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ウィラ ・ キャザーの描いた男性像にりいて くそのー

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ウィラ ・ キャザーの描いた男性像にりいて くそのー
ウィラ・キャザーの描いた男性像について(その1)・
桝 田 隆 ’宏
A Study oミfM en depicted by Willa Cather, part 1
Takahiro
Masuda
(1) ・●
Willa Cather
(1873-1947)。の描いた男性像について考える,にあたり,彼女の作品の中で初期か
ら中期にかけて沓かれたネブラスカを舞台とする開拓者小説O
Pioneers!,My丿咄函α,ノ£
・£α心
という三つの作品を取り上げて論じてみたい。大きく言って,rおお,開拓者よ!,』と「私のアン
トニーアjは開拓者の苦闘と成功を,『迷える夫人』はその敗北を描いたものである。前者は共に
ネブラスカの辺境開拓地ディヴァイド(
Divide)とその開拓に生きる農業移民を素材。としているが,
後者はディヴァイドに近い田舎町スウィートyウ,オーダー(Sweet
Water
)を舞台として西部の
鉄道建設に生・きた老開拓者とその若く美しい妻を描いている。 , 。・ 。 ・
いずれの作品も主人公は女性であるが,脇役や語り手としでヒロインと深く係わり彼女への評価
を与える者は,作者の分身1と覚しき若い男性であるバ「お机開拓者よ!」は第三者の視点から,
『私のアントニーア』は語り手の視点から,『迷える夫人』,は語り手と第三者の視点から描かれてい
る)。その組み合わせは,『おお,開拓者よ!』ではアレクサンドラ。・ベルグソン(Alexandra
Bergson
)とカール・リンストラム(Carl
シメルダ(Antonia
フォレスター(Marian
Linstrum
Shimerda)とジム・バーデン(Jim
Forrester)
),『私のアントニーア』ではアントニーア・
Burden
とニール・ヽハーバート(Niel
),『迷える夫人』ではメアリアン・
Herbert)である。。本稿の‘目的μ,
これら三つの組み合わせに重点を置きながら,三人のヒロイン達と様々な男性達との係わり合いを
通して,ネブラスカの辺境と開拓者の人生とい・う時・空の中で,キャザーの描く男性像について考
えることにある。 レ ●。\
そもそも農耕というものが女性によって発見され,そこでは女性が主要な役割を演じてきた2こ
とを思えば。大地の開拓を描く。『おお,開拓者よ!』・と。『私のアントニーア』に於て主人公が女性
となっているのは,取り立てて不思議なことではなかろう。それは,ギlリシア神話で農耕を司るデ
¬メーテールが女神であることを見ても明らかである。ま,た作品に即して考えてみても。。『おお,
開拓者よ!』の力点が作者の言う通り「辺境の自然の美。["the
と「開拓者のヒロイズムと勇気と力[“the
been plowed into the very furrows
beauty of the country ・1loved” ]3」
heroism and strength and courage of its people that had
of its soil"]4」を称えることにあり,一方,『私のアントニーア』
の力点が開拓者の生命力の豊かさを賛美することにあるとするなら,いずれの主人公も女性である
ことは,それなりの理由と意義を持,つている。・なぜなら,。アレクサンドラが女であることを殺して
生きたが故に,開拓期は勿論のこと,それが終了しても,女としての幸せを得ることが出来なかっ
た「哀れ(それは40歳を過ぎてやっとヵ−ルの妻となることは出来て’も,もはや子供の母となるこ
とは望みえないことの中にも見られる)」の・中に;開拓者として生き抜いた彼女の英雄的な「強さ」
が浮き彫りにされているのである5.
一方,辺境の大地と共に生きて10名もの子供を生み出す母な
る女性アントニーアこそは,開拓者の生命力の豊かさを象徴するのに一番相応しいものであろう。
(1)
82
高知大学学術研究報告 第35巻(1986)人文科学
次に,『迷える夫人』の主題が辺境の美しいものが醜いものによって犯され,そのなすがままになっ
てゆく経過にあり,敗北してゆく老開拓者の妻が西部そのもの6を象徴している・とするなら,語り
手の憧れの的であった若く美しい夫人が,荒々しく醜い男達に身をまかせるまでに腐敗し堕落して
ゆく姿の中に,西部と人間の変貌,不毛性への推移を痛切に読み取ることが出来る。主人公が女性
であるからこそ,三作品の力点が強められ,作品に深みを与えているのである。
(2)
以上の点を踏まえた上で,少年時代にこれらのヒロイン達と深く係わり,彼女達に評価を与える
男性達について考えてゆきたい。彼等は一様に西部の辺境と開拓者を高く評価し,賛美しているが,
これら両者,特にネブラスカの辺境と移民開拓者は,・当時のアメリカではどう見られていたのであ
ろうか。キャザーがネブラスカの辺境開拓地ディヴァイドを舞台として,ぞの開拓に生きる農業移
民の人生を描いた最初の大作「おお,開拓者よ!」を発表した19!O年代を見てみよう。彼女は次の
ように述べている。
(1)
As everyone
throws
knows,
Nebraska
is distinctly declassfe・as a literary background;
the delicately atuned criticinto a clammy
ic voiced a very general opinion when
braska, no matter who
(2)
humorous
he said:“I simply don't care a damn
had never appeared
sketches; and
the humour
strength, and his inability to pronounce
l‘The drawing-room
reading about were
its very name
... a New
what
York
crit-
happens in Ne-
writes about it.”7
At that time, 1912, the Swede
in broadly
shiver of embarrassment.
was considered
on the printed page in this country eχcept
was
based
on two peculiarities: his physical
the letter“j.”
8
the proper
setting for a novel, and the only characters worth
smart people or clever people."9という当時にあって,よりによってネブラスカ
の辺境とスウェーデンやボヘミアから来た農業移民という文学的素材などは,全くのお笑い草であ
ったのである。ヘンリー・ナッシュ・スミスも,その著rヴァージンランド』でアメリカ人の伝統
的な西部観,中でも内なる西部10への見方について次のように述べている。
(1)
His [frontier farmer]sedentary
could
and laborious calling stripped him of the exotic g】amor that
be exploited in hunters and scouts of the Wild
West. At the same
tus made it impossible to elaborate his gentility.Whatever
stractions about the virtues of the yeoman,
emotions
aroused
by the Western
time his low social sta-
the orators might say in glittering ab・
the novelists found themselves
farmer's degraded
unable to control the
rank in the class system丿
(訳)住居も変えずただあくせくと働く彼の職業は,未開の西部の猟師や斥候なら作り出せるエ
キソチックな魅惑を,彼から奪い去るものであった。同時に,彼の低い社会的地位は,彼を
貴人として描き上げることを不可能にした6演説家達がどれほど自作農の美徳についてまば
ゆいばかりの抽象的賛辞を述べたてようと,小説家の方は,`西部農民の階級的に卑賤とされ
た地位がよびさます感情を制御できないでいる自分を見出したのである。
(2)
From
Cooper・S day to that of Hamlin
Garland、 writers abo、ut the West
(2)
.
