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寄 稿 - 山形県医師会
山形県医師会会報 平成28年11月 第783号 7 医 師 過 剰 時 代 山形市 武 田 和 夫 このところ2年続けて医科大学の新設が認可され た定年後の医師は来るかもしれない。子育て中の若 た。地方自治体では昔から医者が一人増えると、医 い医師は、本人は意欲があっても、子供の教育とい 療費への支出が1千万円増えるといわれている。現 うことで家族の反対にあうだろう。 在歯科診療所は全国的にコンビニより多い、競争も 中以上の都市の中心では、間違いなく医師数は増 激しい。夜店と称し夕方7時8時までの診療や、日 える。しかし昔の重装備の診療所が増えるのではな 曜診療は勿論、コンビニ並みに年末年始にも休診を く、自分の安全な守備範囲を意識して、大病院のゲー しないところも出てきている。医師は義務的研修が トキーパー的医療に徹し、ビル診などで初期投資を 終わったからとすぐには開業するのは稀で、一時的 抑えた軽装備クリニックとなるだろう。 にせよ医局や病院に在籍する。歯科医は歯科専門病 病院勤務は、昔は開業の前段階と考えられたが、 院というのが少ないので、学位をとるのに大学に残 今後安定した給料に定年まで勤務する者が多数派に るのでなければ開業ということになる。 なる。研修医を教育できる病院と、ベッド数だけで 2030年になると医師は過剰になるのではといわ 病院に分類される一般病院では大きな格差が生じる。 れている。しかし保険医療費が医師数に比例して増 現在の病院勤務医は忙しすぎる、世間の水準から見 えるなどは、国家財政からありえない。医は仁術と たら高給ではあるが、自分の時間、家族との時間が 言われても空中から金が出てくるわけではない、医 あまりにも足りない。自治体病院は公務員の定員法 業はあくまでも一つの経済活動である。コンビニが に縛られる、しかし臨時雇いやパートという手もあ 街中には100m以内に複数あっても、買物難民の過疎 る。法人病院は3人を5人に増員して時間外勤務を 地には1軒もない。商売として成り立たないからで なくす、収入は減ってもゆとりが得られ本人の満足 ある。歯科診療所も街中にはたくさんあるが、バス 度は高くなるだろう。経営的には医師の増員で患者 が1日数本きり走らない、少子化で小学校が廃校に さんの待ち時間が短縮出来れば、患者さんの満足度 なるような土地では経営ができない。 、CTや手術室の は増え病院の評判が良くなる。MRI 将来、医師数が増えたら医療過疎地はなくなるか。 稼働率も上がり、収入は増えるであろう。 答えはNOであろう。医者も生活ができないところに 医師数は確実に増える、保険医療費はそれほど増 は診療所を作らない。自治体が診療所を作り、かか えない。となれば医師は仕事をシェアし、収入より りつけ医になれる医師を雇うなら、子育ての終わっ ゆとり、人間的生活に焦点を置くべきではないか。 8 山形県医師会会報 平成28年11月 第783号 弾た見は東孝藩長で上 に。の徳北允の崎帰山 当犯戦川の)兵や省鶴 り人、氏志ら制佐し脛 重引江に士革改賀『生 明 参 傷き戸無と新革で新れ の 派 渡 を 理 も 、 は 。 考 館 資 負し町難親の川西』上 料 いので題交志口洋と山 、交はをが士村のな藩 ・ 翌渉勤持深との空っ校 山 日が王ちく交築気た『 形 死も倒出、わ堤に藩天 史 亡つ幕し朝る工触校輔 上 しれの、幕。事れの館 の た、浪武双詩の、徒』 人 。交士力方人善浦頭に 戦をでので政賀格学 物 状集叩若あをでにび 態めくいり行はな 後 と治き志、うペる、 藤 な安っ士学一リ。江 嘉 りをか達者方ー幕戸 一 旧撹けかでで来末に 著 幕乱をらも江航に出 府さ作兄あ戸に父府 都 軍せろ事る詰よにし 文 の、うさ金のる乞て 堂 指そとれ子時騒い昌 書 揮のしたは、擾全平 店 官者た。薩桂な国校 刊 でを。大摩小ど漫に あ薩京政や五を遊入 る摩都奉長郎体のる 金藩で還州(験旅。 