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Wyche Documents (National Archives of
Kobe University Repository : Kernel
Title
Wyche Documents(National Archives of
Ireland)〈Materials〉
Author(s)
雪村, 加世子
Citation
海港都市研究,7:53-63
Issue date
2012-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81003839
Create Date: 2017-03-31
53
Wyche Documents (the National Archives of Ireland)
雪 村 加世子
(YUKIMURA Kayoko)
およそ 16 世紀~ 18 世紀を対象とするアイルランド近世史の分野において、1922 年の
国立文書館爆破で多数の公文書が失われたことが研究者にとって大きな問題となってい
る。しかし、当時の状況を知るための史料が全くないわけではない。当時の行政官は任期
中に扱った公文書を持ち帰り、私文書とともに保管することが珍しくなかった。また、当
時アイルランドを支配していたイングランドの史料として、イングランドの文書館に保管
されて爆破の難を逃れた例が多々ある。こうして現在まで残った重要史料の一つが、アイ
ルランド国立文書館所蔵、Wyche Documents である。
Wyche Documents は、1930 年にアイルランド国立文書館が個人から購入した、Sir
Cyril Wyche (c.1632-1707) の文書からなるコレクションである。Wyche は元々アイル
ランドに利害を持つ家の生まれではなく、イングランド人の両親を持ち、父が外交大使で
あった為にコンスタンティノープルで生まれたものの、その後はイングランドで教育を受
けている。彼は 1655 年にオックスフォードで学位を得た後、1657 年にグレイズイン法
学院に入学し、1670 年にイングランドの法曹界に入った。1661 ~ 87 年(80 ~ 81 年除
く)と 1702 ~ 05 年はイングランド議会の下院議員であり、1662 ~ 75 年はイングラン
ド大法官庁 Chancery の 6 人の事務官の一人として働いていたほか、様々な下級官職を
務めており、1670 年代までにはイングランドにおいて事務官・行政官として豊富な実務
経験を積んでいたと見られる。
Wyche がアイルランドに関わるのは 1676 年 8 月に Arthur Capel (earl of Essex) の
主席秘書官 Chief Secretary に任命されてからである。これ以後、1707 年に亡くなるま
で、アイルランド総督の主席秘書官・アイルランド総督代理 Lord Justice・没収地管財人
forfeited estates trustee(1700 年~)・アイルランド下院議員(トリニティカレッジダ
ブリン選挙区、1692 年)
・アイルランド枢密院顧問官(1676 ~ 85 年、1692 ~ 1707 年)
としてアイルランド行政府(通称「ダブリン城」)で働き続ける。
Capel の時代は総督に同行してアイルランドに渡って数か月在住したものの、国王が
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Wyche のイングランド議会出席を望んだことにより、1692 年以前は基本的にはロンド
ンに留まり、
代わりに Sir William Ellis が現地での秘書官を務めていた。Wyche はチャー
ルズ 2 世やジェームズ 2 世への影響力があったため、逆に彼がロンドンに残ることによ
りアイルランド総督の利害をロンドンで代表し、最新のイングランド議会の動向をダブリ
ン城に伝えることができ、アイルランド政府にとってかえって好都合であったと言える。
1693 ~ 5 年はダブリンにおいてアイルランド総督代理として積極的に現地の政治に関
わっている。またジャコバイト戦争後、ウィリアム 3 世による没収地処分の方針に反対
を表明したことを買われて、イングランド議会から没収地管財委員会のメンバーに任命さ
れ、1700 ~ 3 年はダブリンにおいて事実上この委員会の議長を務めた。イングランド議
会での最後の任期中は、審議中の航海法がアイルランドのリネンに適用されないように訴
えた。こうした経歴から、およそ 30 年にわたりアイルランド行政府の利害を代表し続け
た人物であると言えよう。
彼がダブリン城の行政官を勤めた 30 年間は、アイルランドでは劇的な勢力変化の時代
