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20160810 資料2
2016/08/10 免許状更新講習「倫理とは何か」 一時間目「倫理と人間」 《はじめに》 この時間ではまず講習の狙いや進め方を簡単に説明し、この講習の主人公である和辻哲郎による、 「倫理」 と「人間」ということばの分析と、そこから導き出される主張について考えます。 ・この講習について ○講習の狙い 1) 日々様々な文脈で話題になり、公民科の授業の科目名にもなっているが、いざその意味 を問われると困惑する人が多い「倫理」について、代表的な日本人の倫理学者である和辻 哲郎の議論を参考にしつつ、あらためて一から考える。 2) また和辻の議論が踏まえたり批判したりしている、西洋の代表的な哲学者の発想も押さ えることで、高校の倫理の授業でもとりわけ重要な位置を占める、西洋の代表的な哲学者 の思想についての理解を深める。 3) さらに講義だけではなく、 「哲学対話」という哲学・倫理学の分野で近年注目されている 授業の形式も取り入れ、この講習にふさわしいかたちで実践してみることで、参加者のみ なさまの日々の授業の参考にしていただく。 ○講習の各時間の進め方(おおまかな目安) 0~10 分 前の時間の対話についての振り返りや補足 10~20 分 当該時間の内容についての導入 20~50 分 和辻の議論の紹介 50~60 分 和辻に対する代表的な批判の紹介 60~90 分 哲学対話 (一時間目はガイダンス) (四時間目は試験) ○評価について 成績をつける必要があるため、四時間目の最後の三十分間で試験を行います。記述式で、 授業で取りあげた和辻の思想を自分のことばで説明し、またその説明した思想に対する自 分の考えを論じていただく問題を用意しています。 講習で扱った基本的ないくつかの内容のうちから、書きやすいものを選んで論述しても らう、選択式の記述問題です。そのため、細かい知識や、講習のすみからすみまでの理解 は、試験のためにはかならずしも必要ではありません。 評価のポイントは、①授業で扱った和辻の思想の理解、および、②その理解した和辻の 思想に対する自分の考えの展開、の二点です。①については私の話を正確に再現するとか いうことではなく、自分のことばで明確に説明できるだけ自分のものになっているかどう かを評価します。②は和辻への賛同/批判などの立場に関わりなく、論述が具体的な倫理 や人間のあり方を踏まえつつ、論理的に展開されたものになっているかどうかを評価しま す。とくに哲学対話の時間を活用して、自分の考えを深めていただければと思います。 ①古典的な発想 ○「ポリス的動物」としての人間 かくて以上によって見れば、国家が(まったくの人為ではなくて)自然にもとづく存在 の一つであることは明らかである。また人間がその自然の本性において国家をもつ(ポリ ス的)動物であることも明らかである。そして国家をもたない者があるとすれば、もしそ れが偶然によるのではなくて、生まれつき自然にそうなのだとしたら、それは人間として 劣性のものであるか、あるいは人間以上の何ものかである。……共同体に入りこめない者、 あるいは自足していて他に何も求めることのない者がもしあるとしたら、それは国家社会 のいかなる部分ともならないわけであって、したがって野獣か神かであるということにな (アリストテレス『政治学』68~70頁) る。 ②和辻哲郎の「倫理」と「人間」論 1) 「倫理」という言葉からの出発 出発点においては我々はただ「倫理とは何であるか」という問いの前に立っている。と ころでこの問いは何を意味するであろうか。この問いが言葉によって表現せられ、我々に 共通の問いとして議論せられ得るということが、出発点においては唯一の確実なことであ 、、 る。我々は倫理という言葉によって表現せられたことの意味を問うている。…… そこで我々はこの言葉を手がかりとして出発することができる。倫理という言葉はシナ 人が作って我々に伝えたものであり、そうしてその言葉としての活力は我々の間に依然と して生き残っているのである。この言葉の意味は何であろうか。その意味の上に我々はい かなる概念を作り得るであろうか。 (和辻哲郎『人間の学としての倫理学』10頁) 2)和辻の「倫理」概念 倫というシナ語は元来「なかま」を意味する。この意味は精力絶倫というごとき用法に 、、 おいて今なお生きている。……倫がなかまを意味するゆえに、人倫という熟語もしばしば 人のなかま、あるいは人類の意に用いられる。たとえば、畜生でさえもこうである、いわ んや人倫をや(十訓抄)、というごときである。……「人倫」という言葉が人間共同態の意 味を持ちつつしかも「人間の道」あるいは「道義」の意に用いられるのは、右のごとき事 情によるのである。…… 理は「ことわり」であり「すじ道」である。だからそれが人間生活に関係させられれば 理の一語のみをもってすでに「道義」の意味を持ち得る。