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論文の要約
氏名:舟 橋 正 真
博士の専攻分野の名称:博士(文学)
論文題名:昭和天皇「皇室外交」の政治外交史的研究 1964—1975
一、論文の構成
序論
第一章 戦後の昭和天皇外遊構想
はじめに
第一節 天皇外遊法制の成立
第二節 天皇初外遊の極秘協議
小括
第二章 1971年の昭和天皇訪欧の外交史
はじめに
第一節 天皇訪欧交渉の政治力学
第二節 天皇訪欧の正式決定
第三節 天皇訪欧抗議行動問題
第四節 天皇訪欧と戦争責任問題
小括
第三章 昭和天皇訪米問題の政治力学―1971〜1974
はじめに
第一節 天皇訪米問題の始動
第二節 1972年の天皇訪米問題
第三節 1973年の天皇訪米推進と延期
第四節 天皇訪米の再確定と白紙
第五節 1974年のフォード訪日と天皇訪米問題
小括
第四章 1975年の昭和天皇訪米の外交史
はじめに
第一節 天皇訪米の正式決定
第二節 天皇訪米政策の展開
第三節 天皇訪米の成果と問題点
小括
結論
主要参考文献一覧
二、論文の要約
序論では、先行研究の問題点、分析視角、本論文の課題を提示した。敗戦後、大日本帝国憲法の下で「国
ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」した天皇は、日本国憲法の施行により「日本国の象徴であり日本国民統合の
象徴」となった。戦後の天皇制は、いわゆる「象徴天皇制」として成立したが、それが立憲君主制なのか、
1
あるいは共和制なのか、
「象徴」とは何を意味し「元首」は誰であるのか、など日本国憲法第一条(天皇条
項)に曖昧さを有し、国家形態に根本的な問題を抱えたまま再出発した。
従来、象徴天皇制に関する先行研究としては、先駆的な政治史研究である渡辺治『戦後政治史の中の天
皇制』(1990)が、戦後の天皇制と保守政治の関係を通史的に検証し、戦後の支配構造の中での天皇制の位
置や役割を解明した。だが、近年は象徴天皇制という制度や概念の歴史的展開に着目し、広くその構造や
内実を捉えようとする新たな研究が現れ、1950 年代まで検証が進展している。
そのなかで冨永望『象徴天皇制の形成と定着』(2010)は、渡辺の研究を批判的に継承し、戦後の保守勢
力と社会主義勢力の天皇観の変遷を分析し、不完全な体制がいかに形成され定着したかを検証した。同書
は、1960 年代前半、君主制を志向する保守勢力と、共和制を志向する社会主義勢力のせめぎ合いの中で共
通の見解なく、曖昧な制度として象徴天皇制が定着したと結論づけた。だが同書の結論には、新たな疑問
が生じ、それは、象徴天皇制容認で一致したがその解釈に明確な差異を残した各勢力の天皇観が、定着し
た象徴天皇制の次なる天皇にどのような影響を及ぼしたか、という点である。1970 年代の政治史は保革対
立が先鋭化し、それが各勢力の天皇観や憲法解釈・運用に作用したと考えられ、60 年代前半以降の展開過
程についての本格的な検証は必要といえる。
それ以降の時期を対象とした先行研究は、渡辺『戦後政治史の中の天皇制』が、保守勢力内で、天皇制
強化志向の動きが頓挫するのと反比例し、保守政治家や一政権による天皇利用の動きが始まったと論じた。
だが、保守政権は 1960 年代前半に天皇を「元首」と位置づける解釈改憲に転じており、保守政権の政策を
天皇利用の視点だけでなく、戦後保守勢力の志向の延長として捉え直すことが可能である。また、保守政
権に対抗した左派勢力、すなわち象徴天皇制を容認した日本社会党、それを認めない日本共産党の天皇観
の検証もまた欠かせない。このほか佐々木隆爾『現代天皇制の起源と機能』(1990)や安田浩『近代天皇制
国家の歴史的位置』(2011)は、1970 年代の象徴天皇制に外交君主としての機能を捉えたが、こうした君主
化のプロセスがいかになされたのか、また 70 年代前半の保革対立がどう作用したのかの検証を欠くもので
あった。
こうした先行研究の問題点を解決する手がかりは、昭和天皇の「皇室外交」にあると考える。渡辺『戦
後政治史の中の天皇制』は保守政権による天皇利用、安田『近代天皇制国家の歴史的位置』は天皇の権威
化と考察し「皇室外交」を象徴天皇制の展開に位置づけたが、その問題点は先述した通りである。それゆ
え、
「皇室外交」をめぐる各政治勢力の天皇観の分析は、1960 年代前半以降の象徴天皇制展開の解明に資す
るものといえる。他の研究には、