である。チャールズ 2 世の王政復古時代、1685 年以後のカトリックの勢力巻き返しが見
られたジェームズ 2 世時代、1689 ~ 91 年のジャコバイト戦争(イングランドにおける「名
誉革命」
)
、そして 1692 年以降のプロテスタント優位の支配体制が強化されるウィリアム
3 世時代と政治体制や支配者が次々と変わる中で Wyche はダブリン城で行政の要職を確
保しつづけるという驚異的な結果を残す。これは、全く性質の異なる歴代総督およびイン
グランド行政府の人々が、共通して彼の行政官・事務官としての能力の高さや、国王はじ
め各方面とのコネクションの強さを評価していたためである。この結果、本コレクション
には彼が離職時に持ち帰った様々な行政文書が含まれており、17 世紀後半の激動の変化
にダブリン城がいかなる対応をしていたかを知る重要な手がかりとなる。これまでにも政
治史[Hayton 2004]や、アイルランド近世経済史の古典的研究[Cullen 1968]など
で広く参照されている。
このように、重要性が広く認められた史料ではあるが、利用するのは容易ではない。そ
の原因はこのコレクションが雑多な史料の寄せ集めであるという点にある。一部は文書館
員によって整理されているが、全てに索引がついているわけではない。筆者がアイルラ
Sir Cyril Wyche の 出 自 や 経 歴 に 関 し て は Dictionary of Irish Bibliography Online, を、 史 料 Wyche
Documents の 考 察 と 紹 介 に つ い て は “Memorandum on Sir Cyril Wyche Documents”, in The Fifth-Seven
Report of the Deputy Keeper of the Public Record and Keeper of the State Papers in Ireland, Dublin, 1936, pp.
479-518 を参照。
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ンド国立文書館で調査した限りでは、このコレクションは合計 4 箱(box no.2/466/10、
11、12、13)に収められている。box の 10 と 11 は 1634 ~ 1700 年のものを中心とし
た統一性のない書類が入っており、例えばダブリン城財務局発行の領収書、ダブリン城へ
の請願の手紙、文官・武官の給与一覧が見られる。box の 12 は文書館員によって内容紹
介が書かれている史料が保存されている箱であり、やはりアイルランド各地からの請願・
報告が中心である。特にジャコバイト戦争後のトーリー・非正規兵取締りに関する書簡が
いくつか残っており、当時の社会不安を知るための重要な手がかりとなる。13 は 1692
~ 3 年にダブリン城に提出された請願の数々とそれに対する総督からの指示の記録であ
る。ここではジャコバイト戦争の混乱直後という時代のためか、土地係争の仲裁や恩給を
求める請願が多い。いずれの史料も、主に叙述が中心であるため、数字のデータを抽出し
て統計を取るには向かない史料である。また、調査にあたっては明確な目的を持って臨む
必要があるだろう。こうした様々な問題はあるものの、Wyche Documents の叙述史料は、
政治史偏重やローマ・カトリック中心の傾向が見られる従来の歴史観では見過ごされが
ちな側面を発見するのに有用である。その一例として、本稿では box 12 の Christopher
Carleton 訴訟の史料を紹介したい。
1691 年 10 月、ジャコバイト戦争がリムリック条約によって終結した際、敗北したジェー
ムズ 2 世の軍隊は条約の規定によりジェームズ 2 世とともにフランスに渡ることが許さ
れた。これによりフランスに渡ったジャコバイト軍は Patrick Sarsfield 将軍以下およそ
12,000 人であったと言われる。一般に彼らは ‘Wild Geese’ と呼ばれ、アイルランドの
ナショナリスト史観の中では、イングランドによる植民地化の過程で起きた民族の悲劇
として語られてきた。近年ようやくこうした感傷的な見方を超えて、アイルランドから大
陸ヨーロッパへの移民の一形態として、あるいは彼らがその後ヨーロッパのカトリック諸
国の軍隊に与えた影響という視点から、活発に学術研究が行われている[Bracken 2001:
127-142]
。この Christopher Carleton の訴訟に関する文書からは、こうした観点のほか
にも Wild Geese が兵士の輸送を請け負った商人・海運業者たちに与えたインパクトにつ
いて新たに明らかにすることができる。
Christopher Carleton の訴訟の記録である no. 145 は 2 つの部分から構成される。まず、