人間の理は人間の道である。し かるに「倫」は一面において人間共同態を意味しつつ他面においてかかる共同態の秩序す なわち人間の道を意味した。だから「倫理」と熟する場合にもここに何ら意味の拡大は見 られない。ただ「倫」がすでに持つところの道の意義を「理」によって強調するのみであ る。…… 以上によって我々は「倫理」という言葉の意味を明らかにした。この意味からすれば単 に個人的主観的道徳意識を倫理という言葉によって現わすのははなはだ不適当である。… …我々は右のごとき語義の上に「倫理」という概念を、主観的道徳意識から区別しつつ、 作り上げることができる。倫理とは人間共同態の存在根柢として、種々の共同態に実現せ られるものである。それは人々の間柄の道であり秩序であって、それあるがゆえに間柄そ のものが可能にせられる。倫理とは何ぞやという問いにおいて問われていることは、まさ にこのような人間の道にほかならぬ。 (『人間の学としての倫理学』10~2、16~17頁) 3) 「人間」とは何か 「人間」という言葉は今漠然とヨーロッパ語の anthrōpos, homo, man, Mensch などに当 てて用いられている。しかしまた同時に「人」という言葉も同様の用法において用いられ にん る。では「人」という言葉に「間」という言葉を結びつけたのは何を意味するのであろう か。あるいは何の意味もないのであろうか。ドイツの社会学者は「人」と「間」との二語 を 結 合 す る こ と に よ っ て 、 す な わ ち Zwischen den Menschen あ る い は das Zwischenmenschliche という言葉によって、人間関係を社会とする一つの立場を言い現わ している。しかるに日本語においては「人」も「人間」も何らの異なる意味を現わし得な いのであろうか。……現代に広く行なわれている字書『言海』がこのことを明白に語って いる。すなわち人間とは「よのなか」 「世間」を意味し、 「俗に誤って人の意となった」の で あ る 。 し か ら ば 人 間 と い う 言 葉 の 本 来 の 意 義 は ド イ ツ 人 の い わ ゆ る das Zwischenmenschliche すなわち社会にほかならず、それが誤って der Mensch の意に転化 し、両語の区別が無視せられるに至った、ということになる。……この歴史的な事実は、 「世 の中」を意味する「人間」という言葉が、単に「人」の意にも解せられ得るということを 実証している。そうしてこのことは我々に対してきわめて深い示唆を与えるのである。も ちゅうり し「人」が人間関係から全然抽離して把捉し得られるものであるならば、Mensch を das Zwischenmenschliche から峻別するのが正しいであろう。しかし人が人間関係においての み初めて人であり、従って人としてはすでにその全体性を、すなわち人間関係を現わして いる、と見てよいならば、人間が人の意に解せられるのもまた正しいのである。だから我々 、、、、、、、、 は「よのなか」を意味する人間という言葉が人の意に転化するという歴史全体において、 人間が社会であるとともにまた個人であるということの直接の理解を見いだし得ると思う。 (『人間の学としての倫理学』18~20頁) ③代表的な批判 ○解釈学的倫理学の問題性 和辻氏の新しい立場に立つ倫理学は、無論一つのモダーンな哲学方法を用いる。この方 法の検討はあと回しにするとして、少くとも最も手近な特色だけは、まず初めから問題に しま せざるを得ない。氏の倫理学では平ったく云って了えば、倫理上の言葉の文義的又は語義 的解釈を手懸りとして「学術的」分析が始められるのである。倫理とは何かといえば、 「倫」 という語は何か、 「理」という言葉は何か、それら二つが「倫理」と熟する時どうなるかが、 学術的分析の手懸りである。「人間」に就いても「存在」に就いても、この文義的語義的解 釈が欠くことの出来ない唯一の通路をなしている。…… だが一つの非常に大切な点が残っている。言葉による文義的解釈である以上、解釈され 、、 る事物はいつも国語の制約下に立たされる。「倫理」も「人間」も「存在」も皆日本語とし ての夫であって、従って之によって解釈される倫理そのもの・人間そのもの・存在そのも 、、、、、 の・は、単に日本に於ける夫等であるだけではなく、正に日本のを基準にした夫等のもの でなければならなくなる。なぜなら倫理や人間や存在は一面国際的に理解出来るものなの だが、この国際的なものと日本的なものとの折り合いになれば、この文義的解釈は云うま でもなく日本的なるものをその中心的位置に持って来ないわけには行かない。その結果、 例えば「倫理」という国語によってしか表わせないものを更に又「倫理」という国語の文 、、、、、、 義的解釈によって解釈するなら、倫理という日本語ばかりではなく、倫理そのものの日本 性を、同義反覆的に結論するのが、そのノルマルなロジックになるだろう。