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問題劇としての「から騒ぎ」

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問題劇としての「から騒ぎ」
広島文教女子大学紀要
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問題劇としての「から騒ぎ」
愛の成就は何処に?一一
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序
シェイクスピアの初期作品のー篇(1598年執筆)として位置づけることのできる「から騒
ぎ」は,二組の男女の結婚によってその幕が降ろされる O 従って,当時の劇作上の慣習に沿っ
て判断するならば,この劇はまぎれもなく喜劇作品と言わねばなるまい。そして,まさにこう
した判断を示すのが, TheA
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sである。彼は,作者シェイクスピアが「結婚」を愛の成就として最高の形と考え,そ
の意図を明示し強調するために,結婚によって終結する描き方をしていると考えているようで
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Humphreysによれば
Iから騒ぎ」の終結部は観客,読者に次のようなことを確信させるべ
く描かれている O 劇中,どれほど人々(登場人物,更には観客,読者をも)混乱させ,無意味
な大騒ぎに陥らせることがあろうとも,又,その混乱と騒ぎの原因がどれほど危険をはらむも
のであれ,事の顛末が円満な形で終結するのであれば,劇途上の混乱や騒ぎは決して悪や禍い
とはならず,必ずやすべて善となり,福と転ずるはずで、ある O
しかし,果たしてそうであろうか。シェイクスピアは「結婚」という形によって成就した愛
の喜びを讃え,そして成就した愛の約束するその後の永遠の幸福を高らかに詠い上げていくこ
とに主眼点を置いたのであろうか。彼は,劇中の混乱や騒ぎを終幕における愛の成就と人々の
歓喜の声を,より高め強める手段として考えていたに過ぎないのであろうか
そうではあるまい。我々が注目しなくてはならないのは
。
2
)
I結婚」という形によって終幕を
迎える劇の結末ではなく, Humphreys自身が“t
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" と表現した
まさにその,劇途上に起こった混乱や大騒ぎによってもたらされた予期せぬ結果であろう
O
即
ち,或る一つの出来事一一ヒーロウ不貞という架空(偽り)の出来事一ーをきっかけに,暴露
されていく登場人物達の人間性こそ,観る者の目をヲ│く結末でありはしないか。
ヒーロウの貞節は真っ赤な偽りなりーーその事実(偽りの事実)によって婚約者クローデイ
オと愛の仲介者ドン・ペドロは傷つき,疑い,憎しみ,そして第四幕一場,策略を労して罪な
戸内U
き花嫁を誹誘する O ところがその後,己の誤解と過ちに気付くや,形ばかりの改俊を示すもの
の真に謝罪の言葉を口にすることはない。しかもクローデイオは,レオナートウに請われて亡
きヒーロウの御霊に哀悼の意を捧げるが,その報いとしてあてがわれる新たな幸(蘇った花嫁,
ヒーロウ)に対して,何の障踏もなく手を差し伸べるのである O クローデイオとドン・ベドロ
の三人はヒーロウの父レオナートウに対しては一応の非を認めるものの,最も深い傷を負った
ヒーロウに対しては無言のままである O クローデイオにいたっては,己の非を悔いて許しを乞
うことも無く,ヒーロウから許され,受容されるのである O ヒーロウに対しであり得る限りの
恥辱の言葉を与えておきながら,その過ちと残酷さを何ら恥じることなく自己を正当化するば
かりか,その態度を許され,更に幸運にさえ報われるとはいかなる結末であろうか。そこに喜
劇の典型的な「愛の成就」を見よと命ずるのは過大な(見当違いの)要求であろう
O
黙して許
すヒーロウの態度に対しでも,観る人の胸に疑問の芽が頭をもたげずにはおくまい。何故,自
己中心性しか持ち合わせぬ男の「愛」に不信を抱かぬのかと。それが果たして愛と呼ぶべきも
のであるかと O 更に,自己の利に意を用いることより他に関心を持たぬようなこの男に,返す
べき「愛」が自分自身の中にあるのかと,ヒーロウは何故自問することもないのであろうか
……?こうした疑問が我々の中に芽生えても不思議はないはずであろう。だがしかし,ヒー
ロウはここでも無言であり,我々にその真意を知る手立てはない。ただ,その無言のままに,
許すべからざる花婿を受け入れるヒーロウに対して,人は,クローデイオに対して抱いた不信
.
R
.Humphreysの言うよ
に劣らぬ不信の念を抱かずにはおれないのである。果してここに, A
うな予期すべき喜劇の「愛の成就」を見ることができるであろうか。
このようにして,ひとつひとつの劇展開を追っていけば,劇を見る者は,シェイクスピアが
おそらくは内心に抱いていたであろう,人間性への懐疑,愛の真実性に対する懐疑を感じない
わけにはいかないのである。我々はそこに,-終わりよければすべてよし J (
1
6
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2
0
3
) や「尺
には尺を J (
1604-05) に通ずるような「愛」なるものの不確かさに気付かざるを得ない。い
ずれの劇も確かに形の上では「市古婚」によって愛が成就したかに見えはする O ところがその一
方で,成就に至る過程や手段が尋常ならぬものを含むため, (
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k,裏切り,金銭の授受
など) ,-結婚」という結末へと劇が進展し終結しでも,満足と安堵を感ずるよりはむしろ,劇
を観る者の胸にわりきれぬ違和感が残ってしまうのである O 人は,そこに果たして真実の愛は
あるのか,と疑わずにおれぬのである O そして,円満な「愛の成就」以外の終幕など受け入れ
られぬ,という態度から自由になった時,その違和感にこそ,作者の思いがこめられていはし
なかったかと思われてくるのである 3)。
「から騒ぎ」はこの両作品に先立つ作品であるが,これら後に書かれた作品に似通った問題
を既にはらんでいる。それが先に見た愛の真実に対する懐疑,不信である。愛の成就(の過程
や手段)の描き方は異なっていても,成就を見た後に残る違和感には似通ったものがあり,
シェイクスピアは「から騒ぎ」を書く時に滑り込ませていた「愛」の問題を,後の二作品の中
でもっと複雑な人間関係を盛り込んで描こうとしたのではないかと思われる。この三つの作品
を互いに照らし合わせてみる時,シェイクスピアは結果的に一一或るいは意図的に,同一主題
を追っていたことに我々は気付かされるのである。ところが,興味深い点はそれだけではない。
「から騒ぎ」という作品は,-終わりよければすべてよし」や「尺には尺を」には見ることのな
い問題も窺わせていて興味深いのである。クローデイオとヒーロウの聞に訪れる「愛の成就」
は,愛を交わした男女の間にあるはずの信頼が果たしてそこに見出すことができるのか,その
点を疑わせるだけでない。それは,親と子,正確には父と娘の間にあるべき愛と信頼に対して
~
1
5
6ー
問題劇としての「から騒ぎ」
さえも懐疑し,不信の念を抱かざるを得ない要素を同時にはらんでいるのである O
第四幕一場においてヒーロウの父レオナートウは,娘が恥ずべき言葉で不貞の罪を問われ,
耐えがたい辱めを受けている間,一言たりとも娘の弁護をすることはない。彼はむしろ,ク
ローデイオやドン・ベドロの非難のままに,娘のふしだらな行いを事実として信じるが如き態
度を取るのである。己のが娘の美徳、を誇りに思う父であるならば,憤りをもって男達の告発を
退け,反駁するはずではないのか。だがレオナートウは,衝撃のあまり倒れる娘に向かつて
「死」をもって恥ずべき不貞の罪を,その汚れた肉体と共に葬ることを願うのである O この時,
彼の手にする「不貞」の確信の証し(拠りどころ)は唯一,クローデイオとドン・ペドロの言
葉であるに過ぎない。彼は,娘の真実を信ずるよりは
I高潔なる」二人の男の言葉を信ずる
というわけである。いや,そればかりではない。その後ヒーロウの無実が明らかになった時,
自らが三人の男達に組してその非を責め,汚れた肉体を嘆き嫌悪したことなど忘れたかのよう
に,クローデイオを相手に,罪なき罪を問われた娘と同様,彼自身が不当な恥辱を受けたと怒
るのである。あたかもレオナートウは,自身が娘の楯となるべきところを,追撃の矢となって
しまった親であることを気付かぬ人のようである。己の娘が,謀りごとによって(ドン・ペド
ロの弟,
ドン・ジョンの企み)女にとって最も重き美智、である貞節を疑われることは,確かに
父親の恥辱であることは否定できまい。しかし,彼はその偽りを明白な事実と即断して,自ら
がわが娘を恥じ,嫌悪し,そして絶縁さえ望んだのである O その過ちを非として認め,娘に詫
びることなくして「父の恥辱」を怒ることはできぬはずではないのか。それなくして怒ること
は恥ずべきことであろう。だがレオナートウは,クローデイオやドン・ペドロと同様,罪の晴
れたヒーロウの前に無言である。この父に親としての,人間としての真の愛を見ることはでき
ない。そして一方,ここでもまた,ヒーロウは父の無常の非難に一言の怒りも,不信も口にせ
ぬままあてがわれるままに,再び花嫁となるのである。こともあろうにあの,彼女に恥辱を与
えた男クローデイオのもとへ再び
嫁いでいこうとするのである O
この花嫁と花嫁の父をまのあたりに見る時,我々はまたしても「愛」の不信に捕れることに
なる O 劇の幕が上がる前には既に,この親と子(父と娘)の聞には月日をかけて愛と信頼が培
われていたことであろう
O
だがその愛は,第四幕一場で大きな痛手を受けたはずである O その
深手を負った親と子の愛は,子(娘)の「結婚」によって,即ち,もう一つの「愛」が成就す
ることによって,完全に回復したのであろうか?娘ヒーロウは,新たな「良縁」を父レオ
ナートウから与えられたことで,父への愛と信頼を取り戻すことになったのであろうか。彼女
の受けた傷はそれほど容易に癒されるものであったろうか。それとも初めから一度も(親子
の)愛の喪失も痛手もありはしなかったのであろうか。いや,第四幕一場のレオナートウの言
葉を思い返すなら,そして謝罪を知らぬ彼の憤りを思うなら,愛の喪失などなかったと考える
ことも,傷つき失われたものを容易に回復させることができたと考えることも受入れ難いはず
である。
こうして
Iから騒ぎ」という作品には,男女の愛と親子の愛という,ふたつの「愛」の真
実性を問う問題が問い正されていることがわかってくるのである。しかしながら,この作品を
批評の対象と分析の対象にする時,そうした愛の真実に対する懐疑を主たる関心事として批評
を試みる傾向はほとんど見られないようである O
無論のこと
Iから騒ぎ」という作品を,単なる喜劇の典型と見る立場を取らない批評家達
もありはする。彼らは,人物の描き方や劇の終結の仕方等に,喜劇とは相入れない要素を見て
いるのである o R
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例である 4)。こうした批評家の考えそのものには正当性もあり説得力もある O 又
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のように,クローデイオとヒーロウの婚約が成立していく過程には,個と個を堅く結び付ける
ためには欠くことのできない,-愛」と名付けることのできる感情が充分に育つだけの条件が
満たされていないことを指摘して,そこに愛の脆さを予測させる大きな要因を見る批評家は存
在する 5)。確かに,その指摘は示唆に富む興味深いものである O しかし,彼らにはいずれの場
合にも,最終的に二人の聞に成就された愛と,その後の愛の行方についての言及はなく,また,
レオナートウの父としての愛についても問題となるべきものがあるとは考えていないようであ
るO
登場人物の描き方に注目して,そこに,典型的な喜劇群には見ることのない特徴があると考
える批評家達は,例えば F
.
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.Maresのように,この劇には,製作年代の上からも近接してい
る主要な喜劇作品よりは
むしろもっと後の作品一一問題劇とされる「終わりよければすべて
よし」や一群のロマンス劇である,-シンペリン」ヤ「冬物語」などとの類似性を見ることが
できると考えている O 彼は,クローデイオの言動は卑劣で許しがたく,信頼に値せぬ男といっ
た印象を観る者に与えるものであり,この印象は,激しい嫉妬に襲われる男達や,己の高い出
自故に倣慢な男達一一←「シンペリン」のポスチユマス,-冬物語」のレオンティーズ,更にオ
セローの姿を,そしてパートラムの姿を連想させるものであると,その類似性を指摘している O
又,こうした嫌悪すべき男性主要人物の性格や言動は,逆に,女性主要人物達(イモージェン,
ハーマイオニ,デズデモーナ,ヘレナ)の寛容さ,忍耐強さが美徳として強調されていく結果
となっていることも指摘している。 F
.
H
.Maresは明言してはいないが,-から騒ぎ」のヒーロ
ウの中にも,こうした美智、としての忍耐と寛容を,即ち,讃えられるべき性格を見ょうとして
いることが窺い知れる O 何故なら,ヒーロウは,不貞の汚名にさして抗弁することなく,ただ
耐えて時を待ち,結婚という幸を手にするのであり,やはり, Maresの挙げる他のヒロイン達
と同様,寛容と忍耐の美徳の持ち主として讃えられるべき女性と評することができるからであ
るO しかし,その見方も「から騒ぎ」を単純な,或るいは典型的な喜劇として見ょうとする
A
.
