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48号(通巻228号)

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48号(通巻228号)
禅
48号(通巻228号)
盛岡・石割桜
<巻 頭 言>
死と禅 —死後の世界を禅は
どう見ているのか—
丸川
春潭
8年前に流行った歌「千の風」が示している死は、禅的な視点に非常
に近いとその当時の法話でお話ししたことを思い出します。
千の風になって(作詞:不肖
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
千の風に
日本語詞:荒井満)
眠ってなんかいません
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
千の風に
死んでなんかいません
吹きわたっています
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
あの大きな空を
吹きわたっています
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生と死は 、人類誕生以来 石器時代・縄文時代から今日の21世紀まで 、
人種を問わず貴賤を問わず、人間としての共通する最大の課題であり続け
ています。
そしてまた、全ての宗教は、この難課題解決のために誕生し、2000年
以上に亘ってこの不変の最大課題を持ち続けています。
しからば禅は、死後についてどう考え、生と死の課題に対してどう対応
しているのかを、人間禅の観点で述べてみたいと思います。
人間禅は、当初より科学と相反する教義は説くべきではないという考え
を持っています。例えば、キリスト教のカソリック教派の一部では未だに
進化論を否定し、類人猿(エイプ)が進化して人類(ホモサピエンスとい
う種)が誕生したという科学で明らかにされた真理を否定した教義を21世
紀の今日まで持ち続けています。こういう事態が続けば若い人達を宗教嫌
いにさせるのは必定です。本当の宗教は、教義を科学の進歩に合わせて柔
軟に変えて行くべきです。これが人間禅の宗教観です。
掲題の死後における「あの世」とか「霊魂」があるのかという課題に対す
る答えとして、先ずは科学的視点から検証し、そして次に人間禅の精神か
らの見解を述べたいと思います。
科学的に生と死を簡単に見ますと、死の直前と死の直後で、その構成元
素もその重量も全く変わらない 。したがって、生きている人間が死んでも、
死体以外には何もないというのが科学的な見方です。
60kgの体重の人の構成元素は、重量の多い順に 、酸素O、63%、37.8kg。
炭素C、20%、12.0kg。水素H、10%、6.0kg。窒素N、3%、1.8kg。無機質(4%)、
カルシウムCa、2.0%、1.2kg。リンP、1.2%、720g。硫黄S、0.242%、145g、
他K、Na、Cl、Mg、Fe、F、Zn、Si、Ti、Sr、……と超微量元素まで分析す
ると地球構成元素のほとんどの元素で人間の体は構成されていて、死の直
前と死の直後で構成元素とその重量は全く不変です。
もちろん生前は、同じ元素の60kgの人体は有機体でありますが、死後
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は同じ元素の60kgの無機体になるという違いがありますが、物質存在とし
ては不変であり、質量不変の法則通りです。
この観点からは、霊魂という存在は全くあり得ないことになります。
何故ならば存在という場合は、必ず構成元素とその質量が必要になり、生
前と死後で質量は不変なので、それ以外の物体は存在しようがないからで
あります。
勿論、人間のイメージの中で作られた霊魂は質量無しでいくらでも存
在することはできます。
結論として、科学的には霊魂の存在はなく、死後の世界もあり得ない。
これらは、人間の想像とかイメージの産物であるということになります。
次に、禅の見方、なかんずく人間禅の見地からの死後に関して申し上げ
たいと思います。
在家禅である人間禅、すなわち人間形成の禅の始まりは、明治8年に創
設された在家禅「両忘会」からであり、その後の経緯の中で、戦後直後の
昭和23年に名称を改めて「人間禅」が発足し、今年で創立68年目になりま
