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− 205 − ハンと韓国の宗教史 国際日本文化研究センター 申 昌 浩 一,はじめに 朝鮮半島には,4世紀末から中国を経由して外国の精神文化である仏教を始め,儒教,道教 が伝来してきた。その後,韓国・朝鮮半島の文化として定着し,韓国文化史を支配してきた。 仏教が5世紀の新羅時代から14世紀高麗時代までの900年間,儒教による支配は,15世紀から 19世紀までの朝鮮時代の約500年間であった。これらの宗教は外来宗教にもかかわらず,韓国・ 朝鮮半島に伝来して長年立つ,その中これらの宗教は伝統宗教として,民衆宗教,民族宗教と して今日定着している。その受け入れ方と定着過程で,仏教や儒教は少数の人たちによって受 け入れられおり,キリスト教の場合は,都市や一部の地域に広まる傾向を示しており,道教は 伝統的な民間信仰に吸収されその残骸も見ることができない。*1にもかかわらず,今日これらの 宗教を信ずる人々の数は,全人口の50パーセントを遥かに越えている統計を出している。そし て,それぞれの宗教を歴史的な流れに沿って辿ってみると,一度は政治政権と融合する形をと り,大きく成長を成し遂げたり,衰退する道をそれぞれ経験しているのである。 韓国・朝鮮半島の歴史と宗教史を結びついて考えてみると,何が韓国人に外来の宗教を自分 たちの宗教にさせる役割をさせたのかを考える。それを考えると筆者には,“(ハン)”とい う言葉が頭に浮かんだ。我々はよく韓国の文化を“ハンの文化”であるということをよく耳に する。しかし,ハンが何か,韓国の文化形成にどんな役割をしているのかについてはほとんど わからないと思われる。ハンという言葉は,どの階層の人々が口々にしたのかについてもよく 分からないままむやみ使っている。しかし,いつの間にか,外からも内からもハンというのは, 朝鮮半島に住んでいる韓国人や,海外に住んでいる韓国人の特有な性質であるかのように論じ られている。これもまだ事実である。それは,ハンに何の疑問を問いかけをしないでそのまま 受け入れているようなものである。ハンも時間の変動や政治体制や社会構造の変化に大きく左 右されている。本稿では,その一例としてハンで見る韓国の宗教史について簡略ではあるが, 論じてみたい。 − 206 − ハンと韓国の宗教史 二,ハンの概念とその使われ方 1,ハンの概念 近代以後,形成された韓国人の美意識は,自国の文化に対して‘ハン’の文化であると論じ てきた。それも「自分の受けている苦しみや圧迫が,不当なものである」*2という意識が前提 があってハン(恨)になるという。こういった文脈をもって韓国人には,誰しもが“ハン(恨)” をもっているといい。*3そういわれている。しかし,そのハンに対する概念に関する規程や定 義は,未だ定まっていないのである。ハンの概念や定義は,宗教の定義が宗教に携わる人の数 ほどあるといわれるように,ハンの定義も様々な分野の人によって様々であるといえる。韓国 的なハンは,多層的,相互矛盾的な属性を始め,否定的な属性から肯定的な属性に移行してい る質的変化をしている最中である。ハンを通して内在的な生成の機能を重んじるようになって きている。 これまでハンと言う言葉自体は,韓国の文学的な側面が強く強調され広く広まった節がある。 また,伝統的な大衆文化の民謡やパンソリなどを始め,日常の対話の中に至るまで登場する言 葉である。昔から韓国人がよく口にしてきた純粋なハングルである。しかし,ハンに漢字を当 てた瞬間,ハンは‘うらみ’の‘恨’や‘怨念’になってしまうのである。 論者は,韓国人として韓国人たちを見ると,‘彼等(我々)の心の中には,ハン(恨・韓) が募っており,そのハンを巧く解消する方法を用いている民族である’と思う。それに今日の 韓国では,‘韓国人がもっている‘ハン’は,恨みの‘ハン’ではなく,韓民族の‘ハン’,偉 大なる‘ハン’,無限の‘ハン’,唯一の‘ハン’などであると示している。それを強く主張し, 論じている。 まず, “恨みのハン”以外にどのような形で“ハン”の概念が取り上げられてきたのかとい うと,①数量的な「一」を表す概念としてハン。ハンは,数量の「一つ」を表すと同時に「全 体(いわゆる,すべて)」を表す概念でもある。例えば,仏教の「諸行無常」の「諸」を訳し て「ハン」と言い,一即一切,多即一切がすなわち「ハン」である。ハンは無限と終わりのな い状態を表している。②「大」を表す概念としてハン。ハンには,偉大の意味もあり,新羅時 代の王の称して「汗(ハン) 」,または「干(カン)」といっていたのである。