R
.Humphreysと同様に,表面的な作品評価や人物評価に終わる恐れがありはしないであろ
うか。
たとえば,-終わりよければすべてよし」のヘレナの見せる忍耐強さの源泉は,他者の弱さ
や欠点,過ちなどをそのまま赦し受容する類の愛,即ち,母性的な愛にあるのではない。へレ
ナには,彼女自身のはっきりとした目的があって,その目的達成の願望こそが「忍耐」を可能
にしているのである O へレナはパートラムを一方的に愛したが,そのパートラムは,自分より
身分の低い女を愛する(妻として)ことなど己の価値を落しめる行為だと信じて疑わぬ男であ
るO 彼にとって,ヘレナの知性と貞節は全く意味をなさない。しかし,この報いのあろうはず
のない愛をなお求めるへレナは,ただ為す術なく耐えて待つ人ではなかった。彼女は策を労し
て愛を獲得するのである。この間彼女をして,男の不当な仕打ちゃ評価に耐えさせているのは,
本来性格として持ち合わせている優しさとしての忍耐や寛容の心などではない。理性の力では
抑制することのできぬ愛という情熱に促され,他でもないその,自分自身の求める愛を成就さ
せることこそがヘレナの耐える力の源泉となっているのである O その時,相手の男パートラム
の中に,彼女に返すべき愛が芽生えるか否かは問題とはならない。この姿の中に,全くといっ
てよいほどに受動的なヒーロウの姿(或る種の忍耐)と重なるものを見ょうとすることには無
理があることは言うまでもない。
1
5
8
問題劇としての「から騒ぎ」
又1"冬物語」のハーマイオニの場合も,単に,その 1
6年にも及ぶ長い年月の間,晴らされ
ることなく被った「不貞の汚名」と死(仮死)の運命に耐えた人生を,女性ならではの美徳の
賜物と讃えることには疑問が残る O ハーマイオニはなるほど,劇の終わりに至って,かつて自
分を不貞の罪を冒した妻として責め,死に至らしめた夫レオンティーズを許したかに見える O
しかし,我々は忘れてはならないのである。ハーマイオニは許しと和解の言葉をひと言も口に
はしていないことを。その時彼女をして,容易には和解に至らせぬその理由は,ハーマイオニ
の誇りである O ハーマイオニの言葉に見るべきは,自分自身の潔白に対する高い誇りである。
安易な和解を拒ませるのは,彼女の毅然とした誇りにあることを見のがしてはならない。ハー
マイオニを評するなら,女性の美徳としての寛容ではなく,むしろ男性の誉れとして称賛を受
ける「高潔」さ (
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) を挙げるべきであろうへそして,この高潔なる
女性像は,ヘレナの中にもヒーロウのなかにも見出せるものとは異なる姿である O
上記の例は,表面的な比較対照から類似性を強調することが,ときとして,人物の中に描か
れた性格や意図を見誤る可能性を生むことを示していると言ってよいであろう
O
それは,劇が
どう終結するかを論じるときにも同様である O ロマンス劇に関しては,その人物の描き方ばか
りか,劇の終結の仕方についてもそれは言えることである1"から騒ぎ」との似通った特徴を
見ることは確かに可能である1"から騒ぎ」におけるヒーロウの貞節への疑いを巡って起こる,
誤解と婚約の破棄という悲劇的な幕開けは,最終的には誤解が解けヒーロウの汚名も晴れて,
結婚という円満な終幕を迎える O 従ってそこに,ロマンス劇の典型的な劇構成である不利,
別離から再会,そして和解〉といった劇の展開形式を見たからといって間違いだと言うことは
できないであろう1"から騒ぎ」には,ロマンス劇に匹敵するような長い別離や劇的な再開の
場面は無いものの,或る行き違いによって引き起こされる「劇」がやがて一応の和解をもって
終結することは確かで、ある O しかし,こうした劇作上での類似点を指摘してみせるだけでは,
劇の主題を知ることにはならない。「から騒ぎ」の主要人物の性格創造や劇構成が,典型的な
喜劇の諸作品とは異質なものを含むことを指摘することは
劇全体の主題を知る上での一つの
示唆となるに過ぎないのである O
1
. 上演史の伝える笑劇「から騒ぎ」
さて1"から騒ぎ」を結婚によって愛の成就に至る喜劇の典型と考え,
しかも,劇中で人々
が遭遇する謀り事や裏切りといった暗い要素など微塵も感じさせぬほどに,楽しく明るい笑い
の渦に観客を巻き込んでしまうような劇, f
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yとして見ょうとする傾向が長い間優勢
であったたことが,上演史を紐解く時容易に推測することができる O 単純な笑い,抱腹絶倒の
笑い,即ち e
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tの提供を目的とする劇から,登場人物の人間性や倫理的内容を問う
劇へと,少しずつ重点が移行していく傾向を日にするのは, 2
0世紀も後半に至ってからのこと
である O 実際のところ,シェイクスピアがこの劇を執筆して後,ほどなく上演され始めた頃よ
り2
0世紀半ばまで実に 3世紀以上の長い間1"笑い」を生む f
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yとしての捉え方は異
論を挟む余地のない「から騒ぎ」の演じ方でもあり続けたのである O そして,当然のことなが
ら,劇の核となるのは「明るい笑い」を生み出す二人の人物,ベネデイックとピアトリス(の
言葉の応酬)であった。従って1"から騒ぎ」という劇はベネデイックとピイアトリアスを中
心とした筋立てに重点が置かれ,この男女を誰が演じるかが注目の的となる O なかでも,ピア
トリス役を務めた歴代の女優は多くの話題を集めたらしく,その演技をめぐるエピソードには
興味を引くものが少なくない。その,半ば伝説となった物語には,当時の人々がこの劇をどの
1
5
9ー
ように捉えていたかを知る手がかりを見出すことができる。しかもそれが結果として,上演す
る側(演出,役者)の提供しようとするものと,観劇する側(観客)の期待するものとの,双
方の演劇観一一劇「から騒ぎ」の捉え方一一ーを伝えることになっていて,一層我々の興味を引
くのである。
劇場に笑いをもたらし,その笑いによって観客を楽しませる劇でなくてはならぬ一一それを
「から騒ぎ」上演の伝統とする考え方が,確かに主流であったことを端的に伝える一つのエピ
ソードがある。 1
9世紀の終わり(18
8
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)から女優生活を退く時までの長い間,ピアトリス役を
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yの残した言葉は,当時の「から騒ぎ」を巡る状況を伝
演じ続けて常に好評を得た E
えていて興味深い。次に挙げるのは,彼女が H
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gと共演した際の或る小さな (
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.) ([ ]は筆者)
ここで問題となっているのは,第四幕一場,ヒーロウが不貞の疑いをかけられ,誹誘された
上に結婚の約束も破棄されてしまうという,悲劇的な展開となる場面
いわゆる「教会の
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"とは,観客の笑いを誘う
場」ーーをどう終わらせるかである。引用文第四行“t
ために挿入される滑稽な入れ台調を指す。具体的には引用丈の最後にあるように,ピアトリス
とベネデイックの両者が戯けた調子で,たとえば「あいつ(クローデイオ)を殺すのよ O あな
た,できるって言うなら,本当に殺ってみせてごらんなさいな。 J, Iあーあ,やってみせるさ,
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J といった具合に言葉を応酬する句だ
疑いめさるな,この命に賭けて(あやつの命は戴きだ )
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" という形容詞が添えられていることから,
りを入れるのである。そして,この“ t
「から騒ぎ」第四幕一場の終わりは必ず,この‘g
a
g
'によって笑いのうちに幕が降りることに
なっていたことが分かる。だが,この時初めて, H
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gの演出,主演による「から騒
支として出演を依頼された E
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yは,この{云統の演出を激しく
ぎ」の上演にピアトリス f
拒んだのである。従来,演劇人が必ず取り入れ再現してきた‘g
a
g
'であり,観客も期待し歓迎
a
g
'であるが, E
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yとしては好ましからぬ,蔑むべき台詞としか思えな
してきたこの‘ g
かった。しかし,演出担当の H
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gは,この“t
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"なくしては第四幕一場は
終わらない,いや,観客席がシーンと静まりかえったまま幕が降りたのでは,この場面は台無
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yとしては,たとえこの上演で
しだ一ーと主張して譲らなかったというのである。 E
の主演女優を務めるとはいえ,主演男優であるばかりか,演出責任者である H
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gの言
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葉の前に譲歩せざるを得なかったのであろう。その口惜しさが言葉の端に窺える。“ l
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g
"という言葉からして,彼女の「伝統の言い回し」に対する
拒絶は思いつきなどではなく,これまでも常に嫌悪とともにこの“g
a
g
"を退けてきたことが分
-160-
問題劇としての「から騒ぎ」
かるのである。そうであるにもかかわらず,品位を損なう言い回しとして削除すべき台詞と所
作を敢えて受入れ,演じなければならぬことはどれほど女優としての誇りを傷つけるもので
あったろうか。耐え難い妥協であったに違いない。
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yは何故こうして Henryl
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gが「伝統」だと言って譲らぬ台調回しに抵抗
では, E
したのであろうか。この時,彼女の中に「から騒ぎ」という劇をベネデイックとピアトリスの
筋立てを主軸とした劇として,即ち,‘e
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nt'として上演することそのものに対して異
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gと共
論をさしはさむ意図があったか,それは不明で、ある O 現実には,この作品で Henryl
に主役を演じる誇りと喜びが E
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yの中にはあったはずである O 従って彼女が,クロー
デイオとヒーロウの筋立ての持つ
或る意味で
より深刻な内容と倫理性を感じさせる劇展開
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"に反対した可能性は薄い。そうで
にもっと比重を置くべきだと考えて,あの“t
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yには自分が正しいと信じ演じたいと願っているピアトリス像があり,
はなくて, E
Henryl
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gの要求はその信念と願いを打ち砕くような内容だったのである。彼女が演じよう
としていたのは,ただ単に,その機知とベネデイックとの舌戦のもたらす笑いによって観客を
引き付けるピアトリスではなかった。彼女の理想とするピアトリス像は,品位と優しさ,知性
l
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y自身がピアトリス役を初めて演じることに
を備えた女性である。そしてそれは, E
7
9年)第一線を退いたシェイクスピア女優, H
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tの演じてきたピ
なるその前年に(18
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tは実に 4
3年間(18
3
6
7
9
) という長期
アトリスを継承するものに他ならなかった。 H
3年という年月が既に,彼女の演
間にわたってピアトリスを演じ続けた英国女優である。その 4
じるピアトリスを観客達が如何に支持し好んだ、かを物語っていると言ってよい。彼女の演技は,
演劇批評界からも繰り返し絶賛されたことが記録に残っているのである 9)。
H
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tの演じてみせたピアトリス像は,当時確かに,文字通り「笑い」の渦を巻き起
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nの演じたものとは際立つて違う,新たなピアト
こして,既に人気を博していた D
リスであったようである 10)。又それは,男性絶対優位の社会にあって,男性に闘いを挑むこと
さえ辞さぬばかりの激しい気性を見せるピアトリスとも異なる女性であったとも伝えられる 11)。
そして,この H
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tの後を引き継ぐかのように,次代のピアトリス役として登場した
E
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yは,彼女を手本として自分自身のピアトリス像一一生き生きとした明るさと機知
に加え,優雅な美しさ,優しさ,そして毅然とした誇りーーそのすべてを備えた女性像,ピア
トリスを確立していくのである 12)。
このように明確な女性像を既に胸の内に造りあげている E
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yには, Henryl
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gの要
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g
'は受け入れ難いものだったことは容易に推測できる。機知と舌
求する,滑稽さを狙った‘ g
戦の生む笑いを背景に押しやってしまうほどの品位と知性一一そこにピアトリスの本領(命)
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yにとって,むしろ下世話な痴話喧嘩を連想させる笑いの種としての‘g
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g
'は
,
を見る E
彼女の信じるピアトリス像を損なう行為に他ならない。ましてや,問題の第四幕が終わろうと
する場面では,親友であり従姉妹であるヒーロウを襲った悲劇と恥辱をまのあたりにして,衝
撃のあまり言葉を失っていたピアトリスがやっと己を取戻し,ベネデイックを相手に悲しみと
怒りを吐露するのである O 従って,その悲しみと怒りが消えぬままに幕が降ろされるのでなけ
ればならないはずである O それを,観客に「笑い」を提供する(そして強いる)ために,彼ら
二人が戯けた調子で互いを榔撤して退場するのでは,それこそ,舞台が台無しになってしまう
のである。この危倶が“weh
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g
"という強い拒絶の言葉となって表われたもの
と思われる O 彼女の目には,それが「伝統」の演出,演技であるとは言え,その滑稽な入れ台
詞を試みることは,演劇人自らが役者としての誇りとその舞台を落しめる行為
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と映ったに違いない。
しかしながら,伝統と伝統を支持する人々の力は未だ遥かに優勢であり,独り,女優 E
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yの信念と誇りだけでは,その力を拒むエネルギーとはならなかったようである。伝統と
現実の壁がいかに厚いものであるかを,同じ第四幕一場の別の場面の演技をめぐって生じた,
E
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yと W
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yの対立が示している O それは,やはり Lyceum公演に先立つ舞台稽
古でのことであった 13)。
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I何て馬鹿げたこと!
とんでもないわ。」と叫ばせた, W
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言(演技指導)とは, H
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gとの対立を見た同じ第四幕一場,教会の場の或る一場面に
関するものであった。第四幕一場が三分のーほど進行した辺りである O クローデイオから不貞
の罪を疑われ,激しくなじられたヒーロウが恥辱のあまり昏倒してしまう
すぐさま駆けより,助け起こそうとするベネデイックを見るや
O
倒れるヒーロウに
Iピアトリスは彼をヒーロウ
のそばから追っ払うんだ。つまり,嫉妬だよ, ピアトリスは自分の男には,他の女に指一本触
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yはこともなげに言ったのである O 引
れさせないってわけさ……分かるだろ。」と, W
用文中の“t
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"とは,まさにその場面で,ピアトリス役の女優が必ずやってみ
せる,或る大袈裟な仕草一一ベネデイックをヒーロウから遠ざけようとする仕草を指している。
そして E
l
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yは初め,その言葉が信じられなかったと語っている。
あからさまに,そしてはしたなくも「嫉妬」を露わに,愛する男を他の女から引き離そうと
する仕草をしてみせよとは……! しかも,他の女といっても,それは自分にとって大切な友,
そして実の姉妹に寄せる親愛に優る情愛を交わす従姉妹一一ーその人に触れてはならぬと,男の,
助け起こす手を払いのけるのである O 優美と知性を演じようとする E
l
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yにとって,そ
れは無想だにせぬ演技に違いない。その上ここは,先の場面と同様,ヒーロウが耐え難い恥辱
を受けて気を失い,倒れ伏すという劇的瞬間なのである。そこに滑稽を狙った笑いを誘う仕草
を挿入させるなど,言語道断であろう
が主役顔をするのである
O
ところが,またしても「伝統」の名のもとにこの演出
I常にこうして我々は笑いを勝ち取ってきた」この言葉の前に首を
垂れ,ひとりの女優に過ぎぬ彼女は,思いを交わした男に対する最優先権によって許されると
ばかり,あからさまに嫉妬の腕を振るうピアトリス,そして品位など無縁となったピアトリス
を演じてみせねばならぬのである。
「から騒ぎ」という劇が「笑い」を提供する劇としての使命を帯びている限り, E
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の“Oh,n
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"という反論の声は優勢となることはできない運命にある O 彼女の中には,
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tが開拓し,彼女自身が豊かに実らせたピアトリス像を汚しではならないとの思い
が確かにあったに相違ない。しかし,その思いを完全に貫くためには, E
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y自らがこ
の時の, Lyceumでの上演から降番すること,即ち,ピアトリス役を放棄すること以外に道は
-162
問題劇としての「から騒ぎ」
なかったであろう
O
そう考えると, 1
8
8
2年の秋に始まり,アメリカ公演を挟んで帰国した後,
更に 1
8
8
4年にまで及んだ,その長く報いある上演記録は,成功の喜びと自信を彼女に与える一
方で,自分の思い通りの演技を許されぬことへの口惜しさも彼女の胸の内にはあったであろう
O
だが無論のこと,後年(19
3
3年)E
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nTerryが自ら当時の知られざる物語を語り始めるまでは,
当時の観客達はそうした葛藤のあったことなど知るよしもなかったのである 14)。
こうして「から騒ぎ」は圧倒的に, f
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yとしての人気に支えられ,劇中の中心人物
の一人,ビアトリスの演じられ方がどう変遷しようとも,-笑い」という e
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I
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tを観客
に提供する劇としてはさしたる変化を起こさず,何世紀にもわたって演出され,上演され続け
ていったのである。それは, 2
0世紀後半に至って,ベネデイックとピアトリスの筋立てにかけ
られていた大きな比重が,少しずつではあるが,クローデイオとヒーロウの筋立てへと移行し
ていく試みが為されるまでの,長い長い伝統の歴史である O
こうした上演史の伝える逸話によって裏付けられる,笑劇「から騒ぎ」の(三世紀半にも及
ぶ)再演は,間違いなく,批評家達の劇解釈の方向を大きく左右してきたことと思われる。序
に紹介した A
.
