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伝統技術の現況について(4

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伝統技術の現況について(4
論 文
伝 統 技 術 の 現 況 に つ い て (4)*
一一播 州 鎌一一
北田
岡本
果三**
善四郎***
l
. はじめに
2
. 播州鎌の歴史
(
1
)
播州鎌について
(
2)職人と問屋資本
3
. 播州鎌の現状について
(
1) 鎌の産地
(
2)鎌の種類と鎌各部の名称
(
3
)
鍛冶場(工場)と道具
(
4)鎌製造工程
4
. 技術的検討
(
1
)
鎌の原理
(
2)硬度と組織
5. おわりに
1
.
は
じ めに
鎌の使用は人類が穀物を常食とした時代に始まったと考え られている。現在発見されている
最も古いも のは, 紀元前 4000∼3000年のエジプト ,パビロ ニアで用いられた火打石で作った直
刃鎌である といわれている 。前 2000年になる と銅合金の鋸鎌,前 2000∼1000年 頃にはローマで
作られた鉄製の鎌が各植民地に普及し,鎌の形状も現在の西洋鎌と大差のないものであったと
いう 。
中国では新石器時代後期の竜山文化 に石鎌が現れ,殿代ζ
l銅 鎌,戦国時代ζ
i鉄鎌が出現 し
,
ほ〈ぴがり
ぎようしよう
広く東アジアの農耕文化に影響を及ぼした。穀物の穂首刈をする爪鎌は中国の何詔文化,竜山
文化に打製,磨製の石包丁や貝包丁として現れ,とくに石包丁は朝鮮半島や日本の弥生式文化
*1993年 1月27日受理, 1993年 4月20日改稿受理,伝統技術,播州鎌,熱処理,鎌鍛冶,鎌問屋
料 大阪成践女子高等学校
* 兵庫県立工業技術センタ一機械金属工業指導所
(
1
) 飯沼二郎『ものと人間の文化史 ・1
9
農具J
,法政大学出版局 (
19
7
9)'3
4,4
3頁
。
1
7
8巻 2号
(1
1
4
)
技術と文明
に用いられたという。
つどもり
(
2
)
我国の鎌で文献に出現する最古のものは『古事記祝詞』(六月の晦の大政)の中に「焼鎌の
寝
室
生
、Jl
とは「鎌(銀)および鎌の柄J
敏鎌 もちて, うち掃ふ事の如く」とあり ,その後,『倭名類E
の名前で, 『宇治拾遺物語』では「草刈鎌で総の料理をしたJと記されている様 K,古 くから
普及した農具である。鍬,鎌ともに前半期古墳の副葬品としてしばしば認められ, 6世紀前半
には穂づみ具としての手鎌が確認されている。
とは鉄鎌の前身である石翁E
I,石包丁があ り,石包丁は東アジアに しか見出されない
石器時代 l
特殊な石器で,稲の穂首刈に使用されたといわれている。古墳時代(弥生時代後期)に入ると鉄
器の普及する時代であり,鉄製の鎌も出現する。それは大別すると石包丁(小形,やや厚手,右
刃)I
C類する使用の仕方と ,他方は現在のものと類似した利鎌(大形,薄手,左刃)といわれる
l使用されたと 考えられ るものとがある。平安時代には利鎌が主と
種類で,柄を付けて根刈用ζ
なるが,鉄製農具はまだ貴族専有の時代であった。鎌倉 ・室町時代になる と
, 一般の百姓及び
下層農民さえもが鉄製の鍬 ・鎌を持ちうる様になる。江戸時代に入ると ,鎌は最もよく 用いら
れた農具の 1つで,農民の護身用具としての意味をも持っていた。
今 日みられる 種類のものが出そ ろうのは江戸時代中期であ る。江戸後期 K発達した鎌の特産
地としては越後(三条)鎌,越前鎌,信州鎌,播州鎌などがあった。その 内
,
播州鎌に ついて
調査 ・検討 した ので報告する。
2. 播 州 鎌 の 歴 史
2 (
1
)播州鎌について
文政 13 (
1
8
3
0)年には鎌 ・小万鍛冶の名前が三木に軒数不明であるが現われる。
l対し て播州
とれは農道具鍛冶が鍛えたと考えられるが,明治以降は俄かに発展した播州鎌ζ
古鎌ともいうべきものと考えられている。
1
7
0
4)年から寛保 2(
1
742
)年にかけて三木の領主であった黒田豊前守 と大和守父子が
宝永 4(
(
9
)
かずさ
上総久留里へ移封されると ,やがて久留里鎌が出現したという(尚,播州領は酒井落に移管となる) 。
と製造したと考えられ,播州地方に於
とのと とは,元来,鎌は諸国の野鍛冶が鍬,山万等と共 l
いても鎌を専業とする鍛冶はおらず,また,その数量の小さいととから記録に留めるとともな
(
2)『
古事記祝詞(日本古典文学大系 1)』,岩波書店( 1
9
7
8
)
,4
2
7頁
。
(
3)正宗教夫 『
倭名類衆紗』,日本古典全集刊行舎( 1
9
3
1)
第1
5巻
, 9頁
。
(
4)『
字治拾貴物語(新日本古典文学大系42)J,岩波書店 (
1
9
9
0
)
,3
3
5頁
。
(
5)樋口隆康編者代表 『図説 日本文化の歴史 1j,小学館 (
1
9
7
9
)
'7
2頁
。
(
6)古島敏雄 『日本農業技術史』,時潮社 (
1
9
5
4
)'5
7頁
。
(
7)『百姓伝記』(第五巻「農具 ・小荷駄具揃」「日本農業全集j 1
6),鹿山漁村文化協会 (
1
9
7
9
)'1
91∼ 2
頁
。
(
8)小西勝治郎『三木金物誌』,三木金物誌刊行会 (
1
9
5
3
)
'8
1頁
。
(
9)前掲( 8
,
)8
4頁。
1
8
伝統技術の現況について(4
)(
北
国・
岡本
)
かったと 推察されるが,鎌作りの存在を充分に窺わせるエピソードであり ,鎌は農作業に必要
な道具である乙とから早くから作られていたと考えられる 。
よって,上述の様に専業の鎌鍛冷は存在しなかった様である。一柳藩小野侯の万工であった
藤原伊助は明治維新後,廃万令(明治 4(
1
8
7
1)年)によ って,他の万鍛冶と同じく失業した。扶
1
87
3)∼ 7年)鎌の製
持を離れた伊助は市場村の剃刀鍛冶文右衛門の弟子となり, 後に(明治 6(
目
日u
u
法を剃万鍛冶と万鍛冶の両技術を応用して完成さ せたという。その技術的特徴は鋼を糸を百|
い
たように極めて細く ,薄く ,鉄(地鉄)に接続したもので,\i
)
fぎ易く極めて鋭利であったとい
ω
とがま
う。との乙とから『敏鎌』といわれ,また剃万の応用から『剃万鎌』 ともいわれ有名となった。
向,又右衛門は播州地方における剃刀製造の起源に大きくかかわった人で,伝承に よると延
享 (
1
7
4
4∼1
7
4
9年)の頃,当 時 四国巡礼者であった京都の剃刀鍛冶藤兵衛から ,その秘伝を習
い
, 修得ζ
l至った人であるという (『寛政 2(
1
7
9
0)
年1
0月稲荷講中控」(黒田清右衛門氏古文書) R
:
よ
ω
ると大阪で習得したように記されている)。寛政 1
2(
1
8
01
)年には東播八郡に亘って,又右衛門他 37
u
m
戸の剃万鍛冶が存在したという。
その後,播州鎌(伊助鎌)の製造は伊助の弟子によって東播八郡の各地に広がり ,その技術は
各地の特産鎌として,それぞれの 名を残 した。即ち ,小野町の「ー十九鎌」, 美麓郡正法寺村の
U
目
きょた に
「正法寺鎌」,池尻の「池尻鎌」,浄谷の「浄谷鎌」およ び石野の 「石野鎌」である。石野鎌は正法
のれん
寺鎌の技術が石野へ広まった ものである。 との様ζ
l技術の伝播形態は弟子への暖簾分 という方
1
8
8
2)
∼2
7
, 28年頃まで続 いたのである。
法で鎌の製造技術を拡大せしめ ,その方法は明治 15(
即ち,小野の剃万鍛冶は小野の和鉄鍛冶と同様に農村部 l
と発達 し,その技術を鎌鍛冶へ と応
用したのである。その結果,小野の剃万産地は鎌産地の中心地へと転じる乙とになった。当時
の鎌製造戸数は四百数十戸であ ったという。
0(
1
8
7
8)年以降,鎌市場は江戸中期か
乙とに,小野は鎌の一大産地として生成した。明治 1
ら,越前 ・越後鎌が中心(一部伊予鎌の使用)であったが,乙れらを播磨の鎌が一掃するととに
u~u国
なったのである。次 K,藤原伊助 l
と始まる播州鎌鍛冶の系図を示 した。
明治維新はあらゆる伝統工業にとって厳しい試練の時代(時期)といえる。
伝統工業に よる多くの 製品は近代工業の機械化技術と資本力か らなる 製品に圧倒され,その
結果,衰退 ・消滅するも のも 多 くあ ったと 考えられる。しかし, 一方 ζ の時期 K伝統技術を生
帥 『兵庫県の地場産業シ リ
ーズ第 3号
』,兵庫経済研究所, 41
頁
。
ω 船曳?享『播州鎌工業の経済構造J,兵庫産業研究所( 1953),34頁。
ω 小西勝治郎『掛トド持産金物発達史』,工業界社 (1928)'171頁。
附向上 『
播州鎌J
,播州金物新聞社( 1
9
4
9
)
' 5∼ 6頁
。
ω 前掲 (8), 41貰。
同 小酋勝治郎『播州鎌 と刃物j,工業界社 (
1
9
3
5
)
'1
2頁
。
7
0頁
。
同 前掲 自
由
, 1
同 北 田果三,岡本善四郎 「
伝統技術の現況( 2
)小野の和鉄J
,『技術と文明』( 1
9
9
0
)5巻 2号5
6∼5
8頁
。
9
69
)
,3
9
6頁
。
帥 『加東群誌』,小野市誌( 1
1
9
技術と文明
8巻 2号
(1
16
)
村町村村
部野尻谷
大小池浄
弟
郎郎ヨ憲吉助吉
太太噸景謙之
蜘栄船
吉徳付寅尻谷
原原一部崎困地原帰
藤藤︵層宮藤藤
男男子子︶子
長次弟弟弟
正
︵
船
争
中本
一一一一一一
吉衛
平右
藤井
Z
M
ii
︶子
子弟
剛
一
附
原町
藤G
衛
⋮
伽
右切
文伶
かすために産地資本(問屋資本)の結集を計る ととで,地場産業としての地盤を固ためて飛躍的
に発展する伝統工業も少なくなかったと考えられる。
小野の金物産地においても大きな変革を生 じる。播州鎌の場合,先述の明治 4(
1
8
7
2)年の廃
刀令が契機となって,万鍛冶からの鎌鍛冶への転業は鎌職人の増加 と共に鎌の質を向上させる
乙とになっ た。乙れに伴って新しい播州鎌製造の為の条件(人員と技術) は整ったといえる。一
I剃万鍛冶は周年発令された散髪令に よって打撃を受ける 。即ち,結髪から断髪への転
方,逆 ζ
換は理容器具の転換となって現れたのである。
次ζ
i,播州鎌の販売面について少々ふれてみる。鎌の生産量の小さい頃は職人の家族等によ
る近郷,近在への走歩による直接販売で,その地域は限られたものであった。遠くともせいぜ
い姫路あ た りまでであった という。
2・1
3(
1
9
7
9∼ 1
8
8
0)年
鎌工業の発達により ,鎌の生産量が播州地方で飽和状態に達する明治 1
頃から,専業の販売業者も出現する。 彼等はその販売路を求め て,先ず大島の川中市太郎によ
って,明治 12年に岡山,続いて三河,遠江地方へと県外取引を開始し,下東僚村中番の奥村三太
l,田中栄吉(田中弥兵衛の次
郎は紀伊,伊勢方面へ。加古川の田村直次郎は江州方面へ。さら ζ
1
8
9
2∼2
6)年のととで
男)の岡山,四国,九州方面への販売と,急激の発展を したのは明治 25 (
あった。鎌問屋は加東郡及び美襲郡に勃興 し,彼等はそ の販売方法に関 して市場分割する乙 と
1
9
0
2)年に早くも販売面での申し合せ
により順調に発展した。その後,問屋も増加し明治 35 (
関
組合「加東郡金物組合」を組織した。
ζ れに対して生産者側でも申し合せ組合「播州鎌製造組
ω
ω
合」を作っ ている。尚,明治 25 (
1
8
9
2)年頃の播州鎌の価格は 1丁 2銭 5厘との ζ とである。
その後の鎌の価格の変遷を表一 lk示した。
参考ま でに述べると, 越前鎌を全国的に広め たのは富山の薬り売りに似た業態の鎌商人であ
闘
ったという。その行商に関する最古の記録はすでに宝麿 2(
1
7
51
)年に見ら れる。その行商の起
側 前掲 U
)
l
,4
4
頁
。
側 グ 帥,1
7
2頁
。
白I
) グ U
3
l
,1
1頁
。
凶グ Q
2
)
, 1
7
3頁
。
側松村貞次郎 『鍛冶の旅J
,芸州l堂
(1
9
8
5
)
,2
3
0頁
。
2
0
伝統技術の現況について
(4
)(
北国・岡本)
とりは, 越前地方から 全国へ出て行く漆掻き の人々で
と入り ,漆を掻かせてもら っ
漆の木を求め て各地の 山 l
表− 1 f
岳
山|
‘
|
鎌(鎌刃部のみ)の倒絡変遜
昭和初期頃
1
0∼ 1
8
室
長
たお礼 に越前鎌を置いてきたととによる といわれてい
3
0年
2
0∼ 2
5
!