子邸は後あ後しに二 はに鳥、るの帰出十 四 流匿羽薩い木 る れっ伏長は戸藩。歳 。 金か ね 子こ 与よ 三さ ぶ 郎ろ う ( 一 八 二 三 ~ 一 八 六 七 ) 幕 末 の 志 士 ・ 民 政 家 二 ( 東 韻 平 起一 ・ 起 句 踏 み 落 し ) 轟 空 暴 維 名 二倒 擧 新 金 天 流 レ欲 前 子 下 股 肱 忠 名な を 天てん 下か にと 轟どろ か す 股ここ 肱う のち 忠ゅう 丸 雖 レ 堋 レ 志 裁 爭 戰 中 夜 與 薩 三 郎 長 羂 空むな し くり 流ゅう 丸がん に 倒たお れ 暴ぼう 挙きょ 裁た た ん と 欲ほっ す 争そう 戦せん の 中うち 維いし 新ん の 前ぜん 夜 や 一 こ こ ろ ざ し う ず 志 堋 む とい 雖えど も 山 形 県 の 偉 人 115 碓 山 形 市 さ 薩っち 長ょう の 羂わな 武 田 昌 孝 山形県医師会会報 平成28年11月 第783号 9 「犬将軍」と呼ばれた男 −犬を愛護した五代将軍綱吉は暴君か− 寒河江市 秋 葉 知 まえがき こでは綱吉を名君と称えたようだが、外交辞令的 犬将軍と揶揄され、歴代将軍の中でもかなり評 な側面もあったようだ。現実に綱吉との会見では、 判の悪かった五代将軍綱吉は、どこに欠陥があり 直接の対談は許されず、 簾 越しであり、綱吉は西 侮蔑されたのか。その要因は多々あろうが、簡潔 欧の医学の進歩について、特に、不老不死の薬に に言えば次ぎの3点に要約されそうだ。まずは「生 ついて強い関心を示したという。妻信子について 類憐みの令」であり、ついで「赤穂浪士事件」へ は、直接逢ったのであろうか素晴らしい美人で の裁定、3番目に悪評の高い「貨幣改鋳問題」で あったと書き記している。ともあれ綱吉は几帳面 ある。 な学者肌の男で、将軍としては器が小さいという これらは綱吉の胸の中においては心底から良か のが家臣たちの一般的な見方であった。 れと思う「善意」からという共通するものであっ 綱吉が極端な低身長であったことは(124c m)、 た。これらについて様々な史料を手繰りながら筆 その位牌の高さから判断されているようで、綱吉 を進めて行きたいと思う。 は低身長症(軟骨無形成症)だったとする説があ すだれ るが、ほかの史料には述べられていない。ケンペ ◆ 綱吉の日常生活 ルもそれには触れていない。 綱吉の治世は延宝、天和、貞享、元禄、宝永に亘っ ていて約29年間である。 正室は信子であり、長男徳松が5歳で死亡する までは普通の夫婦関係であり、目立つことはな かったようだ。綱吉は儒学についての造詣が深く、 また、書画を描くのを好み,能を好みよく舞った という。書き残した書画は100点におよび、側用人 らに与えたという。 (参考図1参照) 心根は優し く、一面短気で我侭であったようだ。ひどい潔癖 参考図1:徳川綱吉筆「過則勿憚改」 けが 症で、特に血で穢されるのを極端に嫌ったようだ。 将軍職といえば万事に修行が要求され、文人でも ◆ 側用人の登場-柳沢吉保の台頭 あった彼も馬術や剣術の修行が求められたが、武 当時の大老・堀田筑前守が殿中で惨殺されると 術に関しては熱心ではなかったようだ。 いう事件を契機に御側御用人の起用に転じた。は ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルは長崎・ じめは牧野 成貞 であり、ついで 柳沢 吉保 である。 出島のオランダ商館長付医師として来日、2度綱 彼らの実権は老中を凌ぎ、綱吉は特に吉保を信頼、 吉と会見、旅行記「日本誌」を世に出したが、そ 幾度と無く彼の屋敷に御成りを実行している。そ おそばごようにん なるさだ よしやす 10 山形県医師会会報 平成28年11月 第783号 し え こに様々な憶測が生じ、柳沢吉保の妻との関連や、 た。しかも、綱吉が血の穢れや死穢を忌み嫌ったこ 生まれた柳沢の長男吉里は実は綱吉の子と周りは とが、生類憐れみの政治や、浅野内匠頭の刃傷事件 あさのたくみのかみ さこのえしょうしょう 認識していたようだ。