R
.Humphreysの作品に対する考え方などはその一例である o 2
0世紀も終わろう
とする現代にあってなお,伝統的喜劇であることを強調する考え方は力を失っていないのであ
るO 他方,喜劇に共通する人物創造や劇の構成には見られぬ特徴を「から騒ぎ」の中に見出し
て,問題劇,或るいはロマンス劇との類似性を指摘する試みが為されてはいるものの,劇全体
の主題そのものに深く関わる問題提起はほとんど見ることはできない。
この小論の意図は,愛の成就を象徴する「結婚」によって終結する「から騒ぎ」は,文字通
りに真実の愛を人々にもたらすのか,それを問うことである O 結婚に至る男女,そして娘を嫁
がせる父とその娘,彼らは果たしてそれぞれに,互いの聞にこまやかな情愛と信頼を胸に(抱
いて)物語の終わりを迎えたのであろうか。
2
. クローデイオの愛
クローデイオによるヒーロウ不貞の糾弾が行われる第四幕一場,教会の場こそは,-愛とは
J と,このひと組の男女双方に,そして観客,読者の胸に,愛に対する不信を抱かせる
何か ?
発端となる場である O そこでは,永遠の愛の誓いとなるはずの言葉が一転して,憎悪と復讐の
言葉へと急変するのである,-不貞」の噂と疑いはこうまで人の感情を変えてしまうものなの
か
。しかし,その教会の場に日を向ける前に,まず,クローデイオからヒーロウへの求愛
がどのようなものであったかを見ておかなくてはなるまい。何故なら,クローデイオが理想、の
妻としてヒーロウを選んだ経緯と,求愛の具体的な方法には,彼が後に見せる心変わりの原因
が潜んでいるからである。その短時日の急変は唐突の印象さえ免れない。クローデイオの急激
な変様はなぜ、可能なのか,それを知ることは,彼のヒーロウに対する愛の本質を知る手がかり
をも示してくれるはずである O
クローデイオがヒーロウを理想の女性であり
理想の妻として選ぶ時,注目すべきは次の二
点である O 第一点は,彼がヒーロウの中にどのような美徳を見たかという,美徳、の基準の問題
であり,その求愛と求婚はどのような方法で行なわれるのかという点である O 念のためにつけ
加えるなら,-どのような方法か」と問う時,そこには「誰が」という問いも含まれている O
2
.ー(1) ヒ一口ウの「貞節」という美4
窓
第一幕一場の官頭,アラゴン公園の王ドン・ペドロの率いる軍団が勝利のうちに戦役を終え
て,メシーナに到着する。ドン・ベドロの二度に及ぶ勝利は,若き武将クローデイオの功に負
うところが大きく,彼等一行の到着を前に人々はその噂に興じている O そして,いよいよ到着
した王と重臣たちは,メシーナの行政官レオナートウから格別の歓待を受けるが,型通りの挨
拶が終わり,迎える側も迎えられる側も各々に,今宵に計画されている戦勝祝賀を兼ねた歓迎
の宴の準備に取りかかるべく,その場から立ち去っていく。だが,クローデイオだけは何か意
図あってのことか,後に残り,同僚のベネデイックを引き止めてこう尋ねるのである O
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0,1,119-130)
他の人々が立ち去るのを待ちかねたように, レオナートウの娘ヒーロウが実に「控え目で貞
淑な」女性ではないかと,ベネデイックの同意を求めるクローデイオである O それに対して,
真面目とも不真面白ともつかぬベネデイックの答えは,一方で言葉遊びをしているようでいて,
実は,ヒーロウの外観をほぼ正確に映す描写となっている。その上,彼自身の本音も窺わせる
言葉でもある。結論としては,ベネデイックの「美」の基準に照らしてみれば,ヒーロウは失
格である O なんとなれば,ヒーロウは美人の背丈としては少々低く過ぎる。雪のように白いと
誉めるには,ちと色が黒い 15)。どこといって驚くほどの美しさなど彼女には望めぬではないか
一一。というわけで, どうやらこの「貞淑」の人,ベネデイックの眼鏡にはかなわなかったよ
うである O もっとも,彼自身の美の基準は別にして,ヒーロウがけっして“ u
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"など
ではないことを認めてはいる。
それにしても,背丈と肌の色に言及していると思われる前半の表現は問題ないとして,最後
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"はどう理解すべきであろうか。ただ漠然と,誉むべき点がほと
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"
んど見当らないことを示しているとも取れるが,ベネデイックの好みから推測して,“t
の後に語を補ってみることもできょう。即ち,男に舌戦を挑むほどの多弁と機知を持ち合わせ
た女
たとえば,ピアトリスのような女をむしろ誼しとするベネデイックの好みの傾向を考
えに入れるなら, t
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"或るいは,“t
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"という含みのある表
現であるかもしれない。ベネデイックにとって,さしたる言葉の数も語るべき内容も持ち合わ
せぬ女など,何ほどの魅力もないのである O ベネデイックにとって
ど女の真の美徳とは到底なり得ない。
1
6
4ー
I言葉」を失った貞淑な
問題劇としての「から騒ぎ」
ところが,クローデイオにとっては,その「多くを語らぬ」貞淑さこそが女の最も大切な美,
最も誉むべき美徳なのであった。そして,そのことを裏付けるもう一つの手がかりとなるのが,
ヒーロウに与えた他の讃辞である O この場面で,クローデイオがヒーロウの美徳に言及した明
確な表現は,引用文の冒頭にある“modest" という語,一語のみである。従って,上記引用文
に続いてこの後の対話に出てくる讃辞は一一「世界のすべてを引替えにしてでさえ,買い求め
ることのできるような宝石ではあるまい。 J
(
s
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hajeweJ)も,又
0,1,134) と,ヒーロウの価値を讃えた言葉
rこれほど素晴らしく,愛すべき人を知らぬ。 J (
1
, 1,1
3
9
) と,ヒーロ
ウに心奪われた喜びの言葉 (
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すべては,彼女の“ modest"b
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gであ
ることを讃えるための表現であることが分かるのである。こうして,クローデイオがヒーロウ
を理想、の妻と定めた,その決定的理由は彼女の貞節,貞淑さという,伝統的美智、であったこと
は間違いのない事実であると考えてよい。
そして,クローデイオの観察通り,現実のヒーロウは確かに寡黙で、控えめである。第一幕一
場,使者の知らせを受けたメシーナの行政官レオナートウが,娘のヒーロウと姪のビアトリス
を伴ってドン・ベドロの一行を出迎える時,両者合わせて総勢 9人のうち,ただ独りヒーロウ
だけは終始ひと言も語らないのである。更に,
ドン・ペドロ達がまだ姿を見せぬ,劇開始直後
に遡って思い起こしてみでもなお,ヒーロウはほとんど言葉を持たない。やがて到着する客人
達の噂話に興じる人の輸の中ににあって,彼女は僅かに二度, しかも,いずれも一行にも満た
ない短いあいづちを打っているに過ぎない。親しい人の中にあっても変わらず言葉の少ない
ヒーロウは,客人の前での礼儀として寡黙であろうとしたのではなく,本来の性格として控え
めであり,女性の美徳である「貞節」を思わせるたたずまいを持ち合わせていたのである。但
し,劇中,彼女が多弁になる唯一の例外的な場面があることも事実である O それは第三幕一場,
ピアトリスとベネデイックを恋人に仕立て上げようと
待女のアーシュラと策を凝らす場面で
のことである。しかし,この唯一の例外をヒーロウの本質を伝える証しと考えることはできま
し
, 16)。
二度のメシーナ訪問は,控えめなヒーロウの慎ましやかな女らしさをクローデイオに確信さ
せることになった。対照的な性格をみせるピアトリスの存在は一層,ヒーロウの貞淑さ(の印
象)を強めることになったであろう
O
クロ」デイオの目は,多弁で才気燦発なピアトリスより
も,他から求められぬ限り自分の考えや感情を語ることのない女性,たとえ語ることがあって
も,相手の口を封じるような,とりわけ男の言葉を凌ぐような表現は取ることなどはとてもで
きない,そのような女性であるピアトリスをより好ましい人として映していた。しかしながら,
そうした女性観はクローデイオに特有のものでは決してない。それは,彼の恋心を知るや,
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4
) と言って,ヒーロウを「理想の妻」となり得る女性と
して推奨するドン・ペドロも共有する女性観である。実は
この時ドン・ペドロの用いる
“
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" という語には,女性の持つ美徳を指して「素晴らしい,価値ある人」という意味だ
けではなく, もう一つの意味が暗に込められているのである。だが,ここでは敢えて触れず,
次章まで待つことにする。さて,女性の美徳として「貞節,貞淑」を重んじる点では,ヒーロ
ウの父レオナートウもまた例外ではない。それが劇的な形で証明されるのが第四幕一場である
が,その点に関しては後,詳しく論じなければならない。
このように,クローデイオが信じ,
ドン・ペドロやレオナートウが信じる女性観とは,当時
の人々,とりわけ身分ある人々の間では,ほとんど例外なく支持されていた考え方であった。
父権社会において,女性の最高の美徳を貞節,そして貞淑さに置くことは,もはや冒しがたい
-165ー
信仰のようなものと言ってよいかもしれない。 f
足って,クローデイオの選十尺は f
皮自身が信じ,
他の誰もが信じ,世のすべてが支持する価値に従った「正しい」決断と選択であると言ってよ
いかもしれない。しかし,だからと言って,クローデイオがヒーロウその人を深く,充分によ
く知り,愛したことにはならない。その人に美徳の備わることを知り,その美徳、を好ましく思
い,その人を「理想、の妻」と定めることと,その人を美徳のみならず,他のすべてもできうる
限りよく知ろうとし,そして愛し慈しむこととは,まったく別のことと言わねばなるまい。と
ころが,クローデイオにその違いが分かっていたとは到底考えられないのである O クローデイ
オは,女の外観に映った貞節の美徳を愛し,それのみを信じて求愛に及ぶ。その性急さは,
ヒーロウその人に深い関心などもっていようはずもないことを示す証しである O 彼は,ただた
だ,己の求める美徳を愛し,我ものとしたい一心の求愛,求婚に及ぶのである O だが,表面的
には性急に見える求愛,求婚も
実は,その一方で、周到な計算を働かせての決断であることが,
クローデイオ自身の或る小さな言葉から窺い知ることができるのである O 結論からまず述べる
なら,彼の関心は,ヒーロウの性格としての美徳のみではなかった。「理想の妻」ヒーロウが
その身と共に携えてくる持参金,そして,やがて手にするであろう父レオナートウの資産にク
ローデイオの今ひとつの狙いがあったのである o An
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nなどは,クローデイオの求婚が
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社会や階級の認める正当で伝統的な方法(“ t
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)
従ったものであるばかりでなく,この縁組みを明らかに打算に拠る政略結婚(“ d
に類するものといった捉え方さえ示している 17)。クローデイオとヒーロウの聞に成立する婚約
は,確かに,もうひと組の男女ベネデイァクとピアトリスの場合とは明らかに異なる性格を
持っている O 後者の三人は数年来の知己であり,顔を合わせれば言い争い,相手を刺激しては
機知合戦を繰り広げている O しかも,そうした交わりの中で親愛を深め,当人もそれとは気付
かぬうちに実に自然に,恋心と愛の矢に射られるのである O それに比して,クローデイオの場
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"は,おそらく無
合,そしてヒーロウの場合,相手に対して抱く“ i
縁といってよい状態であった 18)。
だがクローデイオには,ベネデイァクやピアトリスが互いを知るように,ヒーロウをよく知
るための時と機会を充分に与えられていないだけではなかった。彼に欠けているのは,ヒーロ
ウその人を知ろうとする関心そのものである。クローデイオの言動は,ヒーロウの外観の伝え
る「貞節」或るいは「貞淑」の美徳の有無を確かめさえすれば,もはや,女を「知る」という
目的は果たされたかのような印象を与える O それは,彼がヒーロウへの求婚を第三者に委ねて
いることばかりではなく,この縁組みの持つもう一つの利点に強い関心を示していることから
充分に窺うことができるのである。
2
.ー (
2
) ヒ一口ウの「資産」という美徳
クローデイオがヒーロウとの結婚を是非にと願うのは,彼女の控えめなたたずまいが秘める
「貞節」の美徳を彼独りの手にしたいと願うからだけではなかった。妻となるヒーロウには,
今ひとつ,まったく別の魅力があったのである O それは,彼女の貞節という美徳の輝きを一層
強める力を持っており,ヒーロウの第二の美徳と言ってかまわぬ価値を持つ魅力である O その
魅力とは,彼女が携えてくる持参金であり,いずれ父から譲り受けるはずの, しかるべき資産
に他ならない。
第一幕一場の終わり,クローデイオが見初めたという乙女,ヒーロウの品定めに続いて,男
1
6
6ー
問題劇としての「から騒ぎ」
子たるもの結婚などすべからずとばかり独身宣言の気焔を上げて,ベネデイックは一足先にそ
の場を立ち去る O それを見計らってクローデイオは,彼等二人の会話に途中から加わっていた
ドン・ベドロに向かつて,己が恋を首尾よく成就させる方法の教示を乞う
O
そこで彼の言葉を
耳にする者は,ふと耳を疑うであろう。今やクローデイオは,単に美しく貞淑な娘にに恋する
青年ではなかった。
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0,1,216-222)
引用の冒頭のクローデイオの言葉は一見,恋の道成就の手ほどきを乞うかに見える O だが,
すぐに二人の対話の核心はそうしたロマンティックな内容ではなく,実に即物的な内容に移行
することがわかってくる
Iレオナートには息子はいるのですか
?
J と,アラゴンの王ドン・
ベドロに尋ねるクローデイオは,ただ単にヒーロウに男の兄弟がいるかと聞いているのではな
い。それは,父レオナートウの資産を相続する,最優先の権利を保証される男子嫡子が存在す
るか否か,その点を確かめようとする言葉なのである O 他方,答えを求められるドン・ベドロ
には即座にその聞いの意味が分かった。ついいましがた,ベネデイックの悪意なき暴露によっ
てクローデイオの恋を知ったドン・ベドロは
I息子ありや
?
J と問うクローデイオの真意が
すぐに理解できたのである O それは何故か。男が正式な結婚を考えるということは,妻にすべ
き女の容貌や性格といった品定めのみならず,女が父親から与えられる持参金がどれほどの価
値か,その品定めをも意味したからである O そして,この間い「レオナートウに息子あり
や?