I
J
る
。
3
5
£
f
-
35-4
5円
6(
1
8
8
3)年∼ 1
7年の乙の時期 I
r
.職人から鎌専
明治 1
4
0年
1
0
0∼ 1
2
0同
門の問屋資本に まで成長 したのが剃万鍛冶の田中弥兵
5
0
年
2
8
0∼ 3
0
0円
5
5年
3
2
0∼ 3
6
0円
6
0年
3
5
0∼ 3
7
0円
平成元年
3
8
0∼ 4
0
0円
3年
4
8
0∼ 5
0
0円
衛商店であ る。同商店は剃万鍛冶を原料前貸方式で自
l転業させ,また窮乏
己の傘下に収め,彼等を鎌職人ζ
ω
する農家の副業と して, 洋鉄 ・銅を用いて従来の和鉄
・鋼よりも容易な鎌造り技術を導入した。即ち ,問屋
制手工業 という生産 ・販売の経済機構の中へ
h
鎌作りの生産体制を確立し て組み込ん だのであ
1
8
4
0)年,弥兵衛商店は 5
0数戸の鎌職人を専属 とし,その配下には 1
30
った。その後,明治 25(
関
名の従弟が所属 したという。
また,当時の播州鎌の卸商ζ
l 加東郡下東僚村下番(現,小野市住吉町)の長谷川熊吉商店があ
l大きな役割を果 している 。朝鮮
り,圏内は勿論,遠く朝鮮半島に販路を拡げ,その市場拡張ζ
鎌と称された播州鎌の朝鮮半島,満州国(現,中国の北東部)への大E販売は第二次大戦を以っ
て幕を閉 じるが,その名勢は冠たるものがあった。尚,同商店は現在も主要な播州鎌卸問屋の
一員である。
と注目
乙の頃まで鎌の全国市場は越前 ・越後鎌の問屋が握っていたが,彼等は播州鎌の拾頭 l
1
9
5
2)∼ 28年
して,播州鎌との取引きを試みるが拒否ちれている。その事例として,明治 27 (
江州甲賀郡龍池村の青木福松という鎌問屋が,品質上極めて鋭利な播州鎌を越前鎌の形状に作
凶
り変えて販売しようと営業活動を行なっている。当時の播州鎌は樋入り( 3ー
( 4)参照)のベタ打
ち鎌であったが, 乙れを越前鎌のように板抜き して販売すべく,大島の藤原平吉や小野の藤原
l越前鎌の製造を依願するが「金銭を持って節を屈する は能はず」と拒
栄吉ら藤原伊助の弟子ζ
否された。そ こで,石野の剃万鍛冶田中重左衛門(三木町の鍛工戸川作兵衛ともいわれる) I
ζ依頼し
て諒解をとり ,剃万鍛冶中村の河烏八十六,中石野の茶屋新七郎らと協同 して越前鎌を製造し
U
団関
た。との時の鎌が丸形の鎌であり,との丸鎌に小野鎌,池尻鎌を加え,それらを総称して播州
鎌と称した。
2(
1
8
7
0)年 K,すでに阿波の商人
『加東郡誌』によれば上述の青木福松よりも以前の明治 1
が三木町戸川作兵衛に越前鎌の製造を依頼したと記されている。
白4
)
星野輝男『兵庫県の伝統工業と特産品J
,清水害院, 4
8頁
。
帥前掲(
1
1
)
,4
5頁
。
白
骨
グ (
1
2
)
, 1
75
∼1
7
6頁
。
間 グ 倒,4
9頁
。
21
技術と文明
8巻 2号
(1
18
)
尚,播州鎌が板抜きに改良されたのは明治 29 (
1
8
9
6)年頃のととで,伊賀地方で使用する 6
す以上 7• 8寸の大鎌への改良が最初であったとい兵
3(
1
8
8
0)年,我国へ洋鉄 ・鋼が始めて輸入され,金物の材料転換期(材料革命)
さて,明治 1
が生じる。
しかしながら ,
藤原伊助とその系統の鎌製造業者(職人)は和鉄 ・鋼の使用に固守した。乙の
l扱うととで製品の質が落
時期,和鉄 ・鋼と性質の異なる洋鉄 ・鋼を従来の和鉄 ・鋼と同 じ様ζ
ち,顧客からの苦情が殺倒する者(職人)も少なくなかった。
ζ のζ
とは,
小野の鎌ζ
l限った
乙とではない。全国刃物産地は 同じような経過を踏んでいる。とにか く,和鋼と洋鋼の切り替
えは日本産刃物に重大な転機を もたら した。結局は洋鉄 ・鋼を採用する
ζ
とになる。しかし ,
つ砂はがね
研ぎ易さを加味した伝統の「付鋼の技術」は今日まで継承されている。
洋鋼の性質を把握できなかった鎌鍛冶及び和鉄 ・鋼の使用から脱却できなかった播州伊助鎌
c
m
系統の鍛冶は明治 20 (
1
8
8
8)年頃,急激に衰退す る
。
ζ れらの ζ
とは越前 ・越後鎌についても
当然あてはまると考えられる。
ζ の様な状況下,先述の田中栄吉商店は洋鉄
・鋼を使用して,その鍛冶技術修得ζ
l成功し,
その特許を 明治 25 (
1
8
9
2)年ζ
l取る。その結果,価格競争において和鉄 ・鋼の使用者を圧倒し
7
こ
。
同商店は,乙 れを契機に銘柄を「播州鎌」と名命して,金星印のトレー ドマークで全国販売
へと営業活動を展開し ,市場を拡大する 。との田中商店が現在のキンボシ株式会社である。
と全国ζ
l広がっている。
現在,播州鎌は関東 ・東海 ・九州 ・四国 ・近畿を中心 l
2一位)職人と問屋資本
一方,鎌生産者(職人)側から見た場合の鎌工業の歴史は常に問屋資本との闘いと妥協であ
ったと言っても過言でない。
1
94
5)年以降の両者の関
「特 K,その事を痛感するのは昭和 20 (
係であり ,汗と涙の物語であった」と播州鎌事業協同組合の理事長で,今 日の尊徳鎌本舗を腕
1
93
1年生)社長は述懐する。
一本で作り上げた職人出身の長谷川昭夫 (
l至るまで設備道具一式を職人の要求ζ
l応
古くは,原材料の鉄 ・鋼は勿論,副資材の輔の皮ζ
じて借与する前貸制度 (
日露戦争後廃止される)を核 として,さらに職人が 独自の販売機構及び
市場を持たない という弱点を利用しての商業資本による問屋制家内工業の経済機構下における
従属の歴史であったといえる。
1
8
9
4)年の日清戦争および明治 37 (
1
9
0
4)年の日露戦争後のインフレにより,鎌の需
明治 27(
要は増大 し価格は高騰する。即ち ,造れば売れる となれば職人も白から原材料を購入して製造
するようになり ,中には商人に転換する者も出る。当然,利益を求めて他の商業からの商人も
聞
出現する。その結果,問屋資本による問屋制ζ
l破綻が生じる乙とになった。
倒前掲倒, 5
0頁
。
22
伝統技術の現況について
(4
)(
北
悶 ・岡
本
)
問
問屋資本は職人を従属すべく ,彼等の団結(播州鎌製造組合)を分解する為 l
と, また,問屋側
の整備を計る目的で,明治 35 (1902)年加東郡金物組合(後 I
r改組して播州金物販売組合)を成立
聞
して巻返えしを図っている 。
i組込む乙とで,鎌価格の自 由競争を廃止し, 職人の争奪禁止
その内容とは新規商人を組合ζ
及び市場の協定を行う
聞
ζ
とであった。
91
3)年)時には,他の小商業資本からの新規参入
特 K,播州金物販売開業組合成立(大正 2(1
が大きくクロ ーズアップされたという。
また,問屋資本は日露戦争後の経済不況が深刻化して市場競争が激化 した第一次大戦前夜(大
側
正 4(
1
91
5)年)商品価格の値下げ負担分を組合組織を通 じて職人側へ転嫁させている。
当時,鎌生産者(職人の播州鎌製造組合)側は 400戸を数え,問屋に対抗するが,前述の職人側
の販売機構や市場を持たないという弱点は両者の主従関係を絶対的な ものにし ,職人側の経営
を困窮させていく
ζ
とになる 。
大正 5(1916)年に問屋資本は経営困窮した職人の要求に対して,鎌の引取 り価格の l割値上
げを行なうが,それ以後大正 8(1919)年までの計 16回以上に及ぶ職人側の値上げ交渉を一方的
a
n
l
乙拒否している。
第一次大戦(大正 3(1914)年∼大正 7(1918)年)が勃発し,戦後は日清 ・日露と同様の傾向を播
州鎌工業にもたらした。その為 K,鉄・鋼材は不足し,1貫85円まで,その価格は騰貴 したとい
う
。
ω
ζ
の時期,古鉄 ・鍬jを取り扱うブローカーが阪神地方から出現する。彼等の扱 う鋼材はそ
と限らず鉄等の 刃物類等の金属
の性質が均一でなく ,鋼は益々多種多様となる。その結果,鎌 l
製品は粗悪 となり ,品質は劣化した。
乙の様な状況下,問屋資本はる生産者支配体制を確立しよ うと する背影のも ♂ 川 崎製鉄
とより鋼を薄く鉄 l
と圧着した鎌地金用の利器材 (複合鋼材)
(株)に技術委嘱して,特殊ロール機 l
が開発された
。 乙の技術を生かすために大正 8(1919)年,問屋資本によ る山 陽利器(株)が設立
制
された。しかし ,山陽利器材の実用化は大正 11(1922)年のととである。利器材の特徴は鎌鍛冶
とよっ ては向槌を
に取って最も骨の折れる鋼付けの火造り工程の作業がなくなっ た ζ とで,物 l
3∼ 4人要する場合があったが,利器材で はその労力を全く必要とせず労力と時間の節約が可
能になった。
つけはがね
仕事の能率は従来の「付鋼」の方法で 1日 1
0丁鍛えた者(職人)が,利器材を用いれば 1
7丁
を鍛え,熟練工であれば 2倍の 20丁を鍛える乙とができたという。
仰)前掲 (
1
1
), 4
7頁
。
側 グ (
1
1
)
, 5
5頁0
(
3
)
1 グ 仕I
)
, 6
0頁
。
倒グ帥, 1
6頁
。
同
グ 白I
,
) 6
2∼6
3頁
。
倒
グ 帥 ,4
2頁
。
2
3
技術と文明
8巻 2号
(1
2
0
)
問屋資本は職人側へ,鎌の半製品である 利器材の使用を強要 した。
ζ
のととは問屋資本にと
り山陽利器(株)か らの配当,及び職人への利器材供給時 と
, 市場への製品販売時 と問屋制利
潤を得る乙 とになった。新材料(利器材)の供給による問屋資本 と職人の新たな従属関係の成立
である 。
乙れ以後,第二次大戦ま で 山陽利器(株)の利器材は 問屋資本を通じて職人 に供給される乙
とになる。問屋資本(商業資本)は事実上産業資本 とな り,鎌職人は賃金労働者になり下がり ,
ω
その独立性はなくなっ た とい える。
昭和 12 (
1
9
3
7)年日中戦争が勃発する。昭和 1
3(
1
9
3
8)年 4月公布の国家総動員法による戦争
経済統制令下にもかかわらず,商工 ・農林当局は当 時金国 の鎌生産高の %を占めた播州鎌の農
山林への供給 i
ζ強い理解を示したという。近代戦争は国家を挙げての総力戦で あり,
ζ れは戦
時下の食糧生産の必要に迫まられた結果と考える。また,同様の理由で産地の保有資材が豊富
であり ,資材の欠乏する とと にならず昭和 14 (
1
9
4
0)年の鎌生産高は最高点に達し ,518鎌工場
関
で 12
,0
3
9
,600丁の記録に達 して いる。
4(
1
9
4
0)年播州鎌工業組合は兵庫県農機具工業組合に加入 し,その 中
戦時統制令下,昭和 1
闘
の鎌部会に改組される 。即 ち,企業獲備が押しすすめられ,一産地一企業の方針 に則 して山陽
9(
1
9
4
4
)年第一指定工場 となる。軍需産業優先の時代であり ,鎌 もその例外
利器(株)は昭和 1
ではなかっ た
。
第二次大戦後の大 きな変化は海外市場の喪失と鋼材供給面での独占崩壊である。即ち ,昭和
22 (
1
9
4
7)年産業資本により大阪府吹田市のカネサ利器工業(株) の小野地域への進出に伴い ,
問屋資本により 設立 された山陽利器(株)の播州(小野)地域におけ る独占市場は崩壊した。
尚, カネサ利器工業(株) とは関西製鋼(株) ,阪 口興産(株)等の複合鋼材部門のグループ会
社を独立させ,鎌材を中心に設立 した会社であった。
間
昭和 23 (
1
9
4
8)年には鋼材価格が低廉 (
山陽利器(株)より 5千円∼ l万円/ton安価) な ζ とから ,
従来の問屋資本と隷属関係のない新興の職人(大戦後のイ ンフレ による鎌需要の増大により出現する)
等は跨踏なくカネサ利器工業と 取り引き関係に入る。よって,周年同社の小野市場におけ るシ
1
9
5
2)年には両者の市場分割において,鋼材供給量を
ェアは 23%と急成長を示した。昭和 27 (
J
器 5.5, カネサ利器 4.5とするととで妥協落着をはかる。しかし,その後も両社聞の販
山陽寺j
売競争は激 しくなり ,価格競争での優劣が明らかになったため品質上の問題にまで発展した。
その後の事情は元カネサ利器工業(株)小野営業所取締役所長井上孝夫氏 (
1
9
20
年生) ζ
Iよる と
年
以下の通りである。即ち ,打開策として販売の 1本化が打ち出され,両社合弁(昭和33(1958)
4月∼昭和4
2
(
1
9
6
7)
年 3月まで)し て播州鎌材料販売(1
朱)を設立する。新社長 には山陽利器(株)
闘
帥
(
幼
前掲(1
3
), 1
5頁
。
グ 帥, 1
7頁
。
グ 倒, 5
7責。
2
4
伝統技術の現況について(4
)(
北田・岡本〕
社長の田中栄吉が, カネサ利器工業(株)から藤平一男が 専務に夫 々就任 した。両社の鋼材供
.5~ζ決定 した 。
給量は最終的 に山陽利器 6.5, カネサ利器 3
昭和 35 (
19
60
)年頃, 乙の役員就任が独占禁止法に抵触す ると勧告を受 け,前述の 2人の役
員は退職 した。業界の中から 播州鎌工業協同組合の理事長小林武雄が社長 に就任する。
19
67
)年,再び独占禁止法に触れる乙とになる。鎌材販売に関 して の 1社
その後,昭和 42 (
独占販売が問願化し,播州鎌材料販売(株)は解散。山陽鋼材 (
株)とカネサ利器工業 (
株)の
小野営業所へとおのおの独立して扶を別つ事 になった。
1
9
5
5)年, カネサ利器工業(株)のク、、
ループは利器材の製造に於て,従来の利器材
昭和 30(
とは異なり ,接着圧延時ζ
l接合部鋼からの脱炭を防止 した無酸化接合法の特許を取得 し
, 実際
の操業に入る。
その接合法とは利器材の製造の際,鋼板をコの字型の鉄板に埋込ん
だ
、 2枚重ねで, さらに単
式でなく,鋼板側を重ねた複式 とし,鋼表面 が 空気(酸素) に融れない様に,芯の 2枚の鋼板
l溶接 して,その後加熱圧延する方法である。従来の様に,
を 2紐 のコの字型の鉄板で囲む様ζ
単に銅 と鉄板の 間に接合材(棚砂 ・孤酸)を入れ加熱圧延 したものと比べて,鎌造りの際の接合
2
不良が殆ど発生 しない というものであった。 ただい 従来の利器材と比較して母材(厚さ :4
(
鋼 :7∼9)
×3
5x8
0
0mm)が大きい為に加熱温度も 1
1
0
0℃ (
×数十分間保持)とやや高い。よって,
接合部以外の鋼表面から脱炭や接合部銅から鉄への炭素拡散が生じ易い という欠点があっ た。
l,鋼表面への炭素(黒鉛)粉末のニス 塗布や炉内ガス(例えば,CaHs
)雰囲気
とれらを補う為ζ
及び焼戻し処理の条件が考慮 された。 しかし,
ζ
れらの設備投資が鎌 のコスト高へと 跳返える
ととは殆 ど無か った。そ れは従来の菱型利器材よりも母材が大きく,安定 した材質の多量供給
が可能となり ,経済的にも克服できたから とい える。
しかし ,打刃物の需要減少及び鎌職人の高齢化に伴う生産量の減少から ,時代の趨勢であろ
19
8
9)年 1
1月カネサ利器工業(株)小野営業所は閉鎖された。
うか平成元 (
播州鎌は小野を中心と して生産され全国生産量の約 70∼80Mを占めてきたが,その内訳を
1
9
59
)年から 3
6年が戦後の最盛期で,昭和 3
4年には 246企業
, 505人
表一 2に示 した。昭和 34 (
4
年)のピーク生産高 と比較する と 689
ぢ程度 と
の従業者で820万丁を生産している。戦前(昭和 1
1
9
71
)年以降は生産者の 95%が利器材を兵庫県小野金物工業協
かなり下回っている 。昭和 46 (
ω
同組合を通じて共同購入する様になる。
昭和 47 (
1
9
7
2)年∼ 5
3年,その生産量は全国生産量の約 80勿を示した。 48
年の第一次, 54年
0
.5%,
の第二次オイルショック 時の生産高への影響はいずれも前年 と比較 して 一1
5
.7%と
5(
1
98
0
)年以降逓減傾向にあ る。しかしなが ら,昭和 30年代から始まる 農業
低落しており ,5
の機械化により,自動刈払機,パインダ一等に取 って代わられ,すでに大打撃を受けてい たと
側 「兵庫県発明 5
0
年J
,兵庫県発明協会編,3
8
4頁。
2
5
8巻 2号
(1
2
2
)
技術と文明
表−
込
生産数i
l
l
:(
万丁
)
2 播
?H
鎌の企業数
生産金額(百万円)
・従 業 員 数 ・生 産 高 の 推 移
生産高(%)
生産金額(%) 事~ l本の
企業数 従業員数
H
百
手
日
1
5
5
1
8
県 内② 全 国 ⑥ 県 内@ 全 国 @
1
5
5
4
従業員 l人当りの
平均価格
@/⑤× 1
00 @/③× 1
0
0
(
円
)
1