「皇室外交」を天皇の対外的な「元首」化として論じるものがあるが、史
料的な制約もあり、その政策決定過程や政治過程を通して実証的に検証したものは、ほとんどない。一方、
近年は日英、日米の公文書を用い、
「皇室外交」を分析する研究が多々みられ、その成果をふまえつつ、相
手国の政治的思惑が象徴天皇制の展開にどう影響したのかを検証する。また本論文は、制度としての象徴
天皇制と関連し、
「日本国の象徴」である昭和天皇個人の問題、すなわち戦争責任問題にも着目する。昭和
天皇の外遊をめぐり戦争責任問題をいかに解消していくのか、同時に相手国側の認識や思惑についても考
察する。
以上の問題点をふまえ、本論文は、昭和天皇の「皇室外交」の形成と展開を政治外交史的に分析し、そ
の過程において昭和天皇の戦争責任問題がどのように作用したのかを考察したうえで、1970 年代前半の象
徴天皇制の展開過程に位置づける。こうした検証を通じ、本論文では、1960 年代前半に定着の画期を迎え
た象徴天皇制が、70 年代前半にかけてどのように展開したのか、それが国内外の天皇観にどのような意味
を持ったのかを考察し、戦後日本における象徴天皇制の展開過程について解明することを課題とする。
第一章「戦後の昭和天皇外遊構想」では、戦後保守政権の昭和天皇外遊構想を検証し、1960 年代の天皇
外遊の模索が、70 年初頭にいかに政策決定されていくのかを明らかにした。第一節は、池田政権の構想を
分析した。池田政権は 1960 年に天皇外遊を可能とする法制化(
「国事行為の臨時代行に関する法律」
)を推
進し、将来の天皇外遊実現の基盤を形成した。だが、法案をめぐる国会審議では、天皇外遊を見据えた議
論が展開され、天皇の戦争責任問題や天皇外遊の意思決定のあり方に議論が及び、天皇外遊の実現までに
は至らなかった。第二節は、外務省の構想と佐藤政権の構想を分析した。1969 年の外務省内の天皇訪米構
想を契機とし、天皇外遊は 70 年初頭に佐藤政権内で具体化した。佐藤栄作首相は、内閣、外務省、宮内庁
間で極秘に計画を進め、天皇外遊の先例化を第一義とする方針を示し、戦後初の天皇外遊である訪欧を決
断した。以上、戦後保守政権の天皇外遊構想は、戦後一貫して志向してきた天皇の「元首」化に沿ったも
のであった。すなわち保守政権は、天皇外遊の法制化と政策化を推進し、天皇「元首」化の定着に向けて
2
着手し始めたのであった。
第二章「1971 年の昭和天皇訪欧の外交史」では、戦後初の昭和天皇外遊である訪欧の政策決定過程を検
証し、その歴史的意義を明らかにした。第一節は、天皇訪欧の対外交渉における政治力学を検討し、主に
イギリス政府との交渉過程、天皇訪西独漏洩問題を分析対象とした。第二節は、天皇訪欧の正式決定と国
内外の反応を検討した。第三節は、天皇訪欧をめぐる抗議行動問題を検討し、①当初より天皇外遊に厳し
い姿勢をみせたオランダ政府との交渉過程、②日本政府による天皇の戦争責任対策の欠如について考察し
た。第四節は、天皇訪欧の実相とその意味を検討し、戦後初の天皇外遊が「センチメンタルジャーニー」
とはなり得ず、海外における天皇の戦争責任問題を顕在化させたことを明らかにした。以上、佐藤政権は
天皇外遊を実施し運用面から天皇の「元首」化を推進し、象徴天皇制を展開させた。天皇訪欧は成功と失
敗が混在するものであったが、保守政権は、天皇外遊の先例化を達成すると同時に、海外における天皇の
戦争責任問題を解消させる必要性を知る機会となった。すなわち、1971 年の昭和天皇訪欧は、まさに佐藤
政権が志向した天皇外遊の先例化のための政策であった。
第三章「昭和天皇訪米問題の政治力学―1971〜1974」では、天皇訪米問題の始動からフォード大統領訪
日までの時期を分析対象とした。主な分析視角は、各政治勢力の天皇訪米に対する推進と反対の論理であ
り、①保守政権の訪米推進の論理、②保守政権と宮内庁の対立の論理、③反対勢力である野党各党の論理
を考察した。天皇訪米問題は、日米両国の思惑が交錯するなかで始動し、その構造は、天皇訪米を望む日
本政府に対し、アメリカ政府が応じるものであった。佐藤首相は、アメリカに礼をつくすため天皇訪米を
アメリカ大統領の訪日より先に実現させる構想を持ち、対するニクソン政権は日本側の期待に応えること
で、いわゆるニクソン・ショックで揺らいだ両国関係のさらなる悪化を防ごうとしたのであった。こうし
た日米間の構造は、次の田中政権でも変らずむしろ加速したといえる。田中角栄内閣は、外務省主導で天