J こそは,この第二の品定めを暗に示す言葉にほかならない。男子嫡子の有無を問うとい
うことは,クローデイオがヒーロウとの結婚の意志を持ったことを意味する,いや,花嫁とな
る時に持参し得る資産を確認した上で,賢明な選択であるなら結婚すべしとの意志を持ったと
言うべきであろうか。ここで思い返されるのは,引用丈にある対話に先んじて,
ドン・ベドロ
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"womanと三度までも讃えたことである O 実はこの時,彼は単に
がヒーロウのことを“w
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"と称したのではなく,人妻となる日のヒーロウの
貞淑なる女性であることを誉めて“w
レオナートウの唯一の子であるヒーロウの
持ち来たるべき資産に思いを走らせて
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"なる女かな,と一種の値ぶみを含んだ言葉を口にしていたのである O ドン・ベドロ
“
がこの暖昧な語を用いて「愛するに値する婦人」とヒーロウを誉め,クローデイオの恋心を肯
定した言葉には,その恋の対象が「妻として」迎えるに最適の,決して誤算のない相手である
ことを暗に示しているのである O ヒーロウは,身分あり,野心ある者にとって「貞節,貞淑」
の美徳、を備え,更に相当の資産も期待させる格好の女性であった。
しかしそうした考え方は,一応の身分ある者達にはしごく当然のことであり,何ら驚くに値
しない。ドン・ベドロとクローデイオの両者は,ひとりはアラゴンの王,ひとりは公爵であり,
まさにその,身分ある階級に属する男達である O 彼等は結婚に関して同じ価値観を分け合って
いた。そのため,先の暗示的な表現で充分に,互いの言わんとすることが即座に理解できたの
J と問うクローデイオに対して,喚発を入れず「彼にある子はヒー
であった。「息子ありや ?
ロウのみ。ただ独りの相続人なり。」と,
ドン・ペドロが応じたのは当然かっ自然のことで
あった。第三者の目には,とりわけ現代人の目には「打算」に映るこの行為は,彼等にとって
は単に常識の教えに習ったまでのことである O
だが,この常識はクローデイオに或るものを失わせた一一結果として,見失わせることに
なったと言うべきであるかもしない。「貞淑の誉れと資産相続の利点という,二つの美徳を備
えた女こそ正当な妻の資格を持つ。」クローデイオが信じ,
ドン・ペドロが信じたこの,花嫁
の尺度は,その美徳、を愛する重要性を強調するあまり,愛について彼等を盲目に,いや,無関
心にさせてしまうのである O ヒーロウのたたずまい(外観)に映し出された美徳と寸分違わぬ
ものが,その内側にも確かに在ることを我が目で確かめぬままに,結婚を決意することがどれ
ほど危ういことであるか,そのことに関してクローデイオは無知で、あった。(現実のヒーロウ
が,貞節の名に{直せぬ女性であるという意味では決してない) I愛する」とは,ヒーロウその
人をより深く知ることであり
Iより深く」とはたたずまいを見てすべてを解り得たと思うの
ではなく,もっと多くを,時をかけて知ることを指す。そうして知るにつれ,いとしく感じ,
慈しみたいとの思いも募っていくようであれば,それ(その感情)は更に育まれ,やがては愛
となっていくものに違いない。しかし,そのような愛はクローデイオには無縁であった。そし
てドン・ベドロにとっても無縁のようであった。しかも悲しむべきは,彼等は物語が終わろう
とする時に至っても未だ「愛」を知らぬままにあることである。しかも,そうして育んでいく
愛と疎遠で、あるのは彼等ばかりではなかった。クローデイオから妻にと望まれるヒーロウ自身
もまた,愛の意味を未だ知らぬ人であったのである。彼等は皆
I結婚」に際して,美徳の有
無のみを尺度として選ぴ,選ばれることには,時として,思わぬ悲劇の種を宿していることな
ど,知るよしもないのである O
3
. ヒ一口ウの j
克
要
点
常識と慣習に従って結婚相手を選ぼうとするクローデイオの態度は,その点において受動的
である。たとえば,ベネデイックのように己の好みを導き手にして愛する女を選ぶのとは明ら
かに違う
O
更にベネデイックは,憎からず思う女はいても一生を結婚の頚に捧げる気にはなれ
ぬと公言するが,クローデイオは,美徳、に出会うやたちまち,独身の誓いを破棄する。その点
においても対照的である O しかし,結婚に関する同様の受動性はヒーロウにも見られるのであ
るO そして,クローデイオがベネデイックと対照的であるように,彼女はピアトリスと実に対
照的な性格として描かれている O ピアトリスは
I結婚」というものを信用してはいなかった。
皆は,結婚に優る幸せはないかのように言って,若い独身の女を結婚させようとするけれども,
その「幸せ」とやらはなかなか怪しいと疑っていたのである。第三幕一場の終わり,ピアトリ
スは多くの結婚の実体を暴いてみせる
I求愛も,結婚も,行き着く所は決ってる O
そんなも
のアルコール度の強い酒のようなもの O 一口飲んだ‘時にはかっとして,そのうち心もちもよく
なり,それに釣られてついつい杯を重ねてしまう……それから, じきにむかむかしてくると,
もう我慢がならない,吐き気が止まらない。だけど,その時はもう,自分の深酒を後悔しでも
始まらないの。後悔をそのまま墓場まで曳きず、つであの世まで、持っていくしかないのよ。」神
聖な結婚を榔撤することなど,ヒーロウにはとてもできぬ不遜な行為である O では,彼女に
「結婚の保証する幸せ」について絶対の確信があるかと問えば,暖昧な答えしか返ってはこな
いであろう
O
彼女に分かっていることは,父の教えに従うことを道標ベにすることが自分の取
1
6
8
問題劇としての「から騒ぎ」
る(選ぶ)べき正しい道,或るいは間違いのない道であるということである O ヒーロウには,
ピアトリスのような明快な結婚観はなく,父の結婚観をそのまま受け入れることを疑うことも
なかった。そしてそのことが端的にあらわれているのが,第二幕一場,求愛から求婚,婚約の
成立に至るまでを描いた場面におけるヒーロウの態度である O 彼女はその間,ほとんど黙した
まま,あてがわれるままに,自分の定めをひとつひとつ受容していくのである O それを指して,
クローデイオの眼鏡に適った貞淑の美徳そのままであると,感嘆することもできょう
O
しかし
この貞淑さは見方を変えれば,全くと言ってよいほどに自我を持たぬ受動性に他ならぬ。そし
て,このヒーロウの受動的な態度は,クローデイオが美徳の尺度に依存して結婚の選択をする,
あの受動性に通ずるものである O 何故なら,いずれの受動性も三人の愛の危うさ,脆さの原因
を潜ませているからである。だが,ヒーロウの,自らは語ることなく他者による選択と決断に
身を委ねるその受動性が,愛の問題をはらんでくるのは,先の第二幕一場ばかりではない。劇
の終幕(第五幕四場の初め),ヒーロウは「不貞」の疑いが晴れて後,あれほど彼女を誹詩し
恥辱を与えたあのクローデイオを,今再び「良縁」を運ぶ花婿として,怒りの言葉もなく,不
満の色も浮かべず,父の意のままに嫁いでいくのである O この沈黙の受容を前に,我々は愛の
不信をいよいよ強めることになるのである O
3
.ー(I) 仮面の男の愛の詞
さて,第三幕一場仮面舞踏会においてヒーロウは仮面をつけ,クローデイオと名乗る男から
求愛を受ける。その異様な仮面をかぶる男とはドン・ベドロであった。彼は,クローデイオの
意を受けて愛の仲介役を引き受けたのである O ヒーロウが愛の告白に応じれば,直ちに父レオ
ナートウの承諾を取り付けて婚約が成立する手はずであった。アラゴンの王が自ら仲立ちをす
る縁組みである。「良縁」として話がまとまらぬはずはなかった。一方,ヒーロウにとって,
求愛を受けることは突然の出来事ではなかった O 予めレオナトウが告げておいたのである O 実
は,彼の兄であるアントーニオの従者がドン・ベドロとクローデイオの会話を漏れ聞いて忠進
に及んだのであった。アントーニオからそのことを知らされたレオナートウは,何の前兆れも
なく求愛されたのでは,娘は返事に困るであろうと案じて,予めヒーロウの耳に入れたという
わけである O 但し,求愛の言葉は,アラゴンの王自身の口から,彼の愛を告げる言葉として語
られるはずで、あった。レオナートウの従者は,二人の話を聞き違えたか,ほんの一部を漏れ聞
いただけであったか,いずれにしろ,求愛者を取り違えてしまったのである。
求愛者の混同によって起こる問題に関しては後述することにして,その前に,レオナートウ
が娘のヒーロウにドン・ベドロから求愛を受けるであろうことを告げる時,どのようにその一
大事一ーなにしろ,アラゴンの王からの申し出であるーーを言い聞かせるのか,その点につい
て考えることにしよう
Iアラゴンの王がヒーロウを妻にと,望んで、おいでになるらしい。」兄
からそう告げられたその瞬間に,レオナートウの心は決まっていた O とはいいながら,彼の胸
の内には,あまりの良縁を信じがたい思いと,必ずや現実であってくれと願う思いとが交錯し
てもいたことは確かで、ある O その相反する思いは,王に直接確かめてはどうかと進めるアン
トーニオの言葉を退けて“wew
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'と語るその言葉に表れて
いる。
0,2,16) しかし,万一の場合に備えて,打つべき手は打っておかねばなるまい。願つ
でもないこの縁組み,こちらから願い出たいほどである。王とその一行を歓迎する仮面舞踏会
はじきに始まる O そこでヒーロウの為すべきことは,ペドロ様の愛に応えることをおいて他に
ない。そして,ベドロ様より正式な結婚の申し出があれば,一一あるに決まっておる一一一今度
-169ー
は,レオナートウが父親として受諾の返事をしさえすればよいのである O ヒーロウには,
ド
ン・ベドロ様には色よい返事をするようにと言い聞かせておかねばならぬ,必ずとな。無論,
貞淑な娘ヒーロウが父の意に逆らうことなどあろうはずもない。こうして万全の準備は整えら
れるのである O
第三幕一場,仮面と美しい晴れ着に身を包んだヒーロウは,父レオナートウから言い含めら
れた「然るべき」返答を胸に,
ドン・ペドロの訪れを待つのである O 但し,彼女が待つのは身
代わり(代弁者)としてのドン・ベドロではない。ドン・ベドロその人が自らの思いを愛の言
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"は借物などではなく,語る人自身の
葉にのせて語るはずであった。耳元に嘱く“amoroust
愛の告白となるはずであった。しかし仮に,
ドン・ペドロがクローデイオに約した通り,“I
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) と名乗って求愛したのであれば,その名を耳にした瞬間,ヒーロウの
胸は驚きと混乱に見舞われたに違いない。それは,父の告げた名とは違う別人のもの O 仮面の
内側の男は一体誰なのか? ドン・ペドロとクローデイオーーそのいずれが本当の名で,いず
れが偽りの名か一一。まさか,求愛者の名を予め知っていたことなど素振りにも出せぬヒーロ
ウには,事の真偽を確かめる方法などない。機転を働かせて相手に仮面を取らせる術など想像
の彼方のことでしかあるまい。ただ,驚惇と混乱のうちに仮面の人の奏でる愛の調べに耳傾け,
次第に心奪われていくままに身を任せたのではなかったか。無論
ヒーロウも人の子であるか
らには,予期せぬ人からの求愛と知って驚かぬわけはあるまい。しかし劇中では,その驚きや
戸惑いをみせる素振りも言葉も彼女には与えられていないのである。ドン・ベドロの求愛は女
moroust
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" となるはずであったが,その描写もまったくない。
の心を溶かさずにはおかぬ“ a
三人の対話を僅かに写した場面はあるにはあるが,甘美な恋の詞など顔を出す幕もない。そし
てそのように,詳細が語られていないということは,ヒーロウの驚きは一瞬のうちに通り過ぎ
てしまう程度のものであったと考えてよいであろう
O
それを文字通り,一瞬の驚きに終わらせ
るのは恋の情熱を語る仮面の男の言葉である O
他方,仮に恋の告白を耳にするヒーロウが少しばかり驚いたからといってドン・ベドロの目
には自然のことと映ったであろう。彼は,ヒーロウが舞踏会での「求愛」を予期していたこと
など知るよしもなかった。従ってむしろ,思わぬ時に男から愛の告白を受けたなら,恥じらい,
戸惑い,少なからぬ動揺をみせることこそ,乙女の自然の反応だと思っていたはずで、ある O
ヒーロウの動揺こそは「貞淑なる」女性の名にふさわしい,愛すべき恥じらいの証しであった。
そして,乙女の恥じらいは愛という情熱によって和らぎ,その(恥じらいのせいで)初めはか
たくなにも見える心を聞かせるはずである O 実際にヒーロウは,初めは求愛者の予告のない変
更に戸惑うものの,仮面の男の熱き恋の詞に耳傾けるうち,いっとも知れず,愛を求める男の
名前など何の意味もないとさえ思われてくるのであった。彼女の驚きと戸惑いの理由は,
ド
ン・ベドロの想像したものとは少しばかり違ってはいたが,結果としては彼の思惑通りに,
ヒーロウは(ドン・ベドロの調に託された)クローデイオの愛の求めに応じるのである。だが,
先にも触れたように,この間の描写はなきに等しいのであり,あくまで推測の域を越えるもの
ではない。しかしながら,作者シェイクスピアが敢えて描かぬということは,新たに描くほど
のことがないという意味だと考えてよい。第二幕一場の仮面舞踏会で、の求愛は既に語っておい
た手筈通りに,ほぼその通りに事が進んだのである O 第一幕一場の終わりにおいて,
ドン・ベ
ドロが自信をもってクローデイオに約束した通り,首尾よく愛は受け入れられたのである。
ヒーロウの沈黙は多くのことを語らぬままに他者の想像に委ねてしまうが,彼女の沈黙そのも
のが新たな描写
求愛の結末の描写
の不要を訴えていると考えねばなるまい。
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問題劇としての「から騒ぎ」
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2
) 愛の調を知らぬ求婚者
しかし,たとえヒーロウに求愛者が誰であるか,その名を忘れさせるほどに愛を語る詞の情
熱が強いものであったとしても,父の教えた名と,現実の仮面の男の名乗る名とが食い違って
いたことを,完全に忘れることはできまい。実際に彼女は,甘美な恋の調べに聞き入ったその
余韻も消え去らぬうちに,あの,驚きと戸惑いの感情に引き戻されることになる。まず,本当
の求婚者はクローデイオであることを知った父レオナートウによって。続いて,恋の代弁者と
なったドン・ペドロ白身の言葉によって。劇中には,事の真相を急速,おそらくは大慌てで,
娘に告げるレオナートウの言葉はない。しかし,ヒーロウの応諾を得たドン・ペドロはすぐに
父親で家長であるレオナートウのところに向かい,正式な「結婚」の申入れをするはずで、ある。
そうすれば,
ドン・ベドロの行った求愛はすべてクローデイオのためであったことがレオナー
トウの耳に入るのは,必至である。当然のことながら,慌てた父は娘の元へ走る。たとえ,娘
に言い含める「然るべき」返答の中身は変わらぬとしてもである一一花婿候補に変更があった
からといって,それが良縁であることに変わりはなかった。クローデイオは公爵であり,有能
な武将である O アラゴンの王ほどではなくとも条件に不足はない。(ここでもやはり,娘の縁
談をめぐる状況の急変に対して,レオナートウが何を思い,どう反応したかを描写する言葉は
まったくない。だが,二幕一場の終わり,惜し気もなく娘を与える約束をする姿から,クロー
デイオとの縁組みを「良縁」と判断したことは容易に推測できるのである。)もっとも,父親
が案ずるまでもなく,娘は既に仮面の男に善き答えを与えていた。だが,胸を撫でおろす父と
は裏腹に娘の胸の打ちは複雑ではなかったか。愛の言葉に酔いしれて早や臨ろとなっていた現
実を,いきなり目の前に突き付けられたようなものである。ヒーロウが受け入れたのは,愛を
語る詞そのものである O 語る人の所在は暖昧のままであった。その人の名が,二人の男の名前
のいずれであるか定まらぬまま,甘美な調べに聞き入ってしまったのである。だが,今届いた
父からの知らせは,はっきりと男の名前を声にして告げたのである
望んでおる
Iクローデイオが妻にと
ただ,先刻ヒーロウに手を差し延べ,愛を口にしたのはドン・ペドロ様じゃ。
クローデイオの代わりにな。」と O ヒーロウは,新たな選択を迫られていた。とはいえ,正式
な答えはもはや決まっていた。それは父の望む通りの返事でなくてはならない。しかし,外に
は表れぬヒーロウ自身の感情は確かに選択を迫られていたのである。突如名乗り出たこの男,
クローデイオをヒーロウは受け入れるのか
と彼女は自らに問わねばならなかった。その人は
一度たりともヒーロウに愛を語ってはいなかった。愛を語らずしてヒーロウを望むのである O
仮面の男の語って聞かせる「愛の調べ J (
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) に心奪われ,彼女は愛を返したので
あった。そうであるのに,愛の詞(を語ること)を知らぬ男クローデイオに,果たして己を委
ねることができるのか?