こうやって国 語的文義解釈を頼りにすることは、いつの間にか「日本倫理」や「東洋倫理」を結果する (戸坂潤『日本イデオロギー論』155、158~9頁) のである。 【参考】 和辻哲郎(1889-1960) 近代日本を代表する倫理学者、日本文化史家。実存思想や日本文 化などの研究から出発し、のちに独特な倫理学体系を築いた。その 倫理学では西洋哲学の知見を活かしつつも、孤立した個人ではなく、 「間柄」においてある「人間」の立場に基づき、共同体の問題や歴 史の問題までを論じる。著作に『倫理学』 『人間の学としての倫理学』 『日本倫理思想史』などの倫理学関係の作品のほか、 『古寺巡礼』や 『風土』といった、一般の読書界でも広く読まれてきた作品もある。 アリストテレス = Aristoteles (前 384-322 年) 古代ギリシアの哲学者。 『政治学』は政治学を、 『ニコマコス倫理学』は倫 理学を確立した古典。そのほかにも論理学や生物学など様々な分野で優れた 研究を残し、 「万学の祖」と呼ばれる。 戸坂潤(1900-1945) 日本の哲学者。西田幾多郎のもとで哲学を学び、和辻とも京都時代に交流があった。哲学 者としては唯物論の立場にもとづき、主著『日本イデオロギー論』(一九三五年)では、当 時の日本の日本主義やファシズムへの批判を展開した。 【出典】 アリストテレス/田中美知太郎ほか訳『政治学』 (『世界の名著8 公論社、一九七二年に所収) 和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波文庫、二〇〇七年 戸坂潤『日本イデオロギー論』岩波文庫、一九七七年 アリストテレス』中央 2016/08/10 免許状更新講習「倫理とは何か」 二時間目「自我と間柄」 《はじめに》 この時間では前の時間に取り上げた和辻の人間論を、デカルトの「私」の哲学に対する批判を検討する ことを通じて、より詳しく見ていきたいと思います。 ①古典的な発想 ○哲学の原理としての「私は存在する」 ほんのわずかの疑いでもかけうるものは、それが偽であることを私が見きわめた場合と まったく同じように、ことごとくはらいのけることにしよう。そして、ついにはなんらか 確実なものを認識するまで、あるいは、なんら確実なものがないにしても、少なくとも、 確実なものは何もないというこのこと自体を確実なこととして認識するまでは、さらに歩 みをつづけてゆこう。……けれども私は、世にはまったく何ものもない、天もなく、地も なく、精神もなく、物体もないと、みずからを説得したのである。それならば、私もまた ない、と説得したのではなかったか。 いな、そうではない。むしろ、私がみずからに何かを説得したのであれば、私は確かに 存在したのである。しかしながら、いま、だれか知らぬが、きわめて有能で、きわめて狡 猾な欺き手がいて、策をこらし、いつも私を欺いている。それでも、彼が私を欺くのなら、 疑いもなく、やはり私は存在するのである。欺くならば、力の限り欺くがよい。しかし、 私がみずからを何ものかであると考えている間は、けっして彼は私を何ものでもないよう にすることはできないであろう。 このようにして、私は、すべてのことを存分に、あますところなく考えつくしたあげく、 ついに結論せざるをえない。「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをい いあらわすたびごとに、あるいは、精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である、 と。 (デカルト『省察』33、35頁) ②デカルトの「私」と和辻の「人間」 1)和辻倫理学において絶対に確実なもの: 「私」ではなく、「間柄」の存在 我々はここに倫理学の問題を考え合うために集まっている。我々はそれを常識的に認め 合い、それに対して疑いを抱かない。そうではなくしてもしこの事実に根本的な疑いを抱 くとすれば、我々はこうして集まっていることはできないであろう。たとえば、ここで倫 理学の講義をし、あるいは聞くということは何らかの迷いではなかろうか。誤ってそう思 い込んでいるのではなかろうか。かく疑い始めれば自分は講義はできない、諸君も聞くこ とはできないであろう。だからこうして講義が実際に行なわれるということは、互いにこ の集会を疑いのない事実として認め合っている証拠である。…… そこで我々が倫理学の問題を考え合うためにここに集まっているという事実は、我々の 間には疑いのない事実として認められている。そうすると諸君が「学生」であり、自分が 「教師」であるということも、常識的に疑いのないところである。もし諸君が学生である か否かを自ら疑っているとすれば、あるいは自分が教師であるか否かに迷っているとすれ ば、この教場にはいって来ることはできない。我々はここに疑いもなく学生と教師として 、、、、、、、、、 相対し相連関している。