③天の神を表す 概念としてハン。「大」と「全体性」と「無限」の概念から,「天」または「宇宙」を表す。韓 国では,天の神様を「 (ハンニム) 」,または「 (ハンウルニム) , (ハヌル ニム)」というが,ニムは人格に対する尊敬語である。④韓国である「ハングル」は,ハン(偉 大な)+グル(文字)を意味しており,これまでの意味を包含している。今日の韓国( , ハンック)の名称が,これから由来する。*4 そして,これまでのハンに関する論議を整理し 京都精華大学紀要 第二十号 − 207 − てみると,1)情恨論,2)願いとしての恨論,3)心理的葛藤の複合体と見るハン(恨)論, 4)凝る・溶けるの二元対立の構造と見るハン論,5)民衆的行動の推進力と見るハン論など*5 と要約することができる。 今日,恨みとしてハンの思考は,日本の植民地時代に受け付けられている植民地史観と同等 に見ている。植民地支配からの解放後,朝鮮戦争の休止後,経済的な自立を目指していた韓国 のナショナリズム(民族主義,国民主義,国家主義)形成の歴史に重なる部分が,この‘ハン’ の歴史に見えると思う。ハン(恨み)の美意識は論じられるが,ハン(韓)の美意識は論じら れていない。そして,近代以後のハンは,政治的,経済的,文化的,社会的,宗教的に抑圧さ れてきた人々の精神世界の美意識や希望を表出するために利用されている。韓国人はハンをも て韓国的ナショナリズムの形成し,維持に利用し,利用されたといえる。韓国の歴史に見える 国内外の政治的な抑圧から解放されることは,ハンを晴らすことと同一であり,正義を具現す るものとして考えることも可能である。 2,ハンの種類と解消方法 ハンが用いられるところは,さまざまであり,その解消方法もまた様々である。そのハンの 種類を取り上げてみると,①政治構造によるハンは,権力者(権力を持つモノ,支配するモノ) と非権力者(権力を持たないモノ,支配されるモノ)がある。例えば,選挙戦で見えるハン, ある候補者が自分の選挙戦は, 「民主化のために戦い,消えていた民主闘士のハンを祓うために」 行われるものであることを主張するのであった。政権を握った政治家たちは,これまで受けて きた政治的な抑圧に対して新たな政治的な抑圧を行うのであった。政治的な復讐は,政治的宿 敵に対してハンプリという形の粛正が続くのであった。その後,残るのは新たなハンであり, ハンの連続を生じさせていたという現状があった。②経済によるハンは,今日最も単純明快に 現れているものとして,“金があるモノ対金がないモノ”の違いによって生じるものであろう。 ③社会(現在と現在以前,解放以前と解放後)内在しているハン。身分制度(両班・中人・常 民・賤民)が維持されていた社会においては,ハンと身分制度を離しては論じられなかったの である。その身分の差によるハンはなくなった社会におけるハンは,新たなハンを作り出して いる。特に,男女の社会的な役割や差別によるハンは,男であるがために内在されるハンより も,女であるがために内在されるハンの方がより多かったり,深かったりする。④文化に見え るハン。文化を創出し,主役になれるモノ対その文化を利用しなければならないモノに生じる。 最後に,⑤宗教に見えるハン。宗教を維持しようとするモノ(指導者と信仰者)に対して,そ れらを抑圧しようするもののあいだで生じるハン。いはゆる,政治体制の変化に伴う宗教政策 によるもの。そして,既成宗教(仏教,儒教,キリスト教)対民衆宗教(仏教,儒教,キリス − 208 − ハンと韓国の宗教史 ト教,シャーマニズム,民族宗教など)のあいだに生じている教理や体制に対するハン。 こういったハンが内在されたり,もたらされる条件は,変わることのできない出身,家族, 地域といった,いわゆる生まれつき,自然的な環境によるものがあった。もう一つハンは,変 化の可能なもの,獲得できるものによるハンである。それは,学歴,経済力,政治力などに よって,付随してくる権威と権力よる構造,人為的な環境によるものである。こういったハン 対して,どのような対処方法を用いたのかを分析することで,いかに韓国・朝鮮半島の民衆た ちが,本当にハンの解消法が巧い人たちであることが分かる。例えばその解消法を見ると,笑 い話(言葉,おしゃべり),歌,踊り,ノリ遊び仮面劇,飲食(酒,食事,食べ物など),涙, 宗教儀礼としてのシャーマン(宗教)のクッなどである。こういった娯楽システムとハンの解 消方法は,時代的な区別が必要であるかもしれない。今日最も多くの民衆は,メディアによる ハンの創出とその解消法を用いているのではないかと思われる。 