had to struggle against
(桝田)
ウィラ・・キャザーの描いた男性像について(その1)
the notion that their characters had・no claim upon
83
the attention of sophisticated readers, except
through their alarming or at best their picturesque lack of refinement:12
(訳)クーパーの時期からハムリン・ガーランドの時期に至る迄,西部を描く作家達は,憂うべ
き,ないし良いところ画趣をそそらせる洗練の欠如という点を別にすれば,彼等の作る人物
など目の肥えた読者の注目を魅く権利はない,という通念とたたかわなくてはならなかった。
要するに,西部とは「原始的で,それ故に洗練を欠いた「’‘primitive
所であり,そこに住む農民とは「社会的劣等者[“the
Western
and・therefore unrefined” P3」
farmer's social inferiority”]14」と
考えられ,社会的地位の低い西部住民の中でも更に一段低いものと見なされてい。たのである。
しかし,キャザーにとっては,その辺境の自然と開拓者こそが,最も第一義的な価値を有するも
のであった。
1883年4月彼女が9歳の時,一家はネブラスカ州ウェブ馮ター郡にある開拓地ディヴ
ァイドに移住したのであるが,当時のネブラスカは未だ未開の大草原であり,そこには厳しyヽ風土
のもとで新天地の開拓に従事しているヨーロッパから来た移民達が住んでいた。東部から来た幼い
キャザーの眼には,ネブラスカの辺境の自然とそこに生きる開拓者の姿は,生涯にわたって消えな
い「最も深い感動["strongest
emotions”]15」と「最も鮮明な心象["most
vivid mental pictures”]16」
を与えたのである。彼女にとってネブラスカの辺境の地は,〈美>と〈豊饒>と〈力>と<光>を
秘めた[“It
seemed
beautiful to her, rich and strong and glorious月17国造りの素材であり,そこに
生きる開拓者とは辺境の荒地という「物そのもの」の中に,ヨーロッパ文化を基盤とする「乳と蜜
の流れる土地[“a
land flowing with milk and honey” ]18」という「観念」を享受し,その「観念」
を現実のものとするために生きた「想像力」と「強さ[“strength”]19」とを兼ね備えた英雄的な人
間達であった(A
pioneer should have imagination, should be able to enjoy the idea of things more
than the things themselves. [p. 48])。『おお,開拓者よ!』の中で作者が感動を込めて述べている
ように,こうした開拓者の心の中からアメリカの歴史は始まったのである20.
と見てくれば,キャザーは自らの「基本素材[“basic
material"]21」であるネブラスカの辺境と
開拓者を描くにあたり,とにもかくにも上に述べた社会通念を強く意識せざるをえなかったのは当
然のことであろう。「私のアントニーア」でディヴァイドの農業移民の娘達にあからさまな偏見を
示すネブラスカの田舎町ブラック・ホーク(Black
Hawk)の人々を酷評し,痛罵するジムの言葉
の中にキャザーその人の怒りを見ることが出来よう22.アルフレッド・ケイジンが,キャザーは,
そのノスタルジアの激しさによって「彼女は,自分が失った世界の価値の基準こそ,第一義的な基
準であって,その他の一切のものは,それの堕落した姿に過ぎないという確信を与えられていた
["the very intensity of her nostalgia had from the firstled her beyond
the conviction that the values of the world she had lost were
the primary
nostalgia;it had given her
values, and everything else
merely their degradation”]23」と述べているように,キャザー自身は当時の社会通念がどうであろ
うと,ネブラスカの辺境とそこに生きる開拓者を何よりも高く評価していたのである。とすれば,
作者の分身とも言うべき語り手や脇役の役割が重要な位置を占めてくるのは言うまでもなかろう。
語り手がネブラスカの辺境と開拓者の賛美を単なる一人よがりの底の浅い’ものにするのではなくし
て,普遍性を帯びた確かなものに高めるためには,彼等はまず空間に於てぱa
pariSh”24のみなら
ず“the world”25を,時間に於てはその<意義>と同時に<重荷>をも深く知る知的な人物でなけれ
ばならないのである。事実,カールもジムもまたニールもmovabilityが高く時間意識を深く持つ
という意味で<オデュッセウス>と重なるところのある人物として描かれている。具体的に見てみ
よう。
(3)
84
高知大学学術研究報告 第35巻(1986)人文科学
カールはディヴァイドからシカゴ,アラスカヘ,ニールはスウィート・ウォーターからボス,トン,
ニューヨークヘと移り住み,幾度かのヨーロッパ旅行も経験して,いると述べられているが,何と言
っても上記の意味での<オデュッセウス的人物>の典型は一番作者の実像と重なるところの多い
「私のアントニーア」のジムである。彼は10歳の少年時代から41歳の現在に至る迄,ディヴァイド
からブラック・ホ,-ク,リンカーン,ボストン,ニューヨークヘと移り住み,ヨーロッパヘも度々
出かけながら,心は絶えずディヴァイドにひかれる人物であ゛る。コ’常識的に言って,
movabilityの高
さは時間意識の深さと結び付くものであろうが,事実,これら三作品の時間構成には『オデュッセ
イア』と重なる手法が用いられている(その典型は,キャザユの作品jの中では『オデュッセイア』
の影響を最も強く受けている『私のアントニーア』に見られる)’。すなわち,ある人物に一定の時
間を置いて故里へ帰らせ,そこがいかに変わっているかを認識させる手法である26.
第一に,カールは12年ぶりに故里のディヴァイドにアレクサンドラを訪ね,彼女によって不毛の
草原が豊かな田園に姿を変えられているのを眼のあたりにして,“‘What
have
made
of this, Alexandra.'”(p.
a wonderful
place you
107)と賛嘆の声をあげる。次に,ジムもオデュッセウスと同
じ20年という歳月を置いてディバイドに幼馴染みのアントニーア牽訪ね;辺境の大地と自らの家族
を豊饒なる姿に変えて,それら両者にヨーロッパ文化をも再生させたヒロインと再会し,彼女の生
み出した「生命の爆発[“a
veritable explosion of life"](p.
太古の種族の始祖のように,豊かな生命の源なのだ[“She
ers of early races月(p.
