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『幽霊』と 『野鴨』 の自然について

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『幽霊』と 『野鴨』 の自然について
﹃幽霊﹄と﹃野鴨﹄の自然について
神
山
彰
の例外として﹃幽霊﹄の翌年、一八八二年に公刊された。
発表したことはよく知られているが、﹃民衆の敵﹄はそ
スキャンダラスな世間からの攻撃に対して、イプセンが
これには周知の理由があって、それは﹃幽霊﹄発表後の
一﹃民衆の敵﹄の制作年代について
ヘンリック・イプセンの後期作品を順を追って読み進
実際に当時の書簡を見てみると、イプセンは一時的に
憤激してあらためて挑戦を仕掛けたというものである。
んでいくとき、﹃民衆の敵﹄という戯曲は些か不可解な
作品であるような思いにとらわれざるを得ない。ここで
この作品を年表に従って﹃幽霊﹄と﹃野鴨﹄の間に置い
攻撃された以上、﹃幽霊﹄がそれ以上の散々な罵倒を受
うか。前作のノラが結婚と家庭生活を破壊するものだと
ていた作者にとっては先刻承知であった筈ではないだろ
かし、﹁世間﹂からの非難は﹃人形の家﹄を既に発表し
ではあるが相当にショックを受けていたようである。し
いう不可解さとは、戯曲そのものの内容に関してではな
い。そのモチーフは少なくとも表面的には単純であり、
﹃野鴨﹄以降の作品に見られるようなミスティックな印
てみるとき、読者は作品の位置にどこか居心地の悪い思
しては当時の出版主フレデリック・へーゲル宛の書簡な
けるであろうことは当然計算済みであり、そのことに関
象もなく、平板ですらあるような作品である。しかし、
いを持たないであろうか。
の敵﹄もまた、イプセンによって単に際物的に着手され
どからも推察される。そうであるとするならぽ、﹃民衆
あらためて書いておくと、﹃民衆の敵﹄は﹃幽霊﹄と
﹃野鴨﹄の間に発表された作品である。
イプセンがその作品の大半を二年毎の周期で定期的に
258
この種の作風の変化が顕著である場合には、実生活上で
との間に決定的な差異を認めない者は少ないであろう。
その間の事情に疎い読者でも、﹃民衆の敵﹄と﹃野鴨﹄
された作品ではないかという疑問が生ずる。
たとは考え難く、既に周到な用意がなされたうえで発表
者ジェームズ・マクファーレンはその第六巻の﹁付録﹂
また、それ以前に、オックスフォード・イプセンの編
﹃人形の家﹄発表の直後にその草稿が着手されていたこ
︵1︶
とを、その著書の巻末年譜の中に記している。
ジョン・ノーサムは、留保付きながら一八八〇年の
ていた可能性があるのである。
の中でこう書いている。
の作者の決定的な経験なり分岐点なりがあると考えられ
ることもあるが、一八八二年から八四年にかけてのイプ
センはその悪名も名声も更に高まっていく時期であり、
必要な安定した状態を奪ったという指摘がある程度なの
の変化が当時イタリアに在住していたイプセンの創作に
訂出版しており、この頃には故国ノルウェイの政治状況
及び、二十六日付、エドマンド・ゴス宛︶で、彼が熟
十一月の書簡︵十二日付、フレデリヅク・へーゲル宛
言葉の影響をききとれると主張している。一八八〇年
は、その戯曲中の対話の内に、当時のイプセン自身の
〇年秋のローマで、彼と会話を共にした多くの人々
きわめて順調な作家生活を送っているのである。一八八
だ。無論、作品と実生活の間に照応関係がないからとい
って不審に思う必要はないが、作品の位置を考えたうえ
考中の題名未定の作品に言及しているのが、恐らくこ
ために多忙であったことは殆んど疑いがない。一八八
で、﹃民衆の敵﹄には﹃幽霊﹄と﹃野鴨﹄の間に置くに
の戯曲のことである。一八八一年三月二十二日に、彼
イプセンがすでに一八八〇年には、﹃民衆の敵﹄の
はふさわしからざるものが感じられるという思いが拭い
三年には、ベルゲン在住時の﹃ソールホウグの宴﹄を改
難い。一般的解説においてもこの間の転調に対して十分
はヘーゲルに、夏のための準備をするつもりでいる新
︵2︶
しい仕事に、実際に手をつけ始めたと報告している。
な指摘がなされているとは云い難く、イプセンという一
られる。
中旬にかけてイプセンが没頭した﹃幽霊﹄のために中断
ところが、この作品は一八八一年六月中頃から十一月
人の作家の内部の劇に触れるものが乏しいように見うけ
しかし、じつは﹃民衆の敵﹄は﹃幽霊﹄の前に書かれ
259
の自立性という点を考えれぽ﹃人形の家﹄以降のいつれ
の作品も、その社会的影響や反応によって作品自体の価
を再検討するほどのものではないかもしれず、また作品
値が左右されるわけでもない。しかし、作品は発表され
され、結局、完成し公刊されたのは一八入二年に繰り越
それでは、﹃民衆の敵﹄という作品自体の位置付けは
されたという次第である。
どのように評価されているのであろうか。ハンス.ハイ
た時点から即ち作者の手を離れれぽ、容赦なく社会の側
を見出すのである。彼の﹃人形の家﹄と﹃幽霊﹄は共
は彼が既に捨て去った作品形式への逆戻りであること
イプセンの作品を振り返ってみる時、﹃民衆の敵﹄
てしまうという覚悟なくして、近代人イプセンが作品を
であろうとも、作品を外側から社会の持つ尺度で測られ
定できないであろう。たとえ、それが如何に通俗な見解
を判断することだけが必ずしも正しい基準であるとは断
に属する存在であり、純粋に内的価値によってのみ作品
ベルグは次のように述べている。
に、その時代に関連して見られはするものの、避け難
発表するわけはないのである。
﹃民衆の敵﹄は今日読まれることの少ない作品であ
い運命によって条件づけられている人間の生を創造し
り、傑作とも云い難い作品ではあるが、その前後に位置
識で見過ごしてしまうことは、この戯曲のみならずして
た精神的な仕事場から作られたものである。一方、
﹃民衆の敵﹄は外向的で一般的な戯曲であり、作中の
な劇作家によ。て書かれた、それなりにはいきい箆
他の傑作にまで誤解を重ねていくことにほかならない。
それでは﹃民衆の敵﹄に内在する、あなどり難い性格
する作品との関連からしてあなどり難い性格を持ってい
した芝居である。しかし、それ以上の何ものでもない。
とは何か。あるいは、あまりに簡単に見逃されている作
によってのみ支えられている。それは経験豊かな重要
﹃民衆の敵﹄についての現在でも一般的な見解とし
者の内面とは何処にあるのだろうか。
議論は二人の現実的な人間によって支えられ、﹁典型﹂
て、このハイベルグの評価は妥当なものと思われる。制
この作品の最終稿とともに送付したフレデリック・へ
る。単に﹁﹃幽霊﹄に対する非難攻撃への憤怒﹂として、
︵4︶
﹁戯曲をもってプロテストした﹂といった観点からの認
に何ら影響のないのは当然であり、この作品はその価値
作年代に数年の差違があったところで作品自体の自立性
260
iゲル宛の書簡のなかで、イプセンはこう書いている。
︵傍点・引用老︶
近いものである。彼は、洞察力や眼識のある人間や天
︵6︶
才の社会における悲劇的な位置を十分に知っていた。
確かにイプセンの内部には、エスリンのいう﹁痛苦に
てきた。多くの問題で我々は同意した。しかし、博士
⋮⋮ストックマン博士と私とは、とても仲良く暮らし
は、私よりも問が抜けている。そして更に、私自身が
に代表される晩年の作品の読者や、﹃民衆の敵﹄の次に
であるのは事実かもしれない。だが、そこには、﹃野鴨﹄
敵﹄の終幕の幕切れのセリフがそれに対する露わな反撃
のは、﹃幽霊﹄のスキャンダルの後である以上、﹃民衆の
充ちた断念﹂があったと思われる。この作品を発表した
マーティン・エスリンは次のように
言ったとすればよい意味にとられないと思われること
︵5︶
を言ってしまうという、もう一つの癖がある。
この点に触れて、
発表された作品が﹃野鴨﹄であることに甚しい疎隔を感
61
じなからもどこか通底する音調を探ろうとする者には聴 2
述べている。
ストックマン博士は、白熱してそのラディカルな意
ストックマン夫人 何ですか、また?