韓国人は感情表現と表出が豊かな人々である。笑いに潜んでいる「ハン」 ,泣きに潜んでい る「ハン」,怒りに潜んでいる「ハン」をどのように解消していくのかについて考えてみると 韓国の大衆文化や宗教文化が見える。「ハン(韓)」とは,韓民族の歴史と民族文化をもつ民族 アイデンティティの表出であり,朝鮮半島の民族主義の現れであり,その意義を唱える要素を 含んでいる。しかし,論者は,ハンというものは,どの時代,どの民族も用いうるものである と考えている。 三,韓国の宗教がもつ政治的なハン 1,シャーマニズム*6とハン ハン(恨)をもっている人々の大部分が,権力から疎外され,経済的に貧困な下層階級であ る。支配層・富裕層には大概,ハン(恨)はほとんどなく怨だけが存在するのである。そのた め,富裕層の日常や芸術からはハン(恨)を見ることはできないといわれている。最もハンの 研究が民俗学的な側面を初め,様々な角度から研究が進んでいる分野であり,今更新たにいう までもないと思われる宗教分野である。しかし,韓国の宗教史を中心にその流れに沿ってはほ とんど論じられていない分野でもある。 中国においては,巫の出現は国家の出現と共に存在しているといわれている。*7巫者は政治 と宗教の大権を掌握していた存在であった。古代から祭天儀礼を司る役割を担っていた巫者の 政治的,宗教的存在感は朝鮮半島においても同じであったといわれている。韓国の巫は,中国 から高等宗教である仏教が伝来し,伝播される以前は,全権を掌握していたが,政治から分化 したがために王権に属するようになった。そして,民衆の宗教的欲求を満たす役割を担うこと 京都精華大学紀要 第二十号 − 209 − に専念されるようになった。しかし,時代の流れと共に衰弱していた巫者の権力が,崇儒排仏 政策を一貫してきた朝鮮時代に至っては,巫者(シャーマン)と仏教の僧侶を賤民の職業とし て蔑視した。そして,近代化の波と西洋文物の受容によって,非科学的であるということを始 め,特に,近代以後宣教師やキリスト教信者は巫者に対する批判が強く,迷信排除運動を大々 的に展開したのである。日本の植民地支配下に置いては民衆の宗教として迫害を受ける対象に なった。そして,解放後は,近代的な科学思想や西洋から伝来してきたキリスト教が広く定着 することによって,巫俗の価値観は非合理的で,迷信であると烙印を押される迫害を受けてい るのである。 シャーマニズムでいうハンの問題は,社会階層の上下に関係なく存在している。しかし,ハ ンを強く認識しているのは,社会的・制度的に疎外されている下層及び被支配層の民衆の中に 深い位置を占めており,最も韓国的な伝統文化に潜んでいる。*8そして,民衆に内在している ハンは,シャーマニズムの巫者を通してよく表出されている。朝鮮半島に根を下ろしている シャーマニズムは,外来の宗教である仏教・儒教・道教との交渉,混合している。*9しかし, 国家権力構造とは関係の薄い,民衆・民間の宗教と密着することによって生き延びるようになっ た。そのシャーマニズムは,どんな時代の政治的や宗教的な背景をもっていた状況においても, 最も根強く強く生きている韓国の民間宗教である。しかし,伝統的な民間宗教としてのシャー マニズムは,ハンを解消する*10主体であり,集団重心の儀礼は,排除されるようになったが個 人が行う宗教儀礼はいまだに根強く生きているのである。それも主に人間の生・老・病・死を 始め,すべての不幸に関して関与している。今日のシャーマニズムは,個(私・個人,特に女 性中心*11)のハンを対象にしている複合的な儀礼に携わる宗教活動である。 個人と個人の葛藤,個人と社会との葛藤,または個人と国家(或いは民族)のあいだの葛藤 の深度によって,ハン(恨)になったり,怨になったりするのである。すなわち,葛藤の深度 が低いとハン(恨)となり,深度が深いと怨になるのである。また,葛藤の深度が深いといっ ても怨に復讐の意志に発展しないで,宗教的な解ハン(恨)の次元で克服される場合,すなわ ち怨のヒューマニズムとして克服消化される場合和解と愛に浄化される。 2,仏教のハンの成立 韓国・朝鮮半島における仏教の伝来は,古代国家の発展段階において新たな国家精神と新た な社会倫理観の確立に大きく寄与し,古代国家の精神的な基盤を整える役割を果たした。仏教 は単純に宗教の範疇を超え,音楽・美術・建築・医学などの文化を伝達させた。*12その際,民 間信仰と仏教が融合しており,民衆に作られているハンと,そのハンを解消するために仏教は 広まった。