ヒーロウの驚きと戸惑いが初めのそれよりも,遥かに衝撃的で押さえ難いがたいものである
ことなど誰ひとり気付く者はいない。そしてドン・ベドロも例外ではなかった。彼は,誇らし
げに求愛と求婚の成功をクローデイオに骨げるのである O
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「ドン・ペドロに求愛を託したのは間違いであったか……!J クローデイオは自らは愛を語
らずして女の愛を勝ち得ょうとしたことを,一瞬悔いる O その悲しげな顔を見て,案ずるに及
ばずとドン・ペドロは宥め,-クロデイオの名を告げて」愛を語り,ヒーロウはその愛に応え
たことを教える O 父レオナートウの許しも早や取り付けた,残るは,婚礼の日取りだけである。
クローデイオの望みの日を選ぶがよい。こうして,クローデイオとの婚約はもはや動かせぬ決
定事項になったのである。つい先刻,父からはっきりと「クローデイオ」の名を告げられ,そ
の事実を岨噂する充分な暇まもなく,この「婚約成立」の宣告である,-日取りを決めよ」と
言うドン・ペドロの声をヒーロウの耳は確かに聞いた。しかも,その言葉に促されて念を押す
ように,クローデイオに向って父レオナートウまでもが「娘をもらい受けてほしい」と唱和し
たのである O ヒーロウの日の前で「私の財産も一緒に」娘をあなたに差し上げます,と父はそ
う言ったのである。だが
ヒーロウ自身の感情は戸惑ったまま行き場を失っていた。そうであ
るにも関わらず,ヒーロウの戸惑いをよそに,現実は次々と歩を進め,身動きならぬ状況へと
彼女を取り込んでしまう
O
しかし,この時もまたヒーロウは無言なのである。彼女自身の感情
を殆ど顧みることなく,その人生に関わる重大事がひとつ,またひとつと,他の人の手によっ
て決定していくのである。彼女の心の内が単純であろうはずがない。だがヒーロウは,内に思
うことも,感じることもほとんど語ることはない。いよいよ何かを語る時は,最終的に訪れた
結果を告げる言葉だけである。この時もそうである。いや,この時は,言葉すらない。正式な
婚約に狂喜するクローデイオに応えて無言のうちに接吻を与え,愛の言葉はその耳元に声なき
声で返すのである O それも,ビアトリスに促されて初めて形を成すヒーロウの自己表現に過ぎ
ない。そして,この控えめな態度はクローデイオを始めとして誰の日にも,他者から促され,
求められぬ限りは自ら望むことも,忌むことも,あからさまには表わすことのない「貞淑」の
美徳の証しと映るに違いない。ヒーロウは,良き夫に選ばれ,良き縁に遭遇した喜びを美しき
恥じらいに包み込み,慎ましく表している,と。
しかし,果たしてそうであろうか。ヒーロウが,本来控えめな性格であること,そのため,
「貞節」であり「貞淑」であると女性の美徳を讃えられることに異論はないとして,クローデ
イオに与えたあの愛の返札は,間違いなく「愛」の証しなのであろうか?果たしてそれは,
1
7
2
問題劇としての「から騒ぎ」
「良き夫」に出会った喜びを表す言葉に代わる,彼女ならではの表現と考えてよいのであろう
か?先の引用文は,当事者ヒーロウをまったく投致外に置いた如き会話である O ヒーロウそ
の人の存在をまるで無視したような形で,結婚話が進んできたことを象徴するような言葉のや
り取りである O 仮に,何の動揺もなく,不安や不満も覚えることもなく,文字通り貞淑に,従
順に三人の男達一一クローデイオ,
ドン・ベドロ,そして父レオナートウーーの望みに従い,
あてがわれる夫が途中でどう代わろうと,まるで何事もなかったかのように, しかも,多くを
決して語らぬものの,幸福と満足を全身に湛えて人々を喜ばせ,自らもそれを喜びとするとい
うのであれば,そこにこそ,我々は不安を覚える O ヒーロウの喜びは果たして「愛」のもたら
すものなのか,それを疑わざるを得ない。彼女の意志や感情など置き忘れたように事が進んで
いくさまを目撃し,その時,彼女の内面で起こるであろう驚きや戸惑い,或るいは不安,そし
て不満,憤り等を想像し推測するならば,ヒーロウのクローデイオ受容は不可解な態度と映る
のである。更に,繰り返しを恐れず敢えて言うならば,彼女は仮面の男ドン・ベドロの語る詞
に愛を感じ,自らも恋心の芽生えを感じたはずでLあった。姿もみせず,愛も語らぬクローデイ
オに返す愛を持たぬばかりか,恋の芽吹く兆しさえ感じることはなかったであろう O そうであ
るのに,クローデイオに愛ありと信じ,己が胸にも愛ありと信じて誓いを交わすとは,それは
如何なる愛であろうか。一方,クローデイオは確かに我が目と,我が心の選ぶものを愛して妻
となる女を選ぴはした。しかし既に見てきたように,彼もまた真の愛は知らぬまま,外観の美
徳,即ち,貞節という美徳と資産という美徳の三つを愛でて,その女を我ものにしたいと願っ
たのであった。こうした二人の婚約が「愛」を拠り所に成されたとは,誰であれ信じ難たいと
言うほかあるまい。
第四幕一場,教会での婚礼の日を襲う悲劇は,この時既に始まっていたと言うことができる
かもしれない。真の愛を自覚せぬ男女が愛の名をもって永遠の誓いをたてようとするのである O
4
. ドン・ジョンの誘惑
第一幕一場
i世界のすべての富をもってしでも手にはできぬ宝石」と絶賛したヒーロウを
不実な女,いや,それ以上に卑しい呼び名を必要とする女であると唾気し,嫌悪する日が来よ
うとは,クローデイオは夢想することさえなかったであろう。しかし,愛に妨害はっきもので
ある。しかも,その愛が不確かなものである時,魔の手は容易に忍び寄るのである O クローデ
イオが愛したのはヒーロウの二つの美徳である。その一方が欠ければ即座に他方は意味を失い,
彼の愛は変質する危険姓を帯びていた。アラゴンの王ドン・ベドロの弟,庶子ドン・ジョンは
見事にその弱点を突き,クローデイオの愛を変様させる。第三幕二場,彼は,兄とクローデイ
オの前でヒーロウの貞節を偽りだと中傷する O かの婦人は,婚礼の前日でさえ構わず他の男を
引き込むような女であると言うのである。自分の目で確かめてみよと誘われるままに,二人は
仕組まれた不実の逢引を目撃し,ヒーロウ不貞は動かぬ事実と信じるのである。ここで注目す
べきは,婚礼の前夜に物陰から不実の現場を確かめるまでもなく, U
.fJを耳にするこの時点で早
や,クローデイオが復讐を口にしていることである。もし,女の不貞の確証を得た時は,必ず
や明日(婚礼当日)皆の前で恥かかせてくれようと誓うのでる O そしてドン・ペドロもそれに
和す。彼等は,ヒーロウに直接真偽を確かめることなく,ほぼ無条件にドン・ジョンの言葉を
信じるのである O ドン・ジョンという人物は
庶子であることに原因があるか否かは分からぬ
が,得体の知れぬ不満を抱えており,人を傷つけることで己の内にかこつ憂欝という傷を癒そ
-173ー
うとする人間である O 彼は,常日頃の態度を見れば容易に信じではならぬ人物であることは,
誰の目にも明らかである O しかも,
ドン・ジョンの誘惑は僅か 4
0
行余りの聞に成功を見る O そ
の話術を巧みとするには,あまりに不用意に二人は彼の民に陥ってしまう。劇の幕が降りる直
前,貞節な妻の不実を疑った己の愚かしさを嘆いて,自ら命を絶つオセロウがイアーゴウの言
0
0余行にも及ぶ誘惑の対話の果てにおいてである。それに比して,彼等は
葉に屈するのは, 5
0行の言葉に屈してしまうのである O
あまりに愚かしく,あまりに安易にドン・ジョンの僅か 4
「偽りの貞節を花嫁に迎えたのでは,あなたの名誉に関わるというもの。」と言われ,二人は大
きく心が揺らぐ。そこを「今宵,その(ヒーロウ不貞の)証拠をお見せすることもできます
よ。」と,なお攻められるや,いちもにもなく「不貞の事実」を信じ,復讐を誓う二人である O
作者シェイクスピアは
r目撃」の場面を敢えて描くことをせず,ただ,第三者(ボラキオ)
の口を通して,クローデイオが怒りに燃え,あの女辱めてくれん,と言い残して目撃の場所を
立ち去ったことを告げ,誘惑の場の顛末としている。そのことはまさに,彼がそしてドン・ペ
ドロが
r目撃」するまでもなくヒーロウの不貞を半ば確信したことを暗に示すものと考えて
よい。ドン・ペドロとクローデイオは両人とも,己の観察眼と判断力を信ずるよりは,悪意の
子ドン・ジョンの言葉を信じたことになる。それは,己自身を否定するに等しい行為である O
一見,不実なる女ヒーロウを退けているように見えて,実は,彼等は我が見識とその誇りを退
けたのである O
そして,この重大な過ちに気付くこともなしクローデイオは復讐の実践へとまっしぐらに
突き進むことになる。
5
. 教会の場: 愛の変様
さて第四幕一場,問題の「教会の場」に関しては三つの注目点がある。第三幕二場の終わり
において宣言した通り,クローデイオがドン・ベドロ(そしてドン・ジョン)の加勢を後ろ楯
に,己の名誉を賭けてヒーロウの不貞を糾弾し,恥辱を与えることである O 今一つは,そのク
ローデイオの糾弾に対して,花嫁の父であるレオナートウがどのような態度を取るのかという
点である O 彼は,娘の潔白を信じて,クローデイオの放つ糾弾の矢の前に立ちはだかる楯とは
ならない。一方我々は,各々に激しい個の感情の吐露に終始する三人とは対照的な存在も見落
としてはなるまい。結婚の儀式を執り行う役目を帯びた僧侶,フランシス神父の存在は,人が
信じるべきは何であるかを実践によって教えてくれるのである。
5
.一(1) ク口ーデイオ: 美徳との決別
それではまず,第一の注目点に眼を向けることにしよう
O
第四幕一場の官頭,今まさに,新
郎新婦の愛の永遠の誓いによって正統な結婚が成立しようとしていた。だが,何故か新郎ク
ローデイオは遼巡する。そして彼は,あまりにも尊い妻を貰い受けてもその父に報いる術がな
いと,白分の非力を嘆くのである O
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レオナートウに向けられた言葉は皮肉の連続である。第三行,“ f
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"とは,貞節の美徳をもはや失った娘を,一点の汚れなき乙女(“ m
かのように装って嫁がせることに,父親として罪の答めを感じはせぬかと暗に尋ねているので
ある。自慢の愛娘を惜しげもなく与えるレオナートウの寛大さに対する感嘆や,感謝の意を表
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"には三重の意味が込められている。この時
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クローデイオは,表面的には気前のよさや寛容さを誉めながら,その実
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良心」から果たし
て自由か,不正な行いを躍踏させる力を感じのぬかと,非難の声を響かせているのである。だ
が,当人のレオナートウはこの言葉から,クローデイオの遼巡の理由を読み取り,義父への気
遣いと自己への謙遜など無用と宥める。「遠慮はいらぬ,かつて私が神からこの娘を我が子と
して授かったように,神の賜物と信じて受け取るがよい。」と,心起きなく婚姻の誓いを立て
るよう義理の息子を促すのである。だが,クローデイオの真意はそこにはなかった。彼はひる
まず
rこのような稀にみる尊い賜物を戴いては,その恩に報いることもできません。」と,尚
遼巡する。そこへドン・ペドロが決定的な提案を差しはさむ一一ヒーロウを貰い受けることを
辞退するより名案はあるまいと。まるでその言葉を待っていたかのように
rああ,ありがた
や,その助言。これに優る謝意の表し方はありません。さあレオナートウ殿,娘御をお返しい
たしますよ。」と,またしても皮肉に満ちた言葉をあびせるクローデイオである。用いる言葉は
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" と,高潔な武将魂を連想、させる形容詞 n
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eを冠した表現を取っているも
“
のの,彼には高潔の土に相応しい振舞を見せるつもりなど毛頭なかった。その胸の内にあるの
は,徹底的にヒーロウの非を暴き恥辱を与えることのみである。仮に,女の裏切りに対して恥
辱を報いることこそ,己の名誉を高める気貴い行いであると信じているとすれば,クローデイ
オは救い難たい偽りの「高潔の土」である。そして,彼を支持するドン・ベドロも同様である。
さて,レオナートウへの報復として皮肉の言葉を報いたクローデイオは,いよいよヒーロウ
相手に糾弾の集中砲火を浴びせかけることになる O ヒーロウは,女が最も祝福されるべきこの
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"と腐った果実に聡えられ,貞節目│用文中では“h
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) とはその腐っ
日に,“r
た中身を隠す衣に過ぎぬと決めつけられて,思わず頬を赤らめる O 乙女として嫁ぐこの日に,
しかも衆人の面前で恥ずかしめを受けた衝撃の赤面である。だがクローデイオは,その頬を染
めた色こそは不実を働いた罪の証しに他ならない
と声を荒げ,居合わす人々に同意を求める。
ヒーロウこそは,歴代の権力者や札付きの偽善者さえ持たぬ仮面の持ち主。この女ほど巧みに
悪と罪を隠しおおせる者などいまい。ヒーロウの本性は貞節さや貞淑さとは似ても似つかぬ不
浄の女。彼女は未婚でありながらもはや処女姓を失い,そればかりか,肉欲の求めを拒むこと
のできぬ,“t
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"に捕らわれたる女である。たった今,ヒーロウが(罪
を恥じて)赤らむ様をその日で見た者は,夢ゆめ,彼女が乙女であるなどとは思うまい。「我
が娘が不実……ヒーロウが貞節の名に恥じる行いをしたと?J 父レオナートウはあまりのこと
に返す言葉なく,やっとの思いで真意を聞いただせば,婚約破棄の答えが返って来る O クロー
デイオには,知らぬ者のいない腰軽る女(“a
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) など妻にする気は毛頭ないと言
うのである O
兄が妹に接するように,その心根だけを慈しみ,肉体には指一本触れず,紳士に相応しい節
度ある態度でヒーロウを愛したにも関わらず,彼女はクローデイオの誠実を欺いたのである O