現実に左近衛少将に任じら 裁定などに大きな影響を与えることになる。 れて、老中より上格となった。綱吉にとっては、 りんれい 彼は儒学の弟子筋でもあり、心底信用しあえる間 ◆ 生類憐れみの政治(生類燐令) 柄であった。綱吉が彼に与えた書画は多数現存さ 儒教精神を基礎とする政治は続いたが、綱吉の れていて信頼関係が首肯できる。(参考図2参照) 個性が発揮され始めるのは大老堀田正俊の惨殺事 見事に馬を描出している。 件以後からであり、その最大のものが生類憐みの 政治である。 この令はまず貞享4年殺生を禁止する法令を制 定した。生類燐令は1本の成文法ではなく135回 も出された複数のお触れを総称するものであって、 おもに元禄を中心にして、お触れが集中した。実 に幅広く細部にいたる法令であった。単に犬の愛 護令としてではなく、生命あるもの(生類)すべ てに慈悲(憐み)の心を持てということであり、 参考図2:「松の木の下にいる馬」。綱吉の描いた作品。 署名入り。長谷寺(奈良)所蔵。 それを民衆に教諭することにあった。人命を助け る思想はすでにあったが、綱吉はさらに生類全体 の命に慈悲の対象を広げ、 「仁政」政治の実現を目 指したのである。その具体的な例についてはもろ ぶっきりょう ◆ 長男徳松の死と服忌令の制定 もろと尾びれをつけられ言い尽くされているので 服忌令とは死を忌み嫌い、血の穢れを排するも 省くが、そのピークは元禄時代と推定されるよう ので、服忌の制は、朝廷や神道における習俗であ だ。犬に水をかけて島送りになったとかの逸話は る。つまり、家光の時代から東照大権現と将軍に ごろごろ存在していたようだ。 穢れを及ぼすべきでないとすることで、将軍家の ほうよう 権威を高めるというもので、綱吉は一層徹底させ ◆ 放鷹制度の廃止と犬 るべく特に、血の穢れを重んじた。血の穢れにつ 生類憐れみ政策には、犬以外にも捨て子、捨て いても、出血は3滴以上出れば穢れになるとか、 牛馬、鳥、鷹、鉄砲(農村用)といった項目があ 家畜や犬、猫などもその対象とせよとか、うるさ るが特に諸国に影響を与えたのは捨て子、捨て牛 く紛らわしいものであった。これらは正室や側室 馬と鉄砲政策であった。とはいえやはり犬に関す からもたらされた公卿文化であり、将軍家の権威 るのが圧倒的で、綱吉が「犬公方」とあだ名をつ を高めるために法制化したものであった。 けられたのも当然であったろう。しかし、綱吉が かくして、戦国時代以来、人を殺すことに価値が 愛犬家であったという記述はない。 あり、主人の死後追い腹を切ることが美徳とされて 犬愛護令は放鷹制度の廃止と連動するためのも きた武士の倫理は、血の穢れとともに排され、武家 のであった。この制度により江戸周辺の犬の生態 の儀礼の中に朝廷から伝わった服忌の概念が制度 に重大な影響を及ぼした。つまり、当時犬を食べ 化し徹底され、ついには広く社会にも浸透していっ る習慣があったが、これを止めさせ、さらに放鷹 山形県医師会会報 平成28年11月 第783号 11 制度を廃止したために、鷹に与える餌としての犬 綱吉にしてみれば、血の穢れに対する意識は特 の需要がなくなり、ために野犬が巷にあふれるよ 別のものでもあり、固定観念でもあった。喧嘩と うになった。かくして、腹をすかせた凶暴化した 云う認識よりも、殿中を血で穢したという事実、 犬が増え、野犬が捨て子を食い殺すという事件が さらに宮中からの勅使を迎える重大な儀式を、血 頻発した。この過剰な犬を収容するために、大久 で穢したという許されない事実に、もはや別の裁 保、四谷、中野の広大な空き地に犬収容所(お犬 断は存在しなかった。この異状ともいえる将軍の 屋敷)を作らざるを得ない状況となった。1年間 偏屈さに家臣たちは屈するしかなかった。 の費用は10万両にもおよび、町方に費用を徴収さ せ、庶民の憤懣は爆発寸前であった。