2
3
0
) 生
産
金
額
(
万
円
)
生
産
本
監
(
百T
0
.
7
9
3
0
2
7
0
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2
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5
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5
0
3
2
2
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7
2
7
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0
2
9
2
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4
2
4
6
5
0
5
8
2
0
3
21
3
0
1
.4
3
41
.7
3
7
1
.
38
51
.
1
3
9
1
.
6
2
6
3
.
6
3
6
2
40
5
2
5
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0
6
4
5
0
5
6
1
.5
4
85
.7
3
8
2
3
3
4
6
7
6
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.7
5
0
1
7
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1
.
4
6
1
0
7.
3
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0
2
2
3
4
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5
6
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1
.7
7
6
1
.
5
5
1
1
7
.
6
2
3
0
4
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3
700
3
2
5
6
5
4
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2
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0
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0
0
3
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6
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0
65
0
4
5
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3
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3
6
0
0
I
上l
41
注I
4
2
5
3
0
7
6
1
.
6
2
1
2
2.
4
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.
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.
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1
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0
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0
1
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.
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.
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.
0
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9
58
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0.
0
8
0.
0
1
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0
2.
1
0
27
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.
6
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1
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2
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1
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9
.
9
7
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0.
0
1
80
1
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3
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6
2
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9
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1
1
2
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0
.
0
8
0
.
0
1
8
0
1
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1
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2
7
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.
3
1
7
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.9
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9
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1
7
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1
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3
1
4.
6
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1
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0
1
5
0
1
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0
2
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7
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8
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1
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6
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0
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.
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.
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.
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1
2
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.
3
8
1
.
8
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7
1
.
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0
31
0
.
9
54
1
4
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9
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1
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1
7
5.
8
7
4
.
0
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3
1
.
3
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75
.2
5
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8
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3
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8
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9
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3
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1
041
1
3
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7
.8
7
7
.
8
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1
1
1
.
3
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2
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2.
9
5
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1
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2
1
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8
.
6
78.
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2
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1
.
5
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1
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69
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4
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.
6
2
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1
.
5
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1
.7
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2
5.
9
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1
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1
2
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6
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.
6
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4
.
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0
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0
1
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0
1
6
24
6
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0
7
7
.
6
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1
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1
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9
.
3
31
9
2
.
0
3
6
4
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2
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1
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1
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2
1
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.2
7
9
.
7
31
9
2.
0
5
6
2
9
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0
6
2
9
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1
38
3
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2
3
2
1
5
5
2
6
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.1
7
9
.
4
31
8
2
.
8
0
892.
8
6
3
1
6
7
2
6
4
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0
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8
6
3
2
51
4
71
1
8
5
.
2
6
9
.
0
3
8
7
3
.1
8
1
2
31
.4
平成
元年
1
5
0
2
3
7
8
08
9
4
6
3
1
4
7
4
5
3
4
8
5
.
4
6
9.
4
3
8
9
3
.
4
0
1
3
2
7.