思いもかけぬ婚約者の怒り,そして身に覚えのない不貞の汚名。耐えきれずヒーロウは尋ねる。
「あなたが私に対して「兄」のように接して下さったと同じように,私も節度をわきまえた乙
英
女の名に似つかわしい振舞を心がけたはず。そうではないとおっしゃるのでしょうか?J (
文では一行にも満たぬ自己弁明であるが,ヒーロウの言わんとする内容は以上のようなところ
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) 抗弁しようとするヒーロウを
見て刺激されたのか,クローデイオは怒りをなお強めて聞くに耐えぬ汚名を次々と浴びせて,
彼女を恥辱の底に沈めようとする。上記の引用には挙げなかったが,第三幕二場でドン・ジョ
ンが望んだ通りに“ d
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) に代わる,もっと卑しい侮蔑の込められた呼び名を与
えてヒーロウを傷つけようとするのである。「ヒーロウ“hero"/英雄」とはなんと見事な逆説
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)みせかけの美徳によって,永遠の処
女性を自らに課すことを誓った女神,ダイアナを装って男を欺く女。まさに英雄なり。まさに
Heroというその名は人の憧憶を一心に浴び¥手本と仰がれる者に似つかわしい称号ではない
か。しかし,その本性は情欲そのもである O ヒーロウの肉欲は,愛の女神ヴィーナスも及ばぬ
炎のような本能,いや,本能を抑制することを知らぬ,野性の動物の獣姓よりもなお激しく卑
しい情欲である O
しかし,比聡表現を交えたクローデイオの際限のないヒーロウ糾弾は,
ドン・ベドロの或る
一言によって苛烈を極める O 彼は,ヒーロウを指して“commons
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) と呼ぶので
ある。それは売春婦を指す比聡表現であるが,元来, s
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e という語が馬類の四つ足動物の
「放尿」を指す語であることを考えるなら
と合わせて用いると
I共有の,共通した」という意味を持つ
common
I男であれば,誰にでも身をまかせる女。己の情欲を満たす相手であれ
ば,誰の求めにも応じてその男の肉欲の捌け口となってやる女。」という,女性にとって耐え
がたい言葉となるのである O そして,その含みを心得た上でドン・ペドロはこの呼ぴ名を用い
たのである O また,この“commons
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" という呼称、こそは,第三幕二場において,
ドン・
ジョンがヒーロウを指して“ L
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一一誰のものでもない,皆のヒーロウーーという表現に呼応する呼ぴ
-176
問題劇としての「から騒ぎ」
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yと manの二語を離して記述していることに注
名なのである O シェイクスビアが敢えて e
目しなくてはならない。「皆」とは言っても,-男女を問わず誰でも」という意味での「皆」で
は困るのである。ドン・ジョンの言う“man"とは人間一般を指すのではなく,文字通り「男」
を指す語である。ドン・ジョンを演ずる役者は,実際には微妙なアクセントの変化によって発
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故に,現世の富ではどれほどの富をもってしでも,手にはできぬ珠玉に聡えられたヒーロウは,
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わり果てたのである。だが,この留めの一矢のような屈辱の名を突き立てた後もなお,彼らは
攻撃の手を弛めることはない。そして遂に逃げ場を失ったヒーロウは,クローデイオの言い捨
てる「婚約破棄」の声を耳に昏倒するのである。
目の前で,昏倒した娘にレオナートウはどのような言葉をかけるのであろうか。絶望のうち
に倒れたヒーロウを救うには,父に何ができょうか。
5
.一(
2
) レオナー卜ウ: 絶縁の願い
女の美は人を欺くために仕掛けられた民と思って,今後は己の険に猪疑の光を掛け,二度と
美の民に心を奪われぬよう用心するつもりだ, と言い放つクローデイオ O ヒーロオウの裏切り
は,女の見せる美は信ずるに足らず,との教訓をクローデイオに与えたというわけである。
「もはや,二人の愛の誓いもこれまで」と言い捨て,立ち去ろうとする男に返す言葉なく彼女
は倒れる O
倒れるヒーロウに真っ先に駆け寄るのはビアトリスである。それまで無言であった彼久は,
倒れる従姉妹を見てハッと我に返る。「ヒーロウは死んでしまったのではないか」恐怖に襲わ
れたピアトリスは,その場に残った男達の助けを求めて叫ぶ。彼女がまず呼ぶ名は叔父レオ
ナートウであった。
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)
レオナートウが,倒れ伏す娘のために望んだ最善の救いとは「死」であった。彼には,ヒー
ロウの恥べき肉体を人々の目から葬り去るためには,死という運命の手に委ねるのが最善の方
e
rshame"とあることから,彼が,ヒーロウに向けられた不貞の
法に思われた。引用文中に“h
罪を事実として信じていることが分かる。「娘の除を覆う「死」の重い手よ,どうかその手を
上げず¥このまま娘を黄泉の国に連れ去ってくれ。」ヒーロウが目覚めてしまえば,その後の
命を恥多き命として世の人の目に曝し,新たな死の迎えを渇望して生き続けねばならない。
ヒーロウは目覚めではならないのである。ヒーロウの命の危機を見て救いを求めたピアトリス
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"は形
の願いとは裏腹に,レオナートウは娘の死を切望したのである。引用の三行日,“f
容調 f
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rの最上級であるが,この場合の f
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rには「最も相応しい J,即ち,-最善の」という意
味に加えて,-最も美ししりという意味が同時に込められているものと思われる O そして,こ
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"も同様に,二つの意味を含ませて用いられた言葉である。一つは身を飾る
の語に続く“ c
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ための「衣」であり,今一つは身を覆う,或るいは隠すための「衣,覆い」である。そうであ
るとすれば,“ t
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"とは
I最も美しい衣,そして美しいが故に,これ以上は望む
事のできぬほどに善き衣」を意味する O 何故なら,死して蘇らぬことは,不貞の罪に染まる肉
体を,もはや元の清浄さを取り戻すことのできぬ肉体を,世にも稀なる美しい衣ーー「死」と
いう衣の下に包み込み,内側の不浄など影も形もないほどに覆い隠してくれるからである。死
とは不浄を無に帰すばかりか,美に変える力を持つ。一度袖通した不浄の着物をヒーロウの体
から引き剥がすことはできない。不浄を身に纏ったままで,その不浄を記憶から薄れさせる唯
一の方法は,今ヒーロウの体にまとわりつく不浄の衣の上に別の衣をすっぽりと被せることで
ある。しかし,その別の衣は,単にヒーロウの肉体を覆い隠すほどの大きさを持つだけでは困
るO 下に隠し持つ醜悪な汚れを美しく装わせる美をも備えなくてはならない。「死」はまさに
その二つの条件に適う絶好の衣であった。少なくとも,レオナートウにはそう見えたのである。
そして四幕一場に関する限り,この考え方は基本的には一貫して変わることはない。しかも,
死の衣によって,不浄と信じて疑わぬヒーロウの存在を抹消しようとするのは,ヒーロウ自身
の平穏と幸福を願つてのことではない。
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上記引用文の直前,昏倒したヒーロウが目覚めようとするのを目にしたレオナートウは,彼
女に問う。「目覚めて天を見上げるのか」と。“D
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ぬその意図は,胸の内に罪の各めを感じることなく,天に居ます神と正面より顔を合わせるこ
とが果たしてできるのか,と娘に詰問することにある O 更には,蘇生などすべからず,もはや
ここに(現世に)おまえの居場所,即ち(神より)許された場などないのだと言い渡す意図も
含まれているのである。そして彼は,ヒーロウの蘇生を拒む(阻止する)その態度を諌めよう
とする神父フランシスの言葉に耳を貸そうとはせず,ヒーロウが我が子であることを嘆くので
ある O
「何故に我が子をもったか,唯一人の我が子でも多過ぎる。」その理由は,愛しいと思った我
1
7
8
問題劇としての「から騒ぎ」
が子が罪に汚れたことにある O いっそ,家の門口で拾い上げた赤子を育てたのであれば慰めら
れようにとも願うのは,長じたその子の恥ずべき行いは,どこの者やら分からぬ卑しい血の為
せる業だと言い逃れができるからである O しかし,レオナートウの願いはむなしい夢に過ぎぬ。
ヒーロウは間違いなく, レオナートウの血を分けた子であった。恥多きヒーロウは,レオナー
トウが慈しみ,褒め讃え,そして自慢にも思ってきた,あの可愛いいわが子に違いなかったの
である。それほど愛した我が子であるだけに,親として裏切られた思いはいっそう強く,許し
難かった。その子が不浄の罪を負うと知った今,願うことはその子との血の紳を断ち切り拒む
ことである。彼は,その汚れた罪の血などレオナートウの預かり知らぬものだと叫びたかった。
こうして,ヒーロウが自分の子供であることを疎ましく,おぞましく思うレオナートウには,
彼女の受けた痛手に涙することなどない。身に覚えのない「不貞」の罪を問われ, しかも婚約
者の口からその罪の弾劾を受けたのである。どれほどの衝撃であったろうか。「見せかけの美
徳」となじられ,数えきれぬ恥辱の言葉を浴びたのである。十分な弁明の暇もなく,婚約破棄
を投げ突けられたその無念はどれほどであったろうか。だがレオナートウには,我が子の痛み
を我が痛みとし,その悲しみを己が悲しみと感じ,涙する人ではなかった。彼は,我が子の受
けた恥辱を我が恥辱として,共に怒る父ではない。彼が恥辱の怒りの切っ先を向けるのは我が
子ヒーロウであって,娘に耐えがたい恥辱を浴びせた男に対してでは決してなかった。その理
由はすべて,彼が我が娘の美徳と潔白を信じるよりは,娘を糾弾する男達の言葉を信ずること
にある O レオナートオウは父として最も身近かにあり,娘の美徳、の真実を最も深く知り,最も
強く信じる人であるべきを,その期待に(ヒーロウは直接その願いを口にするわけではない
が)答えることはなかった。娘に代わって激しく憤り,偽りの罪を被いのけるべく闘うべきと
ころを,攻撃の刃を我が娘に向けて振り降ろしたのである O 何故ヒーロウが我が子かと嘆くレ
オナートウの「絶縁」の刃は,彼女にとって最も致命的な威力を持つに違いない。誰より信頼
し,救いの手を期待する人から見捨てられるのであるから O いや,彼はヒーロウが自分の子で
あることを恨めしく思うだけではない。先刻立ち去ったクローデイオの弾劾ではまだ手ぬるい
と言わんばかりに,目覚めた娘を前に,彼女が如何に不浄であるか,そして如何に救いを失っ
た呪われた身であるかを強調するのである 19)。
引用文の末尾には,王殺しの大罪を犯したマクベスが,赤一色に染まる己の手をかざし,大
海原の水をもってしでも洗い流すことはできぬと,その血の赤と罪の深さに懐く,あの恐怖の
声を思い起こさせるような比聡表現が置かれである。ヒーロウの罪を象徴するのは,黒の色と
腐臭である。ヒーロウは黒々とした罪の淵に沈み,そのどろどろとした汚濁の色に染まった体
はどれほど洗っても,元の汚れを知らぬ無垢の美しさを取り戻すことはできない。大海の水す
べてを使い果たしでもなお水は足りぬ O ヒーロウの陥った不浄の罪は汚濁の色となって残るば
かりか,腐臭となってその体に染みつき,大海の運ぶ塩にもそのおぞましい罪の臭いを変える
ことはできまい。引用文最後の言葉“h
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"は,現実の熟し過ぎた果実から眠吐
を誘う腐敗臭が漂ってくるさまを連想させる O それにしても,この末尾五行に渡る比聡表現は
もはや父の嘆きではなく,呪いの声と言うべきであろう。それは,貞節の誉れ高い娘を我が子
として得た父親のかつての喜びと,その期待を欺いた娘に向って放つ,恨みと憎しみにも似た
感情が語らせる呪いの言葉である,-自ら不浄の罪に手を染め,己の肉体を汚したお前にはも
はや救いはない。どこに身を潜めようとも,その濁った罪の色が主人の居場所を教えずにはお
かぬ。どこを行こうとも,腐った体からは汚れた罪を告げる悪しき臭いが辺りを満たし,誰か
らも蔑まれ疎まれる O もう,身も心も休まるところはないのだ。そして,平隠を奪ったのは他
ならぬお前自身なのである。」レオナートウの言葉はそのような響きを持つ比倫表現となって
1
7
9
いる O
彼は,幼き時より自らの手で育てた娘を愛し,褒め,誇りにしてきたというその言葉とは裏
腹に,深くは知らぬ異邦人の言葉を信じて,自分の娘に対する愛と信頼を捨てたのである O そ
れは同時に,娘が父親である自分に与える愛と信頼を拒む,いや失うことを意味した。
ところが,こうして娘のヒーロウとの絶縁を願うほどに,彼女の不貞という罪深い行いを事
実と信じ,不浄の肉体としてその存在を疎ましく思ったレオナートウは,第五幕一場では,一
転,ヒーロウの受けた恥辱の恨みを晴らそうとする復讐の父に変様し,最終幕,第五幕四場で
は,第四幕一場,教会の場で見せた我が子との絶縁の願いも,クローデイオに劣らぬ残酷さで
ヒーロウを糾弾したことも,まるで忘れた如く素知らぬ顔で再び花嫁の父となろうとするので
ある O
6
.