もう言ってはいけない。だが私は大発見をしたよ。
ストックマン ︵声を低くして︶静かに。そのことは、
﹃民衆の敵﹄終幕の幕切れはこうなっている。
る。
きとれるだけの、イプセン晩年の内部の劇が隠されてい
て、イプセンが主人公は自分よりも間が抜けていると
見を述べる時に、耐えられぬほど昂奮している。そし
したアーサー・ミラーのような善良なアメリカの民主
言っているのは正しい。﹃民衆の敵﹄の有名な脚色を
々義者が、ストックマン博士によって語られる表面上
少数者の抗議に対する弁解がそのセリフの中にあると
ストックマン うん。︵みんなを彼のそばに集めて、
反民主々義的意見の調子を弱めようと考えたことや、
論じざるをえなかったことは、少しも不思議ではな
い。イプセンは確かにその点を主張したが、彼の視点
で一番強い人間というのは孤立している人間なの
確信を持ってこう言う︶それはね、いいかい、世界
はミラーほど楽観的でなく遙かに痛苦に充ちた断念に
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヨ
ストックマン夫人︵微笑んで、頭をふる︶まあ、 あな
だ。
んな、孤独なんだ、寂しいんだ。しかしね、だか
るみんな、真理の為に戦っているだぞ、だから、み
けは、みんな覚えといてくれよ。みんな、ここにい
強い人間なんだ⋮⋮
ら、強くなれるんだよ。われわれは、この世で一番
た。
︵7︶
ペトラ︵勇んで、父の手を把んで︶お父さん。
窓から石がとびこんでくる︶
ストックマン ⋮⋮そして、強い人間になるという事
︵群集の憤りが、叫びとなって、聞えてくる。
は、孤独な、寂しさを耐えしのぶ事なんだ!
ここから、一般的なイメージとして流布されてしまっ
ていく正義漢的なストックマン像が、はたして読みとれ
︵群集の騒音は、次第に高くなってくる。スト
ているような﹁真理﹂を解さない多数の民衆に立ち向っ
るであろうか。ところが、エスリンの言及しているアー
このテキストの第五幕は冒頭から相当以上の異同があ
も近づいてゆく︶ 1幕ー
にうちかかろうとする。彼はそれに向ってなお
︵8︶
62
って、カーテンが室内に吹きつけられ、彼の面 2
ックマンは、窓の方に歩を進めてゆく。風が越
サーー・・ラー版及びウィリアム・アーチャー版を底本に
い余計なト書きまで挿入して殆んど改窟といっていい程
した脚本︵菅原卓訳及び脚色︶では、幕切れに原作にな
の曲解がなされているのである。以下に引用する。
一団の中にうずくまり、ワナワナとふるえ、恐
ストックマンや夫人の性格があまりに通俗的で、正視に
り︵﹁脚色﹂である以上、そのこと自体は問題ではない︶、
︵夫人、女中を引きよせる。ニイナは女子供の
怖を現す︶
耐え難い程無惨な改変がほどこされている。ストックマ
夫人 どうなるんでしょう? あなた、こりゃ、どう
いう事になるんでしょう?
るえ﹂て見得をきるような人物ではない。原作には、放
く、ストックマン自身も﹁戦標と勇猛心の混乱の為にふ
ン夫人は﹁ワナワナふるえ﹂て狼狽するような女性でな
あ、どうなるか、わたしにも分らん。だが、これだ
ストックマン︵彼女の立ち騒ぐのを、手を挙げて制止
し、戦標と勇猛心の混乱の為にふるえながら︶さ
記されている以上、そのこと自体は問題ではない。
は当然である。もちろん、前述したように﹁脚色﹂が明
っていくのを強調しているト書きなども原作にはないの
いるだけであり、幕切れにストックマンが群集に立ち向
石の場面はなく、狼籍のあったことがセリフで語られて
興味以上のものでない事を以前に指摘したことによっ
︵9︶
て受けた痛々しい失望の埋め合せをされるのである。
は、出版者ホフスタッドの進歩的思想が単に理論上の
育つはずであり、そしてストックマンの娘やペトラ
されるべきことは、﹁親密で暖い友情﹂が彼との間に
く要望している。その結果、第五幕で結論として暗示
一人ホルスター船長は若い男として演じてほしいと強
ンの沈痛な断念の表情と、後者の﹁脚色﹂に見られる大
ただ、あまりに奇怪なのは原作の幕切れのストックマ
うに現在の読者には思われる。原作のストヅクマンは、
イメージを持えるのは余程の悪意がなくてはできないよ
普通に読みさえすれば、その幕切れから後者の主人公の
何に対してのものなのか。
が、それならぽ、例の﹁痛苦に充ちた断念﹂はいったい
違って生き残り、勝利を得るだろうといっている。だ
理由のために不人気となることがあっても、ブランとは
エスリンはそれに続けて、ストックマンはたとえある
衆劇風に絶叫する正義漢の表情との懸隔である。原作を
うな人間なのである。その思いこそが、エスリンの云う
声を低くして、息子に向って、もう何も言うなというよ
ところで、ストックマン一家の生活のその後の運命と
しかし、前述したように、﹁社会﹂の側からの非難も罵
ば、そのモチーフに継続したものを見るべきだろうか。
定し、﹃幽霊﹄のあとに発表された事実に想到するなら
この作品が﹃人形の家﹄のあとに着手されていたと仮
いうことについて云えば、イ。フセンは観客に対して安心
﹁痛苦に充ちた断念﹂ではないのか。
して貰いたかったのだということを仮定するだけの根拠
が社会に受け入れられぬといって今更﹁断念﹂する必要
倒もイプセンは十分覚悟していたはずであり、己の思想
はないのである。
はある、とマーティン・エスリンは書いている。
この作品の中でイプセンが﹁痛苦に充ちた断念﹂をも
って見ているのは、﹁自分こそ自由主義者だと名乗って
この戯曲を上演する予定だったコペンハーゲンの王
イプセンは、ストックマンの数少ない忠実な支持者の
室劇場の演出家エドワルド・フォールセンに宛てて、
263
できなかったにちがいない。
るい﹁進歩的思想﹂のために、どれほど多くの暗い心性
ストックマンは結局、家族と共に立ちすくんで手を操
が﹁痛苦に充ちた断念﹂を胸の底から思い知らねぽなら
難し罵倒した連中を﹁私に向って吠えたてる鎖にっなが
いているだけだ。立ちすくんでいるストックマンの内部