アイルランドで有力な徴税役人であった Christopher Carleton を告訴する 15 の証拠文
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書要約および 2 通の宣誓証書からなる前半部分と、これに対して Carleton 側が提出した
7つの反証からなる後半部分である。どちらもアイルランド総督代理に提出されており、
その過程で Wyche が関わり記録させたものと推察される。内容から、1694 年 9 月にダ
ブリンの商人 Francis Babe が中心となり、当時コークの商人兼徴税官 collector であり、
のちにアイルランド税務委員 Revenue Commissioner になる Christopher Carleton が、
政府から指示された Wild Geese 輸送の帰りに、対仏戦争により輸入が禁じられているフ
ランス商品を持ち帰って私腹を肥やしたと訴えていることが分かる。
前半部分のダブリン城書記による要約から、この告発において Babe が提出した文書は
1. ウィリアム 3 世側の将軍 Ginkle が Mr Perara に与えた認可状の控え
2. Perara から Henry(船籍 : ロンドン)船長 Robert Savege への輸送依頼書類
3. Henry がブレストで兵士を降ろしたことを証明するフランスの証明書及び帰国の
ための通行証
4.「偽の」特権に基づきフランス商品を運ぶように指示する、ウィリアム 3 世のデー
ン人部隊兵站部将校 Daniel Butts から Savage への命令
5. ダブリンの商人 Robert Twigg から Savage への手紙 (1692.3.5)
6. Butts から Savage への輸送依頼の領収書控え及びフランスの通行証
7. Twigg から Savage への手紙(1692.4.9)
8. ウォーターフォード税関が Henry を拘留する際に作成された公正証書
9 & 10. 拘留された船及び船荷の審議中の返却・処分に対して関係者が保証金を支払
う命令に関する書類[要約の一部破損]
Wyche Documents Box no.2/466/12, no.145, “An Account or Abbreviation of the Several Letters and Other
Papers Relating to Christopher Carleton Esq his Trade with France: the Originals Now Being before the Hon[ble]
the Lords Commissioners of their Majesties Treasury, Being Numbered from 1 to 15 and As Follows.”
Wyche Documents, Box no.2/466/12, no. 145, “The Answer of Christopher Carleton Esq to a Paper Containing
As It Is Titled, an Observation of Several Letters & Other Papers Relating to his Trading with France Delivered
to their Ex[cies] the Lords Justices of Ireland by Mr Francis Babe in September 1694 Numbered from 1 to 15.”
アイルランド税務委員はアイルランド税務局の最高役職であり、ダブリンで基本的に毎日委員会を
開いていた。全国の税関からの報告の審議や税関の人事任免が主な仕事で、ダブリン城との連携も多
かった。税関関連の数多くの公職の任免権限を持ち、アイルランドで最も報酬が高いとされた要職で
ある。Carleton は 1692 年 4 月 19 日の国王宛の手紙で「彼の長年にわたる徴税の経験が委員会の運
営に必要である」という理由で初めてアイルランド徴税委員に推薦され、以後 1702 年まで繰り返し
同職に任命された。委員会への出席率の高さと周りの政府関係者の言葉から、彼が同委員会で重要な
役割を果たしていたことやかなりの社会的影響力を持っていたことは間違いない。Calendar of State
Papers, Domestic Series ( 以下 CSPD), 1st November 1691-end of 1692, [Lord Godolphin] to the King, April 19
1692, p. 245; CUST 1 vol. 3.