339)」に眩母を感じながら,「彼女は
was‘arich mine of life,like the found-
353)」とアントニーアを賛美するgカールもジムも都会生活に疲れ,自
らの内面が不毛であるだけに,彼等は今更ながらネブラスカの田園と時間の持つ意味を深く認識せ
ざるをえないのである。第三に,カールやジムと違って開拓者の敗北を見つめるニールは2年ぶり
に夏休みを利用して帰省し,フォレスター夫妻も彼等の家屋敷も成り上がり者のアイヴィ・ピータ
ーズ(Ivy
Peters)のなすがままになっているのを見て,やりきれない思いを抱く。その冬,終日
日時計の前に座って時間が蝕まれていくのをじっと見つめることの多かった老開拓者は,ついに帰
らぬ人となる。たとえ落日の時代に属するものにせよ,ニールは開拓者の栄光の時代を知っている
だけに,時間の持つ重荷を哀しいまでに認識せざるをえないめである。カールやジムが12年や20年
という長い歳月を置いて開拓者の栄光の姿に出会うのは,まず何よりも辺境の開拓がそれだけ大変
な事業であったことを示し,それ故に,それを成し遂げたヒロイン達にヒロイックな輝きを与える
ものである。一方,ニールの場合が2年という短い歳月なのは,開拓者の落日‘の時代から敗北,死
へと至る時間がそれほど短かったことを示すものであり,それに対する作者キャザーの深い哀惜を
示すものであろう。 dr・・ I・
以上見たように,作者の分身と思われる脇役や語り手はすべて男性であり,その特色は,彼等の
いずれもが,広い世界と時間の持つ意味を深く知るという意味で,オデュッセウスと重なるところ
のある人物であると言えよう。これが,彼等三人に共通する特色である。作者が自分の分身とも言
うべき人物達を男性として登場させていることに関して,それはキャザーの“the
strong masculine
element rooted deep in her personality”27からくるものであるとウッドレスは指摘している。しかし,
これが理由のすべてではなかろう。彼等はヒロイン達と異性としで係わる28脇役であると同時に,
彼女等への決定的な評価を与える人物となっているという点を見落としてはならないのである。既
に見たよ今に,当時のアメリカ人の西部,中でも内なる西部,観に抗して,ネブラスカの辺境と開
拓者に普遍的価値を与えるためには,彼等は空間と時間を多層的に捉える知的な人物でなければな
らなかったのであり,そういう意味での<オデュッセウス的人物>には,
movabilityの面からだけ
見ても,男性の方がより相応しいとも言えるからである。キャザーの文学について考える時,作者
がギリシア・ローマの古典文学に深く通じていだclassicist”29であったことは忘れてはならない重
(4)
ウィラ・キャザーの描いた男性像1,こついて.・(その1)
,(桝田)
85
要な。ことである。
(3)
では次に,年上のヒロイン,達とその賛美者という係わり合いの中で,彼等にどんな特色が見られ
るか,そのことについて考えてみたい。最初に,開拓者の成功を描いたrおお,開拓者よ!』とr私。
のアントニーア』のカールとジムを見てみよう。彼等とヒロイン達との再会に見られるように,カ
ールとジムは長い都会生活の中で,不毛な<死>のイメージを色濃く漂わせているのに対して,辺
境の大地と共に生きたヒロイン達は<生>のイメージで満ちている。ヒロイン達に対する彼等の賛
美は,言葉を変えて言えば,彼女達の生み出した生命への賛美であり,それは,つまるところ,母
なるものへの賛美である。そして母なるものとは,ヒロインのみならず辺境の大地と開拓者の母国
ヨ ̄ロッパをも含んでいる。カ ̄ルとアレグザンドラとの係わり。声いから見てみようoアレクサン
ドラは男物の外套を着て,アマゾンにもたとえられる強さを待った女性ではあるが,しかし,その
内面には慈愛に溢れた母の姿を秘めている3o。夢破れた父親と共に開拓地を立ち去ろうとするヵ−
ルに溢れる涙を拭いながら,彼の成長を願う彼女の言葉の中に母なる女性の持9慈愛を感ずること
が出来る。その言葉を見てみよう。
"Yes, yes, Carl, I know.
You
You are wasting your li恥here. You are able to do much
are nearly nineteen now,
away."(p.
and I wouldn't have
you stay. I've always
hoped
better things.
you would
get
51)
一方,カールは彼女よりも5歳も年下で,身体も精神も彼女とは対照的で弱々。しい人間である。
アレクサンドラが“tall,
strong" ( p. 6 )であるのに対して,カールぱ‘slight
and narrow-chested” (p.
9)であり,彼女の眼が常に前向きに未来を見つめているのに対して,彼の眼は少年の頃から既に
過去を振り返っているようであったと述べられている31。アレクサンドラは,不毛の草原という「物
そりもの」の中に未来の豊かな田園とい。う「観念」を夢みる「想像力」と,その「観念」を現実の
ものとする「強さ」を待った人間であったが,ヵ−ルはそのいずれにも欠ける人物である。それは,
アレクサンドラが開拓に成功した大地を見で‘l
disappointed in my
own
would
never
have believed it could be done. I’m
eye, in my imagination.'" (p. 108)とアレクサンドラに語る彼自身の言葉に
明らかである。先の見えない彼は,自分の好きな木彫り彫刻師を志してディヴァイドを去るが,結
局は時代の犠牲者,「敗北者[“a
failure”](p. 122)」となって彼女の前に現われる。彫刻師とし
て失敗した彼は,次にアラスカの金鉱採掘に手を出し,幸先のよいスタートを切ることにはなるが,
これもすべて偶然と人の助けによるところが大きいのである。彼は次のように述べている。
,'‘Yous ee, ray dear, l happen
to have
an honest partner. I・trust him with everything. In fact,it's
been his enterprise from the beginning. you know. I'm in it‘onlybecause
he took me in."(pp-
301-302)
つまるところ,カールは知的なロマンティストではあっ,ても,その人生には不毛のイ・メージが色
濃く,自分一人では生きてゆけないタイプの弱い人間である。だから,彼の深層意識の中に永遠に
母なるものへの憧れとそうした女性と一つにな,りたいという願望があったとしても,それは肯首で
きることである。彼がアレクサンドラによって豊かな生命を与えられた辺境の大地を眼のあたりに
(5)
86
高知大学学術研究報告 第35巻(1り86)人文科学
して,“‘How fine you are !’”
(p. 106)と叫んだのは,内面の不毛な男が母なる女性に捧げる賛美で
もあったのだ。
ヵ−ルにとって年上の女性アレクサンドラは,最初から母とも言うべき人物だったのではなかろ
うか。作品の中で頼りにはならない父親の姿が描かれていても,母親への言及が一言もないのは意
味深長であり,異性間なら当然存在してもいいはずの性的要素がガールとアレクサンドラの二人に
は最初から欠けている。と見てくれば,最終的にヵ−ルがアレクサンドラと結ばれるのは,母なる
女性に憧れ,その女性と一つになることを願うカールの願望充足と捉えることが出来るのである。
ストークは次のように述べている。
The fina】marriage between
bout it 一 the wish
perhaps
attraction a strong woman
Carl and A】exandra has something
of a wish fulfillment quality a-
of being united with the eternal・ mother. For
sometimes
Alexandra
it is the
feels for a weak, biddable man.32
カールの母なるものへの賛美は,アレクサンドラのみならず辺境の大地や自然にまでも及んでい
る。なぜなら,大地や自然と共に生きる人生には母なるものが生み出す豊かな生命があるからであ
る。大地は開拓初期の荒々し<不毛な<男>のイメージから,次に幸福の溜め息をついて摯に身を
まかせる性的,生産的な<女>のイメージを経て,最後には実り豊かな生命を生み出す<母>のイ
メージヘとその姿を変えていることに注意しておこう33。
カールが都会生活に空しさを痛感するのは,そこが不毛だからである。ア・レグザンドラに語る彼
の言葉を見てみよう。
“Freedom
background
so often means
that one isn't needed anywhere.