愛は何処にありや
6
.一(1) ク口ーデイオとヒ一口ウの愛
劇の幕がいよいよ降ろされようとする第五幕四場,あれほどまでにヒーロウを誹誇中傷した
上で婚約破棄を言渡し,彼女が,恥辱のあまり気を失って倒れるのもかまわず,その場に捨て
置いて立ち去っておきながら,その後,クローデイオは彼女を改めて妻にと望む。その理由は,
ヒーロウに乙女の純潔が蘇ったことにあった。(ドン・ジョンの企みは発覚し,ヒーロウの汚
名は晴れる)そして,第二のヒーロウ(実際には同一人物である)の資産にも不足はなかった。
クローデイオの美徳への欲求は再度満たされるのである O この厚顔無恥の行為に比肩するもの
などおそらくあるまい。彼に「愛」があるとすれば,それは自己愛である O 彼にあるのは,二
つの美徳を求める自己を満足させようとする意図のみである。そのような欲求を指して真の愛
ということはできない。しかし,愛についての不信は,単にクローデイオひとりの問題ではな
く,汚名の晴れた娘を再度,同じ男に嫁がせようと一計を案じるレオナートウの態度にも人は
違和感と不信を抱くはずで、ある。ヒーロウに対してできうる限りの恥辱的な言葉を浴びせ,死
に等しい衝撃を与えた男に何故娘を託すのか。また,最も深い痛手を受けたはずのヒーロウ自
身がクローデイオを受容することに対しでも,我々は不可解な思いに捕らわれる O あらぬ罪を
問われ衆人の面前で辱めを受けたのである。彼女こそ,クローデイオから欺かれたと言ってよ
いはずではないか。そうであるのに,既に触れておいたが,第五幕四場,彼女はクローデイオ
の残酷な仕打ちに報いる恨みの言葉もなく,その自己中心的な態度を批判することも一切なく,
父が望み,クローデイオが望む婚礼の再現に臨むのである O
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)
ヒーロウの帯びた「不貞」の汚名が晴れた後,レオナートウはクローデイオとの和解の条件
として,その死と悲運の魂の慰霊をしめやかに行うこと,その後,亡きヒーロウと瓜二つの娘
との結婚を受け入れることを提案する。その瓜二つの娘とは,
レオナートウによれば彼の兄
(もしくは弟)の子である。(実際に,レオナートウにアントーニオ以外の兄弟がいたのかは不
明である)実はその娘とは,第四幕一場において昏倒し,そのまま死に至ったはずのヒーロウ
であった。あの時,ヒーロウの潔白を強く信じたフランシス神父の助言に従って,事の真相が
判明するまで,世間にはヒーロウは死んでしまったものとして公表し, しばらく身を隠したの
であった。そして,汚名の晴れた今こそ,彼女の蘇生の時であった。
いよいよ婚礼の日を迎え,蘇ったヒーロウとクローデイオが互いに妻と夫になるための誓い
を交わそうとする時,前回(第四幕一場の婚礼の日)苦い思いをしたレオナートウは,花嫁の
ベールを上げようとするクローデイオに向かつて,祭壇(神)と神父を証人に,花嫁の前で結
婚の誓いを立てるまでは花嫁の顔を見てはならぬと釘を刺す。クローデイオは先の婚礼とは違
い,迷わず「夫」となることを誓い,新婦にも誓いを促す。するとベールの下から
Iかつて
この世に生きである時,私はあなたの妻でした。そしてあなたはこの私を愛した夫でした。」
と,花嫁の声が返ってくる。一瞬驚いて「かつての夫」が「もう一人のヒーロウか ?
J と聞く。
「その通りです。あなたの知るあのヒーロウ,そして今は亡きヒーロウは恥辱を受け,果てま
した。でも新たなヒーロウは,これこの通り生きています。こうして生きていることに間違い
がないように,確かに,私は汚れを知らぬ真の乙女です。」今こそ,ヒーロウが誰 障ることな
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く自分の潔白と,一点のしみなき貞節を訴える時なのである。ほとんど自己を主張することの
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"
)
ないヒーロウにもその大切さだけは分かっていた O 我が「貞節」は無傷である(“1amam
と宣言し,己に自信をもって頭を高く上げ,美しき花嫁となるのである。
引用文中の二行“ OneHerod
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…
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4
6
5
) という言葉は注目す
べき内容を含んで、いる。今は亡きヒーロウと今生きて在るヒーロウと
二人のヒーロウは一人
であって三人なのである O 一人のヒーロウは罪なき罪を問われ,汚辱に満ちて死んでしまった。
死ぬことによって,浴びた「不貞」の汚名はこの世からも,人の記憶からも抹消されたのであ
る。その時消え去った汚名は,今こうして新たな花嫁となろうとしているヒーロウとは無縁で
ある O そして
I死」の訪れと共に汚名が完全に晴れたことを強調する意図は,父レオナート
ウの言葉にも伺える o “
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",.
16
6
)死から蘇ったヒー
ロウの命は汚名を帯びる前の,汚れを知らぬ,貞淑で従順な「乙女」の命であった。彼女が,
控えめな表現の内に強い願いを込めて訴えているのは,今,クローデイオの眼の前にいるヒー
ロウは恥じるところなど何一つない「貞節」の乙女であるということである。それこそまさに,
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1
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21)と称賛したヒーロウであった。「かつて,あな
クローデイオが“m
たは私の夫であった,そして私を愛したのだった。」というその言葉には,あの,思い出すの
も悲しい先の婚礼では,夫と妻になる誓いをクローデイオから拒まれたにも関わらず,ヒーロ
。
。
ウの胸の内では既に彼の妻になり,彼もまたヒーロウの夫となっていたという思いが込められ
ているのである O 神前の誓いもなく,法の承認もなく,それでも,あの婚礼の日に夫婦の粋が
一度は結ぼれたと,そう信じたいと思うヒーロウの願望の語らせる言葉であろうか。「あなた
はかつて,罪なき私を罪人として辱めを与え,結婚の約束を破った人。」とは決して言わず,
クローデイオに愛されたことを強調するヒーロウは,わが身の受けた恥辱への恨みも,その恥
辱を与えたクローデイオの残酷さも,第四幕一場での死と共に葬り去ろうとしているかのよう
である O それは,けなげな心根であり,寛大な愛でもある O
しかし,人は愛を信じるばかりではなく,愛する対象から少し距離をおいて,愛について考
えてみなくてはなるまい。「愛」を知らず,己の利にのみ鋭敏なこの男に愛すべき価値のある
何かが果たしてあろうか?この男に,真の愛を憧慢する日がいつの日にか訪れるのであろう
か。それは大いに疑問である O ヒーロウは「あなたはこの私を愛して下さった。」と言う時,
そこに無理はないのか,或るいは錯覚はないのか。繰り返して警告するが,クローデイオは,
ヒーロウその人を知ることに関心を示さず,彼女の帯びるこつの美徳
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貞節」と「資産」を
愛した男である O しかも彼は,ヒーロウに与えた恥辱がどれほど残酷なものであったかを自覚
せず,謝罪の意図さえ見せぬ。従って,己の愛し方の過ちも,愚かしさも気付くはずもない。
そうであるからこそ,厚顔無恥の面にて,差し出されるままに瓜三つの娘に手を差し延べるの
である O 更に,なお驚くべきは,その娘が実はあのヒーロウと知ってもたじろぐことなく,妻
に貰い受けることである。そして,ここでも,即ち,蘇った現実のヒーロウを目の前にしても
尚,謝罪は一切試みられることはない。クローデイオには,己の為したることを恥じ入る人間
性もなければ,真の愛をやがては求めるであろう資質もないのである O このようなクローデイ
オから確かに「愛された」と敢えて主張し,これからも「愛されたい」と願うヒーロウは,一
体どのような愛を彼の中に見出し
期待するというのであろうか。引用文に見るヒーロウの言
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そのいずれの言葉も,確かにけなげである O 人は,そこに哀れを誘われはする O しかし同時に,
彼女の観察眼と認識力を疑わざるを得ないのである。彼女は,善意の人であるが,自己を知ら
ぬ点ではクローデイオと変わらぬ愚かしさを免れない。
この,それぞれに無知と愚かしさを持った三人の聞に,理想的な愛が育まれることを期待す
るのは無理である O 三人が改めて婚礼を挙げたとしても,それは言葉だけの語る(愛の)誓い
に終わる可能性が高い。そして驚くべきことに,この結婚を計画提案し,一計を案じてふたり
を新郎新婦として引き合わせたのは,ヒーロウの父レオナートウなのである O
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) レオナー卜ウとヒ一口ウの愛
レオナートウが,第四幕一場でのヒーロウの衝撃と悲しみを思うなら,そのような,愛の育
まれるはずもない結婚を娘に望むはずもなかろう。そして,己の冒した過ちを恥じるなら,娘
に恥辱を与えた男を再度あてがおうとするはずはない。だが,己に対する無知のあまり,あく
まで自分を中傷の害を被った被害者としか考えぬ父親レオナートウは,彼こそはクローデイオ
やドン・ベドロと同じ過ちを冒した人間であるということに気付くことなどないのである O そ
して気付かぬからこそ,娘の潔白を信じることなく,異郷の訪ね人の言葉を無条件に信じて,
無垢の我が子を不浄の女として弾劾することになるのである O こうした彼の自己に対する無知
と自己矛盾を象徴する場面が第五幕四場の冒頭にある O
-182ー
問題劇としての「から騒ぎ」
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上記引用文は,一計を案じて実現の運びとなった娘の婚礼を直前に控えたレオナートウと,
結婚の立会い人を務める(ヲ│き受ける)フランシス神父の対話である。この日,やっと皆に祝
福される花嫁となるヒーロウの喜びを思ってか,神父はレオナートウにこう語りかける。「あ
の時,私は申しあげませんでしたか?ヒーロウは潔癖ですよと。」それは,一見なにげない言
葉であるが,見方によっては重要な含みを持った言葉に聞こえてくる。神父の意図は,暗にレ
オナートウの悔いと謝罪一一ヒーロウに対する謝罪を促すことにあるのではないか。やはり,
私の言った通りヒーロウは不貞などまったく縁のない,純潔の乙女だったではないか,という
言葉の内に,神父は,-あの時(第四幕一場,教会の場)あなたはご自分の娘を不浄の子とし
て遠ざけようとされた。我が子でなければどれほど救われるかとまで、願った。だが,それこそ
が間違いであって,ヒーロウには何の径を受ける理由もなかったので、す。」そのような意味を
込めて「私の申した通りでしたな」と言ったのである O だが,そうしたフランシス神父の意図
を知ってか知らでか,レオナートウは話題の方向を少しばかり変えてしまうのである。「いや
確かに,ヒーロウが罪と無縁であるように,あの御二人の紳士にも同様罪はないのです。あな
たもお聞きでしょうが,なにしろちょっとした間違いからヒーロウをお責めになったのですか
らO 但し,マーガレットはそうはいきませんよ。嫌々ゃったとはいえ,悪事の方棒を担いでユお
いて何の罰もなく無罪放免というわけには参りません。(マーガレットは,企みの首謀者ド
ン・ジョンの知恵袋ボラーキオに思いを寄せており,彼の頼みを拒みきれず,偽って,男を引
J レオナートウは,神父の意図を推し量ること
込み不貞を働くヒーロウを演じたのであった )
など眼中にない。彼は,自分が如何に無情であったか,娘のあらぬ罪を恥ずべき罪として責め,
恥の罪を冒した子は要らぬとまで、言った,その過ちを認めぬばかりか,神父の言葉を巧みに利
用して自分に都合のいい話題を持ち出すのである O あれほど執効に,そして残酷に,ヒーロウ
を「不実」の女と糾弾し,辱めを与えたドン・ベドロとクローデイオの過ちも責任(倫理的な
過ちと責任)も否定し,無に帰そうというのである O すべての責任は,-ヒーロウ不貞」とい
う偽りの事実を作り上げて人を陥れようとした輩にあり,彼等二人は,その悪しき企みに計ら
れたに過ぎない。従って,彼らに負うべき罪も責任もありはしない。それは,一見正当な論理
の響きを持つ。しかし,企みの首謀者であるドン・ジョンと一味の法的,倫理的責任を問うこ
とは確かに正当だとして(ドン・ジョンはメシーナから逃亡したため,実際には,企み事の知
恵、を貸しそれを実行したボラーキオが捕らえられ,裁きを受けることになる。),レオナートウ
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) と呼ぶ男達,
ドン・ベドロとクローデイオに問うべき責任は
皆無とすることが,果たして正当であるのか。仮に,彼らに法的な罪と責任を課すことはでき
ぬとして,人としての倫理的な罪と責任は免れることはできないであろう。
実はこの時,レオナートウにはクローデイオとドン・ベドロの過ちを強く追及してはならぬ
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3
事情があったのである O 一つには,汚名の晴れた娘のヒーロウのために再度良縁を取結ぼうと
する時に,その相手である男と彼の庇護者と敵対するような態度に出ることは,現実の利得を
考えれば!愚かな選択だ、と思うからである。第一,彼ら三人は既に,口を揃えて何の罪も冒して
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はおらぬと主張 L,ヒーロウに謝罪することをはっきり拒んで、いるのである o (
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くとも父親であるレオナートウには非を詫び,彼の望み通りに,亡きヒーロウに(この時は未
だ「死」を装っていた)墓碑名を掲げ鄭重に慰霊の意を表わしたのである。レオナートウは,
彼らの妥協を評価して(己に非無しとする彼らにとっては高い代償であるに違いない)ここで
引き下がらねば,今,目前に漕ぎ着けた娘の「結婚」という目的達成を逃すことになるのであ
るO いや,それだけではない。アラゴンの主であるドン・ペドロの不興を買えば,メシーナの
行政官である自分にとって有利になることなどーっとして無い。それは,ヒーロウの結婚を架
け橋に,即ちヒーロウを媒体として,アラゴンの宮廷と深い縁(クローデイオはアラゴンの宮
廷人である)を取り結んだ場合の未来に比して,雲泥の聞きが生じることは火を見るより明ら
かである O しかし,レオナートウが二人を指して「罪無し」と敢えて言う理由は,この実に世
俗的な事情だけではない。
実はこの時,それが,意識的なものか無意識的なものであるかは不明であるが,仮にレオ
ナートウが,強いてクローデイオとドン・ベドロの「人としての罪」を自覚することを求め,
更にヒーロウに謝罪することまで願うとすれば,そのことが何を意味するか,彼には分かって
いたのである O 彼らの倫理的な罪と責任を問うことは,とりもなおさず,レオナートウ自身の
罪と責任を問うことである O そして,娘のヒーロウに過ちを冒したことの非を詫び,許しを乞
うことを自分に強いることを意味する。何故なら,異邦の客人であるこ人の紳士が冒した過ち
と,レオナートウが冒した過ちとは本質的に変わらないものだからである O そしてレオナート
ウには,親としての無情(非情)という過ちが更に加わる O 彼は,我が子を最も信頼してやる
べき時に疑い,あるはずのない罪を問うてその子を,救いのない子を責め,捨て去ろうとした
のである。(絶縁を願い,恥の罪と共に死して人の目から消え去ることを願ったのである。)そ
の過ちと悔いは「謝罪」して消えるものではあるまい。しかしそれでも,ヒーロウに赦しを乞
わねばならぬはずである O だが,レオナートウにはそのようなことをする積りなどなかった。
いや,婚礼に臨む前に為すべきことがあるとも気付くことさえなかったのかもしれない。そう
であるからこそ,先の引用の冒頭にある神父の暗示的な問いかけに対して,まるではぐらかす
ような応じ方をするのである O そして
ドン・ジョン以下企みに関わった者達の罪を厳しく詮
議しながら,一方で=自分自身やクローデイオとドン・ベドロの罪は無きものとして不問に終わ
らせようとする,その矛盾に気付かぬのである O 人として恥ずべき自己を知らず,親として恥
ずべき自己を知らず,それでいて「法」の名の元に他を裁くというのであろうか。彼は,不本