は、自分にも他人にも納得させようと騒ぎ廻る﹂﹁犬ど
れた大勢の犬﹂ にたとえたあとで、﹁しかし、私が所謂
に刻印されている深い孤独感は、個人と社会の対立など
も﹂でありペトラが﹁痛々しい失望﹂を受けた﹁進歩的
自由主義者の間に観察した驚きは、多くのことを私に考
という図式で説明するだけではすまない、イプセンには
て、イプセンが﹃野鴨﹄以降の作品を結実させることは
えさせてくれた﹂と書いている。かつて祖国での政治運
親しく濃密な暗い思いなのであろう。無論、その程度の
ないかーそのことにあらためて想到する契機なくし
動に身を投じた頃から、イプセンは同じ思いに捕われて
認識は、イプセン固有のものではない。だが、彼は身を
思想﹂の標傍者たちではないのか。
いたにちがいない。だが、それは祖国の﹁後進性﹂の故
﹃幽霊﹄公刊後の書簡のなかで、イプセンは自分を非
ではなかった。彼はストックマンに﹁自由だという西の
なまなましい現実を知り、数年前の再訪の際に当時の同
もってその現実を生きていた。かつて祖国で政治運動の
められた﹁断念﹂の奥底にある思いは、極めて痛切な感
志たちの変貌に接したイプセンにとって、この作品にこ
国も、たぶんそのことでは少しも変わりはないだろう﹂
は、単に一国の地方政治特有の現象ではない。これこそ
といわせている。それならぽ、この作品に書かれた情況
が、正に社会という一個の怪物の構造ではないのか。
この作品を契機として、イプセンが所謂社会的な﹁問
触があったと思われてならない。
題劇﹂を扱わなくなったことはよく知られている。実生
この頃イプセンは、既に五十代中端に達していた。最
してもいなかった。ましてや、彼は高みに立って社会を
口を喋んだままだった。もちろん、社会への関心が失わ
活でも、社会的発言をすることは稀になり求められても
早、社会に希望は持たなかったであろうが、決して絶望
断罪しているわけではない。彼はただ、あらためて﹁断
どあったであろう。だが、イプセンは自分の作品の主人
れたわけではない。それどころか、いいたいことは山ほ
念﹂を反拐しているだけである。﹁時代の共感﹂と共に
生き得る人はそれでよい。時代の趨勢に従って、正義だ
の良識だのを信ずる事も自由である。だが、そうした明
264
である、﹁静かに。そのことは、もう言ってはいけない﹂
公に、﹁声を低くして﹂こう云わせてしまった人間なの
という、スクリーヴ流の劇作術がふんだんに採り入れら
れているのであろう。五人の人物はあまりに﹁典型的﹂
︵10︶
た、信仰とでも呼ぶほかはないものにとらえられたので
それはこの作品中にイプセンが注意深く描きこんだ﹁自
ず、この作品が現在でもなお我々をとらえるとすれぽ、
だが、そんな通俗的な筋立てや古びた題材にも拘ら
に没発する。
ある。そのことを念頭に置く時、﹃幽霊﹄は﹃民衆の敵﹄
然﹂のゆえにほかならないのである。
な役割を与えられすぎているし、事件は都合よく﹁劇的﹂
のあとに書かれた可能性があるという前述した問題はあ
と。恐らく彼は、﹁断念﹂することによってしか語り得
らためて重要な意味を持ってくるように思われる。
ジョン・ノーサムはこう書いている。
ず、またそのことによって始めて語り出すことのでき
﹃幽霊﹄は従来、﹃人形の家﹄ の作者の社会やその偽
善性への反撃的な意志表示として受けとられがちな作品
の﹁断念﹂の刻印された人間の産物として、別個の相貌
である。しかし、以上の点を考慮する時、﹃幽霊﹄はあ
た暗欝な峡湾の光景。しかし、ここではその風景は、
この戯曲は、﹃フラン﹄の幕明きの雰囲気に幾分似 65
たものをつくることから始まる。間断ない雨に包まれ 2
﹃幽霊﹄と﹃野鴨﹄の二作品を考察していきたい。
ノーサムは、このアルヴィング夫人の別荘は﹁悪天候
る。
︵11︶
く異質のものである家庭的な装置と対照をなすのであ
の独特な性格が浮び始める。その風景は、それとは全
全体の背景ではなく部分にすきず、そこから﹃幽霊﹄
とによって枠取られ、距離を置かれる。それはもはや
舞台後方の温室の大きなガラスの窓こしに見られるこ
を帯びてくるはずである。以下の章では、その視点から
二 ﹁幽 霊﹂
﹁幽霊﹂はまことに﹁よくできた﹂戯曲である。三幕
の一杯道具。一目間の出来事。放蕩息子の帰還、露顕さ
れる情事、ふりかかる災厄⋮⋮。各幕の幕切れには事件
には芝居の﹁仕どころ﹂が存分に準備されている。ここ
から守られた人工的な避難所﹂であると云う。夫人がア
が起こり、それぞれが典型的人物である五人の登場人物
には、ノルウェイでの座付作者時代にイプセンが学んだ
院は、おそらく偽りの﹁社会﹂の象徴であり、そんなも
ルヴィング家の暗い過去を封じ込めようとしている孤児
晴れ間のない雨!何週間続くか何ケ月続くのか
う!︵アルヴィング夫人は鈴の紐を引く︶それに
したいんです。︵温室へ行く︶なんて暗いんだろ
の悔恨に堪えられないんですーそして、死ぬ程
オスワルト ︵歩き続ける︶でも、この苦しみーこ
いー
って来ても太陽の光なんか見た憶えはありゃしな
i陽の光を見ることも出来ない。何時ここへ帰
のが消滅するのは時間の問題かもしれない。だが、偽り
の﹁社会﹂なら火事で焼失しようとも幾ちでも建て直す
﹁人工的な避難所﹂はそれだけで決定的な破局を迎える
ことはできる。その証拠に、外部の自然と隔てられた
決定的な破局は、やはり﹁自然﹂の側からやってくる
わけではない。
ように思われる。
アルヴィング夫人 ︵後からついて行く︶恐怖って?
の恐しさ。ああこの恐怖。
オスワルト ああ、もう聞かないで。僕にもわからな
どんな恐怖があるっていうの?
﹃プラン﹄の主人公は壮大な自然との闘いの末に、雪
な避難所﹂はそのような外部の自然とは見事に隔てられ
崩の下についえ去った。無論、﹃幽霊﹄のこの﹁人工的
ている。だが、その時には人間の内部という自然が内側
アルヴィング夫人 ⋮⋮これでお前、良心の呵責だと
か、悔恨だとかをなくしてあげられたろうかね?