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11. Henry 船長 Savage が関係者全員、特に Carleton に対して行った抗議の経緯[要
約の一部破損]
12 & 13. Twigg がダブリンでブレストからの積荷を全て受け取ったことを示す書類
14. ダブリン城の書記に関係なしと記載された、内容不明の書類
15. アイルランド兵站部長の一人が提出した書類
16. George(船籍 : ベルファスト)の John Sincler 船長による宣誓証書(1694.4.12)
17. Sunflower(船籍 : ロンドン)の John Pearce 船長による宣誓証書(1694.4.12)
の 17 点であることが分かる。
これに反論して Carleton が出した書類は
a. Carleton 本人の宣誓証書
b. Daniel Butts の宣誓証書 (1694.9.3)
c. Robert Twigg の宣誓証書 (1694.11.21)
d. デーン人部隊輸送を依頼する、アイルランド政府からの文書(1691.12.28)
e. コーク港税関による 1691 年 12 月 11 日に Swan(John Pearce 船長)が入港し
たことの証明(1694.8.11)
f. 1691 年 12 月 7 日に行われた Swan の入港検査についてのコーヴの税関検査官
surveyor による宣誓証書(1694.8.11)
g. コーヴの税関船船頭 boatmen による宣誓証書 (1694.8.11)
の 7 点である。
内容を検討すると、1 ~ 3 は政府から商人たちに出された、ジャコバイト軍のフランス
移送命令に関する文書である。これらは、政府は輸送船を必要数雇うことを許可している
が、船がフランスから商品を持ち帰る権利を認める文言はなく、Carleton らのフランス
商品輸入の根拠とされている政府とジャコバイト軍の将軍間の取り決め自体が疑わしい、
という Babe の主張の証拠として提出されている。
Wild Geese 輸送船がどのようにフランスから物品を持ち帰ったかについてもこれらの
要約から知ることができる。2 では、もしブレストに入港した場合はそこでウィリアム 3
世のデーン人部隊兵站部将校 Daniel Butts の指示に従うこと、と Perara が Savage に指
示している。3、4、6 は実際に Savage の船の Henry がフランスのブレストに入港して
兵士を降ろし、Butts の指示で帰りに荷物を積んだという証拠書類である。6 はイングラ
河川内港であるコーク港下流の河口付近に位置する港で、本証明書内ではコーク港の一部として扱
われている。
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ンド海軍の司令官、David Condon が海上で遭遇した Henry を捜査した際に押収したも
ので、ここからも Butts がフランスで商品とフランスの通行証を積むように指示している
ことが分かる。Condon の軍艦はいったん Henry を拿捕したものの、悪天候のため護送
途中で離れてしまい、Henry は無事にウォーターフォードに着いたと説明書きがつけら
れている。
8 ~ 10 および 12、13 は Henry がウォーターフォードに到着した後の経緯を説明する
ための証拠書類である。その内容から、ウォーターフォードの税関で Savage の積荷がフ
ランスからの密輸品の疑いをかけられていったん没収されたのち、Twigg が 1,700 ポン
ドの保証金を支払って船と積荷を請け出して無事売却に至ったことが分かる。
5、7、11、16、17 はこのフランス産商品の輸入に Carleton、Twigg、Butts が中心と
なって関わり、違法行為を隠蔽しようとしていたことを示すための証拠である。5 と 7 で
は、Carleton からウォーターフォードなら安全に上陸できると助言されたのでダブリン
ではなくウォーターフォードに行くように、また政府の軍艦に見つからないように、と
Twigg が Savage に指示している。その後に続けて、Butts のことを案じる言葉とフラン
スからのワイン等を売り捌く算段、さらに Carleton がコークからダブリンに向かう途上
でウォーターフォードに立ち寄る予定なので Carleton の指示に従って積荷を処理するよ
うにという指示が書かれている。また、この取引が Twigg、Carleton、Butts をはじめと
する人々の買掛で行われていることも示されている。
11 からは Henry の船長である Savage が本件に関して関係者全員、特に Carleton を
非難し、Babe と一緒になって Carleton 批判の側に回ったことが読み取れる。16 と 17
は Babe が集めたほかの船長からの宣誓証書である。この証書は当時のロンドン政財界の
大物商人、John Houblonの前で宣誓の上作成されており、騒動の規模が決して小さくな