of your own, you would
rolling stones like me. We
When
are all alike; we
one of us dies, they scarcely know
man are our mourners,
Here you are an individual, you have a
be missed. But off there in the citiesthere are thousands
have
where
no ties, we
to bury
know
nobody,
we own
of
nothing・
him. Our landlady and the delicatessen
and we leave nothing behind us but a frock・coat and a fiddle,0r an easel,o「
a typewriter, 0r whatever
tC」01we got our living by; All we have ever managed
to do is to pay
our rent, the exorbitant rent that one has to pay for a few square feet of space near the heart of
things. We
have no house, no place, no people of our own. We live in the streets,in the parks, in
the theatres. We
sit in restaurants and concert halls and 100k about at the hundreds
kind and shudderグ
of our own
(pp. 122-123)
だから,彼は主体性には欠けるとはいえ,最後には都会生活に見切りをつけ,「辺境の夢見る人
間["dreamers
on the frontier”](p.301)」の一人としてアラスカの地に生きる決心をするのであ
る。ついでながら,『おお,開拓者よ!』は自然(新大陸の辺境の大地)と人間(旧大陸から来た
開拓者)・の闘いという古典的テーマを用いて描かれた叙事詩的な作品であり,叙事詩的な作品であ
るからこそ,カールの視点からではなく第三者の視点から描かれ七いる34。その第三者が「おお,
開拓者よ!」をギリシア・ローマの古典文学の世界と深く幾重にも結び付けていることめ中に,ヨ
ーロッパに対する作者キャザーの並々ならぬ敬愛と賛美を読み取がことが出来るのである。
では次に,「私のアントニーア」の場合を見てみよう。作品の中で見るかぎり・,カールは少年時
代から母の居ない人物のように見受けられるが,『私のアントニーア』。のジムもまた子供時代に母
を亡くしている。彼も母なるものを追い求める人物となる素地はあったのである。
(6)
10歳にもならな
(桝田)
ウィラ・キャザーの描いた男性像について(その1)
87
い内に両親を亡くして孤児となったジムは,東部から開拓地ネブラスカの辺境・ディヴァイドに住む
祖父母の’もとに引き取られる。その旅の途中で,ジムは彼と同じ目的地へ向かうボヘミアからの開
拓移民のー家族と出会う。この家族の娘で4歳年上のア’ントニーアこそキャザーの作品の中で「生
命の炎[“the
fire of life”](p. 336)」に満ぢ溢れ,・永遠に母なる女性の最たるものである。語り
手ジム・の人生は,このアントニーアとの運命的な出会いから始まっている。作品(本文)は語り手
ジムの成長段階に従った次の五つ・の時代から成り立っているに…ディヴァイドでの子供(小学校)
時代 2・‥ブラック・ホークでの中学・高校時代 3…リンカーンでの学生時代(ネブラスカ大
学)4‥;ボストンでの学生時代(ハーヴァード大学)5・‥前巻より20年の歳月が過ぎ,ニュー
ヨークで大西部鉄道会社の顧問弁護士となっている時代。順を追ってジムとアントニーアの係わり
合いを見てみよう。
眼や手や肌の色などという身体の特色を通して人物を象徴的に語ることはキャザーのよく用い゛る
手法であるが,・少年ジムの見たアントニーアは眼も肌も髪もすべてその色ぱ‘brown"
(・p.23)で
あり,中でもその眼は「大きくて,森の中の茶色の池に映る太陽のように暖かく光に溢れていた
[“They l Antonia's eyes l were
big and warm
and full 0f light,like the Sun・
shining on brown
pools
in the wood川(p. 23)」と述べられている。「茶色」は母なる大地に最も対応する色であり,暖か
く光に溢れる太陽と水は大地の上で生命を生み出し,育む二大根源であるとい゛うことから考えるな
ら,アントニーアはまさしく母なる女性として生まれついていると言うことが出来よう。
このアントニーアをジムは,子供時代から思春期にかけて彼の隣人にして一番親しい友達として
持つことが出来たのである。幼くして母を亡くしたジムにとって彼を見守り,その成長を願う母親
の役割をつとめるアントニーアは常に母とも言うべき女性であり,その存在がいかに大きいもので
あったか,問うまでもなかろう。わずか4歳しか違わない少女なのに,時々アントニーアがジムに
対して示ず‘a
superior tone” (p. 43)や“protecting
manner”
(p. 43)にジムは子供時代には反発し
たことがあったにしても,しかし思春期に入って自我に目覚めたジムがアン’トニーアヘの評価を多
層的,客観的に深めてゆく・中で,益々彼女は彼の心の冲で母性を強めてゆくのである。それは,思
春期に入ったジムが繰り返し見る性的な夢の中に彼女が決して現われてはこないという事実を見て
も明らかである35. ‥
アントニーアの母性は,やがて二人が相前後して巻き込まれる<性>と連関する試練を経ること
によってジムには決定的なものとされる。ジムから具体的に見てみよう。アント二−アと別れてネ
ブラスカ大学へ進学したジムは,その地で大きな影響を受ける二人の人物に出会う。一人はラテン
語科の主任ガストン・クラリック(Gaston
Cleric )で,もう一人はディ’ヴァイドの開拓移民の娘
でドレスメーカーをしているりーナ・リンガード(Lena
Lingard )である。ジムは前者によって
ヨーロッパ古典の世界へ眼を開かれ,後者によってその世界と自己の人生とを互いに連関したもの
と捉える。その中で,開拓地ディヴァイIドを“I
was the first to bring the Muse into my country.”(p.
264)というウェルギリウスの故里と同様,ミューズの神々を連れてくるべき場所として位置付け,
そのために生きる人生を価値あるものと捉えるに至るのである。
しかし結局,彼は後者との付き合いの中で,徐々に不毛な沈滞へと陥ってゆく。なぜなら,リー
ナはジムの評価する移民娘の一人ではあるとしても,都会のアメリカナイズされた生き方と優雅な
独身生活を選ぶ女性であり,つまるところ,彼女はその性的魅力で異性を引き付け,“out
head”(p.
166)にさせては,相手を「不安[“restless”](p.
223)」と沈滞に陥れるタイプの女性
だからである。二人の関係は,やがてガストン・クラリックの知るところとなり,急に終りを告げ
る。彼はハーヴァード大学へ転出するのを機会にジムをそこへ転学させるととにしたからである。
しかし,ジムはアントニーアとは対照的なりーナを知ることによって,結果的には一層強くアン
(7)
of his
高知大学学術研究報告 第35巻(1986)人文科学
88
トニ。−アの母性とその真価を認識することになる。なぜなら,前者ぱ"You
school and make
something
are going away
to
of yourself. I’m just awful proud・of yo肌:”(p. 224)という言葉からも明
らかなように,ジムを未来に向けて前進させる母なる女性であっなが,後者は彼を現在とい。う一点
にのみ引き留めるカリュプソ的な女性であったからである36.