いんです。説明できないんです。
オスワルト ええ、なくなりました。でもこの恐怖だ
から人間を蝕みはじめ、やがては人間を喰い破って突出
アルヴィング夫人は外部の自然と隔絶し、過去も社会
けはどうにもなりません。
するのである。
しているように見える。しかし、オスワルトの内部に
母さんにわかるでしょう。もう僕には、何にも恐
︵12︶
怖なんてものはなくなってしまいますから。
オスワルト もうじき太陽が昇る。そうすればすべて
も偽り、オスワルトに象徴される未来の生活に万全を期
は、ある耐え難い思いがあるのにちがいない。
オスワルト とめないで下さい、母さん。お願いです
!僕はこんな食いいるような気持を何かで洗い流
266
でなく、現在という時間をつねに犯し、脅し、裏切り、
更に目々の生活を刻々と変貌させていく。自然が陽光の
過去は、記憶の奥底に閉じこめられたままでいるわけ
微妙な変化によって様々な陰窮をあらわしていくよう
オスワルトの﹁こんなに食いいるような気持﹂や﹁恐
に、過去という陽光に照らし出されて人間の内部という
怖﹂とは何であり、どこから来るものなのか。確実なの
の呵責﹂や﹁悔恨﹂ではないということだ。一応、それ
は、それがアルヴィング夫人の思っているような﹁良心
自然もまた、刻々と姿を変えていく。
アルヴィング夫人は息子オスワルトを、輝やかしい未
はオスワルトが﹁いつでも桜んぼ色をしたビロードのカ
﹁病気﹂のことになってはいる。だが、それだけならぽ
ーテンを連想する﹂という不気味に美しい比喩で語る
ているのは、過去から﹁再び歩み寄る﹂﹁幽霊﹂だとそ
によって蝕まれている。だが、オスワルトは自分が畏い
るにすぎない。
報いるという性病の遺伝問題などは、ここでは題材であ
の正体がわかったところでどうすることもできない。オ
67
スワルトは、内部の自然によって脅やかされ、呪縛され 2
来の希望として見ている。だが、オスオルトは既に過去
オスワルトはただ、自分の内部から押しよせてくる自
て手を操いているしかない。だが、それこそが、人間が
何故オスワルトは﹁僕にもわからないんです。説明でき
然に見据えられ、呪縛されていることに恐れ畏いている
だろうか。
本質的に持っている自己の縮小感のようなものではない
ないんです。﹂と繰り返すのだろうか。親の因果が子に
ようにみえる。
から﹁幽霊﹂のように知らぬ間に忍び寄ってくるのだと
では、内部の自然とはどこから来るのか。それは過去
されていた外景に陽光がさし、山頂や峡湾が照らし出さ
終幕のオスワルトの発病とともに、それまで暗く閉ざ
迫し、脅すような自然があるだけである。
は耐え切れないほどの美しさであり、そこには人間を強
みる親しさをもっている。﹂だが、それはもはや人間に
︵14︶
ス・ファーガソンが指摘した如く、正に﹁悪夢の心にし
れるのは不吉な程に美しい光景である。それはフランシ
イプセンは云っているように思われる。ウィリアム・ア
ーチャーの付けた英訳名.Oげo鴇.をイプセンは嫌ってい
たという。だが、英語にはノルウェイ語に相当する訳語
がなく、それは大体﹁再び歩み寄るもの﹂、↓ゲoω①−零ゲo・
乏ρ。貯由σq巴昌、という意味だとピーター・ワッツは書いて
いる。
︵13︶
だんはさほどに感じられない周囲に拡がる闇が、この日
酷な形であらわれる。彼の持っていた自己の縮小感は必
オスワルトがあんなに望んでいた太陽は、こんなに残
はないのだ。太陽はここでは確かに象徴的であるよう
かのように思われる。だが、ほんとうは、意識的にで
分が望んでいたその当の物に意識的に背を向けている
にあるその光景を見ていない。従って、彼はまるで自
に思われるが、オスワルトの反応は意志的なものでは
然的に、外界との激しい隔絶感を引き起こしている。ふ
に限って不気味なほど濃密に感じられるという意味のセ
なく、そしてその象徴の意味は相変らず疑わしいまま
﹁太陽﹂はオスワルトだけでなく、その母アルヴィン
方法について、一貫して否定的見解をとっている。しか
後に﹃野鴨﹄に関連して述べることにするが、ロナル
ド・グレイは同書のなかでイプセンの﹁象徴﹂の意味と
である。
︵16︶
リフがあるのもそのためだ。そして、彼はそれゆえに、
周囲の闇を溶解し、自分の心をなごませ柔らげるような
太陽を望んだのにちがいない。だが、自然は決してその
グ夫人も求めているものだった。﹃イプセン異論﹄のな
し、控えめに云っても、この引用した﹁太陽﹂の件りに
ような形であらわれはしない。
かでロナルド・グレイは、﹁太陽はアルヴィング夫人が
るために、作品のキイ・ワードを前提的に﹁象徴﹂とし
なっているように思われる。グレイは﹁象徴﹂を否定す
関してはその﹁象徴﹂的意味に拘わること自体が陥穽に
るまい、歓びに温れた人生を送る自由﹂だと云い、その
いつもオスワルトに与えようとしていたものー自然にふ
︵15︶
あとでこう述べている。
る。
て扱ってしまう傾向があるように見受けられるからであ
こには何ら象徴的意味はありはしない。そこには正に、
かれているか、或いは太陽を追い求めることで欺かれ
オスワルトとアルヴィング夫人は、太陽によって欺
現前する太陽と、それに背を向けて﹁太陽、太陽﹂と咳
の反応は意志的なものではない﹂ということである。こ
はしない。だが、オスワルトのセリフと同じくして、
ここで重要なのは、太陽が現前するとき﹁ナスワルト
温室の窓から見える氷河と山頂が朝の陽光をうけて輝
くことしかできない一人の意志を奪われてしまった人間
ているかなのだが、そのどちらであるかは誰にも判り
くという演出が要求される。オスワルトは、彼の背後
268
とが存在するだけである。そこに意味を付加すること自
夫人にはもう逃れ場所はないのだと云っている。彼女の
行われなくてはならない。﹂だが、そんな場所に追い詰
﹁壮大な闘いは、心地よい家の中で、快適な家具の間で
︵19︶
ジョン・ノーサムのようにこのシーンを、﹁苦痛と災
体が誤まっている。
ルヴィング夫人のように十分に意志的に選択できようと
い。オスワルトのように意志を奪われてしまおうと、ア
事情は同じなのだ。幕が下りてからも、アルヴィング夫
められても、アルヴィング夫人は選択しなけれぽならな
人の逡巡は無限に続く。彼女は我が身を襲った不幸な運
︵17︶
であるにすぎない。そこに﹁美﹂だの﹁尊厳﹂や﹁真実﹂
る。そこにある﹁太陽﹂は要するにただ文字通りの自然
命に苦しんでいるのではなく、この場に及んでも、まだ
御できぬことが主張されている﹂と見るのも疑問であ
といった価値が介入する余地はなく、まして﹁象徴﹂な
厄の訪れにも拘らず、存在と美と尊厳とそして真実は制
どではありようがない。太陽はただそこに在って、峡湾
ているのである。
運命を自分の意志で選ぽなくてはならないことに苦悶し
難所﹂を作ろうとした母親は意志があることに苦しむ。
自然を求めた息子は意志を失い、自然と隔絶した﹁避
と山頂を照らしだしているだけにすぎない。だが、この