8
注2
i
主1 1
5∼ 4
2年度は 『
小野市誌』 (
4
4年)か ら市商工課統計。 4年度(下段)以降は兵庫県産業情報てンタ ー「兵庫県の地番産業」
2 6
3年度から非組合員の数を入れる
26
伝統技術の現況 I
Cついてい)(北田 ・
岡
本
)
いえる。
昭和 1
5(
1
9
4
0)年の従業員数には丁椎等の下働きも多数含まれていると考え られ,その数を
単純に決定で きないが,年間一人当 りの鎌生産丁数は 7
,900丁程度である。 電化に伴 う設備の
.5万丁, 4
0年の約 1
.6万丁, 50年の約 1
.7万丁,そして
機械化が整った昭和 30年には平均約 1
60年の約 2
.7万丁と大きく 伸びている。一般に打刃物鎌の場合の職人一人当りの年間生産本数
は 1万丁といわれており,臨時雇いの職人の存在を推察する。
40年以降の生産本数には機械鎌(全形打抜き鎌,3
5
年頃出現)が合まれている。 昭和 54∼ 5年
1
9
8
8)年以降 に消費税が導入される。
にかけて,全鋼鎌がブームとなる。 また,63 (
0∼6
2
年)から打抜き鎌と全鋼鎌の合計数量(夫々年間約 1
0
0万丁製造)
尚,表一 2@の数量( 5
を引いた ものが播州鎌 (打刃物)の年度毎の推定生産量(丁) といわれている。
.7
万円,40年 1
17
.6
万円 ,50年
当然のと とであるが,一人当りの平均鎌生産金額も昭和 30年41
3
4
2
.9万円,60年 6
4
2
.7万円と 直線的に上昇 している が, 設備の原価消却費,材料費(菱型の
利器材の場合で鎌価格の約1596, 全形打抜き用の利器材の場合で約30~ぢといわれている)等 を 除けば決 し
て高水準の生産金額とはいえない。まして,今日の総経費の中に占める人件費の割合が大きい
ととを考えれば,安価な賃金を推察するものといえよう。長谷川氏によれば従業員の年間平均
給与 400万円以上を確保する ととで,若者の就業を期待 し
, 鎌の値上げを決断 したという 。即
ち, 乙乙数年来,東西の鎌生産者協議会組合を*由として,それぞれの産地聞の協調が得られて
1
9
9
2)年 1
0月に価格改定(推定平均 20%アップ)された
。
平成 2(
長谷川氏は「播州地方に於て,昭和 30年頃までは年聞の鎌扱い高(髭) 1
0万丁以上の商社(問
屋資本)が 20数社存在 していたが,近年その数は%程度までに減少 してしまった」という 。逆
ζ
l,今 日,取り扱い高の小さい問屋は増加している。問屋の元従業員(主に営業マン)からの独
立者であり ,問屋の分割化ともいえる。 従来,末端の販売は農協か刃物店及び、金物の小売店 K
限定 されていたが,近年は多店舗の量販店やホームセンタ ーに移ってしまい,その結果,商品
の受注即納品が強い要請 となり,乙れに応じた流通体制が確立されつつある。
一方,製造側の生産体制は 零細な独立経営(職人)が殆どであり ,家族労働力を主とした旧
態依然の手工業生産である。その内容は長い労働時間と低額賃金等の劣悪ともいえる労働条件
下にある。勿論,新規参入者もない。また,従業員の高齢下に伴う人材不足は深刻化している。
利器材について,打刃物鎌の菱型利器材では鎌製造時の鍛造仕事が大きなウェイトを占める
が,全形打抜き利器材では鍛造の仕事は極めて少なく ,焼入れ ・焼戻しの熱処理が主要な仕事
になる。よっ て
, 製造工程数は大幅に減少し規格を揃え易く ,多量生産が可能となり ,材料
費が菱型利器材と比べて鎌価格の約30%と高価であるにもかかわらず,薄利多売で利益を計上
できた と考える。
職人の老齢化を考えるとき, 全形打抜き利器材は多くの熟練工を必要 とせず,将来への一つ
の指針となろう。しかし,設備への大きな投下資本を必要 とし, 零細企業では その取組みが困
2
7
技術と文明
8巻 2号
(1
2
4
)
難である。長谷川氏によると ,全形打抜き利器材の使用も,初期の頃(昭和40年)は「職人の職
抜き
を奪 う材料だ」と 反発が大きく ,利幅も小さい ζ とから問屋は取り扱わず,その後も , 、
物
M
と称されて値段は押えられたという。
戦後の一時期,食糧不足時 K,半農半工の職人の中から資本を蓄え,力をつけて,その後に
企業家にまで成長する 者が出現 した。その数は生産者(職人)の約 5彪であった。戦前とは逆
に農業 に従事していたととが,食糧自給面から の余剰力を生 じさせたのである。 彼等は問屋に
頼る ととなく ,自立売り込みに活路を見い出し成功した。
ζ れまで(昭和5
2∼ 3年頃)は比の業
界の体質であろうか,職人単独によ る地方での直接販売は禁止されており ,展示 ・実演のみ可
能で, 問屋(卸売業者)を通じてのみ販売が許さ れていたという。
l割れ問題が生じる乙とがあるため焼入れが浅く,その為ζ
l切れ味も継続
全鋼鎌は焼入れ時ζ
せず,また,研ぎの困難な ととから ,一般に安価(例えば,園芸用)な鎌として販売されている。
輸出先はアメリカ ,中近東,東南アジアが主であり,その輸出高は約 30∼40万丁,輸 出比率
6∼ 8 %程度にある。その輸出量が圏内需要 I
C及ぼす影響は小さ い。即 ち,季節閑散期の生産
の落ち込みを支えたり,内需 の過剰生産を防ぐ為の緩衝剤の役目 を果す ζ とは殆どない。播州
G~
鎌は内需型地場産業と いえ る
。
しかし,将来は安価な労働力及び市場拡大 という 観点から ,海外との経済交流に迫ら れると
l求め たと いう安易な
推測され る
。 過去の様に経済性最優先で労働力を地方,なかんず く農村ζ
ものであ ってはならない。 経済的共存に よる 技術移転及び,市場の拡大化を考えるべきであ
る。勿論,技術移転を進める上での若い技術者 (
職
人
) の育成を怠ってはならない。 海外進出
の例 とし て,土佐の 刃物総合メ ーカーは包丁を主力品とし,中国 (蕉湖市) との合併企業を成
白
曲
立 (
1
9
93
年操業開始)させ た
。 本格的な経済交流の試金石 としての期待が大きい。
3. 播州鎌の現状に ついて
3-(1
)鎌の産地
lかぎって
江戸時代の初期,京 ・大坂 ・江戸においても種々の金物は製造されているが,鎌ζ
側
ゅう
は乙れらの都市では製造 されず,むしろ小都邑または村溶で製造 されていたと 考えられている。
鎌は土地,土地の野鍛冶によっ て供給されていたが,江戸時代には各種農具製造の独占権を
w~
ふ た み いま い し さ
持つ農鍛冶の集団地であった三州吉田 (
豊
橋
) の鎌鍛冶および二見今一色(三重県二見町)の伊
t
I
産地が形成されてい る。
勢鎌鍛冶等のように著名 な鎌冶が出現し, 翁
越前,越後(三候) ,信州,播州等の鎌産地は江戸後期以後発達し ,他国向けの商品 (製品)を
1
9
7
7
)
'3
4∼3
5頁
。
側 山 崎 充 『日本の地場産業』
,ダイヤモンド社 (
99
1年1
2月2
1日付記事。
側 『日本刃物工具新聞』1
事I
) 前掲同, 7頁
。
,法政大学出版局( 1986)
,1
0
5頁
。
同 朝岡康二 『
鉄製農具 と鍛冶の研究J
2
8
伝統技術の現況について(4)(
北田 ・岡本)
造り ,大いに発展したといわれている。例えば,既 l
とよく知られているように,先述の越前鎌
は漆掻き職人による山沿いの行商から ,越後鎌は利根川水系を中心としての水運 (
J
II
道)を用
いて川港の金物屋(土地の商家) と結びついて販売網を形成するととから,播州鎌は鎌問屋が大
l乗って,港々の商人との取引により沿岸
阪の商人 と結びついて,その廻船を利用した流通網ζ
(4~
の平野部から,三者三様に拡まっていった。
やがて,当然の事であるが産地同志は競合する乙とになり ,そとでの技術競争が展開すると
とになる。その過程で技術は改良され,より鋭利で,より軽量化へと発展したと考える。
三僚の鎌商人の『鎌形!|
長』にはその土地に応じた数百種の鎌形(鍬の寸法図)が記されている
が,針:も他の 刃物と 同様に注文生産が建前であり ,形状 ・寸法完全;の特徴を記録し て鍛冶方へ知
らせるもので,鎌形帳は営業活動にとって極めて重要な資料であった。鎌産地は広く流通にの
l,その産地商品として普及し てきたのである。鎌の種類はそれぞれの土地におい
る形で各地ζ
て,また刈るものによって様々に ,その形態を変化しており,それらに応じて鎌を作り分け,
売り分けられてきたのである。即ち,各地におのおの固有に伝承してきた土地型の鎌を真似て
作り ,それを自己の商品として吸収したのであった。かつては播州鎌も土地に合わせて何種類
かのものを作っていたようで あるが,現在の播州鎌は殆ど閉じで,ゆるい弧を描いた丸型と角
型の 2種類 と草刈鎌で知られている。乙の ζ とは他には例がない。
ただし ,今 日一部の工場に於てはその限りで なく ,各地の地名( 3ー(
2
)ー①)を付けた鎌が作
られている。
江戸時代から昭和初期にかけて知られた鎌の産地を挙げると次の通りである。
l
l崎鎌),②伊賀(名張鎌) ,@美作(津山鏡店) ,④播磨(下戸田鋸鎌) ,@備後(府
①伊勢(二見鎌, J
中鎌,福山鎌) ,@豊後(鶴崎鎌) ,⑦肥後(隈鎌,川尻鎌) ,@薩摩(加世田鎌) ,@土佐(土佐鎌) ,
⑬伯誉(白州鎌) ,@信濃(信州鎌(古関鎌)) ,⑫越前(越前鎌),⑬遠江(三島鎌) ,⑮上総(久留
塁鎌) ,⑪常陸(開江鎌,石岡鎖的 , ⑬陸前(石越鎌,若柳鎌), ⑬陵中(山の月鎌),@羽前(米津
鎌,山形鎌)
l 5地域,西日本 lζ4地域がある。
今日 ,我固における鎌の産地はおおまかに分けて東日本ζ
なかにい だ
前者 は信州(長野) ,新潟(月潟村) ,宮城(.
r
j
:
i新田) , 山形(米津,山形
) であり,後者は九州(加
た砂ふ
世田,佐賀,大村(松原),島原),高知(土佐),播州(小野,三木,加T
!
JJ1),越前(武生) である。
3ー
(2)鎌の種類と鎌各部の名称
3-(
2)
一①
鎌の名称
我国在来の鎌の形態 ・分類は実に多数である。形態は大まかに西日本型(細刃型)と東日本型
9
8
4
),4
9∼5
0頁o
同 朝 岡 康 二 『鍛冶の民族技術』,慶友社( 1
M 前掲帥, 2
3
4∼2
3
5頁
。
制 グ 制,2
3
6頁
。
制
グ 帥
, B∼9頁
。
2
9
技術と文明
8巻 2号( 1
2
6
)
(広刃型)に二分 しているといわれ るが,そ の形状の変化及び技術は様 々な径路を過て伝 播,習
l
合しており複雑な分布となっている。 形態 と分類の相互関係は複雑を極めており,何を基 準ζ
分類すべ きな のか簡潔な類形化をする 乙とは困難 と考えられる。
, 分布地域別,用途別,刃部の構造・
形 態別,工作方法(素材形
そ ζ で,産地別,外観形態別
成別)等い ろいろな分類方法がある。 2∼ 3の分類を次ζ
l示す。
(a) 刃状か らの分類
鎌の種類は一般に大別すると,刃部が滑ら かな刃鎌と刃を鋸のように 目立て た鋸鎌に分けら
れる。
さらに,前者は刃の厚 さからほぼ 3種類に分けられる。刃の薄いも のは,穀 類や草刈 りに用
いられる稲刈鎌 および芝刈鎌,刃の中厚のもの は大き い雑草や芝草の ような強靭な草 を刈る
柴(芝
)刈鎌 ,刃の厚いものは木の校や濯木を切 り払う為ζ
l用い られる 木鎌である。 後者は稲刈
専用の鎌であ り, しなやかで繊維の強い稲葉を切断し易 いよう に鋸歯がつ けてある。乙の鎌は
前 者 と異なり, 今日では研ぐ必要のない鎌で使い捨てである。
f薄
鎌 ・・
・
ー稲 ・麦および草刈用
1一一
f普通鎌 i中厚 鎌…一柴草刈用
(
刃f
特殊 鎌
普通鋸鎌……稲 ・麦刈用および縄切用
鋸 鎌{
L特殊 鎌
(b) 素材成形から の分類
l
f
手付鎌(打
物
) …ー
・ ー・
付鋼鎌(今日極めて少ない)
|
打 抜鎌(抜 物)
(付鋼 鎌
•¥
l
総鋼(全鋼)鎌( S55C∼ S50C)
鍛造鎌(利器材)一−−付鋼 鎌
(c) 鋼付け刃出方法による分類
(
注 1) (
平置法に よるもの(播州鎌)
f
片 刃鋼 i
l廻し刃金(鋼)法によるもの(越前鎌)
〔(
)
出
双刃鋼(両刃鎌)
(
注 1) 細刃系と広刃系があ り,生駒山脈以東K多 く分布。 播州鎌は細刃系に属する。
生駒山脈
) 以西に多 く分布。現在は生駒山脈以東にも逐次浸透 し
(
注 2) 概して細刃系が多く 近畿 (
て来た。
制 小林重夫 ・内田広顕「刃物シリ ーズNo.5刃物に関する研究』,日本刃物工具新聞社( 1
9
7
1
)
'6
8∼7
2頁
3
0
伝統技術の現況について(4
) (北田 ・岡本〕
尚,片刃と双刃鎌 の違いは,その性質ζ
l於て,前者は鋭利性に富み,後者は 刃欠けし難い 乙
とで ある。
(d) 用途からの分類
揺州鎌の場合,剃刃鎌 としての丸型,角型を はじ め改良さ れた播州角新型,播州丸新型,地
方の形状を引き継ぐ淡路鎌,南部鎌,信州鎌,中新回鎌,米沢鎌,津山鎌等 の草刈鎌および木
鎌,土佐型鍛造両刃の山林用鎌等。また,造林鎌,登鎌,刈払鎌,レンゲ刈鎌,鈷鎌,桑切鎌,
小鎌,ね じり鎌等があり多種多様化している。
草刈鎌(片刃) 一草 刈鎌用(爪型手打裏樋鍛造,牛の爪切(中厚),桑切,きの ζ取り ,刈払鎌,腰折
中厚等を合む約 5
6種
)
山林用鎌…−木鎌用(木鎌丸新鍛造片刃,木刈鎌鍛造等 6種類)
稲刈用鎌…一鋸鎌用(裏目 ,改良型,エビ型,縄切等2
0種類)
園芸用鎌…ー ・(全鋼丸型,ねじり鎌等 8種類)
ステンレス鎌 ・… (両刃中厚,両刃穴付,鋸鎌,海藻用先丸等 10種類)
造林鎌… …山林の下刈用(片刃,牧草刈,大鎌等 8種類)
参考までに図− 1I
C
:
:各種鎌の形状を示す。
3ー
( 2)
一② 鎌各部の名称
図− 2
1
ζ 播州鎌としての刃鎌と鋸鎌の各部名称を示した。
3-(
3) 鍛冶場(工場)と道具
鎌鍛冶が鎌を製造するための設備 ・工程につ いてはベル トハンマ一等の一部を除き ,時代を
通じて殆んど差はない。その工程数( 3ー(
4
)
参照) は 約 50近くもあり,古くは ,それらの工程
中,特に技術を要する火造り, 樋入れ,整粒等の 工程を 独立 させて,専門 (分業)に行う職人
もいたそうである。
きょたに
本章では播州鎌鍛冶(小野市浄谷町)藤原朝男( 1
9
27
年生)氏の工場の例を述べる。
尚,彼の父上は終戦の年 l
と献上鎌を造ったといわれている名人鎌鍛冶藤原熊吉( 1
9
66
年没,享
才
) であっ た。
年70
鍛冶場(工場)の設備とその配置図 を図− 3に示した。ベル トハンマ ーの他 K,火床 (ほど) ,
i各種砥石が工程を考慮 して配置されている。
鞠,金床,そして砥場ζ
火床は夫々の火造 り工程毎( 3ー(
4
)
の工程①∼④,③∼⑬,⑪∼⑫ 参照) ζ
1設置 しであり ,焼入
用
, 焼戻 し用のものを入れて計 5つある。それぞれの火床の形状は殆んど大差なく馬蹄形(奥
もの
行5
0∼6
0
c
m,開放側幅 4
0∼5
0
c
m
)I
と土盛(高さ 1
5
c
皿,幅 2
0
c
m)した 見かけ上簡単な設備であ った
。
焼戻 しに用いた火床 (
炉
) 以外は全て所定の工程毎に設置されたものである。
今日では一人の職人が殆ど全工程を単独で行なっているが,戦前までは火床の設置 された位
置におのお の一人の職人が常時働いて いた。
31
技術と文明
l 稲刈用鋸鎌(四国型)
2 草刈用(手付け)鎌 (
角型)
@
@
巴
国
8巻 2号
( 12
8
)
3 草刈用鎌(剃刃 ~t)
角型(表 ・議
)
(向上 ) 丸型(向上 )
造林鎌(
双刃)
@ 中新田鎌(片刃)
凶中厚鎌(双刃)
造林鎌(
片刃)
帥 信州鎌(
片刃)
A 網切鋸鎌
木鎌(双刃)
四 角新中厚鎌(
片刃)
&'
I
f月鋸鎌
剃刃鎌
図 丸新鎌(片刃)
& 改良目鋸鎌
回 丸
幸J
i中厚鎌(
片刃)
A 海老豆I鋸鎌
,
f
r
,一号自(海自)鋸鎌
O手付けもの 口剃刃鎌に属す るム全鋼もの、()その他
4 向上
図− 1 播州鎌と各種鎌形状
3
2
伝統技術の現況について (
4
)(
北
国 ・岡本〕
峰
'}~:·
|
鎌(草刈鎌(
上
) ・鋸鎌)各部の名称
図− 2 播列、
A唖L
砥石
画 .u回目 I~
岨ι i
l
凶寸
。
ロ刻印用
金床
金床
l
。
む床
〈
/床
'O.~床
!