次に,アントニーアの性的試練について見てみよう。=ジムがガストン・クラリックという外側の
力によって性的なトラブルから逃れたのに対して,アントニ←ア,は身をもって体験することによっ
て自分の本当の生き方を見出すことになる。アントニーアは汽車の車掌と恋に落ち,彼と所帯を持
つべくデンヴァーヘと旅立つが,結局は男に捨てられ,里帰りして私生児を生むことになる。しか
し,都会からディヴァイドに帰り,子供を持うて初めて,アントニーアは開拓地に生きる人生に意
義を見出し,子供の未来のために生きるという使命を自覚する。生まれながらの母なる女性である
からこそ,アントニーアは結婚の失敗という不幸な出来事も人生の転換点,カイロス的性格を持つ
ものへと変えてゆくのである。ジムはそうしたアントニーアの姿に心を打たれて,彼女こそ本当に
“anatural・born mother” {p. 318)であると思うのである。
しかし,ジムはアントニーアの母としての姿に感動すればするほど,もはや彼女が自分一人の
<母>ではないことを痛く知らされ,その結果,彼は母なる彼女を独占して同じ時間を共有するこ
との出来た子供時代へ帰りたいという強い退行願望を抱くのである。「もう一度子供に戻れて,そ
して僕の生涯がそこで終ってくれればよいのに[“l
my way
wished l could Be a littleboy again, and that
could end there”](p. 322)」と願うジムの言葉は他ならぬその証左であり,アントニーア
を追い求める彼の後ろ向きの姿勢からくるものなのである。 ,
逆境の中でも未来を見つめる母なる女性アントニーアとエリートの道を歩みながらも目を過去へ
と向けるジム。両者の対照的な視線を見るなら,時間の経過と共に前者が豊かな<生>のイメージ
ヘと上昇してゆくのに対して,後者が不毛な<死>のイメージヘど下降してゆくのも一面自然なこ
とであろう。ジムは20年ぶりにアントニーアを訪ね,辺境の荒れ野を豊かな大地に変えて,再婚し
て10名もの子供を持つ彼女と再会する。外面的には大西部鉄道会社の顧問弁護士というエリートと
はいえ,内面は不毛であり,反りの合わぬ妻との間に一人の子供も居ないジムか,アントニーアの
生み出した「生命の爆発」に眩母を感ずるほどの衝撃を与えられたのも納得できることである。し
かもジムを感動させたことには,アントニーアの家族と大地の中にはミューズの神々,ヨーロッパ
の文化が再生されている。それは,アントニーアの農場の中心に作られた果樹園と亡きシメルダ氏
がボヘミアで持っていた美しい庭園との類似や新大陸では決して音を奏でることのなかった祖父の
ヴァイオリンを独習ながら大変上手に弾きこなすレオ(Leo)の姿に明らかである37。彼が復活祭
の日に生まれているというのは,極めて象徴的である。
とすれば,ジムが現実に自らの不毛な姿と彼女の生み出した豊かな生命を対比すればするほど,
彼は母なる女性としてのアントニーアに「太古の種族の始祖のように,豊かな生命の源」という決
定的な評価と賛美を与えざるをえないのは当然のことであろう。アントニーアを母なる女性として
追い求めてきたジムの長い旅は,現実にその理想の姿となった彼女への尽きることのない賛美とな
って実を結んだのである。
ジムのアントニーア賛美は,カールと同様ヒロインの生活空間である辺境の自然とそこで営まれ
る定住農耕社会,ならびに彼女の母国ヨーロッパにまで及んでいる。子供のジムが開拓地の自然の
中で“entirely happy"
(p. 18)を感じて,“At
any rate, that is happiness; to be dissolved into some-
thing complete and great” (p. 18)と思ったのは,自然とはまず何よりも母なるものであったから
である。ジムの自然への賛美は,当然都会への否定と農耕社会への肯定という評価へと連なるもの
である。
20年ぶりにディヴァイドを訪ねたジムが,アントニー,アの農場で昔ながらの幸福を感じ
(8)
(桝田)
ウィラ・キャザーの描いた男性像について(その・1)
“my
mind
89
was full of pleasant things” (p. 370)と思っだのは。,そこでは過・ぎ去った過去が現在の,
中に意義ある形で再生し,豊かな生命に満ちているがらである。。母なる‘自然を相手として生きる農
耕社会は<生>と<死>と<再生>とが回帰的・に循環する世界であり‘,I したがっIて究極的に・は
<死>は存在しえないのである38.それ,は,植物神話を代表するギリ・シア神話のハー=デースとデー
メーテール親子の物語を見ても明らかであろう。ジムが都会は勿論のこと,ネブラスカのノjヽさ・な町
でさえ空しさを,“the
curious depression
that‘ hangs over・littletowns” (p. 370卜を痛感するのは,
そこでは過去と現在とが不毛に繋がっているからである。。不毛の思いを・色濃く抱いて,母なる女性に
憧れる孤児ジムは・,あぐまでも<生>の賛美者なのである。 。
次に,ジムのヨーロッパに対する‘高い評価について見てみたい。確認しておきたいことは,最終
的にジムがアントニーアを「豊かな生命の源」として`高く賛美したのは,彼女が豊かな田園と家族
を作り上げたという外面的偉業に加えて,それら両者に父シメルダ氏の体現していたヨーロッパ文
化をも再生させだからなのである。ネブラスカの辺境ディヴァイドと開拓者アントニーアの人生が
ウェルギリウスの故里と彼の人生に重なるものであることは既に見た通りーである`が,それら両者は
また聖書の世界とも連関する価値を持つものとして捉えられている。ジムはぎりげなく旧約聖書の
言葉を用いて辺境の地を“The
consumed”39腫p.
書の示ずholy
whole
prairie was like the bush that burned
with fire and was
not
40)と述べていゐが,これは「燃えれども。焼け尽きぬ芝」に似た辺境の大地が聖
ground”40であり,その「聖なる地」へやって来たアントニーアが神から大きな使命
を託されたモーセ・的人物であるごとを裏付けるものとして解釈でき’るのである。・事実,ヨーロッパ
から移住して長い苦難の歳月の後に「乳と蜜の流れる土地」を作り上げ,そこに「生命の爆発」と
も言う・べき沢山の人間を養い育。てる彼女の姿は,モーセと重なっ,ていIる。ネブラスカの辺境と開拓
者を称える『私のアントニーア』で語り手のジムが,その自然と人間をヨーロッパの文化√わけて
もその二大柱である聖書とギリシア・ローマ古典文学の世界に幾重にも結び付けて捉えていること
の中に,・彼のヨーロッパに対する深い敬愛を見るとと・が出来るのである。 一
以上見たように,rおお,開拓者よ!』とr私のアントニーア』に於ける゛カールとジムは/既に
少年時代から母の愛を知らなり孤児的な人物で,成長して外面的には成功しても内面は不毛な「敗
北者」であり,それ故に徹頭徹尾ヒロインを中心とした母なるものに憧れ,彼女達の生み出した実
り豊かな生命を賛美する者である。これが,カールとジムに共通する顕著な特色である。アントニ
ーアのモデルが実在のアンナ・パヴェルカ(
Anna
Pavelka)
であ゛ることを考えれば,これら両者
特に後者のジムの中に,作家としての世俗的名声を博しながらも,自らは決して母とはなれなかっ
た作者キャザーの心の裴を垣間見ることが出来よう。 ;
(4)
ではここで,。彼等以外の他の男性達についても見てみよ・う。『おお,開拓者よ!』と「私のアン
トニー=ア」の世界が際立って母性に満ちる世界であれば,そこに登場する男性達はヒロインとくら
べて見劣りがするのも当然であろう。事実,ヒロイン達によって高ぐ評価される男性は父親だけで
あるが,その父親達でさえ,開拓者としては失格である。まず,アレクサンドラの父ベルグソン氏
は,
"John Bergson
had the Old-World
belief that land, in itself,is desirable” (p. 21)という言葉に
見られるように,開拓者の必要条件である「想像力」を持ってはいても,しかし「観念」を現実の
ものとする「強さ」には欠けている(“he
where
the plow・could
was quite willing to go deep under
his fields and rest,
not find him.”[p. 25])。だから。彼は入植11年目にして46歳の若さで死んで
ゆかねばならないの,である。一方,アントニーアの父シメルダ氏`も「知性と教養「“the」ntelli (9)
90
高知大学学術研究報告 第35巻(1986)人文科学
gence or cultivation”](p. 201)」を兼ね備えたヨーロッパ文化の体現者とも言うべき人物ではあっ
ても,厳しい開拓生活に絶望して自殺する弱い人間である。
次に,ヒロイン達の兄弟について考えてみたい。まず,アレクサンドラの二人の弟達ルウ(Lou)
とオスカー{Oscar
)であるが,彼等はかなりネガティヴに描かれている。ルウとオスカーは重労
働は意に介さないが,しかし全くと言ってよいほど頭を使うことを知らず,加えて知性に憎しみを
抱く人物である。現在の中に未来を享受することが出来ず奴隷のごとく受動的な彼等が,大勢順応
主義の生き方に走りがちなのは自然であるが,この生き方こそ,裏を返せば。ジムが痛罵したブラ
ック・ホークの人々の「守り固められている生活様式「」│Jarded
と同様,
"jealousy and envy
and unhappiness'イp.