数多ある具 ◆ 綱吉の貨幣改鋳 体的な例を史料によれば、これらの犬は一日3合 綱吉の母に対する孝行振りは、度外れ級で、母 の白米と、味噌50目、干しいわしをたっぷりと食 の桂昌院の云うことはすべてかなえるというもの べさせ、庶民の食生活を遥かに凌いだという。文 だった。彼女は仏教に深く帰依していたこともあ 字通りお犬様で、世話役の武士たちを睥睨してい り、僧・隆光の云うまま数多くの寺、仏閣の新築 た。この令が全面的に中止になったのは、綱吉没 や造営に関与し、その総数は106例におよび、金額 してすぐの事だった。食生活にも重大な影響を及 は推定70万両に及んだといわれる。ここに幕府財 ぼし、生きた動物の摂取は不可能と云う状況で 政の建て直しが必須となり、勧定奉行荻原重秀が あった。その具体的な事例は割愛する。 重用され、結果として「貨幣改鋳」による経済混 乱を招くことになる。慶長小判の金含有量は86% ◆ 殿中刃傷事件と裁き であったのに、改鋳では56%と質が一段と下がり、 あの有名な赤穂事件である。事実関係は省略す 経済は混乱した。新井白石は金銀は「転地の骨」 るが、要は事件処理に対する世間の憤懣である。 とする信仰からも逸脱していると反対した。これ あの当時は喧嘩両成敗が当然という認識であった は改鋳の時期を取り違えているし、はっきりした が、綱吉は即座に切腹を命じ、逆に吉良にはお咎 悪法と言えよう。 めなしと判決した。その後、紆余曲折があったが、 吉良邸に討ち入った浪士たちは目的を達した。義 ◆ 綱吉の死−孤立した専制君主 士46名の切腹に至るまでは、世論の反発もあり、 綱吉の死とともに、その政治はすぐに終焉を迎 又、荻生徂徠など当時の学者らの進言などもあり、 えた。まず、めぼしい事項を挙げれば生類の件に 綱吉自身かなり苦悩したようだが綱吉の強い決意 ついての訴訟を無効としたことなどであったが、 のもと、結局は46名(広島にいた寺坂吉右衛門を 綱吉の政治が真っ向反対と云う立場をとることは 除くので)への裁断も切腹と決まった。同時に、 控えられた。これは幕府の権威を守るために重要 吉良家への処遇も決まり、吉良家は領地召し上げ、 なことだった。綱吉の死によって、柳沢吉保の凋 改易となった。かくして、世間の大半が希望した 落振りは無残で、綱吉は生前、生類の件は変更し 「喧嘩両成敗」が漸く実現した。ちなみに、綱吉死 ないように吉保に厳命していたが、もはやどうし いえのぶ たくみのかみ 去の後の将軍家宣になって、内匠頭の弟である浅 ようもなかった。まさに死人に口なしであった。 野大学が許され旗本に戻ったことにより、討ち入 綱吉は「思無邪」を自筆した一編を残している。 くらのすけ り前に内臓助らが熱望していた浅野家のお家再興 60歳を越した綱吉晩年の思想の一端をよく示すも が実現した。 のである。我が人生を振り返り、 「思いに邪念なし」 12 山形県医師会会報 平成28年11月 第783号 と大書した綱吉、後世にその政治が人の道にはず し、庶民は常にこうした不慮の災害の危険にさら れ、邪心によるものと評されることを恐れていた されていた。さらに、凶暴化した野犬にも恐怖感 のだろうか。民のための仁政を政治理念としてき があり、弱い乳幼児や女子は格好の餌食になるの た五代将軍綱吉であった。しかし、その姿は孤立 も珍しいことではなかった。 した専制君主を思わせた。(参考図3参照) 綱吉自身は偏執的ながら儒学者であったが、母 親(桂昌院)への孝行ぶりは絵に描いた如くであっ たが、家来たちのそれには見向きもしないという 偏ったものだった。また、書画を書き、能を良く し、教養豊かな文人将軍として異彩を放っていた。 特に、儒学を重んじた綱吉は湯島に聖堂を建て、 きたむら きぎん かがくかた 和歌や古典に親しんで 北村 季吟 を 歌学方 に任じ、 しぶかわ はるみ 参考図3:徳川綱吉筆「思無邪」 貞享暦を採用して天文方に渋川春海を登用し、寺 社の再興や修築を進め、天皇陵を調査、整備する など、わが国の文化史上欠くことの出来ない事業 あとがき を実施した。特筆すべきことである。