韓国の仏教が王権と結合し,国家的な色彩が濃厚になったのは,仏教か伝来してき − 210 − ハンと韓国の宗教史 た三国時代からであり,その三国時代の中でも最も顕著であったのは新羅時代であった。その 後,仏教は三国の統一に一役立ち,高麗の建国後も依然と強い政治的な力を持っていたのであ る。これらの仏教の特徴を,「王室仏教」や「国家仏教」もしくは「護国仏教」といっていた のである。*13 朝鮮王朝の排仏政策による宗派の変遷が行われる以前の高麗時代の宗派変遷を見ると,11の 宗派*14が存在していた。高麗時代の国教であった仏教も末期に至っては,腐敗しており,朝鮮 の建国によって,国教として権威を失うのであった。古くからの政治思想として導入されてい た儒教は, 「修己治人」の思想として,朝鮮の政治思想を形成する際重要な役割をするのであっ た。朝鮮朝の開国に伴う「斥佛崇儒」政策によって,*15仏教は中央から町から追い出され,下 降の道を辿ることになった。朝鮮朝5 00年を通して一貫して行われた王様たちの抑仏政策は, 1895年の朝鮮僧侶たちの「都城出入禁止」が解禁されるまで続くものであった。排仏政策よっ て朝鮮王朝下の仏教は,教学の不振,教団の衰退など受難の歴史が始まるのであった。*16こう いった抑圧政策の背景には,高麗時代の仏教寺院は広大な土地を所有しており,商業と高利代 金業などを行っており社会経済の矛盾を潜んでいた。新朝鮮王朝の排仏政策は,国家経済を立 て直す目的と儒教の普及と確立に大きく関わりを持っている。何よりも,国家財政の確保が急 務であった新王朝は,その解決策として寺院が所有している財産の没収と,これまでの社会腐 敗の根源とされた仏教寺院の富と権勢を奪い取るためであった。*17 まず,朝鮮を開国した太祖李成桂は,「度牒制」を強化する政策を取った。度牒制を強化す ることで,僧侶になることを願う者に対して,両班の子弟は五升布百匹,庶民は百五十匹を, 賤民は二百匹を所在地の官衙に納め後,度牒を受けた者に限って出家できるように規定してい る。この制度は,僧侶になる道をふさぐ方策としては有効なものであった。太宗李成桂は,佛 教宗団及び寺院の統廃合と,廃合された寺院たちの土地や寺院に属していた奴隷を没収した。 太宗は高麗時代から引き継いでいる11の宗団を7個の宗団に統廃合すると同時に,*18寺院も 242寺だけを存続するように許容した。*19そして,朝鮮朝の排仏崇儒政策を正当化するために鄭 道傳は, 『佛氏雑辨』を集筆した。その内容は,仏教を哲学的な側面を始め,倫理的側面,輪 廻思想及び内世観,そして仏教か歴史的に残した否定的な側面について徹底的に批判したので ある。*20 さらに世宗は,七つに統合されていた宗団を善・教両宗へ統合した後,寺院も追加縮小する 政策を取った。*21僧侶の社会的な身分が,賤民として規定されることで厳格な儒教的身分社会 における地位を剥奪することにした。*22朝鮮仏教や僧侶の地位は,社会的な差別の対象に転落 したのであった。これらの11の宗派が,朝鮮建国後の1407年太宗(7年)には,7宗派に統合 されたのである。*23その後,1424年の世宗代(6年)には,*24曹渓・天台・総南の三宗を合わ 京都精華大学紀要 第二十号 − 211 − せて禅宗にし,華厳・慈恩・中神・始興の四宗を合わせて教宗という禅・教両宗に統合したの である。*251503年に燕山君は,僧侶たちをソウル四大門内の都城出入りを禁じることをはじめ, 1504年には城内の元閣寺などを閉鎖してしまったのである。*26僧科制度を全面的に廃止したこ とはむろん,禅宗の総本山である興天寺と教宗の総本山である興徳寺をも廃止したのである。 こういった仏教に対する抑佛政策は,王室の実情によって若干の起伏はあったが朝鮮朝の一貫 した政策の一つであった。朝鮮朝の抑佛政策によって仏教の教勢が全般的に衰退の道に入って いたけれども,仏教に対する個人的な信仰の退潮を意味するものではなかったといえる。いわ ゆる政治的な衰弱,社会的なステイタスが降下したのではあった。こういった姿の朝鮮仏教を 「内房仏教」「山中仏教」「家内仏教」などいい。これらの姿を今日ももっており,朝鮮仏教の 特徴であると論じられている。*27 その後,朝鮮時代に抑圧されていた仏教のハンは,開国と日本仏教に伝来によって,その政 治的な抑圧と差別から解放されることになった。そのために,日本の近代的な仏教を受け入れ, 真似する道を選択するのであった。朝鮮総督府の日本化政策として行われた寺刹令を始め,僧 侶や仏教組織の近代化を受け入れた韓国仏教は,親日化されたという非難を解放された直後か ら今日まで受けている。