いことが分かる。ここではベルファストの John Sincler 船長とロンドンの John Pearce
船長が、自分たちが他の船長たちと同様に Carleton、Butts、Twigg およびその他アイル
ランドの人々の指示でフランスの商品をアイルランドに運んだこと、もしイングランドの
軍艦に出会ったら彼らの指示が書かれた書簡を即船上から処分するように指示されたこ
と、さらには Carleton が徴税官の立場を利用して関税逃れをしているということまで、
具体的に告発している。
これに対して Carleton は a と c で、当時のアイルランド総督代理やイングランド軍か
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らジャコバイト軍およびデーン人部隊の輸送を何件か請け負ったが、この際にフランス
の品物を輸送したのは国王が Sarsfield 将軍に認めた正当な権利に基づいてのことであっ
た、Sarsfield 将軍は現金も信用買いをする手段もないため、自分が彼の代わりに決済した、
と真っ向から反論する。Carleton は彼もその他のプロテスタントの商人達も私利私欲の
ためにフランス商品を輸入したのではなく、あくまで国王陛下のためを思ってのことであ
り、この仕事がアイルランドの「法王教徒 papists」の手に落ちて彼らの利益になるのを
防ごうと考えて熱心に働き、結果として政府はこの輸入で確かに利益を得たではないか、
と主張する。
証拠として彼は e ~ g のような税関書類を提出し、入港時の検査では Pearce が主張す
るような不正は見つからなかったことを示す。また、5 で主張されたような Twigg への
助言はしていない、Sincler の供述する積荷のいずれにも関わっていない、Sarsfield の品
物以外の船荷で自分の個人用として委託されているものは本人の関知しない間に同意なく
行われたものである、どの書類も自分が法に反した証拠にはならない、と Babe の主張を
全面的に否定する。これを補強するように b と c が提出されており、ここでは Butts と
Twigg が確かに Ginkel の許可により Sarsfield の為に輸送船 Mary、Diamond、Crown、
Henry、George にフランスの商品を積んだが、Carlton 宛で送付・決済されている物品
のうちのいくつかは税関の備品か、彼の関知しないところで名前が使われていただけのこ
とであると証言する。
このように自らへの嫌疑に一つ一つ反駁した上で、Carleton は原告たちを攻撃し始め
る。彼はこの悪意ある証言の黒幕は Babe と Robert McCarroll という商人であるとし、
Babe については彼が税務局の役職を解雇されたことで 1692 年 8 月に Carleton やアイ
ルランド税務委員会とトラブルになっていたことを指摘する。他方で McCarroll につい
ては長らくフランスのロシェルに住み、彼こそ対仏禁輸に違反してフランスの各地にア
イルランド産のバター・牛肉を頻繁に供給しており、これをかつて Carleton が捜査して
証拠品を押収し、有罪判決を受けたことがあると非難する。その他にも 1692 年 11 月に
McCarroll がイングランド船を他の在ロシェルのアイルランド系商人と共同出資して購入
していたこと、その船でフランスとの違法取引に従事してイングランドに拿捕されたこと
Carleton によれば、アイルランド総督代理の許可により Sarsfield は 300 トンを超えない範囲でフ
ランスの物品をジャコバイト軍輸送船で運んで良いこととされていた。
Carleton の証言に「通報を受けたアイルランド総督 Lord Sidney の命令で」とあるため、Sidney
の任期から判断してこの捜査もまた 1692 年~ 93 年に起こったものと推察される。
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などの余罪も訴え、彼らが Carleton を攻撃するのはこうした経緯で彼を逆恨みしてのこ
とで、今回の一件は全くもって不当な批判であると主張する。
同じ Box12 の no.183 に Carlton の主張を裏付けるような Ginkel からアイルランド総
督代理への手紙が 1691 年 9 月 28 日の日付で残っている(‘our Lord p[s] to conive[sic]
at his[Sarsfield’s] sending back some wine & french[sic] goods in the shipps[sic] that
carry over the Irish troopes[sic] w[ch] is the thing he[Sarsfield] desires’)。no.183
には他にも Henry、Crown(船籍 : ホワイトヘイヴン)、Master(船籍 : ダブリン)、
Diamond(船籍 : ヨール)の拘留解除を命令する、1692 年 4 月から 93 年 3 月にかけて