mode
of existence”] (p. 219)」
219)を内に孕んだ不毛な生活なのである。開拓
終了後,大農場主となったアレクサンドラが結婚を希望した時,彼等が執拗に妨害したのは彼女の
遺産が目当てであったからである。彼等は父親のベルグソン氏からも愛想を尽かされた人物ではあ
ったが,つまると・ころ,その評価ぱ‘little
men” (p. 181)というカールの酷評に代表される小人物
にしか過ぎないのである。また,ルウやオスカーとは違い大学出のインテリでアレクサンドラの生
き甲斐であった末弟のエミール(Emil)にしても,「摯に縛られることなく,土から離れた個性[“a
personality apart from the soil" (p. 213)]」を待った人間,辺境の外側で新しい世界を開拓してゆ
くことの出来る人間となりながら,いざ一人では現実に情熱の対象を見つけることが出来ず,不倫
の恋ゆえに悲劇的な若死にをする人物である。
一方,アントニーアの兄のアンブロシュ(Ambrosch)も肩幅が広く,背の低い体格["short
and broad・backed,
with a C1[jsecropped,flat head. and a wide, flat face”](p. 23)からして見るか
らに非理知的な人物で,性格も“little
and shrewd”
(p. 23)という目から窺い知ることが出来るよ
うに,実利的で,狭く,貪欲である。彼は同じように校措な母親にはひかれてはいるが,父親を軽
蔑している。ただ,女性が主導権を握り,肯定的要素が圧倒的に強い『私のアントニーア』の農耕
社会にあっては,このアンブロシュでさえ,最後には大変太った妻と結婚,し,その尻に敷かれると
いう滑稽な結果となっている。 。 ,
第三に,ヒロインの夫達について見てみよう。開拓者としてのダ`「想像力」’にも「強さ」にも・欠け
るカールとアントン(Anton)41は,共に脇役であり,主役である妻の黒子的存在にしか過ぎない。
すなわち,カールは英雄的偉業を成し遂げた後で/¨l
have been very lonely, Carl.'”(p. 309)とつ
ぶやくアレクサンドラの晩年の孤独を癒す人物として,またアントンは「豊かな生命の鉱脈」とな
るアントニーアの“the
instrument
of Antonia's special mission".,( p. 367)として,共に妻の補助的
役割をつとめているのである。 ダ
以上見たように,辺境開拓地でヒロイン達を取り巻く男性達は,想像力や知性には優れてはいて
も生き残る逞しさを欠くか,あるいはまたその力はあっても人間的に卑小であるか弱いかのどちら
かであり,いずれも開拓者としては失格の人物である。
ついでながら,この二作品を通じて親子の関係を見てみると,・母親よりもはるかに父親にひかれ
るヒロインにはエレクトラ・コンプレックスが,また父親との関係がう・まくゆかないルウとオスカ
ーや母親にひかれて父親を軽蔑するアンブロシュにはエディプス・コンプレヅクスが,完全な形と
は言えないまでも,色濃く見られる。この二つの心理は,結局のところ,ヒロイン達の偉大さと彼
女達の男兄弟の卑小性を改めて確認するものに他ならないのである。なぜなら,ただ辺境の地で生
き残るしたたかさだけが取り柄の母親達42よりも,ヨ・ロッパ文化を体現しヒロイン達の人生の指
標となる父親達に,はるかに高い評価が与えられているからである。’
ここで注目したいことは,同じ開拓者第二世代に属しながらレ女性である娘達は高く評価され,
賛美されているのに対し,男性である息子達は全く逆に低い評価しか与えられていないということ
(10)
(桝田)
ウィラ・,キャザーの描いた男性像についてバその1)
91
である。これは一体何を意味するのであろうか。「おお,開拓者,よ!」の「エミールどマ・リ・-の物語」
を見てみようらこの物語は,アレクサンドラの生き甲斐であったインテリめ末弟エミールと隣家の
美しい人妻マリー・シャバタ(Marie
Shabata)との禁じられた恋と,夫フランク(Frank
)によ
る二人の射殺を描いたものであるが,ここにその糸口となる重要なポイントが秘め,られている。す
なわち,ヒロインが作り上げた新大陸の無垢なる楽園の地で,最初の罪を犯し,生命と平和と秩序
を破壊したのは,男であり,銃(機械)43であり,その誘因となっているのは男と女の性愛という
ことである。
キャザーにとってヒロイックな開拓者達が作り上げた旧西部ネブラスカの世界とは,つまるとこ
ろ女の世界であり,その女の世界を犯し,揉鋼してゆくのが新しい世代の男とすれば,早くも開拓
者第二世代の男達,すなわちヒロイン等の兄弟達が極めて卑小な人物として描かれているのも納得
できることである。そして彼等の卑小性は,旧西部を象徴する美しい女性を性愛の対象とじて犯し,
己のなすがままに屈従させてゆく『迷える夫人』の醜いアイヴィ・ピーターズヘと連関しているの
である。この『迷える夫人』の男性達については次回で考察してみたい。
註
1. Bernice
Slote,“Willa
・Norton,
with
1973),
some
Cather,”&xl。・!M
p. 38:“If we
imaginative
氈C・ノ1・ericanAuthors, ed. Jackson
speak of biography
reshaping―through
part of 7加S。gがr加£ark.
we
must
Sergeant
guide
to Willa Cather's life than any biographical dictionary.' The
life and
even
imaginative
2. Mircea
Library,
always
wrote in 1925, ‘Her books, provided
too easy to read
the books
Cather
have
Eliade, Patte・s in Comparativeリ?&がon,
p. 257: “No one
doubts
in pursuit of game, 0rpasturing
circumscribed,
too literally,are a better
danger, however, is that it becomes
biography.
been
powers
of observation,
his flocks. Woman,
was
Thus
the events of her
distorted to fit the mold
was
the other centres of cosmic
with the prerogative
for the dominant
role played
of her
stillthe province
of women
when
(New
YOrk:New
by women.
Man
American
was
almost
on the other hand, with, her keen, though
those phenomena
the natural
artificially.And
fertility-Earth
of being able to influence
by women
Sheed
discovered
in a position to watch
and to try and reproduce
linked up with
trans. Rosemary
that agriculture was
falling and growing.
池川was
sometimes
the first
world.” :
1974),
endowed
York:
Obscure Destinies. As Eliz・
one does not take them
as actual rather than symbolic
the personality of WiUa
{ New
certain of her books, most clearly in My A耐mia,
and portions of O R。,。rs!.A£,sl£a心。and
abeth
almost
R. Bryer
also note that Willa Cather's life is told .
ph‘enomena of seeds
then too, because
and distribute fertility.That is the reason
agriculture was in its infancy ― particularly when
―and.which
in some
she
and the MOon一woman ・also became
this
civilizations she Stm・plays.”