記
3
2
議芦
ト
9f
>
(
}
.
j
一寸
9000
図− 3 鎌鍛冶場(工場) の設備配置図
(寸法単位打叩〉
。円円
c
(
焼戻し用)
仁~
灰箱
﹂寸l宵
room
〈
ン床
口
Tlyz
グラインダー
−
十ー1100
指子窓(ピニール覆い付)
技術と文明
8巻 2号
(1
3
0
)
火床ζ
l送る風は,今日,焼入れ時の微妙な温度調節(火加減)に必要な鴇を用いる他,全てモ
ーターによる送風機である。
l長方形の木製ピストンが収められて,手動によるとのピストンの往
輸は杉の柾目板の箱中 ζ
復運動によって送風する。輔は火床より 30cm程離 して,桐材で作られた導管で直接連続された
羽ロと接続されている。
l職人は工夫すると
送風量の調節とできるだけ少ない燃料(古 くは栗炭)で高温の得られる様ζ
いう。
各種研磨砥石として,刃研ぎは自然砂岩を利用した円筒砥石及び刃研ぎ仕上げに青砥石(京
1
9
1
8)年∼ 9年の同地方の電化
都佐伯産),沼田砥石 (
群馬沼田産)が用いられてきたが,大正 8(
に伴なって,
ζ れ以後,足踏式研磨機も電動式へと 変わってきた。
現在ではアルミナ,カーボランダム,炭化ケイ 素,その他の炭化物の焼成からなるグライン
ダー砥石が研削用に用いられている。
1
9
3
3)年頃からベルト ハ ン
鍛造 K関して,大型ハンマ ーを打つ向槌は同地方において昭和 8(
7
ーに置き変わっている。ベルトハンマー設置以前の鍛造の仕事は 横座(親方)と向槌の協同
作業で極めて重労働であ った。ベルトハンマーのハ ンマ一部の先及び金床頭部の形状は平らで
l加工して用いられる。平面同志
なく,曲げ,延しの工程 に応じ, 職人が工夫して凸形,凹形ζ
で叩いたのでは仕事にならない。曲面を利用するととによ って仕事 (細工)がなされる。
せん
その他の工具類としては各種箸,醤,銑(平銑
, トンボ銑)
,金槌等がある。
尚
,
トンボ銑は一般 に使い古るした平銑の再利用である。
鎌の刃先を寸法通り切りそろえる為の撃に代わってデンチ メン,また樋入れには金型を用い
1
9
6
0)年頃から導入されている。
てのフリクションプレスが昭和 35 (
.5間で ある。南側壁は透明のビニールで覆
後 になったが,鍛冶場の広さは東西 5間,南北 2
れた格子作りの窓で明りが充分に入り込み,刃先の研き、.状態を確認しながら作業できる様にな
っており ,各種研磨機及び研場が直列 κ設置されている。北西の角に太陽光線(直射日光)を避
けて焼入用の火床が繍と共に設置してある。
3-(
4)揺州鎌の工程
C,実際の作業工程 を図− 6(1∼3)に示した。
播州鎌(片刃)の製造工程 図を 図− 4I
その工程は大きくわけると鍛冶工程,口金製造工程,柄製造工程 の 3つに分けられる。乙の
I), (II)の火造 り (
鍛造) 工程,
(i
l
l)荒研磨工程,( I
V)焼入工程,
( V)
仕上
内,鍛冶工程 は C
(班)仕上ずき工程からなっている。
研磨 (パフ磨き)工程,( VI)刃研磨工程,
以下,夫々の工程について説明する。
鍛冶工程 (
手付け鎌の場合)
つげはがね
CI)火造り工程 (
1
)(
付鋼工程 ・接合工程)
3
4
む3
Ul
1
同
作
却
機
佐官同問官
−−
﹁Illi L
集団産地化式用
多管式
一一北工試式 1・
2・
3
号用
空冷・多孔蛇管式
空冷機
集団産地化式用
傾斜葦
|
|
農試式用
金属胴
図− 4 播州鎌(片刃 ・細刃型)の製造工程図
集団産地化式用
ガラス金属分水器
集団産地化式用
金属胴
田中式カ、ラス金属分水器
L
山形式陶製一 一木製 一一傾斜底付 一一遠藤式
一一
杉本式
一一北工試式
分水器
分水器
金属分水器
ガラス金属分水器
ガラス金属分水器
ガラス金属分水器
単多
乾熱式用
多管式
|
杉本式単管多孔冷却機ー」
L_
田中式用
|
集団産地化式用
縦ボイラー
箱セイロ 用
空冷・蛇管式
農試式用
縦ボイラー
蛇管式天水釜用
直線型空冷機
北工試式1・
2・
3
号用
多管式
北工試式 1
・
2・
3
号用一一 差是試式用
傾斜蓋
傾斜菱
観音関釜用
金属セイロ
田中式用一一 北工試式 1・
2・
3
号用
傾斜樽
金属胴 |
|'
1北工試式第 1号用煙突式高床カマド
l
:;:;;;号 一 | 旧 一 |
田中式用
傾斜蓋
3号用
北工試式 2・
縦ボイラ ー
天森喜用〈
旧在来式用
平蓋
天水釜用
天水鍋
)
釜 型
箱セイロ用
平蓋
箱セイロ式用
木セイロ
天水釜用
蛇管式天水釜用一一旧在来式用
法 ) 惜 冊
樽
櫓
天水釜用
一一一箱セイロ式・旧在来式 ・田中式用一一一一
無塩突掘込カマド
煙突式高床カマド
刑且刑且
分 水 器
冷
蒸気発生機
作成胴上蓋
成
幸
k機
発
命骨骨対帯司
S 州回目詞 −円、 UFJパ ︵ が ︶ ︵ L F B−
EU肯︶
8巻 2号
( 132)
技術と文明
①刃物鋼のばし
鋼(高炭素鋼,刃物鋼( 目立規格 :白紙青紙))を火床でコークス 加熱 l
とより, 600∼ 700℃ 程度
, 厚さ 1
.8∼ 2
.3cm位 l
と
の温度でベト(スケーノレ)が出ない様に加熱して,ハンマーで約 1cm巾
延ばす
。
②切断
延ば した鋼はおのおのの鎌の寸法毎 K,金床上で撃を用いて,殆ど目 測寸法で切断する。
③鍛造鍛接(付鋼のための接合)
.2∼ 1
.5cm角の地鉄(極軟鋼
約1
c:
0.
0
69
6以下)
を加熱し ,鍛接剤(捌砂,棚酸,鉄粉の混合物
から なり,その配合比は職人にとって秘伝であ るという) を付着させ,そ の上に寸法切りした鋼を重
C K加熱し ,ベ ルトハンマーで目的の寸法に鍛造圧接する。 その際,鋼の伸
ねて約 850∼900°
び率と地鉄の伸び率の違いを考慮 して, 鋼で地鉄を巻く乙とで地金が必要以上 ζ
l伸びる乙とを
押えるべく鍛造する。当然の ζ とながら,刃先側は肉厚薄く ,峰側は厚くな る。乙の乙とは後
の工程の仕事量の軽減 となり,峰側の肉厚が厚いの は鎌の曲がらないためであり,刃先側が薄
いのは切れ味を良くするためで,後の工程を考慮 しての準備工程 ともいえる。
④裁断
l応じて形状,寸法を目的す法ζ
i整える (裁断にはデンチメン(押切り)を用い
接合材を鎌の種 類ζ
る
)
。
以上の工程を終了すると 複合鋼材 (利器材)と同 じになる。
参考までにヤスキハガネの規格 (
YSS規格)を表ー 3I
ζ 示した。
表− 3 万物鋼(臼 ・
青紙
) Y SS規格
区
c
Si
Mn
p
s
Cr
w
1号
Al.30∼ 1
.
4
0
.
20 0.
2
0∼ 0
.
3
0 0
.
02
5以下
0.
1
0∼ 0
Bl.
20∼ 1
.
3
0
2号
Al.10∼ 1
.
2
0
.
0
0
4以下
01
0-0.20 0.
20-0.
3
0 0
.0
2
5以下 0
Bl.00-1.10
l号
Al.
30∼ 1
.
4
0
0.10-0.2
0 0.20-0.3
0 0
.
02
5以下
Bl
.20-1
.
3
0
.
3
0∼ 0
.
0
51
.
5
0∼ 2.
0
0
0.
0
0
4以 F 0
2号
Al.
1
0∼ 1
.
2
0
.
02
5以下
0.
1
0∼ 0.
2
0 0
.
2
0∼ 0.
3
0 0
Bl.
0
0∼ 1
.
1
0
.
0
0∼ 15
0
0
.
00
4以下 0.
2
0∼ 0
.
5
01
万 白紙
物
凋 青紙
3
注
化 学 成 分 ( %)
YSS
分 規格記号
0.