す。人間禅になっての最初の総裁師家である耕雲庵立田英山老師こそが人
間禅の精神を確立された方であり、これが人間禅の見地です。
先ず、耕雲庵老師のお考えを引用しておきたいと思います。
「禅誌」創刊号(昭和24年4月1日発行)に掲載されてあります、第一
世総裁就任挨拶の中の一部の抜粋ですが、老師は「人間禅の精神」として
次の三つをあげられています。
一つ人間味の豊なること
二つ各自の個性を重んずること
三つ神秘性を説かないこと
そして三番目について、次のように述べられています。
「最後に、三つ目に数え揚げらるる処のものは、神秘性を説かず、理
外の理を語らぬことであります。之は夙に自然科学を研究して来たった私
として 、年来の主張であります 。そして自力の修行を標榜するものとして、
私は曾て一度も「仏天の加護」とか「神明の冥助」とかを口にした事があ
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りません。又「仏罰」とか「神罰」とかいう語を最も憎みます 。『大法に
不可思議なし』之が古今に亘って一貫した真理であります。私は超人間的
な神仏や、実在を離れた幽冥界や、所謂肉体を離れた霊魂という様なもの
を断然否定します。世には、宗教の世界という特別な世界があって、何か
「理外の理」と云う様なヴェールに隠れ神秘性でも説かないと宗教では無
い様に誤解して居る者が沢山居ります。」
禅の見地からは「幽冥界や、所謂肉体を離れた霊魂」はないと断定さ
れておられます。そして『大法に不可思議なし』の意味することは、科学
と相反する教義は駄目だということだけにとどまらず、これは禅の玄旨で
あり、釈迦牟尼世尊の悟りそのものなのです。
ただこれだけでは、生と死に関する人類の長年の課題(恐怖・本質的
な悩み)に対して、一般社会の多くの人々の救済にはならないので、若干
の蛇足の説明を付けたいと思います。
癌の告知を家族が悩む、或いは告知された本人が深刻に苦悩する、と
いうのは死というものが如何に受容でき難いかということです。体の機能
が止まって、冷たくなって、生物でなく無機物になって、放っておいたら
腐っていく状態になるのが死です。これは明確な事実ですが、なかなか受
け入れられない。
霊魂は死なないという仮説を立てて、死の恐怖を和らげようとする救
済法は、これからの新しい時代では、もう通用しない。効き目がない。
生と死との違いは機能が有機的に活動するかしないかで、そこに生か
ら死にかけて連続する一貫したものがあるのかないのか?ここが宗教の出
発点であり、宗教の原点がここにあります。
すなわち、生死は、相対の代表であり、相対の次元の中では、生死を
解決することも乗り越えることもできないけれども、人間が死の恐怖を自
覚し、生死の命題を解決しようとする決意が、相対的には想像さえできな
い「生と死に共通する切り口 」、「生と死に貫通する絶対の切り口」をつ
かむ根源的ドライビングフォースとなったのです。
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生死の命題を解決しなければ、本当に安心できないとして多くの先人
が、難行苦行を厭わず、また年月の久しきを物ともせず、究明に究明し尽
くすことによって、生と死に貫通する絶対の切り口を探し当てたのです。
20万年前に人類が地球上に誕生した時点を起点として19万7500年の経過で
はその解は得られなかったが、この時点(約2500年前)に到って初めて数
人の先覚者がそれをつかむことができたのです。その人達が今日、聖人、
賢人、教祖と呼ばれている人達であり、紀元前6世紀から紀元零年までの
間にこれらの人物が一斉にでてきたのです。
キリストも老子も孔子も釈迦牟尼も、この生死の問題を根本的に解決
する解(生と死に貫通する絶対の切り口、人それぞれの内に宿っている永
遠の命)をしっかり掴んだのです。そしてその発見・悟りをもって、死の
恐怖に苛まれている多くの人びとの救済に立ち上がり、それぞれのやり方
での救済活動がそれぞれの地域での宗教宗派になって今日まで継承してき
ているのです。
お釈迦様が社会的なしがらみを捨て、女房子供と別れて出家し、生死
の結着の道を求めて修行し、今から約2500年前の12月8日の暁の明星を徹
見し、自分の中に過去の過去際から尽未来際まで連続し一貫している永遠