のイングランドおよびアイルランド政府から税関や海軍基地への書簡が同一の書記の手
によってまとめて記録されている。ここから、Henry だけではなく、密輸の疑いで他の
輸送船も拘留されており、同じように積荷と船の没収を免れたことが伺える。Carleton
が宣誓証書の中でこれらの書類を別紙で添付したと述べていることから、no.183 は
Carleton が用意した証拠文書の写しである可能性が極めて高い10。
これらの一連の告発と反論から、Wild Geese 輸送が複数の商人の手によって請け負わ
れ、彼らは「特権」により帰り荷にフランス製品を積み、これを密輸と見なした税関・海
軍に拿捕され、その後積荷と船は返却されたものの商人たちの間に 3 年越しの係争が残っ
た、というこれまで知られていなかった側面が明らかとなる。この出来事を正確に解釈す
るためには、背景としてこの時アイルランド貿易が直面していた危機について理解しなけ
ればならない。
17 世紀後半、イングランド王の支配地域では、戦争が始まると海上で敵国の私掠船に
襲われる危険性がある上に、海軍の人員を確保したい政府が商船の出航を制限するため、
通常の交易は大幅に制限されていた。イングランド海運業の研究では戦時中、商人は政
府の仕事 service か私掠船になるかのどちらかしか選択肢がなかったとすら言われている
[Davis 1962: 332]。特に 1690 年代は交戦国との取引を禁じる法律に加え、フランスの
私掠船が活発に活動しており、イングランド王の支配地域全体でフランスとの直接取引が
難しくなっていた。アイルランドも例外ではなく、輸出入記録からアイルランド・フラン
ス間の直接取引が公的には消滅していることが分かる11。
Wyche Documents, Box no.2/466/12, no. 183, Ginkle to Lords Justices, 28 September 1691.
10 Wyche Documents, Box no.2/466/12, no. 183.
11 フランス側の主要な取引相手であった St. Malo の貿易統計からもアイルランドとの間の船の入出港
が完全になくなっている。Delumeau, J. et. al. La mouvement du port de Saint Malo, 1681-1720, Paris, 1972.
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しかし、戦争中もアイルランドでのワインや塩などのフランス産製品の需要がなくなる
わけではない。よって 1692 年当時、アイルランド貿易に関わっていた商人・海運業者は
フランスとの新たな取引方法を考えなければならなかったと言える。当時、様々な理由に
よる禁輸を回避する一つの手段として、普遍的に密輸が行われていた。大々的にではな
いにせよ、ある程度の密輸の成功が禁輸命令の衝撃を緩和していたということは各地の
経済史研究により既に指摘されている[Cullen 1968: 139-154][Smout 1963: 32-46,
63-71]
。また、輸入元を交戦国のフランスからポルトガルやオランダなどに切り替える
ことで商品の調達を図っていた可能性が高い12。本史料の記述からは、アイルランドの場
合はこうした一般的な回避方法に加えて、たまたま大規模な軍隊をフランスへ輸送する機
会があり、これがフランス商品輸入に利用されたと新たに指摘できるだろう。
さらに、輸送が請け負われた過程を分析すると当時のアイルランド貿易と商人社会の
特徴も見えてくる。Babe の記述では、ウィリアム軍の最高司令官であった Ginkel から
Perara なる人物に傭船契約を結ぶ権利が与えられ、Perara がロンドンの Savage 船長
に実際の輸送を任せ、Butts を通じてフランス商品を持ち帰る手配を行っている。一方
Carleton はアイルランド総督代理やイングランド国王軍の兵站部将校らから複数の依頼
を受け、その都度船を手配している。また輸送に使用された船を列挙すると、ダブリン、
ベルファスト、ヨールといったアイルランド船籍の船だけでなく、ロンドンやホワイトヘ
イヴン、カナーファン Caernarfon など、イングランドやウェールズの船にも輸送の仕事
が依頼されていることが分かる。これらの港はアイルランドの主要な取引相手であり、実
はこうしたアイルランド外に船籍を持つ船こそが当時のアイルランド貿易において運送の
大半を担っていた13。ここから、Wild Geese 輸送の仕事は最初に依頼を受けた Perara や
Carleton の平時の取引関係を通じて割り振られ、持ち帰ったフランス産商品もこのネッ
トワークを通じて処分される予定であったことが読み取れる。その途中で関係者の間で何
らかのトラブルが発生し、訴訟に発展したと推測できるだろう14。
12 アイルランドの関税記録から、戦時はフランスとの直接取引がなくなる代わりにポルトガルとの取
引量が増えてフランスからの商品の減少分を補う傾向が見られる。CUST15 vol. 1-8.