*28 1945年の解放を迎えた韓国仏教界で政治的,社会的な活動を行っていた僧侶は,植民地下で 実権を握っていた帯妻僧侶であった。*29彼等は日本帝国の植民地支配の協力者としての反省も 行わずに,解放後も経済的,政治的基盤を守るための政治活動を行った。李承晩大統領は,帯 妻僧侶の政治的な活動を抑制するために,朝鮮戦争の休戦が成立した翌年の1954年5月に“仏 教浄化に関する諭示”を発表した。*30仏教浄化に関する有事は,韓国仏教に対する新たな政治 的な抑圧になったのである。そのため,帯妻と比丘との経済的な利権や政治的な争いが始まっ たのであった。韓国仏教界は,日本帝国からの解放を味わう間もなく,キリスト教国家から派 遣されたアメリカ軍政と新大統領によって,抑仏政策というハンを再び抱くようになったので ある。 3,キリスト教のハン 儒教思想が根付いていた朝鮮時代は,何よりも“孝”を大切にしており,孝は‘百行之本’ として不孝を最も大きな罪として見ていた。そして,その孝を表すのが祖先に対する祭事であっ た。キリスト教と儒教との対立とその迫害の原因は,まず天主教を信じたために,母親が別世 したにもかかわらず位牌を置かず,祭事を行わなかったことにある。その事態を重くみた朝鮮 王朝は天主教を政治的・思想的抑圧の対象にしたのであった。当時天主教を信ずる人は,「廃 倫外道」といい迫害を加えた。*31 − 212 − ハンと韓国の宗教史 一方天主教に対する大きな迫害は,朝鮮後期の政派的紛争などの政治権の変動と深い関連性 をもっている。*32その天主教弾圧の関わる政治的な要因は,朋堂的要素,いわゆる堂派争いに よる迫害,英祖時代に広まった天主教は,主に関東地方に広く普及していた。堂派による争い は,学閥と地方色が強く働く政権取りの一つであった。天主教を多数加入していた南人堂派を 抑えるために,また,儒教的な倫理道徳観が持ち出され天主教に対する迫害は始まるのであっ た。1791年の「辛亥迫害」が祖先の祭事問題によって起こった最初の迫害。朱子祭礼が重んじ られすべての生活様式を規制していた儒教と天主教との衝突である。 「辛亥迫害」を機に,1801 年に西学を迫害する教書が発表された。その理由は西学の教理は,朝鮮の世習に合わないため 迫害をするということであった。その後,朝鮮時代には,天主教に対する迫害が始まるのであっ た。1801年の「辛酉教難(迫害)」は,西教人の廃倫性と儒教体制に対する挑戦を深刻に捉え, 従来の儒教体制の固持するために,西洋諸国に対する牽制の一つであった。純祖は,「五家作 統法」*33を適用すること,天主教人たちを探し出すために力を尽くした。*34 1815年の「乙亥迫害」は,中国の神父である周文謨に対する逮捕令が発令されることによっ て大きな迫害が行われた。「乙亥迫害」は,外国人神父を取り巻く最初の迫害であった。それ から,1827年の「丁亥迫害」と続き,1839年に「己亥迫害」が,1846年の「丙午迫害」は,韓 国の最初の神父金大建の殉教を招いた迫害が起こったのであった。それから1866年の「丙寅迫 害」は,儒教社会の理念や思想問題ではなく,外国との政治問題による,もっとも長く残酷で あった迫害であった。これらの迫害は,朝鮮末期の思想的,政治的問題を表に表出させたもの であった。*35 その後,開国と共に宗教に対する自由が何となく許されるように見え,多くの西洋諸国から キリスト教を普及するために宣教師たちが訪れるようになった。朝鮮半島でキリスト教は,教 育・医療などの社会事業を通してその勢力を拡大していたのであった。しかし,朝鮮半島が日 本の植民地支配下に陥ることによって,新たな試練と宗教に対する迫害が始まるのであった。 朝鮮総督府は,多くの基督教教会が,1919年の3・1独立万歳運動を始め,様々な独立運動の 拠点として利用されることに厳しい活動の制限を加えた。 特に,戦争という特殊な状況下において,最も過酷な試練を受けざるを得なかったのであっ た。日本帝国の総督府政府は,神社に対する参拝と日本の歴代天皇や戦争英雄に対する参拝を 00 強要したのである。*361938年9月9日に,ローマ・カトリック教会は,中国とのあいだで3 年間続いてきた祖先対する礼拝を偶像崇拝ではないと認めた。*37その上,日本政府が強要して いる神社参拝は宗教的な行為ではないと判断した。ローマ・カトリック教会は,“神社参拝を 宗教行為ではなく,愛国の心を表す行事及び行為にすぎないため,参拝を許可する”といった 理由であった。それを機に,韓国・朝鮮半島のカトリック教会を始め,プロテスタント教会も 京都精華大学紀要 第二十号 − 213 − 神社参拝を公式的に参加するようになったのである。