綱吉の評伝 天下の悪法と喧伝された「生類憐みの政策」は を書いた塚本によれば、 「日本社会の文明を推進し 文字通りの悪法そのものであったのか。 た理想主義者」ではあるが、小心の専制君主であっ 悪法にさせられたのは、主にテレビ、ドラマな て、編執狂的性格であったと述べている。特に血 どの影響によるものが多いと思われるが、加えて、 で穢すことを最も忌み嫌った性質であり、犬に限 若いころの「桁外れ」の好色ぶりも悪評の要因と らず全ての生命を大事にすると云う思いは根強い なったことはいがめない。 ものがあった。彼が戌年生まれのために、特に犬 最近漸く綱吉への見直しがなされ、逆の方向に を大事にしたといわれるが、彼自身、ペットとし 傾きつつあるようにも思える。捏造された史料、 て犬を可愛がったという記録は無い。生きるもの 誤った評価によって貶められ続けた綱吉。幼少期 すべてということで、彼の食事にも大きな変化が から亡くなるまでの生涯を、あらゆる史料を調べ、 あり、動物を生きたままでのお城への食材として さらにケンペル医師の詳細な滞在手記などを元に の搬入は不可となり、かなり蛋白質摂取が困難と 綴られた文献、書籍などをもとにした書類から推 なったようだ。彼の肖像画から判断したという史 考すれば、あの法令は間違いだらけのものとは言 家も存在する。 えず、善悪両方にまたがる内容であり、綱吉の目 赤穂浪士事件でも、世間は喧嘩両成敗をしない綱 線では有益な誇るべき法令と認識していただろう 吉の裁きを不公平と糾弾したが,それより、血で穢 し、武士たちからすれば、迷惑な、うっとうしい したこと、宮中への尊崇が強かった彼にとって最も 法令であり、庶民にとっては一部不満な面があっ 大事な勅使を迎える祭事を血で穢されたというこ たにせよ、有り難い法令と感じたのではないか。 とで、頭が一杯であったと理解するしかない。 綱吉時代の武士の特権は相手庶民が理不尽な言 彼は元来の気短な、偏屈的な気質の持ち主で、 動と感じられる場合、武士の独断で、庶民を無礼 一国の盟主としては力不足の感はいがめないが、 打ちするのは当然な権利として時折行われていた 学校の歴史書にも愚君であり、悪法だと極めつけ けが いぬどし 山形県医師会会報 平成28年11月 第783号 13 ての記載には一考を要すると考える。綱吉に対す この輝かしい元禄の時代に、綱吉が下した生類 る評価の低さは、テレビドラマによるところが最 憐みの令は、どのように受け止められ、マッチン も大きい。彼がドラマに登場するのは、 「忠臣蔵」関 グしたのであろうか。様々な便法、抜け穴があっ 連か「水戸黄門」関連のドラマのどちらかであり、 たとは思われるのだが、文化爛熟期には当然食べ さらに綱吉の不運は「水戸黄門」徳川光圀の存在 物も贅を凝らしたのが膳に並んだことと推察する。 である。ここでは常に悪役を割り当てられて、黄 肉、魚といった生食を禁じられた状況ではどうで 門を持ち上げるためにさらに綱吉をけなすという あったのか、疑問とともに興味深いものがある。 風潮があった。これからさらに調査が進めば、彼 への認識、評価はぐんと上がるのではと考えてい 綱吉は名君か暴君か、生類憐みの政策は悪法か、 る。大地震があったり富士山の大噴火という天災 さらに赤穂事件への裁断はいかがかと云う質問に もあったりで、綱吉は内憂外患の環境ではあった は、簡明に答えるのは困難だ。教科書史観が崩壊 が、彼自身、幕府の政治を、経済を立て直すこと しつつある現在でもある。しかし、綱吉は自分が に専念したことは確かである。福田や井沢らは 「戦 学び、信じた儒教を土台として、政治を全うしよ 国の気風を残した世相を、生命を大事にする泰平 うと努力し、これが幕府の尊厳を守る道だと信じ の世へ変革した」と、非常に高く評価している。 ていた。世上伝えられるような暴君でもないし、 数々の政策もすべてが間違っていたとは考えられ 生類の令を出したのは、綱吉の治世の大部分を ない。少なくとも暴君とか、天下の悪法という表 占める元禄時代に集中している。