意とはいえ,悪事に手を貸したヒーロウの待女マーガレットの罪は免れぬと言いながら,その
一方で「不本意ながら J,倫理的な過ちを冒した自分達三人の無罪放免を強調するという,そ
の自己矛盾に気付くことはないのである O
ここで詳述する暇はないが,悪事が発覚して捕らえられたボラーキオの見せる潔さは,この,
自己矛盾の愚かしさを露呈するレオナートウと対照的であり,それだけに興味深い。第五幕一
場の終わり,綿密な詮議に先立つて,
(メシーナの行政と治安を預かる責任者として)レオ
ナートウがマーガレットの加担に触れると,ボラーキオは断固否定するのである
I己の死罪
はとうの昔に覚悟しているが,マーガレットの罪を問うのはまったくの見当違いである」その
理由は
I不本意」の加担ではなく,まったく事情を知らぬまま,即ち,それが悪事の方棒担
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8
4
問題劇としての「から騒ぎ」
ぎになろうとは,
しかも主人に当たるヒーロウを欺く事になろうとは夢にも思わず,ただ,
(思い人の頼みであるために)ボラーキオの言う通りにしたまでのことであって,罪はーっと
してない,というものである。「不本意」とは,悪い事と知りながら,悪事に手を貸す事を指
す。マーガレットを罪人にせぬためには,
I(彼女は)まったく,何の事やら知らなかった」と
はっきり申し聞きする必要があったのである O この時ボラーキオは
マーガレットの愛情を利
用して善からぬことに巻き込んだ,その責任を取る覚悟を身を持って示しているのである O 彼
は更に,マーガレットは本来「間違ったことのできぬ, しかも女性としても貞節をわきまえた
立派な」人格であることを付け加えて,彼女を救おうとする O 悪人とは思えぬ「高潔な」態度
である O この,悪漢にして高潔なるボラーキオを前に
I善と正義」の代弁者の顔をして彼を
裁こうとするレオナートウの顔は,自己中心性と自己無知そのものを映しているように見えて
くる O それは,実に皮肉な対照を浮き彫りにする光景である O
さてこうして,自己の為したことを正当化しようとする人物を父に持つヒーロウは,その人
のことをどのように見る(考える)のであろうか。彼女は,クローデイオが与えた悲しみと恥
辱に対して無言であったように,自分を見捨てようとした父に対しでも,やはり一言の批判も
口にすることはない。我が子が身に覚えのない非難を浴びる間,一度として弁護しなかった父,
非難し侮蔑する人々と共に自分の娘を「不浄の罪」の子として忌み嫌った父である O お前の汚
れた肉体を覆う黒ぐろとした罪の色が洗い流されることはなく,不浄の罪の放っ腐敗臭も消え
る日など決して来ることなどありはせぬと,娘を呪い突き放した父である O その父をヒーロウ
は忘れたのであろうか。いや,口に出さずとも忘れるはずはない。あの姿もその声も,たとえ
忘れようとしても,忘れることはできないはずである O それにも関わらず,彼女は彼の過ちも
非情さもまったく責めることはないのである O 無言のままにレオナートウの計画した新たな縁
組みを受け入れるヒーロウを見る限りでは,彼女は婚約者クローデイオの愛を取戻し,花嫁と
なる幸せを回復した喜び、に浸っていると考えるよりほかはあるまい。
しかし,あれほどの非情な扱いを受けた衝撃をまるでないもののように振る舞うとすれば,
それは偽りの外観に過ぎない。汚名の晴れた父娘が,共に幸せの結末を分かつて肉親の愛の粋
を深めたかに見えても,それは文字通り,そう「見えた」に過ぎぬ。父は自己の正当化に奔走
し,娘のために骨を折って縁談をまとめるとはいっても,それは純粋に,子の幸福を願つての
ことではない。既に見てきたように,レオナートウ自身の利害が大きな動機となっていること
を否定することはできないのである O 彼はいわば,クローデイオの見せる自己中心性を大いに
露呈しているのである O ところがヒーロウは,そうした父親の真の意図を見透すこともなく,
ましてや,他者の非を責め己の非に日を閉じようとする,彼の自己矛盾に違和感を覚えて批判
することなどありえない。従順な娘として正統な(或るいは当然な)育ち方をしたとはいえ,
あまりにも自我意識の希薄な,あまりにも批判力の疎い一一常に自己を表現するピアトリスの
存在が一層,そうした印象を強めている一一ヒーロウの態度には,或る種の不信を抱かずには
おれない。彼女に,父レオナートウに返す愛があるとすれば,それは愛ではなく盲目の従順に
過ぎない。ヒーロウが父に抱いていたはずの愛と信頼は既に第四幕一場で失われたのであり,
幾許かでも回復する機会をレオナートウ自身が拒んだのである。そうした父の態度に偽りの愛
を感じ取ることもなく,無言のうちに婚礼に臨むとーロウが,その沈黙によって「結婚」とい
う福をもたらしてくれる父への感謝と愛の表明(証し)に代えているとすれば,その愛を真の愛
と考えることはできない。レオナートウに,クローデイオの厚顔無恥を思い起こさせるような
自己の正当化を許し,偽りの愛をもって娘に報いることを許しているのは,ヒーロウ自身のこ
-185
の盲目の貞淑さであり,従順さであると言っても過言ではあるまい。
この父と娘の聞に真の愛があるか,と問われれば,またしても我々は懐疑的な答え方をする
しかないであろう。当初は,三人の聞に親子としての愛と信頼と呼ぶことのできる杵が確かに
あったに違いない。その点は,出会いの始めから「愛」と名付けてよい感情も粋も無いに等し
い,クローデイオとヒーロウの場合とは異なる O しかし親子の間にあったはずの愛が一度失わ
れた後は,彼らを結び付けていたその愛が二度と回復することはおそらくあるまい。致命的な
打撃を受け,大きな亀裂の入った愛の器を十分に見つめて,その亀裂の原因を知って修復に時
間をかけることを怠ったのである O 彼ら父娘はいずれも,その元の姿を失った愛に,偽りの愛
の衣を打ち掛けて亀裂を隠したのである O しかも,それが己の目を偽り相手の目を偽る,名ば
かりの愛であることに気付いている様子もないのである O 我々は,そこに一層の懐疑と不信を
強めることになる O 彼らの問には真の愛があるのか?今は失われ,回復する兆しは見えない
として,これから先,いつの日にか自己の過ちと愚かしさに気付いて,真の愛を求めることが
起こり得るのであろうか……このように問うてみる時,我々の胸には, どれほと守待っても光の
見えて来ぬ,暗i
信たる思いが広がるばかりである O
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「から騒ぎ」という作品は,確かに形としては喜劇の体裁を整えてはいるが,その実そこに
描かれているのは,新たな愛が実を結んだり,既に在る愛が深められていくといった様な,い
わゆる愛の成就では決してない。我々がこの劇の中に見出すものは,この作品の後に書かれる
三作品
I終わりよければすべてよし」や「尺には尺を」に共通する「愛の不信」を思い起こ
させるものである。表面的には,結婚によって人々(登場人物)が幸せに包まれて幕が降りる
のであり,それは愛の成就と呼ぶべき物語の終結に相違ない。しかしその成就という形とは裏
腹に,劇を見る者そして読む者の胸には拭い難い疑いが残ってしまうのである。そこに「愛」
はあるのか?と O しかも「から騒ぎ」の場合,問題となるのは男女の愛だけでなく,親と子の
間にある愛に関しでも,真に愛と呼ぶことのできるものが果たしであるのか,その点までも疑
わせる要素があるため,それだけ一層,この劇に描かれた愛に対する不信を深める結果となっ
ている。しかしそれはまた,初期の作品でありながら,後の二つの作品にはない問題を先行し
て扱っているものとして興味深くもある。
「から騒ぎ」に関しでも先に触れた問題劇と同様に,劇が結婚(愛の成就)によって終結す
ることよりも,その過程に注目すべきである O 劇の途上に起こる幾つかの愛の障害は,愛を深
め,確かなものにするための「善き試練」とは決して言えぬ要素をはらんでいるのである O ク
ローデイオとヒーロウの聞に見る男女の愛にせよ
レオナートウとヒーロウの聞に見る親子の
愛にせよ,一方が他方を深く傷つけて,愛を途絶えさせてしまうような行為に身を投じる O そ
の原因は無知や自己中心的な利害に対する思惑から,相手の不実を疑うことにある
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ウ不実(不貞)J という偽りの証言に惑わされたとはいえ,クローデイオとレオナートウの二
人には,その罪の責め,恥ずべき名をもって呼ぶことや,救いのない罪人であると弾劾するこ
とが,ヒーロウにとってどれほど耐えがたい仕打ちであるか,想像する力さえないのである。
しかも彼等は,自らが相手をあらぬ罪によって責めることによって辱め,真の愛を遠ざけてお
きながら,その後,ヒーロウへの疑いがまったくの誤解から生じたものと分かった時,彼女に
与えた心の深い傷に対して何ら謝罪する誠実さを見せないのである。いや,そればかりではな
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問題劇としての「から騒ぎ」
い。三人はいずれも,己の,人としての過ちを恥じることや悔いて許しを乞うことを知らぬば
かりか
或るいは,知っていてなお己の恥と罪に目を閉じようとするのであるかもしれぬ
素知らぬ顔で新たな利を,第二の求婚と結婚という利を求めるのである。
しかし,自分が人として,どれほど残酷な仕打ちを他者に与えたかを認識し,その罪を悔い
己を恥じて許しを乞うこともなく一一たとえ許しを乞うても許されることのない罪であり,そ
して癒えることのない傷であることを知りつつ,それでもなお謝罪しないではおれぬ思いで謝
罪するのである
クローデイオが新妻に愛を誓おうとも
レオナートウが娘に良縁を与えよ
うとも,それは偽りの愛でしかない。愛において既に目した罪を無知の闇に葬る彼等に,今,
新たな愛を誓ってもそれを真の愛に育むことなどできるはずもないからである。
ところが,かの耐え難い心の傷を負ったはずの人,ヒーロウは,その偽りでしかない愛を
喜々として受け入れるのである O 自己愛しか知らぬ男達の倣慢なる愛に対して,抗議の声ひと
つ挙げず我が喜びとして応じるのである。このヒーロウの態度にも人は不可解な思いを抱かざ
るを得ない。彼女は自分の身に浴びた恥辱を早や忘れたのであろうか?ヒーロウの貞節と潔
癖を信じるよりは,悪の声を聞き,企みの毘に易々と落ちた愚かしい男達を信じるというので
あろうか?彼等は,愚かしいだけではない。罪なきヒーロウを誹誇しその残酷さに気付かぬ
人々,厚顔無恥の人々である。その人々の声に何故に信頼に値する愛を,愛の可能性を見ょう
とするのか。我々は,汚名の晴れた後,新たな「求婚と結婚」を幸福の約束として受け入れる
ヒーロウを見る時,クローデイオとレオナートウに対して抱く疑いに劣らぬ不信と不可解さを
抱くことになるのである O 愛を提供する者も
く偽りを愛と信じる限り
愛を受容する者も
真の愛を何かと問うことな
I愛」は在ろうはずもない。
ヒーロウの態度に関する不可解さは,劇の終幕に至って劇的に現われるものではなく,既に
第一幕から,多くを語らず,ほとんど例外なく唯,状況に身を任せていく態度に暗示されてい
るものである O そして,劇の進行と共にヒーロウの沈黙と受容が反復されるため,観客,読者
は次第に彼女の愛に対する考え方,人を観察し判断する力を疑い始めることになるのである。
そして,こうしたヒーロウの描き方が,クローデイオやレオナートウの言動のもたらす,愛の
不信を更に深める効果を生んで、いるといってよい。言うならば,劇中のヒーロウの寡黙は多く
を語らずして「愛」について語り,愛の真実を問う言葉に代わる役割を果たす結果となってい
る。果たしてそれは,作者シェイクスピアの意図 Lたことか否かはわからぬが,女性を描く点
で興味を引くものを含んでいる。
いずれにしろ
Iから騒ぎ」の終幕は,上記の三人の人物ばかりではなく
I結婚」によって
すべてが善と幸福に覆われることを確信しているかのように,登場人物のすべてが喜びと満足
のうちに舞台を去っていこうとする O この人々を見る時,我々はむしろ寒々とした思いに捕ら
われずにはいない。それは,ここには
I終わりよければすべてよし」や「尺には尺を」の与
える愛(成就された愛)の空しさを凌ぐような,更に深い愛の偽りと不信を暗示するものが描
かれていはしないかという思いである O
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や裏切り,誤解等によって妨害を受けるといった主題に強い関心を示していたことを指摘している O
そうした一連の作品として「シンペリーン J,r冬物語」といったロマンス劇を挙げている。「から騒
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ぎ」において愛を妨害するものとしてドン・ジョンの企みを挙げ,シェイクスピアの描き方の優れ
肴させ,ク
た点として,喜劇的結末(結婚による結末)への期待や確信を危機的状況とを巧みに混 i
ライマックスである第四幕一場の教会の場以降では息の詰まる緊張感から大団円へと運んでいく点
を挙げている。
表面的に劇展開を追っていけば確かにその議論には正当性があるであろう。しかし,まず「危機」
とは, ドン・ジョンの企みとその一応の成功だけを指すのではあるまい。問題とすべき危機とは,
むしろその企みをきっかけに暴露されていく主要男性人物の人間性であり,更には最も深い傷を
負ったはずのヒーロウの沈黙に象徴される不可解な反応である 従って, Humphreysの,結婚によ
る「愛の成就」に至ったとする結末の捉え方にも問題が残るのである。
3
) 筆者は,こうした問題に関しては別の機会に考えをまとめたことがあり,以下に挙げる拙論を合わ
せて読んで、いただけると幸いである。
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学院生英文研究誌,P
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「イザベラ:信念の人か,従順なる修道女か」広島文教女子大学紀要第 3
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.
これら二篇の論文は,いわゆる問題劇として言及され,議論も為されてきた「終わりよければす
べてよし」や「尺には尺」とが,いずれも結婚による表面上の愛の成就という結末を与えられてい
ながら,実は,もう一つの共通した主題,即ち,愛に対する不信を窺わせる劇として分析したもの
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nはから騒ぎ」に登場するこ組の男女を比較対照させて,非常に興味深い示唆を与え
ている ベネエデイックとピアトリスの場合,非常に個人的で親密な結び付きを前提とする人間関
係であるのに対して,クローデイオとヒーロウの場合には,求愛の仲立ちを必要とする結び付きで
あり,結婚に至る以前に予め,時間をかけて相手を知り親密さを深めていくことはない。そして,
財産相続という打算的な要素が大きな比重を占めるこの人間関係には,第四幕一場の破局を予感さ
せるものがあると指摘している。以下は彼女の言葉の一部を引用したものである。
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したことを印象深く覚えている O “
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に書名(誌名)のみを挙げる。
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悲しいとか不幸だとか,そんな気持ちになることなどまるでないような女性」を想像させると言っ
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問題劇としての「から騒ぎ」
たと伝えられている
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ピアトリスは,洗練された美しさを湛える女性である。
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) ヒーロウの沈黙(寡黙)に関しては,男性が同席している時に顕著であり,気心の知れた女性との
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8,を用いた。本文中の引用はこの版より百│いたものである。
平成 1
0年 9月3
0日 受理一
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8
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Fly UP