し、強迫するように見える。それはもちろん、オスワル
時自然は存在するにすぎないのにも拘らず、人間を脅
トが病気によって意志を失ってしまったがらではない。
に照らし出される﹂のが快適な家具に囲まれた温かい部
その背後には、﹁氷河と雪をいただいた山の頂が朝の日
屋の窓越しに見える。これが果たして、イプセンの見事
事情は、アルヴィング夫人にとっても同じである。
いつまでもぐるぐると回っているだけしかできない。彼
と述べて否定したりして済む場面であろうか。
な劇的技巧だと賞讃したり、象徴の意味は疑わしいなど
意志を失った愛する息子の廻りを、この哀れな母親は
女が果たして毒を与えるのかどうか、ウィリアム・アー
を失っていようと、人間に存在をしいる強制力としての
ここに現前する自然は、まさに意志的であろうと意志
チャーは直接作者に質問すると、イプセンは﹁そんな難
う。
そが、イプセン晩年の諸作品に通底するモチーフであ
自然、それ以外のものでありはしない。そして、これこ
︵18 ︶
問を解決するなんて考えたこともない﹂と答えたとい
ところがあるという幻想が残っていたが、アルヴィング
ジョン・ノーサムは﹁プラン﹂にはまだ他に行くべき
269
り、先に述べた﹃民衆の敵﹄のストックマンのあの
念Lとも深く関わってくる問題であると思われる。
﹁断
代の批評家の中では、エドワ!ド・ブランデスを好んだ
のも彼が象徴主義を否定していたからだった。
⋮⋮そう、確かに解説屋だ。彼らは自分の仕事をい
イプセンはこう云っている。
つでもうまくやりはしない。彼らは象徴化がお好き
三 ﹃野 鴨﹄
イプセンの作品群のなかで、﹃野鴨﹄以降の作品をそ
いからだ。
︵20︶
だ。なぜかというと、彼らには現実に対する尊敬がな
れ以前の諸作から明確に分つものとして、内容、方法の
両面からその特徴をあげることができる。
内容からいえぽ、題材自体は結婚・家庭・地方政治と
イプセンが嫌ったのは何でもかでも﹁象徴化﹂してし
いった共通のものが多いが、それを扱う作者の態度は全
く挑戦的ではない。︵それ以前の作品が果たして挑戦的
﹃野鴨﹄のなかには皮相な意味ではなく、象徴的役割を
まう﹁現実に対する尊敬がない﹂﹁解説屋﹂だったが、
らたまって﹁象徴﹂を持ち込んだのではない。﹃幽霊﹄
受けもつ存在を持ちこんだことは否定できない。彼はあ
一般的にも、所謂﹁問題劇﹂の作家ではなくなったので
であるか否かはここでは別の問題である。︶イプセンは
ある。
は、この﹃野鴨﹄に於いては更に巧妙な方法を用いた。
で自然を重要なモチーフとしたと考えられるイプセン
方法的に見れぽ、﹁象徴主義﹂的技法が極めて効果的
に採用されていると一般に考えられている。前者につい
ある。それはいうまでもなく、エクダル家の大半を占有
彼は、さりげなく自然を室内に取り込んでしまったので
ては一応は首肯しうるところであるが、後者の﹁象徴主
身が、その﹁象徴主義﹂的解釈を嫌悪していた。
義﹂という言葉は些か曖昧である。何よりもイプセン自
はエクグル老人にとっては、﹁ホイダルの森﹂そのもの
であり、ヘドヴィにとってはコ涙の渕﹂︵海の底︶と名
する屋根裏部屋という﹁森﹂であり﹁海﹂である。それ
付けられている。そして、そこにはタイトル・ロールで
だと書簡の中で書いているが、﹁象徴主義﹂という言葉
は使っておらず、﹁象徴主義的﹂説明を軽蔑しており、
イプセンは﹃野鴨﹄には﹁目新しいもの﹂があるはず
自分の作品をそう解釈されることに反擾している。同時
270
だの薄汚れた屋根裏部屋という偽りの﹁自然﹂である。
ある﹁あの可哀想な野鴨﹂が棲んでいるのである。
る。云う迄もなく、エクダル家の人々にとって、それは
味をさかんに見出したがるのは、グレーゲルスだけであ
確かに、この作品中、屋根裏部屋や野鴨に象徴的な意
ある。そういうごく当然の前提である﹁現実に対する尊
象徴化するためではなく、生活するために存在するので
無論、ここでイプセンが室内に取り込んだ自然は、た
よりも格段に美しいo
ンにとって唾棄すべきものだったのは一読して明らかで
敬﹂のない実業家の息子の﹁理想﹂の押売りが、イプセ
だが、この偽りの﹁森﹂はおそらく本物のホイダルの森
イプセンはこの作中の屋根裏部屋に、自分の幼少年期
の記憶を反映させているようである。この作品には、そ
ヘドヴィに与えていることからも窺われる。人形が出て
グレーゲルス しかし、むかし、すっかりあなたの
あろう。
くる大きな動かない時計、絵本のいっぽいつまっている
です? 涼しい、撫でるような、そよ風とか、
一部になってしまったようなものは、どうなん
の中で唯一の理解者だった妹の実名を不幸なヒロイン、
の主題を離れても相当の愛着を持っていたことは、身内
大きな棚、古い絵具箱、わからない英語で書いてあるハ
︵21︶
リソンの﹁ロンドンの歴史﹂、極彩色の気味の悪い口絵、
取囲まれた⋮⋮
森の中や、荒地での野外の生活、鳥やけものに
う仇名のついた年老いた船長。そうした過去の限りなく
以前その家に住んでいた﹁さまよえるオランダ人﹂とい
とその細部を象徴化したがったりする批評家たちがイプ
老の最も奥深い秘密の感触に想到することなく、やたら
はお望みの品がある。だがもちろん、本物の森ではこう
ついた野鴨もいるのだ、と。確かにこの偽りの﹁森﹂に
ある。そんな自然ならここにもある、とエクダル老人は
云うのだ。ここには、兎も曲芸鳩も胸高鳩も、そして傷
グレーゲルスが考えている自然はこんな風に牧歌的で
センには余程おめでたく見えたのだろう。彼は、グレー
﹁森﹂の中に封じ込めてしまったのである。そういう作
懐しい思い出の数々を、イプセンはこの作品の偽りの
ゲルス・ヴェルレの中に批評家たちは己れの顔を見るだ
都合よくはいかない。そんな限りなく安全で保護された
自然のなかで、エクダル家の人々はもう何年も暮らして
ろうといっている。
271
て自足し得る、怠惰な夢みる男であり、その家族もそれ
フルートと女房子供が側にいれぽ﹁これでいい﹂といっ
でも、最も平凡な普通の生活者である。ヤルマールは、
きたのである。エクダル家の人々は、イプセンの作品中
れによると、屋根裏部屋はグレーゲルスにとってのみ
である屋根裏部屋と各主要人物との関係を点検する。そ
そこで、ホルタンは﹁エクダル家の精神的支えの源﹂
云う。
﹁コンベンショナルな意味での象徴﹂として捕えられて
いるが、これは﹁最低の種類の象徴﹂である。一方、ヤ
の場所は、﹁単に邪魔な存在であるにすぎないが、それ
つつましい家族団簗図のなかへ、土足で踏み込んでくる
にふさわしく欲の少ない地道な小市民にすぎない。この
が家族を幸せにしておく限りは、彼女は歓んでそれに我
ルマールにとっては屋根裏部屋は、﹁単に責任と仕事か
者の言辞には、たしかに自己嫌悪に特有の滑稽感がとも
ら逃れる手段にすぎない﹂し、その妻ギーナにとってそ
なっている。グレーゲルスの明るい啓蒙主義や救いよう