しからばここに学生と教師との間柄があるということはわかり切 ったことである。そこで我々は現前の事実として、 「学生」と「教師」とが相寄って一定の 間柄を作るということを、確立しておくことができる。…… 、、、、、、、、、、 そこで我々は、わかり切った日常の事実として、我々が常に何らかの資格において動い 、、、、、、、、、、、、、、、、、 ていること、その資格は何らか全体的なるものに規定ぜられていること、しかもその全体 、、 的なるものは一定の資格における我々が作り出すところの間柄であること、などを確定す ることができる。簡単に言えば、我々は日常的に間柄的存在においてあるのである。 (和辻哲郎『倫理学(一)』81~82、88頁) 2)和辻のデカルト批判:個人が先か人間関係が先か 、、、、、、、、、、、、、、 デカルトの問いは、自ら明白に語っているように、学問において確実なものは何か、で ある。……彼はこの思索の時期に交友から遠ざかるがため十三度居を換えた。かく「孤独」 に身を置いて自我と対象とを対立せしめ、そのいずれが確実であるかを問うのが、彼の問 いの立場であった。しからばこの問いの立場は、実践的行為的連関としての世間から離脱 し、すべてをただ観照する、という態度を取ることにほかならぬ。従ってそれは直接的に 与えられた立場ではなくして人工的抽象的に作り出される立場である。言いかえれば人間 関係から己を切り放すことによって自我を独立させる立場である。…… しかしもし自我のみが確実に有り、他人はただ判断に媒介せられてのみ有るのであるな らば、もともと世間の煩いからの離脱というごときことは必要でない。総じて世間の煩い が成り立つはずもない。疑う我が確実となる前に、他人との間の愛や憎が現実的であり確 実であればこそ、世間の煩いがあるのである。言いかえれば観照の立場に先立ってすでに 実践的連関の立場がある。デカルトは後者の中から前者を引き出しながら、その根を断ち 切ってしまった。 (『人間の学としての倫理学』187~8頁) 3) 「共同の問い」としての自我の問い しかしこのような観照の立場に立ち自我を出発点とするにしても、それが個人の問いで あるというのはただ仮設であって、実は人間の問いなのである。なぜならデカルトの問い 、、、、、、 は、学問において確実なものを探求するのであり、従って自我以外の一切が疑われる場合 にも学者の間に存する共同の学問は疑われていないからである。……たとい彼の方法的懐 、、、、、、、 疑が全然新しい思想であるとしても、それは歴史的社会的に学者の間の問いとして発生し たのであって、我のみの立場から出たのではない。しからば我が確実である前に、何が確 、、、、、 実であるかを問うような学者の間柄が確実でなくてはならない。従って学者としての他人、 学者仲間、などが「我れ有り」の前提となっている。すなわちデカルトの問いも本質的に は人間の問いなのである。 かくして我々は我れ疑うの根柢にすでに人間の問いの存することを承認しなくてはなら ぬ。我れは単に我れではなくして同時に人間である。我れの意識は単に我れの意識ではな くして同時に共同的意識である。言葉の現象がそれを明白に示している。我れが疑いを言 、、、、、 葉によって形づけた時、その疑いはすでに共同の疑いである。だから我々は自我を出発点 とせずして人間を出発点とせねばならぬ。問いは本質的に共同の問いである。自我の問題 (『人間の学としての倫理学』188~9頁) といえども、共同の問いである。 ③代表的な批判 ○近代的学問の方法論への無理解? 和辻は以上の考察によって当然十七・十八世紀の個人主義的人間観を斥けうるとして、 先ずホッブスの国家論を次のように批判しているが、この批判はホッブスの方法論的立場 についての和辻の無理解を端的に示しているものであって、むしろなくもがなの批判だと 言うべきであろう。ホッブスの国家論に対する和辻の批判というのは、次のようなもので ある。「デカルトと同じ時代に、個人主義的な立場から人間の共同存在を説かうとしたのが 、、、、、、、、、 ホッブスであった。彼は我々の求めて得なかった孤立的独立的な個人を、確実な事実とし て前提する。……」このように和辻はホッブスの国家論を「個人主義的社会観の最も類型 的なもの」として批判しているが、ホッブズは和辻の言うように「自我の明証に基いて」 、 「孤立的独立的な個人を確実な事実として」独断的に前提しているわけではなくて、いわ ば幾何学における定義のようなものとしてそれを前提しているのである。……ホッブスの この手法はいわばガリレイの理想実験という方法に比すべき仮説的・実験的方法であって、 和辻の批判は総じて近代的な学問に於けるこの種の仮説的・実験的方法に対する無理解を 露呈するものだと言わざるを得ないだろう。 (吉沢伝三郎『和辻哲郎の面目』265~7頁) 【参考】 デカルト = René Descartes (1596-1650) 近代フランスの哲学者、数学者。