この時期は町人 現はこれからは控えられるべきものと推考するの 文化の爛熟期とも言われ、今日の世界における日 だが如何がであろう。 本の伝統文化のイメージは殆どこの時代に完成し たものであった。元禄と聞いて思い出されるのが、 尾形光琳の壮麗な屏風画、尾形乾山の斬新な陶芸、 宮崎友禅の絢爛たる衣裳、更には豪華な歌舞伎芸 (参考資料 福田千鶴 徳川綱吉、 ボダルト・ベイリー 犬将軍、 もろのぶ 能や、菱川師宣によって確立された浮世絵などな ど。元禄は、日本の歴史の中で初めて娯楽が庶民 にも手の届くものとなった時期でもある。 塚本学-生類をめぐる政治・・・) 14 山形県医師会会報 平成28年11月 第783号 健診こぼれ話 (その4) 寒河江市 五十嵐 勝 朗 元気で病院通いをしています か」と尋ねたら、 「今月に入って時々偏頭痛がある 軒高大市(けんこうだいいち)さん(85歳)が ので保健師さんに相談したら、保健師さんが心配 受診しました。 「軒高さんは去年も受診してくれま の検査を受けてみたらいかが して『変さんはMRI したね。この1年で変わったことはありませんで ですか』と助言してくれたので、ここに来る前に したか」と聞いたら、 「先生、元気で病院通いをし 検査の予約をしてきました。」と言 豆通病院でMRI ています」と返答されました。 「え~、元気で病院 いました。ちょっと不可解に思ったので「先生と 通いとはどういうことですか」と聞き返したら「前 はどういうお話をしたのですか」と尋ねたら「先 立腺肥大があるのでオシッコの回数が多いから泌 生とはお話をしないで、直接に病院の受付で頭が 尿器科に定期的に受診して、先生や看護師さんと 検査を受けたいのです」と言ったら、 痛いのでMRI お話ししてくるのです」と応えました。 受付で『わかりました。来週の水曜日の午後2時 最近は病院の受診方法が変わったようで、体調 にいらしてください』と言われました」と返答し のよいときに病院へ行き、足腰が弱り体調がすぐ ました。一般的には偏頭痛を主訴に外来を受診し れなくなると在宅診療を受けるのが標準のようで たときには、先生が「いつ頃から痛いですか? ど す。このようになったのは高齢者の受診について んな時に特に痛くなりますか? ズキズキとかジ の意識が変わってきたのか、それとも厚生労働省 ワ~ととかチクチクとかどういう風に痛みます の高齢者への対応が変わったのかどうなのでしょ か? 痛くなる前に、何らかの症状の予感はありま うか。特に一人暮らしの高齢者の場合は月一回で すか?」などを聴いて、その後に日常生活や仕事 も病院に行き、医師や看護師と会話することで認 の環境などについてお話をしながらの診察に加え 知症の進行を抑えることができるならば非常によ て神経学的検査を行い、くも膜下出血や脳出血な いことです。そこで医師や看護師の一人暮らしの どの他のこわい病気が隠れていないかを知るため 高齢者への対応が重要になります。診察や投薬は による検査がなされるのではないのかと思っ MRI 大切ですが、その他に高齢者の話をじっくり聞い ていました。それが今では偏頭痛などの訴えが てあげることはもっと大切なことではないでしょ あったらスクリ-ニングの一手段として最初に うか。毎月の受診で医師や看護師と楽しく会話す ました。開口一番「ここに来る前に豆通病院(ず 検査を行うようになったのでしょうか。 MRI なお偏頭痛の問診では『pound』を念頭に置け ばよいと教科書には記載があります。すなわちpは で頭 pul s at i ngで拍動性の痛みがあるか、oはhour s 痛の持続性のことで4時間から72時間の間で痛み で、一 がどれほど持続していたか、uはuni l at er al 側性で頭の片側だけが痛むのか、nはnaus eaで吐 き気を伴うか、dはdi s abl i ngで無力化してしまっ 検査の予約をしてきまし つうびょういん)でMRI ているかどうかをチェックするというのです。 