慢
れ で は 、 そ れ こ そ 72
す
る
だ
ろ
う
﹂
と
い
う
こ
と
に
な
る
。
そ が﹁ホイダルの森﹂そのものであるエクダル老人にとっ 2
つしているという。この人物に対する毒のある苛烈な作
のない正義の使徒ぶりは作者の容貌と遠いが、己の姓と
てはどうなのだろうか。ホルタンはこう書いている。
グレーゲルスのなかに、イプセンはかつての己の影をう
にはかってのイプセンの横顔が認められる。
エクダル老人にとって、それは以前の生活の安全な
出自を呪う時の、この理想主義者に不似合いな暗い表情
ところで、屋根裏部屋の役割に触れて、オーリー・ホ
義の方法にこそある﹂といっている。従ってこの作品の
で神秘的な世界が人間世界と影響しあうという、象徴主
が恐ろしいのではない。むしろ彼が恐れているのは、
たちに関わるものではなかった。エクダル老人は、熊
ことができる。しかし、その危険とは彼が捕えた動物
の若き日の歓喜を、何の危険も伴わずして、生き直す
代用品であり、そこではホイダルの森での狩人として
主眼を、﹁これにその底に横たわっている原型的パター
人間の侵入老を罰する森それ自体の内部に存在する、
︵23︶
神秘的な復讐の力である。
﹁単に象徴主義の使用にあるのでなく、全体的に神話的
ルタンは、﹃野鴨﹄とそれに先行する作品との相違を、
ンの存在を加えれぽ、この作品を、神話に向っての一つ
︵22︶
の運動を再び表現するものとして見る﹂ところにおくと
亀
するんだ﹂と眩く。このセリフは終幕でも繰り返され
として、﹁あれは、面倒なことになる。森が、仕返しを
かされて、エクダル老人は﹁怖れるものの如く、声を落﹂
毎日の生活の内に、失意の余生を送るエクダル老人を見
ら散歩と新聞と街の眺めを好んだイプセンが、そういう
表情に眺めて倦じることを知らないというような作家だ
った。聖書以外にはあまり読書の習慣を持たず、ひたす
グレーゲルスからホイダルの森が伐採されたことを聞
る、重要で印象的なものである。ところが、ブライアン
い善意の理想主義者と対照されて、暗い﹁森﹂を狩猟す
なかったという保障はない。もちろん、この作品は落魂
した人間の失意を描いたものではない。だが、あの明る
.W・ダウンズは、このセリフを﹁彼の他のセリフとは
︵42︶
全く不調和なように思われる﹂と指摘している。確かに
衰え呆けた老人には違いない。酒にはだらしなく、風体
﹁森が仕返しをする﹂ーこのような含蓄ある言葉
を得まい。
る孤独な老人の零落がことさら鮮明にうっることはやむ
はもはや見苦しく、大切なのは過去の美しい思い出だけ
を、エクダル老人が咳くのを﹁不調和﹂と感ずるのは、
エクダル老人は、過去の栄光にのみ生きている頼りない
という人間である。だが、考える迄もなく、これはどこ
ダウンズがこのセリフを解釈しようとしかしないからで
ヘ ヘ
ある。その奥深いところに、なまなましい肉感や暗く陰
にでも数多く存在するごく普通の、落魂した人間の特徴
にすぎない。そして、どうして、そういう人間が﹁森が
惨な味わいを持つこうした言葉を、普通の生活者がふと
軍人の娘ヘッダ・ガブラーの気位の高さに窺われるよ
うに、当時のノルウェイの軍人の地位は非常に高かった
にする言葉の微妙な音調に比べれぽ、その言葉を象徴的
﹁不調和なように思われる﹂のであろうか。
仕返しをする﹂という含蓄ある言葉をふと漏らすことが
という。中尉から筆耕に落ちぶれたエクダル老人の零落
い。イ。フセンは、自作の上演にあたっても、演出家や役
に解釈したがる批評の方が余程退屈だったかもしれな
たらなかったであろう。むしろ、街中で思いもかけず耳
漏らすことはイプセンにとっては少しも不審がるにはあ
は、甚しいものだったにちがいはないが、この戯曲の作
者は自分の周辺の人々の中にもエクダル老人を見なかっ
た。詩人の耳が捕え、更に血肉化された言葉の奥深い呼
者に細かいセリフの解釈を聞かれることを極度に嫌っ
吸や息使いは、それを観念の上で解釈したところで少し
ただろうか。イプセンは、滞在地のホテルやカフェに毎
日決った時間にあらわれて、新聞を読み、街の賑いを無
273
も表現されないと思ったのかもしれない。
ところで、﹁森が仕返しをする﹂という印象的な一言
タジーの世界でもあり得るのである。
ぎないと考えているが、同時に、その空間は詩的ファン
う。要するに、ヘドヴィはエクダル老人ほどその世界に
︵25︶
に込められているもの、それは、エクダル老人の世代に
をいうのである。おそらく、エクダル老人はかつての事
持っていることすら意識しなかったであろうような心性
る、かって人間誰しもが、ごく当たりまえの感情として
こでいう信仰とは、天の恵みを感謝し天の怒りに畏怖す
グレーゲルス それ、から、あれが、涙の渕に沈んでた
知らないの。
れのこと知りやしない。どこから来たのかも、誰も
かも、とても不思議なのよ。誰も、ほんとには、あ
れちゃっているよ。それに、あれのことは、なにも
ヘドヴィ ⋮⋮だけど野鴨は、すっかり友達から離さ
のめり込んではおらず、一方では単なる屋根裏部屋にす
はあってグレーゲルスにもヤルマ;ル夫婦にも決して認
められないもの−自然への信仰ではないだろうか。こ
はそれを父親に代表される社会のせいにするような男で
件をヴェルレ老人の裏切りによるのではなく、天の罰と
して考えるような人間なのである。だが、グレーゲルス
どうしてあなた﹁涙の渕﹂なんて言うの?
ヘドヴィ︵急に彼に目をやって、微笑を抑えてきく︶
ってこともね。
グレーゲルス なんて言ったらいいんだい?
あり、ヤルマールもグレーゲルスに他愛なく同調してし
る、屋根裏部屋ー偽りの﹁森﹂に対する各人の反応にあ
まう人間なのだ。それは、前述したホルタンの指摘す
グレーゲルス だけど、コ涙の渕﹂ って言ったってよ
いいでしょ。
ヘドヴィ ﹁海の底﹂とか、﹁海底﹂ って言ったって
だが、それでは、その自然への信仰とでもいうほかは
かないかい?
らわれている。
か。そうではない。この家庭にはもう一人、十四歳にな
ない心性は、エクダル老人一人だけのものなのだろう
渕Lって言うのを聞くと、とても変に聞えるの。
ヘドヴィ いいわよ。だけど、あたし、人がコ俣の
ヘドヴィの屋根裏部屋への感情は﹁アンビバレント﹂
グレーゲルス なぜだい?聞かせてくれよ。
る眼の悪い娘がいるのである。
であり﹁聖体共在﹂︵同体結合︶であるとホルタンは云
274
あと、今一度グレーゲルスによって反復される。この言
を他国語に翻釈するのはまことに難しいというが、英訳
葉.ゲo︿ω①ロωげロロ血、というノルウェイ語のニュアンス
ヘドヴィ いや、あたし、言いたくないわ。ほんの、
グレーゲルス いや、きっと、つまらないことじゃな
こう書いている。
版の訳者の一人である、マイケル・メイヤーはその注に
つまらないことなの。
ヘドヴィ それはね、あたしが、あそこのものを、不
いよ。聞かせてくれよ、なぜ笑ったんだい?