(訳)農耕は女性によって発見されたことは,誰しも認めるところである。狩りで獲物を追いかけたり,
家畜に草を食ませたりしている男性は,ほとんど留守がちである。それに対して女性のほうは,限
定されているが鋭敏な観察精神に助けられて種子が地に落ち,芽を出す,といった自然現象を観察
し,それを人工的に再現してみようという機会をもてたのである。他方,女性は大地,月といった
宇宙の他の豊饒の中心と連繋をもっていると。ころから,女性・もまた豊饒多産性に影響を及ぼし,ま
たそれを配分できるという威光を獲得するようになった。そういうわけで,農耕の初期において,
とりわけ,この技術がまだ女性の特性であ。つた頃には,女性が主要な役割を演じたこと,そしてあ
る種の文明では依然として役割を果たし続けていることが説明づけられる。・(エリアーデ著作集2
掘一郎監修 久米博訳,『豊饒と再生』,・せりか書房,
3 .
Mildred
R. Bennett, The
Worldが剛μαCαμher
pp.161一一162.)
(Lincoln:
University
of Nebraska
Press, 1975), p.
139.
4. Loc.cit.
5. 拙稿“OR・。
「:Willa
Cather's Use of Classical Myth”,『アメリカ文学研究 第21号』(日本ア
メリカ文学会:1984)参照。
(11)
92
6 .
高知大学学術研究報告 第35巻(1
Cf. Philip L. Gerber,
emblem
for the Old
pathy
(Carbondale:
receptive
Willa Cather
( Boston: Twayne,
West” and Edward
Southern
A. Bloom
!Ilinois University
to the influence of the new
人文科学
1975), p. 112:‘'Marian Forrester herself is an
and
Lillian D. Bloom,
Wi陥Cathefs
G伊げSym-
Press, 1962 ), p. 72:“Like the frontier itself,she is
order."
7 。 ・Willa Cather. Willa Cather on W心ng
( New
York: Alfred A. Knopf, 1953 ). p. 94.
8, Ibid., pp. 94-95. ‘
9Md.,
p. 93. ● ●● 。,
10. Henry
Nash
versity
hunters
・ were
and
two
and
Smith, Virginland: The American
Press. 1982
trapper・S of the wilderness
quite distinct Wests:
the Wild
spised
West
beyond
social class. The
radeship
not
) , p. 52:“Parkman's
in the open
members
West
domesticated
agricultural West
was
{Cambridge:
backwoods
was
Harvard
farmers
owning
the
there
area within the agricultural frontier.
tedious; its inhabitants belonged
of the marks
noble anarchs
Uni-
and
of that period
by contrast an exhilarating region of adventure
air. Its heroes bore none
of society at all. but
Symbol and Myth
illustrate the fact that for Americans
the commonplace
it. The
Wild
WesはS
antithetical attitude!l toward
of degraded
status. They
to a deand com・
were in reality
no mastやr, free denizens
of a limitless
wilderness." 。 ●レ II
(訳)奥地農民と荒野の猟師=わな師にたいするバーグマンの対照的に異なる態度は,当時のアメリカ
人にとって二つの全く違った西部があったのだという事実を例証するものである。農業的ブロンテ
ィアの内側にある,陳腐な,すでに開化された地域と,その向こうの未開の西部と。農業的西部は
退屈な場所であり,その住民は下賤な階級に属していた。未開の西部はこれと異なって,野外の冒
険と友情の陽気な世界であった。この世界の英雄達は,下賤の身分のいかなる徴しも持ち合わせて
いなかった。彼等は実際,およそ社会の成員には属しない存在,いかなる主人も持たない高貴な・る
無政府民,無限の荒野の自由居住者であった。(H.・N.スミス 永原誠訳,『ヴァージンランド』,
研究社,
11.
p. 62.本文の訳もこの哲によってい‘る。) ヽ
/6td.,p. 215.。 /, s ゛
12. Ibid..
p. 224. ●1 =
13. Ibid.,
p. 223. 白
14.】bid..p.
216.
15. Mildred
16.
R. Bennett, op. cit..p. 139.
Lぼ。cit. Cf. Joseph
Schroetsr
mother
Wood
Krutch, "Reviews
(Ithaca: Cornell
University
of Four
of her muse, for in her youth she gathered
'pouring
Novels,”Willa
Cath。rand
・Press, 1976) , p. 53:“Memory
forth' this material in the approved
formed
it until her picture has both composition
17. Willa
Cather, 0八sg。rs! { Boston: Houghton
a remarkable・wealth
contemporary
fashion
H.!,y
Critics,ed. James
is in a very
true sense
of impressions,
she
the
but instead of
has brooded
upon
it and
and meaning.”
Mifflin; 1913). p. 65.以下,本稿に於けるこの作品
からの引用はすべてこの版からであり,引用文の後にページ数を入れた( )あるいは[ ]の形
で示すものとする。 ・●
18.
(Exodus
3:
8), The Holy Bible: Authorized
King James臨画伽・(Charlotte,
House,
1976)。以下聖哲からの引用はすべてこの版による。
19. John
H. RandallⅢ,7&£and
Houghton
20. Cf.
Mifflin, 1960),p.
values
were
merely
pioneer
her
( New
Alfred
K. Brown,
Alfred Kazin, On
YOrk: Harcourt,
and agrarian
Brace
values. There
Native Grounds: An
&
World.
1942
( Boston:
InterpretationがModem
American
) , p. 249: "Her[Cather]enduring
was a touch of Europe
in Nebraska
of her distinctive literary Cu】turewas to be drawn
皿治Cather:
j4 Criticalぷ昭聯句・(New
Kazin, oC.
c it.,p.250: "Her
important
Value
the values of this society [prairie aristocracy, or founding class], but they were
girlhood, and・
much
21. E.
scape a面白£Qaか■ingGlass:回心a臨白Searchかr
70.
0八㎝。ers!. p. 65 and
?りg£iterature
North Carlolina: Bible
first two
everywhere
from it.” ダ
York: Alfred A. Knopf, 1970
years there [Nebraska・],
), p. 3 . Cf.
she wrote later. were
the most
to her as a writer." ・・
22. Cf. Willa Cather, Myふtonia
( Boston: Houghton
MifHin, 1946), pp. 219-220.以下,本稿に於け
るこの作品からの引用はすべてこの版からであり,引用文の後にページ数を入れた( )の形で示
すものとする。
(12)
not
during
(桝田)
ウィラ’・キャザーの描いた男性像につyヽて(そめ1)
23. Alfred
24.
93
Kazin, op.cit.,・p.
2 51 ● ’
John H. RandallⅢ,瞭
・。p.
61. プ . . ・ ミ.
25. Loc. cit.
26. Cf.
Donald
Slote
and
person
return home
27. James
176.
Sutherland, “Willa
Virginia Faulkner
Woodress,
Jewett
first・person narrative
RoadブYet
had
Art of・回比CJz・・r; ed∠Bernice
Press: 1973 )'.p. 170: ". . . having
Art
( Lincoln: University
of Nebraska
Willa Cather a memひir( Lincoln: University
was
author t0 limit the observation
Miss
with
of Nebraska
said much
a
that it was
of a complex,
the same
final success. She did not entirely abandon
who
Press, 1967),
advised
Willa (l am・
a seri・ous hazard. in his opinion,
subtle heroine tO’
the mind‘of a very young
thing in a letter about
one of Willa Cather's finest books. My
Press, 1970),p/・
of Nebraska
read by John Galsworthy,
to Ferris Greenslet for this bit of information)
for a woman
man.
Classic Voice," The
‥.”
Willa Cather: Her£ife and
187 − 188:“The
indebted
The
and find things changed
Cf. Elizabeth S. Sergeant,
pp.