ることが日常生活の一環となり、生きることの励 みとなれば医療従事者として仕事冥利に尽きるで しょう。 適切な助言 変図津羽(へんずつう)さん(45歳)が受診し た。」と言いました。あらためて「どうしました 山形県医師会会報 平成28年11月 第783号 15 夕べは何を食べましたか いてはいろいろ言われているが、高齢化社会に 気億宣明(きおくせんめい)さん(94歳)がしっ とって認知症対策が喫緊の課題であることが痛感 かりとした足取りで受診しました。 「気億(きおく) されます。 さんは昨日の夕食は何を食べましたか」と尋ねた ら、カレイの塩焼き、昆布とジャガイモの煮物、 健診結果通知票 ほうれん草のお浸し、お豆腐の味噌汁にごはんで 麻衣年寿芯(まいねんじゅしん)さん(82歳) す。」とスラスラと応えてくれました。思わずうれ が昨年の健康診断結果の通知票を持って受診に来 しくなり型どおり診察して、 「気億さんは全く頭も ました。診察を終えたら「先生、これは去年健診 食欲も衰えていませんね。来年も受診してくださ を受けたときの通知票だが、嫁さんに聞いてもど いね。」と言ったらニコニコして「ありがとうござ こが悪いのかさっぱりわからないので教えて下さ います。」とお礼を述べて帰りました。 い」と言いました。結果の通知票を見たら項目毎 後日別の会場に伊美府銘(いみふめい)さん(65 に数字が書いてあり、別紙(参考基準値)の数値 歳)が奥さんに付き添われて受診しました。 「伊美 と比較しながら、受診者のデ-タを読み取り判断 (いみ)さんは昨日の夕食は何を食べましたか。 」 することになります。しかし健診項目には、総コ と尋ねたら、「え~ 何を食べたかって聞かれて レステロ-ル、中性脂肪、ヘマトクリット、ヘモ も・・・、何も食べなかったよね」と言って付き 、血清クレアチニンなどと、素人に グロビンA1c 添いの奥さんの同意を求めました。すると奥さん は聞き慣れない医学用語が羅列してあり、これか が、 「焼き肉と野菜サラダと漬け物と大根の味噌汁 ら健康状態を読み取れと言われても麻衣年さんが にごはんでした」と言いました。そう助言されて 困るのは当然です。 も伊美さんは何の疑問も持たない様子でボ~ッと 健診結果については実施した健診センターが受 していました。その後伊美さんが急に「先生、家 診者のみなさんに丁寧に説明し、健康維持の指導 内が私にごはんを食べさせてくれないのです。ひ まで受け持ち、経過観察してこそ意義があると考 どいもんです」と吐き捨てるように言いました。 えます。受診者は自分の健診結果を知り、その内 そこで私は「伊美さん あなたの奥さんは優しい人 容を十分に理解することが健診の入り口であり、 なので心配はいりません。奥さんは伊美さんの健 健康維持を考えるきっかけであることを認識して 康を考えているので奥さんの言うとおりにして下 欲しいです。言い換えると受診者は健診を受けた さい」と諭しましたが、どこまで理解できたかは ことで万事終了したと思い込んで満足してしまう わかりません。 のではなく、日常生活で生活習慣などに気をつけ、 認知症の発症は90歳以上では4人に1人、60歳 その努力が翌年の健診でどうなるかを知ることが 代では10人に1人との報告があり、その原因につ 明日へ生きる励みとなると信じます。 16 山形県医師会会報 平成28年11月 第783号 ナパバレー ワイン物語 新庄市 三 條 典 男 レイル・ビンヤード 2 ナパ・バレーは文字通り、ヴァカ山脈とマヤカ マス山脈に挟まれた峡谷である。此処を南北にカ リフォルニア29号線が走り、最南端のナパ市を皮 切りにヤウントヴィル(Yount vi l l e)、オークヴィ ル(Oakvi l l e)、ルザフォード(Rut her f or d)、セイ 写真1 ロビンが育った頃のイングルヌック・ワイナリー (現 ルビコン・イングルヌック) ン ト・ヘ レ ナ(St .Hel ena)、カ リ ス ト ー ガ (Cal i s t oga)と連なっている。