0
0
4以下
A=破口刃物, B=甘口刃物J
白紙 ・ 青紙は両者共 lζ 砂鉄系原料鉄 (海綿鉄) を 100 ~ぢ配合し,特に 高い硬 さでの靭性が大き
く,切れ味良く,折れ難く , 曲がり難いといわれており , P, S,その他の不純物の少ない材
料である。
3
6
伝統技術の現況について(4
) (北田 ・岡本)
(I
I
) 火造り工程 (
2
) (鎌の形状作り)
火造り工程(
1
)
は元来,親方の仕事であった。乙れに対 して,火造り工程(
2
)は温度管理が極め
と次ぐ実力のある職人が,続いての( i
l
l)研磨工程は若い者が行な
て重要な工程でもあり,親方 l
ったといわれている。
⑤元曲げ一一 ⑤元延し
素材(付鋼工程の完了した もの〉あるいは 複合鋼材 (菱形状に切断した地鉄と銅の接合材)を火床で
赤め(850∼ 900℃加熱)て,火造り箸で取り出し,金床の上で片手ノ\ンマーで叩き元部を曲げ
る。続いて,元曲げしたものをベルトハンマーにて鍛造しながら薄く延ばして元部の加工を行
つ
。
⑦先曲げ一一③先延し
8
5
0∼ 9
0
0°
c)て,火造箸で尻苦I
)を挟み取り出し金床上で先部を片手ハン
先部を火床で赤め (
Cまでの温度)
マーで打ち先曲げを行 う。続いて,温度が落 ちる過程(表面部が黒色になる 600∼650。
L応じて適当な薄 さに鍛造し, 先延 しの形状を整える。
で,先曲げの完了した先部を鎌の用途 I
0°
C)のない様 ζ
l視度制御が必要 となる。即ち ,鋼の
以上,2組の工程 は赤め過ぎる 事( >90
赤めすぎは脱炭が生じて,焼入は不完全なものとなり,以後の工程を意味のないものとしてし
まう。逆に, 600℃以下での鍛造は割れ の因 となる。
l青紙を用いた場合 1
r
:は延 し工程の後で,特に 200∼ 300℃ の 灰中あるいは石灰中
尚,鎌材 ζ
へ挿入加熱(空冷)するという「ならし(灰な らし)
」 と称する処理を行う 職人もいる。
l 肉厚のものは球状化焼鈍が行な われる が,鎌の様 K薄いものは温度が高 く
一般に,鈎の様 ζ
なり過ぎて材質のなまる乙とのない様に注意を要す
。
@イ中子曲げ 一一 ⑪仲子延し
9
0
0。
C前後,軟鏑で脱炭は起らず,高温程鍛造が容易である)後,火造り 箸で
元部を火床で赤めた (
i取り 付ける ための差込み部分)を曲げる。続いて,
取り出し ,片手ハンマーで打ち,仲子(柄ζ
f
中
l差込むに適したサイズζ
lベル トハンマーを併用して整形する。
子を柄ζ
尚,本工程は裏目録鎌等においては元延 しよりも前に,また打刻の後でフリクションプレス
i
去している。
で曲げる 方法もある。双刃鎌 Kおいては ⑦,③と ①,⑬の工程 は逆i
l ,強度上から峰(棟)を厚くし,深い溝
播州鎌は一般に薄く軽るく作られている。その為ζ
ひ
きわ
(樋)による出張りや,刃の表面の凹み (
沢
) をつけてある。
⑪樋入れ(樋を切 る)
⑫整粒
職人は樋を切り,強度を持たす乙とを腰を入れるという。極め て高い鍛造技術を要する。
おも て
その鍛造技術とは金床の角を利用するもので, 赤めた鎌表の峰から樋までの寸法を考慮 した
打ちしながら鎌を峰に沿っ て移動させる。
所定の位置に金床を当て,片手ノ
\
ン 7 ーでフk
その結果,鎌表の所定の位置に降に沿 って平行に肉厚を持たせて段をつけ溝が成形される。
おもて
うら
水打ちによって,鎌表 ・裏のスケール (
酸化膜(
ベ
卜)
) を取り除くことになる。
3
7
技術と文明
8巻 2号
(1
3
4
)
同時に,尻の形状,先の形状も整えられ,その際ζ
l赤め と鍛造が繰り返 し行なわれて鋼を鍛
えて鋼の材質は良くなっていく。近年,乙の作業のできる職人の数は 5%程度といわれてい
る。殆んどの職人は金型を利用してのフリクションプレスで樋入れを行なっている。
l沿って爪型 ζ
l樋を入れる。通
双刃鎌はポンス及びフリクションプレスを利用して,峰部 ζ
常,樋は表 l
と入れるが,双刃鎌の三日月鎌,片刃中厚(通称丸新型鎌,木鎌(片刀))等は裏にも
うらひ
おもてひ
入れる(裏樋入 り)。片刃の草刈鎌 (剃刃鎌)は表樋のみである。
樋入りに続いて整粒が行なわれる。との工程は同じ操作を 2∼ 3回繰り返えし行われるとと
が多い。樋入れ時の水打ちで形状を整え ,同時に強度が作り出される。その操作とは刃部を
400∼ 500°
CK加熱し ,金床上で片手ハンマーで打ち材質の組織の均一化を行う 。乙の乙とは
鎌表 ・裏の平ら化(ならし)のと とで, 後の工程で除去 し難い歪取りを兼ねているともいえる。
2
0
0∼ 3
0
0℃ )を行う。
ベルトハンマーを使用する場合は低温鍛造 (
とおいては樋入りの次に小刃入れ(小刃打ち)と称する工程があり ,手製の撃で樋の上
双刃鎌 l
からバれの形状(小刃)を切る(打つ)。手が込んでいるがデザイン的要素が大きい。多少の歪
は修整されている。
(
i
l
l)荒研磨(パフ磨き)工程
⑬型づくり(鎌の形状作り)
l撃で先切りした後,研磨機(研踏砥石持 3
6∼6
0)を用いて研削し,
鎌を仕上り形状 ζ
ながら刃部を作くる。裏刃側へ地鉄が廻り込んでいる
ζ
型を整え
とがあるが,乙れも同時に除去する。
砥石の回転面,側面を使い鎌 1本につき 2∼ 3分間で順次研削する。平坦化した砥石は時折,
ドレシングを用いて目立てされる。
おもてみが
⑭表磨き
お~て
鎌表(地鉄部)を樋から刃先までを研磨砥石( 韓60∼ 1
0
0)で荒研磨する。
うらみが
火造り時,地鉄表面にできた小さな穴も同時に削り取るので,裏磨きよりも荒い砥石を使用
l添え木を当てて,仲子をレンチでっかみながら図− 5(
a)の斜線部を研ぎ削
する。その折,鎌 ζ
る
。
うらみカ宮
⑮(イ)裏磨き
0
0)で 図ー 5(
b)
の
鎌裏 (
鏑)を研磨砥石 (特1
府 竺;
プ ロ]
斜線部を荒研磨する。尚, 表 ・裏磨 きは刃付の
前処理の研削ともいえる 工程である。
(ロ)裏目切り
ア\
\
鋸鎌の場合のみ実施される工程で,裏を元部
より順次刃先に向かつて塑を送りながら片手ハ
ンマーで打って目を切る(鋸切目を入れる)。た
3
8
図ー 5
ロ1
(
a)表磨き ,(
b)裏磨きの荒研磨面
伝統技術の現況について(4
)(
北
田 ・岡
本
〉
だし,鋸鎌の場合は工程⑪∼⑭よりも先に⑬(イ)(ロ)を行 う
。
⑮パフ磨き
ボール,布パフの表面に接着剤を塗布して後,金剛砂(エメリ一幹 90∼100)を接着
, 自然乾燥
させる。
ζ
のパフを用いて裏 (鋼)を押え棒を当 てて研磨する。
⑫パフ表磨き
裏磨き(工程⑬)と同じ操作であり ,表(地鉄) を研磨する。
⑬打刻(刻印)
金床 l
と鎌の表を重ねて置き,裏(鋼)から片手ハンマーで商標刻印(幾つかの刻印を組合わせて)
l沿 って打つ。表には生産者(職人)の刻印を打つ。
を元部から先の方へ,峰ζ
乙れはよく出廻わる贋作の防止であり, 職人の良い鎌を作りたいとい う心意気で、,責任の表
示(責任マーク)となるものである。
尚,刻印打ちによる刻印圧痕の凸部が表側に出るが,後の@上ずき工程を考えて,日部は研
磨す る
。
近年はフリクシ ョンプレス及びポンスを使用して刻印を打つ者が多い。
双刃鎌の工程においてはパフ研磨を行わない。打刻の次 K,ならし(歪取り),研磨がけの工
程があり鎌の表 ・裏を研磨棒という道具を用いてグライン ダー研磨する。さらに ,先すり及び
パリ取りと刃線を 1本ζ
l出す刃引きの工程がある。双刃鎌製造の職人は焼入前ζ
l歪 という表現
を用いないという。
(
町)焼入工程
⑬泥ぬり
刃付等の研磨の際,摩耗して生じたキメの細い砥石(円筒砥石)泥を水で薄めて,適切な濃
と約 0
.7∼ 0.
8m
皿厚さに刷毛で塗る。泥が厚すぎる と,鎌は加熱時に黒っぽ
度の泥を鎌表 ・裏 l
く見えるという。
泥塗の目的は第ーに焼入時(水冷)の焼むら防止である。泥は水分を吸収し易 く,蒸気膜 に
よる冷却速度の差が生じ難い。その他,赤められた鉄表面の風による酸化防止,加熱による鉄
の軟化に対する補強等も考えられるという。
@乾燥
鎌に塗った泥は自然乾燥,または火床の温度を利用して乾燥させる。
@焼入れ
焼入れは刃物の生命とも言われる。即ち,全工程の中でも一番主要かつ重要な操作である。
l刃を上 i
として, 先から元にかけて火床中へ差
鎌は均一に加熱する為に,肉厚の厚い||洋側を下ζ
し込みと引き出しを繰り返えし加熱される。要するに,鎌は動かすなかで予熱され,輔送風に
よる温度制御で所定の焼入温度 760∼780°
C (青紙の場合 Ni
, Crの添加元素のため 7
9
0∼8
0
0℃と
少々高い目が良いという職人もいる)に達する。鎌の加熱(木炭)時間は約 1分間の保持である。そ
3
9
技術と文明
8巻 2号(
1
3
6
)
の後水冷(油冷
) される。所定の焼入れ温度は鎌の加熱色から判断されている。焼入れは一般
に太陽光線を避けて,北側の昼でも暗い場所で行われる。藤原さんによると,その色の判断は
となる とのととであ っ
暗室でタバコ花火を付け吸った際, l∼ 2秒後の火色が所定温度 の目安 i
た。また,焼入時の ジュボ という一瞬の音か らも焼入温度が適切であったととを確認するとい
う。その為,簡易な音の反射板が水冷の水桶の前 に無造作に立ててある。
5∼20°
Cで夏は水温の上
尚,焼入れ時の水は使い古した水や雨水が利用されており ,水温 1
C前後でも焼は入る
昇を考えて水を入れ変えて使用するが,最近の材質の優秀さから 水温 40°
との ζ とである 。
うりぢ
焼入れ温度が低いと鎌の裏地(鋼面) I
亡 、くも ’が出現する。
くもとは光線の当り具合から
ベタッとした白い部分として観察さ れる。 組織的に は 1次 ツルースタイト (微細ノマーライ ト)の
ζ
とで不完全焼入れの際に 出現 し,その結果研磨時の 裏地(鋼面) I
C白っぽくにぶい光り方で
l冷却速度の速い乙とが重要である。
観察される。くもが出ない様ζ
l鉛浴を利用する職人が多く , 殆んど(95%)の職人が温度管理の容易
近年は焼入時の加熱ζ
さから乙の方法を利用して いる。 その方法とは予熱を考慮し,歪防止から , さらに本焼入時間
, 760℃ (青紙 80
0℃)と 2つの温度設定 した鉛浴を用いて, 順次加熱,冷
の短縮から ,500℃
却という焼入方法である。
木炭)後,油(室温) 焼入れする。焼戻しの油温度は 100。
C位
双刃鎌の焼入れは 790℃ 加熱 (
から 予熱 して 220℃ に到達後直ちに空冷するとのととである。
とは古くか ら粟炭や松炭が用いら れてきたが経済的理由で,今 日では廃材利用の炭
木炭加熱 l
(からけし) が火種用として用いられてお り,殆 どが火付き の良い小粒のコークス 加熱である。
木炭加熱はコ ー クス加熱と比べて温度むらが生じ難く,切れ味が良いと言われている。言うま
でもなく,木炭加熱は火加減が困難であり ,強い火は一般に脱炭が生 じる。
@泥落し
鎌表面の泥を水中に浸し,束子で洗い務し乾いた布で拭く。温水で洗浄すると鎌の乾きが早
い。職人によっては ,泥落 しの次に鎌裳の仕上をよくする 目的か ら,ニカワで金剛砂を塗り付
l鎌裏を研磨する者もいる。
けた布パフζ
@焼戻し
>Hv850)ため,焼入れ後, 焼戻 しが行なわれる。
鎌は焼入れ硬度が高い C
i油1
曹を置 き,油温を 170∼180。
CK設定し ,その 中へ泥落しの終了した鎌 を入れ, 40
火床ζ
∼60分間保持し て後空冷する。その後,鎌に付いた油分を除去する為 K,木炭灰と 大鋸屑を混
合( 1 1) したもので拭う 。
油槽には 2本の温度計を用いて平均温度を設定するが火加減から設定温度のバラツキ範囲
土 l。
C程度であった。
C以上になると刃の硬度は急激に落ちる
油槽の温度が200。
4
0
ζ
とになり ,切れ味は悪化する。
伝統技術の現況について(4
)(
北
田 ・岡本
〉
職人は焼戻 し後の硬さ状態を,指のツメで刃面を
直接押 してみて,その 弾力性から判断するとい
つ
。
乙の{
也
, 7
j
(冷焼戻し ,温風焼戻し等といわれる
方法がある。前者は油焼戻しの技術が開発される
2年頃まで実際に行なわれてい たとい
以前の昭和 3
う。その方法とは焼入れし た ものを,再び泥付の
まま火床の中を l∼ 2回潜らせ,あるいは泥落し
と鎌先を水中 t
Cチ
したもの を床上で災り,その際 l
表
J
c
i
粛
の状態 (
4
8
)
4 温度に対する 7
温度(
℃)
1
2
0
1
3
0
1
4
0
1
5
0
1
6
0
1
7
0
1
8
0
1
9
0
2
0
0
状
古
,
.