皇訪米を推進し、1973 年秋の天皇訪米をアメリカ政府と内々に合意した。そこには、田中自身の実行力を
アメリカ政府に示し、天皇訪米により日米関係の緊密化を図ろうとする思惑が存在した。だが、天皇訪米
決定の追認を迫る田中内閣の姿勢は、宮内庁との閣内不一致を招き、さらに野党の社共両党が天皇訪米反
対を表明し、政治問題化してしまった。窮した田中首相は、天皇外遊(訪米)を皇室の決定事項とする憲
法解釈・運用を表明し、野党の追及回避に徹した。対する社会党は田中内閣に天皇外遊(訪米)の意思決
定の明確化を迫る一方、象徴天皇制を肯定し保守政権の政治利用を追及する過程で、保守政権の憲法解釈・
運用を是とした。共産党は天皇訪米を違憲とみなし、一貫して反対論を展開し、必ずしも野党共闘とはい
かなかった。天皇訪米をめぐり国論が二分するなか、1973 年訪米は、昭和天皇の決定により中止となった。
田中首相はアメリカ政府に訪米中止の非礼を詫び、再び早期実現で合意するが、同年 6 月の「増原事件」
、
74 年の「御訪米錯覚事件」など内閣・外務省の失策が重なり、天皇訪米は白紙還元となってしまった。野
党だけでなく自民党内からも反発が起こり、宮中の支持をも失うようでは、天皇訪米の決定は困難な状況
であった。それゆえ、1974 年にフォード大統領が訪日し天皇訪米に合意するものの、政治力を失った田中
首相は在任中の天皇訪米を断念したのであった。以上、保守政権は天皇訪米を推進し、憲法の解釈・運用
を積み上げることで象徴を「元首」と位置づける解釈をより一層定着させる一方、社会党は保守政権との
対抗のなかで象徴天皇制を肯定し、立憲君主制的に憲法を解釈・運用することを是とした。以上は、1960
年代前半に曖昧な制度として定着した象徴天皇制が、70 年代前半の政治的文脈のなかに深く浸透し、天皇
訪米問題をめぐる保革対立を通して、象徴天皇制を立憲君主制的に解釈・運用することで事実上一致した
実相を示すものであった。
第四章「1975 年の昭和天皇訪米の外交史」では、1975 年秋における昭和天皇初の訪米を検証した。主に、
天皇訪米をめぐる日本政府とアメリカ政府の政治的目的に着目し、その歴史的意義を明らかにした。第一
節は、三木政権が、天皇の答礼訪問(訪米)をいつ、どのように決定に導いたのかを考察した。三木武夫
内閣は、天皇訪米決定のタイミングを慎重にはかり、国会答弁においても前政権の憲法解釈・運用を踏襲
した。そして、1975 年 2 月下旬にアメリカ政府と訪米決定に向けて折衝を本格化させ、正式発表するに至
った。三木首相は国内外の政治日程をふまえ、天皇を政治に巻き込まないよう慎重に判断し、天皇訪米を
決断したが、野党各党の消極的または積極的な反対論を目の当たりにし、以後、日程・訪問先から政治性
を極力排除し儀礼的な訪問となるよう配慮しなければならなかった。第二節は、天皇訪米政策の展開を検
証した。日本政府は、天皇の戦争責任問題をめぐる政策に注力した。政府は駐米大使館の情報収集に始ま
り、外務省と宮内庁との間で政策論の骨子を固めた。例えば、太平洋戦争をめぐっては、ホワイトハウス
晩餐会での「お言葉」やアーリントン国立墓地の供花で対応するとの方針をとった。さらに対米広報の一
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環として、天皇の戦争責任対策のための広報資料の作成、昭和天皇とアメリカ人記者との計 6 回の単独・
集団会見の実施などを展開した。一方、フォード政権は、他国の元首にはみせない厚遇を天皇に用意する
案を検討した。そこには、異例の厚遇を日本側にみせることにより、両国関係の強化につなげる思惑が存
在した。そのため天皇を厚遇しつつ、政治性を持たない儀礼的な行事の形成を試みたのであった。第三節
は、天皇訪米の成果と問題点を考察した。天皇訪米は日米双方の方針のもと結実し、日米両国で盛り上が
りをみせるなかで、おおむね成功に終わったといえる。だが、日本政府の天皇訪米政策は、日本国内に思
わぬ影響をもたらす結果となった。訪米後の国内では、
「開かれた皇室」を期待する報道が相次ぎ、続いて
天皇皇后初の共同記者会見では、昭和天皇の戦争責任観、戦争観など問う質問がなされ、それに対する昭
和天皇の発言をめぐり論争となってしまった。以上、保守政権は、天皇訪米を通した事実上の天皇「元首」
化を志向し、定着を成し得た。だが、天皇訪米を契機とした国内における天皇の戦争責任論の動向は、さ