物事を徹底して合理的に考えるそ の哲学や、「私」の存在をめぐる思想は、近代の学問観・人間観に重 大な影響を与え、 「近代哲学の父」と呼ばれる。 『省察』は哲学上の主 著で、他に、平易に自分の哲学と学問の方法を語る『方法序説』や、 モラルを論じる『情念論』等の作品がある。 吉沢伝三郎(1924-2003) 日本の倫理学者。東京大学で停年間近の和辻哲郎のもとに学ぶ。実存思想や現象学を主 要な研究対象とし、東京都立大学で教鞭をとった。 『和辻哲郎の面目』では、和辻哲郎の人 となりを伝えるとともに、和辻倫理学の「人間論」を詳しく読み解いている。 【出典】 デカルト/井上庄七・森啓・野田又夫訳『省察/情念論』中公クラシックス、二〇〇二年 和辻哲郎『倫理学(一)』岩波文庫、二〇〇七年 吉沢伝三郎『和辻哲郎の面目』平凡社ライブラリー、二〇〇六年 2016/08/10 免許状更新講習「倫理とは何か」 三時間目「人格と共同体」 《はじめに》 この時間では、西洋を代表する倫理学説のひとつである、カント倫理学の中心的な思想に対する和辻の 態度を取りあげながら、「倫理」にとって本質的な個人と共同体の問題を考えたいと思います。 ①古典的な発想 ○倫理の根拠としての「人格」の尊厳 、、 さて、私は言う。人間および一般にあらゆる理性的存在者は、目的それ自体として現存 、 、、、、、、、、、、、、、、、、 し、あれこれの意志によって任意に使用される手段としてのみ現存するのではなく、自分 自身にむけられた行為においても、他の理性的存在者にむけられた行為においても、あら 、、、、、、、、 ゆる行為においてつねに同時に目的として見られなければならない、と。 ・・・その現存が われわれの意志にではなく、自然に基づいている存在者でも、その存在者が理性をもたな 、、 い存在者である場合は、手段としてただ相対的価値をもつにすぎず、それゆえ物件とよば 、、 れる。これに反して、理性的存在者は人格とよばれるが、その理由は、このものの本性が このものをすでに目的それ自体として、すなわちたんに手段としてのみ用いられてはなら ないものとして、際立たせており、したがってその限りにおいて〔このものに対する〕あ らゆる随意を制限する(そして尊敬の対象である)からである。…… さて、最上の実践的原理が、そして人間の意志にかんして定言命法が存在するとすれば 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 ……この原理の根拠は、理性的存在者は目的それ自体として現存する、ということである。 、、、、、、、、、、、、、、、 ……実践的命法は、それゆえ、次のようになるだろう。 「汝の人格やほかのあらゆるひとの 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決してたんに手段としてのみ 、、、、、、、、、、、 扱わないように行為せよ」 。 (カント『道徳形而上学の基礎づけ』126~9頁) ②人格と共同体をめぐる、カント倫理学と和辻倫理学の対決 1)和辻の人格論:生ける全体性=民族の一員としての「人格」 一つの全体としての民族が右のごとく把捉せられると、民族の成員が「人格」として取 、、、、 り扱われるゆえんは一層明らかとなるであろう。我々は前に文化の場面において友人たり 、、、 得る人を人格と呼んだが、この人格という言葉は……「人の人としての資格」あるいは「人 、、、、、、、、 の品格」を意味するのであるから、右の規定において我々は友人たり得ることを人として 、、、、、、、、、、、、、、、 の資格と認めたことになる。それは言いかえれば文化的な共同存在に入り得ることである。 古来人の人たるゆえんを「言葉を持つこと」に認めた例は少なくないが、これは人を言語 共同体の一員として規定することにほかならない。が、一層徹底的な規定は、 「おのれの生 ける全体性を何らかの形において自覚し、それへのおのれの帰属あるいは服従を実践する こと」として言い現わせるであろう。……このような全体性の自覚を人の資格とすること は、取りもなおさず人格を精神共同体としての民族の一員として規定することにほかなら ない。 、、、、、、、 、、、、、 右のごとき人格の考えは、人格をあくまでも人間存在の中で、共同体から規定するとい う点において、在来の考えとは異なっている。在来の考えにあっては人格は自然に対立す る個人において充分に見いだせるものであり、従ってその規定の中枢をなすものは「物」 と「人」との区別であった。物は道具的性格を持つが、人は単に道具的にのみ取り扱わる べきものでなく、同時に自己目的性を担ったものである。この自己目的性こそ人の人たる ゆえんにほかならない。かく主張された。が、そのような自己目的性は一体何に基づくの であろうか。もしそれが自己の内なる本来的なるもの、あるいは「本体」に基づくとすれ ば、そういう本体は「自己」とか「個人」とかであることができるであろうか。