]
泡ができて蒸発
泡がなくて早蒸発
一層急に蒸発
球ができ ないがすぐ蒸発
少し球ができる 蒸発
球が増加する
球が多く飛散
大部分が球となる
全部球とな って躍る
ヨッ ト浸 し,その時の水の弾け具合,及び湯気の走り具合から設定温度を確認し て冷却 (
水
冷
)
させる方法である。即ち,低温加熱した鎌 1
C
7
j
(滴を落下させて,その際,水滴(泡)の状態から
泡を切る ’と 称 した とい
戻 し温度を判断したのである。乙の乙とから , ζ の焼戻し操作を 、
C示 した。
う
。 温度に対する水滴の状態を表− 4t
また,加熱色から焼戻しの設定温度を判断する方法がある。 即ち,泥落し後の鎌をパフで磨
き,火床上で加熱しながら,鎌裏 i
と加熱色の付く(職人は、色が浮く’という) 寸前の温度を設
定温度とし,その後冷却するという方法である。色の付く(着色)とは 加熱によ る酸化皮膜の
生成であり,一般にムギワラ色(黄色) といわれている。 着色すれば,その温度は既に 200℃以
上と考えられている。いずれにしても,鎌鍛冶職人として高度な鍛冶技術と同様豊かな経験と
勘を要す るもので ある。
後者は ,油焼戻しで使用した廃油処理の問題から考え 出された技術である。その方法とは電
気炉を利用 するもので,初期の頃の温度制御は扇風機を用 いて炉内 の加熱空気の揖持をすると
とは ,送風機による 空気を炉内加熱 し,適切な空気の流速から均一な空気の対流を生
とで,後 l
Cを得る方法である。鎌職人出身の
じさ せて,炉内の温度ムラをなくし所定の温度 150∼180°
9
2
4
年生)によるとその温度管理は空気の流速が決め手であ
ヤマウシ工業(株)社長阿尾守氏( 1
るという。ただし,油焼戻 しと比べて温度管理は困難である。
CV)仕上研磨(パフ磨き)工程
@布ノイフ裏磨き
C布パフ (持1
0
0)を取り付けて 1丁ずつ ,仕上箸で
焼入れ後,焼 きが戻らないように研磨機 t
挟み押え棒を 当てて注意深 く磨く。
@歪打ち
木製の台 K鎌を置き, 片手ハンマー(金槌) で鎌両面の凹凸や湾曲度合を矯正する。工程@
と前後入れ変わるとともある。
9
7
3
)
, Voll
,N
o
.2
。
制 『Newsjし兵庫県機械金属工業指導所編集( 1
41
技術と文明
8巻 2号(
1
3
8
)
会よ
@清ノマフ磨き
5
0∼2
0
0)で工程@で付いた荒田を取り除く 。 ぺーノマーパフ(特
8
0
工程@と同じく,布パフ( 特1
∼1
0
0)を使用する場合もある。歪を矯正した後の磨きで奇麗に艶が出る。
双刃鎌の工程において,パフ磨きはない。歪打ち後,仕上工程の錆止めの ニスが付き易い様
l刃表部の黒色 (
酸化皮膜)を
に石油洗浄し引き粉 (大鋸屑)で石油分を除去する。刃研ぎの前ζ
デザイン的意味でグラインダー除去する。
(
V
I
) 刃研磨工程
@∼@の工程は硬さが熱で戻らないととを考慮して全て水中(流水)で行われ る。ただし,錆
止めの目的から ,防錆油が加えられている。古くは石灰水を加えた。
@刃研き(生研磨)
0
0,またはセメン卜砥石)に水を注ぎながら ,鎌の 刃部を押え棒(双刃鎌では研ぎ棒
研磨砥石( 非1
という)で固定して均一に研ぐ。
きょ
@清研ぎ
0c
皿中)または青砥石で鎌の万部及び小刃を適切な角度ζ
I研 ぎ
, 最終の刃付を
円筒砥石(約 5
l,急であれば
行う。刃の角度(テーバー)がゆるやかであれば切れ味は良いが折れ易い。 逆ζ
切れ味落ちるが刃 ζ ぼれし難い。前者は小草用,後者は荒草用 K適している といえる。
古くは ,前者は関西,後者 は関東好みといわれたが,今日 地域的な差は殆 どな く,研ぎ手の
研磨技術も大 きく 影響 しているといえる。一般に
, 研ぎ上手な人はテーバー がゆるやかに な
る
。
鎌鍛冶とは鍛造,熱処理,研ぎの 3工程の技術修得者をさすもので,その内どの技術が劣っ
l際 して,刃先
て も品質優秀な切れ味の良い鎌は作れないといえる。切れ味の良い鎌とは使用ζ
I新 しい刃を作り出し,切れ味を持続させると考えら
から順次 K小さく刃 ζ ぼれしながら,常ζ
れている。草刈鎌は研ぎを繰り返えし使用するが,鎌の幅が口金の径とほぼ同じになるまで使
われる。
うらおと
@裏落 し(磨き)
i簡単な止め金と木の棋で固定した鎌裏 l
と水を注ぎながら ,桐の棒先(長さ 1
0∼1
5
c
m
,
木の台ζ
径約 l
O
c
田中)に金剛砂(エメリ一幹 1
0
0∼1
2
0)を付着 させ, ζ れで擦する様 l
ζ 磨く。
@裏ぼかし
ζ 石の粉
鎌裏の鋼部 と地鉄部の明確な区別を出すために , その境をボカシ金 (軟鋼の小片) !
末,あるいは円筒砥石の粉やエメリーは 250)を付けて数回擦する。ただし,峰の近くまで(地
鉄全面を)擦すらない。軟かい地鉄昔日は光択を出しデザイン的効果を増す。
@小刃引き (く裏引き ,裏おし〉
)
との工程を裏引き,裏おしと称する職人もいる様だが,小刃引きとは無関係である。それは
刃先の鋼が薄く反えりとなって出る乙とがあり,乙れを除去する乙とで砥石(青砥石沼田砥石等)
42
伝統技術の現況について(4
)(
北田 ・岡本)
研磨を行なう。
l当て,元側へ一気に引くと ,刃先は 見る角度によって
小刃引きとは砥石に鎌裏刃先を手前ζ
白っぽい 1本の白線を引いた様に見えデザイン的効果が出るととをいう。小刃は鎌の用途種類
によって違い,常に引くものではない。また,乙の作業は軟らかい砥石の方が処理し易いとい
われている。
@水切り
l 鎌を浸 し,乾いた布(木綿布)で水分を拭いさ
水中より取り出し ,清水もしくはぬるま湯ζ
る。ぬるま 湯の方が乾 き易い。
双刃鎌においてはメスキ砥石(円筒砥石)を用い て 鋼と地鉄の地肌の区別を出す。また,砥
) の小型クーラインダーを用いて鋼のみの艶出しを行い,同時に切れ味を考慮
石(持 600) (青砥石
して研ぐ。
(
V
I
I)仕上工程
;
,
1
f
@上ずき(仕上ずき,表ずき)
平銑, トンボ銑と 2種類の銑を用いて鎌表を研削する。鎌の先を手前にしてすき台に簡単な
取り付け金具と棋で固定し,元側を平銑で大方すいた後,さらに,鎌の奥部 (
中央部)をトンボ
銑で銑目を通し銑肌が出る様に整える。先は元を固定して同様にすく。
播州鎌(片刃細刃型)の特長は剃万鍛冶からの伝統技術を用いた 表ずきにあるといわれてい
と取り入れられて,その商品的な特徴を表わすものと
る。乙の技術は ,その後の越前 ・越後鎌 l
なった。
一般に ,小草用鎌では奥の部分を薄く, 荒草用鎌では適当 な厚 さにすいてある 。良質で高価
といわれる鎌程, トンボ銑の仕事量が多いといわれる。
@歪打ち
木の台と金槌で最終的な矯正をする。
@錆止め
加工中 に付着した指紋等のよごれを再度布で拭き取り,錆止めを施とす。その方法には次の
3つがある。
付)防錆油を付け薄く塗る 。
伊
) ニスとシンナーをおのおの同量混合した溶液を刷毛で鎌表裏に塗る。
りトリ クレン溶液で洗浄後, ビニー ルコ ーチン グする。
古くは椿油を防錆油として用いたが,保管が困難で夏期には 2人がかりで,池の乾燥を防ぐ
。
ため に油塗りに追われ たという。油を塗っ ただけでは 1年後に錆が出 たとの乙とであ る
(
四)柄付けとその他の工程
@柄付け
l口金をはめ込み,パイスで鎌を挟み,
朴の柄ζ
4
3
f
中子を柄 l
乙入れ木槌で叩き込む。次いで, 柄
品
.
,
による樋入れ
⑬表磨き
⑬哀熔き
③1
1
9子 曲 げ
図− 6(1) 播州鎌の作業工程図
金型を用いての 7 リクションプレス
⑥元延し
⑫盤粒
⑫乾燥
⑬泥塗した鎌を火床の熱を利用しての
⑪個人れ(樋を切る)
cr)火造り工程(2)鎌の形状造り⑤∼⑫, (i
l
l)荒研磨工程⑬∼⑬から)
⑬打刻(刻印)
⑪f
中子延し
煤噌司作対南国
∞枇帥 N 山叩︵ ド品。︶
口
、
"
"
⑪所定の温度に加熱した鎌をすばやく焼入れ
たき
る拭
すで
去末
を合
油混
除粉
たの
つl
’‘.噌
面
︷袋屑
︵
E
表鋸
鎌大
﹂
ル
後灰
lu山
灰 ’
、
戻木る
焼め取
(
(N)焼入れ工程⑬∼⑫から)
⑫ 消研ぢ(円筒砥石研磨)
−
ー
ーすー
@減反し( 1
7
0
℃× 1
5∼3
0
分間。泊)
︵
LRB
図− 6(2) 播州鎌の作業工程図
押え棒(② 清研 ぎ用 ⑦刃研ぎ(生研磨)用)
⑫泥落し
泥落しの後、哀の仕上をよくする
目的で袈研磨する(この工程は行
わない戦人が多い)
町誇対讃吊﹀割前六 JUFJペ ︵ 晶 ︶
−E U 肯 ︶
"
"
司、
③I
.
ずき(表ずき)
⑮L
国務 し
M h叩︵
EN
(
(V
I)刃研磨工程 ⑫∼@, (
V
I
I)仕上ずき工程③∼③から )
焼入れ場 (
火l
末 ・鮒・ 水t
i
T
I 炭 ・卜I
m|
日かき 体)
③ノ
l
く切り
回線
図− 6(3) 播州鎌の作業工程図
@歪打ち
⑪ 小メJ
引き UlU
≫L)
煤噌司作沖恒国
︶
伝統技術の現況
κついて(4} (
北田・岡本
)
の部分より仲子 K釘が打ち込めるように目測でボール盤を用いて穴あけを施 し,金床上で釘を
打ち込む。
@ラベル貼り
鎌表の口金の直下柄部に商標,その他のラベルを貼りつける。
@包装
0丁単位で包装される。
一丁ずつ刃部に種々の印刷をした紙ケ ースをかぶせ, 1
〔
口 金製造工程〕
①素材の切断
0∼ 8
0
m
m1
ζ 切断する。
素材(軟銅線材丸棒,平板鋼)を 6
②火造り
9
0
0∼ 9
5
0℃に加熱した素材を冶具を利用して板上に延ばし,ノ fイプ状に鍛造する ο
③鍛接
l鍛接材を付着し,1
00
0∼ 1
1
0
0℃に加熱し,口金の輪状ζ
l接合する。
バイフ。状に鍛造した素材ζ
④研磨
0∼8
0
)す る
。
口金の外面を研磨( 特6
⑤着色
口金を 6
0
0∼ 8
0
0。
Cζ
l加熱し, 表面ζ
l黒っ ぽい酸化皮膜を作り ,防錆油を塗る。
〔柄製造工程〕
①原木の大割り
l大割する。
原木(朴あるいは樫)を厚さ 30mmの板ζ
②乾燥
0∼ 2
5
9
ぢ程度まで屋内で自然乾燥させる。
大割 した板の変形を少なくするために,板の水分が 2
③小割
2
0∼3
5
0m
m,角 3
0∼3
5皿
) ζ
1小割する。
乾燥した板を柄にするため角棒(長さ 3
④乾燥
角棒を屋内で 3∼ 4ヶ月間自然乾燥する。
⑤切削
木工旋盤を用いて角棒を丸棒ζ
l仕上げ,口金部,伸子部を鎌の取り付けが可能になるように
加工する。
4. 技 術 的 検 討
4 (
1
) 鎌の原理
農作業に於て,鍬が耕1
云(耕起)用具なら鎌は収穫用具である。両者共に人間の手(筋肉)の
l許される範囲 で軽量化が計られている。鍬の
延長であり ,長時間に亘つての利用が可能な為ζ
4
7
8巻 2号( 144)
技術と文明
U
v:鎌使用時の鎌の速度
vt :刃が草を ヲ|〈速度
Vn :刃が草を押す迷度
a:角度 |
=生〕
.