しかし,神社参拝に反対した教会や教職 者,信者たちは厳しい政治的な抑圧を受けるのであった。日本によるキリスト教に対する政治 的な弾圧は,1905年の日露戦争を始め,1930年の満州事変,1936年の中日戦争,1941年の太平 洋戦争を重ね,勝利を重ねる度に,その方法や弾圧は厳しくなっていた。 開国にともなって新たに伝来してきた改新教(プロテスタント・新教)は,自主・独立の精 神を育成し,民族のハンを受け入れる受け皿として大きく成長したといえる。その受け皿とし ての力は,植民地から解放された後大きな活躍をし,宗教組織としても飛躍するのであった。 特に,敬虔なクリスチャンである李承晩大統領と,アメリカ軍政は,キリスト教思想を背景に しており,キリスト教の復活に様々な援助を行うのであった。その結果,韓国キリスト教会の 再建は,他の宗教と比べその成長基盤の助成に成功したといえる。 4,民族宗教に見えるハン 朝鮮朝の儒教文化による政治思想を,徳治主義,禮治主義,正名・義理主義とするならば, 韓国伝統思想の共通要因を取り上げると,人尊思想,弘益精神,誠敬・忠孝思想,家族主義的 共同体主義,地上天国・後天仙境思想などに分類することができる。また,こういった複合的 な思想要因を集約すると,「ハン」の思想で表現できると論じる学者も多くいる。ハンの概念 には,多様多彩な意味を含んでいる。「一,大きい,偉大な,高い,頭,総合性,統合性,明 るい,多い」などがあり,その中には対立の観念をもつ物の総合された状態を示しているとも いえる。有と無,実と虚,動と静,主体と客体,陰と陽,私と貴方の対立が統合されることで 成り立つ世界を新たに作り上げたのである。*38しかし,朝鮮の儒教社会の腐敗している権力構 造と民衆に対する経済的な搾取に耐えきれなかった崔済愚によって自生宗教で民衆宗教である 東学が創道された。東学の創始者である崔済愚は,没落両班の庶子出身である。当時西学が繁 栄し,西洋文物や日本の政治的経済的な進出に対抗する形で東学は,民衆・民族の宗教として 成立したのある。*39東学の布教が始まると,朝鮮の封建的な社会の現状に不満を持っていた各 階層の人々が集まり,信者になっていった。東学の布教率は,朝鮮王朝の想像を超える勢いを 持って,全国各地に忽ち東学の旗があがることになった。東学の宗教的な教旨や観念は,民衆 と密着した「人間主義」, 「人本主義」であったといえる。*40こういった新興宗教に対する当時 の朝鮮王朝は,非常に危機感を感じるようになった。このような新興宗教が創出され,民衆に 広まることは,既存の社会,政治体制の基盤を浸食させる要因であると考えていた思われる。 当時,朝鮮各地で天主教が氾濫していた時勢であったため,東学に対する警戒や批判は厳しかっ た。 支配両班階層の腐敗と儒教による,社会秩序や価値観を維持できない状況下におかれていた − 214 − ハンと韓国の宗教史 にもかかわらず,儒教やその他の宗教も何の力にならなかった。当時は,西洋や日本から入っ てくる宗教と経済的な進出が,韓国社会全般に様々な影響を与えたのである。その民衆が抱い ている不満と未来に対する希望のエネルギーを爆発させ,よりよい国づくりを東学は,宗教と して目指した。社会的・政治的・経済的なハンをもて創道された東学は,韓国社会の主導的な 宗教として昇華されることができなかった。人乃天を実現しようとするハンは,1892−93年に 東学指導部と民衆の力によって,甲午農民戦争という形で展開された。1894年1月に、全南古 阜で始まった反封建的・反侵略的な甲午農民戦争の性格は,韓国民族主義形成の重要な歴史的 位置を占めている。しかし,失敗に終わった東学農民戦争の悲劇は,朝鮮半島における支配力 が強化され,日本政府の植民地支配体制が形成されたことにあるといえる。 新興宗教である東学のように,政治及び社会運動に積極的に参加した朝鮮の新興宗教団体は 数少ないと思う。東学(天道教)がもつハンがよく現れているのは,政治的な活動に結びつい ているといえる。まず,1892−93年にかけて展開された「教祖伸寃運動」と,1894年の「東学 革命運動」,1904年の政府改革のため行った「進歩会運動」,1919年の「3・1独立万歳運動」, 1926年の「6・10万歳運動」など*41様々な形で民族精神を中興させるための政治運動に東学が 抱いたハンが溢れていると思われる。東学(天道教)の様々な愛国抗争団体の愛国活動の中に 見られる,救国運動及び民族文化守護運動の思想的な脈絡と時代背景に,東学の政治性に結び ついているハンを確かめることができる。