13 1698 ~ 1705 年については CUST 15 の vol.1-8 から確認できる。
14 イングランド航海法(1660 以後数回にわたり施行)の規制だけでなく、資力の大きさや商業イン
フラがよく発達していたことから、アイルランドへの輸出入取引はアイルランドよりもむしろイング
ランドで計画・決済されていた。Dickson の研究によれば雇い主の注文を受けたイングランド・ス
コットランドの船がアイルランドに立ち寄って指定された商品を積んで目的地に運ぶ、commission
business という大西洋貿易のパターンが 17 世紀後半に発達している。17 世紀~ 18 世紀の「アイル
ランド貿易」の大半は実際には外部の商人主導の大西洋・ヨーロッパ貿易の一部であったと言えよう。
Dickson, D. Old World Colony, Cork, 2005, chap. 5.
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輸送に関わった複数の船が拿捕された経緯の記述を見ると、イングランド・アイルラン
ドの海軍や税関は背景のいかなる事情も知らされていなかったため、フランス製品を積ん
でいた船を規則に従って拿捕してしまったものと考えられる。ダブリン城もイングランド
政府もこの件に関しては、将軍同士の取り決めの有無については明言を避けつつ、速や
かに商人・運送業者の利益が回復されるように取り計らっている。文書 9 と 10 で Twigg
に課された 1,700 ポンドの保証金は 1692 年 9 月 28 日には国王から撤回が通知されてい
る15。同じく拿捕された輸送船の Crown については、他の史料からこの船がホワイトヘ
イヴンの地主でアイルランド向け石炭輸出業者であった Sir John Lowther の傘下の船で
あり、奪回にあたって彼の影響力がかなりの程度発揮されたものという見解が出されてい
る16。このような有力な関係者の働き掛けは没収品回復の重要な要素であったと見られる
が、一方で、調達困難なフランス製品がアイルランド市場に流入すればアイルランド政
府にとっても利益になるため返却する方が得だと判断されたというのも一つの理由であろ
う。そして、これだけの証拠でははっきりと断言はできないが、Carleton 側が主張する
ようにジャコバイト戦争終結交渉の中で、ウィリアム軍の功労者 Ginkel とジャコバイト
軍の英雄 Sarsfied の間に、極めて現実的な内容の密約が存在した可能性は状況から考え
て決して低くはない。
このように、決して膨大とは言えない Wyche Documents の叙述史料であっても、当
時の国際商業史の文脈の中で適切に考察することで、アイリッシュカトリックの民族独立
史や政治史に偏った見方では見えてこない、イングランドの大西洋交易圏の一部としての
アイルランドの姿が見えてくる。そこではプロテスタント系の商人がイングランドの影響
力を利用して、極めて現実的に利益を追求している。こうした叙述史料はアイルランド・
イギリスを中心に、散逸しつつも他にも数多く眠っていると見られる。アイルランド近世
史研究者にとっては、こうした断片史料を全体の中にどのように位置づけ、いかに意味あ
る歴史像を描くかが課題であろう。
参考文献
Bracken, D. 2001, “Piracy and Poverty: Aspect of the Irish Jacobite Experience in France,
15 Wyche documents Box no.2/466/12, no. 183, the Queen to the Dublin Castle, 27 September 1692.
16 Hainsworth, D. W. (ed.) The Correspondence of Sir John Lowther of Whitehaven 1693-1698: A Provincial
Community in Wartime, London, 1983, p.xliii; CSPD, 1693, 16 & 18 March 1693, p. 67.
Wyche Documents (the National Archives of Ireland)
63
1691-1720”. In: T. O’Conner (ed.), The Irish in Europe, 1580-1815, Dublin, 127-142.
Cullen, L. M. 1968, Anglo-Irish Trade, Manchester.
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(神戸大学大学院人文学研究科)
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