¥
附
(草刈鎌)
h :高さ
5 ・角度
図− 7 鎌 使 用 時 の V と Vtと Vnの 関 係
=
ロ
。
口
、
'
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6
3
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)刃 眼
O
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1
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1
2
Vt)
b ::
角度
R :柄(手)から任意の
刃先までの距離
-0
.
09
0.
4343x
0
.
0
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0
:
O
.
D
3
図− 8 LogR と b/
aの 関 係
48
-0
.
75
0
伝統技術の現況について(4
)(
北田・岡本)
場合は備中鍬の改良が有名である 。
ひ
一方,鎌は樋( 3-(4)⑪参照)が切られるととによって,刃が薄く鎌全体としても軽量化され
ている。さらに,樋は鎌を使用す る際の切断強度に耐える為のものである。また, 樋は「草を
l効果が出る」という。掴み刈りは危険で素人にはできない。
寄せる働きがあり,払い刈りの際ζ
と刃を付けただけの見かけ上単純な形状をもつが,木柄と刃線のなす角度の違い
鎌は木の柄 l
l区別されている。前者は その角度が 1
8
0度以上を示した。
で西洋鎌と日本鎌ζ
ζ
れに対して後
8
0度以下であり,とれが日本鎌の一つの特徴である。 さらに,後者において,その角度
者は 1
0
0度前後でほぼ直角になっ ている 草刈鎌等の刃鎌と 1
5
0度前後の鋸鎌とに分けられる。
が1
生産のために用いられた道具の持つ美 しさとは機能美以外のなにものでもない。
鎌の刃の形状は日本万の刃の形状と同じく,美しい曲線(対数螺旋曲線)の式として表示でき
ると考えられている。
く速度(Vt)と刃を押す
鎌使用時において,鎌の速度( V)を図ー 7K示 したように刃を 51
速度( Vn)に分解して,
ζ
れらの速度比(Vn/Vt)が持手(柄)から任意の距離( R)にある刃
)
で
、表示 される。
線上で一定になるとすれば, Rと Vn/Vtの関係は対数螺旋の式( 1
尚,乙の速度の比(Vn/Vt=a)を引き切り係数 という。
R=Cexp (-b
/
a
)・・
・・
・…
・
・・
・・
・
・
・・
・
・・
・
・
…・
(
・1
)
c:定数
(
1)
式の両辺の対数を取ると
l
o
g
1
0
R=Clog10C+log. (
b
/
a
)
l
o
g
1
0
R= 陥C一O43431-
・
(
2
)
(
2)
式を用いて,播州鎌(草刈,鋸)について l
o
g
1
0
Rと l
/
コaの関係を図− 8I
C示 した。 l
o
g
1
0
Rと
b/aは比例関係にあり ,縦軸の切片 (
l
o
g
1
0
R)が ー0.
5
8
2
,
0
.74
2か らCの値が夫々決定する。
と,
播州鎌の刃線の曲線の式は,例えば, R=O 2
6
2巴x
p
(
b
/
a
)(草刈鎌), R=O.1
8
1e
x
p
(
b
/
a
)
故l
目
(
鋸
鎌
) 等で表示できる。
一般に草刈鎌等の刃鎌において,引き切り係数( a)は稲刈り専用の鋸鎌よりも大きいと考え
られる。 aが大きいという
ζ
とは刃を百|く速度( Vt)が小さく鎌を払うように動かし使用する
乙とである。
他方,鋸鎌は Vtが大きく稲葉(茎)の横を擦るように動か し,さらに,稲葉(茎)の しなや
かで強い繊維を切断 し易い ように鋸目が立てある。
aの違いは鎌の切断対象物の草木と稲葉の性質の違いから生じたものであるら しい。即ち,
農業(農民)からの注文によって, 鍛冶屋が切れ易 さを形状的に考慮する中から分かれたもの
側
と考え られている。
制
側
『
すき ・くわ ・かま』,INAXギャラリー名古屋企画委員会,INAXBookLET’
9
1
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o
.12
2∼2
3頁
。
前掲 (
7
)
,1
8
8頁
。
49
技術と文明
A
司
8巻 2号( 1
46)
・
E
F
E ・ 園 田 園 圃 圃圃 圃 圃 圃h
利器材
図
9(
1
)
火造鍛接材
A
素材
F
素材
B
熱悶鍛造品
G
熱間鍛造品
c
整粒完了品
D
焼入れ品
E
製
品(
焼戻し)
播州鎌の各工程における半製品及び製品の形状
Vtが大きい程 aは小さくなり ,そ の結果,切断抵抗力は小 さく ,刃の移動距離が長くなり,
手(腕) は疲れるととになる。
/
aは反比例の関係にあ る
。
また,切断抵抗と 1
尚,鎌問屋は完成品の責任点検に際して,製品の全体形状を整える 意味で次の寸法(図ー 7
参照) を確認して柄付を行なっている。
刃鎌の場合は箱等の角の 90度面を利用して, ζ の面に柄の内側を当て, 鎌先端の上り 距離
(h)を測定する。九州地方では h= 5mm上りと小 さいが,播州鎌では h=1
0凹 上 りと一般に
大きい。鋸鎌の場合は台紙上に図を書き ,それ に実物を合わせて Sの角度を測定し ている。
4ー
(2) 硬度と組織
素材 (利器材 Aと火造り鍛接材 F)から製品 Eまでの工程における,半製品及び製品の試料を
に示した。
図− 9(1)
試料の利器材 Aから製品 Eまでの鉄と鋼の伸びの大きさはその形状が大きく変化している乙
7
5
.Sg
)から E (
4
9
.5g
)までに約 30%以上の質量減少率があ
とから明らかである。さらに , A (
5
0
伝統技術の現況について(4
)(
北田
・岡
本
)
り,乙のことは剃刀鎌といわれるよう に,焼戻し後の仕上工程の 、
すきがが充分に行われて鎌
本体が極めて薄く,軽いととを意味している。
C(整粒完了品) , D(焼入れ品)は播州鎌丸型で, Eは同角型であるが,その工程に違いは無い。
以下,夫々の工程における組織と硬度から検討した。
図− 9(2)より, A とFの断面組織写真において,両者共に黒 っぽい部分①が鋼であり,その
組織は共にバーライト地である 。 Aの接合部( Bond)は良好である。他方, Fでは一部ζ
l鍛接
材(黒い小さな点で横一直線上 K並ぶ介在物)の混入が Bond付近 l
ζ見られる。鉄部(軟鋼)の組織
①は両者共にフェライト地であるが,若干のノマーライトが存在した。
結晶粒の大きさ②は全体を通じて Aよりも Fの方が大きし〉。
ζ
ζ のととは鍛造温度がやや高い
とを意味している。
Gは火造り鍛接材の熱間鍛造後のほぼ中央部を切断,観察 した組織であり ,鉄と鋼の一様な
接合状態が観察できた。鋼部の厚さは約 0.6阻 で,その組織②はバー ライトとマルテンサイト
の混合組織で,硬度 Hv471程度を示し た
。
Bond部の硬度は Hv299程度で,一部に介在物 としての鍛接材の混入が確認され た
。
図− 9(3)
より, Bは利器材を用いた場合の熱間鍛造品のほぼ中央部を観察した組織である。
鋼部の厚さは約 0.6凹。その組織①はノ fーライトで硬度 Hv359∼ 380を示した。 Bond部に
.025mm, Hv3
1
2程度)が観察さ れた。乙の乙とは工程上刃先部から元側への加熱
は拡散層(約 0
鍛造が行われる中,加熱時間の長くなるとと及び元側の樋,尻の肉厚部分の鍛造温度が刃先部
の鍛冶温度よりもやや高くなるととに影響されたと考える。鉄部②は硬度 目v180程度で結晶
粒の細いフェライトと若干のノ fー ライト地であ った。
整粒工程を完了すると, CK見られるように,鋼部の厚さは約 0
.3皿と Bの場合と 比較 して
約半分の厚さである。整粒工程で繰り返えし加熱鍛造(4
0
0∼5
00
℃加熱)さ れるととから,鋼の
組織均一化が行われる。その結果,組織①はフェライト地に球状セメンタイトの折出が観察さ
れた。そして,その硬度は Hv313∼319を示し,焼なましの効果が見られ る
。 Bond部には,
0
2mm,Hv21
6∼21
8)を観察した。
わずかであるが拡散層(約 0.
.2∼0
.2
5凹であり ,その組織①はマルテンサイ ト地ζ
l球状
D (焼入れ品)の鋼部の厚さは 0
セメンタイトが混入し,硬度 Hv850∼ 874を示した。焼入れ品としては良好な組織である。
また,拡散層は先 (
約 0.
0
5凹)から元(約 0
.1皿)へ と幅広く(平均約 0
.0
7皿)なっており,そ
60
∼1
6
5)はフェライト地に一部低炭素
の硬度は Hv391∼461と鋼部よりも低い。鉄昔日②(Hv1
マルテンサイトが観察された。
Eは焼戻し処理を行ない,その後 l
と充分な研磨 ・研削をした(完成)製品である。鋼部の厚
.1
5∼ o
.
1
6凹と焼入れ品と比べて約 31%,熱間鍛造品と,約 74%の加工率(薄さ) であ
さは約 0
る。鋼部①の硬度は Hv809∼812で
, Bond部の拡散層の消失が確認され,焼戻し効果が見ら
れた。組織はマルテンサイトと球状セメンタイトで良好であり,製品として充分に満足で、き
5
1
技術と文明
8巻 2号
(1
4
8)
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熱間鍛接材 (
G)の顕微鋭組織(× 5
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図− 9
(
2
) 播州鎌の素材(手j
l
器材A、火造り鍛接材 F)及び
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) E)における顕微鏡組織 (
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3
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零
図− 9(
3) 播州鎌(利器材使用)の各工程(
熱間鍛造 B,整粒 C,焼入れ D,
技術と文明
8巻 2号
( 150)
る。鉄部の組織②は D の場合と同じであるが,硬度は焼入れ時よりも低い Hv141程度を観察
した。
5
. おわり
に
今日 ,農業の機械化に加えて,除草剤の開発と改良により鎌の必要性 は以前と 比べて年々減
9
9
0年度,青年 (合新卒)層から約
少傾向にある。 また,全国の就農者は乙乙数年約 4,000人程度( 1
1
,
8
0
0人
, 3
5
才未満の他産業離職から約 1
,
9
0
0人)で大きな変化はなく,農業の停滞と鎌需要 の減退
は明 らかである。
幸にも ,播州鎌の場合,播州鎌の明日を考える 乙とを主旨 として 53才未満の人で「播州鎌盛
年会」が結成 された。播州鎌事業協同組合が活動の母体である。 そして, 産業 として の生き残
とりを掛けての研究 ・討論が行われている。即ち ,産業活動の活性化を図るため,若手が中心
となって新規製品の開発改良を行い,若手が魅力を感じる様な活力ある産業に脱皮するた めに
産業自体の体質の徹底的見直しが迫られている 。
伝統の維持 と産業の発展を考えるとき ,伝統という名に固守してしまうのではなく ,伝統技
術の基礎に立ち ,伝統技術を生かすという創造の姿勢が大切である。さらに,名人芸による 芸
術品を作る よりも,名人芸を職人のプライドとして励みとする職人の技術的環境を育み継承 し
ながら ,生活の中で使うものを供給す るという姿勢が重要 と考え る
。
今後も ,伝統技術として鎌造り技術の存在を願い ,発展を期待する。
尚,播州鎌につい ての資料提供等 に心よく応じて下さった播州鎌鍛冶長谷川昭夫氏をはじ
l深謝し,また, 井上孝夫氏の問屋及び利器材等の資料提供の
め,同藤原朝男氏, 同阿尾守氏ζ
ど好意に厚く御礼申し上げます。
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4
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