しからず してそれが超個人的なるもの、自他の対立を超えたものであるとすれば、かかる本体の超 個人性、普遍性は何を意味するのであろうか。押しつめて行けばそれは生ける全体性であ るほかはないのではないか。 (和辻哲郎『倫理学(二)』448~9頁) 2)和辻による(あるべき)定言命法の解釈 カントの作り上げた定言命法のさまざまの型式も、我々は右の二重性から理解すること ができる。特に彼が人性(Menschheit)の原理と呼んだもの、すわなち「汝の人格におけ る、及びあらゆる他の人格における人性(Menschheit)を、単に手段としてのみ取り扱う ことなく、常に同時に目的として取り扱うように行為せよ」という定言命法には、最もあ らわに右のごときアントロポロギーの結晶が見られる。……我々の人格における人性を手 段的・目的的に取り扱うということは、 「人間」の全体性とかかわりなき単なる「人」の立 場においてなし得ることではない。人が手段として取り扱われ得るのはその経験的性格の 、、、 ゆえである。……この方向においては人はただ個別性の側面からのみ見られている。しか し人が究極目的として取り扱われねばならぬのは、その可想的性格のゆえである。そうし て可想的性格においては人は個別的であることができない。人を人たらしむる性格はただ 一つであって、それが人性(Menschheit)あるいは人格性(Persōnlichkeit)と呼ばれる。 すなわち自他の人格における人性は全然自他不二的である。……ところでこの自他不二的 な人性が人格に具現せられている限りにおいては、個別的な人格においてもまたこの自他 不二性が現われねばならぬ。すなわち経験的性格における人々がすべて究極目的として取 、、、、 り扱われ得るような人間の共同態がなくてはならぬ。だからこの側面においては人間の全 、、 体性が把捉せられているのである。かく見れば人を二重性格において規定したことは、人 をその個別性と全体性とにおいて、すなわち我々の意味における「人間」として規定した ことにほかならない。 (『人間の学としての倫理学』77~9頁) 3)カントの「個人主義」への批判 かかる解釈にもとづいて我々はカントの道徳哲学がその最も深い内容において我々の意 味の「人間の学」となっていることを主張するのである。しかし我々はカントがそれを自 覚しそれをあらわに説いているというのではない。カントが意識的に取っている立場はむ しろ十八世紀の個人主義である。だから本体人としての無差別性を人間の全体性として把 捉するということは、 『道徳の形而上学の基礎づけ』の内にその試みを見せているにかかわ らず、しかも充分に遂行せられなかった。彼は人を自己目的として規定しつつも、この目 、、 的をいつも複数として取り扱い、かかる個別的にして多数な目的の体系的結合を目的の王 国と考えたのである。……彼が究極目的として現わし……あたかも本体人が個別的である かのごとくに言い現わすのは、彼における個人主義的意識のゆえであろう。……本体人の 、、、、、、 無差別性は全体性としてではなく、個別的な本体人の質的な等しさとして解せられるので ある。このようなアトム的な本体人からは、生ける全体性としての共同態は説かれ得ない。 (『人間の学としての倫理学』80~1頁) ③代表的な批判 ○個と全体の論理への嫌疑 和辻氏の『倫理学』を通覧し終ったところで、ふたたび批判すべき点を整理してみよう。 その根本は、和辻氏が自我中心的な個人主義的倫理学を批判し、倫理は「人と人との間」 である「人間」の問題であるとしながらも、それを真に人と人との「間」の問題として展 開してはいないのではないか、ということにある。 、、、 和辻氏はまず、人と人との間の問題を、個と全の間の問題に置き移した。人間存在の根 本構造は、まずもって人間における個と全の二重構想として解明されるのである。なるほ ど和辻氏は、そこから人間の個の契機のみを重視する個人主義的倫理学と、逆に全(社会) の契機のみを重視する社会倫理学を、いずれも一面的な観方として斥けることができた。 、、、 、、、 しかし人と人との間は、まずもって個と個の間ではなかろうか。個と全という図式は、こ の個と個の間に生ずる諸問題を、かえって覆いくらましてしまうのではなかろうか。…… 個は全体との関係においてのみ個なのであろうか。個が個であるのは、むしろその個がそ 、、、 れ自身また個である他の個との関わりにおいてではないであろうか。全に対する個という 、、 のは、実は真の意味での個ではなく、有機体における各細胞のように、全の部分であり、 全の構成要素にすぎないのではないか。 (宇都宮芳明『人間の間と倫理』106~7頁) 【参考】 カント = Immanuel Kant (1724~1804) 近代ドイツの哲学者。哲学の各分野で重大な業績を残し、現代にも最も大きな影 響を与え続けている哲学者のひとり。伝統的な哲学の問題を論じる『純粋理性批判』、 道徳の問題を扱う『実践理性批判』 、近代の美学の礎を築いた『判断力批判』が代表 作であり、『道徳形而上学の基礎づけ』はカント倫理学への導入書に適している。 