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2009年度 法科大学院 第1回未修者入学試験問題 (小論文方式) 試験
2009年度 法科大学院 第1回未修者入学試験問題 (小論文方式) 試験時間90分 注意事項 イ) 試験開始の合図があるまで、この問題冊子の中を見てはいけません。 ロ) この問題冊子の1~4ぺージに問題が掲載されています。 ハ) 試験時間中に問題冊子の印刷不鮮明、ページの落丁・乱丁及び解答用紙の汚れ 等に気づいた場合は、手を挙げて監督者に知らせてください。 ニ) 解答は必ず解答用紙に記入してください。下書き用紙は回収しません。 (解答 用紙取り違えの申出には一切応じません) ホ) 参照は不可となっています。 ヘ) 解答用紙の取替え、追加配布はしないので、汚したり折り曲げたりしないこと。 ト) 試験問題の内容等について質問することはできません。 チ) 問題冊子の余白等は適宜使用して構いません。 リ) 試験終了後、問題冊子、下書き用紙は持ち帰ってください。 ヌ) 故意・過失を問わず、解答欄に受験者の氏名又は受験者を特定すると判断され る余事記載のある解答は無効となります。 2009年度 未修者コース(第1回)小論文試験問題 次の文章を読んで、末尾の問いに答えなさい。 すべての国の政治には、それぞれ根本的なねらいがあります。それを通常の呼び方にしたが って、正義と呼ぶことにして、これからのお話をすすめたいと思います。 いったい政治における正義とは、なんでしょうか。 原始人にとっては、 その属する部族の正義が、 人間社会のただひとつの正義だったようです。 そしてその正義に反するものは、すべて不正とされたようです。ところでその部族の正義を具 体的にきめるのはだれかというと、それは、多くの場合、その部族を守ってくれる神々であり ました。もっとも、神は、人間とちがって、しゃべったり書いたりしません。まれには、神が しゃべったり書いたりするのを聞いたり見たりしたという人もありますが、少なくとも、それ は、普通人の経験の外にあることです。ですから、だれか生きた人間が、神に代わって、神の 言葉をしゃべったり書いたりしてくれない限り、神の言葉は人間に通じません。神の代人とし て、神の言葉をしゃべったり書いたりしてくれるのは、多くの場合、その部族の政治的支配者 でした。だから、早くいえば、そこでは、政治的支配者の意志が神の意志であり、それがすな わち政治における正義だったわけです。いわば「王の声が神の声」だったのです。 人たちは、そういうふうにして示された正義が人間社会のただひとつの絶対的な正義だと信 じていましたから、それと少しでもちがう考えは、明らかに不正だと信じました。明らかに不 正だとなれば、それをどこまでも排斥するのは、しごく当然です。正義の実現が政治のねらい である以上、明らかな不正に対しては、あらゆる手段によって――必要があれば、腕ずくでで も――たたかうことこそ、正義にかなうはずです。明らかに不正とわかっているものを見逃し たり、容認したりすることは、そうした不正を助けることにほかならず、それがまさしく不正 だったわけです。 人間は、しかし、 「王の声が神の声」という原則に対して、だんだん疑いをもつようになりま す。一方で、かれは、しばしば、その政治的支配者が神の声として示すものとはちがったもの を正義と考える自分を見出すようになります。他方で、自分の部族の正義とはちがった正義を 示す神が存在することを知るようになります。人間にこういう疑いをもたせるのは、人間の本 質に内在する合理精神です。 合理精神は、政治的支配者の示す正義が、かれ自身の考える正義に比べて、より確実に神の 言葉を伝えているという保障はどこにもないことを人間に教えます。または、王が代弁する神 ――王の神――のほかに、かれ自身が代弁する神――かれ自身の神が存在することを人間に教 える、といってもいいでしょう。合理精神は、さらに、かれの考える正義は、かならずしも、 かれの隣人の考える正義と同じでないこと、いやむしろ、正義の内容は、人によって、ちがい、 神の言葉も、神によって、または、その代人によって、ちがうのが通例であることを教えます。 自民党の神と社会党の神とが――かりに、そういうものがあるとして――かならずしも同じ言 葉を言わないことは、今日、だれでも知っています。合理精神は、時と所によって、いろいろ なちがった正義が存することを人間に教えます。歴史と地理の知識が、とりわけ、それを教え るのに役立ったようです。 