Cather:
( Lincoln: University
that early story ‘On
the Gull's
Antonia, had just used this favorite device of hers
it in Aむボ£adv."
28.ふ例を挙げれば,ジムがヒロインと異性として係わっているからこそ,思春期に入ると時を同じ
くして町に移転した彼が,開拓地から来た移民娘達と町の娘違との肉体と生き方の違いに目・を向け,
それがやがて前者の賛美と町の人々をも含めた後者の痛烈な批判という評価‘へと展開しているので
ある. ‥・
29.
David
Stouk, Willa Cathers
Elizabeth
only
for Episcopalians
Perhaps
30. Cf.
Imag細面on
( Lincoln: University
S. Sergeant, op. cit.,p. 283: "Willa Cather
or Roman
Catholics; only
of Nebraska
did not, however,
for Nebraskans,
Press. 1975),
write only
New
Englanders
age;
or Virginians.
she wrote chiefly for classicists.” `・
0 Pioneers!,
p. 293:“Alexandra
‘I hope
held out her handバFrank,'
you'll let me be friendly with you. I understand
more
how
she said, her eyes fillingsuddenly,
you did it.l don't feel hard
They
were
31. Cf.
0凡面eers!, p. 14. 7 y
32.
p. 34. Cf.
for youth 節d
toward
you・
to blame than youグ ニ ”
David Stouk, op. cit。p. 29. ’
33. 下記の引用文を参考されたし. 7
1)
It[the
and
2)
wild land]was
like a horse that no one
... the brown
earth, with such
the
metal, with a soft, deep
Fortunate
again in the yellow
34. Cf.
David
appear
assumes
born
35.
Cf. My
36. Cf.
37. Cf.
Sutherland,
speaking
Richard
of growth
dimming
Mircea
into its bosom・
(in
the artist does
a book like My
to give them
not necessarily
the urge to create in pastoral
more
fully.”
162: “Ultimately
I suppose
it might echo
the divine voice of
are going, but you haven't gone yet, have you?’”
has been
instrument,
as Jim Burden
( p. 347). What
the process of transformation
was literallydead, what
Mr. Shimerda
into primal
of new
had cultivated
then taken up again,
and regeneration in MかAntonia."
“A somewhat
optimistic view of existence gradually
and boundless
forms
regeneration
of
of life; nothing really dies − all is taken up
matter and rests, waiting for another springプ’
(13)
results
than a provision-
of being; winter is never final, for it is followed by a complete
by a manifestation
Press, 1968),
notes, is too big for Leo,‘but he played
reborn − and it is the violin, first put aside and
Eliade, op. cit..pp. 331-332:
change in the mode
again
fertilityin
ノi吋。ia )' that the artist
this long dealing with the soil and its seasons; death is established as no more
nature.
and
the bi・ightness of
Giannoe, Music in Willa Cather's八ction ( Lincoln: University of Nebraska
“01d Mr. Shimerda's
represents
38. Cf.
of the epic imagination
oneself and one's past experiences
op. cit。p.
to Odysseus: ‘You
well for a self・taught boy'
which
al
wild
(p. 76) ’グ
the story. It is in the pastoral mode
loved in Prague.
from
runs
Antonia, pp. 225-226.
115-116:
and
to harness:that
wheat, in the rustling corn, in the shining eyes of youth! (β,309)
out of a desire to understand
Donald
Calypso
the shear, not even
the role of both creator and central figure in his art because
is
very
to break
to receive hearts like Alexandra's
Stouk, op. cit。p. 27:“In a work
within
from
sigh of happiness.
country・ that is one day
out
pp.
how
a strong, clean smell. and such a power
it, yields itself eagerly to the plow; rolls away
3)
knows
kicks things to pieces. {p. 22) .‘
94
高知大学学術研究報告 第35巻(!986)人文科学
(訳)農耕に於て土壌や季節とこのように長期にわたって交渉をもつ結果,存在についてある種の楽観
主義的概念が姿をあらわしてくる。すなわち,死は存在様態の一時的変化にすぎず,冬は,けっし
て決定的ではない。なぜなら冬のあとには,「大自然」の全面的な再生,新しく無限な生命形態の
出現が到来するからである。何ものも,本当には死なず,すべては原初の物質に再合一し,新しい
春の到来を待ちつつ休息しているのである。『エリアーデ著作集3 堀一郎監修 久米博訳,r聖な
る空間と時間』,せりか書房,
39.
Cf. Exodus
40. Cf.
p. 8.) ; ’
3: 2. ゛
Eχodus
3:
5. , ・・
41. アントンが妻のアントニーアなくしては/とうてい厳しい開拓地では生き残ることの出来なかっ
た人物であることは,次の彼の言葉に明らかである。 ,
“Sometimes l git awful sore on this place and want
stick
it out. The
was
babies come
right, all right. We
42. Cf.O八郎eers!.
of
household
Bergson,
had
ways”
got this place clear now.”{
conditions that made
her unremitting
and MかAntonia,
was
order very difficult.Habit was
the family from
I guess she
very
p. 22:“Her
face was
semblance
strong with Mrs.
new
surroundings
disintegrating morally anC!
getting careless in their
alert and
lively, with a sharp
a conceited, boastful 01d thing, and even
90: “All the time she Say:‘America
43.
say we better
p. 365)
efforts to repeat the routine t)f・her‘old
life among
a great deal to keep
eyes”; p. 89: "She
for
wife she always
pp. 28-29: “For eleven years she had worthily striven to maintain some
order amid
and
done
to quit, but my
along pretty fast, so it look like it be hard to move, anyhow.
big country; much
money,
misfortune
much
land
chin and
shrewd
could not humble
for my
boys, much
little
her”;p.
husband
my girls."' 」
Cf. WiUa
used
brought
ent
Cather, 0 9がOurs
to a washing-machine
home
a stillnewer
one. The
flat-irons and oil-stoves drove
ure,
whatever
Machine
in the Ga㎡朗;几chnology
1964), p. 343:“Within
scape
was
transformed
difficult to imagine
circumstance.
machine's
YOrk: Vintage
sudden
more
Books, 1950), p. 18:“AS
Ralph, to keep
mechanical
up
dish・washer
her wild”;p. 39:“Machines,
else they could d0. They
Press,
this
(New
or a churn,
and
could not make
with
soon
as Mahailey
the bristling march
got
of invention,
she had never been able to use. and patClaude
agreeable
decided, could not make
pleas-
people, either”and Leo Marx, T&
the j?'astoral
Ideal in America
(New
YOrk: Oxford
University
the lifetime of a single generation, a rustic and in large part wild land・
into the site of the world's most
profound
Its influence
productive
industrial machine. It would
contradictions of value or meaning
upon
our literature is suggested
by
than
those made
the recurrent
image
entrance into the landscape."
(訳)田園的な大方未開拓の地が,―世代の内に,世界で最も生産性の高い産業地帯に変容したのであ
った。このような状況の中で明らかにされた価値あるいは意味の矛盾はきわめて深刻であり,それ
以上大きな矛盾が他にあるとは想像できない。アメリカ文学においてその影響は,景観への機械の
突然の閲入という繰り返し使われるイメージによって提示されたのであった。[L.マークス 榊
原詩夫・明石紀夫訳,『楽園と機械文明 テクノロジーと田園の理想』,研究社,
P-371]
(昭和61年9月29日受理)
(昭和61年12月27日発行)
(14)
be
manifest by
of the
Fly UP