宇都宮芳明(1931-2007) 日本の哲学者・倫理学者。北海道大学に勤務し、カントに関する研究書や翻訳書など多数 の業績を残した。 『人間の間と倫理』では、倫理を徹底して個人と個人の「間」において考 察する立場から、カント倫理学や和辻倫理学などの代表的な倫理学説を批判的に検討する。 【出典】 カント/宇都宮芳明訳・注解『道徳形而上学の基礎づけ』以文社、一九八九年 和辻哲郎『倫理学(二)』岩波文庫、二〇〇七年 宇都宮芳明『人間の間と倫理』以文社、一九八〇年 2016/08/10 免許状更新講習「倫理とは何か」 四時間目「日常と死」 《はじめに》 この講習最後の時間では、和辻と同年(1889 年)生まれで、和辻にも強い影響を与えたハイデガーの哲 学との比較を通じて、和辻の「人間の学としての倫理学」の特色を際立たせたいと思います。 ①古典的な発想 ○死と単独の個人 、、、、、、、 死とは現存在のもっとも固有な可能性である。この可能性へとかかわる存在が、現存在 、、、、、、、 にそのもっとも固有な存在可能を開示する。……その存在可能において現存在にあらわに なりうるのは、現存在がじぶん自身のこのきわだった可能性にあっては、 〈ひと〉から引き はなされつづけること、いいかえれば、先駆しながら、じぶんをそのつどすでに〈ひと〉 から引きはなすことが可能であるというしだいである。この「可能である」はこびを理解 することがたほう、〈ひとである自己〉の日常性のうちへと事実的に喪失されているありか たをはじめて露呈させるのである。 、、、、、、 もっとも固有な可能性は、関連を欠いた可能性である。……死はじぶんに固有な現存在 、、、、、、、、、、、 に無差別に「ぞくしている」のではない。むしろ死は、現存在を単独な現存在として要求 、、 する。先駆にあって理解された、死の関連を欠いたありかたによって、現存在は現存在自 身へと単独化される。この単独化は、「現」を実存に対して開示する一箇の様式なのだ。単 独化によりあらわにされるのは、もっとも固有な存在可能が問題であるとき、配慮的に気 遣われたもののもとでの存在のすべて、他者たちとのあらゆる共同存在が、ものの役にも 立たないということである。 (ハイデガー『存在と時間(三)』一九〇~二頁) ②日常とその外部をめぐるハイデガーと和辻 1)日常からの出発 かかる見地に立って見れば人間の日常経験と言われるものほど豊富な鉱坑はない。町を 歩けば多種多様な商品が見せ棚に並んでいる。常識はその種別、用法、買い方などをすで 、、、 に心得ているのである。しかもこれらの商品のただ一つといえども、何らか人間存在を表 現せぬものはない。……しかも町を歩いて我々の接するのはただ商品のみではない。そこ には電車・自動車のごとき交通機関があり、郵便箱・自働電話のごとき通信機関があり、 またラジオ、ポスター、新聞等々の報道あるいは宣伝機関がある。これらは特に強く人間 存在を表現せるものである。さらに我々はそこにおいて知人、友人、親戚等々に逢うこと もある。そこで前に言ったような挨拶や、あるいはさらに進んでさまざまの話が行なわれ る。これらが人間存在の表現であることは言うまでもないであろう。 、、、、 つまり我々が日常生活と呼んでいるもの、それがことごとく「表現」として人間存在へ の通路を提供するのである。だから我々は最も素朴な、最も常識的な意味における「事実」 、、、、、、 から出発することができる。……かかる意味において我々の倫理学は密接に事実に即する。 ここには方法的懐疑などを容れる余地はない。我々が偽りを真と間違えていようと、ある いはまっしぐらに真理を追いかけていようと、とにかく我々が道を歩き電車に乗ってしか 、、、、、 じかの所へ行きしかじかの仕事をしているという日常の事実は、何人も疑うことができぬ。 、、 その事実の真相が何であるかは探求の後にわかることである。学問的に確実なことを最初 に措定して出発しようとするのは事実に即するゆえんでない。 (和辻哲郎『倫理学(一)』63~65頁) 2)ハイデガーの出発点の評価と、到達点への批判 、 しかし要するところは、個人的なる意識の事実ではなくて実践的行為的連関における人 、、 えら 間の日常経験を、存在への通路として択び取ることである。 かかる考え方にとってはハイデッガーの存在論はきわめて教うるところの多いものであ る。……彼は、人を対象的なるものとして取り扱う在来のやり方を離れて、人の最も単純 な有り方、すなわち「世界の内に有ること」(In-der-Welt-sein)を捕え、この有り方の持 、、 、、、、 つ統一的構造を存在への通路とする。人がその日常性において何らかものとのかかわりに おいて有ることは、何人にも明らかな、最も明証的なことである。それが世界の中に有る 、、、、、、 ことにほかならない。かかる有り方において人は対象からして己れの有を了解する。