の命があることをはっきりと見ることができた。そして自分にあるこの永
遠の命が目の前の山川草木禽獣虫魚の全てに同じ永遠の命があることをし
っかりと見たのです。そして思わず「山川草木悉皆成仏 」「天地と我と同
根、万物と我と一体」と叫ばれた。自分と山と川は一体であり、同根だっ
たという事をしっかり掴まれた。老若貴賤を問わず全ての人に仏が等しく
宿っていることを悟られたのです。
山川草木、木や石と自分との間の共通項、同一性の切り口をハッキリ
判り見ることができれば、生と死に貫通する絶対の切り口もハッキリ見る
ことができ 、「天地と我と同根、万物と我と一体」を本当に悟れば、生死
は掌を見るが如しです。これを禅では見性といい、見性こそが生死の問題
の真の解であります。
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生と死に貫通する絶対の切り口は、相対的に、哲学的に幾ら究明して
もこの切り口は見えてこないのです。碩学の大宗教学者と雖も、相対的な
言語段階にある限り、説明はできてもそれを得ること見ることはできませ
ん。しかし、学問のない人でも一念不生の三昧境に打入することにより、
釈迦牟尼が見たと同じもの(孔子が掴み、キリストが掴んだもの)をしっ
かりと見ることができます。
生と死に貫通するものは、相対的な追求の科学では見ることができず、
絶対的に追求する方法でしかこれをつかむことはできないのです。
人間の本性である「考える葦」の機能を意識的に停止させて、すなわ
ち相対的な思考を一時棚上げにして、数息観三昧に、公案三昧に、足のつ
ま先から頭の素てっぺんまで成りきる。成りきっていることも忘れた真の
三昧に到れば、相対を離れた絶対を感得できるのです。この三昧の道をた
どりさえすれば、10人が10人、生と死の連続性をしっかりと認識できるの
です。
敢えて、死後のあの世を設定せずとも、霊魂の存在を設定せずとも、
死の恐怖からの根本的救済が、禅の見性によってもたらされるのでありま
す。
ただ人間形成の禅に縁が無く、見性をする機会の無かった人が、既に
無くなっている生前親しかった人に死んだら会うことができると想って、
死に対する寂しさや恐怖心を和らげることは良く理解できますし、そう考
えても良いのではないかと思います。
禅的には第二義になりますが法理的に 、死は涅槃、寂滅 、寂静であり、
「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」です。したがって
生きとし生けるものは皆そこから来てそこに帰って行くと云っても良い
し、死んだら生前付き合っていた人に会えるという感覚もこの中に包含さ
れる想いとして赦されると考えます。
最後の締めくくりとして、私の好きな耕雲庵老師の語録を次に掲げて
終わりにします。
「 われわれ人間は自らが有限であり相対的でありながら、
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しかも無限をもとめ絶対をあこがれずにはいられない存在で、そこに人間
のもっとも人間らしい点があるのである。そして相対的で有限な自己と絶
対的で無限なものとの間に正しい通路を打立て、自己を絶対のなかに位置
づけるものが実に宗教なのである。そして自己が絶対のなかに正しく位置
づけられたのを発見した時、人々はそこにはじめて真の満足を得るのであ
る。だから人間は宗教によってのみ真の満足を得ることができるといえよ
う。」
最初に掲げた「千の風になって」の歌詞は、人間形成の禅がいざなお
うとしている世界を詩的に示していると思います。
1月の末になって、東京で今年初めて雪が積もり、人工的無機的な都
市景観を自然のベールの薄化粧で隠し、本来の永遠性の顔をひととき見せ
てくれました。
雪
太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。
(三好達治:1927年)
■著者プロフィール
丸川春潭(本名/雄浄)
昭和15年生まれ。大阪大学理学部卒業。住友
金属工業技監、日本鉄鋼協会理事を歴任。
元大阪大学特任教授。現在、中国東北大学
名誉教授。工学博士。昭和34年、人間禅立田
英山老師に入門。現在、人間禅総裁・師家。
庵号/葆光庵。
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