しかし,民族の自主・独立運動の主役として働いて きた東学(天道教)と,その指導者たちのハンは,朝鮮総督府の宗教政策による政治的分裂と, 宗教的な内分・分裂によって次第に薄くなってしまったのである。 四,おわり 韓国の宗教学者である柳東植は『韓国のキリスト教』の序章で, “意識された民族的ビジョ ンは,長い生活史を通じて意識の深層に沈殿されてゆき,民族の霊性ともいうべきものの形が 形成される”といっている。*42精神活動の根源となるものを霊性といい,その霊性を韓国人は, “ハン”として捉えられているのである。それは外来の宗教を理解し,自分たちの宗教として 受け入れる際に,大きな役割を果たす力になったと思われる。そして,民族固有の宗教文化シ ステムと融合させ,独自の宗教体制を形成させる力であると思われる。 すでに本稿で論じたように,ハンをもつ韓国固有のシャマニズムを始め,仏教・儒教・キリ スト教・民族宗教は,すべて政治権力の闘争によって,互いに抑圧と弾圧を繰り返していた。 まず,民間信仰の古神道・仙教・道教・巫俗信仰は,三国時代に伝播してきた仏教が政治体制 と結びつくことによって,排除されることになった。三国(高句麗,百済,新羅)は,仏教を 京都精華大学紀要 第二十号 − 215 − 受容することによって,より優れた権威や威力の象徴となるし,統治者の宗教信仰として仏教 が統治階級に広く広まることになった。その後,儒教も王位と権力の闘争の題材として利用さ れることになった。そして,初期のキリスト教であった西学・天主教が弾圧を受けた理由は, 教理の対立というよりも,政治的な党争論争に犠牲されたというべきである。19世紀半ば成立 した自生・民族宗教東学に対する弾圧も政治的な理由に過ぎなかった。信仰や思想を背景にし て宗教の教理を巡る論争や戦いではなかったのである。 しかし,抑圧と弾圧を受けていたそれぞれの宗教は,必ず宗教として再生し,大きく飛躍す る時期を持っている。その再生と飛躍が新たな政治体制と結びついていることも見放せないも のであるといえる。その際,抑圧と弾圧に耐える力は,何であったかというとそれは,朝鮮半 島に複合体精神構造を支えるハンの精神であるといえる。それぞれの宗教に内包されているハ ンの精神は,古来から培われていた様々な宗教のエキスである。1960年代後半から1980年にか けて,朝鮮半島には多くの新興宗教団体が結成された。新興宗教の成立は,韓国社会が抱いて いる問題(思想・価値観・政治・犯罪の続出と混在)を表出させると同時に,韓国社会を十分 に反映したのである。 韓国の宗教がもつ構造的なダイナミズムの理解をするためにも,韓国の宗教史の叙述を時代 別に各宗教だけを平面的に展開しても意味のないことである。韓国の宗教をより深く理解する ために多様多彩な要素を取り入れなければならない。韓国の宗教史全般を見ると,韓国におけ る宗教の成立とその存亡と発展は,韓国の宗教の特徴として国家の存亡や危機などの政治的, 社会的不安に陥る民衆に精神的なより所を提供したことに大きな意義がある。今日韓国・朝鮮 半島に根付いている様々な宗教が,韓国の宗教として成長過程を見ると,政治的な抑圧からの 脱出にハンというエネルギーが深く関わりを持っていると考えている。 *1.金泰坤『韓国民間信仰研究』集文堂 1994 pp.12 *2.金容雲『日韓の宗教意識と天理教』道友社 1 985 pp21 *3.一般的に「ハン」を論じる際に「恨み」のハンを指すが、筆者はより広い意味をもつハンを取り上 げる。 *4.韓国精神文化研究院編『韓国民族文化大百科事典』23,韓国精神文化研究院 1994 『 *5. 』知性 文学社1993 pp.11 *6.シャーマニズムは、韓国においては巫・巫俗・巫堂・巫教・韓国巫などをいう。今日最も広く使わ れているのは巫俗である。この巫俗は、いわゆる巫堂(巫者)の習俗や風俗の意味である。 *7.趙興胤『巫 民俗文化』民俗文化社 1994 pp25-26参照 *8.崔吉城『韓国人 恨』 1996 pp.21 − 216 − ハンと韓国の宗教史 *9.崔吉成「韓国巫教 宗教的特性」『韓国巫俗 綜合的考察』高大民族文化研究所 1995 pp.134-139 参照 *10.例えば、“内の息子が結婚できればハンがない”、“オリンピックで金メダルを取れば、ハンがない”、 “離散家族の50年間のハンをはらう”などを始め様々なハンを希望として捉え、それを達成するこ とでハンは解消されるものである。、 *11.“女子がハン(恨)を抱くと、5・6月にも霜が降る”といった韓国のことわざで見えるハン(恨) は、女性たちが社会的・政治的に抑圧の対象として、貧困に関することが主軸をないしている。 *12.崔柄憲「韓国仏教 展開」『韓国思想 深層』宇石 1 996 pp.78-79参照 *13.崔柄憲 1996 pp.84 *14.11の宗派は、曹渓宗、総持宗、天台疏字宗、天台法事宗、華厳宗、道門宗、慈恩宗、中道宗、神印 宗、南山宗、始興宗であった。 『韓国社会論』「朝鮮朝政治制度 政治形態」社会批評社 1995 pp.38 *15. *16 洪潤植『韓国仏教儀礼の研究』隆文館 1976 p169-170 *17.申昌浩「親日仏教の成立」『紀要』16,京都精華大学 1999 参照 *18 韓『朝鮮時代思想史研究論文攷』一潮閣 1996 p55-59 *19.太宗の抑仏政策をより具体的に見ると、 一、寺額を減少・減革し、僧侶たちを還俗せしめた。二、寺刹所有財産である土地や建物を可能な 限り還収し、国有化した。三、寺刹に所属せしめられていた奴隷階級の賤民を解放し、軍丁に充て た。四、僧侶身分を広く制限するために度牒制度を強化・厳重に実施した。五、王師、国師制度の 法を廃止し、僧侶に対する待遇を降格した。六、陵寺の制度を撤廃して人心を一新するなど具体的 な排仏行政の方針を打ち出した。 *20. 『韓国社会論』「朝鮮朝 宗教 民俗信仰」社会批評社 1995 pp.386 *21. 1995 pp.387 *22.趙興胤『巫 民俗文化』民俗文化社 1994 pp172参照 *23.禅・教11宗の宗派を7宗派に統合させた。その7宗というのは、曹渓宗、総南宗(総持+南山)、華 厳宗、慈恩宗、中神宗(中道+神印) 、始興宗、天台宗(天台疏字宗+天台法事宗)このように合わ せ統合したものであった。 *24.韓 1997 p120-158参照 *25.それ以外の世宗の排仏政策は、 一、寺社の奴婢及び奴婢の譲渡のどちらをも改革し、公に属せしめた。二、寺額を減ぜしめた。三、 五教両宗を省いて、単に禅教両宗とした。四、内仏堂を廃止しめた。五、京城内に興天、興徳二寺 を留め、その他は尽く撤廃した。六、廃革した寺院の仏像鐘磐を鋳潰して兵器を製造した。七、仏 京都精華大学紀要 第二十号 − 217 − 事を減じて、その費用を節約した。 八、僧徒が恣に京城内に出入りするのを禁じ、度僧制を厳重にした。 九、宮中や都城での仏教行事を禁止し、婦女子が寺に行くことも禁止したのである。【愛宕顕昌 『韓国仏教史』 山喜房佛書林 1982 p44、金 義煥 1985 p131、 金鎮闕 『韓国仏教文化史』 仏教大学教材編纂委員会 1998 p159-180を参照】 *26 愛宕顕昌 1982 p44-45 *27.申昌浩「東学・親日仏教・改新教の分析を通じて」『韓国的ナショナリズムの形成における宗教と政 治』博士論文 2000 参照 *28.申昌浩「東学・親日仏教・改新教の分析を通じて」『韓国的ナショナリズムの形成における宗教と政 治』博士論文 2000 参照 *29.1945年に日本の敗戦当時の韓国仏教界に見られる帯妻僧は7,000名であったのに対し、伝統的な韓 国仏教を主張した比丘僧はわずか500余名に過ぎなかったのであった。これは比丘僧の14倍を上回る 実情であり、韓国仏教界の実権を握っていたのは、帯妻僧侶たちであったのである。 【 『仏教 実相 歴史』新亜出版社 1996 pp.227】 *30.曹渓宗総務院編『仏教訴訟事件参考資料』曹渓宗総務院 1957 pp.10-11 *31.http://kcm.co.kr/korch-history/chbook 3 .html *32.韓国基督教研究所編『韓国基督教の歴史』Ⅰ、基督教文社 1995 pp.88 *33.朝鮮時代5建の家を一つの統にまとめた「隣保組織」。統内で犯罪が発覚した場合、統全体に対する 罰を加える法。 *34.http://saejo.pufs.as.kr/ ∼ amos/nurture/xty/H- 1 .html *35. 『韓国教会発展史』大韓基督教出版会 1993 pp.44-52参照 *36.http://kcm.co.kr/korch-history/chbook 6 .html *37.李天網『中国禮儀之争』上海古籍出版社 1998 参照 *38. 『韓国社会論』「朝鮮朝政治思想 性格」社会批評社 1995 pp.91-92 *39.趙興胤「韓国 巫 歴史 現象」『巫』民族社 1997 pp.390 *40.柳炳徳『東学・天道教』教文社1993 pp.20-49参照 *41.表三「東学 開闢思想」『韓国思想』第22輯、韓国思想研究会 1995 pp.137 *42.柳東植『韓国のキリスト教』東京大学出版会 1994 pp. 1