアン協定(あるいは条約)」「パリ不戦条約」 パリで 15 ヵ国が調印(1928)→ 63 ヵ国が参加した。 ケロッグは米国務長官・ブリアンは仏外相 「国際紛争の解決は武力によらない」という趣旨の条約。期限規定がないので今日も有効。 実効性に乏しくてもこの時期にこの内容の宣言をしたことは重大な意味を持つ。戦争の拡大を防ぐために締結されたとされる が、一方で欧米列強の自国の植民地を守るために作った国際法だという見方もある。1929 年、わが国も一部字句を保留した上 で批准している。日本国憲法第9条第1項の文言は国際法の歴史に照らせば、決して唐突に登場したものではない。 2)軍縮条約・・・・人類最初の大国間の軍備制限、縮小の取り組みはある程度の進展を見た。 1922 年 【9:ワシントン海軍軍縮条約 】 主力艦保有比率を定める。 主力艦保有トン数比 英:米:日:仏:伊= 5:5:3:1.67:1.67 1927 年 ジュネーブ軍縮会議・・・・補助艦軍縮を討議したが仏・伊の不参加で合意に至らず。 1930 年 【10:ロンドン軍縮条約 】 補助艦の保有率と上限を定める。 補助艦保有トン数比 英:米:日= 10:10:7 弱 日本の軍国主義化の転換点となった。 20世紀前半の文化 No302 にも関連記事(一部重複) 1)西洋近代社会そのものに対する懐疑が、20 世紀の哲学の出発点。 ショーペンハウエル 独 1788-1860 は「世界の本質は盲目的な生への意志である」であると述べ、非常に 厭世的である。キェルケゴール デンマーク 1813-55 は「いかにして神の前に一人で立つキリスト者になるか」 と提起して実存哲学の先駆となっている。 ①世紀末に活躍した【11:ニーチェ 】Nietzsche 独 1844-1900 は、西洋近代合理主義を批判した。すなわち、 ヨーロッパ文化の退廃はキリスト教支配によるとし、「神は死んだ」と叫んで新しい価値の樹立を主張し 09_No325.jtd http://sekaishi.info http://www.geocities.jp/sekaishi_suzuki/ た。ニーチェの哲学は、後に【12:実存哲学 】(実存主義)と呼ばれている。その哲学は②に受け継が れた。 ②【13:ハイデガー 】Heidegger 独 1889-1976 受験的には、ニーチェの哲学を受け継ぎ実存哲学を確立した哲 学者である。彼の努力は、伝統的形而上学を批判し、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく打ち立てる 事に向けられた。その多岐に渡る成果は、彼の弟子たちが後に現代哲学に多大な足跡を残した事、また 彼以後の哲学者たちが彼の著作から新しい思索の可能性を発展させた事により、20 世紀の世界の哲学・ 人文諸科学に重大な影響を及ぼした。(この項はウィキペディアの記事を参考にした) ③【14:フロイト 】Freud 墺 ユダヤ系 1856-1939 精神分析学を創始。人間の自我は無意識に支配されている、 と説いた。これは意識を人間存在の本質とみなす近代西洋の伝統的人間観を根底から揺るがすものだっ た。その理論は心理学、人文・社会科学に大きな影響を与えた。 2)目に映る自然を模倣するという西洋絵画の長い伝統を否定する画家たちが出現した。(1)のような近代西 洋の人間観の見直しが美術分野にも及んだと見ることもできる。 ①【15:ピカソ 】 Picasso 西 1881-1973 立体派(キュビズム) ②ダリ Dali 西 1904-89 超現実派 【 】記入例 1:賠償金 2:ソヴィエト政権 3:ルール地方占領 4:ロカルノ条約 5:不戦条約 6:ラッパロ条約 7:ロカルノ条約 8:不戦条約 9:ワシントン海軍軍縮条約 10:ロンドン軍縮条約 11:ニーチェ 12:実存哲学 13:ハイデガー 14:フロイト 15:ピカソ 以下は補遺である。 アフリカにおける民族解放運動 19 世紀末から 20 世紀にかけて 1)宗主国による人種差別、モノカルチャー的農業、徴兵 ①南アフリカ連邦では、【1:アパルトヘイト 】体制が確立した。南ローデシアやケニアでも同様。 ②自給用食料生産にかわって、【2:コーヒー・綿花・茶 】などをプランテーションで栽培。 ③第一世界大戦では強制的に徴兵された。 2)アフリカ民族運動の2つの流れ ア)パン=アフリカニズム 欧米で活躍するアフリカ系の知識人らが中心 19 世紀末から、アフリカ系諸民族の主体性の回復、独立と統一をかかげる。 ① 1900 年 ロンドンで植民地主義反対、人種差別反対の会議が開催された。 ② 1919 年(パリ講和会議開催中) アメリカの黒人解放運動指導者デュボイス 1868-1963 が、パリで会 議を開催し、アフリカ植民地の段階的な自治獲得を決議した。 第二次世界大戦後、①②は合流。 イ)アフリカに住むアフリカ人による民族主義運動 ① 1912 年 南アフリカで「南アフリカ原住民民族会議」(SANNC)が創設された。 直訳するとこうなるが、「原住民」は現代では不適切な表現であろう。 「南アフリカ原住民民族会議」は、1923 年、【3:アフリカ民族会議 】(ANC)に発展した。(現南ア フリカ共和国与党 ANC である。) ANCは、マハトマ・ガンジーの非暴力主義を継承した。(武装闘争を実行した時期もあるようだ) 反アパルトヘイト闘争で獄中27年(1962-90)の不屈の闘志、マンデラはANCのメンバーである。 1991 年、アパルトヘイトは撤廃され、マンデラは大統領に就任(1994-99)した。今も存命。 ② 1920 年、イギリス領ガーナで【4:(英領)西アフリカ国民会議 】が開催された。民族主義運動推 進のための会議である。 1940 年代、エンクルマ(1909-72 厳密にはンクルマ)は、「ゴールドコースト会議人民党」を結成、 民族運動を推進した。1957 年、ガーナは最初の黒人アフリカ独立国家となった。 ☆第二次世界大戦後、アフリカの民族運動の主導権は上記(イ)に移った。 第一次世界大戦に反対した反戦運動 1)ロマン=ロラン(仏、文学者)、トルストイ(露、文学者)などが人道主義から平和運動を展開。 2)ニコライ2世(露)の提唱で、1899,1907 年にハーグ(蘭)で、万国平和会議が開かれ、国際仲裁裁判所 が設置された。 3)社会主義政党の国際団体である第二インターナショナルは、1912 年、【5:バーゼル 】で臨時大会を開 き反戦を決議!しかし、1914 年、第一次世界大戦が勃発すると、ロシアを除く交戦国の社会主義政党は 祖国防衛の名のもとに戦争に協力し、第二インターナショナルは崩壊した。 4)ドイツの【6:ローザ=ルクセンブルク 】やロシアの【7:レーニン 】(亡命中)らは、スイス・北欧 3か国など中立国の社会主義者とともに、帝国主義戦争に反対しつづけた。 【 】記入例 1:アパルトヘイト 2:コーヒー・綿花・茶 3:アフリカ民族会議 4:(英領)西アフリカ国民会議 5:バーゼル 6:ローザ=ルクセンブルク 7:レーニン