らなる天皇外遊の継続を困難なものとし、昭和天皇自身の健康問題も重なったことで事実上不可能となっ
てしまった。それは、天皇訪米による「皇室外交」の展開が、象徴天皇制展開の障害となったことを意味
するものであった。
結論では、序論で提示した本論文の課題に対し答えを出した。本論文では、戦後日本における象徴天皇
制の展開過程を解明することを課題とし、それを解き明かす柱として昭和天皇「皇室外交」の形成と展開
の政治外交史を検証した。以上から、
「皇室外交」
、主に天皇訪米問題は、保守政権と左派勢力の対抗のな
かに天皇・宮内庁を巻き込みながら展開する各政治勢力の天皇観をめぐる相克であった。保守政権は天皇
に実質的な決定権を与える憲法解釈・運用を表明し、象徴規定を「元首」とする解釈を一層定着させた。
一方、保守政権と対決した社会党は、護憲の党として象徴天皇制の肯定を鮮明化し、保守政権に憲法解釈・
運用の明確化を迫るなかでそれを容認していった。それは、社会党が象徴天皇制を立憲君主制的に解釈・
運用することを是としたことを意味するものであった。以上、1960 年代前半に曖昧な制度として定着した
象徴天皇制は、70 年代前半の政治的な文脈のなかに深く浸透し、
「皇室外交」の推進をめぐる保守政権と左
派勢力の対立を通して、
「国家元首」である天皇を有す立憲君主制として事実上制度的に定着したのであっ
た。
戦後日本の象徴天皇制は、立憲君主制なのか共和制なのか、
「元首」は誰であるのか、など国家形態に曖
昧さを有す不完全な制度として出発し、1950 年代に各政治勢力の共通の見解なく定着した(冨永『象徴天
皇制の形成と定着』
)
。しかし、1960 年代前半以降の象徴天皇制の展開過程では、昭和天皇の「皇室外交」
をめぐって保守政権は天皇の「元首」化を推進し、社会党も立憲君主制的な憲法解釈を是とした。各勢力
は、積極的であろうが消極的であろうが、象徴天皇制を立憲君主制的に解釈・運用することで一致したの
であった。一方、欧米諸国もまた天皇外遊を重視し、自国の利益のために天皇を日本国の「元首」とみな
し厚遇した。それは、海外における天皇の「元首」化の定着を意味するものであった。すなわち戦後日本
の象徴天皇制は、曖昧な制度としての定着に終わらず、その展開過程における昭和天皇「皇室外交」の推
進により、対外的な「元首」天皇を有す立憲君主制として制度的に定着したのであった。しかし、天皇訪
米を契機とした国内における天皇の戦争責任論の動向は、さらなる天皇外遊の継続を困難なものとした。
それは、天皇訪米による「皇室外交」の展開が、象徴天皇制展開の障害となったことを意味するものであ
った。すなわち象徴天皇制は、天皇の戦争責任問題という負の面を内在したまま制度上定着したのであっ
た。
三、今後の課題
本論文で明らかにしたように、象徴天皇制は、昭和天皇の戦争責任問題という負の面を内在したまま制
度上定着をみたが、こうした象徴天皇制の問題を解消していったのが、現在の天皇(明仁)であった。過
去の戦争とは無関係な現天皇は、戦後、皇太子時代から天皇の名代として「皇室外交」を展開し、世界各
国で国際親善を果たしていた。即位後も現天皇は、
「象徴天皇」の役割を美智子皇后とともに模索し、保守
政権による政治利用の対象となることもあるとはいえ、
「皇室外交」を引き続き展開し、昭和天皇がなし得
なかった役割を果たし続けた。このように平成における象徴天皇制は、様々な模索のなかで新たな展開を
辿り、現在に至っている。昭和、そして平成という新たな時代を通じ、現天皇が模索し展開してきた象徴
天皇制は、少なくとも制度のみならず概念としても「完成」に近づいたようにみえる。
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だが、“象徴天皇制とは何であるのか”との問いに今すぐ結論を出すことは難しい。象徴天皇制という
制度がどのような構造であったかの本格的な検証は、近年始まったばかりである。1970 年代前半に「国家
元首」である天皇を有す立憲君主制として制度上定着した象徴天皇制が、80 年代以降にどう展開するのか
という問題は、残された課題といえる。今後は、分析対象の時期を 1980 年代に延ばし、現代日本の象徴天
皇制の展開過程を政治外交史的に検証し、その制度からみる象徴天皇制の構造をさらに解明していきたい。
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