歴史は、同じ人間の社会でも、むかしと今とでは、ちがう神が支配し、したがって、ちがう 内容の正義が存することを教えてくれました。日本でも、むかしは、殉死や、ハラキリや、仇 討が正義にかなうと考えられていましたが、今では、そうではないことを、わたしたちは、知 っています。現在の日本人には、戦争は正義に反すると考える人が多いようですが、戦争―― 少なくとも、日本の行う戦争――を正義にかなうものと多くの日本人が考えた時代が、そう遠 いむかしでないことも、わたしたちは、知っています。民主主義や自由主義は「国体」に反す るから、それを否定するように教育しろと全国の教員に指示した文部省が、それから一〇年と たたないうちに、教育は民主主義・自由主義にもとづかなくてはいけない、と指示したことも、 むろんわたしたちは、よく知っています。 地理は、 「所変われば品変わる」ということわざが、神についても、あてはまることを教えて くれました。この地球の上には、自分の神とはちがった多くの神々がいること、それに応じて、 いろいろちがった内容の正義があることを、人間は知るようになりました。あるところでは、 複数の妻をもつことが正義にかなうとされるのに、他の所では、それは正義に反するとされま す。原爆第一号をのせたアメリカの飛行機がヒロシマにむかって基地を飛び立つとき、従軍牧 師は、その飛行士がよくその使命をはたして、……ということはつまり、首尾よく何十万とい う人間を殺して、無事に帰ってくるように神の加護を祈ったそうです。中国の空を爆撃のため に飛びまわった日本の飛行士たちも、むろん八百よろずの神々の加護を確信していたことでし ょう。まさに「ピレネのあちらの正義は、ピレネのこちらの不正」という次第です。 こういうふうに、自分の部族の神の絶対的権威が疑われるようになると、政治のねらいとし ての正義は、決して、単数的存在でもなければ、定冠詞をつけられるべきものでもなく、むし ろ、複数的存在であり、不定冠詞をつけられるべきものである、と考えざるを得なくなります。 「正義は、武器に似たものである。武器は、金を出しさえすれば、敵にも味方にも、買われ るであろう。正義も、理屈をさえつければ、敵にも味方にも、買われるものである。古来『正 義の敵』という名は、砲弾のように、投げかわされた。しかし、修辞につりこまれなければ、 どちらがほんとうの『正義の敵』だか、めったに判然したためしはない。 」 芥川龍之介は、 「侏儒の言葉」で、こう書いて、さらに次のように、つづけました。一九二三 年のことです。 「わたしは歴史を翻すたびに遊就館を想うことを禁じ得ない。過去の廊下には、うすぐらい 中に、さまざまの正義が陳列してある。青竜刀に似ているのは、儒教の教える正義であろう。 騎士の槍に似ているのは、キリスト教の教える正義であろう。此処に太い棍棒がある。これは 社会主義者の正義であろう。 彼処に房のついた長剣がある。 あれは国家主義者の正義であろう。 わたしは、そういう武器を見ながら、幾多の戦いを想像し、おのずから心悸の高まることがあ る。しかしまだ、幸か不幸か、わたし自身その武器の一つを執りたいと思った記憶はない。 」 人間が、かように、その王の示す正義がまさしく神の言葉であり、人間社会でただひとつの 正義であることに疑いをさしはさみ、人により、また、時と所により、さまざまな神があり、 いろいろな正義がある、と考えるようになりますと、もはや、それまでのように、神の代人と しての長老なり、領主なり、国王なりに、政治をまかせきりにするわけにいきません。まかせ きりにしたのでは、それらの長老なり、領主なり、国王なりと同じ神を信じ、同じ正義を主張 する人たちには、それでいいでしょうが、少しでも、それとはちがう神を信じ、ちがう正義を 主張する人たちは、自分の意に反する政治を正義の名の下におしつけられる羽目になります。 これでは、困ります。すべての人間は、少しでも多く、自分の正義と考えるところのものを実 現したいとおもうのが当然ですから。 ここで、人間は、大まかにいって、次の二つの道のどちらかをとることを余儀なくされると 思います。 問題 上記の文章のあとに、 「第一の道は、……。第二の道は、……。 」が続いています。著者 の考えに沿って考えた場合、第一および第二の道(両者は対照的な道になるはずであるが)は どのようなものかを、なるべく簡潔に、800字以内で、述べなさい。 (出典・宮沢俊義『憲法講話』岩波新書(1967年) 。これは1962年の講演の記録である。 なお原文には傍点を付された部分がかなりあるが、それはここではすべて省略させていただい た。 )