CA29はまさにワイ の実態を学ぶことになる。ロバート・モンダヴィ ン街道とも言うべき道路で、街道沿いには有名な はグスタフ・ニーバウムやジョン・ダニエルの薫 ワイナリーが目白押しである。ルザフォードには 陶を受けた一人で有り、ロビンをかわいがってく 現在イングルヌックの名前を取り戻したコッポラ れた。そこへ、フランスはボルドーのクリスチャ のルビコン・コッポラ・エステート(現イングル (注2)がNapa ン・ムエックス(Chr i s t i anMouei x) ヌック・I ngl enook)がある(写真1)。此処のホー にワイナリーを作りたいという話が舞い込んだ。 ムページを見ると、グスタフ・ニーバウムからジョ モンダヴィはロビンをムエックスに紹介し、ロビ ン・ダニエル・ジュニアまでの系譜をたどること ) ンはムエックスが設立したドミナス(Domi nus が出来る。しかし、ジョン・ダニエル・ジュニア でパートナーとして働くことになり、ここで、ロ のイングルヌックのワインの精神を真に引き継い ビンはヨーロッパのワイン造りを知ることになる。 でいるのは、娘のロビン・レイルであると言える。 ドミナスは今でもカリフォルニアを代表する有名 彼女は、1964年に父を失い、70年にはイングル なワイナリーだが、そのブドウ畑は、ナパヌック ヌックを売却せざるを得なかった。しかし、彼女 (Napanook)と言う銘醸畑であり、かつてロビン の中にはワインを育んできた代々のワイナリー・ の父親のジョン・ダニエルが所有していたものだ。 オーナーの血が滾っていた。彼女はスタンフォー ジョンの死後、畑はロビンと姉妹のマーシャ・ス ド大学を卒業すると、直ぐにロバート・モンダヴィ ミスの所有になっていた。モンダヴィの口利きで )のワイナリーに製品管理、販 (Robe r tMondavi ムエックスはこの畑を共同所有するドミナスを設 売のマネージャーとして就職する。そこで、初め 立することになった。此処での経験が後にグラマ て近代のワイナリーの経営、ワインの製造、販売 ラスなだけのカリフォルニア産カベルネ・ソービ 山形県医師会会報 平成28年11月 第783号 17 ニョンのワイン造りとは一線を画するボルドー寄 は、果実寄りのビッグなワインよりは、より複雑 りの味わいのレイル・ビンヤード独特のワインを 性のある通の好むワインと言えよう。彼は今では 目指すことになる。やがて、ムエックスはドミナ カリフォルニアでは、3本の指に数えられる名ワ スの経営が軌道に乗ることを見越して、1995年に インメーカーである。フィリップは現在では様々 ロビン姉妹からナパヌックを買収し単独所有とな なワイナリーでワインメーカーとして働いていて、 る。ロビンは、その後メリーヴェイル(注3)に かつ、自分のワイナリーも持っているが、最も長 移って醸造のテクニックを学ぶが、ドミナスのナ く働いているのは、ロビンのワイナリーである。 パヌック買収に依って得た収入で、レイル・ビン ロビンも彼に全幅の信頼を寄せている。 ヤードを設立することになる。 3に続く 設立にあたって、ロビンはドミナスでワイン メーカーの助手として働いていたフィリップ・メ ルカ(Phi l i ppeMel ka)をワインメーカーとして雇 い入れた。彼は、ボルドー生まれのボルドー育ち。 だから彼はカリフォルニアで全盛を誇るヴァラエ 注1:3つの畑は、カリストーガ、オークヴィル、 ハウエルマウンテンにある 注2:クリスチャン・ムエックス ボルドーの シャトー・ペトリュスのオーナー タル・ワイン(ブドウの種類を表示したほぼ1種の 注3:メリーヴェイルは1933年に設立されたワイ ブドウで作るワイン)ばかりではなく、カベルネ・ ナリーだが、1986年ボンドやハーランで有名 ソービニョンやメルロー、プティ・ヴェルドなど なビル・ハーランの所有となった。ロビンは をブレンドしたワインも得意とする。彼のワイン ハーランの元で働いたことになる。 写真2 ロビンとフィリップ