それ が現に有ることの有りの構造である。……かかる方法においてハイデッガーは実に模範的 であると言ってよい。しかも我々は彼の方法をそのままに襲用することができない。なぜ 、、、、 なら彼は……人の存在に達するのであり、従って間柄としての存在には達し得ないからで 、、 ある。……彼においては存在への通路は我れとものとの係わりである。従って人は初めか 、、 ら「我れ」として規定せられる。……ものとの係わりから始める限りこれは当然のことで ある。が、それとともに人を根源的に間柄において把捉する道は遮断せられてしまう。… … 我々は存在を捕えようとする彼の方法に学びつつも、その存在を人間存在として把握し なくてはならぬ。すなわち「世の中に有ること」をまず間柄にあることとして明らかにし なくてはならぬ。我々は「もの」と係わる前に「人」と係わっている。……我々は現実に おいて道具を見いだす時すでに他人との間柄に立っている。家族的に生きることなしには 家具との交渉なく、社会的に労働するのでなくしては鎚を手にしない。だから道具はすで に間柄の表現であって、単に我れの「手にある物」ではない。 (『人間の学としての倫理学』218~20、223~26頁) 3)死はひとを単独化するのか 人と人との間には架ける橋がないと言われ、あるいは人の個性点には他の何人も触れる ことができぬと言われるにかかわらず、絶対的に他者の参与し得ないような特異の存在は どこにも存せぬ。近時しばしば主張せられるように死を含む存在をかかるものと見ること も決して正しいとは言えない。死といえども他者の参与し得るものである。運命をともに するということが言われ得ると同じ意味において、我々は「死をともにする」ことができ 、、 、、 、、、、、、 る。死は本来誕生や結婚とともに人間の出来事であって、孤立的個人の事ではない。仏教 におけるごとく死が哲学の重大問題とせられ、死の克服が哲学的実践の目標とせられたの は、死の現象が最も共同的であるがゆえであって、その逆ではない。死があくまでも公共 性を欠いた独自のものであるならば、人々は死について語り合うこともできぬのである。 むしろ死は万人の参与し得る最も公共的な現象であるというべきであろう。人を一般的に 規定して「死すべき者」と為すのは、まさしくこの事態の表現である。それにもかかわら ず死が我れに最も固有な、他の何人も参与し得ない現象であるとせられるのは、この公共 的な現象を我れのみの立場から孤立的に見なおしたがゆえにほかならない。 (『倫理学(二)』九〇~一頁) ③代表的な批判 ○傍観者の態度と超越の不在 、、、 、、、、、、、、、、 間柄は、直接には我と汝という個別的主体相互の関係としてわれわれに体験されている 、、 ものである。しかし彼は、そういう我-汝関係の内部に身をおいてこの関係をとらえよう 、、 とはせず、我-汝関係をつつむ全体とそれに属するかぎりでの無差別な個人の関係だけを 外からみようとする。……つまり、我-汝関係の場にみずから主体的(実存的)に入りこ もうとせず、いわばその関係の外に立つ第三者の傍観的立場から、全体性と個人性の関係 だけを眺めているにすぎないのである。…… 要するに和辻倫理学は、間柄という日常的経験の場を絶対化し、これを超越しようとす る一切の試みを拒否するとともに、自己自身はその我-汝関係の外に立つ傍観者の立場に 身をおいて、全体と個人の関係だけを問うのである。たとえば彼は、ハイデッガーの「死 における存在」Sein zum Tode の考え方に対して、 「人間の死には臨終、通夜、葬儀、墓地、 四九日、一周忌等々が属しているが、彼〔ハイデッガー〕はこれらすべてを捨象する」と 、、、、 批判している。この場合、ハイデッガーは「死」を自分の死としてとらえようとしている 、、、、 のであるが、和辻は他人の死としてしかとらえていない。和辻倫理学の世界では、「ひと」 、、、、、、、 は死ぬが自分は死なないのである。したがってそこでは、死をこえた永遠や超越への問い はすべて退けられる。 (湯浅泰雄『和辻哲郎 近代日本哲学の運命』282、284頁) 【参考】 ハイデガー = Martin Heidegger (1889 – 1976) 二十世紀ドイツの哲学者。主著『存在と時間』は未完に終わったが、その後の精神 史に決定的な影響を与え、二〇世紀最大の哲学書と呼ばれる。既刊部分では現象学と いう哲学の方法を駆使し、人間存在の日常的なあり方と時間構造を具体的に分析する。 湯浅泰雄(1925-2005) 日本の哲学者。吉沢伝三郎と同様、東京大学で停年間近の和辻哲郎に指導を受ける。東 洋思想や宗教思想などの研究で知られ、大阪大学や筑波大学などの教授を歴任した。 『和辻 哲郎 近代日本哲学の運命』は、今日でも和辻研究の基礎文献のひとつに挙げられる。 【出典】 ハイデガー/熊野純彦訳『存在と時間(三)』岩波文庫、二〇一三年 湯浅泰雄『和辻哲郎 近代日本哲学の運命』ミネルヴァ書房、一九八一年