思議に思うことがあると、そのたんびに1急に、考
却性との双方のニュアンスがある。グレーゲルスはそ
︵冨くωΦ口。。げβ口自という言葉使いには︶無限性と忘
れを、終幕にヘドヴィの死を知る時にかすかに独り眩
のは、コ涙の渕﹂ って言うといいってる気がするか
く。そして、そのコンテキストでは、その言葉が彼女
えないのによーいつでも、あの部屋を、あの中のも
ね。
イ語では、それは古風ないい方であり、︿器蔓自①①噂、と
のなした︵死という︶選択を要約している。ノルゥェ
らなの。だけど、そんなこと、 つまらないことよ
グレーゲルス いや、そんなこと言っちゃいけない。
ヘドヴィ つまらないことよ、勿論、だって、あそこ
でもいうようなものである。しかし、英語にはその古
では﹁いつでも、あの部屋とあの中のものは﹃涙の渕﹄
な謎めいた印象を受ける箇所である。ヘドヴィは、自分
この場面は、幾度読み直しても、実に不可解で、奇怪
ないと思われる。︶︵翻訳では︶見過ごされている本質
ぴごΦω$、を用いたがその言葉ではどうにも正確では
することを選んだ。︵最初の版では私は、島①畠①①唱
の古風さを犠牲にして.島。げo暮080︷臣o畠①①℃、と
風さとニュアンスとを共に含む同義語がない。私はそ
って言うといいって気がする﹂のだが、﹁人が﹃涙の渕﹄
は、ほんとは、ただの屋根裏部屋ですもの。
って言うのを聞くと、とても変に聞える﹂のだという。
そのコ涙の渕﹂︵海の底︶は、 ヘドヴィの死に場所で
的意味が、戯曲のクライマックスでグレーゲルスがそ
︵26︶
の言葉を語る時に、閣瞭にされなくてはならない。
そして、もちろん、﹁ほんとは、ただの屋根裏部屋﹂に
すぎないことを十分承知なのである。このコ涙の渕﹂と
いう極めて印象深く、含蓄ある言葉はヘドヴィが死んだ
275
もあり、そこはまた﹁海﹂であると同時に﹁森﹂でもあ
る。イプセン自身、後期作品の題材やディティルに北欧
イのモデルとして望んでいた完壁な存在です。彼女は可
かり凝り家です。L
︵28︶
愛らしく、まじめな表情と態度をしており、ちょっとぽ
きに﹁両手の親指を両耳に入れて、手で眼を蔭にしてい
ヘドヴィはこの作品中、最も不幸な存在である。幕開
神話的解釈を試みることに抗し難い材料が揃っている。
ガストン・バシュラールによれぽ、死者が船に乗って
かず、友人もいない。だが、そのことで彼女が不幸なの
る﹂という印象的な姿勢でいるヘドヴィは、学校へも行
神話を用いたことを認めているが、ここにはある程度の
黄泉の国に旅立つという神話は、殆んどの民族に共通の
を樹の中心に据え、また樹を水の中心に委託することに
自体の苦痛である。ヘドヴィは無能な父親の代りに、母
憶するに足る思い出とそれを忘却させるに足る生活それ
にはなく、十四歳のヘドヴィにあるものーそれは、追
でも、家族の混乱から彼女が不幸になるのでもない。同
じように﹁海﹂で死ぬ﹃小さいエヨルフ﹄の九歳の少年
ものである。そして、﹁水﹂も﹁樹﹂も母性的象徴であ
る。死者は﹁木棺つまり樹のなかに一層くつろいで手足
よっていくぶんか母性的機能を倍加﹂することで、﹁死
を伸ばし︵中略︶水に委ねられ波に託され﹂るのだ。﹁死
者は再び生れるために母に帰された﹂と想像しうるとバ
まっている場所なのだ。 ヘドヴィの年齢は作者によっ
い。そこは、彼女の無数の懐しい思い出がいっぽいに詰
であったにせよ、死ぬためにだけ用意されたわけではな
だが、ヘドヴィのコ涙の渕﹂は死に場所としては最適
るのである。
らない﹂野鴨の棲むコ涙の渕﹂に夢のような思いを寵め
そうであるが故に、ヘドヴィは﹁ほんとのことは誰もし
ことを知っている。だが、それにも拘らず、というより
ないが、ヘドヴィはそれがただの屋根裏部屋にすぎない
は少年の夢想を遊ぽせる場所であるだけでよいかもしれ
親と共に写真の仕事をしなくてはならない。エヨルフが
もし、エクダル家の一員であったとしても、コ涙の渕﹂
︵27︶
シュラールは述べている。
て、十四歳と指定されている。これは両親や周囲の設定
から必然的に計算された結果にすぎないかもしれない
一方、﹃イプセン異論﹄の著者ロナルド・グレイは﹃野
が、些か興味深い。彼女は既に思い出を持っている年齢
の少女なのである。ヘドヴィのモデルは、イプセンの友
人の十三歳になる娘だった。﹁彼女は私の戯曲のヘドヴ
276
て、その﹁象徴自体がこの作品の欠点﹂であり、﹁野鴨﹂
鴨﹄を論じて、イプセンはどこまでも象微に拘わってい
アンビギュイティを継続するだけである。従って、謎を
し、野鴨はもとより屋根裏部屋や理想の問題にっいても
グレイによれば、イプセンはアンビギュイティに固執
論﹂である。
し、ここで興味深いのは、ジョン・ノーサムの﹁﹃野鴨﹄
ことは﹁価値﹂として前提することを意味する。︶しか
面的で固定的な価値として前提している。︵全否定する
オルレイ・ホルタンもロナルド・グレイも、象徴を一
である。
あらゆる象徴主義の愚かさ﹂であるということになるの
︵31︶
は、グレーゲルスのみならず、イプセン自身のを含む、
解明するものは何もなく、﹁﹃野鴨﹄が示しているもの
を設定した考案そのものが混乱した作品をつくるものと
になっているのであり、﹁それがなけれぽ、更に人の心
ンは、ある程度の象徴を用いなくては書くことができな
を打つものとなったであろう﹂と云っている。﹁イプセ
︵29︶
くなっており、しかもそれが正に﹃野鴨﹄という作品を
深く感動させることを妨げている。﹂さらに、その幕切
れについてはこう述べている。
ここには、我々に難問を解かせようとするための一
けはしない。それはその解明の前触れと同じように、
ノーサムはまず、グレーゲルスという救い難い人物が
つの仕組まれた特徴がある。だが、実際には難問は解
漠然としたものでしかない。そしてこの点にこそ、こ
ともかくも、ヘドヴィの想像の世界と詩的共感を分ちも
った唯一人の人間であることを確認する。グレーゲルス
にとっては野鴨は象徴であるが、ヘドヴィにとってはそ
の戯曲が直面せざるを得ぬ最も重要な批評があるので
ある。この結末において、イプセンはヘドヴィの死に
グレーゲルス以上の関心はないのだ。彼はその象徴に
ても意味あるものとなるのは、ヘドヴィがグレーゲルス
れは﹁愛らしい一羽の鳥﹂だった。それが、彼女にとっ
をその想像世界の共感を持つ人間として信じ、彼の言葉
ついて言及し、彼が受けた衝撃を否定するというその
を理解しようとしたからである。だが、ヘドヴィは﹁彼
双方の点で、自分の立場のアンビギュイティを気にか
は単に彼の芸術家としての十全な認識をなしそれを提
けるだけである。その広く解釈可能な点において、彼
女が自分の象徴を造り出したのであって、グレーゲルス
︵ 3 0 ︶
出しただけなのかもしれない。
277
︵32︶
に追随したのではない。L
に、エクダル老人とヘドヴィは重大な感情を表現すると
表現しようとすることなのである。ノーサムがいうよう
鴨が:::﹂とo
きも、こう言うしかないのである﹁森の仕返しだ﹂﹁野
ノーサムはこう書く。
ヘドヴィは屋根裏部屋へ入いり、そこで不意の最期
になるように思われる。屋根裏部屋の中で傷つけられ
を遂げることで、野鴨が適切な象徴である唯一の人間
る心性とは、さしあたって自然への信仰とでも呼ぶほか
はないものである。グレーゲルスは﹁社会の責任﹂を能
前述したように、ヘドヴィとエクダル老人とに共通す
弁に語るが、エクダル老人はそれに対して﹁森がな、あ
そのことに安じている生き物ではなく、傷つけられ屈
辱を受けるよりはむしろ死を選ぶ、自然の中の野鴨。
んた、森がな﹂と答えにならぬ答えをして言葉に詰まる
この劇中の野鴨は、自然の戯画である。野鴨ーヘドヴ
︵33︶
イは、自然そのものとなるのだ。
だけであり、グレーゲルスの淀みなく語る﹁意味﹂を考
ヘドヴィは死に際して口を喋んだままだ。彼女が言
かできない人間なのだ。
ノーサムは、ヘドヴィの死の﹁提出するものは︵中略︶
えようとしてヘドヴィはただ一言﹁野鴨﹂と咳くことし
の少女が命を断つという論理は言葉で包含することが
帰するところ、知的というよりむしろ感覚的である情熱
葉で説明できないのは、父の愛を取り返すために一人
できないものだからである。そこでの象徴主義がなし
的確信﹂だと云っている。それが前に引用したように
﹁恐怖﹂に触まれた近代的芸術家であるオズワルトが脳
その意味では、﹁僕にもわからない﹂﹁説明できない﹂
然、内部から突出してくる自然ではないだろうか。
迷い事などでは決してなく、彼女自身の内部という自
らぽ、ヘドヴィに死を強いたものは、グレーゲルスの世
﹁野鴨ーベドヴィは、自然そのものとなる﹂のであるな
︵36︶
ていることは、二人︵ヘドヴィとエクダル老人︶の人
間の性格を、言葉でないほかの表現で与えようとする
ことなのだ。
︵訓︶
︵35︶
ノーサムがいう象徴とは、﹁言葉では殆んど伝え難い
ような水準の経験﹂であり、﹁言葉にするにはあまりに
深くて、説明できない﹂類の思いを、言葉以外の方法で
278
を犯されて、はじめて言葉を失い、ただ﹁太陽﹂とくり
返すことしかできなくなることと、ヘドヴィやエクダル
しだ﹂という眩きで反復することと照応する。
老人が言葉で表現できない思いを﹁野鴨﹂や﹁森の仕返
﹁森の仕返しだ﹂というだけである。信仰という言葉す
エクダル老人は正に孫の自殺という事態に直面しても
ら似合わないような信仰がそこにはある。信ずることを
知っているヘドヴィがコ涙の渕﹂に沈み、エクダル老人
はまた﹁ホイダルの森﹂の中に入っていくしかなく、信
ずることを知らぬグレーゲルスやヤルマールが生き永ら
(
1−.
︵4︶
臼oげコZo誹匿ヨ層、.守ω2β−oユ萬09。一゜。ε血団.、︵〇四日げユ畠①
O惹&犀゜。魯くH︵︼﹃o旨αo口 目O①① 讐︶ロ゜おω
d昌才Φ﹁ω一蔓只①ωρ一零ω︶層bωGQ
国普ω国ΦまΦお讐、、守ωΦP鋤8諄冨詫oh匹①9誹一ωけ..
9昌①d昌ミ冒い巳⋮Hミω︶
#9。昌ω冨8ユげ団冒曽づ目緯①︵ピo昌島oづ Ooo吋σq①餌=Φ昌
波書店、 一九三九年︶
竹山道雄﹁後語﹂︵岩波文庫版﹃民衆の敵﹄所収、岩
︵5︶ 蜜母二昌国ω巴ご゜、.国①自8ユo冨国ω沼くωo昌 竃o匹臼昌
bdoo溶巴三〇PHΦコ︶b.bo刈
目げ8筒Φ、.︵ピ。巳。三↓①ヨ豆ΦoD巳葺目Oδ︾ロ9。﹁
﹃民衆の敵﹄の引用は.O×ho巳ぎωΦ旨.≦にょる。
]≦国ニヨ国ω巴Pま乙こづ゜拐∼卜⊃㊤
HOげコZo﹁爵9日矯ま己こb°刈①
曲の劇作術には批判的だったという。
毛利三弥﹃イプセンの劇的否定性ー前期作品の研究﹄
︵白鳳社、一九七七年︶第二章によると、一般に考え
られているのと逆にイプセソは当時流行のフラソス戯
]≦胃け冨国ωω=P一び置こ℃°ωO
菅原卓訳﹃民衆の敵﹄角川文庫版︵一九五三年︶
︵11︶
勺簿①﹁ 芝9#929Φω脚剛⑦づゆq三昌Ω器巴8.、Oげoω8
︵12︶ ﹃幽霊﹄の引用は﹃イプセソ名作集﹄︵白水社・﹁九五
六年︶青山杉作訳に依る。
︵13︶
念﹄︵未来社、 ﹁九五八年︶
国8巴αO轟ざ、、ぎω①〒9島ωωΦ暮ごoq<冨宅..︵O山B暫7
フラソシス・ファーガソソ 山内登美雄訳﹃演劇の理
帥昌αo爵零営翁。︽ω.”唱bヨ
︵15︶
幻o昌巴αO量ざま乙゜もO°QoH∼Qob◎
ααqod巳く①昌忽蔓勺冨ωρ目㊤ミ︶O.◎。目
︵16︶
︵14︶
279
えるとするならぽ、この戯曲は、近代人にとって極めて
アイロニカルというより運命的な作品であるように思わ
れる。
だが、イプセンはエクダル老人にこう云わせている、
﹁森の仕返しだ、それでもわたしはこわくないよ﹂と。
イプセンに、ここで述べたような意味での自然−意識を
超えたもののカーへの信仰があったとしても、十九世紀
末の﹁近代意識の権化﹂はやはり、﹁それでもわたしは
こわくないよ﹂と書き続けるほかはなかったにちがいな
い。
)証
((
32
))
(((((
109876
)))))
︵17︶
一肖国コω 国O一げO冠凶−一σ一αこ O。N同α
旨Oげ昌 累O﹁段﹃90ヨ晒一σ一α4 層゜一〇の
マ げ唄 一W﹃一鋤昌窯゜UO≦づω、ハ﹃げ①<﹃=匹一︶口O吋.一昌、儀ハ門げO
日Oげ昌 ZO﹃けず拶ヨ層一σ一αニ ロ゜一目一
︵18︶
︵20︶
︵19︶
一九七〇年︶に依る。
﹃野鴨﹄の引用は、劇団﹁風﹂上演台本︵山田肇訳、
20吋けO昌俸O O ヨ ℃ ” 昌 鴫 一 昌 O . ︾ 一 〇 ① Q Q ︶ ℃ ° μ O q Q
0ゴ﹁一ω甑P昌陣︵﹀フ﹁O﹁θO昌O﹁一江〇四一①α一臨O昌嘘ヴβ尾.≦.ぐく。
毛=匹 U口Oド噂噛け﹃四づω一餌けOα 四昌匹 Oα凶け①α げ罵 円︾O口昌一9 剛Wの
︵21︶
︵22︶ O﹁一①嘱一。国〇一什帥昌讐︵ハリ肖団けげ凶O ℃pI博θ①﹁昌ω一昌一げω①昌層ωH国の什
”°”°ω①∼ω◎o
頃一餌矯ω噂℃︵↓ゴ① q昌凶く①﹁ω一樽鴇 Oh7臼一昌昌①ωOけ四℃﹁Φωω唱HΦ刈O︶
∩可一①矯゜一.︼田O一けOコ矯一σ一ユこ 憎゜剃もQ
ウ鴇 囲゜︸山O一叶四昌,一げ一α゜,O°口畠癖劇
σuAσ10げω
ヨ
一げ圃α二 ℃°μHH
一甑匹こ
冒び昌
一げ一α二
一玄亀二
一ぴ一〇こ 口゜Hら○
菊O昌餌一α O﹃O鴇噛一σ一畠二 U°H目O
目UO口昌一騨 一W°Oず﹁凶ω什一9昌一゜ 一げ一自ニ ロ゜一bδ0
国文社・一九 六 九 年 ︶ u ﹂ =
ガストン・バシュラール ﹃水と夢﹄︵小浜俊郎他訳・
いθα讐目O①卜δ︶
芝=ユ︼︶口O押矯︾け﹁”づω一坦け①島げ矯 ζO団①﹁ ︵り肖Φ陸げ目Φ昌卿OO°
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